夏休みだから読書をしよう! まずは『少女パレアナ』から
けろりんさんの依頼で、子供たちのための「夏休み用の本」はないかということで、探してみました。
今回はその第一弾!
まずは女子小学生5年生6年生向け。
●『若草物語』の呪い
人間には運不運があるが、国家にも運不運がある。特に文学では新しいジャンルが確立される時は型破りの若手たちが大量に参入してくるので、その者たちによって新しくも、レベルの高い物を作ってくれればいいのだが、そうでないと悲劇が起こり、その悲劇は長らく起こり続けることになるのだ。
『若草物語』はアメリカの文学史に於いて「家庭小説」なるジャンルを切り開いてしまった作品なのである。この『若草物語』の著者であルイーザ・オルコットは大学教育を受けていないし、自分の姉に対して恋心を抱き、終生その邪悪な思いは変わらなかったという異常な人物なのである。
『若草物語』をなんの先入観のない状態で読めば、「この小説は大したことはないな」と解るのだが、なんせこの小説が児童文学の中にあるので、子供たちにはこの小説のレベルの低さが解らないのだ。だからこそアメリカの女性たちで大学に進学する者たちは殆どが『若草物語』を読んでくるのである。このために大学生の時にフェミニズムに洗脳されてしまうという悲劇が起こるのである。
より深刻なのは女性作家たちの方で、『若草物語』の影響を受けてしまえば、いざ自分が小説を書いても作品のレベルが上がらなくなってしまうのである。だからこそアメリカでは児童文学は充実しているのに、なぜだか文学史に残るような名作がないのである。
『少女パレアナ』の著者エリナー・ポーターは『若草物語』が出版された1968年に生まれている。時期的にはまだまだ『若草物語』の地位が確立されていない時期なので、『若草物語』の呪いがかかっていない最後の世代なのである。
●『少女パレアナ』の粗筋
今回お勧めする本はこれ!
エリナー・ポーター著『少女パレアナ』
パレアナは両親に死なれて孤児になってしまい、伯母のポリー・ハリントンに引き取られる。ポリーはパレアナの母親が結婚の際に引き起こした事件のために恋人と別れてしまい、その後、結婚せず、両親の遺産を引き継いで、自宅を守っているという生活を送っていた。
ポリーは宗教上の理由から何事に対しても「義務」に基づいて行動する人物であったが、パレアナの方はこれまた宗教上の理由で「喜び」を基準にして動く子供であったのである。このためにポリー伯母さんはパレアナのために引っ掻き回されることになるのである。
パレアナはメイドのナンシーを手始めに、自分の亡き父親から教えられた「喜ぶゲーム」なるものを町中の人たちに教えて行く。これによってパレアナは町中の人たちから愛される子供になり、中にはジョン・ペンドルトンのようにパレアナと一緒に暮らしたいと言い出す者まで現れてくるのである。
そんな時に、パレアナは車に轢かれてしまい、下半身が付随になるという事故に遭ってしまう。この病気をポリー伯母さんの主治医であるウォレン医師は治せず、生涯このままになってしまうということを聞かされ、パレアナはショックを受けてしまう。
しかしジョン・ペンドルトンの主治医であるチルトン先生はこの病気を治せる方法を知っており、ジミー・ビーンの手柄によってどうにかして診察することができ、これによってパレアナはボストンに行き、本格的な治療を受けることになる。
それと同時に、このチルトンこそポリー伯母さんの昔の恋人であり、パレアナの診察をしたことで縒りが戻ってしまい、二人は結婚することになるのである。パレアナの「喜ぶゲーム」で最も変身を遂げたのはポリー伯母さん自身であったのである。
●実は『赤毛のアン』のパクリ
『少女パレアナ』は文章が巧いために、読み始めるとドンドン読み進んでいってしまう。パレアナは才気煥発の少女ではなく、素直で、難しい言葉が解らず、勘違いをしたりする普通の少女なのである。そのくせ生き生きと生きることを望む子供であるために、そのエネルギーが作品全体を突き動かしているといっていいのだ。
しかし「ちょっと待てよ」と言いたくなる。
物語構成が『赤毛のアン』に酷似しているのである。それもその筈、『赤毛のアン』は1908年にカナダで出版され、『少女パレアナ』は1913年にアメリカで出版されたものなのである。明らかにエリナー・ポーターは『赤毛のアン』を読み、それをパクった上で『少女パレアナ』を書いてるのだ。
「そんな証拠どこにある?」と言いたくなるだろうが、実は「パレアナ」といいう名前にこそ証拠があるのだ。
パレアナは「POLLYANNA」と綴られ、「POLLY」はオウムであり、「ANNE」は『赤毛のアン』の主人公アン・シャーリーのことである。つまり、「パレアナ」は「オウムのように喋るアン」とうことなのである。
因みにパレアナの苗字である「「ホイッティア」は「お転婆娘」という意味なのである。
『少女パレアナ』で孤児のパレアナを迎えにいくシーンは、『赤毛のアン』のそれと酷似している。しかも『少女パレアナ』の方が、物語の展開が巧いのである。これは理屈どうのこうのよりも、この2冊を読み比べてみれば解ることなのだ。
『赤毛のアン』ではマリラとマシューが兄弟姉妹なのに、なぜだから結婚もせずに独身で暮らしているという奇妙な設定がある。これに対して『少女パレアナ』はポリー伯母さんが訳があって独身で暮らしているので、こっちの方が物語の筋が通っているのだ。
●なんで『少女パレアナ』は捨てられるのか?
文学に於いてパクリというのは決して悪いことではない。多くの作家たちがパクリをやっているのである。エリナー・ポーターは『赤毛のアン』をパクったが、『少女パレアナ』は明らかに独自性があるから許されるし、しかも評価を与えることができるのである。
しかし女の子たちに『少女パレアナ』を読ますと、中学生になれば捨てられてしまうのである。『赤毛のアン』は大事に持っておくというのに!
なんでこんな格差が起きてしまうのか?
①パレアナ自身が成長していない
その最大の理由はパレアナ自身が成長していないということなのである。物語の中でパレアナは事故に遭い、寝たきり状態になってしまうという事態に襲われる。しかしその事故を経験しても、パレアナの性格にはなんら変化がないのである。アン・シャーリーが最初はお喋りの孤児だったのに、物語が展開して行く中で大人の女性として成長していくのとは大違いなのだ。
②親友がいない
アン・シャーリーにはダイアナという親友がいる。それに対してパレアナは親友がいないのだ。これまた不気味なのである。パレアナの年齢は11歳という設定であるのだが、この時期の女の子は友達同士と喋るのに夢中な時期なのである。しかもパレアナは物語の途中から学校に行き出すのである。それなのに親友がいないのだから、リアリズムがなさすぎるのである。
③起承転結がちゃんと出来ていない
小説は起承転結を要するのだが、ダメな作家ほど起承転結を均等に四分割してしまう。エリナー・ポーターはこれよりも酷く、起承が長すぎ、「転」が遅すぎるのである。「転」はパレアナが事故に遭う瞬間から始まるのだが、これが23章で起こるのである。しかし全体では32章しかないために、「結」が最終章の32章で、パレアナの手紙を掲載することで物語が唐突に終わってしまうのである。
④イギリスの古典を踏まえていない
『赤毛のアン』はイギリスの古典をしっかりと踏まえているのに対して、『少女パレアナ』はそれをやっていないのだ。アン・シャーリーは孤児なのに、シェイクスピアなどの古典を良く知っているからこそ面白いのである。パレアナも孤児ではあるが、牧師の父親の下に生まれたために、せいぜい『聖書』の文句を引用する程度のガキなのである。
●宗教心の葛藤が浅すぎる
より深刻な問題なのが、「宗教の問題」なのである。ポリー伯母さんは宗教上の理由から「義務」を基準に動き、パレアナも宗教上の理由から「喜び」を基準にして動くのである。これが最終的にはポリー叔母さんがパレアナに感化されてしまうのである。
小説の中では具体的に宗派名をだしていないが、ポリー伯母さんは「ルター派」であり、パレアナは「会衆派」なのである。ルター派はイエスの福音を根本に据えるために原理主義的になるのであって、だからこそポリー伯母さんは義務を最優先し、厳格になり、妥協をしないのである。
一方、会衆派はカルヴァン派の流れを汲み、イギリス国教会から離脱して誕生という経歴がrあるために教会の独立性を重んじ、聖書の重要性は低下するのである。だからこそパレアナの父親のように聖書に対して勝手気儘な解釈を施し、「喜ぶゲーム」を考え出したりするのえある。
ルター派と会衆派h同じプロテスタントに属しても、決して相容れない間柄なのである。普通、自分の信仰が他人に揺さぶられた時、キリスト教徒なら聖書を読む筈なのである。ところがポリー伯母さんはそれをしていないのである。ということはポリー伯母さんのルター派としての信仰は嘘偽りだったということになってしまうのだ。
パレアナにしても小学生とはいえ、自分が事故に遭って「喜ぶゲ-ム」ができなくなるということは、自分が会衆派として正しく信仰していなかったということになってしまう。普通の人たちには解らないが、パレアナの事故は教会の独立性を重んじるだけでは決して救われないということを示したのであり、会衆派の欠点がモロに露呈した事件もであるのだ。
『少女パレアナ』は宗教心の争いを盛り込んでいるのに、宗教心の葛藤が浅すぎるのだ。『赤毛のアン』が文学を盛り込み、それによって奥深い作品を作ったのに対して、エリナー・ポーター自身の宗教心の浅さが、『少女パレアナ』を浅いものにしてしまったのである。
●子供の視点と大人の視点の違い
『少女パレアナ』はその作品の完成度とは裏腹に問題点が多すぎるのだが、読めない作品ではないのだ。女子小学生の高学年なら『少女パレアナ』を読んで楽しんでおくことべきであろう。パレアナのような「超ポジティブ人間の凄さ」に触れておけば、自分が今後どんな困難に遭遇しても楽しく生きていけるのだから。
アメリカの少女向けの児童文学は、『少女パレアナ』以降、『若草物語』の呪いがかかってしまい、作品のレベルを上げることができないという事態が起こってくるのである。早い内にアメリカの児童文学を卒業しておけば、悪書を読まなくて済むようになるのだ。
母親が娘に本を買い与える時、是非とも自分自身がその本を読んで欲しいものだ。特に『少女パレアナ』は、子供にはパレアナの視点でしか小説を読まないが、自分が大人になってしまえば「大人の視点」から見ることができ、この小説の面白さが解ってくるのである。
人間は放置しておくとネガティブな人間になってしまうものなのだ。だからこそ結婚して夫婦双方がネガティブにならないようにし、子供を生み育て、その子供の笑い声で家庭内を明るくしていかなければならないのだ。
小学生の娘に『少女パレアナ』を買い与えても、その娘が中学生になれば『少女パレアナ』を捨て去る時が必ずやってくる。それでいいのである。中学生にもなって超ポジティブ人間なら単なるバカなのである。それは娘が成長したということなのである。
しかし大人になって、特に自分が母親になった時、この『少女パレアナ』をもう一度読んで欲しい。子供の時には解らなかったことが解るようになるのだ。
それは自分が母親として成長した証でもあるのだ。
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