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小説家の禁じ手

●大量の蔵書こそが小説家の才能を押し潰す

 小説家にも「禁じ手」というものが存在する。意外なことかもしれないが、小説家の禁じ手というのは大量の蔵書を持つことなのである。小説家が大量の蔵書を持つとなぜだか小説家の才能が押し潰されてしまい、いい小説を書けなくなるのだ。

 現代の小説家の自宅を拝見すると、こちらがビックリしてしまうほど蔵書が少ない。出来のいい作家ほど仕事場の整理整頓はきちんと行われていて、そこでカチャカチャと作品を作り続けているのである。逆に言えば仕事場が綺麗だからこそ、自由な発想ができるとも言えるのである。

 小説家なのに、この禁じ手を破る者は実に多い。戦前の小説家たちの中でこの禁じ手を破った代表例が「幸田露伴」だ。幸田露伴は明治時代に尾崎紅葉と一緒になって一世を風靡したのに、大量の蔵書を持ってしまったために、その後、長らく出来のいい小説を書けなくなるのだ。

 戦後の代表例は「井上ひさし」であり。井上ひさしは元から出来のいい小説を書くことができなかったが、蔵書を大量に持つようになってから、更に粗悪品しか作れなくなった。余りにも大量の本を持ってしまったために妻の怒りが爆発し、それで離婚してしまったくらいなのである。

 小説家の禁じ手というのは、非常に矛盾している。いい小説を書こうとするなら、大量の資料が必要になってくる。だから当然に蔵書は増えていく一方である。しかし蔵書を持ちすぎると、小説家としての才能が枯渇していくのである。

●なんで大量の蔵書がいけないのか?

 そもそもなんで大量の蔵書を持つことが悪いのか? はっきりと言ってしまえば、よく解らない。しかし恐らく小説家が持つ美的センスが大量の蔵書と共に失われていってしまうからなのであろう。身軽な若者の方が美的センスは鋭いものなのであって、それが様々な物を持つようになれば、その美的センスが落ちていくものなのである。

 小説家の場合、知識が豊富だから成功するというものではないのだ。文学の知識が豊富なのは、小説家よりも文学者の方であろう。しかし大学の文学者が小説を書いた話など聞いたことがない。大事なのは美的センスなのであって、そんな物は知識が多いからと言って身につくものではないのだ。

 小説家たちの中で自滅していく小説家というのは、必ず知識や技術に走ってしまう連中だ。確かに小説に関する知識や技術があれば、或る程度の作品を作ることができるのである。しかしそうやって書いていっても、なぜだか行き詰まってしまい、そして文壇から消えていくのである。

 小説家の使命は新たな小説を創造することであって、過去の名作をなぞることではないのだ。文学史というのは、先進国ならどの国も過去に名作がぞろぞろと存在している。しかし過去の名作は過去の名作なのであって、現代の名作は今現在生きている小説家達によって作り出されなければならないのである。

 だから小説家という職業では、幾ら年齢が高くても小説家の使命を果たせなければ消えていくものだし、その空いた部分を新人の小説家たちが埋めていくことになるのだ。それゆえどの文芸雑誌も新人の獲得に躍起になっているのである。新人賞に応募してくる者たちを邪険に扱っていると、いずれその文芸雑誌は衰退し廃刊に追い込まれるものなのである。

●司馬遼太郎の場合

 小説家は職業柄、普通の読者たち以上に本を買うものだ。しかしそうやって本を買っていけば、自宅には大量の蔵書ができてしまうことになり、それによって自分の小説家としての才能が潰されていくことになるのだ。これは小説家にとって深刻な悩みであるのだ。

 司馬遼太郎の場合、『竜馬がゆく』を書いた時、トラック1台分の参考資料を古本屋から購入したという有名な逸話がある。では司馬遼太郎はその参考資料を一体どうしたのかというと、『竜馬がゆく』を執筆し終えた後、その殆どを売り払ってしまったのである。

 手元には重要な文献しか残さなかったのである。

 これこそが作品を大量生産することができた理由であり、国民的作家になれた理由でもあるのだ。殆どの小説家たちは執筆後も参考資料を手放さないものだ。後日、何かに利用できると思ってしまう。しかしそれが命取りになってしまうのである。

 小説家である以上、自宅には必ず蔵書がなければならない。書庫を持つことは当然の義務だといっていいのだ。だが不要な本はどんどん廃棄していくしかないのである。「勿体ない!」などと言っていると、肝心の自分の才能自体が枯渇していってしまうのである。

 大量の蔵書が危険だからっといって全く本を持たないのは、これはこれで逆に危険だ。蔵書がない小説家などというものは、幾ら小説を書いてもまともな物を書くことはできないのだ。執筆していく過程で様々なことを調べまくらなければならないのである。

●小説家の面白さは年輪にあり

 小説家というものは、「処女作こそが大事」である。その小説家の作風の殆どが、既に処女作で出ているからだ。というか小説家志望の者は処女作を出すために全力を投入してくるものなのであって、その処女作はその新人の小説家にとって最もレベルが高くなるのは当たり前のことなのである。

 問題はその後なのである。

 小説家として活躍し続けるためには、処女作を超える作品を作らなければならないのである。処女作を超える作品を作ることができないなら、いずれファンは消えていき、そして廃業に追い込まれることになるのだ。それなのに小説家たちの殆どは処女作を超える作品を作ってこないのである。

 だから消えていくのだ!

 小説家の面白さは「年輪」にあるのだ。若い時は「友情」を育んだり、「恋愛」をしたり、結婚適齢期になれば「結婚」をし、赤ちゃんが生まれれば「育児」「子育て」をし、子供が大きくなってくれば「子別れ」をし、子供が自立すれば「余生」を生きるのである。

 その時ごとに自分が考えている物は全く違うものだ。若い時は友情や恋愛に悩んだっていい。しかしその話を延々と小説にされては困るものなのである。自分自身が成長していかないと、処女作を超える作品など作っていけるわけがないのだ。

 それゆえ不要な本を捨て、新しい本を取り入れていかなければならないのだ。書庫が蔵書で満杯になっているというのは褒められたものではないのだ。それは非常に危険なのである。今よりも上に行きたいのなら、蔵書を処分するなり、書庫を大きくするなりして、蔵書の新陳代謝を図らなければならないのだ。

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コメント

はじめまして。
導かれる様にこちらのサイトにたどり着いた者です。
過去記事を読んでいたら、(今回もですが)面白いし、読みやすいし、楽しかったのでついついコメントを残したくなりました。

小説家の禁じ手。
今でいう、断シャリ?に通じるものがあるなぁと、個人的に感じました。
目に見えないエネルギーを大事にしたいと想いました。
ありがとうございました。
次回記事も楽しみにしています。

投稿: 羅針盤 | 2012年5月 5日 (土) 10時10分

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