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2012年4月

恐怖のファストフード

●ファストフードは栄養バランスを完全に欠いている

 真っ当な人生を歩みたいのなら、とにかくファストフードを食わないことだ。

 ファストフードというのは確実に人間の肉体を蝕んでいく。ファストフードと健康は常に反比例の関係にある。成功者たちはファストフードを食べないものだがそれは当たり前である。ファストフードを食っていたら、心身が正常に動かなくなるので、仕事の生産量が落ちるからなのである。

 ファストフードというのは、それをきちんと調べなくても、「これは危険である」ということぐらい簡単に解る代物なのである。それは「ファストフードは栄養バランスを完全に欠いている」ということなのである。動物性蛋白質と糖分に重点が置かれすぎているために、まともな食事になっていないのだ。

 通常、「肉を食ったら野菜を食え」と言われる。その量もボール1杯分といわれるくらいだ。ところがファストフードでは肉の量に対して野菜が全然足らないのである。これでは体内でビタミンやミネラルの決定的な不足という現象が起こってしまうのである。

 最近、登下校中の子供たちの列に自動車が突っ込んだ事故が頻発しているが、その自動車の運転手たちに共通しているのは、運転する前に食べた食事がファストフードであったということだ。「居眠り運転」をしたとか、「運転中に頭がボーッとしてしまった」とか言っているが、それこそ体内でビタミンやミネラルが欠乏し、脳が正常に機能しなくなってしまった証拠なのである。

 ファストフードを食べている女性に限って肥満に悩まされているものだ。その理由は簡単で、ファストフードでは代謝が悪いからなのである。肉を食ったとしても野菜をきちんと食べていれば決して太らない。しかし肉の量に対して野菜が少なければ代謝が悪くなるのだから、それで体に脂肪がどんどんつき始めるのである。

●肉を食っても体が熱くならない?

 ファストフードというのは肉自体が異常な肉なのである。通常、肉を食えば体温が上昇する。肉は陽性の食べ物なので、これを食べれば体温が上昇し、汗が出て来るのだ。焼肉を食べれば、みんなが汗をかきながら食べるものだが、あれこそが肉食の正常な形なのだ。

 しかしファストフードでは汗をかかない。体温も上昇しない。それは大量の香辛料を使って体温が上昇することを抑えているからなのだ。なぜそんなことをするのか? 焼肉のような食べさせ方をさせてしまうと、肉食は月に1回程度になってしまうからだ、

 だが、香辛料によって体温の上昇を抑えれば、それこそ毎日でも食べられるようになるのだ。体自体が肉を食べたのに体温が上昇しないから、「これはおかしいぞ」と思って更なる肉食を要求してくるようになるのだ。ファストフード会社は大量の香辛料を使っていることを宣伝するものだが、これは香辛料を悪用しているだけのことなのである。

 都会に住んでいれば、「朝はマックで」「昼食はマックで」「夕食はマックで」という人たちが異様に多い。沖縄県では何か祝い事があると「ケンタッキーフライドチキン」を頼むという。こういう現象は何も不思議なことなのではなく、ファストフード会社の長期的戦略にまんまと嵌ってしまっただけのことなのである。

 ファストフードに嵌ると、そう簡単に抜け出せなくなる。ファストフード以外で、この異常な肉を食べさせてくれる所はないからだ。ファストフードというのは中毒性を持っているものなのであって、だからこそファストフード中毒に罹ると延々とファストフードだけを食い続けることになるのだ。

●フライドポテトで癌になる?

 ファストフードでは肉とフライドポテトがセットになって出て来るものだが、これにはちゃんとしたり理由が存在するのだ。肉というのは大量の塩分を含んでいる食べ物なのである。それに対してジャガイモはカリウムを大量に含んでいる食べ物なので、このナトリウムとカリウムの両方をきちんと取れると体が正常に機能するのである。

 この組み合わせは絶妙の組み合わせなのに、ファストフード店では或る恐ろしい悪行をやってのけているのである。

 それはジャガイモに放射線を照射し、殺菌させているのである。なんせ世界中のファストフード店にフライドポテトを供給する以上、1つも細菌に汚染されたものがあってはならないのだ。要は人為的に被爆した物を食べさせてらてているのである。

 それにジャガイモは酸化し易い野菜なのである。自宅で自炊すれば解ることだが、ジャガイモは切るとすぐに表面が酸化し変色していく。だからフライドポテトを作るなら、店舗ごとに調理していくべきなのである。しかしファストフード店ではそんな面倒なことをせず、工場でカットしてしまい、それを各店舗に送り、そこでフライにするのである。

 既に酸化しているポテトをフライにすることで更に酸化するという恐ろしい現象が起こるのである。

 ただでさえ放射性物質を持っているのに、酸化に酸化を重ねれば、フライドポテトは食った直後から「活性酸素の塊」になって体内の細胞を傷つけることになるのである。ファストフードを食っている人ほど老化が早いものだが、それは当然といえば当然なのである。

 更にはこんな食事をし続けていれば、女性なら「子宮癌」「卵巣癌」「乳癌」「肝臓癌」「腎臓癌」「胃癌」に罹ってしまうものなのである。若い時に「ファストフード店は便利でオシャレだから」という理由で頻繁に使用していると、40歳を過ぎた頃には癌を発症して死んでいくことになるのだ。

●なぜソフトドリンクがつくの?

 ファストフードでは肉とフライドポテトに続いてソフトドリンクもセットになってついてくる。これにもちゃんとした理由が存在するのだ。ハンバーガーにもフライドポテトにも化学塩を振りかけており、これらを食えば化学塩の効果によって異様に喉が渇くのである。

 しかもその喉の渇き方が半端ではないのだ。

 ファストフード店では普通では絶対に使わないような非常に大きなコップが使われるものだが、あれはそれだけ喉が渇くからなのである。化学塩の効果を抑えるためにはそれだけ大量にソフトドリンクを飲まねばならないのである。

 更にご丁寧に氷を大量に入れてあるのだ。これにもちゃんとした理由が存在する。塩というのは体温を上げる効果を持つのだ。このため化学塩を使って氷入りのソフトドリンクを飲まねば、体温が上昇してしまうのである。だからソフトドリンクに氷を大量に入れることで、体温の上昇を抑えるのである。

 こういう食事を食べていれば、「腎臓病」や「糖尿病」になるのは当たり前のことなのだ。化学塩を幾ら摂取しても、腎臓は正常に機能しないのだ。天日塩だからこそ腎臓は正常に機能してくれるのである。ソフトドリンクは要は「砂糖水」なのである。ソフトドリンクによって大量に糖分を摂取する以上、糖尿病になるのは当たり前のことなのである。

 ファストフード店を利用する女性たちは「冷え性」に悩まされているものだ。体温が常に「36℃」を下回っているのだ。これでは生理痛になるものだし、頭痛にだってなるものだ。それだけ体温が下がれば代謝が悪くなるので、肥満になっていくのは当然の現象なのである。

●なぜテレビでは報道されないの?

 これほどまでにファストフードが危険なのだから、「なぜテレビで報道してくれないのか?」という疑問を持つ人たちはいることだろう。勘違いしないで貰いたい。テレビ局はテレビCMを放送することで成り立つビジネスなのであり、ファストフード会社がスポンサーについてしまえば、絶対にファストフードを批判するような報道はしないのである。

 ファストフード会社がどれだけテレビCMを張っていると思う? 自分で調べてみるといい。しかもファストフード会社は大量の資金を投入してテレビCMを作成しているのである。そうやって質のいいテレビCMを流すからこそ、多くの人たちがファストフードに嵌ってしまうのである。

 ファストフードを食べた所ですぐさま病気が出て来るのはではないのだ。何十年後かにしてやっと病気が出て来るものなのである。だから政府は動かない。消費者運動団体だって下手に行動を取ることはできないのだ。国民一人一人が気をつけるしかないのだ。

 もしも家族がいるなら、家族連れでファストフィード店には絶対に行くな。子供の内にファストフードに慣れてしまえば、その味こそ本物の味だと思い込んでしまうのだ。その罪は児童虐待どころではないのだ。確実に我が子を癌で殺すことになるのだ。

 家族でどこかに出かける時、少し面倒ではあっても、事前にレストランを調べておくなり、予約しておくべきなのである。それか自宅でお弁当を作って、それを持って出かけるべきなのである。結果的に見ればこっちの方が遥かに安上がりだし、しかも大いに楽しめるものなのである。

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なぜ外食中心の生活だと病気になるのか?

●水商売の女性たちが気付いた事実

 戦後の日本ではフーゾク嬢たちの間で劇的な変化が2つほど起こった。1つ目は「売春の禁止」で、法律によってフーゾク嬢たちに売春はしてはならいと定められたのである。なんとも無茶な法令であるのだが、このため確かにフーゾク嬢たちは売春をしなくなったが、援助交際やらデリヘルなどの闇売春が横行することになったのである。

 もう1つの劇的な変化はフーゾク嬢たちが外食を控え、自炊をするようになったことなのである。古来より水商売の女性たちは自炊しないものなのである。なんせ仕事が深夜にまで及ぶために、起床するのは昼頃であって、その後、散歩をして体を動かし、排便をし、それからどこかの料理屋に行って食事を取るのである。水商売に携わる者なら、1日の食事というのは、たったそれだけなのである。

 ところが戦後の日本では、フーゾク嬢たちは外食中心の生活をしなくなったのである。その理由は簡単で、外食ばかり食べていると、死ぬ奴が出てきたからなのである。それでなくても深刻な便秘に悩まされ、肥満に体調不良に花粉症に苦しめられてしまうのである。

 特に多いのは「癌」で、フーゾク嬢たちの癌の死亡率というのは異様に高いのだ。癌の中でも「子宮癌」や「乳癌」に簡単に罹ってしまうのだ。深夜に及ぶ仕事のために体を冷やし易く、サービス業のためにストレスが多く発生し易いので、その上で外食ばかり食べていては、簡単に癌に罹ってしまうのである。

 フーゾク嬢で便秘をしているのなら要注意である。その便秘を放置しておくと、確実に癌に罹ってしまうからだ。人間の体は午前5時から午前11時の間が排泄の時間帯なので、フーゾク嬢たちは職業柄、この時間帯には寝ているのである。だから安易に便秘になってしまうのである。そして便秘が習慣化すれば、癌になってしまうのである。それだけ便秘によって体内に老廃物と毒素を溜め込みすぎてしまったのである。

●答えは「調味料と油」

 なんで外食中心の生活がそんなに危険になってしまったのか?

 その答えは「調味料と油が変化してしまったから」なのである。

①化学塩

 戦後の日本では天日塩に代わって化学塩が使われ始めたのである。化学塩は塩化ナトリウムが99%以上という、自然界には存在しない人工的な塩なのである。普通、動物ならこの塩を舐めることはない。しかし人間たちはこの化学塩を使って調理すると、その料理を美味しいと感じてしまうのである。

 飲食店が成功したいのなら、とにかく料理を塩辛くすることだ。塩辛い料理だからこそ食欲が湧いてくるので、より多くの注文を取ることができるのだ。しかもそれだけ化学塩を摂取していれば喉が渇くので、それでジュースやお酒の注文も入り、お店は更に儲かるのだ。

②白砂糖

 白砂糖もこれまた自然界には存在しない砂糖なのである。白砂糖は不純物を殆ど100%除去できるので、その危険性は最大化することになるのだ。白砂糖の恐ろしい所は中毒性があるということなのである。一旦白砂糖に慣れてしまうと、もう戻れなくなる。黒砂糖を食べさせても不味いとしか感じなくなってしまうのだ。

 白砂糖は腸の蠕動運動を妨害する。このため甘い物が好きな女性ほど便秘になってしまうのだ。恐ろしいのは、肉料理と白砂糖の組み合わせなのであって、肉を食べた場合、人間の腸はすぐさま排泄するようになっているのだが、白砂糖のために腸の蠕動運動が妨害されると、肉の毒素が大量に残ってしまうのである。それで癌を発症してしまうのである。

③サラダ油

 サラダ油もこれまた自然界には存在しない油なのである。このサラダ油を加熱するっとすぐさま酸化してしまうので、非常に危険な油なのである。ところがこの加熱されたサラダ油の料理を食べると、人間は美味しいと感じてしまうのである。

 サラダ油の怖さは、これを使い続けると肝臓や腎臓が完全にギブアップしてしまうということなのである。だからこそ肝臓病や腎臓病の患者たちが異様に多いのである。女性が肥満に悩んでいるのなら、サラダ油を疑った方がいい。要は代謝が悪くなっているのであり、サラダ油を使い続ける限り、痩せることは決してないのだ。

●健康でいたければ外食の回数を減らせ

 外食の中で最も危険なのが「ファストフード」である。これは説明しなくても理解することができるだろう。危険な調味料と危険な油を使っているし、大体、野菜が決定的に不足しているのだ。マクドナルドでハンバーガーを食べることが習慣化していれば、将来、確実に大病を患うことになるのだ。

 ファストフードに準じて危険なのが「中華料理」と「韓国料理」である。

 中華料理というのは本来「料理の王様」だといっていい。しかし外食で食べる中華料理は本来の中華料理ではないからこそ危険なのである。中国人たちが家庭で食べている中華料理は調味料や油を抑えてある。しかし中華料理のお店となると、調味料や油をバンバン使っていくのである。

 現在流行中の韓国料理は中華料理以上に危険で、そもそも韓国料理が長寿に貢献したという事実は全くないのである。韓国人は日本人よりも短命なものだし、40歳を過ぎる頃には有り得ないほど老化してくるのだ。その理由は唐辛子の大量消費にあり、唐辛子は極陰性の食品であるために、体が芯から冷え切ってしまうからなのである。そこに中華料理同様に調味料や油を大量に使っていくから、これで病気にならない方がおかしいのだ。

 健康でいたいのなら、長寿でいたいのなら、とにかく自宅で「自炊」することだ。その際、調味料や油に対してお金を惜しまないことだ。ここが正常だと、食事も正常になり易いのだ。ここが狂ってしまうと、食事が狂い始め、そして家族の者たちが病気するようになるのだ。

 もしも外食をするなら、「和食」にした方が無難なのだ。洋食が食べたいのなら、「イタリア料理」にすればいい。家族で沢山食べたないなと思うなら、少しお金はかかるがホテルのレストランのバイキングがお勧めだ。一流のシェフたちがいるので、そんなに危険な料理は出てこないのだ。

●子供が12歳になるまで、外食はできるだけ控える

 子供を育てる時、子供を兼好に育てるだけでなく、「子供の味覚」をきちんと育てるということにまで気を配るようにすることだ。子供の味覚が狂ったら、食事が狂いだし、そして心身も狂いだすものなのである。母親が作る料理に問題があるからこそ、子供たちの味覚が来るっていくのである。

 まず調味料と油に関して、お金をケチるようなことはしないことだ。塩は天日塩を買い、砂糖は黒砂糖を買うことだ。蜂蜜であるなら尚いい。油に関してはせめて「なたね油」にして、出来ることなら「オリーブ油」や「亜麻仁油」を使うことだ。

 子供が12歳になるまで、できるだけ外食は控えるようにすべきなのである。子供の味覚は12歳までに出来上がるので、この時期まで自炊中心なら、味覚が狂っていないから、以後、外食をしても、危険な外食は食べないようになるのだ。

 気をつけるべきは給食で、給食で出される食事がジャンクフードに近いために、給食で育った子供たちほどファストフードに走るものなのである。だから日々の食事で給食に負けないような料理を出していかないと、子供たちが中学生を過ぎるとファストフードに嵌るようになってしまうのだ。

 「舌は三代」という。舌は三代jかけて育つものであり、自分が先祖から受け継いだ料理をきちんと子供達に伝えていくべきなのである。舌が狂ったら、食事が狂い、そして心身が病気になっていくものなのである。だから食事に関して母親の責任というものは重大なのである。

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数を減少させると、質が向上する

●男女比率の謎 

人間は男女が平等の割合で生まれてこない。

 必ず「男性が49%、女性が51%」になるといわれている。これは日本だけがそうなのではなく、世界各国皆同じ現象が起こるのである。しかも乳幼児の死亡率は常に男の子の方が高い。免疫力の関係上、男の子は死に易いのである。更には中高生での死亡率は男子生徒の方が高い。自殺をしたり、交通事故死したりするのは、やはり男性の方が多いのだ。

 その結果、一体どうなってしまったのか?

 男性の方は女性よりも数が少なくなるのだ。しかしその反面、男性たちの質が向上してしまうのである。世の中には「数を少なくすると、質が向上する」という法則があるのだが、これが男性たちに対して作動してしまうのである。だからこそ優秀な人間には男性たちが多いのである。

 例えば俺は本を大量に読むのだが、いい本の大半は著者が男性たちである。男性は女性よりも脳が大きいし、男性ホルモンが脳を活性化するという理由はあっても、いい本の大半は男性たちが書いた物であるとう事実は、余りにも衝撃的事実なのだ。男性たちの数が少ないことが、こういう所で質の向上となって現れてくるのである。

 女性の作家で「これはいい本だな」と思える本を書いている作家は、必ず孤軍奮闘している。例えば戦前では与謝野晶子で、源氏物語の本格的な研究を自分一人でやっている。戦後では塩野七生が古代ローマ学の研究を自分一人でやっている。だからこそ両者ともいい本を書くことができたのである。

 世の中というのは絶対に民主主義で動かない。何事も多数決で決めていけば、粗悪な物しか生み出すことはできないのだ。優れた物を生み出したいのなら、数を減らして質を向上させると言う努力をすべきなのである。それをしない限り、絶対に優れた物を生み出すことはできないのだ。

●なぜ日本の女性議員たちは質が低いのか?

 現在、日本で最も質の低い女性たちがいる場所は、女子刑務所と国会議事堂である。正確に言うと、国会議事堂であるかもしれない。

 女子刑務所では受刑者達が犯罪を犯した上で入っているのだから、この女性たちが最悪の女性たちであるということは理解できる。しかし国会では女性議員たちが選挙に当選した上で議員になった以上、この女性たちが最悪な女性たちであるということがなかなか理解できない。

 理由は簡単で、女性議員たちは与野党や年齢差に関係なく、

「女性議員をもっと増やすべきだ!」

と全員がそう思い込んでいるからなのである。

 現在でもこれだけ質の低い女性たちが国会議員になっている以上、これ以上増やして一体どうなるんだと思いたくなるのだが、女性議員たちは自分たちの置かれた状況を理解せずに、女性議員の数を増やそうと躍起になっているのだ。

 政界は基本的に「男たちの世界」である。

 だから女性議員たちのために割り当てられている議席の比率は、最低でも10%、最大で30%はある。要はこの範囲内で活躍すべきであって、この範囲を超えて活動してはならないのだ。女性議員たちが男女比率を平等にしようと思い込んでいるからこそ、間違った不満を抱いてしまうのである。

 現時点で女性議員たちの質が最悪だということは、もう数が多すぎるということなのである。女性議員の数を無闇に増やすということをやっているから女性議員の質が下がってしまうものなのである。女性議員の数を増やせば女性の地位向上に繋がるという発想は捨てるべきなのである。

 どの政党であったとしても、今すべきことは女性議員たちの数を減少させ、質の高い女性議員たちだけを残していくという作業なのである。女性議員の数を減少させると、女性議員の質が向上するのだ。そうすればその女性議員たちは国政の場で活躍することができるから、その後、質の高い女性議員たちが増えてくることになるのだ。

●執筆量が少ないほど、原稿の質が上がる

 現在、俺は小説を執筆中なのだが、いざ小説を書いてみて、驚いた事実があった。

 それは小説の執筆速度が異様に遅いということなのである。

 俺の場合、小論文であるなら、1時間半程度で四百字詰め原稿用紙10枚を書き上げてしまう。もう1時間半やれば更に10枚できあがるので、3時間で20枚は書けるのである。ところがである。小説になるとそうは行かないのだ。

 なんと1日で6枚程度なのだ。

 6枚ですよ! しかも1日で!

 俺自身の能力に何か問題があるのではないかと思ってしまったのだが、良く調べてみると、純文学の作家たちの平均執筆量はやはり1日6枚程度なのである。宮部みゆきは1日7枚に達すると、その時点で執筆を終了するというのだ。

 このため、俺は小論文でなら1日20枚は行けるのに、小説の場合は1日6枚に抑えたのである。するとどうであろう。きちんと小説が書けるし、小説の質も向上したのである。ここでも数を減少させれば、質が向上するという法則が働いたのである。

 いざ自分が小説を書いてみると、面白い小説はどれなのか、下らない小説はどれなのか、実に良く解るようになった。通俗小説と呼ばれている小説は、1日10枚以上のペースで書いているし、中には30枚以上のペースで書いている人もいるのだ。だから質が低くなってしまうのである。

 質の高い小説を書いている作家はやはり執筆量が少ないのだ。執筆量を少なくすることで、原稿の質を上げ、それによって結果的にいい作品が出来る上がってくるのである。そういう制作の仕方は本を数多く出せない代わりに、出した本の中にはロングセラーになる物が出て来るので、それで大儲けしていくことができるようになるのである。

●生活を向上させる知恵

 数を減少させれば質が向上するという法則は家庭でも使える。

 例えば料理で不味いのなんの言われているのなら、オカズの量を思いっきり減少させ、一品料理にしてしまうことだ。その一品にだけ全力を投入して、出来のいい料理を作るのである。こうするとオカズの量は減っても、旨い料理が出て来るので、家族は大喜びするようになるのだ。

 掃除をするのが「かったるいな~」とp思っているのなら、家の中の一箇所を重点的に掃除するようにすることだ。そこをピカピカにしてしまうと、翌日には他の場所も重点的に掃除したくなり、結果的に家全体が綺麗になってしまうのである。

 育児に於いても母親がなんでも手出しするのはダメなのである。そういう育児の仕方だと、母親が疲労してしまうし、子供の方だってきちんと育ってこない。そこで母親は出来るだけ子供に任せるようにし、自分が介入する回数を減らせばいいのである。こうなると母親は楽チンだし、子供の方も自主性を持って動くようになるのだ。

 もしも夫が過労状態になっているのなら、仕事を減らすよう勧告することだ。若い時は数多く仕事をこなしていくべきだが、或る時期を越えたら仕事の数を減少させ、仕事の質を高めていかなければならないのである。忙しく働いているからといって、その男性の生産性が高いとは限らないのだ。

 人間は欲望を持つ動物だから、その欲望を放置しておいたら、いつまでたっても満足することができなくなってしまうのだ。人間が持てるエネルギーは限られているのだ。だったら数を多くしていくのではなく、質の高い物を得られるようにすべきなのである。

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作家名の法則

●作家名は「作家の運命」を決定する

 作家にとって作家名は非常に大事である。作家名こそが「作家の運命」を決めてしまうのだ。大体、安易な気持で作家名をつける作家はいないだろうが、なんせデビュー前に作家名を決めるために、その作家に思慮が不足していれば、当然に滅茶苦茶な作家名をつけてしまうことになる。

 文豪の夏目漱石の場合、本名が「夏目金之助」だから、これでは作家名としては味気ないので、それで「夏目漱石」という作家名にした。漱石とは『晋書』にある「漱石枕流」からきており、「頑固者」という意味である。事実、夏目漱石は胃潰瘍で死亡している。頑固者がなりそうな病気である。

 もしも夏目漱石が夏目金之助で小説を書いていたら、あそこまで大ヒットしなかったし、文豪として歴史に名を残さなかったであろう。夏名漱石だからこそ良かったのであり、それ以外の作家名ではダメだったのである。作家にとって作家名とはまさに「運命」なのである。

 作家として生きていく場合、実名で活動するのは良くない。実名は自分の生活で大いに運気が使われており、作家として大成していくための運気が残っていないのだ。本名と作家名の2つを持ち、それによってそれぞれの事をなしていけばいいのである。

 作家の卵たちは自分の小説を書くことに躍起になるが、作家名を真剣になって考える者は少ない。だからこそデビューする前に自滅してしまったり、やっとデビューできても、すぐに消えたり、長らく苦戦を強いられた上に消滅という現象が起こるのである。

●男性は「漢字」、女性は「平仮名」?

 作家名には或る一定の法則がある。今まで色々な作家たちが作家名を使ってきたので、徐々に「作家名の法則」が見えてきたといっていい。科学的な法則ではないにしろ、飽くまで参考としてこの「作家名の法則」を知っておいた方がいい

①第一法則

 男性は「漢字」が良く、女性は「平仮名」が良い

 日本の文学史を見れば解ることだが、男性の作家たちは殆どが漢字で作家名を作っている。男性の作家なら敢えて漢字以外の文字を使うべきではないのである。漢字以外の文字を使った時点で、「自分はもうヤバイ!」と思うべきなのである。

 女性の場合、漢字を使うより平仮名を使った方が良い。小説家なら「宮部みゆき」、漫画家なら「一条ゆかり」がその代表例で、他の女性作家や女性漫画家に比べて断然に巧いのである。一つ頭が抜きん出ているというより、レベルが違うというべきなのである。

②第二法則

 男性の場合、平仮名を使うのはダメだが、女性の場合、「平仮名」でも「漢字」でも別に構わない

 男性の作家の場合、作家名に平仮名を使っている時点でアウトだと見ていい。「井上ひさし」がその代表例だ。井上ひさしは遅筆で有名で締切日を遵守できなかったし、その作品の内容もイマイチな物が非常に多すぎるのだ。カトリック信者でありながら、隠れ共産主義者という異常な性格が、キリスト教徒にも社会主義者たちにも受けたにすぎないのだ。

 女性の作家は平仮名が良いからといって、必ずしもそうとは言い切れない。「吉本ばなな」が存在するからだ。彼女の作品は小説として成立していないと言っていいくらいにひどい。平仮名の作家名に良いのがないのなら、次善の策として漢字を使ったって別に構わないのだ。

③第三法則

 男性が漢字以外の文字を使いたいなら「片仮名」を使うべし

 男性の作家がもしも漢字以外の文字を使いたいのなら、片仮名を使えばいいのである。「ジェームス三木」や「越谷オサム」といった代表例がある。片仮名は平仮名よりも角張っているので、男性向きの文字だと言っていいのである。

●「一字名」「二字名」「三字名」

 作家名の名の部分が「一字名」か「二字名」か「三字名」かというのは、その作家の作品の内容に大きな影響を与えている。

①一字名は短編小説に有利

 一字名の場合、短編小説に有利である。「中島敦」や「井上靖」は短編小説が非常に巧い。短編小説は枚数が限られているので、内容を凝縮させなければならず、そうなると一字名の方が断然に有利になるのだ。一字名の作家は短編小説をビシバシと書いていくべきであろう。

②三字名は長編小説に有利

 三字名の場合、長編小説に有利である。「司馬遼太郎」の長編小説は非常に面白い。長編小説では登場人物たちを多数登場させねばならず、その登場人物たちをあれこれ動かしていくためには、三字名ではないと拙いのだ。三字名の作家は長編小説をしぶとく書いていけばいいのだ。

③二字名はどちらでも

 二字名の場合、短編小説でも長編小説でもどちらでも対応できるということなのである。「松本清張」は小説が短くても長くても巧い。小説家として生き残っていくためには、短編小説も長編小説もこなさなければならないから、だから二字名の作家たちが多いのであろう。

 こうやって調べていくと、自殺していった作家たちの自殺理由が解ってくるのだ。例えば「芥川龍之介」である。彼は三字名だから長編小説を書くべきだったのである。ところが芥川龍之介は短編小説が受けてしまったために、短編小説ばかり書いていたのである。そのために人生の袋小路に入ってしまったのである。

 逆に太宰治は一字名だから短編小説を主に書いていれば良かったのである。ところが徐々に小説が間延びしていき、短編小説以外の物を書くようになったしまったのだ。『グッドバイ』を連載中に自殺したというのは、一字名からしてみれば当然のことなのである。

●作家名らしい顔になることの大切さ

 作家名は本名ではない。しかし作家として仕事をしている時間が長い以上、徐々に本名よりも作家らしい顔になってくるものなのである。作家名を持ったのに自分の顔が変わらないというのは非常に問題がありすぎるのだ。そういう作家は大成しないことだろう。

 戦後、司馬遼太郎が国民作家になることができたのも、自分の作家名に相応しい顔を作っていたからなのである。若かりし頃の福田定一は大阪外国語学校というどうでもいいような学校に行っているそれほど優秀な学生ではなかったのである。それが司馬遼太郎という作家名を使い出したら、顔がどんどん変わっていき、それで名作をじゃかじゃか生み出していったのである。

 作家名が余りにも凄すぎるとその作家名に潰される者たちも出て来ることだろう。逆にふざけた作家名をつけていれば、その作家名のために自分の作家人生が潰されてしまう者も出て来ることであろう。理想は持ちつつも、無茶をしないような作家名にした方がいいのだ。

 「玉子が先か、鶏が先か?」という議論があるが、作家の場合、作家名が先なのである。だから作家はデビューした時点で作家人生のかなりの部分が決まってしまう。「如何なる作家も処女作が一番面白い」というが、その作家が自分の作家名をどう考えたかは、デビュー当時で全て解ってしまうものなのである。

 読書をする場合、本だけを読んでいてはダメだ。作家を見よ。その作家がその作品を作ったのであり、作家自体を見切らないと、その作品をきちんと理解することはできないのだ。そういった意味で、作家名が作品にどのような影響を及ぼすのかを考えるのは、読書家にとって非常に楽しい試みなのである。

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与謝野晶子の知られざる名作『金魚のお使い』

●絵本作家の絶対条件

 絵本作家には絶対条件というものがある。それはその作家自身が結婚し、子供がいることなのである。ただ単に絵本を作るのではなく、自分が結婚し、子供を生み、育児をしながら、絵本を作って貰わねば困るのだ。絵本作家が独身なら、不気味な絵本しか作ってこないものなのである。

 では子供の数が多ければ良いのかというと、実はそうではない。子沢山の母親はまず童話を書かない。その理由は妊娠出産育児が快感だから、童話を書くという意欲が全くなくなってしまうのである。子沢山なら家事や育児が忙しいからというのが理由ではないのだ。

 戦前の女流文豪といっていい与謝野晶子は11人もの子供を生むのだが、実を言うと彼女は歌人として有名であるfが、童話も書いているのだ。この童話を書き始めた時期が重要で、まだ子供の数が少なかった時に書いたのだ。

 それが『金魚のお使い』である。

  きんぎょのおつかい

 与謝野晶子原作 高部晴市作画 『きんぎょのおつかい』(架空社)

 与謝野晶子は長男の「光」と次男の「秀」、そこに双子の娘たちである「八峰」と「七瀬」が生まれた時に、この『金魚のお使い』を書いているのだ。基本的には「光」と「秀」に読み聞かすために作ったのだ。与謝野晶子は20代で、双子の赤ちゃんの世話をしながら、閑を見つけてせっせと書いたのである。

 この『金魚のお使い』は売るために書いたわけではない。自分の子供たちに読み聞かせ、それが好評だったから絵本雑誌に掲載されたのである。読めば解ることだが、売るために作っていないために、読了感が非常に清清しいのである。与謝野晶子の母性愛がしみじみと感じられるのである。

 「優れた作家は童話でも名作を書く」というのがよく解る作品である。

●ナンセンス極まりない物語

 物語は新宿に住む「太郎」が、駿河台に住む「菊雄」さんちにお使いをやらねばならないという所から始まる。女中の「梅や」が病気のためにお使いを出せないので、弟の「二郎」が「金魚をお使いに出そう」と言い出し、それに太郎が同調し、妹の「千代」までもが賛同してくる。

 (なんで金魚なの? 二郎と千代! お前らがお使いに行けと言いたくなるのだが・・・。)

 金魚は「赤」「白」「ぶち」の三匹で、その三匹で新宿駅に行くのだが、「金魚には切符が要らない」と駅員から断られてしまう。金魚たちは愚痴を垂れ、不満を表現する。しかし駅員はなぜだか「行ってよろし」と言い出し、どうにかして電車に乗ることができる。

 いざ電車が発車しようとすると、三匹の金魚たちは大騒ぎをし、「水を持ってきて下さい!」と言い出す。駅員は車内を水浸しにするわけにも行かないので、金盥を持ってきて、そこに水を入れて、金魚たちが困らないようにさせるのである。

 三匹の金魚たちはどうにかして御茶ノ水駅まで行き、そこから駿河台の菊雄さんちまで歩いて出向くのである。三匹の金魚たちは無事用事を果たして、菊雄さんちではご褒美を貰うことになるのだが、手がないために郵便小包で送ることになるのである。そして金魚たちは帰って行き、新宿駅には太郎二郎千代の三人が出迎えに来るのである。

 実にナンセンス極まりない話なのである。本当に歌集『みだれ髪』を書いた作者がこんな童話を作ったのかと疑いたくなるのだが、これこそ与謝野晶子がきちんと母親になっていた証拠なのである。ナンセンスだからこそ子供は大喜びするのである。通常のナンセンスではダメなのである。ナンセンスも限度を越えてこないと、子供は喜んでくれないのだ。

●隠された知恵

 これは童話なので、黙読する物ではないのだ。とにかく音読してみて欲しい。子供たちの前で読み聞かせて欲しい。母親としては1回読んだ程度ではこのお話が何を言いたいのかよく解らない筈だ。とにかく3回以上読むべし。3回以上読むと、この童話の面白さがしみじみと解ってくるようになるのだ。

①幼い子供が外出するのは大冒険

 この童話で言う「金魚」というのは「子供たち」のことなのである。金魚のように可愛くて、金魚のようにか弱い。その連中がお使いに出るというのは大冒険になってしまうのである。お使いにやらしてもお使いどころかピクニックになってしまうのだ。

②子供でも言うべきことは言え

 金魚たちは電車の中で大騒ぎをして、駅員さんたちに助けて貰うことになるのだが、「子供だからこそ言うべきことは言わねばならない」ということを教えているのである。子供だからといって黙っていては解らない。子供だからこそ言わねばならぬことは言わねばならないのである。

③三人集まれば文殊の知恵

 子供のように人生経験のない者が1人で行動するのは危険である。三人いればどうかにかなるものなのである。金魚のやりとりが意外とリアルなのは、与謝野晶子は既に四人も子供を生んでいたからなのである。子供であっても、三人で話し合っていれば、生きていける知恵ぐらい見つけ出すことができるものなのである。

 この童話の隠された知恵を見つけ出さなければ、「なんなんのこのお話!」ってことになってしまう。それは読解力のないあなたが悪いのであって、この童話が悪いのではないのだ。これは飽くまでも子供たちに読み聞かせるものなのであって、母親の立場に立ってこの童話を読んでみることだ。

●母親にとっての教訓

 この童話は母親が冷静になって考えると、違う感想も出て来るのではないだろうか? 結婚していない女性が読んでも解らないことが、自分が結婚し、赤ちゃんを生み育てていくと解るようになるのだ。実を言うと、これこそが与謝野晶子の言いたかったことなのである。それは

 「子供のお使いは周囲が大変になる!」

ということなのである。子供のお使いはお使いとしての効率性を考えるのなら、別にやらなくてもいいのだ。自分がやってしまった方が早いし安全であるのだ。しかし子供に社会性を身につけさせるためにわざわざ子供をお使いに出すのである。

 その際、相手が子供なのだから、周囲の大人たちは余計な作業を負担しないと、子供たちはお使いの任務を果たすことができない。もしも周囲の人たちが「そんなの面倒臭い!」と切り捨ててしまえば、子供たちは社会性を持つことができず、将来的には犯罪者になってしまい、社会に莫大な損害を与えるようになってしまうのである。

 育児をする際、楽をしようという母親達は跡を絶たない。子供たちは常に母親の予想を越えることをやってくるのだから、それを楽しめばいいものを、なぜだか手抜きをして、怠けてしまうのである。それがために後になって大きな代償を支払う羽目になるのだ。

 育児は楽しいけれど、一時的に大変なことが起こるのである。それはしょっちゅう起こるのではないのだ。それは子供が成長したからこそ起こるものなのである。「育児は大変だ~」と騒いでいる母親たちは自分の力で子供の成長を押さえ込んでいるだけなのである。一人前の母親なら、時には大変になる育児も、それを充分に楽しめばいいのである。

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作家は顔で判断していい

●国語の教科書の怪

 中学生や高校生の時、国語の教科書をパラパラと読んで、作家の顔を見比べた経験というのは誰にもある筈だ。作品を読み比べることも確かに大事なのだが、それ以上に作者の顔を見比べることも大事なのだ。なぜなら作品を読んでいるだけでは解らない情報を多数くれるからだ。

 はっきりと言ってしまうと、面白い作品を書いている作家は「いい顔」をしているものだ。夏目漱石や芥川龍之介などは実に味わい深い顔をしているものだ。逆に詰まらない作品を書いている作家は詰まらない顔をしているものだ。志賀直哉や正岡子規などは明らかに顔に迷いが出ているのだ。

 国語の教科書には国文学に詳しい俺でも知らない作家の作品が時折掲載されることがあるのだが、国語の教科書に掲載されるのだから、その作品の出来はそこそこいいのだ。しかしその作家の顔がダメなのである。締まっていないのである。だからこそ、その作家は売れなかったといっていいのだ。

 作家の顔というのはいい顔になるというのは外国に目を転じても同じことだ、ロシア文学の二大文豪のトルストイとドストエフウスキーもやはりいい顔をしている。『レ・ミゼラブル』の作者のユゴーはフランス人にしては重厚感溢れる顔になっているし、『若きヴェルテルの悩み』の作者のゲーテはドイツ人にしては端正な顔つきになっているのだ。

 ヘミングウェイは若い頃は格好いい顔つきだったのに、アル中になってしまったために顔がグニャグニャになってしまったので、彼の後期の作品は全部ダメである。小説家には禁酒が当たり前というルールを守れない者は幾ら才能があっても自滅してしまうものなのである。

●いい本を書く作家はいい顔をしている

 小説家は必ずしも美男美女である必要性はない。大体、美男美女は小説家にはならない筈だ。若い頃から文学が好きで、大人になってから小説を書こうなどという人物は美男美女ではなく、普通の顔の持ち主か、それ以下の持ち主であろう。

 小説家はどんなに努力しても美男美女にならないが、小説家としていい作品を作っていれば、いずれいい顔にはなるものなのである。小説を書き上げるためには1日や2日でできるものではないのだ。1冊の単行本を出そうとすれば、最低でも1ヶ月間は書き続けなければならないのだ。

 その間、ずっとその小説について考え続けているのであって、自然と自分の顔がそれらしい顔つきになってくるものなのである。いわば小説家のいい顔というのは、長年の「思考の産物」なのであって、小説家として考えれば考えるほどいい顔つきになってくるのである。

 小説家としての鋭さは必ず顔に表れてくる。例えば司馬遼太郎などは他人と会話する時、相手の顔を凝視する癖があったのだが、そうやって凝視されると誰もがビビるほどの眼光の鋭さを持っていたのである。歴史小説を散々書きまくり、歴史上の英雄たちの生死を見まくっていれば、当然に眼光が鋭くなるものなのである。

 もしも小説家が曖昧な顔をしていれば、その小説家は曖昧な作品を書きまくっているということなのである。自分が専門的に小説家の仕事をしているのに、曖昧な顔つきになるということは絶対に有り得ないのだ。小説家は或る意味「職人」なのである。小説の職人であればこそ、顔に切れ味を持たせねばならないのである。

●醜男醜女枠

 ところが文学界の中には必ず醜男醜女がいるのである。そんな連中、本来なら淘汰される筈なのである。それなのになぜだか生き残ってくるのである。文学界には「醜男醜女枠」があると思っていた方がいいのだ。醜男醜女の小説家が作る作品に対して或る一定の需要が存在するということなのである。

 俺が知る限りでは「井上ひさし」「田辺聖子」「吉本ばなな」こそ醜男醜女枠に収まる小説家たちである。俺は今まで様々な人たちに出会ってきたが、これほど酷い顔の持ち主には会ったことがない。いつも「早く消えてくれればいいのに」と思っているのだが、この連中はなぜだかしぶとく生き続けるのだ。

 顔が醜いのだから、小説も大したことはないだろうと思っていたら、案の定その通りで、作品は粗悪品なのである。簡単に言ってしまえば、「奥行きがない」のである。ただ表面をなぞって書いているだけなので、読み終わった後の感動というものが全く起こらないのである。

 この手の小説家が許せないのは、「人間としての謙虚さがない」ということなのである。自分自身は醜男醜女なのだから。謙虚になって生きればいいものを、なぜだか傲慢になるのだ。そのため作品に出て来る登場人物たちの言動が傲慢になり、俺としてはどうしても許せないのである。

 人間は美しい物を追い求め、醜い物を排除しようとする感情があるから、自分の容姿が美しければ莫大な利益を得ることだろうが、自分の容姿が醜ければ損害を受けることはしても、利益を得ることはない。そのためその怨念というべき物を持つ連中は必ず世の中にいるのであって、そういう人達がこの手の粗悪品を求めてしまうのである。

●いい本を読んでいる人はいい顔になってくる

 本というのは全部が全部いい本ではないのだ。本は大別して「良書」と「悪書」の2つが存在するものなのである。良書は簡単に生まれて来るものではないのだ。その作者が必死になって考え抜き、コツコツと努力し続けたからこそ、良書になったのである。一方、悪書を生み出すのは簡単なことだ。その作者が適当に考え、適当に書けば、それで悪書は出来上がってくるのである。

 幾ら自分が読者だからといって、本を何も選別することなく買って読むべきではないのだ。読者だからこそ良書を追い求めなければならないのだ。人生は戸の隙間を白馬が駆け抜けていくほど短いものなのである。限れた人生の中で悪書を読んでいる閑などないのである。

 読者が良書を読んでいけば、必ず「いい顔」に9なってくるものなのである。その作者が考え抜いたことを僅かな料金を支払えば簡単に得られるのだから、それを知れば感動があるし、それを知った上で自分が更なる行動を起こせばいいのである。

 逆に言うなら、読者が悪い顔をしている人は悪書を読んでいるということなのである。この手の人たちは意外と多い。本屋に行っても図書館に行っても、必ず悪い顔をしている人たちがいるものだ。本だからといって無闇に読んでいると、どうしても悪書に引き摺られてしまうものなのである。

 ではどうやって良書と悪書を判別していけばいいのかといえば、それは作者の顔で判断していいのだ。中学生や高校生の時にやっていたことを大人になってからもすべきなのである。中学生や高校生の時にやっていたことを大人になってからやらなくなるからこそ、まんまと悪書に騙されてしまうのである。

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金銭欲と読書欲

●知的好奇心は生まれつき

 赤ちゃんを生んでみれば解ることだが、赤ちゃんは非常に知的好奇心が旺盛だ。いつもどこかをキョロキョロと見回しているものだし、動き出せるようになれば、家のあちこちを探ろうとする。知的好奇心は親から教育を受けて備えるものではなく、人間が生まれながらにして持っているものなのである。

 乳幼児は或る時期「クエスチョンモンスター」になることがある。ことあるごとに母親に「あれな~に?」と訊きまくることになるのだ。この場合、母親が丁寧に答えてあげると、子供の知的好奇心は大いに満足し、非常に高い知能を持てるようになるのだ。

 もしもこの時に母親の機嫌が悪く、「そんなの知らないわよ!」と否定しまうと、子供の知的好奇心は大いに破壊され、母親に対して激しい不満を持つようになるのだ。育児をしている時は、神経を過敏にさせる珈琲を飲むのは御法度だ。珈琲を飲んでいると、どうしても子供の有り得ない質問についていけなくなるからだ。

 母親が育児をしているからといって、常に子供の傍にいるわけにはいかない。そこで必要になってくるのが「絵本」だ。子供に絵本を買い与えて、それを子供に読ましておけばいいのだ。文字が読めなくても、絵と文字がセットになっていれば自然と理解することができるものなのである。

 子供は5歳から6歳の間に脳の臨界期を迎えるので、この間、自分が何かをして手足を動かすようにした方がいいのである。幼稚園児は放っておくと、駆けっこをしたり、砂遊びをしているものだし、親がお稽古事を習わせるのもこの時期だ。当然にそうやって手足を動かせば、脳は急激に発達していくものなのである。

●学校で知的好奇心を失う人々

 ところが子供たちが学校に行ってしまうと、落ち毀れる者たちが出て来るのだ。幼稚園児で落ち毀れる園児はいないものだが、なぜ学校になると落ち毀れる生徒たちが出て来るのである。意外なことかもしれないが、この落ち毀れの謎を解明した学者は1人もいないのである。だから場当たり的な落ち毀れ対策しかできないのである。

 その理由は実に簡単!

 脳のシナプスが減少していくからなのである。

 7歳以降は脳のシナプスが減少の一途を辿るので、だからこそ子供を放置しておいてはならないのである。保育園や幼稚園に行くか行かないはその親の責任で決めればいいが、小学校となると行って貰わねばならないのである。学校に行った子と行かなかった子とでは、脳のシナプスの残存量に大きな違いが出て来てしまうからなのである。

 学校教育の最大の問題点は脳のシナプスの減少に対応せず、ただ単に教育しようとするからなのである。このため落ち毀れる連中が出てくるし、勉強ができる生徒たちは教師の教育内容に大いに不満を持ってしまうのだ。相手が子供だからといって、子供騙しの教え方をやっていれば、酷い目に遭うものなのである。

 子供に対しては易しい教育をするより、やや難しい教育をした方がいいいのだ。子供は自分が易しいと思える問題には真剣にならないし、難しい問題だとギブアップしてしまう。このやや難しいが大事なので、そのやや難しい問題を出し続けることが大事なのである。

 親たる者、学校に我が子を通わせつつも、学校に頼り切ってはならない。学校が自分の子供の脳に対応しない教育をすることは充分に予想されることだからだ。だから子供に本を買い与えて、子供の脳を自分で刺激できるようにさせてあげるべきなのである。

●読書と財産の関係

 子供に本を読ませるには、なんといっても親自身が本を読んでいなければならない。親が読書していないのに、子供に読書を強いることは不可能なものなのである。子供は親の真似をして読書をするものなのであって、とにかく自分自身が読書をするようにすることだ。

 生活をしていれば、1円でもいいから多くのお金を必要としてしまう。確かに金銭欲を満たすために、収入を多くしていく努力は大切さだ。しかし金銭欲を剥き出しにしていれば、家庭内がギスギスしてくるし、家庭の外でも問題が起こるようになるものだ。

 自分たち家族の富を保つためには、なんといっても読書欲を満たすことが大事なのである。読書をしていれば、金銭欲が剥き出しになるということはない。読書をしている間は金銭欲のことは忘れるものなのであって、そのために金銭欲が自分にとって適正な物になっていくのである。

 しかも読書によって新しい知識を大量に獲得するために、その新しい知識を使って自分の生活の質の向上を図ることができるようになるものなのである。生活の質が上がらないからこそ、今の収入で満足することができないのである。

 それゆえ、お金持ちであっても、読書をしていない人は軽蔑しても構わない。絶対に生活の質が上がらないからだ。逆に貧乏人であっても、読書をしている人には敬意を払うべきなのである。そういう人物はいずれ頭角を現してくるからだ。

●読書欲は金銭欲を浄化する

 読書欲は金銭欲を否定するものではない。幾ら本であっても、富を憎むような本は読むべきではないのだ。本を買うためにはお金がかかる以上、絶対に富を肯定し、その作者が人々を豊かにしようとするために書かれた本だけを読むようにすることだ。

 読書欲は金銭欲を浄化するものなのである。金銭欲を剥き出しにしたら、自分の心身や生活が穢れていくのは当然なのだ。人間には金銭欲以外に、読書欲というものもあるのであって、それを満たさないからこそ、金銭欲が異様な行動を取ってしまうのである。

 金持ちの息子や娘たちに限って、優秀な学者たちが育ってくる。その親は経済的に豊かだから教育に充分にお金をかけることができたという理由もあるが、自宅には大量の蔵書があり、親自身が読書を習慣とし、子供たちは幼い頃から本に親しめる環境があったということの方が大きいのだ。

 勿論、お金持ちの子弟であっても、バカ息子やバカ娘は出て来る。しかしそういう親は経済的に豊かであったかもしれないが、日々読書するということを怠り、それが我が子の愚行として出て来たにすぎないのだ。バカなことをやっている人は常に目立つから、それで以て全てを判断してはならないのだ。

 人間は知的好奇心を生まれながらにして持っているし、それは終生失われることがないのだ。その知的好奇心を満たしていれば、人生というのは非常に楽しいものなのだ。もしも自分が知的好奇心を満たしていないのなら、何をやっても楽しくないし、それどころか自分の子供たちがおかしなことを遣り出すようになるのだ。

 人生では「当たり前」が一番危険なのだ。何事も当たり前と思うからこそ、自分の知的好奇心を死滅させてしまうのである。日々、惰性でテレビや新聞を見ている者は死ぬまで同じことを遣り続けているのだ。自分がどんなに貧乏であっても、自分の体の中には知的好奇心が埋まっているものなのである。だったらそれを満たしてあげるべきなのである。そうすれば自分の人生はバラ色になっていくものなのである。

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心に染み入る「よろこびの木」

●なんで孤児なの?

 児童文学には或る約束事がある。それは「主人公が孤児である」ということだ、両親が死ぬなり、両親に捨てられて、主人公は行き成り孤児として出発し、物語を展開させていくのである。これを見せられると子供はなんの違和感もなく読み進めていってしまうのだ。

 現実の生活ではそんなこと絶対に有り得ない。子供から両親がいなくなれば、その子供は悲惨な人生を歩むしかない。孤児がそのまま生きれば確実に餓死するし、児童擁護施設に引き取られても、両親を失った悲しみはそう簡単に消え去るものではないのだ。

 ところがその孤児が児童文学の中では大活躍してしまうのだ。これは「虚構」なのであって、主人公を孤児にすることで、読者である子供達に「自立」を促すためのものであるのだ。子供から両親がいなくなれば、自動的に子供は自立していかなければならないのであって、子供達はいずれくる自立のために、絵本を読んで勉強するのである。

 子供というのは、成長過程に於いて必ず「自分は捨て子なのだ」という有り得ない妄想を抱く。それもなぜだか拾われた場所は「橋の下」なのである。これは両親から愛情を受け、自分が親から少しずつ離れていくと、自分は捨てられたのではないかという感情が湧き起こってしまうのである。

 こういう場合、親は「そんなことあるわけないじゃないか!?」といって巧く否定しなければならないのだ。そうやって親への疎外感を破壊していくと、子供は大きくなってからスムーズに自立していくことができるのである。親なのに子供への言葉遣いが拙いと、子供が大きくなっても自立することができなくなってしまうものなのである。

●美しい言葉の大切さ

 今回紹介するのは、スウェーデンの絵本で、孤児のマーリンちゃんが主人公のお話である。

  よろこびの木

アストリッド・リンドグレーン著『よろこびの木』(徳間書店)

 マーリンの両親は胸の病気で死んでしまう。肺の病気ということは「肺結核」ということになる。スウェーデン人は牛肉を沢山食べるので、肺結核は深刻な病だったのである。本来なら里子に出されるのだが、マーリンは肺結核の疑いがあるので、誰も引き取ろうとはしないのである。

 そこでマーリンは「貧しい人たちの家」という老人ホームの原型のような施設へと行くことになる。ここは老人達の中でも貧しい人たちが共同で住む施設で、物乞いをしながら暮らすという場所なのである。それは当然に悲惨な生活なので、マーリンは自分自身を哀れんでしまうのである。

 しかし或る日、牧師がその施設にやってきて、子供達にキリスト教の話をする。マーリンはその牧師の言葉に感化され、菩提樹にナイチンゲールが宿り、そこで囀るという内容の詩を作り、それを何度も言い続けることになる。そうやって詩を唱えていると、菩提樹を植えたくなり、木の実を捜そうとするのだ。

 すると施設の中からインゲン豆が見つかり、マーリンはそれを拾ってジャガイモ畑に植えるのである。老人達は「菩提樹なんて生えてくるわけがない!」「たとえ生えてきても切ってやる!」といい、マーリンをからかうのである。

 だが本当に菩提樹が生えてきて、老人達はその美しさに感動してしまうのである。マーリンはたとえ自分がいなくなっても、この菩提樹の木に宿りたいという。そしてラストではマーリンはいなくなるのである。恐らく肺結核で病死したということなのである。菩提樹にナイチンゲールが止まり囀ると、老人達の中には「マーリンの声だ」という者が出てくるのである。

●男の子と女の子の違い

 この絵本は子供用ではあっても、まず親が読むべき絵本であろう。

 この絵本は男の子と女の子の違いを的確に教えてくれる絵本なのである。現実の話なら、子供が難病に冒された場合、男の子なら「僕は大きくなったら医者になって、この難病を克服する!」とか言い出してくることであろう。

 しかし女の子は違うのである。

 マーリンのように菩提樹を植え、老人達にナイチンゲールの歌声を聞かせてあげることで、その悲惨な状態を脱しようとするのだ。別に貧困や難病を克服しなくたっていいのである。それよりもその悲惨な状態であったも、美しい物に触れた時、人はその悲惨な状態から解放されるも0のなのである。

 東日本大震災でも、福島県のフラガールたちが「復興支援」と称して全国でフラダンスを講演しまくったのだが、男の俺にしてみれば意味不明の行動なのである。そんなことをするより、復旧復興作業に全力を投入した方がいいのではないかと思ってしまうのだ。しかし違うのだ。フラガールたちの活躍があれぼこそ、大震災の被害が深刻にならなくて済んだのである。

 子供を育てる時、男女の違いが解っていないと、とんでもない悲惨な事態を招いてしまう。男の子は男の子特有の行動を取ってくるし、女の子は女の子特有の行動を取ってくるのだ。それを親が巧く理解してあげないと、自分の性別をきちんと発展させられてなくなってしまうのである。

 フェミニストたちのように女性差別を撤廃するために戦うというのは、その時点でもう女性として生き方に反しているのである。だからフェミニストたちの意見を幾ら実現させても、フェミニストたちは自分自身が満足できないのである。そんな戦いなどせず、マーリンのように木を植えたり、小鳥の歌声を聞かせてあげようという行動の方が、女性の地位が自然と向上してしまうものなのである。

 女の子も小学生になると汚い言葉を使い出すので、母親は出来る限り美しい言葉を使うようにすることだ。「美しい言葉を美しい思考を生み、美しい思考は美しい行動を生むもの」なのである。マーリンが老人達を感動させることができたのは、まず初めに美しい言葉を言い始めたからなのである。そこから全てが始まったのである。

●キリスト教が殺したもの

 実を言うと、この絵本には宗教的にかなりの問題がある。

 マーリンはキリスト教的には救済されない少女なのである。確かにマーリンは牧師の言葉に感化され、美しい言葉を使い始めるのだが、マーリンがキリスト教を信仰したとは言っていない。牧師の言葉がなんなのかはかかれていないのだが、恐らく「福音」であろう。

 しかし福音に触れたマーリンは信仰に走らず、木や小鳥がいることを願うのである。とするなら、これはスウェーデン人が古代に於いて持っていたアニミズムということになってしまうのである。大体、自分の魂が菩提樹に宿りたいと願うことなど、到底、キリスト教の教義からしてみれば有り得ない願いなのである。

 俺が高校生の頃、北欧神話を読んだことがある。北欧神話なら北欧の人たちの思想や行動をきちんと理解することができる。だがキリスト教を信仰している現在の北欧の人たちから、キリスト教の話を聞かされても、北欧の人たちの思想や行動が見えてこないのである。

 キリスト教は一神教であるために、必ず他の宗教を殺してしまう。そうやって改宗者たちを獲得していくのだが、かといって改宗者が本当にキリスト教徒になったわけではないのだ。改宗者たちは表面上はキリスト教を信仰しているように見せかけても、実は裏で違う宗教を奉じていることも有り得るのだ。

 二流の作家なら、ただ単にキリスト教を肯定したり、逆に否定したりすることだろう。しかし一流の作家ならそんなことをせず、その国民の宗教心の本当の姿に迫るものなのである。アストリッド・リンドグレーンがスウェーデン人だからこの絵本を書けたのであり、アメリカ合衆国のように信仰気違いになっている国では、このような名作は絶対に生まれてこないものなのである。

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猫背な人々

●日本のピアニストたちへの疑問

 俺はこのブログの記事を書く時、時折、ピアノの曲を流しながら書いていたりする。満遍なくピアノの曲を聴くわけではなく、自分の好きなピアニストの曲を何度も聴くので、そうやって何度も聴いていれば、たとえ自分が素人であったとしても、ピアニストの良し悪しが解ってくるものなのである。

 「この人、ピアノが巧いな!」と思うピアニストたちは全員姿勢がいいのである。逆に「この人が弾く曲はここがイマイチなんだよ」と思うピアニストは全員姿勢が悪いのである。ピアノの場合、姿勢の良し悪しが結果的にピアニストの良し悪しになってしまうものなのである。

 CDを発売できるくらいだから、両者ともピアニストとしての技術力はそんなに大差がないのである。両者ともピアノの曲をきちんと弾けていることは弾けているのである。しかし俺みたいに何度も繰り返して聴いている人がいれば、些細なミスを見つけ出してしまうものなのである。

 ピアニストは椅子に座って演奏しているわけだから、姿勢を悪くする可能性は常に存在するものなのである。それでも背筋をピシッと伸ばしている人は些細なミスをすることがなく、猫背になっている人は些細なミスをしてしまうのである。

 恐らくこれはピアノ教室での教育に問題があるのはないか? 子供相手のピアノ教室の場合、ただ単にピアノを教えればいいというものではない。ピアニストとしての姿勢も大事なのであって、子供が猫背で演奏しようもになら、指揮棒で背中を叩くぐらいのことはすべきなのである。

●力の入り方

 なんで猫背がそんなに悪いのかというと、猫背になってしまうと体に余計な力が常に入り続けてしまい、指が巧く動かなくなるからなのである。このため演奏時間が長引いてくれば、必ずミスをしてしまうことになるのである。そのミスは1回か2回かもしれない。しかしそのためにその演奏全部が台無しになってしまうものなのである。

 一方、ピアノは姿勢がいいと、体に無理な力がかかっていないので、簡単に力が出せるようになっている。ピアノの前で姿勢が良いと、逆になんか不自然な感じがするが、実際に演奏をしてみるとミスをしなくなるのだ。だからそこそこの技術がありさえすれば、ミスなく演奏することができるので、それで拍手喝采を受けてしまうのである。

 ピアニストのコンサートに行くと、微妙な力加減を要する時、猫背になってピアノを弾くピアニストが必ずいるものだ。こういうピアニストは必ずミスを仕出かすのである。観客としてはそうやって猫背になってピアノを弾く姿を見ると、丁寧に弾いているんだなと思ってしまうが、実はそうではないのである。

 そのピアニストは下手糞なだけなのである。

 実を言うと、人間が椅子に座っているというのは楽そうに見えて、実は疲れるものなのである。だからピアノの演奏中、どうしても姿勢が乱れてくるものなのである。ピアノには鍵盤以外の場所に、ピアニストをダメにさせてしまう誘惑が存在するのだと解っていないと、その誘惑のために我が身を滅ぼされてしまうのである。

 男性なら五指ソックスを穿いて、足の指に力が入るようにしておくことだ。こすると猫背になる確率が一気に減少する。女性ならドレスの下にコルセットを装着し、どうやっても猫背にならないようにすべきなのである。女性は筋肉量が少ないために、猫背になってしまう確率は男性よりも高いものなのである。

●猫背だと思考がネガティブになってしまうもの

 ピアニストたちの中には病気がちのピアニストがいたり、難病に蝕まれるピアニストがいたりするものだ。そういうピアニストは悲惨であっても、その姿は哀れなものだから、遂々、人々の同情を買ってしまう。しかしその同情のために、そのピアニストの悪行が解らなくなってしまうのだ。

 病気を引き起こした原因は猫背にあるのだ。

 ピアニストは練習に物凄い時間を割くし、演奏を披露すれば極度の緊張感の中でそれをこなさなければならないのだ。このため猫背になって演奏している人は、その猫背が固定され易くなるので、それで背骨が曲がってしまうのである。それが病気を引き起こしてしまうのである。

 普段から猫背でいれば肺活量が少なくなる。体内の酸素が少なくなれば、頭が巧く機能しなくなるのは当然のことなのである。ピアノは10本の指をフル稼働させている以上、頭に充分な酸素を供給しない限り、思いっきりネガティブモードになってしまうものなのである。

 ネガティブモードになっている以上、外出して気分転換しようなどとは決して思わなくなるものだ。自宅にいる時間が長くなり、それで余計に運動不足になり、病気を悪化させていくのである。自宅に幾らいたってその病気は治らないのに、延々と病気と闘い続ける日々を送るようになってしまうのである。

 ピアニストは運動不足になり易い。だから普段からスポーツをすることを心掛けるべきなのである。散歩でもいいし、軽ジョギングでもいい。そうやって体を動かしていれば、運動不足を解消できるし、それに何より猫背を解消することができるのである。

●猫背にならないために

 意外なことかもしれないが、赤ちゃんは姿勢がいいものなのである。子供は3歳くらいまでなら、背中に定規が入っているのではないかと思うくらいに姿勢がいいのだ。その姿勢が年齢の上昇と共に悪くなっていくのである。だから猫背の連中がウヨウヨと出て来ることになるのである。

 姿勢を正しくするために、なんといっても「子供の時の躾」にあるのだ。子供を外に追い出し、走り回るようにさせるべきなのである。走れば誰だって姿勢を正しくせざるを得ないのだ。外で遊ぶ時間が少なければ、猫背になる確率だって上がってくるのである。

 母親が注意すべきは、食事の際の姿勢であろう。子供が猫背になり易いがこの瞬間であるので、とにかく両親共々姿勢を良くすることだ。そして子供の姿勢が悪いのなら、そぐさま叱り飛ばすことだ。このすぐさまが効果的なのであって、それをやらないからこそ、子供は猫背になっていくのだ。

 夕食後には子供たちと遊びながら筋肉トレーニングを行い、腹筋や背筋を鍛えるようにすることだ。ここの筋肉が弱いからこそ、子供たちは猫背になっていくのである。子供の体は軽いので。多少厳しい筋肉トレーニングをしてもついてこれるものなのである。

 こうなってくると猫背であるのかないのかは、その親の子育ての仕方次第となるのだ。だから猫背のピアニストがいたのなら、その親の力量が大体解るし、逆に姿勢の正しいピアニストがいたら、その親は立派だと推定することができるのである。

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大伴家持の話

●『万葉集』は青春時代の書

 大伴家持といえば、『万葉集』の編者。こう答えるのは高校生までなら許される。しかし高校を卒業してもこの記憶のままでは、大伴家持に対しても、『万葉集』に対しても、大いなる誤解を抱いてしまうことになる。或る意味、大伴家持の人生とは「文化とはなんぞや?」ということを教えてくれる貴重な人生なのである。

 まず大伴家持は貴族の出、しかも神武天皇の頃からいる名門中の名門に生まれた貴族なのである。しかし大伴家持が生きた奈良時代は藤原氏が台頭してきており、大伴氏は没落の傾向にあったのである。文化というものは、大抵が「没落の家系」によって作り出されることになる。成長過程にある家系では文化を作ることにまでエネルギーを回せないのである。

 大伴家持は養老2年(718)から天応5年(785)まで生きたのであるが、『万葉集』の和歌は759年の和歌までしか収録されていないのである。ということは、大伴家持が40歳になる前までの和歌を集めたのであり、『万葉集』は青春時代の総決算の書であるといっていいのだ。

 『万葉驟』の研究で間違えてしまうのは、この和歌集は非常に若いということを知らずに、国文学者たちが生涯かけてライフワークとして研究してしまうことなのである。若い時にはビンビンに感じることができたものでも、年を取れば感じることができなくなるものがあるものだ。白髪の国文学者たちほどこの『万葉集』が解りにくくなってしまうものなのである。

 現代で喩えるなら、20代や30代で活躍した歌手が40歳になった時にベストアルバムを出すようなものだ。確かにそのベストアルバムの中には名曲が満載されていることだろう。しかしそれ以降の人生について歌った歌は何もないのである。

●暗殺事件に連座

 しかも大伴家持は和歌が全盛の頃に『万葉集』を編纂したのではなく、漢詩が流行していた時に『万葉集』を編纂したのである。日本最古の漢詩集『懐風藻』は751年に完成しており、日本最古の和歌集である『万葉集』よりも早くに完成しているのである。

 大伴家持は『万葉集』を編纂したことで賞賛されたのかとそうではなく、『万葉集』は飽くまでも私家蔵版なのであって自宅に保管されていたわけだし、大伴家持自身も政治家としては不遇で、藤原種継暗殺事件に連座してしまい、処罰されてしまうのである。

 大伴家持にとって悲惨だったのは、藤原種継暗殺事件発生当時の天皇は桓武天皇で、桓武天皇は中国の皇帝のような専制君主に憧れていたので、藤原種継暗殺事件では大伴家持が処刑されるだけでなく、大伴氏の資産までが没収されてしまったのである。

 桓武天皇は教育の振興にも力を入れていたので、大伴家持の資産を勧学田に入れてしまい、そこから大学寮の学生たちのために学費や生活費を支給することにしたのである。大学寮では和歌など教えず、漢籍だけを教えていくので、このために漢学に於いて優秀な能力を持つ貴族たちが続出してくることになるのである。

 このため弘仁年間や天長年間には漢詩が大流行してしまい、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などの勅撰漢詩集が編纂されることになるのである。大伴家持は死してなお、自分の資産によって和歌ではなく漢詩を大いに広めてしまったのである。

●在原業平と歌合せ

 当時の貴族たちは完全に「中国かぶれ」なのであって、日本の古典を卑下し、中国の古典を大事にし、和歌など歌わず漢詩を詠んでいたのである。そうやってみんなが「中国かぶれ」になれば、必ず落ち毀れガ出て来る。それが在原業平なのである。

 在原業平は親王家の孫として生まれ、血統は高貴であったのだが、漢詩が作れなかった。それよりも当時の女性たちが歌っていた和歌の方に魅力を感じてしまったのである。女性が歌っている和歌を自分も歌えば、当然に恋多き男性になるわけであって、自由奔放に恋愛をやりまくったのである。

 在原業平の人生は当時の貴族たちにとって非常に衝撃的だったのである。当時の貴族たちは全員が政略結婚をするものなのである。自由に恋愛するということはまずないのである。結婚する相手は自分の身分によって大体決まってくる。ところが在原業平はそれを取っ払ってしまい、自由気儘に恋愛をしまくったのである。

 こうなると自分も在原業平のような人生を送りたいという馬鹿な貴族達が出てくる。しかし政略結婚を否定してまで自由な恋愛などできない。そこで「歌合せ」というゲームを作り出し、和歌を詠むことを競い合うことで、少しでも恋愛気分に浸ったのである。

 歌合せは当然に和歌の流行を生み出していく。そうなると朝廷も無視できなくなり、醍醐天皇の勅命によって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂されることになるのである。『古今和歌集』が編纂されたのは913年なので、『万葉集』の編纂からなんと約150年もの歳月が流れていたのである。

●文化は必ずジグザグコースを取る

 和歌は現代にまで生き延びて、我々は日本人であるなら誰でも和歌を詠むことができる。どこの民族も古代に詩集を作ったりするが、その詩が現代にまで生き延びるということはない。せいぜいごく一握りの詩人たちが現代風の詩を作っているに過ぎないのだ。

 ところが和歌は違う。日本語ができるなら誰でも古代の和歌を詠むことができるし、現代の言葉で和歌を作ってもいい。和歌を専門にやる歌人たちもいるが、素人であっても和歌を作ろうと思えば作れる。和歌は文化遺産であると同時に、現代でも使うことのできる文化財産なのだる。

 ではこの和歌が直線コースを辿って発達してきたのかといえば決してそうではないのだ。寧ろ事実はまるで逆で、和歌は見捨てられた文化だったのである。ところが漢詩が流行している時に、『万葉集』を編纂するという偏屈者が出て来て、しかもよりによってその偏屈者は処刑されてしまい、その資産は没収されて漢詩をより流行させる資金源として使われてしまったのである。

 和歌なんて誰もが滅びるなと思っていたまさにその時に、突然変異で色魔が現れ、和歌を歌いながらパッコンパッコンしてまくったのである。その色魔に憧れる馬鹿貴族たちが現れ,歌合せガ流行し、その中から名歌が生まれ、そして直線和歌集が編纂されていくことになったのである。

 文化は直線コースを辿って発達してくるものではない。文化はジグザグコースを辿って発達してくるものなのである。

 現代でも国際標準に会わすことだけが文化の発展に繋がる輩が非常に多いものだ。曰く「国際共通語は英語だから、大学の授業を全部英語でやろう」とか、「外国では9月入学が主流だから、日本の大学も9月入学をやろう」とか、そういう意見をいう馬鹿たちは必ずいるのだ。

 そういうことをやればどうなるかぐらい、歴史を知っている者からしてみれば、既に結果は解っている。大体、幾ら英語で授業をやっても、科学的発見をした大学など1つも存在しない。たとえ9月入学をやっても、その大学は逆にレベルを落としていくことだろう。

 英語がどんなに世界に広まっても、日本の大学は日本語で授業をするからこそ、価値が出て来るのである。日本の大学が9月入学ではなく4月入学でなら、寧ろそれを活かして経営していけばいいのである。

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本物の人間になりたいのなら『徒然草』を読め

●随筆の良さは大人にならないと解らない

 文学には「詩歌」「小説」「随筆」の三つのジャンルがある。この内、詩歌や小説の面白さは中学生や高校生でも解る。美的感覚や読解力があれば、中学生や高校生でもその面白さを理解することができるのだ。しかし随筆は違う。随筆の面白さを理解するためには中学生や高校生では無理なのである。

 俺は中学生の頃、国文学の本を重点的に読んで行こうと決意し、国文学の本ならありとあらゆる本を読んでいった。『万葉集』や『古今和歌集』の面白さは中学生の俺でも理解できたのである。夏目漱石や芥川龍之介の小説の面白さも中学生の俺でも理解できたのである。

 だが、随筆の面白さだけは理解できなかったのである。

 そのくせ、高校の時の古文の授業では『徒然草』を平気で出してくるのである。『徒然草』の面白さは高校生が読んでも良く理解できない。古文の授業を受けているわけだから、その文面は理解できる。ただそれは文章を理解しただけのことであって、その中身をきちんと理解できたわけではないのだ。

 なんで中学生や高校生では随筆を理解できないのか?

 それは「人生経験」や「知恵」が不足しているからなのである。随筆はその作者自体、人生経験や知恵が豊富で、当然に読者に対しても人生経験や知恵の豊富さを必要とするのである。随筆は気楽に書かれているように見えて、実は内容が濃い物なのである。

 このため高校の授業で『徒然草』を習ってしまうと、「『徒然草』ってこんな物か」と舐めてかかってしまい、大いに損をすることになるのだ。高校生が読むべき物ではない本を授業で無理矢理に教わっているのだから、大いに誤解して当然なのである。

●世捨て人だから見える物

 『徒然草』の面白さを理解したいのなら、こちら!

 荻野文子著『ヘタな人生論より徒然草』(河出書房新社)

   ヘタな人生論より徒然草

 この荻野文子さんは東進ハイスクールの講師で、「マドンナ先生」と呼ばれ、生徒たちから大人気を博している講師である。学校の教師で出来のいい本を書く人は滅多にいないのだが、予備校の講師となると本を書けば出来のいい本を書いてくる確率が高いのだ。それほど予備校の講師は勉強しているということなのである。

 どうして高校の教師たちが『徒然草』の良さを理解できず、予備校の講師の方が『徒然草』の良さを理解することができるのかといえば、『徒然草』を良く読んでいるか読んでいないかの差がその結果となって現れてくるのだ。高校の教師は教科書で決められた所しか読まないが、予備校の講師は生徒たちを大学受験に合格させるために『徒然草』を全部読み、しかも熟読しなければならないからなのである。

 『徒然草』の著者の兼好法師は単なる僧侶ではない。「世捨て人」なのである。鎌倉時代の僧侶は現在のよに戒律を守らない破戒僧ではなく、本当に戒律を守っている僧侶たちなのである。しかし僧侶と雖も寺院で働くのであって、僧侶として生きていれば、その寺院のシガラミに縛られてしまうものなのである。

 ところが世捨て人は寺院に属さない以上、僧侶達以上に出家色が強いのである。だからその者が書く文章は或る意味「極論」であって、世俗に居る人々はその文章を良く読まないときちんと理解することができないのである。それゆえ『徒然草』をきちんと読んでいない高校の教師たちには理解することができず、予備校の講師のように熟読している者たちの方が理解できてしまうものなのである。

 『徒然草』は兼好法師が書いてから、すぐさまベストセラーになった書ではないのである。兼好法師が書いてから約100年間は無視され続けた書であるのだ。それが江戸時代になって再評価され、井原西鶴や松尾芭蕉や本居宣長が大いに刺激し、江戸時代の≪文芸復興≫に大いに役立ったのである。

●世間は魔物である

 兼好法師は世間が素晴らしいものなどとは決して見ていない。「世間は魔物」だと見切っているのである。人間は煩悩を持つ以上、その者たちが集まって形成している世間では余りにも愚劣なことが起こるのは当然なのである。兼好法師の凄さはそれを諦念思想で見ているのではなく、ブラックユーモアを伴いながら見ているということなのである。

 だから世俗から離れることの大切さを説く。「名誉欲」「色欲」「食欲」は苦悩の源泉であって、幾ら満たしても満たしきれないものなのである。財産だって余りある財産は我が身に不幸を齎すものなのである。これらは不足しているから不幸になるのではなく、その欲望を持ち続けているからこそ不幸になるものなのである。

 そうやって煩悩を捨て去ってしまえば、シンプルな生活で楽しく暮らすことができるのである。人間はそもそも衣食住さえあれば充分に楽しく生きていける動物なのである。それなのに欲望を膨らませすぎるからこそ、敢えて自分から進んで不幸になってしまうのである。

 幾ら出家したからといって安全ではないのだ。出家した僧侶達の間でも愚劣なことは幾らでも起こりうるものなのである。理由は簡単で僧侶達だって寺院で小さな世間を形成するからなのである。煩悩を捨てようと出家した者たちであっても、寺院の中で煩悩まみれの人生を送ってしまうのである。

 だから「世間を生きる知恵」を持つことが必要なのである。「世間を生きる知恵」がないからこそ人々は苦しんでいるのであって、在家か出家かではないのである。この世に生きている以上、誰かと関わり合いを持たねばならず、そのためには「世間を生きる知恵」が絶対に必要になってくるのである。

●極めることの大切さ

 兼好法師が生きた鎌倉時代は貴族の世の中が崩壊し、武士や商人や職人達が勃興してくる時代なのである。このため兼好法師は平安時代を偲んで懐古趣味に浸りつつも、新しい世の中のために新しい生き方を提示したのである。

 それが「物事を極めることの大切さ」なのである。

 武士は戦争に勝たなければならない。商人はお金を儲けなければならない。職人は優れた工芸品を作らなければならない。それぞれ職業は違っても、自分の分野を極めていることには変わりないのであって、だからこそ物事を極めることの大切さを説いたのである。

 人間はこの世に生まれた以上、必ず死ぬ。それなのに多くの人々は酔生夢死の人生を送り、自分が本当にしたことに着手しない。自分がすべきことをやらない理由など幾らでも作り出すことができる。しかしそんなことをしたって自分がすべきことができなくなるだけなのである。

 自分が今生きている時点から物事を考えるのではなく、自分の死の時点から物事を考えていくようにすべきなのである。そうすれば時間制限がかかるのであって、自分が本当にしたいことを第一に定めて、その他のことは断念して、その一事に全力を集中しなければならないのだ。

 『徒然草』が評価された江戸時代には、名君や能臣、豪農に豪商に名工が続出してくるのだが、彼等が『徒然草』から知恵を貰い、大いに発奮したからに他ならないのだ。『徒然草』は人間がどうすれば自分の人生を生き切ることができるのかを教えてくれたからだ。

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なんで読書会は巧く行かないのか?

●大学だからこそ間違ったことをやってしまう

 いつの世も若者は欲望が激しいのに、それを効果的に実現していく知識も技術もない、体力が有り余っているのに、知恵がない。少しでも勉強すれば傲慢になって謙虚になることを知らない。若者に何かを期待するのはそもそも間違っているのであって、若者が未熟な自分を捨てない限り、絶対に大人たちの仲間入りをさせてはならないのだ。

 読書に関して中学生や高校生ならそんなことをやらないのに、大学生になってしまうとやってしまう愚かな行為がある。

 それが「読書会」だ。

 大学生の時は意外と忙しい。講義が大量にあるし、部活やサークルをやっているのなら、そちらの活動のために大量に時間を食われてしまう。そうであるにも拘わらず、読書会を悠長に開くなど、頭がおかしいのではないかと思ってしまうのだ。

 読書会をやっている大学生というのは結構いるのだ。読書会を行えば、友達を集めることができるし、普通に遊ぶよりは濃厚な友情を築き上げることも可能だ。しかしそれは読書会の中身が優れた物であるというわけには行かないのだ。

 はっきりと言ってしまうと、大学生の頃に読書会をやっていた人が書いた本は詰まらない。自分の頭で全然考えていないし、奥行きがない。そもそもオリジナルな物がないので、俺のように大量の本を読んでいれば、その本に書かれた意見がどこの本から引用してきたかぐらいは簡単に解ってしまうものなのである。

 この手の人間たちが恐ろしいのは、大学生の時に読書会をしただけでは飽き足らず、社会人になってからも読書会をやっているということなのである。ということは社会人の中で読書会に参加している人々は常に或る一定の割合を保っているということなのである。

●読書は基本的に個人的な体験である

 なんで読書会が読書に対して間違った行為なのであるか?

 まずなんといっても「読書は個人的体験である」からなのである。読書はみんなが一緒にやっても巧く行かないのだ。個人でせっせとやっていくしかない。それは孤独な作業なのだが、その孤独な作業を嫌う人はそもそも読書をすべきではないのである。

 f二つ目の理由は「本に於いて重要な箇所はごく僅かである」ということなのである。読書をする際、その本の要点を掴んでしまえば、その本の内容の殆どを理解することができるものなので、読書会のようにみんなでゆっくりと読み進めていくと、逆に要点を掴めなくなってしまうということが起こるものなのである。

 第三の理由は「読書会では誤読する可能性が大いにある」ということなのである。読書会に来るような人々は知的レベルの低い人たちだ。その連中が集まって本を解釈していけば、誤読するのは当たり前なのであって、その誤読する確率は個人でやるよりも高くなってしまうものなのである。

 少しでも頭のいい人なら、一度でも読書会を開けば、その間違いに気づくものだ。そうと解れば読書会を解散し、後は個人で読書をしていくしかないのである。ところが読書会の欠点に気づけないほど知能の低い人たちは常にいるものだから、延々と読書会をやり続けてしまうのである。

 読書会はそもそも間違った行為であるのに、読書を通じて友情を形成しているために、自分たちは高尚なことをやっているという雰囲気に包まれてしまうものなのである。確かに飲み会に行くよりはマシな行為であると思うが、だからといってそれが褒められた行為ではないのだ。大体、その高尚な雰囲気は偽りの物なのである。

●読書会は時間を大量に消耗していく

 読書会というのは、1冊の本を1年間以上かけて読むものだ。これこそが「時間の無駄」なのである。もしも読書会に行かなければ、読書会にかける時間で本が大量に読めるものなのである。読書会に行っている者が1冊しか読んでいないのに、読書会に行かなかった者が1千冊読んでいれば、勝つのは後者であると決まっているのだ。

 読書会を賞賛する者たちは1冊の本を長い時間かけて熟読したために、その本を良く理解できたというのだが、これは錯覚なのである。そうやって奥深く理解したいのなら、自分で読書ノートを丹念に作っていけばいいのである。その本を書き写し、自分の解釈や意見を書き記していけばいいのである。

 読書会で本を理解したといっても大抵が鵜呑みである。その本の著者の意見を無批判で受け入れてしまい、ただその本の内容をなぞっているだけなのである。これでは理解したとはいえない。その本に洗脳されたというべきなのである。

 その本を理解したいというのなら、その本を熟読することも大事だが、その本の参考文献を全て調べてあげてみたり、その本を批判している本を購入して、敢えてその批判に耳を傾けてみるべきなのである。こういう作業をしていれば、偉大な作家であったとしても資料を間違って引用していることが解ったり、その主張する意見が間違っていることも解ったりするのだ。

 時間を大量にかけたからといってその本をきちんと理解できるとは限らない。だったら僧侶達は仏典を毎日読んでいるのだから、僧侶達は全員解脱できる筈だ。ところが現実はそうなっていない。幾ら時間をかけて読んでみても、理解の度合いが向上するとは限らないのだ。

●読書会よりも研究会

 読書会をやるくらいなら、研究会をやった方がいいのだ。読書に関する研究会なら、自分が本を読んで、その内容を述べ、その後に自分の解釈や感想を述べていけばいいのだ。こうやって人前で発表すれば、その本を真剣になって読むものなので、短時間で非常に理解度を高めていくことができるものなのである。

 こうやって発表されれば、出席者たちもその本を読んでみようかなという気持になるものなのである。そしてその本を読んでくれれば、その友人と会話が弾み、非常に知的レベルの高い会話をすることができるようになるものなのである。

 実を言うと、jこの研究会の遣り方は吉田松陰が獄中で行っていたものであり、これを松下村塾に発展させていったのである。吉田松陰は自分の意見を一方的に言っていたのではないのである。塾生たちも意見を言い、それによってみんなで議論しあっていたのである。

 読書会からは日本を変えた人物など1人も出て来たことはないが、松下村塾では日本を変えた人物達が大量発生してきた。その理由は簡単である。本を読むことだけで終わったか、本を読んで更に何かをしたかの違いだけなのである。

 読書というものは誰がどうやっても時間がかかるものだ。確かに本を読み終えた時、読書をする前よりは知識量は増えている。しかし大事なことは、読書をした後に「あなたがどう思ったか?」なのである。読書をしたのに、自分の意見を言えないのなら、その本を読まなかった方がマシなのである。増してやその本を鵜呑みしているなら、その読書は有害だったと断定する外ないのである。

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人生を充実させたいのなら早起きすべし!

●仕事ができる人はみんな朝が早い!

 仕事ができる人たちには或る共通項がある。それは「早起き」なのである。朝寝坊でありながら仕事ができる人なんてまずいない。仕事ができる人たちは大体午前3時から午前6時までの間には起床しているのだ。朝が早いからこそ、朝寝坊の人たちよりも多くの仕事をこなせるのである。

 なぜ早起きがそんなにいいのかというと、朝は空気が新鮮だからなのである。植物は夜明け前から光合成を行い、朝の内は最も綺麗な酸素を放出してくれるのである。早起きするというのはその新鮮ね空気を思う存分吸えるということなのであって、だから脳が活性化するのである。

 もう1つの理由は気温が低いために体が動き易いということだ。人間の体は高温だと逆に体の動きが鈍ってしまう。気温が低ければ体熱が上がり過ぎないので、運動量が多くなのだ。朝早く起きたからこそ、朝飯前のひと仕事をしてしまうべきなのである。

 幾ら早起きしても新聞を読んだり、テレビを見ていては時間の無駄だ。起床後すぐさま朝食を取ることですら時間の無駄だといっていいのだ。朝早く起きたのなら、仕事をすべきなのであって、仕事を終えてから朝食にありつくようにすべきなのである。

 主婦の場合なら、朝早く起きればその間は誰にも邪魔にされないので、自分の時間として自由に使えるのである。その時間は僅か1時間や2時間程度かもしれないが、その時間は濃厚な時間なのであって、それを毎日やり続けれていれば、主婦であったとしても何かしら偉大な業績を打ち立てることができるものなのである。

●睡眠時間はしっかりと取れ

 早起きの効能を唱っても、夜更かししていては話にならない。早寝するからこそ、無理なく早起きすることができるのであって、早起きと夜更かしをプラスすれば、確かに起きている時間は長くなるが、それだけ体に負担をかけてしまい、最終的には病気によってその悪魔のツケを支払うことになるのだ。

 人間は体は「7時間半」の骨休みを必要とする。人間は動物の中で二足歩行をする特殊な動物なので、通常の動物よりも2倍の重力がかかってしまうのである。そのため横になることで重力の負担から開放してあげないと体が病魔に蝕まれてしまうのだ。

 世の中にはこの事実を知らないために、平気で「短眠法」を説く輩がいるのだ。確かに短眠のために活動時間ガ増えるのだから様々な仕事をこなすことができる。しかしそれは自分の命を削りながらやっていることなのであって、とてもではないが他人に推奨できるものではないのだ。

 しかも人間の睡眠時間は季節によって変動する。春や秋は7時間半であるが、冬は9時間になることもある。逆に夏なら6時間でも充分な時がある。余りにも規則正しい生活を送っていると、この睡眠時間の変動が解らなくなるので、要注意しておいた方がいい。

 忙しくて睡眠時間を充分に取れない人は昼寝をすることをお勧めする。僅か5分程度の昼寝でも、疲労回復をきちんと行えるからだ。居眠りするくらいなら、ちゃんと横になって昼寝をすべきなのである。電車の中で居眠りをする人は睡眠不足に陥っているのであって、一刻も早く生活を改善すべきなのである。

●不眠症には軽ジョギング

 もしも不眠症で苦しむなら、「軽ジョギング」をすることをお勧めする。マラソン選手のように猛スピードで走るのではなく、軽く走るのである。こうやってゆっくりと走ると脳が適度に刺激され、体が適度に疲労し、熟睡できるようになるのだ。要は走ることが不足しているのである。

 子供たちには不眠症などない。その理由は子供たちが走り回っているからなのである。走り回るからこそ脳に充分な刺激がいき、体も疲労してくれるので、それで子供たちは熟睡してしまうのである。ところが大人になると、体重が重たくなるために、子供のように走り回ることができなくなってしまうのである。そのため不眠症患者たちが出て来るのである。

 軽ジョギングは30分から1時間半程度でいい。毎日やるのではなく、週に1回以上やる感じでやればいいのだ。もしも軽ジョギングを毎日やるなら、週に1回は休むようにした方がいい。何事も真面目すぎるのは危険なのである。

 不眠症を防止するためには、カフェイン入りの飲み物を飲まないようにすることだ。珈琲や緑茶や紅茶などを飲むのをやめにすれば、不眠症に罹る率が大いに減少するのである。カフェインは体内に蓄積するので、それでカフェインを摂取しすぎてしまうと不眠症に罹ってしまうのである。

 それと夜中のテレビやパソコンも不眠症を引き起こす物なのである。テレビやパソコンを夜中にやってしまうと、頭が冴えてしまうので、それでいつまで経っても眠れなくなるのだ。携帯電話の画面を夜中に見ているだけでも不眠症にかかるので気をつけることだ。

●脳にいい食事

 脳は小さい割には大食漢なのである。総エネルギーの30%も消費してくるのであって、しっかりとエネルギーを取っていないと、脳の疲労が回復しないし、頭が巧く回転しないのである。外食中心だと確実に馬鹿になるので、できるだけ自宅で食事をするようにすることだ。

 まず穀物と味噌汁の組み合わせこそ、脳のエネルギー源になるということを知っておこう。穀物だけとっても駄目だし、味噌汁だけを飲んでも駄目なのである。だからオムスビだけを食べるのは絶対にやめた方がいいのだ。オムスビを食べる時は「舐め味噌」でも持っていくべきなのである。

 脳が疲労しているなと思ったら「カレーライス」を食べよう。カレーのウコンが脳の疲労を除去してくれるのである。カレーはできることならインド風の本格的なカレーにした方がいい。日本に出回っているカレーは甘すぎるので、膵臓に大きな負担を強いてしまうのだ。

 もしも間食をしたくなったのなら、木の実を食べるようにすることだ。木の実には植物性脂肪が含まれているので、この植物性脂肪を節酒すると、脳の空腹感が収まるのである。これは子供たちへのオヤツには最強のアイテムとなるので、必ず自宅には木の実を常備しておこう。

 仕事ができる人は恐ろしいまでに食事に気を使っている。ジャンクフードを食べながら、一流の仕事をしろというのは無理なのである。一流の仕事をしたければ、一流の食事を取らなければならないのである。そうやって本当に体にいい食事を食べていれば、自然と早起きして、朝早くから仕事をしまくるようになるものなのである。

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