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2012年5月

問題悪化の法則

●「問題の法則」が解っていないと

 この世には必ずバカたちがいる。「問題の法則」が解っていれば、簡単に問題を解決できるのに、「問題の法則」を理解することができす、問題を悪化させてしまう人たちが出て来るのだ。どんなに学校教育制度を作っても、生まれながらのバカを利巧にさせることはできないのだ。

 バカな人たちが問題を悪化させている場合、「問題の法則」が間違っているのではないのだ。「問題の法則とは別に「問題悪化の法則」があると考えるべきなのである。「問題悪化の法則」はその名の通り、問題が悪化していく法則なのである。

 なぜ問題を解決する人と、問題を悪化させる人という、全く違う人たちが出て来るのかというと。問題を解決する人は忙しくその問題だけに構っている閑はないのだ。しかし問題を悪化させる人は閑でその問題だけに構っている時間が充分にあるのだ。

 人間、生きていれば解ると思うが、仕事に忙しいビジネスマンは問題が発生してもすぐに解決してしまう。主婦も家事や育児に忙しければ問題が発生してもすぐに解決してしまう。人間は忙しくすることこそが問題解決能力を高めるのであって、充分な問題解決能力があればこそ問題を解決できるのである。

 人間にとって閑を弄ぶことは非常に危険なのである。閑だからこそ問題解決能力が低くなり、簡単に解決できる問題でも解決できなくなってしまうのである。既婚男性が失業していたり、既婚女性なら子供がいなかったり、子供がいても1人しかいないというのは、問題解決能力を確実に低下させていってしまうのである。

●第一法則「自己悪化の法則」

 まず「問題悪化の法則」の第一法則は、「自己悪化の法則」である。自分が問題を解決すると余計に問題が悪化してしまうのである。逆に言えば自分が問題を解決しようとしなければ、問題は悪化しなかったのである。自分が手を出してしまったために、安易な問題も困難を極める問題に悪化させてしまったのである。

 なんで自分が問題を悪化させてしまうのか?

 それは問題を直視しないからなのである。問題を良く見ないで問題解決を図ろうなどと、虫が良すぎるのだ。問題に対して行き成り手を出すのではなく、まずは直視して、その問題が一体なんなのか、きちんと把握するべきなのである。

 もう1つは解決の方法が解っていないからなのである。問題に対してどのような解決方法を用意すればいいのかは、人生の経験値が必要なのである。自分に人生の経験値が少ないのであるなら、自分は手を出さない方が安全なのである。

 例えば「夫婦喧嘩」というのは、「自己悪化の法則」が強烈に作動してくるものだ。夫婦共々相手のせいにして、問題を直視しないのだ。しかも夫婦喧嘩の解決方法なんか知らないから、夫婦喧嘩を引き起こしても解決することが不可能になってしまうのである。

 夫婦喧嘩を発生させた場合、自分にもそれなりの落ち度があるということをまず認めることだ。別に誤らなくてもいいから、相手が100%悪いという考えは絶対に持たないようにすることだ。そして夫婦喧嘩は夫婦の会話の仕方にこそ根本原因があるのだから、夫婦の会話をきちんとできるように改善していくべきなのである。

●第二法則「他者悪化の法則」

 「問題悪化の法則」の第二法則は、「他者悪化の法則」である。他人が問題を解決しようとすると余計に問題が悪化してしまうのである。逆に言えば他人が問題に関与してこなければ、問題は悪化しなかったのである。問題が発生した時、無闇に他人の手を借りるな。他人だからこそ慎重になるべきなのである。

 なんで他人が問題を悪化させてしまうのか?

 それはその他人が間違った相手だからなのである。自分が問題を解決したい以上、問題解決に他人を関与させるなら、その他人は問題解決能力を充分に持っていなければならない。それなのに問題解決能力が低ければ問題は解決されるどころか悪化してしまうのである。

 間違った人の手は借りるな。間違った人の手を借りると問題がとんでもない事態に悪化してしまうのである。

 例えば「占い師」というのは占いを仕事とする人たちである。だから占い師に自分の人生を占って貰えばいい。しかし毎週の如くに占い師に相談したり、ましてや占い師が自宅に住みつくようになれば、それは確実に問題が悪化していくのである。

 「精神科医」というのは医者の中でも藪医者である。精神病というのは大方食事に起因するものなので、まずは食事を正していかなければならないのだ。しかし精神科医はそんなことをしない。薬で治そうとするのだ。だから余計に自分の精神が痛み、最終的には精神病院送りになってしまうのである。

 間違った人の手を借りないためにも、宗教関係のことなら宗教家を、法律関係のことなら弁護士を、税務関係のことなら税理士を、病気のことなら家庭医を持っておくことだ。この世で生きていれば、最低でもこれらの人々が必要なのであって、その出費は絶対に惜しむべきではないのだ。

●第三法則「時間悪化の法則」

 「問題悪化の法則」の第三法則は、「時間悪化の法則である。問題を放置しておくと余計に問題が悪化してしまうのである。逆に言えば問題は発生した当初に解決してしまうのが一番効果的なのである。問題には時間が解決してくれるものもあるが、時間をかけると悪化するものもあるので要注意なのだ。

 なんで時間が問題を悪化させてしまうのか?

 問題も時間の経過と共に加速度を持っているのであって、時間が経過すればするほど厄介な問題に成長していってしまうのである。時間というベクトルが抜けてしまうと、簡単に解決できた問題なのに、自分を死に追いやるほどの凶悪な問題にしてしまうのである。

 例えば「借金」は時間の経過と共に悪化していく問題である。借金には利息があるために、時間の経過と共にその利息が膨れ上がっていくのだ。借金はすぐさま返す。そして借金はできるだけしない方がいいのだ。借金に頼るからこそ厄介なことになるのである。

 普通、結婚している男女がしていい借金はマイホームを購入する際にする借金だけである。それ以外の借金は原則としてしない方がいい。日用品をクレジットで買うということすらもやめた方がいい。利息の支払いがないと、どんなに低所得であっても、結構豊かな生活を送ることができるものなのである。

 借金でギブアップしたのなら、早めに自己破産を申し立てることだ。借金も悪化してくると、自己破産するお金すらなくなってしまうので、それで自己破産ができず、自殺だの一家心中などをしてしまうのである。借金をする時は念のために自己破産の方法を調べておくぐらいの用心深さも必要なのである。

●人生の根本がズレているからこそ

 問題を悪化させる人たちはただ単に問題を悪化させるだけではないのだ。「人生の根本」がズレているのである。考え方がおかしいし、行動の仕方もおかしい。結婚していれば夫婦の関係もおかしいのだ。悪化していく問題がどうのこうのではないのだ。

 なんでこうまでして人生の根本がズレてしまったのかというと、食事が余りにも悪すぎたからだ。精白穀物を食べすぎていたり、肉食中心であってリ、白砂糖を摂取していたりと、とにかく体の栄養バランスが完全に狂っているのである。

 だからこうやって人生の根本がズレているのなら、断食をして宿便を出すべきなのである。宿便が出てしまえば、体内の老廃物や毒素の殆どが排出されるし、栄養バランスの異常も治していくことができるのである。これが一番手っ取り早いのだ。

 もしも断食をしないのなら、食事を徐々に正しい食事に戻していくことだ。正しい食事によって酸化している体を弱アルカリ性に変え、ビタミンやミネラルを充分に補給することができれば、自然と真っ当な考えをするようになり、行動も的確なものになっていくのである。

 問題が悪化していく時、殆どの人たちは慌てふためいてしまうものだ。如何なる問題というのも、自分の人生を変える切っ掛けになるものなのである。問題解決を通じて自分の人生を変えることができれば、以前のような悪質な問題が発生してくることはなくなるのだ。自分が自分の人生を変えないからこそ、悪質な問題が大量に発生してくるのである。

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問題の法則

●人生は問題だらけ

 人生は問題だらけである。生きていれば問題は次から次へとやってくる。問題があるのはそれだけ自分が成長しているからなのであって、問題を解決していくごとに成長していくのである。逆に言えば問題のない方が危険なのである。問題がないということは全然成長していないからである。

 人生には問題が多々あるのだから、それを個別的になって解決していくしかない。しかしこれをやってしまうと西洋医学のように「対症療法」になってしまい、無数の解決策を用意しなければならない。それなのに人生の問題を根本から解決できないという矛盾が生じてしまうのだ。

 意外なことかもしれないが、人生に起こる問題に対して科学的研究がなされたことはない。科学の力を使って問題を研究していけば、「問題にも法則がある」ということが解るものなのである。「問題の法則」を見つけ出してしまえば、問題を確実に解決していくことができるのである。

 「問題の法則」が解っていないからこそ、占いに頼ったり、人生相談に頼ったり、精神科医に頼ったりしてしまうのだ。挙句の果てには政府に頼ってしまい、政府の規模を大きくさせ、国民に重税を課す切っ掛けを作ってしまうのである。

 人間は未婚と既婚とでは違う。未婚の時は低レベルな問題にしかぶち当たらない。既婚では徐々に問題が高レベル化していく。もしも未婚者が問題を解決できなければ自立は不可能になり結婚できなくなる。もしも既婚者が問題を解決できなければ家庭は修羅場と化し、仕事をすれば地獄を見ることになる。

 人間、生きれていれば問題が発生するのだから、「人生は問題だらけ」と割り切るべきだし、「問題の法則」を用いて自分が抱える問題を確実に解決していくべきなのである。

●第一法則「自己解決の法則」

 「問題の法則」の第一法則は「自己解決の法則」である。問題は基本的に自分で解決できる。逆に言えば自分に解決できない問題はやってこない。問題は解決可能である以上、その問題を冷静になって分析し、解決策を考え、実施していけばいいのである。

 例えば「学校の勉強」である。学校で出される勉強上の問題には全て答えがある。答えのない問題はない。だから真面目になって取り組めば必ず解けるし、それによって成績が上がっていくのである。勉強で落ち毀れてしまうのは、周囲を気にしすぎて、自分が真剣になって勉強に取り組まないだけなのである。

 問題は自分で解決できる以上、その問題から逃げると余計に問題は悪化していく。その場で問題を解決してしまえば自分は成長して次の場所に行けるのに、その問題から逃げてしまうから、その問題は先送りとなり、それどころかより悪質な問題がやってくることになるのである。

 例えば学校の勉強ができないからといって落ち毀れてしまい、それによって不良に走り、学校中退をしてしまうと、人生に於いて悲惨な目に遭うのは自分自身なのである。今度は低学歴を理由に生涯に亘って差別され続けてしまうことになるのだ。

 問題は自分が解決できるのだから、そこから逃げ出さないことだ。それよりも腹を括ってその問題を直視し、どうすれば解決できるのかを考えるべきなのである。腹を括らないからこそ解決できる問題も解決できなくなり、余計に悪化していくことになるのである。

●第二法則「他者解決の法則」

 「問題の法則」の第二法則は「他者解決の法則」である。自分で問題を解決できない場合、他人が解決してくれる。逆に言うならなんでも自分で解決しようとするなということなのである。自分の手には負えない問題がある時、その問題のエキスパートを雇ってしまった方が問題は早期に解決されるのである。

 例えば学校でのイジメである。イジメられた本人はこの問題を解決することはできない。普通、イジメっ子は徒党を組んでイジメを行うので、イジメられっ子は単独で立ち向かわなければならなくなるからだ。学校の先生もイジメが発生した時には解決できない。イジメをどう処理すればいいのかの教育を受けていないからだ。

 こういう場合、警察に通報するのが最善の選択肢なのである。イジメっ子たちは既に暴行罪が成立しているので確実に逮捕することができる。警察官たちが学校に介入してくれば、学校の教師たちはびっくりしてしまい、イジメの問題を隠すということが絶対にできなくなるのだ。

 イジメがなんで悪質化するのかといえば、教室内でイジメが発生しているのに、担任がそのイジメを阻止しないからなのである。阻止しないどころか、イジメが発生しても見てみぬふりをし、イジメを隠蔽してしまうからなのである。担任が責任を放棄しているからこそ、イジメられっ子は自殺しなければならないほどにまで追い込まれるのである。

 我が子がイジメを受けた場合、もう1つ取るべき手段は裁判に訴えるということなのである。その担任に対して損害賠償請求と解職請求をすれば、その担任に最大級のダメージを与えることができ、このイジメの最大の責任者を叩き潰すことができるのである。

●第三法則「時間解決の法則」

 「問題の法則」の第三法則は「時間解決の法則である。問題を自他ともに解決できない場合、時間が問題を解決してくれるということなのである。逆に言えば問題の中には早急に解決できない問題もあるということなのである。強いては事を仕損じるものなのである。

 例えば「青春の苦悩」である。青春時代には人生をどう生きるべきか悩むものだ。もしもこの問題を友人たちと語り合えば侃侃諤諤の論争になり、幾ら話し合っても決着はつかないのだ。本を読めば読むほど苦悩は増し、どうにもならない悩みを抱え込んでしまうものだ。

 しかしそうやって「青春の苦悩」を抱えている者が学校や大学を卒業して就職してしまえば、「青春の苦悩」ば吹き飛んでしまう。仕事が忙しいから「青春の苦悩」を悩んでいる閑がなくなってしまうのである。「青春の苦悩」などというのは、自分が仕事をしていなかったからこそ発生させていた問題にすぎなかったのである。

 では「青春の苦悩」が無駄であったのかというと実はそうではない。若い時に「青春の苦悩」をしたからこそ、「深遠なる思索」をすることが可能に成るのである。若い時に勝手気儘に過ごしたような人物はの後の人生に於いて表面的なことしか見えない浅はかな人物になってしまうものなのである。

 失恋をしてしまったとかいうものは、その直後は激しい心の痛みを伴うものなのである。それをすぐさま癒そうということがそもそも間違っているのだ。心の傷を早くに治すには新たな恋人を作ってしまえばいいのだ。しかしそれでは問題を隠蔽しているだけであって、問題を解決したとは言わないのだ。

 失恋したのなら暫くの間、一人でいればいいのである。心の傷が治まるまで静かにしていればいいのである。ビジネスの才覚のある者ならこの時期仕事に打ち込めばいいのだ。文学的な才能があるものなら、この時期に詩や小説でも書いてしまえばいいのである。そうやってたっぷりと時間をかけて問題を解決していくと、自分に最も相応しい新たな恋人が現れてくるものなのである。

●どうせ問題は解決するのだから焦るな

 問題はそれがどんなに大きくても確実に解決されるものなのである。どうせ問題は解決されるのだから焦ってはならないのだ。焦るからややこしくなる。人間は行き成り問題にぶつかってしまうと焦ってしまうことが起きるので、だから自分の精神を鍛えて問題に動揺しないようにすべきなのである。

 人間は問題を抱えすぎると脳がパンクしてしまい、自殺するという行動を取ってしまう動物なのである。はっきりと言っておくが、人間に自殺するような問題はやってこない。どんな問題であっても生きていれば必ず解決できるものなのである。

 自殺するまで追い詰められないようにするためには、問題は小さな段階で早めに解決してしまうこだ。問題が小さいからといって放置しておくと、その問題が悪化するだけでなく、他の問題も発生してきて、非常に厄介なことになるのである。

 それと脳がパンクしないように充分な栄養を取っておくべきなのである。「麦飯と味噌汁」「黒パンとチーズ」の組み合わせは脳に抜群の効果を齎すので、この組み合わせの食事を毎日せっせと食べるようにしていくべきなのである。白米や白パンのように精白穀物を食べていると、いずれ脳がパンクしてしまうものなのである。

 脳が熱くならないようにするためには、冷水浴が欠かせない。冷水を頭から浴びれば、頭が冷えて、正常に機能するようになるものなのである。温水シャワーばかり使っていては、脳がクールダウンしないものなのである。冷水欲は冷たいだろうが、慣れてくれば快感になり、しかも脳がよく動くようになるものなのである。

 問題というのは低レベルの問題の方がエネルギーを食うのだ。だから早くに低レベルの問題を解決していき、高レベルの問題に取り組めるようにするのだ。高レベルの問題は厄介なものかもしれないが、それを解決すればより大きなエネルギーを発生させることができるのである。

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脳とウォーキング

●なんで「42.195km」に惹かれるのか?

 マラソンというのは見ているだけで面白い。2時間強の競技なので、集中力が切れ始めた時にゲームが終ってくれるからだ。それに競技中は様々な駆け引きがあるし、最後には独走となる。まるで人生を見ているかのような錯覚に陥るのだ。

 マラソンの魅力を決定的にするのは、「42。195km」という数字なのである。人間は完璧な数よりも、半端な数の方に惹かれるのだ。完全なる物は崩壊するということが解っているので、敢えて不完全な物を好むのである。だから本来なら1万メートル走もマラソンも競技的にはそんなに変わらないのに、マラソンの方が圧倒的な人気を得てしまうのである。

 マラソンは別に「42。195km」でなくてもいいのだ。「40km」でもいいのである。実を言うと、この40km」というのは、人間が家族集団になった場合、徒歩で移動できる限界の距離なのである。時速4kmとし、朝6時出発で16時到着になると。1日の移動距離が40kmになるのだ。

 狩猟採集経済では定住しない。定住すればいずれ周辺の食料を全部食い尽くしてしまうので、必ずどこかの地に移動しなければならないのだ。しかし1人で走って移動するのではないのだ。多くの家族たちが集まって集団で移動するのである。その速度が遅くなるのは当たり前のことなのだ。しかも夜間は移動できないから、日中の間だけということになるのだ。

 マラソンを走りきれば、どの選手も体力を使い果たしてしまう。それと同じように10時間歩き続けると体力を使い果たしてしまう。人間の体力は1日40km移動できるようになっているので、だからこそマラソンになんとなく惹かれてしまうのだ。文明以前の記憶が蘇ってくるからなのである。

●歩かないからこそ脳疾患

 人間は歩くように出来ている。歩けば健康になるし、歩かなければ病気になる。非常に単純明解に出来ているのだ。人間の体は狩猟採集経済の頃から進化などしていない。普段は自宅の周辺を歩き回り、時には住居を移転するために40kmも歩き続けるようになっているのだ。

 もしも人間が歩かなくなったらどうなるのか?

 歩かなければ脳がやられてしまうのだ。血液が脳に集中してしまい、脳にエネルギーが行き過ぎて脳疾患を起こしてしまうのである。脳疾患を患う人はその直前に頭が少し大きくなっているものだ。歩かないために血液が頭に溜まり、そのために血栓が作られ、それが大爆発を起こして脳疾患になるのである。

 子供というのは、放置しておけば常に動き回っているものだ。それなのに自宅に閉じ込めてしまえば、運動量が激減し、それで脳腫瘍になったり、小児癌になったりするのだ。子供の悪性の病気は頭部に出来るという特徴があるのだ。それだけ子供は動き回るようになっているのだ。

 自動車を持つことは、歩かなくなる危険性が急増するということを決して忘れてはならない。一旦自動車に乗ってしまうと、自動車が足代わりになってしまい、歩かなくなるものなのだ。そのくせ運転で頭を使うために、脂っこい料理を好むようになるのだ。大体、自動車を運転する者にベジタリアンはいないものだ。自分が歩かずに脂っこい料理を好んで食べていれば、いずれ体のあちこちに病気が発症してくるのは当たり前のことなのである。

 既婚女性の場合、家事をすることでちょこまか動くことになる。これが健康に大いに寄与することになるのだ。もしも既婚女性が家事を手抜きしだすと、恐らくテレビを見まくり、お菓子は食べ放題になるので、それで体は完全に食事過剰になり、それが病気を引き起こしてしまうのである。

●平日は1日1時間、休日は歩きまくれ

 死ぬまで健康で居続けたいのなら、平日に於いて1日1時間はウォーキングをするようにすることだ。1日1時間歩き、それ以外にも歩いていれば、1日1万歩は歩けるようになるのだ。1日1時間のウォーキングは想像以上に健康に寄与することになるのだ。

 休日は自宅などにいないで、歩き回るようにすることだ。1日中歩き回っていれば、40kmくらい歩けてしまうものなのである。買い物に行ったり、外食に行ったりする程度でも、40kmとは行かないが結構歩けてしまうものなのである。

 小さい子供がいると、家族全員で山登りに行きたくなるものだが、あれは子供がいるために長距離を歩きたくなってしまうからなのである。子供は歩けば歩くほど心身が丈夫になるので、病気知らずの元気な子供になることができるのである。

 平日に於いて仕事が忙しいからといってウォーキングをせず、休日なのに自宅で寝ていれば、体が着実に蝕まれて病気になるものなのである。人間は歩かなくなると筋肉量が徐々に低下していくので、気付いた時には体温を上げることができないほど筋肉量が少なくなり、それで様々な病気を発症してしまうことになるのだ。

 歩かない人間に限って、歩きたくない理由を考え出すものだが、ではその理由を受け入れてなんになるというのだ? 歩かなければ歩かないほど、体は危険になってくるのだ。文明生活をしていればどうしても歩行数が少なくなってくるのだ。そうだからこそ人為的に歩いて、歩行数を増やさなければならないのである。

●成長に応じて変わること

 人間の歩き方は一定ではない。

 若い時はスポーツをして走り回った方がいいのである。特に10代では筋肉量が急増するので、走りまくることで筋肉量を一気に増やしていくべきなのである。中学生や高校生の時にスポーツで体を鍛えない代償は計り知れないほど大きいのだ。

 就職したのなら、仕事の合間にウォーキングをするようにすることだ。早朝ウォーキングをやるのもいいし、帰宅する際に自宅に直行せず、寄り道して帰るということをしてもいいのだ。人間はウォーキングをするとアイデアが沢山浮かぶようになるので、そのアイデアを使って仕事をすれば、仕事を成功させることができるのである。

 還暦を過ぎたのなら1日3時間は絶対に歩け。年を取ると筋肉量が急激に落ちるので、それで歩行数が少なくなり、そして挙句の果てには寝たきりになってしまうのである。寝たきり防止には歩行数を増やすというのが絶対に欠かせないのだ。

 なぜ3時間なのかというと、1日3時間もあるけば12kmぐらいになるし、1日3時間ならそんなに疲れないからだ。丁度いい疲労程度で済み、そのくせ健康に寄与する効果が高く、これだから無理をせず長く続けていくことができるようになるのだ。

 野生動物は歩けなくなったら終わりだ。歩行困難な所を見計らって猛獣が襲い掛かり、殺されてしまうことになるのだ。しかし人間は歩けなくなっても多少は生き続けことができるのである。だがその生存は周囲の人々に多大な迷惑をかけながら生き続けるものなのである。

 だからこそ歩け。歩くことは自分のためであると同時に、自分以外の人たちのためでもあるのだ。寝たきりの病気になってしまうのは、本人が一番つらいだろうが、周囲の人たちはそれと同じくらいにつらいのだ。自分が自分の健康を管理しなかったツケを他人を処理させてはならないのだ。

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『若草物語』と「フェミニズム洗脳」

●愛読書の大切さ

 子供達の「読書の仕方」は大人達の「読書の仕方」に比べると随分違っている。子供達は自分が好きな本を何度も何度も繰り返して読むのだ。なんせ子供達は時間を持て余している連中である。自分が好きな本を繰り返し読めるという特権を持っているのだ。

 これは乳幼児の頃にもう始まっている。母親が子供に絵本を読み聞かせようとしても、最初は母親のなすがままに任せているけど、いずれ自分の好みがはっきりとしてきて、自分の好きな絵本だけ何度も読んで貰うようにせがむのだ。

 これが小学生になると、自分では沢山本を読んでいる筈なのに、やはりなぜだか自分が好きな本を何度も読み返すようになるのだ。愛読書となれるような本は何冊もあるわけがないのだ。たった1冊なのである。その1冊を何度も何度も繰り返し読むのだ。

 子育てをする時、最も危険なのが、親の方が良かれと思って大量の本を与えてしまうことだ。特に『少年少女文学全集』など与えるとその危険は最大化され、その子供は本嫌いになるか、読解力の低下で苦しむことになるのだ。愛読書を作らなかったことの損害はそれ以降の人生に大きく響いてくるのである。

 愛読書をきちんと持ち、それを何度も読み返しているような子供なら、児童文学に対してきちんとした「選別の目」を持てる。児童文学であっても詰まらない本は拒否するし、面白ければ大人たちがなんといおうと評価するのだ。しかし愛読書を持たない子供はそういう能力が身につかないのだ。

 子供だからこそ純粋な心で凄いことを言ってのけるが、子供だからこそバカなことも言ってくるのだ。

●題名が誤訳

 女子小学生なら、『赤毛のアン』か『不思議の国のアリス』を愛読書にするのが穏当だろう。これに『魔女の宅急便』が加わることもあるかしれない。これらの三冊は児童文学の中で非常に出来がいいし、何度読み返しても面白いからだ。

 ところが女子小学生の中には『若草物語』を愛読書とする子が時折出て来るのだ。俺はこの意見を聞くと、「あッ、この子はきちんとした読解力を持っていないな」と思ってしまう。『若草物語』は物語構成が貧弱だし、所詮は「家庭小説」なので何か特別に面白いことが起きるわけでもないからだ。

 それにそもそも『若草物語』というのが誤訳なのだ。原題は『LITTLE WOMEN』であり、きちんとした形で日本語に翻訳すれば『小さな女性たち』だ。それなのに『若草物語』としてしまうのは余りにも酷すぎる。翻訳者が「悪意ある誤訳」をやったとしか思えないのだ。

 『若草物語』の原題が解ると、原作の題名にも悪意があるということが解る。普通、英語で女の子に向かって「小さな女性たち」という言葉は使わないものだ。ちょっとキザな言い方する時に「小さなレディー」という言葉を使ったりはするが。

 『若草物語』の作者「ルイーザ・オルコット」は自分が女の子の時期に、女の子として扱われず、大人の女性のような扱いを受けてしまったということなのである。当然ながら、こういう女の子は自立できず、一人前の女性になることができないということが予想されるのである。事実、ルイーザ・オルコットは親から自立できなかったのである。

●オルコットの異常な愛

 ルイーザ・オルコットの父親は「ブロソン・オルコット」というのは、ペテン師にして怠け者という碌でもない男性であったのである。正統な教育を受けたことがなく、外交販売員をやれば失敗して借金を作り、学校経営をすれば学校を潰してしまったのである。挙句の果てには「フルーツランズ」という共産主義的共同農場を作り、そこでこの思想に賛同する者をたちを集めて住まわしていたのだが、これも破綻させてしまうのである。

 アメリカ史に於いて絶対に忘れてならないのは、この手の共産主義者たちがアメリカ合衆国には或る一定の数、存在していたということなのである。

 カール・マルクス夫妻がそうであったように、この手のペテン師にはなぜだか献身的な妻がつくことになる。妻の名は「アバ・メイ・オルコット」というのだが、夫が全ての事業を破綻させ、借金を作っても、どうにかして生活を切り盛りして、子供達を育てたのである。

 この母親の遺伝子を濃厚に受け継いだのが長女の「アンナ」であり、髪の毛は金髪で、性格は温和で、利発な女の子だったのである。逆に父親の遺伝子を濃厚に受け継いだのが次女「ルイーザ」であり、髪の毛は小麦色の髪で、性格は角のある性格で、神経質にして男勝りだったと言われている。

 俺の経験則からと言わして貰うと、長女が美人で性格もいいとなると、高い確率で次女はブスで性格上に問題のある女性となる。

 普通なら性格が相反するので、この姉妹は喧嘩しながら育つことであろう。

 しかし父親のメチャクチャな人生が彼女たちを貧困の中で結束させるという役割を果たしてしまったのである。このためこの姉妹は仲が良かったし、大きくなると母親と一緒に仕事をしたりしていたのである。ここまでなら美談であろう。

 だがこのルイーザは違うのである。

 ルイーザは姉のアンナに対して恋をしていたのである。妹が姉に憧れるという限度を越えて、明らかに恋をしていたのである。実際に両者の間に肉体関係があったかは解らない。ただルイーザが近親相姦にして同性愛というとんでもない邪悪な欲望を抱いてことだけは確かなのである。

 その近親相姦は半端なものではなく、アンナが恋人の男性と婚約すると、ルイーザはショックしてしまい、自殺未遂を図るのである。レズビアンのカップルで一方の女性が男性に走って結婚してしまうと、捨てられた方の女性が自殺したりするものだが、あれと全く同じパターンなのである。

 ルイーザが不気味な所は、生涯に於いて姉以外と恋愛をしていないということなのである。確かに仲のいい男性はいた。それでも肉体関係を結ぶほどにまでは行かなかったのだ。大人になっても姉のアンナに対して恋心を抱き続けていたのである。余りにも不気味すぎる女性なのである。

 勿論、生涯独身であり、結局、姉のアンナは親から自立できたが、妹のルイーザの方は親から自立できなかったのである。

●女の子らしくしなかった代償

 『若草物語』の主人公は「ジョー」というのだが、日本的に言えば「次郎」であろう。日本でも女性が自分のことを「俺」とか「僕」とか言ったりすることがあるが、愛称まで男性的な名前にする人はいないものだ。因みにジョーの正式名称が「ジョセフィーヌ」だから結構笑える。本人は思いっきり女性であるのだ。

 『若草物語』の面白さは物語とか文章とか会話にあるのではなく、主人公のジョーが女の子なのに男の子らしく振舞う所にあるといっていい。小学生なら男女でも一緒に居られるのだが、高学年になれば「男女の性差」が目に見える形で出て来る。それに乗ってしまう喜びもあるが、それに反発する喜びもあるから、『若草物語』に対して魅力を感じる女の子たちも出て来るのだ。

 女の子が女の子らしくせず男の子のように振舞うのは面白い部分もある。しかしその代償は想像以上に高い物になるのだ。自分が男性的な行動を取ってしまったために、成長期に入って女性ホルモンがきちんと分泌されなくなるのである。このため心身に深刻な異常が出て来るようになるのだ。

 女の子が女の子らしくすると女性ホルモンが大量に分泌されるので、いずれ心の奥底から「女性として生まれてきて良かった~」と思えるようになるのだ。これは女性が自立していく際に誰もが経験することなので、これ抜きにして自立などできないのだ。

 女の子の中には活発な女の子もいるものだ。そういう子にはスポーツをやらせ、自分の有り余ったエネルギーを発散させてあげるべきなのである。こういう子に対して無理に女の子らしさを強要すると猛反発してくるので、非常に厄介になってしまうのである。自分がスポーツで充分にエネルギーを発散すれば、大人になった時、女性らしい女性に早変わりするものなのである。

 『若草物語』は程度の低い宝塚なのであって、宝塚ファンの女性達に自立していない女性達が非常に多いと同じように、『若草物語』も子供の頃にこれを読んで嵌ってしまえば、当然のことながら自立できなくなるのだ。その女性が自立できなかったことは社会が悪いのではなく、自分が子供の頃に悪書を読んでしまったからなのである。

●フェミズム洗脳

 日本でなら『若草物語』は文学少女でもなければ読まない本だが、アメリカ合衆国では大学に進学してくる女性達の殆どが子供の頃に読んでくる本であるのだ。『若草物語』を小学生の時に読んでしまうと、女の子として女の子の時間を満喫できないという事態が出て来る。当然にそれは親からの自立ができなくなるのである。

 そこでその女性達にとっては自立が深刻な問題になるから、大学生の時に女性の大学教授から「フェミニズム洗脳」を受けてしまうのである。女性の大学教授からフェミニズム洗脳されなくても、大学生というのはまだまだ知識が不足しているから、フェミニズムの本を読めばそれを批判することができず、自己洗脳という形で洗脳されてしまうのである。

 なんでアメリカの女性達にフェミニストが多いのかというのは、大学でフェミニズム洗脳をやっているということもあるが、子供の頃に『若草物語』を読んでいるということが要因であるのだ。女の子が男の子らしく振舞うことが如何に危険か知らなさすぎるのだ。

 ユダヤ教では女性が男装すること律法によって禁じている。しかも男装した女性を殺せといっているほど、強硬に女性が男装することを禁じているのだ。ユダヤ教の律法を作った人たちは経験則上、女性が男装すると、その損害は想像以上に大きいのだということに気付いていたのだ。

 これに対してキリスト教は律法を否定して信仰を中心に据える宗教である。これだと碌でもない女性達が出てきてしまうものなのである。『若草物語』では主人公のジョーはきちんとキリスト教を信仰している。だからといってこの女性が神に祝福される値する人物でないことは明らかなのである。

●アメリカ文学の質の低さ

 大きな書店ともなると、定期的に外国の文学を紹介するフェアをやることになる。「イギリス文学フェア」とか「フランス文学フェア」とか「ロシア文学フェア」とかをやるのだ。しかし書店の人たちに言わせると「アメリカ文学フェア」だけはできないというのだ。その理由は古典と称すべき作品がないからなのである。

 アメリカ文学というのは、普通の日本人たちが考えている以上にレベルの低いものなのである。文学というのはその国に長い歴史が存在しなければ生まれてこないものだし、しかもコンスタントに文豪が出てきて、文学のレベルを上げて行って貰わねばならないのである。

 アメリカ文学の質を大いに引き下げている原因は他にもあって、それは未だに児童文学に於いて『若草物語』を越える作品が出て来ないということなのである。児童文学の質が余りにも低いからこそ、アメリカ文学全体の質を引き下げてしまうのである。

 ルイーズ・オルコットはどう考えても一流の作家ではない。大学教育を受けていないし、家庭教師やコンパニオンやお針子や洗濯婦までやって生活費を稼いでいた貧しい女性なのだ。それに育ってきた家庭が父親のためにメチャクチャにさせれらていたのである。どう考えても作家として一流になれる環境にはいなかったのである。

 『若草物語』は児童文学に於いて初めて「家庭小説」なる分野を生み出したといわれる。しかしちょっと待ってくれといいたい。子供達は既に家庭で生活しているのである。それなのになんで読書するのにまた家庭の話を持ち出されなければならないのか?

 ルイーズ・オルコットはリアリズムを用いて『若草物語』を書いたといわれる。だがそれは技術的には素晴らしいものであるが、そうやってリアルに書かれれば書かれるほど、このお話が「全部嘘」ということになるのだ。ルイーズ・オルコットの人生を見てみればその理由がすぐに解る。

 余りにも悲惨な家庭で育ったからこそ、空想的な家庭を児童文学の中で作ったということなのである。

 やはり彼女はペテン師の娘なのだ。父親が空想的共産主義者だったように、彼女もまた文学の中で現実には絶対に存在できない「空想の家庭」を築いてしまったのである。これが空想だとバレないようにリアリズムを用いただけのことなのである。

 少しでも文学を本格的に研究したことがある者なら、ルイーズ・オルコットという「邪悪な人間の悪質な嘘」を見破る筈だ。それが出来ないというのであれば、文学に携われるだけの最低限の能力がないということなのである。子供の頃にきちんとした愛読書を持たなかったツケはこういう所にも出て来るのである。

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「韓流ブーム」と「日本のドラマの質の低下」

●実は数を持っていない韓国ドラマ

 現在、日本のテレビ局は視聴率の低迷に苦しんでいる。視聴率が下がればスポンサーもつかなくなるので、収入が減少するということになるのだ。インターネットがこれほどまでに普及してきた以上、広告をわざわざテレビCMで打ち出す必要性が低下してきたというのに、テレビ局は自滅するような方向に突き進んでいるのだ。

 この視聴率の低迷を齎したのは、なんといっても「韓流ブーム」である。韓国のドラマでヒット作が連発してきたために、これを日本のテレビ局で流したら、逆に視聴率が下がってしまったのである。韓国ドラマには熱狂的なファンがいるだけで、実は視聴率を取れる代物ではないのだ。

 大体、ブームが起こった時には、それに便乗するより、冷静になって傍観した方がいいものなのである。ブームというものは、ブームを引き起こした者が最大の利益を手にするのであって、後から入ってきても自分が思うほど利益を取れないし、それどころか大損をしてしまうものなのだ。

 「AKB48」のブームもこれと同じで、彼女たちは人気があるように見えて、実は視聴率を取れるグループではないのだ。しかも利益を手にするのは、秋元康とその関係者たちだけなので、テレビ局が今更出演させても、視聴率は取れないし、儲からないしという悲惨な目に遭ってしまうのである。

 韓流ブームはブームであることを絶対に忘れるべきではないのだ。ブームである以上、必ずこのブームは衰退し、終焉する。ブームが起こっている最中は熱狂的なファンであっても、ブームが終ってしまえば韓国人俳優たちの程度の低さに気付き、しかも反日的な態度が気に食わなくなり、今までの愛情が憎悪に変わってしまうものなのである。

●ドラマ制作能力の低下

 今まで日本のテレビ業界には様々なブームがあったが、その中でも韓流ブームは日本のテレビ局に深刻な打撃を与えた。

 それは「ドラマ制作能力の低下」である。

 韓国ドラマを放送したテレビ局はどのテレビ局もドラマの質が低下してしまった。NHKでは大河ドラマの不調に見舞われているし、TBSが民放の中で最も質の高いドラマを作っていたのにそれが作れなくなったし、フジテレビはドラマの前面敗北という「ドラマのメルトダウン」ともいうべき現象までもが起こってしまったのだ。

 テレビ局はドラマに回せる資金は限られているのだ。それなのに韓国ドラマの獲得のために資金を使ってしまえば、肝腎の自社製作のドラマの資金が不足してしまうのは当たり前のことなのだ。最近のドラマで気にかかるのは、明らかに資金をケチっていて、ドラマの質が物凄く低くなったということなのである。

 もう1つはドラマを制作する機会が韓国ドラマを買うことで失われてしまったということだ。テレビドラマというのは作り続けなくてはならない。これが映画と違う所なのだ。ドラマのお客様は茶の間に居るのであって、常に作り続けなければ、そのお客様が消えてしまうし、一旦技術が落ちればそう簡単に上がらなくなってしまうのだ。

 テレビドラマはとにかく作り続けるしかないのだ。安易に外国のソフトを持ってくることは非常に危険なのだ。例えばテレビ東京は昼間にアメリカの映画を流し続けたために、まともなドラマを作れなくなったのである。これと似たような現象がどのテレビ局も韓国ドラマを流すことで起こってしまったのである。

 韓国ドラマも中には質の高い物があることだろう。しかしこれだけ大量に流せば、韓国ドラマの質の低さに気付くものだ。物語構成力が物凄く下手だし、物語の展開も遅い。会話に無駄な言葉が多すぎる。俳優たちの演技も素人レベルなのである。これだったら韓流ブームが起こる前の日本のドラマの方が余程良かったのである。

●ドラマへのリストラ

 日本は韓国よりも経済力は遥かに上だし、人口も上回り、国土も上回っている。本来なら、日本のドラマが韓国でブームになることはあっても、その逆は有り得ないのだ。ということは、日本のテレビ局の方に重大な落ち度があったということなのである。

 それ「ドラマへのリストラが全く行われていなかった」ということである。

 フジテレビの「月9」に代表されるように、ドラマは膨大な既得権益を持っていて、それに対してテレビ局がリストラを行い、赤字部門を切り捨てたり、ドラマ枠そのものを減少させていくということをしてこなかったのである。それがドラマの質の低下を引き起こし、そして視聴率が下がり続けてしまったのである。

 日本のテレビドラマの最大の問題点は1時間ドラマが主流になっているということなのである。

 わざわざ1時間のドラマを作るべきではないのだ。1時間ドラマというのは非常に中途半端なドラマなのである。人間の集中力は90分をサイクルとしているので、1時間のドラマでは人間にとって不自然な時間にドラマが終ってしまうのである。

 1時間のドラマを作るなら、45分のドラマを作った方がいいのだ。これは90分の半分なので、集中力が丁度盛り上がった所で話が終るので、「じゃあ、次回も見ようか」ということになるのだ。NHKの大河ドラマに人気があるのはこれを巧く使っているからなのである。

 より短くしようとすれば「30分ドラマ」が良いのだ。昔のテレビでは30分ドラマというのは結構あったものなのである。現在でも深夜番組で30分ドラマがあるが、これが結構善戦してたりするのだ。人間にとって無理のない時間なので、いい物を作れば見てしまうものなのである。  

 NHKの朝ドラはNHKにとって非常に価値のあるものなのだ。15分というのはテレビドラマを作れる最小の単位となるからだ。実を言うと、朝ドラは1日15分であっても、これを月曜日から土曜日まで6回放送するので、なんと合計90分になるのだ。人間の集中力のサイクルにドンピシャなのである。

●一旦視聴者が離れてしまうと、そう簡単に帰ってこない

 まさかドラマの放送時間を短くすることが、日本のドラマの質の向上に繋がるとは思いもしないことだろう。しかしこれこそが起死回生の策なのである。テレビアニメが善戦しているのは30分間で放送しているからなのである。これが1時間になってしまえば、幾らテレビアニメのファンたちだって重い負担になってしまうのである。

 テレビ局がドラマでは視聴率が取れないからといって、安易にドラマ枠を廃止し、そこにお笑い番組を持ってくるのは、余計に視聴率が取れなくなってしまう遣り方なのだ。お笑い番組だってドラマが善戦していればこそ盛り上がるものなのであって、お笑い番組だけを盛り上げても視聴率は取れないものなのである。

 テレビをよく見ている人たちというのは、ドラマをよく見ている人たちが主流なのである。こういう当たり前の事実すら、テレビ局のお偉方は気付かないのだ。ドラマの質が低くなり、ドラマで視聴率が取れなければ、テレビ局全体で番組の質が低下し、視聴率が下がっていくのである。

 嘗てTBSが「民放の雄」と呼ばれていた頃、TBSは名作ともいえるテレビドラマを大量に作っていたのである。だからお笑い番組も面白かったし、歌番組もヒットしていたし、報道番組だって充分に視聴率を取っていたのである。それなのに今では過去の栄光のことを完全に忘れているのだ。

 冷静に考えれば、現在の日本のお笑い番組だって、歌番組だって、報道番組だってつまらないのだ。俺が子供の頃にお笑いビッグスリーと言われた人たちが未だに現役で活動中なのである。歌番組にしても、もういい加減に司会者を変えて欲しいものだ。お爺さんが司会をやっている歌番組なんて、そもそも有り得ないよ。それに腰痛で立ち続けることができない「みのもんた」がやっている報道番組なんてバカらしくて見れないよ。

 テレビ局でリストラを行う時、当然に社内には抵抗勢力が大量発生してくるのだ。しかしその抵抗勢力を全部撃退してリストラを敢行しない限り、テレビ番組の質は上がらないし、視聴率だって取れないのだ。俺に言わせれば韓国ドラマを流すというのは、リストラすることを先延ばしにしているということなのである。

 テレビ局によっては「視聴者離れ」の方が恐ろしいものなのだ。一旦視聴者が離れてしまうと、そう簡単に簡単に帰ってこないものなのである。いずれインターネットテレビでドラマを作り、それがヒットする時代がやってくることだろう。その時がやってくればもう全てが手遅れになってしまうものなのである。リストラは今やらねばならないことなのである。

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『不思議の国のアリス』と「偏頭痛」

●コンマリの凄さ

 俺が本を読む時、その作者が自分より年上か年下かというのは物凄く気になる。その本が素晴らしい場合、作者が年上なら「まあ、年上だから仕様がないか」tってことになり、一応納得できる、しかしその本が素晴らしいが、作者が年下なら、「まあ仕様がないな~」とは行かない。だから自然と年下の作者には厳しくなるのだ。

 俺は女性だからといって特別扱いはしない。書物の世界では男性も女性もないからだ。その著作物で決着をつけなければならないからだ。俺は女性作家には警戒してしいる。なぜならフェミニズムの洗脳されているか汚染されているかの可能性があるからだ。そういう作者の意見はフェミニズムの意見なのであって、自分の意見ではないのだ。

 俺に言わせれば、

「あなたの本当の声を聞かせてくれよ!」

と言うことなのである。作者の本当の意見でもない本を読むのは本当にバカらしいことだし、時間の無駄なのだ。

 このため俺は年下の男女には非常に厳しくなるのだが、それなのにたった1人だけ俺から合格点を貰った女がいる。それが「近藤麻理恵」だ。彼女が書いた『人生がときめく片づけの魔法』は絶賛に値する本であるのだ。自分でちゃんと考えているし、構成もきちんと出来ているし、それに文章が巧い。

 なんでコンマリがこんなに出来がいいのかといえば、小学生の頃から『不思議の国のアリス』を愛読書としており、それを何度も何度も読み返したからということが解ったのである。児童文学の中でトップレベルの本を愛読書にし、それを何度も読み返せば、自然と読解力も思考力も執筆能力も飛躍的に向上してくるものなのである

 俺自身、『不思議の国のアリス』の名は知っていたが、今まで読んだことはなかった。しかしコンマリが愛読書にしているということでいざ読んでみることにした。そしたら面白いのなんのって! ナンセンスが笑えるのである。「これなら女の子は嵌るわ~」とつくづく感心してしまった。

  

 ルイス・キャロル著『不思議の国のアリス』(福音館書店)

●ナンセンスの大切さ

 児童文学と大人用の文学は違う。何が違うかといえば「読者が違う」のである。大人用の文学は大人達が読むことを想定し、子供達が読むことは考慮していない。しかし児童文学は子供達をメインの読者にし、それでいながら大人達でも読めるようにしてあるのだ。だから児童文学だからといって、本当に子供向けに作ったら、それは児童文学たりえないのだ。

 児童文学は読者が子供達である以上、大人用文学にはないものが加わってくることになる。そえが「ファンタジー」なのである。ファンタジーは通常の空想ではないのだ。「途方もない空想」なのである。それゆえリアルだけの小説は児童文学たりえないのである。

 児童文学はファンタジーを必要不可欠とするからこそ、「魔女」や「妖精」たちが出て来ることになる。動物が喋ったりするのもファンタジーならでは現象なのだ。しかしファンタジーを突き詰めると、そこに登場してくるのが「ナンセンス」なのである。意外なことかもしれないが、本当にそうなのである。

 子供というのはナンセンスが非常に好きである。子供は普段の会話からナンセンスなことを言ってくるものだし、演劇でもナンセンスな要素が入ってる演劇は大喜びしてしまう。なんでナンセンスがそんなに好きかと言うと、ナンセンスな物を見たり聞いたりすることで、脳のシナプスを増やしているからなのである。ナンセンスに触れれば触れるほど脳内が快感になるのである。

 子供の頃にナンセンスに親しむと、知能が大いに発達するので、大人になってから許容量が大きくなり、非常に現実的になる。だが子供の頃にナンセンスを楽しんでいないと、知能が余り発達せず、大人になって器の狭い人間になり、何か嫌なことがあれば「それはナンセンスだ!」と言って現実を否定してくることになるのである。

 子供の頃から英才教育を施された人に限って、大人になると責任ある仕事をこなせなくなるという逆説的な現象が生じてくるものだが、これは子供の頃にナンセンスな物に触れる機会が少なかったからなのである。逆に子供の頃にバカばっかりやっていた子供に限って、大人になると責任ある仕事をきちんとこなし、大手柄を立ててくるものなのである。

●偏頭痛がナンセンスを生んだ

 ではなんで『不思議の国のアリス』の作者のルイス・キャロルは、こんなナンセンスの本を書けたのだろうか?

 それは彼が「偏頭痛」だったからなのである。

 偏頭痛と言うのは初期なら単なる頭痛なのである。しかし症状が悪化してくると、視覚や聴覚に異常が生じ、相手の体が大きく見えるようになったり、逆に体が小さく見えるようになったりするし、相手の言っていることがメチャクチャな言葉として聞こえるようになったり、自分自身わけの解らないことを言ってしまったりするのだ。

 『不思議の国のアリス』に出て来るお話は全部、偏頭痛の症状が見せる現象なのである。

 普通の偏頭痛の患者なら、そこで終わりだ。しかしルイス・キャロルは学者なのであって、オックスフォード大学クライストチャーチの学部長であり、専門は数学だったのである。頭が良かったために、偏頭痛の症状を小説へと昇華することができたのである。

 ルイス・キャロルの授業は退屈であったらしい。。なんせ偏頭痛である以上、学生達の声が頭にズキンズキンしてくるのであって、そんな状況では楽しい授業などすることができないのだ。だが小説なら自分一人で書けるのであって、偏頭痛であっても別に問題はないのだ。

 しかも自分が偏頭痛である以上、既存の小説を書かなくていいのである。自分の頭の中で起こっている特殊な現象を小説に書いてしまえばいいのである。。そのままでは支離滅裂になるかもしれないが、きちんとプロットを組み立ててれば、今までの小説にはない新しい小説を生み出すことができるのである。

 言わばルイス・キャロルが偏頭痛だったからこそ『不思議の国のアリス』を書けたのである。『不思議の国のアリス』が出版されて以来、それを真似る人たちが出てきて、次々に似たような作品を作ったが、結局、ルイス・キャロスを越える作家は未だに出ていないのだ。偏頭痛と学者という組合せが名作を生んだのである。

●ナンセンス小説の元ネタ

 ところがナンセンスな小説はルイス・キャロルの独創ではないのだ。

 実を言うと、1843年にエドワード・リアが『ナンセンスの本』を出しており、これこそがナンセンス本の始まりといっていいのだ。このエドワード・リアという人物は同性愛者で、躁鬱病と癲癇を煩っていたのである。ルイス・キャロルが出て来るまで結構人気を博していた人物なのである。

 ルイス・キャロルは多感な10代の時にこの本に出会っている。ルイス・キャロルの書簡には早い段階からナンセンスな文章が出て来るのだが、明らかにルイス・キャロルはこの『ナンセンスな本』が気に入っていたのである。若かりし頃のルイス・キャロルはナンセンスな文章をせっせと練習していたのである。

 ルイス・キャロルがアリスに物語を語ったのは1862年7月4日である。『ナンセンスの本』が出て16年後のことなのである。その話をアリスから本に纏めるように依頼され、半年かけて執筆し、それを加筆修正して1865年に出版に出したのである。19年という歳月がナンセンスを洗練させたのである。

 ルイス・キャロルは同性愛者ではないが生涯独身であり、躁鬱病や癲癇ではないが偏頭痛なのである。ルイス・キャロルもエドワード・リアも同じようなものなのだが、偏頭痛であるルイス・キャロルの方がナンセンスな小説を書くのに適していたといえるのである。しかも若い時からナンセンスな文章の訓練をしたので、文章の方も勝ってしまったのである。

 『不思議の国のアリス』が爆発的ヒットを飛ばしてしまうと、エドワード・リアの『ナンセンスの本』は完全に霞んでしまった。今ではイギリス文学に詳しい者だけしか知らない。人間の運命というものはこういうものであって、余程凄い作品を作らないと、自分の名誉が吹き飛んでしまうものなのである。

●偏頭痛を文学へ昇華

 人間と言うのは病気になればそれを治すことに躍起になってしまう。確かに病気である以上、それを治して健康になった方がいい。しかし病気だからこそ出来るものも存在するのである。ルイス・キャロルは偏頭痛であっても、その状態で小説を書き、物の見事に偏頭痛を文学へ昇華してしまったのである。

 偏頭痛は今現在でもそれを治す薬はないのだが、当時だってないのだ。

 偏頭痛は精白穀物を摂取し続け、そこに肉食が加わると発症する病気である。精白穀物ゆえにビタミンやミネラルが不足し、そこに肉食が加わって更に不足すると偏頭痛が発生するのだ。ルイス・キャロルは独身のために食事は常に大学の学生寮で食っていたので、絶対に治るわけがないのだ。

 しかもイギリスということで、紅茶を飲む習慣があったのである。ルイス・キャロルは学者としての仕事をする以上、普通の人たちよりも多く紅茶を飲んだことだろう。しかしこれが偏頭痛を悪化させるのである。カフェインは脳を覚醒させるが、偏頭痛の症状も悪化させるのである。

 ルイス・キャロルの偏頭痛は余程酷いものだったのである。このため普通の大人達との社交は無理だったし、学生との交流もダメだったのである。ところが唯一アリスにだけは巧く人間関係が結べたのである。だからこそアリスから面白い話を依頼するよう言われれば、それを半年もかけて執筆したのである。

 ルイス・キャロルとアリスの間に恋愛はあったのかということが議論されるが、俺に言わせればルイス・キャロルに恋愛感情があるのは当たり前のことなのである。だからこそアリスの母親はルイス・キャロルの行動に不審を抱いて、ルイス・キャロルとの関係を絶ってしまうのである。

 現在の日本でルイス・キャロルがいたのなら、「ロリコン」の一言で片づけられてしまうし、青少年育成条例に引っかかって逮捕されてしまうことだろう。だがそういうことでは新しい小説は生まれないし、文学だって存続しえないのである。文学というのは健全な精神を持った人物たちだけが作るのではなく、社会的には適応不可能な奇人変人たちだって作るのである。

 その両者が文学を作るからこそ、文学は発展していくのである。

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今でも名作『はじめてのおつかい』

●絵本とリアリズム

 大方の絵本は絵を抽象的に描きすぎているのだ。読者が乳幼児ということで、絵に対して手抜きをしてしまうのである。しかし読者である子供達の方は堪ったものではなく、大きくなれば絵本に見向きもしなくなってしまうのだ。これは子供の成長の結果で起こったことと考えるのではなく、子供達が捨てたと見るべきなのである。

 絵本に於いてもリアリズムは必要である。リアルな絵だからこそ説得力を持つのである。しかもリアルな絵があるからこそ、空想が可能になってくるのだ。空想だけでは空想が成立しないのである。空想と言うのは常に現実を前提に成り立っているのだ。

 子供達はスタジオジブリの映画が大好きである。なぜならジブリの映画はこのリアリズムと空想のバランスが巧く取れているからなのである。ジブリの風景描写は非常に精密である。そういう背景があればアニメチックなキャラを出すことができるし、物語自体も空想的な物にすることができるのである。

 リアリズムのない絵本に対してはどうしても許せないことがある。それは絵本に出て来るお母さんが既にお母さん化しているということなのである。

「赤ちゃんのいるお母さんって、もっと若い」

これこそが事実であろう。絵本作家が自分の母親を基準に母親像を描いているために、結構年を食ったお母さんになってしまっているのである。

 それと実際の乳幼児は歩けるようになっても、必ず「こける」のである。人間にとって二足歩行というのは難しいものなのである。だから絵本の中で乳幼児がこけないのなら、その絵本作家は真面目に育児をしたことがないと断定せざるをえないのである。

●原作では怪我をしていない

 今回紹介する絵本は、実を言うと、俺が子供の頃に読んだ絵本なのである。俺が読んだ絵本の中で一番良かったと思った絵本である。大人になってからこの絵本を読んでみると、この絵本は本当に名作だなと思えるほど素晴らしいのだ。

     

筒井頼子原作 林明子作画 『はじめてのおつかい』(福音館書店)

 物語は主人公の「みいちゃん」が初めてのお使いに行くというお話である。絵本なので物語は単純そのものである。しかも短い。絵本作家としてはその単純で短い物語の中に、どれだけ巧く物語を展開させていくから腕の見せ所なのだ。

 大人になってからこの絵本を読んでみると、原作ではみいちゃんは怪我をしていないということに気付く。絵の方だけで怪我をしているのだ。これは作画を担当した林明子の思いつきなのであって、多くの読者たちは原作でも怪我をした文章があるのではないかと思い込んでいるのだ。

 絵本の場合、如何に文章を読んでいないかの証左であろう。

 作画の林明子が主人公に対して勝手に怪我をさせてしまったので、裏表紙では母親から治療を受けた姿を書いており、これで辻褄を合わしているのだ。これは見事というしかない。なぜならみいちゃんが怪我をしたことで読者たちは感情移入することができたし、怪我の治療を見せることで母親の母性愛までをも見せることができたからなのである。

 筒井頼子の原作の方も素晴らしい。無駄のない言葉できちんと物語を展開させているからだ。しかしそれに作画の林明子が何かを加算したからこそ、この絵本の出来が物凄く良くなったのである。絵本の場合、「原作半分、作画半分」なのである。一方の意見だけが通っては面白くならないのだ。

●遊び心の大切さ

 この絵本には子供の頃に読んだ時には気づかなかった箇所が多々ある。

 例えば「筒井商店」というのは、原作の筒井頼子の苗字を取ったものだし、掲示板には絵の教室「林明子先生」と書かれているのだ。こういう遊び心は非常に面白い。原作者や作画担当が絵本の中に出て来るからこそ、その面白さがグンと高まるのだ。

 しかも掲示板には「迷い猫」も出て来るのだが、この猫、絵本を良く見てみると違う頁に出ているのだ。確かに迷い猫の掲示は良くあることなので、こうやってその掲示を書き込み、しかも探している猫がきちんと出てくれば、それだけで笑ってしまうのだ。

 ラストでは赤ちゃんが手を振るのもなんとも面白い。この絵本の物語では赤ちゃんは脇役でしかない。しかし主人公の「みいちゃん」は赤ちゃんのために牛乳を買いに行くのだから、ラストでは赤ちゃんに何かをして貰わねばならないのだ。原作では抜け落ちている所を、作画の林明子はきちんと補ったのである。

 多少ケチをつけさせて貰うと、この母親は赤ちゃんに牛乳を飲ましたってことなのか? この赤ちゃんが小児癌や小児性白血病に罹らないことを祈る。この絵本が出版された当時では、赤ちゃんに牛乳を与えることの危険性がまだまだ解っていなかったのであろう。

 それとこの赤ちゃんデカくないか? ハイハイしているシーンは出てこず、寝たきり状態ということは、生後6ヶ月以下ということであろう。そうなると結構デカいように見えるんだけど。まあ、赤ちゃんを小さく書いてしまうと、それはそれで面倒なので、これは仕方ないか・・・・・・。

●しっかりとしたプロットがあればこそ

 絵本も本であることには変わらないから、必ずプロットを必要とする。プロットは必ず「起承転結」でなければならず、これを満たさなければ本として成立しないのだ。絵本の中にはこの最低条件を満たしていない絵本が結構あるのだ。

 しかも読者が乳幼児であるために、普通の起承転結であってはならない。「起承」を早めに済ませ、「転」の部分を長くし、そして一気に「結」へと持ち込まないとならないbのだ。この絵本の場合、みいちゃんがこけてから「転」が始まるので、起承の部分が短く、みいちゃんがお店のオバサンからお釣を貰うことで「転」が終るので、転の部分が長くなっているのだ。

 この絵本はプロットがしっかりしているからこそ、作画の林明子は思う存分力量を発揮できたし、遊ぶこともできたのである。絵本で絵が抽象的になっている物は、その絵自体がダメだけでなく、その絵本の物語自体がダメになっている場合が多いのだ。

 ところがこれほどまでに素晴らしい林明子が自分で原作を作った絵本を読むと、そんなに面白くないのだ。作画担当が自分も原作を作り、全てを自分のオリジナルで行きたいという気持も解らなくないが、やはり絵本の原作を作るというのは、余程優れた文才がないと出来ないものなのである。

 因みにこの林明子は『魔女の宅急便』の第一巻で作画を担当しているのだ。俺としては林明子が描いたキキの絵が一番好きである。林明子が作画を担当しなければ、この『魔女の宅急便』ですらその原作の良さを巧く活かせなかった筈だ。だから作画担当の責任というのは結構重いものなのである。

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こういう恋愛はダメなんだよ

●恋愛は理想論よりも禁令の方が大事

 恋愛はやってみなければ解らない。男女が2人しかいない組み合わせなのだから、男女双方の力量によってその恋愛は大いに変動していくのだ。だから恋愛の理想論を幾ら考えたとしても、それは全て机上の空論になってしまうのである。

 ところが女性というものはこの恋愛の理想論が大好きらしく、大抵の女性が恋愛の理想論を述べてくる。女性雑誌などではこの手の恋愛の理想論が随筆として書かれているし、最悪の場合はその雑誌がわざわざ特集を組んだりするのだ。

 俺ははっきりとして言わして頂く。

「恋愛の理想論を述べる女性ほど現実の生活では恋愛が巧く行っていない」

ということなのである。どんなに恋愛の理想論を考えても、いざ恋愛が始まってしまえばそんなもの全部吹き飛んでしまうものだ。後は全力でその恋愛に取り組まなければならないのである。自分の恋愛が巧く行けば恋愛の理想論なんて唱えてくることはないのだ。それよりも「恋愛ってのはこういうもんだよ」ということが言えるようになるのである。

 恋愛には理想論よりも禁令の方が大事なのである。「こういう恋愛はダメなんだよ」ということを事前に知っておけば、恋愛で悲惨な目に遭うことはないのだ。「恋愛は自由だ~!」と思い上がるからこそ、間違った恋愛を平気で行い、そして大失敗してしまうのである。

 恋愛に於いて「何々しなければならない」というのは余り意味がないのだ。それよりも「恋愛禁令」のように「何々してはならない」という方が役に立つのだ。やってはいけないことが解っていれば、そこに「法の下の自由」が生まれ、その自由を謳歌していくことができるからだ。「法の支配」を否定して、自由だけを取り出そうとするからこそ自由が消えてしまうのである。

●お弁当を作って貰う恋愛

 ダメな恋愛の入門編の筆頭が「お弁当を作って貰う恋愛」だ。これは若い男女がやってしまう可能性が高いものだ。人間は家庭の中で育ってくるから、母子の関係を基準にしてしまう傾向がある。男性が女性にお弁当を作って貰うと、その恋愛関係が恋愛関係にならず、母子関係になってしまうのである。

 女性がお弁当を作ってしまうと、必ず男性の方は女性に対して遠慮してしまうものだ。なんせその日の食事を無料で作ってくれるのだから、ドギツイ意見を言ったりはしない筈だ。しかしこうなってしまうと、男性は恋愛に於いて主導権を握ることができなくなるのだ。

 女性がお弁当を作ってしまうと、それが善意で行ったこととはいえ、恋愛の主導権を握るようになり、そしてその女性は男性をそのまま愛そうとするのではなく、改造しようとし出すのだ。男性の方も飯を食わして貰っている以上、或る程度までなら付き合うことだろう。しかしそんな恋愛が長く続くことはないのだ。

 彼氏に対してお弁当を作る女性は手の込んだお弁当を時間をかけ、丁寧に作ってくるものだ。そういうお弁当は往々にして重たくなるものだ。その恋愛もそのお弁当の重さに比例するように重たくなっていくのだ。恋愛が重くなれば、恋愛から楽しさが消えていくのは当たり前のことなのである。こういう恋愛なら彼氏が浮気して息抜きをするのは当然といえば当然のことなのである。

 俺に言わせれば

「お弁当が欲しいのなら、お弁当屋さんで買おう!」

ということなのである。お弁当というのはその値段が高が知れているし、彼女にお弁当を作らせる時間を浮かして、他に有意義なことをやればいいのである。確かにお弁当屋さんのお弁当は栄養バランス的には問題がある。だったら自炊すればいいのである。それだけのことなのである。

●お金のかかりすぎる恋愛

 恋愛で良くあるパターンなのに、ダメな恋愛を典型例が「お金のかかりすぎる恋愛」だ。恋愛というのは基本的に無料で行えるものだ。恋愛をよりよくしたいのなら、多少お金をかける程度なのである。だから恋愛にお金がかかりすぎている時点で、その恋愛の異常さに気付かないとおかしいのだ。

 確かに女性にしてみれば、恋愛に対して大金を使ってくれる彼氏なら嬉しいものだ。高級レストランに豪華なプレゼント、どこか海外旅行に行ったり、高級ホテルのスウィートルームに泊まるなら、誰だって舞い上がってしまうものだ。

 しかし男性が若いのにそんな大金を持っているわけがないのだ。芸能人やスポーツ選手やベンチャー起業家なら若くして大金を持つことができるが、それ以外の男性たちは結構貧乏なものなのである。恋愛に対してお金を使いすぎているということは、貯金が全くないということなのである。

 俺に言わせれば、

「お金のかかりすぎる恋愛をする男性は愛というものをお金で買えると思い込んでいる連中なのである」

ということなのである。だからこの手の男性と付き合っても、恋愛が盛り上がってこないのである。盛り上がっているように見えるのは「お金の力」によってであって、実際の愛の量は皆無に等しいものなのである。

 女性にしてみれば「タダほど高いものはない」ということを、この恋愛で思い知らされることになる。恋愛によって贅沢のくせがついたら、そう簡単には治らないのだ。このため生活自体が高コスト体質になってしまい、家計は火の車になり続けてしまうのである。

●会話の合わない恋愛

 会話の合わない恋愛もダメな恋愛なのである。なんで会話が合わなくなるから、その原因は言語能力にあるのではなく、「階級」と「宗教」にあるのだ。平等を唱えたり、無宗教を唱えるからこそ、この大事な大事なものが見えなくなるのである。

 階級というのは、生徒や学生なら「学級」ということであり、社会人になってしまえば「就職先」や「所得」とかである。基本的に同じ階級に属していれば恋愛をしても会話が成立し易い。同じ階級にいることで共通の話題が沢山あるからだ。

 しかし階級が違うと、一時的に会話はできても、その会話を長く続けることができなくなってしまうのだ。女性は玉の輿を狙うものだし、男性は自分の階級よりも下の女性を好んだりする。しかしその際、階級の上昇に従って、その本人が変わって頂かないと、会話が通じなく成って仕舞うのである。

 それと宗教だ。宗教が同じであるなら、会話は非常にスムーズに進むことになる。なんせ同じ宗教を奉じているので、その宗教に関することなら幾らでも話題があるのだ。しかし宗教が違ってしまうと、些細なことで喧嘩し始めることになるのだ。

 合コンとかで恋人を見つけようとしても、なかなか見つからないものだ。それどころか遊ばれて捨てられるのがオチだ。階級やら宗教を無視するからこそ、自分の貴重な時間を無駄遣いにしてしまうのである。全ての異性が恋愛の対象ではないのだ。自分が恋愛できる相手は限られているものなのである。

●セックスが巧く行かない恋愛

 セックスが巧く行かない恋愛もダメな恋愛なのである。これは挿入すれば解るものなのである。ペニスとヴァギナではその相性があるので、相性が良ければ非常に気持いいものなのである。やっていてどうも合わないのなら、そのセックスだけでなく、その恋愛もやめた方がいいのだ。

 恋愛の前に性愛術を学ばなければならないのは「男性」の方である。せっせとその手の本を買って勉強するべきなのである。性愛術に関する本は出鱈目な本も多いので、その真贋を見極めないと、碌でもない本を掴んでしまうものなのである。

 女性の場合、ヴァギナが発達している女性は必ずといっていいほど足腰にしっかりとした筋肉がついているものだ。若い頃はせっせと運動した方がいいのである。足の細すぎる女性や、お尻が小さすぎる女性は、ヴァギナがj貧弱なものなのである。

 セックスを楽しめるようになるためには、とにかくカップルでせっせとやっていくしかないのである。経験値を積んでいかないとどうしても巧くならないものなのである。浮気性の人間に限ってセックスが下手なものだが、性愛術というのはそういうものなのである。

 セックスに於いて厄介なのは「宗教」である。宗教が女性に潔癖さを要求すると、女性はセックスに対して嫌悪感を抱いてしまい、セックスどころではなくなってしまうのだ。例えばカトリックのように生殖のためにセックス以外認めない宗教では、女性信者たちが異常化してくるものなのである。

●両親に見せられない恋愛

 自分の恋愛をちゃんとしたものにしたいのなら、とにかく自分の両親に紹介して、両親の承諾を得ておくことだ。恋人としても、相手の両親に紹介されたのなら、自分の相手を邪険に扱ったりするようはしなくなるものなのである。恋人に掣肘を加えるのは、これが一番効くのだ。

 逆に言えば両親に見せられない恋愛は100%の確率でダメな恋愛だということなのである。人間と言うものは幾らでも口から出任せを言えるものだから、メチャクチャな恋愛を主張してくるものなのだ。だったら、それを自分の両親に見せてみなよ。恐らく出来ない筈だ。

 両親の方が自分よりも人生の経験値は豊富なのである。当然に自分では見切れないものでも見切ってくるものなのである。自分が恋愛で舞い上がっていても、両親は冷静だから、ズバリ真実が言えるのである。その意見は聞いた方がいいのである。

 大体、恋愛の理想論を述べる女性達は、恋愛に於いて自分の両親を使うということをしないものだ。だから理想の恋愛と称しながら、ダメな恋愛を平気でやってしまうのである。恋愛してしまえば、感情が理性よりも勝るから、これがダメな恋愛であるということになかなか気付けないのだ。

 自分がダメな恋愛をしているのに、自分を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げても無意味なのである。ダメな恋愛をベラベラと喋れば、それは面白い話だから誰もが飛びつく。しかし恋愛をきちんと解っている男女は「バカじゃないの、あの女!」ということになるのである。普通のバカは救いようがあるが、恋愛に関するバカは地獄に落ちて貰わねば絶対に治らないのである。

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老木の話

●老木だからこそ生き残った

 『荘子』「山木編」にはこのような話が出ている。

 荘子が山中を旅した時、枝も葉も存分に生い茂った大木を見た。ところが樹木を伐採する樵がその傍らで足を止めても、その大木を伐採しようとはしなかった。そこで荘子がその樵に、

「どうしてこの大木を伐らないんだ? 非常に立派な大木ではないか?」

「そうはおっしゃるけど、この大木はどうにも使い物にならないんだ。だから伐採しないのさ。」

 荘子はこの樵の答えに感動し、

「この大木は能無しの役立たずであったために、天寿を全うすることができるのだ。」

と呟いた。

 我々は山の中で老木を見ると、老木ゆえに感動してしまう。しかし冷静に考えてみれば、老木というのは役に立たない木だったからこそ生き残ってきたわけであり、別に感動するほどのものではないのだ。荘子のような世捨て人なら感動できるけど、経済的合理性を考えれば、その老木を切って新たな木を植えた方が、余程「山のためにもなる」し。「人間たちのためにもなる」のだ。

 「原生林」であるなら、人間が何も手出しする必要性はない。自然の姿のままで放置しておけばいいのだ。しかし人間が山に一旦手出ししたら、もう人間が関与し続けるしかないのだ。老木を切り倒し、潅木を伐採し、その一方で植林を行っていき、若い木をどんどん成長させていかなければならないのだ。

 平地に住んでいる人たちには解りにくいが、山というのは多くの富を生み出すものなのだ。材木が取れるのは勿論のこと、それを炭にしてもいいし、山菜やキノコやシイタケが取れるし、野生動物だって取れるのだ。都会のようなストレスが多く、貧困が常に付き纏う世界とは全然違う豊かな世界が広がっているものなのである。、

 しかしその分。労働は激しい。山に住む人たちは皆、朝早くから働くものだし、仕事の最中はサボったりしない。山の仕事は沢山あるのであって、それをきちんとこなしておかないと、山は人々に恩恵を与えてくれなくなってしまうのだ。

 荘子のように労働などせず思索ばかりしているような人間なら老木を見て感動することができる。だが実際に山で働いている人たちにしてみれば、この老木は邪魔物以外の何物でもないのだ。荘子の意見に感動するのではなく、荘子の意見に対して「お前はバカか!?」と言い切る態度こそ必要なのである。

●なぜ無能な人間が出世してくるのか?

 これが人間の組織になると余計に厄介なことになるのだ。山の中で老木が存在してもそれほど迷惑にならないものだが、組織の中で無能な人間が存在した場合、その組織に於いては非常に迷惑になるのだ。その無能な人間が大した仕事をしないだけでなく、その無能な人間のために組織が機能停止に追い込まれることになるのだ。

 それにしてもどうして無能な人間が出世してくるのか?

 一言で言ってしまえば、「指導者育成システムの欠如」があるからこそ、無能な人間が出世してくることになるのだ。組織の構成員を指導者にするのか否かはスタート時点でほぼ決まる。通常、会社などでは「一般職」と「総合職」の区別を設けて、総合職の者にだけ最初から特別な教育を施し、その者たちの中から出来のいい者たちを管理職にしていき、そしてその管理職の中で更に優秀な者たちを取締役していくのである。

 ところがこの当たり前のことができなくなる場合が出て来るのだ。まずは「縁故採用」だ。どこか有名な人物の息子や娘なりを縁故採用すると、行き成りいい地位を与えなければならなくなる。縁故採用の率が多くなればなるほど、無能な人間たちが会社の中で蔓延ることになるのだ。

 それと「減点主義」「非能力主義」「人事異動の硬直化」である。社員fが失敗する度に減点していたのなら、優秀な人材が育つわけがない。人間は失敗から学び取っていくのであって、減点主義をやってしまったら、失敗をしたことのない人物が出世してきてしまうのだ。

 会社を発展させるためには能力主義が絶対に欠かせない。ところが会社が適材適所ということを忘れてしまうと、平気で能力のない者を重要な部署に置いてしまうのである。それに追い討ちをかけるのが人事異動の硬直化なのであって、或る人物を余りにも長期間置いてしまったり、逆に頻繁に部署を交代させていると、その者の能力が上がっていかないことになるのだ。

 トドメは権力闘争であって、権力闘争が激しすぎると、権力闘争で有能な人間たちが疲れきってしま、その間隙を突いて無能な人間が出世してきてしまい、事もあろう事か社長に就任してしまうのである。こうなるとその会社が潰れることになるのだ。

●定期的なリストラ

 無能な人間が出世してこないようにするためには、一体どうすればいいのだろうか?

 それは非常に簡単なことで、定期的にリストラを行うことなのである。

 リストラすることで無能な人間を排除するしかないのである。無能な人間が社内にいては、ただ単に無駄飯いをさせて会社に損害を発生させるだけでなく、その者が出世してきて会社の重要な部署に就いてしまうという非常に危険なことをやってくれるのである。

 如何なる社員であっても40歳になればもうその者の実力が解るものだ。だから40歳前後に於いて、無能な社員を解雇していくべきなのである。特に管理職で出世競争に敗れた者は切り捨てていくしかないのだ。上に行けば行くほどポストは少なくなるのであって、出世競争に敗れた者を残しておいても意味はないのだ。

 社長たる者、社員の内、20%は無能者だと思っておいた方がいいのだ。リストラを実施する際はその20%の社員たちを狙い撃ちで切り捨てていくべきなのである。会社というのは組織が肥大化する傾向にあるので、いつか誰かがこのリストラを実施しないと、社内に無能な人間たちが蔓延ることになるのだ。

 会社経営で気をつけるべきことは、「男性だけの組織にしない」「女性だけの組織にしない」ということなのである。人間は同性同士を集めるとダレルという性癖があるので、男性だけを集めてしまったり、女性だけを集めてしまうと、その組織そのものが無能化していくことになるのだ。こういう場合、個人を解雇するのではなく、その組織そのものを破壊しねければならなくなるのである。

 既婚女性であっても働ける労働環境を整える一方で、独身女性たちが大量増殖しないよう心掛けることだ。非婚を唱えるオバサン連中が増えてくるのなら、その会社は或る意味、病的な症状が既に出ているということなのである。

●長寿であってもなんの功績もない老人は生きている価値がない

 マスコミとかでは若い男女の働きの方が報道されまくるのだが、実際の会社では40歳以降の男女の働きの方が遥かに重要なのである。40歳以降は脂の乗った時期なので、そこそこの能力がありさえすれば、多くの仕事を成し遂げていくことができるものなのである。

 40歳まで会社に残れたということは、一応、会社から「お前は有能だ」と認められたことなので、その会社の経営が危機にでも陥らない限り、解雇されることはないのだ。だからこそ自分が定年退職するまでの間、真剣になって働き、多くの功績を打ち立てていくべきなのである。

 長寿社会に於いては、長寿だからこそ仕事ができる時間が大量にあるということを決して忘れてはならない。昔は「人生50年」だったから、40歳になればもう隠居なのである。この習慣を今でも引き摺っている会社員たちは非常に多いのである。だからこそ大事な時に遊び呆けてしまうのである。

 40歳以降で病気に罹る人は、仕事しないからこそ病気に罹っているのである。40歳をすぎても自分のすべき仕事が解らないからこそ、遊び呆けてしまい、その挙句が大病なのである。こういう人物は死んでくれた方が有難いのだ。長寿であってもなんの功績もない老人はとっとと早く死んだ方がいいのである。生きれば生きるほど、生き恥を晒しているだけなのである。

 長寿であればこそ、「老害」が深刻な問題になるということを絶対に忘れてはならない。生涯現役は老害を引き起こすだけなのである。自分の髪の毛が白髪になったら会社を去るべきだし、ましてや杖を持たずに歩けないようならもういい加減に会社を去るべきなのである。

 ではそうやって退職した人になんにも仕事がないのかといえばそうではないのだ。「若手の育成」という大事な仕事があるのだ。慈善活動に励むという仕事もあるのだ。そういうのは会社にいては全く見えてこないのだ。会社を去るからこそ、見えるものなのである。

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小説家殺しの作家

●「読者の読書」と「作家の読書」

 大きな図書館に行った時、「わぁ、本がこんなに沢山あるんだ!」と驚いてしまったことはないだろうか? 自宅に書庫がある家に生まれない限り、本が大量にある姿を見ることは驚きなのだ。そういう驚きは非常に大切なのであって、そういう驚きがあればこそ、謙虚になって1冊1冊本を読んでいくことができるのである。 

 普通の読者たちが幸せなのは、自分が読める本が大量にあるということなのである。なんせ本は無数といっていいくらいにあるので、その中から自分が好きな本を選び読んでいけばいいのだ。「最近、面白い本がなくてぇ~」という人はただ単に読書をする習慣がないだけのことであって、読書をし続けていけば、必ず面白い本が見つかるものなのである。

 ところが作家になれば違うことになる。職業柄、本を大量に読まざる得ない仕事なのであって、そうやって本を大量に読んでいけば、いずれ作家自身が面白いと思える本がなくなってしまうのである。既存の書籍で面白い本がないからこそ、自分が作家として新たな本を執筆し続けていかなければならないのである。

 作家が「最近、面白い本がなくてぇ~」というのは、許されざる発言なのである。「面白い本がないなら、お前が書け1」ということなのである。面白い本を書かないことは職務怠慢であり、もしも世の中に面白い本があるなら、それは自分が新手の作家に出し抜かれ、作家生命の危機にあるということなのである。

 出版社の社員たちの最大の喜びというものは、「この世にまだ出ていない本を読める」ということにあるのだ。出版社の社員たちは作家から原稿を貰い、仕事と称して未出現の本を読めるのである。それはお金を支払って行うのではなく、給料を貰いながらするのである。だからこそ、面白くて、この仕事を辞めることができないのである。それほど楽しいのだ。

●三島由紀夫と司馬遼太郎を殺した作家

 二流三流の作家が「最近、面白い本がない」と言えば、第三者から見れば職務怠慢ということが解る。しかし一流の作家が「最近、面白い本がない」というのは、それは本当のことなのだ。だから自分が面白い本を書いているのである。

 一流の作家が時代を引っ張っていくという責務は想像以上のストレスを発生させているのである。

 嘗て三島由紀夫が日本を代表する作家としてノーベル文学賞候補にノミネートされていた時、「もしも僕がノーベル文学賞を取らないのなら、日本人でノーベル文学賞を取るのは大江健三郎であろう。」と奇妙な発言をしていたのだ。ということは、三島由紀夫は私生活で大江健三郎の小説を読んでいたということになる。

 事実、三島由紀夫の予言の通りに、三島由紀夫は割腹自殺をしたためにノーベル文学賞を取ることができず、その後、大江健三郎はノーベル文学賞を受賞することになる。三島由紀夫は日本の作家たちのトップを走っていたからこそ、ノーベル文学賞を取れるのは誰かを確実に予想できたのである。

 司馬遼太郎は『韃靼疾風録』を最後に小説が書けなくなり、随筆家へと転職していくのであるが、その時期には私生活で大江健三郎の小説を読んでいたといわれる。そして司馬遼太郎は静脈瘤破裂のために早くに死亡してしまったのである。

 大江健三郎は三島由紀夫と司馬遼太郎の2人の偉大な作家を殺したといっていいのだ。まさに「小説家殺しの作家」である。

 普通の読者たちなら、大江健三郎の小説は読まないものだ。理由は簡単で「面白くないから」なのである。ところがプロの作家になれば違う。プロの作家たちの中でもトップに立つ者は更に違う。プロの作家だからこそ、一般の読者たちから受けていなくても、玄人受けする小説を敢えて好んでしまうのである。

 大江健三郎は普通の作家たちとは明らかに違うのである。日本で社会主義革命を引き起こすことを目指した小説家なのである。その小説は「巧妙ではなく狡知」であり、読者たちを騙すように書いているのである。そのくせ本人には幼稚性があり、未だに大の大人として自立していないのだ。こういう人物が書く小説は異常を極めるのが当然であり、だからこそ安易に読んでしまえば、この猛毒のために殺されることになるのだ。

●小説家がトップに立った時、読む本がなくなる

 日本の文学史を調べてみると、トップに立った作家ほど、おかしな発言をしていることに気づく。例えば夏目漱石は島崎藤村が『破戒』を発表した時、「これは傑作である!」と絶賛している。どう考えても『破戒』は傑作だとは思えないのだが、問題は『破戒』がどうのこうのよりも、文豪の夏目漱石の発言の方なのである。

 因みに国木田独歩が島崎藤村の小説に対して、「俺なら3分の1の量で書いてみせる!」と言ったことがある。こちらの方が正しい発言なのであって、島崎藤村の小説は間延びしており、まともな作家が書けば3分の1で済む程度の作品でしかないのだ。

 この一件は、実は大事なことを教えてくれる。あの夏目漱石でも自分が日本の文壇のトップに立った時、「自分が面白いと思える本がなくなっていた」とうことなのである。面白い本がないからこそ、どうでもいいような本を絶賛してしまったのである。

 現在、日本の文壇のトップを走るのは、「村上春樹」と「東野圭吾」であろう。彼らは私生活で一体なんの小説を読んでいるのだろう? 遅かれ早かれ、自分が面白いと思える本がなくなる筈だ。問題はその時に一体どうするかなのである。

 日本の文壇のトップを走っているとはいえないが、若者たちに人気の石田衣良ですらも、もう自分が読める本がなくなりつつあるのだ。だから彼は普段、「漫画」や「ライトノベル」を読んでいるというのだ。石田衣良のレベルですらこうなのだから、「村上春樹」と「東野圭吾」のレベルになったら、面白い本が皆無になるのは当然のことなのである。

●文壇に競争があるからこそ、面白い本が生まれる

 作家も有名になってしまえば、新人賞の選考委員になったりしてしまう。そこに応募してくる小説の大半は詰まらない物なのである。当たり前のことだが素人が書いてくる小説というのは高が知れているのだ。それを闇雲に酷評してはならないのだ。嘗ては選考委員たちだって、その程度の小説しか書けなかった筈なのである。

 もしも新人賞に応募してくる作品の中で面白い物があれば、必ずそれを書いた人物は自分のライバルとして登場してくることになるのだ。プロの作家たちを驚倒させる人物は、その後、続々と名作を書きまくってくるものなのである。まぁ、選考委員というのは、そういう作家誕生の瞬間を見ることができるという喜びがある仕事なのである。こういう仕事は滅多にない貴重な仕事なのである。

 文壇は新陳代謝を繰り返すからこそ発展していけるのである。文壇のトップを走る作家たちに異常な言動が見られるなら、その作家に対して下克上を働くべきなのである。そうやってトップが交代してくれれば、下の者たちが順々に繰り上がって行き、そうなれば新人の作家たちが幾らでも入っていけることができるようになるのである。

 作家としてあくどい生き方をしょうとするなら、文壇の大御所に擦り寄ってオベッカを使い、新人の作家たちを潰して、文壇の新陳代謝を止めてしまえばいい。こういうことをすれば、その作家は生き延びることができるが、そのために面白い小説がなくなり、出版不況が日本全国を覆うことになるのだ。

 読者たちしてみれば、文壇が安定化してしまうのは、非常に迷惑なことなのである。文壇の秩序が崩れ、作家同士で競争しまくってくれた方が良いのである。そうやって競争が激しいのなら、古臭い作家たちは死んでいき、新しい作家たちが活躍しまくることになるのだ。そうなれば面白い本が続々と誕生してくるものなのである。

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児童文学と子供達 ~子供達の目は意外と確かなもの~

●子供達の活字離れ?

 マスコミでは定期的に「活字離れ」を取り上げ、最近の若者達が如何に本を読まなくなったかを嘆く。これに阿諛追従して知識人まで「活字離れ」を論じ、「活字離れ」に関する本まで出版してくるのだ。俺はこの「活字離れ」の意見を聞く度に、「本当にそうなのか?」という疑問を持ってしまうのだ。

 確かに最近の子供達が本を読むには相応しくない環境になってしまっている。例えばテレビがあるし、テレビゲームがあるし、携帯電話だってある。電車に乗れば本を読まずに漫画雑誌を読んでいるのをみれば、「活字離れ」は本当ではないかと思ってしまう。

 しかし敢えてそういう人たちに質問したい。

「あなたは子供達が1人も来ないような本屋を見たことがありますか?」

「あなたは子供達が1人もいないような図書館を見たことがありますか?」

 俺はどこの本屋に行っても、必ず子供達の姿を見つける。俺はどこの図書館に行っても、必ず子供達の姿を見つける。本を読む子供達は必ずいるのであって、絶対にいなくなってはないのだ。「活字離れ」というのは机上の空論であって、真実ではないのだ。

 昔の子供達でも遊び呆けている子供達は沢山いた。というか、そういう子供達の方が圧倒的に多かったのである。いつも野球ばかりやっていって、家に帰っても絶対に本なんか読みはしない。たとえ読んだとしても漫画雑誌程度なのであり、それ以上の物には進まないのだ。

 それに比べれば最近の子供達の環境は恵まれているのだ。昔みたいに遊びといえば必ず野球だったというのではないし、昔みたいに漫画雑誌が全盛ではないのだ。子供達を取り巻く環境は確実に読書し易いようになっているのだ。

 子供達は活字離れなど引き起こしていない!

 これこそが真実なのである。

●児童文学のランキング

 子供達に好きな児童文学を聞くと、恐るべき結果が出て来る。それは児童文学のランキングは長らく変わっていないということなのである。俺が子供の頃も、現在の子供達も、自分が実際に読んでみて面白いといえる本は全く同じなのである。

 女の子たちの間では、なんといっても『赤毛のアン』が一番人気だ。二番人気が『不思議の国のアリス』だ。女の子向けの児童文学でもこの二作品だけは別格なのである。この二作品は子供が読んでも面白いし、大人が読んでも面白いのだ。

 男の子たちの間では、なんといっても『トムソーヤの冒険』が断トツの人気なのである。子供の頃に読書を開始した男の子たちの中でこの本を読まなかった者はまずいないであろう。男の子は将来「冒険旅行」に出かけることになるので、子供の内に冒険物を読んで想像力を膨らませるのである。

 子供達は毎年入れ替わっているものだ。大人向けの文学のように、読者達の大半が一定であるというのではないのだ。児童文学は「子供達による選別」を毎年受けているのであって、その選別によって生き残った児童文学は本当に面白いものなのである。

 『赤毛のアン』にしても無条件で賞賛しているのではないのだ。『赤毛のアン』が面白いのは1巻だけであり、その後の巻は面白くない。『不思議の国のアリス』は面白くても、その続編の『鏡の国のアリス』は面白くない。『赤毛のアン』シリーズを取り上げたり、『鏡の国のアリス』を取り上げるの者は決まって大人達であるのだ。

 これは『トムソ-ヤの冒険』も同じで、その続編の『ハックルベリーフィンの冒険』jは本当に続編と言えるのかいうくらいに内容が違っているのである。大人であるなら『ハックルベリーフィンの冒険』を楽しめるかもしれないが、子供達ではそうはいかないのだ。

●偏るからこそ問題になる

 子供達はみんないい子なのではない。子供達は脳が未発達だし、知識量も技術量も足りない。だからこそ出来の悪い奴等が出て来る。その割合は少ないのではなく多いのだ。子供達の自主性を重んじすぎて、勝手気儘なことなどさせてはならないのだ。

 もしも子供が漫画だけを読んでいれば、それは必ず問題になるし、その弊害は非常に大きい。脳それ自体が成長期なのに、その時期に漫画ばかり読んでいたら、脳を健全に成長させていくことができないからだ。子供の時に児童文学に全く触れなかった者は、大人になっても文学には触れないし、たとえ触れたとしてもきちんと理解することはできないであろう。

 逆に子供の時に漫画など一切読まずに児童文学だけを読んでいるなら、それも必ず問題になるし、その弊害は非常に大きいのだ。児童文学というのは、全て虚構の世界の中のお話なのである。それだけを楽しいと思ってしまえば、現実世界に対応出来なくなるのは、目に見えているからだ。

 もう1つ気をつけるべきことは、大人が読む小説を子供の時に読むなということなのである。大人が太宰治の小説を読むのは良くても、小学生が太宰治の小説を読むのは悪いことなのだ。子供が好む物と大人が好む物は違って当たり前なのであって、その違いを無視するような子供は大人になった時に精神が狂ってしまうものなのである。

 「活字離れ」というのは問題ではないのだ。偏るからこそ問題になるのである。事実、凶悪犯罪を引き起こす人たちは子供の頃から漫画ばっかし読んでいた奴等が殆どである。精神病院に入院してしまう人たちも子供の頃に児童文学ばかり読んでいた人たちが多いものなのである。

●大人たちの誤解による子供たちへの批判

 新聞は読んでも真実を見ない大人達から見れば、日本の子供達が活字だけの本を読まずに、漫画雑誌や漫画本を読んでいることに危惧するものだ。しかし子供達にとって漫画は飽くまでも娯楽なのだ。学校で勉強している以上、学校以外の場所では息抜きをしたいものなのである。

 実を言えば日本の漫画は大いに善戦しているのである。俺が子供の頃は『北斗の拳』がはやったが、この漫画は大人になって読んでみても面白いのだ。『ドランゴンボール』にしても一度読み始めたら止まらない楽しさがあるのだ。現在大流行中の『ワンピース』にしても、物語構成やセリフの質の高さは賞賛こそすれ、それを否定しなければならない理由などどこにも見つからないのだ。

 無知な大人に限って、子供達に「本を読め!」と言うが、子供達の間で児童文学トップスリーには日本人の作家が書いた物は含まれていないのである。「活字離れ」の問題よりも、こちらの問題の方が遥かに深刻なのである。日本には児童文学作家が沢山いるのに、子供達による選別に耐えられる作家は一人もいないのである。

 なぜ日本の児童文学作家が質の高い児童文学を書けないのかといえば、それはマスコミの意見を鵜呑みにしているからなのである。子供達は活字離れなど引き起こしていないのに、マスコミの報道によって活字離れしたと思い込んでいるから、出来るだけ漢字を少なくして、内容も易しい物にしてしまうのだ。子供達にしてみれば、そんな児童文学は詰まらないに決まっているのだ。

 時代は変わっていくものだが、子供達はそんなに変わらないものなのである。女の子たちは「お姫様物」が好きだし、男の子たちは「冒険物」が好きなのである。そこをきちんと満たしてあげればいいのである。そしてその上で質の高い内容に仕立てあげればいいのである。

 子供達の目は意外と確かなのである。それに対して大人達の目は意外とおかしいのだ。子供だからこそ真実を直視することができるけど、大人だからこそ理屈を捏ねて真実を見ようとしないのだ。

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小説家の禁じ手

●大量の蔵書こそが小説家の才能を押し潰す

 小説家にも「禁じ手」というものが存在する。意外なことかもしれないが、小説家の禁じ手というのは大量の蔵書を持つことなのである。小説家が大量の蔵書を持つとなぜだか小説家の才能が押し潰されてしまい、いい小説を書けなくなるのだ。

 現代の小説家の自宅を拝見すると、こちらがビックリしてしまうほど蔵書が少ない。出来のいい作家ほど仕事場の整理整頓はきちんと行われていて、そこでカチャカチャと作品を作り続けているのである。逆に言えば仕事場が綺麗だからこそ、自由な発想ができるとも言えるのである。

 小説家なのに、この禁じ手を破る者は実に多い。戦前の小説家たちの中でこの禁じ手を破った代表例が「幸田露伴」だ。幸田露伴は明治時代に尾崎紅葉と一緒になって一世を風靡したのに、大量の蔵書を持ってしまったために、その後、長らく出来のいい小説を書けなくなるのだ。

 戦後の代表例は「井上ひさし」であり。井上ひさしは元から出来のいい小説を書くことができなかったが、蔵書を大量に持つようになってから、更に粗悪品しか作れなくなった。余りにも大量の本を持ってしまったために妻の怒りが爆発し、それで離婚してしまったくらいなのである。

 小説家の禁じ手というのは、非常に矛盾している。いい小説を書こうとするなら、大量の資料が必要になってくる。だから当然に蔵書は増えていく一方である。しかし蔵書を持ちすぎると、小説家としての才能が枯渇していくのである。

●なんで大量の蔵書がいけないのか?

 そもそもなんで大量の蔵書を持つことが悪いのか? はっきりと言ってしまえば、よく解らない。しかし恐らく小説家が持つ美的センスが大量の蔵書と共に失われていってしまうからなのであろう。身軽な若者の方が美的センスは鋭いものなのであって、それが様々な物を持つようになれば、その美的センスが落ちていくものなのである。

 小説家の場合、知識が豊富だから成功するというものではないのだ。文学の知識が豊富なのは、小説家よりも文学者の方であろう。しかし大学の文学者が小説を書いた話など聞いたことがない。大事なのは美的センスなのであって、そんな物は知識が多いからと言って身につくものではないのだ。

 小説家たちの中で自滅していく小説家というのは、必ず知識や技術に走ってしまう連中だ。確かに小説に関する知識や技術があれば、或る程度の作品を作ることができるのである。しかしそうやって書いていっても、なぜだか行き詰まってしまい、そして文壇から消えていくのである。

 小説家の使命は新たな小説を創造することであって、過去の名作をなぞることではないのだ。文学史というのは、先進国ならどの国も過去に名作がぞろぞろと存在している。しかし過去の名作は過去の名作なのであって、現代の名作は今現在生きている小説家達によって作り出されなければならないのである。

 だから小説家という職業では、幾ら年齢が高くても小説家の使命を果たせなければ消えていくものだし、その空いた部分を新人の小説家たちが埋めていくことになるのだ。それゆえどの文芸雑誌も新人の獲得に躍起になっているのである。新人賞に応募してくる者たちを邪険に扱っていると、いずれその文芸雑誌は衰退し廃刊に追い込まれるものなのである。

●司馬遼太郎の場合

 小説家は職業柄、普通の読者たち以上に本を買うものだ。しかしそうやって本を買っていけば、自宅には大量の蔵書ができてしまうことになり、それによって自分の小説家としての才能が潰されていくことになるのだ。これは小説家にとって深刻な悩みであるのだ。

 司馬遼太郎の場合、『竜馬がゆく』を書いた時、トラック1台分の参考資料を古本屋から購入したという有名な逸話がある。では司馬遼太郎はその参考資料を一体どうしたのかというと、『竜馬がゆく』を執筆し終えた後、その殆どを売り払ってしまったのである。

 手元には重要な文献しか残さなかったのである。

 これこそが作品を大量生産することができた理由であり、国民的作家になれた理由でもあるのだ。殆どの小説家たちは執筆後も参考資料を手放さないものだ。後日、何かに利用できると思ってしまう。しかしそれが命取りになってしまうのである。

 小説家である以上、自宅には必ず蔵書がなければならない。書庫を持つことは当然の義務だといっていいのだ。だが不要な本はどんどん廃棄していくしかないのである。「勿体ない!」などと言っていると、肝心の自分の才能自体が枯渇していってしまうのである。

 大量の蔵書が危険だからっといって全く本を持たないのは、これはこれで逆に危険だ。蔵書がない小説家などというものは、幾ら小説を書いてもまともな物を書くことはできないのだ。執筆していく過程で様々なことを調べまくらなければならないのである。

●小説家の面白さは年輪にあり

 小説家というものは、「処女作こそが大事」である。その小説家の作風の殆どが、既に処女作で出ているからだ。というか小説家志望の者は処女作を出すために全力を投入してくるものなのであって、その処女作はその新人の小説家にとって最もレベルが高くなるのは当たり前のことなのである。

 問題はその後なのである。

 小説家として活躍し続けるためには、処女作を超える作品を作らなければならないのである。処女作を超える作品を作ることができないなら、いずれファンは消えていき、そして廃業に追い込まれることになるのだ。それなのに小説家たちの殆どは処女作を超える作品を作ってこないのである。

 だから消えていくのだ!

 小説家の面白さは「年輪」にあるのだ。若い時は「友情」を育んだり、「恋愛」をしたり、結婚適齢期になれば「結婚」をし、赤ちゃんが生まれれば「育児」「子育て」をし、子供が大きくなってくれば「子別れ」をし、子供が自立すれば「余生」を生きるのである。

 その時ごとに自分が考えている物は全く違うものだ。若い時は友情や恋愛に悩んだっていい。しかしその話を延々と小説にされては困るものなのである。自分自身が成長していかないと、処女作を超える作品など作っていけるわけがないのだ。

 それゆえ不要な本を捨て、新しい本を取り入れていかなければならないのだ。書庫が蔵書で満杯になっているというのは褒められたものではないのだ。それは非常に危険なのである。今よりも上に行きたいのなら、蔵書を処分するなり、書庫を大きくするなりして、蔵書の新陳代謝を図らなければならないのだ。

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作家は自分の好き嫌いで決めていい

●漱石と鴎外

 近代日本文学の小説を読む時、夏目漱石と森鴎外という2大文豪のどちらかを好きになることだろう。戦前の近代日本文学ではどの小説家もこの内のどちらかの影響を受けているので、如何なる小説家でも辿っていけば、必ずこの2人に辿り着くのだ。

 俺の場合、中学1年生の時に夏目漱石の本を読んだら、次は芥川龍之介に進み、その後はなぜだか寺田寅彦の随筆を好むようになった。実を言うと、芥川龍之介も寺田寅彦も夏目漱石の友人たちなのであって、源流が好きになれば、下流にいる者たちも好きになるのだ。

 一方、森鴎外は全くダメである。森鴎外の小説を読みたいと思わないし、たとえ読んだとしても面白いとは思わないのだ。自分が大きくなるにつれて、その理由が解ってきた。森鴎外は軍医であり、短眠族だったからだ。軍医として横柄な所があるし、短眠族のためにどこか息詰まる部分を持っているのだ。

 夏目漱石も森鴎外も近代日本を背負って立っていたという点では同じである。しかし夏目漱石は近代日本語の成立に大きな功績を打ち立てたのに対して、森鴎外が古風さながらの文章を平気で書いているのだ。両者の内、どちらかを好きなるかといえば、やはり夏目漱石なのである。

 夏目漱石も森鴎外もどちらも好きという人はいないんじゃないだろうか? もしもいたら、その人物は頭がおかしいと見ていい。小説を読む際は自分の好き嫌いをはっきりさせた方がいいのだ。自分が好きと思える小説家たちを探っていけば、文学に関して新しい発見が続々と出て来るものなのである。

●トルストイとドストエフスキー

 これはロシア文学でも全く同じで、ロシア文学を好む者は、トルストイかドストエフスキーのどちらかを好きになると言われている。両者ともロシア文学を代表する文豪なのであるが、どちらとも好きなるという人はいないのである。

 トルストイが好きな人はトルストイの作品しか読まないし、ドストエフスキーが好きな人はドストエフスキーの作品しか読まないのだ。その理由は簡単で、作風が余りにも違いすぎるからだ。相反するような作風だからこそ、拒絶反応が起こってくるのである。

 トルストイの作風は高い芸術性と明確な執筆が売り物なのだが、その反面、綺麗事を言っているという欠点もある。ドストエフスキーは人間の内面を抉り出すような凄い表現をしながらも、物語構成が滅茶苦茶であるという欠点が存在する。

 文学者になるような人はトルストイの作品が好きな人たちが多い。仕事柄、正確さを要求されるし、職業病として机上の空論を好む傾向があるからだ。それに対して小説家などはドストエフスキーを好む人たちが多い。職業柄、心理描写をしなければならないし、作品自体が未完成品なので、俺ならもっと巧くやれると思ってしまうからだ。

 ロシア文学の小説を読んで、イマイチ解らないというのなら、それはロシア文学に対して自分の好き嫌いがはっきりとしていないからなのである。ロシア文学の中で有名だからという安易な理由で読んでいると、結局、本を読むのではなく、本に読まれてしまうのである。

●自分の好みに合わない作家は断固として拒絶すべし

 小説家に対する好き嫌いは、良いか悪いかではなく、小説を数多く読んでいけば必ず起こるものなのである。だから変な罪悪感を抱かないことだ。好きな者は好き、嫌いな者は嫌いと、はっきりと自分の好き嫌いを明確にしてくことこそが、自分の精神を健康に保つ秘訣なのである。

 俺は数多くの本を読むけど、この人の書いた物はどうしても受け付けないというものがある。俺が高校生の時に「吉本ばなな」がブームになったのだが、俺の姉が吉本ばななの出世作『キッチン』を買っていたので、それを借りて読んだのだが、この本の面白さがさっぱり解らない。

 悔しいのでもう1度読んでみても、やっぱり面白さが解らない。ブームが起こり、人々が「この本面白いよ」と言っている中で、自分だけが「この本つまんないじゃん!」と思うのは、想像以上に苦しいものなのだ。何かどこかが詰まらないわけではないのだ。全部が詰まらないのだから。

 これが海外バージョンになると、もっと厄介な展開になる。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を「好きだ」という人が結構いるので、仕方なくこの本を読んでみたのだが、この本の面白さがさっぱり解らない。逆に「こういう生き方をすれば、人生、袋小路に入るだけじゃん!」と思ってしまい、なんの共感をもすることができないのだ。

 吉本ばななが好きだの、サリンジャーが好きだの言っている人たちが書いた本を読むと、この作者は何を言いたいのか解らないし、思考の甘さや、人生の経験値の少なさが気になってしまい、全く評価を与えることができないのである。

●万人に好かれる作家はいない

 読書のしすぎでノイローゼになる人たちは意外と多い。自分の脳の許容量以上の読書量が問題であると同時に、自分が好きでない作家たちの本を大量に読んでしまったこともノイローゼ発症の原因であるのだ。作家たちの中には自分が受け付けない者が必ずいるのである。

 人間は全知全能ではないから、万人に好かれる作家などいないのだ。その作家がどんなに真面目に作品を作っても、それを好む者たちが出てくると同時に、それを嫌う者たちが出て来るものなのである。それでいいのである。本とはそういうものなのであって、それをどうのこうの弄くってはならないのだ。

 自分の知的生活を充実させたいのなら、自分の好きな作家の本だけを読むようにしよう。これに尽きるのだ。自分が嫌いな作家の本を読んでも、被害を被るのは自分なのである。悪いのは自分が嫌いな本を読んでいる自分なのであって、絶対に他人のせいではないのだ。

 家族の場合、親が好き嫌いを明確にしていないと、確実に子供も曖昧な態度を取るようになる。このため子供は無理して自分の嫌いな作家の本を読むようになり、それで自分の精神を傷めてしまい、精神病を発症してしまうのである。

 だからこそ、善良で温和な夫婦が生み育てた子供が、10代や20代や30代で精神病患者になり、青春時代の貴重な時間を精神病院の中で過ごす羽目になるのだ。子供が精神病を発症した場合、子供だけの責任ではないのだ。その親がかなりの割合で責任を持っているものなのである。そのことを絶対に忘れてはならないのである。

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