愛についてのエッセイ
●そんなに簡単に「愛している」っていうか?
俺自身、仕事柄、本を読まねばならないし、趣味も読書なので、普通の人たちとは違って大量に本を読んでいる。まあ、大体1日3冊ペースで本を読んでいるし、多い時には10冊ぐらいは読んでいるのである。そうやって大量の本を読んで行くと、良書に出会えて「これは大儲けだ!」と思うことがあるし、逆に悪書に出会ってしまって「これは大損した!」と思うことがある。読書は所詮「確率論」なので、そうやって運不運が付き纏うのだ。
しかし良書とか悪書とかの判定以前、「これは違うだろう~」という類の本がある。それが甚だしいのは「恋愛小説」である。なんで恋愛小説が問題なのかというと、登場人物が簡単に「愛している」と言って来るシーンが多々あるからだ。普通、恋愛をしたら滅多なことでは「愛している」なんて言わないし、せいぜい恋愛が盛り上がった時に少しだけ「愛している」という言葉を発する程度であろう。
恋愛小説がこの有様だから、日本で作られるドラマや映画も簡単に「愛している」という言葉を使ってしまい、それが視聴者や観客たちを興冷めさせてしまうのである。長らくドラマの視聴率低迷とか、邦画の不況が取り沙汰されているものだが、それはドラマや映画の脚本作りに問題が有り過ぎるからなのである。
恋愛なら誰もが自ら体験することだから、自分が経験した恋愛から余りにも離れているような恋愛なら、なんの共感もできないものなのである。なぜ「愛している」ということを使うことがいけないのかというと、それは「漢語」であって、「大和言葉」ではないからだ。恋愛小説にしろ、恋愛ドラマにしろ、恋愛映画にしろ、顧客は主に女性たちだから、堅い漢語を使って恋愛を表現するより、柔らかい大和言葉を使って恋愛を表現した方がいいのだ。
多分、小説家や脚本家たちはアメリカの小説やドラマや映画を見て、そこでは頻繁に「I love you]という言葉が出て来るから、それで自分も平気で使ってしまったのであろう。だがこの遣り方は非常に危険であって、自分の感情表現というものは、国民ごとに違うのであって、恋愛のような感情表現をフル稼働させるものに関しては、それが命取りになるほど危険なことなのである。
●「愛」の本当の意味
「愛」という言葉を頻繁に使うのなら、「愛の字義」をきちんと知っているのであろうか?
「愛」という漢字の字義は、「頭を巡らせ振り返り、相手を慈しむ思いが趣き及ぶ」、という意味なのである。愛という漢字は意味深な言葉なのである。恐らく、育児中の母親が子供を置いて農作業に出なければならず、自宅に置いた我が子を振り返り、心の中で悶々としている姿を現わした漢字なのである。
「愛」という言葉に関する大和言葉を調べてみると、その本当の姿がはっきりとするようになるのだ。
①「いとおしい」
まず「いとおしい」である。この「いとおしい」が愛という漢語の意味に最も近い。自分の心の中に何か心残りがあるからこそ、相手のことがいとおしくなるのである。いとおしいからこそ、相手を「可愛い」と思うし、「可哀想である」と思うし、「いじらしい」と思ってしまうのである。
②「かわいい」
次に「かわいい」である。この「かわいい」は現在でも使われているが、この古語を巧く現代語訳すると「本当に可愛い」ということであって、基本的に我が子に対してしか使わない。「可愛い子には旅をさせよ」というように、我が子に対してだけ使う特別な言葉なのである。これもまた母親としては我が子に心残りのものがあるからこそ、我が子を可愛く思ってしまうのである。
③「かなしい」
三番目が「かなしい」である。この「かなしい」は普通の悲しいではなく、しみじみと深く感じて、心が強く揺り動かされる様を表現しているのであって、現代語訳すれば「本当に悲しい」ということになるのだ。自分の心が大いに揺り動かされて心残りがあるからこそ、相手に対して本当に悲しくなってしまうのである。
なんと、この3つの意味は育児をしている母親なら誰でも経験することなのだ。我が子だからこそいとおしいし、我が子だからこそ本当に可愛いし、我が子だからこそ病気でもすれば、心が張り裂けそうに悲しくなるのだ。但しこれらのものは全て安定しているものではなく、不安定なものなのである。
●「好き」の本当の意味
英語の「LOVE」の訳語に「愛」を当て嵌めるのは、そもそもが誤訳なのである。漢語や大和言葉の「愛」が持つ意味に対して。英語の「LOVE]と同じ意味ではないのだ。英語の「LOVE」は、古英語「Lufian」から来ており、これはラテン語の「Lubêre」が元の言葉であって、この意味は「喜ぶ」ということでしかないのだ。これではどうやって意味が重なり合うことはないのだ。
では「LOVE」の正しい訳語は何かと言えば、それは「好き」なのである。
「好」という漢字の字義は、母親が子供を抱く様を現わしており、そこから「好ましい」「美しい」という意味を現わすようになったのだ。これもまた育児関連の言葉なのであるが、「愛」のような意味深な意味はなく、飽くまでも母子の表面的な意味しかなくなるのだ。「好き」という感情から「喜ぶ」が出て来るのであって、愛のように心残りがあるものから喜びが出て来るのではないのだ。
「好」という言葉に対する大和言葉を調べてみると、「好」が「LOVE」に近い言葉だとはっきりして来るのだ。
①「好き」
まず「好き」という意味である。古語では異性の相手に好意がある場合、必ず「好き」という言葉を使うのであって、絶対に「愛」という言葉を使わないのだ。恋愛と聞くと立派なように思えるが、それを「好色」と言い変えてみれば、よりリアルな実態が解る筈だ。好色であるなら、気軽に相手に「好き」といえる筈だ。
②「美しい」
次に「美しい」という意味である。相手が自分にとって好ましい姿をしているからこそ美しいと思うのであって、「美しい」という言葉を発してしまうのである。「君、美しいね」と言われれば、女性なら誰だって喜ぶことであろう。美しさというのは、飽くまでの人間の主観が基準になっているのであって、とにかく相手に好かれるような格好をすればいいのである。
③「よしみ」
三番目が「よしみ」である。現代語では使われないが、「よしみ」というのは「親しい交わり」ということである。せいぜい人名につける程度で、名付け親は「人様と親しい交わりができるように」と思ってつけたのであろう。男女が親しい交わりをすれば、当然にそれは恋愛になるものなのである。
●「愛」と「好き」の違い
「愛」と「好き」とでは全然違うのである。「愛」とは心の奥底で思うことなのであって、滅多なことでは表に出さないのである。一方、「好き」とは心の表面で思うことなのであって、簡単に表に出していいのである。この違いが解っていないと、恋愛小説は滅茶苦茶になってしまうのである。
例えば普通、恋愛が始まる場合、男性が女性を人気のない所に呼び出して、こういう言葉を告げる筈だ。
「実は俺、昔からお前のことが好きだったんだ。」
こういう言葉を言われた瞬間にラブストーリーは始まることであろう。柴門ふみの漫画が非常に面白いのは、このラブストーリーの基本に忠実だからなのである。「好き」からラブストーリーは始まるのであて、愛からラブストーリーから始まるのではないのだ。恋愛小説を書くなら、この類の言葉を使って書き進めて行けばいいのである。
これが関西弁になるともっと表現が豊かになる。
「俺はお前のことがメッチャ好きやねん!」
関西弁だと愛の告白が物凄くダイナミックになる。特に語尾が「ねん」となると、必ず発音が高くなるので、この言葉を受けた相手は肯定的な答えを出す確率が非常に高くなるのである。関西弁ができるなら、関西弁で恋愛小説を書くというのも面白い遣り方なのだ。関東出身の小説家が書くような深刻な恋愛小説には絶対にならない筈だ。
ところがもしも「好き」という言葉を使わず、「愛している」という言葉を使って来たのなら、その恋愛は明らかにおかしいのである。
例えば、同じシチュエーションで、男性が女性を人気のない所に呼び出し、
「実は俺、昔からお前のことを愛していたんだ。」
こう言われたのなら、相手の女性は完全に引いてしまうし、言っている男性の方だって歯が浮いてしまうことであろう。深い人間関係を築いていないのに、「愛していたんだ」と言われても、「お前、頭がおかしいんじゃね~か!」ということになるのだ。言葉の使い方を完全に間違っているのだ。
恋愛の始まりは必ず「好き」という言葉から始まるし、恋愛をしているなら「好き」という言葉をどんどん使って行くべきなのである。そうやって恋愛が盛り上がって行けば、当然に自分の心の中に相手を心残りと思う時が出て来るのであって、その際、「愛している」という言葉を使っていいのである。幾ら恋愛をしているからといって、心残りがないのに「愛している」という言葉を簡単に使うべきではないのだ。
●隣人愛は誤訳!?
英語の「LOVE」の日本語訳が「好き」であるなら、聖書などは誤訳の塊の書であると言っていい。聖書は世界中のどの国でもベストセラーになっているものだが、この本はきちんと読まれたことがない書物としての断トツの1位を保っているのだ。その理由は誤訳にあるといっていい。日本のキリスト教徒たちでさえ聖書をきちんと読んでいないし、たとえ読んだとしてもきちんと理解できないのだ。
だから聖書で使われている「愛」という箇所を全て「好き」という言葉に変えてみると、聖書の内容が非常に良く解るようになるのだ。
例えば「隣人愛」なんて言葉はそもそも日本語としておかしい。考えてみれば、モーゼが逃亡奴隷を引き連れてエジプトを脱出し、そこでモーゼの十戒という契約を結ばせたのである。その際、逃亡奴隷たちが何か心残りがあるなんてことはないのだ。それよりも「表面的にでもいいから互いに好きになりましょう」とモーゼが勧めて来たのなら、意味は通じるのだ。
それゆえ「隣人愛」ではなく「隣人好き」という訳語が正しい訳語なのである。
こうなってくるとキリスト教の「アガペー」の言葉にも検討が必要になってくる。アガペーは「無償の愛」と訳されるのだが、無償の愛にしてしまったら、本来の意味から大いに反れてしまうことになる。アガペーはヘブライ語の「隣人好き」をギリシャ語で言い表したものなので、愛という言葉が使われることに無理があるのだ。
それゆえ「アガペー」を「物好き」という訳語にしてしまえば、アガペーの意味がはっきりと解るようになる筈だ。
キリスト教が誕生したからアガペーが生まれたのではなく、キリスト教が誕生する前から既にアガペーはあったのである。キリスト教はそのアガペーを肯定的に取り扱ったからこそ、古代ローマ帝国に於いて一気に広まったのである。物好きな連中はいつの世にもいるから、古代ローマ帝国の時代だって物好きの連中がいたのである。その物好きの連中がキリスト教に肯定されたことで、続々とキリスト教徒に改宗して行ったのである。
日本のキリスト教系宗教団体の礼拝の暗さは誤訳に原因があると言っていいのだ。日本のキリスト教徒たちは盛んに「愛」を唱えるものだが、愛を出し過ぎると悲しくなってしまうのである。愛には非常に強い悲しみの意味が含まれているので、愛を叫び過ぎてしまうと、心の中は深い悲しみに包まれて、どんどん暗くなっていってしまうのである。
隣人愛を実践するのは誰であっても無理なのである。しかし隣人好きなら誰でも実践できるのである。無償の愛なんて聞くと高尚なように聞こえるが、実際の所は物好きということなのである。物好きであればこそ、病人や身体障害者といった社会的弱者たちの世話をすることができるのであり、それを無償の愛に言い変えてしまえば、無償の愛を実践している者が苦しくなっていくだけなのである。
●愛し過ぎるからこそ、恋愛も結婚も駄目になる
恋愛は相手を好きになることから始まって、相手をどんどん好きになって行く過程で愛が生まれて来るのである。だから「好き」を大量に積み重ねないと、愛は生まれて来ないのである。恋愛で常に失敗してしてしまう人たちの共通項は好きを貯め込んでいないのに、愛を出してしまい、それで心の中で非常に強い悲しみが生まれてしまい、破局してしまうのである。
「好き」を溜め込んで行くからこそ愛が出て来るようになるのである。それゆえ相手の好きな部分をどんどん口に出して「好き」と言うようにし、好きを貯め込んで行けばいいのだ。恋愛の最中に絶対にやってはならないのは、相手に対して「嫌い」という言葉を言うことであって、自分が感情的になって「嫌い」という言葉を言っていると、「好き」という感情が消えてしまい、当然に恋愛自体も自滅してしまうことになるのだ。
恋愛の回数は多いのになぜか結婚できないとか、結婚の直前まで順調に交際していたのに突如結婚をドタキャンされたとかいう女性たちは、愛し過ぎるからこそ、恋愛を結婚に発展させることができないのである。幾ら激しく愛されたとしても、その愛は不気味なものなのであって、愛された男性の方が嫌になってしまうのである。
結婚にしても、結婚後、相手の態度が変わってしまったとか、夫婦の会話が消滅してしまったとか、配偶者から暴力を振るわれたとかいうのは、愛を先に出し過ぎてしまい、好きという言葉を地道に積み重ねて行く努力をしなかったからなのである。好きという言葉を多く発するからこそ、愛を多少出していいのであって、それなのに愛ばかり出されれば、自分も相手も非常に深い悲しみに襲われてしまい、それで結婚生活を自ら破壊するようなことを仕出かしてしまうのである。
「親しき仲にも礼儀あり」と言われるが、夫婦だって礼儀が必要なのである。結婚を破壊するような愛を出してはならないのである。夫婦だからこそ礼儀を守って、相手に「好き」という言葉を多く発して行き、それが出来たのなら多少は「愛」という言葉を発していいのである、愛は素晴らしいものであっても、非常に危険な要素を含んでいるものなのであって、取り扱いを誤ると、結婚を爆破してしまうことになるのである。
●子供好きだからこそ、母性愛を大量に出すことができる
結婚をしたら早目に子供を産んでしまった方がいいのも、赤ちゃんの誕生こそ結婚を大いに発展させることができるからなのである。女性というのは赤ちゃんを産んでこそ、愛を如何なく発揮できる。そもそも愛という言葉は育児関連の言葉だからだ。だからもしも妻が赤ちゃんを産まないと、夫に対して愛を出し過ぎてしまい、それで結婚生活が硬直するなり、結婚が破局してしまったりするのだ。
実は育児に於いて本当に必要なことは「嵐の季節」を全力で走り抜けることなのである。第一子を産んだ時は滅茶苦茶忙しくなるし、第二子を産んだ時は更に忙しくなる。第三子を産んでやっと落ち着くことができるのであって、それまではどの母親たちも「嵐の季節」の中で悪戦苦闘するものなのである。
なんで「嵐の季節」が必要なのかと言えば、愛には非常に強い悲しみが含まれているために、育児を真剣になって取り組まないと、我が子を愛すればこそ、非常に強い悲しみが出て来てしまい、それで育児ノイローゼに罹ったり、我が子を愛せなくなったり、児童虐待を働いてしまうようになるからなのである。
育児中の母親が育児の中で嫌いなことを並べ立てることは非常に危険なことをやっているのである。育児だって子供を好きにならないと、自分の心の中から母性愛が出て来なくなってしまうのだ。育児をしているのなら、自分にとって子供の好きな部分をどんどん言葉に出していって、「好き」という言葉を積み重ねて行くべきなのである。「好き」という言葉が大量に貯め込んで行けば、母性愛をきちんと出せるようになるのだ。
保育士や保母さんたちは、そもそも子供好きであって、仕事柄、子供たちに接して子供を好きになる回数が非常に多いのであって、当然に母性愛をきちんと出すことができるし、その母性愛の量も多いのである。愛を叫んで自滅する女性たちが多い世の中では、保育士や保母という仕事は非常に恵まれた職業になっているのだ。保育士や保母さん上がりの母親たちが、普通の母親たちとは明らかに違うのは、子供好きを職業にすることができたからなのである。
●女性にとって外見は想像以上に大事
好きがあるからこそ愛が生まれて来るというのなら、女性にとって外見は想像以上に大事だということになる。女性は自分の外見がいいからこそ、人に好かれるのであって、「好き」を貯め込んで行くことができるようになるのである。人に好かれるから、自分も人を好きになるのであって、順序はこの逆ではないのだ。
男の子は服装に無頓着なものであるが、女の子は幼い頃から服装には拘りを持って来るものだ。自分が可愛らしく着飾ることができれば、両親から「好き」という言葉を多く貰えるということを生まれながらにして知っているのである。、そうやって「好き」と言う感情を溜め込んで行くと、安全な形で愛が出て来るようになるのである。
特に女の子が10代になっている時は、意外なことかもしれないが、外見は同性に向けられることになるのだ。この時期に友達を多く作り、その中で親友を見つけ出して行くからだ。女性同士で買い物に出かけたりして、お洒落を競い合うことで、互いに「好き」という感情を貯め込んで行き、そうやっている内に親友を見つけ出すことができるようになるのだ。
男性の場合、親友とは凸凹コンビになってしまうものだが、女性の場合、親友とは似た者同士になってしまうものなのである。顔つきも似ていれば、服装も似ているのである。女性の場合、「コイツがこの子の親友なのだな」というのは一発で解るものなのである。女性にとって親友ができるのは中学生か高校生の頃なので、この時期に親友を作ることを逸してしまうと、その後の人生でまともな恋愛ができなくなるのである。
親友を作った上で彼氏を作っているような女性なら、その女性の恋愛は巧く行くものなのである。ちゃんとした男性を見つけ出すことができるし、その男性ときちんとした恋愛ができるものなのである。そして恋愛が盛り上がれば盛り上がるほど、服装が落ち着いて行き、自然で自由な格好に変わって行くようになるものなのである。
●既婚女性にとって大事なもの
独身女性なら外見が非常に重要であるが、既婚女性にとって重要な物は外見ではないのだ。既婚女性なら最低限の外見があればもうそれで充分なのである。幾ら外見が良くても、結婚して一緒に住み続けていれば、別に気にしなくなるものなのである。それゆえ夫から服装のことを指摘されるようでは、服装に相当問題があると見ていいのだ。
①相性の良さを大切に保持し続ける
既婚女性にとって大事なものは、相性の良さを大切に保持し続けることだ。恋愛結婚をした場合、その男性とは相性が良かったからこそ結婚したのであり、その相性の良さを保持し続けるべきなのである。夫婦に如何なることがあっても、相性が良ければ乗り切ることができるし、相性が良ければ様々な幸運を呼び込むようになるのだ。
気をつけるべきは、相性がいいということは、夫婦の性格が正反対であるということなのである。例えば几帳面な男性なら大雑把な女性がくっつくものだし、几帳面な女性なら大雑把な男性がくっつくものなのである。だから相手の性格の違いを指摘するようなことをしてはならないのだ。性格が一致するということは夫婦である以上、絶対に有り得ないのだ。
②内助の功
第二に内助の功を発揮して行くことだ。とにかく夫の仕事を成功させることだ。結婚というものは夫の仕事が成功すれば、大方幸せになれるものなのであって、夫の仕事を成功させることを最優先させるべきなのである。それをしながら子供たちを産み育てたり、家事をきちんとこなすことをすべきなのである。
内助の功を発揮せず、妻が外に働き出しても、それは夫婦の幸福には直結しないものなのである。妻が稼いで来たお金は、確かにそれがあれば生活は潤う筈だ。しかしそれは内助の功を発揮しているからこそ意味のあるお金なのであって、内助の功を発揮してこなければ、その収入以上に高い出費を強いられることになるのだ。
②お金の使い方、お金の貯め込み方
第三にお金の貯め込み方、お金の使い方なのである。どんなに夫が稼いで来ても、妻が浪費家なら、その結婚は破綻してしまうものなのである。だから天引き貯金をして収入の2割を貯め込み、支出は収入の8割以下で済ますようにするべきなのである。新婚当初は苦しいかもしれないけど、慣れてくれば生活が合理化され、しかも貯金が確実に貯まって行くようになるのだ。
お金で愛は買えないけど、愛を保障するためにはお金は絶対に必要なものである。お金は愛を守るための道具なのであって、それなのにお金を目的としてしまうからこそ、愛が枯渇してしまうのである。お金のことを馬鹿にする人も、守銭奴になる人も、お金の本当の姿が見えていないことでは同じなのである。
既婚女性がこの3つをきちんと守り続ければ、「好き」という言葉が大量に積み重ねられて行き、愛を出して行くことが可能になるのだ。もしもこの3つを守らずに、「愛こそ全て」と言っているようであるなら、いずれ愛が枯渇してしまい、結婚生活が破綻してしまうものなのである。結婚しているからこそ、妻として、母親として、正しいことをし続けなければならないのだ。
![]() |
![]() |
Portrait.Of.Pirates ワンピース STRONG EDITION トニートニー・チョッパーVer.2 販売元:メガハウス |
| 固定リンク
| コメント (5)
| トラックバック (0)
最近のコメント