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2012年1月

秘策その12 「知恵ある遺産相続」

●遺産相続こそ命運を分ける

 お金持ちたちの命運を分けることになるのが「遺産相続」である。自分が生きている間は平穏に過ごしても、自分が死んだ後に子供たちが遺産相続すると、途端にその家族に凄まじい不幸が訪れてきたりするのだ。お金持ちであるなら、生きている時だけのことを考えるのではなく、死んでからのことも考えなければならないのである。

 なんで遺産相続がそんなに危険なのか?

①3代目で駄目になる 

 まず日本人の家系ではなぜか3代目で駄目になるケースが多いのだ。完全な男系家族ではなく、女系家族的要素を濃厚に持っているために、男子が巧く育たないのだ。跡取りをしっかりと育てていくためには、男の子たちに関しては幼い頃から跡取りとしての自覚を持たせるような教育をしておくべきなのである。

②相続税は3代目で潰れるようになっている

 もう1つの理由は相続税があるために、相続税によって税金がごっそりと取られてしまうということなのである。相続税は3代目で潰れるようになっているので、遺産相続をさせていけば、3代目で遺産が消滅してしまうのである。相続税はまともな税金ではなく、家を潰す目的で設定された税制なので、この相続税を決して甘く見てはならないのだ。

③実力以上の資産は非常に危険

 第三の理由としては、遺産相続によって実力以上の資産を持つことは非常に危険になるということなのである。人間には経済的実力があるので、それに適した資産ならきちんと運営できるのだが、その実力以上の資産を持ってしまうと、途端に運営できなくなってしまうのだ。それで遺産相続してお金持ちになったのに、駄目になってしまうのである。

 個人主義に取りつかれて、自分のことだけしか考えていないと、アッという間にその家族は没落していくことになる。個人主義では生き残れないのだ。家族の価値を重視しないと家族は生き残って行くことができないのだ。遺産相続に対して何も対策せずに死ぬほど迷惑なことはないのだ。

●子供たちに遺産を与えると、子供たちが駄目になる

 まずお金持ちたちの遺産相続がなぜそれほどまでに危険かというと、肝腎の遺産相続権者たちが碌でもない連中だからだ。息子にせよ娘にせよ。親がお金持ちであるばっかりに子供の頃から裕福な暮らしをし、しかも私立幼稚園や私立学校や私立大学に進学したために、世間の人たちが経験するであろう苦労をせずに育って来たということなのである。

 更に就職したとしても親の七光でいい所に就職できるわけだし、自分が余程のミスをしなければ、周囲の人々は大切に扱ってくれるものなのである。仕事というのは早い段階で過酷な修行を受けた方が、その後の人生に於いて大いに伸びて行くものなのである。それがぬくぬくと成長してきたために、大飛躍が起こらなくなってしまうのだ。

 しかも遺産相続してしまった場合、親の力でゴールさせられたようなものなので、お金持ちになることを自分の実力で掴み取った訳ではなくなってしまうのだ。多くのお金持ちの子弟たちががっくりさせられてしまうのは、実はこの遺産相続なのである。遺産相続をしたために、貧乏から這い上がってお金持ちになったという経験ができなくなってしまうのである。

 はっきりと言ってしまうと、無闇に子供たちに遺産を与えると、子供たちが駄目になってしまうのだ。

 お金持ちに子弟たちは親が考えている以上に「ひ弱な存在」なのである。これを防ぐためには全寮制の学校に通わせるとか、海外で武者修行させるとか、就職に関しては親が関与しないか、逆に親が就職先を決めてしまい、そこで徹底的にしごかれるようにすべきなのである。

 遺産相続は自分が死んだ時に問題になるのではないのだ。遺産相続をするためには育児や子育てをしっかりと行い、教育や就職に間違いがなようにすべきなのである。それとできることなら結婚に関して結婚相手を間違えないようにすることだ。結婚というのは家族の中に余所者を入れることになるので、結婚相手には警戒してかかるべきなのである。

●娘には結婚持参金を与えよ

 遺産相続というのは男女平等ではないのだ。男系家族なら息子たちが遺産を相続していくことになるし、女系家族なら娘たちが遺産を相続していくことになる。遺産相続を行う際は無闇に遺産相続を行うのではなく、家系図を作って自分たちの家系を調べ、男系相続なら男子だけに相続権を与え、女系相続なら女子だけに相続権を与えるようにすべきなのである。

 男系相続の場合、当然に娘たちには相続権がない。その代わりとして娘たちが結婚する際には「結婚持参金」を持たせて送り出してあげるべきなのである。娘たちは結婚持参金を貰うことで相続権を放棄するのである。原則として結婚持参金は息子たちが相続するであろう遺産に準じた金額にすべきなのである。

 結婚持参金は安易に与えてしまうと、娘の旦那が手をつけてしまうということもありえる。そうなるとアッという間に雲散霧消してしまうのだ。そこで結婚持参金を信託財産にしてしまい、娘にしかお金が行かないようにするという配慮を取るべきなのである。こうすれば娘の旦那と雖も結婚持参金に手を出すことができなくなるのだ。

 娘たちを遺産相続をから切り離しておくのは非常に重要なことになる。というのは遺産相続に娘たちが絡んで来ると遺産相続の決着がつかなくなるからだ。大抵、どのお金持ちにたちの家も、娘たちの相続権を奪わないからこそ、悲惨な骨肉の争いをするようになってしまうのである。男系家族では娘たちは出て行くものなのであって、相続権を与えてはならないのだ。

 娘たちというのは結婚後も親になつくものだ。そこで「出産祝い」や「入園祝い」や「入学祝い」などを与えておくべきなのである。娘たちが結婚後に子供を多く産んでくれれば、それだけ息子たちの嫁も子供を多く産んでくれるものなのである。自分の息子たちだけを可愛がっていると、その内、子供を産まない嫁がやってくるものなのである。

●遺産を信託財産にする

 男系相続に於いて息子たちが遺産相続する場合、本家と分家の区別をしっかりと行って行くことだ。本家を相続するのが家督相続者なのであり、それ以外の息子たちは分家となって新たな家を起こすことになるのだ。息子たちは平等ではないのだ。本家と分家の区別は恐ろしいほどまでに大きいのだ。 

 家督相続者には親の自宅と或る一定の遺産を与えなければならない。自宅を遺産相続で分割するというのは自宅を売り払うということになるので、家督相続権が本家としての自覚を失ってしまうということなのである。事実上、家督相続権者が親の面倒を見る訳だけから、遺産相続の際に優遇されて当然なのである。

 分家には新たに家を起こせるだけの遺産を与えなければならない。具体的には自宅を持てるだけの遺産が必要なのであって、借家住まいで新たに家を起こせないのだ。分家の初代当主になるものは、過去のシガラミに囚われない分、自由な生き方ができるのであって、その自由な生き方を影ながら支援してあげなければならないのだ。

 住宅以外の財産に関しては、息子たちに同等の信託財産を与え、息子たちの生活が困らないようにすると共に、遺産相続をしたとしても遺産が雲散霧消しないようにすべきなのである。息子たちに遺産相続の際、現金を与えてしまうほど愚かなことはないのだ。息子たちがお金を貰えば、簡単にそのお金を使いきってしまうものなのである。

 財産を所有するのではなく、財産を所有せず、その資産運用益をだけを貰えるようにすべきなのである。財産を所有してしまえば、相続税がかかってくるものなのである。それよりも自らは所有せず、資産運用益だけを持続的に貰えるようにすれば、遺産は消滅しないし、それでいて遺産の果実はしっかりと頂戴することができるのである。

●長く続く家系には必ず遺産相続に工夫が施されている

 お金持ちの最大の落とし穴は「相続」であるといっていい。ビジネスに成功した人ほど、自分の実力に自信があるから、まさか自分が高齢者になって急激に健康を害し、呆気なく死んでしまうということが解らないのだ。成功して70歳を過ぎたのなら、早目に引退を決意すべきであって、自分が死ぬまでの間にしっかりと遺産相続の対策を打っておくべきなのである。そういう思慮深さがないと、せいぜい相続税対策だけをするだけで、結局、遺産が雲散霧消してしまうのである。

 「あなたの家族は千年以上続くことができますか?」

 この質問に「ハイ」と答えることができるものは殆どいないことであろう。日本で千年以上家系が続いているのは、天皇家であり、藤原氏であり、神職者の名門の家族とかだけなのである。はっきりと言ってしまえば、資産があるだけではそんなに長く続かないのだ。資産以外の大切な物が必要になってくるのだ。

 まずは宗教である。宗教といっても個人的な宗教心ではなく、神社であり菩提寺であるといった大掛かりな宗教施設だ。自分の子供たちを宗教家にし、宗教の力を使って家族の繁栄を守るのである。天皇家では娘を斎宮女王にさせたりしてきたし、藤原氏では息子を僧侶とかにしてきたのである。幾らビジネスで成功したからといって、全ての子供たちをビジネスマンやビジネスレディーにさせてはならないのだ。

 もう1つは「秘密の古文書の存在」である。家訓を書いたり、家族の歴史書を作ったり、日記を残したりして、一族の者たちしか読めないようにさせるのである。こういう古文書は普通のレベルで見せられたらなんの感動もない。しかし一族の者たちしか見ることができなければ、それを見せられた時に異様なまでの感動を覚えるものなのである。

 トドメはお金持ちで居られる生活の知恵を個人で所有するのではなく、一族で所有するということなのである。一族が定期的に集まって、その生活の知恵を教え合うのである。こういう交流を確保しておかないと、時間の経過と共に生活の知恵が消え去って行くものなのである。

 これだけは明確に言えることは、長く続く家系には必ず遺産相続に工夫が施されているということなのである。そういう家系は調べれば調べるほど「凄い!」と感嘆してしまうものなのである。平等イデオロギーに囚われていると、その工夫が全く見えなくなってしまうのだ。貧富の格差がどうのこうの言うのではなく、現実の人間たちは本当に不平等なのだということに気付くべきなのである。その現実を受け入れることができたのなら、自分たちの家系にも遺産相続に関して工夫を凝らすことができるようになるのだ。

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秘策その11 「祖国のために役立つことをする」

●祖国の安全保障なくして、裕福になることはできない!

 貧乏人がお金持ちになりたいのなら、世間の人々が常識と思っていることをやっていては駄目なのである。世間の人々が非常識だと思うことをやるからこそビジネスは成功していくのだ。ペリーの黒船の艦隊が来航した時、江戸の人々は驚いたが、「あの黒船を持ってみたい!」と思った男が居た。それが坂本龍馬だ。坂本龍馬はその後、亀山社中という日本初の株式会社を作り、本当に黒船を持ってしまったのだ。

 戦前、紡績機械を作っていた豊田左吉は「自動車を作りたい!」と思ったのだが、父親から「あれはアメリカ人だから作れるのであって、日本人では無理だ」と叱咤されたのである。しかし豊田左吉は父親の意志に反して自動車を作ってしまったのだ。そのトヨタ自動車はなんと日本一になっただけでなく、世界一にもなってしまったのだ。

 今後も、非常識な日本人が新たなビジネスを作り出して行くことになるであろう。例えば宇宙船なども或る日本人が「作りたい!」と思えば、本当に作り出してしまうものなのである。

 お金持ちが世間的に非常識なことをやって成功して行くのに、成功してしまうと世間の常識を重んじるようになる。礼儀を重んじ、言葉遣いを大切にし、家族重視の生き方をしてくることになる。成功者たちほど非常に保守的になるのだ。保守主義なくして成功を維持することができないのだ。

 保守的な生き方をするようになった時、成功者たちは必ず国家の有難味が解って来る。成功するまではビジネス上、政府と対立することもあったので、国家に対して良好な感情を持つことができないのだが、いざ自分が成功者になってしまうと、国家が独立を維持してくれていたからこそ、自分は成功できたんだと思うようになるのだ。

 祖国の安全保障なくして裕福になることができない。お金持ちが自分たちの幸福を維持し続けるためには、自分たちの祖国の安全保障が永遠にしっかりとし続けてくれなければならないのだ。祖国が敵国から侵略された場合、お金持ちたちの幸福など瞬時に消え去っていってしまうものなのである。

●育児支援と奨学金

 国家が独立を保てるのは、なんといっても人口の多さと国民の質の高さなのである。日本は既に「成熟社会」に突入しているので、人口が急激に増えて行くことはない。気をつけるべきは人口減少なのであって、人口が減少したら日本の安全保障は土台から危機的な状況になっていくのだ。

 「少子化」は多くの知識人たちが悲観しているのだが、実際にはそう悲観するべきものではないのだ。夫婦が産む子供が少なくなれば、その夫婦は子供に対して充分な教育費をかけてくるのであって、そのために優秀な人材が育って来るのだ。だから少子化の社会では国民の質の高くなっていくのだ。

 今後、「育児支援」に関してはお金持ちが最優先ですべき分野となることであろう。お金持ちたちが育児支援をする財団法人を作り、効果的に育児支援をするからこそ、母親たちは気楽に育児をしていくことができるようになるのである。母親たちは僅かな育児支援金を貰うと、育児が経済的に非常に楽になるのだ。

 もう1つは「奨学金」だ。奨学金は勉強で優秀な成績を収めた者、スポーツで有望な者、芸術で成功して行きそうな者、そういった者たちに奨学金を与えて、将来の人材として育てていくべきなのである。実を言うと、戦前の日本の金持ちたちは奨学金を施すことを大いに好み、そのために優秀な人材が続出したのである。

 お金持ちになると我が子を高額な学費を要する私立幼稚園や私立学校に通わせたりするものであるが、そういうことで精いっぱいになってしまうお金持ちたちが続出してしまうのである。こうなってくると、社会は矛盾を拡大し始め、階級闘争の危険性を増大させて行くことになるのだ。育児支援や奨学金を与えない金持ちほど、社会にとって有害な存在はいないのである。

●祖国のために死傷した愛国者に見舞金を与える

 国家が独立を維持しようとすれば、必ず戦争での死傷者が出て来ることになる。軍人というのは、職責として戦争で死ぬことを覚悟しているが、もしも自分が戦争で死んだのなら、自分の家族の生活を保障して欲しいという願望があるのだ。だからこそ、戦争で軍人が死んだ場合、必ず遺族の生活を支援してあげなければならないのだ。

 戦争で負傷した場合、その負傷した軍人は医療費に関しては公的な支援がなされているが、もしも障害を負ってしまった場合、その公的な支援は充分とは言えないのだ。何も生まれながらの身体障害者ではないのだ。戦争で身体障害者になったのであり、その後の生活を立て直していくようにしなければならないのだ。だからこそ、戦争で負傷した軍人の生活を支援してあげなければならないのだ。

 国家が戦争をするのもしないのも、それは最終的に政治家たちが選択するものなのである。政治は政治家の質で決まる。愚かな政治家が首相になってしまえば、悪政のために国民が犠牲になってしまうし、優秀な政治家が首相になれば、善政のために国民の生活が豊かになっていくのだ。

 お金持ちたちが政治家たちを育成するために資金を出すことは大いに必要なのである。しかしこれをやっているのは日本では「松下政経塾」しかなく、しかも必ずしも成功しているとは言い難く、一流の政治家を育てていないのだ。政治家を育成するのはただ単に資金を出せばいいというのではなく、より高度な哲学を持っていないとできることではないのだ。

 政治家の質は選挙権者の質で決まるものなのである。だから選挙権者の質を上げて行く努力が必要なのである。国民が政府に頼りきり、自分からは何もせず、社会保障を充実してくれ、という考えでは、国家の財政は破綻し、国家の安全保障が危機的な状況になってくるのは当たり前のことなのだ。だから選挙権者を教育して行く活動をしていかなければならないのだ。

●自然保護の大切さ

 国家の発展は森林を大量に食う。明治期では殖産興業をやりまくったために日本の森林の多くが伐採され、そのために洪水が多発したのだ。戦後復興でも矢張り日本の森林の多くが伐採され、そのために有り得ないほどの大きな洪水に見舞われるようになったのだ。お金持ちとしてすべきことは、自然保護を行う財団法人を作り、これ以上、森林を破壊してくれないよう阻止することなのである。

 「自然保護のために自然保護」ではなく「国家の独立を維持するための自然保護」だからこそ、自然保護活動は正常な活動となるのだ。自然保護団体の多くが異常な活動を取って来るのは、自然保護のために自然保護をやっているからなのである。シーシェパードのように凶暴な活動をするのは、逆に自然保護にとって非常に危険なのである。彼等を殺した方が自然環境は守られるようになるものなのである。

 砂漠化は異国の話ではないのだ。日本は降水量が多いために砂漠化が起こりにくいが、それでも日本の森林は大いに破壊され、森林として機能しなくなっているのだ。森林は人間の手で守られるからこそ深々として機能できるのであって、一旦、森林に手を出した以上、無闇に手を引いてはならないのだ。

 森林は洪水を防止することになるし、保水力があるために田畑を潤すし、落ち葉が川から海に流れることで魚にミネラル分を与え、大漁にさせるものなのである。森林があればこそ、食料を維持できるのであって、森林がなくなれば人口維持のための食料を確保できなくなってしまうのである。

 自然保護は非常に地味な活動だ。しかしその非常に地味な活動をしないと、日本の森林は破壊されていく一方になってしまうのである。今の内に莫大な資産を割いて自然保護基金を作っておけば、今は誰も注目してこないが、いずれその自然保護基金の効果がじわじわと効いて来ることになり、日本の森林は豊かになっていくことができるのである。

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もしも子供ができなかった後の人生設計

●結婚すれば妊娠できるのが当たり前と思うな

 結婚すれば妊娠できるのが当たり前だと思ってはならない。確かに結婚すれば90%以上の夫婦が妊娠し出産することになる。ということは結婚しても少なくとも数%の夫婦は妊娠も出産もできていないということなのである。何事も100%巧く行くということは有り得ないのであって、結婚と雖も妊娠や出産で失敗を犯す夫婦たちが多少は出て来るものなのである。

 なんで結婚しても妊娠や出産ができない夫婦が出て来るのかといえば、それにはちゃんとした理由が存在する。

①運命学的に相性が悪い

 まずは運命学的に相性が悪いということだ。天中殺の時に交際を開始したとか、天中殺の時期に結婚してしまったとか、運命星の相性が悪かったとか、そういうミスをやらかしてしまうと、結婚しても妊娠や出産が非常に困難な物になる。結婚を安全な物にしたいのなら、占い師に占って貰うぐらいのことはしておいた方がいいだ。

②食生活の乱れ

 次に食生活の乱れだ。食生活が乱れていては、健康な精子も卵子も出来上がってこないのだ。特に肉食中心の生活をしていたり、飲酒や喫煙をしていたりすると、どうしても体が酸化してしまい、子宮は受精卵の着床を拒否してしまうのだ。女性に於いてはお菓子の食べすぎも体を酸化させる要因になるものなのである。

③間違った思考

 第三に間違った思考を持っているということだ。無宗教だったり、平等イデオロギーに取りつかれていたり、誰かを憎んでいたり、責任転嫁を平気でやっていたりすると、どうしても結婚生活が巧く行かず、妊娠どころではなくなってしまうのだ。特に神様の前で謙虚になっていないと、どうしても間違った思考を持ってしまい、、そのために雲の上に居る赤ちゃんが母親の元へと降りて来なくなってしまうのだ。

 医者たちは結婚後2年以内に妊娠できないと不妊症だと判定してくるのだが、実際の結婚生活では結婚後3年以内で妊娠できないと、夫婦間で深刻な問題になってくる筈だ。恋愛ホルモンは結婚後3年で切れてしまうので、それ以降は夫婦がどうやっても妊娠する確率は低くなってしまうのだ。結婚して3年経っても妊娠できないなら、不妊治療を開始した方がいいのだ。

●とっとと離婚!

 問題は病院で行われている不妊治療には時間制限があるということなのである。不妊治療ではホルモン剤を使用するために、治療開始してから2年以内なら効果があるのだが、2年以降はホルモン剤のために子宮や卵巣が疲労しきってしまい、妊娠する確率が一気に低下してしまうということなのである。

 だから不妊治療を開始して2年経過しても子供ができない場合、当然に今後、自分たち夫婦がどう生きて行けばいいのか深刻な問題になる。

 結論から言ってしまうと、こういう場合、とっとと離婚した方がいいのだ。子供ができない理由は医学的に妻にあるのかもしれないし、夫にあるのかもしれない。しかしそういう詮索はやめて、子供ができないということは自分たち夫婦の子孫を残せないということなのだから、子供ができないなら離婚して、その結婚を解消してしまった方がいいのだ。

 運命学的にはこれが最善の選択肢なのである。

 早くに離婚してしまえば、夫婦双方再出発がし易くなるのだ。今の夫婦では妊娠できなくても、夫は新しい妻を貰えば妊娠させることができるかもしれないし、妻も新しい夫を迎えれば妊娠することができるかもしれないのだ。要は夫婦の相性が悪かっただけのことであり、配偶者を変えてしまえば、不妊症で苦しむことなんてなくなるのだ。

 妊娠に於いて男女は平等ではない

 理論上、女性は閉経までなら妊娠できる。しかし閉経したらどうやっても妊娠できないのだ。閉経前であっても、40代後半になって女性ホルモンの分泌量が低下してくれば妊娠する確率は下がって行くものなのである。だから妊娠できになら、早目に離婚して、妻にチャンスを与えてあげなければならないのだ。

 一方、男性は死ぬ直前まで女性を妊娠させることができる。正確に言うとインポにならない限り女性を妊娠させることができるのだ。夫婦で不妊症が問題になった場合、夫の方は悠長に構えるものだが、これは夫の生殖機能がそうなっているからこそ男性はそのような態度を取って来るのである。これが夫婦に於いて意見の食い違いの原因となるのだ。

●「借り腹」と「借り種」

①借り腹

 夫婦に赤ちゃんができない場合、しかもそれが妻の側に責任があるのなら、「借り腹」という手段を取ることもできるのだ。夫に愛人を作って貰い、その愛人が妊娠し出産し、その赤ちゃんを自分たち夫婦の子として養子に迎えるのである。妻はこの間、夫の性生活の相手をしなくていいので、他に沢山の仕事ができるようになるのだ。

 一夫多妻制結婚が一夫一婦制結婚のように不妊症で苦しまなかったのは、まさに借り腹をやりまくったからだ。幾ら由緒正しき家から正室を迎えても、その正室が妊娠するとは限らない。だから側室を用意しておいて、その側室が生んだ子を跡取りとして育てて行けば良かったのである。一夫一婦制結婚に縛られるからこそ、この先祖たちの「結婚の知恵」が解らないのである。

②借り種

 夫婦に赤ちゃんができない場合、しかもそれが夫の側に責任があるなら、「借り種」という手段もあるのだ。夫の精子に問題があって妻に妊娠させることはできないが、妻の体は至って健康なのである。だから生殖能力のある男性に自分の妻を貸し、種を頂戴するのである。確かにその赤ちゃんは夫の血を引き継いでいないが、夫に子種がない以上、こういう遣り方も止むを得ないのである。

 意外なことかもしれないが、日本には「借り種」の風習は結構あったのである。なぜなら日本では「妻問い婚」の風習が平安時代末期まで続いたために、妻の不貞には大らかだったのである。妻の不貞に厳しくなり始めるのは、鎌倉時代からなのであって、嫉妬深い北条政子が尼将軍といて権力を握ると、これ以降、妻の不貞がとやかく言われるようになったのである。

 もう1つは離島や山村では、親族内での結婚を幾ら避けても、人口が少ないために、いずれ事実上の近親交配をやってしまう可能性があり、そのため旅人などに自分の妻を貸し、子種を頂戴するということを平気でやったのである。身体障害児の出産を抑える知恵だったのである。

 借り種も政治バージョンになると、もっと大掛かりな物になる。出世して行こうとする政治家という者は、主君から妻を貰い受けるということを平気でやってのけるのである。例えば藤原鎌足は天智天皇から身重の妻を貰い受け、その妻が生んだ子が「藤原不比等」なのである。ということは藤原不比等は天智天皇の子ということになる。平清盛は白河法皇の子であり、平家は出世するために、白河法皇が孕ました女を貰い受けたのである。

●代理母と代理父

 「借り腹」「借り種」は結婚を維持するための古来からの「結婚の知恵」というべきものなのであるが、日本の医者たちはこ風習を徹底的に嫌い、これを叩き潰していった。不妊症の夫婦たちが「借り腹」や「借り種」をやっている限り、不妊治療を普及させることができないからだ。

 そのくせ医者たちも不妊治療も完璧ではないということが解った来た。どうやっても妊娠できない夫婦が存在するということに、長年に亘って不妊治療をやってきた医者たち自身が気付いたのである。そこで考え出されたのが「代理母」なのである。代理母も借り腹と大して変わらないかと思うが、この両者の決定的な違いは、夫と代理母の間にセックスはないということなのである。

①代理母

 代理母というのは借り腹よりも遥かに非倫理的な物なのである。というのは借り腹では少なくと夫と愛人の間には愛があり、セックスがあったのである。しかし代理母では愛もなければセックスもない。ただ単に代理母が女性であり、子宮を持っているから、それを利用しようという発想に他ならないのだ。

 これはユダヤ=キリスト教のように女性は男性の肋骨から出来た者とする考えを持たない限り、絶対に出て来ない発想なのである。

 もしも不妊症で苦しむ夫婦が代理母を雇う選択肢をしたのなら、きちんと感謝の意を示しておくことだ。具体的には「お金」ということになるし、「感謝の言葉」も大事だ。キリスト教国で行われているように、代理母が赤ちゃんを産めば「ハイ、さよなら!」では、いずれその後の人生で天罰が下ると思っておいた方がいい。

②代理父

 代理母が存在する以上、いずれ「代理父」だって生まれて来ることであろう。顕微授精は精子が1匹であっても妊娠を可能にさせる凄い技術なのだが、そうとはいっても精子の中には妊娠に対して活性化しない精子もあるのであって、夫がそういう精子の持ち主ならば、他の男性の精子を頂戴するしかないのだ。

 こうなると「借り種」と「代理父」にさしたる違いはないのだ。ただ代理父の場合、自分の妻と代理父の間には愛もなければ、セックスもないのだ。果たして妻が女性として「性の喜び」を知らずして妊娠し、生まれた赤ちゃんをきちんと育てていけるかは大いに疑問なのである。代理父の方が余程非倫理的なのである。

●特別養子縁組

 夫婦が不妊治療でヘトヘトになってしまい、もう自分たちの体では赤ちゃんができないのだなと諦めがついたのなら、「特別養子縁組」という選択肢も存在する。特別養子縁組ではその夫婦とその赤ちゃんに一切の血縁関係はない。特別養子縁組は普通の養子縁組とは違い、戸籍に養子縁組がされたという記述が残らないのだ。このため養子が自分は養子であるということに気付けないのだ。

 特別養子縁組の欠点は赤ちゃんの段階で貰う受けるために、赤ちゃんが粉ミルクで育つことにより、「離乳食病」に罹ってしまうことだ。粉ミルクによって異常な抗原抗体反応を示してしまい、その後の人生でアトピー性皮膚炎に罹ったり、花粉症に罹ったり、自己免疫疾患に罹ったりするということなのである。

 それと母親自体、自分のお腹を痛めて生んだことがないので、母性愛がきちんと出て来ないのだ。母性愛というのは絶対肯定の愛だから、我が子が生きているだけで有難いという気持ちになかなかなれないのである。出産経験がない女性が母性愛をきちんと出すためには、ママ友とか、先輩の母親たちから指導を受けたりしなければならないのだ。

 特別養子縁組に利点があるとするなら、普通の親たちのように我が子を溺愛するということがなく、或る程度ドライで居られるということなのである。このため子供は親との距離を巧く掴むことができ、親に対して不要な反抗をしなくて済むのである。それは自分の成長のために思う存分エネルギーを投入できるということになり、巧く行けば大出世していくことができるのである。

 特別養子縁組の場合、最後まで我が子に或る1つの嘘を貫き通すことが絶対に必要になってくる。それは「お前とは血が繋がっていない」ということを絶対に喋ってはならないということだ。生きていれば、幾ら特別養子縁組の子でも、自分が養子ではないかということに薄々感づくものなのだ。それでも両親は嘘を貫き通すべきなのである。真実を話してしまえば、親子の関係に修復不能のヒビが入ってしまうものなのである。

●夫婦で仕事に生きる

 結婚しても子供ができず、不妊治療を受けても妊娠できなかったというのなら、子供に拘らず夫婦二人で仕事に生きるという選択肢もある。妻が育児にエネルギーを取られなければ仕事に全エネルギーを投入できるのであって、仕事で成功する確率が非常に高くなるのだ。これを活かさない手はないのだ。

 このような選択肢を取った場合、当然に妻は家事をできる限りしないようにし、外食中心の生活に切り替えた方がいいのだ。大方、朝食を自宅で軽く済ませ、昼食や夕食は外食で済ますような生活になっていくものなのである。掃除とか洗濯にしても、家政婦を雇ってこなしてしまった方がいいのである。

 気をつけるべきは子なしで夫婦共働きの場合、夫婦の会話をきちんと確保していないと、夫婦間の意思疎通が全くできなくなり、離婚してしまう羽目になるからだ。とにかく1日1回でもいいから夫婦で話すようにし、夫婦間の意思疎通の機会をきちんと確保しておかなければならないのだ。

 夫婦が子供を作らすに仕事に生きた場合、当然に「巨万の富」を稼ぎ出すことになる。その巨万の富を残して死んでいくということが、この夫婦の定めなのである。自分たちが老年を迎えたら、その巨万の富を財団法人化し、相続によって散逸されないようにすることだ。血の繋がっていない人たちに遺産を相続させても、あっという間に雲散霧消してしまうものなのである。

 子供ができないことで苦しんだ以上、その財団法人は妊娠や育児関連に限定した方がいい。例えば不妊治療をやっている夫婦を支援するとか、赤ちゃんを産んだ母親たちに育児支援金を出すとか、保育園や幼稚園を経営するとか、そういうことをやればいいのである。財団法人の場合、定款を定めた時にその財団法人の命運が決まるので、夫婦で真剣に考えて、納得の行く定款を作っておくことだ。

 自分たち夫婦が死んでも、その財団法人は生き続け、自分たち夫婦の夢を実現させてくれるのである。

●宿便排出

 不妊症の夫婦がどうにかして子供を手に入れたり、子供を諦める選択をした時、これだけは覚えておいて欲しい。

 「不妊症の夫婦は性格が偏っている」ということなのである。

 このため折角手に入れた子供に対して残酷なことをしてしまう可能性もあるし、子供を諦めた選択をしたのに夫婦喧嘩が絶えなかったりするのだ。自分たち夫婦が今後、幸せな人生を歩みたいのなら、その偏った性格を治すことだ。その偏った性格が存在する限り、幸せな人生なんて歩むことができないのだ。

 ではなんぜ性格が偏っているのか?

 それはお腹の中に宿便を溜め込んでいるからなのである。宿便こそが性格を歪ませる大元なのである。宿便は細胞内に溜まった最後の老廃物であり毒素であるために、これが普通の人たちよりも多いのである。だから普通の夫婦のように心穏やかに生きて行くことができないのだ。

 いつも誰かに怒り、憎しみ、嫉妬し、凶暴になっているのだ。

 それゆえ宿便を排出させる。宿便を排出させるためには、断食道場に行って10日間ほど断食をやれば出ることだろう。長くても20日間ぐらいである。長期休暇を利用して、どこかの断食道場に行き、宿便を排出してしまうべきなのである。勿論、夫婦一緒でだ。夫婦ともども宿便を溜め込んでいるがゆえに、夫婦のどちらかが宿便を排出しても意味がないのだ。

 どうしてもそんな長期休暇が取れないというのなら、自宅で宿便を出せる方法を教えておく。それはヒマシ油を医療用の布に湿らせ、それをお腹に巻きつけ、専用のヒーターで温めるというものだ。これをやると翌日には大量のウンコが出て来ることになる。これを何度も繰り返すと最終的には宿便が出るようになるのだ。

 但しこれだと大腸の宿便は出ても、小腸の宿便は出て来ない。そこでリンゴ人参ジュースだけを飲む生活をし、それにヒマシ油の湿布を組み合わせると、小腸の宿便が出て来る。小腸の宿便はドロドロ状の物なので、大腸の宿便とはまるで違うことが一発で解ることになる。宿便排出が終わったのなら、糠漬けを食うなり、ヨーグルトを食べるなりして、腸内に善玉菌をばら撒いておくことは絶対に必要である。

●夫婦の性生活

 不妊治療を受けて子供が出来た場合はいいが、夫婦の一方しか血が繋がっていない場合とか、特別養子縁組のように全く血が繋がっていない場合とか、子供を持つこと諦めた場合とか、普通の夫婦以上に性生活が大事になってくる。その夫婦の性生活にトラブルがあったからこそ、まともな形で子供ができなかったり、子供そのものを作ることができなかったのである。

 如何なることがあっても月に2回は夫婦でセックスをすることだ。この回数には理論的な根拠がある。それは女性の性欲は月に2回しか起こらないのだ。排卵日前日と月経直前の2回である。この日だけは女性と雖もセックスをしたくなってしまうのである。だから夫はこの日だけは必ずセックスをするようにすることだ。

 子供ができないというトラブルを抱えた夫婦は、或る意味、セックスに関して淡泊なのである。このため夫婦間のセックスの回数が徐々に減って行き、最終的にはセックスレスになってしまうものなのである。セックスレスになってしまうと、夫婦は空中分解してしまう可能性があるのだ。

 恐ろしいのは、セックスレスになっても人間には性欲があるから、それでは婚外恋愛を楽しみ、そこで妊娠してしまった場合だ。例えば不妊治療の過程で夫に責任がありと指摘されていた場合、夫が愛人の女性を孕ましてしまったら、夫は「自分は騙されていた!」ということに気付き、即座に離婚を選択してくるからだ。逆の場合も同じで、妻に責任がありとされていたのに、自分が不倫をして妊娠してしまったら、自分が騙されていたことに気付き、離婚することになるからだ。

 セックスが達者な人なら自分の性欲をきちんと制御できるが、セックスに淡泊な人たちに限って性欲を否定するような生き方をし、そのくせ、その性欲が暴走してきてしまうのである。性欲はどんなに否定しようとも必ずあるのであって、だからこそ夫婦で定期的にこなしていくしかないのである。

●結婚が同棲になってしまわないために

 やっぱり「子供は鎹(カスガイ)」なのである。結婚というのは夫婦が愛し合うだけで成立するのではなく、夫婦が子供を育てるから維持されるものなのである。確かに子供が居ても離婚する夫婦は居る。しかしそれは夫婦が愛し合っていなかった場合なのであって、そもそも問題外なのである。

 女性というものは、運命の出会いに巡り会えた時、必ず変わっていく。「ああ、結婚するんだな」ということが解るくらい、単なる女性から妻の姿形に変わって行くものなのである。既婚女性が妊娠し出産したのなら、赤ちゃんを産んだその瞬間から母親の姿形に変わってしまうものなのである。

 不妊症を発症させた夫婦というのは、この変化が起きなかったということなのである。

 結婚しても「自分は自分」という態度を貫いてしまい、妻になっていないのである。代理母を使って出産させたり、特別養子縁組を組んだり、子供を持たない選択肢をした場合、母親になっていないのである。女性にとって結婚が通過儀礼なのであり、妊娠や出産が通過儀礼であるということが解っていないのだ。

 そうやって妻や母親になっていない女性は趣味の世界で遊び呆けてしまうものなのである。自分が出産したことがないからといって遊び呆けるな。たとえ趣味の世界で遊んでも、そのような女性は決して一流の人間にはなれないものなのである。自分が趣味に逃げていることに一刻も早く気付くべきなのである。

 女性は30代前半を過ぎた頃から時間の速度が速くなってくる。男性なら40歳前後から時間の速度が速くなってくる。このため遊び呆けていたのなら、アッという間に時間が過ぎ去っていき、気付いた時には老人になっているものなのである。だから遊び呆けて時間を無駄に消費するのではなく、自分が死から逆算して、自分が生きている内になすべきことを早目に成し遂げていかなければならないのだ。

 妊娠や出産で落後者になっても、人生の落後者になるべきではないのである。

 人生に於いて言い訳というものは絶対に許されないものなのである。

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秘策その10 富を文化で還元する

●骨董品の収集

 貧乏人は骨董品などには興味を持たないものだが、お金持ちたちは骨董品に興味を持つ。高額所得によって物欲が満たされてしまうと、現在売られている商品やサービスには余り関心を見せず、過去に於いて作られた本物の商品に関心を見せるようになるのだ。資本主義主義経済以前の職人たちは株式配当とかがなかったために、その持てる資金を最大限投入し、本物の商品を作り上げたのである。

 もう1つの理由は、金持ちだからこそ歴史に興味を持つということなのである。ビジネスは或る意味、「諸行無常」である。繁栄した大企業が倒産したり、名もなきベンチャー企業が勃興してくる。そうやって企業は生存競争を繰り返しているのであって、生き残れる企業というのは常にごく僅かなのである。

 当然にお金持ちたちにはお金があるのだから、骨董品に興味を持ち出せば、骨董品を購入することになる。よく言われることだが、「一流のお金持ちは一流の骨董品を集め、三流のお金持ちたちは三流の骨董品を集める」のだ。だからこそお金持ちの中には骨董品収集が趣味でも悪趣味な者もいれば、尊敬に値するような素晴らしい趣味になる者もあるのだ。

 通常、三流の骨董品を集めれば、死後は相続で散逸したり、骨董品業者に売却される。しかし一流の骨董品を集めてしまうと、恐ろしいほどまでの相続税がかかってくることになるので、その骨董品を集めて美術館なり博物館を建てたりしてしまうのである。そうやって一流の骨董品が個人の趣味を乗り越えて、一般の人々でも楽しめるようになるのだ。

 不思議なことに、一流の骨董品を集めるようなお金持ちはその本人が謙虚なものだし、その妻や子供たちも謙虚な人たちが多い。一流の骨董品の中で生活してきたために、その家族の人たちの波動が一流の波動になってしまったのである。当然のことながら、こういう状況下では豊かさの中で凄まじい悲劇は起こらなくなるのだ。

●若い芸術家たちを育成して行く

 成り上がりのお金持ちなら骨董品収集が限界であろう。しかしお金持ちもワンランク上になると、若い芸術家たちを育成して行くことに喜びを感じ、彼等に出資して一流の芸術作品を作らせるのである。芸術家を囲い込むことができたのなら、本物のお金持ちだといっていいだろう。

 戦前では日本全国に「旦那衆」と呼ばれるお金持ちたちがいて、この旦那衆が若い芸術家たちに出資することで若い芸術家たちは続々と新しい芸術作品を作っていったのである。だからこそ近代の日本芸術は大いに発展したのである。日本に於いて創造的な芸術作品は明治維新以降から戦前の間に集中しているといっても過言ではないのだ。

 しかし戦後は財産税で旦那衆が潰され、しかも累進課税式所得税や相続税によって、本物のお金持ちたちが出て来れなくなってしまったのである。このために日本の若い芸術家たちはお金持ちに囲われるということがなくなり、非常に貧乏するようになってしまったのだ。当たり前のことだが貧乏をしていたのなら、一流の芸術作品なんて作れる訳がないのだ。

 戦後の日本で世界規模の大金持ちがなかなか出て来ないのは、若い芸術家たちを育成することを趣味とするような酔狂な人物が居ないからなのである。これは完全に道楽なのであって、お金が有り余らない限り絶対にできることではないのだ。だからこそ、外国のお金持ちたちに負けてしまい、日本国内で防戦することで精一杯になってしまうのである。

 ヨーロッパのロスチャイルド財閥であろうが、アメリカのロックフェラー財閥であろうが、必ず若い芸術家たちを囲い、彼等に新しい芸術作品を作らせているのだ。それが芸術品市場を生み、更に富を増大させるという結果になるのだ。大体、芸術家になるような人物は奇人変人が多いから、芸術の仕事をさせていれば、犯罪など起こさなくなるのだ。若い芸術家たちを囲わないからこそ、その者たちに仕事がなくなり、犯罪に手を出す羽目になるのである。

採算が取れない文化事業を行う

 よりレベルの高いお金持ちになると、採算が取れない文化事業を密かに遣り続けるということをし出すのである。文化事業で採算が取れるものはお金持ちが支援しなくてもやっていけるが、採算が取れないものはお金持ちが支援しないとやっていけないのだ。お金持ちが支援してくれるだけで、文化というものは向上していくものなのである。

 特に出版物の中ではその製作にお金がかかるのに、その出版物を売ったとしても売れない物がある。そういう出版物に資金援助し、数は少なくてもいいから販売させるようにするのだ。実を言うと、そうやって資金援助を受けて作られた本には一流の本が非常に多い。作者は資金のことを考えずに打ち込めたから、非常に出来のいい物を作り上げることができたのである。

 大学でも「寄付講座」というものがあるが、これもお金持ちの資金援助がなければできないものなのだ。大学の講座を設定を任しておくと、時間の経過と共に碌でもない講座ばかりになってしまう。大学教授たちが豊かな生活をしていないために、平気で粗悪な講座を作ってしまうのだ。だからこそお金持ちが資金援助をして寄付講座を作れると、その大学の質が一気に高まって行くのだ。

 文化の中には消えて行く文化というものもあるものだ。その消えて行く文化に対してお金持ちが資金援助をし、消滅させないようにするのだ。文化というのは一旦消えてしまえば、もう2度と復活してこない。それほど「か弱いもの」なのである。幾ら時代が変化しているからといって、過去の文化を今の人たちが消し去っていい訳がないのだ。

 採算が取れない文化事業を支援するということは、非常に地味な作業である。幾ら自分がやっとしても決して称賛されることはない。しかしお金持ちがそうやって文化事業を支援してくれるからこそ、日本の文化は本物の文化に成って行くのである。日本の文化がアメリカの文化に席巻されたり、増してや日本国内で韓流ブームが起こっているようでは、日本の民度が低レベルにあるということなのである。

●美術館や博物館は金持ちのたちの遺物なのである

 国民の中には美術館や博物館は政府が作り運営すべきであるという意見が多々あることであろう。確かに政府は国民から税金を徴収できるので、大規模な美術館や博物館を作ることができる。しかし政府が作る美術館や博物館はイマイチなのである。どうしても官僚主義的な発想になってしまい、せせこましい物しか作れないのである。

 美術館も博物館もお金持ちが道楽で作るからこそ、面白い美術館や博物館が出来上がって来るものなのである。お金持ちが集めた美術品は自分がお金を出して買い集めた以上、一流の芸術作品だけが集まっているものなのである。博物館にしても自分が面白いと思った物を自分がお金を出して買い集めて来たのである。

 一流の芸術作品の一流の波動に、本物のお金持ちの本物の波動が加わるのである。だからこそその美術館や博物館に居ると非常に楽しくなってくるのである。美術館も博物館もただ単に収蔵品を集めればいいというものではないのだ。自分のセンスで集めて行かない限り、いい物は出来上がらないのだ。

 自分の富を文化で還元するというのは、お金持ちだからこそできることなのである。お金持ちが自分のために富を消費するのではなく、富を文化で還元してくれたのなら、世の中は想像以上に豊かになって行くのである。そしてそのお金持ちも自分たちの家系を生き残らせるためには、この道楽をしていくことがどうしても必要なのである。

 累進課税式所得税によって貧富の格差を解消しようとしたり、相続税によってお金持ちを潰そうとしたりすると、確かに政府は財政規模を大きくできるかもしれない。しかしその馬鹿げた税制のために国内にはお金持ちが生まれてこないのだから、国民は貧しくなり、しかも文化的により貧しくなってしまうのである。

 お金持ちであるなら、絶対に政府の増税に賛成すべきではないのである。政府の増税に賛成するようなお金持ちたちは殺されて当然なのである。それよりも累進課税式所得税や相続税を廃止させ、お金持ちたちが充分な富を持ち、その富を文化で還元していくべきなのである。そういうお金持ちたちが多くいればいるほど、その国民は経済的にも文化的にも非常に豊かな暮らしを実現することができるのである。

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秘策その9 「慈善活動を真剣になって行う」

●お金持ちは慈善活動をして上がりなのである。

 ビジネスというのは、ビジネスに成功してお金持ちになるのがゴールなのではないのだ。ビジネスをやってお金持ちになった後、慈善活動をし、その慈善活動を成功させて、やっと本当のゴールを迎えるのである。お金持ちと雖も本当のゴールに到達しなければ、真の金持ちとは言えないのだ。

 富を持つ者には「高貴なる義務」が課せられているのである。その「高貴なる義務」は自分の富に見合う分だけの慈善活動をしなければならないということだ。富を持っているのだから、それを貧しい人たちの役立てなければならないのだ。貧乏人なら慈善活動をしたとしてもせいぜい自分の労働力を提供するだけだ。しかしお金持ちになれば自分の資産を割いて大規模の慈善活動をしなければならないのだ。

 古今東西、豊かさの中で凄まじい悲劇を抑えるためには、宗教に次いで慈善活動が大きな効果を有するのだ。だからこそどのお金持ちたちも慈善活動をするのである。慈善活動は確かに慈善対象者たちのために行うものだ。しかしお金持ちたちは自分自身や自分の家族のためにやっていることもまた事実なのである。

 基本的に会社経営に成功し、その退職後に慈善活動をするべきなのである。社長を退き、会長になり、その会長の仕事をこなしながら慈善活動をし、会長を退職したら本格的に慈善活動をすればいいのである。お金持ちには引退して遊び呆けるという選択肢はないのである。高貴なる義務があるからこそ、老後もしょぼくれることなく、充実した日々を過ごすことができるのである。

 慈善活動を本格的にするためには、定年退職前から夫婦で話し合って、充分に計画を練り上げておくことだ。幾ら慈善活動とはいえ、全ての慈善活動に手を出すことはできないのだ。慈善活動と雖も特化するからこそ成功するのであり、出来ることなら1つの慈善活動に絞り込むべきなのである。慈善活動もビジネス同様、夫婦の協力なくして成功することはないのである。

●財団法人を作る

 慈善活動を本格的にやるのなら、財団法人を作ってしまうことだ。他の財団法人に寄付してもその寄付金が本当に慈善活動に使われることは保証できないし、非営利特定法人を作っても資金不足で余り巧く行かないものなのだ。自分たちの資産を割いて、充分な資金を持った財産法人を作るからこそ、慈善活動が本格的に展開されることになるのだ。

 慈善活動をするために自分たち夫婦の資産を割くことに躊躇する夫婦たちは非常に多いのだが、自分たちが老後になって莫大な資産を持っていても大して使い道はないのだ。高齢になっているからグルメはできないし、海外旅行に行っても疲れるだけなのである。そうやって自分たちのためにお金を使うのではなく、恵まれない人たちのためにお金を使うと、老後の生き甲斐がしっかりと出来上がり、晩年を楽しく過ごすことができるのである。

 もしも自分たちが死んでしまうと、相続税で資産がごっそりと消えてしまし、子供たちが居遺産を相続しても資産が分割されてしまい、その後、資産が消滅してしまうものなのである。そういうことよりも自分たち夫婦の資産を財団法人にして資産を保全し、資産が消滅して行かないようにすべきなのである。

 財団法人を作る場合、財団法人の組織というものが非常に重要になって来る。財団法人の命運はこの組織作りにあるといっても過言ではないのだ。財団法人は資産が法人を作るので、一旦、定款で財団法人の組織を定めてしまうと、それ以降、組織を変更することが非常に難しくなるのだ。

 財団法人には「評議会」「理事会」「監事会」の三権分立は絶対に必要になる。基本的には財団法人を作った自分が理事長になるべきなのである。できることなら職員たちのヤル気を引き出すために、職員集会を設置して、職員たちが拘わる重要事項に関しては、職員集会を開き、そこで賛否を問うようにすべきなのである。

●政府からの補助金を受け取らない

 財団法人がまともな慈善活動をしたいのなら、自分たちの資金で慈善活動を行うことだ。政府からの補助金を絶対に受け取らないようにすることだ。政府からの補助金は財団法人を死滅させるものなのである。多くの財団法人が機能しなくなってしまうのは、安易に政府から補助金を貰ってしまうからなのである。

 ではどうやって財団法人の資金を賄えばいいのか?

①資産運用益

 まずはなんといっても財団法人の資産を運用して、その資産運用益を使って行くべきなのである。基本的には資産運用益の50%は再投資に回して資産を増やして行き、残りの50%を慈善活動に使って行くことだ。こうすると財団法人の資産が増えて行くために、時間の経過と共に資産運用益が大きくなり、より大きな慈善活動を展開することができるようになるのだ。

②公益事業での収益

 公益事業を無料で行うものもあるが、公益事業でも有料化し、資金を調達してしまうというのも1つの賢い遣り方なのだ。公益事業が赤字なら、いずれ公益事業が破綻してしまうものなのである。お金を取っていい公益事業に関しては有料化してしまい、公益事業を早くに軌道に乗せることも必要なのである。

③財団法人として営利事業を行う

 財団法人は公益事業だけでなく、営利事業をも行っていいのである。財団法人として営利事業を行い、その営利事業で収益を出してしまい、それを公益事業のために使って行けばいいのである。営利事業には税金がかかるが、税率が会社よりも安いために、簡単に営利事業を成功させることができるのである。

 財団法人は資金源を軽視したのなら途端に機能しなくなるものなのである。財団法人は会社と違って、株式配当がないためにその収益を全て慈善活動に使って行くことができるものなのである。それなのに財団法人が機能しなくなるのは、資金源を甘く見ているからなのである。自分たちの財団法人の資金源が解らなければ、財団法人はあってなきが如きになるのだ。

●富の還元

 ビジネスはどうしても成功する者たちと失敗する者たちが出て来る。成功者たちは莫大な富を持つと同時に、失敗者たちは生活ですら苦しい状態になってしまうのだ。確かにビジネスの成功者が出て来ることで、新たな商品や新たなサービスが誕生し、人々を豊かにしていくことができる。しかしそれには限界があるものなのである。

 富というのは「豊かな者は益々豊かになり、貧しい者は益々貧しくなっていく」という動きを取るからだ。これは「富の法則」というべきものであって、これを放置してしまえば、階級が分裂してしまい、国内では階級闘争の危険を高めてしまうのである。お金持ちと貧乏人が憎しみ合うことほど馬鹿らしいものはないのだ。

 「富の法則」を巧く活用していくためには、人々の自助努力を促してビジネスをさせると同時に、ビジネスに成功した人たちは真剣になって慈善活動をして行かなければならないのだ。これをやるからこそ、富は国内を循環して行き、豊かな者も貧しき者もみんなが富の恩恵を享受することができるのである。

 富の還元はお金持ちたちの「聖なる義務」なのである。お金持ちができる慈善活動なんて高が知れている。しかしごく少ない慈善活動が効果的な威力を発揮するものなのである。しかしお金持ちが慈善活動をしなければ、国内は非常に危険な状態になり、結果的に階級闘争が起こり、お金持ちを潰そうと躍起なるのだ。そしてお金持ちを潰してしまえば、国民全員が極貧状態になってしまうのだ。

 慈善活動をする場合、まず自分たちが豊かな生活をしていなければならないし、心も豊かでなければならない。貧しい人々を相手にしているから、それに感化されて心を貧しくしてはならないのだ。増してや自分たちの生活自体が貧しくなってもならないのだ。慈善活動は経済的にも精神的にも豊かだからこそできるのであって、そのことを絶対に忘れてはならないのである。

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生きた宗教と死んだ宗教

●生きた宗教と死んだ宗教の判別は非常に簡単!

 宗教には「生きた宗教」と「死んだ宗教」の2種類がある。宗教を全て同じだと思ってはならない。生きた宗教は信者たちに莫大な利益を齎すが、死んだ宗教は信者たちに莫大な損害を引き起こす。宗教に対して善悪を持ち込んでしまうと、宗教の真贋を見極めることができないのだ。宗教には生きているのか死んでいるのか、その基準しかないのだ。

 生きた宗教は必ずお金に対してシビアである。

 それに対して死んだ宗教はお金に意地汚いものなのである。

 生きた宗教は真っ当な宗教活動をやっているから確実にお金を集めることができるし、そのお金の使い方も合理的だ。一方死んだ宗教は真っ当な宗教活動をしていないから、確実にお金に執着し、信者たちからお金を収奪しようとすることばかり考えて来る。教団が提供する宗教サービスに対して、購入金額が上回れば、誰だって「損をした!」と思うものなのである。

 神社では参拝するために入場料を取られることはないが、仏教寺院の中には拝観料を取られる所がある。参拝に対して拝観料を取る宗教団体は死んだ宗教だと看做していい。拝観料などは宝物殿で宝物を見せるなら徴収しても別に構わない。しかし参拝するのにそんなお金を取ってはならないのだ。

 しかし宗教施設を維持管理するためにはお金がかかる。だからこそ神社では賽銭箱を設けてお賽銭を取っているし、仏教寺院でも拝観料を取らない所では神社と同じ形式が取られている。横浜の中華街の関帝廟では拝観料代わりに線香代を請求し、参拝客に対して強制的にお線香を買わして資金を調達しているのだ。実に商魂逞しいのだ。

 大体、宗教に対してどれくらいの資金を出すことが限界なのかは、既にユダヤ教が戒律の中で定めている。それは「10分の1税」というものであって、収入の10%を教団に寄付しなさいというものだ。年収1千万円なら年間100万円の資金を教団に出さなくてはならないのだ。

 神道や仏教の感覚だとユダヤ教の会費は高いと思ってしまうが、大体、これが宗教に対して出す資金の限界点なのである。宗教トラブルを考える時、霊感商法がどうのこうのよりも、信者が年収の10%を超えてまで資金を出すことは「宗教の限界」を超えているのだということが解っていれば、宗教トラブルで本当に問題にすべき問題はどれかということが解って来るのだ。

●結局、宗教団体は「人件費問題」こそが最大の問題なのである

 宗教団体が効果的な活動をするためには、信者たちが集まって「講」のようなものを開いていても意味がない。信者と宗教家に分け、宗教家たちが専業で宗教の仕事をしてくれるからこそ、その宗教団体は発展していくのだ。当然に信者たちはその宗教家たちの生活費を支えなければならなくなるのだ。

 ということは、結局、宗教団体は「人件費問題」こそが最大の問題なのである。宗教家の数が多過ぎたり、高額所得を得ていれば、当然に信者たちに高い過ぎる負担を強いてしまい、信者たちが疲弊してしまい、教団から離脱していくことになるのだ。宗教団体を発展させるためぬは宗教家の数を少なくし、その宗教家たちに対して支払う給料を常識的な範囲内にしておかなければならないのだ。

 神社神道では神職者たちが全国に1万人程度しかいない。それに対して既成仏教の僧侶たちは全国に300万人以上のである。ということは神社の崇敬者たちの経済負担は少ないが、仏教の信者たちの経済負担は非常に大きいということだ。江戸時代までの仏教は出家が守らていたから僧侶に独身を強いたのだが、明治維新以後はどの教団も浄土真宗を見習ってしまい、僧侶が出家せず結婚することになってしまったのだ。余計に重たい負担になってしまったのだ。

 神社神道は宗教家の数が少ない分、布教をしない。というか神社神道は教義というものを立てていない。祭祀に特化した宗教団体であるのだ。その一方、仏教は世界最大の経典数を誇り、僧侶たちも盛んに布教をしてlくる。仏教の信者たちは高い経済負担を強いられる分、僧侶から仏教の教えを説いて貰うことになるのだ。

 「なぜカトリック諸国よりプロテスタン諸国の方が豊かなのか?」という疑問に対して、人件費のことが解っていれば簡単に答えが出て来るのだ。プロテスタンでは聖職者がいないから、信者たちの経済f負担が軽くて済むのだ。その代わり宗教が素人的になってしまい、カトリックで行われているようなプロ的な宗教にはならないのだ。

●既成宗教と新興宗教の違い

 既成宗教と新興宗教は明らかに違う。その宗教が古いか新しいかだけではなく、資金の調達方法がまるで違うのである。既成宗教は寄付金が頼りで、寄付金の占める割合が予算の半分以上を占める。それに対して新興宗教は会費方式で、会費の占める割合が予算の半分以上を占めるのだ。

 既成宗教では寄付金方式だから、信者たちが教団の経営に参加してくることはない。寄付金を出すのか否かは個人の自由だから、教団は信者たちから寄付金を貰っても、後はそれを自由に使えばいいのである。しかし新興宗教団体では会費方式だから、信者たちを経営に参加させ、信者たちの意見を反映させなければならないのだ。

 このため既成宗教団体の組織は旧式なものだが、新興宗教団体の組織は非常に新しいのだ。組織が新しいからこそ、信者たちに対して充分な宗教サービスを展開することができ、布教に打って出て行くことができるのである。信者たちとしてはその教団に高い会費を支払っても、それ以上の利益を得ることができるのである。

 だから新興宗教団体が寄付金に頼り始めたら、必ず問題になる。寄付金に頼ってしまうと、組織が硬直化して行き、信者たちの意見が反映されなくなりはじめるのだ。例えば創価学会では形式上会費を徴収しないのだが、聖教新聞の定期購読が会費になっているのだ。だからこそ創価学会は大躍進したのである。ところが大石寺の建立で寄付金を徴収し始めた頃から創価学会が全国の至る所でトラブルを発生させるようになったのである。

 新興宗教団体が新興宗教団体であることを維持するためには、寄付金に頼ってはならないのである。会費方式を貫かなければならないのである。事実、創価学会では寄付金に頼り始めた時から信者数は増えていないのだ。1970年代以降、信者数は現状維持をし続けているのである。

●会計監査と会計報告

 既成宗教団体であれ、新興宗教団体であれ、会計監査はしっかりとしておかなければならない。専門で会計監査を行う監査役を設けておくべきであり、宗教家たちが不正を働いたのなら、必ずそれを指摘できるようにし、評議会なり総会なり通報できるようなシステムを構築しておかなければならないのだ。

 新興宗教団体であるなら信者たちから会費を徴収している以上、信者たちに会計報告をしなければならない。会計報告は信者たちを集めて口頭で行うべきであり、会計報告を書類にして信者たちに渡すべきなのである。これがないと教団の財政は非常に不明瞭になってしまい、教団の宗教家たちは汚職をしまくることになるのだ。

 宗教は教義が違えども、お金に関しては共通なのである。

 教義に拘ってしまうと宗教の本当の姿が解ってこないのだ。自分が信仰している宗教の教義を絶対視してしまえば、他の宗教の教義は全部駄目ということになる。しかしその判定法が正しいわけがないのだ。大体、神社神道では教義を立てていないのだ。世の中にはそういう宗教もあるのである。

 正しい判定法は「お金」なのである。お金にシビアな教団は必ず成功していくし、お金に汚い教団は必ず問題を起こして来る。お金に着目していれば、宗教の真贋が解って来るものなのである。取り敢えず、その教団は信者たちに会計報告をしているのかということを調べるだけでも、その教団の真の姿が朧げながら解って来るものなのである。

 生きた宗教は信者たちを搾取しないから、信者たちは必ず子孫を繁栄させてくる。一方、死んだ宗教は信者たちを搾取するから、信者たちは子孫を繁栄してこない。宗教というのはそうやって生存競争を戦っているのであって、信者数の自然増をできる教団が勝ち、信者数の自然減をしてしまう教団が負けて行くものなのである。

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秘策その8 宗教を大事にする

●宗教によって生活を規定する

 お金持ちの中で長らく続いているお金持ちというのは、実はそう多くないのだ。お金持ちの内、8割が成り上がり者たちで、残りの2割程度が相続によるお金持ちたちなのである。お金持ちは親がお金持ちだったんだろうと思うのは致命的な誤解で、お金持ちの子供といえどもお金持ちとして生き残れるのはごく僅かなのだ。 

 日本人の家系というものは、3代目で滅んでいる例が非常に多いのだ。これは中国のように3代目で隆盛を迎えるのとは大違いなのだ。日本では表面的には父系家族ではあっても、実質は母系家族色が強いために、どうしても母親たちが子供を甘やかしてしまい、それで碌でもない子供が育って来て、結局、自分たちの家族を滅ぼしてしまうのである。

 お金持ちの中で子子孫孫お金持ちでいられる家族は必ずといっていいほど何かしらの宗教を持っている。その家族に宗教があると、豊かさの中で凄まじい悲劇が起こりにくくなり、しかも優秀な子孫に恵まれるようになるので、家系が絶えることなく続き、資産を遺産相続させていくだけでなく、分家を増やして繁栄して行くことができるのである。

 なんで宗教がこのような劇的な効果を発揮するのかといえば、それにはちゃんと理由がある。

①神の絶対性と人間の相対化

 まず初めに、宗教があれば神の絶対性を強調することになるので、自分を絶対化することがなくなり、自分を相対化することができるのである。簡単な言葉でいえば「謙虚になる」ということなのであり、家族中の誰もが謙虚になるために、家族中が和気藹藹となり、優秀な子孫が育って来るようになるのだ。

②先祖祭祀

 日本の宗教は必ず先祖祭祀を含んでいるのであって、宗教心があれば必ず先祖祭祀が行われるということなのだ。個人の気まぐれに任しておいたら、幾ら先祖祭祀の大切さを教えても、相続を重ねるごとにその教えが薄れて行き、3代目になる頃には先祖祭祀をしなくなるのだ。悲劇はまさにその時に起こって来るのである。

③宗教による生活規定

 宗教にはその宗教独自の生活規定がある。宗教によって自分たちの生活を規定するからこそ、自分の我儘を抑えることができ、世の中が幾ら変化しても生き残っていくことができるようになるのだ。個性的な生き方は確かに魅力的だ。しかし個性的な生き方は非常に相続しにくいのであって、親が個性的であればあるほど、その子供は親の生活を継承できず、結果的にその家族の生活を破壊してしまうことになるのだ。

 優れた宗教には、必ず「無病息災」とか「家内安全」とか「子孫繁栄」とかをさせるものが含まれているのだ。だから宗教によって自分の生活を規定してしまえば、普通の人たちよりも病気に罹りにくくなるし、家庭内は和やかになるし、子孫が大量に繁栄していくことになるのだ。当然にそのような家族には幸福の中で凄まじい悲劇は起きにくいし、優秀な子孫も数多く育って来ることになるのだ。

●宗教書を読む

 人間の心というものは生きていれば汚れるものだ。人々は体の汚れに気付いても、心の汚れには気付かないものだ。しかしそうやって心の汚れを放置していくと、自分の心が汚れで真っ黒になり、平気で堕落的なことをやってしまい、それによって家族が破滅して行くようなことをやってしまうのである。

 だから定期的に宗教書を読んで心を浄化しなければならないのだ。宗教書を読む時間をランダムに設けけるのではなく、月に1度とか、週に1度とか、そういう風に規則正しく「聖なる時間」を定めておくことが必要なのである。その日は仕事や家事を休んで、宗教書を真剣になって読むために充てるべきなのである。

 何事も自分のレベルで考えるのではなく、神様の波長に合わして考えるべきなのである。仕事ばかりしていれば、自分のレベルでしか物事を考えられなくなるものなのである。だから一旦仕事から離れて、宗教書を読み、神様の波長に合わせることが必要になってくるのだ。逆説的かもしれないが、そうやって仕事をしないで宗教の時間を設ける方が、仕事を大きな視点で見ることができ、結果的に自分の仕事が成功してしまうのである。

 宗教書というのは一読して終わりになるようにはなっていない。1冊の宗教書を読めば、他の宗教書も読みたくなるものなのだ。しかもいい宗教書ほど何度読み返しても味わうことができ、そうやって何度も読み返して行けば、自分の愛読書になってしまうものなのである。宗教書を自分の愛読書になるまで読み込むからこそ、その宗教が生きた物になってくるのである。

 宗教書を読むと、その宗教を理解するだけではなく、世の中の動きが自然と解るようになるのだ。宗教書は神の視点から書かれた物であるがゆえに、世の中の動きに翻弄されるのではなく、世の中の動きを見切ってしまい、先手先手で動いて行けるようになるのだ。無宗教の人に限って世の中を批判しているものだが、そういうことをやっているからこそ、社会に流されてしまい、自分が本当にしたいことを何1つできなくなってしまうのである。

●宗教活動に参加する

 自分で宗教心を持つことは「無料」だが、宗教団体に入れば「有料」である。宗教団体の信者になることが有料だからといって、それを拒否していると危険な事態を招きかねないのだ。そうやって宗教を「マイ宗教」にしてしまう人は、宗教の本質を何も理解していないのである。

 宗教団体は人類が生存競争を生き抜くための道具なのである。

 宗教団体として優秀な教団は必ず信者たちにお金や時間を供出させる。そうやって教団に資金や労働力を集めてしまえば、教団として宗教活動をすることが可能になり、個人では決してできないことを遣り遂げてくれるのである。特に宗教施設を作ってしまえば、その宗教特有の知識と技術が蓄積されて行くことになり、信者たちが常に繁栄して行くことができるようになるのだ。

 宗教団体に対する負担が大きければ大きいほど余所者を排除することができる。宗教団体は宣教することになるが、無闇に信者数が増えるのは危険なのである。飽くまでも或る一定レベルに達している者でないと信者として役に立たないのだ。教団にとって何もせずに宗教サービスを受ける信者は非常に困り者なのである。

 宗教団体は排他的であればあるほど良いのだ。そうすれば信者たちは参加意欲が高まるし、自分たちのお金や時間が倍増して自分たちに還元されることになるのだ。こういう遣り方は必ずマスコミやら弁護士やら人権団体やらに非難されることになる。だからこそ派手に宗教活動を展開するのではなく、秘密裡に宗教活動を展開するようにすべきなのである。

 排他的な宗教団体ではその信者間の結束力は半端なものではない。通常の人間関係では絶対に作り出すことのできない繋がりを宗教の力で作ってしまうのである。このため宗教団体に参加して仲間を作ってしまうと、終生破壊されることのない友人になってしまい、しかもその友人は道徳律を持った友人であるので、いざという時に非常に信用できるようになるのだ。

 宗教団体を宗教の視点からしか見ないからこそ、宗教団体の実態が見えないのである。宗教団体は宗教活動をしながら、「ビジネス上の保険」を売っているものなのである。失業すれば真っ先に再就職先を提供してくれるし、起業しようとすれば資金を割安で貸してくれるし、様々なビジネスチャンスをくれたりするのだ。これだけハイリターンの保険は通常の保険会社では絶対に売っていないのである。

●宗教に対する中庸を保つ

 しかし宗教には危険な要素もある。それは宗教に対して狂信的になったら、歯止めが効かなくなるということなのである。信者を狂信的にさせてしまう宗教はまともな宗教ではない。だがその宗教団体が「信仰」を強調し始めると、その信仰の使い方を間違えると、確実に狂信的になってしまうものなのである。

 「信仰義認説」は「自己義認説」に早変わりするものなのである。

 こうなると幾らその宗教を信仰したとしても、自分の人生に対してなんの役に立つことがなくなるのだ。要は「自分は信仰しているのだから正しいのであって、だから自分は常に正しい」ということになってしまい、自分は全く成長していかないし、その内、周囲の友人たちが去って行ってしまうのである。

 宗教心を持つ時、信仰を矢鱈に強調する宗教は避けることだ。

 もう1つは他の宗教に対して関心を持つということだ。

 この2つを守っていれば、宗教の危険性を抑えることができるのである。

 日本人であるなら、如何なる宗教心を持っていたとしても、「神道」「仏教」「儒教」の3つに関しては関心を持っておくべきなのである。神道を理解するためには『古事記』や『日本書紀』を読むべきだし、仏教を理解するためには『阿含経』や『法華経』を読むべきだし、儒教を理解するためには『大学』や『論語』を読むべきなのである。これ以外にも『聖書』を読んでユダヤ教やキリスト教を理解すべきだし、『コーラン』を読んでイスラム教を理解すべきなのである。

 どの宗教にも教典には立派なことが書かれているが、実際にその宗教の信者たちが何をやったのか知るためには「宗教史」をしっかりと押さえておくことだ。教典を読んで宗教史を読まないと、その宗教を正しく理解することはできないのだ。教典を鵜呑みこすることほど、危険なものはないのだ。

 自分が確固たる宗教心を持ちつつも、他の宗教を知ることで「宗教に対する中庸」を保っておくことだ。世の中を生きていれば邪教を信仰している人に出会ったりして、宗教論争をしてしまったりするものだ。キリスト教とイスラム教の戦いのように、なぜ宗教同士が仲良くできないのかと愚かな願望を抱いたりしてしまうものだ。

 結局、優秀な宗教は生き残って繁栄していき、駄目な宗教は衰退して滅亡して行くものなのである。宗教をとやかく言うのではなく、宗教に対する中庸を保って、神の見えざる力に任すしかないのだ。現在、どんなに世界中に広まっている宗教と雖も、信者たちを繁栄させることのできない宗教は神よって滅亡されていくものなのである。

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おまけ 『魔女の宅急便』を他の作品と比較してみた

●『赤毛のアン』との比較

 文学好きの人なら『魔女の宅急便』を読めば、「『赤毛のアン』と似ているな」と思うことだろう。それもその筈、両者は内容が違えども、第一巻で完結しているのは双方一緒なのである。第一巻で完結しているのに、その第一巻で人気が爆発してしまい、その後、続編を書き、シリーズ化されたのである。

 

 第一巻の内容を比べてみると、『赤毛のアン』の方に軍配が上がる。孤児上がりのアンが養父母に引き取られ、最初はお喋りで自分を誤魔化すことしかしていないアンが養父母や友人たちとの人間関係の中で成長して行くからだ。特にアンはちゃんと親友を作っているのであり、その親友との友情がきちんと構築された上で初恋をするようになるからだ。

 一方、『魔女の宅急便』は主人公のキキが魔女の血を引くとはいえ、両親にも、郷土の人々にも愛され、更には修行先の町でも人々から愛されるという非常に恵まれた環境に居るのだ。キキは第一巻では親友を作らず、初恋もしていない。飽くまでも魔女として自立しなければならないから、魔女の宅急便事業の方がメインになっているのだ。

 しかしその後の両者の命運は全く分かれる。

 『赤毛のアン』の第二巻以降は全て駄作なのである。第一巻で現れたアンの良さが全て消えてしまっているのである。なぜこんなことになってしまったのかというと、作者のルーシー・モントゴメリは書き方を変えたのである。第一巻は新聞記者として仕事をしながら夜に書いていたのだが、第二巻以降は結婚して牧師の妻となり、家族が起きて来る前の早朝に書くようになったからだ。小説は早朝に書いてはならないものなのである。

 しかもモンゴメリの結婚生活は不幸で、牧師の夫が鬱病を発症し、終生その鬱病が治らなかったのだ。更にはモンゴメリ自身が牧師の妻なのに無神論者になっていき、牧師の妻として教会活動に従事しているのに、その裏ではキリスト教を捨てていたのである。こういう状況下では出来のいい小説など書ける訳がないのだ。

 『魔女の宅急便』は第二巻以降、キキ自身が徐々に魔女として成長して行き、その成長過程が物凄く巧く書かれているのだ。これは作者の角野栄子が童話作家として充分なキャリアを積み、脂の乗り切った状態で少女文学を書くようになったからなのである。これが一発屋のモンゴメリと、キャリアを積んだ角野栄子の決定的な違いなのである。

●『ハリー・ポッター』との比較

 魔法が出て来るというのでは『ハリー・ポッター』と同じである。但し『ハリー・ポッター』は主人公が男の子であるので、「男の子は魔法を使ってはならないだろう」とつい突っ込みを入れたくなってしまう。魔法は女の子だからこそ使えるべき物で、男の子なら実力で勝負して行くいかないのである。

 しかし実際にドルイド教が存在したイギリスでは今でも魔女たちが活動していて、魔法使いというのは必ずしも魔女たちだけではないというのが一般的な認識なのである。魔法使いの男性版でである「魔男」というものもきちんと存在しているのである。この歴史的背景の違いが魔男を主人公にした少年文学を作っても大ヒットしてしまった理由であろう。

 『ハリー・ポッター』は主人公の少年が自分の両親を殺害した魔男に復讐を働くというとんでもない物語なのである。これは男の子なら誰でも経験する冒険旅行が入っているからこそ、子供達が熱狂したのである。しかしハリー・ポッターは魔男なのに自然崇拝がまるでないのである。これでは魔男として失格なのである。キキは魔女だからこそ、必ず自然崇拝をやっているし、しかも巻ごとに春夏秋冬がきちんと綴られているのである。、

 両者とも映画化されたことでは一緒なのだが、『ハリー・ポッター』の方が世界的大ヒットになってしまった。その最大の理由は作者のJ・K・ローリングが離婚によって切羽詰まった状況で書いた本だからなのである。子育てをしながら、昼は仕事をし、夜はファミレスで小説を書いたからこそ、出来のいい作品が出来上がったのである。

 離婚というのは人生の転換期なのである。そこで普通の人たちは自分の人生を転換せず、離婚して清々したと思うからこそ、人生のドツボに嵌って行くのである。そうではなく、離婚を機に、小説家へと一気にシフトを切れば、大成功を収めることも有り得るのである。或る意味、『ハリー・ポッター』は特殊な作品であり、作者の離婚を考慮しないと、「なんであんな本が売れるんだ?」と間違った疑問を抱いてしまうことになるのだ。

●作者の角野栄子は非常に丁寧に書いている

 俺自身が、『魔女の宅急便』を読んで思ったのは、「文章が非常に巧い」ということなのである。無駄な言葉や文章がないし、論旨が明解になっているのだ。文章が踊っているためにまるでキキや他の登場人物たちが実際に生きているかのような錯覚を受けてしまうのである。

 普通、女性の小説家が小説を書いた場合、女性であるがゆえに無駄な言葉や文章をふんだんに入れて来るものなのである。このため頁数は多くても、内容は非常に薄いということになってしまうのである。なんで角野栄子だけ他の女性作家たちと違うのかといえば、彼女が童話作家上がりだからなのである。童話は言葉数が少ないために、言葉を慎重に選んで書かなければならない。この経験が少女文学を書いた時に思う存分活かされたのである。

 『魔女の宅急便』シリーズはその発行した年を調べて行くと、その出来の良さの理由が解って来る。

第一巻 1985年

第二巻 1993年

第三巻 2000年

第四巻 2004年

第五巻 2007年

第六巻 2009年

 角野栄子はしっかり間隔を空けて作品を書いたということなのである。普通、『魔女の宅急便』レベルの小説を書くなら、1日で四百字詰め原稿用紙10枚書けるから、大体30日で書き上げてしまうものなのである。それに推敲を加えても、2ヵ月で出来上がるものなのである。それなのにシリーズが完結するまでに24年の歳月を費やしているのだから、作品を1つ1つ丁寧に書いて行ったし、推敲にも充分な時間をかけたのであろう。

 遅筆では駄作しか書けないものだし、推敲のし過ぎは作品を駄目にしてしまうものなのである。

 角野栄子自身、遅筆ではないであろう。彼女自身、大量の作品を作り上げているからだ。要は自分の頭の中で物語が巧く発酵するまで充分に時間を取り、その後、物語が出来次第、一気に書き上げて行くべきなのである。そして書き上げた作品に対して推敲をする時間を充分に取っていないと、自分が満足行く作品にはならないのである。

 イギリスやアメリカでは小説家たちが頭の中で物語を発酵させずに書く傾向があり、しかも推敲は10回以上するのが当たり前で、中には20回以上推敲する者もいるのだ。こうなると、最初書いた物の出来が悪い物だし、推敲のし過ぎで後から余りにも多くの文章を付け加えてしまうのである。イギリスやアメリカの小説を読むと「間延びしているな」と感想を持ってしまうのだが、これは書き方に致命的な問題があるからなのである。

 後、もう1つ上げるべきことは「挿絵の良さ」なのである。挿絵を見ているだけでキキの成長が良く解るようになっているのだ。挿絵の出来不出来で少女文学の評価も違ってくるので、挿絵を書く作家の実力とか相性とかも大事なことになってくるのである。挿絵を書いた作家は3人居るので、それぞれ画風が違うので、それを見比べてみるのも面白いかもしれない。

●福音館書店という落とし穴

 『魔女の宅急便』の最大のミスが「ケケに対する設定ミス」であろう。ケケを同い年の魔女としなかったために、キキが親友を作ることができず、その後のキキの恋もまともな恋愛にならなくなってしまったのである。なぜこんなことが起こったのかというと、『魔女の宅急便』は福音館書店で出版されてしまったからであろう。

 福音館書店では奥書に編集者の名前を出していないのだ。

 ということは、福音館書店は編集者の価値を全く評価していないということなのだ。

 これでは編集者が作品を編集できても、物語設定の問題点を指摘することができなくなってしまうのである。『魔女の宅急便』を読んでおかしいと思うのは、第一巻と第二巻が同じトーンで書かれているのに、第三巻以降トーンが違っているのである。内部事情は良く解らないが、編集者が代わったか、編集者が病気になったかしたのであろう。

 第三巻の構想の段階で角野栄子が「ケケというもう1人の魔女を出そうと思うの」と言って来たのなら、「じゃ、年下の魔女ではおかしいんじゃないの?」と反論できる編集者が居たのなら、あのような設定ミスはしなかったのである。明らかにケケのキャラはおかしいのである。

 もしもケケがお同い年の魔女で、キキとケケが親友になれたのなら、その後、「とんぼ」以外の男性が出現して来て、キキは恋愛をすることができたのである。となれば第四巻で「キキの恋」と銘打っていながら、「キキ」と「とんぼ」の関係が盛り上がって行かないということは免れたのである。

 キキがきちんと恋愛をしたのなら、第五巻と第六巻の間が飛んでしまうようなことがなくなり、「キキが結婚するまで」「結婚から出産まで」「キキの育児」「保育園」「幼稚園」「小学校」と、少なくとも後6冊は作れたのである。それに「ケケ別伝」を作ってしまえば、合計13巻ものシリーズを作れた筈なのである。

 角野栄子の才能を高く評価していたのは、f福音館書店ではなく、実は講談社の方なのである。講談社は『魔女の宅急便』に対して野間児童文芸賞を贈っているのだ。もしも角野栄子が講談社で『魔女の宅急便』を出していたのなら、角野栄子に「講談社マジック」が働き、福音館書店がやったようなミスをせず、非常に出来のいい作品にすることができただろうと思う。実に惜しいことをした。

●もう1つの鍵を持っていないと

 『魔女の宅急便』は女子小学生が読めば魔法が出て来る御伽話にしか見えないであろう。女子中学生が『魔女の宅急便』を読めばキキが魔女の宅急便をしながら悩み傷つき成長していく姿に感動することであろう。しかし女子高校生になると『魔女の宅急便』が読めなくなる。なぜならキキには親友がいないし、キキはちゃんとした恋愛をしていないからだ。

 だが女性が結婚してしまうと、この『魔女の宅急便』は読めるのである。角野栄子の愛情が全ての場所に鏤められているから、読んでいて非常に楽しいのである。特に第六巻は母子の関係が物凄くリアルに書かれており、母親であるなら感動してしまうことだろう。こういうことは独身の女性作家ではできず、作家自体が結婚して育児をしてこないと書けないものなのである。

 『魔女の宅急便』は『赤毛のアン』ほど名作ではない。『ハリー・ポッター』ほど売れた訳ではない。しかし読者にそれなりの読解力があれば幾らでも楽しむことができる傑作なのである。逆に言えば『赤毛のアン』も『ハリー・ポッター』も自己完結しているのだ。ところが『魔女の宅急便』はそうではないのだ。

 自分がもう1つ鍵を持っていれば、幾らでも楽しむことができる本なのである。

 自分が青春時代にきちんと親友を作っていれば、ケケの設定ミスに気付けることだろう。キキとケケの遣り取りは年上と年下の関係では有り得ないからだ。明らかに年齢が同じでないと起こらないことだからだ。自分が一度でもまともな恋愛をしたことがあるなら、「キキの恋は恋愛になっていない!」ということに気付くことだろう。とんぼは冒険旅行を成功させていないから、キキの心の中にある「偽りの上位自我」を破壊できないのだ。

 『魔女の宅急便』は映画化されてしまったから、『魔女の宅急便』といえば映画のことを喋って来る人たちが圧倒的に多い。しかし映画よりも遥かに原作の方が面白いのだ。その面白さは自分の精神レベルが高ければ高いほど面白いと思えるものなのである。それだけ角野栄子の仕事の出来が良かったということなのである。

 女の子が『魔女の宅急便』を読んで、「自分も魔女になりたい!」と言い出して来るのなら、それはお角違いなのである。増してや「ヤマト運輸に入社したい!」と言い出してもお角違いなのである。キキは魔女として自立して行ったのであり、まずはそこを学ぶべきなのである。フェミニストたちのようの「女性の自立!」を叫んで、女性たちは自立できるのではないのだ。矢張り女の子が自立していくためには我武者羅になって突き進み、悪戦苦闘しまくるしかないのである。

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中学生という最も厄介な時期

●もう子供ではないが、かといって大人ではない

 人生を幸せに生きたいのなら、年齢に応じた生き方をすることだ。子供は子供らしく、大人は大人らしく生きればいいのだ。子供なら1日中遊び呆けることは許されるが、大人が1日中遊び呆けることなどできない。大人は宗教だの哲学だの奥深いことを考えたりするが、それを子供がやったらおかしいであろう。

 問題は中学生や高校生といった思春期の真っ只中にいる人たちなのである。

 この時期は子供ではないが、大人ではないのだ。しかもこの時期は親からの自立が始まるので、親の言うことが素直に聞けなくのだ。中高生が子供達と混じって遊ぶのはおかしい。かといって中高生が大人達の仲間に入ってこられるものでもないのだ。居場所なんてないのであって、自分の力で居場所を作っていかなければばらないのである。

 『魔女の宅急便』を読んで感心してしまうのは、キキはその居場所作りに悪戦苦闘し、そうやって成長して行っていることなのである。

 中学校の3年間は高校の3年間とは違う意味で重要なのである。男女が性別ごとに完全に分かれて行く。しかも個々人に自我が芽生え、誰もが自分が個人であることを自覚する時期でもある。中学生なのに自分たちのグループに異性が居ては駄目なのである。それと同時に自分がグループの中に居てもグループに依存するような生き方をしても駄目なのである。

 子供の感覚が抜けきっていない中学生なら、自分たちのグループに平気で異性を入れてしまう。グループを作ったはいいが、そのグループに依存し過ぎてしまう。こうなれば自立していくことなど不可能になるのは当たり前なのだ。思春期だからこそ自分たちのグループから異性を排除し、グループにいても仲間に依存しないようにしなければならないのだ。

 中学3年間を遊び呆けていれば、あっという間に過ぎ去っていくものなのである。学校に行って勉強し、そして帰宅する日々を過ごすことは、誰でもできることなのであって、中学生ならそれ以上の何かを成し遂げれこなければならないのだ。そのためには目標を設定してしまうことなのである。何かしらの目標を設定してしまえば、短期間で成し遂げて行くことができるものなのである。

   

●「女性ホルモンの増加」「成長ホルモンの増加」「シナプスの減少」のジェットストリームアタック

 女子中学生なら、中学3年間の変化を身を以て体感することになる。

 まずは初潮を迎えたことによる「女性ホルモンの増加」だ。このためオッパイは出て来るし、自分の体が女らしくなってくる。次に成長期を迎えているために「成長ホルモンの増加」が起こり、背丈が急速に伸びて来る。トドメは「シナプスの減少」であって、16歳までシナプスの量が減少していき、それによって自我がくっきりと出来上がって来るのだ。

 この3つの物が重なると、他の時期では有り得ない急成長が起こるものなのである。このため小学生の時は大したことのなかった女の子でも、中学生の3年間を巧く使ってしまうと、一気に伸し上がって行くことができるのである。この時期、大事なことは自分がやるかやらないかの違いだけなのであって、自分がやると決めたのなら、後は自然に急成長していくものなのである。

 読書に熱くなれるのはこの時期だからこそなのである。中学生の時期だからこそ読書をしまくり、愛読書を見つけて行けばいいのだ。その愛読書がどれになるかは解らない。しかし読書をしまくっている者は必ず愛読書を見つけ出すことができ、その愛読書によって自分の人生の質が一気に高まるものなのである。

 音楽に熱くなれるのもこの時期だ。中学生だからこそ音楽を聞きまくり、自分の好きな曲があるなら、それを何度も何度も繰り返し聞くべきなのである。どんなジャンルの曲だって構わないのだ。自分が本当に好きと思える曲に出会うことができたのなら、音楽の真贋がなんとなく解って来るものなのである。

 中学生の時期は高校生の時期ほど目立つ時期ではないのだ。エネルギーが外側に向かうより、エネルギーが内側に向かっている時期なので、その変化は第三者が見ても気付きにくいのだ。しかし変化は確実に起こっているのであって、中学校を卒業する頃には中学入学の当時とは比べ物にならないくらいに成長しているものなのである。

●人生のギアチェンジ

 『魔女の宅急便』は人間には人生のギアチェンジを行う時期があるということを教えてくれる。それが「10歳」の時期であり、「13歳」の時期であるのだ。キキは10歳で魔女になることを決意し、13歳で魔女修行の旅に出るのである。キキは人生のギアチェンジに成功したからこそ、その後、トラブルに見舞われようともそれを解決していくことができるのである。

 この10歳という時期は非常に重要で、子供は10歳までなら親の言うことを素直に聞くが、10歳を過ぎると親の言うことを素直に聞けなくなる時期なのである。だから10歳になったら自分の夢を明確に持つべきであって、自分に夢がありさえすれば、その夢に向かって突き進んで行くことができるようになるのだ。

 13歳という時期は明らかに親から離れ、自立して行く時期なのである。現実世界では中学校に入学する時期なのであるが、この時期に自分がしっかりと修行をすれば、一気に急成長して行くことができるものなのである。だから荒れている中学校とか、教師の質が低い中学校は非常に困り物なのである。中学校の出来が悪いために、自分が急成長して行くことができなくなってしまうからだ。

 私立学校に進学した者は中学受験を経ることによって、13歳での人生のギアチェンジが非常に巧く行くのだ。中学受験によって自分の幼稚な部分を捨て去って行くことができるので、中学生になったら後は前進していくしかなくなってしまうのだ。公立の中学校に行った場合、中学受験がないから、平気で自分の幼稚な部分を中学校に持ち込んでしまうのだ。公立の中学校に行ったら、部活動に熱中するなどして、自分の幼稚な物を捨て去って行く努力を必ずしておいた方がいいのだ。

 中学生なのに自分の夢が明確になっておらず、ただ単に学校で勉強するというのは非常に危険な行為なのだ。そういう生き方は確かに試験で高い点数を取ることはできる。しかしその中学生は親から自立しようとせず、自分が将来一体何をすべきか解っていないから、その後の人生で迷いに迷い続けることになってしまうのである。

●男の子の成長過程と女の子の成長過程は違う

 男の子の成長過程と女の子の成長過程は違う。女の子の方が男の子よりも早くに成長し始め、成長速度も速いのだ。女の子が男の子たちに歩調を合わせていたら、自分の成長が遅れてしまうものなのである。中学生になったら絶対に男女平等など唱えるべきではないのだ。小学生までなら男女共々みんなと同じでいたいと思うことは許される。しかし中学生になればもうそれでは駄目なのである。

 女の子の場合、初潮を迎えることによって、嫌が応でも自分が女であることを自覚し、初潮以降、自分の体が女の体に変化して行くのである。このため男子と力勝負をすれば負けることになる。その一方で柔軟性を活かしたスポーツであるなら、男子よりも優雅なプレイをすることができるようになるのだ。

 男の子の精通は女の子の初潮よりも遥かに遅いものなのだ。このため男子中学生は女子中学生よりも遥かに幼稚なままだ。しかし一旦精通が始まると、男子中学生は急速に男らしくなり、その成長は異常なまでの急成長を遂げて来るのである。だから男子中学生たちと歩調を合わしていては駄目なのである。男子中学生に急成長が起こると、のんびりと生きて来た女子中学生は一気に抜かれてしまうのである。

 私立の女子中学校出身者に成功者が多いのは、学校に男子がいなかったから男子中学生に歩調を合わす必要性がなかったからなのである。学校には女子しかいないので、男子中学生を気にすることなく、女子中学生のペースで急成長を遂げて行くことができるのである。勿論、学校には女子生徒しかいないために、女子特有の下らない現象も起こりうるが、それでも女子中学生のペースを確保できるという利点は遥かに大きいのだ。

 公立学校のように男女共学の学校に行ってしまうと、女子中学生達は女子たちだけで集まり、男子中学生達は男子たちだけで集まる機会を持っておかないと、性別に応じたペースを確保できなくなってしまうのだ。大人になって「自立できない」と騒ぎ立てている女性たちは圧倒的に男女共学の中学で育った来た者たちが多いのだ。

●学校中心の生活にしない

 中学生の時期は自分に急成長が起こる時期なのである。その時期に自分が一体何をすればいいのかといえば、「自分の生活を学校中心の生活にしない」ということだ。学校では中学生の変化に対応できないのだ。如何なる学校でも中学生に対応するシステムを持つことなどできないのだ。それほどこの時期に中学生は変化して行くものなのである。

①学校以外で自分の居場所を作る

 もしもこの時期の成長をより素晴らしい物にしたいのなら、学校生活を楽しみつつ、学校の外でも自分の居場所を作ることなのである。学校中心の生活を送るからこそ、自分がきちんと成長できず、イジメに遭ったり、自殺者が出て来たりするのである。学校以外の場所で自分の居場所があれば、学校で何があっても避難することができるものなのである。

②実の親以外の親を作る

 それと自分の実の親以外の親を作ることだ。中学生になれば親の言うことは聞けなくなるのだ。だから自分の実の親以外の親を作り、その代わりの親から適切な助言を貰うのである。具体的には「師匠」なのである。師匠がいるからこそ、その師匠から教えを乞い、その教えによって更に成長して行くことができるのである。

③自分の好きなことに熱中する

 そして自分の好きなことに熱中することだ。中学生の時期に自分が好きなことに熱中すれば一気にその分野の能力が伸びて行くものなのである。高校生になってからでは遅すぎるのである。中学生の段階で自分の好きなことに熱中するからこそ、高校生の頃には充分な実力を持つことが出来、更に成長して行くことができるのである。

 意外なことかもしれないが、これら全てのことはキキがやったことなのである。だからこそ『魔女の宅急便』は面白いのである。女子中学生が中学生の時に一体何をすべきかということを小説の中で教えてくれるからなのである。何も『魔女の宅急便』を読んで魔女になろうとしなくていいのだ。大事なことは中学生の時期にしかできないことを必ずやっておくことなのである。

 『魔女の宅急便』が素晴らしいのは、キキは恋愛中心になっていないということなのである。低俗な女性作家なら少女文学であっても恋愛中心の物語を作ってしまうことだろう。しかし女子中学生がこの時期にすべきことは恋愛ではないのだ。自分がすべきことは沢山あるのである。それらをきちんとこなすからこそ、恋愛ができるのであって、女子中学生がすべきことを何もせず、恋愛などすることなどできないのだ。

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キキは本当に恋をしたのか?

●キキがした恋は恋愛ではなく相思性愛

 『魔女の宅急便』を読んで、もう1つ疑問に思うのが、「キキは本当に恋をしたのか?」ということなのである。なんせ第四巻の題名が『キキの恋』であり、第五巻のラストで「キキ」と「とんぼ」と付き合うことになるのだ。『魔女の宅急便』には第六巻もあるのだが、一応この第五巻が『魔女の宅急便』のクライマックスである。

  

 何事も最初が肝腎なのであるが、男女の交際も最初が一番肝腎である。男女の出会いを見ればそれが恋愛なのか恋愛ではないのか、一発で解ることになるのだ。原作では「とんぼ」はキキの箒を盗み、「とんぼ」はこの箒を使って空を飛ぼうとし、そして箒を壊してしまうのだ。ところが映画ではキキはとんぼに嫉妬し、その嫉妬によって魔法の力が衰え、無理矢理に空を飛ぼうしてキキ自身が箒を壊してしまうのだ。

 原作の方は主題に忠実であり、キキは魔女と自立して行く中で、男性である「とんぼ」によって、自分の母親から貰った箒が壊されてしまい、それをキキが自分で直すことになる。キキは自立へと歩み進めて行くのだ。だが映画では主題が何も解っていないのであって、キキは母親から貰った箒を自分で壊してしまうのだ。これではキキは自立できないのだ。事実、映画ではキキが「とんぼ」を助けに行く際に、清掃員が持っていたモップを借りて空を飛ぶことになるのだ。

 映画だとキキと「とんぼ」の関係が意味不明になってしまうが、原作をきちんと読んでいけば、キキにとって「とんぼ」は自分が魔女として自立するためには必要不可欠な存在なのであって、だからこそ「とんぼ」はキキのことを魔女だとしか見ていないのに、キキは徐々に好意を寄せ、最終的にはキキが魔女として本当に一人前になった時に、2人は交際することになるのである。

 この辺り、作者の角野栄子は非常に巧い物語展開をしているのである。

 しかしキキがした恋は「恋愛」ではなく、「相思性愛」というべきものなのだ。相思性愛は男女が互いに好きになってしまい、それで付き合ったにすぎないのだ。「キキ」と「とんぼ」は交際できたとしても、決して「運命の出会い」ではないのだ。運命の出会いを引き起こす恋愛なら、友達関係が発展して恋愛になるということはないのだ。

 恋愛は或る日突然にやってくるものなのである。heart02

●ケケに対する設定ミス

 なんでキキは恋愛ができなかったのか?

 それはキキに親友がいないからなのである。

 多くの女性たちは女性が恋愛をするために必要なのは「男性」だと思うことだろう。しかし女性が恋愛をするために必要なのは「彼氏」ではないのだ。「親友」なのである。女性が時間をたっぷりとかけて親友を作り、親友との間に「永遠の友情」を作り出してしまうと、その後「初恋のチケット」を貰うことができる。

 なぜだか解らないが、親友と「永遠の友情」ができた後に、突然に運命の出会いとなる男性が現れて来るのである。

 キキにとって自分の親友となりうる人物は「ケケ」しかいない。ケケは「もう1人の魔女」なのであって、キキはこのケケと親友になり、永遠の友情ができると、運命の出会いとなる男性が現れて来る筈だったのである。ところが作者はケケを同い年の魔女にせず、年下の魔女と設定してしまったのだ。

 これが『魔女の宅急便』の致命的なミスなのである。

 作者としては、ケケはキキの幼い部分を象徴する人物として最初登場させている。キキはケケの勝手気儘な行動に翻弄され、醜い自分を曝け出すことになる。それなのに年下のケケが使う魔法はキキの魔法よりも実力が上で、キキとの別れのシーンでケケはキキと同い年の子かそれ以上の子になっているのである。

 なんでこんなへんてこな話になっているのなかといえば、作者は第一巻で「1つの町に1人の魔女しかいてはいけない」という魔女の掟を定めてしまったために、ケケは最初から魔女の掟を犯す「悪い魔女」なのであり、その後、自ら「半分魔女」と名乗るような中途半端な魔女になってしまったのである。

 作者はキキに「そういう魔女の掟は守らなくてもいい」と言わしてめているのだが、それでも魔女の掟は魔女たちが守らなければならないものだから、最終的にケケは追い出されることになるのだ。そんな魔女の掟を作らなければ、ケケを登場させた第三巻ではケケをキキのライバルとさせ、その戦いの中で親友となり、永遠の友情を築き上げて行くことができたのである。

●とんぼの冒険旅行の不発

 キキには親友がいない。だからキキは恋愛をする資格はないのだ。だからこそ、キキは第四巻以降、「とんぼ」以外の男性から誘われる機会はあったのに、全て自分で壊してしまい、「とんぼ」の方を選んでしまうのである。親友と永遠の友情を築いていないからこそ、その後に運命の出会いとなる男性が現れてこないのである。

 それなのに第四巻では「とんぼ」が冒険旅行に行くのである。男性にとって自分が一人前になるためには必ず冒険旅行に行かなければならない。作者はそれを解っているからこそ、「とんぼ」に冒険旅行へと行かせるのである。ところがこの冒険旅行が不発に終わるのである。

 「とんぼ」もキキと同様、師匠がいないし、親友がいないのである。

 師匠から教えを乞い、あれこれ指導して貰っていないから、よりによって冒険旅行の行き先が学校の近くにある「雨傘山」なのである。この時点で「とんぼ」の冒険旅行は巧く行かないということが解る。男の子が冒険旅行に行く際は、自分が生まれ育った場所から離れた場所へと冒険旅行に行くものであり、学校の近くでは話にならないのだ。

 しかも「とんぼ」がせっせと冒険旅行をしているのに、その雨傘山にキキが行ってしまい、そこでファーストキスをしてしまうのである。冒険旅行というのは「女人禁制」なのである。女性を排除し、男の子たちだけで冒険旅行をするからこそ、自分の実力を思う存分試すことができ、それによって自立していくことができるのである。

 「とんぼ」の冒険旅行が不発に終わったからこそ、「とんぼ」はすぐさまキキの所に戻ってこないし、第五巻のラストでは待ち焦がれたキキに対して「虫の話」しかしないオタクぶりを曝け出して来るのである。そしてキキは「とんぼ」から逃げ出してしまうのだ。そりゃそうだろう。「とんぼ」は男として自立していないから、キキと恋愛をすることなどできないのである。

●偽りの上位自我

 女の子たちがなぜ恋愛に憧れ、恋愛をしたいと思うようになるのか?

 それは自分の心の中にある「偽りの上位自我」を破壊するためなのである。

 女の子は成長過程に於いて「上位自我」を形成する。母親からちゃんと育てられれば、母親の物真似をするようになるのだ。「おままごと」をするようになれば、しっかりと上位自我が形成されたことになるのだ。上位自我こそ「良心」を作るのであって、良心があるからこそ、親があれこれ命令しなくても、自分で良い行動を取ることができるのである。

 しかし中学生以降になるとその上位自我が「偽りの上位自我」になり、自分自身を苦しめることになるのだ。中学生や高校生の子が「自分の心の中にもう1人の自分がいる」と言い出すのは今まで機能していた上位自我が「偽りの上位自我」になったのであり、自分なのに自分が自分でないのだ。明らかに自分の心の中に他人がいるのである。

 この偽りの上位自我を破壊するのが「恋愛」なのである。

 男の子は父親と長く接していない分、上位自我の形成が弱いのである。このため青春時代になって冒険旅行に出かけ、その冒険旅行の戦いの中で偽りの上位自我を破壊して行くことができるのである。ところが女の子は母親と長く接しているために、上位自我の形成が強いのである。だから女の子同士で友情を温め合い、自分の偽りの上位自我を破壊してくれる男性を見つけ出す「知恵」と、それを受け止める「愛情」と「共感」を恋愛が起こる前までに用意しなければならないのだ。

 女性が男性と恋愛をして、偽りの上位自我が完全に破壊されてしまえば、もうすぐに結婚してしまう。完全に破壊しなくても、大破程度でも結婚へと踏み切って行くことだろう。恋愛中に完全に破壊できなくても、この男性であるならその後必ず破壊してくれると思えば、もう独身であることをやめて、結婚しようと決意するものなのである。

 女性が結婚式の際に、両親に対して涙ながらに感謝の言葉を述べるのは、偽りの上位自我が破壊され、親から自立できたからなのである。女性が自立するというのは、非常に痛い行為なのである。体が痛いのではないのだ。心が痛いのである。そうやって心の激しい苦しみを経験しないと、女性は親から自立していくことはできないのだ。

 『魔女の宅急便』ではキキは恋愛などしていないし、偽りの上位自我を破壊していない。だからこそ、第六巻が必要になってくるのだ。その第六巻でもキキは未熟な母親として描かれ、自分の娘や息子の対応が拙く、そのために娘は反抗し、息子は憂鬱になり旅に出てしまうのだ。

●どうしても成就することのない女子中学生の片思い

 確かにキキは魔女としては自立した。しかし女性としては自立していないのである。作者の角野栄子は『魔女の宅急便』の主題に関してはきちんと果たした。しかし魔女ではなく、女性としてのキキが女性としては自立していないという非常にへんてこな書き方をしているのである。

 なぜか?

 まず言えるのは作者が『魔女の宅急便』の中で最重要人物であるケケの設定を間違えてしまったことなのである。

 もう1つはこの『魔女の宅急便』の主な読者対象が「女子中学生」であるということなのである。

 女子中学生は相思性愛をすることはできても、恋愛をすることなどできない。女子中学生では親友ができないし、親友ができても永遠の友情を築き上げる所までには行かないからだ。中学生の時は友達同士で群れているものだし、その群れがばらけて、1人の親友ができ、その1人の親友と深い関係を築くのは恐らく高校生になってからなのである。

 しかし女子中学生であっても片思いはする。好きな男性ができることだろうし、おマセな子なら男性と交際してしまうことだろう。だがその片思いは実らないものだし、その交際が巧く行くことはない。自分自身が未熟だし、相手の男性だって未熟なのだ。どのように付き合ったとしても、最終的には別れて行くものなのである。

 ということは女子中学生にとって片思いや男女交際というのは成就することがないのだ。だからこそ、その欲求不満を少女文学で解消するしかないのだ。現実世界では無理なものでも、少女文学の中では「未出現の宇宙」として広がり、その成就することがなかった思いを文学の中で晴らして行くことができるのである。

 もしもケケをキキと同い年の魔女にし、キキがケケと親友になり、その後、「とんぼ」以外の男性が現れて来たのなら、キキはその男性と恋愛をし、偽りの上位自我を破壊できたことだろう。こういう物語であったなら、この『魔女の宅急便』は少女文学扱いされず、第一級の文学作品として評価されたことであろう。

 大人の女性が読むような恋愛小説であるなら、恋愛をあれこれ描いて行くことは可能だ。しかしそれを女子中学生に対して行うことは果たして正しい行為なのかという疑問が常にあるのだ。というのは恋愛は自分が体験してみない限り絶対に解らないことだからだ。読者が解りもしないことをあれこれと教えるべきではないのである。

 とするなら、作者が『魔女の宅急便』の第三巻のラストで夜空の中を疾走するキキに言わせているように、「とんぼさんが好き!」という激しい感情の方こそが大事なのである。自分が好きと思える男性に対して、素直に「好き!」と思える感情を出せるのなら、後は自分の努力次第でなんとかなるものなのである。全てを教えてしまえば、女子中学生は頭でっかちになるだけなのであり、それでは恋愛をした時に恋愛が巧く行かなくなってしまうものなのだ。

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キキは本当に自立したのか?

●物語の中では自立した

 『魔女の宅急便』を読んで疑問に思うのは、「本当にキキは自立したのか?」ということなのである。この物語は「魔女の自立」が主題である。しかも第一巻はそれ自体完結している。その後の作品は第一巻が映画化され、人気が出たから出版した物なのである。キキは両親の元を旅だって修行に出て、1年後には再び両親の元に帰ってくるので、キキが自立したかのどうかの判定を忘れてしまうのだ。

 結論から言ってしまうと、キキは魔女として自立に成功した。

 しかも第一巻で自立したのである。

 これは魔女だから出来る早業で、人間では絶対に無理であろう。現実に存在する魔女ですらも、『魔女の宅急便』に出て来る魔女のように1年間で魔女として自立できるなんてことは絶対にできないのだ。これは飽くまでも小説の中のお話なのであって、現実にはそんな短期間で自立することなどできないのだ。

 作者の角野栄子もその点に気付いたのか、『魔女の宅急便』の第二巻以降、キキは自立しているが、その自立は不十分で、魔女の宅急便の仕事をしながら成長して行くということで物語を進めて行くことになるのだ。キキは完璧に仕事をこなすバリバリのキャリアウーマンではなく、仕事で悩み、失敗し、そこから立ち上がって行くことを繰り返すのである。

 第二巻ではキキ自身が空飛ぶ魔法だけでは魔女として駄目と気付き、母親からくしゃみ薬の作り方という新しい魔法を習うことになる。第三巻ではもう1人の魔女である「ケケ」が登場し、ケケはキキを翻弄しながら、キキ自身が急成長を遂げることになる。第四巻でキキは恋に目覚め、第五巻では「とんぼ」と交際することになる。

 この第五巻はキキの自立にとって非常に重要な巻で、キキは町長さんの結婚を取り持つことになる。町長さんは第一巻でキキを一人前の魔女だと認めた存在である以上、魔女の掟である「もちつもたれつの関係」上、キキは町長さんから認められるだけでなく、キキが町長さんに何かをしなければならないのだ。そうしないともちつもたれつの関係にならないのだ。

 そしてキキは魔女の仕事を通じてきちんと自立を果たしたからこそ、「とんぼ」から愛の告白を受け、結婚を予感させる交際を開始するのである。

  

●娘組と師匠の存在

 キキのような自立の仕方は小説だからこそ有り得るのであって、現実の女の子たちには絶対に起こり得ないのだ。物語の設定がそうなっているからキキは自立したのであって、もしもキキが現実世界の中にやってきたら、キキは自立できないのだ。キキは自立するために或る重要なことが欠けているからだ。

①娘組

 女の子が自立するためには「娘組」の存在が必要である。異性を排除して、女の子たちだけの組織に入り、その組織の中で女性として学ぶべきことを学んでいくのである。キキは魔女として1人で修行に出なければならないので、当然にこの娘組に相当する組織に入っていないのだ。

 女子中学生が気をつけるべきことは、「同じクラスでは娘組にはならない」ということなのである。このためクラスでの友情を優先してしまうと、娘組に相当する組織に入れなくなってしまうのである。部活動で女子だけのクラブならいいのだが、男女混合だと娘組にはならないのだ。

②師匠

 キキにもう1つ足らないのは「師匠の存在」である。『魔女の宅急便』ではキキは師匠を持たず、母親から全てを教えて貰うことになるのだ。現実世界に於いてこの遣り方では駄目なのである。必ず自分の親以外の年上の人を師匠にし、その師匠から指導を受けることで成長していかなければならないのだ。

 女の子の場合、師匠は女性でも男性でも構わない。しかし男の子の場合は、師匠は男性でなければならないのである。これが師匠に於ける男女の性差なのである。逆に言えば女性は男性よりも自立のチャンスが2倍も多いということなのである。但し言っておくが、学校の教師は師匠になりにくい。

③ライバル

 女の子が自立していくためには、仲間の存在が不可欠であるが、ライバルの存在も不可欠なのである。自分にライバルがいると、自分の闘争本能に火がつき、早くに上達して行くことができるのである。自立していく時間を短縮するためにはライバルを持ってしまった方がいいのである。

 キキにとってライバルらしい存在は「ケケ」である。ケケは年下の魔女なのに、キキはケケにライバル意識を燃やしてしまい、それがキキを成長させることになるのだ。ケケが登場してくる第三巻は『魔女の宅急便』の中でも圧巻ともいうべき巻なので、じっくりと読んでおいた方がいい。この巻をきちんと理解していないと、その後の展開もきちんと理解することはできないのだ。

●一人前になるのは10年という歳月を必要とする

 俺は常々「桃栗3年、柿8年、技術10年、学問30年」と言っている。桃や栗は3年で実をつけ、柿は8年で実をつける。それに対して人間は10年かけて技術を物にしてくるし、学問に至っては30年かけてやっと一人前の物を作ることができるようになるのだ。人間の心身というのは時間をかけて成長するようにできているのだ。

 女性が自立していくためには10年という歳月を必ず必要とする。10年以下の時間で自立しようとすれば、相当に無理をしてしまうし、下手をすると自分が自立して行く過程でギブアップしてしまうことになるのだ。幾ら小説とはいえ、キキのように1年で自立することは有り得ない。だからこそ作者の角野栄子はその後、シリーズ化して、キキが本当に自立するまでの物語を書いたのである。

 女の子にとって、恐らく親からの自立は中学生の時から始まる。

 しかし女の子が実際に社会に出るのは、18歳以降なのである。

 ここにこそ「落とし穴」があるのである。

 高卒や短大卒は就職してから10年経てば、自分が仕事で一人前になり、しかも丁度結婚適齢期内で結婚することができる。ところが大卒の場合、女性は結婚適齢期が終わる頃にやっと仕事で一人前になるのであって、結婚が非常にヤバくなるのである。女性が進学したり就職したりする時は、必ず結婚から逆算して考えるようにすることだ。

 冷静に世間を見回してみて、自立していない女性たちは圧倒的に大卒の女性たちが多いのだ。大学に進学してしまったために、社会に出る時期が遅れてしまい、仕事で一人前になる前に結婚してしまったり、結婚を拒否することにエネルギーを取られてしまって、仕事で一人前になることができなかったのである。

 女性が大学に進学した場合、大学で勉強だけをしていればいいのではないのだ。学生の頃からアルバイトをし、早くに社会に進出してしまうことだ。女性の体は19歳で成長のピークに達しており、それなのに中学や高校のように大学で勉強する必要性はないのだ。大学で幾ら勉強しても、女性として自立して行く方法は教えてくれないものなのである。

●キキの凄い所

 キキの凄い所は、10歳で魔女になることを決意し、その後、箒で空を飛ぶ魔法の訓練をし、13歳で修行に出ているということなのである。しかもキキは22歳で結婚しているので、丁度10年かけて魔女として自立して行ったことになるのだ。キキは結婚する前までに魔女として一人前になっていたということなのであり、だからこそ幸せな結婚をすることができたのである。

 この10歳というのが非常に曲者なのである。10歳というのは子供が親に服従できる最後の時期なのである。10歳までならどんな子供も親の言うことを素直に聞くのだ。これ以降になってしまうと、子供は親の言うことを聞かなくなってしまうのだ。それゆえ自分の夢を設定するなら、10歳の時が一番いいのである。自分が素直になっているので、自分に最も相応しい夢を見つけ出すことができるのである。

 キキは13歳で魔法の修行に出た以上、キキの最終学歴は「小卒」だということになる。恐ろしいまでの低学歴なのだ。しかし低学歴だからこそ、キキは他の如何なる女の子たちよりも社会に出て行くことができ、キキは22歳になる頃には、正確に言うと「とんぼ」と交際を始めた20歳の時点で自立してしまったのである。

 さすがに現代社会では小卒で生きて行くことはできない。義務教育のために中学に行かなければならないし、それでも飽き足らず高校や短大や大学へと進学するのである。それだけ現代社会は高度な知識や技術を要求しているのだが、その反面、下手をすると自立して行く機会を失ってしまうというリスクがあることを決して忘れてはならないのだ。

 自分の偏差値を気にして、どの学校やどの大学へ行けばいいのかと悩むべきではないのだ。そんなことは大事なことではないのだ。それよりも自分が一体何をしたいのか明確にすべきなのである。自分に夢がしっかりとあれば、自分の進むべき道はしっかりと切り開かれるのであって、その夢はいずれ実現してしまうものなのである。たとえその夢が実現できなくても、その夢に準じた何かを掴むことができるものなのである。

●学校や大学にいては自立できない

 自立は学校や大学の外で行われるものなのである。如何なる女性であっても、学校や大学から出て行かない限り自立して行くことはできないのである。そして女性が仕事で一人前になるには約10年という歳月が必要なのである。しかし女性は結婚することになる。だから結婚から逆算して仕事を前倒しで進めて行くべきなのである。男女平等を唱えて男性たちと同じペースで仕事をしていれば、女性は自立することができなくなってしまうのだ。

 女の子であるなら、女性の大学教授が書いた本は眉唾物で読むべきなのである。というのは女性の大学教授は大学に進学しただけでなく、その後、大学院に進学した訳であり、女性として自立できなかった可能性が高くなってしまうのだ。もしも大学院博士課程を修了したのなら、社会に出て一人前になるのは38歳である。結婚適齢期はもうとっくに過ぎているのだ。

 女性の大学教授はフェミニズムに洗脳される確率は非常に高いのである。なぜなら大学教授になるために女性として自立する機会を完全に失ってしまったからなのである。

 「女性の自立」が叫ばれる中で、女子中学生たちがやっていたのは、女性の大学教授が書いた本を読むのではなく、小説や漫画を読むことだったのである。なぜなら小説や漫画を読むことで自分の想像力を逞しくし、学校オンリーの生活にならないようにしていたのである。女性が自立していくためには、学校生活にどっぷりと漬からないことの方が大事なのである。

 中学校の勉強は落ち零れない程度に付き合って行けばいいのである。それよりも運動部に入って部活動に精を出し、コーチや監督の言うことで優れたことがあるなら素直に聞いておいた方がいいのだ。そして出来ることなら自分がライバルを持って、その人物と切磋琢磨した方がいいのである。

 中学校でこういうことをやっておけば、3年間で相当に実力がつくものなのである。その後、高校や大学に行こうが、自分に実力があるために、早くに社会に出て自立して行くことができるようになるのだ。自分がどのように生きたとしても、現代社会は多くの知識や技術を必要としているために、女性たちに無理を強いていることを絶対に忘れてはならないのである。

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小学校卒業生へ贈る読書のすすめ 『魔女の宅急便』

 けろりんさんから「小学校卒業生へ贈る読書のすすめ」はないかとリクエストがあったので、その後、小学校を卒業する生徒たちのために何かいい本はないかと探しまくりました。

 小学6年生の読解力で良さそうな本ってなかなかなんだよね。

 相手が子供だと思って作家たちは幼稚に書いて来るんだ。

 しかし!

 運のいいタマティーは遂に見つけました!

 小学校卒業生が読んでも読み応えのある本を!

 しかも、みんなが知っているのに、みんなが読んでいない本を!

 その本をこれから小学校を卒業する生徒たちのために贈ります!

●映画よりも原作の方が断然面白い

 これから小学校を卒業する者に薦める読書があるとするなら、俺は角野栄子著『魔女の宅急便』(福音館書店)を上げることだろう。題名から解ると思うが、この本を推薦するとなれば、その読者対象は「男の子」たちではなく「女の子」たちだ。『魔女の宅急便』は小学校を卒業した女の子たちがしなければならないことが沢山書かれているからだ。

 『魔女の宅急便』はスタジオジブリが映画化したために、既に『魔女の宅急便』の映画を見た人たちはいることだと思う。しかし映画より原作の方が断然に面白いのだ。大体、映画を小説化した物は面白くないが、映画化された小説という物は面白いものだ。なぜならその小説が面白いからこそ映画化されたのであり、その小説の作者は面白くなるように一生懸命書いたからなのである。

 映画『魔女の宅急便』は質の高い映画ではあっても、宮崎駿監督は製作の遅れから、物語を原作とは懸け離れた物にしてしまったのだ。このため宮崎駿監督は物語を余りにも変えてしまったために、原作者の角野栄子の所に謝りに行っているくらいなのだ。それほど原作と映画では内容が違っているのである。

 宮崎駿監督は世界的に有名になってしまったアニメ映画監督なのであるが、彼には大いなる欠点が存在するのだ。1つはその製作スピードが異様に遅く、いつも映画製作が遅れてしまうということだ。もう1つは彼が作った映画には「通過儀礼」というものが全くないのだ。確かに彼の作った映画は出来が良くても、よくよく見てみると疑問符を生じさせてしまう内容になっているのだ。

 なんで彼がそんなことをするのかというと、宮崎駿監督は幼い頃に東京大空襲に遭遇しており、その際に焼死していった女の子のためにアニメを作ることをしているからなのである。だから宮崎アニメは全て少年少女向けであって、少年少女が通過儀礼を経て大人になって行く内容にはなっていないのだ。通過儀礼がないからこそ、アニメの主人公たちは成長して大人になることができず、それが製作スピードの遅れとなって現れて来るのだ。

  魔女の宅急便 (福音館創作童話シリーズ)

●主題は「魔女の自立」

 原作の『魔女の宅急便』の主題は「魔女の自立」である。主人公のキキは、民俗学者であある父親と魔女である母親の元に生まれた1人っ子で、13歳の時に両親の元を離れて修行の旅に出かけ、なんと1年で魔女としての自立を成功させるのである。現実にはそんなことありえないのだが、小説だからこそこういう短期間での自立が可能になるのだ。

 キキが魔女として自立していくために要求されている条件は以下の3つである。

①10歳で魔女になろうと決意し、13歳で修行の旅に出る

②現代にも魔女がいることを知って貰う

③もちつもたれつの関係を築き上げる

 魔女は誰でもなれるものではない。魔女になろうとする者は「魔女の血」を引いていなければならないのだ。だから母親は魔女であらねばならず、魔女は女系相続をしなければならないということが解る。魔女の掟では10歳で魔女になることを決意し、3年間母親から魔法の使い方を学び、13歳になったら魔女として修行に出なければならないのだ。キキはしっかりと魔女の掟を守っているのだ。

 魔女の修行というのは決して難しいものではない。魔女がいない町に行って、そこに住み、魔法を使って仕事をしながら、現代にも魔女がいることを人々に知って貰うのである。だから箒で空飛ぶ魔法を使えるキキは「魔女の宅急便」を遣り始めることになるのだ。当然に魔女が空を飛びながら宅急便事業を行えば、町の誰もがこの町に魔女がいることに気付くのである。

 「魔女の宅急便」は緊急な用事でも請け負ってくれるので、高額な料金を請求していいのではないかと思ってしまうが、それには制約があって「もちつもたれつの関係を築き上げなければならない」という魔女の掟があるのだ。このため魔女は魔法を使って億万長者になることはできないのである。

 人々ともちつもたれつの関係を築き上げることは簡単にできることではない。だからキキは仕事を請け負う度に悩み、それを解決することで「魔女の知恵」を身につけて行くことができるのである。特に時計台事件で町長さんの依頼が最も難問であったのであり、キキは魔女の知恵を使ってこの難問を解決したからこそ、町長さんがキキを一人前の魔女だと看做す役目を果たすのである。

 ところが映画には町長さんが出て来ないのだ。映画では時計台事件が違う形で出て来ており、キキはその事件を知恵を使って解決したのではなく、勇気を出して事件を解決したということになってしまうのだ。これではキキには「魔女の知恵」がないということになってしまい、魔女として自立することができなくなってしまうのだ。だからこそ映画には通過儀礼がないのだ。

●魔女とは一体何か?

 ところで魔女って一体なんなのかということになる。魔女というのはドルイド教の女性宗教家たちのことなのである。地母神崇拝を行い、中でも月の女神である「ディアナ」を奉じたのである。因みにイギリスの首都「ロンドン」は古代では「ロン・ディアナ」と呼ばれており、ディアナを祀った宗教都市であったのである。

 ドルイド教の女性宗教家が魔女になるためには最低でも3つの条件がある。

①魔女の血が魔法が生み出す

 まず魔女は誰にでもなれるものではなく、母親が魔女であり、魔女の血を引いた者でないと魔女になれないということなのだ。古代は血統が非常に重視された社会なのであって、魔女の家系に生まれた女性は魔女にならなければならなかったのである。この魔女の血こそが魔法を生みだして来るのだ。

②魔法の技術の習得者

 魔法は科学とは違う。科学は普遍性を持つが、魔法は普遍性など持っていない。魔女として秘儀参入儀礼を受けて、魔法を1つ1つ学んでいかなければならないのだ。『魔女の宅急便』に於けるキキのように空飛ぶ魔法しか使えない魔女では駄目なのである。キキは第二巻で母親から「くしゃみ薬」の魔法を学ぶのであり、これによって作者は魔女の掟を守ることになるのである。

③魔女の知恵を有すること

 魔女は魔女の家系に生まれ、魔法の技術を習得して来るので、当然に女性としては頭のいい女性になる。魔女は「魔女の知恵」というべきものを持つのであって、だから魔女というのは古代に於いて「賢い人」という意味で呼ばれていたのである。魔女が出て来る小説は沢山あるのだが、魔女が魔法を使うだけでは駄目なのである。魔女は魔法を使うことによって、「魔女の知恵」を身につけていかなければならないのだ。

 ドルイド教というのは「ガリア」「ゲルマン」「ケルト」などの諸民族の間ではしっかりと定着した民族宗教なのであって、だからこそキリスト教がヨーロッパを征服していくに当たって、徹底してドルイド教を叩き潰して行った。特に魔女は処刑の対象にして行くのである。中世では「魔女狩り」の嵐が吹き荒れるのだが、中世になってもまだ魔女たちは生きていたということなのである。

●なんで魔女でない女の子たちが魔女に惹かれるのか?

 魔女は魔女の家系に生まれない限り魔女になることはできない。それなのになんで魔女でない女の子たちが魔女に惹かれるのか? 女の子たちは魔女のように魔法を使えなくても、魔女から学ばなければならないものが沢山あるからこそ、魔女に惹かれるのである。女の子は魔女から学ぶべきことを学んでおかないと自立して行くことができないのである。

 魔女ではない女の子たちは魔法を使えない。しかし魔法と似たような物なら使えるのだ。

①脳のシナプスの減少

 人間の脳は6歳の段階で脳内のシナプスの量が最大化するのであるが、それ以降、16歳になるまで脳のシナプスは低下していくことになる。この間、子供達は通常の能力を遥かに上回る物を持てるのであって、これが魔法と同様の効果を引き起こすのである。事実、女の子たちが魔法に興味を見出すのは、小学生の時と中学生の時であろう。

 もしも女の子が魔法に興味を見出すことがなく、現実ばかり見ているようでは、急速に脳のシナプスが減少して行き、高い能力を持つことができなくなってしまうのだ。学校では科学教育を行うものだが、小学生や中学生が科学教育だけを受けてしまうと、幾ら優れた科学教育を受けたとしても大成していくことがなくなってしまうのである。

②女性ホルモンの増加

 もう1つが女性ホルモンの増加である。女の子は初潮を迎えて以降、徐々に女性ホルモンの量が増加し、それによって通常では得られない力を持つことになるのである。醜いアヒルの子が白鳥になっていくように、普通の女の子が美女へと成長して行くことになるのだ。女性ホルモンの分泌量を増加させたいからこそ、魔法に興味を持つのである。

 中学生の時期は脳のシナプスが減少する時期と、女性ホルモンが増加して行く時期が交差していくのである。このため小学生の時期とは違うし、かといって高校生の時期とも違う時期を過ごすのである。この時期はもう取り返しのつかない大事な時期なのであって、この時期にしか経験できないことが沢山あるのだ。

③蓄積した母性愛

 子供の頃から蓄積した母性愛は、自分が親から自立して行く時に自分に新たな行動を引き起こすのである。母性愛は絶対肯定の愛だからこそ、青春時代に突入すると、「根拠のない自信」を持つことができ、母親の関係ない所で自由に動いて行くことができるのである。魔法に興味を持つのは自分の母親から愛された女の子たちであろう。母性愛があるからこそ、魔法という現実に存在しない物に憧れるのである。

 勿論、女の子が成長していけば母性愛を消費して行くことになる。だから女の子は自分の母親以外の女性から母性愛を貰う必要性があるのだ。キキですら、グーチョキパン屋の「おソノさん」や、動物園のカバの飼育係の「ママさん」から母性愛を貰っているのだ。母性愛を貰うからこそ、心の中の母性愛が枯渇せず、成長して行くことができるのである。

●魔法を使うからこそ女性は自立できる!

 『魔女の宅急便』を読むことで、一体、小学校を卒業した女の子たちに何をして貰いたいのかというと、それは

 「魔法を使え」

 ってことなのである。女の子は魔法を使うからこそ成長して行くことができるのであり、結果的に女性として自立して行くことができるのである。逆に言えば魔法を使わないと自立できないということなのだ。

 魔女が出て来る物語を読んで、自分の想像力を逞しくし、目に見える物だけではなく、目に見えない物まで見えるようにならねばならないのだ。これは学校の勉強を軽んじるということではないのだ。学校の勉強は地道にやっておけばいい。しかし学校の勉強だけやっていては駄目なのである。魔法こそ真剣に学ばなければならない科目なのである。

 女の子が使う具体的な魔法は「洋服」であり、「バック」であり、「アクセサリー」であり、「化粧」であろう。ありのままの自分を見て欲しいなどと間違った要求をするのではなく、自分が見すぼらしくても、お洒落をすることで美しくしていく努力を必要なのである。こういう時にお洒落には高級ブランド品など要らない。お小遣いで買える範囲内の物でいいのだ。後は自分のセンスでレベルアップを図って行けばいいのである。

 もしもこの時期に魔法を使わず、学校の勉強ばかりしていては、自分の美しくしていくことができず、最終的には自立することができなくなってしまうのだ。冷静になって「女性の自自立!」を騒ぎ立てているフェミニストたちを見てみればいい。彼女たちは女性として最も大事な時にお洒落をせず、勉強ばかりしてしまったからこそ、女性として自立する機会を失ってしまったのである。

 この世を生き抜いて行くために現実を直視することは絶対に重要なことである。しかしそれと同時に現実を超越して想像力を働かすこともそれと同じく絶対に重要なのである。これをお堅く言えば、「少年よ、大志を抱け!」ということになる。砕けた言い方をするなら、「若者よ、ホラを吹け」ということなのである。

 『魔女の宅急便』でも10歳の子娘が魔女になろうと決意し、13歳になって修行の旅に出て、僅か1年で一人前の魔女になってしまったのである。これは飽くまでもフィクションだからこその話なのであるが、実際の女の子なら早くに自分の夢を明確にしておくべきなのである。自分の夢が設定されてしまえば、その時は不可能に思えたものでも、必ずその夢を実現することができてしまうものなのである。

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●我が家の麦飯に変化が起こりました

 我が家も今でこそ「押麦入り玄米食」を食べているが、昔は他の日本人と同様に「白米」を食べていた。白米を食べていた頃は俺を除く家族全員が病気がちで、俺自身も「近視」や「痔」や「体調不良」に見舞われていた。しかも大人になってから「糖尿」が出るようになり、砂糖を一切禁止しても、どうしても糖尿が出続けてしまったのだ。

 母親からは「アンタは糖尿の気があるのだからね」と言われ続けたのだが、俺としては「そうじゃないだろう」と思っていた。糖尿が出る日は決まって前日の夕食に白米を食った時だけだったので、「白米こそ犯人ではないか?」と密かに疑い始めたのだ。しかし白米を違う物に変更するのはすぐさま抵抗されるので、「パン」や「ラーメン」や「蕎麦」の回数を多くして、徐々に白米を食べる回数を減らして行ったのである。

 俺自身、様々な本を読んで調べ、更に自宅で試行錯誤を繰り返してみた結果、押麦と玄米を半々に入れた「押麦入り玄米食」こそが日本人の体に最も適しているということが解り、以後、「押麦入り玄米食」に変更することになった。するとどうであろう。糖尿がピタリと止まったし、体調不良もなくなったのである。白米を食べていた時とは比べ物にならないくらいに元気になれたのである。

 ところが我が家の中には抵抗勢力が1人いる。それがうちの父親である。押麦入り玄米食が余り好きでないようで、時折「玄米オンリーにしてくれ」と言い出して来るのである。白米から押麦入り玄米食に移行する過程で玄米オンリーだって試したのである。しかし玄米オンリーでは重いのである。どうも玄米の重さで内臓が圧迫されてしまうので、白米よりはましだが、それでもこれが健康にいいとはどうしても思えなかったのだ。

 因みにマクロビオティックは思想面では評価すべき物があるものの、玄米食に拘りすぎおることは非常に危険だと思う。俺が一回玄米食を食うだけで胃が重くなた以上、これを毎日繰り返していては、必ず内臓のどこかで深刻な病気になる筈である。事実、マクロビオティックを実践している人が「膵臓癌」で亡くなる例が非常に多いのだが、これは玄米食を毎日続けていればそういう病気が発生してもおかしくないのだ。

 俺自身は現在「頭脳労働」を起こっているので、実を言うと「押麦だけの本当の麦飯」でもいいだ。だがこの本当の麦飯には家族が全員反対である。俺の方としても「玄米オンリー」には反対である。そこで母親が気を利かしたのか、「大豆を入れてみたらどう?」と言い出し、「押麦入り玄米食」に「大豆」を入れて炊くようになったのだ。

 これが美味いのなんのって! 

 この「大豆と押麦入り玄米食」を食うようになってから、父親の反対がピタリと消えたのである。

●「日本人の主食は米」が根本的な間違いなのである

 よく「日本人の主食は米である」という意見を聞くのだが、この意見こそが根本的に間違っているのである。日本人は古代から「雑穀」を育てて来たのであり、それで今でも神社では「五穀豊穣」を祈願している。この「五穀」とは「米」「麦」「大豆」「粟」「稗」の5つの穀物のことである。より正確に言うなら、日本人の主食はこの五穀に、縄文人が食べていた「里芋」と、スサノオの尊が持ち込んだ「蕎麦」、それに徳川吉宗が普及させた「サツマイモ」の3つが加わり、この8種類の食べ物こそが日本人の主食であろう。

 なんで五穀からお米だけが抜き出てしまったのかというと、それは江戸幕府は年貢としてお米を徴収し、そのために農民たちは必要以上に田圃を広げて米作りに励まなければならなくなったからなのである。事実、日本の農村に行けば解ることだが、明らかに地形に対して無理に田圃を広げ過ぎており、そのため夏になれば洪水で被害を受けてしまうのである。

 しかも江戸時代に江戸の武士や町人たちは白米を食べるようになり、それが明治維新後、全国に白米が普及してしまい、それで現代の日本人が白米を食っているだけなのである。米だけを食べる食生活といい、更には玄米を精白して白米を食べるという食生活は、江戸幕府と日本の近代化が齎した歪みなのであり、これは日本人に最も適した食事と思ってはならないのだ。

 白米というのは穀物の中で最も体を冷やす食べ物なのである。元々、米自体がビルマの北部を起源とする穀物で、熱帯で生まれ育った穀物ゆえに体を冷やす機能を持つのである。それを精白して食べれば余計に体を冷やしてしまうことになるのだ。だから俺自身、痔になってしまったし、体調不良に見舞われ続けたのである。

 玄米は中庸の食べ物と言われるが、俺が自宅で調べてみると、「弱陰性」の食べ物だろうという結論に達している。これに対して押麦は通説どおり「弱陽性」の食べ物であることには間違いないと思う。だから玄米と押麦を混合させると、丁度「中庸」になり、どのようなオカズでも合う主食になりうるのである。

●自然農法という衝撃

 我が家で「押麦入り玄米食」を食べている以上、農家の方々が米作りだけをしている光景には非常に違和感を覚えてしまうのだ。お米だけを食べていれば必ず病気になるので、農家がお米を売れば消費者が病気になるし、農家自身、自宅で収穫できたお米を食べ続けていればいずれ病気になり、死んでしまうからだ。

 しかもこのブログにコメントを寄せてくれる「ゆきねこ」さんが、現在、東京都調布市に住んでいるというのに、なぜだか「将来は農業をやりたい」と訳の解らぬことを言っているので、頭の隅っこに農業に対する興味を置くようになった。俺の母親は農家出身だけども、俺自身は農地を持っていないので、まあ、緊急性のあることではないと思って悠長に構えていた。

 ところが!

 去年の12月に断食をしまくっていたら、霊道が開いて、霊感が出まくるようになった。そして一発で農業に関する名著を探り当ててしまったのだ!

 それが福岡正信著『わら一本の革命』(春秋社)である。

  自然農法 わら一本の革命

 この本の何が凄いのかというと、科学農法を根底から覆して「自然農法」を唱えていることなのである。しかも著者本人が自ら悟りを開き、試行錯誤を積み重ねながら辿り着いた結論なので、学者の言う学説のように机上の空論が全くないのだ。読めばビシビシ感じる言葉ばかりなのである。

 自然農法とは「無耕起」「無化学肥料」「無農薬」「無除草」を四原則とする農法である。有機農法を知っている方なら、無化学肥料や無農薬は理解することができることであろう。問題は無耕起であり、農業をやっているのに農地を耕さなくていいとなれば、農業の重労働から一気に解放されることになるのだ。しかも無除草とくれば、夏の除草作業で汗水垂らしながら行うあの重労働がなくなるということなのである。

 自然農法を自然農法たらしめているのは、米だけを作るのではなく、米と麦を一緒に作ってしまうということなのである。米だけを作るからこそ、田圃を耕したり、化学肥料をやったり、農薬を撒いたり、除草作業をしなければならなくなるのである。米と麦を同じ田圃で作る場合、夏は米作りを、冬は麦作りをという形の「二毛作」を想像してしまう。

 しかしそこが違うのである。

 本当に米と麦を一緒に育ててしまうのである。

 稲刈りをする2週間前に麦の種を播いてしまい、稲刈りをする日には既に麦の芽が出ているのだか、その麦の芽を踏みながら稲刈りを行うのである。稲刈りの1ヵ月後に稲のも籾種を播くのである。こうなると春になれば麦と稲が一緒に生育し、5月の麦刈りの際には稲の苗を踏みかがら麦刈りを行うのだ。麦踏みは麦を強くするのだが、稲踏みも稲を強くし、台風に耐える力を持つ稲に育ててあげてしまうのである。それで台風のために駄目になる稲がなくなり、秋になれば豊作になるのである。

 米と麦の同時連作を可能にさせているのは、米や麦の藁を田圃に撒くということなのである。普通、米の藁を田圃に撒くということはしない。害虫を発生させるからだ。しかし藁を撒くと、確かに害虫も出て来るが、益虫も出て来るのであって、害虫の被害はなくなるのである。それ以上に藁が田圃の肥料になり、雑草の発生を防ぎ、それで無化学肥料、無農薬、無除草を可能にさせるのである。

●自然農法は既に実証済み

 実を言うと、この自然農法、うちの母親の実家では既に実証済みなのである。

 田圃ではなく畑なのであるが、畑に関しては「無耕起」「無化学肥料」「無農薬」「無除草」である。それを可能にさせているのは、「人糞を撒くこと」、それに「様々な野菜を植える」ということなのである。野菜の場合、さすがに全部使ってしまうので、藁に相当する者が出て来ない。そのために人糞を肥料をとして使うのだ。だから母親の実家は未だにボットン便所なのである。

 野菜にしても1種類だけ育てようとするから、化学肥料を使ったり、農薬を使ったり、除草しなければならなくなるのである。それを様々な野菜を植えてしまうと、化学肥料を使わなくても済むようになり、害虫だってそんなに発生しないし、発生したとしての益虫も発生するし、雑草もそんなに生えてこないのだ。

 母親の実家の野菜は本当に美味しいのである。市販されている有機農法で作られた野菜とは比べ物にならないくらい美味しいのだ。有機農法といっても、化学肥料は使わないが、それでも人糞を使うようなことはしないものだ。だから食べ物と人間の間に循環が起こらず、どうしても土壌の力を弱めてしまうのである。

 戦後、農林水産省の強力な指導で麦作りはやめてしまったが、それ以前は母親の実家も二毛作だったのである。藁を肥料として撒いていたかは解らないが、恐らく牛糞を撒いていたと思う。というのは現在でも田圃には牛糞を撒いて肥料としているからだ。近くに酪農家がいるので、そこから牛糞を分けて貰っているのである。

 田圃に牛糞を撒いているために化学肥料は要らない。農薬も使っていない。除草に関しては、田圃の水を巧く調整することで雑草が稲作の障害にならないようにさせているのだ。そもそも水田というのは雑草を生えさせないために作られたものなので、水田で稲作をやっているのに、除草作業をすること自体が異常なのである。田圃の土に充分な栄養がないからこそ、雑草が生えまくるようになってしまうのである。

●農業に革新は絶対に有り得ない!

 現在、日本の農業は衰退の一途を辿っているのだが、その最大の原因は農家の人たちが農業に対して革新を行ったからなのである。農業に革新なんて絶対に有り得ない。農業というのは基本的に保守的な産業なのであって、革新を徹底的に排除して、保守的にやっていくしかない仕事なのである。

 革新は一時的な利益を生み出しても、後は苦しい努力が続くだけになってしまうものなのである。

 例えば高額な「農耕機」を導入して田畑を耕し、化学肥料を使って土壌を豊かにし、農薬を散布して害虫や雑草を駆除する。確かにこういう農業をやれば一時的には収穫が上がり、収入も増えることだろう。しかしこういった遣り方は農業に於いて高コスト体質を作ってしまい、収入の割には支出が余りにも多くなってしまうのである。

 それどころかこういう革新的な農業は土壌を貧困なものにさせてしまうから、最終的には収穫量が減少してしまい、しかも高コストに関してはお金を支払わなければならないので、結果的には赤字になってしまうのである。それどころか農地が農作に不適格になってしまい、耕作地を放棄しなければならなくなるのである。

 田舎の田園風景に憧れて田舎に行ってみるとビックリさせられることがある。

 それは農民なのに共産党や社民党を支持している農民たちが田舎には存在しているのである。こういう農民たちほど農業に革新を引き起こそうとするものなのだが、それによって農地を駄目にしてしまい、貧乏になってしまうのである。人間が如何なる政治イデオロギーを信じるかは個人の自由だが、農民が共産主義や社会主義に走るということは、農業のなんたるかを何も理解していないということなのである。

 農業で成功したいのなら、徹底的に保守的な態度を貫くことだ。自分の両親や祖父母たちから自分の一族がどのような農業をやっていたかを聞き出し、まずは素直に従うことだ。それと「農業の歴史」を勉強して、どのような農業をすれば成功し、どのような農業をすれば失敗するのか、自分で調べあげることだ。自分で勉強している内に、自分が一体どういう農業をすればいいのか解って来ることであろう。

●農業は本来「楽農」!

 科学農法は理論武装されているし、科学農法を実践するだけの技術も充分に揃っている。しかし農民が科学農法を実施すれば、農民にとって農業が「苦農」になってしまうのである。農民自身が農業をやっていて「農業は面白い!」とは思わず、後は数字を追っかけるだけの仕事の繰り返しになってしまうのだ。

 喜びのない仕事ほど残酷なものはないのだ。

 科学農法こそが環境破壊を引き起こしているのだ。例えば農民が化学肥料を使うと、その95%以上は川に流れてしまい、それが海にまで流れ、海では赤潮を発生させ、魚を大量死させてしまうのである。他にも農民が農薬まみれの野菜を出荷するからこそ、それを食べた消費者が病気になったり、身体障害を持った子供が生まれて来てしまうのである。 

 科学農法は「静かなる公害」を引き起こしているだけなのである。

 科学農法をやっていれば後継者がいなくなるのは当たり前だ。自分の息子や娘たちが農業を拒否するというのは、その親が碌でもない農業をやっているに他ならないのである。科学農法に取りつかれてしまったために、息子や娘たちが農業を拒絶するという現象が起こったにすぎないのだ。

 自然農法は「楽農」である。自然農法は多少の準備をしさえすれば、後は自然に成長し、実るようになる。それを収穫すればいいのである。大事なことは科学農法を否定すること! 自然に任すこと! そして自然の力を巧く利用して、自分が必要とする物だけを自然界から頂戴すればいいのだ。

 恐るべきは「世界救世教」の信者たちである。世界救世教は教祖の岡田茂吉が「無農薬」を唱えていたために、世界救世教の信者たちは福岡正信の所に行って教えを乞い、自然農法を実践したのである。この教義に無農薬があるということが素晴らしいのだ。こうなると信者たちは必ず無農薬の農業をやるし、農業をやらない信者たちも無農薬の農作物を買うようになるからだ。そうなると経済循環が起こり、誰もが豊かになっていくことができるようになるのである。

●天孫族が勝てた理由

 俺は『わら一本の革命』を読んで、長年の疑問が一瞬にして氷解してしまった。

 それは「なんで神代に於いて天孫族が出雲神族に勝つことができたのか?」という疑問に対してである。

 日本の農業は農耕と畜産がセットなのである。天孫族は「鶏」、出雲神族は「牛馬」が農耕とセットになっていたのである。となると天孫族は田畑を耕すということをしなかった筈だ。自然農法に近い農業をやっていたのだろう。天孫族は農業が楽だったから、幾らでも閑があった。なんせ1年の内、3ヵ月は休暇なのである。その間、指導者たちが集まって陰謀や謀略を駆使したり、民には軍事訓練を施していたのである。

 一方、出雲神族は牛馬を使って農耕を行っていたので、農業に多大な労働力が奪われ過ぎだのである。確かに牛馬を使う農耕は一時的に収穫を増大させるから、出雲神族の領域は一気に広がった。九州北部、山陰山陽、四国北部、近畿、北陸と、神代に於いては圧倒的な勢力であったのである。

 しかし繁栄の中で内部崩壊が始まっていたのである。

 古代伝承では出雲神族は牛馬の肉食をしたために、癌患者や白血病患者が続出し、それに対して大国主命は民に肉食を控えさせて、癌や白血病の発症率を抑えたという伝承が残っている。天孫族では肉食といってもせいぜい鶏の肉ぐらいだから、こういう古代伝承は伝わっていないのだ。出雲神族の農業は重労働になるので、どうしても肉食をして、体力を回復させなければならなかったのである。

 そこに起こったのが出雲神族の王家の相続争いである。

 天孫族はなんせ陰謀と暴力を得意とする連中である。出雲神族の相続争いに付け込んで、自分たちの血を引く者を国王にさせてしまい。その序に出雲神族から九州北部を譲渡させたのである。その後、天孫族は対馬まで勢力を伸ばし、これで朝鮮半島との貿易ルートを独占することができ、それによって繁栄を遂げて行くことができるようになったのである。

 その後の日本の歴史を見ても、天皇家というのは大して働いていないのである。そのくせ天皇家は莫大な利益を手にし続けたのである。天皇家が古代に於いて中国のような専制君主になろうとせず、近代になってもドイツ帝国やロシア帝国のような絶対王政をやらなかったのも、神代に於いて自然農法に近いことをやっていたために、そうやって君主が過酷に働かなければならない政治体制を遺伝子レベルで嫌ったからなのであろう。

●自助努力と無為自然

 『わら一本の革命』を読むと、うちの母方の祖母の言葉と似たようなことを言っていることに気付く。うちの母方の祖母は「自然はありとあらゆる物を恵んでくれる」と口癖のように言うものだが、農業を子供の頃からやっていれば、このような悟りを得てしまうものなのである。農業で悟りを開かず、科学農法に走るからこそ、自然の本当の姿を見えて来ないのである。

 農業を起業する際、やらねばならぬことは沢山ある。しかも農地が整っても、自然に対して最小限の手を加えて行かなければならない。農業は絶対に自助努力しなければならず、下手に誰かに頼ってはならないのだ。増してや政府に頼ろうとすれば、途端に農業は立ち行かなくなってしまうのである。

 問題は自助努力をやった後なのである。自助努力によって農業を軌道に乗せたからといって、いつまでも自助努力し続けてはならないのである。いずれ自然の力を巧く利用して「無為自然」が起こるようにしなければならないのだ。無為自然は決して無為無策ではない。自分が農民としてすべきことを全てやってしまうと、後は自動的に農作物を収穫できるようになってしまうのだ。

 「自助努力即無為自然」なのである。

 俺なんかもこのブログを書くに当たって、前日までに下書きをして準備している。きちんと用意した上で就寝すると睡眠中にいいアイデアが浮かんで来て、それを起床後すぐさまパソコンにスィッチを入れて、書き上げているのである。すると自分でも想像以上の出来のいい記事が完成するのである。自助努力をした上で無為自然に任せているからこそ、優れた記事を書くことができるのである。

 『わら一本の革命』は農業に対する「革命の書」である。これを実施して行けば、今抱えている農業の問題など全て解決できるからだ。科学農法は確かに一時的な繁栄を築くことはできる。しかし科学農法はいずれ崩壊して行く遣り方なのである。農業自体が崩壊すれば、人類の生存だってできなくなるのである。自然農法だけが人類を生存させる唯一の農業の遣り方なのである。

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秘策その7 「家族揃って断食する」

●食事過剰こそ悲劇を招き寄せる 

 人間は裕福になると必ず食事が贅沢になってくる。これが危険なのである。人間は食べた物で作られる以上、一旦贅沢な食事を遣り始めると、更なる贅沢を追い求めて、より贅沢な食事をするようになってしまうのだ。これはお金があるからこそ可能なのだが、この悪魔のツケこそが凄まじい悲劇となって炸裂してくるのである。

 食事過剰と凄まじい悲劇には深い関係がある。食事過剰によって内臓は疲労しまくり、しかも食事過剰によって血液汚染が引き起こされ、いつ病気が発生してもおかしくない状態になってしまうのである。」食事過剰であるなら、見た目は健康そのものである。しかし体は徐々に蝕まれ、或ることを切っ掛けに病気が爆発してくることになるのだ。

 しかも食事過剰は子供たちに生きる気力をなくさせるものなのである。人類の歴史は飢饉の歴史であるために、食事過剰に慣れてしまうと精神が堕落してしまい、生きる気力すらなくなってしまうのである。だからこそ裕福な家庭に育った子供達の中には頭のおかしい子供が育って来てしまうのである。

 グルメを始めたら際限がない。確かにお金があればグルメをしまくることができる。しかしそれは非常に危険なことをやっているものなのである。いずれグルメ三昧の生活に対して非常に高い代償を支払うことになってしまうのだ。グルメをするなとは言っていない。時折食べるグルメなら美味しいであろう。だがそれを連チャンで行う必要性などどこにもないのだ。

 貧乏人であろうがお金持ちだろうがそんなに食う量は変わらないのだ。お金持ちがすべきことはできるだけ安全の質の高い食材を使って調理し、美味しい料理を食べることであって、グルメに走ったりしてはならないし、食事過剰の食生活になっても駄目なのである。

●断食をして食事過剰に急ブレーキをかける

 凄まじい悲劇の芽は既に食卓に現れているものなのである。

 だったら「断食」をする。断食をすることで食事過剰に急ブレーキをかけ、グルメに走らないようにさせるのである。断食こそ自分たち夫婦が獲得した幸福を最も安全に保存できる遣り方なのであって、絶対に断食だけはしておくべきであろう。断食をしてしまえば、体内の老廃物や毒素が排出されるのであって、病気を予防することができ、健康が一気に増進して行くことになるのだ。

 断食は月に1回はやっておいた方がいい。できることなら年に1度は本格的な断食をしておいた方がいい。断食といっても「完全断食」ではなく、フルーツだけは食べていい「フル-ツ断食」にして、無理なく断食ができるようにすればいい。これなら月に1回のペースで断食をすることができる筈だ。

 それと祝い事で贅沢な食事を食べた場合、その翌日は臨時の断食をするようにすることだ。若い時ならなんでもないことでも、還暦をすぎると祝い事で贅沢な食事をした後に病気を発症してしまうことになるのだ。食事過剰によって血液汚染が一気に進み、死に至る病を引き起こしてしまうのだ。

 断食をすると必ず「少食」になる。断食によって胃が小さくなるからなのである。このため自分にとって必要な食事量しか取らなくなるのである。少食であるなら内臓疲労が起こらないので、病気になりにくくなるし、エネルギーを仕事などに振り向けることができ、より成功して行くことになるのだ。

 子供たちがその成長過程に於いて余りにも食べ物に意地汚くなってきたのなら、断食は想像以上に効果を発揮して来る。というのは、子供たちは食事過剰のために内臓が疲労し、そのために充分なエネルギーを確保できないからこそ、食べ物を大量に食べようとしてくるのだ。だからそういう子供に断食をさせてしまうと、ウンコが大量に出て内臓疲労が解消され、自分に必要な量の物しか食べなくなるのだ。

●浣腸の威力

 もしも自分たちが「中年太り」になったら「浣腸」した方がいい。その中年太りは体内にウンコが詰まっているということなのである。浣腸によってそのウンコを全て吐き出させないと、非常に危険なのである。浣腸は恥ずかしいかもしれないが、浣腸は断食同様に凄まじい威力を持つ行為なのである。

 我々は歯磨きや洗顔をしたりする。それは口や顔が汚れるからだ。それと同様に大腸だって汚れるものなのである。その大腸の汚れを取るためには浣腸しかないのだ。確かに断食は大腸の中にあるウンコを出すことはできる。しかし大腸を綺麗にすることまではできないのだ。

 病院では「珈琲浣腸」をやっている所があるので、それをやっている病院に行って珈琲浣腸を遣って貰うことだ。さすがに最初の浣腸は医者に遣って貰った方がいい。どうしても抵抗感があるので、医者によって安全な形で浣腸して貰えれば、浣腸に対する意識がガラリと変わるのである。

 珈琲浣腸をしてしまうと、ウンコが大量に出て来ることになる。ビックリするくらいの量なのだが、そのウンコが自分の体の中に収まっていたということなのである。もしもこのウンコを放置していたらと考えるとゾクゾクっとすることになるのだ。ウンコは出すに限るものなのである。

 浣腸器があれば、自宅でも浣腸をすることができる。年に1度は浣腸しておいた方がいい。但し気をつけるべきことは浣腸によって腸内の良い細菌も流してしまうために、浣腸した後には必ず発酵食品を食べるようにすることだ。発酵食品を食べないと逆に腸内環境が悪化し、寿命を縮めることになるのだ。

●「豊かであることの感謝」と「ハングリー精神の復活」

 断食や浣腸は豊かな暮らしをできることを再確認することができる。豊かな暮らしをしてしまうと、その生活が当たり前になってしまい、豊かであることに感謝できなくなってしまうのである。豊かな暮らしを感謝できないと女神は怒ってしまい、「女神の警告」を発して来るようになるのだ。

 質素倹約も確かに大事なことだ。しかし質素倹約だけでは豊かな暮らしを再確認することなどできないのである。逆に質素倹約では妻子たちにストレスを溜め込ませてしまい、それが美食へと走って行くことになるのである。断食や浣腸はウンコを大量に出すだけでなく、その後、少食になってしまうので、グルメを食べようという気がしなくなってしまうのである。

 断食や浣腸は子供達にハングリー精神を復活させることに驚異的は威力を発揮することになる。人類は飢餓の中で進化してきたのであって、断食や浣腸で人為的な飢餓を与えてしまうと、子供達は豊かな暮らしの中でも堕落せず、ハングリー精神を復活させてくることになるのだ。

 お金持ちの子供には親にお金があるがゆえに、もしも堕落していったら凄まじい堕落を引き起こして来るものなのである。貧乏なら麻薬など買うことなどできないものだ。しかし金持ちの子供ならお金があるために麻薬を買えてしまうのである。だから高級住宅街に育った子供が麻薬中毒になってしまう事件が発生してくるのである。

 逆説的ではあるが、お金持ちが断食や浣腸をしてしまうと、更に食費の支出が抑えられ、余計に裕福になっていくものなのである。ワンランク上のお金持ちになってしまえば、贅沢三昧をしているお金持ちたちを見てもなんにも羨ましいとは思わなくなるのだ。それよりも自分がすべき仕事に着手し、より精進していくことができるようになるのだ。

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秘策その6 「処世術を身につける」

●出処進退こそ自分の幸不幸を決定的にする

 豊かさの中で凄まじい悲劇が炸裂して来ることを防ぐためには、「出処進退」を真剣に考えることだ。出処進退の内、「出世の仕方」は自然に解って来るだろうと思う。仕事ができる人物ならビジネスに成功して行く過程で「出世の仕方」を身につけて行くことができるからだ。

 しかし「身の引き方」の方は身につけることができないのだ。

 古より今に至るまで、何かの事業に成功したのに、身の引き方を間違えたために、破滅していった人たちは無数にいる。出世することばかり考えていたために、まさか自分の地位が非常に危険になっていることに気付けないのだ。身の引き方ほど、自分ではなかなか身につけることができないものなのである。

 組織内ではどううやっても自分の意見が100%通ることは有り得ない。組織内の力関係で、自分の意見が通るのはせいぜい20%ほどなのである。それなのに自分が出世することで権力を持ってしまうと、自分の意見が100%通らせることが可能になる。その状態こそ非常に危険なのである。そんなことを遣り続けていれば自分の周囲から知恵ある者は全て去っていき、イエスマンばかりになってしまうからだ。

 自分に敵対する新興勢力が出て来た時も非常に危険だ。自分が出世して権力を握ったが、自分が権力の座に長居し続けたために、若手の連中にストレスが溜まり、若手の連中は結束することで指導部に反抗し出すようになるのだ。こうなると組織内で凄まじい権力闘争が始まり、どちらかが倒れるまで戦いは終わらないのだ。

 組織内で働く時に最も気をつけるべきことは「出処進退」なのである。出世してこないのはその者が出世に見合う努力をしてこなかったと言っていい。かといって出世して権力の座にいつまでも留まっていてはならないのだ。いつか引退する時が来るのであって、引退すべき時にとっと引退してしまうべきなのである。出処引退こそ自分の幸不幸を決定的にするものなのである。

●自分として頂点を極めたら引退せよ

 会社のような組織の中で働く場合、自分が一体どこを目指すのか明確にさせておいた方がいい。社長を目指すのか、部長を目指すのか、それとも他の役職を目指すのか、自分自身が目に見える形の頂点を設定してしまえば、努力しさえすれば必ず辿り着けるものなのである。出世競争に負けてしまう人たちは競争に重点を置き過ぎ、自分が行くべき地点を設定しないからなのである。

 そしてその頂点に着いたら、そこには「目に見えざる頂点」があるということを知っておくことだ。

 社長の場合、創業者は長期政権を組むことができるが、2代目以降の社長たちは長期政権を組むことができない。人間の長期的な集中力は5年程度なので、就任してから5年程度で引退するのが最も賢明な遣り方なのだ。どんなに長くても10年が限度なのである。それ以上、社長の座に長居してしまえば、自分自身が晩節を汚すことになるものなのである。

 部課長職なら定期的に人事異動があるために、その座に長居することは不可能である。だから次の人事異動までに自分がすべきことを全てやってしまい、人事異動でその役職を去る時はなんの心残りなく去るようにすることだ。もしも遣り残したことがあるなら、引き継ぎの際にきちんと引き継いでおくことだ。

 ボクシングが面白いのも、まずボクサーはチャンピオンになることを目指して戦うことになり、その後、チャンピオンとして連チャンし、そして体力の限界を感じた時に引退するからなのである。チャンピオンになれないボクサーなどは見向きもされない。チャンピオンとして試合に勝ち続けることができなければそれで終わりだ。強い筈のチャンピオンが若手の選手に負けてくれるからこそ、そこに「滅びの美学」を見出すのである。

 目に見える頂点なら誰にも見ることができる。しかし目に見えざる頂点は知恵ある人物たちにしか解らないものなのである。目に見えざる頂点が来る前に自分がすべきことを全て遣り終えてしまうべきなのである。目に見えざる頂点が来たのに、その座から離れないと、最終的に破滅させられてしまうものなのである。

●トップを目指すより、二番手三番手として生きる生き方

 トップというのは最も競争が激しいものだ。だから出世する際、トップを目指さず、二番手三番手として生きれば、細く長く生きる方法もあるのだ。当然にトップは最も報酬が高い。しかしトップはその座に居る期間が短いために、二番手三番手に居て報酬が少なくても、長く遣り続ければトップの報酬を上回ることもできるのである。

 二番手になるためには、トップとの争いを常に避けることだ。二番手を潰そうとしてくるのは必ずトップだからだ。二番手として生き続けるためには、トップとの戦いを避けながら、トップと戦えるだけの実力を必ず蓄えておくことだ。それと同時に三番手以下との差を思いっきりつけておき、二番手の地位が揺るがないようにしておくことだ。

 三番手になるためには、トップや二番手との距離をあけておくことだ。トップも二番手もある意味権力志向だ。三番手にはそんなに権力志向はなく、自分がしたい仕事をしたいだけなのである。トップの権力交代があったとしても、新たに就任するトップは三番手と接触しなければならず、そうやって組織内に於いて影響力を保つのである。

 トップに関してはビジネス誌で必ず報道されるものだ。しかし二番手や三番手たちはビジネス誌に出て来ない。このため二番手三番手として生きるためには、組織内に居る先輩たちから学んで行かなければならないのだ。自分が会社で働いている内に、「こういう生き方もあるのか!」と感激したのなら、その生き方を学び、自分も二番手三番手として生きていけるようにすればいいのだ。

 特に女性社員の場合、本当にトップを目指す生き方が自分の幸せに直結するとは限らないのだ。どうしても女性は結婚すれば妊娠出産育児をしなければならないのであって、その既婚女性が社長をするとなれば、家族に対して相当な代償を強いることになるのだ。社長をこなせるだけのパワーがある人物なら社長になればいいが、そうでない女性たちは二番手三番手のように細く長く生きる生き方の方が非常に魅力的な生き方なのである。

●出世競争に惑わされない生き方

 組織内で生きて行くには、出世競争に惑わされないという生き方もある。他人と競争すればどうしても無理が出てしまうものだ。競争することに出世しても何かしらの代償を支払うことになるし、出世競争に負ければ悔しいものだ。だったらいっそのこと、出世競争をやめてしまうという選択肢も有り得るのだ。

 競争するのをやめると、非常に楽に生きることができるものなのである。

 競争にエネルギーを取られない分、自分がしたい仕事に充分なエネルギーを注ぎ込むことができ、当然に仕事の生産性が上がって行くことになるのだ。しかも仕事で手柄を立て出世しようという欲望がないので、手柄を立てたからといって人事異動を食らうこともなくなるのだ。

 出世していこうという意欲をなくすと、自然に権力闘争に巻き込まれなくなる。権力闘争をする者たちにとっては、出世しようとしない人物など理解不能だからだ。このため権力闘争の被害を最小限に食い止めることができるのである。権力闘争をする者たちに限って、権力闘争で負ければ自分が会社を追い出されるということに気付いていないものなのである。

 但し、出世競争に惑わされない生き方は出世できない以上、社内の階級を登って行くことはできない。給料は低いし、高い役職に就くこともできない。まあ、せいぜい定年退職するまで仕事をし続けるということになってしまう。出世しない分、出世しなくてもそれなりの利益を得るようなことをしておかないと、果たしてこの生き方が本当に幸せだったのか解らなくなるものなのである。

 出世競争を拒否するという生き方は、出世競争の厳しさがない分、自分自身に厳しくしておかなければならないのだ。もしも自分に厳しくなかったら、窓際族となんら変わりなくなってしまうからだ。仕事を真剣にやって、仕事を思う存分楽しむべきなのである。そうやって生きていれば、定年退職まで自分の身の安全を守り続けることができるのである。

●引退する時は綺麗さっぱりに引退する

 会社員の場合、引退するなら綺麗さっぱりと引退することだ。もしも会社から解雇されても、「不当解雇だ!」と騒ぎ立てても意味がないのだ。会社はその者が無能と判定したがゆえに解雇しただけなのである。裁判するだけ時間の無駄なのであって、それよりも解雇を契機に自分に自己投資し、実力を付けて行くしかないのである。

 定年退職をする場合、行き成り退職ということにはならない。退職する数年前から重要な役職から外され、閑職に回されるものだ。その間、自分は老後の支度をしておくべきであって、いざ定年退職をした時に、家で何もすることがないような状態を作ってはならないのだ。そういうことをやってしまうと、定年退職後数年で死亡してしまうことになるのだ。

 会社経営者なら社長を引退した後は会長に就任し、社内に院政を敷き、会社経営を行いながら、徐々に社長に権力を移行して行くことだ。社長というのはすぐさま育って来るものではないのだ。取締役に居る者と、代表取締役になる者とでは、全然考え方も行動も違うのである。無能な社長に会社経営を任したら、会社は潰れるものなのである。

 かといって「名誉会長」が存在するような会社は、会社組織が腐っていると見ていい。会社のために会長は必要でも、名誉会長など必要ないからだ。恐らく名誉会長になりたがる人物は、働きもせず会社から莫大な報酬を貰い、会社の経費を使って遊んでいたいのであろう。

 身を引く時は誰だってつらいものだ。だから未練がましいことを平気でやってしまうのだ。「プチリタイヤ」なんてものはその代表例だ。プチリタイヤは絶対にやめた方がいい。引退する時は綺麗さっぱりに引退してしまえば、引退した後に次の新たなる道が開けて来るものなのである。引退した後はその新たなる道を歩んで行けばいいのである。

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青春イボ痔残酷物語

●人には言えない病気、それは「痔」

 この世の中には、人には言えない病気というものが存在する。それが「痔」である。痔のできる所が、よりによって肛門だから、他人には言えないし、他人に言ってどうなるということでもないのだ。痔によって肛門に激痛が走るというのが、痔になったことのない人たちには絶対に解らないのだ。

 俺が痔になったのは、なんと高校2年生の時。

 なんでそんな青春時代に痔になるのかといえば、俺が通った私立高校の校舎自体に問題があったからだ。その学校の校舎は旧式の校舎で、教室内に隙間風が入って来るし、暖房によって教室内がきちんと温まらないのだ。一応、暖房が入っているから温まることは温まるのだが、なぜだか教室にいると底冷えしてしまうのである。

 要は教室内の空気を多少温めるだけの効果しかなく、校舎そのものを温めるという機能が全くなかったのである。

 底冷えする教室で日中授業を受けていたわけだから、当然にお尻が冷えてしまったのである。しかもこの暖房、時折故障するので、そうなると非常に冷たい教室で勉強する羽目になるのだ。今から考えると、これがいけなかったのだ。せめて小学生の時のように防災頭巾を座布団代わりにしてお尻を温めておけば、痔にはならなかったのだ。

 高校生の頃は「正食」に目覚めておらず、主食は「白米」。白米は穀物の中で最も体を冷やす穀物なのだ。それに高校生の頃はアイスクリームに嵌ってしまい、夏になると生協の1リットルもの「アイスクリーム」をペロリと食べてしまった。極めつけは「牛乳」。牛乳は人間が飲む飲み物の中で最も体を冷やすとは全く知らず、しかもそれを冷蔵庫で冷やした物を一気飲みしていたわけだから、体は内部から冷え切っていたのだ。

 自宅で体を冷やす飲食物を摂取し、学校では体を冷やす校舎にいた訳だから、当然に体は冷え切り、それで痔になってしまったのである。痔が厄介なのは、痔になってしまうと、どうしても痔のことばかりに集中してしまい、食生活を正すとか、学校の校舎の作りそのものが悪いということに目を向けることができないということなのである。

●謎の中国薬

 関東は2月頃が最も寒くなるのだが、高校2年生の冬の2月に痔が急速に悪化。痔が「イボ痔」になってしまったのだ。イボ痔といっても、小さなイボ痔ではなく、イボ痔を指で摘まめるほどの大きさになってしまったのだ。こうなるとウンコをする際には激痛が走り、椅子に座っているだけでも痛いのだ。

 イボ痔のために激痛が走る以上、イボ痔に対して本格的な治療を開始した。まずは薬局に行って痔の薬を買い求め、痔の部分に塗ってみた。ところが全く効果なし。その後、次から次へと痔の薬を試してみたのだが、日本の薬では効かないということが段々解ってきたのだ。

 日本の痔の薬がなんで効かないのかというと、そもそも効能が弱いからなのである。本格的に効く薬は医者の処方箋なしには買えないのであって、医者の処方箋がないお客は効能の弱い薬しか手に入れることはできないのだ。しかし人生上、最も多感な時期の高校生である。幾らイボ痔とはいえ、医者の所に行って、己の肛門を見せるわけにはいかないのだ。

 我が息子がイボ痔で苦しんでいるのを見て、なんとうちの母親が「謎の中国薬」を手に入れてきたのである。

 話を聞くと、母親の友人の友人が痔になって困っていたのを、中国から輸入した痔の薬で一発で治ってしまったというのだ。現在のように中国薬で死亡事故が出たということはなく、痔の薬でそんなに効果があるのならと、安心して買ってしまった。しかも値段は日本の痔の薬と大して変わりはないのだ。

 いざ痔の薬を購入してみると、如何にも「中国の容器です」と解るような図案の容器に入っていた。小さい容器で、中には赤い色をした膏薬が入っていた。臭いはしたが、そんなに悪臭ではなかったし、薬であるならば許容できる範囲内の臭いでしかなかった。中国薬だから、説明書の何もなく、後は勇気を出してこの膏薬を肛門に塗るしかないのだ。

●ナプキンとケツ毛

 問題はこの痔の薬を塗ると、パンツが赤くなってしまうということなのである。

 よりによってそこは肛門の部分だから、余りにも見っともないことになってしまうのだ。かといって肛門に薬を塗った後にうつ伏せになって寝ている訳にもいかないのだ。幾らイボ痔とはいえ、自宅に於いて自分がすべきことは沢山あるので、そこで「どうにかならないか?」と母親に相談してみた。

 すると母親は便所に行って、何やら白い物体を手にして戻ってきた。

 差し出して来たのはなんと生理用のナプキン。「これを使えばパンツは汚れないわよ」とのこと。なんちゅう母親なのかと思ってしまったが、イボ痔で苦しむ立場の身としては、男として屈辱ではあっても、イボ痔を治すことを優先せねばならないのだ。そこで勇気を出して、イザ便所へ直行!

 とはいいつつも、今までの人生の中で女性が使う生理用のナプキンなど使ったことがないから、「どうすればいいのか?」と悩んでしまった。生理用のナプキンを見てみると、シールを剥がす箇所があり、まずはそのシールを剥がしてみた。こうなるとこれを付ければいいんだなということが解り、それをお尻に直接貼ったのである。

 貼った瞬間に「間違えた!」というのが解った。

 生理用のナプキンのシールが俺のケツ毛にピタリと食い付き、しかもフワフワした部分が外側を向いており、堅い部分が内側を向いているのだ。その堅い部分がよりによってイボ痔に接触。そのため少しでも衝撃が加わると激痛が走るのだ。便所の中でこんな見苦しい様を他人には見せることができず、俺は絶体絶命の窮地に立たされてしまった。

 解決方法は解っている。

 勇気を出して、俺のお尻に張り付いた生理用ナプキンを剥がして行くしかないのだ。そこで生理用ナプキンを剥がして行くと、少し進む度にケツ毛が抜けて激痛が走り、それが2本、3本、4本と延々と続くのである。半分くらい剥がれると、後は思いっきりビリビリビリ! ケツ毛が大量に抜けて、俺は暫くの間、便所で悶え苦しんでいた。

●翌朝、イボ痔が治っていた!

 結局、生理用ナプキンは使い物にならないということが解った。生理用ナプキンは女性が穿くパンティーがあればこそ使える代物であって、男性のようにトランクスを穿いていては使い物にならないのだ。俺自身も、「女性は生理用ナプキンを直接肌に貼るのではない」ということが解っただけでも、物凄く勉強になった

 まあ、その知識を人生の中で使うことは多分ないと思うけど。

 イボ痔のためにイボ痔が痛いということが解るが、生理用ナプキンのためにケツ毛がごっそりと抜け、しかもイボ痔とは違う痛みが走ったために、もうパンツが汚れようがどうでもいいという感じになってしまった。それでイボ痔の薬を塗った後は寝室に行って早々と就寝してしまった。

 するとどうであろう。翌朝になってみるとイボ痔が治っていたのだ。完治とまでは行かないが、イボ痔が治り、小さな痔程度の大きさにまで縮小していたのだ。こうなればウンコの際も激痛が走るということはなく、自分でも耐えきれる程度の痛みしか発生しないのだ。「この薬は効くな!」と思い、それを2日ほど続けて塗ったら、もう完治してしまったのだ。

 その後、この謎の中国薬は自宅の片隅に放置されてしまった。

 しかも引っ越しの際にはそのドタバタのために消えてなくなってしまったのだ。

 その薬の名を覚えておけば良かったと思う。というのは痔に悩んでいる人たちにこの薬を売れば、買った人は痔が治るし、俺も儲かることができたからだ。大掛かりにやってしまえば薬事法に引っ掛かるが、個人レベルで細々とやっていれば逮捕されることはないのだ。痔の苦しみは痔で激痛を経験した者にしか解らないので、もしも自分の友人で痔に苦しんでいる人がいるなら、その者に救いの手を差し伸べたくなってしまうのである。

 痔の薬の広告宣伝を見るものだが、その一方で俺みたいに日本の痔の薬で治らなかった人たちも大勢いるのである。痔の薬と雖も相性があるので、日本の痔の薬で治る人もいれば、治らない人もいるのである。考えてみれば、高校生の頃はラーメンとかが大好きだったので、中国薬の方が効いたのかもしれない。

 かといって安易に外国の薬に手を出すのは危険だ。現在では中国薬を使って死亡した事例が大量に報告されているので、最早、昔みたいに中国薬に手を出すべきではないのだ。昔は円が高く、元が異様に安かったために、中国薬の中でも最高級品が輸入されただけなのであって、中国の経済が発展してくれば、もうそういうことは起こらず、逆に中国薬を使った薬害の方が多発するものなのである。

 ミュージシャンでもエイズに対してはチャリティーイベントをやっても、痔に対してチャリティーイベントを行わないものだ。如何に痔というものが差別されているかが解る。多分、痔になったことのない人は、痔の病の深刻さが解っていないので、周囲に流されるままにエイズのチャリティーイベントをするのであろう。もしもミュージシャンの中で痔に対してチャリティーイベントをする者がいたのなら、俺はその人物が本物のミュージシャンだと認めることだろう。

 痔を経験し、痔を克服した者から言わせて頂くと、痔にらないためにはなんといっても食事に気をつけることだ。そしてスポーツをして体の血行を活発にさせておくことだ。冬場に体を冷やすような建物があるなら、そこには入らないことだ。俺の場合、高校生だったから仕方なく体を冷やす校舎にいたのだが、高校を卒業してしまえば、あの手の体を冷やす校舎には2度と入ることはなくなったのである。そのため、あれ以来、痔になることはもうなくなったのである。

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正月の御屠蘇事件

●なんで御屠蘇がマズイのか?

 タマティーは「下戸」である。お酒を飲めばすぐに顔が赤くなるし、頭は痛くなるし、眠たくなってしまう。しかも翌日の朝には糖尿が出てしまうので、飲酒というのは俺の体にとって非常に悪いのだ。だからお酒を飲まない。お酒を飲まない分、読書する時間が大量にあるわけだし、こうやってブログを書く時間があるというわけだ。

 しかしこんな俺でもどうしてもお酒を飲まなければならない期間がある。

 それが正月なのである。

 正月になった途端、御屠蘇を飲まねばならないのだ。神社に初詣に行けば御神酒を飲まねばならないのだ。下戸遺伝子を持つ俺にとっては、正月は楽しいものであっても、お酒に関する限り、ご勘弁を願いたいのだ。できることなら御屠蘇も御神酒も飲みたくない。しかし礼儀上、正月は御屠蘇を飲まなければならないし、御神酒だって飲まねばならない。

 俺は今まで御屠蘇を美味しいと思ったことは一度もない。なんか不味い御酒を飲まされて、しかも飲んだ後は悪酔いしているのだ。その悪酔いした状態で初詣に行き、御神酒を飲むのだ。火に油を注ぐようなもので、結局、1日中、悪酔いしているという有様になってしまい、正月三箇日には大したことが全くできないのだ。

 「これではいかん!」と思って、今年、一大改革に着手した。

 まずなんで御屠蘇を飲んで悪酔いしてしまうのか、その原因を突きとめたのである。それはなんと「漂白剤」が原因であった。屠蘇散は紙のパックに入っているのだが、紙を白くするために漂白剤が使われているのだ。この漂白剤がお酒に屠蘇散を漬けている時に解け出してしまい、それで御屠蘇が不味くなり、しかも悪酔いの原因になっていたのだ。

 なんでこれが解ったのかというと、年末に「うどん」を食った際に唇が荒れてしまったのだ。原因は「ダシのパック」にあったと判明。白い紙のパックに漂白剤が使われているという事実を知り、「とするなら屠蘇散もそうではないか?」ということになったのである。推理はまさに「ビンゴ!」で、御屠蘇が不味いのではなく、屠蘇散を包む紙に漂白剤が使われていたからこそ、御屠蘇が不味かったのである。

●有り得ないほど美味しかった御屠蘇

 そんで今年の御屠蘇は、屠蘇散の紙のパックを破って日本酒に漬けることにした。最初は「これで本当にいいのかな?」と疑っていたけど、毎年不味い御屠蘇を飲むより増しだと思い、勇気を出して行動に着手した。屠蘇散が散らばっているので、その屠蘇散を濾すのが面倒であるが、その手間を惜しんではならない。

 そしていよいよ、屠蘇散を直接に漬けた御屠蘇を元日に飲むことになった。

 するとどうだろう。滅茶苦茶美味しいのだ。御屠蘇は「日本酒」に「みりん」と「屠蘇散」を混ぜ合わせた物だが、その3つの食材が巧く調和しあい、口の中で有り得ないほどの美味しさを醸し出してくれるのだ。この御屠蘇なら御節料理にも合うし、御雑煮にも合うのだ。御屠蘇を飲んだ後にジワーと余韻が続くので、食欲が一気に進むことになるのだ。

 しかもこの御屠蘇なら飲んでも酔わないのだ。悪酔いとは全く無縁。俺はお酒を飲むとすぐに顔が赤くなってしまうのだが、この御屠蘇だと頬が少し赤くなるだけ。御屠蘇が健康にいいというのが御屠蘇を飲んでみると解る。御屠蘇を飲むと体の老廃物や毒素が出て行くのが実感できるのだ。

 案の定、翌朝、ウンコが大量に出た。起床直後に第一発目を始めとして、それから続々とウンコをすることになり、なんと1日で6回もウンコが出まくったのである。箱根駅伝で東洋大学の駅伝チームが健闘している中、俺も便所で排便に健闘していたのである。この大量のウンコが正月三箇日の間、ずっと続き、このため脂肪が落ちて、筋肉が浮かび上がり、「細マッチョ」ならぬ、「中肉中背マッチョ」に変身してしまったのだ!

 できることなら屠蘇散は3つ以上買っておけば良かった。屠蘇散は1日1パックで、一度使った屠蘇散をもう1回使っても味が落ちるし、最初の時のような飛び抜けた味の良さがないのだ。正月三箇日の期間中、1日1パック使って行けば、この3日間、常に美味しい御屠蘇を飲むことがでけきるようになるのだ。

●朝からお酒を飲めるから良い

 日本酒は糖度が高いので、夜に飲むと体に悪い。俺みたいに下戸だと、夜に日本酒を飲んでしまうと糖尿が出てしまうわけだ。俺は目に見える形で日本酒の危険性を身を持って知ることができるが、お酒に強い人だと日本酒へのブレーキが効かないから、糖尿病になったり、膵臓癌になったり、肝臓癌になったりしてしまうのだろう。

 正月は朝から御屠蘇を飲むから体に良いのである。朝に御屠蘇を飲んでいるから、日中の間、きちんと体を動かせば、御屠蘇に入っている糖分を燃焼させることができるのだ。しかもアルコールによって精神が高揚しているために、結構気楽な状態で体を動かすことができるのだ。

 問題は初詣の御神酒である。御屠蘇で充分にアルコールを摂取しているので、タマティーにとってはもうこれ以上要らないのだ。そこで御神酒を甘酒に変えた。甘酒はお酒ではないのだが、これを御神酒代わりにし、もうこれ以上飲酒しないようにしたのだ。このため正月三箇日のアルコール摂取量が大いに減ったのである。

 多くの人々は「お酒という物は夜飲む物だ」と思っている。これが間違いなのである。飲酒を夜間にやるからこそ、飲酒の害が激しくなってしまうのだ。お酒と雖も日中に飲んでいるならそんなに害はないものなのである。夜間という既に体が休息して行く時間帯にお酒を飲むからこそ、アルコールの分解が遅くなり、それによって飲酒の害が全身に出て来ることになるのだ。

 もしもお酒好きなら、休日の日とかに昼間っからお酒を飲むことを勧める。その代わり日が暮れたら、もう飲酒をしないようにする。こうすれば飲酒の害は出て来ないし、アル中になったりもしない筈だ。もしも夜にお酒を飲まなければならないのなら「ワイン」を飲むようにすることだ。ワインは糖度が低いので、早くにアルコールが分解されて行くのである。

●正月は自宅に居るから、間違った飲食物があることに気付かない

 我が家では正月三箇日は必ず自宅に居る。元日に初詣に行き、2日と3日は箱根駅伝を見て楽しむのだ。このため自宅で飲食する物を他の飲食物と比較できないのだ。もしかしたら自宅の御屠蘇や御節料理や御雑煮だって間違った物を飲んだり食ったりしている可能性もあるかもしれないのだ。

 今回の御屠蘇がいい例だろう。

 俺は今まで間違った御屠蘇を飲まされ続けていたということなのである。

 去年の年末に、御雑煮の話で盛り上がり、なんと新潟県の御雑煮には干した鮭を入れると聞いてビックリしてしまった。自宅で鮭を干し、その干した鮭を御雑煮に使うのだから、いいダシが出る筈である。しかもそこに「イクラ」をかけて食べるのだ。なんとも贅沢な御雑煮である。

 出雲では御雑煮に小豆を入れるのだ。「それって御汁粉じゃん!」と思うが、この出雲の雑煮こそ、御汁粉のルーツなのである。その起源は神代にまで遡り、大国主命が神集いの時に、地方の神々に小豆入りの御雑煮振る舞ったのが、その始まりなのである。それを連綿と受け継いでいる出雲の人たちも凄い。

 我が家の御雑煮は昆布と鰹節で出しを取り、そこにコカブと鶏肉と里芋を入れ、更に最後には鰹節と海苔を振りかける。御雑煮にコカブと鶏肉を使うのは福井県が発祥の地らしく、御雑煮に里芋を使うのは縄文人の風習の名残り、鰹節と海苔を振りかけるのは、神武天皇の時代に忌部氏が四国の阿波国から房総半島の安房国に移住して来て、それが広まったらしい。

 うちの母方の実家は藤原氏系で、その昔、近畿地方から房総半島にやってきたという伝承があるのだ。御雑煮を見る限り、福井県の御雑煮に、房総半島に居た縄文人たちの里芋、安房国の忌部氏の鰹節と海苔を振りかけるのが入っているので、伝承とピタリと一致するのだ。

 因みに、我が家の御節料理では「鯛」を入れない。鯛など魚をそのまま入れると場所を取るので邪魔だからという理由なのだ。もしかするとこれはうちの母親が遣り出しのかもしれない。典型的な「インチキババァ」なので、うちの母親なら遣りかねないのだ。まあ、それでもいい。これはこれで合理的だからだ。

 正月に飲み食いする物は伝統料理であり、しかもその家の伝統料理だ。だから下手に弄ってはならないのだ。しかし継承されて行く中で誰かがインチキをしてくるとも限らないのだ。レシピを書き残すなり、その言い伝えをきちんと書き残すなりしていかないと、子子孫孫までまともな伝統料理がきちんと伝えられるか保障できないものなのだ。

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「ユカ」という名前の謎

●俺に魔法をかけた美少女

 俺が子供の頃に通った公立の小学校は日教組が乗っ取っている酷い学校で、教員たちの質が非常に悪く、教育をきちんとやってくれなかった。まあ、その時分は俺も遊びたい盛りだったから教育をしないというのならそれで良かったのだが、俺が嫌だったのは、担任が女性教師で、生徒間の男女対立を煽る人だったために、男子は男子で固まり、女子は女子で固まり、いつも男子と女子で喧嘩が発生していたということなのだ。

 男の子と女の子が喧嘩をすれば、いつも負傷するのは女の子の方だ。女の子の方は担任に泣きつき、担任は女性だから喧嘩の原因を聞かずに、喧嘩をした男の子を無闇に叱る。叱られた男の子の方はストレスが溜まるから、更に残酷な喧嘩をしてくるという悪循環が発生していた。

 ところが小学5年生になった時、そのまでの担任が代わって新しい担任がつくことになった。この担任は恐らく「更年期障害」で「鬱病」を発症し、まともな仕事をしなかった。しかもちょくちょく学校を休んだ。このため今までのように担任が生徒たちに手出ししてということがなくなり、生徒たちの間に「自由」が生まれたのである。

 とは言いつつも、小学1年から4年まで散々男女で対立させられて来たために、担任が最早男女対立を煽らなくても、子供たちの間では男女対立が続いていた。うちのクラスでは男の子たちはリーダー格の5人が共和政的に動かし、女の子たちは1人のリーダーの元に堅い結束をしていた。女子の結束が非常に堅いために、男女でトラブルが起こると余計にトラブルが悪化してしまうのだ。

 しかし俺は席替えでなんとそのリ―ダの女の子と隣同士になってしまったのだ。俺自身、男の子たちの中でリーダー格の1人だったので、最初の頃はいつも喧嘩ばかりしていた。しかし隣同士のために話し合う機会が多くなり、話している内に段々と仲良くなっていってしまった。冷静に見てみれば、そのリーダーの女の子は美人で肌が白く長身の女の子だった。趣味はピアノで、頭も良かったし、そのくせスポーツも結構できた。お父さんは全日空の社員で、うちのクラスの中では裕福な方だったのだ。

 その女の子の名を「ユカ」という。

 俺はユカと仲良くなってしまったために、双方リーダー格ということもあって、俺はユカから女の子たちの情報を仕入れて男の子たちに伝え、ユカは俺から男の子たちの情報を仕入れて女の子たちに伝えるようになった。こうなると男女間で意見の対立が激減し始め、非常に男女が仲良くなってしまい、和気藹藹のクラスになってしまったのだ。

 男女が性別に関係なく仲良くなれるのは小学生までだろう。しかも小学1年生から4年生までは幼いために自発的に巧く人間関係を築けないのだ。とするなら自発的に仲良くなれるのは小学5年生か6年生の時だけなのである。もう中学生になってしまえば、男女でくっきりと分かれてしまうし、恋愛がどうのこうのになって行くものなのだ。

●『延喜式』を勉強した際の副産物

 ユカと仲良くなって以降、俺はなぜだかユカのようなタイプの美人には持てるようになってしまった。クラスの中で一番可愛く、しかも女の子たちから慕われている女性と仲良くなってしまうのだ。俺は中学からは男子校の私立中学に行ってしまったために、クラス内ではこの能力を発揮できなかったが、学校の外に出れば矢張り美人に持てたのである。ユカと仲良くなったために、ユカのようなタイプの女性とはすぐに意気投合してしまうのだ。

 更に俺の人生の中でちょくちょく「ユカ」という名を持った女性たちが現れて来る。その「ユカ」という名を持つ女性たちは必ず俺に何かしらの幸運を与えてくれる。逆に「ユカ」という名を持つ女性に出会わないと、俺に何かしらの不幸が襲ってくる。これだけは不思議という他ないのだ。

 大体、「ユカ」ってなんの意味を持つ言葉なのか良く解らない。

 俺は長らくずっと気になっていた。

 そんな時、俺は東日本大震災に被災してしまい、復旧復興作業で1ヵ月も費やし、大震災のために仕事が大幅に遅れてしまい、半年間は休みなしの日々を過ごす羽目になってしまった。でもそんな忙しい日々だったからこそ、読書欲が異様に湧いて来てしまい、夜になれば本を大量に読むようになった。

 そんな日々の中で俺は『延喜式』に興味を持ってしまい、『延喜式』に関する書物を購入して読んだ。この本は大きなブロックのような書籍で、読み終えるまでに非常に苦労をしてしまった。ところがこの本を読み進めて行く中で、「ユカ」の謎を解ける切っ掛けを掴んでしまったのだ。

 古代日本語で「ユ」とは「神聖な」という意味の女性形容詞なのである。

 現代の日本語では男性名詞と女性名詞の区別がなくなっているのだが、古代日本語では男性形容詞や女性形容詞はあった。因みに「神聖な」という意味を持つ男性形容詞は「ス」である。大嘗祭で「悠紀澱」と「主基殿」があるが、悠紀澱が「女神が宿る神聖な御神木」という意味で、「主基殿」が「男神が宿る神聖な御神木」という意味ということになる。

 古代日本語で「カ」は「壺」のことを現わす名詞である。

 壺といっても、「祭祀用に使われる白い壺」のことを意味する。神社に行けば今でも古代から伝わる白い壺が使われている。主に御神酒を入れる壺として使用される。壺は陶器であるために、「かわらけ」などという形で現代でも使われている。因みに「ミカ」といった場合、「御壺」という意味になる。

 「ユカ」とは「神聖なる壺」という意味。その親は無意識の内に「神聖なる壺を持った巫女」という意味で自分の娘に「ユカ」という名前をつけたのである。

●「ユカ」の派生語

 「ユカ」という言葉は「神聖なる壺」という意味であると解れば、「ユカ」の派生語も簡単に解けてしまう。

①床(ユカ)

 平安時代では「床」という言葉は「家の中で一段高くしてあって、寝床などに使用する場所」を指した。「床」という言葉は、本来、「巫女が祭祀で居た場所」のことであろう。それが平安時代になると貴族たちの寝所を現わす言葉になったのである。現代では「居間の床」や「廊下」を指す言葉にまで意味が拡大している。

②ゆかし

 「ゆかし」というのは「慕わしい」という意味。「ゆかし」の語源は、「巫女に心を惹かれる様」を指した言葉であろう。古代の巫女は聖婚儀礼を伴ったので、自分の好みの巫女がいれば当然に心を惹かれることになるのだ。それが平安時代になる頃には貴族同士の恋愛の場で使用されるようになったのである。

③歪む

 「歪む」というのは「身を曲げる」という意味。「歪む」の語源は、「巫女が祭祀の際に身を曲げた仕草から来たもの」であろう。巫女は祭祀の際に身を曲げる動作をしなければならず、最初はその動作を現わす言葉として使用され、それが一般の人たちにまで普及していったに違いない。

④ゆかり

 「ゆかり」というのは、「血縁などの繋がりがあること」を意味する。巫女は天皇家や豪族の身内の女性を出すから、当然に血縁の繋がりがあるわけなのである。現代では血縁だけではなく、「関係性がある」という意味で使われており、その使用範囲は非常に拡大している。

⑤浴衣(ゆかた)

 「浴衣」は「木綿のひとえの物」を意味する。語源は「湯」の「帷子」であろう。必ずしも「ユカ」から派生した言葉ではないが、「ユカ」関連の言葉なのだ。というのは「浴衣」を着ることによって、女性たちが一時的に「巫女」に変われるからだ。「浴衣」の「ユ」は本来「湯」であっても、「神聖な」という意味の「ユ」でもあるから、浴衣は「神聖な服」ということになってしまうのだ。

●漢字からでは解らない本当の意味

 名前を平仮名や片仮名であるなら「ゆか」や「ユカ」と書かれるから、これが古代日本語から来ているということは解る。「ゆかり」や「ユカリ」も同じことだ。しかし漢字だとそうは行かない。漢字に囚われてしまい、実はその「音」こそが大事なのだということに気付けなくなってしまうのだ。

 「ユカ」という音なのに、それを漢字で書き現わせば「有加」「有華」「有香」「「由香」「由佳」「優花」」「優華」「優香」「友香」「佑香」「裕香」など漢字の組み合わせを沢山作ることができる。勿論、姓名判断ではこの漢字の画数によって運命が変わって行くことになる。そして漢字の方こそが正しいことだと思い込んでしまう。

 だが違うのだ。

 「ユカ」の本来の意味は「神聖なる壺を持った巫女」なのである。巫女だからこそ、「ユカ」という名を持つ女性は何かしらの霊能力を持つわけだ。本人が自覚するしないは別として、少なくとも俺が「ユカ」という名を持つ女性に会ってしまうと、俺に幸運が訪れてくるのである。

 「ユカ」という名を持つ女性は「スマートで色気があって、頭の良い女性」だ。「ユカ」が「ユカリ」になればこれに「お喋りの巧さ」が加わる。「ユカ」とか「ユカリ」の名を持つ女性は大体このような性格の持ち主であろう。名が漢字ならこれに漢字の字画や字義が加わるので、この上に新たな性格が加わって来ることになる。

 俺にとっては「ユカ」や「ユカリ」という名を持った女性と縁があるので、今後とも「ユカ」や「ユカリ」の名を持った女性たちと出会うことであろう。俺が最初に出会った「ユカ」にしても、大体彼女の姿形が俺の好みの女性になっている。だから「ユカ」とか「ユカリ」にしても、その名から外れるような姿形をしていないので、出会ってしまえばすぐに仲良くなれてしまうのである。

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今年の大予言その3 「北朝鮮は今後どうなるのか?」

●実は優秀な「金正恩」

 平成23年度に北朝鮮の国防委員長の金正日が死去し、その息子である「金正恩」が後継者になり、今年に入って北朝鮮の人民軍の最高司令官に就任した。28歳という若さではあっても、着々と権力を掌握しつつあり、血統の良さを利用して、真面目に仕事をしていれば巧く北朝鮮の人民たちを統治することができることであろう。なんせ父親が独裁政治を展開し、国内の反革命分子たちを全て粛清したとはいえ、余りにも悪政をやりまくったために、父親以下の業績ということは有り得ないのだ。

 日本国民の殆どは民主主義が絶対にしいと思い込んでいるために、「権力の世襲」ということが全く解っておらず、このために金正恩を馬鹿息子呼ばわりして、非常に低い評価しか与えていないのだ。これが大間違いの元なのである。権力を世襲した場合、国民はその血統に恐れをなして反抗してこないし、権力の継承者は失敗をしなければ、そこそこの評価を与えられるものなのである。

 しかも金正恩は金正日の息子として、幼い時から英才教育を受けているので、普通の北朝鮮の人たちよりも遥かに高い知能を持っているのである。更にはスイスに留学した経験があり、アメリカンスクールのような特殊な学校ではなく、地元の公立学校に通って、一般のスイス人と友情を温めたのである。

 政治家にとって外国を見、現地で暮らすことは非常に大事なのである。外国のことを知らなければ北朝鮮と外国を比較できないし、幾ら外国の情報を仕入れても、実際に外国で暮らしてみないと本当の所が解らないからだ。北朝鮮のように、事実上鎖国を行っている国では、金正恩のような経歴も持ち主は非常に価値の高い存在なのである。

 当然に外国語も達者で、英語やドイツ語やフランス語ができるのである。日本語はできないが、日本の漢字は読み取ることができるので、日本語の文章を或る程度は読めるということなのである。日本の政治家たちでこれほどまでに外国語ができる人物などまず居ないものだ。外国語ができたといっても英語ぐらいで、これだけ北朝鮮との外交が問題化しているのに、朝鮮語を学ぼうとする政治家すら現れて来ないのだ。

●天中殺で最高司令官になる

 はっきりと言ってしまえば、金正恩は日本にとって手強い相手になる。血統にも恵まれ、才能にも恵まれ、更には若さにも恵まれているので、権力の掌握をきちんと行い、政敵を葬って行けば、確実に父親以上の功績を打ち建てて来ることであろう。父親がやった「先軍政治」を継承するといっているが、その内、経済政策に重点を置き始め、経済を発展させてくる可能性が高いのだ。

 しかしこの金正恩には致命的な欠点が存在するのだ。

 それは天中殺のド真ん中で北朝鮮の人民軍の最高司令官になったということなのである。

 金正恩は「1983年1月8日生まれ」である。これは北朝鮮の公式発表であって信用できないのだが、この生年月日はもしかしたら信用できるかもしれない。というのは公式発表を信じれば金正恩は「辰巳天中殺」になるのであるが、辰巳天中殺の特徴である「若いのに肥満」「人付き合いがいい」などが既に出ているからだ。

 金正恩が辰巳天中殺であるなら、金正恩は天中殺の時期に権力を継承してしまったということになる。これでは彼が権力を掌握し続けることは無理なのであって、いずれ軍の反乱に遭って殺害されることになるであろう。また飢饉で苦しむ北朝鮮の人民たちが暴動を起こし、それが全国規模で展開することにより金正恩を殺害することになるかもしれない。

 金正恩が生き延びたければ、権力を手放してしまうことだ。日本の天皇のように権力を手放し、j権威だけ持つようにすれば、国内の誰かが殺害しようとは思わなくなるのだ。権力を握っているから、国内の誰かがそれに取って代わってやろうと思うのである。勿論、これにも北朝鮮の憲法を改正することが必要になってくるが、独裁国家であるなら、それは簡単なことであろう。

 日本のマスコミでは金正恩の年齢の若さを否定的に報道しているが、若さというのは利点になっても欠点にはならないものなのである。若いからこそ自由な発想をすることができ、しかも行動力が老人たちよりも遥かにあるから、何か政策を実行すれば一気に展開していくことになるのだ。

 問題は年齢ではなく、政治経験が余りにも少なすぎるということなのである。

 金正日が脳疾患で倒れたために急遽政界入りしたのであって、充分な経験値を積まずに父親が死去してしまったのだ。果たしてこの欠点を金正恩がどうカバーして行くかが見物だ。恐らく韓国に戦争を仕掛けて、軍の支持を取り付けることをして来ることだろう。今は軍を視察している程度のことしかしていないが、この程度のことでは軍の支持を積極的に取り続けることなどできないのだ。

●金一族に隠された日本への劣等感

 北朝鮮の金一族にはその名前の中に日本への劣等感が隠されている。初代の「金日成」にも二代目の「金正日」にも、「日」という漢字が使われているのだ。抗日戦争を戦って、その後の北朝鮮を建国した以上、日本を現わす「日」を使うのは何か異常な心理を窺わせるのだ。

 抗日戦争を戦ったからといって、「日本憎し」で染まっているのではないのだ。抗日戦争を戦った者たちほど、日本の凄さを理解し、日本への劣等感を持ち、日本への憧れを持っているということも有り得るのだ。二代目の金正日もなぜ日本人の拉致事件を行ったかといえば、その日本への複雑な感情があったからなのである。日本語ができる日本人を拉致してくるよりも、在日朝鮮人を帰国させ日本語を教えてしまえば良かったのにも拘わらずである。

 ところが三代目の金正恩には名前に「日」が入っていないのだ。果たして名前に「日」が入っていない者が北朝鮮を治め切れるのかどうか非常に怪しいのだ。現在の北朝鮮が日本への劣等感を克服できた筈など絶対にないのだ。経済力に於いて天と地ほどの差がつけられた以上、その劣等感はより屈折したものになるものなのである。

 金正恩の字義を調べてみると興味深い事実が発覚してくる。「正」の字義は「他の国に向かって真っすぐ進撃する」という意味であって、「正」は「征」の原字なのである。「恩」の字義は「愛を込めて慈しむ」という意味であるのだ。現実を冷静に考えてみるなら、金正恩は韓国に攻め込み、その一方で国内の人民たちを慈しむということになるのだ。

 となれば、金日成も金正日も日本への劣等感があったからこそ日本とのトラブルを抱え、それによって北朝鮮の独立を保ったが、金正恩の政権になると日本は除外され、朝鮮半島の統一に急ぐということなのであろうか? かといって韓国にはアメリカ軍が駐留している以上、武力で統一しようと思ってもできるものではないのだ。外交を巧みに使って韓国からアメリカ軍を撤退させ、その後に韓国を侵略する以外に手はないだろう。

●北朝鮮が崩壊すると一番困るのは日本

 北朝鮮の最高指導者が交代したことで一体日本はどうなるであろうか?

 まず野田首相は早々に致命的なミスを犯している。野田首相は弔問外交すらしていないのだ。確かに日本と北朝鮮の間には拉致事件という外交問題があるが、こういう時は金正日の死去に対して哀悼の意を表し、弔問団を北朝鮮に派遣すべきであろう。それすらしていないのだから、北朝鮮の政治家たちの心象を甚だしく害してしまったのは当然のことなのである。

 そのくせ、金正恩は拉致事件の解決を急ぐことであろう。北朝鮮の経済を立て直すためには、在日朝鮮人たちの資金援助が必要なのであって、在日朝鮮人たちが日本と北朝鮮を自由に行き来することができなければ、北朝鮮の経済はどうやったとしても回復しないのだ。そのため日本と北朝鮮の最大の外交問題になっている拉致事件を解決し、正式に国交を回復しなくても、経済交流はできるように配慮することだろう。

 日本にとって最も恐ろしいのは北朝鮮が戦争を始めるなり、北朝鮮自体が崩壊してしまうことなのである。

 もしも北朝鮮が韓国を攻め滅ぼし、朝鮮半島を統一してしまうと、竹島を奪還するのは絶望的になる。なんせ相手は核ミサイルを持っているのであって、日本派軍事的に一切対抗できなくなるのだ。日本政府は韓国が竹島を不法占拠した問題を先送りし続けたからこそ、北朝鮮が朝鮮半島を統一してしまえば、余計に問題が悪化してしまうのである。

 逆に北朝鮮が崩壊し、韓国によって朝鮮半島統一がなってしまうと、日本は韓国という強敵を隣国に持つことになる。しかも韓国は北朝鮮の併合によって核ミサイルを持つわけだから、韓国の軍事的優位は圧倒的になり、日本は核武装しない限り、韓国に対抗することができなくなってしまうのだ。

 しかも旧北朝鮮領の復興計画に関しては、日本が莫大な資金を拠出しなければならなくなるのだから、これほど馬鹿らしい話はないのだ。

 日本はただでさえ、隣国にロシアや中国といった大国が存在しているのに、そこに朝鮮半島を統一して大国になった韓国が入ってくれば、日本の外交は絶望的になってしまうものなのである。日本にとっては現状維持が一番ベストな選択なのである。朝鮮半島が統一されなければ、それだけ少なくとも韓国に対しては優位に立てるものだからだ。

 かといって朝鮮半島の情勢が今後キナ臭くなることは絶対に避けることはできないのだ。だから日本は一刻も早く国内の改革を急ぐべきなのである。議会制民主主義や議院内閣制ではもうまともな外交を展開することすらできないのだ。現行憲法のように国会が首相を選出する今のシステムに根本的な問題があるのだ。

 議会制民主主義や議院内閣制だからこそ、民主党政権のように日本の財宝を韓国に無償譲渡してしまったり、東日本大震災で日本の学校が多数崩壊し、生徒たちは勉強する所すらないというのに、朝鮮学校の無償化のために莫大な資金を支出したりしてしまうのだ。政治システムに問題があるからこそ、日本の政治家たちは国民のために政治を行うということをして来ないのだ。

 議会制民主主義や議院内閣制を否定し、「首相公選制」を採用すべきなのである。首相を国民が直接に選挙し、天皇が任命するようになれば、少なくとも首相は国民のために働く筈である。首相の任期は5年とし、5年間持続的に外交を展開する機会を与えてあげるべきなのである。北朝鮮のような独裁国家に対して首相が頻繁に代わっているようであるなら、まともな外交を展開することができないのだ。

 首相候補者は大学院できちんとした政治教育を受け、少なくとも5年間は自衛隊に入隊して軍事訓練を受け、その後、政界に進出して政治経験を積んで行かなければならない。首相を選ぶ選挙権者たちも学校で政治教育を受け、労働することによって税金を納めている者たちに限定すべきなのである。首相候補者を育成せず、全ての国民に選挙権を与えてしまえば、議会制民主主義の二の舞になってしまい、碌でもない人物が首相になってしまうものなのである。

 北朝鮮も多くの問題を抱えているが、日本はそれ以上に多くの問題を抱えているものなのである。日本共産党も社会民主党も国会に議席を有しながら、日本を北朝鮮のような社会主義国家にしようと企んでいたのだから、日本は国内に厄介な敵を抱え込んでいたということなのである。日本は北朝鮮に何か行動を起こして来る前に日本としてやるべきことは沢山あるのだ。今のように国民から全く支持されていない民主党政権を存在させ続ける閑などもうないのだ。

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今年の大予言その2  「池田大作の死」

●今年、池田大作の寿命が尽きる

 今年に於いて最も衝撃的なニュースとなるのは、「池田大作の死」であろう。池田大作は運命学的に今年で寿命が尽きることになっている。少なくとも去年の段階で創価学会の病院に極秘入院しており、寝た切り状態にあるのだ。最早、宗教家としての生命は完全に断たれているのであって、復活して来ることは絶対にないのだ。

 なんで池田大作の死が最も衝撃的なニュースになるのかといえば、彼は創価学会の名誉会長なのであり、この創価学会が日本の新興宗教団体の中で最大最強の教団だからなのである、これだけ無数の新興宗教団体が日本には存在しているのに、創価学会に勝てた教団は1つも存在しないのである。

 創価学会の凄さはなんといっても分派を出さなかったことだ。分派が出なかったということはそれだけ教団の組織化が進行していたということなのである。新興宗教団体が絶対に阻止せねばならないのは分派なのである。なぜなら分派は教団の組織化ができなかったということであり、分派した集団はその宗教経営のノウハウを使って悪用するとも限らないからだ。

 例えば仏教系の新興宗教団体でナンバー2の「立正佼成会」はなんと「統一教会」を分派として出しているのだ。立正佼成会の宗教家だった久保木修己が武形を率いて、日本に進出して間もない統一教会に走り、統一教会を瞬く間に大発展させてしまったのである。統一教会は全国規模で霊感商法を展開して様々な犯罪を引き起こし、莫大な収入を稼ぎ出したのである。なんでそんな芸当ができたのかいえば、久保木修己が立正佼成会で宗教経営のノウハウを学んだからなのである。

 更に創価学会は政界にも進出し、公明党を結成して、国会に於いて常に或る一定の議席を占め続けているのだ。創価学会は政教分離がしっかりできていたということなのである。マスコミでは創価学会が政界に進出したことを政教分離に違反すると報道しているのだが、どう考えても創価学会の方が政教分離をきちんと守っているのだ。逆に日本基督教団の方が宗教団体であるのに、教団として常に政治問題に手を出し、政教分離に違反し続けているのだ。

 それゆえ池田大作が死んだ場合、「国葬級の葬式」になる。宗教界にも政界にも絶大な影響力を持っていた人物であるがゆえに、首相に対する国葬よりも大きな葬式になる筈である。野田首相がどのような行動を取るかで、政界にもひと波乱が起こる気配がある。ただ単に「とある新興宗教団体の宗教家が死んだ」わけではないのだ。戦後の宗教界に於いても政界に於いても絶大な影響力を持った人物が死ぬのである。その価値が解っていないと、とんでもない過ちを犯してしまうものなのである。

●忘れている池田大作の功績

 創価学会がマスコミから否定的に扱われてしまったために、池田大作の功績をすっかり忘れ去られているのだ。

①仏教系の新興宗教団体として断トツの成功

 創価学会は仏教系の新興宗教団体として断トツの成功を収めた教団なのである。この成功を作り上げたのが池田大作なのである。創価学会では公称で800万世帯と称しているが、信者数は実質300万人程度だと創価学会の教団幹部たちは言っている。大体、1つの宗教団体が持てる信者数はその数が限度なのである。

 創価学会の凄さはなんといっても教団の組織化に成功したということなのである。教団を組織化していくためには一朝一夕では行かないのだ。様々な試行錯誤を経るし、それを法制化して行かなければならないし、信者たちにその法規を学ばさせ、法規を遵守させて行かなければならないのだ。これは半端じゃない苦労を要するものであるのだ。それを創価学会では池田大作が会長や名誉会長の時期に成功させたのである。

②日中国交復活

 学校の教科書では日中国交回復を成し遂げたのは田中角栄だと書かれているが、実は日中国交回復を行ったのは池田大作なのである。池田大作が日中国交回復を主張し、創価学会の幹部たちが中国政府としぶとく交渉し、その後、自民党もそれに乗って日中の国交が回復したのである。池田大作の政治的な手柄としてはこれが最大級の功績なのである。

③自民党と公明党の連合

 公明党は野党の時期には社会党にくっつき社会党をボロボロにしてしまったいる。その後、自民党と連合を組んで自民党に政権を取らせたが、その自民党をボロボロにし、自民党を野党に転落させてしまっている。公明党というのは協力した先の政党をボロボロにすることに関しては抜群の能力を持っているのだ。

 最早、自民党は公明党の協力なくして選挙戦を闘うことができないと言われている。自民党が選挙で戦うとなれば、必ず公明党に選挙協力の申し出をしなければならないのだ。これによって確かに議席数を増やすことができるが、自民党の党員達に独立自尊の精神が消えてしまうものなのである。これが自分たちの政党をボロボロにする要因になっているのである。

●優秀な青年部と女子青年部

 普通、どの新興宗教団体でも宗教心の相続には失敗している。親が新興宗教団体に入会したとしても、その子供がその新興宗教団体の信者で有り続けることは少ないのだ。新興宗教団体は現世利益によって信者たちを惹きつけて行くから、現世利益がなくなれば信者たちは教団から離れて行くものなのである。

 しかし創価学会では完全とは言えないが宗教心の相続に或る程度成功しているのだ。この宗教心の相続を可能にさせたのが、教団の組織化なのである。創価学会では青年男子は「青年部」に入り、青年女子は「女子青年部」に入ることになるのだが、この青年部や女子青年部が組織として非常に良く機能しているのである。

 しかも創価学会の青年部や女子青年部の若者たちは非常に優秀な人材が多いのだ。これは青年部や女子青年部を巧く機能させないとこういう現象は絶対に起きないのだ。多くの新興宗教団体では青年たちは教団の青年組織に入ってこないし、たとえ教団の青年組織に入っても教団の命令通りに動くだけで、高い能力を持つということがないのだ。

 外部の者では創価学会の青年部や女子青年部の凄さを知ることができないが、公明党の選挙戦の時に青年部や女子青年部のリーダーたちが動員されて、街頭演説をしたりする。この街頭演説が非常に巧いのである。民主党も自民党も社民党も共産党も街頭演説をしているというのに、街頭演説で最も巧いのは創価学会の連中なのである。

 池田大作は宗教家といっても、明らかに俗物的な人物である。こんな俗物が創価学会の名誉会長になっているのだから、その信者たちも俗物たちであろうと思うのは間違いなのである。俗物の宗教家になぜだか優秀な青年たちが誕生して来るという逆説も生じて来るものなのである。

●池田大作死後の創価学会はどうなる?

 「池田大作が死んだ場合、創価学会は一体どうなるのか?」、ということは非常に大きな問題で有り続ける。

 まず池田大作に匹敵する人物は創価学会の内部には居ないということだ。池田大作が巨大な人物であるがために、教団幹部たちが全員小物になってしまったのだ。しかも池田大作は自分の息子を創価学会の後継者にしようとしていたのだが、創価学会は世襲を認めていない教団なのである。これは内紛の切っ掛けになることであろう。

 更に創価学会は教団を組織化できたからこそ成功して行ったのだが、この教団組織は飽くまでも池田大作にとって最善の組織でしかないのだ。池田大作が死んだ場合、創価学会の組織が機能しなくなるのは目に見えているのだ。では機能しなくなった組織を一体誰が改革していくのか、それもまた問題になるのだ。

 創価学会には優秀な青年たちが大量に居るのだが、この青年たちが一体どのような行動を取るのかも問題になることであろう。池田大作が死んだ後も創価学会に居残るのか、それとも創価学会を飛び出して行くのか、創価学会の青年たちの行動如何で、宗教界に嵐が吹き荒れることであろう。

 公明党の存在も池田大作が死去によって影響を受けることであろう。政治活動が莫大な資金を消費する以上、創価学会がいつまでも公明党を持ち続けることは決して得策ではないからだ。小選挙区の導入によって二大政党制へと移行すれば、公明党と自民党を併合させた方が、公明党の政治家たちは生き残ることができるからだ。

 池田大作の後継者が一体誰になるにせよ、池田大作が行った政策から大転換しない限り、創価学会自体が生き残ることはできなくなるのだ。創価学会は余りにも多くの分野に進出し過ぎているのだ。このまま池田大作の政策を継承し続けてしまえば、創価学会が財政的に行き詰まるのは目に見えているからだ。

 日本国民として池田大作の死を決して軽視してはならない。池田大作が居たからこそ、日本は共産革命を阻止できたといっても過言ではないのだ。本来なら共産党の支持者になる人たちを創価学会は食いまくったのである。池田大作に対して様々な意見があることだろう。しかしそれでも哀悼の意を示して、その功績を称えるしかないのである。それだけ池田大作は偉大な人物であったということなのである。

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平成24年度のタマティーの大予言

●壬辰の意義

 平成24年度は「辰年」であるが、それだけを認識しているだけでは不充分である。今年は干支でいうのなら「壬辰」の年なのである。「壬辰」と書いて「みずのえたつ」と読む。辰年は12年周期で巡って来るが、壬辰の年は60年周期で巡って来るので、この2つが重なり合うことで、今年独特の変化が起こって来るのだ。

 そのためにはまず「壬辰」の言葉の意味を知っておかなければならない。

①「壬」の意味

 「壬」は字義的には「機糸を巻き付けた形」を現わす。核の内在するものが増大していく形を意味するのであり、激変が起こるのではなく、前年に起こった出来事を引き継いで、徐々に変化が始まって行く年ということなのである。今年は後退することは許されないし、かといって急ぎ過ぎることも許されないのだ。

②「辰」の意味

 「辰」は字義的には「二枚貝が殻から足を出している形」である。理想に向かって辛抱強く且つ慎重に抵抗と妨害に遭いながら進めて行くという意味である。辰年を象徴する動物は「龍」であるが、龍が水の中に潜むこともあれば、水から出て天まで登って行くこともある。大事なことは理想を持ち前進することであって、それが時と場合によっては大飛躍を引き起こすこともありえるのだ。

③「壬辰」の意味

 壬辰の年では、激しい変化こそ起こらないが、今までとは違う新しい形が徐々に形成されて行くという年なのである。より具体的に言うのなら、「昭和憲法体制からの脱却」「昭和憲法に洗脳された民主党政権からの脱却」である。日本国民の自由を完全に奪っている昭和憲法から脱却するのは難しいが、新たな憲法思想を作り、いずれ新たな憲法をつくれるようにすべきなのである。民主党政権からの脱却は意外と早く来ることであろう。

 「妊娠」に「壬」の字も「辰」の字も使われているが、今年はまさに「妊娠」の年なのである。女性が妊娠すれば激しい運動なんてできない。お腹の中の赤ちゃんを守ることに重点を置くようになる筈だ。妊婦であるなら、今までの生き方を捨て、妊婦らしい生活をすることが大事なってくるのだ。それと同様のことが今年に於いて取るべき行動なのである。

●壬辰の年に起こった出来事

 過去、壬辰の年に起こった出来事を調べてみると、実に興味深い情報を得ることができる。

1952年 電電公社設立

 電電公社は現在の「NTT」の前身の会社である。会社といっても国有化されていたのである。電話事業が国有化されたことでサービスの低下を招いたことは事実であるが、電電公社があればこそ、日本全国に電話網が完備されたことも忘れてはならない。しかも電電公社は国鉄とは違い莫大な赤字を作らず、黒字の状態を維持し続けたのである。電電公社の時には振わなかったが、NTTになると世界的に有名な企業に育っていったので、1952年に電電公社を設立したのは日本経済にとって大きな意義があったのである。

1892年 『万朝報』創刊

 日本は明治維新以降、政府が改革に次ぐ改革をやってのけて近代化を成功させたのだが、日本の新聞の方はそれを正しく報道せず、過激に非難するような姿勢が見られるようになってしまった。そして『万朝報』が創刊されるに及んで、日本の新聞は政府を非難すればそれで人気が出るということを繰り返すようになってしまったのだ。

 日本の国家存亡を救った日露戦争の勝利に対して悪意ある記事を書きまくったのが『万朝報』なのである。『万朝報』こそ、日本の言論の方向を完全に歪めた新聞であるといっていいのだ。その後、この邪悪な姿勢は『朝日新聞』にしっかりと受け継がれることになり、『朝日新聞』の扇動によって日本は支那事変や大東亜戦争に突入していくことになるのである。

1832年 人情本流行

 天保年間に人情本が流行するのだが、1832年に最も流行を博した。ところが1842年に水野忠邦は「天保の改革」でこれを弾圧。それ以降、文学の方にエネルギーが向かわず、尊王攘夷運動が起こって来るのである。幕府が良かれと思ってやったことが、結果的に幕府を滅ぼす結果になってしまうのである。

1772年 田沼意次老中に就任

 1772年に田沼意次が就任するのだが、実を言うと「田沼の改革」は江戸幕府が行った改革で最も成功した改革なのである。経済学的に言うと「重商主義政策」で、貿易を振興して、貿易を黒字に導き、その一方で印旛沼や手賀沼を干拓して、米の生産量を拡大させたのだ。

 しかし、田沼意次が老中の時期は日本各地に天変地異が勃発。特に冷害のために「天明の大飢饉」が発生し、その最中に浅間山が大噴火を起こしたのである。このために田沼意次は失脚したのである。田沼の改革はその後、評価されていないし、未だに評価されていないのだ。政治家には運不運が付き物だが、田沼意次ほど不運に見舞われた政治家はいないのだ。

1652年 下総佐倉惣五郎一騎

 1652年には下総の佐倉惣五郎の一揆が起こっている。この一揆は天領で起こった百姓一揆であることに重大な歴史的意味がある。これ以降、幕府は農民への締め付けを強化し、農業に対して充分な配慮をしなくなるのである。日本の農業の問題は享保の改革で露出することになるのだが、その遠因が佐倉惣五郎の一揆にあるのである。

●死に体の民主党、変革を迫られる自民党

 今年の日本の政界は死に体の民主党が「政治漂流」をし続けることで、日本政府はまともな統治能力を発揮することができなくなることであろう。東日本大震災後の震災処理で民主党はチェックメイトになったのであり、しかもマニフェスト違反をしまくることで完全に国民からの信用を失ってしまったのだ。

 野田首相は選挙公約にはない「消費税増税」を強引に推し進めようとしているのであるが、この消費税増税が行われれば、日本経済は完全に減速することになる。震災後の増税は禁じ手なのであって、これをやれば一時的に政府は増収になるが、そのために国民は貧しくなってしまうのである。

 しかし、忘れてならないのは自民党も前の選挙公約で消費税増税を掲げているということだ。消費税増税の言い出しっぺは自民党なのである。これを言い出したのは谷垣総裁なのであって、谷垣総裁では政権交代は無理なのである。自民党は次の衆議院議員選挙では絶好のチャンスを迎えるのであり、この選挙戦を谷垣総裁で戦うべきではないのだ。

 では一体誰が最適かというと、それは「小池百合子」であろう。大きな改革をする時は派閥のボスでは無理なのである。小池百合子のように政界を巧く泳いできたような人物こそ必要なのである。しかも小池百合子は女性なのにフェミニズムに汚染されていないし、まともな政治的感覚を持ち合わせているのだ。欠点といえば結婚していないことであろう。自民党は小池百合子総裁を誕生させれば、次の衆議院議員選挙で圧勝することができることであろう。

 民主党はもう何をやっても駄目である。マニフェストが余りにも粗悪すぎたのである。自民党が政権を取りたいのなら、今の内に選挙公約をしっかりと作り上げておくことだ。特に政府に対するリストラ策を総選挙前に立案しておき、政権獲得後、すぐさまリストラを実行できるようにしなければならない。

●復興特需と円高利益

①復興特需

 日本経済は今年、復興特需がじわじわと効いて来ることになる。マスコミではなかなか報道されないのだが、民主党政権下で公共事業が削減されたために建設業者たちは倒産が続出したのだが、この震災特需で息を吹き返したのである。建設業者たちの給料は増額されているので、その資金が消費に回ると経済が活性化していくものなのである。

②円高景気

 日本経済の円高傾向は今年も続くことになる。欧州連合のユ―ロが危険な状況にあるので、そのために円が買われているのだ。大企業は円高によって莫大な利益が入って来ることになる。なんせ円高のために海外から易い商品を購入できるので、経費が一気に低下することになるのだ。

 円高は日本企業にとって追い風だということが解っていないと、会社そのものが淘汰されることになる。マスコミは円高不況ということしか報道してこないのだが、今や円高は日本経済全体を潤す効果を持つようになっているのだ。円高で倒産する企業などごく一部なのであって、大半の企業にとっては「これはチャンス!」なのである。

 但し、大企業の突発的な事故には気をつけることだ。地道に改革をしていない企業だと、今年は大事故に遭遇してしまう可能性があるのだ。去年の東日本大震災で多くの国民は疲労しているので、その疲労と現状維持が重なると、大事故という形で噴き出して来てしまうのである。

③ベンチャー企業の続出

 壬辰の年はベンチャー企業が続々と誕生して来る年でもある。大企業では対応しきれない分野をベンチャー企業が埋めて行くのだ。起業しても当分の間は有名にならないが、いずれ大発展を遂げ、巨大な企業になってくる会社も出て来るのだ。大事なことは今この時期だからこそ起業することなのである。

 海外ではユーロ危機が東アジア経済に波及してくる。特に中国経済に危険信号が出ている。先進国は日本もアメリカも西ヨーロッパも全てデフレ不況になっているし、しかも金融危機が起こっているので、これ以上、中国経済が発展する可能性はないのだ。中国政府としては貿易ではなく国内需要を大きくして行く経済政策を取るべきなのであるが、この発想の転換がなかなかできないのだ。

●家族として何をすべきか?

 壬辰の年の家族として何をすればいいのであろうか?

 それは政治の動きにエネルギーを取られないようにすることだ。民主党政権は腹立たしいが、いずれ衆議院議員選挙でボロ負けするものなのである。民主党の政治漂流が続くが、それに怒っていては家族のエネルギーが政治に取られてしまうものなのである。政治のことは政治家に任して、自分たちは家族としてすべきことを全部やっておくことだ。

 壬辰の年は何か新たなことを始めるには相応しい年なのである。年の初めに自分たち家族が今年すべきことを定め、それをきちんとやるようにすることだ。着実に前進していくことが大事なのであって、そういうことを繰り返していると大飛躍も起こる可能性が出て来るのだ。

 壬辰の年はそれこそ妊娠や出産の好機である。冬の内に夫婦でパッコンパッコンしていれば、今年中に出産することができてしまうことだろう。辰年生まれの子供は、大人になると組織のリーダーになり易いので、できることなら辰年の間に産んでおくことだ。子供の内はスポーツを思いっきりやらして、スポーツを通じて友情を育くんでおけば、いずれ組織のリーダーになっていくものなのである。

 マイホームを購入したいのなら、今年は好機である。震災特需は恐らく来年に表に出て来るので、今なら不動産価格も安いのだ。来年になれば徐々に不動産価格が上昇していくことになるのだ。東日本大震災の打撃で、誰もが不動産の購入を手控えているので、今年は価値の高い不動産を手頃な価格で買うことができるのである。

 壬辰の年では変化がなかなか表に出て来ない。このためテレビや新聞を見ているだけでは、今年の変化を掴めないのだ。今年は大きな変化が起こるのではなく、小さな変化が起こると解っていれば、情報収集して行く中で小さな情報にこそ目を向けておくことだ。その小さな変化が後日大きな変化を引き起こして来るのである。

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平成24年度のタマティーのお年玉プレゼント!

新年あけましておめでとうございます!happy01

本年も宜しくお願い致します!

今年は幸多き予感があるので、様々なことにチャレンジしていきます!

新年早々このブログを見てくれた「あなた」!

元日から閑なのか? 

それともタマティーのことが大好きなのか?

しかし新年早々このブログを見てくれた人々限定で、タマティーからお年玉プレゼントをしちゃいます!heart04happy02heart04

それは「金色の龍の置物」。これこそが今年のスーパーラッキーアイテムなのだ。

但し欲しいのなら自分でお金を出して買いなさい。

元旦から行き成り「ラブ注入」!heart02

●辰年には飛躍が起こる

 平成24年は辰年なのであるが、この辰年には飛躍が起こる可能性が高い。辰年を象徴する動物は「龍」なのであるが、龍が一旦上昇し始めると天まで登って行くといわれている動物だからだ。辰年という好運気を絶対に逃してはならないのだ。特に今まで運気が停滞していた人なら、辰年に大ブレイクすることも有り得るのだ。

 辰年の運気を巧く活かせば、独身の男女なら「運命の出会い」である恋愛をするとか、その恋愛を発展させて結婚するとか、自分の人生を大きく変える出来事が起こって来る。辰巳の方角は東南を指す方向なのだが、東南はズバリ「出会いの方角」なので良縁に恵まれる可能性があるのだ。

 結婚している男女なら妊娠や出産という出来事が起こって来る。辰年に生まれた赤ちゃんは両親の運気を盛り上げてくれる役割を果たすし、その子供自体、将来大成する可能性が高い。だから今の内、夫婦でパッコンパッコンやっていれば、10ヵ月後には赤ちゃんが生まれることだろう。

 既婚男性には辰年で仕事が大当たりすることがある。去年は東日本大震災があって経済が低迷してしまったので、人々は今年にお金を使って来るという行動を取って来るからだ。このためしっかりと仕事をして、出来のいい商品なりサービスを売って行くなら、それらの商品やサービスが飛ぶように売れることになるのだ。

 気をつけるべきは、龍は天まで登ることも有り得るが、水の中で潜伏するということも有り得るということだ。去年と同じ感覚で過ごしてしまうと、去年がアッと言う間に過ぎ去ったのと同様に、今年だってそれ以上にアッという間に過ぎ去ってしまうのである。辰年で危険なのは「好運気を見逃してしまう」ということなのである。

●金色の龍の置物

 辰年の運気を強めたいのなら。「金色の龍の置物」を買い、それを居間に置くようにすることだ。龍は「雄」だと思われているが、実は「龍は地母神の使い」なのである。このため妻が良く居る「居間」に金色の龍の置物を置くのだ。この置物を置くと妻の運気が強まり、それによって夫の運気も強まって来るからだ。

 なぜ金色なのかというと、それは財運を高めるためだ。龍の置物の中には緑色をした置物があるのだが、これは龍にリアルさを出したものであって、財運を高める効果を持たないのだ。それに緑色の龍の置物では居間に置いた場合、どうしても浮いてしまうのだ。金色なら居間に置いても不自然はないのだ。

 できることなら龍の目は赤色がいい。ルビーを使った龍なら尚いい。赤色は出会い運を強めるので、辰年に良縁に恵まれたり、自分のビジネスチャンスを齎す人と出会えたりするのだ。龍の目が赤色ではない場合、ただ単に財運を高めるだけなので、出会い運を補うためにルビーの指輪でもつけ補うということも可能だ。

 金色の龍の置物は1年間置くゆえに、充分吟味してから購入することだ。衝動買いは絶対にしないことだ。自分が散々調べ回っていれば、必ず「ビン!」と来る置物があるので、その置物を購入すればいいのだ。純金製の置物でない限り、そんなに高額にはならない筈だ。

 金色の龍の置物を居間に置く際、色々と置いてみて、自分の好運気を刺激してくれる場所に置くことだ。霊感のある人ならその場所に置くと「ビビビビッ」と何か霊気を感じるので、そこが最善のポジションとなるのだ。金色の龍の置物を置いたのに変化がないというのなら、その置物を移動してみることだ。

●33個の夢

 金色の龍の置物を置いたら、正月三箇日中に「33個の夢」を紙に書かなければならない。なぜ33個の夢のなかというと、「3」というのが「地母神」の数字なので、それを2つ並べることで地母神に通じ易くなり、それによって自分の夢が叶い易くなるのだ。因みに「1」は天父神の数字なので、夢を1つだけ持っても意味がないのだ。

 33個の夢を書き出すというのは実際にやってみるとなかなかできないものだ。如何に自分の欲望が曖昧なのかということが解るものだ。もしも「お金が欲しい」と夢を書くなら、そういう漠然とした夢ではなく、もっと具体的な数字を書くことだ。金銭欲は誰もが持つものなので、具体的な数値を書かないと、幾らお金を儲けても満足できないために、逆にお金が入って来なくなってしまうのだ。

 夢が33個もあれば、その内の1つや2つを早々と実現できることであろう。その際、夢が叶うごとにプラス3つの夢を書くようにすることだ。1つ夢が叶ったのなら地母神に感謝を捧げ、夢をプラス3個することで更に自分の夢をより多く叶えて行くようにするのだ。こうなると夢がどんどん叶えられていくという不思議な現象が起こって来るのだ。

 正月の三箇日に書いた33個の夢を全て叶える必要性はないのだ。「80対20の法則」を使うと、33個の夢の内、叶うのは7個程度なのである。大事なことは、夢を叶えたいのなら、叶えられぬ夢をも持つということなのである。夢が叶わないからこそ夢が叶うという逆説が生じて来るのである。

 夢の実現は単独で起こらないのだ。夢は必ず他の夢をも引き連れて来るものなのである。だから夢が叶う度に新たに夢をプラス3していくのである。全ての分野で当たるのではなく、或る特定の分野で当たるので、その特定の分野が解ったのなら、どんどん進んで行くべきなのである。

●今年のパワースポット

 今年のパワースポットはズバリ「龍神」関係の神社や寺院である。

 日本には隠れながら龍神を祀った神社や寺院が非常に多い。これを「龍蛇信仰」というが、日本人の先祖が龍蛇信仰をやっていたために、それをそのまま表に出さないが、神社や寺院を表に出し、実は裏側で龍蛇信仰をしている場合があるのだ。縄文人はまさに龍蛇信仰をやっていたわけだし、出雲神族も当初は道教だったのに土着化して行く過程で龍蛇信仰に染まってしまったのだ。

 このため自分が現在違う信仰を持っているからといって、龍蛇信仰を否定してしまうと、龍神の力を貰えることができず、辰年なのに運気が低迷してしまうことがある。自分は今現在、龍蛇信仰していなくても、裏で龍蛇信仰を温存している神社や寺院に参拝すると、自分の御先祖たちが喜び、霊的に守護してくれるようになり、自分の夢が実現することになるのだ。

①出雲大社

 殆どの神社は龍蛇信仰を表に出さないが、唯一、前面に出しているのが出雲大社である。なんせ神宝が「海蛇」なので、明らかに龍蛇信仰をやっているというのが解るのだ。今年は辰年である以上、出雲大社こそ最高のパワースポットになる。出雲大社に行けるなら、是非とも行っておいた方がいい。

②厳島神社

 神社の中でも天孫族系の神社は龍蛇信仰が表に出て来ない。天孫族は天神祭祀の方が盛んだったので、龍蛇信仰などはしていないのだ。しかし日本各地を征服していく過程で、現地の龍蛇信仰が紛れ込むという現象が生じたのである。その典型例が厳島神社である。厳島神社を参拝しても、どこにも龍蛇信仰は出て来ない。だが天神祭祀の神社なら、厳島神社のように海辺に建てるということはしないのである。厳島神社の建物それ自体が龍蛇信仰の上に建っているということなのである。

③弁天様

 仏教系では弁天様である。天武天皇によって天照大御神が持ち上げられ、持統天皇によって天照大御神を神道の最高神にしてしまったために、庶民レベルで気安く地母神を崇敬することができなくなってしまった。それを埋めたのが弁財天であって、空海が起こした真言宗によって強力に広まっていったのである。

 弁財天で最もお勧めなのは「鎌倉の銭洗い弁天」である。弁財天と龍蛇信仰と財運がモロに組み合わさっているというのが一発で解る。この銭洗い弁天は参拝客が絶えないので、是非とも一般の参拝客に紛れ込んで、銭を洗って財運を高めておいた方がいい。弁天様は庶民に愛された神様なので、庶民と同じ行動を取るというのが大事なのである。

 鎌倉の銭洗い弁天はお金を洗うだけではなく、境内をじっくりと巡って楽しんで欲しい。というのはこの寺院は銭洗いだけするのではなく、境内には実に興味深い物が多々あるのだ。それが一体なんなのかは自分で実際に行ってみて、自分の目で見て調べてみることだ。そういうことを考えることが富を齎すことになるのである。

 自分の夢が叶ったのなら必ずお礼参りをすることだ。神社や寺院で祈願したのに、夢が叶った後にお礼参りをしないからこそ、その後、夢が一切叶わなくなってしまうのである。面倒であってもお礼参りをして、神様に対して「感謝の意」を現わしておくことだ。感謝をすれば、また次の夢が叶えることができるのである。

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