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下位自我の幻想狂想曲

●悪いと解っているのに犯罪が止まらない

 下位自我は上位自我より遥に厄介なものなのである。上位自我は男の子なら父親だし、女の子なら母親によって形成される。しかし下位自我は「親に甘えている自分」によって形成されたものだからだ。下位自我は青春時代が終わるまで存在し続けるのだから、自分で制御しておかないととんでもないことになる。

 中学生になって不良に走る連中というのは、必ずと言っていいほど、この下位自我を制御しきれなかったからなのである。不良というのは幼稚さの現れにすぎないのだ。勿論、若者の爆発的なエネルギーを吸収できない学校側にも問題があるが、青春時代の初期という最も大事な時に不良に走ってしまうのは、自分の人生に於いて非常なマイナスになってしまうのだ。

 大人になって麻薬に手を出す連中も下位自我の暴走を食い止めることができなかったからなのだ。理性的には麻薬に手を出すことは悪いことであり、麻薬中毒は恐ろしいものであるということは解っているのに、麻薬に手を出して、麻薬中毒になってしまうのだ。麻薬犯罪が見つかり、警察沙汰になって事態の重大性に気付いた時、大抵が「俺は馬鹿だった」というものだが、この馬鹿を平気でやってしまうのだ。

 結婚したら一家の家長として責任を持って行動しなければならない。しかし、中には幼稚な夫たちがいて、いつまでも子供っぽいことをして、妻を散々に困らせる夫もいるものだ。結婚して幼稚な亭主は救いようがないのだ。責任感というものがないために、責任感を伴う地位を与えられても、一体何をすればいいのか解らなくなってしまうのだ。

 下位自我の恐ろしさは、それが甘えて愛を貰ったり、探究心の発露になるのに、その一方で悪いと思っているのに犯罪が止められないのだ。母親なら叱って許してくれるものでも、大人になれば叱って済まされることなどなくなってくるのだ。今まで自分が築き上げた地位や財産や信用のすべてを失ってしまうこともありうるのだ。

●真面目人間の落とし穴

 下位自我が暴走していくのは、何も不良たちだけとは限らない。真面目人間も下位自我を制御しておかないと、暴走してしまうことになる。理数系の人たちは真面目人間が多いものだが、余りにも真面目すぎるために、冷静に考えれば、明らかに嘘というものまで信じ切ってしまうのだ。

 科学は精密な学問体系を作り出しているのだが、それをそのまま現実にも当て嵌まると思ってしまうのだ。だから、科学を使って宗教を否定したり、逆に霊魂の存在を証明しようとしたりするのだ。彼らには「人間は科学のようには動いてくれない」という大事なことが解っていないのだ。科学など所詮は人間が作りし物なのである。

 余りにも真面目になりすぎて、それが科学的発見に繋がればいいが、そうでないと、どこかでその探究心が歪んでしまい、邪教の餌食になってしまうのだ。オウム真理教は理数系の大学生たちをターゲットにして勧誘していったが、真面目であればあるほど、邪教の嘘を見破ることができなくなってしまうのだ。人間は小さな嘘には気付けても、大きな嘘には騙されてしまうからだ

 夫婦の中には、夫が高学歴で高収入で、真面目な紳士だったのに、突然にその真面目な夫が犯罪に手を染めてしまう事件が発生してくる。自分が真面目に働いているのに、その組織が自分の働きを正当に評価してくれないと、裏切られたと思って、横領や背任を平気でやってしまうのだ。

 嘗て幕末の尊王攘夷の志士である橋本佐内は、若者たちに向かって「稚戯を捨て去れ」と言って、若者たちの立志を促したものだが、男性というのは若い時はかなり幼稚なのである。その幼稚さを捨て去って、要は下位自我を暴走させないように、勉学やスポーツや仕事に精進しないと、立派な大人にはなれないのである。たとえ真面目に生きて来ても、その幼稚さを捨て去っていないと、どこかで破綻してしまうものなのである。

●下位自我は上位自我の影

 下位自我の破壊はそんなに難しいことではないのだ。下位自我上位自我の影であるがゆえに、上位自我が破壊されると、下位自我も消滅してしまうのだ。男性が冒険旅行に行って上位自我を破壊してしまうと、下位自我も同時に消滅するので、男性としての不自然さがなくなると同時に、幼稚さも消えてしまうのだ。

 暴走族あがりの人たちが、暴走族を卒業し、心から改心すると、悪さをしない男性に生まれ変わってしまうものだ。嘗ては暴走族だった癖に、良き夫にして、優しい父親になってしまうのだ。下位自我がなくなってしまえば、自分の妻に幼稚な行動を取らなくなってくるのだ。ちゃんと家長として責任感ある行動が取れるようになるのである。

 結婚すれば、妻が夫に甘えたり、夫が妻に甘えたりして、愛を貰い合う行為は、いつまでも必要である。しかし、それが余りにも幼稚になっていると、それは下位自我が破壊されていない証拠になってしまうのだ。その幼稚さは最初は家庭内で現れてくるかもしれないが、時間が経てば職場に出て来てしまい、その幼稚さのために大失敗をやらかしてしまうことになるのだ。

 育児や子育てで大事なのは、「甘えは必要だけど、甘やかしは必要ではない」ということなのである。子供が親に甘えることができなければ、父性愛や母性愛を貰うことはできない。だからといって、甘やかして育ててしまえば、我儘な人間に成長してしまい、下位自我の暴走で苦しむことになってしまうのだ。裕福な家庭になると、必ずといっていいほど、甘やかされて育った人たちが出て来るものだが、だからこそ、大人になっても大人に成りきれなくなってしまうのだ。

 人間には生まれながらにして向上心が備わっているものだ。赤ちゃんなら最初は動けないのに、寝返りを打てるようになり、ハイハイができるようになり、一人歩きができるようになっていく。その成長に最高の喜びを感じるように出来ているのだ。だからこそ、青春時代が始まれば、下位自我を制御して幼稚なことを捨て去って、学問やスポーツに精進して、向上していけねばならぬのだ。そのようなことをしていれば、来るべき時が来れば、自然と下位自我が破壊されてしまうのだ。

●良心が悪用される時

 人間は下位自我が破壊されないと、想像を絶する悪事を仕出かしてくるものである。最初は小さな犯罪だったのに、悪事が暴走していき、その内、凶悪犯罪を仕出かしてしまういのだ。ところが、自分が精神的に自立を果たしていないと、この凶悪犯罪者たちの肩を持つようなことを仕出かしてくるのだ。自分が精神的に自立していないから、凶悪犯罪者を処罰して、治安維持をもたらすという責任感を果たせなくなってしまうのだ。

 彼等は自分は良心的だと思っているが、この世には想像を絶する悪人がいるということが解らないのだ。「死刑廃止論」も「裁判員制度」も、この手の馬鹿たちが主張してきたものなのだ。しかし、この手の幼稚な意見は常に凶悪犯罪者たちに悪用されてしまうものなのだ。

 嘗て、死刑廃止論が最も高まった時に、オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こしたのである。裁判員制度も今は新しい制度だと浮かれているかもしれないが、裁判員制度が定着した時に、恐ろしいテロ事件が起こる可能性があるのだ。人間の良心というものは、どうやったとしても凶悪犯罪者たちの心には届かないものなのである。

 自分が上位自我を破壊して、精神的に自立を完成させないと、自分がこれは良心であると思っても、正しい考えにも正しい行為にもならないのだ。良心は常に悪用されるものなのである。なぜなら、精神的に自立を果たしていないから、相手を見切ることができず、決して相手のためになる行動を取ることができないのだ。飽くまでも自分が良心的な行為をしたろいうことに酔いしれているだけなのである。

 結婚している夫婦が「これは正しい!」と思って決断しても、そうはならないということもあるということなのだ。自分が正しいと思っても、実際にやってみれば間違っていることなどいくらでもあるのだ。家族を運営していくのに良心など当てに成らないのだ。、では、一体どうすればいい?

●「良心」ではなく「正心」

 精神的に自立して、精神的独立状態になることで、「正しい心」を持つようにすることなのである。「良心」ではなく、「正心」こそ、家族を巧く運営していくことができるようになるのである。自分が良いと思うから正しいのではなく、自分が正しい道を歩くからこそ正しいのである。絶対にこのことを間違ってはいけないのだ。

 これを『大学』では、「格物致知正心誠意」と説明した。「格物」とは、文武両道に励むことをいい、「致知」とはそれによって思いを巡らすことをいう。そうやって正しい心に辿りつくことができ、その正しい心であるからこそ、人間は誠意を発することができる。このような人間になってこそ、初めて身を修めたといえるのである。

 「心は一身の主宰」である。かといって、自分が勝手に正しいと思うのはなく、文武両道に励み、その精進をしながら自分なりに考えるからこそ、正しい心を持つことができるのである。これが大人になって仕事をするなら、現地に行って情報を収集するなり、本を読むなりして情報を集めて、その情報を元に自分が考え、そして正しい考えをすることができるということなのである。

 例えば、育児をしているなら、自分が正しいと思うことをいきなりするのではなく、育児経験者たちから育児の仕方を聞くなり、育児書で調べるなりして、育児の情報を集め、その情報を元に自分で考えて、正しい育児の仕方に辿りつくのである。しかもいきなり成功するわけないから、何度も試行錯誤しながら、やっと正しい育児の仕方に辿りつくことができるのである

 ここに「哲学の不思議」というものが現れて来る。「格物致知」とは哲学的に言えば経験論に立脚し、経験論を突き詰めれば唯物論になる筈なのである。しかし、経験論を出発点にしているにも拘わらず、唯心論になってしまうのである。心がすべでを生み出していくという考えに辿りついてしまうのだ。

 一方、「良心」とは哲学的に言えば合理論に立脚し、その合理論を突き詰めれば唯心論になる筈なのである。ところが、合理論を出発点にしているにも拘わらず、唯物論になってしまうのである。だから 何か新しい物を生み出せることができなくなり、環境に支配されてしまうのだ。

 唯物論は誰がどうやろうとも憎しみしか生まれない。なぜなら、自分が自分の人生の主人公になっておらず、環境の支配下にあるので、自分で豊かになっていこうという気概を持たずに、裕福な人たちから物を奪い取って、貧しい人たちに分配しようという考えを持ってしまうからだ。キリスト教徒だって、社会主義者だって、フェミニストだって、良心的な心情から発している。しかし、現実はその良心的な人たちほど残虐なことをやってきた歴史であるのだ。

 良心では我が身を以て全世界に立ち向かっていく愛と勇気がないのだ。ただ、この世の誰かに憎しみをぶつけることしかできないのだ。偽りの上位自我を破壊していないということは、こういう所に歪んだ物として出て来るのである。正心は試行錯誤の連続なのだ。「これで正しいのかな?」と自問自答しながら進んでいくしかないのだ。その歩みは良心的な人たちから見れば遅いように見える。しかし、その歩み方こそ、結果として正しい成果を生み出せることができるのである。こういうことは育児をしていれば当然に解ることのである。母親が悩みながら育児をしている時、実は最も成長していて、結果的に正しい育児の仕方に辿りついてしまうものなのである。自分が自分勝手に正しいとは思わず、試行錯誤を繰り返したからこそ、正しい育児に辿りつけたのである。

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