代理母は本当に倫理的なのか?
●上野雅恵選手、優勝おめでとうございます!
いや~、圧勝だね。
女子柔道70kg級で、上野雅恵選手が優勝!
本当に素晴らしい!
実をいうと、上野雅恵選手は、俺が世界最高の女性と見做している女性である。
上野雅恵の心技体、どれをとっても世界随一である。
女性は鍛え上げると、かくのごときどっしりとした女性になるのだ。
勿論、個人的にはマリア・シャラポアを挙げたいところであるが、やはり「試合で確実に結果を残していくという勝負強さ」、こういうものがマリア・シャラポアには欠け、上野雅恵には決して失うことなく持っているのだ。
が、しかし、それにしても、優勝した後の、表情の無さは、いかがなものか?
前回のアテネ五輪では、優勝後、「お母さんが頑張れって言ってくれたので」と号泣していたが、今回の五輪では多少の笑顔を見ることができたが、全体的に表情が無さ過ぎである。
まあ、それは今後の課題として彼女はクリアしていくことだろう。
何はともあれ、上野雅恵選手、優勝おめでとうございます!
●近代医学は、合法的且つ倫理的であらねばならない
不妊症の夫婦にとって、代理母は不妊症の治療の救いの光明なのだから、一刻を早く認めてほしいと考えてしまいがちだ。何も代理母に倫理的な制約を求めなくてもいいではないかと思いがちだ。
しかし、近代医学は、近代以前の医学とは決定的に異なっているのだ。近代医学は、合法的且つ倫理的であらねばならないのだ。
人類は文明誕生以来、医学とは密接な関係を持ち続けてきた。四大文明のどれにも医学は存在していたのだ。メソポタミア文明にはメソポタミア医学が、古代エジプトには古代エジプト医学が、インダス文明にはアーユルベーダが、古代中国には中国医学が存在していたのだ。
いかし、近代以前の医学は、医学の発達が或る時期に差し掛かると、ピタリと発展を止めてしまい、医学が停滞したままになってしまうのだ。
なぜなら、近代以前の医学には、合法性や倫理性を持ち合わせていないからなのである。近代以前の医者たちは、非合法であり、非倫理的なのである。
近代以前の国家は国民国家ではないので、法律はすべて君主か元老院が出す法律であって、国民が作り出し、国民が認める法律ではないのだ。そのために、近代以前の国家は、法の下に医学を置くことなく、医者たちが法律とは関係なく、勝手に治療を行っていたのにすぎないのだ。
しかも、近代以前の医者たちは、倫理的ではないのだ。治療において善良に管理する義務を負い、信義誠実に治療を行い、患者に全力を尽くして治療するという倫理的な態度が決定的に欠けているのだ。
この医者の倫理性がなければ、公正な医療行為が行われることはないし、難病に対して医者たちが取り組んでいくという勇気を喪失してしまうのである。そのために、医学が発展をやめ、医学が停滞してしまうのである。
●医学における倫理とは?
近代医学における重要な倫理とは、「自己統御」「職業倫理」「国民道徳」にあると見ていい。
医者が精神的に独立して自己を統御し、医者としての職務を正心誠意取り組み、その医療行為が国民道徳に反することなく行われるようにしなければならないのだ。
これらのことが守られなければ、医学は発展しないし、それどころが医学が停滞し、堕落していくことになってしまうのである。
解り易い例で、「安楽死」の問題を出してみよう。
患者が植物状態に陥り、家族たちから安楽死を要請されて、医者が安楽死の措置を取ったとする。
これはれっきとした殺人事件になってしまうのである。
しかも、医者はこれが合法ではないと知っているのに、患者の家族から要請されただけで、安楽死に踏み切ってしまったのである。要は自己統御がないのである。
しかも、学会で安楽死の議論が決まっていないのに、勝手に行ってしまい、しかも、安楽死について国民は道徳的に了承しているわけではないのだ。
そのため、一部の医者が安楽死を認めてもらおうと良かれとしてやったことが、逆に刑事事件になってしまい、しかも、その医者の自己統御のなさを暴露する結果になり、職業倫理もなく、国民道徳にも反するということになってしまい、結果的に安楽死が認められないという、まったく逆の結果が出てきてしまうのである。
このことは代理母のことでも同様で、医者が不妊症の夫婦に頼まれたからといって、勝手に代理母出産を行ってしまうと、結果的には代理母出産が認められないという、逆の結果になってしまうのである。
たった1組の不妊症の夫婦を救うために、代理母出産で救われるであろう、数多くの不妊症の夫婦を犠牲にすることになってしまうのである。
●ベビーM事件
日本産婦人科学会が、なぜ代理母出産の承認が遅れてしまったかといえば、学会の議論が決着ついていないのに、一部の医者たちが代理母出産を行ってしまったからなのである。
こういうことが代理母出産の制度化を逆に遅らせてしまう結果になるのである。
日本産婦人科学会では、代理母を禁止しようとしていたのではなく、人工授精型代理母に関しては認める方向で動いていたにも拘わらず、一部の医者のために、それは一部の不妊症の夫婦のためでもあるが、これらのために代理母出産の議論をまとめることが遅れてしまったのだ。
しかも、運の悪いことに、1986年、アメリカでベビーM事件というものが発生したのである。この事件は、人工授精型代理母出産を依頼された代理母が、代理出産後、依頼者夫婦に産んだ赤ちゃんを引き渡さず、自分の実子であると主張し、裁判で勝訴してしまったのである。
アメリカではこの事件以降、人工授精型代理出産は急速に衰え、体外受精型代理出産へと転換したである。
現在、アメリカで代理出産といえば、体外受精型代理出産のことなのである。
日本産婦人科学会は、世界の潮流から取り残されてしまったのである。
非配偶者間人工授精の場合、第三者の男性が精子を提供したとしても、出産後、その男性は自分の実子であると主張したりはしないが、人工授精型代理出産の場合、代理母は自分の卵子を提供しただけではなく、妊娠中10ヵ月間もの間、妊娠しているわけだから、どうしてむ生まれてきた子供に愛着をもってしまい、代理出産契約に反してまで、自分の子供であると主張してしまうのである。
人工授精型代理出産は、医学的に理論上も技術上も認められても、倫理的には認められない結果に終わってしまったのだ。
●医学的に可能でも、倫理的に可能とは限らない
医者たちは病院の中だけにいると、医学的には可能なのだから、それを実施しても構わないだろうと思ってしまいがちだ。
しかし、病院の中だけにいれば、国民の道徳は解らなくなるのだ。
近代医学は、国民あっての医学なのである。それなのに国民の道徳を無視して、医学を進めていくことは、決して許されないのだ。
医者たちが国民道徳や職業倫理を無視するからこそ、いつも病院で殺人医療や医療事故が続出してくるのである。
病院は患者の命を救うはずなのに、患者が命を落としてしまうという危険な場所になってしまうのである。
近代医学の医者にとっては、どうしても倫理性が必要なのである。
医学は高度の技術を持つがゆえに、技術的に可能であったとしても、倫理的に可能ではない技術も存在してくるのである。
●立場の互換性
俺は、それが倫理的に認められるかの基準は、「立場の互換性」にあると見ている。
これは法学における基準であるのだが、これはそのまま医学にも用いることができるのだ。
非配偶者間人工授精で、これを行う医者が、不妊症の夫の立場に立ってみて考えてみて、自分の精子が出ているのに、それが弱いからといって、第三者の男性の精子を用いて、自分の妻に人工授精で妊娠させてもいいかといえば、これは拒否することだろう。
非配偶者間人工授精を採用する際、こういう議論がなされていれば、非配偶者間人工授精など認めることはなかっただろう。
まともな議論をしないで非配偶者間人工授精を認めてしまったからこそ、この逆に治療法である人工授精型代理出産をより複雑にしてしまったのだ。
例えば、赤ちゃんを欲しいと思っている不妊症の女性が、代理出産を行う代理母と立場に立って考え、もしも自分が代理母であるならば、自分の卵子を使って妊娠し、10ヵ月間かけて胎児とともにいて、出産した場合、やはり生んだ子を我が子だと思うはずだ。
だからこそ、人工授精型代理出産は倫理的に認められないのである。
いくら不妊症に悩んでいるからといって、いかなる手段を用いても赤ちゃんが欲しいと思うのではなく、「立場の互換性」という倫理的判断基準に立って物事を考えるべきなのである。
そうすれば、無条件に代理母を認めてはいいとは思わなくなることだろう。
自分だって合法的且つ倫理的な不妊治療で、自分の赤ちゃんが欲しいと、真っ当な考えに立つことができるはずだ。
●向井亜紀が引き起こしたもの
日本産婦人科学会が認めようとしていた人工授精型代理出産は、実は倫理的にもとる医療だったのである。
寧ろ、日本産婦人科学会が否定してきた「体外受精型代理出産」の方こそが、倫理的に認められる医療だったのである。
確かに、日本産婦人科学会が考えていたように、不妊症の女性が卵子を排出できるなら、その女性は既存の不妊治療を行えば、妊娠は可能になるのであって、敢えて「体外受精型代理出産」など不必要なはずなのである。
但し、それはその女性に子宮があるならという条件が前提の上での話である。
しかし、もしも、病気によって子宮を失ってしまったら、その女性は一体どうすべきなのか?
まさにこの点を向井亜紀が突いたのである。
向井亜紀は子宮頚癌で子宮を摘出してしまったので、妊娠が不可能な状況に陥っていたのである。
そのために、向井亜紀は、夫の高田信彦とともに、アメリカに渡り、体外受精型代理出産を行い、双子の赤ちゃんを産んでもらったのである。
日本では代理出産を認めてこなかったし、代理出産の法的枠組みも整っていないので、双子の赤ちゃんの国籍や戸籍で大いに揉めてしまったのである。
そのため、代理出産をしてもらった夫婦は、日本の法律の遅れを指摘するのだが、これは間違っているのである。現在の法律は代理出産をまったく予定していないのだから、代理出産という脱法行為の損害は、代理出産をしてもらった夫婦が負うべきなのである。代理出産をしたことは、日本の法律が整っていないことを知った上での行為だからだ。
日本産婦人科学会が代理出産の問題を長引かせてしまったがゆえに、こういう犠牲者を出してしまう結果になってしまったのである。
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コメント
お邪魔します。
>いかし、近代以前の医学は、医学の発達が或る時期に差し掛かると、ピタリと発展を止めてしまい、医学が停滞したままになってしまうのだ。
>なぜなら、近代以前の医学には、合法性や倫理性を持ち合わせていないからなのである。近代以前の医者たちは、非合法であり、非倫理的なのである。
お言葉ですが近代以前の医学が発達しなかったのは、それが
「知識の寄せ集め」であって、「仮説->実験->検証」というプロセ
スを得る「科学」ではなかったからではないでしょうか。それと近
代以前の社会には「ムラの掟、部族の掟」や「宗教の戒律」は
あっても、それらをまたぐルールやモラルはありません。
自分は代理出産を「他の女性を産む"道具"として用いる」とい
う点で非倫理的だと考えています。そうでないのなら「女性は子
供を産む機械」発言の厚労省大臣を批判する理由は無いで
しょう。
投稿: ブロガー(志望) | 2008年9月 7日 (日) 08時21分