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2009年10月

赤ちゃん返りを楽しんじゃおう

●母親が妊娠すると、子供は赤ちゃん返りをする

 母親が妊娠してしまうと、子供は赤ちゃん返りをしてくる。赤ちゃん返りというのは、赤ちゃんのように甘えて来ることである。赤ちゃん返りは年齢が低ければ低いほど強烈で、本当に赤ちゃんのような行動を取ってしまう。年齢が高くなってしまうと、イタズラをしたり、駄々を捏ねたり、言うことを聞かなくなってしまう。

 第二子を妊娠した場合、子供は妊娠中からでも赤ちゃん返りをして来ると思っておいた方がいい。赤ちゃん返りの始まりは、子供が赤ちゃんの存在に気付いた時からであり、霊感によって赤ちゃんの存在に気付いたような場合は、確実に赤ちゃん返りをして来ると思っておいた方がいい。

 なぜ、赤ちゃん返りが起こるのかというと、母親の関心事が子供にではなく、お腹の赤ちゃんに行ってしまうからだ。子供は母親の精神状態の変化に敏感に察知して、すぐさま反応を示して来るのだ。今まで母親の関心が自分に向けられていたのに、それが自分に向って来ないから、赤ちゃんのように振る舞うことで、母親の関心を引こうとしているのである。

 赤ちゃん返りは悪いものではない。その子供に何か精神的な異常がある訳ではないのだ。大人同士であるなら、相手に関心がなくなれば、距離を置くことで、巧く人間関係を保てるが、子供の場合、母親と距離を置くなんていうことができる訳がなく、赤ちゃん返りをすることによって母親の気を引き続けるのである。

 寧ろ、赤ちゃん返りをする子供の方が正常で、子供の人格が順調に成長しているということだ。母親が妊娠いたのに、赤ちゃん返りをしてこない子供は、母親が育児に手を抜き、無関心に育ててしまったからなのである。その方が子供の成長にとっては危険なのである。母親がきちんと育児をしていれば、子供はきちんと赤ちゃん返りをして来るのだ。

●赤ちゃん返りは迷惑なものではない

 自分の子供が赤ちゃん返りをしてくると、迷惑だと感じてしまう母親たちがいるものだ。こういう母親たちは大抵が体力がなく、心が狭く、母性愛の出も少ない既婚女性たちだ。母親の方に肉体面や精神面で問題があるからこそ、我が子の赤ちゃん返りを認めてあげ、受け止めてあげることができないのだ。

 赤ちゃん返りはオマケのようなものだ。今まできちんと育児をして来た御褒美だと思った方がいい。赤ちゃんの時は母親の方が初めてであるので育児の仕方が解らず、赤ちゃんの方も首が坐っていないし、すぐに病気をしてくるのだが、赤ちゃん返りで赤ちゃんのようになって来ると、子供が赤ちゃんではないから、安心して楽しむことができるようになるのだ。

 これが本当の「赤ちゃんプレイ」なので、子供が赤ちゃん返りしてきたら、思いっきり赤ちゃん返りをさせて、赤ちゃんプレイを楽しんでしまおう。こういう楽しみはそう簡単にあるものではないのだ。体も大きくなっているので、母親が遊ぶには丁度いい具合なのだ。母親にとっては妊娠中にいい運動になると思っておいた方がいい。

 我が子の赤ちゃん返りをしっかりと受け止められるようであるなら、母親は母親として成長しているということなのだ。我が子が最大級に甘えて来ても、きちんとそれを受け止められるようなら、もう母親として充分に行動できるということなのだ。それだけ自分のレベルが上がり、自分の心の中から母性愛が溢れているというおのなのだ。

 赤ちゃん返りは第二子が生まれると、更にヒートアップしてきて、母親が赤ちゃんの面倒を見ることを何かと妨害して来るものである。本当の赤ちゃんがいるすぐ側で、大きな体を持った子供が赤ちゃんのように振る舞って来るのだから、世話が焼けるだろうが、逆に2人の赤ちゃんができたと思って楽しんでしまうことだ。

●赤ちゃん返りで甘えさせることの大切さ

 もしも、子供が赤ちゃん返りをして来ているのに、赤ちゃん返りをさせておかないと一体どうなるであろうか? 子供は母親から見捨てられたと思い、大変なショックを受けてしまい、それが心の傷になってしまい、その後の育児で手古摺ることになるのだ。子供の人格が明らかに異常になってしあうのだ。

 母親の言うことを全く聞かない子供になってしまったり、癇癪持ちになったり、下の子供たちをイジメる子になってしまうのだ。そういう子供が思春期を迎えれば、グレるし、家庭内暴力を振るうし、家出はするし、自殺してしまったりするのだ。子供の頃に母親から傷つけられた心の傷は、自分ではどうすることもできず、その悲しみが暴走していってしまうことになるのだ。

 母親に甘えることができなかったというのは、自分の存在が否定され、子供にとっては自信を失ったままになってしまうのだ。だから、親の言うことを聞かなくなったり、癇癪を爆発させたり、イジメをしたりして、自分の存在を肯定させようとするのだ。他人とトラブルを起こして自分の存在を維持しているならまだいいが、それができなくなれば、自殺することで、自分の存在を消し去ってしまうという危険極まりない方法を選んでしまうのだ。

 子供が赤ちゃん返りして来ているのに、母親が子供の赤ちゃん返りを拒否してしまった場合、その場は巧く遣り過ごせるかもしれないが、その行為の代償は高くつくと思った方がいい。母親が子供に対して意図的に心の傷をつけてしまったからだ。大人ですら心の傷を癒すのが大変なのに、子供ならその心の傷の痛さの余りに暴走して行くことは必定なのだ。

 母親にとって赤ちゃん返りは決して大変なものではない。ついさっきまで赤ちゃんを育てていたのだから、それを再現してしまえばいいのだ。丁度、子供に手がかからなくなった頃に赤ちゃん返りが起こるために、その比較対象で赤ちゃん返りが大変だと思っているだけで、別に赤ちゃん返りの世話は重労働ではないのだ。

●二人目の赤ちゃんができることは子供にとっては不安なこと

 子供にとっては、母親に赤ちゃんができるということは不安なことなのだ。今までは母親は自分の独占物だったのに、母親が独占物にならなくなるのだ。今まで最大級の関心を持って来た母親は、或る日突然にお腹の赤ちゃんを大切にし出せば、子供にとって不安になるのは当然のことなのだ。しかも、実際に赤ちゃんが生まれてしまえば、母親は赤ちゃんの世話に追われてしまうから、子供のことなど構っている暇がなくなるのだ。

 だから、子供は赤ちゃん返りをすることで、母親の気を引こうとするのである。これは行動自体は異常な行動かもしれないが、正常な精神活動であるのだ。こういうことをしなければ、子供の精神はおかしくなってしまうだけだからだ。子供は決して直線ルートを育って行く訳ではないのだ。人間が健全に成長していくためには、後退することも必要なのである。

 赤ちゃん返りは永遠に続くものではないのだ。子供に充分に赤ちゃん返りをさせれば、或る日突然に卒業して行くものなのである。それがいつかは解らない。ただ、赤ちゃんが生まれることによる変化を、子供が母親から母性愛をしっかりと貰い、それが心の中で充分に蓄積されれば、赤ちゃん返りをやめて、子供らしい子供に成って行くのだ。

 この感動的なシーンに、もう一つ注意事項を付け加えておこう。赤ちゃん返りは何も子供だけがするのではなく、夫も赤ちゃん返りをしてくるのだ。夫の方はさすがにバブバブしてこないが、妻に対して矢鱈と甘えて来るようになるのだ。子供の赤ちゃん返りに対応することですら大変なのに、夫の赤ちゃん返りが加われば、更に大変なものになってしまうのだ。

 でも、夫の赤ちゃん返りをきちんと受け止めてあげることだ。夫も第二子ができたことに不安なのである。妻は育児ばかりにしか関心がないために、夫である自分には大した関心を寄せて来ないのだ。そのくせ、第二子ができることで、更にお金が必要となってきて、一生懸命に働き、出産費用を稼いで来なければならなくなるからだ。

 いくら第二子ができたからといって、お腹の中の胎児や、生まれて来た赤ちゃんばかりに気を取られていないで、きちんと夫にも関心を向けて、夫にサービスをしておくことだ。妻が夫の不安をきちんと受け止めてあげないと、夫は妻以外の女性によってその不安を解消させて貰うことになるからだ。その方が高くつくものなのである

 我が子であろうが、夫であろうが、赤ちゃん返りをしてくるなら、それを楽しんでしまうことだ。相手が赤ちゃんのように振る舞って来るなら、いいじゃれあいっこになるからだ。しかも、お腹の中の赤ちゃんにとってもいい影響になり、脳の成長を促し易くなるのだ。赤ちゃんが生まれて来て、子供が赤ちゃん返りをしてくれれば、赤ちゃんへの育児が大変だとは思わなくなってしまうのだ。それだけ母親としての力がついたということなのだ。子供の赤ちゃん返りは、育児は大変であると思っていた昔の自分から大いに飛躍させてくれたことになるのだ。

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子供は霊能力で母親の妊娠に気付いてしまうもの

●子供の霊能力と母親の妊娠

 大概の動物には発情期というものがあり、いつも受精が可能なのではない。受精することができるのは一年の内で限られた期間でしかないのだ。しかし、人間にはこの発情期がなく、女性の体は初潮から閉経まで、理論上は常に妊娠可能なのである。勿論、子供のいる母親だっていつでも妊娠可能なのである。

 だが、妊娠したとしtもすぐには体の変化が出て来ないので、妊娠したことに気づけないのだ。生理が止まったとか、妊娠検査キットを使って調べるとかして、やっと自分が妊娠できたということが解るものなのである。しかも、自分が妊娠したことを他人に言わなければ、自分のお腹が膨らんで来るまで、他人は気付きはしないものなのだ。

 しかし、妊娠に気付く者がいる。それが自分の子供だ。子供は医学上の知識がないのに、己の霊能力を使って、母親が妊娠したことが解ってしまうのだ。いつもそんなに甘えて来ないのに、突如、異様に甘えてくるとか、母親と一緒にいることを執拗に望んだりするとか、急に夜泣きが激しくなるとかである。

 更にレベルがアップすると、「お母さんの所に天使さんが来たんだよ~」とか突然に言い出すのだ。年齢が上がった子供になると、「お母さんのお腹の中に赤ちゃんがいるよ」と急に言い出したりするのだ。子供の発言は明らかに妊娠を指摘しているのだ。これを聞くと、母親は自分の子供を子供扱いしていたので、本当にビックリしてしまうのだ。

 実を言ってしまうと、母親と子供はいつも一緒にいるので、子供は母親の微妙な変化に気づいてしまうものだ。妊娠することで、母親に生理がなくなれば、毎月、月経血として外に排出していた血が外に出ないのだから、肌に微妙な変化が出て来るのだ。生理不順の時、月経血が出て行かないために肌荒れが起こるその逆バージョンだと思えばいい。なんとなく母親の体が変だなというのは子供ながらに気付いてしまうのだ。だが、問題はそれを体感だけで解ったということではなく、霊能力で解ったということなのである。

●理性の力が弱いと、霊能力は発動し易い

 霊能力というと、マスコミが低俗な形で煽ってしまったために、浮遊霊や呪縛霊といった低級霊を探り当てる程度の力だと多くの人々は思い込んでしまっている。実を言うと、霊能力というのは、自分の幸福を作り出し、守り通し、更に作り出して行くもので、それが感性や理性や意志の力ではない、不思議な力を言うのだ。

 この霊能力は理性の力が強まり過ぎると消えてしまうものなのだ。俗に言う霊能力者たちはその殆どが大卒ではない。中卒だとか高卒程度の学歴しか持っていないのだ。理性の力が強まると、科学の力を信じ過ぎてしまうので、霊能力を否定して来るようになってしまうのだ。

 宗教もその国で科学が発達して来なければ、霊能力がどうのこうの言っているのに、科学が発達し始めると科学の力で霊能力を抑えこんでしまい、「宗教の合理化」という現象が起こってくる。「ユダヤ教」は律法主義者たちが台頭してくると、預言がどうのこうのと言わなくなり、「プロテスタンティズム」はカトリックを否定する形で登場して来たために、カトリックでは悪魔祓い師がいたのに、プロテスタントではそういうことをする人がいなくなってしまったのだ。

 だが、科学の力や宗教の力で霊能力を否定しても、人間は生まれながらにして霊能力を持っているものだ。特に子供の場合、理性の力が発達していないので、霊能力が発動し易いのだ。大人であったら、理性の力が発達しているので、そう簡単には霊能力が発動しないし、たとえ霊的な現象を見たとしても、それを既存の知識で否定してしまうのだ。だから、目の前に起こっているのに、目に見えて来ないのだ。

 神道の祭祀で「お稚児さん」を定めて、子供を特別扱いするのは、神道の方で矢張り子供には霊能力があると解っていたからなのだろう。勿論、現在では霊能力を使うためにお稚児さんを使っている訳ではないが、昔でなら子供の霊能力を何かしらに使ったのであろう。それが現在にまで祭祀という形で残っているのだ。

●子供の変化を否定しないこと

 子供が霊能力を使って妊娠を指摘して来た場合、子供の意見を否定してしまわないことだ。子供の意見を肯定してあげることだ。特に子供の指摘の仕方が、直接、妊娠を指摘するものではなく、幼稚化することで妊娠を知らせて来た場合、その幼稚化をきちんと受け止めてあげることだ。子供にとっては、赤ちゃんができれば、お母さんがその赤ちゃんを優先して、自分の相手をしてくれなくなることが不安なのだ。

 子供が直接妊娠を指摘して来たら、それで驚いて子供の霊能力の威力に恐怖してしまおう。そういう驚きというのは非常に大切なのだ。子供の霊能力に驚いてあげれば、子供の方もこの能力は特殊な能力だというのが解るので、妊娠を指摘する以外でも発揮することが可能になるからだ。

 母親の中には大卒の女性たちも多くなっているので、そういう女性たちは子供の霊能力を否定してしまいがちだ。自分は理性の力が強まり過ぎてしまい、霊能力がなくなってしまったために、子供が霊能力を発揮して来ると、それを躍起になって否定してしまうのだ。しかし、母親が子供に対して、そういう態度を取ってしまうと、子供は子供なりに凄く傷ついてしまい、その後、子供は霊能力で何かを察知したのに、それを母親には何も言わなくなってしまうのだ。

 自分も妊娠することで体に変化が出て来ている以上、子供の変化をも肯定してあげることだ。別に子供の霊能力があるからといって悪い訳ではないのである。理性の力では理解不能なものも、この世には存在しているということなのだ。子供に霊能力があれば、事前に危険を察知することができるので、子供が大怪我をしなくて済むようになるのだ。

 子供がはっきりと妊娠を指摘して来たのなら、「そうだよ。お母さんは妊娠しているんだよ」と教えてあげることだ。妊娠を指摘されたのに、妊娠を隠すことだけは絶対にやめた方がいい。子供は母親に嘘をつかれたと思ってしまうからだ。それよりも、この家族に新たな仲間が増えることを教えて、祝福してしまった方がいいのだ。その方が今後の展開を良好にすることができるようになるのである。

●この世の中は不思議がいっぱい存在する

 育児をしていて、つくづく思うのは、子供は母親の想定外のことをいくらでも仕出かして来るということなのである。母親は自分の子供を産み育てて来たために、子供のことはなんでも知っていると思っているが、自分の子供とはいえ、母親の知らない能力を持っていることも有り得るのだ。

 子供は幼稚なんだから、幼稚なことしかしないとは決して思わないことだ。理性の力が発達していない分、それ以外の能力、特に霊能力が発動し易いのだ。霊能力というのは、決して幼稚な能力ではないのだ。目に見えざる物が解ってしまうからこそ、事前にその変化を察知してしまい、早目に対策を取ることができるようになるのだ。

 妊娠したのなら、妊娠10週目までは胎児が安定せず、流産の危険性もあるのだ。だからこそ、子供の方が母親に妊娠を知らせて、流産しないように仕向けているのだ。子供の方も拙い言葉で、母親の身を案じているのである。もしも流産してしまえば、母親は悲しんでしまうのだから。

 現在の宗教は教義を中心に展開しているので、理性的に宗教を捉えようとしているので、霊能力を否定する方向にある。そのため、霊能力を欲しがる人々の要求に既存の教団が応えられず、自称霊能力者や占い師たちが跳梁跋扈し、挙句の果てには、スピリチャルと称して、それを商売へと結びつけてしまっている。

 霊能力は目に見えざる力なので、本来はその能力があるか否かを鑑定することが不可能なものなのだ。そういう霊能力に頼るよりも、自分の感性や理性や意志を用いて、自分の力で自分の未来を切り開いていくべきなのである。自分の人生が自分の力ではどうにもならなくなった時に、霊能力者に頼るならまだ理解できるが、収入もしっかりとある状態で霊能力者に頼るべきではないのだ。自分が霊能力を失ったのは、もう自分にとって不要だからこそなくなったので、もしも霊能力が必要であるなら、復活してくるものなのである。

 育児をしていると、いくらでも不思議なことが起こって来る。母親は子供の身を守るために、理性の力だけでは処理できない時に、母親の霊能力も復活して来ることもあるのだ。大学や大学院を卒業したからといって、余りにも理性の力に頼っていると、子供の霊能力にも気付けないし、自分の霊能力にも気付けないのだ。育児では自分が当たり前だと思っていることばかりが起こるのではないのだ。自分の想像を遥かに超える出来事がいくらでも起こって来るのだ。

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赤ちゃんを最低でも3人作る

●最初の育児が楽しければ、もう1回というのは当たり前

 この世は「3」という秘密の数字が隠されている。例えば、学校教育は、「小学校」「中学校」「高等学校」の三つを経て終了する。大学教育は、大学の「学士課程」と、大学院の「修士課程」と「博士課程」を経て終了する。勉強の仕方も、授業を受けるだけでなく、予習と復習をしなさいと教えられる。

 育児も、第一子を産み育てたのなら、それで終わりではなく、更に子供を産んで、第二子、第三子と産み育てて、一人前になれるのだ。最初の育児では自分が新米ママであるがために、解らないことが多過ぎるのだ。だから、二回目にチャレンジし、三回目になってやっと育児のなんたるかが解るというものなのだ。

 そもそも、最初の育児が楽しければ、「もう1回!」というのは当たり前のことなのだ。この楽しさをもう一度味わいたいというのは、人間として当然の現象なのである。第一子で打ち止めになってしまうのは、最初の育児が面白くなかったと、行動で表現しているようなものであって、自分の精神レベルは上がらないし、自分の子供にどこか精神的な歪みが出て来てしまうものなのだ。

 離乳食が終われば、育児に手間がかからなくなるのだから、その辺りから子作りを再開するというのが、通常のパターンだろう。第一子と第二子の間が余りにも離れてしまうと、母親の方が体力的に育児がしんどくなってしまうので、どの母親たちもそれほど間隔をあけないものなのだ。

 「夫の収入が少なくて」とかいう経済的な心配はしないことだ。赤ちゃんは子宝といって、生まれれば、どこからともなくお金が湧いてくるものなのだ。その夫婦が贅沢をしなければ、育児の費用などいくらでも賄えるものなのである。赤ちゃんよりもお金に心を奪われているようであるなら、母親としては失格なのである。

●子供が多ければ育児が楽になる

 育児というのは、子供の数が多い方が楽になるのだ。育児が大変なのは、最初の子供を産み育てている時だけなのである。なんせ自分自身が新米ママゆえに育児の仕方が解っていないのだ。誰であったとしても、試行錯誤しながら、育児の仕方を学び取って行かねばならないのだ。

 子供を3人も産めば育児の仕方がしっかりと解るから、育児自体が楽になるのだ。3人目を産んだ頃には、育児の仕方が解っているので、育児が楽で仕様がなくなるのだ。それだけ第一子の時は育児の仕方を全然解っていなかったのだ。育児というのは、育児の仕方さえ解ってしまえば、後は育児を気軽に楽しめるようになるのだ。

 子供が一人だと家事の手伝いをさせるのは至難の業だが、子供が3人以上いれば子供たちは自然と家事の手伝いをし出すのもなのだ。母親の大変な姿を見ているために、自然と親孝行の感情が湧いてきて、家事を手伝い、母親を楽にさせてあげようとするのだ。だから、子供が増えると家事が楽に成り始め、母親は様々な作業をすることができるようになるのだ。

 親子が5人家族を形成すると、突然に家族にエネルギーが湧いてくるものだ。人や物やお金を吸引し始め、家族が資産家の道へと歩み始めるのだ。子供が一人か二人しかいないと、いくら資産を溜め込んでも、どこかで大損害を被ってしまい、なかなか資産が溜まっていかないのだ。子供の数が少ないと家族に活気が出て来ないので、どうしてもそれが資産形成に反映して来るのだ。億万長者になりたければ、まずは3人以上の子供を産み育てていくべきなのである。

 何事も経験値というのは大事だ。一回育児をした所で、母親としての力がつくわけがないのである。一回しか育児をしていなければ、母親になれたとしても、まだまだ未熟者なのだ。育児の経験が少ないから、どうしても母親としての力がついてこないのだ。家庭内でゴタゴダを起こすよりも、自分が経験値を積んで、母親として力をつけてしまった方が、家族にどんなことが襲いかかってきても、家族を巧く運営してけるようになるのだ。

●一人っ子の方が寧ろ大変

 子供を一人で打ち止めにしてしまう母親には或る共通点がある。それは母親と子供がべったりと密着しているのだ。母親が子供のことにあれやこれやと口出しして来るので、子供はなかなか自分のことを自分でやらないし、いつまでも母親に頼って来てしまうのだ。そうなると。母親と子供が密着してしまうので、父親がその中に入って来れなくなってしまうのだ。だから、2人目の赤ちゃんが生まれて来ないのだ。

 育児というのは、一人っ子の方が寧ろ大変なのだ。育児の失敗を修正することなく、子供を育て上げてしまうからだ。母親が子供に対して強圧的な態度で臨んでも、我が子がそれを受け入れてしまえば、育児をしている時は、大した問題を生ずることなく育ってしまうものだ。しかし、その代償は高く、子供が成長して思春期になる頃には、得体の知れない反抗をして来るものなのだ。

 一人っ子の場合、子供が一人しかいないために、兄弟姉妹が仲良くすることや、兄弟喧嘩をして喧嘩の勝ち方や負け方を経験しないために、人間関係を形成するのが下手で、我儘な子に育ってしまう。どこの世界でも自己中心的な人は一人っ子が多いものだ。個人プレーが要求される仕事に就ければいいが、集団行動を要求される仕事に就けば、自分の能力を殆ど発揮できない人生で終わってしまうのだ。

 子供が一人しかいないということは、家族が繁栄していかないということだ。家族は本家が相続するから維持できるものと、分家を生み出すからこそ家族は拡大していくことができるのである。もしも女の子しかいないのであるなら、婿取りをしなければ絶家になってしまう。そこで家家系が絶えてしまうのだから、先祖に対して非常に罪深いことを仕出かしてしまうことになるのだ。

 親子3人になると、妙に安定してしまうので、いつまでもその安定を維持し続けないことだ。勇気を出して変化を起こすことだ。ママ友とかに赤ちゃんができたのなら、お祝いにかけつけて、赤ちゃんを抱かして貰い、自分の母性本能に火をつけてしまうことだ。他人の赤ちゃんに触れれば、自分ももう一人赤ちゃんが欲しいと思うようになるのは、母親として当然のことなのだ。

●何事も3度経験して、一人前

 第一子をいくら巧く育てたとしても、育児の仕方はまだまだ解っていないものなのだ。育児をしないから育児の仕方を知らないのではなく、育児をしたからこそ、育児の仕方で解らないことが出て来てしまったのである。その疑問は第二子以降で明らかにさせていけばいいのだ。

 最初の赤ちゃんは所詮、自分は初心者なのだ。その初心者が完璧な育児をすることなどできないものなのだ。3人産み育てて、やっと母親として一人前になれるのだ。子供を3人以上育てていけば、どんな母親であったとしても、育児のなんたるかが解るようになるものなのだ。子供を一人育てた程度で、育児のすべてを知ったような気にならないことだ。育児はそんな浅いものではないのだ。育児は奥深いものなのである

 何事も3度経験して一人前なのだ。育児も例外はないのだ。育児も全く同じなのだ。第一子、第二子、第三子を産み育てて、やっとまともな育児をすることができるものなのである。第一子の時に間違った育児をしたとしても、他の赤ちゃんを育てて行く中で、自然と育児に修正が効き、第一子はまともに育って行くのだ。

 少子化というのは、母親たちが子供を一人や二人で止めてしまったからこそ、その母親のもとで育って来た子供たちが大人になった時、その歪みが出て来てしまい、結婚しなかったり、結婚したとしても子供を作らなかったりしてしまうからこそ、子供の数が減少して行ってしまったのである。

 自分が母親として未熟者というのは、自分の代だけで終わるものではないのだ。我が子はその代償をどこかで支払わなければならなくなる日がやってくるものなのだ。自分が一人前の母親になるためには、3人以上の子供が必要なのである。自分の家族が子孫繁栄して行くためには、3人以上の子供が必要なのである。折角、一人目の子供をここまで大きくしたのなら、次の子供にチャレンジしていく勇気を持って、更に子供を産み育てていくことだ。

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笑撃ヒートアップ:「タマティーのイカサマ健康法」 ~育児をしている母親に有効なイカサマ健康法~

●イカサマ健康法

 いつもは妊娠や出産や育児の情報を伝えているのだが、今回はちょっと嗜好を変えて、タマティーの個人的なネタを話してみたい。タマティーは健康に気を使い、風邪一つひくことのない健康な体を維持しているのだが、ここ1ヵ月ほど仕事が忙しくて、朝のウォーキングを除けば、大した健康法を実施できなくなってしまった。

 特に筋肉トレーニングはここ1ヵ月ほど全くしていないということになってしまったのだ。自宅の近くに公園があって、そこに筋肉トレーニングの施設があるので、いつもはそこで筋肉トレーニングをやって汗を流しているのだ。だが、仕事に忙しくなってしまうと、それができないのだ。

 そこでどういう症状が出て来たかというと、体が重し、体が疲れるようになった。体重は増えてはないのだが、筋肉量が減ったのかなというのは、なんとなく解るようになった。そして睡眠が浅くなってしまい、就寝したら3時間後には目が覚めてしまい、その後、布団の中で考え事をしていて、再び浅い眠りにつくようになtってしまった。この睡眠パターンが一番きつく、この睡眠だと前日の疲れが取れないし、朝起きても体が重たいのだ。運動をしていないからこそ、こういう浅い眠りになってしまうのだ。

 とはいっても、仕事が忙しいので、時間がなく運動ができないのだ。そこで、「このままではいかん」と思い、「イカサマ健康法」を実施することにした。イカサマ健康法とは、正統の健康法ではないのだが、イカサマを使うことで、正統な健康法と同じような成果を出す健康法なのだ。勿論、俺だって時間があれば正統な健康法を使いたい。しかし、時間がないからこそ、イカサマ健康法の出番なのだ。

 これから述べるのはタマティーがやってみて、実際に効果があったものばかりだ。こういうイカサマ健康法をやってみて、つくづく思ったのは、育児に追われている母親たちには是非とも必要な健康法だということだ。育児をしていると、子供が寝てくれない限り、自分の自由時間はないので、余り時間のかかる健康法を実施できないのだ。母親たちに必要な健康法は短時間ででき、尚且つ、効果の大きい健康法でなければならないのだ。

●簡易筋肉トレーニング

 まずは「簡易筋肉トレーニング」だ。通常の筋肉トレーニングだとなんだかんだといって1時間以上の時間を費やすのだが、この簡易筋肉トレーニングは短時間で終えてしまう筋肉トレーニングだ。短い時間でも巧く筋肉トレーニングをすれば、長い時間かけて行う通常の筋肉トレーニングと同じような効果が得られるのだ。

 最初に時間帯に拘ることだ。筋肉トレーニングは夕食後に行った方が効果が高いので、夕食後、食休みをしてから、筋肉トレーニングをするのだ。時間がない時は、就寝直前でも構わない。夕食後から就寝までの間なら、どの時間にやったとしても、きちんと効果が出て来る。

 筋肉トレーニング量は体が疲れない程度でいいということだ。夜は体が疲れているので、更に筋肉トレーニングで疲労するようなことはできないのだ。体が疲れる手前でやめてしまうことだ。その代わり、筋肉トレーニングをやる時は、集中して行うことだ。集中して筋肉トレーニングをした方が短時間で終えることができるからだ。

 メニューは「スクワット」「腹筋の折り曲げ」「背筋反らし」「腕立て伏せ」などである。それぞれ最低でも100回以上はやることだ。スピードを上げてメニューをこなしていけば、10分程度で終わってしまう。例えばスクワットを終えたら、少し休んでから腕立て伏せに行くという遣り方で、流れるようにメニューをこなしていくことだ。

 この簡易筋肉トレーニングの効果は絶大で、最初やった時などは翌日筋肉痛になったくらいに筋肉が鍛えれていたのだ。3日もやると、自分はボディービルダーになったのではないかと思ったくらいに筋肉がムキムキになってしまった。しかも、体は引き締り、体重は落ちたのだ。体が重いだの、体が疲れたのなどは、一発で吹き飛んでしまったのだ。

●1日1回汗をかく

 タマティーが昔からやっている健康法に、「1日1回汗をかく」というのがある。人間は汗をかかないと、体が水分過剰になってしまい、その水分過剰になると体が冷えるので、食事過剰になって体を温めようとし、そのtめに体重が増えて行ってしまうからだ。それゆえ1日1回きちんと汗をかくことで、その水分過剰を解消させるのだ。

 いつも何かしらの運動をやって発汗していたのだが、仕事が忙しくなってしまうと、運動ができないので、汗をかけないのだ。そこで、運動をしていなくても、日常の生活で汗をかいたのなら、別に運動などせずそれでいいとし、日常の生活で汗をかいていない時だけ、何か特別な対策を講じればいい思うようになったのだ。

 夏は気温が高いので、自然と汗が出るものだ。そこで夏場はクーラーなどつけずに、猛暑や酷暑をそのまま受け止めて、汗を流すのだ。夏以外の季節でも、仕事で汗をかいた場合はそれで良しとするのだ。だから、「秋」「冬」「春」の内、仕事で汗をかかない場合だけ、何か対策を講じて汗をかくようにすればいいのだ。

 タマティーがこういう時にやるのは「44℃の風呂に入り、汗をかく」ということだ。タマティーはいつもは温めのお湯に入るのだが、汗をかいていない時だけ、非常に熱いお湯に入ることにしているのだ。このお風呂に入ると、5分以内に汗をかきだし、10分でびしょびしょになるので、汗をかいたら、湯船から上がり、冷水シャワーを浴びて、汗を洗い落せばいいのだ。

 これをやるとどうなったかというと、体重が落ちるし、体が軽くなったのだ。余分な水分が体の中にないために、そういう現象が起きるのだ。それから、体臭がなくなのだ。男性は男性特有の男臭さがあるものだが、1日1回汗をかくようにしておくと、体臭は臭わなくなるものなのだ。後、お肌の張りがいいのだ。余分な水分がないと、お肌もきちんと張りが出て来るのだ。

 既婚女性なら夫とメイクラブというのも、充分に汗がかける行為なのだ。女性はオルガズムに達すると、セックシュフラッシュという現象が起き、それで汗をかくのだ。結婚しているなら、絶対に夫とのメイクラブを軽んじないことだ。セックスレスになるというのは、自分が美しくなれる機会を破壊しているようなものなのだ。

 タマティーの場合、最低でも7回以上はオルガズムに行かせるようにしているので、女性の体は汗でびしょびしょになってしまう。それゆえ、メイクラブが終わり次第、シャワーを一緒に浴びるようにしているのだ。だから、映画やドラマでメイクラブが終わり、そのまま寝てしまうというシーンはどう考えても納得が行かないのだ。汗をかいて、そのまま寝たら、風邪をひくだろうと思ってしまうのだ。

●良質の脂肪をつける

 タマティーは横浜市生まれのヘビメタ育ちなのだが、横浜市の冬は雪が降らない癖に異様に寒いのだ。冬になるとシベリア寒気団が南下して来て、新潟県で大雪を降らせた後、湿度の低い寒気団として関東に流れ込んで来るのだ。そのために関東地方には空っ風が吹き、雪が降らないのに、異様に寒くなってしまうのだ。

 この湿度が低い寒気団こそが、風邪の原因であり、毎年、冬になるとインフルエンザが大流行するのだ。それ以外にも冬になると、「脳卒中」や「脳梗塞」や「心筋梗塞」などを発症して死ぬ人たちが跡を絶たないのだ。我が家でも冬になると、タマティー以外、家族の者たち全員が風邪になるということもあったのだ。それなのに、なぜタマティーが風邪に罹らなかったといえば、タマティーはこの湿度の低い寒気団の対策をいていたからだ。そtれは緑茶に梅干しを落として、それを箸でグチョグチョにしてから飲むのだ。この梅干し入りの緑茶自体も風邪に効果があるのだが、この箸でゴチョグチョにしている時に、お茶の湯気を嗅いでいる時に、その湿気で鼻が湿度の低い空気に耐えうるようになるのだ。このお蔭で昔から風邪をひかずにいたのだ。

 それともう一つ、良質の脂肪をつけることを心掛けていたのだ。脂肪は体に備わった防寒着のようなもので、脂肪が或る程度あれば、寒さに耐えられるからだ。タマティーは中学生の頃からスポーツに打ち込んでいたが、それでも脂肪を落としてアスリート体型になろうという気は一切なかった。あそこまで脂肪を落としてしまうと、乾いた寒さが厳しい横浜市では病気になってしまうからだ。

 よくダイエット本などでは、脂肪を目の仇にして、脂肪を落とすことに躍起になっているのだが、タマティーはこれに対して反対の意見を持っている。というのは、昔、或る患者さんの静脈瘤を治すために、脂肪を落とすお茶を飲ませたのだが、ついでに自分も飲んでみたのだ。そうするとそのお茶の効果で脂肪は確かに落ちたのだが、脂肪がなくなってしまったので、冬の寒さに堪えてしまい、風邪をこじらして肺炎になってしまったのだ。この肺炎は自分は死ぬんではないかと思ったくらいに重症化してしまったので、肺炎が治り次第、今後絶対に脂肪を落とし過ぎるダイエットだけはしないようにし、また他人にも勧めないようにした。

 脂肪には悪い脂肪もあるので、良質の脂肪をつけていくことを心掛けることだ。タマティーは昔から植物性脂肪を食べるよう心掛けていた。子供の時から好きだったのは「クルミ」で、クルミを定期的にポリポリと食べていた。それから「落花生」や「アーモンド」や「ナッツ」も食べていた。今では朝にリンゴ人参ジュースを飲む時は、たっぷりとオリーブオイルを入れて飲んでいる。

 動物性脂肪は、危険と思われているのだが、野菜をしっかりと取っているなら、それほど危険ではないのだ。野菜が少ないからこそ、動物性脂肪が危険になってしまうのだ。動物性脂肪を食べる時は野菜をたっぷりと使うことだ。魚は動物性脂肪を持っているが、大半の魚では体にいい脂肪がなかなかつかない。タマティーの経験則では、鮭だけが体にいい脂肪がつくので、鮭が出回る冬には、「鮭鍋」というのが我が家での定番なのだ。それから鶏のトリカワを使って、野菜炒めを作り、食べていた。

 悪質な脂肪は、オヤツを食べてつく脂肪だ。人間の体は食べ物を食べ終わると消化吸収が始まるのだが、炭水化物の消化吸収が終わると、脂肪と蛋白質の消化吸収が始まるのだ。炭水化物の消化吸収が終わる血糖値が下がるので、どうしてもお腹がすいた感じになってしまうのだ。午前十時頃や、三時のオヤツや、夜食などは、この時間帯にピタリと合っているのだ。このオヤツや夜食を食べてしまうと、その炭水化物がそのまま脂肪になってしまうのだ。

 俺は未成年者の時は別だったが、成人以降は、オヤツや夜食を食べないようにしている。だからこそ、悪質な脂肪がつかないのだ。体に脂肪があっても、それは良質な脂肪なので、病気を引き起こさないし、体もスリムに見えるのだ。育児をいている場合、子供に釣られてオヤツを食べてしまうので、母親たちは肥満になって行ってしまうのだ。オヤツを食べる時は、木の実を食べるようにしておくことだ。木の実であるなら、悪質な脂肪にはならないのだ。

 イカサマ健康法は、育児で時間がなくなってしまっている母親たちには、是非とも必要な健康法だ。これら三つをやることで、充分に体重は落ちるし、スリムになることができるのだ。出産後、或る程度まで太るのは仕方ないのだが、太り過ぎて雌豚状態にまでならないことだ。イカサマ健康法を使ってしまえば、必ずスリムになり美しくなれるのだ。

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子供は子供なりに悩むからこそ成長していく

●既知と未知

 子供はいつも好奇心が旺盛で、何をやらしてもニコニコして楽しんでいる。それに対して、母親は子供の行動にいつも不安で、心配しがちで、育児を楽しむ余裕がない。なぜ、こんなことが起こるかといえば、子供は未知なるものが多く、自分が知らないことを知る喜びに溢れているのだが、母親は既知なるものが多く、自分が知っている範囲内で子供の行動を予測してしまうために、子供の無茶な行動が不安で不安で堪らないのだ。

 大人は自転車の乗り方を既に知っているので、自転車に乗っていて転倒することなどない。しかし、子供は三輪車という安定した乗り物ですら、乗っているうちに転倒して、大泣きしてくるのだ。自転車に乗ろうものなら補助輪がついているのに、なぜか転倒してしまい、補助輪なしの自転車に乗れば、フラフラと危険きわまりない乗り方をしてくるのだ。だが、そうやって自転車の乗り方を習得していくのである。

 育児をしていて、親は知っているけど、子供は知らないといのは、いくらでもある。親は知っているからこそ、子供の危険な行動に不安になってしまい、子供は知らないからこそ、何度でも挑戦して、それを知ろうとして行くのだ。子供は自分が行動することによって、初めてこれがいいことなのか、これが悪いことなのか、試行錯誤しながら確かめていくのである。

 それだから、母親も子供も同じ時間が流れているのに、母親はいつも不安で心配だらけで、子供はいつも楽しく笑い声に満ち溢れているのだ。母親は既知なるものにしか手を出していないから、大して成長していないが、子供は未知なるものに手を出しまくっているので、大いに成長してしまうのである。

 育児を楽しいものにしたいのなら、「自分は育児のことはなんでも知っている」と思いあがらないことだ。育児をしていれば自分が知らないこともたくさんあるのだから、その未知なるものを知る喜びを獲得して行くことだ。母親自身が未知なるものに挑戦していると、子供に対して不安で心配だらけになるということがなくなり、育児が楽しいものになってしまうものなのだ。

●子供の試行錯誤

 なまじ知識を大量に持ってしまうと、人間は経験不足に陥ってしまうものだ。自分の知識量に行動量が追いつかなくなってしまい、至る所で問題が発生し始めるのだ。大方の母親たちは、自分の考えを絶対に正しいと思い込んでしまい、子供の行動の方こそ間違っていると思い込んでしまうものだ。

 ところが、子供というのは、何も知らないから、自分の知識量を遥に上回る行動量を持っているのだ。自分が経験することによって、知識を積み重ねて行くから、子供は何度失敗しながらも、結局は正しいことができるようになってしまうのである。物事というのはやってみなければ解らないものだ。実際に実践してみれば、既存の知識など吹き飛んでしまうものなのである。

 子供の脳は、この試行錯誤が行われるたびに、活発に活動して、これは正しいことだというjことに辿りついた時に、最高レベルで活性化することになるのだ。たとえ失敗したとしても、これは悪いことなんんだということが解り、それなりに脳が活性化していくのだ。母親にとってみれば、危なっかしい行動の連続でも、それをするからこそ子供は脳を飛躍的に成長させていくことができるのである。

 だからこそ、子供を外で遊ばせろと言われるのだ。子供を外で遊ばせておけば、自然と試行錯誤をしまくり、何度失敗を繰り返しても、結局は成功に辿りついてしまうのだ。家の中ばかりにいるような子供は、一見、大人しそうだが、未知なるものに挑戦していないから脳が活性化しておらず、凡庸以下の非常に低い知能しか持てなくなってしまうのだ。

 子供というものは、乳幼児の頃は母親がなんでも世話をしなければならなかったが、子供も成長してくれば親から離れて遊び出すものなのだ。その遊びは単なる遊びではなく、子供にとっては今まで親に育てられることで能力が高まり、自分で行動できる範囲内で行動し始めるのだ。そうやって自分で自分の脳を成長させていき、高い能力を作り上げていくのだ。

●知行合一

 大人になれば、自分が知っていることと、自分の行いを一致させることができる。例えば、今日は肉料理を作ろうかなと思ったら、肉料理を作ることができる。間違っても肉料理を作ろうかなと思って、精進料理が出て来ることはない。これは大人であるなら、「知行合一」ができるからこそ、自分の考えと自分の行動に不一致がないのだ。

 しかし、子供はそうではない。自分の考えと自分の行動の一致ができないのだ。自分の知識量も少ないし、行動量も少ないから、知行合一を行えるだけの能力が備わっていないのだ。それを子供は何度も失敗しながら、試行錯誤をしながら、能力を高めて行き、知行合一ができるようになるのだ。

 例えば、子供は「忘れ物」というものを大量に生み出して行く。「これは自分の物なのだから忘れるなよ」と教えたのに、なぜか忘れてしまうのだ。どこかに連れて行くと、必ず何かを落として帰って来る。これは幼稚園児でも変わらないし、小学生になっても忘れ物をしてくるのだ。そうやって子供は何度も失敗することで、これはいけないことなんだと解るようになり、いずれ忘れ物をしなうなるのだ。

 それなのに母親が先回りしてしまい、どこかに出かける時は「忘れ物をしちゃ駄目よ」と執拗にいい、母親が子供に代わって準備をしてしまっては、子供の能力は高まっていかないのだ。まずは子供にやらしてみる。自分の持ち物がなんなのかを確認させるのだ。そうやって出かけて、そこで忘れ物をしてしまっては、その時やっと自分が忘れ物をしたことに気付き、大いに反省するようになるのだ。そういうことを何度も繰り返して、忘れ物をしなくなるようになるのだ。

 母親にとってはそんなの出来て当たり前だ。しかし、子供にとってはそれが出来ないのだ。忘れ物をしないという低レベルな能力も子供にとっては何度も失敗し、試行錯誤を重ねないとできないものなのだ。だから育児をする時は、母親の方がもっとおおらかな気持ちになって、ゆっくりと育てて行く必要性があるのだ。そういう母親のもとでは、子供は自由活発に動き回ることができ、高い能力を身につけて行くことが可能になるのだ。

●試行錯誤をしないと間違った考えを持ってしまう

 子供は子供なりに悩むからこそ成長して行くのだ。自分が行動を起こして、何度も失敗をしまくり、試行錯誤を繰り返していかないと、正常な能力を持てなくなってしまうのだ。野山に入って、一度たりとも昆虫と戯れたことのない子供に、いくら生物学の知識を教えたとしても、その子供はまとまな形で生物学を学ぶことなどできないことだろう。子供にとっては野山に入って行って、何度も失敗しながら昆虫を取り、昆虫を手に取ってみて、自分で飼ってみて、初めてまともな知識を獲得して行くのである。

 もしも、子供に一回も昆虫採集をさせなかったら、子供は長じてから生物学に興味を持つことはないし、自然の大切さも解らないし、「生命の尊厳」などということすら解らなくなってしまうことだろう。いくら大人たちが環境問題を抱えているからといって、子供に環境保護を教え込むのは非常に危険なのだ。子供にとっては自然の中で遊ぶ時期なのに、それをやらせないで、大人の活動に無理矢理参加させているにすぎないのだ。

 子供が自然の中に入って行けば残酷ことしかしでかさないものだ。蝶を捕まえては握り潰してしまい、蛙を捕まえては引きちぎってしまい、カブトムシを飼ってみては餓死させたりと、そうやって生物の持つ命の脆さを知り、だからこそ命は大切なのであって、「生命の尊厳」が解るようになるのだ。それを子供にさせないで、人権教育を振りかざして、子供に「個人の尊厳」を教えたとしても、子供は何も解っていないから、いずれ人権カタログに「人を殺す自由」」を載っけてくるのは必定なことなのだ。人権教育の盛んな地域ほど、凶悪犯罪が発生して来るのは、このためなのだ。

 子供にとって失敗することは悪いことではないのだ。試行錯誤することは悪いことではないのだ。それは子供にとって当たり前のことなのである。そうやって子供は成長して行くのである。その過程を経ないと、子供は脳を発達させることができないし、頭でっかちになってしまい、何も行動できないのに、間違った考えを持ってしまうようになるのだ。

 この世には自分の考えと違う現実だって存在するのだ。自分が行動することによって、その正否を確かめて行くしかないのである。自分がやってみて駄目だったら、それは駄目なことであり、自分がやってみて正しいものなら、それは正しいことなのだ。子供の頃に子供なりの悩みを経験しておかないと、大人になってから自分が言っている事と自分が遣っている事が違ってしまし、そういう幼稚で未熟で無責任な人々はいるものなのである。

 選挙で散々派手な公約をして政権を獲得したのに、実際に政権に就いてみるとその公約がそもそも不可能な物であることが解ったり、高級ブランドを掲げながら、品質偽装を行い粗悪な商品を売りつけたり、世界平和を主張しているのに、最も戦闘的な平和運動を展開したりと、冷静に見れば知行合一が全くできていない人々は多数存在しているものなのだ。子供の頃に失敗や試行錯誤を充分にしていないから、大人になってから、こういう歪んだ人間になってしまうのである。

 我が子を真っ当な大人に育て上げたいのなら、子供に充分過ぎるほど遊ばせる時間を与えてあげることだ。子供はその遊びの中で失敗をし、試行錯誤をしながら、能力を高めていくのである。知識を詰め込んで頭でっかちにするのではなく、行動量を増やして行くことで、間違った考えに騙されない強い子供に育てて行くことである。

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子供は母親と会話をすればするほど、知能が高くなって行く

●会話と脳の関係

 子供の脳の成長にとって、「母親との会話」は必要不可欠だと言っていい。子供は母親と会話することで、脳を成長させていくことができるようになるからだ。脳の中でも脳の司令塔である前頭葉が刺激され、活発に活動して来るのだ。子供の頃に前頭葉をきちんと成長させておくと、自分のことは自分でできるようになるので、思春期になって親から自立していくことが可能になるのだ。

 子供の頃にこの前頭葉をしっかりと成長させておかないと、自分のことは自分でできなくなってしまい、すぐさま他人に頼って依存してしまい、親から自立できないし、誰かに従属するような人生を歩んでしまうのだ。人間が自立していくためには、子供の頃は親にきちんと従属して、親子の会話をしっかりとしておく必要性があるのだ。

 脳の発達には遺伝的な格差もあるのだが、母親が子供と毎日会話しておくと、子供のオデコは前に突き出たような形になる。母親との会話で日々脳が刺激され続けたので、脳が順調に成長して行ったのだ。幼稚園児の段階でオデコの出っ張りがあるようであるなら、その子供は学校での教育がちゃんとしたものであるなら、高い知能を発揮することが可能になるのだ。

 子供の頃に母親が子供に話しかけず、携帯電話やテレビの方に夢中になっていると、子供は会話によって脳を刺激することがなかったので、脳を充分に成長させることができなくなってしまうのだ。こういう家庭環境で育った子供は、大抵、オデコの広がりが狭いし、尽き出ていないのだ。教育を受けさせても、飲み込みが悪いし、いつも視点がネガティブな方向に向いてしまうのだ。

 どうして母親との会話がこれほどまでに子供の脳を成長させるかといえば、それは子供にとって母親の声というのは生まれる前から聞いていた声だからだ。そのため、その母親の声を聞かされると、脳が否が応でも反応してしまい、フル稼働して、その声を聞き取ろうとするのだ。母親の顔というのも同じで、子供にとっては生まれた時から見て来た顔なので、母親の顔を見た瞬間に脳がフル稼働してしまい、その顔の表情を汲み取ろうとしてしまうのだ。

●子供の会話の中心は母親

 子供の会話というのは、決して子供が中心になって進めていくのではないのだ。子供の会話は母親が中心である。母親が子供に話しかけることによって、子供の会話というのは複雑に展開して行くからだ。子供の脳の発達はそんなに難しいものではなく、母親が子供に話しかけている生活をしているなら、自然と会話は成立し、子供の脳は発達して行くことが可能になるのだ。

 嘘だと思うなら、母親のいない父子家庭の子供と父親のいない母子家庭を見比べてみればいいのだ。母子家庭で育った子供は言語能力が非常に発達するが、父子家庭で育った子供は言語能力がイマイチである。学者の世界では、一流の学者はすべて両親の揃った家庭から育って来た人々である。自宅に両親がいたからこそ、常に会話が絶えるこちがなかったので、子供の脳は刺激され続けたのである。

 子供との会話で重要視した方がいい時間帯は、「就寝前」と「起床直後」と「食事中」だ。就寝前と起床直後は理性の力が衰えているので、母親の言葉がすんなり子供の脳の中に入ってしまい、母親の言うことが子供の脳の中で駆け巡ることになるのだ。それゆえ、就寝前には「お前は頭のいい子なんだよ」「お前は優しい子なんだよ」「お前は立派な大人になるんだよ」と言っておくと、実際にその通りになってしまうのだ。子供は寝起きがわるいので、すぐさま起きられないものだが、この時は母親が言葉を巧く使って目覚めさせると、子供はその日一日を楽しく過ごすことができるようになるのだ。例えば、「今日はいい天気だよ」とか、「今日は何何があって、今日一日は面白い日になるわよ」とか言って起こすと、子供はその通りに過ごしてしまうようになるのだ。

 食事中は子供は料理を食べることに集中しているために、母親の言うことがすんなりと入り易いのだ。そのため、食事中は絶対にテレビを消して食べるようにし、会話が盛り上がるようにすることだ。夕食などは時間をかけて食べるようにし、親として子供に伝えなければならない話とか、子供が今日したことを話させればいいのだ。そうすれば、脳は刺激されまくってしまい、しかも食事によって新たなエネルギーを得ることができるので、そのエネルギーをそのまま脳の成長に回すことができるのである。

 子供は両親の会話もちゃっかりと聞いているので、自宅では夫婦の会話を良好にしておくことだ。間違っても子供の前で夫婦喧嘩をしないことだ。夫は仕事で疲れて帰って来るので、帰宅後、いきなり妻の方が喋りまくらないことだ。まずは夫の活躍を労ってあげることだ。せめて夫が今日あったことを話した上で、妻が今日あったことを話すようにすることだ。こうすれば夫婦の会話は良好になり、夫婦喧嘩になることがなくなってしまうのだ。

●子供同士の会話

 子供にとっては、両親以外にも自宅に話してくれる人がいるなら、脳を発達させる機会を得ることになる。祖父や祖母が自宅にいるなら、子供にとっては格好の話し相手になり、脳を成長させることができるようになるのだ。大抵、祖父母が自宅にいる子供は古い言葉を多く知っているものだ。そのため、自分の言いたい事を表現する能力が高くなり、他人とトラブルを起こす回数が激減していくのだ。喧嘩っ早い子供というのは、大抵が両親と子供たちだけの環境で育って来た子供たちだ。

 「子供に親戚巡りをさせると、子供はグレない」といわれるが、それも親戚巡りをすることで、脳を充分に発達させることができたからなのである。いくら両親がいても、それだけでは会話数が少なくなってしまうのだ。親戚の家に行けば、子供は脳をフル稼働させて、その環境に適応して行かなければならなくなるので、親戚巡りをしていると自然に脳が成長していくのだ。

 その上で子供同士の会話が成立してくるのである。子供も幼児であるなら、まとも会話ができないから、すぐに喧嘩を始めてしまう。幼児の喧嘩の原因は、その殆どがオモチャを巡る争いだ。それが幼児の言語能力が発達するにつれて、喧嘩を回避することができるようになり、会話をすることで子供同士が仲良くなっていくのだ。

 幼稚園児にでもなれば、友達の好き嫌いをはっきり言い出すようになり、小学生になれば仲のいい同性の子供たちとグループを形成するようになるのだ。これら一連の人間関係が子供の脳にとって高い成長をもたらすのは当然のことなのだ。幼稚園では「みんな仲良くしましょうね」と保母さんから言われるものが、かといって本当にみんなと仲良くしていると、逆に言えば自分が本当に好きな子と仲良くできなかったということなのである。

 小学校では教師たちが男女平等を実現するために躍起になっているものだが、かといって本当に男女平等にしてしまっては、子供たちは仲のいい同性の子供たちとグループを形成することができず、脳の成長に悪影響が出て来ることは必至であって、人格に歪みが出て来るのは当然に予想されることなのだ。

●親への甘えと複雑な会話

 子供にとって他人の会話をするというのは、結構、脳に負担がかかり、そのため外でしっかりと会話をする子供であればあるほど、自宅では母親に甘えてくるものなのである。そういう時は母親は子供とじゃれあいながら、親子で話し合っていればいいのだ。こういう甘えがあるからこそ、子供は外で様々な会話をしていくことが可能になるのだ。

 自宅では母親に甘えるのも、女の子なら小学四年生辺りになれば卒業していくし、男の子なら中学生になれば卒業していくのだ。その時期こそが子供の自立の始まりである。子供の頃に母親に充分に甘えることができたからこそ、子供は親から自立していくことが可能になるのである。

 子供が甘えて来るなら、徹底的に甘えさせてあげればいいのだ。子供は母親に甘えることができるからこそ、複雑な会話ができるようになるのだ。親への甘えというのは、子供の複雑な会話にとって必要不可欠で、親に甘えることができなければ、どうしても物事を表面的に見てしまい、その本質を掴むことができなくなってしまうのだ。

 考えてみれば、後世に名を残す偉人たちは、すべて母親との会話をしっかりとしてきた人たちであるのだ。豊臣秀吉は大人になっても母親べったりであったし、野口英世も大人になっても母親に感謝の念を持ち続けていた。経済学の開祖であるアダム・スミスは母子家庭で育ち、『国富論』は母親と一緒に暮らしながら書かれたものなのだ。エジソンは聞かん気な子供で小学校から追い出されてしまったが、母親は我が子のことをしっかりと受け止め、自宅で母親がエジソンを教育したのである。

 漫画家の最高の巨匠である手塚治虫も、母親と仲が良く、子供の頃から絵を描く機会を母親から与えられ、大学生の時に漫画家になるか医者になるか迷った時に、母親にどちらの道を選ぶべきか相談しているのだ。その時、母親は「あなたが好きな道を選びなさい」と言って、手塚治虫に漫画家の道を選ばせたのだった。もしもあの時、母親が医者を勧めるようであるなら、漫画家としての手塚治虫はありえなかったし、それ以前に子供の頃から絵を描く機会を与えられなければ、漫画を描くことすらできなかったのだ。

 最近はお笑いブームが続いているので、他人と何か話をする時、笑いを取らねば面白くない会話と思われてしまっている。しかし、人間はそれほど笑いのある会話を必要としないものだ。親子の会話なんて、その殆どが他愛のないものだ。だが、その親子にとって必要な話だからこそ、話し合っているのである。勿論、自分の心がネガティブモードになってしまい、暗い話をするようなことは避けるべきではあるのが、爆笑を取るような会話もまた必要ないのだ。家族の中で親子が楽しいと思える会話をするべきなのである。

 子供の基本的な知能は、子供自身の成長と、母親との会話によって、作り出されていく。学校での教育はそれを土台にして成立しているに過ぎないのだ。子供の脳の成長の大事な部分に、教師が入り込める余地はないのだ。教師は母親が作った知能を利用して教育を施しているにすぎないのである。

 学校や塾だと言い出す前に、家庭の中で親子がしっかりと会話しておくべきなのである。親子がしっかりと会話をしていれば、子供は自然と脳を成長させて行くことができるようになるのだ。子供はいつまでも母親に話しかけてくるのではないのだ。中学生にもなれば、母親よりも学校での友達の方が大事に成って来るのは当たり前のことなのだ。だから、子供が子供である時に、親子でしっかりと会話をしておくべきなのである。親子ならいくらでも話し合うことがあるものなのである。そういう会話の積み重ねが、子供に高い知能を授けることになるのである。

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子供への「良い叱り方」と「良い褒め方」

●育児は性悪説に立脚すれば、子供の現実が見えて来る

 育児書というのは、その殆どが性善説の立場から書かれている。子供は本来「善」なる生き物なのであって、子供が悪に走るのは育て方が間違っていたからという論理を展開して来る。この性善説に立脚した育児の仕方を実践してしまうと、育児の至る所でトラブルが発生しまくり、母親の精神は異常と化してしまうことになる。なぜなら、子供は平然と悪事を仕出かしてくるからである。

 出産をしてみれば、確かに我が子は世界で一番可愛いものである。だが、それが善なる生き物かといえば決してそうではない。育児をしていれば、子供は悪事をしまくるからだ。悪事をしまくることこそ、子供の現実なのであって、母親が性悪説に立脚すると、子供のありのままの姿が見えて来て、まともな育児をすることができるようになるのだ。

 まず、「子供は相手の事などお構いなし」である。子供は親に依存しなければ生きていけないのに、親のことすらお構いなしなのである。親の言ったことを守らないのは日常茶飯事なのだ。我儘し放題で生活して、母親を散々困らす日々を飽きることなく繰り返して来るのだ。

 次に、「子供はルールを守らない」のである。早寝早起きというのは、大人にとっては当たり前のルールであるが、子供はこれすら守れない。朝になってもなかなか起きて来ないし、母親が起こしてもすぐさま起きることはないのだ。夜は夜でなかなか寝てくれないし、母親が寝かしつけても、今度は真夜中に起き出して来ることもあるのだ。

 第三に、「子供の悪事には悪意のない悪事も存在している」ということである。子供も親のもとで自治の領域を拡大して行くものだが、この自治ということを乱用しがちなのである。例えばオモチャで遊ぶのはいい。しかし、オモチャで遊び終わったら、後片付けをしなければならないのに、オモチャを放ったらかして、どこかに行ってしまうのである。子供にとってはオモチャで遊び終わったので、次の場所へと移って行ったのだが、このオモチャが散乱した光景を見れば、いかなる母親も怒りだしてしまうのは当然のことなのだ。ただ、いくら怒っても、子供には悪意がないのだ。

●良い叱り方

 子供の実態というのは、悪事を平然としまくる生き物だということなのである。性善説など嘘の塊であって、性悪説こそ真実の塊なのである。どんなに我が子が可愛くても、我が子は親に対して悪事を働いて来るのだから、その悪事の対処法、即ち、子供が悪い事をしたら、正しい叱り方で子供の悪事を粉砕していかなければならないのだ。

①叱る時は感情的にならずに、腰を下ろして相手の目線に合わせる

 まず、子供が悪事を仕出かした時、絶対に感情的にならないことだ。子供の悪事は悪意のない悪事なのだ。母親の感情を構うことはないし、ルールだって守らない。それが当たり前なのだ。だから、子供の悪事に対して感情的にならない。寧ろ、親の方が冷静になって、腰をおろして、子供の目を見て、子供の目線に合わせてから、「これはいけないことなんだよ」と諭せばいいのだ。

 こうすれば必要以上に叱らないことになり、子供は母親の言いつけをきちんと守ろうとするのだ。叱り方で失敗するのは、母親が感情的になってしまい、子供を叱るのではなく、子供に対して怒りをぶつけるようになってしまうからだ。これでは子供は母親に恐怖を感じてしまい、いくら怒られても、今度は暴力で仕返して来るようになるのだ。

②いけないことを指摘して、その解決策を与える

 子供の悪事を叱る時は、一体何が悪い事なのかを指摘し、その解決法を与えてあげることだ。子供の悪事というのは悪意がないものが殆どなのだから、子供にとっては一体何が悪いことなのか解らないのだ。だから、一体何が悪かったのかを教えてあげ、その解決法まで教えてあげるのだ。例えば、オモチャを放ったらかしにしていたのなら、「オモチャを放ったらかしにしていたら、このオモチャで誰かが転んでしまい、大怪我をすることだってあるの。だから、オモチャで遊び終わったら、ちゃんとオモチャ箱に片付けようね。」と言えばいいのだ。これなら子供にとっても一体何が悪くて、その解決法がきちんと解るようになるのだ。

 叱る時は、絶対に子供の人格を否定しないことだ。子供が悪事を仕出かしたからといって、その子供の人格に何か問題がある訳ではないのだ。「だから、お前は駄目なんだよ!」「お前は馬鹿だねぇ~」「お前は人間失格だ!」とか絶対に言ってはならないのだ。これは母親が若かったり、精神レベルが低いと、平然と言ってしまう傾向にあるので、絶対にやらないことだ。こんなことを言われれば子供は自分の人格を否定されたと思って、母親に対して憎しみ念を持ち続け、それが思春期になる頃に、親に暴力を伴う反抗を行うことで、清算しようとするからだ。

③叱った後までネチネチと引き摺らない

 叱り終わった後は、その悪事をネチネチと引き摺らないことだ。女性は自分の身の回りに起こったことに関しては異常なまでの記憶力を発揮して来るので、子供の悪事に関してはいつまでも覚えているものなのだ。そのため、子供が大きくなっても、「お前は昔、こういう悪さをしたんだよ」と遂々言ってしまうのだ。しかし、子供の方はそんな昔のことは奇麗さっぱりと忘れているので、昔のことを持ち出して来られると、自分が悪さをしていないのに、悪い事をしたと思ってしまうようになるのだ。これが積み重なって行くと、或る日突然に感情を爆発させて、母親の手では収拾がつかなくなってしまう事態に陥ってしまうのだ。

 「罪を憎んで人を憎まず」というのは、大人に対してであろうが、子供に対してであろうが、適用されるものなのである。自分の悪事をきちんと償ったのに、昔の悪事のことを持ち出されては、「では一体どうしろというんだ?」と言いたくなってしまうからだ。一度罪を犯したからといって、永遠に罪人にされては堪ったものではないのだ。そんなことをすれば、罪を償った者が、昔の罪を指摘して来る人を殺すことでしか解決することしかできなくなってしまうのだ。「罪が更なる罪を呼ぶ」ようなことにさせてならないのだ。

●良い褒め方

 性悪説に立脚してしまうと、常に子供は悪を仕出かすものと思っているので、逆に子供が何かいいことをした場合、褒め易くなってしまうのだ。性善説に立脚してしまうと、子供は常に良い事をすると思っているので、子供が何かいいことをしたとしても褒めることがなくなってしまい、逆に何か悪い事をした場合、その悪事が余計に目立つために、烈火のごとくに怒り出してしまうことになるのだ。一見、性善説より性悪説の方が悪い考え方だと思うのに、育児の現場では大逆転が起こってしまうようになるのだ。性悪説の方が子供は褒められ易くなり、のびのびと成長して行くことが可能になるのだ。

①褒める時は感情的になって、子供より高い視線を維持する

 まず子供を褒める時は、感情的になって、褒めまくることだ。しかも、褒める時は、子供より高い視線を維持しながら褒めることだ。人間は頭を上の方に向けると、素直になって、褒められたことをなんら否定することなく受け入れてしまうようになるからだ。立っている時は母親の方が身長が高いのでなんら問題は起きないが、座っている時は背筋を伸ばして、子供より高い視線をキープすることだ。よく子供の目線に合わせようと、身を屈ませる母親がいるものだが、こういう母親から褒められてしまうと、子供にとってはちっとも嬉しくなく、それ以降、何かいいことをしようとしなくなってしまうのだ。不良少年を輩出して来る母親は、大抵がこの手の褒め方をしているのだ。

 褒める時は叱る時とは逆であって、必要以上に褒めることだ。子供を放置していたら、子供は悪事を平然と展開して来るので、母親が子供がいいことをした場合、きちんと褒めてあげないと、子供は悪事ばかり仕出かすようになってしまうのだ。自分が些細な良い事をしたとしても、母親が必要以上に褒めてくれれば、子供の脳の中でこういうことをすれば母親は喜ぶという回路が設定されて、子供は今後いいことをするようになっていくのだ。

②凄い部分を指摘して、それを過剰に褒める

 子供の悪事には悪意がないように、子供の善事には善意がないのだ。解り易く言えば、母親から見れば良い事をやったと思えても、子供にとって偶然であり気紛れの行為でしかないのだ。だから、子供を褒める時は、一体どこが良い所なのかを指摘して、それを過剰に褒めてしまうことだ。そうすれば子供の方にとっても、一体何が良かったのかがきちんと解るようになるのだ。

 子供が良い事をした場合、その良い事を褒めるだけでなく、人格まで称賛してしまうことだ。子供が悪事を働いた場合は、その悪事だけを叱り、人格を否定しないことが求められるが、子供が善事を働いた場合は、その善事だけを褒めるのではなく、人格まで称賛してしまうのだ。「お前は凄い!」「お前は立派だ!」と褒められれば、子供は自分自身を肯定することができ、自信と勇気を持つことができるようになるのだ。

③褒めたことを後々まで覚えておく

 子供が善事を働いた場合、後々まで覚えておくことだ。子供は今日やったことは、翌日には忘れているものだ。これは子供は成長するために、様々なことを記憶していかねばならないために、睡眠中に一旦、記憶を消去してしまい、無意識の世界に記憶を貯蔵してしまうのだ。そのため、子供は朝になれば、意識上の記憶は白紙になってしまい、いくら昨日いいことをやったとしても、全然覚えていないのだ。

 だから、母親は子供が善事を働いた場合、ネチネチといつまでも覚えておき、事あるごとに「お前は昔、こういう良い事をやったんだよ」と言い続けるのだ。そうすると子供の脳の中に、「自分は良い事をする能力があるのであって、今後は良い事をするようにしよう」という気になり、子供の向上心に火がつき、子供は自然と良い事を遣り始めるようになるのだ。

●母親の言葉が子供の前進と後退を決めてしまう

 育児を巡る考えでは、性善説に立脚するか、性悪説に立脚するかで、全く違う考えになってしまうし、全く違う結果が出て来るのだ。実際に育児をやってみれば、性悪説に立脚してしまった方が、圧倒的に素晴らしい育児ができるものなのである。子供は悪事を仕出かしてくるのが当たり前と思っていれば、子供の悪事に平然と対処できるし、子供が善事を働いたら、きちんと褒めてあげることが可能になるのだ。

 これに対して性善説だと、子供は善事を働くのが当たり前だと思っているから、子供が善事を働いても褒めないし、子供が悪事を働いたら、凄まじい怒りをぶつけてしまうようになるのだ。実際に育児をやってみれば、育児では性善説は成り立たないといのは解ることなのに、母親が我が子を可愛いと思う感情が強すぎる余りに、性善説に魅了されてしまうのだ。だからこそ、育児が苦しみだからけになり、児童虐待が平然と行われるようになってしまうのだ。

 子供は親に対して従属しているのである。従属しているということは、その子供は自立して行動することができないということなのである。それゆえ、子供はまともな形で善事を行うことも、悪事を行うこともできないのだ。勝手気儘に我儘し放題なのだ。悪事に対しても悪意はないし、善事に対しても善事はないのだ。

 だからこそ、母親は子供が悪いことをしたら叱り、良いことをしたら褒めるのである。叱ることは怒ることではないのだ。また、褒めることは子供に成績をつけることではないのだ。子供のやることなすことをいい方向に導くために、時には叱り、時には褒めるのである。子供を巧く叱り、巧く褒めたいのであるなら、性悪説に立脚して、子供は悪事をなすのが当たり前だと思ってしまえばいいのだ。そうすれば子供が悪事を働いてもきちんと叱ることができるし、子供が善事を働いたらきちんと褒めることができるのだ。

 では、なぜ性善説に立脚した育児書が出回ってくるかといえば、それは出鱈目な育児の仕方を書いた著者たちが、ジャン・ジャック・ルソーの『エミール』に洗脳されてしまったからなのである。ルソーは子供を自然に育てれば勝手に育つだろうと思って、我が子5人をすべて育児放棄して孤児にさせてしまったのだ。『エミール』というのは、ルソーが「親が育児放棄すれば子供はまともな人間に育つであろう」という妄想を小説化にしたものにすぎないのだ。この本は飽くまでもルソーが作り出したフィクションであって、現実の育児とは一切関係ないのである。だが、ルソーの魔術的な文章力のために、精神レベルの低い人たちはこの本に物の見事に洗脳されてしまうのだ。

 よく、医者や教育者や童話作家たちが「子供は天使である」「子供は純真である」とか言い出すものであるが、これらはすべてルソーの『エミール』に洗脳されてしまったからこそ、こういうことが平気で言えるのである。凶悪な少年犯罪が発生した時、その罪を犯した不良少年を罰することなく、少年法を楯に庇ってしまうのも、性善説に洗脳されてしまったからなのである。育児に於いて性善説に立脚するのは、育児をまともにしたことがないから、そういう間違った考え方を持ってしまうのである。

 性善説に立脚して育児をしようものなら、子供はまともに育たないし、母親にとっては育児が苦しみだらけになるだけなのである。子供は悪い事は悪いと叱ってくれる母親がいるからこそ、良い事は良いと褒めてくれる母親がいるからこそ、もともに成長して来るのである。子供が子供の時に、親元から切り離されて自然状態で育ってしまえば、まともに成長する訳がないのである。子供の性が善なら、孤児の中でも、浮浪者生活を送って孤児が最もまともに育つ筈である。しかし、実際には浮浪孤児の中から聖人君子が出現した例は皆無である。寧ろ、盗みや殺しを平然と行う凶悪犯罪者に育ってしまうものなのである。

 育児というのは、一直線で進めていくものではないのだ。紆余曲折を経て育って行くものなのだ。その際に最も影響を与えてしまうのは、母親の言葉なのだ。母親の言葉こそ、子供の前進と後退を決めてしまうのだ。子供が悪い事をしたのなら、叱って後退させ、子供が良い事をしたのなら、褒めて前進させていかねばならないのだ。子供は親元で養育されている以上、母親の指図に従うのは当然のことなのである。しかし、それは永遠に続くものではないのだ。子供が成長して自立して行けば、その善悪の判断を自分でこなすようになり、母親の関与は不要になって行くのだ。それがきちんとできるまでは、母親に叱られたり、褒められたりしながら育っていくしかないのである。

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母親の日常語は子供に甚大な影響を与えるもの

●日常語は毎日使うものだから子供に影響が出て来るのは当たり前

 子供は親の言葉遣いの真似をして育って来る。特に母親の言葉遣いの影響は大きく、子供は毎日母親と接する以上、母親が使う言葉によって子供に影響が出て来るのは当たり前なのだ。子供は母親の言葉によって行動を制約されるし、いずれ子供は母親の言葉遣いを真似してくるのだ。

 我々は生活していく上で、無意識の内に使ってしまう「日常語」と、意識的に使う「作業語」がある。日常語は誰であっても生活するために無意識の内に使い、自分の生活を潤滑に進めて行こうとするものだ。これに対して作業語は何か特定の作業をするために、意識してその言葉を選んで使うものであって、自分の作業を迅速に進めて行くものだ。

 作業語は意識して使っているのだから、その言葉を選ぶことができる。しかし、日常語は無意識の内に使っているので、その日常語の使い方に注意しているないと、思うわぬ悪影響が出て来てしまうことになるのだ。日常語は子供が成長し、家を出るまで日々使用され続けるので、大体その日常語の良し悪しでどのような子供ができるか察しがつくものなのである。

 まず、自分の子供をまともに育て上げたいのなら、基本的な日常語は必ず使うようにすることだ。「有難う」「嬉しい」「楽しい」は育児で頻繁に使用される日常語だ。子供が何かいいことを母親にしてくれたのなら、すぐさま「有難う」って言うことだ。子供と一緒に遊ぶい時は、「お母さんは嬉しいよ」「お母さんは楽しいよ」と言うことだ。通常、大人同士では「嬉しい」「楽しい」はそう頻繁に出て来ない。余程楽しいことがなければ、「楽しいよ」とは言わないものだが、育児をしている時は多少楽しければ、「嬉しい」「楽しい」という言葉を使って、子供にお母さんがどのような心理状態にあるのかを教えてあげるようにすることだ。

 それから日常生活を進めて行く上で、朝起きたら「お早う」と言い、夜寝る時はお休み」と言う。こうやって一日の始まりと終わりを明確にするのだ。そうすれば日中が活動的に行動でき、夜間に熟睡することができるようになるのだ。食事をする時は「頂きます」と言い、食べ終わったら「御馳走様でした」と言う。食事は食料を神様が与えてくれたものであり、それをお父さんの労働と、お母さんの調理で食卓に出て来るのだから、それに感謝の意を示すのは当然のことなのである。これができない子供には食事を与えるべきではないのだ。子供が飯を食えるというのは、どれだけ有難いことなのか、恩義背がましく教え込むことだ。

 子供に何かを命じた時は、子供に「ハイッ!」と元気よく返事をさせることだ。子供が「ハ~イ」じゃ間延びしてダラしなくなってしまうし、「ハイハイ」では面倒臭がっているような感じになってしまう。これは母親が子供に言われた時とか、夫に言われた時に、無意識の内に使っている言葉を子供は真似をして来るので、気をつけておくことだ。子供が「ハイッ!」と返事をしてこない時は、自分もそうしているからこそ、子供は同じ行動を取って来るのである。

●言うべきではない日常語

 育児をしていて、使うべきではない日常語がある。禁止すべきほどに強い制限を伴うものではないが、母親が遂々使ってしまい、子供に悪影響が出て来てしまう日常語だ。母親の心がネガティブモードになった時に、自分は意識していないのに、自然と出て来てしまうマイナスの言葉なのだ。

「駄目ね」

「馬鹿じゃないの」

「仕様がないわね」

「イライラする」

「嫌いよ」

「苦しい」

「疲れた」

 これらの言葉を使用されると、子供は母親から自分の人格を全否定されたようになってしまうのだ。「お母さんは自分と一緒にいて、全然楽しくないから、そういう言葉を使って来るんだ。」と子供は思い込んでしまうようになるのだ。大人の人間なら、こういうネガティブな言葉を使われても、巧く対処できるが、子供はまだまだその対処法を身につけていないものなのだ。

 こういうナガティブな言葉を頻繁に使用する母親は、母親という子供より上の立場にいるのではなく、子供と平等な立場にいるのだ。だからこそ、子供を大人同然の扱いをしてしまい、子供のやることなすことすべてにイチャモンをつけてくるのだ。母親が精神的に母親になっていないのだ。

 育児も長らく続いてしまえば、育児というのは母親が主導権を握ることで、母親の思うように動かされていくという事実を忘れてしまいがちだ。子供がどう駄々を捏ねようと、最終的には母親の思うような結果に落ち着いてしまうのだ。夜中に子供が起きて騒いでいても、母親が「寝なさい!」と言ったら、紆余曲折を経て、結局は子供は寝かされてしまうものなのである。

 ところが、子供がいるのに、育児の主導権を放棄して、母親の立場から降りてしまえば、いくらでも子供にネガティブな言葉をぶつけられる筈だ。子供のやっているということは、大人の基準から見れば腹立たしいことばかりだからだ。だからこそ、育児から楽しむが一切消滅してしまい、育児が苦しみだらけになってしまうのだ。育児が苦しみだらけだからこそ、ネガティブな言葉を平然として使ってしまうようになるのだ。

●使うと元気が出る言葉

 育児をしている時は、母親としての立場を絶対に維持することだ。育児の主導権を絶対に放棄してはならないのだ。母親の立場を維持し、育児の主導権を握り続ければ、育児で多少嫌なことがあったとしても、育児で最大の利益を得ることができるようになるのだ。母親は母親である限り、育児が楽しくなって来るものだし、常に利益を得続けることができるのである。

 育児を楽しんでいれば自然と出て来てしまう日常語がある。この日常語を使うと、子供は喜ぶし、元気になるし、成長していくし、それを使った母親も嬉しくなり、元気になり、成長していくことができるようになるのだ。大事なことはその言葉を意図的に使うのではなく、自然に出て来るようにすることなのだ。

「頑張っているね」

「凄いね」

「良くやったね」

 子供は何をするにも一生懸命にやってくるものだ。力の加減というものを知らないから、自分の持てる力をすべて出し切ってしまうのだ。だから、子供が何かをやっているなら、「頑張っているね」と労いの言葉をかけてあげればいいのだ。そうすれば子供は更に力を発揮しようとし出して、自分がやりたいことを実現していくのである。

 それから、子供が何か手柄を立てたら、「凄いね」「良くやったね」と褒めてしまうことだ。子供の立てる手柄というのは、大人の基準では大したことではないのだ。しかし、子供にとってみれば、大きな成長であるのだ。例えば、今まで食器の後片付けができなかったのに、食後、食器を集めて、台所にまで持って来てくれたら、それは子供にとっては凄いことなのだ。だから、些細なことでも、それが手柄なら「凄いね」「良くやったね」と褒めてあげるべきなのだ。

 ポジティブな言葉が凄いのは、子供が自分の行為を母親が肯定してくれたことで、その後の行為も積極的に行おうとし出すのだ。例えば、食器を台所に持って行くことを褒めてあげたら、翌日は母親の洗濯の作業を手伝ったりし始めるのだ。母親がイチイチ命令しなくても、子供は自発的に母親に貢献するようなことをし始めるようになるのだ。

●母親の言葉遣いは子供の行動になって現れて来る

 日常語は無意識の内に使ってしまうので、母親が意識している訳ではないのに、遂々口に出てしまうのだ。その日常語が子供にいい意味でも悪い意味でも影響を与えてしまい、母親の言葉遣いは子供の行動となって現れて来るようになるのだ。だから、自分の子供が余りにも異常な行動を取って来るようであるなら、子供を精神病院送りにしてしまうのではなく、自分の言葉遣いを審査してみることだ。

 育児をしている時に、子供に対して使ってしまう言葉を審査して、母親としての判断力を養うことだ。母親にとってはどうってことない言葉でも、子供にとっては非常にきつい言葉ってものがあるのだ。逆に大人同士では滅多に使わない言葉でも、その言葉を母親が使ってくれたら子供は嬉しい言葉というものも存在するのだ。

 しかし、こういうことはなかなか気づけないものだ。夫が出勤してしまえば、母と子供だけになってしまうので、母親のネガティブモードが暴走した時に、それを止めてくれる人がいないために、最悪な事態に発展するまで暴走してしまうのだ。だからこそ、自宅ばっかりにいないで、家から出てママ友たちと会って話をしたりすることだ。ママ友たちと情報交換をしていれば、修正することができるのである。

 これに方言が加わると余計に慎重にならねばならないのだ。例えば、タマティーの母親は千葉県出身なのだが、千葉でも田舎の方に行くと、相手を指す言葉で「てめぇ」という言葉がある。「手前」が変化した方言で、これは共通語で「あなた」という意味なのであって、別に悪気がある言葉ではないのだが、これを共通語が使われている場所で使ってしまうと、喧嘩を吹っ掛ける言葉になってしまうのだ。だから、タマティーの母親は兄弟や親戚や幼馴染の間では使うけれども、他の場所では絶対に使わないようにしたのだ。勿論、俺にすら使ったことがない。俺は子供の時になんでそういう使い分けをするんだと疑問に思っていたのだが、思春期になる頃にはもうちゃんと母親なりの理由は解るようになったのだ。

 子供が異常な行動を取ったり、夫と夫婦喧嘩してしまうようであるなら、それは子供がどうのこうの、夫がどうのこうのではなく、自分が知らず知らずの内に基本的な日常語を使わなかったり、ネガティブな日常語を使ったりしていて、相手に不満が蓄積してしまい、それが爆発して来たということも有り得るのだ。

 育児を楽しいものしたいのなら、結婚生活を楽しいものにしたいのなら、基本的な日常語を確実に使い、ポジティブな日常語を使っていくことだ。それと共にネガティブな日常語を避けることだ。そうすれば、子供も夫も元気になるのだ。赤の他人の言葉なら大したことはないが、母親の言葉だからこそ大したことがあるのだ。

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子供との会話の仕方 ~子供との会話にもルールが存在する~

●親子の矛盾

 人間は高い知能を持っているので、人間関係の構築の仕方も複雑を極めている。言語能力を駆使して、互いの信頼を深めると同時に、トラブルを未然に防ぐということを行うのである。ところが、大人になってしまえば、大人同士での遣り取りが当たり前となってしまうので、赤ちゃんを出産し、その赤ちゃんが成長して来て、言葉を喋り、母親とコミュニケーションを取るようになった時、問題が発生して来てしまうのだ。親子の会話というのは、大人同士の会話のようには行かないのである。

 赤ちゃんのいる母親が、赤ちゃんに難しい言葉で語りかけるのではなく、赤ちゃん言葉で話しかけるというのは、非常に大事なことなのである。母親が大人の視点で物を話しているのではなく、赤ちゃんの視点に立って話をしようとしているからなのである。赤ちゃんは長らくカツゼツのいい話し方ができないので、母親から赤ちゃん言葉で話しかけられるからこそ、赤ちゃんにも喋り易い言葉で喋られるようになるのだ。

 だが、親子の矛盾が激化してしまうのは、それだからこそなのである。母親は自分が我が子に言葉を教えたと思っているので、自分が教えた通りに喋ってくれるだろうと、遂々期待してしまうのだ。しかも、母親は赤ちゃんの時から我が子の世話をして来たので、母親は我が子のことをいつまでも赤ちゃん扱いしてしまうのだ。それでも、子供は成長していくので、子供の成長に母親の精神的な成長が追いつかなくなってしまうのだ。

 親子の会話で揉めるのは、子供が片言で喋っている時ではないのだ。子供の言語能力が発達して、子供がちゃんとした文章を喋れるようになった時に、母親と子供は会話で揉め始めるのである。親子双方で会話がきちんとできている筈なのに、母親が怒りまくり、子供が泣きわめく結果になってしまうのだ。

 子供が病気になったら、それを治してくれる医者は存在するが、親子の会話がトラブルを起こした時に、その異常な会話の仕方を治してくれる人はいないものなのだ。親子の会話というのは、その親子特有なものであって、まさかそんなところまで赤の他人が首を突っ込むことはできないのだ。しかし、親子の会話がトラブっているのに、それを放置しておけば、子供の成長に障害が出て来て、性格的に歪んだ子供になっていくのは当然のことなのだ。、

●まずは子供の話を聞く

 親子の会話は毎日存在するものである。それなのにいつも母親が怒る結果になり、子供が泣きわめくようになってしまう会話をしているのなら、それは親子の会話の仕方が根本的に間違っていると思った方がいい。間違った会話の仕方の責任は、飽くまでも母親の方にあるのであって、子供の方にあるのではないのだ。母親が子供に対してやってはならないことをやっているのである。

 母親はまずは子供の話を聞くことだ。親子の会話が揉めてしまう母親たちは、必ずと言っていいほど、子供の話を聞いていない。子供が何か言って来ても、頭ごなしに否定してしまうのである。子供のことをいつまでも赤ちゃん扱いしているために、まさか我が子から何か要求されるとは思ってもいないのだ。子供はいい子にしているのが当たり前と思い込んでいるのだ。そうではないのだ。子供が喋られるようになったということは、母親に何かを要求して来るのは当然のことなのである。

 子供が母親に要求するものは、些細な物なのだ。「オヤツが欲しい」「オモチャ買って」「ママ、遊んで」と、子供ならではの要求なのだ。どんなに捻くれた子供でも、「カネをくれ!」とは要求して来ないものなのだ。最初から否定してかかるのではなく、まずは子供の要求を聞いてあげることだ。

 子供が自分に何かを要求して来た時は、子供が言っているフレーズを繰り返して、子供に話が理解されたと思い込ませることだ。例えば、子供が「オヤツ欲しい」と言って来たのなら、「○○ちゃんはオヤツが欲しいのね」と言えばいいのだ。こうすると、子供は母親に自分の話を聞いて貰えたということで、ひとまずは満足するのである。

 これは子供に対して独特の会話の仕方なので、この会話の仕方をきちんと覚えて、実生活で実践していくことだ。大人同士の会話なら、わざわざ相手の要求を繰り返す必要性はない。相手が言って来たら、すぐさまそれに応じた回答をすればいいのだ。しかし、子供が相手だとそうは行かないのである。子供は喋られるようにはなったけど、それほど高い言語能力を持っているわけではないのだ。一つずつ会話を押さえていくしかないのだ。

●会話とは取引

 子供から何かを要求されたら、それを鵜呑みにしてはならないのだ。子供が「オヤツが欲しい」と言って来て、すぐさまオヤツを出してしまうようなら、それは会話が成立していないのだ。それは子供から命令を受けたということであり、子供の方はこの遣り方に味を占めてしまうと、母親は自分の思い通りに動くと思ってしまい、母親が自分の思い通りに動かないと、有り得ないような反抗を仕出かして来るようになってしまうのだ。

 会話というのは、話し合うことで人間関係を深めて行くことなのである。子供から何かを要求されたら、そこで話し合うことが必要なのである。例えば、「子供が「オヤツが欲しい」と言って来たら、「○○ちゃんはオヤツが欲しいのね。でもさっき食事をしたじゃない」と切り返せばいいのだ。そしたら子供が何か言って来るのだから、それに応じて会話をしていけばいいのだ。

 話し合いの結果、オヤツを出すのもいいし、オヤツを出さなくてもいいし、オヤツは出すが少な目に出すのでもいいし、オヤツ作りを一緒にやろうでもいいのだ。親子の会話で何か一つの決まった答えがあるのではなく、親子が会話をすることで、様々な結論を出して行くことが大事ななのだ。

 会話というのは、取引なのだ。どちらか一方が損をするのではなく、双方に利益がもたらされるように、取引していくのである。勿論、母親は大人で、我が子は子供なので、その会話はシビアな会話になるのではなく、「甘えのある会話」になるのだ。子供の要求を可能な限り汲んであげようとする会話になってしまうのである。

 子供の要求を一切拒否するようであるなら、それは「甘えのない会話」だ。かといって、子供の要求をすべて飲んでしまうようであるなら、それは「甘やかしすぎる会話」だ。子供の要求が理不尽なら拒否すべきであり、子供の要求に道理に適っていれば受け入れてあげるべきなのである。この丁度いい「甘えのある会話」がどのようなものであるかは、実生活で試行錯誤しながら、見つけ出していけばいいのだ。

●会話をしておけば、トラブルは未然に防げる

 人間は群生動物であって、家族のはその最小単位として存在している。人々が集まって暮らしていれば、人間同士の間でトラブルが発生するのは当然のことなのである。そのトラブルを人間たちは話し合うことで解決して来たのである。話し合いで解決できなければ、実力行使に出ざるを得ないのである。

 子供が大きくなって暴力を振るうようになってしまったら、それは親子で話し合うことをして来なかったからこそ、子供は暴力を振るうことでしか、問題を解決できなくなってしまったのである。子供の時から、親子がしっかりと会話をしていれば、たとえ自分の欲しい物があっても、それを暴力的に実現していくのではなく、話し合うことで実現していけばいいということをすることが可能になるのだ。

 人間同士で抱える大方の問題は話し合いで解決することができるのである。相手が話しかけて来ているのに、相手を無視したり、「絶対反対」などと言うから相手は怒り心頭に達してしまい、暴力を振るわざるをえないのであるのである。暴力は悪いことではあっても、暴力を振るわれた側にも落ち度があるかこそ、暴力を振るわれてしまうのである。

 母親と子供は毎日会話をしている筈なのである。それなのにいつも親子で喧嘩になったり、子供が癇癪を爆発させるようなら、会話の仕方が間違っているのである。いくら自分が母親だからといって、自分の意見のすべてが通る訳ではないのである。たまには子供の言い分も聞いて、子供の要求を実現してあげなければならないのである。かといって、子供の要求をすべて飲んではならないのだ。甘えさせてもいいが、甘やかしてはならないのだ。

 家庭の仲では母親が一番強い権力を持っているのだから、子供の要求をすべて封じるのは簡単にできることなのだ。しかし、その代償は高くつくのだ。子供が「オヤツが欲しい」と言っているのに、すべてを拒否してしまったら、子供はどこかの店で盗みをしてでも奪って来ざるをえないのだ。子供が「オモチャが欲しい」と言っているのに、すべてを拒絶してしまったら、子供はどこかの店から万引きをして来ざるをえないのだ。子供が犯罪を犯してしまった場合、その子供は悪いことしたのだから確かに悪いのだが、そういう犯罪を引き起こすまでに追い詰めてしまった母親にも責任があるのだ。

 子供をいつまでも赤ちゃん扱いしないことだ。子供は成長して行くのだ。子供にとって母親のとの会話は、他の人々と会話をする際の基本になっているのだ。母親とまともに会話できなければ、他の人々とまともに会話することなどできないのだ。どんなに忙しくても子供と会話をする時間をきちんと持つことだ。子供と会話をしても、それほど長い時間がかかる訳ではないのだ、人生について奥深い話をする訳でもないのだ。大人から見れば些細な会話なのだ。でも、子供にとってはその些細な会話こそ、母親との関係を深めていく大事な会話なのだ。

heart01heart01heart01heart01heart01 タマティーからのお知らせ heart01heart01heart01heart01

 本日から「子育て」のカテゴリーにエントリーします。

 「子育て」のカテゴリーにエントリーしている皆さん、宜しくお願い致します。happy01

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自分の娘を美人にさせる「デブ子理論」

●娘との距離の取り方

 女の子の頭の中にしっかりと上位自我が入って来ると、女の子は母親と対等な関係を築こうとする。その癖、まだまだ子供だから、親に甘えてくるのだ。この二つの矛盾したものを満たしてあげないと、女の子を育てるのが難しくなってしまうのだ。女の子を育てる時は、対等関係をメインにしつつ、上下関係を備えておくというようにしなければならない。

 女の子を育てるのは、男の子を育てるのより育て易いとよく言われる。女の子の場合、上位自我がしっかりと形成されることや、言語能力が発達して来るために人間関係の構築がスムーズに行くとか、性ホルモン上に於いて無理がかかって来ないので病気をしにくいなどなど、女の子を育てるのに、男の子を育てるほどには手間がかからないのだ。

 母親が女の子を育てるので、失敗してしまうのは、女の子が対等な態度を取って来るがために、本当に対等に扱ってしまい、挙句の果てには友達感覚の親子関係という倒錯した親子関係を形成してしまうことなのである。こういう場合、母親の方が精神的自立を果たしていないので、母親が女の子の世話をするのではなく、女の子の方が母親の世話をするという形になってしまうのだ。親子は飽くまでも親子であって、絶対に友達ではないのだ。友達とどんなに仲良くなっても親子にはなれないのだ。

 女の子が対等な人間関係を要求して来るのは、自分の頭の中に「母親」という上位自我がしっかりと形成されてしまったからであり。だからこそ、母親に対して対等な態度を取って来るのである。そして他の女の子たちと友達になることができれば、同じく上位自我を形成しあっている者同士だからこそ、対等な立場を形成して行くのである。男の子のグループならリーダー役の人が誕生して来るのに、女の子のグループではリーダー役の人が誕生して来ないのである。

 女の子の上位自我は、女の子に「メルヘン」をもたらして来る。現実では有り得ない女の子らしさを求めて来るのだ。女の子を健全に育てたければ、この女の子のメルヘン願望を巧く満たしてあげることだ。子供の頃にメルヘン願望を満たして貰えば、女の子はそう間違った道を歩むことはなくなるのだ。

●デブな女の子ほど、大きくなると美人になる可能性が高

 女の子がどうしてメルヘン願望を持つかといえば、それは自分を女の子らしくしてくれて、可愛らしくしてくれるからなのである。そうやって自分が可愛くなれば、他人から愛される確率が高くなるからなのだ。女の子が成長していくためには、周囲の人々から愛されることがどうしても必要なのである。他人から愛されるためには、美貌が必要ということが解っているからこそ、更に可愛らしくなろうとするのだ。

  女の子はすべてが可愛いわけではないのだ。子供の頃から美少女というのは、ごく僅かだ。女の子が美少女に成れるのは、「遺伝」的要素が強いし、「女性ホルモン」のかかり具合によっても、変化するものだ。元から美少女であれば、周囲の人々から愛される確率が高いので、メルヘン願望が出て来ても、それほど重症な事態には至らないのだ。問題はそれ以外の連中なのである。

 普通の女の子なら、魔法の類が大好きである。科学がこれほど発達した現代に於いても、啓蒙思想の及ばぬ人々はいるものなのである。女の子にとって魔法というのは非常に大事なことだ。魔法によって自分が不可能と思えたものを可能にさせてくれるからだ。大人になっても魔法の存在を信じたり、魔女に成りたいという女性はそれはそれで問題であろうが、女の子の時には魔法の存在を信じて、空想の世界の中で遊ぶということも大事なのだ。そうでなければ、女の子らしくなって、可愛くなることができないのだ。

 女の子が子供の頃に病気して、病院に長期入院を強いられると、一気にトーンを落としてしまうのは、病気という現実の前に、女の子が信じていた魔法が全く使えなくなるからだ。こういう場合、ただ単に治療に専念するよりも、女の子に可愛らしくなれるために、髪の毛を整えたり、洋服を買ってあげたり、いかにも女の子が好きそうな小物を買ってあげるということは、絶対に必要な行為なのだ。女の子というのは、たとえ病気になっても、女の子らしくいたいものなのである。

 もしも、我が娘が余り可愛くないなと思うなら、飯を大量に食わして、デブな女の子にしてしまうことだ。デブな女の子ほど、大きくなると美人になる確率が高くなるからだ。太っていることによって、骨格が充分に成長することができるのである。女性の美しさというのは、胸回りの大きさが決定的要素をもたらすのである。更に骨盤が大きくなることで、将来、初潮が始まると、子宮や卵巣が健全に発達して、女性らしい体つきになるのである。

●女の子は高校生になれば痩せていくもの

 女の子を太らしておくと、食事を大量に食べざるを得なくなるので、母親は食事を作り続ける限り、娘をきちんと従属させることができるようになるのだ。世間では肥満は目の仇にされているが、家庭の中ではデブな女の子ほど、家事の手伝いをきちんとするいい子供に成長して来るのだ。

 女の子をデブにするのは、意外と簡単である。まず三度の食事を食べていても、そうは太らないということを知っておこう。太るためにはオヤツを出してあげればいいのだ。ホットケーキに牛乳のように、炭水化物と脂肪の組み合わせたオヤツを出し続けると、子供は着実に太っていくことになる。食事の際は夕食に蛋白質を多目に出していけばいい。蛋白質を取る際は野菜を多目に出しておけば、太ったとしても健康的に太ることができるのである。

 但し、太らせるといっても、運動ができなくなるまで太らすべきではないのだ。体がきちんと動くレベルの肥満であるなら、逆に筋肉がしっかりとつくし、皮下脂肪のために寒さに強くなって、風邪をひきにくくなるのだ。肥満はすべてが悪いのではなく、健康的な肥満というのも存在するのである。

 子供の頃に太っていても、その子が女子高校生になれば、女性ホルモンが大量に分泌されるようになるので、その女性ホルモンの副作用で女子高校生は自然と痩せていくのである。女子高校生の時にダイエットをするなんて以ての外で、女子高校生であるなら自然と体重は落ちていくものなのである。オヤツで甘いお菓子を食うからこそ、痩せられないのである。

 今までデブであった女の子にとっては、まさに「醜いアヒルの子」のようなお話みたいなもので、自分が痩せることによって、突然に美人になってしまうのだ。しかも、今までデブだったお蔭で、骨格の形が普通の美人たちよりも整っているので、より美人に成り易いのだ。これが「デブ子理論」なのである。デブな女の子ほど、大人になると美人になるのだ。

●痩せている美少女の危険性

 子供の時に美少女だったから、大人になっても美人になる子は確かに存在する。しかし、すべての美少女たちが大人になれば美人になるとは限らないものだ。骨格の出来が貧弱なために、大人になってしまうと、貧相な顔つきや貧相な体つきになってしまうこともあり、そのために美人になれない人たちも出て来るのだ。

 こういう場合、多くは悲惨な結果を生むものだ。自分は子供の時は美少女だったために、どうしても、その気持ちが抜けきらないのだ。美少女でなら誰もがチヤホヤしてくれたのに、現在の自分では誰からも相手にされないために、無理をしてでも他人の気を引こうとしてしまうのだ。この手の遣り方は、大方は裏目に出てしまい、自分を窮地に追いやってしまうものだ。

 現在では痩せている女性を美人とする価値基準が成立してしまっているために、子供にも痩せていることを遂々要求してしまいがちだ。しかし、子供が健康なら太っているものなのである。痩せているということは、女性ホルモンが既に効き始めているのか、それとも食事が足りないかの二つに一つなのである。多くは食事が足りない方だから、どうしても大人になれば体力が不足してしまい、それに応じて脳も充分に成長しきれないものなのである。

、女性の人生は美貌と幸福が手を携えてやってくるものだ。絶世の美女である必要性はないが、最低限の美貌は必要なのである。美しさがひと欠片もないのに、自分がいくら学問や芸術やスポーツやビジネスで努力したとしても、幸福は遣って来ないものだ。女性の場合、幸せな人生を送るためには、男性のようにただ単に仕事で成功すればいいのではなく、周囲の人々から愛されることがどうしても必要なのである。たとえ事業で成功したとしても、周囲の人々から嫌われているような女性では、本当の幸福を掴むことはできないものなのである。

 自分が女の子を産んだ以上、娘に子供の頃は女の子らしく、可愛らしくさせてあげることは絶対に必要なのである。そして自分の娘を将来、美しくさせていく努力もまた必要なことなのである。そのためには、自分の娘が一体どれほどの可愛らしさがあるか冷静に分析しておくことだ。美少女ならそのままでもいいが、そうでなければ太らせるという配慮が必要なのだ。勿論、子供には肥満が病気を引き起こさない限り、ダイエットなどさせないことだ。

●デブな女の子をそのままデブにするな

 デブ子理論を使って、子供をデブにした場合、デブな女の子をそのままデブにしてはならない。意外なことかもしれないが、デブな女性ほど自分がデブだとは思ってはいないのだ。自分の娘が女子高校生になってデブであった場合、はっきりと「お前はデブなんだよ」と言ってあげることだ。こんなことを言えば、娘はショックするし、親子喧嘩も発生するだろうが、そのまま放置しておけば、デブ人生を驀進するだけになってしまうのだ。

 デブが問題なのは健康に悪いということだけではない。デブな女性ほど自分に自信が持てないのだ。女性はたとえ自分がデブであっても、美しくありたいと願うものなのだ。その美しさを実現できない場合、自分に自信が持てず、常に弱気になってしまうか、他人に対して強圧的になってしまうのだ。デブというのは、空腹を知らない。とにかく暇さえあれば、口に食べ物を入れて、ムシャムシャと動かしているものだ。そんなに食事を食べれば、食費にお金がかかりすぎるし、食事のしすぎで頭が巧く動かなくなってしまうのだ。エンゲル係数が高く、知能指数が低ければ、その後の人生は想像がつくものである。

 人間は肥満になると自己執着が強くなり、他人に対して傲慢になるものだ。細木数子にしても、タカノユリにしても、自己執着が強く、他人に傲慢で、どうしてそこまで人々から憎まれるのかと思うくらいに人々から憎まれている。自分を謙虚にして、他人に愛を施すというのが、女性は肥満になってしまうと出来なくなってしまうのだ。

 デブにとっての最大の欠点は自分の体のサイズに合う服が売っていないということなのだ。既成品は或る程度のサイズまでしかないものであって、それを上回るデブになってしまえば、自分が着れる服が売っていなくなってしまうのだ。デブな女性がダイエットを決断するのは、この服の問題にぶつかった時に、ダイエットをしなければと思うようになるのだ。

 女性がダイエットをして体重を落とすのは簡単だ。まずはオヤツを食わないことだ。そして朝の排便をしっかりとした上で、3度の食事を栄養バランスを整えた上で食べていけばいいのだ。それに運動をして、筋肉をつけ、汗を流すことだ。これらをやった上で、ドクダミ茶や蓮の葉茶などのように、体内の老廃物や毒素や脂肪を除去するお茶を飲んでいけば、自然と痩せていくのだ。

 今までデブだった女性は、痩せたとしても、骨格の出来がいいために、洋服が似合うようになり、より美しくなっていくことができるようになるのである。顔がそれほど美しくなくても、骨格が良く、姿勢を正していれば、美しく見えるものなのである。自分が美しくなれば、それまでの人生とは全く別の人生が開けてくることだろう。

 男の子の場合、子供の頃は甘えん坊なので手間がかかるが、思春期にもなれば母親から離れて行く。しかし、女の子の場合、子供の頃は対等に接して来るので、それほど手間がかからないものだ。だが、自分の娘を子供の時は女の子らしい可愛らしくさせてあげることは大事だし、女子高校生辺りで美人に仕立てあげていくということも必要なことなのだ。自分の娘が母親の元を離れていくのはそれからなのである。

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優秀な男の子を育てたいのなら、「お前は将来、立派な男になる」と暗示をかけよ。

●男の子は甘えん坊

 3歳になった男の子というのは、この世では有り得ないくらいに可愛い生き物である。大抵の母親たちは、この男の子の可愛らしさにメロメロになってしまう。男の子も母親にべったりとしてしまい、世界最強の甘えん坊として母親に甘えまくるのだ。男の子も男の子の方で母親のことが世界で一番大好きなのである。

 子供というのは、早い段階で既に性差が明確になっているのだ。女の子なら3歳にもなれば、母親と距離を置き始めるし、母親だけでなく父親ともきちんとした人間関係を形成しようとする。しかし、男の子の方は未だに母親にべったり状態で、人間関係が母親中心に回っているのだ。男の子は自分が成長していくために、母親からの強い愛情を必要としているということなのだ。母親の出す母性愛は絶対肯定の愛だから、母性愛をたくさん貰って自分の存在を肯定していかないと、自分という命をこの世に存在せしめることができないのだ。

 もしも母親が男女平等に取りつかれてしまい、男の子も女の子も平等に育てようとしたら、男の子は絶対に健全に育つことはないであろう。母親の愛情が足りなければ、すぐに病気をし出し、親子関係が散々に揉めてしまう。長じて思春期を迎えれば、凄まじい反抗をし出かし、母親に対して憎しみをぶつけてくることだろう。子供の時にきちんと母親から母性愛を貰えなかった恨みというのは、相当に激しいもので、それはそう簡単に治まるものではないのだ。

 なんで男の子と女の子はこうも違うかといえば、それは性ホルモンの違いなのである。女の子は同じ性を持つ母親から生まれて来るので、性ホルモンの基本が女性ホルモンであることに変わりはない。しかし、男の子は女性ホルモンを持つ母親の胎内で育ち、その後、男性ホルモンを分泌して来るので、体に相当なストレスがかかっているものなのである。

 それゆえ、大人になれば強靭な肉体を持つ男性とはまるで正反対で、男性というのは子供の頃は病弱で貧弱で弱虫なのである。男の子は男性ホルモンによって常に体を変え続けられているので、どうしても体が丈夫ではないのだ。自分の体が丈夫になるまでは、男の子は母親の保護を強く求めて来るのである。

●男の子は母親の暗示に最も弱い

 男の子の成長は、母親こそが鍵なのである。母親が甘えて来る男の子にたっぷりと愛情を与えてあげれば、男の子は健全に育っていくのである。男の子はいつまでも母親に甘えているのではないのだ。体が丈夫に成り次第、男の子は母親から離れて行くのだ。それまでは母親はたっぷりと愛情を与えなければならないのだ。

 だからこそ、母親と男の子の結び付きは強烈な物だ。母親が男の子に母性愛をたっぷりと与えている限り、男の子は母親の言うことはなんでも聞くのだ。この関係を絶対に悪用してはならない。この関係を将来に向けて、いい結果が出るように使っていかねばならないのだ。

 そのために、「母親の暗示」という物を使えばいいのだ。母親の暗示というのは、常に自分の息子に、「お前は将来、立派な男になる」と言い続けるのだ。男の子がどのような状態であっても、その言葉を言い続けると、男の子は将来、そのような人物へと成長してしまうのだ。自分が幼児期に「自分は母親から期待されている」と刷り込まれてしまうと、男の子はそれに応えようと、獅子奮迅の働きをするようになるのである。

 男性というのは、母親の母性愛があれば、人生に後退がなくなり、立身出世していくのだ。子供の頃に母親から母性愛をきちんと貰い、母親に期待をかけられると、紆余曲折を経たとしても、立身出世していくのだ。だからこそ、男性は自分が成功すると、母親に感謝をするようになるのだ。これは女性にはない光景なのである。

 この自分の息子に母性愛を注ぎ、我が息子の立身出世を願う母親たちがたくさんいたことこそ、近代日本の発展の原動力であったのである。明治維新直後は、貧乏国家で、いつ植民地に転落しかねない状況で、近代化を成し遂げ、日清戦争で清国を破り、日露戦争でロシア帝国を破ることができたのは、日本の母親たちに息子の立身出世を必死になって願う習慣があったからこそなのである。

●外で遊ばせ、夕食に大飯を食わせよ

 男の子はとにかく外で遊ばせることだ。外で遊ぶと、体が自然と鍛えられるからだ。家の中にいては、男の子は怠けて行くものなのだ。体を鍛えていないから、すぐに病気に罹るという悪循環を引き起こしてくるのだ。男の子は病弱なのだから、外で遊ばせて、体を鍛えていくしかないのだ。

 男の子は人間関係を巧く行うという能力がまだまだ弱いので、母親の目が行き届かない所で遊ばせておくと、すぐさま喧嘩を仕出かして来るものだ。それゆえ、母親は男の子が遊んでいる姿を巧く監視しながら、喧嘩が起り次第、それを止めねばならないのだ。男の子が正常な人間関係を構築していくためには、母親の力が必要不可欠なのである。母親から「友達とは喧嘩しちゃ駄目」と教えられるからこそ、友達と喧嘩しなくなるのである。女の子のように放っておいて、友達と仲良くするわけではないのだ。

 日中にそれだけ遊ばせれば、当然に相当お腹がすくので、その時は夕食を大量に食べさせることだ。夕食を大量に食べてしまうと、そのエネルギーは活動によって消費されないので、脳や体を成長さるのに向けられ、成長するのが早くなるのだ。夕食時は栄養バランスを考え、脳や体にいい食事を作ってあげることだ。

 男の子がいくら外で遊んでも、母親がまともな料理を作ってくれないと、どうしても体が健康にならないものなのである。男の子がいつも病気がちなら、その病気よりも、食事の悪さを気にした方がいいのだ。男の子は女の子と違い、脳も体も大きく成長していくので、食事が不足すれば、立ち所に悪影響が及んで来るものなのである。

 男の子が病気をしなくなったら、自分が作る料理は栄養バランスが整っていると思った方がいい。男の子は食事が足りてさえいれば、健康になって、外に遊びに行くものなのだ。母親がいくら育児に忙しいとはいっても、料理に関しては絶対に手抜きをしないことだ。母性愛の現れが料理なのだから、料理が狂ってしまうと、子供まで狂って行ってしまうのだ。

●男の子には興味のあるスポーツをやらせよ

 もしも、自宅が農家や漁師のように第一次産業に従事しているなら、子供にも早くから手伝わしてしまうことだ。男の子は「父親のようになりたい!」という願望が強烈なので、父親がやっていることを手伝わしてしまうのだ。男の子は子供なので、なんの戦力にもなりはしないが、遊び感覚で手伝って貰うのだ。そうすれば男の子は精神的に満足し、しかも体を鍛えていくことができるのである。

 父親が第一次産業に従事していないのなら、休日などには子供を連れて、ハイキングやキャンプにでも出掛けることだ。都会の中で生温い生活をしているのではなく、自然の中で厳しく生きるからこそ、逞しく成長していくものなのである。自然の中に連れていけば、軟弱な子供でも自然に接することで、自分を逞しく変えていくものなのである。

 幼稚園児や小学生になって、男の子が何かしらのスポーツに興味を示したのなら、その興味あるスポーツをやらせてしまうことだ。男の子が興味を持つスポーツは、他の男の子も興味を持つスポーツなので、その男の子の集団の中に入ることで、男の子は人間関係の作り方を学んでいくのだ。

 我が子に将来、一流大学に進学して欲しいからといって、子供の頃から勉強させても、男の子はそれほど高い知能を持つことができないのだ。男の子は体を動かさない限り、脳を大きくしていくことができないのだ。我が子を優秀な人間に育てたいのなら、まずは体を鍛えるためにスポーツをやらせることだ。

 男の子を育てて行く上で、これだけは忘れない方がいいというのは、「男の子は学校だけでは、健全に成長していくことができない」ということなのである。男の子は女の子を排除して、男の子同士で切磋琢磨するからこそ、能力を大いに伸ばしていくことができるのである。そのため、男女共学になっている学校では、この要件を満たすことができないのだ。

 野球のリトルリーグとか少年サッカークラブに男の子が入ると、その男の子はいかにも男の子らしく成長し、礼儀正しいし、能力も高くなってしまうものだ。何も野球やサッカーがいいというのではなく、女人禁制で男の子だけの組織に入るからこそ、男の子は男らしくなっていくのである。

●息子に何があっても母親なら守る姿勢を示せ

 男の子は子供の頃に母親からたっぷりと母性愛を貰うことができれば、母親から徐々に離れて行くものだ。その癖、母親に何か危険が迫ってくると、子供ながらにして母親を守ろうとする姿勢を示して来るのだ。もう明らかに男らしさが出て来て、立派に成長し始めているのである。

 だからこそ、母親の方もこれに応えねばならないのである。いつ如何なる時も、息子に何があっても、母親なら息子を守るという姿勢を示しておくことだ。男の子は自分が母親に守られているという安心感があれば、男の子は爆発的なエネルギーを発してくるのである。男の子は急激に成長して行くものなのである。

 だからこそ、男の子は母親に感謝をするようになるのだ。男の子は思春期には母親に反抗することはあっても、成長が終わり、一人前の男性になると、母親に感謝をきちんと示して来るのだ。家を一軒プレゼントしたとか、海外旅行に連れて行ったという話は、すべて男性から母親に向けられたものなのである。

 嘗て、武田鉄矢が『母に捧げるバラード』が大ヒットしたので、その後『父に捧げるバラード』を作ったのだが、この曲は全然ヒットしなかったという。当たり前なのである。如何なる男性も母親に感謝をすることはあっても、父親にはなかなか感謝をしないものなのである。それだけ自分が成長していく過程で、母親の功績が大きかったからなのである。

 母親が精神的に独立していないと、男女平等に取りつかれてしまうものだ。男女平等に基づいて男の子を育てても、男の子はまともに成長して来ないのだ。思春期になって凄まじい反抗を母親にしてくるものだし、大人になっても立派な男性には育ってくれないのだ。男の子と女の子では明らかに性差が存在していて、違うルートを辿らない限り、まともに成長することができないのである。

 自分の息子を立派に育てあげたいのであるなら、男女平等になど引っかからず、たっぷりと母性愛を与えていくことだ。男の子が甘えてくるなら、思いっきり甘えさせていくことだ。その上で、「お前は将来、立派な男になる」と暗示をかけていけばいいのだ。男の子はそれさえ母親からして貰えれば、その通りに成長していくことになるのだ。

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最終章 一人前の母親になるために

子供にとって親に甘えることはとっても大事

●「甘え」こそ育児の基本

 育児の基本中の基本は、子供に「甘え」を与えるということである。赤ちゃんは何かしてほしいことがあると、「泣く」という動作をして、母親はこれに対して赤ちゃんを抱っこして、泣くのをやめさせようとする。この過程を何度なく経て育って来たからこそ、子供は何か問題があれば、母親に甘えることによって乗り切ろうとする。だから、母親は子供が自立するまでは、子供に甘えを与え続けねばならないのである。

 例えば、一人歩きがきちんとできる筈なのに、いきなり抱っこを要求してくるのだが、こういう時にはその抱っこが物理的には必要ないけれども、子供を抱っこしてあげねばならないのだ。父親が仕事から帰ってきたら、子供は父親の周りに纏わりつくものだが、そういう時には子供を邪険にしないで、子供とじゃれあうなり、子供を膝の上に座らせることをしてあげなかればならないのだ。

 いかに育児の場面場面で、子供に甘えを与えていくかが、育児の成功の要因となるのだ。子供は母親に甘えることができると、自分の存在を肯定することができるようになる。母性愛は絶対肯定の愛だから、自分の存在を絶対的に肯定できるようになるのだ。子供は父親に甘えることができると、自分は価値ある人間と思えるようになるのだ。父性愛は絶対価値の間から、自分の存在を絶対的に価値あるものだと思えるようになるのだ。

 子供は親に甘えることができるからこそ、健全に成長することができる。子供が親に甘えることができなければ、子供の心の中は心の闇に覆われ、両親といえども手のつけられない凶暴な子供へと成長していくことだろう。子供の心を健全に成長させたければ、子供が甘えを欲しがるなら、それを与えてあげればいいのだ。それさえできれば、子供は健全に育っていくのである。

 子供が親に甘える場合、早い段階で男女の性差が現れる。男の子は女の子に対して、非常に甘えん坊だ。いつも母親に頼ってばっかりである。しかも、男の子は女の子に比べて言語能力が劣るので、男の子の話を聞く時は、ゆっくりと話を聞いてあげることだ。それゆえ、男の子を生んだのなら、男の子は小学校を卒業するまで甘えさせることだ。男の子は子供の頃に母親に対して充分に甘えることができれば、立派な男性に育っていくことができるのである。

 女の子は成長が早いので、早くから言葉を喋られるようになれば、母親とは対等の立場を要求してくる。そのくせ、何か問題があると母親に泣きついてくるのだ。この対等と従属を巧く使い分けて来るので、親子の距離をきちんと保ちながら、育てていくことだ。女の子は父親に対しては、従属をしながら、対等な会話をして、父性愛を獲得していこうとするので、それゆえ、母親は子供の前では絶対に父親の悪口を言わないことだ。女の子が自分の父親と正常な関係を結べなかった場合、その後の人生で、男性と正常な関係を作ることができず、まともな恋愛をすることも、まともな結婚をすることも不可能になってしまうのだ。

●従属状態とうはどういう状態なのか?

 人間の赤ちゃんは未熟児状態で産まれて来るので、親に従属しなければ生きていないことを生まれながらに知っている。しかも、子供の成長も12歳までは体も脳も充分に成長しきっていないので、親に従属していかなければならないのだ。更に人間の成長が終わるのは19歳なので、その時期まで親に従属しつつも、親から自立していくという、葛藤の時期を過ごさねばならないのである。

 従属状態にあるということは、親に「依存」することである。食料を始めとする一切を、親に依存して、生活するのである。だから、母親が母乳を与えることが必要だし、ご飯を作ることも必要なのだ。子供の目から見て、自分は一体誰に依存しなければならないかが簡単に解るからだ。母親は常に父親を立て、我が家が生活できるのは、父親の働きがあってこそなのだということを、子供に教え続けなければならないのだ。そうすれば、子供は父親にも依存して、得体の知れない反抗をしなくなるのだ。

 従属状態で親に依存できれば、次に親のいいつけを「順守」しようとする。まずは母親の言ったことを素直に受け入れ、自分の行動をそれに合わせようとするのだ。更に、家族内にはルールがあるので、そのルールに従って生きて行こうとするのだ。順守の中で最も大事なのは、父親の権威であって、家族内のルールというのは、父親の権威があるから、子供は守ってくるのであって、母親が父親の権威を否定していると、子供はルールを守らなくなってしまうのだ。

 従属状態で、依存と順守ができれば、子供は「自治」をし出そうとするのだ。親に言われなくても、自分のことは自分でし出すのだ。例えば、最初は服を母親に着させて貰っていたのに、成長してくると、「自分でやる!」と言い出して、母親の手を借りなくても、自分で服を着ようとするのだ。自治の領域が増えていけば、母親にとって育児の手間がかからなくなるので、後は子供に任しておけばいいのだ。

 従属状態にあるというのは、「依存」「順守」「自治」が三点セットで存在しているということなのである。親に依存だけしている子供などいないものだし、依存も順守もせずに自治だけしている子供も存在しないのだ。親に依存し、家族内のルールを順守するからこそ、子供は自治をしていくことができるのである。

 従属の問題で解り易い例をあげるなら、現在、国政で揉めている「八ッ場ダム」問題である。地方自治体というのは、財政的に中央政府に依存し、憲法や法律を順守するからこそ、地方を自治することができるのである。八ッ場ダムも以前は散々揉めに揉めたけれども、最終的には政府の意向を受け入れ、ダム建設に着手したのである。それを民主党が選挙で勝ち、それをマニフェストに載せてあったからという理由で、ダム工事を中止されれば、地方自治体はカンカンに怒るのは当然なのだ。これは民主主義の横暴であって、こんなことが行われれば、地方自治体は自治などできないし、法の支配も否定されてしまうのだ。

●成長すれば反抗してくるもの

 八ッ場ダム問題のような問題が、家庭内で起これば悲惨な結果になることは明らかだ。いつも大人しい子供でも、親が権限を乱用してくれば、カンカンになって怒り出して来るからだ。例えば、子供は食事を親に依存しているのだから、食事の量が少なければ、ギャーギャー喚いてくるのものだ。家族内のルールだからといって、余りにも親に有利で、子供だけが不利なら、家庭内のルールを守らなくなってしまうものなのだ。いくら親といえども、子供が自治している分野に顔を突っ込んでくれば、子供は得体に知れない反抗を企ててくるものなのである。

 成長すれば親に反抗してくるものである。反抗自体は成長の証だからだ。しかし、子供の従属状態を踏み躙るようなことをしていると、子供は得体の知れない反抗をしてくるものなのである。親と子供は決して平等な存在なのではなく、飽くまでも子供は親に従属しているということを決して忘れないことだ。

 親にとっては、赤ちゃんの頃の記憶が鮮明なために、いつまでも子供を赤ちゃん扱いしようとしてしまう。しかし、そのような親の思いとは裏腹に、子供は着実に依存と順守と自治の領域を広げていこうとするのである。赤ちゃんの頃のように母親がなんでもしなければならないのではなく、徐々に子供にできることを与えていき、自分がやるべきことを控えていかねばならないのだ。

 母親は子供の料理は母親が作らねばならず、毎日料理を作っているがゆえに、その栄養管理は母親にすべて任されているということを遂々忘れがちだ。子供は親の言いつけや家庭内のルールをきちんと守ってくるものだが、親は自分が言ったことや、家庭内のルールを忘れているものだ。子供は成長すば自治の領域を増やしていくものだが、母親は子供をいつまでも幼稚だと思い込んで、子供の自治を踏み躙ってしまうものだ。

 子供は自分の従属状態が踏み躙られたり、従属状態の領域を拡大していこうとする時、親に反抗してくるものだ。子供が反抗した際に、いかにその反抗を修めるかが、親としての力の見せどころなのである。子供の反抗を放置してはならないし、子供の言い分をすべて聞いてもならないのだ。子供の反抗を粉砕しつつ、子供の言い分も聞いて、親自身の行動も改めていかねばならないのだ。

●誤った育児の仕方に惑わされるな

 育児というのは、子供に甘えを与えながら、子供の従属状態の領域を増やしていく作業なのだ。親が子供に充分な甘えを与えておけば、子供は成長していけば、自分で従属状態を広げて行くのだ。時に見せる反抗も、親と子供のバランスが崩れたからこそ、反抗することによって、取り戻そうとしているのである。

 だからこそ、甘えを与えてもいいが、子供を甘やかしてはならないし、逆に子供に甘えさせないということも駄目なのだ。例えば、子供が「オモチャが欲しい!」と言って来たからといって、すべてのオモチャを買い与えてはならないのだ。逆に子供が「オモチャを買って欲しい!」と言っているのに、全くオモチャを買い与えないというのも駄目なのだ。巧い甘えさせ方を自分で試行錯誤しながら取っていけばいいのである。

 甘えというのは、育児では絶対に必要である。甘えなくして、育児などできるわけがないのだ。普通の親なら、誰でも子供が甘えてきたら、甘えさせてあげるものだ。しかし、親が未だに精神的に独立していないと、その甘えを暴走させたり、否定したりしてしまうのである。育児は親の精神レベルが如実に現れて来るものなのである。

 育児をする際、くれぐれも間違った育児の仕方に惑わされてはならない。例えば、「子供に甘えさせるのは駄目」という学説は、絶対に危険な学説である。「抱っこばかりしていると、抱き癖がつく」というのも同じだ。これらはすべてアメリカ合衆国からやってきた育児の仕方なので、絶対に耳を貸さないことだ。この遣り方はもうアメリカ合衆国では破綻してしまった学説なのだ。育児をしてみれば解ることだが、赤ちゃんにしろ、子供にしろ、親に甘えてくるものなのである。それを否定してしまえば、子供が異常な形で成長していくというのは、解るものなのである。

 「子供は自立する」という説も間違った育児の仕方である。子供は絶対に自立をしない。子供がするのは自治であって、自立など絶対にしない。子供は成長した暁には、親から自立していくが、それまでは親に従属しっぱなしなのである。自立した子供を育てようとする親は、親本人が自立していないために、子供に自立を強いて来るのである。

 「反抗は親の力不足」という説も間違った考え方である。子供が反抗してくるのは、親が子供の従属状態を踏み躙った時や、自分が成長した時に、従属状態の領域を広げるためである。子供の反抗は親の力が試される時であっても、反抗の発生自体は親の力不足によるものではないのだ。

 自分が子供の頃に、親に充分に甘えさせて貰えば、その後の成長と試練を経て、子供は独立した大人になっていくものである。育児の仕方を教える者が精神的に独立していなければ、いくらでも間違った育児の仕方を唱えて来るものである。そういう間違った意見を拒絶する態度を取りつつ、自分の判断で正しい育児の仕方を習得していくことだ。大事なことは、自分の子供が健全に成長してくれることであって、それ以外のことは必要ないのだ。

 育児をやっていれば、育児の仕方が大体解ってくるものだ。そうしたら、間違った育児の仕方を唱えている学者や医者たちの姿がはっきりと見えてくるものだ。「あっ、この人は精神的に自立していないんだな」と解れば、自分はもう充分に母親としての力が備わっている母親になっているのである。育児のことで、とやかく言われたとしても、「甘えのない育児は絶対に存在しません」とはっきり言ってやればいいのだ。なんせ未だに我が子は母親に甘えている最中なのである。それが正しい答えなのだ。

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緊急告知:不妊症のカテゴリーを卒業します。(ついでに妊娠のカテゴリーも)

heart01heart01heart01heart01タマティーからのお知らせheart01heart01heart01heart01

●カテゴリーを変更します

 長らく「不妊治療」「妊娠」「育児」のカテゴリーで、この『幸せ色の出産ラブストーリー』を公開してきたのですが、今回を持ちまして「不妊治療」のカテゴリーと「妊娠」のカテゴリーを卒業します。最終章は不妊症の女性たちや現在妊娠している女性たちが見るべき内容ではないからです。

 このフブログはそもそも不妊症の女性たちのために作られたものです。最初は不妊症の女性たちのために『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の原因とその治療法を教えてのですが、その後、不妊症を克服した女性たが出て来たために、妊娠や出産や育児のことを教えるために『幸せ色の出産ラブストーリー』を展開しました。

 現在、不妊症で悩んでいる女性でも、不妊治療で頭の中を一杯にしてしまうよりも、妊娠や出産や育児のことを知ることで、脳をクールダウンさせた方が、不妊治療の成功率が上がるのではないかと思ったからです。不妊治療を真面目に受けてしまうと、心の余裕がなくなってしまい、成功する筈の不妊治療も成功しなくなってしまうからです。

 途中で不妊症ではない普通の女性たちも参加してきたために、不妊症の女性のために書いていることが薄れてしまった感じがあるのですが、タマティーは首尾一貫して不妊症の女性たちのために書き続けてきました。でも、もうそろそろ卒業した方がいいのではないかと思うようになりました。

 不妊症の治療は、どうしても病院での治療に頼ってくる女性たちが多いし、不妊症を克服させるためには、ブログで情報を公開するよりも、実際に不妊症の夫婦たちに会って話した方が不妊症を克服できるのが早いというのが解ったからです。ブログで不妊症の女性たちを気遣うよりも、そのエネルギーを直接に不妊症の夫婦たちに向けた方が効果が高くなるからです。

●不妊症の女性たちへ

 俺が長らく不妊症の女性たちを治療してきて、これだけは伝えたいことがあります。

・不妊症で悩んだり、不妊治療で失敗をしたことは絶対に無駄ではないということです。

・治療で失敗している内に、知らず知らずに内に実力がついているもの。

・自分の誤った考え方を変えた時、未来の赤ちゃんはやってくる。

 不妊症の女性たちは、今までの人生は順調に進んできた筈です、小中高大学と、それから就職、そして結婚と、今まで大した挫折もなく生きてきたと思います。それなのに結婚して大事な時に不妊症に罹ってしまうというのは、人生で初めての挫折といっていいものかもしれません。

 人間は順境な時ばかり生きていることはできません。人生のどこかで逆境の時を生きていかなければならないんです。その逆境の時期は自分が最も苦しい時期なのですが、その中で自分のマイナスの部分が剥がれ落ちて、今まで以上に飛躍的に成長していくことができるようになるんです。

 実際の不妊治療は失敗の連続です。たとえ不妊治療で失敗したとしても、すぐさま自分を立て直すことです。そりゃあ、失敗すれば落ち込んでしまうのは当たり前です。しかし、失敗していく中で知らず知らずの内に実力がついてしまい、不妊症を克服できるだけの力を持つことができるようになるんです。

 赤ちゃんは精子と卵子が融合したから生まれてくるのではありません。赤ちゃんは霊的な世界から、未来のお父さんやお母さんの姿を見ていて、赤ちゃんを育てられる準備が整い次第、雲の上から降りて来て、あなたのお腹に入り込んでくるんです。今はまだ母親の準備が整っていないだけなんです。だから、焦らないで、一つ一つクリアしていくことです。

 不妊症の女性たちは間違った考え方を持っています。どうしても不妊症の原因を精子や卵子の問題に持っていこうとしてしまうんです。現実には、どの男女も精子や卵子をきちんと輩出しているんです。では、どうして妊娠できないかというと、それは食生活や運動や睡眠や排便や性生活が余りにもひどすぎるからです。そして夫婦の愛の形が未だに出来上がっていないからなんです。間違った考え方を捨てた時、未来の赤ちゃんはやってくるものなんです。

 不妊症を克服し、赤ちゃんに恵まれた女性たちのすべてが、出産後に夫に感謝するようになります。ということは、それまでは夫に感謝していなかったということなんです。恋愛も長く続いてしまうと、「愛してる」という言葉を使わなくなるように、結婚も長く続いてしまうと、「感謝しています」という言葉を使わなくなってしまいます。自分の夫の欠点を指摘するのではなく、些細なことで夫婦喧嘩をしてしまうのではなく、夫を敬って、感謝するようになれれば、不妊症を克服できるようになるんです。

●現在妊娠中の女性たちへ

 現在、妊娠中の女性たちには、妊娠中なのに妊娠のカテゴリーを終了することは、「そんな殺生な」と思うかもしれないが、今まで『幸せ色の出産ラブストーリー』を見て来ていれば、出産は巧く行きます。もう充分に「出産力」は見についている筈です。後は実践あるのみです。

 ただ、妊娠は最後の最後まで解らないものなので、妊婦の方々にこれだけは守っておいた方がいいということを伝えておきます。

・妊娠中は妊娠中毒症には気をつけろ。

・出産予定日には惑わされないように。

・出産は普通のことをやっていれば絶対に安産になる。

 妊娠中はとにかく自分がスポーツ選手になった気分で、体を動かして体を鍛えていくことです。妊婦に最低限の運動量がありさえすれば、妊娠中に妊娠中毒症になることなんて絶対にないんです。妊娠中毒症とは要は運動不足なんです。塩分がどうのこうのに騙されないことです。最低でも1日1時間程度のウォーキングなら、どんな状況でもできる筈です。

 出産予定日は飽くまでも医者の都合なのであって、出産予定日は出産の目安として使い、決して出産予定日に惑わされないことです。早産をしないためには、マグネシウムをしっかり取っておくことです。妊娠前に飲酒の習慣のあった女性にはマグネシウムが不足しているので、マグネシウムをきちんと補給しておくことです。マグネシウムは「イチジク」「アーモンド」「ナッツ」「バナナ」などに含まれています。出産予定日が遅れても、なんら心配することはありません。逆に健康な赤ちゃんが生まれるものなんです。

 妊娠中に普通のことをやっていれば、絶対に安産になるものです。食事に気を使い、運動をし、睡眠をしっかりと取り、排便をちゃんとしておく。体が冷えないように厚着をして、風呂やサウナで体を温めておくことです。妊娠して自分のことだけで精一杯になるのではなく、夫のことにも気を使って、夫婦の会話を絶やさないことです。いざという時には夫が一番役に立つんです。中には例外があるかもしれないけど、大抵の夫たちは妻にとって最大の味方なんです。

 出産の時は、健康な赤ちゃんを産めるように全力を尽くすことです。女性にとっては、出産は人生最大のスペクタルになるんです。その上で、妊婦生活を思いっきり楽しむことです。妊婦生活は妊娠中にしかできません。自分が妊婦であることを楽しまないなんて絶対に損です。妊婦生活を楽しんでいるからこそ、出産も楽しめてしまうものなんです。

●タマティーはなぜ不妊症治療に関わったのか?

 そもそもなぜタマティーが不妊症治療に関わったかといえば、癌治療をやっている時に、不妊症の夫婦に治療の依頼を受けたからなんです。その当時は癌治療のことで頭が一杯だったのですが、癌の研究をしていたので、不妊症の原因にもなんとなく想像がつきました。要は、「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃えば、ありとあらゆる内臓疾患を発症してくるのであって、不妊症もその一つなんです。

 大方の不妊症の女性たちは、「冷え症」です。「36.5℃」という平均体温がないのです。これは「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃うと、女性は必ずこの症状を呈してきます。だからこそ、通常の形では妊娠することができなくなるんです。排卵誘発剤を使うと副作用で高熱を発するのですが、これが巧く持って行くと、そのまま妊娠へと持ち込むことができます。病院での不妊治療が失敗し易いのは、高熱を維持することをしないからです。これに対して、漢方医たちは排卵を強制的に行わせることなく、水分過剰を解消させる漢方薬と、体温を上げる漢方薬を与えることで、不妊症を克服させています。こちらの方が不妊症を克服するには、適切な処置なんです。

 その後、タマティーはニフティーでブログを遣り始めた時に、たまたまこの不妊症のカテゴリーに立ち寄ってしまい、そこで不妊症の女性たちのブブログを見て、その悲惨な現状に大いに心を痛めてしまったんです。病院の医者たちが不妊症の女性たちにきちんと説明をしていないからこそ、不妊症の女性たちは不安で一杯になり、悩まなくてもいい悩みを抱え込んでいたんです。それで俺はせっせと『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の女性たちに不妊症を克服させる情報を提供し続けたんです。

 実を言いますと、タマティーの母親は結婚してから7年間もの間、子供ができませんでした。ただそれは不妊症が原因ではなく、貧乏が原因でした。タマティーの両親は結婚当初、物凄い貧乏で妊娠どころではなく、四畳半一間のアパートに住んでいたんです。大人二人が寝てしまうと、もう空きのスペースなんてどこにもなかったそうです。当然に赤ちゃんの置ける場所など、どこにもなく、妊娠することができなかったんです。

 そこで両親は夫婦共働きで必死に働いて、お金を地道に貯めて込んで、結婚後6年目にして一戸建ての住宅を横浜に建てたんです。時代が高度経済成長期とはいえ、30代で一戸建ての住宅を建てたなんて凄いもんです。そこで、やっと赤ちゃんを置ける場所が確保され、両親は妊娠へと向かうことになります。

 現在、日本国民の多くは、この手の独立自尊の気概を持つことなく、自分の生活が苦しければ、すぐに政府や地方自治体に頼ろうとしています。独立している夫婦なら、政府から子育て支援などを貰うべきではないんです。政府や地方自治体に頼るからこそ、いつまでも貧乏から抜け出せないのであって、政府や地方自治体に頼ることを拒否し、夫婦双方が自助努力に目覚めれば、貧乏は駆逐されていくんです。

 タマティーの両親は若くして一戸建てを建てたことは、その後の人生で大いに貴重な経験となった筈です。その後、アパートやマンションを建設したり、株式投資をしたりして、資産家の道を順調に歩んで行ったからです。宝籤を買って一攫千金を夢見るより、若い時は我武者羅に働いてしまった方が、お金持ちになれるというものなんです。

 でも、さすがに結婚して6年間も赤ちゃんを産んでいなかったから、タマティーの母親は不妊症の女性たちと同じような精神状況に追い込まれてしまったそうです。他の夫婦の赤ちゃんを見ては悲しくなり、赤ちゃんを抱かせて貰えば、手が震えてちゃんと抱けなかったというのです。

 しかし、夫婦で一戸建てを建てたいう自信が、妊娠を可能にさせてしまいます。タマティーの母親もさすがに自分の体に何か問題があるのではないかと思ったらしく、当時、親戚が千葉大学の医学部で教授をしていたので、不妊治療の話を聞きに行ったらしいんです。だが、その教授は「不妊治療はホルモン剤を使うので、母親にも赤ちゃんにも健康に悪いから受けない方がいい。まだ若いんだから、生活を変えることで妊娠へと導いていった方が、健康的に赤ちゃんが生まれるよ」と教えてくれたそうです。

 そこで、母親はまず父親の禁煙を実行したそうです。当時、タマティーの父親はヘビースモーカーで、1日に1箱以上のタバコを吸っていたそうです。それをタマティーの母親は強制的に禁煙を実施して、禁煙を成功させたんです。それから、毎日、お風呂に入って体を温めたそうです。アパート暮らしでは、お風呂がなく、銭湯だったので、毎日入浴するというわけにはいかなかったんです。そして料理を工夫し、栄養バランスが整うようにしたんです。そういうことをしていたら、一年後には妊娠し出産することができたんです。

 もしも、タマティーの母親が赤ちゃんができないという理由で、病院で不妊治療を受けていれば俺は生まれていなかった筈です。たとえ赤ちゃんが生まれてきたとしても、違う赤ちゃんが生まれて来た筈。だから、不妊症の女性たちが、自分たちの生活を改善することなく、安易に病院で治療を受けてしまうことには、物凄い疑問を持ってしまうんです。もしかしたら、本来は生まれて来る赤ちゃんが生まれて来ないで、違う赤ちゃんが生まれて来てしまったのではないかと思ってしまうんです。

●赤ちゃんに執着するより、結婚に謙虚になること

 俺が不妊症の女性たちを見て来て、つくづく思うことがあります。それは「未だ生まれて来ていない赤ちゃんに、それほどまでに執着しなさんな」ということです。不妊症のために赤ちゃんが欲しいのは解るけど、赤ちゃんに執着してしまえば、赤ちゃんだって生まれにくいって。

 執着は発展を止めてしまうものです。人間には蟠りがあると、人間には不幸が襲いかかってくるものなんです。不妊症を克服するためには、夫婦として色々なことをやっていく必要性があるんです。例えば、夫婦の仲を正常なものにするとか、栄養バランスの整った食事を作れるようになるとか、家計簿をつけて夫婦のお金の流れをしっかりと把握するとかです。そういうことをやって、夫婦としての体裁が整うことの方が先決なんです。 

 結婚を自分の物だと考えるからこそ不幸になるんです。自分の夫を自分の物だと思うからこそ悲劇が襲いかかって来るんです。そうではなく、自分の人生を神様に預けてしまうことです。そうすると「無限の自由」が生まれてくるようになるんです。神様に命じられて、この結婚を管理運営していくという態度になると、いかなる結婚も幸福になることができます。

 不妊症の女性たちに足らないのは、そういう「謙虚さ」なんです。結婚に対して謙虚になっていないから、未来に生まれて来る筈の赤ちゃんがやってこないんです。赤ちゃんが「ママ、今のままでは妊娠できませんよ~」といっているようなもんです。医者の力を使ってどうにかするよりも、まずは自分自身を変えてしまうことです。

 執着から離れると、本当の楽しさが見えてくるものなんです。たとえ自分が不妊症であっても、今の自分をありのままで楽しんでしまうこと。結婚していても、今の生活を自然体で楽しんでしまうこと。そんなに肩肘を張らなくても、この世は生きていけるものなんです。頑張らなくても、人生を楽しむことはできるんです。

●最終章は育児をしている母親限定

 最終章は赤ちゃんを産み育てなければ絶対に解らないことなので、不妊症の女性たちや妊娠中の女性たちは排除します。赤ちゃんを産んでもいない女性たちが知るべきことではないんです。今までは妊娠や出産や育児のことを教えて来たけど、もうこれ以上の知識は不要で、後は不妊症を克服するなり、妊婦生活に集中するなりした方がいいんです。

 これから話すことは、育児をしている母親たちに起こる「とっても不思議なお話」なんです。育児を真面目にやっていると、母親が本物の母親になるために、とっても不思議なことが起こるんです。そのとっても不思議なことが起こらない限り、いくら子供がいたとしても、本物の母親になることはできないんです。

 言わば、本物の母親になるために通過儀礼が、母親たちを待ち構えているんです。女性という者は、結婚して自分の人生が変わったし、赤ちゃんを産んで自分の人生が変わったし、育児をすることで自分の人生が変わっていくんです。自分の人生が変わることで、巨大なエネルギーを発生させていくんです。

 結婚というのは、幸せを貰う立場から、幸せを与えていく立場に、自分の人生を転換することです。他人からエネルギーを奪う生き方から、他人にエネルギーを与えていく生き方に変えると、人生は劇的に好転して、幸福の連続の人生になります。自分の幸福な人生を決定づける転機が、或る日突然に起こってくるわけです。

 『幸せ色の出産ラブストーリー』は今まではすべての母親たちが解る内容であったけど、最終章だけは選ばれた母親たちだけにしか解らない内容になっています。選ばれた母親たちは「そうか! そういことだったのか!」と感嘆する内容になっています。しかし、選ばれなかった母親たちにとっては珍紛漢紛です。これだけはその不思議な体験をして貰わないと、全く解らないことなんです。いくら文章を読んだ所で、その文章を理解できたとしても、本当の所は解らないことでしょう。とにかく実際に不思議な体験をしてみることです。

●不妊症の女性たちに感謝

 この不妊症のカテゴリーを卒業するに当たって、今までこのブログを見て下さった不妊症の女性たちにお礼を言いたい。このブログは長らく不妊症の女性のために書き続けたものなんです。中にはドギツイ記事の回もあったけど、それは俺があなたたちに不妊症を克服してほしいからこそ、敢えて書いたまでで、俺が言いたかったことは、「不妊症は必ず克服できる病気だ」ということです。自分の何かが間違っているからこそ、不妊症を発症しているだけなんです。だから、それを改めてしまえば、簡単に治ってしまうんです。決して精子や卵子の問題ではないんです。

 未来に生まれて来る赤ちゃんは、あなたに母親としての準備が整い次第、あなたのお腹の中に潜り込んで来るんです。赤ちゃんはそれができるまでは雲の上で待っているんですよ。そのことを絶対に忘れないで下さい。

 このフブログを見て不妊症を克服できた人も、これから不妊症を克服しようとしている人も、2年間に亘り、このブログを見続けて頂いて、本当に有難うございました。タマティーは心から感謝しております。このカテゴリーを卒業しても、タマティーはこの国から不妊症を絶滅すべく、日々努力しております。決して不妊症の女性たちは一人ではないんです。目に見えぬ所で、タマティーを始め、色んな人々があなたたちを応援しているんです。

 不妊治療をやっていて、心がつらくなった時は、『不妊症バトルロワイヤル』を思い出して下さい。タマティーも悪戦苦闘しながら戦い抜いたので、その勇姿を見れば、あなたの心も奮起する筈です。大事なことは、いくら失敗してもいいから、悪戦苦闘しながら、不妊症を克服していく強さを持つということです。

 いくら不妊症といえども、自分が立ち上がって戦わないと、勝てる戦いにも勝てなくなります。不妊症は絶対に克服できる病気なので、自分が本当に赤ちゃんが欲しいと思えば、絶対に赤ちゃんがやってくるものです。あなたにはそれが絶対にできます。言い訳をいう暇があるのなら、せっせと自分の生活を改善していくことです。一つ一つ改善していけば、いつの間にかに妊娠しているものなんです。赤ちゃんを妊娠することは、決して難しい事ではありませんよ。

 何事もやればできる!

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三つ子の魂、百まで

●三歳までに人格の基礎が形成される

 人間の脳は、3歳児の時点で脳の80%が形成されるので、当然にこの時期までに子供の人格の基礎が形成されるわけである。3歳児の時点で出て来た性格は、その後の人生でそう簡単には変わらないものなのである。外向的な子供は、成長してもやっぱり外向的な性格だし、内向的な子供は、成長してもやっぱり内向的な性格のである。勿論、青春時代に何かしら道を踏み外してしまうこともあるが、それでも3歳児までがその人の人格形成にとって最も大事な時期なのである。

 昔の人たちはこれを「三つ子の魂、百まで」と言い伝えてきたのである。昔の人たちが何度も育児をしてみて、辿り着いた結論がこれであったのだ。昔と今とでは年齢の数え方が違うので、現在で言うなら、2歳児の時点で、その子の人格が決定してしまうと見たのである。離乳食の始まる前の親の育て方が、子供の人格に決定的な影響を与えてしまうと考えたのである。

 ところが、現在の医者たちは昔の言い伝えて来たこの教えを迷信だと決めつけ、3歳児神話を否定することに躍起になっている。特に仕事のために育児の時間を充分に取れない女医たちは、この3歳児神話を否定することを母親たちに教えているだけでなく、自らも実践して育児をせずに、保育園に我が子を預けながら仕事をしてしまっているのだ。

 勿論、食事さえ与えておけば、子供は肉体的には成長する。問題はそれではきちんと精神的に成長させることができないということなのである。子供が精神的にきちんと成長していくためには、両親の育児の仕方が大いに影響を持っており、それなくしては子供は健全な人格を作り上げていくことができないのだ。

 医者たちが3歳児神話を否定するなら、母親たちは3歳児以下の子供たちに構わなくても健全に育つ筈ではあるが、現実問題としては少年犯罪は多発しているし、学校ではイジメや自殺が絶えたことはないのだ。ということは医者の3歳児神話の否定という考え方が間違っているということなのである。医者たちが育児の現場で出鱈目な学説を展開してしまえば、そういう育児を受けて育ってきた子供たちの悪魔のツケを、学校や警察が処理しなければならないのである。

●母性愛は子供を甘えさせ、守り、見守ることこそが基本

 子供の人格形成に最も重要な役割を果たすのが、母親である。母親が母性愛を子供に与え続けるからこそ、子供は健全に人格を形成していくことができるのである。子供はとにかく母親からの母性愛を必要としている。母性愛は絶対肯定の愛であるがゆえに、母性愛を充分に貰えねば、自分の存在を肯定することができないからだ。

 それゆえ、母親は子供に充分に甘えさせることだ。子供はこの世がどういう状況になろうとも、母親のことが一番大好きなのである。だから、子供は母親に甘えたがるのである。子供が抱っこを要求することは、子供がただ単に抱っこをしてほしいだけでなく、母性愛の発露として抱っこして欲しいということなのである。子供が抱っこを要求しているのに、「歩けるでしょ」と突き放してしまったら、子供は自分の存在を否定されたと思ってしまうのである。

 母親は子供を充分に守ってあげることだ。子供は自分が弱い存在であるということを知っており、そのため母親の影に隠れようとする。人見知りが激しいのは、母親以外の人間は基本的に危険だと看做しているからなのである。だから、人見知りをしているのに、無理矢理に他人に挨拶などしなくてもいいのである。それよりも抱き締めながら、「大丈夫だよ」と励ましの声をかけてあげるべきなのである。

 子供は母親から充分に母性愛を貰うと、母親から離れて動くようになるので、その際はいつまでも手元に置いておくのではなく、子供を手放して、見守るようにすればいいのだ。子供は自分は母親から見守られていると解っていれば、自分が今まで知らない世界に突き進んでいき、自分の世界を広げていくようになるのである。

 母親が育児をしていて、最大の難関は、「構うべきことは構え」ということであり、かといって「子供に構い過ぎるな」というバランスを巧く取ることなのである。母親が子供に構わなければ子供の人格がおかしくなってしまうし、母親が子供に構い過ぎれば子供の人格は駄目になってしまうのである。これだけは育児の現場で経験値を積みながら、自分なりの結論を出していくしかないのだ。

●母親も一生懸命なら子供も一生懸命

 新米ママなら、初めての育児なのだから、一生懸命になっているものだ。しかし、その努力は空回りしている部分もあって、何度も失敗をしでかしてしまうものだ。時には育児で涙を流し、時には自己嫌悪に落ち込んだり、時には「自分は母親として失格だ!」と思うからこそ、いつの間にかに母親としてきちんと成長していくのである。

 新米ママは育児を一生懸命にやっているからこそ、育児には思い出がたくさんあるのである。育児の仕方を試行錯誤しながら掴み取っていくからこそ、育児の仕方が朧げながら解ってくるのであって、育児に於いて悪戦苦闘することは絶対に必要不可欠なことなのである。

 子供の方も未熟な母親から育てて貰うことに一生懸命になっており、子供はその未熟な母親といえども、未熟な形で育てて貰うことで、子供は一生懸命になって成長していくのである。子供は何も完璧な母親を望んでいるわけではないのである。未熟でもいいから、子供に向き合って育児をする母親を求めているのである。

 育児をするのに、育児書や医者に頼ってしまうと、なかなか育児が巧く行かなくなってしまう理由はここにこそあるのだ。育児で最も大事なのが、母親がちゃんと子供に向かい合っているのかということだからだ。それなのに母親が自分の子供にではなく、育児書に向かい合ってしまったり、医者に向かい合ってしまったら、そのアドバイスがいかに優れたものであっても、実際の育児の現場では絶対に巧くいかないのだ。育児の仕方というのは、母親の存在抜きに存在しえないものであって、まずは母親の気持ちなのである。

 育児に悪戦苦闘していれば、いつの間にかに育児の仕方は身についていくものなのである。子供が成長していき、母親がそれほど手間をかけなくてもよくなり始めた時でも、母親が自分の子供に向かい合っていれば、育児は順調に行くものなのである。自分の子供が言葉を初めて喋ってくれた時は嬉しくても、その後に子供が下らないことを喋ってくると途端に不機嫌になってしまうものだ。それでも子供に向き合って、子供の話して来ることを聞くからこそ、子供は段々レベルの高い話をしてくるようになるのである。

●夫婦仲が良ければ育児は巧くいく

 家族の中で愛がきちんと流れていくためには、夫婦仲を良くしていくことは絶対に必要なことである。夫が妻を愛し、妻が自分は夫に愛されていると感じているからこそ、我が子に充分な母性愛を与えようとしてくるのである。母親が自分の夫と仲が悪く、自分の子供だけを愛しても、正常な母性愛は出て来ないものなのである。

 愛は家族の中で循環しているものなのだ。愛は家族の中を循環することによって愛が増大していくのだ。妻は夫から愛されることが嬉しければ、子供をきちんと愛そうとするし、子供もきちんと愛が貰えればスクスクと成長していくのだ。夫はそういう妻や子の姿を見ると、益々仕事に一生懸命になって、収入を増やしていこうとするのだ。

 いくら育児をしているからといって、育児だけをしていてはならないのだ。夫婦関係にも充分に気を配って、夫婦仲を良好なものにしていかねばならないのである。夫婦仲が良ければ、育児は巧く行くのだ。夫婦喧嘩をしあっているのに、育児が巧く行くということは有り得ないのだ。

 新米ママなら育児が未熟だから、夫に育児を手伝ってほしいと言ってしまうものだ。しかし、夫に育児を手伝わせてしまうと、肝腎な仕事が疎かになってしまい、仕事が巧く行かなくなってしまうのだ。そうなれば夫は妻に対してきつく当たって来るようになり、そして夫婦喧嘩が始まってしまうのである。妻が自分に良かれと思ったことが、夫婦仲を破壊してしまうことになってしまったのである。

 夫は育児に直接参加していなくても、生活費を稼いで来ることで最大の貢献をしているものなのである。まずはそこを認め、夫を褒めてあげることなのである。夫も妻から認められ褒められていれば、余力がある時は自然と育児を手伝ってくれるようになるものなのだ。

 子供は父親と母親が喧嘩している家庭では健全に育つことができない。母親から母性愛を貰ったり、父親から父性愛を貰ったりするどころではないからだ。育児がどうこのうと言う前にまずは夫婦が仲直りして、夫婦仲をきちんとしておくことである。そういう夫婦のもとでは、子供は自然と健全に成長していくものなのである。

●胎内記憶の告白

 子供が3歳児になって行われる最大の行為が、「胎内記憶の告白」であろう。胎内記憶は、2歳だと巧く言えず、4歳だと消えてしまうのだ。明らかに3歳児は他の年齢の子供とは違うのである。3歳児でなければ、話してくれないものだって、この世にはするのだ。

 胎内記憶はすべての3歳児が話して来るわけではない。出産時に母親の体から胎内記憶を消すホルモンが分泌されてしまうために、大方の赤ちゃんは胎内記憶を失ってしまうのだ。3歳になっても胎内記憶を持っている子供は、せいぜい半分くらいで、しかも、胎内記憶をすべて覚えているわけではなく、記憶の断片を繋ぎ合わして、話してくるのだ。そのため、母親から見ると、胎内記憶に多少の食い違いが出て来るのだ。

 我が子から胎内記憶を告白されると、殆どの母親たちは感動して感涙を流すという。赤ちゃんは決して白紙状態で産まれてきたのではなく、妊娠中に人格の基礎を形成しており、ということは子供の最も大事な部分が、実は母親のお腹の中で作られたということであるからだ。

 昔から妊婦は感情を爆発させることがないよう、自宅で平穏な日々を過ごすべきとされてきたし、『幸せ色の出産ラブストーリー』でも妊娠中は夫婦仲を良くするよう最大の注意を払ってきた。なぜなら、妊娠中に平穏で最低限の幸せが確保される生活を営んでいれば、お腹の赤ちゃんは脳を巧く形成しえて、出生後に健全な人格を形成することになるからである。

 胎内記憶の告白は、ただ子宮内という目に見えぬ生活のことを知ることができるのではなく、子供の人格形成に、実は母親こそが最も深く関わっているということが解って来るのである。だから、母親たちが自分の子供から胎内記憶の告白を受けると感動してしまうのである。自分の子供にただ肉体的な要素だけが遺伝していくのではなく、母親が持っている精神的要素までが継承されていくからである。

●三歳以前の記憶の消去

 3歳児になれば、その子の人格もほぼ形成され、喋ることも充分にできて、人間関係を構築していくこともできる。しかし、そのまま成長していけばいいのに、4歳か5歳までの間にそれまでの乳幼児期の記憶が消去されてしまうのである。だから誰も乳幼児の記憶がないわけである。

 なぜ、脳がこのような措置を取るのか、正確な所は解らない。ただ、乳幼児期の不要な記憶を消去することで、新たな人生を切り開こうとすることだけは確かなようである。乳幼児期の記憶をいつまでも持っていては、新たな情報が入って来なくなってしまうので、乳幼児期の記憶を消去することで、新たな記憶が入って来るように仕向けるのである。

 但し、これには例外もいる。記憶の消去のかかり具合が弱く、乳幼児期の記憶を大人になっても持ち続けてしまうのだ。作家の三島由紀夫なんかはその代表例で、「自分は出生直後の光景を見たことがある」と小説に書いたのだが、この文章は作家や文芸評論家から嘘をついていると散々に酷評されてしまったのだ。三島由紀夫を決して嘘をついているのはなく、記憶の消去が弱かったために、出生直後の記憶を持ち続けることができたのである。通常の人々では記憶の消去がなされてしまったために、出生直後の記憶なんて持ち合わせていないのだ。これは記憶の消去がどのように起こったかの違いでしかないのだ。

 現在の人間の教育システムでは、4歳児と5歳児向けには幼稚園を完備している。これは子供の脳の成長からいうと非常に適した教育の遣り方で、この時期から教育を施すからこそ、子供の脳はグングンと成長していくことができるようになるのである。3歳以前は親元で過ごしていればいいのだ。保育園というのは飽くまでも親の都合のために子供を預ける施設であって、子供の脳の成長からいえば、優れた施設ではないのだ。

 子供の脳が充分に成長していないのに、早期教育を施すことは非常に危険なのである。その反面、子供の脳が充分に成長したのに、教育を施さないことも非常に危険なのである。幼稚園はただ単に子供を預かる場所なのではなく、「遊びながら学ばせていく」ということをしておけば、その後の教育が非常に楽に成り、子供は高い知能を形成していくことが可能になるのである。

●人が成長することは嬉しくて、悲しくて、そして楽しいもの

 我が子が成長していくことは嬉しいものなのである。この嬉しさは他の物では代えようがない物なのである。赤ちゃんが成長していく喜びというのは、女性が経験できる喜びの中で最高レベルのものであって、この喜びがあるからこそ、女性は精神レベルを高くしていくことができるようになるのである。この喜びは女性が結婚せずに、仕事だけをしていては、絶対に得られない喜びなのである。

 それと共に、我が子が成長していくことは悲しさを伴うものなのである。母親であるなら、我が子に対して成長を願うと同時に、「いつまでも赤ちゃんでいてほしい」「いつまでも幼児でいてほしい」でいてほしいと思ってしまうものだ。それは育児をちゃんとこなして、幸せな日々を送っているからこそ、時間が止まってほしいと願ってしまうのである。

 そして、だからこそ我が子が成長していくことは楽しいのである。育児は一期一会だ。その一瞬一瞬はもう二度と帰ってこないのだ。 今、育児をしている時に全力を尽くす。自分が育児に全力を尽くしているからこそ、育児は楽しいのである。注意を散漫にして、育児に全力を尽くさなかったら、育児の本当の楽しさなど決して解らないものなのである。

 人間は人間が作りし物に騙されてしまう。自分の経験をそっちのけにして、演劇や映画やドラマや小説や漫画に虜にされてしまうのだ。いくらフィクションの中で遊んでも、現実の世界の方が圧倒的に面白いものなのである。育児をしていれば、色々な経験をすることだろう。育児は楽しいことばかりではない。喜怒哀楽を伴うものだ。しかし、そうやって育児をしながら、悪戦苦闘するからこそ、育児の本当の楽しさが解ってくるのだ。

 育児とはうのは、母親の心を変えて行ってしまうものだ。母親は子供を産み育てることで、人が生きていく喜び、悲しみ、そして楽しさを知るのだ。時には怒ったりもするし、落ち込んだりもする。そうやって育児をしていくからこそ、人の命の大切さを知るのである。こういう命の大切さは、実際に自分が経験してみないと解らないものなのである。いくら命の大切さを教えても、妊娠も出産も育児もしたことのない女性たちに解らせるのは無理というものなのである。たとえ「命の大切さを理解しました」と言っても、それは偽善の塊にしかすぎないのだ。

●人間は3歳までに親孝行を果たしているもの

 人間の子供は3歳児が最も可愛くなる時期である。子供が男の子なら、有り得ないような可愛さを発揮してきて、母親はメロメロになってしまうことだろう。この可愛さは他の人間には決して持たざるものだからだ。子供が3歳までは如何なる乳幼児も母親の独占物なのである。

 それゆえ、人間は3歳までに親孝行を果たしているものだ。だから、その後の人生で、我が子に親孝行を強いてはならないのだ。いくら自分が育児で大変な思いをしたとはいえ、それ以上の物を我が子はくれた筈なのである。育児に見返りなど求めてはならなのだ。育児は見返りを要求しないからこそ、育児たりえるのである。

 自分の子供に求めていい親孝行は、大人になったら結婚して子孫を絶やさぬようにすることなのである。自分が育児の楽しい思いをしたのなら、我が子にもそれを味わって、子孫を繁栄させていくべきなのである。子孫の多い家族というのは、それだけ育児の楽しい想いが継承さている家族なのである。

 子供は母親が育児で楽しんでくれないと、大人になっても結婚しないし、結婚したとしても子供を産まないという異常な行動を取ってくるものだ。いくら勉強やスポーツや仕事で頑張ったとしても、育児を超えるような楽しさはないものなのである。子供を産まなかった女性たちには、心の中にまともな愛がなく、どこか寂しげで、常に誰かに対して憎しみを抱いているものなのである。自分の母親が育児で楽しんでくれなかったツケが、こういう形で現れてきてしまうのである。

 人間の人生の中で、育児をしている3年間というのは、決して長い歳月ではないのだ。実際に育児をやってみれば、あっという間に過ぎ去ってしまう歳月でしかない。その歳月ですら楽しめないのであるなら、他のいかなることをやっても楽しむことができないことだろう。

 子供にとってはその3年間で人格の基本が形成されてしまう最も大事な時期のである。子供はその人格の基礎を元にして成長していくのである。3歳児の時に現れて来た性格は、その後の人生でそれほど変わらないものなのである。そういった意味で育児に於ける母親の役割は最重要であるのだ。こういうことはいくら政府が育児支援に乗り出しても、取って代わることができないものなのである。母親が性根を据えて、育児に向き合って、育児を楽しむしかないのである。女の人生が一本道なら、母親の人生だって一本道なのである。

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卒乳の時期

●卒乳と断乳

 乳幼児は一体いつ母乳と縁が切れるかというのは、「この時期です」と明確に定められないものなのである。母乳育児をすれば、子供は正式な食事が始まっても、長らく母乳を飲み続けるだろうし、母親としても母乳を与えることが子供との深い関係を築いてしまうものなので、そう簡単には母乳を与えることをやめることはできないのである。

 母乳育児で乳幼児を育てた場合、「卒乳」が理想的な形となる。卒乳とは子供の方が自然に母乳を卒業するこという。これに対してミルクで育てた場合、「断乳」が通常の形式になる。断乳とは母親が意図的に母乳を与えるのをやめてしまうことをいう。卒乳になれば時期は遅くなるし、断乳をするなら時期は早くなるのだ。

 母乳育児の場合、卒乳の時期は人それぞれなのである。「子供は母乳を飲むのをやめたくなったら、自然と卒乳する」という説明できない。2歳までは正式な食事を与えても、それ以降も授乳をし続けるのが一般的だろう。2歳代で卒乳する子もいれば、3歳代で卒乳する子もいる。

 幼稚園児になると母乳を飲むのをやめるという子供は多い。さすがに幼稚園児になれば、友達との情報交換が進むので、他の園児がやっていなければ、恥ずかしがって母乳を飲むのをやめてしまう。でも、幼稚園児でも母乳を飲んでいても構わない。幼稚園児が母親の乳房をしゃぶっている姿は、ミルクで赤ちゃんを育てて来た人には驚きの光景だが、別にそれがどういう問題を引き起こすのでもないのだ。どんなに遅い子供でも、小学生になれば自然と卒乳していくのだ。

 ミルク育児の場合は、出生後、早い段階でミルクに切り替えるので、断乳という方法を取るしかない。ミルク育児なら卒乳という選択肢は発生しないのである。それゆえ、子供がいつになったら母乳を飲むのをやめてくれるかという問題は、母乳で育てた母親のみに発生するのである。

●母親の都合で断乳しない

 折角、母乳で育てたのに、母親の都合で断乳しないことだ。多くの場合は医者から言われたからなのであるが、医者は母乳育児とミルク育児とではまるで育児の仕方が異なってしまうということが解っていないのだ。母乳育児を選択したのなら、母乳を与えていることに関して、医者のアドバイスを拒否することだ。

 医者たちが勧める断乳とは、オッパイに絵を描いたり、唐辛子を塗ったり、絆創膏を貼ったりと、滑稽極まりない幼稚な行為なのである。この手の断乳は、赤ちゃんは母親から拒絶されたと思うようになり、その後の育児に悪影響が出て来るものなのである。赤ちゃんの方がまだ母乳を飲みたいと言っているのに、無理矢理に断乳などすべきではないのだ。

 母乳育児の場合、2歳を過ぎて、離乳食が終わって正式な食事は始まれば、免疫学的にも栄養学的にはもう母乳は必要ないのである。では、なぜ母親が母乳を与えているかといえば、それは母性愛の発露からなのである。子供がオッパイを吸ってくれることで、自分の母性愛が刺激され、母性愛を与えてしまうのである。だから、本来は必要ないのに、いつまでも母乳を与え続けてしまうのである。

 卒乳の主導権を握っているのは、飽くまでも子供の方なのである。子供がオッパイを飲まなくても、母親からの母性愛をきちんと感じられるようになったら、子供は自然とオッパイを卒業していくのである。母親が主導権を握れるのは断乳の方であって、卒乳では握ってはならないのである。自然の流れに身を任しておけばいいのである。

 医者たちは母乳をいつまでも与えていると虫歯になるというが、母乳を飲んで虫歯になった子供などいない。それは歯磨き不足で虫歯が起こるのであって、母乳を与えることで起こるものではないのだ。母乳にはカルシウムが含まれているので、子供が母乳を飲めば、歯が健康になり、虫歯など1本もなくなるのである。寧ろ、母親の方が食事の際にカルシウムを摂取して、カルシウム不足にならないように心掛けることなのである。絶対に卒乳の振りをして断乳をしてはならないのである。

●授乳は最高の乳癌予防

 早すぎる断乳は乳癌を生むことになる。乳癌は乳管が詰まって癌が発生してくるのだが、折角、赤ちゃんを産んだのに、早くに断乳してしまえば、乳管を余り使っていないことになってしまい、そこが癌化して乳癌になってしまうのだ。人間の各器官は使わなければ劣化していくのであって、乳房も授乳で使わなければ、表面的には形は崩れていないだろうが、内部ではしっかりと劣化が始まり、そこは癌細胞の格好の棲家になってしまうのだ。

 授乳は最高の乳癌予防であるといっても過言ではないのだ。乳癌検査を受けるより、3人以上の赤ちゃんを産んで、母乳で育てれば、絶対に乳癌になどならないのだ。女性として生まれたのに、赤ちゃんを産まなかったとか、たとえ赤ちゃんを産んでもミルク育児をしてしまったら、その代償は自分が乳癌になることで支払うことになるのである。

 母乳をきちんと出していない女性が、乳製品を始めとする動物性脂肪を大量に摂取してしまうと、乳癌になる危険性が飛躍的に増大する。日本では近代化以前は牛乳を飲まなかったので、乳癌の発症率が非常に低かったのである。犬や猫、人肉すら食べて来た中国人たちは、あれだけ食に貪欲なのに、なぜか牛乳を飲んで来なかったのである。牛乳というのは、危険な食品であると解っていたからこそ、中華料理では乳製品を使用して来なかったのであ。

 乳癌の発症時期は40歳以降となってくるのだが、これは加齢による女性ホルモンの分泌量の低下で乳房に変化が生じたからなのである。女性は40歳代の或る時期から急激に女性ホルモンの分泌量が低下していくので、ただでさえ更年期障害に陥ってしまう。この女性ホルモンの分泌量の低下が乳房にも影響をもたらして、乳房の中に癌細胞を発生させてしまうのである。

 女性ホルモンは体を冷やす副作用を有しているので、赤ちゃんを産まずに母性ホルモンを出さなかった人は、慢性的な低体温になってしまっているので、癌細胞が増殖し易い環境を与えてしまっているのだ。癌細胞と言うのは、女性が平均体温である「36.5℃」であったら、増殖できないのである。体温が平均体温を下回るからこそ、癌細胞は増殖できるのである。

●母と子の絆

 子供のいる母親が、いつまでも母乳を与えるというのは、子供に母性愛を与えるためにも、自分が乳癌にならないためにも、必要なことなのである。更に親子の関係とは他人がとやかく言えないものであって、母親が子供に母乳を与えることによって、母親と子供との間に深い絆が結ばれ強まっていくのである。

 母乳育児を選択した母親が、卒乳の時期に悩むのは当然のことであって、母と子の絆が目に見えて存在してしまうからこそ、そう簡単には卒乳できないのである。こういうことは他人から何を言われても気にしないことだ。他人の意見を聞き入れた所で、その他人は自分に取って代わることなどできないのだ。飽くまでも我が子が自分の母乳を必要としているから、子供が大きくなっても与えていけばいいのである。

 卒乳は子供の方から自然と起こるものだ。母と子の絆がしっかりと結ばれて、子供の心の中が母性愛で満たされれば、子供は或る日突然に母乳から卒業していくものなのだ。卒乳する時は、子供の方も「これが最後だ」と解っており、男の子なら「これが最後だからね!」と勇ましく言ってから母乳を飲んで、それが最後の授乳になるのだ。女の子なら、もっと可愛らしく言って、母乳から卒業していくことだろう。

 自然な形で母乳から卒業させれば、その後の親子の関係も順調に成長していくことだろう。子供の方は自分は母親から拒絶されることなく、充分に受け入れられて育ったということは、その後の人生に於いて大きな自信となって、外に向かって成長していくことになるからだ。母親と子供が得体の知れないトラブルを抱えてしまうのは、実はそのトラブルの発生原因よりも、乳幼児に時に断乳を受けてしまい、母親から拒絶されたと思ってしまっているからなのである。断乳は子供の心の成長に非常に悪い影響を与えてしまうのである。

 赤ちゃんに初めて母乳を与える時は、自然と始まっていくものだ。初産なら出産後48時間経つと、乳房が膨らみ、初乳が出て来るのである。だったら、母乳育児が終わる時も自然の流れに身を任せて、母乳育児を終わらしていけばいいのだ。自然の流れに身を任しておけば、自然の内に終わるのである。それを理性の力を使って人為的に終わらそうとするからこそ、凄まじい問題が家庭内で発生してしまうようになるのだ。折角、母乳育児で育てて来たのだから、最後まで楽しい気持ちのままで終わらせてあげれば、大きくなった我が子に世界で最高の素晴らしいプレゼントとなるのだ。

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オムツ取り合戦と寝小便合戦

●「オムツからの卒業」

 「オムツからの卒業」は、もっと前に書いておくべきだったのだが、かなり遅れてから出すことにした。というのは、「オムツからの卒業」で最も苦戦するのは、紙オムツで育った赤ちゃんたちであり、オムツからの卒業が異様に遅れてしまうのだ。布オムツを使って赤ちゃんを育てれば、オムツからの卒業に苦戦することはないからだ。

 基本的にオムツは離乳食を開始する2歳前までに取れるものである。赤ちゃんは母乳を飲んで育っている時は、ウンチは臭くないのだが、離乳食を食べ始めると途端にウンチが臭くなり始めるからだ。しかも、二足歩行を開始すれば、オムツがあれば邪魔になるので、赤ちゃんの方も二足歩行ができればオムツを脱ぎたがるのだ。布オムツで育てたのなら、どんなに遅くても2歳前までに取れるものだし、多くは1歳代のどこかでオムツを卒業してしまうものである。オムツは自然としなくなるものなのだ。

 しかし、紙オムうで育った赤ちゃんはそうはいかないのだ。オムツからの卒業が、大幅に遅れてしまい、2歳代になってもオムツをしているものだし、下手をすれば3歳代になってもオムツをしているものなのだ。布オムツと紙オムツとではどうしてこれほどまでに差が開いてしまったのかというと、それはオムツの構造自体が違うからである。布オムツだと小便をするたびにその小便で膀胱に刺激が行き、赤ちゃんは常に泣かざるをえなくなるからだ。だが、紙オムツだと赤ちゃんが小便しても紙オムツが小便を吸収してしまい、そのために赤ちゃんは小便のたびに泣くことがなくなるので、どうしても膀胱の発達が遅れてしまうのだ。

 オムツが取れるのが、2倍にも3倍にもなってしまうというのは、育児をしている上で非常に大きい。布オムツは面倒臭いものでも、赤ちゃんのオムツが1歳代で卒業してパンツになってくれれば、赤ちゃんのシモの世話がなくなり、育児が途端に楽になるからだ。しかし、紙オムツは当初は楽チンなものであっても、いつまでもオムツの時期が続き、しかもそれだけ余計にお金がかさんでしまうのだ。

 オムツというのは、本来、二足歩行をすることには対応ができていない。オムツは寝たきりになっている者が使うものであって、赤ちゃんといえども二足歩行が始まれば、オムツは邪魔になるのは当然のことなのだ。それなのに2歳代や3歳代までオムツをしていれば、足や骨盤が曲がってしまうのは当然で、子供の頃には症状が出て来ないが、成長するにつれて、「椎間板ヘルニア」や「股関節痛」や「O脚」になったりするのだ。「ガニ股」もオムツからの卒業が遅かったためになってしまったものなのである。

オムツ取り合戦に参加するな

 ウンチをしっかりと便所でできるようになるまで、オムツは必要である。便所でウンチができないのに、絶対にオムツを取ってはならない。母親と子供の間で壮絶なバトルが展開されてしまうからだ。多くの新米ママは、他のママさんたちがオムツからの卒業を試みていることを知って、我が子の現状を無視して、オムツ取り合戦に参加してしまうのだ。

 布オムツで育て、母乳で育てているなら、排便の時期は母乳を飲ませた後だと解っているので、二足歩行が充分にできるようになったら、オマルを買って来て、母乳をあげた後にオマルに乗せて、ウンチをさせればいいのである。しかし、それでオムツが卒業できるのではなく、オシッコはまだまだなので、オシッコもオマルでできるようになったら、オムツは卒業である。

 俺は赤ちゃんがオムツから卒業するのは、このようなものだと思っていた。ところが紙オムツで育て、離乳食が早いとそうはいかないのである。離乳食を早くから食べさせると、ウンチの時間がランダムになってしまうので、排便の時間が正確に掴めないのである。だから、新米ママが赤ちゃんをオマルに乗っけて延々と待つということをしなければならなくなるのである。

 「トイレトレーニング」なるものが必要になるのは、紙オムツで育ててしまった赤ちゃんだけである。ウンチがままならないわけだから、その次のオシッコも巧くいかないものだ。オムツを穿いている時に、小便すれば膀胱を刺激するということをしなかったから、尿意を感じたら、少し待つということができないのだ。小便をしたくなれば、垂れ流しである。

 我が子を紙オムツで育ててしまった場合、オムツ取り合戦には絶対に参加しないことだ。紙オムツならオムツからの卒業が遅れて当然だからだ。トイレトレーニングを延々と行って、ウンチがオマルでできるように仕向けていくことだ。但し、オマルでウンチができたからといって、オムツを卒業させてはならない。オシッコはまだまだなので、パンツにした所ですぐにお漏らしをしてまうのだ。余所の赤ちゃんのことは気にせず、マイペースでやっていくことだ、

●昼のパンツと夜のノーパン

 オムツを卒業して、パンツにすると、四六時中、パンツでいていいわけではない。起きている時はパンツを穿いて、夜はノーパンでいいのである。パンツは母親たちが思っている以上に腰を締め付けてしまうので、睡眠中に骨盤が成長していかなくなるし、血液やリンパ液の流れをも悪くしてしまうのだ。大体、パンツを穿きながら寝かされている子供と言うのは、腰回りが非常に小さくなっているものだ。

 夜はノーパンで寝かせると、骨盤は充分に成長できるし、血液やリンパ液の流れもよくなるので、歩いている際に転倒しにくくなるし、風邪などの病気もひきにくくなるのだ。子供にパンツをつけさせた上で寝かしつけている母親は、自分のパンツをつけて寝ている筈なので、自分もパンツを外してノーパンで寝てしまうことだ。ノーパンで寝ると血流が良くなるので、睡眠中に老廃物や毒素が回収され易くなるので、便秘が解消されるし、お肌は艶艶になるし、体はスリムになっていくのだ。

 夜はノーパンだからといって、昼もノーパンではいけない。昼のパンツは動き易い物にして、小便をし易い物にすべきなのだ。オシャレなどは二の次なのである。子供はパンツの穿き心地が悪いと、すぐに脱いでしまうので、そういう時は無理に穿かせるのではなく、これは穿きにくいパンツなんだなと思うことだ。

 子供は成長が早いので、いつまでも小さいサイズのパンツを穿いておかないことだ。小さいパンツだと骨の成長に悪影響を与えてしまい、骨盤が充分に発達しなくなってしまうのだ。特に女の子の場合、腰には子宮や卵巣があるので、これらの大事な器官が正常に発達してくれなくなってしまうのだ。子供用のパンツは安い物なので、僅かなお金をケチらないことだ。

 女の子の場合、スカートを穿くとパンツを剥き出しにしてしまうので、お尻が冷えてしまうのだ。そのため子供ながらにして便秘をしてくるという事態になってしまうのだ。温かい日にスカートを穿かせるのは構わないが、寒くなってきたらズボンを着用させ、お尻を冷やさないようにすることだ。これをするだけでも便秘は一気に解消されていくのである。

●子供は寝小便をするもの

 子供がオムツを卒業し、パンツになってからするものといえば、寝小便である。これには散々手古摺ってしまうものである。そういうい時は「「子供は寝小便をするもの」と割り切ってしまうことだ。子供の方もこれは意図的に行ったわけではないので、子供が寝小便をしたら、別に叱ることなく、きちんと処理してあげればいいのだ。

 ただ、寝小便対策はしておきた方がいい。まずは、日中に体を動かして汗を流させ、就寝前に水分を補給させないことだ。寝小便は体内に余分な水分があるからこそ、してしまうのであって、体内に余分な水分がなければしないものなのだ。特に就寝直前に水分補給をさせないと、寝小便をしてくる確率は減るものなのである。

 次に体を温めさせることだ。寝小便する子供は体が冷えている傾向にあるので、食事で温かい物を取らせるとか、風呂に入って体を温めるとか、温かいパジャマを着させて寝かせると、寝小便の回数は減るものである。夏は意外と体を冷やしてしまうので、クーラーなどは余りつけずに暮らした方がいいのだ。夏といえどもあ風呂に入らせて、体を温めることだ。

 子供も大きくなってくれば、夜に小便の合図をするようになるので、そういう時は子供にきちんと付き合うことだ。母親としても眠たいから、「自分で勝手に行け!」と言いたくなるのは解るが、子供は暗闇が怖いので、便所に行けないのだ。それで寝小便をしてしまうのである。

 寝小便を頻繁に起こすようであるなら、「銀杏」を食べさせることだ。銀杏は夜尿症を防止するので、子供の寝小便には特に効果があるのだ。銀杏はそのまま食べるのではなく、「茶碗蒸し」にしてたべさせればいい。但し、子供にとっては銀杏は中毒症状を起こす危険性があるので、一日5粒以上を絶対に食べさせないことだ。子供なら銀杏は1個で充分なのだ。

 子供が寝小便をしなくなれば、親の手から離れていくものだ。子供は寝小便をしなくなれば、親から自立し始めていく。それまでが自分の子供が自分の子供らしくいられる期間なのである。それゆえ、寝小便しても激しく叱るようなことはせず、温かい母性愛で包み込んであげることだ。そうすれば、子供が思春期を迎えても、親に得体の反抗をしてこなくなるのだ。

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子供には熱中するまでテレビゲームをさせない ~恐怖のゲーム脳~

●ゲーム脳の恐怖

 子供向けのゲームソフトは、それを販売している日々企業が努力を行っているために、いかなる子供がやったとしても、面白くなるようにできている。勿論、子供も遊びでやる紛にはテレビゲームをやっても構わない。寧ろ、テレビゲームをすることで、脳が刺激され、脳を成長させていくことができることだろう。

 しかし、子供がテレビゲームに熱中し、毎日何時間もテレビゲームをやるようであるなら、それは非常に危険なことなのだ。脳の成長をもたらすどころか、脳を「ゲーム脳」にしてしまい、脳の成長を止めてしまうからだ。ゲーム脳になってしまうと、脳の前頭前野が弱体化し、創造力がなくなってしまうのだ。

 更に人間の脳がゲーム脳になってしまうと、現実への適応力を欠いてしまい、テレビゲームにしか対応できなくなり、現実の生活でのトラブルを爆発的に増加させてしまうのだ。子供の脳がゲーム脳になった所で、子供にとっていいことなど一つもない。せいぜい凶悪犯罪者の予備軍になってしまい、もっと大きくなれば凶悪犯罪を犯すような少年少女になってしまうことだろう。

 母親としては、子供がテレビゲームをやっていると静かにしてくれるので、遂々テレビゲームを与えてしまいがちだ。しかし、子供がテレビゲームをそこそこやるというストッパーを持ち合わせていないのだ。テレビゲームを遣り始めれば、とことんやってしまい、テレビゲーム中毒になってしまうのだ。

 子供の脳は未だ成長期にあるので、子供の脳がゲーム脳になってしまえば、その悪影響は甚大なものになってしまうのだ。どんなにテレビゲームを巧く使いこなしても、それ以外の分野では何もできなくなってしまうのだ。子供は人間関係の仕方を学ばねばならないし、自然との付き合い方を学ばねばならないし、子供らしい頭の使い方や体の動かし方をやらなければならないのだ。これらできなければ、その子供が異常化していくのは当然のことなのだ。

●キレる子供のメカニズム

 子供は一見いつも遊んでいるように見えて、実は本能を鍛えている。子供は食事で満腹になれば、それ以上の物は絶対に食わない。子供は眠たくなればどこでも寝てしまう。子供は便意を催すと、全力をかけて排泄しようとする。これらすべてのことが本能を鍛えるために重要なことなのだ。これらのことは子供が体を動かしているからこそできるのである。子供にとっては体を動かしながら遊ぶことこそ、子供の本当の仕事なのである。

 しかし、ゲーム脳になってしまうと、子供が遊びながら体を動かそうしなくなってしまうのである。だから、本能が弱くなり、感情的になるのだ。確かに子供は時たま感情的になるが、その感情は高が知れたものである。ゲーム脳を持つ子供が感情的になると、もう手のつけられないように感情の爆発を行ってくるのである。

 それに、人間は創造的なことをしていないと、理性が衰えてしまい。物事を論理的に考えるということができなくなるのだ。ゲーム脳は、要はゲームに対する条件反射で鍛えられたものであり、何か物事を深く考えているわけではないのだ。そのために理性が衰えてしまい、普通の子供なら理解できるものであっても、理解できなくなってしまうのだ。

 テレビゲームばかりしていると、行動を起こしていないから、意志が弱くなるのだ。いかなる物事というのは、それをやってみれば失敗の連続だ。何度も失敗して、何度も師試行錯誤を繰り返すからこそ、物事を成功させることができうのである。ゲーム脳になってしまうと、自分が行動を起こしていないのに、頭の中だけで処理してしまおうという性癖が身についてしまうので、何も成功することができなくなるのだ。現実というのは、テレビゲームのように行かないものなのである。

 ゲーム脳を持ってしまうと、感情が乏しく、口数が少なく、物忘れが激しくなる。明らかに脳が委縮してしまっているのだ。こういう子供は自己中心的にしか動けないから、すぐに人間関係でトラブルを引き起こしてしまい、それで感情を爆発させて、キレてしまうのだ。テレビゲームはやってみれば確かに面白い。しかし子供の脳がゲーム脳になるまでやらしてしまえば、本能が衰え、感情や理性や意志が弱体化し、テレビゲームしかできない子供になってしまうのだ。

●ゲーム以外で熱中できるものをやらせる

 テレビゲームほど日本人に悪影響を与えた物は他にない。一番解り易いのが、オリンピックでのメダルの獲得数である。日本でテレビゲームが普及し出すと、それに比例するかの如くに、メダル獲得数は現象の一途を辿ったのだ。このメダルの現象を、「日本人は白人よりも体力が少ない」という人種学的な説明をする人たちがいるものだが、ところが、韓国にしても中国にしても、人種的には日本民族と同じなのに、オリンピックでは善戦して、かなりのメダル数を獲得しているのである。明らかに日本国内で異常なことが子供たちに起こったからこそ、日本のメダル獲得数が激減していったんである。

 その異常なことはテレビゲームの普及以外にないのだ。子供が成長期なのにテレビゲームに熱中しているからこそ、脳や体を鍛えることができず、世界で全く通用しない子供になってしまったのだ。この成長期は二度と帰って来ないので、この時期に脳や体を成長することができなければ、どうやったとしても取り返しのつかないことになってしまうのだ。

 子供がテレビゲームに熱中するよりも、テレビゲーム以外で子供が熱中できるものをやらせることだ。子供は物覚えが早いので、熱中してやらせれば、途端に上達してしまうものなのだ。子供に芸事をさせてしまい、テレビゲームをしている暇をなくしてしまうのだ。そうすれば自宅にテレビゲームがあったとしても、テレビゲームを遊び程度しかやらなくなるものなのだ。

 子供が成長期なのに、テレビの前に齧りついていたら、健康に悪いに決まっているのだ。背骨は猫背になり、筋力を衰え、近眼になっていくことだろう。勉強をやって近眼になったのならまだ同情の余地があるが、テレビゲームをやりすぎて近眼になったら、そいつは余程の馬鹿である。

 子供にはとにかく体を動かさせることなのだ。体を動かしていれば、子供の体は健康に成って、成長していくのだ。子供に芸事を教えることがなぜいいかといえば、子供は芸事を覚えていくに当たって、どうしても体を動かさざるを得なくなってしまい、それが自然と健康に繋がり、成長へと繋がっていくからなのだ。

●19歳までは脳の成長期であることを忘れるな

 この世には大人にとって良くても、子供にとっては悪い物がたくさんある。例えば、「ポルノ」なんかいい例で、大人がポルノを見て性欲を刺激することは良くても、それを子供がやってまったら、途端に悪影響が出て来るのは当然のことだ。子供はまだ判断力が低いために、それを正しく使うということができないのだ。

 女の子なら成長期に化粧品を使いすぎてしまえば、人体に悪影響が出て来るのは当然のことなのだ。肌が成長を繰り返している時に、化粧品を使えば、ホクロやシミになってしまうのは当然のことなのである。素肌を晒しても充分に生きていけるのだから、それで生きていけばいいのである。

 母親は子供といつも一緒にいるために、子供に大人と同じことをやらしてもいいのではないかという錯覚に陥ってしまう。しかし、人間は19歳までは脳の成長期であることを忘れてはならないのだ。子供がテレビゲーム中毒になるかは、その子の親の責任であるのだ。子供には経済力がない以上、その子にテレビゲームを買い与えたのは、その子の親であるからだ。

 子供の心身を健全に育てたいのなら、子供を外で遊ばせることだ。子供は遊んでいる内に、脳も体も勝手に鍛えてしまうのである。子供をより健全に育てたいのなら、幼い内に芸事を習わしてしまうことだ。そうすればその芸事が身につくだけでなく、この世を生きて行く上での人間関係をしっかり学べることができるのである。

 結局、人間は外に撃って出て行かない限り、成長が止まってしまい、その内に心の闇に覆われてしまうようになるのだ。少年による凶悪犯罪が起こるたびに、精神科医たちがその少年の心の闇をなんたらかんたらと言ってくるのだが、その少年の心に心の闇を作ってしまったのは、その子にテレビゲームを与えてしまったその子の親であるのだ。

 子供がテレビゲームに熱中しているのは、異常なことなのだ。成長期には体を動かす遊びをしていくべきなのである。体を動かしていれば、心身ともに健全に成長して行くのである。子供がテレビゲームに熱中させるくらいなら、芸事を教え込んで体を動かさせるべきなのである。そうすれば、その子の脳を正常な形で成長させることができるようになるのである。

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いつの世も子供はアホだと決まっている ~育児を巡る加点主義と減点主義の戦い~

●無知だからこそ知る喜びがある

 嘗て、ジョン・ロックは「人間は白紙状態で生まれてくる」という説を唱え、すべての知識は経験から得られるとして、経験論に基づく哲学を作り上げた。しかし、赤ちゃんの生態が解ってくると、ジョン・ロックの学説は誤りということが明らかになった。赤ちゃんは生まれながらにして泣くこともできるし、オッパイを見つければ吸いつこうとする。そして赤ちゃんには生得観念なんてないと思われていたが、赤ちゃんは明らかに胎内記憶を持っており、ただそれを言葉で喋れるだけ発達していないということに過ぎないのだ。

 しかも、赤ちゃんは自分が「神の世界」から生まれてきたことを知っており、赤ちゃんの肉体は精子と卵子の融合によって出来たものであっても、赤ちゃんの霊的な部分については神によって作り出されたということを知っているのだ。神とか、霊魂とか、宗教とかは、人間が生まれながらにして持っているものなのである。

 ところが、人間は理性の力が強まってしまうと、人間が持つ本能レベルの能力や、生得観念や、宗教の力を否定しようとしてしまう。理性というごく小さな能力だけで世界を認識し、行動しようとしてしまう。これこそが大人と子供の最大の矛盾点であって、子供はまだまだ本能のままで生きており、理性の力だけに頼って生きているわけではないのだ。

 知識という面に於いては、子供は本当に何も知らないものだ。いつの世も子供はアホだと決まっているのだ。無知だからこそ、知る喜びがあるのである。だから、理性が徐々に発達する時期に、子供はなんでも知ろうとする。この貪欲に知識を吸収しようとし出すと、子供は恐怖の「クエスチョンモンスター」に変身してしまうのだ。

 我が子がクエスチョンモンスターに変身すると、とにかくなんでも質問してくる。このなんでも質問して来られると、親は散々に手を焼いてしまうのだ。質問自体が非常識な質問だからだ。例えば、子供から「風ってどうして吹くの?」と質問されたら、どう答えればいいのだろう? こんなことを質問してくる人は自分の身の周りにはいないものだ。「お前は古代ギリシャのソフィストか!?」と突っ込みを入れたくなるくらいだ。

 これを真面目に答えようとすると、「地球は自転しているから、基本的に風は東から西へと吹くんだ。そして太陽の日照時間は四季では異なり、夏は日照時間が長いから気温が高くなって南風が吹くようになり、冬は日照時間が短いために気温が低くなって北風が吹くんだ。風は動けば山や川や谷にぶつかるから、それによって風向きを変動し、しかも家やビルなどの人工物でも変動するから、かなりランダムな形で動くんだ。」という答えが模範解答になる。

 だが、子供がその解答を聞くと更なる疑問が湧いてきて、「どうして地球は自転するの?」と訊いてきたりする。「風はどこにいった? いきなりガリレオレベルに行くな!」と言いたくなるのだが、クエスチョンモンスターになってしまった子供には無意味な反撃である。このエンドレスで続く質問攻撃に、いかに博識の親といえどもヘトヘトになってしまうのである。

●近くにいると欠点しか見えなくなる

 この点、古代人は神様を使って簡単に説明したことだろう。「どうして風が吹くの?」と訊かれれば、「それは神様が風を引き起こしているからだよ」と答えればいいのだ。子供にとってはそれで満足なのだ。時代が下ると、神様だけでは足りなくなって、妖怪をも生み出して、子供の得体に知れない質問に答えたのだ。そうなると、妖怪といえどもも、決して馬鹿にできないのだ。

 要は、子供がクエスチョンモンスターになった時、科学的に答えてもいいし、宗教的に答えてもいいのだ。しかし、子供への受け答えを知っていないと、この手の質問にはうんざりしてしまうものだ。しかも、子供はクエスチョンモンスターになって知識を溜め込んでいくと、今度は恐怖の「謎々モンスター」に変身してくる。子供が考える謎々って本当に下らないものだ。「知識は力なり」と言われるが、子供は知識を持つと悪用し出すものなのだ。

 子供がこの世の疑問点を持ったり、謎々をしてくるのは、脳が成長した証なのではあるが、親の方としては単純には喜べないものなのだ。近すぎると欠点ばかり目についてしまうものなのだ。だから、子供が質問攻撃をしてきたり、謎々攻撃をしてくると、それを否定的に受け取ってしまい、子供の成長を否定するような行動を取ってしまうのだ。

 子供の質問攻撃にうんざりしている母親たちは、夫婦仲も相当に危険になっていると見ておいた方がいい。夫と近くにいすぎるために欠点しか見えなくなっており、夫の言動をも否定しているからだ。夫は夫で、仕事で頭の中を一杯にしているので、妻がネガティブモードになっていることなどお構いなしになっており、夫婦として危険な状態に差し掛かりつつあるのだ。

 近くにいればすべてのことを見通せると思ったら大間違いなのである。例えば日本の知識人の中には、日本に長く住んでいるのに、日本の悪口を言ってくる人たちがいる。かと思えば、海外に短期間留学した程度で日本の悪口を言ってくる人たちもいるのだ。ところが、現実の日本国は、政治的にも安定しているし、経済力はまだまだ豊かだし、治安だっていいのだ。日本に来る外国人が称賛するのは、「和食の美味しさ」であり、「都市の清潔さ」であり、「国民の礼儀作法の美しさ」なのである。日本の悪口を言う知識人たちは、日本の近くにいすぎるからこそ、日本の良さが解らなくなってしまったにすぎないのだ。

●欠点を指摘するより、長所探し

 子供の質問攻撃や謎々攻撃を受けてうんざりしている母親たちは、まずは子供から離れてみることだ。できれば、難病奇病を抱えた子供たちの姿を見て、我が子が健康に育ってくれていることに感謝すべきなのだ。自分が冷静になった上で、我が子を見れば、我が子の長所がきちんと見えてくるのだ。

 母親がネガティブモードになってしまうと、子供の欠点を克服しようと躍起になってしまうものだ。しかし、いくら欠点を指摘しても、子供は決して良くならないのだ。欠点を指摘するのではなく、長所を探し、その長所を伸展させてしまうと、その嫌な欠点を克服することができてしまうのである。

 子供の好きなことを、その子の得意分野にしてしまえばいいのだ。親が子供を褒められるものを人為的に作り出せばいいのだ。芸事なんてのも、習えば得意分野になるから、子供の頃から習い事をさせると、子供の欠点が気にならなくなってしまうのだ。長所を伸ばしていないからこそ、短所が気になって仕様がなくなってしまうのだ。

 育児に悩む母親たちの愚痴というのは、ひっくり返してみると、実は子供にとっては長所だったということもある。例えば、「うちの子はお喋りで~」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は饒舌である」ということなのだ。「うちの子はいつまでも遊んでいる」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は体力があり運動神経がいい」ということなのだ。「うちの子は遊んだ後の後片づけをしない」とかいう母親がいても、冷静に考えれてみれば、「その子供はきちんと遊んだ証拠であり、病気ではない」ということなのだ。

 物の見方を変えるだけで、実はその子供の長所が見えてくるものなのだ。健康に育ってきている以上、その子供自体に問題があるのではなく、その母親自体に問題があるのだ。ネガティブモードで子供を見ているから、ネガティブなことしか見えてこないのだ。まずはネガティブモードを捨てて、ポジティブモードにしてしまうことだ。そうすれば、ポッジティブなことしか見えてこなくなるのだ。

●最低基準と加点主義

 子供の脳を巧く成長させるためには、母親自体が「最低基準」と「加点主義」というものを持たねばならない。子供の成長に応じて、これだけはやってほしいという最低基準を設け、その上で子供の行為に対して加点していくのである。例えば、ご飯を食べる時は、「頂きます」と言い、食べ終わったら、「御馳走様でした」と言うように教える。その上で、嫌いな食べ物を食べたら、大袈裟なほどに褒めるのである。そうやって育児をしていくと、子供は脳を健全な形で高く成長させていくことができるのである。

 これに対して危険なのは、母親自体が「最高基準」と「減点主義」を持ってしまうことである。子供の成長を無視して、最高レベルのものを要求し、それができなければ減点していくのである。例えば、自分がピアノをひけないのに子供に無理矢理にピアノを教え、しかも子供がコンクールで優勝しないと、執拗に怒りまくるのである。こういう母親のもとで育つと、子供は委縮してしまい、「自分は駄目な子なんだ」ということを心に刻み込んでしまい、事実、その通りになってしまうのである。

 子供が可愛いのは、無知だからである。母親から見れば馬鹿な子供ほど可愛いのだ。なぜなら、馬鹿な子供ほど急激に成長する可能性があるからである。人間は他人が成長している姿を見ると心から喜んでしまう性向を持っているのだ。だから、自分の子供にそんな最高基準など要求せずに、もっと基準を落として、どんどん加点していけばいいのだ。加点していけば、子供の方も勢いづいて、グングンと成長していくことができるようになるのである。

 育児をしていく上で、子供には最低限のことは守らせろ。最低基準は誰でも守れるものだからだ。それができないと、いかなる子供であったとしても叱らざるを得ないのだ。しかし、子供に最高基準など要求しなくていいのだ。子供はそんなに高い能力を持っていないのである。それよりも最低基準を守ったなら、どんどん褒めていけばいいのだ。

 加点主義に立脚すると、我が子の人生は上り調子になる。減点主義に立脚すると、我が子の人生は下り坂になってしまうものだ。子供が質問攻撃をしてくるようになると、母親が加点主義に立つのか、減点主義に立つのか明確になってくるものだ。自分が子供のことを叱りつけているようであるならば、減点主義になっていると思った方がいい。子供が間違ったことをしたのなら、叱るべきことは叱るべきだが、それよりも子供のいい所を探して褒めまくることだ。その方が子供の脳は成長していくことができるのである。

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育児に非常に役立つ「爺力婆力の偉大なる力」

●お爺ちゃん、お婆ちゃんは、人生の経験者

 自分たち夫婦には、夫の両親と妻の両親がいるのだから、この連中を育児に於いて巧く使ってしまうことだ。子供の脳の成長にとって「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」は非常に大事な役割を果たすのである。自分たち夫婦はいくら収入が高くても、未だ人生を経験している身である。しかし、お爺ちゃんお婆ちゃんは人生の経験者として自分たちを先行しているのである。

 現在進行形で物事を話すのと、過去形で物事を話すのとでは、全然違う話になってしまうのだ。育児に追われてしまうと、自分の子供に「あれをしなさい!」「これをしなさい!」と命令口調になってしまうものだが、育児を終えた人なら、「何々をしたいんだよね」「何々が欲しいの?」と子供の意見を尊重した話し方になるのだ。

 育児に真面目になりすぎている母親にとってみれば、祖母の遣り方は子供に対して甘い物に見えてしまうし、育児を経験した祖母にしてみれば、母親の遣り方は強権的で見ていられないのだ。この矛盾は解消せずに巧く利用していった方がいい。というのは、これは育児をしている者と育児をし終わった者との違いでしかないからだ。

 子供にしてみれば、自分の両親だけに育てられれば、「親とはこういうものだ」という短絡的な回路しかできあがらないが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいれば、親とは別にもう一つの違う考え方に接することができるのだ。これによって脳が急激に成長して、様々な発想が可能になってくるのである。

 自分がお腹を痛めて産んだ場合、自分の遣り方だけで育ててしまいたいという考えに陥ってしまがちだが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるなら、巧く利用して育児に貢献させよう。自分たちだけの力では足りないものでも、「爺力婆力」(ジリキバリキ)を使ってしまえば、育児に於けるパワーは充分な物となって、育児が楽しいものになり、子供たちも成長していくことができるのである。

●親では話しきれない話をしてくれる

 育児をしている夫婦というのは若い者たちだから、どうしても同じ話を繰り返すということをしたくない。しかし、子供には何度も同じことを言わないと、脳に記憶されないのだ。そのため、母親が普通の大人のように、1回いえば解ってくれるだろうと思っていると、子供は何も解っていないので、母親が子供に怒りをぶつけてしまうことになるのだ。

 それに比べて、お婆ちゃんというのは、歳を取ったせいか、同じ話を飽きずにしてくれるのだ。これが子供の脳の成長にとって非常に大きな成果をもたらしてくれるのである。同じ話を何度もしてくれれさえすれば、いかに聞かん気の子供でも素直に聞いてくれるようになるのだ。要は手のつけらない子供というのは、この何度も同じ話をして、脳に記憶の回路を作ることができなかったからこそ、母親に対して拒否反応を示しているだけなのである。

 子供のいる父親は、今まさに働き盛りに突入して、妻子を養うために、一生懸命に働かなくてはならない。そのため子供との会話というのが、どうしても二の次になってしまうのだ。仕事で全力を使っているために、子供ときちんと会話をするということができないのだ。どうしても子供と他愛のない話をして終わりになってしまうのだ。

 その点、お爺ちゃんというのは、現役だとしても終わりが近づいているし、退職したのなら気楽に暮らしているものだ。そのために、子供にとっては基本的に似たような立場にあって、巧く会話することが可能になるのだ。子供にとって父親とお爺ちゃんの違いはなんといっても、語彙の豊富さである。生きて来た期間が長いために豊富な語彙を蓄積しており、それを口移しで覚えていくことが可能になるのだ。

 いくら両親が真面目に育児に取り組んでも、話しきれない話というのは出て来るものなのである。実際に育児をしている自分たちではなく、育児から離れた現場から意見を言ってくれる人々というのは貴重な存在なのである。子供の方にとっても、両親だけではなく、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるからこそ、ストレスを分散できて、気楽に生きて行くことが可能になるのだ。

●爺力婆力の有効利用

 自分たち夫婦の親が社会的に問題のある人とか、駆け落ちして結婚した場合などを除いてl、子供にとって祖父母がいるなら、それらを積極的に有効利用をしていくべきだ。嫁姑の争いという不毛な戦いを避けることだ。姑には子供を使って仲良くしていくことだ。きついこと言われても、子供のためだと思って辛抱することだ。

 爺力婆力の有効利用としては、育児を具体的に手伝って貰うことだ。自分たち夫婦が忙しい時には、祖父母に子供を預けて、自分たちの仕事に全力を投入してしまうことだ。祖父母はその間に子供と戯れて遊んで楽しめるし、自分たちも仕事を終えてしまうことができるのである。まさに一石二鳥なのである。

 もう一つは、子供を祖父母の家に行かせて、お泊りさせてしまうことだ。子供にとってはいい経験になるし、祖父母も楽しい思い出になることであろう。夫婦にとっても、子供のいない夫婦水入らずの日を人為的に作り出すことによって、夫婦愛を高めていくことができるのである。育児をしていると、会話のすべてが子供の話題になってしまい、夫婦で夫婦のことを話し合うことをしていないのだ。だから、たまには子供の話題は抜きにして、夫婦だけの会話を楽しめばいいのだ。

 親子3人だけで行楽に行くのもいいが、祖父母を連れていくのもいい。行楽の費用を祖父母が負担してくれる可能性が出て来るからだ。それと荷物などを持って貰えるので、行楽を充分に楽しめることができるようになるのである。子供がいれば海外旅行のような大掛かりな旅行をしなくても、近場に出かけることでも楽しめることができるものなのだ。

 子供にとっては、大人というのは、父親母親だけでなく、違う人たちもいて、その人間関係の遣り取りを学べる絶好の機会を与えてくれるのだ。この世は決して自分の思い通りに動いてはくれない。かといって自分の意見が全く無視されるということもない。人間関係を巧く使っていけば、自分の思いは適っていくのである。その訓練をする機会が多ければ多いほど、人間関係のテクニックが向上していくのだ。

●愛は親が育むもの、優しさは祖父母が育むもの

 子供は両親だけで育てられた子と、祖父母も加わって育てられた子では、知能の面に於いては祖父母も加わって育てられた子の方が高くなる。両親以外の大人たちに接したことによって、両親によって作られた脳の回路とは別に、祖父母によって作られた脳の回路が出来上がることによって、しかもそれが相乗効果を起こして、高い知能を持つことができるようになったのだ。

 両親だけに育てられた子供というのは、大抵、気性が激しい子供になってしまう。親が自分を思い通りに動かして来たために、自分の世の中を思い通りに動かそうとしてしまい、それが実現されないからこそ感情的に怒るようになってしまうのだ。即ち生きて行くために人間関係が下手だということであり、その後の人生で様々なトラブルを発生させていくことになるのだ。

 両親だけでなく、祖父母にも育てられた子供というのは、大抵が温和な子供に育ってしまう。両親だけでなく、祖父母の行動をも見ているので、この世は自分の思い通りに動くことはないが、人間関係を巧く使っていけば、自分のしたいことはできるようになるというのが解っているのである。即ち人間関係が上手なので、トラブルを未然に防止して、人間関係を円滑に進めていくことができるのである。

 愛は人に優しくすることもあるが、愛は必ずしも優しさにならないということなのだ。愛は親が育むものであり、優しさは祖父母が育むものなのだ。両親にとっては、子供の成長のことを考えて、愛を注ぎつつも、厳しいこともしなければならないからだ。母親が母親として落ち着くまで、子供に優しくできないものなのである。お婆ちゃんが孫に優しいのは、母親として成熟しているし、何よりも育児を終えてしまったからなのである。

 最近、若い女性に「好きな男性のタイプは?」と訊くと、「優しい男性が好き」と答えてくるものだが、それだけ人に優しくされることなく育ってきてしまったから、男性に優しさを求めるという頓珍漢な態度を取ってしまうのだ。女性であるなら男性には強さを求めるのが当然の姿なのである。祖父母から優しく接して貰えたのなら、男性に優しさなど求めて来ないものなのである。子供の頃に祖父母に優しくされてこなかったからこそ、男性に優しさを求めてしまい、その結果、男性に優しくされないと、すぐさま破局してしまうのである。

 子供というのは、親がいればきちんと育ってくるものである。しかし、親だけでは何かが不足してくるものなのである。その足りないものは他の人に補って貰うしかないのだ。祖父母が生きている内に、孫を連れて行って親孝行をしておくことだ。そういうことが祖父母を喜ばすことになるだけでなく、我が子の成長にも素晴らしい貢献を果たしてくれるのである。

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寝る子は良く育つ ~子供の脳は睡眠中に成長する~

●子供は長い睡眠を必要とする

 寝る子は良く育つ。頭のいい子供は良く寝るものである。充分な睡眠を取らないと、脳を成長させることがないからだ。人間の脳は睡眠中に成長していくので、子供の頃から大人になるまで、充分な睡眠を取っておかないと、脳を高いレベルまでに成長させることができないのだ。頭がいいから寝ているのではなく、寝ているからこそ頭が良くなっていくのである。

 人間の睡眠は人間にとって非常に重要な役割を果たす。まず「体の修復」という作業だ。人間は1日間活動すれば、それだけ体の各所が傷むので、それを睡眠中に修復するのだ。特に血液は睡眠中に生産されるので、睡眠時間が短すぎれば、途端に血液に異常が出て来て、難病を引き起こしてしまう。子供は自分の体の疲労には敏感で、疲れてしまうとすぐに寝てしまうので、子供が眠たくなった時は寝かしてしまうことだ。

 次に「体の成長」である。人間の体は睡眠中に成長ホルモンが分泌され、それによって成長していくことができる。睡眠時間が長ければ身長が高くなるし、睡眠時間が短かければ身長が低くなる。それほど睡眠時間の長短は人間の成長に甚大なる影響を引き起こしてくるのだ。脳も睡眠中に脳細胞が増えていくので、子供を寝かさないと、充分な知能を持つことができないのだ。

 第三に「脳の情報整理」である。人間の脳は睡眠中に不要な情報を捨ててしまい、必要な情報だけを集めようとする。だからこそ、昨日の晩飯ですら覚えていないことになってしまうのだ。それは必要のない情報だからだ。しかし、何か記憶に残るような情報なら、いつまでも覚えていることになる。これを毎日繰り返すからこそ、必要な情報だけを脳内に残していくことにより、高い知能を生み出すことが可能になるのだ。

 電灯が普及して以来、夜更かしをすることが可能になってしまった。ところが人間の体は夜更かしをするようには出来ていないのだ。特に子供の体は成長期にあるので、子供の頃に充分な睡眠を取らないと、ちゃんと成長できないというツケを支払うことになるのだ。子供がいるなら、子供を早くに寝かしつけてしまうことだ。子供に夜更かしなど絶対にさせないことだ。子供は充分な睡眠時間を取っていれば、高い知能を持った健康な体になることができるのである。

●最低必要睡眠時間は9時間、平均睡眠時間は10時間30分

 子供にとって最低必要睡眠時間は9時間である。子供には最低でも9時間の睡眠を必要とし、それ以上の睡眠時間も必要とするのだ。人間の睡眠時間は90分サイクルなので、9時間を超えると、次は10時間30分となる。子供の平均的睡眠時間は10時間30分である。それゆえ、9時間睡眠なら、午後9時に寝かしつけて、起床は午前6時となるし、10時間30分睡眠なら、午後9時に寝かしつけると、起床は午前7時30分となる。

 子供は最低でも9時間睡眠を必要とするので、この時間を下回ってしまうと、病気をし出して来る。子供に病気をさせないためにも、長い睡眠時間を確保してあげることだ。子供は単純なもので、ベッドに入れて、照明を消してしまえば、基本的に寝るものなのだ。巧く睡眠を誘導するテクニックを母親が身につけると、早くに寝てくれるようになるのだ。

 人間の睡眠時間のサイクルは90分なので、このサイクルを無視して、子供を起こすのには無理がある。子供は心地よく目覚めることができれば、早寝をするようになるので、下手な起こし方だけは絶対にしないことだ。目覚めの悪い起こされ方をしてしまうと、寝付きが非常に悪くなるのだ。

 睡眠時間が10時間30分になってしまうと、起床時間が非常に遅くなってしまうので、遂々焦ってしまい、睡眠サイクルを無視して起こそうとしてしまうのだ。最善の起床の仕方は、子供が自発的に起きて来るように仕向けることであって、睡眠サイクルから見て、起床時間だなと思ったら、カーテンを開けるなりして、太陽光の力で起こしてしまうことだ。母親が寝ている子供の体を揺さぶるのは最終手段だと思うことだ。子供の頃から母親に体を揺さぶられない限り起きれないこ子供は、中学生や高校生になったら、遅刻の常習犯になってしまうのだ。心地よく目覚めるという習慣を持っていないから、どうしても起床すること自体が苦手になってしまうのだ。

 子供は長い睡眠時間を取っている上に、更に「昼寝」もするので、1日の大半を睡眠ですごしていることになるのだ。とにかく昼食を食べ終わったら、昼寝をさせてしまうことだ。昼食後は丁度その日の午前中の疲れが出て来るので、昼寝をすることでその疲労を除去してしまうのである。そのため昼寝をする子供は病気に罹りにくくなるのだ。

 但し、子供の中には昼寝が苦手という子供もいるので、そういう子供を無理に寝かしつける必要性はない。そういう子供は夜間の睡眠が深いために、昼食後になっても体の疲労が出て来ないのだ。昼寝をしたくないのであるならば、無理に昼寝をさせないで、遊ばしておけばいいのだ。

●短眠族には気をつけろ

 この世にはいつの時代で短い睡眠を自慢する人たちが出て来る。この手の短眠族には気をつけておいた方がいい。人間は大人になっても基本的に7時間30分の睡眠を必要とするので、この睡眠時間を下回ってしまうと、自分の寿命を削りながら短眠を実現させているということになるのだ。

 短眠のツケは自分が働き盛りの時に如実に現れて来て、高い能力を発揮できないし、いつも精神的に不安定で、人間関係にトラブルを抱えてしまうのだ。人間は睡眠によって情報を整理するので、短眠族になってしまうと、知能を高くすることができないのだ。下らないことばかり覚えているということになってしまうのだ。

 短眠族は芸能人に多い。そのため芸能人は深い思索をすることができず、軽薄なお喋りが達者なだけに過ぎないのだ。芸能人の人気に騙されて、芸能人を凄い人物だと思ってはならない。テレビの視聴時間の長い子供ほど短眠傾向にあるものだが、矢張り芸能人を見て育つと短眠が感染してしまうのだ。、

 父親や母親が短眠族だと、子供にも短眠を押しつけてしまうので、絶対にそれだけはやめておいた方がいい。子供は脳も体も成長の真っ最中であって、この時期を逃してしまうと、取り返しのつかないことになってしまうからだ。両親が短眠族だと身長は低くなるし、頭は悪いし、中には目の下に隈を作っている子供もいるのだ。

 親の方は自分が子供の頃は長い睡眠をしていたという事実を忘れてしまっているのだ。大人になってから短眠族になれたとしても、子供の頃はそうではなかったのだ。子供は長い睡眠時間を取らない限り、健康的に成長していくことができないのである。親と子供の睡眠時間が違って当たり前なのだ。この事実を絶対に間違えないことだ。

●質の良い睡眠を得るために

 子供に質のいい睡眠を取らせるなら、日中に遊ばして、体を適度に疲れさせておくことだ。また、頭を使うゲームなどをやらせて、脳も適度に疲れさせておくことだ。子供は日中に活動していれば、夜になれば自然と寝てくれるのである。子供がなかなか寝付かないのであるならば、それは運動量が不足しているだけなのだ。

 牛乳には質のいい睡眠をもたらす物質が入っているので、夕食時に「ヨーグルト」や「チーズ」を出すとか、夕食後に「ホットミルク」を飲ますなりして、牛乳や乳製品をしっかりと取っておくことだ。これをやると深い睡眠を取ることが可能になるので、子供の寝付きも良くなるし、目覚めも良くなるのだ。

 子供は寝像が悪いので、パジャマに関しては特に気をつけることだ。意外と運動性能のいいパジャマにすべきだし、お腹が出ないようなパジャマにするべきだ。寝汗をかくので、普段着では絶対に寝かせないことだ。使用したパジャマは翌朝には脱いで、洗濯することだ。パジャマを洗濯もせずに連チャンで使用しないことだ。パジャマは1着だけではなく、何着か持っておくことだ。

 子供はベッドに連れて行ってもすぐさま寝ることがないので、リラックスした気分で、子供の話を聞いてあげることだ。子供は母親に自分の話を聞いて貰えると、安心するのだ。そして、絵本を読んで話を聞かせれば、子供は眠りについてしまうのだ。この辺りのテクニックは、毎晩、練習して腕を磨くことだ。

 子供が寝たら、それからは母親にとっての自由時間だ。子供に邪魔されず、自分のために何かをすればいい。それとも、子供と一緒に寝てしまい、早起きしてしまうのもいい。要は子供を早く寝かしつけてしまえば、自分の自由時間が確保されるということなのだ。「育児が大変で~」という母親たちは、この辺りの時間の使い方が非常に下手なのである。子供の寝かしつけは、毎晩ある作業なので、何度も工夫して上達させていくことだ。そうすれば、育児など簡単になっていまい、育児が楽しくなるのだ。

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天井の高い家は大物を産む

●日本人の身長と日本の家屋

 子供の知能の発達と自宅の天井の高さには深い関係がある。天井が高ければ知能が高く、天井が低ければ知能が低くなってしまう。天井の高い家は大物を産み易いし、天井の低い家は小物を産み易い。育児をする時は、自宅の天井の高さには充分に注意を払っておくことだ。

 そもそも日本の住宅と言うのは、床に座って生活することを想定しているために、天井が低すぎるのだ。しかも、現代の日本人の身長は、日本の歴史の中で最も高い身長になっているので、当然に日本古来の住宅に合わなくなってしまっているのだ。現代の日本人の身長に合わせた住宅を作っていかねばならないのである。

 現在の日本人の生活スタイルは室町時代に出来上がったものだ。室町幕府は意外と礼儀作法にうるさかった時代で、しかも室町時代には征夷大将軍になった足利義政が天才的芸術性を発揮して、「書院造り」という洗練された家屋を作ってしまったのだ。金閣寺は金持ちの悪趣味にすぎないが、銀閣寺はその洗練された美的感覚を散りばめた凄い作りになっているのだ。その室町時代の生活スタイルが、応仁の乱と共に全国各地に飛び火して、現在までに続いているのだ。

 しかし、室町時代は日本人の身長が最も低くなった時代である。気温が下がり続けたために農作物の収穫量が少なく、そのために身長が低くなり、しかも内戦を連発させたので、身長の高い人物たちが先に死んでいってしまったのだ。そのため、甲冑も鎌倉時代に比べて小さくなっているし、家屋も鎌倉時代の物より小さくなってしまったのだ。

 現在、借家住まいで親子3人でいるなら、いくらでも住居を変えることができるので、住宅を変える際は、天井の高い家というのを基準として加えることだ。身長が高くなり、しかも机と椅子の生活をしているために、天井の低い家ではまともな生活ができなくなってしまうからだ。父親が頭を下げて暮らさざるをえない家では、我が子が大きくなってきた時に、我が子も父親と同じように頭を下げて、身を縮めながら生活をせざるをえなくなってしまうのだ。そうなれば姿勢は悪くなるし、近眼にもなってしまう筈だ。

●思考は酸素量に比例する

 思考は酸素量に比例する。酸素量が多ければ多いほど、いい思考ができるというものなのだ。酸素量が少なければ、碌な思考しかできなくなってしまうのだ。自宅の酸素量は、天井の高い家ほど多く、天井の低い家ほど少ない。こんなこと既に解りきったことだ。そのことが人間の思考にまで影響を及ぼしてくるのである。

 人混みの多い都会ではアイデアが生まれにくいが、森林に囲まれた別荘では斬新なアイデアが生まれ易い。これも酸素量によって人間のアイデアに変動をもたらした結果なのだ。いくら都会が便利だからといって、いつも酸素量の少ない都会だけに暮らしていては思考が衰えてしまうのだ。たまには自然の中に入っていって、新鮮な空気を吸いまくって、体をリフレッシュさせることだ。

 因みに、俺はこの『幸せ色の出産ラブストーリー』を天井の高い場所で構想を練っている。仕事場になっているビルで、主に2階で書いているのだが、2階のフロアは3階の部分が吹き抜けになっているので、非常に天井が高くなっているのだ。1階でも机があるので、そこで構想を練ってもいいものなのだが、1階ではなんとなく構想を練る気がせず、資料置き場になってしまっているのだ。天井の高い2階だと、いくらでもアイデアが浮かんできて、ネタが尽きることがないのだ。

 天井の高い家は常に解放感がある。小さなことには拘らなくなり、重要なことだけに着目していくことができるようになるのだ。そのため、小さな家に住んでいると、母親は我が子の些細なことまで指摘してしまい、子供を委縮させてしまうのだ。しかし、大きな家に住んでいると、母親の方が些細なことを指摘しなくなり、しかも子供の方が重要なことしかやらなくなるので、母親が怒る回数が激減するのである。 

 特に冬は寒さのために窓を締め切ってしまい、その上に暖房器具によって酸素が奪われてしまうので、親子3人が自宅に居る時は思考力を低下させ、イライラしないように気をつけることだ。些細なことで我が子を怒鳴りつけてしまったり、夫婦喧嘩に発展してしまったりするからだ。冬は寒くても、きちんと換気をして、酸素量が少なくならないようにすることだ。

●空白のスペースがあるということ

 天井が高い言えば、居住面積も多い筈だ。そうなれば自宅の中に空白スペースがあるものである。この空白のスペースがあるということが、子供の知能の発達にいい影響を与えるのだ。自宅に空白のスペースがあれば、子供はその空白のスペースを埋めようとしてくるのだ。例えば、自宅が広ければ、いくらでもオモチャを置けるが、自宅が狭ければ、新しいモチャなど買えなくなってしまうのだ。

 自宅に空白があるからこそ、そこを埋めたくなる。だから、空白スペースは子供の想像力を掻き立てるのだ。新築の家で育つと想像力の逞しい子供に育つものだ。驚異的な知能指数の高い子供は、大抵が新築の家で育った子供たちである。なぜなら、自宅が古ければ家財道具で一杯になっているので、想像力を鍛える場がなくなってしまうのだ。せいぜい伝統的な生活を受け入れることしかできなくなるのだ。それに対して新築の家なら家財道具が少ないから、子供にとってはいくらでも想像力を鍛えることができるのである。それが知能指数の高さとなって現れてくるのだ。

 しかし新築の家が何もかも素晴らしいというのではない。新築の家を資金の問題で小さな家にしてしまい、それを家財道具で満杯にしてしまうと、子供が精神的におかしくなるのだ。子供は新築の家なのに想像力を鍛えることができないし、かといって伝統的生活を受け入れることもできないので、思考が異常な方向に行ってしまうのである。

 新築の家を建てる時は、資金を最優先して考えないことだ。多くの夫婦がこの遣り方をするからこそ、碌でもない住宅しか作ることができないのである。資金のことは一旦忘れて、自分たち家族がどのような家に住めば幸せに暮らしていけるかを考えることだ。その夢の実現のためにお金が要るのであって、そういう夢を思い描くことができれば、資金はついてくるものなのだ。

 新築の家は満杯にはしてしまわないことだ。どこかに空白のスペースを作っておくことだ。どうしても空白のスペースがない時は屋根を高くして、屋根裏部屋を設けて、そこを空白のスペースにしておけばいいのだ。物事というのは、完成すると同時に崩壊が始まるのだ。自宅のどこかを欠けさせて、未完成の家にしておくことだ。この配慮こそが家族に幸せをもたらすのだ。

●気付いてみれば、都会は小物ばかり、田舎は大物ばかり

 現在、マスコミは「貧富の格差」を煽っているが、貧富の格差よりも恐ろしいのが、「天井の格差」なのだ。現在の日本はデフレ経済なので、物価は下がり続けているので、いくら低所得者でも贅沢をしなければ暮らしていけるのだ。低所得者なのに、1日3食の食事を取ったり、新聞を定期購読したり、働きもせずにテレビを見ているからこそ、いつまでも貧乏なのである。食事は1日2食にし、新聞を読むのをやめ、テレビを見ている時間を労働する時間に充てたら、貧困は克服されていくものなのだ。

 しかし、天井の格差は貧富の格差を超越して、襲ってくるものなのである。都市部では地価が高いために、しかも建築基準法や様々な規制があるために、大きな家をきちんと作っていくという発想ができずらくなってしまったのだ。ワンルームマンションなどは絶対に禁止すべきであるし、家族用のマンションならクローゼットや納戸などない住宅は絶対に禁止すべきなのだ。いくら高額所得者でも、粗悪なマンションンに住んでる人たちは多々いるものなのである。

 貧富の格差はいつの時代でもあるのだから、その格差を無謀にも解消しようとするのではなく、お金持ちたちが立派な家屋に住んで、優雅な暮らしをすべきなのである。金持ちたちがそのような生活をしていれば、お金が世の中を巡るようになって、貧乏人たちにもお金が巡ってくるものなのである。しかも、貧乏人たちにとっては、自分が豊かになった時に、どのような生活をすればいいかが解るようになるので、勤労意欲が湧いてくるというものなのだ。

 都会にはお金が豊富にあるのだから、住宅も大きな物にすればいいのに、国会議員や学者やマスコミたちが貧富の格差を是正しようと躍起になっているために、お金があるのに狭い住宅に住んでいるのだ。だから都市部で育ってくる人間はみな小物ばかりなってしまっているのだ。大志を抱かずに、堕落的な快楽に溺れて、退廃の極みに達しているのだ。

 それに比べて、田舎では貧富の格差に気兼ねすることなく、住宅を大きくすることができるので、大物が生まれて来易いのだ。特に北海道のように寒さの関係上、どうしても住宅を大きくしなければならない地域では、当然に大物が生まれて来易いのだ。このまま行けば、北海道から救国の英雄が生まれて来て、いずれ日本は北海道出身者たちによって歴史を大きく変革させられることであろう。

 嘗て日本史には住宅の変動こそ、時代の変革に繋がったということがあった。戦国時代は近畿が政治的にも経済的にも優位に立っていたのに、近畿圏外の尾張から織田信長が起こって来て、時代を変革させられている。尾張では戦争が続いたために、古い住宅が破壊されてしまい、新しい大きな住宅を作ることができたから、大物たちが続々と出現してきたのだ。

 明治維新では古い江戸の街並みの中に、西ヨーロッパ風の建物を建設していくことで、江戸時代では見られなかったような優秀な人材を生み出していくことが可能になったのだ。これが近代日本の発展を支えたのである。江戸幕府は庶民向けに都市政策をすることがなかったが、これだけ人口が密集して住むなら、政府による都市政策は絶対に必要なのである。

 だからこそ、「都市部は住宅を大きくし、天井を高くすべし」なのだ。小さな住宅や天井の低い家は取り壊していき、大きな住宅や天井の高い家を作っていくべきなのだ。日本の首都である東京にしても、その街並みは余りにも汚すぎる。今では世界一美しい首都であるといわれるパリも、その昔は非常に汚い街並みで、それをフランス帝国皇帝ナポレオン3世の政権の時に現在のように美しい街並みに作り変えているのだ。美しい都市を作るためには、強力な政権が必要だということだ。生活は個人レベルで解決できるものでも、都市政策は個人レベルではどうしようもないのだ。我々は「日本の首都を世界一美しい首都にする!」という目標を持った、強力な政治指導者を選び出し、その者に都市計画を実行させるべきなのである。そうすれば、日本の首都は世界一美しい首都になることができるのである。

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食事の習慣と運動の習慣で子供の脳を発達させよ

●栄養バランスが整うと礼儀作法も整う

 子供に与える栄養バランスが整うと、脳がきちんと成長できるようになるので、精神が安定化してくる。精神が安定化してくれば、育児は非常に楽しいものになってしまう。しかし、子供に与える栄養バランスを欠き、脳がきちんと成長できないと、精神が不安定化してくる。精神が不安定になれば、育児は苦しみだらけになってしまう。幼児であるならば、母親が与える食事で大いに変動してくるので、とにかく栄養バランスの整った食事を出すことだ。

 子供に栄養バランスが足りているのか否かが一発で解る基準がある。それは食事の際の礼儀作法がきちんとできているか否かだ。子供は親の食べている姿を見よう見真似で真似ていくので、栄養バランスが悪い場合、両親自体が礼儀作法を守らない食事をしているので、子供がすぐに悪い礼儀作法を真似てくるのだ。食事の際に子供の礼儀作法が悪い場合、子供だけが悪いのではなく、その親も相当に悪いのである。

 我が子にきちんとした礼儀作法を守らせたいのなら、栄養バランスの取れた食事を作って、食事の際に礼儀作法を守ることは、この食べ物を作ってくれた人や、この料理を作ってくれたお母さんに感謝を捧げることなのだということを教え込むことだ。「感謝をしないと食べられないんだよ」と教え込んでしまえば、子供は真面目になって礼儀作法を守るものなのだ。

 食事はただ礼儀作法を守って料理を食べればいいのではなく、会話をして情報交換をきちんとしておくことだ。会話は母親が話そうとしない限り、子供は話して来ないものだ。日常の些細なことを訊いたりして、話を引き出して、話を盛り上げていくことだ。子供は頓珍漢な返答をしてきたとしても、それを切っ掛けに笑いを取ってしまえばいいのだ。そうすると会話が弾み、子供も食べ物に好き嫌いなく食べることができるようになるのである。

 食事の際の会話を楽しいものにするためにも、料理を食べる時は音を立てて食べないことだ。食事で音を立てて食べると、どうしても会話が盛り上がらなくなってしまうのだ。しかも、音を立てて食べると、食べ物と一緒に空気が入ってしまうので、消化吸収にとって非常に悪いのだ。日本人には胃に関する病気が多いのだが、これは音を立てて食べる習慣があるからなのである。

●良く噛む習慣こそ脳を鍛える

 食べ物を口に入れた際は、一旦箸を置いて、一口三十回以上噛ませることだ。良く噛む習慣こそ、脳を鍛えることになるからだ。幼児は母乳を飲む習慣がまだ完全に抜けきっていないので、食べ物を噛まずに飲み込む習慣を取ってしまうのだ。そのため、母親が人為的に咀嚼の習慣を覚え込まさないと、どうしても食べ物を噛まずに飲んでしまうのだ。

 子供の好きな食べ物は、「カレーライス」や「ハンバーグ」のように別に大して噛まなくても、飲み込めてしまう料理なのだ。子供が好きだからといって、柔らかい料理ばかりを出していたら、咀嚼する習慣を身につけてくれなくなるのだ。子供のためにも、敢えて咀嚼せねば食べられない料理を出すことだ。

 白米や白パンは固くないので、子供はどうしても噛まずに飲み込んでしまうのだ。白米ではなく玄米、白パンではなく黒パンを勧めるのは、何も栄養価がいいだけでなく、咀嚼しなければ食べられないからなのだ。無精白穀物であるなら、咀嚼しない限り食べることはできないのだ。

 充分に咀嚼できるためにも、食事の時間を長めに設定しておくことだ。食事の時間が短いからこそ、子供は充分に咀嚼をせずに飲み込んでしまうので、食事の時間を長めに確保しておけば、咀嚼してくれるようになるのだ。とはいっても、日中は慌ただしいので、朝食や昼食は量を少な目にして、後は就寝しかないという夕食を豪華にすれば、子供は咀嚼してくれるようになるのである。

 食事で固い食べ物を出すと同時に、食事以外の時にガムを噛ませることだ。ガムを噛むことによって咀嚼していれば、自然と顎は鍛えられ、脳に大量の血液が流れ込み、脳を発達させることができるのである。ガムは勿論シュガーレスタイプの物で、絶対にガムを飲む込まないようにさせ、噛み終わったガムは銀紙に包んで捨てる習慣をつけさせることだ。子供の脳の成長期にガムを噛ませることは、脳の発達のために甚大な効果をもたらしてくれるのである。

●運動の習慣

 子供は栄養バランスが整い、礼儀作法を守って食事をし、良く噛んで食べるようになると、きちんと運動をするようになる。子供がはしゃぎ回るのは、要は体が軽いからこそできるのであって、子供の頃はとにかく運動しまくるものなのである。その大切な時期に、外で遊ばず、自宅で遊ぶような子供であるなら、それは栄養バランスが非常に悪いということなのである。子供はとにかく外に連れ出して遊ばせることだ。遊んでいれば自然と体の各機関が鍛えられ、充分な体力を持つことができるようになるのである。

 脳の発達ばかり注目するのではなく、「体力が脳力を作り出す」という視点を持つことだ。体力がありさえすれば、自然と脳は成長していくことができるのである。子供の体力を鍛えずに、脳だけをいじくっても、それは不自然な成長しかしてこないものなのである。脳の成長と体の成長はセットなのだということを決して忘れるべきではないのだ。

 子供を外で遊ばせておけば、日が暮れる頃にはお腹をすかせてくるので、それから夕食を作れば、子供は好き嫌いを言うことなく、出された物をちゃんと食べてくれるようになるのだ。子供が食べ物の好き嫌いを言うようであるなら、ただ単に運動不足なのだと思った方がいい。空腹になれば、嫌いな食べ物でも食べざるをえず、結局、その嫌いな食べ物を克服してしまうのである。

 子供は2歳や3歳の時点で急激に脳を成長させてくるので、この期間に体がヘトヘトになるまで体を動かしてあげると、脳はよりレベルの高い成長を遂げることができるようになるのである。子供と一緒に外出して、帰りには子供は疲れて寝てしまうというのは、親として理想の外出なのである。

 子供がいると、子供を連れてハイキングに行きたくなるものであるが、これは親の方が無意識レベルで子供を鍛えたいと思っているから、どうしてもハイキングに行きたくなってしまうのだ。そういう時は、子供を連れてハイキングに行ってしまうことだ。ハイキングに行けば、子供は日常生活での運動量を遥に超えて、体力を充分に発達させることができるのである。

●「タダの大人に終わる神童」と「後世に名を残す神童」

 人間の脳力というものは大抵がスタートダッシュで決まってしまう。才気煥発な人は、子供の頃から才気煥発な子供だったのである。勿論、例外もあっても、子供の時は馬鹿でも、大人になれば突然に脳力を発揮してくる人もいるし、逆に子供の時は神童でも、大人になればタダの人に終わってしまう人も出て来る。

 19歳までは脳の成長期に当たるので、いくら幼児の段階で頭が良くても、小学生の頃にきちんとした基礎教育を受けねばならないし、中学生や高校生の頃は不良の道に走らず、自分で努力して勉強する習慣を身につけないと、高い知能を持つことはできないのである。

 だから、子供の頃に馬鹿でも、中学生や高校生になって一念発起して、自分で勉強する習慣を身につければ、高い知能を持つことができるのである。逆に子供の頃は神童でも、小学校の基礎教育の仕方が悪かったり、中学生や高校生の頃に遊び呆けてしまえば、タダの大人になってしまうのは当然のことなのである。

 子供の知能のために、親が出来ることというのは、本当に基礎的なことだけなのである。子供に栄養バランスの整った食事を出し、食事の際は礼儀作法を守らせ、会話をきちんとさせ、咀嚼の習慣を持たせ、思いっきり運動させることなのである。こうしておけば、母親として最低限の役割は果たした筈なのである。後は学校や本人に任すしかないのである。

 母親が食事と運動を軽視すると、子供の頃は神童であったとしても、大人になればタダの大人になってしまうのだ。栄養バランスが崩れていたり、礼儀作法が悪かったり、会話を充分にすることなく、良く噛まずに食べたり、運動をしないような人だと、年齢が上がるごとに馬鹿になっていくのだ。

 これらのことは、大人になっても非常に重要なことなのだ。栄養バランスが崩れてしまえば、大した能力など発揮できないのである。礼儀作法を守らなければ、会話が弾まないので、情報不足に陥ってしまう。良く噛まずに食べていれば、脳が鍛えられないので、思考が硬直化していくのだ。そして仕事いうのは、最終的には体力勝負になるので、運動不足になってしまえば、仕事で敗北することが確実になっていくのだ。

 我が子を健全に育てたいのなら、まずは親の方が健全な生活を営んでおくことだ。正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていない親に、まともな育児ができるわけがないのだ。親が正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていれば、子供は自然とその習慣を受け入れてしまい、高い知能と強靭な体力を持つことができるようになるのである。

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子供の知能を高くする「賢脳食」

●脳は脂肪でできている

 我が子を頭のいい人間の育て上げたいのなら、ただ単に漠然と願っていては実現しない。我が子に賢脳食を食べさせることによって、我が子の脳を賢いものに仕向けてはいかねばならないのだ。人間の脳は19歳まで脳そのものが成長していくので、幼い時から賢脳食を食べさせていたら、その子は賢い脳を持てるというのは当然のことなのだ。

 まず、脳は脂肪で出来ているというこを知っておこう。女性は肥満を気にする余りに、脂肪を目の仇にしてしまうのだが、脂肪を極端に減らす食事は脳に非常に悪い食事になってしまうのだ。しかも、脂肪は炭水化物よりも高エネルギーを発してくるので、この脂肪を食べないと、どうしてもパワーが出て来なくなってしまうのだ。毎日の食事で適量の脂肪を摂取していくことが、脳そのものの容積量を増やすことになるのだ。

 脂肪は「植物性脂肪」と「動物性脂肪」の2つがある。大まかに言ってしまうと、植物性脂肪は安全で、動物性脂肪は少量なら対応できるが、大量に食べてしまうと危険な脂肪である。脳の容積量を増やしたいのなら、せっせと植物性脂肪を摂取していくことだ。植物性脂肪は「クルミ」「アーモンド」「ナッツ」「落花生」「アボガド」「豆類」「植物油」などに多く含まれている。特に豆類は高品質の植物性脂肪なので毎日に食事に必ず出すようにすることだ。木の実類は常に自宅に確保しておいて、食後にポリポリと食べさせればいい。

 植物油は「オリーブオイル」がお勧めである。オリーブオイルは木の実を絞って出来た油なので、植物油の中で最も品質がいいのだ。オリーブオイルを多目に使う食習慣を確立しておけば、脳にとって非常にいいのだ。古代ギリシャ人たちはオリーブオイルを大量に食べることで文明を起こしたことを決して忘れるべきではない。その他の油は「ゴマ油」「菜種油」「紅花油」などがお勧めである。油の中で「サラダ油」は絶対に使用しないことだ。この油は危険な油なので、血管をボロボロにしてしまうのだ。

 動物性脂肪は「魚の脂」「玉子」「肉の脂肪」「牛乳」「乳製品」などである。動物性脂肪の中でも、魚の脂は最も安全なので、魚を大量に食べさせて行くことだ。玉子も子供の時分から食べさせておくと、頭がいい子供になる。肉の脂肪は野菜をきちんと取っているなら、それほど心配するものではない。但し、霜降り肉のように人為的に脂肪を多くしてある肉は危険なのである。肉の中にビタミンが極端に少なくなっているので、この肉を食べ続けていると、若くして動脈硬化が起こりかねないのだ。

 牛乳はカルシウムが多いだけでなく、牛乳の中にある脂肪が腸内での進行を遅くしてくれるために、牛乳の栄養分の多くを吸収させてくれるのである。だから、牛乳を飲むと身長が高くなるのである。牛乳をそのまま飲ますより、より進行速度が遅くなる「ヨーグルト」にした方がよりいいのだ。それ以外にも「バター」や「チーズ」を食べると、脳の容積量を増やすことができる。

●脳のエネルギーは炭水化物

 脳のエネルギーになるのは炭水化物である。炭水化物も無精白穀物が最も優れたエネルギーになる。無精白穀物に含まれるビタミンやミネラルが、炭水化物を消化吸収する際に体に異常を起こさずに脳に送られることになり、しかも長時間に亘って血糖値が高く持続するので、脳が安定的にエネルギーを確保し続けることができるのである。炭水化物を脳に送るためには、ビタミンB1が必要となるので、無精白穀物とビタミンB1をセットにした食事を取ればいいのだ。

 お勧めは「押麦入り玄米食」と「味噌汁」のコンビである。押麦と玄米を半々の割合でいれると、最も栄養バランスが整うので、玄米だけを食べるより栄養価が高くなるのだ。そこに味噌汁を持って来れば、完璧な食事となるのだ。味噌汁は大きなお椀に入れて、多目に飲ますことだ。その方がビタミンB1を確保できるので、脳が高度に機能し続けることができるようになるのである。

 パンを食べるなら、「黒パン」と「チーズ」のコンビがお勧めである。白パンは精白穀物を使っているから危険なだけでなく、脱脂粉乳を使っているので、より危険なのである。脱脂粉乳は基本的に家畜の餌なので、人間が食べるべきものではないのだ。日本では長らく牛乳を飲む習慣がなかったために、酪農の常識を完全否定する野蛮なことをやってしまうのだ。黒パンを作っているようなパン屋は本格的なパン屋なので、その店で安全性の確保されたパンを購入することだ。

 麺類は米食やパン食ほどに拘らなくてもいいが、できれば「黒パスタ」「玄うどん」「玄蕎麦」を食べるようにすることだ。オリーブオイルをしっかりと絡めた黒パスタを食べると、頭の回転はまるで違ったものになって来るものなのだ。麺類の中でも最も頭を良くするのは、「お蕎麦」なのであって、お蕎麦は定期的に食べておいた方がいい。但し、お蕎麦の料理はビタミンB1が不足しているので、お蕎麦と共に豆料理を出してビタミンB1を補っておくことだ。

 お菓子を作る際は、「黒砂糖」や「蜂蜜」や「メイフルシロップ」を使うことだ。これらの甘味料を使っていれば、子供の脳も健全に成長していくことができるのである。白砂糖こそ子供の脳を破壊する危険な甘味料なので、絶対に避けることだ。子供の頃から安全なお菓子を食べていれば、危険な甘味料を使ったお菓子を食べても何か不自然に感ずるようになって、余り食べなくなるものなのである。

●頭の回転を良くするレシチンとグルタミン

 子供の頭の回転を良くしたいのなら、「レシチン」を食べさせることだ。レシチンは脂肪で脳細胞や神経細胞を増加させる重要な役割を果たす。レシチンをしっかりと食べておくと、記憶力が増大するので、子供特有の物忘れの激しさもなくなってしまうのだ。レシチンは「大豆」や「玉子」や「ゴマ」に含まれているので、毎日の食事に出すようにしておくことだ。

 因みに、関東勢が関西勢を圧倒することができるようになったのは、納豆を大量に食べ続けたからなのである。昔は農家では納豆を作ったものだし、都市部でも納豆屋が納豆を売りに歩いていたのだ。いかに関東の人たちが納豆を食べたかが解る。納豆は発酵させてあるので、レシチンの吸収がよりよくなるので、非常に頭が良くなるのである。

 「グルタミン」も脳の燃料になり、脳の疲労物質を取り除く重要な役割を足すことになる。グルタミンは蛋白質で、知能を高くする機能をも兼ね備える優れた蛋白質なのだ。グルタミンは小麦に多く含まれているので、小麦を多く食べると、自然に頭が良くなる。お米にはグルタミンが少ないので、お米を食べている人が、小麦を食べている人と争っても、知能の面で絶対に負けてしまう。古代四大文明はすべて小麦を食べて民族によってつ作られたという歴史的事実を決して忘れるべきではない。

 グルタミンは小麦の他に、「お麩」「海藻」「大豆」「ゴマ」「アーモンド」「落花生」に含まれている。ワカメの味噌汁にお麩を入れれば、最強のグルタミンスープの出来上がりだ。ご飯を食べる時は、擦りゴマをかけて食べるようにすれば、知能を高くすることができる。アーモンドや落花生はオヤツの時に出してたべさせればいい。

 解り易く言うなら、植物性脂肪や植物性蛋白質の方に、実は頭を良くする栄養が含まれいるということだ。動物性脂肪や動物性蛋白質は、高エネルギーを発してくるために頭が良くなったような錯覚に囚われてしまうが、ただ単に高エネルギーによって脳の活動を活発化させただけであって、知能が高くなったわけではないのだ。知能を高くしたいのなら、せっせと植物性脂肪や植物性蛋白質を摂取していくことだ。

●定期的に夕食を適度に栄養過剰にすること

 個別的な栄養学的知識とは別に、食事パターンを巧く使って、子供の知能を高めてしまうことだ。朝食や昼食を大量に食べさせても、日中の活動でその殆どのエネルギーが消費されてしまうものだが、夕食は食べてしまえば後は寝るだけなので、その食べた物がそのまま体の修復や成長に使用されるのだ。

 それゆえ、定期的に夕食を適度に栄養過剰にすることだ。飽くまでも定期的に適度の栄養過剰にするのであって、本格的に栄養過剰にしてはならない。要は朝食や昼食は少なくても構わないが、夕食だけを多目に摂取しておけば、体に無理をすることなく、知能を高めさせることができるのである。

 時たま、夕食だけは「高炭水化物」「高脂肪」「高蛋白質」にしてしまえばいいのだ。それだけ栄養過剰になっているので、野菜を多目に摂取してビタミンも過剰にしておくことだ。こうすると、過剰な栄養が体の修復のために使われるエネルギーを上回って、体の成長のために使用されるのだ。

 子供は食事を食べ終えても食休みをなかなかしてくれないので、夕食を大量に食べさせることで、食休みをしてくれるように仕向けるのだ。食後に15分以上は休んで貰わないと、胃や腸に血液が充分に送られず、消化がきちんとなされないのだ。食休みをしっかりと取っておけば、消化がきちんとなされ、より高いレベルで吸収がされるようになり、体は高い栄養素を持つことができるようになるのである。

 我が子に頭が良くなってくれることを願っているのに、自宅ではジャンクフードを食べさせ、白砂糖を使ったお菓子を食べさせていては、子供は知能を高くすることができないのだ。母親が我が子に最大限できることは、安全な食事を与えるということなのである。安全な食事を食べていれさえすれば、知能を高めていくことができるのである。できれば賢脳食を与えれば、驚異的に高い知能を持つことができるようになるのである。我が子の高い知能は母親の母性愛なくして決して生まれて来ないのだ。

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我が子の頭を良くさせたいのなら、空腹を味合わせよ ~空腹は知能を発達させる~

●満腹は頭を悪くする

 自分の子供を賢い人間に育てたければ、空腹を覚えさせることだ。人間は空腹になれば頭が良くなる。空腹になれば、脳に血液が集中するので、脳細胞が活発化するのだ。人類の歴史は飢饉が当たり前であったので、空腹になると血が騒ぎ、脳を進化させようとし出すのだ。

 逆に我が子を頭の悪い人間に育てたければ、満腹を覚えさせることだ。人間は満腹になれば頭が悪くなる。満腹になれば、脳に血液が行かなくなるので、脳の機能が衰えてしまうのだ。人類の歴史は飽食に慣れていないので、満腹になってしまうと、脳が退化していってしまうのだ。

 子供を育てていれば、すぐに食べ物を欲しがるのだが、それに付き合って食事やオヤツを出していては、子供は馬鹿になっていくだけなのだ。育児をしているなら、美味しい料理を作る努力をしつつも、人為的に空腹を作り出す努力もしなければならないのだ。子供に空腹を味あわせた上で、美味しい料理を出すようにするのだ。

 子供に空腹を覚えさせると、免疫力も高くなって病気をしにくくなる。白血球は血糖値が低下した時に最も効率良く働くようになるので、空腹によって血糖値を下げれば、免疫力が高くなって、いつも健康体で居られるのだ。裕福な家庭になってしまうと、遂々子供に飽食をさせてしまうので、いつも免疫力が低い状態になってしまい、それで病気に罹りまくり、難病奇病の餌食になってしまうのだ。

 子供の頃に病気で寝ていなければならないとすると、それだけ活動できないのだから、新たな情報を仕入れることができなくなる。一方、健康な子供はその間、動き回っているのだから、知能が高くなっていくのは当然のことなのだ。子供が罹る特有の病気に罹ることは致し方ないけど、それ以外の病気にはなるべく罹らせないようにすることは、母親の母性愛の大切な役割であろう。

●運動をさせてお腹をすかせる

 まず、朝起きたら、いきなり朝食を与えないことだ。「朝起きたら排便」ということを習慣づけることだ。朝の排便をしない限り、絶対に朝食を与えないことだ。何も食べず、排便に集中させれば、ウンチは必ず出るものなのである。起床後には、水でも飲まして、ウンチが出るように仕向けてあげることだ。

 次に、朝に運動をさせることだ。子供は睡眠中に、体の修復と体の成長を終え、エネルギーを使いきっている状態なのだ。しかし、肝臓にはグリコーゲンが大量に蓄えられており、そのグリコーゲンを放出することによって、活動することができるのである。このグリコーゲンを放出させると、脳に良質のエネルギーが行き届いて、脳の機能を活発化させることができるのである。

 朝に運動をさせず、いきなり朝食を食べる習慣を持ち続けてしまうと、肝臓はグリコーゲンを放出する機会を失ってしまい、肝臓が衰えてしまうのだ。肝臓を鍛えないからこそ、脳が発達しなくなり、能力が伸びなくなるのだ。朝は肝臓がグリコ-ゲンを放出する絶好の機会なので、子供を外に連れて行って走らせるなり、家の中でラジオ体操でもしてしまうことだ。この程度の運動で肝臓はグリコーゲンを放出してくれるのだ。

 肝臓が朝に次いでグリコーゲンを放出し易いのは、午後の時間帯である。昼食後、お昼寝をすると、体温が最も高くなるので、エネルギーを大量消費し易くなるのだ。その間に子供を外で思いっきり遊ばせておくと、昼食で得たエネルギーを使いきってしまい、肝臓がグリコーゲンを放出し始めるのである。

 「子供は風の子」と言われるが、子供を外で遊ばせておくと、子供は自然と体を鍛えることになり、健康そのものになってしまうのだ。しかも、外で遊ばせておけば、オヤツなど欲しがらないし、遊び終わったら完全にお腹をすかせた状態になるので、血液が脳に集中して、知能を高めてくれるようになるのだ。

●腹八分目を心掛ける

 子供は睡眠時間が長いために、その日の食事では夕食に重点を置くという方法を取るのが最善である。夕食で大量に食べさせても、睡眠中に消化吸収してくれるので、内臓に負担がかからなくなるのだ。子供はなかなか食休みををしてくれないので、朝食や昼食を大量に食べさせてしまうと、食休みせずに動くので、内臓には非常に負担になってしまうのだ。

 子供に好き嫌いを言わせず、きちんと食べて貰うようにする秘訣は、「出す料理を少しだけ少な目にする」ということなのだ。毎回、料理を作っていれば、子供が食べる量と言うのは大体解ってくるのだから、少しだけ料理を少なくして、意図的に満腹にさせないようにするのだ。要は腹八分目を心掛けるようにすることだ。

 食事は早く食べてしまうのではなく、時間をかけてゆっくりと食事をすることだ。食事のスピードが遅ければ、それだけ噛む回数が増えるので、顎を鍛えることによって、脳への血流を増やすことができるのである。一口30回以上咀嚼させるように義務付け、食べ物がドロドロになるまで噛ませることだ。

 例えば、たまには肉料理とかでも、「スジ肉」のように硬い肉も出して、そう簡単には飲み込めない料理を出すようにすることだ。子供の場合、この手の何度も噛まねばならぬ料理が出て来ると、大人以上に噛まねばならなくなるので、咀嚼の習慣がしっかりと身につくのだ。子供の言いなりになって、ハンバーグなどを出していると、子供は咀嚼の習慣が身につかなくなってしまうので、なるべく硬い食べ物を出すようにすることだ。

 料理で白砂糖を浸かったり、白砂糖が入っているお菓子を食べさせていると、すぐさま血糖値を上がってしまうので、食事のスピードも上がってしまうようになるのだ。それゆえ、料理で砂糖を使う時は、黒砂糖にするとか蜂蜜を使うようにし、白砂糖が入っているお菓子は出さないようにすることだ。この白砂糖を禁止した食生活を実現すると、子供は高い知能を持てるようになるのだ。

●休日には人為的に空腹状態を作り出せ

 休日は人為的に空腹状態を作り出せる絶好の機会だといっていい。休日になったら、子供を連れて普段では行かない場所へ外出してしまえば、子供は大量のエネルギーを使わねばならず、夕方になれば完全に空腹状態になってしまうのだ。見知らぬ土地に行けば、それだけ脳は活発に活動しなくてはならなくなるので、エネルギーを大量に消費してしまうのである。

 休日にはハイキングがお勧めだ。家族でハイキングに出かければ、いい運動にもなるし、新鮮な空気を吸えるし、日頃の疲労も吹き飛んでしまうのだ。子供はハイキングに出かけても、大人のようにただハイキングコースを歩くのではなく、あっちゃこっちゃに顔を突っ込んで、動き回っているものだ。当然にこんなことをしていれば、ハイキングが終わる頃には、お腹がペコペコになってしまう。空腹になったら夕食を食べればいいのだ。

 できることなら、キャンプしてしまうことだ。キャンプをすると、子供は水を汲んだり、料理を手伝ったりと、いつもなら母親がしてくれて当たり前と思っていることを自分から積極的に手伝おうとし出すのだ。夕食の前にこれだけ動けば空腹になって、当然に夕食を美味しく食べられるものだ。

 子供に料理が出て来て当たり前だとは思わせないことだ。如何なる食事といえども、親たちが稼いで来なければ、ありつけないものなのである。だから、いつも自宅で食べたり、レストランで食べるのではなく、自然の中に入り込んで、文明以前の生活を再現してしまうことだ。子供といえども、自分が本来持っている狩猟者としての血が騒ぎ、食べ物は取って来なければ、ありつけないということが解るようになるのだ。

 母親として子供に一体何を食べさせれば頭が良くなるかを考えることは確かに大事なことだ。しかし、それ以上に大事なことは、子供に空腹を味わせることなのだ。空腹になれば脳に血液が集中して頭が良くなるものなのである。しかも、空腹になればどんな料理でも美味しく食べてくれるものなのである。子供が食べ物の好き嫌いを言っていることは、空腹を味あわせていないからなのである。どんなに気性の激しい子供でも空腹になってしまえば、嫌いな物でも食べてくれるものなのだ。

 現代は飽食の時代だ。だから、時代に流されて、子供を飽食にさせておけば、確実に我が子は馬鹿になっていくものだ。子供に早期教育をさせたり、お受験をさせたりしても、結局、そのような教育を受けても、優秀な人材が育ってこないのは、子供に空腹を味あわせていないからなのだ。「教育の前に食事であり、食事の前に空腹」なのだ。そのことを絶対に忘れてはならないのだ。これさえしっかりと守っていれば、我が子は将来、優秀な人間になっていくことだろう。

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人が精神的に自立するということ

●経済的自立と精神的自立

 育児をしていみれば解ることだが、赤ちゃんというものは、親に従属するものだ。そうでもしなければ赤ちゃんは生きては行けないからだ。人間は進化の過程で相当無理をして進化してきたので、脳を大きくして高い知能を持つことはできたのだけれども、その反面、どんな健康な赤ちゃんでも未熟児状態で生まれるということになってしまったのだ。

 しかも、脳の成長が80%に達するのは3歳辺りで、その後も成長は続き、19歳辺りでほぼ完成する。そのため、他の動物たちのように生まれてからすぐに立ち上がって行動したり、数年で群れから離れて自立するというわけにはいかないのだ。家族の中で両親に従属して、長期間に亘って養育され続けねばならないのだ。

 そのため、中には大きくなっても自立ができない人々が出て来ることになる。人間は働きさえすれば、経済的自立を得ることはできる。だが、経済的自立を得たからといって、精神的自立も得られるのではないのだ。精神的自立は精神的に親への従属を解かない限り、絶対に精神的に自立ができないのだ。

 フェミニズムのイデオロギーは凶暴で、どの先進国もフェミニストたちの悪逆非道に悩まされているものだが、フェミニストたちの最大の功績は、実は、「女性たちは経済的に自立できても、精神的には自立できない」ことを指摘した点なのである。もしもフェミニズムを唱えることによって、「女性の自立」ができるのなら、もうとっくにすべての女性たちは自立を果たしている筈だ。しかし、何十年とフェミニストたちが「女性の自立」を唱え続けたのに、フェミニストたちは精神的に自立できなかったのである。女性の自立という問題は、フェミニズムというイデオロギーでは決して解決できないものなのである。

 人間は一足飛びに成長することはできない。親への従属を経て、親から離れて自立していき、そして結婚することによって独立していく。そういう成長過程をきちんと行わない限り、誰であったとしても、親から自立することはできないし、独立していくことができない。大事なことは、親に従属している時はきちんと従属し、親から離れて行く時は、親から離れることによって自立していくことなのである。間違っても親に従属すべき時に自立を強いてはならないし、自立していく時に親に頼ってはならないのだ。

 もう一つは、人間は環境に左右されるということだ。人間は自立していく際に絶対に無視できないのは、「家族」と「学校」の存在である。家族の中で充分に愛や厳しさや夢を貰っていれば、来るべき時が来れば、自立していけるものだ。人間が自立していく時は中学や高校に通っている時期と重なるので、学校が生徒たちの自立を損なうようなことをしなければ、男女共に自立していくことが可能になるのだ。

●自立の性差

 男の子と女の子では自立にも性差がある。男の子は上位自我が貧弱なために、冒険旅行でその上位自我を自分の力で破壊してくことができる。しかし、女の子は上位自我がしっかりと出来上がっているために、男の子ように冒険旅行に出たとしても上位自我を破壊することはできず、女の子同士で友情を育み、そして自分の上位自我を破壊できる男性を見つけて、恋愛をしていく中で上位自我を破壊していくのである。そうやって男女双方、上位自我が破壊されれば、精神的に自立することができるのである。

 そのため、男の子と女の子は育て方が違うのだ。男の子は充分すぎるほどに愛してから、時が来れば突き放すしかないのだ。男の子は女の子よりも甘えん坊なものだが、これは男の子は母親からたっぷりと愛を貰わねば、成長できないからなのである。男の子は母親から充分すぎるほどの愛を貰えば、時が来れば母親から離れ、冒険旅行に出かけていくのである。昔から「可愛い子には旅をさせよ」というが、いくら我が子とはいえ、いつまでも手元に置いておいたら、男の子は鬱屈してしまい、自立できなくなってしまうのだ。

 女の子は適度に愛しながら、結婚まで守り通す態度を貫かねばならない。女の子は母親だけでなく、父親からもたっぷりと愛を貰い、祖父や祖母にも愛を貰おうとする。上位自我がしっかりと入っているので、大人相手であっても会話が成立するので、両親が娘のことを適度に愛する態度を貫くと、きちんと成長していくものなのである。そして自立していく時期を迎えた時、娘が親に反抗しつつも、親は娘を信用し支援している態度を貫き、いかなることがあっても娘を守るという態度を貫いておれば、娘は自立していくことが可能になるのだ。

 肝腎の両親が精神的自立を果たしていないと、平等イデオロギーに取りつかれてしまい、男の子も女の子も平等に育てようとしてしまうことになる。そうなると、男の子は充分な愛が貰えず、女の子の方も自分を取り巻く人々から適度な愛が貰えないので、男の子は冒険旅行に行かなくなるし、女の子は友情や恋愛で失敗の連続になってしまう。そのために精神的自立が不可能になってしまうのだ。

 赤ちゃんを産んで育ててみれば、男の子と女の子は全く違う成長の仕方をするということは解る筈だ。しかし、平等イデオロギーに取りつかれてしまうと、その現実が全く見えなくなってしまうのだ。間違っているのは現実の方であって、平等イデオロギーは如何なることがあっても正しいと思い込んでしまうのだ。こういう両親から育児を受ければ、当然にその子供は愛が決定的に不足してしまうことになるのだ。

●両親と片親

 子供は両親から愛されて育つ以上、家族には両親がいることが理想であり、正常な状態なのだ。両親がちゃんとした結婚生活を営んでいれば、夫婦の間に夫婦愛が巡ることになるので、有り余った愛が子供たちに流れ込んでくるのだ。育児をする際は、夫婦が愛し合っていることが前提なので、育児ばかりに集中しないで、夫婦仲もきちんと保つ努力をすべきなのである。

 ふた親が揃っているというのに、夫婦の仲が悪ければ、子供たちに愛は巡ってくることはない。両親は常に夫婦喧嘩をしているし、殴り合っている所を見ていれば、愛を貰うどころではないし、子供たちは「大人たちは信用できない!」と思い込んでしまうのだ。こうなってしまうと、子供の心の中には愛が決定的に不足してしまうので、自立すべき時期が来ても、そう簡単には自立できなくなってしまうのである。こういう育ち方をした子供が大きくなって結婚しても、親と全く同じような光景を繰り返してしまうのである。

 親の離婚や死別というのは、子供たちの甚大なる影響を与えてしまう。母親がなく男親のもとで育てられると、男親によって精神作用が刺激されるので、精神レベルが急激に上がるが、家族の中での潤いというのがなくなってしまう。男親のもとで育つと、女性はすぐさま結婚してしまう。精神レベルが上がってしまったために、自分にとっての理想の男性を見つけ易いのだ。男親のもとで育った男性は、自分がかなり潤いのない生活をしてきたために、自分の生活に潤いをもたらしてくれる女性を見つけ出さないと、自分自身がかなり偏った人間になってしまうのだ。

 父親がなく女親のもとで育てられると、女親によって物質作用が刺激されるので、経済的には豊かな生活を送ることができるが、精神的には低レベルな見方しかできなくなってしまう。女親のもとで育つと、女性はビジネスを展開し易い。物質レベルが上がってしまったために、自分の天職を見つけ易いのだ。そのために結婚が遅れたり、失敗してしまったりする。結婚を大事にするという考え方に辿りついていないので、どうしても結婚を犠牲にしてしまで働こうとしてしまうのだ。女親のもとで育った男性は、男として一本筋が通っていないが、女性相手の仕事では天性の才能を発揮して成功することが可能になってくる。芸能界を見ても、母子家庭で育った子が人気タレントに成り易いのだ。

 片親のもとで育つと、どうしてもバランスを崩し易い。そのため、青春時代に男の子なら冒険旅行に行こうとしなくなるし、自分の上位自我を破壊するだけの力を持てなくなってしまう。女の子はきちんと友情を作り上げたり、恋愛をきちんと行うということができなくなってしまう。青春時代に失敗が続くのなら、相手が間違っていると思い込むのではなく、自分が間違っていると思うことだ。片親のもとで育てば、どうしても自分の心は歪むものなのである。

●児童養護施設育ち

 では、両親も片親もおらず、親から捨てられてしまった子供はどうなるのであろうか? 当然に愛の不足で苦しむことになる。愛といっても、子供が欲しい愛は、母性愛であり、父性愛である。いくら他人から愛を貰っても、母性愛や父性愛でない限り、子供は満足できないものなのである。

 キリスト教は孤児院作りに積極的になったために、かなりの数の孤児院を設立したのだは、この孤児院上がりの子供たちに不気味な変化が起こってしまったのだ。それは孤児院を出ても精神的な自立ができなかったのである。孤児院は主に女子修道会が運営したために、独身女性のシスターが親代わりになったので、孤児たちの間で決定的な母性愛の不足が起こってしまい、大人になっても精神的な自立ができなくなってしまったのである。

 これに対して、政府や地方自治体によって運営された児童養護施設ではこういう現象は起こる確率が激減した。施設で働く職員に既婚者たちがいたので、母性愛や父性愛を貰えることができたのである。児童養護施設は所詮、官僚の組織なので、かなりドライなのであるが、そのために施設で育った孤児たちは逆に自立し易いのだ。

 児童養護施設を出た孤児たちが経験するのが、とにかく自分が生活することで精一杯になってしまい、自分が精神的に自立していく作業を等閑してしまうことなのだ。しかも、児童養護施設で愛を貰ったとはいえ、充分な量とは言えないものなので、どうしてもパワー不足が目立ってしまうのだ。

 このため、いつまでも自分が「孤児」だとか「施設上がり」だとか言っていると、精神的に自立できなくなってしまい、普通なら得られるであろう幸せを得られなくなったり、たとえ幸せがやってきても自らの手で壊してしまうのだ。こうならないためにも、弱い自分と戦って精神的に自立していくべきだし、愛が不足している以上、周囲の人々の関係を切ってしまわないことだ。親戚が一人もいなければ、人為的に人間関係を築いていくしかないのである。

●異常なる結婚

 経済的自立というのは、目に見えるものだ。しかし、精神的自立は目に見えないものだ。経済的自立は裕福になっていくのだから、それはそれで素晴らしいことではあるが、精神的自立は裕福になるということとは関係ないので、それをしなくても生きて行くことはできる。

 だが、精神的自立をしなかったというツケは必ず至る箇所で出て来る。例えば、精神的自立をしていない人たちは、訊いてもいないのに、「俺のお袋がよ~」「私の父の仕事は~」とか言い出して、会話を白けさせてしまう。自分の人生なのに、自分が主人公になっておらず、親が主人公になっているので、幾ら会話をしても高いレベルの会話ができないのだ。これを繰り返されると、友人たちは徐々に避け始め、自分の友人たちが低レベルな人たちだけになってしまうのだ。

 精神的自立ができなくても、結婚適齢期を迎えれば、結婚をすることはできる。しかし、その結婚は「正常なる結婚」を営むことができず、「異常なる結婚」になってしまうのだ。結婚しましたというから祝福しにいったのに、どうも話がおかしいと思ったら、「事実婚」だというのだ。事実婚とは、要は「同棲」のことなんであって、「そんなもののために結婚式を挙げるな!」と言いたくなる。

 結婚したのに、夫婦別姓を唱えるのも、明らかに精神的自立がなされていない証拠だ。結婚した女性にとっては、改姓の手続きは面倒臭いだろうが、苗字が変わるというのは、自分の運命に大きな変動をもたらしてくれるので、それによって新たな人生が開けていくものなのだ。苗字を変えないというのは、その本人がどのような理由を持とうが、自分の両親から精神的に自立できないということの現れなのだ。それが解っていないのだ。

 結婚すれば、次は妊娠出産育児とドミノ倒しのように進んでいく。しかし、精神的自立がなされていないと、「不妊症」を患ってしまい、躓いてしまうのだ。実を言うと、肉体的理由で本当に不妊症になっているのはごく僅かなのだ。大半は夫婦仲が巧く行っていないだけなのだ。夫婦双方が精神的自立を果たしていないから、夫が妻の心の壁を打ち破って、妻の心の中から「無限の愛」を溢れ出させるということができないのだ。

 たとえ赤ちゃんを産んだとしても、育児放棄をしたり、児童虐待をしたり、とにかく自分より弱い者へ残虐な行為を仕出かして、そこに邪悪な悦びを見出すのだ。両親が精神的自立をしていないならば、その家族の中ではまともな愛が流れないから、子供は家出をしていくかない。家出をするような子供というのは、まともな愛を貰ったことがないから、非常に寂しい顔をしているものなのである。

●神の奴隷として生きる

 人間は精神的自立を果たしていなければ、不幸の連続になってしまう。精神的自立を果たしていなくても、その弊害を防止して、不幸が起こらなくさせようとしたのが、「キリスト教」である。「偽りの上位自我」を、「イエス」に置き換えてしまうのだ。言わば、親に従属していた人生を、イエスに従属させることに変えて、違う人生を歩ませてしまうのだ。

 キリスト教ではこれを「神の僕」というが、「僕」とは奴隷のことで、だから「神の奴隷」として生きるのだ。人類の歴史では奴隷制度が廃止されていったものだが、未だにキリスト教の中ではしっかりと奴隷制度が残っているのである。しかし、大人になっても親に従属している人が、そのままで人生を歩めば不幸の連続になってしまうので、神の奴隷として「物」になってしまえば、精神的自立がなされていないことは関係なくなってしまうのだ。

 確かにキリスト教を正しく信仰しさえすれば、それはそれで素晴らしい人生を送ることができるのである。自分が精神的自立を果たしていなくても、神の奴隷として「愛と奉仕」に生きればそれは素晴らしい人生になるものである。精神的自立を果たしているからといって、他人に愛を与えず、他人に奉仕をしなければ、それは精神的自立を果たしていないキリスト教徒たちよりも劣るのである。

 だが、キリスト教徒たちは信仰によって精神的自立ができていないことを隠してしまうために、双方で争ったら悲惨なことになってしまうのだ。キリスト教徒が神学論争をした場合、大抵が論争が戦争に発展してしまい、虐殺が行われている。キリスト教は「アガペー」を掲げるが、実際にやっていることは正反対の「大量虐殺」をやっているのである。

 キリスト教の歴史は、いくら信仰で誤魔化したとしても、その本人がきちんと精神的自立を果たしていなければ、まともな愛を出せないということを証明したようなものなのだ。人間はいくら敬虔に信仰したとしても、まともな愛は出て来ないのだ。まともな愛を出したいのであるならば、自分の青春時代の中できっちりと精神的自立を果たさなくてはならないのである。

●煩悩からの解脱

 仏教では信仰ではなく、「解脱」することで、精神的従属から逃れようとする。確かに釈迦が言うように、解脱してしまえば、精神的に自立できなかった自分は消滅してしまうのである。解脱というのは、決して難しいものではないのだ。解脱というのは、この世で生きている自分を消滅させてしまうことなのだ。こうすれば、確かに精神的に自立をしていない自分も消えてなくなってしまい、仏陀として生きて行くことができるのである。

 釈迦は人類史上の中で有り得ない世界を切り開いたのだが、その後の仏教徒たちは仏教を信仰しながら、釈迦が一体何を言っているのかが解らず、解脱することができないようになってしまった。釈迦を信ずる余りにこの世に執着が湧いてしまい、自分を消滅させることができなくなってしまったのだ。

 我々日本人が知っている仏教というのは、出家して僧侶になっても解脱しないという堕落した仏教なのである。なぜ、この仏教を歪めたものが生き続けたかというと、精神的自立を果たしていない者たちをいつまでも修行させることによって、人畜無害なものにさせようとしたからなのである。

 そして戒律を守って修行している僧侶たちを全国各地に送り、その住民たちの精神的な悩み事を聞いてあげるのである。そうすれば、住民たちは政治に対して不穏な動きをしなkなるし、精神的におかしくなった者たちの犯罪も抑えることができるのである。だから、日本全国各地に仏教寺院が点在しているのである。

 ところが、親鸞が出て来て、釈迦如来への信仰よりも阿弥陀如来への信仰を優先させてしまったのだ。仏教の戒律を守らず、僧侶が結婚して子供を産んでしまうと、その僧侶の家族の生活を信者たちが支えなければならなくなるので、信徒たちは非常に貧しくなってしまうのだ。僧侶自体は生産を何もしていないので、僧侶や僧侶の家族が多ければ、それは直接に信者たちの負担となって現れてくるのだ。浄土真宗が出て来たことで、我々日本人が仏教の本当に姿が見えなくなってしまったのである。浄土真宗ではいくら親鸞を崇めたとしても、親鸞は解脱していないのである。解脱していない僧侶の教えを、釈迦の教えより優先させてはならないのだ。

●神の予定と独立自尊

 結局、イエスも釈迦も所詮は人間だということだ。イエスを救世主に仕立て上げたり、釈迦を仏像にして崇めるからこそ、彼等が人間として生きた軌跡が解らなくなり、一体何を言いたかったのかが解らなくなってしまうのだ。彼等は精神的に自立できない人たちに、精神的に自立しなくても生きていける方法を説いたにすぎないのだ。キリスト教の教えが絶対でもなく、仏教の教えが絶対でもないのだ。

 人間は自立すれば、それ以前の自分を否定してしまうことになるのだ。それは非常に恐ろしいことなのである。いくら親に反抗しているとはいえ、子供の頃は親といるのが楽しかった筈だ。その家族の思い出が消えていくのだ。青春時代はすべての物が輝いて見え、青春の熱気に突き動かされるように生きた筈だ。その青春時代が消えて行くのだ。精神的に自立を目前にすると、我々は自立していない自分が消えてしまうことに、恐れおののいてしまう。施設育ちなら、もっと悲惨で、親への記憶がないから、施設での思い出が消えてしまい、自分が育った場所がなくなってしまうのである。

 青春時代は様々な喜びや悲しみが溢れ返るものだ。しかし、青春時代が終わりに差し掛かり始めた時には、もう青春時代の喜びでは喜べなくなるし、青春時代の悲しみでは悲しめなくなるのである。いつまでも同じ場所には居られないという焦燥感の方が自分を突き動かしてしまうのである。青春時代はいつの日にかは終わるものだ。「生涯青春」などと馬鹿げた人生を送ることなどできないのだ。

 若者が精神的に自立していくということは、青春時代に作り上げた自分の考えを捨てて、神の摂理に自分の人生を合わせるということなのだ。自分の幼稚な考えを捨てた時に、神に指し示された一本の道がはっきりと見えて来て、その道を全速力で駆けて行くことができるようになるのである。青春時代になぜ悩み迷うかといえば、自分のやるべきことがみつからないからなのだ。

 人間は精神的に自立できなければ、平等な社会を作ろうとし出すものだ。自分が精神的に従属状態にあるからこそ、精神的自立を果たしていかなくてもいい社会を作ろうとし出すのだ。社会主義やフェミニズムに走るのは、10代や20代である。還暦を過ぎてしまえば、平等イデオロギーに走ることはないことだろう。社会的弱者に慈善を施すことと、平等社会を作ろうとすることは、全くの別物なのである。社会を変えるよりは、まずは自分を変えるべきなのである。

 何もかも自然に育てていけばいいのではないのだ。中には自立できずに親になってしまう人たちもいるのだ。そういった親たちは精神的に独立していないから、まともに家族を運営をしていくことができず、すぐに政府に頼ろうとするのだ。もしも政府が救いの手を差し伸べなければ、政府の悪口を散々に言ってくるものなのである。まともな愛が出せないから、無制限に憎しみをぶつけることしかできないのだ。

 男と女は憎しみ合うものではないのだ。お金持ちと貧乏人は憎しみ合うものではないのだ。共に愛し合い、手を携えて生きて行かねばならないのである。しかし、まともな成長過程を経ないと、まともな愛が出て来ないから、他人に憎しみをぶつけることしかできなくなってしまうのだ。

 だから、宗教は必要なのである。精神的自立を果たしていない人たちは、政治に手を出すべきではなく、精神的自立を果たしていなくても、宗教の力を借りて生きていくしかないのである。政府がどのような政策を実行した所で、精神的自立を果たしていない人たちを満足させることはできないし、増してや精神的自立を果たすようにさせることもできないのだ。

 人間たちがどのような成長過程を経るにせよ、精神的自立を完成できる人は、神によって予定されているのである。神に選ばれた人たちは、自分が両親のいる家庭に育とうが、片親の家の育とうが、児童養護施設の中で育とうが、精神的自立を成し遂げ、精神的独立を果たすことができるのである。しかし、神に選ばれなければ、淫祀邪教や平等イデオロギーに洗脳されてしまうだけなのである。神に選ばれた人たちは、決して精神的自立を果たしていない人たちに警戒を怠ってはならず、ありとあらゆる場面で主導権を握って、彼等が暴虐な行いをしないように管理し続けなければならないのである。

 自分が産んだ子が、将来、ちゃんと精神的自立や経済的自立を果たしてくれるかは解らないものだ。ただ、親としては、その子に充分な愛を与え、何が正しいかを教え、夢を持つことの大切さを教えていくしかないのだ。今はまだ可愛い子供も、青春時代が来れば飛び立つ日がやってくるのである。だから、親ができることは、自立することをせかすのではなく、親に従属すべき時にきちんと従属させておくことなのである。

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下位自我の幻想狂想曲

●悪いと解っているのに犯罪が止まらない

 下位自我は上位自我より遥に厄介なものなのである。上位自我は男の子なら父親だし、女の子なら母親によって形成される。しかし下位自我は「親に甘えている自分」によって形成されたものだからだ。下位自我は青春時代が終わるまで存在し続けるのだから、自分で制御しておかないととんでもないことになる。

 中学生になって不良に走る連中というのは、必ずと言っていいほど、この下位自我を制御しきれなかったからなのである。不良というのは幼稚さの現れにすぎないのだ。勿論、若者の爆発的なエネルギーを吸収できない学校側にも問題があるが、青春時代の初期という最も大事な時に不良に走ってしまうのは、自分の人生に於いて非常なマイナスになってしまうのだ。

 大人になって麻薬に手を出す連中も下位自我の暴走を食い止めることができなかったからなのだ。理性的には麻薬に手を出すことは悪いことであり、麻薬中毒は恐ろしいものであるということは解っているのに、麻薬に手を出して、麻薬中毒になってしまうのだ。麻薬犯罪が見つかり、警察沙汰になって事態の重大性に気付いた時、大抵が「俺は馬鹿だった」というものだが、この馬鹿を平気でやってしまうのだ。

 結婚したら一家の家長として責任を持って行動しなければならない。しかし、中には幼稚な夫たちがいて、いつまでも子供っぽいことをして、妻を散々に困らせる夫もいるものだ。結婚して幼稚な亭主は救いようがないのだ。責任感というものがないために、責任感を伴う地位を与えられても、一体何をすればいいのか解らなくなってしまうのだ。

 下位自我の恐ろしさは、それが甘えて愛を貰ったり、探究心の発露になるのに、その一方で悪いと思っているのに犯罪が止められないのだ。母親なら叱って許してくれるものでも、大人になれば叱って済まされることなどなくなってくるのだ。今まで自分が築き上げた地位や財産や信用のすべてを失ってしまうこともありうるのだ。

●真面目人間の落とし穴

 下位自我が暴走していくのは、何も不良たちだけとは限らない。真面目人間も下位自我を制御しておかないと、暴走してしまうことになる。理数系の人たちは真面目人間が多いものだが、余りにも真面目すぎるために、冷静に考えれば、明らかに嘘というものまで信じ切ってしまうのだ。

 科学は精密な学問体系を作り出しているのだが、それをそのまま現実にも当て嵌まると思ってしまうのだ。だから、科学を使って宗教を否定したり、逆に霊魂の存在を証明しようとしたりするのだ。彼らには「人間は科学のようには動いてくれない」という大事なことが解っていないのだ。科学など所詮は人間が作りし物なのである。

 余りにも真面目になりすぎて、それが科学的発見に繋がればいいが、そうでないと、どこかでその探究心が歪んでしまい、邪教の餌食になってしまうのだ。オウム真理教は理数系の大学生たちをターゲットにして勧誘していったが、真面目であればあるほど、邪教の嘘を見破ることができなくなってしまうのだ。人間は小さな嘘には気付けても、大きな嘘には騙されてしまうからだ

 夫婦の中には、夫が高学歴で高収入で、真面目な紳士だったのに、突然にその真面目な夫が犯罪に手を染めてしまう事件が発生してくる。自分が真面目に働いているのに、その組織が自分の働きを正当に評価してくれないと、裏切られたと思って、横領や背任を平気でやってしまうのだ。

 嘗て幕末の尊王攘夷の志士である橋本佐内は、若者たちに向かって「稚戯を捨て去れ」と言って、若者たちの立志を促したものだが、男性というのは若い時はかなり幼稚なのである。その幼稚さを捨て去って、要は下位自我を暴走させないように、勉学やスポーツや仕事に精進しないと、立派な大人にはなれないのである。たとえ真面目に生きて来ても、その幼稚さを捨て去っていないと、どこかで破綻してしまうものなのである。

●下位自我は上位自我の影

 下位自我の破壊はそんなに難しいことではないのだ。下位自我上位自我の影であるがゆえに、上位自我が破壊されると、下位自我も消滅してしまうのだ。男性が冒険旅行に行って上位自我を破壊してしまうと、下位自我も同時に消滅するので、男性としての不自然さがなくなると同時に、幼稚さも消えてしまうのだ。

 暴走族あがりの人たちが、暴走族を卒業し、心から改心すると、悪さをしない男性に生まれ変わってしまうものだ。嘗ては暴走族だった癖に、良き夫にして、優しい父親になってしまうのだ。下位自我がなくなってしまえば、自分の妻に幼稚な行動を取らなくなってくるのだ。ちゃんと家長として責任感ある行動が取れるようになるのである。

 結婚すれば、妻が夫に甘えたり、夫が妻に甘えたりして、愛を貰い合う行為は、いつまでも必要である。しかし、それが余りにも幼稚になっていると、それは下位自我が破壊されていない証拠になってしまうのだ。その幼稚さは最初は家庭内で現れてくるかもしれないが、時間が経てば職場に出て来てしまい、その幼稚さのために大失敗をやらかしてしまうことになるのだ。

 育児や子育てで大事なのは、「甘えは必要だけど、甘やかしは必要ではない」ということなのである。子供が親に甘えることができなければ、父性愛や母性愛を貰うことはできない。だからといって、甘やかして育ててしまえば、我儘な人間に成長してしまい、下位自我の暴走で苦しむことになってしまうのだ。裕福な家庭になると、必ずといっていいほど、甘やかされて育った人たちが出て来るものだが、だからこそ、大人になっても大人に成りきれなくなってしまうのだ。

 人間には生まれながらにして向上心が備わっているものだ。赤ちゃんなら最初は動けないのに、寝返りを打てるようになり、ハイハイができるようになり、一人歩きができるようになっていく。その成長に最高の喜びを感じるように出来ているのだ。だからこそ、青春時代が始まれば、下位自我を制御して幼稚なことを捨て去って、学問やスポーツに精進して、向上していけねばならぬのだ。そのようなことをしていれば、来るべき時が来れば、自然と下位自我が破壊されてしまうのだ。

●良心が悪用される時

 人間は下位自我が破壊されないと、想像を絶する悪事を仕出かしてくるものである。最初は小さな犯罪だったのに、悪事が暴走していき、その内、凶悪犯罪を仕出かしてしまういのだ。ところが、自分が精神的に自立を果たしていないと、この凶悪犯罪者たちの肩を持つようなことを仕出かしてくるのだ。自分が精神的に自立していないから、凶悪犯罪者を処罰して、治安維持をもたらすという責任感を果たせなくなってしまうのだ。

 彼等は自分は良心的だと思っているが、この世には想像を絶する悪人がいるということが解らないのだ。「死刑廃止論」も「裁判員制度」も、この手の馬鹿たちが主張してきたものなのだ。しかし、この手の幼稚な意見は常に凶悪犯罪者たちに悪用されてしまうものなのだ。

 嘗て、死刑廃止論が最も高まった時に、オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こしたのである。裁判員制度も今は新しい制度だと浮かれているかもしれないが、裁判員制度が定着した時に、恐ろしいテロ事件が起こる可能性があるのだ。人間の良心というものは、どうやったとしても凶悪犯罪者たちの心には届かないものなのである。

 自分が上位自我を破壊して、精神的に自立を完成させないと、自分がこれは良心であると思っても、正しい考えにも正しい行為にもならないのだ。良心は常に悪用されるものなのである。なぜなら、精神的に自立を果たしていないから、相手を見切ることができず、決して相手のためになる行動を取ることができないのだ。飽くまでも自分が良心的な行為をしたろいうことに酔いしれているだけなのである。

 結婚している夫婦が「これは正しい!」と思って決断しても、そうはならないということもあるということなのだ。自分が正しいと思っても、実際にやってみれば間違っていることなどいくらでもあるのだ。家族を運営していくのに良心など当てに成らないのだ。、では、一体どうすればいい?

●「良心」ではなく「正心」

 精神的に自立して、精神的独立状態になることで、「正しい心」を持つようにすることなのである。「良心」ではなく、「正心」こそ、家族を巧く運営していくことができるようになるのである。自分が良いと思うから正しいのではなく、自分が正しい道を歩くからこそ正しいのである。絶対にこのことを間違ってはいけないのだ。

 これを『大学』では、「格物致知正心誠意」と説明した。「格物」とは、文武両道に励むことをいい、「致知」とはそれによって思いを巡らすことをいう。そうやって正しい心に辿りつくことができ、その正しい心であるからこそ、人間は誠意を発することができる。このような人間になってこそ、初めて身を修めたといえるのである。

 「心は一身の主宰」である。かといって、自分が勝手に正しいと思うのはなく、文武両道に励み、その精進をしながら自分なりに考えるからこそ、正しい心を持つことができるのである。これが大人になって仕事をするなら、現地に行って情報を収集するなり、本を読むなりして情報を集めて、その情報を元に自分が考え、そして正しい考えをすることができるということなのである。

 例えば、育児をしているなら、自分が正しいと思うことをいきなりするのではなく、育児経験者たちから育児の仕方を聞くなり、育児書で調べるなりして、育児の情報を集め、その情報を元に自分で考えて、正しい育児の仕方に辿りつくのである。しかもいきなり成功するわけないから、何度も試行錯誤しながら、やっと正しい育児の仕方に辿りつくことができるのである

 ここに「哲学の不思議」というものが現れて来る。「格物致知」とは哲学的に言えば経験論に立脚し、経験論を突き詰めれば唯物論になる筈なのである。しかし、経験論を出発点にしているにも拘わらず、唯心論になってしまうのである。心がすべでを生み出していくという考えに辿りついてしまうのだ。

 一方、「良心」とは哲学的に言えば合理論に立脚し、その合理論を突き詰めれば唯心論になる筈なのである。ところが、合理論を出発点にしているにも拘わらず、唯物論になってしまうのである。だから 何か新しい物を生み出せることができなくなり、環境に支配されてしまうのだ。

 唯物論は誰がどうやろうとも憎しみしか生まれない。なぜなら、自分が自分の人生の主人公になっておらず、環境の支配下にあるので、自分で豊かになっていこうという気概を持たずに、裕福な人たちから物を奪い取って、貧しい人たちに分配しようという考えを持ってしまうからだ。キリスト教徒だって、社会主義者だって、フェミニストだって、良心的な心情から発している。しかし、現実はその良心的な人たちほど残虐なことをやってきた歴史であるのだ。

 良心では我が身を以て全世界に立ち向かっていく愛と勇気がないのだ。ただ、この世の誰かに憎しみをぶつけることしかできないのだ。偽りの上位自我を破壊していないということは、こういう所に歪んだ物として出て来るのである。正心は試行錯誤の連続なのだ。「これで正しいのかな?」と自問自答しながら進んでいくしかないのだ。その歩みは良心的な人たちから見れば遅いように見える。しかし、その歩み方こそ、結果として正しい成果を生み出せることができるのである。こういうことは育児をしていれば当然に解ることのである。母親が悩みながら育児をしている時、実は最も成長していて、結果的に正しい育児の仕方に辿りついてしまうものなのである。自分が自分勝手に正しいとは思わず、試行錯誤を繰り返したからこそ、正しい育児に辿りつけたのである。

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子供のイタズラは探究心の現れ

●下位自我と甘え

 女の子を育てていると、母親の前では普通の態度を取っているのに、父親が帰ってくるなり、突然に父親に甘える行動を取るものだが、これは下位自我が発達したからこそできるものなのだ。赤ちゃんの頃は父親が帰って来ても、特別な対応などしなかったものだが、成長するにつれて、父親に甘えるという行動が取れるようになるのだ。

 上位自我が出来ると、下位自我も出来上がる。女の子の場合、上位自我がしっかりと出来上がってしまうので、下位自我もしっかりと出来上がってしまう。そして上位自我や下位自我の使い方をオママゴトなどで練習しているから、実際の生活でも下位自我の使い方が巧いのだ。

 これに対して男の子は上位自我のでき方が悪いし、下位自我のでき方も悪い。そのため、父親が帰って来たから態度を変えて甘えるというのは、相当年齢が上がらないとできないものなのである。昔から、「一姫二太郎」と言われるが、女の子の方が育て易く、男の子の方が育てにくいのだ。だから、男の子を育てる場合、大きくなったら上下関係をしっかりと教え込まないと、手につけられない反抗をしてくるのである。

 人間は群生動物なので、決して平等な関係を築こうとはしない。必ず組織を作ろうとする。組織を作ることで協業と分業を行って、個人レベルでは決してできない生産力を手にしようとするのだ。この組織というのは、誰がどう作ろうとも、上下関係を伴うものなのである。家族の場合、子供が両親に服従しない限り、食べ物にありつけないし、父性愛や母性愛といった物も貰えなくなってしまうのだ。

 子供が親に甘えるというのは、非常に重要な行為で、子供がこの行為をし出すと、精神的にも肉体的にも健全に成長していく。女の子は2歳か3歳辺りに父親とベッタリになる時期を迎え、男の子は幼稚園児になっても母親とベッタリする時期を迎えることになる。この甘えを充分にさせておけば、下位自我は満足し、大きくなってから下位自我の暴走に悩まされることがなくなるのだ。

●甘えるから愛が貰える

 父性愛や母性愛は対等な愛ではなく、上から下へと流れていくので、親子が上下関係にならない限り貰うことができない。だからこそ、子供たちは知能が発達してきて、親と対等の会話ができるようになったのに、親に甘える行動を取って、父性愛や母性愛を貰おうとするのである。甘えるというのは、一見、幼稚なものに見えても、知能が高くないとできないものなのだ。

 日本では親が子に添い寝をする習慣があるので、子供が親に甘えることがし易く、父性愛や母性愛を蓄積し易いのだ。添い寝というのは、何も夜泣きに対応するのが便利だから行っているものなのではないのである。子供の精神的な成長のためにも必要な行為なのである。

 これに対して白人というのは添い寝をする習慣がない。赤ちゃんの頃から個室を与えて育ててしまうために、子供になっても親に甘える行為ができないし、やったとしても巧くないのだ。そのため、幼児期に決定的な父性愛や母性愛の不足に陥ってしまい、そのために青春時代に有り得ないような反抗をしてくるようになる。白人たちはキリスト教を熱心に信仰して、「天にまします我が父よ」と言ったり、「マリア信仰」をしたりするのは、この添い寝の習慣がないことによる甘えの不足が原因であるのだ。父性愛や母性愛がきちんと蓄積していれば、キリスト教など信仰することはないのだ。

 女の子がグレる確率が低く、犯罪の発生率も低いのは、幼児期に於ける下位自我の扱いが巧く、両親から父性愛や母性愛を貰うのが巧いからなのである。女の子の方も、両親から父性愛や母性愛をきちんと貰っていれば、間違った道を歩む必要性がなくなり、女の一本道を突き進んでいくことができるようになるのである。

 一方、男の子とはいうと、下位自我の使い方が巧くないので、母親がしっかりと母性愛を与えて、男の子を肯定していかないと、男の子は暴れまくるし、青春時代が始まればグレてしまうのだ。男性の偉人たちというのは、その殆どが母親から愛されて育って来た人たちであって、子供の頃から母性愛を貰い続けたからこそ、間違った道を歩むことなく、自分の才能を開花させる道を歩めたのである。

●子供のイタズラは成長している証拠

 男の子は下位自我の使い方が下手であるがゆえに、母親にイタズラすることで、母親の関心を惹こうとする。イタズラは甘えのサインなのであって、男の子がイタズラをしたからとって真面目に怒っていると、男の子が更にひどいイタズラをしてくるのである。こういう場合は、「こういうことしちゃ駄目でしょ」と叱りつつ、じゃれあっていればいいのである。それで男の子の方は母親から母性愛を貰えたと思うのである。

 イタズラにはもう一つ大事な側面がある。それはイタズラは探究心の発露だということだ。男の子にとっては、人間関係よりも、物体に興味があるので、物を使って探究することで、その物が一体なんなのか確かめていくのである。この探究心の発露がイタズラとなって現れてくるのである。

 男の子は探究心の発露としてのイタズラが出来ないと、知能を高く発達させることができない。それゆえ、この手のイタズラに関しては、多目に見てやらしておけばいいのである。子供のイタズラなのだから、所詮、他愛もないイタズラなのである。気長に付き合うことだ。

 しかし、すべてのイタズラが許されるわけではない。中にはやってはいけないイタズラだって存在する。人に危害が及ぶようなイタズラだ。こういう時はしっかりと叱って、制裁を加えておくことだ。男の子の場合、肉体的に痛い目に遭わないと決して悪事をやめようとしないので、お尻をペンペンして叱っておけばいいのだ。

 女の子もイタズラをしてこないことはない。しかし、男の子ほど盛んにイタズラをしてこないものだ。男の子と女の子の育て方は違うのだということを、早い段階で悟ってしまった方がいい。女の子ならこういうことをしないからといって、男の子にもそれを適用していたら、男の子は鬱屈してしまい、大きくなってから悪事をすることで、子供の頃にできなかったイタズラをしてくるのだ

●子供のイタズラは親がいくら叱っても続くもの

 真面目な母親であると、子供のイタズラにうんざりさせられるものだ。子供のイタズラは母親がいくら叱っても続くものだからだ。イタズラをし始めた頃に、巧く対処して、母性愛をきちんとあげていたら、子供のイタズラは悪化しないものだが、巧く対処できないと、母性愛が貰えないために、子供のイタズラは悪化していってしまうのだ。

 子供のイタズラが余りにもひどいなら、子供部屋を与えてイタズラし放題にさせることだ。こうするとイタズラがいくらでもできるので、外で行うイタズラが減少するのだ。日本が世界に誇るドクター中松は、子供の頃に母親から研究部屋を与えられることによって、様々な実験を行うことができ、それができたからこそ、大きくなってから発明家として活躍することができたのである。

 イタズラ封じには、子供が好奇心を持っていることをやらせることだ。自然科学に興味があるなら、その関連書物を買って与えたり、博物館に連れて行ってみたり、学者に合わせたりして教えを乞うことをしてみることだ。今までイタズラに向けていたエネルギーが学問に向けられ、大いに学力が向上していくことになるのだ。

 頭が弱いけど、体力がある子供にはスポーツをやらせることだ。スポーツで体力を使いきってしまえば、イタズラをするだけのエネルギーがなくなってしまうものだ。しかもスポーツをやることで体が丈夫になるし、礼儀作法も学ぶことができるので、母親は子供を健全に育てることができるのである。

 子供が親に甘えてきたり、イタズラをしてくるのは、成長している証拠なのだ。子供は理屈を捏ねて来ないから、間違った行動は取ってこないものだ。子供が甘えて来ているのに、甘えを否定したり、子供がイタズラをして来ているのに、イタズラを否定していると、子供は健全に成長していくことができないのだ。人間は脳を発達させて進化して来た以上、子供の甘えにもイタズラにも付き合っていくことだ。

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