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2010年9月

指導霊を使って大成功!?

●超能力好きには要注意

 中学や高校での勉強は真面目に勉強をやっていれば、必ず成績が上がって行くものだ。だからテストの前に一夜漬けのような勉強ばかりをするのではなく、日々コツコツと勉強して行くしかないのだ。そうやって記憶量を増やして行くからこそ、テストになれば高得点を取り続けることができるようになるのである。

 しかし中高生の中にはこの勉強の基本を忘れて、超能力に走る連中が必ず出て来るのだ。学校の勉強に超能力なんて必要ないし、そういうことを研究する暇があるなら勉強時間を多くして行くべきなのである。超能力がどうのこうのなのではなく、超能力に魅入られてしまうような中高生は、要は真面目に勉強していないってことなのである。

 もしも我が子が超能力に魅入られたら要注意である。その者は勉強の仕方が解っていないし、授業にきちんと付いて行っていないし、成績だって低迷しているものだ。勉強もしていないのに、本棚に超能力の本が増えて行き、得体の知れないことを実践しまくるのだ。超能力はその者の趣味とかいうものではなく、勉強に落ち零れたために頭がおかしくなったと見るべきなのである。

 勉強をやる時、絶対にやってはならないのは、完璧を求めることなのである。一生懸命になって勉強をするのはいいのだが、学問に於いて完璧を求めると、全ての価値観が崩壊するという不可思議な現象が起きてしまうのだ。カール・マルクスは資本主義を研究したのだが、彼がやったことは資本主義をよりよくすることなのではなく、その逆で資本主義を破壊することだった。このように学問には完璧にやろうとすると、全く正反対の結論が出て来てしまうのである。

 西ヨーロッパでは神学部が存在する大学だけが総合大学として認められるという遣り方を取った。神学というのは科学的な学問から見れば、どうやっても完成されることのない学問なので、そのため神学があるお蔭で、神学以外の学問が盛んになるという逆説が生じて来たのである。大学が大学内に意図的に不完全を残したからこそ、大学は発展して行くことができたのである。

 勉強する時に必ずやらねばならないのは、「不完全を残しておくことの大切さ」を知っておくことなのである。学問というのは宗教あってこそ発展して行くものであって、学校の勉強をしているのなら、定期的にそれとは正反対の宗教の勉強をした方がいいのだ。宗教の勉強をしておけば、学校の勉強もやらずに超能力に走るということはなくなるのだ。

●守護霊との関係を良好にする

 我が子の超能力好きを回避させるためには、母親の方が逆に守護霊や指導霊がどうのこうの言って、我が子を冷静にさせてしまえばいいのだ。母親が霊のことを言い出しているのに、自分が超能力云々を言うことはできないものなのだ。人間は単独で生きているのではなく守護霊というものがついている。大抵は自分のご先祖なのだが、我が子がおかしくなる時は、我が子と守護霊に距離が生じてしまい、それで我が子の霊力が減少し、異常な行動を取り始めてしまうのである。

①先祖祭祀をきちんと行う

 そこで守護霊との関係を良好にするために、まずはきちんと先祖祭祀を行うことだ。我が子を墓参りに連れて行き、自宅では御霊舎に手を合わさせ、守護霊がきちんと守護して行くれるようにさせるのだ。定期的に先祖の偉業の話をして、自分たち家族の先祖には様々な人々がいたことを教えて、先祖の遺徳を偲ぶべきなのである

②忙しい時に家事手伝いをさせる

 大体、超能力に手を出すような人々は家事手伝いというものをやっていないものだ。だから幾ら学校で忙しくても、家事手伝いを行わせ、勉強ばかりさせないようにすることだ。家事を真面目にやっていれば、いい気分転換になるので、幾ら勉強しても煮詰まらなくなるのである。

③禊をしてから、勉強やスポーツに取り組む

 行き成り勉強するのではなく、勉強する前には冷水で禊をさせ、体を清めてから勉強させることだ。暖衣飽食になってしまうと、体温が上がり過ぎてしまい、脳がオーバーヒートを起こしてしまうのだ。そこで冷水で体を冷やしてから勉強に取り組むと、体が適度に冷えるので、頭の回転が良くなるのだ。これはスポーツでも同じで、朝に冷水シャワーを浴びると、スポーツをやっている時にミスが少なくなるのだ。

 守護霊というのは、基本的に自分が守護している人間を守るために存在しているのだから、その者が道理に適ったことをしていないと、逆に不幸を引き起こすことで、その者の考えや行動を改めさせようとするのだ。だから先祖祭祀、家事手伝い、勉強やスポーツに打ち込むといったことをしていないと、途端におかしな方向に行ってしまうのである。

●指導霊の付け方

 世の中には驚異的な能力を持つ者がいるものである。そういう人物は大抵が自分の先祖を守護霊とするのではなく、その守護霊に代わって指導霊がついてしまったのである。そのため普通の人々ではできないようなことが、すらすらと出来てしまい、異常な能力を発揮して来るのだ。

 有名な音楽家や画家には大方、指導霊が付いているものだ。有名であっても指導霊の付いていない芸術家の作品だと、聞いた瞬間、見た瞬間に物凄い違和感を感じてしまうものだ。一流の芸術家の作品というのは、独自の世界を展開しているものだし、奥行きがあるのだ。こういうのは自力で作れるものではないのである。指導霊が付いてくれるからこそ、通常ではできないような作品を作ってしまうのだ。

 政治家や軍人、経営者や宗教家にしても、その世界で偉業を成し遂げようと思うのなら、指導霊を付けることは絶対に必要である。指導霊が付いてくれさえすれば、無名の若者であっても一気に頭角を現し、歴史に名を残す偉業を成し遂げることができるようになるからだ。自分の力など大したことはないと気付くべきなのである。それよりも自分を超える偉大な存在に気付くべきなのである。

①自分の理想とする人物を徹底的に尊敬する

 指導霊を付ける場合、自分が理想とする人物を徹底的に尊敬することだ。自宅に肖像画を貼ったり、銅像を置いてもいい。その人物の伝記を読み漁るのは勿論のこと、できることならその人物の墓に参拝することだ。そういうことをやっていると、本当にその人物が憑依してくれて、自分の指導霊になってくれるものなのだ。

②真面目にコツコツと努力をする

 指導霊というのは出鱈目な生活をしている人には霊力を与えないものだ。日々真面目にコツコツと努力している者に霊力を与えてくれるのだ。だから規則正しい生活を送って、勉強やスポーツに精進しまくることなのである。そうやって真面目に努力し続けていると、或る日突然に霊力を与えてくれるようになるのだ。

③無我の状態を意図的に作り出す

 指導霊は我執にとりつかれた状態を好まない、無我の状態を好むものだ。我執が取れると、指導霊はその者の体を勝手に動かし、その本人ではできないことを引き起こしてくるのである。それゆえ定期的に瞑想したり、ヨガをしたりするべきなのである。ラジオ体操でも無心になってやっていると、指導霊が力を与えてくれるようになるのだ。

●思わぬ偶然が勝利を呼ぶ

 学校の勉強ばかりしていると、「この世は必然的に動いているのであって、偶然などない!」と思ってしまうものだ。学校の勉強はどの教科も体系的に記述されているので、勉強熱心な生徒ほど、そういう錯覚を持ってしまうのである。しかしそうやって偶然を否定してしまうと、自分の精神が明らかにおかしくなってしまい、自分の人生が行き詰まってしまうようになるのである。

 超能力に取りつかれるような生徒は、勉強だけがおかしくなっているのではなく、人生そのものが行き詰まっているのである。偶然を認めないから、自分の人生に思わぬ変化が起こってこないのだ。そのために自分が一生懸命やればやるほどおかしな方向へと突き進んで行ってしまうのである。

 中高生の時に勉強ばかりをするのではなく、スポーツに精進した方がいいのは、スポーツなら試合に出てみれば、様々な偶然に遭遇するから、精神が異常化しなくなるのである。そうやって偶然が起こってくれるからこそ、この世は必然だとは思わずに、自分の人生に変化を与えて行くことができるようになるのだ。

 試験を受けていれば、「山が当たった!」とか「昨日勉強した所が出た!」とか、冷静に考えれば非合理的なことを多々経験するものだ。そうやって偶然の余地を認めるからこそ、勉強していても楽しいし、その楽しさがあるからこそ成績も上がって行くようになるのである。偶然を認めない必然の人生というのは苦しいだけなのである。

 守護霊も指導霊も、その本人が当たり前のことを真面目にやり続ることを求めているのである。そして無我になると指導霊が力を与えてくれ、思わぬ偶然が訪れ、それが不可能を可能にしてくれるのである。学問に矢鱈と霊を持ちこむべきではない。しかし人生を成功させたいのなら、霊の力を使うことだ。

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どうして子供はお金のことが解らないのか?

●霊界にはお金がない

 霊界の話が出たついでに、霊界とお金に関する話をしておこう。子供を産んで育ててみると、子供は明らかにお金のことを理解していない。特に乳幼児の時期にはお金のことを全然解っていないために、買い物に一緒に行ったら子供が商品を掴んで放さなくなってしまい、ということは事実上の万引きなのだが、母親を困らせたという経験は何度かある筈だ。

 なんでこんなことが起こるかといえば、霊界にはお金というものが存在しないからだ。お金という物はこの世に存在するだけなのであって、霊界に行ってしまえば、お金を使わなくても自分が欲しい物は念力を使ってすぐに手に入れてしまうことができるのだ。そのため霊界に住む人々は物欲が非常に少ないのだが、全く物欲がないという訳ではない。

 特に子供は3歳児までなら霊界に片足を突っ込んでいるために、霊界での遣り方がそのままこの世でも通用すると思っているのだ。子供がお金のことを解らないのは、何も幼稚だから解らないのではなく、どうして自分が欲しい物を手にするためにお金が必要なのかというのが解らないのだ。

 そのため子供の頃に両親や双方の祖父母たちが下手に大量のオモチャを買い与えてしまうと、子供の方は益々お金のことが解らなくなってしまうのだ。乳幼児の頃は積み木とか、縫い包みとか、手押し車とかで充分なのであって、オモチャにお金をかけるのではなく、如何に乳幼児が自分の想像力を使って楽しめるようにさせればいいのである。

 それと共に母親は買い物に行く時は自分一人で行ってしまうのではなく、子供たちを連れて行くべきなのである。買い物を見せることによって、自分が欲しい物があるなら、自分はお金を支払って手に入れなければならないというのをきちんと見せておくべきなのである。確かに母親が一人で買い物した方が楽だし、スピードも早くなるが、かといってそんなことをしていれば、子供たちにとって貴重な経験を奪ってしまうことになるのだ。

●オモチャを使ってお金に慣らす

 子供が幼稚園児になったら、オモチャのお金を使ったゲームをして、お金に慣らすことだ。「人生ゲーム」や「億万長者ゲーム」や「モノポリー」などはお勧めだ。これらのゲームは負けたとしてもお金が残るルールになっているので、敗者なのに敗者になっていないゲームなので、子供たちが脱落しなくなるのだ。

 オモチャの中とはいえば、お金を儲けて、お金を使うということを覚えておけば、実際の生活でもお金はこうやって使うものだということが解って来るのだ。実際の生活は貧乏であっても、オモチャを使って億万長者気分を味わせおけば、自分は億万長者になるのは当然と思うようになり、将来に於いて本当に億万長者になってしまうのである。

 幼稚園児は脳の臨界期に当たるので、この時期にテレビゲームなどに嵌ってしまうと、脳は外界の刺激に反射するだけの脳になってしまい、非常にレベルの低い脳になってしまうので、この時期にテレビゲームをやるのは絶対に避けるべきことだ。ボードゲームのように家族全員がワイワイガヤガヤしながらゲームをするからこそ、脳が大いに刺激を受けて、非常にレベルの高い脳になっていくのである。

 幼稚園児といえども霊界での記憶は全て失っていないので、この世の人々がどうしてお金で苦労するのかイマイチ解っていないのだ。この世でお金を得るためには、霊界と同様に自分の欲しい物を明確にすること、そのためにお金が必要なのであって、そのお金は労働によって手に入れなければならないのだ。

 将来、貧乏人になってしまう人たちは、乳幼児期の時期に典型的な勘違いを持続してしまっているのであろう。自分の欲しい物を明確にするのではなく、お金を欲しいと思ってしまうようになるのだ。そしてお金を得るためには労働をしなければならないというが解っていないのだ。お金というのは自分が汗水流して働いた上で得ないとあっという間に消えて行ってしまうのである。幾ら自分が貧しいからといって、赤の他人からお金を貰ったりすべきではないのである。増してや政府からお金を恵んで貰ってしまえば、永遠に貧乏から抜け出せなくなってしまうのだ。

●家事手伝いでお金に慣らし、お小遣い帳をつけさせる

 小学生になったら、家事手伝いを有料制にして、家事手伝いをきちんとこなしたから、お小遣いをあげるようにすることだ。小学生になれば欲しい物が出て来るので、僅かなお小遣いでもその効果は非常に大きいのだ。小学生なのにお小遣いを与えないと、子供は万引きをすることで、自分が欲しい物を手に入れるしかなくなってしまうのだ。

 母親にとって家事を子供たちに任してしまうと、母親の負担が非常に軽減されるのである。母親が家事で大変になってしまうのは、子供の数が少ないからなのであって、子供を多く産んで行くことこそが家事を楽にさせる最大の秘訣なのだ。しかも子供たちに家事をやらせることで、家事の遣り方を継承させていくのである。

 子供にお小遣いを与えた時は、子供にお小遣い帳をつけさせるようにすることだ。お小遣い帳をつけないとお金の流れを把握できないので、幾ら働いてもお金がなくなってしまうのだ。お小遣いを与えたのに、お小遣い帳をつけさせないのなら、子供はお金を全て使い切ってしまい、確実に自宅内で「小さな貧乏人」が誕生してしまうことになるのだ。

 日本には正月にお年玉を与える習慣があるので、このお年玉には要注意しておくことだ。お年玉は本来、子供に小銭を与えるものなのであって、硬貨を与えればいいのだ。しかし今は硬貨を与えることなく、紙幣を与えるようになってしまっているのだ。小学生が何も働いていないのに「1万円」を貰うようになってしまえば、子供の金銭感覚は完全に狂ってしまうのである。

 お年玉を与える時は、親戚同士で話し合って、高額化しないように歯止めをかけるようにすることだ。もしも親戚内に大盤振る舞いをする者がいるなら、その者の家には正月に訪れないようにし、お年玉を貰うようなことがないようにすることだ。子供の金銭感覚を健全に育てて行くためには、高額のお年玉は非常に危険だということを決して忘れないようにすることだ。

●よく働き、よく溜め込み、よく使え

 中高生になってアルバイトをし始めたら、金銭欲を剥き出しにするようなことを絶対にさせないようにすることだ。仕事をする時は、報酬通りの働きをするのではなく、常に報酬以上の働きをするようにすることだ。若い時はなるべくバイト料が安い仕事に精を出すべきであって、バイト料を貰いないながら仕事を教えて貰うというように考え方を逆転させてしまえば、バイトで苦労することがなくなるのだ。

 バイト料を貰ったら、全てを使うようにしてはならない。お金は貰った時点で天引き貯金してしまい、収入の2割を天引き貯金に回してしまうことだ。お金は収入の時点ですぐさま貯金して行かないと、あっという間にお金は消えてしまうのである。幾らバイト料が安くても、常に2割を貯金して行けば、貯金は急速に増えて行くものなのだ。

 貯金に回した残りは自由に使っていいのだ。自分に欲しい物があるならどんどん勝って行くことだ。年齢が若いと物欲が激しいので、その物欲をきちんと満たしておかないと、物欲が暴走してしまい、買い物中毒になってしまうのだ。意外なことかもしれないが、或る程度の物欲を満たすと、物欲は消えてしまうものなのである。

 「お金は天下の回り物」なのである。お金を回さないから貧しくなって行くのである。お金は回せば回すほど豊かになって行くものだ。自分に欲しい物があるなら、それを明確にさせておけば、いずれその物を買えてしまうことができてしまうのだ。自分の欲しい物を明確にせず、お金を求めてしまうからこそ、お金が入って来なくなってしまうのである。

 霊界にはお金がなく、この世にはお金があるけど、自分が欲しい物を明確にしなければ自分の欲しい物が手に入らないということでは同じなのだ。だから漠然と働かせるのではなく、自分の欲しい物を明確にさせるべきなのである。それと同時にお金は強力な力を持っているのであって、きちんと溜め込んで行くべきなのである。この世に生きているのに、貯金を大量に持っておかないと、いつまで経っても自分自身に対する資本金が溜まって行かないのである。預金通帳に書かれたお金こそ、その人の資本金なのであって、その金額が多ければ多いほど、その人物はこの世で重要な人物になって行くのである。

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死後の世界

●霊魂は輪廻転生する

 人間の命は死んでしまえばそれで終わりというわけではない。死によって人間の肉体は滅びるかもしれないが、人間の霊魂は生き続ける。「唯物論」だの、「無宗教」だの、「霊魂否定」だの、自分勝手なことを唱えるのは結構だけど、そんな間違った意見を唱えていると、死んだら悲惨な目に遭ってしまうことになるのだ。

 人間の霊魂は輪廻転生する。

 人間は何度も生まれ変わり、様々な場所で生きて、そして死んでいく。それを繰り返すことで人間は成長して行くのである。言わばこの世は修行のようなものであって、日々精進し、成長し続けるからこそ、来世をより良い人生にすることができるのである。

 人間の中には余りにも悲惨な境遇に生まれ、悲惨な事件の連発を食らい続ける人もいるかもしれない。そういう人生であっても耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、生き続けると、来世は素晴らしい人生になることができるのである。逆に恵まれた境遇に生まれ、衣食住に何一つ不自由せず、豊かな生活を送っていても、その人生で怠惰な生活を送っていれば、何も成長していないのだから、来世では悲惨な人生が待ち受けているのだ。

 日本人なら大体300年周期で輪廻転生している。この世に執着心があると輪廻転生の時間は早くなり、霊界で浄化されることなく、この世に生まれて来るので、霊力が劣ってしまい、自分の精神レベルを下げてしまうことになるのだ。正しく輪廻転生をするためには、如何なる状況に於いても一生懸命に生きて、この世に未練を残すことなく死ぬべきであって、そうすると霊界できちんと浄化されて、強力な霊力を持って、再びこの世に生まれて来ることができるのである。

 人間はこの世に生まれる前に、霊界の雲の上に呼び出される。この時は既に子供の姿になっており、雲の上からこの世を覗く鏡のようなものがあって、そこから自分の両親を選んで生まれて来るのだ。よく「子供は親を選べない」と知ったかぶりの人たちは言うが、これは完全に間違っていて、実際には子供たちは親を選んで生まれて来るのだ。、

●霊界の構成

 この世に生きていれば、自分勝手に生きるのではなく、常に神を崇敬して、神の聖慮に従って生きることが肝要である。この生き方を貫いていれば、功徳を積んだことになるし、この生き方をしていなければ、罪悪を積み重ねてしまうことになるのだ。人間は死んだ時点での功徳があれば天国に行けるし、罪悪があれば地獄に行くことになるのだ。

 まず罪悪がある人が死んだ場合、行き成り地獄に行くのではない。その前に「幽霊界」というのがあって、そこで少しの間、休憩することになる。この幽霊界はその名の如く幽霊が由んでいる世界で、この幽霊たちは現世に行くこともできる。我々が見る幽霊にはこの世を彷徨う浮遊霊や自縛霊のほかに、幽霊界から出て来る幽霊も存在するのだ。

 幽霊界を通り抜けると、「暗黒界」に辿りつくことになる。この暗黒界こそ本来は地獄だったのだが、暗黒界出身の人間たちが地獄についてさんざん妄想し続けたために、地獄界が出来上がってしまったのだ。この暗黒界は真っ暗な世界であり、死者たちはひたすら暗黒の世界を彷徨い続けることになるのだ。

 その次が地獄界である。地獄を盛んに強調する宗教に入ってしまったり、自分が犯罪を起こして「自分は地獄行き」だと言っていると、本当に地獄界に行ってしまうことになる。地獄界は憎しみ合い、殺し合いの世界であって、想像を絶する苦しみが延々と続くことになる。因みに地獄界出身の人間は人間の皮を被った獣になり易く、他人を傷つけても平気という人生を送ることになる。

 逆にこの世で功徳を積んだ人が死んだ場合、まずは「安息界」に行くことになる。意外なことかもしれないが、人間は死んでも自分が死んだとはなかなか理解できないのだ。そこで安息界に行き、死のショックを和らげ、自分が死んだという事実を受け入れるのだ。人間の霊魂はこの世で死んでも49日間はこの世に居続けるので、しっかりと葬儀をあげ、供養しておくことは絶対に大事なことなのだ。そうすれば死者は自分の死を受け入れ、天国へと旅立って行くことができるようになるのだ。

 我々が天国と呼んでいるものには、「天使界」と「天人界」の2つがある。天使界はユダヤ教やキリスト教やイスラム教といった人工宗教が作った世界である。この天使界は天使になった人たちが地上に降りて行けるのが特徴で、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教でも経典を読んでいると矢鱈と天使が出て来るのだが、これは天使界を天国と看做した宗教だからなのである。ユダヤ教の神であるヤハウェは天使界の天使長ともいうべき存在で、絶対に唯一絶対の神ではないのだ。神というのは後述するように、絶対に地上には降りて来ないのだ。

 天使界の上に天人界がある。神道や道教やヒンズー教のような民族宗教なら、この世界に辿り着くことになる。神道家なら天使界を簡単に通り抜けてしまい、天人界に入ってしまう。天人界は天使界と違って、地上に降りて行くことができず、この世界でゆっくりと楽しみ、自分を浄化させ続けるのである。

●解脱と転送

 天人界で自分が浄化されると、浄化され終わった人たちは霊界の指導者に呼び出されて、「最上霊界」というべき世界に連れて行かれる。そこで審判を受けることになる。「この輪廻転生から解脱するか、それとも再び人間界に戻って修行するか?」を問われるのだ。この最上霊界でその者が精神レベルを高くして、しっかりとした霊力があり、真心があるなら、この輪廻転生から解脱してしまい、「神界」へと送られることになるのだ。この条件を満たさない者は人間界に送り返され、再びこの世で人生を生き続けなければならないのである。

 仏教がいう解脱というのは、安息界→天使界→天人界→最上霊界と霊界で浄化されることなく、行き成り輪廻転生から解脱してしまおうというとんでもない遣り方なのである。では本当にこれができるかというと殆どの仏教徒たちができない。まずこの遣り方で解脱するためには、この世で仏教戒律をきちんと守らなければならない。その上で人間は輪廻転生していることをきちんと知って、無明から解放されなければならない。更にこの世での執着を一切捨てなければならない。これが出来た人だけ解脱できるのだが、仏教徒に限ってこれらのことができないので、解脱することができないのだ。

 輪廻転生から解脱したいのなら、この世で戒律を守ることが必要だし、無明から目覚め、この世に対する執着心をなくさなかければならないのだ。特に喫煙や飲酒や肉食は霊力を下げてしまうので、喫煙は絶対にすべきではないし、飲酒や肉食をできる限り控えることだ。仏教の僧侶で喫煙をしているのは論外であるが、飲酒や肉食をしているのは、明らかに仏教戒律に反しているので、絶対にやめることだ。

 神界というのは、巨大な白い光の球があり、選ばれた者はその中に入って行けることができるし、選ばれない者はその中に入って行くことができない。巨大な白い光の球というのは、復古神道の神道家たちが霊視で見た神の姿とピタリと一致しているが、実を言うとこの神は地球の守護神というものであって、究極の神は更にこの上の世界にあるのだ。

 この地球の守護神に選ばれなかった者は、地球に送り返されたり、地球以外の惑星送りになってしまう。キリスト教徒は基本的に神界に呼び出されることはないのだが、アメリカ合衆国のプロテスタントで、教会に行かなくなり、ニューソ-トの影響を受けた者たちは、神界に呼び出されている。

 実はニュ-ソートは仏教が出所であって、仏教が西ヨーロッパで研究され始め、その研究成果がアメリカ合衆国に送られ発達して来たために、ニューソートを勉強していると、知らず知らずの内に仏教の影響を受けて、この世に対する執着心がなくなってしまうのだ。

 そのため輪廻転生から解脱してしまい、神界に辿り着くのだが、神に選ばれることなく、「スバル」「オリオン座」「シリウス」などといった惑星に送られてしまい、そこで再び人生を遣り治すことになるのだ。他の惑星に転送されるのは個人レベルでは喜ばしいことであるが、アメリカ合衆国を守る死者たちが少なくなってしまうので、アメリカ合衆国自体が危うくなってしまうのだ。現在のアメリカ合衆国の衰退は経済上の問題だけでなく、霊界で異常なことが起こっているからなのである。

●神界での経験以降

 神界で神に選ばれた者は、神の霊に溶け込んでしまう。そこで最高レベルの霊力を受けてしまい、神の体と一体化してしまうのだ。その後、神の意思によって霊界の指導者として活躍させるさせるために、地球の霊界に送り込んだり、他の惑星に送り込んだりするのだ。そこで人々を輪廻転生から解脱するように導いて行くのだ。

 この世に降り立った霊界の指導者が、神社神道に於ける祭神であって、祭神として霊力を発して、子孫を霊的に守るのである。祭神の霊力が非常に強い場所は、「奈良の三輪大社」「出雲の熊野大社」「伊勢神宮」などである。伊勢神宮では女神が祀られているので、ここに女性が参拝すると霊能力が覚醒したりしてしまう可能性があるのだ。

 神社ではないが、皇居や京都も天皇の先祖だちの霊力によって守られている。そのため皇居に行ったり、京都に行ったりすると、非常に健康になってしまうのだ。清らかな気持ちで皇居を一周してみたり、京都を散策してみると、心身が清々しくなってしまい、自分の人生で様々な幸運が訪れて来ることになるのだ。

 自分の先祖の中に霊界の指導者になった人がいるのなら、その霊界の指導者は霊界から自分たち家族を守ってくれる筈なのである。だから先祖祭祀をきっちりと行い、先祖が喜ぶようなことをしていると、家族全員が健康に過ごせて、子孫が繁栄して行くことができるようになるのである。

 人生というのは僅か100年程度で終わるのではないのだ。何度も輪廻転生をする以上、現世での人生はしっかりと修行していくしかないのである。生きていれば楽しいことも苦しいこともあるが、どのようなことが起こっても「これは修行なんだ」と割り切れば、耐え忍ぶことができるようになるのだ。そのような生き方をした上で、正しい宗教を正しく修めて、自分が死んだ時には輪廻転生から解脱できるようにすべきなのである。

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自殺の季節

性ホルモンによる異常

 小学生が自殺をすることは滅多にないが、高校生なると自殺者が急増して来る。16歳から19歳にかけては性ホルモンが大量に分泌されて来るために、心身が急激に変化してしまい、脳を過敏にさせすぎることになってしまうのである。だからその時期に些細なストレスがかかってしまうと、自分で理解しがたい行動を取り、自殺へと追いやられてしまうのだ。

 高校生で過敏な者は、とにかくいつも髪を弄っているものだ。髪を弄り始めるのは過敏になっている証拠なので、いっそのこと坊主頭にするという対策を打ってしまった方がいいのだ。運動部とかではスポーツ刈りをすることを定めている部活もあるが、そういう部活をやっている部員から、自殺者は出て来ないものだ。

 女性に対しては坊主頭にするということはできないので、とにかくスポーツをさせて過敏になりすぎないようにさせないことだ。スポーツで体を動かしていれば、髪を弄りまくる仕草をやめるようになるので、自殺へと追いやられる率が急激に下がるのである。女性の場合、男性よりも感情的に動くので、些細なことでヒステリーを起こしてしまい、自殺してしまう危険性があるのだ。

 高校生になると妙に惹かれてしまう小説がある。それは夏目漱石の『こころ』であろう。この主人公は自殺することになるのだが、この小説を幾ら読んでも自殺する理由が解ったような解らないような感想を持ってしまうのだ。自殺者というのは明確な理由があって自殺するのではなく、「どうしてそんなことで自殺してしまうの?」と言いたくなるような理由で自殺してしまうのである。

 よく自殺者が出ると、「マスコミは自殺者のサインを受け取らなかった」と学校を攻め立てるのだが、それはお門違いというものなのである。自殺者が明確な理由を持っていたのなら、自分の命を断つということはしなかった筈だ。寧ろ自分を追い詰めた者を殺しに走った筈だ。自殺というのはよく解らないということこそ、自殺の実態なのであって、それを巧く教えてくれるのが、夏目漱石の『こころ』であると思う。高校生という「自殺の季節」にいるなら、この小説を読んで自殺について考えてみることだ。この小説を読めば自殺なんてしなくなることだろう。

●ビタミンとミネラルの不足

 マスコミとかは「日本は自殺率が高い」と報道して来るのだが、先進国で階級変動の激しい国家は必ず自殺率が高くなるものなのである。イギリスでもフランスでもドイツでも、先進国になればなぜか自殺者が出て来るのである。日本の場合、占領中に上流階級が破壊されるという事態に陥ってしまい、中産階級や下層階級の人間でも上流階級に伸し上がっていけるという状況が出現したために、どの階級に属しても高いストレスを受け続けることになってしまったのだ。

 更に日本人の自殺率を高めた要因には、「白米」の常食と、「白砂糖」の大量摂取がある。精白穀物や白砂糖にはビタミンやミネラルが殆ど含まれていないために、これらの物を食べながら、脳を使い過ぎてしまうと、頭の中が真っ白になり、突発的に自殺をしてしまうようになるのだ。

 よく頭脳労働をしているのに、食事で精白穀物を食べ、間食で白砂糖を使ったお菓子を食べていると、「アイデアが全く出て来ない!」と言い出して来るものだが、これは脳がビタミンやミネラル不足に陥って、脳が正常に機能しなくなってしまった証拠なのだ。頭脳労働をしてみれば解るが、どんなに解らない問題があっても、仕事をやっている内に答えが解って来るものなのである。それなのに「アイデアが出て来ない」という状態になってしまうのは、明らかに食事が悪いのである。

 高校生の場合、学校の勉強で脳を使うのは勿論のこと、友人関係でも学校の先生との遣り取りでも脳を使うものだ。そのため自分が考えている以上に脳を使っているのであって、食事には充分気をつけておくべきなのである。これだけ脳を使っているのに、精白穀物や白砂糖を食べていると、脳がオーバーヒートを起こしてしまう危険性が出て来るのだ。

 白米も白パンも体温を下げるということでは同じ効果を果たして来るのだ。白米や白パンを食べながら、冷えた牛乳を飲んでしまうと、体を完璧に冷やしてしまうことになるので、精神病のような症状が出て来るのだ。高校生には冷えた牛乳など飲ませるできではなく、ヨーグルトを常温で食べさせるようにすることだ。牛乳を飲ませないという措置を取るだけでも、自殺率はかなり低下するものなのである。

●人間が悩む量には限界がある

 若い時期は様々なことに悩むものであるが、人間が悩む量には限界があるのだ。様々な苦悩を抱え込んでしまえば、それが過剰なストレスとなって自律神経を異常にさせてしまうし、自律神経が異常になってしまえばストレス処理の拙さが加わって、更にストレスを大量に抱え込んでしまうことになるのだ。

 無責任な大人たちは「若い時は悩むものなんだから、悩ましておけばいい」と言って来るものだ。しかしそういう無責任な態度こそが、高校生を自殺に追いやってしまうのだ。これを解り易く説明するには、高校生にボールを投げ与えることで実証していけばいい。高校生は投げ与えられたボールを1つや2つならキャッチできるものだ。しかしそれ以上のボールは掴めないものなのだ。新たにボールを掴もうとするなら、今持っているボールを手放さなければならないのだ。

 高校生に漠然と勉強をさせるのではなく、高校入学した時点で、学校で勉強しないとどのような将来が待っているのかを、経営コンサルタントに講義して貰うことだ。学校の教師が将来のこと云々を言っても生徒たちはなかなか言うことを聞かないものだが、外部の人間が将来のことを言うと真剣な態度で聞くようになり、高校3年間を勉強に費やすと同時に、ストレスの低い状態で勉強することができるようになるのだ。要は大学受験のために勉強させるからこそ高校生はストレスを抱え込んでしまうのであって、なんのために受験勉強をやっているのかが明確になれば、ストレスは減少するものなのである。

 高校生の時期は友人関係に悩むものなので、必ず部活動に入らせるようにすることだ。部活動をやっていれば濃厚な友情を築き上げることができるので、友人関係で苦労することが激減するのである。しかし部活は少人数で行っているために、おかしな方向に走ってしまうと、それを誰も止めることができなくなるので、顧問がしっかりと監視しておかなければならないのである。

 高校生になれば、学校の教師や学校の友人とかには話せない悩みを抱えてしまうものだ。それゆえ自分の人間関係を学校の内部で完結してしまわないようにすることだ。必ず学校の外部の人と繋がりを持っておき、その人に自分の悩みを打ち明けて、良きアドバイスを貰うことはとっても重要なことなのである。

●人生は割り切ってはならない

 自殺者の多くが人生を割り切ろうとするものだ。人間の人生は割り切れるものではないのだ。人間は生きていれば何かしらの矛盾を抱えているものだ。その矛盾を完全に解消してはならないのだ。矛盾があるというのは、自分が生きている証拠なのであって、矛盾があるからこそ自分の未来を作り出して行くことが可能になるのだ。

 逆に、一見、理想的なことを言っている人の意見こそ疑ってみることだ。例えば仏教の僧侶は「煩悩を持つことは怪しからん」と言っているのに、自分はちゃっかりとお寺に執着しているものだ。キリスト教の神父や牧師たちは「愛」を唱えているのに、キリスト教こそ世界の宗教の中で最も多くの大量虐殺をやった宗教なのである。仏教の僧侶の意見を鵜呑みして、自分の煩悩を消滅させようとしても、なかなかできるものではないのだ。キリスト教の神父や牧師の意見を鵜呑みして、愛を実践しても、いつの間にか愛が憎しみに変わってしまうものなのだ。こういう場合、自分が悪いのではなく、教義自体に問題があるのである。

 人間には何かしらの問題がある。それこそがありのままの人間の姿なのである。問題があるからといって自分が悪い訳ではないのである。それは自分が成長している証なのだ。もしも今抱えている問題を解決すれば、新たな問題が発生して来るし、その問題を解決しても、更に新たな問題が発生して来る。そうやって人間は成長して行くものなのである。

 自殺者に共通するもう1つのことは、「自殺者は大抵が人に役立つことをしていない」ということだ。自分が誰かの役に立っていれば、絶対に自殺などしないものなのである。自分のことしかやらないから、この世での存在価値がなくなってしまい、自殺してしまうことになるのである。 

 宗教団体に入っていると何かしらのお役を貰うから、結果的に人に役立つようなことをしてしまうのだ。そうやって他人の手助けをしていると、他人の僅かな手助けが、実は大きな変化をもたらすことに気付くものなのである。だから自分で頑張り過ぎないようになり、無理することなく生きていけるようになるのだ。もしも自分の力では解決できない時は、他人の手助けを頼めばいいのである。

 要は自分の世界だけに閉じ籠ってはならないということなのである。自分が高校生であるなら、幾ら悩んでも的確な答えを導き出せるとは限らないのだ。もしも自分で解決できない問題があるのなら、他人に聞いてしまった方が早いのである。大人たちが悩む高校生たちを放置してしまうことこそが、実は高校生の自殺率を高めているのである。

 自殺者が自殺をする理由はよく解らないものだ。しかし高校で自殺者が出てしまったのなら、その高校が間違ったことを遣り続けた結果、そういうことが発生してしまったのである。それなのに校長以下、教職員たちが何も反省しないのなら、次から次へと自殺者が出て来るし、また自殺者を出すような高校はいずれ潰れて行くものなのである。高校を存続させ、生徒たちに楽しんで貰うためには、自殺者が出て来ないような学校作りというものが絶対に必要なのである。

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『ゲゲゲの女房』への感想文

●原作が良ければ、いいドラマを作れるもの

 いや~、NHKの朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』は面白かった。俺としては、このドラマの原作の武良布枝著『ゲゲゲの女房』を読んで「これは面白い!」と思っていたので、それがドラマ化されるのは本当に楽しみだった。原作が良ければ、きちんとしたドラマを作ることができるもんだよ。脚本家が自分の頭で作り出したフィクションだと、嘘が目につくようになってしまって、楽しめないんだよね。それよりも原作があって、そこから話を膨らまして行ってくれた方が、同じ嘘でも楽しめるからね。

 今回のドラマで一番難しかったのは、シナリオ作りの難しさだったと思う。まず結婚生活に対して水木しげるさんと武良布枝さん双方が本を出しているんだけど、双方の印象は幾分違っているんだ。例えば、水木しげるさんは売れっ子に成り出してから、妻子のことは殆ど見向きもしていないからね。売れていた時期の仕事は本当に忙しかったんだと思う。

 それと貸本業界が消滅するといった現象をどのように説明していいのかって意外と難しいもんだと思う。とにかく貸本業という商売があったこと自体、知らない人々が多数存在するので、そこを説明しなければならないし、その貸本業界が漫画雑誌の躍進によって潰れれいったことを説明しなければならない。後、ドラマを見てもイマイチ解らなかったのが、貸本漫画家が通常の漫画家に転職するのがなぜ難しいのかということだと思う。俺が補足説明をしておくと、通常の漫画家たちは圧倒的に手塚治虫の影響を受けていて、ストーリー展開が非常に早いんだということだ。それに対して貸本漫画家たちは漫画が出て来る以前の劇画の影響を受けていて、ストーリーの展開が遅いのだということなのである。、

 今回のドラマで非常に良かったのは、監督が不要なシーンを省いてくれたのが物凄く良かった。説明を多く要するドラマなので、余りにも多くの説明を加えてしまうと、逆にドラマの展開が悪くなってしまうのだ。民放のドラマの監督たちは無駄なシーンを切らなさすぎなのである。そのシーンを取るためにお金をかけたことは解るが、それが不要なシーンなら敢えて切ることも必要なのである。

 『ゲゲゲの女房』は、監督が男性で、脚本家が女性なので、ドラマ作りとしてゴールデンコンビになっていたので、これでコケたら監督にも脚本家にも才能はないと思っていたが、想像以上に出来が良かった。ドラマの脚本家の場合、自分の意見が全て通るのではなく、会議で幾らでも修正され、シナリオを変えて行かないとならないので、物語を作る能力だけでなく、柔軟性というのも必要となってくるのだ。その点、この脚本家はよくできたと思う。

●松下奈緒の魅力

 主人公の武良布美枝役をやった松下奈緒は、俺にとっては完全にノーマークだった。嘗て俺が映画製作をしていた頃のノートを読み返しても、松下奈緒の名前は1つも出て来ない。それもその筈、俺が映画製作をやめるのと交代するかのように芸能界に入って来たので、俺は全然知らんかった訳だ。

 身長が175cmと高く、今までいい役には巡り会えなかったが、今回は役そのものが身長が高いという設定なので、逆に身長の高さを効果的に使えた訳だ。女優さんは身長が高くなると当たらなくなる傾向にある。身長が高いとスタイルが良くなりすぎてしまい、視聴者がドラマにのめり込めないないのである。女性に人気のあるファッションモデルたちをドラマに使うと殆どがコケてしまったが、これは女性の視聴者たちへの配慮がなさすぎたからなのである。藤原紀香は幾らドラマの主役を務めてもドラマを当てたことはないが、あれだけスタイルが良いと、それが目に突き過ぎてしまい、ドラマどころではなくなってしまうのである。その点、松下奈緒は長身であっても、オッパイは小さいし、余り美人でもないので、そのマイナス点が逆に女性たちの共感を呼べたと思う。

 安来時代の松下奈緒が余りにも不自然だったのは、監督から「役作りをしていると思われては駄目」と言われたからなのである。監督は余計なことを言うなって! 監督としては役作りをしているだけではまだまだといいたい所なのだが、松下奈緒本人が必死になって役作りをしているのに、そんなことを言われてしまえば、本人が混乱してしまい、それが初期の演技の不自然さに繋がったのである。女優が役作りをして、その役を使いこなして行くのは、女優に任しておけばいいのであって、問題があったら監督が指摘すればいいのだ。

 それとドラマの中で赤ちゃんから離れるシーンが矢鱈多過ぎるのが目についた。これは脚本家に責任がある。まず母親というものは、赤ちゃんを2階に置いてどこかに行くということは絶対にしない。赤ちゃんが起き出して動き出せば、階段から落ちてしまう危険性だって出て来るのだ。脚本家が育児を経験していないと、こういう所に脚本の精密さを欠くようなことが出て来るのである。

 今回のドラマはNHKが力を入れて作ったのに、『ゲゲゲの女房』のポスターが余りにもひどすぎるのだ。松下奈緒の顔が膨らんで写っているのだ。これは典型的な「水太り」の症状で、体内に余分な水分があるとああいうように太って写ってしまうのだ。こうならないように、朝に軽ジョギングするか、定期的にサウナに入って汗を流すべきなのである。それと極力、飲酒を控えるべきなのである。日本では女優が平気で飲酒をしてくるために、どうしても美しさが抜きん出て来ないのである。

●大当たりの向井理

 ドラマでは主人公が目立つのは当たり前のことだ。脇役が光ってこそ、いいドラマの証なのである。今回は水木しげる役の向井理がいい演技をしまくってくれた。水木しげるさん本人は典型的な奇人変人なので、その役作りをきちんとしてくれないと話にならないのだ。水木しげるさんの言動は水木しげるさんだからこそ許されるのであって、役作りをきちんとしていない者が言ってしまうと、「ふざけんなよ!」と視聴者が突っ込みを入れて来るようになってしまうのだ。

 大体、40歳近くになるまで独身というのが、そもそも異常なのである。あの時代ではお見合い結婚が主流なので、いい歳になれば結婚するものなのである。しかも水木しげるさんは結婚するまで女性と付き合った形跡がなさそうなので、その点も異常なのである。戦争で左腕を失ったというのが、本人の性格をより一層複雑なものに変えてしまったのである。女っ気が全くなく、貸本漫画家として仕事に追われ続け、いつの間にか歳を取っていたということなのである。その奇人変人ぶりを如何に表現するのかということが向井理に託された使命だったのである。

 水木しげるさんは食事の場合、皿以外はなんでも食うほどの大食漢なので、実はこのドラマで食事のシーンは意外と重要なのである。しかも右腕だけ飯を食わなければならないので、そのシーンの良し悪しがドラマの印象を大いに変えてしまうのだ。この点、向井理は プロ並みの料理が作れるという料理好きなので、その食べっぷりが非常にいいのである。最近の俳優さんはご飯の食べ方が非常に汚いので、美味しく食べるように見せるというのは、誰にも出来るように見えて、実は出来ないのである。

 ドラマの視聴率を上げたのは、実は新婚時代の貧乏生活のシーンが連発したことだったらしい。日本経済がデフレに突入して以来、デフレ不況が長期間に亘って続いているので、この時期に視聴者の生活と掛け離れた生活を見せられても、視聴者から総スカンを食うのが当然の結果なのである。だから今回、朝っぱらから貧乏生活を見せつけられれば、視聴者はこのドラマに引きつけられるし、逆に応援したくなってしまうのだ。

 大体、夫婦の生活で貧乏というのは別に恐ろしいものではないのである。生活が貧乏でも夫婦の考え方とか会話の仕方とかでなんとかやっていけるし、楽しめるものなのである。貧乏だからこそ夫婦が結束できるし、目的を持って働いていれば貧乏を克服することが出来てしまうのである。あの貧乏生活が充実していたからこそ、後に水木しげるさんが売れっ子漫画家になった時に、主人公が昔の貧乏生活を懐かしむシーンが重みを持って来るのである。

●脇役たちの面白さ

①大杉漣

 今回のドラマでは脇役たちの出来が非常に良かったのだが、その中でも最も良かったのが、主人公の父親役ををやった大杉漣である。俺が大杉漣に惚れ込んだくらいにいい演技をやってくれた。主人公の父親は、厳しい父親であるが、実は娘思いのいい父親なのである。それを短い出演時間で表現して行かなければならないのだ。大杉漣は脚本どおりにやったのではなく、かなりアドリブを利かして、巧い形で表現していったらしい。

 俺は大杉漣が出て来るシ-ンがあると、遂々笑ってしまったのだが、ドラマでは絶対に笑いは必要なのである。脚本家の中にはシリアスなシーンばかり連発する脚本家が多数いるし、俳優の中にもシリアスなシーンが得意という俳優が矢鱈に多いのである。ドラマを見ている方としては笑いのないドラマなど見ていられないのである。チャンネルを回す権限は視聴者が持っているのだから、詰まらないのであるならチャンネルを変えてしまうものなのである。だから大杉漣が笑いを取ってくれたのは、非常に有難かったのである。

②松阪慶子

 『ゲゲゲの女房』では松下奈緒と松阪慶子の遣り取りが実は重要なシーンなのである。田舎から出て来た主人公は新しい生活に不安がっており、それなのにそこで知り合った友達と仲良くなることで不安が取り除かれ、しかもその女性にはつらい過去があるので、その展開がドラマに奥行きを与えるのである。大衆食堂を辞めて、貸本家になり、しかも戦時中に我が子を病気で亡くし、夫は戦争の後遺症で働かないという、このドラマの中では最も難しい役なのである。それを松阪慶子はよくぞこなしてくれたと思う。松阪慶子だからこそ、この人物の登場でこのドラマに重みが出て来たと思う。

 しかし最近の松阪慶子は余りにも太り過ぎである。少し太るのは別に構わないのだが、画面からはみ出るような太り方をしているので、これだけはなんとかして欲しかった。年齢的に女性ホルモンの分泌量が低下して来るので、熟女は油断していると、一気に太ってしまうのだ。昔は物凄く美人な女優だっただけに、今のような太った姿を見るのは、結構きついな。

③南明奈

 俺としては、南明奈を登場させたことは、非常に新鮮な驚きだった。このドラマでは実はベテランの俳優たちが殆どを占めているので、南明奈のような素人は門外漢なのである。でも新人を使うことで、彼女の一生懸命さが逆にベテラン勢の中で光ったのである。俺はこの起用に「この監督の采配は巧いな~」と思わず感心してしまったくらいなのだ。

 実際の水木しげるさんは女性にはモテない性格なので、南明奈がやった少女漫画家というのは、完全にフィクションの産物なのだが、彼女が出て来たことでお見合い結婚した主人公にも競争意識が生まれ、夫婦の関係を強化して行くことになるのである。事実、南明奈が登場して来たシーンと、田舎に帰ったシーンを見比べてみると、余所余所しかった夫婦がいつの間にかに強固に結束できるようになったのである。ぼさーッと見ていると、見過ごしてしまうものだが、実は南明奈はこの役を結構巧くやってのけたのである。

●駄目な脇役

 主役と脇役たちが非常に出来のいい演技をしていたというのに、1人だけ下手糞な演技をしまくった人物がいる。それがイタチ役の杉浦太陽だ。これには悪い条件が全て重なってしまったみたいだ。このイタチという人物は、実は水木しげるさんの尋常小学校での友達をモトネタにして作った架空の人物である。金儲けを目指しているのに、なぜか金儲けに繋がらない。こういう人物は本当に世の中に実在するものだが、自分の利己心が激しいために、相手に儲けさせることをしないから、お金を儲けることができないのである。

 この手の人物を登場させた脚本家のアイデアは良いのだけれど、この人物をきちんと描きっていないのだ。多分、実生活でこの手の人物からひどい目に遭ったことがないのだろう。イタチのような人物と付き合っているだけで、こちらは大損害を受け続けてしまうので、とにかく遠ざけるしかないのである。通常、自分の成長と共に縁が切れるものなのである。具体的に言うなら。水木しげるさんが貧乏生活をしている時にだけ登場させて、後は登場させないようにした方が現実味を帯びたし、物語の流れも良くなった筈である。

 それに加えて監督が判断を誤り、杉浦太陽を選んだのは完全にミスキャストなのである。杉浦太陽のようなイケメン俳優では、このイタチの役をこなせないからだ。イタチというのは完璧にトリックスターなのである。主人公たちを散々掻き回して混乱させるのだが、それによって主人公たちが成長して行くことになるのである。この役は「善人」ではなく「悪人」なのであって、「人の良さ」ではなく、「悪どさ」を持っていないければならないのである。もしも俺が監督だったら、ブラックマヨネーズの吉田敬を用いたと思う。そもそも吉田敬はお笑い芸人だし、悪どさも十二分に持っているからだ。

 どこの劇団にもこの手の人物は必ずいるものだ。劇団員なのに劇団に大した貢献もせず、それなのに劇団が宴会をする時はちゃっかり出て来て、飲み食いをしまくるのである。本当に役に立たないのだが、この人物を劇でトリックスターとして使うと、通常の役者では絶対にできないような演技をしまくるのである。ドラマの監督をするなら、様々な劇団に足しげく通って、こういう人物をマークしておくべきなのである。それがいざという時に役に立つのである。

 水木しげるさんとイタチの遣り取りは、実は大いに笑いを取れたシーンなのである。トリックスターに課せられた使命は、登場の度に視聴者を笑わせるということなのである。イタチの役は杉浦太陽本人の性格とはまるで違う性格だし、彼はドラマの基本が解っていないし、人生の経験のなさも暴露してしまった。駄目ね演技をしまくったからこそ逆に目立ってしまった。今後の活躍に期待するしかないな。

●ナレーションの素晴らしさ

 「おばば」の役をやった野際陽子は早々に死んでしまったけど、その野際陽子をナレーションで用いたのは本当に良かった。野際陽子の声は聞き易いので、物語の流れが良くなってしまったのだ。女優は顔や演技だけでなく、声でも光ってなくては駄目なのである。因みに平凡な監督だと、主人公の松下奈緒にナレーションをやらせた筈だ。しかし松下奈緒の地声は非常に低いので、もしもナレーションをやったら非常に聞き取りにくくなってしまって、物語のトーンが一気に下がってしまったことだろう。

 おばばが主人公に妖怪話の中で出て来た「おらんけどおる」という言葉は、このドラマの中で重要な言葉になる。まずはこの言葉で妖怪の存在が肯定されるし、それがためにその後の人生で妖怪漫画家との出会いが導き出されるのだ。それにこの言葉を繰り返すことで、死んだ筈のおばばがドラマの中で生きて来るのである。実を言えばおばばはこのドラマのもう一人の主人公なのである。そのために脚本家は主人公の視点とおばばの視点で脚本を書くことができ、無理をすることなく脚本を作ることができたのである。

 この「おらんけどおる」という言葉は、脚本家の想定を超えて、かなり視聴者に変化をもたらした筈である。「おらんけどおる」という言葉を繰り返すことは、「このドラマはフィクションだけど、フィクションであるがゆえにリアリティーがありますよ」と言っているようなものだからだ。だからこのドラマを熱心に見る視聴者が出て来たし、視聴率も急上昇してきたのだろう。

 死んだ筈のおばばを生かすことで、明確に見えて来るのは、≪おばばの慈愛≫だ。おばばが孫娘を思う気持ちが、主人公を守り続けるのである。だから、「のんのんばあ」に愛された水木しげるは、武良布枝と結びつくのである。主人公の育った家庭は父親が厳しく、水木しげるが育った家庭は母親が厳しいと、まるで正反対の家族だ。しかし双方とも≪おばばの慈愛≫が貫いているということでは、同じ家庭に育っているのである。

 その結果、≪おばばの慈愛≫を持たない少女漫画家の南明奈は弾き出されてしまうのである。共通項を何も持たないために、少女漫画家が激しく片思いをしても、水木しげるはこの少女漫画家を少女漫画家としか見ていないし、彼女が成功するように応援するだけなのである。この少女漫画家と肉体関係を持つことは論外であり、少しでも水木しげるが恋愛感情を持ってしまえば、このドラマを論理的に破綻してしまうのである。そうなればどんなに視聴率が高くても、普通のメロドラマ程度の価値しかなくなってしまうのである。この脚本家はよくぞ禁欲的になって禁じ手を犯さなかったと思う。

 普通の男が南明奈のような少女漫画家から言い寄られれば、肉体関係を持つのが当たり前なのである。しかしドラマではそういうことが許されないのである。恋愛ドラマのように脚本家の勝手で自由に男女を結びつけていい訳ではないのである。民放の脚本家なら絶対に水木しげるに恋愛感情を持たせた筈だ。しかしそれをやってしまえば、ドラマは一気に駄作に転落して行くものなのである。ドラマに余りにもリアリティーを要求し過ぎることは、逆にドラマを破壊させてしまうことになるのだ。

●『ゲゲゲの女房』への疑惑

 『ゲゲゲの女房』を見ていて、俺は水木しげる=武良布枝夫妻に対して様々な疑惑を抱くようになってしまった。3つばかし上げてみよう。

①水木しげるさんは質流れをやったんじゃないか?

 まず水木しげるさんは「質流れをやっていない」と主張しているが、「実は質流れをやったんじゃないか?」ということである。質流れをしていないというのは、本人の自己申告なので、質屋に確かめを入れてないと解らないのだ。あの貧乏の状況で少しは質流れをしてしまったと考えるのが正常な判断だろう。実は武良布枝さんもこの点に関しては疑念を抱いているらしいと聞く。妻なら当然の反応だろう。

②新婚時代の貧乏の原因はミルクじゃないのか?

 水木しげるさんが結婚してから売れっ子漫画家になるまで4年ほどの期間があるのだが、この時期が本当に貧乏な時期だったのである。貸本業界が衰滅して行くという事態になっているのに、妻を養い、その上、赤ちゃんまで生まれてしまったのである。しかも追い討ちをかけたのが、武良布枝さんが通った産婦人科の医者はアメリカ帰りの医者であって、母乳育児を禁止し、ミルク育児を強制して来たのである。

 このミルク代こそ水木家の家計を圧迫したのではないか? この当時のミルク代そのものが高く、しかも赤ちゃんは毎日ミルクを飲むものだから、確実に家計を圧迫していくのである。俺が母乳育児を勧めるのも、母乳育児は赤ちゃんに優しいだけでなく、家計にも優しいからなのである。水木しげるさんはあの当時、妻からミルク代がないとせっつかれまくったらしく、貧乏を余計に貧乏にさせたというが解るものなのである。

③長女へのイジメはあんな軽いもんだったのか?

 ドラマの中では長女は「藍子ちゃん」として登場して来るのだが、彼女の小学校でのイジメがあんな程度のものである筈がないのだ。「藍子ちゃん」は長女の尚子ちゃんをモデルにして作ったのだが、この尚子ちゃんは笑ってしまうくらいに水木しげるさんにそっくりなのである。しかもアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』は『鉄腕アトム』の次に来た大ブームなので、その漫画家の娘が小学校に来ているのなら、必ずイジメに遭った筈だ。しかもそのイジメは相当にきつかった筈である。子供は無邪気に他人が傷つく言葉を言って来るので、多感な時期にイジメを受ければ、イジメられた本人はマジで傷つくのである。このことに関しては尚子ちゃん本人から話を聞かねばならないが、彼女がその後、小学校の教員になったことでも、自分の小学校生活に思い残していたということが解る。

 実を言うと、俺の通った私立高校では小説家の胡桃沢耕史の子供も通って行った。案の定、胡桃沢耕史の子供は不良グループからのイジメに遭い、「おいお前、小説を書いてみろ!」だって。書ける訳ないだろうが!? 小説を書く能力は、天性の才能がなければできないのだから、まともな小説を書くことはできないもんなんだよ。才能は絶対に世襲しないからね。事実、小説家の息子や娘で、自分も小説家になったというのは皆無だからね。

●女性の幸せって何?

 長らく連続テレビ小説が低迷していたのは、ドラマの目線を低くし過ぎただろうと思う。この時間帯は朝の仕事がひと段落した時間帯だから、目線を低く作ろうと安易に思っていると、いいドラマができなくなるのである。連続テレビ小説を見ているのは、基本的に主婦たちである。だから主婦たちが喜ぶようなドラマを一生懸命になって作ればいいのである。

 最近の民放のドラマは余りにも異常すぎて、見る気がしないものだ。シングル女性やシングルマザーを主人公にしたり、たまに結婚の話が出て来てもすぐに離婚してしまうので、こんなドラマを見続けていては、自分の結婚生活だって破壊されてしまう危険性が出て来る。シングル女性やシングルマザーがいたとしても構わない。しかしシングル女性やシングルマザーが女性の主流になってはならないのだ。主流になるべきは、絶対に結婚して育児をせっせと行っている主婦たちであるべきなのだ。

 フェミニズムを受け入れることは「企業の奴隷」になるようなものなのである。自分が結婚もせずに働いたとしても、それは私生活を大いに犠牲にし、企業の言いなりになった生き方をするということなのである。昔の奴隷ですら、結婚し、子供を産むことは許されたのに、フェミニストになってしまえば、結婚すらできなくなってしまうのである。

 時代がどんなに変わって行こうとも、女性は結婚してこそ、本領を発揮することができるのである。武良布枝さんの本を読んでも、女性の自立に苦しんだことは一つもない。健全な家庭に育てば、女性は自立できて当たり前なのである。自立したからこそ、親が決めた結婚とはいえ、その結婚を受け入れ、親から独立していったのである。ドラマの中で父親が結婚した娘の反抗に驚くシーンが出て来たが、あの姿こそ独立した証なのである。

 夫婦別姓を唱える女性が法務大臣になるような世の中だから、夫婦別姓にしてもいいのではないかと思う女性が大勢いることだろう。しかし結婚して苗字を変えるということは、親から独立していくために重要なことなのである。よく夫婦別姓を唱える女性たちは「結婚して苗字を変えてしまうと、自分が自分でなくなる」と言って来るものだが、それこそが独立なのである。親から独立するということは、今までの自分を捨てるということなのである。

 勘違いしてはならないのは、武良布枝さんは専業主婦ではないということなのである。結婚してから漫画のアシスタントをやったし、一時期はマネジメント業務もこなしたし、漫画のことに関しては常にアドバイザーとしての役割を果たして来たのである。しかも水木プロダクションでは午後の4時に布枝夫人主催のお茶会が開かれ、みんなが集まってお茶を飲んだり、お菓子を食べたりするのである。こういうことが水木しげる本人にどれだけ精神的な安定を与えたか計り知れないのだ。普通の漫画家なら、女性の漫画家なら40代で才能が枯渇し始めるものだし、男性の漫画家でも50代でネタ切れになるものなのである。水木しげるさんがあれだけ長く漫画家として生き続けられたということは、内助の功なくして絶対にできなかったのである。

 人間の人生を余りにも杓子定規で割り切っては駄目だ。物事を合理的に考えることは必要であっても、生きていれば自分の理屈が破綻することも有り得るのである。努力しなければ成功することはないけど、自分の努力は裏切ることも有り得るのである。結婚したのならば、夫婦が力を携えて、健全な考え方を持ち、地道に努力をし続けて行く。そして実力以外に「タイミング」や「運」というものも必要なのである。『ゲゲゲの女房』ではそのことがありとあらゆる場面で出て来ているのだ。だから面白いのである。

 夫の仕事を成功させることが、妻の本当の幸せに直結する。

 そういう幸せは女性が自分で仕事で成功するよりも、幸福度が比べ物にならないくらいに大きいのである。なぜなら自分のためだけにやっているのではなく、夫や子供たちのためにやっているからだ。人間には他人に愛を施してこそ、他人に奉仕し貢献してこそ、その生命を完全燃焼することができるのである。自分のためだけに生きているのなら、その女性がどんなに裕福な暮らしをしていたとしても、自分の能力を殆ど発揮していないのである。結婚すれば色々なことがあるものである。しかしそうやって色々なことがあるからこそ面白いのである。結婚しているのなら、その面白い事を徹底的に楽しむべきなのである。

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もしも我が子が留年をしたら

●留年はチャンスと思え

 中高生の中には病気になったり、登校拒否をしたりして、留年になってしまう者が出て来る。成績が悪くて留年するのは本人がきちんと勉強しないからなのであるが、病気や登校拒否とかは本人が勉強していても、どう仕様もない事態なのである。こういう場合、下手にしがみついてしまうよりも、さっさと留年して新しい人生を踏み出した方がいいのだ。

 病気や登校拒否は今の担任や同級生たちとは縁を切りたいという運命の流れにあるのだ。自分と相性の悪い担任や同級生たちと一緒にいるより、それを一回清算して新たな人間関係で再出発してしまった方がいいのである。何も問題のない人ならそのまま進学していいのだが、問題を抱えている人にとっては、学校から切り離されることは絶対的重要性を持って来るのだ。

 留年した場合、本人にとってはショックだろうが、思春期の遅れは大きな遅れにならない。脳の成長は19歳までなので、1年間の余裕があり、留年してもそれに対応できるだけの能力を持っているのである。早くに大学に進学してしまうよりも、中学や高校でゆっくりとした時間を過ごした方が脳にとってはいい影響を与えて来るのである。

 意外なことかもしれないが、留年を経験した者たちは留年を機会に大いに能力を伸ばしている。同級生たちよりも1年間余計に中高生の期間を過ごしたために、その間、他の生徒たちよりも遥かに能力を伸ばしてしまったのである。それが社会に出た時に、大きな差となって現れ、大成して行ってしまうのである。

 留年は周囲から見れば悲惨だろうが、本人とってはチャンスなのだ。留年したら今までの友達は全員消えてしまうので、新たな友達を作って行けばいいのだ。危険なのは留年したのに、今までの友達と付き合ってしまい、それによって友達と対等な関係を築けなくなってしまうことだ。留年したら友達を総入れ替えすべきであって、昔の付き合いは全て捨て去った方がいいのだ。

●テレビを消して精神的に成長すること

 中高生が留年をするほどの病気をしたり、登校拒否をしてしまう家庭には1つの共通項がある。それはテレビが付け放しであるということである。特に母親がテレビを見まくっているために、母親は精神的に全然成長しておらず、そのために子供が病気になったり、登校拒否を起こすことで、その非を知らせているのだ。

 子供が病気で長期入院してしまう母親に限って、家事や看病とかで動きまくっているのに、自宅に居ればテレビを見て無駄な時間を過ごしてしまうのである。子供が病気になったら、その病気に関して自分で調べるべきだし、同じ病気を持つ母親たちと情報交換したりすべきなのである。そういうことをやっていたら、テレビを見ている時間などないものなのである。

 登校拒否を起こす子供を持つ母親も、我が子が登校拒否で苦しんでいるのだから、登校拒否について調べてみたり、第三者にアドバイスを求めればいいのだ。それなのに自宅でテレビが付け放しであるからこそ、なんの対策も打てずに、ダラダラと迷走してしまい、結果的に我が子を留年に追い込んでしまうのである。

 家庭の中で母親が精神的に成長しないと、子供たちは成長して行くことができないのである。こういう時はテレビを消して、瞑想する時間を設けるようにするのだ。1日10分でもいいから瞑想して、自分の心を見つめて行くべきなのである。自分の心の中にある汚い物を除去して、自分の精神を高める努力をすべきなのである。

 病気をする者は病気に執着するし、登校拒否を起こす者は学校に執着しているものなのだ。だからこそ病気になり登校拒否を起こすのである。だから母親が心を空っぽにし、まずは自分が執着を解き放ってしまうと、それに続いて子供も執着から解き放たれてしまい、苦境から脱出することができるようになるのである。

●断食をさせて体を浄化すること

 病気で治療を受けたり、登校拒否をして運動不足になった中高生は、体の内部が非常に汚れているものだ。そこで断食を行って、体を浄化し、体内の老廃物や毒素を全て体外に出してしまうようにした方がいい。育ち盛りなので断食を行うのは苦しいだろうが、断食をしないと再び病気をしてしまうし、登校拒否だった起こしかねないのだ。

 断食といっても全ての飲食物を断つ断食ではなく、10日間ほどリンゴ人参ジュースだけで過ごす断食にすればいい。朝食と昼食と夕食にリンゴ人参ジュースだけを飲めば、栄養的には足りているので、無理なく断食を行うことができるようになるのである。本来なら1ヵ月程度断食したい所だが、中高生ということで10日に限定した方が挫折することなく断食ができるようになるのである。

 断食をするとウンコが大量に出て来るようになるので、早起きしてウンコをしまくることである。午前中は排泄の時間帯なので、断食をしていると1日に3回はウンコが出るようになる。排便をスムーズに行かせるためには朝に天日塩湯を飲んで内臓を刺激すると、ウンコが大量に出て来る。ウンコが出まくるということは、それだけ体内の老廃物や毒素を出しているということなのである。

 人間の体というものは断食させると自然治癒力にスイッチが入るようになっているのだ。病気になったり登校拒否をしているのに、食べ続けてしまうからこそ、自然治癒力が働かず、事態を悪化させてしまうことになるのだ。断食して3日ほど経つと、体内の炭水化物がなくなり、脂肪が燃焼し始めるので、そのエネルギーは今までの3倍ものエネルギーを発するようになるので、その大量のエネルギーを使って自然治癒力が作動して来るようになるのだ。

 病気をしたり、登校拒否を起こしたりする中高生の体は非常に軟弱に出来ているものだ。それが断食をすることで一気に引き締まり、中高生らしい体つきに変わるのである。逆に言えば今まで食い過ぎだったのであり、体内に老廃物や毒素を大量に溜め込んでいたからこそ、余りにも不健康な体になっていたのであり、それが病気になって現れたり、登校拒否となって現れていたに過ぎないのである。

●若い時の1年や2年の遅れは幾らでも取り戻せる

 留年すると、明らかに今までの友達と1年の差がつけられてしまうものだ。そのため本人としては常に1年の差があると思っているので、自然と加速して来るようになるのだ。そのため勉強でもスポーツでも全力で打ち込んでしまい、結果的に優秀な成績を収めることができてしまうようになるのだ。

 留年をしたことのない生徒は絶対にこのような心境を持つことはない。勉強できて当たり前、スポーツができて当たり前と思っているので、加速力が全然身に付かなくなってしまうのだ。そのため中学や高校や大学では留年した生徒に1年の差をつけているのに、社会に出てしまうと、留年した生徒に追い抜かれて行ってしまうことになるのである。

 留年した生徒は留年したことをその時だけ悔むのではなく、恐らく生涯、留年のことに関しては悔み続けることになるのだ。だから普通の人なら満足してしまう状況でも、留年を経験した生徒は絶対に満足せず、次から次へと突き進んでいくことができるようになるのである。留年した時は絶対に苦しいものだ。しかし若い時の1年や2年の遅れは幾らでも取り戻せるのだ。いや、それ以上の物を与えてくれるようになるのだ。

 人間の人生は全てがプラスで有り続けることは絶対にない。マイナスを払うことが人生の中で必ず起こって来ることなのである。だったら若い時にマイナスを支払っておいた方が、後の人生ではプラスだけを受け取ることができるようになるのだ。人生、生きていれば解ることだが、若い時に順調に進んでいた者が或る時ポシャッたり、若い時に苦難だらけの者が後に立身出世してしまったり、人生は解らないことだらけなのだ。ただはっきりと言えることは、バラ色の人生だけを歩んできた人は一人もいないということだ。

 留年をしたのなら、早い内に膿を吐き出してしまった方がいいのだ。そのためにはテレビを消して瞑想し、断食をして老廃物や毒素を出すしかないのだ。そうやって心身を清浄化させるからこそ、新しい自分を生み出して行くことが可能になるのだ。逆に絶対にやってはならないのは、留年を言い訳にして、駄目な自分を肯定してしまうことなのだ。留年したことはチャンスであっても、留年を引き起こした責任は自分にあると受け止めない限り、留年したことがチャンスにはならないのだ。

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高校生だから聞こえて来るもの、見えて来るもの

●高校生の気持ちを大人が理解できないのは当たり前

 高校生の時期は人間の人生にとって宙ぶらりんの時期でもある。大人でもないし、子供でもない時期だからだ。中学生なら子供扱いされてしまう。しかし高校生ではもう子供扱いはされない筈だ。かといって大人として扱われるということはないのだ。しかもこの時期、性ホルモンは男女ともに大量分泌されるので、完全にぶっ飛んだ時期に突入してしまうのである。

 高校生なら自分の心を刺激する物にビンビン感じる時期になってしまうものだ。それらに接している方が勉強をしているよりも断然楽しいから、そちらの方に思いっきりシフトしてしまうものだ。高校生だからこそ見えてくるもの、聞こえて来るものがあって、それを絶対に否定してはならないのだ。それらの物はその時期にしか聞こえないし、見えないのだ。

 この時期、大人たちが高校生の気持ちを理解できなくて当たり前だ。脳内が性ホルモンのためにぶっ飛んでいるのだから、そんな大人が存在しているわけがないのだ。よく高校の教師が生徒たちを理解しようと近づきすぎてしまうと、逆に生徒たちから嫌われてしまうものだ。高校生を育てて行く時、下手に理解力を持ってはならないのだ。高校生のぶっ飛びを放置しつつ、勉強をさせて、きちんとした大人に育て上げて行くしかないのである。

 高校生ならこの時期、音楽にのめり込んだり、読書にのめり込んだり、映画にのめり込んだりするものだ。音楽はジャンルが多くあっても、自分の好きな音楽は非常に限定されるから、音楽の好みが合う友人はほんの僅かしかいないものだ。そうやってレベルの高い友人と知り合い、友情を深めて行くのである。

 この時期、テレビを見ていたら、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう。高校生ならテレビなど見るべきではないのである。テレビに高校生がビンビン感じるものなんて決して出て来ないからだ。テレビ中毒に罹っている高校生に限って話が面白くないものだ。なぜ詰まらないかというと、自分が本当に面白いと思えるものに手を出していないからなのである。

●若いからこそ新たな作品を生み出す可能性がある

 高校生ならこの時期、新たな作品を生み出す可能性が出て来る。この世に存在するもので自分が満足できなければ、自分で新たな作品を作ってしまえばいいのである。高校生という時期に創作に励めば、必ずしもとはいわないが、神に選ばれた人物たちにはスイッチが入り、新しい作品をバンバンと生み出して行くことが可能になるのだ。

 プロのミュージシャンなら高校生の時期にもう作詞作曲をしている筈だ。下手糞ではあるけれども、既に新たな作品を生み出しているのだ。漫画家なら高校生の時期にもう漫画を描き、それを漫画本として纏めてある経験を持っている筈だ。小説家なら高校生の時期に短編小説を既に書いており、それをミニコミ誌として纏めた経験を持っている筈だ。

 この世には不思議な人々がいて、ミュージシャン志望なのに作詞作曲を1つもせず、漫画家志望なのに漫画を1つも書いたことがなく、小説家志望なのに小説を1つも書いたことがない人々がいるのだ。彼等はレコード会社なり出版社なりが依頼されてから初めて作るつもりなのであろう。しかしそういう考え方は完全に間違っているのだ。誰かの依頼がなくても、自分が勝手に作ってしまうからこそ、幾らでも作品を生み出すことができ、その中から名作が生まれて来るのだ。

 ロックバンドが未だに人気があるのは、楽器を弾ける連中が集まれば、インスピレーションが湧き易くなり、その刺激の中で簡単に新しい楽曲を作り出すことが可能になるからなのだ。ロックバンドが空中分解してしまうのは、練習しようと集まったのに、お喋りに時間を費やしてしまい、肝腎の練習をしないからなのである。練習をしていれば、その中から新しい作品が生まれて来るものなのである。

 現在では漫画が小説を追い抜き、しかも圧倒的な大差をつけるようになってしまった。それは漫画家たちは高校生の頃にはミニコミ誌を作って、既に自分たちで売った経験を持っているので、どうすれば売れるのかというのが朧げながら解っているからなのだ。それに対して小説家たちは高校生の頃にミニコミ誌を作った経験を持っていない人たちが多いし、しかもそのミニコミ誌が売れたという経験を持っていないものだ。高校生の時のその差が、自分たちが大人になった時に大きな差となって現れて来るようになるのである。

●大学への受験勉強は自分の夢を消滅させる危険性がある

 もしも高校生の時に創作のスイッチが入ったのなら、大学に進学することは非常に危険である。大学への受験勉強は自分の夢を消滅させる危険性を持っているのだ。高校生という時期を勉強に費やしてしまえば、創作能力が一気に落ちてしまい、下手をすると消滅してしまう危険性が出て来るのだ。

 この世には大学に行ってしまうと駄目になる職業もあるということを決して忘れてはならない。大学というのは高校生たちが思っているほど素晴らしい場所ではないのだ。確かに学力は高いが、知識があっても知恵がないし、誰かの批判をすることは達者でも、自分から新たな物を生み出すことは出来ないものなのだ。

 もしも自分がこの職業なら成功できると思うなら、ドロップアウトしてしまうことだ。高校で勉強している時間など無駄なのだから、退学して練習に注ぎ込んでしまった方がいいのだ。但し、学歴が終生付いて回るのだから、高校には卒業できるだけの出席数だけを確保し、それ以外は練習に費やすという悪どい遣り方もある。

 高校中退を馬鹿にしてはならない。日本を代表するギタリストの布袋寅泰は高校中退だし、大卒で彼よりも巧いギタリストはいないものだ。脳が大きくなっている時期に集中してギターの練習に励んだからこそ、大人になって誰より巧くギターが弾けるようになったのであって、大学に行ってから本格的にやろうとしても、もう遅いのだ。僅か数年の遅れが決定的な差を作り出してしまうのである。

 漫画家も大卒の漫画家よりも高卒の漫画家の方が断然面白い作品を作るものだ。物語を作るテクニックとか、絵を巧く見せるテクニックとかは、早い頃から本格的にやっていた方がいいのであって、それなら高卒や高校中退の方が圧倒的に有利なのである。大学に進学しなかった分、漫画作りに費やす時間が多かったのだから、当然に腕が良くなって行くのだ。

●映画『耳をすませば』はなんで感動するのか?

 スタジオジブリの映画に『耳をすませば』があるのだが、何かしらの創作をしたことのある人物ならこの映画を見て感動するものだ。主人公の女性が中学3年生と設定が若すぎるが、ラストシーンではプロポーズを受けているので、これは実は高校生の物語だと解る筈だ。大体、中学生が小説を書いても碌な物を作ることはできない。脳の関係上、きちんとした小説を作れるようになるのは高校生からなのである。

 主人公の女子生徒は生活や勉強に追われる中で、時間を捻り出して小説を書き始めるのだが、その書き方が完全に勢いで書きまくっているのだ。高校生の頃に創作を経験した者であるなら、「そうそう、俺もああやってたな」と言える筈だ。ペース配分など何もせず、ただ勢いに任してせっせと作品を作れるのは、高校生の時期しかないからだ。

 高校生なら脳のドーパミンが大量に分泌されるので、通常では有り得ない創造物を生み出すことができるのである。そういう作品は出来上がってみれば、荒削りの作品かもしれない。しかし巧い技術を持っている大人が作れる作品ではないのだ。本当に創造的な作品は高校生の時期だからこそ生まれて来るのである。

 創造能力というのは全ての高校生たちが持てるものではないのだ。それまでの育ち方があるし、高校生という時期をどのように過ごすかで、或る者には創造能力にスイッチが入り、他の者たちには幾らやってもスイッチが入らなくなくなってしまうのだ。創造能力にスイッチが入ったのなら、後はその創作物を高値で換金する技術させ身に付ければ、頭角を現わして行くことができるようになるのだ。

 高校生の時期は3年間しかないのだから、ボサ~ッとしていればあっという間に過ぎてしまうものだ。学校で勉強して、自宅でテレビやラジオを見たり聞いたりしていれば、そのローテーションで高校生の生活が終わってしまうものだ。大事なことは自分が本当にやりたいと思うことに、全力を投入してみることなのである。それをやっていれば、或る日突然に創作にスイッチが入ってしまい、次から次へと新たな作品を生み出して行くことができるようになるのである。

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金銭感覚をつけたいのなら、アルバイトをしろ

●お小遣いは自分で稼ぐ

 子供が何もしていないのにお小遣いを与えてしまうのは、子供を犯罪者に育てているようなものだ。子供というのは無邪気だから、幼い頃より両親のために何かをしたいと思っているので、家事手伝いをさせて、その報酬としてお小遣いをあげるようにすることだ。そうすればお金が欲しいのなら、働けばいいという考えが養われて行くことになるのだ。絶対にやってはならないのは、我が子だからといってタダ働きをさせることであって、両親がそんなことをしていると、子供は大きくなると、まずは両親の財布からお金を盗み出し、次はお店で万引きを遣り始めるのだ。

 家事手伝いの有料化をすれば、小学生までは充分に必要なお小遣いを得られるものだ。小学生までなら、それほど高い商品を購入することはないからだ。しかし中学生になれば自分のために高い商品を必要とするようになるし、高校生になればそれが極限にまで高められる筈だ。そういう時は両親がお金を与えるのではなく、外でアルバイトをしてお金を稼いで来るしかないのだ。

 中高生のアルバイト代はバイト料が安くても、バイトをすることで学校では経験できないことをできるし、そこで様々な人々と出会うことになるので、その金額以上の物を貰えることができるようになるのだ。そこで金銭感覚が着実に養われて行くし、ビジネスの基本も教えて貰うことができるようになるのである。

 人間の脳は19歳まで大きくなって行くので、それまでになんのバイトの経験もないというのは、脳の成長に於いて最大級のダメージを与えてしまうことになる。「働けばお金になる」「お金が欲しいのなら働く」ということを脳に教え込んでしまえば、労働することを苦痛とすることなく、楽に働けるようになるのだ。

 この時期、親が我が子に教えるべきは、「如何なる報酬が支払われようとも、その報酬以上の働きをせよ」ということである。アルバイトなのだからバイト料は安いに決まっている。しかしそのバイト料に対して文句を言っていれば、その子は就職しても延々と給料に対して不満を言って来る大人になってしまうのである。だから報酬というものは、それがどんなに安くても満足すべきであって、その報酬以上の働きをしていれば、自然と報酬は上がって行くものなのである。それをきっちりと教え込むことは絶対に必要なのである。、

●自分でビジネスを始める

 もしも我が子に商才を鍛えようとしたいのなら、自分でビジネスを始めてしまうことだ。小資本で始められ、軌道に乗せることができるビジネスは、「飲食物」「女性相手」「隙間」の三つのジャンルだけである。飲食物というのは人間が生きている以上絶対に必要なものだ。女性は男性よりも常に多く消費して来るので、男性相手に仕事をするより、女性相手に仕事をした方が儲かるのだ。既存のビジネスに手を出しても競争相手は既に存在しているので、隙間を狙うことで、新しいビジネスを喚起して行けばいいのだ。

 町内会でお祭りがある時などは、中高生だけで屋台を出さして貰い、そこで飲食物を売ればいいのだ。お祭りになると人が多く集まるし、お祭りに浮かれて財布の紐が緩むので、簡単に飲食物を売って行くことができるようになるのだ。大事なことはお客様に商品を売ることであって、その経験をしておけば、後は簡単に進んで行くようになるのだ。

 女性相手に仕事をするなら、アクセサリーを問屋で購入して、それを道端で売ればいいのだ。男性は道端で売っているアクセサリーなど絶対に購入しないが、女性はそのアクセサリーの出来が良ければ購入してくれるものなのだ。これはユダヤ商人が息子を鍛える遣り方で、彼等は息子たちにアクセサリー入りのバックを持たせて、世界各地で商売をさせるのである。そういう経験を若い時にしているからこそ、大人になって億万長者になることができるのである。

 隙間ビジネスというのはこの世には幾らでも存在する。例えばインターネットを使って商品を販売するとか、ネットオークションで安く購入して、それを高く転売すっるのもいい。隙間ビジネスを見つけるためにはとにかくアイデア勝負なので、常にノートを持ち歩いて、商売になりそうなものを書き記して行くことだ。その中からいいアイデアが生まれて来るのだ。

 気をつけるべきは、中高生が自分でビジネスをした場合、必ず両親に状況を報告させるようにすることだ。相手はまだまだ子供なので、違法なことを平気でやってしまう可能性があるのだ。親ならそれが法に触れると解っていても、中高生は情報量が少ないために、違法とは知らずに法に抵触するようなことをしてしまうのである。

●貯金をする習慣を身に付ける

 バイトをするにせよ、自分でビジネスをするにせよ、お金を儲けたのなら、それを全部使ってしまわないことだ。収入の2割を必ず貯金に回すことだ。働いてお金を稼いだことがある人なら解ると思うが、貯金の習慣を持っておかないと、給料が入り次第、翌月までに全部使ってしまうものなのだ。意図的に貯金を残しておかないと、お金というものは全て消えてしまうのである。

 収入の2割を貯金に回し、残りをビジネスに投資したり、お小遣いにしたり 寄付に回すことだ。ビジネスをしているなら或る一定の投資は絶対に必要だ。例えば服装であったり靴であったり書物であったりと、その投資を惜しんでいれば、その仕事を上達させることはできないのだ。アルバイトだからといって何も投資していないと、いつまで経っても仕事が上達して行かないのである。

 仕事で働いたのなら、自分にご褒美を与えることは絶対に必要なことだ。お小遣いは無駄遣いをするのではなく、予め自分が欲しい物を決めておき、報酬を得たのならすぐさまそれを買いに行くことだ。そうするとその商品を得た喜びが最大化されるので、自分の脳に「仕事は楽しい!」と記憶されるのである。そういう記憶が多ければ、仕事が苦痛にならず、ルンルン気分で仕事をすることができてしまうのである。

 自分が何かしらの収入を得たのなら、必ず寄付をするようにすることだ。寄付は最大で10%、最低でも3%ぐらいはしておいた方がいい。宗教団体や慈善団体に寄付をして、自分のお金を有効に使って貰うようにすることだ。こうやって自分のためにお金を使わず、他人のためにお金を使っていると、自分の罪滅ぼしになって、我が身に不幸が起こらなくなるのだ。寄付をせず、自分のためだけにお金を使っていると、なぜだか不幸が押し寄せて来て、大損害を被ってしまうものなのである。

 自分の収支を管理させるためには「家計簿」をしっかりとつけることだ。家計簿をつけると、収支を的確に把握することができるようになるので、お金が不足することがなくなるのである。働いている以上、必ずお金を得ることができるのであって、それなのにお金が不足するのは、家計簿をつけないからなのである。家計簿をつければ、お金が不足することがなくなり、目的合理性を以て家計を運営して行くことができるようになるのである。

●ビジネスは大儲けを狙うよりボチボチ儲けて行くもの

 実際に働いてみれば解ることだが、ビジネスというのは大儲けなどできないものなのである。手堅く儲かるからこそ、商売は続けられるものなのである。人間というのは自分が思っている以上に強欲なものだから、宝籤で3億円が当たるようなことを目指して、仕事をしてしまうのである。だからこそ仕事の基本をしっかりと学ばす、お客様に満足を与えることができないのだ。

 億万長者になった者たちの多くが若い頃からビジネスを始めているものだ。それは学校に行って勉強をしていると、どうしても頭でっかちになってしまい、自分が仕事の基本を学んでもいないのに、政治や社会がどうたらこうたら述べてしまうようになるからだ。学校というのは富を消費する場所であっても、富を生産する場所ではないのだ。ビジネスで成功するためには学校の教師の指導を受けるのではなく、実際に自分が仕事をしてみて、お客様がから指導を受けてしまった方が、確実に成功して行くことができるようになるのだ。

 ビジネスというのは、確実に売れる商品が1つあれば儲かり始めるものだし、売れ筋の商品が5つあれば絶対に潰れなくなるのだ。やってみれば非常に簡単なことなのだ。しかし自分に浮わついた考えがあると、その商売の鉄則が解らず、自分勝手なことを平気でしまくり、お金に追われるような人生になってしまうのである。

 それと同時に仕事で成功しているビジネスマンほど生活が質素であるということである。自分の生活を機動的なものにするためには、生活を質素にする必要性があるのだ。自宅が汚かったり、ごちゃごちゃと物が置いてあるような人物というのは、仕事をやらしてみてもルーズだから、どうやっても仕事が巧く行かないのだ。

 高学歴の世の中だから、高学歴を狙うことは決して悪いことではない。しかし幾らいい学校やいい大学に行っても、そこでは金儲けのことを教えてくれることはないのだ。学校の教師や大学の教授たちは金儲けに関して不得手なのである。そのため真面目に学校や大学に通っていた生徒や学生ほど、社会に出てから貧乏で苦労することになってしまうのである。

 金儲けを学びたいのなら、社会に出て働くに限るのである。出来ることなら早くから働きに出た方がいいのだ。働くことでお金が入って来るのなら、それを繰り返して行けばいいのだ。そして家計簿をしっかりとつけて、お金を目的合理性を以て運用して行けばいいのだ。それができれば生涯に亘ってお金に何不自由することがなくなり、豊かな人生を送ることができるようになるのである。

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最高権力者としての姑

●古代日本の妻問い婚

 その昔、倭人族は長江流域に住んでいた。しかし黄河流域に住んでいた漢民族が拡大して来るにつれて圧迫され、その倭人族がより中国南部に追いやられ、ビルマやタイやラオスやベトナムに行き、海を渡って朝鮮半島南部や日本列島や沖縄列島へと遣って来たのである。そう、倭人は日本にいただけでなく、朝鮮半島にもいたし、東南アジアにもいたのである。

 この倭人族たちは今では民族は違えども、米作りを行い、肉よりも魚を好み、妻問い婚をすることは皆同じだったのだ。この妻問い婚こそが曲者で、今では妻問い婚の風習がなくなってしまったために、この結婚形態の影響が今現在の我々にも及んでいることに気づけないのである。古代日本人が妻問い婚をしていた以上、その影響が今の我々に全くないということは絶対にないのだ。

 よく日本の女性学者たちは「日本は男尊女卑である」とか、「日本は男社会である」とか言うが、それは根本的に間違っているのである。日本の父系家族は表面的には夫が家長として君臨していても、持っているのは権威だけであって、権力を何一つ持っていないからだ。その妻が間抜けな女性でない限り、家庭内の実権は全て妻が握るようになるものなのであって、そのような家族形態を営んでいるような人々が、男性中心の社会を形成することはできないのだ。

 妻問い婚であるなら妻の母親の方が権力を持つが、妻問い婚が消えて、妻が夫の家に嫁ぐようになれば、夫の母親の方が権力を持つことになってしまうのだ。これが「嫁姑の争い」の起源であって、妻問い婚を止めた民族が、表面的には父系家族をやっているからこそ、姑が異常なまでの権力を持つことになってしまったのだ。

 夫が家長として権威しか持たず、妻が家庭内の実権を握っていれば、その子供たちが独立して行った時に、母親は子供たちに権力を行使して来るのは当然起こりうることなのである。そのため花嫁はいつまでも浮かれていないので、自分たち夫婦を守るために権力を握らなければならないし、姑との外交もきちんと行わないと、結婚が結婚として機能しなくなってしまうのだ。

●花嫁が妻になる儀式

 通常、男女が結婚する際、まずは男性が男性の両親に彼女を紹介し、結婚に関して同意を得る。次に男性が女性の両親に結婚の許可を貰う。それで結婚式を挙げれば、結婚はめでたく成立したと思ってしまう。しかしそれで結婚が成立する訳ではないのだ。結婚後、妻が夫の母親に妻として認めて貰う儀式を経ないと、妻は息子の妻として認めて貰うことはできないのだ。

 どこの家の姑もやることは大体同じなのだ。息子の世話を花嫁に任すものなのであって、まずは息子が仕事で成功するように祈るものだ。次に料理を始めとして、その家に伝わるものを花嫁に伝授して行くものだ。そして子供を産んで、子孫を繁栄させていくのである。大体、これらができれば花嫁は息子の妻として認定され、逆に姑から大事にされるものだ。

 しかし自立が終わり、自分の母親への反抗がなくなった花嫁であるなら、それらのことをきちんと成し遂げることができるけど、自分の母親に反抗する余りに自立が不十分な花嫁だと、どうしても姑の言っていることを受け入れることができず、息子の妻として認定されないという事態になってしまうのである。

 もしも姑と事を構えてしまうのなら、花嫁は自力で夫を成功させるようにして行くべきだし、料理を始めとして家事を怠りなく行い、子供を多く産んで既成事実を作ってしまうしかないのだ。そうなってしまえば姑としても花嫁を息子の妻として認めざるを得なくなり、その時になってやっと息子の妻として認めて貰うようになるのだ。

 花嫁としては夫との相性がいいからこそ結婚した訳なのだが、自分が結婚した後に夫の母親との相性が実は重要だということに気付いてしまうのである。嫁姑にも相性があるから、相性が良いなら友好的に振る舞うべきだが、相性が悪いのなら距離を置いて、必要な時だけ接するようにすればいいのである。絶対にやってはならないのは、姑に対してなんの配慮もしないということなのである。

●姑が最大の権力を握っている

 「男女同権」とか「男女平等」を唱えてしまうと、自分たち家族のほかに、自分たちの家族を制御しうるほどの権力を持っている存在がいるということに気付かなくなってしまうのだ。所詮、男女同権とか男女平等は外国から輸入された思想であって、日本民族独自の思想ではないのだ。それに対して「妻問い婚」は日本民族が古代に於いて遣ったものだし、嫁姑の問題は今でも存在する問題なのである。

 男女同権とか男女平等の思想に取りつかれてしまうと、夫婦間での負担を同じようなものにしようとか、そういうことしか考えないものだ。そのため自分たち夫婦が先祖の歴史や伝統や習慣を継承しようとか、自分たち夫婦が共同して親戚づきあいをして、自分たち夫婦の地位を高めて行くということを全くして来ないのである。

 自分たち夫婦を左右しうるほどの権力を持っているのは、実は姑なのであって、妻が家庭内の権力を全て掌握し、それに対抗して行かなければ、妻は姑から攻撃を受けるものだし、何より姑から息子の妻として認めて貰うことができなくなってしまうのだ。男女同権とか男女平等を唱えている既婚女性に限って、嫁姑の問題を抱え、家事も育児も下手糞なのは、肝腎なものが全く見えていないからなのである。

 日本の家族はどこの家族に於いても女性の方が権力は強いのである。男女同権ではなく、女性の方が権力を多く持っていることこそが事実なのである。男女平等どころか、夫は家長として君臨して権威だけを持ち、妻は家庭内の実権を全て握るという悪どい方法を取っているのである。だから男女同権や男女平等を家庭内で唱えてしまえば、損をするのは妻の方なのであって、自分が握る筈の権力を半分以上失ってしまうようになるのだ。そうなれば不幸の人生を歩むのは確実なのである。

 結婚というのは万国共通ではない。民族には独特の結婚の歴史があるのであって、その中から生み出されて行ったものなのだ。だからアメリカ人の遣っている結婚の仕方を日本人がやってしまえば誰がどうやっても絶対に巧く行かないのだ。日本人なら外国人から奇異にみえても、自分たちの伝統的な結婚のスタイルを保守し続けるべきなのである。

●「嫁姑の争い」は日本人の伝統を無視したからこそ起こる

 「嫁姑の争い」というのは、花嫁にとって通過儀礼なのである。この通過儀礼を経ないと、花嫁は息子の妻として認めて貰えることがなくなってしまうのだ。花嫁の中には最初から姑の受けが良く、「嫁姑の争い」を起こさない女性もいるが、花嫁の中で半分近くは「嫁姑の争い」を引き起こして来るものだろう。そういう場合、いつまでも「嫁姑の争い」を続けるのではなく、10年以内には決着をつけるように仕向けて行くべきなのである。

 姑の意見は一見理不尽なものであっても、立場を変えてみると至極最もというものが多い。花嫁としては姑の考えは古臭くても、姑が息子の幸せを願うからこそ、姑は口を出して来るのである。自分だって夫の幸せを願うものであるなら、姑の意見を全て拒絶してしまうのではなく、まずは耳を傾けてみることだ。

 姑としては善意で意見を言っているのに、花嫁に拒絶されたらストレスを溜め込んでしまい、その怒りが爆発してしまうのである。姑が何か言って来たら、まずはその意見を肯定してみて、聞き入れてあげることだ。その意見を採用するかは未決定でも、その意見を聞き入れてあげることが姑のストレスを緩和することになるのだ。

 自分がどんなに姑の意見に反対しても、自分が歳を取り、自分の子供たちが独立した時に、自分も姑と同じようなことをしてしまうのである。その際、自分は姑から伝統を継承していないのだから、自分が幾ら息子の妻に意見を言っても、全て愚劣で、当然に拒絶されてしまうことになるのだ。

 結婚は夫婦を幸せにするためにあるのであって、「嫁姑の争い」ごときで不幸になるべきではないのである。姑は最高権力者なのだと解っていれば、結婚したら即座に家庭内の権力を掌握して、姑に対抗して行くしかないのだ。そういう争いの中で自分は鍛えられていくのであって、いつの間にか実力が向上して行き、姑から息子の妻として認められるようになるのである。

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自分の家族を愛で満たすためには、妻は夫を敬い。家庭内の実権を握ることが大事!

●権力を握るためには、権威を手放せ

 現在では殆どの夫婦が恋愛結婚で結婚して来るので、両者の力はほぼ均衡していることだろう。恋愛で面白いのは両者の力が均衡している場合であって、男性か女性かどちらかが一方的に強ければ、お金には苦労しないだろうが、恋愛は盛り上がらないからだ。しかしその状態で結婚に突入してしまうと。とんでもない事態に陥ってしまう。

 結婚は対等な立場で始まるが、時間の経過と共にごく僅かな差が大きな差となって現れて来る。大抵、妻が妊娠すれば仕事を休み、家事に専念し、出産に備えなければならない。その間、夫は将来に発生するであろう出産費用や育児費用を確保するために仕事に専念するものだ。当初は働いている妻は産休のつもりでも、仕事の方面に関しては夫の方が圧倒的優位に立つものだし、家事の方面に関しては妻の方が圧倒的優位に立ってしまうのである。

 赤ちゃんを産んでしまえば、妻は赤ちゃんに付きっきりになるので、どう考えても妻の方が育児に関しては上達してくる。それに対して夫は仕事をし終わって育児に参加するのだから、育児が上達することはまずないであろう。この夫婦の有り方を極限までに高めてしまうと、妻は仕事を辞めて専業主婦になってしまうし、たとえ働いていたとしても家事や育児に於いては圧倒的に妻が強くなってしまうものだ。

 結婚したのなら、妻が家庭内の権力を握るためには、権威を手放すしかないのである。家庭内の権力を握っているのに、家庭内の権威まで握ることはできないのだ。この世の中は「全てを得ようとする者は全てを失うようにできている」ものなのである。妻の方が家事や育児の権限を握ってしまう以上、妻は夫を家長として敬い、夫になるべく手を出させないようにすることで、家族が機能し、安定して来るのである。

 日本史でも権威と権力の関係は繰り返し出て来る。律令制度が整うと、天皇は権威しか持たないが、太政大臣が権力を持つことになる。これが平安時代になると太政大臣に変わって摂関家が台頭してきて権力を掌握し、天皇はいよいよ権威だけになってしまう。鎌倉幕府ができると当初は征夷大将軍が権力を振るうが、その後は将軍は権威だけとなり、執権が権力を掌握することになる。室町時代になると将軍と管領の関係になり、江戸時代になると将軍と老中の関係になり、どちらも権威を持つ者と、権力を持つ者が別々ということで組織は機能し、安定するのである。

●家庭の大黒柱は実は妻なのである

 夫が妻をちゃんとした妻に育てたいのなら、家事や育児を妻に任して、自分は仕事に専念すべきなのである。自分が仕事をしまくっていれば、自然と妻は家庭内のことをやるから、妻はその方面に関しては腕が上達して来るのである。それなのに夫が家庭内のことをいちいち口を出すから、妻は自分でやろうとしなくなり、いつまで経っても腕が上達しないのだ。

 夫は仕事のために家庭に滞在する時間が少ないのだから、家庭内のことを細かく言うことはできないのだ。夫は飽くまでも家長なのであって、妻こそが一家の大黒柱なのだ。家事や育児に於いて中心的役割を果たすのは、常に妻の方であって、妻が家庭内で自由に動いているのなら、家庭は機能し始めるものなのである。

 夫が家庭内でやるべきことは、妻に頼まれたものだけをやればいいのだ。妻としては自分でできないからこそ頼んでいるのであって、そういう時はすぐさま動いて処理してしまうべきなのである。こうすれば妻は夫が自分のために役立ってくれたと思うし、夫の方も妻のストレスを軽減させることで夫婦仲を良好にさせることができたのである。

 もしも夫が家事や育児の一切を手伝いたくないのなら、家政婦を雇えばいいのである。家政婦を雇うと、妻は絶対に夫に頼もうとしなくなり、女性二人で家事や育児を切り盛りしてしまうのだ。女性にはそういう習性があるので、それを巧く活用することだ。家政婦を雇うにはお金がかかるが、その費用は自分が働いて稼いで来ればいいのである。

 妻が「内助の功」を発揮してくれると、夫は仕事に全エネルギーを投入することができるようになるので、当然に仕事に於いて成功する確率が非常に高くなる。仕事が成功すれば収入が激増して行くのだから、収入面に於いて妻の収入を圧倒的に凌駕することができ、そういう夫には妻は敬意を払い、従順になるものなのである。妻が夫を敬っているかというのは、男が仕事で成功するために非常に重要な要素になるのだ。

●父系家族は攻撃的な家族形態なのである

 家族というのは皆一様ではない。家族は大きく分けて父系家族と母系家族の二種類がある。妻が夫の家に嫁いで来れば父系家族になるし、夫が妻の家に婿入りして来れば母系家族になる。父系家族は攻撃的な家族なのであって、子孫や資産を増やして行く義務を負う。一方、母系家族は防御的で現状維持をする義務を負うようになる。

 父系家族は夫が仕事に全エネルギーを投入できるから、当然に収入は高くなるし、子孫も多く増やして行くことができるのである。とにかく男の子を多く産み、本家を相続させると共に、多くの分家を作ることで、一族の繁栄をもたらすようにできているのだ。それなのに子供を1人や2人しか生まなかったり、女の子ばかり産んで跡取りを作らないと、父系家族は機能しなくなり、途端におかしな状態になってしまうようになるのだ。

 専業主婦が出て来るのは、父系家族だけなのである。父系家族は収入が多いために、妻は外に出て働かなくても良い状況を生み出せるのである。その分、妻は育児や子育てに熱心になるものだし、空いた時間を文化を嗜む時間に費やすことができるようになるのだ。父系家族で妻が働いたとしても、妻は育児や子育てに手を抜いてはならないし、忙しい合間を縫って文化に触れる機会を持っておかねばならないのだ。

 母系家族は妻の母親を中心に夫婦が動くために、その家の家業を母親に言われた通りにやることが求められるのだ。旅館や料亭や商家などは基本的に母系家族の形態を取る。母系家族の仕事は現状維持なのであって、ひたすら今までの仕事を守り続けることしかしないのだ。母系家族にとって拡大路線は死を意味することになるのだ。

 母系家族の場合、妻は絶対に専業主婦になれないし、妊娠中だろうが、出産直後だろうが、働かされることになる。基本的に育児は妻の母親が行うことになるので、妻は育児に関しては不得手なままになってしまう。しかも年中無休に近い形で働くので、文化に接する機会が殆どなく、文化レベルは一向に上がって行くことはないのだ。その反面、家庭内の遣り取りが非常に充実して来るので、人間味の溢れる子供たちが育って来ることになるのだ。

●家庭内での「愛の循環」が始まる

 大方の夫婦は妻が夫の家に嫁いで来るのだから、父系家族の形態を取らざるを得ないのだ。そのため妻は夫を敬い、家庭内の実権を全て握るしかないのである。それをやらなと家族は機能しないし、安定すらもしないのだ。仕事は夫に任せればいいのであって、とにかく夫の仕事が成功するようにバックアップするしかないのである。父系家族が攻撃的な家族なので、夫の収入が上がって来ないと、夫婦は些細なことで喧嘩をしてしまうものなのである。

 父系家族だというのに、夫が家事や育児のことに手を出していたり、1日8時間労働で週休2日なんてやっていれば、収入が上がらないのは当然のことなのである。父系家族でるなら、夫は家庭のことは妻に任して、1日12時間労働を行い、月に2日から3日程度休めばいいのだ。そうやって労働時間を多くしていかないと、仕事に於いて成功して行くことは不可能なのである。

 妻にしてみれば、自分は嘗て仕事をした経験を持っているのだから、家事や育児に専念することに不満を持ってしまうものだ。しかし自分が家庭内の実権を握ってしまった以上、仕事は二の次になるのであって、まずは家事や育児を優先すべきなのである。自分が家庭内の実権を握ったというのに、仕事を優先してしまえば、その家族は途端に機能を停止してしまうものなのである。もしも仕事をするなら、家事や育児をテキパキと行い、上達して、巧く時間を捻り出して行くしかないのである。

 妻が家庭内のことを巧く切り盛りしてくれると、夫は妻に対して愛を放出し始めるものだ。この愛を貰うと妻は嬉しいし、子供たちにも愛を注いで行くようになるのだ。そうなると家庭内で愛が循環し始め、その家族は愛で満たされ、愛が溢れ出して行くようになるのだ。家族の中で愛が循環し始めると、夫や妻や子供たちが僅かな愛を出すだけでも、その愛が循環することによってより多くの愛を生み出すので、家族全員が幸せになり、自分のすべきことに集中して行くことができるようになるのである。

 妻が夫の家に嫁いで来たのに、夫を敬わないとか、夫に家事や育児を押し付けるのは非常に間違った行為なのである。そのようなことをやっていれば、家族の中で愛が循環して行かなくなるから、当然に離婚という結末に至ってしまうのである。人間は誰であっても権威と権力の両方を持つことはできないのだ。自分が権力を握ったら権威を手放すべきだし、自分が権威を握ったら権力を手放すしかないのだ。離婚した女性は元夫の悪口を散々言って来るものだ。しかし悪いのはタブーを犯した自分であって、結婚したのにやってはならないことをしてしまったからこそ離婚になってしまったのである。

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「ムクミ」と『静電気」の意外な関係

●静電気があるからこそ血液が滞る

 タマティーの周りにはムクミを発症する女性がいないために、世の女性たちがムクミで苦しんだりするのがどうも理解できない。食事を正しいものに切り替えて行くと、ムクミなど絶対に発生しなくなるからだ。しかし中には妊婦が妊娠後期になってムクミを発症して、その後の妊娠中毒症になってしまうので、このムクミとやらをきちんと解明しておく必要性があると思っていたのだが、つい最近やっとムクミのメカニズムを解明できたので、このブログで公開しておく。

 簡単に言ってしまえば、ムクミというものは、女性の体が酸化していて、その状態では静電気が発生し易くなり、赤血球がプラスの電気を帯びてしまい、マイナスの白血球とくっついて血液がドロドロになり、それがムクミとして現れて来るのだ。女性なら解ると思うが、冬に静電気を発する人ほどムクミになり易いものだ。

 要は静電気があるからこそ血液が滞るのだ。女性は筋肉量が少ないので、女性は足にムクミが出て、男性は筋肉量が多いので男性はに脳疾患として現れて来るのだ。女性でも筋肉量の多い女性は足にムクミがでない分、脳疾患に遣られ易くなり、男性でも筋肉量の少ない男性は脳疾患が起こらない分、足にムクミが出やすく、静脈瘤とかになり易くなってしまうのだ。

 夏は薄着なので静電気があることが解らないが、秋以降、洋服が多くなってくれば、静電気があることに気付くものだ。夏に於いて自分が静電気を持っているか否かが解るのは、夜になって体が疲れ易くなっているか否かだ。静電気を持っていると、血液の流れが悪いために、どうしても体内に疲労が蓄積してしまい、日中はいいのだが、夜になればその疲労がどっと出て来ることになるのだ。

 妊婦が妊娠後期にムクミが出て来るのも、胎児に栄養を優先的に回すために、マイナスの電子を大量に使ってしまためであって、そうなると体内にプラスの電子が残ってしまい、それが足にムクミとなって現れて来るのだ。妊娠中毒症は減塩とかで治すのではなく、プラスの電子を如何に抜くかで治るものなのである。白血球と赤血球がマイナス同士だと血液がサラサラになる以上、ムクミは出て来なくなるし、増してや妊娠中毒症に消滅して行くのだ。

●食事を正食に変える

①鉄分と塩分をきちんと摂取する

 ムクミを解消するためには、なんといっても食事を正しい物に変えて行くことだ。女性は月経がある以上、毎月、鉄分と塩分が失われて行くので、必ず鉄分と塩分を摂取して行くことだ。血液内の鉄分と塩分が不足してしまえば、血液はプラスの電子を発生せざるを得ないので、それでムクミが発生してしまうのだ。

 鉄分に関しては、鉄製のフライパンを使ったり、鉄瓶を使ったりすることだ。「海苔」「あさり」「はまぐり」「ナッツ」などを食べるようにすることだ、塩分に関しては化学塩を控えて、天日塩に切り替えることだ。化学塩を使ってしまうと、塩化ナトリウムが体内で正常に働かなくなるので、それでムクミを発生させてしまうのだ。気をつけるべきは加工食品であって、そこには大量の化学塩が使われているので、妊娠後期になれば加工食品を食べないようにすることだ。

②肉食を減らし、魚を食べる回数を多くする

 ムクミを発症させたくなければ、肉食を選らして、魚を多く食べるようにすることだ。肉は体を酸化させてしまうので、体内で静電気を発生させ易くなり、血液をドロドロにしてしまうのだ。しかも肉には充分な塩分が含まれているために、体内の塩分を過剰にさせてしまうのだ。妊娠後期に肉を平気で食っていると、簡単に妊娠中毒症になるものだが、これは肉が体内の塩分を過剰にさせるということが遠因で起こって来るのである。

 肉を全く食べるなと言っているのではない。肉食の回数を減らして魚を多く食べるようにすることだ。魚は体を酸化させないので、静電気が発生しなくなるのだ。但し刺身は多少活性酸素を出すために、体をやや酸化させるので、妊娠中は刺身を控えた方がいい。肉を食べる時は野菜を多めに食べて、翌朝には必ず便通があるようにすることだ。ウンコを早めに出せば、それだけ体内の酸化を防ぐことができるようになるのである。

③果物や野菜を多く摂取する

 体内を弱アルカリ性にし、静電気を少なくするためには、なんといっても果物や野菜を多く摂取して行くことだ。朝食には必ず果物を食べ、昼食や夕食には野菜がメインとなるような食事に切り替えて行くことだ。それと木の実などをお腹が空いた時に食べるようにすれば、お菓子類などを食べたくなくなり、体を酸化させることから防ぐことができるのである。

●静電気を放電する

①土に触れる

 体が酸化していれば、いつでも静電気を発生させることになるので、とにかく静電気を放電してしまい、体内の静電気をなくしてしまうことだ。そのためには土に触れることだ。人間は土に触れると、体内の静電気を放電させることができるので、それでムクミが発生しなくなるのである。

 お勧めはガーデニングでもして、日々土に触るようにすることだ。マンション暮らしなら、ベランダにプランターを置いて、そこで花でも育ててみることだ。それから芝生の上を裸足で歩くのもいい。足から静電気が放電されて行くので、体内の静電気がなくなってしまうのだ。

②糠床に手を突っ込む

 自宅には必ず糠床を置いて、毎日、糠床に手を突っ込んで、静電気を放電させてしまうことだ。糠床は最も静電気を吸収する物なので、毎日、糠床に手を突っ込んでいると、体内の静電気は殆ど消滅してしまうのだ。洋食に走ってしまうと、確実に糠床は消滅することになるので、そのためにその家の主婦が静電気をたっぷりと溜め込むことになるのである。それで足がムクミに襲われたり、妊娠中毒症やら脳疾患に襲われてしまうのである。

③森林の中を散歩する

 森林も静電気を吸収してくれ易いものである。そこで森林の中を散歩をし、新鮮な空気をたくさん吸い込んで行くことだ。自宅の近くに森林があるならそこを散歩すればいいし、もしも森林がないのなら街路樹がある所を探して、そこを歩くようにすることだ。木が側にあると静電気を放電してくれるので、体が軽くなるように感じることだろう。

 安産をした妊婦たちが妊娠中に全て散歩していたという事実を決して忘れるべきではない。妊娠中はとにかく散歩をし、できれば森林の多くある場所で散歩するようにすることだ。特に妊娠後期は胎児が大きくなって行く分、それだけマイナスの電子が胎児に優先されるので、きちんと静電気を放電しておかないと、すぐにムクミが出て、妊娠中毒症を発症してしまうようになるのだ。

●ストレスを溜め込まない

①電磁波に気を付ける

 人間の体はストレスを溜め込んでしまうと、静電気を発生して来るので、可能な限りストレスを溜め込まないようにすることだ。そのためにはテレビを見過ぎないことだ。実はテレビを連続して1時間30分以上見続けることは、見ている人にかなりのストレスを発生させてしまうのだ。これは妊娠中毒症を発症する妊婦たちの殆どがテレビの視聴時間が長いということでも解ることだ。

 それと携帯電話中毒にならないことだ。女性の場合、お喋りが好きなので、中には携帯電話中毒になっている女性が大勢いるものだ。そのため携帯電話を使っていることでストレスを発症して、電話がかかってこなければそれでもストレスを発生させてしまうのだ。女性は妊娠してしまえば、それほど他人と遣り取りする必要性もなくなってくるので、携帯電話から離れて、のんびりと過ごすようにすることだ。

②掃除をしまくる

 人間というのは、家の中が汚いとストレスが大量に発生するものだ。そこでとにかく毎日掃除をすることだ。掃除をすることは適度な運動にもなるし、自宅が奇麗になればストレスが吹き飛んでしまうものだ。足が浮腫んだとか言っている女性たちは、自宅を掃除しないからこそ、足に異常が出て来るのであって、ムクミを医学的にどうのこうのするよりも、自宅を掃除してしまうことだ。

③長所伸展法を使う

 人間が最大のストレスを感じるのは、実は人間関係に於いてである。人間関係が拙くなるとストレスが発生し易いし、人間関係が良好になればストレスが発生しなくなるものだ。人間関係を良好にするためには、長所伸展法を使うことだ。とにかく他人の長所を褒めて、他人を喜ばすことだ。

 結婚している場合、妻が夫を褒めないと、夫も妻を褒めなくなり、その内に妻は自信を失ってしまい、口喧嘩の毎日になってしまうのだ。夫の長所を褒めることは、それだけで終わるのではなく、いずれ夫が妻の長所を褒めてくれるようになるのだ。夫婦が互いに長所を伸ばしあっていると、いつの間にかに気になっていた短所は消えてしまい、益々良いことが起こるようになるのだ。

 ムクミというのは未病の段階だ。ムクミが出た所で、病気と診断されないし、病院に行っても効果的な治療を施して貰うことはできない。足にムクミが出るというのは、体が酸化し、体内に静電気を持っているということなので、体を弱アルカリ性に変え、静電気を放電させてしまえば、簡単にムクミを治して行くことができるようになるのである。

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高校生だけで研究することも大切さ

●自分の研究成果を論文として残しておく

 高校生にもなれば、学校の授業を受けていれば、教師の言動や教科書の内容に不満を持つものだ。高校生の脳は急成長を引き起こしているので、どんなに優れた教師がいても、どんなに素晴らしい教科書があっても、何かしらの疑問を持ってしまうのだ。もしも疑問を持てなかったら、その者は勉強はできるけど、成長はしていないということなのである。

 こういう場合、常にノートにアイデアを書き留めておくことだ。アイデアは記憶できないという欠点を持っているので、そのアイデアに対して何もしないと、そのアイデアは吹き飛んで行くものなのだ。そしてアイデアがかなり溜まったのなら、その中でも最も素晴らしいアイデアを研究してみることだ。

 いいアイデアというのは、それが全てなのではなく、研究をし論文を書いている内に思わぬ結論に至るものなのである。研究して行くと、自分が当初思っていたこととはまるで違う結論に辿りついてしまい、自分ですら驚いてしまうものなのである。常識を肯定するようなことをしているのでは学問とは言わない。常識では考えもつかないことを解明するからこそ学問たりえるのである。

 現在の学校教育では、小学生には自由研究をさせるのに、高校生には自由研究をさせないというひっくり返ってしまった教育になっている。小学生では必要最低限の知識がないために自分で自由に研究しても優れた研究などできないものだ。しかし高校生になれば既に充分な知識を持っているために優れた研究が可能になるのだ。

 時期的に考えて、高校3年生は大学受験に忙しくなるので、高校2年生の時に自由研究を行って、研究論文でも書き上げておくべきなのである。高校1年生では早すぎるので、結局、高校2年生という時期しかないのだ。この時期を逃すと思春期に自分が自由に研究論文を書けるという機会を失ってしまうのだ。

●脳を空っぽにしてしまうからこそ新たなアイデアが湧き出して来る

 断言しておくが、高校生が書いた論文など、幼稚極まりないものなのである。文章の書き方は間違っているし、論理構成も間違っているものだ。その結論もそれが本当に正しいか怪しいものだ。しかし高校生の時に下手でもいいから論文を書いた実績が大事なのだ。論文を書き上げる苦労を知ったのなら、他人の論文を軽視するということがなくなり、真摯になって読むことができるようになるものだ。

 通常、高校生が論文を書き上げてしまうと、脳が空っぽになってしまうものだ。高校生の脳では1つの論文を書き上げることは能力の限界を超えているのだ。だが、そうやって脳が空っぽになると、逆に新たなアイデアが湯水の如くに湧き出して来るようになるのだ。それが新たな発見に繋がる可能性になるのだ。

 若い時に自分で論文を書き上げたこともない人物は、常に本の書いていることを鵜呑みにして、自分の意見と称して、他人の意見を言って来るものだ。ひどい者になると、新聞やテレビの意見を鵜呑みにして、自分が無名の人間なのに、有名人気取りで口達者になるものだ。こういう人物は常に他人と議論をするのが大好きで、そのくせこの手の人物を議論の輪に入れてしまうと、碌でもない結論にしか辿りつけないものなのだ。

 自分が下手糞でもいいから、自分の力で論文を書き上げてみると、奥深い思考を展開することができ、本に書いてあることを鵜呑みにしなくなるし、新聞やテレビなどはバカらしくなってくるものだ。奥深い思考をするためには、自分の頭で考えるだけでは駄目なのである、自分で論文を書いて、その論文の中で思考を深めて行くしかないのである。

 優れた学者というのは、高校生の時に何かしらの研究論文を既に書いているものだ。高校生の時に研究論文を書いているからこそ、思考能力が一気に高まり、高校生の生活を有意義に過ごせるようになるし、その勢いで大学に進学すれば、大学生活も有意義に過ごすことができるようになるのである、大学に進学すれば、卒業論文を書くことになるが、大学4年生で初めて論文を書くというのでは、もう遅すぎるのである。若くてトンガっていた時期に無理をしてでも書いておけば、その後の人生は全く別の物になるものなのである。

●教師は手を出すべきではない

 高校生が研究論文を書こうとすると、親切な教師は高校生に手出しをして来るものだ。その教師は親切心を持って手を出したのだろうが、それをやられると高校生特有の無謀さが失われてしまうのである。高校生の研究論文が下手に整い過ぎては、なんの価値もない研究論文になってしまうものなのだ。高校生が書く研究論文は下手なのは解っているのだ。しかし高校生だからこそできる無謀さが、実はその研究論文を光らせるのだ。

 大概、教師が高校生に手を出して来ると、その研究論文のテーマがその教師の嗜好に限定されてしまうものだ。「反戦運動」や「平和運動」、「環境保護問題」や「老人介護問題」などになってしまい、高校生なのに高校生らしくないテーマを選んでしまい、そのためにその研究論文も陳腐なものになってしまうのだ。

 大方、このようなテーマで研究論文を書く生徒というのは、その学校の中でも優秀な成績を収めている生徒たちだ。それだからこそその生徒たちは高校生特有の無謀さを発揮することができず、成績は優秀であっても、平凡以下の人材に成り下がってしまうのである。高校生が研究論文を書く時は、絶対に教師の介入を阻止すべきなのである。

 大人になれば解るだろうが、平和というのは、反戦運動や平和運動で作り出されるものではなく、軍事力によって作り出されるものなのである。平和というのは戦争と戦争の間の束の間の休息であって、我々は次の戦争に備えつつ、今の平和を享受するしかないのである。戦争のない世の中など出現することは有り得ない。だからこそ人間は生きている以上、戦争について考え、他国に侵略されないように考え、行動して行くべきなのである。

 環境問題にしても、地球の気候が一定しているからと思うからこそ、少しの異常気象で大問題に見えるだけであって、地球も生き物だから変化することがあると解っていれば、多少の異常気象は許容できるのである。もしも人間の行いが環境を破壊することがあっても、その環境問題は科学技術とビジネスで解決して行くものなのである。いずれ自動車は電気自動車に取って変わるし、飛行機も航空ガソリンを積んで飛ぶようなことをしなくなるであろう。そのために科学技術の発展が必要だし、それをビジネス化する才覚も必要なのである。

 老人介護は富を消費するものであって、富を生産する産業ではないのだ。そのため経済が発展していないのに、老人介護を手厚くしてしまえば、大量に富が消費されてしまい、国民全員が貧乏することになってしまうのである。老人介護の解決策は、老人が寝たきりにならないようにさせることなのである。老人を年金暮らしさせるのではなく、幾ら歳を取っても働かせることこそが、老人を健康にさせるのである。そうすれば介護を受ける老人の数は激減するものなのである。

●研究論文を書き上げると、能力は一気に上昇する

 研究論文を書き上げると、能力は一気に高まるものだ。自分がヘトヘトになっても研究論文を書き上げたという実績が自分に大いに自信を持たせることになるし、研究論文を書くことで奥深い思考が出来たことで、他人の話を着ても、他人が書いた本を読んでも、その理解力が高まるようになるのだ。

 脳自体は19歳まで成長するので、その年齢以前に脳をフル稼働させる経験をしておけば、自分の脳は他人の脳よりも大きく成長することになるのである。この時期に遊び呆けたり、受験勉強ばかりしてしまうと、それでは脳を大きく成長させることができないのだ。この時期だからこそ、脳に強烈な負担を与えることが、結果的に脳を大きく成長させることになるのである。

 研究論文を書いたことのない人は、幾ら本を読んでもちゃんと読んで来ないものだ。論文の書き方が解らないし、論文を書く苦労が解らないし、論文を書いた後どうなるかが解らないから、本を字面だけ読んでしまい、しかもその本の中で重要な箇所が解らないのだ。一度でも研究論文を書いた者なら、その本の著者の息遣いを感じ取ることができるし、重要な箇所を的確に掴んで行くことができるようになるのだ。

 もしも資金的に余裕があるのなら、その研究論文を製本して、売り出すのもいい。恐らく全く売れない本になるだろうが、研究論文を書き、それを製本化し、売り出したことは、青春時代のいい思い出になることであろう。自分が歳を取って見た時に、如何なる宝石よりも優れた宝物と思える物になることであろう。

 日本では偏差値の高い大学に限って、学問上の新たな発見をする確率が非常に低いものだ。それは高校生の時に受験勉強ばかりしてしまい、遊びで研究論文を書くという経験をしていなかったからなのである。受験勉強で出て来る問題は全て答えが出て来るものばかりである。しかし自分で研究をしてみれば、答えの出て来ない問題もあるし、その問題が思わぬ答えを導き出してしまうこともあるのである。そういう体験をしておくことが、その後の人生に大いに役立って来るのである。高校生の時に研究論文を書いていれば、効率よく受験勉強をしている生徒に差をつけらてしまうものだ。しかし研究論文を書き終われば、一気に追い抜いて行くことが可能になるのである。

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愛読書との出会い

●青春時代の読書は非常に重要

 読書というのは常に満遍なく出来るという訳ではない。小学生なら遊びで読書をするものだし、中学生なら面白半分で読書をするものだ。しかし高校生なら真剣勝負で読書をするものなのだ。青春時代の読書は自分の人生に於いて非常に重要であって、読書の熱さが全然違うのである。この時期でしか出来ない強烈な読書体験なのである。

 なんでこんなことが起こるのかといえば、性ホルモンの大量分泌によって「第二の誕生」が起こって自我に目覚め始め、しかも16歳辺りで脳のシナプスの減少が止まるので、脳が自分のために再編成されて行くのである。だからこの時期に読書をすると、本というのが知識を圧縮した物であるために、その内容を十二分に吸収し、知能を飛躍的に高めるのである。脳の成長を考えるのなら、幼稚園児という脳の臨界期と、高校生という脳の再編成の時期は、脳にとって最重要の時期なのである。

 この時期を受験勉強ばかりして過ごすとか、遊び呆けて過ごすとかは、自分の脳に自分自身が最大のダメージを与えているとなんら変わらないのだ。この時期に読書をしないというのは、高い知能を持つことを諦めたと同じ意味なのである。先の大戦で戦時中にこの時期を迎えてしまった世代は、読書をする余裕がなかったために、非常に頭の悪い人間になってしまったのである。この時期に10代後半だった世代は、学者の世界に於いて優れた論文が殆どない世代なのである。この世代だけがポコンと穴があいているのである。

 高校生の場合、学校の勉強もあるし、部活動もあるし、家事の手伝いもしなければならないので、読書をする時間を纏めて取ることは難しいものだ。だから勉強や運動や家事手伝いをテキパキとこなし、読書の時間を意図的に捻り出すべきなのである。時間がないから読書ができないというのではなく、時間がないからこそ意図的に時間を作り出して読書をすべきなのである。

 「時間がない」を言い訳にして、高校生の時期に読書をしないように持って行けば、それをすることは可能だ。しかし高校生の時期はあっという間に過ぎてしまうのであって、気付いてみれば、1冊も本を読まなかったということも有り得るのである。だから時間が有る無しに関係なく、読書をすることを義務づけて、読書をしまくることだ。できることなら「1日1冊」本を読むようにし、どんなに忙しくても1週間に1冊は本を読むようにすることだ。

●読書に関しては自腹を切れ

 高校生という忙しい時期に本を読むのだから、悪書を読んでいる暇はない。出来る限り悪書を退け、良書を読むことが、読書の生産性を最大化することに直結するのである。そのためには本を借りるのではなく、本を買うように心掛けることだ。自分でお金を払って本を買うからこそ、良書を見つけることができるようになるのである。

 高校生が持っているお小遣いはたかが知れたものだ。そのお金を書籍代に回してしまえば、他のために使用することができなくなってしまうものだ。そういう過酷な選択を強いるからこそ、本を買う時に良書を選び出す能力が高まり、確実に良書を買うことができるようになるのだ。

 確かに図書館が充実しているのだから、図書館で本を借りて読むこともできる。しかし図書館の本は幾ら借りてもタダであるために、自分の財布が傷まないために、平気で悪書を掴んでしまうことになるのだ。図書館を利用するのは本屋では購入することができない本を借りるために使用すべきであって、それ以外では使用すべきではないのだ。

 自腹を切って読書をし、その読み終えた本を本棚に埋めて行く喜びを知るべきなのである。自分の本棚にどのような本があるかで自分の好みというものが解って来るのだ。小説が好きな者は小説が多くなるであろうし、歴史好きの者は歴史書が多くなるだろうし、自然科学が好きな者は自然科学関連の書物が多くなる筈だ。或る一定のジャンルの本が集まれば、その分野に於いて自分は深い思索を展開して行くことが可能になるのだ。

 忘れてはならないのは、高校生の脳は吸収力がいいために、短期間で学会のトップレベルに到達してしまうことなのでえある。そのため学会が抱えている問題に対して、高校生である自分が解決策を持つことが可能になるのである。特に数学は若い頭脳であればあるほど難しい問題を解けることができるので、この時期のスタートダッシュを巧く活用して、学会のトップレベルを超えるようにすべきなのである。

●愛読書を何度も何度も読め

 自分で本を持っているのだから、読書は一度だけで済ますようにすべきではないのだ。読書というのは一読した所できちんと理解できるようにはできていないのだ。一読して面白い本だと思うなら、再度読んでみることだ。再度読書してみると、最初の読書では見落として箇所が見つかったり、理解し切れなかった箇所が見つかったりするのである。

 そうやって何度も何度も本を読んで行けば、最初に読んだ時は面白いと思った本でも、何度か読んでいる内に詰まらなくなってしまって、自分が面白いと思える本はごく僅かだということに気付くものなのである。自分が何度も読める本こそが自分にとっての「愛読書」なのである。

 如何なる知識人であっても愛読書が共通することは滅多にない。読書には自分の好き嫌いが激しく影響して来るので、他人の愛読書を読んでも、自分は面白いとは感じないものなのだ。人間の脳は全ての人たちの脳が違っている以上、自分が面白いと思える本がそのまま他人も面白いと思えるものではないのだ。

 愛読書ができたのなら、その愛読書を何度も読み返して行くことだ。愛読書は自分の脳と相性がいいために、自分の知能を極限まで高めて行ってくれることを可能にするのである。できることなら、その愛読書を暗記してしまうくらいに読みまくるべきだし、その愛読書の内容をノートに纏めてみるのもいい。そうやって愛読書を自分の物にするからこそ、愛読書が自分の人生のために役立って来るのだ。

 愛読書を持ってしまうと、良書に出会う確率が急上昇して行くと同時に、悪書に出会う確率が激減して行く。愛読書によって自分の知能が飛躍的に高まるので、本に対して真贋を見分ける能力が急激に高まるのだ。本物の読書家であるなら、その本の表紙を見ただけで、直感で良書か悪書の区別が付くようになるのだ。

●愛読書を持たぬ人物は幾ら頭が良くても非常に詰まらない人物である

 高校生の時に愛読書を持てたのなら、その者の人格は鍛えられていくものだ。愛読書を繰り返して読むからこそ、その愛読書がその読者の人格が鍛え、高尚な人物にさせるのである。愛読書があれば自分の心の中に「青雲の志」が出来上がって来て、将来に於いて自分が成さんとする夢が明確になって来るものなのである。

 英雄豪傑たちは自分に有り余るエネルギーがあったから英雄豪傑になっていったのではない。若かりし頃に愛読書を持ち、その愛読書によって自分の心が何かに触発し、自分が将来に於いてすべきことが定まり、走り出して行っただけなのである。確かに成功者たちの意見を聞いて、それに感動するという体験も大事だ。しかし愛読書を持たず、ただ単に成功者たちの意見を聞いても、自分の心が動き出さないものなのである。

 高校生の時期に教科書だけを読んで来たという人物は非常に詰まらない人間になってしまうことだろう。教科書はどうやったとしても高校生の愛読書になる可能性はないのだ。名著という物は、その著者が考えに考え抜いて生み出されて行ったものなのだ。学校でのカリキュラムをどうすべきがで生み出されて来た教科書は誰がどうやっても高度な書物にはならないものなのである。

 その者が持つ思考の深さはその者が持つ苦脳の深さに比例するものだ。だからこそ良書を生み出そうとするなら、自分は頭がいいと自惚れるのではなく、神を崇敬して、神の無限の力の前に自分の無力さを知るべきなのである。そうやってこの世に底辺に自分の両足で立脚するからこそ、この世の全ての偽りが剥がれ落ちると同時に、この世のありとあらゆる物が見えて来て、その者の頭脳に叡智が宿ることになるのだ。

 要は良書という物は知恵のある書物のことであり、愛読書はその中でも自分に叡智を授けてくれる書物のことなのである。しかし殆どの書物はただ単に知識を書き連ねた書物でしかないのである。そういう書物は時間が経てば陳腐になり、廃棄されて行く運命にあるのである。だから自分が必死になって良書を探し出し、その中から愛読書を見つけて行くべきなのである。はっきりと言えることは愛読書を持てた高校生は非常に幸運であり、その愛読書によって自分の人生が飛躍して行くことになるのである。

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学校の勉強以外の勉強こそ、自分の実力に直結する

●集中と分散

 学校の成績を上げて行くためには、なんと言っても集中力が大事だ。ダラダラと勉強するのではなく、時間に制限を設けて勉強した方が、成績はアップするものなのである。ガリ勉君の成績が上がらないのは、長時間勉強はしているのだけれども、集中力を欠いた状態で勉強しているので、勉強したものがきちんと頭に入って来ないのだ。勉強したものを頭の中に入れるためには、時間を制限し、集中力の高い状態で勉強するしかないのである。

 プロレスで時間無制限1本勝負と言いながら、大抵は20分から25分の間で終わってしまうものだ。人間が本当に集中していられる時間はその程度なのであって、勉強を始めて20分経ったら、ひと休みし、次の教科の勉強をするようにしてしまうことだ。出来ることならより時間を縮めて、10分経ったら次の科目へというのを繰り返して行き、自分が疲労しないようにして、常に集中力の高い状態で勉強し続けるようにすべきなのだ。

 1つの科目を長時間に亘って勉強していると、集中力が切れてしまい、勉強をやっているのに、他のことをしてしまうことが多々あるものだ。勉強しているといいながら、漫画本を読んだり、音楽を聞いたり、ラジオを聞いたりと、勉強とは全然関係ないことを平気でやってしまうものだ。勉強に集中できないのなら、いっそのこと勉強を止めてしまい、遊びに集中した方がいいのである。

 学校の成績を常に高い状態で維持するためには、集中と分散のバランスを考えることは絶対に必要なことだ。集中ばかりしていては、自分が疲れ切ってしまい、自分の能力を上げて行くことができなくなってしまうのだ。疲労を溜め込まないようにするには、分散を行うことも必要なことなのである。学校の勉強に集中するためには、学校の勉強以外の勉強をするという分散をやることが、逆に学校での勉強の集中力を高める結果になるのだ。

 進学校なら、学校でトップクラスの成績を取る優等生たちに限って、学校の勉強は必要最低限しかしていないものだ。学校の勉強は基本的に学校で済ましてしまい、自宅では学校の勉強とは全く関係ない勉強をしているものなのである。お稽古事をやっている人たちはお稽古事に時間を取られてしまうために、学校での勉強に集中せざるを得なくなり、そのために高い成績を取って来るものなのである。学校の成績を上げたいのなら、如何に学校の勉強以外の勉強を行い、それによって学校での勉強の集中力を高めるしかないのだ。

●学校以外の勉強をせよ

 学校以外の勉強を行うためには、自分でテーマを定めて、そのテーマを集中的に取り組んでしまうことだ。この勉強は成績には直結しないので、自分が自発的に選び、それを楽しまないとなんの意味もないのだ。とにかく自分が好きなテーマを探し出し、それに一生懸命になって取り組むと同時に楽しんでしまうことだ。

 例えば国語なら、「近代日本語の成立」というテーマを掲げ、それを研究して行くものいい。明治になって小説家たちの間で言文一致運動が起こるのだが、ここで最大の役割を果たしたのが、夏目漱石なのだ。その後は三島由紀夫が出て来ている。両者は小説の内容は全然違うのだが、「文章が明晰」ということでは完全に一致しているのだ。それを基準にして小説家たちを分類してみると、誰が巧い小説家で誰が下手糞な小説家かが解るものだ。

 日本史や世界史を歴史の教科書どおりに教わるのも結構なことだが、「陰謀史観」という視点で歴史を見直してみると、思わぬものが見えて来るものだ。陰謀史観を詳しく知りたい人は、ヴィクター・ソ-ン著『次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた』(徳間書店)を読むことをお勧めする。この本を読めば近現代史の思わぬ姿が明確に浮かび上がってくるものだ。

 理数系の科目なら、日頃は体系的に教えられているので、「数学の歴史」「物理の歴史」「化学の歴史」といった形で、その歴史を追って行くと面白いものが見えて来る。理数系の学問は、或る日突然に天才が出て来て、大きな発見をしてしまい、その後は秀才たちが現れて、小さな発見をチョコマカとしているものだ。日本の理数系の学者たちは日本と欧米を比較して、「日本は駄目だ」と結論付けてしまうのだが、天才が出て来たのは主に西ヨーロッパだけであって、アメリカにも日本にも出て来なかっただけなのである。これが解れば下手な劣等感を抱かなくなるものだ。

 学校以外の勉強をする時、一つのテーマを勉強し尽くし、何かしらの結論を得てしまうと、次のテーマに移ると、時間やエネルギーを短縮した形で勉強することができてしまうのである。楽しんで勉強しているために、勉強の仕方が簡単に身についてしまい、余り無駄をすることなく勉強に取り組めることができるのである。そうなれば次から次へとテーマを探して行くことができるようになるので、結果的に深い思索を展開することが可能になるのだ。

●底力がつく

 大学受験に焦っているような高校生だと、このような学校以外の勉強を馬鹿らしいと思ってしまうものだ。そんなことをやらずに学校の勉強だけに集中していればいいと思ってしまうものだ。しかしそうやって勉強しても、成績は大して上がらないのだ。学校の勉強に集中しすぎた余りに、自分の能力に病的な症状が出て来てしまうようになるのだ。

 学校以外の勉強は自分に底力をつけるために行うものだ。底力をつけて土台を広くしてしまえば、高い物を積み上げて行くことができるのである。土台が狭いからこそ、高い物を積み上げて行くことができないのである。学校以外の勉強をすることは一見無駄に思えるものだ。しかし自分の底力をつけ、土台を広くしていくということをしているので、結果的に高い物を積み上げることができ、学校の成績が上がって行くことになるのである。

 時折、学校の勉強に熱中している生徒たちに限って、異常な精神状態になってしまう人たちが出て来るものだ。心は狭く、他人を排斥することしかせず、卑劣な態度を平気で取って来るような生徒たちだ。学校の勉強はするのだけれども、自分に底力がないために、学問を楽しむということができないのだ。そういう生徒はたとえ大学に進学できても、大した成果を生み出せないので、無視しておくことだ。

 学校の勉強で気をつけるべきことは、毎回テストが繰り返されるために、その内、自分が勉強に疲労してしまい、学問をする喜びが消え失せてしまうことなのである。学問は楽しいからこそ勉強し、それによって成績も上がるのだが、学問を苦痛と思ってしまえば、勉強することも苦痛になるし、そのような状態では成績が上がらなくなってしまうものなのだ。

 学校でのテストは生徒たちの成績を上げて行くためには絶対に必要なことだ。テストを受けている際に集中力は最も高くなるものだからだ。しかしそれだけ高い集中力を出した分、分散しておくことも必要なのであって、それが出来るからこそ何度テストを受けても、高い集中力を発揮することができるようになるのだ。だからこそ成績のいい生徒に限って、学校の勉強ばかりするということがないのだ。学校以外の勉強をするからこそ、学校の勉強にもテストにも集中することができるのである。

●学校の勉強はできて当たり前

 学校の勉強など出来て当たり前なのだ。古来、教科書をだけを読んで来た人物に、優秀な人物になった者は一人もいない。確かに教科書は大事だ。しかし高校生という大事な時期に教科書ばかり読んでいては、逆に不健全になってしまうものなのである。高校生なら好奇心が旺盛なものだ。だったら、自分が好きなものに手を出して行くべきなのである。様々な書物を読むからこそ、自分の脳が鍛えられて、自分が大人になった時、自分の脳から様々なアイデアが生み出されて来るようになるのだ。

 さすがに高校3年生の1学期が終われば、大学受験に集中しなければならなくなるが、それまでの期間は下手に大学受験に拘るのではなく、自分で好きな勉強をしまくるべきなのである。この手の勉強の仕方は無駄に見える勉強の仕方かもしれないが、気付いてみると高い成績を取っているようになるものなのである。学校以外の勉強をしていると、学校の勉強を余りしなくても、高得点を取れるようになるのだ。

 しかも自分にしっかりとした底力があるのなら、大学入試の際に自分が簡単に解けてしまう問題が続出して来ることになるのであって、他の受験生たちが悪戦苦闘している姿を余所目に、その問題を簡単に解くことができるようになるのだ。学校での勉強ばかりしていると、意外と実力がついていないものなのである。

 かといってこの手の勉強の仕方の全てがいいのではない。学校以外の勉強を行うことを口実にして、自分の部屋で遊び呆けてしまうことがあるものだ。そんなことをしていれば、高校生の3年間はアッと言う間に過ぎ去って行くものだ。学校以外の勉強は自分で楽しいと思うものを探すと同時に、学校の成績が向上しようと仕向けるべきなのである。

 高校での勉強を苦しんで行っていると、大学に入学しても、その反動で遊び呆けてしまうようになり、結局、大学の4年間を遊びに費やしてしまう学生になってしまうだけなのである。これこそが日本の大学のレベルが上がらない原因なのであるが、この原因を作っているのは、集中力を欠いた状態で勉強して来た学生たちなのである。

 学問は楽しんで勉強してこそ意味があるのだ。勉強して楽しいと思うからこそ、自分の実力が着実について行くことになるのだ。高校生の時までに勉強することは楽しいと思えた人は、大学生になっても勉強を楽しむことができるし、社会人になっても勉強を楽しむことができるようになるのだ。そういう人物たちこそ、国の宝なのである。

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問答無用で暗記せよ

●思春期は記憶力が急激に高まる時期

 人間の脳は19歳までは脳そのものが大きくなって行くので、実は16歳から19歳までの時期は最も記憶力が高まる時期なのである。正確に言うと、自分で記憶したい物を確実に記憶できる時期なのである。人間が無意識で多くの言語を記憶してしまう時期は乳幼児期である。この時期に、母親を始めとして、周囲の人々が話しかけてくれるからこそ、言語を記憶して行き、多くの語彙を無意識の内に獲得していくことができるのである。

 ところが16歳以降は自分が意識して記憶して行くことになり、自分がこれらのことを記憶したいと思えば記憶できてしまうのだ。脳の海馬は使用すれば使用するほど機能が高まっていくので、記憶する訓練を積めば積むほど、高い記憶力を持つことができるのである。逆に言えばこの時期に記憶をしないと、高い知能を持つことができないのだ。

 高校で気をつけるべきは、記憶を否定する教師が必ずいるということなのである。生徒たちに記憶させることを禁じて、記憶させないで高い成績を取らせようと実験しているのだ。因みに、この実験が成功したことは一度たりともない。大学入試を受ければ解ることだが、大学入試というのは高校までの勉強での記憶力を問うているのであって、記憶せずに大学入試を突破できるのではないのだ。

 英単語を記憶していなければ、英語の文章なんて読めないものだ。化学記号をきおくしなければ、化学の問題など珍紛漢紛である。歴史などは年号や事件名や人物名を暗記しねければ、歴史をきちんと理解できる訳がないのだ。全ての教科を合わせれば、記憶する量は膨大なものとなってしまうが、記憶力が高まっている高校生の時期なら、簡単に暗記できてしまうものなのである。

 勉強したことを記憶させるためには、記憶の方法を巧く使いこなしていくことだ。まずは真面目に勉強する。そして翌日に勉強した箇所をもう一度見るのである。これをやると記憶が固定されるのである。これをせずに勉強して、そのままにしてしまうからこそ、記憶に固定されないのである。

●教科書をよく読め

 勉強をする場合、教科書をよく読むことだ。勉強ができる生徒はきちんと教科書を読んで来るものだし、勉強のできない生徒に限って教科書を読んで来ない。教科書は通常の書物とは違う。通常の書物より遥かに面白くない書物である。これは勉強用の道具として機械的に読むべきであって、決して通常の書物と同じレベルで扱ってはならないのだ。

 教科書が面白くないのは、多数の執筆者がいること、更に政府の検定が入ることなのである。通常、書物が面白いのは、1人の執筆者が自分の意見を淡々と述べるだけでなく、他人が思いつかぬ思わぬことを言ってくれるからだ。しかし多数の執筆者が本を書いてしまうと、個性的な書き方が減退してしまい、非常に味気ない書き方になるし、その内容は空疎になってしまうのだ。

 しかも教科書に政府の検定が入るために、その検定のために教科書が大いに歪んでしまい、執筆者たちは読者のために教科書を作っているのではなく、政府の検定を如何に潜り抜けようかという態度になってしまい、全く面白みを欠いてしまうのだ。予備校とかで自主制作されてあるテキストを読むと解り易いのは、政府の検定なしに自由に出版されているために、読者のために書かれているからなのである。

 教科書の中で特に問題なのが、『現代文』と『古文』と『英語』と『日本史』の教科書だ。『数学』や『物理』や『化学』の教科書のように客観的な記述をしていけるのではなく、教科書の製作者たちの主観が入るために、どうしても異常な記述が入って来るのである。理系を選択した生徒たちが、理系の教科では点数が高いのに、文系の科目では点数を下げてしまうのは、教科書自体に問題があるからなのである。

 例えば現代文の教科書では、近代日本文学を嗜んでいる人すら知らない作家が出てきたり、英語の教科書では現在英語を話す人々が通常の生活では絶対に使わない言い回しが出てきたり、日本史の教科書では近代日本の遣ったことは全て悪いことをしたかのように記述されているものだ。文系の教科書を読む時は、決してその内容を鵜呑みにしないことだ。かといって高校生が教科書批判をしていては、成績が上がらなくなってしまうので、我慢して教科書を機械的に読むようにすることだ。

●参考書は1つに絞れ

 通常、勉強ができる生徒でも教科書に書かれている内容がイマイチ良く解らないと言って来るものだ。それもその筈、教科書の記述の仕方が悪いし、もしもその教科書を読んで解らない場合は、そのフォローの記述をしておくということをしていないから、教科書を読んでどこかで躓いてしまうと、幾ら読んでも成績が上がらくなってしまうのだ。

 教科書の内容を理解したいのなら、参考書を買って読むようにすることだ。参考書を読まないと、教科書をきちんと理解できないのだ。参考書は政府の検定を受けないので、その内容はしっかりとした物が書かれてある。通常、高校生が高校を卒業してしまうと、教科書は捨てるが、参考書は捨てないものだ。参考書は価値ある書物だからこそ、高校を卒業しても捨てないのだ。

 参考書を買う時は、大学の合格した人たちにどの参考書を買って勉強したかを聞いて、その中で一番良い物を買うことだ。参考書を買ったのなら、参考書は1つに絞ることだ。参考書への浮気は成績を低下させることにしかならないからだ。1つの参考書を繰り返し読んでいれば、成績は確実に上がって行くことになるのだ。

 教科書は分厚い物になってしまうので、持ち運びには不便である。そのため参考書を読むのは自宅に限定し、それ以外の場所では『要点整理』の本を買って、それをパラパラと見るようにすることだ。こうすると通学の時間を有効に使えるし、常に重要な箇所を勉強していることになるので、脳に記憶され易いのである。

 参考書や要点整理ではないが、漫画が書かれた教材というのは、結構使えるものなのである。漫画家は読者に解り易いように伝えることに関しては非常に長けているので、その漫画を読むと簡単に理解してしまうことになるのだ。ただ問題点としては、その内容を深く理解したことになるのではなく、非常に浅く理解したことになってしまうので、漫画の教材に深入りするのは非常に危険である。

●重要な古典は原文で暗記してしまう

 古文では古典がそのまま出て来るので、とにかく古典を直接に原文で暗記してしまうことだ。『古事記』『万葉集』『古今和歌集』『枕草子』『源氏物語』『平家物語』『徒然草』『方丈記』『奥の細道』などは原文で読んでしまうことだ。原文と現代語訳文を見比べながら読んで行けば、暗記できてしまうものだ。古典を読んでいると、いざ問題文が出されても、その文章の流れから大体答えが解って来るので、確実に点数を取って行くことができるようになるのだ。

 日本の文章は中国古典の圧倒的な影響を受けているので、中国古典を暗記することは絶対に必要になって来る。『四書五経』『『荀子』『韓非子』『孫子』『呉子』『史記』『唐詩選』などは絶対に暗記しておくべき古典だ。中国古典の素晴らしさは内容を極限まで圧縮させることにあるので、中国古典に慣れていないと、内容の濃い文章が書けなくなってしまうのだ。

 英語ができないというのなら、『シェイクスピア全集』を読んで、重要な箇所は暗記してしまうことだ。シェイクスピアは今でもイギリス人に読まれ続けているので、シェイクスピアの古典を読んでおかないと、英語の面白さが解って来なくなってしまうのだ。英語で書かれた古典には、日本や中国の古典よりも遥かに劣る古典が多いので、英語で書かれた本を幾ら読んでも面白いとは思えなくなってしまうのだ。

 気をつけるべきは、国文学者が書いた本には優れた本がないということである。国文学者が国文学を専攻していたのに、日本語の文章が物凄く下手糞なのである。まず日本の古典を書いた人々は全て神仏を崇敬してきたのであり、全員が神道や仏教に対する深い宗教心と多大な宗教的知識を持っていたのだが、現代の国文学者たちの多くが、無宗教なのである。それに古典そのものを素直に読んでおらず、常に穿った見方をして、現代の視点を古典に持ち込んでしまうのである。そのため多くの学術用語を使いながら、その内容は空疎で、非常に馬鹿らしい結論に辿りついてしまうことになるのだ。要は文献をきちんと用いて論証せずに、自分の主観的意見を結論に擦り替えているだけなのである。

 中国古典を研究する学者は国文学者ほどひどくはないが、かといって中国を称賛し過ぎる嫌いがある。現代中国は反日国家なので、おいそれと中国と手を組むことはできないし、中国を称賛すれば日本の独立が危機的状況に陥ってしまうのだ。英文学者が英語はできても、古代ギリシャ哲学や、ラテン語ができないという欠点がある、そのため英文学者の本を読んでも、イギリス文学を正確に理解したことにはならないのだ。シェイクスピアは英語が母国語だけであったのではなく、ラテン語を学んだからこそ、あれだけ素晴らしい古典を作り上げることができたのである。

 高校生の時期を最も無駄にしてしまうのは、実は教科書を愛読書にしてしまった高校生であろう。教科書は勉強するために仕方なく使っているのであり、それだけを読んでいては学問の面白さが解らなくなってしまうのだ。教科書だけでなく、参考書を読み、できれば古典を熟読して行くべきなのである。高校生なら簡単に読めてしまうし、暗記することができてしまうのだ。この高校生の時期を決して見逃してはならないのだ。

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なぜ子供たちは給食を食べると風邪をひくのか?

●給食と風邪

 『満開ブレインパラダイス』では学校給食のことに関しては触れることがなかった。勿論、給食を正食に変えたのなら、知能が高まるものなのだが、母親たちにそれを言っても、すぐさま改善できるものではないので、給食問題に関しては扱わない方が良いと判断したのだ。もしも俺が学校の校長だったら、絶対に給食の改善に乗り出すことだろう。栄養バランスが取れて、安全な給食を出しているのなら、子供たちの学力は急激に上昇していくことになるからだ。

 俺は給食を食べ比べたことはないが、大学の学食が学生たちの成績の比例することに既に気付いている。例えば東京大学は日本で一番学力の高い大学であるが、学食が意外と美味しいのだ。私立の大学でも偏差値は低くても、画期的な研究を発表をしていたり、スポーツや芸術でいい成績を収めている大学は、必ず学食が美味いのだ。学食では学生たちが毎日利用する以上、その成果が如実に現れて来るのである。

 学校給食は給食費は安いために、それほど栄養価の高い食事を用意することができないという現実があるのだ。しかも栄養士たちはアメリカ仕込みの栄養学を信奉しているので、日本人の体に合った正しい食事はなんなのかということが全く解っていないのだ。小学生は身長が伸びて行く時期であるので、子供に間違った食事を与えると、途端に病気を発症して来るのだ。

 学校給食に関して、常に付き纏っているのが、「子供たちの中には給食を食べると風邪をひくという子供が出て来る」という現象が見られるということである。そのため健康な筈の子供が風邪をひいてしまい、しかも他の子供たちにも伝染して、学級閉鎖に追い込まれたりするのだ。母親としては幼稚園の頃には風邪などひかなかったのに、小学校に行き出すと風邪をひき始めたことに大いなる疑念を持ってしまうのだ。

 しかも追い討ちをかけるのが、医者の治療の拙さである。通常、風邪になったら寝かしておけばいいのだ。もしも薬が欲しいのなら、葛根湯でも飲んでいればいいのだ。それなのに医者は抗生物質を投与してしまい、風邪を余計に悪化させるのだ。この抗生物質というのは風邪には全く効かない薬で、それどころか体内にある良い菌まで殺してしまうために、余計に風邪の症状が悪化するのである。日本はなんと世界の抗生物質の7割を消費する異常な国家なのである。

●濃縮された塩素

 なぜ子供たちが学校給食を食べて風邪をひくのかというと、それには塩素が深く関わっている。水道水には塩素を投入することで殺菌しているのであるが、この水道水を給食のように大勢の料理を作る際に使用するととんでもないことが起こってしまうのだ。例えばスープを作る際に、大きな釜で調理することになるのだが、その際、塩素は満遍なく存在するのはなく、下の方に濃縮された形で溜まってしまうのである。

 そのため、上の方のスープを飲むのは別に安全なのだが、下の方のスープを飲むのは非常に危険なのだ。そのスープを飲むことは濃縮された塩素を飲むようなものなので、その濃縮された塩素が腸内環境を決定的に破壊してしまうのである。腸内環境が破壊されてしまえば、体は奇麗な水分を供給できなくなるので、汚い水分が体内を駆け巡り、それで免疫力を一気に落としてしまうのだ。

 子供たちは学校に行っている時はウンコが非常に臭いものだが、夏休みにや冬休みになるとウンコの悪臭が少なくなるものだ。それは家庭で塩素の少ない料理を食べていれば、自然と腸内環境が回復されるので、ウンコをしても悪臭を発しなくなるのだ。大体、夏休みや冬休みに風邪をひいて寝込む子供はいないものだ。しかしその子供が学校で給食を食べると風邪をひき始めるのだ。

 現在では小学生が水筒を持って登校するのが当たり前の光景になってしまった。小学生は活発に活動するためにすぐくに喉が渇くので、その際に学校の水道水を飲むのは非常に危険なのだ。矢張り浄水器で浄化した水を飲まないと、腸内環境が一気に破壊されてしまうのだ。かといってそういう気を利かす母親たちでも、学校給食で使用する水の安全性にまでは気が回らないものだ。だから学校でインフルエンザがはやるのである。

 それゆえ俺はPTAを廃止し、父母会に切り替え、その父母会に権力を集中させるべきだという提案をしているのだ。父母会が学校を統制できるほどの権力を持ってしまえば、学校の水道水に関して何かしらの対策を講じることができるからだ。だが父母会に権力がないばっかりに、子供に水筒を持たせるという個人的な対策しか打てなくなってしまうのである。

●牛乳と肉の組み合わせ

 子供が学校で風邪をひくのは塩素の問題が最も大きいのだが、それ以外にも給食はやってはならないことを平気で遣っているからこそ、子供たちに風邪をひかしているのだ。その最大の物が「牛乳と肉を組み合わせた料理」を給食に出しているということだ。牛乳というのは人間の飲み物の中で最も体を冷やすものだし、しかもそれを冷蔵庫で冷やした状態で給食に出して来るものだ。そこに肉という体を温める効果のある料理を出して来るのだから、体は一気に狂ってしまうのだ。

 解り易く説明するなら、チョコレートで鼻血を出すのと同じ原理だ。チョコレートのカカオは体を温める効果があるのだが、白砂糖は体を冷やす効果がある。それを一緒に食うからこそ、体は対応しきれなくなってしまい、それで鼻血を出すことでその異常事態を回避しようとするのだ。

 牛乳と肉の組み合わせはまさにそれで、牛乳が体を冷やすのに、肉が体を温めてしまうから、体が異常になってしまうのである。ユダヤ教では律法で牛乳と肉を組み合わした料理を出すことを禁止しているのだが、日本のように長らく仏教によって肉食が禁止された国では、牛乳と肉は相性が悪いというのが解らないのだ。

 牛乳と肉を組み合わせた料理を長らく食べていると、血管を硬直させてしまうことになる。そのために心筋梗塞や脳疾患など病気を発症するようになるのだ。子供ならそこまで大病しないものなので、お腹を壊したり、風邪をひくことで、食事ができないようにさせ、排泄を優先させることで、体が体を正常にさせようとするのである。子供が小児癌や小児性白血病になったら、まずはこの牛乳と肉の組み合わせを疑うべきであって、それを排除し、体内に溜まった毒素を排出させれば、死の病でも治ってしまうものなのである。

 母親としては、給食の献立を見て、牛乳と肉の組み合わせがあるなら、肉料理を食べてもいいが、牛乳を飲まずにその牛乳を自宅に持って帰るように言い聞かせればいいのだ。牛乳は後日、肉料理がない食事の時に出せばいいのであって、そういうことをしておくと子供は風邪をひかなくなるのだ。

●生野菜を食べさせない

 学校給食では食中毒のことを心配して、生野菜を出さない方針を固めている。そのため生野菜がない状態で肉料理を食べてしまうと、肉の消化のために体内のビタミンが奪われてしまい、それによって免疫力が低下してしまい、風邪をひき易くなってしまうのである。生野菜を煮たり焼いたりすると、野菜のビタミンや酵素が破壊されてしまうので、幾ら野菜を食べてもそれほどの効果がないのだ。

 肉料理には必ず生野菜をつけるという料理の常識すら、栄養士たちが解っていないために、子供たちは栄養満点の料理を食べているのに、体調を崩して、風邪をひいてしまうようになるのだ。野菜もナマだからこそ意味があるのであって、野菜を調理してしまえば意味がなくなってしまうのだ。

 こういう場合、母親は給食の欠点を子供によ~く言い聞かせて、朝食や夕食時に生野菜を食べさせるようにすることだ。給食で生野菜が不足していても、朝食や夕食で補給していればそれほど問題はないのだ。食事はその日のトータルで計算すべきであって、給食に問題があるなら、母親が補って然るべきなのである。

 できることなら糠漬けを多く食べさせることだ。糠漬けはビタミンやミネラルを大いにアップする機能を持つので、糠漬けを食べていると、野菜不足を簡単に解消することができるようになるのである。糠漬けの塩分を控え目にして塩味を控えると、サラダ感覚の糠漬けを作ることができ、子供はその糠漬けなら大量に食べてくれるようになるのだ。

 我が子が風邪をひいた場合、すぐさま病院につれていくのではなく、自宅で葛根湯でも飲まして寝かしておけばいいのである。その際、「ちょいと待てよ」と考えを巡らせることだ。自宅では自分が安全な料理を出している以上、給食に何かしらの問題があるということに気付くべきなのである。そこに気付けば、なんらかの対策を打てることができ、我が子を病気から守ることができるようになるのだ。

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「目黒のサンマ」の科学的考察

●サンマの値段

 秋は「食欲の秋」である。食べ物というのは、秋になると最も美味くなるものなのである。その中でも俺はサンマを最も美味い食べ物としている。なんせサンマは値段が安いし、常に美味しいからだ。サンマは焼き魚としては最高級品なのであって、これを上回る魚は存在しないののだ。刺身なら「鯛の刺身」とか、「フグの刺身」とかになってしまい、それなりに値段が張るのだが、焼き魚は非常に安い値段で最高級品を堪能することができるのだ。

 魚屋に行くと、一種類のサンマが売られているのではなく、実は2種類のサンマが売られている。値段は変動するが、大抵が「150円」のサンマと「100円」のサンマが売られているのだ。同じサンマだから、俺はサンマを買う時は当然に安い方を買うようにしていた。しかしなんで値段の高いサンマがあるのか気になって、魚屋のオジサンに聞いてみた。すると、

 「値段の高いサンマは脂が乗っていて、非常に美味しんですよ。普通のサンマとは比べ物にならないくらいに美味しいですよ。」

 とのこと。早くそれを言えよ。俺は今まで生きていて、そのことを全く知らんかった。この少し値段の張るサンマは、肩が張っていて、脂の乗りも良く、筋肉の出来とか、脂肪の付き具合が、通常のサンマとは比較にならないくらい美味しいのだ。よく魚の消費量が下がっていることを問題視するが、それは魚屋が消費者に対してきちんと魚のことを説明しないことにこそ原因があると思う。

 この値段の張るサンマは身が厚いの焼くにはコツがいる。まずはサンマに天日塩を多目に塗り、30分以上、そのままにしておく。次にガスレンジを1分以上空焚きで温めてから、サンマを入れる。そのサンマの皮が少し焼け、脂が落ちる前にひっくり返す。反対側も皮が少し焼け、脂が落ちる前にひっくり返す。もう一度、両面を脂を落とさないように焼き、芯まで火が通るようにする。そして火力を最大にして一気に焼くようにするのだ。要は如何に脂を落とさないで焼くかがポイントなのだ。

 この焼き方で脂の乗ったサンマを焼くと、本当に普通のサンマとは比較にならないくらいに美味い。筋肉や脂肪の出来が通常のサンマとは違って、少し食べただけでも美味いのだ。このサンマに醤油をかけて食べるのは邪道で、醤油をかけずに食べて欲しい。考えてみれば、通常のサンマに醤油をかけざるをえないのは、脂の乗りが弱いために、それを大豆の脂で誤魔化しているだけなのである。

●落語『目黒のサンマ』

 サンマというと、落語の『目黒のサンマ』を思い出してしまう。『目黒のサンマ』というのは、江戸幕府3代将軍「徳川家光」の逸話を元にして作った話だ。家光が鷹狩りの帰りに目黒の茶屋を訪れ、そこで庶民たちが食べていたサンマを見て、それを食べたいと言い出し、焼いたサンマを食べたらその絶妙な味に感服してしまったのだ。そこで江戸城に帰ってから、大奥でサンマを所望したのだが、大奥の女中たちは将軍様のためにサンマに様々な加工を施して差し出したのだが、家光はそれを食べても美味しいとは感じず、「サンマは目黒の物に限る」と言ったというのだ。

 落語の『目黒のサンマ』はこの逸話を元にして作り、かなり話が違った物のようになっているが、基本的なストーリーはこの逸話から外れていない筈だ。この落語で作者が言いたかったことは、「丁寧に調理し過ぎると、逆に料理が不味くなる」ということなのだ。決して将軍の世間知らずを笑ったものではないのだ。なんせ家光は鷹狩りに出かけ、庶民が使用している茶屋で休憩している以上、世情に疎い人物ではないのだ。

 「丁寧に調理し過ぎると、逆に料理が不味くなる」というのは、海外旅行に出かけると、非常に良く解ることなのである。ドイツでは地味が豊かであるために、豚肉にしてもジャガイモにしても、その素材自体が非常に美味しく、下手に調理する必要性がないのだ。豚肉はソーセージにして食べれば美味しいし、ジャガイモは蒸かしてバターを付けて食べれば、もうそれで充分なのだ。

 しかしフランスではドイツほどには地味が豊かではないために、調理で誤魔化すという手法が取られるのだ。だからどんな料理にもソースをたっぷりとかけて、素材の味を解らせないようにするのだ。フランス料理はヨーロッパの料理で最高峰といえども、それは調理の仕方で最高の技術を持っているにすぎないのであって、素材自体はドイツに劣った物を使っているのである。フランスを旅行してみると、フランス料理の店はどこも美味しい料理を出す店ばかりではないということに気付くものなのである。

 ではドイツ料理とフランス料理のどちらかが普遍性を持っているかというと、圧倒的にフランス料理の方である。なぜならドイツ料理ではドイツ産の食材が手に入らなければ、その味を出せないからだ。しかいフランス料理でなら、フランス産の食材を使わずとも、余所の国の食材を使えば、非常に美味しい味を出せるのだ。だが、もしもフランス料理のコックが調子こいて、下手に調理をし過ぎてしまえば、全ての物がチグハグになって、非常に不味い料理が出来上がって来てしまうことになるのだ。

●どうして徳川家光は目黒のサンマを美味しいと思ったのか?

 こう考えてみると、家光が目黒のサンマを美味しいといったのは、単なる将軍の気まぐれではなく、本当に美味しいかったからこそ、目黒のサンマを美味しいと思ったのであろう。落語の笑い話として片づけてしまわないで、なんで目黒のサンマが美味しくなったのかを科学的に分析してみると、様々な偶然が重なりあって、非常に美味しいサンマ料理が出来上がったことに気付くのだ。

①炭火で焼いた

 まず、家光が食べたサンマは、通常、我々がガスレンジで焼いたサンマではなく、七輪で焼いたサンマだということである。炭火で焼いているために、弱火でじっくりと焼き上げ、炭火の遠赤外線効果で身が非常に美味しくなった筈なのである。しかも炭火が引き起こすサンマの脂の臭いが辺り一面に漂い、食べる前から食欲をそそったに違いないのだ。

 更に付け加えるのなら、家光の時代には春日局によって大奥の制度が整い始めたので、大奥で出される料理は全て冷えた物になっていたのである。これは歴史の常識なのであるが、支配階級は熱い食べ物を食べないのである。公家貴族たちのメニューを見ても熱い料理は1品も出て来ないし、武士たちにしても支配階級に入り込めば、熱い料理を食べなくなるのだ。家光も常に冷えた料理ばかり食べていた筈であって、そこに目黒のサンマのように熱々の料理を食べれば、非常に美味しく感じるのは当たり前のことなのだ。

②ひと塩を振ったサンマ

 家光が食べたサンマは現在我々が食べているサンマとは違う、10月以降、江戸には房州のサンマが出回り、そのサンマには防腐剤のためにひと塩を振っており、塩鮭ほどではないが、かなり塩っ気の濃いサンマになっていたのだ。落語を思い出して欲しい。家光は鷹狩りをした後に茶屋に訪れたのであり、鷹狩りで汗をかいていたので、塩味の強いサンマは丁度いいタイミングで塩分補給になった筈だ。

 その後、大奥で出されたサンマは確かに加工して出してしまったがために不味かったこともあるが、肝腎の家光自身が運動せず、汗をかいていないから、たとえ目黒のサンマを出したとしても、家光はそれほど美味しいとは思わなかった筈だ。家光自身が運動して汗をかいていたからこそ、塩味の強いサンマを美味しいと思ったのである。

③秋に食べる脂の美味さ

 家光の鷹狩りが一体いつ行われたのか解らないが、恐らく10月か11月か12月のいずれかであろう。そうなると冬に備えるために、人間は秋に脂を欲する時期とピタリと重なっているのだ。この時期に脂肪分の多い料理を食べれば、誰もが美味しく感じることができるのだ。夏ならサンマの脂はきついものだ。秋だからこそ、秋の中でも冬に近づきつつある時期にサンマを食べたからこそ、サンマの脂を美味しいと思ったのである。

 こういった様々な条件が偶然に重なったために家光は目黒のサンマを食べて美味しいと思ったのである。現在、目黒では9月に家光がサンマを食べたことを祝う祭典をやっているのだが、これでは家光がなんで目黒のサンマを食べて美味しいと思ったのか解らなくなってしまうのだ。しかも祭典で出されるサンマはひと塩を振ったサンマでもないし、炭火でじっくりと焼いたサンマでもないのだ。サンマをただ焼くのであるなら、自宅で焼けばいいのだ。わざわざみんなが集まってやるべきことではないのだ。

●サンマを食べて大安産

 サンマは焼き魚として最高級品であって、しかも栄養価の高い魚だ。値段は常に安価なのだから、秋になればサンマを食べる機会を多くして行くことだ。サンマをオカズにしてしまえば、後はご飯と味噌汁と大根おろしを用意すればそれで料理の準備は済むので、主婦にとって非常に楽チン料理でもあるのd。

①不妊症の女性

 もしも不妊症で悩んでいるのなら、サンマ料理は非常にお勧めだ。サンマを食べる時は、内臓をしっかりと食べるようにすることだ。なぜ不妊症を発症するのかというと、食材をまるごと食べないからなのである、肉の場合、筋肉や脂肪を食べても、内臓を余り食べないものだ。しかしサンマは筋肉も脂肪も内臓も全て食べることができるので、栄養バランスが非常に良くなって妊娠に繋がることになるのだ。アンコウ鍋が不妊症に効くというのも、アンコウもまるごと食べることができる魚だからだ。サンマの内臓の苦味が不妊症の撃退に効果があるのである。

②妊婦

 現在、妊娠中なら、とにかくサンマを多く食べておいた方がいい。サンマの蛋白質の中には、酸素の代謝に必要な時まで溜めておく機能を持った蛋白質があるのである。そのため出産の時に大いに役立つのである。出産に備えて、呼吸法を教えられるのだが、的確な呼吸法を取らないと、出産に必要な酸素を補給することができないからなのだ。それほど出産時には大量の酸素を必要とするのである。

 サンマをしっかりと食べておくと、出産時に体内の酸素が不足した場合、酸素の代謝に必要な蛋白質が作動し、酸素を多めに補給することができるようになるのだ。そのために大安産になるのだ。漁師の妻や、魚屋の妻が難産になりにくいのは、魚を多く食べているからなのである。魚の蛋白質には肉の蛋白質とは違った蛋白質が含まれているので、これが安産に非常に役に立つのである。魚の中でもサンマはこの特殊な蛋白質が多いので、妊娠中であるなら、せっせとサンマを食べるようにすべきなのである。

③育児中の母親

 サンマには「DHA」や「EPA」などの不飽和脂肪酸が含まれているために、母乳の出が良くなり、しかも最良の母乳を出すことができるようになる。授乳中は赤ちゃんに脂肪を吸い取られて行くので、サンマを食べて脂肪を補給することは絶対に欠かせないのだ。出産後、女性の体は子宮を守るために多少は脂肪がつくものであって、この脂肪をきちんとつけておかないと、出産後に精神不安定になるので、気をつけておくことだ。

④小学生や中高生

 小学生や中高生はこのサンマの脂肪が脳の発達を促し、知能が非常に高くなるのだ。魚を食べると頭が良くなると言われるが、「DHA」や「EPA」などの不飽和脂肪酸は脳の成長には欠かせないのだ。秋にサンマを大量に食べて、その上で勉強をすると、すらすらと暗記できてしまい、試験では常に高得点を取れるようになるのだ。

 サンマは値段が安いために、裕福になってくると、必ず馬鹿にされてしまうことになる。裕福になると必ずといっていいほど魚料理を食べなくなり、特に臭いのあるサンマは毛嫌いされるようになるものだ。しかしそんなことをやっているからこそ、不妊症に苦しんだり、難産で苦しんだり、身体障害者の子供を産んだり、五体満足の我が子が馬鹿だったりするのだ。そうならないためにも、どんなに豊かになっても、せっせとサンマを食べるようにすることだ。

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部活動の功罪

●部活動をするからこそみんなで一緒に取り組めることができる

 学級で生徒全員が1つに纏まろうとしても、なんせ人数が多過ぎるので、なかなか1つに纏まれないものだ。ところが部活動になると、みんなで1つのことをすることになるので、自然と1つに纏まらざるを得なくなるのである。部活動をするからこそ、みんなで1つのことに取り組めるのだ。

 部活動をやった人なら解るが、運動部などで日々練習をし、そうやって試合に勝てることは非常に嬉しいことだ。吹奏楽部に至ってはコンクールで優勝するよりも、個々の楽器が出す音が1つの調和を達成した瞬間に大いなる喜びを感じることができるものだ。こういうことは普通の授業では達成することは不可能だと見ていいのだ。

 学校側は生徒たちの活動を活発させるためにも、質の高い、より多くのクラブを所有すべきなのである。クラブは存在させるだけで金がかかるものなので、矢鱈滅多らに設立していくべきではないのだ。質の高いクラブにできないのであるなら、廃止してしまった方がいいのである。

 部活動は生徒たちの自発的な活動によるものなので、生徒たちの自治をより多く認めて行かなければならないのだ。だからこそ教員は殆どの部活動で「顧問」と称されるのであって、顧問が部員たちの自治を破壊するまでに部活動に介入してはならないのだ。野球部とかサッカー部になると、名称が変わって「監督」になるのだが、監督だからこそ顧問より多くの権限を持つことができ、部活に介入して行くことができるのである。

 学校の部活動が衰退してしまうのは、学校側が多くのクラブを作ってしまい、その結果、資金不足から質の低いくのクラブを存在させてしまっていることと、クラブの顧問が勘違いしてクラブに深く介入してしまい、部員たちの自治を破壊してしまうことにこそあるのだ。校長としてはクラブは生徒たちが勝手にやっていると思ってしまいがちだが、実はそうなのではなく、金を出しているのは学校の方だし、顧問だって学校の教員たちなのである。だからきちんとした枠組みを作っておかないと、部活動が活性化して来ないのである。

●早い段階で1つのクラブに絞ってはならない

 生徒たちの心身の発達を考えるのなら、1つのクラブにしか所属しないというのは問題があるのだ。小学生や中学生までは心身が急成長して来るので、早い段階で1つのクラブに絞ってしまうと、逆に知力や運動能力が高まって行かなくなるのだ。様々な部活動をさせることが、後になって大いに役立つのである。

 日本では野球部やサッカー部に所属する生徒は、その部活しかやってこないものだ。そのため或る一定のレベルは順調に伸びて行くのだが、それ以降、伸びて来るということがなくなるのだ。これは子供の頃から1つのスポーツしかやってこなかったために、伸び代が全くなくなってしまい、それで或る一定の領域に達すると、成長が止まってしまうのだ。

 これこそが日本がオリンピックやワールドカップなどで活躍できない最大の理由なのだが、この悪弊が学校で糺されることが全くないのだ。例えば高校野球では定期的に野球部の生徒がj刑事事件を起こして出場辞退を強いられることになるが、これは子供の頃から野球ばかりやってきてしまい、相当にストレスが溜まった状態にあるのだ。それゆえに本来なら刑事事件を起こさない生徒が犯罪を起こしてしまうようになるのだ。

 運動能力を高めたいのなら、複数の運動部に所属しておくべきなのである。それと共に1つでいいか文化系のクラブに所属して、文化を楽しむべきなのである。確かにそういうことをやっていれば、1つの部活動に専念するより、効率は悪くなるのだが、しかし結果的に高い成長ができるようになるので、こちらの遣り方の方が断然に効果があるのである。

 部活動を1つに絞っていいのは、成長が止まり始めた高校生辺りでいいのである。高校生になる前に様々な部活動を経験したために、1つの部活動をしてこなかった生徒たちよりも、より多く成長し続けることができるようになるのである。今まで余計なことをたくさんやってきたために、心身が幅広く対応することができるようになるので、怪我をする確率も激減するのである。

●学校は「勉強」「スポーツ」「芸術」のバランスを考えよ

 学校は勉強ばかりする所ではない。人々が多く集まる以上、スポーツだってするし、芸術活動だってするものだ。だから学校側は「勉強」「スポーツ」「芸術」の三つを振興させ、そのバランスを考えて行くべきなのである。勉強だけができる学校というものは少ないものだ。大方は勉強もできればスポーツもできるし芸術もできるものなのである。

 学校が人気の高いスポーツである野球やサッカーだけに集中させるのは考えものである。というのはこの2つのスポーツは人気が高い分、競争率も激しいので、大量の資金を投入しないと試合で勝てないものなのである。逆に野球部やサッカー部が強いのなら、この部活動に集中的に資金を投入して行くべきであって、日本一を狙うべきなのである。競争が激しい分、日本一になった時は生徒たちが沸騰するかのような歓声を上げて来るようになるのだ。

 運動部を作る際は、確実に都道府県代表になれ、全国大会に出場できるようなスポーツを選び、そのスポーツに資金を集中的に投入していくことだ。例えば「羽子板」や「薙刀」などまさかこんなスポーツが存在しているのか思うスポーツがあるのだが、こういうマイナーなスポーツでは競争相手が殆どいないので、真面目に取り組めば、優勝することができるものなのである。また、カーリングのように既に国民に認知され、これから人気が出て来るスポーツに今から参加しておけば、優秀な成績を収めて行くことができるようになるのだ。

 学校が重視しておくべき文化系の部活動は、吹奏楽部や合唱部である。これらの部活動は別にコンクールで優勝しなくてもいいジャンルなのだ。楽器をきちんを使えるようになり、そして音が調和する。きちんとした発声ができるようになり、そして声が調和する。それが出来た時に言い知れぬ感動を覚えるものなのだ。吹奏楽部や合唱部の部員は非行に走る確率が皆無といっていいほど少なく、また吹奏楽部や合唱部が強い学校はなぜだか学校全体としても校風が穏やかになるものなのである。

 その一方で、学校の資金には限りがあるのだから、最早、クラブとしての名称は残っているのに実体がないクラブや、余りにも成績が悪く全然振るっていないクラブは廃止したり、資金を削減していくべきなのである。こういうクラブを存続させておくと、資金が不足してしまい、本来なら活躍できるクラブが活躍できなかったり、部員たちが犯罪を発生させたりして、学校に大損害を与えてしまうことになるのだ。

●部活動が活発でない学校は成績もあがらない

 学校というものは、部活動が活発でないと、成績も上がらないものだ。幾ら教員たちが真面目に授業をしても、それだけでは成績を高くして行くことはできないのである。生徒たちにクラブ活動で体を動かし汗を流させ、そうやって巧くエネルギーを発散させていくからこそ、生徒たちはストレスが非常に低い状態で勉強に取り組むことができるようになり、非常に高い成績を収め始めることができるようになるのである。

 学校が勉強の環境を整え、勉強ができる生徒を多く増やして行くと、その生徒たちは自分の努力によって勉強ができたと思い込んでしまうものだ。そのため優秀な生徒たちは学校が大学への通過点になってしまい、なんの思い出も持たなくなってしまうのだ。事実、学校で成績が良かった生徒ほど、大人になれば校歌を全く覚えていないものなのである。

 勉強ができる生徒も勉強ができない生徒も、学校で思い出を作るためには、クラブ活動で精を出して貰うしかないのだ。クラブという小さな世界の中で、人間関係を学んだり、戦いの勝ち方を学んだり、戦いで負けた場合、どうすれば立て直せばいいのかを学んでいくべきなのである。こういったものは勉強で学ぶことはできないものなのである。

 校長の中には我が校では部活動に大量の資金を投入しているのに、全く成果が上がらないと嘆く人もいることだろう。学校の教員たちに部活動に対する熱意を失わせるのは、顧問になっても手当てが大してつかないという事実も知っておくべきなのである。だからクラブを無闇に作るのではなく、数を絞り込んで、その顧問の手当てを高くしていくべきなのである。それと共に、監督制にした方がいいクラブであるなら、顧問制を廃止して監督制に切り替え、より強力な体制で臨むべきなのである。

 学校の中には嘗てクラブが優勝して獲得したトロフィーなどを飾っている学校があるが、そういう学校では逆に部活動が振るわなくなってしまう。過去の栄光の重みが、現役の部員たちのヤル気を失わしてしまうからだ。クラブは存続していても、部員たちは新陳代謝を繰り返すのであって、過去の栄光はどんどん捨てて行くべきなのである。そういうマッサラなクラブであるからこそ、部員たちはなんのシガラミもなく活動し続けることができるようになるのである。そこにこそ部活動の新たな面白さが生まれれ来るのである。

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思春期にはスポーツをして体を鍛えよ

●中高生だからこそスポーツをすべし

 小学生なら遊びをしながら体を鍛えていても別に構わないが、中高生であるなら運動部に入って体を鍛えた方がいいのだ。人間の体は13歳から19歳まで急激に成長して行くので、この時期に体を鍛えておかないと、体力を向上させることができないのだ。この時期に帰宅部になってしまえば、全然体力がつかなくなってしまうのだ。

 また幾ら学級で楽しく過ごしていても、それほど友情を深めることができないものなのだ。運動部で同じ運動をするからこそ、同じ部員同士で友情を温めて行くことができ、強固な友情が育って来るのである。部活をやっている人は友人に苦労しないが、部活に入っていない人は必ず友人に苦労するものなのである。

 部活が社会に出てから役立つには、上下関係の大切さを教えてくれるからだ。社会に出れば自営業でもしない限り、全て上下関係を以て動いている。そのため若い時に上下関係を知らずに育ってしまえば、その組織に入って当然に揉めることは火を見るよりも明らかなことなのだ。

 但し運動部に入って部活動を行うと、当然に時間を多く取られてしまうので、勉強を始め、家事手伝いなどを合理化して、短時間で済ませられるようにしておくことだ。運動部に入ったばっかりに成績が落ちたり、家事の手伝いをなんにもしないというのでは、本末転倒だからだ。

 運動部馬鹿にでもならない限り、中高生の時に部活動をやった人は非常に高い能力を持てるようになるものだ。仕事の仕方や、時間の使い方、人間関係の処理の仕方など、様々なことを部活で学んで来たからだ。そういうのは学校で勉強しているだけでは、なかなか身に付かないものなのだ。部活動で汗を流したからこそ、身について来るものなのである。

●内臓が最も鍛えられる時期

 中高生の時期に部活をやっていると、内臓がしっかりと鍛えられるようになるのだ。この時期は内臓が発達する時期とピタリと一致するので、この時期に運動をして体を鍛えておくと内臓が急激に発達して行くのである。特に「肺」「心臓」「肝臓」「腎臓」といった内臓の中でも最も重要な器官が発達して行くのである。

 中高生の時期に運動部にいたかいなかったかが一発で解るのが、「スタミナ」である。運動部で体を鍛えていた人は、大人になってから非常にスタミナがある人間になってしまうのだ。その一方、運動部に入っていなかった人はスタミナが全然なく、すぐに疲労を訴えるような人間になってしまうのだ。

 社会に出て仕事をすれば解るが、スタミナというのは非常に大事だ。スタミナがあれば長時間の労働に耐えることができるので、勤務時間中、集中力を切らすことなく仕事をし続けることができるのである。しかしスタミナがなければ長時間労働に耐えることができないので、すぐ集中力を切らしてしまい、仕事の生産性を上げることができなくなってしまうのだ。

 どの運動部でもランニングを行うのだが、このランニングこそスタミナを最も付けやすい種目なので、厭わずに真面目にランニングをやっておくことだ。地道に走り込みをし続ければ、当然にスタミナが着実についてくるので、その競技に於いて高い能力を持てるようになるのだ。

 スタミナがついてしまうと、多少の無理が効くので、怪我をする危険性が高まってしまう。そこでスタミナが付いて来たのなら、風呂に入って体をリラックスさせ、睡眠をしっかりと取っておくことだ。運動部で体を使いきったというのに、風呂に入らず、睡眠時間を短くしてしまうと、確実に怪我をすることになるので、風呂と睡眠で疲労物質を除去して行くべきなのである。

●努力をする大切さを体を以て学べ

 運動部に入って真面目に練習していれば、努力をする大切さをしっかりと学ぶことができるものだ。如何なるスポーツでも最初から完璧にこなすことはできない。努力に努力を化させて、やっと一人前にできるものだ。そのため運動部で運動をしていると、自然と努力をすることも大切さを身に付けることができるようになるのだ。

 大学を卒業した筈の人間がなぜ仕事で成功しないかというと、努力の大切さを否定して来るからなのである。頭のいい人ほど地道に努力をすることを馬鹿にして、他に効率的な遣り方で成功できる方法を模索するものだ。しかしそういうインチキな遣り方は存在しないものだし、たとえあってもその遣り方では成功を維持することができなくなってしまうのだ。

 努力すれば成功するとは限らない。しかし成功している者は全て努力しているのだ。だから日々の練習で地道に努力して行くしかないのだ。その努力をすれば確実に優勝できるか否かと功利的に考えるのではなく、その努力を真面目にすることで、スポーツをする喜びに目覚めるべきなのである。

 スポーツの危険性は勝ち負けに拘り過ぎ、そのスポーツ自体の喜びを見出せなくなってしまうことなのだ。スポーツは試合に勝つからこそ楽しいではないのだ。勿論、負ければ悔しい。でもスポーツの本当の面白さは試合に勝とうが負けようがそんなものには関係なく、如何に真面目に一生懸命に取り組んだかで、その面白さが解って来るのだ。

 スポーツの面白さが解ってくれば、スポーツだけでなく、勉強をすることの面白さが解ってくるし、仕事をすることの面白さも解って来るのだ。勉強のように頭を使うだけでは、勉強の面白さが解って来ないものなのだ。体を動かすからこそ、スポーツの楽しさが解り、勉強の楽しさも解って来るようになるのだ。

●試合に勝って勝ち癖をつけよ

 その上で試合に勝つことが大事なのだ。試合をやれば必ず勝者と敗者に分かれるものだ。勝者は勝利の喜びを味わえるし、敗者は敗北による悔しさを味わうことになる。試合に勝ち続ければ、当然に自分は試合に出れば勝てる筈だという回路が出来始め、試合に出ると確実に勝てるようになるのだ。

 都道府県大会で優勝するとか、全国大会で優勝するとかいうことは、その優勝が凄いだけではなく、実はその優勝を経験した者の脳の内部で「自分は勝てるんだ」という記憶の回路が出来てしまうことの方が凄いのである。その者は優勝したことでそのスポーツだけに自信を持ってしまうのではなく、スポーツ以外の面に於いても自信を持ってしまうようになるのだ。

 頭の中で勝ち癖が出来上がっていれば、他の仕事をやらしても勝てる確率が一気に上がるものなのである。スポーツの試合で勝ったことがない者は、自信がないために躊躇してしまうが、スポーツの試合で勝ったことのある者は、自信があるために勇猛果敢に取り組んでいけることができるのだ。そうなれば当然にその仕事を成功させてしまうことができるようになるのだ。

 しかしスポーツマンとして憎むべきは、勝つためには卑怯な手を使ってもいいと思うことだ。確かに試合に勝つことは素晴らしい。だがその勝利は正々堂々と勝ち取るべきであって、ただ単に勝ちに拘ればいいのではないのだ。試合を遣り続けていれば、時には負けるものだ。だからその敗北の中で反省し、自分たちが勝てるように変えて行かなくてはならないのだ。

 学校の勉強でトップを取るのは1人しかないが、スポーツでならトップを取ることはその種目の分だけある。当然にトップを取れる確率は勉強よりもスポーツの方が遥かに高いものなのだ。だから中高生の時は勉強をきちんとしつつも、スポーツの方に重点を置いて部活に励むべきなのである。確かに勉強が出来てトップを取って来る優等生を見れば、運動部で練習しているのは馬鹿らしいように思えてしまう。しかし部活でしか学べないことも沢山あるので、自分が高校を卒業する時。ただ単に勉強を遣って来た生徒よりも圧倒的に高い実力を身に付けているものなのである。そしてその実力は社会で充分に通用する実戦的な実力なのである。

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天使の翼

●思春期は実の親以外の親が必要な時期

 中学生から高校生の時期は大きく変わって行く時期だ。この時期は大きく変わるからこそ、その時期に於ける変化を最大限にさせるためにも、「実の親以外の親」が必要な時期なのである。実の親というのは従属時に必要な人物であって、実の親だからこそ従属期なら的確なことを教えてくれるのである。

 しかし自立期に入ってしまえば、実の親に教えを乞うても、的確な意見を言って来るとは限らないのだ。それこそ実の親だからこそ、我が子を正確に把握できないという危険性が出て来るのだ。だからこそこの時期は実の親から距離を置き、自分を大いに成長させてくれる実の親以外の親を探すべきなのである。

 本来なら学校で実の親以外の親を探すべきなのだが、学校ではそういうことができる教師はいなくなってしまった。ただ単に教育を施すだけで、「人生を如何に生くべきか?」「どうやったらお金を儲けることができるのか?」」「どうやったら異性にモテることができるのか?」、そういう若者特有の悩みに答えるだけの能力を全く持っていないのだ。部活動に力を入れている学校から部活動の監督が、もしかしたらこの役割を果たしてくれるかもしれないが、それ以外では存在していないものなのである。

 思春期に親代わりの役割を果たしてくれる人物に出会うことは、思春期だけでなく、人生に於いても非常に重要な意味を持つことになる。それは親代わりの人物に出会うことで、自分が持つ悩みが最短時間で解決され、しかも大人になるために自分がすべきことを的確に教えられ、その上「天使の翼」を与えられることになるのだ。

 中高生が天使の翼を貰ってしまうと、その中高生は自分の人生が劇的に変わって行くことになるのだ。自分が周囲の友人たちから飛び上がり、自分の人生が急上昇していくことになるのだ。親代わりの人物というのは、実は自分を一気に引き上げてくれる大人であるのだ。この人物に出会うか否かで、自分の人生は大きく変わってしまうのである。出会わなければ平凡な人生か悲惨な人生を歩むしかなくなるのだ。その状況下で、もしも立身出世したければ、自分の実力だけで這い上がっていかなければならなくなるのだ。

●男性は年上の男性のみ

 男性にとって天使の翼をくれる人物は、年上の男性のみである。同い年の男性からは貰えないし、年下の男性からも貰えない。男性は年上の女性であっても天使の翼を貰うことができない。だからこそ男性は思春期になると女性を排除したくなり、男性だけの組織に入りたがるものだ。その組織に入っているのなら、年上の男性に出会うことができ、天使の翼を貰う可能性が出て来るからなのである。

 組織に入った所で、全ての男性が天使の翼を貰えるとは限らない。天使の翼を与えるか否かは、親代わりの人物が決めることであって、中高生自身が決めることではないのだ。だから一旦、この人物が親代わりの人物だなと決めたのなら、その親代わりの人物の言うことをよく聞くべきだし、命令を受けたのなら迅速に行動を起こすべきなのである。

 男性は思春期に天使の翼を貰ってしまうと、自分の人生が劇的に変わってしまう。親代わりの人物がいない中高生なら、この時期、延々と若者特有の悩みに時間を費やしてしまうのだが、親代わりの人物がいるのなら、その悩みに答えをくれるので、その問題を解決できるし、しかもその悩みに費やす筈だったエネルギーをもっと有益なことに費やせるようになるのだ。

 歴史を振り替えってみると、天使の翼が劇的な役割を果たしたことに気付くものだ。北条時政に見込まれた源頼朝、斉藤道三に見込まれた織田信長、松下村塾で吉田松陰に薫陶を受けた木戸孝允や伊藤博文や山県有朋、そういった人物たちが天使の翼を貰って、歴史の表舞台に登場し、歴史を変えて行ったのである。

 我々は歴史上の英雄たちを、天才だとか、自分とは似てもつかない人物だと思ってしまいがちだ。しかし英雄たちは天使の翼を貰った時点で劇的に変わっていったのであって、無力な自分でも親代わりの人物から天使の翼を貰ってしまえば、英雄になることは可能になるのである。だからこそ思春期を自宅に閉じ籠って過ごすとか、友達同士で遊び呆けるようなことをすべきではないのである。自分が必死になって親代わりになってくれる年上の男性を探し出すべきなのである。

●女性は年上の男性でも年上の男性でも許される

 女性の場合、天使の翼をくれる人物は年上の男性でもあり、年上の女性でもあるのだ。男性のように年上の男性だけに限定される訳ではないのだ。女性は年上の人物であるなら、性別を問わないので、積極的になって親代わりになってくれる人物を探し出すべきなのである。

 思春期に男嫌いになることは、天使の翼を貰うチャンスを半減させているようなものなので、絶対に男嫌いになるべきではないのだ。男嫌いになるような女性には、幾ら年上の女性に出会っても自分の親代わりになってくれるような人物に出会える確率は非常に低くなるものなのである。親代わりの人物が女性に天使の翼を与える場合、その女性が人間関係で躓いているようであるなら、絶対に天使の翼を与えないものなのである。

 現代なら歌手やアイドルやモデルなどは天使の翼を貰えた女性たちである。歌手になりたい女性たちは大勢いるものだが、実際に歌手としてデビューできるのごく僅かな女性たちだけなのである。更にそのデビューした女性たちの中でブレイクするのは数えるしかないのである。ではなぜデビューしブレイクできたかは、その女性が親代わりの人物から天使の翼を貰えたからなののである。

 女性が天使の翼を貰えた場合、自分の同年代の人々や、年下の人々から応援を受けるということが起こって来る。女性のアイドルがなぜ男性たちの応援を受けるのか、女性のモデルがなぜ女性たちの応援を受けるのかは、天使の翼を貰えると人生が急激に上昇していくから、その勢いに若者たちが引き付けられ、その女性を応援するだけでもエネルギーを貰え、それによって様々なアイデアが浮かんでくるようになるからだ。だから若い頃に流行を全く否定することは非常に危険なことなのだ。

 女性は男性よりも遥かに人間関係が巧いものだ。そのため自分の知り合いを多くして行ってしまうのだが、その反面、自分にとって本当に重要な人物との付き合いを減らしてしまう危険性を持っているのだ。もしも自分が天使の翼を貰えて成功して行ったのなら、天使の翼を与えてくれた人物との付き合いを守り続けることだ。成功した女性が急転直下で破滅して行くのは、天使の翼をくれた人物を蔑ろにしてしまったからなのである。

●青春時代だからこそ飛躍が可能になる!

 人間の成長は一生を通じて平均速度を維持しながら成長して行くのではないのだ。或る時期には急成長して行くし、或る時期には幾ら成長したくてもその成長が遅い時期もあるのだ。思春期は急成長し易い時期なのである。この時期を見逃し、遊び呆けてしまうのは、自分の人生にとって大損害になってしまうのである。

 自分が積極的になって自分の親代わりになってくれる人物を探すべきなのである。自分の直感を信じて、後は行動力で探し出して行けばいいのだ。その一方で、偶然の出会いによって親代わりの人物に出会える可能性もあるのだ。ファッションモデルなら、殆どが街でスカウトされた人々であり、ファッション誌の編集長や、所属事務所の社長に気に入られた女性たちだけがブレイクして行くことになるのだ。

 その反面、平等を唱える大人たちは決して天使の翼をくれることはないから要注意だ。要は平等を唱えて来る大人たちは、自分が若い時に親代わりになる人物に出会うことがなく、天使の翼を貰えなかったのである。だからこそ大人になって平等を唱えてくるのである。天使の翼を貰ったのなら、最早、努力では如何ともしがたい格差がついてしまう事実が、平等を唱える人々には全く見えなくなってしまうのである。

 この世に存在する職業の中には、若い時から頭角を現わさないと、その職業で働くことができないという職業がある。例えば歌手は若くして頭角を現わすものであり、還暦を過ぎてブレイクするなんてことはまずないものだ。小説家にしても漫画家にしても画家にしても、20代や30代で頭角を現わしておかないと、その後どうやっても成功しなくなってしまうのである。

 だからこそ自分にとって夢というものが大事に成って来るのだ。自分が将来、どのようなことをしたいのか明確になっていれば、今現在、自分がやるべきことに全力を投入することができるし、そういうことをやっていれば必ず親代わりになる人物が現れて来て、天使の翼を与えてくれるようになるのだ。一体いつどこで親代わりの人物が登場してくれるかは解らない。しかしこれだけははっきりと言えるのは、若くして成功するためには、絶対に天使の翼が必要なのであるということなのである。天使の翼を貰ってしまえば、後は簡単に成功して行くことが可能になるのだ。

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「嵐の乙女たち」と「荒れる少年たち」

●長女は可愛いからこそ気をつけろ

 親から自立して行く時期を迎えたからといって、誰もがスムーズに自立できる訳ではない。子供の方の実力や選択の良し悪し、親との関係などが複雑に絡み合って、早くに自立できる者と、遅く自立して行く者と、自立できない者とに分かれてしまうのだ。現在では、最低でも高卒の学歴を要する社会になってしまったので、多くの人たちの経済的自立が遅れている以上、精神的自立も遅れて来るのは当然のことなのである。

 女の子を育てて行く場合、とにかく第一子長女には気をつけた方がいい。どの夫婦にとっては第一子は特別であり、それが女の子の場合、父親は長女を可愛がり過ぎてしまうものなのである。父親の気質を最も受け継ぐ者は、第一子長女であり、他の息子たちではないのだ。

 第一子長女が一人っ子なら我儘に育つものだし、下に弟や妹が出て来てしまうと、母親は下の子供たちの面倒を見ることを優先するために、第一子長女は常に「お姉ちゃんだから我慢してね」と母親から言われてしまう存在になってしまうのだ。育児中に巧く父親がナイスフォローを入れておかないと、第一子長女は思春期になるとその不満を大爆発させて来るのだ。

 第一子長女をきちんと育てた場合、その女性は優秀な女性になる確率は非常に高くなる。なんせ家族の中では常に下の弟や妹たちの面倒を見て来たために、リーダーシップを取れるし、人間関係が非常に巧いし、組織の中で自分がどう動けば組織は最善の働きをするのかということが解っているからだ。

 第一子長女が仕事で成功して行くにしても、結婚して幸せになって行くにしても、その最大の関門が父親との関係を巧く処理して行くということなのである。健全な父親なら、自分の娘の成長に応じて自分の態度を変えて行くものだが、駄目な父親になってしまうと自分の娘をいつまでも子供扱いしてしまい、それによって第一子長女がストレスを溜め込み、暴走して行くことになってしまうのだ。

●父性愛を貰うために体を差し出す

 女の子を育てて行く場合、第一子長女をきちんと育てたら、下の妹たちもきちんと育って行くことができることだろう。もしも第一子が長男で、第二子長女なら、長男を跡取り息子として優遇すると同時に、長女に思いっきり女らしく扱ってあげることだ。第二子長女は論理的思考能力が達者となるので、家族内できちんと序列をつけておかないと、「どうして男と女は平等ではないの?」と言い出し、しかもそれに対して屁理屈を付けて来るようになるのだ。

 家族愛というのは、父親から母親へ、母親から子供たちへと流れて行く。子供たちの間では、早くに生まれた順から家族愛を貰って行くのであって、絶対に家族内の序列を崩してはならないのだ。馬鹿な夫婦に限って、母親は下の子ばかりを可愛いがり、父親は子供のことを全て妻に任せてしまうものだが、そんなことをやっていると、家族内で家族愛がきちんと流れることがなくなってしまうのだ。

 女の子というのは、愛に関して非常に敏感である。父親が出す父性愛は、父親が価値ある者にしか注いで来ないために、小さい時は必死になって父性愛を貰おうとするものだ。父親は通常、自分の娘たちにしか父性愛を出さないために、娘たちは父性愛を貰えれば、自分を価値ある者と認めることができ、自分の意思で価値あることにエネルギーを注げるようになるのだ。

 ところが子供の頃に父親から父性愛を充分に貰えないと、その娘たちは思春期になった時に自立して行くことができなくなり、「嵐の乙女たち」に変身してしまうのだ。名家の令嬢に生まれたのに、男をとっかえひっかえして淫乱三昧の生活を送ったり、通常の性欲では満足できないために売春をやってみたりと、とにかく荒れ狂って行くことになるのだ。

 中には精神病を発症する女性たちもいて、中学生や高校生なのに親によって精神病院に連れて行かされて、通院するなり入院してしまうことになるのだ。この女性たちは決して精神病患者ではない。精神病と似た症状を起こしているはいるけど、父性愛をきちんと貰えなかった女性たちが引き起こすヒステリーみたいなもので、決して薬とか治るものではないのだ。その両親の歪んだ育児や子育てが、その娘を荒れ狂うように追いやってしまったのである。

●母親の育児が拙いと思春期に荒れてしまう

 一方、男の子の育て方で多くの母親が間違ってしまうのは、「子供たちを平等に愛そうとすること」だ。男の子は女の子よりも序列意識が強く、母親によって家族内の序列が崩されると、息子たちは思春期に「荒れる少年たち」に変身してしまうのである。母性愛をきちんと貰えなかったために、母親に暴力を振るい、家から飛び出して行くしかなくなってしまうのだ。

 息子たちを育てる場合は、絶対に序列を崩さないことだ。まず子供たちの前では絶対に父親の悪口を言わないことだ。息子たちの頭の中には父親が上位自我になっているので、母親が父親の悪口を言うことは、息子たちにとっては自分自身に対して悪口を言われていると同じことなのである。

 そして「長男」「次男」「三男」と序列をつけて育てて行き、長男を優遇することだ。長男に下の弟たちの面倒を任して、息子たちの自治を巧く活用して行くべきなのである。母親は一番下の子供に愛情を注いでしまう傾向にあるので、それをあからさまにやってしまうと、上の息子たちは嫉妬してきてしまうのである。上の息子たちの嫉妬を買わないように一番下の子供に愛情を注ぐようにすべきなのである。

 男の子は小学生までは馬鹿丸出しでも、中学生になり始めると異常に急成長し始め、大人になっていくものだ。母親は自分の息子が急激に変化して行くので、その変化についていけず、息子の悪口を言ってしまうのである。思春期は反抗期なのである。母親からそんなことを言われば、「カツン!」と来てしまい、息子は大爆発を起こしてしまうのである。

 母性愛というのは、絶対肯定の愛である。だから息子たちがどのように変化しても愛を与えて行くしかないのである。母親であるなら、「学校で何があろうとも、お前は立派な子だ」と言い続けることが大事なのである。そうやって母性愛を貰えば、息子は荒れることなく、健全な形で思春期を乗り切って行くことができるようになるのである。

●少年の性欲は荒れ狂うもの

 人間の性欲は男女平等にはなっていない。子孫を残すために常に男性の性欲が強いものなのである。しかも思春期の男性の性欲は強烈なものなのであって、それを放置しておいたら、とんでもないことになってしまうのである。この時期はスポーツでエネルギーを発散すべきであって、そうやって性欲が爆発しないように仕向けるべきなのである。

 中学生や高校生の男性なら、この時期にエロ本やアダルトビデオを見て、性欲を発散するのが当たり前の現象なのである。それなのに母親が息子の部屋を詮索して、エロ本やアダルトビデオを見つけたら、息子としては立場がなくなってしまうのである。息子の自立が始まったのなら、その方面に関しては見て見ぬ振りをすべきなのである。

 厳格な家に育ってしまった場合、中学生や高校生の男性の中にはオナニーを知らない男性たちもいるのだ。そういう男性は幾ら真面目に生活していても、思春期に荒れ狂ってしまい、自分でも制御不能になってしまうのである。こういう場合、第三者の男性がオナニーを教えてあげると、途端にその荒れ狂った現象が納まってしまうのである。

 昔、男性たちは性に目覚めると遊郭に連れて行き、そこで筆下ろしをさせたのである。今の年齢に換算すると、中学生の頃に遊郭に行ったのである。そのお陰で少年たちが荒れ狂うということがなくなり、性欲を健全な形で使うことができるようになったのである。売春防止法などで遊郭を全て潰してしまったけど、そういうことをしたことが現在に於いて荒れる少年たちを大量に出現させてしまったのである。

 中学生や高校生の男性たちが性欲を本格的に女性に向かって処理しようとも、相手の女性も中学生や高校生なので、きちんとした形で処理していくことはできないのだ。だからこそ、未成年者の女性を相手にするのではなく、ひと回り以上年上の女性と付き合っておくことも大切なのである。そうなれば相手の女性はセックスに関して経験者なので、きちんとしたセックスを教えて貰うことができるのである。男性たちの多くはひどい初体験を経験してしまうからこそ、そのひどいセックスを将来に於いても延々と遣り続けてしまうものなのである。

●自立できないからこそ「平等」を叫ぶ

 自立できない女性や男性に限って、「平等」を叫ぶものだ。平等を叫べば、自分と親が平等に立場に立つことができるので、自分が自立できたのではないかと錯覚するのである。だからこそ平等を唱える者にとって平等は真理そのものであって、神聖不可侵の単語になるのである。

 この世で生きていれば、様々な場面で格差があるというのに、平等を唱える者は必死になって「格差の是正」を行って来るのである。曰く「貧富の格差の是正」「男女の性差の是正」と、その格差を是正して一体どうなるかも考えずに、格差を是正して平等な社会を作り出そうとするのである。

 女性が「男社会」「家父長制」などという言葉を使って来たら、「この女性は自立していないんだな」と思うべきなのである。大体、社会が男性だけで動いている訳がないし、女性であっても取締役になる企業は存在するし、いっそのこと自分が起業して社長になってしまえばいいのである。家族形態にしても、旅館とか料亭とか、代々続く商家などは、殆どが母系家族の形態を取っているものだ。純粋な形で父系家族の家族形態を取っているのは、天皇家や武士や農民といった非常に限定された家族たちだけなのである。

 学者たちが家族の研究をしたのなら、多くの家族を幸せにするために奉仕し貢献して行くべきなのである。それなのに学者たちがやっていることといえば、「家族の解体」を必死になって展開しているのである。平等を唱えてしまえば、家族など必要ないから、当然に家族は解体される運命にあるのである。

 大学で学問に携わるのなら、最低限の学力を持っていることだけを条件にすべきではなく、精神的に自立していることも条件にするべきなのである。自分が自立していないために、平等を唱えて、社会を改造させ、家族を崩壊させていくようなことを、決して許すべきではないのだ。女性なら父親との関係がトラブってしまえば自立が出来なくなる危険性が高まるし、男性なら母親との関係でトラブってしまえば自立が出来なくなる危険性が高まってくるのだ。

 でも、如何なる家族であっても、自分の親から必死になって自立して行くjからこそ自立できるのである。自立は家族を解体させても、社会を改造しても、絶対に出来るものではないのである。自分が必死になって自立して行くからこそ、自立することができるのである。

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「女の子の自立」の仕方

●親友との友情

 女の子が自立を始める時、男の子のように明確な態度を取って来ることはない。家族と適正な関係を維持しつつ、自立を開始して来るのだ。男の子は母親からの愛を拒絶するような形で自立を開始して来るが、女の子は家族から愛を拒むことなく、自立を開始して来るのだ。そのため娘が母親に反抗しているのに、当の母親は気付かないということも有り得るのだ。

 とはいっても、女の子も男の子同様、自立して行くためには同性の友達を必要とする。女の子の友達はグループを作っても対等の関係を維持し、リーダーが存在さず、纏め役のような女性がいるだけなのである。その分、情報の流通が激しくなり、女の子の友情は会話量が非常に多いのだ。

 女の子は言語能力が長けているので、とにかく女の子同士で様々な会話をしない限り、自分を把握できないし、他人を知って行くことができないのだ。登下校や学校で会話するならまだ解るが、帰宅しても携帯電話で会話して来るので、よくそこまで話してもネタが尽きないと思うが、それだけ大量の会話をして来るのである。

 中学生の時期に女の子が孤独を重んじるのは非常に危険である。登下校の際に一人で帰るとか、教室で一人で本を読んでいたりすると、自立に必要なための会話量が決定的に不足してしまい、自立できなくなってしまうのだ。成績のいい女性に限って自立できなくなり、大学生になってからフェミニズムに走ったりするが、それは社会に問題があるのではなく、その本人に問題があるのである。成績を上げるために友情を犠牲にしたからこそ、自立できなくなってしまったのだ。

 多くの友達と友情を温めて行くと、その内に自分と非常に気の合う女性と巡り会える筈だ。それこそが親友であって、女の子はその親友を友情を温めることで、「初恋のチケット」を獲得して行くのだ。通常、女の子に親友が出来始めるのは、高校生ぐらいであって、早い子で中学生の時ぐらいだ。親友は1人しかできないものであって、「あれもこれも親友」と言っているようでは、親友を持っていないと同じことなのだ。女の子は親友がいる時は、彼氏などを作らず、その親友とべったりになるものだ。そうやって非常に深い友情を育んだ後に、突然、初恋が遣って来ることになるのだ。

●オシャレの大切さ

 女の子は初恋をする前に絶対にやらねばならないことがある。それはオシャレをすることである。オシャレをすることで自分を美しく着飾って行くのだ。オシャレをしないと女性ホルモンの分泌量が多くならないので、体自体が美しくならないし、女らしい考え方を見に付けることはできないのだ。

 オシャレをする場合、自分一人で買い物に行けばいいものを、女の子は徒党を組んで買い物に出かけるものだ。買い物をする際もあれやこれやと会話して、オシャレに関する情報を集めまくるからこそ、自分に相応しいオシャレをすることができるのである。会話量の多い女性ほど、自分に相応しいオシャレな服を選ぶことができるようになるのだ。

 自立を開始して来る時期の女の子にとって、オシャレというのは他人のためにするものではないのだ。「自分に自信を持つため」にするものなのである。このためこの時期に買う服は、フェミニンが矢鱈と強調されたものであって、冷静に考えればかなりきつい物だ。しかし中学生特有の、高校生特有のオシャレをしておかないと、自分に自信を持てなくなってしまうのだ。

 一体どの服が自分に合うのか解らないのだから、ファッション誌を良く読むべきだし、洋服も小遣いの許す限り買った方がいいのである。この時期の服装は、母親から見れば異常としか見えないから、母親は常に娘に対して小言を言うものだ。そのためその小言を巡って親子で喧嘩するようになるのだ。母親の言っていることは正しいのだが、娘の反撃も正しいのである。母親はここに至って、娘は自立を開始して来たなと知るべきなのである。

 中学生や高校生の時にオシャレをしないことは非常に危険である。自分に自信を持てなくなってしまうからだ。よく言われることだが、「校則の厳しい学校で育った女性ほど、きちんと自立して来る」と言われるが、校則が厳しく、制服を着て過ごさないとならなくなると、女の子は逆にオシャレ心に火がつき、校則の範囲内で一生懸命にオシャレを仕様とし出すからだ。このため校則がなく、制服もないような学校だと、美人の女の子ならオシャレが出来て当たり前だが、そうでない女の子は非常に苦しい立場に立たされてしまうものなのである。

●恋愛こそ自立を可能にさせる

 女の子の場合、きちんとしたオシャレができるようになり、親友との友情が深まると、或る日突然に初恋が遣って来るようになるものだ。大抵の女の子たちは高校生に頃に親友ができるものなので、初恋の時期は高校生辺りなものなのである。勿論、早熟な子もいるから中学生で初恋がある女の子もいるが、大方は高校生の時期なのである。

 女性の中には初恋の時期が幼稚園とか小学校の時だと言って来る女性がいるが、これは絶対に初恋ではないのである。幼稚園児や小学生では親友との友情が深まってこないので、初恋が成立しないのである。ではこの初恋と思ってしまったものは何かと言えば、それは「相思性愛」というものであって、自分の好きという感情の延長線上にあるものなのである。

 恋愛というのは相思性愛とは全然違う、恋愛の対象となる異性を見つけた時、女性の頭の中にはドカ~ンッと強烈な稲妻に打たれるものだ。通常、恋愛とは恋愛幻想を打ち破って登場して来る。例えばイケメンが好きな女の子なら、初恋の対象となる男性は醜男である。スポーツマンが好きな女の子なら、スポーツがからきし駄目な男性である。明らかに今までとは違う男性が目の前に現れて来て、その男性に急速に惹かれて行ってしまうのだ。

 女性は恋愛をする時、全力で恋愛をするものだ。なぜ全力で恋愛をしなければならないかというと、そうやって激しく恋愛をしないと、自分の心の中にある「偽りの上位自我」を破壊することができないからだ。女性にとって上位自我は自分の母親が宿ることになるが、この上位自我が思春期を迎えると、偽りの上位自我となって、自分を苦しめることになるのである。

 偽りの上位自我ある限り、女性は絶対に自由になることができない。自分がこうしたいと思っても、偽りの上位自我が止めてしまうからだ。だから女性は全力で恋愛をすることで、相手の男性の力によって偽りの上位自我を破壊して貰うのである。そのため恋愛中は一人の男性としか付き合わないものだし、友達との付き合いも回数を減らして来るものだ。女性には恋愛に夢中になることが絶対に必要なのである。

●初恋適齢期を逃せば自立が不可能になる

 女の子は恋愛をしていないくせに、恋話で盛り上がるものだ。なんでそんな会話をするのかといえば、女の子にとって相手の男性次第で恋愛の行方が左右されてしまうのである。冒険旅行を終え、自立を果たして来た男性と恋愛をするなら、偽りの上位自我を破壊でき、自立して行くことができるが、冒険旅行を終えていない男性だと、幾ら恋愛をしても、偽りの上位自我を破壊してくれないのだ。

 女性の初恋適齢期は16歳から19歳なので、この間にとにかく初恋をしておくことだ。時期的には高校生と大学1年生の時に重なるので、もたもたしているとあっという間に過ぎ去ってしまうのだ。初恋適齢期にきちんとした初恋をしておかないと、その後の人生で自立が不可能になってしまうのだ。

 通常、初恋で偽りの上位自我を破壊することは難しいものだ。どうしても初恋の相手が同い年であるために、自立を成し遂げていないからだ。しかし初恋をすることで偽りの上位自我にヒビを入れておき、その後の恋愛で偽りの上位自我を破壊すればいいのである。一度でも恋愛をしたのなら、自分の心の中に不自然な者が存在していることに気付けるものだ。最初の頃は誰であるか解らない。だが、自分を深く追求して行けば、それは自分の母親であるということが解るようになるものなのである。

 本当に偽りの上位自我が破壊されてしまえば、女性は完全に自立してしまうために、結婚してしまうものだ。ヤンキーの女性たちは高校を卒業してすぐに結婚してしまう女性たちがいるが、そういう女性たちを決して馬鹿に出来ないのだ。その女性たちは恋愛の中で自立してしまったので、最早、結婚という選択肢以外なくなってしまうものなのである。

 恋愛は男性との縁が大事だから、巡り会えない場合もあるものだ。そういう場合、付き合っている男性はいなくても、好きな男性を持っておくことだ。そうやっておくと、女性ホルモンが刺激されるので、女性ホルモンがより多く分泌されて、美しくなっていくことができるのである。そうやって美しくなっておけば、或る日突然に男性が現れて来て、恋愛をすることができてしまうのである。

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真夏の調布駅灼熱地獄事件

●東京は暑い 調布は最も暑い

 夏は暑いに決まっている。夏なのに「猛暑だ」「酷暑だ」と言っても、それは夏として当たり前の現象であって、逆にそれを楽しめばいいのである。夏なのに冷夏になってしまえば、農作物は一気に冷害にやられて、途端に食卓を直撃して来ることになるのだ。夏は暑かろうが、汗を流しながら、楽しんでいればいいのだ。

 だが、俺は夏になると東京には行きたくなくなる。俺が住んでいる千葉県は暑いといっても海からの風が常に吹いているので、そんなに暑くないのだ。しかし東京は違う。東京は海からの風が少ないために、本当に暑いのだ。東京の体感温度は千葉県よりう3℃ほど高い。東京駅に着くだけで、「ムワンッ」と熱風が押し寄せて来るのだ。

 東京駅はまだいいかもしれない。地下に入ったり、ビルの中に行けば冷房が効いているために、非常に涼しいのだ。新宿も渋谷も似たようなものだ。問題は東京23区を離れた場所に行く時だ。東京都の場合、そこらの地域は海からの風が東京23区で遮断されるために非常に暑くなるのだ。

 仕事で調布に行った時、調布駅に降り立った時点で頭がクラクラするくらいに暑かった。しかも調布駅は現在、駅の建て替え中で、階段では多くの乗降客が上り下りするというのに、建物の構造上、空気の流れが非常に悪いので、蒸し風呂状態なのである。それなのに何を勘違いしたのか、階段の上に扇風機を設置しており、その扇風機が強烈な熱風を吹き付けて来るのだ。

 東京は暑いが、調布は最も暑い! 岐阜県の多治見市が日本で最も暑いというが、それどころの話ではないのだ。なんでこの情報をニュース番組で報道されないか不思議なくらいだ。調布駅の階段を上り切った所は確実に気温が40℃を超えているので、この夏に於いて、日本の中で最も暑い場所である筈なのだ。

●空気の流れ

 今回、空気の流れが悪くなると、こんなにも暑くなるのかと初めて知った。駅の建て替え中だから、仮設の駅とはいえ、もう少し空気の流れには配慮して欲しいものだ。日本の場合、とにかく夏は暑いので、その夏の暑さを乗り切るために、建物に工夫を凝らすということは絶対に必要なことだからだ。

 俺は流体力学のことは余り詳しくないのだが、経験的に天井の高い建物は涼しいというのが解っている。天井が高ければ、それだけ空気が流れてくれるので、気温が高くても暑いとは感じないのだ。調布駅が暑いのは、天井が低すぎるからなのである。工事中だから仕様がないと考えがちだが、仮設の駅だからこそ、天井を高くすべきだったのである。

 タマティーの家では、空気の流れをよくしてあるので、夏がどんなに暑かろうが、冷房も扇風機も使っていない。暑ければウチワでパタパタしながら乗り切っているのだ。そのお蔭で夏の電気料金は今年最低をマークし、思わぬ利益を発生させている。健康面でも夏に汗をかいておくことは大事なことで、夏に汗をかくと体内の老廃物や毒素が出て行くし、自律神経を整えることができるのだ。そのため心身ともに健康でいられるという訳なのだ。

 幾ら夏が暑いからといって、冷房をガンガン効かすことは問題があるのだ。まず寒さのために体内の余分な水分を排出することができなくなり、体が徐々に調子が悪くなって行き、或る日突然にドッカ~ンと大病を患ってしまうのだ。また冷房は自律神経を狂わすので、幾ら冷房に当たるのが涼しいからといって汗を流さないでいると、これまた或る日突然に精神が狂ってしまうのだ。職場で冷房が強烈に効いているのなら、長袖長ズボンの格好をすることは勿論のこと、仕事が終わったら軽ジョギングをして汗を流すとか、お風呂やサウナに入って汗を流すことだ。そういうことをやっていれば、病気に罹ることはなくなるのだ。

 東京が非常に暑くなってしまうのは、海からの風が少ないということもあるが、緑が少ないということもある。植物は夏の暑さを吸収してくれるので、緑を多くすると涼しくなるのだ。特に道路に街路樹や花壇があるだけで、気温がかなり下がるものなのである。しかも緑によって冷やされた空気が流れて行くのだから、街全体を涼しくしてくれるようになるのだ。東京が暑いのは緑が少ないからで、地道に街路樹や花壇を増やして行くべきなのである。そういう努力をしないからこそ、毎年、夏の暑さで苦しむことになるのである。

●ちょこまか立て替えて行くことの大切さ

 駅を建て替えるというのは、まずは既存の駅を壊し、次に仮設の駅を建て、そして改築の駅を建てることになる。そのため駅を建て替えるには通常の3倍の資金を必要とするのである。だから資金不足でどこかに皺寄せが行く。改築後の駅には充分なお金をかけざるを得ないし、既存の駅を壊すには確実にお金がかかるので、結局、仮設の駅の費用を削ることになるのだ。

 しかし仮設の駅といども、お客様は利用しているのであって、乗降客が不満を抱くような仮設の駅など作ってはならないのだ。仮設の駅は余計に混雑するものなのだ。しかも今年は『ゲゲゲの女房』がヒットしたので、調布駅は通常のお客様だけでなく、観光客も遣って来るのである。観光客は観光でしか使わないから、その不評が全国各地へと広がってしまうことになるのだ。駅の建て替えをする場合、仮設の駅であっても、多少の資金を注ぐべきであったのである。

 海外旅行を経験した人々は、外国の豪華な駅にビックリするものだ。そのため「日本も最初から合理的に設計して、豪華な駅を建てるべきだった」という人が跡を絶たないものだ。だが完成された駅は鉄道そのものが崩壊しているのである。豪華な駅がある国に限って、鉄道が廃れ、自動車に取って代わられているのである。

 日本のように最初は小さな駅を作り、利用客が増えてきたら、駅を大きくして行くという遣り方の方が、結果的に鉄道を生かすことになり、鉄道産業が繁栄して行くのである。日本の至る所で駅の改築が行われているということは、日本の鉄道産業は多くの利用者によって使われ続けているということなのである。

 だから仮設の駅をチープなものにするのではなく、仮設の駅といえども通常の駅となんら変わらないような駅にしておくべきなのである。この点はまだまだ改善を要するのであり、この点を改善していけば、駅の改築がもっとスムーズに行われるようになる筈だ。そういうノウハウを溜め込んで行けば、それがビッグビジネスに繋がるものなのである。

●鉄道会社の社長だからこそ鉄道に乗れ

 京王線の社長が鉄道を利用していれば、調布駅のようば馬鹿げた改築などしなかった筈だ。日々鉄道を利用しないからこそ、京王線のお客様が不快を感じるようなことを平気でやるのである。トマトジュースで有名なカゴメでは、社長が1日にトマトジュースを5本も飲むというのだ。そうやってトマトジュースを飲んでいるからこそ、お客様に安全で美味しいトマトジュースを販売することができるのである。そこで今回、俺が鉄道会社の社長なら、どういう改善策を行うか考えてみた。

①駅のトイレは絶対に臭くなるから掃除を徹底させる

 駅は多くの乗降客が利用するのだから、トイレは絶対に臭くなる。トイレ掃除は勿論毎日行うべきだし、定期的にトイレその物を改築するしかないのだ。駅のトイレが臭いのに、それを放置しているのは、鉄道会社の社長が駅の見回りを全然していないということなのである。俺は駅のトイレを定期的に改築するのは、鉄道会社の経営が解っている証拠だと思っている。

②駅で自殺者を出さない駅に変えて行く

 どこの駅を見ても気になるのは、駅が直線で設計されているということだ。駅が殺風景になってしまうのは、駅に直線しかないからなのである。建物に丸味を帯びないと、人間はストレスを感じてしまうのだ。だから駅で自殺者が出て来てしまうのである。そこで壁にしてもそのまま平面の壁を置くのではなく、波を打っているような形の壁にしてしまえば、駅の利用者はストレスを感じなくなり、自殺者が出て来るような現象が激減するのである。

③駅は人々が集まる以上、幾らでもビジネスが展開できる

 駅は人々が集まって来るので、そこで幾らでもビジネス展開が出来るのである。「キオスク」や「立ち食いソバ」などは駅にあるからこそ有難いお店なのだ。それ以外にも例えば「ブランドショップ」を作ってみたりするのもいい。俺はJR東日本の子会社が作った「折り畳み傘」を使用しているのだが、この折り畳み傘は非常に頑丈に出来ているので、俺は重宝しているのだ。こういうのをブランド化して売れば、駅の利用者にとって有難いお店となるのだ。

 鉄道会社はその路線を独占して商売しているために、競争原理が余り起こりにくい産業なのである。そのため鉄道会社の社長が社長室に閉じ籠り、社内でふんぞり返ってしまえば、お客様へのサービスは急激に低下していくものなのである。鉄道会社の社長だからこそ、自社の鉄道に乗るのは勿論のこと、国内や海外の鉄道に乗ってみて、日々改善を心掛けるようにすべきなのである。

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「男の子の自立」の仕方

●まずは友情を育む

 男の子が自立をし始める場合、とにかく母親とは距離を置き始めるものだ。男の子にとっては母親こそがこの世で最も大好きな存在なので、ちょっとやそっとのことでは母親から離れて行くことはしないのだ。中学生辺りになって、母親から離れ始めたら、これは自立の始まりだと見ていいのだ。

 男の子が自立を開始するためにまず遣り始めるのが、男同士の友情を育むということだ。男同士で友情を育むことで、思春期特有の悩みを克服して行くことができるし、友達同士で切磋琢磨していくことができるのである。この時期の男の子たちのグループは女人禁制を取り、絶対にグループの中に女性を入れないのだ。

 男同士の友情の育み方は、女性から見れば理解不能の育み方だ。男の子だけグループになると、平気で馬鹿なことを仕出かしたり、警察沙汰になるようなことをしてくるのだ。馬鹿なことをやることで、大人たちから禁止されていることを遣ることで、友情を深めて行くという奇妙な遣り方を取るのだ。

 中学生の頃に真面目になりすぎてしまい、友情を育もうとせず、勉強ばかりしたり、テレビゲームばかりするのは非常に危険なことなのである。そんなことをしていれば、友人ができなくなってしまうので、自分の頭の中で自分の悩み事が一杯になってしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。いつの世でも若者たちが抱える悩みは似たようなものなので、自分と同じレベルで悩みを語り合う相手は絶対に必要なのである。

 男の子たちは友情を育む中で、真心の大切さや、他人への思いやりやいたわりといったものを学んでいくのだ。友情は「友達への愛」なのだが、普通、男性たちは「友達のことを愛している」とは言わないものだ。友達への愛をきちんと施せるようになると、愛を叫ぶようなことはしなくなるものなのだ。

●知恵をくれる師匠

 男の子が自立して行くために必要なものは、友達との友情と知恵をくれる師匠の存在である。既に自立を果たしている年上の男性から、男が自立して行くための知恵を貰い、その知恵を使って自立して行くのである。師匠は女性であってはならず、男性でしか認められることはない。

 自立をしていない男性というのは、幾ら自分が自由に物事を考えても、考え方が根本的に間違っているものだ。そのため若い時には決して自由の場に自分を置いてはならず、寧ろ不自由な場に自分を置いて、自分の考え方を改めて行った方がいいのである。一体、自分の何が間違っているかといえば、自己中心的に物事を考えることなのである。

 自己中心的に生きていると、必ず他人から物を奪おうとする。他人から物を奪うからこそ、自分の持っている僅かな物まで奪われてしまうのである。この生き方を貫いていれば、確実に貧乏になっていくし、不幸な人生になってしまうものだ。だからこの自己中心的な生き方を改めるために、師匠が必要なのである。

 柔道や剣道でもそれが単なるスポーツではなく、精神修養のためのスポーツであったのである。スポーツに励むことで、師匠から間違っている所を指摘されたり、長所を褒められることで伸展させていったりするのである。中学生や高校生の時にはとにかくスポーツに励むべきであって、そのスポーツを通じて知恵を獲得して行くべきなのである。

 師匠は生身の人間であるとは限らない。男の子たちは読書をすることで、過去の偉人から知恵を学びとり、成長して行こうとするのだ。中高生の読書が非常に重要なのは、この時期に読書をして知恵を掴み取っていないかと、自立して行くことができなくなってしまうからだ。全ての本が良書なのではない。自分が読書を経験することで、良書か悪書か分別して行き、出来るだけより多くの良書を読んでいくようにすべきなのである。

●冒険旅行

 男の子が友達と友情を育み、師匠から知恵を貰うと、必ず冒険旅行に出かけるものだ。冒険旅行の中で愛や知恵を実践し、自らの勇気を発揮して行くのだ。冒険旅行に出かけず、ただ単に学んでいるだけでは愛も知恵も本当の価値を理解できないのだ。本当の価値が解っていないからこそ、キリスト教徒たちのように愛を叫んだり、雑学者たちのように知恵ではなく知識を収集するようになってしまうのである。

 冒険旅行は男の子にとって死闘なのである。未熟な若者が一人で旅をしている訳だから、当然に誰かに騙されたり、傷害事件に巻き込まれたりするのだ。時折、異境の地で殺されたりすることもあるが、それは愛や知恵や勇気が足らなかったということなのである。如何なる危機があろうとも、それを乗り切って、旅を続けて行くべきなのである。

 冒険旅行をしていく中で、男の子は或る重大なことに気付く。それは自分自身が不自然であるということなのである。男の子は乳幼児期に自分の父親が自分の心の中に入り込み、上位自我を形成する。この上位自我こそ「良心」と呼ばれるもので、親に言われなくても悪い事はしなくなるし、自分から良い事をするようになるのだ。しかし従属期が終わり、自立期に入ると、この上位自我が「偽りの上位自我」となって、自分を苦しめるようになるのだ。自分が本当にしたいことがあるのに、「偽りの上位自我」の命令でそれをストップさせてしまうようになるのである。

 冒険旅行というのは、旅を通じて、この「偽りの上位自我」を破壊することなのである。「偽りの上位自我」を破壊しない限り、男性は絶対に自立できない。逆に言えば「偽りの上位自我」を破壊してしまえば、簡単に自立して行くことができるのである。友達や師匠の手助けはあったとしても、男性が自立していくためには自分の力で成し遂げて行かなくてはならないのだ。

 1度の冒険旅行で「偽りの上位自我」を破壊できる者もいるが、多くは何度か冒険旅行を繰り返すことで「偽りの上位自我」を破壊して行くものだ。男性はそれができてやっと女性と恋愛をすることができる。自分が自立していないのに、女性と付き合ったとしても、きちんと愛せないものなのだ。だから自分が自立していない時は絶対に禁欲に徹して、女性を退けるべきなのである。自立していないのに女性と付き合っていると、自立する機会を失ってしまうのである。

●男の子の誰もが自立できる訳ではない

 男の子の誰もが自立できる訳ではない。若い時に友情をきちんと育まなかったり、師匠に出会わなかったり、冒険旅行に行かなければ、自立することはないのだ。だから昔の人々は「可愛い子には旅をさせよ」と言い続けて来たのである。可愛い子をほど、母親は可愛がってしまい、自分の手元に置いてしまうものだ。しかしそのような行為は自分の息子の自立の機会を永遠に奪ってしまうことになるのだ。

 男性は自立できなければ、世の中が歪んで見えてしまう。曰く「世の中が間違っている」「政治が悪い」「誰も自分のことを解ってくれない」と。自己中心的に物事を見ているからこそ、この世の本当の姿が見えてこないのである。間違っているのは世の中ではなく、自立していない自分の方なのだ。政治が悪いのではなく、自立をしていない自分こそ悪いのである。誰かが自分のことを理解してくれないのではなく、自分こそが不自然な自分自身を理解していないのである。

 冒険旅行をしない男性は、体は男性であっても、決して男性ではない。愛も知恵も勇気もない軟弱な男性なのである。自立をしていない男性が恋愛をしても、きちんと女性を愛することはできないし、仕事をさせたとしても碌でもない仕事しかしてこない。もしもこの手の人物が政治家になってしまえば、国内では支離滅裂な言動を繰り返し、外国からド突かれれば平気で謝罪してしまい、国益を損なってしまうのだ。

 自立していない男性ほど、言って来ることは「良心的」である。自立していないから、未だに良心を破壊していないからなのである。自立してしまえば良心は破壊されてしまうから、自立した男性ほど良心的なことは言わなくなる。後は自分で調べたり考えたり検証したりして、道理に適った意見を言って来るものだ。そういう意見は言われてみれば「正しい!」と思ってしまうものだし、具体的な解決策を持っているものなのである。「良心」ではなく「正心」があるからこそ、その男性は幾らでも成長して行くことができるのである。

 自立できた男性だけが、恋愛をすればきちんと女性を愛せるので結婚に持ち込むことができるし、仕事をさせればお客様に奉仕し貢献していくことができるし、政治家になれば祖国の独立を守り、国益を増大させていくことができるのである。自立できた男性は必ず自分が守るべき人々をきちんと守って行くのである。だからこそ母親は思春期になれば我が子を突き離し、自立させて行くべきなのである。

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16歳から19歳は人間にとって最も重要な時期

●性ホルモンの大量分泌

 女性にとって16歳は人生の中で最も重要な時期である。脳のシナプスの減少は16歳で停止し、そのくせ16歳から19歳の間に女性ホルモンが大量分泌されてくるので、心身ともに女らしい女性に変化して行くのだ。16歳というのは「第二の誕生」と呼ばれ、ここに至って確固たる自我が形成されるのである。

 女性ホルモンの出方は人それぞれなので、女性ホルモンの分泌量が多い女性は美しくなって行くし、色白になって行くものだ。しかし女性ホルモンの分泌量が少ないと女性は美しくなれず、肌も汚いままになってしまうのである。そのため美しくなれなかった女性たちは「女性に女らしさを押し付けるのは怪しからん!」と騒ぎ立て始めるのである。この時期に女性は女らしくしていると、女性ホルモンの分泌量が多くなるというのに、自分が美しくなれないことに怒ってしまうと、女性ホルモンの分泌量が減ってしまい、更に醜くなってしまうのだ。

 男性の方は女性ほど決まっている訳ではないのだが、男として強くなろうとする男性たちには急激な変化が訪れて来る。今まで幼稚としか思えなかった男性であっても、16歳から19歳の時期に急激に変化して来るのだ。男性はこの時期にスポーツに打ち込んで、自分の体を鍛えて行かない限り、男らしい男にはなれないのだ。

 男性ホルモンは闘争本能と深く結び付いているために、この時期に他の男性と喧嘩することは必要な行為となる。勿論、殴り合いの喧嘩をしてしまうと問題が発生するので、スポーツの中で試合という形で喧嘩をしていくしかないのだ。この時期、試合を多く行って、自分の闘争本能を高めて行くと、男性ホルモンの分泌量が多くなるのだ。そのため男らしい男になっていくことができるようになるのだ。 

 この時期は異性にモテることを気にするものなのだが、異性にモテることに期待するより、自分の性に合致した行動を取ってしまった方がいいのだ。女性なら女らしくして、男性なら男らしくして、それぞれの性ホルモンを多く分泌させてしまった方が、逆に異性にモテてしまうことになるのだ。女性ファッション誌で「めちゃモテ」の服を紹介しているが、あの手の服を着ると、自分の女性ホルモンが分泌されて、男性にモテるようになるのだ。男性に関してはとにかくスポーツに打ち込むべきであって、スポーツのできる男性ほど、美女にモテるようになるものなのである。

●人生の基本的な考え方が形成される

 人間の基本的な思考というのは、高校生の頃に形作られるものなのである。高校生の時期は、脳のシナプスの減少の停止と、性ホルモンの分泌量の増大が重なり合うので、脳が急激に変化して行き、自分らしい考え方を形成して行くのだ。そしてその基本的な考え方はその後の人生でそう簡単には変わらないのだ。

 この時期にはとにかく読書をしたり、自分で行動を起こして経験してみることだ。特に歴史の勉強は絶対に必要で、歴史を学ぶことで「歴史の法則」といったものを見つけ出して行くべきなのである。歴史を鑑みれば、人間の本質は不変であることに気付くものだ。太古の昔から人間は利己的に生きており、堕落しまくり、悪徳を平気で成し遂げて来たのだ。それを矯正するために宗教や道徳や法律が必要となってくるか、かといってそれらのもので人間の本性を変えることはできないのだ。

 性善説を捨て、性悪説に立脚することこそ、人間に対する正しい見方ができるようになるのである。性悪説に立てば、「全ての人々が利己主義を捨てて利他に徹せば世の中は良くなる」とか、「核兵器を廃絶して世界を平和にしよう」とか、「人権を強化して、死刑を廃止しよう」とかいう意見には騙されなくなるのだ。人間は相も変わらず利己的なものだし、核兵器があるからこそ世界は平和になっているものだし、人権が強化されればされるほど凶悪犯罪の発生率が高くなるものなのだ。

 そのくせ人間たちの歴史は変遷していく。日本史なら「太政官制」から「摂関政治」を経て「院政」になり、その後、武士たちが政権を取って「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」になり、その後、明治維新になったのである。今現在、自分が属している時代の政治体制が如何に強固であっても、時代が変遷してしまえば、その政治体制は崩壊し、新たな政治体制に取って変わられるのである。だから今の政治体制を絶対視し、現行の憲法を称賛しすぎないことだ。政治体制が変われば、既存の政治体制を支持している者たちが真っ先に殺されるものなのである。

 16歳から19歳の間にどれだけ深く考えることができるかは、個人差が余りにもあるものだ。しかしはっきりと言えることは、無名の高校生であっても、この時期に自分の頭で深く考えぬかない限り、正しい考えを持つことはできないということなのだ。この時期に絶対にやっていけないのは、誰かの意見を鵜呑みにするということである。学校の教師がこういっていたから、自分も無批判で信じてしまうというのは、高校生がやるべきことではないのだ。学校の教師の意見だからこそ、逆に敢えて疑ってみることが大事なのだ。

●集団と個人

 高校生にもなれば、完全に自我が出来始めているのだから、自分一人で行動してしまえばいいのだが、この時期に孤独になってしまうのは、それはそれで問題だ。というのは自分の考えというのは友達との遣り取りの中で明確になって来るので、集団から切り離され、孤独になってしまうと、逆に自分の考えを明確にできないというジレンマに陥ってしまうのだ。

 自分の考えをきちんと確立できる人ほど、友達づきあいを大事にするものだ。できることなら部活動に入って、集団の中で組織戦を学んだ方がいいのだ。ただ単に友達と遊んでいるだけでは誰も真剣にならないが、スポーツに打ち込んでいれば、その内、誰もが真剣になり始めて、友達との会話が高度なものになっていくのだ。

 その一方で孤独の時間も大事なのだ。孤独になって自分で考えることをしなければ、自分の考えを深めて行くことはできないからだ。若い時の思考の深さは、孤独の多さに比例するものだ。しかし孤独は友達づきあいがあってこそなのであって、友達づきあいもせずに孤独になっていれば、自分が辿りついた考えは完璧に間違ってしまうものなのである。

 高校生の時期なら、友達と一緒にいたいという気持ちと、孤独になりたいという気持ちが揺れ動くものだ。そういう葛藤こそがエネルギーを産んで来るのであって、下手にその葛藤を解消し切ってはならないのだ。若い時は矛盾があるのが当たり前であって、矛盾があるからこそ成長しているのである。

 世の中には社会主義のように集団主義がよいと考える者もいるし、個人主義が正しいと考える者もいる。しかしそれらの考えは間違っているものだ。集団だけに頼り切ってしまう人間はいないものだし、孤独だけで生きていける人間もいないものなのだ。結局は集団といっても個人の集まりだし、集団に長らく所属していれば、たまには孤独になりという思うものなのだ。

●急激な変化をしてくるからこそ見守ってあげることが大切

 高校生の時期は男女とも急成長の時期を迎えるのである。そのため母親としては我が子の急激な変化に戸惑ってしまうものだ。母親である自分は急激な変化などしていないのに、我が子だけが急激な変化をしてくるからだ。そのため母親の中には我が子の急激な変化を止めてしまい、自分の思い通りにさせようとする母親たちが出て来るものなのである。しかしそんなことをやられれば、子供の方は怒り出すのであって、親子の間を最悪なものにさせてしまうのである。

 高校の教師にしても、生徒たちが急激に成長して来るので、それを叩きのめそうと躍起になる教師たちがいるものだ。年柄年中、生徒たちに暴力を振るったり、生徒たちを馬鹿扱いしたり、性犯罪の餌食にしたり、反戦運動に動員して反戦思想を洗脳させたりと、高校生の健全な成長を破壊することを平気でやろうとするのだ。なぜこんなことをするのかといえば、矢張り急激な成長が怖いのだろうと思う。教師の身には何をしたとしても、高校生が直面している急成長は起こり得ないからだ。

 急激な成長をしているからこそ、見守って上げることが大事なのだ。親や教師が手を出して来なければ、性ホルモンのなすがままに成長していくことができるからだ。かといって物解りのいい大人になってはならないのだ。高校生が間違っていることをやっているのなら、厳しく叱るということも必要なのである。叱れらた高校生の方は腹立たしものだ。しかしそうやって真剣に叱ってくれる大人がいるからこそ、善悪の基準をしっかりと持てるようになるのだ。

 急成長を起こしている時は一体何をすればいいのかというと、とにかく突っ走ってみることだ。高校生の頃に躊躇していると急成長が起こらなくなってしまうのだ。読書をするなら手当たり次第、本を読んでみることだ。スポーツをするなら、ヘトヘトになるまで体を動かしてみることだ。そうやって自分の限界まで何かをやっていると、自分の能力が急激に上昇し、より高いものを行えるようになるのだ。

 高校生の時に遊ぼうとすれば幾らでもできる。しかし遊んでしまえば、アッという間に時間が過ぎ去ってしまい、自分の心身に急成長を引き起こすことができなくなってしまうのだ。急成長を引き起こす期間は3年間しかないのである。この時期は徹底的に熱くなってしまった方がいいのである。熱くなれば熱くなるほど急激に成長して行くものなのである。

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反抗期は親から自立して行くために必要なこと

●反抗期は自立の始まり

 子供というのは小学生までなら素直であるが、中学生以降は素直ではなくなる。12歳というのは、青春という偉大なる時期の始まりであって、ここで本来なら元服式を行い、大人扱いすると同時に、幼稚さを一切捨て去るようにすべきなのである。しかし現在では元服式など行われず、そのまま中学生に突入してしまうからこそ、中学生や高校生が幼稚さを剥き出しにして、問題を起こしてしまうのである。

 人間の心身の成長を考えるのなら、親に従属するのは12歳までで、それ以降は自立していかなければならないのだ。12歳以降の少年少女は一人前の大人ではないが、大人に準じた扱いをし、それによって自立して行って貰わねばならないのである。人間は自立するのは自分の力だけでするものなのではなく、親の力も必要なのである。

 そしてこの親への自立をするために起こって来るのが「反抗期」である。これまで子供は親に反抗したりすることがあったが、この反抗期というのはそれまでの反抗とは全然異なる。従属期での反抗は、親が余りにも過保護や過干渉した場合、それに抵抗するための反抗なのであるが、青春時代に起こって来る反抗は、親から自立するための反抗であり、この反抗をして貰わないと、子供の方は自立できなくなってしまうのだ。

 本来なら、中学生になれば親元から離れて、寄宿舎で生活するのが一番いいのだ。自宅で両親と暮らしていれば、下手に反抗してしまい、親子関係が屈折してしまうからだ。しかし寄宿舎制の中学校は殆どないのが現状なので、そのためにどこの家庭でも子供の反抗に手を焼いてしまうのだ。

 因みに江戸時代までは若衆宿が存在していて、そこで若者たちが集って、若者たちだけで語り合い、遊んでいたのだ。若衆宿があったからこそ、親への反抗を出来る限りしないようにしていたのだ。だから江戸時代までの日本人は大抵が自立できたものだし、親への反抗が少なかった分、大人になって親孝行の美徳を守り続けたのである。

●親子の会話の変化に気をつける

 母親の立場としてみれば、小学生の息子や娘も、中学生の息子も娘も同じではないかと思ってしまうが、子供の方にしてみれば全く違うのだ。中学生になれば親に反抗して来るのは当たり前であって、反抗を前提として親子関係を切り替えて行かないとならないのだ。母親の下手な対応が逆に子供の反抗を悪化させることにもなるのだ。

①最低限の会話を確保する

 まず母親がやっておくべきことは、最低限の会話を確保しておくことだ。この時期に親子の会話が全くないというのは、逆に危険だからだ。子供は母親と会話しないと、自分の頭の中だけで自分の思いを巡らしてしまうので、親への反抗がより凶暴になってくるのだ。父親が母親よりも子供たちとの会話が達者になることはないので、母親が下手な対応を取っていると、父親まで対応を間違ってしまうことになるのだ。

②不必要なことを詮索しない

 反抗期が始まると、男の子ならエロ本やアダルトビデオを持ち始めるものだし、女の子では女の子らしいオシャレに走るものだ。これらの物は母親の目から見れば無価値なものだが、子供たちにとって非常に高い価値を有するものなのだ。そのため子供部屋を詮索したり、子供の服装にイチャモンをつけていると、余計に反抗させるようにしてしまうことになるのだ。

③余所の子と比較をしてはなrない

 親に反抗するというのは、自我を確立させていくものなので、この時期に母親が余所の子と比較をし、「余所の子はこういうことをしているのにに、うちの子は駄目ね」などと言っていると、子供は完全にブチ切れてしまい、親に暴力を振るうようになってしまうのだ。自我を確立するためには、他の子たちが遣っていることをやっていてはできないものなのである。子供の成長はその子供に応じてスピードが違うので、下手に余所の子と比較をしてはならないのだ。

 通常、子供の反抗に手を焼いてしまう家族は、その母親の不注意な言動から、子供の反抗を悪化させているものなのだ。母子が揉め合っているために、父親が介入しなければならず、かといって父親は母親以上に子供に対する対応が下手なので、より反抗を悪化させてしまうのである。『積み木崩し』にしても父親と娘の関係が悪かったように思ってしまうのだが、実は母親の対応の拙さが娘を凶暴にさせ、娘が凶暴になっているからといって父親が介入してしまうと、余計に娘は凶暴化してくるのである。

●部活動でエネルギーを発散させる

 子供の反抗期は使い方を誤れば恐ろしいことになるものなのである。それゆえ子供が中学生になったら、体育会系の部活動に入部させ、そこで反抗のエネルギーを部活動で消費させるべきなのである。その部活動が正常に機能しているのなら、充分すぎるほどにエネルギーを消費してくれるので、自宅で親に反抗して来るということがなくなるのだ。

 一番危険なのは、子供を帰宅部にさせてしまうことであり、学校が終わって自宅に直行しているようでは、逆に反抗の火種を大量に抱えてしまうことになるので、母親の対応如何で非常に危険なことになってしまうのだ。子供が中学生になったら、「帰宅部になっても、アッという間に中学生の生活が終わってしまうよ」と脅して、部活動をさせるようにすることだ。

 もしも中学校に優れた部活動がないのなら、お稽古事をさせるなり、スポーツクラブに入れてしまうことだ。勉強以外でエネルギーを発散できる場所を持たないと、親への反抗は強烈なものになってしまうのだ。中学生なんだから勉強さえしていればいいと考えるのは非常に危険なことなのである。

 宗教団体に所属しているのなら、少年少女の組織に加入させて、そこでエネルギーを発散させることだ。宗教団体の少年少女の組織は近代以前の若衆組の現代ヴァージョンなので、この組織に加入すると、仲間が大量に増えるし、自立して行くためには一体何をすればいいのか的確に教えてくれるようになるのだ。

 親が無宗教の場合、宗教の力を全然認めないために、もしも子供が反抗して来たら、それに対応する術を殆ど持っていないことになるのだ。宗教心がない場合、親は自分を絶対化してくるので、それに対して子供の方も自分を絶対化してくるので、親子で揉めたら収拾が付かなくなるのだ。どちらかを殺すことで決着つけるしかなくなってしまうのだ。

●親に反抗して来ない方が異常

 中学生になれば親に反抗して来るものなのである。親に反抗して来ない方が異常なのである。小学生にいい子だった子ほど親に反抗して来なくなってしまうものだ。だからいい子すぎる子は逆に問題なのである。自立という大事な作業を行っていないからなのである。親に反抗しなければ、大人になった時に自立できなくなるのだ。

 子供を私立の進学校に入れ、大学を目指すために勉強させまくっていると、子供は親に反抗する機会を失ってしまい、そのため自立することなく大学生になってしまう危険性が出て来るのだ。大学生になっても自分が自立していなければ、その反抗は異常なまでに異常化し、社会主義やフェミニズムに走ったり、淫祀邪教に走ったりしてしまうことになるのだ。社会主義やフェミニズムや淫祀邪教は冷静になって考えれば、これらの思想はおかしいと思えるのに、自分が自立していないと、簡単に洗脳されてしまうことになるのだ。

 嘗て日教組が「みんないい子」運動を展開し、全ての小学生をいい子に育てるように努めたら、その子供たちが大学生になった時、大学内で麻薬は蔓延するわ、社会主義やフェミニズムは蔓延するわ、淫祀邪教が蔓延するわで大変だったのである。大学生がこの有様だから、その後、この人々が大学を卒業して社会人になると、日本は長期停滞に見舞われたのである。その後、麻薬中毒をやめることができたり、社会主義やフェミニズムや淫祀邪教の嘘が解って洗脳を解けた人はいいが、中毒y洗脳が解けない人はいつまでも自分が自立できないまま、「世の中が間違っている!」と騒ぎ立てているのである。

 母親にしてみれば、大事に育てて来た子供が、なんで親に反抗して来るかショックをしてしまうが、子供は親に反抗することで親から自立して行くのである。それは子供にとって必要なことなのであり、子供を子供のままで居て欲しいと思うのではなく、子供が反抗して来たのなら、真剣になって突き放せばいいのである。

 子供が親に反抗しているのに、下手に物解りのいい親になってはならない。親には親の言い分があるし、子供には子供の言い分があるのである。それは絶対に矛盾する。その矛盾を安易に解決してはならないのだ。親が頑固者であればあるほど、その反抗はエネルギーを強め、親からの自立ができるようになるのである。母親が「友達感覚の親子関係」などと浮かれていると、子供は永遠に自立できなくなってしまうのだ。母親は母親として子供に君臨するからこそ、子供は母親に反抗しつつも、きちんと自立してくるようになるのだ。

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