特別講義:不妊症の治療における「神の奇跡」について
●不妊症治療に100%の成功率を誇る奇跡
生殖や性愛術に深く宗教が関わっている話が出たついでに、不妊症の治療過程に起こる「神の奇跡」について論じてみたい。
不妊症の治療で成功した夫婦の100%が、子宝に霊験がある神社に参拝しているのだ。
神社への参拝以外にも、新興宗教団体の信者たちの間で、信仰の結果、不妊症を克服するという奇跡が起こっているのだ。
奇跡の発生率の高い宗教団体は、「生長の家」「金光教」「黒住教」などである。
また、宗教団体ではないが、社会福祉法人である「実践倫理宏正会」でも、実践倫理普及活動の結果、不妊症を克服した女性たちが続出しているのだ。
医者たちも色々な不妊治療を行っているし、漢方医も不妊症に効果がある漢方薬を処方しているが、宗教は100%の成功率を誇っているのだ。
医者たちは宗教での治療を躍起になって否定しようとしているのだが、医者たちがその職業人生の中で絶望に打ち落とされるのが、難治とされた患者が「宗教の力」で治ってしまう時なのである。
が、しかし、不妊治療で失敗した夫婦も、神社に参拝したりすることは、100%の人たちが行っているのだ。
なぜ、一方の夫婦は救われ、もう一方の夫婦は救われないのかを、探求してみたい。
●「祈り」と「諭される」
不妊症の夫婦が、神社に参拝すると、不妊症が治って子宝に恵まれるよう、「神への祈り」を行うのであるが、この「祈る」という行為が大事なのである。
夫婦の力だけでなく、自分たち以外の「神様の力」に頼ることで、不妊症を克服するのである。
不妊治療で失敗する人たちのほとんどが、「私はこんなに不妊治療を頑張って受けているのに!」とか、「私はこんなに不妊治療で苦しんでいるのに!」とか、自分1人だけの力で不妊症を治そうとしているのである。
人間は自分1人の力では限界があるのだ。
自分がすべきことをした上で、神様にすがり、神様の力によって、不妊症を治してもらうのだ。
もう一つが新興宗教での奇跡のパターンだ。
教団の中で、教師や信者たちから、自分の人生の過ちを諭されることによって、自分の人生を修正して、その結果、不妊症が治ってしまうのである。この「諭される」ということが大事なのだ。
男女が結婚したら、「結婚法則」に従って自分たちの結婚を運営していかなければならないのだが、そういうことを教団の中で教えてもらうのだ。
自分の両親や親戚から教えてもらえれば、有難いことに越したことはない。それ以外にも、幸せな結婚生活を送っている夫婦から、幸せな結婚の秘訣を教えてもらうのもいいだろう。
しかし、誰も結婚法則を教えてくれない場合、宗教生活の中で教師や信者たちに諭される以外に、結婚法則を知る方法はないであろう。
これら「祈る」にしても、「諭される」にしても、不妊症の夫婦に「素直さ」がなければ決して奇跡が起きないのだ。
神社に参拝しているのに、何かの宗教を信仰しているのに、どうして不妊症を克服できないのだろうと思っている人たちは、まずこの「素直さ」がないのだ。
●「神の子」と「人の子」
宗教での治療は、医学的ではなく、またその理論も科学的ではないので、科学万能感に取り付かれてしまった人々にとっては、なぜこんな不可解な現象が起こるのか、不思議に思ってしまう。
恐らく、「なぜ、《素直さ》があるかないかで、妊娠か不妊症かに分かれてしまうの?」と思ってしまうことだろうう。
自分の身に神の奇跡が起きるか否かの分岐点は、「神中心」か「自己中心」かということなのである。
なぜ、長期間にわたって不妊治療を受け続けても治らなかったのに、神の奇跡で不妊症がいとも簡単に治ってしまうかというのは、自分を中心に考えるのをやめ、神様に我が身を委ねたからなのである。《素直さ》があるとは、自己中心をやめ、神中心に置き換えたということなのである。
人間は、《人の子》である。《人の子》は、「不完全」であり、病気もするし、限界ある生き物なのである。
しかし、《人の子》は我々の現実の存在だけであって、霊的な存在としては、人間は《神の子》なのである。《神の子》は、「完全」であり、健康そのものであり、限界のない生き物なのである。
《人の子》は「有限の生命」を持っていても、《神の子》は「永遠の生命」を持っているのである。
人間は、自分が《神の子》であると認識できると、不完全が完全へと近づいて病気が徐々に治り始め、そして神から《神の見えざる力》が流れてきて、不妊症を克服して、妊娠できてしまうである。
人間が《素直》になるというのは、《人の子》だけで生きてきた自分を捨てて、自分が《神の子》であるということに目覚めるということなのである。
神のエネルギーは無限だから、《神の子》にはいくらでもエネルギーが流れ込んできて、その者を幸せにしてしまうのである。そして、幸せになったその者は、周囲に幸せを与えていくのだ。
人間の力では克服不可能であった不妊症も、神の偉大なる力なら、一瞬にして治してしまうのである。
これが「奇跡のメカニズム」なのだ。
●配偶者を「神の子」として敬う
不妊治療をいくら受けても不妊症を克服できない人たちは、《人の子》として生きているから、不妊症を克服できないのである。
《人の子》で生きるなら、不完全で限界が必ずあるのだ。
ほとんどの夫婦が妊娠を軽々とやってのけるのに、不妊症患者は不妊症で苦しまなければならないのだ。
そして不妊治療を受けたら、他の患者たちは不妊症を克服しているのに、自分たちだけが不妊症を克服できないのだ。
なぜ、こんなことが起こるのか?
なぜなら、《人の子》として生きているからなのである。
《人の子》として生きているから、罹らなくてもいい病気に罹り、治せるはずの病気を治せなくなるのだ。
不妊症患者たちは、今は《人の子》として不妊症を発症しているかもしれない。しかし、《神の子》としては不妊症を克服して、妊娠できる体をしているのである。
目に現れる現象に惑わされて、自分の実相の姿が見えないのだ。
だからこそ、自分を《神の子》として認識するのだ。
自分を《神の子》だと思えば、《天空の扉》が開いて、神様から無限のエネルギーが注がれ、不妊症など簡単に治ってしまうのである。
不妊症の夫婦の場合、不妊症や不妊治療という現象に惑わされるのではなく、自分たち夫婦の実相を見ることだ。
もしも、妻が不妊症なら、夫は常に、
「妻は不妊症ではなく、結構で元気な卵子を出すことができます。受精卵はちゃんと着床し、妊娠できます」
と願い続けることだ。
もしも、夫が不妊症なら、妻は常に、
「夫は子種がないのではない。健康で元気な精子を出すことができます。私はちゃんと妊娠できます」
と願い続けることだ。
暇な時に、何度も何度も口に出して言うことだ。
配偶者を《神の子:》として敬えば、《神の奇跡》が起こって、不妊症が一瞬にして治してしまうのである。
●信仰より覚醒
こんなことを言うと、「信じられない!」とヒステリックに叫ぶ人たちが大勢いるのだ。
《神の奇跡》や人間が《神の子》であるということは、信じるとか信しないとかの問題ではないのである。
キリスト教が世界を覆ってしまって以来、宗教を信じるか信じないかで、判断するようになってしまった。2000年前もの昔、ユダヤの地で、処刑されたイエスが復活したことを信じることに、現在を生きる我々になんの意味があろう。
宗教の根幹というものは、信じるか信じないかではなく、《覚醒》なのである。
《人の子》として生きてきて、或る日突然に《神の子》であることに、目覚めるのである。自分が《神の子》であるかを信じるか信じないかではなく、自分の本当の姿を覚醒することなのである。
《人の子》として生きてきたからこそ、生き方を間違え、不妊症という病気で苦しみ、しかも、成功しない不妊治療を何度も受けて更に苦しむことになるのである。
仏教の教祖の釈迦が指摘するように、《人の子》として生きれば、「一切皆苦」なのである。どんなにお金を持とうが、どんなに高い地位を手に入れようが、ありとあらゆる苦しみが、津波のごとく襲い掛かってくるのである。
《人の子》として生きている者が、どんな宗教や、どんなイデオロギーにすがろうが、苦しみは延々と続くのである。釈迦は煩悩から解脱したといいながら、ダイバダッタに裏切られ、最後は布教の最中に腹痛を起こして野たれ死んでいるのである。
もしも、いくら不妊治療を受け続けても、不妊症が治らないのであるならば、不妊治療をやめて、自分と自分の配偶者が《神の子》であると認識して、神様に静かに祈りを捧げるという選択肢を選んでみることだ。
今まで決して治らなかった不妊症が、摩訶不思議にも治ってしまうことだってあるのだ。
《神の奇跡》は、《神の子》に対しては、いつだって起こりうることなのだ!
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