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母親が無我になる瞬間、全ての世界が変わって行く

●家族は自分の心の反映

 幸せな人生を歩みたいのなら、唯物論を捨てて、唯心論に立脚することである。外界の物に執着していては、如何に多くの物を獲得しても、決して満足できないからだ。そうではなく、自分の心を主人公にするからこそ、自分の欲望を正しく使うことができ、自分の欲しい物を確実に手に入れて行くことができるのである。

 成功哲学というのも、この唯心論が中核となっており、成功したければ、お金の獲得を目指すのではなく、お金のことh一旦忘れて、自分の心の中に成功のイメージを描き、それを具現化して行こうといっているにすぎないのだ。しかし、それを未だ成功していない貧乏人たちに説くがゆえに、それを教えられた方は、金銭欲が邪魔して、なかなか受け入れることができないのである。要は金持ちになりたければ、お金のことを忘れれば、逆説的にお金持ちになってしまうのである。

 結婚もその夫婦が唯心論を持っているか否かで大きくその幸不幸が分かれてしまう。通常、まともに結婚をし続けるなら、新婚当初は貧乏だが、いつの間にか裕福になっているものである。幾ら貧乏でも、自分たち夫婦がこういう生活を実現したいと願い続けていれば、自然とその生活が実現できて、豊かな暮らしをすることが可能に成るのである。

 長らく結婚し続けて貧乏というのら、それはその夫婦が自分たちの理想を思い描かなかったからなのである。お金や物に囚われる余りに、貧乏を維持するだけの生活になってしまったのである。自分たちの貧乏は景気が悪いとか、社会が悪いとか、政治が悪いとかいうのではなく、結婚に於ける環境の粗悪化は、自分たち夫婦の心が引き起こしたものということが解らない限り、その貧乏人の夫婦にどんなに経済的な支援をやっても、結局は貧乏に舞い戻ってしまうのである。貧しいのは生活ではなく、その夫婦の心なのである。

 家族は鏡なのだ。自分の心が映し出される所だ。もしもその家の母親の心が乱れていれば、家の中は乱雑なものになってしまうことだろう。もしもその家の母親の心が清らかなら、家の中は掃除が行き届き、整理整頓がきちんと成されていることだろう。妻が夫にきつく当たっていれば、夫は妻を邪険に扱うし、生活費すら持って来なくなるだろう。母親が子供たちの行動の全てに干渉し過ぎていれば、子供たちは母親に反発し、余計に家の手伝いをしなくなることだろう。母親の心が悪しきものであるなら、その姿は確実に家の中で悪しきものとなって現れて来るのである。

●自分に拘りすぎると、自分が不幸に成る

 如何なる既婚女性といえども、最初から心が悪しきものになっていた訳ではないのだ。新婚当初は清々しい心を持っていた筈であり、だからこそ、新婚当初は貧乏であっても、生活は光輝くほど新鮮に満ちていて、きびきびと行動できた筈である。それが年月を重ねると共に新鮮さが失われ、テレビの前から動かなくなり、お菓子を食べ過ぎて肥満となり、口を開けば愚痴悪口を言いまくり、夫や子供たちから嫌われてしまうことを平然とやってのけるようになるのである。

 結婚生活も長く続くと、生活の中で自分の心に埃が溜まり、自分の心が捻じ曲がって行くものなのである。人間は経験値を積めば向上して行くこともあるが、経験値があるために、最早、その精神レベルでは学ぶべきものがなくなり、逆に堕落して行くということも有り得るのである。忘れてはならないのは、既婚女性が結婚に不満を抱き始めるのは、外から見れば、その家庭は裕福で、誰が見ても幸せな状況にしか見えない時に於いてなのである。

 最早、今までの精神レベルでは幸福を感じられないのなら、今よりもレベルアップしてしまえばいいのである。しかし、我執に取りかれてしまうと、自分の精神をレベルアップしようという気はなくなり、自己中心的に物事を考え、相手を批判しまくるようになってしまうのだ。確かに、どの夫も子供たちも行動に何かしらの問題があるから、その既婚女性が指摘することは一見正しいように思える。だが、幾らその問題を指摘し、解決して行っても、結局は問題が次から次へと出て来てしまい、なんの問題解決にもならなくなってしまうのだ。

 結婚生活には拘りを持つべきである。誰もが自分に最適な生活を実現しなければ、生活して行く上で苦しくなってしまうからだ。しかし、自分に拘り過ぎると、自分が不幸になってしまうものなのだ。人間は我執に取りつかれると、途端に成長を止めてしまい、堕落して行ってしまうものなのである。自分は一生懸命やっている筈なのに、自分は正しいことをしている筈なのに、なぜか現実に現れて来ることは不幸な現象ばかりになってしまうのである。

 人間は無限に成長して行くものである。結婚していても、その既婚女性が成長し続けるからこそ、幸せに成って行くのであって、その既婚女性が成長を止めてしまったら、どう立ち回ろうとも、不幸にしかならなくなってしまうのだ。我執が危険視されるのは、自分の成長を止めてしまうからなのである。自分が成長していないのに、幾ら問題を指摘しても、その問題自体が問題なのではなく、実はその既婚女性自身が問題なのである。

●無我になると自分の精神レベルが上がる

 結婚が素晴らしいのは、結婚して行くために無我夢中にならねばならず、男女が出会って恋愛をし、結婚を約束し、結婚式を挙げて、新居を作るという一連の過程で、男女双方の我執が取れてしまい、無我になることで、精神レベルが上がるからなのである。既婚者と独身者を見比べてみれば、その精神レベルの高低は一目瞭然となるものなのである。

 続いて既婚女性が経験するのは、出産であり、育児であろう。出産も育児もそれらを真剣にやっていれば、我執を取り払ってくれるものなのだ。自分のことは忘れて、出産に集中しないと、赤ちゃんは生まれて来ないし、赤ちゃんが生まれれば、今度は2時間置きに泣くので、新米ママたちはフラフラになりながら育児をすることになるので、自然と我執取れてしまい、精神レベルが上がって行くのである。

 多くの既婚女性たちが自分が出産し育児をしてしまうと、独身女性に結婚を勧めたり、新婚当初の若い奥さんに「赤ちゃんはまだ?」と尋ねたりするのも、その出産と育児こそが既婚女性の我執を取り去り、精神レベルを上げることになるということが解っているからなのである。

 我執を取るということは我儘を捨てるということだけではないのだ。我執を取ると、無我になることができ、無我になると精神レベルが上がって行くのである。子供たちの成長スピードが速いのは、無我夢中になっている回数が多いからなのである。子供といえども無我夢中に遊ばせないと、途端に病気をし出したり、鬱屈し始め、親の手を焼かせることになるのである。

 母親たちに危険なのは、育児が終了して、子供たちに対して、手間がかからなくなった時辺りからなのである。母親が育児に於いて無我夢中になっている時は、自分の精神レベルも上がって行ったのだが、育児が終わってしまうと、無我夢中にならなくなってしまい、それが自分の心を我執で覆ってしまうことになり、幸福な筈なのに不幸になってしまうのである。

●無我夢中になるために

 これだけは覚えておいた方がいいかもしれない。人間は歳を取って来ると、無我夢中になれるものがなくなって来るものなのである。無我夢中になるためには、実は「アルギニン」というアミノ酸を必要とする。アルギニンは脳下垂体から分泌され、これが精神や肉体を鋭敏にさせるのである。アルギニンは男女とも高校生の頃に大量に放出されるので、高校生が学問やスポーツや芸術や流行に敏感になり、思わぬ発見や成果を生み出して来るのである。しかし、人間は30歳を過ぎると、脳下垂体からアルギニンの分泌は終了してしまうのだ。だからこそ、30歳を過ぎ始めると、物事に無我夢中になれなくなり始めるのである。

 丁度この時期以降こそが、既婚女性たちが結婚に不満を抱き始める時期とピタリと一致するのだ。体内でアルギニンが不足すると、体脂肪が付き始め、病気の回復が遅くなるのだ。この事実を指摘されると、ピ~ンと来る既婚女性たちは多い筈だ。結婚に対して不平不満を言っている既婚女性たちほど、体にしっかりと贅肉を身につけ、病気をすると何日も寝込むことになるのだ。

 アルギニンは「玄米」「黒パン」「木の実」「ゴマ」「ヒマワリの種」「チョコレート」「肉類」に含まれているので、白米や白パンを常食していたり、菜食主義に走ったりすると、アルギニンが不足してしまい、無我夢中になることができなくなるのである。精白穀物を食べている人ほど、常に政治や社会を批判し、自分で無我夢中になれるものがないものなのである。

 たとえアルギニンが足りていても、自分で無我夢中になれるものがなければ、我執に取りつかれてしまう。予め言っておくが、育児終了後、通常の生活をしていては、無我夢中になれることはないものなのである。専業主婦なら、教育ママになって子供の学力向上に全力を投入するとか、子供にスポーツや芸術を学ばさせ、母親がその世話をすることで喜びを見出さない限り、無我夢中になれるものはないのだ。

 自宅が自営業を営んでいるなら、その自営業を夫婦で一生懸命に取り組めば、無我夢中になれることができることだろう。自営業なら儲けた分の取り分は全て得ることができるので、絶対に景気が悪いだの、政治が悪いだの言わないことだ。自営業をやっているのに儲けられないのなら、それはその商売の仕方が悪いだけなのだ。

 夫が会社経営を営んでいるなら、有閑マダムを決め込んでしまうのではなく、夫の支援になれることがあるなら、進んでやってみることだ。夫が社長ともなれば社交を行わなければならないし、夫はいつも仕事で忙しいために、流行に鈍感になってしまうので、夫にマスコミで話題になっていることを教えてあげたり、会社経営の足しに成るような情報をもたらすようにしてあげることだ。

 兼業主婦なら、給料がどうのこうの言わずに、一生懸命になって働くことだ。特にパートに働きに出てしまうと、どうやった所で給料は低いのだから、お金に拘るよりも、仕事に拘り、仕事を一生懸命にやることで、トップレベルの技術を身につけてしまうことだ。お金を貰いながら勉強させて貰っていると思えば、働くことが楽しくなって来るものなのである。

●仏教の無我と何が違うのか

 人が無我夢中になることで我執を取り払うことができるのだが、その際、「成長を促す無我」と「精神レベルを上げる無我」の二つの無我夢中のスタイルがある。教育ママになったり、仕事をしていれば、成長して行くことはできるが、精神レベルがあがるような無我にはりにくい。

 女性にとって精神レベルが上がるまでに無我夢中になったのは、育児をして心身ともにフラフラになったような時期だけであり、育児が終わってしまえば、一応は無我夢中になっていても、成長はできるのだが、精神レベルが上がるまでには行かないということになってしまう。そのらめ、何か行動を起こしてはいるのだが、悶々として日々になってしまうものなのだ。

 精神レベルを上げずに、成長して行っても、いつの日にかその成長は止まってしまい、停滞した状態になってしまうのだ。そこで「宗教が引き起こす無我」というものを利用して、我執を取り払い、精神レベルを上げることで、次の精神ステージへと突入して行くのである。新興宗教団体が既婚女性たちを惹きつけて行く時は必ずその教団の宗教家たちは精神レベルが上がるようなシステムを作り上げ、既婚女性たちの要求に応えているものなのである。このシステムを作り出すことができなければ、既婚女性たちは遣って来ないし、たとえ一時的に惹きつけても、時が来れば徐々に去って行くものなのである。

 欽明天皇の御世に仏教が伝来し、最早、仏教は古臭く、僧侶たちは平然と戒律破りを行い、その堕落が明々白々となっているのに、未だに仏教が根強く生き残っているのは、仏教が「煩悩からの解脱」という教義を持っているからなのである。一般の人たちが生活の中で我執を取り払った時に、成長するなり、精神レベルが上がるといったものは、仏教が言う煩悩からの解脱とかなり近い内容にあるのだ。

 では、仏教の無我と何が違うのかといえば、仏教の無我は輪廻転生に終止符を打ち、「永遠の死」を実現するものなのである。しかし、我々が日常で経験する無我は、自分を成長させたり、精神レベルを上げることで、自分の生命力を活性化するものなのである。大きく異なるものではあるが、我執を取り払うということでは一致しているのである。ただ、その後の結果が正反対の結果になってしまうだけのことなのである。

 冷静に考えてみれば、日本の仏教は仏教の教義から大いに掛け離れ、世界の仏教の中では異端中の異端となっている。仏教では出家を要求するというのに、僧侶が出家したといいながら、私有財産をしっかりと溜め込んで、結婚して子供すらいるのである。僧侶がこの有様だから、会社経営者が出家したとしても、私有財産はしっかりと持っているし、妻子は出家前となんら変わらないままでいるのだ。一体、日本の仏教の僧侶たちは何をやっているかといえば、仏教が持つ我執の取り払い方を活用しているにすぎないのであって、仏教を本当に信仰している訳ではないのだ。

●無我になることは怖いもの

 我々の普通の人生では、自分の精神レベルを上げるような無我状態というのは、滅多に起こるものではない。我執を取り払うだけでなく、自分を極限まで突き詰めなければ、精神レベルの向上が起こらないので、そういう経験は人生の中で数えるほどしかないのだ。プロのスポーツ選手でも、精神レベルが上がるような無我は選手生活の中で1度あるかないかで、多くの場合、その無我状態を経験すると、引退してしまうものなのである。

 女性であるなら、恋愛だろうし、結婚だろうし、育児であろう。女性が恋愛する時はまだまだ若いから恋愛に関しては躊躇することなく行うことができる。女性が真剣な恋愛をしたことがあるかないかで、全く別の人間になってしまうものなのである。しかし、結婚となると年齢が上がって来るので、理性が働き過ぎて躊躇してしまう人たちも出て来て、運命の男性と巡り合い、劇的な恋愛をすることで、結婚に突入し、、精神レベルが上がるというのが、どの女性に対しても起こることではないのだ。たとえ結婚したとしても、全ての夫婦が赤ちゃんに恵まれる訳ではなく、中には赤ちゃんに恵まれない夫婦も出て来るのだ。

 真剣になれるような恋愛ができなかったり、運命の男性と結婚することができなかったり、赤ちゃんに恵まれず育児ができなかったというのは、要は我執が強すぎて、無我になることを恐れているからなのである。無我になることは恐ろしいものなのだ。今の自分が消えてしまうから、今の自分にしがみついてしまい、自分の精神レベルを上げることができなくなってしまうのだ。

 育児をしている際、新米ママたちの葛藤というのは、これに尽きるのだ。育児をすることで無我になってしまうので、自分の時間というものが持てなくなってしまい、イライラしっ放しになるのだ。しかし、そうやって葛藤しつつも、育児に無我夢中になっていれば、自然と精神レベルが上がり、育児前と育児後では自分が丸っきり変わってしまうものなのである。

 政府が夫たちに育児を手伝わせることを強制するのが如何に危険なことか、これで解ったことだろう。新米ママにとって育児に対して無我夢中になることは、自分の精神レベルを上げるためにも必要なことであり、もしも夫が育児を手伝い過ぎて、新米ママが無我夢中にならないと、その新米ママは精神レベルを上げることができず、そのツケはその後の人生で確実に悲惨な出来事になって現れて来るものなのである。だからこそ、身も心もフラフラになりながらも、育児に無我夢中になることは必要なことなのである。、

●幸せの感涙を流す時

 この新米ママも結婚してから10年も経ってしまえば、無我夢中になれることが少なくなり、自分の精神レベルが上がらず、いつまでも同じ精神レベルで居続けてしまい、そのために生活の中で幸せを感じられず、夫や子供たちを非難することで、憂さ晴らしをして、より不幸になろうとし始めるのである。人間はいつまでも同じ場所に留まれないから、自分の精神レベルを上げなければ、不幸になるのは当然のことなのである。

 宗教の力を借りて、自分の我執を取り払い、精神レベルを上げて貰うと、全ての母親たちが自分の悪しき心こそが自分や家族を不幸にしていたことに気付き、懺悔の涙を流すのである。不幸は他人がもたらしたものではなく、自分自身がもたらしたということに気付いた時、人間は自分の心を己の人生の主人公にすることができ、自分の精神レベルは一気に上昇して行くのである。

 精神レベルが上がって、自分の周りを改めて見た時、実は幸せに満ち溢れていたのである。家庭の中にはたくさんの幸せで満ち溢れていたのである。でも、その幸せに自分が気付けなかっただけなのである。幸せな家族を不幸にしていたのは、自分だった。自分の精神レベルが低すぎたからこそ、幸せが不幸に見えてしまっただけなのである。

 勿論、宗教なくしても、自分の仕事の中で精神レベルを上げるような現象に出くわすこともあることだろう。しかし、そういう現象は非常に少ないものなのである。人間の老化というものが、精神レベルの向上を拒んでしまうのである。宗教というのは、人間の肉体が老化しようとも、人間の精神レベルが上がるように、人間が人工的に作り出していったものなのである。

 宗教というのは強制されてしまえばなんの価値もなくなってしまう。そのために「宗教の自由」というものが必要となるのだが、だからといって無宗教を唱えて来るのは問題なのである。無宗教を唱えてしまえば、自分の精神レベルを上げる機会を失ってしまい、いつもネガティブで、視線は低く、不幸に満ち満ちた人生を歩むことになってしまうのである。

 宗教には非常に強力な力があるがゆえに、宗教が異常な方向に走らないように警戒することは必要である。しかし宗教心をなくしてしまえば、最早、人間は食って寝るを繰り返す家畜となんら変わらないものになってしまうのだ。宗教の力を借りて精神レベルを上げた時、懺悔の涙を流し、自分を悔い改めると、「懺悔の涙」は「幸せの感涙」に変わり、新たな人生が始まりを告げるのである。これがなければ、人間は成長を止めてしまい、後は堕落して行くだけなのである。

 既婚女性でありながら、賭博中毒になったり、アルコール中毒になったり、麻薬中毒になったりするのは、いつまでも同じ精神レベルにて、成長できなくなったからなのである。精神レベルを上げていない既婚女性が新たな人生を歩もうとすれば、結婚を破壊して、離婚するしかないのである。でも、そうやって新たな人生を踏み出しても、夫や子供たちを不幸にした上での話なのである。

●幸せは更なる幸せを呼ぶ

 この世というのは、神の摂理によって動かされており、「幸せは更なる幸せを呼び、不幸は更なる不幸を呼ぶ」ものなのである。他人を幸せにすれば自分も幸せになれる。他人を不幸にすれば自分も不幸になる。勿論、生きて行く中で、全ての人たちを幸せにすることはできないし、生きて行くためには誰かを不幸にせざるを得ない時もある。しかし、自分が幸せの人生を歩みたいのなら、せめて自分の家族だけは幸せにしておくべきなのである。家庭の中が幸せで満ち溢れていたら、世間で如何なることが起こっても、動じない人生を歩むことができるものなのである。

 人間はすべてことに満足できない動物だから、たとえ結婚していても不満が出て来ることは致し方ないことなのだ。だからといって、その不満をぶちまけ、自分を世界で最も不幸な女性とは思うべきではないのだ。そういう既婚女性たちが不幸なのは具体的な現象のために不幸なのではないのだ。当たり前の幸せに気付けないことこそが、自分の不幸の原因となっているのである。

 飢饉に苦しんでいる者に、お粥の一杯でもあげれば、涙を流して感謝することだろう。しかし、飽食になってしまえば、如何に豪華な料理を出しても感謝をしなくなるし、涙を流すことなどなくなってしまうものだ。狭いアパートで貧乏な生活をしていた夫婦も、貧しい時は夫婦が手を取り合って助け合っていたのだが、仕事が成功し、豪邸に住んで、豊かな生活をしてしまえば、途端に憎しみ合ってしまうものなのだ。人間は貧困を共にすることはできても、富貴を共にすることは難しいものなのである。

 だから、お金や物に囚われずに、自分の精神レベルを上げて、精神的に成長して行くことが必要と成って来るのである。経済的に裕福であればあるほど、それに見合うだけの高い精神力も必要と成って来るのである。どんなに豊かになっても、仕事や家事や子育てに精進し、宗教を大切にし、慈善活動に取り組むべきなのである。

 そして最早、自分が成長しきれなくなった時、自分の精神レベルを上げて、新たな精神ステージに突入して行くべきなのである、自分の我執を取り払い、無我に成った時、全ての世界が変わって行くものなのである。「自分は幸せだからこそ、益々幸せに成って行く」ということが解った時、より多くの人々を幸せにして行くことができるようになるのである。

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