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2009年11月

幸せな結婚にするためのアドバイスの良し悪し

●解らなければ訊けばいい

 人間はすべての場面で適正な行動を取ることができるとは限らない。何事も実際にやってみれば、解らないことだらけなのだ。だったら、解らないことがあれば、経験者に訊けばいいのである。訊く時は恥ずかしいものかもしれないが、訊くべき時に訊いておかないと一生解らないままになってしまうのである。たとえ自分が苦労してその解答が解ったとしても、大変な労力とお金と時間を要してしまうことになるだ。

 結婚の仕方にしろ、育児の仕方にしろ、子育ての仕方にしろ、いくらやっても解らないことは出て来るものなのである。増してや新婚ホヤホヤの新妻や、新米ママなど、自分が生活していれば、自分ではどうも解らないことというのは出て来るものなのだ。結婚して10年以上経っても、結婚していれば、解らないことは出て来るものなのだ。如何なる既婚女性でも、自分で解らなければ他人に訊くことで、前進して行くことができるようになるのである。

 ところがである。疑問点が生じているのに、なぜか訊かない人というのは、確実に発生して来るものなのである。自分で迷えば迷うほど時間の無駄で、その間、ピタリと自分の成長が止まってしまうのである。疑問を抱えながら躊躇してしまうことは、間違った決定をすることより、なお悪い事態を引き起こしてしまうのである。

 大体、離婚した女性の殆どすべてが、自分が結婚で問題を抱えた時、然るべき人に訊き、その解決策を貰おうとした形跡が見当たらないのだ。自分が問題を抱え込んでいるのに、自分で考え込んでしまい、その思考の努力にも拘わらず、適正な解答を見つけることができず、離婚に至ってしまったのである。人間には口がついているのだから、それを使わなかったら、不幸になっていくのは当然のことなのだ。

 結婚しているなら、常に自分は正しい行動を取れるだなんて決して思わないことだ。自分が間違った行動を取った場合、然るべき人から批判して貰い、自分の誤った行動をやめさせ、適正な行動が取れるように仕向けることは、必要不可欠なことなのだ。結婚というのは、絶対に夫婦の間だけで自己完結しないのだ。

●自分に的確なアドバイスをくれる年輩の既婚女性を持て

 ママ友というのは、情報交換に役立っても、アドバイスでは役に立たないことが多いのだ。ママ友は育児を通じて出来た友達なので、どうしても対等な立場に立ってしまうので、アドバイスを受ける人にはなりにくいのだ。ママ友の中には、相談を持ちかけられる余りに、必死になって他人にアドバイスしている人もいるけど、その割には的確なアドバイスになっておらず、しかも、そういう女性に限って自宅は荒れ放題なものなのだ。

 自分に的確なアドバイスをくれる人というのは、既婚女性の場合、自分よりも年輩の既婚女性で、その女性がしっかりと幸せな結婚生活を営んでいる人に限るのだ。未婚女性や離婚経験者では、そのアドバイスがどんなに素晴らしいものに思えても、よ~く考えてみると、おかしなことを言っているものなのである。もしもそのアドバイスが適正なものであるなら、まずは自分自身が結婚で成功している筈であって、自分が結婚できなかったり、結婚しても破綻してしまったような女性の意見には、絶対に耳を貸さないことだ。どこかが根本的におかしいのである。

 子持ちの既婚女性だけが入れるクラブに入るということは、的確なアドバイスをくれる人を見つけるには、非常に役に立つものなのである。普通に暮らしていては、どうしても生活で手一杯になってしまい、年輩の既婚女性に出会える機会がなくなってしまうからだ。地元で活動している趣味のサークルにでも入ってしまえば、そこで趣味を行いながら、話せる機会を確保することができ、その際に的確なアドバイスを貰うことができてしまうのだ。

 宗教団体でも活気がある教団は、どの教団も既婚女性向けにクラブ活動を確保し、そこで年輩の既婚女性から的確なアドバイスを受け入れられるようにしているのだ。だからこそ、お金を支払ってまで、宗教活動に参加して、幸せな結婚を実現させているのである。問題は、そういったことは、その教団の教義とは余り関係ないことなので、そのことが解らないで教団の宗教指導者たちが教義を最優先させてしまうと、おかしな方向に進んでしまうのである。

 既婚女性が抱えるような問題は、キリスト教のように「愛」一本槍で解決できるものなのではないのである。宗教家のレベルから見れば、実は大したことではないのだが、しかしその既婚女性にとっては非常に大きな問題で、それを解決しない限り、前進することはできないのである。その問題を解決させてくれるためには、矢張り実際に結婚してみて、自分も経験がある既婚女性でないと、解いてくれないものなのである。

●批判者は何に対しても批判して来るもの

 ただ、注意すべきは、既婚女性の中にも、相当に捻くれた人がいて、根性がひん曲がった女性もいるものなのだということなのである。この手の既婚女性は何に対しても批判して来るので、要注意なのである。その既婚女性を楽園に連れて行っても、何かしらケチをつけてくるような奴なのである。

 人が問題を抱えていて、他人に尋ねているからといって、その問題を切っ掛けに、話がエスカレートして、結婚そのものへの批判に向かってしまい、結婚を破壊することになってしまうこともあるのである。他人にアドバイスを求める時は、問題を限定させるべきであって、自分たち夫婦そのものへの批判には向かわせないことだ。そういう批判は役に立たないものなのである。

 批判というのは、その批判によって改善策を施し、以前よりもより良い行動が取れるからこそ意味があるのであって、批判のしっ放しでは意味がないのである。いかなる夫婦の結婚に対しても、批判しようと思えばいくらでもできてしまうものなのである。そうなのではなく、すべてを改善して行くのではなく、今、自分が抱えている問題を解決してしまえば、それを切っ掛けにすべてがいい方向に向かって行ってしまい、他の問題は大して気にならなくなるものなのである。

 どの夫婦も本当に問題になっている箇所はごく僅かなのだ。「80対20」の法則はここでもちゃんと作動して来るのである。そのごく僅かな部分を改善してしまえば、その結婚の出力は180%になってしまい、今まで問題を抱えて前進できなかったのが嘘のように、晴々として前進して行くことができるようになるのである。

 問題を抱えている既婚女性からアドバイスを求められてからといって、すべてを弄ってはならないのだ。すべてを弄ってしまえば、逆にその結婚は悪い方向へと突き進んでしまうのである。余りにも世話好きで、相手に幸せになって貰おうと、すべての分野に手を出してしまうと、自分の労力は正反対に、その相手は不幸になってしまうものなのである。

●自分の人生を決めるのは自分自身

 夫婦は本当に様々なのである。その夫婦の相性とか、その夫婦の力関係で、その夫婦独特の形を築き上げてしまうものなのである。夫婦はみんな同じなどと決して思わないことだ。他の夫婦から見ればおかしなものであっても、自分たち夫婦なら、これで巧く行っているというものもあるからだ。「成るようにしかならない」と悟ってしまうことだ。夫婦は落ち着くべき所に落ち着くのである。

 かといって、その夫婦が何もかも勝手気儘にやっていい訳ではないのである。夫婦として原理原則をしっかりと押さえておかないと、その結婚は非常に危なく、破綻してしまうことになるのである。その夫婦の精神レベルが高ければ、その結婚の原理原則はしっかりと解るものなのだが、しかし実際にはどの夫婦も精神レベルが低いのだから、その結婚のf原理原則が解らないのである。

 だから、自分が結婚で問題を抱えた時に、年輩の既婚女性に訊けばいいのである。その問題解決を通じて、結婚の原理原則が見えて来るものなのである。的確なアドバイスは飽くまでも切っ掛けにすぎず、その結婚の原理原則が解ることの方が大事なのである。自分自身が問題を抱えたからこそ、その大事なものが見えて来るのである。何も問題が起こらないような生活を送っていれば、表面的には穏やかな日々を過ごしていても、肝腎なことが解っていないことになってしまうのである。

 気の小さい女性や、大人しい女性や、今までの人生で脱線がないような女性は、問題を起こさないことで平穏無事に生きて来たために、結婚していてもなるべく問題を引き起こさないようにしてしまうし、問題が起こったとしても見て見ぬ振りをして、放置してしまうのだ。しかし、そのように問題から逃げていては、自分を今まで以上に高めて行くことは決してできないのだ。

 自分たち夫婦に問題があるということは、決して悪いことではないのだ。その結婚が生きた結婚であるからこそ、問題を発生させて来るのであって、自分の結婚が死んでしまえば、問題など発生して来なくなるものなのである。だから、結婚で問題が生じたとしても、その問題から逃げずに、真正面から取り組んで行くべきなのである。

 他人にアドバイスを求めても、それを採用するか否かは自分なのである。この世がどうなろうとも、「自分は自分」という態度を貫いてしまうことだ。自分というものをしっかりと持っていないからかこそ、他人の意見を鵜呑みにしてしまったり、状況に流されてしまったり、時代の制約を受けてしまい、自由に生きることができなくなってしまうのである。

 どんな問題を抱えたとしても、自分たち夫婦は自分たち夫婦でしかないのだ。その問題を自分たち夫婦の遣り方で片づけて行けばいいのだ。そういった解決の積み重ねが、夫婦の財産となって、より強力なエネルギーを発生させ、今まで以上により幸せになって行くものなのである。

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不要品を捨てると愛される女性になれる

●結婚後10年目のガタクタの山

 大抵の主婦たちは、行動はのろいし、話は散漫で要領を得ていない喋り方をするものである。そのため、仕事で迅速な行動を要求され、結果報告を求められる夫にとってみれば、妻のチンタラした言動には我慢がいかないものだ。結婚当初はこうではなかったのに、結婚して10年以上経つと、どうしてこんなに変わってしまったのか?

 理由は簡単! 自宅がガラクタの山になっているからなのである。自宅に不要品が大量にあれば、その管理責任者である妻の行動が遅くなり、喋る内容も要領を得ない話をして来るものなのである。妻の心の状態が、確実に自宅の有様となって現れてしまうのである。頭の中が不要な物で一杯だから、自宅も不要品で一杯となり、言動も不要なもので一杯になってしまうのである。

 結婚して10年以上経てば、いかなる既婚女性であっても、家の中はガラクタで一杯になるものなのである。それゆえ、勇気を出して自宅を刷新して行かないと、自宅はガラクタの山になってしまうものなのである。テレビで「片づけられない女たち」が報道されていて、他人事で見ているようではあるけれど、どの既婚女性も似たり寄ったりの状態なのである。ただ。あそこまで酷くはないということだけなのである。

 どんなに頑丈な船舶も、長期間に亘って航海し続ければ、船底に貝がこびりついてしまい、エンジンの性能も低下してくるので、速度が遅くなってしまうものなのである。だからこそ、定期的にドックに入って、大掛かりな修理を行い、再び速度の速い船にさせるのである。結婚もなんの刷新もなく、結婚当初以来、そのまま走り続けていたら、余計な物を大量に抱え込んでしまい、その夫婦が持っているパワーを最大限に引き出すことができなくなってしまうのだ。だから、10年経てば自宅を大掃除して、不要品を捨ててしまうべきなのである。

 決して不要品を甘く見てはいけない。不要品があるだけで、自宅は狭くなり、妻の言動がピント外れになり、ダラダラとした生活になってしまうのである。不要品があればあるほど、運気は落ちて行くものなのである。だから、「夫の仕事が巧く行かない」「子供たちの成績が悪い」「家族の人たちが病気がち」といった現象が起きて来るのである。母親の言動が散漫になっていれば、夫も子供たちもそれに釣られてしまい、最悪の方向へと誘導されてしまうものなのである。

●不要品は捨てて、換金しよう

 不要品は捨てるに限る。この大原則が解っていれば、自宅は奇麗サッパリになり、母親自身も、夫も子供たちも運気が上昇して行くのである。母親の不要品こそが、自宅を窮屈にさせ、夫や子供たちの運気を奪ってしまっているのである。母親にとって気に食わないのは、夫の所有物であったり、子供たちの所有物であるが、どの家庭も母親の所有物が一番多く、それが大量にあるからこそ、夫も子供たちも大量に不要品を溜め込んでくるのである。まずは母親自身が不要品を捨てれば、夫も子供たちもそれに続いて不要品を捨て始めるのである。

 母親にとって、もう絶対にこれは使わないなという物は、結婚前に使っていた服なのである。女性は結婚してしまうと、服装の好みが変わってしまうために、独身時代に着ていた服は、もう二度と着ないものなのである。だから、まずはこれを捨ててしまうのだ。これを捨ててしまえば、満杯になっていたクローゼットや箪笥は大幅に空きが出て来るものなのである。

 漫画や小説の類も大幅に場所を食うものなので、捨ててしまうことだ。本は実用書などは要る可能性があるので、そう簡単に捨てられないが、漫画や小説は余程面白い物でない限り、もう二度と読まないものなのだ。それゆえ、漫画や小説に対しては、勇気を出して捨ててしまった方がいいのだ。

 一番下の子供が大きくなっているというのに、いつまでも赤ちゃんグッズを持っているなら、とっとと捨ててしまうことだ。母親の中には育児が余りも面白過ぎたたため、その思い出として赤ちゃんグッズを捨てずに持っている母親がいるものだが、こういう行動は子供をいつまでも赤ちゃん扱いしているのと同じであって、今後、子育てに於いて重大な問題が発生する原因となるのだ。

 不要品は換金できるなら、換金してしまおう。リサイクルショップや古本屋に売ってしまうことだ。才能があるなら、自宅で売ってみたり、露店を開いてみたり、ネット販売をしてもいい。大事なことは、僅かなお金でもいいから、不要品をお金に変えて、家計の足しにしてしまうことだ。これは臨時収入になるので、僅かな金額でも家計を預かる者にとっては有難いお金であるのだ。

●不要品を捨てると、新たな物が入って来るもの

 不要品を捨てると、自宅が奇麗サッパリになるものである。今までガラクタの山だったのに、隙間ができるものなのである。その隙間があると、その空間を埋めようとして、新たな物が自然と入って来るものなのである。どこからともなく、自分にとって必要な物が遣って来るのである。

 例えば、誰かから貰い物をしてしまったとか、買い物をしている際に偶然に掘り出し物を見つけてしまったとか、雑誌を読んでいたら突然に欲しい物が飛び込んで来たとか、偶然としか思えないような出来事によって、自分にとって必要な物が入って来るようになるのである。

 自宅に隙間がなければ、新たな物は入って来ないものなのだ。不要品で自宅を満杯にしてしまうと、新たに必要な物を欲しいと思わず、せいぜい食料品だけを購入する生活になってしまうものなのである。そんな陳腐な生活をしていても、不要品を捨てると、なぜか新たな物が入って来て、生活が一気に豊かになっていくものなのである。

 経済的な豊かさというのは、お金を貯め込むだけでは豊かになれないのだ。新たな物を消費してこそ、豊かになれるのである。独身時代は大した貯金もないくせに、結構、豊かな生活をしていたのは、お金を使って新たな物を購入していたからなのだ。結婚して新婚時代や赤ちゃんを育てている時は豊かさを感じることが出来続けたのは、新婚生活のために、育児のために、お金を使って新たな物を購入し続けたからなのである。

 それが結婚して10年も経つと、自宅が不要品で満杯になっているがゆえに、新たな物を購入することができなくなり、そのために購買欲が急低下し、収入はある筈なのに、貧乏じみた生活になってしまうのである。確かに消費をしなければ、貯金をすることで豊かになっていくものだが、かといって消費をしなければ、生活の豊かさを実感できないものなのだ。

●スマートに生活しているからこそ、スマートに愛される

 経済というのは、男女平等には出来ていないのだ。いかなる国民も、男性がお金を稼ぎ、女性がお金を使うようにできているのだ。だからこそ、デパートでは下の階が女性客用に作られ、しかもオシャレな空間になっているのである。男性客がデパートで買い物をしようなら、わざわざエスカレーターに乗って上の階に行き、しかも殺風景な売り場で商品を買う羽目になるのである。

 女性がお金を使わなければ、いくら男性たちが仕事に精を出しても、経済が一向に良くならないのである。女性が大量に消費し始めるのは、なんと言っても結婚してからである。家計に於いて消費の主導権を握るのは妻なので、妻が生活のためにじゃんじゃん消費してくれるからだ。それゆえ、結婚率の高い国ほど、経済力が強く、その国のGDPに関わりなく、国民は豊かな生活を送っているものなのである。日本が長期間に亘って不況に襲われ、GDPが高い筈なのに国民が貧乏になってしまったのは、政府が法律によって強制的に女性たちを働かせたことで結婚率がガタ落ちになり、そのために商品を生産する労働者は増えても、商品を消費してくれる既婚女性たちが激減してしまったからなのである。

 女性は商品を消費するように作らているのだから、新たな物を購入することで、その欲求を満たしてしまうことだ。女性が買い物をしなくなったら、いかに肉体的に健康であったとしても、最早、精神が異常になっているものなのである。結婚していれば、自分のために、夫のために、子供のために、いくらでも買わなければならない物はたくさんある筈だ。

 だからこそ、不要品を捨てるのである。不要品を捨てることで、自分の生活をスマートにしてしまうと、新たな商品を買いたくなるものなのである。そうやって生活を巧くメリハリつけていくと、夫からも、子供たちからも、スマートに愛されるのである。スマートに生活しているからこそ、スマートに愛されるのである。

 不思議なことに、勇気を出して不要品を捨ててしまうと、運気が非常に良くなって、ツキに恵まれるものなのである。幸運の連続が自分の身に起こって来るし、夫は仕事が巧く行き始め、子供たちの成績も良くなっていくものなのである。収入が少なくて家計が苦しいとか、どうも不幸ばかりが続くとか言うのなら、自宅を見まわして見ることだ。貧乏だという割には、自宅が不要品で埋め尽くされているものなのである。不幸だという割には、自宅には換金できる不要品がたくさんあるものなのである。

 肺の中から空気を吐き出さなければ、新鮮な空気を吸えないように、不要品を捨てなければ、新しい物を手に入れることはできないのだ。今ある物をすべて握りしめていたら、結局はすべてを失ってしまうことになるのだ。手放すべきものは手放すべきなのである、そうすれば新たな物を掴むことができるようになるのである。

 自分の体重が増えて来れば、生活自体もブヨブヨな生活になってしまうものなのだ。生活をスマートにすると、自分の体形もスマートになっていくものなのである。自宅で夫や子供たちの悪口を言っていないで、自分自身がスマートな女性になって、愛される女性になれることだ。夫や子供たちから愛されているんだと解れば、自分もちゃんとした愛を出して行くことができるようになるのだ。母親がそのような心になってくれるからこそ、家庭の中は愛で満たされるものなのである。

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母親の笑顔が家族に幸福をもたらす

●顰めっ面の母親たち

 世の中には自分が幸福の真っ只中にいるというのに、顰めっ面になってい母親たちがいるものなのである。結婚でき、高収入をもたらしてくれる夫がいて、健康に育った子供たちがいて、大きな家に住み、自動車も持ち、年に何度かは旅行に行っている。それなのに、なぜかその母親は笑っていないのである。こういう女性から「自分は不幸なんだ」と愚痴を聞かされたら、結婚も出来ず低所得者でしかない貧乏な女性たちからブーイングが起こるのは当然のことなのだ。

 なぜ、こんなことが起こるかといえば、それは夫が無表情でいるから、その無表情に釣られてしまい、自分も無表情でいるようになってしまい、いつのまにか自分は不幸なんだと思い始めるようになってしまったのである。「まさか顔の表情だけで自分の幸不幸を決めるなんて!と」思うかもしれないけど、人間の表情は重要な意味を持って来るのである。

 そもそも人間の表情には男女で性差がある。男性というのは、狩猟をしなければならなかったので、どんなことが起ころうが無表情でいるものなのである。無表情になって獲物に近付き、仕留めなければならなかったからだ。それに対して女性は狩猟をせず、家事や育児をしたり、女性たちでお喋りをしながら木の実を採集したりしていたので、顔の表情が豊かなのである。相手の顔の表情の変化で、相手の喜怒哀楽を読み取り、それによって人間関係を深めていったのだ。

 だから、結婚したとしても、妻の方は表情が豊かかもしれないが、夫の方は無表情なものなのである。しかも夫は仕事で疲れ切って帰って来るので、帰宅直後の夫は無表情を通り越して、不機嫌な顔でいるものなのである。そのため、その夫の顔を毎日見続けていたら、妻の方も無表情になり、顰めっ面になり、自分は不幸なんだと思うようになってしまうのである。

 断言してもいいが、女性として生まれたのに、不幸になってしまう人たちは、絶対に顔が明るくないのである。笑っていないのである。一日の内に笑顔になる回数が非常に少ないのだ。顔が暗く、笑っていないからこそ、不幸になっていくのであって、そういう女性たちが自分の顔の表情を変えず、何か対策を講じても、絶対に幸せになることはできないのだ。自分自身が女性としての本能を自ら踏み躙っているからなのである。

●家族の幸せは母親の笑顔が作り出す

 多くの女性たちは実に根本的な勘違いをしているものだ。幸せな女性というのは、その女性が幸せだからこそ、笑っているのではないのだ。幸せそうにしている人たちは、幸せだから笑っているのではなく、いつも笑顔だから幸せになれるのである。笑顔は幸せの結果ではなく、幸せを作り出す原動力になっているのである。

 自分自身が幸せになりたいのなら、夫や子供たちを幸せにしたいのなら、夫や子供たちがどのような表情でいようとも、自分は笑顔で居続けることだ。家族の幸せは母親の笑顔が作り出すものなのである。母親がいつもニコニコしていれば、いくらでも幸せはやってくるし、いかに大きな不幸が訪れたとしても、簡単に撃退できるものなのである。

 夫は男性である以上、無表情でいるのは当たり前なのだから、それに釣られてしまわないことだ。夫が無表情でいても、自分が笑顔で居続けてしまえば、夫もその笑顔に釣られて、笑顔になってしまうものなのだ。どんなに仕事で疲れて帰って来ても、妻が笑っていれば、その夫は元気を取り戻すことができるのであって、仕事で成功する確率が高まって来るのである。

 人間の脳は顔が笑っている状態にあると、何か楽しい事があるのではないかと錯覚してしまい、実際には不幸な状況にあっても、その辻褄が合うように幸せを探し始め、幸せを実現させてしまうのである。笑顔は笑顔で留まらないのだ。笑って脳を騙すことで、自分の人生を幸せに満ちたものにしてしまばいいのである。

 現在、自分たち家族がどのような状況にあろうとも、母親が笑顔でいれば、不幸を撃退し、幸福を招き寄せてしまうものなのである。母親の脳だけが騙されるのではなく、夫の脳も、子供たちの脳も騙されてしまうのである。いかに現実が不幸だからといって、笑顔を失っていると、巨大な不幸を招き寄せてしまうものなのである。

●笑顔の練習

 人間は笑顔を忘れてしまうと、無理矢理に笑っても気持ち悪い笑顔もどきをしてくるものなのだ。そのため、鏡の前に坐って、鏡を見て笑顔を作る練習をすることだ。どうすれば素敵な笑顔ができるが、自分の顔を使って練習してみることだ。美しい笑顔というのは、口角が上に上がった笑顔なので口角を上げて、美しい笑顔になれるように努力することだ。

 既婚女性にとって最大の難関が、夫が帰宅して来る瞬間なのである。夫は無表情で帰って来るし、しかも疲れ切っているので、自分自身も家事や育児で疲れ切っていれば、その無表情に釣られてしまうからだ。それゆえ、夫が帰って来る前に、洗顔するなり、香水をかけるなりして、生活の疲れを取り、気分をリフレッシュさせることだ。この些細なテクニックがあると、夫の無表情に釣られてしまうことがなくなるのだ。

 日常生活で危険なのは、ニュース番組を多く見てしまうことだ。ニュース番組は殺人事件や政治腐敗といった暗くて腹立たしい情報しか流して来ないので、そのような番組を見る時間が長ければ、妻の顔から笑顔がなくなってしまうのは当然のことなのだ。ニュース番組を極力抑えるというのは、自分の家族を幸せにするために、絶対に必要な措置なのである。

 下らないテレビをダラダラと見るよりは、内容の濃い映画やドラマをDVDを借りて来て見てしまうことだ。その心地いいフィクションの世界に没頭して、様々な喜怒哀楽を見せて、女性としての顔の表情の豊かさを回復するのだ。大きく笑いたければ、大きく悲しみ、泣いてしまうことなのである。女性はとことん悲しんでしまうと、笑うことしかできなくなってしまうのである。

 たまには落語家の寄席に行くというのもお勧めである。落語はナマで見ると、本当に面白くて、ゲラゲラと笑えるものなのだ。テレビで落語家たちを見て、落語ってのはあの程度のものだろうと思ったら大間違いなのである。落語家でも真っ当な芸を持っている人は、ただ単に笑わせてくれるのではなく、人間として非常に奥深い教訓を持っているので、その後の人生に大いに役立つものなのである。

●笑顔とユーモアで夫や子供たちを支援しよう

 結婚していれば、様々な出来事に出合うものだ。良い事も悪い事も色々なことが起こって来るものだ。その際、自分が嫌だと思う事ばかりに囚われていたら、自分の人生は不幸になってしまい、その不幸が夫や子供たちまでに及んで来るものなのである。結婚していて、すべて自分が気に食わないことが起こる既婚女性なんていないものなのである。必ず面白いことだって起こっている筈なのである。自分の顔の表情が豊かでないために、どうしても面白いことには目が行かず、気に食わないことばかりに目が行ってしまうのである。

 だからこそ、笑顔が必要なのである。自分が笑顔でいれば、自然と面白いことに目にが行き、自分が気に食わないことには目が行かなくなるものなのである。自分の気に食わないことに、いちいち腹を立てていたら、自分がより一層不幸になっていくのは当然のことなのである。

 自分にとって不都合なことが発生したのなら、笑顔とユーモアで以て対処してしまうことだ。ほんの些細なユーモアを言ってしまえば、その不都合と思っていたものが、好都合に変わってしまうものなのである。少しの冗談も言えないからこそ、洒落にならない深刻な人生を歩んでしまうものなのである。

 夫は全力を振り絞って仕事をして来るし、子供たちも全力を出して遊びまくって来るものである。それゆえ、家族の中で余力を残しているのは、母親だけなのである。だからこそ、家庭の中で笑顔を振りまき、ユーモアを言って笑わしてあげるのだ。笑顔とユーモアを以て夫や子供たちを支援してしまえば、家族は幸福で満たされるものなのである。

 女性が結婚して幸せになるか不幸になるか、その最大のポイントは、いつも笑顔でいるかいないかであるのだ。その大事なポイントを忘れてしまったら、いくら経済的に恵まれていようが、最終的には不幸になってしまうのである。結婚して当面の間は貧乏になるものなのだから、その間、妻が笑顔で居続けると、いつの間にかに経済的にも恵まれて幸せな生活を送れるようになってしまうものなのである。結婚をしたら、絶対に笑顔を忘れないことだ。

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ほんの僅かな口癖を変えるだけで、夫婦は変わって行くもの

●言葉遣いの修正が人生を大成功に導く

 夫婦だからといって、何を言っていいわけではない。夫婦だからこそ言ってはならない言葉もあるのである。夫婦は他のいかなる人間関係よりも非常に強い信頼の上に成り立っているので、それに甘えて遂々なんでも言っていいのではないかという錯覚に陥ってしまうものだ。しかも、新婚当初の緊張感はとっくに薄れ、結婚が10年以上も経つと、自分の不注意から相手を傷つける言葉を平気で言ってしまうものなのである。

 この世の殿方というものは、大抵、仕事で心身ともに疲れ切った状態で自宅に帰って来るものなのである。問題はその時に、妻が良き言葉で迎えてくれるのか、悪しき言葉で迎えてくれるのかで、その男性の人生が大きく変わってしまう筈だ。自分自身が疲れ切っているがゆえに、普通の人々に対してなら当然の防御できるものでも、それを怠ってしまうからだ。

 夫が帰宅して来た直後に、夫婦喧嘩を発生させた場合、それがどのような理由で発生したとしても、その発生の責任の大方は妻が負うべきなのである。仕事で働いて生活の糧を得て来た以上、その手柄のある者に対して喧嘩を起こさせるというのは、絶対にしてはならないことだからだ。自分の言い方や、話の内容や、物の仕草など何かしらに落ち度があったと見て、早急に改善措置を施すべきなのである。

 夫婦であるなら毎日一緒にいるために、会話の仕方を改善するということを完全に忘れてしまっているものなのだ。この御時世、見知らぬ人と会話をして、口論になろうものなら、暴力事件や殺人事件に巻き込まれるのが必至なのである。それなのに夫婦で口論になっても、暴力を振るわれたりしないからといって、それを放置しておくと、最終的には自分の命が奪われてしまう結果になってしまうものなのである。

 女性は男性よりも言語能力が達者なのだから、その言語能力を夫を遣り込めてしまう方向には使わないことだ。夫の運気を上昇させていくために使うべきなのである。人間は放置して行くと悪しき事を仕出かして来るので、言葉遣いの修正こそが人生を大成功に導くと、常に心のどこかで思っていた方がいい。

●嫌な言葉をひっくり返せ

 結婚をして10年以上経つと、無意識の内に或る特定の言葉を頻繁に使ってしまい、それによって自分の思考や行動を大いに狭めてしまっている既婚女性たちがいるものである。例えば、「やっぱり」「でもね」「仕様がないな」とかいう言葉だ。こういう言葉を使う母親たちは、家事や育児にだらけ切ってしまい、自分が何をやってもどうにかなるものではないと思い込んでいるのだ。自分の行動量が少ないから、常に他人の行動を批評する側に回ってしまい、「やっぱり」「でもね」「仕様がないな」と言い出して来るのである。こういう言葉を使われると、夫も子供たちもカチンと来るものなのである。それゆえ、この手の言葉を使いたくなってしまう時は、「凄いわね~」と正反対の言葉を言ってしまえばいいのだ。そうすると、相手を褒めることにもなるし、自分も何か行動して行こうという気になるものなのである。

 それから、経済的な問題として、「お金がない」という言葉は絶対に使うべきではないのである。家計を担当している主婦は、お金がなくても、どこからか捻り出すのが仕事なのであって、「お金がない」と日頃から言っている主婦は、家計簿をつけていないために、家計を把握していないのである。お金がない時は、「お金がなければ、お金を作り出せ!」と言ってしまい、貧乏を吹き飛ばして行くべきなのである。

 また、夫が浮気した場合、夫が浮気したことにカンカンになって怒り、離婚にまで発展させてしまうのは、愚かな女性がすることなのである。夫が浮気したことで、何か自分が被害を受けたわけではないのである。寧ろ、夫を相手するのを愛人に任してしまい、自分は家事や育児に専念できるというものなのである。それを結婚最大の危機に悪化させてしまえば、折角築き上げた結婚が一瞬にして破壊されてしまうものなのである。自分が激しい感情に任せて、愛人側の利益になるようなことをしているのである。自分の旦那が浮気したら、「うちの旦那は女にモテるいい男なんだ!」と言って、自信を持てばいいのである。そうしておけば、夫は愛人に飽きたら、妻の元に戻って来るものなのである。

 嫌な言葉はひっくり返すことに限るのだ。嫌な言葉をひっくり返した時に、自分の思わぬ欲望や利点が見えて来るものなのである。例えば、「貧富の格差」を社会問題視して来る人々は、実は「仕事がもっと楽になって、お金がもっと欲しい!」と言っているにすぎないのだ。そんな美味い話はこの世にはないものなのだが、仕事できちんとした成果を出していないと、こういう間違った考えに取りつかれてしまうのだ。難民のことを余りにも問題視しすぎてきたり、ニュース番組ででホームレスの話を食いいるように見ている既婚女性たちは、自分がやっている家事や育児に適切な改善措置を施していなかったり、お金に関して欲求不満が溜まっていると見ていいのだ。

 これは「男女の性差」を盛んに主張して来る女性たちも同じであって、いくら男女の性差を解消しようとして来ても、男女平等を本当に実現するのではなく、「人間を平等に扱わないで、自分だけを特別扱いをして欲しい!」と言っているにすぎないのだ。だからこそ、フェミニズムが女子大という、存在そのものが男女平等に違反している場所で広まってくるのである。フェミニズム運動を真剣にやっていた女性でも、誰かと恋愛をするなり、結婚するなりして、自分を特別扱いして欲しいという欲求不満が解消された時、フェミニズム運動から去って行くものなのである。それゆえ、フェミニズトたちの意見をそのまま鵜呑みにしてはならないのである。

●頭に来る言葉はオウム返しで処理する

 こういった言葉の使い方は、夫婦で相手の嫌な言葉を封殺する際にも、効果的に利用することができる。例えば、夫から「馬鹿!」と言われてカチンと来た時には、その馬鹿という言葉をそのままにしておくと、自分の頭は怒りで一杯になってしまう。そういう時は、自分が怒る前に、「あなた、私のことを馬鹿って言ったわね」と切り返せばいいのだ。そう言われたら、夫は「ああ、そう言ったよ」としか言わざるをえないので、それ以上、暴力的な言葉が使えなくなってしまうのである。

 頭に来る言葉は、オウム返しで処理するというのが、夫婦喧嘩を抑止する最大のテクニックだと思っておいた方がいい。夫婦だからこそ、自分の言って欲しくない言葉を言って来る確率が非常に高くなってしまうものなのである。だからこそ、自分がカチンと来る言葉に対しては、オウム返しで処理して、遣り過ごしてしまうべきなのである。

 もしも自分が肥満になったことを気にしているなら、遅かれ早かれ夫は「最近、太ったな」と言って来ることだろう。そういう時は「あなた、太ったなって言ったわね」と切り返せば、夫は妻の圧力に恐怖してしまい、もうそれ以上、妻が怒るような言葉を言わなくなるものなのだ。既婚女性の肥満は典型的な「幸せ太り」なので、肥満だからどうのこうのするものではないのだ。ただ夫は事実を指摘してくれただけなので、その会話を切っ掛けに運動でもして、肥満を解消していけばいいのだ。

 子供はまだまだ言語能力が発達していないので、親子がどんなに会話量を多くしても、子供は自分の言っていることが、母親に受け入れられないと、ストレスを溜め込んでしまい、それが反抗期に時になって爆発して来てしまうものだ。そうならないためにも、子供が真剣に何かを言ってきたら、子供の言っていることを、オウム返しで言ってあげればいいのだ。子供はこれをやられると、お母さんは自分の言っていることを受け入れてくれたと思い、下手なストレスを溜め込まなくなるのだ。

 オウム返しは、感情的になって相手が言葉の暴力を振るって来るのを防ぐのには非常に効果的なので、家族以外の者でも言葉遣いの悪い人に対してオウム返して切り返して、言葉の暴力を振るって来ることを封じてしまうべきだ。このテクニックがあるだけで、人間関係のトラブルは激減するものなのである。

●運気を最大限に上げる言葉遣い

 人間には口は1つしかないが、耳は2つあるものである。ということは、自分が喋っている2倍以上、他人の話を聞かねばならないということだ。言語能力が高い筈である女性たちが、仕事をしても巧く成果を作り出せないのは、自分が喋ってばっかりで、他人の意見を聞かないからなのである。いつも自分ばかりが喋っているので、その内、意見を言って来る人はいなくなり、自分の独善だけが暴走してしまい、仕事が失敗してしまうのである。

 自分の運気を最大限にあげたければ、まずはその口を閉じるべきなのである。自分が喋る量よりも、相手の話を聞く量を増やしてしまえば、自然と運勢が上がって行くものなのである。今、自分が不幸だと思うなら、自分が喋り過ぎたことによって、他人の意見の聞かなかったことに、その不幸の原因があるものなのである。

 「他人の話を聞く時は、口を閉じて聞き、他人の言葉に従う時は、自分の声で言い返せ」。これを夫婦間で用いたら、いかなる馬鹿女でも、良き妻になってしまうものである。これを親子間で用いたら、いかに駄目な母親でも、賢い母になってしまうものなのである。この当たり前すぎることができないからこそ、夫婦で揉め、親子で揉めてしまうのである。

 他人の話を聞き入れるということは、他人を受け入れるということなのである。他人を拒絶しているからこそ、悩みが膨らんでいくのであって、他人を受け入れると、悩みが消えて行くものなのである。しかし、人間は他人のすべてを受け入れることはなかなかできないものだ。だからこそ、まずは相手の話を聞くようにするのである。それだけで正常な人間関係が成立するものなのである。

 夫婦の間では基本的に困ったことは起こらないものだ。夫婦のどちらかが問題を抱えても、もう一方の知恵や行動によって巧く解決できてしまうものだからだ。だが、結婚しているのに、相手の力を使えないとすれば、自分だけがすべての悩みを抱え込んでしまい、いずれ自分自身が破綻して行ってしまうのである。離婚してしまうような女性は、自分の夫の力すら使いこなすことができなかったのだから、その結婚が破綻してしまって当然なのである。

 結婚しているからといって、妻の意見ばかり通していたら、どんなに温和な夫でも嫌になってしまうものである。いずれ妻への愛をなくし、妻の元から去って行くものなのである。そうならないためにも、結婚しているからこそ、夫の話を良く聞き、夫の意見を通してあげるのである、夫の意見を通していれば、自分の意見だってなんの障害もなく通ってしまうのでる。そうやって夫婦が円満になると、夫婦から強烈なエネルギーが発生してきて、いくらでも幸せになってしまうものなのである。

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幸せな結婚生活はポジティブな考え方でこそ巧く行く

●核家族化と脳の情報過多

 結婚して10年も経てば、それだけ夫婦としての思い出をたくさん積み込んでしまうということなのであるが、既婚女性の中には良い思い出を一切思い出すことなく、悪い思い出だけをしっかりと記憶している妻たちがいて、夫婦で揉め事があると何かと過去のことを持ち出して、夫のすべてを否定しようと躍起になっている女性たちがいるものである。当然、このような遣り方をしては、夫婦関係は巧く行かないのだが、夫の前になると、どうしてもこういう悪態をついてしまうのだ。

 これは脳の記憶が満タンになってしまったということなのである。人間の脳は記憶量が一杯になってしまうと、目の前にあるものすべてを否定しようと躍起になるという、最悪の機能を持っているものなのである。解り易い例を上げるなら、現在、日本は平和で繁栄を享受しているものなのだが、朝から新聞を読みテレビを見まくっている人に限って、日本のことを悪くいい、政治家を罵倒して来る人たちがいるものだが、これは情報の過剰によって、脳が建設的な作業をすることなく、破壊的な作業をするようになってしまったのである。

 人間の脳は狩猟採集経済の頃と基本的なメカニズムは殆ど変っていない。文明以前ではいくつかの家族が小さな部落に住み、たとえ結婚したとしても、日中は夫が狩猟に出かけ自宅にはいないし、妻たちは集団になって家事をしたり、木の実などを採集しに行っていたのである。そのため、どの妻も夫に対してそれほど重点がかかることがなかったのである。

 それなのに文明が誕生し、核家族になってしまうと、夫は平日は家にはいないけど、休日にはいる訳だし、日頃、妻同士で家事をしたり、食料を探しに行くということはなくなってしまったのだ。そのため、女性は結婚してしまうと、どうしても夫に対して重点がかかりすぎてしまい、そのために脳の情報量が限界に達してしまい、今まで愛し合っていた夫婦が一転して、夫の遣ること成すことを否定する最悪の妻になってしまうのだ。

 結婚しているのに、夫の悪口を言っているような既婚女性たちは、とにかく夫に対して重点を置き過ぎないことだ。もう一人赤ちゃんを産むなりして、子供の方に目が行くようにすべきなのである。更には妻同士の付き合いを大事にし、既婚女性しか入れないクラブに入るとか、既婚女性が多く働いている職場で働くことで、女性脳を満足させてあげ、自分の夫を否定するような悪妻をすぐさまやめることだ。

●結婚は足し算! 絶対に結婚を引き算にすること勿れ

 我々の生活の中に自動車が普及してしまったために、物事を進めて行く際に、アクセルを踏むか、ブレーキを踏むかの選択肢しかないと思っている。しかし、結婚は前進するか、後退するしかの2つに1つの選択肢しかないのだ。決して結婚を停止させる選択肢など、どこにもないのだ。

 結婚は絶対に足し算で進めて行くべきなのである。夫婦がいい思い出をたくさん作り出して行くからこそ、脳が「この結婚は面白い!」と思うようになってしまい、いくらでも面白いことを作り出そうとして行くからだ。面白い経験がたくさんあればあるほど、如何なる不幸が遣って来たとしても、それを撃破してしまうことができるようになるのである。

 結婚を絶対に引き算にすること勿れ。いくら愛し合っている夫婦でも、悪い思い出ばかりを積み込んでしまったら、到底やっていけるものではないからだ。確かに或る程度までの不幸には耐えるべきだけれども、夫婦でいる時に、互いがネガティブモードでいれば、その結婚が破綻するのは時間の問題なのである。

 人間の思考は習慣性を持つものなのである。一度、脳に「この人といる時はポジティブモードになる」と思いこましてしまうと、脳はその人を見るたびにポジティブモードになってしまい、積極的な考え方や積極的な行動だけをしてくるようになるのである。しかし、一旦、脳に「この人といる時は最悪!」と思いこましてしまうと、脳はその人を見るたびにネガティブモードになり、否定的な考え方や破壊的な行動だけをしてくるようになるのである。

 結婚して10年以上も経って、「夫のことがどうしても気に食わない」というのなら、その妻の脳の方がいかれているのである。結婚して10年以上も経って、「夫のことが好きで好きで堪らない」というのなら、その妻の脳は相当いかれているのである。同じいかれているのなら、良い方にいかれてしまうべきなのである。脳が良い方にいかれてしまえば、結婚は幸せだらけになってしまうものなのである。

●前に進めば問題は解決できるもの

 我々は学校で長らく勉強してきたために、何か問題が発生した時は立ち止まって考えれば、答えが出るのではないかと思ってしまう。しかし、結婚では立ち止まって考えていると、碌でもない考えしか浮かんで来ないものなのである。丁度、結婚について書かれた書物の殆どが結婚に対して否定的な考えを述べているのと同じように、結婚について深刻になって考えれば、否定的な考えしか浮かんで来ないものなのである。

 どうして結婚について立ち止まって考えると、否定的な考えしか出て来ないかというと、結婚は夫婦双方に前進することが求められているのであって、如何なる問題が発生したとしても、その問題は夫婦が前に進むと解決できるように出来ているからだ。そのため立ち止まって考えてしまうと、一見、それが素晴らしい思考法だと思ってしまうが、前進してしないために、正当な解決策を見つけ出すことができず、破滅的な解決策を勝手に作り出してしまうのである。

 結婚していて、現状維持というのは、実は後退していることなのである。立ち止まってしまえば、進むべき所を進んでいないからだ。後退してしまうと、問題が解決できるどころか、問題は更に悪化していくものなのである。当初は些細な問題であったのに、自分が後退しているために、様々な問題が生じて来てしまい、挙句の果てには結婚そのものを破壊することでしか解決できなくなってしまうのである。

 結婚していれば常に良い事があるとは限らないから、時には後退せざるを得ない時がある。そういう時は後退することによって、態勢を整えて行かねばならない。しかし、いつまでも後退し続けることはできないのだ。必ず前進に転じて、前に進んでいかねばならないのだ。そういうことをしなければ、後退して行く際にエネルギーを奪われ、ジリ貧になってしまい、すべての分野で崩壊が始まってしまうのである。

 夫婦で抱える問題など、それほど大したものは起こらないものなのである。「生活をしていくのにお金がない」。だったら、収入を多くするなり、生活費を切り詰めるなりすればいいのである。「子供が病気である」。だったら、あの手この手を尽くして治療して行けばいいのである。「嫁姑の争いごとを起こしてしまう」。だったら、妻の方が姑に折れるか、姑が介入できないほど裕福になって、お金の力で圧倒してしまえばいいのである。

●何もしないでいると、雑念に取りつかれてしまう

 結婚しているなら、常にポジティブモードになり、前進して行くことを忘れないことだ。結婚し続けていれば、「面白いこと」「楽しいこと」「嬉しいこと」はいくらでも起こりうるものなのである。大事なことは、結婚して10年も経てば、結婚そのものを如何なることがあっても維持するということが、絶対的重要性を持って来るということなのだ。

 結婚に問題が発生したからといって、結婚を破壊してしまえば、恐らくその後の人生で幸せなどやってこないものなのである。離婚して一時的な幸せを獲得できたとしても、その一時的な幸せのために何百倍もの不幸を発生させてしまうものなのである。結婚に問題が発生した場合、結婚自体に問題があるのではなく、自分がネガティブモードになり、後退しているからこそ発生させてしまったということに、一刻も早く気付くべきなのである。

 結婚して10年以上の経てば、家事や育児に余裕が出て来るために、変化のない無為な日々を過ごしてしまうがちだ。しかし、人間は何もしないでいると、雑念に取りつかれてしまい、その雑念が自分の生命力からエネルギーを奪ってしまい、苦しみや悲しみや怒りを呼んで来るものなのである。

 結婚に余裕が出て来たのなら、暇を弄ぶのではなく、行動を起こすべきなのである。行動を起こせば、苦しみや悲しみや怒りは吹き飛んでしまうものなのだ。夫が外で仕事をしているというのに、子供たちは勉強やスポーツに精を出しているというのに、妻が自宅で一日中テレビを見、友達と下らない会話をしていたら、その妻の脳がおかしくなるのは当然のことなのだ。妻一人だけが何もしていないから、邪悪な考えに取りつかれてしまうのである。

 「嵐の前の静けさ」と言うが、結婚して余りにも平凡な日々が続いてしまうことは、表面的には幸せであっても、それは非常に危険な状態になりつつあるということなのである。今まで築き上げて来た結婚を根底から破壊されないためにも、ポジティブモードになり、積極的に行動を起こして行くことだ。行動を起こして行く内に雑念が吹き飛んでしまい、自分が新たにやるべきことが見つかり出すというものなのである。

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夫婦共通の目標の再設定

●結婚後10年目の危機

 結婚して10年も経てば、夫婦が結婚当初に思い描いていた夢はほぼ実現できてしまっていることだろう。大概の夫婦は、子供たちがいて、大きな家に住んで、年に何度かは旅行に行く程度の夢なので、結婚して10年経てばそれらを実現してしまっていることだろう。10年という歳月は、夫婦が「夫婦の夢」を実現させるには丁度いい期間なのだ。

 一方、結婚を成し崩し的に行ってしまい、結婚当初に何も夢を持っていなかった夫婦は、生活に四苦八苦するような結婚生活になってしまっていることだろう。夫婦自体に「夫婦の夢」がないために、自分たち夫婦から夢を実現させるパワーが出て来なくなってしまい、パワー不足のまま、ただ単に生活を維持しているだけの日々になってしまうのだ。

 この夫婦の夢を実現できた夫婦も、生活に四苦八苦している夫婦も、結婚して10年目に同じような危機を迎えてしまう。それは「夫婦の会話がない」という危機である。結婚して10年も経てば、夫婦として話すべきことはすべて話してしまっている状態になってしまうので、夫婦の会話がなくなってしまい、たとえ会話ができたとしても日常の些細な話になってしまい、夫婦が会話で盛り上がるということはなくなってしまうのだ。

 この危機は重大な危機だと思っておいた方がいい。というのは、結婚して10年経ってから、夫婦で揉め事を起こす夫婦というのは、大抵がこの夫婦の会話がなくなってしまったということを引き金に始まるからだ。女性は男性と違って、会話をすることで相手とのコミュニケーションを遣り取りすることを最重要視して来るので、夫婦の会話がないというのは、妻にとっては最大級のストレスになってしまい、夫婦の深刻な危機になってしまうのである。

 夫婦の会話がなくなるという危機は、何も夫に言語障害が発生したのではなく、「夫婦の夢」がなくなってしまったことにこそ起因して来るものなので、夫婦が話し合って、新たに夫婦共通の夢を再設定しない限り、夫婦の会話で盛り上がるということはなくなってしまうのだ。要は自分たち夫婦は今後何をすべきかが解れば、この重大な危機を回避し、それだけでなく、結婚のパワーを最大限に引き出せることが可能になるのだ。

●目標があればこそ、夫婦は力を合わし前進できる

 まず、どんなに夫婦喧嘩をし合う夫婦であっても、夫婦に共通の目標があれば、夫婦は力を合わして前進できるのだということを再確認すべきなのである。どんなに仲のいい夫婦でも、目標がなければ、前進したくても、前進できないものなのである。自分たち夫婦の共通の目標を具体的な形で指示することができれば、それに向かって走り出すことができるのである。

 夫は丁度、働き盛りの時期に差し掛かっているので、、夫が自分の仕事をどのように進めて行くか、きちんと話し合って行くことだ。会社員ならどこまで出世して行くのか、社長ならどのような経営展開をして行くのか、夫婦で話し合う機会を持っておいた方がいい。夫婦で具体的に未来を見出すことができれば、夫はその夢を実現する可能性が非常に高くなるからだ。

 子供たちは第一子が小学生になっているので、この子を将来、どのように進学させていくかを、夫婦で話し合っておくことだ。勉強に重点を置くのか、スポーツに重点を置くのか、芸術に重点を置くのかで、進路は丸っきり違ってしまうものだ。周囲のみんなが進学塾に通っているからといって、それに釣られて自分の子供も通わせるようであったら、その母親は自分の子供の器量を見切っている訳ではないのだ。自分で独断して行くのではなく、夫婦で話し合えば、子供にとって最善の決断ができるものなのである。

 妻としては、将来、このまま同じ家に住むのか、それとも豪邸を購入するのか、高級マンションに住むのか、具体的に決めてしまうことだ。結婚して10年も経てば、最初から自宅を持っている人は別だが、もう家が手狭になっているものなのである。自分たち家族の規模に合わせるためには、引っ越しは欠かせないものなのである。だったら、無闇に引っ越しするのではなく、具体的に新たな住宅を思い描いて、その家に住めるように努力をすべきなのである。

 結婚して10年目も経てば、最早、抽象的な夢を持つのではなく、自分たち夫婦の力量に合うような具体的な夢を持つべきなのである。そのために夫婦が二人っきりになって、きちんと話し合うことだ。夫婦二人で話し合う機会を持たねば、日々に追われる生活になってしまい、夫婦として新たなパワーを生み出すことができないからだ。

●プライベート会社設立の勧め

 資産に余裕があるなら、「プライベート会社」を設立することをお勧めしたい。夫婦が一緒に結婚生活を営むだけでなく、プライベート会社を運営すると、夫婦の会話が尽きることがないからだ。会社経営のことでいくらでも話が出て来るので、それを切っ掛けに夫婦の仲が非常に良くなってしまうのだ。

 これは農家や酪農家や自営業者の夫婦が仲がいいと同じことだ。夫婦が共同で同じ作業をしているために、夫婦に非常に強い結束が生まれて、夫婦の会話が尽きることがなくなってしまうのだ。夫の悪口を言いまくっているような妻は、仕事をしていないからこそ悪口を言っているのであって、夫婦で一緒に仕事をしてしまえば、その悪口が消えてしまうものなのである。

 プライベート会社は内も大々的に事業を展開して行く必要性はないのだ。休日に少しだけ仕事をすればいいようにすればいいのだ。そうすれば大儲けはできないけど、赤字にならない程度で、地道に事業をやっていけばいいのだ。仕事を仕事と思ってするのではなく、仕事を遊びと思ってやってしまうことだ。

 事業内容は自分たち夫婦が好きなものであるなら、なんであっても構わない。例えば日曜日だけ開店するパン屋さんというのもいいだろう。自分の好きなパンだけを週1回だけ作り、それを売るのだ。それ以外にも自分独自のデザインを施した洋服やアクセサリーを売ってしまうのもいい。下手に競争を激化するような事業を展開するのではなく、競争が起こりにくい事業を展開して行くようにすればいいのである。

 投資に才能がある夫婦なら、株式投資や、不動産投資を専門にやってしまうのもいいだろう。自分たち夫婦の資産をそのまま投資に使ってしまうと、安全な所にしか手を出せないので、危険度は高いが収益も高い投資商品には自分の資産から切り外して、プライベート会社でやってしまった方がいいのだ。

●夫婦で情報を共有し合うこと

 夫婦は黙っていても解りあえるということは絶対にない。以心伝心というのは、仏教の真理を悟る時に使われるべきものであって、それを夫婦の間に用いるべきではないのだ。夫婦だからこそ、話し合って、情報を共有しないと、些細なことで喧嘩になってしまうのだ。夫婦喧嘩を回避するためにも、夫婦で話し合う機会を日々きちんと持ち続けることだ。

 夫婦で話し合う時は、いくらでも時間があるので、ダラダラと話してしまいがちだ。特に妻の方は日中は子育てをしているので、その感覚で夫に話すようになってしまい、会話が非常に幼稚なものになってしまうのだ。そのため仕事から帰って来た夫は、妻と会話することに興味を示さなくなってしまい、自宅でむっつりしているという光景になってしまうのだ。

 そのため、夫が帰って来る前に、シャワーを浴びるなり、服を着替えるなりして、自分をリフレッシュしてしまう時間を持つべきなのである。これをやると妻の方で気分転換が巧く行き、夫婦が内容の濃い話ができるようになり、意思疎通がきちんと行えるようになるのだ。夫が帰宅して来て、夫も妻も何かすべきことはたくさんあるので、会話できる時にきちんと会話しておかないと、碌な会話ができなくなってしまうのだ。

 朝のように忙しい時間帯は、「今日の予定はどうなっているの?」とテキパキと訊いておくことだ。夫婦が双方、今日やるべきことが解っていれば、夫婦双方充実した日にすることができるのである。朝という大事な時間を新聞を読んだり、テレビを見たりして過ごしてしまわないことだ。夫婦が朝という大事な時間に話さないと、夜まで夫婦は話し合う機会はないのである。だからこそ、朝という大事な時間に、夫婦がきちんと話し合って、情報を共有しておくべきなのである。

 結婚して10年目というのは、大きな曲がり角なのだ。ここで夫婦の夢を再設定して、新たにパワーを生み出すことができれば、大抵の夢は実現できてしまうものなのである。夫婦愛は確かに大切だが、それと同じくらいに結婚をビジネスライクにしてしまい、夫を自分のビジネスパートナーとして大切に扱うことは非常に大事なことなのだ。夫に獅子奮迅の働きができるように結婚を変えて行けば、夫はそれを実現できてしまい、莫大な資産を得ることができるようになるのである。結婚で大儲けできる時期を絶対に見逃さないことだ。

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育児や子育てには失敗が付きもの

●失敗を嘆くことより、挑戦を繰り返すこと

 人間は成功することも大好きであるが、失敗することも大好きなのである。成功すれば自分の考えや遣り方が正しかったことを証明することになるが、失敗すれば自分の考えや遣る方が間違っていたことの証明になるからだ。それゆえ、失敗を経験しておかないと、自分の考えや遣り方に修正を施すことができなくなるのだ。

 育児や子育てでも、自分の考えや遣り方が巧く行く成功することもあるが、自分の考えや遣り方が間違っていたために失敗してしまうのは、当然に起こる現象なのである。失敗したら、その場は嘆いたり、後悔したりするが、時間をかけて自分の考えや遣り方を修正すれば、その失敗は後でいい成果を生み出す原因になるのである。

 子供が1人や2人しかいないと、どうしても母親としては未熟だから、育児や子育てで失敗したら、嘆いてしまうものだ。「あの時はああすれば良かった」などと、変えられない過去を一生懸命になって変えようとしているのだ。これでは失敗したことで、全面停止してしまい、そこから一歩も前に進むことができなくなってしまうのだ。こういう生き方をしてしまう母親は、真面目すぎる女性に多いので、絶対に気をつけるべきだ。何事も過剰というのは良くない結果を産んでしまうものなのである。

 だからこそ、子供は3人以上必要なのである。子供を3人以上産めば、失敗が余り気にならなくなり、たとえ失敗したとしても、凹たれないだけの強さを身につけてしまうものなのである。一度や二度の失敗を嘆くよりも、何度も挑戦を繰り返して行くことだ。幾ら失敗しようが、挑戦を繰り返していれば、最終的には成功してしまうものなのだ。

 育児や子育てでは、試行錯誤というのは絶対的重要性を持って来る。最初から「これこそが正しい育児なんだ!」と決めてかかる育児よりも、「これでいいのかな?」と戸惑いながらして行く育児の方が、結果的によりよい育児や子育てをしてしまうものなのだ。大事なことは、成功や失敗に取りつかれるよりも、自分自身がじっくりと考えながら前に進んでいくことなのである。

●要領が良過ぎると、大失敗してしまう

 世の中には要領のいい女性がいるものである。我々は社会に出る前に学校や大学に通わざるを得ないから、そこで要領のいい勉強をしてくれば、高い成績を得ることができるし、偏差値の高い大学に進学することができる。しかし、その要領の良さが育児や子育てでも通用すると思ったら、大間違いなのである。

 赤ちゃんの成長は驚くほど遅いものだ。子供たちは驚くほど馬鹿なのである。それゆえ、母親が要領が良すぎると、どこかに歪が生じてしまい、大失敗をしてやらかしてしまうのだ。育児や子育てで深刻な悩みを抱えるのは、決して学校で頭の悪い女性たちではないのだ。要領がいいために、学校や大学でいい成績を取って来た頭の良い女性たちなのだ。

 要領がいいとは、自分の考えや行動をシンプルなものにさせて、最小限の努力で成功させようとするものだ。しかし、赤ちゃんや子供たちは考えや行動が散漫で出鱈目で纏まりがないのであって、そうやって色々なものに手を出して行くからこそ、赤ちゃんや子供たちは巧く成長して行くのである。

 それゆえ母親が要領が良すぎると、赤ちゃんや子供たちの考えや行動を予め縛ってしまうことになり、表面的は母親の思い通りに動いていても、赤ちゃんや子供たちにはストレスが溜まりまくり、いずれ大爆発を引き起こして来てしまうのである。要領の良さは、学校や大学で成功することに導いても、育児や子育てでは成功には繋がらないのだ。

 人間の生命力というのは元気溌剌としたものなのである。赤ちゃんや子供たちは、なまじ知識を持っていないために、既存の考えや行動に囚われることがないから、いつでも元気一杯に振る舞うものなのである。別に要領が良くなくても、きちんと生きていけるし、成長して行くことも可能なのである。

●満足を求めるより行動を求めよ

 いい学校に進学し、いい大学に進学し、いい就職先に勤めることができ、そしていい相手をみつけて結婚してきたような女性は、自分の人生の中で脱線したことがないために、失敗することを恐れてしまうし、要領の悪さを忌諱してしまうし、すべての段階で満足を求めてしまいがちだ。

 しかし、育児や子育てでは、100%満足できる場所というのはどこにもないのである。どこかで幸せを感じることができるものがあれば、どこかで不幸を感じるものがあるものなのである。例えば、赤ちゃんは可愛いものだが、その可愛い赤ちゃんが夜泣きを繰り返して、母親の安眠妨害を働いて来るのである。健康に育った子供が、外で遊んでいてくれればいいのに、なぜか怪我をしたり、事故に遭ったりして来るのである。

 育児や子育てでは、何かに満足してしまえば、どこかで不満足が生じて来るものなのである。それゆえ、過度に満足を求めてしまわないことだ。満足を求めるより、行動を求めるべきなのである。自分自身が行動していけば、満足なものにも、不満足なものにも、きちんと対処できるようになり、自然と成長して行くことができるようになるのである。

 自分が行動を起こしてさえいれば、満足する中でもその危険性が見えて来るものだし、不満足する中でもその解決の糸口を掴めるものなのである。最も危険なことは行動を起こさず、現状に安穏としてしまうことの方なのである。現状を変えずに完璧や満足を求めるようとすると、絶対に破綻してしまうのである。

 有難いことに、育児や子育てをしていれば、赤ちゃんや子供たちは常に動き回っているので、母親といえども動かざるを得ないのである。それを面倒臭いとか疲れと言わずに、一緒に付き合って動き回っていることだ。身軽に動いていれば、満足できるものも、不満足なものも、きちんと受け止められることができるものなのである。

●幸せは動くからこそ得られる

 こういうことは結婚それ自体にも言える。結婚での幸せは動くからこそ得られるものなのである。それなのに、結婚して10年以上経過すると、どうしても体重が重くなり、動きが鈍くなって来るから、行動量が減少してしまい、長年結婚し続けているというのに、幸福の発生量も減少してしまうのである。

 自分の夫から何かを頼まれたのなら、文句を言って反対するのではなく、素直に聞いて、行動を起こすべきなのである。そうすれば夫は喜ぶし、夫婦として幸福を掴むことができるし、自分の体重だって減って行くものなのだ。自分が動かないからこそ、夫婦でトラブルを発生させてしまい、結婚を不幸と感じてしまい、自分の体も雌豚のような体型になって行くのである。

 人間は考え事で頭の中を一杯にしてしまうと、動けなくなってしまうものなのである。そういう女性に限って、夫婦で何か問題があれば、夫婦で話し合って解決しなければならないと思っているのだが、夫婦で話し合って解決できるのは、夫婦双方が行動している時だけなのである。夫は仕事で行動しているが、妻が家庭の中で行動していなければ、いくら話し合っても、まともな議論にならないし、その内、話し合っているのに、喧嘩に悪化して行ってしまうものなのである。

 ぐだぐだと能書きを垂れていないで、行動を起こしてしまうべきなのである。行動量が少ないから、成功に慣れていないし、失敗にも慣れていないのだ。行動すれば、不幸にも出会うけど、幸せにも出会えるものなのだ。母親は成功したり、失敗したり、幸福に直面したり、不幸に直面したりするからこそ、母親として実力がついていき、何があっても動じないほどの強い母親になることができるのである。

 育児や子育てをしていれば、どうしても家中心に行動になってしまうから、自然と行動量が減少してしまうものなのだ。行動量が減少してしまえば、徐々に母親の考え方や遣り方がおかしくなって来るものなのである。そうならないためにも、休日になったら、家族で遠出をするとか、どこかに宿泊する旅行をするとかして、日常生活から離れることで、自分をリフレッシュして行けばいいのだ。

 そして、日常生活でも、一日中テレビを見て、テレビの前から動かない生活をしているのではなく、とにかく動き回って、あれやこれやに手を出して行くことだ。体を動かし続けていれば、どんなに激しい運動量でも体が疲れることがないものなのである。しかも、動いていれば幸せを見つけられることができる訳だから、動いていた方が断然お得なのである。

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タマティーの研究報告『日本人女性を悩ます水毒について』

 最近、日本の漢方医と中国の中国医学の医者の双方から水毒に関する話を聞くことができたので、水毒に関して少し研究してみました。今まで水毒こそ病気を引き起こしている原因だと解りつつも、イマイチ良く解っていなかったので、今回は突っ込んで研究してみた所、「そういことだったのか!?」と自分でも良く納得できたので、その研究成果を報告します。

●水毒と文明の歴史

 現在、日本人女性の多くが病気で苦しんでいる。病気だけでなく、病院に行っても病気と認定されないような「病気以前の病気」で苦しんでいる。これらの「典型的な病気」や「病気以前の病気」が水毒によって引き起こされているといったら、驚きであろう。そう、水分を過剰に摂取していることで、体の調子を狂わしてしまい、それによって病気を引き起こしているのだ。

 人間は本来「果実食動物」なので、水そのものを飲めないという制約を課せられた動物なのである。果物や野菜には大量に水分が含まれているのだから、わざわざ水を飲まなくても生きていけるのだ。それなのに人類は肉食を開始したために、どうしても水を必要とするようになり、そこで初めて口にした水が、「岩清水」なのである。岩清水なら、酵素水分と同じく、水の分子が細かいために、飲んだとしても、体の中を巧く循環して排泄されるからだ。

 しかし、人類は人口の増加と共に、どうしても平地に展開しなければならなくなり、そのために岩清水以外の水を飲まなくてはならなくなった。そこで考え出されたのが、「スープ」であり、「お酒」であり、「お茶」なのである。分子が大きな水を使わざるを得ないが、野菜を入れるなり、発酵させるなり、茶葉を入れるなりして、なんとか工夫して安全に水分を補給することができるようにしたのである。

 ところが、これですら水毒を発生させるもので、そのために文明の誕生と共に、病人は続出して来てしまい、それによって医学も誕生して治療に当たって来たのだ。医学がこれほど深い歴史を持ち、しかも病気を根絶できないとするなら、それは医学自体に問題があるのではなく、人間の食生活にこそ問題があるのである。

 しかも、近代化されると上下水道が全国津々浦々に整備されたこともあって、人類史上始まって以来、大量に水を確保できる時代を迎えてしまい、多くの人々が水を大量に摂取するようになってしまったのだ。更にお金を払って清涼飲料水やミネラルウォーターをガブ飲みしている状況なので、当然に水毒の餌食になってしまい、病気になってしまうのである。

●水毒の症状

 水毒によって何が起こるかといえば、それは「腎臓の弱体化」だ。腎臓は酵素水分が豊富な状況でこそ、健康的に機能するのであって、それなのに水を大量に飲んだり、お酒を大量に飲んだり、清涼飲料水を大量に飲んでしまえば、腎臓の機能は低下してしまうのである。腎臓は大腸から得た水分を濾過したり、血液を浄化する機能を持つので、この腎臓が弱体化すると、立ち所に全身の各器官が機能を低下してしまうのである。

 腎臓が弱体化すると、腎臓の近辺にある脾臓も弱体化してしまうことになる。脾臓は十二指腸や小腸にホルモンを分泌しているので、脾臓が弱体化するとそのホルモンの分泌が巧く行かなくなり、それによって十二指腸と小腸の機能が衰え、食事からまともな形で栄養を消化吸収できなくなるのだ。

 病人や病気の一歩手前の人が「胃が重い」といって食欲不振に陥るが、それは脾臓が弱体化することによって、十二指腸や小腸が働かないために、食欲が湧いて来なくなるのだ。また、高血圧や低血圧になったりするのも脾臓の弱体化が関係しており、子供なら冷たいジュースの飲み過ぎ、老人なら体を冷やすお茶の飲み過ぎを控えされると、簡単に治ってしまうのだ。

 十二指腸や小腸が正常に機能していないのだから、小腸から栄養を補給して貰い、それをエネルギーに変える機能を持つ肝臓にとっても、大きなダメージを食らうことになる。まともに栄養がやってこないのだから、肝臓を大いに疲労させることになってしまい、そのために全身に必要なエネルギーを供給できなくなってしまうのだ。水毒に犯されると、スタミナがなくなり、元気がなくなってくるが、これは肝臓が弱体化してしまったからなのである。

 人間にとって水分は必要なのだけれども、水分が有り過ぎることにより、血液やリンパ液が薄まった状態になり、人体各器官の機能の低下してしまうのである。こうなると、体が重くなり、免疫力が低下し、疲労が抜けなくなってしまうのだ。水毒に犯されている人に限って、風邪をひき易くなり、いつもダルそうにしているのは、健康的な血液やリンパ液がないからなのである。

 腎臓や脾臓や肝臓、血液やリンパ液に異常が出て来るのだから、水毒に犯されてしまうと、「体の冷え」「頭痛」「眩暈」「近視」「難聴」「嗅覚の低下」「子宮筋腫」「子宮内膜症」「子宮癌」「乳癌」「脳疾患」「心臓疾患」という様々な病気に犯されてしまうのだ。現在、日本人女性が抱えている病気の殆どが出揃っているといっていいだろう。

 西洋医学だとこれら一つ一つの病気に何か一つ一つ原因があって引き起こされると思っているのだが、実際には水毒という原因こそが根本的な原因であって、水毒さえ解消してしまえば、これらの病気はすべて消え去ってしまうのである。逆にいえば水毒を抜かない限り、いつまでも病気は様々な様相を呈しながら、発生し続けて来るのである。

●水が変われば、医学も変わる

 水毒はこれほどまでに恐ろしいものなのだが、水道が普及して来るまで、水毒の恐ろしさがイマイチ解っていなかった。江戸時代の漢方医たちは、病人に対して、「葛根湯」を多く処方したらしい。これは江戸時代の町人たちは白米を常食とするようになり、緑茶を嗜むようになったからだ。白米も緑茶も体を冷やす効果があるので、体が冷えることで免疫力が低下し、病気になってしまったのだ。そこで漢方医たちは、体を温める効果のある葛根湯を飲まして、体を温かくすることで免疫力を上げて、病気を治したのである。

 ところが、日本が近代化し、水道が普及し、水を大量に摂取するような時代になってしまうと、当然に水毒に犯される訳であって、水毒によって病気が引き起こされる以上、水毒を抜く漢方薬を処方しない限り、病気は治らなくなってしまったのだ。まさか水を飲めない人間たちが、ペットボトルを持ち歩いて、水を飲みまくるなど、想像もしていなかったのだ。

 一方、中国の中国医学の医者たちは、この水毒の恐ろしさを充分に解っていた。なぜななら、中国の水は日本の水と違って硬水なので、軟水のように排泄力が弱く、体内に溜まってしまうので、それによって病気になってしまったのだ。しかも、中国の水は非常に汚いので、そのまま飲めば下痢になってしまうのだ。そのため、中国人たちは基本的に生水は飲まず、必ず温かいお茶にして水分補給をするのだが、こうでもしないと水分補給ができないのだ。

、硬水ということはヨーロッパ大陸も同じことなのだが、ヨーロッパの医者たちは水毒を発見することができなかった。そのために大量の病人を続出させてしまい、それが皮肉なことに西洋医学の発達を促してしまったのだ。高度な医学がある所は、文明度が高いのではなく、逆にその国の人々が間違った食生活を営んでいたり、医者たちが病気の根本的な原因を見つけられないからこそ、医学が発達してしまったのである。

 世の中には「水飲み療法」があるが、それは水の分子が細かい水を使った場合だけ許されるものなのである。人間の体は1日3ℓ以上の水分を摂取すると、自動的に体内の水分を強制的に排出することになるので、体内の老廃物や毒素も一緒に排出できるのである。しかし、それを通常の水でやってしまったら、逆に体を水毒で犯してしまうので、非常に危険なのである。

●水毒の解消法

 女性は赤ちゃんを出産すると、一時的に体重が増えることになる。これは母乳を出すために、体が余計に水分を溜め込んでしまい、母乳用の水分を確保するからなのである。しかも、授乳させていくと、どうしても喉が渇いてしまうので、大量に水を欲しがるものが、その際に水をガブ飲みしていたら、途端に体を壊してしまうのだ。出産してからは、安全な形で水分を摂取すると同時に、水毒に犯されないようにすることだ。

①飲水を制限する

 まず、飲水を制限することだ。特に夕食後は水分を摂取しないようにすることだ。夜間に水分を摂取してしまうと、どうしても体内に溜まり易くなってしまい、水毒に犯されてしまうからだ。水分を補給したいのなら、午前中にすることだ。午前中だと排泄の時間なので、この時間帯なら水分補給をしても、小便で排泄されるからだ。

 水分補給は果物や野菜をメインに行うことだ。但し、果物や野菜は体を冷やすので、必ず味噌汁を飲んで体を温めることだ。食事以外で水分を摂取する時は、黒砂糖入りの生姜湯がお勧めである。授乳が終わったのなら、黒砂糖入りの紅茶でも飲んで、体を温めることだ。

②家事をテキパキとこなす

 女性の体は家事のようなチョコマカした労働をすると、汗が出るし、小便の量も多くなるし、呼気から水分が出て行くのだ。そのため、家事をテキパキとこなしていると、水毒が抜け易くなるのだ。家事はダラダラと行うからこそ、大変になってしまうのであって、迅速に行えば、苦痛にはならず、逆に快感になるものなのである。

③ウォーキング+軽ジョギング

 人間は歩行量が多ければ、血液循環が良くなるので、大量に小便を排泄することができる。それゆえ、1日の歩行量をとにかく増やすことだ。日々の生活の中でウォーキングを多く取り入れることだ。今まで自動車に乗っていたのなら、なるべく自動車を使わないで、歩くようにすることだ。

 それから「軽ジョギング」もお勧めであって、週に2回か3回はゆっくりとしたペースで走り、汗を流してしまうことだ。軽ジョギングをする時は、厚着をして走ると、汗が大量に出易くなるので、走り終えたら気分爽快になってしまうのである。休日に夫婦で長躯して、ヘトヘトになるまで走ってしまうと、水毒は完全に抜け落ちてしまうことになる。

④サウナ+風呂

 運動するのが面倒臭いというのは、最早、水毒が脳にまで回っている状態なのである。そういう女性はサウナに行って汗を流してしまうことだ。サウナで汗が出き切るまで入っていれば、水毒が抜け落ちる筈だ。また、時には自宅で長風呂に浸かるのも水毒を抜くには効果的で、43℃以上の熱いお風呂に入って、汗を流してしまうことだ。汗が出き切ったら、上がればいいのだ。

⑤断食

 授乳中は断食を行うことは無理だが、子供が卒乳してくれたら、断食をして、水毒を抜いてしまおう。断食といっても、本格的な断食ではなく、水毒を抜くための断食なので、日中断食でいい。日中断食とは朝食と夕食の間、一切の飲食物を禁止するという断食で、これをやると水毒が抜けてくれるのである。1日で1㎏は確実に落ちて行くので、体重の減少が止まったら、断食をやめればいい。但し、日中断食で注意すべきことは、朝の段階で多目に水分を補給しておいて、排便をスムーズに行わせるということだ。女性は便秘がちなので、水毒を抜きたい余りに、必要最低限の水分すら摂取しないと、立ち所に便秘になってしまうのだ。断食で水毒を抜いてしまうと、体が今まで有り得ないほど軽くなり、健康的になることができるのである。

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育児や子育ては「母親育て」でなく、楽しみながらできる「人生の修行」

●純粋無私の追求の姿勢

 夫婦が本物の夫婦になって行くためには、出産や育児を経験して、3人以上の子供を持たねばならないし、一緒に暮らしながら10年という歳月も必要とするし、最終的には大喧嘩することで、古い愛の形を破壊して、新しい愛の形を築いていかなければならないのだ。愛すればすべて巧く行くことなできないのだ。愛以外にも、大切なことがあって、それらをするからこそ、夫婦は本物の夫婦になっていくのである。

 ところが、育児や子育ての話になってしまうと、母親が育児や子育てに追われる日々を疎い、育児や子育ては「母親育てである」という輩が必ず出て来るのである。育児や子育ては母親育てをするためにやっているのではないのだ。自分が産んだ子供を育てるためにやっているのだ。母親は出産したと同時に母親に成るものであって、いくら育児や子育てを経験した所で母親として育って行く訳ではないのだ。母親は最初から母親であり、時間の経過と共に「育児の仕方」や「子育ての仕方」を学んで行くだけなのである。

 母親育てなる議論を展開して来る女性たちは、大抵が子供の数が3人以上に達していないのだ。母親として未熟なくせに、一丁前の意見を言ってくるからこそ、出鱈目な意見を言って来てしまうのである。赤ちゃんを産めば、赤ちゃんは二時間ごとに泣き出して来るのだから、それに母親が対応していたら、母親育てなんて言っていられないものなのである。でも、身も心もフラフラになりながら育児をしているからこそ、いつの間にかに育児の仕方を身につけてしまうのである。

 母親育ての議論の根本的誤りは、育児をしているのに、自己中心的に物を言っていることなのである。育児をすれば当然に赤ちゃん中心に展開して行くから、母親が真面目に育児に取り組んでいれば、我執が抜け落ちてしまい、自分の限界が突破されて、未婚時代とは比べ物にならないくらいに成長して行くものなのである。

 仏教用語でいうなら、解脱した状態になってしまうのである。ただ、解脱と何が違うかといえば、煩悩から逃れて涅槃の状態になるのではなく、自分が純粋無私の状態になり、その状態で物事を追求して行くと、新たな世界に突入し、新たな義務が神様から授けられ、それによって以前の自分では獲得できない「大いなる幸福」を得ることができてしまうのである。

●出産や育児はこの世で最も素晴らしいもの

 女性が女として生まれて、出産や育児をなんで最高の幸せと思えるのかといえば、出産や育児をすることで、我執が剥がれ落ち、自分が純粋無私となって、新たな世界に突入できるからなのである。女性が出産や育児以外で、これよりも低いレベルでこの現象が起こることはあっても、これより高いレベルでこの現象が起こることは決してないのだ。

 人間は若い時は、既成概念に反抗して来るものだから、結婚以外にも幸せになれるものがあるのではないかと、生意気な女性なら思ってしまうことだろう。確かに結婚以外にも幸せになれることは、この世に存在する。しかし、結婚以上に幸せになれることは、この世には存在しないのである。

 だからこそ、10代や20代で「結婚なんかしない」と宣言していた女性たちが、様々な人生経験を経た結果、或る日突然に結婚したりするのである。若い時に結婚を拒否する宣言をしておいて、本当に結婚しないでいると、或る時期から自分の人生に何も変化が起こらない、成長がピタリと止まった人生を送ってしまうことになるのである。

 たとえ結婚しても、赤ちゃんがいなければ、女性は大いなる成長を遂げることができない。だから、不妊症の女性なら赤ちゃんができないことに焦るのである。出産や育児をしてこその結婚であって、それができないとなれば、どう夫婦が愛し合った所で、大切な何かが欠けた状態のままになってしまうからなのだ。

 いつの世も若者の考えは間違っているものなのである。若者がまともになっていくのは、その間違っている自分の考えを捨てた時からなのである。孔子様だって「三十にして立つ」といったぐらいだから、10代や20代の時は間違った考えを持って、この世の彷徨っていたのである。

 母親なら自分の娘が間違った人生を進まないように、育児や子育てが大変だったと教えるのではなく、最高に面白かったよと教えておくべきなのである。育児の仕方は母親から娘へと継承されていくものであって、娘が出産を拒否したり、育児で喜びを見出せないのなら、母親の育て方に相当な問題があったということなのである。

 母親から育児の仕方を継承すれば、娘は時が来れば母親として自然に成長して行くのである。育児本や育児雑誌はそれを補完するものであって、絶対にそれがメインになってはならないのだ。育児本や育児雑誌に頼るからこそ、母親として成長できなくなってしまうのだ。大事なことは、いつも文字化することはできないのである。直接に自分が誰かから経験することでしか、伝えて行くことはできないのである。

●女性が幾ら働いても、出産や育児には適わない

 世の母親たちが育児や子育てに全力を投入し、本物の母親になれなかったからこそ、育児や子育てに否定的になり、結婚しても損するだけと、自分の娘に教えてしまい、それによって娘たちが大学に進学して、フェミニズムに洗脳されてしまい、結婚を拒否して、仕事に生き甲斐を見出す女性に成ってしまったのである。

 女性が社会に出て働くなとは言わないが、結婚を否定するまでの仕事など、この世には存在しないものなのである。女性が仕事をするなら、産休を取るとか、育児の間だけは退職するとか、自宅で育児しながらでもできる仕事を探せばいいのである。働く既婚女性を優遇することは必要であっても、働く行かず後家を保護する必要性などどこにもないのだ。

 男性が結婚せず、子供がいないのなら、どんなに功績を上げようが一人前と看做されないように、女性だって結婚せず、子供がいないのなら、どんなに功績を上げようが一人前と看做されないのである。フェミニストたちは、「日本は男社会だ」と決めつけてくる。しかし、日本の社会で高位に就いている男性たちは、単なる男性ではなく、既婚男性であり、子供がいる男性たちのなのである。男としてやるべきことをやったからこそ、一人前と看做されるようになって、この社会で高い地位に就くことができたのである。

 男といえども、いつまでも独身でいたり、結婚しても子供がいなければ、高い地位が与えられないものなのである。男としての重みがないから、重要な仕事を任すことができないのである。フェミニズムに洗脳された女性たちが、或る時期に出世が止まってしまうのは、何も女性だから差別を受けたのではなく、結婚せず子供がいないから、どうしても女としての重みがないから、重要な役職に就かせて貰えないだけなのである。

 フェミニズムは「女性の地位向上」や「女性の権利の充実」を唱えて来るから、頭の悪い女性たちはフェミニズムこそ女性の味方ではないかと思ってしまう。しかし、フェミニズムこそが「女性の尊厳」を破壊するものなのである。なぜなら、女性として最高の幸福を得ることができる結婚を否定して来るからなのである。女性が最高レベルで成長できる機会を奪ってしまうからこそ、どうやっても自分が満足できる幸せを得ることができない人生を送ってしまうのである。

●「一時の快楽」より「一生の修行」

 この世には「一時の快楽」などいくらでも出回っているものなのだ。若ければお酒やタバコやギャンブルだし、堕落的なセックスに耽ることもあるだろうし、法律で禁止されているというのに麻薬だって出回っているものなのである。社会主義やフェミニズムも「一時の快楽」の一つであろう。そのイデオロギーに取りつかれていれば、現実を忘れることができるからだ。

 もしも自分が素晴らしい人生を歩みたいのなら、人生の早い段階で「一時の快楽」は自分の人生には何も貢献しないということに気付くべきなのである。「一時の快楽」はどうやったとしても、刹那の快感しか得ることができないのだ。「一時の快楽」を求めるのではなく、「人生の修行」に目覚めるべきなのである。

 女性にとっては、結婚がまさにそうだし、妊娠や出産や育児や子育てというのが、結局は人生の修行となって、自分を大いに成長させてくれるのである。育児や子育てに何かしら不平不満を言うのではなく、10年間、腰を据えてじっくりと物事に取り組むべきなのである。10年間やっていれば、どんなに頭の悪い女性だって、育児の仕方や子育ての仕方が解って来るものなのである。

 「自由」を矢鱈滅多らに主張して、いつまでもフラフラとしているべきではないのだ。そんなことをやっていれば、時間はあっという間に過ぎ去ってしまい、自分が気付いた時にはお婆さんになっているものなのである。大事なことは、いつまでも迷っているのではなく、「これが自分の生き方だ!」と決めてしまうことなのである。

 自分の夫がどのような男性であれ、結婚して10年も経てば、返品することも、誰かと交換することもすべきではないのである。「これが自分の旦那なんだ!」と腹を括れば、自分が大きく変わって行くのである。自分が産んだ子供たちも、それが健康に育とうが、病気になろうが、頭が良かろうが、バカだろうが、「この子たちは自分の子供なんだ!」と腹を括れば、子育てで大した問題など起こらなくなって来るものなのである。

 自分の利益になることばかりを考えるのではなく、「結婚も修行」「育児も修行」「子育ても修行」と思ってしまえば、自分はいつまでも成長して行くことができるのである。時間を止めてしまうことよりも、死ぬまで修行し続けることの大切さに気付いた時、自分は死ぬまで成長し続けて行くことができるのである。

 人間は未熟であるなら、この「人生の修行」という考えになかなか辿りつけないのだ。重荷を背負って坂道を上がって行くよりも、重荷を捨てて坂道を転げ落ちる人生を歩んでしまうものなのである。人生の落後者たちが人生を破綻させる切っ掛けになったものは、どれも些細な物なのである。お酒やギャンブルや麻薬程度の代物で自分の台無しにしてしまうなんて、詰らない人生なものなのである。

 育児や子育てを一生懸命にやっていれば、傍から見れば地味な生活をしているに決まっているのだ。しかし、その地味な生活を繰り返して行く内に、派手な生活をしている人たちが転落して行き、いつの間にかに自分は圧倒的な実力を持ってしまうのである。だから、焦ることなく、楽しみながら育児や子育てに取り組むべきなのである。人生の修行を楽しみながら行えば、いつも楽しくしていられるものなのである。

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本物の夫婦になってしまうと、突然に資産が集まり出す

●夫婦の再生

 男女は結婚式を挙げれば、夫婦になれるが、本物の夫婦になれるためには、子供を3人以上産み、10年という歳月がどうしても必要なのである。当初は夫婦仲が良くても、子供がいなかったり、子供がいたとしても数が少なければ、双方が成長して来ないから、いつまでも未熟な夫婦になってしまうのだ。結婚して10年も経てば、夫婦として良い事も悪い事も経験するから、その経験が夫婦の貴重な財産となって、如何なることがあっても、動じない強い夫婦になっていくのである。

 自分たち夫婦が本物の夫婦になって行く時、それまでの夫婦の愛の形ではもうどうにもすることができないから、どうしてもその旧式の夫婦の愛の形を破壊して、今現在の自分たち夫婦に合うような愛の形に作り変えていかなければならないのだ。一旦、今までの夫婦は死に、再生してくるからこそ、今後とも夫婦仲のいい夫婦でいられるのである。

 この世には人を愛しさえすればすべてを解決できるという幼稚な考えを持っている人々が跡を絶たない。この世には愛した所で、どう仕様もない出会いだってあるものだし、自分が愛してしまえば、相手を不幸にしてしまう愛だってあるのだ。他人を最高レベルで愛したいのなら、ちゃんと結婚すべきであって、結婚してからも結婚を巧く操縦して、正しく愛し合えるように仕向けて行かねばならないのだ。

 愛こそすべてではないのだ。いつまでも愛し続けたければ、愛以外の大切なものに気付かねばならないのである。愛以外に大切なものは、それは「厳しさ」なのである。自分の愛が本当にこれでいいのかを、正しさを突き詰めることによって、愛が洗練され、純度の高い素晴らしい愛に変わって行くのである。厳しさのない愛は、いずれ堕落して行ってしまい、自分のすべてを破壊してしまうものなのである。

 夫婦の場合、結婚して10年も経てば、夫婦としての正しい行為が解って来るので、それによって夫婦の愛の形が整い、高品質の夫婦愛が順調に流れ出し、家族内を回転し始めるのである。それによって爆発的エネルギーを生み出すのであって、今後は内向きに生きて行くのではなく、外に向かって撃って出て行く人生に変えて行くべきなのである。

●夫婦愛と資産の関係

 結婚して10年も経ち、夫婦の愛の形が再生されると、今まで夫婦間で浪費していたエネルギーがなくなり、僅かなエネルギーでも家族を運営して行くことができるようになるのである。夫婦双方に家族の負担が少なくなって来るので、それによって自分たちのエネルギーを他の物に使うことができるようになるのである。

 冷静に考えれば、夫婦2人に子供1人の家庭の方が、夫婦2人に子供3人の家庭よりも、生活費がかからないのだから、裕福になって行く筈である。ところが、実際にやってみると、子供が3人以上いる家庭の方が、裕福になって行ってしまうのである。子供が3人以上いれば、夫婦が親としてベテランの領域に達して来るので、無駄なエネルギーを使うことがないから、それによって裕福になって行ってしまうのである。

 少子化になると、途端に貧乏人が続出して来るのは、夫婦が未熟であるがために、家族の内部でエネルギーを奪われてしまうから、資産を溜め込んでいくことができないのである。自分の精神レベルが低ければ、見栄を張ったり、無駄な出費をしたり、堕落的な物にお金を使ってしまい、いくら収入があっても、貧乏になって行ってしまうものなのである。

 家庭での心配事がなくなると、資産は急激に増えて行くものなのである。夫婦がレベルの高い夫婦愛を出して行けば行くほど、生活に余裕が出来て、収入を遥かに下回る出費で暮らせるようになり、それが積りに積もって莫大な資産を形成して行くのだ。資産が多ければ素晴らしい夫婦とは必ずしも言えないが、レベルの高い夫婦愛を出し合っている夫婦なら、確実に資産を増大させていくものなのである。

 無闇にお金を溜め込んでいくのではなく、自分たちの夫婦愛の証明として、お金を溜め込んでいくべきなのである。預金通帳の金額が高ければ高いほど、自分たち夫婦はきちんと愛し合っているのだということが解れば、自分たち夫婦の愛が目に見える形で評価されて来るのである。

●投資の勉強をしよう

 現在、日本はデフレ経済に突入しているので、銀行に預金していても、大して金利がつかないものだ。そのために不動産や株式や債券に投資せざるを得ないのだ。そのため夫婦で投資の勉強をしておくことだ。素人感覚で投資の世界に手を出せば、自分たち夫婦が溜め込んだお金がすべて奪われてしまうものなのである。

 投資で大事なことは大儲けすることではないのだ。自分たちの資産を目減りさせないことなのである。大儲けできる投資物件というのは、ハイリターンではあるけれども、ハイリスクなのである。そういうものを狙うのではなく、自分たち夫婦の資産を減少させることなく、地道に資産を増やして行くためには、安全な投資物件に手を出して行くべきなのである。

 自分の目で確かめられないような投資物件には手を出さないことだ。海外で鉱山開発を行うので投資をしてくれとか、余りにも話が巧すぎる投資信託とか、今までに聞いたことのない不動産投資の話とか、そういうものには絶対に乗らないことだ。夫婦で投資するなら、安全な物件にしか手を出すべきではないというのは、鉄則だと言っていいのだ。

 不動産投資をするなら、自分たち夫婦が現地に行って、その土地を自分たちの目で確かめてみることだ。株式投資をするなら、自分たち夫婦が株主総会に出席して、その会社の経営者たちを自分たちの目で確かめてみることだ。債権投資をするなら、債権の中で最も安全な政府債務に手を出すべきであり、政府の情報を集めて、政府が危険なことを遣り始めたら、すぐさま売り払ってしまうことだ。

 投資には得手不得手があるので、自分の得意分野で活躍することだ。不得手なことや、怪しい投資物件には絶対に手を出さないことだ。投資を遣り始めた時には、何度か痛い経験をするだろうが、それは勉強させて貰ったと謙虚に受け止めて、投資の勉強を積極的に進めて行くことだ。試行錯誤しながらやっていけば、自分の得意分野というものが解って来るものなのである。

 もしも、積極的な投資をしたいというなら、その時は株式会社を作って、そこで投資を展開して行くことだ。既婚女性の中には不動産投資に卓越した能力を持っている女性もいるだろうし、株式投資でデイトレーダーのようなことをやって巨万の富を稼ぎ出す女性もいることだろう。そういうのは、自分たち夫婦の資産運用で行うのではなく、ビジネスとして行うべきなのである。

●資産で儲けたら、資産に再投入する

 投資で得た利益は絶対に生活費に回さないことだ。資産で儲けたら、資産に再投入することで、資産を雪達磨方式で増やして行くべきなのである。資産での利益を生活費に回してしまうと、途端に経済感覚が狂ってしまい、真面目に働くことをバカにし出すようになってしまうからだ。世の中には資産収入で派手な生活を送っている人がいるものだが、絶対に真似をしないことだ。これをやったら、その家族は大抵破滅していくものなのである。

 いくら資産収入があったとしても、自分たち夫婦は質素な生活を心掛けるべきなのである。自分たち夫婦が質素に暮らしているからこそ、資産は増え出すものなのであって、その質素な暮らしを資産がいくら増えた所で崩さなければ、資産は爆発的に増えて行くもののである。

 資産を大量に持つことが、自分たちの夫婦の愛の証明なのであって、その資産収入で自分たち夫婦の生活を破壊すべきではないのだ。その資産は神様から委託されたと思って、誠実に運用して行くべきなのである。自分たち夫婦がいくら莫大な資産を持っても、夫は外で働き、妻は家庭内のことを切り盛りすることに、なんの変わりもないのだ。

 夫婦にとって投資の原点になったのは、貧しい生活であっても、収入から天引きして貯金に回して行ったことなのである。だから、資産収入がいくら大きくなったとしても、収入から天引きして貯金に回す生活をし続けるべきなのである。これを守り続ければ、いつまでも夫婦仲良く暮らして行けるし、資産も確実に増えて行くものなのである。

 結婚して10年も経てば、夫婦として話すべきことは殆ど話し尽くしてしまうものだ。そのため、夫婦仲はいいのに、夫婦の会話が減少して行くものなのである。そこで夫婦が投資の話をすれば、その話で話が盛り上がるし、その話の成果が自分たちの資産の増大に繋がるのだ。だからこそ、資産収入が出た所で浮かれてしまうのではなく、地道に資産運用をし続けることにこそ、夫婦として価値があるものなのである。

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本物の夫婦になるための試練

●人間の生き方は十年が限界

 人間の生き方は10年間しか持たない。10年も生きていれば、環境が変わってしまうことだろうし、自分の考えも根本的に修正しなければならなくなってくることだろう。生まれて来て10歳前後に幼稚さが抜け始めて思春期を迎え始めるし、20歳前後では大人の仲間入りを果たして行くし、30歳前後なら女性は結婚適齢期の真っ最中である。人間は10年ごとに大きく変わって行くのだ。

 結婚も結婚してから10年経てば、夫婦の愛の形を変えて行かざるを得なくなるのだ。結婚当初のような溌剌として気分はもうないし、かといって結婚を御破算にする必要もないのだ。夫婦双方が今まで遣り続けて来た生き方を根本的に修正することで、結婚を新たなものにしなくてはならないのだ。

 結婚して10年も経てば、子供たちは大きくなり、第一子は小学生になっている頃だろう。まだまだ子供ではあるのだけれども、子供の将来の進路をもうそろそろ決めねばならない時期に差し掛かっているものだ。子供を子供扱いしなくなる時期こそ、夫婦もその幼稚さを捨て、じっくりと将来を見据えねばならぬ時期になっているのである。

 気をつけなければならないのは、夫婦の愛の形が限界に達していることに、先に気付くのは大抵、妻の方だということである。そのため、妻の方が悲観してしまい、結婚を破壊する方向へと自分の意思で導いてしまうことだ。はっきりと言っておくが、結婚の愛の形が限界に達しているだけであって、結婚そのものが駄目になっている訳ではないのだ。

 10年間も結婚して来て、しかも子供たちがいるなら、離婚という選択肢は絶対に取るべきではないのである。その夫婦はそれがどうであれ、運命の出会いを果たして出会った二人であり、今更、離婚するには余りにも代償が大きくなりすぎてしまうのだ。結婚の愛の形を変えればいいだけであって、配偶者まで変える必要性はないのだ。

●出産と育児で自分の精神レベルが上がる

 要は出産と育児によって、妻の方の精神レベルが上がってしまったのである。毎日、子供の面倒を見てくれば、どんな馬鹿な女性といえども、生命の尊さや、人を育てて行くことの素晴らしさが解り、それによって自分の精神レベルが上がり過ぎてしまい、もう昔のような生き方が出来なくなってしまっているのだ。在り来たりの夫婦から、本物の夫婦に変わって行かざるを得なくなっているのである。

①条件は子供3人

 本物の夫婦になるためには、子供が3人以上は必要なのである。子供を3人以上産み育てないと、妻の方が不自然な生き方をしてしまい、どうして育児の仕方をきちんと学ぶことができなくなってしまうのだ。本来なら妻の方が精神レベルが上がらなければならないのに、その上昇が起こらなくなってしまうのだ。

②育児や家事に追われる

 妻の方が育児や家事で追われる日々をすごしているこということは、非常に重要な条件である。暇を持て余しているような既婚女性であれば、邪念が頭の中に蔓延ってしまい、自分の精神レベルを上げるどころではなくなってしまうからだ。育児や家事に追われる日々を過ごしていない既婚女性に限って、日々のニュースで流れる殺人事件がどうのこうの、政治問題がどうのこうの、社会問題がどうのこうのと言い出し、「それではあなたは一体何をやりましたか?」という問いには一切答えることができなくなってしまうのだ。

③大喧嘩

 本物の夫婦になるためには、夫婦が大喧嘩することも必要なのである。夫婦によっては怒鳴り合いの喧嘩になったり、殴り合いの喧嘩になったり、口を聞かない喧嘩になったりと、様々であるが、大喧嘩することで、夫婦のそれまでの愛の形が壊れてしまい、新たな愛の形を作り出して行くことが可能になるのだ。

 古来より、日本では夫婦が余りにも仲良くし過ぎることを戒めて来たのは、夫婦仲が余りにも良すぎると、夫婦双方が互いの精神レベルの上昇に気づけず、新婚当初と変わらない生活をし続けてしまうからなのだ。夫婦仲が冷え切ってしまうのは、それはそれで問題だが、夫婦は双方、互いに少し距離をおくことで、相手を冷静に見ることができ、本物の夫婦へと成長して行くことが可能になるのである。

●問題ある既婚女性たち

 本物の夫婦になるためには、これら3つの条件を収めてしまえば、自然と変化が起こって来るものなのである。だが、これらの条件を収めた筈なのに、どうしても変化が起こってこない夫婦がいる。こういう夫婦は夫の精神レベルが余りにも低すぎるか、それとも妻の方に問題があるか、2つに1つなのだ。

①なんでも夫任せの妻

 子供を3人以上産み育てて行くのは、精神的に独立していないとできるものではない。ところが、子供の世話をしている日々の中で、妻の方が幼稚化してしまい、夫に従属するようになってしまい、なんでも夫任せにする妻が出て来るのだ。こうなると、いくら条件を満たしていても、本物の夫婦に変化して行くことができないのだ。

②頑張り過ぎる妻

 一方、精神的にはきちんと独立しているのだが、何事にも自分で頑張り過ぎてしまう妻たちも出て来るものである。妻が頑張ることで家事も育児も巧く行くことがいいことなのだが、しかし、頑張り過ぎる女性ほど、夫に甘えるということを忘れているのだ。自分が必要以上に力を出しているために、相手のことをきちんと思いやって、正しく愛するということが出来なくなってしまったのだ。そして何より、自分の心を開いて、相手と真剣に向かい合い、話し合うことを忘れているのだ。

③温和すぎる妻

 性格的に余りにも温和すぎるために、夫婦喧嘩を一切しない妻というのも、この期に及んでは問題となってくるのだ。人間は誰でも喧嘩すべき時は喧嘩しなければならない。それなのに、自分の性格から争いを避けてしまい、自分に変化を引き起こすということをしないのである。そのために、本物の夫婦になれる機会を失ってしまうのである。

 結婚して10年経ったのに、何も変化が起きない方が危険なのである。なぜなら、その夫婦が本物の夫婦になっていないから、表面的には平穏無事に過ごしているように見えても、実は結婚そのものを破壊してしまうような危険な火種を持っているのである。本物の夫婦になれなければ、離婚してしまう可能性も出て来るし、結婚jを続けても利益を得ることが非常に少ないものになってしまうのだ。

 自分たち夫婦が本物の夫婦に変わることができないなら、第三者の手助けを借りることだ。既に本物の夫婦になっている既婚女性から何かしらのアドバイスを受けることだ。本物の夫婦になれた既婚女性なら、自分の根本的な過ちを的確に指摘してくれて、それによって自分なりに激変が起こり、本物の夫婦になって行くことだろう。

●身も心も夫婦になる瞬間

 夫婦というのは、結婚式を挙げればそれで完成なのではない。結婚当初はまだまだ未熟者なのだ。しかし、結婚して10年も経てば、ベテランの域に達するほど、急成長して行くものなのである。自分たち夫婦が成長し過ぎたからこそ、新婚当時のような夫婦の愛の形では最早不可能になり、夫婦の愛の形を刷新することで、新たな未来を切り開こうとするのである。

 本物の夫婦になっていなければ、夫婦愛が巧く流れていないから、配偶者をきちんとした形で愛せないし、夫婦にとって大事なことを他人に話して解決の糸口を掴まざるを得なくなってしまうのだ。結婚しているのに、非常に無駄なエネルギーの遣い方をするのであって、だからこそ、結婚が重苦しいものになってしまうのである。

 身も心も本物の夫婦になると、夫婦双方の心の壁が崩れ落ちて、夫婦愛が最高レベルで流れ出して、夫婦の間から爆発的なエネルギーが湧き出して来るものなのである。どの夫婦も本物の夫婦に変わって行く時期は、夫は働き盛りに差し掛かっているし、妻も家事や育児が最も充実した日々を過ごす時期に差し掛かっているのだ。

 どのような夫婦になるかは、夫婦それぞれなのである。今まで亭主関白でいた夫婦が嬶天下になってまったり、今まで嬶天下だったのに亭主関白になってしまったりすることもあるのだ。今まで対等な夫婦関係を築いていたのに、夫婦のどちらかが主導権を握ってしまうこともあるのだ。結婚して10年も経てば、夫婦の力関係に於いて最善と思えるような形に変化して行くものであって、そのような形を受け入れることなのである。夫婦はこういう夫婦にしなければならないということは、絶対にないのである。夫婦は本当に人それぞれなのである。

 本物の夫婦になってしまったら、後は夫婦双方が足を引っ張り合うのではなく、外に向かって攻撃を仕掛けて行くべきなのである。最早、夫婦の至らないもののために、エネルギーを浪費するべきではないのだ。自分たち夫婦の間から湧き起こって来たエネルギーを物理的な豊かさを実現して行くために使用すべきなのである。だからこそ、本物の夫婦は今までとは有り得ないような豊かさを実現することができるのである。

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特別講義:『子育て中の主婦でも解る経済学』

 お金の話が出て来たついでに、経済学の話もしておこうと思う。多くの母親たちは経済学の基本的な知識がないために、家計を狂わし、人生を狂わしてしまっているからだ。勿論、学校や大学で経済学を習った筈なのだが、教師や教授たちは経済のなんたるかが解っていないために、逆に生徒や学生たちが解らず仕舞いになっているのだ。経済学は決して難しい学問ではない。経済のメカニズムが解れば非常に簡単な学問なのである。

●人口と食料

 まず、人間の生存にとって経済は欠かせないものだが、この経済は人口が少なければ、人々は自給自足経済を取ってしまい、余り豊かにはならない。自給自足経済では協業と分業が働かないために、すべての作業を自分でやることになってしまい、非常に非効率的な経済になってしまうからだ。

 経済が活性化し始めるのは、人口が増え始め、国内に「市場」が成立し始めた時からなのだ。市場ができれば、人々は物を交換し合うことによって、自分の得意な物を売り、不得意な物なら購入すればいいので、生産量が激増して行き、人々は急速に豊かに成り始めるのである。

 そして、国内で経済力がついて来たのなら「、「国際貿易」をすることによって、更に豊かに成って行くことができる。自国で競争力の弱い産業があるなら、それを無理して強化することなく、逆に強い競争力を持つ外国から商品を輸入してしまった方が、安い値段で供給でき、消費者にとっては有利なのだ。弱い産業を淘汰することで、その労働力を自国の強い競争力を持つ産業に投入した方が、経済は活性化して行くものなのである。

 但し、国際貿易は無制限に許されるものではないのだ。食料に関しては基本的には国内で生産すべきものなのだ。食料というものは、人間が生きている限り必ず食べざるを得ないので、必ず食料品に対する需要は存在するのだ。それゆえ、食料品の生産者たちは常にお金を得ることができ、これが自国経済の基本的な経済循環となっているのだ。これがなくなってしまえば、経済循環が不安定なものになり、景気の変動を激しく受けてしまい、国民は逆に貧しくなってしまうのである。

 食料自給率の高い国は経済力に関わりなく豊かな生活を送ることができる。一方、食料自給率の低い国は如何に経済力の規模が大きくても、生活実感として貧しくなってしまうのである。国家というのは、無制限に独立を許すべきではなく、食料自給率を100%以上に出来る国家でなければ、独立を認めるべきではないのだ。国内で人口を養えるだけの食料を、生産できる領域で纏まるべきなのである。

●税金がインフレとデフレを作り出す

 経済力の基本的な部分は人口が決定するものではあるが、景気の変動は基本的に政府の税金が決定するものなのである。今まで経済学者たちはインフレとデフレの原因を突き止めようと躍起に成って来たが、その原因を突き止めることができなかった。それもその筈、景気の変動は企業活動や消費者たちの動向に関係なく、政府の税金が決めてしまうものだからだ。

 企業でも、消費者でも、お金が入れば、それを使って生活をしていくものだ。しかし、政府は税金でお金を徴収しても、国会で予算案が議決されない限り動かないものなので、1年間は死蔵されてしまうのである。それゆえ、税金で取られた分だけ、その国の経済力に穴が空いてしまうのである。

 しかも、政府は戦争という大量の資金を使わざるを得ない行為をするので、戦争のために様々な物資は政府によって消費されてしまうのである。特に戦略物資のような物は、政府が戦争をするとなれば、それを政府が所有することになるので、市場では供給が少なくなってしまい、自然と値段が高騰して行くのである。これがインフレの根本的な原因なのである。

 逆にデフレというのは、政府が戦争をしなくなり、政府が戦略物資を購入しなくなるなら、市場での供給が大きくなってしまい、自然と値段が低下して行くのである。これがデフレの根本的な原因なのだ。デフレに突入すると、国民の生活が一気に楽になるのは、物価が下落して行くからなのである。

 それゆえ、政府が戦争を決意するなら、税金を高くしても構わないが、政府が戦争をしないのであるならば、税金を安くして行くべきなのである。日本は対外戦争をしないと憲法で規定しているので、税金は安くしなければならないのである。しかし、日本政府は社会保障制度を確立すると称して、国民に重税を課しているので、国民がデフレになったというのに、生活が豊かにならなくなっているのである。

 国民租税負担率が20%を超えたら、如何なる政治家が現れて来たとしても、国民の生活を豊かにすることはできないのだ。国内で流通するお金の20%以上を政府が手にしてしまえば、国民経済を巡るお金が不足してしまい、政府が如何に経済政策をやっても、如何なる社会福祉を施したとしても、国民自体は貧しくなって行ってしまうのでる。

●通貨供給量

 経済を巧く回転させて行くためには、通貨供給量が安定していなければならない。ところが、この通貨というものを経済学者が解らなかったために、常に通貨から大混乱が起こっているのである。通貨というのは、「商品」なのである。中央銀行とその国家の信用度自体が価値となる商品なおである。

 昔から通貨は金や銀といった希少性のある物を流通させることによって、それを交換手段としていたのだが、金や銀では流通させるためには限界がある。そこで「信用」という価値に着目して、金や銀と切り離された「紙幣」というものを発行して、それを流通させているにすぎないのだ。

 紙幣の信用となるものは、その国家の「軍事力」であり、「黄金保有量」であり、「安定利率」である。日本のように憲法で軍隊の保有が禁止されている国では信用度が低いし、軍隊があっても核兵器を持っていない国も信用度が低い。かといって、軍事費を大量に使ってしまえば、今度は経済がおかしくなってしまうのだ。

 人間は最終的には黄金を以て価値基準として来るので、黄金保有率を上げて行かなければならないのである。政府や中央銀行が黄金を所有するのは勿論のこと、国民自体も黄金好きになって、黄金を所有していかなければならないのだ。現在、中国やインドが大躍進して来ているのは、国民が黄金好きであるために、大量の黄金を保有しているからなのである。

 安定利率は、国民が銀行にお金を預ければ、1%から3%の利子がつくようにしてあげなければならないのだ。利率が高過ぎても駄目だし、利率が低すぎても駄目なのだ。通貨は国内だけで流通するのではなく、外国人や外国企業も所有するので、簡単には行えないが、そこを巧く調整して行くのが、中央銀行の腕の見せ所なのである

 ところが、日本銀行は失敗の連続なのである。戦後の日本銀行はキリスト教徒たちに乗っ取られて状態になっているので、キリスト教徒でない日本国民がどのように窮乏しようがお構いなしなのだ。ゼロ金利政策はその中央銀行の首脳部が無能であるということを証明しているものにすぎないのだ。

●経済学を理解できない政治家たちの悪政

 大体、国民経済は人口と税金と通貨供給量で決まってしまうものである。さて、これをどうやって運営して行くかなのであるが、政府は結婚し子供が多くいる夫婦を税制面で優遇する一方、政府や地方自治体内で独身者の出世を阻止しなければならないのだ。特に政治家には結婚していることと子供がいることを条件とすべきであって、独身者が政治家になってしまえば、無責任な政策が実施されるのは必至に成ってしまうおだ。

 税金は所得税10%以内とすべきなのである。現在、政府の無駄な出費を削減しようと躍起になっている訳なのだが、税金その物を安くしてしまえば、使えるお金がなくなるのだから、必要な出費だけになり、自然と無駄な出費は削減されていくものなのだ。減税をしないで出費をいくら弄っても、絶対に巧く行かないのだ。

 通貨供給量は絶対に中央銀行だけで決めてはならないのである。これは制度上の欠陥であるので、このシステム自体を改革しなければ、いくらでも日本銀行は出鱈目な措置を取って来るのである。通貨供給量は例えば「通貨供給量決定会議」を設置して、そこで300人ぐらいの専門家たちを集めて、そこで議論し決定していけばいいのである。

 はっきりと言ってしまえば、日本の政治家たちはどいつもこいつも経済学を理解していないのだ。そのために自らは自信満々となりながら政策を実施しても、それは確実に悪政になってしまうのである。デフレ経済では減税政策が鉄則であり、政府の人員を削減して、政府を小さくして行くしかないのだ。

 デフレ経済に入っているのに、社会保障を充実させて行けば、国民は一時的に政府から補助金が貰えるので、生活を潤すことができるが、それは飽くまでも一時的なものであって、その代償は経済力の低下となって、後日、国民は確実に貧乏になってしまうのである。政府が社会保障を充実させるよりも、政府が減税してくれれば、国民の間に充分なお金が行き渡り、自然と豊かに成って行くものなのである。

 議院内閣制の存在こそが悪政の根源なのである。首相を国民が選ぶのではなく、国会議員が選んで来るので、どうしても現在の状況に適応した優れた政治指導者が選ばれないのだ。納税者と統治階級の一致こそ、国民国家の目指す政治システムなのである。現在の選挙制度を、所得税を納める者たちによって、首相を選挙で選び出す政治システムに変えれば、無能な首相が首相の地位に就任して来るということはなくなるのだ。

●デフレ経済下の生活

 では、デフレ経済下では国民の生活は一体どうなるのであろうか? デフレ経済下では、物価が下落して行くので、貧乏人であっても、豊かな生活ができるようになるのだ。これがデフレ経済の最大の魅力だといっていいのだ。インフレ経済でなら、低所得者たちは生活が苦しかったのに、デフレ経済下なら一転して低所得者といえども生活が楽に成って来るのだ。

 但し、インフレ経済時での浪費は厳禁である。どの人々も所得は余り増えて来ないので、浪費をすることをやめ、生活を質素なものに切り替えていかねばならないのだ。今までのような無駄な出費を抑えれば、所得が増えなくても、充分に暮らしていけるお金を確保できるものなのである。

 デフレ経済下では物価が下がって来るので、物を大量に所有する生き方は圧倒的に不利な生き方なのである。それゆえ、生活を改善し、生活をシンプルなものに切り替えて行くべきなのだ。自宅に不用品がたくさんあるなら、それをいつまでも抱え込んでいるのではなく、売り払ってしまうべきなのである。

 それと共に、資産を増やして行く努力を決して忘れないことだ。デフレ経済というのは、物よりもお金の方が価値が高いという経済なので、所得をすべて生活費に使ってしまうのではなく、所得から強制的に資産へと回すべきなのである。デフレ経済では、投資は地道に行っていくのが常道で、高利率の投資を行うのではなく、低利率でもいいから、確実に資産を増やせる投資を行って行くべきなのである。

 デフレ経済では、貧富の格差が激化するものなのである。デフレ経済は言わば防御の生き方が要請されるので、その生き方に変えることができない人々は、当然に貧困化して行くのは必然なのである。一方、生活をデフレ経済に適うような生き方に変えてしまうと、自然と資産が増え始め、富裕化して行くのである。マスコミでは不況の情報ばかり流れて来るかが、不況だというのに、高級マンションがバカ売れしたり、宝石が売れまくったりと、お金を持っている人々は不況を契機に更に裕福になって行くのである。

●デフレ経済下での仕事

 デフレ経済は物価が下落していくので、企業は「値下げ合戦」を強いられることになる。そのため「派遣切り」や「解雇」といった現象が起きて来るのである。派遣切りはマスコミが徹底的に批判してきたが、そのマスコミですら自分たちの会社では派遣切りを行っているのである。デフレ経済では派遣切りや解雇は当然の現象なのであって、誰がどうやっても避けることができないのである。

 値下げ合戦は企業の収益を悪化させていくので、市場占有率の低い企業は経営が悪化してしまう。そこで「企業の統合」を行って、企業の規模を大きくしていくのだ。デフレ経済下では企業の吸収合併のニュースが日常的に流れて来るが、これはデフレ経済にとっては当然の現象なのである。

 一方、企業の規模がでかくなってくれば、企業の動きは鈍くなって来るので、そこでベンチャー企業のような小回りの効く企業が出て来ることができるのだ。ベンチャービジネスは言わば「ゲリラ戦」なので、大企業の侵攻を食い止めることができるし、ビジネスが当たった場合、企業の規模が小さいために、巨万の富を得てしまうことができるのである。

 デフレ経済では消費者の本物志向は高まって来るものなのである。高級ブランドというのは、すべてデフレ経済で鍛えられるのである。バカ売れを狙うのではなく、本物の商品を地道に作って行けば、確実に売れて行くものなのである。高品質の商品を細々と売って行けば、どんなに不況の風が吹こうとも、確実に収入を得続けることができるのである。

 インフレ時なら豊かになるための進路は解り易かった。一流大学を出て一流企業に就職できればそれで安泰だったからだ。しかし、デフレ経済では一流企業に勤めたとしても、それで安泰とは行かないのだ。いつ何どき解雇されるか解らないのだ。そのくせ、ベンチャー企業のような胡散臭い連中が巨万の富を得たり、今にも潰れそうな町工場がフル稼働で仕事の注文が相次いでいるという現象も起こって来るのだ。

●子供たちの進路

 デフレ経済になってしまうと、親が子供の教育費を負担することができなくなり始めるので、親の経済力によって子供の進学が左右されるということが起こって来る。それゆえ、大学に進学できるというのは、頭がいいから大学に進学できるのではなく、親に大学を進学させるだけの経済力があったからこそ、進学できたという事態になってしまうのだ。毎年、大学生の学力の低下が問題視されるが、大学教授たちは未就労の若者が大学に進学するためにはお金が必要なのだということが解るだけの知力を持ち合わせていないのだ。

 このため「学歴差別」は恐ろしいものとなる。解り易く言うなら、大学に進学して来る人々は、裕福な家庭の若者たちであって、その若者たちが大卒という学歴を得て、社会に出て行くのである。当然、中卒や高卒の人々よりも優位な職に就いてしまうのだから、裕福な家庭が益々裕福な家庭になってしまうのである。

 「貧富の格差」より「男女の性差」よりきついのが、この「学歴差別」なのである。貧富の格差がいかに激しくても、貧乏人なりに楽しい生活はあるものなのである。男女の性差がいかに厳しくても、女性なりに楽しめる生き方というものがあるからだ。しかし、学歴差別は10代後半という若い時期に差別が決定的になってしまい、その後の人生で自分の学歴が付き纏ってくるのである。これほど恐ろしい差別はないものなのである。

 それゆえ、子供にはとにかく勉強させることだ。まずは母親が子供に直接教えてしまえばいいのだ。中学生辺りまでなら母親でも教えられるからだ。母親の学力ではしんどくなってきたら、学習塾なり予備校に行かせればいいのだ。もしもスポーツ推薦を狙えるなら、その推薦で大学に進学してしまうことだ。頭が悪かろうが、大学に進学してしまえさえすればいいのである。

 だが、予め言っておくが、日本の大学はレベルの高い教育をやっていないということだ。国際的に通用する大学はごく僅かなのである。日本の大学は社会主義者やフェミニストたちの勢力が強いために、大学内で健全な競争が行われていないのだ。そのため、どの大学もレベルの低いものになっているのだ。しかも、私立大学には憲法違反の私学助成が行われているために、大学の競争力自体が低く、しかも補助金漬けになっているので、大学側に経営感覚がまるでないのだ。

 もしも、我が子が学問の世界で活躍したいというなら、海外の大学に留学させてしまうことだ。そして留学を終えたら日本に帰って来るのではなく、その地で大学教授にでもなって学問に精進させればいいのだ。その方が優れた研究をすることができるものなのである。人文では国内の大学で職を得ないと出世は難しいが、自然科学なら万国共通なので、それほど強烈に国家意識を持たないことだ。

●頭脳資本主義の到来

 現在、日本は「情報資本主義」に突入して、日本の至る所で情報資本が整備されて、国民の生活を豊かにさせて行っている。消費者たちは情報通信費にかなりの金額を支払っているが、いずれ情報通信費は激減して行くことになるであろう。情報資本主義の目指す所は、無料か低額料金によって情報を大量に行き渡らせることにあるからだ。

 情報資本が整備し尽くされれば、今度は「頭脳資本」の整備が始まることであろう。情報資本主義から頭脳資本主義へというのが、自由経済の自然の流れだからだ。情報はそれ自体では大した価値を持って来ない。情報を分析し解析して、使用可能な知識になるからこそ、富を生み出せることができるのである。

 頭脳資本の代表格は「大学の研究所」や「シンクタンク」や「企業の研究機関」などである。頭脳資本は資金が重要というよりも、優秀な人材こそが重要なのである。しかもそれほど大勢の人々を必要とはしないのだ。僅かの人々が研究に従事することで、巨万の富が生み出されて来るのである。

 この頭脳資本主義を解り易い例をあげるなら、予備校である。学校でチンタラと授業を受けるより、予備校で生産性の高い授業を受けてしまえば、高い学力を得ることができる。そのことにお金を支払ってしまった方が、消費者にとっては利益が非常にでかいものになるのだ。勉強を漠然と教えて行くのではなく、知識をプログラム化して教えてくれるからこそ、親たちはお金を支払ってでも受けさせてくるのである。

 今後は頭脳資本の整備こそが、経済を成長させ、国民の生活を豊かにしてくれるようになるのである。今回のデフレ経済の中で頭脳資本主義は徐々に成長して来ることだろう。今、電話会社などが活躍しているが、現在繁栄している企業は十年後には衰退するものと思った方がいい。我が子が企業に就職する時は、現状の経済に囚われることなく、将来の変動を見越して行うべきなのである。

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子供には慈善活動を教えよ ~時には自分の利益にならない仕事をさせてみる~

●慈善活動は親が教え込まない限りやらないもの

 この世は自分が利益を追求することによって、利益が得られるのではなく、他人に利益を与えるからこそ、自分も利益を得られるようにできている。ビジネスというのは、そういうことを仕事を通じてやっているにすぎないのだ。だが、ビジネス以外にも他人に利益を与えることができるものがある。それが「慈善活動」である。

 慈善活動は子供たちが自然発生的にやると思ってはならない。慈善活動は親が子供たちに教え込まない限り、絶対にやらないものだからだ。大概の子供たちは自分のことで手一杯なものなのである。親が慈善活動の手本を子供たちに見せて、子供たちにも行わせるからこそ、子供たちは慈善活動をするようになるのである。

 ビジネスと慈善活動は一体どこが違うのか? それは有償な行為か、無償の行為かの違いであるのである。ビジネスをすることで、利益を得た分、その利益の僅かなものを、無償の行為によって還元して行くのである。ビジネスと慈善活動は繋がっており、ビジネスをして儲ければそれでいいのではないのだ。ビジネスで儲けたからこそ、富を社会に還元しなくてはならないのだ。

 ビジネスで儲けているのに、慈善活動をしないでいると、その人から人徳が消え去ってしまい、単なる守銭奴に成り下がってしまうようになるのである。莫大な富を有することは、自分の人徳を高めるものになることなのに、なぜか慈善活動をしないでいると、人徳が低下して行き、自分の精神がおかしくなっていくのである。

 子供たちにもビジネスを教えるだけでなく、慈善活動の大切さを教え込んでいくべきなのだ。慈善活動は他人のためだけではないのだ。自分のためでもあるのだ。自分の人徳をあげていくためには、自分が所有しているお金を、無償で他人に与えるということは、是非とも必要なことなのである。こういうことは親が子供たちに教え込まない限り、子供たちは絶対にやろうとはしてこないものなのだ。

●この世には下には下がいることを教えよ

 子供たちは成長過程にあり、それなのに人生経験は少ないものだ。そのため、大人でなら簡単に乗り越えられる試練であっれも、躓いてしまうことだってあるのだ。些細な失敗なために、自分は駄目な人間だと思い込んでしまい、ネガティブモードを全開にしてしまい、自分のすべての行動を停止させてしまうのである。

 そうならないためにも、この世には下には下がいることを教えてあげるべきなのである。自分が多少運動神経が鈍くても、身体障害者を見たことがあれば、自分の運動音痴は気にならなくなるものだ。いくら自分の頭が悪くても、病院で寝たきりになっている病人を見れば、自分が生きているだけでも幸せと思うようになるものなのだ。、

 昭和憲法体制下の学校では、非常に危険な学校運営を行っている。それは学校から身体障害者を排除して、養護学校に行かせてしまうことだ。確かに、身体障害者には特別な教育を必要ということは解るが、かといって身体障害者であっても、通常の学校に行きたいものなのだ。学校内で教師たちが唱えて来る平等がいかにインチキに満ちたものであるか解ることであろう。平等を唱えながら、強烈な差別をvぶつけて来るのである。

 それでどうなったかといえば、養護学校の生徒たちは社会を憎むようになり、普通の学校ではイジメが深刻化し、毎年、自殺者まで出るほどなのである。人間を公平に扱うということは、平等なんかより遥かに大切なのである。学校教育で公平が確保されていないからこそ、健康な子供たちも、身体障害の子供たちも、心が病んでしまうのである。

 普通の学校に身体障害の子供がいれば、他人を些細な理由でイジメたりしなくなるものだ。身体障害の子供も健康な子供たちと同じように普通の学校に行かして貰えれば、社会に対して恨みなど抱かなくなるものだ。子供の頃から、自分とが明らかに異なる人たちがいることを知っておけば、自然と慈善の心は芽生えて来るものなのである。

●採算を度外視した行動こそ、未来を切り開く

 人間は損得勘定だけでは大物になることができない。時には採算を度外視した行動こそが、未来を切り開いていくのだ。子供に慈善活動を行わせていたら、利己的な人ならなんて馬鹿なことを強いるのだと罵ることだろう。でも、子供たちが利己的に行動していたら、決して大物に育って行くことはないのだ。せいぜい小賢しい才子になるだけなのである。

 確かに人間は利益を出されれば、動くこともある。しかし、この世のすべての人たちが利己的になって、自分の利益だけを追求するようになってしまったら、この世はギスギスしてしまい、人間不信の輩が続出して、到底、人間らしく住む社会にはならないことだろう。いや、余りにも殺伐とした社会であるために、多くの人々の心が壊れてしまい、暴動となって爆発して来ることだろう。

 すべての人々が慈善活動をする必要性などないのだ。ビジネスで成功している人たちが、高貴な義務として慈善活動を行えば、その慈善活動で使われるお金はごく僅かであっても、社会に潤いが生まれ、利己的に生きている人々にその非人間的な生き方を改めさせることができ、この世に生きている人々が互いに楽しめる世の中に変えて行くことができるのである。

 人間は自分の利益の分しか働かないとすれば、もうそれ以上の成長は見込めないのだ。自分が既存の利益以上の働きをするからこそ、今まで以上の成長が見込めるようになるのである。慈善活動は他人に対して無償の行為をしている振りをして、実は自分の能力を大いに引き延ばしているものなのである。だから、慈善活動をし続けると、無限に成長して行くことができるのである。

 都会は才子を産み、田舎は凡庸な人間を産み易い。都会は情報が溢れているために、あれやこれやと気が散ってしまい、何か一つに打ち込める人間にはならなくなる。一方、田舎は情報が少ないために、自分の才能を発揮する機会がないために、能力が低下して行ってしまうものなのだ。それゆえ、都会であろうが田舎であろうが、我が子を大物にさせたいのなら、慈善活動に従事させ、子供の能力の限界を取り払う機会を与えてあげるべきなのである。

●慈善活動をすると、自分の家から不幸がなくなる

 慈善活動は慈善を必要とする人たちに直接行うのが鉄則だ。ユニセフや赤十字のように巨大な組織に寄付しても、自分の寄付金がその組織の経費に消えてしまい、自分の寄付金の数%程度しか慈善対象者に届かないのである。特に子供が慈善活動をやるのだから、自分が出した寄付金がどのように使われたのか、目に見える形にしておかないと、子供の方が解らなくなってしまうのだ。

 寄付金の限界は所得の10%以内と定めておくことだ。余りにも多くのお金を寄付金に回してしまうと、自分のために使うお金がなくなってしまうので、今後、慈善活動をやらなくなってしまうのだ。慈善活動は持続して行うからこそ意味があるのであって、細々と遣り続けて行くことができるようにさせて行くことだ。

 慈善活動をすると、自分の家族から不幸がなくなっていくものだ。正確に言ってしまえば、ちょっとやそっとの不幸が来ても、その不幸が気にならなくなり、きちんと対処できるようになるのだ。慈善活動によって不幸を解消されせることができれば、自然と幸福の方が多くやってくるようになるものなのである。

 子供たちが慈善活動をし出すと、今まで育児や子育てで手一杯だった母親の方もゆとりが生まれて来て、家族全員が余裕を持てるようになるのだ。いつも忙しくしていて、何かに追われているような慌ただしい生活を送っているなら、その忙しさの余りに、母親の方がゆとりをなくしてしまうこともあるものなのである。そうなってしまえば、子供たちにきつく当たるだけの母親になってしまうものなのだ。そうならないためにも、子供たちだけが慈善活動をするのではなく、母親自身も慈善活動をしてみることだ。

 慈善活動で使ったお金は、慈善活動をするだけで消えてしまうお金ではないのだ。いずれ何百倍にもなって自分の所に帰って来るものなのである。銀行に預金したり、株券や不動産に投資するのも結構であるが、慈善活動という「投資」も積極的に行ってみることだ。お金は天下の回りものだから、いずれ通常では絶対につかない利子をつけて帰って来るのである。

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ビジネスごっこで商才を養う

●子供を犯罪者にさせたくないのであるなら、子供にビジネスを教えよ

 商業とは昔から卑しい仕事と看做されて来た。農業や漁業や牧畜や工業なら、労働者たちの労働が具体的な生産物として現れて来るが、商業というのは、商品を生産者から消費者の間を動かすだけで利益を得ることができてしまうからだ。しかも、文明の中で商人というのは、最も遅れて出て来た者たちであるので、商人に対して倫理的正当性を与えるというのが、非常に遅れたのである。

 経済が発達した江戸時代でも、商人は常に目の仇にされて、階級としては士農工商として最下級であり、幕府の三大改革では毎回、商人たちはすべて弾圧の対象になってしまった。商人が優遇されたのは、田沼意次の政権の時だけなのであるが、知識人たちは商人が優遇されたのがそんなに気に食わなかったのか、田沼意次の政権は罵倒の対象になり、今でも田沼時代は筆誅の対象になっているのだ。

 近代化というのは、商人に対して弾圧を行うのを禁止させ、彼等が積極的に活躍できる経済にすることで、経済を活性化しようという試みに過ぎないのだ。だから、商人を優遇した国家は発展して行くし、商人を冷遇する国家は衰退してしまうのだ。明治期の日本は商人を活躍させたので、国家を発展させ、戦争に勝つことができ、一等国までに伸し上がることができたが、その後、社会主義運動が盛り上がっている来ると、商人に対して統制を加えてしまい、国民は貧乏になり、大東亜戦争で敗北してしまったのだ。

 近代国家の国民であるなら、子供の内からビジネスを学んでおくのは絶対に必要である。その子供が将来、商人にならなくても、商業のなんたるかが解っていれば、商人を弾圧する側に回ることがなくなるからだ。商売をしたことがないからこそ、商業を胡散臭いと思うだけで、実際にやってみれば、商業のメカニズムが解って来るものなのだ。

 子供を犯罪者にさせたくないのであるならば、子供にビジネスを教えよ。子供の頃からビジネスを通じて、世のため、人のため、お国のために貢献することができると解っていれば、如何なる職業に対しても、不当な扱いをしなくなるものだからだ。自分でビジネスをしたことがないからこそ、自分の気に食わない職業があるなら、権力を使って弾圧してしまうのである。

 キリスト教徒たちは政府がキリスト教を弾圧するのは不当であるといいながら、売春婦たちを弾圧したし、社会主義者は労働者を搾取するのは不当であるといいながら、資本家たちの皆殺しを画策したし、フェミニストたちは女性差別は不当であるといいながら、男性たちの職業を奪って行ったのだ。この手の人たちは、宗教やイデオロギーは違えども、或る共通項がある。それは子供の頃からビジネスをしてこなかったということなのである。子供の頃からビジネスをしてこなかったからこそ、権力を使って無辜の民を弾圧して来るのである。

●ビジネスごっこ

 我が子を真っ当な大人に成長して貰いたいなら、子供の頃に「ビジネスごっこ」をさせればいいのだ。ビジネスごっこは至って簡単で、商品を購入して来て、それを店頭販売すればいいだけだからだ。例えば、夏の暑い日には、問屋からジュースを仕入れて来て、それを冷やし、自宅の前に机を出して、それを売ればいいのだ。自動販売機で売られている値段よりも安い値段で売れば、必ず売れることだろう。

 ビジネスごっこは親が口出ししてもいいが、基本的には子供たちに自主的にやらせることだ。最初は手取り足とり教えても構わないが、次回からは子供たちだけでやらせるのだ。また、子供たちは意外と飽きっぽいので、子供たちが飽きて来たなら、何か新しいビジネスごっこをやらせればいいのだ。

 ビジネスごっこで儲かったのなら、決算書を作らせて、利益は幾らなのか、数字できちんと出させることだ。その利益をすべて使っていいのではなく、利益の中から次回への投資を差し引いたものが、子供たちの純粋な利益となるのだ。そのお金に関しては、いくらでも自由に使ってもいいのだ。子供だから所詮はガラクタを購入して来るが、子供たちがビジネスをすることで、儲けるということが、貴重な教訓になるのだ。

 ユダヤ人や華僑たちは商売が巧いといわれる。ではなぜそうなるかといえば、子供の頃からビジネスごっこをさせて鍛えさせているからなのだ。日本でも関西の人たちが商売が巧いといわれるが、京都の祇園祭のように、普通の家庭が屋台を出して、子供たちにチマキなどの商品を売らせたりして、子供の頃からビジネスを行っているからなのである。

 都市住民であるなら、子供の内からビジネスを学んでおくというのは、絶対に必要なのである。自分の家が農家なら、子供の内から農業をやらせることによって、農業の仕方を教えて行くものだが、都市住民のように第一次産業から切り離された人々は、子供の内からビジネスごっこをすることで、ビジネスの仕方を学んでいく必要があるのだ。そうすれば、大人になってから、ビジネスで成功し易くなり、豊かな生活を送れるようになるのだ。

●「三方良し」こそ商売の鉄則

 商売では暴利を貪ることは禁止されるものなのである。商売というのは、飽くまでも公正取引によって着実に利益を出していかねばならないからだ。それゆえ、自分だけが儲かって、お客様に損害を与えるような商売の仕方は間違っているし、取引先に損害を与えるような商売の仕方も間違っているのだ。

 商売は「お客様良し」「取引先良し」「自分良し」の三方良しが行われてこそ、まともな商売になるのである。この三方良しこそが商売の鉄則であって、これを子供の内に教え込んでしまうのである。子供は飲み込みが早いので、ビジネスごっこを繰り返していると、これが必ず解って来るようになるのだ。

 商売というのは、利益を追求するものであってはならないのだ。利益を追求してしまうと、途端に欲が出過ぎてしまい、商売そのものを破綻させてしまうことになるのだ。例えば、売り上げが欲しい余りに、異様な安値で商品を販売したり、粗悪な商品を販売したり、巧言令色によってお客様を騙したりすれば、一時的には商売が成立しても、最終的にはビジネスが破綻してしまい、大損を被ってしまうことになるのだ。

 大事なことは、利益追求ではないし、一時的なサービス精神でもないのだ。公正取引によって、正しい信用を得て、長期的に取り引きすることなのである。お客様が繰り返し繰り返し来てくれれば、いかなるビジネスでも成り立つものなのである。目先の利益に目が眩んでしまうと、ビジネスの土台となっているものが見えなくなってしまうのだ。ビジネスの土台さえあれば、利益などはいくらでも湧いて出て来るものなのである。

 ビジネスはそう簡単には儲からないものなのである。大儲けしている商人は既に、ビジネスの土台を切り崩している可能性が高いものなのである。ビジネスは持続して行うことにこそ意味があるだ。子供たちにはビジネスごっこで利益を与えても、その利益に目が眩むことがないようにさせ、ビジネスの中で目には見えて来ない、公正取引や信用や長期的取引といったものが、実はビジネスでは大事なんだよということを教えていくべきなのだ。

●「秘訣」よりも「真心」

 頭が良く、人生経験の浅い人ほど、すぐに秘訣を聞きたがるものだ。自分が今やっているものに対して、それほど時間をかけていないにも拘わらず、秘訣を聞き出すことで、その秘訣で巧く仕事をこなそうとしてしまうのだ。しかし、安易に秘訣を求めてしまうと、いい仕事ができなくなるのだ。なぜなら、秘訣というのは、教えられるものではなく、自らで掴んでいくものだからだ。

 他人から教えられた秘訣など、所詮は焼き付け刃にすぎないのだ。自分が悪戦苦闘しながら掴んだ秘訣だからこそ、その秘訣の価値が解り、更にレベルアップして行くことができるのだ。だが、秘訣を教えられてしまえば、その仕事をこなすことができるようにはなったけど、その秘訣の価値も解らないし、レベルアップもできなくなってしまうのだ。

 都会で生まれ育った子供たちは、情報が豊富にあるために、小賢しい子供になってしまうものだ。情報過剰によって脳が爛れているのだ。だから、すぐに秘訣を聞き出して、その場を取り繕うだけの生き方をしてしまうのだ。だからこそ、それをビジネスごっこで打ち砕いてしまうのだ。いかなるビジネスをやっても、結局は対人関係が巧く行かないと、成功できないので、子供ではなかなか巧く行かないものなのだ。子供たちに敢えて巧く行かないことを経験させるからこそ、子供たちの小賢しさを破壊することができ、子供たちに大事なことを教えることができるのである。

 ビジネスごっこで最も大事な教えとは、真心を持って仕事を取り組むことの絶対的に重要であるということなのである。「秘訣よりも真心」ということが解れば、その子供はどこに行っても通用するし、どのビジネスをやっても成功することだろう。純粋に「相手に楽しんでいただきたい!」という真心があれば、それをビジネスの中で実現して行くことは可能なのである。商人の心の中に、その真心よりも、自分の利益を得たいという邪念が先にあっては、いい仕事などできないものなのである。

 真心があるからこそ、いくらでも楽しさが湧いて来るのである。ビジネスを堅苦しく考えるからこそ、ビジネスが巧く行かないのだ。ビジネスはビジネスごっこにこそ、その原点があるのだ。遊びながら仕事をして、その楽しさをお客様に届けて行くのだ。お客様を楽しまされば、子供といえども立派な商人なのである。そういう子供だからこそ、大人になった時に、巨万の富を稼ぎ出すようなビジネスマンになってくれるのである。

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父親の仕事と子供の物真似

●息子にとっての父親

 実際に子供を育ててみれば解ることだが、男の子と女の子では育ち方が全く違う。最も極端に違って来るのが、男の子にとっては父親は「絶対的存在」であるということだ。男の子は上位自我の形成が弱いために、父親を絶対化することで、自分の存在を位置づけようとしてくるからだ。

 それゆえ、男の子は父親の名誉を傷つけられると、カンカンになって怒り出してくるのだ。父親が善行をしようが悪行をしようが、自分にとっては父親は絶対の存在である以上、一切の批判は許されないのだ。男の子が父親に批判めいたことを言っても、それは親子だからこそ許されることであって、他人には絶対に許されない行為なのだ。

 これに対して、娘は父親が絶対の存在になる時期は非常に短く、小学生の或る時期までであろう。しかも、娘は上位自我がしっかりと入っているために、父親の権威を認めつつ、父親と対等の関係を築こうとしてくるのだ。そのため、母親の方も子供にとっての父親はそんなものだろうという間違った考えを持ってしまうのだ。

 自分の息子が自分の父親を絶対化している以上、息子の前で夫の悪口を言うべきではないし、夫婦喧嘩など絶対にすべきではないのだ。こういう行為はどのような問題があったとしても、夫に対して行っているだけではなく、息子を傷つけることをやっているのである。息子も幼ければ、黙って見ているにすぎないが、それでも自分自身が傷つけられてしまうので、息子の成長が歪んでしまうし、反抗期に入れば、母親に対して暴力を伴う反抗をして来るのだ。

 結婚しているからといって、何をやっても許されるのではない。寧ろ、結婚しているからこそ、許されない行為もあるのだ。子供が小学生になる頃には、結婚はマンネリ化し、夫への愛情も薄れていく時期ではあるが、そういう時に母親が自分の夫に対して悪態をついてしまうと、息子の心を大いに傷つけてしまうことになるのだ。息子の方は今まさに父親の存在が世界の中で一番重要な時期に差し掛かっているのである。

●すべては物真似から始まる

 息子が父親の存在を絶対化し始めたということが解るのは、父親の物真似をし始めた時なのである。息子が父親の靴を穿いたり、父親がご飯を食べる真似をしたりと、仕様もないことを真似て来るのだ。こういう時、息子が行っている父親の物真似を褒めてあげるべきなのである。この手の物真似は大概、母親の前で行われるので、要は母親に褒めてほしいのである。この息子の行為を無視していると、息子は母親に対して疎遠になって行き、大事なことを話さなくなり始めるのだ。

 自宅が自営業であるなら、息子に父親の職業の物真似をするというのは、非常に大事なことなのだ。農業をやっているなら、農作業の中で些細な作業を息子に遣らしてしまうのだ。商業をやっているなら、商業の中で些細な作業を息子に遣らしてしまうのだ。こういう手伝いを依頼されるだけで、息子の方は大いに満足してしまうのである。

 父親が会社員なら、息子を会社に連れて来て、見学させてあげるべきなのだ。お客様の会社見学よりも、従業員の息子たちの会社見学の方が遥かに重要な行為なのである。これをやっている企業は非常に少ないのだが、これをやるとその社員の忠誠度も上がるし、その社員が家庭内で問題を起こすこともなくなるのだ。

 大人にとっては真面目な仕事なんだけれども、子供にとっては一体何をやっているのか解らないという職業がこの世には存在するものなのである。例えば、作家などは自宅で執筆しているだけで儲かる仕事ではあるけれども、自分の書いた原稿を商品化し、それを流通させ、販売するというのが、子供には見えてこないために、一体何をやっているんだかということになってしまうのだ。

 こういう場合、父親は自分が一体どんな仕事をしているのか、きちんと説明してあげるべきなのである。自分の仕事の中で子供を使っても大丈夫な作業には、息子に駄賃を払って手伝わしてみることだ。作家なら資料収集の際に人手がいるのだから、息子に「ちょっと来い」と言って、父親の仕事を手伝う機会を与えてあげることだ。

●父親の薫陶なしに子育ては存在しない

 育児では役に立たなかった父親は、子育てに於いては最重要に重要な存在となるのだ。女手一つでは男の子を育て上げることができないものなのである。息子をまともな大人に成長させるためには、父親の薫陶なしには存在しないのだ。息子の精神の成長に最大の影響を与えるのは父親であって、父親以外には存在しないのである。

 父親を絶対視してくる息子といえども、父親に対して従順なのは小学生までであって、中学生になれば反抗期が始まるので、小学生の時期に父親は自分の仕事を通じて、息子に教えるということをしておかないと、息子は自分の精神を充分に成長させることができないのだ。

 要は息子に父親の仕事を真似ることができる機会を与えてあげることなのである。この機会を与えてくれれば、息子はその手伝いを通じて、自分の精神を成長させることができるのである。しかし、その機会を与えてくれなければ、息子は自分の精神を成長させることができず、いつまでも幼稚なままでいるのだ。

 夫婦では育児や子育てに於ける役割分担が違うのである。育児では母親がメインになって行うものなのだ。そういう時に父親が育児の手伝いをしてエネルギーを消耗すべきではないのだ。我が子が乳幼児なら、自分の妻に任しておけばいいのだ。父親の役割が重要となるのは、子育てに於いてであって、母親が子供をきちんと育児してくれれば、今度は子供の精神を成長させてあげるというのが父親の重要な役割なのである。

 父親が育児でエネルギーを使い切ってしまうと、子供が小学生辺りになった頃には、疲れ切ってしまい、子育てに充分なエネルギーを注げなくなってしまうものなのだ。息子が父親の物真似をし始め、父親の仕事の手伝いをしたがっているのに、父親はそれに気付かず、自宅でゴロゴロしているということになってしまうのだ。そうなれば、息子は自分の精神を成長させる機会を失ってしまうので、反抗期に入れば、有り得ないような反抗をしでかしてくるようになるのだ。

●息子に父親の後を歩かせろ

 息子にとって父親が非常に必要な時期は、小学生辺りなので、どの父親も教育は学校にお任せするという無責任な行動を取ってしまうのだ。父親の存在は、百万人の教師よりも勝るのである。というより、息子の精神を成長させてあげることができるのは父親しかいないのである。いかなる教師であっても、それは無理なのである。しかも現在の学校ではまともな形で徳育が行われていないので学校としての要件を満たしていないのである。

 我が子に真っ当な人生を歩んで貰いたいのなら、息子に父親の後を歩かせるべきなのである。どの動物も親のやっていることを真似ることで成長していくのである。その機会を親が奪ってしまったら、子供はまともに成長できる訳がないのだ。親であるからこそ、我が子に成長できる機会を与えてあげなければならないのだ。

 娘の場合は、母親が自宅にいるので、自然と母親の物真似をすることができる機会を得られる。しかし、息子の場合は、父親は外で仕事をしているために、父親が意図的に父親の物真似をする機会を作ってあげなければ、息子はその機会を得ることができないのだ。これは息子と娘を育てて行く上で、大きな違いだと思っていた方がいい。

 現在、マスコミで国会議員の世襲が問題視されているが、それに釣られて、自分の息子の世襲を禁止すべきではないのだ。国会議員といえども人の子なんだから、世襲が生じて来るのは当たり前のことなのだ。ジャーナリストたちは職業的に世襲することが非常に難しい職業なので、遂々国会議員の世襲批判をしてくるものなのでる。

 日本の歴史を見ても、外国の現状を見ても、政治家というのは世襲して来る確率が非常に高い職業なのである。農民と商人の職業形態が違うと同じように、政治家の職業形態も他の職業とは異なるために、他の職業からの流入が難しい職業であるのだ。政治家になるためには、「帝王学」「政治学」「軍事学」「外交学」「諜報学」「財政学」「経済学」など、人を支配し動かして行く学問を学ぶことが必要条件となってくるが、これらの学問をきちんと修め、しかも国家戦略を練り上げ、政治家として実務能力を持っている人材はどこにでも存在している訳がないのだ。いかなる国家といえども、政治家として通用する能力を持っている人材は限られているものなのである。

 現在の国会議員の最大の問題点は、国会議員が連続再選を連発して、30年以上国会議員を遣り続けている人たちが出ていることなのである。国会議員をそんなに長くやれば、国会議員そのものが腐敗するのは当然のことなのである。それゆえ、国会議員の世襲を禁止するのではなく、国会議員の連続再選を禁止させればいいのだ。4年間国会議員を務めたら、次の4年間は休んで貰い、もしも再選を願うなら、その後に選挙に出馬してくればいいのだ。

 実際に父親が息子に職業を教えても、大きくなって世襲して来るかは解らないものなのである。それゆえ、息子を1人だけ育てるのではなく、数人育てることによって、その中から自分の職業を継承してくれる人材を確保しておくことだ。残りの子供たちは他の職業を開拓させればいいのだ。それでも、新しい職業に就いた時、子供の頃に父親から教えられたことは非常に役に立ってくるものなのである。

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「小遣いの禁止」と「家事の手伝いを有料制」

●子供を貧乏人にしたくないのなら、決して小遣いを与えるな

 母親が家事や育児のすべてを行っている時は、確かに大変な作業にはなるが、自分一人でできないことはない。家事や育児が楽に成り始めるのは、自分が産んだ子供たちに家事や育児の分担を頼み、任せ始めてからなのである。自分がやってしまった方が効率がいいからといって、いつまでも自分一人でやってしまわないことだ。そんなことをすれば子供たちの絶好の労働の訓練を奪ってしまうことになってしまうからだ。

 子供に家事や育児を手伝わせたのなら、当然にその対価を支払うことになる。家事や育児の分担を有料制にすることで、無償でお小遣いを貰うのを禁止するのだ。子供がまだ幼い時は、必要な物があれば母親が自分のお財布からお金を出して来た訳であるが、家事の手伝いができるようになってからは、そういうことは禁止し、自分で稼いで、そのお金を使わせるようにすることだ。

 子供を将来、貧乏人にしたくないのであるなら、決して小遣いを与えないことだ。自分が何もせずにお金が貰えると子供の頃から教えられれば、子供の精神の成長に悪影響を与えるのは必至だからだ。お金というものは自分の労働の対価なのであるということを、子供の内からみっちりと教えておくことだ。自分が働かなければ、お金を得ることはできないものなんだということを体で解らせることだ。

 家事を有料制にした所で、子供に対しては常識的な値段を設定してあげればいい。男の子だったら、風呂掃除のように力の要る仕事を手伝わせ、女の子だったら、調理のように腕力を必要としない仕事を手伝わせればいいのだ。家事の手伝いを遣らせる時は、ただ単に手伝わすのではなく、どうすればいい仕事ができるかを教え続けて行くことだ。例えば、風呂掃除ならいくら風呂釜そのものを掃除しても、排水口を掃除しなければ意味がないとか、調理なら食材に拘り、適正な手順を踏まないと、美味しい料理ができないということを、手取り足とり教えて行くのだ。

 仕事というものは漠然と仕事をすればいいということではないのである。いい仕事をしてこそ、仕事たりえるのだ。決して等価交換にはならないのだ。自分が支払ったお金以上の働きを相手がしてくれるからこそ、相手は喜び、次も仕事を依頼してくるのである。家事を有料制にしても、家事を分担させるのではなく、お金以上の働きをすることを教えて行くべきなのである。

●労働の喜びを味あわせる

 子供というのは素直だから、母親がきちんと家事の仕方を教えていけば、きちんとやってくるものなのである。子供が手抜きをするのは、きちんと教えないからなのである。例えば、風呂掃除なら、適当に掃除をすればいいのではなく、丹念に掃除をして、床がピカピカになるまで掃除をすべきであって、それからお湯を入れていくべきなのであると教えるのだ。「そうすれば、入浴する際は誰もが楽しく入れるでしょ」と、自分の仕事ができた後の姿を想像させるのだ。

 要は嫌々ながら家事の手伝いをさせるのではなく、家事の手伝いを通じて「労働の喜び」を教えていくべきなのである。そういう働きをしたのなら、きちんと褒めてあげることだ。絶対に「そんなもん出来て当たり前でしょ!」なんて言わないことだ。子供にとっては家事の手伝いこそ、最初の労働体験なのである。

 子供に労働の喜びが解ったのなら、些細なことでも手伝いを頼めることができるのである。調理をしている時に使うべき食材がないと解ったのなら、暇を持て余している子供に買い物を頼めばいいのだ。日頃から労働の喜びを得ている子供ならすぐさま母親の手伝いをするが、労働の喜びが解っていない子供なら、文句を言って家事の手伝いを拒否してしまうことだろう。だからこそ、日頃からただ単に家事の手伝いをさせればいい訳ではないのだ。

 労働は漠然とやれば、いかに安易な作業でも苦痛を感じるものである。しかも、家事を有料制にした所で、市場価格より遥かに薄給なのである。それゆえ、子供に家事の手伝いをさせるなら、早い段階で労働の喜びを味あわせ、それが単純な作業だろうが、僅かな報酬しか得られないものであろうが、母親が頼めば家事の手伝いをしてくれるように仕向けていくべきなのである。

 家事や育児というものは、家族の中からその手伝いをしてくれる者が出て来ると、母親の負担は激減するだけでなく、協業と分業によって、爆発的な生産力を発揮し出すものなのである。家族が家族たりえている期間というのは、子供が家事の手伝いをしている時なのだと思った方がいいのだ。

●子供の只働きは子供を盗人に仕立て上げているようなもの

 子供は親の意見を聞くがゆえに、無償で働かせても、子供は無償労働には黙って耐えるものである。しかし、子供の只働きは子供を盗人に仕立て上げているようになものなのだ。自分がいくら働いても、お金が貰えないと解れば、子供は他人の物やお金を盗んで来るしかなくなってしまうからだ。

 子供の頃から家事の手伝いが有料制で、労働の喜びが解っていれば、自分の欲しい物があっても、それを自分が稼ぎ出すことで手に入れようとし出すものだが、その経験がなければ、無理矢理にでも他人から奪って来るしかなくなってしまうのだ。家事の手伝いを有料制にするということは、その労働の対価を支払うだけではないのである。その子供が大きくなった時に、自分が欲しい物があるなら、自分のお金を使って買うことを教えるためでもあるのだ。

 自由経済というのは有難いことに、お金を出しさえすれば、自分の欲しい物が買える経済システムなのである。自由経済が成立する以前では、消費の前に身分が要求されたり、人徳が要求されたりしたのである。それを近代革命を経ることによって、「身分から計約へ」と移行し、自由な経済活動が可能になったのである。

 だから、子供の内から無償労働をさせてしまえば、自分にはお金がないから、自分が欲しい物があっても、交換する術がなく、相手から無理矢理にでも奪うという形で行わざるをえなくなるのだ。無償労働のの反抗は、将来必ず犯罪で表現して来るのだ。母親が「家族なんだから、家事の手伝いは無償でしょ」と思っていると、表面的には子供は母親の言う事を聞くが、子供が大きくなった時、犯罪をしまくる若者になってしまうものなのである。

 子育てといのは、家族の中で行われることが大半であるけれども、絶対に家族の内部だけでは完結しないのだ。子供は外に出て行くことにとよって、成長して行くものなのである。だからこそ、子供にお金を持たして、そのお金と物を交換することによって、自分の欲しい物を得るという機会を設けてあげなかればならないのだ。子供といえども、お金を持っていなければ、外には出て行けないのだ。

●子供にとって高価な物には例外を設けること

 家事の手伝いを有料制にした際、母親を悩ませるのは、子供がそのお金で碌でもない物しか買って来ないということなのだ。こういう時は、ネチネチと愚痴を入れないで、優しく見守ってあげることだ。母親の方は長年、家計を運営して来たために、シビアな消費感覚が身についているがゆえに、無駄遣いをしないものだが、子供は無駄遣いの真っ最中なのである。

 人間は成長して行く時は、散々無駄遣いをするものなのである。無駄遣いをしているからこそ、その内に価値のある物が解って来て、段々と価値のある物を買い出して行くようになるのである。子供の無駄遣いは健全な消費の仕方を覚えて行くためには、絶対に必要なことなのである。子供の内から無駄遣いを禁止してしまえば、物の価値が解らない子供に成長して行くのは当然のことなのだ。

 母親が子供の無駄遣いを余りに気にすぎているということは、母親の方が無駄遣いをしておらず、成長が止まっている状態なのだ。そういう時は、たまには買い物にでも行って、自分の欲しい物を買ってみて、思いっきり贅沢をしてみることだ。家計を気にし過ぎるあまりに、余りにもケチケチに成り過ぎているのだろう。

 子供はいくらお金を与えても無駄遣いして来るので、当然に金欠になるものである。そこで子供にとって必要だけど高価な物がある時は、例外を設けてあげることだ。例えば「書籍」みたいに、子供が持てば効果が甚大なのに、子供にとっては高価な物なら、親は例外を設けて、自由に買わしてあげればいいのだ。そうすれば、自然と子供は読書好きになり、知能を高く行く機会を得ることができるのである。

 子供がお金を持つようになれば、お金を握っている者が、家族の中で一番強いということが、はっきりと解り出すことだろう。家族の中で一番の稼ぎ手である父親と、家計の管理を任されている母親というのが、家族の中では強い存在だということが解るようになるのだ。子供に得体の知れない反抗をさせないためにも、親はしっかりと「お金の力」を使って、子供を服従させておくべきだろう。

 子供が親の言うことをちゃんと聞く間に、教えるべきものはきちんと教えておくことだ。子供も大きくなってくれば、家事の手伝いで支払わされるお金が非常に安いものであることに気付くことだろう。そうなれば、我が子は家事の手伝いをすることによってお金を稼ぎ出すのではなく、外に出てアルバイトでもしてお金を稼ぎ出すようになるのだ。その時期になってしまえば、母親が我が子に労働の喜びを教えるというのは、もう不可能なのである。子供の家事手伝いは永遠に続くと思う勿れ。限りがあるからこそ、その有限の中で真剣に教えて行くべきなのである。母親が真剣になって教えれば、子供は真剣に受け取って、労働の喜びがきちんと解る子供になるものなのである。

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子供に食料の獲得を経験させろ ~子供の好き嫌いを完全になくす方法~

●子供はどうして小動物が好きなのか?

 子供は本当に小動物が好きである。昆虫に始まり、魚や蛙や蛇までも捕まえて来て、それを飼育することに最大の楽しみを覚えるのだ。なぜ子供たちはこんなことをするかとえば、それは子供の脳に「狩猟本能」が備わっているからなのである。子供は将来、狩猟をするために、子供の内から狩猟の練習をすることで、外界を知ろうとしているのである。

 狩猟本能は男の子だけでなく、女の子にもきちんと出て来る。ただ、男の子の小動物好きが余りにも強烈なだけで、女の子の小動物好きが余り目立たないだけだ。女の子は中学生辺りに女性ホルモンの分泌量が増えて来るので、それで女らしくなると同時に小動物好きが後退して、せいぜい犬や猫程度の小動物に限定されてしまうのだ。一方、男の子は中学生になっても小動物好きが持続してしまい、金銭的に余裕があるなら、いくらでも小動物を飼おうとして来るのだ。

 子供の小動物好きは、実は子供の食べ物の好き嫌いに密接に関連している。小動物を捕まえて来る経験をしっかりと持っている子供は、食べ物の好き嫌いが少ないが、小動物を捕まえて来る経験がない子供は、食べ物の好き嫌いが激しいのだ。子供なりに持っている狩猟本能を満たしてあげれば、好き嫌いなく食べる所を、子供に狩猟体験を与えてあげないと、子供は食べ物の好き嫌いが激しくすることで、その狩猟本能の欲求不満を解消させて来るのである。

 自分の子供が食べ物の好き嫌いが激しかったり、食べ物を残すようであるなら、それを無理矢理に食べさせるというのは、表面的な対処法に過ぎないのだ。要は、子供は子供なりの狩猟本能を満たしてくれる機会が与えられないからこそ、親に対して食事の際に好き嫌いや食べ物を残すことで、その欲求不満を申し出ているに過ぎないのだ。

 小動物の嫌いな母親にとっては、我が子が小動物を捕まえてきたり、飼ったりすることは、母親の方が恐怖してしまうかもしれないが、自分が我慢できる範囲内なら、必ず子供にその機会を与えてあげることだ。小動物を獲得することで狩猟本能を満たして貰えなければ、子供はいつかどこかで屈折した形でその狩猟本能を暴走させて来るからだ。

●基本は狩猟採集体験

 子供の自発的な昆虫採集などをやらしておくのもいいが、家族総出で狩猟採集体験をするというのも子育てにとって最も必要なことになってくる。家族総出で狩猟採集体験をすることで、正しい狩猟採集の仕方が解り、しかも家族の結束が生まれ、子供たちは親の言うことをちゃんと聞くようになるのだ。

 日本は国土の周りを海に囲まれているので、「魚釣り」というのが手っ取り早い狩猟採集体験となる。家族総出で魚釣りに行き、釣った魚をその場で料理して食べると、いかに魚嫌いの子供でも魚をきちんと食べるようになるのだ。魚は肉と違い、頭を良くする栄養素が大量に含まれているので、子供の内に魚が好きになると、高い知能を持てるようになるのだ。魚嫌いの子供に限って、頭が悪かったり、人格的に問題があるものなのである。

 山間部に行くなら、山菜取りは非常にお勧めである。山菜は独特の臭いを放って来るので、嗅覚の敏感な子供にとっては嫌いになってしまう可能性が高い食品なのである。例えば椎茸などは親の嗅覚にとってはなんでもないものでも、子供の嗅覚にとってはとっても臭いものなのである。そこで椎茸狩りに連れて行き、自分で椎茸を取って来て、採集の喜びを味あわせてあげ、その場で調理して食べると、椎茸嫌いがなくなるのだ。

 人間は冬場に寒さのために疲労物質を大量に溜め込んでしまうのだが、それを春の山菜を食べることで吐き出すようにしている。「ゼンマイ」や「ワラビ」や「筍」や「蕗の薹」などを春に食べるのはこのためなのだ。しかし、子供のように成長期にある者は、疲労物質を余り溜め込んでいないので、両親ほどには必要性が低いものなのだ。そのため、この手の毒消し食品を食べようとはしないものだ。だが、これらの食品を食べないでいると、疲労物質を溜め込んでしまい、或る日突然に大病を発症して来てしまうのだ。それゆえ、春には山菜取りに行って、山菜を食べる機会を与えてあげるべきなのである。

 果物が嫌いな子供は余りいないものだが、子供に果樹園での採集体験をさせてあげると、子供は果物が大好きになり、お菓子を余り食べなくなるようになるのだ。果物には果棟が含まれており、その果棟こそ人間にとって手っ取り早いエネルギーになるのだが、果物をたくさん食べないからこそ子供はお菓子を食べるようになってしまうのだ。どのお菓子にも白砂糖が使われているので、この白砂糖に頼った生活を送ってしまうようになるのだ。子供のお菓子好きが減少してくれると、家計は非常に助かるようになるのだ。どのお菓子も僅かね値段なのだが、これを毎日食べるとなると結構な値段に成って来るものなのである。

●牧畜体験

 人間の進化の過程からいえば、狩猟採集体験の次は牧畜体験である。家族総出で牧場に行って、乳搾りをするなり、バターを作るなり、焼肉をして食べると、子供は肉料理を残さず食べるようになってくれる。肉が嫌いな子供は余りいないものだが、肉料理で肉と一緒に出て来る野菜を食べない子供が非常に多いのだ。肉というのは、単品で食べてしまうと、体を酸化させてしまい、病気の引き金になってしまうものなので、どうしても肉と一緒に野菜を食べて貰わねばならないのだ。

 なぜ、子供が肉と一緒に野菜を食べないかというと、肉のことがイマイチ解っていないからだ。この肉が実際どのような動物の肉で、我々人間はその動物を殺すことで、その肉を食べているということが解るようになると、子供の野菜嫌いが一変してしまい、ちゃんと野菜も食べてくれるようになるのだ。

 牧場に行って、一番お勧めなのが、「バター作り」だ。新鮮な牛乳を使えるので、非情に濃厚なバターを作ることができるのである。牧場でバター作りを経験させると、バターに対する見方が丸っきり変わってしまう。それだけ市販のバターは不味いものなのである。本物のバターを食べさせると、今までパンを残すような子供は、まずパンを残さなくなるのだ。

 マグロの解体ショウはあっても、家畜の解体ショウというものはないのだが、もしも家畜の解体に立ちあえるなら、家族総出で見さして貰うことだ。肉というのは、部位によって異なるものだが、部位はどこにあって、その部位はどういう機能を持っているのかを説明して貰うと、子供は絶対に好き嫌いを言わなくなるのだ。

 例えば、レバーは肝臓を強化してくれるので、子供のようにまだ若いと肝臓を強化する必要性がないために、レバーが嫌いと言い出して来るものなのだ。その際に、家畜の解体ショウを見せると、肉に対する見方がガラリと変わり、出て来る肉料理をきちんと食べてくれるようになるのだ。大して美味しくないのに、どんな効能があるか解らないからこそ、子供は拒否していただけで、効能が解りさえすれば、きちんと食べるようになるのだ。

●農業体験

 文明は農業を土台に成立して来るので、子供の内から農業体験をしておくことは非常に重要なことなのである。穀物には人間の知能を高める効能を持っているので、子供の内に穀物を食べる量が少ないと、知能を高くすることができなくなってしまうからだ。子供にしっかりと穀物を食べて貰うためにも、農業体験は絶対に必要である。

 農家であるなら、子供を積極的に農作業の手伝いをさせるべきなのである。ただ漠然と農作業を手伝わせるのではなく、この作業にはどういう意味があるといって教えてから手伝わせると、子供は目を輝かして手伝って来るものなのである。なんの説明も受けないからこそ、子供たちは逃げ出してしまうのである。

 農家でない人なら、自宅で家庭菜園を作ることは絶対にお勧めである。子供に野菜の成長を見させてから、その野菜を食べさせると、その野菜がどんなに不味くても、食べてくれるからだ。子供の野菜嫌いは激減してくるのだ。子供が野菜嫌いになるのは、その野菜がいきなり食卓に出て来るからであって、その野菜が自然の中でどのように成長して来るかが解れば、野菜嫌いにはならないのだ。

 自分たち夫婦が田畑を持っていないなら、穀物の農作業に立ち合わせて貰うを機会を一度は持った方がいい。いかに穀物を作る作業が大変かということが解ると、日々食べる穀物を感謝して食べられるようになるからだ。子供だけでなく親の方も、日々食べている物であるがゆえに、穀物への感謝の念が消え去っているものなのである。

 農作業というのは、要は害虫との戦いなのである。美味しい農作物であればあるほど、害虫も食べて来るものなのである。農薬は確かに危険なものではあるが、それを頭ごなしにすべて否定しきれるものではないのだ。農薬を使うからこそ、食料生産量をあげることができたということも、また事実なのである。

 大量に農薬を使った農業から、減農薬の農業に変えるだけでも、大変な苦労を必要とするのである。増してや無農薬農業など夢のような話なのである。たとえ無農薬農業を実現できたとしても、土壌が弱まってしまえば、栄養価の低い農作物しか作れないのである。そういう農家の話を子供たちに聞かせるだけでも、子供の野菜嫌いなど一発で吹き飛んでしまうようになるのである。

●食事ができるまでには大変な労力が必要と解ると、子供は確実に変わる

 子供がなぜ食べ物の好き嫌いを言い出してくるかというと、自分にとって訳の解らない物がいきなり食卓に出て来て、食べさせられるからなのである。幼児の時には黙って食べていたものでも、大きくなってくれば、疑問が浮かんできてしまうのである。人間は高い知能を持っているために、空腹だから食べるのではなく、脳で食べている動物でもあるのだ。

 子供にこの食物は自然の中でどのような状態で成長して来るのかが解れば、子供にとってはその食物に対する疑問が消えてしまい、安心して食べられるようになるのだ。そのためには子供を自然の中へ連れて行き、実際にその食物がどのようになっているのか見せるしかないのだ。

 子供の食べ物に対する好き嫌いを放置しておくべきではないのだ。そのような子供は自分の狩猟本能が満たされていないために、いつの日にか人間を標的に狩猟本能を発揮しようとし出してくるのである。すぐに喧嘩を仕出したり、誰かをイジメたり、万引きや恐喝>や窃盗をし、挙句の果てには殺人を犯してしまうようになるのだ。

 人間は現在、文明生活を営んでいても、狩猟採集経済をやっていた頃と大して変っていないのだ。それゆえ、その狩猟本能をきちんとした形で満たしてあげないと、健全に人格が成長していくことはなくなってしまうのだ。母親がいくら「食べ物の好き嫌いは駄目よ」と教えても、狩猟本能が満たされていなければ、好き嫌いをしてくるものなのだ。

 自然の中で実際に食物がどのように存在し、それを人間が狩猟や採集をすることで、やっと手に入るものなのである。食事ができあがるまでに大変な労力が必要だと解ると、子供は確実に変わるものなのである。我が子が食べ物の好き嫌いを言うようになったら、自然の中に連れて行け。自然の中で鍛えられれば、好き嫌いなど言わない、ちゃんとした子供に変身してしまうのである。

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兄弟姉妹で競争させて、タフな子供に育てろ

●子供の成長に於ける競争の重要性

 子供というのは、悠長に育つものではないのだ。競争して切磋琢磨しながら成長して来るのである。子供が3人以上いれば、子供同士で喧嘩するのは日常茶飯事であって、これが朝から晩まで続いてしまう。しかし、この競争をやっていくと、自然にどの子供も強くなってしまい、ちょっとのことではへこたれない強い子供に成長してしまうのだ。

 子供の成長に於いて競争は非常に重要である。子供は競争するからこそ、猛スピードで成長して行くことができるのである。子供の脳も体も成長過程にあるので、競争させ、勢いよく行わせると、時間を短縮した形で覚えることができるようになるのである。この世の物事とはチンタラとやっていては逆に覚えにくいものなのである。或る程度の速度は絶対に必要なのである。

 子供が幼稚園に行くと競争が始まるし、小学校に行けば競争が始まる。だから、子供がその年齢に達したら、幼稚園に行くなり、小学校に行かせないと、どうしても知能も体力も向上してこないのだ。幼稚園児や小学生に競争をさせないで教育をさせたとしても、大して高い能力を発揮することはできないのである。

 平等イデオロギーに囚われてしまうと、競争そのものが「悪」になってしまう。競争というのは、誰がどうやろうとも勝敗がついてしまい、序列を生じさせるものだからだ。だから、小学校などではテストの成績を公表しないし、運動会でも優勝者に賞品を与えるようなことはしなくなってしまった。その結果が学級崩壊であり、子供たちの知力も体力も低下してしまうという事態になってしまったのだ。

 日本全国、どこに行っても、学習塾やスポーツクラブは盛んである。なぜこれらの組織が繁盛しているかといえば、小学校で競争原理が失われてしまったからこそ、学習塾やスポーツクラブでそれを補完する形で競争が行われ、子供たちが競争をすることによって健全な成長をしていくことが可能になっているのである。

●喧嘩で上の子が勝つのは当たり前

 母親にとっては我が子たちが兄弟喧嘩をして来るということは、悩みの種かもしれない。だが、子供たちが健全に成長していくためには、喧嘩は必要な行為なのである。兄弟喧嘩が起こると、大抵は年齢が上の子供が勝つ。子供の体力は年齢によって決定的なので、先に生まれている子供が大体勝ってしまうのである。

 では、負けた子供はどうなるかというと、下の子は負けても真似ることで成長して行くのだ。負けることで、言葉遣いを工夫して行くし、どうやって殴れば効果的か、どうやって蹴ればダメージが大きくなるのかということを工夫して来るのだ。喧嘩で負ければ駄目なのではないのだ。喧嘩に勝つことも大事ではあるが、負けることの大切さというのも、これまた存在しているのである。子供は勝てば成長できるが、子供は負けても成長できるのである。

 一人っ子は大抵が喧嘩の仕方を知らないものだ。兄弟喧嘩をしたことがないから、自分が正しいことをやっていればそれでいいだろうと錯覚をしてしまう。しかし、この世で生きて行けば、いくら自分が正しいことをしたとしても、悲惨な目に遭うのはいくらでもあることなのだ。兄弟姉妹が複数いれば、いくら自分が正しいことをしたとしても、自分に何かしらの危害が及んで来て、それを撥ね退けて行かないと、生きては行けないのである。

 母親が喧嘩ばかりしている子供たちにすべきことは、喧嘩を止めることではないのだ。或る程度は喧嘩をさせて、子供たちを鍛えさせることなのだ。母親が兄弟喧嘩をさせないでいると、どの子供も積極性を欠いてしまう。いつも母親の顔色を伺っているので、母親のいない所では、何もできない子供になってしまうのである。

 兄弟喧嘩が余りにも激しいなら、子供のエネルギーが有り余っている状態なので、子供に何か習い事をさせてしまえばいいのだ。そうすれば、その有り余ったエネルギーを習い事で消費してくれるので、自宅に居る時は大人しくなるものなのである。大事なことは、公正に競争できる場を提供してあげることなのである。

●習い事はゲーム感覚にすれば遊びながら楽しめる

 子供の成長過程には、この時期であるなら急激に成長することができるという時期が存在する。子供も基本的な身体能力は幼稚園児から小学4年生ぐらいまでの時期にその大半が決まってしまうものなのだ。それゆえ、この時期に子供が外で遊ぶ機会を多くしておかないと、その後の人生でどうやっても体力が向上せず、病気がちの人生を送ってしまうことになるのだ。

 小学4年生辺りを過ぎると、子供から幼稚さが抜け始め、知能が急激に向上して来る時期がある。この時期に子供の知的欲求を満たしてあげないと、その後の人生で勉強は面白いということが体験できなくなってしまうのだ。勉強というのは何も学校の勉強だけではない。子供が自発的にできる勉強である。

 習い事はゲーム感覚にうれば遊びながら覚えることができてしまうのだ。幼稚園でやっているような形で、その後の勉強やスポーツを教えていけばいいのだ。競争を罪悪視する人々は、学校の教師たちが習い事をゲーム感覚にするというサービス向上をしてこなかったために、何か競争は悲惨な結果をもたらしてしまうと思い込んでいるにすぎないのだ。

 子供に自転車に乗るのを教える時、ゲーム感覚でやってしまうと簡単に覚えて来るものだ。子供に漢字をゲーム感覚で教えて行くと、子供は目を輝やかせながら、簡単に覚えて行ってしまうものだ。そういうゲーム感覚でできるものを、至る所に配置していけばいいのだ。

 もしも子供が体育の授業で何かできないものがあることで悩んでいるなら、「これは授業ではなく、ゲームなんだよ」と教えてあげて、発想の転換を強いてしまうことだ。もしも子供が学校の勉強で落ち零れてしまうような時は、「これは勉強ではなく、ゲームなんだよ」と教えてあげて、発想の転換を強いてしまうことだ。そうすれば、子供が苦手と思ったことが逆に簡単に思えて来てしまい、その分野で猛スピードで成長していくことができるようになるのである。

●親子間の価値観のギャップに気をつけろ

 子育てをしていく際に気をつけるべきことは、親子間の価値観のギャップに気をつけろということだ。大抵の母親たちはその成長過程の中で、「競争の原理」から「慈愛の原理」への転換を図ってしまったのである。若い頃は自分のために誰かに打ち勝とうという生き方をしていたが、結婚する前後に於いてその競争原理を捨て、誰かのために役に立ちたいという慈愛原理に立脚してしまったのである。慈愛の原理に立たねば、育児や子育てができる訳がないのだ。

 だからといって、母親が慈愛の原理に立つ余りに、子供たちの競争の原理を否定してはならないのだ。子供たちは今まさに競争が必要な時期を迎えているのである。競争するからこそ、猛スピードで成長していくことが可能になるのである。子供の時期に競争をしなければ、子供の成長が遅れてしまうのは当然のことなのである。

 母親がすべきことは、我が子たちを公正な競争ができる場所に投じてあげることなのである。なぜ、世の母親たちが高い授業料を払ってまで学習塾に通わせるのかといえば、学習塾でなら我が子が勉強すれば必ずその努力が報われるからである。現在の学校のように生徒たちを平等にすることに重点が置かれてしまえば、学校の中で向上心のある生徒たちはいくら努力をしても馬鹿を見るだけだからだ。だったら、学校で勉強させずに、学習塾で勉強させた方がいいということになってしまうのだ。

 オリンピックで活躍するようなスポーツ選手は学校で育って来た訳ではないのだ。大抵がスポーツクラブに所属して、そこで若い時から鍛えてきたのである。学校の運動会のように競技で成績をつけて序列を作ることが憚れる場所では、いくらスポーツが好きな子供でも能力を発揮することなどできないのだ。スポーツクラブのように、試合では非情な形で成績が出て来る場所でこそ、子供たちは高い能力を発揮することができるようになるのである。

 子供が競争すれば、負ける事だって有り得る。そういう時は競争自体を否定するのではなく、「悔しかったら勝ちなさい」と諭せばいいのだ。それがまともな母親にすべきことなのである。我が子が競争で負けることが悔しいからといって、我が子に競争をさせなければ、碌でもない人間に育って来るのは当然のことなのだ。

 子育てをしている時は子供は競争が大好きなのだということを決して忘れないでおこう。母親が子供たちに競争をさせないでいると、子供たちはテレビゲームをすることでその競争への欲望を解消して、エネルギーを浪費してしまうのだ。そんなにエネルギーが有り余っているのなら、どこか有意義な習い事でそのエネルギーを使って、子供の成長は図って行くべきなのである。

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子供が複数いれば差別してしまうのは当たり前

●母性愛は一番下の子に最大の愛情を施そうとしてしまう

 自分に子供が複数いれば、自分が施す愛に格差が生じて来るのは致し方ないことである。母性愛の性質として、一番下の子供に最大の愛情を注いでしまうようにできているからだ。しかも、赤ちゃんは母性愛を刺激する体臭を放って来るので、この体臭を嗅ぐだけで母親はうっとりとしてしまい、赤ちゃんに最大の愛情を注いでしまうようになるのだ。

 また、どの母親の第一子を育てる時は苦労したものだから、最初の子供は母親にとってどうしても一番印象深くなってしまうのだ。そのため、一番上の子供に対しては、手加減を余りせずに接してしまい、これが巧く行けば責任感の強い子供に育ち、悪く行ってしまうと母親では手のつけられない暴れ放題の子供になってしまうのだ。

 第二子というのは、上の兄や姉の姿を見て育って来るので、いい意味でそれが防波堤となり、母親が余り叱らなくても気楽に成長して来るのだ。そのため母親として叱っていない分、第二子が何を考えているのか解りにくいし、第二子は第二子の方でマイペースを貫いて、母親のテンポには従おうとはしないのだ。こうなると、母親としてはちゃんとした愛情を注ぎたくても、巧い形で注げなくなってしまうのだ。

 子供が同時に生まれて来ていない以上、子供に対する愛情に格差はあることは当然のことなのに、それをそのまま他の母親たちに言ってしまうと、「子供には平等に愛を施すのが当たり前でしょ!」と言い返されてしまうのだ。かといって、こういうことを言い返して来る母親たちが巧い育児を行っていると思ってはならない。育児が巧く行っていないからこそ、平等イデオロギーに囚われてしまうのだ。

 母性愛は子供の年齢が下がれば下がるほそ、子供が弱ければ弱いほど、強く愛を発して来るために、平等イデオロギーに取りつかれ易いのだ。実際は平等ではなく、最も年齢が低く体力の弱い子供に最も強く愛を注いでいるだけにすぎないのだが、母性愛というものはそういう性質を持っていると解った上で母性愛を注いでいないと、平等イデオロギーに取りつかれてしまうのだ。時たま、結婚して子供がいるのに、フェミニズム運動に参加して来る母親たちがいるものだが、これはフェミニストたちに母性愛の性質を悪用された形でフェミニズム運動に取り込まれてしまったのだ。もうこうなると、家庭崩壊は必至では、育児そっちのけでフェミニズム運動に従事して来るので、子供たちはグレるし、夫婦喧嘩は絶えることがなくなってしまい、その内、離婚してしまうことになるのだ。

●親子の相性に気をつけろ

 親子というのは個人的に相性があるものだ。まず、母親は女の子よりも男の子の方が好きである。好きどころか、大好きである。というのは、男の子は女の子よりも大量の母性愛を必要とするために、女の子よりも甘えん坊だし、その甘え方が巧いのだ。しかも、男の子は3歳辺りに有り得ないほどの可愛らしさを発揮して来るので、母親はこの可愛らしさにメロメロになってしまうのだ。

 では、女の子に対してはどうなるかというと、母親が長女だと長女を愛し、母親が次女だと次女を愛してしまう傾向にあるのだ。人間は生まれた順番でかなり似たような性格を持ってしまい、女性同士の場合だと性格が似ている方が仲が良くなってしまうのだ。そのため母親が長女なら、我が子の中で長女と仲良くなってしまい、母親が次女なら我が子の中で次女と仲良くなってしまうのだ。

 女の子の場合、男の子を育てる時よりも、遥かに会話量が多くなってしむので、その相性は如実に現れて来ると思っておいた方がいい。この子とは話が盛り上がるのに、あの子とは話がなかなか盛り上がらないというのは、どうしても避けることのできない現象なのだ。そういう場合、話が盛り上がらない子に対しても、会話をするように心掛け、会話をしないことによる問題の発生を避けるべきなのである。

 また、自分が天中殺の時に産んでしまった子供は、小学生ぐらいまでならなんとも問題が起こらないが、中学生辺りから問題が発生して来るようになるので、全寮制の学校に行かせるとかして、早くに親子の距離をきちんと取ってしまうことだ。我が子であったとしても、自分にとって運気の悪い子供は自分の運気を確実に損ねて来るのである。

 逆に運勢上、自分と相性のいい子供とはその子供が大人になっても仲がいいので、その子供を手放さないようになってしまうのだ。子供は外に出して何かしらの経験を積まさせないと強くならないので、一旦は外に出して子供に鍛える機会を与えるべきなのである。その子供がきちんと経験すべきことをしておけば、立派な大人に成長して来るので、親子で仲が良くなりたければ、その子が結婚してからでも充分できることなのだ。

●子供が母性愛で揉めるのは「子供の嫉妬」が原因である

 子供が複数いれば、愛情の注ぎ方に格差が出て来るのは当たり前のことだと早くに悟ってしまうことだ。他の母親たちがなんといおうとも、どんなに優れた母親であっても、子供に対して平等に接することはできないし、平等に愛を注げないのだ。例えば、第一子はもう長年に亘って育てて来たのだから、愛情の量が減って来るのは当たり前のことだし、生まれたての赤ちゃんは育てている期間が短いために、愛情の量を多くするのは当たり前のことなのだ。この当たり前すぎる事実を、平等イデオロギーによって打ち消してしまわないことだ。

 実際問題として、母親の母性愛の格差で問題が生じるのは、いつも一番下の子供に強く愛情を注いでしまうために、一番上の子が嫉妬して来ることなのである。こういう場合、一番上の子にもきちんと母性愛を注いでいるのに、一番上の子に生じた「嫉妬」という感情が問題を発生させてしまっているのである。一番上の子にしても、一番下の子に対して、母親が世話を焼かねばならないというのは解っているが、それを自分の目の前であからさまにやられると、「いつも一番下の子ばっかし」という嫉妬の感情が芽生えて来るのだ。

 他の子供たちが嫉妬してきている場合、自分の行動を改めて、上の子も下の子も平等に接するというのでは、まともな解決策にはならないのだ。嫉妬という感情は、自分だけにもっと強い愛情が欲しいということなので、平等に接した所で解決にならないのだ。子供の嫉妬を解消させるためには、僅かな時間でもいいから、その嫉妬を生じている子供と充実した時間を過ごすことなのである。例えば、一日15分間でもいいから、母親とその子の二人だけになって話をするとか、遊んだりすればいいのだ。休日に母親とその子だけでお出かけして、子供に母親を独占できる時間を与えたりすればいいのだ。

 それと同時に母親にも或る自制が必要で、自分の子供を余り比較し過ぎrなということだ。上の子が下の子をイジメてくるような場合は、母親が余所の子供と自分の子供を比較して、自分の子供の成長スピードを巧く掴めなかったからなのである。子供には子供なりのペースがあるので、自分のペースを母親に乱されてしまうと、幾ら母親から愛情を注がれても、拒絶してしまうようになってしまうのだ。まずは我が子を良く見てあげることなのである。

 一番上の子供は、「いつも一番下の子ばっかし」と騒ぎたてて来るような場合は、子供は母親に平等になることを要求しているのではないのだ。母親の行動に多少の問題があるから、それを変えて欲しいという、子供なりのサインなのだ。いや子供からの「警告」だと言ってもいいのだ。育児に追われる余りに、我が子に対して真心を以て接するということをしなくなってしまったのである。

●でも、「み~んな大好き!」という姿勢を忘れないこと

 家族というのは、原始的な集団なのである。そのため原始的な秩序構成を必要として来るのである。子供の中で第一子は一番偉く、第二子は二番目に偉く、第三子は三番目に偉いのだ。この家族内の序列を絶対に崩さないことだ。子供の順番は年齢順で決まるのである。そしてこの序列は生涯変わらない不変なものなのである。

 どの母親も一番上の子供には厳しく当たってしまうものだ。下の子供たちに比べれば充分に成長しているために、事あるごとに責任を押し付けてしまうのだ。一番上の子供も家族内の序列が守られている限り、母親の過酷な要求にはきちんと耐えて来るのである。一番上の子供が母親の要求に耐えられなくなるのは、第一子が一番偉いという秩序を破壊してしまうからなのである。

 どの母親も一番下の子供を甘やかしてしまうものだ。一番下の子供といえども優しくし過ぎてはならないのだ。どんなに可愛くても、間違ったことをしたらきちんと叱ることだ。一番下の子が失敗をやらかしたのに、母親が可愛さの余りに対して叱らないからこそ、上の子たちが騒ぎ始めるのである。

 子供が多くいれば、漠然と平等に母性愛を注げばいいというのではなく、母性愛の出し方や使い方にも工夫を施さねばならないということだ。必要な差別をきちんと認めると同時に、どの子にもその子なりに応じて接してあげるのである。これが「公平」なのである。解り易くいうなら、「我が子はどの子も違うけど、み~んな大好き!」という姿勢を絶対に忘れないことなのだ。平等ではなく公平に接してあげるからこそ、すべての子供たちに過不足なく母性愛が行き渡るようになるのである。

 母親としても未熟ならば、我が子たちに対して平等に接してしまうものなのだ。平等に我が子たちを愛そうとすれば、育児はどこか歪んでしまい、いずれ大爆発を起こして来るものなのである。子供たちの心の中にきちんと母性愛が行き届いていなかったのである。心の仲は空っぽなのに、母親が平等に接して来たために、その心の異常さが解らなくなってしまったのである。

 母性愛は子供たちに対して格差が生じて来てしまうが、それをあからさまにやらないことなのだ。どんなに温和な子供であっても、母親が子供たちの中で一人だけ可愛がれば、嫉妬の感情に火をつけてしまうのは当然のことなのだ。我が子も嫉妬の感情をきちんと持てるくらいに成長して来たということなのである。その成長をネガティブな方向に使ってしまわないことだ。嫉妬の感情を巧く回避すれば、その子は母親の育児の仕方に対してきちんと理解してくれるようになり、育児や家事を手伝うなり、自分一人でも遊べるような子供に成長して来るのである。

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本物の父親になるための試練

●まずは背中で子供たちを導け

 妻が不思議な体験をすることによって「本物の母親」になれたのなら、夫も同じように不思議な体験をすることによって「本物の父親」になれるのかというと、夫は妻よりも遥かに遅れて、そういう体験をすることによって本物の父親になっていく。夫が本物の父親になるのは、妻よりも遥かに遅いのだ。ただ、妻が本物の母親になってくれれば、夫も本物の父親になることができる。

 なぜ、夫婦でこんなにも格差が生じてしまうのかというと、それは育児に費やした時間が、夫と妻では全然違うからだ。妻は育児に専念している以上、毎日四六時中子供と接していたわけであるが、夫はその間、仕事に出かけており、自宅にいる時にしか子供に接することができなかったのだ。そのため、父親らしくなるのも遅いし、本物の父親になるのも遅いのだ。

 夫がやるべきことは、妻のように育児に専念するのではなく、まずは仕事をして養育費を稼ぎ出すことなのである。仕事が順調に行っていれば、自然と父親になっていくものなのである。稼ぎが悪いのに、育児に手を出しているようであるなら、それは妻の負担を軽減するものであっても、いずれ夫婦で深刻な事態に陥ってしまい、下手をすれば離婚になってしまう危険性だってあるのだ。

 夫が子供にすべきことは、妻のように育児で手を出すことなのではなく、子供たちを背中で導くことなのである。夫が仕事に精を出していれば、子供たちはその姿を見て自然と真似をし出すものなのである。父親の真似をするのは、男の子も女の子も同じだ。子供であるなら、父親の靴を穿いたり、父親の仕草を真似したり、父親の仕事の手伝いをし出すものなのだ。

 父親が真面目に働いている限り、育児でそうトラブルが発生することはないのである。大事なことは、自分の仕事が子供たちに話してもいいような内容の仕事であることだ。子供たちに話せないような後ろめたい仕事をしていると、子供たちは敏感に察知して、得体の知れないグレ方をしてくるものなのである。

●子供に或る程度までレールを敷くのは当たり前のこと

 子供は或る時期、うるさいくらいに父親に纏わりつく時期がある。まず、女の子の場合、上位自我がしっかりと入って来ると、「将来、パパのお嫁さんになる!」と言い出す時期が来るので、こういう時期には娘とは疑似結婚をきちんと行っておくことだ。娘と遊んだり、お風呂に一緒に入った入り、一緒のベッドで寝たりして、娘の結婚願望をしっかりと満たしてあげることだ。これをきちんとしておけば、娘の心の中に父性愛が蓄積され、父親に対して素直に服従するようになるのだ。娘には、「お父さんは常にお前のことを守っている」という姿勢を見せ続けることだ。

 娘に対して息子の成長は遅いものだ。息子はいつも母親とべったりなので、自分で自分のことをし出すのが遅いのだ。それでも成長して来ると、父親の所にやってくることになる。そういう時は息子と男同士の会話をしたり、男同士で遊んだりすることだ。男の子は女の子よりも遥かに頭が悪いので、少し遊んだり話をするだけで満足してしまうのだ。男の子の場合、父性愛の蓄積は女の子よりもスピードが速いものなのだ。

 父親が子供にすべき最も重要なことは、子供に或る程度までレールを敷いてしまうことだ。教育費を出すのは、基本的に父親なのである。子供がどう育つかということに対しては父親の意見を通すべきなのである。小学校や中学校や高校や大学がどのようになっているかは、子供よりも父親の方が良く知っているものなのである。だったら、子供に任せないで、父親が決定してしまった方がいいのだ。

 例えば、自分が農業をやっているのに、通常の大学に行かせることはないのだ。もしも大学に行かせるなら、農業を専門とする大学にすべきなのである。自分が商売をやっているなら、早い段階で商売を教え込んでしまうことだ。間違っても商売をさせるために、大学の経済学部に行かせることはないのだ。子供をピアニストやヴァイオリニストにしたいのなら、子供が自発的に仕出すまで待つべきではないのだ。3歳辺りから教え込んでしまうべきなのである。

 子供がどう進むかは、父親が決めてしまうべきなのだ。何もかも子供の自由に任せてはならないのだ。その後、その路線が子供にあっているなら、そのまま進めればいいし、その子供が嫌というなら変更させてあげればいいのだ。そのようにすれば、息子が男になって行く時に迷わずに済むし、娘が女になって行く時に迷わずに済むのだ。

●突然に父親を本物の父親にしてくれる男性が現れて来る

 父親に不思議な経験が起こるのは、子供が小学生になった頃なのである。或る日突然に子育ての仕方の間違いを指摘してくる男性が現れて来るのだ。飽くまでも子育ての仕方の間違いであって、育児の仕方の間違いを指摘されるわけではないのだ。父親が本物の父親になってくるのは、子育ての時期なのである。

 多くの父親は子育てに失敗してしまうのは、子育ての計画を何も持っていないからなのである。そういう父親は傍から見れば丸っきり幼稚で、精神レベルが非常に低いものなのだ。だから、子供たちが大きくなってきているのに、父親が成長していないもんだから、子供たちが迷走し始め、おかしな方向に進んで行ってしまうのである。

 子供を健全に育てたいのなら、子供の教育を学校にすべて任せてはならないということなのである。休日に自宅で子供に教えるべきことを教え込んでおくことだ。宗教書や歴史書を読み聞かせて、父親と子供たちが議論を交わすことで、子供たちの精神的な成長を促すべきなのである。自宅で商売をしているなら、その仕事を手伝わせるべきなのである。そして、お稽古事や塾や予備校が必要なら行かせるべきなのである。

 妻に3人以上の子供を産ませ、自分がきちんと仕事で働いているなら、そういう男性と巡り合う確率は非常に高くなるのだ。夫の場合、妻と違って、仕事関係で人との出会いが多いので、その出会い通じて、自分の子育ての仕方の間違いを指摘してくれる人が現れて来て、それを境に本物の父親になっていくのだ。

 夫が本物の父親に変わる時、急激に変わって行くものだ。その間違いは早くに修正しなければならないものなので、悩んでいる暇などはないのだ。子供は中学生になれば親に反抗し出してくるので、その時期では遅すぎるのだ。時間は限られているのだ。だからこそ、素早く変わって行くのだ。

●父親は組織の中に入らない限り、本物の父親にはなれない

 人間は群生動物であるが、その中でも男性は基本的に「組織的動物」だ。狩猟をするために組織を組まざるを得ない以上、現在、狩猟をしなくなっても、組織を組みたがるのだ。これに対して女性は狩猟をせず、採集や家事や育児を営んで来たので、せいぜいネットワークのような軽い付き合いで人間関係を形成して行くのである。

 だから、夫が「男には男の付き合いってもんがあるんだよ」と言って、何かと小遣いを要求してくる際に、妻がケチってしまうと、夫は男の付き合いができなくなり、組織に入ることができなくなってしまうのだ。組織に入ることをせず、一匹狼のような生き方をしてしまうと、夫は本物の父親になるための出会いがなくなってしまうのだ。男という動物は、個人主義では本物の父親になれないのだ。

 男性には女人禁制の男性だけの組織というものがどうしても必要なのだ。これがなければ男は男になれないし、父親になれないし、本物の父親になることもできないのだ。男女平等によって男女は平等だと思っていると、男が男でなくなってしまうのだ。女性から見ればなよなよした男性で、見た瞬間に気持ち悪いと思ってしまうような男性になってしまうのだ。男性をこういう男性にしてしまったのは、女性たちが男女平等を叫んだからなのである。

 もしも夫が本物の父親になってくれなければ、子供たちは歪んだ形で育って行くことだろう。息子だったらグレてしまうし、シンナーや麻薬に手を出して来ることだろう。娘なら異性関係が異常になってしまい、いつも男女交際が短期間しか続かず、下手をすれば売春をし出すことになってしまうのだ。子供たちは父親に思い残してあることがあるからこそ、間違った道を進んでしまい、父親ではない男性からそれを埋めて貰おうとしているのだ。

 自分の父親が立派な父親なら、子供たちは道を間違うことなく成長して行き、男女とも早くから仕事で頭角を現わして来ることになるし、時期が来れば結婚し、たくさんの子供を産むようになるのだ。自分の子供たちが自分と同じように3人以上産めば、自分は父親としては最低限の義務を果たせたのだなと思った方がいい。子供が大きくなって、結婚もせず、結婚したとしても子供が出来ず、産んだとしても1人や2人なら、自分は父親として最低限の義務を果たせなかったのだなと思った方がいい。自分がどのような子育てをしたかの結果は、子供が大きくなってから、きちんと現れて来るものなのである。子育てをしている時は、心を引き締めて育てて行くべきなのである。

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本物の母親になるための試練

●子供を3人産むと不思議な現象が起こる

 子供を3人以上産むと、不思議な現象が起こる。その最たるものが、「自分を本物の母親にしてくれる人との出会い」が起こることである。育児をしている母親は、その人と出会うことによって、心の壁が破壊され、本物の母親になることができる。育児というのは、母親が子供を育てないと始まらないが、でも家庭内では完結しないのだ。育児を育児たらしめるものは、実は外からやってくるのである。

 なぜ3人目以上にならないと、その人に出会えないかというと、一人目や二人目ではその人に出会ったとしても、何を言っているのか解らないのだ。自分自身が母親として充分に成長していないし、しかも育児に力が入り過ぎているので、他人の意見を謙虚に聞く余裕がないのだ。、

 子供を3人産めば必ずしも出会えるということはではない。子供を3人以上産むのは、その人と出会えるための必要条件であって、それだけの条件を満たせば出会えるというものではない。子供を3人以上産んでも、自分が母親として充分に成長していないと出会えないし、子供が病気でもして病院に入院していたら、それどころの騒ぎではないだろう。

 我々は何かをやっていると、それを一生懸命になって努力をすればいいと思ってしまう。確かに努力というのは大事だ。しかし努力だけでは或る程度までしか成長できないんであって、自分が自分を変えてしまうような大きな変革は他人と出会うことでしか行い得ないのだ。育児であるなら、家庭内での作業を充実させて行くことは絶対に必要であるが、かといって家庭から出て、人との出会いを大切にしなければならないのだ。

 母親にこの不思議な現象が起きれば、本物の母親になることができる。育児の仕方がきちんと解っているし、母性愛は大量に出て来るし、子供たちは健全に成長して行き、立身出世を果たすようになる。しかし、母親にこの不思議な現象が起きなければ、いつまでも未熟な母親のままだ。育児の仕方がまるで解っていないし、まともな母性愛が出て来ないし、子供たちは健全に成長せず、歪んで育ってしまい、その後の人生の中でその歪みが出て来てしまい、不幸を招き寄せてしまうのだ。

●ベテランの母親による指導

 では、育児をしている母親を本物の母親にしてくれる人とは一体どういうひとであろうか? それはその人自体も母親で子供が3人以上いる母親だ。自分が子供を3人以上産み育てたからこそ、育児のなんたるかが解り、その人自体も本物の母親に出会うことによって、本物の母親になることができたのだ。

 育児というのは、最後の最後で「ベテランの母親による指導」というのが大事なのだ。確かに最初の赤ちゃんを産んだ時には、ベテランの母親によって育児の仕方を教えて貰うことも確かに大事だ。しかし、育児の基本というのは育児をしていれば自然と解って来るので、そういうのはあれば有難いだけのものなのだ。だが、自分が育児の仕方を習得してしまうと、その最後の最後でベテランの母親から何か指導してくれないと、最後の難関を突破することができないのだ。

 育児というのは、それをどんなに正しくやろうとも、その母親によって歪んでしまうものなのだ。例えば、専業主婦はいつも子供を弄っているものだ。子供に母性愛を注ぐのではなく、いつも子供のことを心配してしまっているのだ。仕事をしている母親は自分の仕事を優先させる余りに、子供ときちんと向き合わないものだ。そのため、子供が無表情で、愛想も礼儀もないものだ。

 その育児の歪みをビシッと指摘し、育児をちゃんとして育児に治してくれるのだ。それがどういう展開になるかはその母親とベテランの母親の関係によって変動して行くが、とにかく「あなたなの育児は正しくとも、異常だよ」と指摘して貰い、自分の育児を正常なものに戻さなくてはならないのだ。

 育児の歪みというのは、育児をやっている本人には自分では気づかないものなのだ。誰かに指摘して貰わねば、どうしても解らないものなのだ。丁度、料理人が日々料理する余りに段々と味付けが濃くなってしまい、その味付けの濃さを自分の力では修正できなくなってしまうのと同じように、その異常さを誰かに止めて貰わねばならないのだ。

●本物の母親になるとどうなるのか?

 人間は決して一人で生きているのではない。人間はそもそも群生動物なので、自分で家族を形成して行く一方で、他の家族たちと交わり、情報を交換しながら生きて行かざるをえないのである。それゆえ育児だけをしていればいいのではないのだ。育児をきちんとしつつも、家族の外からやってくる情報をきちんと掴まねばならないのである。

 育児の仕方というのは、所詮は「技術」である。その技術が解れば育児を順調に進めて行くことができる。しかし、その技術は技術であるがゆえに、その技術の使い手である母親の心次第で悪用することも可能なのだ。大抵の母親たちは育児にスピードを求めてしまい、子供を急かすように育てて行ってしまうのだ。なんでも「早くしなさい」「急ぎなさい」「お母さんはもう行くわよ」と何かに追われるように忙しい日々を送ってしまうのだ。そのくせ、それだけ時間が余った筈なのに、その余った時間を育児に再投資せず、育児の手抜きをする方向に使ってしまうのだ。

 だからこそ、この異常な育児を破壊して貰わねばならないのだ。育児には確かに子供を育てて行くという「技術」は必要ではあるが、それだけでは駄目なのだ。育児には母親が心から子供を慈しむという「真心」が必要だし、子供をきちんと育てて行くために手抜きすることなく「手間暇」をかけなければならないし、そして何より「時間」をたっぷりとかけてゆっくりと育てて行かねばならないのだ。 

 育児には秘訣などないのである。いや、育児に秘訣など求めてはならないのである。自分が充分に母親として成長できれば、育児の仕方など充分に行えるものなのである。でも、悲しいかな、どの母親も最初は新米ママで技術的な所から入って行ってしまうのである。そのため、肝腎の母親としての真心が失われてしまい、子供は手間暇や時間をたっぷりとかけないと育たないということを忘れてしまうのだ。これは未熟な母親ならどうしてもこの間違った方向に進んでしまうのである。

 自分が子供を3人以上産み、ベテランの母親の指導を受けるからこそ、育児のなんたるかがちゃんと解って来るのである。この不思議な現象が起こると、母親の心の中で何かが変わり、本物の母親になることができ、それ以降、育児や子育てで間違うことが殆どなくなるのだ。

●母親としての安心立命

 この不思議な現象だけは、育児をしている母親が自分で経験して貰わねば、それが一体どういうものなのか決して解らないのだ。この世には経験しなければ解らないなど幾らでもあるものなのだ。育児書や育児雑誌に頼り過ぎる育児がなぜ間違っているのかは、これで解る筈だ。育児の知識を優先させてしまい、育児に於ける経験を大事にしないからなのだ。いくら経験する前に教えても、経験して貰わないと絶対に解らないものが、育児には存在しているのである。

 母親が本物の母親になってくれると、いい意味で子供に対して心が囚われなくなる。逆に言えば、それまでは子供に心が囚われていたために、いつも子供のことが心配で、自分の持てる力のすべてを発揮することができなかったのだ。子供に心を囚われなくなったからこそ、自分の心が自由になって、ちゃんとした育児ができるようになるのである。

 言わばこれが母親としての安心立命なのである。自分のやっている育児が、神の聖慮に適うレベルのものができるようになったので、心が落ちつて朗らかになり、迷いが吹っ切れて、自分の心の中から無限のエネルギーが噴き出して来るものなのである。だから、本物の母親になれた母親は非常に元気で行動力に溢れているのである。

 この世にはいつの時代でも知ったかぶりする人はいるものだ。子供を1人や2人しか産んでいないのに、育児のなんたるかを述べて来る母親たちは跡を絶たない。その段階では誰がどうやっても母親として未熟なままなのだ。自分が本物の母親になっていないのだから、育児が大変になるのは当たり前のことなのだ。

 女性は赤ちゃんを産んでしまえば、母親になることはできる。しかし、その段階では育児の初心者なのである。育児の初心者でも育児ができないことはないのだ。やればできるものなのだ。かといって、自分が本物の母親になれる訳がないのだ。自分が本物の母親になるためには、様々な試練を経験していかねばならないのである。

 先進国では女性が子供を産む数が減少して行くから、子供を産んだとしても、本物の母親になれる母親が少なくなってしまう。そのため育児で様々なトラブルを抱え、育った子供たちも大人になれば様々な問題を引き起こして来るものだ。自分がちゃんと成長していないから、「男が悪い」「社会が悪い」「政治が悪い」と、とにかく自分を棚に上げて、誰かを批判しまくり、改造することに躍起になってしまうものだ。しかし、そういう批判や改造をいくらしても、自分の不幸を解決することはできないのだ。

 自分が母親になったら、子供を1人や2人で打ち止めにするのではなく、せっせと3人以上の子供を産み育てて行くことだ。そういうことをしていれば、自然と不思議な現象が起こって来て、自分を本物の母親にしてくれるものなのだ。本物の母親になるということは、本物の母性愛がしっかりと出るようになれることであり、自分の子供たちをしっかりと肯定してあげることができ、だからこそ、その子供たちは健全に成長して行くことができるようになるのである。

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「子供優先という生き方」と「母親としての能力」

●自分中心じゃないからこそ、能力は伸びていくもの

 子供が一人や二人なら、まだ自分の時間は多少は確保できる。しかし、子供が3人以上いれば、自分の時間など殆どなくなる。子供はいつも母親の周りを付き纏い、母親も子供優先ですべてのことを進めて行かざるを得ないこの自分中心という考えがなくなった時に、母親としての能力は急激に伸びて行くのである。

 これこそが三人目以降の出産がそれ以前の出産とは異なることなのだ。三人目を出産した時には自分を下げるしかないのだ。自分を下げるからこそ、3人以上の子供がいても、育児が簡単に出来てしまうのである。不幸を呼び寄せる最大の原因である「我執」が奇麗さっぱりと消えてなくなってしまうのである。

 母親に我執が残っていると、出産しても1人目や2人目で打ち止めにしてしまうがちだ。3人以上産めば自分は完全に育児に追われてしまうから、決してそれ以上子供を作ろうとしなくなるのだ。だから、我執が残ってしまい、それが不幸を呼び寄せてしまうのだ。その不幸を母親自身が背負うならまだいい。その不幸が子供たちに及ぶことだってあるのだ。

 家族というのは、夫が仕事に出かけている時は、母親中心に回って行くものである。かといって、母親がその地位を乱用して、自分勝手に動かしてはならないものなのである。母親が自分中心ではなく、子供優先という考えをしっかりと持ち、それを実行してくれるからこそ、家族は母親を中心に回り始め、子供たちも健康に成長して行くことができるのである。

 そのためには我執を取り除き、自分が謙虚になって、育児を進めていくしかないのだ。自分の利益のために動くのではなく、子供たちの利益に動くからこそ、子供たちは莫大な利益を手にすることができ、成長に次ぐ成長を重ねて行くのである。こういう生き方をするからこそ、母親は母親としての能力を最大限にまであげてしまい、知らず知らずの内に莫大な利益を手にしてしまうのである。

●自分が育児に全力を投入している以上、夫優先は当たり前

 子供が3人以上いれば育児に追われてしまうのは当然のことなのである。自分が育児に追われている以上、夫がいる時は夫優先になるのが当たり前のことになるのである。夫も妻が夫優先になってくれれば、妻を大切に扱うようにし、妻と仲良くしていく筈である。こうなれば夫婦喧嘩は消滅してしまうのである。

 大抵の夫たちは仕事で全力を使い切っている。それゆえ、帰宅してから妻に喧嘩を吹っ掛けようなどという気は更々ないのだ。しかし、自宅に育児に全力を使い切っておらず、体力が有り余っている妻がいるなら、妻から些細なことを指摘され、それを引き金に夫婦喧嘩が勃発するものなのである。

 夫婦間暴力が社会問題化したり、地方自治体がDVシェルターを作る前に、まずは妻の方も育児に全力を投入して、夫が帰宅して来たら、喧嘩を吹っ掛けるだけの余裕がない状態まで育児をしてみるべきなのである。育児でヘトヘトになるまで疲れ切っていたら、夫に喧嘩を吹っ掛けようなどとは思わなくなるものなのである。

 妻が夫を優先させる生き方は、何か封建的だと思われて、常に批判の対象になっている。しかし、子供を3人以上産めば妻は夫優先にならざるを得ないのである。それ以外に取りようがないのである。子供を1人や2人しか産まないからこそ、昔のような結婚の仕方を取らずに、自分勝手に結婚を運営しようとしているだけなのだ。ただ、どんなに自分勝手に結婚を運営しようとしても、子供が1人や2人なら家族はまだまだ未熟なままなのである。未熟だからこそ、どのように運営しても、問題が発生して来てしまうものなのである。

 昔の日本は、現在の日本より遥かに貧しかった。それでもどの夫婦も3人以上の子供を産み育てていたのである。大抵の夫婦には5人の子供たちがいるのは当然のことだったのだ。だからこそ、妻として成長し、母親として成長することができたのだ。子供が5人いれば、子供を優先するのは当たり前だし、夫を優先するのは当たり前なのだ。夫唱婦随と言われれば、そんなの当たり前なのである。そうやって生きたからこそ、その家族は有り得ないほどのエネルギーを発し始め、発展して行くことができたのである。

●自己中心的な生き方では能力は伸びない

 子供が1人や2人しかいなければ、その家族に問題が続出するのは当たり前のことなのである。母親に自己中心的な生き方が残っているので、それが家族の中で至る所に出始め、夫や子供たちを圧迫し始めるからなのである。母親が家族を運営していくために必要な愛を発してこないから、家族の中で愛が巧K循環せず、夫も子供たちも愛の不足ゆえに、トラブルを引き起こしてしまうのだ。

 結婚適齢期を過ぎても結婚しない女性たちが、能力を伸ばせないのも同じ理由だ。自己中心的に生きてしまうと、それは若い時には良くても、或る年齢を超えた頃からはその生き方では全然能力を伸ばすことができなくなり、いつも同じような日程を繰り返す日々になってしまうのだ。

 既婚女性が幼馴染みの友達と話していると、既婚女性の友達となら会話が弾むのに、独身女性の友達となら会話が陳腐なものになってしまうことがあるものだ。結婚すれば、妻として母親としてやらねばならぬことがたくさんあるから、別に仕事をしていなくても、自然と能力を伸ばして行くことができるのである。ところが、結婚せずに働いても、職場で行う作業は限られたものだから、大して能力が伸びて来ないのである。その差が如実に現れて来てしまうのである。

 若い時は自己中心的に生きたとしても構わないのである。自己中心的にならなければ、自分の能力を伸ばすことはできないからだ。しかし、それは飽くまでも若い時であって、結婚適齢期を過ぎた頃にはもうその自己中心的な生き方を捨て、他人優先の生き方をしていくべきなのである。他人を優先させるからこそ自分の能力は飛躍的に伸びるようになるのである。

 要は「競争の原理」から「慈愛の原理」に生き方を変えたということなのだ。この生き方の変更は或る日突然にいきなり起こって来るのではないのである。徐々に変化を起こして来るものなのである。女性は結婚することで変わり、初めての赤ちゃんを産むことで変わり、子供を3人以上作ることで変わっていくのだ。気付いてみれば、慈愛の原理に基づいて生きており、他人に慈愛を注ぐことができるような母親に成長してしまったのである。

●気付いてみれば、実力はついていた

 母親力など育児に追われていれば自然とついてしまうものなのである。育児や家事はテリトリーが広いので、それを一々教えても、巧く教えられる訳がないのだ。問題がある箇所ならそれを治すために教えることはできても、育児や家事のすべてを教えることなどできないものなのだ。とにかく結婚をしてやってみることなのである。子供を3人以上産んで育ててしまうことなのである。気付いてみれば母親としての実力がついていた。実力というのはそういうものなのである。

 世の中には自分のペースで学んでいくからこそ、きちんとした形で学べると勘違いしている人たちが大勢いるものなのだ。実力というのは、滅私奉公のような状態になってこそ、最大レベルで実力が付き始めるのである。学校のカリキュラムにしても、学校の授業でチンタラ受けるより、塾や予備校で内容の濃い講習を受けてしまった方が、実力はついてしまうものなのである。

 男性なら軍隊に入って軍事訓練を受ければ、いかに軟弱な男性でも短期間で男らしい男に変わってしまうものなのである。軍隊に入れば自己中的な生き方など木っ端微塵に砕けてしまうから、軍事訓練に追われる日々に中で実力があっという間についてしまうものなのである。

 女性なら結婚して育児に追われれば、自己中心的な生き方が破壊されてしまい、いつの間にかに母親としての実力がついてしまうのである。だから、子供は1人や2人では駄目なのである。子供を3人以上産んで、育児に追われることで、自分を立派な母親として成長していかなければならないのである。

 日本は半世紀以上に亘って平和が続いているために、経済は豊かになり、文化が爛熟してしまっているのだ。そのため、本来なら正しいものが否定され、どうやっても無理なものが正しいと思うような間違った考えをする人々が多数現れてくるようになってしまったのだ。「男女平等に基づいて結婚を行おう」などと、実際にやってみれば絶対に不可能なことを言い出すのだ。結婚を実際にやってみれば、夫を家長として立て、妻が家庭内の実権を握ってしまうことで落ち着くものだし、機能するものなのである。これ以外の遣り方ではどうやっても巧く行かないものなのである

 男らしい男が消えれば、女らしい女も消えてしまうものだ、逆に女らしい女が消えてしまえば、男らしい男も消えてしまうものなのだ。男性が男らしい男になっていくためには、軍隊のような過酷な試練を受ける場所が必要なのである、女性が女らしい女になっていくためには、結婚して育児という過酷な試練を受けることが必要なのである。そうしなければ、男は男になれないし、女は女になれないのだ。

 母親として成長して来ると、「宗教の大切さ」がはっきりと解って来るものだ。宗教は「神の絶対性と人間の相対性」を求めて来るので、神をきちんと崇敬できれば、自分自身を相対化することができ、いくらでも成長して行くことができるのである。自分が成長したければ、自己中心的にならないことである。自分を絶対化してはならないのだ。常に神様を戴いて、謙虚になって生きて行くべきなのである。そういう生き方こそ、自分を無限に発展させていくことができる生き方なのである。、

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子供が3人できると、夫は育児を手伝いだす

●3人目の子供で夫に変化が

 子供が2人目できれば、夫は変わり出すのだから、3人目の赤ちゃんが生まれた時には、夫に劇的な変化を起こり始める。それは夫が自発的に育児に手伝い出すということなのだ。これは第一子や第二子の時に、妻がいくら頼んでも夫は手伝ってくれない場合だと、妻は感激して涙を流すくらい感激するものなのだ。

 子供が一人や二人程度なら、育児は妻に任しておいても構わないのである。ところが、子供が3人以上になってしまうと、妻一人の力では処理しきれないのである。だから、夫が育児に対して積極的に手伝い出すのだ。逆に言えば、子供が一人や二人なら、育児に対する夫の手伝いは必要ないのだ。夫は妻が頼んだ事に対してだけ、手伝ってくれればいいのである。

 夫が育児の手伝いをし出すというのは、妻に劇的な変化を引き起こしてしまう。それは結婚以来、初めて夫を惚れ直すということが起こり、妻の夫への評価が一気に高まり、夫婦仲が決定的に良くなっていくのだ。この「結婚後の惚れ直し」をしないからこそ、結婚していてゴタゴタが発生するのである。結婚というのは、結婚式を挙げた時をピークにしてはならないのだ。それ以降にやるべきことがたくさんあるのだ。

 男女間に性差があるように、夫婦間にも男女の性差が存在するのだ。その性差は妻の方が先に成長していき、夫は妻よりも後から成長してくるというものなのである。夫の成長は遅いものなのである。だから、妻は自分が先に「妻として」「母親として」成長して行くと同時に、夫の成長をゆっくりと待ってあげる「大らかさ」が必要なのだ。間違っても夫を改造しようとしたりしてはならないのだ。いかに妻に優しい夫といえども、子供が3人以上生まれない限り、それほど高い成長をしてくるものではないのだ。 

 夫を変えるのはなく、まずは自分を変えて行くべきなのである。結婚すれば、妻としてやるべきことはたくさんある筈だ。育児をしていれば、母親としてやるべきことはたくさんある筈だ。そのたくさんあるものをやらずに、夫の言動が気に食わないからといって、夫を弄るべきではないのである。他人の言動をとやかく言えるほど、自分自身が妻として母親として成長しているわけではないのだ。まずは自分が先に成長して行くべきなのである。

●妻は夫に感謝を

 さすがに子供が3人以上できる夫婦は夫婦仲がいいものだから、妻は夫の変化に対して感謝することができるようになるのだ。この感謝というものが非常に大事で、結婚すれば夫婦が互いに感謝をしなくなってしまうものなのだ。給料を稼いで来るのも当たり前にだと思うようになってしまい、夫が家事や育児を手伝うことも当たり前と思うようになってしまうのだ。不況下で職があるだけでも有難いというのに、夫が仕事で疲れて帰ってきてやっているというのに、それらが全く見えなくなってしまうのだ。

 だから、些細な理由を切っ掛けに、夫婦喧嘩が発生して来てしまうのだ。夫婦喧嘩が頻繁に起こるようなら、夫婦仲が悪い以前に、結婚しているのに相手に感謝していないと思った方がいいのだ。夫婦喧嘩に繋がるような些細なことを見つけ出すのではなく、配偶者の顔に笑顔が浮かぶような些細なことを見つけ出すべきなのである。

 それと同時に、「有難う」という言葉を日常的に使うようにしておくことだ。相手が何かしてくれたら、すぐさま「有難う」って言うようにするのだ。これをすると、夫婦間がスムーズに行き始めるのだ。妻が夫に「有難う」って日頃から言っていれば、夫も自然と妻に「有難う」って言い出すようになるのだ。

 子供がいる家庭では、夫婦が夫婦喧嘩をした場合、その夫婦が怒りまくるだけでなく、子供たちは親の喧嘩に釣られて、「釣られ泣き」という現象を起こして来て、とにかくうるさいのだ。家族全員で怒ったり喚いてたりすれば、ご近所にとっては大迷惑なのである。だからこそ、夫婦喧嘩を極力抑え、夫婦で揉め事が起こるようなものに関しては、事前に話し合う習慣を持っておくことだ。

 結婚というのは、夫は家長であるけれども、妻が家庭内の実権をすべて握っているからこそ、巧く行くものなのである。それゆえ、夫にありとあらゆるものを期待してしまうのではなく、内助の功を発揮して、影ながら夫の役に立てることをしていくべきなのである。夫の仕事が忙しくなってくれば、いかに優秀な夫といえども、何か手落ちの部分は出て来るものなのである。そこを妻がナイスフォローしてあげればいいのだ。そうすると、夫の仕事は順調に行き出し、給料も上がり、家計も潤って来るのだ。

●母子二人の濃厚な時間の必要性

 政府は男女平等に取りつかれてしまっているので、すべての夫婦に「夫が育児をしなければ、父親とは認めない」という恐ろしい政策を展開中である。この不況の最中、夫たちは職場で重労働に従事し、給料が上がらないし、中には下がっている人もいるのに、減税など一切せずに、夫婦の在り方にまで口を挟んで来るのである。

 世の夫たちが、育児の手伝いをしないのには、ちゃんとした理由が存在するのだ。それは最初の赤ちゃんが生まれた時は、妻が赤ちゃんと濃厚な時間を過ごしてくれない限り、妻は母親として成長することができないからだ。だから一人目の赤ちゃんの時には夫の手伝いは不要なのである。妻に育児の時間を充分に与えてあげなければならないのだ。

 夫はその間、仕事に精進して、生活費と養育費を稼いで来るべきなのである。夫といえども、血も涙もない冷酷な人間なのではなく、夫の手助けが育児に於いて本当に必要ならば、ちゃんと手を出してくるのだ。それは3人目の赤ちゃんが生まれた時からなのである。3人目の赤ちゃんが生まれれば、もう妻一人の力では限界になってしまうからだ。

 政府は夫婦の育児の仕方に口を出すべきではなく、減税をすればいいのである。大体、育児をしている夫婦というのは若い夫婦なのだから、年齢的に言ってそれほど高額所得になる人々ではないのである。そういう夫婦には「所得税は10%」で充分なのである。それ以外にも配偶者控除や子供の数に応じて所得控除を認めてあげればいいのだ。政府が大きくなればなるほど、その国家公務員たちの給料は国民の負担になるわけだし、国家公務員たちも数が多くなれば悪政と汚職を働いて来るものなのである。

 税金を安くし、国家公務員の数が少なければ、夫婦はちゃんと子供を産み育てて行くことができるようになるのだ。税金をたっぷりと取りながら、子供手当てを与えて重税を誤魔化すというのは、善政とは言えないのだ。社会福祉によって悪政を隠蔽しているにすぎないのだ。重税がある限り、如何なる政権も悪政なのである。重税がある限り、政府がどのようなことをしたとしても、悪政にしかならないのだ。

●家族が団結し始めた証拠 

 3人目の赤ちゃんを産んだ時は、夫が上の子供2人の面倒を見ながら、妻が出産するのである。今度は家族の中で出産するのではなく、家族が団結した中で出産するようになるのだ。3人目の赤ちゃんが生まれ次第、夫も子供たちも赤ちゃんの世話をしてくれるようになるのだ。これこそが家族が団結し始めた証拠なのだ。

 子供が1人や2人ではこういう家族の変化が見られないのだ。夫は大した働きをしないし、子供は子供のままで何もしないのだ。3人目の赤ちゃんが生まれたことで、夫も子供たちも一体自分が何をするべきかが解り始めるのである。それほど家族にとって人間の数というのは大事なのである。家族も家族の構成員の数が少なければ、本格的に機能してこないのである。

 家族の構成員が増えれば、協業と分業が成り立つので、家事も育児も簡単になっていくものなのである。夫も子供たちも少し手伝ってくれれば、その作業が少ないものであっても、みんなが力を出し合うので、結果的に大きな成果を生み出してしまうのである。「家事が大変だ」「育児が大変だ」という前に、まずは地道に出産していって、子供の数を増やしていくことなのである。子供の数が3人を超えた時点で、家事も育児も一気に楽になっていくのだ。

 家族以外でも5人いう数が最も団結し易い数なのである。どんな組織でも5人集まれば、その5人が団結しあい、驚くべき行動力を発揮してくるものだ。3人や4人では数が少なすぎるのだ。5人になった時点で、それ以前の組織とはまるで別物に変化してしまうものなのである。

 子供を1人や2人しか産んでいなければ、それでも母親にはなれるけど、だが、母親としてはまだまだ未熟なのだ。子供を3人以上産むことによる「家族の劇的な変化」を経験していないのだ。母親が母親として成熟していくためには、問答無用で赤ちゃんを3人以上産むべきなのである。赤ちゃんを3人以上産んでしまえば、家族に劇的な変化が起こり、自分が母親として成熟し始めてしまうのである。

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子供が二人できると変わること

●二人目の出産で解ること

 二人目を出産するということは、一体何が以前と変わるのかというと、最初の赤ちゃんは夫婦の間で産まれたのに対して、二人目以降の赤ちゃんは家族の中で産まれるということになのである.。この家族というのが想像以上に大きく、最初の出産の時のような気負いがなくなり、出産時には「お母さんは出産に行って来るからね」程度の感じで、気分を落ち着かせることができるのである。

 二人目の出産の際は、最初の子供の世話を夫が見るために、夫なくして出産することができないのだ。夫の有難味をこういう時に感じることができ、赤ちゃんを産む前から夫に感謝することができるようになるのである。最初の赤ちゃんの時は出産し終えた後に、こういう素晴らしい赤ちゃんを産ませてくれたことに夫に感謝できたが、第二子以降は出産する前から夫に感謝することができるようになるのだ。それだけ自分の精神ベレルが上がったということなのである。

 二人目の赤ちゃんが生まれた後、この赤ちゃんを育児するだけでなく、上の子の世話もしなければならなくなるので、育児が大変になる筈である。しかし、実際に育児をやってしまうと育児は大変ではなく育児が苦痛ではなくなるのだ。育児というのは、子供が二人以上いれば、育児の苦労は苦労ではなくなってしまう不思議な現象を起こしてしまうのだ。

 最初の育児の時は、育児のことが何も解っていなかったから、育児で苦労してしまったが、二人目以降の育児は、育児の仕方を既に知っているので、後はそれを繰り返し、修正する箇所を修正し、未知なるものがあればそれを解明していけばいいのだ。それだけ母親としての力が確実についてきたのだ。

 子供にとっても、複数の子供がいる方が育ち易いのだ。上の子は下の子がいるために、必要以上に母親に甘えなくなり、自分のことを自分でし出すようになるのだ。下の子は上の子がいるために、上の子のことを見習いながら成長して行くのだ。そのために子供同士で相乗効果を起こして、一人っ子より強い子供へと成長して行くことができるのである。

●赤ちゃんを育てながら、子供を育てるということ

 赤ちゃんを育てることに全力を投入することがなければ、上の子もきちんと育てて行くことができるのである。母親が余りにも赤ちゃんばかりに付きっきりになっていると、上の子供は途端にグレ始め、母親に悪態をついたり、赤ちゃんをイジメたりするのだ。こういう場合は、上の子供を叱るだけでなく、自分も反省した方がいいのだ。

 赤ちゃんを育てるということは、母親が感情的になっていなければ、簡単なことなのである。なぜなら赤ちゃんは1日の殆どを寝て過ごしているので、赤ちゃんが寝ている時は、上の子供の世話をしておければいいのだ。大事なことはそういう時に、いかに上の子供に真剣に向き合っていられるかであって、上の子供も母親は自分のことをきちんと大切にしてくれると解れば、そう変な行動は取ったりしてこないのだ。

 育児で気をつけるべきは、赤ちゃんの夜泣きであって、この夜泣きのために母親は体力的に苦しくなってしまい、精神状態が異常になってしまうのだ。赤ちゃんの夜泣きで苦しまないために、午後10時までには寝てしまい、赤ちゃんの夜泣きが起こる前までに3時間程度の深い睡眠を取って体の疲労をなくしておくことだ。人間は睡眠時間を3時間取れば充分に生きていけるので、この3時間を確実に確保していくことだ。間違っても夜更かしをしないことだ。

 上の子供も母親の育児が大変だと解っているので、母親が育児をしている時には母親の近くに近寄って来るものだ。こういう時は、育児の仕方を教えてあげておくことだ。オムツの交換など子供できる作業なので、自分が忙しい時には子供に手伝って貰えばいいのだ。いくら赤ちゃんが大事だからと思ってすべてを自分でやってしまわないことだ。

 二人目ができると酸素の消費量も多くなるので、換気には充分に気をつけておくことだ。余りにも換気が悪いとすぐに上の子や赤ちゃんが病気になってしまうのだ。また、冬のように寒い季節はいくら外が寒いからといって、自宅の中に籠りっきりにならないことだ。日中は外に出て遊ぶなり、買い物に子供たちを付き合わせて、外気を吸って来ることだ。こうすれば、子供たちの病気は激減していくものなのである。

●夫の愛がなければ家族は機能しない

 子供が2人いるということは、母親は一人になれる時間など無いと思った方がいい。上の子や赤ちゃんが常に付いて来るからだ。どうしても自分が一人になりたい時は、夫に預けるしかないのだ。例えば、子供の入浴などは夫に任せて、子供たちが入浴している時に、自分はリラックスすればいいのだ。こういう息抜きも時には必要なのである。

 夫も最初の赤ちゃんの時は育児を全くしなくても、2人目の赤ちゃんができれば、頼めば何かと育児を手伝ってくれるようになるのだ。勿論、頼めばである。一人目の赤ちゃんの時は手助けを頼んでもやってくれないことが多かったが、二人目の赤ちゃんとなると、手助けを頼めば手伝ってくれるようになるのだ。

 夫も父親として成長しつづあるので、父性本能が目覚め、父性愛が多目に出て来るようになったのだ。母親が赤ちゃんの世話をしている時に、上の子と遊んだりしてくれたりして、妻の育児を巧い具合で補完してくれるのだ。父性愛は絶対価値の愛なので、価値ある対象にか注がれない愛なのだ。だから、子供が大きくならないと、父性愛がなかなか出て来ないのである。

 夫の心の中から父性愛が出て来るようになると、その家族は価値ある行動を多く取れるように成り始めるのである。今まで下らないことに手を出していたのなら、それから手を引いてしまい、育児という価値ある行為にエネルギーを注ぎ始めるのだ。子供が一人しかいない父親はまだまだ幼稚だが、子供が二人できると父親から幼稚さが消え始めるのだ。

 夫が父性愛を出してくれると、家族の中でその父性愛が循環し始め、妻も子供たちも価値あることができるようになるのだ。夫の父性愛がなければ、家族は正常な形で機能しない。妻は夫がきちんと父性愛を出してくれるように、夫を立てて、夫を敬わなければならないのだ。夫を蔑ろにしていると、夫は一向に成長してこなくなるので、父性愛を出すことができず、そうなると子供たちが大荒れに荒れるようになってしまうのだ。

●育児も二度目なら簡単になっていく

 育児は子供の数が多くなるほど簡単になっていく。最初の赤ちゃんは夫婦が育てたが、二人目以降の赤ちゃんは家族が育てて行くのである。夫婦二人であるならば、夫婦双方にかかる負担も大きなものになってしまうが、家族で育てていけば、協業と分業が巧く成立するので、夫婦双方の負担が軽くなってしまうのだ。

 世の母親たちは「育児は大変だ」と言う。一人しか赤ちゃんを産まないからこそ、育児が大変なままに終わってしまうのである。育児というのは子供の数が多くなるほど簡単になっていくということ知らないから、育児が大変なままなのである。母親の方も二人目の赤ちゃんが欲しいと思うほどには、母親として成長してこなかったのだ。

 最初の育児は大変であることは確かであるけれども、それ以上に育児では楽しいことがあるのだ。その楽しさを見つけられないほどに低レベルな人間なら、子供は一人で打ち止めになってしまうものなのだ。最初の育児で苦しみよりも楽しさが上回れば、「次行ってみよう!」と思うのは当然のことなのだ。母親というのはみんな平等ではないのだ。子供の数が多い母親の方が偉いに決まっているのだ。

 子供が一人っ子でも家族であることに変わりないが、非常に未熟な家族になってしまうのである。子供が一人であるなら、その家族はその子供を中心に動いてしまう筈だ。こいうい家庭で育ってしまえば、子供は我儘になるのは決まっているものだ。子供の数が2人以上になれば、その家族は父親を中心に動き、父親が仕事で出かけている時は母親を中心に動くものなのである。こういう家族こそ、当たり前の家族なのである。

 現在、日本の家族が様々な問題を抱えてしまっている。それは日本に貧富の格差があるとか、男女平等が実現されていないとか、政府が子育て支援をしていないからではないのだ。子供の数が少なすぎるからこそ、家族は問題を抱えてしまっているのである。子供の数が極端に少なくなれば、家族はまともな形で機能しなくなるのは当たり前のことなのだ。

 幸せな家族を築きたいのなら、決して子供を一人で打ち止めにしてしまわないことだ。子供を可能な限り産んで行くことだ。育児が楽しかったのなら、2人以上の赤ちゃんを産んで行くものなのである。自分が母親として充分に成長できたなと思えた時に、自然とそれ以上は産まなくなるものなのだ。自分が母親として成長していくためにも、たくさんの赤ちゃんを産んで育てていくことだ。

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2人目の育児に手古摺らないための胎児教育

●胎児教育の必要性

 3人目の赤ちゃんを妊娠したのなら、胎児教育を施す決断は絶対にしておいた方がいい。一人の子供を育てながら、更に赤ちゃんを育てるためには、胎児教育は絶対に必要なのだ。母親にとっては、2人目の赤ちゃんはなるべく手間がかからないようにして貰いたいのであって、そのためには胎児教育によって赤ちゃんの知能を上げておかねばならないのだ。

 第一子はもう動きまくる年齢に差し掛かっているので、第二子を育てる時は第一子を育てた時のようには行かないのだ。第一子を育てた際にかけた時間の半分の時間で済ますように仕向けなければならないのだ。今回は赤ちゃんだけを育てていればいいのではないのだ。既にいる子供を育てながら、もう一人の赤ちゃんを育てなくてはならないのだ。

 胎児教育を施して、我が子を天才にさせようとする胎児教育は絶対に失敗する。胎児教育はそのように使われるべきものではないからだ。胎児教育は母親が子供に高い知能を授けるが、それは育児をし易くするためであって、天才を作り出すのもではないのだ。胎児教育は赤ちゃんに高い知能を与えることが解っているが、それを天才を作るということに悪用するからこそ、正当に評価されないのである。育児をしている母親にとっては、我が子が天才になろうがなるまいが、健康に育ってさえすれれば、それでいいのである。

 胎児教育を施すと一体何が起こるかといえば、通常の赤ちゃんとは違って、早くに喋り出すのだ。母親にとってはこれこそが欲しいものであって、赤ちゃんが早くに言語を喋ってくれると、意思疎通が成立し、育児を巡るトラブルが激減するのだ。胎児教育が巧く行くと、夜泣きの回数が激減するし、オムツの卒業も早くなるのだ。

 胎児教育の効果というのは、要は育児で手古摺ることがなくなるということなのである。胎児教育の本来の効果がそれだということが解れば、胎児教育を悪用することなく、純粋に育児のために使用することができるようになるのだ。母親にとっては、赤ちゃんが早くに喋るようになり、夜泣きを減少してくれれば、育児の負担は非常に軽くなり、第一子への育児もきちんとこなすことができるようになるのである。

●脳が常時刺激されるようにする

①楽しい歌を歌い、音楽を常に流す

 胎児教育は自分が妊娠したなと解った時から開始することだ。まず胎児教育は、「楽しい歌を歌い、音楽を常に流す」ことだ。自宅にいる時は、常に音楽を流しておいて、常にお腹の赤ちゃんに刺激が行くようにすることだ。音楽が流されると、お腹の赤ちゃんはその音楽を聞こうとし、知能を発達させてしまうのである。流す音楽はクラッシクのように無理なく聞ける音楽の方がいい。現代音楽でも構わないが、余りにも悲しい歌や、低俗な歌は避けた方がいい。

 歌を歌うのも効果的だ。既にいる子供に向かって歌を歌ってあげればいいのだ。母親が歌を歌うと、声の神童は直撃するような形で胎児にまで届いて来るので、胎児にとっては最大級の刺激を受けてしまい、知能を高くせざるを得なくなってしまうのだ。歌は無理して歌うのではなく、気分が良くなったら歌えばいいのだ。

②いつも話しかけてあげ、絵本を読んであげる

 胎児に向かっていつも話しかけ、絵本を読んであげることだ。朝起きた時は、「お腹の中の赤ちゃんお早う!」と言って起き出して、その後一日、とにかくお腹の赤ちゃんに何かと話しかけていくことだ。これをやられるとお腹の赤ちゃんは母親の話を聞かざるを得ず、知能を発達させてしまうのだ。

 散歩に出かけた時とかは、外界のことを話してあげることだ。「今日は風が気持ちいいよ」「街路樹が紅葉しているよ」「お花が咲いて奇麗だよ」とお腹の赤ちゃんに情景を説明してあげるのだ。こうするとお腹の赤ちゃんは外界のことを想像せざるを得なくなり、その光景を見ていないのに脳に浮かんでしまうのだ。これをやると、知能が飛躍的に高くなるのだ。

 子供に絵本を読む回数を増やすことだ。絵本を読むことで、お腹の赤ちゃんに刺激を与えるのだ。母親が絵本を読むと、お腹に直接振動が行くので、お腹の赤ちゃんの脳は刺激され続け、知能を高くせざるを得なくなるのだ。絵本を読むということは、歌を歌うと同じことで、ただ歌よりは物語構成がしっかりしているので、読解力がついてしまうのだ。

③運動をして筋肉をつける

 胎児教育をしている時でも、通常の妊婦生活と同じように、運動の重要性は変わらない。第二子を妊娠している時に気をつけるべきことは、第一子を育てて行く過程で、筋力が相当に衰えてしまっているということなのである。育児というのはいくら大変であtっても、そんなに筋肉を使っている訳ではないのだ。

 そのため、妊娠中の運動量はきちんと確保しておいた方がいい。ウォーキングをする、軽ジョギングをする、サイクリングをするということを必ずしておくことだ。ただ、現在でも育児をしている以上、筋肉トレーニングなどは、子供が寝てからにし、メニューをコンパクトに纏めて、素早く行ってしまい、時間を無駄にしないようにすることだ。

 母親がスポーツをするということは、血行が良くなるので、胎児にとって新鮮な血液が供給されることによって、成長に必要な栄養と水と酸素を手にすることができるようになるのだ。そうすればお腹の赤ちゃんは体を充分に成長させることができ、健康な赤ちゃんとして産れてくるようになるのだ。安産にさせるためにも、妊娠中の運動は決して怠らないことだ。

●初歩的な学問を教えてあげる

 より高い知能を与えたいのなら、初歩的な学問を教えてあげることだ。まずは、お腹の赤ちゃんに向かって、文字を教えてあげることだ。「平仮名」「片仮名」を教え、小学生が習うような「漢字」を教えてあげればいい。子供がいる時は、子供に教える振りをして、お腹の赤ちゃんにも教えてあげることだ。

 国語の次は算数だ。小学生レベルの算数を教えてあげるのだ。先に公式を教えてしまい、それに従って問題を解いて行くのだ。小学生レベルの算数が幼稚過ぎて嫌であるなら、数学の公式集を買って来て、それに基づいて教えて行けばいいのだ。子供は数学ができることと、知能の高さは正比例してくるので、算数には少し時間をかけて教えておくことだ。

 理科に関しては小学生レベルのものは教えない方がいい。小学生の理科は自然科学に興味を持って貰うためのものなので、それほどレベルが高くないのだ。それよりも高校の時に使っていた「物理」「化学」「生物」の参考書を引っ張り出して来て、それを音読してあげることだ。

 社会に関しても同じで、高校の時に使っていた参考書を使うことだ。社会に関しては日本史だけで充分だ。但し、現在の歴史学は神話や崇神天皇以前の天皇の存在を否定しているので、その部分に関しては『古事記』を直接に読んでしまい、補完しておくことだ。日本史の教科書は政府の教科書検定が入ってしまい、間違った記述が多いために、胎児教育に使うのに適していない。もしも、日本史を通読できる面白い歴史書があれば、それを音読して日本史を教えてしまうことだ。

 道徳教育に関しては儒教の経典を使ってしまうことだ。『論語』を読むのもいいし、『大学』を読むのもいい。道徳というのは小難しいものではなく、要は神の摂理の下で、人間が文明人としての最低限の生き方を学び、自分の心を自分の主人公にして、溌剌と生きていくことなのだ。キリスト教やイスラム教のように、ゴッドやアッラーを信じてしまうと、自分というものを確立できなくなってしまうのだ。神の摂理と自分の心は繋がっているのであって、自分の心を純粋にした時、神の摂理のなんたるかが解って来るのであって、その時に自分の心から無限のエネルギーが湧いてくるのである。宗教というのは神中心に話を展開して行くのであるが、道徳というのは人間を中心にして話を展開して行くものなのである。

●胎児教育によって高い知能を有するようになる

 第二子以降の赤ちゃんを育てる際に、大変になってしまうのは、実は第二子が赤ちゃんでいる時だけなのである。第三子を育てる時は、上の子たちは自分のことは自分でやってくれているようになるので、もうそれほど手間がかからないのだ。第二子の赤ちゃんの時だけが大変な時期になるだけなのである。だからこそ、胎児教育が必要になってくるのだ。とにかく子供が複数いる以上、早目に喋れるようになって欲しいのだ。そうすれば育児は一気に楽なものになっていくのだ。

 第二子以降は既にお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるので、知能の発達が早いということを知っておこう。上の子が下の子と遊んでいる内に、下の子は自然と知能を発達させ、喋るのが上の子よりも早くなってしまうものなのだ。しかも、胎児教育を受けていた訳だから、当然に高い知能を持ってしまうようになるのだ。

 子供の数が多いほど、その子供たちの知能は高くなり、後世に名を残すような業績をする人物の出現が多くなるものだ。昔、日本では夫婦が5人以上の子供を作ることは当たり前だったが、その時代こそ歴史的発見をした学者たちを続出させたのである、ところが、現代のように夫婦が作る子供が1人だとか、2人だとかでは、子供同士で喋り合う機会が少ないので、どうしても知能が高くならないのだ。日本はアメリカ合衆国に次いで、大学に学術研究の費用を投入しているのだが、大学が全く振るわず、学者たちは碌な研究成果しかを出して来ないのだ。

 母親に既に子供がいて、その状況で妊娠してしまえば、胎児にとっては自然と胎児教育を受けてしまうようなものなのである。母親が子供と遊んでくれれば、胎児は刺激を受けて、脳を成長させることができるようになるのだ。しかも、生まれてくれば、既にいる子供と遊ばざるをえないので、自然と成長が早くなり、知能が高くなっていくのだ。

 我が子が優秀な人間になって欲しいと願うなら、早期教育を施すよりは、子供をたくさん産んで行くことなのだ。子供がたくさんいれば、自然と胎児教育は行われ、子供同士で切磋琢磨して、自然と高い知能を持ってしまうようになるのだ。子供同士で競争していれば、自然と競争力がつき、社会に出ても自然と勝ててしまうものなのだ。

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