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2009年12月

赤ちゃんが生まれて来た理由

●赤ちゃんは母親を選んで生まれて来る

 赤ちゃんはどうやって生まれて来るのだろうか? 科学的説明をするというなら、卵子と精子が結合して生まれて来る。しかし、この説明は科学的には正しくても、実践的には正しいものではない。多くの不妊症の夫婦は、卵子と精子が結合しても、妊娠することができないからだ。妊娠するためには、肉体的理由とは別のもう一つの精神的理由が必要となって来るのだ。

 結論から言えば、赤ちゃんは母親を雲の上から見ていおり、母親の心身が妊娠可能な状態になった時、雲の上から舞い降りて来て、母親の胎内に入り込むのである。この雲の上というのは、気象上の雲のことではなく、飽くまでも霊的な雲のことであって、赤ちゃんというのは、その霊的な世界から遣って来るのである。

 この雲の上では赤ちゃんが一人だけいるのではなく、多くの子供たちがいて、遊び回っているのだ。恐らく子供の大きさからいって、幼稚園児程度で、これは乳幼児が4歳から5歳の時に乳幼児の記憶が消えてしまう事実と符合して来る。子供たちが遊びつつも、時折、雲の上にある下界を覗く窓のようなものから自分の母親を見ており、母親の準備が整うまでは、遊んで暮らしているのだ。

 母親の心身が妊娠できるようになったら、その子供は神様に告げて許可を貰い、「天使の翼」をつけて降りて行こうとする。その天使の翼は母親の胎内に入った時には消えてしまい、後は胎児のような格好をして、母親と妊娠生活を共にするのである。子供がいつ母親の胎内に入り込むか厳密なことは不明だが、この霊的な現象が起きない限り、母親の体には妊娠という現象が起きないのである。

 雲の上の子供たちは、何も全ての子たちが順序良く降りて行くのではなく、中には生き急いでいる子もいて、その子は母親の準備が充分に整っていないのに降りて行ってしまうために、流産してしまったり、早産で産まれて来てしまったりするのだ。逆にのんびり屋の子供たちもいて、その子はゆっくりと舞い降りて来て、10月10日の妊娠期間では生まれず、妊娠期間が11ヵ月になったり、12ヵ月になったりするのだ。だから、出産予定日を過ぎても、絶対に焦るべきではないのである。そういう性格の胎児なのである。

●母親に命の素晴らしさに気付いて貰うために生まれて来た

 では、どうして、赤ちゃんは多くの女性たちの中から、自分の母親だけを選んで生まれてきたのだろうか? それは母親に「命の素晴らしさに気付いて貰うために生まれて来た」のである。出産した母親たちが、「生命の神秘がなんたらかんたら」と言い出すのは、赤ちゃんの霊的な作用のために、自分の心に重大な変化が生じたからなのである。出産経験のない女性なら生命の神秘など関係なくても、出産経験のある女性は、生命の神父というのが痛いほど解るようになるのである。

 人間はそもそも罪深い生き物であるのだ。人間は自分の命を保つためには、他の動植物を殺して、その命を奪うことでしか、自分の命を維持することができない。そのため、多くの人間たちが命の素晴らしさを忘れてしまい、残虐なことを平気でやってしまうのだ。人を殺したり、人を傷つけたり。人の物を盗んだりと、人間の「生存上の罪」に気付かぬ限り、平気で悪行をやりまくってしまう動物なのである。

 だから、赤ちゃんは母親に命の素晴らしさに気付いて貰い、人間は他の動植物の命を奪って生きざるを得ないが、でも、人間は成長するためにはそれはどうしても必要であって、自分が成長し続けることで、その罪を消し去り、この世に奉仕し貢献して行かなければならないのである。

 女性は赤ちゃんを産むと、自分の精神が一変してしまうのは、このためだ。それゆえ、女性が赤ちゃんを産まなければ、幾ら口先で「愛」を唱えようが、「個人の尊厳」を唱えようが、それは偽りの物にすぎないのだ。それは単なる知識なのであって、心の奥底から本当に解っていることではないのだ。もしも、その女性に本当の愛があるなら、赤ちゃんを産む筈だし、その女性に個人の尊厳が解っているなら、赤ちゃんをしっかりと育てて行く筈なのである。

 女性にとっては出産が最大の通過儀礼となる。出産することで自分の心が変わってしまい、やっと一人前の大人に成って行くのである。男性の場合、女性のような妊娠や出産という経験をできないために、人為的に通過儀礼を作り出し、その通過儀礼を経験することで、死と再生を果たし、自分が生まれ変わることで、一人前の大人に成って行くのだ。

●自分自身が前世でのカルマを現世で清算し、精神を向上させるために生まれて来た

 赤ちゃんは可愛いものだが、しかし、赤ちゃんは既に前世のカルマを背負っており、マイナスの状況にあるのだ。人間は決してプラスの状態から出発する訳ではなく、人間はマイナスの状況から出発するのだ。前世のカルマが酷い場合、身体障害者になったり、難病奇病になってしまったり、死んでしまったりするのだ。そういう赤ちゃんたちはその現象が現れることで、カルマ落としをすることができ、それで前世のカルマは消えてしまうのである。

 赤ちゃんはマイナスの状況にあるために、母親の手助けなくしては生きて行くことができないのだ。母親が愛情を注げば注ぐほど前世のカルマは消えて行き、だからこそ、その赤ちゃんが大人になった時、母親にだけは感謝をするようになるのだ。どの人間にとっても、母親だけは特別な存在なのである。

 若い時に不遇の時期を迎え、なかなか頭角を現わせない人も、前世のカルマを清算しきれていないから、立身出世して行く時期が遅れてしまうのだ。人間には早熟型と大器晩成型の二種類がいるが、早熟型は早くから頭角を現わして来るが、その分、行動力はあるが深い思索をすることができず、大器晩成型は遅咲きではあるが、その分、深い思索をし、他の人々では成し遂げることができないようなことを成し遂げてしまうのだ。

 人間は自分自身が前世でのカルマを清算し、自分の精神を向上させるために生まれて来たので、前世のカルマを清算したからといって、自分の精神を向上させなければ、この世に生きている意味はないのだ。若い内から有名になってしまうと、贅沢三昧の生活で堕落しきってしまい、そのために精神の向上を怠ってしまうので、晩年になると運勢が急低下して行ってしまい逆に現世でカルマを作り出してしまうのだ。

 自分が順境にいようが逆境にいようが、地道にコツコツと自助努力を重ね、自分の精神ベルを向上させて行くことだ。人間の肉体は19歳で成長を止めてしまうが、人間の精神は死ぬまで向上し続けて行くことが可能なのである。それなのに精神の向上は目には見えにくいために、多くの人々が精神の向上を怠ってしまい、それがカルマ作りとなってしまうのである。

●神様からの使命を果たすために生まれて来た

 赤ちゃんの中には神様から特別な使命を与えられた赤ちゃんもいるのだ。みんなと同じように生きて行くのではなく、普通の人たちとは違う生き方をし、この世での特別な役割を果たすことで、この世に奉仕し、貢献することで、神の栄光をこの地上に実現しようとするのだ。

 子供の中には子供の頃から歌が上手で、幼い頃から「歌手になりたい!」と言って来るような子であるなら、その子は歌手になることが定められていた子供なのだ。子供の頃から読書が大好きで、子供のくせに一丁前の文章を書いて来るなら、その子は作家か学者になることが定められていたのだ。

 神様から特別な使命が与えられた子供も、親が平等イデオロギーに毒されてしまうと、我が子に特別な使命があるというのに、しかもその才能を子供は親の前で見せているというのに、人間は全て平等だと思い込む余り、我が子の才能を破壊してしまうものだ。特別な才能を持っている子供が、親から自分の才能を破壊されてしまうと、その子は親を怨むようになり、非行に走ったり、親を殺害しようとしたりするのだ。親が精神的に独立していなかったり、精神ベルが低いと、「人間は平等ではない」という当たり前すぎる事実ですら、解らなくなってしまい、我が子を犠牲にすることで、平等イデオロギーを実現して行こうとしてしまうのだ。

 一体、どの子が特別な使命を持って生まれて来るか解らないものだ。親馬鹿になる必要性はないが、「もしや我が子には特別な使命が与えられているのかも?」と思うことがあったら、我が子に賭けてみればいいのである。相手は子供なので、もしも間違っていても、人生の修正は充分に効く筈である。もしも我が子に特別な才能があるなら、その才能を開花させてあげることが、その子の人生にとって最善の選択に成るし、親としても最高の育児が出来たということなのである。

 出産時に感動した母親でも、育児をしていると、時間がゆっくりと過ぎて行くために、我が子が自分を選んで生まれて来た事実や、前世のカルマを清算するために必死になっていることや、特別な使命が与えられていることなど、忘れてしまうものだ。そうならないためにも、我が子が寝た後に、少しの時間だけ瞑想でもして、自分の心を落ちつけて、我が子のありのままの姿を見るようにしてあげることだ。我が子のありのままの姿は一生懸命になって成長しているということであって、自分も母親として成長しなければ、その成長をきちんと受け止めることができないのである。

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特別講義『主婦にも解る社会学』 ~自生的秩序こそ、最大の自由を生み出す~

●如何なる社会も人為的に作られたものではない

 自分が結婚をし、子供たちを産み育てて行けば解ることだが、「社会というものは、自由であることが一番良い」と思う筈だ。社会は当然に悪徳や腐敗を抱えていても、その悪徳や腐敗を憎む余り、社会そのものを破壊してはならない。丁度、イタズラが大好きな子供にその悪行を憎む余り、躾を教えると称して折檻し続けていれば、子供を殺してしまうように、些細なことに拘り過ぎると、肝腎なものを破壊してしまうことになるのだ。

 社会というのは、そもそもその誕生からして他とは違うものなのである。文明というのは、征服から始まる。どこかの戦闘的な部族が、平和的に暮らしている部族を征服することによって、文明は開始される。太古の昔、中央アジアに生存していたシュメール人たちが、南下を開始し、メソポタミアの地を征服することによって、人類は文明を誕生させたのである。その点、政治というのは、かなり人為的なものなのだ。

 経済も自分たちが生産に関わり、消費に関わるという点では、人為的な要素を多く含んでいるものだ。ただ、経済には市場があって、その市場によって価格が勝手に変動して行くし、自分の知らない様々な産業があることによって、協業と分業が勝手になされ、生産力が増強されていくからこそ、我々は豊かな生活を営めるのだ。

 社会に至っては、我々が気付いてみたら、そこに存在していたという程度のものだ。誰が作ったか解らないし、誰が維持をしているのかも解らない。社会というのは、人為的に成立していない以上、人間があれやこれやと手出しをすべきではなく、放っておけばいいのである。

 ところが、学者という連中は、この社会でまともに生きている者であるなら常識的なことさえ解らないのだ。学者たちは社会学という得体の知れない学問を作り出し、それで社会とは隔絶された大学の研究室の中で、せっせと頓珍漢な学術体系を作り出しているのである。「この学問は科学的だ」と称して、非科学的な研究に精を出しまくるのである。

 社会科学は自然科学とは根本的に異なり、仮説を組み立て、それが正しいのかどうか実験をすることによって確かめるということが出来にくいものである。例えば、或る政治学者がマニフェストなる概念を政治の世界に導入したが、それによって政治が以前よりも良くなったといえば、決してそうとは言えないだろう。寧ろ、政治家たちがマニフェストに拘束されてしまい、以前よりも柔軟な政策展開が出来ず、逆に政治の生産性が落ちてしまったのである。

 政治学の分野ですらこうなのだから、社会学ともなれば、社会学そのものが本質的に虚妄性を持っているのだ。なぜなら、社会というものは、実験によって自分の仮説を確かめることはできないからだ。たとえ社会に対して自分の仮説を実施して、実験によって確かめても、その行為自体が人為的で、社会本来の姿とは、大いに掛け離れてしまっているものだからだ。

 だから、もしも社会学が学問として健全に機能したいのなら、ただ、社会を分析するだけなのである。その社会の悪い部分だけを分析するのではなく、その社会の長所も分析し、総合的に見て行くことをしなければ、幾らでも嘘の塊のような学術体系を作り出すことが可能になってしまうのだ。そういった意味では、社会学は民俗学と大して変わらないのである。民俗学者たちがその民族の風習や習慣を分析していったと同じように、社会学者たちが社会を冷静に分析して行けばいいのである。

 だが、社会学者に限って、この社会学の限界を受け入れようとせず、社会学を研究しているといいながら、得体の知れない学問を展開しているのである。社会学は、戦前や戦後暫くの間は、社会主義者たちの巣窟となり、戦後復興を成し遂げると、そこにフェミニストたちが加わって来た。この手の連中が入って来ると、どの学問ももともな学問にならないのだが、社会学はその中でも最大の被害を被り、その結果、社会学は社会主義革命をもたらすための学問となり、フェミニズム革命をもたらす学問となってしまったのだ。

●自由社会と自生的秩序

 我々が住んでいる社会は、自由社会であって、決して平等な社会ではない。自由社会にすれば、当然に至る所で格差が生じて来るのだから、それを国家権力を使って弄るのではなく、逆に国家権力の行使に制限を加えて放置することで、自由による恩恵を人々に施そうとするものだ。

 自由社会にしてしまえば、至る所で競争が行われ、悪しき者たちが敗退し、優れた者たちだけが生き残って行くから、当然に人々は勝者と敗者に分かれるし、その勝者たちも秩序を作り出すことによって、自然と落ち着いて行く。これが自生的秩序なのであって、誰かが人為的にそうやったものなのではなく、誰かが人為的に手を加えたのではなく、成るべくして成ったのである。その自生的秩序に於いてこそ、人々は最大級の恩恵を受けることができるようになるのである。

 言わば、自由社会とは自生的秩序のことであって、自由社会に住む人々が自由な社会とはこのようなものであると共通認識を持ち、この共通認識に反する見解を持つ者を排除する勇気を持たねば、この自由な社会は自由社会を否定する者たちによって破壊されてしまう危険性を持っているのである。

 この自由社会に生きている限り、自由社会そのものを破壊する自由を如何なる者であっても持ってはならないし、自由社会を破壊する言動を取り始めたのなら、直ちに制裁行動を起こし、その連中を殲滅しなければならないのである。先進国で社会主義者たちが跳梁跋扈して来たのは、まさに自由社会の盲点を衝かれたからであって、先進国の人々が自分たちの自由を守るために、武器を取り、社会主義者たちを皆殺しにすることがなかったからこそ、社会主義者たちに国家を転覆され、自由社会そのものを破壊されてしまったのである。

 忘れてならないのは、自由社会を有する国家は、下手に自由を拡大する路線を取ってしまうと、そこを邪悪な者たちに付け込まれてしまい、政治が破綻してしまうことになるということなのである。ロシア帝国もロシア革命が発生する直前には、政府が自由主義路線を突っ走り、国民に多くの自由を与えていったら、突如、革命が発生し、ボレシェビキに乗っ取られ、政府の要人たちは悉く殺されてしまったのである。

 イギリスでも事態は同じで、ビクトリア女王の時代にイギリスは栄華を極め、人々が最大限の自由を謳歌したのだが、その後、ビクトリア女王の時代が終わると、急速にイギリスは社会主義路線に展開して行き、労働党が政権を取ろうが、保守党が政権を取ろうが、イギリス国民の自由が縮小されていく政策を取り続けてしまったのである。

●政府は社会に手出ししない方が、国民は最大の利益を得るようになる

 ソ連政府は国家権力を使って、散々国内の社会を弄り回したが、その結果は戦争や内戦があった訳でもなく、国家が自滅するという異常な滅亡の仕方で、ソ連は崩壊してしまったのだ。イギリスも国家権力を使って、散々国内の社会を弄り回したが、その結果はドイツに抜かれ、日本に抜かれ、嘗ては覇権国家だったのに、気付いてみればヨーロッパの弱小国家に転落してしまったのだ。

 社会というのは、政府が社会に手出ししない方が、国民は最大の利益を得ることができ、それによって国家は発展して行くことができるのである。まさに「最大多数の最大幸福」であって、多くの人々が平穏無事に暮らしていれば、「それで良し!」とすべきなのである。その状態こそが、自由社会の恩恵が最大化された状態であって、それ以上に自由社会の恩恵を大きくすることなどできないのだ。

 確かに自由社会には不幸な人々がいる。しかし、その僅かな不幸者のために自由社会をl破壊してしまっては、本末転倒なのである。自由社会で幸福を手にした人々は、国家権力を使って幸せになった訳ではない以上、自由社会で不幸になってしまった人々は、国家権力を使って自分の幸福を手にするべきではないのだ。幸福な人々が自助努力で幸せに成って行ったように、自分の自助努力を行い、不幸を払いのけつつ、幸せを手に入れえいかなければならないのである。

 自由社会は非倫理的な社会ではないのだ。非常に倫理的な社会なのである。その倫理の中でも最も大事な倫理が、「自助努力」という倫理なのである。自由社会に住む人々が自助努力という美徳を持つからこそ、人々は自分で自分の道を切り開き、幸福を獲得して行くのである。

 もしも、自由社会に住んでいるというのに、自助努力という美徳を持たず、手抜きをしたり、インチキをしたりすることばかりをしていれば、当然に自分の人生が行き詰まり、人生が破綻し、不幸に成って行くのは当然のことなのである。この自助努力という美徳こそ、社会者主義者たちが最も嫌った美徳であり、フェミニストたちの口から自助努力の大切さなど一度たりとも説かれたことはないのだ。

 自由社会で幸福になれた人々は何も偶然に幸福になったのではないのだ。自分が幸福に成るために自助努力を繰り返して来たからこそ幸福になれたのであって、幸福になった人でも自助努力の美徳を忘れ、遊び呆けてしまえば、途端にその幸福が失われ、不幸に成って行くものなのである。自分が不幸を脱したいのであるならば、一念発起して自助努力を遣りまくるべきであって、自助努力を繰り返して行く内に不幸は破壊されてしまい、幸福に成って行くものなのである。

●自由は常に平等によって破壊される

 自由というには、自分の思った通りに行動を起こすことをいうのであって、それゆえ、外からは正当な理由もなく非合理的な束縛を受けてはならないと同時に、内からは自己統御によって自己規律をもたらし、自発的に合理的な行動を起こさねばならないという要請を持つものなのである。

 それゆえ、この世の中で自由を成立させ、確保して行くためには、「法の支配」を必要とし、法治主義で以て憲法や法律を整えて行くと同時に、全ての人々に自由を与えるのではなく、自由を与えられるのは飽くまでも自己統御ができ、自己規律を行うことができ、自助努力を行っている者たちにだけなのである。

 幾ら自由社会だからといって、全ての人たちに自由を与えてしまえば、法の支配を転覆しようとして来たり、自助努力を行わない不逞な輩も出て来るものなのである。自由は自由の価値を認め、法の支配を受け入れ、自助努力をして貰わなければ、自由を巧く使いこないせないので、その自由社会の中で不幸に成って行くのは当然に予想される事態なのである。

 この成らず者たちは、自由のなんたるかが解っていないために、自由社会の中で「自由からの逃走」を仕出すものなのである。彼等は自由に耐えられないし、たとえ自由を与えられても自由を行使することができないから、自由から逃げ出し、平等を唱えて来るようになるのである。

 平等というのは、自由の敵である。自由はそれ自体が全ての人々に与えられるものではないし、自由な状態にされれば、当然に不平等な状態を生み出してしまうからだ。それゆえ、平等を推し進めて行けば、数学的規則性正確さで以て、自由が破壊されてしまうのである。経済的な平等を実現しようとして社会主義革命を行ったら、その国の国民は一切の自由を喪失してしまったのは、平等と自由は共に存続し合えない間柄だからなのである。もしも将来、どこかの国でフェミニズム革命が発生したら、性的な平等を実現しようと躍起になるから、その国の国民は一切の自由を喪失してしまうことになるであろう。

 自由社会に住む人々は、自由というものは頑丈に出来ているものではなく、「自由は平等に最も弱い」ということを予め了解しておくべきなのである。自由社会の中で平等を唱えてきたら、直ちに射殺するぐらいの勇気を持つべきなのである。自由社会では自由であるがゆえに、不平等が出て来るのは当たり前なのであって、それを人間の力でどうにかするべきではないのである。もしも何か出来るとするなら、不平等で苦しんでいる者たちに、仕事に改善を施すなり、転職を促すなり、自分を変えることで、その不幸からの脱出を図ってあげるしかないのである。

●社会の基盤は家族である

 では、平等を唱え出す人々は、なぜ平等を唱えて来るのだろうか? それhは異常な家族の中で育って来たからなのである。人間は自立して行くまでに、長期間、両親によって養育されるという宿命を持つ動物である。それゆえ、その間に、両親から充分に愛されないと、自分の成長が歪み、心に傷を負ってしまうものなのである。両親が自分をきちんと愛してくれる正常な家族の中で育てば、平等なんか唱えて来ないものだが、両親が自分をきちんと愛してくれないような異常な家族で育ってしまえば、人間は平等を唱え出すものなのである。

 自分が大人になって子供を産み育ててみれば解ることだが、小学生辺りまでは子供というのはみんなと一緒でないと我慢できないものなのである。ところが、中学生辺りになると、みんなと一緒でいることを嫌がり、自分だけの世界を作り出して行くものなのである。それが自立の始まりなのであって、自立できた者は殺されたとしても、平等を唱えて来ることはないのだ。平等を唱えて来る人々というのは、小学生レベルの段階で成長を止めてしまったのである。自分の心が愛で満たされていないがゆえに、それ以上の成長ができなくなってしまったのである。

 家族というのは、夫が家長として君臨し、妻が家庭内の実験を握り、夫は外に出て働いて生活費を稼ぎ、妻は家事や育児をすることで運営して行かなければならないものだ。表面的に見れば「男尊女卑」であり、実質的には「女尊男卑」の形態を取り、こらが巧く絡み合うからこそ、家族は家族として機能して行くのだ。そして子供たちには生まれた順で秩序をつけ、如何なることがあっても「長幼の序」を守らせる。「夫婦の別」「長幼の序」を守っていれば、家族はどんなことがあっても、家族として機能し続け、子供たちに愛が注がれるが、この秩序を崩せば、誰がどうやったとしても、子供たちの心は愛で満たされなくなってしまうものなのである。

 勿論、夫婦には色々な夫婦がいるから、多少の変形を加えても構わない。例えば、妻が外に働きに出るとか、夫が病気で外に働きに出ることができないとか、夫は亭主関白で妻はその夫の従うことに喜びを見出す夫婦とか、逆に妻の嬶天下で夫は妻の尻に敷かれることに喜びを見出している夫婦とか、その夫婦の合うような愛の形を築いたとしてもなんら問題はないのだ。

 但し、そうはいっても、どのような夫婦の形態を取ろうとも、「夫婦の別」「長幼の序」を崩してしまえば、家族は家族として機能しなくなり、家族の中で愛が循環しなくなり、子供のたちの心の中に心の闇が出来上がり、この世をありままの姿で見ることができなくなるのだ。自分が産み育てた子供が大きくなって、平等を唱え出したら、我が子の心には親の愛で満たすことができなかったんだなと思った方がいいのだ。

●成長の歪みを取り、心の傷を癒すために

 誰もが完璧な家族の中で育つ訳ではない。家族として巧く機能した家族でも、両親だけが子供たちを愛したのではなく、祖父母や叔父叔母など、様々な親戚たちに愛されることによって、子供たちに愛を与えて、子供たちを健全に育てて行ったのである。もしも、家族として正常に機能しておらず、それなのに親戚との交流が乏しいのであるなら、その子供はどのように成長したとしても、心の中は愛が不足し切った状態になるのだ。

 子供といえども大きくなってしまえば、「成長の歪み」「心の傷」を抱えたまま、社会に出て行くしかないのだ。自分が自立しきれないまま社会に放り出されて、社会の中で成長の歪みや心の傷を癒して行くしかないのである。後は、自分が誰かのせいにするのではなく、自分で自己責任を取って、適切な処置を加えていかなければならないのだ。

 人間は生きて行くためには働かざるを得ないから、まずは職場に適応して、その人間関係の中で、自分の成長の歪みや心の傷を癒して行くことになる。上司を父親の如くに思って服従して業務を行い、同僚同士で酒を飲み交わしたりして、自分は決して一人で生きているのではなく、人の中で育まれながら生きていることを知ることになるであろう。

 男性の中で母性愛が不足しているようであるなら、年上の女性と付き合ってみたり、女性の中で父性愛が不足しているようであるなら、妻子ある男性と付き合ってみたりすることになる。傍から見れば、「どうしてあんな若い男性が年増の女性と付き合うのか?」「どうしてあんな若い女性が不倫の恋に走ってしまうのか?」と思うかもしれないが、当の本人たちは自分がそう遣りたいからこそ、普通ではない恋愛をしているのであって、そういうことを繰り返しながら、自分の成長の歪みを取り、心の傷をいやして行くのだ。

 世の中には通常の暮らしをしていては、愛の不足を克服しえない人々がいるものだ。そういう人々は社会的に見て差別されざるを得ない世界に入り込み、そこで自分が本当に欲しい愛を求めて行くしかないのだ。女性だったら売春婦になったり、男性だったら暴力団員になることで、成長の歪みを取っていくしかないのだ。勿論、売春は倫理的に非難されるべきものだし、暴力団に於いては非合法の集団である。しかし、それは社会にとって必要悪のものであって、過去、社会正義を振り翳す団体が売春を禁止し、暴力団を追放しようとして来たが、結局、果たすことができなかったほど、社会にとってはどうしても必要なものなのである。

 売春婦なら年上の男性のパトロンがいなければ、まともな仕事ができないし、暴力団に至っては疑似家族を形成して、強固な団結を図っているものだ。売春婦にしても、暴力団員にしても、そうやって成長の歪みを取り、心の傷を癒して行っているのだ。それゆえ、自分が欲する最低限の愛が得られれば、その世界から身を引いて行くことになるのである。自由社会は自由であるがゆえに、売春婦や暴力団員もいる社会なのである。平等イデオロギーに取りつかれる人々が真っ先に憎み、追放しようとするのが、売春婦であり、暴力団員なのである。売春婦や暴力団員がいることは誉めたものではないが、しかし、売春婦や暴力団員たちがいなくなれば、この社会の自由は消滅してしまうものなのである。

●開かれた階級社会

 人間は生まれながらにして向上心を持っているから、その向上心を巧く利用して、社会に出ても、向上して行けるように仕向けて行くべきなのである。そのためには、「身分階級」と「経済階級」というものがどうしても必要と成って来るのである。人々は自助努力を行い、階級を上って行くことで、成長して行けるようにしてあげなくてはならないのだ。

 大抵の若者は貧乏であるから、一生懸命に働き、収入を多くして行くことで、経済階級を伸し上がって行くことができれば、勤労意欲は最大化し、最高の生産力を誇るようになるであろう。下層階級から中産階級に伸し上がり、中産階級から上流階級に伸し上がることで、その能力を大いに発揮して行くべきなのだ。

 確かに自由社会にしてしまえば、貧富の格差は当然に生じて来るものである。しかし、その貧富の格差を批判し、国家権力で以て矯正すべきではないのだ。自由社会であるなら貧富の格差が出て来るのは当たり前のことなのだから、その貧富の格差に対する批判を禁止し、己の仕事に全力を投入することを促して行くべきなのである。貧乏というのは、自分の力で克服すべきものであって、国家権力によって克服されるものではないのだ。

 ただ、要注意なのは、身分階級なき経済階級では、資産を持っている者たちに高貴な義務が継承されないという点なのである。お金持ちであるがゆえに贅沢に暮らすのではなく、寧ろ、質素に暮らし、質実剛健を維持し、社会的弱者に救いの手を差し伸べ、能力ある者たちにチャンスを与え、国家危急の時には全力を尽くして戦う気概を持たねば、巨万の富の中で人間性を腐敗させて行ってしまうことになるのだ。

 そのために、身分階級というものが必要なのである。天皇や貴族というものがあるからこそ、庶民はその俗悪な態度を捨て、高貴な義務を果たすことを受け入れて行くのである。天皇制も貴族制も成り上がり者たちを浄化しすることに関しては、最大級の役割を果たし、ビジネスの世界で活躍する者たちに貴族主義的精神を付与させることになるのである。

 階級制度というのは、閉じられたものであってはならない。階級制度というのは開かれた階級社会を維持して行かなければ、階級制度としての機能が充分に使えなくなってしまうからだ。自分の階級よりも下の連中の中で、優秀な者たちを抜擢して、その能力を如何なく発揮させてやらなければ、遅かれ早かれ階級制度そのものが国民にとって害悪になり、階級制度を消滅することでしか、その解決策を導き出せなくなってしまうものなのである。

 階級制度があればこそ、その自由社会の「歴史・伝統・習慣の継承」がなされ、「世襲主義と実力主義の融合」が図られ、自由社会に住む人々に最大級の恩恵を与えて行くことが可能に成るのである。平等を唱える人ほど、歴史や伝統や習慣を否定することに躍起になるものだが、自分たち先祖の歴史や伝統や習慣を否定して、新たな歴史を作り出すことはできないし、たとえ無理矢理にやったとしても破滅して行くだけなのである。我々にできることは、先祖の歴史や伝統や習慣を継承しつつ、少しだけ前に進んで行くことでしか、社会を安全に運営して行くことはできないのである。

●正統な宗教なくして、自由社会は成立しない

 自由社会を維持しようとした場合、多くの人々を自由社会に適応させることはできるが、それでも自由社会から食み出して来る者たちが出て来てしまうものである。だからこそ、自由社会は世俗外に宗教団体を備えて、その食み出し者たちを吸収させるのである。自由社会は絶対に宗教団体を必要とするのである。

 宗教団体はその食み出し者たちに宗教を教えることで、まともな人間として生きていけるように訓練させなければならないのだ。宗教は「神の絶対性」と「人間の相対性」を教えるから、宗教を受け入れされることによって、自分を絶対化することから解放し、自分を相対化させるのである。そしてこの世の奉仕者として位置づけ、社会の人々に貢献させて行くように仕向けて行くのだ。

 正統な宗教なくして、自由社会は成立しない。自由社会を憎む者たちは必ずと言っていいほど、自分を絶対化させ、法の支配を受け入れようとしなくなるからだ。邪悪な者たちの心の中には、「自己神欲」という邪悪な欲望が渦巻いているから、神の存在を否定し、自分が神になろうとし始めるのだ。この世にはいつの世でも無神論者や無宗教者というのが出て来るが、彼等は神を否定したり、宗教を否定したりしているだけでなく、自分を絶対化することで、この世に於いて神の如くに振る舞おうとしている成らず者にすぎないのだ。

 社会主義は「宗教は阿片である」と罵ったし、フェミニストたちも宗教を否定することに躍起になっているものだ。社会主義者たちは既存の宗教を破壊する一方で、『マルクス・レーニン全集』を経典化し、スターリンや毛沢東といった独裁者への絶対的な崇拝を強いたのである。もしも、将来、フェミニスト革命が発生したら、フェミミズムのイデオローグが書いた書物が経典化されるだろうし、フェミニストの女性独裁者への崇拝を強いられることだろう。宗教をなくしてしまえば、人間は狂気と化すものなのである。

 自由社会は宗教を必要とするが、宗教団体は競争をしなければ腐敗して行くものだ。だから、国教を定めることなく、宗教団体に宗教市場で競争させまくるからこそ、腐敗した教団は滅亡して行き、優秀な教団が生き残って行くことになるのだ。政府は宗教団体が政治に手を出して来ることを警戒すべきであって、もしも宗教団体が直接に政治に手を出して来たのなら、直ちに武力攻撃を加えて、殲滅しなければならないのだ。宗教団体だからと言って、「信教の自由」を乱用していい訳ではないのだ。

●一身独立して、一国独立す

 人間はいきなり自由を使いこなすことはできないものだ。子供の頃は親に服従して、親の言うことをきちんと守り、その言いつけを果たすことで、行動して行くことができるように訓練して行かなければならないのである。そして青春時代が始まれば、親から離れ、友達と仲良くし、教育者からまともな教育を受けることで、やっと自立への道を歩み始めるのである。自立したとしても、要は半人前で、自由を使うことはできるが、かといって自由のなんたるかが解っていない状態なのだ。

 人間が一人前になるのは、自立した人間が結婚することで、親から独立した時なのである。自分が結婚し、子供たちを産み育てて行けば、自由のなんたるかが解って来る筈である。自由と称して、自分勝手に生きていれば、途端に夫婦喧嘩が起こり、最悪の場合は家庭が崩壊してしまうからだ。

 自由社会を守り続けて行くためには、「独立自尊の気概」を持った男女が増え続けてくれなければならないのだ。幾ら自由だからといって、結婚を拒否し、独身者が増え続けてしまえば、自由は乱用されまくり、遅かれ早かれ自由社会の自由は破壊されて行くだけなのである。自分が結婚して子供を産み育ててみれば、独身時代は幼稚だったなと気付くものだが、独身生活を送っている者にはそれが解らないのである。

 自由社会は貧富の格差があるし、男女の格差も存在しているので、その格差に押し潰されて、自立できない人たちが出て来るものである。そういう自立していない者たちには決して自由を与えてはならない。丁度、子供たちに「子供の人権」を与えたら、子供たちが「人を殺す自由」を唱えて来たように、自由をきちんと行使できる能力を持たざる者には、如何なる自由をも与えてはならないのだ。

 一身独立して、一国は独立するものなのである。大人に成っているのに、いつまでも自立できない人々が多くなってしまっては、自分たちの国家の独立すら怪しくなって来るものなのである。自分のことを棚に上げて、「社会が悪い」と言うのではなく、自分が大人になったにも拘わらず、未だ自立していないこと方が悪いと反省すべきなのである。

 自分が自立し、独立して行けば、自由社会の有難味が解って来るものなのである。自由社会は自分が夢を持ち、それに見合うだけの努力をするなら、その夢は実現するという素晴らしい社会なのである。それゆえ、社会批判を繰り返して日々を無駄に過ごすのではなく、しっかりとした自分の夢を持つべきなのである。自分の夢を持ち、全身全霊でそれに取り組むべきなのである。己の心を奮起して、「やってやろうじゃないか!」という気概を持てば、大概の夢は叶って行くものなのである。自分の夢が叶えば、バラ色の人生が始まるものなのである。

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笑撃ヒートアップ『年末年始のジェットストリームアタック!』

●大掃除

 俺は日本の年末年始が大好きである。年末年始は楽しいことが目白押しである。「年末年始は日本にいるべし」、これが俺のモットーである。俺は生まれてこの方、年末年始を海外で過ごしたことはない。この大事な期間を海外で過ごすなんて勿体ない。年末年始を海外で過ごした連中には二度と入国させないことだ。

 冬至の夜に柚子湯に入り、体を温めると同時に、体の疲れを取る。大体、我が家では冬至を過ぎた辺りから大掃除を開始し、一つ一つ片づけて行く。大掃除は一気にやらないことが成功させる秘訣だと思った方がいい。実際にやってみると、結構、時間がかかってしまう掃除も出て来るからだ。

 俺がビックリするのは、なんといっても書類の多さである。日頃、余分な書類が出て来ないように、帰宅後、すぐにパソコンを開いて、重要な事項を書き入れてしまい、そうやって使い終わった書類は破棄されることになる。しかし、そうやっていても、年末になると、書類が溜まっていることが発覚するのだ。これをとにかく捨てて行く。書類のため、一枚一枚見て行かざるをえないので、大変な作業になる訳だ。

 洋服類も、この大掃除の際に捨てる物は捨てさせる。穴の空いた靴下とか、汚れが落ちないシャツとか、この際にドンドン捨てていかないと、結局、箪笥が洋服で溢れ返ってしまうのだ。食器も欠けている物があるなら、勇気を出して捨ててしまうことだ。「勿体ない」と言っていると、来年一年もまた欠けた食器を使い続けることになるのだ。食器は安い物なので、新品を購入しても家計に響かないものなのだ。

 大掃除をやってつくづく思うのは、要らない物が多過ぎるということ。大掃除の際に捨てない限り、不要品で家の中が溢れ返ってしまうものだ。家が狭いとか言う前に、不要品を捨てる努力をした方がいい。不要品が多ければ多いほど、それだけ自分の考えや行動がシンプルな物にならず、運勢の悪い人生になってしまうのだ。

 この大掃除大好き人間も、実を言うと大学生の頃は大掃除をしなかった時期がある。大学での用事が忙しかったために、大掃除をする暇がなかったのだ。しかし、大掃除をしなかったツケは大きく、大学生の頃は矢鱈と嫌なことに遭遇してしまった。その教訓から年末の大掃除を怠ることをしないようになった。

●年越し蕎麦

 大掃除は12月30日までに終わるので、大晦日は清々しい気持ちで過ごせることになる。我が家では大晦日の夕食は、年越し蕎麦と、なぜか天麩羅という組み合わせとなる。この夕食は質素なのに非常に美味しい。別に蕎麦も天麩羅も特別に美味しい料理ではないのだが、大掃除をして体力を使い、清々しい状態になると、この手の質素な料理でも美味しく感じられるのだ。

 蕎麦を日本に普及させたのは「スサノオの尊」で、この神の神徳を偲んで、大晦日の晩に感謝を捧げるのだ。それから、家族同士で今年一年無事に生きられたことを感謝し合うのだ。家族に対してこういう感謝の仕方は他の日では出来ないので、こういう時にやっておくべきだろう。

 年越し蕎麦を食べ終われば、NHKの『紅白歌合戦』を見ることになる。仕事が忙しくなってくると、音楽の流行に対して鈍感になってしまうので、この番組を見ることで、今年の流行曲とその歌手の名が一致することになる。そのため、いつもマスコミで紅白歌合戦を批判する論調に対しては、こっちが批判したくなる。あの番組にどんな問題があっても、あの番組を楽しみにしている人たちもいるのだ。

 紅白歌合戦は全部を見ているのではない。好きでもない歌手が出て来れば、他のチャンネルを見るものだ。それでもあれだけの視聴率が取れる訳だから、根強い人気がある番組ということなのである。でも、毎年思うのだが、民放はもうちょい面白い番組を作ってほしいと思う。特にフジテレビは非常に面白くない。

 もしも大晦日の晩は自宅にいるというのなら、テレビ東京の番組で、クラシックを演奏して、その演奏が終わったと同時に新年を迎える番組があるので、これをお勧めしたい。俺は何度か見て行く内に、すっかりファンになってしまった一人で、クラシックを聞くことで豊かな気持ちになれるし、新年を豪華な気分で迎えることができるのだ。

●お節料理

 我が家では正月は「女正月」といって、正月の三箇日は女性陣は料理を作らず、料理を休むことになる。そのためのお節料理なのだ。お節料理は正月の三箇日に料理をしなくて済むようにするための物であって、これがないと料理を休むことができなくなるのだ。料理の腕を上げたいというのなら、1年の内に料理をしない日を意図的に作ることなのである。日々料理している人間が、料理をしないからこそ、料理をする有難味が解って来るのだ。

 結婚しているのなら、お節料理は絶対に作った方がいい。和食はレパートリーが少ないので、お節料理がきちんとできれば、他の料理は簡単に成ってしまうのだ。和食で使われる料理テクニックは全てお節料理に出て来るので、お節料理が出来れば、如何なる料理であってもその調理の仕方が簡単に解ってしまうことになるのだ。

 お節料理のレシピはきちんと作っておくことだ。1年に1度しかないので、レシピを残しておかないと、忘れてしまうものなのである。レシピはカード形式にするなり、ノート形式にするなり、自分の使い易い形にしておくことだ。それと余白を必ず残しておくことだ。お節料理を作っていれば、毎年、改善する箇所が見つかるものなのである。

 娘がいるなら、お節料理を作り方をきちんと教えておくことだ。どの家も伝統の味とかがあるので、母親が自分の娘に伝えて行かないと、その伝統が途絶えてしまうのだ。自分の娘がお節料理をきちんと作れるようになったら、お嫁に出しても恥ずかしくない娘になるものなのである。料理ができない女性ほど、結婚したのに、出戻って来るものなのである。自分の娘が離婚した場合、それは母親の子育ての仕方が間違っていたということなのである。

 俺はお節料理が非常に楽しみなのだ。年に1度しか食べられないし、その癖、豪華さを感じるので、食っていていつも楽しいのだ。満漢全席にように美味しい料理を幾つもの皿に並べるのもいいが、お節料理のように重箱にコンパクトに入れて、それを家族で突っつきあいながら食べるのも、家族が団結できて、非常に良いのだ。

●七草粥

 新年の1週間はお節料理を巧く融通しながら、食べ飽きたら他の料理を入れたりして、食べ続けることになる。そして締めとして七草粥を食べることで、お節料理で重たくなった胃を軽くしてあげるのだ。こういう配慮があるのも、また素晴らしいのだ。どんなに美味しい料理も食べ続ければ、胃が重たくなり、何を食べても美味しく感じられなくなるものなのだ。そこにお粥を用意することで、再び味覚を回復させてあげるのだ。

 我が家では七草粥は必ずしも七草を使ってお粥を作っているのではない。要はお粥にすればいいということで、鍋物を食べ終わった後に、お粥を作ることになる。お粥は土鍋か鉄鍋でないと、お粥が美味しくならないので、他の鍋は使わないことだ。恐らく熱の伝導の仕方が、お粥を美味しくする決め手となるのであろう。

 正月気分はこの日までなのだが、いつも年末年始を楽しく過ごせるので、それ以降も気分が高揚として楽しい日々を過ごすことができる。1年の内、10数日間ぐらい、まったりとすれば、1年間一生懸命に生きて行くことができるものなのだ。多くの人々は日頃休みすぎなのだ。休む時は一気に休んでしまった方が、疲れも取れるし、気分も爽快になるものなのだ。

 「大掃除」「年越し蕎麦」「お節料理」という年末年始のジェットストリームアタックを食らうと、パワーアップするものだ。これがあるからこそ「今年1年が終わった!」という気持ちになれるし、「新年が始まった!」という気持ちになれるのだ。この儀式をなくしてしまうと、1年を終わることもできないし、ダラダラとした形で新年に突入してしまい、その年を有効に使えなくなってしまうのだ。

 だらけきった既婚女性だと、大掃除をやるのも嫌々になってやらなくなってしまうし、根性が捻くれれば、大晦日の晩だというのにラーメンを食べたり、堕落してしまえばお節料理を外食で済ましてしまうものだ。そういうことをやっていると、今年1年を清算したことにならいし、新年をパワーダウンをしながらスタートさせてしまうのだ。そういうことをしているからこそ、来年に不幸が続出して来ることになるのである。

 今年一年何があっても、大掃除をしてしまえば、それで清算したことになるのだ。新年は年越し蕎麦を食べ、お節料理を食べ、七草粥を食べることで、気分を一新して、颯爽とした気持ちになることで、新年を楽しく生きて行けばいいのだ。スタートダッシュさせ良ければ、いい一年になるものなのである。

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主婦だからこそ、相談役が必要となる ~悩みを自分一人で抱え込んでも、悩みは解決されない~

●相談役との出会いが自分の幸せを確実にする

 人間は決して全知全能ではない。人間には能力が限られているから、知らないことがたくさんあるし、自分にできないこともたくさんある。結婚すれば、自分がどうやっても解らないことが出て来るものだし、自分がどうやってもできないことも出て来るものなのだ。自分の能力に自信を持つことは大切なことだが、自分の無知や無能に気付くことも大事なことなのである。

 結婚していて、自分に解らないことがあったのなら、誰かに聞くべきなのである。そのために主婦といえども相談役が必要になるのである。いや、主婦だからこそ相談役の存在が必要となるのである。勿論、相談役を持たなくても、結婚生活になんら支障は来たさない。しかし、相談役がいないことで、非常に貧しい結婚生活を送ることになってしまうのだ。

 例えば、自分は料理が巧いと思っていても、この世には自分より料理の腕が巧い人は幾らでもいるものだ。そこで自分よりも料理の腕が巧い人を相談役に迎えれば、その人の話を聞くだけで料理の腕が上達し、家族は美味しい料理に有りつけることで、豊かな食生活を送ることが可能に成るのだ。

 育児が終了し、働きに出た場合、仕事と家事を巧く切り盛りしなければならなくなった時、それに関して適切なアドバイスをくれる相談役がいたのなら、自分は仕事と家事の両立の問題に悩むことなく、仕事をきちんとこなしながら、家事もきちんとこなせるようになるのだ。もしも相談していなかったら、仕事も家事も巧く行かなくなってしまうものなのである。

 結婚していると、妻として、母親として、ちゃんとしたことをやっていれば、幸せになれるだろうと勘違いしてしまうものだ。確かに自分が妻として母親としてやるべきことをやらねば巧く行かないものだが、相談役との出会いが、自分の幸せを確実なものにしてくれるものなのである。この相談役を持たないからこそ、ダラダラと過ごしてしまったり、無駄な時間を費やしてしまうのだ。

●知恵があり信頼できる人

 既婚女性にとって、自分の相談役となる人は、知恵があり信頼できる人でなければならない。結婚生活を巧く運営して行くために知識を持っているのではなく、知恵を持っている人であり、尚且つ信用できる人だ。知恵は持っていても、信用できない人では、まともな知恵を貰えないものだ。結婚生活を豊かにするために話を聞いているのに、その人が離婚経験者では幾らまともなことを言われても、話にならないのだ。だったら、まずは自分で実践してみないさいと、こちらが言いたくなってしまうのだ。

 相談役は何も一人とは限らない。何人か持っておいて、この問題はこの人、あの問題はあの人と、問題の種類ごとに相談役を持っていたら、問題が起こるたびに、相談役を代えて話を聞きに行けばいいのだ。それゆえ、一度、相談役として自分が認めたら、人間関係をきちんと維持し、定期的に挨拶にし行き、信頼を温めておくということは非常に大事なことだ。問題が起こった時だけに来ていると、相手は「またかよ」と思うようになり、邪険に扱われてしまうようになるのだ。

 昔から多くの既婚女性たちが精神的に頼りにしていたのは、修行を積んだ宗教家だ。結婚生活で問題が発生した場合、宗教家に聞くからこそ、その問題を悪化させずに、処理することができたのである。但し、信仰が強まり過ぎてしまうと、教義を優先させてしまい、肝腎の問題に関して、具体的妥当性を欠くようになるので、原理主義的な宗教団体では既婚女性たちの悩みを解決できなくなってしまうのだ。キリスト教が日本で支持されなかったのは、キリスト教(特にプロテスタンティズム)は原理主義的になる傾向が強く、新興宗教団体のように教義に柔軟性を持たせ、信者たちの悩みを具体的に解決して行くという姿勢に欠けたからなのである。キリスト教の国家では精神科医たちが大いに活躍することになるが、それだけ神父や牧師たちが信者たちの悩みを解決していないからなのである。

 宗教家よりも遥かに程度は下がるが、占い師というのも、巧く使えば、相談役として使えるものである。占い師と聞くと、占いがメインになっていると勘違いしてしまうものだが、占い師がやっているのは占いだけでなく、顧客から悩み事を聞き、それに対してきちんと解決策を与えてあげるということなのである。ただ、それが合理的に説明しているのではなく、占いを使うことで非合理的に説明することで、その顧客が自分の理屈から解放され、新たな選択肢を取ることが可能に成るのだ。但し、占い師に頼り過ぎるのは、それはそれで問題である。合理的に物事を処理して行くという理性的態度が弱まってしまうからだ。

 一番危険なことは、自分に悩みがあるからといって、政府や地方自治体にその相談を持っていってしまうことなのである。結婚生活で問題が発生したとしても、公務員に御厄介になる問題など発生して来ないので、間違っても公務員を相談役にしてしまわないことだ。公務員は官僚主義的に業務をこなしてくるので、結婚生活のように人間の情の濃い分野に関しては非常に不得手なのだ。幾ら自分が結婚生活で問題を抱えているからといって、政府や地方自治体に相談を持ちこんでしまうと、問題を解決できるどころか、離婚に持って行かれてしまうので、要注意なのである。

●悩みがあれば相談役に相談すればいい

 人間は生きている限り、悩みを抱えるものだから、自分に悩みがあれば相談役に相談して、その解決を図ればいいのだ。自分でその悩みを解決できないのに、いつまでも自分一人で抱えていては、その悩みを解決できないし、時間の無駄というものなのだ。悩みの中には時間が経過するたびに問題が悪化して行くこともあるので、早目に手を打っておくことだ。

 既婚女性が深刻に成らざるを得なくなるのが、「夫婦の問題」と「子育ての問題」だ。夫婦の関係が拗れた時、その問題以上に、自分が感情的に成っているがゆえに、的確な解決策を導き出すことができないのだ。そういう時は、第三者に相談して、客観的な立場で意見を述べて貰うことが非常に大事なことなのである。これをしないからこそ、夫婦双方が感情的に成って、離婚してしまうのである。

 子育ての場合、一度悪化してしまうと、母親の手には負えなくなるものだ。こういう場合、母親の子育ての仕方が未熟か、実は子育てではなく夫婦に問題があったり、その子が我が子といえども親との縁が薄い子という、三つのパターンに分かれるものなのである。一体、何が問題なのか的確に捉えてくれないと、悲惨なことになってしまうからだ。

 子育ての問題を解決した場合、相手は子供なので、すぐに解決できてしまい、その効果が一目瞭然になるものなのである。それゆえ、他人に相談しているのに、問題解決が長引くようであるなら、相談役を代えて、違う人を相談役に選ぶことだ。相談役は何もこの世に一人しかいない訳ではないのだ。

 深刻な問題を抱えている場合、その既婚女性は家事を放ったらかしにして、相談を乞うものであるが、これだけは絶対にやめておいた方がいい。問題が発生して来る家族というのは、大概が掃除の行き届いていない家なので、まずは掃除をして、家の中を奇麗にしておくことだ。掃除をすることこそが、問題を悪化させずに済み、問題を手早く解決させてくれるのである。

●人は迷うからこそ、成長できる

 既婚女性の中には、自分が悩みを持ってしまうことが、何か悪いことをしているのではないかと思ってしまっている人がいるものである。そのため、悩みがあるのに、その悩みを一人で胸の内に仕舞ってしまい、一見、問題のないように暮らしているのに、自分の心の中では悶々としているということがあるものである。

 人は悩むからこそ成長できるのであって、人が悩むということは、自分が成長して行くためにはとっても大切なことなのである。その悩みを抱いている時は、低迷しているように見えても、その悩みを解決した途端に一気に成長が始まり、大いに飛躍して行くことになるのだ。

 勿論、既婚女性の中には陽気に暮らしてしまい、悩みなど抱かない人もいるけど、そういう女性は成長を止めてしまったのであり、時が経つにつれて、他の既婚女性たちとの格差が明確に成って来るものなのである。人間には運気の波がある以上、いつも陽気に暮らしていることなどできないものなのである。悩みがあるなら、それを悩みとしてきちんと受け止めるということも、自分が成長して行くためには、必要なことなのである。

 既婚女性は悩みを抱え、それを解決するということを繰り返して行くと、妻として母親としての力がついていしまい、ちょっとやそっとのことでは凹たれない、強い女性になるものなのである。もうその頃には、自分が悩みを抱えることは非常に少なくなり、自分よりも若い既婚女性たちの相談に乗って上げられるようになるのである。それが成長の証というものなのである。

 この世には結婚しているというのに、相談役を持たない既婚女性たちがいて、その女性たちが結婚生活を破綻させてしまい、離婚件数を増大させているのである。幾らマスコミで離婚が取り沙汰されても、そういう女性たちは相談役を持つということをしなかったのだなと思うことだ。間違っても自分と同レベルの女性たちと思ってはならない。自分がどんなに深刻な悩みを抱えていても、相談役に相談しておけば解決できてしまうものなのである。結婚を幸せにすることができた人々には相談役がいて、結婚を不幸にさせてしまった人々には相談役がいなかった、というだけのことなのである。

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タマティーの年末ジャンボプレゼント&お年玉プレゼント『夢が叶う初詣の仕方』

●なんで初詣したのに夢が叶わないか?

 本年も当ブログ『幸せ色の出産ラブストーリー』を見て下さいまして本当に有難うございます。このブログには根強いファンがいてくれて、アクセス数は1日に数百万件とは行かなくても、1日にしっかりとしたアクセス数があるので、タマティーにとっては嬉しい限りです。前回の『不妊症バトルロワイヤル』ではもっと見て欲しいと貪欲になっていたのですが、今回はそういう貪欲さが消えてしまい、質の高いブログを作り、それを然るべき人たちに見て貰い、生活の質の向上に役立てて欲しいと思い続けて来たからこそ、出来のいいブログと出来のいいファンを結びつけることができたと思います。

 特にコメントを下さった方々には本当に感謝感謝です! 単なる悩みだとか、単なる質問であっても、タマティーにとってはそのコメントはファンレターのような物で、コメントが来ると元気が出ます。コメントの返答を書く時は、記事を書き終わり、記事を推敲した後で、大急ぎで書くので、必ずしも的確な回答ができる訳ではないのですが、それでも自分で判断して、自分にあったものを選んで、実生活で試してみて下さい。

 そこで今回は、このブログをいつも見てくれている方々に限定して、年末ジャンボプレゼントと、来年のお年玉プレゼントを一緒にして贈りたいと思います。その融合されたプレゼントは、なんと「初詣の仕方」! なんじゃそりゃとは言わないで下さいね。多くの人々は間違った初詣の仕方をしているからこそ、夢が叶わなかったり、1年が巧く行かなかったりするんです。だから、初詣の仕方を教わることで、自分の夢を叶え、来年1年を充実したものにするのです。

 実を言いますと、今年の元日に初詣に行きまして、その際に祈願したものを紙に書いておいたんです。10個書いた夢の内、2個が春頃までに実現してしまったんです。実現した夢には赤いボールペンで丸をつけたので、ちょっと見た目が悪いなと思って、その実現した2個の夢を除いて、新たに夢を加えて、夢リストを作り直したんです。すると夏頃までにその内の2個が実現し、再び赤いボールペンで丸をつけたんです。そして夏辺りに新たに実現したい夢が出て来たので、夢リストを作り直したんです。すると、秋頃までにその内の2個の夢が実現したんです。秋以降は仕事が忙しくなってしまったので、夢リストに変更を加えなかったのでそのままにしておきました。師走に入って、しみじみと夢リストを見て、或る事実を発見したんです。

 これって「80対20の法則」じゃん!

 「80対20の法則」とは、全てが有益なものとなるのではなく、有益なのはその内の20%だけであり、それ以外の80%は殆ど利益を発生させないという法則のことです。初詣でもこの「80対20の法則」が適用された訳です。今年、自分が持っていた夢は30個になるのですが、その内の6個が実現し、それ以外の夢は実現しなかった。自分の夢が叶ったものもあるので嬉しいことは嬉しいのですが、全ての夢が叶う訳ではないんです。

 神道の初詣に関して少し疑問を持ってしまったので、丁度いい機会だと思って調べてみたんです。すると、多くの人々は間違った参拝の仕方をしているがゆえに、初詣をしても夢が叶わない訳なんです。初詣を正しい遣り方でやれば、高い確率で自分の夢が叶うし、最低でも「80対20の法則」が作動して、2割の成功率を誇る筈です。一つも夢が叶わないのは、自分の心が汚れているからなんです。邪念が有り過ぎると、幾ら祈願しても夢は叶いません。

●大晦日までに自分の夢を紙に書く

 現在、日本では太陽暦が採用され、元日は1月1日の午前零時を回ってから始まります。しかし、神道では日没を以て1日の始まりとしますので、元日というのは、実は12月31日の日没から始まることになるんです。多くの人々はこの時間を『紅白歌合戦』を見て、無駄な時間にしてしまっているからこそ、元日早々からズッコケている訳なんです。

 しかも、神道の祭祀は、前夜祭の方が本番なのであって、この大晦日の晩こそが正月の祭りで最も大事な時間帯なんです。お節料理の豪華さに目を奪われてしまい、それが聖餐だと思ってしまうのですが、実は年越し蕎麦の方がより重要な聖餐なんです。通常のお祭りで、御神輿が出て、みんなでワッショイワッショイするのは、実は重要な祭祀が終わった後にやるものなんです。そう考えると、元日に初詣してみんなでワイワイガヤガヤするのは、重要な祭祀が終わった後にやるべきことなんです。

 大晦日の日没から元日の朝にまでやっておくべき重要なことは、実はその時間内に本年無事に生きて来られたことを家族全員で神に感謝すると共に、自分の夢を紙に書いておくことなんです。自分の夢を叶えたければ、元日の夜明けまでに紙に書いておくことが絶対に重要なことなんです。だから昔から「一年の計は元旦にあり」であって、「一年の計は元日にあり」ではないんです。

 この事実を知った時はショックでしたよ。だって毎年、元日の朝に御屠蘇を飲んで良い気分になり、お節料理を鱈腹食べて、それから初詣に行き、そして帰宅後、自分の部屋に籠って1年の計画を立てていた訳だから、この遣り方だと夢の実現力が落ちる訳です。まさか紅白歌合戦を見ている時間こそが、非常に大事な時間帯だなんて思わなかったですよ。

 実際問題として、来年やりたい夢があるなら、それを大晦日までにリストアップしておくことです。そして日没後、清書して夢リストを制作し終わってから、年越し蕎麦を食べるようにした方がいいです。この作業は夫婦共同でやるが、別々の紙に夫婦それぞれの夢を書くようにすることです。子供が6歳以上なら、子供にも夢リストを書かせて、来年の夢を明確にしておくべきです。

●まずは感謝を述べる

 初詣は夢リストが出来上がり次第、いつでも行っていいんです。理論上は大晦日の日没以降からでもいいんです。昔、元日の午前零時を回っていないのに、初詣をしている人々を見て、なんでこんなことをしているんだと不思議に思っていたのですが、これは正しい行為なんです。

 但し、初詣は元日の正午にまでは行くことです。別に元日のどの時間帯に行っても構わないのですが、正午をすぎると神社の境内の気が乱れ始めるんです。神社のいい気を貰いたいのなら、午前中に参拝してしまい、奇麗な気を貰って、1年を清々しく過ごせるようにすることです。

 それと初詣をする際、自分の願い事を先に祈ってしまわないことです。神社への参拝は感謝が基本なんです。古代の祝詞はその殆どが神への感謝なんです。時代が下がるにつれて祈願の方が多くなって行ったけど、まずは神に感謝をしないと、自分の願い事を聞きいれて貰えないんです。

 感謝と祈願の割合は、「3:1」がベストです。3つ感謝して、1つの願い事を祈ればいいんです。夢リストに書いたことを全て祈願しなくてもいいんです。混雑していて後ろが痞えているようであるなら、最低でも一つは感謝することを述べ、その後に一つの願い事をすればいいんです。

 初詣は家族全員でするのが基本です。子供も大きくなって来ると、友達同士で初詣をしたいと言い出して来るものですが、高校を卒業するまでは、どんなことがあっても家族全員で初詣に行くようにすることです。初詣は去年1年間無事に生きれたことを感謝するのですから、その日をすっぽかして遊びに行くことは絶対に許されるべきことではないんです。友達と初詣に行きたいのなら、元日以外の日に行けばいいんです。

●夢リストを居間に貼っておく

 夢リストは机の中に仕舞っておくものではなく、目立つ所に貼っておくものです。夢リストを居間に貼っておいて、毎朝、自分の夢を確認するのです。そしてその夢が実現できたら、赤いボールペンで丸をつけて、自分の目で見える形で夢が実現できたことを表現しておくのです。こうすると、一体どの夢が実現できたか一目瞭然となる訳です。

 真面目に生きていれば、夢リストの内、20%の夢は叶う筈です。20%の夢は難なくクリアしますが、それ以降、そのまま夢が実現して行ってしまう人と、停滞してしまう人が出て来ます。夢がドンドン実現して行った人は、夢リストの50%の夢が叶ったら、次の紙に新たな夢を書き出し、再び参拝することです。全ての夢を叶えてしまわないようにすることです。敢えて不完全を残しておくのです。一方、停滞している人は、それ以上そのままにするのではなく、次の紙に新たな夢を書き出し、再び参拝すればいいのです。今年、タマティーがやった方式を採用すればいいんです。

 家族内で家族の誰かの夢が叶った時、必ずそれを祝福してあげることです。特に子供が夢を実現できたのに、母親から祝福して貰わないと、子供は物事に精進しなくなり、遊び呆けるような子供になってしまいます。特に男の子の場合、いつもイタズラをしているために、手柄を立てても、過去のことを持ち出して、そこをネチネチと追及してしまう母親がいるので、要注意です。イタズラをする子供だって、母親に褒めて貰いたいんです。

 特に自分が重要だと思っていた夢が実現できた時は、神社に参拝して感謝の意を述べておくことは非常に大事なことです。神道の参拝は感謝が基本なので、願い事が叶ったら神社に感謝しに行き、その際はなんの祈願をすることなく、感謝しまくることです。そうすると、他の夢も叶い易くなります。

 初詣は毎年国民の殆どが参加する一大イベントです。しかし、多くの人々は初詣をして、それっきりになっているもんです。だからこそ、自分の夢が叶わないんです。初詣を正しい初詣の仕方で行い、一体、自分が何を祈願したのか紙に書き現わし、それを日々チェックして行くことです。そして年末にどの夢が実現したのかを数え上げてみることです。

 正しい初詣の仕方で初詣をしている人など殆どいないのだから、このブログを見た人たちは、この正しい初詣の仕方を実践すれば、必ず夢が叶うようになります。競争相手など皆無に等しいものです。自分が実践すれば、圧勝することが確実です。タマティーのプレゼントは、宝石のように貰って「まぁ嬉しい!」で終わるものではなく、このプレゼントを貰ったあなたが実践しないと効果のないものになりますので、是非とも実践してみることです。

 実践すれば、あなたの夢は簡単に叶ってしまうことになります!

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正しい人脈こそ、「貴人」との出会いを引き起こす

●男と女の人脈作りの違い

 幼稚園とかで両親が参加する催し物があると、母親たちは母親同士で固まりペチャクチャと喋りまくるものだが、父親たちは一人でポンツンと立って、点でバラバラの行動を取るのだ。これこそが男女の性差であり、脳の働きの違いがこういう所に如実に現れて来るのだ。女性の脳は他人と喋ることでネットワークを形成しようとし、男性の脳は放っておけば孤独を好み、必要があれば組織化して組織戦をしたがるのだ。そのため、職場では仕事の関係上にこやかに話す男性でも、必要がなければ孤独になり、何も喋らなくなるのだ。

 本屋に行ってみれば解ることだが、人脈作りの本というのは、殆どが男性向けに書かれてある。女は誰とでも話せ、誰とでも仲良くできるから、人脈作りに悩むことなどないからだ。しかし、男性は誰とでも話せないがために、人脈作りで悩み、そのために専門書を読むことで、その欠点を克服しようとするのだ

 その結果、人脈作りの仕方をきちんと習得した男性は、人脈作りが非常に巧くなり、自分の人生を成功へと持って行けることができるのだ。しかし、女性は人脈作りを研究しなかった余りに、元々人脈作りが巧ければそれそれで成功するが、そうでないと他人とは仲良くなれるのに、どうしても巧い人脈が作れないという欠点を抱えてしまうのだ。

 既婚女性にとって最大の弱点こそ、「正しい人脈を築く」ということなのである。今まで家事や育児を行って来たがために、どうしても家族のことだけを考えるようになってしまい、たとえ他人と仲良くなっても、それは育児の延長線上にあるのであって、自分の人生に成功をもたらすための人脈を築いていないのだ。

 人脈というのは、ただ広げて行けばいいというものではない。悪い人脈だと自分に損害が発生するし、碌でもない人にしか出会えなくなる。正しくない人脈では、自分にとって価値ある人と出会えないのだ。昔、ナンパされたり、合コンに参加したことのある女性なら解るが、 そこで一度でもいい出会いというものがあっただろうか? 絶対にない筈だ。人脈は正しく作って行かない限り、素晴らしい人物とは絶対に出会えないのだ。

●貴人こそ運命を激変してくれる

 まず人脈作りの基本中の基本は、自分と最も親しい友人を大事にするということだ。その友人こそが自分の人脈の基点となるからだ。親しい友人を作れないとなると、正しい人脈が展開していかないのである。既婚女性の場合、親しい友人は絶対に女性であり、既婚者であり、子持ちでなければならない。自分が美人だったら、その友人も美人だろうし、自分の器量が悪いのなら、その友人も器量が悪いことだろう

 既婚女性が人脈を作って行く時、直感で他人を判断していいのだ。女性の場合、直感が男性よりも優れているので、第一印象で見た感想こそが自分にとっての正しい判断なのだ。第一印象で素晴らしい人なら、自分にとって素晴らしい人だし、第一印象で駄目だなと思ってしまえば、自分にとって駄目な人なのだ。勿論、この判断は半永久的なものではない。飽くまでも今の自分にとってどうなのかなのである。

 正しい人脈を作って行くと、その内、「貴人」という人が現れて来る。貴人というのは、自分の運命を激変してくれる相手だ。その人に出会ってしまうと、なぜか運気が非常に良くなって、人生が大成功してしまうことになるのだ。結婚している場合、夫にとって貴人が現れ、それによって妻の運命も変わってしまうということが多々あるものなのだ。

 その際に要注意すべきことは、夫が興奮しているにも拘わらず、妻の方がその価値が解らないために、貴人に対して失礼をしてしまい、その出会いを台無しにしてしまうことなのだ。これは良くあることなので、絶対に気をつけるべきだ。会社員なら、その会社の社長が貴人となる訳で、社長の自宅に夫婦で呼ばれた時、その訪問で話が盛り上がれば、明日からは夫が大抜擢され、運命が変わって行くのである。もしも、この訪問を妻のせいで台無しにしてしまうと、夫の能力はこの程度かと思われてしまい、左遷されてしまうことにもなるのだ。

 妻にとっても、育児がひと段落し始める頃から、妻にとっての貴人に出会う確率が上がって来る。自分の友人から貴人を紹介され、その人から思わぬ情報を貰って、それがビジネスを始める切っ掛けとなり、大成功してしまうということは起こって来るものなのである。自分から事業を起こさなくても、ネットワークビジネスのように他人に商品を紹介することで報酬が得られてしまうビジネスも存在するので、そのネットワークビジネスをもたらしてくれた人こそが、自分にとっての貴人となるのだ。

 結婚していると、貴人と出会う確率が独身時代に比べて100倍以上に成る。妻は夫の精神作用を受けて精神レベルが上がり、夫は妻の肉体作用を受けて人脈を広げて行くことが可能になり、それが相乗効果を起こして、いい出会いに恵まれるようになるのだ。男女共に、独身の頃には芽が出なかった人でも。結婚した途端に出会い運が強まってしまい、貴人に出会うことで、自分たち夫婦の運命を激変させてしまうのである。

●自己修養と社交術

 貴人との出会いはいつ起こるか解らないので、それまでに準備をしておくことだ。いざ貴人が現れても、自分にこの人は自分にとっての貴人であるということが解らなければ、そのチャンスを逃してしまうことになるからだ。そのチャンスは一度きりなのであって、そのチャンスを逃がしてしまえば、もう二度とそのチャンスは巡って来ないのだ。

①雑誌や書物を読み、思索をする

 そのためにはなんと言っても雑誌を読むことだ。雑誌を読んでおけば情報に敏感になれるし、いざ会話をする時でも話のネタに困らなくなるからだ。ここでいう雑誌は原則として月刊誌のことだ。週刊誌は余りにも低俗すぎるので、それを好んで読んでいると、低俗な人々にしか出会えなくなるものだ。自分が好きな月刊誌があるなら、それを一年間以上定期購読してみることだ。これをやると人脈作りの際に非常に役に立つのだ。

 それから読書である。良書を読むべきだし、自分にとって必要な本は読んでおくことだ。流行の本も気が向いたら目を通しておくことだ。人間は読書をすると、知的レベルが一気に上がり、他人を会話する際に、知的な会話ができるようになるのだ。読書を何もしないでいると、他人が知的な話をして来た時、一体何を話しているのか解らなくなるので、相手から「こいつはバカだな」と判定されてしまい、そこでその人との人間関係が途絶えてしまうのだ。

 何か考え事をすることがあるなら、きちんと思索をする習慣をつけることだ。その際、その思索は長くても15分程度にしておくことだ。女性が思索をする場合、この時間が良好な思索をする時間の限界であり、それ以上、思索してしまうと、思索の質が悪くなって行き、最悪の結論を出してしまうことになるからだ。

②少し控え目な服装にする

 貴人との出会いは、服装が正しくないと、その貴人には出会えないものだ。結婚しているというのに派手な服装をしていたり、肌を露出しているような服を着ていれば、貴人とは出会えなくなってしまうものなのだ。既婚女性の場合、結婚していることに安心しきってしまうために、ファッションセンスが落ちてしまう女性が出て来るので、服装に関しては気をつけておくことだ。

 ファッション誌に目を通しておくことは勿論のこと、高級ブティックに行って目を肥やしておくことだ。できればその店員と仲良くなって、表に出て来ない情報を仕入れておくことだ。金銭の許す限り、特注品の服を持っておくべきだろう。自宅で服を着る際は、自宅に大きな鏡を置いておいて、常に全体のバランスをチェックしておくことだ。服装は少し控え目な格好にするくらいで丁度いいのだ。女性は老化すると、視力が落ちたり嗅覚が落ちたりするので、化粧を濃くし過ぎない、香水を付け過ぎないことだ。

 自分にファッションセンスがないというのなら、高級ブランドの服を着て誤魔化すというののも、一つの手だと覚えておいた方がいい。俺が女社長たちと仕事をしていて、顔はブスだし体型はひどいし服のセンスも悪いなと思っていたら、その手の女社長たちは皆一様にシャネルの服を着ていたのだ。シャネルの服は高級ブランドの服の中でもダサイ服が多いのだが、ところが、あんなにダサくても高級ブランドということで一応粗相にはならないし、どうやってもお客様より美しくないので、相手に不快感を与えないのだ。誉めた遣り方ではないが、こういう使い方もあるのだ。

③話す内容に注意を要する

 他人と会話をする際、話す内容に注意することだ。様々な相手に対して様々な話のネタを用意しておくことも大事だが、誰に対しても、普通に会話するように心掛けることだ。身分が高かろうが低かろうが、普通に会話をしていると、いざ貴人と出会っても普通に話すことができるものなのである。

 会話に一度たりとも笑いがないようでは息が詰まってしまうものだ。話をする際は必ずユーモアを加えてようにすることだ。但し、ユーモアは必要だが、必ずしも笑いを取ればいいということではない。真剣な話し合いに成った時には、笑いなど一切必要ないからだ。もしも笑いを取ることが最も価値のあることなら、お笑い芸人たちは貴人に恵まれている筈だ。しかし、そうならないのは、お笑いだけでは駄目だということだ。

●成功よりも成長し続けること

 正しい人脈を作ったり、貴人に出会ったりすれば成功して行くことになるが、それは自分が成長しているからこそ成功できるのであって、成功よりも成長することを心掛けることだ。優れた友人は自分を成長させてくれるし、貴人と出会えば大いに成長して行くことになる。その人と一緒にいて自分が成長できるか否かというのは、友人の価値を判定する際に、非常に重要な基準となる。

 自分を同じ場所にいつまでも留まらせる友人は、どんなにいい人であっても、自分にとっては有害な人なのである。人間は成長することに喜びを見出す生き物であって、万が一、成長しなければそのエネルギーがマイナス方向に働いてしまい、一気に堕落して行く方に向かってしまうのだ。

 ただ漠然と人脈を広げて行っても意味がない。自分が成長していればこそ、その人脈が生きて来るのである。もしも友達の数が多い事が成長に繋がるのなら、社交家の女性は大成功を収めている筈だ。しかし、そうならないのは、自分が成長しない限り、人脈を有効に使えないということなのだ。

 自分たち夫婦が結婚してから、順調に成長し続けて行くと、或る日突然に貴人が現れて来て、自分たち夫婦の運命を激変してくれるのである。後は勢いに任して変わって行けばいいのだ。多いに成長する時は勢いに任して突き進んで行った方がいいのである。自分たち夫婦が気付いた頃には、以前では有り得ないほどの幸福を手にしていることだろう。

 貴人に出会えないというのは、その夫婦が成長していないということなのだ。どこかで成長を止めてしまい、ウダウダとやっているだけなのである。今は平穏無事に過ごしていても、その内、堕落が始まり、様々な不幸が襲いかかって来るようになるのだ。結婚したのに成長しなければ、その悪魔のツケは恐ろしいことになるものなのである。

 とにかく日々成長し続けて行くことだ。今現在、問題を抱えていても、自分が成長してしまば簡単に解決できてしまうものなのだ。成長し続けていれば自然と成功し続けることができるようになるのである。自分が成長してさえいれば、正しい人脈を作ることができるし、貴人との出会いも起こって来るものなのである。

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人は貰っているばかりだからこそ不幸に成る。人に与えるからこそ幸せに成る。

●環境が悪いんじゃない!

 自分たち夫婦が結婚して10年以上経つと、結婚当初では考えられないくらいに家族の規模が巨大化してしまうものだ。夫婦二人なら質素に暮らせるものでも、子供たちが加われば、なんと物入りなのかに驚かされるものだ。一方、夫の収入も高くなり、家族が必要とする様々な物を購入するだけの経済力を手にしてしまうので、いつの間にか家の中は物で溢れ返ることになってしまう。

 すると人間は不思議なもので、今までは家庭の重みなど感じたことがなかったのに、自分が作った家族こそが、自分の重荷になってしまうのだ。そのため、その環境の重みこそが、自分の独立を破壊してしまい、独立が自立に落ちぶれ、自立が従属になってしまい、結婚しているというのに、家族がいるというのに、まるで子供のような態度を取り始めるのだ。自分の精神が幼稚化した以上、自宅にいる子供たちと結託するのは当然のことで、妻が子供と一緒に夫を非難したり、夫が子供たちと一緒に妻を非難したりするようになるのだ。

 この家族が大きくなったために独立が破壊され、従属状態に陥ってしまうのは、男女に関係なく、夫婦共々起こって来るものだ。この手の人々は我が身を振り返ろうとせず、常に「環境が悪い!」と言い出すことでは共通している。夫なら曰く「政治が悪い」「景気が悪い」「社会が悪い」、妻なら曰く「夫が悪い」「子供たちが悪い」「幼稚園が悪い」「学校が悪い」と、他人に責任をなすりつけることしかしてこないのだ。

 なぜ、この手の人々が不幸になってしまうのかというと、幾ら話をしても、主語がすべて他人だからだ。自分の人生なのに、自分が主人公になっていないのだ。この世のすべての物事は、自分が責任を負うからこそ、その人が最も利益を得られるのであって、自分が責任を負わなければ、なんの利益を得られないのは当然のことなのだ。

 はっきりと言わして貰おう! 環境が悪いんじゃない! 悪いのは環境ではなく自分なのだ! しかもその環境を作り上げたのは自分自身であって、実は自分自身は恵まれた地位にあることに気付いていないのだ。しかし、自分の独立性を自ら失ってしまい、精神的に従属状態に陥ってしまうからこそ、幸せに満ちた家が、不幸に満ちた家に見えてしまうようになるのだ。

●貰う側から与える側へ

 人間が独立するためにはただ単に独立すればいいという訳ではない。貰う側から与える側へ転換しなければならないのだ。人間は従属状態にいれば、人から物を貰うことに最大限の喜びを感じてしまう。子供たちは従属状態にあるので、子供たちに物を与えれば大喜びする筈だ。しかし、親は独立することで、人から物を貰うことで大喜びするのではなく、人に物を与えることで大喜びをしなければならないのだ。

 だからこそ、自立が終わっていない人は、絶対に結婚しないものだ。人に物を与えるよりも、人から物を貰うことに喜びを見出したり、等価交換を考え出して、いつも他人に自分が与えた価値以上の物を与えようとしないのだ。それゆえ、自分が得られる利益は非常に少なくなり、どうしても自分が豊かに成って行かないのだ。

 結婚しているなら、配偶者に物を与えて行く。子供たち物を与えて行く。そこに最大の喜びを見出しておかないと、家庭内で愛が循環しなくなり、豊かな生活をしている筈なのに、なぜかみんなが不幸に成ってしまうという異常事態が起こってしまうのだ。この現象は、身分や階級を問わないものだ。強いて言うなら、経済的なピンチが過ぎ去っている夫婦に起こり易い問題なのだ。

 経済的に貧乏なら、夫婦が協力し合い、子供たちまで手助けしてくるから、両親から独立性が失われるということはない。だが、経済的なピンチが過ぎ去ってしまうと、夫婦も結婚しているのに疎遠になるものだし、子供たちも親のことより自分の方が大事となってしまい、家族が家庭内でバラバラになってしまうのだ。

 幸せな筈なのに従属状態になっているから、我が家が、「人形の家」と化してしまっているので、心の中は空っぽなので、そこを狂信的な宗教団体に付け込まれたり、フェミニズムに付け込まれたりするのだ。こうなると家庭などそっちのけになって、それらの団体の活動に従事し、自分は信仰やイデオロギーで満足を得つつも、家族はより一層バラバラになり不幸に成って行ってしまうのだ。自分がきちんと独立し、人に物を与える立場に立っていないと、自分が持っている物を根こそぎ奪う連中に付け込まれてしまうのである。

●育児の時には当たり前に出来たのに

 狂信的になってしまった母親も昔はそうではなかったのだ。赤ちゃんを産み、育児をしている時は、我が子に無償で様々な物を与えることができたのである。赤ちゃんは母親がすべての物を与えて行かないと死んでしまうから、母親としては一生懸命になって赤ちゃんに尽くすものだ。

 しかし、その赤ちゃんが大きくなり、親の手助けを借りなくなると、この有様である。育児が終了し、子育ての時期に入って行くと、今度は物理的に何かを与えて行けばいいというものはなく、精神的な物を与えて行かなければならないものなのだ。子供だからこそ、親として子供に教えておくべきことは教えておかねばならないのだ。それなのに、物を教えることを学校任せにしてしまうと、途端に自分の精神状態が低下してしまい、独立が破壊されて行くくのである。

 世の中には「友達感覚の親子関係」を自慢する母親がいるものだが、そういう母親は最早、親になっていないのだ。子供と同じレベルまで精神が下がってしまっているにすぎないのだ。そりゃあ、子供にとっては母親が自分たちのレベルまで下がって来てくれているのだから、話し易いことだろう。だが、その母親と幾ら話し合っても、親から学ぶことなど一つもないのだ。もしも学ぶべきことがあるなら、「どんなことがあっても、こういう母親にだけはなりたくない!」というものだろう。

 子供の数が多ければ、こんなことは絶対に起こらない。一番下の子の世話をしなければならない時期が続いている限り、母親は母親として独立を維持し続けることだろう。しかし、子供の数が少なくなり、一人っ子や、子供が二人程度では、子供たちが小学生になる頃には、母親が暇を持て余す余りに、独立性が失われ始めてしまうのだ。

 結婚したのなら、なるべく子供を多く産んで行くと同時に、暇があるからといって、自分の独立性を破壊してしまうようなことはしないことだ。常に自分が物を与えて行く側に回り、そのことに最大の喜びを見出すことによって、家族内で愛を循環させていくべきなのである。家庭の中では親は二人しかいないのだから、母親が手抜きをしてしまえば、途端に異常事態に陥って行くものなのである。

●人に幸せを与えて行くと、幾らでもパワーが湧いて来るもの

 人間という者は、大きくなってしまえば、他人から物を貰っても、それほど喜ばなくなるものなのである。求める側に回ってしまったら、「ああしてくれない」「こうしてくれない」と不満しか出て来ないものなのだ。どんなに高価な宝石を貰っても、ケチをつけてしまうのが、人間のサガがであることを決して忘れないようにしよう。

 人に物を与えて行く側に回ると、「どうやって相手を喜ばせようか」「どうやって相手を幸せにしようか」と、幾らでもアイデアが出て来るものなのだ。人から幸せにして貰うアイデアは少ないが、人を幸せにするアイデアは無尽蔵なのである。だから、自分が独立している地位を決して手放さないことだ。自分が独立しているからこそ、アイデアは無尽蔵となるのである。

 不思議なことに、人に幸せを与えて行くと、幾らでもパワーが湧いて来るものなのである。丁度、育児をしていた頃に、体力的にはヘトヘトな筈だったのに、赤ちゃんを幸せにしていると、幾らでもパワーが湧いて来たように、他人を幸せにしていると、自分がどのような状況に成っても、パワーが湧いて来るものなのである。

 結婚が凄まじい威力を発揮して来るのは、夫婦双方が互いを幸せにすることで、両親が協力して子供たちを幸せにすることで、その家族の中から爆発的なエネルギーが湧き起こって来るということなのである。だからこそ、男女共に、結婚して一人前であって、独身者が如何に立ち振る舞っても、既婚者が持つ得体の知れないパワーを発揮することはできないのである。家族がなければ、愛の循環が起こって来ないからだ。

 結婚して不幸になった人々は、人から貰うことばかりを考えているからこそ、不幸に成って行っただけのことなのである。幸せになりたければ、人に物を与えることだ。人を幸せにする努力を決して怠らないことだ。そして自分が独立している地位を決して手放さないことだ。精神的に自立すらしていない人から見れば、他人の物を与えまくる人生は損する人生と思ってしまうかもしれない。しかし、実際にやってみると、他人を幸せにしているからこそ、自分も幸せになれるのである。一方、自分の幸せばかり追求して来た人々は、誰をも幸せにすることができず、挙句の果てには自分も不幸に成って行ってしまうのである。この世は「逆こそ真」という不思議な現象で溢れ返っているのだ。今現在、自分が幸せでないというのなら、まずは自分の配偶者や子供たちを幸せにして行くことだ。そうすれば、自然と自分も幸せになることができるのである。

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結婚のダークサイド ~幸せだからこそ不幸が起こる。不幸だからこそ幸せが遣って来る。~

●幸せの絶頂の中で凄まじい不幸は発生する

 すべての男女は結婚する際、自分たち夫婦が幸せになることを願って結婚するものである。しかし、夫婦の中には幸せになれる夫婦と、不幸になってしまう夫婦が出て来る。その幸不幸の差は、「結婚の仕方」を習得できたか否かにあるのであって、結婚したのに「結婚の仕方」を習得できなければ、当然に不幸になる。

 結婚すれば夫は妻子を養うだけの収入を稼ぎ出さなくてはならないし、妻は家事や育児をきちんと切り盛りしなくてはならない。どんなに激しく愛し合った夫婦でも、夫の収入が少なければ、妻が家事や育児をこなすことが稚拙であれば、途端に問題が続出し始め、夫婦喧嘩や、夫婦暴力や、家庭内別居や不倫や離婚へと陥って行くのだ。

 しかし、「結婚の仕方」を習得し、夫婦が幸せになれば、それで万々歳という訳ではない。その夫婦が結婚の仕方を習得すれば、当然に幸せに成って行く。夫婦双方家族共々幸せな日々を過ごすことができる。だが、「幸せの結婚」を実現してしまうと、結婚の中から不幸がボツボツと起こり始めるのである。これこそ「結婚のダークサイド」である。

 夫の仕事は順調に行っていた筈なのに、或る日突然に企業の不祥事に巻き込まれてしまう。夫は何もしていないのに冤罪に巻き込まれてしまう。妻は昨日までは健康そのものだったのに、病気になってしまい、長期入院を強いられることになる。子供たちが平穏無事に育ったのに、交通事故に遭ってしまう、誘拐されて殺されてしまう。果ては折角一軒家を建てたのに、火災に遭遇してしまう、地震で建物が倒壊してしまう。

 幸せの絶頂の中で凄まじい不幸が発生して来るのだ。この手の不幸は通常の不幸ではない。自分たち夫婦がどう考えても、有り得ない起こり方をして来るのだ。光が強く当たれば、それだけ影も濃くなるように、幸せが多くなればなるほど、不幸も激しいものに成って行くるのだ。幸せに成って行く過程で、自分たち夫婦に何かしらの無理が生じ、それが不幸となって現れて来るのだ。しかもその不幸は自分が最も愛する相手に対して噴出して来るのである。

●意図的に不完全を残す

 では、どうすればこの「結婚のダークサイド」を防げることができるのだろうか? それは意図的に不完全を残すということだ。絶対に結婚を完全なものにしない。或る程度出来上がったら、それ以上手を加えて完成させようとせず、他の作業をやるようにすることだ。自分が何をやっても、改善の余地がある程度が丁度いいと思うことだ。

 例えば、夫婦間では自分の意見が全て通らないようにする。夫の意見が一方的に通ってしまったり、妻がいつもベラベラと喋っている夫婦では、或る日突然に不幸が大爆発を起こして来るのだ。自分がどんなに正しい意見を言っていても、最大でも80%の完成度で満足し、残りの20%に関しては目を瞑ることだ。

 料理を作る際でも、どんなに優れた主婦でも完璧な料理などできないものなのである。実際に自分が作ってみれば、どこかに問題が発生して来るものだ。それはそれで良しとすることだ。次回から、その反省を活かし、改善策を施せばいいのである。幾ら料理の腕が上手だからといって、いつも完璧なる豪勢な料理を出していては、その料理を食べた家族の誰かが不幸に陥ってしまうのだ。

 それから、引っ越しをする際は、「何も物を置かない部屋」を人為的に用意し、敢えて無駄な空間を作ることだ。日本では住宅事情が悪いために、引っ越した際にはすべての部屋を荷物で一杯にしてしまう傾向がある。しかし、そういうことをやってしまうと、結婚のダークサイドが作動し、当然、強烈な不幸が起こり始めてしまうのだ。特に「豪邸に引っ越すと、その家族に死人が出る」と良く言われるが、これは豪邸に住んでいるのに、無駄な空間を作らなかったために、死者が出てしまうほどの不幸が起こってしまうのだ。

 世の中には「完全なる結婚」を求めたがる女性たちがいるから要注意だ。人間は完成していないからこそ、成長が可能なのであって、「完全なる結婚」というのは素晴らしい理想に見えても、実際にそれをやってしまえば結婚は成長を止めてしまい、死んで行ってしまうのである。人間は自分が不完全な癖に、完全を求めたがる傾向があるので、この手の愚劣な意見には絶対に耳を貸さないことだ。表面的には美辞麗句が並んでいても、実行すれば確実に結婚が不幸になってしまうのだ。

●仕事に成功しつつ、家族を大切にする

 人間はバランスが崩れてしまえば、幸福もバランスを崩して不幸に成って行ってしまうので、仕事と家族のバランスを巧く維持することだ。夫婦の場合、夫には仕事に重点を置いて貰い、絶対にマイホームパパになって貰わないことだ。いつも自宅に居て、家族サービスを行っている男性など、外で大した仕事をしていないのだ。夫がどんなに優しくても、その内、収入の少なさを巡って喧嘩が起こり始めるものなのだ。

 かといって、夫の仕事が忙しすぎるようであるなら、それはそれで危険信号が出ているということなのだ。仕事が忙しすぎるというのは、夫にストレスと過労が溜まりつつあるということなのである。だから、仕事が忙しい夫でも、家族サービスの時間を意図的に確保して貰う。家族サービスははっきりと言って時間がかかるものなのだから、夫が家族と一緒にいる時は、妻は夫に感謝して有効に過ごすことだ。

 働く母親なら、そんなに仕事に重点を置き過ぎないことだ。家事や育児をこなしてきた既婚女性であるなら、そんなに力を入れすぎなくても、仕事をこなすことができるからだ。しかも、収入に関しては夫の収入があるので、それほど無理をしてまで仕事をしなくていいのだ。どこかに余裕を以て仕事をするからこそ、仕事も家庭も巧K行き出すのである。

 専業主婦なら家事や育児に専念していないで、夫の仕事の支援をすることだ。夫は仕事が忙しくなって来ると、服装がだらしくなくなって来たり、靴が汚れて来たりと、どこかにその異常さが出始めて来るのである。だから、余力のある妻が夫の支援をしてあげることで、夫の手助けをしてあげることだ。

 それとどんなに収入が多くtも、日々質素に暮らし、所得金額以下のお金で生活し、資産を着実に増やして行くことだ。所得金額を全て使ってしまい、贅沢をしてしまうと、途端に金銭感覚が狂い始めるので、絶対に生活を一杯一杯にしてしまわないで、資産を着実に増やして行くことだ。

●自分の利益にならないことを敢えてする

 結婚は夫婦や子供たちのために行っているのだが、自分の家族以外にも自分たちの幸せのお裾分けをしてあげることだ。慈善活動を行い、宗教活動に従事することだ。敢えて自分の利益にならないことをし、相手に利益を施すのだ。そうやって自分が意図的に不利益を被ることで、結婚のダークサイドを消して行くのだ。

 慈善活動といっても、無闇に寄付金を出していては、不幸を消すのに有効とはならない。自分の寄付金がきちん社会的弱者に行くようにしなければならない。自分たち夫婦に資産があるなら、自分たちの資産を使って財団法人を作って行えばいいし、どこかに寄付金を出したいのなら、その経理状況をきちんと調べることだ。

 知識人たちは宗教を毛嫌いし、無宗教を表明いして来るものだが、そういう知識人たちは実生活で幸せになっていないものだ。宗教というのは、お金がかかるものであるが、結婚のダークサイドを消し去ってしまうことに関しては、最強の効果を発揮するものなのだ。だからこそ、多くの人々がその宗教の持つ力を使って、結婚のダークサイドを消し去って、自分たちが幸せに生きて行けるようにするのだ。

 利己心の塊になり、自分の利益ばかり追求していると、まともな友人は消えて行くものだし、お金はある筈なのに夫婦がいがみ合ってしまい、子供たちが非行に走り出すものだ。人間は利己的な動物であると同時に、利他的な動物でもあるので、きちんと自分の利他心を満たしておくことだ。

 但し、世の中には単なる優しさが逆に不幸を招いてしまうものがあるので、その偽りの優しさを拒否できる知恵を持つことだ。例えば、友人間でお金の貸し借りをしないことだ。お金に困っているからといって、その友人にお金を貸してしまうと、そのお金を返して貰えないどころか、友情にまでヒビが入ってしまい、その友人を失ってしまうからだ。お金を貸して欲しいと言い出して来たら、やんわりと言葉で惑わして、お金を貸さないように持って行くことだ。そして、そのような友人とは距離を置き、今後、仲良くしないことだ。

●「満ちれば欠ける」「空になれば増えて来る」

 結婚のダークサイドを消し去る秘訣は、「幸せになりすぎない」ことだ。今の自分たち夫婦のレベルよりも幸せに成り過ぎたからこそ、不幸が発せし始めるのであって、必要以上の幸せを得たのなら、他人にその幸せを施してあげることだ。意図的に幸せを減らすことで、今まで以上に幸せが遣って来るようにしてあげるのだ。

 この世は、「幸せだからこそ、不幸に成る」「不幸だからこそ、幸せに成れる」という一見すると有り得ないような動きを取って来るものだ。だから、幸せに成り過ぎたら、その幸せに成り過ぎたことに要注意し、不幸になっても、その不幸に嘆くことはせず、その不幸から這い上がって行く努力をすべきなのだ。

 世の中には自分たち夫婦よりも幸せな夫婦がいるものだ。そういう場合、嫉妬してしまわないことだ。自分たち夫婦も努力をすれば、あのような夫婦に成れると思って、日々精進して地道に幸せに成って行くことだ。嫉妬をぶつけてしまえば、自分たち夫婦は今以上には幸せにはなれないものなのである。

 万が一、結婚のダークサイドが炸裂して来た場合、その不幸で冷静さを失って、感情的に成らないことだ。その不幸は今まで自分たち夫婦が幸せで有り過ぎたたために起こってきたものであり、その不幸をしっかりと受け止めて、結婚のダークサイドを消し去ってしまうことだ。その不幸は偶然に遣って来たものではなく、実は自分たち夫婦が作り出してしまったものだからである。

 不幸を恐れていては、前進することが出来ない。幸不幸が起ころうが、人は前進を続けるしかないのだ。あなたの人生で起こること全てが、あなたを幸福へと導いているのだ。時折現れて来る不幸に惑わされないことだ。神様はあなたに結婚のダークサイドを消し去る方法を身に着けなさいと教えてくれているだけなのである。如何なる不幸も良く考えてみれば、それが自分により一層の幸福を与えてくれるものにすぎないのである。

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幸せな家族を築くための「幸福哲学」 ~自分の心を開けば、幸せは遣って来る~

●幸せはいつも不思議な現象から始まる

 幸せはいつも不思議な現象から始まる。その幸せが大きければ大きいほど、不思議な現象もより不思議さを増して来る。例えば、恋愛であるなら、女性というものはロマンチックだから、巡り合う男性は「白馬の王子様」であるように願うものだ。しかし、現実の恋愛で巡り合う男性は「チャリンコに乗った庶民の男性」だ。もしもこのチャリンコが嫌で、自動車に乗った男性となると、その男性は自動車のローンのために働かざるを得ず、そのために肝腎なデートの時間が少なくなってしまうのだ。

 結婚なんてのは、男女が生涯別れることなく永遠に一緒に居ようと、人生の中で最大の決断を強いられるのに、大概の男女は麻薬をやっていないのに、精神的にラリった状態で交際をし続け、プロポーズをして結婚にして行く。大抵の男性は結婚する年齢では収入が少ないものなのに、「あなたを世界で最高に幸せにします!」と宣言して、女性に結婚を承諾させようとする。冷静に考えれば、自分の収入からは実現不可能なのに、恋愛で頭がおかしくなっているから、そういう出鱈目を言ってしまい、女性の方も恋愛で頭がイカれているから、それを真に受けて承諾してしまうのだ。

 もしも科学的に結婚しようとし、男性の方が「今の年収はこの程度ですから、僕と結婚しても、この年収程度の幸せしか与えられません」とプロポーズしようものなら、如何なる女性でも問答無用でそのプロポーズを拒否することだろう。その男性は現実を直視して、正直に物事を言っているにすぎないのだが、それでは結婚に至らないのだ。結婚をするためには、現実を超越して貰わねばならないのである。

 女性が結婚を決意する時、その相手の男性は客観的には世界最高の男ではないが、主観的には世界最高の男なのである。その主観的に世界最高と思っている男性から、現実離れした有り得ないような発言をしてくれるからこそ、自分の脳はいよいよ現実離れして、独身生活に終止符を打ち、結婚して行くのである。

 理屈の延長線上には、今よりも大きな幸せはというものは存在しないのだ。イケメンがどうのこうの言ったり、宝塚に嵌ってしまうような女性は、まともな恋愛も、まともな結婚もできないのだ。恋愛というのは、恋愛が持つ「恋愛幻想の破壊」によって、自分の理想とする男性像が破壊されてしまう。結婚だったら、結婚が持つ現実からの超越によって、最早、この男性こそが世界最高の男性と思ってしまうから、もう他の人々のことは気にならなくなるのである。まともな恋愛をしたことがない女性ほど、口を開けば「男ってさ~」と枕言葉をつけて話して来るものだが、そういうことをいつまでも言っているからこそ、世界でたった一人の最高の男性と巡り合うことができないのだ。

●自分が幸運だからこそチャンスはやってくる

 既婚女性と独身女性の一体何が違うかといえば、既婚女性はまともな恋愛をすることができ、まともな結婚をすることができたということなのである。人間は生まれる前から、自分が恋愛できる回数というものは数が制限されているから、幾らでも恋愛ができるというものではないのだ。結婚にも運命の男性との巡り合いという問題があるから、その男性と若い内に巡り合わなければ、結婚に至ることがない。だから、女性というのは、結婚できただけでも、独身女性たちよりは遥かに幸運なのである。

 だが、人間は自分の幸運になかなか感謝ができないから、結婚して新婚気分が冷めて来る頃には、自分が結婚した男性が、世界最高の男性ではなく、世界最低の男性だと思い込むようになるのだ。人間は飽きっぽい動物だから、自分が結婚する前は世界最高の男性だと思う感情が、多くの既婚女性たちはそれを持続することができないのだ。それで旦那の些細な欠点を見つけ出しては、そこをネチネチと指摘しま来るようになるのだ。

 妊娠することに関しても、女性だからといって誰でも妊娠できる訳ではなく、この世には簡単に妊娠できてしまう女性と、不妊症に悩まされる女性とがいるものなのである。妊娠できただけでも幸運なのである。自分が幸運だからこそ、妊娠できるというチャンスがやってきたのだ。ところが、いとも簡単に妊娠できた女性に限って、その妊娠をもたらしてくれた自分の夫に感謝しようとしない。

 妊娠すれば行動範囲は狭くなり、禁止事項も矢鱈と増えまくるから、夫に感謝のない妻たちに限って、「男って妊娠しないからいいわよね~」と得体の知れない僻みを言って来るのだ。しかし、そういう不埒ね言動は神の許す所ではなく、そういう女性に限って出産時に強烈な激痛が走り、出産時に散々苦しんでしまうことになる。出産というのは、夫に妊娠できたことを感謝し、妊娠中の生活に気をつけ、臨月辺りから無痛分娩になるように祈っていれば、なんの痛みを伴うことなく、自然に赤ちゃんは生まれて来るものなのである。それなのに、自分が幸運であることに気付かないからこそ、敢えて自分が出産を悲惨な出産にしてしまうのである。

 人間の赤ちゃんはどんなに健康であっても、女性の体の構造上、長期間お腹の中に入っていることができず、未熟児状態で生まれて来ることになる。そのため、赤ちゃんの免疫力が整う満2歳までは付きっきりになるし、特に母親の母乳から抗体を貰い、それを全身に張り巡らせる作業を行う満6ヵ月までは、母親は赤ちゃんの側を片時も離れるべきではないのだ。自分が幸運だからこそ、赤ちゃんを産むチャンスを得られたのに、そのチャンスをしっかりと受け止めないと、赤ちゃんは途端に病気を発症してしまい、最悪の場合は死に至ってしまう。

 人間の子供というのは、免疫力の関係上、全ての子供たちが健康に成長して行くことはできない。どんなに医学が発達しても、或る一定数の子供たちは大人に成る前に死んでしまうことになる。それゆえ、自分が産んだ子供たちが健康に育ってくれていることだけでも有難いのに、母親に限って我が子の欠点に目が行ってしまい、そこを執拗に攻撃しまくるのだ。完璧な子供なんてこの世には存在しないのだから、幾ら母親といえども、毎日そんなことをされては、子供の方も堪ったものではなく、その内、母親の言うことを聞かなくなり、反抗し始め、余計に母親の手を焼かせるような子供になってしまうのだ。

●素直になれば成功できる

 自分が幸運だからこそ、結婚できるチャンスに巡り会えたし、妊娠できるチャンスに巡り会えたし、出産できるチャンスに巡り会えたし、育児をできるチャンスに巡り会えたのである。それなのに感謝をしていないものだから、そのチャンスを活かし切れず、自分の結婚生活の至る所で問題が発生して来てしまうのだ。

 チャンスに巡り会った時、そのチャンスを有効に生かし、成功にもたらしたいのであるならば、素直になることなのである。素直になればそのチャンスを受け入れることができ、そのチャンスを有効に生かし、成功に導くことができるのである。チャンスに巡り会えたというのに、素直にならないからこそ、そのチャンスを有効に生かし切れず、失敗してしまったり、トラブルが発生して来てしまうのだ。

 夫というものは非常に有難いもので、妻が素直でいる限り、的確なアドバイスをくれるものだし、仕事で忙しいというのに、妻のためには協力を惜しまないものなのである。それなのに自分の夫に対して素直になっていないから、夫の言うことにはケチをつけ、夫の協力を拒んでしまうのである。

 子供たちというのは常に母親のことが大好きだから、いつも母親に纏わりついて来るものなのである。それなのに母親が素直になっていないから、子供たちに怒ったり怒鳴ったり殴ったりしてしまうのである。だからこそ、チャンスが遣って来ても、子供たちは妨害工作を働いて、母親の遣ること成すことに対して邪魔をして来るのだ。母親がいつも子供たちの邪険に扱っているツケが、こういう時に現れて来てしまうのである。

 チャンスが来たら、自分が素直になれば成功できる。この単純明快な法則があるというのに、素直にならないのである。だから、多くの既婚女性たちがチャンスが遣って来ているというのに、そのチャンスを有効に生かし切れず、自分の人生を失敗の方向へと進めてしまうのだ。結婚でトラブルを抱えている既婚女性や、離婚してしまった女性たちは、皆一様に素直ではないのだ。素直でないからこそ、自分の人生が失敗してしまったということに、全く気付いていないのだ。

●やらないことがリスク

 人間の遣ること成すことは、積極的に物事を進めて行けば成功できるようにできている。人間の心の中には向上心が備わっているから、常に向上したくてウズウズしており、その向上心の欲求を満たしてくれると、今まで思っていた以上の能力を発揮することができるようになるものなのである。

 ところが、既婚女性の中には、結婚してから防御することばかり考えてしまい、物事を積極的に進めて行くということを完全に忘れてしまっている女性たちがいるものなのである。例えば、夫が働き、妻が専業主婦になった場合、夫の収入に一家の全ての経済力がかかっているのだから、夫の仕事が巧く行くように、何か夫の手助けをしてあげればいい。それなのに夫に対して何もしないからこそ、夫の仕事は巧く行かず、収入も一向に増えて来ないのである。

 子供たちは成長盛りなのだから、よりレベルの高い成長をさせる機会を与えてしまえば、より高い成長をすることが可能になるのである。だからこそ、子供たちに幼稚園や学校に行かせばいいと考えるのではなく、何かお稽古事をさせたり、書物を与えたり、子供が興味を引きそうな物を与えたりするのだ。それをしなければ、子供というのは普通の日常生活の繰り返しになってしまい、能力を高めて行くことができなくなってしまうのだ。

 人生というのは、何もやらないで平穏無事に生きた所で、なんの価値もないのである。自分が何かをやるからこそ、様々なチャンスに巡り会うことができ、そのチャンスに素直になれば、成功して行くことができるのである。だから、まずは動くことだ。自分が動いていれば、自然とチャンスに巡り会えるものなのである。

 物事というのは、最初遣り始めたら失敗が続くものなのである。その巧く行かないことを悩まないことだ。経験値が少ないのだから、失敗して当たり前なのである。失敗している内に自分の能力が向上し、成功できるようになってしまうのである。一度たりとも失敗をしたことのない女性に優れた女性などいないものだ。優れた女性であればあるほど、多くの失敗を仕出かしているものなのでる。多くの失敗をしたからこそ、いつの間にかに自分の能力が高くなってしまい、多くの成功を手に入れることができるようになるのである。

●脳と体のメカニズム

 では、どうして多くの既婚女性たちが幸せになれないのだろうか? 自分に巡って来たチャンスに気付かず、チャンスの前で素直になれず、折角のチャンスなのにやめてしまうという決断を取ってしまうのだろうか? それは動かないからなのである。人間は動かないでいると、脳と体の思わぬメカニズムが作動してしまい、チャンスを否定し、素直になることを否定し、不幸になるように誘導して行ってしまうのだ。

 脳というのは小さな器官の癖に、大量の酸素とエネルギーを消費して来る。そのため、体を動かさすに、いつも考え事ばかりしていると、脳への血流が物凄く悪くなり、しかもその悪い状態で脳に大量の情報をおくるのだから、脳は酸素不足とエネルギー不足で機能が急激に低下してしまい、自分にとって最悪の決断を下してしまうのだ。要は、「脳は考えている内に、体を動かなくさせる」という恐ろしい機能を持っているのだ。

 だから、既婚女性だというのに、家事や育児に精を出して取り組んでいないと、脳はネガティブなことばかり考え出し、自分が幸福に成れるチャンスを見つけるどころか、夫や子供たちの欠点ばかり探し出すようになり、常に相手に喧嘩を吹っ掛けて来る、イヤ~な女性になってしまうのだ。

 既婚女性ならやるべきことはたくさんあるのに、テレビを見まくったり、長電話を長々としたり、昼間一人であれやこれやと考え事をしている女性は、どう転んだとしても脳をポジティブにすることはできないし、考えること、遣ること成すこと、全てがネガティブモードになってしまい、既婚女性として最悪の決断をし続けてしまうのだ。しかも、これは無意識の中で起こっているために、自分がネガティブモードになって、夫や子供たちを苦しめていることに気づけないのだ。

 家事や育児は面倒臭いものであっても、それをやっている内に脳がポジティブモードになってしまい、チャンスを見つけ、チャンスの前で素直になり、成功へと導いてくれて、幸せになっていくことができるのである。要は「体を動かしていれば、脳も動いていく」という機能を巧く使えば、幸福は雪崩の如くにやってくるのである。

●夫も子供たちも最も的確なコンサルタント

 結婚しているからこそ、有閑マダムになるのではなく、結婚しているからこそ、他人に奉仕し貢献して行かなくてはならない。なぜなら、結婚していれば、既婚女性としてやるべきことはたくさんあるし、夫や子供たちは何かと注文をつけて来て、それをこなさざるを得ないからだ。

 家事や育児というものは、遣り続けていれば、自然と上達するものだ。だが、中には自分が真面目にやっているのに、上達してこない女性も出て来る。そういう時は、夫が注文をつけてくるし、子供たちも注文をつけてくるのだ。言わば、夫や子供たちは、自分にとって最も的確なコンサルタントなのだ。普通、会社経営者が経営コンサルタントに相談しようものなら、高い相談料を要求されるものだが、夫や子供たちはそのコンサルタント業務を無料でやってくれるのだ。

 家事の中でも料理は根幹だから、料理が拙ければ、夫は注文をつけてくるものだ。料理というものは、ただ単に美味しい料理を出せばいいというのではなく、食べる人の健康を気遣い、その人が美味しいと思ってくれるような料理を出すからこそ、相手に喜ばれるのだ。それなのに、夫からの注文を拒絶していたら、一向に料理が上達する訳がないのだ。

 料理で恐ろしいのは、夫の注文を拒絶していると、その内、夫は料理に対して何も言わなくなり、夫婦が食事をする時は、無言で食事をするという事態になってしまうのだ。夫の注文を拒絶し続ければ、夫は妻に何を言っても無駄だと思い込むようになり、会話を避けるようになってしまうのだ。

 子供たちは幼稚園や学校であった様々な出来事を母親に話して来るものである。母親はその話を聞いてあげるからこそ、子供たちは母親の言うことを素直に聞くようになるのである。それなのに、母親が子供たちの話を聞かないで、事あるごとに「早くしなさい」と嗾けていれば、その内、子供たちは母親とまともに会話しようとしなくなり、反抗して来るようになるのだ。

●マイナスをプラスに持って行くことこそ、人間の最も偉大なる能力

 生きていれば何かと問題は発生して来る。行動を起こせば失敗することもある。しかし、問題が発生することはそれ自体悪いことではないし、失敗することもそれ自体悪いことではない。人生にとって最悪の人生は、問題が発生することを避けてしまい、如何なる失敗をもしようとしない人生を送ってしまうことなのだ。こういう人生は平穏無事に生きられたとしても、なんの成功もすることなく、なんの幸福も手に入れることのない人生だったのだ。

 人間なのだから、問題が発生してもいいし、失敗したとしてもいいのだ。人間の最も偉大な能力は、「マイナスをプラスに変える」という能力なのである。問題が発生したからこそ、その問題解決に取り組み、失敗を犯したからこそ成功に導いて行こうとするのだ。だから、問題をたくさん起こしている既婚女性ほど問題解決能力が高まってしまうし、失敗をたくさん起こしている既婚女性ほど成功する確率が高まってしまうのだ。

 自分の人生に於けるマイナスをプラスに持って行くだけでなく、夫もマイナスも、子供たちのマイナスもプラスに持って行ってあげればいいのだ。妻がそういう気持ちになってくれたら、夫の仕事は成功し出すし、母親がそういう気持ちになってくれたら、子供たちも成功し出すのだ。

 この世の一寸先は闇なのだから、今現在幸福でも、一転して不幸な状況になってしまうこともあるのだ。夫の給料が半減してしまったり、転勤を命じられたり、解雇されてしまったりと様々なことが起こって来るものなのである。だから、そういう時こそチャンスなのである。給料が減らされたのなら、労働争議を起こすのではなく、家計を切り詰める、不要品は売り飛ばす、自分が働きに出ればいい。転勤を命じられたのなら、夫に単身赴任を強いるのではなく、新しい土地に引っ越してその新天地を楽しめばいい。解雇されてしまったのなら、裁判で争うのではなく、次に就職先を探してしまう、自分で事業を起こした方が、今よりも幸福になれるというものなのだ。

 神様は人間たちに何も変わらないことを求めているのではないのだ。常に変わり続けることを求めているのだ。人間は変わり続けている限り、莫大なエネルギーを発し続けることができるものなのである。自分が頑なになり、変わろうとしないからこそ、エネルギー不足に陥ってしまい、自分が巧く振る舞っている筈なのに、不幸になってしまうのである。

●自分の心を開けば、幸せがやってくる

 自分が幸せになっていくのに、競争相手は殆どいないものなのだ。なぜなら、多くの既婚女性たちが活発に動こうとせず、脳をネガティブモードにしてしまい、意図的にマイナスを作り出し、そのマイナスをよりマイナスにさせているからだ。だからこそ、チャンスなのである。そういう中で自分が動き出せば、脳がポジティブモードになり、物事は成功し始め、無限の幸せがやってくるようになるのである。

 では、そのために一体何をすればいいのか? それは自分の心を開くことなのである。結婚は自分の心を開かない限り、まともに機能させることができないのである。妻だからこそ、母親だからこそ、心を開くことが最も重要となるのだ。自分の心を開いていれば、自分の持っているパワーを全開で出すことができるようになるのである。

 心を閉じていれば、パワーなど出て来ないものである。誰に対しても心を開けばいいのではないのだ。結婚しているなら、夫と子供たちにだけ、自分の心を開けばいいだけなのだ。指を折って数えてみればいいのだ。自分が心を開かねばならぬ相手は、ごく僅かなのである。そのごく僅かな人たちに対して心を開かないからこそ、自分の人生の至る所で不幸が起こり始めるのである。

 勿論、いきなり自分の心を全開にすることはできない。結婚していれば様々なことが起こって来るから、その都度、自分が心を開き、何かの切っ掛けで自分の心を全開にして行かなければならないのだ。そこに至るまでは、たとえ結婚していても、大した幸福は得られないのだ。しかし、自分の心を全開にした途端、有り得ないような巨大な幸福が訪れて来ることになるのだ。

 この世は非常に巧くできているものだ。自分が好かれたいと思うなら、まず自分がその相手を好きにならねばならない。自分が愛されたいと思うなら、まずは自分がその相手を愛さねばならない。それと同じように、相手に心を開いて欲しいと思うなら、まずは自分が心を開かねばならない。この≪幸福哲学≫が解った時、自分は幸せになり、夫は幸せになり、子供たちは幸せになり、そして自分が本当に望んでいた「幸せな家族」を築くことができるようになるのである。

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今よりも生活をレベルアップしたいのなら、引っ越しをしよう!

●人間は環境に左右されてしまうもの

 人間の能力は環境に左右される。人間は自分が住んでいる環境を変えることで、自分の能力を高めて来た動物だと言えるのだ。幾ら、今現在住んでいる場所が素晴らしくても、同じ場所に留まっていると凡庸になってしまうのだ。今より生活をレベルアップをしたいのなら、引っ越しをするべきなのである。

 俺は高度経済成長の時に急造された住宅で産まれ育ったのだが、子供の頃はそれが当たり前と思っていても、生まれてから10年以上も経つと、さすがに自分の家に飽きて来てしまった。丁度その頃、父親の収入も上がり出したので、我が家は引っ越すことになって。引っ越した先は岡の上の見晴らしのいい家で、しかも庭を拘って作ったので常に自然に囲まれて、更に近所の住人たちも裕福な人々が多かったので、今までとは環境が一変してしまった。自分の部屋からはいつも雄大な景色が見えるので、素晴らしいアイデアはボンボンと生まれたし、学校の成績も中学生の頃は学級で普通だったのに、高校3年生に成る頃には学校でもトップクラスになるほどにまでなった。

 だが、その住み慣れて家も、10年以上住んでしまうと、矢張り飽きて来てしまった。そのんな時、バブル経済が崩壊して景気が悪化し、父親は様々なエコノミストや経営コンサルタントの人たちの話を聞く内に、今回の不況は今までのように短期で回復するものではなく、長期に亘るものだということが解ったので、それならばと住宅の値段が高い内に我が家を売ってしまえと、自宅を売りに出すことにした。ただ行く先がマンションだったので、俺はこの引っ越しに最後まで反対したのだが、我が家の素晴らしい庭を一目見て気に行った歯医者が高額で我が家を買い取ってくれたのだ。お金持ちである歯医者が即決で買うということから見ても、如何に高い値段で売れたかが解るだろう。

 さて、引っ越しには反対していた俺でも、駅から近いマンションなら引っ越しても良いと妥協したので、父親はその条件に合うマンションを選んで来て、そこに引っ越すことになった。今度のマンションは見晴らしに関しては、高級ホテル並みに素晴らしく、しかも、分厚い鉄筋コンクリートのお蔭で、冬でも寒くないので、暖房をつけなくてもいいのだ。しかも、マンションが片仮名の「ロ」の字になっており、マンションの横には四車線の道路が走っているというのに、マンションの中は非常に静かなのだ。このために深い思索をすることが可能に成り、様々なビジネスのアイデアはこのマンションで産まれたものなのだ。

 俺自身は二十代前半までに2度引っ越し、3箇所の違う住居に住んだのだが、その度に自分の能力を飛躍的に高めて行ったのだ。では、俺が生まれ育った住宅街に住んでいた人たちはどうなったかというと、全て一様に凡庸だった。誰一人、高い能力を持っている者はおらず、僅かな収入で在り来たりの生活を営んでいるにすぎなかった。

 俺が昔馴染みの人たちを見てつくづく思ったのは、「農村や漁村や山村の宿命」についてである。これらの場所では職業柄、引っ越す訳には行かなので、そこで生まれ育った者たちはその土地に住み着いて、凡庸にならざるをえないし、また才気煥発な人間を不要とせざるを得ないのだ。そのため、凡庸な人々による濃厚な人間関係を築き上げ、都会の人ならどうしてそんなことまで知る必要性があるのか言いたくなるほど、他家の人間関係に矢鱈と詳しいのだ。知的好奇心が学問や芸術に向かうことなく、延々と噂話をすることに費やされてしまうのだ。

 勿論、この田舎暮らしには良い面もある。学問や芸術が発達しなくても、人間関係が濃厚だから天変地異が来ても非常にしぶといのだ。たとえ被害を受けても、すぐさま復興を果たしてしまうのだ。これは同じ震災でも、「阪神淡路大震災」と「新潟中越沖地震」を比較してみれば、人間関係の濃い地域で災害が発生しても、その地域住民が協力し合うから、すぐさま復興して来るということが解るものなのである。人間関係が希薄な地域では、地域住民が協力し合うことがないし、たとえやっても組織的に行えないので、復興に物凄い時間がかかってしまうのだ。

●引っ越し

 自分たち夫婦が職業柄、引っ越しができない仕事に就いているのなら引っ越す必要性はないが、そうでない仕事に就いてるのなら、今現在、自分たちが住んでいる家に飽きたのなら、引っ越しをして、より良い住宅を手に入れるべきなのである。環境を変えることで、夫婦や子供たちの能力を高めて行くべきなのである。

 新婚の夫婦は子供たちがいる家庭がどんなものになるかをきちんと予想していないものだから、たとえ新居を手に入れても、いざ赤ちゃんが生まれて育て始めると、赤ちゃんが動き出す頃には、もう自宅が狭いということに気付くものなのである。その家は夫婦二人が住むには適した家であっても、赤ちゃんができたら、もう住める家ではなくなっているのだ。そんな小さな家にいつまでも住み続けることはないのだ。

 人間は引っ越しをするだけで脳が活性化するものなのである。どの家に引っ越すか無数の情報を集め、散々夫婦で検討し合わねばならないし、何度も現地に足を運んで、何度も何度も条件を確かめねばならないからだ。これらの作業を夫は仕事をしながら、妻は家事や育児をしながらやることになるので、普通に赤ちゃんを産み育てている夫婦よりは、高い能力を発揮してしまうことになるのだ。

 しかも、新居が決まれば決まったで、引っ越しの際には不要品を捨てざるを得ないし、新しい家具を買い揃えなければならないし、当日の引っ越し作業は1日かかりになるものだし、家財道具をすべて収納し終わるのは、引っ越してから1ヵ月ぐらいはかかるものなのである。

 更に、家族揃って新居に馴染み、新たな土地を探検してみたり、住んでいれば嫌が応でも新たな人間関係が形成され、新鮮な日々の中で常に脳が活性化されて行くのだ。昔は些細なことで不平不満を抱えていたものだが、引っ越して能力が高まって来ると、いざトラブルが発生しても、視点の切り替えが巧く出来るようになり、こういう時はこうやって見れば、違う見方もできるなということが解り、トラブルを解決することができてしまうのだ。

 この世で成功している人ほど、人生の中で必ず一度は引っ越しをしているものである。同じ場所に住み続けていては、どうしても自分の考え方が硬直してしまい、常識から飛躍して、新たな発想を生み出すことができなくなってしまうのだ。考え方の硬直している人間に限って、成功者たちを見ると荒探しを開始して、成功者の長所を評価するということをしないものだ。この点、新婚の夫婦が成功し易いのは、結婚すれば新居を求めて引っ越しをせざるを得ず、そのために物の見方が広がって、思わぬ成功の糸口を発見できるからなのである。それゆえ、人々が結婚する以上、引っ越し産業は絶対にこの世に存続し続けるし、コンスタントに儲かるビジネスなのである。

●ダブルホーム

 もしも経済的に裕福であるならば、本宅とは別に、別荘を持つことで、脳の活性化を図ればいい。別荘も夏休みや冬休みに使うようなバカンス仕様のものではなく、平日は本宅に住んで都会で一生懸命に働き、休日は自然の中にある別荘に行ってのんびりと過ごし、脳の活性化を意図的に促す方式を採用するのだ。

 これをやると、平日に幾ら働いて疲れても、休日は別荘で休むことで、疲れが一気に取れてしまうのだ。しかも、別荘に行くことで、日常生活にどっぷりと浸からなくて済み、いいアイデアが出まくることになるのだ。いいアイデアを生み出すためには、自然の中にある新鮮な空気がどうしても必要なものなのである。都会のように空気が汚れている所では、いいアイデアなど浮かんで来ないし、世の中の批判をすることで憂さ晴らしをするしかなくなるのだ。

 育児上の利点は、子供たちを自然の中で遊ばせることで、タフな子供に育て上げることができるというものなのである。都会で貧弱な体型になっている子供でも、自然の中に放り込んで遊ばせておけば、いつの間にかに強靭な肉体を持ってしまい、病気とは無縁の子供に育って来るものなのである。

 別荘があるなら、そこで作物を栽培すれば、農業の楽しみも味わうことができ、新鮮な野菜を手に入れることができるのである。特に夫が頭脳労働をしているのなら、休日は農作業をすることで、体を使って汗を流させないと、脳がオーバーヒートしてしまい、異常な行動を取って来たり、脳疾患を発症して、或る日突然に死んでしまうということも起こりうるのである。

 都会に住み続けていると、窮屈な生活に成って行くものであり、情報はたくさん持っているのに、それを何一つ有効なものに使えない人生になってしまうのである。それゆえ、休日は別荘にいることで、その窮屈な生活から抜け出し、改めて都会にやってくると、育児に関していい情報が選られたり、「これはビジネスチャンスになる!」というものを発見することができたりするのだ。だからこそ、別荘を持たない貧乏人はいつまで経っても貧乏のままだが、別荘を持っている金持ちは益々裕福に成って行くのだ。

●お金持ちは住宅には拘るものである

 自分たちは夫婦が引っ越しをしたり、別荘を持ったりする時に気をつけるべきことは、住宅というのは高価な買い物だからこそ、そのお金に拘るのではなく、住宅そのものに拘れということなのである。貧乏人はお金がないために、引っ越しをする際は銀行からお金を借りて新居を買うことになるのだが、そのためにお金のことで頭が一杯になり、肝腎の住居をどのようにするかアイデアを全く持っていないのだ。住宅というものは、大工任せに作らせてしまうと、大工たちは手抜きをしてくるので、非常に粗悪な住宅しか出来上がらないものなのである。この「貧乏人の住宅貧乏」は建築業界では有名な話なので、住宅は高い買い物だからこそ、徹底的に拘る姿勢を貫くことだ。

 お金持ちは住宅という高い買い物をしても、お金に余裕があるために、お金のことで気を使わなくて済み、だからこそ、住宅に関しては細部にまで拘り、業者に対して無数の注文をつけまくることになるのだ。業者というのは、お客様から要望されれば、それに応えるべく全力を尽くして来るものなので、更に出来のいい住宅が出来上がってしまうのである。お金持ちの住宅が素晴らしいのは、この手続きを踏んで来るからなのである。

 引っ越しをしたくなった時は、所定の物件を探すだけでなく、暇な時に家族で高級住宅街を散策してみて、高級住宅はどのようなものか、現地に行って実際に自分の目で見ておくことだ。もしも自分たち夫婦の知り合いに豪邸に住んでいる人がいるなら、その家にお邪魔させて貰い、その住宅の内部がどのようになっているか実際に自分の目で見て、その家の夫婦にこの豪邸をどのような考えて作ったかを訊いてみることだ。自分たち夫婦が想像もしていなかった答えをく聞くことができるであろう。

 また、金持ちだからといって、必ずしも豪邸に住んでいる訳ではないのだ。地価が高騰している東京なら、新興のお金持ちたちは高級マンションに住むのが当たり前に成って来ている。デフレ時では物を所有するのは不利になるので、高級マンションのように将来に引っ越す際は、購入時よりも高く売れる物件が好まれるのである。高級マンションというのは何もマンション自体が高級なのではなく、交通の便が非常にいいので、都会でバリバリと働くには非常に有益なのである。

 住宅を買う時は住宅に徹底的に拘ることによって、自分たち夫婦にとって使い勝手のいい住宅になってくるのである。たった一度の新居を得ただけでは、このことができないのだ。何度も失敗し、何度も経験してみて、やっと成功できるものなのである。自分たち家族にとって理想の住宅を持てば、家族から膨大なエネルギーが噴き出して来るのである。それゆえ、住宅にかかった出費など、その後の活躍で簡単に儲けてしまうことができてしまうのである。

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政府による社会保障よりも、自分による慈善活動

●政府の社会保障に頼るな

 昭和憲法体制下の日本国民は、慈善は政府がやってくれるものだと勘違いしている。選挙のたびに立候補者たちが「社会f福祉の充実」を唱え続け、その立候補者たちが高い得票率を以て当選して行く。そしてその政治家たちは選挙公約を政治の世界で実現してしまい、手厚い社会保障制度を作り上げてしまったのである。その挙句の果てが財政の破綻となって、現在の国民に対して重税となって現れ、それだけでなく我々の子孫にまで重たい負債を背負わしてしまった結果になってしまったのである。

 民間の慈善活動と、政府による社会保障とは、決定的に異なるものがある。それは「政府による社会保障は、政治家や官僚たちの汚職が付き物」だということである。社会的弱者を救済するという「慈愛の志」は失われ、社会的弱者を救済することよりも、その社会保障制度運営している自分たちを救済することの方が大事になってきてしまうのだ。

 だから、政府が一度でも社会保障制度を作ってしまうと、その出費は膨大なものとなり、しかもその多くのお金は社会保障制度を運営している政治家や官僚たちの懐に入ってしまい、肝腎の社会的弱者には大したお金が届かないものなのだ。しかも、給付を受けた社会的弱者たちは、自分たちが貰ったお金は飽くまでも税金なのであって、この出費のために他の働いている国民に皺寄せが行ってしまうということに気付かないのだ。それゆえ、今現在貰っている給付では満足せず、更に高額な給付を要求して来るのである。これでは社会的弱者を救済するどころではなく、社会的弱者を「永遠の乞食」にしてしまう結果になっているのだ。

 国民は社会保障に頼ってはならないのだ。社会福祉の充実を訴えて来る政治家がいるなら、「どうぞ政治家にならずに、慈善活動かになって下さい」と言ってあげて、政界から追放してしまえばいいのだ。政治家は政府にしかできない仕事をするべきであって、他の仕事には手を出すべきではないのだ。

 慈善活動というのは、国民一人一人がやってこそ意味があるのである。社会的弱者というのは、ただ単にお金に困っている訳ではないのだ。大方の社会的弱者は愛に飢えているものである。だから、慈善活動によってお金を渡しながら、慈愛の心で以て接してあげて、その乾いた心に愛を注いであげてやらねばならないのである。社会的弱者だからといって、いつまでも無償でお金を貰っているのではなく、自分が経済的に自立して、無償のお金を貰わずとも、生活できるようにさせてあげなければならないのだ。それゆえ、政府がやっている社会保障のように、社会的弱者をいつまでも社会的弱者のままにしてしまうシステムは、慈善の本来の役割から掛け離れたものになってしまっているのだ。

●自分がやるからこそ慈善活動は巧く行く

 この国に社会的弱者がいるなら、国民が自分で慈善活動をして救済していけばいいのである。政府がやれば出鱈目な社会保障であっても、自分がやるからこそ的確な慈善活動ができるのである。大体、社会保障の恩恵を受けているのに、政府の対応がなってないと騒ぎ立てるほどのパワーがあるなら、その社会的弱者は政府から鐚一文貰うべきではないのである。

 幾ら民間の慈善活動が大切だからといって、どこかの慈善団体に寄付すればいいと安易に考えるのはやめた方がいい。その慈善団体が有名であればあるほど、その規模は巨大となって、折角、寄付したのに、そのお金は必要経費として消えてしまい、肝腎の社会的弱者には僅かな金額しか届かなくなってしまうからだ。

 もしも、慈善団体に寄付をするなら、その慈善団体の活動内容は収支報告書を調べて、無闇に寄付金が使われていないと解った上で、寄付をするべきなのである。自分が働いたお金を寄付する以上、自分の善意を悪用されることは絶対に控えるべきなのである。

 慈善活動で最も素晴らしいのは、自分で慈善団体を作ってしまうことだ。自分の資産を投入して財団法人の作るのもいいし、仲間を募って非営利法人を作るのもいい。慈善活動は自分がやるからこそ、その大変さが解ると同時に、必要な慈善を的確に行えるようになるのである。

 もしも、家庭のことや仕事のことで忙しくて、慈善活動をする暇がないというなら、収入の10%以内の金額を信用できる慈善団体に寄付してみたり、たまの休みに慈善団体の活動を手伝ってみるのでもいいやってみることだ。自分一人でやるのではなく、家族総出で手伝ってみれば、子供たちに対して素晴らしい教育になることだろう。

●億万長者の妻は慈善活動の義務を負うべし

 その人が貧乏であるなら、慈善活動の義務など負わない。しかし、自分が裕福になれば、「高貴なる義務」として慈善活動の義務が課せられるものなのである。自分が一戸建ての家に住めるようになったとか、マンションを購入できたとか、最早、自分たち家族が貧乏ではなくなった時、自分たち家族を家庭の中に引き籠らしてしまうのではなく、慈善活動をすることによって、高貴なる義務を果たすべきなのである。

 特に、億万長者の妻たちは、問答無用で高貴なる義務として慈善活動の義務を負うべきなのである。夫は巨万の富を稼ぎ出し、豪邸や高級マンションに住み、妻が贅沢三昧の暮らしていたら、社会の中で矛盾が増幅して行き、社会主義者やフェミニストたちが現れ、階級闘争やセックス闘争を仕掛けて来るものなのである。億万長者の妻たちが熱心に慈善活動を施すからこそ、社会的矛盾がなくなっていき、金持ちだろが貧乏人だろうが、男だろうが女だろうが、仲良く暮らしていける社会にすることができるのである。

 自分が所属している階級が低ければ、自分勝手なことをしても、誰からも咎められないものだ。しかし、自分の所属している階級が上昇して来ると、最早、自分勝手な行動を取ることなどできず、高い階級に応じた利他的行動も要求されるのである。本当のお金持ちに限って単なるパーティーを開くのではなく、チャリティーパーティーを開くのは、そういうことでもしなければ、自分が高貴なる義務を果たせず、その階級から転落してしまうからなのである。

 日本は戦後復興を成し遂げ、多くのお金持ちを産んで来たが、そのお金持ちたちが高貴なる義務を果たしたかといえばそうではないのだ。聞こえて来るのは、お金持ちたちの醜聞であり、豚のように、高級ブランド品や高価な宝石を欲しがり、ゴルフ場や海外旅行に行きまくり、夜はホストクラブに行って遊び呆けているのだ。そんな暇があるなら、慈善活動をするべきなのである。慈善活動をすることで、社会的弱者に接し、自分がどれほど恵まれた地位にあるのかを噛み締めてみることだ。

 億万長者の妻なら、自分は何もしなくても、夫は巨万の富を稼ぎ出してしまうのである。だからこそ、自分たち夫婦から資産を割いても、自分たち家族の生活が困ることはないものなのである。それどころか、自分が慈善活動をすることで、自分の存在理由を見つけ出すことができ、豪邸の中で一人悶々としていなくても済むようになるのだ。

●慈善活動はお金ではなく、慈善活動をする人々の気持ちが大事

 自分が赤ちゃんを産み育てて来たのなら、慈善活動の対象は矢張り「育児をしている母親」や「子供たち」に向けるべきなのである。政府の社会保障の対象者となると、生活破綻者や身体障害者や難病奇病の患者とかになってしまうが、だからこそ、母親や子供たちの慈善が手薄になっているのである。

 自分が出産したからこそ解るだろうが、出産した一時期は、どうやっても家計が苦しくなるものなのである。それと赤ちゃんは生後3歳までは母親を最も必要とするので、出来れば働くべきではなく、母親たちを育児に専念させてあげるべきなのである。当然、その生活費を賄うためにはお金が必要となるのだから、そこに対して慈善団体のお金を投入してあげればいいのだ。これほど有難いお金もないし、母親が育児に専念してくれれば、赤ちゃんが病気に罹る確率も激減し、健康な子供たちが育って来るものなのである。

 そして奨学金である。子供は向上心の塊のようなものなので、子供たちに教育の機会を与えてあげれば、ぐんぐん急成長して行き、非常に高い知能を持った大人に仕立て上げることができるのである。家庭が貧しくて優れた教育を受けられない子供たちとか、子供の頃から知能が高く、将来有望な子供たちとか、そういう子供たちに奨学金を与えて、その能力を大いに開花してあげるべきなのである。

 慈善活動はお金ではないのだ。慈善活動をする人の気持ちが大事なのである。自分が生きて来て辛い経験をしたことがあるからこそ、今でも辛い経験をしている人々を救ってあげることができるのである。慈善活動と言えば、見知らぬ外国の難民を救済したり、飢饉から救ってあげることだけが慈善ではないのだ。本当に必要な慈善とは、自分の目の前にいる人を救ってあげることなのである。自国で社会的弱者がいるというのに、それを放置しておいて外国の社会的弱者を救うべきではないのだ。自分の国で何も慈善活動をせず、外国で慈善活動をしていい気になっているのなら、それは慈善から逸脱し、その人の高慢なる心を慰めるものでしかなくなっているのだ。

 我々が最も慈善を施さねばならない相手は、日本国内にいるものなのである。慈善活動をすることによって、社会的弱者たちにその苦しみの中で、己の心を怒りで満たしてしまはないように、「この世に生きているからこそ、お互い様」と教えてあげて、心を愛で満たしてあげるべきなのである。社会的弱者たちも自分の心が愛で満たされれば、いつまでも社会的弱者で居続けることはなくなり、慈善を受けなくても、立派に活躍して行けるようになるのだ。それこそが「本当の慈善」なのである。

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育児ビジネスで大富豪!

●育児に関する問題はビッグビジネスになる

 育児を終了した母親たちが働いても、それほど高収入を実現することはできない。それもその筈、育児で培ったノウハウを全く使わない職種に働きに出てしまうからだ。そのためイチからのスタートになってしまい、安い給料で働く羽目になるのである。育児での経験を活かすということを全く忘れているのだ。

 育児をしてみれば解ることだが、結婚すればどの夫婦も赤ちゃんを産むものだし、育児で経験することは大概同じだ。勿論、結婚しても不妊症に悩まされたり、赤ちゃんが難病奇病で長期入院を強いられる夫婦もいるけど、それらは夫婦としては例外に属する者たちなのだ。殆どの夫婦は結婚や育児を通じて似たような経験をするものなのである。

 だから、赤ちゃんを育てれば、結婚している者なら誰もが共感できるからこそ、ビッグビジネスに成る可能性があるのである。そもそも結婚や育児というものは、ビジネスのパイそのものが大きく、そこを突けばビジネスが成功し易いし、大儲けをすることが可能になるのだ。この分野ほど見落とされている分野もないのだ。企業が余りにも個人を対象にビジネスを展開してしまったために、夫婦向けには碌なサービスが存在していないのだ。これは自分が結婚や育児をしてみれば解ることだろう。

 人間には大きく分けて、二種類の人間がいる。それは独身者と既婚者である。独身者というのは、お金を使ってくれはするが、良いお客にならないものなのである。結婚していないために、どうしても精神レベルが低いからなのである。一方、既婚者はお金の使い方は渋りがちだが、良いお客になるものなのである。結婚や育児を通して精神レベルが上がったために、独身者では見えない所まで見えるようになるのだ。

 それゆえに、ビジネスを行う時は、既婚者を優遇して仕事を進めて行くべきなのである。既婚者を顧客に持っていれば、下らない仕事をしなくていいことになり、自然とレベルの高い仕事が出来るようになるのである。顧客が既婚者なら、話が詰まっても、子供たちのことに話を振れば幾らでも話が出来てしまうものなのである。そしてまた、そうやってヘベラベラと話したお客は商品を購入してくれるものなのである。

●育児経験者だからこそ、解る問題もある

 この世には育児をしない限り、絶対に解らないことが存在するものである。例えば、「赤ちゃんの抱き方」である。赤ちゃんを抱くのなんて誰でも出来るだろうと思っているだろうが、これが独身女性だときちんとできないのである。赤ちゃんを産んだからこそ、赤ちゃんにきちんとした愛情を持って抱くことができるようになるのである。

 俺が育児のことで一番ビックリしたのが、「対面抱っこの重要性」なのである。殆どの母親たちは赤ちゃんを横抱きに抱いてしまうのだが、この抱き方だと赤ちゃんは母親の愛情を巧く受け入れることができず、グズリまくり、夜泣きをしまくるのだ。このグズリまくっている赤ちゃんに対面抱っこを施すと、赤ちゃんは母親に服従するようになり、素直に母性愛を受け入れ、グズることがなくなるのだ。言わば、対面抱っこは二足歩行を可能にさせた人類にとって必要不可欠な抱き方なのだ。だが、この対面抱っこをどの母親もやっていないのだ。この抱き方を教えるだけでも、ビジネスチャンスになるものなのである。夜泣きで困り果てている母親など幾らでもいるのだから。

 赤ちゃんの成長過程でハイハイはとっても大事な作業になるので、自宅で充分にハイハイができるように、住宅は大きくして貰わねばならないのだ。ところが、日本では都市計画が成っていないために、大概の夫婦は狭い住宅に住まざるを得ない状況になっているのだ。赤ちゃんの動きや、その後の子供たちの成長を考えて居住スペースを考えれば、幾らでも住宅に関するアイデアは浮かんでくるものだ。しかし、大方の夫婦は一戸建て住宅を建てる際には、借金して住宅を建設するために、お金のことで頭の中が一杯となり、では住宅をどのように快適な環境にするのかという視点が抜け落ちてしまうのだ。そこで赤ちゃんを育てるための最低限のスペースはどの程度か、子供たちが健康的に成長できるスペースはどの程度かを科学的に証明できるデータを持っていれば、それだけでビジネスチャンスになるのだ。

 女性は赤ちゃんを産めば体型が崩れるし、育児の期間中は運動不足に成るので、どうしても体重が増えてしまうものだ。そこで母親たちにシェイプアップを行って奇麗にさせれば、ビッグビジネスになるのだ。これは「Micaso」さんという主婦がもう既にやっているビジネスで、母親たちに軽い運動をさせることで、スリムにさせるのである。彼女は予約で予定が埋まってしまうほどの盛況ぶりなのである。

 子供は急成長して来るものであり、向上心に富んでいるものだ。そのため子供むけの学習塾やピアノ教室やスポーツクラブはいつの世も繁盛しているのだ。子供たちは学校が終わってから来る以上、在り来たりの教育を受けては困るのである。その特別な教育を受ける以上、日本のトップレベルで活躍できるようにさせて貰いたいのだ。ところが、その手の需要に応えるべく、それに見合うだけの教育を施している人は皆無なのである。相手は子供だから、この程度でいいだろうと思っているのだ。それゆえにこの分野で本格的な教育を施してしまえば、向かう所、敵なしであって、大きな大きなビジネスチャンスになるのだ。

●育児に困っている母親に貢献する姿勢

 育児や子育てをいていれば、幾らでも困り事は出て来るものなのである。それを自分で解決しようとすれば、膨大な時間と莫大な費用がかかってしまうのである。そこで、誰かが有料でサービスを提供してくれれば、そのお金を支払ってしまえば、自分が抱えている問題を解決できるのだから、これほど有難いものはないのだ。

 また、母親がその問題を解決しようとも、解決できないものもあるのである。自分がピアニストでもないのに、我が子をピアニストにしたいと思ったら、自分で我が子にピアノを教える訳には行かないのだ。ピアニストの方に有料で教えて貰うしかないのである。そのお金を支払って、我が子がピアニストになってくれれば、充分に使ったお金を回収でき、それどころかそれを遥かに上回るお金を手にすることができてしまうのである。

 母親たちを相手にビジネスを行う時は、下手にお金儲けを全面に打ち出しても、母親たちというのはお金の締りがいいから、巧く行かないものなのである。金儲けではなく、母親たちに奉仕し貢献するという姿勢を持っていれば、幾らでもビジネスチャンスを掴めるし、経営も順調に行く筈なのである。

 もしも、母親である女性が仕事をするなら、自分が母親であることを絶対に忘れないことだ。ビジネスに徹してビジネスライクに物事を進めて行くことは大切なことであっても、母親の視点を忘れてしまえば、ビジネスは途端に巧く行かなくなってしまうものなのだ。自分もこのことでは困ったからこそ、他の母親たちも同じく困っているのを見て、それをなんとかしてあげたいという気持ちを常に持っていれば、自分のビジネスがおかしな方向に行くことはないであろう。

 母親たちがビジネスをして、そのビジネスを成功させ易いのは、独身女性と違って、仕事が終わってから遊んでしまわないことなのである。仕事でストレスを感じ、それを発散するために遊んでしまうような人は、仕事で碌な働きをしていないものなのである。そのため、既婚女性にとっては独身女性が敵になるということはないのであって、それゆえ競争相手が非常に少なくなり、ビジネスで勝てる確率が高まるものなのである。

●育児の問題を解決して大富豪に成るのは、合法的且つ倫理的である

 貧乏な人々は、お金持ちとは何か悪どいことをしてお金持ちになったと、得体に知れない錯覚をしているものだ。自分の友人にお金持ちの友人がいないために、実際にお金持ちがどういう人たちなのか解らないのである。その癖、自分は貧乏でお金で苦しいから、遂々お金持ちの悪口を言ってしまうのである。

 お金持ちというのは、相続によるお金持ちを除けば、人々が抱えている問題を解決してあげたからこそ、大富豪になった人たちなのである。この世に困り事など幾らでもあり、その困り事を避けるのではなく、真剣に向き合ったからこそ、解決策を発見できるようになり、その人はその分野でビジネスチャンスを見つけ出し、それによってビジネスが大成功し、大富豪に成って行ったのである。

 お金持ちといえば相続によってお金持ちになったのだろうと思い込んでしまうが、自由経済のように経済が活性している世の中では、相続でお金持ちになれる人々はお金持ちの中の2割程度を占めるにしか過ぎないのだ。後のお金持ちは全員成り上がり者たちなのである。それゆえ、今現在、自分たち夫婦が貧乏をしていても、一念発起すれば、自分たち夫婦も億万長者になれるものなのである。

 ところfが、大方の夫婦はそのビジネスチャンスを掴もうとせず、テレビを見たり、パチンコや競馬をしたり、お酒やタバコに飲んだくれることで、時間やお金を無駄に使ってしまい、いつまでも貧乏で有り続けてしまうのだ。堕落した生活から抜け出さないから、いつまで経っても堕落した生活をし続け、「永遠の貧乏」を実現してしまうのである。

 育児の問題を解決して大富豪になるのは、合法的且つ倫理的である。育児というのは完成することは、永遠にないのだ。どこかに問題を抱えているものなのである。その問題を見つけ出し、それに対してきちんとした解決策を出してくれれば、この世の母親たちはより良い育児ができるというものなのである。母親たちは困り事が解消して喜び、自分は大富豪になれて喜び、双方が喜びあうことで双方が豊かに成って行くのである。

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家庭と仕事の両立は絶対に無理

●出産をすれば、如何なる時も家族が優先である

 女性同士の会話では、必ず愚問というものが出て来る。冷静に考えれば、そういう問題は問題としてはならないのに、なぜかそれを問題にしてしまい、真剣に悩んでしまうのだ。独身女性なら、「恋と仕事の両立」というのが典型的な愚問で、既婚女性なら「家庭と仕事の両立」というのが典型的な愚問なのだ。

 女性が恋愛をしている時は、恋愛に全力を集中して来るのは当然であって、恋愛中は仕事にそれほどエネルギーをかけて来なくなるのは当然の現象なのだ。恋愛をしている女性に限って、仕事で成功し易いのは、恋愛に夢中になっているから、逆に仕事に関しては冷静に見ることができ、最小限の努力で自分がやるべきことはしっかりとやることができ、それが成功に繋がるのである。

 女性が結婚してしまえば、如何なる時も「家族」が最優先となるのは当然の現象なのである。既婚女性が家族を蔑ろにしてしまえば、夫は妻を愛さなくなって愛人を作り、子供たちは母親から離れて非行に走ってしまい、離婚やら家族離散というのが待ち構えているからだ。既婚女性が家族を一番大事だと思っているからこそ、責任感が湧いてきて、仕事に関して独身女性よりも高いレベルの働きができるのである。

 それなのに、既婚女性同士が会話すると、必ずこの「家庭と仕事の両立」という愚問が出て来るし、婦人向けの雑誌でも平気でこれを特集して、発行部数を稼ぐのである。既婚女性が仕事をする際、この愚問には絶対に引っ掛からないことだ。この愚問は質問が出た時点で、その質問自体が間違っているのであって、仕事に精を出している既婚女性なら、そんな愚問を抱く訳がないからだ。

 この愚問を抱く女性たちは、自分は家族のために働いているんだという視点が抜け落ちているだけなのである。結婚しているのに、子供たちがいるというのに、自分のことしか考えていないから、どうしてもパワー不足に陥ってしまい、それで家庭と仕事の両立をどうしようかと悩み出すのだ。そうなのではなく、自分は自分のために働いているのではなく、家族のために働いているのだと思うようになれば、自然と家庭を最優先しながら、余った時間で働くことができるのである。仕事に充てる時間はその程度で充分なのである。どんな人でも24時間働いたら倒れてしまうものなのである。

●労働価値説と家族価値説

 この世には労働価値説というものが出回っているが、労働価値説だけでは人々は豊かになって行かないのである。労働価値説は所詮、労働することによってお金を稼ぎ出すものだけだからだ。どんなにお金を稼いでも、それをどうやって巧く使っていかないと、人は豊かになれないものなのである。

 人間は豊かになるためにどうすればいいかというと、優れた消費をすればいいのである。そのためには、結婚して子供たちを産み育て、家族を作ってしまうことなのである。家族がいればこそ、人は優れた消費ができるものだし、無駄を省くことができるものなのである。幾ら裕福でも、いつまでも独身でいたら、その内、自分のために消費することに飽きてしまうものなのである。消費というのは、自分のためだけにやっていると、その内、何も消費したくなくなってしまうものなのである。

 この労働価値説と家族価値説の二つがあるからこそ、所得と消費のバランスが保たれ、人々は自然と豊かに成って行くものなのである。幾らその国で労働者ばかりを増やしても、家族が少なくなってしまえば、健全な形で消費する人々がいなくなり、逆に国民が貧しくなって行ってしまうのである。日本が高度経済成長をしていた時は既婚率も高かったが、日本がバブル経済の破裂移以降、長期に亘る不況に陥ったのは、政府が意図的に女性たちを働かせたために、既婚率が低下してしてしまい、そのために国内で健全に消費する人たちがいなくなり、国民が貧しくなってしまったのである。

 人が豊かになろうとしたければ、就職して働くということは解るが、出費が嵩む結婚をするということまで、知恵が回らない人たちが多過ぎるのだ。男子たる者、妻が一人いれば大変な負担となる訳だし、家事育児というのは、どんなにやったとしても、出費しか出て来ないものなのである。しかし、その出費を背負い込んでしまうと、逆に所得も増え出して、豊かになって行ってしまうのである。所得を増大させる労働と、消費を増大させる家事と育児の二つがないと、人はどうしても頭打ちになってしまうものなのである。

 既婚女性が働き出すと、夫の収入の外に妻の収入も発生して来る訳だから、妻の分はすべて貯蓄に回せると思いきや、実際にやってみると、出費が増えてしまい、収入の分だけ支出も増えてしまうのである。人間は働けば、その分だけ消費したくなる動物というのが、はっきりと解る筈だ。だからこそ、妻の収入に関しても、天引き貯金を実施して、消費する前に、収入の2割を天引きして貯金してしまわないと、すべて消え去ってしまうことになるのである。

●育児の期間は僅か十数年

 経済が発達して来ると、表面的な金銭の動きに囚われて来る人々が続出して来るので、結婚という出費が嵩むことを忌避してしまう馬鹿たちが出現して来る。それ以上に、子供という金食い虫を忌避して、結婚したのに子供を産まなかったり、子供を産んだとしても1人や2人で打ち止めにしてしまう馬鹿たちが出現して来るものだ。

 この手の馬鹿たちは、そうやって人生を生きても、それで豊かになったということはないのだ。出費が少ないものだから、いつまで経っても所得も少ないままになってしまうのだ。消費の多い人は、所得も多くなるという、経済のメカニズムが全く解っていないから、いつまで経っても貧乏のままになってしまうのである。

 女性の体はいつまでも赤ちゃんを産める体でいる訳ではないのだ。理論上は生理がある期間だけであり、実際には40歳を過ぎると急激に妊娠能力は低下して行き、40歳を過ぎてから赤ちゃんを産みたいと思っても、困難になってしまうものなのである。女性として生まれたなら、「赤ちゃんが欲しいな」と思ったら、とっとと妊娠して赤ちゃんを産んでいくべきなのである。その方が無駄な時間を浪費しなくて済み、育児に追われる日々を充実して過ごすことができるようになるのである。

 妊娠や出産や育児というのは、人生の中ではごく僅かな期間だが、他の経験では絶対に代えられない貴重な時間なのである。女性は仕事をすれば教えられることも多いが、仕事をするよりも育児で教えられたことの方が圧倒的に多いのである。母親の育児の仕方に問題があれば、すぐさま問題を引き起こして来る赤ちゃんと一緒にいれば、自然と自分の駄目な部分を切り落として、自分を変えて行かざるを得なくなるのである。そうやって女性は急激な成長をして行くことができるのである。

 独身女性と既婚女性が争った場合、既婚女性が勝って当然なのである。レベルが違うのだから、戦えば既婚女性が勝つなのである。それなのに仕事をしている既婚女性が独身女性に勝てないというのなら、その既婚女性は家事や育児をちゃんとやってこなかったということであり、家事や育児を疎かにしたツケが、自分が仕事復帰して働き出した時に、はっきりと出て来てしまうのである。

●家族があってこそ、社会は成り立つ

 既婚女性が働き出し、「家庭と仕事の両立」の問題を抱えるようであるなら、その既婚女性は大した働きをしていない筈だ。家事もイマイチ、育児もイマイチでは、たとえ仕事をさせたとしても、まともな働きができなくて当然なのだ。家事や育児がきちんとできていれば、仕事をさせたとしても、きちんと仕事をやってのけるものなのである。

 この世には頭の悪い女性の学者がいて、日本人女性は結婚してしまうと、一旦退職して、家事や育児に専念し、育児が終了したら復帰して来るというパターンを取るために、女性の年齢別の就職率は「M字曲線」を描くことになる。そこでその学者はこれは男女平等が実現されていないということで、このM字曲線を解消しようと躍起になるのである。

 日本人女性が就職率でM字曲線を描くことこそが、実は女性として自然な流れなのである。家事や育児を学ぶのに、仕事をしながらでは、きちんと学べないものなのである。仕事をしながら育児をする母親よりも、専業主婦になって育児に専念する母親の方が、育児に於いては圧倒的に巧くなることは、当然の現象なのである。

 赤ちゃんを産めば、まともな母親なら仕事など辞めて、育児に専念したいと思うのは当然なのである。でも、実際には貧しかったり、独身時代から続けている仕事があったり、家業が育児に専念することを許さなかったりと、様々な理由があるからこそ、育児に専念できず、働いているにすぎないのである。そういう母親たちのもとでも、赤ちゃんは育つが、母親として充分なことをしてやれなかったということは、いつまでも心残りになってしまうのである。

 家族には様々な家族があるのだから、統計を見て問題があるからといって、すべての家族を画一的な家族にしてしまわないことなのである。育児をしながら働く母親たちもいれば、育児に専念している専業主婦もいる。それでいいのである。学者たちが家族を弄り回せば、家族は崩壊してしまうものなのである。戦前、学者たちは日本の「家制度」を批判したが、そのために日本の家族制度は大打撃を受け、昔の家族なら寝た切り老人が出ても、家族内で処理できたのに、今の家族では寝た切り老人が出てしまうと、家族内では処理しきれず、老人ホームに出してしまい、しかもその負担を政府が負うことになってしまい、そのために国家財政が破綻してしまったのである。昔の家族制度を維持していれば、民間でできた筈なのに、昔の家族制度を破壊してしまったから、国家財政は破綻するほどの莫大な出費を強いられるようになってしまったのだ。

 大事なことは、「家族があってこそ、人間の社会は成り立って行くことができる」ということを、いつ如何なる時も忘れないことである。家族を弄ろうとする学者たちが現れて来たなら、即刻、その学者たちを大学から追放してしまい、家族制度を防衛して行くことである。学者がどんなに優れた学説を唱えようとも、学者が家族を弄れば、確実に家族制度は崩壊して行き、その損害は国民全体が背負ってしまうことになるのである。

 それと同時に、家庭と仕事の両立という愚問で悩むのではなく、自分のためではなく、家族のために働く母親たちが多く出てくれば、そういう母親たちの働きは素晴らしい労働となるから、我が祖国をどんどん豊かにして行くことができるようになるのである。等価交換などというチンケな考えを持つのではなく、働いている以上、お客様が払ったお金よりも、高価な商品やサービスを提供し続けることだ。如何なる時も、お客様に奉仕し貢献して、お客様を豊かにすることを決して忘れないことだ。お客様を豊かにしている限り、幾らでも仕事はあるし、幾らでも豊かに成って行くことができるのである。

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仕事復帰は焦らない ~子持ちの母親だからこそ、家族とお客様のために働かなければならない~

●いきなりトップスピードでは進めない

 大家族なら背負わなくていいのに、核家族だと背負ってしまうものがある。その一つが母親の仕事復帰だろう。大家族なら自宅に祖母がいるので、わざわざ仕事を休むことがなく、育児を祖母に任して仕事に行くことができるのだ。しかし、核家族だと我が子を誰かに任して仕事に行くということができないので、産休というものが必要となり、中には産休後に仕事を辞めてしまい、育児に専念し出す母親たちが出て来るのだ。

 育児のために仕事を辞めたり、育児が終わってから仕事を復帰することに悩むのは、贅沢な悩みであるということをまずは知っておこう。大家族に嫁ごうものなら、出産し終わったのに、仕事に動員され、不満タラタラで仕事をせねばならぬのだ。しかし、核家族になってしまえば、悠長に仕事を休んで育児に専念できるし、専業主婦として優雅な日々を過ごすことができるようになるのだ。

 だが、その代償こそが、仕事復帰で悩むことなのである。赤ちゃんを産み育てていても、何かしらの仕事をしれいれば、脳も体も動くようにすることができる。それなのに仕事を辞めてしまい、暫くの間、育児に専念していると、脳は仕事を忘れているし、体は体力が落ちてしまい、脳も体も仕事に追いつけなくなってしまうのだ。

 更に危険なことに、多くの母親たちは育児での経験を活かすことなく、育児で培ったものとは関係のない職業に就き、そのために安い給料で働いしまい、重労働の割には給料が伴わないということになってしまうのだ。如何に多くの母親たちが育児をしている間に世間知らずになり、自分なりのビジョンを何も持っていないかということが解るものだ。

 主婦がパートをして給料を稼ぐというのは、母親たちの仕事でも安易すぎる選択なのだ。だが、なぜこの安易な選択肢を多くの母親たちが選んでしまうかというと、その僅かな給料でも家計の足しになり、家計の運営が非常に楽になるのだ。だからこそ、パートの仕事は幾らでもあり、その誘惑に多くの母親たちが負けてしまうのである。

●職業訓練の必要性

 企業は自由経済の下、自由に経済活動を営んでいいが、それは飽くまでも法の下での活動なのであって、企業が取引をする際は公正取引を行うよう法律で仕向けて行くと同時に、企業が雇用する際には公正に雇用するように法律で仕向けて行くのは、国会に与えられた仕事なのである。国会は最低賃金や労災認定など労働者が安心して働けるように法的整備を行う責務を負うのである。それなのに、国会がやっていないものが、育児を終えた母親たちが仕事に復帰する際、その母親たちの労働上の権利と義務を与え、公正な雇用を確保させることなのである。

 企業が営利目的を最優先させてしまえば、既婚女性など雇う必要性はないし、増してや子持ちの母親など不必要なのである。企業が収益を最大限にしようと思えば、雇用する女性は結婚することなく労働に専念して貰った方がいいのである。実はこの要望に応えたのは女性たちの中でもフェミニストたちであって、だからこそ、普通の女性たちよりもフェミニズムに洗脳された女性たちが多く採用され、それを支援する男女雇用機会均等法が制定されたのである。この法律は稀代の悪法であって、この法律を文面上見れば男女の雇用が均等に確保されるだろうと思ッてしまうが、実際にはフェミニストたちが優遇されるようになっているのだ。それゆえ、この法律が制定されて以降、日本の企業は明らかに異常になり、景気が低迷して行ったのである。

 女性には独身女性と既婚女性と大きく分かれるのだが、漠然と女性と定めれしまうと、独身女性の方が優遇され、既婚女性の方が排除されてしまうのである。「女性の社会進出」「女性の地位向上」とフェミニストたちは多用するのだが、この女性は飽くまでも独身女性のことであって、既婚女性のことではないのだ。事実、マスコミという多くの人々の目に触れる分野では、独身女性ばかり優遇され、たとえその独身女性が結婚しても、。子供を作らないで、高給だけはしっかりと取ることをしているのだ。如何に子持ちの既婚女性が不当に排除されているかが解るものだ。

 結婚すれば専業主婦になるというのは、もうとっくの昔の話なのである。現在では既婚女性の半数以上が働いているのである。それなのにその働く既婚女性の権利が認められず、独身女性や子供のいない既婚女性ばかりが優遇されてしまうという異常事態になっているのだ。フェミニストたちによって執拗に勧められて来た「専業主婦潰し」が、兼業主婦にも大損害を負わしているのである。

 国会は働く母親たちのために法律を定め、仕事復帰をする際は職業訓練を施すとか、子持ちの母親たちを雇用した企業には税制上の優遇措置を与えるなどかすべきなのである。そうでもしなければ、働く母親たちはどのように振る舞っても、フェミニストたちに自分が就ける仕事を奪われ、損害を被ってしまうのである。法律は飽くまでも公平に適用されるべきであって、その法律が最初から誰か特定の人々に利益が行くようであるなら、その法律は悪法なのである。

●失敗してもいいから、ゆっくりと仕事をする

 実際問題として仕事復帰をする際は、職業を決して間違わないようにすることだ。仕事というのは何もかもできるというものではなく、自分の得意分野で勝負を挑むべきなのである。お金の誘惑に負けて、自分が不得意の分野に就職しても、巧く行かないものなのである。人間、歳を取れば、自分の才能がはっきりと出て来るので、自分の得意分野で仕事をすべきなのだ。

 今まで育児をしてきた場合、脳も体も追いついて行けないものだ。最初から仕事が巧く行くと思うのではなく、仕事に慣れるまで失敗するものと思い、ゆっくりと仕事を進めて行くことだ。仕事というのは、或る程度の経験値を積み重ねないと、何をやっても巧く行かないものなのである。

 子持ちの母親が仕事復帰をすると、若い独身女性たちに嫉妬を抱いてしまうものだが、若い独身女性と自分を見比べないことだ。そんなことをやるより仕事に専念してしまった方がいいのだ。碌な働きをしない母親たちの最大の特徴は、まずは自分の与えれた仕事をきちんとこなすというのが出来ないということなのである、仕事を真面目に取り組んでいれば、周囲の人々のことは気にならなくなる筈だ。

 仕事が順調に進んで来たら、主婦としての能力も発揮して、更に仕事が巧く行くように仕向けることだ。それは「掃除」をきちんと行うことだ。独身の男性社員や独身の女性社員はこの掃除というのが大の苦手で、独身者の多い企業はなんとなく不潔なものなのである。そのため人間性が腐敗し、モラルが低いものとなってしまうのだ。そこで自分が率先して掃除をすることで職場を清潔にしてしまうと、ギスギスした人間関係がなくなり、穏やかなムードに成って行くものなのだ。

 掃除というのを何もせず、ただ働いて給料を貰えばいいと思っていると、その内、上司から馬鹿にされ、年下の社員たちからは邪魔者扱いされてしまうものだ。清潔でない職場ではそういうことが四六時中起こっているものなので、自分だけが不当に扱われたとは思わないことだ。通常の出勤時刻よりも少し早目に出勤して来て、自分がテキパキと掃除をしていれば、いずれ自分を認めてくれる人たちが現れて来るものなのである

●職場では育児の成功は問われないもの

 子持ちの母親にとっては、結婚をしたり、子供たちを産み育てたので、それが自分の自信になっているものだが、残念なことに職場では結婚の有無や育児の成功は問われないものなのだ。飽くまでも企業がその経済活動を展開するために必要な人材の一人にすぎないのだ。

 それゆえ、まずは謙虚になることだ。謙虚になって我が身を低くしていれば、その内、頼まれる仕事が増えて来て、その仕事をこなして行くことで、能力が向上して行くというものなのである。「結婚しているから」「子供がいるから」ということで、踏ん反り返っていると、誰でも出来る仕事しか与えられず、その仕事すらもまともにこなすことができず、仕事でトラブルを発生させてしまうことになるのだ。

 本来なら、独身女性よりも、既婚女性の方が高い能力を発揮できるものなのである、なぜなら、家族という自分が帰る場所があるからなのである。独身女性だと家族がないために、どこかで無理をしてしまう生き方をしてしまうものなのである。その不安定な部分を競争相手から突かれてしまい、転げ落ちて行ってしまうのである。

 自分のために働くというのではなく、家族のために働くという気持ちになれれば、家族のいない独身女性よりも高い能力を発揮できるものなjのである。結婚しているのに、夫のことを考えず、子供たちがいるのに、子供たちのことを考えず、自分の事ばかり考えていては、仕事が巧く行かなくなるのは、当然のことなのだ。

 仕事というのは、お金のために働いていると、大して儲からないものなのである。お金のことを忘れ、家族のために働き、仕事を誠実にこなし、お客様に奉仕し貢献するという姿勢を保つからこそ、仕事が成功し始めるのだ。この姿勢に立つことができれば、お金など幾らでも入って来るものなのである。仕事復帰する時は、自分のことで手一杯にならすに、家族やお客様たちのことを決して忘れないようにすることだ。

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育児終了後の頭痛対策

●頭のいい母親ほど頭痛になる

 夫の収入も良く、妻には優しくしてくれて、子供たちにも恵まれ、健康に育っているのに、外から見れば幸せを絵を描いたような家族に見えても、母親が一人自宅で頭痛に悩んでいて、幸せどころではないという家族がいるものなのである。頭痛というには、外見的には健康そのものなので、家族の理解を得ることがなく、下手をすると仮病ではないかと疑われてしまうのだ。しかし、そうではないないのだ。頭痛はすべての幸福を破壊してしまうほどの威力を持つ恐ろしい病なのである。

 頭痛というのは、頭の悪い女性や、ブスやデブのような女性には発症して来ることはない。よりによって、頭のいい女性や、美人の女性に限って発症して来るのだ。これらの女性は女性ホルモンが大量に分泌され過ぎてしまい、それによって体が冷え、頭が締め付けられ、有り得ないような頭痛に苦しめられてしまうのである。

 人間には大きく分けて、「陰性体質」と「陽性体質」の二種類の人々がいる。陰性体質の女性は、運動が苦手で、社交的になるより、自宅で静かにしていたいことを好む女性だ。頭痛の罹るのは大抵がこの陰性体質の女性だ。陰性体質が悪いのではなく、自分が頭痛に成り易い女性であるということは頭の中に入れておいた方がいい。

 人間の脳は無制限に活動できる訳ではなく、その能力量には限界がある。陰性体質の女性の場合、陽性体質の女性よりも、多くの脳を使う傾向にあり、それはそれで高い知能を発揮するということが起こるのだが、その反面、脳が疲労しきってしまい、それによって頭痛が発生してしまうという弊害を生んでしまうのである。

 陰性体質の女性は日常の些細な問題でも、「あれや」「これや」と考え過ぎてしまうので、どうしても脳が使われ過ぎてしまうのだ。体を動かしていないにも拘わらず、頭ばかり使っていてば、血流が悪くなるので、当然に脳内に発生した疲労物質や毒素を排除することができなくなり、それでズキンズキンと痛み始めるのである。

●頭痛持ちは背骨が曲がっている

 まず頭痛を抱えている女性は、頭の形がズレている。頭を使い過ぎてしまい、脳の比重が重くなり、創造性豊かな女性なら右に頭が傾いているし、理屈っぽい女性なら左に頭が傾いているものだ。自分の頭の形のズレは自分では解りにくいので、今まで撮った写真を見てみることで、その頭の形のズレを把握しておこう。

 それと、育児による背骨の歪みというのも、頭痛の大きな原因の一つになっている。乳幼児は小さいために、母親はどうしても下を向く態勢を取ってしまうのだが、そのために猫背になり、いつの間にか下を向く姿勢になってしまっているのだ。猫背の姿勢でいると、視力も低下してくるので、どうしても更に猫背になるという悪循環を生んでしまうのである。

 頭痛持ちの女性は、背筋の筋肉量がそもそも少ないのだ。背筋を鍛えておけば、いくら頭を使っても頭の形はズレないし、猫背にもならないものだ。そのため、まずは背筋を鍛えることだ。自宅でせっせと背筋に筋肉トレーニングを施していけばいい。最初は100回から始めて、徐々に回数を増やして行き、1000回ぐらいやって、背筋にしっかりとした筋肉を付けるようにすることだ。筋肉トレーニングは毎日やるのではなく、週に2回か3回で充分である。

 それと縄跳びを行って、背骨の骨に刺激を与えて行くのだ。縄跳びをやると、背骨に刺激が行き、背骨の歪みが解消されて、背骨の歪み取れて行くのだ。縄跳びは汗がうっすらと出るくらいまでやればいい。10分~30分程度で充分である。それを地道にやっていくと、背骨の歪みが取れるし、無駄な贅肉も落ちて痩せて行くようになるのだ。

 朝起きた時に、背骨を伸ばしてストレッチを行うのもいい。猫が背伸びをする要領で、背骨を伸ばすのである。普段の生活でも、体が重くなってきたら、椅子から離れて背伸びをして、リラックスするように努めることだ。頭痛持ちの女性に限って、長時間に亘って椅子に座り続けてしまう傾向にあるので、そのために背骨に負担がかかり過ぎてしまい、背骨が歪んでいくのである。

●食事の改善

①果物と野菜の不足

 陰性体質の女性ほど肉食を好む。体が冷えているために、肉食を多くすることで、体を温めようとするのだ。美人の女性に限って、肉食を好むのはこのためだ。しかし、肉食が多過ぎてしまうと、体内で肉を消化吸収するために酵素水分が大量に使われてしまい、酵素水分が不足してしまうことになるのだ。それで奇麗な水分が脳に行かず、頭痛を引き起こしてしまうのだ。

 肉食をする時、必ず果物や野菜を多目に取って行くことだ。但し果物は夜に食べると体を冷やすことになるので、朝食や昼食に食べるようにすることだ。野菜は出来る限り生野菜を多目に取るようにし、糠漬けやキムチなどを多目に取って行き、体内を酵素水分で満たしてあげることだ。

②排便が出る量の穀物をしっかりと取る

 頭痛持ちの女性の食事で気になるのが、穀物をしっかりと取っていないということだ。頭がいいということは、それだけ脳を使うので、脳のエネルギーとなる穀物をしっかりと摂取しないと、エネルギー不足から頭痛になってしまうのは当然のことなのだ。お米を食べる際は、朝食や昼食を多目にして、パンや麺類を食べる時は夕食で多目に食べ、充分な炭水化物を補給しておくことだ。

 炭水化物はビタミンB1がないと脳に送られないので、味噌汁をたっぷりと取っておくことだ。味噌汁の味を濃くしてしまうと、余り多く飲めなくなるので、少し味を薄くして、味噌汁を多目に飲めるようにして、ビタミンB1をより多く接種して行くことだ。頭がいいのに、味噌汁を小さなお椀で飲んでいるようであるなら、頭痛になるのは当然のことなのである。

③卵醤を飲む

 陽性体質の女性は塩分を多く取る必要性はないが、陰性体質の女性なら塩分を補給することが必要となってくる。塩分不足のために、体温を上げることができず、更に塩分濃度が低いために、血圧を安定したものに保てないのだ。塩分は充分に足りてしまえば、それほど欲しがらなくなるので、塩分補給はそこで控えていけばいいのだ。

 頭痛持ちの女性にお勧めな塩分補給が「卵醤」である。これは生玉子に醤油をかけて、それを飲むというものだ。但し、醤油は天日塩入りの本格的な醤油を使うことだ。最低でも7日間に亘って卵醤を食べ続けると、頭痛がピタリとなくなるものである。それだけ塩分不足であったということなのである。

●考えずぎる生活を見直す

 頭痛を治療するために、是非ともやって欲しいのが、日々の考え過ぎる生活を看做すということだ。頭痛持ちの女性は要は頭を使い過ぎているのであって、頭を使うべき所には使うべきだが、頭を使うべきではない箇所には頭を使わないようにし、脳の負担を軽減してあげることだ。

 まず、手帳を持ち、日々の生活のスケジュールを管理することだ。毎日を予定もなくダラダラと過ごしてしまうのではなく、手帳に予定を書き込むことで、事前に自分が何をすべきかが解り、書き込んでしまえば、自分はそのことを忘れて、他の作業をすればいいのである。予定は自分のだけでなく、夫や子供たちの分まで書き、妻として母親としてやるべきことはきちんとやってしまえば、それほど脳に負担がかからなくなるのである。

 それと日々の行動を日記として残しておくことだ。人間、生きていれば、嬉しいことや悲しいことが多々あるものだ。そういったことをいつまでも覚えておくのではなく、日記に書くことで一旦脳から忘れさせてしまい、他の作業ができるようにしておくことだ。これをするだけで脳の負担は軽減するので、いつまでも過去のことを覚えているのではなく、新しいことにチャレンジしようとし出し、脳が活性化して行くのである。

 そして何か物事を始めようとする際は、考え過ぎる前に体を動かすようにすることだ。頭のいい女性に限って体を動かさずに、考え込んでしまうので、そのために行動量が異様に少なくなってしまい、そのために血流が悪くなり、頭痛が発生し始めるのだ。考え過ぎてしまうと、その内、否定的な考えで埋め尽くされ、挙句の果てには、自分が遣ろうとしていたことを否定してしまうようになるのだ。

 頭痛を治すのは簡単なのだ。要は自分の思考量と行動量がアンアバランスを起こしており、そのために脳が本人に「考え過ぎだよ」と教えてくれているのだ。ところがそれを無視して、生活を何も変えないからこそ、頭痛がより激しくなり、その内、自宅のテーブルの前で、両手で頭を抱えながら、苦しんでしまうことになるのだ。

 自分が脳疾患でも罹っていない限り、頭を開いてその頭痛の原因を取り去ることはできないのだ。頭痛の原因は自分の日常の思わぬ悪習にあることに気付くことだ。考えている割には、行動していないってことだ。元々は頭がいいのだから、体を動かしていれば、頭痛が吹き飛び、それがいい方向に使われるものなのである。

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育児終了後の二重顎対策

●女性の老化が明確になるのは、首回りからである

 家族全員で写真を撮ろうとして、その写真を現像してみると、夫も子供たちもきちんと写っているのに、母親だけが二重顎に写っており、見苦しく見えたりしたことはないだろうか? 育児を終えた母親が最も気をつけなければならないのは、今まで奇麗だった首回りが衰え始め、二重顎になってしまうことなのである。

 人間の老化が明確になるのは、首回りからだと言っていい。首というのは、女性にとって意外すぎるほどの弱点なのである。芸能人でも老化が始まって容色が衰え始めると、夏だというのに、タートルネックの服を着たり、常時、マフラーを巻いていたりする。芸能人は自分の老化を隠すのが巧いものだが、首回りに関してだけは巧くなく、それだけこの部分の老化を隠しきれないということなのだ。

 なぜ首回りがそんなに老化するかといえば、首の筋肉をしっかりとつけていないからなのである。若い頃にスポーツで首回りに筋肉をしっかりとつけていればそう簡単に老化してこないものだが、しかし殆どのスポーツで首回りを鍛えるということがなく、レスリングでも遣らない限り、首を鍛えるという機会が全くないからなのである。

 しかも、人間の首は重たい頭を支えるために、常に負荷がかかっている状態であり、もしも当の本人が頭を使う作業を遣り続けていると、その疲労が溜まり、徐々に老化が出始めるものなのだ。育児を終えた母親の場合、家事や育児のことで疲労が溜まっており、それが二重顎となって現れて来るのである。

 妻が二重顎になっても夫は何も言わないものだが、問題は夫婦同伴で出かけなければならない時、これほど見苦しいものはないのだ。夫の方は二重顎ではないのに、妻が二重顎だと、自分の美貌にケチがつけられるのはともかく、「あの旦那の奥さんはこの程度か」と思われてしまい、夫が軽んじられてしまうことの方が危険なのだ。こうなってしまうと、夫の方はその後の仕事で支障を来たし始め、収入が増えて行かないことになってしまうのだ。

●首の筋肉を鍛え、縄跳びで骨を鍛える

 まず、二重顎というのは、首回りの筋肉が弛んだ状態なので、肥満の女性でなくても、普通の体重の女性であっても、痩せている女性であっても、出て来るということなのである。それだけこの筋肉は盲点なのである。逆に言えば、この筋肉をしっかりと鍛えておけば、二重顎にならず、他人よりも遥かに美しく見えるということなのだ。

 首の筋肉を鍛え方は、四つん這いになって、首を上下に上げたり下ろしたりして鍛えていくしかない。ここの筋肉は急激につくものではないので、この筋トレを地道に遣り続けて行くことだ。長期間遣り続けると、徐々に筋肉が付き始め、首回りにしっかりとした筋肉がつくようになるのだ。

 二重顎が出来る女性は、首だけでなく肩の筋肉も衰えているので、懸垂をやって首や肩を鍛えておくことだ。体重の関係で、懸垂をやるのは大変だろうが、首や肩に筋肉がつくと、長時間に亘って頭を使っても頭が疲れにくくなり、肩凝りとかもなくなるので、最初は回数が少なくても、徐々に回数を増やして行き、首や肩にしっかりとした筋肉をつけるようにすることだ。

 これらをやった上で、後頭部を地面につけ、腰を上げてブリッジの態勢を作り、頭を動かして、首の筋肉を直接鍛えて行くことだ。この筋トレは絶対にいきなりやらないことだ。首の筋肉が弱っている人がやると、首の捻挫を引き起こしてしまうからだ。或る程度、首に筋肉がついてからやると、急激に筋肉が付き始め、二重顎がなくなって行くのだ。

 もう一つやっておくべきことは、縄跳びである、今まで育児をして来て、いつも我が子を見なければならないために、下を向く癖がついてしまい、そのために背骨が曲がってしまい、それが二重顎となって現れて来るのである。背骨の歪みを治すために、日々縄跳びをして行くと、背筋が良くなり、背骨の歪みが治って行くものである。背骨の歪みが治ると、二重顎も解消されて行くのである。

●オリーブオイルでマッサージをする

 首回りに筋肉が付き始めたら、後は美容法を駆使していけばいい。服を脱いで上半身裸になって、手にオリーブオイルをたっぷりとつけ、それを首回りや肩の辺りに塗って行くのだ。二重顎になる女性はここいらの血流が悪くなっており、しかも脂分が不足しているので、どうしても老化が加速されてしまうのだ。それゆえ、オリーブオイルマッサージを施し、血流を良くし、脂分を補給してあげると、見違えるように奇麗になるのだ。

 出来れば風呂上がりの後のように、血流が良くなっている時にやると更に効果的だ。オリーブオイルマッサージはオリーブオイルを染み込ませ、乾燥するのを待てばいい。別にタオルで拭かなくてもいい。オリーブオイルが染み込んでくれた方が、より美しくなれるのである。

 その後、首にタオルを巻いて寝るようにすることだ。睡眠中には成長ホルモンが分泌されるので、そのホルモンを使って自然に首回りを修復して貰うのだ。そのためにはタオルを首に巻いて、温かくしておくのだ。通常の寝方だと、首は剥き出しになり、冷えてしまうので、そのために巧く修復作業が行われないのだ。だから、首の老化が目立ち始め、二重顎になってしまうのだ。

 朝起きたら、寝ぼけ眼の状態でいるのではなく、パジャマを脱いで、乾布摩擦を行い、血行を良くしてあげるのだ。朝起きた段階で、血流を良くさせてあげると、体内の老廃物や毒素を排出し易くなるので、首回りに老化が出にくくなるのである。冬の朝などは寒かろうが、それでも乾布摩擦をすることを続けて行くと、首回りが全く見違えるほど美しくなっていくのだ。

 歳を取って来ると、体の疲れが溜まってしまうと、すぐに首回りに老化が出始めるので、絶対に夜更かしをしないことだ。成長ホルモンは午後10時から午前2時の間に大量に分泌されるので、この時間帯に就寝することなく起きていたら、体は修復作業を充分にお粉ことができず、老化が出始めてしまうのである。

●口を大きく開け閉めする

 それから日頃の喋り方に注意をしておくことだ。日本語は複雑な文字を使う言語ではあるが、複雑な発音を使う言語ではないので、口や舌をしっかりと使って喋らないと、口や舌が衰えてしまい、それによって筋肉が弛み、二重顎になってしまうのだ。この手の二重顎は痩せている女性でも成り易く、日頃、会話の回数が少なく、余り喋らないために口を尖がらしていると、どうしても二重顎になってしまうのだ。

 まず、日頃から口を大きく使って喋るようにすることだ。そして会話する回数を多くして行くことだ。友達でも一方的に喋るような女性と仲良くしていると、自分が聞き役になってしまい、自分が殆ど喋らなくなってしまうものだ。そのため、きちんと会話できる女性と仲良くして、双方が喋り合うことができるような女性と仲良くし、会話する回数を多くして行くことだ。

 自宅で会話の数を多くしようとしても、限界があるということである。勿論、家族内の会話を多くすることはそれはそれでいいことだが、家族内の会話は矢張り家族内の会話になってしまい、女性脳をフル稼働させるものではないのだ。女性同士で喋りまくるからこそ、女性脳がフル稼働できるのであって、そういう機会をきちんと作っておくことだ。

 また、口の小さい女性は自宅で鏡を見ながら、口を大きく開ける練習をしておくことだ。口の小さい女性は、日頃から口をきちんと使わずに喋り続けたために口が小さくなってしまい、それによって筋肉が弛んで二重顎になってしまったのだ。それゆえ、一人で口を大きく開ける練習を積み、普段の生活でも口を大きく開けて喋ることができるようにすることだ。

 自分がお婆ちゃんになっても、首回りが奇麗だと、歳を取っても奇麗に見えるものなのである。首回りは己の美貌に於いて最大の盲点であり弱点なので、ここをしっかり鍛え、美しく見える努力をしておくことだ。たとえ美人であっても、「あの人は奇麗なんだけど、どうもな?」と思われてしまう場合、大抵が首回りに老化が目立っているものなのだ。突出した美人にならなくても、首回りを奇麗にしておけば、そこそこ美しく見えるものなのである。

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冬に於ける「冷え症」対策

●日本の冬は恐ろしく寒いもの

 日本の冬はとにかく寒いものだ。世界最強のシベリア寒気団が南下してくるために、有り得ないほどの寒さを展開してくる。神武天皇はその御世に於いて、家臣を越後や安房に派遣して、その地を征服しているが、その後の大和朝廷の北上は矢鱈と遅かった。東北地方全域を征服するのに、なんと1千年以上かかっているのだ。北海道全域を征服したのは江戸時代だが、開拓が本格化するのは、明治になってからだ。

 人間は南下して行くのは容易いが、北上して行くのは困難が伴うのである。寒さに耐えうるように服装を変えねばならないし、食事を変えなばならないし、住宅を変えねばならない。極寒の地でも凍傷にならないようにするのには、袖を長くし、常時、手を覆うようにしなければならない。防寒帽も必需品となってくる。北海道の人たちは鮭鍋やジンギスカン鍋を開発している。あれほどの寒さではこの手の鍋物を食べない限り、死んでしまうからだ。住宅も日本の国内では珍しく大きめに作らている。寒い冬に雪に閉じ込められた場合、狭い住宅では酸欠になってしまうからだ。

 人間は寒さの対策にこれほど苦労するというのに、雪の降らない地域の人々は、冬の寒さの恐ろしさを軽視し過ぎている。冬の寒さで体温が低下してしまうと、健康な人でも病気になってしまうのだ。免疫力と体温は密接な関係にあり、体温が低下してしまえば、免疫力も下がり、それによって病気に罹ってしまうのである。

 母親として気をつけるべきは、子供たちが薄着を好むために、自分のそれに釣られて薄着をしてしまうということだ。子供は体温が高いために、それほど温かい格好をする必要性がないのだ。しかし、母親の方は体温がそれほど高くないために、絶対に温かい格好をする必要性があるのだ。

 食事にしても、夫や子供たちの好みばかりを優先していると、冬に耐えうる食事を作らなくなってしまうのだ。夫や子供たちはそれほど料理に対して知識がないために、冬でも体温を下げてしまう食事を頼んで来る傾向があるのだ。例えばカレーライスなど子供たちが好む料理ではあるが、このカレーライスは原産地がインドであるので、基本的に体を冷やす食べ物で、冬場に食べる料理ではないのだ。カレーにどんなに体を温める具材を入れても、カレーの香辛料は体温の下げるようにできているのだ。そのため、冬に夫や子供たちの意見を優先してしまうと、その料理を作った母親が真っ先に体調を崩してしまう結果となり、そこから家族内で病人が続出して来るのだ。

●押麦入り玄米食に粟と稗を足す

 まず、日本民族はこの寒い冬のある日本列島で発生してきたのだから、我々の先祖たちはそれに対抗できる食事を食べていたということなのである。そうでもしなければ、この日本列島では生きていけなかったのだ。では、日本民族は何を主食にしていたかというと、「五穀」であったのだ。決して白米一辺倒で穀物を食べていたのではないのだ。

 お米の中でも玄米は体温を下げることも上げることもない穀物である。そこに体温を上げる効果のある押麦を入れる。押麦入り玄米食こそ、日本民族の主食の基本なのだ。それに冬になると、粟や稗を足し、冬の寒さに耐えうるようにさせるのだ。粟も稗も体温を上げる効果が高いので、冬には必需品なのだ。それに大豆を発酵させて味噌を作り、その味噌汁を飲むことで体を温めるのだ。

 「玄米」「押麦」「粟」「稗」「大豆」で、これで五穀だ。日本全国にある神社は今でも五穀豊穣を願い続けているのである。それなのに、現在では白米一辺倒になり、粟や稗を食べなくなったからこそ、冷え症で悩まされる女性たちが続出してしまったのである。日本の伝統食を否定した報復措置は、我が身の病気となって現れてくるのだ。

 粟や稗は戦前まできちんと食べられていたのだ。しかし、白米を食べることを豊かさの象徴としてしまったために、粟や稗が見捨てられるようになってしまったのだ。粟や稗は貧乏人が食う食べ物であって、裕福な人々が食べるものはないというのだ。だが、そのために白米を食べている人々から病気が続出して行ったのだ。なぜなら、白米は穀物の中で最も体温を下げるものだからだ。

 粟や稗を一度も食べたことのない人が、粟や稗を食べようとする際、その臭いが気になってしまうものだ。そういう時は、最初から多目に入れないことだ。玄米と押麦をメインにし、そこに粟や稗を少し足して行けばいいのだ。慣れて来たら、徐々に粟や稗の量を増やして行けばいい。

 粟や稗はスーパーで買うよりも、専門店で買った方が値段が安い。粟や稗や主食の地位から落ちているために、それほど需要がないために、値段が上がってしまうのだ。その点、専門店に行けば粟や稗に需要があるので、それなりの値段で落ち着いているものなのだ。

●里芋や山芋を食べる

 冬に里芋や山芋を食べるというのも、寒さ対策の一環として絶対に忘れてはならない食材だ。里芋と山芋は日本の風土に適した食材であって、これを食べると冬でも暖かくしていられるのだ。里芋や山芋は体温を上げる効果があるので、これを冬に食べるからこそ、冬の寒さに耐えられるようになるのである。

 里芋や山芋は食べると腸内の機能を高めてくれることになるので、秋の内から多く食べておくと腸内の機能が高まり、体の機能が衰えがちな冬でも、必要な栄養や水分を全身に送ることができるからだ。冬に里芋や山芋を食べていないと、どうしても体の動きが悪くなり、行動量が激減してしまうものなのである。

 里芋や山芋を主役にした料理を出すのもいいし、何かしらの料理に里芋や山芋を入れて料理すると、常に里芋や山芋を食べ続けられることになる。特に子供に里芋や山芋を食べさせると、良質の筋肉がつくようになり、病気しなくなるし、健康な体を手にすることができるようになるのである。

 もしも夫が頭を使うような仕事をしているなら、里芋や山芋は絶対に欠かせない。里芋や山芋は知能を高めてくれる効果があるので、里芋や山芋を食べていると高度な思考に耐えられるようになるのだ。夫が仕事で疲れ切っているようであるなら、それは体の疲れではなく、脳の疲れなので、定期的に里芋や山芋の料理を出して行くことだ。

 母親にとっては便秘解消という有難い効果がある。女性は便秘がちなので、芋類を多く食べることで、排便をスムーズにして来たのだ。女性が芋類を食べている限り便秘にならないものだが、芋類を食べなくなると途端に便秘に成り始めるのだ。それほど芋類は腸内環境を整えるのに役に立つのだ。

●鍋物に干物

 冬に体を温めてくれるメインディッシュと言えば、「鍋物」と「干物」なのである。日本の冬の料理と言えば、鍋が定番なのである。アツアツの鍋をホクホクしながら食べるからこそ、寒い冬を乗り切ることができるのである。鍋物の最大の利点は、栄養が不足しがちな冬に、大量の野菜を食べることができるということなのである。野菜というのはナマで食べるとそれほど食べられないものだが、鍋にしてしまうと大量に食べることができてしまうのである。

 大体、日本の家族というのは、家族全員が鍋を囲んで食べると、非常に仲良くすることができるというものになっているのだ。家族内部で人間関係で揉めているようなら、家族全員で鍋物を食べることで仲良くなってしまうことだ。外国人に鍋物を食べさせると、最初は怪訝な顔をするものだが、鍋物を食べ始めると、一気に仲良くなってしまい、深い信頼関係を築けてしまうものなのである。それほど鍋物には食事だけでなく、人間の心を穏やかにする効果があるのだ。

 干物というのは、人間が食べる食品の中で、最も体を内部から温める食品なのである。冬に乾燥させたアジの開きを食べたりするのだが、こうやって食べると、アジをそのまま食べるより、体を内部から温かくしてしまい、冬の寒さに耐えうることができるようになるのである。

 洋食を多く食べる家では、干物を食べる回数が激減し、下手をするとなくなってしまうものだ。そのため、そういう家族から難病奇病に罹る子供が続出して来るものなのである。洋食は体の内部から体を温めてくれる料理というのが余りないので、洋食ばかり食べていると、体の芯が冷え切ってしまい、それで得体の知れない病気に罹ってしまうのである。

 干物というのはそもそも保存食なので、漁港がある所に行って、そこで干物を買い溜めしておき、それを日々の料理で使っていけばいいのだ。漁港で買えば、値段も安いし、品質の高い物を手に入れることができる。干物は焼き料理だけで食べるのではなく、少し工夫を凝らすと家族の者たちにも飽きない料理にすることができるのである。

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育児終了後の冷え症対策

●育児を終えた母親を苦しませる冷え症

 昔の母親というのは、どの母親も体が温かった。女性は赤ちゃんを出産すると母性ホルモンが分泌されるので、体を冷やす副作用がある女性ホルモンの効果を相殺してくれるからだ。子供の数が多ければ多いほど、母性ホルモンの分泌量も多くなるので、当然に体の冷えとは無縁の体になり、体を温かくすることができたのである。

 ところが、子供を一人か二人しか産まないと、どうしても母性ホルモンの分泌量が不足するから、女性ホルモンの副作用で体が冷えてしまうのだ。というか、子供の数が少ないために、母親体形になっていないので、気候による寒さを直撃し易いような体つきになっているのだ。女性が赤ちゃんを産んで母親体形になると、適度に脂肪がつくので、外気の寒さを自然と防ぐことができるようになるのである。

 では、3人以上産めば万々歳かといえば、決してそうではなく、本来なら充分な量の母性ホルモンが分泌されている筈なのに、体の冷えで悩まされている母親たちが結構いるものなのである。この手の母親たちは、水分過剰であり、肥満であり、運動不足によって、体の冷えに悩まされてしまうのだ。

 水分過剰がなぜ体の冷えを引き起こすかといえば、体に余分な水分が存在すると、それを温めるためにエネルギーを取られてしまい、そのために必要なエネルギーが不足してしまい、体が冷えてしまうのだ。体が冷えているからこそ、食事を多目に取るようになり、だが体温が低いために新陳代謝が悪くなり、体に余分な脂肪がついてしまい、このブヨブヨとした脂肪ではなかなか体を温めてくれないのだ。太っている割には、筋肉量が少なすぎるからなのである。

 体重が重いのだから、当然に運動量も減り、運動不足になってしまう。大体、育児というのはそれほど多くの運動量をこなしていないものなので、どうしても乳幼児に付き合っていると、育児をしている最中は育児に追われていて気付かないけど、育児が終了する頃には、自分が体の冷えに悩まされていることに気付くものなのである。運動量が少ないのだから、冷え症になってしまうのは、当然のことなのである。

●水分摂取の仕方を変えること

 冷え症を治したいのなら、まずは無闇に水分を摂取しないことだ。午前中は排泄の時間帯なので、水分を大量に摂取しても構わないが、午後以降はなるべく控えるべきだし、夕食以後は喉が乾かない限り水分を摂取しないことだ。夜間に飲む水分が、最も体に溜め込まれ易いので、水分過剰となって着実に現れて来るのだ。

 絶対に飲んではならない飲み物は、「清涼飲料水」と「牛乳」である。清涼飲料水は純粋な糖分が入っているので、体内に溜め込まれ易く、排出されにくい水分なのである。缶ジュースをガブ飲みしている人ほど太っているのは、この清涼飲料水の危険性を知らなすぎるからなのである。牛乳は人間が飲む飲み物の中で最も体を冷やす飲み物で、しかもそれを冷蔵庫で冷やしてから飲むことになるので、体を最悪なまでに冷やしてしまうのだ。牛乳を直接飲むのは絶対にやめるべきであって、どうしても牛乳を飲みたいのなら、牛乳を発酵させてヨーグルトにして食べるべきなのである。

 珈琲や緑茶も体を冷やす効果があるので、絶対に飲まないようにすることだ。珈琲も緑茶もそれを飲み出したのは、すべて男性たちであって、男性は筋肉量が多いために体が温かいので、体を冷やす効果のある飲み物を飲みたがるものなのである。それゆえ、その飲み物を男性が飲んでいるからという理由で女性も飲んでしまうと、途端に体を冷やしてしまい、体のあちこちに異常が出て来るものなのである。

 体を温める飲み物は、「生姜湯」「葛根湯」「タンポポ珈琲」「ほうじ茶」「番茶」などである。今まで珈琲を飲んで来て、なかなか珈琲をやめることができない女性は、タンポポ珈琲がお勧めである。タンポポ珈琲で誤魔化すことによって、珈琲を飲まないようにするのである。

 ただ、これらのものは外出先では得られにくいので、喫茶店などで飲み物を飲む際には、紅茶を頼むが無難であろう。紅茶は一時的には体を温めてくれるが、実は少しではあるが体を冷やす効果を持っている。そのため余り飲み過ぎないことだ。体を強烈に冷やす珈琲や緑茶を飲むよりは増しということだけなのである。

●体を温める食品を食べる

 食事では体を冷やす食品を避け、体を温める食品を食べることだ。「白米」や「白パン」を食べないことだ。白米は穀物の中では最も体を冷やすし、白パンは白砂糖や脱脂粉乳が使われているので、それ以上に体を冷やすものなのだ。穀物は主食なので毎日食べるがゆえに、精白穀物を常食していると、体が冷え切ってしまうものなのである。

 お米を食べる時は、必ず玄米を使うことだ。玄米は体を冷やすことも体を温めることもないという「中庸の食品」なので、これに体を温める効果のある押麦を入れれば、体温が下がりにくくなり、その一方で体が温まって行くのだ。白パンをやめて「黒パン」にし、出来る限り「麺類」を多く食べて行くことだ。麺類は精白されていてもそれほど体温を下げず、しかも麺類には必ずスープがついて来るので、それで体を温めることができるのである。

 それと根菜類をしっかりと食べて行くことだ。「山芋」「里芋」「サツマイモ」「ジャガイモ」「生姜」「ニンニク」「人参」「ゴボウ」など、根菜類をしっかりと食べて行くと、体が温まって来るものなのである。これらの根菜類はすべて体を温める効果があるので、これらの食品を食べる回数が多いほど、冷え症とは無縁の体になる。

 肉や魚も体を温める効果のある食品なので、可能な限り多く摂取して行くことだ。但し、肉を食べる際には、必ず生野菜を食べないと、肉の毒素で体を酸化させてしまい、それで体の冷えを引き起こしてしまうのだ。肉を食べる量が多いのに、体が冷えているという人は、体が酸化してしまっているからなのである。

 それと女性には生理があるために、毎月、或る一定量の血液が外に流れ出してしまう。その際、鉄分が多く失われてしまうので、意図的に鉄分を摂取することだ。「鉄製のフライパン」や「鉄製の鍋」を使って料理をすれば、自然と鉄分を摂取することができる。昔の家庭では、冬は囲炉裏に鉄製の鍋を釣るし、そこで鍋物をして食べたものだが、そうやって鉄分を補給していたからこそ、体を温めることができ、冬を凌ぐことができたのである。

●足を鍛える

 乳幼児は行動範囲が狭いので、乳幼児の世話をしていると、どうしても運動量が落ちてしまうのである。そのため、子供が小学校に上がり、母親の手から離れるようになったら、運動量を増やして、体を鍛えて行くことだ。まずは日々歩くことだ。歩くことこそ、運動の基本なので、歩く量を増やして、自然と足腰を鍛えて行くことだ。

 ウォーキングをするのもいいし、軽ジョギングをするのもいい。とにかく毎日歩くなり、走るなりすることだ。それと日常生活で余り自動車を使わないようにし、自転車を使うなり、歩きを使うなりして、足腰を動かすようにすることだ。例えば、買い物に行く際は自動車ではなく、自転車で行くとか、歩きで行くとかにすればいいのだ。気をつけるべきは地方に住んでいる母親たちで、地方だと自動車が足になってしまうので、自動車ばかり乗っていると、足腰が弱ってしまい、冷え症どころか、糖尿病や肝臓病や腎臓病の餌食になってしまうのだ。歩く量が少ないから、体の機能が低下してしまい、治療に時間がかかる病気に罹ってしまうのである。

 冷え症で悩まされている母親たちは、ただ単に体が冷えているのではなく肝臓や腎臓の機能が衰えているものなのである。例えば、輸血でC型肝炎に罹っても、肝臓の機能がしっかりとあれば肝炎を撃退できるのだが、肝臓の機能が衰えているばっかりに、肝炎を自分で治すことができないし、病院で治療を受けても肝炎を治すことができなくなってしまうのだ。

 肝臓や腎臓の反射区は足の裏にあるので、足を使って歩く量を増やして行かない限り、肝臓病や腎臓病を治せないのだ。肝臓病や腎臓病を治したいのなら、まず歩くことである。肝臓病や腎臓病に罹る人は歩き方に特徴があって、足の裏を巧く使って歩いていのだ。そのために反射区が刺激されず、肝臓や腎臓の機能が衰えてしまうのである。

 歩く時は、踵から地面に着けて、足の裏を満遍なく地面につけて、足の指で地面を蹴るように歩くことだ。靴を履く生活に慣れてしまうと、この当たり前すぎる歩き方ができないので、裸足になって芝生の上を歩いてみることだ。1時間以上歩き続けていれば、この当たり前すぎる歩き方を習得できる筈だ。

 ハイヒールやパンプスは可能な限り履かないようにし、自宅でもスリッパを履かないようにすることだ。これらの靴はどうしても不自然な歩き方を強いてしまうのだ。普段の生活は運動靴で充分だし、自宅では足袋を履いて、足の裏全体を使って歩けるようにしておくことだ。

 体が冷えている女性は足首が固くなっているし、脹脛の筋肉量も少ないので、暇な時は足首を回してストレッチをしたり、足首スクワットをして脹脛に筋肉をつけて行くようにすることだ。足は第二の心臓と言われるくらいなので、足首が固く、脹脛に筋肉がついていないと、血流は悪くなるし、血液も温められないので、どうしても体が冷え切ってしまうのである。

●肌を露出しない服を着る

 当たり前のことだが、冷え症で悩まされているのなら、温かい格好をすることだ。温かい格好をしていれば、それほど体は冷えて行かないものなのである。それなのに体の冷えで悩まされている女性に限って、肌を露出する格好を好み、余計に体を冷やしてしまい、癌などの最悪の病気を引き起こしてしまうのである。

 子供がいるというのに、肩や背中を丸出しするような格好をしたり、太股を露出する格好をすべきではないのだ。こんな格好は独身女性がすべきものであって、既婚女性がする格好ではないのだ。年齢的なことから言っても、このような格好をしていれば、体が冷え切ってしまうものなのである。

 通常は長袖長ズボンで充分なのだ。この格好であるなら動き易いし、体を温める効果があり、いつまでも健康でいられるものなのだ。どこか外出する際でも、可能な限り肌を露出しない格好をし、出来れば羽織るものを持って出かけ、寒ければすぐさま羽織るようにして、体温低下を防ぐようにすればいいのだ。

 冬が遣って来たのなら、とっとと厚着をして、防寒対策を取ることだ。自分が寒いと思っているのに、周囲の人々が防寒対策していないからといって、それに同調してしまわないことだ。寒いものは寒いのだ。早目に防寒着を来て、手袋とマフラーをつけて、冬の寒さに備えることだ。

 その一方で、夏は暑いからといって、肌を露出してしまわないことだ。女の体の冷えは夏に蓄積されて、それが冬になって現れて来るものなので、暑い夏だからこそ服で体を覆って、体を温めておくようにするべきなのである。子供たちは体温が高いので、薄着をして来るものだが、それに釣られて薄着をしてしまわないことだ。夏の間に長袖長ズボンで生活していれば、冬になっても冷え症が出て来ないものなのである。

●サウナで汗を流し、冷水で体を鍛える

 冷え症で悩まされているのなら、毎晩、お風呂に入って体を温めておくことを絶対に忘れないようにすることだ。夜にお風呂で体を温めておけば、そんなに冷え症が酷くならないものなのである。お風呂は烏の行水をするのではなく、汗が出るまで入り、余分な水分を排出してしまうからこそ、冷え症がなくなって行くというものなのである。

 体はどうしても余分な水分は溜め込んで来るので、定期的にサウナに行って汗を流すようにすることだ。サウナは過剰な水分を排出するのに最大の効果を発揮するので、サウナで汗を流すというのは、冷え症に対して非常に効果があるものなのである。サウナに行けば大量に汗を流すものだが、それだけ余分な水分を溜め込んでいるからこそ、体が冷えてしまうのである。

 サウナは長時間入っていると体が火照ってしまうので、そういう時はサウナから出て冷水を浴びて、体の火照りを取ればいいのだ。冷水を浴びると肌が鍛えられ冷えに強くなる意思、副腎も鍛えれるので、寒さに対して強い抵抗力を持つことができるようになるのである。

 サウナで汗を流した場合、サウナから上がってすぐさま水分補給をするのではなく、バスタオルで汗を拭いて、体が落ち着いてから水分補給をすることだ。これをやると体が過剰な水分を溜め込まなくなり、適正な水分量を維持しようとするのだ。サウナから上がって、すぐさま冷たいビールをガブ飲みしていたら、サウナに入った効果が台無しになってしまうので、この些細な手順を絶対に守ることだ。

 サウナで汗を流すと、体がスッキリするものだが、それは水分過剰が解消されてために、体の機能が高まり、高い体温を維持し続けることができるようになったからなのだ。それだけ体が冷えていたために、体の機能が衰え、それが更にからだを冷やしてしまうという悪循環を生んでいたのだ。

●日々の生活で体を動かし続ける

 冷え症を解消したいのなら、日々の生活で家事をきちんとこなすことだ。日々の生活で体を動かし続ければ、それほど体が冷えないものなのである。日々の生活で家事をせず、体を動かさないからこそ、体が冷え切ってしまうのである。冷え症を治したいというのに、自宅で動かなければ、いくら冷え症を治療しても、冷え症が治る訳がないのだ。

 母親が自宅で動かなくなるのは、自宅でテレビを見る時間が多くなってしまうからなのである。大体、テレビを見る時間が多ければ、そのテレビの前から動かなくなってしまうものなのである。しかも、テレビからは電磁波が出ているので、その電磁波を被曝することで、体が冷え切ってしまうのである。

 結婚していれば、家事をしなければならないし、夫や子供たちから色々な頼み事を受けるのだから、それに応じて遣って行けばいいのだ。母親が家事を放棄して夫や子供たちにやらせていれば、それで自分の負担は軽くなるだろうが、その反面、体を動かさないことで、体が冷えてしまうのである。

 夫や子供たちも何も母親の負担を多くするために頼み事をしているのではなく、自分ではできないからこそ母親に頼んでいるのであって、それを母親がやってくれるからこそ、母親の母性愛を感じ、母親を大切にするようになるのだ。母親が夫や子供たちの頼み事を拒否していたら、いずれ凄まじい反抗を食らってしまうことになるのだ。

 どんな家事であっても、母親が体を動かし続ける限り、それほど負担ではないのだ。矢鱈と休むからこそ、家事をするのが苦痛になってしまい、余計にやらなくなってしまうのである。冷え症を治したいのなら、下手に病院で治療を受けるのではなく、日々の生活で体を動かし、体を温めるようにしておくことだ。家事をしていれば、冷え症は解消されて行くものなのである。

●万病は冷えから始まる

 冷え症を甘く見てはならない。万病は体の冷えから始まるのだ。体が冷えると免疫力が低下するので、病気に罹り易い体になってしまうのである。特に育児を終えた母親にとっては、更年期障害や子宮癌や乳癌というのは、冷え症であるならば、罹る確率が一気に上がってしまう危険性を持っているものなのである。

 難病を発症してしまえば、その治療が大掛かりなものとなり、しかも治療代が莫大なものとなるので、家計を直撃してしまうものなのである。冷え症を患っている段階なら、その治療は比較的簡単なもので済み、治療費などかからないものなのだ。生活の仕方を少し改善するだけで治ってしまうものなのである。

 日本人女性であるなら、平均体温は「36.5℃」以上なくてはならないのだ。この平均体温よりも体温が下がってしまえば、体の至る所で異常が発生し始め、それが病気となって現れて来るものなのである。冷え症で体の芯から冷えているようであるなら、体温計の温度よりも更に低くなっていると見ていいのだ。

 決して冷え症は治らないものではないのだ。自分の生活のどこかで間違ったことをやっているからこそ、体が冷えて来てしまっているのである。その間違ったことを見つけ出し、改善策を施せば、呆気なく冷え症は治って行くものなのである。体が温かくて当たり前であって、体が冷えていれば、それは異常なのだ。

 母親の体が温かければ、きちんとした母性愛が出せるようになるものである。自分の体が冷えていれば、夫や子供たちの欠点ばかり探し出して、それによって喧嘩を発生させていることだろう。体が冷えてしまえば、母親として最悪の母親になってしまうものなのである。自分がまともな母性愛を出して、夫や子供たちを愛そうとしたいのなら、自分の冷え症を治して、温かい体を作って行くことだ。

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育児終了後の肥満対策

●育児が終わると、自分が肥満になっていることに気付くもの

 女性は妊娠すると太る。当たり前だがお腹の中に赤ちゃんがいるからである。問題はその後で、妊娠が終わってからも、女性は太り続ける。これは赤ちゃんに母乳を与えるために体が水分を溜め込むためであり、出産後には妊娠時よりも体重は減るが、妊娠前よりも太っていないと、いい母乳が出ないのである。

 また、女性の体は次の妊娠に備えて、子宮を守るために脂肪をつけるのだ。脂肪は保温効果があるために、脂肪を多くつけることで、子宮を冷やさないようにし、妊娠する確率を高めようとするのだ。脂肪は寒い地方に住んでいる人ほど多くつくものであって、日本だと北海道や東北地方や北陸地方に住んでいる女性たちは、出産後たっぷりと脂肪をつけることになる。

 母親を太らせる更なる理由は、育児に於ける「運動不足」である。育児では乳幼児の世話に追われるが、実はそれほど体を使っている訳ではないのだ。汗を流す運動を意図的にでもしていない限り、確実に運動不足になっているのだ。育児が終了した段階では、相当、筋力が低下しているものなのである。

 筋力の低下と同時に、脳の機能も低下しているのだ。乳幼児といつも一緒にいれば、それほど高度な知力を要求されていないために、脳を余り使うことがなく、そのために脳が消費するエネルギーが少なくなり、その余分なエネルギーが脂肪に変わって行くのだ。育児をしている最中でも、子供が寝鎮まったら、読書をするという習慣は絶対に必要なことなのである。

 こうやって育児をしていると太って行くものなのだが、母親は育児の最中はそれほど自分の体型の変化に気付かない。育児で忙しいのでそれどころではないからだ。しかし、育児が終了し、自分に暇ができると、自分が肥満になっていることに気付くものだ。ここで母親としてのその後の人生が分かれて行くのだが、夫や子供たちに対して見苦しい体型でないようと努力した母親は夫や子供たちから愛される母親になれるし、それをせずただブクブクと太って行くと、夫に相手にされず、子供たちからは馬鹿にされる母親になってしまうのだ。

 育児の最中は他人に自分の体が見られることを気にしないものだが、育児が終われば自分の体を他人がどう見ているのか気にしておかないと、不必要な不快感を相手に与えてしまうことになるのだ。女性は他人に見られることで体に緊張感を作り出すのであって、その緊張感があれば、そんなに見苦しい体型にはならないものなのだ。

●お勧めは日中断食

 太った女性の体を確実に痩せさせるものは、「日中断食」である。朝食と夕食は食べてもいいが、朝食と夕食の間は一切の飲食物を禁止する断食である。きちんと日中断食を行えば、1日1㎏は落ちるものなので、そのペースでゆっくりと体重を落として行くことだ。過激なダイエットをやってしまい、急激に体重を落とすと、健康に被害が出て来るし、見苦しく痩せて行くことになるので、徐々に体重を落として行くことを絶対に忘れないことだ。

 この日中断食が有難いのが、1日に必要な栄養素をきちんと補給しながら、体重を落として行くことが可能だということだ。3食分の食事を2回に分けて食べれば、昼食をなくしたとしても、充分に栄養素は確保できるからだ。実際問題としては断食によって胃が小さくなるので、それほど大量の食事を食べることができなくなってしまう。そのため夕食は時間をかけてゆっくりと食べるようにすることだ。

 日中は水分補給ができないので、朝食時の段階で大量の水分を補給しておくことだ。日中断食の場合、日中の飲食物の摂取が禁止されるので、内臓が排泄に集中することができ、何度も何度も小便や大便が出るようになるので、意外と水分が不足してしまうのだ。それゆえ、朝食時に充分に水分を摂取しておくと、スムーズに排泄が行われるようになるのである。

 日中断食よりも強力な断食をしたいというなら、「宿便排出断食」がお勧めである。内臓に溜まっている宿便を排出することによって、一気に体重を落として行くのだ。肥満になっている女性の場合、内臓に宿便があるために、内臓の機能が衰えてしまっているのである。そのため、食事をしても巧い形で消化吸収してくれるのではなく、脂肪に変え易くしてしまうのだ。少食なのに肥満の女性は典型的に内臓の機能が衰えているのであって、だからこそ宿便を排出することで、内臓の機能を回復させ、脂肪がつきにく体にするのだ。

 宿便排出断食は補食の期間中に腸捻転を引き起こす危険性を伴うので、必ず医者がいる断食道場で行うことだ。どんなに時間がかかっても20日もあれば宿便が出るので、断食をしながら、ゆっくりと体を休めておくことだ。自分の体から宿便が出ると、人生観が一変するほどの感激が発生するので、それによって自分の人生を変えて行くことだ。

●軽ジョギングと筋トレ

 断食をやると確かに体重が落ちるが、筋力も落ちてしまう危険性が出て来る。特に今まで育児をしていて筋力が衰えている母親は、意図的に筋肉をつけていかないと、体重が落ちているのに、体がブヨブヨになってしまい、締りのない体になってしまうのだ。軽ジョギングや筋トレをすることで、しっかりと筋肉をつけ、体を引き締めて行くことだ。

 軽ジョギングは通常のジョギングと異なり、ゆっくりとしたペースで走るジョギングのことである。このゆっくりとしたペースで走ると、無理なく行い続けることができるし、足腰にしっかりと筋肉をつけることができ、引き締まった体にすることが可能になるのだ。脂肪が燃焼しやすい走り方なので、徐々にではあるが、確実に体重が落ちて行くのだ。

 この軽ジョギングが有難いのが、夜に熟睡できるようになるということだ。人間の体は激しい運動をしてしまうと脳が覚醒してしまい、夜になっても寝れなくなってしまうのだが、軽ジョギングのようにゆっくりとした運動をすると、体が適度に疲労してくれて、夜になると睡魔が襲って来て、熟睡できるようになるのだ。この熟睡している最中に、脳内から成長ホルモンが分泌されて、体の傷みを修復して、美しい体に変えてくれるのだ。美しくなりたければ、熟睡できる睡眠を日々行えるようにしておくことなのである。

 筋肉トレーニングはお風呂やサウナを組み合わせると効果的に行える。筋肉は夕食後に行った方がつくので、夕食後、食休みを終えてから筋トレを開始し、汗をかいたら終わりにすればいい。その後、お風呂やサウナに入って、汗を流すのだ。こうすると、筋トレで疲労物質を巧く除去でき、しかもしっかりとした筋肉をつけることができるのである。

 女性の場合、体が硬くなりだすと脂肪が付き易くなるので、必ずストレッチを入れて、体を柔らかくしておくことだ。ストレッチをするだけでも汗を流すほどのものなので、体が痛くてもしっかりストレッチをしておくことだ。美しい体型はストレッチをするからこそ作り出されるのであって、ただ単に痩せればいいというものではないのだ。

●一日二食半の生活と快便の日々

 育児が終了するような年齢になれば、もう1日3食しっかり食べる体ではないのだ。1日2食半で充分であって、朝食か昼食を軽くする決断を必ずしておくことだ。そして間食は控えることだ。これを実行すれば、いくら夕食を多目に食べても、そう簡単には太らなくなるのである。自分の年齢に応じて、内臓を巧く休ませながら使って行くということをしなければならない時期に差し掛かっているのである。

 お米を食べる時は必ず「梅干し」を一緒に食べるようにすることだ。お米は血糖値を長期に亘って上げ続けてしまうので、梅干しを食べることによって高い血糖値を抑えることは、どうしても必要なことなのだ。梅干し抜きでお米を食べると、どうしても太ってしまうのである。また、梅干しは水毒や血の毒や体の毒を除去する力を持っているので、梅干しを食べることで病気を予防して行くことだ。

 朝の排便をしない限り、絶対に朝食は取らないことだ。日々、排便は確実にすることだ。人間は朝の時間帯こそが排泄の時間帯なので、朝になればウンコは出るものなのである。ウンコが出ないからこそ、食べた食事が脂肪に変わってしまうのである。それゆえ、早起きするなり、水を飲むなりして、排便が行えるように仕向けることだ。

 便秘になったら、すぐさま対応を取ることだ。便秘に効く薬草茶を常備しておいた方がいい。ドクダミ茶は便秘に効果があるので、便秘になったらドクダミ茶を濃い目に煮出して、その濃いドクダミ茶を飲むと、大抵の便秘が治るものだ。便秘になるようであるなら、食事に問題があったり、運動不足や睡眠不足が原因であったりするので、すぐさま生活に改善措置を取って、排便がし易いようにすることだ。

 人間は「快食」「快眠」「快便」をしていれば、太ることがないものなのだ。自分なりの体型に成って行くので、体は軽いし、引き締まった体になるものなのである。母親が美しい体になっていれば、子供たちにとってはそれだけでも自慢の種になるものだし、夫も妻を大切に扱ってくれるようになるものなのだ。日々の生活に追われてしまい、自分の体が雌豚のような体になっていれば、夫も子供たちも母親を馬鹿に仕出すものなのだ。そういう場合、夫や子供たちが悪いのではなくて、女として生まれて来たのに、美しくなろうとする努力をしてこなかった自分が悪いのだと思うようにすることだ。自分が間違っていたと解れば、幾らでも自分を美しくできる方法は思いつくものなのである。

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育児が終わったら、記録を残しておくこと

●子供は親の恩を忘れてしまうもの

 親孝行は道徳の基盤である。如何なる人間でも親孝行がきちんとできれば、その他の道徳的行為を自然とできるようになる。親を敬うことができれば、兄弟姉妹仲良くできるし、大人になって結婚すれば夫婦相睦まじく、子供たちをきちんと産み育てて行くことができることだろう。

 ところが、この親孝行を誰もができると思ってはならない。人間は反道徳的な宗教やイデオロギーに取りつかれれば、絶対に親孝行をやってこないからだ。例えば、キリスト教は新薬聖書のどこを探しても、親孝行の重要性を説いた箇所はない。そのためキリスト教徒になってしまうと、親孝行をしなくなり、親が老いぼれれば、養老院や特別養護老人ホームに送り込んでしまい、自分たちは平気な顔をしているものなのだ。

 社会主義もフェミニズムも平等を唱えて来るから、このイデオロギーに取りつかれてしまうと、平気で親を捨ててしまう。社会主義者やフェミニズトたちは自分が親を捨てたにも拘わらず、老後の世話は政府が行わなければならないと主張して来る点で、キリスト教徒たちよりも悪質な連中である。老人の世話などその息子や娘たちがやれば苦労はかかるけど、最小限の費用で済ますことができるのに、政府が老人の世話をすれば、それを介護する人々や、施設を運営する人々、そして介護事業を統括する官庁が必要となり、莫大な資金を要するものになってしまうのだ。日本国だけでなく、老人介護に手を出した先進国は、すべて国家財政が破綻してしまったのは、当然の事態と言えるのである。

 自分が産み育てたからと言って、自分の子供たちが必ず親孝行をするとは思ってはならない。子供の頃は素直だから親のためにはなんでもする子供たちであっても、大きく成って行く過程で、邪悪な宗教やイデオロギーに取りつかれてしまうと、平気で親孝行をしなくなり、そのくせ遺産だけは容赦なく奪い取って行こうとするのだ。

 自分の子供たちが道徳的な人間になれるように、子供の頃から儒教の経典でも読ましておくことだ。『論語』や『孝経』でも読まして、親孝行の大切さをきちんと教えておけば、大きくなっても邪悪な宗教やイデオロギーに引っかからなくて済むようになるのだ。自然にしておけば自発的に親孝行をし出すと思うのではなく、親孝行の大切さを教えるからこそ、親孝行ができるようになると考えておくことだ。

 それと同時に、子供は大きくなって行くと、親の恩を忘れてしまいがちだ。そのため、物証として、子供の頃の写真を集めておいて、アルバムを作っておくことだ。子供が反抗期を迎えて親に反抗するようになった時、そのアルバムを見せてしまうと、どんなに悪い不良少年でも親孝行の感情が湧き出してしまい、悪事を控えるようになるからだ。

 母親が専業主婦の場合、子供は母親が子供の世話をするのは当たり前だと思ってしまうし、母親が兼業主婦の場合、母親が日頃、自宅にいないために、子供は親の愛情を巧く受け取ることができない。前者は母親の愛情が有り過ぎて母親の恩が解らなくなるし、後者は母親の愛情が無さ過ぎて母親の恩が解らなくなってしまうものだ。

 母親が専業主婦で母親としての役目をしっかりと果たしたのに、子供が大きくなっても結婚しないとなれば、その子は愛情を貰い過ぎてしまい、愛のなんたるかが解らくなってしまったのである。母親が兼業主婦で母親が仕事に精を出し過ぎた場合、子供が大きくなっても結婚しないとすれば、その子は母親からの愛情不足で心が歪んでしまったのである。

●母親らしさが出ているアルバム

 自分が産み育てた子が、結婚適齢期になっているというのに、結婚しないのであるならば、子供の頃の写真が詰まったアルバムを見せて、「お前はこうやって育って来たんだよ」と教えてあげることだ。我が子の方は大人になって、奇麗さっぱりと子供の頃の思い出は忘れているからだ。そのアルバムを見せることによって、子供の頃の記憶を蘇らせて、親の恩を感じさせ、結婚するように仕向けて行くのだ。

 この手のアルバムは父親が作るのではなく、母親が作らなければならない。なぜなら、赤ちゃんの時からその子に最も多く接してきたのは、母親の方だからだ。母親が我が子のために、深い母性愛を込めて、母親らしさが出ているアルバムを作っておくのだ。「お前はどのような人間に育とうとも、母親の深い愛情を受けて育って来た子なんだよ」ということをきちんと教えられるようにしておくのだ。

 母親の方も子供が大きくなりすぎてしまうと、母性愛が薄れて来るので、子供がまだ大きくならない内に、アルバムを作っておくことだ。お金をケチって、ちゃちなアルバムを買って来ないことだ。お金をたくさん使うことはないが、これは単なるアルバムではないので、しっかりとしたアルバムを購入して、長期保存に耐えられるようにしておくことだ。

 子供の頃の思い出をビデオで残しておくことは別に悪いことではないが、アルバムを作ってしまった方が断然いいのだ。アルバムの方が成長して行く過程が一目で解るので、アルバムの方が価値が高いのである。何も我が子に子供の頃のままでいていいと願っているのではなく、きちんと成長して欲しいと願って作るものなのである。

 如何なる馬鹿息子でも馬鹿娘でも、このアルバムを母親から見せられれば、母親の恩を感じずにはいられなくなるのだ。女性であるならば、涙を流して、母親の恩に感謝することだろう。自分が産んだ子が必ずしも賢く育つとは限らない。、それゆえ、切り札として、このアルバムを作っておき、我が子の愚かさが露呈した時に、このアルバムを見せて、その愚かさを吹き飛ばしてしまうことだ。

●育児のドタバタを書籍化してみるのも良い

 少子化になれば、子供の育てて行く経験値が少ないから、どの母親も育児や子育ては大変だと言い出すものである。そのため、若い女性たちがビビってしまい、結婚を拒否するようになり、更に少子化に拍車をかけるという危険な悪循環を引き起こしてしまっているのだ。

 「育児や子育ては大変じゃないよ」と教えるのは、育児経験者の大切な義務なのである。育児や子育ての中には、女性が結婚せず、ただ働くだけの人生になってしまったら、絶対に味わえないようなものがたくさんあるものなのだ。その楽しいことを母親として、若い女性たちに伝えて行くのは、とっても大切なことなのである。若い女性たちは、自分よりも年上の既婚女性たちが育児や子育てを楽しんでいるからこそ、自分もやってみようとなるのである。

 育児や子育て面白いことはたくさんあるのだから、それを執筆して書籍化してしまうのもいい。巡り合わせが良ければ出版社から出版できるし、お金に余裕があれば自費出版で書籍化してしまい、自分でそれを売っていけばいいのだ。大事なことは、その当時の記録をきちんと残して行くということだ。いくら面白くても、記録に残していかないと、忘れてしまうものなのである。

 もしも、母親がそのような本を出版していたのなら、我が子たちは当然にその本を読むようになるだろうし、その本を読むことで育児や子育ての面白さが解り、自分たちもやってみようとなるものなのである。母親といえども、いつも正しいことばかりして来たのではなく、たくさん失敗して、たくさん苦しんだけど、その分、たくさん成功して、たくさん楽しんだということが解れば、母親の功績に深い感謝を捧げるようになるのだ。

 どんな母親でも完璧である筈がないのだ。しかし、子供たちは母親を絶対視して来るために、母親を完璧だと思い込んでしまうのだ。そのため、思春期を迎えて親から自立して行く時に、自立して行くことができなくなってしまうのだ。大人になっても精神的な自立を果たすことができず、フェミニズムに洗脳されて、「女性の自立!」「女性の社会進出!」「男女共同参画社会の実現!」と叫んでいる女性たちに限って、その母親は意外としっかりとした母親たちなのである。母親がしっかりとしているからといって、しっかりとした娘が育つとは限らないのだ。事実は寧ろ逆で、母親がしっかりし過ぎているからこそ、その娘は母親に劣等感を抱いてしまい、自立するうことが不可能になってしまうのである。だからこそ、母親といえでも完璧じゃないんだよってことを、本を通して伝えて行くことが、必要なのである。

●結婚して行く息子や娘への最高のプレゼント

 現在、テレビでも放送されている『うちの三姉妹』の作者の松本ぷりっつさんは、ただこの本を出版しているだけでなく、「フーちゃん」「スーちゃん」「チーちゃん」のために、どの巻もそれぞれ三冊ずつ用意して、自分の娘たちが結婚する時に贈る計画を立てているのである。多分、ぷりっつさんの旦那さんの入れ知恵なのだろうが、本が売れて著作権収入があるからといって万々歳なのではなく、我が子が子供の内から、結婚して行く時を想定して、親として最高のプレゼントを既に用意しているのだ。『うちの三姉妹』は育児の仕方には相当問題がある本なのだが、作者は親としては立派なことをきちんとやっているのである。

 親がアルバムを作ったり、本を作っておかないと、愛された記憶は消え去ってしまうものなのだ。親から自立して行くということは、子供の頃の思い出を否定して行くということなので、きちんと自立できた人ほど、子供の頃の思い出はなかなか思い出せなくなってしまうのだ。青春時代の中で発生した思い出が、子供の頃の思い出を押し出してしまうものなのである。

 我が子がきちんと自立してくれれば、当然に誰かと結婚するから、その結婚に行きつくまでに、熱烈な恋愛をするから、更に子供の頃の思い出は押し出されていく。、結婚式で親に感謝な意を述べても、新婚生活のドタバタが襲って来るから、子供の頃の思い出は完全に消え去ってしまうものなのである。それが親から離れて独立するということなのである。

 そうやって我が子が独立して行く時に、最高のプレゼントとなるのが、子供の頃の思い出が詰まったアルバムであり、本なのである。それを貰った時は、我が子はうんざりすることだろう。「もう子供じゃないんだよ」と言いたくなってしまうものだ。でも、自分が子供を産んで育てて行く時に、そのアルバム見るなり、本を読むことで、母親の深い愛情が解って来るのである。

 愛された記憶はそうやって受け継がれていくものだ。自分が子供の頃に親からきちんと愛されれば、自分が親になっても我が子をきちんと愛することができるようになるのだ。いくら愛の大切さを説かれても、子供の頃に親からきちんと愛されなければ、自分が大きくなって時、人をきちんと愛することはできないものなのだ。

 キリスト教の教祖のイエスのように、出生過程に問題があって、要は自分の本当の父親が実は見知らぬ男性だったという家庭で育ってしまうと、いくら愛を唱えても、まともな愛を出せず、磔にさけて殺されてしまうものなのである。イエスの愛が間違った愛だったからこそ殺されたのであり、正しい愛を出していれば殺される訳がないのだ。イエスの死を人類の原罪を背負って死んでいったというのは、後の人々の勝手な解釈で、実際はイエス自身が罪深いことをやったからこそ殺されたのである。

 人間は愛を唱えれば人を愛することができるようになるのではないのだ。親から愛されるからこそ、人をきちんと愛することができるようになのだ。愛を当たり前のものだと思ってはならない。親に捨てられ、児童養護施設で育とうものなら、そこで育った子供たちは施設の職員からどんなに優しくされても、親の愛に飢え、自分が結婚して子供を産み育てて行く中で、悪戦苦闘しながら、きちんとした愛が出せるようにして行くのだ。普通の家庭で育った女性なら当たり前に出せる愛でも、施設で育った女性がその愛を出すためには、悪戦苦闘してしまうものなのである。

 結婚して離れて行っても、「お前は親に愛されて育った子なんだよ」と伝えて行くのは、親としての最後の仕事なのだ。結婚したのに、下手に手を出して反感を買うよりは、その大事なことだけをきちんと伝えておけば、その子はちゃんと親として成長して行くのだ。そのためにアルバムは必要なのだ。それゆえ、我が子が小さい時から、その日に備えて、せっせとアルバム作りをしておくことだ。

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特別講義『主婦でも解る政治学』 ~減税なき行政改革は絶対に失敗する~

●「世紀の大改革」は「世紀の大失敗」!

 衆議院選挙で圧勝して成立した鳩山由紀夫内閣は、選挙公約で大盤振る舞いをしたために、事業仕分けなどの行政改革に着手し、それによって捻出したお金を自分たちの政策に使おうと躍起になっている。しかも、それを行う政治家たちがなんの行政経験のない素人のために、やっていることは乱暴の極みにしかすぎないのだが、テレビ局を始めとするマスコミのバックアップを受けて、国民の高い支持率を受けながら行っている。家計を預かる主婦にとっては、選挙公約で子供手当てが打ち出されているために、興味深々といった所で見ており、この遣り方に支持する主婦たちも多いことだろう。

 しかし、この「世紀の大改革」と呼ばれる行政改革は、「世紀の大失敗」に終わることだろう。なぜなら、この行政改革には「減税」というものが、全く出て来ないからだ。減税なき行政改革は絶対に失敗する。これは政治学に於ける法則であって、これを無視すれば如何なる政治家でも失敗は免れないのだ。

 鳩山内閣はそれどころか増税政策を隠し持っている所があり、この不況の中で増税をすれば、日本経済が失速してしまうということが解っていないのだ。先の内閣であった麻生内閣が消費税の増税を打ち出したために、選挙で大敗してしまったという事実を軽視し過ぎているのだ。どんなに長期政権で、戦争の荒廃から国家を立て直した自民党ですら、増税をやろうとすれば、政権を手放さなければならなかったのである。、

 そもそも、「税金の無駄遣いをなくせ」という声はいい響きではある。しかし、この世で無駄遣いをせずに生きている人など誰一人いないものだ。自分ですら無駄遣いをしているなら、財政での無駄遣いをなくそうなど言うべきではないのだ。自分ですらできないことを、政治の世界で出来る訳がないのだ。

 財政というのは、主要政策に対して大量の税金を投入せねばならないのであって、税金の無駄遣い云々は別に関係のないものなのである。現在、日本の国家財政が破綻したのは、今まで取って来た主要政策が行き詰まったからこそ起こった現象であって、その主要政策の変更抜きに、国家財政は絶対に立ち直らないのだ。では、日本の国家財政の主要政策は何かといえば、それは「社会保障政策」なのである。社会保障政策を長期間に亘って取り続けたからこそ、財政が破綻してしまったのである。鳩山内閣は社会保障政策を変更しようなどと一言も言っていないし、それどころかより充実した社会保障を推し進めていようとしているのだ。これでは何をどうやったとしても、財政は破綻し続けるのだ。

●戦前の行政改革はこうやって失敗した

 行政改革は何も戦後の政治だけにある問題ではないのだ。戦前も行政改革は問題とされていたのだ。所謂「大正デモクラシー」では「軍縮」を巡って常に激論が行われ、実際に軍備を縮小させて行った。しかし、大正デモクラシーを行った政治家たちは減税を全く行わなかったのだ。その内、政治家同士で醜い権力闘争を繰り返して、国民から失望され、しかも、金融恐慌や世界恐慌に対して有効な政策を打ち出すことができなくなり、最終的には政党政治を自らの手で終焉させてしまったのだ。

 戦後の日本の歴史学は社会主義者たちの占拠されてしまったために、社会主義のイデオロギーによって史実を大いに捻じ曲げられてしまい、戦前の日本は軍部が暴走することによって、破滅して行ったように教えられているが、実際には軍部が暴走したのは満州事変だけであり、しかも満州事変の首謀者たちは、石原莞爾を始め、全ての者たちが左遷されているのである。

 寧ろ現実は、大正デモクラシーを標榜し、国民から選ばれた政治家たちこそが暴走して行ったのである。支那事変でも悪化させたのは近衛文麿であり、帝国陸軍参謀本部も中華民国政府も支那事変は終結させようとしていたのに、それをぶち壊したのも「近衛文麿」なのである。近衛文麿の秘書たちには多くの社会主義者たちがいて、しかもその中にはソ連のスパイだった人物もいて、それによって近衛文麿は間違った政策を連発して、日本を破滅に追いやったのである。

 大東亜戦争は現役武官である東条英機が行ったために、軍部が政治を乗っ取ったような感じを持ってしまうのだが、東条英機は軍事政権を成立させたのではなく、帝国議会の支持を受けて成立した内閣であって、軍部が銃口を突き付けて成立した内閣ではないのだ。近衛内閣の時に、対アメリカ戦争計画である帝国国策遂行要領が決定されており、それを実行するために東条英機が選ばれたに過ぎないのだ。

 では、なぜ帝国陸軍や帝国海軍は、この危険極まりない近衛内閣の政策を支持したかというと、それは大正デモクラシーで行われた軍縮による恨みの蓄積が噴出したからなのである。武官というのは、どこの国でもエリート扱いを受けるものだが、それを馬鹿扱いし、国防費を税金の無駄遣いと罵り、国防力を無闇に縮小されてしまったことに対して、武官たちは長年に亘って恨みを蓄積させ、それを近衛内閣に巧く利用されてしまったのだ。

●マーガレット・サッチャーはこうやって行政改革に成功した

 どこの国でも行政改革は失敗する可能性が高い政治行為なのである。行政改革が叫ばれる時は、その国の政治が行き詰まっている時であり、しかも行政改革をしながら減税をするということをしない限り、自分たちが満足ゆく行政改革をしても、絶対に失敗してしまうことになるからだ。現在の先進国の中では、イギリス病で苦しんでいたイギリスをマーガレット・サッチャーが行政改革で立て直した時だけ、行政改革が成功している。

 イギリスは第二次世界大戦の戦勝国にも拘わらず、戦費が膨大なものとなり、しかも、戦争によって政府の規模が増大して、大量の国家公務員を抱え込むことになってしまった。そのため労働党が政権を取ろうが、保守党が政権を取ろうが、どちらも政府の規模を更に大きくしようとし、減税をすることをしなかったために、イギリスは停滞し、国民は貧しくなっていったのだ。

 そこで、マーガレット・サッチャーはいきなり行政改革の構想を練ったのではなく、大きな政府のイデオロギーとなっている社会主義に対抗するために、フりードリッヒ・フォン・ハイエク著『隷従への道』を庶民院の議員たちと共に熟読する会を開き、そこで保守主義のイデオロギーを体得して行ったのである。

 そして保守党の党首となり、その後、政権を獲得すると、まず先にやったことは、新規の国家公務員の採用を停止したことであった。国家公務員がいくら多過ぎるからといって、国家公務員の首切りを行ってしまうと、国家公務員たちは労働組合を通じて労働党に泣きつき、それによって議会が大混乱に陥ってしまうからだ。それよりも、巧く労働組合の反撃をかわすためにも、新規採用を停止し、自然と国家公務員の数を減らして行った方が、より効果的な政策となったのである。

 それをやった上で、減税を施し、税収を減らすことで、国家財政の規模を縮小させ、それによって大きな政府を縮小させて行ったのである。減税し、国家公務員の数が少なくなれば、それだけそのお金と人材が民間に回るので、それによってイギリス経済は活性化し、イギリスはイギリス病を克服できたのである。

●減税こそが行政改革の要なのである

 マーガレット・サッチャーがやったことは、現在の日本の政治でも充分に通用するものである。まず行政改革は小手先の政策を実行して行くのではなく、保守主義というイデオロギーが必要不可欠であるということである。大きな政府はただ単に大きくなっていったのではなく、社会主義というイデオロギーがあったればこそ、政府は巨大化していったのである。だから、まずは社会主義というイデオロギーを打ち砕かなければならないのだ。

 次に無闇に国家公務員の首切りを実行したり、官僚イジメを行ったりするのではなく、国家公務員の新規の採用を禁止し、定年によって国家公務員の数が減少して行くことを待ち、下手に国家公務員を敵に回さないことなのである。国家公務員の労働組合は社会主議政党の熱心な支持母体なのであって、国家公務員の首切りを実行してしまうと、議会が大混乱に陥ってしまうからだ。

 そして何より絶対に減税を行うのである。減税こそが行政改革の要なのである。政治家たちが「これは無駄な事業だ」と仕分け作業をしなくても、税収が少なくなれば、自然と無駄な事業から撤退して行くのである。政治家たちが国民の支持を得られるからといって、仕分け作業を遣りまくっていたら、官僚たちは政治家たちに従わおうとしなくなり、その内、得体の知れない妨害工作を働いて来るものなのである。

 税収が少なくなれば、国家公務員を削減して行くしかなく、自然と小さな政府になっていくのである。そうなれば幾ら財政赤字があったとしても、短期間に借金を返済してしまうことが可能に成り、国家財政は健全化していくのである。大きな政府を維持しつつ、国家財政を破綻から救おうとなどとは、絶対に無理な注文なのである。

 政府が減税をしてくれれば、それだけ国民は資金を多く持てることになり、それによって経済が活性化し、国民は豊かになっていくのである。政府が社会保障を整えなくても、国民は政府の社会保障を上回る社会福祉を実現することが可能に成るのである。政治家たちが政治の力を使って社会的弱者の救済を行うよりも、経済を豊かにして社会的弱者であっても、きちんと生活できるような世の中にして行くことこそ、政治家の本来の役目なのである。

●財政赤字で滅んだ国は一つもない

 確かに、現在、日本は先進国の中でも突出した財政赤字になっており、これに対して学者たちが危機意識を煽り、それにマスコミも追随して、そのために政治家たちは財政赤字を解消することに躍起になっているのだ。だが、はっきりと言っておくが、どんなに莫大な財政赤字を抱え込もうとも、財政赤字で滅んだ国家は一つもないのだ。

 なぜなら、どんなに財政赤字を記録しようが、その国債の所有者が国民である限り、その国債の利子は国民の収入となって、国民の懐を潤すものになるからだ。それどころか、政府は借金をすることによって、自分たち政府の信用度が解ることになり、政府が信用を失うような行為をすれば、立ち所に国債が売れなくなってしまい、財政が立ち行かなくなってしまうからだ。それゆえ、政府は国民に借金をしている限り、身を正して行かなければならないのだ。

 財政赤字が問題となるのは、政府が国債を外国人に売った時なのである。国債を外国人が所有してしまえば、その利子が外国人の収入になってしまい、その国だけでなく、その国民も貧乏して行ってしまうのである。明治期の日本が貧しかったのは、政府がロシアとの戦争で勝利するために、外国人に国債を売ってしまい、それによって政府も国民も貧乏になって行ってしまったのだけなのだ。第一次世界大戦の好景気で経済が活性化すると、その増収で国債を償還することができ、その後、日本は非常に豊かになって行くのである。

 日本政府は第二次世界大戦で敗戦国になり、莫大な戦費とそれを上回る連合軍の駐留経費のために財政が破綻したにも拘わらず、国債の償還をきちんとやっている実績を持っているのだ。ブラジルのように政府債務を踏み倒す国家とは比べられないほどの優秀な国家なのである。

 通常の家計の感覚や、通常の企業の感覚で、国家財政を見るべきではないのだ。どの家族でも、どの企業でも、赤字は非常に危険なものである。しかし、政府は政府の資産だけでなく、国民の資産をも担保に出来てしまうために、民間人から見れば異様とも言える財政運用を展開して行くことができるのである。だからこそ、政治家というのは特殊な人々であって、素人を政治の世界に送り込んではならないのだ。素人ではこの金銭感覚を見つけることができないからだ。

●国家公務員の実態を知れ

 今回の事業仕分け一つ見ても、政治家たちによる官僚イジメという様相がはっきりと見て取れる。官僚は大方、官僚主義に陥って行くために、民間人の目からして見れば、非合理的な行動を取って来るものなのである。しかし、それでも官僚がいなければ政府は機能することができないのだ。政治家のやるべきことは、官僚を使いこなすことであって、官僚を攻撃して、官僚の恨みを買うようなことはすべきではないのだ。

 そもそも国家公務員という者は、全て大学卒であり、国家公務員試験を突破して来ているがゆえに、優秀な頭脳の持ち主たちなのである。政治家の方が何かしらの国家試験を受けずに、選挙で当選したぐらいで政治家になってしまったために、政府がどのように動いているのか解らないものなのだ。政治家が政府のどこかの機関にちょこっと査察して来て、それで「この事業は廃止!」と決定してしまったら、これほど乱暴な遣り方もないのだ。

 官僚たちは決してエキサイティングな人生を求めているのではないのだ。彼等は安定した生活を求めて遣って来るものなのである。官僚として勤めている間の給料は比較的安いものだが、定年退職すると恩給がたっぷりと貰えるのである。しかも、終身雇用で採用されて来るために、無闇に首切りをすることはできないものなのだ。

 官僚をいきなり首切りしても、20代や30代の官僚ならまだいいが、それ以上になってしまうと、民間では吸収しにくい人材なのである。だから、使い物にならなくなった官僚たちを天下りさせ、政府の外に追い遣るというのは、必要な行為なのである。それは一見汚職に見えるかもしれないが、政府の人材を活性化するためには、必要悪の行為なのである。

 だから、官僚の数を少なくさせようとするなら、天下りを禁止するとか、官僚の首を切るとかするのではなく、マーガレット・サッチャーがやったように国家公務員の新規採用を停止し、自然と官僚の数を減少させていくしかないのだ。時間はかかるかもしれないが、これが一番効果的で、反対勢力が出て来ない遣り方なのだ。

●ジャーナリズムを逸脱したテレビ局

 今回の鳩山内閣の誕生も、世紀の大改革の暴走も、テレビ局の支援を受けているからこそ、国民の高い支持を獲得できたのであって、民主党の政治家たちは悪乗りしすぎている。テレビ局は放送法でテレビ局の公正中立が定められているので、テレビ局自体が明らかに法律に違反しており、これを野放しにしているからこそ、異常な世論を形成してしまっているのである。

 報道権力というのは、世論を扇動でできために、立法権力や行政権力や司法権力よりも、或る意味、強力な権力なのである。それなのに、テレビ局がこの権力を悪用してしまえば、国民は異常な考えを持ってしまうし、その異常な世論に誘導されて、政治家たちはおかしな方向へ国政を誘導してしまうものなのである。

 大体、まよもに取材もしないで報道せず、政治批判ばかりを繰り返すテレビ局に対しては、記者会見への出席を禁止すべきなのである。ニュース番組だというのに、ニュースを流すのは少しだけで、得体の知れないコメンテーターたちに物を言わして誤魔化しているようなニュース番組を作って来るなら、政治家は取材を受けることを拒否すべきなのである

 そのようなテレビ局に対しては、「テレビCMを必要経費として認めない」とか、「テレビCM税」を課して、その広告主に重税を課すべきなのである。国民が無料で扇動番組を見ているからこそ、正常な世論が形成されないのである。国民に選挙権を与えている以上、国民が政治に対して熱狂状態になることは如何なることがあっても防ぐべきで、そのように政治に熱くなってしまえば、国民はまともな労働をしていないということであるし、選挙でまともな政治家たちが選ばれて来ないということなのであり、この手の馬鹿たちは全体主義に走って行くものなのだ。

 何かを報道をするなら、ジャーナリストたちの方にも「クリーンハンドの原則」が適用されるべきなのである。もしもジャーナリストたちがそれほど民主主義を唱えて来るのであるならば、テレビ局内部でも民主主義を実行すべきなのである。テレビ局の社長やテレビ番組の司会者を社員たちの選挙で決めるべきなのである。自分たちは民主主義を実行していないにも拘わらず、政治に対して民主主義を要求すべきではないのだ。

●議院内閣制の制度疲労

 現在、日本は様々な政治問題を抱えている。しかし、それは政治家たちや官僚たちが引き起こしたものではないのだ。議院内閣制自体が制度疲労を起こし、優秀な政治エリートを首相や大臣に就けられなくなったこそ、政治問題が多発してしまっているのである。衆議院が衆議院議員の中から首相を選ぶからこそ、首相として不適格な、低能な人間を首相に選んでしまうのである。

 自民党の長期政権が優れていたのは、党内では派閥抗争を繰り返して政治エリートを鍛えさせ、国会議員に国務大臣を経験させてキャリアを積ませ、その国務大臣経験者を首相に選出したからなのである。それをしなければ優秀な人材を首相に就けさせることはできないし、たとえ首相になっても的確な政治判断が出来ないものなのである。

 民主党の党員たちが考えるように、アメリカでは二大政党制だから、日本も二大政党制にし、政権交代をしたら、誰でも首相になっていいと考えて来れば、その理想は立派なものでも、実際にやってみると最悪の人物を首相の地位に就けさせてしまうことになるのである。日本の首相はアメリカの大統領ほど強力な権限は持っていないのであって、そのような弱い権力の首相では、二大政党制のような強力な政権交代には耐えられないのである。

 日本が抱えている根本的政治問題は、最早、日本の政治を議院内閣制で動かすことはできなくなっているのであって、国民が直接に首相を選ぶシステムに変えて行かなければならないということなのである。その際、全ての国民に選挙権を与えるのではなく、納税者だけに選挙権を与えるべきなのである。なぜなら、行政権力は所詮、税金を使うのが仕事なのであって、税金を納めていない人々に選挙権を与えてしまえば、碌でもない人間が首相に選ばれてしまうからだ。納税者が国民を代表し、その納税者たちこそが納税者たちの中から首相として最も相応しい者を首相に選ぶべきなのである。

 また、首相候補をいきなり首相にさせるのではなく、国務大臣を幾つか経験させておき、政治の世界でキャリアを積ませておくシステムは絶対に維持し続けるべきなのだ。日本が戦後復興を成し遂げることができたのは、自民党がこれをやったからなのであり、日本国がこれからも繁栄をし続けたいのなら、その政治的遺産をしっかりと継承しておくことだ。

 首相というのは、行政権力の長であると同時に、自衛隊の最高総司令官でもあるのだ。そのため、軍事学を全く知らないというのでは首相としての資格を満たさないのであって、大学に於いて軍事学の必修を義務付けるべきだし、数年でもいいから軍事訓練に参加させて、軍隊生活を味わっておくことだ。日本のように、周囲を軍事大国で囲まれている国家は、軍事力を軽視すれば、一瞬で滅亡してしまうのである。ロシアにしろ、中国にしろ、北朝鮮にしろ、一度たりとも軍縮をしたことのない軍事国家なのである。これらの国々は常に日本を仮想敵国に設定し、虎視眈々と侵略の機会を窺っているものなのである。

●政治家は慈善活動に手を出すな

 戦前の日本でも大正デモクラシーの政治家たちがおかしな方向に国政を誘導し、大日本帝国を破滅させてしまったのは、大学で軍事学を修めることをしなかったし、軍事訓練を経験することがなかったためなのである。そのために、馬鹿の一つ覚えの如くに軍縮を唱え続け、それによって国防を無力にしてしまい、それに対して危機感を抱いた軍人たちが満州事変を起こすことで爆発して来たのである。日本が南下侵略を国是とするロシアと接している以上、そう易々と軍縮はできないものなのである。ロシアという国は、敵国に軍縮をさせ、軍事力を弱らした所で侵略を開始して来るというのが常套手段なのである。だからこそ、あれだけ巨大な領土を持つことができた国家なのである。

 現在の政治家は、どの政治家も大学生の時に軍事学を修めていないし、軍事訓練を受けたこともない。これでは政治家としてまともな判断ができる人間がいないのは当然のことなのである。そのため、政府を慈善団体と勘違いしているのか、矢鱈と社会保障を充実させようと躍起になっているのである。政府は慈善団体ではないのだ。慈善活動は宗教団体や慈善団体に任せるべきなのである。そのために宗教団体や慈善団体には税制上の優遇措置を与えているのである。そんなに慈善をやりたいのなら、政治家に成らずに、慈善活動家に成ればいいのだ。

 もしも、どうしても政府が慈善活動をしたいのなら、「国立社会福祉機構」でも作って、それを国民の自発的な寄付金で運営していけばいいのだ。皇族の誰かを名誉総裁にすれば、寄付金も集まり易くなることだろう。理事長は国政選挙の際に国民が選挙で選べば、国民にとって必要な社会福祉を実行して行くことが可能になる筈だ。

 政府の仕事は「安全保障」と「治安維持」と「公共事業」に限定すべきなのである。これだけの業務に限定すれば、安い税金で政府を運営して行くことができるものなのである。国民にとっては、税金の安い政府こそ、政府による最大の慈善になるのである。幾ら手厚い社会保障が実施されても、重税であるならば国民にとっては大損害を被ってしまうだけなのである。

 国民は幾ら自分が貧乏だからと言って、政治家に泣きつくべきではないのだ。自分の貧乏は自分の自助努力で解決すべきであって、政治の力に頼るべきではないのだ。国家権力が如何に強力なものだからといって、国民の全てが政府に寄りかかってしまえば、政府は転覆してしまうものなのである。国家が滅亡する時には、外国から侵略して来る軍隊によって、国民は略奪と虐殺を食らいまくることになるのである。

 幾ら国民が政府から僅かな手当てを貰っていても、誰であったとしてもその金額に満足しようとせず、次から次へと高額な手当てを要求し出すものなのである。悪銭は身につかないように、まともに働きもせず、税金を掠め取ったお金は、絶対に自分の貧しい心を満たすことはないのだ。政治家や官僚たちが汚職することが悪いと糾弾しながら、国民自身がそれを上回る汚職を合法的に行っているだけなのである。

 近代国家は国民が選挙で政治家を選ぶ以上、国民のレベル以上の人物を政治家に抜擢することができないのである。国民のレベルが低ければ、政治家のレベルも低くなってしまうのである。逆に国民のレベルが高ければ、政治家のレベルも高くなって来るのである。それゆえ、国民が乞食のような真似をして、政府から何かしらの補助金を要求するような真似をしていれば、乞食のような人間が政治家になってしまうものなのである。現在の政治の腐敗は、政治家たちが引き起こしただけのものではなく、国民が腐敗していることの反映なのである。

 我々の祖父たちが明治維新を成し遂げ、日本を近代国家に作り上げ、日露戦争に勝利することができたのは、国民の一人一人が独立自尊の気概を持ち、自助努力を繰り返し、艱難辛苦を吹き飛ばし、自らの力で伸し上がってきたからなのである。明治の人たちは現在の我々よりも遥かに貧しかった。それでも政府に頼ったりしなかったし、社会保障の充実を要求したりしなかった。だからこそ、日本は偉大な国家になることができたのであり、日本国民は偉大なる国民になることができたのである。

 我々日本国民は、現在、民主党政権がやっている大改革は、実は政治の改革にならず、制度疲労を起こした政治体制の延命措置にすぎないということに早く気付くべきなのである。幾ら国民が勤勉勤労になって経済力を豊かにさせたとしても、政治がそれを巧く活用できるシステムを持っていない限り、政治は混迷を続け、国益を大いに損ない、国民は大損害を被ってしまうことになるのである。そういった意味で、民主党の世紀の大改革は「民主主義は衆愚政治である」ということを暴露する結果になるのである。全ての日本国民が「議院内閣制ではどんなに選挙をやっても駄目なんだ!」と解るまで、政治腐敗は絶対に止まらないのである。

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結婚後10年目の結婚式

●結婚後10年目の再スタート

 結婚して10年も経てば、新婚当初は大きく状況が変わっているというものだ。子供たちもいるし、夫婦の所有物も増加し、そして何より夫婦の思考や行動まですべてが変わってしまうのだ。本物の夫婦になるということは、新たな誕生と見て間違いないし、それを儀式として現れる形で祝福してあげなければならないのだ。

 結婚後10年目で再スタートだと思っておいた方がいい。必ずしも結婚して10年目に再スタートが起きるのではないのが、そこいらの辺りで再スタートが起きるのである。結婚をスタートさせるために結婚式が必要なと同じように、結婚後10年目でもう一度結婚式を挙げて再スタートを図るのだ。そういう結婚式がどうしても必要なのである。

 世の中には儀式というものを嫌って、結婚式すら挙げないような人々がいるが、儀式というものは、その区切りをつける上で絶対に必要な行為なのだ。結婚式を挙げずに、ただ結婚届けを出して結婚した場合、それがまともな結婚にならず同棲と変わらなくなってしまうように、何か大きな変化が起きる前に儀式を執り行うことで、自分の人生に劇的な変化を起こすべきなのである。

 結婚後10年目にもう一度結婚式を挙げることは、金銭感覚が発達してしまった主婦には、肯定しかねることかもしれない。しかし、ここでその出費をケチってしまえば、その後の結婚はズルズルと老後まで突き進んで行くだけなのだ。ここで区切りをつけるからこそ、再び大きく飛躍して行くことが可能に成るのである。

 もしも20代後半から30代前半という結婚適齢期で結婚した場合、結婚後10年というのは、人生の中でラストチャンスといってもいい時期に差し掛かっているのだ。体力的に衰え始め、美貌も低下しつつある時期なので、ここで何かしらの大きなイベントをしておかないと、後になって何かをしようとしても、もう体力が追いついて来ないのだ。だから、この時期に何もしないでいると、日々世間話をして無駄に過ごしてしまうオバサンになってしまうのである。

●結婚後10年目の結婚式はこのようなもの

 自分たち夫婦が始めて結婚式を挙げた時は、双方が若かったし、お客も多かったし、何もかもがドタバタで進んで行ってしまったし、しかも、金銭も余りなかったので、自分たちが経験した割には、あっという間に過ぎ去ってしまった筈だ。しかし、今回は結婚を友人たちに公示するという目的ではなく、飽くまでも自分たち夫婦のための結婚式なのである。

 たくさんの友人は基本的に呼ばなくていい。仲のいい友人がいたら別だろうけど、友人を最小限に絞って、家族だけで挙げてしまえばいいのだ。規模を小さくすれば、出費も最小限度で抑えることができるので、それほど家計を直撃しない筈だ。結婚後10年目の結婚式は厳粛に執り行うよりは、こじんまりと行う方がいいのだ。

 結婚しているのに、再び結婚式を挙げるのは、何かと訳ありと思われてしまうので、理由をきちんと説明しておくことだ。理由を説明しておかないと、「離婚したの?」とか、「馬鹿じゃないの!」とか言われてしまい、その発言に対してカッカしてしまうからだ。本物の夫婦になれたことを祝うべきものだということをきちんと教えておくことだ。

 小さな結婚式を挙げることと、その後みんなで会食さえ出来れば、それでいいのだ。披露宴なんてものは不要で、それよりもみんなで美味しい料理を食べて、みんなから気楽に祝って貰えばいいのだ。そのためにも人数は絞るべきで、参加者は絶対に20名を超えないようにすることだ。20名以下なら纏まりある会にすることが可能になるからだ。

 結婚式を挙げる際には、両親の参加は必要不可決で、子供たちは両親に預けてしまうことだ。せめて「再度の初夜」は、子供たちから切り離して貰わないと、出来なくなってしまうからだ。一晩だけでもいいから、子供たちのことは奇麗さっぱりと忘れて、思いっきり楽しむことだ。

●但し、体型だけは変動している

 結婚後10年目の結婚式の唯一の欠点は、妻の方の体型が変動して、ウェディングドレスのサイズが昔のサイズでは入らなくなっていることなのである。出産後ブクブクと太ってしまい、ドラム缶体型に成ってしまった場合、ウェディングドレスを着ても、見苦しいだけになってしまうので、この点だけは注意しておいた方がいい。

 ダイエットでもして、体重を落として行くことだ。お勧めは「日中断食」と「スポーツ」を組み合わせるダイエットだ。朝食と夕食は食べてもいいが、朝食後から夕食時まで一切の院食物を禁止し、その間、軽いスポーツをして脂肪を燃焼させていくものだ。これをやるとどんなに太っている女性でも、効果的に体重を落として行くことができるので、自分が望む体重まで楽に落として行くことができることだろう。

 但し、気をつけることは、極端なダイエットを行い、急激に体重を落として行かないことだ。急激に体重を落としてしまうと、逆に体型が崩れてしまい、乳房が垂れ下がってしまったり、脂肪が見苦しい形になってしまうからだ。減量は1日1㎏程度で充分であって、そうやって徐々に体重を落として行くからこそ、美しい形でダイエットを行うことができるようになるのである。

 日中断食の最大の利点は、朝食と夕食を食べることによって、1日に必要な栄養素をきちんと摂取できるということなのだ。確かに完全断食をさせてしまい、何も食べさせなければ急激に体重を落として行くことができるが、その代償として体がボロボロになってしまい、特に出産経験者だと骨粗鬆症に成り易くなってしまい、骨折の危険性が出て来てしまうのだ。その点、日中断食なら、栄養素に不足するということがないので、健康的に体重を落として行くことができるのである。

 大抵の夫は、妻の体型に何も言わないものだが、そのため、夫が何も言わないからと言って、自分がブクブク太ってしまうと、ウェディングドレスを着た際に、その姿こそが結婚式を台無しにしてしまうので、自分の娘がいたら意見を求めるなり、ママ友に自分の体型について意見を言って貰うことだ。恐らくきつい言葉が返って来るだろうけど、それが自分の現在の体型なのだから、真摯に受け止めて、自分を美しくする切っ掛けにすることだ。

●もう一度、宜しくお願い致します

 結婚式は10年前に挙げたことがあるので、その手順は解っているので、結婚式自体は滞りなく進めることができる筈だ、美味しい料理が出て来るなら、会食も盛り上がることができるだろう。再度の初夜も、相手は長年の経験を積んできただけって、失敗することなく行うことができるだろう。これで結婚後10年目の結婚式はすべて終わったと思ったら、大間違いである。

 妻の方から夫に対して、「もう一度。宜しくお願い致します」と頭を下げ、今後の結婚を更に幸せにして行くよう求めるのだ。自分の妻からこのように懇願されれば、いかなる夫であっても、妻を大事に扱わざるを得なくなってしまうのだ。そして、今後の人生で夫婦共に幸せの連続になってしまう人生を歩むことが可能になるのである。

 既婚女性の多くは、夫の男心に火を点けるということをしてこないのだ。自分ことばかり考えるから、相手に都合よく動いて貰うことだけを考え、自分の意にそぐわなければ怒り出すという幼稚なことしか仕出かさないのである。だから、結婚して長い歳月が経っているというのに、自分の夫に文句を言うだけの結婚にしかならなくなってしまうのだ。

 男性というのは、自分に守るべきものがあれば、勇猛果敢にして獅子奮迅の働きをするものなのである。その守るべきものが自分に大切なものであればあるほど、女性では絶対に出せないパワーを発揮して来るのである。結婚後10年目の結婚式を挙げたなら、自分を身を低く下げることによって、自分は夫から守って貰いたいし、大事に扱われたいことをアピールし、夫の男心に火を点けてしまえばいいのだ。

 折角、本物の夫婦になれたというのに、結婚後10年目の結婚式を挙げないと、どうしても更なる飛躍が不可能になってしまうのである。いくら愛し合っていても、日々の生活に追われるだけになってしまい、あっという間に歳月は過ぎ去ってしまうものなのだ。だからこそ、区切りをつける儀式を挙げることで、自分たち夫婦に劇的な変化を起こすべきなのである。そうすれば、新たな世界が見えて来て、今まで以上に幸せになっていけるものなのである。

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結婚に於ける悪の効用

●いつの世も善人は少なし、悪人は多し

 いつの世も善人は少ないが、悪人は多い。世間の人々に称賛されるような善人は滅多に出て来ないが、世間の人々に衝撃を与える悪人は続出して来る。人の物を盗むのは悪いと解っているのに、盗人の出現は跡を絶たない。人を殺すことは悪いと解っているのに、殺人犯は確実に出現して来る。

 なぜ、こうなってしまうのかといえば、人間はそもそも悪事に走る傾向を持っているからなのだ。人間は放置しておけば、善行を成すどころか、悪事に走るものなのである。人間の善行は人間の訓練の賜物であって、勝手にそうするものではないのだ。だからこそ、宗教や道徳や憲法や法律といったものが必要となるのだ。もしも人間が生まれながらにして善人であるなら、そのような物は要らない筈だ。これらの物があること自体、人間は性悪説に立脚する動物であるということを証明しているようなものなのだ。

 結婚に於いても、善行を成す夫婦より、悪事を成す夫婦の方が多い。、結婚しているのだから、きちんと夫婦で愛し合えばいいものを、互いに悪口を言い合い、憎しみ合い、殴り合い、殺し合おうとする。馬鹿の一つ覚えの如く、「愛こそすべて」だなんて言っていると、確実に結婚は最悪の物と化して来る。人々が愛を叫べば叫ぶほど、その望む愛とは正反対に、離婚率が増加して行くものなのである。

 結婚したら、自分が絶対に正しく、相手が絶対に悪いなどという考えは、絶対に持たないことだ。この手の考えを持つ夫婦はいくらでもいるものだが、自分が絶対に正しいと思い込んでしまえば、相手が絶対に悪くなるのは当然のことなのだ。結婚しているにも拘わらず、相手が悪事を仕出かすというのなら、自分も相当な悪事を仕出かしているものなのである。

 結婚は決して裁判ではないのだ。結婚で発生した事件は、裁判で扱うことができないものなのである。たとえ自分は正しいと言っている妻の肩を持ち、悪のレッテルを張られた夫を裁いても、それで事件が解決できる訳ではないからだ。寧ろ事実は逆で、そういうことをしてしまったら、結婚はより問題を発生させてしまい、崩壊して行くことになるのである。

●「善人の受難」「悪人の栄え」

 夫婦で問題が発生した場合、自分は絶対に正しいと言って来る奴が、一番悪いのである。そういう人に限って、自分を善人の立場に置いてしまうために、「悪の力」を巧く使っていないからなのである。結婚を維持して行くためには、「善の力」を使うだけでなく、「悪の力」をも使って行くべきなのである。

 「悪の力」というものは、「善の力」に比べれば、遥かにエネルギーがでかい物なのである。人を産み育て一人前の大人にするためには大変な労力を必要とするものなのである。しかし、その大人になった人間を憎んで殺そうとすれば、一瞬でできてしまうものなのである。「悪の力」とは「善の力」よりも遥かに強烈なのである。

 結婚でも自分が善人面して、善の力ばかり使っていたら、パワー不足になってしまい、結婚が巧く機能しなくなるのは当然のことなのだ。だから、自分たちは善人と思い込んでいる夫婦ほど、出世ができず、貧乏で、夫婦間でトラブルが発生した時は、どうしようもなkなってしまい、結婚を破滅させてしまうことになるのである。

 勿論、「悪の力」を使うことは危険だし、「悪の力」を使い続けてれば、人相が悪くなってしまうものである。警察沙汰にならないヤクザがいないように、人相のいい凶悪犯罪者がいないように、「悪の力」を使い過ぎてしまうことは、絶対にやるべきではないのだ。悪の力を使うべき時に、少しだけ悪の力を使えばいいのだ。

 この世には「無実の罪」で裁かれてしまう受刑者もいるのである。なぜそのような冤罪事件に巻き込まれたかたといえば、自分が謙虚にならず、自分は正しいと思い込んで、悪の力を使って来ない人生を歩んできたからこそ、冤罪を食らってしまうのである。「悪の力」を使う術を覚えていなければ、自分に不当な状況に追い込まれた時に、そこから脱出することはできなくなってしまうのだ

●心を鬼にして、悪の力を使うべき時は、絶対に使う

 例えば、自分たち夫婦が貧乏で、狭いアパートに住んでいて、その貧乏に耐え忍ぶというのも生き方の一つであるが、自分たちが貧乏であることを憎み、夫の尻を叩いて、貧乏から脱出して行くということも生き方の一つなのだ。勿論、稼ぎの少ない夫に嗾ければ、夫は反撃してくるし、暴行を食らう危険性も高まって来る。しかし、貧乏から脱出したいのなら、自分の心を鬼にして、悪の力を使わざるを得ないのである。

 現在の生活が貧乏で、最早、生活を維持するだけの収入がないにも拘わらず、「少欲知足」をモットーにした所で、貧乏から抜け出すことは永遠にできないのである。自分たち夫婦が貧乏なのに、善人面などすべきではないのである。どんなに仲のいい夫婦でもお金がなくなってしまえば、途端にトラブルが続出して来るものなのである。

 子育てに於いても、子供が悪事を仕出かしたのなら、子供の悪事を上回るほどの「悪の力」を使って、子供を叱りつけなければならないのだ。もしも、子供が悪事を働いても、「お前は実は良い子なんだよ」と諭していたら、その子供は将来確実に不良少年になってくることだろう。子供が悪事を働いたら、母親が問答無用で叱りつけるからこそ、子供は「これは悪いことなんだ」と解り、その後の人生で悪事を仕出かさなくなるのである。

 凶悪犯罪者の母親という者は、決して悪い母親ではないのだ。寧ろ、良い母親に属しているような女性で、我が子を可愛がり過ぎたたために、善悪の判断をしっかりと教えてこなかったのである。凶悪犯罪者が子供の頃に、母親からきちんと叱られていたのなら、小さな悪事の段階で、悪事をやめていた筈である。それがなかったからこそ、凶悪犯罪を起こし、警察に逮捕されるまで、自分を悪の暴走から止めることができなかったのである。

 昔、不良少女であった女性は別として、大方の既婚女性たちは、悪に慣れていないために、「悪の力」を正しく使うことがなかなかできないものだ。自分はただ貧乏はもう嫌だと思っているからこそ、夫を嗾けているのに、夫の逆鱗に触れてしまったり、子供の悪事をただ単に叱りつけたのに、その叱り方が拙くて、子供に嫌われてしまったりとかするものなのである。だからこそ、普段は「善の力」を使いつつも、時には「悪の力」を使って、その力の使い方を習得して行かなければならないのだ。

●この世で生きて行くためには強くあらねばならない

 この世には、自分を善人に置きたがる人々は多いし、正義を振り翳そうとすることに拍手喝采を贈るものだ。しかし、善人が多ければ多いほど、世の中は窮屈なものになっていくし、正義を振り翳せば、その正義のために犠牲に成って来る人々が出て来るものなのである。いくら善人を多くした所で、いかに正義を振り翳した所で、この世は決して良くならないことに早く気付くべきなのである。

 人間は弱い生き物なのである。人間は弱いからこそ、強く生きるようにしていかなければならないのだ。強く生きるために、「善の力」を使ったり、「悪の力」を使って、この世の中でしぶとく生きて行くことができるのである。いつまでも自分を社会的弱者に置きながら、幸せな人生など歩める筈がないのだ。

 母親が子供に本当に教えなければならないことは、人間は弱い動物であることを認めさせ、だからこそ強く生きて行かねばならないことを教えてあげるべきなのである。今は無力であっても、一生懸命に努力して立身出世して行くべきであって、自分が成功者になっても傲慢にならず日々精進し、万が一、刑務所に収監されても正々堂々として生き抜くことを教えてあげるべきなのである。

 夫に対しても、平凡な人生で一生を終えてしまうのではなく、競争相手を押しのけてでも、立身出世して活躍するべきなのである。いくら家族に対して「良い父親」であっても、職場ではウダツの上がらない人であっては、家族は経済的に悲惨なものになってしまうのである。夫の善行のために、妻子が不幸になってしまう事態は絶対に避けるべきなのである。

 この世で本当に素晴らしい母親というのは、意外とドスが効いているものなのえある。「自分の夫や子供たちに何か仕出かしたら、必ず報復措置を取るわよ」という姿勢を絶対に崩さない母親なのである。自然界に生きている動物は、どの母親も強く生きているものなのである。それなのに人間だけが善人面し、弱弱しく生きているのである。しかし、そういう生き方では夫や子供たちを守ることができないのだ。折角、結婚で創り出すことのできた幸せをも守ることができなくなってしまうのだ。

 母親たちよ、自分を社会的弱者などと思わずに、強く逞しく生きて行こう! 自分が強ければ、夫や子供たちを守ることができるし、結婚で生み出すことができた幸せをも守ることができるのである。この世がいくら平和だからといって、強くなることを忘れては、自分たちの家族も、幸せも、そして自分の人生すら守ることができなくなるのだ。幸せは強く生きている者にしか守り通すことはできないのものなのである。

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結婚を更に幸せにさせたいのなら、結婚の仕方をレベルアップさせよう!

●結婚の結果は自分たちが引き起こしたもの

 結婚している以上、夫婦二人が主人公なのだから、「結婚の結果」は自分たち夫婦が引き起こしたものなのである。何がどうであれ、結婚の現状は自分たちが結婚の中でそうし続けて来たことの結果に過ぎないのだ。自分たちの結婚に関して、自分たちが責任を負うという姿こそ、どれほど子育てにいい影響を与えるか計り知れないのだ。

 夫婦の中には結婚して10年経っても夫婦仲の問題を抱えていたり、お金の問題を抱えていたりするものもあるけど、それを他人のせいにせず、自分たちの責任だと腹を括るからこそ、子供たちは自分で自分の責任を負うようになり、思春期が来れば自立を開始して来るのである。親が独立していなければ、子供たちは自立して行くことができなくなってしまうのだ。

 世の中には自分たち夫婦が問題を抱えているというのに、それを自分たちで負わず、政府や経済や社会のせいにする人々がいるものだ。自分たち夫婦が揉めているというのに、政治批判を繰り返したり、景気が悪いと言い出したり、世の中が間違っていると言い出したりして来るのだ。そういう責任転嫁をしているからこそ、問題を解決できないでいるのだ。

 結婚が持っている最高の機能というのは、個人一人では問題解決が不能なものであっても、夫婦二人が力を合わせてしまえば、解決可能になってしまうということなのである。それゆえ、夫婦が抱える問題は、基本的に夫婦二人で解決して行くことが可能なのであって、絶対に責任転嫁すべきではないのだ。そんなことをやっていれば、結婚が持っている最高の機能を使えないことになってしまうからだ。

 いつも夫婦喧嘩をしてしまい、頭に来ているようであるなら、まずは自分が折れてしまい、自分が態度を変えてしまえば、夫婦喧嘩は起こらなくなるものなのだ。いつも金銭問題で苦しんでいるなら、家計を改めて見直し、家計を引き締めるなり、収入を増やして行くことをしていくしかないのだ。夫婦が抱える問題というのは、基本的に解決可能なのだということを、いつ如何なる時でも忘れてしまないことだ。

●結婚式で時間を止めてしまうな

 女性というのは、男性よりも遥かに記憶力が達者であるので、過去のことを覚えていすぎなのだ。結婚式が余りにも晴れやかで有り過ぎたので、結婚して10年以上経っても、結婚式の話を夫の前でしていたら、夫はうんざりしてしまうものだ。「過去を振り返っていないで、前に進めよ」と言いたくなるものなのである。

 結婚は結婚式を挙げた瞬間で終わりではないのだ。結婚式後こそが結婚の本当の中身なのである。結婚に幸せなものにするためには、それに見合う行動が必要なのである。結婚して幸せになっている女性たちはそれなりの行動を起こしているからこそ、幸せになっているのであって、幸せを作り出す行動を起こさなければ、どんなに恵まれた状況で結婚した者でも不幸に成って行くのは当たり前のことなのである。

 結婚して幸せになれると思い込むのではなく、結婚して幸せに見合うだけの行動を起こすからこそ幸せになれるのだと、考えを改めてしまうことだ。既婚女性に東奔西走を強いるほど、激しい行動は要求されていないのだ。結婚している者なら、ごくごく当たり前の行動量が要求されているに過ぎないのである。

 結婚に不満を垂れる既婚女性は、自分に見合うだけの充分な思考や行動を起こしていないだけなのだ。結婚しているのに、夫は外に働きに出ているのに、妻が何もしていなかったら、どんなに稼ぎのいい夫でも、結婚は破綻してしまうものだ。夫婦は二人しかいないのだから、どちらかが手抜きをすれば、立ち所に影響が出て来るものなのである。

 結婚しているなら、次から次へとやることは出て来るものだ。子供たちは次から次へと問題を起こして来るものだ。だったら、それを一つ一つ解決して行けばいいのである。問題を処理し続けて行けば、いつの間にかに相当な実力がついてしまっているものなのである。問題を解決せずに、先送りにしてしまうからこそ、問題が悪化して行くのである。

●今、自分たち夫婦が抱えている問題こそ、緊急課題

 今、自分たち夫婦が問題を抱えているなら、その問題こそ緊急課題なのである。もしも、お金のことで問題を抱えているなら、それを重点的に解決して行ってしまうことだ。自分たち家族の生活をすべて見直して、無駄な出費を抑えて行くのだ。そして自分たち家族が豊かに暮らせるためにはどの程度の収入が必要なのか話し合って、その目標金額を絶対に得られるように仕向けて行くことだ。

 子育てで問題を抱えているのなら、妻の方がすべてを抱え込んで黙っていないで、夫婦で話し合う機会をきちんと持つことだ。子育てで問題を抱えている場合、その問題以上に、夫婦で話し合っていないことの方が遥かに深刻な問題を引き起こしているものなのである。夫婦で話し合ってしまえば、問題の半分は解決できたと同じで、後は技術的なことだけなのだ。

 男性の中には無口な人もいるので、夫が仕事で問題を抱えていた場合、それを誰に告げていなかったら、或る日突然に辞職してしまったり、解雇されてしまったり、自殺してしまったりするから、要注意なのである。自分の夫が無口なら、自宅では夫の話を聞いてあげる機会を持ち、夫に過剰に問題を抱え込まさせないことだ。仕事でも問題など、誰かにその問題を話すことができれば、解決の糸口を見つけ出すことができるのである。

 もしも、夫婦が抱えている問題で、自分たち夫婦では解決不能なものに関しては、然るべき人に相談して、問題の解決の仕方を教えて貰うことだ。訊く時は恥ずかしいものだが、恥を掻くことを避けていたら、問題は悪化して行くだけなのである。いかなる問題でも、解決の仕方を教えて貰えば、簡単に解決できてしまうものなのである。

 不思議なことに、緊急課題を解決できてしまうと、残りの問題はあっという間に解決できてしまうものなのである。緊急課題を解決している間に実力がついてしまい、残りの問題は以前であるなら解決できなかったのに、実力がついてしまったことにより、簡単に解決できてしまうようになるのだ。

●レベルアップすると、簡単だと解るもの

 何事もレベルアップしてしまうと、今まで取り組んでいた問題は簡単になってしまうものなのである。それどころか、レベルアップすると、「なんでそんな問題で悩んでいたの?」と思うものなのである。だから、今、自分たち夫婦が直面している問題から逃げないで、真剣に向き合うべきなのである。自分たち夫婦が真剣に取り組んでいれば、いずれレベルアップして行くものなのである。

 それがどんな問題であったとしても、その夫婦には意味があることなのである。夫婦仲でも問題を抱える夫婦は、愛について間違った考え方を持っているということであり、金銭面で問題を抱える夫婦は、お金について間違った考え方を持っているということなのである。自分たち夫婦が子育てに関して間違った考えを持っていれば、子供たちが問題を起こして来て、その間違いを指摘してくれるのである。

 問題を起こすことが悪いことではないのだ。問題をそのまま放置してしまうことが悪いことなのである。問題が発生して来ない限り、自分たち夫婦がどこで間違いを犯しているか解らなくなってしまうからだ。だから、余りにも長く平和に暮らしている夫婦に限って、突如として大問題を発生させてしまい、取り返しのつかない事態に陥ってしまうのである。

 結婚の仕方など、10年も経てば古臭くなって当然なのだ。結婚して更に幸せを得たいのなら、レベルアップして行くしかないのである。自分に得意分野があるのなら、そこを伸ばして行くことだ。もしも、料理が巧いと思っているなら、料理の学校にでも行って、料理の腕をより一層磨いてしまえばいいのだ。それを切っ掛けに家族が喜んでくれて、幸せは激増して行くものなのである。

 レベルアップできてしまうと、それだけに留まらず、次から次へと良い手を打って行くことが可能となり、幸せが津波のように押し寄せて来るようになるのだ。夫は外で一生懸命になって仕事をしているのだから、妻の方も一生懸命になって取り組んでしまうと、幸せはいくらでも生み出して行くことができるようになるのだ。幸せは決して単品で存在しているのではないのだ。数珠繋ぎになって存在しているのである。

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幸せな結婚生活を送っている人たちと仲良くする

●幸せは更なる幸せを作り出す

 幸せというものには、恐るべき或る法則性を持っている。それは幸せはただ単に幸せであることに留まらず、「幸せは更なる幸せを呼ぶ」ということである。今まで不幸だった人が幸福になった場合、当分の間は幸福と不幸が交互にやってくるものだが、幸福が溜まって行くと、幸福な現象を連発して来てしまうのだ。

 自分が幸せな人生を歩み出すと、蓄積された幸せ自体がエネルギーとなって、様々な幸せを招き寄せてしまい、幸せだらけの人生を歩んでしまうのである。結婚がなぜ幸せを生み出すものとして重宝されてきたかというと、結婚して夫婦が幸せな道を歩み出してしまうと、幸せが蓄積されてしまい、様々な幸せを招き寄せ、幸せだらけの人生を歩んでしまうからなのだ。

 ところがどっこい、結婚したのに、幸せになれない人々がいるものなのである。この手の人たちは結婚の初期に現れて来る不幸に於いて、「耐える」ということをしなかったので、不幸を克服する方法を身につけることがなく、更なる不幸を招き寄せてしまうのだ。夫婦に不幸が発生したのに、夫のせいにしたり、社会のせいにしたりしていると、その不幸を克服することができず、その不幸が悪化して行ってしまうのである。

 人間は群生動物だから、類は友を呼ぶようにできている。幸せな夫婦は幸せな夫婦同士で集まり、不幸な夫婦は不幸な夫婦同士で集まる。結婚して10年以上経つと、この区分がくっきりと分かれて来るので、自分たち夫婦は幸せな夫婦の集まりに入れるように努力することだ。不幸な夫婦の集まりに参加してしまえば、自分たち夫婦が更に不幸になっていくのは、必至なのだ。

 幸せな夫婦同士で集まると、ただでさえ幸せなのだから、集まることでより大きな幸福を招き寄せてしまうのだ。しかも、これだけ幸せだらけになると、不幸の方がビビって近づけなくなってしまい、不幸が起こりにくくなるのだ。たとえ起こったとしても最小限度の被害で食い止めることができるようになるのである。だから、結婚して心から満足できる日々を過ごすことができるようになるのである。

●無闇に人間関係を広げ過ぎるな

 幸せな夫婦は人間関係において或る一つの特徴を持っている。それは無闇に人間関係を広げ過ぎないということなのである。人間が悲劇に見舞われるのは、無闇に人間関係を広げ過ぎたからなのである。友達を多く作っていっても、その間に信用できない友人たちが紛れ込んで来て、自分がどんなに深切に接してあげても、その内、自分を裏切り、不幸を発生させてしまうのである。

 人間関係は広くて浅い付き合いよりも、狭くて深い付き合いの方がいいものなのである。相性が良く、気が合い、話が合い、双方に利益をもたらし、信頼できる関係を築き上げるからこそ、その友人といつまでも仲良くすることができるし、仲良くすることで様々な利益を発生させてくれるのである。

 既婚女性同士で中核となる友人グループを築き上げて行くことが大事なのである。この中核となるグループがあれば、信用できない人々を弾くことができるし、信用できる新たな友達も作り易くなり、人間関係が安定した形で広がって行くものなのである。この中核となるグループを作らないで、無闇に人間関係を広げてしまうからこそ、人間関係でトラブルを起こしてしまうのである。

 いつの世にも社交家と呼ばれるような既婚女性がいるから、そういう女性を見ると羨ましくなってしまうものである。しかし、社交家ほど信用できる友人を持っていないものだし、そして何よりも自分が生産的な仕事をしていないものなのだ。夫婦仲もそれほどいいとはいえず、子供たちも優秀な人間に育って来ていないものなのである。

 結婚している場合、独身時代のように無闇に友達を作って行くことはできないものなのである。夫の収入だとか、子供の数だとか、住んでいる場所とかで、どうしても仲良くできない人々が出て来てしまうのである。自分の夫の年収が1億円を超えているのに、年収300万円で暮らしている夫婦とは付き合えないものなのだ。こっちは子供が3人以上いるのに、相手は子供1人なら、子育てに関する話が続いていかないものなのである。自分が高級住宅地に住んでいるのに、貧しいアパートに暮らしている既婚女性とは、話が噛み合わなくなって来るのは当然のことなのだ。

 結婚してしまうと、自分の友人になる人が限られてくるために、逆に友達作りがし易くなるものなのだ。自分と余りにも懸け離れた生活をしている人を友人にせず、自分の生活レベルに近い人を友人にしていけば、その友人と深い付き合いになるものなのである。そういう友人がいるからこそ、通常の友人とでは発生させることのできない、エネルギーを発生させて来るものなのである。

●ネガティブな考えは伝染する

 自分が結婚していて気をつけるべきことは、無闇に不幸な人に手を差し伸べないということなのである。自分が幸せな結婚しているからといって、それに慢心していると、いつ転覆するか解らないものなのだ。或る程度までなら不幸な人を救えるかもしれないけど、或る一定のラインを越えてしまうと、相手を助けるどころか、自分まで不幸に成って行ってしまうのである。

 結婚して不幸になってしまう人は、決して自分一人だけで不幸になろうとはしないのだ。必ず道連れを要求して来るのだ。自分だけでなく友人まで不幸になるからこそ、自分に発生している不幸を軽く受け止めることができるようになるのだ。しかも、自分の友人が自分より不幸になってくれることで、優越感を持つことができるので、自分が不幸の真っ只中にいて、相手の不幸を見ることで喜ぶことができるようになるのである。

 ネガティブな人は自分一人でネガティブにならない。必ず周囲の人々をネガティブにしていくものなのである。結婚すれば、夫を愛し敬うことは幸せになるために絶対に必要なことなのに、自分の夫の悪口を散々に言って、夫を憎み蔑むことばかり仕出かしてくるのである。確かにそういう話を聞いていれば面白いけど、その話を聞いている内に、自分自身も夫の悪口を言うようになってしまい、夫を憎み蔑むようになってしまうのだ。こうなってしまえば、結婚して幸せになることなど、不可能になってしまうのである。

 もしも自分の友人にアルコール中毒の人がいたら、遅かれ早かれ自分もアルコールに蝕まれていくものなのである。もしも自分の友人に麻薬中毒の人がいたら、遅かれ早かれ自分も麻薬に蝕まれて行くものなのである。何かしらの中毒に犯され、破滅に向かって驀進している友人には、その中毒から抜け出せるように何か手助けをしてあげるべきではなく、人間関係を切断して、付き合いを停止してしまうことだ。この措置こそが自分たち夫婦の幸せを守ることになるし、その友人のためにもなるのだ。

 人間は正しい道を歩かなければ、いくらでも自分の人生を破滅させてくれる誘惑に出会ってしまうものなのである。その誘惑は最初から危険を警告しながら現れて来るのではなく、甘言を呈しながら現れて来るものなのである。この世のどこにアルコールを飲むと肝臓や腎臓を痛めてしまい、早死にしてしまいすよといってお酒を売る酒屋がいるだろうか? この世のどこに麻薬を使うと体はボロボロになり、警察に捕まり、社会的地位の一切を失ってしまいますよと言って麻薬を売る売人がいるだろうか?

 いかなる誘惑も当初は心地いいものなのである。しかし、それを常用してしまうようになると、一気にその本性を現わして、自分を破滅に追いやって行くものなのである。中毒というのは、自分が中毒に気付いても、そこから自分の意志では抜け出せなくなるからこそ、恐ろしいものなのである。夫の悪口を言う女性も、アルコールに溺れる女性も、麻薬から抜け出せない女性も、最早、自分の力ではそこから抜け出せなくなってしまうのだ。

●幸せになれる情報は幸せな夫婦たちの間にある

 結婚しているのに、夫から暴力を振るわれたり、アルコール中毒になってしまったり、麻薬に手を出し破滅して行った既婚女性たちの情報に心を痛めないことだ。彼女たちは不幸の恐ろしさを知らず、ネガティブモードに取りつかれ、中毒症状の危険性を充分に理解してなかった、幼稚で愚かで未熟な女性たちなのだ。結婚しているからといって、何もかもしていい訳ではないのだ。

 結婚したからこそ、自分で悪戦苦闘しながら正しい道を探し出し、心を謙虚にして、目標に向かって全力で走り出して行くべきなのである。結婚して幸せになれた既婚女性たちは偶然に幸せになれた訳ではないのである。既婚女性としてやるべきことをきちんとやったからこそ、幸せになれただけなのである。ただ。そういう自慢話をしてこないだけなのである。

 結婚すれば、料理に掃除に洗濯、育児に子育て、夫の世話や、舅や姑への対処、主婦同士での人間関係の維持など、やるべきことはたくさんあるのである。お酒や麻薬に手を出している暇などない筈なのである。夫の悪口をいい、ネガティブモードになっている暇があるなら、既婚女性としてやるべきことに精を出すことだ。体を動かしていれば、体が温かくなってくるから、夫に対しても褒め言葉が言えるようになり、いつもポジティブでいられるものなのである。

 マスコミでどんなに結婚に対してネガティブな情報が流れようとも、この世には幸せな結婚して楽しく暮らしている夫婦は必ず存在しているのだ。そして幸せになれる情報は、そういう幸せな夫婦たちの間に集まって来るものなのである。その情報を手にしてしまえば、結婚が更に幸せになって行くものなのである。だからこそ、幸せな夫婦たちと仲良くして行くべきなのである。

 自分たち夫婦の結婚を幸せを維持したいのなら、幸せに暮らしている夫婦たちと友達になることだ。幸せな人々が集まれば、強力なエネルギーを発して、更なる幸せを招き寄せて来るものなのである。そうすれば自分が大した労力を支払っていないにも拘わらず、更に幸せになっていってしまうのである。

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