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特別社会科学論文:近代国家における「子育て」と「教育」

●人間が成長していくために必要な「子育て」と「教育」

 赤ちゃんを産んだからといって、すべての新米ママたちがまともな母親になるのではない。赤ちゃんを産んでも育児に真剣に取り組ます「母親失格」となってしまう女性たちはいくらでもいるのだ。出産直後に「自分はこの子に対していい母親になるんだ!」と覚悟をきめ、魔の3ヵ月で育児ノイローゼに罹って、自分の心に大いなる心境の変化が生じた者のみが、育児をきちんと行えるまともな母親になっていくのだ。これは新米ママにとっての試練であり、この試練を経てのみ、精神的独立がきちんと果たされるのである。新米ママが母親としてまともな母親になってくれないと、その新米ママは自分で主体的に育児を行わず、常に誰かに頼ろうとする育児を展開してしまい、育児が本当の育児になっていないのだ。

 人間は進化の過程で脳を巨大化させてしまったために、産まれても一人では立つこともできないし、動くこともできないという未熟児として産まれてきてしまう。しかも、その成長期が終わるのが19歳と非常に遅く、そのため、その赤ちゃんが人間として成長していくためには、常に他人の介在を必要とし、「子育て」と「教育」をきちんと受けない限り、まともな人間として成長していくことすらできなくなってしまうのだ。

 「子育て」とは、家庭内に行われるもので、その責任者にして実行者は、その赤ちゃんの両親である。両親が赤ちゃんに子育てを行うからこそ、赤ちゃんはすくすくと育っていけるのである。両親は赤ちゃんに対して子育てをするからこそ、「人間としての基本」が形成され、「家族愛の大切さ」や、「将来に結婚して子孫を繁栄させていくことの使命」を付与していくのである。こういうことは両親が精神的に独立しているからこそできるのであって、両親が精神的に独立していなければ、まともな子育てなどできなくなってしまうし、両親は常に誰かを頼ってしまい、政府の介入を招いてしまうのだ。赤ちゃんを育てるためには、両親は常に外敵から赤ちゃんを守り、両親以外に赤ちゃんの命を守る者はいないのだということを赤ちゃんに示さない限り、その子育てを責任持って行えることができないのだ。

 これに対して「教育」とは、政府が行うものである。政府が未成年者を学校において知育体育徳育をすることによって、基礎的な能力を身につけさせ、国民を形成して愛国心を付与していくのである。人間は国家を形成して群生しているので、いかなる者も両親による子育てだけでは、国家内部における社会的生活を運営していくことはできない。、政府が未成年者たち教育を施すことによって、国家内部において、きちんとした社会的生活を営めるようにするのである。

 「子育て」と「教育」とでは、一体何が根本的に違うのか? それは「責任者が違う」のである。子育ては両親であって、教育は政府である。現在の日本の政治システムでは、国民の政治参加が認められているので、両親による教育への介入は許されるている。しかし、その逆の政府による子育てへの介入は許されないのだ。子育てとは両親にとって誰からも侵されることのない聖なる権限なのである。両親がいくら子育てで問題を発生させたとしても、政府が介入して解決すべきものではないからだ。また、政府が介入しても解決できる問題ではないのだ。

●「母親による子育て」と「父親による子育て」

 子育てとは、その子供の段階に応じて、大きく「乳幼児育成」と「児童育成」に分けられる。この乳幼児育成こそが「育児」である。育児とは、乳幼児を育てることである。この育児を行う責任者は主に母親なのである。母親が赤ちゃんに母性愛を注ぎ、赤ちゃんの甘えを許すことによって心を満たし、躾によって生活の仕方を教えるていくのである。

 育児には「保護」と「委任」と「賞罰」という三つの権限がある。保護とは、赤ちゃんを外敵から保護して、赤ちゃんの命を守ると共に、赤ちゃんの考えや行動に干渉して、赤ちゃんが家族内部で生活できるようにさせるのである。そのため、父親が常に外敵から赤ちゃんを守るのだという姿勢を示しておかないと、赤ちゃんは不安だらけになってしまうし、母親が赤ちゃんに干渉して、赤ちゃんの考えや行動を家庭生活ができるように改めさせないと、赤ちゃんは我儘放題をするだけの不埒な赤ちゃんになってしまうのだ。

 赤ちゃんはいくら両親から保護を受けようが、赤ちゃんにだって自由に考え行動したいと欲求もある。そこで両親は赤ちゃんに任せられる所は委任して、赤ちゃんに自由に考え行動させていくのである。最初は、家の中で母親に見守られながら、独り遊びをし、大きくなれば公園で友達と遊ぶというように、自由に考え行動できる領域を徐々に増やしていくのである。

 赤ちゃんは独りで生まれて独りで生きていけるものではない。赤ちゃんはいかなる時も両親が養育する中で生きているのであって、赤ちゃんが思いあがって、勝手気儘な行動を取るなら、両親は赤ちゃんを罰して、自分たちが偉いのだぞということを示さなければならない。逆に赤ちゃんが両親の命令にきちんと従い、両親の意にかなうなら、赤ちゃんに褒め言葉を与え、褒美を与えなくてはならない。この賞罰の権限を手放したら、両親はもはや赤ちゃんを制することができず、逆に赤ちゃんの支配下に立ってしまうのだ。

 この育児に関しては、母親の役割が非常に大きいのだ。母親が日々、赤ちゃんに接して、保護と委任と賞罰の権限を行使しながら、赤ちゃんを育てていくのである。そのため、母親が魔の3ヵ月を通り越して、母親として精神的に独立していないと、どうにもならない駄目な育児しかできなくなってしまうのだ。母親が精神的に独立しているということは、非常に大事なのである。

 これに対して、児童育成とは、両親が子供たちに我が家の歴史伝統習慣を伝承させ、家事に参加させながら家族生活に貢献させ、その子供の才能に気づき、開花させることなのである。児童育成では母親の重要度は依然と変わりないが、父親の重要度が飛躍手に増してくるのである。父親が自分の能力を発揮して、子供たちの精神レベルを上げさせ、「お前は余所の子とは違い、我が家にとって特別な存在なのだ!」ということを教え込むのである。この精神的薫陶を受けると、子供は一変してしまい、自分に自信が持てるようになり、その後の人生を自分の力で切り開いていこうとする勇気を持つことができるようになるのである。

 子育てとは、乳幼児育成における「母親の子育て」と、児童育成における「父親の子育て」の大きな場面があるのである。勿論、乳幼児育成において、父親がまったく関与しないということはないし、児童育成において、母親がまったく関与しないということはない。だが、乳幼児育成では母親を中心に展開されるので、母親が自分の夫よりも先に母親として精神的に独立しておかないと、どうにも子育てが巧く行かなくなってしまうのだ。母親が母親として精神的に独立していれば、そのうち父親も父親として精神的に独立し出すようになるのだ。

●「政府による教育」

 教育というのは、近代国家においては、「国民を作ること」なのである。国民を作り上げ、愛国心を付与して、それを発揮させるようにすることなのである。国民はみんな平等だと思う勿れ。日本国の場合は、日本民族が中心になっているけど、韓国人や朝鮮人や中国人やアメリカ人やロシア人や西ヨーロッパ人のような異民族の者だっているのだ。しかも、日本は歴史が深いために地方の文化の格差は激しいのだ。宗教や身分や家柄だって違うし、金持ちや貧乏人だっている、男と女がいるし、若者と老人だっている。それらの格差のある者たちを、一つの国民に統合して、日本国民を作り上げていくのである。民族は自然発生的なものであるが、国民は明らかに人為的なものなのである。

 小学校教育でなすべきことは、国民を作り上げ、国民としての連帯感を持たせ、相互交流が行えるようにし、将来において、世のため、人のため、お国のために、自分の能力を発揮させるようにすることなのである。子供たちにだって、民族の壁や宗教の壁だってある。所得の格差や男女の性差だってある。しかし、それらを乗り越えて、「あなたたちは日本国民であり、常に連帯感を持っているのである!」ということを教え込むのである。学校教育では、小学校教育こそ基盤である。ここが狂ってしまえば、いかに中学校や高等学校や大学を設けても、どうにもならなくなってしまうのだ。

 現在、日本では義務教育が中学校までになっているが、人間の成長が19歳までということを考えるのなら、義務教育は高校までにするというのが、正しい選択である。しかも、教育は政府が国民を作り上げるという目的がある以上、高校までの教育費は原則無料とすべきなのである。国民を作るという仕事は、個人や家族でできる仕事ではないからだ。

 国民教育の基本を作るのは政府の仕事だが、実際に教育を行うのは都道府県や市町村の役割である。現在、日本政府は国立の小学校や中学校や高等学校を所有しているのだが、これは異常なことだといっていい。政府の主たる仕事が一体なんなのか解っていない証拠だといっていいのだ。

 政府が今やらなければならないことは、「師範学校」の復活である。政府が国民を作る教育を行う以上、ただ単に大学を出て、教員採用試験に合格したような教職員を使うのではなく、政府が責任を持って師範学校での教職員育成カリキュラムを作って、それに基づいて国民教育を行える能力を持った教職員を育成していくべきなのである。当然に師範学校の学費は無料であって、国民教育を行う教職員を政府が資金を出して養成していくのである。そうすれば、日教組のように反日教育を繰り返したり、君が代や日の丸に反対したり、ジェンダーフリー教育を行うフェミニストたちの存在を排除できることだろう。日教組のように反日教育を行い、君が代や日の丸に反対するなら、教職員として認められないのではなく、日本国民としても認めるべきではないのである。精神的に日本国民になっていないからである。

●近代的な日本国民を作り出した皇国史観

 学校教育の教育で、主要な教科は、歴史教育である。歴史教育を通じて、「日本国は神の栄光が降り注ぐ素晴らしい国であって、日本国民は誰もが幸せになれる国なのだ」と教え込むのである。勿論、日本史には失敗や汚点や悲劇だっていくらでもある。しかし、そんなことは差し置いて、日本の歴史は栄光の連続の歴史だと教え込むのである。それはなぜか? 日本国民としての「国民精神」を付与するためにである。国民精神とは、誰か一人の思想家によって作られたものではなく、日本の歴史の中で形成されてきたものであって、日本国民ならこれを継承していかなければならないとさせるのである。

 では、この歴史教育のために必要な歴史観は何かといえば、それは「皇国史観」である。「皇国史観」と聞けば、さぞかしビックリすることであろう。「皇国史観」とは戦後首尾一貫して否定されてきた歴史観だからだ。「皇国史観は批判し尽くされているのに、では一体なぜ戦前において「皇国史観」が採用されていたかを知らないのだ。「皇国史観」は国民形成のために必要な歴史観だったからこそ、採用されていたのである。学校における歴史教育と、大学における歴史研究は違うのである。一体何が違うのか? 目的が違うのである。歴史教育は国民を形成するためであり、歴史研究は歴史を学術的に研究することである。だから、歴史教育では歴史的事実をそのまま教えるのではなく、日本国は神の栄光が降り注ぐ素晴らしい国だと教えていくのである。歴史教育においては、皇国史観以外の歴史観を採用することはできないのだ。皇国史観こそ、国民に歴史教育を行うために生み出された歴史観だからだ。

 「皇国史観」とは、日本国は神によって創造された国家であり、日本国民にはいついかなる時も神の栄光が降り注ぎ、日本国民は神の栄光が拡大していくように精進し続けなければならないという歴史観なのである。戦前の尋常小学校の歴史の教科書を見れば、これが素晴らしい形で成功させていたのである。だからこそ、近代日本は発展に次ぐ発展を重ねたのである。

 この歴史教育の危険性を察知したのは、何よりもアメリカ合衆国であって、日本人は大学卒業者たちの能力はアメリカの大卒者たちよりも劣るけど、小学校の卒業生たちはアメリカの小学卒とは比べ物にならないくらいに、凄まじい能力を発揮してくると、これこそがアメリカ政府が国内の諸大学に委託した研究の結果に得た結論であった。それゆえ、アメリカは大東亜戦争によって日本を屈辱的な敗戦を味あわせた後、国際法をまったく無視して、日本の教育を徹底的に破壊しつくしたのである。それ以降、教育で常に問題が発生し続けているのである。現在、学校教師による犯罪が日常的に繰り返されているが、学校の教師たちの刑事犯罪は今日に始まったことではないのである。戦後首尾一貫して行われ続けているのである。

 日本は何もまったく突然に世界史に登場してきたのではない。日本には近代以前に近代国家特有の国民教育を行えるだけの思想的基盤があったのである。江戸時代の体制イデオロギーは朱子学であった。この朱子学が引き金となって、山崎闇斎の「埼門学」や、水戸藩の「水戸学」が生まれ、朱子学に反対する思想として本居宣長が「復古神道」を唱えることになっていった。これらの思想が複雑に影響しあって「尊皇攘夷思想」となって結びつき、頼山陽が『日本外史』を著わすことになって、これが江戸時代後期において最大のベストセラーになる。

 頼山陽は『日本外史』で一体何を言ったのか? 当時は、「皇族」「貴族」「庶民」といった身分制度があり、貴族には公家貴族と武家貴族がいて、政治体制は朝廷と幕府に分かれて、朝幕併存体制であった。しかし、そうであったとしても、日本民族は天皇のもとに一つなのだということを教えたのである。身分制度かあり、朝廷や幕府や諸藩に分かれていたのに、実は日本は一つなのだと教えたのである。

 駄目押しの一手が、勝海舟であり、勝海舟は咸臨丸でアメリカ合衆国を訪れると、アメリカの経済的文物には目もくれずに、その国の本質を見抜いてしまった。近代国家には「国民」が存在しているということを勝海舟は見抜いたのである。勝海舟はこれを坂本龍馬に伝え、西郷隆盛に伝えたのである。その後、坂本龍馬は日本初の株式会社である「海援隊」を作って、武器弾薬の貿易を行い、薩長同盟の斡旋に尽力し、西郷隆盛は薩長同盟を締結させ、討幕へと歴史を回転させていくのである。勝海舟の達観があったからこそ、幕藩体制は崩壊していったのである。

 日本政府は明治維新後、身分の解放を行い、廃藩置県を行い、日本の一つに統合して、国民を作り上げていったのである。琉球王国を併合し、北海道を開拓して、領土を広げていったのである。国民を作り上げれば、国内から無限のエネルギーが湧き出してきて、国家は発展に次ぐ発展を重ねていくことができるようになるのである。

●「法の下の秩序」と「法の下の自由」

 政治の歴史というのは、端的に矛盾する「秩序」と「自由」をいかに作り出し整合ていくかという歴史なのである。秩序を強調しすぎると、自由は極端に制限されてしまい、政治の安定を得られるが、国民から活力が湧いてこなくなってしまうのだ。自由を強調しすぎると、秩序は極点に制限されてしまい、国民は自由に活動できるかもしれないが、政治は不安定になり、逆に国民が損害を被ってしまうのだ。

 近代国家はこの矛盾を国民教育で国民を作り出していくことによって解決していったのである。いかなる者であっても、同じ国民であって、いついかなる時も国民として連帯感を持たなければならない。近代国家とは「国民国家」のことであり、国民国家の中で、「法の下の秩序」と「法の下の自由」を作り出していき、それを巧く整合していったのである。「法の下の秩序」によって、政治的安定が得られ、国家の独立や国内の治安が維持されると共に、「法の下の自由」によって、国民が自由を享受し、自由に活動していくことができるようになったのである

 これに対して、誤れる近代国家は、「法の下の平等」を作り出して、国民を国内で対立させ、憎しみ合わせようとするのである。そこには秩序も自由もなくなってしまうのである。平等を唱えれば唱えるほど、政治的安定は失われ、国民の自由は消滅していくのである。平等と秩序は両立しえないし、平等と自由も両立しえないのだ。秩序とは不平等を是認することだし、自由とは不平等を認めるということなのである。 この誤れる近代国家群は、「フランス革命」によって世界各国に広がり、「ドイツ」にも、「イタリア」にも、「ロシア」にも飛び火していった。

 「法の下の平等」を否定すると、近代国家の条件を満たすことができるのである。イギリスの憲法には、「法の下の平等」などどこにもないのである。アメリカは独立宣言において平等を唱えたが、アメリカ合衆国憲法になると、その平等を否定し、憲法の条文のどこを探しても、「法の下の平等」はないのである。嘘だと思うなら、アメリカ合衆国憲法を読んでみればいいのだ。「法の下の平等」はどこにもないのだ。

 なぜ、社会主義やフェミニズムが危険なのか? それは国民同士を憎しみ合わせ、国民の一体感を崩壊させ、国内で殺し合いを行わせようとするからである。金持ちと貧乏人を憎しみ合わせ、男と女を憎しみ合わせるからこそ、危険なのである。国内にいかに「所得の格差」や「男女の性差」があったとしても、それは「法の下の自由」を認めている以上、どうすることもできないことなのである。国民が自由に活動できる副産物として、格差が生じてくるのだから、それは国民が認めていかざるをえないのである。もしも、「所得の格差」や「男女の性差」が怪しからんとして、それらを是正していけば、国民から「すべての自由」が失われるだけなのである。

 社会主義者やフェミニストたちは、近代国家の国民としての条件を満たしていないのだ。彼らは言う。「我々の貧困は社会が悪いのだからだ!」と。彼女らは言う。「私たちの不幸は社会が悪いのだからだ!」と。しかし、現実はそうではないのである。社会主義者やフェミニストたちに、「夢がない」からなのである。夢がないからこそ、貧困であり、不幸なのである。

 国民国家というものは、その国民がいかなる境遇に生まれようとも、夢を持ち、それに見合うだけの努力を行うなら、夢は必ず実現していく世の中なのである。自分が不幸なのは、「貧富の格差」や「男女の性差」が悪いからなのではない。自分が夢を持たず、それに見合うだけの努力をしてこないからなのである。平等を唱えれば、夢は消えてしまうものなのである。平等を唱えれば、努力を馬鹿に仕出すものなのである。だから、貧困になり、不幸になっていくのである。国民としての自覚がなく愛国心がなければ、働いても働いても豊かになれないし、幸せにもなれないのだ。

●近代国家の国富の源泉

 近代国家においては、国民が国富を創り出していくのである。近代国家の富の源泉は、領土でも農作物でも鉱物資源でもないのだ。国民こそが国富の源泉なのである。人材こそが、国の宝なのである。国民が祖国を愛し、国民を愛せば、いくらでも富を創り出すことができるのである。

 国民教育によって国民を作り上げていくことこそ、国家の発展に繋がるのである。だからこそ、どの近代国家も教育にこそ、重点を置いている。中央政府の財政を見ても解らないが、地方自治体の財政を見ると、いかに教育関連への支出が多いことに驚かされる。国会の方も毎年、教育に関しては議論を繰り返し、いかにしてより優れた教育システムを作り上げるかに躍起になっているのだ。

 教育市場が活発でない所は、公立の学校を設けることは仕方ないが、人口が多く教育市場が活発な所では、公立の学校を設けるのではなく、私立の学校を設けて、競争さてしまった方が、よりよい教育サービスを提供できるのである。教職員を公務員にしてしまうと、官僚主義が蔓延り、勤労意欲が消え失せ、生徒たちに教育サービスを行うということよりも、組合活動を必死に行うようになってしまうからだ。

 学校で使用される教科書に関しても、政府が検定したものしか使用しないとすると、教科書から面白みが失われて、生徒たちの勉強への意欲も衰退してしまうことだろう。教科書検定は廃止してしまい、出版社の自由競争によって、よりよい教科書を作っていけばいいのだ。現在、日本で使用されている教科書は、先進国の中で最も薄っぺらい教科書であるのだ。これこそが現在、日本の教育レベル低下の最大の原因なのである。

 政府や地方自治体が学校を整備していく時代はもはや終わりを告げ、教育市場を認めて、優れた教育サービスを提供している学校は繁栄するようにし、粗悪な教育サービスを行っている学校は潰れるようにしていくべきなのである。学校は公立なのだから、潰れっこないと思っていると、学校内部で巨悪が蔓延り、自分たちの思いとは裏腹に学校が潰れていってしまうのである。

●政府が行う対家族政策

 政府や地方自治体の仕事は教育に限定されるべきであって、政府も地方自治体も子育てには介入してはならない。子育てはその両親の聖なる義務であって、政府も地方自治体もこれを犯してはならないのだ。政府や地方自治体が子育てに介入すれば、絶対に正反対の結果が出て来てしまうようになるのだ。

 現在、政治家や市民団体の活動家たちによって、「育児支援」という言葉が盛んに使われているが、育児支援をすればするほど、子供を持つ夫婦は自己責任を喪失してしまい、まともな子育てをしなくなってしまうのである。 政府や地方自治体ができることは、育児支援ではなく、すべての夫婦が子育てをきちんとできる環境を整えていくことなのである。

①減税

 まずは「減税」である。所得税は10%以下にすることである。政府や地方自治体が子供いる夫婦にかける所得への課税は、税率が10%を超えてはならないようにすべきなのである。夫婦が子育てをしている以上、独身の男女や子供のいない夫婦よりも優遇してしかるべきなのである。そして子供がいる以上、相続税を免除する。子供のいる夫婦が遺産を相続しても、その遺産は浪費されず、寧ろ子育てのために使用される以上、政府は相続税を課すべきではないのである。

②住宅環境の整備

 夫婦に子供がいるなら、子育てを行うために、それなりの広さを持った住宅を必要とする。子供のいる夫婦には、自宅用の土地及び建物の取得に関する税金を安くし、広い住宅で子育てができるように推進していくべきなのである。子育てをしている以上、独身者や子供のいない夫婦に対して、優遇されるのは当然なのである。できれば、100坪以下の土地に居住用の建物を建てることを禁止し、その広い住宅に子供のいる夫婦たちに優先的に住まわしていけば、家庭内でのいざこざの大半を防ぐことができるようになるのである。

③医療費の無料化

 子供というのは、成長するまでに何度か病気に罹るものである。しかも、その病気は伝染病となって多くの死者を出す危険性も秘めているので、地方自治体は、子供を育てて罹るであろう病気の治療費に関しては、原則として無料として、未然に病気が拡大することを防ぐべきなのである。地方自治体が病院を運営したり、病院に補助金を与えるのではなく、子育てをしている夫婦に直接に医療費を与えるのである。

④教育費の無料化

 教育に関しては、高校までは無料とすべきなのである。政府や地方自治体が国民教育を行っている以上、これらの費用は政府や地方自治体が持つべきなのである。私立学校に行った場合は、公立学校に行った場合にかかる教育費分を援助されてしかるべきである。それ以上の学費は夫婦が負担すればいいのだ。

⑤再就職での優遇措置

 もうひとつ忘れてはならないのが、子育て終了後における労働条件の優遇措置である。母親が子育てをし終えたなら、その母親に対して労働条件が、独身女性や子供のいない既婚女性よりも優遇されて然るべきである。なぜなら、その母親たちは国民として聖なる義務を果たしたからだ。例えば、夕方のニュース番組は主婦向けなのに、現在ではどのテレビ局も、独身女性や既婚女性であっても子供のいないニュースキャスターを採用している。こういう不公平な採用の仕方には、当然に改善勧告が行われるべきなのである。もしも、改善勧告に従わないなら、制裁を科していくべきなのである。

●子育ての主人公は母親

 近代国家は母親たちを必要としている。母親たちがきちんと子育てをしてくれなければ、まともな教育をすることができないからだ。母親たちがきちんとした子育てをしてくれるからこそ、政府も地方自治体もまともな教育をすることができ、優れた国民を作り出すことができるのである。

 現在、政府が推進している男女共同参画社会の根本的誤りは、子育てを消滅させていることなのである。すべての女性が労働すれば豊かになるわけがないのだ。すべての人たちを労働させて、経済活動に従事させても、一時的に豊かになったとしても、時間が経てば経つほど貧困になっていくものなのだ。国民が豊かになるためには、全国各地における母親たちの子育てこそが必要なのである。男女共同参画社会とは耳触りが良くても、実際にはフェミニズムを信奉している独身女性たちだけを活躍させて、既婚女性たちを活躍させないし、子育てをしている母親たちを活躍させていないのだ。

 政府がこのような愚劣な政策を推進させないためにも、政治家には結婚と子供がいることを条件にすべきなのだ。結婚して子育てをしていれば、独身女性だけを優遇するような愚劣な政策を決定することも推進することもなくなるからだ。政治に対して何かしらの意見があるなら、まずは国民として聖なる義務を果たしてから言うべきなのである。

 子育ては自然と育てていくものであり、教育は人為的に教えていくものである。この両者が巧く噛み合わないと、どうしても歪んだ人間たちが育ってきてしまうのだ。子育ての最大の難関は、赤ちゃんの成長過程にあるのではないのだ。赤ちゃんの母親が母親になっていないということにこそあるのだ。

 新米ママたちは、魔の3ヵ月の試練を経て、新米ママから母親になっていくのだ。赤ちゃんの世話をしているという受け身の姿勢から、子育ての主人公としての自覚を持つようになっていくのだ。新米ママの心が大いに変わったからこそ、育児に対して真剣になって取り組み、育児の面白さを堪能することができるのである。

 人間は悩むべき時に悩んでおかなければならないのだ。悩むべき時期に悩んでおかないと、成長できなくなってしまうのだ。人間は生きている限り悩むものだ。人間にできることは、その悩みを一つずつ解決しながら、前進していくことなのである。決して自分の悩みをすべて解決してくれるユートピアを夢見ることではないのである。早く走ろうとすれば早く走っているように見えるかもしれない。しかし、人生という長丁場で早く走れば、早くにばてるだけなのである。ゆっくりと歩けば、遅いと思われるかもしれない。だが、ゆっくりと歩いていると、結果的に自分の目的地にきちんと辿り着けてしまうのである。子育て大事なことは決して焦らないことなのである。ゆっくりと自分の目の前にある問題を一つずつ片づけていくことなのである。そのような地味な作業を繰り返していると、いつの間にかに自分は立派な母親に成長してしまっているのである。

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コメント

ゆきねこです。こんにちは。
コメントありがとうございました。
またお返事のコメントをいただいてから時間が経ってしまいました。
すみません。

さて、墓参りに行ってから、うちの赤ちゃんにないかスイッチが
入ったようで、前みたいに寝ている時間が少なくなって、
空を見つめて、なにかしゃべったり、手を動かしたり、もぞもぞ
しています。2月生まれなので、もうそういう時期にたまたま
入ったのかもしれませんが、なんかうにゃうにゃ言っていて挙動不審
なので、今までと違っていて心配になってしまい、そばから
離れられなくて、家事も滞ってしまい、旦那に
そのことを言ったら、「お墓参りでなに(霊)か連れてきたんじゃないの?」
と言い出し、まあ、大丈夫かと思いますが、なんだかお墓参りの前と
後は様子が違うんです。(パチンコで言うと千百番台スタートしました。
というような状態です。うまく言い表せませんが・・・。)

また、車で哺乳瓶で母乳を与えることを書きましたが、
ブログを読んで、肝心の
ゲップをさせる視点を忘れていました。車ですと赤ちゃんを
チャイルドシートから外すのも大変ですし、母乳を与えて
万が一事故が起こったら大変ですし、高速などで渋滞していたら
パーキングエリアも混んで止まれない状態になったら
大変ですよね。
うちの場合、自宅に着いて、すぐにゲップをさせることができたので良かった
のですが、やはり車内で哺乳瓶はやめたほうが良いと思います。
ゲップが出ないと舌を出して苦しがります。
激泣きは大変ですけど、疲れて泣きやみ、しばらくしてまた
臨界状態になり激泣きになりを繰り返します。(まあ、許容範囲
として3クールくらいまでは大丈夫かと思います。)

本日のタマティー様のブログで思ったのですが、高速代1000円にする
くらいなら、子育て世代を応援する減税、住宅補助、医療費補助
(ちなみに私が住んでいる市は小学校上がる前まで医療費が
無料です。)をしろー。と言いたいです。高速を1000円
にしてしまうと、恐ろしい渋滞が発生するだけです。
渋滞するなら、高速の意味がないです。

また今のモンスターペアレント達にこのブログを読んでほしいです。

ファミレスくらいで騒いでいる子どもはしょうがないなーと
まだ許容範囲ですが、公式の場所はちょっとなー。と思います。
また、新幹線くらいも赤ちゃんが里かえりでぎゃーぎゃー
泣くのもしょうがないと思うのですが、夜のハワイ行き飛行機の
中で赤ちゃんが泣いていると寝られなくて、もう終わったと
あきらめモードになります。

では、失礼しました。

投稿: ゆきねこ | 2009年3月25日 (水) 17時30分

 「ゆきねこ」さん、貴重な情報ありがとうございます!happy01
 ランドリーリングの話といい、ゲップの仕方といい、実際に家事や育児をきちんとしてないと、なかなか言えない意見ですよね。感謝、感謝です!
 確かに「ゆきねこ」さんの言うとおりに、高速道路の料金を安くしても、交通渋滞を引き起こすだけですんもんね。

 政府が国民健康保険を運用するからこそ、政府の規模が大きくなり、そのために人件費を取られてしまい、肝心の国民にお金が行き渡らないんです。
 国民健康保険を民営化し、厚生労働省を解体して、国家公務員を削減してしまえば、減税はできるし、医療や教育を無料にできるし、住宅政策もきちんと行えるんです。
 日本はアメリカによって国民教育を行うことを破壊されたために、どうしても社会主義者やフェミニストたちが多く、彼らや彼女たちが「大きな政府」を望んでいるために、減税をして政府を小さくすれば、国民に対して的確な行政を行えるという考え方が出て来ないんです。
 何はともあれ、選挙の際は、増税を主張してくる政治家たちには、「NO!]を突き付けて、実際に子育てをしている夫婦を守っていかなければなりませんね。

 それから、赤ちゃんが挙動不審になっているのは、満1ヵ月なら徐々に出始める動きですよ。寧ろ、成長のスピードが速いくらいです。恐らく、「ゆきねこ」さんの育児の仕方が巧いんじゃないかな?
 それに墓参りで、ご先祖の霊的守護が得られたからだと思います。
 赤ちゃんはまだ自分で動けないので、放っておいても大丈夫ですよ。
 家事を滞らせないためにも、テキパキとやってしまうのがコツです。家事の巧さは、家事を行うスピードに比例します。
 特に便所とお風呂場は汚れがきつい所なので、便所は毎日3分以内で掃除をしてしまい、お風呂も汚れたら、すぐさま掃除をしてしまうことです。こうすると、便所やお風呂場が奇麗になるだけでなく、他の場所の掃除もスピードを上げながら簡単に掃除をすることができるようになってしまいます。
 便所を奇麗にしておくと、財運が良くなるので、便所掃除は絶対に怠らないことです。

 
★★ 追伸 ★★
 「ゆきねこ」さんは育児をしているので、返事の遅れは気にしてませんよ。
 それよりも、育児を楽しみ、家事をテキパキとこなして、暇な時にリラックスして、タマティーのブログを見て下さいね。
 happy01 happy01 happy01

投稿: タマティー | 2009年3月25日 (水) 18時04分

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