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2010年8月

偏差値のメカニズム

●予備校での偏差値

 中学受験のために予備校に通った場合、試験の点数とは別に偏差値というものが出て来る。母親の殆どは偏差値についての説明を受けないので、この偏差値というものを巧く使いこなせないのだ。偏差値というものが解ると、合格する確率や、どのように勉強していいかが解るのである。

 実を言うと、この偏差値というのは、帝国陸軍が考え出したシステムなのである。兵器の中で強力な破壊力を持ちつつも、命中度が低いものに「大砲」がある。砲弾を発射しても、なかなか目標に命中できないのである。これは大砲が歴史に登場した当初から指摘されており、マキャベリは『政略論』の中で大砲の登場が戦争の歴史を変えることはないとまで言い切っているのだ。

 しかし帝国陸軍の将校たちは恐ろしいほどまでに頭が良かったために、砲弾の命中率を徹底的に研究し、その結果、命中率はある一定の法則があるというのが解ったのである。100発の砲弾を打った場合、80発の砲弾はハズレ弾になるのだ。しかし7発は標的に命中し、15発は標的近辺に着弾し、多少の損害を与えるということなのである。

 そのため砲兵隊には或る一定の訓練を施して、命中率の精度を標準に持って行くと同時に、戦場では砲兵隊の機動力を活かし、砲兵を集中させて集中砲火を行うという戦術を生み出したのである。砲兵隊による集中砲火というのはナポレオンが用いたもので独創的ではないが、砲兵隊の機動力を活かすというのは日本独自のものなのである。日本軍の砲兵隊の動きは非常に速かったのである。このため帝国陸軍が参加した戦争は殆どが勝っているし、大東亜戦争で戦況が不利になったのに、帝国陸軍が参加した戦争は全て激戦に持ち込んだのである。

 これに対して帝国海軍は全く別の発想を持ち、「百発百中」という考えに至ってしまったのである。海戦では敵を見つけ次第、殲滅しなければならない。もしも1隻でも敵艦がいたら、味方の船が攻撃されてしまうからだ。しかし砲兵が幾ら訓練をしても百発百中にはならないので、実戦では逆に役に立たなくなってしまうのだ。事実、帝国海軍はミッドウェー海戦以降、負けっぱなしであって、しかもボロ負けに近い負け方をし続けたのである。

●偏差値は優秀な人材を選別し易い

 この帝国陸軍が考え出した偏差値が、なぜだか予備校では積極的に利用されているのである。これは実践的であって、使いようによっては圧倒的な力を発揮して来るからだ。まず母親が知っておくべきことは、予備校の試験では100点を取ることはできないといことだ。受験のためには相当に難しい問題を出さざるを得ないので、100点を取れるようでは逆にその試験問題そのものに問題があったということなのだ。

 偏差値の大まかな見方として、偏差値70以上が超優秀で、偏差値60以上で優秀だということだ。偏差値を50を切る科目があるのならそれは問題で、その科目は平均よりも遥かに劣るということなのである。模試のたびに点数と同時に偏差値が出されるので、自分の得手不得手の科目が一発で解ることになるのだ。

 偏差値は予備校の側の方にもメリットがある。それは偏差値は優秀な人材を選抜し易いということだ。生徒の内、7%が超優秀であり、15%が優秀なのである。残りの56%は平凡な人材で、それ以下の15%は出来が非常に悪く、更にその下の7%は明らかに授業を理解していないのである。予備校としては授業の内容を超優秀な生徒と優秀な生徒に標準を合わして授業を行って来る。このため授業の質が高くなり、それに釣られて他の生徒たち全員の成績も上がって行くことになるのだ。

 予備校で難関の学校に合格者が多い予備校は、その授業のレベルが非常に高いのである。当たり前だが授業の内容を高くしない限り、試験で高い成績を取ることができないからだ。予備校に行くと、学校ではイマイチ解らなかったものでも、きちんと理解できるようになるものだが、それは授業の内容が学校とは全く違っているからなのである。一方は中学受験に標準を合わせ、一方は何もしていないのだから、差が開いて当然なのである。

 予備校に行くと、試験での成績優秀者は名前が張り出されるので、子供たちは自分の名前を載せるために、一生懸命に勉強するものだ。そのため競争が素晴らしい形で行われてしまい、予備校全体に活気が出て来て、高得点を取る生徒たちが続出して来るのである。予備校を選ぶ時は、その活気を感じ取るべきであって、活気のある予備校に我が子を行かせれば、希望する中学校に入れるようになるものなのである。

●長所伸展法を取るべき

 中学受験では「国語」「算数」「理科」「社会」の四科目で争われるのだが、どれか1科目でも不得手な科目があれば、そのが大きく足を引っ張り、不合格にさせてしまうのである。4科目もあると考えるのではなく、4科目しかないと考えるべきなのである。科目の数が少ないために、出来の悪い科目が1つでもあると、どうしても偏差値を上げて行くことができないのだ。

 偏差値を見れば、一体どの科目が不得手なのか解るのだから、まずは不得手な科目を把握することだ。その上で、得意な科目を見つけ出し、それを伸ばすようにすることだ。普通、不得手の科目が解ると、その不得手の科目の点数を上げることに躍起になるのだが、これをやってしまうと子供は勉強嫌いになってしまうのだ。それよりも得意な科目をもっとやらせ、その科目で高得点を取れるようにし続けてしまうおである。こうすると苦手と思っていた科目でもそれほど苦痛を感じなくなり、不得意な科目の点数が徐々に上がって行くことになるのだ。

 具体的に子供がどうしてその科目を不得手になってしまうのかというと、その科目の基本で躓いているからだ。国語の場合だったら、漢字の書き取りがきちんとできていないのだ。算数ならいつも計算間違いをしているのだ。理科や社会などは学術用語をきちんと覚えていないということなのだ。

 子供にきちんと覚えさせるためには、とにかく読んで書いて覚える工夫をすべきなのである。子供に一読して済ましてしまう癖を捨てさせ、何度も本を読むようにさせるべきなのである。どんなに難しい本でも3回も読めばなんとなく理解できてしまうものなのだ。漢字の書き取りにしても、計算にしても、自分がペンを持って書かないからこそできないのであって、暇を見つけては文字や数字を書くようにすべきなのである。

 模試の結果が出てきたら、母親が知らん顔では子供は勉強する意欲を失ってしまうものだ。模試の結果を見て、とにかく子供を褒めまくることだ。「この科目は点数が上がったね」とか言えばいいのだ。一番やってはいけないのは、点数の悪い科目を指摘してしまうことだ。これをやられると子供は委縮してしまい、更に勉強が苦手になるという悪循環を発生させてしまうのだ。

●偏差値の最大の弊害は劣等感を抱かしてしまうことにある

 偏差値は使い方が解っていれば、これほど有難い物はないのに、その使い方を知らないために10代の時に成績を上げて行くことができず、偏差値の高い学校に入れなくなってしまうのだ。日本の学校は入学するのに難しく、卒業するのは簡単になっているので、とにかく学校に入学しない限り話にならないのである。

 偏差値の最大の弊害は、一流の学校や一流の大学に進学できなかった者たちに劣等感を抱かしてしまうということなのである。私立中学や私立高校では偏差値の高い学校の生徒は劣等感を抱いていないのに、それ以外の学校の生徒となると、何かしらの劣等感を抱いているものなのだ。これが大学になるともっとひどく、大学になると学閥が絡んで来るから、その劣等感は決定的なものになってしまうのだ。例えば官僚の世界では東大法学部を卒業していないと話にならないものだ。ビジネスの世界では慶応卒の人々が幅を効かしているために、画期的なベンチャー企業が出て来ても、その者が慶応卒ではければ、長らく無視され続けるということになってしまうのだ。

 偏差値が高くても、指導者能力があるとは限らないのである。偏差値は飽くまでも勉強ができたということであって、もしも偏差値の高かった人間がそのまま権力のあるポストに就任してしまったら、途端に大混乱が発生してしまうものだ。学校や大学が指導者を育成していくためには、勉強することは勿論のこと、部活動を充実させて、そこで指導者を育成して行くしかないのである。東大や慶応大学のように偏差値は高くても、部活動が弱い所では、優秀な指導者が全く出て来なくなってしまうのである。

 新規に会社を立ち上げて来る会社経営者は、圧倒的に2流以下の大学から出て来ているのだ。一流の大学の卒業生は意外と少ないのである。それなのにマスコミには一流大学の卒業生たちがいるために、一流大学の卒業生だけをピックアップしてくるのである。このためビジネスの実態がなかなか国民に伝われないという事態になってしまうのである。よく「日本の企業には独創性がない」とか「優秀なベンチャー企業がなかなか出て来ない」という意見を言う知識人がいるが、それはマスコミの報道だけを鵜呑みにしているからなのである。

 日本の中で一番きつい差別は「貧富の格差」でも「男女の性差」でもないのだ。「学歴差別」なのである。その者の最終学歴が終生ついて回るのである。こんな理不尽なこともないと思うのだが、現在の日本はこの遣り方で動いている以上、この学歴差別を肯定するしかないのである。もしも学歴差別に反対するのなら、学歴差別が及ばない職業を探して、そこで自分の能力を発揮して行くしかないのだ。

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私立学校に進学させることの意味

●中高生の時期は急成長して行く

 我が子の将来を考えた場合、中学や高校を公立学校に通わせることに不安を持つ母親たちは多いものだ。公立学校の現状が余りにも悲惨なために、我が子をそこに通わせても、教育効果は上がらないと思ってしまうのだ。そういう場合、中学や高校は私立学校に行かせるというのは、非常に賢明な選択肢であるのだ。

 脳の成長を考えると、脳のシナプスが16歳で減少が終わり、脳の重さ自体は19歳で成長を終える。しかも中高生の時期は自我が完全に芽生えて来るために、人間にとって想像以上に重要な時期であるのだ。この時期に最適な教育環境を与えて、そこで教育を受けるというのは、非常に有益なことであるのだ。

 我が子を私立学校に通わせようと思うのなら、夫婦できちんと話し合うことだ。私立学校に通わせると入学金や授業料が6年間に亘ってかかり続けるので、家計を直撃して来るのだ。しかもその金額たるや半端な金額ではないので、教育費をかけた分、それに見合う教育の成果を出して貰わないと意味がないのだ。

 我が子を私立学校に通わせるということは、大学進学を前提にしてことのである。私立学校を卒業して、大学に進学しなかったり、高校中退では困るのである。それゆえ我が子ともきちんと話し合って、大学に進学することを確認させ、我が子の将来を決定してしまうべきなのである。

 映画とかドラマでは、子供が親にレールを敷かれてしまい、それに反発してトラブルを起こすという物語があるものだが、そういう物語など一切信用しないことだ。親というのは子供の未来を或る程度決めるのは当然であり、それが嫌なら自宅から出て行き、勝手に生きて行けばいいのだ。自分で仕事もしていないのに、親からお金を貰って生活しているのに、親の決めたことに反抗させるべきではないのだ。

●私立学校を見学しに行く

①私立学校をきちんと把握する

 我が子を私立学校に通わせるなら、私立学校をきちんと把握しておくことだ。私立学校ならどこでもいいと思うのではなく、我が子にとって最適な私立学校を選ぶようにすることだ。私立学校の場合、偏差値が高いからいい学校なのではなく、教育理念が明確になっていると、その私立学校は非常に素晴らしい教育を施してくれるのだ。

 まずは実際に私立学校に行ってみて、校舎は奇麗か、校長の考えはどうなのか、教師の顔はどうか、生徒たちの態度はどうかを見ておくことだ。実際に行ってみると、なんとなく解るものだ。絶対にやってはならないのは、偏差値や校名に騙されてしまい、無条件でその学校を信用してしまうことだ。、

②自宅から遠過ぎない距離であること

 私立学校に通わせる場合、自宅から近いというのは、非常に重要な要件だ。通学時間は自宅から1時間以内とすべきであって、1時間30分以上なら遠すぎて不適格なのだ。6年間に亘って通学時間に取られる訳であって、その時間が無駄になってしまうのだ。本来なら私立学校は寄宿制にすべきなのであるが、日本の私立学校の殆どはそうなっていないので、要注意しておくことだ。

③的確な予備校を選ぶこと

 私立学校に通わせる場合、予備校の選び方次第で偏差値が大いに変動していくので、しっかりとした予備校を選ぶことだ。予備校の経営者が金儲けでやっているのではなく、子供たちに優れた教育を施したいという志があるのか、講師たちのレベルはどうなのかを確かめた上で、予備校を決定することだ。予備校を変える生徒は殆どいないものなので、恐らく中学受験まではその予備校に通い続けることになるのだ。

 我が子の勉強を効率あるものにさせるためには、食事には充分気をつけることだ。白米や白パンや白砂糖を使っていると、知能を上げて行くことはできないので、可能な限り控えて行くようにすることだ。米を食う場合は、玄米と押麦の半々で炊き、パンなら黒パンを食べるようにすることだ。麦に含まれるグルテンが脳の疲労を取り除き、記憶力を高めてくれるので、成績が良くなっていくのだ。

●私立学校の長所と短所

 私立学校の最大の長所は、授業のレベルが格段に高いということだ。公立学校の場合、平気で平等教育を遣って来るので、授業のレベルが最低になってしまうのだ。しかし私立学校では平等教育は行われないので、授業のレベルを高くしていくことができるようになるのだ。

 また大抵の私立学校は中高一貫で教育しているので、教育カリキュラムを変更することができ、高校2年生までに全ての授業を終えてしまい、高校3年生を大学受験対策に当てることもできるのだ。優秀な私立学校を卒業したなと解ることは、公立高校なら高校3年時で飛ばしてしまう、「確率」や「統計」をしっかりと学んでいることなのだ。実はこの確率や統計は学術研究に於いて非常に重要なのだが、公立高校だとこれを飛ばしてしまうために、公立高校の卒業生が学問の道に進んで、大した研究をすることができなくなってしまうのだ。

 私立学校の欠点としては、同じ偏差値の子供たちが集まってしまうために、人材が多彩とならないということなのだ。そのため他人に対する寛容度が非常に小さく、自分の考えと違った人間を受け入れることができないのだ。そのため私立学校でイジメが始めると、悲惨極まりないイジメになってしまうのだ。私立学校のイジメが公立学校のイジメと違うのは、それが余りにも陰湿だということだ。

 偏差値で入学生を分別してしまうのは、非常に問題があることなのだが、どの私立学校にしてもそれを改めようとはしないのだ。確かに偏差値で入学生を分別してしまうと、自分の学校にとって優秀な生徒たちを得ることができるからだ。しかしその反面、似たような人物ばかり選んでしまい、多様な人材を作ることができないのだ。

 これは生徒たちだけに問題が発生して来るのではなく、教師の側にも問題が発生して来る。生徒たちのレベルが一定しているために、教師の方も硬直化してしまい、教育能力が高いのに、生徒たちへの対応が非常に下手になってしまうのだ。そのため、もしも生徒と教師の間でトラブルが発生した場合、最悪なまでにそのトラブルが悪化してしまう危険性があるのだ。

●都市部では優秀な子供たちの殆どが私立学校に進学して来る

 もしも都市部に住んでいるのなら、優秀な子供たちの殆どは私立学校に進学して来るという事実を知っておこう。そのため我が子を私立学校に進学させると、優秀な子供たちの中に加わることができ、自然と優秀な人材に育って行くことになるのだ。教育で大事なことは、優秀な子供たちが沢山いる所に行かせることなのである。

 都会で教育問題が悪化してくるのは、優秀な生徒たちが私立学校に行ってしまうことにこそあるのだ。公立学校に来る生徒は頭が悪いために、中学教員に余程の教育能力がないと、成績を上げることができなくなってしまうのだ。しかしそれを利用することもできる。公立学校の教育レベルは低いのだから、少し努力すれば簡単に高い成績を取ることができ、それによって自信をつけることができるようになるのだ。、

 地方では私立学校が非常に少ないし、または皆無なので、地方では教育問題が起こりにくいのだ。地方の学校では、勉強するか、スポーツをするか、ヤンキーになるかしか選択肢がないのだ。その地方が田舎であるかが一発で解るのは、「田舎ではヤンキーがモテる」ということなのだ。田舎で不良になる場合、本格的にヤンキーになってくるので、都会にいるような軟弱な不良にはならないのだ。都会に住んでいるなら、グレるにしても、ヤンキーにならなくても、他に選択肢は幾らでもあるからだ。

 都市部の教育問題と、地方の教育問題は全く別物なのである。都市部なら、学校教員に多少の教育能力があるのなら、すぐさま教育の成果が出て来るのである。なんせ公立の中学校に来る生徒は頭が悪いために、教育の仕方が解っていれば、簡単に成績を上げて行くことができるのだ。しかし地方では生徒たちの質が高いために、教育の成果は既に出ているのである。地方で問題なのは、学校でいい成績を取っても、就職先がないといか、高い所得を得ることができないとかいうことなのである。

 地方に住んでいるのなら、私立学校に我が子を通わせることなど考えなくてもいい。だが都市部に住んでいるのなら私立学校に通わせる選択肢を考えておくべきなのである。もしも私立学校に通わせなくても、公立の中学校なら優秀な生徒たちは殆どが私立学校に行っているので、少し努力すれば簡単に成績上位者に入ることができるのだ。私立学校はピンからキリまであるので、我が子に適した学校を選べば絶対に多大な利益を得ることができるのである。

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なぜ性教育は失敗するのか?

●教育能力に反比例する性愛術

 教師が教育能力を高めてしまうと、それに反比例して低下して来る能力がある。性愛に関する能力などは、その典型例であろう。教師になるような人物は、この手の分野が非常に苦手なのである。優秀な教師に限って、カチコチの性生活を送っているものだ。それでも子供はきちんとできるのだから、性の世界で満足を求めるべきではないのである。

 教師本人が「セックスが下手」というのに、なぜだか学校で性教育をやろうという連中が出て来るのだ。学校では全てのことを教えればいいのではないのだ。国民教育から導かれるものだけを教えればいいのであって、性教育など教えるべきではないのだ。大体、セックスが下手な人間が、生徒たちにセックスのことを話しても、碌な話はできない筈だ。

 世の中は性のことをタブー視してくるものだ。それは性の力は子作りのためだけに使うべきなのに、快楽のために性の力を余りにも使ってしまうと、人間の能力を弱めてしまう危険性があるからなのだ。例えばファッションセンスのいいファッション誌は、絶対にセックス特集を行わないものだ。セックス特集をしてしまうとなぜだかファッションセンスが落ちてしまうからだ。ファッションセンスとセックスだって反比例してしまうのである。

 さずがに中学生になれば性のことに関心を持って来るが、小学生ではまだまだ関心を持って来ないものだ。その小学生に性教育を行ってしまえば、小学生たちの成長が歪んでしまうのは、火を見るよりも明らかなことだ。しかも性教育のために正規の授業を潰してしまうのだから、それだけ正規の授業の時間が少なくなってしまい、成績が下がって行ってしまうのである。

 性教育をやろうという教師は、決して生徒たちのためにやっているのではなく、自分のためにやっているのである。性教育をやろうという教師に限って、子供の頃にセックスのことをきちんと教えてくれたら、自分もセックスが巧くなった筈だと思い込んでいるのだ。その考えこそが間違っているのだ。セックスは他人に教えられて巧くなるものではないのだ。自分が実践の中で掴み取って行くしかないのだ。

●性に関する知識は実践で学んでいくもの

 性愛術あ巧くなる人は、大抵が禁欲的な家庭の中で育って来ている。両親が性のことに関してタブー視すればするほど、自分が性のことに関して興味を持ち始めた時、親に反抗するエネルギーが性の世界に向いてくれることになるので、普通の人たちよりも熱心に学ぶのである。特に男性にとって性の世界に入るという行為自体が、神秘のヴェールを剥がすことになり、それによって自立を可能にさせ、大人になって行くのである。

 大抵は男同士で性に関する情報を交換し、性の知識を蓄えて行くものだ。未経験者の男性が話し合っているのだから、ガセナタが大量に含まれているのであって、その中から正しい知識を選び出して行くのだ。中学生になればこれが延々と繰り返されるのだが、こういうことは大人になるために必要なことなのである。

 その後、初恋をして、女性と付き合っても、いざ女性と性行為に及べば、自分の性愛術は最低であることに気付くものだ。そこからせっせと努力して向上させていくしかないのである。もしも性愛術を上達させたいのなら、相手をとっかえひっかえするのではなく、相手を固定し、二人で何度も何度もセックスをするしかないのである。

 性愛術を上達させるのに、エロ本というのは非常に役に立つものだ。エロ本を製作している人々の中には、明らかに性愛術の巧い人物がいるために、その情報をエロ本の中から掴み取って行くのだ。その反面、明らかなガセネタも多数含まれているので、ガセネタが多いエロ本は購読しないようにすることだ。10代の頃にはエロ本を読んでも、大人になるとエロ本を読まない男性たちは非常に多いものだ。だから性愛術が巧くならないのである。エロ本を超える貴重な媒体は今の所、存在しないものなのである。

 男性の性愛術を低下させてしまう危険な媒体が、アダルトビデオなのである。アダルトビデオを見ている人に限って、性愛術の巧い人はいないものだ。アダルトビデオは男性がオナニーをするために作られているので、女性にオルガズムを与えるようにはなっていないのだ。アダルトビデオが繁盛してしまったことが、日本の男性たちの性愛術を急激に低下させてしまったのである。

●性教育が活発になると性犯罪が急増する

 解ると思うが、男性が性愛術を学んでいく場所は全て学校の外に於いてなのである。それなのに学校で性教育を施せば、男性たちがおかしくなってくるのは当然のことなのである。学校で性教育が行われなければ、性のことに興味を持ちながらも、「これは悪いことなのだ」という自制心が働くものだ。しかし学校で性教育が行われれば、そのストッパーが解除されてしまうのである。

 性教育を行う教師は真面目に性教育を施すことだろう。真剣になって生徒たちにコンドームの使い方など教えて来るものだ。だが、そんなことを教えられた生徒は、ではコンドームを使ってセックスをしてみようと思って来るので、初体験の時期が低年齢化するという事態になってしまうのだ。本来なら初体験をするまでに長い時間がかかるものなのに、それをすっ飛ばして初体験に及ぶのだから、碌な性行為しかできなくなってしまうのである。

 しかも性教育によって生徒たちの考えが歪められてしまったために、男子生徒の中には強姦によって自分の異常な欲望を処理する連中が出て来るのだ。学校で性教育が行われるようになって、強姦事件が急激に増加していったのである。強姦事件というのは、被害者が女性ということもあって、全ての女性が申告して来るのではないので、実際の発生件数は警察が発表した数値よりも高い筈だ。更に強姦事件をやった男性は再犯率が非常に高いために、刑務所から出て来ても、すぐさま強姦事件をやってしまうのである。

 生徒たちが強姦事件をやっているくらいだから、教師たちだって性犯罪に手を染めて来るものだ。性教育が盛んな学校ほど、教師が生徒たちを盗撮したり、セクハラをしたり、強姦事件に及ぶという犯罪が多発してくるのだ。教師が性教育をやってしまうと、生徒たちを性の対象と見てしまうために、どうしても自分の性欲が暴走してしまい、自分の力では止められなくなってしまうのである。

 性教育の必要性を説く教師はこれらの事実をきちんと知るべきなのである。学校では全てのことを教えなくてもいいのである。教師として教えるべきことだけを教えるべきであって、性教育のように教師が不得手な分野に手を出すべきではないのだ。セックスが下手糞な人間が性のことを教えてしまえば、それを教えられた生徒たちは大いに歪んでしまうものなのである。

●性病の最善の予防法は無闇にセックスをしないことなのである

 性教育の必要性を唱える人たちは、「生徒たちにきちんとした性の情報を与えないと、性病が蔓延してしまう」という人たちがいるものだ。だったら、生徒に性病の情報を与えるのではなく、生徒の親たちに性病に関する情報を与えればいいのだ。わざわざ正規の授業を潰してまで、性病のことを教える必要はないのである。

 教師が持つ性病の知識など、大したものではないのものだ。例えば性病の中でも最強の性病である「エイズ」など、これはアメリカ軍が作った細菌兵器であるということを知っている教師がどれほどいるのだろうか? そもそもエイズウィルスはチンパンジーが持っていたウィルスであって、これを国連が予防接種のワクチンを培養するためにチンパンジーを使い、それをルワンダで黒人たちに広めてしまったのだ。これを見たアメリカ軍がエイズを細菌兵器として研究し、改良した物をアメリカ合衆国内の黒人を使って人体実験をし、その黒人がゲイであったために、エイズがゲイの間で爆発的に広まって行ったのだ。世界中でエイズ撲滅のキャンペーンが度々行われているが、エイズウィルスを消滅させるワクチンがなかなか出来上がってこないのは、エイズウィルスが細菌兵器だからなのである。

 性病の最善の予防法は無闇にセックスをしないことだ。性に解放的になれば、性病が蔓延してくるものなのである。勿論、医学の進歩が性病を撃退させることができるが、かといって人間の性生活が堕落的なものであるなら、新手の性病が出現して来るものなのである。エイズにしても人々が正しい生活を送っているのなら、絶対に感染しないものなのである。

 健全な性生活を営みたいのなら、「家族」「結婚」「恋愛」といったものを大切にすることだ。しかし性教育を行おうとする教師に限って、これらの物を軽視してくるのだ。だからこそまともなセックスができなくなってしまい、性病を蔓延させることになるのだ。「愛のあるセックス」を行うからこそ、満足いくセックスができるようになるのであり、「愛のないセックス」をやっていれば、碌でもないセックスしかできなくなってしまうのだ。

 教師が学校でわざわざ性教育を行わなくても、生徒たちは自分の力で性の知識を集めて行くものだ。勿論、その集めた知識が全て正しい訳ではない。ガセネタも多数含まれている。しかしそういうガセネタをガセネタと解るということも必要なことなのである。そうやって生徒たちは大人になっていくのである。性のことは生徒たちに任しておいた方が、生徒たちは健全に育って行くものなのである。

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宗教教育は学校ですべきではない

●教師は宗教教育が不得手

 昭和憲法体制下の教育で、完全に抜け落ちているものが、「宗教教育」である。昭和憲法では政教分離を定めてしまったために、学校の現場で宗教を教えることができなくなってしまったのだ。日本の歴史を見ても、日本は基本的には祭政一致で、国民を神仏を敬うと同時に、神道や仏教に国家の発展を祈る祭祀を行わせ、その一方で国教を定めることがないという緩やかな政教分離を行って来たのであり、それをアメリカ式の厳格な政教分離を用いられては、政治も宗教も大混乱してしまうし、そして何より学校教育の現場で大混乱が発生してしまったのだ。

 人間とはそもそもが邪悪で、放置しておけば邪悪なことを平気で仕出かすものだ。そのの人間の邪悪さを封じ込め、文明の発展に適うような人物にさせるためには、1つは宗教を用いて、神の下に自分があることを位置づけさせるか、法律を用いて、刑罰によって悪事をなさせないようにするしかないのだ。宗教と法律は両輪なのであって、宗教だけでは悪事を止めることができないし、法律だけでも悪事を止めることはできないのだ。

 だから政教分離を厳格に用いてしまうと、途端に頭のおかしい連中が続出して来ることになる。平気で凶悪事件を起こし、しかも逮捕されてもなんの反省もしない犯罪者とか、日本国民であるというのに、日本国を蔑ろにして、外国に味方してみたり、地球市民を名乗ってみたりと、とにかくその人物の中に一本筋が通っておらず、常に感情的で、断固たる行動を取ることができなくなってしまうのだ。

 さすがに政教分離を厳格に用いために学校教育の現場では様々な弊害が出て来ているために、宗教教育を施した方がいいのではないかという議論もボチボチ出て来始めた。しかし学校の教師たちは宗教教育が不得手なのである。宗教教育は宗教家が行うものであって、宗教を本職にしているからこそ、宗教のなんたるかを教えることができるのである。

 忘れてならないのは、日本は何か1つの宗教を奉じて来たのではなく、長らく神仏習合を行い、更に儒教をも重んじたのである。このためキリスト教国のようにキリスト教だけを教えればいいのではなく、日本では「神道」「仏教」「儒教」の三つを教えなければならないのである。神仏儒の三つがどのように日本人の宗教心を育んで来たのかも研究していかなければならないのである。

●家族の宗教を大事にする

 健全な宗教心を育むためには、家族の宗教を大事にすることだ。その家族が昔から伝えて来た宗教行事を如何なることがあっても守り通すのである。新年になれば初詣に行ったり、お盆やお彼岸になれば墓参りに行くということを、頑なに守り続けることだ。祖父母から両親へ、両親から子供たちへと宗教行事が相続されて行くからこそ、子供の宗教心は健全に育まれて行くのである。

 神棚や御霊舎を家庭内に設置して、毎朝、拝ませると同時に、何か貰い物があるならご先祖様の前に置き、ご先祖様の恩徳によって、それを貰うことができたと思わせるようにすることだ。人から貰い物を貰う時は、実際には付き合いとか、自分の手柄なのだけれども、そういうことを重視するよりも、ご先祖あっての自分ということを意識させた方が、自分勝手にならないし、謙虚で居続けることができるようになるのである。

 自宅に経典があるのなら、定期的に音読して暗記させてしまうことだ。子供の内に行う音読はその子の脳を非常に活性化するのであって、大体暗記してしまうものだ。しかも経典を暗記できたために、知能が異常に発達して、学校の勉強が苦痛にならなくなるのである。経典に比べれば、教科書など余りにも簡単すぎるからだ。

 親の中には科学至上主義者になってしまい、宗教を軽視し、無宗教を唱えて来る人物がいるものだが、これは非常に危険なことだと断定していい。子供の頃に自分の親が無宗教であったために、宗教教育をなんにも受けていないので、宗教に関して全くの無知になってしまうのだ。いわば宗教に免疫がないという状態なので、その子が大人になった時に、淫祀邪教に騙され易くなってしまうのだ。宗教に無知な者は淫祀邪教に引っ掛かるというのは、この世の相場なのだ。

 子供は元気の塊だから、その逆である死というものについて考えるようになるのだ。「死んだらどうなるんだろう?」という答えは、絶対に学校では教えてくれないのだ。更に思春期になると、「如何に生くべき」かということを悩むようになるので、人生の規範がなければ幾らでも彷徨い続けることになるのだ。これも学校では教えてくれないので、その内、大いに脱線してみたり、碌でもない考えに取り付けれてしまい、自分の人生を行き止まりにさせてしまうのである。

●宗教を知りたければ原典主義に立脚せよ

 宗教を知りたければ原典主義に立脚することだ。その宗教の聖典にこそ、その宗教が言いたいことが書かれてあるからだ。聖典を読まずして、その宗教のことを漁っても、なんいもその宗教を理解することができないのだ。その聖典から様々な宗教行事や宗教活動が導き出せるのであって、その逆ではないのである。

 神道の場合、神社神道は人工宗教のように教義を中心にした宗教ではなく、祭祀を中心にした宗教なので、聖典という物を持たない。よく誤解されるのが、「『古事記』や『日本書紀』は神道の聖典である」ということであるのだが、神社神道に於いては記紀は聖典ではない。記紀が聖典となるのは教派神道の方であって、この区別ができていないと、神道をきちんと理解することはできないのだ。

 仏教の場合、日本の仏教は大乗仏教になるのだが、大乗仏教の経典を読んでしまうと、一体釈迦が何を言ったのかというのが非常に解りにくくなってしまう。そこで釈迦の言動が記されている『阿含経』を読むようにすることだ。『阿含経』を読むと釈迦が言わんとしたことがよく解るようになるのだ。その後に大乗仏教で最高経典とされる『法華経』を読むようにすれば、仏教の教義が如何に変えられて行ったかが解るようになるのだ。

 キリスト教の場合、なんといっても『聖書』を読むことだ。日本でキリスト教徒1%しかいないが、日本は欧米諸国との関係があるので、『聖書』を読まずして外交を展開することも、ビジネスを展開することもできないのだ。『聖書』は量が多いので、できることなら旧約聖書と新約聖書を別々に購入して、それを読むようにすることだ。『聖書』は世界で最大のベストセラーと言われているが、世界で最もきちんと読まれていない書物なのだ。

 イスラム教の場合、『コーラン』を読むことだ。『コーラン』は『聖書』より遥かに簡単なので、『コーラン』を読んでしまうと、簡単にイスラム教を理解することができるのである。マホメットはイスラム教はユダヤ教やキリスト教よりも優れていることを何度も繰り返して言っているのであって、だからこそイスラム教はユダヤ教やキリスト教に対して攻撃的になっているのである。

●宗教教育を受けていれば、淫祀邪教に騙されないもの

 子供にきちんとして宗教教育を施しておけば、子供が大人になって淫祀邪教に騙されなくなるのだ。宗教教育を受ければ解ると思うが、一般の信者に過大な献金を強いる宗教は邪教と看做すべきなのである。宗教というものは、如何にその者を救ってあげるか、そして生活規範を与えるかということなのである。そんなことをするのに莫大な献金を要するわけがないのだ。

 カルトとかいう基準を持ち出すより、その教団のお金に着目すべきなのである。その教団が常識的な範囲内の中で金銭の遣り取りをしているのか、教団の予算の決定に信者たちは参加できるのか、そして教団の会計をきちんと信者たちに報告しているのか、そういう所に注目すれば、その教団がまともな宗教団体なのか、それとも宗教をビジネスに変えてしまった宗教団体なのか解るものなのだ。

 統一教会のことが時折、問題視されるが、統一教会はなんと1000億円も大金を日本の信者たちから奪い取ったのである。統一教会がやったことはオウム真理教以上のことをやったのだが、なぜだか警察は強制捜査を行わないし、法務省の人権擁護局も黙ったままなのである。統一教会は国会議員たちにかなりの献金をしているので、国会議員たちが統一教会の行動を止めようとはしてこないのだ。

 もう一つは宗教家自体の行動を原典と照らし合わせてみることだ。例えば仏教は解脱してなんぼのものなのであって、そのための戒律を順守しなければならないのだ。だから戒律否定は絶対に許されてはならないのだ。仏教系の宗教団体なのに戒律を守っていないのなら邪教と看做していいのだ。

 聖書を読めば、同性愛を否定していることが解るものだ。だからキリスト教系の宗教団体であるのに、同性愛舎の信者がいたり、同性愛者の神父や牧師がいるなら、問答無用で邪教と看做すべきなのである。クリスチャンと名乗りながら、同性愛をやっているような人物は、幾らでも屁理屈を言って来るので、絶対にまともに対応をしないことだ。「あなたのやっていることは、聖書に違反しています!」といえば、それで済むことなのである。

 幾ら学校の勉強ができたとしても、宗教のことが解らなければなんの役に立つことはない。宗教は文明の基盤であるために、宗教を理解することこそが、文明人として最低限の遣るべきことなのである。はっきりと言っておくが、宗教の勉強は無駄である。幾ら宗教の勉強をやっても、出世できたり、金儲けができたりするわけではないのだ。しかし宗教の勉強をすると、この世の流れが明確に見えて来て、自分の人生を間違うことなく、順調に進めて行くことができるようになるのである。

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イジメを受けたら、警察に届けよ

●平等教育の犠牲者たち

 乳幼児の喧嘩の原因はオモチャの取り合いが殆どである、保育園や幼稚園でイジメが発生したとしても、そのオモチャの取り合いが原因なのであり、イジメというか、喧嘩が悪化したものなのであるい。しかも、園内でイジメが発生すれば、保育士や保母は止めに入るし、場合によっては母親にすぐ連絡して対処を打てるものだ。

 しかし学校でのイジメは違う。これは学校で教員たちが平等教育を施し続けたからこそ起こったものなのであり、生徒の中で少しで変わっていれば、速攻でイジメの対象になってしまうのだ。生徒の中でトロイ生徒や、生徒の中で勉強が出来過ぎる生徒や、生徒の中で親が金持ちや逆に貧乏であったりすると、イジメを受けてしまい、しかもそれは延々と続くのである。

 この事実を知らない祖父母たちは、「昔の学校にもイジメはあった」と言い出すものだ。しかし昔のイジメと今のイジメはそのイジメの本質が全く異なるのである。昔のイジメは仲間に入るためのイジメだ。仲間に入れてくれればそれでイジメはやむものだ。だが、今のイジメは平等イデオロギーに基づいており、そのイジメは人を殺すためのイジメなのである。だからイジメで殺人事件が起こるし、自殺者まで出て来るのだ。

 人間は不平等に出来ているものだ。我々ができることはその不平等性を受け入れ、出来る限り人々を公平に扱って行くしかないのだ。人間が不平等にできているというのに、無理矢理に平等を唱えたとしても、絶対に実現できないのであって、平等を唱える人々は常に自分と平等ではない人々に憎しみを抱き続けるのである。学校に於いては、その憎しみがイジメとなって現れるのである。

 我々は生きていれば、人間が不平等だと知って行くものだ。例えば男の子は女の子よりも腕力が強いものだ。だから女の子には手を上げてはならないということを教えられるものだ。女の子は男の子よりも美しくできているものだ。だから女の子はオシャレをして、自分を美しくすることで、自分に自信が持てるようにしなければならないのだ。

 子供たちの中には金持ちの子供として生まれて来る者もいれば、貧乏人の子供として埋めれて来る子供もいるのだから、貧富の格差をとやかく言うべきではないのである。子供なら貧富の格差があっても友達になれるものだ。一見、幸せそうに見える金持ちの家でも、何かしらの問題を抱えているものだし、一見、不幸に見える貧乏人の家では、実は家族が結束していて、それなりに幸せだってこともあるのである。

●イジメは深刻化するまで親にも解らないもの

 学校でイジメが発生した場合、まず我が子は親に通報して来ない。イジメを受けた程度で母親に言うような子供は逆に精神的に問題がある子供であろう。通常、イジメは深刻化するまで母親には解らないものなのだ。我が子が余りにも変だから、我が子に訊き出してみると、やっと事実が発覚したというパターンが殆どなのだ。

 イジメを受けた場合、我が子は被害者になっているので、我が子の意見だけを聞くことは非常に危険だ。加害者であるイジメっ子たちの意見を聞かないと、イジメの全貌を掴めないものなのである。かといってイジメっ子に事情を聞く訳には行かないので、自分の想像力を巧く活用して、どのようなイジメが行われているか掴んでおくことだ。

 イジメられっ子を一方的に同情するのではなく、イジメられっ子にもイジメを受け易いという落ち度があることを決して忘れないことだ。「イジメを受けたのなら、暴力を使って遣り返しなさい!」と教えるのが母親の役目だ。場合によっては格闘技を教える道場に連れて行き、そこで鍛えて貰うことだ。

 イジメられっ子は喧嘩の仕方を知らないということでは共通した弱みを持っているのだ。喧嘩の仕方を知らないから、イジメを受けた場合、各個撃破を選択し、敵の中心人物に徹底的な打撃を与えるということを知らないのだ。だからイジメっ子から集中砲火を浴びてしまい、ボコボコにされてしまうのである。

 学校で勉強さえしていればいいというものではないのだ。学校の勉強は社会に出ても役に立つことは少ないが、喧嘩の仕方は社会に出た時、幾らでも使えるようになるものなのだ。しかし喧嘩の仕方などは学校では教えてくれないので、格闘技の道場に行って教えて貰うのである。

●教師は絶対にイジメを根絶できない

 母親の中には、我が子がイジメを受けた場合、担任に連絡すればそれで解決してくれると思う母親たちがいるものだ。しかし断言しておく。教師は絶対にイジメを根絶できないのだ。そもそもイジメは教師が学校で平等教育をやっていることにその端を発しているのであって、イジメの仕掛け人にイジメの根絶を依頼しても、それは無理な注文なのである。

 もしも学校教員が師範学校を卒業していれば、イジメが発生した場合、その解決策を知っているものだ。まずイジメっ子たにに警告を発して、今後、イジメをしないように注意を促すのだ。それでもイジメを遣って来たのなら、イジメっ子たちを退学処分にするのである。イジメっ子は退学処分にするというのが、近代国家の教育現場では当たり前のことなのである。

 担任がイジメっ子を退学処分にしないから、イジメられっ子の方が学校を退学して、他の学校に転校せざるを得なくなってしまうのだ。イジメられっ子は、イジメられるくせを解消したわけではないので、転校したことで更にイジメられてしまうという危険性が高まってしまうのである。

 イジメを受けた場合、そこから逃げ出すのではなく、そこでそのイジメを解決してしまうべきなのである。イジメられっ子は自分が変わらない限り、必ず誰かからイジメを受けてしまうことに気付くべきなのである。イジメは言葉の暴力から始まるのだから、言葉の暴力を受けたら、より強い言葉で言い返したり、暴力を振るわれたら、徹底的に殴り返すべきなのである。

 担任は学級内でイジメが発生したことは、自分の教育の仕方に何かしらの問題があったと思うべきなのだが、平等イデオロギーに取りつかれてしまうと、このことが全くできなくなる。大方の担任はイジメの事実を揉み消そうとし、問題の解決を先送りしてしまうのだ。典型的な官僚主義の遣り方なのであるが、これを遣られるとイジメは更に悪化して行くものなのである。

●刑事被害者が出ている以上、警察が処理する問題

 では母親としては一体何をすればいいのか? 警察に通報すればいいのである。刑事被害者が出ている以上、イジメは警察が処理する問題なのである。学校にパトカーが遣って来て、イジメっ子たちが警察に補導されれば、担任は吃驚仰天してしまい、イジメの問題に真剣に取り組むようになるし、校長も校内にイジメがあったことに初めて気づき、学校をあげてイジメを根絶しようとし始めるのである。

 学校関係者たちや、教育学部の教授たちが、イジメについて様々な議論をして来たが、「イジメが発生したら、警察が処理せよ」という意見は聞いたことがない。だから幾らイジメに対策を打ってもイジメを根絶できないのだ。生徒が暴行をうけて負傷しているのだから、警察が出て来て処理すれば、イジメなど一発で解決できるものなのである。

 イジメられっ子が自分の力だけでイジメを解決しようとすると自殺する危険性が出て来る。自分は1人だが、相手はグループなのである。そのためなんの対策もないままイジメを解決しようとしても、必ず敵に負けてしまい、そしてイジメの苦しみから逃れるために自ら命を断ってしまうのだ。

 生徒の中にはイジメられっ子を助けようとして、自殺してしまう生徒もいるものなのだ。こういう場合、自分はイジメられっ子とイジメっ子たちの共通の知り合いであるために、どちら側の立場に立ってもジレンマに悩まされてしまい、そして脳がオーバーヒートを起こして、自殺してしまうのだ。この手の自殺を食らうと、両親はなんでこんなことで自殺しなければならないとおもうのだが、人間には自分の処理能力を超えてしまうと、自殺してしまうという機能が内臓されているのである。

 母親たちは学校で平等教育が行なわれている以上、いつでもイジメが発生すると思っておいた方がいい。だから学校不信に徹して、我が子とよく話すように心掛け、子供の異変に早く気付けるようにすることだ。それと同時に我が子を格闘技で鍛えて、イジメをう跳ね返すだけの力をつけさせておくことだ。そして伝家の宝刀として警察に通報するという手段を持っておけば、我が子がイジメを受けても、的確にイジメを解決して行ける筈なのである。、

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父母会の役割

●PTAだからこそ何も機能しない

 人間の行動についてこれだけは言えることは、外国人によって押しつけられた組織は絶対に機能しないということである。人間の行動には民族や国家によって独特の動きがあるために、外国で成功した組織を国内に輸入しても、そう簡単に巧く行くわけがないのだ。増してや外国人から強制的に押し付けれた組織は絶対に機能しないのだ。

 例えば昭和憲法がいい例で、憲法では第9条で戦争の放棄を規定しているのに、国会は平気で自衛隊を作り、毎年予算を与えてしまい、それを最高裁判所が憲法違反と判決を下すことなく存続し続けてしまっているのだ。憲法や法律といった国民の行動を規定するものは、必ずその国の国民の手によって作られ、制定されなければならないのだ。外国人が作った憲法や法律は、問答無用で無効なのである。これが国民国家としての当然の原理原則なのである。

 学校の現場では「PTA」こそこの法則が当て嵌まってしまう組織である。PTAは外国人が作ったからこそまともに機能しないし、未だにPTAという横文字を使っているから全く機能しないのだ。生徒の父母たちを悩ますのは、PTAの役員になって貰うことを要請された時であろう。たとえPTAの役員になっても、PTAはなんの権限も持っていないので、その役員たちが集まってお茶を飲む程度のことしかやらないから、時間の無駄になってしまうのだ。

 公立学校では未だにPTAだが、私立学校では既にその名称を廃止し、「保護者会」という名称に変えているものが多々ある。父母会ではなく、なぜ保護者会なのかといえば、「孤児上がりの生徒がいた場合にそれが差別になってしまうからだ」というのだ。大体、私立学校は学費を取られるために、孤児上がりの生徒は絶対に来ないし、殆どの生徒は両親揃っている家庭の子弟ばかりなのである。こういう所にも昭和憲法の悪影響が及んでいるのだ。

 義務教育の履行責任者は子供ではなく両親なのである。日本国民の中には未だに間違って捉えている人がいるのだが、義務教育だからといって、子供に義務教育を受けなければならない義務があるのではないのだ。親が子供に義務教育を受けさせる義務があるのであって、子供は親の決定に従っているだけなのである。だから生徒の父母には義務教育の執行に関して多大な権限を与えるべきであって、生徒の父母たちは父母会に集まって、学校が正しく義務教育を施すよう統制する必要性があるのだ。

●父母会だからこそ機能する

 PTAではなく父母会だからこそ機能するのである。保護者会ではなく父母会だからこそ機能するのである。父母会は学校不信の現れである。もしも学校が常に正常に機能してくれるのなら、父母会という組織は要らないのである。なぜ父母会が存在するかといえば、学校は放置しておけば悪事しかなさず、父母会が監視しなければその悪を糺すことができないからなのである。

①校長を選ぶ

 まず父母会には校長を選ぶ権限が与えられて然るべきである。校長こそが学校の経営を決定するので、その者を父母会が選べば、父母たちにとって望ましい教育が施されることになるからだ。校長はできる限り校内の教員や職員から選ぶべきであって、もしも人材が校内にいなければ外から引っ張ってくればいいのだ。

②学校の経営計画書を承認する

 校長が学校の経営計画書を作成した場合、校長は父母会に於いて経営計画書を承認して貰わなければならない。その経営計画書に基づいて学校が経営されて行くので、これを父母会が承認することは非常に重要な意味を持つのである。経営計画書に於いて経営の目標が明確になっていない場合、校長や教員や職員がどんなに一生懸命になって努力しても、なんの成果も得ることはできないのだ。

③教員の雇用に同意し、問題教師を追放する

 父母たちにとって優秀な教員を学校が確保しておけば、校内でレベルの高い授業が行われるようになるのだ。だから学校は出来る限り多くの優秀な教員を集めるべきであって、教員を雇用する際には父母会の同意を求めるべきなのである。それと同時に実際に授業をやらしてみて、その教員に問題がありすぎるなら、その問題教師を追放する権限を与えるべきなのである。

 これらの権限を父母会に与えてしまえば、父母会による学校への統制は確実に行うことができるようになる。逆に言えばこれだけの権限を与えなければ、父母会は学校を統制することができないのだ。権限があれば父母会での会合も価値あるものになるし、権限がなければ父母会自体が名誉倶楽部になってしまい、なんの価値もなくなってしまうのだ。

●政府の教育改革はなぜ失敗するのか?

 昭和憲法体制下の国政に於いて、首相が教育改革に手を出すとその教育改革は必ず失敗している。その首相は今の悲惨な学校教育を見て、なんとかせねばと思って教育改革をやったのに、自分の思いとは裏腹に教育改革をすることで、学校教育がより悲惨なものになってしまうのだ。

 理由は簡単なのである。政府主導で教育改革をしても、結局は政府の権限を強めてしまい、学校の現場で働く校長や教員や職員たちは政府の顔色を窺うことだけをするようになってしまい、肝腎の生徒やその父母たちにサービスを施そうという気がなくなってしまうのである。

 本当に教育改革をしたいのなら、PTAを廃止して父母会を設置し、その父母会に学校を統制できるだけの権限を与えてしまえばいいのである。そうすれば父母会は学校を統制しようとし出すので、父母会が学校を良くしたいと思えば改革を施して、優秀な成績を収められる学校に変わって行くことになるのだ。

 よく学校教育を批判する知識人は、「学校教育は画一的で怪しからん!」と言って来るのだが、学校教育は国民教育なのであって、それゆに全国共通のものでなければならないのである。国民として教育されるために画一的な教育になるのは、已むを得ないものなのである。学校教育が画一的になるのは、国民教育の当然の結論なのである。

 しかしそれを余りにも推し進めてしまうと、余りにも味気ない物になってしまい、多種多様な人材を生み出して行くことができないのである。国民教育として最低限のことを遣りつつも、その学校が独自性を出して行くためには、校長や教員や職員たちだけが頑張ってしまうのではなく、父母会によって学校を統制し、自分たちの子弟に最適の教育を施すことが必要になって来るのだ。そういう教育こそが独自性を持って来るのであり、多種多様な人材を生み出して行くことが可能になるのだ。

●最も多くの責任を持つ者に最も多くの権限を与えよ

 責任と権限の関係には或る一定の法則がある。それは「最も多くの責任を持つ者に最も多くの権限を与えよ」ということである。責任を多く持っているからこそ、その責任をきちんと果たすべく、多くの権限を持たねばならないのである。学校に於いては、生徒の父母たちなのであって、校長でも教員たちでも職員たちでもないのだ。現在の公立学校のように教員たちが職員会議に権限を集中させてしまえば、途端に公立学校全体がおかしくなって行ってしまうのである。

 親だからこそ我が子の教育に対して必死になるのである。特に小学校の場合、生徒が親から自立をしていないということもあって、父母たちは積極的に学校に介入していかねかなければならないのである。中学生や高校生なら自立を開始して来ているから、生徒たちの自治を重んじることができるが、小学生となればそうはいかないのである。

 父母会に於いて父母たちが集まるということは、そこで教育に関する情報が交換されるということでもあるのだ。そのため父母会に出席しているのなら、その情報を多く集めることができ、自然と最適な行動を取ることができるようになるのである。父母会が機能しないからこそ、児童虐待が起こったり、少年少女が凶悪犯罪に手を出すようになるのである。

 今まで様々な知識人たちが教育改革論を唱えて来たものだ。しかしその中で「PTAを廃止し、父母会を設置して、その父母会に学校を統制できるだけの権限を与えよ」という主張を目にしたことは一度もない。そのためそれらの教育改革論は小手先の改革案にしかならず、その改革案を実施してみても、多少は効果が上がっても、すぐに問題が多数生じて来てしまい、教育改革に挫折してしまうことになるのだ。

 人間には優れた人物から教えを乞いたいという感情があるから、教師に対して偉大な教師を求めてしまう。しかしそういうことを実際にやってしまうのは、非常に危険なのである。もしもその偉大な教師が暴走してしまった時には誰も止めることができないし、またその偉大な教師が輝かしい功績を収めて引退した後には、大きな権限を残したまま、それを使いこなせない教員たちだけが残ってしまうのである。教育に於いて、教師の質は問うべきであっても、かといって教師に過剰な期待をしてはならないのだ。

 大事なことは学校を組織化することなのである。教師の一個人に頼るのではなく、父母会が学校を統制するようになれば、生徒の父母たちは自分たちが望むような教員たちを必要に応じて確保していくことができるのである。歴史に名を残すような偉大な教師は百年に1度しか出現してこなくても、父母会が望むような優秀な教師はいつの時代にも必ず存在しているのである。だからこそ常に優れた教育を施し続けることができるようになるのである。

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校長の意思が通るなら、学校は必ず正常化する

●公立学校では職員会議が事実上の最高機関

 生徒たちから見れば、校長先生こそが学校の中で一番偉い人だと思うことだろう。しかし学校の現実は校長には大した権限がなく、職員会議こそが学校の事実上の最高機関になっているのだ。だからこそ職員会議から校長が糾弾されてしまえば、校長は完全に居場所を失ってしまうのだ。中には自殺へと追いやられてしまう校長も出て来るのである。

 民間人から見ると、これは驚きの光景なのである。会社で例えるなら、社員たちに会社が乗っ取られているのであって、社長が何もできない状態になっているからである。これで思い出すのが、戦後、はやった「民主経営」という奴だ。戦後、民主主義が絶対に正しいとされた頃、日本の会社の多くは民主経営なるものを実施し、社員たちを経営に参加させたのだが、その結果、殆どの会社は経営に行き詰まり、倒産して行ったのである。

 何かしらの組織を運営して行く際、全ての者たちを参加させようとすると、逆に組織が駄目になってしまうのだ。経営というのが解っているのは、組織の中で上位20%の人たちであって、それ以上多くの人々を経営に携わらせてはならないのだ。組織は経営の解る人物を抜擢し、それを養成して行き、後継者として迎え入れるということをし続けなければならないのだ。

 私立学校が優秀なのは、校長の権限が一番強いからなのである。どこの私立学校でも、職員会議が学校の最高機関になるという異常事態にはなっていない。校長こそに最大の権限を与えているために、校長が学校経営に全責任を持つと同時に、校長の意思が学校を貫徹することができるのである。だから私立学校の成績が常に公立学校を上回って来るのである。

 現在の公立学校では校長はいてもいなくても同じである。職員会議から学校経営の権限を奪い返さない限り、校長は教育委員会との連絡係程度に過ぎないのである。それと同時に教員たちにとっても職員会議を通じて学校経営を行わなければならないというのは大きな負担なのであって、このために確実に授業の質が低下するという事態を避けることができないのだ。学校に来て職員会議ばかりやっていれば、自分の教育能力を上げることなどできるわけがないのだ。

●学校経営会議

 この異常事態を解消するためには、校長は一体何をすればいいのだろうか? それは「学校経営会議」を作り、職員会議から学校経営の権限を奪い返すことなのである。校長が学校経営の権限を失ってしまったのは、校長個人に学校経営の権限があったからこそなのであって、それを校長個人ではなく、校長が主宰する会議に於いて学校経営について議論し、実行して行くようにすればいいのだ。

 学校経営会議は校長が議長となり、教頭と事務長という重要人物を迎え、校内に労働組合があるなら執行委員長を参加させ、それと財務担当の事務員を1名参加させればいいのだ。この者たちを参加させれば、学校内での重要人物を全て集めることができるので、会議そのものに反対が出て来ないのだ。

 学校経営会議はまず財務を掌握してしまうことだ。学校経営会議の決定がなければ、お金を使えないということになれば、職員会議が幾ら暴走しても確実に押さえることができるのである。財務を握ってしまえば、それ以降は学校経営に関して必要であると思われる権限を少しずつ獲得していけばいいのだ。学校経営鍵に労働組合の執行委員長が参加している以上、職員会議の権限を学校経営会議に移譲したとしても、労働組合の意見は通るから、それほど反対しないものなのである。

 校長は学校のお客様は生徒たちであり、その父母たちであることを決して忘れてはならない。出来る限り、自分で出向いて生徒たちやその父母たちと接触することだ。例えば成績が優秀な生徒たちを校長室に呼んで表彰したり、父母会などで父母たちの要望を聞くようにすることだ。学校にとっての重要な情報は全てそこから得られるのであって、校長室に閉じ籠っていたら、得ることができないのだ。

 学校というものは、校長に最大の情報がやってくるものなのだが、職員会議が事実上の最高機関になってしまうと、情報が校長の元には届けられなくなってしまうのだ。そのために学校経営に関して盲目になってしまい、職員会議の暴走を招いてしまうのである。自分が汗を流しながら得た情報こそ学校経営に役立つことになるので、せっせと情報を集めて行くしかないのである。、

●校長が絶対に持つべき経営計画書

 校長が絶対に持つべき物は、「経営計画書」である。経営計画書があれば、この学校を将来どのようにしていくかが解り、経営にブレがなくなり、経営が順調に機能し始めることになるのだ。職員会議がなぜ暴走してしまったのかというと、校長が学校の未来像を描かなかったからなのである。自分たちの学校の未来がどのようになるんだろうという不安こそが、職員会議の暴走のエネルギーなのである。いわば、職員会議の暴走は校長の無為無策にこそあったのである。

 人間には目標が定められると、それに向かって走り出すという本能を持っているのである。だから校長が「うちの学校をこうする!」と決めてしまえば、教員や職員たちもそれに従ってくるのである。教員や職員たちの活動によって学校の運命が決まるのではなく、校長の決定によって学校の運命が決まるのである。

 経営計画書では、まず自分たちの学校をどの分野で如何なる地位を獲得するのか明確にしておくことだ。勉強に重点を置くなら、その学校が存在する都道府県でトップを取るように目指し、スポーツに重点を置くなら、どれか特定の競技に集中し、その競技で日本一を目指すようにすることだ。

 それと共に資金運用計画を定めてしまうことだ。学校の資金には限りがあるので、総花的な予算を作るのではなく、資金を集中して使って行くことだ。例えば部活動を多く作るのではなく、部活動を絞り込み、或る一定の成績を出さない限り、廃部にしてしまうことだ。学校の全ての活動を見直し、不必要な物はどんどん削って行くことだ。その浮いたお金を学校が重点を置くべきものに投入していくべきなのである。

 経営計画書は事前に学校経営会議の了承を受けて、校長はこの経営計画書を全ての教員、全ての職員たちを集めて、発表することだ。その際、教員や職員たちからの質問は一切禁止することだ。組織の中には必ず馬鹿な人間がいて、校長が学校の未来を決める演説をしているのに、それにイチャモンヲ付けて来るのだ。国会で首相が施政方針演説をしたというのに、野党の代表が質問してくるあの光景を思い出せば、如何にこの手のイチャモンがバカバカしいものか解るものだ。

●校長は父母会で選挙されるべき

 なぜ公立学校の校長がここまで権限を失ってしまったかといと、その選出過程に問題があるのである。校長は教育委員会から派遣されてくるからこそ、誰も言うことを聞かなくなるのだ。学校を全国各地に整備して行く時期なら、教育委員会が校長を学校に派遣しても良かった。しかし学校の組織が充実してくれば、最早、そのような手法では学校を経営することができないのである。

 ではどうすればいいのかといえば、父母会が校長を選べばいいのである。生徒の父母たちこそ学校の教育に最も関心のある者たちなのだって、それゆえ父母会に校長を選ぶ権限を与えてしまえばいいのだ。父母会は基本的に学校の教頭を校長として選出し、もしも教頭が校長には相応しくない人物なら、教員や職員たちの中から校長を選出すればいいのだ。校内の教員や職員でも校長の適格者がいなければ、校長を外から呼んでくればいいのだ。

 父母会に校長選出の権限を与えてしまえば、基本的には教頭が校長に選出されるので、職員会議が暴走するということは有り得なくなるのだ。なぜなら教頭は職員会議の実態を知っているから、自分が校長に就任してしまえば、真っ先にするのが職員会議から権限を奪うことなのである。教員たちがここまで腐ってしまったのは、自分たちが努力すれば校長になれるという希望を抱くことができなかったことにこそあるということに気付くべきなのである。

 教員たちに校長になれる可能性が出て来るなら、職員会議を暴走させることなどなくなるものなのだ。職員会議も本来の機能に戻し、校長を糾弾するようなことがなくなるのである。そうなれば会議漬けになった日々におさらばすることができ、その空いた時間を自分の教育能力を高める時間に費やすことができるようになるのである。公立学校の教員たちは、教員を駄目にしているのは、職員会議であるということに気付くべきなのである。丁度、大学の教授会が教授たちを駄目にしているように、会議に大量の時間を奪われてしまえば、自分が本来やるべきことができなくなってしまうのだ。

 校長は学校に於いて校長の意思が通るなら、必ず学校は正常化することを知っておくべきなのである。職員会議がどんなに凶暴化しようとも、教員たちは学校の経営に責任を持つことはないのだ。学校経営に責任がないからこそ、無責任極まりないことを仕出かして来るのである。学校経営に責任を持っているのは、校長ただ一人であるということを、校長で居続ける限り肝に銘じておくべきなのである。自分が学校の最高責任者だと解っていれば、校長としてやるべきことをきちんとやれるようになるものなのである。

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学級通信は貴重なアイテム

●親たちとは学級通信で情報を知らせておく

 憲法上定められている「教育の義務」は、それを履行するのは生徒の両親なのであって、生徒たちは親の決断によって学校に来て、勉強しているにすぎないのだ。よく子供たちの中には「教育の義務」を自分に課せられたものだと勘違いしている子供がいるものだが、これは完全に間違っている。飽くまでも「教育の義務」は両親に課せられているのだ。

 自分のやっているビジネスが完全におかしくなってしまうのは、自分たちのお客様を不平不満を言い出してくる辺りからなのである。嘗て日本航空の客室乗務員たちはマナーの悪い顧客リストを作ったのだが、この後に遣って来たのは日本航空が倒産の危機に見舞われるという事態だった。客室乗務員はお客様にサービスを施すのが最優先の仕事なのに、お客様に対して悪口を言ってくれば、そんな企業は倒産して然るべきなのである。

 現在、学校教育の現場でも、教師たちはお客様に平気で悪口を言っている有様である。問題を起こす親たちを「モンスターペアレンツ」と称して見下しまくっているのだ。モンスターペアレンツなど新しい現象ではないのだ。昔は裕福な家庭の母親たちが事あるごとに学校に苦情を入れて来たものだ。しかし今では貧しい家庭の母親たちでも問題があれば学校に苦情を入れて来るようになったのである。

 なんでこんなことが起こって来るかといえば、それは母親の側が情報不足に陥っているからなのである。現在は少子化なので、母親はそれだけ我が子に大金を注ぎこんで来るのである。それなのに学校でどのような教育が行われているか解らなければ、母親は不安になってしまい、学校に事あるごとに苦情を入れて来るようになるのだ。昔は金持ちだけが少子化だったが、今では貧乏人まで少子化になっているので、我が子がポシャッては困るのである。

 こういう場合、担任は「学級通信」を作って母親たちに学校での情報を知らせておくべきなのである。情報不足に陥っている母親といえども、学級通信を読めば、学校の情報を知ることができるから、学校に怒鳴り込んで来ることが減少していくことになるのだ。学級通信は生徒向けなのではなく、学級通信は母親向けなのである。

 担任の中には、学級通信を作らず、生徒たち1人1人に連絡ノートを作って情報を遣り取りしようとする者がいるが、生徒との連絡ノートは非常に有害なのである。大体、生徒たちは連絡ノートに本音を書いて来ないし、もしも担任と生徒との間で喧嘩になってしまえば、誰も仲裁することができなくなってしまうのだ。それに生徒1人1人と連絡ノートを遣り取りするのは、教師の負担が多くなりすぎてしまい、授業の準備に充分な時間を注げなくなってしまう危険性が出て来るのだ。

●学級通信の作り方

 学級通信は、夏休みと春休み以外、毎月発行するようにすることだ。1ヵ月に1度、学校での情報を集めて、それを伝えて行けば、母親たちは充分な情報を得ることができるようになるのだ。学級通信を作る時は、適当に書いてはならない。学級通信の購読者は生徒の母親たちであると限定し、必要な情報を圧縮して伝えて行かなければならないのだ。

①内容を圧縮する努力をする

 学級通信はA4の紙1枚に納まる程度のものでいい。書きたいことが沢山あるのなら、A4の紙2枚を限度にすることだ。情報を多く書いた所で母親たちが読むとは限らない。母親たちは家事や子育ての合間に見るのだから、情報量が多過ぎてはならないのだ。内容を圧縮して、それを解り易く伝えて行く努力をし続けることだ。

②特定の生徒を褒める

 記事の大半は学級で起こったことを書けばいいのだ。それにプラス、学級の中で手柄を立てた生徒を学級通信の中で褒めることだ。具体的に個人名が出されると、その生徒の母親はビックリして大喜びするものだし、他の母親たちは一体何をすれば先生から褒められるのかが解り、子育てをし易くなるのだ。

③プライベートのことも書く

 学級通信は学級で起こった出来事だけを書くのではなく、担任のプライベートのことも書くことだ。結婚しているのなら家族のこととか、自分の趣味を紹介したりするのもいい。こういうことを書くと、母親たちにとって担任への親近感が強まり、ただ単に学校の先生だとは看做さなくなるのだ。

④笑いを取る

 出来ることなら、学級通信で笑いを取ることだ。学級通信の記事全部が堅苦しい内容であっては、読者たちの方が疲れてしまうものだ。記事のどこかに笑いを取るようにするのだ。反対に絶対にやってはならないには、自分で作った俳句や短歌や詩を入れてくることだ。これをやられると、母親たちは引いてしまうのだ。

⑤両面印刷にする

 学級通信の両面印刷にすることだ。片面印刷だと母親たちの中には読むことなく、メモ用紙に使ってしまう母親たちがいるものなのである。学校内での連絡は片面印刷で行ってもいいが、母親たちとの連絡には両面印刷にして、その学級通信を読まざるを得ないように持ちこむべきなのである。

●学級通信の記事を書く時間帯

 学級通信を作って母親たちに配布しても、イマイチ反応が悪かったり、更には苦情が来るようでは、学級通信の出来が悪いからなのである。母親としては読むのに耐えない記事を学級通信に載せ来るからこそ、なんの反応もして来ないし、更には苦情を言って来るようになるのだ。

 こういう場合、記事を書いている時間帯が悪すぎるのである。学級通信の記事を学校の授業が全て終わった後に書いても、脳は授業で疲れ切っており、一生懸命に書いても、いい記事を書くことができなくなってしまうのだ。学級通信を失敗させている担任は、必ずといっていいほどこれをやっているので、学級通信を書く時間帯を変更するべきなのである。

 では一体いつ書けばいいのかというと、それは「早朝」である。早朝は脳にエネルギーが満タンになっており、しかも脳の機能そのものが非常にクリアになっているのだ。だから早朝に学級通信の記事を書くと、非常に出来のいい記事を書くことができるようになるのだ。そういういい記事だからこそ、学級通信に載せれば、高い評価を受けることができるようになるのだ。

 学級通信の記事は1日2時間かけて、それを2日繰り返せばいい。それに推敲と編集で1日を要するので、合計3日で出来てしまうものなのだ。1回で全ての記事を書き切ろうとしても、必ず記事に無理が生じてしまうので、必ず2日に分けて書くようにすることだ。推敲は自分でやるべきだが、結婚しているのなら配偶者にもチェックして貰うことだ。誤字脱字は必ず発生すると思っておいた方がいいので、自分1人だと誤字脱字を見逃してしまう危険性が出て来るのだ。

 解るだろうと思うが、学級通信を作るという作業は典型的な勤務時間外労働なのである。残業代など一銭もつかないのだ。しかしこれをやるからこそ母親たちに学校での情報を伝えることができ、トラブルを最小限に抑え込むことができるようになるのである。「モンスターペアレンツ」がどうのこうの言っているのなら、その教師はこの作業をしていないんだなと思うことだ。自分が教師としてやるべきことをやっていないからこそ、母親たちを怪獣に変えてしまうのである。

●学級通信を貰ったのなら、まずはその努力を褒めてあげよう!

 母親たちは学級通信を貰ったら、読まずに捨てるなんてことをしてはならない。学級通信を読めば、学校で起こっていることがなんとなく解って来るようになるからだ。それに学級通信を作って来る教師は、教育熱心な教師だと判定していい。学級通信を作るのは面倒なものだし、増してやそれを作り続けるのは、非常に面倒臭いことだからだ。

 学級通信を貰ったのなら、まずはその努力を褒めてあげることだ。全ての担任が学級通信を作って来る訳ではないのだ。担任の中でも学級通信を作って来るのは、真面目な教師たちだけなのである。その担任に我が子が当たっただけでも幸運だと思った方がいいのだ。

 現実問題として、第一子を育てていると、第一子は学校で起こったことをきちんと話してくれないのだ。母親が幾ら第一子に学校で起こったことを聞いても、要領の得ない回答しか出て来ないのだ。それが学級通信を貰うことで担任から直接学校で起こったことを知らせて貰えるから、学級での出来事が手に取るように解るのである。

 モンスターペアレンツになってしまう母親は、大抵が第一子がきちんと喋って来ないということが原因で凶暴化してしまうだけなのだ。子供が多くいるなら、第二子は第一子と違ってきちんと喋ってくれるようになり、しかも母親自身が下の子供たちの育児に追われるので、学校のことなど重視して来ないのだが、子供の数が少なければ、そういう現象が起こらないのである。

 少子化になっている現代では、学級通信は必要なアイテムなのである。子供を1人や2人しか生まなければ、幾ら育児や子育てをしても、母親としてはまだまだ未熟だ。昔なら未熟な母親など少なかったけれど、少子化にねれば未熟な母親が大量に出現してきて、我が子に何か問題が起これば凶暴化してしまうものなのである。母親を凶暴化させないためにも、担任はせっせと学級通信を作って、配布していかなければならないのだ。

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生徒たちの自治

●1人の人間が統率できるのは10人まで

 人間は或る一定の法則で動いている。その法則は民族や国家など関係なく、普遍性を以て適用して来る。人間の集団に関しても法則がある。例えば人間が直接統率できるのでは、10人までである。10人を超えてしまうと、直接統率することが難しくなる。だからどこの軍隊でも10人で分隊を形成させ、それが軍隊の基礎組織となっているのだ。

 そして人間は21人以上集まると、それ以降、まともな会議ができなくなる。会議の参加者たちの中から、無関心になったり、お喋りをする連中が続出してきてしまうのである。重要な会議をしたいのなら、絶対に参加者を21人以上にしてはならないのだ。10人以上21人以内というのは、直接に統率できるほど小さくはないが、かといって直接に統率しても無理が出て来る人数なのである。

 20人学級にするのか、40人学級にするのかという議論があるが、この法則を知っていないと、全く無駄な議論になってしまう。20人学級というのは、担任が生徒たちを直接統率できないが、生徒たちと会議をすることはできる人数なのである。20人学級を理想としたのは、ユダヤ教の経典『タルムード』に由来するもので、ユダヤ教の場合、ただ単に勉強すればいいというのではなく、議論をも重んじたから、こういう規定を設けてきたのである。

 生徒数が20人を超えてしまえば、後はどの学級も同じだ。現在の日本の平均的な40人学級では、担任は生徒たちを直接統率できないし、会議すらもまともに行うことはできない。だから担任は直接統率してはならないし、会議すら開いてはならないのだ。もしも担任がこれに反すれば、担任の意思が生徒たちに伝わらないし、生徒たちは暴れ始めて、担任は暴力を使って収集を図らざるをえなくなってしまうのだ。

 ではどうすればいいのかといと、「班を作る」しかないのだ。5人で1つの班を作り、その班長たちを集めて学級委員会を作り、そこで統率していけばいいのだ。40人学級で8つの班ができるから、担任といえども直接統率することが可能になるのだ。担任は学級委員会を通じて学級を運営していくべきであって、学級委員会→班という流れを絶対に無視してはならないのだ。

●学級委員会と学級会

 学級委員長は学級委員会が自ら選らべばいいのだ。学級委員長というのは、その基本的役割は「担任との連絡係」なのであって、そのほかに学級委員会の主宰したり、学級会の司会者になったりする程度なのである。そのような人物をわざわざ学級会で選ぶことはないのだ。、班長同士が集まって学級委員会を形成している以上、どこかの班長が学級委員長になればいいのである。

 学級委員長は強力な権限を持っていない以上、誰か特定の生徒をい1年間、学級委員長にし続けてしまうことには問題がある。その生徒は1年間に亘って、他の生徒たちから「学級委員長!」と言われ続けてしまうからだ。1人の生徒に過大な負担がかかってしまうのである。

 そこで学級委員長は学期ごとで交代させればいいのだ。できれば学級委員長は男女ペアにしてしまうと、学級委員会のメンバーの大半が学級委員長の経験者になれるので、学級委員長の運営の仕方が、全ての班長たちに伝わって行くことになるのだ。学級の中で誰が1人を学級委員長にしなければ、班こそ学級の主体になるので、生徒たちの意見が逆に反映され易くなるのである。

 学級が抱える通常の問題は学級委員会が処理してしまえばいいのであって、無闇に学級会にかけることはないのだ。40人学級なら学級会がまともに機能してこないので、通常の問題であるなら学級委員会が処理してしまった方がいいのである。学級委員会が決定したことを班に伝え、班も自分たちで話し合ったことを学級委員会に伝えて行けば、双方にストレスがかからなくなるのだ。

 学級会というのは、年に数回開けばいい程度のものなのである。例えば運動会で誰がどの競技に出るのか、修学旅行はどのようにすべきか、学芸会では何をやるか、とかそういう類の議題を処理しすればいいのである。生徒が40人もいれば会議が難航するのは当たり前で、長々と会議を開いて、1つ1つ決めて行くしかないのだ。

●生徒会

 生徒会というのは、学級委員長たちの集まりに過ぎないのであって、学級の連絡組織なのである。どの学校にも生徒会には強力な権限は何もない筈だ。だから生徒会長は生徒たちの選挙で選ぶべきではないのだ。生徒会の出席者たちが互選で選べばいいのである。生徒会長は生徒の代表者とかいう類のものではないのだ。

 小学校の中には生徒会長を全生徒たちの選挙で選んでいる学校があるが、これほど無駄なことはないのだ。生徒たちが生徒会長を直接選んだとしても、生徒会長にはなんの権限もない以上、生徒会長は何もすることができないのだ。なんの権限を持っていない者を選挙で選ぶべきではないのだ。

 小学校なら、生徒会長は6年生の学級委員長たちが交代で務めればいいのだ。一人の学級委員長を生徒会長にし続けてしまうと、その学級だけが得をしてしまう危険性があるので、6年生の学級委員長が交代で務めれば、その弊害を防げるのだ。しかも6年生の学級委員長たちが結束することで、他の学年に対して優位に立てることができるのである。

 どこの小学校でも生徒会が正常に機能している学校はない。生徒会は学級の連絡組織であるということを明確に理解していないために、生徒会に異常な権限を与えてしまったり、生徒会を暴走させてしまったりしているのである。生徒会はそれぞれの学級の意見を調整するということが解っていなければ、生徒会の本来の機能を果たすことができないのだ。

 生徒会が正常に機能すれば、生徒会は学校の中で優秀な成績を持つ生徒たちの集まりとなるものだ。そこで生徒会を機能させると同時に、交友組織としても展開することになりうるのだ。そこで優秀な生徒たちが仲良くなってしまい、更に素晴らしい知的刺激を得ることができ、それによって益々学力が向上していくことになるのである。逆に言えば、その学校の生徒会のメンバーたちを見れば、その学校の学力が大体どの程度なものか解るものなのである。

●「民主主義の実験」の犠牲者たち

 現在、日本の小学校の学級会も生徒会も本来の機能を果たせず、民主主義の実験台にされてしまっているのだ。そのため学級会も生徒会も異常な活動をしまくっているのである。小学校を卒業し、自分が大人になってしまえば、「あの学級会や生徒会は一体なんだったんだ?」と思う時があるが、あれは教師たちが民主主義を使って学級会や生徒会を滅茶苦茶にしていただけなのである。

 「生徒たちの自治」と、「民主主義」は全く異なるものだ。生徒たちの自治なら生徒たちは自分たちのために必要な活動をするものだが、民主主義を用いられてしまうと、生徒たちは正常な行動をしてくることはなくなるのだ。民主主義を取り入れて以来、日本の国会が滅茶苦茶になっているように、学級会も生徒会も滅茶苦茶になってしまっているのだ。

 ビジネスをしていると、この人物は優秀な能力を持っているのに、なぜだか目立った功績を立てて来ることがない人物がいるものだ。その手の人物たちは大抵が「昔、学級委員長だった」とか「昔、生徒会長だった」とかいう人たちなのである。学級委員長になれたとか、生徒会長になれたとかいうなら、学校では優秀な成績を収めた生徒だったことであろう。しかし権力が殆どない役職に就いてしまったために、組織というのはこういうものだろうと間違って思い込んでしまっているのだ。

 会社の社長になれば社員たちを統率していかなくてはならない。かといって全ての社員たちを直接統率できるわけがないのだ。会社内に組織を作って社長の意思が貫徹するようにしなければならないのだ。その一方で社員たちの権利を認め、社員たちによる自治をも巧く活用して行かなければならないのだ。

 会社という組織は絶対に民主主義では動かない。会社に民主主義を持ち込めば、どの会社だって業績が悪化し、倒産していくことになるのだ。会社に必要なのは指導者原理と自治原理なのである。社長として会社を経営したり、会社の中で社員として働いていれば、これが解るものなのに、小学校の時に民主主義の実験台にされてしまったがために、その洗脳が大人になっても解けないのだ。

 アメリカでも哲学者のデューイが民主主義を学校に用いるよう提言したために、アメリカの学校は滅茶苦茶になってしまった。日本の学校でも戦後、民主主義を学校でも用いたために学校が滅茶苦茶になってしまった。学校の教師たちは民主主義を用いても生徒たちは自治ができないし、学校も機能しなくなるということが解らないのだ。民主主義という古代ギリシャを滅ぼしたイデオロギーを使ってしまえば、学校も滅んで行くのは当たり前のことなのである。

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職員室を廃止して、生徒たちに密着せよ

●教員が消えた学校

 学校というのは、教員と職員からなる。教員は生徒たちに教育を施すことを担当し、職員は学校の事務を行うことを担当する。この教員と職員を合わせて「教職員」というのだ。教員と職員とでは要求される学歴も身分も異なる。教員は大卒以上の学歴を持っていなくてはならないし、職員にはそんな高学歴を要求されない。給料も教員は高いのに対して、職員は安いものなのである。

 日本は占領中に師範学校を潰されてしまったのだが、その変化が如実に現れているのが、学校には職員室しかないということである。教員室がないのである。職員室しかないということは、学校には教員がいないということなのである。学校から教員が消えて、全て職員になってしまったのである。

 日教組もこの異常な時代に生まれて来た労働組合であるのだ。日教組は飽くまでも「日本教職員組合」と名乗っており、教職員による労働組合になっているが、日教組はその労働運動の中で教員と職員の身分差別の解消をやってのけてしまったのである。これをやられれば、教員は身分保障を失い、単なる労働者にまで成り下がってしまったのだ。日教組の最大の過ちは、教員たちからエリート意識を奪ってしまったことなのである。

 日教組も日本の労働運動の流れの中から生まれて来たのであるが、日本の労働組合の優れた点をあげるとするなら、製造業でのホワイトカラーとブルーカラーの差別を廃止してしまったことなのである。先進国なら当然に存在する筈の社内での身分差別を取っ払ってしまったのである。だから日本の製造業は欧米の製造業に対して圧倒的に強いのである。なぜならもしも会社が業績を上げるために組織改革を乗り出す時に、欧米の企業ならブルーカラーの首切りを平気で行うのだが、日本の企業なら社内で社員を融通しあったり、子会社に出向させることで人材を巧く調整してくるのだ。このため日本の企業で解雇が余り行われず、社員をプールすることで、経験値をつけさせてしまい、結果的に優秀な社員になってしまうのである。

 しかしこれを教育の世界で遣ってしまうと、途端に悲惨な事態が現れて来てしまうのである。教育業は第三次産業に属するので、教員と職員の身分が解消されてしまい、教員も職員も給料が殆ど同じというのでは、勤労意欲が激減してしまうからなのだ。普通、教員は職員よりも遥かに給料が高いものなのである。有名な話であるが、高等学校の教員をやっていた夏目漱石の給料は校長の給料よりも高かったのである。教員というのは知的エリートであるために、当然に高い給料が支払われるものなのである。それなのに日教組は教員と職員の身分差別を解消してしまったために、全ての教員たちは安い給料で暮らさざるを得なくなってしまったのである。

●職員室があるからこそ、教師たちが真面目に働かなくなる

 小学校の場合、担任が全ての教科を担当することになるので、授業の度に職員室に帰って来るのは、「時間の無駄」なのである。職員室に帰って来るより、教室に居続けてしまえばいいのだ。休憩時間を利用して、生徒たちと話していれば、生徒たちの情報を集めることができるので、学級運営を効果的に行えるようになるのだ。授業の度に職員室に帰って来るからこそ、生徒たちの情報を掴みきれなくなるのだ。

 大体、学校に職員室があるからこそ、教師たちが真面目に働かなくなるのだ。どこの学校でもそうだが、教師の机というのは整理整頓がなされていないものだ。机の上が乱雑になっている者が、明解な思考をすることなど絶対にない。必ず碌でもない考えをして、周囲を大混乱にさせてしまうものだ。

 通常、6時限目まで真面目に働けば、疲れ切ってしまうものだ。教育という仕事は頭を使う仕事のために、脳が疲れてしまうものなのである。だから仕事が終わったら、とっとと帰宅すればいいのである。教員は仕事が終わると自宅に直行する確率が高いが、会社のサラリーマンのように帰り際にお酒を飲んで憂さを晴らすということができないのだ。脳の疲労を解消するためには、自宅で読書をするのが一番効果的なのである。

 ところが職員室があるばっかりに、ダメ教師たちがダメ教師たち同士で仲良くなってしまい、ダメ教師たち同士で徒党を組むようになるのだ。教員であるなら、本来は知的エリートなのだから、労働組合などには入らないものなのである。しかし知的エリートの自覚がなく、給料が安いので、労働組合が出来上がって来るのである。労働組合が出来上がれば、その内、教員としての仕事よりも、組合の仕事に熱中し始め、学級の成績が急激に低下して行くことになるのである。

 昭和憲法体制下の教育問題は、要は日教組問題だと言い切ってしまうことができる。しかし日教組を潰せば日本の教育問題の全てを解決できるのではなく、教員の身分保障の問題や、職員室が存在することも問題や、授業そっちのけで組合活動に熱中している教員を解雇する権限を校長に与えるか否かという様々な問題を含んでいるのだ。

●教室に担任の机を持ってこさせればいい

 現在の小学校が出来ることといえば、教室に担任の机を持って来させるということなのである。担任が常時教室内にいれば、生徒たちを常に監視することができるので、イジメのような問題が起こらなくなるのだ。イジメの問題が深刻化するのは、担任の見えない所で発生するために、イジメがエスカレートしてしまうからなのである。

 担任にとっても常時教室内に居続けてしまえば、生徒たちの情報収集をすることができるので、全ての生徒たちに的確に教育を施すことができるようになるのだ。生徒たちは千差万別なので、授業で一方的に話していても、生徒たちを理解することはできないものなのだ。矢張り時間をかけて、それぞれの生徒たちと話すということが必要なのである。

 担任は生徒たちを理解することができるようになれば、授業のレベルや速度を的確に調整することができるようになるので、教育の成果が格段に高くなって来るのである。授業自体は平均よりもやや高めのレベルで行い、生徒たちの反応によって速度を変えて行けばいいのだ。もしも授業で解らないことがあるのなら、休憩時間中に質問させるようにすればいいのだ。

 生徒たちにとって教室内に常に担任がいることで学級活動が円滑に行えるようになる。生徒たちが学級会を開く時は、常にぎこちないものになってしまうのだが、これは担任が学級会に参加しているからなのである。生徒たちにとって余所者が紛れ込んでいるからこそ、生徒たちは緊張してしまい、自由に発言して来ることができなくなってしまうのだ。ところが担任が常時教室に居続けてしまえば、余所者ではなくなるために、生徒たちが緊張するということがなくなるのだ。だからこそ学級活動が円滑に行われ、生徒たちはきちんと自治を行うことができるようになるのだ。

 中学校や高校になれば、教科ごとに教師が違うために、担任が教室内に居続ける必要性はなくなるものだ。しかし小学校では担任が全ての教科を受け持つのだから、その日の最後の授業が終わるまで、教室に居続けるべきなのである。小学校での教え方と、中学や高校での教え方は全く異なるものなのである。

●殺人事件を起こす生徒が「普通のいい子でした」というわけがない

 生徒が殺人事件を起こした場合、その学校の校長が報道各社との会見に応じ、「普通のいい子でした」と言って来るものだが、殺人事件を起こす生徒が普通のいい子であるわけがないのだ。大体、校長がその学校の全ての生徒を知っているわけがないのだから、こういう時はその生徒の担任を出すべきなのである。担任が一番良く知っているわけなのだから、担任に喋らせるのが最も正確な情報を得ることができるものなのである。

 担任というのは、自分が長年、教員生活をしていれば、こういう生徒は安全だとか、こういう生徒は危険だとか解るものだ。もしも危険な生徒がいたのなら、事前に押さえ込んでしまい、犯罪を起こさないようにさせるのは、担任としての当然の義務なのである。それをやらないからこそ、警察沙汰になってしまい、取り返しのつかない事態になってしまうのである。

 職員室に閉じ籠るからこそ、生徒たちを理解できなくなる。職員室から出て、生徒たちと接していれば、自然と生徒たちを理解できるようになるものなのである。教員の中には職員室でやる仕事があるという人もいるだろうが、それは重要ではない仕事なのである。教員にとって重要な仕事は教室に行かなければ存在しないのである。

 人気のある学習塾とかでは、講師が休憩時間の時に生徒たちと話をよくするものだ。その会話が知的に面白かったりするので、生徒たちは益々学問に精進して来るようになるのだ。教師が授業だけしていれば生徒たちは勝手に勉強して来ると思い込むのは非常に危険なのである。休憩時間を巧く利用するということをしない限り、生徒たちは勉強熱心にならないものなのである。

 現在の小学校は様々な問題を抱えてるが、担任の机を教室内に持って来させれば、かなり多くの問題を解決して行くことができるのである。それだけ担任たちが生徒たちの情報を把握していないということなのである。生徒たちをよく理解できていないからこそ、授業も程度の低いものになってしまうのである。だから教室に常時居続ける対策を取れば、生徒たちを理解できるようになり、成績を上げて行くことができるようになるのだ。

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教育の技術は劣化するくせに、それがばれにくいもの

●教育の技術は4年から6年で劣化してしまうもの

 ありとあらゆる技術は劣化していくものだ。だから定期的にその技術を見直す作業が必要となるのだ。教育の技術も例外ではない。しかし教育の技術は必ず劣化するのに、その劣化がバレにくいという現象が起こって来るのだ。なんせ教育の相手は未成年者たちであるために、もしも教師が教育をしてもその成果が上がらないのなら、生徒たちが遊んでいたからだと言い張ってしまえば、自分の劣化した技術を隠蔽することができるのである。

 どんなに優秀な教師であっても、教育の技術は4年から6年で劣化してしまうものだ。自分が4年から6年もの間、教壇の上に立ちながら教育を施して行くと、本来なら効果があるような教え方がどうも効果が出なくなり始めたり、教師自身が不要な知識を溜め込んでしまって、授業の中で不要な発言を多くしてしまったりと、明らかに教育の技術の劣化が目立ち始めるのだ。

 現在、日本では師範学校が存在しないために、大卒後、教師になった人は、就職後3年以内で教育能力が底をついてしまう筈だ。教育の基本的な知識や技術を大学では教えられていないために、自分がどう立ち回っても、教育能力は底をついてしまうのだ。だから教師になったのに、精神病を患ってしまったり、犯罪を起こしたり、早期に退職してしまったりする教師たちが続出してくるのである。師範学校を潰してしまった弊害が、若い教師たちに如実に出て来てしまうのである。

 教育の技術の劣化は幾ら隠蔽しても、教師自身が最も解っているものだ。自分が持っている教育の技術が高いものなら、自分が生徒たちに教育を施せば、確実に教育の成果が出て来るのであって、それは非常に面白いものだからだ。しかも生徒たちが勉強やスポーツに熱心になるために、学級が異様なエネルギーを発して、教師自身が疲れを知らない体になっていくからだ。

 自分たちが勤めている学校の評価が落ち始めたということは、その学校教員たちの教育の技術が低下して来たということなのである。通常、学校が荒れ始めると生徒たち自身を問題視してしまうが、荒れている学校というのは教師の質が低いからこそ、生徒たちが勉強もスポーツもしなくなっているのである。だから学校を立て直すためには、まずは教師の質を高めて行く努力をしなければならないのだ。

●「日記をつける習慣」と「研究テーマの設定」

 教育の技術を劣化するのを遅らせるためには、教師自身が教育の技術は劣化していくものだと理解し、日々の仕事の中で自分の教育の技術を見直して行くことが大事なのだ。自分が学校教員になったらそれで終わりなのではなく、学校教員で有り続ける以上、自分の教育の技術を常に見直し続けなければならないのだ。

①日記をつける習慣

 そのためにはまずは日記をつけることだ。正確には「日誌」というべきなのだが、個人レベルでその日の出来事を記すために日記の方がいいのだ。日記をつけていれば、今の自分が一体なんの問題を抱えているかが解るようになるのだ。問題点が解れば、早急に対策が打てるよういなるのだ。もしも日記をつけないと、自分の問題点がなかなか解らなくなってしまうのである。

 日記をつけるのが嫌なら、1週間に1度、自分一人で反省会を行うことだ。今週1週間、自分の仕事の成果はどのようなものであったかを振り返り、その問題点を探し出してしまうのだ。週に1度なら、日記をつけるように日々負担しなければならないことがなくなるので、負担を軽減した形で反省会を開くことができるようになるのだ。

②研究テーマの設定

 それと共に、自分で学校教員としての研究テーマを定めてしまうことだ。例えば「国語を効果的に教えるためにはどのようにすればいいのか?」という研究テーマを持って取り組むのだ。国語の授業はよく解らないという生徒たちは多いものだ。しかし通常、教師はそれを無視してしまうものだ。だが研究テーマがありさえすれば、その生徒たちに歩み寄り、「一体どこが解らないのか?」と聞くこともできるし、本を購入して調べることもできるようになるのだ。

 研究テーマは「1年間の研究テーマ」と「5年間の研究テーマ」の2つを持っておくことだ。1年間の研究テーマは自分が受け持つ学級と並行して研究していけばいいし、5年間の研究テーマは学級とは関係なく、学校教育に必要な物を研究すればいいのだ。こうすることによって、自分の研究成果を直接に自分の学級に投入することができるし、その一方で自分の研究成果が自分の学級だけに起こる特殊的なものであるということから免れることができるのである。

 もしも日記をつけず、研究テーマ、も持たずに仕事をしていると、あっという間に1年が過ぎ、3年が過ぎ、10年が過ぎ、そして定年退職を迎えてしまうのだ。学校教育では教育技術の劣化を隠蔽することが幾らでも可能なので、日記をつけくとも仕事はできるし、研究テーマを持たずとも仕事はできるのだ。だが定年退職を迎えた時には明らかに無能な教師と化しており、その教師が退職してくれたお蔭で、同僚たちも生徒たちも清々することになるのだ。

●研修と試験

 教育の技術を定期的に向上させなければならない。これは学校側がやるべきであって、そのためのシステムを構築すると共に、教育の技術を向上できなかった者を解雇するという権限を持たせないと、教育の技術が劣化した教師が学校に居座ってしまうことになるのだ。学校で教職員の労働組合の力が強まると、教師の教育技術が劣化していくのは、教育技術を向上できなかった者の解雇を阻止してしまうからなのである。

①研修

 学校は定期的に教師たち全員に研修を施さなければならない。在り来たりの研修を用意してしまうと、教師たちは真面目に研修を受けなくなり、ただ飲酒をするということに終わってしまうので、高度なプログラムを用意しておくことだ。研修として効果がある研修は矢張り宿泊を伴う研修であって、最低でも2泊3日の研修にしてしまえば、否が応でも研修の効果は高まるのだ。

 研修が最も必要なのは、実は教頭である。教頭は教員たちのトップに君臨するので、この教頭の出来がよければ、他の教員たちの出来も自然と良くなるのだ。研修というのは、その参加者たちの20%に研修の効果が出始めると、集団の力が働いて、全ての者たちに研修の効果が出て来るようになるのだ。だからまずは教頭に対して研究の効果が出てくれば、他の教員たちにも研修の効果が出て来るようになるのだ。

②試験

 学校が研修を施しても、教育技術を上げることができない教員は必ず出て来るものだ。そういうものは免許更新試験で落としてしまい、教員になれないようにすべきなのである。問題教師は教育の技術がなかいからこそ学校の現場に於いて問題を起こしているのであって、それを免許更新の際に落としてしまえば、穏便に解雇に持って行くことができるようになるのである。

 現在の日本で問題を起こしているのは、1度免許を持ってしまうと、その後に更新試験を受けない職業に就いている人たちばかりなのである。「弁護士」であり、「医者」であり、「学校教員」であるのだ。だからこそ日弁連や日本医師会や日教組が異常な権力を持って国政を振り回しているのである。日弁連のために日本の司法制度は滅茶苦茶になってしまったし、日本医師会があるために国家財政は破綻してしまったし、日教組があるために日本の学校教育は駄目になってしまったのだ。国政に手を出せるような過剰な権力を持つ団体は政治の力を使って必ず叩き潰すべきなのである。

●学校内での評価システム

 学校教員という仕事は頭脳労働に属するのだから、終身雇用や年功序列を用いるべきではないのだ。学校教員は学校と1年間の短期契約を結び、教育の成果を出せば契約更新になり、教育の成果が出せなければ契約更新ならずとすれば、学校は問題教師を抱え込まなくても済むようになるし、学校教員自体も自分の教育技術が劣化していることに気付けるようになるのだ。

 学校教員に年功序列を用いて、年齢によって差別をするのではなく、能力主義を採用して、優秀な教員には給料をアップさせ、平凡な教員には給料を上げさせないようにすべきなのである。もしも教育の成果を出して来ないのなら、減給させていくべきなのである。そうやって教育の成果が自分の給料に直結すれば、学校教員たちは死に物狂いになって働くようになるのだ。

 実は学習塾や予備校では終身雇用も年功序列も採用していない。だから講師たちは一生懸命になって働き、学校では絶対に得られないような非常に高い教育成果を出しているのだ。今まで政府は幾度となく教育改革を施して来たけれども、その教育改革が失敗し続けたのは、この肝腎なポイントに気付かなかったからなのである。ここさえ破壊してしまえば、問題教師は全て消滅するし、日教組も確実に滅亡して行くことになるのである。

 終身雇用や年功序列を用いていいのは、第一次産業や第二次産業だけであって、教育産業のような第三次産業は最も用いてはならないものなのである。人間の脳と言うのは、安定した生活が保障されると、途端に高い能力を発揮して来なくなるのであって、学校教員に対しては意図的に生活を不安定にさせ、教育の成果を出せなければ、自分の給料が下がり、最悪の場合は解雇されるという状態に置かねばならないのだ。

 この問題は何も昭和憲法体制下の特殊な問題ではないのだ。江戸時代でも幕府の聖堂学問所や、藩の藩校では、終身雇用や年功序列を用いたために機能しなくなってしまい、幕末に於いて有能な人材たちは松下村塾や適塾のような私学から出て来たのである。教育者自身が不安定な場所に身を置かねば、その生徒たちが優秀な人材になることは絶対にないのだ。これは日本国民が肝に銘じておくべき教育の鉄則なのである。

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男性と女性とでは教育の仕方が異なる

●女子は初潮から、男子は精通から変わって行く

 男女は小学生低学年までなら一緒に授業を進めても買わないのが、性ホルモンが大量に分泌され始める頃から男女の成長に大いなる変化が見られ始めるので、一緒に授業を受けさせるのは得策ではないのだ。女子は初潮の開始時期から、男性は精通の開始時期から明らかに変わって行くのだ。性ホルモンが男女を変えてしまうのだ。

 どこの国に於いても、女の子の方が成長は早い。女性は子供を産むという大きな役割を持っているので、早い内から成長して、それに備えるようにするのだ。女性ホルモンが大量に分泌されてしまった女の子は、女性特有の人間関係を維持しない限り、勉強を嫌いになってしまうのだ。特に巨乳の女の子や、デカ尻の女の子は、女性ホルモンが大量に分泌されているために、担任が嫌らしい態度で接すると、途端に拒絶反応を示してきてしまうのだ。女らしい体になりすぎたために、感情が激しくなっていくのだ。

 一方、男の子は成長が遅いが、成長した時に急成長して来る。小学生高学年の中でも、1人や2人は男性ホルモンが多く出てしまい、最早、大人の男性と変わらないくらいに男らしくなってくる子供も出て来るのだ。男子の場合は、公平に接するよりも、特別扱いしてあげる方が、その男子との人間関係をきちんと形成することができるようになるのである。

 担任は自分がもう既に大人なのだから、性ホルモンが急激に分泌されていった時期を完全に忘れているものだ。そのため、愚かな教師に限って性教育を施そうと躍起になり、第二の目覚めが起こっている子供たちに性への関心を強めてしまうようになるのだ。それではセックスエネルギーを浪費しているとしかいいようがないのだ。だから性教育を施すと、成績が急低下していくことになるのである。

 大事なことはセックスエネルギーを使って、成績を上げて行くことなのである。セックスエネルギーを巧く使うと、勉強やスポーツで大いに成績を上げることができるのだ。若者が急激に成長していくのは、全てセックスエネルギーの産物なのであって、それを巧く活かして行くべきなのである。

●女子はネットワーク

 女子生徒は女性性を持っているために、教師であっても対等と思い込む傾向にある。そのため教師と尊大に振る舞うのではなく、基本的に女子生徒と対等であるが、自分が年齢的に上なので、少しだけ上に立っているという態度を取るべきなのである。女性の脳は対等に接してくれると、理解力が最大化されるのである。

 女子は上下関係によって人間関係を築くのではなく、ネットワークによって人間関係を築くのである。だから教室内に教師を中心にしてネットワークが出来ていると、全ての女子生徒たちの成績が良くなり、誰一人として落ち零れが出て来なくなるのだ。女子生徒の凄さは、その教室の中で或る一定数の女子生徒たちが解ると、全ての女子生徒たちが解るようになってくるということなのだ。

 できれば教師は女性がなった方がいいのだ。教師が男性であると、どうしても女子生徒の方が身構えてしまうので、女子生徒をリラックスさせるためには、女性の教師を用いた方がいいのだ。そのため学校教育では女性の教師を多く必要とするのであって、女性を多く抜擢しyていかなければならなのだ。

 但し、女子生徒たちは全員一致を求める傾向にあり、この世には如何に正しい意見であっても、必ず反対意見が存在するということが解っていないのだ。これは女性特有の行動パターンで、自分たちが正しいと思っているなら、全ての人たちに対しても正しいと思ってしまうのだ。反対意見を知ることで、逆に正しい意見の正しさが解って来るのだが、反対意見を封じてしまうと、その正しさがイマイチ解らなくなってしまうのだ。

 女子生徒を教育する際、みんなが正しいと思っていれば、それは科学的に正しいと思い込んでしまう危険性には要注意することである。科学というのは、大方、人々の常識を覆す発見をしてくるものだからだ。だから女性の思考の危険性を解っていないと、幾ら優秀な女子生徒であっても」、科学の発展になんの役にも立たなくなってしまうのだ。

●男子は上下関係

 男子生徒は男性性を持っているために、教師と自分の関係を上下関係によって形成して行こうとする。そのため教師は存在に振る舞い、自分は凄い人物であって、生徒たちに凄いことを教えていると思い込ますべきなのである。男性の脳は上下関係を形成すると、理解力が最大化されるのである。

 男性はネットワークで人間関係を形成するのではなく、上下関係で人間関係を形成して来るのである。だから教師が教室の中で頂点に立ち、その下に生徒たちを置くと、男子生徒たちの成績は良くなり始めるのだ。大体、教室はこれに対応するようにできており、だからこそ教壇が置いてあり、教師が生徒たち一段高い所から、物を言うようになっているのだ。

 男子生徒たちを教育する場合、できれば男性が教師になってしまった方がいいのだ。男子生徒に精通が起こり始めると、男子生徒は明らかに女性教師を馬鹿にし始めるので、女性教師では教えることに無理が生じて来るのだ。そのため学校に女性教師の割合が多過ぎると、男子生徒たちの成績が下がってしまうという現象が発生して来てしまうのだ。女性教師の割合を多くしすぎてはならないのだ。

 男子生徒が危険なのは、平気で暴力を用いて来るということであり、それを放置してしまうと、教室内では喧嘩やイジメが多発してしまうことになるのだ。男子生徒が凶暴化しないためには、とにかく組織を作ってしまうことだ。教室内は担任がトップで、その下に学級委員長がいて、その下に班長がいて、その下に班員がいるという組織図を作ってしまうと、男子生徒たちは凶暴化しなくなるのだ。

 男子生徒はみんなが反対でも、自分だけが我が道を行くということをして来るので、その行動に余り問題がないなら、男性教師はその男子生徒を理解してあげることだ。「自分も若い時はそうだったよ」と言えば、その男子生徒は心の中に異常なストレスを感じなくなり、凶暴化しなくなるのだ。しかし問題があるのなら、それを敢えて諭すということも必要なのである。無闇に理解していいわけではないのだ。

●男子校女子校の優位性

 小学校は絶対に男女共学にすべきである。小学生という時期に男子は男子校に行き、女子は女子校に行くようであるなら、男女双方、自分とは違う性別の持ち主を理解する機会を失ってしまうからだ。かといって思春期に全て男女共学にするというのは、それはそれで問題があるのだ。男女の性が明らかに違う成長をしているのに、男女共学にしてしまい、自分の性の成長を止めてしまうべきではないのだ。

 中学生や高校生なら、男子校や女子校に行かせてしまい、異性のない状況で教育を施した方が非常に高い教育効果を得ることができるようになるのだ。異性がいないのであるならば、生徒たちは勉強やスポーツに集中することができるので、思春期を有効に使えることができるようになるのだ。

 思春期に必要もなく男女交際することは、非常に有害である。中学生ならまだまだ子供だし、恋愛をできるほど、自分の精神は成長していないものだ。それなのに周囲が誰かと付き合っているからといって、無理矢理に誰かと付き合ってしまえば、その時間に於いては勉強やスポーツができなくなってしまうということになるのだ。

 だから男子校や女子校に行かせてしまい、その学校が正常に機能していれば、男女共学の学校の生徒たちよりも、非常に高い教育効果を得ることができるようになるのである。但し、その反面、問題もあって、男子校や女子校の卒業生たちは対人関係に問題があって、異性を友人と看做し、友情を築き上げることが不得手になってしまうのだ。卒業後にその不得手を克服して行かなければならないのだ。

 中学や高校で男子校や女子校は必要であっても、大学や短大での性別による差別を行うべきではない。19歳になってしまえば、男女ともに成長がピークになるので、それ以降は男女で分ける必要性は全くないのだ。日本では男性専用の大学や短大はないが、女性専用の大学や短大は存在するので、だからこそ女子大や女子短大を卒業した女性たちが自立できなくなったり、高い能力を発揮することができなくなってしまうのだ。女性教育を充実させるためには、女子大や女子短大を全て廃止させるというのが、理性的な決断であるのだ。女子大や女子短大は、女性の社会進出が余りなされていなかった当初には意味があったが、現在のように女性の社会進出が当たり前になった世の中では最早その役割を終えたのである。

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ヤル気は伝染する。馬鹿も伝染する。

●集団の力

 学校では個人一人一人が勉強するが、個人だけで勉強をやっているのではない。学級という集団で勉強を行っているのだ。集団の中にいれば、個人の力も変動して行くものだ。集団が勉強モードにシフトすれば、勉強が簡単に出来てしまうものだし、集団が遊びモードになってしまえば、勉強など手に付かなくなるものだ。

 教師自身、教師になるめに個人的な努力によって勉強し、それができたからこそ教師になれたわけだが、その遣り方を生徒たちに求めても生徒たちの成績は上がらなくなるものだ。子供なんて個人の責任に任せていたら、勉強などせず遊び呆けるに決まっているのだから、個人の責任をそれほど要求してはならないのだ。

 生徒たちを学級に集めている以上、教師はその集団の力を巧く使うべきなのであって、生徒たちがそれほど多大な努力をしなくても、成績が上がって行くように仕向けてしまえばいいのだ。生徒たちが大した勉強もしていないのに、気付いてみれば優秀な成績を収めていたというのが、教師としては理想的な遣り方なのだ。

 教師の中で体育会系の教師が重宝がられるのは、体育会系の教師は自分が生徒や学生だった頃に運動部で集団の力がどのように作動するかを身を以て知っているので、その集団の力を無理なく使いこなすことができるのである。しかし運動部に所属したことのない教師は、この集団の力が解っておらず、個人個人が勉強熱心になれば、学級全体の成績も上がるだろうと間違った思い込みをしてしまっているのだ。

 担任が学級を運営して行くに当たって、集団の力を使いこなせるというのは、生徒たち全員にかかるストレスを最小限に抑えることができるということなのだ。そのために学級が和気藹藹としたムードになり、勉強もスポーツもその出来が非常に良くなって行くようになるのだ。しかし担任が集団の力を使いこなせないと、生徒たちにかかるストレスは最大化してしまい、そのために学級内でイジメが発生したり、刑事事件を引き起こしたり、自殺者が出て来てしまうようになるのだ。

●ヤル気を引き出す三原則

 では、担任が集団の力を使いこなすためには一体何をすればいいのだろうか? それは「褒める」「具体的な指示を与える」「ナイスフォローをする」の三つだけだ。担任がこのたった3つのことをするだけで、集団の力を掴むことができ、それを使いこなすことができるようになるのだ。

①褒める

 まず、とにかく生徒たちを褒めることだ。生徒たちが何か手柄を立てれば、すぐさま褒めることだ。試験でいい点数を取ったら褒めてあげることだ。スポーツを上出来に行えたら褒めてあげることだ。学級活動で何かやってくれたのなら褒めてあげることだ。生徒たちは自分の行為が褒められれば自分のやっていることは良い事なんだと思い込み、それを言われなくても行うようになるし、他のことでも積極的になるのだ。

②具体的な指示をする

 生徒たちが間誤付いているようなら、すぐさま具体的な指示を与えてしまうことだ。例えば国語の成績が悪いのなら、漢字の書き取りを指示するとか、問題の文章を良く読みなさいとか指示を与えればいいのだ。トラブルを起こしている生徒を放置しておくと、更にトラブルを起こして来るので、何か具体的な指示を与えることで、とにかく体を動かしてしまうべきなのである。

③ナイスフォローをする

 生徒たちの中には馬鹿なことを仕出かして来る生徒は必ずいるものだ。その時、「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけるのではなく、それを巧くかわしてナイスフォローをしてしまうことだ。例えば授業中に或る生徒が頓珍漢な質問をして来たのなら、それを否定してしまわないで、「それはいい質問だ」と切り返してしまい、巧い答えをしてしまうことだ。これをやられると、その生徒は今後、担任を馬鹿扱いして来なくなるのだ。

 集団の力を巧く使いこなす方法は、ヤル気を出す三原則と言ってもいいだろう。このヤル気を出す三原則を使うと、生徒たちはヤル気を出すようになり、積極的になってくれるので、それが学級全体に及んで来ると、担任自身も生徒たち自身も大した努力をしていないのに、大きな成果を得ることができるようになるのだ。

●ヤル気を失わせるもの

 逆に集団の力の使い方を解っていないと恐ろしいことになってしまう。そういう担任はヤル気を引き出す三原則とは逆のことをやっているのであって、ヤル気を失わせる三原則を平気で使いまくって来るのだ。担任の間違った言動が生徒たちのヤル気を喪失させているのに、その担任は自分にはその責任はないと思い込み、生徒たちの方が悪いと思い込んでいるのだ。

①「勉強しろ!」「頑張れ!」と言ってしまう

 担任が絶対に言ってはならない言葉は「勉強しろ!」という言葉だ。勉強に関しては「勉強しろ!」と言われた所で勉強し出すものではないから、逆に勉強する意欲を喪失してしまうものだ。他に「頑張れ!」という言葉も禁句だ。生徒たちは充分に頑張っているのであって、担任から「頑張れ!」と言われてしまうと、余計に力を出し過ぎてしまい、力の配分を間違えてしまうことになるのだ。だから「頑張れ!」と言われれば言われるほど、成績が悪化して行くことになるのだ。

②叱り過ぎてしまう

 担任が生徒たちを叱り過ぎてしまえば、生徒たちはヤル気を喪失して行くものだ。もしも自分の何かが間違っても、それは1つ1つ解決していくしかないのであって、四六時中叱っているようであるなら、生徒たちは自分の行動を改善できないし、それどころかいつも怒っている担任に憎しみを抱くようになってしまうのだ。

③教え過ぎ、過保護になりすぎ

 授業では教え過ぎてはならない。生徒たちを思う余りに過保護になりすぎてはならないのだ。特に国語や社会に関しては教え過ぎてはならない。国語というのは言わば「言葉による言語空間」で楽しむものだ。社会というものは「人々による社会時空」で楽しむものだ。そのため担任は或る程度までは教えるべきであろうが、生徒たちに考えさせる工夫もさせなくてはならないのだ。

 例えば「政治家の汚職」という問題がある。それに対して担任が全てを教えてしまうのではなく、生徒たちに「なんで政治家たちは汚職するの?」と訊いてみることだ。そうすれば生徒たちは議論沸騰して、様々な意見を言い合い、それによって政治家が汚職をする構造や、政治家の仕事が良く解って来るようになるのだ。

 この問題に関して答えを教えておくと、国民国家の政治家は国民から選挙で選出されてくる以上、政治家は大量の政治資金を必要とするのであって、その政治献金の収集を完全に合法化されていなければ、政治家たちは選挙に勝つために法律に違反してでも政治献金を集めて来ざるをえないのである。言わば法律の不備こそが原因なのである。それと国会議員には憲法で不逮捕特権が保障されているために、法律に違反しても、なかなか逮捕することができないという事情があるのだ。言わば憲法に不備があるということなのである。

●個人主義を唱えると授業が破綻してしまうわけ

 担任がヤル気を引き出す三原則を使うと、生徒たちはヤル気を出すようになり、集団の力が生徒個人個人をバックアップしてしまい、学級にエネルギーが満ち溢れるようになるのだ。しかし担任がヤル気を失わせる三原則を使うと、生徒たちはヤル気を喪失し、その内に馬鹿なことを仕出かす生徒たちが出現してきて、その馬鹿が生徒全員に伝染していくことになるのだ。ヤル気は伝染するが、馬鹿も伝染するのである。

 教育者は絶対に個人主義を唱えるべきではないのだ。近代国家に於いて個人の尊厳は保障されるべきであっても、それをイデオロギー化し、個人に対して過大な期待をしてはならないのだ。教育者が生徒たちに物を教えている時点で、個人の自由に関して大いに制限を加えているものなのである。自分が生徒の自由に制限を加えているのに、教師である自分がのうのうと個人主義を唱えるべきではないのだ。

 文化人たちの教育論は当てにならないものだ。文化人は所詮、自営業だから、必ず個人主義的な見解を唱えて来るのだ。独学で勉強する遣り方と、集団で勉強する遣り方は全然違うのである。社会に出たのなら独学で勉強していくしかない。しかし生徒たちは社会に出てない以上、集団の力を使わざるを得ないのである。もしも個人主義を唱えるのなら、学校に来させず、自宅で自分一人で勉強すればいいのだ。

 学校で個人主義が強まれば強まるほど、学校の成績が落ちて行くものだ。担任が集団の力を使ってこないから、教師がどんなに頑張っても、優秀な成績を収めることができないのだ。学習塾の「公文」が大成功を収めた理由は、学校で失われた筈の集団の力を巧く使ったからなのである。公文の講師が塾生たちを褒めまくり、具体的な指示を与え、ナイスフォローを加え続けたからなのである。

 学校教育の場合、教育の執行責任者は教師であっても、勉強の主体者は生徒である。ところが個人主義に走ってしまうと、教育の執行責任まで生徒たちに負わせてしまい、結果的に生徒たち自身、身動きが取れなくなってしまうのだ。教師は自分が教育者であると思うなら、生徒に過大な期待などせず、集団の力を使って、生徒たちが主体的に勉強できるようにさせればいいだけのことなのである。個人主義は大人にとってなんでもないものでも、生徒にとって非常に有害なものなのである。

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神童と飛び級制度

●人間の成長は皆同じではない

 人間の成長は皆同じスピードで進むのではない。成長速度は不平等にできており、大きく分けて「早熟型」「通常型」「大器晩成型」の3つに分かれる。なんでこんなに分かれてしまうのかというと、人間の運命に大きな波があって、その大きな波が一体自分のいつどこで押し寄せて来るかで、成長の形が大いにに変わってしまうのだ。

①早熟型

 20歳になる前に大きな波が遣って来た時、その子供は早熟型の子供になってしまう。早熟型の子供は明らかに他の子供たちとは違っており、才気煥発を剥き出しにしてくるのだ。教科書を一読すれば、その内容がすらすらと頭の中に入ってしまうので、大した勉強もしていないのに、試験では高得点を叩きだして来るのだ。

②通常型

 20歳になる前に大きな波が遣って来ない子供は、通常型の子供として普通に暮らしているものだ。通常型の子供はどこにでもいる子供であって、遊びに夢中になっており、勉強も指図されない限り自発的にやることはない。教科書を何度も読んで、やっと試験でそこそこの点数を取れる程度の知力しか持ち合わせていないのだ。

③大器晩成型

 40歳以降に大きな波が押し寄せて来る子供は、子供の頃は馬鹿ではないかと思うくらいに、通常の子供たちとは違っている。普通の子供なら簡単に解ける問題でも手古摺ってしまったり、他の子供たちと仲良く遊べなかったりと、傍から見ればトロイというか、ジジ臭いのだ。大器晩成の人間になってしまうと、10代20代は不遇の時期を迎えてしまうことになるので、なかなか芽が出て来ないのだ。しかし40歳を過ぎてから、大きな花を咲かすことができるのである。

 これら3つの成長パターンのどれが一番良いのかということではないのだ。それぞれ運気が異なるために、それぞれの成長に合った仕方で成長していかないと、自分の人生を完全燃焼することができなくなってしまうのだ。早熟型の子供は若い時に猛スピードで成長してくるし、通常型の子供は通常の速度で成長して来るし、大器晩成型の子供はゆっくりと成長してくるのだ。

●早熟型や大器晩成型の子供にとって、現在の教育制度は圧倒的に不利

 学校は常に平均的な子供を対象にして作っており、それを超えるような能力を持つ子供は学校に居場所なんてないものなのである。学校というのは全ての子供たちを平等に接することができる機関ではないのだ。飽くまでも通常型の子供を対象しているのであって、早熟型の子供や大器晩成型の子供に対しては、それに対応できる教育カリキュラムを作っていないのである。

 早熟型の子供に関しては特別教育を施すべきであって、その学年の勉強を終えてしまったのなら、飛び級を認めて、進学させていくべきなのである。早熟型の子供は若い時にしか成長していくことができないので、早い内に飛び級をして上の学年に上がって行かない限り、大した学力を持つことができなくなってしまうのだ。

 「神童も二十歳をすぎればタダの人」と言われるが、これは神童に対して通常の教育を行っているからこそ、20歳を過ぎる頃にはタダの人に成り下がってしまうのである。神童に特別な教育プログラムを用意しておけば、通常の子供では絶対に届くことのない非常に高い学力を持つことができるようになるので、それを足がかりに自分の才能を発揮していけばいいのだ。

 一方、大器晩成型の子供は、若い時には通常の教育カリキュラムについていけなくなってしまう。自分がどうしても苦手とする科目があったり、教師と大いに揉めてしまったり、留年をしたり退学をしてしまったりするのだ。大器晩成型の子供は10代の頃は悲惨としか言いようのない不遇の時期を過ごさざるをえないので、学校では酷い目に遭わされてしまうのだ。

 しかし大器晩成型の子供は若い時から才能の片鱗を見せており、文章が異常に巧いとか、絵が非常に上手とか、得体の知れない研究に没頭しているとか、普通の子供では絶対に有り得ない行動を取って来るのだ。こういう場合、母親だけがその子供を守ってあげることができるので、我が子を通常の子供たちと同一視してはならないのだ。成長速度が遅いために、母親が守ってあげるしかないのだ。

●神童であるなら、現在の学校には一切期待しないこと

 昭和憲法体制下の学校教育では、「人間は生まれながらにして平等である」という考えが基本になっているので、神童である子供たちの存在を完全に無視してしまっている。そのため神童である子供たちは自分が学力を伸ばしたくても、学校では伸ばすことができないのだ。神童を持った母親は現在の学校に一切期待してはならない。学校は我が子の才能を潰すことに躍起になるけど、その特殊な才能を伸ばそうと絶対にしてこないのだ。

 我が子を神童だと思うのなら、我が子に特別な教育を受けるさせることだ。例えば実験好きの子供なら、自宅に実験室を設けてしまい、そこで思う存分に実験をさせてみることだ。日本が誇るドクター中松は自分の母親から実験室を与えられたことで、自由な実験をすることができ、そこから幾つもの発明品を生み出して行ったのだ。

 何か1つの科目が異常に好きなのなら、その科目をとことん勉強させてしまうことだ。例えば算数が好きのなら、大学で数学を教えている教授に家庭教師になって貰い、大学で研究しているような問題を子供にやらしてみることだ。子供の時に大学教授に接してしまうと、大学での学問を猛スピードで吸収して行くことができるようになるのだ。数学の学力はスタートダッシュで決まるのであって、数学は若い者でないと新しい発見をすることができないのだ。

 運動の方面で神童であるなら、学校の体育の授業や部活動などに一切期待せず、我が子をスポーツクラブに入れてしまい、そこで教育を受けさせ、世界一を目指すようにすることだ。如何に非常に高い運動神経があっても、それを発揮できる教育を受けない限り、その能力は消えて行ってしまうものなのである。

 芸術の方面で神童であるなら、学校の音楽の授業や部活動などに一切期待せず、特殊な教育を施し続けることだ。例えば音楽なら、若い内から優れた音楽教育家を探していけば、最速で日本一になれるものなのである。大体、我が子に音楽をやらせる母親はそもそも学校には期待していないので、これがために音楽家に関しては、日本は優秀な人材を揃えることができているのだ。

●天才を学校で育てることはできない

 学校の教師の中には天才を称賛する人々が多数いるものだ。曰く「アインシュタインは天才だった」。「だから日本も天才が出て来る教育をしなければならない」と。しかし天才を学校で育てることはできないのだ。アインシュタインも学校では落ち零れであってのであって、それを両親が見るに見かねて、親戚の人に家庭教師になって貰い、その教育を受けた辺りから、アインシュタインは頭角を現わして行ったのだ。

 天才は学校に来るべきではないのだ。また学校の教師も天才の卵が学校に遣って来ても、それを育て上げることができないのだ。天才というのは、新たな発見をすることによって既成の考え方を一変させる役目を持っているのであり、そのような人物が学校の教師をやっているような者に見出されるわけがないし、たとえ見出しても育て上げることはできないのだ。

 天才は学校の外で育て上げるしかないのである。我々にできることは、その天才が頭角を現わして来た時に、その偉大なる発見を否定せずに、受け入れてあげることだけなのである。昭和憲法体制下の日本でなかなか天才が出現してこないのは、学者たちは学会を閉鎖的なものにし、学閥で凝り固まっているからなのである。門外漢を絶対に入れないようにしているからこそ、天才がいたとしても世に現れることができないのである。

 学校の教師たちは学校システムが整備されればされるほど、天才が出現しにくくなる危険性をしっかりと知っておくべきなのである。天才の出現を阻んでいるのは、学校の教師たち自身なのである。国民に対して国民教育を施す以上、全ての子供たちは学校に来て貰わねば困るのだが、かといって学校教育だけで子供たちを育て上げてしまうと、平凡な人材しか生み出せないものなのである。

 天才は神が選びし子供である。神がその国にこの人物が必要だからと言って送り出して来るものなのである。その人物は常識的な人物ではないのである。天才は尋常ならざる人物なのである。我々にできることは、その天才的な人物がなした発見を受け入れ、評価してあげることだけなのである。その発見を受け入れれば、恐らく世の中は一変して行くことになるのである。だからこそ天才は非常に危険であって、無闇に称賛するべきものではないのだ。

 天才であるなら、世の中と調和することは絶対に有り得ない。必ず世の中の矛盾を突いて来て、世間と格闘し、時には罵詈雑言を浴びせられ、迫害や弾圧を受けることもあるのだ。そういう宿命を持った子供であるがゆえに、母親こそが我が子を守って行くしかないのである。天才は母親の母性愛なくしては、生まれることも育って来ることも頭角を現わすこともできないのだ。

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「男の作家」と「女の作家」

●読者の脳は男女で違うのか?

 読書をしていると、全ての本を同じなのではなく、この世には良書と悪書が溢れているということがつくづく解るものだ。人間の人生なんて長いように見えて短いものだから、悪書を退け、良書をできるだけ多く読むようにしなければならない。悪書のために時間を無駄にしたり、悪書のために人生で大損害を負ってしまったら、なんのために読書したのかが解らなくなるからだ。

 良書と悪書を見分けるためには、とにかく本を買ってみることだ。良書を購入することができれば、自分の人生に明らかに莫大な利益が出て来るし、悪書を購入してしまえば、自分の人生に明らかに莫大な損害が出て来るので、そういうことを何度も繰り返していれば、できるだけ良書を買おうとするようになるのだ。

 しかしこうやって良書を集めをしていくと、自分の買う本には或る一定の好みがあって、偏ってしまうという危険性がある。そこで他人が勧めている良書を聞いて、それを元に購入した方がいいのだ。まず仕事で成功している男性が勧めて来る愛読書には良書が多い。当たり前のことだが、ビジネスで成功するためには、質の高い良書を読まなければならないので、当然に「この本はいい本だよ。」と勧めてくるなら、ハズレが非常に少ないのだ。かといって全てが良いのではなく、小説関連は全く駄目だ。小説は個人の好き嫌いが激しい分野なので、成功している男性といえども、詰まらない小説を平気で読んでいることもあるのだ。 

 それに対して、仕事で成功している女性の場合、勧めてくれる小説に関しては質の高い物を教えてくれるのだ。だが小説以外となると余り当てにできない。確かに良書を読んでいる場合もあるけど、悪書とは言わずも、クズ本を平気で愛読書にしている場合があるからだ。悪書を読んでいれば当然に成功できない訳だが、クズ本なら読んでいても一応成功することは成功できるのであろう。

 或る時、俺の知り合いの女性で典型的な才色兼備の若い女性がいたのだが、彼女の愛読書を聞いてビックリしてしまった。その本は先日、俺が読んでみて全然面白くなかった本なのだが、その本を彼女は愛読書にしていたのだ。それまで俺はその女性に非常に高い評価を与えていたのだが、その話を聞いた以降、その女性に対する好意が段々と消え失せてしまった。そうしている内に、その女性は仕事を辞めてしまい、消息不明になってしまった。俺に言わせれば、あれだけ高い能力があったのに、愛読書がひどすぎたのだと思う。

●良書を書く男性作家の条件

 読書家たちの方で、これだけ男女の差が出て来るのだから、作家の方も男女で男女の差が当然に出て来る。本を大量に買っていると、男性の作家の場合、どの男性作家が良書を書くのかというのが大体解って来る。本を読むなら、本文だけを読むのではなく、プロフィールもしっかり読んでおくことは必要だ。プロフィールを読み続けているだけで、見えて来るものもあるからだ。

①会社の経営者

 まず男性の作家の中で良書を書く確率が非常に高いのは、会社の経営者たちである。会社を経営していれば、全身全霊でお客様にサービスしなければならないし、年収も1億円を超えて来るので、生活は豊かだし、本を買うお金に困ることがないのだ。だから当然に本を書かせれば、良書を書いて来るのだ。俺は船井幸雄さんのことが大好きで、彼の本を大方読んでいる。彼の意見に全て賛同することはできないが、買ってみて有益だったと思う本ばかり書いてくれるから、非常に有難いのだ。

②市井の研究者

 次に良書を書く確率が高いのは、市井の研究者だ。大学で研究しているのではなく、民間で仕事をしながら、自宅でコツコツを長年に亘って研究して来た人である。普通、こういう民間人が本を出版できる機会は殆どない。しかし出版されるとなると、相当にレベルの高い本なのであって、無名であっても大学教授顔負けの本を書いて来るのだ。最近読んだ物の中では、鬼頭英昭著『天皇のロザリオ』(成甲書房)は「よくぞこんな凄い本を書いてくれました!」と叫びたくなるほどのいい出来だった。

③専門分野でトップに立った人

 第三番目に良書を書く確率は高いのは、専門分野でトップに立った人の本だ。とにかく一番にならない限り、幾ら話を聞いても無駄だ。どんな分野でもトップに立つためには凄まじい努力が必要だし、世に出て来るタイミングの良さと、幸運を招き寄せる運の良さとかがなくてはならないからだ。この手の本で最近読んだのは、布袋寅泰著『秘密』(幻冬舎)で、これを読んで布袋寅泰に惚れ込んでしまったぐらいのいい本だった。

④学者

 俺は学者が書く本には非常に警戒している。簡単なことを超複雑に書いて来るのが学者たちの遣り方だからだ。そもそも自分の仮説を社会で試していないので、ビジネスに於いてなんにも役に立たないのだ。しかし学術的な研究が必要な物に関してはどうしても学者が書いた本に頼らざるを得ないのだ。そういう場合、「講師」や「助教授」の書いた物なら信用できる。講師や助教授はまだまだ若いので、学者特有の腐敗を受けていないのだ。それと「定年退職した学者」が書いた者だ。学者が定年退職しても本を書いて来るとなれば、その学者には大量の蔵書がある筈であって、当然に質の高い物を書いて来るのだ。それに対して、現役の教授たちが書いて来る本は、レベルが低いものだ。教授になれば教授会に出席しなければならなくなるので、その教授会こそが教授の著書の質を落としてしまうことになるのだ。

⑤宗教家

 ビジネスに於いてはなんの役には立たないのだけど、自分の生き方に絶大な影響を与えてくれるのは、宗教家が書いた本だ。宗教家は神と人間との関係について延々と考えているので、宗教家が書いた本を読むと考えさせられることが多いのだ。はっきり言っておくが、宗教書は現実に於いて100%役に立たない。、しかし宗教の勉強をやっていると、現実の問題が簡単に見えて来てしまうのだ。宗教に比べれば、現実の問題など些細なことにしかすぎないのだ。だから人生が成功してしまうのである。

●良書を書く女性作家の条件

 女性の作家の中で良書を確率が高いのは、「結婚経験があり、子供がいること」である。女性にとって結婚は最大の通過儀礼だし、出産して子供を産み、それをきちんと育てないと、女性として解るべきものも解らなくなってしまうのだろう。俺は柴門ふみさんのことが大好きで、彼女が書いた随筆は殆ど読んでいる。彼女の随筆には彼女の愛情が溢れまくっているので、読んだ後に長らく心地いい気分に浸れるのだ。

 「結婚経験があり」というのは、現在は必ずしも結婚していなくていいということだ。離婚しても別に構わないということだ。但し、離婚しても、子供を育て続けなければならないのだ。塩野七生さんは典型的なこの例で、『ローマ人の物語』は日本国民にとって必読と言いたくなるほど、最高に出来のいい本を書いてくれた。学校の世界史の授業では、古代ローマのことなど深く突っ込んで教えてくれることはないので、この本を読んで勉強しないと、古代ローマのことは解らないし、現在のヨーロッパの動きも解らなくなってしまうのだ。

 良書の判定で困るのが、「結婚していて子供なし」の場合だ。不妊症で子供が出来なかった訳ではなく、夫が早くに死んでしまい子供を作る暇がなかったということもあるのだ。臼井由紀さんはこの代表例で、一応、良書の条件を満たすのだけど、著書の中に多少問題があるのだ。そこを考慮して読まなければならないのだ。

 より問題なのは、「結婚経験があり、子供が3人もいるのに離婚してしまった」場合だ。俺の主張だと子供を3人産み育てれば、一人前の母親になれるのだが、この世にはその例外もあるのだ。その代表例が勝間和代さんで、書いて来る本は良書ではるのだけれど、基本的にいいことは言っているんだけど、俺に言わせれば無理な生き方をしているのだ。彼女の言っていることを全て鵜呑みにするのは非常に危険だろう。女性で勝間和代のような生き方ができるのは、ごく僅かだといっていい。

 女性は結婚できて当たり前だとは絶対に思わない方がいい。男性はどうしても性欲が強いために、女性と付き合っても、性欲の処理を行う対象物にしてしまいがちなのだ。だから男性が結婚を決意するというのは、余程、魅力的な女性だということなのである。デートでおめかしをするのは女性の方であって、男性の方ではないことに一刻も早く気付くべきなのである。恋愛を結婚へと昇華させることができた女性が書いた本だからこそ、その本も魅力を放って来るのである。

●独身女性の作家は誰かを憎んでいる

 若い時なら女性の作家が結婚していようが独身でいようが、その違いは解らないものだ。しかし自分が歳を取って来て、人生の経験値を積んで来るなら、その違いが解って来るのだ。男女ともに30代は大きな転機な時期なのであろう。30代になったら、自分の生き方を変えて行かないと、見えるべきものですら、見えなくなってしまうのであろう。

 結婚するかしないかは個人の自由ではあっても、いつまでも結婚しない女性の作家は、必ず誰かを憎んでいるものだ。その憎んでいる相手は殆ど場合、その女性の「父親」か「母親」なのだ。自分を産み育ててくれた人を憎んでいるのだから、まともな本を書いて来る訳がないのだ。自分の親は完璧な親であるわけがないのだ。だから、親元を離れて、ちゃんとした恋愛をして、心の傷を癒して行くしかないのだ。

 自分が自立できた時、自分の親がどのような人物であっても、感謝できるようになれる筈だ。愛を叫ぶよりも、まずは許してあげるべきなのである。愛は出し過ぎてしまうと、憎しみを呼んでしまうので、他人を愛し過ぎることなく愛して、完璧なことを求めないようにするべきなのである。いい歳になっているというのに、いつまでも親に執着しているからこそ、まともな恋愛でもできないし、自立すらできなくなってしまうのだ。

 俺は田嶋陽子の自叙伝を読んだ時、思わず吐き気を催してしまった。他人の自叙伝を読んで吐き気を催したのは、先にも後にもこの本だけである。田嶋陽子は両親に愛されることなく育ち、一度たりともまともな恋愛をしたこともないのだ。これではどんなに頑張っても優れた本を書けるわけがないのだ。愛があれば良書を書けるわけではないが、最低限でも愛がないとまともな本を書くことはできないのである。

 フェミニズムに洗脳されているような女性なら悪書を書いても当然だが、困るのはフェミニズムに洗脳されていないだけれども、独身を貫いている女性作家が書いた本だ。女性の初恋適齢期は16歳から19歳なので、その時期にきちんとした初恋をしておかないと、その後の人生で質の高い恋愛をすることができなくなってしまい、そのために恋愛を完全燃焼して、結婚に至るということがなくなってしまうのだ。

 内舘牧子さんはこの典型例で、彼女は非常に裕福な家庭に生まれ育ってしまったから、彼女の両親はちゃんと愛しただろうが、本人はその愛の有難味を感じなかったのだろう。内舘牧子著『夢を叶える夢を見た』(幻冬舎)を読んでみると、内容は良いのだけど、読了後に俺は「実はそうじゃないんだよ!」と叫んでしまったぐらいなのだ。恐らく30歳以下の女性がこの本を読むなら有益になる可能性があり、中にはこの本を読んで成功して来る女性も出て来るかもしれない。しかし読者が或る年齢に達した時、「尋常ならざる違和感」を感じてしまう筈だ。仕事がどうのこうの、成功がどうのこうのではなく、多分、この著者は本当の恋愛を一度たりともしたことがないというのが見えて来てしまうのだ。

 男性と女性とで生き方が違うものだ。男性ならとにかく戦って強くなりトップに立たなければならないのだ。それに対して女性なら恋愛をし結婚して子供を産み育てなければならないのだ。そうしないと自分の親から自立できないのだ。自立していない人の話なんて聞いても無駄なように、自立していない作家の本など読んでも無駄なのだ。本を読むなら、最低でもその作家が自立していることが絶対条件なのだ。

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なぜ平等教育は失敗するのか?

●平等イデオロギーの犠牲者たち

 人間は生まれながらにして不平等の存在である。全ての人々は遺伝子レベルから違うし、男女の性別でも異なってくる。世の中には五体満足で生まれて来る赤ちゃんもいれば、身体障害を負って生まれて来る赤ちゃんもいる。我々にできることはその現実をありのままに受け止めることだけなのである。もしも身体障害の赤ちゃんを持つ母親が平等を唱えてしまえば、余所の健康な赤ちゃんたちを憎んでしまい、永遠に不幸になっていくことであろう。

 赤ちゃんを産んでみれば、男の子と女の子ではまるで違う生き物かのように違うものだということが解るものだ。女の子は健康に育ち、早くから喋って来り、人間関係を良好にしてくる。それに対して男の子はすぐに病気に罹り、喋るのは遅いし、遣ること成すこと全て凶暴である。しかし男の子も女の子もこの世に於いて必要だからこそ、生まれて来たのであって、それを母親の歪んだ価値観で否定的に扱ってはならないのだ。

 高度に発達した科学が得た結論は、人間は平等ではないということなのだが、なぜだか学校の教師たちはこの科学的真実を受け入れたくない人々が非常に多く、科学に反する平等教育というものを平気で展開して来るのだ。まずは男女の性差を解消することに躍起になり、次に生徒たちの個性を叩き潰すことに躍起になる。平等教育を行えば、優秀な人材は育って来ないのに、生徒たちを平等化することに興奮してしまうのだ。

 平等イデオロギーが厄介なのは、平等というものは社会主義とかフェミニズムからだけ導き出されるものではなくその背後には、キリスト教という宗教が潜んでいるということなのである。そのため幾ら科学的に説明しても、信仰の中に逃げてしまい、科学的真実を受け入れようとしないということなのだ。社会主義もフェミニズムも最初はキリスト教徒が言い始めたものだし、社会主義もフェミニズムも宗教には否定的であっても、それらのイデオロギーが准宗教として機能して来るのである。

 小学校の教師が平等イデオロギーに洗脳されている場合、その授業を受ける生徒たちは悲惨なものになってしまうことであろう。成長の激しい時期に平等イデオロギーを洗脳されてしまうから、大人になってもその洗脳を解除することが難しくなってしまうのだ。小学生の時期は、丁度、みんなと一緒になりたいと思う時期なので、平等を教え込まれれば、素直に信じ込んでしまう危険性を持っているのだ。

●教育の基本を無視している

 平等教育は必ず失敗する。なぜなら生徒たちは個々人に於いて違うのであって、絶対に平等にはならないからだ。平等教育は教育の基本を無視している。教育というものは生徒たちに或る一定のレベルにまで学力をあげてあげることなのである。決して生徒たちを平等にすることではないのである。

 生徒たちが五体満足であろうが、身体障害者であろうが、男性であろうが、女性であろうが、全ての生徒に公平に教育を施し、この世で生きていけるだけの学力を与えてあげるのである。教育には公平は存在しても、平等は決して存在しないのだ。平等教育をやってしまえば、まともな学力を与えるのではなく、常に下へ下へと学力を落としてしまい、生徒たちにとって学校に行く意味がなくなってしまうのだ。

 平等教育は誰がどうやっても失敗する。頭のいい生徒や運動能力の高い生徒たちは低レベルの授業に絶対的な不満を持ってしまう。全ての生徒たちは個性を発揮できなくなるので、少しでも個性的な生徒を見つけてはイジメを開始することになる。平等教育が実施されると、学校でイジメが深刻化し、自殺者が出てきたり、殺人事件が起こったりするのは、全て平等教育にこそ原因があるのである。

 だからこそ政府は教師たちが平等イデオロギーに洗脳されないように監視し続けなければならないのだ。もしもその教師が平等イデオロギーに洗脳されれば、直ちに教員免許を剥奪し、教育の世界から追放すべきなのである。なぜなら平等イデオロギーに洗脳されてしまえば、その教師は教育を洗脳に変えてしまうからなのである。、

 それと同時に教師の評価システムを構築して、教育の成果が高い教師には高い給料を与えて、教師たちに平等イデオロギーが蔓延しないように配慮しなければならないのだ。教育の世界に年功序列を持ち込んでしまうと、どうしても平等イデオロギーが蔓延し易くなってしまうのだ。年功序列は頭脳労働を行う分野では最も不向きな給与システムなのである。

●無気力組だけを大量生産してしまう

 競争が働くと、「勝ち組」「負け組」「無気力組」に分かれるのだが、競争を否定してしまうと、全員が「無気力組」になってしまうのだ。そのため生徒たちの誰もが遣る気をなくしてしまい、無気力になってしまい、虚無主義的な傾向が強まってしまうのだ。だから小学生なのに元気がなく全ての物事に対して消極的で、、せいぜいゲーム中毒になって1日中ゲームをしまくることしかしなくなってしまうのだ。

 小学生の時になんの競争をしていないと、確かに小学生でいる時はなんにも問題が発生しないように思わすことができる。しかし自分が小学校を卒業し中学生になってしまうと、途端に自分の学力が余りにもひどいという事実に気付いてしまい、その学力を必死になって上げなければ、最早、学校の授業についていけなくなってしまうのだ。

 小学校で平等教育が行なわれてしまうと、中学校も高校も学力を上げることができなくなってしまうのだ。小学校は基礎教育を担当するので、その役割を放棄してしまえば、その上に存在する中学校も高校もまともに機能しなくなってしまうのだ。よく中学校や高校での教育問題を取り上げ、その問題の解決を図ろうとするのだが、中学校や高校で問題が起こるということは、小学校が腐敗し切っているということなのである。

 競争が行われて、教室の中で勝ち組が出て来ると、他の生徒たちは勝ち組に引っ張られてしまい、通常の自分の力では得られないような高い学力を持つことができるのだ。平等教育によって勝ち組が出て来ないようにしてしまうと、その生徒たちは学校で勉強することができなくなるので、塾に行って勉強して来るようになるのである。そういう生徒たちは学校では教師とトラブルを起こさないようにするために、平等教育に従って来るけど、小学校を卒業すれば、絶対に公立の中学校には進学して来ないのである。

 負け組が出て来ないように競争を否定するという考え方は、一見素晴らしい意見のように思える。しかし負け組を出さないようにすると、全員が無気力組になってしまうのだ。無気力組は悲惨な状況に置かれないために、それに気付かないけど、無気力組になれば何もしようとしなくなってしまうのだ。競争で負けたのなら、それは一時的に悲惨であっても、負けたことで他の進路が生み出されて来るのである。負けないということは、これができないということなのである。

●人間は成長したいという本能を生まれながらにして持っている!

 人間は成長したいという本能を生まれながらにして持っているものだ。どの赤ちゃんもすくすくと成長してくるものだ。どの子供もすくすくと成長してくるものだ。しかしその成長を止めてしまうのは、常に大人たちなのである。成長を押さえつけされれば、純情な子供でも凶暴になるものなのである。自分が充分に成長させて貰えなかったら、自分が凶暴になることで、自分を押さえつける大人たちを排除しようとしてくるのだ。

 もしも学校で平等教育が実施されるなら、生徒たちは教師を殺して、自分の成長を確保しなければならなくなる。時折、学校で生徒が教師を殺す事件が発生して来るものだが、教師が平等教育で生徒の成長を押さえつけてしまえば、生徒は教師を殺す以外に自分の道を切り開けなくなってしまうのだ。平等教育は殺人を非合法にするのではなく、「殺人有理」にしてしまい、殺人を肯定化してしまうのである。

 幾ら平等教育を受けて育っても、真っ当な人材になることは絶対にない。科学は人間の平等性を否定しているので、その根幹が解らないのなら、その者が持つ知識などは一切役に立たず、思考すれば全てが出鱈目になってしまうのである。自分が生きていれば、この世は平等ではないと気付くものなのに、平等教育を受けて洗脳されてしまうと、間違っているのは社会なのであって、その社会を変革しなければならないと思い込むようになってしまうのだ。

 社会運動家たちが貧困問題に取り組んだり、この世から差別や偏見を撤廃することに取り組んだりすることは、表面的には素晴らしいことに思えてしまう。しかし幾ら社会運動家たちがそれらの問題に取り組んでも、貧困は益々悪化し、差別や偏見は強まって行くだけなのである。この世のマイナスを見つめて、この世をプラスに変えることなど決してできないのである。

 教師が生徒たちにすべきことはまともな教育を施してあげるということなのである。決して教師の立場を悪用して、生徒たちに洗脳を施してはならないのである。教師が生徒たちにまともな教育を施しておけば、その生徒たちは社会に出て、高い能力を発揮して、貧困に挫折することなく、差別や偏見を吹き飛ばして伸し上がって行くことができるようになるのである。そういう教育を施してくれあた教師に学恩を感じることができるが、それができなかった教師には憎しみしか抱けなくなってしまうものなのである。

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優等生と落ち零れ

●優等生と落ち零れは、実は仲がいい

 学校の教師がどのように授業をやったとしても、優等生と落ち零れが出て来る。授業に対する理解力は、生徒たちは平等なのではなく、必ず格差を産むのだ。逆に言えば理解力に格差ができる教師ほど、いい授業をやっているのであって、理解力の格差が少ない教師ほど、碌でもない授業をやっているのだ。

 優等生と落ち零れは全く正反対なのに、実は惹かれあうのだ。大体、学級の中で一番成績がいい生徒と、勉強に落ち零れて悪ガキのリーダー格になっている生徒は、非常に仲のいい友達になってしまうものだ。この現象は小学校高学年から出始めるし、中学校や高校になれば、それが当たり前のような姿として現れて来る。

 極端な者と極端な者は惹かれあうのだ。幕末で土佐勤皇党の武市半平太と坂本龍馬が親友だったのもそのいい例だ。武市半平太は儒学をきちんと修め、絵まで描けるほどの秀才だったのだが、一方の坂本竜馬は儒学をやらしても駄目で、芸術的才能など全くなく、完璧な落ち溺れだったのだ。ところがこの二人は非常に仲が良く、互いに腹を割って話し合える仲だったのだ。

 小学校でも高学年になれば、成績の良い生徒たちは解って来るし、落ち零れて来る生徒たちも解って来る。双方にリーダー格の人物が出て来るのだが、この両者の仲がいいと、学級は非常に安定したものになってくるのだ。大体、優等生は授業には熱心だが、学級活動には熱心ではないものだ。だが、落ち零れは授業には熱心ではないが、学級活動には熱心なものだ。この両者がいないと、学級は安定したものにはならないのだ。

 しかし教師ほど落ち零れを毛嫌いするものだ。落ち零れの生徒はどう考えても頭が悪いからだ。通常なら簡単に解けてしまう問題でも、平気でミスをしてくるのだ。そのため落ち零れが出て来ることを問題視し、その対策に躍起になってしまうのだ。実はその落ち零れこそが学級の平和に役立っているということを知らずに。

●学問の発展に貢献するのは優等生と落ち零れだけ

 実を言うと、学問の発展に貢献できるのは、優等生か落ち零れだけなのである。この両者が大学に進学して来ると、優等生は学問が現在抱えている問題を的確に把握できるために、その問題に一生懸命になって取り組み、新しい発見を引き起こしてしまうのだ。しかし落ち零れは学問のことがイマイチ良く解っていないので、自分の好きな研究に取り組んでしまい、それによって劇的な発見を成し遂げてしまうのだ。

 そのため大学が優等生ばかり集めてしまうと、優等生なりに学問を研究していくのだが、思わぬ発見ということがなかなかできないのだ。解り易い例を挙げるなら、東京大学であって、確かに学生たちは非常に頭がいいのだが、かといって世界を驚倒させる発見など一度たりともしたことがないのだ。優等生ばかりを集めてしまう大学は、それほど学問の発展に貢献しないものなのである。

 ルネッサンス以降、第一次世界大戦が起こるまで、西ヨーロッパで異常に学問が発展したのは、非常に知的レベルの高い大学を備えながら、その一方で民間で行われる研究に対してきちんと評価を下すことができたからなのである。この民間で行われていた研究こそ、落ち零れたちがやっていたのである。

 2つの世界大戦を通じて、覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移ってしまったが、アメリカ合衆国では巨大な大学が多数存在していたので、学問の研究はそこで行われてしまい、民間で物好きが研究するということがなくなってしまったのだ。そのため学問に於いて劇的な発見がなされなくなってしまったのである。

 学問を発展させたいのなら、一方では優等生たちを作って大学に進学させ、もう一方では落ち零れたちに学問に興味を持って貰い、自分で研究をさせるようにすればいいのである。この点、教師が落ち零れの存在を問題視するのは間違っており、落ち零れたちには大学に進学しなくても、生きていけるように配慮すべきなのである。

●落ち零れ重視の教育をやってしまうと、全ての生徒たちが不満だらけになる

 人間は生きて行くためには、「強きに従い、弱きを潰す」ことをやらねばならないのに、「強きを挫き、弱きを助ける」生き方を称賛してしまう危険性を持っている。その人の精神レベルが高くなれば、言行一致の生き方になるものだが、その人の精神レベルが低いと言行不一致の生き方になってしまうのだ。

 ドラマの『金八先生』なんかも、典型的な落ち零れ重視の教育なのであって、教師本人が落ち零れ救済に躍起になればなるほど、生徒たちは荒れて行くのである。ところが生徒たちは教師が自分たちに一生懸命になってやってくれたことにだけは感動してしまい、涙を流すのである。

 ヤンキー先生などもこのパターンと全く同じで、自分が嘗てヤンキーだったからこそ、今現在ヤンキーをやっている生徒たちの気持ちが解ると思ったら大間違いなのだ。大体、中学生や高校生の頃にヤンキーをやっていれば、大学になど進学してこないものなのであって、ヤンキーになりながら大学に進学してくること自体、ヤンキーとしても真面目にやっていなかったことなのである。そもそも中学生や高校生の時にグレてしまったら、学力なんて上がらないものなのである。

 学校教育を存続させていれば、いつでもこの手の落ち零れ救済を唱えて来る教師たちが出て来る。一見、真っ当な意見なのだが、実際にやってみると誰がどうやっても失敗してしまうのだ。なぜならその教師たちは自分が受けた教育に対して思い残したものがあり、その思い残しを晴らすために教育をやっているのだ。要は生徒たちのために教育をやっているのではなく、自分のために教育をやっているのだ。

 生徒たちの中にはどうしても学校に馴染めない生徒がいるものだ。学校で勉強することになんの価値も見出すことができないのだ。そういう生徒はとっと社会に出て行くべきであって、いつまでも学校に縛り付けるべきではないのである。落ち零れの問題は、その者たちが学校を離れ、社会に出て解決していくべきであって、現在の教育を幾ら弄っても絶対に解決されることはないのだ。

●「補習授業の大切さ」と「勉強以外での活躍の場を与えてあげることの大切さ」

 学校教員になる人は、大学で超優秀な学生ではなかった筈だ。超優秀な学生は、一流企業に就職するか、新たに会社を起業するか、大学院に進学するものである。そのため平凡な人物が教師になってしまい、優等生と落ち零れが実は仲が良く、双方とも大きくなれば大活躍することが解っていないのだ。

 小学校なら優等生も落ち零れも同じ学級にいるものだが、中学校に進学すれ多くの優等生たちは私立学校に進学してしまうし、残りの優等生たちも高校に進学する時、偏差値の高い高校に進学して行くことになるのであろう。しかし優等生だけを集めても、やっぱり落ち零れは出て来るし、そのくせ優等生と落ち零れは仲が良くなってしまうのだ。そうやって学級のバランスを取ろうとするのである。

 では、そういった落ち零れたちに何をやってあげればいいかといいうと、補習授業をやってあげればいいのである。一体、授業のどこが解らないかを探り当て、そこを乗り越えて貰うのである。教師にとって補習授業は面倒臭い作業なのである。しかし落ち零れ救済を唱えながら、そのくせ補修授業をやらないのだ。これでは教育の効果が出て来るわけがないのだ。

 その一方で、勉強以外のことで活躍させることだ。落ち零れたちはそもそも勉強が得意なのではないのであって、学級活動やスポーツや音楽といったもので活躍の場を与えてあげるしかないのだ。自分が得意とするものを教師から褒めて貰えば、それを切っ掛けに遣る気が出て来て、勉強熱心な生徒に早変わりすることもあるのだ。

 教育を行う場合、視点を下に設定しては絶対にいけないのだ。自分が授業を行えば、その授業をきちんと理解して来るのは上位2割なのであって、まずはその者たちが満足できるような授業を行い、勉強ができる生徒たちを増やして行くべきなのである。そうやって授業を展開して行くと、勉強熱心なムードが学級を覆って、落ち零れが出にくい学級になるものなのである。たとえ落ち零れが出て来ても、その落ち零れがそんなに問題視されることはないほど、落ち零れなりに活躍してくるのである。

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競争のメカニズム

●競争すると「勝ち組」「負け組」「無気力組」に分かれる

 授業をすれば当然に競争が発生する。試験をすれば当然に競争が発生する。学問には競争が付き物なのであって、競争を巧く利用して、学問に切磋琢磨して行かなければならないのだ。競争を巧く利用できる教師は生徒たちの学力を飛躍的に向上させてしまうし、競争を巧く利用できない教師は生徒たちの学力を最悪なまでに低下させてしまう。

 まず競争が行われた場合、人間は「勝ち組」「負け組」「無気力組」の3つに分かれてしまうことを知っておくべきだ。この分別に例外はないのであって、必ずこれらのどこかに入ってしまうのだ。だから人間が平等なんて絶対に有り得ないし、常に格差を産み続けるのだ。我々ができることは人間を公平に扱うことであって、人間を平等にすることではないのだ。

①「負け組」 ~出る杭は打たれる~

 競争をした場合、多少目立つことをしてはならない、競争は同じような力を持つ者の同士に於いて発生し、戦いが最も激しく行われるのであって、そのために勝ち残れる確率は低くなり、負ける確率が一気に上がってしまうのだ。所謂「出る杭は打たれる」なのであって、これをやってしまうと、ほぼ確実に負け組に入ってしまう。

 意外なことかもしれないが、負け組になってしまうような人は無能なのではなく、多少能力があったからこそ、競争に負けてしまったのだ。競争が最も激しい領域にのこのこと突き進んで行ってしまったから、袋叩きにされてしまったのだ。負け組に共通するのは、競争を恐れるということを知らないということなのだ。

②「勝ち組」 ~出過ぎた杭は打たれない~

 競争をするなら、目立つことなく勢力を拡大して行き、気付いた時には圧倒的な力を持っているようにしなければならない。圧倒的な力を所有すれば、競争が起こりにくくなるのであって、たとえ競争が発生しても、勝てる確率が一気に上がってしまうのだ。所謂「出過ぎた杭は打たれない」状態なのであって、これができるとほぼ確実に勝ち組に入ってしまうのだ。

 競争で勝ち残ることができる人ほど競争を恐れているものだ。自分の実力だけでは勝てることができず、運やタイミングといった不確定の要素が作動して来るので、勝敗がどのようになってしまうのか解らないのだ。勝ち組になるような人は謙虚だということなのである。学問であろうが、スポーツであろうが、ビジネスであろうが、一流の人物は常に謙虚であって、闘争本能を剥き出しにしてこないのだ。

③「無気力組」 ~出ない杭は腐る~

 では、残った人たちはどうなるのかといえば、無気力組に自動的に入ってしまう。競争のなんたるが解っていないので、自分の目の前に競争が展開されていても、自分の目には見えず、その内、無気力になってしまうのだ。所謂「出ない杭は腐る」ということになってしまうのであって、勝ち組にも負け組にも入ることができず、腐り果ててしまうのだ。

 人間は個人主義になりすぎてはいけないということだ。人間の地位とか収入とかは、他人との関係で決まってしまうので、自分の実力を鍛えることは勿論のこと、人間関係の構築の仕方をもきちんと習得しておかなければならないのだ。個人主義に走る人に限って、家族とか組織とかを軽視して来るから、そのために自分が競争でまけるどころか、腐敗し切ってしまうのだ。

 競争で勝ち残るのは、常にごく僅かなのである。だから人間は誰しも競争に対する不信感を持っているのだ。経済は競争があるから豊かになれるのに、「資本主義は怪しからん!」といってみたり、子供たちは受験戦争があるからこそ必死になって勉強するのに、「受験戦争は怪しからん!」と言い出して来るのだ。しかし競争をやめてしまえば、貧乏になるのは当たり前であって、誰も実力を向上させていくことができないのだ。大事なことは競争のメカニズムを知って、それを巧く利用していくことなのである。

●勉強やスポーツや音楽ができる生徒たちを特定する

 教師がどのように授業を変えて行っても、生徒たちの中で勝ち組になるのは、2割程度である。40人学級なら8人であり、20人学級なら4人なのである。だから授業をする時は漠然と授業をしないで、この学級の中で勉強ができる生徒たちを特定してしまうことだ。その生徒たちに解るような高度な授業を展開するようにすべきなのである。

 大方の教師はこれをやらずに、落ち零れが出て来るからといって、平均的な水準にまで授業のレベルを落としてしまい、授業を進めてしまうものだ。これをやると勝ち組の生徒たちは遣る気を失って学校で勉強しなくなり、塾で勉強してしまうようになってしまうのだ。しかも平均的な水準は丁度無気力組が多数存在している所なので、教師が幾ら熱心にやっても、生徒たちは無気力になってしまうのだ。

 勝ち組に標準を合わせてしまうと、授業の内容が格段に良くなるので、負け組や無気力組もついて来るようになり、実力を上げて行くことができるようになるのだ。そのために本来なら負け組になる者が自分の欠点を克服できたり、本来なら無気力組になる者が積極的に行動し始めたりするのだ。要は勝ち組の生徒たちを巧く活用すれば、学級の雰囲気はガラリと変わるのだ。

 勉強だけに特定した場合、所詮、勝ち組になれるのは2割しかいないのであって、勉強だけでなく、スポーツや音楽に於いてもその分野の勝ち組になれる生徒たちを特定し、その者たちによって牽引していくようにさせるべきなのである。そうすれば勉強では不得意であっても、スポーツなら一番になれる子とか、音楽でなら一番になれる子が出て来て、それによって学級が活性化していくのだ。

 全ての生徒たちが全ての分野で高い能力を発揮してくることはないのだ。教師がどんな対策を講じても、特定の分野で高い能力を発揮してくるのは、生徒たちの2割だけなのであって、その生徒たちを巧く使って行くべきなのである。教師が「みんなは同じ行動を取らねばならない」と思っていると、その思いとは裏腹に誰も何もしようとしてこなくなってしまうのだ。

●攻撃3割 防御7割

 人間はどうして競争に負けてしまうかというと、攻撃と防御のエネルギー配分が間違っているからなのである。負け組になるような人物は、攻撃に重点を置き過ぎてしまい、防御が手薄になってしまっているのだ。だからそこを突かれてしまうと、呆気なく負けて行ってしまうのである。かといって防御力を重視し過ぎると、今度は攻撃力を落ちてしまい、成功させていくことができなくなるのだ。

 では攻撃と防御のエネルギー配分をどのようにすればいいのかというと、「攻撃3割」「防御7割」なのである。このエネルギー配分が行われると、常に勝ち続けることができるし、たとえ攻撃を受けても耐え忍ぶことができるようになるのだ。勝ち組に入れる者たちはこれができたからこそ勝ち組に入れたのであって、負け組に入ってしまった者たちはこれができなかったからこそ負け組に入ってしまったのだ。

 如何なる生徒も全ての科目に対して得意になることはできない。必ず得手不得手があるものなのである。だからまずは「得意分野への特化」を図るべきなのである。得意分野は自分の実力が発揮し易いのであって、簡単に順位を高めて行くことができるからだ。他の分野は「最低限の維持」を図ればいいのであって、得意分野がありさえすれば、自然と他の分野も向上して行くのだ。

 絶対にやってはならないのが、欠点があるからといって、その欠点を克服しようとする遣り方だ。これをやってしまうと、欠点を克服できなどころか、自分の長所まで破壊されてしまい、全てのことに対して意欲を失ってしまうのだ。教師が生徒たちの勉強ができないことに腹を立て、「どうして勉強ができないんだ!?」と叱り続けていると、誰もが勉強を苦手とするようになってしまい、更に成績が悪化してしまうのである。

 落ち零れたちを救済しようと教師は、その時点で教育の基本を忘れているのだ。落ち零れになるような生徒たちは攻撃と防御へのエネルギー配分が解っていないのである。そのような配分は競争を通じてしか学べないものなのだ。もしも勉強が駄目なら、他の分野で一生懸命になればいいのである。

●夢を実現することは、実は簡単なこと!

 若い時に競争しておくことは、若者たちにとって非常に大切なことだ。競争することで学ぶことが多々あるからだ。自分の実力というのは確かに大事だ。しかし自分の地位というのは、他人との関係で決まるのであって、如何に競争を巧く立ち回って、自分が望むような地位を獲得していかなければならないのだ。

 競争をしていけば、いずれ気付くことだろう。自分の現在の環境は自分が作り出しているということに。自分の現実は自分で作り出しているのであって、自分を変えたいのなら、自分がどのようにしたいのか思い描き、それを実行していかなければならないのだ。勝ち組になるような生徒はそれができたからこそ勝ち続けているのであって、それ以外の生徒たちは自分の未来の姿を想像できていないのである。

 勉強で勝ち組になるような生徒は、将来、国立なら東京大学に行こうとか、私立なら早稲田大学に行きたいとか、自分の夢が明確になっているものなのである。スポーツで勝ち組になるような生徒は、日本一になるとか、ワールドカップで優勝するとか、自分の夢をありありと思い描くことができているのだ。

 小学生の段階で、知力も劣り体力も劣っているのに、そういうでかい口を平気で叩けてしまうのである。現実を直視することは大事であるが、法螺を吹くことも大事なのだ。勝ち組になれない生徒たちは法螺を吹けないのだ。自分が将来、どのような人物になりたいか解っていなからこそ、何もせずにうだうだとしてしまうのである。

 自分に夢がないのに、他人と競争してしまえば、出る杭は打たれるようになってしまうし、競争を毛嫌いしてしまえば、出ない杭は腐ることになってしまうのだ。自分に夢があれば、競争で勝とうが負けようが、別にどうってことはなくなり、勝てば前進していけるし、負ければ自分の欠点を克服して行くことができるようになるのだ。競争を巧く利用していくからこそ、益々競争に勝つことができてしまうのである。そういう生徒たちこそが、将来、社会に出て有能な人材になることができるのである。

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なぜ勉強やスポーツができると立派な人間になれるのか?

●小学校の成績表は信用するな

 終業式になると、子供たちは成績表に或る意味ドキドキするものだ。自分が学力的に学級でどのような地位にあるのか、これほど解り易く評価してくれるのもないからだ。担任が正直になって成績表を作るなら、その成績表を貰うことで生徒たちに向学心に火をつけることができることであろう。

 しかし殆どの担任は正直に成績表をつけることをしないから、この成績表がなんの役にも立っていないのだ。曰く「成績表を厳しくつけると、生徒の中で落ち零れが発生するから」といって、成績の基準を大いに歪めてしまうのだ。これをやられると、本来なら成績の悪い生徒は、成績表を貰うことで自分がバカであることを指摘される筈なのに、担任が手加減した成績表を貰ってしまうから、自分がバカであることが解らなくなってしまうのだ。

 人間には得手不得手がいるのだから、学校での勉強が不得意な生徒たちがいても構わないのである。それよりも厳しい成績表を突きつけられることで、自分の成績が悪いということが解り、それで努力して勉強を頑張るか、それとも勉強以外のもので頑張って伸し上がって行くかを決断させた方がいいのである。手加減した成績表を渡して、無為無策を取らさせ続けることの方が、その生徒にとっては人生を悲惨なものにさせるのである。

 成績表を厳しくつければ、勉強で頑張った生徒たちはいい成績を貰えるものだから、大喜びするものだ。そういう生徒たちは次の学期も勉強熱心になってくるから、授業が非常に遣り易くなり、その熱意に動かされて、勉強が得意でない生徒たちも勉強をし出すようになるのだ。成績表に手加減を加えるというのは、この現象を起こさせなくさせるだけであって、だからこそ勉強ができる生徒たちは学校での授業を受けることになんの喜びを感じなくなり、学校ではなく塾で勉強をし出すようになるのだ。

 教師たちは長らく学級で落ち零れを発生させないように努力して来た。しかしそういうことをやってしまうと、落ち零れたちに下手な愛情を与えてしまうことになり、改心することがなくなってしまい、余計に悪さを仕出かして来るようになるものなのだ。試験をやって点数が悪いのなら、成績表に悪い点をつけてあげればいいものを、水増ししてしまうからこそ、自分が駄目な考えや遣り方を持っていることに気づけないのだ。生徒に厳しく接して、頭が悪いのなら成績表も悪いものを与えておけば、それによってその生徒になんらかの変化が起こるようになるものなのである。

●成績の悪い科目より、成績の良い科目に注目する

 担任がきちんと成績表を作ってくれるのなら、生徒の母親はそれを使って子供に勉強を促すようにすることができるものなのである。大抵の子供には成績にばらつきがあるから、成績の良い科目を褒めてあげることだ。この遣り方を「「加点主義」といい、成績の良い科目を伸ばして行くと、その科目が更に出来るようになるのは勿論のこと、他の科目まで成績が上がって来るようになるのだ。

 逆に絶対にやってはならないのが、悪い科目を指摘し、その科目の成績が上がるように努力させることだ。この遣り方を「減点主義」といい。成績の悪い科目に改善を施そうとしても、なかなか改善されず、その内に成績の良かった科目まで駄目になって行ってしまうのだ。

 成績表の中で一番危険なものは、全ての科目に於いて最高の評価が与えられてしまった成績表である。この手の成績表を貰った子供は、最早、学校の勉強では自分の能力を伸ばせないのであって、我が子から事情を良く訊いた上で、塾に行かせるなりの処置を取った方がいいのだ。

 逆に全ての科目に最低の評価が与えられている生徒は、もう学校の勉強に頑張らせるのではなく、それよりもスポーツをやらせて、それで伸し上がって行くようにさせることだ。頭が悪い分、運動神経は発達しているものなので、不得意な勉強をやらせるより、得意なスポーツに打ち込ませた方がいいのだ。

 母親としては、我が子から成績表を貰った時の反応こそが大事だ。その成績表を貴重なアイテムとして使うためには、この成績表は本当に我が子に対してきちんと評価したものなのか疑ってみることが大事だ。いつも試験の結果を見てみれば、試験の点数の低い科目にいい評価が与えられる訳はないし、点数の高い科目に悪い評価が与えられる訳がないからだ。

 成績表が余りにも信用できないものなら、いっそのことその成績表を無視して、「お前はどの科目が好きなんだい?」と訊いてみればいいのだ。すると何かしらの科目であると答えてくるから、「だったら、その科目で頑張って、誰にも負けないようにしなさい!」と諭せばいいのだ。

●自己統御ができるということ

 担任が厳しく成績表をつけてくれるのなら、これほど有難い物はないのだ。生徒たちにとって「自分は一体何が得意なのか」が一発で解るからだ。勉強が得意な者は、更に勉強に打ち込んでいけばいいのに、スポーツが得意な者は、更にスポーツに打ち込んでいけばいいのだ。

 勉強やスポーツができると、なぜ立派な人間になるのかというと、勉強やスポーツをして、優秀な成績を収めるためには、「自己統御」を身に付けて行かなければならないからだ。自分で自分を律することで、可能な限りいい選択肢を取り、可能な限り悪い選択肢を排除していくことができるのだ。

 そういうことをやっていけば、「生産性の向上」ということが起こり、自分の努力が結果として現れて来るようになるのだ。良い結果を出しているのなら、「新規展開」も可能になるのであって、様々なことにチャレンジして行くことができるようになるのだ。自己統御ができているのなら、新規展開しても何かしらの結果が出て来るから、更に新たな手を打つことも可能になるのだ。

 このような「「自己統御」→「生産性の向上」→「新規展開」という流れは、子供に「自尊心の拡充」をもたらし、自分に自信が持てるようになるのだ。「勉強ができる!」「スポーツができる!」ということは、子供にとって大きな自信となるのであって、その自身があれば自分の遣りたいことにチャレンジして行くようになるのだ。

 だからこそ、担任は成績表を厳しくしないとならないのだ。手加減を加えた成績表を貰ってしまえば、生徒たちにとって「自分は一体何が得意なんだ?」というのが解らないので、自信をつけていくことができなくなってしまうのだ。成績表を厳しくつければ、評価の悪い科目は駄目だけど、評価の高い科目は得意なんだということが解り、心の中の向上心に火がつくものなのである。向上心に火がついてしまえば、後は自動的に努力し始めるものなのである。

●自分に自信があれば自分の夢を実現していくことができる!

 学校の勉強やスポーツは、生徒たちに自信をつけさせるためには手っ取り早い方法なのだ。学級の人数はどんなに多くても50名を超えることはないのだから、その中で競争に打ち勝てばいいからだ。競争相手が少なければ、競争は激化しないものだし、少しの努力で勝ちあがって行くことができるようになるのだ。

 生徒たちはいずれ人生を成功させるためには、一体何が必要なのかということが解ることになるであろう。それは「自分が好きなことに対して、一生懸命になって取り組む」ということなのである。自分が好きでないことをやっても、成功することなどできないものだ。しかし自分が好きなことをやっていても、それに一生懸命になって取り組まない限り、成功することもできないのだ。

 世の中には生活のために自分が好きでもない仕事に取り組んだり、自分が好きな職業に就いたにも拘わらず、一生懸命になって努力しない人々は大勢いるものなのだ。そういう生き方をしているから、自分に自信が持てないし、自分の夢を実現していくことができなくなってしまうのだ。

 子供の頃に手加減された成績表を貰ったことが、その後の人生を大いに狂わしてしまうことになるのだ。全ての生徒たちが勉強をできるようにならなくてもいいのだ。全ての生徒たちがスポーツを得意にしなくてもいいのだ。学校の授業を通じて、「お前はこれが得意なんだよ」ということを教えて行けば、それがその子供にとって自信となるのだ。

 生徒たちに自信をつけて貰いたいのなら、多少は厳しい評価の成績表を渡しておくべきなのである。全ての分野に対して努力をしなくてもいいのだ。1つの科目が得意であるなら、それに対して努力をさせれば、その科目の成績は更に良くなり、それに釣られて他の科目の出来も良くなってしまうのだ。そういう遣り方が、その生徒に自信を持たせるようになり、その後の人生で自分の夢を実現させていくことができるようになるのである。

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論文試験と母国語

●論文試験と母国語の関係

 学力の国際比較をする時、「日本の子供たちは○×式の試験なら高得点を出せるのに、論文試験になると点数が低くなってしまう」ということが指摘されるものだ。「ちょっと待て1」といいたくなる。この問題は簡単に解決される問題ではないのだ。論文試験の出来不出来には、母国語が大いに絡んで来るからだ。

 結論からいうと、口語と文語が近い言語ほど、子供たちは論文試験で高得点を取って来る。日常生活で使っている言葉と、学問で使う言語にそれほどの乖離がなければ、子供の頭でも学術的な思考をすることが可能になるからだ。そのため日本語のように口語と文語が乖離している言語を使っていると、子供の頭では学術的な思考をすることが不得手になってしまうのだ。

 通常、論文試験で高得点を取って来るのは、ヨーロッパの子供たちである、ヨーロッパでもフランスやイタリアのように歴史がある国ではなく、ドイツとかフィンランドのように比較的歴史が浅い国である。ドイツ語は人為的に文語を作ったし、フィンランド語に於いては言語そのものが非常に新しいので、口語と文語の乖離で苦しめられることがないのだ。

 日本語でなら、日常生活で使っている言葉で、学術的な思考を展開することなどできない。余りにも無駄な言葉が多いので、思考を濃縮することができないのだ。文語も口語に近づける努力はしているものの、矢張り文語は文語であって、まずは子供たちに文語を学ばせていくしかないのだ。

 嘗ての尋常小学校では教室内で方言を使うことを禁止させたが、生徒たちが方言を使っていては、学術的な思考が展開できなくなるからなのである。江戸時代はもっと凄くて、子供たちに漢文の素読をさせて、漢文という文語を学ばせたからこそ、非常に高度な思考を展開することができたのである。

●日本語の複雑性

 考えてみれば、日本語は非常に複雑な文字を使っているものだ。「平仮名」「片仮名」「漢字」を使うわけだから、まずは子供たちに文字をしっかりと学ばせるしかないのである。論文試験で点数が低いのは、そもそも問題文自体が解っていないからなのである。問題文の中に知らない漢字が出てきたら、子供にとってはそれでもうお手上げなのだ。

 小学生に漢字を教える量を少なくしてしまうと、途端に小学生の学力は低下して行く。特に論文試験ではからきし駄目になってしまう。知らない漢字が出てくれば問題自体が解らないし、たとえ問題が解ったとしても、その問題に答える文章を作り出して行くことができないからだ。

 論文試験対策ではっきりと言えることは、漢字を多く知っていないと、論文試験の点数は絶対に上がらないということなのである。ヨーロッパの言語のようにアルファベットしか使わないのなら、アルファベットを習得してしまえすれば、後は勝手に思考して行くことが可能になるのだ。日本語はアルファベットのように少ない文字ではなく、それどころかアファベットとは比較にならないほど多くの文字数を持っているのだから、より多くの文字を教えていくしかないのだ。

 教師の中には生徒たちに解り易い授業をさせようと思って、子供たちが使っているような口調で授業をしたりするものだ。しかしそういう授業をされてしまうと、子供たちは論文試験で点数が低くなってしまうのだ。なぜなら日本語では口語と文語が違うために、文語で問題が出されてしまうと、それを口語に翻訳するのでひと苦労してしまうのだ。そのために論文試験自体を解くエネルギーがなくなってしまうのだ。

 口語と文語の違いに悩む人がいるが、口語と文語は永遠に一致しない。明治維新以降、多くの小説家がこの課題に取り組んで来たが、辿りついた結論は、口語にしてしまうと、複雑な思考展開ができなくなってしまうということなのである。文語が余りにも口語から離れては困るが、口語で理解できる範囲内にある文語なら、それで良しとすべきなのである。

●修辞学や論理学抜きで論文試験を受けさせても、いい点数が出ないのは当たり前

 論文試験で高得点を取って来る国には、或る一つの特徴がある。それは修辞学が論理学を教師自体が教わっているということである。ヨーロッパには修辞学や論理学を教える伝統が残っているので、当然に教師自体の話が論理的な言い方になり、子供たちの頭にスパスパと入って行くことになるのだ。

 これに対して日本では修辞学や論理学を教わっていない教師が圧倒的多数を占めるので、教師の話が感情的になり、生徒たちにとっては教師が一体何を話しているのかが解らなくなってしまうのだ。特に中学や高校に進むと、人文や社会科学の科目を教えている教師にはこの傾向に更に拍車がかかって、生徒たちは幾ら授業を聞いても、複雑な思考展開をすることができなくなってしまうのだ。

 修辞学というのは難しいものではないので、解り易くいえば「文章テクニック」のことだ。文章を書く時は論旨を明解にし、内容を圧縮して行くようにすることだ。修辞学を学んでいないと、これから授業をするというのに、いきなり天気の話をしたり、授業の内容が希薄なったり、授業には全然関係のない無駄話をしてしまうようになるのだ。

 論理学というのは、基本的には古代ギリシャ哲学の論理学のことである。日本の教師の中で、古代ギリシャ哲学をしっかりと勉強した教師などいないものだ。だから授業で論理的な話をすることができず、生徒たちは論理的思考をすることができなくなってしまうのだ。そのため論文試験を受けても、点数は低くなってしまうのだ。

 論文試験の点数の低い国は、生徒たちが論文試験に不得手ということだけでなく、教師自体が複雑な論理的思考をしていないということなのだ。修辞学や論理学は直接には教育に関係ないものなのだが、これらが出て来ていると授業内容を濃縮できるので、その授業を受けた生徒たちは必然的に複雑な思考を展開することができるようになるのだ。

●生徒たちに自分で研究させてみる

 小学校で論理的思考能力を鍛えさせるためには、なんといっても生徒たち自身が自分で何かしらの研究をさせてみることだ。その研究成果を文章で綴ってみるのだ。自分で文章を書いてみると、明らかにおかしな部分があるので、それを何度も訂正していくという作業を繰り返すのである。

 それを生徒たちの前で発表させてみるのだ。自分の研究成果を生徒たちの前で話すということは、それを論理的に纏め、解り易く話さないといけないので、自然と文章が引き締まり、内容が圧縮されていくのだ。その研究成果のレベルが低ければ、他の生徒たちがツッコミが入るし、研究成果のレベルが高ければ、他の生徒たちから称賛を浴びるものなのだ。

 小学生が研究して来るのだから、教師から見れば程度の低いものばかりだ。しかし生徒に研究させ、それを文章に纏めて、その上でその研究成果を喋らなければならないというのは、生徒たちにとって自分の論理的思考能力を鍛えるために最良の訓練となるのだ。これ以外の訓練ではそれほど成果が出て来ないのだ。

 知識人の中で独りよがりの文章を書いて来る人は、必ずといっていいほど、小学生の頃に自分の研究をみんなの前で発表したことがない人たちなのである。よく作家の出来不出来を判別するには、「作家が書いた文章を音読してみろ」と言われるが、独りよがりの文章を書く作家ほど、その文章を読んでみると、非常に読みにくいのだ。試しに悪文の最高峰「大江健三郎」が書いた文章を読んでみればいいのだ。

 日本語を使っている以上、小学生の論文試験の成績が低くても別に構わないのだ。それだけ日本語は複雑な文字を使っているということなのである。しかし複雑な文字を習得してしまうと、アルファベットを使う諸国民よりも、比較にならないほど高度な思考展開をして行くことができるのである。小学生の時には遅れを取っても、中学生や高校生になれば追い抜いて行くことができるようになるのである。

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夏の「お化け屋敷」はカップルたちのパラダイス

●お化け屋敷嫌いを一変させた出来事

 俺は子供の頃から遊園地の「お化け屋敷」が大嫌いだった。人を驚かしてお金を取ろうなどとは言語道断だし、それよりもジェットコースターで元気に楽しんでしまった方が遥かに健康的だと思っていた。だから、遊園地に行っても、お化け屋敷には絶対に行かなかった。お化け屋敷だけは除外していたのだ。

 ところがそれを一変する事態が大学生の時に起こった。大学生の頃、丁度付き合っていた彼女とデパートに行ったのだが、そのデパートで夏の企画としてお化け屋敷をやっていたのだ。どうやらそのデパートの若手たちが作ったらしく、段ボールやビニール袋を使って、如何にも手作り感が出ていたのだ。

 素通りしようと思ったのだが、余りにもデパートに相応しくない光景に惹かれてしまい、しかも料金が100円ということもあって、そのお化け屋敷に入ってみることにした。スタッフたちは真面目に作ったんだろうけど、お化け屋敷といいつつ、薄暗い中で見せる美術館みたいなもので、芸術的なオブジェの連発。一体これのどこが恐ろしいんだと思いつつ歩いて行くと、最後にドンデン返しの仕掛けが待っていて、それに滅茶苦茶驚いてしまった。

 そんでお化け屋敷が出て来た頃には、もう二人で大笑いしてしまい、その後は手を繋いで、ルンルン気分で帰っていった。付き合って日も浅いこともあって、それまで彼女と付き合っていてこうまで仲が良くなったのは余りなかったので、物凄くいい夏の思い出になってしまった。その時、俺は解ったような気がした。「お化け屋敷」って使いようによって、カップルたちのパラダイスになるんじゃないかってことに!

 恋愛を盛り上げて行くためには、デートに行ったり、会話を盛り上げたりすることは勿論大事だ。それと性愛術を巧くなることも必要なことだ。しかしそういったものとはまるで逆で、お化け屋敷のようにカップルの恐怖を与えてしまうと、そのカップルは団結してしまい、大盛り上がりすることもあるということなのである。

●強制排卵

 俺は今まで様々な『恋愛論』や『恋愛テクニック』の本を読んだが、「恋愛に於いては恐怖というものを効果的に使え」と主張している本には出会ったことはない。女性に対していいことづくめをした所で、女性はいずれ飽きてしまい、去って行くということが、この著者たちには解っていないのだ。男性が女性に対して適度な恐怖をくれるからこそ、女性は男性に服従し、従順になろうとするのである。

 女性の体は男性から優しくされた所で性欲がそれほど高まりはしないのだ。解り易い例を挙げるのなら、女性がホストクラブに嵌って、ホストと付き合っても、妊娠した例というのは滅多なことでは聞かないものだ。ホストは女性に優しくしかしないので、幾ら頑張っても、性欲が高まってこないのだ。ところが、ヤクザたちが水商売の女性と付き合って、その女性を孕ませたというのは、幾らでも聞く話だ。ヤクザたちは平気で女性に暴力を振るうので、その暴力に女性は恐怖してしまい、それが性欲を高め、通常よりも遥かに満足できる性体験ができ、妊娠してしまうのだ。

 女性は恐怖を感じると、性欲が高まり、強制排卵という現象が起こり、妊娠しようとするのである。恐怖を感じるということは、女性の身に危険が迫っているということなので、女性は最後の力を振り絞って子孫を残して行こうとするのだ。戦時中、空襲などで散々恐怖を味わったために、戦後になると途端に若い女性たちは妊娠しまくり、ベビーラッシュに襲われたのも、この強制排卵が引き起こした現象なのである。

 不妊症を克服するためには、不妊症の女性自身が何かしらの恐怖を感じるのが、一番の特効薬なのだ。俺は嘗てこのブログにコメントを寄せて来た女性に対して「お化け屋敷に行くと不妊症を克服できますよ」と教えたのだが、その後、その女性からのコメント一切来なくなってしまった。まさかお化け屋敷に行くことで、不妊症が治るとは思っていないのだろう。

 断食が不妊症に効くというのも、断食によって食事からのエネルギー量を減らしてしまうと、体が危機的状況になり、それによって強制排卵が起こり、不妊症を克服させてしまうのだ。ところが断食が不妊症の治療に効くと不妊症の女性たちに教えても、絶対といっていいほどやらないのだ。

●恐怖のない世界は逆に恐怖

 不妊症の女性たちに共通することは、性格が歪んでしまっているということなのである。結婚したのに夫婦仲は巧く行っておらず、夫を自分の思い通りに動かそうとするのだ。不妊治療を始めるに当たっても、夫婦で充分に話し合ってから病院に行くのではなく、自分だけが先走って進めてしまい、夫は蚊帳の外に置かれているのである。

 妻が我儘になり勝手し放題にやっているのだから、夫は妻をビシッと諭せばいいのだが、不妊症女性の夫はそいういことができないのである。そういうことをしないからこそ、不妊症が悪化して行くということが解っていないのだ。妻も妻なら、夫も夫なのである。我儘に生きている女性の下に、赤ちゃんが生まれてくれば、まともな育児なんて出来やしないのだから、赤ちゃんだって生まれて来ないものなのである。

 恐怖のない世界は逆に恐怖なのである。恐怖がないと、自分の精神が増上慢になって行き、自分の人生の至る所で障害が発生して来るのである。結婚したら赤ちゃんが生まれるのは当たり前だ。それなのに妊娠すらできないというのなら、自分の生き方が間違っているのである。それに一刻も早く気付けば、不妊症を克服して行くことができるようになるのである。

 自分たちの結婚を幸せにしたいのなら、まずは神を畏れることだ。自分の頭の上に神様を戴いているからこそ、自己統御することができ、結婚を楽しく運営して行くことができるようになるのである。それが出来たのなら、妻は夫を立てて敬い、家庭内の実権を全て掌握してしまうべきなのである。夫は家庭のことを妻に任して、仕事に全力を投入すべきなのである。愛だけでは、結婚を維持して行くことはできないのだ。

 不思議にもビジネスで成功している男性たちは、自分の奥さんを恐れているものだし、幸せな結婚生活を実現した女性たちは、自分の夫がいなくなることを恐れているものだ。結婚に対してとやかく議論がされるけど、俺に言わせれば、配偶者に恐れを抱かないからこそ、結婚が機能しなくなって、不幸になってしまうとしか言えないのだ。恐怖の大切さが全然解っていないのだ。

●真っ当に生きるためには人為的に恐怖を作り出して行くしかない

 赤ちゃんを産んで育てていれば、赤ちゃんに愛を注ぐことは確かに大事だが、それだけでは駄目だということが解る筈だ。乳幼児の或る時期に差し掛かると、母親の遣ること成すことに反抗しまくり、母親を困らせることがあるものだ。そういう時は怒鳴りつけるなり、叩くなりしておくべきなのである。農家であるならば、納屋に閉じ込めてしまうということも必要なのである。

 そういった意味で秋田県の「なまはげ」などは、丁度、子供が母親に反抗して来る頃になまはげによって恐怖を与え、子供を素直な子供にさせるのだ。この手の伝統行事は如何に他県の人たちから奇異に見られても、絶対に存続させていくべきなのである。こういう伝統行事のない地域では、当然に母親たちは子供たちの反抗に苦しんだりするし、いずれその子供たちが大きくなれば凶悪犯罪を引き起こして来るようになってしまうのだ。

 人間たちが妖怪を生み出して行ったのも、人間にとって妖怪が必要だったからだ。夏の夜に子供たちに怪談を聞かせれば、子供たちは素直になって、大人しく寝ついてくれることだろう。川には河童がいて、山には子泣き爺がいれば、川や山に行っても、自然を恐れて、大事に接するようになるものだ。それなのに近代になって啓蒙思想が登場して来ると、そういった迷信の類は否定されてしまうから、そのために生活は豊かになりはするが、逆に自然破壊が進んでしまい、人間の生存そのものが危うくなってしまったのである。

 人類を生存させようと思えば、人為的に恐怖を作り出して行くしかないのだ。人間が太古の昔からやってきたのは、戦争をすることだった。戦争こそ人間たちに恐怖を与えてくれるからだ。しかし現代のように巨大な破壊力を持つ核兵器が登場して来てしまうと、そう簡単に戦争をすることができなくなり、そのために平和な国ほど頭が狂っているとしか思えない連中が続出してくるのである。

 だから夫婦仲がぎくしゃくしていると思うならお化け屋敷にでも行ってみることだ。妊婦には有害だけど、妊娠していないのなら、お化け屋敷は夫婦仲を良くするために非常に効果的なのだ。まさかそんなことで仲良くなれるわけないと思っている人は是非とも行ってみるがいい。自分が考えていることと全く正反対のことが起こるのである。

 猛暑で「暑い」「暑い」と騒いでいるなら、お化け屋敷に行って恐怖を味わってしまい、猛暑を吹き飛ばしてしまうことだ。夏が暑いのは当たり前であって、それで文句を垂れるべきではないのだ。夏には冷たいジュースやアイスクリームよりも、お化け屋敷こそが必要なのである。

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試験は脳を鍛える

●授業と試験を組み合わせるからこそ、脳が異常に刺激される

 試験というのは、自分の脳を鍛えるためには、教科書をより優れたアイテムである。授業を受けて解ったような気がしていても、いざ試験を受けてしまうと解っていなかったことが判明してくるからだ。人間の理解力などあやふやなものなのであって、授業を受けるだけでなく、試験を受けることで、その理解力を確認して行かなければならないのだ。

 授業を受けている時に集中力と、試験を受けている時に集中力は、全然違うものだ。授業は飽くまでも教師が主人公になって行っているために、生徒たちの集中力は低いものだ。しかし試験は教師を排除し、自分だけの力で解くために、集中力を最大化することができるのである。

 小学校ではそれほど頻繁に試験を行わないものだが、塾とか予備校とかになると頻繁に試験を行い、授業を補完させるために、試験を有効的に使っている。授業だと如何に優れた講師が授業をやっても、授業による効果は或る一定のラインにまでしか達しないのであって、試験を使うことで子供たちの学力を上げさせていくのだ。

 簡単に言ってしまえば、小学校の教育レベルが上がらないのは、試験の価値を認め、試験を多用していないからなのである。試験を作るのは教師にとって多大な労力を要するのだが、その作業を惜しむからこそ、試験の回数が減ってしまうのだ。また試験後に成績優秀者たちを教室内に張り出せば、生徒たちは試験をゲーム化することができ、試験を苦痛とは思わなくなり、ゲーム感覚で試験を楽しめるようになるのだ。

 試験を多用すると、「落ち零れが出て来てしまう」というようなことを言っていると、優秀な生徒たちは学校での勉強をやらなくなり、塾で勉強するようになってしまうのだ。教師たちは幾ら授業をやっても生徒たちの学力を上げることには限界があることに気付くべきであって、試験を用いなければ、生徒たちが本当に理解しているか解らないものなのである。

●教育の基本は暗記である

 教育の基本は暗記である。試験は生徒たちの記憶力を問うているだけなのである。そもそも試験の問題は全て授業でやった内容なので、授業をきちんと受けていれば、満点を取って来ることができるのである。それができないということは、授業を受けても、その内容をきちんと記憶しなかったからなのである。

 生徒たちがきちんと記憶するためには、「読んで」「書いて」「喋る」しかないのだ。教科書をきちんと読む、ノートに書くべき物を書く、それを喋ってみてみると、記憶されていくのである。だから、教科書を読まない生徒や、ノートを取らない生徒や、無口な生徒は、どうしても試験の点数が悪いものなのだ。試験をやってみると、きちんと理解していないということが暴露されてしまうのだ。

 教師も悪どくなると、試験に授業では教えていない問題を出してみたり、引っかけ問題をだしてみたり、複雑な思考を要する問題を出してみたりと、生徒たちの点数が低くなるようなことばかりをしてくるのだが、学校の試験は知識の記憶を問う物が中心となるべきなのである。要は授業を理解したか確認するために試験を受けさせているのであって、生徒が授業を真面目に聞いていたのなら、高得点を取って当たり前なものにすべきなのである。

 生徒たちに勉強を得意とさせるのは実に簡単で、高得点を取れる試験を繰り返させていけばいいのだ。生徒たちに試験を受ければ自分は高得点を取れると思わしておけば、勉強することに熱心になり、試験を受ければ更に高得点を取って来るというサイクルが発生するようになるのである。

 それを教師が勘違いし、嫌らしい問題を作ってしまうと、当然に生徒たちは試験でいい点数を取れなくなってしまうので、生徒たちは試験だけでなく、勉強そのものに対して遣る気を失ってしまうのだ。教師は学級の平均点が50点を下回ったのなら、授業の遣り方や、試験の問題になんらかの失敗があったことを認めるべきなのである。こういうことをしていては、逆に生徒たちが勉強嫌いになってしまうものなのだ。

●試験後のアフターフォローが大事

 試験の点数が出たら、ハイ終わりなのではなく、試験後のアフターフォrローが大事なのだ。試験で回答を間違えたのなら、そここそが自分はきちんと理解していない箇所なのであって、試験を受けたことで自分が解っていない箇所をチェックすることができるのである。試験の利点はまさにここにあるのである。

 学問で最も危険なことは、「知ったかぶり」をすることなのだ。勉強ができない生徒は、知ったかぶりをして、自分自身を誤魔化し続けるからこそ、勉強ができなくなるのである。学問に於いて最も大事なことは「知的正直」なのであって、それがない者が幾ら勉強しても、いい点数は取れないものなのだ。

 試験で回答を間違えたのなら、そここが自分の理解できていない所なのであって、試験後にその箇所をチェックし、正解に辿りつけるからこそ、理解することができるのである。試験後にこれをやらなければ、永遠にその箇所が解らないことになってしまうので、それが積み重なって行けば、勉強が何も解らなくなってしまうのだ。

 小学校の教師たちは、試験が終わればそれで済ましてしまうからこそ、試験を効果的に利用することができないのだ。試験の結果を生徒たちに返しただけでは、試験の点数が良かった者は良いが、点数の悪かった者は勉強嫌いになっていくのだ。折角、試験で生徒たちが理解していない箇所が解ったのに、それに対してなんの対策も打たなければ、なんの効果も得ることができないのだ。

 塾が小学校よりも高い教育効果を引き起こしているのは、なんのことはない、試験後のアフターフォローをきちんとやっているからなのである。これをやると生徒たちが理解していない箇所を潰して行くことができるから、よりレベルの高い授業を受けてもきちんと理解できるようになるのだ。それが繰り返されて行けば、当然に生徒の学力は飛躍的に高くなって行くのである

●子供に無茶な注文はするべきではない

 試験結果が出て来ると、教育学者の中には、「最近の生徒たちは 基本はできるのだが、応用ができない」と言い出す馬鹿な者がいるものだ。応用は基本ができてこそなのであって、基本ができなければ応用などできる筈がないのだ。小学校の授業は基本の繰り返しなのであって、応用に重点を割くべきではないのだ。応用を重視すると、基本が駄目になるものなのである。

 応用が必要となるのは、教育学者自身なのであって、自分が今、応用が必要だから、小学生たちの試験の結果を見ても、「基本はできるが応用はできていない」と言い出して来るのである。これは「詰め込み教育は怪しからん」と言いだして来る者たちと全く同じで、大人になってしまえば、記憶重視よりも、アイデアを生み出すことを重視しなければならないのだが、かといって子供たちに記憶を軽視していいということではないのだ。

 子供に無茶な注文をすべきではないのだ。子供の脳は成長段階にあるのである。今はせっせと暗記していき、記憶量を増やして行かなければならないのだ。だから今やっていることは基本の繰り返しなのであって、下手に応用に手を出すべきではないのだ。新しいアイデアを生み出したり、応用ができるようになるのは、まだまだ先のことであって、小学生に小学生なりの勉強があるものなのである。

 生徒たちの試験の結果が完璧になることは絶対にない。いつの時代に成っても何かしらの問題点が見つかるだろうし、学校の授業を如何に工夫しても何かしらの欠点が出て来てしまうものだ。しかしその瑣末な問題を解決していってしまうと、逆に教育そのものが崩壊してしまうのだ。小学校では一体何を教育すればいいのかという基本を忘れてしまえば、教育はひっくり返ってしまうのである。

 現在の小学校教育は問題を多々抱えていると言われている。昔の小学校を試験を遣りまくり、試験のたびに優秀な生徒たちの名前を張り出したものだ。しかし今の小学校では試験よりも自由研究を重視し、試験を受けても優秀な生徒たちの名前を張り出すことをしていないのだ。だから生徒たちは勉強熱心にならず、遊び呆けてしまうのだ。

 学習塾がこれほどまでに繁盛しているというのは、実は小学校がやらなくなったことを学習塾で復活させているにすぎないのだ。生徒たちに試験を頻繁に受けさせ、試験のたびに優秀な生徒たちの名前を張り出しているのだ。これなら生徒たちは勉強に遣る気が出て、勉強熱心に成って行くものなのである。小学校の教師たちは「最近の生徒たちは全然勉強しないな」とほざいているものだが、生徒たちは学校では勉強していないだけなのであって、学習塾で勉強しまくっているのである。生徒たちだって、勉強させてくれる所で勉強をしたいのである。勉強させてくれない所では遊ぶことしかできなくなってしまうのだ。

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子供たちを読書嫌いにさせる読書感想文

●読書嫌いは読書感想文を書かされるから

 小学校が行う教育の中には、その教育が生徒たちになんにも役立っていないのに、昔から行われて来たということで、遣り続けてしまう教育がある。その代表例が「読書感想文」である。読書感想文を書かされて、読書好きになったとか、文章が巧くなったとかいうことを一切聞かないのに、教師は平気でこの読書感想文を生徒たちに書かせてしまうのだ。

 大人ですら、他人から本を薦められて本を読むのは苦痛だし、それに感想を求められても、「面白かったですよ」と言う程度でしかないのだ。それを子供たちに強いるのは過酷すぎるというものだ。しかも生徒たちが面白くなる本を薦めればまだ話は解るが、一体どこの誰が決めたか知らないけど、非常に面白くない本を推薦図書として挙げて来るのだ。これではその本を読む生徒たちの方が堪ったものではないであろう。

 学校としては生徒たちに「読書の習慣」をつけさせてあげたいと思うのだろうが、そんなの要らぬお節介である。「読書の習慣」は親が作るものであって、教師がいちいち手を出すことではないのだ。親に「読書の習慣」がなければ「読書の習慣」など身に付けて来る訳がないのだ。自宅には本がなく、漫画本しかない生徒だっているのだ。そういう生徒はそれでいいのだ。どうせそのような生徒は大学に進学できないのだから、無理矢理読書をさせるべきではないのだ。

 子供の頃にする読書というのは、非常に偏っているものだ。男の子だったら冒険物が好きだし、女の子だったら魔法が出て来る物が好きなものだ。文学性など全くひと欠片もないのであって、そのような子供に無理矢理に推薦図書を押しつけても、嫌々ながらして読むだけで、読書の面白さを味わえることはでいないであろう。

 子供たちの多くが読書嫌いになってしまうのは、学校で読書感想文を書かされるからなのである。強制的に読書をさせられ、強制的に読書感想文を書かされたために、子供の脳の中で「読書は苦しいものだ」というのがインプットされてしまい、読書をしなくなってしまうのだ。思春期になれば自発的に読書をして来るようになるのだから、子供の内は放っておくべきなのである。

●四百字詰め原稿用紙の憂鬱

 学校の教師から推薦図書を指定され、その推薦図書の中から本を読んでも、大した感想など生まれる訳がないのだ。自分が「この本を読みたい!」と恋焦がれて読んだ本ではないので、読書後の感想が全く湧いて来ないのだ。その状況下で読書感想文を書かされるのである。出来のいい読書感想文など書ける訳がないのだ。

 小学生に四百字詰め原稿用紙を渡しても、生徒たちは原稿用紙の前で悪戦苦闘してしまうものだ。すらすらと読書感想文を書ける生徒なんていないし、悩みながら読書感想文を書いて行き、その出来は非常に悪いものだ。自分が本当に言いたいことすら言えないものだ。

 これには理由がある。四百字詰め原稿用紙というのは、言わば大人が使う論文用の原稿用紙であって、四百字詰め原稿用紙10枚で論文が出来上がるのだ。それを子供たちが使っているのだから、原稿用紙を使いこなせる訳がないのだ。四百字詰め原稿用紙は10枚書かないとまともな読書感想文にならないので、多くの生徒たちはこの枚数に達しないから、結果的に誰もがまともな読書感想文を書けなくなってしまうのだ。

 「四百時詰め原稿用紙の憂鬱」には子供だけでなく、大人ですらも罹ってしまう者たちがいるのだ。テレビ業界の放送作家たちはこの四百時詰め原稿用紙を嫌って、二百字詰め原稿用紙を使っている。この方がドラマの脚本を書く際には書き易いのだ。但しその弊害もあって、二百字詰め原稿用紙を使っていると、内容の濃い物を作れないのだ。テレビ番組のレベルが高くならないのは、二百字詰め原稿用紙を使っているからと言ってもいいのだ。

 小学生であるなら、四百字詰め原稿用紙など要らないのであって、A4の紙でも渡して、そこに自由に書かせた方がいいのである。そうすれば原稿用紙の前でウダウダすることがなくなり、自分の思いをスラスラと書いて行くことができるようになるのである。四百時詰め原稿用紙は大人用なのだということが解っていない教師たちが多過ぎるのだ。

●読書感想文ではなく、本の内容を纏めさせる

 読書感想文が教育になんの効果もないのなら、一体どのように変えればのかというと、本の内容を纏めさせればいいのだ。この遣り方をさせると、国語力が一気に付くことになるのだ。読書の感想というのは主観的なものだが、その本の内容となると客観的なものなので、その出来不出来をきちんと評価できるようになるのだ。

 意外なことかもしれないが、読書好きの人でも読書をした所で本の内容をきちんと理解していないものなのである。題名に騙されてしまったり、クライマックスの場所を外してみたり、落ちの部分を読み間違えていたりと、酷い読み方をして来るのである。これは読書家ほど速読を好んでしまい、熟読して読んでいくということをしないからであって、しかも1度読んだらそれで終わりにしてしまうので、何度も何度も読むことで理解度を高めて行くことをして来ないのだ。

 例えば児童文学の最高峰と言っていい『赤毛のアン』はイギリスの文学を多々引用しているので、それらの文学作品を理解していれば非常に面白いと思えるものなのに、それらを知らなければ孤児が里子に出される物語になってしまうのだ。増してや作者はキリスト教を賛美しているのではなく、実はキリスト教を否定しているのである。アニメ版の『赤毛のアン』はこの点を完全に読み込めなかったのであり、そのためにアンは敬虔なクリスチャンとして描かれてしまっているのだ。作者がこのアニメを見たら、「私はそんな作品を作った覚えはありません!」と叫ぶことだろう。

 本の内容を生徒たちに書かせてみると、如何に生徒たちが表面的にしか読んで来ないということが解るものだ。小学生ならその程度なのである。小学生の段階で、引用されている文学に言及して来たら、その方が異常なのである。物語自体は表面的にはこのように流れているけど、実はこうなんだよと解れば、その文学作品の面白さが解って来るようになるのだ。

 小説というものは、書こうと思えば誰でも書けるものだ。しかし生き残る小説は非常に少ない。なぜなら消えて行く作品は表面的に物語を展開させているだけで、奥行きが全くないのである。そういう作品はすぐに飽きてしまうものなのである。生き残って行く作品は奥行きがあるために、何度読んでみても飽きが来ないのであって、だからこそ生き残って行くのである。それを理解させるためには、読書後に本の内容を纏めさせるという作業をさせた方が効果的なのである。

●自分の将来の夢を書かせてみる

 読書感想文を書かせるくらいなら、生徒たちに「自分の将来の夢」を書かせた方がまだ文章能力上達に役立つことになる。どんなに国語ができない生徒でも、自分の将来の夢を語らせれば、必ず書ける筈だからだ。文章というのは、自分が言いたいことがあるからこそ、それを書くのであって、嫌々ながら書かしても、まともな文章にならないものなのである。

 自分の将来の夢を書かせると、如何なる生徒であっても、自分の将来に関してはきちんと考えているということが解るようになるものだ。この教育の最大の効果は、実は教師自体が生徒たちを幼稚に見ないようにさせることなのである。子供たちは馬鹿だから、俺が物を教えてやろうと思っていると、生徒たちはその態度を敏感に感じ取り、逆に教師を馬鹿にして来るものなのである。

 生徒たちに自分の将来の夢が明確になると、その教室内に現在という時空だけでなく、未来という時空までが出来上がって来るので、それこそ教室に奥行きが出て来るのだ。生徒たち一人一人に将来の夢があるなら、誰一人として邪険に扱ってはならなくなるし、教室が活気づいて来るのだ。

 生徒たちの将来の夢が明確になれば、教師が読書を薦めなくても、生徒たちは自発的に読書をし出すようになるものなのである。そういう読書は意欲的に読むことになるから、その内容をきちんと理解できるようになるのである。そのような姿は教師が生徒たちに課題図書を押しつけても、絶対に得ることができないのである。

 真面目な教師に限って、子供たちが漫画ばかり読んでいる姿に憤ってしまうものだ。しかし子供たちは国語の授業が余りに詰まらないので、読書をして来ないだけなのである。国語の授業で面白い授業をしていれば、自然と本を読み出すようになっていくのだ。読書を無理矢理強制しても、良い読書の習慣は身につかないものなのだ。子供たちに読書をして欲しいのなら、国語の授業をレベルアップして行くしかないのである。

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遊びの中でしか学べないこと

●子供は遊びが仕事

 子供たちは遊ぶのが仕事だ。幾ら小学校に通っていたとしても、勉強は遊びの次に大事なものであって、勉強が一番大事ではないのだ。j子供が遊ぶことは教育上に於いても非常に重要であって、子供を遊ばして心身を発達させるからこそ、勉強にも身が入るというものだ。

 しかし学校の教師たちは子供たちの遊びを破壊することに躍起になってしまうものだ。まずは毎年、学級変更をやって、生徒をバラバラにしてみたり、日々の授業で宿題を出し、夏休みになればもっと多くの宿題を出そうとする。そうやって、生徒たちに遊びができなくさせようとするから、逆に成績が下がってしまい、教師が真面目に授業をやっても教育の成果が上がらなくなるのだ。

 更に追い討ちをかけるのが、母親の態度であって、事あるごとに「「勉強しないさい!」と叱りつけてくるので、逆に子供たちは勉強意欲を失ってしまうのだ。母親としては、小学生の子供が遊んでいても構わないのだ。しかし遊び終えたら、家事の手伝いをすべきだし、夕食後には勉強して貰わなければならないのだ。

 大人は遊びを軽視してしまうものだ。大人にとって遊びというのは最早必要ないからだ。遊んでいる暇があるなら、何かしらの労働をしてしまった方がいい。しかし子供たちにとっては遊びこそが大事なのであって、遊ぶことで心身を発達させているのである。子供が遊ばなければ、心身が発達しないのだ。

 もしも子供に遊ばせないで勉強ばかりさせていたら、貧弱な肉体にしかならす、精神的には歪みまくってしまい、確かに成績は良くても、なんの使い物にもならない大人になってしまうものだ。教師たちが教育熱心になる余りに、母親が教育熱心になる余りに、子供が遊ぶ機会を失わせてしまうものなのだ。だが、そういう試みを幾らやっても正反対の結果しか出て来ないのだ。

●子供の昆虫採集

 小学生の男の子なら、この時期、昆虫採集に熱中するものだ。「カブトムシ」「クワガタ」を始めとして、「カマキリ」や「コオロギ」や「バッタ」などを捕まえて来るものだ。なぜそういうことをするかというと、自分の肉体的成長のために蛋白質を大量に必要とする時期だからだ。文明以前なら捕まえた昆虫は食べてしまっただろうが、文明以後は観賞用の昆虫として飼い、肝腎の蛋白質は母親が作る料理で調達することになるのだ。

 小学生の時期に蛋白質を大量に摂取させると、子供はしっかりとした筋肉を持つことができ、成長期に差し掛かると、がっしりとした肉体になることができる。蛋白質は木の実や豆類などの植物性蛋白質と、肉や魚などの動物性蛋白質の双方を巧く食べさせて行くことだ。動物性蛋白質ばかり食べさせてしまうと、感情の激しい子供になってしまうので、必ず植物性蛋白質をきちんと取って行くことだ。

 男の子ならその昆虫採集を男の子だけでチームを組んで出かけるので、その昆虫採集で友情を温めて行くのだ。男の子は女の子に比べて会話の量が非常に少ないので、同じ遊びをすることで会話の質を上げて行くということをしない限り、友情を温めることはできないのだ。

 昆虫採集が巧く行けば、次は魚や爬虫類といった物に手を出して来るだろう。魚を取って来るならまだ理解可能だけど、母親にとっては爬虫類など持って来られた日には悲鳴を上げてしまうものだ。しかしこの時期、男の子なら大真面目になって、魚や爬虫類を取って来るのだ。飼う飼わないは別として、その行為だけは褒めてあげるべきなのである。

 もしも都会に住んでいて、昆虫採集などの機会がないのであるならば、田舎の方に行ってみて、昆虫採集に興じさせてあげることも親として必要なのだ。都会の中でひ弱に育った子供でも、田舎に連れて行って昆虫採集をさせてば、逞しい子供に早変わりするようになるのだ。

●「友達との友情」と「ルールの順守」

 子供たちの遊びは、「友達との友情」を作り出す上で重要な役割を果たす。遊びを通じて、友達の性格をなど知って行くのであって、遊ばない限り、友達の性格など知ることができないから、いつまで経っても友情を作ることも深めることもできなくなってしまうのだ。勉強ばかりしていると、友情なんてできなくなるものだが、それは勉強では友達の性格を知ることができないから、どう対応していいのか解らなくなってしまうからなのだ。

 子供たちが遊ぶと、子供たち同士でルールを作り、そのルールを順守して行くものだ。幼稚園児ならルールの下で遊ぼうなんてしないものだ。しかし小学生にもなればルールを自ら作り、そのルールの下で遊ぼうとするのだ。友達同士でルールがあれば、友達の量を一気に増やして行くことができるし、それを通じてより深い付き合いができるというものだ。

 友情というのは、無理矢理作れるものではない。遊んでいる内に自然発生的に生み出されて行くものだ。ルールというのも自分たちがそのルール制作過程に関与しない限り、積極的に順守しようはしなくなるものだ。ルールなどは遊んでいる内に自然発生的に出来上がって来るものなのである。

 学校の勉強ができなくても、友達が多く、友達としょうっちゅう遊んでいる子供は、それはそれで健全な成長をしているものなのだ。もしも我が子がこの手の子供なら、まずは友達作りが巧いことを褒めてあげることだ。その上で、「勉強の仕方」を教えるなり、スポーツに興じさせたりすればいいのだ。

 学校で勉強が出来過ぎてしまうと、頭が良すぎるがゆえに、友達が出来にくくなってしまうのである。そのため友達作りに苦労してしまうのである。公立の小学校で頭が良過ぎれば、最早、中学校は私立学校に行かざるを得なくなってしまうのである。私立学校に行って、頭の良い子同士でいれば、友達作りに苦労しなくなるのだ。

●善悪は試行錯誤の中で学んでいく

 人間には敢えて正しいことをする勇気を必要である。自分が「これは正しい」と知っていながら、それを実行できなければ、知らずに実行しなかったよりも劣ってしまうのである。その敢えて正しい勇気をもつために、子供たちは敢えて悪いことをする勇気を発揮してくるのだ。

 大人に向かってイタズラをしたり、お店で万引きしたり、他人に有り得ないようなことを仕出かしたりと、この時期の子供は平気でやってくるのだ。こういうことを仕出かした時はきちんと叱って、それが悪いことなのだと教え込んで行くことだ。これをしないと子供たちは悪事に慣れてしまい、悪事から離れられなくなってしまうのだ。

 子供たちにとってはこの手の悪事も遊びの一環なのである。だから下手に子供に理解のあるような大人になってしまうと、この手の悪事を肯定してしまい、子供が悪事から離れられなくなってしまうのだ。子供たちにとっては悪事がし放題だから楽しめるが、それを叱ってくれる大人がいなければ、幾らでも悪事をやっていいだろうと思い込んでしまい、悪事から離れられなくなってしまうのだ。

 しかし一番危険なのは、良いことも悪いこともして来ない子供なのである。子供の時になんらかの悪事をしておけば、それをやれば叱られるから、これは悪い事なんだということが解り、善悪の判断ができるようになるのだ。だが、悪事をしてこない子供は叱られることがないから、善悪の判断が身に付かず、中学生や高校生の時に大いにグレてしまったり、大人になってから有り得ないような犯罪に手を出してしまい、自分の人生を台無しにしてしまうのだ。

 子供は善悪を試行錯誤しながら学んでいくものだ。子供の時に小さな悪事を仕出かす子供は、大きくなってから大きな悪事を仕出かすものだ。だから子供が悪事をしたら、大人はきちんと叱っておくべきなのである。但し、その悪事が子供にとって遊びであることを決して忘れないことだ。遊びだからこそ叱られても大きなダメージを受けないのだ。悪事をして来る子供は遊んでいるからこそ悪事をしてくるのだと思い、厳しく叱りながらも、その成長を心の中で喜んでおくことだ。

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優秀な頭脳にさせる「最強の勉強法」

●成績のいい子供たちは「最強の勉強法」を身につけているだけ

 多くの人々は「アイツは頭がいい」とか「アイツは頭が悪い」とか平気で言って来るものだ。一体何の基準を以て頭の良し悪しを決定しているか解らないが、その評価でその人間の将来まで変わってしまうものだ。経済力が低い国家なら、第一次産業が中心になってくるから、それほど頭の良し悪しは問われない。しかし経済力が発達してしまった国家なら、貨幣経済が沸騰するから、頭が良い者は大金を手にすることができるし、頭の悪い者は幾ら働いても貧乏なままだ。だから頭を良くして行くことが必要だし、その試練はもう小学生の頃から始まっているのだ。

 子供というのは元気一杯だから、その溢れるエネルギーが脳にまで及んで、利発なものである。だが、その利発さを勉強にまで及ぼして行くことができるかと言えば決してそうではない。勉強以外では利発な子供でも、勉強し出すと魯鈍になる者は幾らでもいるものなのである。ではどうすれば子供の利発さを勉強にまで及ぼして行くことができるかといえば、それは「最強の勉強法」を身に付けるしかないのだ。

 学校の成績というのは、その子が本来持っている知能を評価しているのではないのだ。そうなのではなく「最強の勉強法」を身に付けて、勉強に取り組んでいますかということを問いているにすぎないのだ。だから「最強の勉強法」を身につけない子供は成績が悪いものだし、「最強の勉強法」を身に付けた子供は成績が良いものなのである。「最強の勉強法」自体はそんなに難しいものではなく、たった3つの遣り方からなる。

①反復学習

②時間制限

③要点掌握

 たったこれだけだ。「反復学習」「時間制限」「要点掌握」を繰り返すと、勉強が簡単に解って来るようになり、試験を受ければ高得点を叩き出すことになるのだ。学校の勉強も高校生になれば高度化してくるので、小学生の頃のように比較的優しい段階でこの「最強の勉強法」を身に付けてしまえば、その後の勉強が非常に簡単になってしまうのだ。

 母親が絶対に忘れてはならないのは、「頭の良し悪しというものは、勉強の仕方を身に付けているか否かなんである」ということなのである。子供の中には自発的に「最強の勉強法」を身に付けて来る子供もいるが、大半の子供たちは身に付けることはないのだ。それゆえ身に付けられなかった子供に幾ら「勉強しなさい!」と言っても勉強して来ないのだ。なぜなら勉強の面白さが全く解らないからだ。そういう場合、母親が「勉強の仕方」を教え込んでいくしかないのだ。

●反復学習

 反復学習とは、或る一定の勉強を何度も何度も繰り返すことだ。「予習」「授業」「復習」の三位一体が大事だというのは、これらを繰り返すことで反復学習ができるからなのである。人間の記憶の回路というのは、1回勉強したぐらいでできるものではないのだ。何度も何度も勉強を繰り返すからこそ、記憶の回路が出来上がるのである。

 基本的な所は何度も何度も繰り返して覚えて行くしかないのである。例えば国語なら漢字の書き取りなど延々と遣って行くしかない。算数なら問答無用で公式を覚えて行くしかない。そうやって既に解ったことを何度も繰り返すからこそ、知識が身について行くのである。勉強が解らないといっている子供はこの反復学習をしないからこそ、脳の中に記憶の回路が形成されないのだ。

 反復学習は基本的なことを繰り返しているのに、それをやっていると理解力が身に付くことになる。これが一番解り易く出て来るのが、国語の試験であって、漢字の書き取りをしっかりとして来ない生徒は、幾らどう勉強したとしても、国語の試験の点数が上がらないのである。基本ができていないから、内容を深く理解することができないのだ。

 大学入試とかで過去問を解くことに重点を置く勉強の仕方があるが、これを余りに遣り過ぎてしまうと、学問の基本がきちんと理解できなくなるという弊害が出て来るのだ。大体、大学に入学するのに、過去問を解いて受験テクニックを身に付けて来る生徒は、大学に入っても学問に精進しないものだ。

 その教科の基本を理解するためには、反復学習を延々とやっていくしかないのだ。解るまで勉強を繰り返すべきだし、解らないのならそれを飛ばしてしまわないで勉強し続けるべきなのである。小学生の勉強ならそんなに急ぐものではないので、解らないことがあるなら、教師に訊くなり、親に訊くなりすればいいのだ。

●時間制限

 時間制限とは、時間を制限を設けて勉強をしてしまうことだ。人間の集中力はそんなに長く続かないものだ。大人であっても1時間30分が限界なのである。子供の場合は20分から30分程度なので、その時間内に勉強をするようにすることだ。長時間、机の前に座って勉強するのではなく、20分から30分に1度は休憩を取るべきなのである。長時間勉強してしまうと、集中力が落ちてしまうものなのだ。

 時間制限を設けると、時間を濃縮することができるので、時間エネルギーを放出することができるのである。その時間エネルギーを使うと、自分のエネルギー以外のエネルギーを使えるので、時間制限を設けて勉強していると、通常なら解らないことでも解って来るようになるのだ。

 人間が1日の内に本当に集中できるのは、3時間程度しかないのだ。子供ならこの時間よりも短いのであって、子供に余りにも多くの勉強を強いるべきではないのだ。通常の日なら学校から帰宅して来たら遊ばせて、夕食後に1時間から2時間程度、勉強するようにしてしまえばいいのだ。夏休みなら朝の涼しい内に2時間程度勉強してしまい、勉強が終わったら、遊ばせればいいのだ。

 子供が長時間に亘って勉強し続ければ、その勉強への熱意とは裏腹に、その子供の学校の成績は悪いものに成って行くのだ。長時間勉強することで、集中力が完全に低下してしまい、その状況下で幾ら勉強しても、頭の中に入って来ることはないのだ。集中力が低下したら、勉強を止めるということは、とっても大事なことなのだ。

 試験をやると、なぜどの子供も集中するかといえば、試験には時間制限があるからだ。だから子供たちは自分の頭を振り絞って問題を解いて行こうとするのだ。だから通常の授業もダラダラとやらず、教師には授業に時間制限があるということが解っているのだから、授業内容を濃縮して教えて行けば、子供たちも必死になって勉強するようになるのだ。

●要点掌握

 要点掌握とは、勉強内容の要点を整理することで、その教科の要点を掌握してしまうことだ。勉強して知識を増やして行っても、それだけではなんの役にも立たないのだ。それは丁度雑学のようなものであって、「あれも知っている」「これも知っている」では、知識を体系づけて使うことができなくなってしまうのだ。

 勉強をしていると、「学問の知識の海」に溺れてしまう人たちが出て来てしまうものだ。そういう人たちに試験を受けさせても、そこそこの成績は取って来るのだが、その人たちに話を聞いてみると、肝腎なことが解っていないという事実が暴露されてしまうことになるのだ。余りにも多くの知識を持ってしまったために、自分の頭の中を整理していないのだ。

 要点掌握とは、要点を整理し、その要点だけを記憶して行くのだ。これをやるとその教科の体系がはっきりと見えて来るようになるので、大局観を持つことができ、重要なポイントは全て押さえることができるようになるのである。要点を整理してしまうと、学校の勉強はそんなに難しいことを教えていないことが解るのである。要点を整理していないからこそ、頭の中がゴチャゴチャになってしまうのである。

 要点掌握は中学入試とか高校入試とか大学入試の時に非常に役に立つ。その教科の要点を整理した本が売っているので、それを熟読して、暇がある時にパラパラと読んでいけばいいのだ。そうすると要点を掌握することができ、入試に於いて高得点を叩き出してしまうことになるのだ。

 「最強の勉強法」は小学校4年から中学高校大学まで役に立つ「勉強の仕方」である。小学生の段階でこれを身に付けてしまえば、落ち零れることなどなくなるし、学校の成績は常に上位に入ることができ続けるのである。試験の点数に一喜一憂をするのではなく、「最強の勉強法」を身に付けることにこそ全力を投入すべきなのである。

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「予習」「授業」「復習」の三位一体

●幾ら素晴らしい授業を受けても、明日になれば忘れてしまうもの

 人間という動物は忘却して行く動物である。自分が見たり聞いたりしたものは、その場では覚えているのに、すぐさま忘れて行ってしまう。人間が生きて行くために使う情報は膨大なものなので、その情報が必要でなければどんどん捨てて行くしかないのだ。そうしなければ脳の機能は麻痺してしまうことになるのだ。

 ところがこの遣り方を学校の授業で用いられたら困るのである。教師が折角、素晴らしい授業をやったのに、殆どの生徒たちは明日になれば忘れているものなのだ。幾ら授業が素晴らしくても、その授業の知識は生きて行くためには不要なので、簡単に忘れて行ってしまうのである。

 授業で教えた知識を記憶として固定させるには、人為的なことを施さなければならないのだ。それが「予習」「授業」「「復習」の三つを組み合わせることなのだ。ただ単に授業を受けていても忘れてしまうものだが、その授業に予習と復習を組み合わせると、授業で得た知識を忘れなくなるのだ。

 人間の記憶は睡眠時に整理されるので、その授業内容を記憶するためには最低でも2日間は必要となるのだ。授業の前日に予習をやっておけば、いざ授業を受けてしまうと、ただ単に授業を受けるより、授業内容が大いに記憶されて行くのだ。また授業を受けた後に、復習をしっかりしてから寝ると、授業内容が睡眠時にきちんと整理されるようになるのだ。

 よく「勉強は予習と復習が大事だ」と言われるが、それは記憶のメカニズムを巧く利用しないと、覚えられる物が覚えられなくなってしまうということを言っているのだ。どんなに難しい授業でも予習をしてから臨めば案外簡単だし、授業を受けた後に復習をするとその授業内容をきちんと整理することができるのである。

●予習と授業と復習の三つを組み合わせる

 「予習」「授業」「復習」の三位一体が必要となって来るのは、小学4年生からである。小学1年生から小学3年生までは好奇心を涵養して行く授業を行って行くので、下手に予習をされてしまうと、授業が面白くなくなってしまうのだ。しかし小学4年生以降になると覚えなければならない知識が増大して行くので、生産性の高い勉強の仕方を習得しておかないと、ぼちぼち落ち零れて行ってしまうのだ。事実、中学受験予備校では小学4年生から本格的な勉強を開始しているので、矢張り小学4年生というのが大きく変わる時期なのである。

 予習といっても、「体育」「音楽」「図画工作」はやらなくていいから、結局。「国語」「算数」「理科」「社会」だけである。予習は前日に教科書を読んでおくだけでいいのだ。明日に授業でやるべき箇所に目を通してから寝ると、脳は睡眠中に情報を整理し、いざ翌日になって授業を受けると、その授業の理解度が格段に高くなってしまうのだ。

 復習も「国語」「算数」「理科」「社会」だけであり、教科書を読み返したり、授業中に書いたノートを見たりする程度でいいのだ。恐ろしいほど簡単な作業なのだが、これを遣ると授業内容を圧縮することができ、情報の密度を濃くすることで、脳に記憶させ易いように仕向けるのである。

 小学校の場合、試験の前に受験勉強とかしないものなので、この「予習」「授業」「復習」の三位一体ができているのなら、試験を受ければ常に高得点を叩き出せるようになるのだ。逆に言えば小学校の試験で点数の悪い生徒は。「予習」「授業」「復習」の三位一体ができていないということなのである。

 多くの大人たちは、試験の結果が良ければ「この子は頭がいい」と思い、点数が悪ければ「この子は頭が悪い」と思ってしまいがちだが、実はそうなのではなく、「勉強の仕方」を習得できたか、習得できなかったかの違いでしかないのだ。ただ、「勉強の仕方」というのは習慣の産物なのであって、これが毎日行われると、月日が経てば経つほど圧倒的な格差を開かしてしまうのだ。なぜなら「勉強の仕方」を知らない生徒は幾ら勉強しても知識が記憶されて行かないから、当然に競争に負けて行ってしまうのである。

●個人の性格によって予習か復習のどちらかに重点を置くことになる

 勉強のできる生徒たちを見ていると、予習も復習もきちんと行うというのは余りいないものだ。大方は予習に偏るか、復習に偏るかのどちらかになる。この両者のどちらかがいいというのではなく、個人の性格によって予習か復習かのどちらかに重点を置くことになるのだと思っておいた方がいい。

 通常の学校生活を送っているのなら、自宅で予習と復習を同時にやってしまうものだ。まずは今日受けた授業内容を復習して、その後に明日の授業の予習をするといったパターンだ。或る者は復習を丹念にやるし、また或る者は予習を丹念にやるようになるものだ。どちらの方法をとっても、睡眠時にきちんと記憶されるようになるので、確実に授業でやったことを記憶していくことになるのだ。

 毎日、予習や復習をやるのが嫌いな子供は、1週間纏めて予習や復習をやってしまうというパターンもある。小学校の授業は教師のレベルが低いと授業スピードが異常に遅いので、毎日、予習復習する意味がなくなってしまうのだ。そこで1週間纏めて予習復習をやってしまうと、時間を短縮できて、しかもきちんと記憶されてしまうのである。

 成績を上げる裏技として紹介した、「新学年の時に教科書を貰ったら、貰ったその日に読み終えてしまう」というのも、予習としての効果があるので、新学年の始めに教科書を読んでおけば、その後1年間、授業を受けても、スラスラと授業内容を理解できるようになるのだ。勉強を楽にさせるためには、この裏技は非常に効果的である。

 学校の勉強で落ち零れないようにするためには、学期の終わりに、その学期の受けた授業を復習してしまうことだ。教科書をざっと読むなり、ノートをざっと見るなりしてしまえば、授業内容がありありと蘇ってくる筈だ。これをやると授業内容がきちんと整理されるので、小学校の授業が大変だったとは思わなくなるのだ。

●テレビを消せばこの習慣は必ず身につく

 「うち子は幾ら言い聞かせても予習も復習もしないのよ」とか言っている母親は、「予習」「授業」「復習」の三位一体は母親が教え込ませない限り、子供が自発的に習得して行くことはないということを知っておくことだ。中学受験予備校が有難いのは、ここに通ってしまうと「予習」「授業」「復習」の三位一体を身につけない限り、確実に成績が上がらなくなるので、偏差値の高い中学校に行きたければ、この勉強法を習得しなければならなくなるのだ。、

 通常、「予習」「授業」「復習」の三位一体が必要となってくるのは、小学4年生からなので、その時期から自宅の居間で勉強させればいいのだ。解らないことがあったら母親に質問するようにさせれば、子供は嫌が応でも予習と復習ができるようになるのだ。子供の勉強は子供部屋でさせず、居間でさせるというのが、子育ての基本だと思っておいた方がいい。子供部屋は子供が遊ぶための空間なので、その空間を勉強に奪ってしまうと、子供は息抜きできる場所がなくなってしまうのだ。

 子供が予習も復習もしなくなるのは、自宅でテレビをつけているからなのである。子供はテレビを見てしまうからこそ、予習も復習もしなくなるのである。だからテレビを消してしまえば、子供は自然と勉強するようになるのだ。勉強のことで母親と話し合っていれば、テレビよりも面白いものなのであって、そうやってテレビより勉強の方が面白いと刷り込んでいくべきなのである。

 「予習」「授業」「復習」の三位一体が習得できると、試験では常に高得点を叩き出せるようになるので、そうやって子供に勉強に対して自信をつけさせて行くべきなのである。子供に「自分は勉強ができるんだ!」と思い込ませてしまえば、後は自動的に勉強して行くものなのである。

 小学校の教師の中には授業のレベルを下げて、生徒たちに解り易くしようとする教師がいるものだ。しかしそういうレベルの低い授業をやってしまうと、生徒たちは余りにも簡単だら予習も復習もして来なくなってしまうのである。そのため生徒たちの学力が低下し、更に授業のレベルを下げなければならないという悪循環に陥ってしまうのだ。

 だから小学4年生になったら、≪成績を上げるためには「予習」「授業」「復習」の三位一体が大事なんですよ≫と、生徒の母親たちに教えておけばいいのである。そうしておけば、生徒たちは自宅で予習と復習をやってくれるから、教師の方は授業レベルを高くすることができ、それによって生徒たちの学力が急激に上がって行くことになるのだ。

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