偏差値のメカニズム
●予備校での偏差値
中学受験のために予備校に通った場合、試験の点数とは別に偏差値というものが出て来る。母親の殆どは偏差値についての説明を受けないので、この偏差値というものを巧く使いこなせないのだ。偏差値というものが解ると、合格する確率や、どのように勉強していいかが解るのである。
実を言うと、この偏差値というのは、帝国陸軍が考え出したシステムなのである。兵器の中で強力な破壊力を持ちつつも、命中度が低いものに「大砲」がある。砲弾を発射しても、なかなか目標に命中できないのである。これは大砲が歴史に登場した当初から指摘されており、マキャベリは『政略論』の中で大砲の登場が戦争の歴史を変えることはないとまで言い切っているのだ。
しかし帝国陸軍の将校たちは恐ろしいほどまでに頭が良かったために、砲弾の命中率を徹底的に研究し、その結果、命中率はある一定の法則があるというのが解ったのである。100発の砲弾を打った場合、80発の砲弾はハズレ弾になるのだ。しかし7発は標的に命中し、15発は標的近辺に着弾し、多少の損害を与えるということなのである。
そのため砲兵隊には或る一定の訓練を施して、命中率の精度を標準に持って行くと同時に、戦場では砲兵隊の機動力を活かし、砲兵を集中させて集中砲火を行うという戦術を生み出したのである。砲兵隊による集中砲火というのはナポレオンが用いたもので独創的ではないが、砲兵隊の機動力を活かすというのは日本独自のものなのである。日本軍の砲兵隊の動きは非常に速かったのである。このため帝国陸軍が参加した戦争は殆どが勝っているし、大東亜戦争で戦況が不利になったのに、帝国陸軍が参加した戦争は全て激戦に持ち込んだのである。
これに対して帝国海軍は全く別の発想を持ち、「百発百中」という考えに至ってしまったのである。海戦では敵を見つけ次第、殲滅しなければならない。もしも1隻でも敵艦がいたら、味方の船が攻撃されてしまうからだ。しかし砲兵が幾ら訓練をしても百発百中にはならないので、実戦では逆に役に立たなくなってしまうのだ。事実、帝国海軍はミッドウェー海戦以降、負けっぱなしであって、しかもボロ負けに近い負け方をし続けたのである。
●偏差値は優秀な人材を選別し易い
この帝国陸軍が考え出した偏差値が、なぜだか予備校では積極的に利用されているのである。これは実践的であって、使いようによっては圧倒的な力を発揮して来るからだ。まず母親が知っておくべきことは、予備校の試験では100点を取ることはできないといことだ。受験のためには相当に難しい問題を出さざるを得ないので、100点を取れるようでは逆にその試験問題そのものに問題があったということなのだ。
偏差値の大まかな見方として、偏差値70以上が超優秀で、偏差値60以上で優秀だということだ。偏差値を50を切る科目があるのならそれは問題で、その科目は平均よりも遥かに劣るということなのである。模試のたびに点数と同時に偏差値が出されるので、自分の得手不得手の科目が一発で解ることになるのだ。
偏差値は予備校の側の方にもメリットがある。それは偏差値は優秀な人材を選抜し易いということだ。生徒の内、7%が超優秀であり、15%が優秀なのである。残りの56%は平凡な人材で、それ以下の15%は出来が非常に悪く、更にその下の7%は明らかに授業を理解していないのである。予備校としては授業の内容を超優秀な生徒と優秀な生徒に標準を合わして授業を行って来る。このため授業の質が高くなり、それに釣られて他の生徒たち全員の成績も上がって行くことになるのだ。
予備校で難関の学校に合格者が多い予備校は、その授業のレベルが非常に高いのである。当たり前だが授業の内容を高くしない限り、試験で高い成績を取ることができないからだ。予備校に行くと、学校ではイマイチ解らなかったものでも、きちんと理解できるようになるものだが、それは授業の内容が学校とは全く違っているからなのである。一方は中学受験に標準を合わせ、一方は何もしていないのだから、差が開いて当然なのである。
予備校に行くと、試験での成績優秀者は名前が張り出されるので、子供たちは自分の名前を載せるために、一生懸命に勉強するものだ。そのため競争が素晴らしい形で行われてしまい、予備校全体に活気が出て来て、高得点を取る生徒たちが続出して来るのである。予備校を選ぶ時は、その活気を感じ取るべきであって、活気のある予備校に我が子を行かせれば、希望する中学校に入れるようになるものなのである。
●長所伸展法を取るべき
中学受験では「国語」「算数」「理科」「社会」の四科目で争われるのだが、どれか1科目でも不得手な科目があれば、そのが大きく足を引っ張り、不合格にさせてしまうのである。4科目もあると考えるのではなく、4科目しかないと考えるべきなのである。科目の数が少ないために、出来の悪い科目が1つでもあると、どうしても偏差値を上げて行くことができないのだ。
偏差値を見れば、一体どの科目が不得手なのか解るのだから、まずは不得手な科目を把握することだ。その上で、得意な科目を見つけ出し、それを伸ばすようにすることだ。普通、不得手の科目が解ると、その不得手の科目の点数を上げることに躍起になるのだが、これをやってしまうと子供は勉強嫌いになってしまうのだ。それよりも得意な科目をもっとやらせ、その科目で高得点を取れるようにし続けてしまうおである。こうすると苦手と思っていた科目でもそれほど苦痛を感じなくなり、不得意な科目の点数が徐々に上がって行くことになるのだ。
具体的に子供がどうしてその科目を不得手になってしまうのかというと、その科目の基本で躓いているからだ。国語の場合だったら、漢字の書き取りがきちんとできていないのだ。算数ならいつも計算間違いをしているのだ。理科や社会などは学術用語をきちんと覚えていないということなのだ。
子供にきちんと覚えさせるためには、とにかく読んで書いて覚える工夫をすべきなのである。子供に一読して済ましてしまう癖を捨てさせ、何度も本を読むようにさせるべきなのである。どんなに難しい本でも3回も読めばなんとなく理解できてしまうものなのだ。漢字の書き取りにしても、計算にしても、自分がペンを持って書かないからこそできないのであって、暇を見つけては文字や数字を書くようにすべきなのである。
模試の結果が出てきたら、母親が知らん顔では子供は勉強する意欲を失ってしまうものだ。模試の結果を見て、とにかく子供を褒めまくることだ。「この科目は点数が上がったね」とか言えばいいのだ。一番やってはいけないのは、点数の悪い科目を指摘してしまうことだ。これをやられると子供は委縮してしまい、更に勉強が苦手になるという悪循環を発生させてしまうのだ。
●偏差値の最大の弊害は劣等感を抱かしてしまうことにある
偏差値は使い方が解っていれば、これほど有難い物はないのに、その使い方を知らないために10代の時に成績を上げて行くことができず、偏差値の高い学校に入れなくなってしまうのだ。日本の学校は入学するのに難しく、卒業するのは簡単になっているので、とにかく学校に入学しない限り話にならないのである。
偏差値の最大の弊害は、一流の学校や一流の大学に進学できなかった者たちに劣等感を抱かしてしまうということなのである。私立中学や私立高校では偏差値の高い学校の生徒は劣等感を抱いていないのに、それ以外の学校の生徒となると、何かしらの劣等感を抱いているものなのだ。これが大学になるともっとひどく、大学になると学閥が絡んで来るから、その劣等感は決定的なものになってしまうのだ。例えば官僚の世界では東大法学部を卒業していないと話にならないものだ。ビジネスの世界では慶応卒の人々が幅を効かしているために、画期的なベンチャー企業が出て来ても、その者が慶応卒ではければ、長らく無視され続けるということになってしまうのだ。
偏差値が高くても、指導者能力があるとは限らないのである。偏差値は飽くまでも勉強ができたということであって、もしも偏差値の高かった人間がそのまま権力のあるポストに就任してしまったら、途端に大混乱が発生してしまうものだ。学校や大学が指導者を育成していくためには、勉強することは勿論のこと、部活動を充実させて、そこで指導者を育成して行くしかないのである。東大や慶応大学のように偏差値は高くても、部活動が弱い所では、優秀な指導者が全く出て来なくなってしまうのである。
新規に会社を立ち上げて来る会社経営者は、圧倒的に2流以下の大学から出て来ているのだ。一流の大学の卒業生は意外と少ないのである。それなのにマスコミには一流大学の卒業生たちがいるために、一流大学の卒業生だけをピックアップしてくるのである。このためビジネスの実態がなかなか国民に伝われないという事態になってしまうのである。よく「日本の企業には独創性がない」とか「優秀なベンチャー企業がなかなか出て来ない」という意見を言う知識人がいるが、それはマスコミの報道だけを鵜呑みにしているからなのである。
日本の中で一番きつい差別は「貧富の格差」でも「男女の性差」でもないのだ。「学歴差別」なのである。その者の最終学歴が終生ついて回るのである。こんな理不尽なこともないと思うのだが、現在の日本はこの遣り方で動いている以上、この学歴差別を肯定するしかないのである。もしも学歴差別に反対するのなら、学歴差別が及ばない職業を探して、そこで自分の能力を発揮して行くしかないのだ。
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