« タマティーを襲った生玉子食中毒事件顛末記 | トップページ | バンクーバー五輪女子フィギュアスケートの勝敗予想 »

無欲にして大欲 ~良妻賢母の母親が良妻賢母を超越してしまう瞬間~

●人間は感謝し尽くすと、欲望の消滅が起こる

 人間は「欲望の動物」である。生存して行くためには、「食欲」「睡眠欲」「性欲」を満たして行かねばならないし、自分の好きな人と交わっていたいし、自分の欲しい物を手に入れたいし、お金は幾らあってもいいと思っているものだ。そもそも結婚自体が人間の健全な欲望の発露であり、自分の欲望を満たし、配偶者の欲望を満たすことで、結婚を運営して行くことができるようになるのである。

 人間は決して利他的に生きているのではない。利己的に生きているものだ。どんなに慈善活動に熱心な者でも、自分の最低限の欲望を満たすことができなければ、大いに不満を抱いて来るものである。人間にはまず利己心があって、自分の欲望を満たしつつ、そうやって成長して行くと利他心が育って来るのであって、利己心と利他心を巧く使いながら生きているのである。大人になっても利己心だけ生きていては批判されまくりになってしまうものだが、かといって利己心が消えて利他心を目指せば、それは現実離れした妄想になってしまうものなのだ。

 しかし、既婚女性が妊娠し出産し育児をして行き、3人以上の子供たちをきちんと育て上げてしまし、その既婚女性が良妻賢母の鏡のような生き方をいていて、自分の関係者たちに感謝をし尽くして行くと、或る日突然に自分の利己心や利他心が消えてしまい、「無欲」になってしまうのである。自分の人間関係を超越して、この世に幸福をもたらそうとし始めるのである。

 人間の欲望には或る恐ろしいメカニズムを内蔵させている。それは自分の欲望を満たし切ってしまうと、「欲望の消滅」が起こってしまうのである。例えば、人間なら誰でも激しい金銭欲を持っている。しかし、自分にビジネスで大成功を収めて、莫大なお金が入って来ると、入って来た当初を嬉しいのだが、お金の量が自分の金銭欲を満たし切ってしまった時、金銭欲という欲望の消滅が起こり、もうお金が欲しくなくなってしまうという異常事態が起こってしまうのだ。

 それと同じように、既婚女性には「結婚欲」という欲望があって、結婚欲は結婚して子供たちを多く産み育て、幸せな結婚生活を築きたいという欲望なのであって、その結婚欲を満たし切ってしまうと、結婚を超越して、自分や夫や子供たちだけが幸せになるのではなく、この世に幸福をもたらしたいという大いなる欲望へ昇華してしまうのだ。

●母親として優れ切ったからこそ起こる母親の偉大なる変化

 結婚に失敗して結婚を超越するのではなく、結婚に成功したからこそ結婚を超越し出すのである。だから、悪妻愚母には決して起こらない。良妻賢母にこそ起こるものであって、妻として母親として優れ切った人物であるからこそ、母親の偉大なる変化が起こって来てしまうのだ。

 この現象が起こってしまうと、最早、結婚の中だけに留まっていられなくなり、私財を投げ打って「慈善活動」を開始したり、「宗教活動」に熱心になったりするようになるのだ。夫や子供たちから見れば、「うちのお母さん、どうなっちゃんたんだろう?」と思ってしまうものだが、本人は至って真面目で、洗脳されたりしている訳ではないのだ。明らかに自分の欲望が消滅してしまい、この世により多くの幸福をもたらしたいという心情になってしまうのである。

 慈善活動も単なる慈善活動ではない。普通の人々がやっているような僅かな慈善活動ではないし、芸能人がやっているような限りなく売名行為に近いような慈善活動でもないのだ。私財の全てを投げ打ってしまったり、無償で激務を行ったり、傍から見れば異常としか思えない激しい慈善活動を遣り始めるのである。

 宗教活動にしても単なる宗教活動ではなく、それこそ聖職者になってしまったり、聖職者となんら変わらない量の宗教活動をこなし、多くの人々を救い、幸福をもたらそうとするのだ。聖職者というのは信者たちの霊魂の世話をする人々なので、その既婚女性の精神レベルが高ければ、充分に宗教の世界でも活躍できてしまうのだ。

 人には精神レベルの高低がそれぞれ違うから、精神レベルが世俗を超えてしまうほど高ければ宗教の世界にのめり込むし、精神レベルが世俗内に留まるようなレベルであるなら、慈善活動に熱心になってしまう。ただ、どちらであったとしても、普通の人々よりも遥かに高い精神レベルに達していることだけは確かなのである。

●人間には無欲になりたいという欲望が備わっている

 人間は欲望の塊ような生き物のくせに、人間には無欲になりたいという欲望が備わっている。無欲というのは、人間の最も究極的な欲望なのである。利己心に基づいて自分のために何をする、利他心に基づいて他人のために何かをするということを超越してしまい、自分という枠組みを超えてしまって、無欲になりたいのである。通常生きていれば、こんな無欲という現象は起こって来ない。だから、多くの人々がこの無欲という欲望に気付かないのだ。

 なぜ人間が欲望と完全に矛盾する無欲という欲望を持っているのかと言えば、それは人類の歴史に大いに関係している。今でこそ先進国は食料が不足していないが、人類は常に食料不足に悩まされて来たのである。飢饉が起こるのは当たり前で、その際、最早、家族の食料がなくなった時、母親は自分が何も食べず、子供たちに何かを食べさせることで、どうにか自分の子孫を生き延びさせようとした筈だ。自分が無欲にならなければ、子孫を残せないという究極の選択を強いられたのだ。

 また、食料不足は必ず戦争を産む。食料がないからこそ、人間を多く殺して、食料の消費量を抑え、人間の生存を可能にさせるという選択を、人類は平然と遣り続けたのだ。だから、戦争を嗾ける側も、戦争を嗾けられる側も双方が必死で、多くの人々が無欲になって戦ってくれない限り、戦争に勝つことはできないのだ。

 それなのに現在のように平和で繁栄して切ってしまうと、飢饉や戦争など起こることはない。飢饉がおこった話など遠い昔の話だと勘違いしてしまい、日本ですら天保の大飢饉が飢饉として最後になってしまったために、平気で食べ物を食べ残したり、食べ残った料理をなんの罪悪感もなく捨てているのだ。戦争も半世紀以上起こっていないから、国民が総動員されて、国民全てが無欲になり、戦争を遂行し、勝たねばならないという非常事態など起こらず、平気で国防費を削り、自衛官を忌み嫌い、平和の土台を破壊しまくっているのだ。

 要は我々が通常に生きていれば、自分が無欲なれるという機会など与えられないのである。だから、人間の無欲になりたいという欲望は抑えつけられたままになってしまい、それよりも自分の世俗的な欲望を満たすだけの日々を過ごしてしまうようになるのだ。しかし、幾ら世俗的な欲望を満たしても、自分は満足し切れないのであって、無欲に成りたいという欲望が、自分が結婚に於いて大成功してしまうと、突如として剥き出しになって来るのである。

●無欲というのは大欲なのである

 無欲の状態になるためには、消極的に無欲を実現するか、積極的に無欲を実現するか、2つに1つの方法がある。消極的な方法は、仏教の教祖の釈迦がやったように、世俗から離れ、断食し、瞑想することによって自分の欲望を消滅させて行く方法だ。これを繰り返して行くと、「煩悩からの解脱」が起こり、無欲の状態になってしまう。仏教の戒律というのは、釈迦が他の人々にも解脱できるように定めたものであって、仏教徒が勝手に戒律を破ってしまっては幾ら仏教を信仰しても解脱できなくなってしまうのだ。浄土真宗の開祖の親鸞のように、戒律を否定することは、明らかに仏教に対する背教行為であって、仏教徒として絶対に許されてはならないことなのである。通常、僧侶を馬鹿にする時は、肉食妻帯の戒律を破っていることを非難するものだが、肉食によって食欲を満たしたり、妻帯によって性欲を満たしてしまうと、煩悩からの解脱が起こらないと、庶民は直感で釈迦の教えが解っていたからこそ、そういう批判をして来たのである。

 積極的な方法は、自分の欲望を否定するのではなく、逆に欲望を満たしてしまう方法だ。既婚女性なら幸せな結婚生活を築きたいのだから、夫婦仲を良好にさせ、夫の仕事に対して内助の功を発揮し、子供を多く産み育て、立派な後継者を育てて行かねばならないのである。既婚女性にとって、大きな家に住み、豊かな生活を送り、家族が幸せになっていることが幸せなのであって、その満足感が満たされまくってしまうと、欲望の消滅が起こり始めるのである

 飢饉とか戦争とかが起これば、外部から強制的に無欲にならされるが、飢饉や戦争がなければ、通常の遣り方では無欲に成ることができない。だから、母親が無欲に成ってしまった時、夫も子供たちも驚いてしまうのである。夫も子供たちも無欲に成っていないからだ。子供はまだまだ欲望が強いので無欲に成ることはないし、夫も仕事で大成功し、金銭欲が消滅してくれなければ、無欲に成ることなどないのだ。

 無欲というのは決して否定的な欲望ではないのだ。無欲は大欲なのである。自分の些細な欲望に惑わされることなく、この世に幸福をもたらしたいという大いなる欲望なのである。釈迦にしても断食や瞑想によって無欲に成ったからこそ、自分の生活を一切顧みることなく、仏教を布教し、多くの人々に仏法を説き続けたのである。釈迦は労働などしていないので、信者からの布施で生活し続けたのだが、釈迦が私腹を肥やしたなどという話は一切残されていない。釈迦が無欲だからこそお金や食べ物に惑わされなかったのである。釈迦には自分の欲望を満たすより、仏法を広めるという大いなる欲望を持っていたのである。今でも宗教家に断食や瞑想を要求するのはこのためで、もしも宗教家が断食や瞑想をしないのであるならば、どうしても私利私欲が抜け切らないので、信者からの布施に手を出してしまい、私腹を肥やしてしまうのだ。

 我々人間は欲望まみれになって生きている癖に、この無欲には物凄く弱いのである。無欲というのが、自分たちの欲望とは真正面から矛盾することは解っている。しかし、その無欲というのは、実はこの世に幸福をもたらそうとする大いなる欲望なので、否定し切れるものではないのだ。だからこそ、仏教は野火の如く広まっていったし、日本に仏教が伝来してから仏教の僧侶たちが戒律を破って腐敗しているのは承知しているし、廃仏毀釈だって起こって仏教を排斥したのに、未だにしぶとく仏教が残り続けているのである。

●生命の神秘の謎を知りたくて

 無欲になりたい母親たちは、仏教の僧侶たちのように自分の欲望を制御することができず、煩悩まみれになってしまうために、無欲に成りたいという欲望が生じて来るのではない。寧ろ逆で自分の欲望はきちんと制御できるし、煩悩まみれになることなどない。自分よりも夫や子供たちを大切にし、尽くしてきたぐらいなのである。

 では、どうして無欲に成りたいのかといえば、母親たちは出産の現場で赤ちゃんを産んでいく過程に於いて「生命の神秘」を体験してしまうからなのである。出産というのは、ただ赤ちゃんを産むだけではないのだ。そういう生物学的なことだけではないのだ。物理的現象の奥に、生命の神秘を垣間見てしまうのである。しかし、誰も生命の神秘がなんなのかを教えてくれない。普通の母親たちなら、その疑問を胸の奥にしまい、家事や育児に追われる日々になることであろう。だが、母親として優秀で、家事や育児をきちんとこなしてしまうような母親であるなら、その生命の神秘のことが常に心に引っ掛かった状態になってしまうのだ。

 しかも、自分が望むべき幸せな結婚生活を実現してしまって、夫も子供たちも幸せになってくれれば、積極的に自分の欲望を満たしてしまったがために、自分の欲望の消滅が起こってしまい、無欲になろうとしてしまうのだ。仏教の僧侶とは逆のパターンで無欲を求め始めるようになるのである。

 妻として母親として優れた女性であるなら、絶対に宗教というものを否定しない。宗教というものを必ず大事にしてくる。それは宗教にこそ生命の神秘の謎を解明することができると直感で解っているからなのだ。その直感は正しく、確かに宗教に生命の神秘の謎を解明する能力を持っている。だが、仏教やキリスト教の人工宗教だと、教祖が男性であり、釈迦は妻子を捨てて出家したぐらいだし、イエスは売春婦を連れて宗教活動を行ったし、更にはその後の教団を継承して行った者たちは殆どが男性であるので、生命の神秘の謎を解いてはくれないのだ。

 では、生命の神秘の謎とは一体なんのか? それは「生命の自己超越」という現象である。生命とは決して自分の生命の中に留まろうとするものなのではないのだ。自分の生命を超越して、新たな生命を生み出して行く。しかもその生命の超越が行われる瞬間、神の見えざる力に触れてしまい、生命の普遍的な次元レベルにまで超越して行ってしまったのである。

 だから、多くの産婦たちは出産直後に「生命の神秘が~!」と騒ぎ立て始めるのだが、その後には育児に追われる日々が待っているので、大方の母親たちは生命の神秘の謎など忘れて行くものだ。しかし、母親として出来が良く、良妻賢母の鏡のような女性であるなら、家事や育児をきちんとこなして来てしまうので、生命の神秘の謎と真正面から向き合ってしまう時間が出て来てしまうのである。

 生命の神秘の謎は宗教なくして解明して行くjことは絶対にできない。しかし、現在の宗教の態勢は仏教やキリスト教のように信仰を中心として宗教が組み立てられているので、生命の神秘の謎を解明することができないのだ。生命の神秘の謎は、何かを信じて解明できるものではないからだ。だから余計にその不満は高まってしまうのだ。

●既婚女性が無欲になると強運だらけの人生になってしまう

 夫の方も宗教心が篤く、生命の神秘が一体なんなのか解っていれば、妻としてもそれほど不満を抱くことはないであろう。だが、大方の夫婦は、夫にはそれほど篤い宗教心はなく、妻の方は出産で生命の神秘に触れてしまっというのに、夫は子供のように振る舞って来るものなのである。だから、日頃は夫婦仲が良くでも、その点の話だけは話が噛み合わないのだ。それゆえ、家庭を切り盛りし幸せな家庭を築きつつも、そのストレスが溜まりに溜まって、或る日突然に大爆発を起こしてしまい、無欲に成ってしまうのである。

 更に無欲に成る母親にとってみれば、自分が幸せになることも、夫が幸せになることも、子供たちが幸せになることも既に実現してしまっているので、家族という枠組みを超えて、この世に幸福を与え続けて行きたいと思ってしまうようになり、自分を投げ打ってそれを実践し始めるのである。

 私財を投げ打って財団法人を設立して慈善活動を開始したり、宗教団体に入って聖職者になったり、熱心に活動して信者として最高レベルの働きをしてしまったりと、今までの一介の主婦としては考えられないような行動を取り始めるのである。それは傍から見れば異常だとしか思えない。しかし、本人にとっては至って正常な行動なのである。

 しかも、こうやって無欲になってしまい、慈善活動や宗教活動を始めると、今までは有り得ないほどの強運になってしまうのだ。自分のためではなく、家族のためにやっている訳でもなく、この世に幸福をもたらしたいという一心でやっているために、無欲は強運を生み出しまくるのである。そのため次から次へと幸運が訪れるようになり、慈善活動にしても宗教活動にしても大成功しまくってしまうのである。

 自分の幸せを願わず、この世の幸福を願っているから、神が常に祝福してくれる状態に成るのである。こういう既婚女性は神様が「あなただけにこの使命を与えます」と神様から頂いた使命があるので、その使命を達成させるまでは、失敗して凹たれる訳には行かないし、死ぬ訳にもいかないのだ。何がなんでもその使命を達成させようとして来るので、禁欲的になって自分の仕事に従事してしまい、猛スピードでその使命を実現して来るのである。

●自分の無欲は正しく使うべきである

 我々人間には無欲になりたいという欲望が眠っているものなのである。だが、通常は自分の欲望を満たすべく生きているので、自分に無欲に成りたいという欲望が眠っていることなど気付く訳がないのだ。そのためいざ無欲という欲望が現れて来た時、その無欲を自己統御できなくなってしまう危険性が出て来るのである。絶対に自分の無欲を悪用されてはならないのだ。使い方を誤れば、自分だけでなく、家族全員が不幸になってしまうからだ。

 既婚女性が覚えておくべきことは、子供が1人や2人しかいないと、自分の無欲が悪用される可能性があるということである。子供の数が少なければ、母親としてまだまだ未熟なので、自分が悩みを抱える余りに、無欲になりたいという欲求が強まってしまうからだ。だが、それは母親として逃げているだけのことであって、こういう母親ではこの世に幸福をもたらすことができないのだ。まずは自分の家族に幸せをもたらすべきなのである。

 慈善活動をする時は、全財産を寄付してしまうなということである。妻が専業主婦に成っている場合、法律上は家族の財産の半分は妻のものになるのだが、実際には夫が稼いで来たものであるので、夫の許可なく自分の財産を寄付すべきではないのだ。法律的には正しくても、家族の財産が分割されてしまっては、家族としてやっていけないからだ。もしも慈善活動で或る一定の資産が必要であるなら、自分でビジネスを立ち上げ、それで儲けた上で、その資産を慈善活動に寄付すればいいのだ。

 宗教活動をする場合は、絶対に宗教を間違えるなということである。仏教も確かに無欲になることを目指しているが、仏教の場合は消極的な方法で無欲になろうとするので、既婚女性たちのように積極的な方法で無欲になった訳ではないので、幾ら仏教を信仰した所で話が全く合わないのだ。

 その教団が正常な宗教活動をしているかを見分けるには3つのポイントがある。まず1つ目は「会計報告をきちんとしていること」である。宗教家はお金に無頓着な所があるので、経理をだらしなくしていると、その内、宗教家たち自体がお金に汚くなり、汚職することが当たり前になってしまうからだ。教団というのは信者たちのお金で運営されている以上、信者たちに会計報告をするというのは当然の義務なのである。

 2つ目は「人事に於いて信者たちが介入できるシステムが構築されていること」である。教団というのは民主主義では絶対に機能しない。独裁以外には教団を機能させ、教団の勢力を拡大して行くことはできない。しかし、独裁が正常に機能している時はいいのだが、独裁が行きすぎてしまい、信者たちの意向を全く無視する事態になってしまうと、教団は暴走を開始して来るのだ。だから、信者たちが宗教指導者を選ぶことができたり、宗教指導者を監視するシステムが構築されていることが必要と成って来るのだ。

 3つ目は「教団が政治活動を行っていないこと」である。宗教団体は宗教活動をすることで精一杯であるものなのだが、宗教団体のくせに宗教を蔑ろにしている教団は、宗教そっちのけで政治に手を出して来るものである。もうこうなると教団内部でまともな宗教活動が行われることはなくなってしまうのだ。もしも教団が政治に手を出したいのであるならば、教団とは別個に政治団体を作るべきであり、そちらの方で政治活動を行わせればいいのだ。

 更に付け加えておくと、「無欲の俗悪化」は絶対に避けるべきだ。人間が持つ無欲を悪用しようという人々はこの世に生息していることを決して忘れてはならない。例えば共産党だ。私有財産制度を廃し、国民に無欲になることを強制するのだ。無欲になる人々はごく僅かであって、全ての人々は無欲になれる訳がないのだ。大体、他人に無欲を要求する者は、絶対に自分は無欲にならないものなのである。スターリンも毛沢東も金正日にしても、人民に貧困や飢饉をもたらしながら、自分たちは贅沢三昧の生活を送っていたのである。しかも、国民から簿い取ったお金を全て軍事費に投入して来るので、社会主義国というものはどの国も軍事大国になり、戦争を開始して来るものなのである。共産党が如何に平和を口にしようが、絶対に平和をもたらすことはないのだ。

●母親は多し、聖母は少なし

 この世には母親は多いものだが、聖母は少ないものだ。母親として成長して行き、最高レベルにまで達して来ないものだ。しかしそれはそれでいいのである。人間には無欲になりたいという欲望が眠っているが、最早、飢饉や戦争が起こっていないために、我々は無欲になりたいという欲望を押さえ込んで生きているのである。そうでなければまともに文明を運営してくことはできないからだ。

 しかし、母親として最高レベルにまで達してしまい、無欲に成ってしまう母親たちも出て来るということを決して忘れてはならない。無欲になればこの世に多大な幸福がもたらされるが、使い方を誤れば本人にとってもその関係者たちにとっても非常に危険なことになってしまうからだ。聖母として生きられるのは、神に選ばれた母親たちだけであるということだけは覚えていた方がいい。

 幾ら聖母が出て来た所で、大半の母親たちはグータラ妻であり、未熟な母親たちであるのだ。文明が繁栄してしまえばそれほど必死になって生きる必要性がないので、そうやって怠ける生き方を取ってしまうのである。聖母が素晴らしく、悪妻愚母が駄目な訳でないのだ。それもまた文明のありのままの姿なのである。

 自分が悪妻愚母になってしまえば、結婚生活で自分が期待していた幸福など得られる訳がない。だから、努力して良妻賢母になろうとするのである。家事や育児をきちんとこなして、夫や子供たちとの人間関係を巧く処理して行けば、自然と良妻賢母になれるものなのである。

 そういう良妻賢母が幸せな家庭を築いてそれで満足していればいいのだが、その良妻賢母の中から突然変異の如く聖母が出て来るのである。無欲というのは、母親を聖母に変えてしまうのである。自分が聖母になってしまったら、この世に幸福をもたらして行けばいいのである。それも一つの生き方なのである。

|

« タマティーを襲った生玉子食中毒事件顛末記 | トップページ | バンクーバー五輪女子フィギュアスケートの勝敗予想 »

子育て」カテゴリの記事

育児」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/496414/33093728

この記事へのトラックバック一覧です: 無欲にして大欲 ~良妻賢母の母親が良妻賢母を超越してしまう瞬間~:

» 天使にラブ・ソングを... [DVD] | [アマゾン探検隊]
JUGEMテーマ:おすすめの一本!!(洋画) 天使にラブ・ソングを... [DVD]出演:ウーピー・ゴールドバーグ /マギー・スミス /キャシー・ナジミー /ハーベイ・カイテルブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント発売日 2005-12-07?『ゴースト』でアカデミー賞をとったウーピー・ゴールドバーグが、今度はコメディーに挑戦した。92年、全米で6か月を超えるロングランを記録した大ヒット作である。 ???殺人現場を目撃してしまったクラブ歌手のデロリスは、ギャングに命をねらわれるはめにな... [続きを読む]

受信: 2010年1月30日 (土) 20時03分

» 魅惑の奥様たち。。。 [奥さんGOGO!!のblog]
毎度ごひいき頂いております『奥さんGOGO!!』でございます〜。本日も掲載画像の変更がありましたよんじゃん♪じゃん♪じゃん♪ じゃん♪ さ〜てどこのお店でしょうか?是非是非サイトをチェックしてくらさいまし♪それでは『奥さんGOGO!!』をよろしくお願いしま〜す(  [続きを読む]

受信: 2010年1月31日 (日) 20時15分

« タマティーを襲った生玉子食中毒事件顛末記 | トップページ | バンクーバー五輪女子フィギュアスケートの勝敗予想 »