●如何なる社会も人為的に作られたものではない
自分が結婚をし、子供たちを産み育てて行けば解ることだが、「社会というものは、自由であることが一番良い」と思う筈だ。社会は当然に悪徳や腐敗を抱えていても、その悪徳や腐敗を憎む余り、社会そのものを破壊してはならない。丁度、イタズラが大好きな子供にその悪行を憎む余り、躾を教えると称して折檻し続けていれば、子供を殺してしまうように、些細なことに拘り過ぎると、肝腎なものを破壊してしまうことになるのだ。
社会というのは、そもそもその誕生からして他とは違うものなのである。文明というのは、征服から始まる。どこかの戦闘的な部族が、平和的に暮らしている部族を征服することによって、文明は開始される。太古の昔、中央アジアに生存していたシュメール人たちが、南下を開始し、メソポタミアの地を征服することによって、人類は文明を誕生させたのである。その点、政治というのは、かなり人為的なものなのだ。
経済も自分たちが生産に関わり、消費に関わるという点では、人為的な要素を多く含んでいるものだ。ただ、経済には市場があって、その市場によって価格が勝手に変動して行くし、自分の知らない様々な産業があることによって、協業と分業が勝手になされ、生産力が増強されていくからこそ、我々は豊かな生活を営めるのだ。
社会に至っては、我々が気付いてみたら、そこに存在していたという程度のものだ。誰が作ったか解らないし、誰が維持をしているのかも解らない。社会というのは、人為的に成立していない以上、人間があれやこれやと手出しをすべきではなく、放っておけばいいのである。
ところが、学者という連中は、この社会でまともに生きている者であるなら常識的なことさえ解らないのだ。学者たちは社会学という得体の知れない学問を作り出し、それで社会とは隔絶された大学の研究室の中で、せっせと頓珍漢な学術体系を作り出しているのである。「この学問は科学的だ」と称して、非科学的な研究に精を出しまくるのである。
社会科学は自然科学とは根本的に異なり、仮説を組み立て、それが正しいのかどうか実験をすることによって確かめるということが出来にくいものである。例えば、或る政治学者がマニフェストなる概念を政治の世界に導入したが、それによって政治が以前よりも良くなったといえば、決してそうとは言えないだろう。寧ろ、政治家たちがマニフェストに拘束されてしまい、以前よりも柔軟な政策展開が出来ず、逆に政治の生産性が落ちてしまったのである。
政治学の分野ですらこうなのだから、社会学ともなれば、社会学そのものが本質的に虚妄性を持っているのだ。なぜなら、社会というものは、実験によって自分の仮説を確かめることはできないからだ。たとえ社会に対して自分の仮説を実施して、実験によって確かめても、その行為自体が人為的で、社会本来の姿とは、大いに掛け離れてしまっているものだからだ。
だから、もしも社会学が学問として健全に機能したいのなら、ただ、社会を分析するだけなのである。その社会の悪い部分だけを分析するのではなく、その社会の長所も分析し、総合的に見て行くことをしなければ、幾らでも嘘の塊のような学術体系を作り出すことが可能になってしまうのだ。そういった意味では、社会学は民俗学と大して変わらないのである。民俗学者たちがその民族の風習や習慣を分析していったと同じように、社会学者たちが社会を冷静に分析して行けばいいのである。
だが、社会学者に限って、この社会学の限界を受け入れようとせず、社会学を研究しているといいながら、得体の知れない学問を展開しているのである。社会学は、戦前や戦後暫くの間は、社会主義者たちの巣窟となり、戦後復興を成し遂げると、そこにフェミニストたちが加わって来た。この手の連中が入って来ると、どの学問ももともな学問にならないのだが、社会学はその中でも最大の被害を被り、その結果、社会学は社会主義革命をもたらすための学問となり、フェミニズム革命をもたらす学問となってしまったのだ。
●自由社会と自生的秩序
我々が住んでいる社会は、自由社会であって、決して平等な社会ではない。自由社会にすれば、当然に至る所で格差が生じて来るのだから、それを国家権力を使って弄るのではなく、逆に国家権力の行使に制限を加えて放置することで、自由による恩恵を人々に施そうとするものだ。
自由社会にしてしまえば、至る所で競争が行われ、悪しき者たちが敗退し、優れた者たちだけが生き残って行くから、当然に人々は勝者と敗者に分かれるし、その勝者たちも秩序を作り出すことによって、自然と落ち着いて行く。これが自生的秩序なのであって、誰かが人為的にそうやったものなのではなく、誰かが人為的に手を加えたのではなく、成るべくして成ったのである。その自生的秩序に於いてこそ、人々は最大級の恩恵を受けることができるようになるのである。
言わば、自由社会とは自生的秩序のことであって、自由社会に住む人々が自由な社会とはこのようなものであると共通認識を持ち、この共通認識に反する見解を持つ者を排除する勇気を持たねば、この自由な社会は自由社会を否定する者たちによって破壊されてしまう危険性を持っているのである。
この自由社会に生きている限り、自由社会そのものを破壊する自由を如何なる者であっても持ってはならないし、自由社会を破壊する言動を取り始めたのなら、直ちに制裁行動を起こし、その連中を殲滅しなければならないのである。先進国で社会主義者たちが跳梁跋扈して来たのは、まさに自由社会の盲点を衝かれたからであって、先進国の人々が自分たちの自由を守るために、武器を取り、社会主義者たちを皆殺しにすることがなかったからこそ、社会主義者たちに国家を転覆され、自由社会そのものを破壊されてしまったのである。
忘れてならないのは、自由社会を有する国家は、下手に自由を拡大する路線を取ってしまうと、そこを邪悪な者たちに付け込まれてしまい、政治が破綻してしまうことになるということなのである。ロシア帝国もロシア革命が発生する直前には、政府が自由主義路線を突っ走り、国民に多くの自由を与えていったら、突如、革命が発生し、ボレシェビキに乗っ取られ、政府の要人たちは悉く殺されてしまったのである。
イギリスでも事態は同じで、ビクトリア女王の時代にイギリスは栄華を極め、人々が最大限の自由を謳歌したのだが、その後、ビクトリア女王の時代が終わると、急速にイギリスは社会主義路線に展開して行き、労働党が政権を取ろうが、保守党が政権を取ろうが、イギリス国民の自由が縮小されていく政策を取り続けてしまったのである。
●政府は社会に手出ししない方が、国民は最大の利益を得るようになる
ソ連政府は国家権力を使って、散々国内の社会を弄り回したが、その結果は戦争や内戦があった訳でもなく、国家が自滅するという異常な滅亡の仕方で、ソ連は崩壊してしまったのだ。イギリスも国家権力を使って、散々国内の社会を弄り回したが、その結果はドイツに抜かれ、日本に抜かれ、嘗ては覇権国家だったのに、気付いてみればヨーロッパの弱小国家に転落してしまったのだ。
社会というのは、政府が社会に手出ししない方が、国民は最大の利益を得ることができ、それによって国家は発展して行くことができるのである。まさに「最大多数の最大幸福」であって、多くの人々が平穏無事に暮らしていれば、「それで良し!」とすべきなのである。その状態こそが、自由社会の恩恵が最大化された状態であって、それ以上に自由社会の恩恵を大きくすることなどできないのだ。
確かに自由社会には不幸な人々がいる。しかし、その僅かな不幸者のために自由社会をl破壊してしまっては、本末転倒なのである。自由社会で幸福を手にした人々は、国家権力を使って幸せになった訳ではない以上、自由社会で不幸になってしまった人々は、国家権力を使って自分の幸福を手にするべきではないのだ。幸福な人々が自助努力で幸せに成って行ったように、自分の自助努力を行い、不幸を払いのけつつ、幸せを手に入れえいかなければならないのである。
自由社会は非倫理的な社会ではないのだ。非常に倫理的な社会なのである。その倫理の中でも最も大事な倫理が、「自助努力」という倫理なのである。自由社会に住む人々が自助努力という美徳を持つからこそ、人々は自分で自分の道を切り開き、幸福を獲得して行くのである。
もしも、自由社会に住んでいるというのに、自助努力という美徳を持たず、手抜きをしたり、インチキをしたりすることばかりをしていれば、当然に自分の人生が行き詰まり、人生が破綻し、不幸に成って行くのは当然のことなのである。この自助努力という美徳こそ、社会者主義者たちが最も嫌った美徳であり、フェミニストたちの口から自助努力の大切さなど一度たりとも説かれたことはないのだ。
自由社会で幸福になれた人々は何も偶然に幸福になったのではないのだ。自分が幸福に成るために自助努力を繰り返して来たからこそ幸福になれたのであって、幸福になった人でも自助努力の美徳を忘れ、遊び呆けてしまえば、途端にその幸福が失われ、不幸に成って行くものなのである。自分が不幸を脱したいのであるならば、一念発起して自助努力を遣りまくるべきであって、自助努力を繰り返して行く内に不幸は破壊されてしまい、幸福に成って行くものなのである。
●自由は常に平等によって破壊される
自由というには、自分の思った通りに行動を起こすことをいうのであって、それゆえ、外からは正当な理由もなく非合理的な束縛を受けてはならないと同時に、内からは自己統御によって自己規律をもたらし、自発的に合理的な行動を起こさねばならないという要請を持つものなのである。
それゆえ、この世の中で自由を成立させ、確保して行くためには、「法の支配」を必要とし、法治主義で以て憲法や法律を整えて行くと同時に、全ての人々に自由を与えるのではなく、自由を与えられるのは飽くまでも自己統御ができ、自己規律を行うことができ、自助努力を行っている者たちにだけなのである。
幾ら自由社会だからといって、全ての人たちに自由を与えてしまえば、法の支配を転覆しようとして来たり、自助努力を行わない不逞な輩も出て来るものなのである。自由は自由の価値を認め、法の支配を受け入れ、自助努力をして貰わなければ、自由を巧く使いこないせないので、その自由社会の中で不幸に成って行くのは当然に予想される事態なのである。
この成らず者たちは、自由のなんたるかが解っていないために、自由社会の中で「自由からの逃走」を仕出すものなのである。彼等は自由に耐えられないし、たとえ自由を与えられても自由を行使することができないから、自由から逃げ出し、平等を唱えて来るようになるのである。
平等というのは、自由の敵である。自由はそれ自体が全ての人々に与えられるものではないし、自由な状態にされれば、当然に不平等な状態を生み出してしまうからだ。それゆえ、平等を推し進めて行けば、数学的規則性正確さで以て、自由が破壊されてしまうのである。経済的な平等を実現しようとして社会主義革命を行ったら、その国の国民は一切の自由を喪失してしまったのは、平等と自由は共に存続し合えない間柄だからなのである。もしも将来、どこかの国でフェミニズム革命が発生したら、性的な平等を実現しようと躍起になるから、その国の国民は一切の自由を喪失してしまうことになるであろう。
自由社会に住む人々は、自由というものは頑丈に出来ているものではなく、「自由は平等に最も弱い」ということを予め了解しておくべきなのである。自由社会の中で平等を唱えてきたら、直ちに射殺するぐらいの勇気を持つべきなのである。自由社会では自由であるがゆえに、不平等が出て来るのは当たり前なのであって、それを人間の力でどうにかするべきではないのである。もしも何か出来るとするなら、不平等で苦しんでいる者たちに、仕事に改善を施すなり、転職を促すなり、自分を変えることで、その不幸からの脱出を図ってあげるしかないのである。
●社会の基盤は家族である
では、平等を唱え出す人々は、なぜ平等を唱えて来るのだろうか? それhは異常な家族の中で育って来たからなのである。人間は自立して行くまでに、長期間、両親によって養育されるという宿命を持つ動物である。それゆえ、その間に、両親から充分に愛されないと、自分の成長が歪み、心に傷を負ってしまうものなのである。両親が自分をきちんと愛してくれる正常な家族の中で育てば、平等なんか唱えて来ないものだが、両親が自分をきちんと愛してくれないような異常な家族で育ってしまえば、人間は平等を唱え出すものなのである。
自分が大人になって子供を産み育ててみれば解ることだが、小学生辺りまでは子供というのはみんなと一緒でないと我慢できないものなのである。ところが、中学生辺りになると、みんなと一緒でいることを嫌がり、自分だけの世界を作り出して行くものなのである。それが自立の始まりなのであって、自立できた者は殺されたとしても、平等を唱えて来ることはないのだ。平等を唱えて来る人々というのは、小学生レベルの段階で成長を止めてしまったのである。自分の心が愛で満たされていないがゆえに、それ以上の成長ができなくなってしまったのである。
家族というのは、夫が家長として君臨し、妻が家庭内の実験を握り、夫は外に出て働いて生活費を稼ぎ、妻は家事や育児をすることで運営して行かなければならないものだ。表面的に見れば「男尊女卑」であり、実質的には「女尊男卑」の形態を取り、こらが巧く絡み合うからこそ、家族は家族として機能して行くのだ。そして子供たちには生まれた順で秩序をつけ、如何なることがあっても「長幼の序」を守らせる。「夫婦の別」「長幼の序」を守っていれば、家族はどんなことがあっても、家族として機能し続け、子供たちに愛が注がれるが、この秩序を崩せば、誰がどうやったとしても、子供たちの心は愛で満たされなくなってしまうものなのである。
勿論、夫婦には色々な夫婦がいるから、多少の変形を加えても構わない。例えば、妻が外に働きに出るとか、夫が病気で外に働きに出ることができないとか、夫は亭主関白で妻はその夫の従うことに喜びを見出す夫婦とか、逆に妻の嬶天下で夫は妻の尻に敷かれることに喜びを見出している夫婦とか、その夫婦の合うような愛の形を築いたとしてもなんら問題はないのだ。
但し、そうはいっても、どのような夫婦の形態を取ろうとも、「夫婦の別」「長幼の序」を崩してしまえば、家族は家族として機能しなくなり、家族の中で愛が循環しなくなり、子供のたちの心の中に心の闇が出来上がり、この世をありままの姿で見ることができなくなるのだ。自分が産み育てた子供が大きくなって、平等を唱え出したら、我が子の心には親の愛で満たすことができなかったんだなと思った方がいいのだ。
●成長の歪みを取り、心の傷を癒すために
誰もが完璧な家族の中で育つ訳ではない。家族として巧く機能した家族でも、両親だけが子供たちを愛したのではなく、祖父母や叔父叔母など、様々な親戚たちに愛されることによって、子供たちに愛を与えて、子供たちを健全に育てて行ったのである。もしも、家族として正常に機能しておらず、それなのに親戚との交流が乏しいのであるなら、その子供はどのように成長したとしても、心の中は愛が不足し切った状態になるのだ。
子供といえども大きくなってしまえば、「成長の歪み」「心の傷」を抱えたまま、社会に出て行くしかないのだ。自分が自立しきれないまま社会に放り出されて、社会の中で成長の歪みや心の傷を癒して行くしかないのである。後は、自分が誰かのせいにするのではなく、自分で自己責任を取って、適切な処置を加えていかなければならないのだ。
人間は生きて行くためには働かざるを得ないから、まずは職場に適応して、その人間関係の中で、自分の成長の歪みや心の傷を癒して行くことになる。上司を父親の如くに思って服従して業務を行い、同僚同士で酒を飲み交わしたりして、自分は決して一人で生きているのではなく、人の中で育まれながら生きていることを知ることになるであろう。
男性の中で母性愛が不足しているようであるなら、年上の女性と付き合ってみたり、女性の中で父性愛が不足しているようであるなら、妻子ある男性と付き合ってみたりすることになる。傍から見れば、「どうしてあんな若い男性が年増の女性と付き合うのか?」「どうしてあんな若い女性が不倫の恋に走ってしまうのか?」と思うかもしれないが、当の本人たちは自分がそう遣りたいからこそ、普通ではない恋愛をしているのであって、そういうことを繰り返しながら、自分の成長の歪みを取り、心の傷をいやして行くのだ。
世の中には通常の暮らしをしていては、愛の不足を克服しえない人々がいるものだ。そういう人々は社会的に見て差別されざるを得ない世界に入り込み、そこで自分が本当に欲しい愛を求めて行くしかないのだ。女性だったら売春婦になったり、男性だったら暴力団員になることで、成長の歪みを取っていくしかないのだ。勿論、売春は倫理的に非難されるべきものだし、暴力団に於いては非合法の集団である。しかし、それは社会にとって必要悪のものであって、過去、社会正義を振り翳す団体が売春を禁止し、暴力団を追放しようとして来たが、結局、果たすことができなかったほど、社会にとってはどうしても必要なものなのである。
売春婦なら年上の男性のパトロンがいなければ、まともな仕事ができないし、暴力団に至っては疑似家族を形成して、強固な団結を図っているものだ。売春婦にしても、暴力団員にしても、そうやって成長の歪みを取り、心の傷を癒して行っているのだ。それゆえ、自分が欲する最低限の愛が得られれば、その世界から身を引いて行くことになるのである。自由社会は自由であるがゆえに、売春婦や暴力団員もいる社会なのである。平等イデオロギーに取りつかれる人々が真っ先に憎み、追放しようとするのが、売春婦であり、暴力団員なのである。売春婦や暴力団員がいることは誉めたものではないが、しかし、売春婦や暴力団員たちがいなくなれば、この社会の自由は消滅してしまうものなのである。
●開かれた階級社会
人間は生まれながらにして向上心を持っているから、その向上心を巧く利用して、社会に出ても、向上して行けるように仕向けて行くべきなのである。そのためには、「身分階級」と「経済階級」というものがどうしても必要と成って来るのである。人々は自助努力を行い、階級を上って行くことで、成長して行けるようにしてあげなくてはならないのだ。
大抵の若者は貧乏であるから、一生懸命に働き、収入を多くして行くことで、経済階級を伸し上がって行くことができれば、勤労意欲は最大化し、最高の生産力を誇るようになるであろう。下層階級から中産階級に伸し上がり、中産階級から上流階級に伸し上がることで、その能力を大いに発揮して行くべきなのだ。
確かに自由社会にしてしまえば、貧富の格差は当然に生じて来るものである。しかし、その貧富の格差を批判し、国家権力で以て矯正すべきではないのだ。自由社会であるなら貧富の格差が出て来るのは当たり前のことなのだから、その貧富の格差に対する批判を禁止し、己の仕事に全力を投入することを促して行くべきなのである。貧乏というのは、自分の力で克服すべきものであって、国家権力によって克服されるものではないのだ。
ただ、要注意なのは、身分階級なき経済階級では、資産を持っている者たちに高貴な義務が継承されないという点なのである。お金持ちであるがゆえに贅沢に暮らすのではなく、寧ろ、質素に暮らし、質実剛健を維持し、社会的弱者に救いの手を差し伸べ、能力ある者たちにチャンスを与え、国家危急の時には全力を尽くして戦う気概を持たねば、巨万の富の中で人間性を腐敗させて行ってしまうことになるのだ。
そのために、身分階級というものが必要なのである。天皇や貴族というものがあるからこそ、庶民はその俗悪な態度を捨て、高貴な義務を果たすことを受け入れて行くのである。天皇制も貴族制も成り上がり者たちを浄化しすることに関しては、最大級の役割を果たし、ビジネスの世界で活躍する者たちに貴族主義的精神を付与させることになるのである。
階級制度というのは、閉じられたものであってはならない。階級制度というのは開かれた階級社会を維持して行かなければ、階級制度としての機能が充分に使えなくなってしまうからだ。自分の階級よりも下の連中の中で、優秀な者たちを抜擢して、その能力を如何なく発揮させてやらなければ、遅かれ早かれ階級制度そのものが国民にとって害悪になり、階級制度を消滅することでしか、その解決策を導き出せなくなってしまうものなのである。
階級制度があればこそ、その自由社会の「歴史・伝統・習慣の継承」がなされ、「世襲主義と実力主義の融合」が図られ、自由社会に住む人々に最大級の恩恵を与えて行くことが可能に成るのである。平等を唱える人ほど、歴史や伝統や習慣を否定することに躍起になるものだが、自分たち先祖の歴史や伝統や習慣を否定して、新たな歴史を作り出すことはできないし、たとえ無理矢理にやったとしても破滅して行くだけなのである。我々にできることは、先祖の歴史や伝統や習慣を継承しつつ、少しだけ前に進んで行くことでしか、社会を安全に運営して行くことはできないのである。
●正統な宗教なくして、自由社会は成立しない
自由社会を維持しようとした場合、多くの人々を自由社会に適応させることはできるが、それでも自由社会から食み出して来る者たちが出て来てしまうものである。だからこそ、自由社会は世俗外に宗教団体を備えて、その食み出し者たちを吸収させるのである。自由社会は絶対に宗教団体を必要とするのである。
宗教団体はその食み出し者たちに宗教を教えることで、まともな人間として生きていけるように訓練させなければならないのだ。宗教は「神の絶対性」と「人間の相対性」を教えるから、宗教を受け入れされることによって、自分を絶対化することから解放し、自分を相対化させるのである。そしてこの世の奉仕者として位置づけ、社会の人々に貢献させて行くように仕向けて行くのだ。
正統な宗教なくして、自由社会は成立しない。自由社会を憎む者たちは必ずと言っていいほど、自分を絶対化させ、法の支配を受け入れようとしなくなるからだ。邪悪な者たちの心の中には、「自己神欲」という邪悪な欲望が渦巻いているから、神の存在を否定し、自分が神になろうとし始めるのだ。この世にはいつの世でも無神論者や無宗教者というのが出て来るが、彼等は神を否定したり、宗教を否定したりしているだけでなく、自分を絶対化することで、この世に於いて神の如くに振る舞おうとしている成らず者にすぎないのだ。
社会主義は「宗教は阿片である」と罵ったし、フェミニストたちも宗教を否定することに躍起になっているものだ。社会主義者たちは既存の宗教を破壊する一方で、『マルクス・レーニン全集』を経典化し、スターリンや毛沢東といった独裁者への絶対的な崇拝を強いたのである。もしも、将来、フェミニスト革命が発生したら、フェミミズムのイデオローグが書いた書物が経典化されるだろうし、フェミニストの女性独裁者への崇拝を強いられることだろう。宗教をなくしてしまえば、人間は狂気と化すものなのである。
自由社会は宗教を必要とするが、宗教団体は競争をしなければ腐敗して行くものだ。だから、国教を定めることなく、宗教団体に宗教市場で競争させまくるからこそ、腐敗した教団は滅亡して行き、優秀な教団が生き残って行くことになるのだ。政府は宗教団体が政治に手を出して来ることを警戒すべきであって、もしも宗教団体が直接に政治に手を出して来たのなら、直ちに武力攻撃を加えて、殲滅しなければならないのだ。宗教団体だからと言って、「信教の自由」を乱用していい訳ではないのだ。
●一身独立して、一国独立す
人間はいきなり自由を使いこなすことはできないものだ。子供の頃は親に服従して、親の言うことをきちんと守り、その言いつけを果たすことで、行動して行くことができるように訓練して行かなければならないのである。そして青春時代が始まれば、親から離れ、友達と仲良くし、教育者からまともな教育を受けることで、やっと自立への道を歩み始めるのである。自立したとしても、要は半人前で、自由を使うことはできるが、かといって自由のなんたるかが解っていない状態なのだ。
人間が一人前になるのは、自立した人間が結婚することで、親から独立した時なのである。自分が結婚し、子供たちを産み育てて行けば、自由のなんたるかが解って来る筈である。自由と称して、自分勝手に生きていれば、途端に夫婦喧嘩が起こり、最悪の場合は家庭が崩壊してしまうからだ。
自由社会を守り続けて行くためには、「独立自尊の気概」を持った男女が増え続けてくれなければならないのだ。幾ら自由だからといって、結婚を拒否し、独身者が増え続けてしまえば、自由は乱用されまくり、遅かれ早かれ自由社会の自由は破壊されて行くだけなのである。自分が結婚して子供を産み育ててみれば、独身時代は幼稚だったなと気付くものだが、独身生活を送っている者にはそれが解らないのである。
自由社会は貧富の格差があるし、男女の格差も存在しているので、その格差に押し潰されて、自立できない人たちが出て来るものである。そういう自立していない者たちには決して自由を与えてはならない。丁度、子供たちに「子供の人権」を与えたら、子供たちが「人を殺す自由」を唱えて来たように、自由をきちんと行使できる能力を持たざる者には、如何なる自由をも与えてはならないのだ。
一身独立して、一国は独立するものなのである。大人に成っているのに、いつまでも自立できない人々が多くなってしまっては、自分たちの国家の独立すら怪しくなって来るものなのである。自分のことを棚に上げて、「社会が悪い」と言うのではなく、自分が大人になったにも拘わらず、未だ自立していないこと方が悪いと反省すべきなのである。
自分が自立し、独立して行けば、自由社会の有難味が解って来るものなのである。自由社会は自分が夢を持ち、それに見合うだけの努力をするなら、その夢は実現するという素晴らしい社会なのである。それゆえ、社会批判を繰り返して日々を無駄に過ごすのではなく、しっかりとした自分の夢を持つべきなのである。自分の夢を持ち、全身全霊でそれに取り組むべきなのである。己の心を奮起して、「やってやろうじゃないか!」という気概を持てば、大概の夢は叶って行くものなのである。自分の夢が叶えば、バラ色の人生が始まるものなのである。
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