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キリスト教の教祖「イエス」は、実は仏教徒だった!?

●人工宗教は時間の経過と共に捻じ曲がって行くもの

 宗教というのは文明誕生以前から存在し、文明誕生に於いて最大の成果を上げたものである。だから人間というのは宗教を作れない。人間に出来ることは古代から伝えられてきた宗教をひたすら守ることなのであって、それを後世の子孫に伝えていかなければならないのだ。

 しかし人間たちの中にはこの「崇高なる義務」を果たせない連中が出て来る。文明の基盤である宗教を保守するのではなく、自分の悩みを解決することを優先し、自分の苦悩を解決することのできる教えを宗教であるとしてしまったのである。

 この宗教の激変を最初に引き起こしたのが仏教の教祖である「釈迦」である。釈迦は今までのバラモン教の教えを否定し、自分の考えを最優先してしまったのである。確かに釈迦は「煩悩からの解脱」という素晴らしい教えを説いたが、バラモン教の歴史を継承しないという、とんでもない間違いを引き起こしたのである。

 釈迦の教えがそんなに素晴らしいのなら、釈迦の教えを純粋に守るべきなのである。なぜなら釈迦の言っていることが全てだからだ。しかし仏教は時間の経過と共に捻じ曲がって行く。原始仏教から小乗仏教へ、そして大乗仏教へと、後世の僧侶たちによって釈迦の教えとは似ても似つかない物になってしまったのである。

 この仏教の異常な姿を厳しく批判したのが「富永仲基」である。富永仲基は『出定後後』に於いて「加上説」を展開し、仏教の教義の殆どは後世の僧侶たちが捏造したという事実を論証したのである。彼の学説は江戸時代に於いては奇抜な物であったが、現代の仏教学では彼の学説こそが通説なのである。

●原罪は人類史上最大の冤罪

 仏教ですらこの有様なのである。仏教と同じく人工宗教に属するキリスト教やイスラム教だって、これと似たような現象が起こる筈なのである。人工宗教は必ず後世の宗教家たちによって教義が捻じ曲がって行くものなのである。

 キリスト教が仏教と大いに異なる点は、教祖が早死にしてしまったということなのである。釈迦のように80歳まで生きれば自分の思想を深めることができたが、イエスは30代半ばで刑死しており、自分の思想を深めることができなかったのである。

 イエスの教えは山上の垂訓やイエスの言行などで知ることができるが、かといってそれらは断片的な物なのであって、論理体系が出来上がっている物ではないのだ。キリスト教の信者ならイエスの言葉に感動するものだが、宗教を成立させるためにはそれだけではダメなのである。「神学」というものがどうしても必要になってくるのだ。

 イエスの欠点を補ったのがパウロなのである。パウロはイブがヤハウェの禁令に反して知恵の実を食ったことを「原罪」と言い、ヤハウェは一人子のイエスに贖罪死させた考え、イエスの死は人類の罪を赦す新しい契約の保証であるとしたのである。

 イエスは刑死後、3日目に復活したのであり、この復活を信じる者たちこそがキリスト教徒なのである。

 キリスト教徒はイエスの教えを奉じているわけではないのだ。パウロの教えを奉じているのである。キリストj教は「パウロ主義」に立脚するものなのであって、イエス主義に立脚するものではないのだ。イエスの教えは別にどうでもいいものなのである。

 そもそも原罪というのは実に異常極まりない教えなのだ。「人類史上最大の冤罪」とも言うべきもので、イブが犯した罪を以て、それを全人類の罪されては堪ったものではないのだ。罪は個人が背負うべきで、その罪を他人に擦りつけてはならないのだ。

●イエスは本当にユダヤ教徒だったのか?

 パウロは「律法から信仰へ」と大きく舵を切るのだが、これはイエス自身、ユダヤ教の律法を忠実に遵守するということがなかったからこそ出て来た考え方なのである。ここで大きな疑問が生じる。それは「イエスは本当にユダヤ教徒だったのか?」ということなのである。

 ユダヤ教徒にしてjは余りにも不自然な点が多すぎるのである。まずイエスは割礼をしていない。30代の男性だというのに結婚をしていない。律法を重視していない。挙句の果てにはユダヤ教の神殿で乱暴狼藉を働いているのだ。

 極めつけは「マグダラのマリア」の存在で、この女性は売春婦であったとユダヤ教徒たちは伝えているのである。ユダヤ教はイスラエルの地に広まって行く過程で地母神系の宗教と戦った経歴から、売春婦を激しく嫌う宗教なのである。それなのにイエスは売春婦を連れて宣教活動をしているのである。

 イエスがユダヤ教徒ではなく、外国人と考えるわけにもいかない。イエスはベツレヘムで誕生したと明記されているし、ユダヤ教のラビたちとユダヤ教に関して論争しているので、ユダヤ教を知らない外国人ではないのだ。

 キリスト教徒たちのように「イエスを救世主である」と考えてしまえば、イエスの本当の姿は解らなくなってしまうのだ。「イエスが救世主である」ということを一旦棚上げし、生身のイエスを調べていけば、イエスの本当の姿が見えてくるのだ。

●キリスト教は仏教のパクリ?

 今回紹介する本はこの本!

 ホルガー・ケルステン著『イエス復活と東方への旅』(たま出版)である。

  イエス復活と東方への旅

 この本はキリスト教徒たちにとって余りにも衝撃的で、「イエスは仏教徒であった」と論証したものなのである。「そんなこと、絶対にありえね~」ではなく、これは事実なのである。というか、殆どの人たちは宗教史に対して余りにも無知すぎるのである。

 キリスト教が誕生する前、インドでは大乗仏教が起こり、僧侶たちがインドを飛び出し、全世界に向かって布教しまくっていた時期だったのである。大乗仏教が東方に伝播していったことは仏教史で知っている筈だ。しかし大乗仏教は西方にも伝播していったのである。

 実はイスラエルに大乗仏教の僧侶たちが来ていたのである。それが「東方の三博士」なのである。イエスは誕生の瞬間から仏教に接触していたのである。ということはイエスの両親のヨセフとマリアも仏教徒だったということになるのだ。

 イエスは青年時代にエッセネ派に関わることになるのだが、このエッセネ派こそユダヤ人たちの仏教系宗教団体だったのである。だからこそエッセネ派の人たちで宗教施設に住む人たちは結婚せず、独身でいるのである。結婚を重視するユダヤ教から行き成り出家という考えは出て来ないものなのである。

 イエスは行き成りキリスト教を宣教し始めたのではないのだ。エッセネ派の僧侶として宣教し始めたのであり、エッセネ派の支援があればこそ、あれほどまでに勢力を拡大することができたのである。新興宗教団体がエルサレムに入城するというのは無理がありすぎるが、既にエッセネ派が本拠を持ち、一部隊であるイエスの集団がエルサレムに入城するとなれば、それは有り得る話になってくるのだ。

●イエスは磔刑にされても死んでいなかった

 イエスは宣教を開始してもエッセネ派の一員だったと解るのが、イエスが処刑されて3日後に復活したことなのである。キリスト教系の宗教団体なら、どこの教団でもイエスは磔刑で死んだとされている。しかしそれは違うのだ。福音書を良く読んで行くと、イエスは明らかに誰かに助けられて生き返ったのである。

 イエスは復活した際、単独で復活したのではないのである。他に2人の男たちがいたのである。この男たちは12使徒ではない以上、エッセネ派の人物であと推定されるのである。彼らがイエスに蘇生処置を施し、それでイエスは生き返ることができたのである。

 ということは、イエスは仮死状態にあったということなのである。それが解る記述が、イエスが磔刑を受けて息を引き取る前に、イエスはなぜだかワインを飲んでいるのだ。このワインの中にアヘンを入れておけば、イエスは仮死状態になることができたのである。

 イエスは復活したとしても、そのままイエスラエルの地にいては拙い。だから弟子たちはイエスをイスラエルの地から逃し、「イエスは昇天した」と言い触らしたのである。事実、イエスはその後も生きていたという伝承が各地に残っているのである。

 パウロはダマスコでイエスに会っていたのである。だから目から鱗が落ちるような衝撃を受けたのである。パウロがイエスに出会ったのは、イエスが死んだとされる2年後のことなのである。そんなに遠い日ではなかったのである。

 イエスはパウロを西方に派遣し、自らはローマ帝国を脱出して東方に向かったのである。イエスがメソポタミアやペルシャやインドを渡り歩いたことは、これらの国々の文献に残っているのである。そしてイエスはインドのカシミールで死んだのである。当地にはイエスの墓間でもが存在しているのである。

●マホメットは知っていた?

 キリスト教はどの宗派であってもパウロ主義に立脚するために、イエスは復活した後に昇天したことになっている。しかし実際のイエスは昇天とされた時期よりも遥かに長く生き延びているのである。マホメットはイエスが生きていたことを知っていたからこそ、『コーラン』でキリスト教の教義を否定したのである。

 イスラム教をただ単にイスラム教と見るのは大きな間違いを引き起こす。イスラム教はキリスト教のトマス派である。トマスはイエスと一緒に東方に行ったのであるが、このトマスこそイエスの教えを最も深く理解した弟子なのである。

 アラビア半島ではキリスト教のトマス派が主流を占めており、そこにマホメットが現れてイスラム教を打ち出してきたために、マホメットはいとも簡単に改宗させることができたのである。マホメットが最終預言者だからそういう偉業が出来たと思い込んでいると、イスラム教の本当の姿が見えなくなってしまうのだ。

 イスラム教は自分たちがキリスト教から独立して行くために、イスラム教がキリスト教のトマス派である事実を消し去ってしまったのである。だからキリスト教とイスラム教の関係が解らなくなってしまうのである。

 イスラム教徒たちがキリスト教たちに幾ら侵略を受けてもイスラム教を棄教しない理由は良く解る。キリスト教の教義を捻じ曲げているのではキリスト教徒たちであって、イスラム教徒こそイエスの教えを正しく継承していると考えるからなのである。

●大乗仏教の勃興期の姿が解る

 当たり前のことだが、イエスは仏教徒であったとしても、イエスの教えは釈迦の教えとは違う。法華経の教えとも違うのである。日本人は大乗仏教の最高教典である法華経に慣れてしまっているために、大乗仏教の初期の姿がイマイチ解らないのだ。

 小乗仏教で出家した僧侶たちが寺院で暮らし、戒律を守りながら宗教活動を行い、解脱することを目指すものだ。一般信者たちは僧侶たちを支えるだけ存在なのであって、僧侶が一般信者たちを教化していくということはないのだ。

 この小乗仏教の姿を批判したのが初期の大乗仏教の僧侶たちなのであって、寺院を出て積極的に布教し始めたのである。しかも身1つで布教していくために、僧侶たちは世界の各地へと布教していくことができたのである。

 その際、仏教の教義も捻じ曲がることになる。イエスの言動を調べていくと、この世に於いては人々の霊魂は穢れた状態にあり、それを洗礼と聖油と呪文で真の信仰に目覚め、神と人間が直結できるようにするということなのである。

 その手助けをするのが出家した僧侶たちなのである。僧侶が神と人間の中に立つわけではないが、出家した僧侶というのは絶対に必要なのである。ローマカトリック教会は聖職者を定めているが、プロトスタンティズムは聖職者の存在を認めない。聖書至上主義に走ることが、必ずしもイエスの教えに忠実になることではないということが良く解る。

●我はイエスが仏教徒であることを恥とせず!

 新約聖書の中には「我は福音を恥とせず」という言葉があるが、イエスが仏教徒であると解った今、「我はイエスが仏教徒であることを恥とせず」と言いたい。イエスが仏教徒であると解れば、イエスの本当の教えが解るからなのである。

 イエスが仏教徒であるという事実は、キリスト教徒たちの殆どが認めないであろう。しかしそれではイエスの教えを理解していないということになるのだ。現在のキリスト教はパウロ主義に立脚しているのであって、イエスの教えに立脚しているのではないのだ。

 パウロ主義の放棄はイエスの教えの本当の価値が解ると同時に、パウロ主義に立脚する全てのキリスト教の宗派は潰れて行くことであろう。それでいいのである。偽者のキリスト教を幾ら信仰しても、決して救われることはないのだ。

 宗教に於ける歴史的事実は、「釈迦の教えは地球上の全域に広がっていた」ということなのである。それほど釈迦の教えは素晴らしかったのである。宗教の教祖というのは人々の想像を絶する「天才」なのであって、凡人の視点で考えるからこそ、釈迦の凄さが解らないのである。

 ところが仏教はその後、教義が捻じ曲がっていったし、キリスト教も教義が捻じ曲がっていたのである。これこそ人工宗教について回る宿命なのである。宗教というものは人工的に作り出すことができないのである。その真実を全人類が解るまで、「宗教の誤謬」は存在し続けるのである。

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コメント

タマティーさん、こんにちは♪
タマティーさんの語られる宗教の話、好きですo(*^▽^*)o
話の中にはまだまだ分からない事も多いのですが、本当に勉強になりますヽ(´▽`)/
子供の幼稚園がたまたま「プロテスタント系」の幼稚園で、
タマティーさんの言葉に胸が痛むのですが、幼稚園での礼拝で話を聞いてもいまいち受け入れがたく、なぜかしら?と不思議にと思っていましたが、タマティーさんのお話しに理由を見つけました!イエスは仏教徒だったと聞いて、そっちの方が受け入れられるなぁ~と思いながら読み進めておりました。

タマティーさんの話に全然ついていけるレベルにありませんが、宗教の話は奥が深くて面白いですね!

投稿: おだんご | 2012年10月 9日 (火) 21時06分

イエス・キリストが、仏教徒だったとは、初耳、しかし、エッセネ派が、仏教系であったとの情報はどこから得たのですか?私は、キリスト教徒ですが、イエスが、エッセネ派に属していたとの歴史的根拠を示さないで、あたかもそのように情報発信するのは、いかがかと思いますが。イエスが未婚であることが、ユダヤ教徒としておかしいというのは、聖書を通読したことのない方の意見で、パウロ(パリサイ派)も、エリヤも、生粋のユダヤ人、ユダヤ教徒でありながら、独身です。ということで、荒唐無稽なお話は、ほどほどにしたほうが良いかと思います。

投稿: hirotan | 2012年10月10日 (水) 19時43分

hirotanさん、怒らないで下さいね。
俺だって、この本は凄い情報だと思ったからこそ、紹介しただけなんです。

まず、エッセネ派やキリスト教が登場する時期というのは、大乗仏教が勃興し、世界各地に僧侶を派遣していた時期とピタリと重なるということです。

ユダヤ教は家族の存在を前提する宗教なのですが、エッセネ派のように独身を前提とした宗派が出て来ることは基本的に有り得ないんです。信者と聖職者を完全に分離していることや、聖職者に独身を強いていることをみれば、宗教を知っていれば「これは仏教団体だ!」っていうことになるんですよ。

パウロに関してですが、パウロはゲイであった可能性が高いと、この著者は言っています。だから独身なんです。そして回心によって同性愛を捨てたからこそ、『ローマ人への手紙』に見られるように、同性愛に対して憎悪をぶちまけているんです。これは元同性愛者が良くやるパターンなんですよ。


「イエスが仏教徒だった」という情報は、ローマカトリック教会にとっては非常に拙い情報であった筈です。だからこそそれに関係する文献を抹殺し、ヨーロッパの方には残っていないんです。
しかしアラブやインドでは、イエスとトマスが一緒に宣教したので、イエスに関する文献が残っているわけです。
インドにイエスの墓があるとなれば、やはりインドにまで来たのでしょう。

イエスが仏教徒だったと解ると、イエスの言っていることが非常に良く解るようになるんです。現在のキリスト教はイエスを救世主としながらも、「パウロ主義」に立脚しているだけなんです。
パウロ主義を取り除いて、イエスの真意が解れば、本当に「なるほど!」と思えることを、イエスは言っているんです。


まあ、この本を一度読んでみて下さい。キリスト教の信仰に於いて、絶対に無駄にならないし、それどころか非常に有益になると思います。

投稿: タマティー | 2012年10月11日 (木) 06時56分

丁寧なご返答ありがとうございます。まだ、この本を読んでおりませんので、詳しくは申し上げられませんが、まず、エッセネ派は、独身を基本としますが、家族も形成したと辞書にあります。さらには、イエスがエッセネ派であったとの確証は何一つ存在しません。さらには、イエスは、ご自身を、「神の子」と自称されますが、万が一仏教を信奉しているなら、そのような表現はないはずです。また、イエスは、律法を尊守されていた、否律法の一点一画までも、成就すると言われた方が、律法を破り、他の宗教に帰依するはずもないでしょう。パウロがゲイであるとのことですが、どこにそのような根拠がありますか?更には、パウロは、ゲイを憎悪していたとのことですが、旧約聖書そのものが、同性愛に対し、死をもって臨むべきと記していますので、パウロがそのように記すのは当然のことです。また、彼の改心が、同性愛からのものとは、どこに書いてあるのですか?彼の改心は、キリストと、その弟子に対する迫害の過ちを認めたことがきっかけであり、「目からうろこ」の記事は、その時のことであることはご存知でしょう。現在のキリスト教が、パウロ主義にあるとのことですが、キリストとの教えと、パウロの神学の差異は何ですか?私には、そのような差異を見ることができません。新約聖書全体を、あるいは、聖書全体を読まれるなら、そのようなキリスト教理解は、まったくの事実誤認であることがわかります。一度、偏見の目を持たずに、聖書を通読されることをお勧めします。それと、学者の間でエッセネ派と目されるバプテスマのヨハネは、「ナジル人」と呼ばれる、特別な誓願を立てるユダヤ教の信仰形態であり、仏教とは全く関係ありません。色々と批判ばかりしておりますが、やはり、聖書全体をよく学んだ上で、以上のような発言をしないと、多くの人に謝った情報を広めることになるのではないか、と危惧します。

投稿: hitotan | 2012年10月12日 (金) 01時18分

タマティーさん、いつも興味深い本をご紹介頂きありがとうございます

夫がアメリカ人で(ボストン育ちです)キリスト教を信仰しています。この本の内容を話してみると、「NO!」どころか、「インドにお墓があって、仏教を信仰してたんだそうよ」と言うと、青い目でじぃーーっと私の目を見て、話しを聞いていました。興味を持ったようです。特に否定はしませんでした。

私はこの本を読んでからコメントをだすのが筋だと思うので、あとは控えます。
私はタマティーさんのブログでのコメントを信頼しています。それは、私が母乳と布オムツで育ち、第四子末っ子で(兄と姉の間に男の子がおり亡くなりましたが)、勉強もスポーツも成績が良かったんです。そして、母は私を生んだのが27歳です。
何より今子育て中でも、疲れたとかないんです。体力があるんです。
さっさと結婚して、子供を3人以上生むと、その子供まで恩恵を受けるという事をまさに実感しております。

投稿: みっち | 2012年10月12日 (金) 15時49分

みっちさん、宗教のことで夫婦喧嘩はしないで下さいね。

アメリカ人はキリスト教の信仰度が高いし、しかもボストンは保守的な都市ですからね。
日本人はアメリカ人と宗教が違うだけで、無差別爆撃を受けるわ、原爆を落とされるわ、憲法まで変えさせられるわ、凄まじい悲劇に見舞われたんですから。
アメリカ人には安易に宗教の話は持ち出さないようにすることですよ。

この本が凄いのは、イエスの復活がエッセネ派の支援によってなされたというのが良く解るということです。
この手の物には必ずトリックがあるもんですよ。
しかもパウロは死んだ筈のイエスと出会い、それでパウロは西に向かい、イエスは東に向かったというんです。
考えてみれば、パウロはイエスの死後2年で回心しているわけだから、そう遠くはない時期に回心は起こったんですよ。
そう言われると、なんでパウロがあんなにも勇猛果敢に宣教しまくったのか良く解りますよ。

この本の原著はドイツ語で書かれた物ですが、恐らく英語にも翻訳されていると思います。
Holger Kersten『JESUS LIVED IN INDIA』
で探せば、きっと出て来ることでしょう。


因みに、仏教の「弥勒菩薩」は、恐らく「イエス」のことだと思います。
「弥勒菩薩」は「マイトレーヤ」、救世主は「メシア」なので、語源的に同じ物ですよ。
「日本ではキリスト教が広まらない」ということが言われますが、日本にはとっくの昔にキリスト教は伝わっていたんですよ。
キリスト教は仏教との関係を切り捨てて広がっていったので、どうしてもこの辺りのことが理解できないのでしょう。

投稿: タマティー | 2012年10月13日 (土) 07時21分

初めまして。こちらのページがずっと思っていたことと一致していたので驚いています。
ただ、仏教には釈迦が最後の死の直前に涅槃経で言ったことと、仏教の中に脈々とある未来への予言があり、聖徳太子がその予言に基づいて自分の事を「日出処の天子」と述べています。
キリスト教の福音書の中に仏教の説話が存在するのと同じように捻じ曲げられたきじつと共に伝えられている真実もあるように
法華経のすべてが捻じ曲げられたものではなく、釈迦が言いたかった事や真実も共存しているとこちらのページを読んで思いました。

投稿: 光彩 | 2016年1月18日 (月) 11時01分

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