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「外なる基準」と「内なる声」

【不妊症の夫婦の特有の苦しみ】

不妊症の夫婦には、不妊症の夫婦の特有の苦しみがある。

それは「よその夫婦には赤ちゃんがいるのに、どうして私達の夫婦には赤ちゃんがいないの?」という苦しみである。

しかし、こうやってよその夫婦と比べてしまうと、苦しみはより大きく、よりひどくなっていくのだ。

この苦しみを不妊症の夫婦が持ってしまうと、いくら不妊治療を受けたとしても、不妊症が治らないという悲惨な結果になってしまうのだ。

そこで、今回は、この不妊症の夫婦の特有の苦しみから抜け出せる方法を教えることにする。

【外なる基準】

人間は社会的な動物だから、「外なる基準」に合わせて生きている。

この「外なる基準」はすべて「性悪説」によって作られているのである。憲法だろうが、法律だろうが、道徳だろうが、すべて人間という者は悪に満ちているという前提から、人間たちが人為的に作り上げてきたのである。

もし、人間が天使のようだったら、憲法も法律も道徳もいらないはずである。

しかし、政治家に政治権力を持たせれば、すぐに政治家たちは政治権力を濫用してくるし、死刑廃止論がいくら盛んになっても凶悪殺人鬼たちはいくらでも出てくる。人間は善行をする人々は少ないが、悪巧みを働いてくる人たちはいくらでもいるのである。

人間は性悪だからこそ、憲法や法律や道徳が必要なのである。

だから色々な宗教でも、キリスト教は「原罪」といい、仏教は「一切皆苦」といい、神道では「罪と穢れ」といって、回心を要求しているのである。

天皇だろうが、貴族だろうが、庶民だろうが、罪を犯すし、穢れるし、だからこそ神への崇敬を行って、我が身を清め正すことが求められるのである。

この世の「外なる基準」に合わせてしまうと、そこに現れてくるのは、「罪深さ」であり、「苦しみ」であるのだ。紫式部はこれを「もののあわれ」と言ったのである。

我々は「外なる基準」に合わせて生きざるをえないから、子供の頃には、学校に行って勉強しなくてはならないし、社会に出れば仕事をせざるをえない。しかし、勉強も最初の頃は楽しくても、段々苦しくなってくる。仕事も最初は給料が貰えるから楽しいが、仕事をし続ければ段々と苦しくなっていく。

不妊症の夫婦も、「よその夫婦に赤ちゃんがいるのに、なぜ私達夫婦には赤ちゃんができないの?」と、「外なる基準」に合わせてしまったら、そこに出てくるのは、「罪深さ」であり、「「苦しみ」であり、「悲しみ」であるのだ。

よその夫婦と比べることは、不妊症の夫婦に更なる苦しみを負わせてしまうのだ。

【内なる声】

人間は子供の頃には勉強した方がいいし、大人になれば働いた方がいい。結婚すれば赤ちゃんができた方がいい。

では、なぜそれが苦しみに変わってしまうのか?

それは自分の心から聞こえてくる「内なる声」を無視するからである。

人間の心は「性善説」でできている。自分の心が正しいと思うものは正しいのである。

もしも、人間を社会生活から隔絶して、大草原で独りっきりで生活させたなら、その本人が正しいと思うことが、正しいであろう。しかし、人間は社会的生活を営んでいるから、自分が正しいと思ったことでも引っ込めて、「外なる基準」に合わせて生活をしているのである。

だから、自分の心の「内なる声」に従って生きると、そこに現れてくるのは、「幸福」であり、「楽しみ」であり、「歓喜」なのだ。自分の心になんら迷いがなく、公明正大であるから、絶えず悦楽の情が湧いてくるのである。自分の心に忠実だからこそ、如何なる場合でも恐れず恥じず、全速力で前進して、非常に楽しいのである。

不妊症患者が、自分の心の「内なる声」を無視して、「よその夫婦が赤ちゃんがいる」という「外なる基準」に合わせてしまうと、自分から「幸福」や「楽しみ」や「歓喜」が消え、「罪深さ」や「苦しみ」や「悲しみ」が押し寄せてきてしまうのだ。

【自己審査

だから、いつも「外なる基準」に合わせて生きるのではなく、たまには社会的生活から隔絶して、自分で静かに瞑想でもして、自分の心の「内なる声」を聞くべきなのである。

「よその夫婦に赤ちゃんがいるから、私達夫婦も赤ちゃんが欲しい」と思って不妊治療を受けていると、不妊治療は苦しみの連続で、挙句の果てには「こんなことしてまで、なんで赤ちゃんが欲しいんだろう?」と疑問を持ってしまったり、不妊治療を受けているのに、養子縁組の手続きを始めたりするのである。

自分の心の「内なる声」を無視して物事を始めると、物事は本末転倒になってしまうのだ。

自分の「内なる声」に耳を傾け、心の奥底から「赤ちゃんが欲しい」と思った時、心の中から、「幸福」や「楽しみ」や「歓喜」が湧き出てくるのだ。

自分の心に火が灯りさえすれば、如何なることがあろうとも、心は温かく、楽しくてしょうがないのである。

そういう状態になれば、「外なる基準」に自分のすべてを合わせなくてもいいし、誰かのアドバイスを受けたとしても、誰かの言いなりにはなりはしないだろう。自分が率先して行動しながら、これでいいのかと自分で審査しながら、進んでいけばいいのである。

不妊症の夫婦が不妊症の苦しみから解放されるためには、この「自分の心の内なる声に耳を傾けて、自己審査していく」ということが必要なのだ。

【平等教育が引き起こす内面空白症】

自分の心の「内なる声」は、理論上、誰もが聞こえるはずである。

しかし、ほとんどの人たちが、自分の心の「内なる声」を聞こうとしない。

なぜなら、学校で平等教育を受けてしまうからだ。自分の心の「内なる声」は、みんな平等だと思うと、聞こえてこないのだ。「平等」という思想それ自体が「外なる基準」の産物だからだ。

また、心の「内なる声」自体、千差万別である。

不妊症患者の心の中から聞こえてくる「赤ちゃんが欲しい」という「内なる声」は、赤ちゃんが当たり前のようにいる夫婦の心からは決して聞こえてこないはずだ。不妊症の患者だからこそ聞こえてくるのである。

学校で平等教育を受けてしまうと、「外なる基準」に合わせることだけを学んでしまい、自分の心の「内なる声」に耳を傾け、自分が本当にやりたいことが解らなくなってしまうのだ。

これが人工宗教のように宗教教義上「平等」を唱えてくる「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」のようになってしまうと、自分の心の「内なる声」が一切聞こえなくなってしまうのだ。その状態が「神の僕」なのである。「神の僕」とは「神の奴隷」のことである。

散々、信仰した挙句に、奴隷に成り果てるのである。

学校で平等教育を受けてしまったり、人工宗教を信じてしまうと、自分の心の中が空っぽになってしまう「内面空白症」に罹ってしまうのだ。自分が本当にしたいことが解らなくなってしまうのだ。

【フェミニストはなぜ不幸になるのか?】

フェミニストもこの「内面空白症」に罹っている典型例だろう。

フェミニストたちはなぜ不幸になるのか?

それは自分の心の「内なる声」に耳を傾けず、フェミニズムのイデオローグの声に耳を傾けてしまうからなのである。

自分の心の「内なる声」よりも、フェミニズムのイデオローグの意見を優先してしまうのである。

だから、自分が本当にやりたいことが解らなくなってしまうのである。

フェミニズムの理論によって、男女平等を突き詰めていけば、女性は結婚することも、妊娠することも、出産することも、育児することも、必要ないのである。フェミニズムは、フェミニストたちの頭の中で、精神的なジェノサイドを行っているのである。

女性と生まれながら、結婚も妊娠も出産も育児も否定する生き方は、その当の女性が本当にやりたい生き方ではないはずだ。

【過剰なる自由は自由を破滅させる】

自分の心の「内なる声」に耳を傾けない人たちは、自分の本当にやりたいことが解らないから、狂信的なイデオロギーや狂信的な宗教に走ったり、堕落的な生活に耽ったり、麻薬に手を出したりする。

これらのものは、j今おかれている自分の現実から「逃避」し、「理性を使わない」で誰かの意見に従い、「必要以上の自由を求める」ものである。

自分の心の「内なる声」に耳を傾けないから、現実から逃避し、理性を使うのを停止し、必要以上の自由を求めてしまうのである。

自由は確かに大事である。しかし、過剰なる自由は自由そのものを破滅させるのだ。

大事なのは、自由よりも「継承」だし、自由よりも「試行錯誤」だし、自由よりも「充実」であろう。

自由というものは、独立している人間には価値のあるものであっても、誰かに従属しているような人間には無価値であろう。

丁度、優れた画家なら絵筆を自由自在に使いこなせるが、子供に絵筆を持たしても、まともに絵筆を使いこなせないのと同じことだ。

【危険なる社会変革】

キリスト教も仏教も社会主義もフェミニズムも、この社会を変革させようと躍起になっている。

これらの宗教やイデオロギーが恐ろしいのは、「人間が社会に適応するのではなく、社会が人間に適応させる」と倒錯した考えを持っていることなのだ。

キリスト教徒も仏教徒も、社会主義者もフェミニストも、自分の本当にやりたいことが解らないから、この世で生きているのは、苦しみだらけである。

だから、社会を変革させて、自分たちが生きやすい社会に変えようとしているのだ。

だが、どんなに社会を変革させようとも、自分が本当にやりたいことが解らないのだから、たとえキリスト教徒が望む千年王国や、仏教徒が望む仏国土や、社会主義者が望む貧富の格差のない社会や、フェミニストが望む男女平等の社会ができようとも、苦しみは続くことだろう。

事実、ロシアで社会主義革命が発生して、社会主義国家ができても、社会主義者たちの苦しみはなくならなかったのである。

社会主義ですらそうなのだから、フェミニズムもキリスト教も仏教も同じ結末になることだろう。

【外面的幸福は苦しみに変わる】

人間は自分の心の「内なる声」を無視して、「外なる基準」ばかりに従っていると、「罪」と「苦しみ」と「悲しみ」に襲われてしまうのである。

今ある幸福ですら、時が経てば苦しみに変わっていくのだ。

ありとあらゆるものは、劣化していくのだ。幸福だって劣化していくのだ。

その非情な現実の前にどんなに心地いいスローガンを掲げようと無意味なのである。

この世には、「世界平和」「民主主義」「自由」「人権」と、人の心を魅惑してしまうスローガンはいくらでもある。

しかし、世界平和を唱えている人々は、自分の心の中で世界大戦が起こっていることだろうし、民主主義を唱えている人々は、自分の心の中で外的基準の独裁に悩まされているだろうし、自由を唱えている人々は、自分の心の中で外的基準の隷従に悩まされているだろうし、人権を唱えている人々は、自分の心の中で自分の権利が一切ないことに悩まされていることだろう。

これらのことは、結婚でも変わらない。

結婚すれば幸せになれると思って結婚すれば、いずれ結婚は苦しみに変わることだろう。

不妊症の夫婦が、子供いない生活が幸せと思っていると、いつの日か自分たちの生活が不幸に変わるのである。

【大変だ教の信者たち】

自分の心の「内なる声」に耳を傾けない人たちは、何をやらしても大変だし、苦しみ続きなのである。

どんなに簡単なことをやらしても、「大変だ」と愚痴をこぼし、「苦しい」と感じ、人間のすべての行動が「苦労」としか目に映らないのだ。

俺はこういう人たちを「大変だ教」の信者たちと思っている。「なんでも大変、なんでも苦しみ、なんでも苦労」なのである。

すべては「苦しみの連続」で、自分が独立していないから「他者へ依存」し、自分で責任を負わないから、事あるごとに他人に「責任追及」をしてくるのである。

仏教の教祖の釈迦が言うように、「外なる基準」に合わせていけば、「一切皆苦」なのである。

【正心】

こういう一切皆苦の世界から抜け出すためには、自分の心の「内なる声」に耳を傾け、自分が本当にしたいことを見つけ、遣り遂げることなのである。

こういう作業は、学校の先生に教えてもらうものではなく、自分の力で自己修養していくしかないのだ。

自分が本当にやりたいことを見つけることに、学校の成績や、貧富の格差や、男女の性差など、まったく必要ないのである。

大事なことは、自分の心の「内なる声」に耳を傾けることなのである。

本当の学問とは、自分の心の「内なる声」を聞くために必要なものであって、その「内なる声」を聞けたら、自分が本当にやりたいことが解るし、そういうものは確実に成功して、その恩恵が我が身から周囲へ、周囲から全世界に及んでいくことだろう。

このことを儒教では、「格物致知、誠意正心、修身斉家、治国平天下」というのである。

学問によって知識と知恵を蓄え、自分の意を誠にすれば、自分の心は正しくなり、心が正しくなれば、家族に恩恵が及び、そして恩恵は地域、国家、全世界へと及んでいくのである。

【良心の落とし穴】

社会主義だって、フェミニズムだって、表面的には良心的なのである。

社会主義は貧富の格差を解消しようとし、フェミニズムは男女の性差を解消しようとしているのである。

しかし、社会主義やフェミニズムは、実際にやってみると、思い描いた理想とはまったく正反対の悲惨な事態に陥ってしまうのだ。

なぜなら、社会主義者やフェミニストの持つ「良心」というものは、自分の理性で良いと思い込んでいるものだからだ。

良心は、自分の心の「内なる声」ではないからだ。

良心とは理性の産物だが、正心とは「心のうずき」なのである。

「心のうずき」とは、自分の頭から出てくるものではなく、自分の心の奥底から湧き上がってくるものなのだ。

【人間は本来の機能を使ってこそ幸せ】

人間の心の奥底から湧き上がってくるものに、貧富の格差を解消しようとか、男女の性差を解消しようとするものが、湧き上がってくることはないのだ。

人間は太古の昔から、男たちは外敵から家族を守りながら、外に狩猟に出かけ、獲物を獲ってきたのである。女たちは水を汲んだり、果実や野草を取ってきたりしながら、結婚をし、子供を産み育ててきたのである。

だから、男たちは獲物の取れ具合で貧富に格差が出るのは当たり前と思っていただろうし、女たちも子育てをする以上、男女に性差があると思うのは当たり前と思っていたことであろう。

男には「狩猟本能」が備わっているし、女には「生殖本能」が備わっているのだ。

どんなに軟弱な男性でも、自分が狩猟によって獲物を得たら、至上の悦びを感じるだろうし、どんなに偏屈な女性でも、自分が妊娠して赤ちゃんを出産したら、至上の悦びを感ずることだろう。

だから、この世がどんなに変わろうとも、女性にとっては「結婚」「妊娠」「出産」「育児」のすべてが幸せなのである。

【心の奥底からの愛

それゆえ男性が自分の心の「内なる声」に耳を傾けたら、会社を起したり、学問を究めようとしたり、スポーツで優勝しようとしたり、政治家になって救国済民を実践しようとするのだ。

男性に備わっている「狩猟本能」をうまく活用した夢が湧き上がってくるのだ。

女性が自分の心の「内なる声」に耳を傾けたら、自分が愛する男性と結婚して、赤ちゃんを産んで、立派に育てたいと思うことが湧き上がってくることだろう。

女性に備わっている「生殖本能」をうまく活用した夢が湧き上がってくるのだ。

【不妊症を吹き飛ばす愛】

不妊症患者が不妊症の苦しみから抜け出すためには、「本当に赤ちゃんが欲しい」という心の「内なる声」を聞くことなのだ。

「よその夫婦に赤ちゃんがいるから、自分たち夫婦も赤ちゃんが欲しい」と思っていると、「罪」と「苦しみ」と「悲しみ」が絶え間なく襲いかかってくるだけである。

だから、日々の雑務を一旦遮断して、自分独りで瞑想して、自分の心の中から、「赤ちゃんが欲しい」という「内なる声」が聞こえてきたら、それは本物の愛なのである。

そういう自分の本当にやりたいことを見つけた時、女性は人を心の奥底から愛することができるようになるのだ。そういう本物の愛は、「幸福」と「楽しみ」と「歓喜」に満ちているものなのである。

今までの不妊症患者に襲いかかっていた「罪」や「苦しみ」や「悲しみ」はどこかに消え去って、不妊症は吹き飛んでいくのである。

人間は、心の奥底から人を愛することができた時、人間は至上の幸福に満たされて、著しい人間的成長が可能となるのだ。

そういう者に「新たなる命」を宿せないということはないのである。

 

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