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2010年1月

バンクーバー五輪女子フィギュアスケートの勝敗予想

●フィギュアスケート観戦はタマティーの趣味

 俺が秋頃から冬にかけて熱中する趣味と言えば、フィギュアスケート観戦! フィギュアスケートがテレビ中継してくれる時は、必ずビデオに撮って、たっぷりとと堪能しているのだ。俺がフィギュアスケートを好きになった切っ掛けは子供の頃から母親がフィギュアスケートの中継をよく見ていたからだ。子供にとってはそんな番組よりアニメの方が面白いものだから、母親がフィギュアスケートを見ている時は、居間で絵本を読んで暇を潰していたような気がする。

 そんな時、渡辺絵美という奇麗な選手が出て来たので、俺は釘づけになってしまった。というのは、俺が子供の頃は、女子のスポーツ選手は皆、ブスだったからだ。そこに美人の選手が白いスケートリンクに舞い降りて来たのだから、俺もフィギュアスケートに夢中になってしまった。俺は幼いながらも、「何か一つのことを精進して行けば、元は醜い顔でも美しくなって来るものだ」という哲学を持っていたので、渡辺絵美に魅了されてしまったのだ。

 その後、フィギュアスケート界には伊藤みどりが出て来たので、彼女が女子選手としては世界で初めてトリプルアクセルを決めて全国的な人気が出て来ても、逆に俺はフィギュアスケート熱が冷めてしまい、ピタリとフィギュアスケートを見なくなってしまった。伊藤むどりの名誉のために言っておくが、伊藤みどりは小学生の頃は可愛い女の子だったのだ。しかし、中学生辺りから身長が止まってチビになり、しかも顔はブスになり、引退後はデブになっただけだ。世の中にはなかなか「チビ」「ブス」「デブ」といった三重苦を持つ女性はいないものだから、彼女はそれなりに特異な人物なのだろう。伊藤みどりがなぜああいう顔つきになるかというと、彼女は常に人の意見を否定して来るからなのである。彼女の顔は反骨の相というべきものであって、自分の心を開かず、相手を否定していると、どうしてもああいう顔になってしまうものなのである。

 俺は伊藤みどりのお蔭ですっかりフィギュアスケート熱が冷めてしまい、学校生活の方も忙しくなってきたので、そちらの方に夢中になっていき、フィギュアスケートのことはすっかり忘れていた。せいぜいオリンピックの時にフィギュアスケートを見る程度になった。しかし、或る時ニュース番組を見ていたら、中学3年生の荒川静香が紹介されており、彼女を一目見て、「これは凄い人物になる!」と直感してしまったのだ。それ以降、フィギュアスケート熱は復活して、テレビを中継してくれる時は必ず見ていた。

 長野五輪では散々な結果になってしまい、その後も低迷が長らく続いたのだが、それでも俺は「お前なら絶対に金メダルが取れる!」と思って応援し続けたのだ。今のようにフィギュアスケートに人気が出て来てしまうと当時の人々の感情が解らなくなってしまうものだが、当時はフィギュアスケートの関係者やファンたちはオリンピックで金メダルを取ることが最大の悲願なのであって、その熱すぎる感情を持ってフィギュアスケートをやっていたり、観戦していたのだ。そしてトリノ五輪で荒川静香が金メダルを取ってくれたのだから、人気が爆発したのである。

 ところがである。そこに安藤美姫が荒川静香に抱きついて来たのである。「誰だこのパンダみたいなデブは?」と思っていたら、その女性は日本のフィギュアスケートの選手で、しかもなぜかオリンピックに出場する選手として選ばれ、オリンピックの試合では転倒しまくり、俺に言わしてみれば「フィギュアスケート史上、これ以上下手な演技を見たことがない」と言わしめたほどだ。

 でも、逆にその下手過ぎる演技が俺にとっては最大のインパクトになってしまい、しかも彼女の父親が交通事故で亡くなっており、そのことに触れられると涙を流してしまう安藤美姫を見て、俺の感情が動いてしまい、その後、応援するようになってしまった。荒川静香の時とは打って変わって、駄目な妹を持ったような気分で、応援し続けたのだ。

 そして待ちに待ったバンクーバー五輪である。長かったよ、この四年間は! それにフィギュアスケートのレベルが全体的に上がってしまったので、強豪選手がひしめき合う状態になり、激戦が予想されるのだ。そこでバンクーバー五輪ではどのような結果が出て来るか予想してみた。

●メダル獲得の可能性

 まず金メダルはキムヨナにほぼ確定といっていい。現在、女子フィギュアスケートでは彼女がナンバーワンであり、しかもプログラム構成が高得点を叩き出すように出来ており、オリンピックでも高得点を出して来る可能性が非常に高いのだ。更に五輪を予想して、カナダ人のコーチを迎えており、カナダを拠点に練習を行っているので、カナダ人の感情に配慮しているのだ。これは試合の時に観客を味方につけることに繋がるので、余計に点数が高くなってしまうのだ。

 もう一つ注意せねばならないのは、フィギュアスケートには審査員たちの好みの流れがあるということなのである。長野五輪では可愛らしい演技をしたタラ・リピンスキーが優勝し、ソルトレイク五輪では元気いっぱいのサラ・ヒューズが優勝し、トリノ五輪ではクールビューティーと称された荒川静香が優勝した。似たような者を連続して優勝させないということが、暗黙の了解としてあるみたいなので、キム・ヨナのように、妖艶と男らしさの融合した魅力を持つ選手にとっては、圧倒的に有利なのである。

 日本では浅田真央に金メダルの期待がかかるが、現在の浅田真央ではキム・ヨナが転倒でもしてくれない限り、自分の実力では金メダルを取ることができない。これは日本スケート連盟の戦略ミスで、タラアソワを浅田真央のコーチに迎えてしまったからだ。タラソワは往年の指導力の高さが低下しており、しかもタラソワはロシアのナショナルチームの監督もやっているので、指導が手薄になるのは確実なのである。更に現在の審査のように技術を正確に見て点数をつけてくるシステムでは、タラソワの指導にように自分が直接に演技指導をせず、言葉で指導してくるようでは、選手の能力を上げて行くことはできないのである。このことはタラソワの指導を受けたことのある荒川静香が既に指摘していたことなのであるが、この意見が日本スケート連盟ではなんら反映されなかったのだ。浅田真央が不調に成り始めるのは、タラソワの指導を受けてからなのである。

 但し、浅田真央にはどんなに窮地に立っても、試合では「火事場の馬鹿力」を出して来ることがあるので、それに期待して、銀メダルを取って貰いたい。キム・ヨナ以外の選手たちよりも抜きん出ていれば、キム・ヨナが転倒した際に、金メダルが棚ぼた方式で落ちて来るものなのである。

 恐るべきは、カナダ出身という地の利を活かすジョアニー・ロシェットだろう。女子のフィギュアスケートの選手では有り得ないほどの筋肉量を持っており、この手の選手では実際の試合では普通の選手なら転倒しそうな状態になっても、倒れないのだ。しかも、ジョアニー・ロシェットは選曲のセンスが抜群で、フリーの曲では後半が盛り上がるような曲を選んで来るので、これが審査員たちに印象を良くしてしまうのである。俺はジョアニー・ロシェットが銅メダルを取ると予想しており、浅田真央の調子如何では銀メダルの獲得も有り得ると思っている。絶対に用心すべき選手であり、確実にパーソナルベストの得点を取って来ることだろう。

 以上、この三者がメダル候補だ。これが現実的な予想というものだ。日本ではマスコミが騒ぎ過ぎているのであって、安藤美姫も鈴木明子も現在の時点ではメダル獲得はほぼゼロなのである。メダル候補の選手たちが転倒するなり、ミスをするなりして、やっとメダル獲得の可能性があるのであって、自力では獲得することは不可能なのだ。

 雪辱を誓う安藤美姫は、技の精度がイマイチなのである。技の一つ一つを丁寧に行うという、当たり前のことをしてこないのだ。しかも肩が故障しているので、技から技への移行が非常にぎこちないものになってしまうのだ。ただジャンプやスパイラルでは高得点を取って来るので、この分野できちんと点数を稼ぎ、それ以外の分野では技を丁寧に行って行けば、最低でも4位に入れるし、上位者たちの状況如何ではメダルも獲得できるのである。

 拒食症という病に罹りながらも、それを克服して勢いに乗る鈴木明子は、メダルを取れなくても、五輪では いい演技をしてくると思う。スポーツ選手というのは、勢いに乗った時は恐ろしいまでに実力を発揮して来るのである。プログラムの構成からして、メダルを獲得できることはないが、ただ会場の観客たちを総立ちにさせるくらいのいい演技をしてくると思う。鈴木明子に関しては、メダル云々ではなく、勝負抜きで演技を楽しんだ方がいい。

 日本が女子フィギュアスケートで獲得できるメダルは1つと見るのが、現実的な分析の結果だろう。最低でも日本の選手は3人とも8位入賞を果たすべきなのである。これができれば、日本の女子フィギュアスケートは世界で一番レベルの高いことを証明することになる。今回の五輪では余り金メダルに拘らず、日本の選手全員が8位以上になることを願いながら、フィギュアスケートを観戦した方がフィギュアスケートの面白さが解って来ることだろう。

●メダルを取るための最後のアドバイス

 ただ選手としてはどうしてもメダルが欲しいものなので、一体どうすればメダルが取れるのか、タマティーなりにアドバイスをしておく。恐らく日本の三選手はこのブログを見ることはないので、もしも三選手の家族や友人たちがこのブログを見ていたら、このアドバイスを伝えて欲しい。

1,ノーミスではなく、ミスを最小限に

 まず、フィギュアスケートでメダルを確実にするためには、ノーミスで滑るのではなく、ミスを最小限にして滑るということが必要と成って来る。如何なる選手であったとしても、ノーミスで滑り切ることはできないものなのである。多少のミスを犯すものなのだ。しかも、オリンピックという最高に緊張する試合では、ミスを多発して来る選手が大勢出て来るので、その中でミスを最小限に抑えれば、自然と順位が上昇して行くのである。

 ノーミスを目指す浅田真央はなぜ失敗するのかといえば、ノーミスで滑ろうとするからなのである。その過度の緊張感が体を硬直させてしまい、それがジャンプでの転倒に繋がるのである。オリンピックという大舞台で転倒したら、金メダルの獲得は有り得ないし、下手をするとメダル獲得の可能性もなくなってしまうのだ。

 フィギュアスケートの魅力はパーフェクトゲームにこそある。そのパーフェクトゲームは本当に完璧なプレイをするのではなく、試合の中でミスをしても、それをきちんとカバーし、恰もパーフェクトゲームであるかのように思わせるパーフェクトゲームなのである。一つ一つ技を丁寧に行いつつ、如何にそのミスをカバーして取り繕うかなのである。それができれば確実に表彰台に上がれるのだ。

2,100%の力を出し切るのではなく、80%の力でセーブする

 如何なる選手も練習では100%の力を出せても、試合では100%の力を出すことはでいない。常に100%以下にし、せいぜい80%のパワーで戦うべきなのである。試合でッ無理して100%の力を出そうとすれば転倒してしまうし、打ちどころが悪ければ負傷してしまうものなのだ。如何に自分の力をセーブして、80%のパワーで戦いきるかなのである。

 これに関しては安藤美姫は前科者なのである。トリノ五輪でも大失態はまさに100%の力を出してしまったからなのである。あのトリノ五輪では荒川静香は3回転ジャンプを急遽2回転に変更したりと、最後まで冷静さを保ち、80%の力で戦い続けたのである。だから、金メダルを取れたのである。安藤美姫は演技が終わると、いつも息切れを起こしているのだが、そういうことをやっているからこそ、乱調が出て来てしまい、メダルを取ったり、取れなかったりするのである。

 オリンピックという大舞台では、緊張して来るのは当たり前であって、その時に100%の力を出してしまうと、確実に失敗してしまう。あの大舞台で冷静沈着を維持し続けることができるか否かが勝敗の分かれ道なのである。観客がどんなに騒いでも、自分だけは不動心を以て取り組んでいれば、必ずそれに見合う結果は出て来るものなのである。

3,とにかくゲームを楽しむ!

 オリンピックに出場すると、日の丸を背負う責任とか、メダルを獲得しなければならないというプレッシャーはあっても、折角、オリンピックに出れたのだから、とにかくゲームを楽しむことである。フィギュアスケートの試合で最も楽しまねばならないのは、観客でも審査員でもなくて、選手本人なのである。選手本人が楽しんでいると、その楽しさが伝わって来て、高得点に繋がって来るものなのである。

 荒川静香がトリノ五輪で金メダルを取れたのも、試合を楽しんだからなのである。今まで色々なことはあったかもしれないが、それを全部どこかに置いてしまい、とにかく自分がゲームを楽しむべきなのである。安藤美姫は荒川静香の後継者なのだが、安藤美姫はどこまでそれは解っているかなのである。

 「金メダルが欲しい」という感情だけでは、逆に金メダルを取れなくなってしまうのである。これはトリノ五輪でイリーナ・スルツカヤがやってしまったことだ。彼女は4年間に亘ってオリンピックで金メダルが欲しいと思い続けたのに、金メダルを取れなかったのである。ゲームを楽しまず、金メダルが欲しいと思っていると、体が硬直してしまい、いい演技ができなくなるのだ。ゲームを楽しむことこそ、金メダルを取る秘訣なのである。

●次回があると思うな

 日本の女子フィギュアスケートは選手層が厚いために、今回、五輪に出場できた選手たちも次の五輪も出られる訳ではないのだ。安藤美姫は年齢的に押し出される運命にあり、鈴木明子には拒食症という持病がある。せいぜい浅田真央だけが次の五輪にも出場できるのであって、他の選手はこれがラストチャンスだと思った方がいいのだ。

 「これが最後だ」と思うからこそ、自分の持てる力を全て出し切れるのであって、次回も出れるのだからと思っていると、中途半端な演技しかできなくなり、五輪が終わってから、長く心残りになってしまうのである。自分を追い込んでしまえば、自分が思いもつかぬパワーが出て来るものなのである。それがメダル獲得に繋がるものなのである。

 バンクーバー五輪でどのような結果が出ようとも、「勝てば人生の勝者、負ければそれまでよ」なのである。これだけフィギュアスケートに国民の関心が高まっている以上、五輪での結果が彼女たちのその後の人生を決めてしまうことになることであろう。悔いの残らぬよう、全力を尽くしてやることだ。そうしていれば、たとえメダルを取れなくても、きちんと評価してくれる人々が出て来るものなのである。

 実を言うと、タマティーはこの4年間、安藤美姫が金メダルを取れるよう、神社に参拝しに行く度に祈りを捧げて来た。現時点では絶望的な状況でも、感情的には金メダルを取って欲しいし、金メダルが無理なら、銀メダルでも銅メダルでもいいから、とにかくメダルを取って欲しいものだ。

 このブログを見ている人たちも、バンクーバー五輪の開催中はフィギュアスケートを見て、日本の選手たちを応援して欲しい。恐らく五輪史上、激戦が予想されるので、ワクワクドキドキの連続に成ると思う。日本の選手がメダルを取れば、更にヒートアップするので、テレビの前で熱狂してしまうかもしれない。この歴史的瞬間を絶対に見逃すな!

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無欲にして大欲 ~良妻賢母の母親が良妻賢母を超越してしまう瞬間~

●人間は感謝し尽くすと、欲望の消滅が起こる

 人間は「欲望の動物」である。生存して行くためには、「食欲」「睡眠欲」「性欲」を満たして行かねばならないし、自分の好きな人と交わっていたいし、自分の欲しい物を手に入れたいし、お金は幾らあってもいいと思っているものだ。そもそも結婚自体が人間の健全な欲望の発露であり、自分の欲望を満たし、配偶者の欲望を満たすことで、結婚を運営して行くことができるようになるのである。

 人間は決して利他的に生きているのではない。利己的に生きているものだ。どんなに慈善活動に熱心な者でも、自分の最低限の欲望を満たすことができなければ、大いに不満を抱いて来るものである。人間にはまず利己心があって、自分の欲望を満たしつつ、そうやって成長して行くと利他心が育って来るのであって、利己心と利他心を巧く使いながら生きているのである。大人になっても利己心だけ生きていては批判されまくりになってしまうものだが、かといって利己心が消えて利他心を目指せば、それは現実離れした妄想になってしまうものなのだ。

 しかし、既婚女性が妊娠し出産し育児をして行き、3人以上の子供たちをきちんと育て上げてしまし、その既婚女性が良妻賢母の鏡のような生き方をいていて、自分の関係者たちに感謝をし尽くして行くと、或る日突然に自分の利己心や利他心が消えてしまい、「無欲」になってしまうのである。自分の人間関係を超越して、この世に幸福をもたらそうとし始めるのである。

 人間の欲望には或る恐ろしいメカニズムを内蔵させている。それは自分の欲望を満たし切ってしまうと、「欲望の消滅」が起こってしまうのである。例えば、人間なら誰でも激しい金銭欲を持っている。しかし、自分にビジネスで大成功を収めて、莫大なお金が入って来ると、入って来た当初を嬉しいのだが、お金の量が自分の金銭欲を満たし切ってしまった時、金銭欲という欲望の消滅が起こり、もうお金が欲しくなくなってしまうという異常事態が起こってしまうのだ。

 それと同じように、既婚女性には「結婚欲」という欲望があって、結婚欲は結婚して子供たちを多く産み育て、幸せな結婚生活を築きたいという欲望なのであって、その結婚欲を満たし切ってしまうと、結婚を超越して、自分や夫や子供たちだけが幸せになるのではなく、この世に幸福をもたらしたいという大いなる欲望へ昇華してしまうのだ。

●母親として優れ切ったからこそ起こる母親の偉大なる変化

 結婚に失敗して結婚を超越するのではなく、結婚に成功したからこそ結婚を超越し出すのである。だから、悪妻愚母には決して起こらない。良妻賢母にこそ起こるものであって、妻として母親として優れ切った人物であるからこそ、母親の偉大なる変化が起こって来てしまうのだ。

 この現象が起こってしまうと、最早、結婚の中だけに留まっていられなくなり、私財を投げ打って「慈善活動」を開始したり、「宗教活動」に熱心になったりするようになるのだ。夫や子供たちから見れば、「うちのお母さん、どうなっちゃんたんだろう?」と思ってしまうものだが、本人は至って真面目で、洗脳されたりしている訳ではないのだ。明らかに自分の欲望が消滅してしまい、この世により多くの幸福をもたらしたいという心情になってしまうのである。

 慈善活動も単なる慈善活動ではない。普通の人々がやっているような僅かな慈善活動ではないし、芸能人がやっているような限りなく売名行為に近いような慈善活動でもないのだ。私財の全てを投げ打ってしまったり、無償で激務を行ったり、傍から見れば異常としか思えない激しい慈善活動を遣り始めるのである。

 宗教活動にしても単なる宗教活動ではなく、それこそ聖職者になってしまったり、聖職者となんら変わらない量の宗教活動をこなし、多くの人々を救い、幸福をもたらそうとするのだ。聖職者というのは信者たちの霊魂の世話をする人々なので、その既婚女性の精神レベルが高ければ、充分に宗教の世界でも活躍できてしまうのだ。

 人には精神レベルの高低がそれぞれ違うから、精神レベルが世俗を超えてしまうほど高ければ宗教の世界にのめり込むし、精神レベルが世俗内に留まるようなレベルであるなら、慈善活動に熱心になってしまう。ただ、どちらであったとしても、普通の人々よりも遥かに高い精神レベルに達していることだけは確かなのである。

●人間には無欲になりたいという欲望が備わっている

 人間は欲望の塊ような生き物のくせに、人間には無欲になりたいという欲望が備わっている。無欲というのは、人間の最も究極的な欲望なのである。利己心に基づいて自分のために何をする、利他心に基づいて他人のために何かをするということを超越してしまい、自分という枠組みを超えてしまって、無欲になりたいのである。通常生きていれば、こんな無欲という現象は起こって来ない。だから、多くの人々がこの無欲という欲望に気付かないのだ。

 なぜ人間が欲望と完全に矛盾する無欲という欲望を持っているのかと言えば、それは人類の歴史に大いに関係している。今でこそ先進国は食料が不足していないが、人類は常に食料不足に悩まされて来たのである。飢饉が起こるのは当たり前で、その際、最早、家族の食料がなくなった時、母親は自分が何も食べず、子供たちに何かを食べさせることで、どうにか自分の子孫を生き延びさせようとした筈だ。自分が無欲にならなければ、子孫を残せないという究極の選択を強いられたのだ。

 また、食料不足は必ず戦争を産む。食料がないからこそ、人間を多く殺して、食料の消費量を抑え、人間の生存を可能にさせるという選択を、人類は平然と遣り続けたのだ。だから、戦争を嗾ける側も、戦争を嗾けられる側も双方が必死で、多くの人々が無欲になって戦ってくれない限り、戦争に勝つことはできないのだ。

 それなのに現在のように平和で繁栄して切ってしまうと、飢饉や戦争など起こることはない。飢饉がおこった話など遠い昔の話だと勘違いしてしまい、日本ですら天保の大飢饉が飢饉として最後になってしまったために、平気で食べ物を食べ残したり、食べ残った料理をなんの罪悪感もなく捨てているのだ。戦争も半世紀以上起こっていないから、国民が総動員されて、国民全てが無欲になり、戦争を遂行し、勝たねばならないという非常事態など起こらず、平気で国防費を削り、自衛官を忌み嫌い、平和の土台を破壊しまくっているのだ。

 要は我々が通常に生きていれば、自分が無欲なれるという機会など与えられないのである。だから、人間の無欲になりたいという欲望は抑えつけられたままになってしまい、それよりも自分の世俗的な欲望を満たすだけの日々を過ごしてしまうようになるのだ。しかし、幾ら世俗的な欲望を満たしても、自分は満足し切れないのであって、無欲に成りたいという欲望が、自分が結婚に於いて大成功してしまうと、突如として剥き出しになって来るのである。

●無欲というのは大欲なのである

 無欲の状態になるためには、消極的に無欲を実現するか、積極的に無欲を実現するか、2つに1つの方法がある。消極的な方法は、仏教の教祖の釈迦がやったように、世俗から離れ、断食し、瞑想することによって自分の欲望を消滅させて行く方法だ。これを繰り返して行くと、「煩悩からの解脱」が起こり、無欲の状態になってしまう。仏教の戒律というのは、釈迦が他の人々にも解脱できるように定めたものであって、仏教徒が勝手に戒律を破ってしまっては幾ら仏教を信仰しても解脱できなくなってしまうのだ。浄土真宗の開祖の親鸞のように、戒律を否定することは、明らかに仏教に対する背教行為であって、仏教徒として絶対に許されてはならないことなのである。通常、僧侶を馬鹿にする時は、肉食妻帯の戒律を破っていることを非難するものだが、肉食によって食欲を満たしたり、妻帯によって性欲を満たしてしまうと、煩悩からの解脱が起こらないと、庶民は直感で釈迦の教えが解っていたからこそ、そういう批判をして来たのである。

 積極的な方法は、自分の欲望を否定するのではなく、逆に欲望を満たしてしまう方法だ。既婚女性なら幸せな結婚生活を築きたいのだから、夫婦仲を良好にさせ、夫の仕事に対して内助の功を発揮し、子供を多く産み育て、立派な後継者を育てて行かねばならないのである。既婚女性にとって、大きな家に住み、豊かな生活を送り、家族が幸せになっていることが幸せなのであって、その満足感が満たされまくってしまうと、欲望の消滅が起こり始めるのである

 飢饉とか戦争とかが起これば、外部から強制的に無欲にならされるが、飢饉や戦争がなければ、通常の遣り方では無欲に成ることができない。だから、母親が無欲に成ってしまった時、夫も子供たちも驚いてしまうのである。夫も子供たちも無欲に成っていないからだ。子供はまだまだ欲望が強いので無欲に成ることはないし、夫も仕事で大成功し、金銭欲が消滅してくれなければ、無欲に成ることなどないのだ。

 無欲というのは決して否定的な欲望ではないのだ。無欲は大欲なのである。自分の些細な欲望に惑わされることなく、この世に幸福をもたらしたいという大いなる欲望なのである。釈迦にしても断食や瞑想によって無欲に成ったからこそ、自分の生活を一切顧みることなく、仏教を布教し、多くの人々に仏法を説き続けたのである。釈迦は労働などしていないので、信者からの布施で生活し続けたのだが、釈迦が私腹を肥やしたなどという話は一切残されていない。釈迦が無欲だからこそお金や食べ物に惑わされなかったのである。釈迦には自分の欲望を満たすより、仏法を広めるという大いなる欲望を持っていたのである。今でも宗教家に断食や瞑想を要求するのはこのためで、もしも宗教家が断食や瞑想をしないのであるならば、どうしても私利私欲が抜け切らないので、信者からの布施に手を出してしまい、私腹を肥やしてしまうのだ。

 我々人間は欲望まみれになって生きている癖に、この無欲には物凄く弱いのである。無欲というのが、自分たちの欲望とは真正面から矛盾することは解っている。しかし、その無欲というのは、実はこの世に幸福をもたらそうとする大いなる欲望なので、否定し切れるものではないのだ。だからこそ、仏教は野火の如く広まっていったし、日本に仏教が伝来してから仏教の僧侶たちが戒律を破って腐敗しているのは承知しているし、廃仏毀釈だって起こって仏教を排斥したのに、未だにしぶとく仏教が残り続けているのである。

●生命の神秘の謎を知りたくて

 無欲になりたい母親たちは、仏教の僧侶たちのように自分の欲望を制御することができず、煩悩まみれになってしまうために、無欲に成りたいという欲望が生じて来るのではない。寧ろ逆で自分の欲望はきちんと制御できるし、煩悩まみれになることなどない。自分よりも夫や子供たちを大切にし、尽くしてきたぐらいなのである。

 では、どうして無欲に成りたいのかといえば、母親たちは出産の現場で赤ちゃんを産んでいく過程に於いて「生命の神秘」を体験してしまうからなのである。出産というのは、ただ赤ちゃんを産むだけではないのだ。そういう生物学的なことだけではないのだ。物理的現象の奥に、生命の神秘を垣間見てしまうのである。しかし、誰も生命の神秘がなんなのかを教えてくれない。普通の母親たちなら、その疑問を胸の奥にしまい、家事や育児に追われる日々になることであろう。だが、母親として優秀で、家事や育児をきちんとこなしてしまうような母親であるなら、その生命の神秘のことが常に心に引っ掛かった状態になってしまうのだ。

 しかも、自分が望むべき幸せな結婚生活を実現してしまって、夫も子供たちも幸せになってくれれば、積極的に自分の欲望を満たしてしまったがために、自分の欲望の消滅が起こってしまい、無欲になろうとしてしまうのだ。仏教の僧侶とは逆のパターンで無欲を求め始めるようになるのである。

 妻として母親として優れた女性であるなら、絶対に宗教というものを否定しない。宗教というものを必ず大事にしてくる。それは宗教にこそ生命の神秘の謎を解明することができると直感で解っているからなのだ。その直感は正しく、確かに宗教に生命の神秘の謎を解明する能力を持っている。だが、仏教やキリスト教の人工宗教だと、教祖が男性であり、釈迦は妻子を捨てて出家したぐらいだし、イエスは売春婦を連れて宗教活動を行ったし、更にはその後の教団を継承して行った者たちは殆どが男性であるので、生命の神秘の謎を解いてはくれないのだ。

 では、生命の神秘の謎とは一体なんのか? それは「生命の自己超越」という現象である。生命とは決して自分の生命の中に留まろうとするものなのではないのだ。自分の生命を超越して、新たな生命を生み出して行く。しかもその生命の超越が行われる瞬間、神の見えざる力に触れてしまい、生命の普遍的な次元レベルにまで超越して行ってしまったのである。

 だから、多くの産婦たちは出産直後に「生命の神秘が~!」と騒ぎ立て始めるのだが、その後には育児に追われる日々が待っているので、大方の母親たちは生命の神秘の謎など忘れて行くものだ。しかし、母親として出来が良く、良妻賢母の鏡のような女性であるなら、家事や育児をきちんとこなして来てしまうので、生命の神秘の謎と真正面から向き合ってしまう時間が出て来てしまうのである。

 生命の神秘の謎は宗教なくして解明して行くjことは絶対にできない。しかし、現在の宗教の態勢は仏教やキリスト教のように信仰を中心として宗教が組み立てられているので、生命の神秘の謎を解明することができないのだ。生命の神秘の謎は、何かを信じて解明できるものではないからだ。だから余計にその不満は高まってしまうのだ。

●既婚女性が無欲になると強運だらけの人生になってしまう

 夫の方も宗教心が篤く、生命の神秘が一体なんなのか解っていれば、妻としてもそれほど不満を抱くことはないであろう。だが、大方の夫婦は、夫にはそれほど篤い宗教心はなく、妻の方は出産で生命の神秘に触れてしまっというのに、夫は子供のように振る舞って来るものなのである。だから、日頃は夫婦仲が良くでも、その点の話だけは話が噛み合わないのだ。それゆえ、家庭を切り盛りし幸せな家庭を築きつつも、そのストレスが溜まりに溜まって、或る日突然に大爆発を起こしてしまい、無欲に成ってしまうのである。

 更に無欲に成る母親にとってみれば、自分が幸せになることも、夫が幸せになることも、子供たちが幸せになることも既に実現してしまっているので、家族という枠組みを超えて、この世に幸福を与え続けて行きたいと思ってしまうようになり、自分を投げ打ってそれを実践し始めるのである。

 私財を投げ打って財団法人を設立して慈善活動を開始したり、宗教団体に入って聖職者になったり、熱心に活動して信者として最高レベルの働きをしてしまったりと、今までの一介の主婦としては考えられないような行動を取り始めるのである。それは傍から見れば異常だとしか思えない。しかし、本人にとっては至って正常な行動なのである。

 しかも、こうやって無欲になってしまい、慈善活動や宗教活動を始めると、今までは有り得ないほどの強運になってしまうのだ。自分のためではなく、家族のためにやっている訳でもなく、この世に幸福をもたらしたいという一心でやっているために、無欲は強運を生み出しまくるのである。そのため次から次へと幸運が訪れるようになり、慈善活動にしても宗教活動にしても大成功しまくってしまうのである。

 自分の幸せを願わず、この世の幸福を願っているから、神が常に祝福してくれる状態に成るのである。こういう既婚女性は神様が「あなただけにこの使命を与えます」と神様から頂いた使命があるので、その使命を達成させるまでは、失敗して凹たれる訳には行かないし、死ぬ訳にもいかないのだ。何がなんでもその使命を達成させようとして来るので、禁欲的になって自分の仕事に従事してしまい、猛スピードでその使命を実現して来るのである。

●自分の無欲は正しく使うべきである

 我々人間には無欲になりたいという欲望が眠っているものなのである。だが、通常は自分の欲望を満たすべく生きているので、自分に無欲に成りたいという欲望が眠っていることなど気付く訳がないのだ。そのためいざ無欲という欲望が現れて来た時、その無欲を自己統御できなくなってしまう危険性が出て来るのである。絶対に自分の無欲を悪用されてはならないのだ。使い方を誤れば、自分だけでなく、家族全員が不幸になってしまうからだ。

 既婚女性が覚えておくべきことは、子供が1人や2人しかいないと、自分の無欲が悪用される可能性があるということである。子供の数が少なければ、母親としてまだまだ未熟なので、自分が悩みを抱える余りに、無欲になりたいという欲求が強まってしまうからだ。だが、それは母親として逃げているだけのことであって、こういう母親ではこの世に幸福をもたらすことができないのだ。まずは自分の家族に幸せをもたらすべきなのである。

 慈善活動をする時は、全財産を寄付してしまうなということである。妻が専業主婦に成っている場合、法律上は家族の財産の半分は妻のものになるのだが、実際には夫が稼いで来たものであるので、夫の許可なく自分の財産を寄付すべきではないのだ。法律的には正しくても、家族の財産が分割されてしまっては、家族としてやっていけないからだ。もしも慈善活動で或る一定の資産が必要であるなら、自分でビジネスを立ち上げ、それで儲けた上で、その資産を慈善活動に寄付すればいいのだ。

 宗教活動をする場合は、絶対に宗教を間違えるなということである。仏教も確かに無欲になることを目指しているが、仏教の場合は消極的な方法で無欲になろうとするので、既婚女性たちのように積極的な方法で無欲になった訳ではないので、幾ら仏教を信仰した所で話が全く合わないのだ。

 その教団が正常な宗教活動をしているかを見分けるには3つのポイントがある。まず1つ目は「会計報告をきちんとしていること」である。宗教家はお金に無頓着な所があるので、経理をだらしなくしていると、その内、宗教家たち自体がお金に汚くなり、汚職することが当たり前になってしまうからだ。教団というのは信者たちのお金で運営されている以上、信者たちに会計報告をするというのは当然の義務なのである。

 2つ目は「人事に於いて信者たちが介入できるシステムが構築されていること」である。教団というのは民主主義では絶対に機能しない。独裁以外には教団を機能させ、教団の勢力を拡大して行くことはできない。しかし、独裁が正常に機能している時はいいのだが、独裁が行きすぎてしまい、信者たちの意向を全く無視する事態になってしまうと、教団は暴走を開始して来るのだ。だから、信者たちが宗教指導者を選ぶことができたり、宗教指導者を監視するシステムが構築されていることが必要と成って来るのだ。

 3つ目は「教団が政治活動を行っていないこと」である。宗教団体は宗教活動をすることで精一杯であるものなのだが、宗教団体のくせに宗教を蔑ろにしている教団は、宗教そっちのけで政治に手を出して来るものである。もうこうなると教団内部でまともな宗教活動が行われることはなくなってしまうのだ。もしも教団が政治に手を出したいのであるならば、教団とは別個に政治団体を作るべきであり、そちらの方で政治活動を行わせればいいのだ。

 更に付け加えておくと、「無欲の俗悪化」は絶対に避けるべきだ。人間が持つ無欲を悪用しようという人々はこの世に生息していることを決して忘れてはならない。例えば共産党だ。私有財産制度を廃し、国民に無欲になることを強制するのだ。無欲になる人々はごく僅かであって、全ての人々は無欲になれる訳がないのだ。大体、他人に無欲を要求する者は、絶対に自分は無欲にならないものなのである。スターリンも毛沢東も金正日にしても、人民に貧困や飢饉をもたらしながら、自分たちは贅沢三昧の生活を送っていたのである。しかも、国民から簿い取ったお金を全て軍事費に投入して来るので、社会主義国というものはどの国も軍事大国になり、戦争を開始して来るものなのである。共産党が如何に平和を口にしようが、絶対に平和をもたらすことはないのだ。

●母親は多し、聖母は少なし

 この世には母親は多いものだが、聖母は少ないものだ。母親として成長して行き、最高レベルにまで達して来ないものだ。しかしそれはそれでいいのである。人間には無欲になりたいという欲望が眠っているが、最早、飢饉や戦争が起こっていないために、我々は無欲になりたいという欲望を押さえ込んで生きているのである。そうでなければまともに文明を運営してくことはできないからだ。

 しかし、母親として最高レベルにまで達してしまい、無欲に成ってしまう母親たちも出て来るということを決して忘れてはならない。無欲になればこの世に多大な幸福がもたらされるが、使い方を誤れば本人にとってもその関係者たちにとっても非常に危険なことになってしまうからだ。聖母として生きられるのは、神に選ばれた母親たちだけであるということだけは覚えていた方がいい。

 幾ら聖母が出て来た所で、大半の母親たちはグータラ妻であり、未熟な母親たちであるのだ。文明が繁栄してしまえばそれほど必死になって生きる必要性がないので、そうやって怠ける生き方を取ってしまうのである。聖母が素晴らしく、悪妻愚母が駄目な訳でないのだ。それもまた文明のありのままの姿なのである。

 自分が悪妻愚母になってしまえば、結婚生活で自分が期待していた幸福など得られる訳がない。だから、努力して良妻賢母になろうとするのである。家事や育児をきちんとこなして、夫や子供たちとの人間関係を巧く処理して行けば、自然と良妻賢母になれるものなのである。

 そういう良妻賢母が幸せな家庭を築いてそれで満足していればいいのだが、その良妻賢母の中から突然変異の如く聖母が出て来るのである。無欲というのは、母親を聖母に変えてしまうのである。自分が聖母になってしまったら、この世に幸福をもたらして行けばいいのである。それも一つの生き方なのである。

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タマティーを襲った生玉子食中毒事件顛末記

●ナマモノは控えていたのに

 俺はこのブログを書き続けるにあたって注意していることがある。それは病気をしないことだ。病気をしてしまえば、このブログが書けなくなるので、絶対に病気をしないようにしている。まずは「風邪は万病の元」と言われているので、風邪をひかないようにしている。風邪の一歩手前の症状が出てきたら、生姜湯を飲んで、とっとと寝てしまうようにしている。これをするだけで風邪をひかなくなる。

 日本で風邪の発症率が高いのは、中国南部がインフルエンザの震源地ということもあるが、それと日本では喫煙率が高いということも理由のその一つだ。そのため、タバコを吸う人を徹底的に避けている。俺は色々な健康法を試しているので、体が普通の人よりも健康になっているので、僅かなタバコの煙ですら、体が異常に反応してしまい、風邪になってしまうのだ。このことは子供と風邪の関係も同じで、子供の周囲にタバコを吸っている大人がいると、タバコを吸っている大人は風邪を余りひかないのに、子供の方が風邪をひきまくるようになってしまうのだ。子供の体は大人たちよりも健康なために、タバコの煙には異常に反応してしまうのだ。

 病気にならないように注意していると同時に、食中毒に罹らないようにも注意している。その筆頭として「刺身」を徹底して避けるようにしている。近年、海水温が上昇しているので、昔のようにナマで魚を食って安全という訳ではないからだ。このブログをやっていて、刺身を食べたのは1回しかない。その時は自宅に客人が来たために、どうしても刺身にせざるを得なかったのだ。しかし、その後、3日間ほど排便の調子が悪かったので、やはり「ナマで魚を食べるのは危険なんだな」とつくづく思ったくらいだ。

 俺は「レバ刺し」が大好物なのだが、これもブログを遣り始めてから食べなくなった。レバ刺しで当たる人は結構いるので、徹底して避けるようになった。レバ刺しの代わりにレバカツにして貰い、食中毒を防止するようにした。味は遥かに落ちるのだが、これもブログを書くためには已むをえないのだ。

 但し、見逃していたのがありました。生玉子ですよ。我が家では生玉子の消費量は多く、1日に1回は確実に食べているので、この点は不覚だった。玉子を食べると知能が高くなるので、ブログを書くためには必要不可欠なのだ。かといって玉子をご飯にかけて食べるという食習慣を気にも留めなかったので、ここから生玉子食中毒事件が発生してしまったのだ。

●生玉子食中毒事件はどうして起こったか?

 養鶏業者たちは生玉子で食中毒事件が起こらないように品質管理を徹底させているので、日本では賞味期限の期間に生玉子を食べても食中毒には罹らない。付け加えておきますと、これを当たり前と思って、海外でも生玉子を食べてしまうと、確実に食中毒になるので、海外に行った時には絶対に生玉子を食べるのはやめておこう。

 食中毒の原因は100%我が家の方にある。地元のスーパーで1パック99円という玉子の安売りがあったので、俺以外の家族全員が玉子を買い出しに行くことになったのだ。そのため、我が家の冷蔵庫にはなんと60個以上の玉子が保管されることになったのだ! 解ると思うが、玉子というのは新鮮な物から食べていっても、60個もあれば最後の方は古くなってしまう。そしてその古くなった玉子こそが賞味期限切れになってしまったのだ。

 なんで賞味期限切れなのかと解ったのかというと、それ以外の玉子のパックは新鮮なものだったので、逆算してみると、食中毒事件を引き起こした玉子だけが賞味期限切れだったと解ったのだ。玉子の場合、つくづく賞味期限の大切さが解りましたよ。玉子って賞味期限を切ってしまうと、食中毒を起こす訳ね。

 しかも、悲惨なことに生玉子に当たったのは俺だけ。玉子がこれほど大量にあれば毎朝、生玉子をご飯にかけて食べるというのを全員がやっていたのだが、なぜか生玉子で食中毒になったのは俺だけなんだ。食中毒というのは、同じ危険食品を食べても、当たる人と当たらない人が出て来ると言われるが、これは事実だよ、本当に。

 更に追い討ちをかけたのが、家族は誰一人として食中毒経験はないので、食中毒になっている俺に一切同情なし。もう朝食を食べ終わった後に、胃が痛くなり、胃の部分が少し腫れ上がっていたので、これは食中毒だなと解ったのだが、傍から見れば健康そのものなので、誰も気遣う者はいないのだ。俺はいつも通り仕事をしていたので、家族全員は食中毒に成っても大丈夫だろうと思っていたのだ。

 しかし、その日の夜に夕食をを食べたら、激痛が走ってしまい、最早、立っていることもままならくなってしまった。そこですぐさま横になって寝てしまい、睡眠中には寝汗かきまくりで、明け方近くまで寝込んでしまった。いつもは早起きしてブログを書いているのに、その日は俺が朝寝坊して、ブログをやっていないので、この時になって家族の者どもは俺の食中毒が深刻な状況になるというのが解ったみたいだ。

●食中毒の治し方

 今回の生玉子食中毒事件で最大の教訓となったのは、「食中毒の最中は絶対に飯を食うな」ということだった。食中毒で胃がやられている以上、胃に負担がかかるものは一切控えるというのが鉄則なのだ。俺の食中毒が悪化したのは夕飯を食べてからなので、夕飯を食べなければ食中毒は軽傷で済んだと思う。如何に穀物や肉類といった物が、胃に負担をかけているかつくづく解ったよ。

 食中毒になった場合、食中毒発生から24時間はお腹が空かないので、無理して食事を取らないことだ。胃が炎症を起こしている以上、胃は食中毒の退治に躍起になっているので、そこに食べ物が入って来たら、その消化に追われてしまい、食中毒を治すことができなくなってしまうのだ。

 食中毒になってから24時間経過するとさすがに空腹になってくるので、その時はフルーツだけを食べるようにすることだ。フルーツは胃を直通して十二指腸へと行ってくれるので、胃に全然負担にならないのだ。俺は食中毒発生の翌日は、朝食に「リンゴ人参ジュース」に「リンゴ」、昼食はリンゴにシナモンと砂糖と水を入れて煮込んで、それを食べた。これをやったために、胃の激痛は徐々に治まっていった。 

 飯がフルーツだけだと、当然に消化にエネルギーが取られないので、排泄にエネルギーを回すことができ、その日はウンコしまくりだった。なんと1日5回もウンコが出た。さすがに1日5回もウンコをすると、お腹がペッタンコになった。少しでも便意があったら、すぐさま便所に行き、便所で踏ん張ってしてしまうことだ。腸に老廃物や毒素が少なければ、それだけエネルギーを節約でき、食中毒を治す方に向けられるからだ。

 排便をしまくるとさすがに喉が渇いたので、その際、緑茶を飲んだ。はっきり言って緑茶を飲んだ後、胃の激痛が治まったというのが手に取るように解ったぐらい、緑茶というのは食中毒に効いたね。緑茶は本来「薬草茶」なのだが、今回の食中毒でつくづく緑茶は薬草茶なのだというのが解ったね。

 食中毒になった場合は、とにかく横になって寝た方がいい。胃に激痛が走っているので、立っていられないからだ。これは体が「寝ていろ」と言っているようなもので、食中毒の時は起きていないことだ。食中毒を治したければ、睡眠を9時間以上は取ることだ。そんなに睡眠できない人は、ベッドの上で横になっているだけでもいいのだ。重力を軽減してくれることこそ、体が求めているものなのだ。

●完治したのに玉子料理

 食中毒になった場合、高熱を出さないので、その点が通常の病気とは違う点だ。食中毒では胃が張った状態になるので、それが取れれば食中毒は治るものなのだ。食中毒も悪化すれば下痢や嘔吐を発生させるが、健康に気を使っていた俺はそこまではひどくならなかった。

 俺が判断を誤ったのは、食中毒だというのに、夕飯を食べてしまったことだ。これさえしなければ当日の内に完治していたと思うが、夕飯を食ってしまったばかりに、翌日は治療に費やさざるを得なくなってしまった。食中毒に最中には飯を食ってはならないということを知らなかったために、自らの手で食中毒を悪化させてしまったのだ。

 育児や子育てをしている場合、周囲に病気関連の情報は出回って来るけど、食中毒関連の情報は出回って来ないものだ。そもそも食中毒に罹る人が少ないからね。そのため我が子が食中毒に成った場合、対処法を誤ってしまうということが多々あるのだ。通常の食中毒なら軽傷で済むものなのに、母親の手で症状を悪化させてしまうのだ。だから、病菌に担ぎ込まれる事態になってしまうのだ。それゆえ、周囲に食中毒を経験した人がいるなら、ちゃんと話を良く訊いておいた方がいい。食中毒が起こる確率は非常に低いものであっても、起こった場合にその情報が有益なものとなるからだ。

 さて、俺が生玉子食中毒事件で散々苦しんだというのに、完治した日の朝食はなんと玉子料理! さすがに生玉子ではなく、火を通した料理ではあるけど。「だって、玉子がたくさんあるんだもん!」だって。俺は生玉子食中毒事件で多くのことを学んだのに、お前は大して学んでいないのだ! そのくせ、朝食として出された以上、その玉子料理を食べてしまう俺も俺だ。

 もう当分の間は生玉子はコリゴリ。それに玉子を大量に買い溜めするな。玉子は冷蔵庫にあるのがなくなったら、その時になってから買いに行けばいいのだ。玉子が大量にあると、玉子が大量にあるゆえに逆に玉子を余り使わなくなってしまうという奇妙な現象が起こり、そのために賞味期限切れの物が出て来てしまうのだ。食中毒事件が出て来ると、いつも業者の方の責任ばかりが追及されるのだが、消費者の方にも責任があるので、くれぐれも消費の仕方を間違えないことだ。それが食中毒を防止する最善の方法なのだ。

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育児や子育てによる人間の終わりなき成長

●人間は生きている限り成長しようとするもの

 赤ちゃんを産んでしまえば解ることだが、人間はこの世に生まれて来て以来、成長し続けるものである。赤ちゃんの中には成長を拒否する赤ちゃんがいたって構わない。しかし、成長を拒否する赤ちゃんなど一人もいない。人間は生きている限り成長しようとするものなのである。

 通常、人間の肉体的成長は19歳で終わる。人間は高校生辺りまでなら、自分の体が成長し続けているから、自分が成長することになんの疑問も抱くことはない。だが、19歳になって肉体的な成長が止まってしまうと、途端に成長しようとしなくなる人々が続出して来るのである。肉体的な成長が止まった以上、後は精神的な成長をし続けなければならないのだが、これをしようとしないのだ。だから、遊び呆けてしまい、その悪魔のツケが人生の至る所でトラブルを起こし始め、自分の思い通りに行かない人生に仕立て上げてしまうのである。

 今でこそ女性が高校を卒業して結婚してしまうことは誉められたものではなくなっているが、女性の体が19歳で完成する以上、その辺りで結婚するというのが、実は最善の選択肢なのである。この時期に結婚していれば、簡単に妊娠できるし、不妊症に悩まされることなんてないことだろう。体力も充分にあるので、育児で疲労困憊することなんてなくなることだろう。

 女性にとって結婚というのは、本来、自分の肉体的な成長が終わった後に行うものであって、結婚があるからこそ、自分が成長して行くことができるようにできているのである。だが、現在では大学が整備されてしまい、女性に高度な教育を施しているし、また大学で教育を受けた以上、そう簡単に早い時期に結婚されては困るので、大学を卒業して10年程度は社会に出て働いて貰わねば採算が合わなくなってしまうのだ。そのため、大学生の時にもきちんと精神的に成長し、社会に出て働いている最中でもきちんと精神的に成長していればいいのだが、大方の女性たちは精神的に成長することなどしないで、遊ぶことの方に夢中になってしまうものだ。

 だから、自分が結婚してみて、あれほど真剣に愛し合った仲だったのに、結婚にして暫く経つと、途端に問題を生じ始めさせるのである。結婚は精神的に独立していないとまともな形で運営して行くことが出来ないので、女性の方が精神的に独立していないと、夫を非難し始め、喧嘩に発展して行ってしまうのである。このような女性が赤ちゃんを産もうものなら、育児の至る所で問題を発声させるのは当たり前のことなのだ。大学教育というのは、本来、女性の体に無理を強いているのであって、確かに社会的には高学歴として優遇されても、それが必ずしも個人的な幸福をもたらすものではないという危険性を充分に承知しておくべきなのである。人間の成長に終わりはない以上、女性が独立することを遅らせた損出はどこか支払わねばならないものなのである。

●育児や子育てをしなければ解らないことはたくさんある

 人間は経験すべきことは経験しなければならない。女性の場合、妊娠や出産や育児や子育てなど、実際にやてみなければ、解らないことだらけなのである。多くの既婚女性たちは、自分が妊娠して出産してみて、初めて自分の親に心から感謝できるようになることであろう。確かに妊娠前にも感謝はしていたが、心から感謝するようになるためには、自分が妊娠して出産する以外にはないのだ。

 人間は高度な知能を持っているために、結婚の情報を様々仕入れてしまい、頭でっかちになってしまい、挙句の果てには結婚を拒否し出す者も出て来る。彼女たちは結婚を拒否する理由を幾らでも挙げて来るが、でもそれらの理由はどれ一つを取ってみても、自分で経験したことではないのだ。全部、自分の両親や、他の夫婦を外から見て、言っていることに過ぎないのだ。

 人間はなんでも自分が実際に経験してみないと解らないものなのである。例えば、妊婦は妊娠している以上、安静にすべきかと思ってしまうが、実際に妊娠してみると妊婦でもあっても動けてしまうので、スポーツに興じて思いっきり体を動かし、汗を流すことができるのである。出産は激痛が走るものだと思っていても、妊婦の中には無痛分娩を行って来る妊婦もいるのである。

 育児にしても、赤ちゃんの抱き方や、授乳の仕方や、オムツの交換の仕方など、解らないことはたくさんあっても、それらを一つ一つ学んでいくからこそ、母親として育児の仕方が上達して行くのである。育児は母親がその殆どを受け持たねばならぬ以上、男女平等の理念に反してしまうために、育児をまともにやったことのない人は、夫にも育児をやらせようとするものだ。しかし、夫が育児をやってしまえば、妻は育児の仕方をきちんと学べないし、大体、育児に精を出している夫など、仕事の出来は悪く、給料は安くなってしまうものだ。それなら妻が育児の殆どをやってしまい、夫はその間、外で働いて、たくさん稼いで来てくれた方が、夫婦双方にとって利益になるものなのである。

 子育てにしても、子供の体を鍛え、子供の頭を鍛え、先祖から受け継いで来たものをきちんと子供たちに継承さて行くからこそ、子育ての仕方が上達して行くのである。とにかく子供を外に連れ出して遊ばさせることだし、子供に経典でも読まして記憶の回路を作ってあげるべきだし、先祖祭祀や宗教活動などきちんとやらして、神や先祖の御加護を得られるようにすることだ。

 「子供は自由に育てればいい」などと無責任な子育て論を真に受けてしまうと、子供はまともな人間にならなし、反抗期を迎えた時に得体の知れない反抗をして来るものだ。子供は大人に比べて能力が格段に劣る以上、親が全責任を持って子育てして行くのは当然のことであって、親に従属させ、子供の将来のためにきちんとした道を切り開いてあげるべきなのである。そういう親のもとでこそ、立派な人間が育って来るのである。、

●成長をやめたら堕落が始まり、堕落が始まれば破滅が遣って来る

 赤ちゃんの成長は早いために、母親は赤ちゃんに押し上げられるように、自分も成長していかなければならない。母親が成長することを止め、現状維持に徹したら、育児や子育ての現場で有り得ないほどのトラブルが続出することだろう。子供たちにとって母親が成長してくれなければ、まともな育児も子育てもして来ないので、子供たちが母親の手によって悲惨な目に遭い続けてしまうからだ。

 現状維持は堕落の始まりなのである。成長をやめたら堕落が始まるものなのである。一時的な後退は許されても、全面的に後退すると、崩壊が始まり破滅してしまうものなのだ。堕落の誘惑に負けないためにも、日頃から体を動かして鍛えておくべきだし、精神レベルの高い本を読んで、自分の心を磨き、自分を精神的に成長させていくべきなのである。

 妻が夫の欠点を指摘するようになったら、自分の成長が止まっていると思った方がいい。自分の精神が成長し続けているから、夫の欠点など気に成らず、寧ろ、夫の長所を伸ばして行こうとするからだ。たとえ自分の気に食わない夫の欠点を矯正しても、夫は更なる欠点を露呈して来て、更に妻の怒りを引き起こしてしまうのだ。人間というものは、欠点を幾ら強制しても、絶対に良くならないものなのである。

 家族の中で一番先に成長して行くのは、妻の方である。夫ではないのだ。勿論、子供たちでもない。夫は家長として君臨しているけど、妻の方は妊娠や出産や育児や子育てを経験して行くために、どうしても夫よりも先に成長してしまい、自分が先に成長すると、夫もそれに釣られて成長して来ることになるのである。但し、夫も仕事で成長して行くことになるので、責任ある地位に就くことができると、急激に成長して行くので、その時は一気に妻を追い抜いていくものなのである。

 夫婦で揉め事が起こり始めるのは、妻が夫から期待されているサービスすらしなくなり始めた辺りからなのである。夫は外に出て、生活費を稼いで来ている以上、それに見合ったサービスを妻にして欲しいのである。それなのに「育児に忙しい」「子育てに忙しい」と言ってしまえば、夫婦双方噛み合わなくなって来るのは当然の現象なのである。

 だから、夫が期待している以上のサービスを施せば、夫婦仲は一気に良くなり、妻は必ず報われるようになるのである。夫が妻に要求するものなど些細なことなのだ。家庭の掃除が行き届いているとか、料理が美味いとか、ハンカチにアイロンをかけておいてくれたとか、夫に似合うネクタイやコロンを買っておいてくれたとか、夫が知らないような情報を教えてくれたとか、その程度のものなのである。

●成長するということは自分が前進し、自分の人生に変化を起こすことである

 人の結束は必ず「心の結束」を産む。心の結束は夢を実現させてくれるエネルギーを与えてくれるのである。結婚が偉大なのは、夫婦が結束することで、心の結束を産み、そこから夫婦の夢を実現させてくれるエネルギーを常時生み出してくれることなのである。だから、夫婦の心の結束を巧く活かして行くためには、夫婦共通の夢が必要なのである。夫婦共通の夢があれば、その夢は簡単に叶ってしまうのである。

 若い時から独身でも頭角を現わして行くことができるかもしれないが、或る年齢を過ぎたら、独身では決定的なパワー不足に陥ってしまうのである。なぜなら、独身であるなら、人の結束をしてこないし、増してや心の結束が起こらないからなのである。心の結束こそが、自分一人では決して出来なことを出来るようにさせてしまうことに、独身者は気付けないのである。

 結婚していたとしても、夫婦の心がバラバラであったら意味がないのだ。夫婦が心の結束を保てるように、日頃から些細なことでもいいから話して、情報の流通を確保しておくべきなのである。自分の話を聞いて欲しいなら、まずは相手の話を聞いてあげることである。夫は仕事で全力を使って来るので、なかなか面白い話はして来ないものだ。それでもまずは話を聞き、その後、自分が面白い話をしていけばいいのだ。そうすれば夫も妻と会話するのが楽しくなって、今後、妻に面白い話をし出すものなのだ。

 幸せというのは、静止した状態で存在するのではない。常に動いている状態で存在しているのである。だから、自分が成長し続けて行けば、幾らでも幸せを得続けることができるようになるのである。成長するということは、自分が前進し、自分の人生に変化を引き起こすことなのである。

 夫も妻も子供たちの成長して行く。だから、家族全員が幸せになってしまうものなのである。自分たちが前進すればするほど多くの幸せが遣って来て、自分の人生に変化を引き起こせば引き起こすほどたくさんの幸せが遣って来るのである。実は、育児や子育ては人間に終わりなき成長をもたらしてくれるものなのである。幾ら今現在が幸せだからといって、絶対に成長を止めてしまわないことだ。人間は生きている限り成長し続けるものなので、いつまでも成長して行くことだ。そうすれば幸せは尽きることなく遣って来るものなのである

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結婚して不幸になる人々の共通的特徴

●不幸の原因

 結婚して幸福になるのは当たり前のことである。そもそも独身ではこれ以上幸せになれないから、結婚することで更なる幸せを目指すものである。だからプロポーズの時も、結婚式の時も、男性は女性を幸せにすることを誓うし、女性もそれを充分に理解した上で承諾し、それによって結婚生活が始まるのである。

 ところが結婚した筈なのに、結婚を不幸にしてしまう人々が続出して来るのである。それも10年以上経過して不幸になるのではなく、早い時期に不幸に成り始めて来るのである。結婚して不幸になる人々は、結婚して3年目までには最早この結婚が不幸になることが確定しており、夫婦間暴力だの児童虐待だのダブル不倫だの、挙句の果てには離婚に至るのである。更に追い討ちをかけるのが、離婚しても奇麗さっぱりと別れず、離婚裁判で延々と憎しみ合い、判決が確定しても、双方が納得いく結末を得ることができなくなるのだ。

 結婚して不幸になる人々は、その不幸の展開は千差万別であるが、どのような夫婦であったとしても或る一つの共通的特徴がある。それは「結婚して不幸になる人々は、必ず誰かを憎んでいる」のである。誰かを憎むことで心の中に憎悪の炎が渦巻いているからこそ、いざ自分が人を愛したとしても、それがまともな愛にならず、徐々に憎しみへと変化して行き、よりによって結婚相手に憎悪をぶつけてしまうのである。

 では、結婚して不幸になる女性たちは一体誰を憎んでいるのか? それは「自分の母親」である。結婚して独立したというのに、自分の母親を恨んでいるこそ、愛が憎しみに変わってしまうという異常な現象が起きてしまうのである。しかし、この手の女性たちは自分が自分の母親を憎んでいるということに気づけず、その憎しみをよりによって自分の夫に向けてしまい、夫も自分が何か悪い事をした訳でもないのに妻から憎悪をぶつけられるために、心の奥底から怒ってしまい、それで暴力を振るったり、結婚が崩壊するような悪質な浮気をしたり、平然と離婚してしまうのである。

 母親というのは、母性愛を出す存在であるので、自分の母親からきちんと母性愛を貰えないということは、その母親は父親との間に深刻なトラブルを抱えており、そのためいつも夫婦喧嘩ばかりし、それゆえ、娘も父親との関係が悪化してしまい、様々なトラブルを生じさせてしまうのだ。

 自宅で母親や父親と揉めているような子供は、幼稚園に行っても保母たちと揉めるし、学校に行けば教師たちとも揉めてしまう。保母や教師たちと揉めているような人物であれば、友達関係も悪化して来るので、良友に恵まれず、悪友ばかりと付き合ってしまい、まともな友情を築けず、心の中でより憎悪を増して行ってしまうのだ。

●神は人を憎むことを許さない

 この世の中には神が定めた大きな原理原則がある。それは人を憎しみながら生きている人々が幸福に成ることを絶対に許さないということなのである。心の中に憎悪の念を持っている人々は、一時的に幸せになれても、必ずその幸福が長続きせず、幸福になった筈なのに、より不幸になってしまうのである。

 未だに心の中で誰かを憎んでいるような女性は、たとえ結婚しても、その本人が幾ら努力しても不幸になるように仕向けられてしまい、結婚生活の中で全ての幸福が破壊され、確実に不幸に成って行くようになっているのだ。自分の心の中に憎しみの念を持っている既婚女性は、いずれ愛すべき夫を憎むようになり、愛すべき子供たちを憎むようになるのだ。

 夫も子供たちも何か悪いことをして憎しみをぶつけられた訳ではなく、何もしていないのに憎しみをぶつけられてくるので、カンカンになって怒り出し、より激しい憎しみをぶつけて来るようになるのである。憎しみは更なる憎しみを呼ぶのだ。もうこうなれば家庭内は地獄の様相を呈して来るのであって、転げ落ちるよに不幸のドン底へと転落して行くのだ。

 神は人々を幸せにさせるために生きさせているのであって、自らの力で神の恩寵を拒絶し、心の中で憎悪の炎を燃やし、他人を不幸にさせようとする人々の生存を絶対に許さないのだ。そういう人々を活躍させてしまえば、この世が不幸に成って行くのは確実であって、それは神の聖慮に反することなのである。

 結婚も既婚女性が夫や子供たちを幸せにするからこそ、益々幸せに成って行くことができるのであって、既婚女性が夫や子供たちを不幸にさせようとするなら、益々不幸に成って行ってしまうように出来ているのだ。家庭の中で不幸が発生したのなら、その不幸は自分が引き起こしてしまったというくらいの自責の念を持たないと、結婚生活を巧く運営して行くことはできないのである。

●心の傷の原因を見つ出すこと

 結婚して不幸になってしまう女性たちは、自分の心の中に、最早、自分でも気づけないくらいの大きな心の傷を負っているということなのである。これは精神病を発症して来るような小さな心の傷とは違い、正常な状態でも異常な行動しか取れないような大きな傷なのだ。通常、精神病を発症させる心の傷は、脳に傷ができることで、その存在を把握することができる。しかし、精神病ではないが、正常な状態なのに、確実に不幸に成って行く大きな心の傷は、その人の潜在意識に異常が出ているのである。小さな心の傷なら、自分自身が精神的にヤバイなと気付くから、自分の力でも把握することができる。だが、大きな心の傷は、自分の潜在意識が異常になっているために、自分の力では把握できないのだ。誰かの手助けなしに自分の大きな心を見つけ出すことも、治すこともできないのだ。

 結婚して不幸になる女性たちがなぜ自分の大きな心の傷に気付けないかというと、自分の心の中にある「偽りの上位自我」が破壊されていないからなのである。女の子は成長して来る過程で、母親を自分の上位自我として形成してしまう。この上位自我こそが子供の頃の良心となって、正しい思考や正しい行動を取らせるのだが、思春期に入ると、この上位自我は偽りの上位自我となって、女の子たちに不自然な行動を取らせるようになってしまう。そこで、女の子たちは同性同士で友情を育み、その中から親友を見つけ出し、その親友と深い友情を築き上げると、然るべき男性と巡り会って、恋愛の過程の中で偽りの上位自我を破壊して行く。女性がまともな恋愛をすれば、偽りの上位自我が破壊されるので、人生が楽しくなり、自由に生きて行くことができるようになるのである。

 しかし、母親から充分な母性愛を貰っていないと、友達を作ろうにもまともな友達を作ることができず、親友すら作ることができない。親友のできなかった女性はまともな恋愛をすることができないし、あれも親友これも親友といっているような女性もまともな恋愛をすることができないのだ。自分の心の中にある偽りの上位自我を破壊してくれる男性と巡り会わなければ、いつまで経っても自分の不自然さは解消されず、自分が愛すべき人を愛そうとしても、相手に憎悪をぶつけてしまい、確実に不幸に成って行ってしまうのである。

 結婚して不幸になる女性たちに大きな心の傷を負わしたのはその母親たちであるのだが、ではなぜその母親たちはきちんと母性愛を出せなかったのだろか? 家族内の愛の循環を自らの手で破壊してしまったからなのである。家庭内での愛の流れは、父親から愛が発して、その愛が母親に流れ、そして子供たちに愛が流れて行くのだ。そのため、母親が父親を家長として認めず敬っていないと夫から愛は流れ来ないし、子供たちにも愛を注げなくなってしまうのだ。

 また、子供たちに愛を注ぐ時は、長幼の序を絶対に崩してはならず、一番最初に生まれた者から、次に生まれた者へと、年齢によって序列を作り、それを維持しておかないと、どの子供たちにも愛が注がれなくなってしまうのだ。平等イデオロギーに取りつかれてしまうと、長幼の序を破壊して子供たちを平等に愛そうとするので、結局、全ての子供たちが愛情不足に陥ってしまい、母親を憎むようになってしまうのである。

 その一方で母性愛というのは、絶対肯定の愛だから、母性愛を注がれた子供は、母親を敬いつつも、対等でいたいという感情を持ち始めるのだ。そのため、父親に話さないことでも、母親だけには話して来るので、その話をきちんと聞いてあげ、母親と子供が対等に成れる場所を確保しておかないと、途端に子供たちは心を閉ざしてしまい、それ以上の愛を受け付けなくなってしまうのだ。平等イデオロギーに取りつかれると、対等と平等の区別がつかなくなるから、子供たちが母親に話しかけているのに、会話を拒絶してしまい、子供たちの心に大きな傷を負わしてしまうことになってしまうのだ。

●自分が憎む人を憎み、そして許してあげる

 こういう場合、精神科医がどんな薬を使っても、その大きな心の傷を治すことはできない。その女性は大きな心の傷を負っていても、至って健康そのもので、ただ愛すべき人に憎しみをぶつけて、確実に不幸に成って行くという奇妙な生き方をしているだけだからだ。これは薬で治療すべき対象ではないのだ。

 古来より、この手の女性たちを治して来たのは宗教家だと相場が決まっていた。宗教家が巧妙な遣り方で以て、心の中から憎しみを取り除いてあげれば、その女性は人を憎むことなく、きちんと愛せるようになるからだ。一発では治すことは難しいが、最低でも3ヵ月間あれば、必ず変われるものなのである。

 宗教家の中でも愚かな宗教家なら、「憎しみを捨てなさい」とか「許してあげなさい」と言って来ることだろう。でも憎しみを捨てられないし、許せないからこそ、憎しみが続いているのである。憎しみの感情と言うのは、非常に大きなエネルギーを持っているので、憎む相手をそう簡単に許せないのである。しかも、この手の女性は自分が本当に憎むべき相手が実は自分の母親であるということすら気付いていないのである。

 だから、まずは自分は本当は自分の母親を憎んでいることを解らせてあげ、母親を徹底的に憎ませるのである。子供というのは、特に女の子というのは、母親が異常な行動をしている場合、母親にその責任があるとは思わず、自分が悪いからこそ、母親が異常な行動を取るのだと、異常な形で正当化してしまうからだ。そうではなく、母親が異常だったということをまずは認めさせ、母親を徹底的に憎むことで、その憎しみの役割を終えさせ、消滅させるのである。徹底的に憎しむことで、憎しみを消滅させるのである。

 その上で母親を許してあげることだ。母親といえども完璧な存在ではなく、恐らく母親自身も自分の母親からまともに愛されず、苦しんで来た訳であって、愛の蓄積がないからこそ、自分の子供たちに異常な行動を取ってしまったのである。でも、そういう母親でも自分を産んでくれた訳だし、問題はありつつもきちんと育ててくれたので、許してあげるべきなのである。感謝をしてあげるべきなのである。

●自分の不幸は自分が作り出している

 大きな心の傷の原因を取り除かない限り、同じような不幸が遣って来て、更に不幸が悪化して行くものなのである。自分の心が歪んでいるからこそ、自分の現実も歪んでしまい、大量の不幸が訪れて来るのである。不幸というのはそれ自体が悪いのではなく、自分の不幸は自分で作り出していると解るまで、不幸は自分を襲い続けるのである。

 女性というものは人を愛することを最大の喜びと感じてしまう動物である。それなのに自分の心の中に憎悪の炎が燃え上がっていれば、まともな愛を出せなくなり、生きる喜びが消えて行ってしまうものなのである。母親への憎しみを捨てきれないから、「間違った考え」をしてしまい、「間違った行動」をしてしまい、「間違った相手」を選んでしまうのだ。

 母親に憎しみを抱いている既婚女性の夫婦関係が巧く行かないのも、そもそも相手を間違えているからなのである。それは何も間違った相手を押しつけられたのではなく、自分が自分で間違った異性を選んでしまい、それなのに、この世で最高の男性だと思い、結婚してしまったのだ。恋愛の情熱が冷めた頃に、自分が冷静になると、この男が自分にとって最悪の男性だと解って来るものなのである。

 こういう場合、この手の既婚女性は全て悪いのは夫だと言い切ってしまうものだ。しかし、悪いのは妻の方であり、未だに自分の母親に対して憎しみを抱いているからこそ、間違った男性を選び、結婚してしまったのである。もしもその夫と離婚した所で、母親への憎しみは消えていないのだから、また自分にとって最悪な男を選んでしまい、最悪な結婚生活にしてしまうものなのである。

 不思議なことに、女性が母親への憎しみを捨てると、その夫との縁が切れるか、夫が変わり夫婦仲がありえないほど良くなるか、2つに1つの道を歩んでしまうのである。まさに自分が変われば世界が変わるのだ。しかし多くの女性たちは自分を変えずに夫を変えようとするからこそ、不幸がより悪化して行くのであって、自分を変えない限り、自分の不幸は止まらないのだ。

●心の扉を閉ざすのではなく、心の扉を開く

 心に憎しみを抱いている女性ほど、心の扉を閉ざしているものだ。自分が不幸に陥って行くたびに、周囲の友人たちから何かしらのアドバイスを得ていた筈だ。しかし、そのアドバイスを全て却下してしまい、自分の心を一切変えなかったのだ。自分の心を変えないから、より事態は悪化し、自分ではどうしようもない事態にまで悪化して行ってしまうのである。

 心の扉を閉ざす女性に限って、その難問に立ち向かい解決して行こうとするのではなく、難問を先送りし、逃げ出してしまうものだ。心の扉を閉ざして逃げ出しても、なんの解決にもならないのだ。逃げた所で、また難問に直面してしまい、更に事態を悪化させてしまうものなのである。

 自分が傷ついてもいいから、心の扉を開くことだ。素直になって心の扉を開けば、最善のアドバイスが入って来たり、解決策が見つかるものなのである。母親への憎しみを捨てるという作業は、自分一人ではできないので、然るべき人に出会い、その人の力を借りて除去して行くしかないのだ。それをやらなければ、終生、憎しみが消えないのである。

 結婚しているなら、まずは夫に心を開くことだ。子供たちに心を開くことだ。夫や子供たちの前で格好つけないことだ。家庭の中で仮面をつけながら暮らしていれば、夫や子供たちだって反撃を加えて来るのは必至なのだ。仮面をつけて生活していること自体、相手に喧嘩を売っているようなものなのだ。

 自分が心を閉ざしているからこそ、相手も心を閉ざしてしまうのである。自分が心を開けば、相手も心を開いて来るのだ。世の中はそういうふうに出来ているのである。自分が不幸になるのは、自分がそうさせているからであって、自分が幸福になるということは、自分がそうさせているからなのである。そのことに気付くまで、延々と遠回りし続けるのである。

●素直な気持ちを夫に伝える

 夫婦だからといって、以心伝心というのは絶対に有り得ない。夫婦だからこそ、きちんと会話をし、自分の意思表示をきちんとしておくべきなのである。自分の夫だからこそ、自分の酢素直な気持ちを伝えて行くべきなのである。黙っていないで、言うべきことをきちんと言う。但し、絶対に感情的になって、喧嘩腰にならないことだ。

 母親への憎しみを持っている既婚女性は、家事や育児を大変なものだと思ってしまう傾向がある。自分の母親が家事や育児を楽しんでやっていなかったので、自分も結婚して家事や育児を遣り出すと、大変なものだと思ってしまうようになるのだ。そこで不平不満を溜め込んでいないで、夫に「私は家事や育児をちゃんとやっているのだから、もっと自分を認めて欲しい」ときちんと伝えることだ。

 夫というのは、妻が家事や育児を楽しんでやっていないと、絶対に手伝わないものなのである。それをやっても楽しいとは思わないので、自分が楽しいと思える仕事に集中してしまうのである。それゆえ、妻が不平不満を抱えながら、家事や育児の手助けを求めて来た時、妻の異常事態がはっきりと解るようになるのである。政府が国家権力を使って、家事や育児を手伝わない夫たちに無理矢理手伝わしても、なんの解決策にもならないのだ。夫たちが家事や育児を手伝わない理由は、妻が素直にならず、心を開かないからなのである。

 自分が素直になれば、幾らでも素直な言葉が出て来るものなのだ。「手伝って」「助けて欲しい」「有難う」「御免ね」「助かるわ~」等々。こういう言葉を妻が使ってくれば、夫だって妻の手助けをして来ることだろう。こういう素直な言葉を使わずに、夫は家事や育児を手伝って当然だと傲慢になっているからこそ、夫は妻の手助けをしないのである。

 「やって!」というのと、「手伝って!」と言うのでは、天と地の差があるほどに全く別物になのである。夫は仕事で全力を使って、帰宅する頃にはヘトヘトになって帰って来るものなのである。それなのに妻が夫のことを気遣うことなく、自己中心的になって物を言っていたら、どんなに温和な男性だって怒り出すものなのである。だから、家事や育児で自分が遣れるべきことは遣ってしまうべきなのである。それでも自分の力では出来ないものがあるなら、その時は自分が謙って助力を乞うというのが、妻として当たり前の行動なのである。それが出来ないからこそ、夫を怒らしてしまい、夫婦喧嘩が勃発してしまうのである。

●自分が幸せになりたかったら、自分が愛すべき人々を幸せにしてあげる

 誰もが完璧な家庭で育って来る訳がないから、女性の中にはどうしても母親に対して憎しみを抱いてしまう女性たちが出て来るものなのである。母性愛というのは絶対肯定の愛だから、母性愛が不足するということは、自分を絶対に肯定することができなくなり、相手に対しても絶対的に肯定することができなくなるのだ。そういう女性が大人になれば、自分を否定し、相手を否定してくるようになってしまうのである。自分の心がネガティブモードになっているから、自分が不幸に成って行くのは当然で、それなのに自分が悪いとは思わず、「相手が悪い!」「男性が悪い!」「世の中が悪い!」と叫び出して来るのである。

 この手の女性たちは結婚をせずに独身を貫いてくれれば人畜無害なのだが、よりによってなぜか結婚に拘り、結婚をして来るのだ。その女性たちにとっては両親の不幸な結婚ほど自分の心の中で心残りになっているものはないので、結婚に関する本を書いてきたり、結婚をして来るのである。しかし、自分の心の中に憎悪の炎が燃え上がっているのだから、結婚の本を書いても結婚を否定するような内容になり、結婚した所で離婚に終わるようなことになってしまうのである。憎しみを抱いている女性は絶対に幸せになることができないのだ。それは神様が絶対に許さないのだ。

 だから、結婚は修行なのである。女性は結婚することで、その結婚の中で修行を行い、自分を変えて成長させて行くのである。独身の時には自分の心の中で憎悪の炎が燃え上がっていることに気付かなくても、自分が結婚すればそれに気付くことができるものなのである。自分が幸せになれると思って結婚したのに、結婚が滅茶苦茶になってしまえば、遅かれ早かれ自分の心に異常があると感づくものである。、

 心の中に憎しみを持っている女性ほど愛を叫ぶ。「愛こそ全て」と言われれば、無条件で賛同してしまう。しかし、人は愛すればいいのではないのだ。自分が幾ら愛した所で、他人を不幸にさせてしまうことは幾らでもあるのだ。人は人を愛した上で、その人を幸せにして行かなければならないのだ。愛は手段であり、目的ではないのだ。幾ら愛しても、その人を幸せにしなければ意味がないのである。自分の心の中に憎しみがある限り、絶対にその愛はまともなものにならないのだ。

 だから、憎しみを捨てる。まともな愛が出て来るような女性になる。人を愛してもいいが、決して愛し過ぎないことだ。愛し過ぎてしまうこと自体、自分の心が異常になっているということなのである。人を幸せにしていくためには一生懸命に愛することは必要だが、必要以上の愛は要らないのだ。愛だって過剰になれば弊害が出て来るものなのである。

 自分が幸せになりたかったら、自分が愛すべき人々を幸せにしてあげる。結婚しているなら、夫や子供たち以外にいないのだ。夫や子供たちに自分の愛をきちんと伝えることだ。自分から進んで行って、夫を抱きしめてあげる。子供たちを抱きしめてあげる。そして夫を褒めてあげる。子供たちを褒めてあげる。褒め方が上手だと、自分も相手も幸せに成って行くものなのである。

 今まで不幸だらけの人生を歩んで来た女性なら、自分が変わってしまうと、雪崩れの如く幸せが遣って来ることになるものなのである。自分が幸せになった時、今までの不幸は自分を成長させるためには必要なことだったと気付くようになるものなのである。そうやって駄目な昔の自分を肯定することが出来た時、輝かしい未来が開かれて来るのである。

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自分の人生を楽しんでいれば、育児も子育ても楽しくなる!

●未妊の女性たちに育児のコツを聞かれたら

 女性の場合、赤ちゃんを産んだか産まなかったかで、天と地ほどの差が出て来てしまう。女性にとってみれば、結婚→妊娠→出産→育児という流れは、女性の通過儀礼になっているので、この通過儀礼を経ないと一人前の女性になれないのだ。そのため、子供のいる既婚女性と、子供のいない独身女性とでは、考え方がまるで違って来てしまうのだ。

 女性が結婚せずに、社会に出て働き、高所得に成り、裕福な生活をすることができても、女性には子供を産みたいという本能があるために、その本能をきちんと満たしてあげないと、心のどこかで不満を抱えたままになり、真っ当なことは言っている筈なのに、歪んだ考えを持ってしまうのだ。現在、日本では晩婚化傾向にあるので、独身時代に歪んだ考えを持ってしまい、結婚したのはいいが、いざ妊娠や出産や育児のことを考え出すと、溢れ出て来る不安のために、妊娠することを躊躇してしまう女性が多々出て来るのだ。晩婚なのに妊娠を渋っていると、高齢ゆえの不妊症になってしまい、厄介な問題を発生させてしまうことになるのだ。

 世間では「妊娠すると働けなくなる」「出産は陣痛が痛い」「育児は大変だ」という間違った意見が出回っているために、多くの女性たちがそれに怯えてしまい。出産や育児に対してネガティブな考えを持ってしまっているのだ。ところがどっこい、毎年、妊娠する女性や、出産する女性や、育児をする女性たちが出て来ており、それが絶えることがないのだから、妊娠も出産も育児も女性にとっては楽しい筈なのである。

 未だ妊娠していない女性たちがベテランの母親たちに育児のコツを訊くと、大概の母親たちは、答えに窮してしまう。育児のコツなんてものはないからだ。赤ちゃんが生まれたら、育児をしなくてはならないのであって、そうしなければ赤ちゃんは死んでしまうのだ。そして何より出産で自分の考えが大きく変わってしまい、育児のコツを聞いて、育児を巧くやればいいとは思わなくなってしまうのだ。育児が楽しいからこそ、育児をやっているのである。

 そのためベテランの母親たちが、育児のコツは何かという疑問に対して直接的な回答になっていないが、未妊の女性たちの不安を解消させるために、「まずは自分の人生を楽しむことだよ!」という答えをして来るものなのである。この回答を聞くと、未妊の女性たちはキョトンとしてしまうのだが、出産や育児をしていないと、何か自分が楽しいことをやっても、自分の人生を本当に楽しめることができないのだ。

●育児は一時期大変になるのは当たり前

 育児というのは冷静になって考えれば大変なのは当たり前なのである。定時爆撃のような「泣きまくり攻撃」や、睡眠妨害の最たる「夜泣き攻撃」、ストーカー以上の「後追い攻撃」等々、母親たちはこれだけ赤ちゃんたちから散々攻撃を受けまくれば、育児が大変になることは当たり前のなのだ。

 育児をしていれば、体力的にフラフラになるし、自分の時間なんてものはなくなる。しかし、これは母親になるための試練であり、これがなければ母親としての喜びは一切味わえなくなるのである。大変なことを自らきちんと受け止めておかないと、母親としての実力が付いていかなくなってしまうのである。

 大変だからこそ面白い、苦しいからこそ楽しくなる。このことが解るからこそ、自分の人生が楽しくなってしまうのであって、面白さだけを取って大変なものを切り捨ててしまったり、楽しいことだけを取って苦しいことをしなかったら、レベルの低い面白さや楽しさにしか出会えないのだ。独身時代は往々にしてこのことをやってしまいがちなのだ。

 本当に面白いことは、自分の我儘を満たすことではない。寧ろ逆で自分の我儘が消えて行くほど、本当に面白いものに出会えるのである。本当に楽しいことも、自分の些細な欲望を満たすより、自分の欲望を抑えて、他人に尽くすほど、本当に楽しいことに出会えるものなのである。

 確かに妊娠や出産や育児のリスクを探して出せば、幾らでも探し出せることであろう。しかし、妊娠や出産や育児はそのリスクを遥かに上回るほどの圧倒的な利益があるからこそ、女性たちが絶えることなく遣り続けているのであって、これをしなければ女性として大損の人生になってしまうものなのだ。仕事などは幾ら歳を取ってもできるが、妊娠や出産は歳を取ってはできないのだ。自分が出来る内にやっておかないと、出来なくなってしまうものなのである。そしてもしも出来なかったら、終生、チャンスを逃してしまい、莫大な利益を得るチャンスを失ってしまうことになるのだ。

●子供たちは親の生き方をきちんと見ている

 子供たちというのは、母親の生き方をちゃんと見ているものだ。母親が人生を楽しんでいれば、子供たちも人生を楽しみ、スクスクと成長して来るものだ。母親が人生を楽しんでいなければ、子供たちも人生を楽しめないので、病気になったり、事故にあったり、イジメに遭ってしまうのだ。

 母親の異常は子供の異常として現れて来るのだ。何か子供に異常が出て来たら、それを単なる現象として受け止めないで、自分自身に何か落ち度はなかったかと省みるべきなのである。結婚しているというのに夫に対して否定的になっていたり、育児をしているのに子供たちに対して否定的になっていれば、子供たちの人生を否定してしまい、子供たちが悲惨な目に遭うことで、その異常さを母親に知らせて来るのだ。

 我が子を難病にしてしまう母親ほど、人生を楽しんでおらず、子供にしがみついてしまうものだ。だから子供は難病になることで、その母親の思いを実現させてしまうのだ。毎年、交通事故や水難事故で死ぬ子供たちが出て来るものだが、そういう母親に限ってきちんと先祖祭祀をしておらず、我が子が生まれたことを先祖に感謝しないからこそ、我が子が奪われてしまうことになってしまうのだ。

 母親が母親として然るべきことをやり、人生を楽しんでいれば、子供たちは自分のやるべきことに全力を投入することができるので、大いにその能力を伸ばして行くことができるものなのである。勉強をやらせれば優秀な成績を収め、スポーツをやらせれば優勝してしまい、芸事をやらせればメキメキと頭角を現わして来るような子供たちは、その母親がきちんとバックアップしてくれるからこそ、なんの気兼ねもなく、全力を投入して、思う存分、活躍することができるのである。

 こういうことは独身時代には解らないものだ。精神レベルが低ければ、親は親、子は子だと思い込んでしまうからだ。しかし、結婚して子供を産み育てていけば。そういう考え方は間違っているのであって、子供は親に従属しているものであって、親が人生を楽しんでいないと、子供も人生を楽しめなくなってしまうのである。

●人生が楽しいからこそ、幸せは幾らでも遣って来る

 自分が人生を楽しんでいるからこそ、何もかもが楽しくなる。たとえ苦しみがやってきても、それを解決する喜びに変わってしまうのだ。自分の人生が楽しいからこそ、幸せは幾らでもやってくるのだ。結婚しているのなら、結婚を徹底的に楽しむ。育児をしているのなら、育児を徹底的に楽しむ。子育てをしているのなら、子育てを徹底的に楽しむ。こういう生き方をしていれば、幸せは雪崩の如く押し寄せて来るものなのである。

 幸せというものは、決して単発で遣って来ない。幸せは更なる幸せを呼ぶものなのである。だから、結婚して幸せになってしまうと、幸せなものが連発して起こって来て、独身時代では有り得ない幸せな状況になってしまうのである。それゆえ、多くの独身女性たちは結婚したがるし、結婚して来るのだ。

 若い時であるならば、幸せを求めて、あちこち探し回ることをしても構わない。それは青洲時代なら当然に起こりうることだからだ。しかし、大量の幸せを産み出して行きたいのなら、結婚して相手を固定することで、その者と一緒に大量に幸せを生み出していかねばならないのである。

 人間は自分のためだけに幸せを求めて行くと、全ての幸せが消滅するようにできているのだ。自分が幸せになるためには、自分以外の人々を幸せにしなくてはならない。結婚しているなら、夫や子供たちだ。どんなに子だくさんの家庭でも、自分が幸せにすべき人々は少ないものなのだ。その少ない人々を自分が幸せにしてしまうからこそ、自分も幸せになっていくのである。幸せになることは非常に簡単なことなのである。

 勿論、この世の中には、結婚しても不幸になってしまう人々はいるものだ。しかし、そういう人々は自分の幸せだけを追求し、その癖、家族内にいる人々の欠点ばかり追求しているのである。だからこそ、夫や子供たちは怒り出してしまい、妻の幸せを徹底的に破壊してしまうようになるのである。

 人間は利己的な動物だから、放置しておくと、利己的にしか動かなくなってしまうものなのである。だが、自分の利益ばかり追求しても、大した利益を得ることができないのである。それよりも利他的になって、他人に利益を与えてしまうと、莫大な利益を得ることができてしまうのである。

 結婚しているなら、夫にサービスする、子供たちにサービスする。そうやって夫や子供たちに奉仕し貢献して行くと、自分一人ではどうやっても得られないような莫大な利益を得てしまうものなのである。そういう人生は楽しいに決まっているのだ。ただ、幸せな結婚生活をしている女性たちほど、「私は幸せです!」と叫んで来ないものなのだ。弱い犬ほどよく吠えるように、結婚で不幸になった女性たちほど。「私は不幸です!」と叫んで来るものなのだ。

 自分が幸せな結婚生活を送っているのなら、大声を出して自分の幸せをアピールする必要性はない。しかし、未妊の女性たちから幸せな結婚をする秘訣を訊かれたら、「夫や子供たちに尽くすことで、妻は幸せになれるから、そういう生き方を楽しめばいい」とこっそりと結婚による幸せの秘訣を教えてあげればいいのだ。その秘訣を訊いた女性たちがそれをきちんと実践してくれば、難なく幸せな結婚生活を実現してしまうものなのである。

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「子の親離れ」と「親の子離れ」

●親が干渉できるのは小学生まで

 人間には2つの矛盾した根源的欲望を持っている。1つは自分を対等に扱って欲しいという願望だ。自分と他人が対等とならなければ、まともな話し合いにならいし、双方が理解し合うことができなくなるからだ。もう1つは自分を上下関係を有する秩序の中に入れて欲しいという願望だ。人間は組織的な動物なので、なんらかの組織に入って上下関係を形成しないと、不安で堪らないし、上下関係があればこそ、安心できて、自分の能力を最大限に発揮することができるようになるのだ。

 この点、結婚というものは、人間の根源的欲望を最大限満たしてくれるものなのである。勿論、結婚が巧く機能すればの話であるが、夫婦として対等の関係を維持しつつ、家族としては夫を頂点にし、妻がその下で家族の実権を握り、その下で子供たちが存在する。この2つの矛盾したものが織り込まれるからこそ、どの夫婦も根源的欲望が満たされるので、夫として、妻として、父親として、母親として、健全に成長して行くことができるのだ。子供たちも両親が健全に成長してくれるからこそ、自分たちも健全に成長して行くことができるのである。

 どの母親も赤ちゃんが生まれると、自分の中から今まででは想像できないように強烈なエネルギーが湧いて来るのは、赤ちゃんという自分が愛情を注がねば死んでしまう命を得たからであり、最初は何もできない赤ちゃんを自分が育児をすることで、成長させて行くことに、独身時代では絶対に得られなかった喜びを見出してしまうからだ。既婚女性に子供ができると、日々の生活が充実しまくるのは、母親として上下関係を形成するという根源的欲望を最大限に満たすことができるからなのである。

 子供も幼い頃は母親の言うことならなんでも聞く。母親の方も子供が自分の言うことを素直に聞いてくれるので、非常に楽しいし、たとえ反抗期を迎えても、その反抗は手に取るように解るものなので、巧くその反抗を抑え込むことができる。まだに子供にとっては従属の時期であって、この時期だからこそ、子供は母親n従属して来る。

 しかし、子供が母親に従属してくれるのは、小学生までであって、それ以降は親からの自立をして来る。それゆえ、親が子供に干渉できるのは小学生までであって、母親が子供に干渉すべき時にきちんと干渉しておき、子供が母親からの干渉を拒否し出して来たら、子供に干渉するのを止めて、後は子供自身に任すしかないのだ。

●思春期になれば親から離れて行くもの

 母子の関係が健全に形成されていれば、小学生までは母親と子供の仲は良いものだから、いざ子供が中学生になって、親に反抗し始め、親からの自立を開始して来るのは、母親にとってはショックなものなのである。今まで自分に素直だった者が自分に素直でなくなるというのは、その格差に驚いてしまうものなのである。

 思春期になれば、如何なる子供も親から離れて行くものなのである。小学生までは親のことが一番大事であっても、中学生になってしまえば、友達のことの方が一番大事で、子供の頭の中で親の占める割合は激減して行くものなのである。自分が中学生の時もそうだったのに、自分の子供が同じことをしてくると、腹立たしく感じてしまうのだ。

 本来、思春期には親に反抗して来るものだから、全寮制の学校に入れてしまうのが最善の選択肢なのである。そうすれば親に反抗するというエネルギーを勉強やスポーツに投入でき、友達作りも親に邪魔されることなく、深い友情を作り上げることができるだろう。イギリスのイートン校がなぜ素晴らしい人物を多数輩出できているのかといえば、それは優れた授業を行っていることにあるのではなく、全寮制の学校であることにこそ、その秘訣があるのだ。

 ただ、全寮制の学校に通わせるのには、お金がかかりすぎるために、多くの親たちはそれをしないで、自宅から中学校に通わせているのだ。そのため、思春期に親への反抗を最大限行ってしまい、親としては子供の激変ぶりに驚いてしまうのだ。この場合、子供の反抗を撃退しつつも、子供と話し合う機会を充分に持って、親として通すべき意見は通し、子供の意見といえども聞くべき意見は聞いておけば、反抗が悪化するということを避けられるのだ。

 その上で、子供の反抗のエネルギーを勉強やスポーツや芸術へと向かわせることだ。幾ら将来、大学進学を目指すとはいえ、中学生の頃から勉強ばかりさせては体に毒なのである。運動部に入部させて、そこで体を鍛えさせ、仲間との深い絆を形成して行くべきなのである。もしも中学校が部活動に力を入れていないのなら、スポーツクラブに通わして、そこで運動ができる機会を与えてあげるべきなのである。

●馬鹿な子ほど親離れをしない

 思春期に於ける最初の課題は、友達を作り、きちんとした友情を育み、その中から親友を選び出し、最も深い友情を築き上げることなのである。だから、思春期に入ると、友達と長々と遊ぶことをするし、友達と急に仲良くなったかと思えば、友達と大喧嘩してしまうことにもなる。そうやって徐々に人間関係の築き方や距離の置き方を身につけつつ、親友を作って行くことになるのだ。

 親友ができると、べったりとした関係を築き上げてしまうので、この時期は異性を排除するし、同性の友達であっても疎遠になってしまう。親友と二人だけで話し合い、行動を起こすことが、最も深い友情を築き上げることにとっても必要なことになるのである。この親友と最も深い友情を築くことができれば、男の子だったら冒険旅行に出かけることになるし、女の子だったら初恋の相手が見つかるようになる。

 親友を作るべき時期に、男の子だったら彼女を作ったり、女の子だったら彼氏を作ってしまえば、そちらの方に時間を取られてしまうので、親友を作ることができず、幾ら異性と付き合っても、本物の恋愛ができないという悲惨な状態に陥ってしまう。また親友と深い関係になる以上、同性愛者は排除されるのであって、同性愛者もまた親友を持てず、まともな恋愛ができず、堕落的な性愛関係しかできないという事態に陥ってしまうのだ。

 自立というものは、家の外に撃って出て行かない限り、永遠に自立ではできない。小学生の頃までに、親から充分な母性愛や父性愛を貰っておかないと、子供は外に撃って出て行かなくなり、交友関係でトラブルを起こし続けたり、イジメに遭ったり、登校拒否になってしまうものなのだ。

 子供は愛情不足だと絶対に親から離れようとしない。親からの愛情が不足しているゆえに、親に対して思い残しているものがあり、そのために親離れをしようとしないのだ。こういう場合、その母親は育児や子育てをしたいたけど、心ここにあらずで、常に心が子供の方に向いておらず、違う所に向いていたために、子供の心の中では母性愛が決定的に不足してしまい、自分を肯定することができなくなってしまったのだ。

●馬鹿な親ほど子離れをしない

 馬鹿な子ほど親離れをしないが、馬鹿な親も子離れをしない。子供が自立を開始し始めた時に、いつまでも親のもとにいて欲しいからと思って、子供の自立を引き止めてしまうのだ。子供を一個の人格を有する人間として認めているのではなく、自分の所有物だと思い込んでしまっているのだ。

 この手の自立を疎外する母親たちに共通することは、夫婦関係が巧く行っておらず、母と子がべったりとした関係を築き上げてしまっている場合である。母親は常に夫に対して不満を持っているので、その不満の捌け口を子供に向けてしまい、赤ちゃんの頃から子供の行動を規制し続けてしまい、子供が母親に反抗することを一切許さない状況にしてしまうのだ。

 母親が長女である場合、親離れを引き止める危険な母親になる可能性が高い。大体、長女というものは父親の愛情を最大限受けるものだし、次女以降の娘たちよりも我儘を言える立場にあるし、子供の頃から自分がリーダーになって遊ぶ機会が多かった筈だ。そのため、我が子にも我儘を言ってしまうし、自分がリーダー風を吹かすので、育児や子育てをしながら、子供を委縮させることを平気やってくるのだ。

 忘れてはならないのは、少子化になると親離れを引き起こす母親たちが続出して来るということなのである。子供が3人以上いれば、第一子が思春期を迎えた頃には、一番下の子供に未だ手がかかる時期なので、第一子にはそれほど構っていられないものである。そのため第一子は自立を開始して行き、その次の子供も続々と自立して行くので、子離れが簡単にできてしまうのだ。しかし、子供の数が1人とか2人になってしまうと、母親は暇を持て余しているので、子供が自立を開始し始めた時に、子供の自立を阻止するということを平気で遣り始めてしまうのだ。

 子供が自立で問題を起こしている場合、大方はその母親が異常な行動を取っていることに原因があると見ていい。母親の中には自分は正しく、子供の方が間違っているとして、子供を精神病院送りにしてしまう母親もいるが、こういう母親は母親の中でも最も愚かで、自分の子育ての間違いを子供に責任転嫁しているだけなのだ。母親が変わらない限り、子供はいつまで経っても問題を起こし続けるのだ。言わば子供は母親の鏡であって、母親が間違ったことをしていれば、子供は問題を起こし続けるのだ。

●「専業主婦たちの優柔不断」「兼業主婦たちの無関心」

 子離れや親離れは一気に起こるものではない。中学生辺りから徐々に起こって来るものだ。親子の距離が徐々に開きながら、高校を卒業する頃には、子は親離れをし、親は子離れをして来るのである。単純に計算してみれば、6年もの長い月日があるので、親子双方が時には問題を起こしつつも、徐々に距離を取って行き、そして来るべき日が来たら離れて行くものなのである。

 しかし、これが出来ない母親たちは必ずいるものだ。子供が母親に従属していた時期を当たり前のことだと思ってしまい、子供が自立し始めているのに、その事実を受け入れず、子供の自立を阻止し破壊して、いつまでも我が子を母親に従属させようとしてしまうのだ。母親にとってみれば、自分がお腹を痛めて産み、育てた子なので、愛情が強く深すぎる分、その愛情の多さが裏目に出て来てしまうのだ。

 母親が専業主婦の場合、専業主婦として育児や子育てに全力を投入して来たのだから、子供が母親に反抗し、自立を開始すると、その子供の変化に戸惑ってしまうのだ。今までは的確な判断ができた母親でも、或る日突然に優柔不断な対応を見せてしまい、子供を信用して、自立させて行ってあげることをしなくなってしまうのである。この優柔不断は母親の方が自分の子供に裏切られたのではないかと錯覚しているからこそ起こるのであって、その錯覚が治らない限り、いつまでの優柔不断な態度を取り続けてしまうのだ。

 特に子供が娘であった場合はこれが悲惨な結果になってしまい、確実に娘の自立を阻止してしまうのである。自分の母親が今まではきちんと独立していたのに、自分が自立しようとし始めると、独立どころか自立すらしなくなり、夫に従属しながら、子供を従属させるという事態に陥ってしまうのだ。忘れてはならないは、こういう母親の下で育った女性たちは大人になっても自立することができず、その多くがフェミニズムに走り、専業主婦たちを罵倒し、専業主婦たちを苦境に陥れる運動を展開し、税制面での配偶者控除を廃止するなどをし、現在では専業主婦であることが犯罪であるような風潮を作ってしまったということなのである。

 専業主婦の場合、まずは夫に相談を持ちかけ、子供が自立して来る際に、どのように対応して行けばいいのか話し合っておくことだ。妻が夫に心を開いている限り、それほど自立で問題は起こらないものなのである。その一方で、専業主婦としての特権を活かして、教育に関して確固たる目標を持つことだ。大学に進学させるなら、家庭教師を雇うのではなく、自分でやってしまうことだ。子供に本を読ませるだけでなく、それを話させれば、子供の方は記憶力が高まって、いい成績が取れるようになるものなのである。

 母親が兼業主婦の場合、我が子を保育園に入れたりして来たので、どこかで愛情が薄い傾向があるのだ。そのため、子供の方も愛情をしっかりと貰っていないために、なかなか反抗をして来ないという異常な事態が起こってしまうのだ。ところが兼業主婦は仕事に忙しいものだから、子供の変化に気付かず、子育てに無関心な態度を取ってしまうのだ。こういう態度を取り続けると、子供の方が或る日突然にプッツンと来てしまい、心を病んでしまったり、有り得ない反抗をして来たり、警察沙汰になってしまうので、我が子が中学生になったら、仕事ばかりしていないで、子供の変化に注意を払っておくことだ。

 兼業主婦が仕事で忙しいのは解るし、帰宅してから疲労しているのは解る。しかし、自分の仕事は子供を或る程度犠牲にしながら行っていることを、常に忘れてはらないのだ。どんなに忙しくても、1日30分でもいいから、仕事のことは忘れて、子供と一緒になって遊んだり、話し合ったりすることが、非常に大切なことなのである。こうすれば、子供の方は母親が仕事で忙しくても、充分に愛されたと思うことができるのである。

 子供が中学生になったら、子供の変化に無関心な態度は絶対に取るべきではないのだ。子供にとっての自立というのは、まず母親からの自立で始まるものなのである。母親である自分に何もしてこなければ、子供はいつまで経っても自立して来ないのである。この時期は仕事に忙しい余り、子供の変化に気付けないというのは最悪な選択肢で、どんなに仕事が忙しくても、子供に対して注意を支払っておけば、子供の変化に気付くものなのである。

●自立でない人ほど「個の確立」を騒ぎ始める

 人間はどの人々も19歳までは肉体が成長して来るので、大人になってしまえば、どの人間たちも大人の肉体を持っている。しかし、だからといって、その者たち全てが精神的に自立しているかは解らないものなのだ。体は大人でも、心は子供という人は幾らでもいるものなのである。、

 大人の仲でも危険なのは、実は大学に進学して来た人々なのである。人間の成長過程を鑑みるなら、本来、教育というのは高校までで充分なのである。それ以降は社会に出て働き、仕事をすることで自分を成長させ、精神的に自立させて行くべきなのである。だが、高度に発達した文明は、高校卒業程度の知識では運営することができず、大学というものを必要とし、更には大学院まで必要とするのだ。確かにその教育を受けることで、高度な学力を持つことはできるが、その反面、自分が精神的に自立できなくなるという危険性を大いに高めてしまうのである。

 大学を卒業した人々ほど、大学院を卒業した人々ほど、自分が精神的に自立していないことを膨大な知識で誤魔化そうとするのだ。社会主義者にしても、フェミニストにしても、精神的に自立していないのは同じものなのだが、自分が精神的に自立できないことを膨大な知識で誤魔化し、自分が精神的に自立して行くために、自分自身と真剣に向き合うということを一切しないのだ。だから、いつまで経っても精神的に自立できなくなってしまうのである。

 恐ろしいには、自分が精神的に自立できないことを、日本人全体に置き換えて述べて来るのである。「どうして日本人は自立できないのか?」というテーマで本まで書き、それを出版して悦に入っているのである。そうではなく、その意見を述べている著者こそが自立できていないだけなのである。

 書物の中で、「個の確立」という用語が出て来たら、要注意なのである。この「個の確立」という日常語で絶対に使われることのない用語を使い、それをメインテーマとして論じている書物があるなら、その著者こそが精神的に自立していないと思った方がいい。この手の著者は大抵が深刻な顔つきをしていて、大量の蔵書量を誇っているが、冷静に話を聞いてみると、著者本人が精神的に自立しておらず、それを誤魔化すために、この手の本を書いて来るのである。作家だろうが、学者であろうが、会社経営者であろうが、政治家であろうが、自立してない人は自立をしていないのである。そのことをいつ如何なる時も忘れてはならないのだ。

●自立は親から離れるからこそできる

 自立というものは、親から離れるからこそできるものなのである。まずは自宅を出て、自分で生活をしてみることだ。一人暮らしをして行くためには生活費がいるのだから、それを自分が働くことで稼ぎ出さねばならないのだ。若者が働けば給料は安いと決まっているのだから、我が子がどんなに貧しくても、親であるなら我が子にお金を与えてはいけない。親が我が子にお金を与えてしまえば、我が子の方はいつまで経っても自立して来ないものなのである。

 自立はいきなり自立できてしまうのではなく、まずは経済的自立を成し遂げる必要性があるので、収入を徐々に増やし、家計簿をつけて貯蓄をきちんと行い、常に収入よりも少ない生活費で暮らして行くべきなのである。一人暮らしは物入りになるものだが、それでも質素に暮らして行けば、確実に貯金額は増え、確実に資産が形成され始めるのだ。そうやって経済的に自立して行くのである。

 精神的自立の方は、大人として身につけるべき教養を身につけておき、自分の専門分野の知識や技術をきちんと習得しておくことだ。その一方で、自分を精神的に向上させていく努力を行い続け、自分の心の中の悪と戦い続けることだ。男性だったら自分の心の中で父親が偽りの上位自我となっており、女性だったら自分の心の中で母親が偽りの上位自我になっており、それを破壊しない限り、精神的な自立は成し遂げられないのだ。

 この時期、男性だったら冒険旅行に出かけて、その冒険旅行で様々な経験をすることで、自分の心の中にある偽りの上位自我を破壊して行くし、女性なら男性と恋愛をすることで、その恋愛の中で様々な経験をすることで、自分の心の中にある偽りの上位自我を破壊して行く。男性なのに冒険旅行に出かけず、女性なのに男性ときちんとした恋愛をしなければ、いつまで経っても精神的な自立を成し遂げることはできないのだ。

 若者たちは様々な大人たちと出会うことで、自立を成し遂げて行くのである。一生懸命に生きていれば、どの大人も完璧ではないということに気付くものだ。みんな欠点を持っている。しかし、それでもこの世を生きて行くことができるのである。自分の両親だって完璧ではないのだ。欠点はたくさんあるものなのである。その欠点を他の大人たちに補って貰うことで、足らざるものを補いながら、自分の力で自立して行くのである。

 自立というのは、如何なる人も完璧ではないということに気付くことでもあるのだ。それがきちんとできていないと、キリスト教徒たちのように救世主に縋ってみたり、仏教徒たちのように釈迦に縋ってしまうのである。宗教は違い、崇拝対象も違うが、どちらとも精神的自立できなかったということでは同じことなのだ。

●子離れは悲しくても、親にとっても子にとっても必要なこと

 不思議なことに、人は自立を成し遂げてしまうと、そのまま独身で暮して行こうとは思わなくなる。遅かれ早かれ最良の異性と巡り会って、結婚して行くものなのである。自立の完成は独立の始まりであり、両親から正式に離れて、新たな家族を形成して行くものなのである。

 親にとって子離れが決定的になるのは、まさに我が子が結婚した時であり、特に育児や子育てで大活躍をした母親にとっては非常に悲しいことなのだ。でも、子離れは悲しくとも、親にとっても子にとっても必要なことなのである。その悲しみがあるからこそ、我が子は一人前の大人になれるし、母親の方も我が子を一人前の大人にできたという喜びがあるのである。人はそうやって一人前の大人に成って行くのである。

 もしも我が子がいつまで経っても結婚しないのなら、それは我が子を自立させることに失敗してしまったのである。子供の時に充分に愛情を注がなかったとか、子供に教えるべきことをきちんと教えなかったとか、反抗期に入った時にその反抗の対応が拙かったとか、一人暮らしを始めたのに、お金を与え続けてしまったとか、様々な原因が絡み合って、我が子が自立して来ず、いつまでも精神的に親の従属下にいるようになってしまうのである。

 子育ては親だけの力で出来るものではない。我が子が自立すべき時が来たら、きちんと突き放すべきなのである。通常の肉食動物なら、親が子に噛みつくことで、我が子を群れから追い払い、自立を促すのである。人間はさすがにそういうことをしないが、来るべき日が来たら、一旦、自宅から追い出し、自立が終わるまで、帰宅させないべきなのである。我が子だからといってちょくちょく帰宅させていたら、いつまで経っても自立して来ないのは当然のことなのだ。無理矢理でもいいから、自宅の外に追い出し、後は世間で揉まれて育っていけばいいのである。我が子のことを心配するより、我が子のことを信用して、追い出してしまった方がいいのだ。

 全ての若者たちが、親離れができる訳ではない。若者の中には邪教に引っ掛かったり、平等イデオロギーに洗脳されてしまったり、経済的に貧しすぎてしまったり、中には自殺したり他殺されたりする者も出て来るものなのである。でも、そういう脱落者を産みつつも、若者たちはきちんと自立を成し遂げて来るものなのである。

 我が子がきちんと自立を成し遂げ、未来の結婚相手を連れて自宅に戻って来た時、親子共々、正式に「親離れ」「子離れ」をすることになるものなのである。それは我が子が立派に成長してくれた証であり、自分たちの育児や子育てが間違っていなかった証なのだ。育児や子育ての結果は育児や子育てをやっている時には出て来ず、育児や子育てが終わって暫く経った後に出て来るものである。母親にとって子離れは悲しくとも、だからこそ嬉しいものなのである。その嬉しさは、育児や子育てで苦労した者でなければ解らないものなのである。どういう母親であれ、我が子が新たな家族を形成してくれれば、立派な母親であることに間違いはないのだ。

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タマティーの暗黒予言

●未来を予知するということ

 人間はj「過去」「現在」「未来」の三世に生きるのだから、過去のことも、現在のことも、未来のことも、全部知りたいものだ。過去のことに関しては歴史学があるし、現在のことに関しては自然科学や社会科学など様々な学問がある。しかし、未来に関してはそれを対象とする学問がないのだ。なぜなら、未来というのは、存在していないからである。

 嘗て、アメリカのアルビン・トフラーが「未来学」なるもの提唱して、未来のことを研究したのだが、これは科学的に正しい学問ではないのだ。科学というのは、客観的に存在する対象物があってこそ初めて成り立つものであって、未来のように存在していなければ、科学的な研究などすることができないのだ。

 では、未来を知るためにはどうすればいいのかというと、「予測学」「予知学」の2つしかない。予測学というのは、過去や現在のデータを調べて、今後もこの調子で行くなら、こういう現象が起きて来るという類のものだ。「天気予報」やら「地震予測」やら「経済予測」というのがこれにあたる。これがどんなに当たる確率が低いかは、経済学者たちの経済予測の殆どが外れているということでも解るlことだろう。

 一方、予知学というのは、霊能力者の予知能力に基づいて、その予知を分析して行く学問でしかない。予知は霊能力というものに頼る以上、その霊能力が間違っていれば大外れになるし、その霊能力が正しければ大当たりをして来るという博打的要素を大量に含む。世の中で成功している人ほど、必要以上に科学的にならず、この手の霊能力者の意見を聞いて、凡人では知りうることのできない未来を一生懸命に成って知ろうとしているものなのである。余りにも科学的に成り過ぎる人ほど、現在のことに拘り過ぎてしまい、未来に起こる現象で吹き飛んでしまうことになるのである。

 何を隠そう。俺も多少の霊能力があるのであって、天気や地震の類なら、予知しえたものである。阪神淡路大震災やスマトラ島沖大地震なども予知し得た。未来に起こる大きな災いは、決して突然やって来ず、何かしらの予兆を出しているものだから、それを巧く掴み、その掴んだものから未来を予知して行けば、自然と未来に起こる出来事が解るというものなのだ。

●暗黒予言

 では、今後、世界に起こるであろう大きな災いを紹介して行こう。題して、「タマティーの暗黒予言」! 題名からして未来に起こる良い事は一切挙げず、悪い事ばかり挙げて行く。この暗黒予言を知ることで、未来に起こる大きな災いを巧く避け、生き残り、そして自分自身を変えて行くためである。

1,オバマ大統領暗殺

 まずはアメリカ合衆国のオバマ大統領が任期中に暗殺される。オバマ大統領は44代大統領であって、この大統領がアメリカ合衆国の歴代の大統領の中で最も危険な大統領なのだ。まず命を失うことが確実となる。平成23年度の夏辺りが最も危険で、その辺りで暗殺されることになるであろう。

 このオバマ大統領の死以降、世界はアメリカ合衆国のものにならず、アメリカ合衆国の破滅の始まりが開始されることになる。現在、全世界に展開しているアメリカ軍は全て撤退し、海外の領土も全て失い、アメリカ合衆国は幾つかの国に分裂することになる。その中には黒人たちの国家も含まれており、白人たちに対して大量虐殺を行うことになるであろう。

2,新型ウィルスによる大量病死

 今後、数年以内に、発症すると数時間で死亡する恐ろしいウィルスが世界的に蔓延して、大量の死者を出すことになる。このウィルスに対して、人類は長らく有効な手立てを持つことができない。しかもその内、「出血性ウィルス」も蔓延し始め、多くの患者たちが大量の血を流しながら死んでいくことになるであろう。これも人類は長らく有効な手立てを持つことができない。

 これらのウィルスは自然発生的に出来上がったものではなく、アメリカ軍の細菌兵器として、軍の研究所で作られたものであって、それを人為的にばら撒いたものなのである。そのため、この事実を知らない医者たちが、自然発生的に出て来たものだろうと思い込んで、通常の遣り方で研究を始めてしまい、それによって治療薬の開発が遅れるのだ。現在、蔓延している新型インフルエンザもアメリカ軍がばら撒いたものであって、だからこそ、今まで世界的に大流行した3つのインフルエンザの形が全て組み合わさっているのだ。こういうことは自然現象では起こり得ないのだ。

3,ニューヨークで核爆弾テロ

 いずれ、ニューヨークで核爆弾テロが起こることになり、大量の死者を出すことになるであろう。犯人はイスラム教徒たちであって、核爆弾自体は北朝鮮製のものである。但し、北朝鮮の核爆弾は完成度がイマイチなので、イスラム教徒たちは毒ガステロに切り替える可能性もある。宗教を敵に回して、独立を維持しえた国家など、今まで1つもないのだ。宗教に敵対するなら、江戸幕府がキリシタンに対してやったように徹底的に取り締まって、信者たちが宗教活動をできなくさせるようにしかないのだ。古代ローマ帝国がキリスト教徒たちによって滅ぼされたように、アメリカ合衆国もイスラム教徒たちによって滅ぼされるのである。

4,池田大作病死

 創価学会の名誉会長の池田大作は、平成24年か25年に病死することだろう。創価学会には日本の新興宗教団体の中で最大の勢力なので、池田大作の病死によって、日本の宗教世界に変動が起こることは確実である。まず、池田大作の病死によって、創価学会では後継者争いが激化する。創価学会の中には池田大作に匹敵する人物など存在しないから、誰も収拾をつけることができなくなってしまうのだ。池田大作が長らく独裁体制を敷いてきたツケが、死後に噴き出して来るのだ。

 創価学会の信者たちはこの混乱を見て離れる人たちも出て来て、その信者たちを如何に吸収して行くかが、他の新興宗教団体の命運を分けることになる。創価学会の信者たちはマスコミからは嫌われているが、組織力に関しては抜群のものを持っており、他の新興宗教団体にとって組織を拡充させる絶好のチャンスとなるのだ。これによって、現在、巨大な教団であっても、衰退してしまったり、潰れる教団も出て来る。

5,タイ王国崩壊

 タイ王国は、現在の国王が最後の国王に成るのではないかと、タイの多くの占い師たちが予言している。タイは立憲君主制の国家であっても、これを良しとしない中国がタイの反政府勢力に大量の資金を投入しているので、タイ国民の圧倒的支持を受ける国王といえども安泰ではないのだ。タイ国民は白米を主食とする国民なので、感情的に成り易く、国民が暴走した場合に、一気に暴走して行く危険性を秘めているのだ。

 タイ王国は親日国なので、タイの王政が崩壊した時は、日本はタイ王室の人々を亡命者として受け入れ、丁重に扱い、その一方でタイの革命政権に謀略を行って、革命政権を転覆させ、王政を復古させてあげるべきである。タイ王国は大東亜戦争の時に日本に味方してくれた国家なので、絶対に革命を放置して、恩知らずなことをすべきではないのだ。

6,月のドームへ爆弾テロ

 イスラム教徒たちのメッカに次ぐ聖地であるエルサレムには、月のドームが存在している。その月のドームが爆弾テロに遭い、大量のイスラム教徒たちが死亡することになる。これはユダヤ教徒たちの犯行であって、ユダヤ教徒たちはその地にユダヤ教の神殿を建てるために、そのような犯行に及んだのである。この爆弾テロを契機にイスラム教徒たちは暴動を起こすが、ユダヤ教徒たちは片っ端から薙ぎ倒して行くことになるでろう。

7,バッキンガム宮殿炎上

 イギリス王国のバッキンガム宮殿は炎上することになるであろう。これは恐らく漏電による火災であって、爆弾テロではない。しかし、この事実はイギリス人たちを落胆させ、イギリスの栄光が終わったことに改めて気付かされることであろう。これ以降、ロンドンでは多くの殺人事件が多発することになる。

8,北海道か岩手県で大地震

 北海道か岩手県で大地震が起こり、多くの死者を出すことになるであろう。嘗て、俺が阪神淡路大震災を予知しえたのも、兵庫県は土井たか子の出身地であり選挙区であったからだ。大地震が起こる前には、その地の人々が異常になっているものなのである。今回では民主党が政権を取っており、鳩山由紀夫は北海道が選挙区であり、小沢一郎は岩手県が選挙区なので、この2つが危険なのである。

 しかし、両者とも東京で育っており、東京も充分に危険なのである。もしも、北海道や岩手県で大地震が起こらなければ、東京で起こる可能性も充分にあるのだ。その際、今年の5月辺りが最も危険で、東京やその近辺に住んでいる人々は要注意をしておくことである。改めて地震対策をしておき、いつ地震が来てもいいようにしておくことだ。

9,中国で大洪水

 現在、地球規模で異常気象が起こっているが、この異常気象を最大級受けるのは実は中国なのである。中国大陸というのは、そもそも降水量が少ないのである。日本の半分以下であり、北上して行けば行くほど、降水量が少ないのである。そこに異常気象で大量の雨が降るのだから、洪水が起こって来るのは当然の現象になる。

 今は長江が洪水を起こしている程度だが、今後、黄河でも起こることになる。黄河は歴史的に何度もその水路を変えており、もしも水路を変えるような洪水が起きた時は、甚大な被害をもたらすことになる。中国共産党は中国で災害が起こると、非常に不手際な対応ばかりしているので、洪水が起こっているのに、有効な対応策を取らないと、暴動が起きて、中国共産党そのものが崩壊してしまう危険性も秘めているのだ。

10,オーストラリアの森林の大火災

 異常気象では中国に大量の雨が降る一方で、オーストラリアには一滴の雨も降らなくなる。熱射病で死亡する人々が大量に出て来る。それに追い打ちをかけるのが、森林の大火災であって、オーストラリアの多くの森林が火災によって失われ、砂漠化していく。農場も牧場もその多くが荒廃して、植民した白人たちは撤退して行くことになる。

11,ベニスの水没

 今後、海水面は上昇して行くので、水の都ベニスは水没することになる。ベニスは中世国家でありながら、複式簿記など近代国家の要素を用意したのであり、明らかにヨーロッパの中世が終了することになる。世界的な繁栄は西ヨーロッパからアメリカへ、そして東アジアや東南アジアに移行しているので、日本はこの機会を利用して伸し上がって行くべきだろう。

12,宇宙ステーション墜落

 現在、先進国が協力して作り上げている国際宇宙ステーションは墜落することになる。これはそもそも最初の段階からして考え方が間違っている。イギリスの諺に「みんな仕事は誰の仕事でもない」というものがあるのだが、この国際宇宙ステーションはまさにこの諺が当て嵌まる。多くの人々が仕事をしているが、誰も責任を取ろうとしないので、国際宇宙ステーションは墜落してしまうことになる。

●予知に対する80対20の法則

 予知というのは、予知したもの全てが当たる訳ではない。現在から予知してそのように予知しえても、その後の人々の活躍で予知された事態とは違う現象を起こして来るからだ。何か1つの予知が外れたからといって、全部外れだと看做さないことだ。暗黒予言の内、幾つかは確実に当たって来るのだ。

 「80対20の法則」を使うと、当たる確率は最低でも20%以上なのである。従って、暗黒予言の内、2つか3つは確実に当たって来るのだ。もしも巧く行くと暗黒予言が当たる確率は50%以上に成って行くものなのである。予知は全てが当たる方が異常なのであって、或る一定程度の予知が当たればいいのだ。

 天気予報でも全て当たる訳がないのだ。或る程度当たってくれさえすればそれでいいのである。どんなにヘボな天気予報だって、快晴と予報しているのに、大雪が降ったりすることはないのだ。予報は飽くまでも予測なのであって、後はその情報を貰った人々が自分で考えればいいのである。

 この暗黒予言も全て当たる訳ではないが、或る程度は当たって来るので、後はこの暗黒予言を知った人々が自分で考え行動を起こせばいいのである。例えば、大震災がやってくると解っているなら、今の内、防災を整えておき、いざ大震災がやってきた時に生き残れるようにすればいいのである。

 こういう確率論を無視して、全て信じるか全て否定するかの二者択一を強いるからこそ、未来が見えて来なくなるのである。誰だって未来が確実にどうなるか解らない。しかし、理性や霊能力を使って未来を探り出そうとしているのであって、完璧な物を得られる訳がないのだ。不完全でも構わないのだ。その不完全なものがあるからこそ、ぼんやりとしながらも、未来が見えて来るのだ。

●予言の効用

 予言には他のものでは代えられない効用がある。それは未来が或る程度見えて来ることで、緊張感を以て現実を過ごすことができるということなのである。人間は現在の繁栄が未来永劫続くと思うからこそ、繁栄の中で堕落して行ってしまうのであって、この現実というものは幾らでも変動するものであって、だからこそ現在の繁栄に溺れることなく、緊張感を以て生きて行くことができるようになるのである。

 キリスト教の教祖イエスは「ガラリア湖を一周する間に神の国は遣って来る」と予言した。しかし、実際にはガラリア湖を何周した所で神の国は遣って来なかった。遣って来たのは。予言したイエス本人が処刑されることであった。では、なぜイエスの嘘に当時のユダヤ人たちは騙されたかというと、それは古代ローマ帝国の支配下で繁栄していたからなのである。繁栄の中で自分たちが堕落してしまい、だからこそ、イエスの予言に飛びついてしまったのである。

 ノスタラダムスの大予言にしても、その予言詩は抽象的であって、的確に未来を予知している訳ではないのに、その後の知識人たちがあれやこれやと勝手に解釈し、そしてその解釈に多くの人々が騙されてしまったのである。ノストラダムスは「1999年にアンゴルモアの大王が降りて来る」と予言したのに、出て来た結果は、それが嘘だったというだったのである。

 予言の中でも悪質な予言というものがあって、それは「人類が滅亡する」とか「この世が終わる」という予言である。この手の予言は、人類がどうにして未来を知りたいという願望を悪用して、人々を最大の不安に陥れることによって、自分たちの宗教やイデオロギーを布教させているにすぎないのだ。キリスト教はヨハネの黙示録を使って信者を増やしていったし、平和主義者たちも「「核戦争によって人類が滅亡する!」と騒ぎ立てて信者を増やして行ったのだ。

 断言しておくが、人類は滅亡したりしないし、この世は破滅したりしない。人類は誕生してこの方、発展に次ぐ発展を続けて来たし、今後も発展し続けて行くことであろう。もしも人類の進化が頂点に達し、それによって破滅が起きたとしても、人類は違う生命体になって生き延びて行くことであろう。

 予言というものは、今後、世の中はどのように発展し行くかを想像することで、事前に未来の変化を知ることができ、それによって自分に有益な未来を作り出すことができるのである。今現在、豊かな生活をしているからといって絶対に思いあがらないことだ。それよりも謙虚になって質素な生活を心掛け、今まで以上に繁栄して行くことができるように仕向けて行くべきなのである。

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子供が大きく変わる時 ~子供の成長過程と子供の激変~

●乳幼児は4歳から5歳で変わる

 人間は直線的には成長して来ない。普段は大した成長をしていないのに、或る時期には急成長して行くというのが、人間の成長の特徴である。蝶などのように変態動物ではその激変ぶりが体そのものを変化させるということで解るのだが、人間のような動物だと激変しても体がそのままなので、我が子が変わって行くのに、親の方がいつまでも子供扱いしてしまうという危険性を孕んでいるのだ。

 赤ちゃんは生まれてから生後3年の間は、人間の基礎を形作る上で最重要な時期を過ごすことになる。まず、母乳によって全身に抗体を張り巡らせ、免疫力を高めて行く。生後6ヵ月辺りに抗体を張り巡らせることができ、生後2年以降は自分で抗体を作り出すことができる。赤ちゃんが病気に罹り易く、命を落とし易いのはこのためで、母親の手厚い育児が必要となってくるのえある。生後2年の或る時期から病気を発症することが激減し始める。

 赤ちゃんは当初は寝た切りなのだが、これは背筋をまっすぐと伸ばして行くという大事な作業を行っているのだ。人間は背筋がまっすぐだったからこそ、二足歩行が可能になったのであって、この時期に堅いベッドで背筋を鍛えて行かないと、健康的な背骨が出来上がらないのだ。そしてハイハイを始めるのだが、このハイハイも二足歩行のためには筋肉を鍛えて行くということで、非常に大事な作業になる。如何に赤ちゃんの時に充分なハイハイをさせてあげるか否かでその後の健康が決まってしまうのだ。それからやっと二足歩行ができるようになるのだ。

 二足歩行ができるのが生後1年辺りであり、自分で免疫を作り出せるようになるのが生後2年辺りであり、それ以降は健康的な幼児として育って行き、体も脳も大きくして行き、何より言語を覚え始めるようになるのだ。幼児が最も可愛くなるのは、3歳児の時であり、この時期に母親の愛情を大量に必要とし、その母性愛をたくさん貰うことで、人格の基礎を形成して行くのだ。

 どの幼児も胎内記憶を持っているのだが、この胎内記憶は3歳までであって、4歳になってしまうと脳内から特殊なホルモンが分泌され、脳内記憶が消去されてしまうのだ。どんなに遅い幼児でも5歳児辺りには脳内記憶を失ってしまう。勿論、例外もいることだろうが、殆どの幼児は確実に4歳から5歳で変わって行くのである。

 この脳内記憶が消去されてしまう時期こそが、幼稚園に通っている時期であって、幼稚園はなぜ2年間しかないのかという理由が解って来る筈だ。保育園は飽くまでも母親が働くという理由から作られたものであり、幼児の人格形成を多少は犠牲にしながら母親が働いているにすぎないのだ。学者たちは保育園に預けてもなんら問題はないというが、実際に育児の現場にいれば、保育園に行った幼児は我儘になってくるというのは常識的に解ることなのである。

●6歳から7歳で児童に成って行く

 小学1生生の時は幼稚園児であることをそのまま引き摺っているのに、小学2年生になる頃には明らかに小学生になっている。幼児は6歳から7歳辺りに、児童へと変わって行くのだ。この時期は両親の下で暮らしながらも、「自我の形成」が行われ、その後の人生で自我の土台というものが築かれることになる。

 この時期、家族の一員として正式に承認され、それ以降は家事の手伝いをきちんと行うことで、自我を形成して行くのだ。両親が我が子を家族の一員として迎える儀式を怠ったり、家事の手伝いをさせないでいると、子供は自我というものをきちんとした形で形成できず、脆弱な人格しか持ちえず、歪んだ考えしか持てなくなってしまうのである。家事手伝いは母親の作業を軽減させるものだけでなく、子供の人格形成のためには非常に重要な行為なのである。

 児童の期間は6年間近く続くので、小学校というのはそれに対応して作られたものなのである。この時期は基礎教育を行わなければならないのであって、「知育」「体育」「徳育」をしっかりとお行わなければならない。勉強ばかりさせては駄目だし、運動ばかりさせても駄目だし、徳育を行わないのも駄目なのだ。飽くまでもバランスを取れるようにしなければならないのだ。

 小学生というのは、学校に行かしてみれば解ることだが、勉強することよりも友達を作ることに夢中になっているものである。だからこの時期、クラス変更は原則として禁止され、小学1年生から小学6年生までは同じクラスメイトにさせ、そこで人間関係を形成して行くのだ。これをやるとクラス内で結束力が高まり、イジメなどは一切消滅してしまうのだ。子供といえども人間関係を深めて行くのには時間がかかり、大した人間関係が出来上がっていないにも拘わらずクラス変更をしてしまうと、子供は深い友情を築けなくなってしまうのだ。それなのに多くの小学校は平気でクラス変更をやってしまうので、小学校でイジメが深刻化したり、登校拒否が起こったり、凶悪犯罪が発生したり、自殺者が出て来てしまうのだ。

 そして宗教教育は現在の昭和憲法では政教分離が定められているので、両親が子供に対して宗教教育を行って行かなければならない。経典を暗記させたり、祭祀に参加させて聖化を受けたり、教団で何かしらの組織に加わって行動したりすることで、子供の宗教心をきちんと養って行かなければならないのだ。要は、神の下で謙虚になり、一生懸命になって精進する生き方を身につけさせればいいのである。子供の時にきちんと宗教教育を行っていないと、大人になってから無宗教や無神論を唱えて来て、自分を絶対化してしまい、その後の精神的な成長を一切停止させてしまい、堕落した人生を送るようになってしまうのだ。大体、無宗教や無神論を唱えて来る学者ほど碌な研究をして来ないものなのである。学問というものは研究すればするほど解らないことに出くわすものであり、何か偉大なものを発見した時、そこに神の見えざる力を感じてしまい、神の凄さを思い知ることになるものなのである。

●中学生で最大級の反抗期

 小学校を卒業し、中学生になると、最大級の反抗期を迎えて来る。小学生の時では親から徐々に離れて行く時期であったが、中学生になると親から一気に離れて行く時期なのだ。子供は親から離れることで、自立を開始して来るのである。本来、この時期に入れば家族から切り離し、全寮制の学校に入れるのが最良の選択肢なのだが、経済的な理由もあって自宅から中学校に通わせる選択肢を取ってしまうのだ。だから、この時期に親と子が衝突してしまい、問題を起こして来るのである。

 自立というのは思春期に入ってから起こすものであり、それまでは親に従属するものなのである。育児や子育てで大いに間違うのは、子供が従属すべき時に、親が自分の作業を軽減するために子供に自立を強いてしまい、そのために子供の心の中に母性愛や父性愛が蓄積されず、その怒りがいざ自立の時期を迎える頃になると、親に向かって得体の知れない反抗をして来るという現象を引き起こしてしまうのだ。

 従属する時代に両親から母性愛や父性愛をしっかりと貰っておけば、子供は親に拘る理由がなくなり、反抗期に於いてその反抗のエネルギーが親に向かわす、外に向かって放出されることになるのだ。猛勉強をし出したり、スポーツを遣りまくったり、芸術に真剣になって打ち込むのである。

 中学生はまさに「自我の目覚め」であり、それまで親や教師に指図されて動いていたのが、自分で自発的に動いていくようになるのだ。青春が「第二の誕生」と言われるのはそのためで、この13歳から18歳の6年間に如何に熱い時期を送ったか否かで、その者の人格は決定的になってしまうのである。

 高校生になると、女性は大量の女性ホルモンが分泌され始めるので、如何にも女らしく成長して来ることになる。この時期にオシャレに気を使い、自分が女として生まれて来て良かったな思うオシャレをしないと、女として自立できなくなり、自信を失ったままになってしまうのだ。男性も大量の男性ホルモンが分泌され始めるので、如何にも男らしく成長して来ることになる。この時期、女性を遮断して、男だけのグループに入り、スポーツで体を鍛え、男同士の深い友情を育んでおかないと、男として自立できなくなり、自信を持てなくなってしまうのだ。

 親の立場に立っていうと、娘に関しては服について多少の贅沢を認めてあげるべきだし、息子に関しては運動部に入らせ、それにかかるお金は親がきちんと出してあげるべきであろう。娘がオシャレもせずに勉強してばかりたら、女性として自立できなくなってしまうし、息子が運動もせずに勉強ばかりしていたら、男性として自立できなくなってしまうのだ。

●19歳で親元を離れて行く

 19歳までに肉体の成長は終了するので、19歳以降は親元から追放すべきなのである。高卒で働きに出たら、もう収入があるのだから、どこかに家を借りて住むべきだし、大学や短大に通うなら寮に入れるなり、下宿させるべきなのである。自宅から大学や短大が近いからといって、自宅から通わせていると、子供の方は自分の精神を成長できなくなってしまうのだ。

 高校を卒業したからといって、完全に自立出来た訳ではないのだ。自立の第一段階が終わった程度に過ぎないのだ。19歳以降は肉体の成長の終了と同時に、精神の成長が加速されるので、この時期に自分の人生哲学をしっかり形成しておくことが非常に大事となる。

 特に大学に行った人が気をつけるべきことは、大学教授の意見を鵜呑みにしてしまい、自分で自発的に考え、自分の人生哲学を形成しなくなってしまうということなのである。人生哲学というのは、自分で生み出して行くものであって、他人に教え込まれることではないのだ。はっきりと言っておくが、大学生の時に自分が考えたことは大抵が間違っているのだ。自分で考えつつも、勇気を以て行動し、散々試行錯誤しながら、やっと自分の人生哲学を産み出して行くものなのである。

 孔子ですら「三十にして立つ」と言ったくらいだから、その時期辺りにならないと、自分の人生哲学が形成されてこないのである。それだけ精神の成長というのは遅いのである。自分が読書するなり、思考するなり、行動するなりして、迷いながら自分の人生哲学を形成して行けばいいのだ。若者というものは、30代になった時、自分の若かりし頃の考えを捨てて、やっと自分独自の考えを持てるようになるのである。

 若者が間違った考えを持ってしまうのは、実は大学生の頃だと思っておいた方がいい。社会主義にしてもフェミニズムにしても、この時期に洗脳されてしまうものだ。若者を洗脳してしまうイデオロギーはそれを教えられれば、そのイデオロギーは論理体系がしっかりと出来上がっているので、そのイデオロギーを正しいと思い込んでしまうのだが、現実というのはなんの矛盾もないことはないのであって、そういうイデオロギーは現実離れしており、実は死んでいるイデオロギーにすぎないのである。

 若者がしっかりとした人生哲学を持つということは、一切の矛盾を消滅させることではないのだ。そうではなくこの世に矛盾があることを受け入れ、逆にそれを原動力として、成長できるようにして行くことなのである。例えば、若者なら貧乏生活を強いられるものだ。だからといって、この世から貧困を絶滅するために平等な社会を作ろうというのではなく、自分が貧乏だからこそ、自分が心を入れ替え、自分が努力して、お金持ちになって行こうという考えを持つのである。

●一人前の人間になるということ

 自立を完成させるということは、唯物論から唯心論へと転換させることなのである。環境が自分の考えを決定するのではなく、自分の考えによって自分の環境を作り変えて行く。環境を主人公にするのではなく、自分を主人公にするのである。これができてこそ、自立が完成したと言えるのだ。

 人間が一人前になるということは、この精神的自立と経済的自立の二つができなくてはならないのである。経済的自立は就職して、自分でお金を稼ぎ、家計簿をしっかりとつけて、質素な生活をすればできてしまうものである。しかし、この精神的自立は経済的自立をするだけではできないものなのである。経済的に自立できても、精神的に自立できない者たちは大勢いるものなのである。自分のことは棚に上げて、「景気が悪い!」といい、自分は何一つ政治活動をしていないのに「政治が悪い!」といい、凶悪犯罪者が凶悪事件を起こしても「社会が悪い!」と言って、なんの解決にもならないことを平気で仕出かしてくるのである。だから、裕福な生活をしている筈なのに、自分の人生でトラブルが続出して来るのである。

 我々の世の中では一応、結婚した時に一人前の男女と看做すようにしている。但し、飽くまでも結婚は独立の最重要条件としているだけであって、その男女が結婚前までに自立を完成させていないと、結婚後にトラブルが続出し、離婚に至ってしまうものなのである。結婚して行く者の中には、妊娠を既成事実にして結婚してしまうカップルもいるので、そういうカップルは結婚しながら自立を完成させ、独立して行かなければならないのである。

 結婚しても、赤ちゃんを産まねば親から独立したことにはならない。親から独立するということは、赤ちゃんを産み育てることで、自分たちで家族を形成して行くということなのである。自分たちが妊娠し、出産し、育児をする中で、親としての自覚と能力が身についていくものなのである。自分が親になって育児をしていれば、自分の親の気持ちが解るようになり、親に心から感謝することができるようになるのである。

 言わば、一人前の人間になるということは、自分の親に心から感謝できる人間になるということなのである。言葉で幾ら感謝の言葉を言っても駄目だ。自分たちが結婚し、妊娠し、出産し、育児をすることで、その中で自分を成長させて行かねばならないのである。自分が親に感謝しているからこそ、自分の子供大きくなって、自分に感謝をして来るようになるのである。そうやってその家系に於いて命が継承されていくのである。

 人間は他の動物とは違い、独立して来るまで、長い時間をかけて成長して来る。しかも肉体的に成長はどの人たちも19歳で止まってしまうので、見た目には一体誰が独立しているのか解らない。しかし、誰が一人前の人間か解る基準は、結婚していることと、赤ちゃんを産み育てていることで解るものなのである。人間は精神的な独立を終えていなければ、結婚しないし、たとえ結婚したとしても赤ちゃんを産もうとしないものだ。自分の心の中に何か心残りがあるからこそ、結婚しないし、赤ちゃんを産まないのだ。

 親としては、我が子が高校や大学を卒業し、就職してくれれば、それで親の責任は終わりではないのである。我が子が結婚し、赤ちゃんを産み育ててくれるまで、最後の責任は残り続けるものなのである。だからこそ、どの親も我が子が結婚してくれると。「肩の荷が下りた」というし、赤ちゃんが生まれると、一人前の大人として我が子を認めるようになるのだ。育児や子育ての結果というものは、我が子の結婚生活の中で出て来るものなのである。それゆえ、育児や子育てをする時は、心して行わなければならないのである。

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子供の進路は親が決めるべし

●親としての最低限の義務

 我が子は親元で暮らしている以上、親に従属するのは当然であって、子供が如何に自立して来ようが、親元を離れるまで完全に自立することなどできないのである。自分一人で稼げるようになり、親元から離れて行って、始めて親から自立できるのであって、それまでは自立のための助走期間であって、子供が勝手に自立しきれる訳がないのだ。

 そのため、子供が自分で稼げるまで、親は子供の面倒を見るのは当たり前なのである。まずは、子供の進路は親が決めるべし。子供が主体的になって進路を決めるのではなく、親が主体的になって進路を決めてしまうのである。進学先をどうするかなど、子供がそれを判断できる充分な情報や的確な判断力を持っている訳がないのだ。家族の中でそれらを持っているのは親であって、親こそが進学のための情報を収集し、親が自分の判断力を使って決めてしまえばいいのだ。

 進学は親が決めるものなのである。この当たり前すぎることを、平等イデオロギーに取りつかれて、子供の主体的な判断に任せようとしてしまい、そんなことをするからこそ、子供は得体の知れない進学先を決めてしまい、大失敗を仕出かしてしまうのである。子供は親によって養育されている以上、親の命令に忠実に成るのは当たり前であって、それが嫌なら自分でお金を稼いで進学して行けばいいのである。親からお金を貰うけど、親から口出しされたくないというのは、非常に甘ったれた考えであるのだ。

 女子柔道選手の上野雅恵は、高校進学の際に、父親が進学する高校を決めてしまった。父親が言うには、高校での柔道生活がオリンピックで金メダルを取れるか否かを決めてしまうのだから、そのために相応しい高校を選ぶのは、未熟な娘ではなく、成熟した父親なのであるという考えを持って、父親が高校を調べ上げて、進学先の高校を決めてしまったのだ。だからこそ、上野雅恵は高校生の時に着実に実力をつけて頭角を現し、オリンピックで金メダルを取ることが出来たのでる。もしも上野雅恵が間違った高校に行って、高校3年間を無駄にしていれば、金メダルを取ることは絶対にできなかったのである。

 子供というのは、親が絶対的な自信を持って、この進学先に進めといってくれば、余程悪い進学先でない限り、親の決めたことに従うものなのである。進学先をあれやこれやと悩む時間が削除される分、その削除された時間を使って、自分がやるべきことに集中し、優秀な成績を収めることができるのである。

●「職業の世襲」と「職業選択の自由」

 進学先を決めた以上、就職先も親が決めるべきなのである。忘れてはならないのは、この世で優れた職業ほど世襲なのである。天皇にしても、神職にしても、老舗にしても、名工にしても、農業にしても、牧畜にしても、漁業にしても、全部世襲である。優れた職業ほど、余所者を入れる余地がなく、子供が幼い時から親の働く姿を見て育ち、親も我が子だからこそ先祖伝来の精神や知識や技術を教えるのであって、そうやって世襲することで、優れた職業が子々孫々保たれて行くのだ。

 昭和憲法に書かれた「職業選択の自由」なる文言に騙されてしまうと、「世襲することの大切さ」など解らなくなってしまうのだ。政治家という職業は、世襲してくる確率が非常に高い職業である。国家権力を運営して行くという難しい仕事であるために、それに見合う精神力と能力と技量がなければ途端に国政を誤ってしまうからだ。政治の世界というのは、政治家同士が結婚を繰り返すことで、びっしりと閨閥を張り巡らしているのであって、だからこそ、安定した政治を行うことができるのである。政治が危険になるのは、そういう閨閥とは関係のない余所者が入って来た時であって、そういう者はシガラミが何もないから、権力を握り次第、権力を暴走させてしまうことになるのである。

 職業選択の自由を行使できる職業というのは、実はそれほど優れた仕事ではないのである。ありとあらゆる職業の中で最も世襲が否定されるのは、芸術の仕事であろう。「芸術に世襲はなし」と言われるが、芸術家たちは奇人変人が多く、作って来る作品も殆どがガラクタであり、後世にまでこれは芸術作品である物として残るのは、ほんの僅かなのである。芸術家として要求されるのは、天性の才能であって、人為的に身につけた能力ではないのだ。だからこそ、世襲ができないのである。

 職業選択の自由を行使できる職業は、実は競争が激しい職業なのである。世襲の職業なら競争は少ないものだ。下手をすると全く競争がないということも有り得る。せいぜい兄弟間で争い事が起こる程度であって、誰が世襲するか決定してしまえば、もう争い事が起こらなくなるのだ。職業の選択ができる職業に就いてしまうと、そこに就職するにも競争がある訳だし、そこで出世して行くにも競争があり、そこで勝ち抜いた者だけが、高額な給料を手にすることができるのである。

 それゆえ、職業選択の自由があるからこそ、親が子供の将来の職業を決めてしまうのである。家庭の中で我が子と接していれば、我が子の能力がなんぼのものか大体解るものである。文章が巧いのなら、「作家にでもなりなさい」と言えばいいし、絵を描くのが巧いのなら、「漫画家にでもなりなさいと言えばいいし、戦争ごっこが好きな男の子なら、「自衛官になりなさい」と言えばいいし、オシャレが大好きな女の子なら、「ファッション関係の仕事に就きなさい」と言えばいいのだ。そうすると、我が子は自分の就職先が見えて来て、今までのダラダラとして過ごしていた生活とは一変して、俄然遣る気が湧いて来て、それに向かって精進し始めるのだ。

●親が決めた進路で誤っても、若ければ幾らでも修復が効く

 現在のように、子供の主体性を尊重するような風潮からしてみれば、親が進学先を決めたり、就職先を決めたりするのは、とんでもないことと思えるかもしれない。しかし、子供には自分の進学先を最善な形で決められる能力があるだろうか? 子供には自分の就職先を最善な形で決められる能力があるだろうか? 答えを言ってしまえば、「無い!」というしかないのである。

 もしも、親が決めた進学先が子供にとって納得できないのであるなら、若ければ幾らでも修正が効くものなのである。進路を親が決めるからこそ、子供の方も不退転の決意を以て、進路の変更を行うことができるのである。その時は子供の意見を聞き、子供の方が納得できる理由を述べているなら、子供の意見を尊重して、進路変更を行えばいいのだ。

 親が決めた就職先も、子供がその職業を厭うなら、大きくなってから拒否すればいいのである。それ以降は、自分で職業を選択すればいいのである。但し、自分が親に言うことに逆らう以上、自宅を出て行き、自分が働いた収入で生活すべきなのである。職業選択の自由を行使していながら、親から面倒を見て貰おうというのは、非常に甘ったれた考えであるのだ。

 親が進学先や就職先を決めてしまうのは、一見理不尽のように思えるが、実は競争率を激減させるということでは、驚異的なパワーを発揮して来るのである。例えば、親が子供に「東京大学に進学しなさい!」と決めているなら、その子供は東京大学に進学することに全力を注いで来るので、当然に学力も上がってしまい、他の子供たちのように「国立大学に行こうかな?、私立大学に行こうかな?」と迷って、エネルギーや時間を無駄にすることが全くなくなるのだ。

 就職先にしても、親が決めてしまえば、子供はその就職先に就くことが当たり前と思ってしまうので、子供の頃からその職業に関する情報を収集し始め、いざ、その就職試験を受けても、他の子供たちより高い成績を収めることができるし、いざ、働きだしても、やるべきことが解っているので、テキパキと働くことができ、安易に出世して行くことができるのである。

●父親が子供と二人で話せば、最善の選択肢が見つかるもの

 親が子供の進学先や就職先を決める場合、親が勝手に決めてしまうのではなく、親が子供と会話することによって、子供の能力を見極め、それによって決めてしまうべきなのである。何をやらしても才気煥発な子は、私立学校に進学することは的確であっても、何をやらして鈍い子は、私立学校に進学することは不的確であって、公立の学校に進学すべきなのである。

 特に親子の会話でも、父と子の会話こそ、子供の進路を決定的にさせるのである。父親と子供が二人っきりで話し合って、進学先をどうするのか、就職先をどうするのか決めてしまえば、子供はその決定を受け入れ、真剣になって自分のやるべきことを遣り始めるのである。この機会を持たないからこそ、子供は迷いに迷ってしまい、いざ進学する時に激しい競争に晒されてしまい、そのくせ進学したら遊び呆けてしまい、いさ就職する時に激しい競争に晒されてしまい、そのくせ就職したら遊び呆けてしまい、凡庸な人物になってしまうのである。

 父親と子供が二人で話し合えば、最善の選択肢が見つかるのだから、母親はその会話の場をきちんと儲けてあげるべきなのである。母親は事前に些細なことでもいいから、子供と会話しておき、子供の意見を充分に汲み取り、それを父親に伝えておくべきなのである。そうすれば父親は自分の独断に頼るのではなく、子供の意見や、母親の意見も取り入れて、的確な判断ができるようになり、それは子供にとって最善の決定として現れて来るのである。

 この世にはこの作業を行わずに、子供の進学先や就職先を決めてしまい、それによって子供の人生が台無しになってしまう子供もいるものである。例えば、医者の息子のように、子供の頃から父親の病院を継ぐことが当たり前のことになっており、そのために闇雲に受験勉強をさせられ、しかし、成績が悪いから医学部に進学できないという事態も出て来る。医者は本来、治療の技術が求められる仕事なのに、現在のシステムでは高度な学力を問われ、そこを突破して来ないと、医者になれないので、幾ら我が子といえども、勉強ができないのなら、無理なのである。そういう子供が親の期待に応えられないことで、グレてしまったり、凶悪犯罪を起こしたとしても、それは親子できちんと会話せず、ただ闇雲に医者になるように進めて行ったからこそ、子供が自分の人生を台無しにしてしまったのである。

 親がなくても子は育つが、我が子を立派な人物に育てあげたいのなら、親が子供の進学先や就職先を決めてしまうべきなのである。一見、子供の主体性を完全に無視している行為であっても、実はその決定こそが子供の主体性を育てて、立派な人物に育って行くことができるのである。子供が思春期に入って、青春時代特有の悩みがちの現象を起こして、自分の進路に迷いに迷ってしまったら、それはエネルギーや時間の無駄なのである。そのエネルギーと時間を子供にとって有効なことに注ぐためにも、親は子供の進路を決定してしまうべきなのである。それこそは実は最も子供の利益になるのである。

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父親だけが息子に仕事の意味を教えることができる

●母親には理解不能な「父親と息子の関係」

 女性なら他人と仲良くしたいのなら、お喋りすることで人間関係を深めて行く。これは結婚しても変わらないし、出産しても変わらないことだろう。、母親は子供たちと人間関係を良好にしたいのなら、息子や娘と話し合えばいいと思っている。それを行うからこそ、親子の関係は良好に保たれるのだ。

 しかし、自分の目の前に有り得ない人間関係を形成して来る男性二人がいる。それが父親と息子の二人である。まず、父親と息子は話し合うことが殆どない。それなのに、釣りやキャッチボールを一緒にやって、大して会話することなく「面白かった」と言って来るのだ。母親にとっては夫も息子も単体なら愛すべき対象であっても、二人が一緒になると不気味な関係を作っているなと思ってしまうのだ。

 なぜ、こんなことが起こるのか? それは男女では脳が違うからなのでる。男性の脳は女性の脳よりも大きいために、夫は仕事で大量に脳を使ってしまうし、息子は勉強や遊びで最大限に脳を使ってしまい、家庭では脳を使うのが限られてしまうのだ。女性たちは脳が小さいために、男性のように仕事で全力を尽くすことなんてして来ないし、勉強や遊びも余力を残して行うし、家庭の中でも脳を巧く使うことで、和気藹藹なものとさせようとするのである。

 しかも、女性の脳は男性の脳より小さいのに、お喋りをする分野だけは異常に発達していて、この分野を使うからこそ脳はきちんと使われたと思うし、もし女性がお喋りをしなければどうやっても欲求不満を抱え込んでしまうことになるのだ。これは夫婦で会話がなくなってしまった時、夫は平気でいるのに、妻は離婚を考えるほど深刻な状況になってしまうのは、このためなのである。

 乳幼児の段階でも脳の違いは出ているものなのだが、小学生になればその脳の違いが如実に現れて来る。その男女の脳の違いをきちんと受け止めることだ。平等イデオロギーに取りつかれて、男女の脳は同じで、行動も同じだろうと思ったら大間違いなのである。脳の違いは行動の違いとなって現れて来て、異性から見れば不可解な行動でも、それはその異性たちにとっては合理的な行動であることもあるのだ。

●父親は背中で息子に教える

 男性の心身は狩猟をするように出来上がっている。人類が文明状態に入り、都市住民は千年以上に亘って狩猟をしなくなったとしても、男性の心身はなんら変化を遂げず、狩猟をする心身になっているのだ。男性が狩猟をする場合、男性だけでチームを組んで、組織戦を行うことで狩猟を展開して行く。組織戦を行う以上、誰が指導者で誰が部下かは明確になっているので、それを如何なることがあっても崩してはならないのだ。

 父親と息子といえども、狩猟をするチームを形成しており、父親が指導者で、息子は部下なのである。父親がすべきことは、この狩猟を成功させることであり、息子がすべきことは父親に絶対服従することなのである。父親と息子に或る程度の会話は必要だが、それ以上に必要なのは、親子で行動することであり、獲物を捕えて来ることなのである。例えば、父親と息子が一緒に釣りに出かけ、大した会話をしていないにも拘わらず、魚が大量に取れたら、満面の笑みを浮かべて帰宅して来るのは、狩猟本能を満たしたからなのである。

 父親は息子に或る程度のことを教えても構わないが、必要以上のことを教えないことだ。息子にあれこれ教えてしまえば、息子の自発性が破壊されてしまうからだ。息子に必要なのは試行錯誤であって、何度も失敗するからこそ、狩猟が上達して来るのである。いきなり成功させてしまうのではなく、適度に失敗させて、その失敗を通じて上達させていくべきなのである。

 よく、「父親は背中で息子に物を教える」という。こんなこと、母親にとっては理解不能な遣り方であろう。物を教えたいのなら、口を使って教えればいいのではないかと思ってしまうが、実際にやらしてみると、どうやっても巧く行かないのだ。娘だったら、母親とお喋りしながら、家事の仕方を学んでいくことだろう。しかし、息子は父親と余り会話をせずに、父親の背中姿を見ることで、仕事の仕方を覚えてしまい、実際に仕事をやらしてみると、娘とは比較にならないくらい、凄まじい能力を発揮して来るのである。

 勿論、息子も父親と会話をしなくせに、母親と会話をすることで、多少なりとも情報収集して来る。「お父さんは一体どんな仕事をしているの?」「お父さんの帰りはいつなの?」と単発的な質問を母親にぶつけて来て、父親の情報を探るのだ。その際、母親がきちんと答えてあげないと、息子は本当に何も情報を持てなくなってしまい、そのために、有り得ないようなグレ方をしてくるのだ。父親が息子と余り会話しないからこそ、母親はその中間に立って、父親と息子の仲を取り持ってあげなければらないのだ。

●父親がやっている仕事に無駄なものは一つもない

 ところが、多くの母親たちは、父親と息子が会話しない状況を利用して、息子に父親の悪口を言って来てしまうのである。子育てに於いて、母親が絶対にやっていけばいことは、息子の前で父親の悪口を言うことなのである。父親と息子は会話が少なくても、指導者と部下の関係を築いており、その指導者の権威が傷つけられてしまうと、組織戦を行えなくなり、息子は自分の進むべき道を見失ってしまうのだ。

 大方の母親たちが夫に不満を抱いてしまうのは、「会話不足」か「収入不足」である。会話が少ないのなら、日々なんでもいいから会話をすることである。妻が夫に喋りまくるのではなく、夫の話を聞いてあげるべきなのである。男女の場合、女性の方が言語能力は達者なので、夫婦という二人しかいない状況では、妻の方が一方的に喋りまくることになってしまうのだ。だから、妻は自分の喋りたいことを控えて、夫に話させる機会を与えてあげればいいのだ。その後、妻が喋るようにすればいいのだ。

 収入不足に関しては、家計を見直せばいいのだ。収入を1つにしてしまうのではなく、複数用意しておくことだ。夫が労働することによって得られる所得収入と、夫婦の資産を運用して得られる資産収入の2つを、最低でも持っておくことだ。子供たちがいるというのに、いつまでも所得収入に頼って生活していたら、誰がどうやっても貧しくなってしまうものなのだ。

 資産収入を増やして行くためにも、貯金を行う習慣をきちんと身につけておくことだ。所得収入の2割は何がなんでも貯金に回してしまい、資産を着実に増やして行けばいいのだ。資産がないからこそ、いつまでも経っても家計が安定しないのであって、或る一定規模の資産が形成されれば、夫の所得収入がどのような金額であっても、家計は安定して来るものなのである。

 世の中には、世間的に見て評価されない仕事もあるものである。しかし、職業に貴賎はないのだ。如何なる仕事であっても、それが必要であるからこそ存在しているのであって、それはそれで尊い仕事なのである。夫が世間的に見て評価されない仕事に就いている場合、絶対にその職業の悪口を言わないことだ。如何なる父親の仕事も、その仕事によって家族の生活費が得られるなら、無駄なものではないのだ。家族のために必要だからこそ、やっているのである。母親が父親の仕事に文句を言っていれば、父親は何も反論して来なくても、息子はカンカンになって怒り、思春期になると恐ろしいまでの反抗を母親に対してやってくるものなのである

●父親が仕事を楽しんでいれば、息子は自分にとって最善の仕事を遣り始めるもの

 仕事の意味というものは、父親だけが息子に教えられるものなのである。母親ではこの役目は無理なのである。両親が揃っている家庭で育つと息子に一本筋が通った人物になるが、母子家庭に育ってしまうと、たとえ仕事で成功できたとしても、一本筋の通っていない人物になってしまうのは、このためなのである。母子家庭で育ったのなら、社会に出た後、自分の父親代わりになってくれる年上の男性と巡り会って、そこで仕事の意味を教えて貰うしかないのである。

 男性にとって、仕事をすることは、家族を養うために必要な行為なのである。それと同時に、「世のため」「人のため」「お国のため」に働くことで、より多くの人々に奉仕し貢献することで、幸せにして行くことができるから、全身全霊を尽くしてでも行うのである。幾ら年収の金額が高いからといって、家族を養うためだけに働いていては、父親としてだけではなく、男として失格なのである。男なら家族を養って当たり前なのだ。家族を養って、それ以上のことをするからこそ、男は男たり得、父親は父親たり得るのである。

 父親は息子が小学生になった時、どうやって子育てをすればいいか解らないものだ。子育てを巧く行いたいなら、子育てに全力を注ぐのではなく、仕事に全力を注ぐことだ。父親自身が仕事を楽しむことなのである。お金に囚われるのではなく、お客様を幸せにすることに生き甲斐を見出すべきなのである。

 父親が仕事を楽しんでいれば、自然と子育ては巧く行き、いずれ息子は自分にとって最善の仕事を見つけ出し、それを遣り始めるものなのである。その時、息子は自分勝手に仕事を行うのではなく、父親の物真似をしているのではないかと思うくらいに、父親が仕事をしている姿を瓜二つの仕事の仕方をしてくるのだ。その父親がどのようなものであったかは、息子の働く姿を見れば一目瞭然となってしまうのである。

 現在、農家は後継者不足に悩んでいる。それは父親たちが自分の仕事を楽しみ、お客様を幸せにすることを忘れてしまったからなのである。何かあれば政府に頼り、補助金を要求し、挙句の果てには所得補償までして貰うようになってしまったのである。政府に頼る余りに、独立自尊の気概が失われ、農作業を苦痛に感じ、お客様を幸せにすることなど、完全に忘れてしまっているのだ。農家の年収は1000万円を平気で超えるのである。しかも食費はタダのようなものであって、可処分所得はサラリーマンとは比較にならないほど多いのである。それでも農家の息子たちが父親の職業を継がないというのは、その父親に問題があるからなのである。化学肥料や農薬を大量に使い、危険な農作物を平気で作っていれば、如何なる息子でも農業に対して自信を持てなくなるのは当たり前のことなのである。 

 父親の仕事が息子に最大の影響を与えるものなのである。父親が息子をきちんと育てたいのなら、まずは仕事に精を出し、全力を尽くして、仕事を楽しみ、お客様を幸せにして行くことだ。幾ら大儲けをした所で、息子に言えないような疚しいことをしていては、いずれ息子は感づいてしまい、父親に対して凄まじい反抗をして来るものなのだ。父親は自分のやっている仕事が、必ず家庭の中で現れて来るものなのである。

 息子をきちんと育てたいのなら、地道に真面目に働くことだ。自分の仕事が誰から評価されなくても、息子はきちんと見ているものなのである。そして息子が大きくなった時、きちんと父親の志を継承して、立派な男に成長して来るのである。息子が成長の過程で間違った道を歩むのなら、その息子だけが間違っているのではなく、その父親自身も間違った生き方をしているのである。その誤りを改めない限り、息子はどうやっても正しい道を歩むことはないのだ。

 だから、繁栄して行く家族というものは、益々繁栄して行く。父親が立派な仕事の仕方をしていると、息子たちも立派な仕事の仕方をし始め、収入を多く増やして行く。その息子たちも結婚して子孫を増やして行くのだから、父親の子孫たちが稼ぎ上げる年収は莫大なものに成って行くのである。父親の生き様がきちんと子孫たちに継承されていけば、この世がどのような状況になったとしても、その子孫たちは必ず真面目に働いて、きちんとして成果を作り出して行くのである。

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子育てに於ける父親の絶対的必要性、 ~父親の絶対的自信と子供の反抗、そして青春の飛翔~

●父親が本当に必要となるのは、実は反抗期を迎えてから

 はっきりと言ってしまえば、育児の段階では父親の出る幕はない。せいぜい母親がきちんと育児ができるように、生活費を調達してくれればいいのだ。幾ら育児が大変だからといって、父親が母親を押し退けて育児に手を出し過ぎてしまうと、母親の方が育児をきちんと行えなくなり、その後、母親として実力が付いて来ないために、至る所でトラブルを起こしてしまうのだ。育児の段階では母親がフラフラになりながらも、可能な限り自分一人の力で育児をするということは、母親としての実力をつけるためには、絶対に避けては通れぬことなのである。

 父親が必要になるのは子育てに於いてである。育児には不要な父親でも、子育てに関しては必要となって来る。育児と子育ての分岐点は、大体、小学生になった時なのである。正確にこの時期であるとはいえないものだが、赤ちゃんから幼稚園児までが育児の対象であり、小学生以降は子育ての対象なのである。一体、育児と子育ては何が違うのか? それは子供を家族の構成員と認め、家族内の様々な仕事を請け負わせることで、家族のために奉仕し貢献させるようにすることなのである。

 我々がいう「人格」というものは、この時期辺りから形成されていくのである。幼稚園児までは母親におんぶに抱っこでも構わないが、小学生になったら母親に頼り切ることはやめさせ、自分が家族の一員として、家族に奉仕し貢献して、その過程で自分の人格を徐々に作って行くのである。

 小学生の段階では、外に出ては、まだまだ子供扱いしかされない。しかし、家庭の中では家族の一員として扱われ、自分の存在が尊重され、意見することができ、行動することができるからこそ、その人格はすくすくと成長して行くのである。もしも家族というものがなく、子供をいきなり外に放り出してしまったら、子供は自分の人格を巧く成長させることができず、生きて行くことで精一杯となり、人格が相当に捻くれてしまい、まともな人生を歩むことができなくなってしまうのだ。

 小学生時代に家族の中でのんびりと過ごして行くと、女の子は初潮が始まったあたりから、男の子は精通が始まった辺りから、徐々に両親から離れて行くことだろう。この時期こそ自立の始まりであり、反抗の始まりである。この時期に子供が親に背いていくことで、その親の存在と葛藤して行き、自分の人格を築き上げて行くのである。実は、父親の存在が本当に必要となるのは、この反抗期に於いてでなのである。

●父親の絶対的自信

 父親というの者は精神作用を担う者なのである。家庭に父親がいるだけで、家族の構成員たちの精神レベルを上げてしまう機能を持つのである。これは両親が揃う家庭と母子家庭の違いを一目瞭然となる。母親しかいない家庭で育って来た子供は精神レベルが低いものだが、両親がいる家庭で育って来た子供は精神レベルが高くなってしまうものなのである。

 男性というのは女性より脳の大きさが大きいために、あれやこれやと考えて来る生き物なのである。人類は今まで様々な哲学者を輩出して来たが、哲学者の殆ど全ては男性である。男性はただ単に生きていればいいのではなく、「如何に生きるべきか?」を問い続け、それを実行することで、より良い人生を送ろうとして来るのだ。このことは、女性たちが自分の周りの人間関係を良くして、幸せに生きられればそれでいいと考えて来るのとは大いに違う所なのである。

 父親が哲学者でることは必要はない。しかし、父親が今まで自分が生きて来た中で、確固たる「人生哲学」を形成し、その人生哲学に従って自分を律して生きて来ないと、父親として君臨し続けることはできない。父親はどんなに高額な所得を得て、家族の生活費を調達して来ても、自分の人生哲学を以て家族に接して来ないと、家族は反乱を起こして来るものなのである。なぜなら、妻も子供たちも、この男性は父親としておかしいと思い始めるからなのだ。

 父親は働きに出て稼いで来るのだから、祖国の恩恵を受けているものである。祖国が国防をきちんと行い、治安を維持してくれて、公共事業も盛んに行ってくれるからこそ、自分は安心して働きに出れるのである。それゆえ、父親には「愛国心」というものが必要であって、愛国心があるからこそ、妻や子供たちは父親を敬うようになるのである。もしも愛国心がなければ、妻や子供たちは父親を敬おうとはしなくなるのだ。日本は大東亜戦争で負けて、その敗戦ショックのために愛国心を失ってしまった者たちも多かったが、そういう父親のもとで育って来た子供は、その後、多くの犯罪に手を染めたのであって、戦後長らく犯罪発生件数が多かったのは、そのためなのである。一家の主たる者、家庭の中では絶対に祖国の悪口を言うべきではないのである。そういうことをやっていると、子供が父親を殺すようになってしまうのである。

 もう一つ必要なのが「宗教」である。宗教は神の絶対性を強調し、それによって人間の相対性を図るために、神を敬う者は己を謙虚にし、傲慢になることなく、冷静沈着となって物事を進めて行けるようになるのだ。生きていれば様々な現象に出食わすものであるが、宗教心があれば自分の心に不動なるものが出来上がって、人生をブレなくさせるのである。子供は自分の父親が神を崇敬しているからこそ、自分の父親を神様の次に偉い人物だと思い込むようになり、父親にきちんと服従して来るのである。

 この父親の人生哲学と愛国心と宗教心の三つが揃うと、父親に絶対的な自信が出来上がり、家族にどんな問題が生じて来ても、きちんと立ち向かっていくことができるようになるのである。この父親の絶対的自信があればこそ、子供は反抗期を迎えた時、その父親の支配から脱しようと真剣に生き始め、自分の人格を形成して行くことになるのである。

●子供の反抗

 子供は小学生までは家族に認められることで自分の人格を育んでいき、反抗期に入ってからは、子供は父親に対して反抗し、その過程の中で自分の人格を作り上げて行くのである。子供の人格形成で鍵を握っているのは父親であり、父親なくてもまともな人格を形成できないのだ。

 確かに「親がなくても子育つ」という諺のように、父親がなくても子は育つものだ。しかし、それは肉体だけが育っただけであり、人格が育った訳ではないのだ。それだからこそ、母子家庭に育った子供は、大きくなってから自分の実の父親を探そうとするものなのである。父親に一目でもいいから会わない限り、自分の人格がどうしても成長してくれないのである。いつまでも心のどこかに心残りが残り続けてしまうのである。

 子供の反抗は父親があればこそ、その父親に絶対的自信があればこそ、まともな形で反抗して行くことができるのである。今まで父親の言うことを聞いてきたが、これで本当に正しいのかどうか葛藤し始め、自分なりの道を切り開こうとして来るのだ。大人から見ればこの時期は確かに無駄なのである。大方、父親の言っていることが正しいからだ。しかし、父親の言うことを敢えて否定して、自分の道を切り開くからこそ、自分の人格が出来上がって来るのである。

 子供が反抗期を迎えたら、その反抗のエネルギーを外に向けさせるのである。勉強でもいいし、スポーツでもいいし、芸術でもいいし、家族内に籠らせず、外で活躍させるからこそ、我が子が鬱屈せず、自分の道を切り開いていくことができるのである。この時期は急激に成長して行く時期でもあるので、巧く乗れば一気に飛躍して行き、大成功を収めてしまうものなのである。

 最悪の選択肢は、小学生までに父親が子供ときちんと接して来なかったために、反抗期を迎えてから、子供を自分のもとに縛りつけようとすることなのだ。これをやられると子供は通常では有り得ない反抗をして来るようになり、不良になったり、警察沙汰になったり、学校に行かなくなったり、精神病送りになってしまうのだ。

 自分の父親に人生哲学がなく、愛国心がなく、宗教心がなければ、まともに反抗したくても反抗できなくなり、尋常ならざる反抗の仕方をして来るようになるのだ。父親が父親としての条件を満たさずに、父親として君臨していたツケは、確実に我が子によって復讐を食らうことで清算しなければならなくなるのである。

●青春の飛翔

 小学生の頃は大好きな父親であっても、反抗期を迎えてしまえば、父親の存在は存在そのものが、子供にとって抑圧となるのだ。その抑圧が強ければ強いほど、反抗して行くエネルギーが溜め込まれ、それが爆発することで「青春の飛翔」が始まって行くのである。青春時代が「第二の誕生」と言われるのはこのためで、これ以降、両親に頼ることなく、自分の力で自分の人生を切り開いて行かねばならなくなるのである。

 青春の飛翔が起これば、一体、自分はどこに飛んで行くか解らない。しかし、青春の飛翔をし続け、自分が様々な経験をすることで、この世の矛盾や欠点が見えて来て、それを覆そうと躍起に成る。その悪戦苦闘の中で、逆にこの世の正しさや長所も見えて来て、或る日突然、この世をありのままに受け入れることができるのだ。これが出来た時、自立が完成したのである。

 多くの人々は青春時代に何か大きな勘違いをしていて、この大事な大事な時期に遊び呆けてしまうのだ。だからこそ、自分の力で自立することができず、「社会が悪い」「経済が悪い」「政治が悪い」と環境のせいにし続けてしまうのだ。如何なる環境も自分に都合よく作られている訳ではないのだ。環境を主に置くのではなく、自分の心を主に置かない限り、永遠に自立することはできないのである。

 青春の飛翔があればこそ、若者たちは世の中を革新して行こうとする。若者は既存の体制を是認することはできないからだ。既存の体制に反逆し否定し革新しこうとする。それは青春の中で自分が死滅して行くのか、新生して行くのか、二つに一つしかない選択肢であるがゆえに、その闘争は先鋭化し、激化して行く。だからこそ、この時期に於いて、新しい歌は生まれ、新しい物語は生まれ、新しい思想が芽生えて来る。如何なる国家に於いても、革新というものは若者が担うべきものであって、老人たちが担うものではないのだ。

 若者たちが青春の飛翔の中で世の中を革新してくれるからこそ、世の中は停滞から救われ、新たな生命を吹き込ん行くことができ、新しき物と古き物が共存し合うことで、前進させて行くことができるのである。自分が年を取ってから振り返れば恥ずかしいものであっても、あの熱すぎる時期は自分にとっても世の中にとっても必要なことなのである。、

 物解りのいい父親のもとでは、子供の方に青春の飛翔が起こらない。子供に青春の飛翔を起こす必然性が出て来ないからだ。父親が平等イデオロギーに取りつかれてしまうと、父親は家庭の中で父親の役割を果たして来ないから、子供が思春期を迎えた時、どのように反抗していいか解らなくなるのだ。そういう子供は、自立したくても自立できなくなるから、平気で人を殺したり、性犯罪を行ったり、麻薬に手を出すことで、自分が自立できなかったことから逃げ出そうとするのである。

 父親というのは、頑固者で丁度いいのである。平等など蹴倒して、家庭の中で強烈な不平等を作っておくことなのである。家族の中で一番偉いの父親であって、それに刃向かって来る者には容赦のない態度を取るべきなのである。「如何なることがあっても、父親の座は譲らん!」と思っている父親こそ本物の父親なのである。そういう父親であればこそ、子供はきちんと反抗できるし、青春の飛翔を開始して行くことができるのである。そして青春時代が終わった時、自分の人格がしっかりと出来上がっているものなのである。

 自分が自立を完成させてしまえば、後は独立を開始し、新たな家族を形成して行くものだ。そうなれば革新などする必要性はなくなり、自国の歴史や伝統や習慣をきちんと継承し、地道に保守しながら改革を施して行くものなのである。もう青春時代が終わったというのに、いつまでも革新を唱えていたり、世の中を否定しているようであるなら、その者は自立できなかったということなのである。青春時代は誰にでもあるが、その青春の中で誰もが自立できる訳ではないのである。自立できなかった者ほど、自国の歴史を否定して来るくせに、「新しい歴史を作る!」と言い出すものだが、大抵は破綻してしまうものなのである。自分が青春時代に於いて自立できなかった悪魔のツケは、必ず自分を破滅させることでその支払いをしなければならないものなのである。

 自立できた女性だったら、遅かれ早かれ結婚をして、父親に別れを告げるものなのである。自立が完成してしまえば、もう父親は要らないからだ。だからこそ、結婚式で涙を流しながら、父親に感謝の意を述べて来るのである。自立できた男性だったら、遅かれ早かれ結婚し、家族を背負う父親の責任が痛いほど解って来るだろう。その父親の思いを共有できた時、もうその男性は立派な父親になっているものなのである。そうやって父親の魂は、娘にも息子にもきちんと継承されていくのである。

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我が子に夢を成功させたいのなら、覚悟を決めさせる

●覚悟の大切さ

 我が子が御稽古事や学習塾に通っているのに、子供が真剣に打ち込もうとせず、遊び呆けてしまうことは多々あるものだ。習い事にはお金がかかるために、それを支払っている親としては、この子供の態度は腹立たしいものだ。しかも、その習い事は親が強制的に行かしたのではなく、子供が自発的に「行きたい!」と言い出したのなら、更に怒りは強まってしまうものだ。

 こういう場合、子供には自分の夢に対する自覚が出来ていないのだ。習い事をした所で四六時中、習い事をしなければならない訳ではないのだ。空いている時間はたくさんあるのだから、その時間を使って有効的に遊べばいい。しかし、習い事をするにも身が入らず、遊ぶにしてもダラダラと遊んで来るなら、子供には自分の夢に対して自分がどう自覚していいか解らないのだ。この状態になった時、母親は子供を放っておいても、永遠に問題は解決されないのだ。

 そもそも、成功できない人たちほど覚悟ができていない。貧乏人たちは金持ちになる覚悟ができていない。肥満な人たちは痩せるのが当たり前だという覚悟ができていない恋愛が巧く行かない人たちは恋愛をきちんと行う覚悟ができていない。子供にしても、ただ習い事をしても、自分の理想の人物像が形成されていないために、その理想の人物像になろうとする覚悟ができなければ、幾ら習い事をさせても、その習い事が身につかなくなってしまうのだ。

 成功するには想像力が大事だと言われる。自分が将来、このように成るという想像力があるからこそ、幾らでも精進して行ける訳であって、自分の将来の姿が解らない限り、幾らでも遊び呆けてしまうものなのだ。勿論、子供にだって想像力があるのだから、その想像力を使って自分の将来の姿を作り上げていけばいいのだが、子供がそれをしない時、母親は子供に介入しないと子供はいつまでも無駄な時間を浪費し続けてしまうのだ。

 子供に自分の将来の姿を明確にさせるためには、成功者に会わしてしまうのが一番効果的だ。例えば、野球をやっているのなら、プロの野球選手に会わしてしまう。ピアノをやっているのなら、プロのピアニストに会わしてしまう。受験勉強をやっているのなら、東京大学や早稲田大学に連れて行き、大学教授に会わしてしまうのだ。これをやられると子供の頭の中で、自分の将来の姿が明確になり、今まで遊び呆けていたのとは打って変わって、俄然遣る気が起こり始め、習い事に精進し始めるのだ。

●言い訳をすること認めない

 人が夢を実現させていく時、これだけは絶対にやってはならないものがある。それは「出来ない言い訳を探してしまうこと」だ。人が夢を実現させようとすれば、様々な困難に出くわすものだ。夢を実現させていく以上、困難が起こるのは当たり前のことであって、冷静沈着になって解決していけばいいものを、多くの人々はその困難に拘りすぎてしまい、たちまち無条件降伏してしまい、自分の夢が実現できない理由を探し出し始めるのだ。

 忘れてはならないのは、この「出来ない言い訳」を探し出す時のエネルギーは巨大なものであって、一生懸命になって自分の夢が実現できない理由を探し始めるのだ。そのエネルギーを自分の夢に投入すれば、自分の夢が一歩前進して行くというのに、事もあろうに、自分の夢が後退して行くことに、そのエネルギーを使ってしまうのだ。

 言い訳が幾らでも作ることができる。子供だったら、「遊ぶ時間がない」とか、「練習が厳しい」だとか、「試合に勝つことが出来ない」とか、様々な言い訳を並べて来るものである。こういう時、母親は子供の言い訳を聞いてあげることは必要であるが、絶対に同意してはならない。子供の意見は絶対に間違っているからだ。

 遊ぶ時間が全くなくなるほど、習い事をすることはないものである。習い事をする時は一生懸命になって打ち込み、遊ぶ時は徹底的に遊ぶという切り替えができていないだけなのである。練習というのは、厳しくて当たり前だ。厳しい練習の方が実力がつくものなのである。試合をやっていれば、負けることだって有り得る。そういう時は、自分たちがなぜ負けたのか改善すべき点を見つけ出し、そこを改善していけばいいのだ。

 失敗する人間というものは自分がやってはいけない方面に一生懸命になる。そのくせ、自分がやるべきことに一生懸命にならないのだ。子供が言い訳を言い始めたら、子供は自分がやってはいけない方面に一生懸命になっていると思えばいいのだ。子供の人格を否定するのではなく、子供の意見を巧く切り替えして、子供がやるべきことに一生懸命になるようにさせてあげなくてはならないのだ。

●成功すると思い込ませる

 人間は失敗して当たり前ではないのだ。成功できて当たり前なのだ。成功するために失敗し続けることはあっても、失敗し続けてしまうことはないものなのである。赤ちゃんを産み育ててみれば解ることだが、赤ちゃんは勝手に成長して行くものだ。生まれたてだというのに、母親のオッパイを吸いたがるものだ。当初は寝た切りだったくせに、寝がえりを打ち、ハイハイをし出して来るものだ。中には授乳を拒否する赤ちゃんがいたっていいだろうし、寝た切り生活を続けていく赤ちゃんがいても構わないものだ。しかし、どの赤ちゃんも成長して行くのだ。

 ということは、人間には常に向上して行くように、生まれる前から定められているのである。それを設定した者を、古来より「神」と人類は呼んでいた。神の御意志がこの宇宙を貫いているのであって、それは全ての生命体を成長させようとする偉大な御意志なのである。如何なる人々もこの大きな流れに乗って生きるべきであって、自分が屁理屈を捏ねなければ、誰でも成長し続けることができるのである。

 人間は良くなる方に成長して行くのが当たり前なのである。そうなるように生まれついているのだ。自分の人生が悪い方向に進むなら、環境など一切関係なく、自分の思考や行動が根本的に間違っているのだ。自分が素直になって、この神の御意志に従うことだ。神の御意志に従っていれば、人間は自然と成長し続けることができるのである。

 子供には成功することを当たり前だと思い込ませることだ。失敗は経験することがあるかもしれない。しかしそれは成功するための失敗であって、その失敗から学び取っていけば、自然と成功できてしまうものなのだ。母親であるなら、我が子がどんな目に遭おうが、「お前は絶対に成功してしまうんだよ」と言い続けてしまえばいいのだ。そうやって母親が言い続けていれば、子供は成功できて当たり前と思うようになり、事実そうなるのだ。

 子供の内に神が作り出した大きな流れに乗ってしまうことだ。子供の内に失敗するのが当たり前になったら、より悪質な言い訳を作り出し、自分の人生が確実に失敗する方へと自ら誘導してしまうようになるのだ。その内、無宗教や無神論を唱え始め、神に背くことに生き甲斐を見出してしまうようになってしまうのだ。だが、幾らそんなことをしても、自分の人生が失敗し続けることから永遠に抜け出すことができなくなってしまうのだ。

●最初で躓かなければ後はドミノ倒しで行く

 何事も最初が肝腎なのである。夢が実現できない人たちに限って、最初から躓いているのである。最初で躓かなければ、後はドミノ倒しで行くものなのだ。何かをやらせて頭角を現わして来る子供ほど素直であって、成功する自覚ができているし、言い訳なんかしないし、成功することが当たり前だと思っているものだ。

 試合に何度も勝ち続けていれば、いずれ試合に勝って当たり前と思うようになるものなのだ。表彰台に上がり続けていれば、いずれ表彰台に上がることが当たり前だと思うようになるものなのだ。子供の脳にそういうプログラムをブチ込んでしまえば、子供は成功するように自動的に動いていくものなのである。

 子供の内に覚悟ができない奴は、いつまで経っても覚悟をしてこないものなのである。子供の頃から言い訳をして来る奴は、大人になっても言い訳ばかりしてくるものなのである。子供の頃に失敗するのが当たり前だと思っている奴は、終生、失敗して当たり前だと思ってしまうのである。そいつがどうのこうのではなく、その者の脳が確実に失敗するように仕向けてしまうものなのである。人生で失敗し続ける人たちは、最後に躓いているのではないのである。最初で躓いているのである。根本が間違っているからこそ、失敗が人生の至る所で起き始めるのである。

 子供たちを神社に連れて行くと、どの子供たちも柏手を打ち、合掌して、神に祈りを捧げるものだ。子供だというのに、無宗教や無神論を唱えて来る子供というのを俺は見たことがない。しかし、子供の時期が終わり、思春期に入り始めると、ぼちぼちと無宗教や無神論を唱えて来る奴等が出始め、大人になると、無宗教や無神論を唱えて来る奴等が多数派になる。しかし、そのくせ、無宗教や無神論を唱えている人ほど貧乏で、不幸で、邪悪で、貪欲で、悪意に満ちた人生を送っているものだ。

 人間には理性というものがあるから、神の御意志に背こうと思えば幾らでも出来る。だが、そのような生き方は自分の人生を確実に失敗させてしまうことになるのだ。神の御意志は全ての生命体を成長させ、幸福に導いていくことなのである。その神の御意志に従えば、自分も成長できるし、幸福に成って行くのだ。逆にその神の御意志に背けば、自分が成長を止めてしまい、不幸に成って行くのだ。

 母親であるからこそ、我が子をこの世に流れる大きな流れに乗せてしまことだ。そすうれば自然と成長して行くことができ、成功することができるようになるのである。勿論、如何なる習い事をやっても、厳しいのは当たり前なのである。だから、我が子に覚悟を決めさせる。言い訳を認めない。成功するのが当たり前だと思い込ませることだ。そうやって早い段階で神が創る大きな流れに乗ってしまえば、後はアッという間に頭角を現わして、日本一になり、そして世界一になってしまうものなのである。

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夢は大きく、行動は小さく、努力はコツコツと

●小さな世界でトップに立つことの大切さ

 習い事をさせると、小さな大会が矢鱈あることにきづく。市町村レベルで大会をさせればいいものを、市町村を更に分割して、地区レベルで大会を行わせるのだ。合理的に考えれば、市町村レベルで大勢の人々を集めて、一気に大会をやってしまった方が、経費も安くつくし、人々が大勢集まることで活気が出て来ると思ってしまうものである。しかし、そうやって合理的に進めて行くと、優秀な人材は育って来ないのだ。

 子供たちには「小さな世界」こそ必要なのである。小さな世界を大人たちが人為的に作り出し、そこで競わせるからこそ、子供たちは不要なストレスを抱え込むことなく、勝負に挑むことができるのである。勝者にとっては、その小さな世界で勝ったことが自信に繋がらるし、敗者にとっては、その小さな世界で負けたことで改善して行くことができるようになるのだ。

 子供が大きな夢を持った時、いきなりその夢の舞台で戦うことなどはできない。どの子供も夢の舞台とは掛け離れた小さな舞台から始めて行かねばならないのだ。その小さな舞台で自分が夢の舞台に立てたかのような感覚で一生懸命に取り組み、そこでトップに立つからこそ、次のステップに進めるのである。そこで手抜きをしていたら、いつまで経っても小さな舞台しか登らせて貰えず、その内、遣る気をなくして辞めてしまうことになるのだ。

 子供は純真な物を持っているが、その反面、目敏い部分も持ち合わせているので、小さな舞台を端から馬鹿にして、真面目に取り組まない子供たちも出て来るものだ。そういう時は、母親はビシッと叱りつけて、「こういう場所だからこそ一生懸命にやって、トップに立ちなさい!」と教え込むのである。小さな世界なのだから、勝率は高い筈であり、易々と優勝することができるものなのである。

 この小さな舞台で成功できなければ、いずれ自分の実力のことは棚に上げて、「環境が悪いから成功できない」と言い出して来るものなのだ。「こんな場所では成功できない」「お金がないから成功できない」「優秀なコーチがいないから成功できない」「道具が揃っていないから成功できない」等々、自分が成功することに躍起になるよりも、自分が失敗する理由を探し出すことに躍起に成り始めるのだ。

●夢と現実

 小さな世界でトップに立つからこそ、有望な人材に育って行くのである、小さな世界で勝てなかったら、有望な人材として素質はないと見るべきなのである。大きな夢を持っているなら、いきなり大きな行動を取って来るのではなくて、まずは小さな行動を開始して、そこで全力を尽くして、伸し上がって来るべきなのである。小さな世界では表面的には小さな世界かもしれないが、勝てる確率が非常に高い場所であることを絶対に忘れるべきではないのだ。

 スポ-ツをやっているなら、まずは小さな地区大会で優勝する。芸事をやっているのなら、まずは小さな地区コンクールで優勝する。学習塾に行っているなら、まずは模試で上位の成績を収める。そうやって勝ち癖をつけていけば、「自分は戦えば勝てるのだ!」という自信を形成することになり、次の舞台に行っても勝てるようになるものなのである。

 行動は小さくとも、その小さな行動こそが大事なのである。小さな行動の中に、大きな夢を実現させることに必要な物は全て詰まっているからだ。言わば、成功するための基礎をそこで学べるのであって、そこで基礎を学ばなかったら、勝てる訳がないのだ。基礎というものは、早い段階で身につけて行くものであって、自分が大きな舞台に立った時では遅すぎるのでる。

 小さな舞台でトップに立てというなら、大きな夢など持たず、小さな夢を持ってしまえばいいと、志のない人たちは思ってしまう。そうではないのだ。小さな夢では小さなことしか実現できない。大きな夢を持っていつつも、自分の夢を小さくせず、行動を小さくして、大きな夢を徐々に実現して行けばいいのだ。

 子供たちでなく、大人たちも、夢と現実のギャップには悩まされる。それは大きな夢を持っているのに、小さな行動を始めて行かないからこそ陥ってしまうものであって、大きな夢を持ちつつも、小さな行動を始めて行けば、夢と現実のギャップには悩まされなくなるのだ。今やるべきことが解っていれば、後は目標に向かって突き進んで行けばいいのである。

●努力はコツコツと

 小さな行動を起こすためには、努力をコツコツと続け、実力を着実に蓄えて行かなければならない。地道な努力こそが、自分の実力を着実につけて行くことになるのである。スポーツや芸事なら練習に手抜きをしない。練習前の準備と練習後の後片付けをきちんと行う。使った道具はきちんと整備をしておく。勉強なら勉強している時は真面目にやる。予習と授業と復習の三つをきちんと行う。机の上の整理整頓を心掛けることだ。

 子供というのは、このコツコツする努力が大の苦手だ。努力をすることより、遊ぶ方に夢中になってしまうからだ。だからこそ、多くの子供たちはスポーツや芸事や勉強をしている筈なのに、成功して行くことができないのだ。自分の実力を着実につけていくということをしていないからなのである。

 確かに練習で手抜きをしようと思えば幾らでもできる。練習前の準備を誰かにやらせ、練習が終わればとっとと帰ってもいいのだ。道具なんて整備などせず、壊れたら新品を買えばいいのだ。でも、そんなことをしていてはいつまで経っても上達しない。上達しているのは、自分の実力ではなく、如何に自分が怠けるかなのである。これでは練習に費やした時間や労力が全て無駄になってしまうのだ。

 練習する時は真面目に取り組む。練習前の準備は率先して行う。練習後の後片付けは完了するまで絶対に帰らない。使った道具はきちんと整備しておき、いつでも使える状態にしておくことだ。大体、野球をやっている子供が汚いグローブを使って、ナイスプレイができるだろうか? サッカーをやっている子供が汚いスパイクシューズを使って、的確にシュートを決めることができるだろうか? 冷静に考えれば解ることだ。自分が使う道具すら整備できない者は、試合をすれば確実に負けるということに!

 この手の努力は、最初は自発的な意思の産物だが、時間が経過すると、習慣の産物になって、なんの苦労をすることもなくできてしまうものなのだ。努力の習慣ができていないからこそ、些細な努力をしただけで疲れ切ってしまうのであって、そのような軟弱な者が伸し上がって行くことなどできないものなのだ。自分が疲れ切ってしまわないように、早い段階で努力の習慣を身につけ、自分が疲労することなく、実力をつけられるようにしておくべきなのである。

●何がなんでもトップに立て!

 昔の親たちは「なんでもいいから日本一になれ!」と言ったのは正しかったのである。そういう意気込みでやってしまうと、小さな舞台でもトップに立ってしまうし、それを繰り返していると、いつの間にかに日本一になってしまうものなのである。子供に大きな夢を持たせても、いきなり大きな舞台に立たせず、小さな舞台に立たせて、そこで子供を鍛えて行ったのである。だから、戦前の日本は優秀な人材を綺羅星の如くに排出することができたのである。

 我が子を小さな舞台に立たせた時、その小さな舞台で汲々とさせてしまうのではなく、この小さな舞台で勝利することは、大きな夢を実現するためにはどうしても必要なのだと教え込むのだ。そうすれば我が子は下手なストレスを抱え込むことなく、飄々として軽妙となり、この小さな舞台でトップに立つことに全力を尽くして来るものなのである。そういう子供であればこそ、大きな舞台でもトップに立つことができるのである。

 もしも我が子がその小さな舞台で勝てなくても、責任追及などしないことだ。どうして負けてしまったか、問題点を見つけ出して、冷静になってその改善策を施して行けばいいのだ。それができれば次の戦いでは勝てるようになるのである。逆に言えば、それをしない限り、負け続けることになるのだ。

 子供が大きな夢に対してブレないことが重要なだけでなく、母親も我が子の大きな夢にブレないことが必要なのだ。子供だって負け続ければ、「もう辞める!」と言い出して来るものなのである。その時、母親が我が子の言うことをすんなり聞いてしまっては、今までの苦労が全て水泡に帰してしまうのだ。

 フィギュアスケーターの荒川静香は高校生の時、長らく表彰台に昇ることができなかったことが続いたので、フィギュアスケートを辞めて、違うスポーツに転向しようとした時があった。その意向を母親の佐知ママに伝えた時、いつもは温和な佐知ママが表情を変え、「それであなたはその分野で日本一になれるの?」と切り返したのだ。勿論、違う分野のスポーはイチから始めねばならないので、そう簡単に日本一になれる訳がない。そこで荒川静香は「日本一になるのは難しい」と答えた。すると佐知ママは「だったらフィギュアスケート」を続けなさい」と言ってのけ、娘の意見を封殺していまったのだ。その後、荒川静香は心機一転してフィギュアスケートに精進して、試合にも勝てるようになり、そして日本選手権で優勝することになるのである。

 多くの人々は世界一になった人は最初から凄かったような印象を思ってしまうのだ。そうではないのだ! 如何に世界一になった人でも、トップに立てず、苦しんだ時期があったのである。辞めてしまおうかと思った時期もあったのである。でも、辞めなかった。辞めることはぜず、駄目な自分を変えた。練習の仕方を変えた。試合の勝ち方を変えた。だから、戦えば勝つことができるようになり、その内、トップに立つことができ、日本一になることができ、世界一になることができたのである。

 大きな夢を持つ者にとって、小さな舞台は意味のない場所ではないのだ。自分の大きな夢を実現して行くためのスタートラインなのだ。そこで躓いているような者が、大きな舞台でトップに立つことは出来ないのだ。大きな舞台でトップに立ちたいのなら、まずは小さな舞台でトップに立ち、そして次の舞台へと伸し上がって行き、最後に大きな舞台でトップに立てばいいのだ。いつ如何なる時も。「夢は大きく、行動は小さく、努力はコツコツと」を絶対に忘れるべきではないのだ。それができていれば、いつの間にか自分の夢が実現してしまうものなのである

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我が子が挫折に遭遇した時

●人生は挫折に打ち勝てるか負けてしまうかで決まってしまう

 人間は生きていれば何かしらの挫折を経験する。我が子だって生きていれば挫折を経験することだあって有り得る。我が子はその挫折を自らの手で乗り越えて行かねば、自分の人生を自分の力で切り開いていくことは不可能になることだろう。いつも失敗し続け、常に誰かに頼り、自立せず、主体性がなく、消極的で、否定的な碌でもない人間になってしまうことだろう。

 我が子が挫折に遭遇した時、母親は下手に出すべきではないのだ。母親が愛情を出し過ぎてしまい、母親が我が子に代わってその挫折を処理してしまったり、憐憫の情をかけすぎて、ただの傷の舐め合いになったら、我が子といえどもその挫折を乗り越えて行くことができないのだ。母親は我が子がどんなに苦しい境遇に置かれても、「逃げ出すな!」「試練に真正面から立ち向かえ!」という言葉を言って、我が子の退却を封じてしまうしかないのだ。

 子供の挫折は大人の目から見れば大したものないかもしれない。例えばスポーツの試合で負けてしまったとか、コンクールで優勝を逃してしまったとか、受験勉強を散々したのに受験で不合格になり志望する学校に行けなかったとかでも、子供にとってはショックで、その衝撃のために挫折してしまうのである。もっと程度が低くなると、同級生からイジメを受けたとか、担任から暴力を振るわれたり、病気になって学校を休まねばならくなったり、交通事故に遭って大怪我をしてしまったとかでも、子供にとってはそれで挫折してしまうのである。

 人の人生は挫折に打ち勝てるか負けてしまうかで決まってしまうものだ。子供といえども挫折を経験するなら、その挫折に打ち勝たねばならないのだ。我が子が挫折して傷ついているなら、母親はオロオロするのではなく、毅然とした態度を見せ、子供から話を聞くなり、相談に乗ってあげればいいのだ。その行為だけで、我が子は冷静さを取り戻し、挫折に打ち勝とうとし始めるものなのである。

 我が子が今回の挫折に負けてしまえば、たとえそこから逃げても、我が子は似たような挫折を繰り返し、挫折し続ける人間になってしまうものなのである。我が子が挫折しているのに、母親が他の事に夢中で気付かないというのは問題外であるが、我が子が挫折しているのに、我が子が逃げ出すことを認めてしまう母親は、母親として許されない行為をやってしまったことになるのである。そういうことでは我が子の人生を母親の手で台無しにしかねないのだ。

●準備が出来ている者だけに挫折はやってくる

 忘れてはならないのは、挫折というものは準備が出来ている者だけに挫折はやってくるということである。準備が出来ていない者に挫折はやってこない。たとえその挫折が如何に強烈な物であっても、その挫折を乗り越える準備ができているからこそ、その人に挫折がやってくるのである。だから逃げてはならないのだ。逃げることなく、真正面から立ち向かって行くしかないのである。

 野球の試合で負けることができるのでは、その試合に出れた選手だけである。選手に選ばれなかった者たちは、試合に負けて、屈辱を味合うことができないのである。ピアノのコンクールで優秀することができなかったのは、そのコンクールに出れた者たちだけである。コンクールに出れなかった者たちは、コンクールで優勝を逃し、屈辱を味合うことができないのである。受験勉強で落ちることができるのは、受験勉強をして、入学試験を受けた者たちだけである。入学試験を受けず、違う進路を取ってしまった者たちは、入学試験で失敗し、屈辱を味合うこができないのである。

 病気を患い、病院に長期入院せざるを得ない者は、それまで健康だった者に決まっている。今まで何度も病気をし、病院に長期入院している者が、何かしらの病気が発覚した程度で挫折したりしないものだ。交通事故に遭って重傷を負う者は、今まで平気で道路を歩いていた者に決まっている。嘗て交通事故に遭い、車椅子生活を強いられていれば、再度交通事故に遭っても、挫折したりしないしないものだ。、

 挫折はその人に克服する能力があるからこそ与えられるのだ。挫折をした者は、挫折すらしたことがない者よりも遥かに増しなのだ。挫折して、屈辱を味合い、全てを失ったかに見えたとしても、自分にはまざその挫折を克服する力が残っているのである。だからその力を振り絞って挫折を克服して行けばいいのだ。

 プロの野球選手で挫折を一度も味合わなかった人など一人もいない。プロのピアニストで挫折を一度も味合わなかった人など一人もいない。今成功している人たちも嘗ては挫折したことがあるのだ。ただその人たちは挫折でめげることなく、その挫折を克服して行ったからこそ、今の成功を手にすることができたのである。

●挫折の中で逆転の発想を身につける

 挫折をしたなら、その挫折を切っ掛けに自分を変えて行くしかないのである。自分を変えなければ、いつまでも挫折しっぱなしなのである。自分の今までの生き方では、もうこれ以上成長することができなくなってしまったからこそ、挫折が発生した来たのであって、自分を変えなければ、この挫折から抜け出すことはできないものなのである。

 こういう時、敢えて逆境の中で自分をひっくり返せば、解決策が見つかるものなのだ。通常の発想では何一つ解決に結びつかないのだ。通常の考え方を否定して、逆転の発想を身につけるからこそ、視界が一気に広がり、その挫折を克服できる道筋が見えて来ることになるのだ。

 例えば、「自分の一番得意なものを敢えて捨ててみる」というのも、逆転の発想の一つだ。今まで自分が自分の一番得意なものに拘り過ぎていたからこそ、他の分野が疎かになってしまったのであって、だからこそ自分の一番得意なものを封印してしまえば、他の分野にエネルギーを注ぐことができ、自分の意外な能力が引き出されるものなのだ。

 フィギュアスケーターの荒川静香は世界選手権で優勝した後、長らく低迷してしまい、トリノ五輪で優勝することは不可能だと看做されるようになった。そこで荒川静香は自分の一番得意なイナバウアーを封印し、その後、練習の仕方を全て見直し、そして全てのテクニックの精度を上げることができたのである。だからこそ、トリノ五輪で優勝することができたのである。

 スポーツをやっている人なら、勉強することを馬鹿にしているものだ。それゆえ挫折した時は、一旦スポーツをすることを封印し、勉強に一生懸命になってみればいい。勉強が得意な者なら、スポーツを馬鹿にしているものだ。それゆえ、挫折した時は、一旦勉強を封印し、スポーツに一生懸命になってみればいい。そうすることで思わぬ物が見えて来て、自分が元のポジションに戻った時、今まででは有り得ないようなパワーを発揮することができるようになるのである。

●最悪と思った出来事が幸せに繋がる

 不思議なもので「人生の中で最悪と思った出来事がその後の人生で自分の幸せに繋がっている」ものなのである。考えてみれば、挫折をした時こそ、実は自分の人生の変わり時なのであって、あの時に自分が変わったからこそ、新たな道が開け、自分は幸せになることができたのである。

 挫折の中でもがいている時、傍から見ればジタバタしているに見えないものだが、本人が散々試行錯誤している間に。挫折の中で実力がついてしまうものなのである。挫折の中にいるからこそ、人間は死ぬほど努力するし、最大限努力して抜け出して行こうとする。そうするといつの間にか自分の限界が突破されていき、強力なパワーを身につけることができるのである。

 そうやって挫折の中で悪戦苦闘している間に、自分の考えががらりと変わり、勝ち負けを意識しつつも、勝ち負けに拘らなくなるのだ。その場を巧くやろうとか、失敗を恐れるといった消極的な考えが消えて行くのだ。「自分の力を全て出し切るためには、自分が本当にやりたいことをやる!」という成功するための考えに辿り着くのである。挫折の中で自分を変えたからこそ、自分が本当にやりたいことが見つかったのである。だからこそ、その挫折を抜け出し、成功して行くことができるのである。

 この世には「自分らしく生きられない!」と騒ぎ立てている者たちがいるものである。その者たちが自分らしくい生きられないのは、挫折を経験していないからなのである。挫折の中でもがき苦しみ、自分を変えていないからこそ、自分が本当にやりたいことを見つけることができなかったのである。今まで我儘し放題で生きて来たツケは、高い利息を伴って、終生、払い続けねばならなくなるのである。

 挫折が過ぎ去ると、チャンスに出会い易くなる。挫折した者ほど、その後の人生でチャンスを掴み取って来るのだ。殆どのチャンスは一度きりだ。そのチャンスを逃せば、もうそのチャンスを掴めないものだ。だが、挫折の中でパワーアップした者にとって、それがチャンスだと見抜く力も、そのチャンスを掴み取る力もしっかりとついてしまい、チャンスを逃すことなく掴み取り、それによって大いに飛躍して行くのである。

 だから、我が子が挫折して駄目になっても、母親なら応援し続けてあげることだ。母親がわが子に教えてあげることができるのは、たった一つしかないのだ。「成功するまで諦めない。何事も諦めなければ、挫折は吹き飛んで行く!」のだと。我が子を諦念思想に洗脳され、挫折しっぱなしの、負けっぱなしの、逃げっ放しの人生にさせないことだ。

 成長していれば、常に何かしらの挫折に遭遇するのは当たり前なのだ。挫折に遭遇したのなら、それを乗り越えて行けばいいだけなのだ。何も問題がなく順調に行き過ぎている方が逆に危険なのである。そういう子供に限って、大きくなった時、些細な挫折で自分の人生の全てを台無しにし、自分の命を自らの手で絶ってしまうようになるのだ。

 確かに、我が子が挫折して傷ついている姿を見るのは、母親にとって辛いことだ。しかし、我が子の方がもっと辛いのである。でも我が子が成長して行くためには避けることができない現象なのである。傷ついた我が子もいつまでも傷ついている訳ではないのだ。挫折の中で悪戦苦闘しながら徐々に実力をつけて行き、挫折を乗り切って行くのだ。そうやって我が子が今までよりももっともっと強くなっていくのである。

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タマティーの生活の小ネタ:「冬の冷えには天日塩マッサージ」

●いきさつ

 タマティーが激辛料理が大好きである。七味唐辛子などは業務用の物を購入して、ドバッと大量に使うタイプである。例えば、鍋料理を食べ終わった後の次のオジヤには、七味唐辛子を大量に入れて、真っ赤っかになったオジヤを美味しく食べるのだ。だが、なぜかこの冬は七味唐辛子がどうも美味しいとは感じられず、どうしたものかと多少首をかしげる日々が続いたのだ。

 そんな時、タマティーの知り合いの女性に、ドイツ人指揮者のメンターになっている女性がいるのだが、そのドイツ人指揮者は生まれてこの方、お風呂には入ったことがないということを聞かされたのだ。その指揮者は朝のシャワーだけらしく、お風呂には入らないというのだ。それでいて歳を取っても健康で、病気一つしたことがないという。タマティーは秋頃から仕事が忙しくなっており、夜に風呂に入るのは時間の無駄ではないかと思っていたので、このドイツ人指揮者の真似をして、夜の風呂には入らないようにしたのだ。

 ところが、冬の寒い最中に、早朝から深夜まで外で働く用事が出来たために、その仕事に従事したのだが、その日以降、どうも体調が優れなくなってしまった。しかも年末の大掃除の際に、大掃除の埃のために咳が止まらなくなってしまい、寝込んでしまった。家族の者からは「大掃除なのに役に立たない」と悪口を言われたが、こっちは鼻水は垂れまくり、クシャミが止まらなくなってしまったのだ。この埃アレルギーは一晩寝て治ったけど、体調はどうもイマイチだった、この年の冬は暖冬だというのになぜか寒く感じてしまい、その寒さも足元から冷えて来るのだ。

 更に追い討ちをかけたのは、年末から唇が荒れていたのだが、元日のお節料理を食べていた時に唇が切れてしまい、血が出てしまったのだ。待ちに待ったお節料理だというのに、血を垂らしながら、食べざるを得なかったのだ。しかも、この切れた唇はなかなか治らず、その異常さに段々と気付き始めた。

 そしてトドメがお尻がムズムズとしてきたことだ。このお尻のムズムズ感は「痔」以外にない! タマティーは高校生の頃は痔に悩まされていた。とういうのは、冬になると軟弱になるからという理由で自分の部屋には暖房をつけなかったのだが、そのために体が冷えてしまい、痔になってしまったのだ。幸い、未だ痔にはなっていなかったが、明らかにこれを放置すれば痔になると解ったので、さすがに「こりゃあかん!」と思い、事の重大さに気付いたのだ。

●治療法

 ます、七味唐辛子をやめた。七味唐辛子は一時的に体を温めるが、陰性食品なのですぐに体を冷やしてしまう。そのため大量に七味唐辛子を食べると体を芯から冷やしてしまうので、体調不良になってしまうのだ。因みに、韓国料理があれだけ漢方薬を使って健康に気を使っているのに、韓国人に病気が多く短命なのは、唐辛子を大量に使っているからなのである。

 次に夜の入浴を再開した。やはり冬の夜はお風呂で体を温めるのが一番である。ドイツ人指揮者がお風呂に入らずとも健康で居られたのは、大量に肉を食っているし、ジャガイモも半端ではない量を食べているので、体を温かくしていられるのである。日本人はドイツ人ほどに肉やジャガイモを大量に食べていないので、入浴して体を温めないと、体が冷え切ってしまうのだ。

 そして入浴する際、天日塩マッサージを行って、更に体を温めるようにした。この天日塩マッサージは、お風呂で充分に汗体を温めた後、湯船から出て、体に天日塩をマッサージをしながら塗るのだ。これをやったら、汗が大量に出て来た。特に足元から大量の汗が出て来た。それだけ足元に水毒が溜まっていたということである。

 これをやったら体がポカポカになり、翌朝になってみると、唇の荒れも納まり、唇の傷もきちんと閉じた。お尻のムズムズ感はなくなり、足元から温かい状態になった。これで漸く一ヵ月近く続いた体の不調が治り、健康そのものになった。たった一日で健康になったのだから、改めて体の冷えの恐ろしさを知った。

 病気をすると対症療法ばかり考えてしまう。例えば、今回から唇が荒れていたらリップクリームをつければいいとか、痔になったら痔の薬を使えばいいとか。でも、どんなにいい薬を使っても、一時的には治せるが、完治はできないのだ。体が冷えている限り、体のどかに症状が出て来るのであって、体の冷えというものを解消しない限り、健康になることはできないのだ。

●体の冷えと塩分の関係

 体の冷えには塩が効くというのは、塩の力を使って、体内に溜まった水毒を出すためであり、体内に余分な水分がなければ、それを温める必要がないために、より効果的に体を温めることができるのである。だから、俺は一発で効いてしまい、たった一晩で体の冷えが取れてしまったのである。

 この塩の話を持ち出すと、医者たちは塩の危険性を主張しまくる。西洋医学では塩は危険視されているが、それはアメリカの人々のように日常的に肉を大量に食べているなら、塩分を摂取することは必要ないからだ。肉には塩分が大量に含まれており、肉を食べた上に更に塩を取ってしまえば、塩分過剰になる。しかも、アメリカで使われている塩は岩塩や化学塩が主流なので、この塩を取ってしまうと腎臓を大いに傷めてしまうのだ。

 日本人は肉を大量に食べないので、塩分を大量に摂取することが必要なのである。もしも塩分を取らねば、体が冷え切ってしまい、病気になってしまうのだ。塩分はそれが天日塩なら過剰に摂取してもきちんと排泄される。危険なのは岩塩や化学塩であって、この塩は取るべきではないのである。天日塩を取っている限り、腎臓は正常に機能し続けるのだ。

 女性は冷え症に悩まされるものだ。女性の体が冷えるということは、まず「筋肉量が少ないこと」が挙げられる。筋肉は体温を上昇させる機能を持つので、筋肉量が少ないと、体が冷えてしまうのだ。次に「妊娠や授乳のために水分を溜め込み易い」からだ。女性の体は妊娠の際には羊水を作り、授乳の際には母乳を作るので、常時、水分を大量に溜め込んでいるのだ。育児をしている母親が、授乳をすると一時的に冷え症が解消するのはこのためで、赤ちゃんが母親の過剰な水分を吸い取ってくれるからなのである。

 もう一つ大事な理由が、「生理のために体内の塩分が流れ出てしまう」ということなのである。女性は月に一度生理があるのだから、その度に塩分が流れ出て行くのである。だから、塩分をしっかりと摂取しないと、冷え症だけでなく、生理痛や生理不順になったりしてしまい、それを放置しておくと「子宮内膜症」「子宮筋腫」「子宮癌」となってしまうのである。子宮癌になるということは、「乳癌」にもなるということである。それだけ体が冷え、塩分が不足してしまっているということなのである。

●夫婦でやると妊娠し易くなる

 冬の季節に冷え症で悩まされているなら、是非とも天日塩マッサージがお薦めである。冷え症が治ってしまうし、冬だというのに体がポカポカしていられるからだ。天日塩マッサージの遣り方は、まず湯船に浸かって体を温めることだ。少し汗が出て来るまで入っていることだ。その後、湯船から出て天日塩マッサージを行えばいい。

 女性の場合、天日塩マッサージをやると、お腹の辺りから大量に汗が出て来る。女性はお腹の回りを気にするものだが、これは女性の体がここに水毒を溜め込み易く、そのために体が内臓を冷やさないように脂肪をつけてしまい、それで段々と太って行くのだ。お腹の回りを引き締めると、体重が落ちるだけでなく、スリムに見えるようになるので、丹念に天日塩マッサージをしていくことだ。

 足元が冷えている女性なら、足の裏から大量の汗が出て来る。これは足の裏の大量の水毒が溜まっているからだ。足は第二の心臓と言われているが、足が冷えてしまうと、血液も冷やされ、その冷えた血液が全身を巡るのだから、どうやっても体が冷え切ってしまうのだ。冷え症を治したいのなら、まずは足元の冷えを取ることが肝腎である。

 顔が浮腫んでいる女性や、写真うつりの悪い女性は、顔に水毒が溜まっているものである。天日塩マッサージを顔に施すと、汗が滝のように出て来る。それだけ大量の水毒が溜まっていたということなのである。写真うつりの悪い女性は、顔に水毒が溜まっているために、オーラが悪くなってしまい、そのために写真うつりが悪くなってしまうのだ。顔の水毒を取ると、顔は小顔になるし、美しく見られるようになるのだ。顔の良し悪しよりも、水毒が顔にあれば醜くなるし、水毒がなくなれば美しく見えるものなのである。

 天日塩マッサージをした後は、乾くまでそのままで待つことだ。乾くまで閑なので、手で体の各所をゴシゴシとyっていればいい。乾いた後はお湯で洗い流せばいい。天日塩には殺菌効果があるので、天日塩マッサージをした後に石鹸を使って体を洗うことは不要である。天日塩によって体は奇麗になり、しかも体がコーティングされているので、そのままでいいのであって、体をタオルで拭いてしまえばいいのだ。

 天日塩マッサージをする時は、入浴前に「天日塩湯」を飲むと更に効果的となる。体の内側と外側から天日塩の効果を使えるので、余計に水毒を排除でき、スリムなボディーにすることができるのである。但し、入浴後に小便が出易くなるので、尿意を感じたら、直ちに便所に行って用を足すことだ。水毒の溜まっている女性だと、1回どころではなく、2回や3回、便所に行かざるを得なくなるものなのである。それだけ水毒が溜まっており、天日塩の力でその水毒が排出され易くなっているのだ。

 天日塩マッサージをやると、一発で冷え症が吹き飛んでしまい、体がポカポカになるものだ。しかし、一度だけ行うのではなく、定期的に天日塩マッサージをして、水毒を出して行くようにすることだ。体重が少しずつ低下して行って、或る日突然に体重の低下が停止するので、そこが自分にとっての適正体重だということなのである。その適正体重になれば、冷え症とは無縁の生活を送ることができる。

 夫婦で天日塩マッサージをすると、性感の度合いが非常に高まる。非常に感じ易い体になるし、オルガズムに行き易くなる。最近どうもマンネリでというのなら、夫婦で一緒に入浴して、天日塩マッサージをし合えばいいのだ。その後、調子に乗った状態でベッドに行き、メイクラブをすればいいのだ。今までとは比べ物にならない快感が襲って来ることだろう。

 赤ちゃんが欲しいなと思っているなら、天日塩マッサージをすると、妊娠の確率が一気に高くなる。水毒が抜けた状態に成り、しかも体内に充分な塩分が確保されるために、受精卵が子宮に着床し易くなるのだ。妊娠中にも天日塩マッサージをしておくと、安産になる確率が一気に高まる。巧く行くと無痛分娩を行うことができる。それだけ多くの妊婦たちは塩分が不足しているということなのだ。

 子供に天日塩マッサージをするのも効果的だ。特に風邪をひかなくなる。子供が風邪をひくと、他の子供の風邪をひくし、親までもが風邪をひいてしまうので、とにかく家族の中で誰も風邪にならないように配慮しておくことだ。定期的に子供たちに天日塩マッサージを施しておけば、子供たちは風邪をひかくなる。新型インフルエンザも天日塩マッサージ使えば、確実に撃退できるのだ。

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大きな夢には競争相手が存在しない!

●現実に縛られる母親と、現実無視の子供たち

 我が子が夢を持ち始めた時、その夢が在り来たりのものであるなら母親は否定はしないが、子供が奇想天外な夢を持ち始めると、母親は我が子の夢を否定することに躍起になってしまう。子供が夢を見るのは無料だし、お金はかからないし、邪念のないなので、一切悪気のないものなのに、母親は我が子の夢を否定し始めてしまうのだ。せいぜい「そんな夢ばかり見ていないで、勉強でもしなさい!」と言ってのけてしまうのだ。

 なんで母親と子供の間でこんな違いが出て来るのか? それは母親の方は結婚もしているし、子育てもしているし、家族生活を運営しているので、母親は現実に縛られてしまうからなのだ。一方、子供の方は呑気に遊び呆けているし、勉強も真剣にやっていなし、仕事をしてお金を稼いでいる訳ではないので、子供は現実に縛られることなく、現実を無視して、非現実なことばかりを想像して行くことができるのだ。

 このため、子供が夢を考え始めた時、大人の視点から見れば有り得ないことを言い出し、大人たちを困惑させるのだ。勿論、子供の方は世間のことは何も解っていないので、世間の情報を多く手に入れて行くと、奇想天外な夢を余り言わなくなり、打って変って現実的に実現可能な夢を言い出すのだ。

 だが、それは子供が大きな夢を持つという機会を失ってしまったことになるのだ。子供は子供らしく、非現実的な夢を言っていていいのだ。それは子供の特権であるのだ。大きな夢を持って本当に実現してしまう子供もいれば、大きな夢を捨てて小さな夢に変え、それを本当に実現してしまう子供もいるのだ。ただ、同じく夢を叶えるのなら、大きな夢の方がいいに決まっているのだ。

 どの母親たちも情報を溜め込み過ぎているのだ。自分の体重がブクブクと増えていてのと比例して、頭の中に情報を大量に溜め込んでしまい、子供が抱くような非現実的発想ができなくなってしまっているのだ。ダイエットして体重を落とすだけでなく、情報ダイエットでもして頭の中の情報を減らせば、現実に縛られることなく、現実から離れて新たな発想ができるというものなのだ。我が子が非現実的なことを言って来た時、それを頭ごなしで否定して来るのではなく、「子供は現実に縛られないんだな」と改めて認識し、我が子の大きな夢を称賛してあげることだ。

●非現実なものの方が遣り易い

 はっきりと言っておくが、大きな夢には競争相手がいない。そんな大それた構想を誰も持ち得ないので、当然に競争相手が存在していないのだ。だから、現実的なものより、非現実的なものの方が遣り易いのだ。誰にも邪魔されることなく、自分の大きな夢を実現して行くことができるからである。

 例えば、サッカー好きの子供なら、将来の夢はせいぜい「プロのサッカー選手になること」だろう。しかし、そのようなサッカー好きの子供たちの中で、たった一人だけ「ワールドカップで優勝したい!」という夢を掲げて来る子供がいるなら、その子供は誰にも自分の夢を邪魔されることなく、日本をワールドカップで優勝させることができることだろう。多くの競争相手たちが、サッカーテクニックを身につけているのに一生懸命になっている間に、自分はワールドカップでどう優勝すれば考えていれば、日本がワールドカップに出場した時、確実にレギュラー選手として選ばれるだろうし、日本を優勝させることに最も貢献する選手になることだろう。

 もしも、中学受験を控え、多くの受験生が受験勉強をしている中、たった一人、「自分は将来、宇宙の起源を解明したい!」と夢見ている子供がいるなら、その子供は中学受験など簡単に突破してしまい、世界トップの宇宙物理学者になって、その研究に取り組むことだろう。中学受験をした他の子供たちはせいぜい大学に進学することが精一杯で、その後、大した成果を上げることはないだろう。なぜなら、大きな夢が全くないからだ。

 俺は大学生の時、法学部の学生だったのだが、イギリス王国の首相マーガレット・サッチャーのことを調べて行くう内に、「マーガレットサッチャーに会ってみたいな」と思うようになった。そう思っていると、出版社の企画でマーガレット・サッチャーに会える機会があったので、それに応募して易々とマーガレット・サッチャーに会うことができてしまったのだ。法学部の学生なら、政治談議が好きで、政治のことをあれやこれやと言って来るのだが、法学部の学生の中で、マーガレットサッチャーに会った人物は俺一人だけだったのだ。他の学生たちは政治家に直接会ったこともないくせに、政治のことを研究しているのである。恐らくまともな研究などすることはできないことだろうと思っていたら、事実そうなったのである。

 夢も小さくなってしまえば、現実の枠の中に納まってしまうものだが、夢も大きなってしまうと、現実の枠から飛び出してしまう。しかし、そのような大きな夢だと現実の拘束を一切受けないので、思わぬ偶然が重なり、次から次へと順調に進んで行ってしまい、夢が実現してしまうことになるのだ。だから、我が子が大きな夢を持った時、それを否定するのではなく、「凄いじゃん!」と言って応援してあげればいいのである。、

●現実的なものの方が遣りにくい

 逆に言ってしまえば、現実的な夢の方が遣りにくいのだ。夢が小さくなってしまうと、その夢は簡単に実現することができるのではないかと思ってしまいがちだが、実際にやってみると困難の連続で、思わぬアクシデントも起こり、散々な思いをしながら、やっと夢が実現できるという事態になってしまうのだ。

 例えば、私立中学校への入学受験だ。私立中学の中でも偏差値の高い学校に入ろうとするなら、遅くとも小学4年生辺りから受験勉強を始めねばならないし、塾や予備校で散々勉強しまくり、入学試験で悪戦苦闘して、やっと合格することができるのだ。受験生の多くが入学試験は難しいものだと最初から思い込んでしまっているものだが、自分が大きくなってから、自分が受けた私立中学の入学試験の問題を見てみればいい。非常に簡単な問題しか出ていないのだ。引っかけ問題など一つか二つある程度で、後は基礎さえしっかりと出来ていれば解ける問題なのだ。

 これは学歴と所得の関係にも言える。高学歴な人ほど所得は高くなって行くのだが、高学歴の人ほど或る時点で所得の増加がピタリと止まるのだ。高学歴になってしまうと、大きな夢を持とうとせず、現実的な枠組みの中で発想して来るために、今現在の自分の位置からしか物を見れなくなってしまい、自分の所得を激増させることができなくなってしまうのだ。通常に働いていれば、どんなに高所得でも年間数千万円程度の所得しかならず、億万長者になることはできないのだ。

 億万長者に成って来る者たちは、学歴に関係なく、現実の枠組みから抜け出し、大きな夢を持って伸し上がって来るものなのである。ベンチャー企業の成功者たちは圧倒的に一流大学以外の者たちが多い。二流大学や高卒や中卒の人たちが学歴社会の中で落ち零れてしまったために、逆に学歴という現実に拘束されず、新たな道を切り開いてしまったのだ。

 この世で生きて行くためには現実を直視することは絶対に必要となる。しかし、余りも現実に拘り過ぎてしまうと、小さな夢しか持てず、その小さな夢の実現には無数の競争相手と格闘しなければならず、その戦いに勝利することができればいいが、負けてしまう確率も非常に高くなって来るのである。

●競争せずに成功することこそ、最高の成功の仕方

 マスコミは何かと競争を煽り立てて来る。受験をすれば「受験戦争」、社会に出れば「競争社会」と、競争に次ぐ競争によって、人々は必死になって生きているように思い込んでしまう。しかし、そのような競争至上主義的な生き方は、ただ単に夢がないか、夢が小さすぎるかの生き方をしている人たちに取りうる生き方であって、だからこそ競争塗れの人生を送ってしまうのである。

 他人とは競争せずに成功することこそ、最高の成功の仕方なのである。競争を恐れよ。誰かと競争し、たとえ勝ったとしても、こちら側はエネルギーを損出してしまうものなのである。誰かと競争せずに成功できたなら、エネルギーを一切無駄にすることなく、莫大な成果を物にすることができるのである。

 我が子の夢が大き過ぎれば、我が子に立ち向かって来る競争相手は存在しなくなるのだ。後は我が子が勇気を出して、自分の夢を実現させて行かせればいいのだ。他の子供たちに気付かれることなく、順調に夢の実現を進めて行って、他の子供たちが気付いた頃には、もう圧倒的な格差がついてしまい、簡単に夢を実現させてしまうことができるのである。

 但し、注意すべきことは、我が子の夢が大きな夢ゆえに、我が子が出来ない理由を探して来ることなのである。如何なる物事にも問題があるのだから、一旦、大きな夢を持ったら、出来ない理由を探せるな。子供が出来ない理由を探し出してきたら、「その問題はお前の夢を否定するものではない!」と言ってのけてあげればいいのだ。我が子を応援しつつも、子供の退路を断つことは、親の大事な役目なのである。

 親の中には最高の成功の仕方で自分の夢を実現した人は少ないことだろう。だからこそ、我が子が奇想天外な夢を言い出した時、それを否定せず、きちんと肯定してあげることが必要となって来るのだ。内心では出来っこないだろうと思っていても、子供の尋常ならざる行動力で実現させてしまうかもしれないのである。同じ夢を見るなら、大きな夢の方が喜びはでかいものなのだ。そんな大きな夢は無理だろうと周囲の人々が言って来ても、自分の母親だけが応援してくれるなら、子供は猛烈なパワーを発揮して来るものなのだ。大きな夢の実現のためには、実は母親の応援が必要なのである。

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我が子の夢を100%叶えさせる方法

●成功の分かれ道は些細な習慣から

 我が子が夢を持った時、その夢は叶わないんじゃないかと思ってしまう母親というのはいるものである。その理由は「夢といっても所詮は小さな子供が思い描いているもの」であり、また「自分自身も自分の人生で自分の夢を叶えられなかった経験があるから」である。そのため、我が子が夢に向かって精進しているのに、母親の方がその夢の実現に否定的で、なんの協力もせず、寧ろ妨害工作を働いて、我が子の夢の実現を潰そうとし出すものなのである。

 勿論、夢というものは夢を持てば叶うものではないのだ。多くの人々が夢を持っていても、その夢の多くは失敗して行くものだ。それは多くの人々が自分の夢を100%叶えさせる方法を取っていないからなのである。夢にも「夢の実現の仕方」というものがあるのであって、それを習得せず、自分勝手な方法で遣ろうとするからこそ、自分の夢を実現できず、その夢が破れてしまうのだ。

 成功の分かれ道は、子供の頃の些細な習慣で最初の分岐点が出て来る。それは「子供の頃に嘘をつく習慣を身につけてしまうこと」なのである。子供は純真と思われているが、現実は丸っきり逆で平気で嘘をついて来る。みんなで野球をやっていたらフェアプレイを心掛けることなく、隠し球を使ったり、サッカーをやったらフェアプレイをすることなく、相手の選手を罵倒して、その隙を突いてシュートを決めたり、将棋をやったらフェアプレイを心掛けず、相手の駒をちょろまかして、勝ちに行ったりと、ともかく汚い手を使ってでも勝とうとして来るのだ。 しかし、こういう汚い手を使っていると、いつまで経っても自分の実力が向上して来ないものなのである。

 この世で生きて行くためには嘘をつくことは必要である。だが、自分自身に嘘をついてはならないのだ。自分自身に嘘をつけば、その場を取り繕うことはできても、いつまで経っても自分の実力が向上して行かないのだ。多くの子供たちが自分自身に嘘をつく習慣を持ってしまうがために、自分が大人になった時、自分の夢が叶わないという大きな代償を支払うことになるのだ。

 正直という道徳は非常に大事ななのである。正直が大事であっても馬鹿正直であってはならない。自分自身に嘘をつかないという「知的正直」こそが自分の夢を実現して行く上で非常に大事なのである。子供の中でも野球をやった時、フェアプレイを心掛け、試合に勝っても負けても、ゲームを楽しめることができるなら、その子供はプロ野球選手としての素質があることだろう。サッカーをやった時、フェアプレイを心掛け、試合に勝っても負けても、ゲームを楽しめることができるなら、その子供はプロのサッカー選手としての条件を満たしている。将棋をやった時、インチキな手を使わず、真面目に将棋に取り組むなら、その子供はプロの棋士として充分に通用することになるであろう。

 自分自身に嘘をつくことが悪いことであり、自分自身に嘘をつかないことが良いことであるというのは、捻くれた人にとっては陳腐な道徳教育のように思えるからもしれない。しかし、知的正直ということが解っていなければ、いつまで経っても自分の実力が向上しないし、自分の夢を実現させていくことが不可能になってしまうのだ。

 一体どこの世界にダーティーな手を使って勝利を積み重ねて行くアスリートというものがいるだろうか? 一流の選手であればあるほど、正々堂々と戦い、フェアプレイを心掛けるものだ。実力で戦い、実力で勝つからこそ、ゲームを面白いのであって、たとえ実力を出して負けても、その敗戦は自分を反省する良い機会となり、逆に様々な改善点を見つけ出し、前よりも強くなってしまうものなのである。 

 それなのに、子供というのは、小学生の頃になると、嘘をつき始めるものなのである。だから、その時、母親はその嘘を見つけ出したら、ビシッと叱りつけ、嘘をつくことを禁じてあげなければならないのだ。子供の嘘を放置しておくと、子供はいつまでも嘘をつき続け、大人になっても嘘をつき続けるものなのである。

●徹底して自助努力を繰り返す習慣を身につけさせる

 子供に知的正直という道徳が備わっていれば、自分の実力のなさを正直に認めることになるので、自分の実力を上げて行くために自助努力を繰り返すようになり、自然と実力が上がって行くものなのである。この自助努力の習慣があれば子供は夢を叶えさせることができるし、この自助努力の習慣がなければ、子供は夢を叶えさせることができなくなってしまうのだ。

 勉強で良い成績を取りたいなら、ただ単に学校で勉強するだけでなく、自宅で予習や復習をすることが大事となる。自宅では勉強ばかりしている時間などないのだから、要領よく勉強して行かなければならない。自分の勉強の仕方が成績に結びつかないのなら、とっとその失敗を認め、改善して行かなければならないのだ。

 スポーツの試合で勝ちたいのなら、練習を一生懸命するのではなく、練習前に早く来て準備をし、練習後には後片付けをしなければならない。自分が使った道具はきちんと整備をしておくべきだし、練習中に問題点が見つかれば、その解決策を見つけ出して、直ちに手を打たねばならぬのだ。

 芸術の世界で成功しようと思うなら、日々練習をしまくることだ。ピアニストになりたいのなら、毎日ピアノに向かって練習するべきなのである。歌手になりたいのなら、日々発声練習をして、好きな歌を1曲でもいいから歌うべきなのである、漫画家になりたいのなら、下手でもいいから、毎日、漫画を描いて、物語を地道に作って行くべきなのである。

 ところが、子供というのは飽きっぽいから、自助努力を遣り続けることを怠ってしまうのだ。子供というのはそういう生き物であるということを、母親は自覚しておくべきなのである。だから、子供に徹底した自助努力を身につけさせるためにも、家事の手伝いをきちんとやらせ、その家事手伝いの中で自助努力を身につけさせるようにするのだ。子供が夢を追いかけているからといって、家事手伝いをしなくていいなどしていたら、その子供は一時的には上達しても、或る日突然に上達しなくなってしまうものなのである。

●目標を明確にする

 夢を100%叶えさせる第二の方法は、目標を明確にするということである。自分が一体どの目標を持っているのかを明確にしておかなければ、自分のエネルギーを集中させることはできないのだ。子供に夢があるのなら、一体どのような目標があるのかを紙に書き出させればいいのだ。それを居間に貼っておけば、子供は嫌が応でもその目標を実現せざるを得なくなるのだ。

 多くの子供たちが夢を叶えることができないのは、夢を明確にしないからなのである。夢を明確にしておかないからこそ、途中で出くわす様々な誘惑に負けてしまい、挫折して行ってしまうのである。最大の誘惑はテレビであり、テレビを見ることに嵌ってしまうと、自分の夢実現のために費やす時間よりも、テレビを見る時間の方が長くなってしまうのだ。そうなれば、自分の夢など実現できる訳がないのだ。

 オリンピックに出場して来る選手たちは、子供の頃からオリンピックに出ることを目標として明確にしており、その目標があったからこそ、厳しいトレーニングに耐えることができたのである。よくアナウンサーたちが「練習がさぞかし大変だってでしょう」と訊いて来るものだが、どの分野に行っても練習は大変なものなのである。しかし、自分に確固たる目標があれば、その練習は実際には苦しいものであっても、楽しいものになってしまうものなのである。

 目標というのは、人間を変えてしまうのである。消極的な人間から積極的な人間へと変えてしまうのである。軟弱な自分から堅忍不抜の精神を持つ強固な自分へと変えてしまうのである。目標が明確になっているからこそ、艱難辛苦が訪れて来ても凹たれることなく、更にパワーアップして、その艱難辛苦を吹き飛ばして行くことができるようになるのである。

 子供はまだ幼いのだから、夢を持てば周囲から馬鹿にされるものだ。しかし、目標をしっかりと設定してしまえば、ブレることなく、その目標に突き進んで行くことができるようになるのである。他の子供たちが遊び呆けている間に自分が精進しまくっているのだから、競争相手が殆どいない状態で戦いを進めて行くことができ、気付いた時には日本の頂点に立ち、そして世界の頂点に立っているものなのである。

●利己心と利他心のバランスを取る

 夢を100%叶えさせる第三の方法は、利己心と利他心のバランスを取ることだ。人間には利己心というものがあるから、その利己心を或る程度は満たしてあげる必要がある。例えば試合で絶対に勝ちたいというなら、全力を投入して試合に勝つべきなのである。賞金が欲しいというのなら、その金銭欲を剥き出しにして、何かなんでも手に入れてやろうとすべきなのである。

 だが、その一方で人間には利他心が備わっているから、自分の行為が他人に利益をもたらすようにさせてあげるのだ。自分のためにではなく、自分の勝利を喜んでくれる人のために戦うのだ。男の子であったら、大方は母親のためだ。母親が喜んでくれるからこそ、試合に勝利し、その勝利を母親に捧げるのである。

 自分一人のために成功するのではなく、誰かのために成功させる。この利己心と利他心のバランスを巧く取れるようにしてあげるのだ。我が子が何か手柄を立てて来たら、それを過剰なまでに褒めてあげることだ。そうやって自分の勝利を家族が祝福してくれると、利他心によって利己心の悪どさが緩和され、自分の欲望を正しく制御できるようになるのである。

 最初は家族のためであったものが、大きくなってくれば、チームのため、母校のため、そして日本のためというものに広がって行くのである。その人に愛国心がしっかりと根付いていれば、世界の舞台で戦う時、勝つ確率がグ~ンと上がって行くものなのである。愛国心がなければ、世界の舞台では呆気なく負けてしまうものなのである。嘗てサッカー選手の中田英寿は世界でも通用するだけの技術を持っていながら、愛国心がなかったために、ワールドカップでミスを連発し、日本のナショナルチームを敗戦へと追い込んでしまったのである。世界の舞台で勝利し、世界の頂点に行くためには、愛国心というものが絶対に必要なのである。

 だからこそ、「世のため」「人のため」「お国のために」生きることが大事なのである。使命感を持って取り組めば、夢は100%叶うものなのである。それなのに、こういう道徳的な生き方を罵倒し、自分のためだけに生きようとするからこそ、自分にとって大事な場所で大敗を喫してしまうものなのである。こういった道徳は、子供の頃から勉強だけさせておけば身につくものではないのだ。その両親がしっかりと利他心を教え込み、お前がどのような状況に陥っても、家族はお前を守るよと態度で示し続けないと、身に付いて来ないものなのである。どんなにいい大学を出ても、世の中を批判しているだけでは、何も生み出すことができないのだ。夢のない人間ほど、他人の悪口を盛んに言うものなのである。

 夢を100%叶えさせるために、自助努力をすることにしても、目標を明確にすることにしても、利己心と利他心のバランスを取ることにしても、その要となっているものは、「知的正直」なのである。いつ何どきも自分に嘘をつかない。自分自身に対して正直で有り続ける。この知的正直があれば、夢は100%叶って行くのである。子供に知的正直を持たせるためには、母親の役割が非常に大きいのである。我が子が嘘をつき始めたら、ビシッと叱りつけるからこそ、我が子は嘘をつくことをやめて、知的正直を身につけることができるのである。後は我が子は自然と自分の夢を持ち始め、その夢に向かって精進して行くものなのである。その精進を繰り返して行けば、夢が実現してしまうものなのである。

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我が子には夢を持たせよ

●夢の力

 我が子には夢を持たせよ。子供だからこそ夢を持つことが最も大事なのだ。子供といえども、夢を持ては立派な人物に育って行くのだ。人間は漠然と成長しようとしても、まとも成長して行くことができない。自分が一体どのように成長できるか解るからこそ、それに向かって成長して行くことができるのである。

 子供は或る時期、真似っ子乞食になる時期がある。息子なら父親の真似をしたり、娘なら母親の真似をしたりと、親の真似をする時期が来るのだ。もしも息子が「将来、お父さんのようになりたい!」と言い出したら、その育児は成功なのだ。むしも娘が「将来、お母さんのようになりたい!」と言い出したら、その育児は成功なのだ。それこそが子供が夢を持つ基盤になるからだ。

 その内、子供は親にべったりすることを徐々に止めて行き、外の世界に目を向けて行くことだろう。その時、具体的な職業が解り始め、将来、その職業に就きたいと表明し出すのだ。当然、子供が知りうるだけの範囲だから、「保母さん」とか、「学校の先生」とか、「野球選手」とか、「歌手」とかといった職業である。

 プロ野球選手で子供の頃からプロ野球選手になることを夢見なかった人物は一人もいない。プロの歌手で子供の頃からプロの歌手になることを夢見なかった人物は一人もしないのだ。子供の頃に夢を持ったからこそ、その道に精進して、その夢を実現して行ったのである。子供の夢は持てば叶い易いのだ。、

 安藤美姫は、小学3年生の時、オリンピックに出場した荒川静香を見て、自分もフィギャスケーターになろうと決意し、もう高校生の頃にはオリンピックに出場していたのだ。彼女の夢は小学生の段階で既に「オリンピックに出場して、金メダルを取ることです!」と言い切っていたのだ。だからこそ、安藤美姫はオリンピックに出場することができたのである。

●夢があればエネルギーを集中させることができる

 夢を持つことの最大の強みは、夢があれば自分のエネルギーを集中させることができるということなのである。人間は何もせず禁欲的になっても、禁欲になりきれないものだ。仏教では飲酒や肉食や妻帯が禁止されているのに、僧侶たちはその戒律を平気で破ってしまうものなのである。仏教を信仰することより、自分の欲望の方が勝ってしまうことになるのだ。だがそうやって欲望の暴走を放置していては、まともに仕事を成し遂げることができなくなるのだ。

 だからこそ夢を持つ! 夢を持つことで、自分の欲望を夢の実現に集中させ、「行動的禁欲」に徹するのである。行動的禁欲こそ、「夢の力」の正体なのである。行動的禁欲を行っていれば、無駄なことをしなくて済み、夢の実現のために必要なことをだけをするようになるのだ。

 子供など夢を持たずに、学校に通わせても、遊び呆けてしまうものなのだ。子供なら幾らでも遊びを見つけ出し、エネルギーを浪費してしまうのだ。そういう子供に幾ら「勉強しろ!」と言ってもまともに勉強して来ることはないのだ。夢がないから、頭の中は遊ぶことで一杯になっているのだ。

 学校では勉強しないのに、中学受験をするとなると、途端に塾や予備校で猛勉強をし始めるのも、子供に志望する私立学校に入ろうとする夢ができたからなのである。夢があれば、勉強をしない子供でも、打って変って勉強し出すのである。どんなに高い能力のある子供でも、夢がなければ、真剣になって勉強して来ないものなのである。

 それゆえ、親はわが子に対して、「お前の夢は一体なんだ?」と訊くべきなのである。親からそうやって自分の夢を問われれば、子供といえども自分の夢を言わざるを得ず、そうやって自分の夢を公言することで、今、自分が出来ることを一生懸命に遣ろうとし出すようになるのである。

●夢に破れても実力がきちんとつく

 親の中には、若い頃は自分も夢を持っていたが、その夢が叶わなかった人もあることだろう。そういう親に限って、夢を持つことを否定し、平凡に生きていればそれでいいと思ってしまいがちだ。しかし、そうやって子供を育ててしまうと、子供は遊びに遊び呆けて、平凡どころか、警察の御厄介になるような子供に成長してしまうのである。

 夢を持って精進しても、夢を実現できない時もある。だが、夢が破れても、実力がきちんとついているものなのである。人間には得手不得手があるから、自分の夢が自分の能力では実現できないと解る時が遣って来る。その際、その夢を諦めて、他の分野に転進しても、他の分野でも能力を発揮できるようになるのである。いつの間にか、自分に恐ろしいほどまでの実力がついていたのである。

 スポーツクラブに通わせると、運動神経が向上するだけでなく、礼儀正しくなるし、人間関係が潤滑に成るものである。スポーツクラブでスポーツだけをしていたのではなく、礼儀正しくすることをみっちりと教え込まれた訳だし、人間関係を潤滑にすることも覚えざるを得なかったのだ。それゆえ、そのスポーツでプロにならなくても、充分に立派な人間として通用することになってしまうのである。

 子供というのは、小学生の頃に急成長して来るので、この時期に何もしないというのは、その急成長を何も利用しなかったということなのである。特に動体視力というのは、小学生の時期に急激に発達するので、この時期に何かしらのスポーウをさせておかないと、その動体視力を養えなくなるのだ。骨格にしても、小学生の時期は急激に成長して来るのだから、体を鍛えておけば、丈夫な骨格を作ることができるのである。

 夢は叶うことが大事なのではないのだ。夢を持つことこそが大事なのだ。我が子が一体将来に於いて何をするか解らないものだ。しかし、子供が夢を持って様々なことにチャレンジして行くからこそ、子供が自分の遣りたいことが明確になり、それに向かって精進し出すのだ。そのことが解るまで苦労したって構わないし、挫折したって構わないのだ。夢を持ってチャレンジして行けば、自分にとって本当に大切なものが見つかるものなのである。

●「人生の格差」は「夢を持ったか持たなかったの格差」なのである

 夢を持てば一流か二流の人物になれるが、夢がなければ無能な人物になってしまうものなのである。夢を持てば、その通りの人生を歩んでいく。夢がなければ何もしないものなのである。成功している人々は人生の早い段階で夢を持ったらからこそ、自分の人生を成功させることができたのである。人生を成功できずにいる人、人生を失敗させてしまった人々は、夢がないからこそ、自分の人生をそのような人生にしてしまったのである。

 不良少年や不良少女たちは、その不良行為は様々なことを仕出かしてくれるが、夢がないことでは皆共通している。折角、大学に進学できたというのに、大学生で麻薬に手を出す者も皆、夢がないことでは共通しているのだ。親が夢の力が解らず、我が子に夢を持つことをさせなかったために、平気で自分の人生を台無しにさせて行ってしまうのである。

 夢を持たない人々が遊び呆けている間に、夢を持った人々はその夢に向かって精進し、着々と実力を上げて行っているのだ。日々切磋琢磨しているのだから、短期間で圧倒的な能力を見につけることが可能に成るのである。その人物が自分の夢を叶えた時、他の追随を許さぬ最強の力を見につけてしまうものなのである。夢を実現できたのなら、莫大な報酬を手にすることは当然の現象なのである。

 人生の格差とは、実は夢を持ったか持たなかったかの格差なのである。夢を持って生きて来た人は、自分のエネルギーを無駄にすることなく、自分の遣るべきことに自分のエネルギーを集中して来たから、成功し易くなり、所得も高所得に成って行くものなのである。一方、夢のない人々は、自分のエネルギーを散々無駄にして来たから、低能としかいいようのない能力しか持っていないので、人生は確実に失敗し易く、所得も低所得になってしまうものなのである。

 人間の貧困を「景気が悪い」とか「政治が悪い」とか言ってしまう人々が跡を絶たないものだ。しかし、人間の貧困は自分に夢がないからこそ、自分で引き起こしてしまったものに過ぎないのだ。派遣村で食事の配給を受けている失業者たちに、「あなたに夢はありましたか?」「その夢の実現のために、あなたはどれだけ努力しましたか?」と訊いてみればいいのだ。誰もまとも回答をすることはできないものなのである。自分に夢がなかったからこそ、大の大人になって、貧困で苦しまねばならなくなってしまったのである。

 我が子を立派な人間に育てたいのなら、夢を持たせることだ。その夢が本当に実現するかしないかは重要な問題ではないのだ。夢を持ては、自然と精進し始め、高い能力を身につけることになってしまい、その夢を実現できることができるし、たとえその夢が叶わなくても、どの分野に行っても成功できる人物になることができるのである。

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教育の最重要ポイントは向上心に火をつけてしまうこと

●子供の向上心に火をつけろ

 子供が勉強しないからといって、母親が子供に向かって「勉強しなさい!」ときつく言うのは逆効果なのである。寧ろ子供は母親から「勉強しなさい!」と言われれば言われるほど勉強しなくなるものなのである。一応、机には向かうが、心はここにあらずで、勉強する振りをして、漫画を読み耽るというのが落ちなのだ。

 子供に強制的に勉強させるというのは、勉強を勧める方法としては愚策なのである。子供が自発的に勉強させる方法こそ、子供に勉強を勧める最上の策なのである。では、どうすれば子供が自発的に勉強するようになるのか? それは子供の向上心に火をつけてしまうことなのである。

 人間の心の中には「向上心」というものが備わっている。人間は成長して行くことに最高の喜びを感じるように出来ているのであって、この向上心に火をつければ、子供は自発的に勉強し出し、高い能力を発揮して来ることになるのだ。子供は向上心に火がつかないと、幾らでもだらけてしまい、遊び呆けるだけになってしまうのだ。

 子供は赤ちゃんとして生まれてから、幼稚園児辺りまでは、向上に向上を繰り返して来る。しかし、小学生辺りになると、自我が発達して来るために、その自我に囚われて発達して来なくなる子も出て来るのだ。だからこそ、勉強することは必要だと解っているのに、それをやらなくなり、遊び呆けてしまうのだ。

 子供の向上心に火をつけるためには、子供にとやかく言うのではなく、親が向上していくことの素晴らしさを率先して教えていけばいいのだ。例えば、親が読書をする習慣を持ち、子供の前で読書をするようにすれば、子供も自然と読書をし出すものなのだ。親が子供を本屋に連れて行き、自分が本を買うと同時に、子供にも本を買い与えるのだ。こうすれば子供は自発的に読書をし出し、その内、学校の勉強も自発的に遣り出すものなのである。

●手柄を立てれば子供を褒めよ

 子供の向上心はいつ火がつくか解らないが、親は必ず子供の向上心に火をつけるべきなのである。親が子供の向上心に火をつけてしまえば、子供は自分の自我に囚われれることなく、己の向上心によって自我の限界を突破して行き、高い能力を身につけて行くことが可能になるのだ。

 子供の向上心に火がつけば、母親が「勉強しなさい!」と言わなくても自発的に勉強するようになるし、自分の知りたいことがたくさん出て来るので、母親にどんどん質問して来るものなのである。そこで親子が会話すると、更に子供にとっては知的な刺激となって、益々勉強に精を出すという好循環が出て来るのである。

 この好循環が作動し始めると、子供は様々な機会を利用して手柄を立てて来るので、そういう時は、母親は子供をきちんと褒めてあげることが非常に重要なことになって来る。子供は母親に褒められると、脳内に於いて最高の快感を味わうことになってしまい、自分のやっていることが正しく、しかもその行為は母親が喜んでくれるとなると、益々精進し始めるのだ。

 気をつけなかればならないのは、母親の中には捻くれた性格の持ち主もいて、子供が手柄を立てると、子供の些細なミスを見つけ出して、逆に子供を叱りつける母親もいるのである。そういう母親だと、子供は遣る気をなくしてしまい、向上心の火が消えてしまい、自発的に正しいことをすることをしなくなってしまうのだ。こうやって育てられると、小学生の頃には静かにしている子供でも、思春期に突入すると、突如として荒れ狂い、母親を散々困らす少年少女に成ってしまうのである。母親が子供の向上心の火を吹き消した罪は、必ず子供によって復讐されるのである。

 子供を褒める時は、冷静に考えれば大袈裟だろうと思うぐらいの過剰な褒め方の方が効果があるものなのだ。子供が何か賞を取ったりすれば、そのトロフィーや賞状を居間に飾り、事あるごとに子供を褒めればいいのだ。褒美としてお小遣いを奮発したり、ケーキを食べさせたりと、子供が喜ぶような褒め方をしてしまえばいいのだ。そうすれば、子供の脳内に「こういうことをすれば親が喜んでくれる」という回路が出来上がり、子供は更に手柄を立てて来るようになるのだ。

●教育から見て無駄でも、子供には効果があるものがある

 子供を産み育てて来た母親にとって、我が子が自分の手を離れて、自発的に成長を遂げて行くというのは、好ましいことに思えても、その反面、悲しいものなのである。それまでは子供は自分の意見を全て受け入れて来たので、子供が親を必要とせず、自発的に行動して来ることに関しては、複雑な感情を抱いてしまうものなのである。

 しかし、子供は自発的に行動するために、前々から準備をして来たのである。例えば、女の子では「お人形さんごっこ」だ。お人形を使って遊ぶことで、人間関係をどのように進めて行くか遊びながら訓練をしているのである。男の子なら、「昆虫採集」「ミニカー遊び」 「電車好き」といった形で、動く物に対して尋常ならざる関心を持って、自分の狩猟本能を鍛えているのだ。

 こういうことは教育から見て無駄に思えるが、実は子供の向上心を鍛えるためには、非常な効果を有するものなのである。もしも、女の子にお人形さんごっこをさせなければ、それで肉体的にきちんと育って来るが、精神的に異常な女の子として成長して来てしまうことだろう。男の子に男の子らしい遊びをさせなければ、それでも肉体的にきちんと育って来るが、精神的に異常な男の子として育って来てしまうことだろう。子供の頃に自分だけの小さな世界を作り上げるからこそ、大きくなって向上心に火がつき易くなるのである。

 母親にとってみれば、自分の娘がいつまでもお人形さんごこっこをしていては、それは勉強に直結しないから不満なことだろう。自分の息子が得体の知れない昆虫を捕まえて来たりすれば、それは母親にとっては嫌なもので不満なことだろう。しかし、子供の好みには自分が不満でも同意した方がいいのだ。女の子といえども、お人形さんごっこはいずれ卒業して行くものなのだ。男の子といえども、将来、昆虫博士にでもならない限り、昆虫好きはいずれ消えて行くものなのだ。

 子供は小さい時に自分の世界を作り上げていたということは、後々になって非常に有益な現象を引き起こして来るものなのである。子供は身体能力が劣っているので、いきなり完璧にこなすことはできない。自転車でも、鉄棒でも、縄跳びですらも、最初は出来ないものなのだ。しかし、自分だけの小さな世界を作り上げた子供ほど、失敗してもなんの恐れを抱くことなく、何度もチャレンジして行くことができるのである。失敗したとしても、自分の全てが否定される訳ではないから、安心しても何度も挑戦を繰り返すことができるのである。そういうことを繰り返して行けば、最初は不可能であったことも出来るようになるし、その積み重ねが勉強でもスポーツでも向上心となって現れて来るのだ。

●教育論の誤り

 教育の最高形態は「独学」なのである。自分が自発的に勉強する。これこそが本当の教育であり、これが出来るようになるからこそ、人間は死ぬまで向上し続けることができるようになるのである。そのためには、幼い時に自分だけの小さな世界を作り、そこで遊ぶことであり、そしていつの日か親が子供の向上心に火をつけることが必要なのである。

 教育は全部学校任せというのでは、それでは我が子にまともな教育を施したことにならないのだ。教育に於いて決定的に重要な役割を演じるのは親であり、学校の教師ではないのだ。教師は所詮、教育の技術的な部分を担当する者であり、教育の根幹を担当する者ではないのだ。教育の根幹を担当するのは、飽くまでも親であるのだ。

 確かに学校に行けば様々な知識を教えて貰うことができる。しかし、いつまでも教育者に教えられているようであるなら、その教育は根本的に間違っているものなのである。子供はいずれ教師の能力の限界を知る時が来るだろうし、教科書の内容に不満を持ち始めることだろう。そこまで高い能力を身に付けた時こそ、学校から卒業して行くことになるのである。

 そういった意味で、教育論のバイブルとされているジャン・ジャック・ルソー著『エミール』は根本的に誤った教育論なのである。子供に教育する余り、子供の自立を奪ってしまい、いつまでも教育者に服従させるのは、その教育が根本的に誤っているとしか言いようがないのだ。しかし、教育者の中には、自分が教え子に追い抜いて行かれることを快く思わない連中がいるので、この『エミール』に魅了されてしまう人たちが跡を絶たないのだ。

 昭和憲法体制下の日本で、教育現場が荒れに荒れ、教育問題を抱えっぱなしなのは、日教組の組合員たちが『エミール』に取りつかれ、『エミール』に書かれたことは、教育論としては根本的に間違っているということに気づかなかったことにある。これだけ教育の現場で問題が多発しているなら、『エミール』が間違っていることは、最早、明白なのである。

 子供が今まで服従していたのに、或る日突然に向上心に火がつき、自発的に勉強してくれば、いずれ親からも教師からも自立して来ることは当然なのだ。それは親にとっても、教師にとっても、複雑な心境になるのは当然のことなのである。でも、ここで引き留めてしまえば、子供は自立できなくなり、成長が歪んでしまい、自立できない人間になってしまうものなのである。

 優柔不断は誤った決断よりもなお悪いものだ。子供の向上心に火がつき、ぐんぐんと成長して来たのなら、親から自立して行くのは当然のことだと悟ることだ。子供の前で優柔不断を繰り返すよりも、「お前は私の子だから大丈夫!」と言いきって、送り出すくらい勇気を持つべきなのである。我が子は未だフラフラと前進しつつも、必ず親の期待に応えて来て、大いに成長し始めるものなのである。

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教育の基本は暗記である

●教育の基本

 我が子が小学生に成った時、我が子が持って来る成績表で一喜一憂してはならない。学校の教師がつける成績表を見て、我が子が馬鹿だとか、頭がいいとかいう判断は絶対にしない方がいい。現在の教師たちは、師範学校という教師の能力を身に付ける学校を出ていないために、教育の基本のなんたるかが解っていないのだ。

 教育の基本、それは「暗記」である。人間の脳は19歳までは脳そのものが大きくなって行くので、その時期は暗記を徹底的に行い、記憶力を高めさせることが、この時期に行われる教育なのである。19歳以下までの優劣は、要は記憶力があるかないかの話なのである。記憶力を高めて行くことこそ、最優先で行わなければならないのである。

 江戸時代の日本でも、明治憲法体制下の日本でも、子供に対する教育というのは、暗記させる教育をしたために、世界に通用する人物は幾らでも出て来た。子供の頃の教育で記憶力を鍛えておけば、大人になってから、その記憶力が「発想の乱反射」という現象を引き起こし、様々な学術的発見をすることができるようになるのだ。

 例えば、日本語は漢字と片仮名と平仮名という複雑な文字を使っている。それなのに、漢字を覚えず、単語を覚えず、文法が解っていなければ、国語能力が鍛えられないだけでなく、他の学問をやる際に、文章の意味が解らないという致命的な事態に陥ってしまうのだ。だから、子供には問答無用で文字を教え、徹底的に暗記させるしかないのである。

 数学なら公式を暗記できない者に優秀な成績など取れないし、歴史なら人物名と事件名を暗記していかなければならないし、物理なら法則を覚え、化学なら元素記号を覚えて行くしかない。これらは全て暗記をしなければ覚えさせることができないのだ。子供に暗記させるからこそ、子供は高い教育を受けることができるのである。

●記憶があるからこそ、才能を引き出せる

 まともな母親なら子供に文字を教えたり、九九を教える辺りから本格的な教育が始まるものだ。子供は物覚えがいいから、すぐさま覚えて行くことができるのだ。だから、母親の方も子供から教えを請われれば、子供に教えてしまい、それ好循環となって、子供の能力を更に高めて行くことができるものなのだ。

 よく「教育というものは、子供の能力に合わせてすべきである」という得体の知れない教育論が出回って来るが、子供の能力というのは、実は記憶力で決まってしまうものなのである。物事を記憶できる子供は優秀なものだし、物事を記憶できない子供はその能力も劣るものだ。子供の理解力というのは、記憶力に左右されるのだから、子供が理解することを待つよりも、記憶力を高めて行けば、自然と理解力も高まって来るものなのである。

 子供に記憶力があるからこそ、自分の才能を引き出せるようになるのであって、それなのに大人たちが暗記を軽視してしまえば、子供は才能を引き出すことができなくなってしまうのだ。一体、自分にどんな才能があるか解らないものだが、暗記して行く内に段々と自分の才能が解って来るものなのである。

 それゆえ母親が我が子を優秀な人物に育てあげたいのなら、記憶力を高めさせる食事を作り、子供に食べさせればいいのだ。人間の記憶力が向上するためには、フェニルアラニンというアミノ酸が必要であり、これ含んだ食品を大量に食べると記憶力が高まるようになるのである。フェニルアラニンを含んでいる食品は、「無精白穀物」「ゴマ」「味噌」「アーモンド」「ピーナッツ」「チーズ」「肉」「魚」などである。押麦入り玄米食にゴマをかけ、それに味噌汁、焼き魚という伝統的な和食は、実は記憶力を高める食事となっているのだ。

 一方、記憶力を低下させる食事は、「精白穀物」「白砂糖」「清涼飲料水」「化学調味料」などである。白米や白パンを常食とし、白砂糖の入ったお菓子を食べ、清涼飲料水を飲んでいたら、当然に記憶力の悪い子供が出来上がることになる。因みに、お酒やタバコは脳にダメージを与えるので、子供は絶対に禁止されるべきであって、大人でも控えるべきなのである。アルコール中毒やニコチン中毒の人に限って記憶力が悪いのは、あ酒やタバコで常時、脳を破壊し続けているからなのだ。

●詰め込み教育批判には警戒せよ

 子供を学校に通わせる時、要注意しておくべきことは、「教育者は暗記が大嫌い」ということなのである。無能な教育者ほど、暗記を否定し、詰め込み教育を批判して来るのだ。高校生までなら詰め込み教育で良いのである。高校までの教育がしっかりと出来ていれば、大学に行って高い能力を発揮できることになるのだ。ところが、教育者たちは高い能力を発揮する機会がなく、逆に高校生までに教えられたことを、子供たちに教えなければならないので、当然に暗記を否定して来るようになるのだ。

 そもそも、大学に進学できた人というのは、暗記ができた人なのである。それなのに、大学を出て、暗記が出来た教育者ほど、暗記を否定して来るので、それをまともに信じてしまったら、我が子の能力を大いに激減させることになってしまうのだ。それに詰め込み教育を批判する教育者ほど、詰め込み教育を批判することを一生懸命になって他人に詰め込もうとしているものなのである。暗記の否定や、詰め込み教育の批判は、教育者の悪弊なのであって、絶対に拒否することだ。

 母親が子供に文字を教えたり、九九を教えたりするのは、暗記以外の何物でもないし、詰め込み教育以外の何物でもないのだ。それが教育の基本なのである。一体、子供が文字を記憶することを嫌がっていたら、いつまで経っても文字を覚えられないし、子供が九九を詰め込まなかったら、いつまで経っても九九を覚えられないものなのだ。

 もしも、学校で暗記の否定や詰め込み教育の批判が行われていて、我が子の能力が高まって来ないというのなら、自宅で子供に暗記させていけばいいのだ。子供は母親と一緒なら楽しく学べるので、空いた時間を使って、ゲーム感覚で記憶させていけばいいのだ。暗記することは面白いと解れば、子供はどんどん記憶しまくって行くのである。

 人間の記憶は睡眠中に一旦整理されるので、子供には充分な睡眠時間を確保してあげなければならない。そして起床後は再記憶がされ易い状態になっているので、昨日やったことを再び暗記させれば、子供の脳にしっかりと記憶され、子供の記憶力は高まって行くことになるのだ。

●暗記によって記憶の回路を作れ

 記憶力を高めたいのなら、暗記によって脳に「記憶の回路」を作ってしまうことだ。記憶の回路が出来上がると、脳は簡単に物事を記憶して行くことが出来るようになるのだ。そのためには、古典を暗記させてしまうことだ。古典は名文であり、内容も高度なので、記憶され易いものになっているのだ。

 お勧めは『大学』である。大学は儒教の古典の中でも最高の経典であり、しかも短い文章なので、暗記し易いのだ。荻生徂徠はこの『大学』を熟読することで、後に政治家として高い能力を発揮したし、二宮尊徳もこの『大学』を熟読することで、農村復興を成し遂げることができるようになったのである。『大学』は日本を近代化するのに最も役だった古典なので、これを暗記させてしまい、時折、暗唱させればいいのだ。

 テレビを見ている時は、その番組は面白くても、テレビを幾ら見ていても記憶力がついてこないものだ。それはテレビ番組を何度も繰り返し見ないからなのである。たとえ繰り返し見たとしても、テレビ番組は視聴者が何度見ても面白いように作られていないので、その内容の浅さに愕然としてしまうものだ。だから、子供にはテレビの視聴時間をなるべく少なくすることだ。それよりも、本を繰り返し読まさせるようにすることだ。子供が興味を引きそうな本があったら買い与え、それを何度も読まさせる機会を与えておくことだ。子供の記憶力向上のためには、テレビは邪魔だし、かといって本を買い与え過ぎて、乱読させてもいけないのだ。1冊の名著を何度も読まさせることこそが、必要なのである。

 脳に記憶の回路を作るためには、この何度も繰り返すことが非常に大事なのである。子供の頃に繰り返し本を読むことで記憶の回路を脳内に作っていないと、大人になってから高い能力を発揮し続けることができなくなるのだ。一生懸命勉強して一流大学に入ったのに、その後、泣かず飛ばずになってしまう人は、受験勉強ばかりやってきたので、脳に記憶の回路が充分に出来ていなかったのだ。

 我が子の脳に記憶の回路を作ってあげれば、小学生5年生か6年生辺りに、既に頭角を現わして来るものなのである。それが出来てしまえば、後は自分の力で伸し上がって行けばいいのである。親が我が子の脳に記憶の回路を作らず、我が子を馬鹿呼ばわりしないことだ。その馬鹿は親が親としてすべきことをしなかったために出来上がってしまったものなのである。子供には問答無用で暗記させていく。詰め込み教育をしまくる。これをしなければ、如何なる子供でも高い能力を持つことはできないのである。

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子供の学費は子供が生まれた時から蓄えよ

●学費は貯金の習慣があれば大変なものではない

 この世には冷静に考えれば安い買い物なのに、一度に値段を提示されてしまうと、「高い!」と思ってしまう商品がある。教育費というのは、その典型例であろう。日本は学歴社会なので、自分の職業に相応しい学歴を持っていないと立身出世は不可能に近いからだ。高級官僚になりたければ東京大学を卒業することは絶対に必要だし、自衛官になりたければ防衛大学校を卒業することは絶対に必要だし、マスコミ関係で活躍しようとすれば早稲田大学を卒業することは絶対に必要となる。

 日本が近代化し始めた直後に、福沢諭吉は『学問のすすめ』を書いて、来たるべき社会が学歴差別の世の中になることを言い現わしている。この本は冒頭で「天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らず」と平等思想のようなことをいっているために、多くの人々はこの部分だけを引用して来るのだが、彼が本当に言いたかったことはその部分ではなく、「学問の有る無しで人間に序列をつけましょう」ということを言いたかったのである。

 優秀な能力を持っているのに、学歴差別で悲惨な目に遭った人は、『学問のすすめ』を読めばハラワタが煮え繰り返るぐらいの怒りを感じてしまう筈だ。しかも、福沢諭吉が作った慶応義塾大学は私立大学の中でも最も学費が高く、その癖、大学の知的レベルは異様に低く、大した研究成果を出していない大学なのだ。それなのに金持ちに子弟が多く通う大学のために、経済界で強力な学閥を形成して、優秀な人材が経済界に入って来ることを拒んでいるのだ。

 我が子を学歴差別の犠牲者にしないためにも、教育費にきちんと投資して、大学に進学させるべきであろう。大学の入学金や学費は一度に提示されてしまうと大金に見えてしまうものだが、我が子が生まれた時から地道にお金を蓄えて行けば、それほど高い金額ではないのだ。だが、「貯金の習慣」のない人に限って、その金額が高いと感じてしまうものなのである。

 日本の近代化の原動力というのは、親たちが貯金の習慣を身につけ、我が子のために学費を用意することができたからなのであって、そういう親の姿を見て育った若者たちが有望な人材として育ち、日本の至る所で活躍することができたのである。大学で受けた教育が素晴らしいというより、自分の親が生活を切り詰めてまで学費を調達しようとするその心こそが、若者たちを有望な人材に仕立て上げたのである。、

●子供は生まれながらにして向上心を持っている

 子供というのは、生まれながらにして向上心を持っているものだ。子供は言葉を喋れるようになったら、「あれな~に」「これな~に」と質問しまくるものだ。女の子なら料理に関心を持ったり、男の子なら自動車や電車や昆虫に関心を持ったりするものだ。子供たちは新しいことを知ることで、自分が向上して行くことを知っており、そうやって向上して行くことが楽しくて仕様がないのだ。

 両親が幼稚園や学校に頼る前に、両親が行う家庭内で行う教育の方が遥かに必要なのである。親として教えておくべきことはきちんと教えておくことだ。母親は娘に料理や掃除や洗濯をきちんと教え込むべきだし、父親は息子に男として如何に生きるべきかを教えるのだ。この家庭内教育は子供たちの両輪以外にはすることはできず、この教育をきちんと行っていなければ、子供たちは成長して行く過程で間違った方向に進んでしまうものなのである。

 小学校に行かせることは義務教育として必要であっても、小学校では最低限の教育しか施されていないことを知っておくべきだろう。小学校の授業では物足りないからこそ、全国各地に学習塾や予備校やスポーツクラブが無数存在しているのである。そういった所に我が子を通わした母親たちの多くが言うのは、そこに行くことによって頭が良くなったりとか、健康になったりたとかだけでなく、我が子が礼儀正しくなったというのだ。それほどただ単に小学校に通わしているだけでは、礼儀正しいまともな子供にはならないのだ。

 子供の能力はチャンスが与えられない限り、飛躍的に伸ばして行くことはできないものなのだ。例えば算数が得意な子供でも、「公文」のような算数の能力を伸ばしてくれる塾に行かなければ、いずれ埋没して行くことは必定なのだ。子供同士でサッカーをしていても、スポーツクラブに行って本格的な技術を身につけない限り、プロのサッカー選手にはなれないものだろう。

 我が子に能力を伸ばすチャンスを与えるためには、無料で与えることはできないのだ。有料なのである。だから、親が裕福な先進国では、子供に能力を伸ばせるチャンスを与えられるために、続々と優秀な人材が育って来るのである。日本は先進国なのだから、その優位性を思う存分発揮して、我が子を優秀な人材に育て上げて行くべきなのである。

●子供にどれだけ学費がかかっているか教えよ

 どんなに潜在的に優秀な能力を持っていても、親が貧乏ならどう仕様もないのだ。自分が能力を大いに伸ばせたのは、親が裕福だったからなのであり、だからこそ、親は我が子にどれだけ学費がかかったか教えてあげるべきなのだ。月謝を払う時、無言で月謝を払ってしまうのではなく、子供を呼びつけて、「お前にはお小遣い以外に、これだけのお金を出しているのだからね」と教えれば、子供は一生懸命になって精進するようになることであろう。

 子供が私立学校に進学した場合、子供にどれだけ学費がかかったのか毎月教えておくことは絶対に必要であろう。公立の学校に行けば無料なのに、わざわざお金を出して私立学校に行かせている以上、不良の道に走るのは言語道断であり、大学に進学できる学力を持たないのも、それは救いがたき問題なのである。私立学校は大学に進学するのを有利に展開するために行かせるのであって、私立学校が公立学校よりも劣れば行かせる必要性などないのだ。

 学校に奨学金制度があるなら、勉強やスポーツに励んで、その奨学金を貰えるようにすることだ。我が子に「学費は両親にとって経済的負担となっている」と解っていれば、一生懸命になって精進して、奨学金を貰って来るものなのである。奨学金はその金額よりも、我が子に努力することの大切さを教えることの方が大事なことのである。

 十代は肉体の成長期なので、勉強ばかりさせずに、部活動をさせて、体を鍛えさせることは必要なものだ。当然、その部活動をするためにもお金がかかる訳なのだから、どれだけお金がかかっているかきちんと教えておくべきなのである。部活も監督がいず、顧問がいるような部活では、適当なことをやっているものなのである。監督がいるようなちゃんとした部に入り、まともな部活動をさせるべきだろう。

 大学に行ったら、もう充分に働けるのだから、自分の小遣いくらいはバイトで稼ぎ出すようにさせ、親の負担を軽減させるべきなのである。バイトも何をやっているのか親に報告させ、安易に高給が貰えるようなバイトはやめさせることだ。若い頃から高給を貰ってしまうと、真面目に働くことを馬鹿にし始めるからだ。学生の本分は勉強することであり、バイトにのめりこまないように配慮しておくことは絶対に必要なことなのである。もしも勉強よりもバイトが忙しいのであるなら、「自分の学費は自分で支払いなさい!」と言ってのけてしまえばいいのだ。

●教育こそ最高の投資

 この世には様々な投資物件があるものだが、最高の投資は「教育」である。人間の能力は教育によって、無限に伸びて行く可能性を持っているのだ。それゆえ両親が教育の絶対的重要性に気付いてくれたら、その子供は大いに能力を伸ばせることができるのである。だが、親が教育を軽視しているなら、折角、高い能力があってもその能力を伸ばすことができないのである。

 我々は「個人の自由」を尊重する余りに、個人の自発的意思によって自分の将来が切り開かれると勘違いしている。芸事というのは、どこの世界でも3歳くらいから始めるのが常道なのだ。ピアニストでもヴァイオリニストでも、他の子供たちが遊んでいる時に、せっせと稽古に励んだからこそ、将来、その分野で活躍できるのである。

 サッカー選手にしても、野球選手にしても、子供の頃からそのスポーツで遊んでいたからこそ、そのスポーツに精進して、プロの選手になっていったのである。体操の選手なら小学生の段階で基本的技術を身につけさせ、それ以降も精進するからこそ、オリンピックで金メダルを取れるような選手になることができるのである。

 どの分野でも若くして頭角を現わして来る人物は、全て親が教育費を惜しまなかったからこそ、その人物は大いに能力を伸ばすことができたのである。だから、成功した人物ほど親に感謝するものだし、親孝行をしっかりとしているものだ。自分の成功に最大の貢献をしてくれた人は、親以外にいないと解っているからこそ、そういうことをしてくるのである。

 毎年、マスコミで不良少年が犯罪を犯したとか、大学生が麻薬に手を出したとか、そのような悪しき情報が出て来るものだ。しかし、我が子をそういう状態に追い込んでしまったのは、その親が我が子を学校や大学に預けっ放しにしてしまったからこそ、我が子が間違った方向に進んでしまったのである。

 本当の教育をするのは、教師や教授たちではないのだ。我が子に本当の教育をしなければならないのは、その親なのである。親が我が子をどのような道に進ませたいと思うからこそ、教育費という大金を出すのである。我が子にどれだけ教育費がかかっているのか教え、きちんとそれに見合う以上の活躍をするよう仕向けて行くべきなのである。

 日本は天然資源に恵まれない国である以上、教育によって優秀な人材を作ることで、国民を豊かにして行くしかないのだ。幾ら日本が経済的に豊かだからといって、教育を軽んじれば、いつでも国家は滅亡して行くものなのである。祖国を滅亡させ、国民が難民となって世界各国に漂流したくなければ、せっせと子供を産んで、しっかいとした教育を施して行くことだ。そのためのお金を絶対に惜しんではならないのだ。

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笑撃ヒートアップ:『遅ればせながらチャングムブーム』

●いきさつ

 俺はいつも出かける時はバッグの中に文庫本や新書本を入れて置き、電車の中や、待ち合わせの時間の時などに読むようにしている。ハードカバーの本は持ち歩くと重いので、自宅に置いておき、夕食後に読むようにしている。読書はいつも同じ量の本を読めるというものではなく、調子のいい時はそれこそ10冊以上は読んでしまうし、調子の悪い時は1冊すら読めない。でも、平均してみると、1日3冊は読んでいることになる。

 ところが、去年の秋以降、仕事関連の本を多く読まざるを得なくなったために、机の上に常時10冊以上もの本が溜まってしまうようになった。読書スピードを幾ら上げても、読み切れない本が出て来るようになったしまった。そのため、夕食後、食休みをしてから、何がなんでも2時間は読書の時間に充てざるを得ず、集中力を使って読書量を増やして行かねばならぬようになった。

 だが、こういう大事な時に限って、読書の邪魔をする連中が出て来る。その筆頭がうちの母親である。「テレビを見ることが唯一の趣味」と公言して憚らないこの人物は、とにかくテレビを見まくるのだ。朝から晩まで、下手をすると夜中までテレビを見ている。特に俺が「止めて欲しい」と常々言っているのは、夕食後に無目的でダラダラとテレビを見ることなのである。何か視たい番組があるなら、まずは新聞のテレビ欄でそれを確かめてから見ればいいものを、視たい番組がないのに、ガチャガチャとチャンネルを回して、「この番組は詰まらない」「この芸能人は面白くない」と言ってテレビを見るのだ。

 こういうテレビの見方をすると、母親の体から阿呆馬鹿オーラが漂って来て、このオーラを発している本人がまずはバカになり、そのオーラを放っている人物と会話すると、まともに会話が噛み合わず、知的な会話が全くできないことになってしまうのだ。このテレビほど読書の邪魔になるものはないのであって、子供の喚き声とか、隣の家がドタバタしてうるさいとかいうのはそれほど読書の邪魔にならず、読書に集中するためには、なんと言ってもテレビを消してしまうことが最善の策なのだ。

 でも、テレビを消しても、俺が書斎に籠って読書をしていると、テレビをまた付け出すので、なんの効果もないのだ。子供よりもタチが悪いし、かといって、自分の母親であるので、余り強く言うことはできず、こっちの方がストレスが溜まるようになってしまった。そうなると、1日の読書量が減ってしまい、机の上には渦高く本が乗っけられることになり、益々ストレスが溜まるようになってしまった。

●ドラマ紹介

 そこで或る人に相談した所、「テレビを禁止しても、テレビが好きな人はテレビを見てしまうものだ。しかも最近のテレビ番組は質が落ちているから、放っておくと更に下らないテrビ番組を見てしまうよ。こういう時は面白いDVDでも借りて来て、それを見る代わりに、テレビ番組を無目的で見ないようにさせればいい」と教えてくれた。そこで「面白いDVDは何かあるだろうか?」と尋ね回っていた所、そこで出て来た答えが『宮廷女官チャングムの誓い』だったのだ。

 予め言っておくが、我が家では余りDVDを見ない。せいぜいジブリのDVDくらい。そのため世間一般の基準からすると『宮廷女官チャングムの誓い』に出会ったのは物凄く遅いのだが、でもそれでもこのドラマは非常に面白くて、我が家では遅ればせながら≪チャングムブーム≫がやってきたのだ。

 このドラマは韓国では視聴率が最高57%を記録した番組であるが、我が家では視聴率が100%を記録した番組なのだ。要は家族全員で見たってことだ。家族全員が夕食後、居間に集まり、『宮廷女官チャングムの誓い』を見るのだ。この韓国のドラマは日本のドラマと違い、1本の時間が70分間で、しかも、内容が濃いために、ドラマを見ている時は全員が集中して見てしまうのだ。

 最初は主人公のチャングムばかりを見ていたのだが、ドラマを見て行く内に、主人公ではないハン尚宮がキャラの作りやセリフの良さが光っており、これに魅了されてしまった。敵役のチェ尚宮の悪役ぶりも、ここまで悪役ぶりをやってのけてしまうと、逆にこの悪役をも評価したくなってしまった。

 実際のドラマ制作では、このハン尚宮に人気が出て来てしまったために、ドラマの内容を大いに変えてしまい、そのためにドラマが2倍近く伸びてしまうことになった。そのため、ハン尚宮が出ている所まではいいのだが、ハン尚宮が死んでしまうと、緊張感が抜けてしまい、後半以降、多少だらけてしまったのが難点だ。でも、映画製作に携わったことのある俺にとっては、そういうドラマ作りの仕方が手に取るように見えて来て、その点も面白かった。完璧なドラマを作られるより、制作現場の混乱が伝わってくる不完全なドラマの方が面白いものだ。

 このドラマのお蔭で、俺が抱えていたストレスはなくなり、読書に集中することができるようになり、しかも、以前よりも読書量が増えたぐらいだ。「最近のテレビ番組は面白くないな~」といっている既婚女性には、このドラマをお薦めしたい。特に娘がいるのなら、このドラマを娘と一緒に見ると、いい教育になると思う。この『宮廷女官チャングムの誓い』は俺が今までの人生の中で見て来たドラマの中で最も面白いと思えるドラマだ。

●小説紹介

 この『宮廷女官チャングムの誓い』がなんでこんなに面白いかというと、監督のイ・ビョンフォンと脚本家のキム・ヨンヒョンの二人のコンビが素晴らしかったからなのだ。韓国の歴史に実在した人物であるチャングムを見つけ出したのはイ・ビョンフォンなのだが、これに命を吹き込んだのは、キム・ヨンヒョンなのだ。

 日本の脚本家だと、今活躍している人たちは、丁度、フェミニズムが最も強かった時期に教育を受けてしまった人たちなので、脚本家本人が精神的に自立していないので、全然面白くない脚本ばかり作って来るのだ。これに対してキム・ヨンヒョンはフェミニズムに汚染されていないがゆえに、しっかりとした内容の脚本を作ることができたのだ。脚本の場合、その人の文才も確かに必要だが、それ以前に本人が精神的に自立していないと、面白い脚本は作り出せないものなのだ。

 実際のドラマ制作の現場では週に1回、監督や他のスタッフたちと話し合って、そこでドラマのストーリーを決め、それをもとに大急ぎでキム・ヨンヒョンが脚本化して行ったようだ。1回70分であり、しかも週2回の放送だったので、相当な執筆量になったらしく、「速筆の脚本家に無能な脚本家はいない」という格言通り、出来のいい脚本を作っていったのだ。

 このキム・ヨンヒョンが『宮廷女官チャングムの誓い』の脚本を小説化したのが、キム・ヨンヒョン著『大長今』(角川書店)なので、ドラマを見終わった後は、これを読んで再度ドラマを堪能するのも乙なものである。小説家が独りよがりで書いている小説より非常に面白い小説である。少なくとも、俺は去年日本でベストセラーになった『1Q84』よりも遥かに面白い小説だと評価したぐらいだ。

 ドラマの『宮廷女官チャングムの誓い』は人気が出てしまったために、当初のストーリー展開とはかなり内容が違っており、恐らく当初のストーリーを元にして作られたのが、ユ・ミンジュ著『宮廷女官チャングムの誓い』(竹書房)なので、こちらも読んでみるといい。最初の脚本の方がストーリーの辻褄が合っている。これを読んだ上で、監督や脚本家がどのようにストーリーを変えて行ったかを検証してみるのも、面白い想像が出来て良いと思う。

●日本の時代劇には大いに問題があり

 俺がこの『宮廷女官チャングムの誓い』を見終わった後、日本の時代劇の程度の低さを問題視してしまった。韓国の時代劇はこれほど面白いのに、日本の時代劇は本当に詰まらない。人間は勧善懲悪を好むものだが、それを形式的にやられてもなんとも面白くないものなのd。主人公に正義があるからそれでいいのではなく、主人公といえども悲惨な目に遭ったり、悪役もただ単に悪いのではなく、その悪を行う理由が明確にされないと、ただ単に主人公が正義の名のもとに悪役を虐殺している物語になってしまうものなのである。

 そういった点では、『水戸黄門』は本当に詰まらないドラマだ。俺は子供の頃からこのドラマを知っているが、このドラマの基本的なストーリーがイマイチ解らない。水戸黄門は隠居しているのであって、なんの役職についていないし、なんの権限もないのだ。それなのに単なる旅人だというのに、訪問先で悪事を暴いて、その悪役の家に不法侵入して、乱暴狼藉を働いているのである。犯罪を犯しているのは、なんの権限もなく私的な裁きを行っている水戸黄門の方なのである。

 しかも、クライマックスシーンの戦闘シーンは、どう考えても合理的な行動になっていない。水戸黄門御一行が数人で100人近い敵を相手にしても、実際の戦闘では敵は無傷で、水戸黄門御一行の方が全滅するだけなのだ。時代劇を作る前に、基本的な軍事学を学んでからにしろと言いたい。嘘だと思うなら、役者たちに真剣を持たして、実際に戦ってみればいいのだ。自分たちが作っているドラマが如何にインチキなものかが解ることだろう。

 日本のドラマの最高峰はNHKの大河ドラマなのだが、1本あたり45分であり、しかもオープニング曲が長いので、ドラマ自体はもっと短くなる。そのくせ無駄なシーンが多いので、集中力を維持しながら見ていられないのだ。『宮廷女官チャングムの誓い』を見ていた時、このワクワク感は一体なんなんじゃ~と思っていたのだが、『宮廷女官チャングムの誓い』は大河ドラマよりも時間が長いのに、遥かに内容が濃いし、視聴者を飽きさせない工夫が至る所にあって、それに嵌ってしまったのだ。

 時期的に『天地人』との放送に重なった時に見てしまったために、『天地人』の過剰な演出や、無駄なシーンが矢鱈と目についてしまった。『天地人』の製作スタッフたちはもっと原作を大事にして、原作の面白さをきちんと引き出して欲しかった。役者は妻夫木聡と常盤貴子と一流の役者を使っていたので、余りにも勿体なかったような気がする。特に、あのドラマの演出家は演出家としてやってはならない演出を多々やっていて、逆に視聴者の人気を削いでしまったような気がする。演出というものは、それが視聴者にバレないように行うものであって、視聴者が違和感を抱くほど露骨な演出は絶対にやるべきではないのだ。そういう演出を演出家がして来たのなら、監督は絶対に制止すべきなのである。

●監督と脚本家

 この『宮廷女官チャングムの誓い』はドラマ製作は一体どのようにやればいいのかということに関しては非常に参考になるのだ。俺が映画製作に携わっていた時、映画は「監督が男性で脚本家が女性」というのが最高の組み合わせではないかと思うようになった。というのは、脳科学的に見て、映像に拘るのは男性が得意であり、巧い脚本を書いて来るのは女性の方が得意だからだ。男女双方の脳の違いを巧く活用すれば、最高の映画を作ることが出来る訳だ。『宮廷女官チャングムの誓い』は監督が男性のイ・ビョンフォンであり、脚本家が女性のキム・ヨンヒョンということで、最高の組み合わせでドラマを製作して行ったのだ。

 特に監督のイ・ビョンフォンは監督として基本がしっかりと出来ているのだ。素人の人たちにすぐには解らないが、プロの目から見た時、監督しての遣り方が映画の王道を行っているので、ドラマが映画のようになるのである。日本のドラマのように、ドラマをドラマとして作っているのに慣れていると、このドラマの作りを見せられると、非常にいい出来に見えてしまうのだ。

 それと、脚本家のキム・ヨンヒョンも、脚本家としての基本がしっかりと出来ている。脚本家は独りよがりの脚本を書いて来てはならず、監督の意向を充分に反映させつつ、如何にそのキャラ作りをして行くかなのである。脚本家にとって大事なことは、自分を無にするべきであって、下手に自分の意見を出してしまうと、視聴者には受けないものなのである。日本のドラマが不調に陥って行ったのは、脚本家の女性たちがフェミニズムに汚染されてしまい、そのイデオロギーによって脚本を書いてきたからなのである。プロレタリア文学に文学としての名作がないのと同じように、イデオロギーに基づいてドラマを作ると、碌でもない作品しか作れなくなってしまうのだ。

 因みに、監督と脚本家の組み合わせでは、監督も脚本家も男性というのが、二番手につけることになる。この組み合わせは当たった時は大成功を収めるが、ハズレた時に駄作しか作れなくなってしまうのである。日本でもアメリカでも、名作が続出した黄金期は監督も脚本家も男性の組み合わせが殆どだったが、黄金期が過ぎ去り、駄作を連発するようになった時も、監督も脚本家も男性という組み合わせだったのだ。

 三番手につけるのが、監督が女性で脚本家が男性という組み合わせだろう。そして最悪の組み合わせが監督も脚本家も女性という組み合わせだ。俺は女性が監督になっている映画やドラマに警戒している。時折、女性が監督になっている映画やドラマを面白いからと他人から薦められて、それを見た時、面白いと思えた作品は一つもなかったからだ。男性の監督に比べて、女性の監督はソフトな取り方をして来るので、優しい感じを受けてしまうのだが、良く見てみると、監督としての基本がしっかりとできないために、駄作にしかならないのだ。

 監督の仕事というのは、映像を取ることだけが仕事でではないのだ。監督の仕事は撮影が最も大事な仕事なのでなく、実は撮って来た映像を切り捨てるということが、最も大事な仕事なのである。優れた監督という者は、この映像の切り捨てを惜しまず、容赦することなくして来るものなのである。黒沢明にしても、宮崎駿にしても、これをやったからこそ名作を作れたのであって、これができなければ、いい映画にはならないのだ。女性の監督が「あのシーンは削るべきだった」というような意見は一度とも聞いたことがない。イ・ビョンフォン監督は、あれだけ出来のいいドラマを作りながら、「削れるシーンはもっとあった」と後悔の念を述べているのだ。レベルが違いすぎるのだ。

 女性が監督になった場合、まさにこここそが最大の盲点なのであって、映画製作に対して全て自分の意向を反映させるのではなく、編集担当のスタッフに優秀な男性を迎えて、削れるシーンは削るべきだろう。ピンク映画にしても、アダルトビデオにしても、斜陽化して行ったのは、女性が監督に成り始めた時からなのである。最近の日本映画は女性が監督になっている作品が多いので、充分に注意しておくことであろう。

●主演女優は美人であることが絶対条件!

 『宮廷女官チャングムの誓い』の魅力は、なんといっても主人公のチャングムを熱演した「イ・ヨンエ」の魅力が大きく貢献している。このイ・ヨンエは美人ではあるが、女優のくせに結構太っているのだ。俺としてはこのふっくらした頬っぺが堪らない魅力として写ったものである。女優は必ずしも痩せている必要性はない。体重が或る程度ないと映像化した時に、映像にインパクトが出て来なくなってしまうのだ。

 イ・ヨンエの演技力はそれほど高い訳ではないが、彼女は一生懸命に仕事に取り組んでおり、その一生懸命さが映像から伝わって来て、これがまたドラマを見ている人たちの支持を受けてしまったのである。主演女優は美人であることは当たり前なのだ。美人の上に、何かそれ以上のことをするからこそ、その魅力が開花し、そのドラマが物凄くいいものになるのである。

 それゆえ、主演女優が美人でないというのは、問題外なのである。実名を言ってしまうと、「中谷美紀」は問題外の代表例であろう。彼女はそもそもブスだし、体が貧相すぎるのだ。顔のことは百歩譲っても、体が余りに貧相なために、彼女の出て来るシーンにインパクトが出て来ないのだ。そして何より、彼女はいつも緊張しすぎているので、見ている方が疲れてしまうのだ。主演女優なのに、緊張し過ぎているのであれば、演技力どうのこうのではないのである。よく女優たちが舞台を経験すると、演技力がついたと言い出すのは、演劇で鍛えると度胸がつき、舞台を数多く踏むと、緊張しなくなるからなのである。

 主演女優が美人であっても、演技が下手なら駄目なのである。「藤原紀香」はその典型例であろう。彼女は演技力はゼロといっても過言ではない。それに身長が高すぎるのだ。実物を見ると、身長はそれほど高いのではないのに、物凄く大きく見えてしまうのだ。こういう女性は格闘技番組や音楽番組の司会者などに向いているのであって、女優には向かないものなのである。

 人間には嫉妬心があるから、主演女優が美人でそれだけが突出して来ると、それに対して反感を持ってしまうのだ。そこで主演女優を巧く補完する形で、熟女女優を配置し、視聴者の嫉妬心を緩和すべきなのである。『宮廷女官チャングムの誓い』が非常に面白いと感じるのは、ハン尚宮役をやったヤン・ミギョンの存在なのである。ドラマの前半は、イ・ヨンエとヤン・ミギョンの2トップで引っ張っていて、これがために視聴者は惹きつけられてしまったのである。ハン尚宮への人気が高まったからこそ、ドラマは2倍近く延ばされた訳だし、ハン尚宮が死んでからの後半は多少ダラケてしまうのである。

 熟女女優は脇役で光るべし。これ以外に生きる方法はないのだ。『篤姫』が面白かったのは、篤姫役の宮﨑あおいと、幾島役の松坂慶子がいたからこそなのであ。特に松坂慶子はきちんと原作を読みこんで、原作の幾島を巧く表現しているのだ。原作でも矢張り幾島が出て来てから面白くなっているので、ここで躓いたら、ドラマは台無しになってしまうものなのである。

 日本には熟女女優で演技が異常に巧い女優が少なすぎるのだ。それがドラマや映画の質を落としているのだ。熟女女優になった場合、女優業だけで生活して行くのは不可能だと考えておいた方がいい。脇役のギャラなどたかが知れているからだ。タレントとして活躍して、生活費を稼ぎ出さねばならないのだ。ヤン・ミギョンも女優だけをやっているのではなく、バラエティー番組の司会者などをしているのだ。俺が女優の高畑淳子をバラエティー番組で見て面白いと思っていたら、女優を遣らしてもやっぱり巧いのである。女優というのは、そういうものなのである。女優だからといって、余り女優業に真面目になりすぎないことだ。

●ドラマを引き立てる音楽

 『宮廷女官チャングムの誓い』の魅力が一層増す所は、音楽の使い方が非常に巧いのである。このドラマを見終わった時、サウンドトラックのCDを欲しくなったくらいだ。時代劇の場合、荘厳さを出すためには、クラシックを使っていかざるを得なくなるが、時代劇なら伝統音楽を使うのは当たり前なのである。

 このことは、大河ドラマに於いては、完璧なまでに抜け落ちている点だ。日本の時代劇なら、天皇や公家が出て来るシーンには雅楽を使うべきだし、武士が出て来るシーンには状況に応じて琵琶や三味線を使って、巧く演出をしていくことは必要だろう。但し、昔のままの音楽を出してしまうと、現在では通用しないので、現代風に作曲して、巧くドラマに挿入して行くべきなのである。

 大河ドラマで違和感を感じる点は、歌詞つきの曲を挿入して来ないということなのである。『宮廷女官チャングムの誓い』だと歌詞付きの曲がいいシーンになると何度も挿入して来るので、それが場面を盛り上げて来ることになるのである。ただ単に曲を流していてはそうはならないのである。

 実際問題として、音楽というのは才能が左右する世界なので、日頃から音楽家を囲っていないと、出来のいい音楽家が育ってこないのである。NHKが莫大な資金を投入して、交響楽団を維持し続けているのは、そうでもしなければ出来のいい音楽を使えなくなってしまうからなのである、民放のドラマがイマイチなのは、交響楽団を自前で作り上げていないからなのである。

、音楽家の現実は、音楽大学を出て、海外留学の経験があっても、食えないのが現実なのである。音楽というのは豊かでない限り生まれて来ないので、音楽家が貧乏になってしまえばいい音楽は生まれて来ないものなのである。経費削減だからといって、音楽への経費を削減するのではなく、音楽家にはきちんとお金を支払って、音楽家を育てて行って欲しいものである。

●ドラマに笑いは必要!

 『宮廷女官チャングムの誓い』は、要は主人公が宮廷内の陰謀に巻き込まれ、その復讐を果たして行くという物語なので、この物語をそのまま作り上げていけば、深刻な内容のドラマになってしまうものだ。しかし、このドラマには笑いが多数含まれているので、深刻さが軽減し、視聴者には息をつける暇が出て来るのである、

 カン・ドックが毎回笑わしてくれるので、俺はドラマを見ている内にカン・ドックが出て来るだけで笑うようになってしまった。それとミン尚宮とチャンイの遣り取りがいつも笑えるので、シリアスのシーンでも一息つけるのだ。ドラマにユーモアを入れるということは、監督にユーモアのセンスがないと出来ないので、監督のイ・ビョンフォンにはユーモアのセンスがあるのだろう。

 日本のドラマはシリアスなシ-ンばっかりで笑いがないので、見ていると息が詰まってしまうのだ。シリアスなシーンに対して笑いを入れないと、シリアスのシーンがより深刻さを増して来ないのである。解り易い例を上げるなら、激辛の料理ばかり食べていると辛さに鈍感になっていまうのと同じことだ。日本のドラマがよりシリアスな作品を作っても、視聴者の方が鈍感になってしまったのは、笑いを軽視しすぎてしまったからだ。

 『宮廷女官チャングムの誓い』は1本辺り70分という長さがあるのに、内容が非常に濃い癖に、あっという間に時間が過ぎ去ってしまうのは、シリアスなシーンと笑いのシーンが巧みに織り合わさっており、緩急のバランスが取れているので、視聴者が疲労しなくて済むようになっているのだ。

 民放のドラマだとCMの時間があるために、笑いを入れる必要性が必ずしもないのだが、NHKのようにCMがない番組だと笑いを入れることは絶対に必要なのである。NHKはお堅いことでは評判なものだが、NHKだからこそ笑いを入れて、ドラマに緩急をつけて、視聴者を疲労させないことが必要となって来るのである。、

●多チャンネル化と視聴率の低下

 日本では「最近のドラマは面白くない」という意見は根強いものだ。どのドラマの低視聴率を記録し、いい作品というのも滅多に出会えない状況になったしまった。しかし、テレビ局が多チャンネル化し、人々の趣味が多様化すれば、視聴率が落ちるのは当然なのである。この変化は世界ではアメリカで最初に起こったことだし、日本もそれに続いて起こるようになった。経済的に豊かになれば、みんなが同じ番組を見るということはなくなるものなのである。

 だからこそ、製作側はそういう状況下でしっかりとしたいい作品を作り、視聴者を楽しませるべきだったのである。ところが、アメリカでも日本でもまともな作品を作ろうとせず、奇を衒う作品ばかり作るようになってしまった。このために視聴者の感性も貧困化し、更に粗悪な作品しか作って来ないという深刻な状況になってしまったのである。

 日本のドラマ業界がより深刻なのは、アメリカですら全国ネットは三つのテレビ局しかないのに、日本はアメリカの経済力の半分しかないのに、全国ネットのテレビ局は5つもあるという構造的な問題を抱えているということなのである。恒常的な過当競争のために番組の質が落ちて当然なのである。

 韓国は人口が少ないゆえに、テレビ市場の大きさが丁度いいのである。韓国の市場が出来のいいドラマを作り易い状況なのであり、韓国のドラマは外国に持って行っても絶対に売れるレベルに達してしまったのだ。特に民族的に近い関係にある日本に持って来れば、確実に売れることだろう。要は、日本のドラマが低迷している間に、韓国のドラマの質が日本を上回ってしまったのでる。経済力の大きさが必ずしも国民に貢献するとは限らないものなのである。

 日本のドラマ製作者たちは、視聴率ではなく、ドラマの質に拘るべきだろう。しかし、マニアック路線を取るな。マニアに受けても、逆に質が落ちてしまうものなのである。マニア以外の人々を惹きつけるからこそ、いいドラマができるのである。日本のドラマは日本だけで見られるのではなく、東アジアや東南アジアにも輸出されるものなのである。その自覚をきちんと持ってドラマ作りに励むべきなのである。

 『宮廷女官チャングムの誓い』はこのドラマ自体が面白いし、日本と韓国を比較すると色々なものが見えて来るので、是非とも見て欲しい作品である。テレビを詰まらないと言いながら見るより、そういう番組を見る続けるのではなく、出来のいいドラマを見て、人生を豊かにして行った方がいいのだ。このドラマは夫婦が一緒でも、家族が一緒でも安心して見られる作品なので、夫婦や家族で見ると、物凄くいい影響が出て来ると思う。

 最後に、『宮廷女官チャングムの誓い』を作ってくれた、イ・ビョンフォン監督と脚本家のキム・ヨンヒョン、主演女優のイ・ヨンエ、素晴らしい演技をしてくれたヤン・ミギョン、それからその他の製作関係者たちに感謝の意を捧げたいと思う。本当に有難う!

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馬鹿な子に「馬鹿」だと教えるのも「母親の愛」

●馬鹿の一つ覚え

 育児や子育てを巡る議論となると、冷静に考えれば確実に間違っているのに、最も真実らしい意見が出回ることになる。その中でも筆頭なものが、「赤ちゃんは天才だ!」「幼児は天使である!」「子供は純真である!」といった類のものだ。こういう意見は飽くまでもその人が主観的に思っていることであって、客観的に見ればどう考えた所で違っているのだ。

 例えば、赤ちゃんは生まれてすぐに言葉を喋れない。だから、泣くことでしか意思表示をすることができない。その後、喃語を喋り始め、一語文、二語文、三語文となり、やっと文章を喋れるようになる。その間、文章が拙いために、意思疎通が巧く行かず、そのためにすぐに感情的になり、暴力を平気で振るって来る。子供は喋れるようになっても、自分の思考をしっかりと確立することができず、学校で勉強し、自宅でも勉強し、高校を卒業する頃にやっと自分らしい意見を持てることになる。しかし、人生経験がまだまだ足りないので、世界で通用するような思考をすることはまだまだ出来ないし、一人前の意見を言ったり、行動ができるようになるのは、30代になってからなのである。

 それゆえ、赤ちゃんは天才でもないし、幼児は天使でもないし、子供たちは純真でもない。誰もが赤ちゃんの頃の記憶はないものだし、幼児の時に言動を見れば赤面するし、小学生の時に書いた文章など、まともな文章としては成立していないものだ。それこそが事実なのであって、だからこそ、両親は乳幼児にきちんと育児をし、子供たちに子育てをし、立派な大人に育てて行かなければならないのである。肉体的な成長が終わっていない19歳以下の人間は、基本的に馬鹿であり、その馬鹿な連中に教育を施すことで、知恵ある者に育て上げなければならないのである。

 我が子が馬鹿なことをしているのなら、「馬鹿!」と言って、その馬鹿なことをやめさせるというのは、母親の育児や子育てに於ける重要な役割の一つなのである。特に子供は或る時期に差し掛かると、「ウンコ」や「チンチン」と言った言葉に異常な関心を示し出し、人前でも平気でそれを言って来たりする。馬鹿の一つ覚えをし始めた時に、「そういう言葉は人前で使ってはいけません!」と叱るのは母親の大事な役目なのである。母親がこれをしてくれるからこそ、子供は人前で使って行けない言葉が解るし、「恥」という概念を持つことになるし、道徳を尊重するようになるのだ。

 子供たちは「ウンコ」や「チンチン」を人前では言ってはいけない言葉だと解っているからこそ、キャラクターショーなどで役者さんたちが子供たちに「ウンコ」や「チンチン」と言った時に大笑いするのである。しかも、このウンコとチンチンを組み合わせた「ウンコチンチン」なる用語を言うと、子供たちの脳は最大級に刺激され、大爆笑してしまうのである。

 子供たちの笑いの壺は大人には理解しにくいのだが、このウンコチンチンが笑いの壺なのだということはどんな親でも解るものだ。子供たちはキャラクターショーが終わっても、「ウンコチンチン」と言い出し、家に帰っても「ウンコチンチン」と言い出し、朝起きても「ウンコチンチン」と言い出してくるのだ。こういう時こそ、「馬鹿だね、お前は!」と言って叱りつけ、子供の馬鹿の一つ覚えを断ち切ってあげなければならないのだ。

 子供の頃にはどの子も馬鹿の一つ覚えをやる時期があるのだから、それを親が立ち切ってあげないと、大人になっても馬鹿の一つ覚えをして来るものなのである。それは身分や地位や男女を問わないものなのだ。例えば、鳩山由紀夫首相は馬鹿の一つ覚えの如く「友愛」という言葉を使い、小沢一郎は馬鹿の一つ覚えの如く「民主主義」という言葉を使っている。馬鹿な子は大人になっても馬鹿だし、首相に成ろうが、与党の幹事長になろうが、馬鹿で有り続けるものなのだ。

 馬鹿な人間を「馬鹿だ」と判定する最も簡単で最良の基準は、「その人が馬鹿の一つ覚えをやっているか否か」である。

●優しい母親ゆえに我が家を滅ぼす

 母親が我が子に対して主観的になりすぎる余り、子供のことを大事にしすぎてしまうと、この馬鹿の一つ覚えを遣り始めた時に、それを断ち切ってやるという、どの母親でも出来る行為をやろうとしなくなってしまうのだ。優しい母親で居続ける余りに、子供が馬鹿なこおをし出しても見て見ぬ振りをしてしまうのだ。

 この手の母親はその女性が裕福な家の出身で、その親も優しすぎた親である場合、優しさ一辺倒の女性が育って来ることになる。また、学校や大学で異常な教育を受けてしまたために、いざ自分が赤ちゃんを産んでも、我が子をに対して最初から異常な考えを持ってしまい、事実をきちんと認識できなくなってしまい、我が子に対して異常な育児や子育てを失敗しているに遣り続けてしまうのだ。

 時折、少年少女たちが手のつけられないほどの非行に走ったり、凶悪犯罪を起こしたり、麻薬を遣り始めたりするのは、大抵、子供の頃に母親がきちんと叱っていなかった人たちなのだ。馬鹿の一つ覚えを遣り始めた時に、きちんと叱って貰い、その馬鹿なことを止めることができたのなら、大きくなってから、自分が馬鹿な人生を歩まなくて済んだのである。それなのに、母親がしてくれなかったからこそ、馬鹿な人生を止めることができなくなってしまったのだ。

 刑法というのは、個人責任を追及するために、犯罪を犯したら、その犯罪者の責任だけが要求される。しかし、それは飽くまでも法学的に言えばそういうことなのであって、育児や子育ての視点から見た時に、我が子を犯罪者にしてしまった母親というのは、どこかで育児や子育てが間違っていたのである。その責任は母親がきちんと背負うべきなのである。だからこそ、我が子が犯罪者になってしまった時、留置所や拘置所や刑務所に母親が面会に訪れて来るものなのである。我が子が犯罪を犯したとしても、我が子を見捨てる母親というのは滅多にいないものなのである。

 人に優しさを求める人は跡を絶たないものだ。しかし、人は優しさだけでは、幸福に成ることはできないのだ。優しさゆえに我が家を滅ぼしてしまうこともあるのである。優しさが必要なのは或る程度までであって、育児や子育てをしているなら、優しさ以外にも必要なことがあることに早く気付くべきなのである。

●生きて行くためには知恵が必要

 儒教は「仁」を唱え、キリスト教は「愛」を唱えたのに、人々がまともにならなかった理由はまさにここにこそある。人は仁や愛を求めるが、しかし、仁や愛だけでは、まともになることはできないのだ。寧ろ、人生が益々悪化して行くことになってしまうものなのだ。如何に仁や愛が高尚な言葉に思えても、それは馬鹿の一つ覚えをやっている子供となんら変わりがないのだ。馬鹿の一つ覚えを止めない限り、利巧な人間にはなれないのだ。

 母親が子供を叱ったりするのは、母親としては辛いものなのである。今まで我が子を可愛い者だと思って来たがゆえに、我が子が悪いことをやっていると認識し、それを叱りつけたり、叱っても聞かない時はお尻を叩くことで強制的に止めさせるのは、それをやっている母親の方も辛いのだ。しかし、そうやって非情になるからこそ、子供は馬鹿の一つ覚えを止めることができ、一つ利巧に成って行くのだ。

 この世で生きて行くためには知恵が必要なのだ。往々にして知恵と言うのは、愛とは掛け離れた所にある。愛は感性の産物であるが、知恵は理性の産物だからである。育児や子育てには愛というものは確かに必要である。だが、子供の知能が高くなってくれば、子供に愛を注ぐだけでは駄目で、知恵を教え込んで行かなければならないのだ。

 子供に知恵がなければ、子供は大きくなっても馬鹿を繰り返すことだろう。例えば、「貧富の格差の解消」を主張して来る人々は、金銭的に馬鹿であるに過ぎないのだ。この世に貧富の格差があるのは当たり前であって、我々はそれを是認することしかできないし、幾ら自分が貧乏であっても、働くことで貧乏から抜け出していかなければならないのだ。

 女性ならフェミニズムに洗脳されてしまえば、「男女の性差の解消」を主張して来ることになる。この手の女性たちは出世して行くことに関して馬鹿であるにすぎないのだ。女性の場合、男性よりも労働の面に於いて優遇されているのは当たり前であって、もしも男性と対等の出世をしたいのなら、男性たちがやっているような過酷な労働に従事すべきであって、どうのこうの言わずに過酷な仕事をしていけばいいのである。自分が今までどおりの仕事をしながら、出世させてくれというのは、虫が良すぎる話なのだ。

●愛に満たされたがゆえに、賢さの大切さに気付く

 母親といえども、最初の赤ちゃんを産んだ時は新米ママなのだから、いきなり完璧な母親になることはできない。母親としては初心者であるがゆえに、謙虚になって母親としてすべきことを学んでいかなければならないのだ。自分の主観的な考えを優先させ、育児の仕方を学ばねば、その後の育児や子育てで問題が生じて来るのは当然のことなのだ。

 新米ママの中には、結婚前までにきちんと精神的自立を完成させていないと、「良妻賢母」という言葉に反発をして来るものだ。曰く「良妻賢母なる考えは男にとって都合のいい言葉なのではないか?」と思ってしまうのだ。確かに良妻賢母は異常な言葉なのである。結婚は愛なくして行うことはできないし、育児も愛なくして行うことはできない。それなら「愛妻愛母」で良い訳である。しかし、そのようなことでは結婚も育児も巧く行かないのだ。

 結婚を幸せにさせるためには、育児を幸せにさせるためには、「愛ではなく賢さ」が必要なのである。「結婚の仕方」「育児の仕方」をきちんと習得できたからこそ、良い妻になり、賢い母親になることができるのである。愛は確かに必要なものであっても、結婚の仕方や育児の仕方を習得して来る方がより重要なことなのである。

 多くの既婚女性たちは、表面的に良妻賢母を捉えるのではなく、結婚で愛に満たされたからこそ、良妻賢母への道を歩み始めるのだ。だからこそ、結婚前の恋愛が大事だし、新婚生活での濃密な愛の時間というのも大事ななのだ。女性は愛に満たされてしまえば、この世には愛以外に大切なものがあることに気づけるのだ。

 愛に満たされていないのに、良妻になっても、その良妻が重みとなって、自分を潰してしまうし、愛に満たされていないのに、賢母になっても、その賢さが子供たちの成長を止めてしまうものだ。良妻賢母を否定して来る既婚女性たちは、良妻賢母がどうのこうのより、自分の結婚によって愛に満たされていないことの方が問題なのである。

 子供が馬鹿なことを遣り始めた時、今まで優しいお母さんだったのに、いきなり厳しくなって叱りつけられれば、子供だって辛い。母親の方だって、可愛い我が子を叱りつけるのは、やっている本人だって辛いことだ。しかし、それをやらねば、子供の馬鹿を断ち切らせることができず、子供はいつまでも馬鹿なことを仕出かして来ることになるのだ。

 歴史に名を轟かす英雄という者は、皆一様に良妻賢母の母親から生まれ育てられて来るのである。チンギス・ハーンの母親のホエルンにしても知恵のある母親だったし、ナポレン・ボナパルトの母親のレティツィアも気丈な母親だったのである。我が子を後世の歴史に名を残す英雄になってほしいと願うなら、まずは自分が良妻賢母となり、我が子に愛だけでなく、賢さをもきちんと教えて行くことだ。「英雄の背後には良妻賢母あり」という言葉を絶対に忘れないようにして、育児や子育てに励んで行くことだ。そうすれば、我が子が大きくなった時、英雄として歴史の表舞台に登場して来ることだろう。

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母親が無我になる瞬間、全ての世界が変わって行く

●家族は自分の心の反映

 幸せな人生を歩みたいのなら、唯物論を捨てて、唯心論に立脚することである。外界の物に執着していては、如何に多くの物を獲得しても、決して満足できないからだ。そうではなく、自分の心を主人公にするからこそ、自分の欲望を正しく使うことができ、自分の欲しい物を確実に手に入れて行くことができるのである。

 成功哲学というのも、この唯心論が中核となっており、成功したければ、お金の獲得を目指すのではなく、お金のことh一旦忘れて、自分の心の中に成功のイメージを描き、それを具現化して行こうといっているにすぎないのだ。しかし、それを未だ成功していない貧乏人たちに説くがゆえに、それを教えられた方は、金銭欲が邪魔して、なかなか受け入れることができないのである。要は金持ちになりたければ、お金のことを忘れれば、逆説的にお金持ちになってしまうのである。

 結婚もその夫婦が唯心論を持っているか否かで大きくその幸不幸が分かれてしまう。通常、まともに結婚をし続けるなら、新婚当初は貧乏だが、いつの間にか裕福になっているものである。幾ら貧乏でも、自分たち夫婦がこういう生活を実現したいと願い続けていれば、自然とその生活が実現できて、豊かな暮らしをすることが可能に成るのである。

 長らく結婚し続けて貧乏というのら、それはその夫婦が自分たちの理想を思い描かなかったからなのである。お金や物に囚われる余りに、貧乏を維持するだけの生活になってしまったのである。自分たちの貧乏は景気が悪いとか、社会が悪いとか、政治が悪いとかいうのではなく、結婚に於ける環境の粗悪化は、自分たち夫婦の心が引き起こしたものということが解らない限り、その貧乏人の夫婦にどんなに経済的な支援をやっても、結局は貧乏に舞い戻ってしまうのである。貧しいのは生活ではなく、その夫婦の心なのである。

 家族は鏡なのだ。自分の心が映し出される所だ。もしもその家の母親の心が乱れていれば、家の中は乱雑なものになってしまうことだろう。もしもその家の母親の心が清らかなら、家の中は掃除が行き届き、整理整頓がきちんと成されていることだろう。妻が夫にきつく当たっていれば、夫は妻を邪険に扱うし、生活費すら持って来なくなるだろう。母親が子供たちの行動の全てに干渉し過ぎていれば、子供たちは母親に反発し、余計に家の手伝いをしなくなることだろう。母親の心が悪しきものであるなら、その姿は確実に家の中で悪しきものとなって現れて来るのである。

●自分に拘りすぎると、自分が不幸に成る

 如何なる既婚女性といえども、最初から心が悪しきものになっていた訳ではないのだ。新婚当初は清々しい心を持っていた筈であり、だからこそ、新婚当初は貧乏であっても、生活は光輝くほど新鮮に満ちていて、きびきびと行動できた筈である。それが年月を重ねると共に新鮮さが失われ、テレビの前から動かなくなり、お菓子を食べ過ぎて肥満となり、口を開けば愚痴悪口を言いまくり、夫や子供たちから嫌われてしまうことを平然とやってのけるようになるのである。

 結婚生活も長く続くと、生活の中で自分の心に埃が溜まり、自分の心が捻じ曲がって行くものなのである。人間は経験値を積めば向上して行くこともあるが、経験値があるために、最早、その精神レベルでは学ぶべきものがなくなり、逆に堕落して行くということも有り得るのである。忘れてはならないのは、既婚女性が結婚に不満を抱き始めるのは、外から見れば、その家庭は裕福で、誰が見ても幸せな状況にしか見えない時に於いてなのである。

 最早、今までの精神レベルでは幸福を感じられないのなら、今よりもレベルアップしてしまえばいいのである。しかし、我執に取りかれてしまうと、自分の精神をレベルアップしようという気はなくなり、自己中心的に物事を考え、相手を批判しまくるようになってしまうのだ。確かに、どの夫も子供たちも行動に何かしらの問題があるから、その既婚女性が指摘することは一見正しいように思える。だが、幾らその問題を指摘し、解決して行っても、結局は問題が次から次へと出て来てしまい、なんの問題解決にもならなくなってしまうのだ。

 結婚生活には拘りを持つべきである。誰もが自分に最適な生活を実現しなければ、生活して行く上で苦しくなってしまうからだ。しかし、自分に拘り過ぎると、自分が不幸になってしまうものなのだ。人間は我執に取りつかれると、途端に成長を止めてしまい、堕落して行ってしまうものなのである。自分は一生懸命やっている筈なのに、自分は正しいことをしている筈なのに、なぜか現実に現れて来ることは不幸な現象ばかりになってしまうのである。

 人間は無限に成長して行くものである。結婚していても、その既婚女性が成長し続けるからこそ、幸せに成って行くのであって、その既婚女性が成長を止めてしまったら、どう立ち回ろうとも、不幸にしかならなくなってしまうのだ。我執が危険視されるのは、自分の成長を止めてしまうからなのである。自分が成長していないのに、幾ら問題を指摘しても、その問題自体が問題なのではなく、実はその既婚女性自身が問題なのである。

●無我になると自分の精神レベルが上がる

 結婚が素晴らしいのは、結婚して行くために無我夢中にならねばならず、男女が出会って恋愛をし、結婚を約束し、結婚式を挙げて、新居を作るという一連の過程で、男女双方の我執が取れてしまい、無我になることで、精神レベルが上がるからなのである。既婚者と独身者を見比べてみれば、その精神レベルの高低は一目瞭然となるものなのである。

 続いて既婚女性が経験するのは、出産であり、育児であろう。出産も育児もそれらを真剣にやっていれば、我執を取り払ってくれるものなのだ。自分のことは忘れて、出産に集中しないと、赤ちゃんは生まれて来ないし、赤ちゃんが生まれれば、今度は2時間置きに泣くので、新米ママたちはフラフラになりながら育児をすることになるので、自然と我執取れてしまい、精神レベルが上がって行くのである。

 多くの既婚女性たちが自分が出産し育児をしてしまうと、独身女性に結婚を勧めたり、新婚当初の若い奥さんに「赤ちゃんはまだ?」と尋ねたりするのも、その出産と育児こそが既婚女性の我執を取り去り、精神レベルを上げることになるということが解っているからなのである。

 我執を取るということは我儘を捨てるということだけではないのだ。我執を取ると、無我になることができ、無我になると精神レベルが上がって行くのである。子供たちの成長スピードが速いのは、無我夢中になっている回数が多いからなのである。子供といえども無我夢中に遊ばせないと、途端に病気をし出したり、鬱屈し始め、親の手を焼かせることになるのである。

 母親たちに危険なのは、育児が終了して、子供たちに対して、手間がかからなくなった時辺りからなのである。母親が育児に於いて無我夢中になっている時は、自分の精神レベルも上がって行ったのだが、育児が終わってしまうと、無我夢中にならなくなってしまい、それが自分の心を我執で覆ってしまうことになり、幸福な筈なのに不幸になってしまうのである。

●無我夢中になるために

 これだけは覚えておいた方がいいかもしれない。人間は歳を取って来ると、無我夢中になれるものがなくなって来るものなのである。無我夢中になるためには、実は「アルギニン」というアミノ酸を必要とする。アルギニンは脳下垂体から分泌され、これが精神や肉体を鋭敏にさせるのである。アルギニンは男女とも高校生の頃に大量に放出されるので、高校生が学問やスポーツや芸術や流行に敏感になり、思わぬ発見や成果を生み出して来るのである。しかし、人間は30歳を過ぎると、脳下垂体からアルギニンの分泌は終了してしまうのだ。だからこそ、30歳を過ぎ始めると、物事に無我夢中になれなくなり始めるのである。

 丁度この時期以降こそが、既婚女性たちが結婚に不満を抱き始める時期とピタリと一致するのだ。体内でアルギニンが不足すると、体脂肪が付き始め、病気の回復が遅くなるのだ。この事実を指摘されると、ピ~ンと来る既婚女性たちは多い筈だ。結婚に対して不平不満を言っている既婚女性たちほど、体にしっかりと贅肉を身につけ、病気をすると何日も寝込むことになるのだ。

 アルギニンは「玄米」「黒パン」「木の実」「ゴマ」「ヒマワリの種」「チョコレート」「肉類」に含まれているので、白米や白パンを常食していたり、菜食主義に走ったりすると、アルギニンが不足してしまい、無我夢中になることができなくなるのである。精白穀物を食べている人ほど、常に政治や社会を批判し、自分で無我夢中になれるものがないものなのである。

 たとえアルギニンが足りていても、自分で無我夢中になれるものがなければ、我執に取りつかれてしまう。予め言っておくが、育児終了後、通常の生活をしていては、無我夢中になれることはないものなのである。専業主婦なら、教育ママになって子供の学力向上に全力を投入するとか、子供にスポーツや芸術を学ばさせ、母親がその世話をすることで喜びを見出さない限り、無我夢中になれるものはないのだ。

 自宅が自営業を営んでいるなら、その自営業を夫婦で一生懸命に取り組めば、無我夢中になれることができることだろう。自営業なら儲けた分の取り分は全て得ることができるので、絶対に景気が悪いだの、政治が悪いだの言わないことだ。自営業をやっているのに儲けられないのなら、それはその商売の仕方が悪いだけなのだ。

 夫が会社経営を営んでいるなら、有閑マダムを決め込んでしまうのではなく、夫の支援になれることがあるなら、進んでやってみることだ。夫が社長ともなれば社交を行わなければならないし、夫はいつも仕事で忙しいために、流行に鈍感になってしまうので、夫にマスコミで話題になっていることを教えてあげたり、会社経営の足しに成るような情報をもたらすようにしてあげることだ。

 兼業主婦なら、給料がどうのこうの言わずに、一生懸命になって働くことだ。特にパートに働きに出てしまうと、どうやった所で給料は低いのだから、お金に拘るよりも、仕事に拘り、仕事を一生懸命にやることで、トップレベルの技術を身につけてしまうことだ。お金を貰いながら勉強させて貰っていると思えば、働くことが楽しくなって来るものなのである。

●仏教の無我と何が違うのか

 人が無我夢中になることで我執を取り払うことができるのだが、その際、「成長を促す無我」と「精神レベルを上げる無我」の二つの無我夢中のスタイルがある。教育ママになったり、仕事をしていれば、成長して行くことはできるが、精神レベルがあがるような無我にはりにくい。

 女性にとって精神レベルが上がるまでに無我夢中になったのは、育児をして心身ともにフラフラになったような時期だけであり、育児が終わってしまえば、一応は無我夢中になっていても、成長はできるのだが、精神レベルが上がるまでには行かないということになってしまう。そのらめ、何か行動を起こしてはいるのだが、悶々として日々になってしまうものなのだ。

 精神レベルを上げずに、成長して行っても、いつの日にかその成長は止まってしまい、停滞した状態になってしまうのだ。そこで「宗教が引き起こす無我」というものを利用して、我執を取り払い、精神レベルを上げることで、次の精神ステージへと突入して行くのである。新興宗教団体が既婚女性たちを惹きつけて行く時は必ずその教団の宗教家たちは精神レベルが上がるようなシステムを作り上げ、既婚女性たちの要求に応えているものなのである。このシステムを作り出すことができなければ、既婚女性たちは遣って来ないし、たとえ一時的に惹きつけても、時が来れば徐々に去って行くものなのである。

 欽明天皇の御世に仏教が伝来し、最早、仏教は古臭く、僧侶たちは平然と戒律破りを行い、その堕落が明々白々となっているのに、未だに仏教が根強く生き残っているのは、仏教が「煩悩からの解脱」という教義を持っているからなのである。一般の人たちが生活の中で我執を取り払った時に、成長するなり、精神レベルが上がるといったものは、仏教が言う煩悩からの解脱とかなり近い内容にあるのだ。

 では、仏教の無我と何が違うのかといえば、仏教の無我は輪廻転生に終止符を打ち、「永遠の死」を実現するものなのである。しかし、我々が日常で経験する無我は、自分を成長させたり、精神レベルを上げることで、自分の生命力を活性化するものなのである。大きく異なるものではあるが、我執を取り払うということでは一致しているのである。ただ、その後の結果が正反対の結果になってしまうだけのことなのである。

 冷静に考えてみれば、日本の仏教は仏教の教義から大いに掛け離れ、世界の仏教の中では異端中の異端となっている。仏教では出家を要求するというのに、僧侶が出家したといいながら、私有財産をしっかりと溜め込んで、結婚して子供すらいるのである。僧侶がこの有様だから、会社経営者が出家したとしても、私有財産はしっかりと持っているし、妻子は出家前となんら変わらないままでいるのだ。一体、日本の仏教の僧侶たちは何をやっているかといえば、仏教が持つ我執の取り払い方を活用しているにすぎないのであって、仏教を本当に信仰している訳ではないのだ。

●無我になることは怖いもの

 我々の普通の人生では、自分の精神レベルを上げるような無我状態というのは、滅多に起こるものではない。我執を取り払うだけでなく、自分を極限まで突き詰めなければ、精神レベルの向上が起こらないので、そういう経験は人生の中で数えるほどしかないのだ。プロのスポーツ選手でも、精神レベルが上がるような無我は選手生活の中で1度あるかないかで、多くの場合、その無我状態を経験すると、引退してしまうものなのである。

 女性であるなら、恋愛だろうし、結婚だろうし、育児であろう。女性が恋愛する時はまだまだ若いから恋愛に関しては躊躇することなく行うことができる。女性が真剣な恋愛をしたことがあるかないかで、全く別の人間になってしまうものなのである。しかし、結婚となると年齢が上がって来るので、理性が働き過ぎて躊躇してしまう人たちも出て来て、運命の男性と巡り合い、劇的な恋愛をすることで、結婚に突入し、、精神レベルが上がるというのが、どの女性に対しても起こることではないのだ。たとえ結婚したとしても、全ての夫婦が赤ちゃんに恵まれる訳ではなく、中には赤ちゃんに恵まれない夫婦も出て来るのだ。

 真剣になれるような恋愛ができなかったり、運命の男性と結婚することができなかったり、赤ちゃんに恵まれず育児ができなかったというのは、要は我執が強すぎて、無我になることを恐れているからなのである。無我になることは恐ろしいものなのだ。今の自分が消えてしまうから、今の自分にしがみついてしまい、自分の精神レベルを上げることができなくなってしまうのだ。

 育児をしている際、新米ママたちの葛藤というのは、これに尽きるのだ。育児をすることで無我になってしまうので、自分の時間というものが持てなくなってしまい、イライラしっ放しになるのだ。しかし、そうやって葛藤しつつも、育児に無我夢中になっていれば、自然と精神レベルが上がり、育児前と育児後では自分が丸っきり変わってしまうものなのである。

 政府が夫たちに育児を手伝わせることを強制するのが如何に危険なことか、これで解ったことだろう。新米ママにとって育児に対して無我夢中になることは、自分の精神レベルを上げるためにも必要なことであり、もしも夫が育児を手伝い過ぎて、新米ママが無我夢中にならないと、その新米ママは精神レベルを上げることができず、そのツケはその後の人生で確実に悲惨な出来事になって現れて来るものなのである。だからこそ、身も心もフラフラになりながらも、育児に無我夢中になることは必要なことなのである。、

●幸せの感涙を流す時

 この新米ママも結婚してから10年も経ってしまえば、無我夢中になれることが少なくなり、自分の精神レベルが上がらず、いつまでも同じ精神レベルで居続けてしまい、そのために生活の中で幸せを感じられず、夫や子供たちを非難することで、憂さ晴らしをして、より不幸になろうとし始めるのである。人間はいつまでも同じ場所に留まれないから、自分の精神レベルを上げなければ、不幸になるのは当然のことなのである。

 宗教の力を借りて、自分の我執を取り払い、精神レベルを上げて貰うと、全ての母親たちが自分の悪しき心こそが自分や家族を不幸にしていたことに気付き、懺悔の涙を流すのである。不幸は他人がもたらしたものではなく、自分自身がもたらしたということに気付いた時、人間は自分の心を己の人生の主人公にすることができ、自分の精神レベルは一気に上昇して行くのである。

 精神レベルが上がって、自分の周りを改めて見た時、実は幸せに満ち溢れていたのである。家庭の中にはたくさんの幸せで満ち溢れていたのである。でも、その幸せに自分が気付けなかっただけなのである。幸せな家族を不幸にしていたのは、自分だった。自分の精神レベルが低すぎたからこそ、幸せが不幸に見えてしまっただけなのである。

 勿論、宗教なくしても、自分の仕事の中で精神レベルを上げるような現象に出くわすこともあることだろう。しかし、そういう現象は非常に少ないものなのである。人間の老化というものが、精神レベルの向上を拒んでしまうのである。宗教というのは、人間の肉体が老化しようとも、人間の精神レベルが上がるように、人間が人工的に作り出していったものなのである。

 宗教というのは強制されてしまえばなんの価値もなくなってしまう。そのために「宗教の自由」というものが必要となるのだが、だからといって無宗教を唱えて来るのは問題なのである。無宗教を唱えてしまえば、自分の精神レベルを上げる機会を失ってしまい、いつもネガティブで、視線は低く、不幸に満ち満ちた人生を歩むことになってしまうのである。

 宗教には非常に強力な力があるがゆえに、宗教が異常な方向に走らないように警戒することは必要である。しかし宗教心をなくしてしまえば、最早、人間は食って寝るを繰り返す家畜となんら変わらないものになってしまうのだ。宗教の力を借りて精神レベルを上げた時、懺悔の涙を流し、自分を悔い改めると、「懺悔の涙」は「幸せの感涙」に変わり、新たな人生が始まりを告げるのである。これがなければ、人間は成長を止めてしまい、後は堕落して行くだけなのである。

 既婚女性でありながら、賭博中毒になったり、アルコール中毒になったり、麻薬中毒になったりするのは、いつまでも同じ精神レベルにて、成長できなくなったからなのである。精神レベルを上げていない既婚女性が新たな人生を歩もうとすれば、結婚を破壊して、離婚するしかないのである。でも、そうやって新たな人生を踏み出しても、夫や子供たちを不幸にした上での話なのである。

●幸せは更なる幸せを呼ぶ

 この世というのは、神の摂理によって動かされており、「幸せは更なる幸せを呼び、不幸は更なる不幸を呼ぶ」ものなのである。他人を幸せにすれば自分も幸せになれる。他人を不幸にすれば自分も不幸になる。勿論、生きて行く中で、全ての人たちを幸せにすることはできないし、生きて行くためには誰かを不幸にせざるを得ない時もある。しかし、自分が幸せの人生を歩みたいのなら、せめて自分の家族だけは幸せにしておくべきなのである。家庭の中が幸せで満ち溢れていたら、世間で如何なることが起こっても、動じない人生を歩むことができるものなのである。

 人間はすべてことに満足できない動物だから、たとえ結婚していても不満が出て来ることは致し方ないことなのだ。だからといって、その不満をぶちまけ、自分を世界で最も不幸な女性とは思うべきではないのだ。そういう既婚女性たちが不幸なのは具体的な現象のために不幸なのではないのだ。当たり前の幸せに気付けないことこそが、自分の不幸の原因となっているのである。

 飢饉に苦しんでいる者に、お粥の一杯でもあげれば、涙を流して感謝することだろう。しかし、飽食になってしまえば、如何に豪華な料理を出しても感謝をしなくなるし、涙を流すことなどなくなってしまうものだ。狭いアパートで貧乏な生活をしていた夫婦も、貧しい時は夫婦が手を取り合って助け合っていたのだが、仕事が成功し、豪邸に住んで、豊かな生活をしてしまえば、途端に憎しみ合ってしまうものなのだ。人間は貧困を共にすることはできても、富貴を共にすることは難しいものなのである。

 だから、お金や物に囚われずに、自分の精神レベルを上げて、精神的に成長して行くことが必要と成って来るのである。経済的に裕福であればあるほど、それに見合うだけの高い精神力も必要と成って来るのである。どんなに豊かになっても、仕事や家事や子育てに精進し、宗教を大切にし、慈善活動に取り組むべきなのである。

 そして最早、自分が成長しきれなくなった時、自分の精神レベルを上げて、新たな精神ステージに突入して行くべきなのである、自分の我執を取り払い、無我に成った時、全ての世界が変わって行くものなのである。「自分は幸せだからこそ、益々幸せに成って行く」ということが解った時、より多くの人々を幸せにして行くことができるようになるのである。

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