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2010年7月

山本真純アナウンサーの自殺について ~高層マンションと産後鬱~

●高層マンションでは自殺が多い

 今週、日本テレビの山本真純アナウンサーが、34階から飛び降り自殺するというショッキングなニュースが飛び込んできた。山本真純さんは産後2ヵ月から産後鬱になっており、生後5ヵ月の赤ちゃんを残しての自殺だった。「残された赤ちゃんは誰がどうやって育てるんだよ」と突っ込みを入れたくなる悲劇的な事件だった。

 自殺の原因は不明ではなく、はっきりと産後鬱だと解明されているので、母親たちの中には「私も産後鬱だった」といって余りにも深い同情を寄せてしまう者たちが出て来る。産後鬱に同情するからといって、産後鬱で自殺した女性に同情するのは、非常に危険である。自殺するほどまで、自分の産後鬱が悪化した女性などいないからだ。というか自殺していれば、もうこの世にはいない筈だ。

 この世の多くの母親たちの誤解を解くために、俺は暇を見つけて山本真純アナウンサーの運命鑑定をしてみた。すると山本真純アナウンサーは天中殺の年に日本テレビに入社したというのが解った。それゆえ結婚したら退職すべきだったのである。天中殺の年に就職してしまうと、その職業を維持し続けてしまうと、今回のように命を奪われてしまうのである。山本真純さんは結婚を機に結婚退職して、当分の間、育児に専念して、それから他の仕事を探すべきだったのである。

 それと趣味がスキューバダイビングをやっていたというのが物凄く気になる。ダイビングをやると体が芯から冷えてしまうので、当然に産後鬱になり易いのだ。産後鬱しか情報はないのだが、恐らく妊娠中も精神的に相当に不安定な筈だったことだろう。海女ですら、素潜り漁をした後は、焚火に長時間当たって体を温めるのに、ダイビングをやる人々はそれをしないのだ。だからこういう事件が起こってしまうのである。

 そして追い討ちをかけたのが、高層マンションの34階に住んでいたということだ。10数階までなら地磁気は一応届くのだが、34階になってしまうと、地磁気は大して届かないので、どうしても精神が異常になってきてしまうのである。地磁気は体だけでなく、脳に影響を及ぼすので、突然に自殺してくるようになるのだ。しかも女子アナはテレビ局内で電磁波を浴びまくっているので、どうしても心身のバランスを崩し易いのだ。女子アナで自殺者が相次いでいるが、これは職場で電磁波を浴びまくり、自宅に高層マンションを選んでしまうと、地磁気不足のために、精神が狂って自殺してしまうのであろう。

●女性が結婚すると一戸建てを求めるわけ

 女性は結婚相手に経済力があることを要求するものだし、結婚すれば一戸建てを建てるように夫に要求するものだ。インフレの時代には一戸建てを購入すれば資産が増えることになったが、現在はデフレなので、一戸建てを買っても土地が値上がりしないのだ。そのため夫婦の間で不毛な夫婦喧嘩が起こってしまうのだ。

 なぜ妻が一戸建てを求めるのかというと、自分が安心できる場所で出産したいという本能があるからだ。借家だと家賃を払えないと追い出されてしまうので、家計を預かる妻としては、潜在的な不安を抱えているものなのだ。一戸建てなら家賃の心配がないために、この手のストレスがなくなるのである。

 もう一つが一戸建てなら地磁気を大量に確保できるからなのである。女性の場合、新たに生まれてくる赤ちゃんを健康な形で出産したいという本能があるのだが、この本能を満たすために食事や運動に気を使うことは勿論のこと、目に見える筈のない地磁気まで求め始めるのだ。

 「地磁気をそんな敏感に感じる筈ないじゃん」と思うのは愚の骨頂で、女性は地磁気をなんとなく感じ取って来るのだ。地磁気の強い場所だと、なんとなく体が軽くなるし、地磁気が弱くなると、なんとなく体が重たくなってくるのだ。男性でも感じる人はいるだろうが、女性ほど敏感には感じ取れないのだ。女性は敏感に感じ取って来るのだ。

 とはいっても、若い夫婦が一戸建てに住むのは経済的に難しいので、アパートやマンション住まいになるものだ。そういう時は、10数階以下の部屋に住むべきであって、20階以上の部屋に住むべきではないのだ。今回の山本真純粋さんは、その高層マンションが高級マンションだったために、判断が狂ってしまったのだろう。高級マンションに住んでいるからといって、幸せな結婚生活が営めるものではないのだ。「妊娠」「出産」「育児」は女性なら誰でもできる以上、余りにも豊かな生活を求めるべきではないのだ。地味な暮らしで丁度いいのである。

●追い討ちをかけた実母との同居

 高層マンションの34階という地磁気の少ない場所に住んでいるだけでも危険なのに、それに追い打ちをかけたのが実母との同居だ。新米ママにとっては、自分の赤ちゃんを他人に触られることは、母親として相当なストレスを与えるものなのである。自分の夫が赤ちゃんを触ることですら、新米ママは心配してしまうものなのだ。

 それが実母であるなら、その危険度は最大化するものなのだ。女性にとって実母は、実の母であっても、結婚したのなら独立して離れて行かなければならない相手なのだ。それなのに結婚後も実母がのこのことやってきて同居してしまうと、精神的な独立ができなくなってしまうのだ。

 しかも実母は育児経験者なので、新米ママなら育児で悪戦苦闘するのに、実母が手慣れた作業で育児をこなしてしまえば、新米ママは自信を喪失してしまうものだ。殆どの母親が最初の赤ちゃんを育てるのに悪戦苦闘し、「自分は母親になんかなれない!」と思う時があっても、それを乗り越えて、母親として成長してくるのだ。それなのに実母がその機会を奪ってしまえば、新米ママは育児に関して完全に自信を喪失してしまい、自殺してしまうことになるのだ。

 何事にも試練というものが必要なのだ。試練なくして、大きく成長させていくことなどできないのだ。新米ママの場合、出産後から赤ちゃんは2時間おきに泣いて、母乳を欲しがるので、心身ともにフラフラになるものだ。産後の6ヵ月間はこれが当たり前のように続くから、これを乗り越えない限りまともな母親にはなれないのだ。この時期に周囲が下手に手助けをしてはならず、新米ママの手でやらせるべきなのである。自分で悪戦苦闘しない限り、母親として成長して行くことはできないのだ。

 実母としては我が娘のことを思ってしたことなのだろうが、自分のやったことが完全に裏目に出てしまったのだ。自分の娘といえども結婚して他家に嫁いで行ったのなら、最早、手を出すべきではなく、自分の娘を信用して、自分の娘に任してしまうべきなんである。勿論、自分の娘から手助けを求められれば手助けをしていいが、求めがないのなら手助けなどすべきではないのだ。実母の判断ミスが自分の娘を死に追いやってしまったのだ。

●高層マンションに住んでいるなら、1日に数時間は地面に降りるようにしよう!

 現在、育児をしている母親の中には高層マンションに住んでいる人もいるだろうから、その母親たちのためにその対策を述べておく。まず自宅に閉じ籠っているのではなく、1日数時間でもいいから地面に降りるようにすることだ。高層マンションに住んでいると、自宅に閉じ籠り易くなるので、自宅に閉じ籠っていると決定的に地磁気不足になってしまうのだ。

 1日1時間は地上で散歩するようにし、できることなら裸足になって芝生の上を歩くことだ。1日1時間も歩けば地磁気を充分に吸収できるし、靴を脱いで裸足になると、地磁気をダイレクトに吸収できるようになるのだ。芝生の上を裸足で歩くと、足の裏がポカポカになるので、体温は上昇して、精神的に異常化することがなくなるのだ。冷え症に悩まされている女性なら、1発で治ってしまうのだ。

 それと買い物に行く際は、可能な限り自動車に乗らないことだ。自動車は便利であっても電磁波を大量に浴びてしまうので、高層マンションに住んでいる女性にとっては危険なのだ。そこで徒歩で買い物に行くなり、自転車で買い物に行くようにすることだ。子連れの買い物は当然に重労働になるので、この重労働が体にいい運動になって、好影響をもたらすのである。しかも買い物自体が気分転換になるのだ。

 気をつけるべきは雨の日であって、高層マンションに住んでいると、雨の日は一歩も外に出たくないと思う傾向が非常に強くなるのだ。そんなことをやっていると、晴れた日でも外に出て行かなくなってしまうようになり、精神が最悪なまでに悪化してしまうのだ。だから雨の日であっても1日1回は必ず外に出るようにすることだ。雨の日であっても、子供と遊べる場所をきちんと確保しておくことだ。

 人間は土から離れては生きられない動物なのだ。それを忘れて地面から離れて行ってしまうと、自分の精神は狂ってしまい、自分で自分の命を絶ってしまうことを平気でやってくるのである。できることなら高層マンションなど建てずに、都市部には10数階建てのビルを整然と建てて行くべきなのである。それなのに都会のど真ん中に平屋の家があったり、駐車場があったりと、都市空間を無駄にしまくっているからこそ、高層マンションを建てざるを得なくなり、それで皺寄せが若い者たちにやってくるのである。都市計画のなさが、今回のような悲劇を産んでしまうのである。

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我が子を潰す危険な言葉 ~母親の些細な言葉が子供の人生を大きく狂わしてしまう~

●母親の権限を乱用するな

 母親といえども完璧な人間ではない。赤ちゃんを産めば母性愛は溢れ出て来るだろうが、母親としての集中力は産後6年が限界なのである。我が子といえども6年間育てていれば、もう疲労が蓄積されてしまうのは当然なのであって、その状況で進めて行っても、母親として的確な判断が出来なくなるのである。

 我が子が小学生になる頃には、集中力は最早切れているものなのである。「育児」と「子育て」は違うものだというのは、ここにこそある。育児は乳幼児を育てて行くものであるが、子育ては乳幼児ではない子供を育てて行くことなので、ここに大きな変化が生じて来るのだ。

 こういう場合、母親自身が大きく休暇をとって心身を休ませるのが一番なのだ。人間の心身は10日間もの間、大自然の中でのんびりと過ごすと疲労が除去され、リフレッシュしていくので、夏休みなどで家族揃ってキャンプに行くなり、温泉に行くなりなどして、心身を休ませるべきなのだ。折角の休暇を観光旅行にしてしまうと、確かにその旅行は楽しいものであっても、疲労が除去されないのだ。逆に新たな疲労が発生してしまうのである。

 子供を6年間育て上げた後で、母親としての休暇をきちんと取らないと、どうしても疲労が除去されないので、日常生活で母親の権限を乱用するようになるのだ。通常の自分だったら絶対にそんなことはしない筈なのに、子供に罵詈雑言を浴びせたり、暴力を振るってしまうようになるのだ。

 子供の方は成長し続けているものだ。しかし子供の方が成長しているのに、母親の方は全然成長していないのだ。小学生になれば母親の理不尽な言動にはしっかりと刃向かっていけるようになるので、それで母親の方は更に激怒してしまうのだ。母親は休暇を取って心身を休まして、スイッチを切り替えるという作業をしない限り、小学生になった我が子にとっては邪魔者になってしまうのである。

●我が子を「馬鹿だ」と決めつけない

 小学生の子供がいる母親で、子育てモードに切り替えていない母親は、我が子のこと馬鹿扱いしてくるものだ。そもそも子供は母親よりも遥かに能力が劣るものなのであるが、だからといって母親から馬鹿呼ばわりされて堪ったものではないのだ。母親が我が子のことを馬鹿扱いすれば、我が子は当然に怒り出し、母親の言うことなど聞かなくなってしまうものなのである。

①「馬鹿だね」

②「アホだね」

③「駄目だね」

 馬鹿な母親というものは、大抵、この3つを日常生活で使いまくっているものだ。事あるごとに、我が子に向かって「馬鹿だね」「アホだね」「駄目だね」と言いまくり、我が子の遣る気を削いでしまうのだ。子供といえども、自分を否定して来る人のために何かを遣ろうとしてくることはないのだ。それは子供であっても同じことなのだ。

 実を言うと、母親が我が子のことを馬鹿扱いするのは、子供を馬鹿にすることで、母親の思い通りになってほしいという願いがあるからなのである。だから我が子が母親の言うことを聞かない限り、馬鹿扱いし、馬鹿だのアホだの駄目だねと言い続けるのである。こういう母親の下で育つと、子供としては堪ったものではないので、学校での成績も急降下して行くことになるのだ。家庭で母親に否定されている子供が、学校で特別な能力を発揮するということはまずないのだ。

 こういう場合、とにかく母親は休暇を取ることだ。母親業を遣っていることに疲れたのなら、とにかく休んで心身から疲労を取り除くべきなのである。自分が日常生活から離れて、冷静になって自分自身の今までの所業を見つめ直すことができたのなら、自分の考えや遣り方は間違っていたことに気付くものだ。それができれば子育てモードにスイッチが入るようになるのだ。

 では、本当に我が子が馬鹿なことをしていたのなら、なんて言えばいいのだろうか? それは「お前は天才だよ」といえばいいのだ。馬鹿なことをするということは、通常の行動をしてこないのだから、それは天才的な所業なのである。子供としても自分が馬鹿なことをやっているのに、母親から天才呼ばわりされてしまえば、「自分は天才なのかな?」と思い込むようになるのだ。そうなれば馬鹿なことをやることが激減して行くことになるのである。

●日常生活で注意すべき言葉

 これら以外にも、日常生活で母親が遂々言ってしまう危険な言葉が多々ある。その危険な言葉を使えば、子供の能力は委縮してしまうのに、未熟な母親は平気で使ってしまうのだ。母親としては無自覚で使っているからこそ、その危険な言葉を使うのをやめることができなくなってしまうのだ。

①「早くしなさい!」

 危険な言葉の中でも、一番多く使っているのが、この「早くしなさい!」だろう。「早くしなさい!」を使う母親は、1日1回どころではなく、朝でも「早くしなさい!」、昼でも「早くしなさい!」、夜になっても「早くしなさい!」と言い続けて来るものだ。そのため子供はいつも急かされることになるので、疲れ切ってしまうし、作業を丁寧に行うことができなくなってしまうのだ。

 では、どう言えばいいのだろうか? 「早くしなさい!」というのではなく、敢えて遅れさせてみることだ。例えば朝寝坊して来たのなら、敢えて急かさず、学校に遅刻させてしまうのである。遅刻すれば、当然に教師に怒られるわけで、そうなれば遅刻するのは悪い事なんだなと解るようになるのだ。

②「勉強しなさい!」

 母親が子供に「勉強しなさい!」と言っても、子供は勉強することなどない。子供にとっては遊びが仕事で、勉強など暇潰しにやっているものに過ぎないからだ。だから「勉強しなさい!」と言って勉強を強制するのではなく、学校から帰ってきたら遊ばせておいて、夕食後、居間で勉強させるようにしてしまうのである。母親が見ている所で勉強すれば、解らないことがあれば母親に訊けるので、勉強がスムーズに進むのである。

③「何度言ったら解るの?」

 駄目な母親は子供を駄目にしてしまうが、駄目な子供に限って母親の言うことを聞かなくなってしまうものだ。そのため母親は「何度言ったら解るの?」と怒鳴りつけてしまうものだ。そうすると余計に母親の言うことを聞かなくなるのだ。ではどうすればいいのかというと、「解っていない箇所を確かめてみること」だ。子供の方としても、解らない箇所を言ってしまえば、そのことに関しては母親の言うことを聞かざるを得なくなってしまうからだ。そうやって1つずつ子供の反抗を削いでいくべきなのである。

④「もう少しで100点取れたのに」

 試験の結果が出た後に、絶対に言ってはならないのは「もう少しで100点取れたのに」という言葉だ。子供の方としては一生懸命に頑張って、その点数なのに、100点満点を要求されたら堪ったものではないのだ。確かに母親から見れば我が子が、「88点」とか「92点」とかいう微妙な点数を取って来た場合、「惜しい!」と思ってしまうものだ。しかし試験は80点で良しとすべしであって、80点取れていたら、きちんと褒めてあげることだ。

●母親だからこそ、我が子に言ってはならない言葉がある

 母親がなんで日常生活の中で危険な言葉を言いまくって来るのかといえば、母親としては我が子が赤ちゃんの時に、自分の思い通りに動かして来た実績があるからなのである。しかし小学生になってしまった我が子は、最早、自分の思い通りには動かないのだ。それで母親は我が子を自分の思い通りに動かすために、危険な言葉を連発して来るのである。

 この問題が恐ろしいのは、家庭の中で行われるために、問題が表面化して来ないことなのである。確かに母親は危険な言葉を使えば、子供は反抗して来るし、親子で大喧嘩したりすることになるものだ。だがそうはいってもそのまま家族生活を送って行くことは可能だから、敢えて誰も「それをいっちゃ、お仕舞いよ」とは指摘してくれないのだ。だから母親は言動を改めようとはしないのである。

 小学生に頃に母親から危険な言葉を浴びせ続ければ、その子供は家族も学校も面白くないから、中学生になればグレてしまうものだ。当然、グレるためにはお金が必要になるのであって、母親の財布からお金をちょろまかすということをやってくるのだ。その内、不良行為もエスカレートして警察沙汰になり、母親が警察署に行って謝罪しまくることになってしまうのである。

 不良になってくれるのなら、まだいい。最悪なパターンは、危険な言葉を使う母親にきちんと反抗して来ないで、真面目に学校に行き、大学に進学してしまうような子供である。その子供は家族や学校になんの喜びも見出してこなかったので、大人になれば家族や学校を廃止するイデオロギーに洗脳され、家族や学校を潰して行くようなことを仕出かして来るのである。

 夫婦別姓を唱えたり、同性愛に走ったり、平等教育を企画してみたり、ゆとり教育を推進してみたりと、既存の家族や既存の学校にとって明らかに有害なことを真面目に推進し始めるのである。そのことを知らずに「夫婦別姓なんて認めてもいいじゃん」と思っていると、夫婦別姓という論議自体が、実は「家族制度潰し」にあるために、次から次へと家族制度が解体して行く政策が打ち出されてしまうのである。そして気付いた時は、日本国中の家族が解体されてしまっていることになるのだ。

 育児や子育てに宗教が大事なのは、家族に宗教団体がへばりついていれば、母親を母親としてきちんと成長させ、家庭内で危険な言葉を使わないようにさせることができるからなのである。神道なら「七五三」という儀式を行うことで、母親の成長を促しているのである。七五三は子供に晴れ着を着させて、記念写真を取るだけの行事ではないのだ。母親が我が子の成長を確認し、我が子が数えで7歳になれば、もう乳幼児扱いしてはならないことを教え、これからは育児ではなく、子育てをして行くように切り替えさせるものなのである。そうやって母親は成長して行くことができるようになるのである。

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質問力と回答力

●生徒は授業が解ったからこそ質問をしてくる

 他人に幾ら話しても、自分の言いたいことが100%伝わることはない。話をするだけでは最大で3%しか伝わらないのだ。だから授業でも教師が熱心に喋っても生徒たちには殆ど伝わらず、生徒たちの頭の中は空っぽになってしまうのだ。授業だからといって、教師が一方的に喋るのは許されない行為なのである。

 生徒たちの理解度を高めるためには、教師は黒板に重要なことを書き、それを生徒たちに書き写させるという方法が用いられる。これをやると理解度は一気に高まり、25%程度に跳ね上がるのだ。話下手の教師であっても、黒板に文字を書く量の多い教師は、意外と生徒たちから理解されており、試験をやってみると高得点を取って来るのである。

 話をし、ノートに書いて行くだけでは授業がダレて来るから、教師は生徒たちに質問を浴びせることで、緊張感を保たなくてはならないのだ。教師から指名された生徒にとっては、如何に答えようとも、その問題に関しての忘れることがなくなり、結果的に授業の理解度は50%近くにまで跳ね上がって来るのである。生徒が間違った答えを言っても叱るのではなく、そうやって教師が生徒たちに質問を浴びせて、脳を使わせるということが大事なのだ。

 生徒たちの中には、授業が終わってから質問をして来る生徒がいるものである。教師としては次の授業の準備があるために、この手の生徒を毛嫌いしてしまうものだが、この生徒は授業を理解できたからこそ、質問をして来るのだ。教師に質問して来ない生徒は大して理解していないのだ。だから、この手の質問を受けた時は、懇切丁寧に回答して、その生徒が納得するまで立ち去らないことだ。この機会を失ってしまうと、その生徒は授業へのやる気を失ってしまうからだ。

 愚かな教師というのは、質問しようとして来ない生徒に質問を強いる教師なのである。その生徒は大して解っていないのだから、質問しようにも質問できないのだ。生徒の中で自分に質問をして来る生徒たちを優遇して、その子たちの理解度を高めた方が、授業のベレルを上げて行くことができるものなのである。

●回答力こそ教師の腕の見せ所

 生徒から質問さらた場合は、自分で解ることに関しては即座に答えることだ。余りにも正確を期そうとすると饒舌な回答になってしまうので、言葉を少な目にして、重要なことだけを話すようにすることだ。回答力こそ教師の腕の見せ所なのであって、これができてこそ一人前の教師になれるものなのである。

 ただ恐ろしいのは、生徒の中には授業と全然関係のない質問を教師に持って来る生徒たちがいることなのだ。教師という者はなんでも知っている訳ではないのだが、生徒にとってはそうは思わず、教師ならこの問題に答えてくれるだろうと勘違いしているのだ。しかし、この手の問題に答えると、その生徒の向学心を大いに刺激し、勉強熱心な子供に変わるのである。

 ところがその問題が厄介なものばかりなのだ。例えば「なぜ海は塩辛いのか?」「なぜ海には干満があるのか?」とか、「なぜ夏の暑さは夏至以降の方が暑いのか?」「なぜ冬は冬至以降の方が寒いのか?」とか、これを科学的に説明するとなると、教師にとってひと苦労の仕事になってしまうのだ。

 教師としては授業で自分の脳をフル稼働させたために、すぐさま答えることができないものだ。そういう時は「明日までに調べて来るから」と言って、自分で解らなかったら、明日までに調べて来ることだ。図書館で調べれば、必ず答えることができるようになるのだ。調べないで適当なことを言ってしまうと、後々まで自分は間違ったことを教えてしまったと後悔し続けてしまうのなのだ。

 教師のはこの手の問題に関して、同僚や先輩たちに聞いてみることだ。教師としての仕事をしていれば似たような質問を受けるものであって、それに対してどのように答えたかを知っておくと、自分が質問されても答え易くなるのだ。自分がその質問の答えを解っていても、その答え方次第でその生徒の興味を惹くか失ってしまうかしてしまうものなのである。

●教師を困らせる超難問の質問

 生徒の中には超難問の質問を浴びせて来る生徒がいるものなのである。そういう質問をしてくる生徒は最早「平均的ではない生徒」だと思っておいた方がいい。超難問の質問には教師といえども答えることができないものなのだ。そういう場合は、自分が解らないことを素直に認め、それに関連する書物を紹介したりすることだ。

 世の中を驚倒させるような人物は、小学生の頃から超難問の質問をして来る子が多く、遅くとも大学生の頃には超難問の質問をしてきて、教師や教授を困らせた経験を持っているものなのである。例えば『知的生活の方法』で有名な渡部昇一氏は中学生の頃から質問魔だったらしく、『ローマ人の物語』で有名な塩野七生氏も大学生の頃には質問魔だったらしい。

 忘れてはならないのは、その超難問の質問を受けた教師や教授は真面目に答えたということであり、その回答如何で生徒や学生の学問への興味が左右されるということなのだ。もしもそこで教師や教授から邪険に扱われてしまったら、その生徒や学生は学問への興味をなくしてしまい、生涯に亘ってその教師や教授を恨み続ける人生を送るようになってしまうのだ。

 同級生たちも同じ授業や講義を受けていた筈だ。しかし誰も質問してこなかったのである。それでその同級生たちがどうなったかというと、誰も学問の世界で活躍することはなかったのである。超難問の質問をした生徒や学生だけが頭角を現す一方で、平凡か平凡以下の人生を送るようになったしまったのだ。

 教師は「学問は頭のいい人たちが発展させたて来た」と思ってしまいがちだ。しかし実際は、学問は頭のいい人たちが発展させて来たのではなく、物好きな人々が発展させて来たのである。頭のいい人たちは既存の発見を整理するか、新たな発見を妨害することしかしてこなかったのである。学問はただ単に頭がいいだけでは駄目なのである。超難問の質問を思いつく物好きな人物でないと発展させることはできないのだ。

●母親だからこそ子供の質問攻撃には敢えて付き合ってみる

 母親にしてみれば、我が子が小さい時から質問攻撃を受け続けて来たものだ。それが小学生になれば更にヒートアップするのだ。特に学校で教師の回答力が貧弱な場合、その質問攻撃の矛先が母親に向いて来るものなのである。その質問攻撃を受けた時は、否定してしまうのではなく、敢えて付き合ってみることだ。

 子供が学校に行っている間に、自分が図書館で調べてみればいいのだ。インターネットを駆使して調べるという手もあるのだ。子供が延々と考えても答えることができなかった問題を母親が答えてくるなら、子供は母親を改めて尊敬して来るし、大切に扱おうとして来るようになるのだ。

 不思議なことに、そういう質問をしたことは、当の本人は大人になれば、全く覚えていないのだ。人生の経験値を積んでいけば、そういう質問をしたことなど忘れてしまうものなのである。しかし物心がつくようになる頃に質問したことは結構覚えているものであって、その質問に答えてくれたからこそ、学問への興味が湧き、学問に精進するようになるものなのである。

 母親としては、子供の質問などなんの役にも立たないのだから、それを「バカくさ」「アホくさ」と言って却下してしまうことは可能だ。だがそんなことをやっていれば、子供は学問への興味を失ってしまうのだ。家族の生活を切り盛りする母親は重要であっても、生活にどっぷりと浸かってしまっている母親は子供にとって有害なものなのである。

 子供の質問に答えないで、子供に「勉強しなさい!」と言うのは、子供にとって過酷なものだ。子供にとっては学問に興味が湧き出したからこそ質問をして来たのであって、その質問に答えてくれれば、自然に勉強をし始めるものなのだ。だからこそ母親の立場からみればどうでもいいような質問でも真面目に答えてあげなければならないのだ。

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教材に新聞を使うな

●新聞の記事は月日が経つと陳腐になる

 大人にとってはなんでもないものでも、子供にとっては有害なものは、この世にたくさんある。珈琲は大人が飲めば脳を覚醒させてくれるが、子供が飲めば身長の伸びを止めてしまう。お酒は大人が飲めば気分を高揚させてくれるが、子供が飲めば脳が破壊されてしまうものだ。それと同じように新聞も大人にとってはビジネスに必要なものであっても、子供にとっては教育に不必要にして有害なのだ。

 新聞を定期購読していれば、朝イチに新聞が届けられるから、新聞の記事の内容を新鮮だと思ってしまう。しかし新聞の記事など月日が経てば陳腐になるのは当たり前のことであって、誰もが翌日に新聞の記事を読み返すことなどしないものだ。読んだ所でなんの新鮮さも感じないし、どうでもいい記事だと思うことだろう。

 新聞がそのような機能を果たしている以上、新聞を教材に使うべきではないのだ。新聞こそ最も教育に相応しくない教材なのだ。子供には新聞など読ませないで、遊ばしておくに限るのであって、もしも勉強したいのなら教科書を使うなり、参考書を使うようにすればいいのである。

 なぜこんな現象が起きるとかいえば、新聞は日刊であるために、「情報の垂れ流し」をせざるをえないのだ。新聞記者が情報収集をして、余り考えずに記事を書いて行くのである。それに対して教科書は執筆者たちが少なくとも1年間かけて書いて来るものなのであって、当然に圧縮度が比較にならないほど高いのである。

 「情報の圧縮度」こそが大事なのであって、教科書は情報の圧縮度が高いからこそ教育の現場で使われるものなのである。確かに子供の頃から新聞を読んでいるような子供は様々なことを知っているから、それで両親は頭のいい子供だと勘違いしてしまう。しかしその子供が持っている知識は、圧縮度が非常に低い知識なのであって、教科書を熟読して、圧縮度の高い知識を持って来る子供に必ず負けてしまうのである。

●現在我々が抱えている問題は間違っている場合もある

 新聞の恐ろしさは、後世の立場から見れば明らかな嘘が、新聞の中では正々堂々と出回って来るということなのである。例えば関東軍が満州事変を引き起こした時、時の政府は猛反対し、事実、満州事変終了後にこの事変に関わった武官たちは全員左遷されているのだ。しかし『朝日新聞』や『毎日新聞』などは満州事変を積極的に支持し、それどころか国民に満州に植民するようまで煽っていたのだ。後世の立場から見れば満州事変こそ大日本帝国を崩壊させた大失敗だったのに、当時のマスコミは積極的に支持を表明し、扇動していったのである。

 我々が子供の頃は、「石油の枯渇」が盛んに新聞で取り上げられ、その話題が社会の授業でも扱われたことがあった。石油エネルギーに変わるエネルギーをどう調達すればいいのか、小学生の頭で散々考えたものだ。しかしあれから数十年経っても石油は枯渇などしていないのだ。石油が枯渇するというは真っ赤な偽情報であり、マスコミで石油の枯渇を煽ることで、石油の値段を釣り上げたり、石油備蓄基地を作らせたり、原子力発電所を作らせたりすることで、それらに関与した企業が大儲けしただけにすぎなかったのだ。

 現在の環境問題にしても、「地球温暖化の原因は二酸化炭素の増加である」という新聞の主張は間違っていると見ていい。地球の温暖化は二酸化炭素が問題ではなく、太陽の活動が活発化しているだけなのである。地球の温度の変化は太陽の黒点の活動とピタリと一致しているのであって、ここ数十年間は太陽の黒点の活動が活発だからこそ、地球の温度が上昇しているのである。

 地球の温度が上昇した所で困ることなどないのだ。気温が高くなると作物の収穫量が多くなるので、当然に人口が増えて行くことになるのだ。では、環境問題を煽っている人々は何をしようとしているのかといえば、二酸化炭素の排出権取引で大儲けしようとしたり、石油の使用を減少させて他のクリーンエネルギーの使用を拡大させて、それで大儲けしようと企んでいるのだ。

 現在の子供たちに熱心に環境問題に取り組ませても、地球の環境が良くなるどころか、環境問題の背後で大儲けする勢力のいいカモになってしまうことだろう。真面目で頭がいい生徒ほどこういった問題を真剣に考えて来るものだが、しかしこの世に途方もない悪党がいることには全く気付かないのだ。

●新聞を教材に使うのは、社会主義国の教育の最大の特徴である

 朝っぱらから新聞を熟読するのは、教師のやることではない。ビジネスマンならその仕事上、経済新聞を読まなければならないが、教師であるなら教育新聞などというものがないのだから、新聞など読まなくていいのだ。朝の大事な時間に新聞を読んでしまうと、授業で圧縮度の高い授業ができなくなってしまうものなのである。

 教師が新聞を定期購読し、それを朝っぱらから熟読しているようであると、段々と教師としての仕事を真面目にしなくなり、組合活動に熱心になり、政治に手を出して行こうとするものだ。確かに政治に関する情報は腹立たしいものばかりなのであるが、かといって教師が政治に手を出すべきではないのである。もしも政治に手を出したいのなら、教師をやめて政治家になるべきであって、教師の権限を乱用してはならないのだ。

 教育能力の低い教師に限って、新聞を授業で使いたがるものだ。自分が毎朝読んでいるので、その使い慣れたものを教材として使ってしまうのだ。新聞を教材に使うのは、社会主義国の教育の最大の特徴であって、だからこそ新聞を教材に使う教師は社会主義に洗脳されて行ってしまうのである。

 新聞社は「新聞を教材に!」というスローガンを掲げて、学校に新聞を教材として使ってくれるように仕向けているが、これほど危険なことはないのだ。確かに新聞を教材に使えば新聞社は大儲けすることができるが、新聞は教材に不向きなのであって、授業で新聞を使っているようであるなら、生徒たちの思考が狂って行くものなのである。

 さすがに教科書では新聞の記事の引用は少ないものだが、学校で配布される社会科の参考書となると、これはただ単に全国紙を発行する新聞社の「記事の引用」と「社説の比較」ではないかと思うくらいに、新聞の記事を引用しまくっているのだ。学校で配布される社会科の参考書が使い物にならないのは、新聞の記事を引用しまくっているからなのである。高校生になると学校で配布された参考書を使用せず、書店で売られている参考書を購入するものだが、これは新聞の記事が引用されている参考書など役に立たないということが解っているからなのである。

●知的生活にとって新聞ほど有害なものはない

 知的生活にとって新聞ほど有害なものはない。自分に研究目標があるなら、それに取り組んでいかざるをえないから、新聞を読んでいる暇などないのである。人間の能力には限界があるから、新聞を読むことでエネルギーを奪われていたら、研究に支障が出て来てしまうのである。

 嘗てヨーロッパで学問が盛んに発展していた頃は、学者たちは新聞など読まなかった。新聞など読まずに、朝からせっせと研究に取り組んでいったからこそ、あれほどまでに学問が発展して行ったのである。ところがヨーロッパ諸国が民主化され、大衆文化が花開いて来ると、学者ですらも新聞を読み始めてしまい、そのためにヨーロッパで優れた研究がなされなくなってしまったのである。

 日本では学校の教育レベルは高いのに、大学の知的水準が国際的に見て異様に低いのは、大学教員たちが朝っぱらから新聞を読んでいるからなのである。大学教員たちが朝から新聞を読んでしまえば、頭の中が無用な情報で一杯になってしまい、その後にその脳で研究に取り組んでも、大した研究成果を生み出すことはできないのだ。一流の学者になりたければ、まずは新聞を読まない習慣を身に付けるべきなのである。

 大学教員の中には、大学入試に『朝日新聞』の「天声人語」の記事を引用して来たりする者がいるのだが、新聞エッセイというのは、エッセイの中でもレベルが最も低いものであるということを知らないのだ。新聞エッセイはスパイスの効いた文章を出せばそれで成功なのであって、文学的に高い評価を与えることはできないのだ。大学入試にそういう問題を出しているからこそ、優秀な学生たちが集まらないのであって、結果的に大学のレベルを落としてしまうことになるのだ。

 母親としては自宅で我が子が新聞を読まないように配慮することは非常に必要なことだ。両親が新聞を読んでいても、子供もそれに釣られて新聞を読んでいるようであるなら、お先真っ暗だといっていいだろう。「子供には子供が読むべき本がある。それは決して新聞ではない。」ということが解っていれば、子供は健全に育って行くことができるのである。

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子供に優しい教科書を与えるのは有害である

●教科書検定制度が教科書をチープなものにさせる

 母親が子供を小学生にさせた時、一番驚くのが教科書の薄さなのではないだろうか? 「自分が子供の頃に教科書ってこんなに薄かったっけ?」と疑問に思っては、その疑問は間違っていてる。教科書は教科書検定を受けるのたびに教科書が薄くなって行ったのだ。これではなんのための教科書検定か解らないものだ。

 そもそも許可書検定制度は憲法違反である。憲法では政府による検閲を禁じているであるが、政府は堂々と教科書検定を維持し続けている。違憲立法審査権を持つ最高裁判所も平気でその憲法違反を認めてしまっている。政府が教科書検定を維持せざるを得なかったのは、大学に社会主義が蔓延したためであって、社会主義のイデオロギーで教科書を書かれては困ったからなのである。

 毎年、教科書検定で問題が起こるだが、これは政府と社会主義者たちのイデオロギー闘争をやっていると見れば、この馬鹿げた争いの本質が解るものだ。だからこの戦いを続ければ続けるほど、その戦いは悪化していき、教科書の質も量もどんどん下がって行くことになってしまうのだ。

 社会主義に洗脳されてしまう学者たちは頭のいい人たちかもしれないが、社会主義はそもそも愚民視を持っている。プロレタリアートは愚かなんであって、前衛たる自分たちがプロレタリアートを扇動して行かなければならないと思い込んでいるのだ。そのため社会主義革命が達成されると、人民は無知の真っ只中に置かれてしまうのだ。これは北朝鮮を見ると良く解ることだ。

 教科書検定制度は絶対に廃止すべきだ。政府がすべきことは、学校での教育内容を決めることであって、教科書の記述にいちいち手を出すことではないのだ。今の段階で教科書を自由化すれば、社会主義イデオロギーの濃い教科書が蔓延してしまうだろうが、その内にそういうイデオロギー色の強い教科書は人々から嫌われ、淘汰されていくものなのである。

●子供にとって難しい教科書が丁度いい

 社会主義の立場に立ってしまうと、子供は愚かなんであって、優しい教科書を与えておけばいいという考えを持ってしまうものだ。そのため教科書検定のたびに教科書を優しくして行ったのである。しかし子供にとっては優しい教科書だからこそ解らなくなるのである。事実、教科書が優しくなればなるほど、子供の学力は低下して行ってしまったのだ。

 人間というのは、少し難しいからこそ一生懸命に取り組もうとするのだ。教科書の場合、子供にとって難しい教科書だから、子供たちは必死になって考えようとするのである。だから子供たちにとっては難しい教科書の方がいいのであって、難しい教科書を与えておくと、いつの間にかに学力が向上して行くことになるのだ。

 出来のいい教科書というのは、古今東西、大方、決まっているものだ。本文の量が多く、文章の質が高い。そして脚注が多い。図や写真を大量に使っている。だから当然に頁数も多くなるのは当然のことなのである。そういう教科書に触れると子供たちはその教科書を大事に扱い、より多くのことを学んでいくことになるのだ。

 毎年、教科書検定で話題になるのだが、教科書を出版している出版社は、学年が終わる頃には、多くの家庭で教科書が廃品回収に出されてしまい、環境汚染の一翼を担っていることに心を痛めるべきなのである。子供たちにとって「教科書には価値がない」と思うからこそ、学年が終わる頃には教科書をゴミとして捨ててしまうのである。

 確かに教科書を無料で配布することは良いことなのかもしれない。しかし無料で配布してしまうからこそ、その制度を悪用して、粗悪品を配布して来る輩が出現して来るのであって、それゆえに子供たちは教科書になんの有難味も覚えなくなってしまうのだ。出版社であるなら、子供たちが有難いと思う教科書を必死になって作るべきなのである。

●如何なる生徒も教科書を全て理解できるということはない

 如何なる人間も本を読んだ所で100%その内容を理解できるということはない。読書家のように本格的に訓練を積んでいる人でも最大で20%であり、子供であるなら数%しか理解できないのだ。読書に関しては「バカの壁」どころではないのだ。だから普通の本なら何度も読み返すとか、本にアンダーラインを引くとかしないと、読書の理解度を高めて行くことはできないのだ。

 教科書の場合、難しい教科書を与えてしまうと、落ち零れが出て来るから、優しい教科書を与えようと考えるのは、根本的に間違った考え方なのである。そんなことをすると余計に落ち零れが出て来てしまうのだ。如何なる生徒も教科書を全て理解できるわけではないのだから、難しい教科書を与えておいても別に構わないのだ。

 難しい教科書だからこそ、全体の理解した量が多くなるのである。当然に優しい教科書では理解した量そのものが少ないから、自分の学力が上がらなくなってしまい、それで落ち零れて行くのである。教科書の理解度を上げるためには、なんといっても教師による授業テクニックが必要なのである。生徒たちに教科書を音読させたり、ノートに書き写させたりするからこそ、教科書の理解度が高まって行くことになるのだ。

 生徒自身も教科書の理解度を高めたいのなら、何度も教科書を読むしかないのだ。何度も読み返すからこそ、教科書の理解度が高まって行くのである。教科書は通常の書物と違って、一読して終わりというものなのではなく、何度も読み返すようになっているのであって、それに耐えられるように作るべきなのである。教科書を優しくしてしまうと、これが出来なくなるので、だからこそ学力が低下してしまうのである。

 如何なる生徒も教科書を幾ら読んだ所で、100%理解できるということはない。解らないことに関しては次の学年で教わるべきであって、そうって上の学年が下の学年を補完していくのである。今いる学年で全て教えようとしてしまうからこそ、無理な教科書を作ってしまい、当然にそれは教科書として失格になってしまうのである。

●教科書で生徒たちの学力が決まってしまう

 どこの国を見ても、教科書のレベルで大体の学力が決まってしまう。生徒たちに難しい教科書を与えている国は当然に学力が高いし、生徒たちに優しい教科書を与えている国は当然に学力が低くなる。教科書は授業で使う最重要のアイテムだからこそ、粗悪品を使えば、当然にその報いが遣って来るのだ。

 嘗て日本が戦後復興を成し遂げていた頃は、教科書のレベルが高いものであった、だからこそ優秀な人材が育って行ったのである。ところがバブル景気を経験した頃から、日本の教科書は明らかに低下してしまい、そのために優秀な人材が育たなくなってしまったのだ。

 特にひどかったのが、政府が「ゆとり教育」を推進していた時期の教科書であって、その時に使用された教科書は最早、本の形態を維持できなくって、パンフレットのように薄っぺらい物になってしまったのだ。だからこそ学力が一気に低下して行ってしまったのである。政府がやった「ゆとり教育」は明らかに失敗だったのである。

 日本の教科書だからといって安心しないことだ。常に外国の教科書と比較してみるべきなのである。先進国の教科書という物は「それは教科書ではなく辞典ではないか?」と思うほどに分厚い物を使っているのだ。だからこそ大学に進んだ時に、大いに学力を伸ばすことができ、新たな発見をすることができてしまうのである。

 教科書の量が多く、質の高い物を使っているのなら、その国の国民は教育レベルが高くなる。もしも教科書が粗悪なら、参考書を購入して補完して行くしかないのだ。考えてみれば、本屋では参考書のコーナーが充実しており、レベルの高い物が綺羅星の如くに並んでいるものだ。

 「政府に政策あれば、国民に対策あり」というが、政府が粗悪な教科書を学校で使わせるからこそ、国民は自腹を切って参考書を買い、教科書ではなく参考書を使って勉強しているのである。教科書を執筆している学者たちや、教科書を出版している出版社たちは、この事実を冷静に受け止めてほしいものだ。

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朝礼の絶対的重要性と姿勢の正しさの大切さ

●朝イチの朝礼で全てが決まってしまう

 集団で行動を起こすためには、礼儀作法は何よりも大事だ。礼儀作法をきちんとできることで、その仲間に入ることができるからだ。それなのに愚かな教師たちほど礼儀作法を軽視または無視したりして、集団行動を破壊し、滅茶苦茶なものにしてしまう。学校は集団行動をせざるをえない場所なのであって、礼儀作法は絶対に重要なのである。

 人間は第一印象で相手の評価を大方決めてしまうという傾向がある。そのため朝の段階で服装を正し、背筋を伸ばして堂々と歩き、大きな声で挨拶をしていれば、生徒たちは「この先生は立派な人物である」と勝手に思い込み、敬意を払って扱うようになるのだ。逆に言えば、服装がだらしくなく、猫背になって格好悪く歩き、声が小さかったり、痰が絡まるようであるなら、「この先生は馬鹿だ」と勝手に判定して、終始一貫して馬鹿扱いして来るのだ。

 学校生活を維持する上で、朝イチの朝礼は非常に重要であって、この儀式がきちんとできれば、その日の学校生活を順調に進めて行くことができるようになる。教師の側から見れば、生徒たちの健康状態は朝礼をした段階で解るし、生徒たちの側から見れば、教師が今日1日真面目に授業するか否かは朝礼をした段階で解るのである。

 勉強ができるとか、スポーツができるとか、その生徒たちがきちんと纏まっているとかいう学級は、朝礼は活気溢れているものだし、整然と行われているものだ。教師の方に今日1日授業で頑張るぞという気力を感じ取ることができるし、生徒たちの方に今日1日たくさんのことを学びたいという気力が漲っているのだ。

 朝礼をどのようにするかは、その教師の態度如何で決まってしまうものなのだ。教室にだらしない格好で入ってきたり、前日の疲れを引き摺っていたり、猫背だったり、声が小さかったりしておれば、生徒たちも真面目に朝礼をしなくなり、それで今日1日中がダラダラしたものに成って行ってしまうのだ。

●姿勢の正しい生徒は成績も良い

 朝イチの朝礼が巧く行くと、生徒たちは姿勢が良くなるものだ。朝礼をきちんと行うためには姿勢を伸ばさなければならないので、朝礼でそれができてしまえば、生徒たちは1日中、姿勢を正した状態を維持することができるのだ。姿勢が正しいからこそ、頭が良くなり、成績も良くなるのだ。

 姿勢が悪いと、血流が悪くなってしまい、脳に充分なエネルギーが行かなくなるのだ。そのため脳はネガティブモードになってしまい、マイナスのことしか考えなくなってしまうし、行動に関してもトラブルばかり引き起こすようになるのだ。授業に落ち零れて行く生徒というのは、必ずといっていいほど姿勢が悪いのである。

 人間を放置しておくと、姿勢は必ず悪くなっていくものだ。姿勢と言うのは人為的に強制されなければ、姿勢を正そうとはしないのであって、だからこそ学校で姿勢を正しくするよう、教師が生徒たちに注意し続けなかればならないのだ。幾ら子供が元気だからといって、姿勢のことになんにも注意しなければ、すぐに猫背に成って行くのだ。

 本を読む際に、本を寝かして読んでしまうと、確実に猫背になるので、本を立たして読むべきなのである。小学校では有り触れた光景ではあるが、これは猫背防止を兼ねているのである。子供の頃から本を立てて読む習慣をつけておけば、大人になっても本を立てて読むようになるのだ。

 猫背の生徒が出て来ると、教室の中でぼちぼちと近視になる生徒たちが出て来てしまう。猫背のために視神経が圧迫されてしまい、それで近視になってしまったのである。子供であるならば近視は簡単に治せるので、その生徒の母親に連絡して、姿勢を正すと同時に、視力回復センターで視力を回復させるように言うべきなのである。教室内で近視の生徒が出て来ると、その近視は伝染病の如くに広がって行くからだ。

●教室の中で挨拶や姿勢を最も乱すのは教師であるということを決して忘れるな

 生徒たちが挨拶をしなかったり、姿勢が悪かったりすると、「最近の子供たちは~」と言い出して来てしまうのであるが、生徒たちが挨拶をしなかったり、姿勢が悪いということは、学校で教師が挨拶をきちんとせず、姿勢を乱しまくっていたということなのである。教室内の力関係上、教師が挨拶や姿勢に拘っていれば、生徒たちは従わざるをえなくなるのだ。

 その教師が生徒や学生の頃に、運動部で礼儀作法をみっちりと教え込まれていない限り、教師たちは挨拶や姿勢が乱れまくっているものだし、教室の中で一番柄の悪い人間になっているものだ。体育会系の教師が有難いのは、どんなに馬鹿であっても、挨拶と姿勢は正しくしてくるために、教室内の秩序が健全に保たれるということなのである。

 学校の中は、夏は暑いし、冬は寒いものだ。しかしだからといって教師が夏の暑さのためにだらけていたり、冬の寒さのために縮こまっていては、生徒たちからの敬意を完全に失ってしまうものだ。夏は暑かろうが毅然とし、冬は寒かろうが毅然としているからこそ、生徒たちはその教師に一目を置いて敬意を払うようになるのだ。

 不思議なことに、挨拶がきちんとできず、姿勢の悪い教師に限って、組合活動に熱心である。しかも組合での地位が高くなればなるほど、より一層柄が悪くなっていくものだ。挨拶や姿勢を正しておけば、教師として問題を起こすことが少なくなるから、組合活動には重きを置かなくなるのだ。挨拶や姿勢が悪いからこそ、様々な問題を抱えて込んでしまい、そのために組合活動に熱心になるという悪循環が発生してしまうのである。

 教師としての挨拶や姿勢を正しくしておけば、教室以外の場所での仕事をスムーズに終えられるようになるので、その日の仕事を充実させた状態で帰宅することができるのだ。これが毎日続けば教師生活に充分満足できるようになる筈だ。しかし挨拶や姿勢が悪いばっかりに、頭が巧く作動せず、人間関係も悪くなってしまうので、教室以外での仕事が遅れてしまうのだ。そうなれば仕事に不満足が残るし、それが毎日続けば教師としての仕事が嫌になってしまうものだ。だからいつの間にか、教師の仕事を熱心にやるよりも、組合活動を熱心に遣るようになり出すのだ。

●生きて行く上で本当に大切なことは教科書には書かれていない

 学校は教科書に書かれてあることを教えればいいと思い込む教師たちは跡を絶たないものだ。教科書は生徒たちの知力を上げることはできても、生きて行く上で本当に大切なことは書かれていないのだ。生きて行く上で本当に大切なことは、決して高尚なものなのではなく、「挨拶の大切さ」とか、「姿勢を正しくする」とかいった当たり前のことなのである。

 大人になって挨拶さえできていれば、どこの職場に行っても適応できる筈だ、大人になっても姿勢が良ければ、どこの職場に行っても優秀な能力を発揮できるようになるものだ。挨拶ができないからこそ、職場でトラブルを起こし、弾き出されるのであって、姿勢が悪いからこそ、大した能力を発揮できず、出世がままならなくなってしまうのである。

 だから、子供の時に学校で挨拶や姿勢の重要性を叩き込んでくれれば、その子供たちは大人になってから、それを教えてくれた教師に感謝するようになるのだ。子供を自由に育てても、挨拶などしてこないし、姿勢だって悪くなっていく一方なのだ。自由を余りに強調し過ぎてしまうと、挨拶や姿勢の重要性を叩き込むことができなくなるので、自由に育った子供ほど大した能力を発揮できなくなるのだ。

 現在の学校は様々な問題を抱えているし、中には学級崩壊してしまっている学級もあることだろう。しかし個々の教育問題を解決する以前に、教師たち自身が挨拶の重要性を再確認し、姿勢を正して行くべきなのである。教師j自身が生きて行く上で本当に大切なことが解っていないからこそ、生徒たちは「このl教師から学ぶ必要性はない」と判定して、荒れまくって来るのである。

 母親としては我が子が日々きちんと挨拶し、姿勢を正しくするように仕向けて行くべきなのである。朝になったら「お早う」と元気よくいい、自らも姿勢を正しておくことだ。そうすれば子供の方も元気よく挨拶をするし、姿勢を正しくし続けることができるようになるのである。挨拶をし、姿勢を正すことことは、実に簡単なことなのである。、

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ウィークエンドエッセイ『水難事故はどうして起こる?』

●水は火より怖し

 火は水よりも怖し。火災で死ぬ人よりも、水難事故で死ぬ人の方が多いものだ。火は一目見れば危険と解るので、誰しも注意するが、水は幾ら見ても危険とは思わないので、誰もが警戒を怠ってしまうのだ。夏に家族で水遊びに出かけるなら、親は子供が死なぬように注意すべきだし、子供にもきつく言い聞かせておくことだ。

 我が家では父親が子供の頃に水害に遭ったので、洪水の恐ろしさは子供の頃から何度も教えられてきた。父親は洪水を恐れてか、川から離れた高台に一軒家を購入したので、どんなに大雨が降っても洪水に見舞われることがなかった。洪水に遭わないというのが、財産を着実に形成する方法ということを身を以て教えられたのだ。

 よく「床上浸水」とかと報道されるものだが、床上浸水を食らってしまうと、1階にある家財道具は全て駄目になってしまい、しかも家中が臭くなってしまい、当分の間、住める状態ではなくなってしまうのだ。かといって洪水で家が流されてしまえば、住む所がなくなってしまうので、当分の間、避難所暮らしになり、家を再建するのに莫大な費用を要するようになるのだ。

 大雨が降った時、避難勧告が出た時点で避難所に行くべきなのである。避難勧告なんだから「まだいいだろう」と思っていると、避難命令が出る頃には土砂降りの雨で身動きが取れなくなってしまい、避難所に辿りつけないし、下手をすると避難所に行く前に水に流されて死んでしまうことになるのだ。洪水で家に取り残された人々を救助隊の人々が救出するシーンが放送されると、何か感動的なシーンだと思い込んでしまうのだが、実はそうではなく取り残された人々は判断を誤ったにすぎないのだ。

 農家の人は、大雨の時には田圃を見に行かないことだ。雨に浸かってしまえば今年の収穫は駄目になってしまうが、大雨が降っているのに見に行った所でどう仕様もないのだ。だから水稲栽培だけするのではなく、陸稲栽培もすべきなのであって、そうやって危険を分散をしておくべきなのである。毎年、農家の人が大雨の時に田圃を見に行って死んでしまうのだが、いい加減に農家の人々は対策を打つべきなのである。

●水流はランダムに動く

 レジャーで川や海に遊びに行った時、なんで水難事故に遭ってしまうのかというと、水流がランダムに動くからなのである。川底も海底も一定ではないから、水流が様々に変化して、予測不能の動きをするのだ。よく水難事故が起こると、テレビで学者が水の表面の流れと、水面下の流れが違うということを説明するのだが、そんな単純なものではなく、もっと複雑な動きをするからこそ、人が溺れ死んでしまうのである。

 昔の人は「河童に足を引っ張られれた」と説明したものだが、こういう説明の方が意外と真実を突いているものなのだ。科学的に水流を調べようとすれば、膨大な計算式を必要とし、恐らく小さな川ですら、その水流を解明できないものなのである。こういう時は科学的になるよりも、昔から言い伝えられて来たことを信じた方がいいのである。

 自宅の近くに川や海があって、子供の頃から水遊びをしているのなら、その子供は水流のランダムな動きに慣れていることだろう。しかし、いつもは都会に暮らしているのに、行き成り川や海に行って遊ぼうとすると、ランダムな水流に不慣れなために、まさかこんな所で水難事故に遭って死んでしまうのかと思うような場所で死んでしまうことになるのだ。

 もしも子供たちに水遊びをさせるのなら、救命胴衣をつけて遊ばさせることだ。救命胴衣をつけていれば、溺れ死ぬことなどないのだ。救命胴衣など買ってみれば値段は安いものだ。それなのにそれをケチるからこそ、我が子を死に至らしめてしまうのである。救命胴衣は動きが鈍くなるので、動き易くしたいのなら浮輪でもいいから購入して、それによって安全を確保すべきなのである。

 水難事故に遭った場合、子供のいる親なら子供は目を離すと何をしでかすか解らないことを知っているから、遂々子供を亡くした親に同情してしまうものだ。しかし問題はその親にこそあるのであって、その親が我が子を守るために充分な配慮をしなかったために、我が子を死なせてしまったのである。そのことは絶対に忘れてはならないのだ。

●二次災害を避ける勇気

 誰かが川や海で溺れている時、それを助けに行くことは非常に危険である。自分自身が二次災害に遭ってしまい、共倒れになってしまうからだ。たとえ助けたとしても、その人から感謝の言葉を聞けても、莫大な報奨金を貰えるわけではないのだ。警察などはこの行為が尊い行為だと知っているから感謝状を送ったりするが、決して真似をしたりすべきではないのだ。

 溺れている人を救助する時は、こちら側に浮輪など水中で掴まるものがないと、相手の体に手が届いているというのに、相手を持ち上げることができず、それどころか相手の体に引っ張られて、双方が死んでしまうことになるのだ。ライフセーバーですら、素手で助けに行こうとしないことを、肝に銘じるべきなのである。プロですら道具を持って助けに行くのに、素人が素手で行くべきではないのである。

 溺れている人を助けに行く勇気は確かに尊いものだ。しかし二次災害を恐れて助けに行かないというのも、評価されるべき勇気なのだ。人間には99匹の羊は安全なのに、たった一匹の迷える子羊を救い出すと、それに感動してしまうという厄介な感情を持っている生き物なのだ。そういう感情を制御することができないと、自分が死んでしまうことになるのだ。自己犠牲は他人を感動させるものであっても、その人の命はそれで終わりになってしまうのだ。

 これが家族の間で起こったら、究極のジレンマになってしまうのだ。例えば子供が溺れている場合、父親は助けに行こうとするものだ。しかし父子共々溺死してしまったら、「残された妻や子供たちはどうなるのか?」ということにまで配慮すべきなのである。子供が1人死んでも、夫婦が残っていれば再び作ることができるが、夫が死んでしまえば、もう作ることはできないのだ。

 このような究極のジレンマに立たされないように、だからこそ父親は水遊びに行く時、子供たちの安全を考えて、救命胴衣や浮輪を購入すべきなのである。子供たちには水の恐ろしさを教えておき、「お前が溺れれば助けに行くけど、パパといえども自分の身が危険なら、たとえ我が子であっても助けに行くことはない」とドライに言い切ってしまうことだ。子供は常日頃、どんなにヘマをやらかしても、親が尻拭いしてくれることに慣れているから、自分が溺れても助けに来てくれるだろうと思っているものなのだ。そこに強烈なパンチを浴びせておくべきなのである。

●子供には水の恐ろしさを厳しく教えよ

 家族で水遊びに行く時、その両親に求めらているのは、パーフェクトゲームなのである。我が子たちを全て安全に自宅まで帰らせることをしなければならないのだ。水難事故に遭った場合、負傷して帰って来るということはまずない。殆どは死体となって帰って来ることになるのだ。そうなればもう全てが手遅れなのである。

 子供たちが水遊びをしている時は、絶対にお酒を飲まないことだ。両親が飲酒をして酔っぱらっていては、子供が溺れた時に冷静な判断ができなくなってしまうからだ。自分が感情的になって水の中に飛び込んでも、それが死への一直線になってしまうこともあるのである。

 特に天候が怪しくなってきたら、早々に引き揚げることだ。自分たちがいる場所では雨が降っていなlくても、上流では大雨が降っていて、鉄砲水が襲いかかってくるかもしれないからだ。砂浜でも天候が怪しくなると、突如落雷が発生し、その落雷に直撃して、感電死する場合だってあるのである。天候が変わると、川や海は激変してしまうものなのである。

 水辺で子供たちを遊ばせる時は、絶対に救命胴衣や浮輪を持たせて遊ばせ、子供たちから目を離さないことだ。長時間、水の中にいるのではなく、親の方に体力が充分にある状態の時に切り上げてしまうことだ。親といえども、体力が消耗すれば判断力が低下してくるので、その時に誰かが溺れたら、的確な判断をすることができなくなるからだ。

 子供たちには水の恐ろしさ厳しく教えた方がいい。1度聞いたぐらいで解るわけがないからだ。ニュースなどで水難事故で誰それが死んだというニュースが流れたびに、水は危険なんだなということが解るようになれば、自分の親は子供のことをきちんと守ってくれる親なのだなということが解るようになるものなのだ。

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3学期制の罠に嵌るな

●4月に猛ダッシュをかけよ

 何事も最初が肝心である。新学年が始まったというのに、ダラダラとしていては、その1年間はダラダラしたものになってしまう。1年間を充実したものにするためには、最初からスピードを出して行くしかないのである。そうすれば加速度がついて、学習効果を高めて行くことができるようになるのである。

 教師が気をつけるべきことは、新学年が始まって早々に「ゴールデンウィーク」が存在することなのである。このゴールデンウィークは戦後の祝日がたまたま重なってできたものなので、戦前にはこんなものはなかったのだ。なぜゴールデンウィークが危険なのかというと、新学年が始まってスピードを上げつつある時期に1週間もの間。休まれてしまうからだ。だからこの時期にスピードが削がれてしまい、その後1年間チンタラしたものになってしまうのだ。

 ゴールデンウィークに邪魔されないらめには、4月の段階で猛ダッシュをかけるしかないのだ。ゴールデンウィークに突入するまでに或る程度進んでいたら、その後の展開が楽になり、よりスピードを上げて行くことができるのである。生徒たちが多少しんどいと思える授業の方が生徒たちにとっても良いものとなるのである。

 生徒たちは新学年になればまだまだ新鮮そのものなので、全然ダレていないのだ。そのため多少の無理は効くものであって、初々しさが抜けない内に勉強を大いに進ませておくべきなのである。ここでの時間を無駄にしてしまうと、生徒たちは授業に慣れてしまうので、その授業態度を変えるのは難しいのだ。

 考えてみれば、小学校や中学校や高校での授業で、巧い授業をやっていた教師たちは全てこの4月の使い方が巧かった教師たちばかりである。ゴールデンウィークという罠が新学年早々にあるために、知らず知らずの内に4月は猛ダッシュをかけるという遣り方が身についたものなのであろう。

●1学期が充実すると2学期も3期も充実する

 世の中には「80対20の法則」というものがある。初期の20%ができてしまえば、残りの80%はできたもの同然となるのだ。物事が難しいと思うのは、その物事の20%に早く達しないからなのであって、物事を遅く進めていては、いつの間にか遣る気を失ってしまい、挫折して来る者が続出してしまうのである。

 4月に猛ダッシュをかけると、ゴールデンウィークで休みを取られても、5月に於いてもかなりのスピードで進めることができ、それができれば6月も7月も高速を維持したまま持って行くことができるようになるのである。1学期の中で一番大事な4月であって、それ以外の月ではないのだ。

 1学期が充実すると、2学期も3学期も充実したものになる。生徒たちはこの教師が行う授業なら理解できるという習慣ができてしまったので、2学期も高速で進めて行くことができるし、3学期も更に高速で進めて行くことができるのである。1学期を充実させないと、必ず2学期や3学期で生徒たちがだらけてしまい、それでその時期に生徒たちが様々な問題を引き起こすようになるのだ。

 1学期が終わると夏休みがあるので、1学期の授業のレベルが低いと、2学期や3学期がどうしてもレベルの高い授業をすることができなくなってしまうのだ。1学期の授業をレベルの高いものにしておけば、夏休みを挟んでも、2学期になれば過去の記憶を思い出すようになるので、夏休みボケが最小限に抑えて、勉強に集中させることができるようになるのだ。

 「学問の秋」という言葉があるので、春や夏は駄目でも、秋になれば勉強してくれるようになるだろうと考えるのは非常に危険である。春や夏に勉強して来なかった者が秋になって突然変異して勉強し出すようにはならないからだ。春や夏に勉強しているからこそ、勉強し易い秋になると更に勉強するようになるのだ。

●夏休みは宿題を出さない方が学習効果は高い

 教師の仲には夏休みに宿題を出す教師が大勢いるものだが、夏休みには宿題を出さない方が学習効果は高くなるのだ。夏休みの宿題があると、生徒たちは夏休みの間中、宿題をしなければならないという考えが頭のどこかに有り続けることになるので、夏休みを思いっきり遊ぶことができなくなるのだ。

 夏休みには宿題などせず、さんざん遊びまくって頭を空っぽにしてくれた方が、2学期での学習効果は非常に高くなるのだ。新たな知識を頭の中に入れるためには、頭の中を一度は空っぽにする必要性があるのだ。夏は気温が高くなるために勉強には不向きな時期なので、この時期は遊ばせておいた方が賢い選択になのである。

 もしも夏休みの宿題を出すなら、せいぜい自由研究でもやらしておけばいいのだ。夏休みの間に何か1つ研究をすれば、それで良しとすべきなのである。宿題が1つであるならば、勉強が苦手な生徒でもこなすことができるので、その自由研究を褒めてあげれば、その生徒は2学期以降、遣る気を出すようになるのだ。

 母親としてはもしも夏休みの宿題が出たら、夏休みが始まった早い段階で我が子に終えてしまうように仕向けるべきなのである。夏休みは7月の頃はまだまだ涼しいので、この時期なら勉強することができるのである。お盆が過ぎた頃には気温が高いし、湿度も高くなるので、とてもではないが勉強することなどできないものなのである。

 夏休みが終わる頃に夏休みの宿題をやっているようでは、その子の夏休み自体が充実したものにならないし、その宿題の成果も出来の良いものはできなくなってしまうのだ。子供は時間のペース配分が解っていないので、母親が夏休みの午前中は勉強させて、午後は遊ばせるようにすればいいのだ。そうすれば子供といえども勉強するようになるのだ。

●学校に於いては前期後期制を採用すべきではない

 学校の中には大学を真似て、前期後期制を取るような考えを持っている者もいるのであるが、これは絶対にやめた方がいい。前期後期制は大学生ですら持て余している粗悪なシステムなのであって、前期後期制にしてしまうと、後期が非常に長くなってしまうので、学生たちはだらけてしまうのである。だから学生たちが犯罪に手を染めるようになるのだ。

 前期後期制だと学期の途中で学生たちの理解度を試験でチェックすることができないので、大抵の講義がだらけてしまい、1年間講義したというのに、講義内容を終えることができないのである。3学期制なら1学期の前半後半に試験をし、2学期の前半後半に試験をし、3学期に試験をするので、この5回の試験が生徒たちの理解度を図る上で非常に遣り易い仕方なのである。これを捨てるべきではないのだ。

 教師は試験の出来を見て、生徒たちの理解度を推測し、理解していないのなら補習をしたりすることができるし、理解度が高いのなら更に授業のレベルアップを図ることができるのである。そういうことができるからこそ3学期制は非常に有利なのである。前期後期制だと前期に1回、後期に1回の試験しかできないので、それではこういう調整ができないのである。

 学校の教師たちは日本の大学はレベルは低いのだけれども、学校の方はまだまだ国際的にレベルの高いことをやっていることに自信を持つべきなのである。欧米は殆どが9月スタートなので、日本のように3学期制を採用できないのだ。そのために生徒たちがだらけてしまい、授業のレベルを上げることができないのである。

 世の中にはすぐに物真似したがる人は大勢いるものだ。しかし物真似の中にはしていい物真似と、してはいけない物真似が存在するのである。前期後期制はしてはいけない物真似なのであって、3学期制でその良さが既に立証されている以上、3学期制を保守し続けるべきなのである。3学期制に問題があるからといって、他のシステムに変えても、今よりも出来が良くなるという保証はどこにもないのだ。寧ろ実際にやってみると、ひどい結果内容に呆然とするものなのである。

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授業は「準備7割、実行3割」で学習効果が出て来る

●まずは教師が納得せよ

 授業というものは教師自身が授業内容を納得していないと、まともな授業を行うことはできない。多くの教師たちは生徒たちが授業を理解できないことを、生徒たちの頭の悪さに起因させてしまうものだが、生徒たちが解っていないということは、それ以前に教師自身が解っていないということなのである。

 授業は「準備に7割、実行に3割というエネルギー配分を行うと、授業のレベルを格段に高くすることができ、生徒たちに明らかに学習効果が出て来る。1日の授業は6時限なのだから、その準備のために12時間以上は費やさなくてはならない。そんなの学校に行っている日にはできることはないのだ。

 だから毎日働くのだ。頭脳労働の場合、1日でも休んでしまうと、急激に能力が落ちてしまう。それゆえ土日であっても本当に遊んでしまうのではなく、1日に最低でも3時間は学校の授業のための勉強を行い、せっせと実力を蓄えて行くしかないのだ。夏休みや冬休みや春休みのように長期に亘って休みが取れる時は、それこそ自分で研究テーマを決めて研究するべきなのである。

 そのため学校で授業がある日は、授業のための具体的な準備をすればいいのであって、明日やるべき授業を準備し、頭の中に入れておいてから就寝すると、睡眠中に授業内容が整理されて、授業になるとスラスラと物を言えるようになるのだ。前日にこの準備をしていないと、教壇の上に経っても間誤付いてしまい、生徒たちにとって非常に解りにくい授業になってしまうのだ。

 教室の中で最も勉強しなければならないのは生徒たちなのではなくて、実は教師自身なのである。教師こそが生徒たちよりも勉強しなければならないのであって、そうやって勉強熱心だからこそ、その熱意が生徒たちに伝わり、生徒たちも勉強し出すのである。教師が自分で勉強しないのに、生徒たちに「勉強しろ!」といっても、生徒たちは勉強する筈がないのである。

●解らないことがあるなら調べる習慣を身につける

 学問の中で最も大事なのは、「知的正直」という倫理だといっていい。学問に対して嘘をつかない。学問に対して常に正直で有り続けるという態度を貫かない限り、優れた学問など絶対に行うことなどできないのだ。授業の中で解らないことがあったら、それを放置してしまわないで、解らないことがあるなら調べる習慣を身につけることだ。

 例えば「鎌倉幕府の成立は一体いつなのか?」という問題がある。幕府というのは、「征夷大将軍の陣所」という意味なので、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年でしか有り得ない。それなのに最近の歴史学者たちはこのことに意義を唱え、鎌倉幕府の成立は1192年ではないと言っているのだ。

 最近の歴史学者たちがいうように、源頼朝が事実上、西日本と東日本を支配下に置いたのは、1185年に総追捕使なり、義経追討の名目で全国に守護・地頭を置ける権限を獲得しかた時からなのである。しかし全国といっても、奥州は奥州藤原氏が独立した勢力を誇っていたので、源頼朝が奥州を支配したのは1189年の奥州征伐以降のことであって、その時になってやっと全国を軍事的に支配することができたのである。だから1185年に鎌倉幕府が成立したとする見方は間違っており、軍事的に全国を支配下に置いたのは1189年であり、朝廷から正式に幕府の成立を許されたのは1192年なのである。

 では、源頼朝が征夷大将軍になったことば万々歳かといえば、決してそうではない。征夷大将軍という官位は源頼朝にとって高過ぎたのである。征夷大将軍就任後に曽我兄弟によって暗殺未遂事件が発生したり、そして何より源頼朝自身が暗殺されてしまったのだ。歴史書には落馬して死亡したと書いてあるが、暗殺未遂事件後に落馬して死んだのなら、暗殺されたと見るのが当然であろう。

 現在に生きる我々は幕府というものは朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、それによって幕府が開かれると思っている。しかしこの先例を切り開いた源頼朝自身は典型的な官位打ちにあって自滅しており、その後に権力を引き継いだ北条氏は征夷大将軍を朝廷から迎え、自分自身は武蔵守の官位に留めたのである。だからこそ北条氏の政権が長く続いたのである。歴史を教えるというのは、こういうことを考え教えて行くことなのであって、歴史学者のように重箱の隅を突っつくようなことをすべきではないのだ。たとえ歴史学者の意見であっても、教師が自分で調べてみて間違っているのなら、「これは間違っている!」と主張する勇気が必要なのである。

●授業内容をノートに書き出し、カードに纏めてみる

 授業内容はノートに書かないと、自分自身の思考が整理されなくなってしまう。ノートに書いてみると、新たに問題が発覚することもあるし、複雑に見えていた問題が簡単に整理されてしまうこともあるのだ。ノートはギュウギュウ詰めに書くのではなく、余白を残しておき、もしも生徒から質問を受けたのなら、その余白に書き入れて行くことだ。

 ノートを作ったのなら、そのノートから要点を引き出して、それをカードに書き移して行くのだ。授業内容をカードに纏めると、授業内容を圧縮することができるのだ。カードに纏めてしまうと、6年後の授業ではそれを見ればすぐさま授業内容を思い出せるので、更に勉強して授業内容をより濃くしていけばいいのだ。

 通常、小学校の教師で授業内容をノートに取り、それをカードに纏めるという作業をする教師は殆どいない。そのために授業内容のレベルが低く、しかも授業内容が希薄で、その授業を聞いている生徒たちが飽きてしまうのだ。その内、生徒たちが私語をし始め、授業中なのに立ち歩いたりして、最終的に学級が崩壊してしまうのだ。こういう事態を引き起こす教師に限って、「最近の子供たちは云々」と言い出して来るのだが、最近の子供たちが問題なのではなく、教師であるお前が教師としてすべきことをしていないのが問題なのである。

 どんなに馬鹿の子供でも、教師が内容の濃い授業をやってくれば、真剣になって聞くものなのである。授業の内容が薄いからこそ聞かないだけであって、教師がしっかりと授業の準備をして、授業内容を濃くしてしまえば、態度を一変させるものなのである。教師にとって生徒たちの反応で、自分が準備の良し悪しが解るのだから、授業で生徒たちの反応を見ながら、反省し改善していけばいいのだ。

 ノートを取るだとか、カードに書き写すとかは、遣り始めた頃には大した成果が出て来ないものだ。教師自身が面倒臭いなという感情が優先してしまうし、授業での反応にもそれほど変化はないものだ。しかしノートが100冊を超えた時点で、カードが100枚を超えた時点で、恐ろしいほどの威力を発揮し始めるようになるのだ。授業中にレベルの高いことをスラスラと言え、授業内容を圧縮することができるようになるのだ。そしてその授業によって生徒たちが勉強熱心な子供に激変して行くのだ。

●素晴らしい授業をしたいのなら経験値を積むこと

 教師としての実力を上げて行きたいのなら、とにかく現場で経験値を積むことだ。経験値を上げない限り、具体的な方法がいつまで経っても身につかないのだ。頭の中で幾ら凄いことを考えていても、授業でそれを披露したら吹き飛んでしまったというのは幾らでもあるものなのである。

①何度も失敗してみる

 成功したいのなら、とにかく失敗してみることだ。失敗して痛い目に遭うからこそ、こういう遣り方はいけないのだなということを学べるのだ。教師が絶対にやってはならないのは、「自分は正しい。あなたは間違っている!」という自己中心的な考えを持ってしまうことである。これをやると教師としての成長がピタリと止まるので、教育能力など絶対に上がらなくなってしまうのだ。日教組が危険なのは、この手の教師たちを集めてしまい、自分たちが間違っているのにそれを正当化しようとするからなのである。

②成功体験を味わう

 失敗ばかりしていては負け犬になってしまうだけだ。なんでもいいから成功体験を積んでいくことが必要なのだ。科目の中で自分が一番得意とする科目に重点を置き、そこで成功体験を味わってしまうことだ。1つの科目で成功を収めると、次から次へと成功を収めて行くようになるのだ。

③「掴み」「笑い」「落ち」

 授業というのは「掴み」「笑い」「落ち」の三つが非常に大切である。授業の良し悪しは最初の3分で決まるといっても過言ではない。掴みで如何に生徒たちの関心を惹くかで、授業の出来は大体決まってしまうのだ。授業中は必ず生徒たちの集中力が低下するから、その頃合いを見計らって、笑いを取るようにすべきなのである。そして授業の最後でその落ちの出来の良さが、授業の印象を決定づけてしまうのだ。

 教師が一流の教師になるためには多大な労力と時間が必要なのである。教師の中には「そんな時間ないよ」と言い出す教師もいるかもしれないが、だから日々の仕事を真面目にやるべきだし、休日に遊んでいないで授業の勉強をすべきだし、休暇は研究に当てるべきなのである。

 もしも本物の教師になろうとする者がいるならば、日教組などに加わって政治活動に手を出すわけがないのだ。教師であるなら、そんな暇はない筈なのである。嘗て戦前に軍人たちが政治に手を出したら、戦争で襤褸負けしたように、戦後は教師たちが政治に手を出し続けたからこそ、教育で襤褸負けし続けているのである。政治というのは、部外者が手を出せば、自分たちの思いとは正反対の現象が起こってしまうものなのである。学校の教師たちは一刻も早くそのことに気付いてほしいものだ。

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教師たる者、漠然と勉強を教えるな

●子供のたちの集中力は意外と短い

 子供の集中力は意外と短い。そのため教師が授業の集中力を欠き、漠然と授業を行うってしまうと、当然に子供たちの方が飽きてしまう。特に紙オムツ育ちの子は我慢するということを訓練されていないので、自分が飽きてしまえば、学級から飛び出してしまうものだ。『朝日新聞』などはこの現象を深刻に「学級崩壊」と報道して来るが、なんのことはない、教師の教育能力の低下と、生徒の側の紙オムツ育ちが相俟って、授業を成立させなくさせているだけなのである。

 一番、危険な遣り方は、生徒たちは小学生なのだからと教師が馬鹿扱いしてしまうことだ。最近の子供たち小学校入学前に平気で文字を覚えて本を読める状態になっているので、教師が子供たちは何も知らないだろうと思って臨むと、悲惨な結果になってしまうのだ。自分でそれなりに体験をして知識を持っている大人より、何も体験せず、なまじ知識を持っている子供の方が怖いものなのである。

 授業で学問の知識を優先させると、子供たちは拒絶反応を示すものだ。だからまずは子供たちの好奇心を刺激し、学問の面白さを教えてあげることだ。子供たちの好奇心を如何に刺激するのかが、教師の腕の見せ所なのだ。それができてしまえば、後は簡単になっていくものなのである。

 子供が集中力を維持できる時間は短いのだから、授業の半ばには必ず冗談を言って、子供たちの緊張を弛緩させてあげることだ。張りつめていてばかりでは集中力も維持できなくなるので、途中に冗談を言って緊張を緩め、更に緊張させるべきなのである。授業中に冗談の言わない教師は学問に於ける犯罪者であると断言していい。その教師は学問の面白さを全然理解していないからだ。

 最後に気をつけるべきは時間配分で、チャイムがなったのに授業を続けるべきではないのだ。子供たちはパブロフの犬のようにチャイムがなれば遊ぼうとし出すので、チャイムが鳴ったら授業などできる状態ではないのだ。チャイムが鳴る前に授業を終わらしておくべきなのである。これもまた経験値を積まないと身に付けられないものなのである。

●教師は明確な目標を持つべきである

 小学校の教師の教育能力はみな平等ではない。巧い下手が明確に分かれてしまうものだ。教師の中で巧い授業をする教師は明確な目標を持って授業に臨んでいるということなのである。明確な目標があるからこそ、その教師の全ての知識や技術がそこに集中されて、授業が断然と面白くなるのである。

 最大の問題は「重点をどこに置くのか?」なので、国語算数理科社会を満遍なく教えるのではなく、基本的には国語と算数に重点を置いた方がいい。この2科目こそが初等教育の基本中の基本なので、これさえできてしまえば、理科も社会も簡単に教えることがでいるからだ。

 気をつけべきは、理科が大好きで、理科に偏って授業をしてくる教師である。典型的な理系の教師は、理科の授業を面白くするために周到に準備をして来るのだが、そのために理科の授業を面白くし過ぎてしまい、他の授業が詰まらなくなってしまうのだ。理科が出来る教師は国語も算数もきちんとできる筈なので、国語と算数にもきちんと配慮をすべきなのである。

 問題のある教師は社会に重点を置いてしまう教師だ。総合科も社会の授業の延長のようなもので、社会を重視する教師は総合科にも力を入れる筈だ。まず社会や総合科の重点を置いてしまう教師は算数や理科が苦手だし、国語の授業もイマイチ巧く行えないものだ。小学校の教師が真面目に国語や算数の授業を教えようとなると、様々な準備をしなければならないのだが、これを全くといっていいほどしないのだ。

 母親としては授業参観の日には必ず出席して、我が子の担任が如何様な人物か自分の目で確かめてみることだ。理科に偏っている教師は典型的な真面目人間だし、社会に偏っている教師は幾ら話を聞いても要領を得ないものだ。もしも我が子の担任がこの手の人物たちなら、自宅で国語と算数に重点を置いて勉強を行った方がいい。幾ら教師の話を授業中に聞いても、国語や算数の実力が上がらなくなってしまうからだ。

●一番困るのが満遍なく授業をやろうとする教師

 教師の中で一番困るのが、満遍なく授業をする教師である。満遍なく授業をするということは、初等教育で一体どこが重要なのか解っていないからだ。満遍なく授業をする教師は大学卒業までの自分自身の成績も平均的に取って来た人なので、取り立てて自分の得意分野というものが全くないのだ。生徒たちの側からすると、得意分野のない教師の授業は非常に解りにくいものなのだ。

 得意分野がないということは、全ての分野で曖昧な理解しかしてこなかったということであり、それを授業で子供たちに教えてみると、曖昧を通り過ぎて意味不明になり、生徒たちの頭の中は大混乱になってしまうのだ。現在の教育システムでは、どうしてもこの手の満遍なく勉強ができた人物が出て来てしまうために、教師として完全に不適格な人物が教師に成って来てしまうのだ。

 この手の教師たちは授業を幾らやっても面白くできないし、何より自分自身が授業を面白いとは思っていないので、正規の授業をやらずに「平和教育」「人権教育」「民主主義教育」に重点を置いて来るようになるのだ。母親はこれらの授業をやっていると子供から聞かされたら、この教師にはまともな教育能力がないと思った方がいい。小学校の授業を真面目にやっていたら、そんな教育などやっている暇などないものなのだ。

 「平和教育」「人権教育」「民主主義教育」というのは、夢のない教師たちが熱心に行うものなのである。教師になるような人は、自分が学校で教師から面白い授業を受けたからこそ、教師になるのを志して、教師になった筈である。間違っても「平和教育」をやろうとか、「人権教育」をやろうとか、「民主主義教育」をやろうとかしてなった筈ではない筈だ。自分に夢がないからこそ、この手の教育に嵌ってしまうのである。

 小学生である子供たちはまだまだ学力が低いものだ。その低い段階で「平和教育」や「人権教育」や「民主主義教育」を受けてしまえば、教育が洗脳に変わってしまうのである。イデオロギー色の強いものを大人たちが大人たち向けにやることは構わないが、子供たち向けにやるべきではないのだ。その洗脳が抜けないために、大人になっても歪んだ大人に成長してしまうものなのである。

●勉強が不得手なら他の科目に重点を置くのも良い

 教師の中には教室の中での授業はどうも苦手だという教師は必ずいるものだ。学生時代に運動部で活躍したような人は、教師になると体育に重点を置いて来るものだ。大抵、運動会での優勝を目指すようになるので、生徒たちを徹底的に鍛え上げて行くようになるものだ。

 生徒たちにとって最も思い出深い教師が体育に重点を置いてくれる教師だ。体育なら勝ち負けが明確になるために、通常の科目よりは生徒たちにはっきりとした形で成果を得ることができるのだ。生徒たちが小学校を卒業して長らく語り継がれるのは、体育に重点を置いてくれた教師であって、同級生と再開すると必ずあの担任の話で盛り上がるのだ。勉強だけを教えていては、それほど感動が長く続かないのだ。矢張り体を動かさないと感動を持続することはできないのだ。

 音楽が得意で、音楽に重点を置いてくれる教師も、これに準ずる感動を与えてくれるものだ。音楽の時間を巧く使って、生徒たちに合唱することの喜びを教えてしまうと、卒業式の時には感動的な卒業式をすることができてしまう。通常の授業では誰かとシンクロすることなどできないが、合唱なら誰かとシンクロできてしまうので、それが生徒たちにとっては非常に面白いものなのである。

 生徒たちの中にはどうしても勉強がテンデ駄目という子供がいるので、その手の生徒にとっては音楽に重点を置いてくれる教師は有難いものだ。勉強はできなくても、音楽さえできたという自信が、その後の人生に大いに役に立つようになるのだ。学校だから勉強ばかりすればいいというのではなく、それ以外の道も残しておくべきなのである。

 母親としては我が子から学校の様子を聞き出し、担任がどのような人物が或る程度の情報を掴んでおくことだ。子供の教育の成果は教師の教育の仕方で随分と変動してしまうものだからだ。我が子がどうも馬鹿だなと思っても、本当に馬鹿なのではなく、教師が授業でまともな授業を行っていないだけということも有り得るのだ。もしも担任の授業に問題があるようなら、母親が自宅で教えてしまえばいいのだ。絶対に教育を学校任せにしないことだ。

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学校での「勉強の仕方」

●学校での勉強の仕方を習慣化することの絶対的重要性

 何事も基本というものが大事だ。基本さえできれば応用が効くが、基本ができなければ応用などできない。子供に学問を教える際、表面的な知識だけを教えるのではなく、まずは学問の基本を教えるべきなのである。学問の基本でもその基本中の基本が、「勉強の仕方」である。勉強の仕方が解らない限り、勉強などできるわけがないのだ。勉強の仕方とは以下の3つからなる。

①教科書を予め良く読んでおく

②教師の話をしっかりと聞く

③ノートを真面目に取る

 勉強の仕方でまず大事なのは、「教科書を予め読んでおく」ということだ。教科書の仲に授業で行う全てが書かれているので、まずは教科書を読んでいないと話にならないのだ。できれば予習して前日に内に読んでおくとか、それができなくても授業が始まる前にざっと目を通すだけでもいいのだ。教科書を予め読んでおけば、授業はすらすらと頭の中に入って行くものなのである。

 次に勉強の仕方で大事なのは、「教師の話をしっかりと聞く」ことだ。教師の話を聞かねば、授業の内容など解るわけがないのだ。授業中なのに他のことを考えていたりしていては、教師の話など耳には聞こえども、頭の中には入って来ないものなのだ。もしも教師の話を聞いて解らないことがあれば質問の時間に質問すをればいいのだ。

 勉強の仕方で第三に大事なのは、「ノートを真面目に取る」ということだ。人間は人の話を聞いても、すぐに忘れてしまうものだ。だからノートに取ってその記憶が飛んで行かないようにしなければならないのだ。ノートに書いてしまうと、それを見れば思い返すことができるので、それで記憶のし易い脳に変わって行くのである。

 勉強の仕方というのは、生徒たちの中には自然発生的に生み出せる生徒もいるが、実際は多くの生徒たちは誰かから教え込まれなければ身につけることができないものだ。勉強の仕方は人為的に学ばされる以上、早い段階で人為的に身に付けさせてしまい、それを習慣化してしまうことだ。習慣化してしまえば、本人はなんの苦痛にもならず、いとも簡単に勉強ができるようになるのだ。

●勉強の仕方を自宅で教え込む

 母親としては、子供の成績表に一喜一憂するのではなく、「勉強の仕方」をまずはしっかりと覚え込まさせるべきなのである。そのためには自宅で「読書の習慣を持たさせる」ことだ。読書の習慣を身につけさせると、教科書も良く読むようになるのだ。読書ができる子供にとって、教科書は難しくない書物に変わってしまうので、教科書を読むのが苦痛ではなくなるのだ。

 裏技としては、新学年が始まって新しい教科書を貰ったら、まずは一通り読んでしまうように仕向けることだ。教科書を読んでしまうと、その内容を理解しているか否かを問わず、とにかく頭の中に入ってしまうので、そのためにその後に授業を受けても、授業の理解度が全然違ったものになり、楽々と高得点を取れるようになってしまうのだ。

 子供に学校で教師の話を聞かせるためには、自宅で親子こ会話をきちんとしておくことだ。家庭での会話が一方的になっていると、子供はそのストレスを学校で発散するようになり、授業中にペチャクチャと喋り出すのだ。授業中は私語厳禁なものだが、授業中に自分が喋っていたら、教師の言っていることなど頭に入らないものなのだ。私語をする奴はどこにでもいるのであって、そういう人物は絶対に大成しないものなのだ。

 子供にノートを取らせるためには、ノートへの出費を惜しまないことだ。ノートを買う時は母子で買いに行き、ノートを買うことが宝物を手にするような気分にさせてしまうことだ。小学生用のノートはページ数が少ないので、ノートを使っていればすぐになくなってしまうので、そのたびに新たなノートを買ってあげるべきなのである。さすがに現在ではノート代を出すのが家計的に苦しいという母親はいないと思うが、母親が子供のノートへの配慮を怠っていると、子供はノートを余り使わなくなり、両親に経済的負担を強いないようにしてくるのだ。

 子供にノートを取らせる習慣を身に付けさせる裏技としては、「日記をつけさせる」というものがある。子供にとって紙に文章を書くというのは慣れていない作業なので、文章を書くことが簡単だと思えないと、ノートに取ろうとはしなくなるのだ。そこで日記をつけさせることで、文章を書く訓練をさせると、授業中でもノートを取るようになるのだ。

●勉強ができない子供は勉強の仕方が解っていないだけ

 母親の中には、学期末に子供がひどい成績の成績表を持って帰り、そのため「我が子は馬鹿なのではないか?」と思ってしまう母親というのはたくさんいるものだ。しかし、その子供は馬鹿なのではなく、勉強の仕方が解っていないだけなのである。勉強の仕方が解っていないから、同じ授業を受けても、他の子は勉強ができるのに、我が子だけ勉強ができなくなってしまうのだ。

 「馬鹿」というのは、普通の人たちが当たり前にできることをできない人々のことをいうものなのだ。当たり前にできることでも、習慣化されていない子供にはできないものなのである。だから成績云々を言う前に、勉強の仕方を教えることが大事なのだ。勉強の仕方が解っていないからこそ、幾ら授業を受けても、その授業内容をしっかり物にすることができないのである。

 小学校の授業は低レベルなものなので、子供の成績が悪いなら、まずは勉強の仕方が身についていないんだなと思うべきなのである。そのため生徒が馬鹿なら教師は容赦なくひどい評価を下して欲しいものなのだが、成績の評価基準を弄り相対評価から絶対評価に切り替えてしまうと、生徒に有利な成績をつけてしまので、その生徒は勉強の仕方を身に付けていないことが母親にバレなくなってしまうのだ。

 もしもいつもテストでひどい点数を取って来るのに、成績表の評価がいいのなら、そんな成績表を信用しないで、テストの点数を我が子の適正な評価だと思った方がいい。そういう時は、ひどい点数のテストを持ってきても叱らず、正解できた問題に関しては「この問題は理解できたんだね」と褒めた上で、解らなかった問題に関しては教科書と照らし合わせながら復習していき、正解に辿りつけるようにしてあげるべきなのである。

 小学校の段階で勉強の仕方を身に付けず、しかも教師が成績表を誤魔化してしまうと、子供が勉強の仕方を身に付けていないことがバレないために、中学生になった時に勉強ができなくて苦労してしまい、それで落ち零れて行ってしまうのである。勉強の仕方を身につけていないことが解るためにも、成績表は厳しくつけるべきなのである。小学校教師の「偽りの思いやり」が、生徒たちのその後の人生を狂わしてしまうのである。

●勉強の好循環を引き起こす

 勉強の仕方が解ると、勉強することが楽しくなってくる。新しい知識を難なく理解して行くことができるようになるからだ。そうなれば後は自動的に勉強してくれるようになるので、常にテストでは高得点を取り続け、学期末にはいい成績のついた成績表を持って帰って来るのである。

 テストの点数だとか、成績表の成績は、我が子が勉強の仕方を理解しているか否かを教えて来る貴重な情報源なのである。我が子に対してありとあらゆることに手を出すのではなく、勉強の仕方が解っているのか否かに焦点を当てて、それさえできれば勉強はできるようになるということを知っておくべきなのである。

 人間は新しいことを学ぶと、更に次の新しいことを学びたくなるので、授業で学問のことが解るようになると、次から次へとより多くの知識を学びたくなるのだ。そういう子供は当然にテストの点数も高いし、成績表の成績もいいので、更に勉強熱心になるのだ。そうやって好循環の法則が働くと、中学、高校、大学へと、その勢いを維持したまま学び続けることができるのである。

 逆に悪循環の法則とは、小学校の際に勉強の仕方を身に付けていなかったために、テストの点数が悪くなり、成績表の成績も悪くなり、その内、勉強嫌いになってしまい、不良の道を走るようになってしまうのだ。悪循環の法則が作動してしまったら、どこかでその悪循環の法則から逃れなければならないのであって、母親は子供にへばりついて、勉強の仕方を身につけさせるべきなのである。

 母親は「勉強の仕方というものは人為的に身に付けさせるものだ」ということを知っておくべきなのである。幼稚園の頃までは元気に育って来たのに、小学生になって勉強の仕方を身に付けなかったばかりに勉強が解らなければ、学校嫌いになってしまうものだ。そうならないように母親の力によって「勉強の仕方」を強制的に身に付けさせていくべきなのである。

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「偉人伝の威力」と「夢の力」

●道徳教育を完全に忘れた教師たち

 戦前の道徳の授業は「修身」といった。この修身の授業は教師たちの悩みの種だったのであり、どう教えていいか迷いに迷ったものだった。修身の授業は通常の授業のように試験の成績が良ければ成績表で高い評価を与えればいいというものではないからだ。試験の点数が高い生徒でも、道徳的に劣る生徒は幾らでもいるものなのだ。

 よく、戦前の教育では「教育勅語による補完」がなされたと学者たちは言うものである。しかし教育勅語は学校の儀式の際に読まれただけであり、しかも文語体で非常に解りにくいものなのである。忘れてはならないのは、教育勅語自体は明治になって国民の道徳心が低下したことを明治天皇が危惧なされたからこそ発せられたのであって、当時の人々が腐敗していたからこそ、高尚な理想を唱えなければならなかったのである。

 ところが日本が大東亜戦争に負けることで事態は一変する。GHQは日本が二度と復活してこないように、学校の授業から修身の授業を廃止してしまったのだ。これはマッカーサーが修身をなくすことで日本国民を道徳的に空白状態に陥れ、日本国民をキリスト教徒に改宗させ、日本をキリスト教化しようとする企みの下に行われたのだ。占領中、GHQは神道を弾圧する一方で、キリスト教系の宗教団体を優遇し、彼等の勢力を拡大させたのである。

 更に事態が悪化したのは、学校の教師たちに社会主義が蔓延して行ったことであり、修身の授業を廃止を受け入れただけではなく、その後、長らく生徒たちの道徳を破壊することを延々と遣り続けたのである。社会主義が最も憎んだのは道徳であって、国民が道徳を持っている限り、社会主義革命を阻止されてしまうのである。逆に言えば、国民から道徳がなくなってしまえば、社会主義革命を実現することができるのである。

 戦後の学校が長らく荒廃し続けたのは、まさに教師たちによって道徳の破壊が行われ続けたからであって、だからこそ学校ではイジメや殺人事件が発生するようになったし、少年犯罪も急増して行ったのだ。日教組の勢力が衰えるようになってから、やっと少年犯罪の発生率が減少していったのだ。

 戦後から半世紀以上経ってから政府は道徳の授業を復活させたのだが、現場の教師たちは道徳の授業の遣り方など完璧に忘れてしまっているのであって、学校の教師たちの中には道徳の授業の時間に、道徳教育の代わりに人権教育を施している者もいる有様なのである。人権教育を施して、生徒たちの道徳が向上していくわけがないのだ。

 道徳というのは、言わば「国民の共通認識」だと言っていい。道徳は言われれば当たり前のことなのに、当たり前だからこそ気付けないのである。道徳は決して宗教ではない。宗教には殉教者が出て来ても、道徳には殉教者は出て来ないものだ。日本国民の道徳が一体どのようなものなのか、倫理学者たちが研究して、研究成果を積み重ね、それを道徳教育の現場に還元して行かなければならないのである。日本の倫理学者たちのレベルの低さが、日本の学校の現場に如実に現れて来てしまうのである。

●近代国家が求める道徳は「最低限でも法を守れ」ということである

 近代国家の道徳と、近代以前の道徳とでは、まるで異なる。近代以前の道徳では最高善を求めてより良く生きる方法を教えていたのに対して、近代以後の道徳は「最低限でも法を守れ」ということを要求しているのである。だからこそ最高善を求めた儒教は近代になって崩壊してしまったし、道徳的にはレベルが低い人物でも法を順守している限り、とやかく言われない世の中になったのである。

 国民に法を順守させるためには、まず何よりも先に国内で「法の支配」を確立すべきであって、「人の支配」を退けなければならなかったのだ。その次に家族制度や私有財産制度を守り、市場取引による自由経済を確立させることによって、国民を豊かにして行かなければならなかったのだ。更には法律の形成過程に国民を参加させ、国民が納得するような法律を作り、その法律を誠実に守らせるようにしなければならないのだ。

 明治維新後の日本史の流れはまさにこれに則したものであり、政府は多少の行き違いはあったとしても、大きくは外れることはなかったのだ。だからこそ 社会主義者たちは日本政府を徹底的に批判したのであり、法の支配を覆さないと社会主義革命が達成されないから、そのために教育の現場では道徳を否定して来るのである。

 嘗て日教組の教師たちによって「校則無用論」が唱えられたが、これほど道徳に反し、野蛮な所業というものもないのである。生徒たちは校則を順守することで、法の支配の訓練を受けるのであり、その校則が時代に合わなくなったのなら改正していけばいいだけの話であって、校則そのものを廃止しては、生徒たちを無法状態に陥れるだけになってしまうのである。

 近代国家が求める道徳は、その人が法を順守しているのなら、自由に生きてもいいということなのである。法を順守した上で、自分自身の徳を発揮していけばいいのである。法を順守することなく、己がソクラテスやプラトンやアリストテレスのような生き方をしても、それは近代国家の国民のやることではないのである。逆に言えば、近代以前と以後では道徳の内容が違っていることに最も敏感に気付いていたのは、実は社会主義者たちであったのである。

●人徳を涵養し、人徳を発揮させる

 そもそも道徳とは一体なんなんだろうか? 道徳とは、「神の摂理に従って、まっすぐな心で人生を歩むということ」ということなのである。だから道徳のあるものは神を崇敬するし、まっすぐな心で生きているからこそ楽しく力強く何事かを成し遂げて来るのである。男は男らしく生き、女は女らしく生き、そして各々自分の夢を実現させていくべきなのである。

 子供に人徳を涵養させるのなら、偉人伝を教えて行くべきなのである。偉人伝の中に出て来る偉人たちの生き様を見て、自分自身が大いに刺激を受けて、自分自身も自分の夢をしっかりと持つべきなのである。小学生が抱く夢なのだから、その夢が実現するかどうかは解らない。しかし夢を持つことこそが大事なことなのである。

 自分が夢を持っていれば、それに向かって走り出すことになるから、寄り道をすることがなくなり、禁欲的になって全力を集中して行くことができるようになるのである。それこそが人徳が発揮されている状態なのであって、それを繰り返して行くこそ、自分が夢を実現居た時に人徳を大いに発揮できるようになるのである。

 政治家なら国家の独立を守り、国民を豊かにさせ、経営者ならお客様を満足させた上で利益を拡大させなければならないのだ。政治家が国益を追求することなく汚職をしていたのなら徳がないのであって、経営者が業績不振に陥り倒産させてしまったら徳がないのである。人徳それ自体は計測することが不可能であるが、もしも人徳が発揮されているのなら、必ずその人徳が具現化され、利益が発生している筈なのである。だから自分自身が成長することによって、莫大な利益を生み出して行かなければならないのである。

 その一方で、道徳の授業を行う教師たちは、偉人伝に出て来る人物たちは特殊な人物であるということも知っておくべきなのである。確かに偉人たちは素晴らしいが、そのような人物が出て来るということは、その当時の人々は下らない人物が多かったということであり、これは今現在も変わらないのだ。幾ら道徳を熱心に教えたとして、全ての生徒たちが高い道徳を持つことはないのだ。生徒たちの中にも下らない人物はいるものであって、その者に高い道徳的基準を当て嵌めてしまえば、その生徒は居場所を失ってしまうことになるのだ。

●夢を持っていれば、勉強は簡単になる!

 道徳を考えていけば、複雑なことを様々に考えていかねければならないものだが、道徳の授業は至って簡単で、生徒たちに「あなたの夢は一体何?」と訊けばいいのである。生徒たちにその夢を紙に書き、自分の家に飾っておけばいいのである。生徒の夢が明確になっていれば、生徒は人徳を発揮していくようになるのだ。

 生徒たちに道徳の授業を行わず、勉強ばかりさせるからこそ、生徒たちは勉強が苦痛になっていくのである。夢がなければ勉強を目的化してしまうから、勉強が苦痛になり解らなくなってしまうのである。夢を持ってしまえば、勉強は夢を実現するための手段になるのであって、そうなってくれれば勉強は簡単になってしまうものなのである。

 生徒たちの学力を国際的に評価しあって、それを幾ら比べてみても無意味なものなのである。小学生の段階で幾ら高い成績を収めていても、その生徒に夢がなければ、その生徒は絶対に偉大なる人物になることはないのだ。その生徒が偉大なる人物になるためには、勉強ができなくても、大きな夢を持つことこそが大事なのである。

 学校の教師たちの中には教育熱心になる余りに、生徒たちを学校に適応させることばかりに躍起になってしまい、生徒たちを徹底的に管理してしまう者たちがいるものだ。確かにそれによって教室ではなんの問題も起こらなくなるが、かといって生徒たちが学校に適応し過ぎた余りに、社会に出て大した能力を発揮することができなくなってしまうのである。人に教育を施す時は、その現場さえ乗り切ればいいということだけを考えるのではなく、その子の未来を見据えて教育を施して行かねかなければならないのだ。

 母親は学校の教師たちは道徳の授業をまともにやっていないということを知っておくべきなのである。だから自宅で我が子に偉人伝を読ませたり、我が子に自分の夢を聞いておくべきなのである。子供の夢など大人から見れば笑ってしまうものだが、しかし夢があるからこそ子供なりに人徳を発揮して行くようになるのである。

 勉強して、いい成績を取ることは確かに大事なことだ。しかしそれ以上に大事なことは夢を持たせることなのである。夢が明確になっていれば、遊び呆けている暇などなくなり、子供なりに夢に向かって走り出して来るのだ。母親にとって子供に「勉強しなさい!」というより、「お前の夢は一体何?」と訊くことの方が遥かに大事なのだ。

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「知育」「体育」「徳育」ではなく、「体育」「知育」「徳育」

●子供は頭で覚えるより体で覚える

 教育は「知育」「体育」「徳育」であるといわれる。「知力」「体力」「人徳」を育てて行ってこそ、まっとうな人間に仕立て上げることができるのだ。しかしこの順番で授業をやっていくと、大抵の教師が躓いてしまうものだ。子供たちにまずは勉強させ、残りの時間を体育や道徳の授業に回せばいいと考えてしまうのだ。確かに勉強に重点を置いているわけだから、知力は高くなるが、体力や人徳の面で大いに問題にある子供たちが育ってきてしまい、教育は成功したとは言い難い状況になってしまうのだ。

 スポーツで「心技体」が重要であると言われるが、スポーツを実際にやってみれば、「体技心」になってしまうものだ。体力がなければ技は身につかないし、技を磨いてない者が、心を発達させることはないのだ。それと同じように教育もまずは体育があるべきであって、その後に知育、そして徳育があって然るべきなのである。

 これは脳科学的に見ても理に適った遣り方で、子供たちに体を動かすことで脳が活性化し、勉強することも、人徳を高めることも楽チンに行えるようになるのだ。子供は頭で覚えるよりも、体で覚えるものなのである。逆に体を動かさないで勉強ばかりさせていると脳は活性化しないので、教育の初期には勉強の効果が出ても、その後にガクンと落ちてしまい、様々なトラブルが発生してしまうのである。

 子供たちはエネルギーの塊みたいなものだから、体育の授業でエネルギーを発散させないと、鬱屈して来てしまうものだ。大人であるなら鬱屈しても自分で処理できる能力を持っているが、子供ならそれができず、喧嘩をし始めたり、イジメが発生したりして来てしまうのである。子供たちに勉強ばかり教えていないで、とにかく体育で体を動かしてエネルギーを発散させると、子供たちは明朗快活になり、勉強に集中してくれるようになるのだ。

 小学校の授業で行われる体育は、体育という授業だけではなく、子供たちに集団行動を教えるということでも重要な役割を演じるものだ。体育が得意な子供は集団行動をきちんと受け入れるし、体育が苦手な子供は集団行動を苦手とし、個人行動を取ってしまうものだ。そうなってしまうと、教師としては体育が苦手な子供が多いと、どうしても生徒たちを統率することができなくなってしまうのだ。誰もがテンデバラバラの行動を取れば、幾ら優秀な教師といえども学級を纏めて行くことなど不可能なのである。

●午前中は授業に集中し、午後は体育をしまくる

 小学校の教師は体育にこそ重点を置くべきなのである。教育の要は体育にこそあるのであって、これができてしまえば知育や徳育を簡単に行えるようになるのだ。体育ができれば、知育も徳育もできるが、知育を重点に置いてしまえば、体育も徳育もやりずらくなってしまうものなのである。子供たちを頭でっかちにするのではなく、子供たちに汗を流させ体を鍛えるべきなのである。

 時間割を組む時は、出来る限り午後の時間に体育を回すようにすべきなのである。午前中は体温が上昇しつつあるので勉強向きであるが、この時間帯に体育をやってしまうと、その後の授業で勉強に身が入らなくなってしまうのだ。午後は体温が最も高くなっているので体育向きなのであって、午前中に勉強を終わらしておき、午後は体育にしてしまえば、子供たちは非常に高い効率で勉強も運動もすることができるようになるのだ。

 時間割というのは1度決めてしまうと、その後1年間は変更されないので、教師は職員会議やその他の会議を巧く立ち回って、午後の時間に体育を持って行けるようにすべきなのである。午前中に体育の授業を持って行けば、体育の授業もレベルが上がらなくなってしまうまし、教室での勉強も成果が低くなってしまうからだ。

 子供だけでなく教師自身にも変化が出て来るのであって、歳を取って来ると、午前中に激しい運動をしてしまうと、その日1日、頭の動きが非常に鈍くなってしまうものなのだ。教師という仕事は頭脳労働に属するのに、頭脳労働者の中でも非常に頭が悪いのであるが、それは午前中に激しい運動をするからなのである。

 午前中に体育の授業さえなければ、午前中は高い集中力を発揮できるので、教室での授業が非常にレベルの高いものになるのである。教師がテキパキと授業を進めて行ってくれると、生徒たちの頭の中にスムーズに入って行くので、子供たちにとっても非常に勉強がし易くなり、立ち所にその成果が出て来るようになるのである。

●体育の授業に積極的に参加して来る生徒は学級活動も積極的

 体育と学級活動には意外な関係がある。体育の授業に積極的に参加して来る生徒は、学級活動にも積極的に参加して来るということである。この手の生徒はポジティブな性格の持ち主だし、エネルギーが有り余っているので、自分のことで手一杯にならず、他人に対してきちんと配慮できる人物なのである。それゆえ、そういった生徒たちを学級活動の中心に添えれば、教師は学級活動をスムーズに行えるようになるのだ。

 体育の授業は様々な道具を使うので、それを準備しなければならないのだが、それを教師が自分一人でするのではなく、体育の授業に積極的な生徒たちを使って準備を進めて行けばいいのだ。これをやると、その生徒たちにとっては既に準備運動が完了したことになるので、いざ体育の授業を始めてみると、その生徒たちが活発に動いてくれるので、他の生徒たちも釣られて活発に動き始めるのだ。

 勿論、教師はその見返りとして、体育の授業に積極的に参加した生徒たちに高い成績をくれてあげるものなのである。母親としては、教師がつける成績で最も確実なものは体育の成績だけであると思っておいた方がいい。それ以外の科目は教師の考え次第で如何様にも評価を変えることができてしまうからだ。

 母親は子供に「体育だけは真面目にやりなさい!」と言い続けた方がいい。この言い方は、体育以外の授業を不真面目にやれということではなく、体育を真面目にやっているということは、学級活動も積極的にやるようになるので、学校生活を楽しめることができるようになるのである。学校での勉強は幾ら頑張ったとしても、教師が社会主義者で子供を平等化することが絶対に正しいことだと思っていれば、その教師の下では幾ら努力しても報われることがなくなってしまうからだ。

 母親は我が子から学校での授業がどのようなものかを聞き出しておき、もしも公立学校に行くことが子供の知能を上げることに問題があると思うなら、中学からは私立学校に行く決断をすればいいのである。しかし公立学校といえども、日教組の力が弱く、その市町村が教育熱心であるなら、公立学校でも充分に知能を高くすることはできるのである。母親は教育を学校に任せっぱなしにしないで、学校に関する情報をよく集めておくべきなのである。

●体育の授業が巧く行くと、知育や徳育は簡単なもの

 体育の授業が巧く行くようになると、知育や徳育は簡単なものになる。体育の授業が巧く行くと、生徒たちに勢いをつき、その勢いで他の授業がスムーズに進んでいくようになるのである。生徒たちに勢いがないから、知育も徳育も難しくなってしまうのである。勢いがなければ不要な問題に深い入りしてしまい、そこから抜け出せなくなってしまうようになるのだ。

 マスコミは「最近の子供たちの体力が低下している!」とセンセーショナルに報道してくるものだ。しかし都市を作る際に公園をきちんと整備せず、外で遊びもせずに子供たちがテレビゲームに熱中しているのなら、子供の体力なんて低下してくるのは当たり前の現象なのだ。だからこそ体育の授業の重要性が高まるのであって、体育の授業に重点を置くことで、生徒たちに体を動かすことの喜びを教えてあげるべきなのである。

 生徒たちにとっても、体育の授業は体を動かす絶好の機会だと思って取り組むべきなのである。体は成長期に入っているので、この時期に体を鍛えておかないと、身長も伸びないし、骨格もしっかりしたものを作れなくなってしまうのだ。小学生の頃に体を鍛えなかった子供ほど貧弱な体をしているものだが、その貧弱な体のまま、一生を過ごさなければならなくなるのだ。

 子供の頃に運動をさせず、勉強ばかりさせようと思えばできるものだ。しかしそのように勉強ばかりして来た子供は確かに高い知能を持てるが、その知能は偏っており、体力もなく、性格が歪んで来るものだ。そんな子供は絶対に世の役に立つことはないであろう。母親が学歴に拘る余りに、早くから猛勉強させてしまうと、母親の期待とは裏腹に、まるで正反対の結果が出て来てしまうようになるのだ。

 人生、生きていれば、「体こそ資本」というのが解るものだ。健康で頑丈な肉体があってこそ、仕事もできるし、家事もできるようになるのだ。頭の良し悪しは健全な肉体があってこそであり、貧弱な肉体しかないのなら、高い知能を発揮できないものなのだ。増しては高貴なる人格を持つこともできないのだ。

 母親としては、体育の授業があった日には、子供に「今日の体育の授業はどうだった?」と訊けばいいのである。そうすれば子供は報告をしてくれるから、体育の授業で何をやっているのか解るようになるものだ。そして子供の方も「母親は体育に期待しているのだな」ということが解るから、体育を一生懸命にやり始めるようになるのだ。

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まずは子供に学問への興味を持たせよ

●小学3年生までは好奇心を涵養するだけでいい

 子供の成長は3年周期で進む。3歳児までは母親にべったりだし、幼稚園児になれば家族を中心にしつつ友達を作り始めるものだ。それと同じように小学校では、小学1年生から小学3年生までが「好奇心の涵養」であり、小学4年生から小学6年生までは「学問の基礎を固める時期」であるのだ。小学校の時期が6年間からあるといって同じように扱っていてはまともな教育の成果を得ることができないのだ。

 小学校といえども、小学3年生までは「遊び半分」「授業半分」であって、小学校高学年のような本格的な授業でなくていいのである。そもそも子供たちにとって長時間座って聞く授業にはついていけないものなのだ。小学3年生までは授業は「25分間授業」でいいのである。25分間勉強させて、5分間休ませれば、最も効果的に授業を行うことができる。この時間内なら、子供たちは集中力を維持してくれるからだ。それなのに小学校では25分以上の授業をやってしまうから、教師が余程、時間のペース配分に気を配らないと、失敗してしまうのだ。

 通常、子供たちにいきなり知識を教え込んでも、拒絶反応を示すものだ。学問を学ばせるためには、子供たちの好奇心を刺激し、その後に知識を教え込んでいくと、子供たちはいとも簡単に知識を吸収して行ってくれるのである。よく「詰め込み教育は怪しからん!」と騒いでいる人たちは、子供の頃に小学校の教師から好奇心を刺激されることなく、知識を詰め込まれてしまったからこそ、大人になってから得体の知れない反抗をするようになってしまうのだ。

 厄介なのは、子供たちの好奇心が一体いつどこで刺激されるか解らないということなのである。だから教師になるためには、師範学校で教育技術を教え込まれねばならないし、教育現場での経験値が必要となって来るのだ。現在の教育学者の意見のように子供たちの心理を重視していては、まともな授業などできるわけがないのだ。子供の心理など幾らでも変わって行くから、それを重視すれば現場の教師といえども出来るわけがないのだ。

 小学校教師の中で、親御さんたちから「あの先生は授業が上手だ」と言われるのは、絶対と言っていいほど、この好奇心の刺激の仕方が巧いのである。子供たちにとっては教師を選択する権利はないので、運不運が常に付き纏うのだ。教育技術の高い教師につけば、勉強熱心な子供になるし、教育技術のない教師につけば学級崩壊で授業どころではなくなってしまうのだ。

●国語算数理科社会は、実は教え易い順

 小学校の教科は「国語」「算数」「理科」「社会」と言われるが、実はこれは教え易い順番なのである。そもそも寺子屋では「読み」「書き」「算盤」を教えていたのであって、初等教育では国語と算数こそが中心になるものなのである。近代国家の教育では、科学が発達したので、それに理科と社会を付け足しただけであって、初等教育の基本は今も変わっていないのだ。

 国語の場合、漢字の語源を教えると、子供たちは絶対に被りついて来る。漢字というのは文字であっても、絵であり、記号だからだ。漢字の語源をクイズ形式で出してあげると、子供たちは必死になって考え始め、授業が活性化するようになるのだ。子供たちのちゃんとした国語教育を行いたいのなら、白川静氏の辞典を熟読しておいた方がいい。あの辞典はネタの宝庫なのだ。

 算数の場合、数学が持つ不思議な法則を教えてあげると、子供たちは興味深々となる。数学の世界はランダムに見えて、或る一定の法則が隠されているので、それが暴かれてしまうと、子供たちの好奇心は刺激されまくるのだ。インドが数学大国になったのも、小学校の教師たちがこの手の授業を展開したからなのであって、だからこそインドの子供たちが数学を得意とするようになったのだ。子供たちにまともな算数の授業をしたいのなら、数学の本を読むのではなく、『数学の歴史』を読んでおくことだ。

 理科や社会は国語や算数ができていないと、子供たちの好奇心を刺激することができない。理科や社会を説明するのは、或る一定の国語能力がないといけないし、算数によって論理的思考が鍛えられていなければならないからだ。理科の場合、とにかく子供たちの前で実験をやって子供たちの興味を惹くようにすることだ。社会の場合は、歴史を重点に教えて、歴史上の人物にスポットライトを浴びせるようにすることだ。

 理科や社会の授業は手抜きしようとすえば幾らでもできるものだ。理科の実験を準備するというのは、放課後に教師が残って準備をしなければならないので、そういう熱心な教師がいてくれるのならいいのだが、殆どの教師たちは職員会議がどうのこうの、組合活動がどうのこうので、やろうとしないのだ。社会に関しては、書物を大量に読まないと話にならないので、自宅に書斎や書庫がないような教師だと幾ら聞いても詰まらない授業しかしないものなのである。

●この時期に成績表を重視するのは危険である

 母親としてはこの時期に成績表を重視するのは非常に危険である。子供の好奇心の有る無しを成績表につけることができないものだからだ。子供はいつどこで好奇心を持って来るのか解らないからだ。成績表に一喜一憂しないで、とにかく日々学校でどんな授業を受けたのか聞いてみることだ。母親なら大概のことが解って来るようになる筈だ。

 子供の好奇心を刺激するのは何も教師だけができるわけではない。母親だって充分にできるのだから、自宅で子供の勉強に付き合い、適時アドバイスを与えて、子供の好奇心を刺激して行くことだ。子供には子供部屋で勉強させるのではなく、居間で勉強させれば、母親は家事をこなしながら、子供の勉強を見ることができるようになるのだ。

 特に国語と算数は初等教育の基本なので、ここで躓かないようにすることだ。国語の場合、子供といえども母国語を話せてしまうので、ズル賢い子供に限って、国語の勉強を馬鹿にして来るのだ。国語の書き取りには付き合い、間違っていたら、必ず訂正することだ。子供は平気で言い間違いをして来るので、間違えて覚えてしまうと、いつまでも覚え続けてしまうのだ。

 算数の場合、どんなに頭の悪い母親でも小学校の算数ならついていけるので、自分でも是非ともやってみることだ。小学校の算数をやってみると、簡単なことを子供に教えるのが如何に難しいかが解って来るからだ。「九九」に関しては徹底的に教え込み、出来ればそれ以上の掛け算を暗記させてしまうことだ。

 休日には家族揃って博物館や遺跡に行って遊べば、子供たちに理科や社会の課外授業をやっているのと同じことになる。特に博物館には子供たち用のプログラムが用意されているので、それを巧く利用することだ。専門家が面白い話を聞かしてくれるので、それによって好奇心が刺激されるのだ。

●基礎的知識を問答無用で教え込むことも必要

 小学生なら好奇心を刺激されることも必要であるが、基礎的知識を問答無用で教え込まれることも必要なのである。基礎的知識を知っていない限り、高度な教育を展開して行くことは不可能になってしまうからだ。卵が先か、鶏が先かの議論になってしまうが、好奇心を刺激しつつも、知識を詰め込んでいくべきなのである。

 小学生に知識を詰め込むというのは、解り易く言えば落ち零れないようにするためになのである。基礎的知識を詰め込まないからこそ、授業に付いていけなくなり、教師の話が珍紛漢紛になってしまうのだ。小学生だから留年することなどないが、小学6年生になっても、読み書きや計算がきちんとできない子供は幾らでもいるものなのである。

 子供の脳は新鮮でこの時期なら幾らでも記憶することができる時期なのである。それゆえこの時期に子供を遊ばせておくだけでは、簡単に記憶できてしまう時期を失ってしまうのである。中学や高校で落ち零れてしまう生徒たちというのは、小学校できちんと記憶をしてこなかったからこそ、中学や高校の授業についていけなくなってしまっただけなのである。

 だから、母親は子供たちに執拗に「読み書き」や「計算」を教えて行くことが大事なのだ。それと同時に好奇心を刺激されれば、知識をバキュームのように吸い込んでいくので、好奇心を刺激するような教え方をしていくべきなのである。全てを教えてはならないということなのである。

 子供が物心がつくまでに好奇心を刺激しておけば、後は自分が勝手にやって行ってくれるようになるのだ。女の子なら初潮前には物心がつくし、男の子なら遅くとも小学5年生までには物心がつくものだ。その時期までに母親が子供の好奇心を刺激して、子供に便窮する習慣を身につけさせておけば、後は自発的に勉強し出してくれるようになるのだ。

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学校教育は必ず自国史観を必要とする

●歴史教育と歴史研究は違う

 学校教育で国民を作って行くために、横軸となるのが「国語教育」であるのに対して、縦軸となっているのが「歴史教育」である。子供たちに日本の歴史を教えることによって、自分の命が現世限りではなく、日本の建国以来、脈々と受け継がれて来たものであり、日本を発展させると同時に、子孫を多く産み育て、繁栄して行くように仕向けて行くのである。

 大学の歴史学者たちも学校の教師たちも、歴史研究と歴史教育が違うということすら解っていない。歴史研究と歴史教育とでは目的が違うから、その成果も違った形で出て来るのである。歴史学会に於ける歴史研究の成果をそのまま歴史教育に持って行ってはならない。歴史教育は子供たちを日本国民に仕立て上げるために行っているのであって、その目的に反するものなら、省いていいのである。

 子供たちに年号や人物名や事件名を機械的に覚えさせていけば、子供たちは歴史を嫌いになってしまうものだ。そういうのは歴史研究をやるために必要なのであって、歴史教育を行う現場ではそれほど重要ではないのだ。歴史教育で教えるのは、如何に日本国が素晴らしい国家であるか、如何に日本国民が素晴らしい国民であるかなのである。

 勿論、日本の歴史の中には恥部があるものである。しかしそんなものは削除してしまって、日本の歴史は栄光の歴史であると教え込んでいくのである。歴史の中の英雄豪傑たちにスポットライトを浴びせて、その者たちがどのように生きて来たのかを授業で教え、生徒たちを感動させなければならないのである。

 人間というのは歴史を共有させると、一本筋が入った強烈な人物になり、同じ歴史を共有する人々を仲間と思うようになるのだ。生徒たちに歴史教育が巧く行くと、学級が活気づいて、和気藹藹とし出し、積極的に学級活動に精を出して来るようになるものなのである。生徒たちは日本の歴史という凄い歴史を持っているという自覚が起こり、それが態度に現れて来るようになるのである。

●日本の自国史観は「皇国史観」である

 歴史教育で使われる歴史の記述は、或る独特の歴史観で貫かれなければならない。歴史の原動力はどうのこうという歴史研究で使用される歴史観ではなく、歴史教育では自国史観が使われるのである。飽くまでも自国を尊しとする歴史観なのである。日本の場合、自国史観は「皇国史観」以外に有り得ないのだ。

 皇国史観は明治政府が作り出したものではない。既に江戸時代に出来上がっていた歴史観を採用したにすぎないのだ。皇国史観の発端は、山崎闇斎の「﨑門学」から始まり、 水戸藩の「水戸学」によって育成され、頼山陽の『日本外史』によって頂点に達したと言っていいい。

 実を言うと、皇国史観の形成に神道は一枚も噛んでいない。増してや仏教も全然関係ないのだ。日本の儒学者たちの間で議論され、記述されていった歴史観なのである。だから、皇国史観を理解する時、儒教を理解していないと、一体何を言っているのか全く解らなくなるのだ。

 頼山陽の『日本外史』は司馬遷の『史記』を模範として書いて行ったものにすぎないのだ。しかし頼山陽は幕藩体制という日本の特殊事情を鑑みて、思わぬことを言ったのである。それは「幕府や藩といっても、日本人は天皇の下に一つなのだ!」ということなのである。だからこそ、『日本外史』はベストセラーになり、それを読んだ人々は興奮したのである。江戸時代の人々にとって幕藩体制というものは絶対的なものだったから、幕藩体制の上に天皇がいることなど知らなかったからなのである。

 『日本外史』は幕末に劇的な役割を演じることになる。尊王攘夷運動に参加した人々の間では、如何なる者でも尊王攘夷の志があるならこそ、全ての人々は公平に扱われるようになった。身分制度が皇国史観によって崩壊して行き、日本国民という新たなものを生み出して行ったのである。だから明治維新後成立した明治政府は直ちに皇国史観を採用し、天皇を頂点にして国民を団結させたのである。江戸時代の士農工商は崩壊し、近代的な国民が誕生したのである。、だからこそ当時の人々は興奮し、国家の発展に力を尽くして行ったのである。

●自国史観は歴史に対して或る程度までなら嘘をついてもいい

 自国史観は歴史に対して或る程度までなら嘘をついもいい。歴史教育を進めて行くに当たって、歴史教育の目的から歴史に違った解釈を加えてもいいのだ。それは歴史教育のために必要な嘘なのである。例えば歴史研究に於いては、天武天皇は本当に天皇家の人間が非常に怪しいのだ。当時の日本は大和朝廷があった「扶桑国」と九州に存在した「倭国」という2つの国が存在し、この倭国が扶桑国に併合されて行く時期に当たっているのだ。恐らく天武天皇は倭国の王太子であり、扶桑国の王女と結婚することによって扶桑国に食い込み、壬申の乱で皇位を乗っ取り、国家併合をスムーズに行かせたと考えるのが、正常な考え方であるのだ。事実、その後に出て来た天智系の桓武天皇は天武系の天皇たちの存在を全て否定しているのだ。

 こういったことは日本だけがやっているのではない。イギリスでは『日本外史』に相当するものに、ヒュームの『イギリス史』があるのだが、ヒュームはピューリタン革命に否定的な考えを持っていたので、それがそのままイギリス人の基本的な考えになってしまった。イギリスは長らく国王と貴族が共和しながら政治を運営して来たので、王制を否定して、共和制に移行してもなんの問題もないのだ。事実、ピューリタン革命の際、イギリスの覇権を確立させるのに重要な戦いである第一次英蘭戦争が起こっており、これにクロムウェルが勝利したからこそ、イギリスの覇権は確立されて行ったのである。ところがピューリタン革命には否定的になってしまったから、当のイギリス人ですら英蘭戦争の重要性が解っていないのだ。

 人工国家であるアメリカ合衆国はもっとひどい。アメリカ合衆国は建国当時、キリスト教徒は人口の4分の1しかいなかった。アメリカ人たちの殆どは「キリスト教からの解放」を目指した人々であって、アメリカ合衆国自体はキリスト教とは全然関係ないのである。アメリカ合衆国の建国に重要な役割を演じたのは、フリーメーソンたちであって、アメリカ合衆国はフリーメーソンたちが作った国家なのである。それなのに、その後に移民してきた人々にキリスト教徒が多かったために、「プリグムファーザーの伝説」を作り上げ、キリスト教徒たちが重要な役割を演じたように歴史の記述を書き換えてしまったのである。

 それ以上にひどいのは民主主義であって、アメリカ合衆国の建国者たちは民主主義を明確に否定していた、アメリカ合衆国憲法の憲法思想は「連邦主義」であって、民主主義はどこにも入っていないのだ。アメリカ合衆国にキリスト教徒たちが増えて行くにつれて、古代ギリシャへの評価が高まり、それで民主主義が肯定的に扱われるようになったのだ。アメリカ合衆国の大統領が初めて民主主義に言及したのは、なんと第28代のウィルソン大統領であって、それから民主主義を世界各国に輸出し始めたのである。「アメリカ合衆国=民主主義」などと絶対に思ってはならないのだ。

 自国史観というものは、飽くまでも国内で作って行くべきなのである。外国と共同して歴史の教科書を作ろうなどと言うのは、言語道断なのである。どの国も自国史観を成立させるために、様々な嘘をついているものなのである。もしも外国人に日本の歴史の教科書作りに参加させれば、自国史観など成立させることがでないのである。

●皇国史観を持ては自動的に「士魂商才」が宿ることになる

 皇国史観は日本の歴史が生み出した偶然の産物であり、思わぬ成果を生み出したのである。一つは幕末の尊王攘夷運動を生み出したし、もう一つは武士たちによるビジネスを生み出したのだ。坂本龍馬は尊王攘運動をやっているのに、いつの間に会社を設立しているし、渋沢栄一は幕臣になったのに、いつの間にか会社を設立をし、無数の産業を生み出して行ったのだ。

 皇国史観を持つと、自動的に「士魂商才」が宿ることになり、武士だからこそ商売で成功を納めなければならなくなってくるのだ。江戸時代、武士たちは儒教を奉じ、庶民は仏教を進行していた。儒教も仏教もビジネスを否定する宗教である。だから江戸時代は非常に停滞した時代であった しかし皇国史観は儒教を吹き飛ばしてしまい、武士でありながらビジネスに精を出すという有り得ない人々を生み出して行ったのである。

 明治政府は坂本龍馬や渋沢栄一ではなく、二宮尊徳を持ちあげた。当時としては農民が圧倒的に多かったから、農民であっても武士としての気概を持たねばならないことを教えたのである。勤勉勤労に徹すれば必ず豊かになれるのであって、文盲で居続けることや遊び呆けることを禁止して行ったのである。

 国民国家から見れば、社会主義やフェミニズムは国民国家の永遠の敵なのである。日本の歴史では階級闘争などしてこなかったし、性差闘争などやってこなかったのである。そのような出鱈目なイデオロギーは決して許されてはならないのである。国民を所得によって差別を設けてはならないし、男女で差別を設けてはならないのだ。社会主義者もフェミニストたちも皇国史観を否定することには躍起になるものだ。なぜなら皇国史観によって国民が団結してしまったら、階級闘争も性差闘争も行うことができなかったからだ。

 日本史を鑑みれば、皇国史観以外の自国史観を導き出すことはできない。皇国史観を教えてしまえば、国民は武士として気概を持ち、自分のビジネスに一生懸命取り組んでいくようになるのである。現在、日本は様々な問題を抱え込んでいるが、その根本的な原因は「士魂商才」を忘れていることなのである。自分がまともに労働もせず、政府に社会保障を要求してはならないのである。自分の生活は自分の労働によって豊かにしていくべきなのである。そうすれば日本国は繁栄し続けることになるのである。

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学校教育では友達を作ることこそが最も大事なのである

●学校は勉強する場所ではなく、友達を作る場所なのである

 学校教育は国民教育であって、その国民教育が子供たちに於いて正しくなされているというのがわかるのが、友達作りなのである。そう、学校は勉強する場所なのではなく、友達を作る場所なのである。学校では生徒たちが友達を作れるように様々な機会を設けているのである。

 多くの母親たちはこのことを完全に理解していないのだ。学校は勉強する場所だと思い、子供の成績に一喜一憂し、成績が悪ければ子供を叱りつけるのであるが、もしもいい成績を取りたいのであるなら、塾に通わせればいいし、スポーツクラブに所属させればいいのだ。学校は勉強もやるし、スポーツもやるが、それだけではないのである。友達作りという大事な作業を行っている場所なのである。

 友達なんて簡単に作れるのではないかと思うのは愚の骨頂で、子供たちは自分が所属する階級の人たちとしか友達になろうとはしないのだ。金持ちの子供たちは金持ちの子供たち同士でしか仲良くなろうとしない、中産階級の子供たちは中産階級の子供たち同士でしか仲良くなろうとはしないのだ。

 ところが、学校は親が持っている身分や階級を超越して、全ての子供たちを公平に扱い、そのために子供たちは親の身分や階級に関係なく、友達を作って行くことができるのである。だからこそ日本国民であるなら国民として団結できることが解るようになり、近代国家の国民としての要件を満たして行くことになるのである。

 現在では学校が当たり前のように存在しているから、この学校が持つ偉大な力が解っていないのだ。江戸時代は寺子屋が繁盛し、寺子屋なりに優れた教育がおこなわれていたのだが、明治維新後、政府によって学校が整備されて行くと寺子屋は全滅してしまったのだ。なぜなら寺子屋では知識や技術を教えることはできても、身分や階級を超越する機能を持っていなかったからなのである。

●学校教育の花形は国語教育である!

 では、学校に於いて友達作りをさせるのに、最も効果のある授業は一体なんであろうか? それは国語教育なのである! 国語教育こそ学校教育の花形であるのだ。日本人の子供であるなら、日本語が当たり前のようにできてしまうために、国語教育というのは教える側にとって非常に難しい科目なのである。

 日本語は大和言葉というように純国産の言葉と、中国からもたらされた漢語から成り立っており、更には近代になってドイツ語やフランス語や英語の影響も大いに受けている言語なのだ。だから日本語を教えようとするなら、国語辞典と漢和辞典を暗記すべきだし、重要な古典は全て読んでおくべきなのである。日本はドイツから論理的な文章を学んだし、フランス文学の影響は未だに及んでいるわけだし、英語は日常語としても出て来る有様である。

 日本語にも文法はあるのだが、インド=ヨーロッパ語族が使っているような明確な文法があるのではないのだ。そのため或る程度は人為的に文法を教え込んでいかないと、子供たちは平気で間違った日本語を使うようになってしまうからだ。例えば最近の子供たちが使っている言い方で、「全然、美味しい!」という言い方があるのだが、これは間違った日本語なのである。全然は否定語なので、「全然美味しくない!」というのなら、美味しいのに全然をつけてはならないのだ。

 国語能力が高ければ高いほど、レベルの高い人間関係を作り上げて行くことができるようになるのである。国語をきちんと学んでいないからこそ、友達作りができないのである。子供たちを学級に集めれば、子供たちの間には様々なトラブルが発生するものだ。その際、しっかりとした国語を学んでいれば、解決することができるのに、国語をきちんと学んでいないばっかりに、言葉では解決できなくなり、暴力を使って処理してしまうようになるのである。

 大抵、学校の生徒たちの国語能力というのは、国語を教えている教師のレベルに正比例してしまうものだ。小学校の場合、全科目を担任が教えてしまうので、担任は国語なんて教えなくてもできるだろうと思って、他の科目に重点を置いてしまうものだが、そういうことをやっているからこそ、生徒たちの国語能力が上がっていないのである。教師だからこそ、日々、質の高い書物を読むべきだし、時には会話のテクニックの研修でも受けて、会話術を磨くべきなのである。そうしないと、レベルの高い国語教育を行うことができないのである。

●友達を作るためには学級を変更しないこと!

 子供たちの中には積極的な子もいれば、消極的な子もいるので、そういう子供たちに友達作りの機会を公平に与えて行くためには、学級を変更しないことんおである。学級を固定してしまえば、生徒たちはその学級内で友達を作らざるをえなくなり、自然と友達を作って行くようになるものなのである。

 一学年おきに学級を変更してしまうからこそ、生徒たちは友達を作る機会を失ってしまい、友情を温めて行くことができなくなってしまうのだ。通常、人間の友情を深めて行くためには3年の歳月が必要となるので、最低でも3年間は学級変更などせず、生徒たちに思う存分、友達作りを行って貰うようにすべきなのである。

 小学校で学級変更をしなければ、生徒たちは友達作りができるだけでなく、学級として非常に纏まって来るので、担任は学級運営を楽に行えるようになるのだ。担任としても1年間ではなく、3年間もの間、同じ生徒たちを見続ければ、生徒たちの個々の性格が解るようになって、間違った指導をしなくなるものなのである。担任がこれは正しいと思った指導であっても、或る子には効果があっても、ある子には効果がない、ということは沢山あるものなのである。

 生徒たちが学級として纏まっていれば、様々なイベントを通じて生徒たち同士で共同作業ができるようになるのであって、この共同作業を通じて更に友情を深めて行くことができるようになるのだ。人間はただ単にお喋りするだけでは、それほど深い友情を育くめないものなのである。共同作業をするからこそ、友情が深まって行くものなのである。

 学級を固定することは、もしもその担任に教育能力がなかったり、担任と生徒の相性が悪かったりすれば、その学級は非常に深刻な問題を抱えてしまうようになるものだ。しかしそれでも学級を固定すること以外に、生徒たちが深い友情を育む機会を持つことはできなくなってしまうのだ。学校にとっては学級変更を禁止することには危険があっても、その危険とは比べ物にならないくらいの成果を得ることができるようになるのである。

●教室内でイジメを発生させた教師は教師失格なのである

 日本の学校はどこでもイジメが深刻な問題になっており、教師たちがイジメ問題に取り組んでいるのに、イジメ問題が根絶されたということを聞いたことがない。それもその筈、国語教育を軽視しているし、毎年、学級を変更しまくっているからだ。教師に充分な国語能力がないと生徒たちの国語能力は上がっていかないし、毎年、学級を変更されてしまえば、友情を深めて行くことができないのだ。

 イジメがなぜ深刻な問題になってしまうのかというと、イジメというのは、常に些細な切っ掛けから始まるのに、そのイジメが時間の経過と共にエスカレートしてしまうからなのである。子供たちに必要最低限の国語能力が回避できた問題なのに、子供たちに必要最低限の国語能力がないばっかりに、イジメを発生させ、それをエスカレートさせてしまったのである。

 しかもイジメは1対1で行われるのではなく、1対多数で行われるものだ。イジメがあることは、その学級の生徒たち全員が知った筈なのに、そのイジメを生徒たち自身で解決することができなかったのである。学級を毎年変更され続けたので、子供たちに学級を自治していく能力すら備わっていなかったのである。

 イジメというのは、イジメた方は奇麗サッパリと忘れているのに、イジメられた方は一生の傷になってしみ、その恨みを絶対に忘れないものだ。下手をすれば日本国民であるということに自信を持てなくなってしまい、日本国民なのに日本の悪口を延々と言い続ける卑怯極まりない人物になってしまう可能性があるのである。

 教室内でイジメを発生させてしまった担任は教師失格なのである。即座に教員免許を取り上げて、今後、教育に関与させない措置を取るべきなのである。イジメを発生させてしまったといのは、学校教育を行う教師でありながら、国語教育の絶対的重要性が解っていなかったということなのである。

 そしてその学校も安易に学級変更を毎年繰り返してしまった結果が、イジメを発生させてしまったということに気付くべきであって、今後、学級変更を禁止し、学級を固定してしまうべきなのである。その上で、担任と生徒たちにトラブルが起こらないように監視し、トラブルが起こし次第、すぐさま介入して、適切な措置を取るようにすべきなのである。

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学校教育の目的は国民を作ることである

●国民国家は国民を作り続けなければならない

 学校教育の目的は、子供たちが試験で高得点をマークさせるためでも、子供たちがスポーツに興じて運動が得意になることでもない。学校教育の目的は国民を作ることである。政府は国民を作り出すために、教育に莫大な投資をして、子供たちに教育を施しているのである。もしも勉強さえできればいいというのであるならば、もしもスポーツさえできればいいというのであるならば、自分で勝手に教育を受ければいいのである。

 近代国家以前には国民は存在しない。せいぜい民族が存在する程度である。この民族といえども、テンデバラバラであって、とてもではないが国民として団結してこないのである。江戸時代であるなら、幕臣や藩士のように、或る者は幕府をことだけを考え、或る者は藩のことだけを考えて来るのなら、国家としての纏まりなど出て来るわけがないのだ。

 国内には様々な格差があるものだ。身分の格差や、所得の格差、男女の性差だってある。学校教育では国内の全ての子供たちを公平に扱い、世俗の格差に囚われることなく、教育を施して行き、国民としての自覚とそれに見合う能力を養成して行くのである。これができてしまえば、国内に幾ら格差があろうが、国民は団結することができ、国民国家としての国民の要件を満たすことになるのである。

 日本国内にある全ての公立学校はこの教育目的のために作らているのだから、この目的が解っていないと、学校の至る所でトラブルが発生し始めるのである。嘗て日教組は「オール5教育」をやったら、学校はイジメの巣窟となったし、政府が「ゆとり教育」をやったら、日本の教育レベルは急激に低下してしまったのだ。

 親たちにしても我が子を日本国民にしたくないというのであるならば、インターナショナルスクールに通わせればいいのである。その子は外国語はできるようになるが、日本国民としての自覚も能力も持つことはない。大人になれば、どこか外国に移民してくれればいいのだが、もしも移民しなければ日本国に対して常に不平不満をいってるだけの碌でもない人物に育ってしまうのである。

●師範学校の必要性

 学校教育は国民教育なのだから、その国民教育を行う教師は、政府が人為的に釣り出さなければならない。教育目的をしっかりと理解し、それを実現できるだけの教育技術を持った教師こそが必要なのである。普通の人々では国民教育を行うことができないのである。国民教育はプロたちに行われるものだし、学校にプロ集団がいるからこそ、その教育目的を果たすことができるのである。

 政府は全国に師範学校を作らなければならないし、その師範学校の授業料は無料にしねければならないのだ。国家の役に立つ人材を育成して行くので、その生徒たちから授業料を取るようであるなら、本末転倒なのである。政府は師範学校で教師の卵を育成して、それを全国に学校にばらまいていくのである。

 現在、日本では師範学校を潰してしまったために、学校教育を行える人材を持っていないのである。教育学部を卒業したとか教職課程を経たとかでは、教師としての自覚も能力も身につけることはできないのだ。解り易く説明するなら、自動車教習所で教習を受けて、試験に合格したからこそ、運転免許を持って安全な運転をできるようになるが、それと同じように、教師も師範学校で教育を受けて、試験に合格しない限り、まともな授業ができないのである。

 なぜこれほど重要な師範学校が消えてしまったのかというと、アメリカ合衆国は日本と大東亜戦争を戦ってみて、その兵士たちの圧倒的な強さに驚愕したのである。アメリカ軍より遥かに劣る兵器しか持っていないのに、どうして互角に戦い、下手をすれば上回って来てしまうのか不思議でならなかったのだ。戦後、現地で調査してみると、日本は師範学校が非常に優れており、その制度があるために優秀な教師たちが育成され、全国の学校に派遣されて来るので、学校の質そのものが異常に高かったからなのである。だから、アメリカ合衆国は日本を占領中に師範学校を全て潰してしまい、優秀な教師たちが出て来ないようにさせ、日本を弱体化させたのである。

 世の中には政治が得意な人物や、戦争が得意な人物や、ビジネスが得意な人物たちがいるものだ。それ以外に教育が得意な人物というのもいるものなのだ。そもそも教師になるよぷな人物はビジネスなど得意ではないものだ。だから政府は教師たちの給料を保障し、引退後には手厚い年金を整えることで、金銭の心配をしなくて済むようにさせているのである。それゆえ教職員組合が存在すること自体が異常なのである。教師というのは、普通の労働者とはまるで違う高待遇を受けているからだ。

●市町村は教育費に最大の出費を強いている

 もしもあなたの手元に市町村から広報紙があるのなら、市町村の予算をじっくりと見て欲しい。市町村は教育にこそ最大の投資をし続けているのだ。ところがこれが大失敗しているのである。財政の法則として、或る一つの分野に最も多く支出していると、その分野で失敗してしまうようになるのだ。現在、政府は社会保障に最大の支出をしているのだが、社会保障で失敗しているように、市町村も教育に余りにも多くの支出をし続けて来たために、教育で失敗してしまっているのである。

 市町村長は「地方自治!」などと唱えていないで、学校教育こそが市町村の最重要の仕事だと気付くべきなのである。市町村が効果的に税金を使い、教育の成果が出て来なければ、その方面に税金を投入するのはやめ、税金の使い方を考えなければならないのだ。市町村が教育でこけているのなら、教育だけがダメなのではなく、市町村の全ての分野でダメになって行ってしまうのである。

 かといって、教育問題は市町村だけでは解決できる問題ではないのである。政府が国民教育ために全国共通の基準を定めて貰わねばならないし、日教組のように本来なら存在してはならない労働組合が跳梁跋扈していては、市町村がどんなに頑張っても限界があるのである。

 また教育委員会の委員長や委員たちのような重要な役職は、市民からの選挙を受けるべきであって、教育委員会の委員長や委員たちが選挙の洗礼を受けていなければ、市民の声が教育委員会に届かないのだ。教育委員会の委員長も委員たちも民主主義を唱えるくせに、自分たちは選挙も何も受けていないのである。

 近頃は「地方分権」だの「地方主権」だの非常にうるさいのであるが、そいう意見を言う人々は、市町村で出来ることをやっていないだけなのである。市町村といえどもやるべき仕事は沢山あるし、改革できるものも沢山あるのであって、改革を地道に行っていけば、教育問題といえども解決されて行くものなのである。

●国民国家は自動的に繁栄して行く

 学校教育が成功すれば、国民は日本国民としての自覚を持ち、それに見合う能力を持てるようになるのである。そして国民の心の中に「愛国心」が宿れば、国民は祖国を愛し、国民同胞を愛するようになるから、国家は自動的に発展して行き、国民は自動的に豊かになって行くのである。

 国家というのは、常に様々な問題を抱えているものだ。しかし国民が愛国心を持って、愛国心を発揮していけば、それらの問題は全て吹き飛んでいき、神の祝福が降り注いで来るような素晴らしい国家にして行くことが可能になるのである。国民は善に親しみ、悪を憎むべきであって、国内で邪悪なことをしている者たちを駆逐して行くことができるのである。

 国民国家というのは、静止的ではなく、機動的なのである。国民に愛国心が宿り、国家を愛し、国民を愛するからこそ、国家は機動的に動いていくことができるのである。政府が政治権力を使って個々の社会問題に介入して行くのではなく、国民が自発的に動いて来るなら、国民が自分たちの力で解決させていくことができるのである。

 現在、日本は深刻な教育問題を抱えている。それに対して政治家たちが取り組んでいるものだが、なんの解決もできていない。それは学校教育の目的を忘れてしまっているからなのである。場当たり的な対応策ではなんの解決にもならないのである。寧ろそういう対応策は教育問題を悪化させることにしかならないのだ。

 子供がいる親たちも、自分の子供が勉強できればいいとか、スポーツができればいいとか言うのでは、その子供は近代国家の国民としての要件を満たしてこないものなのである。自分の子供がどんなに成績が悪く、スポーツの出来が悪くても、日本国民としての自覚と能力を持つことができれば、それは大成功なのである。学校では落ちこぼれでも愛国心さえ持っていれば、社会に出て行けば幾らでも成功して行くことができるのである。

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ADHD(注意欠陥多動性障害)の原因とその治療法

●ADHDは心の病気ではありません!

 そもそも子供は落ち着きのないものだ。脳のシナプスは6歳の時に最大となって、その後は落ちて行き、16歳辺りになってやっと落ち着くようになるのだ。その時期に学校に通わせるのだから、教師は如何に生徒たちに面白い授業をして、子供たちを惹きつけて行くしかないのだ。それができなければ子供たちが荒れ始めるのは当然のことなのだ。

 通常、学級崩壊が起こった場合、その責任は全面的にその教師にあるものだ。その教師の教育能力がなかったということなのであり、その教師から教員免許を取り上げて、やめさせればいい。しかし精神科医たちはADHD(注意欠陥多動性障害)という病名を考え出し、教師が悪いのはなく、子供が悪いという本末転倒なことを言い始めたのだ。

 精神科医たちはADHDは心の病気だと言いふらしているのだが、ADHDは心の病気ではない。脳に異常が発生している状態なのだ。ADHDになると「前頭葉の機能不全」と「神経伝達物質の代謝不良」が起こり、特に前頭葉の事に関してはMRIを取ればその異常を確認することができるのである。通常の精神病のように、なんらかのストレスが加わり続けために脳に傷ができたのではなく、先天的または後天的な問題で脳に異常が発生しただけなのである。それゆえADHDを精神科医が扱ってしまうと、患者は「治療の迷宮」に入り込んでしまい、ADHDに対応できなくなってしまうのだ。

 ADHDかどうかは大抵が小学校に入学した時点で解ることになる。明らかにADHDの子供だけが異常な行動を取っているのである。「衝動性」「多動性」「注意欠陥」がADHDの三大症状である。解り易くいえば、学校の授業を聞いていることができず、落ち着きがなく、忘れ物をする習慣が全然治らないのだ。

 ADHDの子供であるかを一発で見分けるのは、自宅で物を片づることができず、散らかし放題になってしまっているかであり、そういう子供がいたらADHDの可能性が非常に高くなる。乳幼児なら自分が遊んだら後片付けをしないものだが、それでも母親がしつこく教えていけば、子供は後片付けができるようになるものだ。しかしADHDの子供はその当たり前の行動ができないのだ。よくテレビで「片づけられない女」というのが報道されて、自宅をゴミ屋敷にしてしまっている女性がいるが、これは典型的なADHDの症状なのだ。その人の性格云々ではなく、脳に異常があるから、そういう行動を取ってしまうのだ。

●ADHDの原因

 ADHDには先天的なものと、後天的なものとがある。それぞれポジティブに評価していいものと、ネガティブに評価しなければならないものがある。ADHDは病気であると考えるのは非常に危険で、病気と考えていいのはネガティブに評価されたものだけだって、ポジティブに評価できるものは病気として扱わず、寧ろ自分の脳の異常な状態を受け入れて、人とは違った生き方をしていくしかないのだ。

①狩猟民族としての遺伝

 まず先天的なADHDの中には、狩猟民族としての遺伝子を持っており、そのために学校というような農耕文明の産物に適応できないのである。人類の歴史から見れば狩猟こそ長らくやってきた労働であって、農耕は数千年の歴史しか持っていないのだ。農耕に適応できた人たちは学校に対してなんの違和感も持たないが、狩猟民族の血が濃厚なら学校に適応して行くことが、そもそもできないのだ。

 このタイプのADHDを持つ子供は、学校ではトラブルを起こすが、両親自体が学校に適応できなかった人たちであるために、子供を病院に連れ回してADHDと診断されることが少ないのだ。問題は両親のどちらかが農耕文明に適応できた人であり、または隔世遺伝が起こり両親は農耕文明に適応できてしまうと、子供は両親のために悲惨な目にあってしまう。

②妊娠中の悪環境

 胎児は妊娠中に脳を発達させていくので、その間、母親が精白穀物や肉食過剰の食生活を送り続けてしまうと、胎児は栄養不足に陥って、脳を健全に発達させることができなくなってしまう。この状態で薬を飲むのは非常に危険であって、薬のために体内のビタミンやミネラルが奪われてしまうのだ。妊婦に風邪薬や陣痛促進剤を使用してしまうと、ADHDが起こり易くなってしまうのだ。

 こちらのADHDはネガティブに評価されるべきものであって、このADHDの子供は明らかに異常な行動を取って来る。何か自分に気に入らないことがあると感情を爆発させたり、運動神経が思いのほか悪かったり、学校の勉強についていくことができなかったりする。屁理屈をいうことを好み、「ああ言えばこう言う」ということを平気で繰り返し、自分の間違った行動を正当化しようとしてくるのだ。

③育児中のミルクと食事の問題

 ADHDは離乳食病の一環として発症することもある。乳児は満2歳まで母乳以外の物を飲むことも食べることもできないのだが、赤ちゃんに母乳を与えずにミルクを与えてしまい、早すぎる離乳食を食べさせてしまうと、子供は充分な栄養素を確保することができず、脳の成長に支障が出て来てしまうのだ。

 また子供に清涼飲料水やお酒などを飲ましてしまうと、体内のビタミンやミネラルが奪われてしまい、脳に傷ができてしまうようになるのだ。このADHDはネガティブに評価すべきものであり、学習障害や鬱病を同時に発症したり、些細なことで傷ついてしまい、キレる症状を引き起こして来るのだ。

④育児の成功による過剰能力の付与

 乳児にたっぷりと母乳を与え、満2歳以降に離乳食を与え、その後の正規の食事も栄養バランスの取れた食事を出し続けてしまうと、子供は高い知能を持つことになってしまう。そのため小学校に入学してしまうと、他の子供たちよりも遥かに高い知能を持っているので、小学校での授業が馬鹿らしくなってしまうのだ。

 このタイプのADHDの子供は知能テストを受けさせると、高得点を取って来るので、本来なら英才教育を受けさせるべきなのである。それなのに学校で程度の低い授業を受け続けさせてしまうと、子供はADHDの子供と同じような行動を取り始め、小学校に適応しようとしなくなるのだ。

⑤誤解と誤診

 ADHDは「誤解と誤診だらけのADHD」と言ってもいいくらいに、本来ならADHDではない子供がADHD扱いされてしまうのだ。「母親の誤解」「医師の誤診」によってADHDとして扱われてしまうのだ。ADHDはMRIを取れば一発で解るので、MRIを取らずにADHDと診断して来る医者には「これは誤診だな」と思うことなのである。母親にしても、落ち着きのない子供をADHD扱いするのではなく、元気に育っているんだなと思うべきなのである。

●ADHDの治療法

 「馬鹿と天才は紙一重」というが、馬鹿者も天才も前頭葉の機能が他の人たちが違っているのだ。ADHDはそれが露骨に出て来るのだ。ADHDで治療していいのは、「妊娠中の悪環境」と「育児中のミルクと食事の問題」でADHDになった子供だけである。ADHDだからといって全てのADHDの子供に治療を施してはならないのだ。これらのADHDの子供たちはADHDの症状が異常な形で出て来る可能性が非常に高いのである。治療を施さないと、日常生活すらまともに営めないのだ。

①精白穀物を食べさせない。

 まず精白穀物を食べさせないことだ。妊娠中から母親が精白穀物を食べ続け、離乳食で精白穀物を食べ続け、その後も精白穀物を食べ続けたので、ビタミンやミネラルが決定的に不足しているのだ。食事で穀物を出す時は。「玄米」「黒パン」「黒パスタ」を食べさせ、1口30回以上噛ませることだ。

 ADHDの子供には正規の朝食は不要である。午前中は排便を優先させ、とにかくウンコをしまくるようにさせることだ。朝食は「フルーツ朝食」に変え、内臓に負担がかからない食事にすることだ。お勧めはリンゴ人参ジュースで、まずはこれを飲ませ、後は旬の果物を食べさせるようにすることだ。

②肉食を控え、魚を食べるようにする

 ADHDは肉食の過剰でも発症してくるので、そういう場合は肉食を控えるようにすることだ。夕食は可能な限り魚を食べさせるようにするのだ。魚の脂が脳の機能を正常化させるのであって、「アジ」「「イワシ」「サンマ」「サバ」といった脂の乗っている魚ほど、ADHDに効果があるのである。

 亜麻仁油を飲ませるというのも効果的だ。亜麻仁油は脳内の汚い脂肪を取り除き、脳細胞を活性化させるので、亜麻仁油を飲ませ続けると、前頭葉の機能が正常化していくようになるのだ。夕食後、亜麻仁油をスプーン1杯ほど飲ませて行くと、3ヵ月以内にADHDの症状は治まって行くことになるのだ。

③必要なミネラルを摂取する

 ADHDのj子供が具体的に不足しているミネラルは「カルシウム」「マグネシウム」「マンガン」「カリウム」「ナトリウム」である。カルシウムは神経を正常に機能させるのだが、清涼飲料水や牛乳を飲んでいると、カルシウム不足になってしまうのだ。清涼飲料水にはリンが含まれているためにカルシウムを排出してしまい、牛乳はカルシウムが含まれているために体内がカルシウム過剰だと錯覚してカルシウムを排出してしまうのだ。

 マグネシウムは精神安定をもたらすが、清涼飲料水やアルコールによって欠乏させられてしまい、マンガンも精神安定をもたらすが、清涼飲料水や牛乳によって欠乏させられてしまい、カリウムは脳に酸素を送るのだが、清涼飲料水やアルコールや珈琲で欠乏させられてしまい、ナトリウムは神経を正常に機能させるのだが、化学塩によって異常化してしまうのだ。

 ミネラル不足でADHDになった子供たちは落ち着きがないくせに疲労し切っているものだ。これは人間にとって必要なミネラルが不足してしまっているのために、すぐに疲労してしまうのである。まずは清涼飲料水を絶対に飲ませないことだ。牛乳もやめさせることだ。料理にお酒を使うことは、出来る限り控えることだ。そして塩は化学塩をやめて、天日塩に切り変えることだ。

●得意分野への特化

 ADHDの子供たちの中には狩猟民族として血が濃いために病気扱いされてしまったり、能力が異常に有り過ぎるために病人扱いされてしまう子供たちが大勢いるのだ。これらの子供たちは決して病気ではなく、学校制度の犠牲者たちなのだ。子供を悲惨な目に追いやってしまうのは、まずは母親であり、小学校の教師であり、そして精神科医なのである。

 これらのADHDの子供たちは学校教育に適応できないのだから、独自の教育を施して行くしかないのである。子供の得意分野に特化させて、その分野に於いて尋常ならざる能力を発揮させればいいのである。エジソンは典型的にこのタイプのADHDの子供であって、小学校の教師から馬鹿扱いされた上に退学を勧告され、それに怒った母親が学校をやめさせて自宅でエジソンに教育を施したのだ。そうやって学校教育を信用しないで、母親が教育を施して行くしかないのである。

 それと同時に「最低限のルールは守らせるようにする」ことだ。ADHDだからといって全ての行動が許されるわけがない。家族で暮らしている以上、社会との関わり合いを持つためにも、最低限のルールを守らせるしかないのだ。例えば後片付けができないのなら、自分の部屋でならそれをやっていいが、それ以外の場所ではやってはならないように躾けていけばいいのだ。

 ADHDの子供を持った場合、他の親や子供たちから「変な子」と言われてしまうものだが、「変な子」と言われても気にしないことだ。脳の構造が違っている以上、普通の子供たちと同じ行動を取ることができないのだ。間違ってもADHDに対する差別や偏見をなくそうとする運動を展開しないことだ。それより自分の子供に「他の人とは違ったことをやりなさい」と教えて行くべきなのである。

 ADHDの子供にとって、自分を守ってくれるのは母親しかいないものだ。その母親が子供を裏切ってしまえば、子供は完全に居場所を失ってしまうものだ。母親は教師の言動を鵜呑みにしてはならないし、精神科医の言動も鵜呑みにしないことだ。エジソンの母親のように、我が子がADHDなら学校を信用せず、自分で教育を施して行くしかないのだ。エジソンが幸運だったのは、その当時には精神科医が非常に少なかったことだ。そのために精神科医の餌食にされることなく、自分の能力を大いに伸ばして行くことができたのである。現在では精神科医が非常に多いので、子供たちが薬漬けにされてしまうのである。

 幾ら文明が発達したからといって、未だに狩猟民族としての能力を持っている人がいるものだし、文明が発達したお蔭で特殊能力者を持ってしまう子供たちも出て来てしまうのだ。「全ての人間は平等である」と思い込むからこそ、折角、尋常ならざる能力を持った子供たちを精神病院に閉じ込めてしまうのであるのである。「人間は平等ではない!」と気付けば、我が子の特別な能力に気付けるものなのである。

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日本を元気にしたければ、減税すべし!

●選挙公約で増税を掲げる馬鹿者たち

 普通、選挙に成れば、政党は減税を選挙権者に公約するものなのである。それなのに菅直人首相は消費税を10%にするという選挙公約を掲げて、今回の参議院選挙に挑もうとしているのである。しかもこの選挙公約は与党民主党内で深い議論を重ねて出したものではなく、菅直人代表の思いつきで出したものなのである。民主党は党にとって重要な問題ほど、党内で全く議論せず、党の権力者たちが勝手に決めてしまう傾向にあるのだ。

 だが、今回の消費税増税を先に言い出したのは、民主党ではなく、自民党の方なのである。谷垣総裁率いる自民党が消費税増税を選挙公約に掲げるという情報を先に得たからこそ、菅代表は民主党の選挙公約に盛り込んだのである。自民党は先の衆議院選挙で大敗北して政権を譲り渡したのは、麻生太郎首相が消費税増税を公約したからというのが、全然解っていないのだ。谷垣総裁は髪型が変だと思っていたら、頭まで変だったのである。彼は政治無能力者であると断定してもいいだろう。

 消費税は今まで5%だから、それにもう5%付け足して税率を10%にしてもいいではないかと言い出す人々は必ずいるものだ。消費税の税率が10%になった場合、年収が300万円という低所得者を例に取ると、年間30万円もの税負担になるのである。菅首相は税率を20%にするかもしれないと言っているから、そうなれば60万円である。低所得者にこんなに高い税金を課せられてはやっていける訳がないのだ。

 消費税増税で政府が税金を大量に確保しても、それがそのまま社会保障費に投入される訳ではない。まずは国債の償還に使うだろうし、国家公務員の人件費に消えてしまうのだ。家計の10%以上を徴収しながら、社会保障費として回って来るのはごく僅かになるものなのである。子供手当てを2万円程度貰っても、それを貰うために30万円や60万円のお金を奪い取られては、どう考えても割に合うわけがないのだ。

 菅直人首相は「日本を元気にさせる」とスローガンを掲げているが、消費税を増税して、日本が元気になる訳がないのである。それどころか益々日本国民は貧乏になっていくことだろう。日本の政治学者たちは日本の消費税が西ヨーロッパ諸国より異様に低いことを指摘して来るものだが、日本の消費税率が異様に低かったからこそ、今まで日本国民は豊かだったのである。西ヨーロッパ諸国のように消費税が20%以上になってしまえば、政府が巨大化するから、どうしても経済が振るわなくなってしまうのである。そのために国民は貧乏をしてしまうのである。

●経済学者たちが解らなかったデフレ

 日本政府が先進国の中で最悪と言われるまでに国家財政を悪化させたのは、インフレにシフトした財政を取り続けたからなのである。インフレは物価が上昇して行くのだから、政府は借金してでも公共投資をすれば、大いに景気を刺激することができたのだ。ところがデフレになってしまうと物価は下がり続けるから、借金などなるべくせず、政府の規模を縮小していくしかないのだ。インフレとデフレでは政府の政策は根本的に異なるのだというのが解らなかったからこそ、デフレに突入したのに国債を大量発行して公共投資を行うという愚策を取ってしまったのだ。

 忘れてはならないのは、経済学者自体がどうしてインフレが起こり、デフレが起こるのかが解っていないということなのである。簡単に言ってしまえば、インフレは政府が戦争をしようとすると起こり、デフレは政府は戦争をやめて平和路線を取った時に起こるものなのである。だから平和になればデフレになるものなのである。

 ヨーロッパ諸国というのはいつも戦争をしまくっていた。そのためにヨーロッパはインフレが基調だった。ヨーロッパ諸国に本格的なデフレが発生したのは、ナポレオン戦争後である。この時、イギリスは戦勝国になった筈なのに、長らくデフレ不況に苦しめられ、国内で大論争になってしまったのだ。ヨーロッパでは初めてのデフレのために対応策が浮かばなかったのだ。

 その次に起こったデフレが普仏戦争後に起こったデフレで、この時は戦勝国のドイツ帝国だけでなく、ヨーロッパ諸国全てをデフレ不況が襲ったのだ。因みにカール・マルクスが『資本論』を執筆したのは、この時期なのであって、彼は「絶対窮乏化論」というものを唱えたのである。ところが現実には窮乏化するどころか、この時期のヨーロッパは未曽有の繁栄を実現することができたのである。

 第一次政界大戦後にもデフレが襲っている。日本は第一次世界大戦では戦勝国だったので、強烈なデフレ不況が起こっている。大学を卒業したのに就職できない者が続出し、解雇された失業者が続出し、倒産する企業も続出したのだ。しかし国民の生活自体は着実に豊かになって行き、モダン文化が花開いたのだ。

 そして今回のデフレ不況は冷戦終結後に起こったデフレこそが原因となっているのである。冷戦終結によってソ連は崩壊し、東ヨーロッパ諸国も社会主義を放棄したので、戦争の危機が去ったのである。だから今回のデフレを日本国内だけに限定して考えるのではなく、世界規模でデフレを考えて行かないと、まともな対策を考えることはできないのである。

●デフレ経済では国民の生活は豊かになる

 デフレが起こるというのは、政府が「もう戦争をしませんよ」という意思表示をするからこそ、起こるものなのである。政府は戦争をするためい大量の税金を掻き集めなければならないし、兵士を大量に集めなければならないし、大量の軍需物資を備蓄しなければならない。それは戦争に勝つためにするのであって、戦争をしなくなれば不要になるから、税金を易くし、軍縮に応じるので、そのために大量の資金や人員や物資が民間市場に流れ込むことになるのである。

 それゆえに物価が下落して行くことになるのだ。だからデフレ経済では国民の生活は非常に豊かになるのだ。一度でもデフレを経験すると、その国民は飛躍的に豊かになっていくのだ。イギリスもドイツもアメリカも日本もデフレを経験したからこそ、国民生活が急激に豊かになっていったのである。

 しかし物価が下がって行く以上、企業にとっては地獄である。競争力のない企業はバタバタと倒産して行くことになる。生き残るためには企業合併を推進したり、機械化することによって人員を削減したりしなければならないのだ。企業合併や派遣切りなどは、デフレ経済の典型的な現象なのである。

 失業者が大量に出ても、既存の企業では吸収することができない。そこでベンチャー企業が続々と登場してくることで新たな産業が生まれて来るのだ。新たな産業ではまともな統計すらないから、そこで失業者が吸収されていると思わないから、ただ単に失業統計を見ていては、失業問題が深刻な問題になっているのではないかと思ってしまうのだ。

 情勢を見誤まった政治家が「デフレ退治」を主張して、経済に介入してしまえば、新しい産業に労働者が移行しなくなってしまうのだ。政治家は経済に介入しても既存の産業のことしか考えていないので、そこで失業者を吸収しようとしてしまうのだ。だからデフレの時に政府がデフレ対策をすればするほど、経済が悪くなっていってしまうのだ。

 デフレ経済では確かにデフレ不況が起こるだが、そのデフレ不況こそが経済革命を発生させる要因になっているのである。イギリスはナポレオン戦争後のデフレ不況の中で軽工業を中心にした経済革命を発生させているし、ドイツは普仏戦争後のデフレ不況の中で重化学工業を中心にした経済革命を発生させている。今回の冷戦後のデフレ不況では情報産業を中心にした経済革命が進行中なのである。その経済革命によって無数の企業が誕生して来て、人々の生活を豊かにしていくのである。

●デフレ経済下で日本政府がすべきこと

 デフレ経済下で日本政府がすべきことは消費税の増税ではないのだ。消費税増税はデフレ経済下ではやってはならない政策なのである。消費税を増税してしまえば、景気は更に悪化し、国民生活は貧しくなり、国家公務員の汚職は以前よりもいっそう進むことになるであろう。

①まずは減税、とにかく減税、なんでも減税

 デフレ経済下で日本政府がすべきことの筆頭は減税である。所得税を10%にする。法人税を10%にする。相続税を廃止する。これらの減税政策を実行すれば、国民生活は飛躍的に豊かになり、政府が社会保障を充実させなくても良いようになるのだ。国民に重税を課しているからこそ、社会保障が必要となっている事実を決して忘れるべきではないのだ。

 もしも増税したければ、労働組合に課税するべきなのである。労働組合が免税特権を持って政治に手を出して来るからこそ、政治家たちが異常な政策を取ろうとして来るのである。労働組合が労働者の権利を守るために活動するなら、税法上の優遇措置もあっていいが、労働組合が労働者を貧しくさせるような政策を政治家たちに取らせようとするなら、最早、税法上の優遇措置は全て没収されるべきなのである。

②政府の規模を小さくする

 デフレ経済では政府の規模を小さくしなければならない。戦争をしないのだから、政府の規模を大きくすることはないのだ。政府が行っている事業で、民営化できるものは民営化してしまえばいいのだ。例えば、国民年金だとか国民健康保険などは民営化しても充分にやっていけるので、今の内に行っておくべきなのである。

 政府の規模を小さくすれば、大量な国家公務員などいらなくなるのだから、国家公務員を半減させることができるのである。税金を幾ら徴収しても、国家公務員の人件費に大半が取られてしまう事実を決して忘れるべきではないのだ。国家公務員の数が少なければ少ないほど、税金は安くできるものなのである。

③議院内閣制を廃止し、首相公選制に移行させる

 日本の政治的腐敗はその殆どが国会議員たちから始まっているものだ。そのため国会議員の数を削減すべきなのである。衆議院議員は300名で充分だし、参議院銀は都道府県から2名出すので充分な筈だ。国会議員の数が多いからこそ、碌でもない政策を考え出して来るのである。

 そして国会が首相を指名できるという議院内閣制を廃止すべきなのである。国会議員が政府の行政を司る首相を選ぶからこそ、国民の生活を破壊する、とんでもない首相が出て来てしまうのである。首相は国民が直接選ぶようにすれば、国民生活を守る政治家を首相にすることができるようになるのだ。民主党の小沢一郎は「日本に議会制民主主義を定着させる」と言っているのだが、日本は半世紀に亘って議会制民主主義を遣って来たが、巧く行かなかったのである。日本国民は議会制民主主義があるために、常に国益を喪失してしまっているのだ。

 不思議なことに、デフレ経済に突入すると、政治家たちは増税をしたり、政府の規模を拡大したりしてしまう。インフレ時での行動パターンをデフレ経済でも行ってしまうのである。嘗てドイツ帝国はデフレ経済の時に減税もしなかったし、政府の規模も小さくすることはなかった。だからドイツ帝国は滅亡してしまったのである。イギリスも第一世界大戦後のデフレの際に、増税をし、政府の規模を拡大してしまった。だからイギリスは第二次世界大戦で覇権を失ってしまい、多数の植民地を手放すことになってしまったのだ。

 アメリカ合衆国は冷戦に打ち勝ったというのに、全世界に勢力を広げ過ぎてしまったから、減税もしないし、政府の規模も縮小できないのだ。それどころかオバマ大統領は日本では既に破綻した国民健康保険を取り入れてしまい、事実上の増税を行ってしまったのだ。アメリカ我執国といえども、経済法則を無視してしまえば、国家の滅亡は免れないのである。

 現在、民主党が衆議院で過半数を獲得している以上、今回の参議院選挙で勝ってしまえば、消費税増税は確実に実施されることになるであろう。そうなれば、家計を直撃して来るし、日本の景気は大いに後退し、国力を大いに損なってしまうことになるであろう。政治に関心がないからといって、無投票を決め込んだり、投票所に行っても増税を公約に掲げている立候補者に投票してしまえば、結局、損をするのは「あなただ!」ということになるのである。

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未だ嘗て、借金をして滅んだ国は1つも存在しない!

●莫大な借金は莫大な信用があるっていうこと!

 現在、日本政府の国債残高は600兆円となり、過去最高の借金を抱えることになった。これだけ莫大な借金ができるということは、日本政府に莫大な信用があるということなのだが、多くの人々はそうは考えない。如何にしてこの莫大な借金を返済しようかと躍起になっているのだ。曰く「国債残高は国民一人当たりの借金に治すと470万円である」とか、「日本もギリシャのようになるぞ」と脅迫めいた愚劣な意見を平気で言って来るのだ。

 通常、個人が豊かな暮らしを実現したければ借金をしないことだ。借金がなければ利息の返済がないから、可処分所得が増えるからである。しかし政府はそうはいかない。政府は借金があるのが常態だからだ。政府が国民から借金をすることで、市場でダブついている資金を吸収し、市場が健全に機能するように仕向けなければならないのだ。

 嘗て明治政府が遣欧使節団をヨーロッパ諸国に派遣した時、列強といわれた国家に限って、国内では産業革命に成功し、帝国主義によって海外に植民地を持っているのに、膨大な借金を抱え込んでいることに日本の政治家たちは非常に不思議がったという記録が残されている。国家というのは大きくなればなるほど、強くなればなるほど借金をしまくるものなのである。、

 井原西鶴は『世間胸算用』で「未だ借金で人が殺された試しはない」 と言いきっているが、政府だって借金をしたからといって殺される訳がないのだ。債権者たちは債務者にお金を貸した以上、そのお金と利息を返して貰わねばならないのであって、死んで貰っては困るのである。債権者にとって一番困るのが、債務者が借金を踏み倒すことなのである。お金の貸し借りというのは、債務者の方が圧倒的優位に立つものなのである。

 政治家に莫大な資産があり、幾つかの企業を所有していれば、政府が幾ら借金してもビクともしないということは解るものなのだが、政治家が貧乏人あがりで、まともな資産がなく、所得も1億円を超えないようになってしまうと、この借金のメカニズムがさっぱり解らなくなってしまうのだ。国民が長らく「政治をクリーンにしよう!」と言い続け、政治家に清廉潔白を求め続けた結果、借金のことすら理解できない無能な政治家が首相になってしまうという危険な事態に成ってしまったのだ。、

●政府が国民に対して借金をするなら、なんの問題もない

 政府が市場に出回る通貨を調整するためいは、通貨の発行量そのものを抑えるか、国債を発行して市場に出回る通貨を回収するしか手立てはないのだ。通貨供給量を抑え過ぎてしまった場合、低所得者たちにお金が出回らなくなるので、低所得者たちは貧乏してしまうことになるのだ。現在、日本は人口増加が停止した状態にあるので、そう簡単に通貨供給量を増やせないのである。

 だから政府が国債を発行することで、市場にダブつく資金を吸収して、市場を安定化するしかないのである。政府は借金をして資金を掻き集めれば、その資金を使わざるを得ないので、日本政府の場合なら公共事業に投資して行くしかないのだ。政府が公共事業に投資してくれるなら、民間にお金が流れるがゆえに、経済が循環し始めるのである。ところが民主党などは政府の公共事業は全て停止する勢いで政策を進めているから、途端に経済がおかしくなってしまうのだ。

 政府がどんな莫大な借金をしたとはいえ、利息は全て国民の懐に行くのだ。国債は国民から借金している限り、なんの問題もないのである。政府が借金をすることで、豊かになる人々がいるなら、それはそれでいいのである。政府が借金をして危険になるのは、政府が外国から資金を調達することであり、そうなってしまうと、利息は外国人が手にする所となってしまい、国民は貧乏してしまうことになるのだ。

 明治期に日本が貧乏だったのは、日露戦争を戦うために、外国から資金を調達したためであって、そのために利息は外国人の手にする所となってしまったからだ。だから、平時に於いては外国人に日本の国債を保有させるべきではないのだ。戦時になって、国内では資金が調達できない時に、初めて外国人からお金を借りるしかないのだ。

 国債残高に過剰に反応している人々は、「我々の子孫に借金を残すな!」と言って来るものだが、子孫には借金を残しておいていいのである。もしも政府になんの借金もなければ、子孫はお金を使い放題に使って財政を破綻させるだけであって、その方が余程危険なのである。

●油断ならぬ者は「日銀」である

 日本の国債がアメリカの信用格付け会社からランクを落とされたとか全然気にするべきではないのである。アメリカの信用格付け会社はアメリカの投資会社に情報を伝えるためにやっているのであって、日本の国債のランクが下がれば、アメリカの投資会社は日本の国債を手放してくれて、日本政府は利息をアメリカの投資会社に支払わなくても済むようになるのだ。

 日本政府は明治維新以来、毎年借金をし続けてきたが、借金を踏み倒したことは一度もないのだ。日本政府は国民から借りたお金はきちんと返しているのである。油断ならないのは、実は「日銀」なのである。嘗て日銀は敗戦の混乱時に通貨を踏み倒したことがあったのだ。日本政府ですら、敗戦の混乱時には借金を踏み倒さなかったのに、日銀は蔭に隠れて平気で通貨を踏み倒したのだ。

 民主党政権は国債の発行額を抑える政策を取り続けているが、そうなるといずれ国債で消化されていた資金が市場に出回るようになり、資金が市場にダブつくようになるのだ。そうなれば、日銀は通貨供給量を弄るしかなくなり、恐らく日銀が日本の景気を悪化させる方法に誘導しようとする筈である。

 なぜなら、日銀総裁やその理事たちはキリスト教徒たちで固められており、キリスト教に改宗しない日本国民たちはどうなってもいいと思っているからなのである。日本国民が一生懸命に働いても豊かになれないのは、日銀の上層部が異教徒たちに占められているからなのである。戦後、日銀がやってきた政策というのは、常に失敗し続けて来たのは、宗教的理由が存在していたからなのである。

 日銀の上層部に日本国民を貧乏にする勢力が入り込まないようにするためにも、日銀総裁は国民の選挙で選ぶべきなのである。国民の選挙で選ばれた者に、4年の任期を与えて仕事をさせれば、日本国民のためになる政策を打ち出して来るようになるものなのである。

 そして通貨供給量は日銀だけで決めるべきではない日銀や政府や財界の人々を300名程度集めて、徹底的に議論させた上で発行額を決めるべきなのである。日銀の理事会という非常に小さな集団が日本経済の根幹に関わるような事項を決めるべきではないのだ。経済に精通している人間が300名も集まれば、日本経済にとって相応しい通貨供給量を決めることができる筈だ。

●増税しなくても、借金を解消する方法は幾らでもある

 日本国民は経済のことを全く解っていない政治家たちに騙されないようにするためには、近代国家の政府というのは借金するのが当たり前だということを知っておくべきだ。政府が借金をするということは、何も政府の事業だけに使われるのではなく、政府が借金をしてくれることで、経済を安定化させるという、思わぬ機能をも果たしているのである。

 政府が借金をしても、それに見合う資産があれば、何も恐れることはないのだ。そのためには「複式簿記」を採用して、貸借対照表をしっかりと作っておくことだ。日本政府は未だに単式簿記でやっているからこそ、借金に怯えてしまうのである。借金が幾らあっても、それに耐えうる資産があれば、全く問題はないのだ。

 国債の発行残高を健全に減らして行きたいというのなら、とにかく減税して政府の規模を小さくすることだ。政府が規模を大きくし、国民に重税を課して来るからこそ、景気が良くならないのである。膨大な借金を抱えている政府が消費税を増税しても、国家公務員の人件費に消えるのが落ちなのである。消費税を増税する前に、国家公務員を削減するべきなのである。

 国債をセットにして、政府の資産を売却し、財閥を育成するというのも、優れた遣り方なのだ。嘗て明治期にはこの遣り方をやって、三菱財閥などの多くの財閥を育成して行ったのだ。因みに、北海道でこれをやろうとしたら、反対運動が起こってしまい、そのために北海道では財閥が育たず、未だに経済が良くならず、人々は貧乏なままなのだ。

 未だ嘗て借金をして滅んだ国など1つも存在しないのだ。それなのに国民に対して借金の恐怖を煽り、選挙に勝とうなどと、政治家がやるべきことではないのだ。恐らくj菅直人首相は財務官僚の意見を鵜呑みしているだけであって、経済のことが解ってやっていることではないのだ。大体、菅直人首相の年収は3千万にも達していないのだ。これでは経済のことが解る訳がないのだ。日本が経済大国である以上、首相になれる人は絶対にお金持ちにすべきなのである。年収が1億円にも達していない人が、経済のことをきちんと理解できる訳がないのだ。貧乏人を首相にしてしまえば、日本国民は確実に貧乏になっていくものなのである。

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下水道使用料金の奇奇怪怪

●横浜市の水は本当に奇麗なのか?

 都市は水をガブ飲みする。農村や漁村でも水を使用するが、都市になれば水を大量に消費してくる。だから大量に水のない所に都市は発生しない。如何に巨大な都市でも水が枯渇すれば、その都市は廃墟になってしまうのだ。日本は全国どこでも良く雨が降るので、年間降水量が非常に多いものだ。だから、この当たり前すぎる前提を忘れてしまいがちなのだ。

 俺が子供の頃、横浜市に住んでいたのだが、大人たちは「横浜の水は日本一奇麗だ!」と言い続けていたものだ。横浜市は人口が多いだけでなく、港湾もあるので、船舶に大量の水を売らねばならないから、水道の水質に関しては相当に注意を支払っていたのだ。

 しかし我が家では病人が絶えることがなく、俺以外の人間たちは全員病気しまくっていたので、「もしかしたら、水道の水に原因があるのではないか?」と思うようになった。そこで浄水器を買って自宅に備え付けてみると、家族の中で病気の発生率が徐々に減少して行ったのだ。浄水器はその後、性能の良い物を求めてどんどん変えて行き、水道水を完全に浄化できる機能を持った浄水器を備え付けてみると、自宅の中で病気で寝込むということがほぼなくなったのだ。

 「横浜の水は日本一奇麗!」と言いながら、横浜市の水は結構汚かった訳だ。上水道の場合、ダムを作り、そこで水を溜め置き、そこから水を引っ張って来て、浄水場で浄化するのである。当然に塩素を大量に使うし、しかもその浄化した水を水道を使って各家庭に送り届けて来るのだから、水が汚れない方がおかしいのだ。

 自宅で使う水が汚ければ、家族の者たちが病気になってしまうものだ。水は毎日使うものゆえに、汚い水が徐々に体を蝕んでいくのだ。日本人の食事はかなり改善したのに、病気になる人が絶えないのは、やはり水道水の汚さにあるであろう。その汚さは汚水のような汚さなのではなく、水を浄化するために汚くしてしまったというものなのである。

●政令指定都市の下水道料金比較

 自宅で使う水に関しては浄水器をつければいいのだが、問題は自宅で使う水をそのまま垂れ流してしまうということだ。自分たちが水を汚しているからこそ、それが巡り巡って自分の所に汚い水として戻って来るのである。自宅で汚水処理器をつければ汚水を処理できるのに、そういうことをしないで地方自治体が下水処理場を作って、そこで纏めて処理するという方法を取っているのだ。

 そこで政令指定都市の下水道料金を調べてみたら、興味深いデータが出て来たので、ここで公表する。下水道料金は全国一律ではないのだ。凄まじいほどまでに芸水道料金には格差があるのだ。月20㎥使用した場合、政令指定都市の下水道料金はこれほどまでに違うのだ。

新潟市  2908円

福岡市  2503円

広島市  2157円

川崎市  2058円

京都市  1984円

横浜市  1942円

千葉市  1905円

神戸市  1522円

札幌市  1333円

大阪市  1218円

 大阪市民は新潟j市民や福岡市民の半額しか下水道料金を支払っていないのだ。大阪市は新潟市や福岡市よりも経済力が高いから、大阪市民は新潟市民や福岡市民よりも遥かに豊かな暮らしができている訳だ。下水道料金は毎月かかるから、月日が経つたびにその格差が広がッて行くのだ。

 言うなれば、地域格差は絶対に発生するということだ。下水道料金が二千円を超えている新潟市や福岡市や広島市や川崎市は、雨が降らないために下水道料金が高くなった訳ではなく、そこの市長がどのような姿勢で行政に取り組んだかの違いであろう。市民の生活に鈍感な人間が市長になれば、芸水道料金を引き下げるということは絶対にしないことだろう。

 横浜市や神戸市のように、江戸時代末期に外国との貿易のために作られた都市は、それほど高くなっていない。矢張り船舶に水を供給せねばならない以上、水に関しては関心を持たねばならず、そのために下水処理に関しても当然に関心を支払うようになるのであろう。

●財政運営の仕方が間違っている

 下水処理場というのは、莫大な費用がかかるものだ。しかも下水処理場を作って終わりというのではなく、20年も経てば施設が老朽化し、新しい下水処理場に作り変えなければならない。市民に下水道料金を低く設定するためには、健全な財政運営が必要不可欠なのである。

 まずは市の財政を複式簿記にすることである。これをしないと市のどこにお金があるのか解らなくなってしまうからだ。単式簿記では赤字になっても、実はお金があったということがあるからだ。東京都では石原慎太郎知事の時に単式簿記から複式簿記に変えたのだが、これは大英断というべき措置なのである。

 財政を複式簿記にした上で、財政を三分割にするべきなのである。予算は、政治家が自由に動かしてもいい予算と、公共事業のために積み立てる予算と、貯金のための予算の三分割を行わなければならないのだ。下水処理場はどんなに最新鋭の施設を立てても、20年後には施設を建て替えなくてはならないので、その資金を予め積み立てておくべきなのである。

 市長は市民の選挙で選ばれて来るからといって、市長が予算の全てを変更してはならないのである。市長が自由に動かしていい予算は、市の全予算の3分の1程度しかないのである。市長がそれ以上に予算を動かしてしまうと、市は財政収支を悪化してしまい、新たな下水処理場を作る際に資金がなくなってしまうのである。

 財政を健全に運営して行くためには、財政の暴走に歯止めをかける機関が絶対に必要なのである。ベネチア共和国では国家元首の統領が行政権を振るいながらも、財政に関しては「四十人委員会」が担当していたのだ。そのためベネチア共和国は財政が破綻をすることがなかったのである。日本の政府にしても、都道府県や市町村にしても、この手の機関が存在しないために、財政を破綻させてしまっているのである。

●公共料金は高過ぎても安過ぎてもならない

 公共料金というのは、高過ぎても安過ぎてもならない。公共料金が高いということは、その市町村が大量の冗官を抱えているということなのである。下水道使用料金が高いからといって、他の市町村よりも優れた処理が行われている訳ではないのだ。恐らく下水道局の職員の給料のために使われているだけなのである。

 嘗て社会主義国だったソ連は公共料金が日本円にして数十円という恐ろしい安さだったのだ。しかし、そのために税金が大量に使われて財政が破綻してしまい、しかも水道の水質が非常に悪く、下水は垂れ流しで都市は悪臭が漂ってしまうようになるのである。タダほど怖いものはないが、安すぎるのも怖いものなのである。

 地方自治体は住民を増やすために行政サービス合戦をし続けるしかないのである。行政サービスを良くすれば住民が増えるものだし、住民が増えれば税収が増加するという好循環が働くのだ。しかし逆に行政サービスが悪ければ住民が去って行ってしまい、住民が減少すれば税収が悪化するという悪循環が発生してしまうのだ。

 だから下水処理場を建設し運用するのにこれだけの費用がかかったからといって、そのまま市民に請求してはならないのである。他の市町村の下水道使用料金を見比べながら料金を設定して行くしかないのである。高い下水道使用料金はその市町村がどのような行政サービスをしているのかが、一発で解るものなのである。

 都市住民の最大の利点は、住んでいる都市の行政サービスが悪ければ、他の都市に移住することができるということなのだ。わざわざ高い公共料金の請求される都市に住み続けることはないのだ。それよりもリーズナブルな料金で設定している都市に移住してしまえば、以前住んでいた都市よりも豊かな生活を送ることができるのである。都市に住んでいるなら、この拒否権を必ず持ち続けるべきなのである。

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母親たちのための「真夏のダイエット」

●母親を恐怖に陥れる夏の水着

 母親たちを悩ますものに夏の季節というものがある。若い頃は夏の日差しなど全く気にしなかったのだが、年を取ってくれば、日焼けした後が消えないし、シミがシワが出て来てしまうのだ。それなのに子供たちは母親にプールや海水浴に行くことをせがみ、水着を着なければならなくなるのだ。

 この夏の水着こそ、母親たちを恐怖に陥れるのだ。出産後、女性は多少太るものだ。体が次の妊娠や出産に備えて、腰回りに脂肪をつけてくるのだ。しかも育児によって体型が母親体型に変化しているから、若い頃の体とは全然違って来るようになるのである。自宅の庭で子供用のプールで子供たちが遊んでいるなら、母親は水着にならなくていいものだ。だが、子供が大きくなってプールや海水浴に行くとなれば、母親だって水着にならねばならないのだ。

 更に追い討ちをかけるものに、オシャレな水着を買えないということがある。育児をしていれば、子供に最優先でお金を回してしまうので、経済的理由から自分にオシャレな水着を買えなくなってしまうのだ。たまにオシャレな水着を買えたとしても、今度は太って体型が乱れているから、全然似合わないのだ。オシャレな水着はスリムな体型でこそ美しさを発揮してくるのである。

 夏だからこそ、いつでも水着姿になっていいように、ダイエットをしておくべきなのである。しかし、太っている母親に限って、ダイエットが面倒臭いと言い出すものだ。中にはダイエットに何度も挑戦したのに、失敗を繰り返してしまったという人もいることだろう。母親が太り始めるのは、出産して子宮を守るために脂肪をつけたり、育児のために母親体型になることで肥満になっていったのであり、独身女性の肥満とは全く異なるものなのだ。だから、独身女性向けのダイエットを実践しても、巧く行かないのだ。

 そこで育児や家事に忙しい母親たちにも簡単に実践できて、確実に成功するダイエット法を紹介しよう。母親として育児や家事をやっている以上、ダイエットにそれほど時間を割くことはできないのだ。少ない時間で効果的にダイエットできるようなものでないと、ダイエットは続かないのだ。

●フルーツ朝食

 まず、朝食を正規の朝食を食べず、「フルーツ朝食」に変えてしまうことだ。フルーツ朝食ではフルーツをメインとした食事である。お勧めはリンゴ人参ジュースを作り、それ以外にマスクメロンやスイカやアボカドなどを食べるようにするのだ。リンゴ人参ジュースは、リンゴと人参とバナナをミキサーにかけて、それで出来上がりだ。

 昼食はフルーツに生野菜に木の実だけを食べる。生野菜は大方、サラダになるであろうが、サラダを主食と思ってバクバクと食べるようにすることだ。木の実はナッツ類やアーモンドを揃えて、それをボリボリと食べるようにすることだ。午後に喉が乾かないようにするためにも、フルーツをしっかりと取っておくことだ。

 夕食は自由に食べていい。しかし必ず生野菜を大量に食べることだ。できれば、人参やキュウリをステッィク状に切って、それをポリポリと食べるようにすることだ。夕食は午後7時までに終えるべきであって、午後7時以降には一切の食べ物を食べないようにすることだ。だから夕食はダイエットを気にせず、しっかりと食べておくことだ。

 このような食事パターンをとっていると、朝になると便意を感じて目が覚めるようになり、朝からウンコが肛門から噴き出るようになるのだ。もしも便意がなくて目覚めても、早朝の段階で排便をすることになる、フルーツや野菜を大量にとっているので、とにかくウンコが出まくるようになるのだ。

 フルーツを大量にとっているので、間食は一切しないようにすることだ。大体、午前10時と午後3時には丁度、血糖値が下がり、蛋白質や脂肪を消化吸収しようとし出すので、その時に間食してしまっては、蛋白質や脂肪を充分に消化吸収することができず、それで贅肉がついてしまうことになるのだ。

●厚着で軽ジョギング

 この食事メニューを食べている時は、午前中に厚着で軽ジョギングを行うことだ。フルーツや野菜を大量に食べたことで、酵素水分を大量に確保できるので、脂肪が燃焼し易くなっているのだ。脂肪が燃焼するには20分以上継続して行う運動が必要だし、できれば厚着をして体温を上げておくと、より効果的に脂肪が燃焼するのだ。

 厚着というのは真冬の格好をすればいい。夏なので、そんな恰好で軽ジョギングすれば、汗が大量に噴き出て来るのだ。太り過ぎていて、走るのが苦痛だと言う女性は、ウォーキングにしてしまってもいい。ダイエットをして体重が軽くなってきたら、軽ジョギングをするようにすればいいのだ。

 夏に厚着で軽ジョギングをするということは、熱中症に罹る危険性があるので、そのために朝食時にフルーツを大量に食べ、比較的に涼しい午前中に軽ジョギングを行うのだ。軽ジョギングは30分以上行い、1時間30分を限度にすることだ。汗が流れ切って、汗が出なくなったら、丁度いい塩梅なので、すぐさま切り上げてしまうことだ。

 厚着で軽ジョギングをすると、確実に1日1㎏は減ることになる。しかも脂肪が燃焼して体重が落ちて行くので、体がスリムになっていくのだ。女性の場合、食事を減らすダイエット法をやってしまうのだが、このダイエットだと食事はしっかりと取っているので、ストレスを感じないし、顔がげっそりすることもなくなり、それどころか気力が充実して来るようになるのだ。

 もしもより効果を高めたいのなら、筋肉トレーニングをすることがお勧めだ。女性ホルモンが大量に分泌されたことで、脂肪が付き易くなっているので、筋肉トレーニングをしないと筋肉量が落ちて行ってしまうのだ。そこで筋肉トレーニングをすると、しっかりと筋肉がついて、そこでエネルギーが燃焼するようになって、脂肪がつかなくなるのだ。

●冷房をつけず、汗をかくようにする

 夏は暑いものだが、午前中に軽ジョギングをしておくと、後は涼しくなる。暑い夏なのに冷房をつけて体を冷やしてしまうからこそ、新陳代謝が悪くなって太って行くことになるのだ。夏だからこそ冷房を消して汗をかきまくるようにすることだ。体温を上げておけば、新陳代謝がよくなって、自然と痩せて行くものなのである。

 冷房のかかっている場所に行く時は、長袖長ズボンの格好で行くようにすることだ。女性の体は冷房に当たると、男性のように表面上の体温が下がるだけでなく、深部体温まで下がってしまい、そのために体が不調になってしまうのだ。それゆえ冷房のかかる場所に行くなら、肌を露出させないような工夫をすれば冷房の害を防げることができるのだ。

 夏が暑くて体が汗でベトベトになったら、風呂場で冷水を浴びてしまうことだ。これをやると自律神経を刺激することになるので、体が活性化して行くことになるのだ。しかも深部体温を下げることなく、表面上の体温だけ下げることができるので、体にはなんの悪影響も発生しないのだ。

 「フルーツ朝食」「厚着で軽ジョギング」「冷房をつけずに汗をかく」、この三つを地道にやっていけば、1日に1㎏は確実に落ちて行くので、体重の低下が止まったら、適正体重だと思った方がいい、それ以上、体重を落とさないようすることだ。体が適正体重になると、体が軽くなり、物凄く動き易くなるので、本人でも適正体重を自覚することができるであろう。

 子供たちがプールや海水浴に行きたがっているのに、母親が自分の肥満を理由に連れて行かないのは、子供たちにとってショックなものなのだ。子供の時分に、疲れ切るまで遊ばせておけば、健康になってくれるし、母親の言うこともちゃんと聞いてくれるようになるのだ。育児をしているから母親体型になるのは仕様がないけど、それを通り越して肥満になってしまえば、子供たちの体や脳を発達させる機会を奪ってしまうことになるのだ。そうならないようにダイエットをして、スリムな体になっておくことだ。

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暑い夏だからこそ汗をかこう!

●夏風邪は体の冷やし過ぎ

 夏は暑いと決まっている。暑いからこそ、体の動きが良くなり、運動量が最も多くなるものだ。とこが夏は暑いからといって、冷やしてしまう輩が余りにも多過ぎるのだ。冷夏になれば食料の生産量がガタ落ちし、途端に大問題になってしまうものだ。人間だって、暑い夏を強制的に冷やしてしまえば、途端に大問題になって来るのだ。

 例えば、子供たちが罹る夏風邪などは典型的に体を冷やし過ぎたから起こってしまった病気だ。冷房をつけて部屋を冷やし、いつも薄着でいて、冷たいジュースや冷たいアイスクリームを食べていれば、体温が急激に下がってしまうので、季節的に本来ならひく筈のない時期に風邪をひいてしまうのだ。

 女性の場合、夏に体を冷やしてしまうと、深部体温が下がり、冬には冷え症という形で出て来てしまうのだ。冷え症は治りにくいといわれるが、それは体の芯が冷えてしまっているからであって、ゆっくりと深部体温を上げないと、なかなか冷え症が治らないのだ。夏は深部体温をあげる絶好のチャンスなので、夏だからこそ温かい格好をして、体を冷やさないようにすることだ。夏に深部体温を上げておくと、冬には冷え症しらずの体になるのだ。

 妊婦などは、夏は安産になる確率が急上昇するので、この時期にこそ運動をして汗を流しておくことだ。体内に余分な水分があると、体の動きが悪くなってしまい、そのために子宮口がなかなか開かず、難産になってしまうのである。自分が妊婦であるなら、夏は冷房を拒否し、長袖長ズボンの格好をして、絶対に体を冷やさないようにすることだ。

 夏だからこそ汗をかこう! 汗をかくということは、体温が上がっている証拠であり、汗をかくことで火照った体を冷やしているのである。だから夏は汗をかきまくるのだ。夏だというのに、汗をかかなければ病気になっていくのは当然なのである。汗をかいているのは健康の証拠であって、汗をかけばかくほど健康になっていくのだ。

●朝に運動をして汗を流してしまう

 夏を快適に過ごしたいのなら、朝の内に運動をしてしまい、汗を流してしまうことだ。朝にウォーキングをするのもいいし、軽ジョギングをするのもいい。とにかく汗をかけるようなスポーツをして、汗を流しておくことだ。スポーツで汗を流した後、冷水シャワーを浴びると、体はひんやりとし、その日1日中、涼しくすることができ、冷房要らずになるのだ。

 朝は排泄の時間帯であって、朝こそ最も汗を流し易い時間帯なのである。体内に余分な水分を朝の内に出してしまうと、その後は汗を余りかかなくなるのだ。しかも発汗する時に、体内の老廃物や毒素を排出してくれるので、皮膚が非常に奇麗になり、病気に罹りにくくなるのだ。

 朝の内に汗を流しておくと、後は冷房など要らないのであって、暑ければ団扇でパタパタと煽いでいればいいのだ。団扇でも充分に涼しさを感じられるものなのである。もしも日中の気温が高くなり、汗がジワーッと出て来るのなら、日中、体を動かして汗を流した後に、冷水シャワーを浴びてしまえばいいのだ。そうすると非常に涼しくなるのだ。

 夏だからといって肌を露出する格好をするのではなく、夏だからこそ長袖長ズボンにすることだ。皮膚を服で覆ってしまった方が、暑い夏を涼しくすごせるようになるのである。しかも長袖長ズボンでいることで、深部体温をしっかりとあげることができるので、冬には冷え症知らずの体になることができるのだ。

 女性にとっては、年を取って来ると、日焼けの後が消えにくくなったり、シミやソバカスになってしまう危険性が高まってしまうのだ。「白い肌は七難を隠す」と言われるが、夏に日焼けせずに肌を白くしておくと、一年中、美しい姿でいられることができるようになるのだ。夏に薄着をして、真黒に日焼けしてしまうと、シミやソバカスが出て来てしまい、非常に醜い顔になってしまうのだ。通常、女性の顔にシミやソバカスが出て来ていても、男性は絶対に指摘して来ないので、だったら大丈夫だろうと思っていると、見るも無残な顔になってしまうのである。

 仕事をしていて、職場に冷房がかかっていると汗を流すことができなくなるので、帰宅後はお風呂に入って体を温めておくことだ。風呂で汗を流すということをやっていれば、職場の冷房のために病気に罹るということはなくなるのだ。職場の冷房のために体が不調であるというのなら、定期的に長風呂やサウナに入って大量の汗を流すようにすることだ。これをやると体の不調が吹き飛んでしまうのだ。

●夏だからこそ熱いお茶を飲む

 夏は暑いからといって、水をガブガブと飲みまくるべきではないのだ。水を飲み過ぎてしまうと、体内の塩分バランスを崩してしまい、体の動きが非常に鈍くなってしまうのだ。気をつけるべきは、子供がいる場合で、子供たちは大人よりも遥かに水分を欲しがり、それに釣られて親である自分も水を飲みまくっていると、水太りになってしまうのだ。

 まず暑い夏なら「麦茶」が定番だ。麦茶は冷蔵庫で冷やしたものではなく、煮出した麦茶に黒砂糖を入れて飲むようにすればいいのだ。暑い夏に熱い麦茶を飲むと、逆に汗をかかなくなるのだ。しかも黒砂糖を食べることになるので、黒砂糖に入っているミネラル分を補給することができ、夏バテを引き起こさなくなるのだ。

 子供には不向きだが、大人には緑茶がお勧めだ。緑茶は体を冷やす効果があるので、夏に緑茶を飲むと、体がひんやり冷えて来るのだ。出来れば抹茶をたてて、抹茶を飲んでしまうと、お茶の葉っぱそのものを食べることができるので、大量にビタミンを補給することができるのである。

 夏に運動をして、大量に汗をかいた場合は、レモンジュースを作るなり、カボスジュースを作るなりして、果物の果汁を補給しておくことだ。喉が渇いたからといって、清涼飲料水を飲んでしまうと、大量に消費してしまうことになるので、家計を徐々に圧迫して来るのである。清涼飲料水を飲まないようにすると、お財布の中にはお金が常にいっぱいとなるものなのである。

 夏の風物詩にビールがあるが、ビールを飲む時はビールを冷やさないようにすることだ。自宅でビールを飲むなら、かなり前にビールを冷蔵庫から出しておき、冷たくない温度になった時に飲むようにすることだ。ビールを飲む時は、すきっ腹に飲むので、冷たいビールを飲んでいれば、胃にダメージを与えてしまい、胃癌の原因となるのだ。

●サッパリ系より油物

 猛暑で食欲がなくなると、サッパリ系の料理を食べたくなるが、そのような食事をやっていると、夏バテを引き起こしてしまう。サッパリ系の食事では栄養バランスが崩れているので、スタミナがなくなってしまうことになるのだ。夏だからこそ油物なのである。肉や植物油をしっかりと摂取しておかないと、スタミナはつかないのである。

 夏になったら、さすがに米食に関しては食欲が落ちてしまうものだ。そこで麺類を多用することだ。お勧めは「油素麺」であって、その変形の「油冷麦」はもっとお勧めだ。油素麺とは、奄美大島の料理で、肉や野菜を油で炒め、そこに素麺を入れて絡めるのだ。油冷麦は素麺よりも歯ごたえがあるので、麺好きの人は冷麦にした方がいい。油素麺はさすがに奄美大島で産まれた料理なので、猛暑で食欲のない時でもこれなら食べられるのだ。

 冷やし中華にするのも結構であるが、それよりも、肉や野菜をたっぷりと使って中華あんかけを作り、茹であげたラーメンの上に置くのだ。こうすると冷やし中華よりも栄誉バランスが良くなるし、通常のラーメンのように汗を流しまくりながら食べなくて済むようになるのだ。

 夏は暑さで体力を消耗するので、定期的に焼肉を食べるようにすることだ。夏にバーベキュウをする家庭も多いが、夏だからこそ焼肉を食べるとスタミナがしっかりとつき、夏バテを引き起こさなくなるのだ。夏バテで体が動かないといっている人に、肉をしっかりと食わすとピンピンになるものなのである。

 暑い夏に家族の中から夏バテ者が出て来tら、食事が悪すぎたと思った方がいい。気温が高いからこそ、体力を消耗してしまうものなのだ。だからこそスタミナがつく料理を出さなければならないのだ。それなのにサッパリ系の食事ばかり出していては、夏バテ者が出て来るものなのだ。暑い夏に夏バテ者を出さなければ、夏を楽しく過ごせるようになるので、料理にはくれぐれも気をつけることだ。

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我が子に飛躍をさせたければ、断食をさせよ

●優秀な頭脳を持った人たちに共通する断食体験

 優秀な頭脳を持っている人間というのは、大体、3パターンで出来上がって来る。1つ目は裕福な家庭に育ち、親から勉強する習慣をしっかりと身に付けられた場合である。2つ目は貧しいい家庭に育ち、両親に楽をさせてやりたいから必死になって勉強していった場合である。そして3つ目が子供の頃に病気をして、人生観を変えてしまった場合である。

 子供は元気だと思うのは、何も知らない大人の言う意見であって、実は乳幼児は非常に死に易い。大人よりも免疫力が低いために、病原菌に感染すれば死ぬ自体が出て来るのである。どんなに医学を発達させても、乳幼児の死亡率をゼロにすることはできないのだ。成人すると死亡率は激減していくものなのである。

 子供の頃に病気に罹ってしまい、その病気をなんとかして克服して行った時に、体が健康になっただけでなく、子供の人生観が一変してしまうのだ。子供は生きていて当たり前と思っているが、自分に死ぬ寸前にまで追い詰められ、そこから復活を遂げて来たのなら、生きていることが当たり前だとは思わなくなるのだ。自分がしなければならないことを一生懸命になってやるようになるのだ。

 この人生観の激変を引き起こしたものが、実は病気で事実上の断食をしたことなのである。断食をすることによって、体内の老廃物や毒素が大量に出されてしまい、しかも脂肪が燃焼して高エネルギーを獲得したために、脳に劇的な変化が起こって、子供から幼稚さを消滅させてしまい、自己統御ができる子供に変えてしまったのである。

 誰もが病気で断食するほどまでの病気に罹ることはないから、我が子が小学生の時に志願して断食をさせることだ。6歳未満では断食をするのに問題があるが、それ以降なら断食をさせることで、それまでに溜まって老廃物や毒素を排出させ、脳に劇的な変化が起こるようにすればいいのだ。

●断食の効用

 子供は小学生になった時点で、成長の疲労が溜まっているものなのだ。だから幼稚園児の時は体臭はいい香りを放っているのに、小学生になると徐々に臭くなり始めるものだ。体臭が臭いというのは、老廃物や毒素が溜まっている証拠なのである。体内に老廃物や毒素が溜まっているからこそ、親の言うことが聞けなかったり、勉強が手につかなかったりするのだ。

 断食は長期休暇が取れる時に断食道場に行って断食をするようにすることだ。自宅でやっても構わないのだが、子供が相手だと腸捻転を引き起こし易いので、医者の立ち会いの下で断食をやった方が安全なのだ。子供が断食をやる序に、自分たち夫婦も断食をやってしまい、体を健康にさせればいいのだ。

 断食は1週間程度行うことだ。老廃物や毒素を出し切るためには、1週間程度は必要なのである。断食と言っても、一切飲食物を摂取できないのではなく、1日3度のフルーツジュースを飲むことは許されるのである。そのために断食をしても栄養不足にはならなず、それどころか肉や魚を食べずに、ビタミンやミネラルを補給して行くために、体全体をクリーンにして行くことができるのである。

 断食してから3日後辺りから脂肪が燃焼し始めるので、高エネルギーを獲得することができる。脳に劇的な変化が起こるのはこの時からであって、断食中はテレビや新聞など見ないようにすることだ。子供の場合、漫画なども読ませないようにすることだ。断食中は低俗情報を排除して、脳内の情報を整理させると、精神レベルを一気に高めてしまうことになるのだ。

 子供の場合、宿便は短期間で出て来る可能性がある。宿便が出る直前にお腹に激痛が走り、便所に駆け込んで排便をすると、洗面器1杯分の大量のウンコを出すことができるのだ。黒いコールタールのようなウンコであって、一目で「これが宿便だ!」と解るものなのである。宿便は1回では終わらず、何度も出すことになるので、宿便が出き切るまで断食を続けることだ。

●断食による脳の変化

 断食は脳に劇的な変化を与えることができる。脳が飢餓を感じたことで、フル稼働し始めるのである。断食をすると、「頭がすっきりした!」というのは、断食によって今まで眠っていた脳の機能を使うようになったために、脳の疲労がなくなってしまったからなのである。脳は食事過剰になると、機能を徐々に低下させていくものなのである。

 脳が飢餓を感じている最中に、断食3日辺りから脂肪が燃焼して高エネルギーが脳に送り届けられるために、脳の機能は今までの3倍以上の働きをするようになるのだ。病気で断食をした子供が、病気が治った後に勉強し始めると、異常な高い成績を取って来るようになるのは、この断食による脳の変化で、脳にスイッチが入ったからなのである。

 「うちの子供は馬鹿で、遊んでばかりで勉強など何もしない」と嘆いているのなら、子供に断食をさせるべきなのである。子供の脳にスイッチが入らないからこそ、子供は勉強せずに遊び呆けてしまうのであって、断食によって脳にスイッチを入れてしまえば、子供は自然と勉強し始めるようになるのである。

 これは戦時中や戦後の食料不足の時に子供だった人たちは、食料がなかったために減食するか断食するしかなかったので、そういう子供たちはその後、非常に勉強するようになったのである。食料が手に入らない危機的状況に置かれたからこそ、脳に劇的な変化が起こり、その食料危機が過ぎ去った後でも勉強する習慣が身につくようになったのである。

 これは江戸時代でも同じだ。旱魃や冷害によって飢饉が発生すると、その後になぜか文化が花開いて来るのである。江戸時代は後期に於いて「享保の大飢饉」「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」の三つの大飢饉に見舞われたのであるが、江戸時代後期ほど人々は向学心に燃え、文化レベルが格段に高くなったのである。

●飽食で馬鹿になり、断食で優秀になる

 現代の日本では飢饉が発生することはないし、戦争で食料不足になることはない。そのため食料品は溢れてしまい、それによって家庭では食事過剰が当たり前になってしまっている。しかし、豊かな社会なのに愚かな子供たちが大量発生しているのだ。なぜなら飽食では子供は馬鹿になってしまうからだ。

 豊かな社会に育っているからこそ、飽食に慣れた生活をしているからこそ、意図的に断食をさせるべきなのである。小学生になったら、1週間程度の断食をすべきだし、その後も年に1度は短期間の断食をするようにsることだ。そうすれば子供は体内の老廃物と毒素を排出できることになり、脂肪を燃焼させて、脳に劇的な変化を引き起こすことができるようになるのである。

 子供が自発的に断食をするということはまずない。親が断食をするからこそ、それに取られて断食をすることしかしないのだ。年齢的に父親の方が仕事の疲労が溜まって来る時期であり、母親の方は体重が益々重たくなって来る時期である。だから、まずは自分たち夫婦が断食をしてしまい、ついでに子供たちにも断食をさせればいいのである。

 断食だけでなく、減食というのも効果的だ。例えば終戦記念日に、敗戦の屈辱を忘れないために「日の丸弁当」を食べさせる習慣がある地域があるものだが、日頃、豪華な食事に慣れた子供たちにとって、この手の減食は非常にインパクトのあるものなのだ。「日の丸弁当」などは、栄養価的には物凄く悪いが、飽食になれた子供にたちにとって、減食を体験できるいい機会なのであり、これを食べることによって敗戦の屈辱を忘れないし、知能を高めて行くことができるのである。

 もしも我が子が小学生になって、手のつけれらない悪ガキになった場合、強制的に断食を体験させてしまうことだ。要は食事過剰のために自分の脳を有効に使えないのだから、断食をさせて脳に劇的な変化を引き起こせば、悪ガキをやめるようになり、自分の夢に向かって走り出す子供に変わって行くことができるのである。

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子供の頭を良くしたいのなら、生活をマンネリ化させるな

●人間は非常に飽きっぽい動物

 人間は自分が考えている上に飽きっぽい動物なのである。新婚当初は何もかもが新鮮に見えたのに、時間が経てば飽きて来るのだ。新婦の誰もが拉致されて強制的に結婚されたわけではなく、自らの意思で結婚したというのに、なぜか離婚する連中が出て来るのだ。これこそ人間は飽きっぽい動物の証拠なのである。

 特に気をつけるべきは結婚して3年目が経った頃なのである。結婚して3年も経つと、恋愛ホルモンが急激に減少して行くので、夫婦の緊張感がなくなってしまうのだ。夫が浮気をしたがり、妻が離婚したがるのは、この時期だからこそであって、夫婦双方の意思を鵜呑みにしてしまわない方がいい。通常打つべき手は、結婚して3年以内に子供を作って、育児に精を出させるようにすることなのである。

 次に気をつけるべきは、子供が幼稚園児になった頃である。子供が自宅にいた時は煩わしかったのに、子供が幼稚園に行ってしまうと、一気に憂鬱になってしまう母親たちが出て来るのだ。子供がいないのだから、日中、何かに精を出せばいいのだが、それを見つけることができないと、本当にノイローゼ状態になってしまうのだ。

 更に気をつけるべきは、子供が小学3年生から4年生になった頃である。この時期になると、子供は母親から徐々に離れて行くし、母親の子育てにそれほど高い情熱を持てない時期になってしまうので、どうしても母親の方がだれてくるのだ。些細な出来事が、収拾不可能な自体にまで悪化してしまうのは、大抵がこの時期だと思っておいた方がいい。

 こうしてみると、大抵、3年周期で自分の人生に変化が起こっているとうことが解る筈だ。結婚して非常にラブラブでいられるのは、結婚して3年以内までなのである。それ以降、夫婦仲はいいことは良いことだが、新婚時代みたいな関係を維持したいというのなら、なんにも成長していないことになるのだ。子供を育てるとこの3年周期というのが痛いほど良く解り、最初の3年間は母親が育児をしまくりだし、次の3年間で幼稚園に行き、そして次に小学校に行くわけだ。そうやって子供は成長して行くのである。

●家庭内行事を大切にする

 結婚を幸せにしたいのなら、日々同じ作業を繰り返すことだ。例えば家事を1日でも怠れば、家庭の中はとんでもない状態になってしまうものだ。この同じ作業を繰り返すことが、結婚生活の幸せの基礎を作るものなのである。家事などはテキパキとやってしまい、家事に大量の時間を取られないようにすることだ。

 しかし日々同じ作業を繰り返していては、マンネリ化して来るので、家庭内行事を大切にすることだ。家族が最も大事にしなければならない行事は「結婚記念日」である。子供の頃は結婚記念日は両親のためのものであると思ってしまうのだが、この結婚記念日は家族にとって非常に大事な祝い事なのだ。自分が恋愛してみれば、必ずしも恋愛が巧く行かないし、恋愛が巧く行っても結婚に辿りつくわけではないからだ。そのため結婚記念日というのは、恋愛や結婚の成功者だからこそできる特別な行事なのであって、これはきちんと祝っておくべきなのである。

 次に大事なのが、「誕生日」である。家族で暮らしていれば、自分が主人公になれることはない。子供たちは親に従属する以上、親を中心に家族は動いていくものなのだ。しかしそれを常にやっていては、子供の方にストレスが溜まってしまう。そこで年に1度、誕生日を祝うことで、その日だけ子供を主人公にさせてあげるのである。

 伝統行事で大切にすべきは、大掃除をして正月を迎えるという一連の行事である。大掃除をするというのは、神様を迎えるためにすることであって、年に1度は大掃除をしておかないと、自宅は汚くなってしまうものなのだ。大掃除をしたからこそ、新年を清々しい状態で迎えることができるのだ。大掃除をし終えて、大晦日に年越し蕎麦でも食べれば、1年はこれで終わったなと思うし、元日にお節料理を食べれば、今年1年元気に頑張るぞと思うようになるものなのだ。

 「雛祭り」「端午の節句」「七五三」というのも、決して欠かすことのできない伝統行事である。これらの祝い事は昔は乳幼児の死亡率が高かったからこそ、真剣に祝われたものであるが、現在のように乳幼児の死亡率が下がってしまうと、子供は元気で当たり前と思ってしまうから、こういう祝い事をして、子供が無事に育っていることをきちんと祝ってあげるべきなのである。

●お客様を自宅に招く

 家庭内行事以外で、家族をマンネリ化させないものは、友人を自宅に招くということだ。友人を自宅に招き入れると、自宅を掃除をせざるを得ないし、豪華な料理を作らざるをえなくなる。しかも友人が自宅に来ると、子供たちは大はしゃぎをして、子供の成長にいい影響を与えるのである。

 日本では住宅事情が悪いために、客間すらない家があるものなのである。そうやって生活最優先の生活をしていると、友人など自宅にやってくることができないから、どうしても自宅が汚れて行ってしまうのである。その夫婦の収入が低いのであるなら致し方ないが、裕福になってきたら、客間や客人用の寝室を揃えるべきなのである。

 もしも友人に自宅に遊びに来るよう言われたら、のこのこと行ってみるべきなのである。そこで御持て成しを受けつつ、その家の作りとかをチェックしておくべきなのである。裕福な家であればあるほど、間取りとかが合理的に出来ており、グッズとかも品のあるものを揃えているからだ。こういうのは実際に見てみないと、レベルが上がって行かないのである。

 既婚女性を困らせるもにに、夫がいきなり友人を連れて来ることだ。夫としても会話の乗りで「自宅に来いよ!」と言った手前、妻が歓待するのは当たり前だと思っているのだ。突如遣って来た客人に巧く接待する方法を習得しておいた方がいい。夫に「友達を連れて来るなら、事前に行って下さいよ」と言っても無駄なのだ。それよりもいつ客人が来ても構わないように接待術を身につけてしまった方がいいのだ。

 断言してもいいが、自宅に客人がやってこない家で育った子供は大成しないものだ。自宅に客人が来れば、その客人は子供に話しかけて来るのは当然であって、それに対して子供は受け答えしなくてはならないからだ。何度も見知らぬ大人に対して受け答えをしていれば、大人の器量がいかほどのものか解って来るようになるものなのだ。そういうのが社会に出た時に役立つのである。

●家族旅行をする

 家族をだれさないためにも、自宅を離れて、家族旅行をするべきなのである。自宅にいれば当たり前と思うものでも、旅行に出かけてしまえば、そうは行かなくなるからだ。創意工夫を駆使しないと、生活できなくなってしまうものだ。家族で旅行をして帰宅すると、自宅の有難さが身に染みて解るようになるものなのである。

 家族で旅行するなら、自然の中でキャンプするように極端に不便な暮らしを体験してしまうといい。キャンプをすると、水を確保するのですら大変だし、食事を作るのもひと苦労なのだ。水道、電気、ガスが当たり前になった生活から離れ、それらが存在しない生活を体験させると、子供たちは強く逞しくなっていくものなのである。

 別荘を持って、そこで家族で暮らすというのもいいものである。自宅以外に別荘を持っていると、自宅の生活で余りにもうるさく注文しなくなるものだ。自宅でできないことは別荘でやればいいと思ってしまうので、大らかに育つようになるのだ。別荘の場合、ホテルや旅館とは違って、そこの従業員たちに気兼ねすることがないので、家族が非常にリラックスムードになるのだ。

 家族旅行はそう頻繁にできるものではない。せいぜい子供が小学生までの頃にしかできないと思った方がいい。中学生にでもなれば、友達との遊びを優先してしまうようになるからだ。そう考えれば、非常に短い期間なのである。自宅で子供たちがうるさく騒いでいるのなら、家族旅行に連れ出して、精力を発散させてあげるべきなのである。

 幾ら我が子が可愛いからといって自宅ばかりにいては、子供の方がだれて来るのである。子供をだれさせないようにするためにも、家族旅行をしてしまうことだ。家では母親の言うことを聞かない子供でも、旅行して親の大切さが解ると、帰宅後、親の言うことを聞くようになるものなのである。そうやって生活のマンネリ化を防ぐからこそ、子供は知能を高くすることができるのである。

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緊急エッセイ『相撲界と野球賭博について』

●問題は野球賭博が暴力団の資金源だってことである!

 相撲界に野球賭博が蔓延して、その支払いを巡って恐喝事件が起こり、それがマスコミに流れたことで、日本相撲協会は創立以来の最大の危機を迎えてしまった。この問題は野球賭博が暴力団の資金源になっているから問題になったのであり、問題の核心は常にそこにあるのである。

 ところが日本相撲協会は賭博の全てが悪いと思っているのか、麻雀賭博や花札賭博やゴルフ賭博まで調査し始め、完全にピントが狂った調査をしてしまい、そこを更にマスコミから追求されるという事態になってしまった。それらの賭博は仲間同士の賭け事であり、暴力団との繋がりがある野球賭博とは本質的に異なるものなのである。

 かといってマスコミもマスコミで、「相撲は国技であるから云々」「外国人力士を入れたから云々」とか言い出し、挙句の果てには「競馬は許されるのに、なんで野球賭博が悪いの?」と言い出す始末である。それをテレビで堂々と言うのだから、テレビに出て来る知識人の頭の悪さの方が余程問題である。

 大嶽親方や琴光喜などは、野球賭博が暴力団の資金源になっているとは知らなかったというが、野球賭博を暴力団が行っているのは常識である。だからこそ今回、解雇された訳である。この野球賭博はかなり大掛かりな賭博であって、全国を衛星回線で繋げて、それで賭博を行っているのである。野球賭博の胴元は確実に大儲けしているので、億単位のカネが懐に入り込んでいるのである。

 今回、野球賭博の仲介役をやった元力士が逮捕前に行方不明になったが、恐らく暴力団の所に行って、厳しく口止めされたことであろう。その後、警察署に出頭してきた所を見ると、元力士が全ての責任を被ることで、暴力団に被害が及ばないようにさせるのである。当然、裁判では実刑を食らうが、刑務所から出所すれば、暴力団から報酬が貰えることであろう。だから野球賭博は闇の中に消えてしまうのである。

●スポーツ選手だって腐敗する

 俺は力士たちに余りにも品格を求めるのはどうかと思っている。大体、力士は巨漢である以上、大飯食らいで、頭は悪いものだ。寧ろ、スポーツ馬鹿であった方が良く、来る日も来る日も稽古に励んでいるからこそ、相撲が上達するようになるのである。だから相撲に勝ってさえいれば、多少の悪行には目を瞑ってあげるべきなのである。

 スポーツ選手というのは、試合で勝ち負けばかりやっていると、スポーツ選手の心は相当にすさんで来るのである。そこで、大抵のスポーツ選手がストレス解消のために手を出すのが、お酒だ。このお酒は量が半端ではない。まさにお酒を浴びるように飲むであって、そうやって精神を弛緩させないと、とてもではないが精神が参ってしまうのだ。

 飲酒で処理しきれない奴等が、麻薬や賭博といった非合法なものに手を出して来るのである。麻薬や賭博がなぜ悪いのかというと、中毒性が物凄く高いということと、それらの物は必ず暴力団の資金源になっているということなのである。賭博でも競馬や競輪や競艇に手を出せばいいものを、よりによって野球賭博という暴力団の繋がりのあるものに手を出してしまうのだ。

 相撲界というのは、狭い世界なので、悪は一気に伝染するものなのである。力士の中で誰かが遣り始めると、次から次へと手を出して来てしまうのだ。だから今回でも芋釣る式で野球賭博に関与した力士たちが出て来てしまったが、狭い世界ゆえの問題が一気に露呈して来てしまったのだ。

 相撲のファンの中には、どうして力士が悪に染まってしまったのかと嘆く人々がいるものだが、それは力士に対して異常な見方をしているに過ぎないのだ。相撲のファンなら、土俵の上で力士の行動に期待すべきであって、土俵以外の行動に対して、余りにも注文をつけるべきではないのである。力士たちも人間である以上、悪を仕出かすことがあるのであって、それを法に基づいて処理すればいいのである。「横綱の品格」とか「力士は品行方正であるべき」と思い込んでしまうからこそ、横綱や力士たちの悪行が明るみに出た時に、裏切られたと思ってしまうのだ。

●最早、理事長は現役の親方がなるべきではない

 日本相撲協会は今回の野球賭博事件だけでなく、以前から麻薬事件や殺人事件など不祥事を連発させているものだが、これは事件を起こした個人の問題だけでなく、日本相撲協会が転換期を迎えているということなのである。それは理事長を現役の親方以外の人物に就任させるべきであるということなのである。

 相撲部屋を持っている親方に理事長をやらせてしまうと、どうしても利権が絡んでしまい、相撲部屋で問題が発生した場合に、理事長が他の親方たちをかばってしまうのだ。だから事件が起こるたびに事件がうやむやにされてしまい、結局、再発してくるという悪循環になってしまっているのだ。

 そこで理事長は現役の親方でない人物に任せてしまえば、その者は利権がないために、事件が起こった時に、徹底究明して、相撲界の膿を全て吐き出させ、再発防止に努めるようになるのだ。これができないからこそ事件が再発してくるのであって、どんなに素晴らしい親方が理事長になっても、事態はなんら変わらないのだ。

 日本のプロ野球はオーナー会議が事実上の最高機関なのであって、そのためにプロ野球ではなんの改革も進まなくなってしまった。球団のオーナーたちがプロ野球の運営に携わっているわけだから、オーナー会議で決定されるものは、必ず球団のオーナーにとって利益になるようになるのであり。、これでは野球の選手たちも野球のファンたちも見捨てられてしまうのである。

 忘れてはならないのは、日本相撲協会は問題を起こす度に、なんらかの改革に取り組んできたということなのである。例えば未だにサッカーえはビデオ判定が取り入れられていないのに相撲はビデオ判定を取り入れているし、横綱審議委員会という重要な審議会には女性の審議委員を迎え入れている。宝塚歌劇団が未だに男性の役者を舞台に上げていないことに比べてみれば、日本相撲協会は非常に進歩的なことをやっているのである。

●伝統と法とスポーツマンシップ

 今後、日本相撲協会がどのように再生していけばいいのかというと、それは「伝統」「法に基づく運営」「スポーツマンシップ」を再確認することだ。それらのことを再確認しながら、組織の近代化を図るべきなのである。組織を近代化できなかったら、再び同じような事件を起こしてしまうようになるのだ。

①伝統

 人間とは保守的な生き物だ。真新しいスポーツよりも、伝統あるスポーツの方が大好きなのである。この点に於いては、相撲は全てのスポーツの中で圧倒的な古さを持つスポーウなのである。なんせ『古事記』に相撲の記述があるくらいであって、それだけ長い歴史を積み重ねたのだ。力士たちはただ単に試合に勝てばいいと思うのではなく、相撲の歴史を背負い、新たな歴史を作って行くという気概を持つべきなのである。

②法に基づく運営

 今回の事件で野球賭博はいけないということが解ったが、力士たちに全ての賭博を禁止させるのか問われることだろう。世間では許される賭博でも、力士たちが手を出したら糾弾されてしまうというのでは、まともな運営などできないのだ。そこで「法に基づく処置」を取るようにすべきなのである。

 理事会が一方的に決めてしまうのではなく、規則制定に全ての力士たちを関与させ、力士たちに賛否を問うべきなのである。当然、理事会はおかしな方向に議論が進まないように指導して行くべきだが、飽くまでも力士たちが主体となって規則を定めて行くようにするのである。そうすれば力士たちは自分たちが作った規則だと思うようになり、自発的に守るようになるのだ。

③スポーツマンシップ

 全ての力士たちはスポーツマンシップを持つべきなのである。スポーツ倫理を持つからこそ、そのスポーツは人々を楽しませる競技となりうるのである。力士であるなら取り組みに全力をかけるべきであって、はたき込みのようなチープな勝ち方をするのではなく、内容ある取り組みをして、その上で勝つべきなのであう。そのためには稽古をしっかりとするべきなのである。

 今回、野球賭博がなんでこれほどまでに批判されてしまったのかというと、本来なら稽古している筈の力士がなんで野球賭博に興じているのかということなのである。力士といえどもプライベートの時間は自由にすごすべきだが、余りにも力士らしくない息抜きをしていると、世間から徹底的に批判されてしまい、力士を廃業せざるを得なくなってしまうのである。

 殆どの力士たちは子供の頃から相撲をしてきて、勝ち負けだけに拘って突き進んできた筈だ。しかしプロになるっていうことは、勝ち負けだけに拘ればいいということではないのだ。「伝統」だとか「ルール」だとか「スポーツマンシップ」とかを大事にしなければならないのである。それを解っている者だけが、幕内力士に伸し上がって行くことができるし、その地位を維持し続けることができるのである。

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七夕直前企画『「働く」という言葉の意味』

●「こじつけ語源」

 俺は大体1日3冊ペースで本を読んでいる。梅雨時になると、外に出られなくなるので、この時期の読書量は激増することになる。本の中にはこちら側がうなされるほどの良書もあれば、「この著者はアホか!?」と言いたくなるような悪書もある。読書経験を積んでいくと、悪書というのは大体察しがつくから、悪書を読まないようにすると、良書に出会える確率が高くなる。読書というのはただ単に読書量を増やせばいいというものではなく、質の高い読書をしなければならないのだ。この点、速読を自慢するような人たちは、速読に重点を置いてしまうために、悪書も読んでしまい、それで読書の質を上げることができないのだ。

 読書生活の中で最大の問題は良書とも悪書とも言い難い本を読んでしまうことだ。この手のグレーゾーンに入ってしまうような本は、悪書だとして捨ててしまうことはできないし、かといって読んだ所で何か得られるものが余りないのだ。簡単に言ってしまえば、著者の力量不足であるのだ。この手の本は出版する前に、出版社が編集の段階でしっかりと手を加えるべきなのであって、このような商品を市場に流通させてはならないのだ。

 最近読んだ本の中で物凄く気になるのは、「働くとは傍が楽になること」ということを平気で言って来る本が多々あったことだ。1人の著者がそういうことをいうのならまだ我慢できるが、何人もの著者が同じことを言って来ると、「そういう嘘はいい加減にしろ!」と言いたくなってしまうのだ。

 俺はこういうのを「こじつけ語源」だと言っている。その語源は学術的には完璧に間違っているのだが、それを引用する人が何か自分の言いたいことがあって、それで偽りの語源をでっち上げて来るのである。要は「こじつけ」であって、こういうのは編集の段階で削除されるべきなのである。

 恐ろしいのは、こういう「こじつけ語源」を誰かが言い出すと、それを引用する人々が出て来て、挙句の果てにはそれが絶対に正しい意見であるかのように出回って来るのだ。例えばTBSが放送した『3年B組金八先生』で、「人という字は人が支え合って生きているということを現わす字だ」と金八先生に言わしたのだが、これを鵜呑みにしてしまった視聴者は非常に多かったのだ。「人」という字は人間が立って歩いている姿を漢字にしたのであって、そんなことは漢和辞典を読んで調べればすぐに解ることなのだ。

●「働く」の語源

 日本語の場合、中国語から遣って来た言葉は語源がはっきりしているものなのだが、日本国内で産まれた言葉に関しては語源さしっかりしていないものが多い。日本国内で産まれた言葉は、使っている人々が当たり前のように使ってしまうために、どうやっても語源が明確にならないのだ。「働く」という言葉もそうで語源辞典で調べてみても、明解な答えが得られないのだ。

 働くという言葉は、奈良時代や平安時代では、「体を動かす」という意味で使われていたのだ。恐らく「はためく」という言葉から来た言葉であって、旗がゆらゆらと揺れているから、人間の体がゆらゆらと動いていれば、それが働くになったのであろうと言われている。「働」という漢字は国字で、まさに「働」という国字が「人編」に「動く」で、人が動く様を意味しているのであり、本来の意味を現わしているのだ。

 だから、「働くとは傍が楽になる」という「こじつけ語源」は明確に否定されることになる。働くに「仕事をする」という意味が加わるのは、鎌倉時代になってからなのである。鎌倉時代では平安時代とは打って変わって労働が尊重されるようになったから、どうしても労働を意味する新しい言葉が必要となったのだ。

 となると、「はためく」の語源を調べることの方が大事になってしまう。旗とは「機織り」のハタから来た言葉で、絹織物を指す言葉である。絹織物は秦氏が中国から持ち込んだので、秦氏のハタがそのまま「ハタオリモノ」と使われるようになったのだ。「ハタ」とは古代朝鮮語で海を現わす言葉に「パタ」という言葉があり、そこから用いられたのではないかという説もある。しかしこの説とて仮説にすぎないのだ。

 因みに七夕は秦氏が中国から持ち込んだ風習である。しかし日本に於いては中国の七夕と大いに異なったものになってしまった。「七夕」と書いて、「シチセキ」と読まず、なんで「タナバタ」と読むのかといえば、七夕は本来、機織りする女性たちの祝日だったからなのである。機織りする女性たちは7月7日に神に感謝の意を捧げ、素麺を食べたのである。「流し素麺」は、素麺を使って天の川を再現しているものなのである。流し素麺から七夕が抜け落ちてしまえば、水っぽい素麺を食わされるだけで、絶対にやるべきではないのだ。

●日本人の労働の基本は「機織り」にある

 日本人の労働の基本は機織りにあるといっていい。機織りをする女性たちが来る日も来る日も働いていたから、労働とはこういうものだというのが、古代の日本人の中で定着して行ったのだろう。農業というのは重労働に見えても、実は農閑期には働かないものだし、漁業も海が時化てしまえば、漁に出られないものなのである。機織りは年柄年中働くということでは、画期的な労働スタイルであったのである。

 忘れてはならないのは、機織りで作っていた服というのは、宗教用の服であったということなのである。日常生活に絹織物が回るようになるのは、ずっと後の世のことであって、最初は宗教服を作り、次に政治用の服を作るようになったのである。だから、現在の労働でも、どこかに宗教行為を残しておかないと、立ち所に労働が狂ってしまうのだ。だから事務所に神棚を置くとか、社員一同で神社に参拝に行くとかしている会社ほど、繁盛しているものなのである。

 機織りというのは、長時間労働が当たり前なのである。機織りは朝早くから働き、日が暮れるまで働き続けるものだ。だから、現在の労働でも、労働時間を短縮して行こうとすると、どうやっても生産量が上がらなくなってしまうのだ。長時間働くからこそ、生産量が増え、働き甲斐を感じることができるのである。

 そして機織りというのは、黙々とやり、作業を延々と繰り返すものである。どの会社でも勤務中は私語が禁止されるものだが、まともな仕事ができるようになると寡黙になるものなのである。ペチャクチャと喋っているからこそ、いつまで経ってもいい仕事をしてこないのである。いい仕事をしたければ、黙って仕事に取り組むべきなのである。

 日本の労働の基本は、宗教行為であり、長時間労働であり、黙々と仕事をするというものであり、これらの要件を満たさないと、誰がどうやっても巧く行かなくなってしまうのだ。世の中にはビジネスをビジネスと割り切り、宗教を抜き去ってしまう人がいるものだが、そういう人は一時的には仕事が巧く行っても、結果的に失敗しているものなのである。政府が労働時間の短縮を言い出してから、最近の人々は長時間労働を厭うようになったが、だからこそ自分の給料が上がらず、貧乏してしまうのである。お笑いブームが長らく続いているために、多くの若者たちはすぐにお喋りをし、笑いを取ろうとするのだが、そういうことをやっているからこそ、いい仕事がいつまで経ってもできないのである。

●自分のために働くからこそ疲れるのだ

 「働くとは傍が楽になる」と言い出す人々は、自分の働きで周囲の人々が楽をするのだと思い込んでいるのだろう。そこにはなんの宗教性もないし、長時間労働などないし、黙々と仕事をするという考えもないことであろう。労働が完全に世俗化してしまうと、苦か楽か、得か損でしか判断できなくなってしまうのである。

 労働とはそもそも大変なものである。働いてみれば苦痛が存在するし、働き終われば疲労感に襲われるものだ。しかも勤務中は時間を拘束されてしまうのである。如何に高給を貰っても、割に会わないのである。これは低賃金の仕事だけでなく、高賃金の仕事だって同じことなのだ。仕事をする際、自分のことしか考えていなければ、苦しみだらけになってしまうものなのである。正確に言えば自分のことしか考えていないからこそ、苦しいのである。

 そうやって自己中心的に仕事を考えるのではなく、神中心になって仕事を考えるようにすることだ。自分は神様から命じられて仕事をしている位置づけてしまえば、自分の労働によってこの世に新たな創造物を生み出せることができるのであって、神様の祝福を受けることができるのである。だから幾らでもアイデアが浮かんでいるし、エネルギーは尽きないのだ。

 仕事を楽しむためには、自分のために働くのではなく、他人のために働くようにすることだ。ビジネスではお客様のために最高の商品やサービスを作り出し、適正価格で販売すればいいのである。お客様のために会社の組織を再編成して、人材や資金や物資を集中して使って行けば、お客様に喜ばれるビジネスを展開することができるのである。そういうビジネスをやっている企業は不況知らずで、常に高収益になるものなのである。

 仕事をする時は、いい加減な態度で仕事をしないことだ。真剣になって取り組むべきんおである。得か損か、苦か楽かで考えるのではなく、神の聖慮に適う働きをし、お客様に奉仕し貢献し続けるべきなのである。そしてそのために体を動かし続けることだ。なぜなら働くの語源は体を動かすことにあるのであって、体を動かし続けていれば、いい仕事ができるようになるものなのである。

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人は勿体ないというけれど

●生活に無駄が発生するのは当たり前

 政治無能力者たちは「税金の無駄使いはやめろ!」と言うけれど、無駄使いをしない人なんている訳がない。生きていれば無駄使いなど平気でするものなのだ。一見、無駄使いをなくすという考え方は正しいようで、実は全く間違った考え方なのである。自分ができないものは、政府や地方自治体だってできないのだ。

 何を隠そう、俺は冷蔵庫で野菜を腐らすのが大嫌いだ。そのことを常々家族に対して言っているのだが、それでも野菜を腐らしてしまうことがある。それで怒ったりするけど、でも、年に何度か起こるために、そう激しく怒ったりしないものだ。誰がどう管理していても、そういう不注意をしてしまうからだ。

 それで我が家では定期的に冷蔵庫の野菜を一掃するために「天麩羅」や「鍋料理」を行っている。この天麩羅や鍋料理は他の家よりも回数が多いと思う。これは我が家が培った生活の知恵なので、その料理を作ることによって冷蔵庫を空っぽにして、冷蔵庫の掃除をするのだ。

 ところが、そうやって気をつけていても、野菜を腐らしてしまうことがあるのだ。そういう場合、腐った野菜は捨てなければならない。発見した時点で凄まじい悪臭を放っているので、そんなものを冷蔵庫の中に入れておけば、他の野菜まで腐ってしまうからだ。世の中には「捨てなければならない物もある」のである。

 野菜が腐るという無駄使いに余りにも拘るよりも、家族に対して美味しい料理を出すということを心掛けるようにすべきなのである。余りにも無駄使いを気にしすぎてしまうと、この大事なことを忘れてしまうものなのだ。家族が美味しい料理を食べて健康でいてくれるなら、多少の無駄使いがあっても許されるものなのである。

●財布の寿命は3年

 無駄使いをしないばっかりに、大いなる無駄をしてしまう時がある。例えば「財布」などがその典型例だ。財布の寿命はなんと3年しかないのだ。財布はどんなに気に行っていても、3年を目安に取り変えるべきなのである。そうやって財布を取り変えていると、お金に不自由しなくなるのだ。

 俺は10代の頃、物凄くセンスをいい財布を見つけてしまい、その財布を7年間ぐらい使ったことがある。今から思うと、その最初の3年間はどうにかお金があったのだが、残りの4年間はどうも金欠で、欲しい物は変えないし、周囲から「ケチ」呼ばわりされたことがあった。別に自分は普通に振る舞っていたのだが、冷静に考えれば、金欠以外の何物でもなかったのだ。

 そこで財布を変えると、バカスカお金が入って来るようになり、金欠とおさらばすることができた。お金がなくて欲しい物が買えなかったことなど嘘のようで、新しいお財布を持っていると、欲しい物を買いたい時にはなぜかお財布の中にお金が入っているようになったのだ。

 その後、財布に関する情報を集めてみると、矢張り財布は色に拘るべきであって、「黒」「茶色」「黄色」とか言った色にした方がいいのだ。危険なのは「水色」「赤色」のお財布で、このお財布だとお金がどんどん出て行ってしまう。しかし水商売をしているのなら、逆にこの色の財布が良く、金離れがいい分、新たにお金が入って来るようになるのだ。

 財布を新しく買った時は、最初に多目の金額を入れておくことだ。財布がその金額を覚えてしまい、その後、その金額を中心に金銭を調整して行くことになるからだ。普通に位しているのなら、10万円程度は入れおくことだ。この金額を入れておけば、生活に困ることはなくなる筈だ。もしもビジネスで現ナマをかなり必要とする仕事についているのなら、お財布に100万円入れてしまうことだ。これをやると仕事で金欠になるということがなくなるのだ。

●物を捨てると新しい物が入って来る

 生活していれば、物が大量に溜まって行くものだ。もしもそれらの物に対して何もしなかったら、家の中はガラクタの山になってしまい、ゴミ屋敷になってしまうものだ。子供たちがいると、更にオモチャなどが溜まって行くので、どんなに大きな家に住んでいても、狭くなって行ってしまうものだ。

 不要品を捨てようとすると、必ず「勿体ない!」と言い出して来る人がいるものだ。しかし「勿体ない」といって、何も捨てなかったら、家の中は物で溢れ返ってしまい、とてもではないかが生活できる状態ではなくなってしまうのだ。「勿体ない」と思わず、勇気を出して捨ててしまうからこそ、家の中は広くなり、快適になって行くのである。

 自分の貧乏臭いを正当化してしまわないことだ。「エコ」だとか「ロハス」とか、要は物を捨てない生活をしようとすれば、逆に貧乏から脱却できなくなるのだ。裕福な暮らしをするというのは、或る程度の物が出て行く生活なのである。物を出すからこそ、豊かになって行くのである。

 不思議なことに不要品を捨てると、新しい物が入って来るものだ。家の中で空白ができた分、その空白を埋めるべく、新たな物が引き寄せられるのだ。その新たな物が生活を活性化し、貧乏を吹き飛ばして行くのである。もしも新たな物が入って来ないのなら、貧乏神に取りつかれてしまうようになってしまうのだ。

 物を大事にすることは確かに大切なことだ。商品を買う時は良い物を買い、それを大切に扱うべきである。しかし不要品に関しては矢張り捨てるべきなのである。捨て去ることによって身軽にしておくと、自分の行動力が格段に良くなって来るようになるのだ。自宅が不要品で溢れ返っているようであるなら、いずれ身動きが取れなくなってしまうのだ。

●無駄使いにに注目するのではなく、目標にエネルギーを集中させる

 家計に於いて大事なことは、無駄使いに注目するのではなく、夫婦の目標にエネルギーを集中させることなのである。まともな生活をしようとするなら、まず夫婦は家族が暮らせる住居を得ねばならないし、それに関して最大のお金を支払うことになる。そこにお金を集中していくべきなのである。

 次に夫の仕事への投資だ。夫が自分で会社を持っているなら、会社の必要経費から自己投資の費用を出せるからいいのだが、サラリーマンになってしまうと、給料の中から意図的にお金を融通しないと、自己投資に充てる金額がなくなってしまうのだ。夫の小遣いを抑える余りに、夫が仕事関連の本を買えなくなってしまえば、事実上、出世は不可能になってしまうのだ。

 子供たちの教育費というのもお金がかかるものだ。だから日々の生活の中からコツコツと貯めて行くべきなのである。例えば大学の入学金や授業料は高いものだから、子供が生まれた時から貯金をしておくようにするべきなのである。そうすれば毎月僅かな金額を貯めればいいだけなので、生活を圧迫することもなく、確実にお金を貯めることができるようになるのである。

 目標にエネルギーを集中すれば、無駄は削減されて行くものなのである。目標にこそお金を最大量投入しなければならないからだ。しかしだからといって一切の無駄がなくなるのではないのだ。無駄は必ず発生する。我々にできることは、無駄を最小限に抑えることだけなのである。

 生活をしていれば、本末転倒な生活をしてしまう輩は必ず出て来るものなのだ。結婚すればまずは大きな家に住みたいものだ。だから大きな家を買うことに全力を投入すればいいのだ。しかしそういう欲望を持たないと、「無駄使いはやめろ!」と言い出し、生きていることになんの喜びも感じられない生活になってしまうものなのである。

 豊かな生活をしたいのなら、夫婦の目標を明確にしておくことだ。夫婦が力を合わして目標に突き進んでいれば、生活の中で面白いことがたくさん起こって来るものなのである。無駄使いをやめようとしても無駄使いをやめることはできないし、勿体ないと言いつつも勿体ないことをしてしまうものなのだ。でも無駄や勿体ないことがあるからこそ、それは幸せに生活しているということなのだ。

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夫に対して心地よさを追求すると、夫婦仲は急速に良くなる

●妻がサービスすべき最大の相手は夫

 女性が結婚すると、夫を第一に考えて行動するのであるが、赤ちゃんが生まれてしまうと、赤ちゃんを第一に考えて行動してしまう。赤ちゃんが一人歩きできるまでは、頭の中は育児のことで90%近く占めてしまうことだろう。そうやって赤ちゃんに夢中になっている時はいい。しかし数年後、気付いているみると、夫婦の関係は危機的な状況に陥っていることに気付くのである。

 妻が育児に専念できるのは、夫が外に出て働いて稼いで来てくれればこそなのであって、その稼ぎ頭に対して、最大の配慮をするのは当然のことなのだ。もしも妻が夫のことに無関心であれば、当然に夫は妻を大事にしなくなり始めるのである。大方、自分が間違った行動を取ってもそれを非難してくれる人物はいないし、問題が表面化した時に相談に乗ってくれる人間というのは、碌でもないアドバイスしかしてこないものだ。

 妻が職を持っている場合、妻は家事に育児に仕事に忙しくなってしまうために、夫とのコミュニケーションは大切にしておいた方がいい。家事や育児の上に仕事をするとなれば、時間が決定的に不足してしまうし、自分が仕事での疲労を家庭内に持ち込んでしまい、それで些細なことを切っ掛けに夫婦喧嘩になってしまうからだ。

 幸せな結婚を実現したいのなら、子供を優先にしないことだ。夫を優先させることだ。妻が最大のサービスを施すのは夫なのであって、まずは夫を喜ばせるようにすることだ。そして夫がいない時は、子供を優先して扱い、子供たちを喜ばせるようにすればいいのだ。このメリハリをきちんと行っておけば、夫婦の仲は良好になるし、育児や子育ても難なくできるようになるのだ。

 そしれ忘れてはならないのは、これができるのは妻だけだということなのである。妻が夫を立てて、家族の実権を全て握ってしまうからこそ、これができるのであって、これができてしまえば家族内に自然と秩序が形成され、自分が大した力を使わなくても、自然に幸福が発生して行くようになるのだ。

●自宅=快感にしてしまう

 夫に最大のサービスを施すとは、夫に対して心地よさを提供してあげることなのである。具体的には自宅にいる時を快感にしてしまうのだ。夫婦が自営業などで一緒に働いているなら別であるが、通常は夫は外に働きに出て、仕事で疲れて帰って来るのである。それなのに自宅で寛げなければ、帰宅して来る意味がなくなってしまうのだ。

 別に夫が仕事を最優先させれば、帰宅する必要性などないのだ。勤務先の近辺にあるビジネスホテルに寝泊まりして、仕事を続ければいいのだ。しかししれでは家族生活が成り立たないものだ。帰宅して来るのは、自宅でなら疲労回復ができるし、家族生活を営めると思うからこそ、帰宅して来るのである。

 ところが、妻の方は1日中、家事や育児で働き続けたので、妻自体も疲労しており、そのために夫への配慮を忘れてしまうのだ。それでぞんざいな対応をしてしまい、夫は妻に対する愛情を低下させて行ってしまうのだ。こういうことにならないように、子供が昼寝をする時に自分も一緒に昼寝をしたり、夫が帰宅する直前にシャワーを浴びて、心身をリフレッシュさせておくことだ。これをやるだけで、随分と気持ちが変わるのである。

 難くし考えることはない。自分が夫の立場だったら、どのようにして欲しいかを考えればいいのだ。まずは元気よく出迎えて欲しいし、仕事で働いた自分を労って欲しいのだ。後jは食事や風呂や睡眠だけだから、それがきちんと整っていれば、スムーズに物事が進むようになるのだ。

 夫が自宅にいれば、これぞとばかりに育児や子育てを頼むのは考えものなのである。仕事で疲労している以上、まずは休みたいと思うのが当然のことだからだ。せいぜい風呂に入る時に、子供たちと一緒に入って貰い、入浴の手間を省く程度いいのである。子供たちが風呂に入っていれば、その時間を使って自分の遣りたいことをすればいいのだ。

●妻として最低限すべきこと

①掃除

 妻が最低限すべきことの筆頭は掃除をすることである。自宅に掃除が施されていないと、疲労がなかなか抜けきらないからだ。掃除は毎日すべきであって、日々掃除していると、それほど汚れないものなのだ。いつも掃除せず、たまに掃除をするからこそ、自宅が凄まじいほどにまで汚れてしまうのである。

 夫への印象を良くしておくためには、玄関の照明は明るくしておいた方がいい。玄関の照明が明ると、帰宅のし甲斐があるようになるのだ。妻は居間にいる時間が多いために、居間を中心に物事を考えてしまうが、夫は玄関から帰宅して来る以上、玄関が薄暗かったりすれば、印象は最悪になってしまうのだ。

②食事

 食事に関しては栄養バランスを必ず取るようにすることだ。男性は脂っこいものが好きなので、その意見だけを採用していると、栄養バランスが崩れてしまうのだ。肉を食べる時は野菜も大量に出し、肉ばかりではなく、たまには魚を出して、栄養バランスを図ることだ。

 料理の腕を上げたいのなら、レシピを地道に揃えて行くことが必要だ。レシピカードが100枚に達した時に、レシピカードは凄まじい威力を発揮するようになるのだ。レシピを残さず、自分の記憶に頼っているなら、料理がワンパターンになってしまうし、料理に対する改善も施されなくなってしまうのだ。

③会話

 夫婦が夕食時に会話をする場合、放置しておくと妻が一方的に喋ってしまうことになる。夫は喋ることが困難になるくらいに仕事で疲労しているので、そこで妻が喋りまくってしまえば、妻が一方的に喋るようになってしまうのだ。まずは夫の話を聞くようにし、それから妻が喋るようにすればいいのである。

●気をつける時間帯

①起床時

 自宅で最も気をつける時間帯は、起床時である。起床時の対応がその日の印象を決めてしまうことになるので、起床したらすぐさま起きてしまい、洗顔や歯磨きをして、パジャマを脱いで身なりを整えることだ。そすうれば清々しい姿で挨拶をすることができ、それによって高感度をアップさせることになるのだ。

②出勤時と帰宅時

 夫にとって出勤するというのは、これから戦いに出かけるということになるので、出勤する際にゴミ袋を持たせたりしないことだ。夫がゴミ袋を持って出かければ、夫の勤労意欲は激減するものだ。またどんなに家事が忙しくても、玄関でお見送りするというのは、当然すべきことなのである。

 夫は帰宅する時にはヘトヘトになって帰って来るものだ。それだからこそ、妻が明るい声で出迎えるようにするのである。低音の女性は地声が低いために、その地声で言ってしまうと、夫の印象は最悪なものになってしまうのだ。多少は声を高くして出迎えるようにすれば、夫の印象は良くなるのである。

③午前0時から午前2時の間は特に気をつける

 夫婦生活で気をつけるべきは、午前0時から午前2時の間である。この時間帯は悪霊に付け込まれ易い時間帯なので、この時間帯まで起きていて、夫婦で仲良く話し合っていたのに、突然に悪い方向に行ってしまい、夫婦の仲が拗れまくってしまうのである。悪霊につけこまれると、仲のいい夫婦でも最悪の事態になってしまうのだ。

 出来ることなら、早寝をしてしまい、夜更かしをしないことだ。もしも夫の仕事の関係でこの時間帯まで起きているのなら、夫婦の会話が拗れた時は、もうそれ以上会話をすることをしないことだ。とっとと寝てしまった方が、夫婦のためなのである。深夜に夫婦が深刻な話し合いをしても、いい結論を得ることはできないので、重要な話をする時は、日中にするべきなのである。

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