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2012年9月

狭き門を通り抜けた後に

●若き日の自叙伝

 自分の人生を成功させたいのなら、とにかく他人の書いた自叙伝を読むことだ。自分の人生は限られているのだから、他人が経験した知識や技術を学ぶことで、梃子の原理を効かせ、自分の人生をより優れたものにしなければならないのだ。

 しかし自叙伝は万能ではない。大方の自叙伝は著者が晩年になって書かれるものだが、そうなると若い頃に自分が悪戦苦闘していたことを書かず、まるで最初から成功者だったかのような記述をしてくる場合があるのだ。「晩年に書いた自叙伝は嘘をつく可能性がある」ということなのである。

 若い時には「金銭」jに悩んだり、「性欲」が荒れ狂うことを経験するものだ。貧乏だからこそ動きが全く取れなくなるし、性欲を巧く処理できないからこそ、仕様もない妄想を描いたりしてしまうものだ。それ以上に自分が何も出来ていないことにもがき苦しむものなのである。

 嘘偽りのない自叙伝を書いて貰うためには、若い時に自叙伝を書いて貰わねばならない。こういうことは誰でも出来ることではない。若い時に熱い人生を送り、20代か30代で人生のひと区切りがついた人だけが、この手の自叙伝を書けるのである。

 今回紹介するのはこの本!

 カレン・アームストレング著『狭き門を通って』(柏書房)である。

 俺が今まで様々な自叙伝を読んできたが、この本は一級品の自叙伝である。著者の悪戦苦闘ぶりがきちんと書かれているし、登場人物たちの会話がまるで本人たちが喋っているようなリアルな感覚で書かれているのだ。

 因みにカレン・アームストロングはイギリス人女性である。やっぱりである。この手のレベルの高い自叙伝は絶対にアメリカ人女性では書けないのだ。「知的正直」という倫理をしっかりと持っていないと、人間はレベルの高い自叙伝を書けないものなのである。

●きっかけはいつも偶然

 カレンは第一子長女である。ということは感情的で思い込みの激しい女性だ。第一子長女の場合、父親の性格を濃厚に受けるので、父親との関係がどうかで殆どが決まってしまう。カレンの場合、父親は家族思いの良き父親なので、これで彼女の性格が捻くれていないことが解る。

 カレンはブスで、出っ歯で歯並びの悪い女の子だった、なんの取り柄もない女性で、家事手伝いさえまもとにできない子だった。せいぜ読書が好きな程度で、百科事典を読むような変わった女の子だったのである。

 カレンの下にはリンジーという妹がいて、この妹が姉とは違って目は大きい可愛らしい美少女だったのである。この姉妹は仲が悪く、喧嘩が耐えなかった。しかしこのリンジーが小学生の時にジフテリアに罹ってしまい、高熱を発して、遂には呼吸困難になってしまったのである。

 そこで姉のカレンは妹のために祈りを捧げて、「どうか神様、リンジーを治して下さい。もしもリンジーが元気になったら、私は修道女になることを考えてみますから」と言ってしまう。思わぬ所で種が蒔かれたのである。

 カレンには淫乱なる祖母がいて、結婚しているというのにしょっちゅう不倫を繰り返す厄介な祖母がいたのである。しかもアル中で、ジンを飲むような女性だったのである。ところがこの祖母は若い頃に修道女になりたかったが、家族の反対で思い留まったということを聞かされるのである。

 決定打は15歳の時に友人のスージーがカレンの自宅にやってきて、カレンの従兄弟のアンソニーとキスをしていることを目撃してしまったことなのである。この事件以降、カレンは肉体ではなく精神を発達させようと決意するのである。

 そして16歳の時に父親の会社が倒産してしまい、授業料が払えなくなってしまう。そのせいで級友たちからボイコットされてしまうという事件を経験する。この後に聖書を読み、イエスの「全てを捨てて私に従いなさい!」という言葉に衝撃を受け、修道女になる決意を固めるのである。

●修道女になる道は険しく

 カレンが入った修道会はそんなに古い歴史のある修道会ではない。1840年に特別な要請の下で創設された修道会で、修道女に簡素な黒服を着せ、ヴィクトリア朝時代の女性を手本にケープとヴェールをつけさせたのである。

 修道会は「三大誓願」である「清貧」「貞潔」「従順」を誓い、修道会の「会則」を守らなければならない。三大誓願は文字で聞く分には心地いいものであるが、実際にこれを実行するとなると、非常に恐ろしい事態が発生してくるのである。しかも会則が時代遅れで理不尽な内容であるために、カレンは葛藤することになるのである。

 修道院での初めての食事の際にチーズが出されたのであるが、カレンはチーズが大の苦手なのである。それにも拘らず、修道女は出された食事を全部食べなければならないという決まりに従って食べる羽目になるのである。だが後でチーズを嘔吐してしまうのである。

 修道院では1週間に1回しかお風呂に入れない。しかも石炭酸石鹸で洗えという。体だけでなく髪の毛までも。下着も1週間に1回しか取り替えない。修道女は肉体的な美を捨てた以上、外見がどうのこうのというのは関係ないのである。

 修道女になるためには、「志願者」の期間を6ヶ月間行い、その後「修練女」に進んで3年間過ごして、やっとのことで「修道女」に昇格するのである。しかし余りの厳しさに、同期で入った者たちが次から次へと脱落していくのである。

●修道会によって自己分裂

 カレンは修道女であるにも拘らず、プライドが高く、知的高慢さがあったのである。だから理不尽な会則に衝突してしまったり、三大誓願に激突してしまったりしたのである。簡単に言ってしまえば、修道j女になることはできたが、修道女になるために自分を捨て切れなかったのである。

 カレンは相変わらず嘔吐を繰り返したいたのであるが、修道院でのストレスが溜まって遂には「卒倒」してしまう。しかし長上の修道女たちは介抱するどころか、「彼女には意志の力がないから」とか「自己放縦だから」とか言われてしまうのである。

 数ヵ月後、カレンは修道院の或る部屋につれていかれて、そこで自分で鞭打ちをするように命じられる。肉体を征服することで、神の御意志に適うようにせよというのである。確かに鞭打ちを遣れば無限の解放感を感じられた。それと同時に何かが間違っているという疑問も生じてきてしまったのである。

 カレンは頭が良かったために、オックスフォード大学で文学を学ぶ学生修道女になったのであるが、文学を勉強していく過程で知性が発達してしまい、修道会のやっていることに段々と容認することができなくなっていく。

 そんな時に、神父から抱きつかれるというセクハラ事件を受けてしまい、殊もあろうことか自分の性欲に火をつけてしまったのである。カレンは神父からの執拗な交際を拒否してしまったために、休養と転地を命じられることになる。カレンはそこでとうとう「発狂」してしまうのである。

 修道会は発狂したカレンをこれ以上置いておくことができず、カレンに対して自発的に修道女をやめるように持って行く。そしてカレンは修道女を辞めることになったのである。修道会の理想は高いものではあったが、カレンは意志の力を過大評価しすぎていたのである。それが「嘔吐」「卒倒」そして「発狂」を引き起こしてしまったのである。

●神の愛は人間への愛を否定する

 この自叙伝は著者のカレンの意見が記されているから、修道会のやっていることは間違っているのではないかと思ってしまう。しかし修道会のやっていることは正しいのである。間違っているのはカレンの方なのである。だからこそ長上の修道女たちはカレンのプライドの高さや知的高慢さを指摘し、それを破壊しろとまで言っているのである。

 修道会というのは3世紀の終わり頃、エジプトのアントニウスが始めたもので、≪精神的な殉教≫を志し、全てを捨てて苦行に明け暮れるという宗教組織なのである。自己否定と霊的成長に自らの生活を捧げ、神のためのみに生きようとしたのである。それゆえ修道女たちは「生きながらの埋葬」を受けるわけなのである。

 神を愛し、神に愛される生き方は、自己愛を否定するし、人間への愛をも否定するのである。カレンが発狂するまでに至ったのは、自己愛を強く持っている者に自己愛を否定させたからなのである。女子修道会で起こっていた問題も、全ては「修道女同士に友情がないことが原因である」ということなのである。

 修道女たちがやっていることは基本的に正しいのである!

 修道女に自己愛や修道女同士の友情を認めてしまったら、神の愛を実践することはできないのである。修道女たちにはひたすら自己滅却させていき、神の愛を出すための道具と化すのである。そうすれば「生きながらの殉教者」になると同時に、修道会は神の愛の発露として学校や幼稚園や病院を建設し、神の愛を人々に齎そうとするのである。

 しかし修道女がその高みに行くまでには相当な困難を要求するのである。カレンはその過程で発狂したのである。もしも修道女が自己滅却を繰り返していった場合、自分が神と直結するために「なんらかの神秘体験」を経験する筈なのである。ところが長上の修道女たちはそれをしていないのだ。していないからこそ、カレンは目指すべき目標が見えなくなってしまうのである。

 修道女たち自体が神に選ばれなかったとすれば、一般信者たちは幾ら信仰しても神に選ばれることはない。ということは、一般信者が神の愛を実現することはできないのである。飽くまでも自己愛でしかないのだ。カトリックの信者たちは「愛の大切さ」を知っていても、無闇に「神の愛」を唱えないという冷静さを持っているのだ。理想的な修道女にはなれなくても、自己愛を否定することの価値は解っているからだ。

 ところがこれがプロテスタントになると、修道会を廃止してしまったので、ここの部分が全く解らないのである、そこで神の愛を無闇に主張してくる人物たちが出て来るのだ。俺はこの手の連中を「アガペー馬鹿」と読んでいる。神の愛を人間が出すのは非常に難しいのに、自己愛を以てこれを神の愛だと嘘をついているからである。

 日本人がプロテスタンティズムを胡散臭いと思ってしまうのは。日本では仏教が散々「無我」を唱え、修行している僧侶たちを見ているからなのである。無我になることを目指しても、人間は自分自身に執着してしまう厄介な動物なのである。

●修道会の果たした役割

 キリスト教は『聖書』だけの宗教ではないのだ。「キリスト教史」もまた重要な価値を持つのである。キリスト教の歴史の中で重要な役割を演じたのは、イエスとパウロとアントニウスの三者なのである。イエスは福音を説いたし、パウロは教義を確立し、アントニウスは修道会の基礎を築き上げたのである。

 キリスト教の教会は聖職者たちが世俗の人々と接するためにどうしても堕落してしまうのである。カレンの自叙伝の中でも神父が酒を飲み、タバコを吸い、好色である姿が書かれている。神父といっても俗人たちとなんら変わらないのだ。

 しかし修道会になると事態は一変する。三大誓願によって徹底的に俗悪的な要素を削ぎ落としてしまうのである。しかも修道会では勉強にも熱心である。カレンは1j日の勉強時間を「7時間半!」と機械的に答えているが、効果的に勉強しようとすれば、その程度の時間が理想的なのである。

 キリスト教の歴史では、修道会の修道士や修道女たちが常に教会に新風を送り込んできたのである。同じ宗教家であっても、修道会上がりの聖職者たちはレベルが違うのである。公私に亘って鍛え上げられているのだから、何かしらの改革を成し遂げるのは当たり前のことなのである。これがローマカトリック教会の強さの源泉であるのだ。

 それなのにローマカトリック教会はカレンが去った後に女子修道会の改革を行なってしまう。確かに改革の必要性はあった。しかしその改革は間違った改革なのであり、修道女を自由にさせすぎてしまったのだ。これでは女子修道会が宗教的エネルギーを発することができなくなってしまうのだ。

●性欲を憎悪する宗教

 カレンの自叙伝を読んでいてつくづく思ったのは、「キリスト教は性欲を憎悪する宗教なんだな」ということなのである。教祖のイエスは売春婦のマグダラのマリアを引き連れて宣教していたぐらいだから、性欲に関して厳しいことは余り言わなかった。

 問題はパウロなのであって、パウロは性欲を否定的に扱い、女性たちに対して徹底的な差別と憎悪をぶつけているのである。パウロは福音原理主義者というべきものなのであって、パウロが生きた時代にはこの主義はマイナーな存在で、女性信者たちの考えとは違っていたのであろう。そのため女性たちに対しては非常に厳しいことを言ってくるのだ。

 しかしパウロの主張が教義に採択されてしまい、それに基づいてのローマカトリック教会であり、修道会なのである。修道会は独身制だから、当然に性欲は完全に否定される。しかし性欲は存在するものなのだから、それを無理矢理に否定してしまえば、心身がおかしくなってしまうのは当たり前のことなのだ。事実、カレンの治療に当たった医者は、修道女たちが精神病を発症してくる事実を指摘しているのである。

 「エホバの証人」などはセックスに対して強烈な嫌悪感を持っている主婦たちが入信してしまう宗派であるといっていいのだ。結婚して子供がいるわけだから、セックスは経験済みである。それなのにセックスをきちんと肯定していないからこそ、「エホバの証人」の宗派に引っかかってしまうのである。

 カレンは修道女を辞めてから、社会復帰できるまで、6年もかかったというのである。17歳で修道会入りし、24歳で修道女を辞めているから、6年後というのは30歳である。性欲を意志の力で否定してしまうと、それが元通りになるまで6年もの歳月がかかってしまうのである。

●「神を信じる」ということこそが問題

 修道女たちはなぜ意志の力を過信し、無理矢理に性欲を否定してくるのかといえば、それは「信仰義成説」がローマカトリック教会の教義にあるからなのである。信仰は所詮「自力」なのである。自力救済の考えがあるからこそ、意志の力を過信してしまったのである。

 カレンは敬虔なキリスト教徒であるために、必死になって神を信じようとする。しかし神を信じれば信じるほど疑念が湧いてくるものなのであって、それが自分の心を苦しめてしまうのである。神を信じている限り、自己滅却できないのである。

 ところが信仰というものは、「信仰による自己義認説」を生み出してくる。自分はちゃんと信仰しているのだから、自分は義人であると思い込んでしまうのだ。カレンは長上の修道女たちがこの状態に陥っていると薄々解ったからこそ、彼女たちに対して従順でいられなかったのである。

 カレンは修道女失格だったし、修道会を追い出されたのである。カレンは修道女たちの生き方が如何に不自然なものであるかを解っていたし、修道会の内部に存在する病的な部分も解っていたのである。それゆえ修道女の生活を綴った自叙伝を書けたわけである。

 それなのにカレンは「世俗の中でも修道女として生きて行く」と決意しているのである。カレンは何も解っていないのである。それどころか「修道女をやめた現在の生活の方が修道女の理想に近い」と言ってくる始末なのである。

 信仰は使い方を誤ると非常に危険なのだ。信仰は感情の産物だから、信仰によって間違った事態を引き起こしてしまったのに、それを決して認めようとしないのである。釈迦が正しく指摘したように、信仰をするなら合理的な内容の物に限定しなければならないのだ。

 キリスト教世界に生まれ育った女性なら、「宗教=信仰」という図式から絶対に抜け出せない。信仰をしている限り、絶対に神を見つけることはできないのだ。信仰を以て「狭き門」を通り抜けても、そこには何もないのだ。

 大体、キリスト教の教祖のイエス自体、逮捕されて磔にされてしまい、その際、「我が神、我が神、どうして私を見捨てたのですか?」と嘆いて、息を引き取ったのである。イエスですら神に見捨てられたのに、どうしてもキリスト教徒たちが神に救われるというのか?

 神というのは信じたりする存在ではないのである。神への信仰こそが宗教の本当の姿を見えなくさせているのである。それなのに信仰は感情に激しく訴え、自己満足を引き起こしてしまうから、非常に厄介なのである。敬虔な姿で信仰をしていても、実は頭が狂っていたという人たちは、この地球上に大量に存在しているものなのである。

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シャレにならない友情論

●友情というものは存在しない

 世の中には誰もが存在すると思っていても、実は存在しない物がある。厄介なのはそれが「常識」と化しているために誰も疑おうとしないことだ。もしも勇気を出してそれを疑おうとすれば、猛反発を受けてしまうのである。

 「友情」というものは存在しない。

 友情という物は存在しているように見えて、実は存在しない。存在していない物を人々は大事に尊重しているのである。だからこそ多くの人々は友情で苦しむことになるし、友情のために人生を成功させることができないのだ。

 友情はなくても「恋愛」なら存在する。人間は恋愛をすれば男女共に「恋愛ホルモン」を分泌し、脳はトキメキ、体は若返って行く。なんでこんな現象が起こるのかといえば、妊娠するために心身を変化させ、子孫を残そうとするからなのである。

 しかし友情にはそれに対応したホルモンなど存在しない。だから人は友人を作ってもときめかないし、体だって若返ってこないのである。だから友人だけを作って恋愛をしないのは問題がありすぎるし、友情と恋愛を同じレベルで比べるのも問題がありすぎるのだ。

 極論を言ってしまえば友人などいなくても良いのだ。それよりも結婚相手がいればいいのである。夫婦で仲良くし、せっせと子作りに励んでいると、常に恋愛ホルモンが分泌され続けることになるので、人生を大いに幸せにしていくことができるのである。

●文明以前の記憶

 では友情というのは一体なんなのかということになる。

 友情という物を解明していくためには、文明以前の記憶にまで遡らなければならない。文明以前の人類は、幾つかの家族たちが集まって集落を形成していた。その集落の人口数は平均して150名であって、これを「ダンバー数」と呼ぶ。

 このダンバー数というのは現在でも生きていて、共同体を作る場合、その構成員は150名が限界であるとされている。150名を超えてしまうと、その共同体の理念や法規に反発する人たちが現れて来てしまい、共同体が成り立たなくなってしまうのだ。

 友情というものは。この集落で行なわれていた「集落愛」の変形なのである。集落は生活の基盤であるから、自分の家族以外の者たちであっても仲良くなり、同じ作業をすることによって日々の糧を得たのである。

 友情というのは現代で言うなら「同士愛」と言い換えた方が解り易い。友情を生み出すためには、なんといっても「組織」が必要なのである。現代でも集落でこそ友情が発生し易い。同じ学校の生徒と友情を作ることはできても、他の学校の生徒と友情を作ることはまずないのだ。

 友情は基本的に「男性同士」「女性同士」といった同性間で成立してくる。性別が同じであるなら、同性として同じ作業をする機会があるので、それで友情が成立してくるのである。現代でも男性なら男性同士でバカをやってみたり、女性なら女性同士で買い物に行ってみたりと、そういうことをしないと友情を深めて行くことができないのだ。

 友情は男女の間でも成立する。同じ集落であるなら、恋愛感情が後退してしまい、友情の方が芽生えてしまうのである。このため異性を常に恋愛対象として見る人は、人生で大損をすることになる。男性が女性の美醜に拘り過ぎたり、女性がイケメンの男性に対して感情を揺り動かされていると、本当ならその人を友人にすることができたのに、恋愛感情を持ってしまったために、友人にすることができなくなってしまうのである。

●友人の数は多くしすぎない

 友人の数は絶対に多くしてはならない。ダンバー数というのは個人レベルでもきちんと生きているのだ。通常、人間はダンバー数の倍の人間関係を構築することになる。だから300名だ。しかしその中で本当に友人として機能するのはやはり150名程度なのである。

 「80対20の法則」を使うのなら、150名の友人たちの内、30名ほどが重要な友人になってくる。実際に生活していれば、30名の友人たちこそが自分の人生で重要な友人になっていることに気づくものだ。人間はそんなに数多くの友人を持つことはできないのだ。

 友人たちの中で最も大事なのが「親友」である。親友というのはたった1人しかできない。親友が何人もいると言う人は親友がいないということなのである。親友ができたのなら、その友情を絶対に壊してはならないのだ。親友との友情こそ、友情全体を決定してしまうのである。

 親友以外の友人では、せいぜい5名前後の人たちが自分の生活に深くかかわってくる友人たちとなる。この友人たちも親友に準じて大事に扱っていった方がいい。気をつけるべきは裏切りで、この連中に裏切られると、友情で大いに苦しむことになるのだ。

 人間は友人を多く作れないのだ。だから友人と知人とに分け、自分が知っている人たちを全て友人にしてしまわないことだ。そして友人の再編成を定期的に行い、善友を残し、悪友を切り捨てることだ。友情が厄介なのは、たった1人の悪友を残しておくと、その悪友のために悲惨なことが起こってくるということなのである。

●友情が成立するための条件

 友情が成立するためには幾つかの条件がある。本来なら同じ集落に住む者という条件であった筈なのだが、集落が拡大し、都市化した場合、その条件は複雑化していくことになるのだ。その条件を全て揃えないと友情を維持するのは非常に難しいのだ。

①共感

 まずは「共感」である。友情は自分が他人に共感できない限り、絶対に成立しない。感情は理性的な産物ではなく、「感情の産物」なのである。自分自身が「好きな者は好き」「嫌いな者は嫌い」とはっきりと意思表示をしないと、自分が好きではない人を友人にしてしまうことになるのだ。

②教養と専門分野

 友情は感情の産物ではあっても、理性によって補強しなければならない。その際、最も重要になるのが「教養」だ。教養のある者は教養のある者同士で友情を作るものだし、教養のない者は教養のない者同士で友情を作るものだ。

 それと専門分野も大事である。自分に専門分野がないと、友情を維持していくのは難しいのだ。フリーターには友人が少ないのは専門分野がないからなのである。逆に主婦にはママ友という形で友人ができてしまうのは、妊娠出産育児を通じて、専門分野を持ってしまったからなのである。

③行動力と決断力

 友情を温めて行くためには、一緒に行動することが必要になってくる。行動力のない人は友情を維持することができないのだ。また自分が行動するためにはお金が必要になってくるので、友情を維持するためにはお金も必要だということなのである。

 二人で一緒にいれば、何かしらのことを決断しなければならない時がある。その際、優柔不断でいると友人を失ってしまうことになるのだ。例えば一緒にレストランに行った時、毎回あれこれ迷っているようでは、相手の友人にストレスを与えてしまい、或る日突然に喧嘩して、絶交ということになってしまうのだ。

④利益と信用

 友情が成立し、維持していくためには、双方に利益が発生することが必要になってくる。どちらか一方だけが利益を得ているようでは友情を長続きさせることはできないのだ。友人には定期的にお裾分けして、自分に利益がある時に何かしらの物を渡しておくべきなのである。

 友情は信用があるからこそ維持されているものなのである。だから信用がなくなれば友情は消滅する。明らかな背信行為は問題外だが、そういったものではなく悪口でさえ、それが信用にヒビを入れることになるのだ。悪口は出来るだけ控えた方がいいのだ。

⑤礼儀と遵法

 実際の友情では礼儀が物凄く大事である。礼儀を守れない者とは友情を維持することは絶対に不可能だからだ。社会的地位が高くなればなるほど礼儀は厳しく要求されるものだ。だから一度はマナー教室に行って、礼儀をしっかりと学んでおいた方がいいのだ。

 犯罪を起こすような者と友情を維持し続けるのは困難である。例えば麻薬をやっているような人を友人にすることはできない。大概、警察に逮捕されたら、それで縁が切れてしまうものだ。友情を守って行くためには、遵法意識も必要なのである。

●友情の逆説

 友情には逆説が発生する。友情は友情通りには進まないものなのである。友情というのは本来あってなきが如き物である。その扱いには慎重を期さねばならないのだ。ところが友情があって当たり前と思っていると、「友情の逆説」が発生してしまうのである。

①学校でのイジメ

 人間にとって友情が最も大事になる時期は、小中高の時期であろう。それなのに学校ではイジメが起こり、それを苦にして自殺する生徒たちまでもが出てきてしまっているのである。イジメで自殺者が出るような学校は、その他の生徒たちもまともな友情を持っていないといっていいのだ。

 なんでこんなことが起こるのかとうえば、学校の教師が教師になるために必要な教育と訓練を受けていないからなのである。日本はGHQの占領中に師範学校が廃止されたために、教師になるための教育機関が日本には存在していないのである。

 実際の教育現場では、頻繁にクラス替えをすることがイジメを引き起こす原因になっているのだ。友情というのは所詮「集落愛」なのである。だから学級を固定してしまい、学級変更をしなければ、自然と生徒同士は友情を育んで行くことになるものなのである。

 親であるなら、我が子をイジメから守りたいのなら、スポーツクラブに行かして、スポーツを通じて友情を育むようにすることだ。友情は行動をするからこそ育まれていくのであって、そもそも一緒に勉強して友情を育むことには無理があるものなのである。

②社交家に限って友人がいない

 社交家に限って友人がいないものだ。社交家がいう友人というのは、全部、知人であって、友人ではないのだ。社交家はダンバー数を遥かに超えてしまっている。だから当然に友人が出来なくなってしまうのだ。

 出世をしていけば、どうしても社交をすることが必要になってくる。その際、社交にエネルギーを注ぎすぎてはならないのだ。まずは自分が仕事を一生懸命にやって、仕事で伸し上がって行ってしまった方がいいのである。

 それと友人を作れそうな趣味を持つべきなのである。ビジネスマンなら大抵が「ゴルフ」である。美術や音楽を趣味とすると、これまた得ベルの高い友人たちを持つことができる。下手にパーティーに行っても、なかなか友人は出来ないものなのである。

③友愛を唱える者に限って、友情を破壊してしまう

 日本語では「友情」とは言っても、「友愛」とは言わない。友情は「共感」を絶対条件とするために、「愛」よりも「情」の方が正しく表現していることになるのだ。このため友情という言葉を使わずに、友愛を使う人に対しては用心した方がいいのだ。友愛を唱えながら平気で友情を破壊してしまうことになるのだ。

 例えば民主党は友愛を唱えていたが、相次ぐ失政で民主党支持者たちからも総スカンを食らい、しかも東日本の被災者たちから決定的な憎悪を買ってしまった。更にはアメリカとの関係が悪化し、そこに漬け込んでロシア、韓国、中国が付け込み、民主党政権下の日本は外交的に孤立してしまったのである。

 友情という物は存在しないものなのである。だから友愛を唱えることなど必要ないのだ。それよりも自分が必要とすべき相手と関係を結び、その者に対して用心深く接するからこそ、友情が長く保たれるのである。世界中の人々と仲良くしようとする人は誰とも仲良くできず、それどころか自分自身が大損害を被ってしまうものなのである。

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誰も教えてくれない「肉食系女子」の作り方

●人間は肉をそんなに食えない動物

 最近は「肉食系女子」なる言葉がブームである。確かに肉食系女子と言われれば、肉を大量に食っている女性たちがいるものである。何を食おうが個人の勝手なのだが、実はこの肉食系女子、人工的に作り出された女性たちなのである。

 人間は本来「果実食動物」なのである。だからそれこそ果物を主食とすべきであって、それが出来ていれば自然と健康な食事に落ち着くものなのである。肉が食事のメインになっている段階で、もう心身は異常になっているのだ。

 人間が進化の過程で食ってきた動物性蛋白質は、「昆虫」であり、「魚」であり、「骨髄」なのである。これらの食べ物に関しては体が対応できるためにきちんと処理できる。しかし「肉」や「玉子」といった動物性蛋白質に関しては未だに体が対応しきれていないのである。

 肉や玉子を食べればオナラが臭くなる。これは内臓がきちんと消化吸収できていない証拠なのである。臭いオナラは非常に危険で、体内に老廃物と毒素を溜め込んでいる状態なのであって、これが癌や白血病、脳疾患や心臓疾患を引き起こすのである。

 肉も玉子も高カロリーの食べ物だから、これらの物を食べれば元気に活動できる。しかしその反面、老廃物や毒素を大量に出してくるのであって、これらの処理をきちんとしておくべきなのである。これをしないからこそ、なんらかの病気を発症させてしまうのである。

●女性ホルモン剤入りのお肉

 動物の肉というのは筋肉の塊なのだから、実は硬いものなのである。だから焼いたり、煮込んだりして、柔らかくして食べるのである。肉に関して生食がないのは、肉としては当然のことなのである。だから肉を生食しようものなら、食中毒や死亡事故が起こったりするのである。

 ところが現在、肉は柔らかくなっている。これは肉に対して女性ホルモン剤が打たれているからなのである。女性ホルモン剤が入った柔らかい肉だからこそ、肉食系女子は肉を食っても良く噛まずに飲み込んでしまうのである。肉を食う際は30回以上噛むのが当たり前だというのに。

 玉子に関してはもっと強烈で、毎日玉子を産ませるために、より多くの女性ホルモン剤を打つのである。鶏を育てたことがない女性たちには解りにくいのだが、鶏は玉子を毎日産まないのである。鶏が毎日玉子を産んでいる時点で、完全に狂っているのである。

 これだけ肉や玉子を介して女性ホルモン剤を摂取するとどうなるのかといえば、女性の体は女性ホルモンの分泌量が減少し、一転して男性ホルモンが分泌されるようになるのだ。だから肉食系女性は毛深かったり、筋肉量が増えすぎたり、声が低くなったりと、男性化の現象が出て来るのである。

 恐ろしいのは、こういう食生活をしている女の子たちで、女性ホルモン剤の影響のために初潮の時期が早まってしまうのである。普通、女性の体は12歳を超えないと生理が起こらない。そのように出来ているのだ。しかし現在で小学4年生辺りから初潮が起こり始めるのである。

 初潮が早いことは喜ばしいことではないのだ。初潮が早いということは、それだけ早くに老化してしまうのだ。解り易くいえば早死にするということなのだ。しかも本来なら起こる筈のない時期から生理が始まっているために、どうも体調不良に悩まされ続け、だからこそ肉や玉子を更に食ってしまうという悪循環が起こってくるのである。

●「生理不順」「子宮内膜症」「子宮筋腫」はなぜ出来る?

 肉食系女子は活動的に動いてくるから健康ではないかと思ってしまう。しかし肉食系女子は絶対に健康ではないのだ。女性の場合、その女性が健康か病的かが一発で解る指標がある。それは「生理」なのである。生理のことを聞けば、その女性の健康度が大体解るものなのである。

 肉食系女子は大抵「生理不順」を抱えている。生理はお月様の周期で起こる物だし、月経期の内、1日は月経血が大量に出て来る。これを1年の内、13回、きちんとやっていれば、女性の体は健康体なのである。これができないとなると、途端に病気が発生してくるものなのである。

 生理不順の次は「子宮内膜症」であり、その次が「子宮筋腫」であり、トドメが「子宮癌」である。子宮癌は性交による感染が原因であるなどいう、医者の意見を妄信してはならない。その女性の体が既に異常だからこそ、本来なら除去できる細菌ですら除去できなくなってしまっただけのことなのである。

 生理不順を起こしている女性は「乳癌」を引き起こす可能性もある。子宮と乳房は連動しているために、子宮に何か問題があれば、乳房にだって何か問題が出て来るのは当たり前のことなのである。悲惨ななのは10代や20代で乳癌を発症してしまう女性たちであり、子供の頃から間違った食事を取っていたために、本来なら起こる筈のない時期に乳癌を発症してしまったのである。

 なんで肉食系女子がこんなにも危険な病気を抱えてしまうのかというと、女性ホルモン剤によって「ホルモンバランス」が乱れてしまったからなのである。そこに肉食のための「酸化」が加わり、それをヒートアップさせてしまうのである。

 こんな体では当然に妊娠できる体ではない。だから肉食系女子は「不妊症予備軍」だと見ていいのだ。実際に結婚すれば不妊症を発症してくる女性たちが大量に出て来ることであろう。不妊症を克服したいのなら、まずは肉や玉子をやめるべきなのである。

●食事は年齢に応じて変化する

 人間の食事というのは、年齢に応じて変化するものなのである。まず乳児は母乳しか飲むことができない。満二歳までは母乳で育てるべきなのである。二歳以降は炭水化物中心の食事がベストなのである。子供は活発に動き回るために、消化吸収の速い炭水化物が持って来いなのである。

 中学生になった辺りから蛋白質や脂肪が欲しくなるのだ。この時期には筋肉量が急激に増えて行くので、蛋白質や脂肪を大量に摂取していかないと、体が間に合わないのだ。中学生や高校生に「なんでこんな脂っこい物を食べる?」と疑問を呈しても仕方がないのだ。

 人間の肉体の成長のピークは19歳なので、これ以降、食事が減少して行くものなのである。しかし実際にはそんな現象など起こらない。人々の多くは思春期にやっていた食事をそのまま維持しようとしてしまうのであり。そのために肥満になっていくのである。

 女性なら20代後半で食事の変化が起こり始める。より具体的な数字を挙げると、「26歳」である。この時期こそお肌の曲がり角なのである。この時期から女性ホルモンが大量に分泌されるようになるので、体が女性らしい体に変化して行くことになるのだ。

 健康な体であるならば、この時期から野菜や果物が好きになる筈なのである。健康な女性であれば、野菜や果物を美味しく感じられるようになり、それに反比例する形で肉食が減少して行くのである。しかし病的な体であれば、26歳を過ぎても、未だに肉をがっついてしまうのである。

●正食にすると肉食は減少する

 肉食は少ない方が健康でいられるのである。菜食主義に走って肉食を全部禁止してしまうのは、それはそれで危険なものなのである。かといって肉食系女子のように肉を食いまくるのはそれ以上に問題なのである。

 肉食系女子には、口臭が臭いとか、ワキガが酷いとか、体臭がキツイとかの悩みを抱えている人たちがいるが、これは肉食をし続けたためなのである。大体、陰部は凄まじい悪臭を放っているのである。これでは恋愛だって結婚だって巧くいくわけがないのだ。

 自分の食生活の異常を改めるためには、とにかく「断食」をしてしまった方がいいのだ。断食をすれば体内の老廃物や毒素を排出することができ、ホルモンバランスの乱れも、体の酸化も直って行くものなのである。

 断食を終えたのなら、「木の実」や「豆」を多く食べるようにし、安全な形で蛋白質を摂取できるようにすべきなのである。こうすると肉や玉子を大量に食べることができなくなり、肉や玉子の摂取量が大いに減少するものなのである。

 正食にすると体の不調はピタリと止まるのである。その上、体の中から込み上げてくるエネルギーを使うことができ、非常にエネルギッシュに活動することができるようになるのだ。逆に言えば肉や玉子を大量に食っている食生活は、どうやったとしても健康ではなく、病的なのである。

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子供をまともに育てたいのなら、「食品の裏側」を見よ!

 美貴さんが「食事関係の本はないの?」ということを言ってきたので、その要望に応えまして、母親であるなら、誰もがショックするような食品関係の記事を書きました。

●「してはならないこと」の方が大事

 自由というのは責任があるからこそ享受できるものなのである。権利というのは義務を果たすからこそ得られるものなのである。「責任のない自由」とか、「義務のない権利」というのは、全く無意味な物なのである。

 「自己決定権」なる言葉が出回っているが、これほどバカげた権利はないのだ。まずこの自己決定権にはその土台となる義務がないのである。それにこの世に生きていて何もかも自分で決めていくということなどできないものなのである。

 自己決定権を唱える人たちは更なる自由を求めてこの権利を主張するのだが、この自己決定権には必ず逆説が伴う。何もかも自分で決めていけば、逆に自分が不自由になり、身動きが全く取れなくなってしまうということなのである。

 女性であっても母親であるなら、自己決定権なんて言葉は使わないことだろう。なんせ育児は自分が勝手気儘にやれるものではないからだ。赤ちゃんに母乳を与えなければ、赤ちゃんはアトピー性皮膚炎で苦しむことになる。赤ちゃんに離乳食を早くに与えてしまえば、その赤ちゃんは自己免疫疾患で苦しむことになるのだ。

 育児をしているのなら、「母親としてすべき事」をきちんとこなしていくことが大事なのだ。それと同時に「母親としてやってはならない事」を知ることも大事なのである。育児で失敗をやらかしている母親というのは、余所の母親から見ればそういう失敗をしてくれることで、やってはならない事を教えてくれているのである。

●食品添加物を大量に食う国民

 母親であるなら食事のことを悩むものだ。なんせ食事は毎日作らねばならないので、どうすれば美味しく、健康に寄与する食事を作れるのか、そのことを考え出したキリがないのだ。事実、食育関係の本は大量に出て回っているのだ。

 そこで食事どうのこうのなのではなく、「食品の裏側」を見てみてはどうか? 

 それが安倍司著『食品の裏側』(東洋経済新報社)なのである。

 この本は本当に衝撃的である。この本を読めば、スーパーで売られている「辛子明太子」「漬物」「カマボコ」「ハム」「ソーセージ」「インスタントラーメン」「コーヒーフレッシュ」など絶対に買えなくなる。コンビニの「おにぎり」や「弁当」ですら買えなくなる。

 なぜか?

 食品添加物がテンコ盛りだからなのである。

 日本は先進国の中で食品添加物の規制が一番甘い国なのである。許可されている食品添加物はなんと300種以上なのである。このため日本人は年間で11キログラム以上の食品添加物を食べることになるのだ。

 これに対して先進国の中で食品添加物への規制が一番厳しいのはイギリスで、イギリスでは許可されている食品添加物は30種程度なのである。イギリスの食事は拙いと言われながら、実は日本よりも遥かに安全な食事になっているのだ。

 これによって日本とイギリスはどう違ってしまったのかというと、日本人の子供たちの方が食品アレルギーに罹る確率は非常に高くなってしまったのである。イギリスでは日本で毎度お馴染みのアトピー性皮膚炎などは非常に少ないし、花粉症に至っては殆どないのだ。

●「悪魔の囁き」と「旨味のマジック」

 食品とうのは必ずバラツキが出て来るものなのである。このため食品を作る側は、非常に面倒臭いことになり、熟練の職人なくして一流の品という物は作れないのである。食品に関して品質を一定に保つというのはそれほど大変なものなのである。

 そこに登場するのが食品添加物なのである。食品添加物を使って食品を作ると、「あ~ら不思議!」、食品の品質を一定に保つことができるのである。勿論、これはインチキである。職人魂を腐らせる「悪魔の囁き」である。しかし食品を作っている会社としてはこれほど有難いものはないのだ。

 食品添加物の威力はこの程度の物ではない。「旨味のマジック」を使えるのであり、「化学塩」「化学調味料」「蛋白加水分解物」の三つを揃えると、誰もが「旨い!」と感じてしまうのである。この旨味のマジックを使えば、インスタントラーメンも、ダシの素も、スナック菓子も、美味しいと感じられる物を作れるのである。

 恐ろしいのはこの旨味のマジックに慣れてしまうと、いざ本物の味を出されても美味しくないと感じてしまい、消費者の方が自ら進んで食品添加物入りの食品を選んでしまうようになるのだ。こうなってくると、食品添加物は中毒性を持ち始めることになるのだ。

 こんな食品添加物たっぷりの食品を大量に消費する食生活を送っていて、健康にいいわけがない。確実に肝臓と腎臓がやられる。だからこそ肝臓病や腎臓病の患者たちが大量発生したのである。事実、食品添加物が大量に使用し出された1970年代から肝臓病や腎臓病の患者数は急増しているのである。

 旨味のマジックを使用されれば、「不妊症」だって発症してくる。化学塩を使うために羊水ができない。化学調味料を使うためホルモンバランスが崩れる。蛋白加水分解物では塩酸を使うために受精卵に支障が出て来るのは当然のことなのである。

 トドメは「癌」や「白血病」であろう。食品添加物入りの食品はそもそもがビタミンやミネラルが少ないし、食品添加物を消化吸収していく際に更にビタミンやミネラルを消費していくのだ。体内では決定的な「ビタミン不足」「ミネラル不足」に陥り、それで癌や白血病を発症してしまうのである。

 癌患者や白血病患者にとって追い討ちをかけるのが、病院での食事にも食品添加物が使用されているということだ。このため幾ら病院で治療を受けても治らないのである。医者は医療に関してエキスパートであっても、食事に関してエキスパートでないために、どうしてもまさか食事が癌や白血病を引き起こすというのが全然解っていないのだ。

●子供をキレさせる物

 食品添加物は子供たちをも蝕んでいる。それが「ブドウ糖加糖液糖」である。子供たちは甘い物が大好きである。活発に動き回るので、体が炭水化物を欲しているからなのである。だから3度の食事では足りず、食間にお菓子を食べるようになるのだ。

 母親は面倒であっても、子供のオヤツは自分で手作りした方がいいのである。母親と一緒なら安全な物しか食べないし、会話もするのでそれほど多く食べないのだ。母親もオヤツを作れば自分で食う羽目になり、このために体重が重たくなっていくのだ。これは母親としての職業病みたいなものなのである。

 母親がオヤツで手抜きをし始めると、とんでもないことを子供たちは遣り始めるのだ。まずはスナック菓子に手を出してくる。スナック菓子は旨味のマジックが使われているために、子供たちは母親の手作りのオヤツよりも、こっちの方が美味しいと感じるようになるのだ。

 しかしスナック菓子で使われている砂糖は子供たちにとっては重いのだ。そこで登場するのが「ブドウ糖加糖液糖」である。清涼飲料水では確実に入っているもので、これを飲むと子供たちは満足できるのである。

 しかしその代償は急激に血糖値が上がってしまうということなのであり、このために「キレる子供」が出て来るのである。清涼飲料水に慣れてしまうと、少し喉が渇いただけで「ジュース!」「ジュースが欲しいの!」と男女問わず大騒ぎするものだ。

 こういう子供たちが学校に行けば、「イジメ」をするのは当たり前だし、「不登校」になるのも当然だし、「凶悪犯罪」を引き起こす子供たちだって出て来るのだ。少年犯罪をとやかく言うのなら、まずは清涼飲料水を禁止すべきなのである。

●安全で美味しい物は値段が高いし、手間隙がかかるもの

 食品添加物の恐ろしさは子供たちの味覚を狂わしてしまうことであり、しかも中毒性があるために、一旦食品添加物に慣れてしまと生涯に亘って食品添加物を摂取し続けることになるということなのである。

 だから「食育」が大事なのである。食育は10歳までに終えるようにし、絶対に学校に任せないことだ。食育は母親の仕事なのである。その遣り方は難しいものではないのだ。実に簡単なことなのである。子供たちに「家事手伝い」をさせればいいのである。料理をしながら、どの食品が安全で、どの食品が危険かを教えていけばいいのだ。

 できることなら「食料の調達」をも教えることだ。農家に行って農作業を手伝う。漁師の家に行って漁業を手伝う。こういうことをやって実際に食料を調達してくれば、子供たちは真剣になるものだし、食品添加物入りの食品を食べなくなるようになるものなのである。

 母親にとってみれば、食品添加物入りの食品を避け、安全で且つ美味しい食品を買えば、それは値段が張り、家計を圧迫することになるのだ。しかし主婦として安物を要求していたからこそ、業者は食品添加物を使用してしまったのである。

 それゆえ安全と認定できた食品を限定し、それだけを購入するようにすることだ。そういう食品の買い方は家計簿なくして出来ないのであって、だから家計簿をつけて、家計を統制していかなければならないのである。

 食品添加物漬けの生活から抜け出すためには、「1日2食」に切り替えることだ。1日3食も食べているからこそ、食費にお金がかかりすぎ、それを抑えるために食品添加物入りの食品を購入してしまうのである。

 食品の安全性に拘り、1日2食にしてしまえば、以前よりも食費を少なくすることができ、結果的にお金が貯まって行くようになるのである。食品添加物入りの食品というのは、「安物買いの銭失い」の典型例なものなのである。食品の裏側を見ないからこそ、業者に騙されてしまうのである。

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読書の生産性を上げるためのテクニック

●同時進行で本を読む

 読書も生産性が高くないと、読書をすることでより多くのエネルギーを奪われてしまうことになる。読書には少ないエネルギーを投入し、最大の生産性を上げることを目指すべきなのである。このテクニックを持つと、今までの読書とは比べ物にならないくらいに知的生活が豊かになるのだ。

 まず読書をする際、1冊だけを読むようなことをしないことだ。必ず2冊同時で読むようにすることだ。読書で1冊の本を読み続けていっても、集中力が低下してしまい、良く理解できなくなってしまうのだ。集中力を巧く活かすためには、同時に2冊読むという遣り方をすべきなのである。

 人間の最も短い集中力は「3分間」なので、3分ごとに本を交代させて読むと、集中力が最も高い状態で本を読み進めていくことができるのだ。これは速読よりも生産性の高い読書の仕方であって、速読では本を速く読むことはできても、その内容をきちんと理解することはできないのだ。

 「積読」もこの2冊同時進行読書の変形で、机の上に本を置いておくだけでも、自分に圧力をかけるので、結構、いい刺激になるのだ。そういう本は自分がまだ読むべきではないからこそ読んでいないだけなのであって、自分の知力が向上すればその本を手に取り、読んでしまうようになるのだ。

 結婚しているのなら、夫婦が別々の本を読み、夫婦が会話する時に報告しあえばいいのだ。こうすると自分がなんの努力もしないで、その本の内容を知ることができるのである。恐らく大概の夫婦は本の好みが違うので、自分の好みではない本のことを教えられると、これが物凄く良い刺激になるのだ。

 「書評」とかもこれに準じた物なのである。書評は書評家の力量にもよるが、ちゃんとした本を選び、きちんとした書評を書いている人なら、その人が勧めた本は読むに値するのだ。しかし書評家たちの中には程度の低い連中もいるので、書評家の選別は絶対にしておいた方がいい。

●入門書を活用する

 或るジャンルを攻める時は、行き成り難解な本を読み始めるのではなく、そのジャンルを巧く説明している入門書を読むことだ。入門書はそのジャンルの第一人者か、それに準じた者が書いているので、そのジャンル全体を見るには入門書の方が役に立つのだ。

 行き成り難解な書物に手を出すのは、非常に生産性の低い読書になってしまうのだ。素人の自分がその本を読んだ所できちんと理解できるわけがないのだ。そのくせ読み終えた時点で「知ったかぶり」になるので余計に厄介なのだ。

 入門書は「航海図」でもあるのだ。だから入門書を読んでしまえば、そのジャンルの中で読んでいけばいい本が特定され、しかもそれらの本を読む前から或る程度の理解をしているので、いざ読み始めてみると、非常に理解し易くなるのだ。

 1つのジャンルを正しく理解するためには、そのジャンルの中で有名な本を沢山読まねばならない。それらの本は読まねばならないし、きちんと理解しなくてはならない。しかも読んでみると、非常にシンドイのだ。

 しかしそうやって読書をしていくと、或る日突然にそのジャンルのことが良く解るようになり、それ以降、そのジャンルの本を読んでもスラスラと読めて行ってしまうようになるのだ。この変化が起きれば本物だし、起きなければまだまだであるのだ。

●元ネタを押さえる

 どんなジャンルにも元ネタが存在する。その元ネタを押さえてしまえば、後は簡単なのである。元ネタを押さえず、あっちゃこっちゃ本を読みまくっても、きちんと理解することはできないのだ。面倒ではあっても、最優先で元ネタを押さえるべきなのである。

 例えば自己啓発なら、その元ネタはナポレオン・ヒルの『成功哲学』である。まずはこの本を読んでしまうべきなのである。自己啓発というのは、要は「目標を設定し、それに向かって努力する」ということなのである。

 だから自己啓発の本なのに、「目標なんていらない」とか「成功するのに努力は不要」とかいうのは、自己啓発になっていないし、それにそもそも『成功哲学』で言っていることを批判しているにすぎないのだ。

 自己啓発の本は言わば「目標を設定し、それに向かって努力する」ということを、様々な表現で言っているにすぎないものなのだ。だから元ネタを押さえると同時に、自分が気に入った自己啓発の本を見つけるべきなのである。

 そうすれば成功するためには自己啓発だけではなく、他にも様々なことを勉強しなければならないことに気づくものなのである。自己啓発の本が面白いからといって、いつまでもそのジャンルに浸っていてはならないのである。

●辞書を引く

 読書をしていて、解らない文字があったり、意味不明な文章があったりするなら、とにかく辞書を引いてみて、確かめてみることだ。読書の際は面倒であっても、この手間を惜しむと後で大変なことになってしまうのである。

 読書家であるなら、「国語辞典」「古語辞典」「漢和辞典」「和英辞典」」「英和辞典」ぐらいは持っておいた方がいい。それに専門的な辞書も必要になってくる。辞書を活用すると読書生活が物凄く豊かになるのだ。

 例えば時代劇とかで出て来る「義理と人情」。これは時代劇で何度も出て来るので、ますはこの「義理と人情」という言葉をしっかりと押さえなければならないのである。この言葉は日本人なら誰でも知っているからといって、曖昧なままにしてしまうと、時代劇が何をやっているのか解らなくなってしまうのだ。

 「義理」というのは、道徳上、果たさなければならない義務をいう。「人情」というのは、情けや思いやりといったもので、人間に生まれつき備わっている感情であるのだ。少しでも日本史に理解のある人なら、「これは儒教用語なのだな」ということが解るのである。

 江戸時代は儒教が御用学問になったために、儒教が深く浸透したが、その反発として国学が出て来るのである。儒教が唱える道徳は確かに有用なものであっても、それは人間の共感を踏み躙るようなことがあってはならないということなのである。

 これはイギリスのヒュームが唱えた共感哲学に近く、道徳というのは理性の産物というよりは感情の産物だと考えたのである。だからこそ日本は明治維新によって儒教を捨てて、脱亜入欧を果たすことができたのである。日本が組むべき相手はイギリスであって、中国とは絶対に組めないのだ。道徳に関する考え方が根本的に違うのである。

●著者の話を聞く

 読書をすることで満足してはならない。読書も確かに有益だが、茶者の話を聞いた方がもっと有益なのである。著者がなんの目的でこの本を書いたかが解れば、その本への理解力は更に高まるのである。

 雑誌とかで著者がインタビューに応じているのなら、そのインタビュー記事をじっくりと読んだ方がいいのだ。インタビューだから平易な言葉で語っているので、決して難しい物ではないのだ。但し平易ではあっても、内容は深いので、良く読まないと理解できないのだ。

 本ばかり読んでいる読書家は大したことがないものだ。知的生活を豊かにするためには雑誌も必要なのである。雑誌がありさえすれば、幾ら本を読んでも理解できないことを簡単に理解することができてしまうのである。

 もう1つは著者の講演会に行くことである。実際に著者に会って、話を聞いてしまうのが一番良いのだ。作家の講演会は頻繁にやるものではないので、講演会の情報を掴んだらすぐさま行った方がいいのだ。

 最近ではDVDで講演会の模様を録画した物があるので、そのDVDを見るというのもいいだろう。DVDにするような講演は価値があるからこそDVDにしているのであって、いざそのDVDを見ていると、本当に価値ある内容になっているのだ。

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時間がないからこそ「読書の仕方」が大事

●生活が忙しくても本を読む

 読書は「究極の好み」なので、他人にその「読書の仕方」を云々言われる必要性はない。椅子に座って読もうが、ベッドに寝転んで読もうが、閑な時間に読もうが、時間を定めてようもうが、そういうのは個人の自由だと言える。

 しかし「そういう読書の仕方は生産性が悪いよ」ということだけは言えるのだ。なんらかの「読書の仕方」を持たないと、質の良い読書ができなくなってしまうのだ。小学校で読み書きを訓練するように、読書をする際に「読書の仕方」を自分で身につけていかなければならないのだ。

 人間の脳は読書するようには出来ていない。読書というものは飽くまでも人為的なものなのだ。だから人為的に読書をしていくしかないのだ。どんなに忙しくても1日10分でも良いから読書をしていると、脳が鍛えられて、読書をするのが非常に遣り易くなるのだ。

 普段から脳を使っていないと、いざ読書をしようとしても本が読めなくなる。人間たちの中には読書をするのに物凄い時間をかけ、しかもきちんとその本の内容を理解していない人というのは沢山いるものなのである。読書をする習慣を持っていないからこそ、いざ読書しても読書の成果が上がってこないのだ。

 生活をしていれば、読書をしない理由など幾らでも作れる。曰く「忙しいから」と言えば、それで済むのだ。しかしそれではダメなのである。そんなことをしていたら脳は錆ついてしまい、読書するのが困難になってしまうのである。生活が忙しくても本を読むことが大事なのである。

●実は体力勝負

 読書というのは、実は「体力勝負」なのである。体力があれば読書をしまくることができるし、体力が落ちてくれば読書をするのが億劫な物になってしまうのだ。事実、若い時には読書をしてもすぐに感動できたが、歳を取ってくるとそうは行かなくなり、幾ら読書をしても無感動になってしまうのである。

 読書の質を上げたいのなら、とにかく1日1時間のウォーキングはした方がいい。歩かなければ脳が巧く機能してくれないのだ。それに家事をきちんとこなして、家事をする中でチョコマカと動き、適度な運動するようにすることだ。

 運動をすればお腹が空く。そこでしっかりとご飯を食べなければならない。頭にいい食事は「玄米」「小麦」「豆類」「イモ類」「魚」「木の実」などである。食事自体は和食の方がいい。かといって白米を食べているようでは頭の動きが悪くなるのだ。

 飯を食えば眠くなる。睡眠は1日7時間半は確実に取っておくべきだ。人間の脳は睡眠中に情報の整理を行なうので、睡眠時間が短いと記憶が整理されなくなってしまうのだ。昼寝は脳に効果的で、昼間の十数分程度の睡眠が脳の機能を回復させてくれるのである。

 読書をすると小便をしたくなるものだが、それだけ脳は水分を消費しているということだ。だから快便は絶対に必要になる。もしも便秘しようものなら、脳は汚い水分を使わなければならなくなるので、当然に読書の質が低下していくのである。

●80対20の法則

 読書をするなら、とにかく数をこなしていくことだ。「1日1冊」と定めて本を読んで行くようにすることだ。そうやって本を読んでも、1年で365冊しか読めないのだ。多いように見えて実は少ないのである。だからひたすら数をこなしていくべきなのである。

 しかしそうやって数をこなしていくと、読書も確率論の産物だということが解ってくるのである。それは読書にも「80対20の法則」があるということだ。10冊の内、価値ある本は2冊程度で、残りの6冊はそこそこの内容で、下位2冊は読むに値しない本なのである。

 これは誰がどうやってもそうなる。

 例えば自分が本屋で10冊もの本を買うと、お店にいる時はどれも価値ある本だと思うのだが、自宅に帰ってみると、価値ある本は2冊程度しかないのだ。だからその2冊を最優先で読んでいけばいいのである。

 本は全部読まなくてもいいのである。自分が読むに値しないと思ったら切り捨てる決断こそ必要なのである。自分にとって価値のない本を読んでいるからこそ、読書の生産性が上がらないし、挙句の果てには欝状態になってしまうのである。

 「80対20の法則」を使って読書していくと、確実に自分自身が成長していくことになる。価値のある本ばかり読みまくっているので、自分が日々成長していくのだ。読書することばかりに囚われないで、自分が成長したのかを問うべきなのである。

●レベルアップの法則

 読書はあっちゃこっちゃに手を出すことができる。しかしそういう読書の仕方は非常に危険だ。「博学無知」の状態を引き起こしてしまうからだ。「あれも知っている」「これも知っている」「でも大事なことは何も知らない」ということになってしまうのである。

 読書の質を高めるためには「レベルアップの法則」を使うことだ。自分の好きな分野に「特化する」ということをやれば、その分野のことに詳しくなり、自然とレベルがアップしてしまうのである。レベルアップしないで読書をするからこそ疲れ切ってしまうのである。

 或る分野の主だった本を100冊くらい集めてしまえば、高名な学者でも嘘をついていることが解ったり、通説といっても実にあやふやな根拠の上に成り立っているのが解ったりするものなのである。そうやって読書を続けていくと、「核」となる物が見えてくるものなのである。

 レベルアップの凄さはその分野で「真贋が解るようになる」だけでなく、他の分野の真贋も解るようになるのだ。インチキを見破ると、他の分野でもインチキを言っている連中のことが良く解るのである。通説が絶対視されるようでは、逆にその通説は胡散臭いものなのである。

 読書をしていれば解ることだが、優れた人物は絶対に専門バカにはなっていないということだ。自分の専門分野で優れた本を書いている人は、他の分野にも意見をいい、それが真っ当な物になっているものなのである。そういう人物をマークして、その人が書いた本を集中的に読むようにすればいいのだ。

●加速度の法則

 読書というのは、言わば「時間との戦い」だ。忙しい生活の中で読書をしなければならないし、自分の寿命が尽きるまでに読める本というのは限られているからだ。時間を無視した読書論は全く無意味だと言っていいのだ。

 時間との戦いを制するためには、「加速度の法則」を容赦なく使って行くことだ。自分が好きと思える作家の本を集中して読むようにすることだ。自分が好きな作家というのは、自分にとって読み易い本を書いてくれる作家なので、その作家が書いた本を読めば読書スピードが進むのである。

 要は「当たった状態」になるのだ。当たった状態になると読書スピードが進むだけでなく、理解力も高まって、次から次へとアイデアが出て来るものなのである。そうなると今まで理解できなかった本も読めるようになるのだ。

 この「加速度の法則」を使うと、新聞やテレビは見れなくなるのだ。当たった状態に入ると、非日常的になってしまい、日常的な物の代表である新聞やテレビを見ることができなくなってしまうのだ。逆に言えば新聞やテレビをしっかりと見ている人は、当たった状態が永遠にやってこないということなのである。

 当たった状態はそれが終われば必ず疲労してしまう。そういう時は必ず休息を取るようにすることだ。ピクニックに行ったり、温泉に行ったりして、とにかく休息を取れるようにすることだ。疲労しているのに、そのまま読書を続けてしまうと、読書の生産性は落ちるものなのである。

 生産性の高い読書をしている人は、必ず自分の本棚が変わって行くものなのである。それは自分が成長した証なのだ。逆に言えば本棚が変わっていない人は幾ら読書しても成長していないということなのである。読書で大事なことは、「自分が成長するために読書をする」ということなのであり、本に読まれるために読書をするということではないということなのである。

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「母親からの寵愛」を巡る争い

●やっぱり猫が好き!

 人間がこの世に於いて生きて行くためには、何かしらの動物の命を奪うという罪深いことをしなければならない。そうでなければ自分の命を保てないのだ。肉食を禁じる菜食主義者であっても、植物の命を奪っていることには変わりないのだ。

 だから自分にとって必要最低限の動植物だけを食い、感謝しながら頂くべきなのである。食べ物を残したりするようなことをすべきではないのだ。主婦であるなら食品の管理をきちんと行い、特に冷蔵庫の中の食べ物を腐らせないようにすべきなのである。

 人間はただでさえ罪深いのだから、動物をペットとして飼うことはすべきではないのだ。ペットを飼えばその動物の自由を奪う以上、更に罪深いことをやっているのである。大体、ペットを飼わなければ、その分、費用が浮くので、家計は大いに潤うことになるのだ。

 ところがこの世には動物をペットとして飼う連中は非常に多い。確かにペットを連れて散歩したり、ペットと戯れることで癒されるのだから、心身の健康に寄与しているというわけなのである。ということはペットはなんでも飼えばいいというのではなく、飽くまでもなんらかの効用がなければならないのだ。

 ペットを飼っている人たちには「犬派」と「猫派」に分かれるのだが、会社経営で成功している人たちには圧倒的に犬派が多い。これに対して作家には圧倒的に猫派が多いのだ。なんでそうなってしまうのか良く解らないが、会社経営は組織戦なので、犬のように組織を重んじる動物の方がいいわけだし、作家のような仕事は、自宅での作業だし、気まぐれの性格の有利なので、猫のように家に懐き、自由気儘の行動をした動物の方がいいのだ。

 作家が猫をペットを飼っているというのなら、まず「当たり」と見ていい。猫好きの作家は当たる確率が非常に高いのだ。文章が格段に巧いし、物語構成もしっかりとしているのだ。このため小説だろうが随筆だろうが絵本だろうが、「猫物」というジャンルが存在するのである。

●『ねぇだっこして』の粗筋

 今回紹介するのはこの絵本!

 竹下文子原作・田中清代作画『ねぇだっこして』(金の星社)

   ねえだっこして

 この絵本の主人公は「猫」である。その家の主人の妻に赤ちゃんが生まれたので、飼い猫は今までのように膝の上に行くことができず、「私、この頃、詰まんない」と嘆き、自分が可愛がっても貰えない責任を赤ちゃんに擦り付ける。

 母親は朝も昼も夜も赤ちゃんの世話をしまくり、赤ちゃんも寝て起きて、泣いてオッパイ飲んでの繰り返し。赤ちゃんは自分では何もできないけど、猫の方は自分で何でもできると自慢する。でも、そうはいっても、猫も赤ちゃんの香りが大好きなのである。

 そんな折、猫は赤ちゃんに尻尾を引っ張られてしまい、母親のことを諦めて、外に出て行く。外は明るいし、気持ちいいい、猫はもう大きいから、草の上でも屋根の上でも眠れるのである。わざわざ母親に執着する必要性はないのだ。

 そうはいっても猫は母親に抱っこされることを願う。なぜなら母親の膝の上は世界一素敵な場所だから、どうしてもたまには抱っこして欲しいのである。赤ちゃんがいる以上、頻繁にではなくていいから、たまには抱っこして欲しいのである。

 猫が主人公で、猫の視点で書かれているために、猫好きにとっては堪らない絵本になっているのだ。物語は淡々と流れて行くか、しっかりと起承転結が出来ており、母親と赤ちゃんを見つめる猫の切ない気持ちがしっかりと描かれているのだ。

●問題点

 ところがこの絵本、問題点が多々ある。

①文章が少なすぎる

 この絵本は文章が少なすぎるのだ。読者としてはこの量では「足りない!」と思ってしまうのである。母親が子供に読み聞かせる場合、頁を速くめくって行くことはできないのだ。或る程度の文章の長さを必要とするのである。

 しかも文章が少なかったために、作画担当に重たい負担を課すことになったのである。文章できちんと説明がなされていないから、作画担当があれこれ考えなければならなくなったのである。作画の田中清代は多摩美術大学の卒業なので、その能力を大いに活かせなかったのは結構マイナス点になってしまうのだ。

②同じ言い回しの文章がある

 同じような言い回しの文章があるのも評価を落としてしまうのだ。絵本の場合、文章量が少ないために、言葉を巧く選んで出さないと、物語をダイナミックに展開していくことができない。原作者はただ単に文章を書けばいいというのではなく、書き終わった後に音読してみるべきなのである。音読すれば文章の異常さに気づけるものなのである。

③落ちが落ちになっていない

 そしてこれが最も問題なのだが、「落ちが落ちになっていない」のだ。原作では猫がたまには抱っこしてと願う内容になっているのだ。ではどうすれば母親に抱っこして貰えるのかといえば、それは赤ちゃんがいなくなった時なのである。

 だから作画の田中清代はラストシーンで原作には出てこない父親を登場させ、その父親に赤ちゃんを持たすことで、母親の膝の上を空けさせ、そこに猫が行けるようにするのである。父親が登場するからこそ、母親は赤ちゃんを手放せることができる。この物語をきちんと終わらせるためには、父親の登場は絶対に欠かせないのだ。

④これは猫の行動ではない

 このことを指摘してしまうと元も子もなくなってしまうのだが、猫は人間の膝の上を最高の居場所だとはしないのである。猫を飼えば解ることだが、猫は椅子の上やソファの上が好きなのである。人間が布団で寝ていると、お腹の上に座ったりする。

 猫は元々、木の上で生活する動物だったのであり、少し高くて周囲を見渡せる場所が最も好きなのである。だから猫が母親の膝の上に行きたがり、母親の膝の上にいる赤ちゃんに嫉妬することは有り得ないのである。

●実は「猫は長女」?

 となるとこれは猫の話ではないということになる。では一体なんの話なのかといえば、それは「長女の話」なのである。長女は今まで可愛がられてきたが、下に赤ちゃんが生まれてしまったために、母親は赤ちゃんの方ばかり向くことになってしまったのである。

 このため長女は寂しいのである。

 だからこの絵本を長女だった母親が読めば号泣してしまうのである。まさにこれこそ自分が成長過程で経験したことだからだ。下に赤ちゃんが生まれた以上、母親を譲り渡さなくてはならない。母親をいつまでも独占することはできないのだ。

 それだけでなく第二子だった母親がこの絵本を読むと、これまた号泣してしまうのである。これこそ自分がこの世に生まれて、自分がやらなければならなかったことだからだ。先に生まれてきた姉を押しのけ、自分が母親を独占しなければならないのである。

 となればこの物語は、実際は「赤ちゃん返り」の話なのである。赤ちゃん返りはこんなっふうにはならないのだ。長女が赤ちゃん返りをしようものなら、長女は母親が赤ちゃんに育児をしているのを妨害してくる筈なのである。それなのに赤ちゃん返りになっていないのだ。

 わざわざ猫を主人公にしないで、長女を主人公にしていたら、この物語はリアルな物語になったかもしれない。長女が第二子の出産を契機に赤ちゃん返りしてしまい、その赤ちゃん返りを卒業するまでの話を書けば、面白い話になった筈なのである。

●この世で生きることは戦いなのだ!

 この絵本を読んで号泣できる人は、読解力があるし、きちんとした感受性の持ち主なのであろう。この絵本を猫の物語だと受け取っている人はまだまだなのである。この物語はまさしく自分に何らかの罪深さがなければ、なんの反応もしてこないからだ。

①順番

 この世で生きて行くためには、「順番」というものが物凄く大事だ。どの母親も第一子は特別な存在なのである。初めての赤ちゃんだから愛情を最大限注いでくるのだ。そのくせ育児に関する知識も技術も不足し、至る所で問題を起こしてしまうのだ。

 これに対して第二子は既に育児を経験した母親から生まれてくるので、母親は育児での失敗を少なくし、より効果的に母性愛を注げるようにするのである。しかも第二子は第一子を押しのけない限り、母親から守って貰えなくなるので、どうしても第一子を押しのけてしまうのである。

 母親は母性本能を持っている以上、一番下の子供に最も多くの愛情を注ぐものなのである。それに対して父親は家庭内での序列を重んじ、一番上の子供を大事に扱うものなのである。だから親は父親と母親が揃わなければならないのだ。

②可愛らしさ

 可愛らしさは子供にとって最大の武器である。可愛い子供は母親から母性愛を大量に貰うことができるからだ。通常、第一子よりも第二子の方が可愛いものだ。このため母親は第二子の方を寵愛するようになるのだ。そのため第一子は押しのけられてしまうのである。

③運不運

 子供が2人いるなら、母親は第二子が幾ら可愛くても、両者を公平に扱わなければならないのである。母親がどちらか一方だけを寵愛したのなら、残りの子供が怒り出すのは当たり前のことなのである。母親が公平でないと、子供たちは喧嘩をしまくる羽目になるのだ。

 しかしどこの家庭であっても、完璧な母親などいないものだ。そのため母親が未熟であるなら、子供たちは延々と喧嘩しまくることになるのだ。これはもう「運不運」というべきものであって、子供の力ではどうすることもできないのだ。

 この世で生きることは戦いなのである。自分が他人を押しのけても、この世で生き残っていかなければならないのだ。

 しかしそういう生き方は罪を発生させるものなのである。だからどこかでその罪を解消させなければならないのだ。それゆえ兄弟姉妹のことで揉めながら育ってきた人はこの絵本を読んで号泣すべきなのである。涙を流せば流すほど、自分の罪は消えて行くものなのである。

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スイス人に学ぶ平和の作り方

●昭和憲法は国防意識を破壊した

 平和というものは、戦争と戦争の間のほんの僅かな休息である。万が一にも人々が平和を願うから平和が実現されるのではない。飽くまでもしっかりとした国家戦略を持ち、充分に軍事力があるからこそ、平和が実現されるのである。

 もしも政府が平和主義者の意見を取り入れたり、平和主義者の政治家たちが活躍してしまうのなら、その国家は戦争に於いて大敗北を喫し、国民の大量虐殺という高い代償を支払う羽目になる。戦前の日本は大正デモクラシーの連中によって平和主義が推進され、そのために一連の戦争に敗北しまくり、7年に及ぶ占領という高い代償を支払う羽目になったのである。

 近代国家は国民憲法であるから、その国の憲法は国民投票によって賛否を問わなくてはならない。それゆえ昭和憲法のように連合国の占領中にアメリカ政府の意向を忠実に繁栄した憲法を制定するというのは、言語道断であるのだ。昭和憲法には改正論議があるが、法的には無効にしなければならない邪悪な憲法であるのだ。

 この昭和憲法は、要はアメリカ合衆国の保護国になるための憲法なのである。だから戦争放棄の規定があり、日本に軍隊がない以上、アメリカ軍が日本の駐留してくるのである。現在の日本は確かに平和かもしれないが、それは「隷従の平和」であって、この平和が続く限り、日本はアメリカ合衆国に搾取され続けるのである。

 昭和憲法の最大の罪は、「国民の国防意識を破壊した」ということなのである。日本のように北にロシア、西に中国という侵略国家がいる国家では、戦争放棄は絶対にありえない。日本の置かれた状況が「非武装中立」を絶対に選択できないようにさせているのである。

 昭和憲法で戦争を放棄している以上、自衛隊は憲法違反の存在である。そのために近隣諸国は日本に侵略を働き、ロシアには千島列島と樺太を奪われ、韓国には竹島を奪われ、中国と台湾は尖閣諸島を侵略しようとしているのである。昭和憲法がある限り、日本は領土問題を抱え続け、国家の独立が非常に危うくなっているのである。

●スイスは重武装によって平和を築き上げた

 平和というものは、どういうものを教えてくれるのはスイス人たちである。スイスは日本以上に過酷な状況に置かれており、北にドイツ、西にフランス、南にイタリアと、侵略戦争をしまくり続けた国家に囲まれているのだ。しかもスイスの国土は狭く、スイスの経済力も弱いのである。

 この状況下で、スイス政府は非武装中立などという空想的な選択をしなかった。重武装をさせた上で永世中立国になる選択をしたのである。この重武装が大事なのであって、スイス政府は徴兵制を布き、国土に軍事施設を張り巡らせることで、他国の侵略を阻止しているのである。その上で永世中立政策を展開しているのである。

 「平和というものは重武装によってのみ築かれる!」

 これこそが平和の真実なのである。

 当然にこんな重武装では経済的負担が激しくなる。そこで国防を「国防軍」と「民間防衛隊」に2つに分け、国防軍は専門的に国防に従事し、民間防衛隊は民間でビジネスをこなしながら、非常時になれば国防に従事するのである。

 このためスイスの各家庭には『軍人操典』と『民間防衛』の2つの書物が置かれることになる。平時に於いて戦争のことを考え、定期的に軍事訓練が施されるからこそ、いざ戦争になれば敵国の侵略を撃退できるだけの軍事力を持ちえるのである。

 スイス人の平和は日本の平和主義者に見られるような机上の空論というものが全くない。スイスの各家庭では、2年間の食糧備蓄がなされ、核シェルターまで装備されているのである。一般レベルでここまで戦争の準備がなされていれば、逆に戦争が起こる確率が一気に下がるものなのである。「世界平和」を唱えて、実際には何もしないからこそ、逆に戦争を招いてしまうのである。

●平和を装う侵略

 戦争というものは戦争の時だけ起こるものなのではない。平時に於いて敵国が平和を装う侵略を仕掛けてくることもありえるのだ。スイスの『民間防衛』が優れているのは、これに関してきちんとその対策を述べているということなのである。

 「裏切り」「敗北主義および平和主義」「愛情をよそおう宣伝」「威嚇による宣伝」「経済戦争」「スパイ行為」「破壊活動」「政府機能の解体」「テロ」「クーデター、外国の介入」等等、敵国が如何にして平和を装う侵略を仕掛けてくるのかを述べているのだ。

 冷静に考えると、これは社会主義国がやりまくった方法なのである。社会主義者は社会主義革命を引き起こすためには如何なる手段も許されると考えるので、悪質極まりない方法を幾らでも作り出してくるものなのである。

 戦前の日本も、戦後の日本も、このことに関しては無防備すぎたのである。平時の段階で社会主義者たちを取り締まって皆殺しに、その一方で国民に対して社会主義国の侵略の手口を教えておけば、戦時になった時に社会主義国の侵略を阻止することができたのである。

 日本政府は北朝鮮による日本人拉致を未だに解決できていない。自国の国民を守れなければ、政府の存在理由はなくなってしまうのだ。しかもいざ日本政府が北朝鮮と交渉を始めようとすると、その足を引っ張る形で、国内の社会主義者たちが動き、交渉が失敗してしまうのである。

●近代国家は占領時に洗脳工作を働く

 近代国家はそれまでの封建国家とは違う。国民国家であるために、敵国を侵略した場合、その占領地に於いて「洗脳工作」を働くことになる。洗脳工作を働くことでその敵国民を弱体化させ、もう二度と反抗できないようにさせるのである。

 これこそ日本が連合国の占領中にやられたことなのである。この洗脳が恐ろしいのは、昭和憲法体制がある限り、その洗脳を解けない国民が大多数に及んでしまうことなのである。このため日本は昭和憲法がある限り、まともな政治を行なうことができず、アメリカ合衆国頼りになってしまうのである。

 敵国に国土を占領されたら、スイスの『民間防衛』では抵抗運動をするように勧めるのである。国民が執拗に艇庫運動を仕掛ければ、敵国はいずれ撤退することになるからなのである。日本が連合国の占領中に抵抗運動が1つも起きなかったというのは、抵抗運動に関してなんの教育も行なわれていなかったからなのである。

 もしも第二次世界大戦で帝国陸海軍が大敗北を喫して、アメリカ軍が上陸してきても、国民が執拗に抵抗運動をし続けたら、アメリカ軍は撤退しただろうし、その後、アメリカ政府は「日本国民は手強いぞ」と思うようになり、もう2度と侵略してこなくなった筈なのである。

 戦争になればその政府が今まで一体何をやってきたのか、国民性やら全てのことが解るものなのである。戦前の政府は確かに国政を誤り、大失敗を犯した。しかし国民もそれと同じくらいに政治を誤り、大失敗を犯したのである。

 近代国家の戦争では、敗戦国は想像を絶する悲惨な目に遭ってしまうのだ。だから平時に於いて戦争を研究し、戦争に備えるべきなのである。平和云々を言うのなら、せめてスイス政府編『民間防衛』(腹書房)を読んで欲しいものだ。この本を読めば、安易に「世界平和」などと唱えることは絶対になくなるのだ。

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最強のデブコ理論

●現代社会はデブにとって受難の時代

 現代社会はデブの女性にとって受難の時代である。痩せている女性たちだけが賞賛され、デブな女性たちは忌み嫌われる。女性ファッション誌ではモデルたち全員が痩せている女性たちで、デブな女性なんて1人もいないのだ。

 そのため洋服は全部痩せている女性たちに合うように作られているのであって、デブな女性が着ようものなら似合わないし、下手をするとサイズ自体ないのである。そしてデブが少しでもお洒落が決まり始めると、痩せている女性たちは嘲笑し始めるのである。

 人類の歴史は「飢饉の歴史」でもあった。だからデブのように食事を沢山食べて、しっかりと太っている女性は「勝ち組」にならなければならないのである。しかし現代では「負け組」扱いされているのである。なぜだか食事を大量に取っていない痩せている女性たちが「勝ち組」になっているのである。

 人間は二足歩行する動物である。この二足歩行をやった場合、両手を使って歩かない以上、両足に全ての体重がかかってくるのであり、当然に足腰が頑丈になっていなければならないのだ。もしも足腰が細ければ、いずれ体の不調で悩みまくることになるのだ。デブこそ二足歩行という進化にしっかりと対応できているのである。

 人間は進化の過程で体毛が退化してしまうという現象に襲われてしまった。そうであるなら、脂肪と筋肉を厚くして体温を守らなければならないのであって、これまたデブは充分すぎるほどの脂肪と筋肉を持ち、体温低下を免れているのだ。痩せている女性は見た目には綺麗に見えるかもしれないが、脂肪と筋肉が少ないために、自分の体温すら守れない劣った女性たちなのである。

●デブコ理論

 母親たちの中には「我が娘が太って欲しくない」と思っている母親たちもいることであろう。しかし「ちょっと待て!」と言いたい。人間の骨格は大体小学生の時に出来上がるので、この時期に痩せていたら、頑丈な骨格を作れなくなってしまうのである。

 女の子であるなら、小学生の時はデブの方がいい。ちょこっといいではなく、断然いいのだ。小学生の時にデブであれば、自然と女性らしい骨格が出来上がり、その後の人生で女性が抱える病気の大半を減少させることができるのである。特に妊娠や出産に向けて、安全な骨盤を作ることができるので、妊娠や出産が思いっきり楽になるのだ。

 小学生の時にデブであっても、中学生以降、女性ホルモンが効いて来てくるので、贅肉が落ち始め、充分な脂肪と筋肉を持ったバランスのいい美女になるのだ。この手の美女は子供の頃からスマートだった美女よりも遥かに魅力的なものなのである。

 中学生以降もデブのままでも、冷え性や便秘には無縁の健康体になるのだ。デブの生態を知らない人たちには驚きかもしれないが、デブは風邪1つひかない健康な体の持ち主なのである。しかもデブは抱き甲斐があるので、モテなくても、時がくればちゃんと結婚できるものなのである。

 小学生の時にデブであるなら、どちらに転んでも良いのである。骨格が頑丈に出来ているために、その後に痩せようが、その後もデブでも、ちゃんと莫大な利益を手にすることができるようになっているのだ。

●「デブの効用」「元デブの効用」

 女性たちを仕事で雇う時は、痩せている女性たちばかりを雇ってはダメなのである。痩せている女性たちは思考パターンや行動パターンが似通っているため、痩せている女性たちだけでは充分に対応ができなくなるのだ。

 仕事をする時は「デブ枠」を設けて、デブの女性を意図的に採用するようにするべきなのである。デブの女性は痩せている女性たちが気づかないことに気づくので、それで充分な対応ができるようになるのだ。

 「デブの効用」はそれだけではない。デブの女性は組織の中で「錘」の役割を果たしてくれるのである。痩せている女性たちだけでは不満タラタラになってしまうのに、そこにデブの女性を投入すると痩せている女性たちは不満を抱かなくなるのだ。デブの女性はいい意味での「噛ませ犬」になってくれるので、ストレスが大いに減少するのである。

 現在はスマートでも、昔はデブだったという女性は仕事に於いて大いに使えるのだ。元デブは女性特有の女の汚らしさが全くないのだ。自分が嘗てデブであったために、人の心の痛みが解っているのである。

 「元デブの効用」を組織の中で効かしておかないと、痩せている女性たちは女性の汚らしさを前面に押し出してきて、非常に厄介なことになってしまうのである。人の心の痛みが解っていない女性たちは、幾らでも残酷なことをしてくるものなのである。

●デブの落とし穴

 デブの女性には「デブの落とし穴」がある。デブの女性たちはこのデブの落とし穴に嵌ってしまうからこそ、デブの長所を活かしきれないのである。この世で生き残って行くためには、欠点をなくす必要性はないが、自分の欠点がなんであるは知っておかなければならないのだ。

①知能が高くならない

 デブの女性の場合、知能が高くならない。なんせ飯を食うことが大好きなのであって、それだけ飯を食えば頭に血液が行かなくなるのは当たり前のことなのである。このため知能の面に於いて、デブの女性は痩せている女性たちに負けてしまうのである。

 これを防ぐためには食事の仕方を変えることだ。まずダラダラと飯を食うことはしないようにすることだ。食事は3度の食事に限定し、それ以外でオヤツを食ったりしないようにすることだ。それと飯を食った後に食休みをし、その後に家事手伝いをすることで血糖値を下げるようにすることだ。こうするとデブであっても、知能は上がって行くようになるのだ。

②運動神経がなさすぎる

 デブの女性には充分な筋肉がついているのだが、それは飽くまでも体重を支えるためのものであって、スポーツをするためのものではないのだ。このため、デブの女性は運動神経がなさすぎ、スポーツはまるっきりダメということになってしまうのだ。

 デブだからこそデブに合ったスポーツをすべきなのである。例えば「ウォーキング」。30分程度歩くだけでも、デブの女性なら汗びっしょりなのだ。デブの女性には「水泳」もお勧めだ。浮力のために体重が軽くなるので、デブでも水泳は楽しめるのだ。

③性格的に根暗になる可能性がある

 デブであることを理由にイジメられたり、デブのために思春期にモテなかったりするために、性格的に根暗になる可能性があるのだ。根暗になってしまうと自信も喪失してしまうので、その後の人生で何をやっても巧く行かなくなるのだ。

 解決策としては学校に全てのエネルギーを注がないことだ。学校以外の場所で活動できる余地を残しておけば、学校に執着しなくて済むので、イジメを受けなくなるし、モテなくても関係なくなるのだ。学校はどうしても生徒たちが画一的になろうとするので、デブの女性は 食み出し者になってしまうのだ。

④健康そうに見えても病気を抱えている可能性がある

 デブの女性は健康そうに見えても、実は未病の段階にある可能性がある。その筆頭は「糖尿病」だ。食生活自体、血糖値が高いので、いずれ糖尿病を発症してしまうようになるのだ。それと「心臓疾患」である。体重が重いために、心臓に負担がかかりすぎ、それで心臓に病気が発生してしまうことになるのだ。

 デブの女性が目指すべきものは、「健康なデブ」なのである。「食ったら動く」「食っちゃ寝をしない」。たったこの2つを守るだけで健康なデブになれるものなのである。デブの女性がテレビを見ながらお菓子を食べるのは、あの世行きの行為なのである。

⑤自分のサイズに合う洋服がない

 デブの女性は普段では自分がデブとは気づいていないものだ。しかし洋服を買う際に、自分に合うサイブがない場合、自分がデブであることを改めて知ることになる。まずそこまで太るなということなのである。

 もう1つの解決法は、お店でデブ専用の服が売っていないのなら、自分がデブ専用の服を作ってしまい、それを売り出せばいいのである。物は考えようで、これはデブの女性にとrってビジネスチャンスであるのだ。

●デブこそ進化を引き起こす!

 人間の進化の歴史から言えば、女性がデブになるのは当然のことなのである。自分がデブになることによって骨盤を鍛え、出産が安産になるようにしているのである。痩せている女性では骨盤が小さいために、出産が難産になるし、下手をすると出産で死亡してしまうのである。

 人間の進化は脳の巨大化にある以上、骨盤が大きければ、それだけ脳の大きな赤ちゃんが生まれてくるのである。脳の大きな赤ちゃんは当然に大きく成れば高い知能を持つことができ、より繁栄していくことができるようになるのである。

 もし将来、人間が進化するとなれば、女性は骨盤を巨大化させ、産みの苦しみを克服する筈である。産みの苦しみがあること自体、人間は進化の途上にあるのであって、人間は決して完成した動物ではないのである。

 逆に言えば、女性の骨盤がでかくならない限り、人間の次の進化は起こらないのである。ということは次の進化を引き起こすのはデブの女性たちであって、絶対に痩せている女性たちではないのだ。現在、痩せている女性たちだけが繁栄しているように見えても、いずれ大ドンデン返しが起こるのである。

 或る日、この地球上のどこかで骨盤を巨大化させたデブの女性が赤ちゃんを産み、その赤ちゃんが成長して、普通の人たちよりも高い知能を持った時、その人こそが既存の人類を駆逐して、地球上に大繁栄していくことになるのである。

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嫁と姑の戦いはなぜ起こる?

●母系家族から父系家族へ

 既婚女性たちにとって「嫁姑の問題」は永遠の問題だという。それもその筈、これは嫁と姑の個人間の問題ではないのだ。人類が母系家族から父系家族へと転換したことによって生じた問題であるのだ。この問題の奥は非常に深いのだ。

 人類というのは、その初期に於いて恐ら「「一夫多妻制」であった筈だ。ゴリラやボノボといった人類に非常に近い動物たちは一夫多妻制を形成しているからだ。一夫多妻制だから当然に男系ということになる。

 しかし人類がアフリカ大陸を出て、未開拓の大陸に進出した時、そこには食料が大量に溢れていたのである。だからこそ急速に世界各地に進出し、瞬く間に南極大陸を除く全ての大陸にまで進出することができたのである。

 問題はその後なのであって、人口が飽和状態になったために野生動物を取り尽くし、定期的に飢饉に見舞われるようになったのである。トドメを刺したのは。今から1万2千年前に起きた「地球大変動」で、地軸シフトが起こり、地球上の至る所に大洪水と大津波が押し寄せたのである。

 この壊滅的な大惨事の後、人類の中から突然変異が発生した。それは農業を開始し、それに適した母系家族を変更する者たちが出てきたのである。農業を遣り始めたのは男性たちではなく女性たちであったろうし、農業はそてまでの狩猟採集経済とは違って定住するので、外に出て行ってしまう男性たちよりも、家を守る女性たちが主導権を持った方がいいわけである。、

 この痕跡は未だに残っていて、例えば女性は閉経しても死なない。閉経しても長らく生き続けることになる。その一方で男性たちは女性たちよりも早くに死ぬ。閉経したということは、妊娠出産育児から解放されているのであり、その女性こそが集落の政治を取り仕切ったわけなのである。

 ところがこれを良しとしない連中もいた。主にユーラシア大陸の中央部にいた人たちで、土地が肥沃ではなかったために、父系家族を残したまま農業を開始し、そのために非常に攻撃的で、周囲の部落を侵略しまくったのである。この連中が南下してメソポタミアの地を征服した時、この地球上に初めて文明が誕生したのである。

●父系家族では何が問題になるのか?

 日本列島では食料が豊富に取れたために、長らく母系家族で、弥生時代になって初めて父系家族へと移行するのである。出雲神族は中国大陸から移住し、天孫族は朝鮮半島を経由をして日本列島に移住してきたわけなのである。

 母系家族と父系家族は一体どう違うのか? そして父系家族に移行した場合、一体何が問題になるのか?

 母系家族は防御力重視の家族なのである。現状維持に徹して下手に勢力を広げないのだ。現代の日本でも旅館や料亭とかで母系家族が存在している所があるが、そういうビジネスではこじんまりと経営を行い、絶対に手広く行なわないのだ。

 これに対して父系家族は攻撃力重視の家族なのである。拡大再生産に徹して、家族の勢力を広げようと躍起になるのだ。跡取り息子を作るだけでなく、分家を作り、しかも娘たちには教育を施し、より豊かな他家に嫁がせようとするのだ。

 母系家族では母親が娘の妊娠出産育児を手伝うものなのであって、娘は赤ちゃんを産んだとしても、母親に赤ちゃんを預けて働きに出て行くことができたのである。こういう育児の仕方をすると、確かに既婚女性たちは収入を得ることができるが、子供に対しては何も教育しなくなるのだ。

 父系家族では妊娠出産育児は妻の仕事になる。姑は多少のサポートをするだけである。父系家族では教育熱心なのであって、母親は手取り足取り様々なことを教えて行くことになる。少し大きく成れば、父親だって教育に参加してくるのだ。こういう育てられ方をすると、当然に能力の非常に高い子供が育ってくることになるのだ。

 母系家族でなら自分の母親が育児を手伝ってくれたのである。しかし父系家族では自分の母親と縁遠くなるし、姑が実母の代わりになるということはないのだ。しかも女性は余所者が妊娠出産育児に加わってくることを、生理的に嫌がる傾向にあり、これが嫁姑の問題の原因なのである。

●嫁姑関係は早い段階で決まる

 父系家族は母系家族よりも遥かに豊かな生活を営むことができる。その一方で「嫁姑の問題」を発生させるという危険な部分も存在するのだ。はっきりと言ってしまえば、今から結婚しようとする女性が、父系家族と母系家族の違いが解っていないと、「嫁姑問題」のために結婚生活自体が破綻してしまうことになるのだ。

 嫁姑の関係は遅くなって決まるものではないのだ。嫁と姑の関係は早い段階で決まるのである。女性が自分の彼氏に夢中になっているからこそ、この大事なチャンスを逃してしまうのである。彼氏の母親はしっかりと自分の息子の恋人の言動をチェックしているものなのである。

 嫁と姑も初対面の印象でその後の印象も決まってしまう。彼氏が恋人を連れて実家に挨拶しに来た時、姑はにこやかに迎えながらも、その嫁となる女性の言動を1つ1つ見ているのだ。姑も女性である以上、若さとか美貌とかでは騙されないのだ。礼儀作法だったり、言葉遣いとか、そういう所をチェックしまくっているのである。

 第二段階は結婚式の前後である。結婚というものは保守的なものなのであって、姑は自分がやった結婚式を基準にして、息子の結婚式を判断するものだ。だから奇抜な結婚式とか、派手すぎる披露宴とかは、命取りになるのだ。

 第三段階は出産である。嫁である以上、跡継ぎを生むのが最大の使命なのである。赤ちゃんを生んだのなら、とにかく姑に報告する。そして赤ちゃんが女の子だったら、「次は男の子を生めるように頑張ります!」とか言わないと、姑は「なんだこの嫁は!?」となるのだ。

 嫁の方も新婚当初は大人しくしているが、出産後には心身が変化してしまう。それは「母性本能」の発動であって、自分の命に代えても我が子を守ろうと思うようになるのだ。このためもしも姑が自分を差し置いて赤ちゃんに手を出し、育児に参加してこようものなら、途端に怒りを爆発させてしまうのである。

 それゆえ嫁姑問題が表面化するのは、決まって第一子を産んだ後以降なのである。姑の方は嫁に対するマイナス点を溜め込み、嫁は出産後の変化で感情の起伏が激しくなるので、何かを切っ掛けに双方が怒りを爆発させてしまうのである。

●夫を立てれば、姑は文句を言わないもの

 嫁姑の問題を回避するためには、彼氏にプロポーズをされてから結婚式を挙げるまでの間、慎重に事を進めるようにすることだ。姑といえども最初から悪意があるわけではないのだ。これから嫁となる女性が悪態をついたからこそ悪意を持ち始めるのだ。

 それと父系家族である以上、妻は夫を立てるのが当たり前なのである。夫を中心にして家族を形成していれば、姑の方は「この嫁はいい嫁だ」という感情を抱くようになるのだ。特に気をつけるのはマスコミの情報であって、マスコミは結婚に対してネガティブな情報を流してくるために、マスコミの情報を鵜呑みにしていると、どうやっても結婚が巧く機能しなくなってしまうのである。

 嫁にとって切り札になるのは、常に「赤ちゃん」なのである。赤ちゃんを健康な状態で産み、楽しく育児をしながら、子供の数を増やして行くべきなのである。子供を沢山生んで人海戦術で対抗すれば、如何なる姑も降参してしまうものなのである。

 賢い嫁であるなら、姑と定期的に連絡を取り、実際に会いに行くようにするのである。嫁になったというのに、結婚に関して何も相談してこないからこそ、姑は怒るのである。料理のこととか、育児のこととか、親戚づきあいのこととか、嫁であるなら相談すべきことは沢山ある筈なのである。

 幾ら家計が苦しいからといって、舅や姑から資金援助を受けていては、必ずお金と共に口も出て来ることになる。だから家計簿をつけて、地道に貯金を行い、しっかりと資産を貯め込んで行くべきなのである。自力で100万円貯金すると、夫婦にとって自信がつくし、3千万円以上の貯金があれば、その資金力で以て姑に対抗することができるようになるのだ。

●姑とは距離を置く

 嫁姑の問題は避けることができるのなら避けた方がいいが、しかし起こる時は起こる。この場合、嫁の方に落ち度があって問題を起こしたのなら、嫁の方が改めるべきであろう。嫁が態度を変えない限り、姑は延々と攻撃を仕掛けてくることになるのだ。

 とは言っても嫁姑の問題が修復できない場合もある。それは夫が両親が精神的にも経済的に独立しておらず、そのために息子の結婚生活に無闇に介入してくる場合だ。この場合、嫁としては夫の両親と距離をおくしかないのだ。結婚して独立していないということは、自立すらもしていない可能性が高いのである。

 嫁と姑の相性が悪い場合も、この問題を解決するのは不可能なのである。運命星同士の関係が大凶の場合、どうやってもこの問題を解決するのは不可能なのだ。姑とは距離を置いて、必要がある時だけ会いにいけばいいのだ。

 お金の問題も厄介な問題を引き起こすものだ。舅が借金のために破産し、そのトバッチリが息子夫婦に来たら絶縁するしか選択肢はないのだ。連帯保証人になることも危険で、このために親子の断絶が起こったりしてしまうのである。

 嫁姑の関係が悪いのなら、別にその問題を解決することはないのだ。距離を置いて、双方が間隔を空ければ、衝突することがないのである。仲が悪いのに、近づこうとするからこそ、余計に問題をややこしくしてしまうのである。

●自分自身が成長すること

 母親というものは、自分が一生懸命になって妊娠出産育児をしても、本人が成長していない場合が多々あるものなのである。結婚すれば時間はあっという間に過ぎていくものだから、自分が成長しなければ、至る所で問題が発生しまくることになるのだ。

 結婚したらとにかく夫婦仲を良くすることだ。妻に対して最も苦言を呈してくれるのは夫だからだ。夫しかいないといっていいのだ。夫婦で会話していれば、自分の欠点が指摘され、その欠点に気づき、改善していくことができるのである。

 それと子供を3人以上産むようにすることだ。子供を3人以上産むと、一人前の母親になれるものなのである。子供が1人や2人ではどうしても母親として未熟なのである。もしも年齢が上がりすぎて、子供を3人以上作ることができないというのなら、その危険性を充分認識して生きていくことだ。

 母親が経験することはどこの母親たちも大概同じなのだ。だからママ友たちを作って、母親同士で会話しまくればいいのだ。ママ友の質と量とで、随分と結婚生活は変わるものなのである。これは偶然性の強いものだから、いい友人に出会ったら、その友人を大切にすべきなのである。

 結婚したのなら「宗教の大切さ」を再確認した方がいい。まともな宗教心があれば、結婚しても、きちんと成長していくことができるからだ。大体、どこの宗教団体でも嫁姑の問題には慣れっこで、その解決策を持っているものなのである。

 嫁姑の問題が発生してしまうと、どうしてもその問題に執着してしまうものだ。しかしその問題に執着している限り成長することはできないのだ。自分が成長する方が先なのであって、自分が成長してしまえば、その問題は簡単に解決されていくものなのである。

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王国のない王女

●国民の民度はその国の女性たちを見れば解る

 俺は仕事柄、様々な本を読むのだが、これだけ大量に本を読んでいると、或る一定の判断基準というものが出来上がってくる。例えば、「国民の民度を計りたいのなら、その国の女性たちを見よ」という判断基準を持っている。

 女性は男性よりも言語能力が達者だ。とするなら、その国の女性たちの中で、本を書くほど知能の高い女性であるならば、その女性の個人的な事情を考慮しても、その女性の思考力や表現力を見れば、その国民の民度が大体解るのである。

 俺が本を読んでいて、この国の女性が書いた本は当たりだなと思うのは、「イギリス」と「ドイツ」である。イギリス人女性やドイツ人女性が書いた本は質が高いのだ。これには理由がある。イギリスは世界各国の教育とは違って、5歳から小学校に入学してくるので、当然に言語が豊かになるのである。ドイツはヨーロッパ言語で最も論理的な言語であるために、ドイツ人女性にとって有利になるのだ。

 「アメリカ」「フランス」「日本」に共通するのは、女性たちがフェミニズムに洗脳されているか、汚染されているかということなのである。フェミニズムに洗脳されたり汚染されたりしていれば、自分の意見ではなく、フェミニズムの意見になってしまうので、どう読んだ所で面白いわけがないのだ。

 「中国」や「韓国」の女性たちに共通するのは「道徳がない」ということなのである。なぜ道徳がなくなってしまったのかといえば、中国や韓国では科挙があったという歴史的事実があり、儒教に基づいて科挙が行なわれると、なぜだか道徳が消えてしまうのである。

 ロンドン五輪でも中国人選手や韓国人選手がバトミントンで無気力試合を見せたが、スポーツマンシップというものがまるでないのである。あれをやったのが女性たちであるということを絶対に忘れてはならない。日本人が自分たちの道徳を守りたいのなら、中国や韓国を隔離し封じ込めて、なるべく接触しないようにすべきなのである。

 日本が独立を守り、より発展していきたいのなら、イギリスやドイツとの交流を強化し、日本の文化を大いに刺激した方がいいのだ。韓流ブームなどが続いてしまえば、日本の文化はどんどん衰弱していくことになるものなのである。

●王国のない王女の物語

 今回紹介するのはイギリス人女性が書いた絵本!

 アーシュラ・ジョーンズ著『王国のない王女のおはなし』(BL出版)

  王国のない王女のおはなし

 昔々、「王国のない王女」がいた。その王女は荷馬車に乗って、王国探しの旅をしていた。王女が雨が降れば赤い傘を差し、雨に濡れないようにした。なんで王女というのかといえば、その王女は本当の王女ではなく、「プリンセス」っていう名前だったのである。

 王国のない王女はお金持ちではなかったので、小さな宅急便事業をしながら生活費を稼いでいた。王国のない王女は礼儀正しかったものだから、貴族の屋敷に通りかかる時は挨拶をしていた。或る日、ウィルヘルミナ公爵夫人の家に立ち寄り、お茶会に招かれる。そのお茶会ではぞんざいな扱いを受けたけど、その家の道化師によって笑い転げることができた。

 公爵夫人の娘たちは王国のない王女にドレスを与え、道化師は赤いタイツを与えた。王国のない王女はその貰ったドレスを売り払い、その一方で貰った赤いタイツを穿いて、王子様の戴冠式に出席したのである。

 パーティーでは新しい王様に気に入られたが、ポロ王子やゴードン王子にも気に入られてしまい、挙句の果てには三者が喧嘩をし始め、王国のない王女はその見苦しい争いに嫌気がさして、王宮を去ってしまう。

 夜が明ける前に国境を越えると、溝に嵌って立ち往生をしている馬車を見つけた。王国のない王女はその馬車を引き上げた。するとその男性はウィルヘルミナ公爵夫人にいた道化師で、仕事を辞めて帰国する矢先だったのである。

 その男性は王女に求婚し、自分の胸の中こそ、あなたが探していた王国だと告げる。しかしそれでは子供たちを育てて行くことができない。そこで男性は自分が道化をしてお金を稼ぎ、王国のない王女は宅急便事業をしてお金を稼ぐことを提案する。

 そんな時、図書館から小包が届いた。王国のない王女がなくした赤い傘が、「ここかしこ、いたるところ番地」という住所で送られてきたのである。男性は「それこそが君の王国なんだ!」と言う。しかし王国のない王女はその意見を否定し、「私は女王で、あなたは王様よ」と告げる。

 その後、二人はまだ見ぬ所へと旅に出かけた。子供たちも生まれ、荷台には子供たちの居場所も出来ていた。

●これってどうよ?

 この物語は文章的にはなんの問題もない。起承転結もしっかりと出来ている。しかしこの絵本を子供たちに読ませて、この内容を理解できるのかといえば実に怪しい。大人たちであっても、この内容をきちんと理解できないであろう。

 まず作者の自惚れが激しいということなのである。主人公に「プリンセス」っていう名前をつけること自体、この作者が自惚れていることが解ることであろう。そのくせ「王国のない王女」というのは実に意味深なのだ。居場所がないってことなのだから。

 それに道化師が赤いタイツを贈ったということもおかしい。大体、女性に赤いタイツを贈る男性っているか? 物語の中では王国のない王女の足元が寒そうだったからという理由なのだが、これが意味することは、王国のない王女が道化師とセックスをしたということなのではないか?

 だからこそ王宮に行った時、王様に気に入られたのである。王国のない王女は既に男性を知っている身ゆえに、男性と気楽にダンスを踊り、魅了することができたのである。しかし王宮の男性たちは幼稚だったということがバレてしまう。これって、セックスが下手糞だったという意味なのかな?

 だからこそ王宮から去った後に、再び道化師が出て来るのである。大体、道化師には生活の実体がないのだから、この手の男性から求婚されても結婚しようとする気は起こらないものだ。それなのに王国のない王女はそれを承諾してしまうのだ。

 ということは、初めてセックスした男性と結ばれたってこと? もう1つ付け加えると、道化師は他の男性たちよりもセックスが巧かったってこと? ただはっきりと言えることは。この作者はちゃんとした恋愛をしたことがないということなのだ。

 それが解るのが「この物語では主人公の受難がない」ということだ。一度でもちゃんとした恋愛をしたことがあるなら、必ず自分自身が変わるから、そういう女性が物語を書いた時には、絶対に主人公の変化を書くものなのである。しかしこの物語には主人公の受難がなく、ただ単に居場所探しを続けるということになってしまっているのである。

●実は良く有りえる話

 この絵本は絶対に駄作ではない。かといって良書という物でもないのだ。理解力のある者が読めばきちんと理解できる物語になっているのだ。当然に子供たちが読んでも巧く理解できない。子供たちではまだまだ理解力が足りないからだ。

 これは「恋愛をせずに結婚してしまったお話」なのであろう。作者自身が居場所を探してこの世を彷徨い、その過程でただ面白いことを言うような男性と出会い、その男性と結婚して子供を設けてしまったのであろう。そう考えないとこの手の物を作れないからだ。

 実はこういう話は良く有りえる話なのである。要は「出来ちゃった結婚」である。ちゃんとした恋愛をしているのなら、そういう結婚にはならないであろう。性欲が勝ってしまったからこそ、その勢いで結婚してしまったのである。

 恋愛至上主義というのは非常に危険な考え方だ。恋愛だけが絶対に正しいものではないからだ。出来ちゃった結婚の場合、恋愛はなくても、子供が出来てしまったのであり、その結婚では不妊症とは無縁の結婚になり、それはそれで幸せなのである。

 若い時は礼儀正しくする事が必要だが、それと同じくらいに性欲に対して正直になることも必要なのである。大体、赤い傘を差している時点で、この王国のない王女は性欲が溜まっているということを表現しているのである。

●でも子供たちには解らない

 女の子たちはシンデレラストーリーが大好きである。自分がお姫様になることを憧れるものだし、将来は王子様と結婚したいものだ。だからこそ、『シンデレラ』はいつの時代でも女の子たちを魅了するのである。

 しかし現実はそんなに甘くはないのだ。本当にシンデレラストーリーを実現することができるのは、いつの時代でもごく僅かな女性たちだけなのである。大半の女性たちは人生のどこかで妥協しない限り、結婚すらままならないのである。

 こういうことを考えると、『王国のない王女のおはなし』は結構説得力を持つのだ。出来ちゃった結婚でも別に悪くはないのだ。相手の男性が道化師でも別に構わないし、自分に王国がなくてもそれはそれでいいのである。

 このアーシュラ・ジョーンズは作家ではあるが女優でもあり、イギリスとフランスに拠点を置いて活動していることを決して忘れてはならない。普通の作家ではないのだ。頭のおかしい作家なのである。しかも未だに自分の居場所をきちんと定めていないのだ。

 この絵本を子供たちに読んでも、子供たちにはきちんと理解できない。子供たちは単純な話でないと解らないのだ。しかしそれでいいのだ。この絵本は子供の頃には内容が解らなくても、大人になれば解ることができるものなのである。

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絵本を読む際の基本

●絵本の命運は絵本の質で決まる

 母親になってビックリすることは、この世には絵本が沢山あるということに気づくことではないだろうか? 女性であるなら小学生になった時点で絵本からは卒業する筈だ。それ以降、絵本を読んでいなかったために、まさかこんなに絵本があるのかとは知らなかったのだ。

 本を書くのに通常は3ヶ月間かかる。長ければ1年間かかるし、もっと長ければ5年はかかるものであろう。しかし絵本なら1ヶ月で完成することができるのである。頁数が少ないために真面目に働いていれば、次から次へと絵本を作り上げることができるのである。

 絵本作家がそんなに大量に絵本を作っても、名作になるような絵本は少ない。頁数が少ないために、その範囲内で内容がビシッと決まり、更に絵が文章を巧く活かすことができないと、出来のいい絵本は出来上がってこないのである。

 育児をする時、絵本を購入することになるのだが、絵本は量で勝負するものではないのだ。絵本の大半は駄作なのである。絵本は質で勝負するものなのであって、如何に質の高い絵本をゲットするかで、子供の喜びようが全然違うものになってしまうのである。

①自腹を切る

 ではどうすれば質の高い絵本をゲットすることができるのかといえば、それは自腹を切って絵本を買うしかないであろう。育児をしている時は家計が苦しいものだが、そういう時でも絵本の購入代金を出し続けていれば、自然と質の高い絵本を買えるようになるのだ。

②図書館で借りまくる

 もう1つの方法としては図書館で絵本を借りまくるということだ。絵本は普通の本に比べて駄作が多い以上、質の高い絵本はどのような物であるかを解るまでは図書館で絵本を借りまくり、特訓しまくった方がいいのだ。

③精読してみる

 絵本を買った場合、母親としては子供を相手にただ単に読むということをしてしまうものだ。しかしそれでは絵本の価値が解らないのであって、子供が寝静まった後に、自分が1人でその絵本を精読してみるべきなのである。じっくりと読めば絵本の評価が解ってくるものなのである。

●母親は女優になったつもりで読むべし

 絵本は普通の本のように黙読するようにはなっていない。音読するようになっているのである。当然にまずは母親が絵本を音読することになる。その時、ただ単に声に出して読めばいいというものではないのである。

 母親は自分が女優になったつもりでも読むべきなのである。母親の表現力で絵本の面白さも左右されることになるのだ。平凡な内容の絵本であっても、母親が巧く表現してしまえば、子供は興味深々になって聞くようになるものなのである。

 自分が絵本を音読していると、段々と絵本の良し悪しが解ってくるようになるものなのである。自分が読んでみて、話がスムーズに流れていくのは、やはり面白い絵本なのである。それに対して、自分が読みづらいと思ってしまう絵本はどう考えても詰まらない絵本なのである。

 子供と雖も既に性差が出て来るものだ。女の子の方が理解力は高いし、男の子の方は理解力が低い。女の子はシンデレラストーリーが大好きだし、男の子は冒険物が大好きである。そこを巧く掴まないと、母親が真剣になって絵本を読んでいるのに、子供は上の空になってしまうのである。

 母親が絵本を読む際に注意すべきことは、出産を経験したために涙腺が緩んでおり、それで絵本を読むと泣き出してしまう母親たちが出て来るのである。こうなると絵本を読んで貰っても子供は何も解らないので、そういう時は夫に代わって貰った方がいいのだ。

●子供は好きな絵本なら何度も読んで欲しいと願うもの

 子供も絵本の内容が良く解っていない時は母親の言い成りになるが、子供も絵本の内容が解ってくると自分の好みをはっきりと主張してくるようになるものだ。この好みというのが、実は育児に於いて非常に大事なのである。

 子供は或る時期から自分が好きな絵本を何度でも読んで貰おうと願うようになるのだ。母親としては「また~ッ!」とか言ってしまうものだが、そういうことをやっていると子供の大事な才能を潰してしまうことになるのだ。

 絵本を繰り返し読むことが脳のシナプスの量を劇的に増やすのである。絵本は1回読んだ所で脳を少し刺激する程度なのである。しかし絵本を繰り返し読むと脳が大いに刺激され、脳のシナプスが増えまくるようになるのだ。

 どの分野でも成功者たちの話を良く聞いていると、必ずといっていいほど、「自分がいつも同じ絵本を読んで欲しいとせがんで、母親を困らしたことがある」という話を聞くものだ。あの時期に絵本を繰り返し読んでくれたからこそ、高い知能を持つことができたのである。

 母親が仕事に忙しくて、子供の要求を拒否してしまうと、子供は大事なチャンスを失ってしまい、その後、どうやっても能力が伸びなくなってしまうのである。出生時から6歳までは脳のシナプスが増えまくっている時期なので、母親が仕事をしているなら、せめて夜には子供の要求を聞き入れた方がいいのである。

●母親以外の者に読んで貰う事の大切さ

 母親の表現力には限界がある。自分がどんなに面白おかしく読み聞かせても、自分の或る一定の範囲内の表現力しか出せないのだ。そこでたまには母親以外の者に絵本を読んで貰うようにすべきなのである。

 まずは「夫」であろう。夫が絵本を読むと、自分とはまるで読み方が違うことに気づくものだ。夫は男性である以上、その読み方は直球勝負である。女性である妻はこういう光景を見ると、逆に勉強になるものなのである。

 次に「祖母」である。自分の母親か、夫の母親を動員して、子供たちに絵本を読んで貰うようにすべきなのである。母子と違って、祖母と孫とは巧く距離が保てるので、絵本を読み聞かせるのは結構巧いのである。お婆ちゃんが自宅にいる家庭の子供は思慮深くなるが、母親のように愛情を込めて絵本を読むことも大事だが、祖母のように自分の人生経験に基づいて絵本を読むことも大事なのだ。

 図書館などでは「お話会」と称して「紙芝居」を上演しているものだが、そういうものを見つけて行った方がいいのだ。子供たちに紙芝居を見せると本当に食いつくように見るものなのである。絵本は何度でも読めるが、紙芝居は1度きりなので、たまには紙芝居による刺激も用意しておくべきなのである。

 子供にお稽古事をやらせるもの確かに大事なことかもしれない。しかし母親が絵本を読み聞かせるのは、育児の基本的な行為に属するゆえに、母親が絵本を読むことを億劫がっていると、そのために子供の能力が下がってしまうものなのである。我が子を優秀な子にさせたいのなら、絵本を何度も読み聞かせるべきなのである。

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