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2010年5月

子供への過保護や過干渉の防止法

●過保護や過干渉の子供の脳のダメージを与える

 母親というのは、育児をするために、子供を保護し、干渉し続けなければならないのだが、それを巧くやっていけば、子供は健全に育って行くと同時に、健全な反抗を示して、自治領域を拡大していくことになる。子供が自分でやってくれることが多くなれば、子供の脳は自動的に成長して行くことになる。

 しかし、母親が過保護や過干渉になってしまうと、子供は母親に反抗することもできず、自治領域を拡大して行くことができないのだ。そうなると子供は脳を自分で成長させる機会を失ってしまうので、当然に子供の脳に深刻なダメージを与えてしまうことになるのだ。母親としても常に子供の世話を焼いているので、自分では充実した日々を過ごしているのかもしれないが、子供としては歪んだ形で育てられているにすぎないのだ。

 子供を過保護や過干渉を繰り返す母親は、とにかく子供とべったりとくっついているものだ。しかも子供にテレビゲームを与えてしまい、子供はテレビゲームに夢中になって、子供らしい遊びを何一つしないのだ。子供が自治領域を拡大していないと、明らかに異常な育ち方をしてくるのだが、この手の母親にはそれが解らないのだ。

 脳の臨界期は5歳から6歳なので、この時期に母親とベッタリというのは、脳のシナプスを大いに増やす機会を失ってしまうということなのだ。母親と子供がベッタリするのは、せいぜい3歳までであって、4歳になれば徐々に離れて行って、自分の世界を大事にするようになるものだ。その自分の世界で子供たちは自由に遊んで、脳のシナプスを増やして行くのである。

 親子べったりはいずれ親子双方にとって苦痛をもたらすものである。子供が小学生になれば子供は自分で積極的に物事に取り組まないので、全てのことに母親が命令して行かなくてはならなくなるからだ。子供の方もそれに慣れてしまうと、母親に命令されなければ動けなくなるし、自分ができないものは母親がやってくれるだろうと思ってしまい、非常に怠惰な生活を送るようになってしまうのだ。当然にこのような生活をしていれば、脳のシナプスは急速に減少して行き、非常に馬鹿な大人に育ってしまうのである。

●子供を3人以上産む

 母親が子供に対する過保護や過干渉をなくすためには、子供を3人以上産むことだ。母親が子供を3人以上産んでしまうと、母親の方が育児に対して肩の力が抜け落ちて、子供に必要な保護や干渉しかしなくなるのだ。子供が1人や2人では、どうしても母親は子供に過保護や過干渉を繰り返してしまうので、子供の方が悲惨な目に遭ってしまうのだ。

 通常、最初の赤ちゃんを産んで3年以内に次の赤ちゃんを欲しくなり出すものだ。育児を楽しんでいれば、「もう一人赤ちゃんが欲しい!」というのは母親として健康的な反応であるからだ。それなのにそう思わないとなれば、母親の心の方が歪んでおり、母親としてきちんと成長して来ていないのである。

 子供が2人いるのと、子供が3人いるのとでは、天と地ほどに違うことになるのだ。3人目の子供になると、母親は3回も妊娠し出産したので、妊娠や出産をきちんと行うことができるようになり、しかも生まれてきた赤ちゃんにも、もう失敗することなく的確に育てることができるようになるのだ。

 しかも子供を3人以上産むと、夫が育児を手伝うようになり、そのことが妻にとって感動をもたらすことになるのだ。子供が2人までなら妻が育児の全てを行うのは当然であって、子供が3人以上できたのなら、もう妻の手では処理しきれないから、夫は育児に手を出し始めるのだ。この現象が起きると、夫婦の絆はより一層大きくなり強くなるのだ。

 現実問題として、子供が3人もいれば、母親は子供に対して過保護や過干渉を行うことなどできない。子供ができることに関しては子供に任してしまい、子供に処理させるしかなくなるのだ。その内、子供たちの方から家事や育児を手伝いだし、母親の手助けをするようになるのだ。このような行為ができるようになれば、脳のシナプスを大量に増やして行くことができるのである。

●兄弟姉妹で切磋琢磨させること

 子供が多くいれば、当然に子供たちは兄弟喧嘩をしまくることになる。兄弟喧嘩は非常にうるさいものであるが、子供たちにとっては人間関係の処理の仕方を学ぶ上で、これ以上に勝る教育方法というのはないのだ。兄弟喧嘩をしていれば、強い者が勝つということを学ぶし、弱い者は負けて行くということを悟るために、必死になって強くなろうとするし、弱い自分のままでいてはならないと思うようになるのだ。

 兄弟喧嘩の原因となるものは、殆どが下らない理由である。それは大人から見ればそう言えるだけであって、子供たちにとっては重要な問題であるのだ。それをどのように処理するかで多くのことを学んでいくのであって、それが家庭の外でも応用が効くようになるし、長じて大人になった時に人間関係で躓かなくなるのだ。

 学問にしても、スポーツにしても、芸事にしても、兄弟姉妹同士で学んでいると、競争原理が働いて、猛スピードで上達していくことができるのだ。上の子は下の子にこういうことができるんだよと自慢し、下の子は上の子を見習って、内容を圧縮した形で学んでいくことができるのである。

 物を学ぶということは、1人でやっていたら、物凄く効率の悪いものなのである。みんなで学んでしまえば、競争し合って、非常に効率よく学ぶことができるようになるのである。学校の勉強にしても、第一子が先に学んで、学校でこういうことを学んだよと下の子供たちに教えれば、下の子供たちが学ぶ時には既に学ぶべきことが頭の中に入っており、更に奥深く学んでいくことができるようになるのだ。

 これが大学進学ともなれば、一番上の子はどこの大学に行ったよというのが解れば、下の子供たちは大学に行けることが当たり前だと思うようになるし、更にレベルの高い大学を目指して勉強しまくることになるのだ。そうなれば次から次へと大学へ進学して行くことになるのである。

●母親が一人前になるから子供は健全に成長していくことができる

 少子化の社会になった時、一体何が一番深刻な問題なのかというと、母親の方が育児をしていても幸せを感じられなくなってしまうということなのである。最初の赤ちゃんを産み育てる時は、どうやったとしても母親は新米ママゆえに、至る所で失敗をしまくるのだ。しかも赤ちゃんは夜泣きをしまくるし、自分は睡眠不足になってしまうので、自分はなんて不幸なんだと思うようになるのだ。

 しかし子供を3人以上産めば、赤ちゃんが夜泣きをするのは当たり前と言うことが解るものだし、もしも夜泣きをしなければ死んでいるということなのである。子供を3人以上育てたことで「育児力」がしっかりとついたので、育児を思いっきり楽しめるようになるのだ。そういう母親の精神状態が子供の脳にいい影響を与えない筈がないのだ。 

 母親が母親として一人前になるからこそ、子供たちは健全に成長して行くことができるようになるのである。母親が一人前でなけらば、過保護や過干渉を繰り返して来るのは当たり前のことなのだ。子供の数が少なければ、母親だって子供との距離を掴めないものなのだ。子供との距離を適正にするためには、母親が3人以上の赤ちゃんを産むしかないのだ。

 子供が1人しかいなければ、経済的負担は少ないから、裕福になれると思ってしまいがちだ。しかしもしも子供が死んでしまったら、それこそ子孫が絶えてしまうし、もしも子供がグレてしまったら自分たちが望むような未来を招来させることはでいないことだろう。子供の数が多くいれば子供が1人死んだとしてもスペアはあるものだし、出来の悪い子がいてもそれ以外の出来のいい子に期待すればいいのだ。

 親が子供に期待することは確かに大事なことかもしれないが、親が子供に期待し過ぎるのはそれはそれで問題なのだ。親が子供に期待しつつも、もしも駄目ならお前を見捨てて、他の子に期待するというドライな態度を併せ持つからこそ、子供たちの方は真剣になって生きるようになり、自分の能力を極限まで高めて行くことができるようになるのである。

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ウィークエンドエッセイ『死に方上手』

●70代前半に起こる免疫力の低下

 俺が癌研究に携わっていた頃、人間の平均寿命はなんの意味もないことを悟った。というのは早死にする奴は早死にするし、長生きする奴は長生きするのである。人間の寿命の平均値を教えられた所で、自分になんの利益があるわけではないのだ。逆に平均寿命があるばっかりに健康を大切にせず病死してしまったり、平均寿命を超えたことで自分の健康に過信し或る日突然ポックリと逝ってしまうのだ。

 男性の場合、70代前半に免疫力の低下が見られ、この時期に多くの男性たちが死んでいくのだ。現在は60代といってもまだまだ体力があるので老人扱いできないが、70代となるとそうはいかないのである。やはり目に見える形で老化が現れ、今までのような生活を送ることができなくなるのだ。それなのに今までのような生き方を貫いてしまうからこそ、病魔に蝕まれてしまうのである。

 癌患者が場合、年齢が70代前半に差し掛かっていると、癌治療の勧告が非常にしづらくなってしまう。というのは癌患者は頑固者が多く、こちら側の理性的な意見を聞いてくれなくなるからだ。そのためこちら側が提示する癌治療法を採用してくれば癌といえども治るのに、なまじ拒絶するものだから癌に蝕まれて死んでしまうのである。

 自分が70歳代になってしまえば、自分より目上の者たちは殆ど死んでいるものだ。ところが自分より年下の者は大勢いるから、自己修養ができていない人は、自分よりも年下の者の意見を聞こうとしないのだ。そのため年下の者の意見を聞いていればもっと長生きできたのに、呆気なく死んでしまうことになるのだ。俺は自分の経験から、70代前半で死ぬ男性たちは、人格的に問題があると見ている。

 自分が70歳になったら、免疫力の低下が起こることが解っているのだから、対策をきちんと打っておくことだ。何も対策を打たないからこそ、体力的に苦しくなってしまい、それで不機嫌になり、年下の者の意見を拒絶してしまうようになるのだ。生き延びるためには、まずは「義理を欠く」ことだ。特に結婚式や通夜や葬式は自分の体の調子が悪い時には絶対に行かないようにすることだ。次に「疲れたら休む」ことだ。70代前半になると体が疲れてしまい、夜遅くまで起きていられなくなるのだ。そういう時はすぐさま寝室に行って寝てしまうことである。そして「無理をしない」ことだ。過労を発生させる重労働はしないようにするべきだし、長旅などは絶対にすべきではないのだ。

●70歳以前に死ぬと地獄の苦しみが待っている

 70代前半に免疫力の低下が起こるのだから、それ以前に死ぬ人々はどのように死ぬかと言うと、地獄の苦しみを味わいながら死んでいくことになる。癌にしても70代前半なら免疫力が急激に落ちて行くので、癌の侵攻を猛スピードで進めてしまい、病魔の苦しみを最小限に抑えることができるのだ。しかし70歳以前なら免疫力があるために、癌の侵攻を食い止めてしまい、そのために延々と治療がかかってしまい、それで想像を絶する苦しみを味わうことになるのだ。

 70歳以前に死ぬような人々は、そもそもが健康に気を使っていない。暴飲暴食を繰り返し、タバコを吸うわ、運動はしないわと、今までの生活の無理が祟って、その無理が病気となって現れて来るのである。「せめてタバコでもやめたら」と忠告しても、タバコをすらやめないのだから、病気で苦しむというのは当然の現象になってしまうのである。

 俺が開発した癌治療法など決して難しいものではないのだ。基本は食事療法だし、運動療法であるのだ。勿論、癌を治すために特殊なサプリメントを使ったり、特殊な器具を使いはするが、基本は食事であり運動であるのだ。それほど癌に罹るような人々は食事が滅茶苦茶で運動も大してしていないのだ。

 医学の知識を持ってしまうと、今まで自分が凄いと思っていたが、そうではなくなってしまうという現象も起きる。例えば夏目漱石は慢性的に胃が悪く、胃薬ばかり飲んでいたのだ。そのために胃が大いに傷ついてしまい、修善寺の喀血という事態を引き起こしてしまい、50歳という若さで死んでいるのだ。

 夏目漱石の弟子である芥川龍之介は25歳で『鼻』を書き文壇デビューし、その後、芸術性の高い小説を大量に書きまくっている。それだけ脳に負担が行ったというのに白米を食べていたので精神的に相当ヤバイ状況になっていた筈だ。しかも36歳の時に谷崎潤一郎と文学論争をしてしまい、それがストレスになって自殺してしまっている。一方の芸術性の欠片すら持っていない谷崎潤一郎は80歳まで長生きしているのだ。

 どうやら「優れた小説家は早死にすべし」ものらしい。長生きすればそれだけ人生に於いて様々なことを知ることになるから、小説家のように細かいことに拘っていられなくなるのだ。特に恋愛のようなものは、若い時にはトキメクようなものであっても、歳を取ってくればもうどうでもいいじゃんと思ってしまうものなのだ。それなのに恋愛に拘り、恋愛小説を書くというのなら、或る意味、精神的に異常なのである。

●90歳以降は眠るが如くに死ぬ

 70歳以前に死ねば地獄の苦しみが待っているが、70代前半の免疫力を低下を切り抜けてしまえば、一体どうやって死ぬことになるかというと、眠るが如くに死ぬことになるのである。特に90歳以降になると就寝中に死んでしまい、朝起きたら死んでいることに気付いたということになるものなのである。

 大体、90歳まで生きるということは、健康に気を使ったわけだし、精神的にもきちんと向上したことだろう。しかも自分がやるべきことは全てやっているので、生きることになんの未練もないのである。生への執着から解放されているために、その死に様も飄々としているものなのである。

 人間は生きている以上、何かをすべきなのである。それなのに時間の無駄使いをしているからこそ、仕事が進まなくなってしまい、その内、ストレスで押し潰されてしまい、早死にしてしまうのである。テレビを見過ぎたり、新聞を読み過ぎたりすることは、人生に於いて非常に危険なことなのである。テレビや新聞というものは、役に立たないくせに時間だけはしっかりと大量に食ってしまうからだ。

 人間にはすべき仕事があるのだから、その仕事を1つずつこなしくていくしかないのだ。遊び呆けたり、休みまくるのではなく、とにかく毎日仕事をこなしていき、仕事の生産量を少しでも多くしていくしかないのである。そうやって地道に仕事をしていると、気付いた時には膨大な生産量を記録していることになるので、その仕事の成果が自分に決定的な自信を与えることになるのである。

 俺は「優れた宗教家は長命すべし」と思っている。宗教家はすべきことがたくさんあるから、長生きしないと宗教の仕事をきちんと成し遂げることができないからだ。早死にしてしまうような宗教家はその教義に何かしらの問題点があったからこそ早死にしてしまったのだろう。自分が長生きしてしまえば、「若い時は意気がってあんなことを言っていたけど、あれは間違いだったよ」と言えるものなのである。人生は達観してこそ本物の意見を言えるのであって、達観していなければ愚かなことしか言えないものなのである。

●死に方上手になるためには死から逆算して生き方を整えよ

 人間は誰でも死ぬのだから、若い時に死に方を決めておくべきなのである。自分が90歳以上になって眠るが如くに死ぬようにすれば、その死に方ができるように自分の人生を正しいものに変えて行くことができるのである。死に方上手になるためには、死から逆算して生き方を整えて行くべきなのである。

①引退後、天職を以て仕事に励むこと

 死に方上手になるためには、定年退職を迎えても、仕事から引退してしまわないことだ。男性は女性と違って、仕事をしているからこそ生存価値があるのであって、仕事もせずに遊び呆けてしまうと、途端に自分の妻や息子や娘たちから疎んじられるようになってしまうのだ。

 定年退職したら、天職を以て仕事に励むことだ。定年退職前は生活のために仕事をせざるをえない部分もあったが、定年退職後は生活のための仕事をやらなくていいのであって、採算を度外視していい仕事をするようにすべきなのである。若い時のように1日8時間労働でなくていいから、せめて午前中だけ働き、午後は自由時間に使えばいいのである。

②子孫 を繁栄させること

 自分が老人になると孫の世話をすることに非常な喜びを感じるものなので、若い時に多くの息子と娘たちを作っておき、その子たちに孫を多く産ませて、自分たち夫婦の所に持ってこさせるようにするのだ。どんな夫婦であっても孫が来ると非常に仲良くなってしまうので、孫の多いことは夫婦仲を維持する上でも非常に大事なことなのだ。

③後世に残すべき物を残しておくこと

 自分が長生きした以上、これは後世に残しておく大切なことだと言えるものが多々あるものである。自分が長生きしたからこそ解る知恵というものがあるのであって、それを若者たちに話すなり、執筆して本に残しておくべきなのである。ただ長生きしても、子孫に何も言うべきことがないのなら、長生きした意味はないのだ。

 それと後世に残しておくべき物として「財産」がある。自分の子供たちに遺産を残すのは当然のこと、自分の財産の一部を割いて財団法人を作り、慈善活動を行うようにすべきなのである。自分が老人になっても大した財産がなく、年金生活をしているのでは、話にならないのだ。

 そのためには若い時から地道に天引き貯金を行い、貯まったお金を投資して増やして行くべきなのである。老後は年金生活に頼るべきではなく、老人でも働いて生活費を稼ぎ出すべきなのである。資産収入をしっかりと確保しておき、その資産収入を再投資して資産を雪達磨式に増やして行けば、自分の子供たちに残せる財産や、財団法人を作れる財産を確保できるというものなのである。

 この世ではどうすれば生き方上手になれるのかを問う者は多いけど、どうすれば死に方上手になれるのかと問う者はいないものだ。だからこそ自分が正しく生きているのに無様な死に方をしてしまうのである。自分がいつまでも生きていられるというのではなく、死を覚悟して生きていれば、逆に自分の生命を完全燃焼することができるようになるのである。人間の人生というものは常に逆説に満ち満ちているのである。

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お受験は悪いことなのか?

●脳の臨界期に受験をするのは脳の成長にとって非常に素晴らしいもの

 小学校は義務教育なので、入学試験を受けることなく入学できる。そのためどの小学校も小学生たちの学力の低さに悩まされているものだ。それゆえ母親たちの中には我が子だけはそうなって欲しくないと、私立学校に通わせたい母親たちが出て来るのは当然の現象であって、そこで幼児の間で「お受験」が展開されることになる。

 お受験はマスコミや知識人たちから批判の対象になっているのだが、脳科学的に言うなら、脳の臨界期に受験するのは、脳の成長にとって非常に素晴らしいことになる。受験する幼児たちは受験勉強をすることになるのであって、その間、ズ~ッと脳のシナプスを大量に増やしまくることができるようになるのだ。

 普通の幼児たちが幼稚園で遊んでいる中、受験をする幼児たちは受験勉強しているのだから、当然に頭が良くなるのは当たり前のことなのだ。幼児だからといって幼稚なことばかりしていては、その幼児にとっては最適な環境であるかもしれないが、果たして最適な環境にいることが本当にその子のためになるのか解らないのだ。

 私立の小学校を選ぶ時は、自宅から遠すぎる小学校を絶対に選ばないことだ。子供にとっては自宅から遠い小学校に通わされては、その通学が非常に苦痛になるのだ。通学期間は6年間あるので、通学のために大量の時間が奪われてしまっては大損害になってしまうのだ。

 それと我が子を私立学校に通わせるのなら、夫婦で話し合って、合意しておくことは非常に大事だ。妻が私立の学校を望んでいるのに、夫が公立の学校に通わせるべきだと思っていたり、逆に夫が私立の学校を望んでいるのに、妻が公立の学校に通わせるべきだと思っていては、我が子を無理矢理に私立の学校に通わせても、問題が発生しまくることになるのだ。時間はたっぷりとあるのだから、夫婦で話し合い、小学校に行って、その小学校が本当に素晴らしいのか自分たちの目で確認することだ。

●問題は小学校の授業内容

 お受験で合格するような幼児たちは当然に普通の幼児たちよりも頭がいい筈である。しかし問題は小学校の授業の内容なのだ。小学校教育は政府の規制によって雁字搦めなので、どの私立学校も効果的な教育を施すことができないのだ。私立の小学校だというのに、公立の小学校で使われている教科書を使わざるを得ないのだから、小学生たちは知能の思いっきり伸ばすことができないのだ。

 それと私立の小学校で教師が問題を起こした場合、マスコミは殆ど取り上げることがないので、学校側が教師の能力を調査して父母たちに公表するとか、父母会が健全に機能して問題教師を解雇できる権限を持っておかないと、その問題教師は事件が深刻化するまで遣りたい放題になってしまう危険性があるのだ。

 私立の小学校の生徒たちは元々が頭がいいので、いい成績が取れて当たり前なのである。教師に求められているのはもっと知能を高くすることなのであって、そのための特殊な教育技術が必要なのである。学校側は研修制度を設けて教師たちに研修を受けさせて、定期的に教育技術の向上を図らない限り、生徒たちの学力を思いっきり上げることができないのだ。

 学校側が教育技術の向上を図らず、父母会も何も意見を言わないと、生徒たちは恐ろしいまでに無能化して来る。私立学校に通わす父母たちは裕福な人々が多く、性格が大らかなために、教育に対してとやかく言わない傾向にあるのだ。例えば慶応大学の付属の小学校では漢字すらまともに書けない小学6年生が存在しているのである。我が子を真っ当な人間に育って欲しいなら、慶応大学付属の小学校だけは避けた方がいい。

 私立の小学校がその持てる機能をフル稼働させると、小学校を卒業するまでに非常に高い学力を持つことができ、その後の人生を飛躍させることが可能になるのだ。脳のシナプスは脳の臨界期以降減少していくので、小学生という時期に脳のシナプスの減少を最低限に抑えることができたのなら、当然に知能の高い人間として育って来ることになるのである。

●お受験を経験した人々の驚異的な大学進学率

 お受験にはとやかく言われるが、お受験を経験した人々は驚異的な大学進学率を誇っている。公立の小学校に行った生徒たちの大学進学率が50%程度なのに対して、私立の小学校に行った生徒たちの大学進学率は90%を超えているのだ。というか大学進学を視野にいれているからこそ、親たちは子供を私立の小学校に通わせているのである。

 我が子にお受験をさせる親は教育熱心な親たちなのである。この手の親たちは教育に対する投資を絶対に惜しまないのだ。子供のためなら本を幾らでも買うし、自宅には勉強できるスペースを必ず確保するし、塾や予備校にも通わせるからだ。私立の小学校の教育が本当に素晴らしいのかなかなか解らないのは、教育熱心な親がいることと、塾や予備校に生徒たちが通っているからなのである。

 公立の小学校に通った場合、進路を巡って小学校卒業の段階や中学卒業の段階で選別が行われるものだ。しかし私立の小学校の場合、生徒たちは全員が大学進学を目指しているので、途中で反抗して脱落しなければ、当然の如くに大学に進学して来るのだ。そのため日頃かわされる会話がそれに相応しい会話となるものなのである。公立の学校には知的雰囲気というものはないが、私立の学校には知的雰囲気というものがあるものなのである。

 私立大学の付属の小学校の場合、大学までエスカレーター式で進学していくことができる。そのため受験戦争というものが存在しないのである。10代という大事な時期に大学受験のために青春を捧げてしまうのが本当にいいことなのか解らないものだ。確かに大学受験のために必死になって勉強すれば、高い知能を持つことができる。しかしその反動で大学入学後は遊び呆けてしまうのが一般的なものなのだ。

 しかし受験戦争をすることなく、中学生や高校生の時期をのんびりと過ごしていれば、大学生になってから思いっきり勉強し始めるということもあるのである。勿論、付属校出身のために大学でもそれほど勉強しない学生たちもいるが、受験戦争でエネルギーを消費していないのなら、その有り余ったエネルギーを大学生になってから使って来る学生たちもいるのである。

●国民にとって本当に素晴らしいものはマスコミによって非難されるもの

 お受験がマスコミや知識人たちから非難されてしまう原因は、まさにここにこそある。ジャーナリストや知識人の多くは受験戦争を勝ち抜いてきたために、受験戦争を経ずして大学に入って来る人々が許せないのである。彼等の批判は冷静な知性に基づくものではなく、嫉妬という感情に基づくものなのである。

 小学入試はそれを経験したことのない人々にとって馬鹿らしい問題ばかりである。当たり前だがお受験を受験してくるのは幼児なのである。幼児が解ける問題を出さなければ試験にならないのである。だがジャーナリストや知識人たちが小学1年生の時にその試験を受けても、絶対に合格点を貰えるわけがいのだ。矢張りお受験といえども受験勉強をしなければ合格することはできないものなのである。

 教育制度というのは絶対に画一的にしてはならない。国家を存続させるためにも多種多様な人材が必要であり、大学に進学して来るのに様々なルートを確保しておくのは当然に取るべき措置であるのだ。受験戦争で勝ち抜いて入って来る者がいてもいいし、受験などせず推薦で入って来る者がいてもいいし、私立学校からエスカレーター式で入って来る者たちがいてもいいのだ。様々なルートが確保されているからこそ、様々な人材が生み出されて来るようになるのである。

 たとえお受験に落ちても絶対に子供を責め立てないことだ。お受験を受けるのを決めたのは、母親なのであって、子供ではないからだ。子供が自発的に私立の小学校に行きたいとは決して言い出さないものだ。多くの場合は母親が無理矢理に進学させようとするものなのである。お受験に落ちたら、公立の小学校に通えばいいのだ。そして中学受験を受けて私立の中学校に進学すればいいのである。敗者復活戦は幾らでも容易されているのである。

 我が子の教育のことを考える時、マスコミの意見は基本的に無視することだ。子供たちにとって本当に素晴らしいものはマスコミから非難されるものだからだ。お受験にしてもマスコミから非難されているが、私立の小学校に通っておかしな生徒が出て来たことはないものだ。矢張りスタート段階で出来がいいために、その後も出来のいい生徒であり続けるものなのである。

 かといって私立の小学校が全て良い訳ではないのだ。私立の小学校といえども問題を起こして来るのであって、だからこそ学校を疑ってかかり、常に監視の目を光らせることだ。授業料を支払って我が子を通わせている以上、碌でもない教育を施されたら堪ったものではないからだ。母親がそういう態度を取り続けるからこそ、逆に素晴らしい教育を確保することができるようになるのである。

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保育園や幼稚園は子供の脳にどのような影響を与えるのか?

●保育園は必要悪

 母親の体というのは、赤ちゃんを産んでから3年間は母性ホルモンが大量に分泌されまくるので、この間は赤ちゃんを育てることを第一に置かねばならないのである。3年間も育児をやっていれば、育児の仕方はなんとなく解って来るし、それに母性ホルモンが大量に分泌されることで自分の体型を母親体型に変えることができるので、体力的に無理なく育児をし続けることができるようになるのだ。

 しかし子供がいては仕事ができなくなるというのも事実であり、本来ならこの時期、育児に専念した方がいいのだから、もしも仕事をするなら、自宅で仕事をするとか、自分の母親か夫の母親に子供を預けて仕事をするしかないのだ。だが、自宅で仕事ができず、自宅の周りに自分の母親や夫の母親がいないのであるなら、保育園に預けるしかないのである。

 保育園というのは、飽くまでも母親の都合によって生まれたものであり、必要悪の存在なのである。経済的に余裕があるのなら、保育園などには子供を預けないものだ。保育園に子供を預けねば仕事ができず、仕事をしなければ生活が成り立たないからこそ、母親の方も未練たらたらで子供を預けるのだ。

 保育園というのは幼稚園とは決定的に違う。保育園は大きくあるべきではなく、小さくあるべきなのである。子供は3歳まで、小さな世界で育てるからこそ、脳が健全に育って行くのであって、余りにも大きすぎる場所で育ててしまうと、脳が健全に育たなくなってしまうのだ。だからこそ保育園とは小さな組織であるべきなのであって、保育士たちが常時、園児たちに目を届かせなばならないのだ。

 学者たちは保育園に行こうが行くまいが、その後の成長に変化は生じないというが、そんなことはない筈だ。通常、保育園に子供を預ければ、子供は母親から切り離されたことで大泣きするものだし、母性愛が最も欲しい時に母親に甘えられないという事態になってしまうのだ。大体、保育園に通った子供は我儘に育って来るものだし、思い込みの激しい子供に育つものだ。

●幼稚園は使いこなされていない

 人間の子供は3歳までは母親が育てるべきであり、事実3歳になった時が最も可愛い時期を迎えることになる。そして4歳になると「記憶の消去」が起こるので、4歳以降は明らかに変わるのである。そのため4歳以降は幼稚園という場所に通わせても大丈夫なのであって、家庭とは違う環境で遊ぶからこそ脳の成長を促すことができるのだ。

 しかし幼稚園は幼児にとって幼稚過ぎるのだ。これは幼稚園が生み出されて来る過程の中で、子供に子供らしい場所を与えるということから始まってしまっために、脳科学的な見解は一切取り入れられておらず、幼稚園児には幼稚らしい遊びをしておけばいいという発想でしかないのだ。

 幼児は5歳から6歳の時に脳の臨界期を迎えるので、この時期までに脳のシナプスを最大限増やすようにすべきなのである。それゆえ幼稚園は大きな広場を持つべきであって、幼稚園児たちが駆け回れるようにすべきなのである。とにかく幼稚園児に思いっきり運動させることが体を鍛えることになり、脳を鍛えることになるのだ。

 それとクラスを絶対に大きくしないことだ。クラスは小さくすべきなのである。幼児は大量に集めてしまうと、途端に幼稚的なことをし始めるので、クラスを小さくすることで、幼稚的になることを阻止するのである。1人の保母が面倒を見切れるのは20人までであって、できれば10人程度が丁度いいのである。こすうればどの幼稚園児も保母ときちんとした人間勘栄を築き上げることができ、それが脳に対して非常に効果的な刺激を与えることになるのだ。

 幼稚園は園長と保母たちだけで運営してしまうのではなく、時は外部から幼稚園児に刺激を与えてくれる人を招くべきなのである。例えば面白いゲームを教えてくれる人だとか、子供向けの演劇をする劇団だとか、そういう外部の人がやってくると、幼稚園児たちは大喜びして、脳に素晴らしい影響をもたらすことができるのだ。

●親元で育てる

 経済的に裕福なら保育園に行かせることもないし、幼稚園が余りにも幼稚過ぎるということなら、わざわざ我が子を行かせるべきではないのだ。我が子を親元で育てる遣り方こそが最高の効果をもたらすことになるのだ。自宅にいれば母親からたっぷりと母性愛を貰うことができるし、自分の時間を大量に持つことができるからだ。

 我が子を保育園にも幼稚園にも行かせないと決断したのなら、母親は絶対に子供を多く産むことだ。子供が1人しかいないと、母親は子供に対して過保護になり過干渉してしまうことになるので、子供の脳の成長を阻害してしまうことになるのだ。母親が子供を多く産んで行けば、下の子供の面倒を見なければならなくなるので、自然と子供に対して過保護や過干渉をやめることになるのだ。

 幼稚園に行かないとなると、時間が大量に有り余ることになるので、とにかく子供を外に連れ出し遊ばせるようにすることだ。脳というのは体を動かさない限り成長しないので、運動量が少なくなってしまっては、脳の成長に支障を来たすからだ。それと子供に本を与えて、本を読ますようにしてしまうことだ。本を読めば読むほど、脳のシナプスは増えて行くのである。

 もしも何かしらの芸事を習っているのなら、それを重点的にやってしまい、脳の臨界期にまで高度なレベルに達しておくと、その後、その芸事をやめさえしなければ、一流のレベルに到達する可能性が非常に高くなる。というのは普通、他の子供たちは幼稚園に通って、その上で芸事も習って来るので、どうしても練習不足のためにレベルを大いに上げることができないのだ。しかし幼稚園に行かせなければ、練習する時間など幾らでもあるので、芸事のレベルを大いに上げて行くことが可能になるのである。

 現在では殆どの幼児が幼稚園に行くために、我が子だけを幼稚園に行かせないことは母親として肩身の狭いことであるかもしれないが、戦前は幼稚園に行かない方が当たり前だったのだ。幼稚園に行かなかった人たちで人格的に問題があったという人はまずいないものだ。幼稚園に行かなかったからこそ、自分の時間を大量に持つことができ、その分、自分で思考することができたので、自分の人格を正常に発達させることができたのであろう。脳の臨界期に幼稚園のような幼稚過ぎる場所に通わせることの方が、人間の成長にとって何がしらの問題を発生させるものなのである。

●脳への影響は一体どうなるのか解らないのだから、様々な選択肢を残せ

 現実の所、人間の脳の成長に対して、保育園や幼稚園がどのような影響を及ぼしてくるか解らないものだ。保育園にしても、その保育園が良ければ、子供にとって自宅だけで育てるより効果的になる筈だし、幼稚園にしても、その幼稚園が良ければ、子供にとって最良の環境を与えることができる筈だ。その一方で、保育園や幼稚園に行かせず、小学校に上がるまでは母親が自分で育てるという人がいてもいいのだ。

 重要なことは様々な選択肢を残すことであって、画一的にしてしまうことではないのだ。嘗てソ連はソ連全土に保育園と幼稚園を整備したのだが、結果的にソ連は崩壊し、急激な人口減少に見舞われてしまうことになってしまった。社会主義に基づいて、社会で子供たちを育てようとしてしまうと、自分たちの理想とは逆に最悪の結果を引き起こしてしまったのである。

 矢張り子供を育てるのは親の仕事なのであって、それを基盤にして保育園や幼稚園があるものであって、保育園や幼稚園がどんなに努力しても母親の育児に取って代わることはできないのだ。大体、「子供たちを社会が育てる」という発想を持つこと自体、そのような考えを持つ人は人間として自立していない証拠なのであって、そのような者の意見を絶対に通してはならないのだ。

 現在、保育園は保育園不足で待機児童がいるものだが、待機児童がいて丁度いいのだ。そこに政府や地方自治体が余計なお節介を焼いて介入してくれば、現在よりもひどい事態を引き起こすことになるであろう。幼稚園にしても、現在のように幼児の全員が行く方が異常なのである。みんなが幼稚園に行っているのなら、我が子だけは幼稚園に行かせないという臍曲がりな親たちがいてもいいのだ。小学校に入学するまで親元で育てても充分に育つものなのである。

 子供にとって脳の臨界期はもう二度と戻ってこないのだから、子供の環境をどのように決めるのかは、親が決めることなのである。大方、父親よりも母親の意見の方が優先するものだ。それだけ母親の方が自分が妊娠して出産し育児をしたから、我が子に対する愛情が強いのでる。保育園や幼稚園に我が子を預ける時はただ単に利便性だけを考えるのではなく、しっかりと保育園や幼稚園を調べることだ。もしも保育園も幼稚園も行かせないと決断したのなら、勇気を持ってその決断を押し通してしまうことだ。どのような選択をするにせよ、母親が責任を持って行動しているのなら、素晴らしい結果を得られるようになるものなのである。

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バイリンガルの問題

●母国語は1つしか宿らない

 母親が外国語を喋ることができれば絶対にしないのに、母親が外国語を喋れないと遣り出すものに、幼児への外国語教育がある。母親が外国語をきちんと喋れるようになってしまうと、如何に母国語を正確に喋ることができるかということを非常に大事にするので、子供の頃に外国語を教えたりしないのだ。母国語さえきちんと喋ることができれば、その後の人生で外国語など簡単に学べてしまうからだ。

 しかし外国語を喋れない母親だとこのことが解らず、母国語ままならない幼児に外国語を覚えさせようとしてしまうのだ。しかもその愚かな母親たちをターゲットにして外国語の学習塾が存在するためにいい餌食になってしまうのである。そのため必死になって我が子に外国語を学ばせてしまい、そのくせ外国語をきちんと喋ることができないという現実に直面してしまうのである。

 脳の臨界期は5歳から6歳なのだから、この時期に外国語を学ばせれば、外国語に対応するシナプスが作れるのではないかと思ってしまう。しかし言語の場合、そうはいかないのだ。母国語というものは、1つしか宿らないので、脳の臨界期には母国語だけに限定して教え込んでしまうべきなのである。

 母国語がきちんと喋ることができるからこそ、外国語をきちんと喋れるようになれるのであって、母国語の理解度が低ければ、外国語の理解度も低くなってしまうのだ。だから幼児期には外国語など学ばせず、母国語だけに限定して教え込んでしまった方が、その子の脳のためには非常に正しい選択となるのである。

 子供というのは外国語を習いたいなどと決して言い出さないものだ。母親の意思によって子供は外国語を学ばされるに過ぎないのだ。母親が外国語を喋れないのなら、無理矢理に我が子に勉強させるのではなく、自分が自宅で外国語の勉強でもしていればいいのである。自分がきちんと外国語を喋れるようになったら、子供に外国語を教えようなどと言う自分の考えは変わってしまうものだ。

●長所よりも短所が激しい

 脳の臨界期に外国語を教えることは、長所よりも短所が激しいものなのだ。脳の臨界期に母国語と外国語を学んでしまうと、どっちも上達しないという悲劇に見舞われてしまうのだ。理由は簡単で母国語は生活に必要だけど、外国語は生活に必要ないのだが、母親は母国語を喋っても褒めてくれず、外国語を喋ると褒めて来るようになるので、頭の中がごちゃごちゃになってしまうものなのだ。

 幼児は言い間違いを平気でしてくるものだし、知らない単語があると平気で質問して来るものだ。その度に、母親は言い間違いを訂正するものだし、単語の意味を教えて、少しずつ利巧になっていくのだ。しかし外国語を学んでしまうと、この当たり前のことができなくなってしまい、当然にヘンテコな母国語を話すようになってしまうのだ。  

 更に脳の臨界期に外国語を覚えさせてしまうと、深い思索を行うことが不可能になってしまう。外国語の学習は会話ができることに重点を置いているために、会話さえ成立すればいいだろうと勘違いしてしまうようになるのだ。そのため深い思索というのが人間にとって大事なのだと言うことが解らず、思索を拒絶してしまうので、非常のレベルの低い人間に成長してしまうようになるのだ。

 トドメは「民族的自己同一性の危機」が発生して来るのである。通常、どの人たちも母国語を話せるようになることで、自分たちの民族への誇りを持つようになるものだ。例えば日本人であるなら、日本語が喋れるからこそ日本語の素晴らしさを再確認し、日本民族の優秀さを受け入れることができるのだ。

 だが、母国語を習得をすっ飛ばして、外国語を学習させてしまうと、民族的自己同一性が形成されず、ただ単に外国崇拝の人間が出来上がるだけなのだ。かといってその外国語を喋れるようになっても、その外国語を話す国民はその者を受け入れてくれないので、どっちつかずになってしまうのだ。この状況に置かれてしまうと、「地球市民」だの「宇宙人」だの言い出して、如何なる民族に対しても誇りが持てないし、かといって人類そのものへも誇りが持てなくなってしまうのだ。

●まずは母国語をしっかりと教えよ

 脳のシナプスは脳の臨界期以降減少して行き、15歳から16歳で減少がひと段落するので、その時期から外国語を学ぶようにすればいいのである。16歳までは母国語の習得に全力を注ぐべきであり、特に脳の臨界期には外国語に触れさせず、母国語に対応するシナプスを最大限にまで増やしてしまうべきなのである。

 国内で生活しているのなら、外国語など退けることができるものなのである。実際問題として外国語の学習が問題になるのは、日本人が外国で暮らし、そこで赤ちゃんが生まれてしまった時なのである。この場合、その子は両親から母国語を教えられるが、外に行けば外国語を喋らざるをえないために、自然発生的にバイリンガルになってしまうのである。

 このまま放置しておくと、母国語も外国語も喋ることができるようになるが、深い思索ができなくなったり、民族的自己同一性の危機が生じて来ることになるのだ。だから外国で育児をする際は、『古事記』や『日本書紀』を暗記させよ。できれば『日本政記』や『日本外史』を読ませて、日本史が面白いと思わせるようにすることだ。こうすれば民族的自己同一性を獲得できるようになるし、日本と外国の歴史の違いを知ることで深い思索を展開することが可能になるのだ。

 通常、どの民族も外国に移住してしまうと、3代目でその外国に溶け込んでしまうことになり、その国の新参者として非常に不利な立場に置かれてしまうのだ。日本でもハーフであるなら珍重されるが、3代目になってしまえばなんの特別扱いされることもなく、かといって所詮は新参者だから一番下の階級からスタートせざるをえなくなるのである。民族と言うのは集団でこそ機能するのであって、民族から離れて個人レベルになってしまうと、一気に無力化していくのである。

 外国に移住した多くの人々が無力化していくのに、ユダヤ人だけは無力化せず、彼等だけが多くの分野で成功してしまい、非常に裕福な生活を送っているものだ。それは外国に移住してもユダヤ教を維持したからなのである。ユダヤの子として生まれたのなら、どの国に住んでいようとヘブライ語を学ばせたからこそ、民族的自己同一性を失うことがなかったのだ。

 日本人も外国に移住したのなら、その国の人々と同化してしまうのではなく、神道を維持して同化を拒否すべきなのである。そうすれば常に異質な存在であり続けるので、どの職業を行っても成功する確率が非常に高くなるのだ。絶対にやってはならないのは、その国の宗教に改宗してしまうことで、そうなれば自分たちの子孫はその国の最も下の階級かrスタートしなければならず、しかも競争が激しいために成功する確率が非常に低くなってしまうのである。

●外国語の習得は3ヵ月間外国語漬けにするのが一番早い

 日本国内に住んでいる日本人が外国語を得意としないのは、日本が植民地になったことがないからなのである。歴史の中で植民地になってしまった民族というのは、どの民族も外国語を習得するのが巧くなるものだ。植民地に転落したことで外国語を使わなければならない状況に置かれたので、その影響が現代にまで及んでいるのだ。

 外国語に劣等感を持つな。母国語に誇りを持て。我が子にはまずは母国語をしっかりと教えるべきなのである。日本人が外国語を学んで、その言語を母国語とする外国人よりも巧く話せることはないのだ。しかし日本語であるなら如何なる外国人よりも巧く話せるようになることはできるようになるものなのである。

 外国語の学習など大人になってからでも充分に真に会うのだ。母国語がしっかりとできる人ほど、外国語への理解度も深くなるものなのである。その際、「会話重視」で学んでいくことだ。その外国語が下手でもいいから会話することができてしまえば、その会話ができたことで一気に上達してくるものなのである。

 次に文法をしっかりと学ぶことだ。文法が解ってしまうと、外国語の文章がすらすらと読めるようになってしまうので、外国語の読解力が非常に上達するのである。文法というのはその外国語を使う外国人には当たり前すぎることだから、どうしても学習に身が入らないので、外国人にとっては余所者である自分たちの方が文法を理解し易いのだ。

 そして外国に3ヵ月間に行って、外国語漬けにしてしまうことだ。外国語の習得は3ヵ月間、外国語漬けにするのが一番早いのだ。大抵、どの人たちも外国に3ヵ月間いると、その外国語がきちんと聞きとれるようになったと言い出すものなのである。もしも我が子に外国語を学ばせたいのなら、大人になってから3ヵ月間外国に行かせればいいのである。そうすれば外国語をきちんと話せるようになることであろう。

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家業の手伝いは6歳までに始める

●家業は相続してなんぼのもの

 芸事は3歳から始めるべきであるが、家業は6歳から始めるべきである。家業は芸事ほど特殊な能力を使う訳ではないので、脳の臨界期に家業を学ばせればそれで十分なのだ。家業を教えるのは基本的に父親なので、父親は仕事ばかりしていないので、子供たちに教育する時間を割くというのは非常に大事なことなのだ。

 そもそも家業というのは個人のものではない。家業は先祖代々受け継いで来たものであり、自分は親から相続したものであって、それを子々孫々受け継いでいかなければならないものなのだ。「職業選択の自由」がある職業など、所詮はレベルの低い職業なのであって、高級な仕事ほど世襲が行われているものなのだ。

 子供にとっても職業選択が1つに限定されているからこそ、寄り道をしなくて済むようになるのだ。子供の頃から「この職業に就け!」と教え込まれているのなら、青春時代特有の「若者の苦悩」を避けることができ、青春時代のエネルギーを浪費することなく、自分の将来の仕事のために集中することができるのである。

 農業や漁業や酪農や林業といった第一次産業を自分たち夫婦がやっているのなら、子供が6歳になったら仕事を手伝わして、子供に1つずつ教えて行くことだ。第一次産業はやるべきことが多々あり、しかもそれが1年間を通じて様々なことをしなければならないので、根気強く教えていかなければならないのだ。 

 職人や商人でも「3代かかって家業になる」と言われるくらいだから、ともかく子供が6歳になったら、できることから教え込んでいくことだ。商品を作り上げる精密度など子供の頃から見ていればなんともないものであるが、余所から入って来た人では気付けないものなのである。子供だからといって子供扱いをするのではなく、子供の頃から本物を見させて、見る目を養っておくことだ。

●6歳までに家業を手伝わせる

 家業は6歳から学ばせるのは、それが丁度、脳の臨界期に当たっているからである。この時期より遅れてしまっては、家業に対する脳のシナプスが形成されないので、当然に最早手遅れになってしまうのだ。家業に対する脳のシナプスが形成されていれば、大人になっても家業に対応できるようになるのだ。

 家業が存在する職業は、どれも重労働と言えば重労働である。しかし脳のシナプスがきちんと形成されていれば、その重労働を重労働とは思わず、きちんと対応できるようになるのである。我が子が6歳の時に家業を教え込まないと、我が子といえども家業に耐えうるだけの脳や体がなくなってしまい、我が子は家業を継承しなくなるのだ。

 家業のある家というのは、大抵が「家訓」を持っている。家訓というのは家家ごとに違うが、家訓に共通していることは「勤勉勤労」「貯蓄」「投資」「正直」「清潔」「報恩感謝」「修身斉家」といった非常に道徳的なものばかりだ。逆にいえば、道徳的なことができなかった人々は必ず滅ぶということを言っているのだ。だから家業を教え込む過程に於いて、家訓を教え込み、道徳性の高い仕事の仕方を身に着けさせることがひつようなのである。

 家業のある職業はどうしても政治に手を出さざるを得なくなるものだ。例えば農業などは、平安時代には土地所有権を公的に認めてほしいから武士になる者たちが続出し、遂には鎌倉幕府を作ったわけであるし、日本が大東亜戦争で負けてしまうと、アメリカ合衆国は農地改革を行い、日本の農業を弱体化させ、アメリカ産の食料を輸出するように仕向けたのである。それゆえ自分たちの家業を守るために政治に手を出すが、政治に手を出し過ぎないことを教えなければならない。政治に手を出し過ぎれば、いずれ政治が変動した際に、自分たちの家業が消滅してしまうものなのである。

 家業というのは長らく続いてきた職業であるために、自分たちの家業の繁栄が永遠に続いて欲しいと願う余りに、宗教に深く関与してしまう危険性があるのだ。宗教は必要であっても、それは宗教を通じて自分を鍛えるものであって、信仰にのめり込んではならないのだ。そのためにも宗教をしっかりと持っておくべきであって、我が子が他の宗教に走らないようにしておくことが必要なのである。

●子供を多く産む

 幾ら子供の頃から我が子に家業を教え込んだとはいえ、我が子がその家業を拒否してしまっては、その家業は潰れてしまうようになってしまう。そこで子供を多く産んでおくことだ。特に男の子を多く産み、幾らでもスペアを確保するようにしておくことだ。息子が多ければ、父親は1人の息子だけに期待しなくて済むので、息子にとっても気軽でいられるのだ。

 兄弟が多くなれば、当然に子供たちは兄弟喧嘩をしまくるものだ。そうやって兄弟喧嘩をすることで切磋琢磨しあい、猛スピードで能力を高めて行くことができるのである。兄弟だからこそ競争させることが大切なのである。競争しなければ能力など高まることなどないのである。

 相続は絶対に長子相続に拘るべきではない。息子たちの中で最も家業に適した者を後継者に選べばいいのである。家業を継承しない者たちは、必ず分家させて、本家の相続に関与させないことだ。例えば農業などは相続によって農地を分割してしまえば、農業そのものが成り立たなくなってしまうので、結婚と同時に多少の財産を与えると同時に、相続を放棄させてしまうことだ。

 娘たちに関しても、結婚をさせることで追い出してしまうことだ。娘が結婚する時は結婚持参金を持たして、相続を放棄させてしまうことだ。結婚持参金を与えている以上、離婚など認めるべきではないのであって、婿がどのような者がをしっかりと確かめておくことだ。婿に問題があるなら、絶対に結婚を認めないことだ。

 家業を継承する者に関しては、その嫁はできる限り同業者の娘である方がいいのだ。サラリーマンの娘などは子供の頃から家業を手伝って来なかったために、家業に従事することに耐えられなくなってしまうのだ。同業者の娘であるなら、子供の頃から家業の手伝いをしているために、家業に耐えられるようになるものなのである。

●大学は限られた学部にしか通わせるな

 家業を継承するなら、大学進学は非常に限定されたものになる。例えば農業なら農学部だし、商業なら商学部だ。間違っても関係のない学部には通わせてはならない。関係のに学部に進学してしまえば、その大学の4年間は無駄になってしまい、下手をすると家業の継承を放棄してしまう危険性も出て来るのだ。

 我が子の大学進学先が決まっているのなら、受験戦争が消滅するのである。自分が行くべき学部が解っているのなら、その学部に行けるだけの最低限の点数を取れば自動的に進学できるようになるのである。しかも我が子は大学に受かって当然と思うようになるからだ。

 昔なら家業を継承するのに大学に進学することなど必要なかったが、近代国家の中で生きる者たちにとっては、大学で学ばざるを得なければ、その家業を維持して行くことはできないのである。逆にいえば、家業という伝統的な職業であっても、高度な知識を必要としているのである。

 家業を子供の頃から教え込まれた最大の利点は、景気がどのようになっても、その家業をやっているのなら、地道に利益を上げて行くことができるということなのである。家業のない人たちは自分の仕事だけに精進することがないために、「景気が悪い!」とか、「政治が悪い!」とか言い出し、真面目に仕事に取り組むことをしないのである。家業を持っていれば、景気がどう変動しようとも、政治がどう変動しようとも、真面目に働き続けるしかないのである。

 家業それ自体は物理的な遺産であるが、家業が持っている高度な職業倫理こそ子々孫々に伝えていくべき、貴重な精神的な遺産であるのだ。我が子に家業を教え込みながら、我が子が高度な職業倫理を身につけたのなら、一人前と看做して、我が子に家業を譲るべきなのである。

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芸事は3歳から

●なぜ芸事は3歳なのか?

 昔から「芸事は3歳から」と言われている。能にしても、歌舞伎にしても、ピアノにしても、ヴァイオリンにしても、芸事は全て3歳からやらしているものだ。これは今まで人々が様々な教え方をして、経験則上辿りついた結論なのであって、我が子に芸事を学ばせたいのなら、絶対に従った方がいいのだ。

 脳科学的に言うと、「芸事は3歳から」というのは、脳の成長に最も適した教育の仕方なのだ。子供は4歳児の時に記憶の消去が起こるのだが、芸事を3歳からやっていると、記憶の消去が起こっても体が覚えているので、脳に於いて芸事に関するシナプスを温存することができるようになるのだ。

 しかも脳の臨界期は5歳から6歳なので、3歳の内から始めておき、4歳の段階で或る程度の技術に達してしまえば、脳の臨界期に於いて芸事に関する脳のシナプスを大いに増やすことができるようになるのだ。脳の臨界期に於いてどれだけ脳のシナプスを増やせるかで、その人の芸術レベルはほぼ決まってしまうのだ。

 脳のシナプスは脳の臨界期以降、15歳jから16歳まで減少していくことになるので、この間、芸事をしっかりと教え続けると脳のシナプスの減少を最小限に食い止めることができ、大人になってから大いにその芸術の才能を発揮できるようになるのだ。芸術家には頭のいい人たちが非常に多いのだが、これは子供の頃から芸事をやってきたために、脳のシナプスの減少が少なかったからなのである。

 我が子に芸事を教えるとなると、母親と子供の間では芸事に関する話題が常に存在するので、親子の会話が途切れるということがなくなるのだ。しかも会話がどうでもいい内容の話ではなく、常に目的のある内容の会話になるので、子供の脳を大いに刺激することになるのだ。このため芸術家の話を聞くと、芸術自体が感性の産物なのに、話自体は非常に理性的な話をしてくるのだ。これは子供の頃から母親との会話が他の家族とは違っていたからであろう。芸術家には奇人変人が多いものだが、一流の芸術家とそうでない芸術家を分ける簡単な目安は、理性的な会話ができるか否かにあると思う。

●最終期限は6歳まで

 時たま「私は芸事を学び始めたのが遅くて」と言い出して来る芸術家がいるものだが、そういう人に「では一体いつから芸事を学び始めたのですか?」と訊くと、「6歳からです」とずっこけるような回答をされることがある。他の芸術家たちは殆ど3歳からなので、本人は6歳から始めたということを相当遅いように思っているのだ。

 脳科学的に言って、6歳こそが芸事を始める最後の時期なのだ。6歳までにやらないと脳のシナプスが形成されないから、6歳から芸事を始めればなんとか脳の臨界期に間に合うのだ。事実、6歳から始めても、芸事の精進についていける筈だ。逆に自分が3年間ほど出遅れたというコンプレックスが終生付き纏うために、芸事の精進に手抜きをしなくなるというものなのだ。

 生まれてから芸事を習ったことがないのに、高校生の時に音楽に目覚めて音楽を遣り出す高校生たちがいるものだが、高校生では遅すぎるのだ。ロックバンドはこの手の人々が多いのだが、ロックバンドが作る曲を聞いていると、どうしても浅いと思ってしまうのは、ロックを作っている人々に芸事に関しての脳のシナプスが少ないからなのだ。ロックバンドの中でも名曲を作るような人々は、子供の頃からピアノをやっていたとかいう人々が圧倒的に多い。昔はクラッシクをやっていたのだが、高校生になったらロックに転じただけで、音楽に関する脳のシナプスをきちんと持っているから応用が効くのである。

 自分が成人して社会人になったら、それから音楽に目覚めても、もう遅いのだ。そういう人々が楽器を習っても、それほど上達することはないのだ。それよりも鑑賞に回った方がいいのであって、自分で作曲したりすべきではないのだ。自分がどんなに努力しても、子供の頃から芸術に精進してきた人々には適わないのだ。

 国家レベルで芸術を豊かにさせるためには、政府が芸術大学を作ったり、コンサートホールを作ったり、美術館を作ったりするのではなく、税金を安くして、国民を豊かにしておかなければならない。相続税を廃止し、所得税を10%に抑えるなら、新婚の夫婦といえども大金を持てることになるので、我が子に対して芸事を習わせるだけの経済力を持てるということになるのだ。重税を施して芸術が栄えるということは絶対にないのである。税金が安いからこそ芸術が栄えて来るようになるのだ。

●芸事をするなら長い視野を持て

 我が子に芸事を習わす時、両親が長い視野を持たねばならない。3歳で芸事を始めても、それ以降、我が子が大人になるまで延々と月謝を払い続けなければならなくなるので、家計に於いては相当な負担になるのだ。その芸事に投資した金額は合計すると、とんでもない金額になってしまうので、その投資額の元を取ることは勿論のこと、しっかりと利益を得るように仕向けなければならないのだ。

 まず芸事で圧倒的な人気を誇るのはピアノであろう。ピアノは巧く行けばピアニストとしても食っていけるし、ピアノを習うことで簡単に曲を披露することができるようになるので、人生が非常に豊かになるのだ。しかもピアノを習ったことで音楽に関する能力をつけることができるので、他の楽器をやっても応用が効くようになるのだ。

 逆に母親が非常に熱心なのに利益が限定されているのが「バレエ」である。まずバレリーナ自体が少ないし、今後も増えて行く可能性はないものだ。しかもバレエの動きが特殊な動きをするために、応用が効かないのだ。ただ子供にバレエを習わせると、非常に姿勢がよくなり、礼儀正しくなるのだ。

 子供に芸事を習わせる時は余りにも多くの芸事を習わせるべきではないのだ。脳の成長に悪影響を与えることになってしまうのだ。せいぜい2つで充分であって、3つが限度であると思っておいた方がいい。芸事を幾つか習わしておいて、その内、我が子が気にいった芸事があるなら、1つに絞ればいいのだ。

 芸事を習わしたのなら、自然と脱落者が出て来ることを知っておこう。子供が興味を失ってしまったりとか、親の経済的理由で辞めてしまったとか、様々な理由で脱落していくことになるのだ。そのためしぶとく続けて行くと、競争相手が殆どいなくなり、トップに立ち易くなるし、トップに立てなくても、トップクラスに居続けることは可能になるのだ。芸事を長らく習わして我が子に芸術の才能がないと解れば別であるが、多少の才能があるなら忍耐力を以て育てて行くということができれば、その苦労は必ず報われるものなのである。

●早い段階で基本をしっかりと教えろ

 如何なる芸事でも基本は3年以内に出来上がるものだ。音楽ならコードを延々と習わされるものだ。コードの勉強など陳腐なものなので、面白いわけがないのだ。しかしこの基本をしっかりと学んでおかないと、他の曲を演奏できなくなるし、いざ作曲しようとしても作曲ができなくなってしまうのだ。

 基本を教えるということは、子供を型に嵌め込むものであって、この時に子供の個性などなんの役にも立たないのだ。それなのに子供の個性を尊重してしまうと、基本を習うことを拒否したことになるのだ。個性を尊重する母親に限って、幾ら学ばしても子供が基本を身に着けなくなってしまい、その内、芸事を習うことをやめてしまようになるのだ。

 母親が気をつけるべきは、脳の臨界期までに基本をしっかりと教え込まなければならないということである。例えば体操などで6歳以下の子供に基本を教えるとなると、子供は大泣きしながらみっちりと基本を教えられるものなのだ。しかしそうやって泣きながらも基本を教えてくれたお蔭で、その後、体操が上達していき、国際舞台でも活躍できるようになるのだ。

 我が子が基本を習っている時は、帰宅後に我が子から今日何を習ったかを報告させ、その復習をきちんとしておくべきなのである。どうせ出来ないのだから、それが出来るまで何度も繰り返させることだ。但し子供は集中力が切れるのも早いので、集中力をなくしたら、翌日、再び復習をさせればいいのだ。

 芸事は決して先生に任しておけばいいというのではないのだ。母親の役割こそ大事なのである。大体、芸事の先生を選ぶのは子供ではなく、母親の方だ。しかも芸事を習えばその復習に付き合うのも母親なのだ。母親がしっかりとした目標を持ち、しぶとく教えて行くからこそ、子供の能力が高まって行くものなのである。

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ウィークエンドエッセイ『多産だからこそ優秀な子供が生まれて来る』

●国家の発展と人口増加

 現在、日本は少子化で苦しんでいるのだが、少子化という言葉自体、その問題の本質から外れている言葉なのである。少子化というと、その国の人口形態の中で子供の比率が少なくなっているこを示すものであって、子供の数が少ないということは、当然に人口が減少することになりうるということなのである。問題の本質は人口減少なのである。

 事実、少子化が使われ出した時は、まだまだ日本は人口が増加していたのだが、それが人口の増加率が止まり、遂には人口が減少してしまったのだ。明治維新以来、日本は人口増加を繰り返して来たために国家を発展させ、国民を豊かにすることができたのだが、それが出来なくなるという深刻な事態を迎えつつあるのである。

 人間といえども動物だから、食料の増産があれば人口を増やして行くことができるようになるのだ。しかし人間は結婚という形態を取ることで家族を形成するので、結婚率が上昇しないと子供を多く作っていかないのだ。国内に食料がきちんと供給され、結婚率が高ければ、どの国民も子供を多く産み始め、人口を増大して行くことができるようになるのである。

 日本の食料自給率は30%台と非常に低いものなのだが、それでも外国から食料を輸入できているので、食料の供給には問題がない。しかし結婚率は低くなっており、しかも結婚しても子供を産まない夫婦が続出しているのだ。これはフェミニズムの影響が直撃した結果であり、フェミニズトたちが散々結婚を罵倒する発言を繰り返してきたために、結婚に喜びを見出すことができない女性たちが続出して来てしまったのだ。今回の日本の人口減少というものはフェミニズトたちが引き起こしたものなのである。

 人口が減少してしまえば、当然に経済が縮小する。経済が縮小すれば景気が悪化するから、国民は貧乏になる。だから選挙の度に景気をどうにかしてくれと政治家に頼むことになるのだが、人口が減少している経済では政府は如何なる景気刺激策をも持つことはできないのだ。景気どころか国家財政まで破綻してしまうのである。

●江戸時代の発展と停滞

 人口は食料生産量以上増やすことができないというのは、人間の生存を物理的に精訳する恐ろしい法則なのである。実は江戸時代に於いて人口の増加が停止すればどうなるかというのが、国家規模で示されたのである。江戸時代というのは前期と後期でその取った政策が基本的に異なる。

 江戸幕府は関が原の戦いに勝利した徳川家康が開いたもので、一気に平和になったのではなく、戦国時代を凍結するような形で平和をもたらしたのである。そのため幕府も藩も臨戦態勢を維持したまま平和を享受することになり、幕府も藩もその膨大な軍事費に悩まされることになったのだ。

 江戸時代に本格的な平和が訪れるようになるのは5代将軍「徳川家綱」の政権の時で、武断政治を文治政治に転換したのである。これによって元禄バブルが起き、人々は非常に豊かになったのである。江戸時代の庶民たちは世界でも最高の豊かさを実現できたのであって、江戸時代の豊かさはこの時期に築き上げられたものなのである。

 しかし8代将軍「徳川吉宗」の政権になると、江戸時代の停滞が明確になって来る。当時の農業技術では開墾が限界に達しており、食料の生産量が増加しなくなってしまったからだ。江戸時代後期は、それぞれの政権が度々開墾を行うのだが、総石高3千万石、人工3千万人でほぼ停止することになる。

 しかも江戸時代の後期は小氷河期と言われるくらいに気温が低下した時代なので、定期的に飢饉に見舞われ、それが百姓一揆の原因となったのである。人口増加が停止した状態で、食料生産が減少してしまえば、途端に飢饉が起き、従順な人々でも暴動を起こさなければならなくなるのである。

●多産だから子供たちは切磋琢磨する

 ドイツはイタリアやフランスに比べると寒い地域なので、食料生産量が上がらず、定期的に飢饉が発生した。ドイツ人が日本人と違うのは、食料が乏しくなると、平気で子供を捨ててしまうのである。グリム童話に出て来る『ヘンゼルとグレーテル』の話は、両親が食料不足ために子供たちを森に捨ててしまったのである。ヘンゼルとグレーテルが森の中でお菓子でできた家を見たというのは、空腹の余りに幻覚を見たにすぎないのだ。それを日本ではヘンゼルとグレーテルが森で迷子になったと記述しているのだが、それではこの童話の本当の意味が理解できないのだ。ドイツ人たちがこの童話を伝えて来たというのは、食料不足になれば我が子といえども捨てられてしまうのだから、早く自立しなさいということなのである。

 ところがドイツも宗教戦争が終結し、徐々に工業が発達し始めると、その工業製品を引き換えに、外国から食料を輸入することができるようになった。そのために飢饉が起こらなくなり始め、ドイツは発展に次ぐ発展を重ね、遂にはプロシャ王国によってドイツ帝国が築き上げられ、なんと普仏戦争に於いてフランスに勝利してしまうという偉業を成し遂げることができたのである。

 この時期のドイツ人というのは凄まじいまでに多産なのである。ベートベーンやビスマルクはなんと6人兄弟の中で育ったのだ。モーツアルトは7人目の子供で、ワーグナーは9人目の子供で、シューベルトは10人目の子供だ。我々は音楽家というと、一人っ子で、両親が大切に育て、子供の頃からピアノの練習をされてきたと思ってしまいがちだ。しかし偉大なる音楽家というのは、多くの兄弟姉妹の中で切磋琢磨しながら育ち、伸し上がって来たのである。

 ベートーベンやワーグナーは力強い音楽を作っているので、兄弟姉妹が多い中で育って来たのだなというのは解るのだが、モーツアルトやシューベルトのように繊細な曲を作った音楽家たちも兄弟姉妹が多い中で育って来たのである。ビスマルクは6人兄弟の中で育って来たのだから、当然に子供の頃は喧嘩をしまくった筈であり、それが外国と戦争する際に多いに役立ち、ドイツ帝国を作り上げることに大いに貢献したのである。

 このドイツも社会主義が強まって来ると、途端に少子化に突入してしまう。現在のドイツ人は結婚をしなくなったし、結婚しても子供が1人か2人しか生まない。そのために嘗ては偉大な音楽家たちを大量に産んだ筈なのに、今では一人も優れた音楽家を産むことはなくなってしまったのだ。

●多産は聖なる義務

 国家というのは人口が増大して行けば、その増えた人口の分だけ様々な産業を創造することができるようになるから、経済力は増大し、国民は豊かになっていくものなのである。それに対して人口増加が停止したり、人口が減少してしまえば、新しい産業が起こって来ないから、経済力は減少して、国民は貧しくなって行くものなのである。いつの世も「愚かなる少子化」なのである。

 子供たちにしても、兄弟姉妹が多い中で育てば、それだけ兄弟姉妹で切磋琢磨しなければならないから、当然に出来のいい子供たちが続出することになるのである。それは立身出世を非常に容易くさせることになるのだ。子供が少ないと兄弟喧嘩なんてできないのだから、大人になった時に実力がつかず、当然に勝率が悪くなるのである。

 母親にしても多産だからこそ育児が巧くなるのである。育児というのは子供が1人や2人の時が大変なのであって、3人目になってやっと育児のなんたるかが解るようになるものなのである。当然、子沢山の母親は育児が巧いので、その母親が産んだ子供たちは優秀な人間に成り易いのである。

 経済的に貧しいのなら子供を多く産む必要性はないが、裕福な夫婦であるなら多産に徹すべきなのである。子供を多く産めば産むほど、母親は育児が巧くなるし、しかも少子化の世の中では競争相手が非常に少ないので、立身出世が遣り易い状況下にあるのだ。兄弟喧嘩をしたことのない1人っ子と、兄弟喧嘩をしまくった子供が戦えば、兄弟喧嘩をしまくった子供の方が勝つのは当たり前のことなのだ。

 日本の知識人たちの中には少子化になれば日本人は豊かになれるという妄説を唱えている人たちもいるが、絶対にそのような意見に惑わされてはならない。江戸時代の後期はまさに人口増加が停止した時代であって、どの政権が如何なる政策を実施しても、どうにもならなかったのである。そして国力を着実に落として行き、気付いた時には植民地に転落する寸前であったのである。

 だからこそ薩摩藩や長州藩は討幕を行い、明治維新を招来させることで、人口を増大させ、国力を充実させていったのである。日本が発展しまくった頃、日本の夫婦は結婚すると平均して5人の子供を産んだものなのである。それゆえに人口が増大して行き、国民は豊かになっていったのである。日本国民が豊かになりたければ、どんどん赤ちゃんを産んでいくべきなのである。

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親馬鹿こそ子供の脳の限界を突破させる

●育児をすれば親馬鹿になるもの

 人は赤ちゃんを産むと親馬鹿になるものだ。親馬鹿は親としての正常な反応なのである。例えば赤ちゃんは長らく羊水に浸かっていたために半漁人状態で産まれて来る。それなのに全ての母親たちは赤ちゃんを見て「可愛い!」と思ってしまうのだ。嘗て身体障害者の人が、自分が身体障害で産まれて来た時に、母親が「可愛い!」と言ってくれたことが嬉しかったようなことを言っていたが、母親であるなら我が子がどんな体で産まれてこようとも、可愛いと思ってしまうのだ。それは母親として当たり前の反応なのである。

 これが夫になると親馬鹿に余計に拍車がかかるのだ。娘が歌を歌っただけで「この子は将来、歌手になるのではないか?」とか、息子がボールを蹴ったくらいで「この子はサッカーの素質がある」と言ったりするのだ。夫は自分で妊娠や出産をしていないために、妻が思っている以上に親馬鹿な態度を取って来るのだ。

 育児をすれば妻も夫も親馬鹿になるものだ。それでいいのである。子供にとって両親が親馬鹿になってくれるからこそ、子供は脳の限界を取り払い、脳のシナプスを増やしていけるのだ。例えば子供は一人立ちしたら夫婦揃って大喜びをするものだ。だから子供は脳のシナプスを増やして行くことができるのだ。もしも夫婦が「子供が一人立ちするのは当たり前じゃん」と白けていたら、子供は脳のシナプスを増やして行くことはできなくなるのだ。

 親が親馬鹿になってしまうのは、子供が非常に可愛い顔をしているからだ。実は子供が非常に可愛い時期と。親が親馬鹿になっている時期は、脳のシナプスが増えて行く時期とピタリと一致しているのだ。子供が非常に可愛いからこそ親の理性の箍が緩んでしまい、親は子供を可愛がってしまい、子供の脳のシナプスを増やして行くことができるのだ。

 特に男の子は3歳になると、有り得ないほどに可愛くなるものだが、この可愛らしさを見せつけられると母親はメロメロになってしまうものだ。母親が息子に対して非常に甘くなるからこそ、息子は脳のシナプスを大量に増やすことができ、脳の臨界期が終わるまでに脳のシナプスを最大量にすることができるようになるのだ。

●親馬鹿になると子供の脳に変化が起こる

 育児をしている時は、子供が何かしてきたのなら、大袈裟に褒めるということは非常に大事なことなのだ。通常の褒め方では駄目なのである。子供は自分の両親が大喜びしているのが解ると、脳の限界を取り払ってしまい、脳のシナプスを一気に増やして行くことができるのである。

 気をつけるべきは、夫婦のどちらかが親馬鹿になってしまい、夫婦の一方が白けてしまいチャチを入れて来るということなのである。これは夫婦としては正常の反応であっても、育児に於いては非常に有害なのだ。夫婦のどちらかが親馬鹿になっているのなら、自分も一緒になって親馬鹿になってしまうくらいの心意気が必要なのである。

 都市部で暮らしていると、都会の刺激が強いために、どうしても白けて来る人々が大量に出て来てしまうのだ。そのため東京だとか名古屋だとか大阪のような地域では、妻が親馬鹿になっても、夫がツッコミを入れて来るし、夫が親馬鹿になると、妻がツッコミを入れて来て、親馬鹿になる機会を失ってしまうのだ。そのために子供は脳のシナプスを増やすことができず、頭が悪くなってしまうのだ。

 子供は誕生から6歳までの間、毎日、必ず何かを仕出かして来るのだから、夫婦が交互に何かを見つけて大袈裟に褒めてしまえばいいのだ。大袈裟に褒めれば褒めるほど子供の脳のシナプスは増えて行くのだから、非常に頭の良い子に育ち、その後の子育てが非常に楽になるものなのである。

 夫婦はいつも元気一杯でいられるわけがないのだ。妻は育児疲労で疲れ切ってしまうこともあるし、夫は勤続疲労で疲れ切ってしまう時もあるのだ。そのため妻が疲れていたら、妻を休ませて、その間、夫が子供に対して親馬鹿になっていればいいのだ。夫が疲れていたら、夫を休ませ、その間、妻が子供に対して親馬鹿になっていればいいのだ。

●困るのは馬鹿な親である

 問題なのは親馬鹿を通り越して、「馬鹿な親」になってしまうことである。例えば赤ちゃんが一人立ちした時に友達のみんなに報告して来るような場合だ。赤ちゃんだって順調に育てば一人立ちをするのは当たり前であって、自分たちは夫婦はそれを非常に喜ぶことができても、他の人たちもそうであるとは限らないのだ。

 特に気をつけるべきは、年賀状に子供たちの写真をデカデカと載せ、夫の仕事関連の人々に送りつけてしまうことである。妻に年賀状作りを任せてしまうと、これをやってくるので要注意なのだ。年賀状は去年一年間お世話になったお礼と、今年一年間宜しくお願い致しますという手紙なので、元日そうそう躓いていると、夫は碌な仕事ができなくなってしまうのだ。

 自分がどんなに親馬鹿になっても構わないが、我が子の成長を喜んでくれるのは、ごく限られて人々しかいないということを忘れてはならない。だから舅や姑と仲良くすることは大事だし、親戚づきあいも大事なのだ。嫁姑の戦いを繰り広げたり、親戚付き合いをしなければ、我が子の成長を喜んでくれる人々を確実に失ってしまうということなのである。

 ママ友が大事なのも、ただ単に育児の情報交換をするだけでなく、自分が親馬鹿になっても一緒に喜んでくれるからなのだ。ママ友といえども育児を通じて仲良くなっているだけなので、必要以上に相手に期待し過ぎてはならないのだ。独身時代の友人のようになんでも話せる友人なのではなく、ママ友には家族があり、育児を通じて仲良くなっているだけなのだ。ママ友だからこそ大人の付き合いができると同時に、独身時代のようなダラダラとした付き合いをしてはならないのだ。

 家族で外出した時に、外で余りにも親馬鹿を曝け出していたら、それはそれで顰蹙なものなのである。家の外に出れば、最低限の礼儀作法は守る必要性があるのだ。例えば子供と電車に乗った時、子供を椅子に坐らしても、すぐさまひっくり返って外の景色を見出すものだ。その時、子供と一緒になって景色を楽しむのではなく、子供の靴を脱がして、椅子が汚れないようにすべきなのである。親馬鹿になっても、親として礼儀作法はきちんと守っておくべきなのである。

●我が子を天才だと思うことは決して悪いことではない

 5歳から6歳という脳の臨界期に、我が子に対して「お前は天才である!」と言いきってしまうことだ。父親から「お前は天才である!」と言われると、子供は自分を天才と思うようになり、脳のシナプスを最大限増やして行くことが可能になるのだ。脳の臨界期は限られた期間しかないので、ここで言っておかないと脳のシナプスを最大限増やすことはできないのだ。

 そもそも天才は天与のものであって、父親が言った所で天才になるわけがないのだ。でも父親が我が子を天才だと思うことは決して悪いことではないのだ。父親が「お前は天才だ!」と言いきってしまうことは、子供の脳の成長には非常に有益なのである。脳のシナプスが通常では有り得ないほどまでに増加するようになるからだ。

 我が子を天才だと思うことこそ、究極の親馬鹿なのであって、ここに辿りつくからこそ、我が子を本当に天才にすることができるようになるのである。冷静に考えれば、我が子は天才であろう筈がないのだ。しかし子供が何かをいてきて、それに対して父親が大袈裟に褒めまくり、天才だと断言してしまえば、子供の脳に劇的な変化が起こり、我が子を天才と仕立て上げることが可能になってくるのだ。

 しかし大方の父親たちはそれをしないのだ。我が子の些細なミスを見つけ出し、それを叱りまくるということを仕出かしてしまうのだ。5歳や6歳だと子供は父親と会話がきちんと成立するようになってしまうので、子供を小さな大人と看做してしまい、それで子供の欠点を突きまくるようになってしまうのだ。

 父親が余り子供と接触し過ぎてしまうのが非常に危険なのは、父親が育児をし過ぎる余りに親馬鹿になってくれなくなってしまうからなのだ。父親は仕事をしまくり、僅かな時間だけ子供に接するからこそ、子供の成長が大きな変化に見えて、物の見事に親馬鹿になってくれるのである。だからこそ日々の育児は絶対に母親がすべきなのだ。

 脳の臨界期では脳のシナプスの増加が最大化するので、子供の脳にどのような変化が起こるか解らないのだ。ただはっきり言えることは、お馬鹿になってくれた親に於いてこそ、優秀な子供たちが育ってきているということである。親馬鹿であることを忘れ、育児が当たり前になってしまった親の下では子供は脳のシナプスを大量に増やすことはできないのだ。

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子供は笑うことで脳を発達させる

●子供は笑いまくるもの

 子供は出生から6歳までの間、どうやって脳のシナプスを増やして行くのかといえば、「運動」と「お喋り」と「睡眠」とによってである。子供はとにかく体を動かしまくるものだが、子供が体を動かせば動かすほど、脳のシナプスが増えて行くのだ。お喋りも子供の脳のシナプスを増やすことになるので、母親は子供から喋りかけられたらとにかく会話をすることだ。子供が日中活動しまくると、当然に熟睡をするものだ。子供は睡眠中に脳のシナプスを増やして行く作業を行うので、不眠症にかかる子供など1人もいないのだ。

 子供がこれら以外に脳のシナプスを増やすものがあるのだが、それはなんと「笑い」なのである。子供は笑うことで脳のシナプスを増やしているのだ。育児をしてみれば解ることだが、赤ちゃんは喋り出す前から笑うものだ。笑うから脳のシナプスを増やすことができ、言葉を話せることができるようになるのだ。

 実に子供は大人の30倍以上も笑っているのだ。それだけ大人が笑っていないとみるべきか、子供が笑い過ぎているのか、視点によって評価は異なるが、大人は脳のシナプスが減少していく存在であるのに対して、子供は笑えば脳のシナプスを増やしていける立場にあるので、どんどん笑ってしまった方がいいのだ。

 そもそも第一子は笑い易いようにできている。母親が必死になって育児をしているために、その姿が子供にとってはユーモラスに見えてしまうのだ。「育児が大変だ」といって、顔から笑いが消滅したような母親は、子供の脳の成長に大損害を与えているのであって、子供が笑ったのなら、自分も笑ってストレスを発散させておくことだ。

 子供の中には夜泣きをするのではなく、「夜笑い」をする子供もいるのだが、この手の子供は睡眠中にも脳のシナプスを大量に増やすことができるので、高い知能を持つことができるようになるのだ。「夜笑い」をさせる方法というものはないが、日中に子供を思いっきり笑わしておけば、夜笑いする確率は高まるものなのである。

●笑えば笑うほどシナプスが増える

 子供の脳は運動やお喋りや睡眠で脳のシナプスを増やして行くことができるが、それは常に或る一定の限界を伴いながらでしか脳のシナプスを増やせないのだ。例えば子供に早期教育を施した場合、確かに子供の知能を高くすることはできるけど、早期教育を受けた子供たちの中から天才など1人も出て来ていないのだ。理由は早すぎる教育は逆に子供の脳に負担をかけてしまうということも考えられるが、それと同時に早期教育では笑いを完全に無視しているからだ。子供を笑わせないからこそ、子供は脳の限界を突破できないのである。

 子供が笑うと脳が快になり、脳の限界が突破されるという作用が働くのだ。解り易い例が赤ちゃんは言葉をきちんと喋れる前に笑いだすものだし、笑う回数の多い赤ちゃんほど言葉をちゃんと喋れる日が早くなるのである。笑うことで脳の限界を突破しているので、笑えば笑うほど脳の限界が次次に突破されていって、お喋りと言う高い知能を要する行為ができるようになるのだ。

 育児をしているのなら、母親はとにかく子供を笑わした方がいいのだ。子供の笑いの壺はどこにあるか解らないので、とにかく子供と何度も会話して笑いの壺を探り当ててしまうことだ。子供の笑いは低レベルなものなので、その低レベルな笑いでどんどん笑わせていけばいいのだ。

 子供は「ウンコネタ」が大好きなので、この手のウンコネタを豊富に持っておくことだ。男の子の場合は、このお下劣な笑いを更にお下劣にしてくるので、「そんな下品なことを言わないの!」とかいって否定するのではなく、子供のお下劣な笑いに付き合って子供を笑わしてしまうことだ。

 育児をしている母親が気をつけるべきことは、自分の子供を笑わせるネタがあったとしても、そのネタを通常の大人たちに披露してしまうと顰蹙を買ってしまうということなのだ。そうならないように夫婦で冗談を言い合って、笑いのレベルを思いっきり上げておく努力が必要なのだ。夫婦で会話しているというのに、なんの笑いもないと、いざ他の大人たちと話した時に、遂々子供むけのお下劣な笑いが出て来てしまうのである。

●子供にとっては全てが未知なるもの

 人間の笑いには冗談を言ったりして笑わすのと、自分の好奇心を刺激した時に笑うのと2つあるのだ。冗談を言って笑わすだけが笑いではないのだ。もしも冗談を言って笑わすことだけが笑いなら、落語家やお笑い芸人はこの世ので最も高い知能を持っている筈だ。しかし現実はそうではなく、その笑いだけでは不十分なのだ。

 子供は自分にとって未知なる物に出合った時、顔から笑顔が出て来るものだ。母親にとっては当たり前の物でも、子供にとっては未知なるものだからこそ興味深々なのである。例えば、赤ちゃんの頃にありとあらゆる物を口に入れて来る時期があるものだ。こういうことをやっている赤ちゃんは全て笑顔になっているものだ。赤ちゃんは口に物を入れることでその物を確かめ、それが自分の好奇心を大いに刺激してくれるからこそ、笑顔になってしまうのである。

 子供が大きくなってくると、女の子ならお人形さんに興味深々となるし、男の子なら自動車や電車や飛行機に興味深々二となるものだ。自分の好奇心を刺激してくれるものがあると、全ての子供たちは笑顔になるものだ。だから母親は子供の好奇心を刺激して、子供により高度な笑いを提供してあげることが必要なのである。

 子供の時に、自宅と自宅近辺でしか行動しなかった子供と、自宅と自宅近辺だけでなく旅行をした子供とでは、後者の方が高い知能を持つことができる。旅行を多くしてくれたお蔭で、自分の好奇心を大いに刺激し、脳のシナプスを大幅に増やすことができたのである。子供が出来ると夫婦は子供を連れて旅行をしたくなるものであるが、これは子供の脳を成長させるために自然に取ってしまう行動なのであろう。

 脳のシナプスの増加は6歳がピークなので、「4歳」「5歳」「6歳」の時に、子供の好奇心への決定打を用意しておくことは非常に重要である。例えば科学に興味を持たせたいのなら、博物館に連れて行くとか、プラネタリウムに連れて行くとか、動物園や水族館に連れて行くとかしておくべきであろう。歴史に興味を持たせたいのなら、古墳や遺跡、神社仏閣やお城などに連れて行って見さしておくべきだろう。脳の臨界時には何が子供の脳に激変をもたらすか解らないので、様々なことをしておいた方がいいのだ。

●子供が笑うとどう変わるか?

 子供が冗談を言う笑いや好奇心を刺激する笑いによって日々笑っていると、子供の行動にどのような変化が起こるかといえば、まず「仕事の効率を高める」ことになるのだ。子供に何かを作業をやらせると、非常に非効率的なことをやってくる。しかし笑いを多く経験している子供だと、頭がいいために仕事の効率を高めることができ、他の子供たちよりも猛スピードで仕事を進めて行くことができるようになるのだ。

 次に笑いは子供の「創造性を高める」ことになるのだ。笑う回数の多い子供ほど、創造性が豊かなものなのである。絵を描かしても、文章を書かしても、笑う回数の多い子供は創造性豊かな物を作り上げて来るものである。母親は子供に接しているので、笑う回数も増えるものだが、父親が典型的な受験秀才で、仕事をしているのになんの創造性も発揮していない状態だと全く笑わなくなるので、父親の影響によって子供が笑わなくなる危険性があるので要注意だ。

 第三に子供は笑うことで「精神的に強くなる」ことができるのだ。如何に自分にストレスがかかっても、笑うことでそのストレスを吹き飛ばしてしまうので、逆境に挫けなくなるのだ。母親が子供の些細な行動に対していつも叱ってばかりいると、子供は委縮してしまい、いつもおどおどしてしまうのだ。それに対して母親が大らかな性格で、いつも笑っているようだと、子供もそれに釣られて笑ってしまうので、自然と精神的にタフな子供に育って来るのである。

 子供が笑うということは、これほどまに子供にとって有益なことばかりなので、母親は冗談を言って子供を笑わせるべきなのである。子供の好奇心を刺激してどんどん笑わすべきなのである。笑いによって子供の脳のシナプスが増えてしまえば、その後の子育てが非常に楽になるのだ。なぜなら脳のシナプスの増加は6歳がピークなので、その後、幾ら子育てや教育を施しても、脳のシナプス自体を増やすことはできないからだ。6歳までが脳に対して決定的になってしまうのだ。

 育児でトラブルを起こす母親たちに共通するのは笑顔がないということなのである。育児を真面目に取り組んでも、笑いがなければ子供の脳を大きく成長させることができないのだ。育児をしていれば楽しいことなんて幾らでもあるのだから、それらを見つけて楽しんでしまえばいいのだ。母親が育児で笑っていれば、子供も笑いだして来るものなのだ。それこそが子供の脳の成長にとって大いに役立つことになるのだ。

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脳のシナプスの形成

●脳の成長過程

 人間の脳は満遍なく成長して行くのではない。人間の脳はこの世での生存を確実にするために急激に成長して行くのだ。まず誕生から3歳まで急激に脳のシナプスを増やして行く。この時期までに言語を習得することになる。そして4歳になると一旦、誕生からの記憶を消去してしまい、新たな知識が入って来れるようにするのだ。そのために我々は3歳児の時は誕生から3歳までの記憶を持っているのに、4歳以降はその記憶を奇麗に忘れてsまうのだ。

 4歳で記憶の消去が起こると、脳は更にシナプスを増やして行くことになる。脳のシナプス自体は5歳から6歳がピークになり、それ以降はもう増えて行かないのだ。通常、我々が他人に対して「頭がいい」とか「頭が悪い」というのは、5歳から6歳の脳のシナプスの量で決まってしまうのである。

 脳のシナプスは7歳以降は減少して行き、15歳から16歳でひと段落つくことになる。それ以降は脳のシナプスを維持したまま生きていくことになるのだ。15歳から16歳が人間にとっては特別な時期であり、「第二の誕生」と言われるのはこのためだ。大体、10代後半で一体何をやっていたかで、その人のその後の人生はほぼ決まってしまうのだ。

 脳のシナプスは60歳以降で徐々に下降して行く。60歳をすぎると勤労意欲が衰えていくし、頑固になっていくものだ。脳のシナプスの減少は急激には起こらないが、自分の心身に明らかな変化が見えたのなら、「第三の誕生」として受け止めて、引退した方がいいのだ。脳のシナプスのことを考えると、70歳以上の人が政治家で居続けるべきではないのだ。長老というのは過去のことばかり振り返るようになってしまうので、未来を切り開いていくことができなくなってしまうのだ。

●親に従属することと自治領域の拡大

 育児をして行く上で、誕生から3歳までと、4歳から6歳までの間は、我が子の脳にとって非常に重要な時期であるのだ。脳のシナプスの量はこの時期にだけ増えて行くので、この時期に脳のシナプスを大量に増やしてしまえば、我が子は非常に高い知能を持つことができるのである。

 まさにこの時期は親に従属する時期であるので、如何に正しく従属させることが母親に求められているのである。誕生から3歳まではとにかく手間がかかる時期であるので、母親は育児を他人任せにしないで自分でやるようにすることだ。子供はこの時期に母親に甘えまくることで母性愛を蓄積して行くので、この時期に甘えまくることができなければ、得体の知れない反抗を繰り返してくることになるからだ。

 子供というのは母親に甘えることができると、自治領域を拡大して行くことになる。食事をするにしても最初は母親から食べさせて貰っていたのに、「自分でやる!」と言い出し、母親の干渉を拒絶するようになるのだ。我が子が「自分でやる!」と言い出したら、我が子がどんなにミスを犯しても、我が子にやらしてしまうことだ。自分でやればやるほど脳のシナプスを増やして行くことになるのだ。

 子供の自治領域を拡大させるためにも、オモチャは必要不可欠だ。オモチャは原始的な物の方がいいのだ。「積み木」のように遊び方次第では幾らでも遊べるようなオモチャは子供の脳を最大に刺激して行くことになるのだ。男の子ならミニカーだし、女の子ならお人形さんであろう。絶対に与えてはならないのはテレビゲームだ。テレビゲームは脳のシナプスを増やすことはないのだ。

 4歳以降の脳のシナプスの急激な増加と、幼稚園に行く時期はピタリと重なるのだが、幼稚園の良し悪しというのは子供の脳には非常に大きな影響を与えるのだ。幼稚園は飽くまでも遊びが主体で、遊びを通じて体を鍛えさせることをしなければならないのだ。幼稚園に幼稚園児たちが走り回って遊べる空間がないと、幼稚園に行かせる意味はないのだ。

 もう一つ制服というのも強烈なアイテムとなるのだ。どの家族もそれぞれ違うのだから、その違いを表に出されては、子供は仲良くすることができないのだ。同じ幼稚園児である以上、親の身分や財産は問わないということにするからこそ、子供は心おきなく仲良くすることができ、友達を作ることができるのだ。制服がない幼稚園は一見自由に見えて、実は非常に不自由なものなのである。

●テレビの視聴時間が長いと脳が委縮する

 脳のシナプスは5歳から6歳辺りでピークを迎えるのだから、子供には5歳から文字を教えた方がいいのだ。小学校に行ってから文字を習わしても遅すぎるのだ。脳のシナプスがピークになる前に文字を教えておけば、子供の脳に文字に対応するシナプスができるので、その後の人生で文字を自由自在に使いこなすことができるようになるのだ。

 実を言うと、イギリスの小学校は世界各国の小学校よりも1年早く入学させているのだ。この1年早い入学がイギリスを覇権国家にした原動力と看做しても構わないのだ。現在のイギリスは覇権国家から転落し、しかも小学校では労働組合の力が強くなってしまい、教育が腐敗してしまっているが、イギリスが覇権国家であり、労働組合が結成されていなかた時代には、この小学校で教育を受けたイギリスの子供たちは高い知能を持てるようになった筈だ。

 幼稚園では遊びが主体であるために、我が子には自宅で文字を覚えさせるべきなのである。母親が子供と遊びながら文字を教えて行くのだ。「あいうえお順」で覚えさせていけば子供は簡単に文字を覚えてしまうことだろう。大事なことは文字を教えるのは遊びながらするべきであって、如何にも教育を施すようにしてはならないのだ。

 6歳までは脳のシナプスを増やして行く以上、子供には余りテレビをみさせるべきではないのだ。テレビを見ることは、意外と脳をツ使っていないものなので、脳のシナプスを増やすことはできないのだ。それどころかテレビの視聴時間が長いと脳が委縮してしまい、日常会話すらきちんとできない子供になってしまうのである。

 自宅にはテレビを何台も置かないことだ。テレビなど1台で充分なのである。子供用のテレビなど買い与えてしまえば、子供はテレビに夢中になってしまうものなのだ。子供むけのテレビ番組があるなら見さしても構わないが、それ以外の番組は余り見させないことだ。それよりもテレビを消して、母親と会話する方が余程脳を刺激することになるのだ。

●好奇心こそ脳のシナプスを増やすことになる

 6歳までの子供を育てていく際は、ただ単に健康に育てればいいと考えるのではなく、脳のシナプスを効果的に増やす努力も必要なのだ。脳のシナプスを増やして行くためには、なんと言っても親に従属させてしまうことだ。子供は親から保護され、干渉を受けるからこそ、脳のシナプスを増やして行くことができるのだ。

 それと自治領域を徐々に拡大して行くことである。「自分でやる!」と言い出して来るものには自分でやらせればいいのだ。子供は当然に失敗をしでかす。だからといってネガティブに受け止めてしまうのではなく、子供に何度もチャレンジさせて、自分でできるようにしてあげればいいのだ。そうなれば母親は子供に干渉する機会が減少することになるのだ。

 そして「好奇心」があることをやらせることなのである。子供を育てていれば、子供は好奇心の塊だということが解るものだ。男の子なら自動車や電車や飛行機に興味を示したり、女の子ならお姫様ごっこに夢中になったりするものだ。その好奇心があるものに子供が取り組むと脳はフル稼働することになるのだ。

 好奇心は必ず集中力を生み、集中力を何度も使えば物事を達成させるから、その達成感によって脳内でドーパミンが大量放出され、新たなニューロンを形成する契機になり、脳のシナプスが増えて行くことになるのだ。それゆえ子供の好奇心が多ければ多いほど、脳はシナプスを増やして行くことができるようになるのだ。

 人間の頭の良し悪しを判定するのに、「好奇心」「集中力」「達成感」というのは重要な目安となるものだ。好奇心が旺盛で、集中力があり、達成感があることを何度もやってきた子供は大きくなっても好奇心や集中力や達成感があるものなのである。そのため脳のシナプスの減少を最低限に食い止めて、大量のシナプスを維持しつつ、脳のシナプスを巧く使いこなせるようになるのだ。

 大人たちの中には、好奇心などひと欠片もなく、なんでも「当たり前じゃん」と言ってきたり、集中力がなく何事もだらだらと行い、達成感がなくいつも不機嫌な顔でいる大人たちがいるものだ。こういう大人たちは頭が悪く、卑劣で、邪悪なことしか考えないものだ。この手の大人たちは6歳までの間にきちんとした育児を受けなかったからこそ、こういう捻くれ者になってしまったのである。

 育児書の中には「子供を自由に育てれば良い」と無責任なことを言って来る本があるものだ。子供に高い知能を持たすには、まず親にきちんと従属させることなのだ。その上で子供の自治領域を拡大させ。更に好奇心があることをやらせればいいのだ。子供は自由に生きているように見えても、決して自由に生きてはいないのだ。自由を否定するからこそ、子供は健全に成長することができ、大人になってからきちんと自由を使いこなせる人間になることができるようになるのである。

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「甘え」と「甘やかし」

●子供の成長に必要な「甘え」

 子供は従属時代に於いて親に従属するからこそ、母親からは母性愛を、父親からは父性愛と父性厳を貰うことができ、健全に成長して行くことができるのだ。子供は親に甘えることで、心の中に愛を蓄積して行くのである。子供の成長には甘えが必要であって、如何に巧く甘えさせるのかが親の腕の見せ所なのである。

 親は子供を従属させ、依存させることで、子供が甘えてくれば愛を与えればいいのであって、無闇に愛してはならないのだ。愛は子供を成長させるけど、愛の与え過ぎは子供を駄目にさせてしまうからだ。子供は愛を蓄積して行けば、少しずつ自治領域を拡大して行き、親に従属しながら、自分のことは自分でするようになるのだ。

 親は子供が自分でできるのなら、自治を認め、自分でやらせるようにすればいいのだ。子供ができることなのに親が過干渉してしまえば、子供は反抗してきて、親に逆らってくるのだ。気をつけるべきは、愛を与え過ぎてしまい、子供の方が一家の主と錯覚し、自分の思い通りに親が動いてくれないから反抗して来るということもあるので、そういう時はその錯覚を粉砕しなければならないのだ。

 親が子供を巧く甘えさせて、健全に育てているのが解るのが、オヤツに関してだ。きちんと子供を甘えさせている親は、オヤツをなかなか与えないものだし、オヤツで与えたとしても僅かなお菓子しか与えないのだ。育児の経験則上、オヤツを与え過ぎてしまうと、子供は正規の食事を食べなくなり、そこから得体の知れない反抗が始まるので、育児をちゃんと行っている親なら、そんなにオヤツを与えないものなのである。

 小学生のように子供が大きくなってくると、正しく甘えさせることができている親は、子供に必要以上のお小遣いを絶対に与えないものだ。子供は労働をしていない以上、大金を持つべきはないからだ。かといってお小遣いを与えないと子供も子供同士の付き合いができないので、子供なりに困ってしまうのだ。そこで必要最低限のお小遣いを与えて、それで済ましてしまうのだ。

●甘やかし

 ところが親の中にはきちんと甘えさせることができず、甘やかしをやってしまう親たちが出て来てしまう。これはその親自身が子供の頃にきちんと親に従属せず、反抗を繰り返してしまい、心の中に愛を蓄積できなかったから、いざ自分に子供が生まれてしまうと、子供をきちんと甘えさせることができず、子供を甘やかしてしまうという行動に出てしまうのだ。

 子供を甘やかす親は、きちんと子供を従属させていないものだ。親と子供は上下関係なので、育児に於いて子供を服従させない限り、子供は自分こそ一家の主と勘違いしてしまい、親と子供の立場が逆転してしまうのだ。子供に散々振り回されながら育児をしている場合、子供は親を言いなりに出来ると錯覚しているのである。

 子供を従属させることができていないのだから、子供は親に依存するのではなく、過剰依存してしまう。親として親らしくない母親に限って過保護と過干渉を繰り返し、子供に対していつまでも甘えて来るように仕向けるのだ。これが甘やかしなのである。子供が甘えて来るのではなく、甘えて来るように仕向けているだけなのである。

 母親が過保護と過干渉を繰り返してしまうと、子供の自治を認めないということになってしまい、子供は自分のことを自分ですることができなくなってしまう。そのためその子供は我儘に育って来るか、いつもおどおどした子供に育って来てしまうのだ。子供が異常に育ってきているのだから、母親の方はいつまでも子供に対して手を出していいのであって、そのために子供自体が精神的に何も成長していないことに成ってしまうのだ。

 子供を甘やかす母親は、子供に対して大量のオヤツを与えるものだ。栄養バランスなど全然考えることなく、炭水化物中心の食事を送り、しかも穀物は少なく、糖質が多い食事を取ってしまうのだ。子供に過剰なお小遣いを与えてしまうのも、子供を甘やかす母親の特徴である。子供に大量のお小遣いを与えておけば、子供を繋ぎとめておくからできるからだ。しかしこの母親は子供に大量のお金を与えても、決して愛を与えることはないのだ。

●子供は自立しないもの

 不思議なことに子供を甘やかす親に限って、子供に対して自立を強制するのである。子供がいつまでも親に対して過剰に甘えて来るから、鬱陶しくなるのだ。そのため子供は母親から拒絶されたと思い、更に親に対して過剰依存を繰り返し、明らかに異常な様相を呈し始めるのだ。

 人間の子供は従属時代には絶対に自立してこない。自立は中学生から始まるものであって、それまでは子供は親に従属することで、心の中に愛を蓄積して行くだけなのである。それなのに子供を無理矢理自立させてしまえば、子供の心が異常化して来るのは当然のことになってしまうのである。

 子供はただひたすら自治の領域を広げていくだけなのである。自治領域を広げることは自分でできることは自分でしているだけであって、決して自立ではないのだ。自立というのは親元から巣立って行くものであって、家族と一緒に暮らし、労働することすらしていない子供に自立するわけがないのだ。

 自分がきちんと精神的自立をし終えた母親なら、子供に無理矢理に自立させるということはしないものだ。子供に自立を強いるということは、その母親自体が自分の親から自立していないのだ。恐ろしいのは子供に自立を強いる育児書が存在しているので、その育児書を読んでその学説を鵜呑みにしてしまうと、子供に自立を強制する理論を得てしまったので、子供に対して更に自立を強制して来るのである。

 育児書を書いたからといって、その著者が自立しているとは限らないのだ。育児書を書くのは医者が多いために、裕福な家庭であるがゆえに親から甘やかされて育って来た人々が非常に多いものなのである。そのため自分が精神的に自立できないまま医者になってしまい、出鱈目な育児理論を書いている場合があるのだ。育児書を読む時は、子供が自立するとか、子供に自立を強制させるような記述があるなら、その著者こそが自立していないのであって、そういう育児書は絶対に読まないようにすることだ。その育児書を実践すれば、自分が家庭内が地獄の様相を呈するようになるのだ。

●きちんと親に甘えると、いずれは親から離れていく

 子供は親に甘えて来るが、いつまでも親に甘えて来るのではないのだ。親からきちんと甘えさせて貰った子供ほど、自治領域を拡大して来るから、自分一人で遊び、母親が過保護や過干渉をしなくても済むようになるのだ。その内、母親の家事を手伝い始め、母親の力に成ろうとし出すものなのである。

 子供が小学生に成り始めると、母親よりも友達を大事にするようになり、徐々にではあるが母親から離れていくものなのだ。母親からきちんと愛されたからこそ、友達ときちんと友情を育めるようになるのだ。女の子であるなら初潮を迎えれば母親から明らかに離れていくし、男の子であるなら中学生になれば母親から明らかに離れて行くのだ。その時期こそが自立の始まりなのである、

 子供が従属時代にきちんと親に甘えることができた場合、その子供が大人になって精神的自立をすることができると、親にお金を渡してくるものだ。自分が自立できたことは、自分が悪戦苦闘して自立できたわけであるが、自分を産み育ててくれた両親に対して、お金を渡すことでその感謝の意を示すものなのである。如何なる親といえども、自分の子供からお金を貰ってしまえば「親子関係の終焉」を迎えたことになるのだ。これができた子供はいずれ結婚して、自分の両親から独立して来るものなのである。

 一方、子供が従属時代にきちんと親に甘えることができなかった場合、その子供は大人になっても余程のことがない限り、精神的に自立できなくなる。自分が自立するために、心の中の愛の蓄積が決定的に不足しているからだ。子供を甘やかして育てた母親というのは、我が子が大人になっても甘やかしてくるので、我が子が結婚し所帯を持っても、お金を与えてしまうのだ。そのために、より一層自立することができなくなり、言っていることは支離滅裂で、遣っていることになんの合理性もない行動を取ってしまうようになるのだ。

 自分が親から独立していれば、親が寝たきりになった場合、親の介護は当たり前にできるものだ。なぜなら自分を産み育ててくれたのは自分の親だから、自然と親孝行ができるようになるのだ。ところが、自分が自立すらしていないと、親に対して孝行する気は更々ないので、親が寝たきりになっても介護をしようとしなくなるのである。

 親が子供をきちんと甘えさせたか、それとも甘やかしてしまったかは、その後、子供が大人になった時に、一方は独立することができ、もう一方は自立すらできないということで、はっきりと現れて来るのである。親自体が政府が出す子供手当に喜んでいるようであるなら、精神的な自立をし終えていないから、自分の子供を甘やかしてしまい、将来に於いて我が子の自立を不可能にさせてしまうのである。自分たち家族がどんなに貧しくても、政府からの子供手当を拒絶していれば、その姿を見た子供たちは親に感銘を受けて、その後、立派な人物として成長して来るようになるものなのである。

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親が親たりえる理由

●産みの親がそのまま育ての親に成れるわけではない

 夫婦というものは、赤ちゃんを産めば「親」になるものである。しかしそれは「産みの親」であって、赤ちゃんを育てなければ「育ての親」になることはできない。親としての役割を果たすからこそ育ての親でいられるのだ。ただ単に赤ちゃんが可愛いからということでは育ての親としては不十分すぎるのである。

 どの哺乳動物も親になれば親の役割を果たすものだ。だが人間は大きな脳を持ってしまったために、赤ちゃんを産んだのに親としての役割を果たさない人々がどうしても出て来てしまうのだ。自分が精神的に独立していなければ、赤ちゃんを産んでも育てようとしないことだろう。自分が独立しているからこそ、自分の両親に頼らず、自分たち夫婦で赤ちゃんを育てて行こうとするのだ。

 育児放棄してしまう愚かな母親たちに共通することは、自分勝手に自由に生きたいという欲望を最優先しているということだ。自由は大切なものであっても、無制限に自由に生きることは必ずしも素晴らしいことではないのである。自分勝手に生きた所で得られるものは非常に少ないし、価値あるものを作り出すことはできないのだ。

 育児をすれば、当然に自分の自由はかなり奪われてしまう。しかし育児は自分が自由に生きていては得られない価値あるものを多々生み出して行くことができるのである。人間は自分の何かを差し出さないと、次の精神ステージに入ることはできないのだ。独身時代の自由を失うからこそ、結婚時代の自由を得られるわけだし、夫婦二人の自由を失うからこそ、子供を育てていく自由を得ることができるのである。

 自由を享受するためには責任を果たさなければならない。責任が重たければ重たいほど自由は大きくなるものなのである。独身の時は確かに自由であっても、責任が殆どないから、冷静に考えればその自由は非常に小さなものだったのだ。結婚すれば責任が生じるし、育児をし出せばより大きな責任が生じて来るものだ。だから結婚に於ける自由は大きくなっていくものだし、育児で得られる自由も更に大きくなっていくのだ。

●母親が母親たりえる理由

 人間は食べ物を食べなければ死ぬ。生きるためには食べ物を食べ続けなければならない。それゆえ母親のやることで最大の責任は、子供に食事を与えることなのである。しかも単なる食事ではなく、栄養バランスの整った食事であり、愛情の籠った食事である。子供はその食事を食べるからこそ、健康に育って行くのだ。

 母親は我が子に毎日食事を作らねばならないし、食事を作ることに関しては年中無休だ。子供はお腹を空かせば、母親の食事をせっつくのだから、母親はその度に食事を作り、子供に食べさせなければならない。食事を与えることこそが母親としての最低限の義務なのであって、食事を作ることをしなくなれば、育ての親としては失格となるのだ。

 母親が我が子に対して食事を作るのを当たり前と思ってはならない。文明の中で豊かになっていくと、母親たちは我が子に対して食事を作ろうとしなくなるのだ。古代国家の中で最も裕福だったのは国王であったが、王妃は子供を産んでも、自分では育てなかった。乳母を雇って、その者に育てさせたのだ。貴族たちも裕福になってくると王家がやっていることを真似て、乳母を雇いだし、母親は育児をしなくなっていったのだ。

 近代国家でも庶民が裕福になってくると、ベビーシッターを雇ったりして、母親自らが育児をしなくなる現象が出て来るものなのである。繁栄することは確かに素晴らしいことなのだが、豊かさの中で人間らしさを失ってしまうと、途端に育児をしなくなるものなのである。そうやって育児放棄をしている母親に限って、「人権尊重」だとか「人間らしく生きる」とか「自然体で生きる」とか言い出して来るものなのである。自分が母親としての権利を放棄しているからこそ、人権を唱え、自分が人間らしく生きていないからこそ、人間らしく生きると唱え、自分が不自然の極みで生きているからこそ、自然体で生きると言い出して来るのだ。

 母親が貧困の中にいれば、自分の食事を減らしてでも、我が子に食べ物を優先させて来るものだ。しかし裕福になってしまうと、食事なんて当たり前だと思うようになってしまうので、自分が食事を作らなくても、我が子は勝手に食べて育つだろうと勘違いをしてくるのだ。だからこそ裕福な暮らしの中でも、神の下で謙虚になっていきるべきであり、そういう敬虔な宗教心によって自分の傲慢なる心を抑えるからこそ、産みの親であると同時に、育ての親で居続けることができるのである。

●父親が父親たりえる理由

 妻が育児をしている際は、妻は働けなくなるのだから、夫はその間、働いてお金を稼ぎ出し、妻子の生活費を賄わねばならない。夫が父親たりえるためには、働いてお金を稼いで来ることなのである。夫は育児を手伝って所で父親になれる訳ではないのだ。夫がお金を稼いで来なければ、一家は餓死してしまうものなのである。

 大抵、男性が結婚し、子供が出来る頃には、夫は仕事で忙しくなり始める時期と丁度ピタリと重なるものだ。どの会社でも就職してから3年間は雑用係ではあるが、その雑用係の3年間が過ぎると、徐々に重要な役職が与えられ、猛烈に働きだして来るものだ。そうやって働くことで、給料が徐々に上がって行くことになるのである。

 正常な精神を持っている男性なら、子供が生まれても妻に育児を任すものだ。妻に育児を任せてしまえば、妻は自然と育児が巧くなり始めるからだ。帰宅すれば多少は育児の手伝いをするが、妻に取って代わるほどの育児などしないものだ。子供が3人以上生まれてしまえば、最早、妻一人の手では処理できなくなるので、育児に対して本格的に手伝いをし始めるものだ。そうやって本格的に育児に参加しても、自分の仕事に支障を来たすようなことはしないものだ。

 父親が父親たりえるのは、働いてお金を稼いで、妻子を養うからなのである。それゆえ外で働きもしない「主夫」は、産みの父親であっても育ての父親ではないのだ。幾ら父親が自宅で育児をしても、働いてお金を稼ぐことをしなければ、育ての父親としては失格なのである。裕福になれば必ず異常な人間たちが出て来るから、子供を産んだというのに、育児そっちのけで働きに出てしまう母親たちが出て来るが、だからといって夫が働きもせずに、育児をしていい訳がないのものなのだ。

 男性というのは、自分で妊娠することも出産することもないから、父親としての実感をきちんと抱けないものなのだ。そのため妻子を持つ男性たちだけの組織に参加して、父親としての訓練を受けるものなのである。父親が仕事で忙しいのに、妻は育児を手伝ってくれと懇請しているのに、男同士の付き合いを優先するのは、そういうことをしないと、父親として成長することができないからなのである。

●落ち零れの親たちの言動に惑わされるな

 人間は繁栄しようと思えば裕福になっていかざるをえない。しかし人間は裕福の中で人間らしさを失って行く動物でもあるのだ。経済的に豊かな社会だからこそ、「豊かさの中の貧困」という得体の知れない現象が出て来るものなのである。裕福ではあっても、母性愛を出さない母親、父性愛を出さない父親というのは、必ず出て来るものなのである。

 そういった異常な現象に対して、キリスト教なら「愛」を唱え、仏教なら「空」を唱え、人権主義者なら「人権」を唱えて、どうにか救済しようとすることだろう。しかしそんなことをやっても解決することはないのだ。キリスト教徒たちが幾ら愛を唱えても、キリスト教徒の中で育児放棄をする連中は跡を絶たないし、仏教徒が幾ら空を唱えても、家族を解体することなどできないのだ。人権主義者が子供の人権を唱えれば唱えるほど、子供たちは悲惨な目に遭う事件が多発して行くことだろう。

 繁栄の中でも真っ当な親で居続けるためには、敬虔な宗教心が必要だし、更に父親には父親だけの組織というものが必要なのである。そうやって神の下で謙虚になり、親は親で居続ける努力をすべきなのである。母親だからこそ子供に食事を作り、父親だからこそ働いてお金を稼いで来るのである。

 より突っ込んで言うなら、育児でお金がかかる時だからこそ、他人に慈善を施すべきなのである。最大でも収入の10%までなら慈善に回せるものだ。どんなに家計が苦しくても、収入の5%でも出そうと思えば出せるものだ。そうやって強制的に自分たち家族を貧しくさせることで、「豊かさの中の貧困」という得体に知れない現象が起きないにさせるのである。慈善にお金を費やして家計を貧しくさせた方が、夫も妻も親として健全でいられるようになるものなのである。

 豊かな社会になってしまうと、この当たり前のことが失われてしまうから、異常な親たちが出現して来るものだ。マスコミはきちんと育児をしている夫婦たちの報道をしないくせに、児童虐待をする親や、子供を殺した親などのニュースをセンセーショナルに報道して来るものだ。そういった親たちは親として落ち零れなのであって、そういう親たちの言動には惑わされてはならないのだ。

 母親が子供に毎日食事を作り続けるのは大変だと言えば大変だ。父親が妻子のために毎日働き続けるのは大変だと言えば大変だ。しかしその大変なことの中に、様々な楽しさがあるのであって、そして何より自分の生命が充実しているものなのである。大変だからといって自分がやるべきことを放棄するのではなく、大変ならそれを合理化して楽しめるようにすればいいのである。

 例えば母親は場当たり的に料理を作って行くのではなく、きちんと料理の勉強をし、献立を立てて、料理して行けばいいのだ。父親は自分の仕事を見直して、不要な仕事を削減して、重要な仕事に絞り込み、更に新しい仕事に取り組むなら、生産量が激増するものなのである。そういう工夫をしていけば、「育児が大変だ」とか「仕事が大変だ」と言わなくなるものなのである。

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ウィークエンドエッセイ『小さな子供と大きな大人』

●体格差と年齢差

 子供がすくすくと育って行くと、子供が元気な姿には本当に驚かされるものだ。特に男の子の場合、パンチを覚え始めた時が恐怖の始まりで、寄り寄って父親の股間にチンチンパンチをしかけてきて、それが金玉にジャストミートしてしまい、余りの痛さに涙がちょちょ切れてしまうものだ。

 我が子にそんなに力があるのならと、父親が息子と相撲を取っている時、遂々本気になって投げ飛ばしてしまい、息子を大泣きさせてしまった事件というのは、父親なら何度かやってしまうことだろう。息子が元気だからといっても、まだまだ小さく、筋肉量は少なく、何か痛いことがあればすぐ泣いてしまうほど、精神的に脆弱であるのだ。

 一方、父親にとって実の両親、我が子にとっては祖父母を連れて一緒に出かけると、孫と一緒に遊べて楽しいのに、孫のはしゃぎについてこれなくなってしまい、ヘトヘトになってしまうものだ。特にみんなで階段を上っている時に、祖父母だけ息切れをしながら、かなり遅れて上って来るのだ。

 人間というのは、体格差や年齢差でまさかと思えるくらいに変わった立場に立たされるものなのである。子供は幾ら元気だからといって、体格の大きな父親には勝つことなどできないのだ。祖父母は幾ら長生きしているとはいえ、子供のように元気一杯の姿についてこれないのだ。

 人間は現実を直視することは苦手で、自分の記憶で現実を見て、現実を歪めてしまう生き物なのである。自分の両親なら子供の頃から知っているから、いつまでも元気でいるだろうと思ってしまう。しかし我が子を連れて両親の家に行ったら、両親は孫の世話でヘトヘトになってしまうほど、体力が衰えているものなのである。我が子に対しても、それこそ生まれた時から知っているが、かといってまだまだ体は小さいのであって、それに対して本気で自分の力を使ったら、大泣きされるのは当然のことなのだ。

●年齢によるタイムラグ

 俺が小学生の時、小学校の遠足で或る公園に行ったことがある。その公園は小学校から歩いて行ける所にあるのだが、最寄りの駅まで降りて行き、その線路を越えてた所にあった。俺は駅の西側のずっと奥の方に住んでいたので、駅に行くこと自体が少なかったし、増しては線路を越えて駅の東側に行ったことすらなかったのだ。

 そのため線路を越えるというのは、初めての体験なので、随分遠くに行った感じがあったし、その公園に着くとその公園の大きさに驚いたものだ。その公園には大きな池があり、大きな広場があり、自宅の近所の公園とは比べ物にならないくらい大きかったのだ。だからその遠足では大はしゃぎしてしまい、思う存分、楽しめることができたのだ。

 遠足で行ったその公園を大いに気に入ってしまい、その後、何度か友達と集団になって遊びに行ったものだ。その大きな池でザリガニを釣り、メダカを取ったりしたので、自宅で水槽を揃えて、ザリガニやメダカを飼うようになったのだ。しかもそれを切っ掛けに生物学のことが好きになり、生物図鑑を読むようになり、生物のことに関しては矢鱈と詳しくなったのだ。

 俺は小学6年生の時に、中学受験のために予備校に通い始めたので、小学5年生の時にその公園に行ったのを最後に、もうその公園には行かなくなった。その公園に再度訪れたのは、なんと大学を卒業してからであって、10年の歳月が流れて行ったのだ。そして自分が大人になってその公園を訪れた時、本当に驚いたね。

 なんて小さな公園なんだろう!

 確かに小学生の時は大きな公園に感じられたのだ。しかし自分が大人になってしまうと、その公園は小さく感じられてしまい、こんな小さな公園で遊んでいたのかと思うとビックリしてしまったのだ。年齢によるタイムラグは自分が考えている以上に恐ろしいものなのである。自分が今現在、それがどんなに素晴らしいと思っても、それを疑う気持ちだけはきちんと残しておかないと、馬鹿を見るのは自分ということになってしまうのである。

●国家レベルの憧れは常に悲惨な結果に終わる

 体格差や年齢差などは個人ですらこの有様なのだから、国家レベルになると恐ろしい結果を引き起こして来る。日本は明治維新以降、欧米列強に追いつくために、フランスを手本として見習うことにした。江戸幕府がフランスと仲が良かったために、旧幕臣たちにはフランス語のできる人たちが多くいたからだ。

 しかしそのフランスが普仏戦争で負けてしまい、明治政府は急遽ドイツを手本にして、国家を発展させていくことに決めた。当時のドイツは陸軍が非常に強かったために、日本はドイツに学んだからこそ、日露戦争でロシア軍に勝つことができたのである。学問にしても当時のドイツの学問は世界最高レベルにあったので、日本の学問は大いに発展して、独創的な研究結果を発表する学者たちが続々と現れて来たのである。

 しかしユダヤ系ドイツ人のカール・マルクスが『資本論』を出版し、ドイツ人たちが社会主義に洗脳され始めると、日本の知識人たちも社会主義に洗脳されてしまった。しかも社会主義者たちは政治活動に非常に熱心なために、政党に入り込んで、全ての政党を自滅させてしまい、大政翼賛会という一党独裁体制を築き上げてしまった。更に軍人の中には社会主義に洗脳された軍人たちが出て来て、軍人内閣を出現させ、そして支那事変を泥沼化させ、遂には大東亜戦争を勃発させ、大日本帝国を滅亡させてしまったのだ。

 戦後はアメリカが日本の手本となった。なんせアメリカ合衆国は戦時国際法に違反して憲法を作り制定させたくらいだから、当然、日本人の多くはアメリカ合衆国を理想の国家としたのだ。アメリカは資本主義経済が発達していたので、アメリカの企業に学んだ人たちは、日本で同じような事業を起こすと、確実に成功することができたのである。

 しかし日本は議院内閣制を取っているし、アメリカは大統領制なので、政治に関しては真似ることができなかったのだ。ところが日本の政治学者たちは日本にもアメリカのような二大政党制こそ相応しいと考えて、中選挙区制から小選挙区制に切り替えてしまったのだ。そして出現してきたのが、汚職しまくりの民主党政権だし、安全保障を巡ってアメリカの信用を完全に失ってしまうほど外交で失敗を続けてしまったのだ。

●結局、自国の独自路線こそ最大の利益になる

 近代日本史を冷静に見てみると、日本の独特な政治こそ日本の発展に寄与したことが解る筈だ。例えば明治期に取った「藩閥政治」は今でこそ批判の対象になっているが、日本が近代国家になれたのはこの藩閥政治があったからこそなのである。寧ろ大正デモクラシーのように歴史学者たちから評価された政権こそ、日本の政治を徹底的に混乱させ、軍部に政権を譲り渡してしまったのである。

 自民党の長期政権も当時から知識人たちの批判の対象になったし、今でも批判され続けているものだ。しかしこの自民党の長期政権の時にこそ日本は復興を成し遂げ、世界第二位の経済大国になれたのである。戦争で国土が荒廃し、世界の中で最も貧しい国と言われた国家が、頻繁に政権交代をしていたら、祖国復興を成し遂げることなど出来なかった筈だ。

 結局、自国の独自路線こそ最大の利益になるのだ。スイスにしても様々な歴史を積み重ねて永世中立国になっていったのであり、それによって最大の利益を得ることができたのだ。イギリスにしても世界最初の近代国家でありながら、女王や貴族、枢密院を残し、三権分立が当たり前になった現代でも、国会中心主義を取り、国会を中心に国政を運営しているのだ。

 国家というのはどの国も様々な歴史を積み重ねているから、そう簡単に外国を手本に改革などできないのである。勿論、全く物真似できない訳ではないのだ。戦前はドイツの陸軍を真似たし、戦後はアメリカの企業を真似ることはできた。しかし政治となれば別なのである。政治というのはその国の歴史がモロに出て来る所であり、そう簡単に真似ることはえきないのだ。アメリカのように二大政党制にしようとしたら、国会は以前よりも腐敗し無能を曝け出したし、スウェーデンのように社会保障を充実させようとしたら、厚生労働省は汚職の巣窟となってしまったのだ。

 人間の体格差や年齢差が大きいと同じように、国家にとっても国力や歴史の差が桁違いに大きいのだ。西ヨーロッパ諸国は長い間、国際政治に参加し続けてきたために、最早、老熟している国家なのである。それに比べて日本は歴史は古くても、国際社会に入ったのは明治維新以後だから非常に若い国家なのである。アメリカ合衆国は覇権国家であるがゆえに、日本のように核兵器すら持っていない弱小国家とは比べようがないのだ。

 日本の政治で様々な選択肢があることだろう。しかしこれだけははっきりと言えるのは、最早、日本は外国の物真似をする時期ではないということだ。日本独自の政治システムを整え、日本独自の政策を地道に取って行くしかないのだ。そのような独自路線は諸外国から批判を受けるかもしれないが、その独自路線こそが日本にとって最大の利益になるものなのである。

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子供の話を聞くこと

●子供は自分の意見を聞いて貰えることで人間関係を築いていく

 子供が言葉を覚えて行くことは、育児の中でも最高レベルに属するくらい楽しいことだ。自分が子供を育てることで、如何に人間が言葉を覚えるのに苦労しているのかということが解るようになるからだ。1つの単語すらきちんと言えないし、平気で言い間違いをしたりする。そうやって何度も何度も失敗しながら、きちんと言葉を喋れるようになるのだ。

 子供が言葉を覚えて行く過程で、最大の勘違いが、母親が子供に言葉を教えたと持っていることだ。別に子供は母親から言葉を教育されて喋れるようになったわけではないのだ。しかも母親は子供が喋れない時期から喋れるようになった時期まで全て知っているので、どうしても子供を見下してしまう危険性を持ってしまうのだ。

 意外なことかもしれないが、どの母子も母親と子供の会話はちゃんと成立していないものなのだ。母親が常に上から物を言ってしまい、それに子供が反発するということを延々と繰り返してしまうのだ。更に追い討ちをかけるのが、育児をして3年が過ぎる頃になると、母親の方に育児をしている緊張感が失われ始め、母子の会話が一方的になってしまうのだ。

 人間の会話というのは、自分の言っていることを相手が実行してくれるためだけに行っているのではない。それよりもまずは自分の意見を聞いて貰い、それで人間関係を構築して行くのである。母子の場合、とにかく子供の意見を聞くというのは非常に大事なことなのであって、その子供の意見を自分が実行するかは別として、まずは聞いてあげないと、母子といえども人間関係がきちんと成立できないのだ。

 大方の母親は、相手が子供だろうと思って、毎日、命令を繰り返しているだけなのである。「早くご飯を食べなさい」「早く外出の準備をしなさい」「早く寝なさい」とこのような命令の繰り返しでは、子供の方が参ってしまい、凄まじい反抗を繰り返して来ることになるのだ。母子の間できちんと人間関係が成立しているなら命令を受けても聞き入れるが、人間関係がきちんと成立していないのなら、命令を拒絶するしか選択肢はなくなるのだ。

●オウム返し戦法

 母子の間にしっかりとした人間関係を築くために必要な方法が、「オウム返し戦法」である。子供が何か言ってきた場合、その言葉をそっくりそのまま繰り返す遣り方である。例えば、「お腹すいた!」と子供が言ってくれば、「お腹すいたのね」と繰り返せばいいのだ。子供は自分の意見を母親がそのまま繰り返してくれると、自分の意見を聞き入れてくれたと思ってしまうのだ。その意見を母親が採用するとは言っていないのに、子供は母親との会話に満足してしまうのだ。

 これはどの母親も子供が「単語」や「2語文」「3語文」しか言えなかった時は、誰でもできた筈なのだ。子供が言ってきた単語や文章をそのまま繰り返すことで、子供が何を言っているか確認した筈だ。しかし子供が複雑な文章を言えるようになると、その当たり前の習慣は失われてしまい、母親たちは子供の意見を聞いても繰り返すことがなくなるのだ。

 オウム返し戦法が非常に役立つのは、子供が料理を注文してきた時である。子供というのは大抵が甘くて柔らかい物を好むから、一度気に入った料理があると、それを何度も注文してくるからだ。そういう場合、栄養のことを考えて拒絶してしまうのではなく、まずはその意見を聞き入れてあげるべきなのだ。例えば「ハンバーグが欲しい!」と言ってきたのなら。「ハンバーグが欲しいのね。でもこの前食べたでしょ。今日の料理はもっと美味しい料理にするわよ。」と聞き入れた上で却下すればいいのだ。こうすると子供は自分の意見が拒絶されたにも拘わらず、自分の意見は聞き入れてくれたと思い、反抗してこなくなるのだ。

 このオウム返し戦法は何も子供だけに有効なものではないのだ。大人に対しても有効なのである。夫婦の会話でも夫に対して使ってみると、夫婦喧嘩の回数は激減するものだ。いや夫婦喧嘩そのものが消滅してしまうことであろう。夫は家庭のことを妻に任しているので、妻がきちんと家庭を切り盛りしているのか、何かしらの命令を下すことで確認してくるものなのだ。自分が下す命令すらできないと解ると、育児は巧く行っていないのだなと判断してしまうのだ。

 だから、例えば夫が「ビールが欲しい」と言ってきたのなら、そのまま無言でビールを出すのではなく、「ビールが欲しいんですね」と言ってからビールを出すようにすると、夫は妻に自分の意見を聞き入れてくれたと思い、しっかりとした人間関係が成立して来るのだ。夫婦仲をより深めたいのなら、ビールのついでにオツマミを出して、「このオツマミには何何の栄養があって、アルコールの害を少なくするんですよ」と言えば、夫は妻のその配慮に感動して、今後、妻を大切に扱うようにするものなのである。

●子供の意見をいきなり否定しない

 盗人にも五分の魂と言われるが、子供の意見にもそれなりの論理構成がある。大人から見れば下らない論理構成なのだが、子供のように脳の発達が遅れている段階ではその程度のことしかできないのだ。それゆえ子供の意見をいきなり否定しないことだ。子供の意見云々よりも、その倫理構成を掴みとってしまうべきなのである。

 育児をしている時に、常に揉めるのは子供がオモチャで遊んでも、遊び終わった後にオモチャの後片付けをしないことだ。子供は年齢が低ければ、オモチャの後片付けなどということはまずしないのだ。好奇心旺盛なので、自分の興味があることに集中するが、その興味が失われてしまえば、次の興味がある所へ移ってしまうのだ。そのため当然に後片付けなどしないものだ。

 だからオモチャを買い与えるだけでなく、オモチャ箱を用意しておき、当分の間は母親自身がオモチャの後片づけをしてしまえばいいのだ。そして子供が成長してきたら、後片付けを教え込めばいいのだ。当然、子供は教えても、明日になれば奇麗さっぱり忘れているものだ。そのためオモチャの後片付けをしないものだが、その時、いきなり怒るのではなく、後片付けをしない理由を聞き、その上で「オモチャの後片付けをしないと、オモチャがなくなっちゃうよ」と諭せばいいのだ。

 子供が反抗してきた時も、子供に対していきなり怒りまくるのではなく、取り敢えず子供の意見を聞くべきなのである。「あなたはこういう理由で反抗しているわけね」と子供の意見を整理すると、その意見を採用したとは言っていないのに、子供は自分の意見を聞き入れてくれたと思い、反抗をやめるようになるのだ。

 母親に反抗して来ない子供は、それはそれで問題があるものだが、反抗しまくる子供も、それはそれで問題なのだ。前者は母親が子供に対して巧妙に抑圧を繰り返したから子供が反抗できなくなってしまい、後者は母親が子供に対してあからさまに抑圧を繰り返したから、子供は何度も何度も反抗せざるをえなくなってしまったのだ。形は違うけど、どちらの母親も子供としっかりとした人間関係を築いていないということでは全く同じなのだ。

●人間の話し方の基本は子供の頃に形成される

 人間の話し方の基本というのは、子供の頃に形成されるものなのだ。特に生まれてから6歳まで間の母親との遣り取りが子供の話し方の基本となるのだ。母親と仲良く話せた子供は、大きくなっても他人と仲良く話せるようになるし、母親と揉めに揉めた子供は、大きくなったら矢張り他人と揉めるような話し方をしてくるものだ。

 会話というのは、人間関係を成立するために行われているというのが、文明生活の中が奇麗さっぱりと忘れていることなのだ。単なる情報の遣り取りのためだけに会話は使用されているのではないのだ。増してや他人の話を聞いて笑うために会話は使用されているのではないのだ。そういったことは人間関係の成立ができてこその話であって、まずは会話の基本である人間関係の構築を成し遂げて行かねばならないのである。

 子供は母親に反抗して来ることはあっても、自分が最も胸襟を開いて話す相手もまた母親であるのだ。母子で会話しているというのに、子供が怒り出したり、怒鳴り出したりするようなことが頻繁に起こっていれば、その母親の会話の仕方が非常に拙いということなのである。

 この世には自分の意見を一方的にしか言わず、他人の意見を汲み取ることを全くしない人々がいるものだが、そういう人たちは自分の親に自分の意見を聞いて貰えることがなかったのである。社会主義者やフェミニストたちのようにイデオロギーに対して狂信的になってしまう人々は、母子の間でまともな会話が成立することができなかったために、常に自分の意見を一方的に言い出して、社会を変えることに躍起になってくるのである。

 実を言えば、母子の間できちんと会話が成立することは、子供にとって言葉によって母性愛を感じるということなのである。母子のじゃれあいが肉体的に母性愛を感じることができるが、母子の会話は精神的に母性愛を感じることができるものなのである。この2つがあるからこそ、子供の心に母性愛が蓄積され、満たされるようになるのである。

 母子のじゃれあいと会話が巧く行けば、子供は健全に成長して行くことができるようになるのである。そうやって母性愛に満たされた人は、大人になって愛を叫ぶことがなくなるのである。それよりもきちんと他人を愛して行こうとし出すものなのである。キリスト教徒たちのように愛を幾ら叫んでも、愛を得られるわけがないのだ。自分が大人になったのに、愛を叫ばなければならないようであるなら、自分が育てられた過程に深刻な問題があったということなのである。

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子供とのスキンシップの大切さ

●子供は母親とじゃれあうことで愛を蓄積して行く

 子供が母性愛を蓄積して行くのに重要な役割を果たすのが「じゃれあい」だ。子供は母親とじゃれあうからこそ、母親から愛されたと思うようになるのだ。哺乳動物というのはどの動物を見ても、母親が子供を弄り回している。しかも脳の大きさが大きくなって行くほど、母親は子供を弄り回しているのだ。

 子供は母親から弄り回されると、体に刺激を受けるだけでなく、脳に刺激を受けまくり、高い知能を持つことができるようになるのだ。母親から母性愛を感じるというのは、高い知能を持たない限り、出来ないものなのだ。だから子供がいるなら、母親は子供とどんどんじゃれあっていけばいいのだ。

 どの民族も母親が子供とじゃれあうことをするものだが、そこに人工宗教が入り込んで来ると、途端におかしな事態になってしまう。キリスト教は「贖罪論」や「三位一体論」のように欠陥のある教義を持っていたために、信者たちを洗脳する必要性に迫られた。そこでキリスト教の聖職者たちは母親と子供を分離してしまい、母親が子供にじゃれあうことを極力少なくしてしまった。

 この分離措置が強いのは、伝統あるカトリックの方ではなく、実はプロテスタントたちの方であって、そのためにプロテスタンティズムの勢力圏内では難病奇病の発症率が異常に高いのだ。育児や子育てなんてどこの国でも同じだろうと思っているのは大間違いで、日本人がアメリカ合衆国やオーストラリアに行って現地の育児や子育てを見ると、その異常さにびっくりしてしまうのだ。とにかく母親が子供とじゃれあうことが非常に少ないのである。

 子供というのは、母親と充分にじゃれあっていれば、母親から愛を欲しがるということはしなくなるものだ。母性愛の蓄積があるために、今度は母親の元を離れて、様々な冒険に出かけるものだ。子供が愛が欲しいと言って来るなら、育児や子育てで何かしら重大なミスを犯したということなのである。キリスト教は愛を唱えるが、だからといってその教義が素晴らしいのではなく、キリスト教徒たちに愛を唱えざるをえない育てられた方をされたために、大人になっても愛を叫び続けるのである。

●母親とじゃれあえるからこそ父親とじゃれあえる

 子供にとって母親は親しい存在であっても、父親は親しい存在ではないのだ。父親は平日、仕事に出かけれいるので、子供にとっては非常に懐くことができない相手なのだ。だから母親は父親がいない平日に、子供と充分にじゃれあって母性愛を与えて、休日には子供が父親とじゃれあえるようにすべきなのである。

 平日は母親中心だが、休日は父親中心にしてしまえば、子供は父親から父性愛を貰うことができるようになるのだ。母性愛と父性愛は全く違うものだ。父性愛は我が子にしか注がないものなので、子供は父親から父性愛を貰うと、生き生きとして来るようになり、自分には価値があると思えるようになるのだ。

 父親というのは、母親が子供に充分に母性愛を与えていないと、我が子といえども可愛がろうとしないのだ。母親が愛そうとしない子供など価値がないと無意識で判断してしまうので、「仕事が忙しい」だのと理由をつけて、休日でもどこかに出かけてしまうのだ。子供を愛そうとしない母親というのは、大抵、夫婦関係でも揉めているので、とにかく夫婦関係を改善して良好なものにしておくべきなのである。

 子供は満2歳までに父親の体臭を覚え、その体臭を以て父親と認識するようになるので、満2歳まではとにかく子供とじゃれあう機会を多くしておくことだ。特に女の子の場合、父親とじゃれあいたがるので、女の子が幼い時に父親とじゃれあう機会を失ってしまうと、その後の親子関係で散々に揉めてしまうことになるのだ。自分の実の父親であっても、その男性を自分の父親と認識できなかったからこそ、徹底した拒絶反応を示してしまうのだ。

 父性愛は母性愛のようにいつでも貰えるものではなく、貰える期間が限定されているために、子供の方としても父性愛を貰うことに必死になるものだ。成長の早い娘の方は、父親に抱きつき、父親と他愛もない会話をし出すものだ。成長の遅い息子の方は、娘のようにはしてこないが、それでも息子なりに父親とじゃれあってくるものだ。

●良い子悪い子よりも子供を肯定してあげること

 じゃれあいというのは、その子が良いことをしたからじゃれあうわけではないし、その子が悪いことをしたらじゃれあうことを拒否するというものではない。ただ単に母親の方が子供とじゃれあっているのが面白いからこそじゃれあっているのである。そうやって子供は母親にじゃれあえることで、母性愛を蓄積して行くのである。

 母親自身に母性愛の出が少なければ、我が子に対して「良い子」「悪い子」と判断してしまいがちだ。母性愛というのは、そういう「良い子」や「悪い子」と判断する以前のものなのであって、我が子が我が子であるがゆえに母親は我が子を肯定してあげるのである。母親にとってまず必要なのは我が子を肯定することの大切さなのである。

 女性が子供を産めば、母性愛を出すのは当たり前のことなのだが、しかしその女性がく学歴になって大量の知識を溜め込んでしまうと、この当たり前すぎることができなくなってしまうのだ。自分になまじ知識があるために、我が子の些細な行動で以て、「この子は良い子!」「この子は悪い子!」と判断してしまい、母性愛を与えなくなってしまうのだ。

 勿論、育児をしていれば、子供はとんでもないことを仕出かして来るものだ。しかしそれは子供の脳が充分に成長しておらず、ルールというものが解らないからなのである。我が子がどんなに悪いことをしたとしても、母親であるなら我が子を肯定し続けることが大事なのである。それが出来るからこそ子供はきちんと成長してきて、長じれば善悪の判断ができるようになるのだ。

 育児や子育てが教育とは違うのはまさにこの点こそ最大の箇所なのである。教育というのは、子供に学問を教え育てることによってその子の能力を引き出して行くのだが、それと同時に子供を選別していくものだ。しかし育児や子育てには子供を選別するということはないのだ。我が子だからこそ母性愛を与えて、いつまでも肯定し続けるものなのである。

●子供はいつまでも親とじゃれあっているわけではない

 子供のが子供の時は、母親は子供とじゃれあっていればいいのだ。特に男の子の方は甘えん坊なので、小学生の高学年になっても母親に甘えて来るものだ。しかし、子供の方も母親とじゃれあうことに満足すれば、母親から離れていくものなのである。じゃれあうことは大切であっても、いつまでも母親とじゃれあっているわけではないのだ。

 母親には感情ママと冷静ママの2種類がいるものだが、この2つの母親は子供にじゃれあうことに関して、それぞれ長所と短所がある。感情ママの場合は、子供とじゃれあうことが非常に巧い。だがその反面、子供が母親から離れていく時にいつまでも引き止めてしまい、子供の怒りを買ってしまうようになるのだ。

 一方、冷静ママの方は子供とじゃれあうことが余り好きではないのだ。たとえ我が子であってもベタベタした付き合いが苦手なのだ。そのため我が子が幼い時に必要最低限のじゃれあいをしておかないと、子供はその後に於いて精神に異常を来たしてしまうのだ。だがその反面、母親が余りじゃれあってこなかったためい、子供は自治領域を大いに拡大することができ、非常に個性の強い子供に育って来ることになるのだ。

 よく育児経験者たちは「子供が可愛いのには訳がある」と感想を述べるものだ。子供が可愛い時期こそ、母親がじゃれあってもいい時期だからだ。子供の顔から可愛らしさが抜け始めてしまえば、じゃれあうことは必要でなくなるのだ。だから子供が可愛い内に思いっきり可愛がっておくべきなのである。

 女の子なら初潮が始まれば、母親の元から離れていくことだろう。男の子なら中学生になれば、母親の元から離れていくことだろう。もうその時期が来ればじゃれあうことで母性愛を貰うことは必要なくなるのだ。それ以降は、自分の心の中に蓄積した母性愛を使って、自立を開始していけばいいのである。

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父性厳こそ家族の秩序を作り上げる

●子供中心ではなく父親を頂点にした家族

 夫婦は対等ではあるが、子供が生まれてしまえば、父親を頂点とし、その下に母親がいて、更にその下に子供がいるという序列を作り出さざるを得ない。父親が家族の頂点に君臨するからこそ、愛は父親から母親に流れ、母親は子供たちを愛そうとし始めるのだ。父親は仕事で滅多に家にいない以上、母親は父親がいない時は家族を守らねばならないので、父親が家族の頂点であっても、家族の実権は母親が握るものなのである。そうやって家族が機能し始めるのだ。

 男が女性と結婚していくためには男らしくなければならない。男として力強い者であるからこそ、女性を物にすることができ、恋愛の主導権を握りながら結婚へと導いていくものだ。もしも男性に男としての強さがなければ、幾ら恋愛で盛り上がった所で、結婚へと持って行かないし、ただセックスを繰り返すだけのことをしてくるのだ。

 男性の力強さは結婚を可能にし、家族を作り上げることで使用されていくのである。法的には全ての女性が結婚できるが、現実的にはごく少数の女性たちしか結婚できないように、男性も法的には全ての男性が結婚できるが、現実的にはごく少数の男性しか結婚できないのだ。男性と生まれても、男として充分に成長してこない者は、結婚をし家族を作り上げるだけの力強さが全くないからだ。

 男の力強さは、妻が赤ちゃんを生むと、「父性愛」と「父性厳」というものを発し始めるようになる。父性愛は我が子にだけ絶対に価値があるものとして注ぐものだし、父性厳というのは我が子にこの世で生きていくために一体何が正しいのか正しくないのかを教えて行くのだ。この父性愛と父性厳があればこそ、子供は自分にこの世で存在していいと思える価値があると認識できるし、この世で正しい道を歩んでいく人生を歩めるようになるのだ。

 忘れてはならないんは、父性愛も父性厳も母親からの母性愛が充分に与えられていないと、子供は受け取ることができないということだ。母親は育児をして常に子供に接してはいるが、「父親こそ一家の主」であると子供に教え込んでおかないと。子供は母性愛をたっぷりと受け取ることができないし、父親から父性愛や父性厳を受け取ることができないのだ。

●父性厳こそ子供の心を鍛え上げる

 結婚していれば、夫婦というのはそれぞれの夫婦で様々な愛の形を取るものだ。日本の多くの夫婦は、夫が妻に家庭のことを任せるパターンであろう。でも中には亭主関白の夫もいれば、嬶天下の妻もいることだろう。どのような夫婦であったとしても、夫婦できちんと話し合いができる状態であるなら、深刻な問題はないものなのである。

 しかし家族であるなら、父親を頂点にし、母親が家庭内の実権を握り、その下に子供たちがいるようにしなければならない。子供というのは動物と同じように、家庭内の序列を敏感に感じ取り、そこで自分の位置づけを行うからだ。幾ら我が子が可愛いからといって、子供を中心に家族を運営していては、子供は自分こそ一家の主だと勘違いして来るのだ。

 その家族が健全な家族であるなら、子供が悪さをした時に、母親が「じゃあ、お父さんに叱って貰うわよ」というと、子供は大泣きして「父親には知らせないでほしい」と懇願する筈だ。子供にとっては父親こそが一家の主だと解っているので、その父親から叱られることが最も恐ろしいからだ。

 母性愛や父性愛は子供の心を形成して行くものではあるが、それだけでは子供の心は育たないのだ。父性厳こそが子供の心を鍛え上げ、子供を真っ当な子供に仕立てあげていくのである。父性厳を貰えば貰うほど、子供は家族の中でやっていいこととやって悪いことが解るようになり、善悪の判断ができるようになるのだ。

 子供の父性厳の蓄積が足りなければ、悪いことをしてもその場しか改めないが、父性厳を蓄積して行けば、その場だけ改めるのではなく、常に悪さをしないようにし、自分が良いと思えることをし出すようになるのだ。母親が子供を厳しく叱っても子供はそう簡単に態度を改めないものだが、父性厳は子供の心に最大級の重しがのしかかることになるのだ。これこそが母親の厳しさと父親の厳しさの違いなのだ。

●馬鹿な子供をほど父親を蔑ろにするもの

 子供の人格は子供の人格としてそのまま成長してくるのではない。子供が大きくなって行くと、「上位自我の形成」という現象が起こるのだ。女の子なら母親の人格を自分の頭の中に入れ、それを上位自我とするのだ。男の子なら父親の人格を自分の頭の中にいて、それを上位自我とするのだ。

 上位自我ができると、女の子は母親と似たような言動を取って来るようになる。母親が余りにも自分の物真似をするために「一体この子は誰に似たんだろう!?」と思ってしまうくらいに、母親と似たような行動を取って来るのだ。そしてこの時期、女の子は「将来、お父さんのお嫁さんになる!」と言い出し、父親との疑似結婚という時期を迎える。この疑似結婚をしないと、娘の心の中に父性愛や父性厳がきちんと蓄積されないのだ。

 一方、男の子は女の子と違って成長が遅いために、この上位自我の形成が遅れて来るし、ヘンテコな行動を取って来る。父親の靴を履いてみたり、父親が日頃使っている物で遊ぶようになったら、上位自我が形成されたと思っていい。男の子には母親と疑似結婚する必要性がないので、「将来、お母さんと結婚する!」とは言い出さないのだ。

 子供の心の成長に於いて、この上位自我が出来上がる時期こそ、重要な時期なのである。上位自我が出来る上がると、子供の心の中に「良心」というものが出来上がって来る。子供は悪い事をしようとした時に、良心は「それは悪い事だよ」と指令し、悪事をやめようとするのだ。子供の時期は、この良心があるからこそ、自分の言動を制限できるようになるのだ。

 子供に良心が形成されれば、育児や子育てにそれほど手間がかからなくなるのだ。後は子供に任せておけばいいのであって、親が子供に介入する機会がなくなるからだ。しかし子供に良心が形成されなければ、親は子供を幾度となく叱らねばならなくなるので、結局、子供の自治領域が狭くなってしまい、馬鹿な子供として育って来るのだ。そして馬鹿な子供ほど上位自我があやふやであり、親を蔑ろにしてくるのだ。子供が親を蔑ろにするから、親は余計に叱りつけなければならなくなるという悪循環を延々と繰り返してしまうのである。

●育児や子育ては「刷り込み」の連続なのである

 育児や子育てというのは、自分が勝手気儘に思い描くようには行かないのである。人間が哺乳動物である以上、他の哺乳動物たちの延長線上にある行為がその基本となっているのである。育児や子育ては「刷り込み」の連続なのである。子供たちに親の遣っていることを問答無用で学ばせるしかないのである。

 親子関係とは親分子分の関係なのである。だから母親は子供の前で絶対に父親の悪口を言ってはならないのだ。父親がどんなに悪いことをしても、父親であること自体は絶対に正しいことなのである。母親が健全に育児や子育てをしたいのなら、いつ如何なる時も父親を立て続けなければならないのだ。これが出来なければ、子供の心の中に良心が形成されなくなるのだ。

 子供が善悪を判断する能力というのは10歳になる前までに出来上がってくるものだ。それ以降では善悪を判断する能力というのは形成されることはないのだ。幾ら一流大学に進学しても、平気で犯罪に手を染める学生がいるものだが、これは子供の頃に学校で勉強はしたが、家庭で親から善悪を判断する能力を鍛えられることがなかったのである。これは脳の成長に関連していることなので、教える時期を間違ってしまえば、その子供には生涯、善悪の判断がきちんとできなくなってしまうのである。

 善悪の判断とは、ただ善悪を判断すればいい訳ではないのだ。自分が正しいと思った事は勇気を以て行わなければならないし、自分が悪いと思った事は勇気を以て止めなければならない。子供が子供なりに考えて行動したのなら、その評価を母親はきちんとしてあげ、良い事をしたのなら褒めるべきだし、悪い事をしたのなら叱らねばならない。そうやって善悪の判断が口先だけにならないようにしなければならないのだ。

 実際に育児や子育てをいている場合で我が子の善悪の判断を鍛えていくことになるのは、子供がオモチャを欲しがる時だろう。この時はすぐさま買い与えないことだ。買わないことで子供に忍耐力をつけさせるのである。何か欲しいものがあるなら、自分が家事の手伝いをするとかして、子供に何か代償を支払わせることで、オモチャを買い与えればいいのだ。これらの一連の対応が子供の善悪の判断を鍛えることになるのだ。

 父親が子供たちの心に及ぼす影響は母親が考えている以上に大きいのである。父親が父性厳を出してくれなければ、子供の心に上位自我は形成されないし、良心が宿ることはないのだ。母親は自分こそが育児や子育てをしてきたと思ってしまいがちだが、まともな育児や子育てをしたいのなら、いつ如何なる時も父親を立てるようにすることだ。夫婦で問題があるなら、子供たちの居ない所で話し合うようにすべきなのである。そういった配慮こそ、母親の地位を安泰にし、育児や子育てで困ることがなくなるようになるのだ。

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母性愛と父性愛こそ心を育む

●母性愛の役割

 夫婦が我が子に出す愛は同じものなのではない。母親は母性愛を出し、父親は父性愛を出して行く。この全く違う愛があるからこそ、子供は健全に育って行くのである。しかも子供は母性愛を大量に必要とし、母性愛がたくさんある状態で父性愛を必要とするようになる。夫婦に子供が生まれてしまえば、夫婦はそれぞれ別の役割を与えられることになるのである。

 まず母性愛というのは「絶対肯定の愛」だ。母親というものは、我が子がどのような状況になっても絶対に肯定してあげる。なぜなら我が子を産んだのは自分自身だからだ。母親は子供が病気になれば必死になって看病するし、我が子が身体障害者であっても見捨てたりはしないものだ。これこそが母性愛の発露なのである。

 子供の成長と言うのは非常に遅いものだ。徐々にでしか子供の成長は引き起こされないのだ。そのため母親は我が子が少しでも成長したのなら、その成長を肯定してあげて、後退しないようにするのである。ハイハイをしたらそれを肯定し、一人歩きできたらそれを肯定し、喋り出したらそれを肯定してあげる。子供は母親が肯定してくれるからこそ、成長し続けることができるようになるのである。

 子供は自分勝手に成長していくのではないのだ。両親に従属して成長して行くし、その中でも母親から様々な干渉を受け続けるものだ。しかし子供は成長して行けば自分でやりたいことも増えて来るので、自治領域を拡大して来て、自分の自治を犯される時には母親に対してでも反抗して来る。だがその反抗は親子の絆を切ってしまうような反抗ではなく、飽くまでも母親による養育を維持しながらの反抗なのである。

 母親は母性愛の発露として、子供を保護し、子供に干渉すると同時に、子供から反抗を受けて、子供の自治領域を拡大させてあげるという役割を担わなければならないのだ。もしも母親がいなければ、子供はきちんと保護されることはないし、干渉されることもなくなり、自治領域を拡大するために反抗することもできなくなってしまうのだ。

●父性愛の役割

 父性愛というのは、「絶対価値の愛」である。父親というのは我が子だからこそ価値を見出す。母親なら余所の子供でも可愛がるが、父親は原則として我が子にしか可愛がることをしない。父親にとっては我が子だけが価値あるものであり、余所の子供には価値を見出さないからだ。

 母性愛の出し方というのは、どの母親も大体同じようなものであるが、父性愛の出し方というのは、その父親によって大いに異なる。その父親が正しいと判定したものだけにしか価値を与えないのだ。母性愛ならどの子供も母親から貰えるが、父性愛となればそうはいかないのだ。

 母親は妊娠し出産し育児をするという過程を経るために、出産してしまえば母親にならざるをえない。しかし父親にはそのような過程がないために、父親だけの組織に加入しないと、精神的に父親になることができないのだ。父親だけの組織に入ることによって、父親は精神的に父親になっていくのである。だからこそ育児で忙しいというのに、父親は男同士の付き合いを優先して来るのである

 父親は我が子にだけしか父性愛を注ごうとしないので、子供たちの方も必死になって父性愛の獲得を目指すことになる。子供が幼ければ父親にべったりとくっつくことでその父性愛を貰おうとするし、子供が大きくなってくれば何かしらの手柄を立てることで子供は父親から父性を貰おうとするのだ。

 育児や子育てに於いては、父親は母親のように子供に対して深く干渉することはないが、子供の進路を決めてしまうのは、父親の役割だ。そのため父親から父性愛を貰えた子供は父親によって進路が切り開かれてしまい、その道を一直線に進めばいいだけとなり、立身出世が早くなるのだ。しかし父親から父性愛を注がれないような子供は父親から進路を決められることがないので、自ら切り開いていかねばならないという大損な生き方をしなければならなくなるのだ。

●母性愛の蓄積があるからこそ、父性愛を獲得しに行くことができる

 母性愛と父性愛は平等な量を必要とするのではない。子供の心にとっては、母性愛こそが主なのである。母親から母性愛をたくさん貰えるからこそ、父親に近づいていくことができ、父性愛を貰えるようになるのだ。子供は母親が大好きなものである。それは母性愛を蓄積せねばこの世に自分の命を肯定させることができないからだ。子供は父親が大好きである。それは父性愛を貰わねばこの世に自分が生きていく価値を見いだせなくなるからなのである。

 母性愛の蓄積があるからこそ「自己肯定」ができるようになり、父性愛の蓄積があるからこそ「自己価値」を見出せるようになるのだ。この自己肯定と自己価値があるからこそ、この世がどのような状況になっても自信を持つことができ、知恵に導かれた思考をすることができるようになり、勇気を以て行動を起こすことができるようになるのである。

 もしも母性愛が不足してしまえば、自己肯定できないから、勉強でもスポーツでも常に自信を喪失してしまい、落ち零れてしまい、更には些細なことで自殺してしまうようになるのだ。もしも父性愛が不足してしまえば、自己価値がないから、常に他人の言動に振り回され、淫祀邪教を信仰したり、平等イデオロギーに洗脳されてしまうようになるのだ。

 子供にとって家の外というのは「未知なる領域」だ、そこに対して毎日出撃していき、色々なことを知って行くようになるのだ。それは子供を大いに疲れさせることになるので、子供は帰宅次第、母親に甘えて母性愛を貰い、父親に甘えて父性愛を貰うのだ。そうやって自己肯定し、自己価値を見出して行く。その繰り返しを行うからこそ、子供は成長して行くことができるのである。

 もしも母性愛や父性愛が不足しているのなら、子供は家の外に出て冒険をしようとしなくなる。家の中で遊ぶことだけしかなくなり、テレビゲームにでも熱中することしかしなくなるのだ。そういう子供は自分に自信がないので、大きくなっても常に他人と比べるだけの生き方をしてしまうようになるのだ。

 受験は確かに受験生同士で競争するが、その競争があるからこそ切磋琢磨できるのである。しかし自信がない人にとっては受験が受験戦争になってしまうのだ。自由経済には市場があるから企業同士で競争するが、その競争があるからこそ企業はより良い商品やサービスを提供できるようになるのである。しかし自信のない人にとっては企業間の競争が過当競争になってしまうのだ。外界の現象は同じものでも、人間は自分の心の状態でしか物事を認識できないのだ。

●両親に育てられた子供と片親に育てられた子供

 子供は母性愛と父性愛をきちんと貰って育つからこそ、健全に育って来るようになるのである。それゆえ両親に育てられた子供と片親に育てられた子供というのは、全然違う大人として育って来るものなのである。親のどちからがいなけらば、母性愛か父性愛のどちらかが欠落していまうからだ。

 政治家のように国家の命運を握る職業に関しては、絶対に両親の下で育った人物でなければならない。政治家には片親のもとで育った人物を絶対に採用してはならない。母性愛か父性愛のどちらかが欠落してしまえば、健全に育って来る訳がないからだ。健全に育って来るなら人は必ず結婚し、子供をたくさん産むようになるから、政治家には結婚と子供が多数いることをその条件とすべきなのである。絶対に独身者を政治家にしてはならないし、結婚していても子供のいない人物を政治家にしてはならない。

 母子家庭で育った子供というのは、父性愛が欠落するが、母性愛を大量に持つことになるので、組織を作ることは下手だが、ネットワークを作ることは得意だ。芸能界は母子家庭出身者が圧倒的に有利だ。水商売に関しても母子家庭出身者が圧倒的に有利だ。この手の世界は組織戦ではなくネットワークを作ることが勝利に直結するからだ。

 父子家庭で育った子供は母性愛が欠落するが、父性愛を大量に持つことができる。そのため、父子家庭で育った人物は家庭中心の生活をまず営もうとする。母性愛の欠如で家庭に潤いがなかったために、その欠如を克服しようとするのだ。父子家庭出身者は、官庁のように組織が明確になっている職業に於いて最も能力を発揮し易くなる。父性愛の蓄積があるために、組織重視の職業なら、自分の能力を大いに発揮することができるようになるのだ。

 子供というのは全て同じ環境で育って来るわけではない。両親のいる家庭や、片親しかいない家庭で育って来るからこそ、この世は様々な人材を確保することができ、複雑な社会を形成して行くことができるようになるのである。勿論、片親の下で育った子供たちは大きくなってから、自分の心の歪みに気付くものだ。その心の歪みは自分の力で克服して行くしかないのだ。たとえ両親の下で育った子供であっても、両親がいることの有難味に気付かなければ、自分の能力を大いに発揮して行くことはできないのである。両親にきちんと育てられたのなら、まずは両親に感謝すべきなのである。両親に感謝できれば、自分の能力を大いに発揮していくことが可能になるのである。

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子供の心を育てるのに最重要の役割を果たすのは「母親」である

●子供の心は母親がいるからこそ健全に育つ

 子供の心というのは、母親が育てていくものなのである。子供の心の成長に関して、母親こそが最重要の役割を担うのであって、母親がいるからこそ子供の心は健全に育って行くのである。なぜそれほどまでに重要な役割を担わされるのかというと、母親こそが赤ちゃんを産んだからなのである。どの母親だって赤ちゃんを産んだ時は、その出産を命がけで行い、生まれて来た赤ちゃんを祝福するものだ。その一連の行為こそが赤ちゃんの心に決定的な影響を与えてしまうのである。

 父親の方は妻に妊娠させることはできても、自分が妊娠するわけではないし、自分が出産するわけでもない。そのため生まれてくる子供自体を肯定してあげるのではなく、男の子か女の子といった性別に拘ってしまうものだ。そのため自分が望んだ性別でない赤ちゃんが生まれてくれば、祝福することをしなくなってしまうのだ。そういう父親のもとに生まれてしまえば、その赤ちゃんは大きくなるに連れ、父親と揉めるようになってしまうのだ。

 赤ちゃんにとってはこの世に生まれ出れ来ることは不安で一杯なのである。だからこそ母親が赤ちゃんを肯定してあげて、祝福してあげる。夫婦仲を良好にさせて、父親に対して性別がどうであれ我が子を祝福できるような状態に持って行く。これができるからこそ赤ちゃんから恐怖が取り除かれ、この世に生きる希望を見出して行くのだ。

 何事も一番最初が一番難しいのだ。自分がどんなに努力しようとも、出生時に自分の親から祝福されないような人間は不幸の多い人生を歩んでしまうものなのである。なぜなら最初で躓いているからだ。それに対して出世時に自分の親から祝福されて生まれ出て来た赤ちゃんは、その後、最小限の努力をするだけで、幸福になっていってしまうものなのである。なぜならスタートラインが素晴らしい環境にあったからなのだ。

 母親は妊娠が発覚してすぐさま出産するわけではないのだ。10ヵ月間もの間、妊娠期間があるのだから、その期間中に妊娠生活を楽しみ、出産を安全に行えるように仕向けておく必要があるのだ。そういう母親の行動を胎児はお腹の中から見ており、自分を素晴らしい環境で産んでくれたからこそ、生まれて来た赤ちゃんは母親に懐き、母親のもとで育って行くのである。

●母親との皮膚接触や会話の蓄積

 赤ちゃんは生まれてから当分の間、話すことができないので、とにかく皮膚接種を繰り返すことだ。赤ちゃんを抱っこしたり、赤ちゃんのオムツを交換することは勿論のこと、赤ちゃんにキスをしてみたり、赤ちゃんとじゃれあってみたりすることは、赤ちゃんの心の形成に非常に重要な役割を果たすのだ。

 人間の赤ちゃんは健康な体で産まれて来ても、未熟児状態であるので、自分で立って動くことができないのだ。そのため母親が赤ちゃんを弄り回すことで、赤ちゃんを運動させ、血行を良くさせるのである。皮膚接触の回数が少ないと、赤ちゃんは決定的に運動不足になってしまい、病気になっていってしまうのである。

 赤ちゃんは喃語を喋り始め、「単語」を話せるようになり、「2語文」を話せるようになり、「3語文」を話せるようになり、会話が徐々に成立して行くことになる。この間、母親は辛抱強く子供の会話に付き合っていくことだろう。この会話の蓄積が子供の心を具体的に形成することになるのだ。なぜなら人間は言葉でしか思考できないからだ。

 子供が言葉を覚えて行く時、言葉を覚えさせる相手が母親でないと困るものなのである。というのは男女の言語能力は平等に出て来ているのではく、女性の方が高い言語能力を持つからなのである。男性は自分の専門分野に関しては高い知能を発揮できるが、日常生活のようなものに関しては高い言語能力を持つことができないのだ。

 通常、喋りが達者な母親の子供というのは、その子供も喋りが達者になるものだ。そのため日常生活をテキパキとこなせるようになり、学問をすれば高い知能を発揮し始めることになるのだ。逆に喋りが下手な母親だとか、母親が仕事でいなかったとかなると、その子供は喋りがイマイチで、生活はだらしなく、学問をさせても高い知能を持つことができないのだ。

●心の教育は有り得ない

 人間の心というものは、主に母親が育てていくものなのである。なぜなら、子供にとって母親と接触している時間が一番長いからであって、それにとって代わる人物は誰もいないからだ。子供と母親の日常生活に於ける些細な出来事の積み重ねが、実は子供の心を形成して行っているのである。

 それゆえ主婦ならぬ「主夫」というのは、子供の心をきちんと形成させることはできないのだ。夫は赤ちゃんを産んだわけではないので、妻のように我が子に対して思い入れの度合いがまるで違うのである。しかも言語能力で妻に劣る以上、子供の心はどうやっても健全な形で形成されなくなるのである。夫婦の役割がひっくり返っている夫婦というのは、その夫婦が精神的に自立していないか、それとも腐敗した社会が生んでしまった異常な夫婦に他ならないのだ。

 家庭の中で子供の心は形成されていく以上、学校で「心の教育」を行う必要は全くない。心は教育されて育つものではないからだ。育児や子育ての過程で自然と育って行くものなのである。心の教育を盛んに叫ぶ人たちは、その人たちの母親たちが男女平等に洗脳されて、母親としての役割を放棄してしまったから、自分の心が健全な形で形成されなかったのである。

 心の教育を唱える人たちの母親の世代というのは。、丁度「スポック博士の育児書」の影響が最大化した時期に当たる。スポック博士は「子供には人格があって子供を自由に育てなければならない」と触れこんだのだが、子供というのは両親に従属することで自分の人格を形成して行くのであって、自分の自由よりも親の命令を優先してきたからこそ、自分の心を強く形成していくことができたのである。子供の頃から自由に育てられるというのは、事実上の育児放棄なのであって、そうやって育てられた子供は心が形成されていないために、大人になってから「心の教育」を唱え始めるものなのである。

 戦後、首尾一貫して少年少女の犯罪に悩まされているのだが、これは学校で道徳教育がなくなったからなのである。第二次世界大戦に於いてアメリカ合衆国は日本軍兵士に散々手古摺ったのであって、優秀な日本兵を生み出した学校教育での「修身」を禁止してしまったのだ。そのために順法意識の欠ける子供たちが大量に生み出されてしまったのだ。

 心の教育は学校ですべきものではないが、道徳教育は学校ですべきものなのである。憲法にしろ法律にしろ、それが存在するだけでは機能することはないからだ。憲法や法律を順守することを倫理的に正しいと思う国民がいるからこそ、憲法や法律は機能するのである。国民に順法意識という道徳がないからこそ、平気で汚職をする首相や国会議員を選んでしまい、しかも逮捕されたりすることがなく、延々と首相や国会議員を務め続けるという異常事態を作り出してしまったのである

●心の形成を難しく考えるな

 子供の心の形成など難しく考えてはならない。育児や子育てを繰り返している内に、自然と形成されていくものなのである。家族は父親を頂点として形成されるが、実権を握っているのは母親なのである。だからこそ如何なる子供でも自分に最大の影響を与えるのは両親であり、両親の中でも母親なのである。母親から様々なことを学び、成長して行くのである。

 子供が子供の時にすべきことは、まずは喜怒哀楽といった感情を素直に出すということなのである。子供は喜ぶべき時には喜び、怒るべき時には怒り、哀しむべき時には哀しみ、楽しむべき時には楽しめばいいのである。自分の感情を素直に表現するからこそ、心は健全に育って行くのである。

 そうやって「感性」を高めていけば、次に「理性」を鍛えることができるようになり、自分で思考して、合理的な行動が取れるようになるのだ。そして自分が正しいと思えたことを勇気を以て実行するという「意志」が必要となって来るのだ。理性や意志というのは、感情が豊富でないと、正しく行使できないものなのだ。

 家族の中で生活していくということは、自分勝手な行動を取っていいわけではない。様々な約束事を守らねばならない以上、その約束事を守ることを通じて「自己統御」を身に着けて行くのである。自己統御ができれば、他人と問題を起こすことなく、自分の目標を実現して行くことができるようになるのである。

 人間というのは、肉体的に生まれればそれでいいという訳ではないのだ。大きな脳を持っているために、自分の心を健全に成長させてくれないと、まともに生きていくことはできないのだ。自分の心が健全に成長して行けば、自分の人生を自分の力で切り開いていくことができるが、自分の心が歪んでいれば、自分の人生を自分の力で切り開くことができず、悩みに悩み、些細な障害で躓き、堕落して行ってしまうものなのである。

 だからこそ健全な心を持てた人々は、大きくなってから自分の母親に感謝をするものなのだ。自分の母親に感謝をできるということは、その人物がこの世に於いてどののうな人物であれ、取り敢えずは健全な心を持てたということなのである。親孝行という倫理徳目は自分の心が健全であるならばきちんと持てるものなのである。親孝行という倫理徳目が持てないというのなら、その者の心は大いに歪んでいるものなのである。

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ウィークエンドエッセイ『「済みません」より「有難う」』

●電車の中でネタを考え中

 俺の仕事の哲学に於いて「通勤ラッシュを避ける」というのは重要な考えの1つだ。朝の大事な時間を通勤ラッシュに使っていては、労働の大きな損出になるからだ。俺は現在でもラッシュアワーとは関係のない仕事をしているし、そのため朝早くから仕事をすることができ、午前中にはなんの疲労もなく大量の成果を上げ続けている。

 大体、仕事の経験則で朝のラッシュの時間帯は解っているので、その時間帯に出勤すべきではないのだ。もっと朝早く起きて出勤するとか、逆に朝に行っても仕事をする必要性がないのら、ラッシュ時に電車に乗るべきではないのだ。ラッシュの時間帯に電車に乗るからこそ、通勤で疲れ切ってしまうし、服はグシャグシャになってしまうし、女性は痴漢の被害に遭ったりするのだ。それらはラッシュの時間帯に乗った自分が悪いのであって、他人に責任を転嫁すべきではないのだ。

 俺もたまにではあるが電車を使うが、ラッシュ時を避ける時間帯で使用している。すると必ず座席に座れるものだし、非常に快適な旅になるのだ。俺は電車に乗る時、車両の端っこである連結部分にある座席に座るようにしている。ここに座ると物を置けるし、乗降客に邪魔されずに読書できるので、非常に有効な時間をとして使えるのだ。

 俺はこの座席でこのブログのネタを考えていることもある。いいアイデアが浮かんだらメモを取り、書き綴っているのだ。それを帰宅後、パソコンに入れて、後は毎朝そのアイデアを元に記事を書くのだ。そのため今まで一度たりともネタに詰まったことがないので、他のブロガーの人たちがブログのネタに詰まった話を聞くと、どうしても不思議でならないのだ。

 仕事ができる人とできない人を分けるものに、電車内での時間の使い方というものがある。仕事のできる人はこの時間を有効に使って仕事を進めているし、仕事のできない人は新聞や漫画雑誌を読んだり、音楽を聞いて無駄に過ごしているのだ。若い頃は仕事の移動にグリーン車を使うのは勿体ないではないかと思っていたが、グルーン車に乗れば、その間、確実に座れて仕事ができるようになるので、お金を払ってでも行う価値はあるのだ。

●通勤ラッシュ時に子供を連れて乗り込むのは無謀である

 俺が好きな座席で困るのが、2分の1の割合で優先席だということである。優先席というのは、仕事をしている俺を優先してくれるのではなく、妊婦や老人や身体障害者を優先するということである。車両の端っこの座席は仕事がし易いので、優先席など定められても困るものなのである。それなら優先車両を作ってほしいものだ。それなら他の人々はなんの気兼ねをする必要性がなくなるし、優先車両を使う人々もその車両に行けば確実に座れるようになるからだ。

 大体、電車に乗っていても、身体障害者はまず乗ってこない。1度だけ、身体障害者ではないが、かなりの重病を患っている人が看護する人に付き添われて乗って来たことがあったが、さすがにこの時は座席を譲った。老人も乗って来ることは乗って来るが、最近の老人たちは座席を譲っても座ろうとせず、立っているのだ。自分が老人なのに老人扱いされたくないのである。

 問題はベビーカーを持った母親が乗って来た時である。さすがに子連れの母親が乗ってくれば、誰もが座席を譲るのだが、母親は若いものだから座ろうとしないのだ。座席に座るほど疲れてはいないのだ。そしてベビーカーを持っている以上、座席は必ず2つ要ることになるので、2人分どいてくれなければ、座ってこないものなのである。

 こういう座席の譲り合いは優先席の思想が現場に於いて機能したことになるのだが、これは飽くまでも車両がそれほど混んでいない状態での話である。時たま育児をしている母親などから通勤ラッシュ時に電車に乗ってしまい、大変な目に遭ったという話を聞くが、通勤ラッシュ時に子供を連れて乗り込むのは無謀というものである。誰もが身動きが取れなくなっている以上、誰もが自分のことで精一杯なのである。

 子供がいるなら、通勤ラッシュ時を避けて、早く家を出るか、遅く家を出るかして、通勤ラッシュ時に遭わないような配慮をすべきなのである。満員電車の中で子供がグズろうものなら、大変なことになってしまうからだ。育児をしていると、自動車が重宝するのは、確実に電車の通勤ラッシュを避けることができるからだ。勿論、渋滞に巻き込まれることはあろうが、通勤ラッシュ時の混雑さに比べれば、なんでもないことなのである。

●座席を譲られたら「有難うございます」って言おう

 育児をしている母親に座席を譲った時に気になるのが、「済みません」と言って来ることだ。こういう場合は、「有難うございます」と言うべきなのだが、恐らくのその母親の口癖なのかもしれないが、「済みません」と言って来るのだ。こう言われてしまうと、なんだかその母親が悪いことをしているようでもあり、座席を譲った方もすっきりとした気分になれないのだ。

 この手の母親はどこに行っても「済みません」を連発しているのだろう。考えてみると、口癖として「済みません」という母親は結構多くて、何に対しても「済みません」と言って来るのだ。そのためか育児が大変なものになってしまい、どうしてもトラブルを起こしまくってしまうようになるのだ。

 座席を譲られたのなら、素直に「有難うございます」と言えばいいのだ。そうすればなんの気兼ねもなく座ることができるし、座席を譲った方も気分が良くなり、今後もこういう善行をしようとするものなのである。他人から善行を施された場合、自分もそれに見合う善行をしなければならないものなのである。

 子供がいる以上、周囲に多少の迷惑がかかることは致し方ないことなのだ。それは子供がいれば当然に起こることだし、そういう現象が起こっているということは子供がきちんと成長しているということなのである。だから自分が母親としてなんにも悪いことをしないと考えるのではなく、子供を育てている母親だからこそ悪さを仕出かしてしまうものだし、そういう時はお互い様で助け合えばいいと気楽に考えることなのである。

 何事も自己中心的に考えるのではなく、相手の立場に立って考え、相手の行為をきちんと評価することだ。例えば、座席を譲った人は、自分が座席を座り続けることの利益を放棄してまで、育児をしている母親を優先させている以上、「済みません」では駄目だし、座席を譲られることを当たり前と思っても駄目だ。こういう時はやはり「有難うございます」なのだ。

●母親特権を使用せよ

 初めての育児で育児をしていると、下手をすると母親は子供と2人きりになってしまい、家の外に出ても自分の意見が全て通ると思ってしまいがちだ。家の中では自分は自由に振る舞えるために、いつの間にか傲慢になってしまい、世の中は自分の思い通りには決して動いてくれないという現実を忘れてしまうのである。

 そのため外出すると自分の気に食わないことに出くわしてしまい、その都度、怒りまくっているのだ。こういう場合、不人情な人々が悪いのではなく、傲慢になっている母親の方が悪いものなのである。世の中は自分に親切な人だらけだとは決して思わないことだ。この世は決して自分中心に回っているのではないのだ。

 育児をしていて怒りを発することがなくなるためにも、傲慢な生き方を捨てて、謙虚になることだ。自分が謙虚になりさえすれば、自分が育児で幾ら困っていても、自然と他人の手助けが入るものなのである。水は高い所から低い所へとしか流れないように、自分が謙虚になれば、自然と他人の優しさに出合えるものなのである。自分が傲慢になっているからこそ、他人の手助けが入らないのである。

 自分が赤ちゃんを産んで母親になった以上、母親特権を徹底的に使った方がいい。買い物に子連れで行けば、店の人は値段を負けてくれたり、何かサービスの品をくれたりするものだ。そういう善行を受けた時は、「有難う」って言って相手の善行に対して、自分もきちんと善行を積んでおくことなのだ。

 口癖というのは、無意識の内に自分の心の在り方が出て来てしまうものだ。自分が育児で楽しんでいないと、自然と「済みません」という言葉が出て来てしまうものなのだ。だからこそ育児を楽しむ。育児を楽しんでいれば、自然と「有難う」って言葉が出て来るものなのだ。自分が他人に「有難う」って言葉を多く言っていればいるほど、育児を楽しんでいることになるし、自分の人生も楽しんでいることになるのだ。

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子供は風の子

●とにかく子供は家の外に出せ!

 育児をしているのなら、とにかく子供を家の外に出すことだ。子供を外で遊ばせておけば、子供は自然に成長して行くのである。毎日遊べば毎日運動になって体が鍛えられていくのだ。子供を家の中に置いておくと何をしでかすか解らないが、子供を家の外に連れ出せば、自由に遊んでくれるものなのである。

 子供が遊ぶと体に筋肉がしっかりとつくものだ。幾ら栄養の良い食事を与えても、体を動かさなければ筋肉などつかない。子供が痩せてガリガリというのは褒めたものではなく、骨の周りにちゃんと筋肉をつけていくべきなのである。筋肉がつけば体温が上昇して来るので、滅多なことでは病気をしなくなるのだ。

 外で遊べば脳も鍛えられることになるのだ。家の外で遊ぶためには、頭をフル稼働させて情報を収集し分析しないと遊べないので、自然と脳が鍛えられることになるのだ。自宅の中で本ばかり読んでいたり、テレビを見ればかりいたら、頭でっかちになってしまい、事あるごとに理屈を捏ねて来る子供になってしまうものなのだ。

 自宅が豪邸だと家の中でも充分に遊べてしまうために、外に出て行かなくなってしまうものだ。そのため体格的にも人格的にも大いに欠けた子供に育ってきてしまうのだ。家が小さいとどうしても外で遊ばなければならなくなるので、幼い頃から外で遊ぶ習慣がつくので、自然と体格も人格もしっかりとした子供に成長して来るのだ。

 親が裕福であろうが貧乏であろうが、子供を外に連れ出し、外で遊ばせることの重要性は変わらないのだ。気をつけるべきは、母親が「出ぶ症」の場合であって、母親が自宅にいることを好んでしまうために、子供を家の中に置いておいてしまうのだ。そうなれば子供は外に行く機会を失ってしまうために、体も脳も鍛える機会を失ってしまうのだ。

●免疫力の向上

 子供にとって家の外で遊ぶということは免疫力の点にに於いて非常に重要な意味を持つ。子供は外で遊ぶと、体温の高い状態で自然と外界の細菌やウィルスと戦うことになり、免疫力を向上させていくことができるようになるのである。そうすると、風邪を初めとして、他の病気に罹らなくなるのだ。

 昔から「子供は風の子」と言って子供を外気に晒していたのだが、それは免疫力の点に於いて非常に重要な言い伝えであったのだ。子供を家の外に出さないでいると、子供は体温を下げてしまい、細菌やウィルスがやってきても抵抗することができなくなってしまうのだ。だから家の中でばかり遊んでいる子供はすぐに病気に罹って寝込んでしまうのである。

 子供が免疫力を向上させるためには、2つの方法しかない。1つは家の外に出て遊び、体を鍛えることだ。もう1つは自分が病気に罹ることで免疫力を上げるという遣り方だ。意外なことかもしれないが、子供は外に出て免疫力を上げることができなければ、自分が病気に罹ることで免疫力を上げようとして来るのだ。

 大抵、病気に罹り、その病気を克服した子供というのは、その後、長らく病気に罹らなくなるものだ。そして家の外に出て外気を吸いたくなるものだ。そうやって自然と自分の免疫力を調整しているのである。母親が余りにも神経質だと、病弱な子供を家の中に閉じ込めてしまうものだ。そうなると逆に子供は弱ってしまうものなのである。

 子供の言うことはあてにならないが、子供の体が言うことは結構あてになるのだ。育児をしていれば、子供は家の外に出たがるものだ。だったら子供を家の外に連れ出し、外で遊べばいいのだ。外で遊べば、母親としての手間も省けるので、気楽に見守っていればいいだけになるものなのである。

●定期的に負荷運動を行う

 子供がいると家族揃ってハイキングに行きたがるものだが、これは子供の体や脳に最大級の刺激を与えることになるのだ。子供は自分の住んでいる場所こそが世界の全てだと思い込んでいる。しかしたまの休みに両親に家から遠く離れた場所に連れだされると、その刺激に体も脳も活性化して、フル稼働し始めるのである。

 子供にとってハイキングのようなしんどい運動は、実は非常に大事なのである。人間というのは、常に自分の全ての体力を使わなくてもいいように制限されている。それがハイキングによって制限が解除されると、体を思いっきり動かすことができるので、しっかりとした筋肉が付き始めるのだ。子供の頃からハイキングなどをしている子供に限って、大人になってもしっかりとした筋肉がついているものだし、その筋肉がなかなか落ちないのだ。筋肉トレーニングで意図的につけたものでないので、筋肉が安定してついてしまうのである。

 子供をハイキングに連れて行くと、全ての物が知らないことばりなので、脳はフル稼働することになる。しかも日常生活とは関係ないものばかりなので、脳内の制限が突破されてしまい、知能が急激に高まって来るのだ。一見、刺激的な都会で暮らす方が脳は刺激されると思ってしまいがちだが、都会の刺激は所詮人間が作り出したものであって、自然界が持つような神妙な刺激ではないのだ。だから子供の頃になんどもハイキングに連れて行くと、その後の人生で高度な想像力を発揮することができるようになるのだ。

 子供をハイキングなどにつれていくと、疲れ切ってしまい寝てしまうものだ。それだけ日常では使わない体力を使ったり、頭もフル稼働させたのだ。だから疲れたら寝てしまうので、その時は寝かしておくことだ。重い荷物になるが、それだけ素敵な思い出をたくさん得たのである。

 夫婦に子供がいるのなら、絶対に休日を「寝て曜日」にしないことだ。夫は仕事で疲れているのは解るが、家でゴロゴロしていても疲れは取れないものなのだ。それよりも家族全員でどこか自然の中に連れて行き、そこで遊んでいれば、自然と疲れは取れてしまうものなのである。夫はどうやっても妻よりも育児をしていないのだから、せめて休日くらいは妻子と一緒に遊ぶことだ。そうすれば日頃ネチネチと不満を言われないものなのである。

●子供にとって外は情報がいっぱい!

 子供を育てているのなら、子供を外に連れ出して、経験値を積ませることだ。自分で聞いたよりも、実際に見たものの方がインパクトはでかいものなのである。家の中で幾ら考え込んでいても、外に出ていれば様々な情報を見つけることができるものなのだ。本当の情報は家の外に出なければ得られないものなのである。

 子供が外で遊ばずに、自宅で絵本を読んだり、テレビを見たりして、頭でっかちになってしまうと、いざ自分で行動を起こす時に何もできないので、行動を起こすことをしなくなってしまうのだ。行動を起こすための経験値がないものだから、言い訳ばっかりの子供になってしまうのである。

 絵本の中でゾウさんを見るのと、実際に動物園でゾウさんを見るのとでは、インパクトが違い過ぎるものなのである。テレビの中で自然界の現象を映像として見せていても、実際に自然の中に連れて行き、そこで見た自然の姿というのは、テレビでは絶対に味わえないものなのである。

 子供の知能を高める教育方法には様々なものがあることだろう。しかし子供を外で遊ばし、自然の中に連れて行く教育法こそが最高の教育法なのである。我々は自然の中で命を授けられているものだし、その自然の威力を知らなければ、何も知ったことにはならないのだ。

 母親にとって毎日子供を外に連れ出すことにそれほどの意味があるとは思わないものだ。休日や休暇に家族で自然の中に行くより、観光旅行に行ってしまいたいものだ。しかし子供の頃に外で遊び、自然の中で遊ぶからこそ、その子供は脳の中で様々な限界が突破されて行き、大人になってから高い知能を発揮することができるようになるものなのである。

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オムツからパンツへ

●母親を悩ませるパンツへの移行

 幼児にとって最初の大出世となるのが、オムツからパンツへの移行である。母乳から離乳食への移行は、年齢が低すぎるために、子供の方はそれほど重要視してこない。しかしオムツからパンツへの移行となれば、年齢的にも充分大きくなっているので、子供の方は重要視してくるのだ。

 子供にとってオムツというのは、非常に穿き心地が悪いものなのである。オムツは寝た切りの状態や、ハイハイしている状態なら、それの方がいいのだが、一人歩きし始めると、そうではなくなるのだ。パンツを穿いた時の動き易さは、大人からは想像できないくらいに大きい意味をもっているのだ。

 オムツの卒業は子供なりに大きな試練なので、充分に頃合いを見計らってからすべきものなのである。子供には個人差があるのだから、絶対にオムツ取り合戦に参加するな。余所の子がオムツを卒業しても、我が子にとってはオムツが必要なら、オムツは必要なのである。

 もしもオムツの卒業が早過ぎれば、子供の自尊心を大いに傷つけることになるのだ。オムツが未だ必要なのに、母親によって強制的にパンツを穿かされると、当然にお漏らしをしまくることになるので、その都度、母親から叱られてしまい、子供の方が委縮してしまうことになるのである。

 意外なことかもしれないが、引っ込み思案になってしまうような子供は、オムツの卒業が早すぎたために、それが「心の傷」になってしまい、どうしても積極的に行動することができなくなってしまったのだ。母親はパンツへの移行に悩むものであるが、時期を誤ってしまうと、子供の方はそれ以上に悩み続ける人生を送ってしまうようになるのだ。

●パンツをしたらお漏らしをするのは当たり前

 子供がオムツを卒業し、パンツを穿いたら、一切のお漏らしをしなくなるわけではないのだ。寧ろ、平気でお漏らしをしてくるものなのである。その際、決して怒らないことだ。子供はお漏らしをして当たり前なのである。子供の方もこれが悪いことだと解っているので、後は自分で後処理をすればいいのである。

 子供なら寝小便をするのも当たり前だ。子供用の布団は小便の臭いが染み付いているものだ。それは子供が健康に育っている証拠なのだ。子供用の布団には高級品を使うべきではない。どうせ寝小便で汚れる以上、高級品を使うこと自体が無駄だからだ。子供が寝小便をしたら、怒らずにとにかく天日干しだ。

 子供のお漏らしを気にしてしまうのなら、子供には絶対に冷たい飲み物を飲ませないことだ。子供は冷たい飲み物を飲んでしまうと、内臓を冷やしてしまうので、それでお漏らしをしまくるようになるのだ。特に牛乳には最も気をつけるべきであって、牛乳はただでさえ最も体を冷やす飲み物なのに、それを冷蔵庫で冷やすのだから、子供の内臓は冷え切ってしまうのだ。

 子供に飲ます飲み物は冷蔵庫で冷やすな。必ず温めてから飲ますことだ。例えば麦茶など暑い夏に冷たい麦茶を飲むのも美味しいが、暑い夏だからこそ、麦茶は温かくし、そこに黒砂糖を入れた物を飲ませればいいのだ。こうすると子供は内臓を温めることができるので、お漏らしをしなくなり始めるのだ。

 子供にとって最大の天敵がアイスクリームである。アイスクリームなどは絶対に食べさせないことだ。氷点下の物を食べさせれば、内臓が冷え冷えに冷え切ってしまい、子供はお漏らしをしまくるようになるのだ。アイスクリームを食べさせなければ、お漏らしだけでなく、他の病気も撃退できるようになるものなのである。

●日中に体を動かして体を温めておく

 人間は体を動かせば体温が上がるのだから、日中は外出して体を動かすことで体を温めておくことだ。公園などで思いっきり遊ばして、体を充分に動かしておくことだ。そうすると、自然と尿意が起こり、小便をしたくなるものなのである。公園では便所を確保することだ。子供が小便をしたいのに、便所がないと小便ができなくなり、我慢してしまうことになるからだ。

 母親が外出を嫌う性格で、自宅の中ばかりにいるようであるなら、子供の運動量も減少してしまうので、お漏らしをしまくるような子供になってしまうのだ。とにかく子供は外に出して遊ばせることである。買い物などにも連れて行くだけで、子供にとって大きな運動になるものなのである。

 体を動かすことがなぜそれほどまでに重要かというと、体を動かすと体内の不要な水分が膀胱に集中するようになり、自然と尿意を感じられるようになるのだ。子供にとって今までオムツをしてきたために、垂れ流しの状態であったのだが、パンツを穿くということは垂れ流しをしてはいけないということなのだ。尿意を感じさせる機会を与えないと、子供はお漏らしをやめて、便所で小便や大便をする習慣が抜けないのである。

 日没後は当然に運動量が減るので、夜に飲み物を飲ませないことだ。水分補給は夕食時にすべきであって、夕食を食べ終われば原則として飲み物を飲ませないことだ。こうすれば夜間に不要な水分を排出する必要性がなくなるので、当然に寝小便の機会が減少していくのだ。

 夜は体温が下がって行くので、風呂で体を温めさせるということは必要なことだ。子供にとってはお風呂は非常に熱いものなので、当然に体はポカポカになるものなのである。だからこそ翌朝まで高体温を維持できるのであって、そうなれば体は寒さを防ぐために強制的に不要な水分を排出する必要性がなくなり、寝小便をすることがなくなるのだ。

●最終兵器「ニガリ」

 母親にとって非常に困るのが、まだ子供がお漏らしや寝小便をする時期なのに、子供を連れて外泊しなければならない時だ。たとえそれが自分の実家であったとしても、自分の両輪はいい顔をしないものだ。子供はお漏らしや寝小便で泣き出してしまうし、母親の方もその責任を取らざるを得ない立場に立たされてしまうのだ。

 そういう時は最終兵器として「ニガリ」を使うことだ。外泊する際に、子供にニガリを飲まして、少なくとも寝小便だけは阻止するようにするのだ。ニガリには大量のマグネシウムが含まれており、このマグネシウムが大量にあると膀胱が正常に機能して、子供に尿意をきちんと教えてくれるようになるのだ。ニガリを白湯にニガリ2滴から3滴入れて、それを飲ませばいいのだ。

 母親が白米や白パンを食べて育ち、飲酒の習慣がある場合、子供は深刻なマグネシウム不足に陥っているので、ニガリでマグネシウムを補給しないと、長らくお漏らしや寝小便が続いてしまうことになるのだ。乳児の頃にマグネシウム不足の母乳を飲まされ続けたために、膀胱がきちんと発達してしまうのだ。

 子供がお漏らしをしなくなったり、寝小便をしなくなったりすれば、必ず大袈裟に褒めることだ。大人にとっては大したことがなくても、子供にとってはお漏らしや寝小便をしなくなるということは、大きな成長なのである。それを母親が喜んでくれるからこそ、子供は自信をつけ、自尊心を高く持つことができるようになるのである。

 世の中には頭のいい人であっても、要点を掴まなかったり、誤った方向に自分の能力を使ってみたりと、腰の座っていない人たちがいるものだ。この手の人々は子供の頃にオムツの卒業で何かしらのコンプレックスを抱いてしまい、その後の人生でそのコンプレックスを自分で解消することができなかったからこそ、自分に自信がなく、自分を過信するか逆に自信喪失となり、傲慢で卑劣で邪悪な行動を平気で取って来るようになるのだ。要は子供の頃にパンツへの移行で劣等感を負ってしまい、その劣等感の裏返しとして、自分の能力を悪しきことにしか使えなくなってしまうのである。

 母親は我が子のオムツを卒業させることに急ぐべきではないのだ。時期を見計らって子供に劣等感を植え付けないで、パンツに慣らして行けばいいのである。パンツへの移行は紆余曲折があるものだ。しかし子供にとっては自分がパンツを穿き、母親に見守られながら、それを喜んでくれるからこそ、子供はきちんとパンツを穿きこなせることができるようになるのである。

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頭を良くしたいのなら、ファストフードを食べさせるな

●ファストフードで馬鹿になる

 我が子を頭のいい子供にしたいのなら、とにかくファストフードを食わさないことである。ファストフードを食べれば馬鹿になり、ファストフードを食べなければ頭が良くなって行く。これほど単純な図式もないのだ。ファストフードというのは、人間が加工に加工尽くした料理なので、評価すべき栄養分はないのである。加工食品ですら避けるべきなのに、加工尽くした料理など絶対に避けるべきなのである。

 そもそもファストフードは異常な料理なのである。普通、肉料理を食べると体温が上がるものだ。しかしファストフードでは肉がメインとして使われているのに、体温が上がらないのだ。焼肉を食べれば、汗を流しながら食べるものだ。だがマクドナルドでハンバーガーを食べれば、汗など絶対にかかないのだ。体温が上がらないということは、体内の代謝が異常になっているということなのである。

 それにファストフードでは肉の量に対して野菜の量が異常に少なすぎる。肉を食べたのなら、その3倍以上の野菜を食べるというのが鉄則なのだ。この鉄則を守れば肉を食っても健康になるし、この鉄則を破れば病気になる、西ヨーロッパ諸国の料理のように、野菜を生で食べていたら、とてもではないがそれだけの量を食べることはできない。中華料理に野菜を炒めて、野菜を圧縮するからこそ、肉の量の3倍もの量の野菜を食べることができるようになるのである。

 それだからこそ、ファストフードを常食しているような子供は、子供なのに肥満児であり、しかも病的な肥満児だ。運動させれば、「動悸」「息切れ」「眩暈」を起こすものだし、これでは老人となんら変わらないのだ。ファストフードでは代謝が物凄く悪くなるために、肉を食ってもそれをきちんと消化吸収できず、エネルギーに転換されず、体内に老廃物や毒素として蓄積されるからこそ、体力を激減してしまうことになるのだ。

 体がそれだけ異常になっていれば、脳に充分なエネルギーなど回ってこないものだ。だから、ファストフードを食べている子供に限って馬鹿だし、学校の成績も悪いものだ。しかもファストフード店にやってくるような人々に優れた人物などいないから、自分にとって学ぶべき大人たちがいないので、平気で我儘を通してしまし、欲望のままに生きるような家畜レベルの人間になってしまうのだ。

●子供の頃には本物の味を覚えさせよ

 味覚は子供の頃に出来上がるものだ。それゆえ子供だからこそ本物の味を覚えさせるべきなのである。ファストフードのようなジャンクフードを子供の頃から食べさせていると、その味がインプットされてしまい、大人になってもジャンクフードを食べ続けてしまうものなのである。

 親の中には「子供には贅沢をさせるな」と言い出す人もいるが、贅沢をさせることと、本物の味を覚えさせることは別物である。本物の味は粗食に於いても美食に於いてもできる。しかしファストフードでは常にインチキな味しか出て来ないものだ。贅沢をし過ぎてしまえば、珍味に走って異常な味を追い求めてしまうものだ。本物の味なら値段に関係なく、作ろうと思えば作れるものなのである。

 これだけは覚えていた方がいいのは、外食産業というのは顧客をりピートさせるために、味に対してイカサマをしてくるということだ。一見、美味しく感じられるのだが、実は栄養バランスを崩しているのだ。人間は栄養バランスが整った食事よりも、栄養バランスが崩れた食事の方を美味しく感じられてしまうからだ。

 ファストフードが問題なのは、イカサマを通り越して、インチキを行っているということなのである。食品添加物を大量に入れてしまい、お客の味覚を狂わすことで、お客をりピートさせているのである。だからマクドナルドにしても、一度その味を覚えてしまうと、何度でも遣って来るようになるのだ。

 家庭料理が素晴らしいのは、栄養バランスを整えつつ、美味しい料理を出して来るということなのである。家庭料理にはどの家庭料理に於いても、外食産業で出されるような料理の華やかさはないものだ。しかし家族の誰もが飽きることなく食べ続けることができるのだ。しかも家族全員が健康でいられるのだ。そのような料理は外食では食べることができあにのだ。

●テレビを消せば時間は有り余る

 子供にファストフードを食べさせるような母親は、「忙しくて時間がないから料理を作る暇がない」という。この手の馬鹿な母親は口では「忙しい」と言いながら、テレビをたっぷりと見ているものだ。テレビを見ているからこそ料理を作る時間がなくなるのであって、テレビを消せば時間が有り余ることになるのだ。

 仕事をしている母親でも、幾ら仕事が忙しいからといって、料理をしないことはなく、大急ぎで料理をし、子供が食べられる状態にしてから出掛けるものだ。それなのに外で働いてもいない母親が、料理を作る時間がないというのは、どう考えてもおかしいことなのである。料理を作る時間は必ずある筈なのである。

 テレビを付けっ放しにするな。テレビを見る時は、テレビ欄で番組を確認し、見たい番組があるなら、ビデオに取ればいいのだ。そうすればテレビを見る時間が激減するものなのである。ビデオに取るのは手間暇がかかるが、そうやってテレビ番組を見ていると、自分が本当に見たい番組はごく僅かだと解るようになるものだ。

 特に午前中は可能な限りテレビを見ないようにすることだ。人間は午前中に於いてこそ、高い集中力を発揮することができるので、この時間帯にワイドショーなどのテレビ番組を見ていると、家事をする量が激減してしまい、その結果、1日中時間不足に悩まされることになるのだ。だから、午前中はテレビを消してテキパキと家事をこなしてしまい、午後以降は時間に余裕が持てるようにすべきなのである。

 テレビを見る時間が少なくなると、全ての行動は機敏になり、常に先手先手で攻めていくことができるのである。それゆえ料理に関しても献立が頭に浮かび、短時間で作れるようになってしまうのだ。この状態にならないからこそ、事あるごとにファストフードで食事を済ましてしまおうと言い出してしまうのである。

●母親の手料理こそが頭のいい子を育てていくことになる

 幾ら高級なレストランに行っても、絶対に手に入っていないスパイスがある。それは「母親の愛情」だ。幾ら既婚女性がオーナーであっても、お袋の味は出せないものだ。それに似ているようなものは出せるが、絶対にお袋の味ではないのだ。あ袋の味というのは、自分の母親にしか作り出せないものなのである。

 母親が我が子の健康的な成長を願う気持ちがその料理に詰まっているからこそ、母親の手料理というのは非常に美味しいのである。大方の母親たちの料理はそんなに巧くないものだ。しかし母親の手料理には愛情が入っているからこそ、技術的には劣った料理でも、子供は美味しく感じることができるのである。

 大体、世の中で美食家を称している人々は、子供の頃に母親の愛情の籠った料理を食べたことのない人々ばかりだ。世界各地の美食を食べ歩いても、母親の手料理に勝るものはないのだが、子供の頃に母親から愛情の籠った料理を食べていないと、その当たり前すぎることが全く解らなくなるのである。

 勿論、母親が毎回料理を作っていれば、母親の方が勤続疲労してしまうものだ。だからたまの休日には家族揃って外食すればいいのだ。しかしその際にファストフード店で食事を済ましていたら、今までの成果が台無しになってしまうものなのだ。家族が揃って出かけるということは滅多にないことなのだから、外食する際にはきちんとしたレストランで食事をすべきなのである。

 母親は栄養バランスを考えて料理を作り、子供を健康的に育てて行くことだ。そして母親の愛情をたっぷりと込めることだ。そういった母親の手料理を子供が食べていれば、その子供は高い知能を持ち始めるようになるのだ。我が子の頭を良くする料理は、この世で自分しか作り出せないという自負を持つべきなのである。そういう責任感こそが料理を楽しくさせるし、子供が食事している姿を見て楽しくなることができるようになるのである。

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純粋物質の恐ろしさ

●凶暴な子供を作り出す純粋物質

 自然界に存在する物質は全て不純物である。様々な物が混ざり合っているからこそ、それを人間が摂取しても、人体に安全でいられるのである。しかし人類は不純物質が当たり前であるがゆえに、純粋物質を作り出すことに深い憧れを抱いてきた。古代に於いては魔術師たちが純粋物質を作り出そうとしたし、中世では錬金術師たちが純粋物質を作り出そうとしたり、近代に於いては科学者たちが純粋物質を作り出してしましまったのだ

 例えば、塩は通常、岩塩か天日塩の形でしか人類は手に入れることができない。しかし科学の力を使えば、塩化ナトリウム「99.99%」以上の物を作ることが可能になるのだ。これが化学塩であって、化学塩というのは純粋物質であるがゆえに、人体に非常に危険な物質となるのである。人間の体は天日塩だと塩化ナトリウム以外に様々なミネラルが含まれているので、人体は天日塩を摂取すると正常に体を機能させるのだが、化学塩だと塩化ナトリウム以外のミネラルが入っていないために、途端に人体が異常になってしまうのである。

 砂糖も黒砂糖であるなら、ビタミンやミネラルがたっぷりと入っているために、人体には安全なのに、黒砂糖を白砂糖に変えてしまうと、ビタミンやミネラルが切り捨てられてしまうために、非常に危険な砂糖になってしまうのだ。白砂糖を摂取していると、血糖値が急上昇した後に急下降するので、キレる子供が出現して来てしまうのである。

 純粋物質はこれほどまでに危険なのに、どうして人々に食されるかというと、純粋物質は味を強烈にさせるからだ。天日塩を使えば、味に奥行きが出て来るのだが、化学塩だと塩の味が強烈に効いて来るのだ。黒砂糖を使えば、味がまろやかになるものだが、死蝋砂糖を使うと砂糖の味が強烈に効いて来るのだ。だからこそ外食産業は化学塩や白砂糖を使って、味を強烈にさせることで、客を惹きつけるのである。

 しかしその代償が体内のビタミンやミネラルを奪ってしまうということなのである。化学塩や白砂糖が人体に入ると、それだけでは機能しないので、体内からビタミンやミネラルを奪うことで機能しようとするのだ。もしも体内にビタミンやミネラルが不足していれば、病気になることでその異常を知らせるのだ。化学塩なら腎臓病だし、白砂糖なら糖尿病である。体が悲鳴をあげることで、もうこれ以上摂取してくれるなと言って来るのだ。

●化学塩から天日塩へ

 子供を健康に育てたいのなら、塩には拘ることだ。化学塩を使うのではなく、天日塩を使うようにすることだ。塩は毎日使うものゆえ、子供に有害な塩を使い続けると、取り返しのつかない事態になってしまうのだ。もしも我が子が難病奇病に罹ったのなら、その病気云々よりも、塩を疑った方がいいのだ。子供に危険な塩を使い続けたからこそ、我が子が難病奇病になっていまったのである。

 小児性白血病や小児癌にしても、母親が化学塩を使い続けたために、子供の体内に於いてミネラル分が決定的に不足したために、白血病や癌になることで母親にその異常を知らせているにすぎないのだ。通常、白血病や癌になると食欲が落ちるものだが、それなのに母親が無理矢理に化学塩の入った食事を食べさせるからこそ、病状が悪化していくのである。因みに、病院で出される病院食も化学塩が使用されているので、病院食を食べれば食べるほど症状が悪化していくのだ。

 家庭で料理をする際は、化学塩を除去して、天日塩を使うようにすることだ。天日塩を使うと腎臓が正常に機能することになるので、健康そのものでいられるようになるのあ。天日塩を使えば味に奥行きが出て来るので、子供はその味になれるとインスタント食品を食べなくなるし、外食も嫌うようになる。母親が料理を作っても、その味をきちんと理解してくれる子供に成長してくれるのだ。こうなると料理の作り甲斐が出て来るようになるのだ。

 天日塩だけを使えばいいのではなく、ニガリも使うようにすることだ。ニガリは海水を精製する過程で天日塩を取り除いた後に残った物質だ。当然、このニガリにはたっぷりとミネラルが含まれているので、天日塩とニガリを一緒に使うと、最高レベルで海のミネラル分を摂取することができるようになるのだ。

 例えば、味噌汁を作る際に、天日塩を少々入れ、更にニガリを数滴入れると、今まで飲んだことのないような非常に美味しい味噌汁に早変わりするのだ。料理にミネラル分を多く含ませると、母親の料理の腕が下手でも、一流のレストランを凌駕する味を出せるようになるのだ。炒め物を作る時なども、天日塩とニガリを入れると、格段に味が良くなり、今まで料理を褒めなかった子供たちも母親の料理を褒めてくれるようになるのだ。

●白砂糖から黒砂糖へ

 家庭で料理する際に、絶対に避けるべきは「白砂糖」である。白砂糖は化学塩とは違い、一旦使用してその味に慣れてしまうと、麻薬のように常習性を持つようになってしまうので、白砂糖から抜け出すのが困難を極めてしまうのだ。人類は長らく炭水化物不足に悩まされて来たために、白砂糖のように炭水化物が純粋化された物には非常に弱いのである。

 しかも白砂糖は血糖値を乱高下させるので、白砂糖に子供が慣れてしまうと、非常に感情的な子供になってしまいし、本来なら我慢できる所なのに感情を爆発させてしまうのだ。しかも白砂糖は体内のカルシウムを奪ってしまうので、身長が低くなってしまうし、虫歯や骨折を平気で起こすようになってしまうのだ。

 日本人は白米を食べる人々がいるので、白米を常食し、白砂糖を食べていると、明らかに膵臓が勤続疲労を起こしてしまい、若年性糖尿病という事態になってしまうのだ。膵臓を疲労させないためにも、白米ではなく玄米にし、白砂糖ではなく黒砂糖に変えておくことだ。

 白砂糖を排除して、黒砂糖に切り替えることだ。但し、料理本などでは全て砂糖と書かれたものは白砂糖のことなので、黒砂糖を使うとその分量が違ってくることになるのだ。そこで黒砂糖を何グラム使えばいいか、常に記録しておくことだ。黒砂糖を使うと、母親の方は肥満にならないので、自分の体型を維持するためにも、黒砂糖を使うべきなのである。

 黒砂糖を使ったお菓子に、蜂蜜を掛け合わせると、相乗効果を出して、味に奥行きが出て来て、非常に美味しくなるのだ。ホットケーキのように、生地の方に黒砂糖を使い、そこに蜂蜜をかけると、子供にとっては堪らない絶品料理になるのだ。蜂蜜も蜂蜜だけを集めた物であるなら、健康を増進することになるので、必ず家に置いておくことだ。

●加工食品やお菓子には充分に気をつける

 子供の味覚をというのは、実は母親よりも鋭いのである。そのため母親が「これは塩辛いかな」「甘いかな」と思う物は、子供にとっては強烈な味として記憶されてしまうのである。その記憶の蓄積こそが、その子の味覚になってしまうために、子供の頃から化学塩や白砂糖を摂取していると、味覚か完全に狂ってしまい、大人になってから化学塩や白砂糖を使った料理の方を美味しいと感じてしまうようになるのだ。

 母親が自宅で天日塩や黒砂糖を使っても、加工食品などでは化学塩や白砂糖が使われているものなので、加工食品を食べる回数が多いと、子供は知らず知らずの内に、味覚が狂って行ってしまうことになるのである。子供の味覚を正常にさせたいのなら、加工食品を余り購入しないようにすることだ。食べ物というのは、加工すれば加工するほど、栄養は劣化していくものなのである。大量に食べている筈なのに、栄養不足に陥ってしまうのである。

 お菓子にしても市販の物はできる限り控えるようにすることだ。お菓子を美味しくさせるためには白砂糖を大量に使えばいいので、この味に一旦慣れてしまうと、白砂糖を使ったお菓子の方が美味しいと感じてしまうからだ。子供の味覚が狂わないように、自宅でお菓子を作り、安全な形で子供に食べさせ、その味に慣らしておけば、市販のお菓子を食べたいとは思わなくなるものなのである。

 外食も出来る限りしないことだ。外食も化学塩や白砂糖をたっぷりと使っているからだ。外食の多い子供に限って、病気をしているものだし、健康であってもとてもではないが子供らしい体力を持っていないものなのである。しかし生活して行く上では外食をすることもあるので、その際は翌日の朝に白湯にニガリを数滴入れて飲むようにすることだ。こうすればミネラル不足を多少は解消できるものなのである。

 化学塩や白砂糖を使っていると、子供の方だけではなく、母親の方もおかしくなっていく。その典型例が肥満である。母親は母親体型になるために多少は太るが、肥満になることは本来ないものなのである。しかし化学塩や白砂糖を使い続けたために、体内の代謝が悪くなってしまい、肥満になってしまったのだ。

 肥満になれば、「腰が痛い」「膝が痛い」「頭が痛い」とか言い出し始め、ボツボツと病気をし始め、病院に行っているのに、非常に治りが遅くなってしまうものなのである。理由は簡単で、ビタミンやミネラルの不足で病気になったというのに、その原因を作り出した化学塩や白砂糖を使い続けているからだ。こうなれば薬でも手術でも治らないのだ。

 塩や砂糖は調味料の中でも重要な調味料であるので、この調味料に関して間違った物を買わないことだ。天日塩や黒砂糖を使っているだけで、料理の味がしっかりとした物に成って来るのだ。そうなれば料理の腕が上達し始め、夫や子供たちが母親の作ってくれた料理を喜んでくれるようになるのだ。その回数が多ければ多いほど、夫も子供たちも健康で居続けてくれるものなのである。

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子供の好き嫌い

●母親を悩ます子供の好き嫌い

 母親を悩ますものに、子供の好き嫌いがある。食べ物に関して好き嫌いの激しい子供がいると、食事をする際に母親を翻弄して来るので、本当に困るものなのだ。しかも子供の好き嫌いを受け入れてしまうと、子供中心に料理を作らねばならず、とてもではないが栄養バランスを確保することができなくなるのだ。

 子供が好き嫌いをして来た場合、その食べ物に関しての好き嫌いを真面目に受け取ってはならない。殆どの子供の場合、実は子供にとって「母親の母性愛が不足している」からこそ、子供は母親の母性愛を得る手段として好き嫌いを言って来ているにすぎないのだ。ここを見破らないと、後は子供に主導権を奪われっぱなしになってしまうのだ。

 どうしてこんなことが起こるかといえば、子供が食事を自分で取れるようになると、途端に自治領域が拡大するので、母親が子供に手を出す機会が減少するのだ。それは子供が成長しているということで微笑ましいことではあるのであるが、子供にとっては今まで母性愛を大量に注がれていたのに、途端に母性愛の量が減少して来るので、不安になってしまうのだ。

 しかも母親は子供が自立などしていないのに、子供が自分で食事できるようになったら、それが自立した証と勘違いしてしまい、母性愛を出さなくなってしまうのだ。自立というのは小学校を卒業してから起こるものであって、幼児の段階では絶対に自立することはないのだ。それなのに母親が子供を自立したと思い込んでしまうからこそ、子供は母親に反抗する形で食べ物の好き嫌いを言って来るのだ。

 それゆえ、母親は絶対に自治領域の拡大を自立とは勘違いしないようにし、子供が食事をし始めても、きちんと母性愛を注ぐことだ。子供とベタベタしたり、子供と一緒に遊ぶというのh、想像以上に大事なことなのだ。子供が喋れるようになっているからといって、子供を「小さな大人」だと決して思わないことだ。子供は子供だし、母親の愛情をたっぷりと必要とする時期なのである。

●食事の量そのものが多い

 子供の好き嫌いが多い場合、物理的原因としては食事の量そのものが多いということがある。母親が子供の成長のためだと思ってはりきってしまい、食事の量を多く出し過ぎると、その思いとは裏腹に子供は好き嫌いをすることで、食事の量を調節しようとするのだ。子供は胃袋が小さいために、それほど多くの量を食べられないのであって、食事量を制限するために好き嫌いを言い出して来るのだ。

 まず家族全員が揃って食事をする際は、両親に多くオカズを分けてしまい、子供は飽くまでもお裾分け程度の少ない量にさせてしまうのだ。両親が大量にオカズを食べていれば、自分には少ない量のオカズしかないので、それをしっかりと食べざるをえなくなるのだ。絶対にやってはならないのは、親と子供のオカズの量を平等にしてしまうことだ。これをやると、子供はオカズを得られるのは当然だと思ってしまい、途端に好き嫌いを言い出して来るのだ。

 母子で食べる場合、母親の食事の量を多くし、子供の量は少なくすることだ。それと母親が食事に手をつけるまで絶対に子供には食事に手をつけさせてはならない。子供を優先させ、母親の食事の量が少ないと、子供は自分こそがこの家の主人だと勘違いしてしまい、母親を服従させるために、好き嫌いを言い出して来るのだ。母親が1口ご飯を食べてから、やっと子供は箸を手にして、食事を食べることができるようにさせるのだ。

 子供にとってオヤツというのは、かなりの量になってしまうものなのである。そのためオヤツの量が多いと、食事の時間になってもお腹が空かないために、好き嫌いを言って来るのだ。子供が好き嫌いを言うようであるなら、絶対にオヤツを与えないことだ。オヤツなど母親が買い物の際に買わなければ、自宅に存在することなどなくなるものなのである。

 食事を食べたのなら、とにかく外で遊ばせることだ。外で思いっきり遊ばせれば、エネルギーが消費されるので、食事の時間になれば、当然にお腹が空くのだ。その状態で食事を出せば、好き嫌いなど1言も言わずに食べるものなのである。子供を自宅の中に置いておくからこそ、子供はお腹が空かず、好き嫌いを言い出して来るようになるのである。

●野菜の臭い

 子供が嫌いな食べ物の代表格に「人参」や「ピーマン」というものがあるのだが、これらの野菜は大人にとってはなんにも感じなくても、子供にとっては臭いと感じてしまうのだ。子供の嗅覚や味覚は大人の嗅覚や味覚よりも遥かに機能が上なので、臭いのある野菜を臭いと感じ取ってしまい、それで臭いのある野菜を食べなくなるのだ。このため臭いのある野菜に関しては、その臭いを巧く消すという料理法が必要となって来るのだ。

 人参は「リンゴ人参ジュース」にして、リンゴの力によって人参の臭いを消してしまうことだ。このジュースはリンゴと人参をミキサーにかければ出来上がりだ。それと人参を細かく刻んで炒飯にするのもいいし、人参の天麩羅を作ったりして、油の力で人参の臭いを消し去ってしまえば子供は好き嫌いを言うことなく食べるものなのだ。

 ピーマンは野菜の中でも子供にとって非情に臭い食べ物なので、絶対にサラダにして出さないことだ。ピーマンは油の力を使って臭いを消すという作業を基本とすることだ。ピーマンの天麩羅もいいし、ピーマンに挽肉を詰めて油で揚げれば、臭いなど消え去っていくものなのだ。

 子供が好き嫌いを言わないように、子供に農業体験をさせてみることだ。子供にとっていきなり見知らぬ野菜が食卓に遣って来るからこそ、好き嫌いを言ってしまうのであって、農業体験をして、野菜が育つ所を見れば、野菜に対して好き嫌いを言い出さなくなるものなのである。

 子供が野菜に関して好き嫌いを言ってきた場合、それは母親の母性愛不足が原因であることもあるが、母親の料理が下手だということもあるのだ。料理本を読むなり、料理番組を見るなり、お料理教室に通うなりして、自分の料理の腕を上げることだ。料理の基本が出来てないと、巧く出来たとしても、なんとなく不味いと感じてしまうものなのである。

●釣られ食いを引き起こす

 子供には絶対に1人で食べさせないようにすることだ。母親はどんなに忙しくても、食事の時間だけは子供と一緒に取るようにすることだ。そして家族全員が揃ったら、父親を頂点に据えて、父親がいるからこそ食事を取ることができるのだということを教えることだ。妻が夫を蔑ろにしていると、子供も母親の姿を見習って父親を蔑ろにし、次いでは母親をも蔑ろにしてくるのだ。

 時には家族全員で墓参りに行き、子供に御先祖がいたからこそ、自分がこの世に存在できるだということを教えることだ。どんなに好き嫌いの激しい子供でも、墓参りをさせると好き嫌いが治まるものなのである。その夫婦がどこか傲慢な所があると、墓参りには移行としなくなるので、その傲慢さを子供が感じ取ると、得体の知れない好き嫌いを開始して来るものなのである。

 食事は基本的に家族と一緒にするものであるが、かといっていつも家族だけで食べないようにすることだ。たまには夫の実家や妻の実家に行って、我が家で食べる料理とは違う料理を食べる機会を与えることだ。それとママ友同士で昼食会を開いて、ママ友1人ずつが1品持ち寄ってくれば、結構な昼食会になるものなのである。

 子供にとっては他の子供が好き嫌いをすることなく食べているのに、自分だけが好き嫌いを言っているというのは、結構恥ずかしいものなのである。だからこそ家族以外の子供たちがいる所で食事をすると、それい釣られて嫌いなものでも食べてしまうのだ。この「釣られ食い」こそ、食べ物の好き嫌いをなくすものなのである。

 子供の好き嫌いは絶対に認めないことだ。子供がこれをやると食事の時間が長くなるし、無駄な手間が必要となってきて、母親を疲労させるものなのである。その好き嫌いに対症商法を施すのではなく、一刻も早くその裏にある物に気付くことだ。それは母親の母性愛不足であったり、料理が下手ということであるのだ。自分が母親として成長していないからこそ、子供が好き嫌いをすることで、その異常さを教えてくれるのだ。母親が自分を変えて成長してしまうと、子供の好き嫌いはピタリとなくなるものなのである。

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ウィークエンドエッセイ『ルーピー鳩山に見る三代目の破滅』

●悪魔の一族「鳩山一家」

 大体、初代というのものは、貧乏から出発しても、勤勉に働き、家計をしっかりとしていれば裕福になっていくものだ。初代は初代運を持っているために、本家から切り離され、未開の地を開拓して、そこで勢力を拡大しなければならないという宿命を背負っているのである。そして初代の成功を受けた2代目は、余り手広く勢力を拡大するのではなく、守成に回って守りを固め、その家の家運を安定させなければならないのだ。2代目が家運を安定させてくれるからこそ、3代目が飛躍して行くことができるようになるのである。

 明治憲法体制が戦争に大敗北して破滅して行ったのは、初代の人々が作り上げてくれた栄光を、2代目の人々が守ろうとせず、そして3代目の人々が政治を暴走させることで、破滅して行ってしまったからなのだ。現在、昭和憲法体制は2代目の人々が去りつつあり、3代目の人々に変わりつつある。昭和憲法体制に於いて初代を担った人々は戦争で荒廃した国土を物の見事に復興させたが、その後の2代目の人々は初代の人々よりも遥かに劣り、更には3代目の人々は建設することなく、破壊することに熱中している有様なのである。

 折しも、自民党は衆議院議員選挙で大敗北し、長期政権に終止符を打ったが、政権交代した民主党の政治家たちは今までの自民党の政治家たちよりも余りにもひどすぎる連中である。自民党のように政治家たちをまずは国会で訓練させ、次に党の役職を与え、次には大臣を経験させ、そして首相に就任させるというシステムがないばっかりに、なんの政治能力がないにも拘わらず、改革と称して自分勝手に政治的破壊を行っているのである。

 この民主党の党首が鳩山由紀夫なのだから、民主党の党員たちのレベルは無能だと判定していいだろう。日本国内では世論の圧倒的な支持を受け、選挙で大勝したとしても、海外から見れば「ルーピー」即ち「くるくるパー」という愚劣極まりない男なのである。自民党も今まで問題ある首相を輩出してきたが、同盟国のアメリカ合衆国から「くるくるパー」呼ばわりされる首相を出したことはなかった。このことに日本国民は大いなる怒りを覚えるべきであって、いつまでもこのような愚劣な人物を首相の地位に置いておいてはならないのだ。

 鳩山由紀夫は鳩山一郎の孫に当たる人物である。丁度、3代目であるのだ。この鳩山一郎という人物は戦前の帝国議会に於いて、「統帥権干犯問題」を持ち出して、政党政治を破壊し、軍部に政権を譲り渡す切っ掛けを作った極悪人なのである。日本史の教科書では統帥権干犯問題が明治憲法の欠陥だと主張しているのだが、立憲君主制の国家なら君主が統帥権を持ち、その統帥権が独立するのは当たり前なのだ。イギリスの女王だって統帥権を持ち、その統帥権は独立しているのだ。では、何が問題だったのかというと、外務省が帝国海軍ときちんと政策協議をせずに、軍縮条約を締結してしまい、それに帝国海軍が怒っていたのである。明治憲法ではこの手の問題は枢密院で処理するように規定していたのが、鳩山一郎は本来枢密院で処理すべき案件を帝国議会に持ち込んで、収拾のつかない事態にまで悪化させたのである。その後、この事件を切っ掛けに軍部が勢いづき、犬養首相暗殺事件や2・26事件を起こして、軍部による政権が樹立してしまったのだ。要は戦前の政党政治に終止符を打ったのは、衆議院議員であって鳩山一郎なのである。

 更にこの鳩山一郎は、戦後になってなんと首相になり、日本とソ連の関係修復に急いでしまい、日本は北方領土を失う羽目になってしまったのだ。実をいうとこの時期、ソ連は千島列島を返還する予定があったのだ。当然、その見返りとして莫大な賠償金を要求する予定であったのだが、鳩山一郎は碌な外交交渉をせず、領土問題を棚上げにして日ソ共同宣言を発表してしまい、ソ連の方も、日本の方も、領土問題の解決の機会を失ってしまったのだ。その後、半世紀以上に亘って日本は北方領土問題を抱えてしまい、日本とロシアには未だに平和友好条約を締結していないという、非常に危険な状態にあるのだ。ロシアはアメリカ合衆国に次いで核兵器を持ち、強力な陸軍を有している以上、日本はロシアと戦うことを外交によって避けなければ、日本の安全保障は永遠に成立しないのである。、

●政治家にとって絶対に必要な物

 初代がこれほど政治的に無能だから、3代目はこの無能が究極レベルにまで達することになる。鳩山由紀夫が政治家として最大の問題点は、彼の政治信条である「友愛」にこそある。友愛など政治に於いてはなんの役に立つことはないのだ。それどころか政治の世界で友愛を実践すれば、国益を大いに損なってしまうものなのである。もしも鳩山由紀夫が友愛を唱えるのなら、北朝鮮に拉致された日本人たちの解放に全力を尽くすべきなのである。昭和憲法には国民の生命を最優先する規定がある以上、それを実行しなければ、憲法違反になるものなのである。ところが鳩山由紀夫は北朝鮮に拉致された日本人には何もせず、大地震に見舞われたハイチの人々にはポ~ンと多額の資金援助をしてしまうのである。

 アメリカ軍基地の移設問題にしても、沖縄の人々が基地の負担に苦しんでいるから、他の土地に移転しようという発想そのものが間違っているのである。沖縄というのは、地政学的に言って非常に重要な場所であり、アメリカ軍がここに軍隊を駐留させているのは、軍拡に走る中国を牽制するためのものなのである。ここにアメリカ軍が軍隊を置いておけば、中国が如何に強硬な手段に出ても、中国軍を撃退することができるのである。勿論、沖縄県民は基地の負担がきついかもしれないが、その分、地代をしっかりと貰えるし、政府も沖縄県に資金援助をして、沖縄は結構豊か経済状況になっているのである。

 政治家にとって最も必要なのは「友愛」ではなく「愛国心」なのである。祖国を愛し、国民を愛する。具体的には国家の利益を追求し、国民全体の利益を追求して行けば、政治というのは致命的な過ちを犯さないものなのである。それなのに「愛国心」を唱えず、「友愛」を唱えて来るからこそ、根本的な視点が狂ってしまい、政治を大混乱に陥れてしまうのである。

 首相が政策を実現して行くに当たって武器となるものが、「法」であり、「権力」であり、「権謀術数」である。人の支配ではなく、法の支配を打ち建てるからこそ、法によって秩序を作り出せるのであり、わざわざ自分が全てのことに介入しなくて済むようになるのである、ところが鳩山由紀夫は自ら率先して政治献金に関して法に違反しているのだ。

 権力というものは獲得しただけでは意味がないのだ。権力を行使してこそ、権力は生きて来るのである。権力を行使するために必要なものは、己の決断力である。情報を集めた上で、迅速に決断していけばいいのである。決断というのは、それが間違った決断であっても決断すれば何かしらの解決策が出て来るものであって、躊躇して何も決断しなかったら、問題を更に悪化させてしまうものなのである。鳩山由紀夫は決断しないからこそ、問題を更に悪化させ、支持率を激減させてしまったのである。

 首相であれば、当然に政敵が出て来る。その政敵を権謀術数を葬り去るということをしなければならないのだ。現時点で鳩山由紀夫にとって最も危険な敵は小沢一郎である。この小沢一郎を権謀術数によって権力を削いでしまい、無力化させれば、自分の政敵はいなくなり、自分の地位を脅かす者はいなくなるのだ。それなのに鳩山由紀夫は小沢一郎に何もせず、それどころか益々権力を拡大させてしまっているのである。これでは政治がまともに機能しなくなるのは当然なのである。

 だからこれだけははっきりと言える。

 「友愛を唱える者は、そもそも政治のことを何も解っていないのだ!」

●議院内閣制の制度疲労

 現在、日本が本当に抱えている憲法上の問題は、議院内閣制度が制度疲労を起こしているということなのである。この議院内閣制度の下では、優秀な首相を選出することができなし、もしも優秀な首相が就任しても行政権力をきちんと行使することができないのだ。だからこそ鳩山由紀夫みたいな無能な男が首相になってしまい、しかも首相になって迷走をし続けてしまうことになるのだ。

 なんで議院内閣制度が問題なのかというと、国会議員の連続再選に問題があるのだ。もしも連続再選を続ければ、何十年でも国会議員になってしまい、当然に長らく同じ地位に座り続けているがゆえに腐敗し汚職を仕出かして来ることになるのだ。国会議員を10年以上続けていれば、選挙で選ばれたとしても、国民の声など全く解らくなり、確実に馬鹿になってしまうものなのである。

 国会議員は連続して務めていいのは2期までだけであって、2期務めたら4年間は国会議員としての仕事を休むようにさせるべきである。その4年間で休養を取り、勉強したり、他の仕事をしたりしてリフレッシュさせれば、英気を養うことができ、4年後に元気溌剌とした姿で国会議員に返り咲けばいいのだ。こうすれば国会議員が腐敗し汚職し無能化するという事態を避けることができるのである。

 そして首相は国会議員から選ばないようにすることだ。首相を国会議員の中から選ぼうとするからこそ、国会でまともな法律審議をせず、権力闘争に明け暮れてしまうのである。国会議員が首相に就任することを禁止してしまえば、国会議員たちが異常なまでに政治献金を集めることがなくなるので、政治の腐敗や汚職が激減することになるのである。

 首相は行政経験者を首相候補にし、それを国民が直接選挙で選ぶようにすればいいのだ。今まで大臣を務めたことがない者が、選挙に勝ったからといっていきなり首相になっても、首相として何をすべきか解らないものなのである。政権交代が起こる以上、与党の政治家だけが大臣になれるのでなく、野党の政治家にも大臣の職を与えて、未来の首相候補として育成しておくべきなのである。全ての大臣職を1つの政党が独占してしまうからこそ。政権交代した時に今まで野党だった政党に首相を務められるだけの人材がいなくなってしまうのである。

 首相には4年の任期を与えて、政策を思いっきり実行させることだ。議院内閣制度では首相が大した功績を上げることができなかった最大の理由は、国会が首相に不信任決議を乱発して、長期政権を誕生させなかったことにんるのだ。4年間もの間、解任されることなく首相の座にあれば、きちんとして成果を打ち建てることができる筈だ。但し、首相の権限を大きいゆえに再選を禁止し、首相が独裁体制を築かないよう牽制しておくべきである。

●裕福な家に生まれたからこそ、我が子に苦難を与えよ

 3代目というのは、初代や2代目がやっていたことをきちんと相続しさえすれば、いきなり高い地位に立つことができるものなのである。世襲というのは決して悪いものではないのだ。世襲した者は誠実に働いてさえいれば、それほど不平不満は出てこないものだ。初代のように実力で這い上がって来る必要性はないのだ。しかし世襲した者が誠実に働かなければ、不平不満は烈火の如く荒れ始め、全ての権力を失ってしまうことになるのだ。恵まれた家に生まれたからこそ、人々の嫉妬も激しくなるのだ。

 初代は自分が貧困から身を起こして来たために、実力がしっかりとついているものだ。2代目は自分が幼い頃に自分の父親が苦労している姿を見ているから、それなりの努力をしてくるものだ。しかし3代目は生まれながらに裕福な家に育って来るので、どうしても自ら努力せず、常に他人に頼り、自信や実力がなく、自分が問題を起こしたら自ら責任を負うという覚悟がなくなってしまうものなのである。

 気をつけるべきは、鳩山由紀夫だけが3代目としての弊害を噴出しているのではなく、日本国民も今や3代目として鳩山由紀夫と似たような問題を引き起こしまくっているのである。自分が貧乏なら自分で努力して裕福になっていけばいいものを、自分がなんの努力もせずに常に政府や地方自治体に頼っているのである。ニュース番組を見てもニュースを報道しようとする姿勢は全く欠け、コメンテーターをずらりと並べ、政治家に常にケチをつけ、朝っぱらか不毛な議論をしているのである。そういうのはニュース番組ではないのだが、それを視聴者たちは喜んで見ているのだ。視聴者たちは朝っぱらから己の馬鹿を曝け出しているのだ。

 裕福な家に生まれたからこそ、我が子には苦難を与えねばならないのである。イギリスなら裕福な家に生まれた子弟は短期間ではあるが軍隊に入れて、しっかりと鍛えているものなのである。ユダヤ教徒たちは我が子を異国の地に追いやり、そこで商売をさせてしっかりと鍛えているものなのである。そういことは親としては、一見、愛に反する行為である。しかしそうやって親が我が子に対して非情になってくれるからこそ、子供は鍛えられ、自助努力を身に付け、自信に溢れて、実行力の盛んな人物に育って行くのである。

 議院内閣制度であったとしても、間接的ではあるが、国民が首相を選んでいるものなのである。それゆえ国民のレベルが低ければ、それに応じてレベルの低い人物が首相になってしまうのである。鳩山由紀夫は確かに無能な人間ではあるが、それを選んだ人々も無能な人間たちなのである。

 自分が如何なる問題を抱えていても、その問題は政治家たちを罵倒することで解決することはないのだ。自分の問題は飽くまでも自分の問題なのだから、自分の自助努力で解決していくべきなのである。そして自分の私利私欲のために生きているのではなく、国家のために、国民のために、自分は何を出来るかを考え、それを実行して行くべきなのである。それこそが愛国心の発露なのである。そういう国民が多くなれば、国内の問題は自然と解決されて行ってしまい、いつの間にか優秀な人物だけが首相に就任するようになり、日本国を繁栄させ、世界をリードしていく偉大な国家にしていくことができるようになるのである。

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