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2013年1月

ヘレン・ケラーの美談の裏側

●アメリカ人たちの恐ろしい食事

 どこの民族でも、自分たちの歴史や伝統や習慣に根ざした食べ物を食べる。そうでないとその環境で生き残っていくことができなかったからだ。日本人なら和食だし、中国人なら中華料理だし、そういう民族料理が大事なのである。

 しかしこの世界にはそういう民族料理を持たない国民がいる。それがアメリカ人なのである。アメリカ合衆国というのは主にヨーロッパ大陸からの移民によって作られたから、ヨーロッパ諸国の料理があると思いきや、実はそうではないのである。

 アメリカの料理は肉中心で、野菜が異様にないのである。ヨーロッパ諸国でも肉を食うがそんなに肉を大量に食うものではないのだ。しかも南ヨーロッパは野菜が豊富だし、野菜が取れにくい北ヨーロッパにしてもピクルスを大量に作って野菜をしっかりと補っていたのである。

 その肉食過多野菜不足の食生活に「珈琲」が加わるのである。そこに白砂糖を入れるのである。珈琲は覚醒作用を起こすと同時に、ビタミンやミネラルを奪うのであるが、それが白砂糖によって加速されることになるのだ。

 こういう食生活で暮らしていれば、女性たちが妊娠しても、胎児は栄誉不足の中で育ってしまい、その悪影響はモロに出てしまい、その胎児が赤ちゃんになってもそれは先天的な不利として生涯に亘って残ってしまうのである。

 しかも母親の母乳刃栄養不足から質が非常に悪い。更に母乳育児を拒否し、ミルクでの育児をしようとするのである。こうなれば非常に免疫力の弱い赤ちゃんになってしまうのは当然のことなのである。

 ヘレン・ケラーはアメリカ人だったからこそ生まれた女性だったのである。

●三重苦は嘘だった

 ヘレン・ケラーは赤ちゃんの時は健康であっても、2歳の時に罹った熱病で「盲聾唖」の三重苦を背負うことになる。なぜヘレン・ケラーが三重苦を背負ってしまったかといえば、「母乳の質の悪さ」と「授乳期間の短さ」が最大の原因なのである。ヘレン・ケラーの両親はドイツ系アメリカ人であるために、野菜の摂取量が少なかったし、またミルクで育ててしまったからだ。

 ヘレン・ケラ-は三重苦があったために、我儘に育ってしまった。そこで両親はパーキンス盲学校に家庭教師を養成し、その時にやってきたのが、アン・サリバンなのである。アン・サリバンは子供の頃には弱視で、この当時には手術によって弱視を克服していたという経歴があったのである。

 アン・サリバンは我儘なjヘレン・ケラーに指文字で言葉を教え、ヘレン・ケラーは徐々に言葉を理解していく。例えば「水」なら、水に手を触れさせ、その後、掌に「WATER」と指で字を書くのである。こうやって単語を教え、そして文章にしていくのである。

 しかしこれはどうも嘘らしい。

 実を言うと三重苦は嘘だったのだ。

 ヘレン・ケラーは声に関しては或る程度克服していたのである。ヘレン・ケラーが写った映像を見ても、ヘレン・ケラーは意図的に発生をしていないのである。普通、聾唖者というのは全く話せないのではなく、言葉にはなっていない声を発してくるものなのである。

 ヘレン・ケラーは三重苦を売り物にして全世界で有名になったために、ヘレン・ケラーは人前で話さなかったし、家族たちも沈黙してしまった。しかしヘレン・ケラーが死んだ後、「ヘレン・ケラーはちゃんと話せたよ」と親族の間から秘密が暴露されてしまったのである。

●実は社会主義者だったヘレン・ケラー

 ヘレン・ケラーは単なる身体障害者ではない。南部の銘家の生まれのために、ラドクリフ女子大学に進学しているのだ。これは現在、ハーバード大学に吸収されているので、当時のアメリカ人女性としては最も高度な教育を受けたのである。

 この当時のアメリカ合衆国は産業革命によって大発展を遂げていたが、知識人たちは真っ赤で社会主義が蔓延していたのである。ヘレン・ケラーも大学教育を受けた以上、社会主義者になってしまうのである。

 ヘレン・ケラーはアメリカ社会党に入党し、婦人参政権運動や産児制限運動や公民権運動といった幅広く社会主義運動を展開した。ヘレン・ケラーは社会主義の思想に共鳴して何もやらない普通の社会主義者とは違い、本気になって社会主義運動をやっていたのである。

 婦人参政権運動というのは耳には聞こえがいいが、実は婦人たちを政治に参加させることで、労働者にするという運動なのである。当然、専業主婦は目の仇にされるのである。目指すは家族解体なのである。

 産児制限というのは、ドイツ系の人たちが主に唱えるものである。これは「優生学」という学問に基づくものであって、人類の中で白人こそが優秀であり、白人の中でもドイツ人こそが優秀であり、そのために人類の人口をコントロールしようとするものなのである。カール・マルクスがドイツから亡命したとはいえ、彼がドイツ人であったことを忘れてはならないのだ。

 公民権運動はアメリカ合衆国特有の運動で、奴隷制度があったために、黒人たちに公民権がなかったのである。そこで社会主義者たちは黒人たちに公民権を与えることで、社会主義陣営に組み込もうとしたのである。

 ヘレン・ケラーはロシア革命の際には支持を表明している。ソ連は国内では大量虐殺、国外には侵略戦争を展開しまくることになるのであるが、このような邪悪な国家をヘレン・ケラーは支持し続けたのである。

●身体障害者は身体障害者らしい生き方を見つけよ

 ヘレン・ケラーも生身の女性である以上、恋愛だったした筈である。アン・サリバンが疲労のために視力障害を発症させてしまうと、ピーター・ウェイガンという秘書を雇うことになった。その際、エレン・ケラーはこの男性と恋をするようになったのである。

 この事実、ヘレン・ケラーとアン・サリバンの関係が不自然だったことを物語っている。アン・サリバンはヘレン・ケラーを教育したという自負があったために、ヘレン・ケラーを自分の管理下に置いていたのである。だからアン・サリバンが去れば、ヘレン・ケラーは恋愛をすることができるようになったのである。

 両者は婚約までしたのだが、思想的な理由で両親の猛烈な反対に遭い、なんとヘレン・ケラーの母親から銃を突きつけられ、「もう二度と私の娘に近づくな」と脅迫したという。仕方なくこの恋愛は破局に終わってしまうのだが、ヘレン・ケラーはこれ以降、母親に怯えて恋愛ができなくなってしまうのである。 

 ヘレン・ケラーと日本の関係を挙げておくと、ヘレン・ケラーは幼少の頃に『群書類従』の編集者「塙保己一」のことを教えれ、彼を手本に勉強したと言われている。これがためにヘレン・ケラーが有名になると、日本を訪問し、これによって日本ではヘレン・ケラーの大ブームが起こるのである。

 ヘレン・ケラーはなんと87歳まで生きたのである。そのくせ彼女が打ち立て功績は何もないのである。三重苦の持ち主として有名になってしまったために、ただ世界各国を渡り歩くだけの人生を送ってしまったのである。

 ヘレン・ケラーは「奇蹟の人」ではない。彼女には何か1つの仕事を成し遂げたことがないのだ。身体障害者は健常者と違って、自分の行動に大いに制限がかかるものなのである。だから1つの仕事に絞り、それに専念すべきなのである。そうやって仕事をするからこそ、身体障害者であっても何かの功績を打ち立てることができるのである。

 身体障害者は身体障害者らしい生き方を見つけるべきなのである。自分が身体障害者である以上、健常者と比較するのは無意味なのである。寧ろヘレン・ケラーの人生は「身体障害者が世界を駆けずり回っても、なんも変わらない」ということを教えてくれたのである。塙保己一のように身体障害者であっても1つの仕事に専念すれば、必ず功績を打ち立てることができるものなのである。

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鬱病三昧

●普通の人でも鬱病には罹るもの

 誰でも時には気分が落ち込んだりすることはあるものである。それと同じように誰でも鬱病に罹る可能性はあるのだ。鬱病に罹るような人は特別な人であると思い込んでいると、いざ自分が鬱病を発症してしまった時には悲惨なことになってしまうのである。

 現代はとかく鬱病になり易い環境にあるのだ。幾ら就職しても、自分が熱中できる仕事に必ずしも就けるわけではないからだ。労働価値説に囚われてしまうと、自分の時間を切り売りしてお金を稼ぐ考え方を持ってしまうので、これでは頭がおかしくなるのは当然のことなのである。

 それに都会などに住めば、自分の人間関係が多くなり、その人間関係のためにギブアップしてしまうのである。人間は最大で300名としか付き合えないのであって、それを超えてしまうと、まともな友情を作れなくなるのである。

 トドメが食事や睡眠や排泄の悪さである。栄養バランスを崩した食事をしまくっていると、当然に睡眠の質が悪くなるし、排便だって悪くなる。そういう状況が長く続けば、徐々に鬱病が始まり出すのは当たり前のことなのである。

 今回紹介する本は、通常のルートでは手に入りにくい本である。

 はやしたけはる著『うつ病記』(アステラス製薬株式会社)

 はやしたけはる著『続うつ病記』(アステラス製薬株式会社)

 うつ病記

 作者は自動車メーカーに勤務し、38歳で鬱病を発症した。妻は元看護師であり、息子が2人いる。鬱病は鬱病でも、駅で飛び込み自殺を図ったほどの重症である。鬱病はただ単に欝状態になるだけでなく、自殺してしまうことも有り得るのである。

 この本は漫画なのだが、非常に良く出来た本である。実に丁寧に罹れていて、物語の展開が非常に巧い。鬱病に罹ったら、まずはこの本を読んで、鬱病に関する知識を持って欲しいと思う。医者の意見を鵜呑みにしていると、時と場合によっては悲惨な結果になってしまうこともあるのだ。

●仕事のストレス

 この作者が鬱病になってしまった直接の原因は「仕事のストレス」である。38歳という年齢が重要なのである。この時期は給料が急激に上がり出す時期なのであって、地位の上昇によって責任が増大してしまうのである。

 通常、仕事が次から次へとやってくる。大急ぎで仕事をこなしていかないと仕事が溜まってしまうことになるのだ。入社してから10年以内に「仕事の仕方」をきっちりと習得していないと、30代後半から酷い目に遭ってしまうのである。

 作者は明らかに過剰労働なのであるが、それを最悪の形までに悪化させたのは上司の手厳しい対応なのである。仕事というのはリラックスしてやった方がスムーズにいくのに、この世には怒りながら仕事をしている人がいるものである。そういう人物が上司になってしまうと、部下は最悪になってしまうのだ。

 この漫画を読めば解るが、上司の対応こそ鬱病を決定的にさせてしまったのである。問題は部下に鬱病を発してしまったのに、この上司は交代させられていないということだ。鬱病患者が出た場合、個人の責任だけにしてしまうのではなく、会社の組織の在り方にも問題があると見ておかないと、鬱病患者が次から次へと発生してしまうことになるのだ。

 仕事でストレスを抱えたのなら、どこかでそのストレスを発散すればいいものだが、この作者にはないのだ。自分が精神病院に入院して、漫画を描くことでストレスを発散し始めると、病状は落ち着いていったのである。ストレスを発散する場所がなかったからこそ、ストレスを溜め込み、鬱病になってしまったのである。

●「四の結界」

 作者は妻と子供が2人の「四人家族」である。四人家族と聞いてピーンと来たのが「四の結果」である。家族構成が四人になると、「四の結界」が張られ、家族のエネルギーは内側に向かうのである。この時期に家族をきちんと固めないと、次に進むことはできないのだ。

 「四の結界」は「志の結界」でもある。

 「家族として今後どう生きていくべきか?」、夫婦できちんと話し合い、行動に移していかなければならないのだ。しかしこの漫画を読む限り、この作者は何もやっていないのだ。子供たちが幼いからといってそのペースに合わしていると、とんでもない事態が起こってしまうものなのである。

 「四の結界」は「死の結界」でもある。

 家族構成が四人になった時、自分の両親に不幸が訪れたり、家族の中で誰かが病気になったり、誰かが死んでしまうことになるのだ。作者が鬱病を発症したのは、まさに「死の結界」が張られていた時なのである。

 下の息子はもう喋れるようになっているので、そろそろ第三子を孕むべきだったのである。赤ちゃんを2人も生んだのに、「もう1人欲しい!」と思わなかった妻にもそれなりの責任があるのだ。もしも年齢的に妊娠が難しいというのなら、夫は自分の両親を自宅に住まわせるなどして、「死の結界」が壊れるようにすべきなのである。

 鬱病患者たちを見ていると、家族構成が四人の時に起こった例が非常に多いのである。気をつけるべきは兄弟姉妹が2人しかいない人たちで、こういう人は大人になっても鬱病を発症し易いのである。早くに結婚をして、子供を3人以上生み、「死の結界」から逃れるようにすべきなのである。

●妻の作る食事

 夫が欝病になり、しかも精神病院にまで入院してしまうのだが、この妻は実に献身的に行動している。子供が二人いる状態では、母親の仕事をこなしながら、父親の代わりをも務めなければならないので、結構大変なのである。

 しかし「ちょっと待て!」と言いたい。

 この妻が「元看護師」ということに物凄く気にかかるのである。まずはこの妻が作る食事である。漫画では朝食のシーンしか出ていないが、この朝食、実に変なのである。朝食は食パンと飲み物だけなのである。これでは頭脳労働をする夫は栄養的にギブアップしてしまうことになるのだ。

 食パンは精白小麦で作られるのだが、精白小麦を食べ続けると、或る日突然に頭の中が真っ白になってしまう現象が発生するのである。しかも市販の食パンにはマーガリンが入っているので、これが脳に最大級のダメージを与えてしまうのである。

 オカズのない朝食を食っている以上、夕食の食事は高が知れた物であろう。看護師というのは看護業務は出来ても、栄養学には全くの無知なのである。大体、看護師は栄養学のことを教えられていないのである。

 頭脳労働は肉体労働とは違う。頭脳労働に適した食事を作って貰わないと、脳が巧く機能してくれないのである。妻がどうでもいいような食事を作っていたら、夫の精神がやられてしまうのは当然のことなのである。

●治療と復職

 鬱病の治療は医者で決まる。この作者が良かったのは、仁大病院の理事長である舟橋利彦医師の治療を受けることができたということなのである。この医者の対応jは実に巧く、患者に下手なストレスを与えることなく、治療していっているのである。

 鬱病の治療で最も大事なことは、「休むこと」なのである。鬱病は脳が異常を起こしている以上、脳を休ませることを治していくのである。鬱病は薬では治らない。その代わり時間をゆっくりとかけて治していくものなのである。

 会社員なら、鬱病の発症は休業状態になってしまうので、どうしても復職に焦ってしまう。それが間違った考えなのである。仕事に追われ続けたことで、勤続疲労が起こってしまったのである。今まで「休むことの大切さ」を知らなかったからこそ、鬱病を発症してしまったのである。

 長期間に亘って休んだ以上、復職の仕方で結果が決まる。これには職場の上司や同僚たちの理解とサポートがなくてはならないのである。これが出来ないと、鬱病を発症した者は再度鬱病を発症し、挙句の果てには会社を辞めることになってしまうのである。

 この作者は自殺未遂を起こしたゆえに、自殺の動機が良く解るようになったのである。自殺者たちは

 「死にたいのではなく、逃げたい」

のである。苦しみから逃げたいが余りに自殺という選択肢を取ってくるのである。

 これに対して舟橋利彦医師は、

「鬱病は死なない病気なんだから、死んだら損ですよ~」

と言っているのだ。まさに名言である。鬱病に罹って自殺したいと思ったら、この言葉を思い出すことだ。

 鬱病は「心の風邪」のようなものであり、「心のアレルギー反応」なのである。人間は自分が思っているほど強くはないのだ。無理に強がって生きていると、些細なことで落ち込むようになり、そして鬱病に罹ってしまうようになるのだ。

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石焼イモでウンコドッサリ

●冬だからこそ石焼イモ

 人間には或る季節になると無性に欲しくなる食べ物がある。それがお菓子でなければ、大概、本当に体が必要だからこそ欲しがっているのである。冬の場合、なんと言っても「石焼イモ」である。冬になるとなぜだか石焼イモを欲しがるのだ。

 これにはちゃんとした理由がある。

 サツマイモは「陽性」の食べ物である。サツマイモを食べれば体を温かくしてくれるのだ。石焼イモはサツマイモを蒸かした状態にするので、「極陽性」の食べ物になってしまうのである。だから石焼イモを食べれば体が温かくなるし、冬に最適の食べ物として君臨し続けているのである。

 更に石焼イモは澱粉が糖分と化すために、内臓にとって非常に消化吸収し易い状態になるのだ。お米のように澱粉を一旦消化し、その後に糖分を消化していたら、膵臓がギブアップしてしまうのは当然のことなのである。

 しかもサツマイモは食物繊維が大量に含まれているので、これを食べれば小腸や大腸を掃除してくれて、大量のウンコを排出させるのである。便秘に悩む女性が石焼イモを食べたがるのは、便秘を解消させてくれるからなのである。

 石焼イモを夏に食うのはおかしい。夏の暑さのために体温が上がっているからだ。石焼イモは冬だからこそ美味しいのである。冬の寒さのために体温が下がっているので、それで石焼イモを食べると美味しいと感じてしまうのである。

●1本丸ごと食う

 石焼イモを食べる際には食べ方というものがある。

 それは1本丸ごと食べるということだ。サツマイモはそれ自体が完全栄養食品なのであって、どんなに大きなサツマイモを食べた所で太るということはない。食べ物で太るのは栄養バランスが崩れているために、消化吸収そして燃焼が巧くいかないからなのである。

 大体、お店で石焼イモを分割して売っていないものだ。必ず丸ごとである。分割にすること自体難しいし、1本をそのまま売った方がお店の人にとっても楽なのである。別に食いきれない量ではないのだ。実際に石焼イモを食べ始めれば止まらないことであろう。

 女性たちの中には「こんなに食べられない~!」とか言ってくる者がいるものだが、そういうことを言っているからこそ太るのである。完全栄養食品である以上、丸ごと食ってしまった方が健康にいいのである。

 石焼イモを一本丸ごと食ってしまえば、当然に夕食時には食欲が湧かなくなる。それでいいのである。事実上の「石焼イモ夕食」になるのである。石焼イモが主食であって、後はオカズを少し食えばいいのである。

 人間は普段穀物を主食にしているので、どうしても内臓が疲労してしまうものなのである。だからたまには穀物を食べないようにすべきなのである。こうなると断食になってしまうのだが、断食をせずとも石焼イモ夕食とかにすれば穀物を食わなくてもお腹が空かない状態になるのだ。

●翌朝、ウンコがドッサリ

 石焼イモを1本丸ごと食えばどうなるかといえば、翌朝、ウンコがドッサリと出るのである。大量の食物繊維が小腸と大腸を掃除してくれるので、ウンコが大量に出まくることになるのだ。食ってみれば解ることだが、普段のウンコの量よりも圧倒的に多いのである。

 だから便秘で苦しんでいる女性は石焼イモを食うべきであり、出来ることなら大きな物を食った方がいいのだ。そして便通がスムーズになるまで食い続けた方がいいのだ。排便は習慣の要素が強いために、排便を習慣化させないと、また便秘になってしまうのである。

 便秘でない人でも、加齢によってウンコの量が減少したり、排便が困難になったりするものだ。これは内臓の機能が衰えているからこそなるのであって、定期的に石焼イモを食って内臓の機能を回復させておいた方がいいのだ。

 冬になると石焼イモを欲しくなるのは、冬の寒さのために内臓が冷えてしまい、そのためにウンコが出にくくなるからなのである。だから冬にこそ石焼イモを食う。そうすることで内臓を温め、排便をきちんと行なえるようにするのである。

 女性の場合、冬の寒さによってウンコが出ない、出にくくなるというのは、確実に肥満を引き起こすのである。要は出ないウンコの分だけ太っているということなのである。だからこそ石焼イモで溜まったウンコを出してしまえば、体重だって軽くなるのである。

●石焼イモをお店で買う理由

 石焼イモは自宅で作るのは難しい。サツマイモをゆっくりと加熱し、飴状になるまで温め続けなければならないのだ。現代のように様々な仕事がある生活では、自宅で手間隙かけて作るより、お店で買った方が安上がりなのである。

 石焼イモは流しの車の業者から買うと値段が異様に高くなる。経済的なことを考えれば店舗のあるお店で買うべきであろう。しかも最近は石焼イモを作る機械が普及しているので、値段は100円から200円程度という廉価なのだ。

 石焼イモを買う際、そのサツマイモが大きいか小さいかを気にしてしまうものだが、女性ならそんなに大きな物は食べられないものだ。だから小さい物でも別に構わないのである。もっと欲しいのなら、2本買えばいいだけのことなのである。

 石焼イモが良く売れるお店は繁盛するものだ。石焼イモを好むお客というのは、健康的なお客が多いということだから、商品が確実に売れていくのである。ジャンクフードばかり売れるようなお店は一見繁盛しているかのように見えるけど長続きしないものなのである。

 家族で買い物に行ったら、子供たちにオヤツとして石焼イモを食わしておけばいいのだ。体が小さいゆえに分割して食べることになるのだが、そうやって健康的なオヤツに接していれば、好き嫌いの激しい子にはならないものなのである。

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カップラーメンで不妊症

●絶対に食べてはいけないカップラーメン

 カップラーメンは美味しい。

 真夜中のカップラーメンはもっと美味しい。

 なぜならカップラーメンの製造会社がそのように作っているからである。人間の味覚に対して最も美味しいと感じられるように人工的に味を作り出すから、大抵の人たちはカップラーメンを美味しいと思ってしまうのだ。しかも味覚が落ちる真夜中には、カップラーメンを食べれば如何なる料理よりも美味しく感じられるのだ。

 しかしそのカップラーメンには想像以上の高い損害fがあるのである。まずビタミンとミネラルが決定的に欠如しているので、お腹がいっぱいになってもパワーが出て来ないのだ。体がかったるいままだし、頭の動きだって鈍くなるのだ。

 更にはカップに塗り付けられらた可塑剤が熱湯のために溶け出し、これがそのまま人体に入ってしまうのである。この可塑剤にはフタル酸エステル類が含まれており、生殖機能に決定的なダメージを与えてしまうのである。これこそ環境ホルモンと言われるものなのである。

 要は、環境ホルモン剤をそのまま飲んでいるようなものなのである。

 男性の場合、精子の量が急激に減少し、最終的には精子そのものがなくなる。男性が「無精子症」だと診断された場合、カップラーメンを食べ続けたことにその原因を求めた方がいい。女性の場合、不妊症に罹るのは当然のこと、もしも赤ちゃんを産んだとしても奇形児を生む確率が高くなるし、性同一性障害を持った子供を生んでしまうのである。

 環境保護団体が環境ホルモンのことで大騒ぎしているものだが、川に住む魚はせいぜい「1ppb」しかフタル酸エステルは検出されないのだ。だがカップラーメンの汁にはなんと「1000ppb」のフタル酸エステルが検出されるのである。なんで環境ホルモンのことを問題視するなら、カップラーメンの製造販売禁止を訴えないのか、逆にその方が疑問である。

 大概の夫婦は結婚してからジャンクフードを食べなくなるものだが、それはジャンクフードが健康にとって非常に危険だからなのである。ジャンクフードは生殖それ自体を不可能にさせるという悪質極まりない損害を与えてくるのである。確かにジャンクフードは安いし便利である。その安さと便利さのためにそれらとは比較にならないほどの損害を発生させてしまうのである。

●登山家はなぜプラスチック製の容器を使わないのか?

 カップラーメンの容器は便利だからといって、では登山家が登山の際にプラスチック製の容器を使うのかといえば、実はそではないのだ。まともな登山家なら鍋や器は金属製の物を使う、金属製の方が遥かに便利だからだ。しかもそう簡単には壊れない。

 登山家たちがプラスチック製の容器を使わないのは、恐らく経験則上、プラスチック製の容器で作った料理ではパワーが出なくなるということが解っているからではないだろうか? 料理の度に環境ホルモンが溶け出しきて、それを飲んでいれば、登山家の体自体が蝕まれることになるのだ。

 通常、自宅なら鍋は金属製の物だし、器は陶器の物を使うものだ。これが安全だからである。家族の健康のことを考えればプラスチック製の物は食卓から追放すべきなのである。プラスチック製の物を使わなくても、充分に食事は成立するものなのである。

 今からでも遅くはない。カップラーメンの容器を金属製にすべきなのである。プラスチック製の容器でカップラーメンを販売している会社は資産没収の上、解散を命じるべきなのである。国民の生殖機能を破壊するということは、殺人罪よりも重い犯罪なのである。

 カップラーメンの容器を金属製にした場合、ゴミが随分と減るものである。ジュースの缶のように回収可能になるので、一旦そのリサイクルのシステムが構築されれば、国内で確実に資源を得られることになり、企業の方だってコストを大いに引き下げることができ、それは利益増大に繋がるのである。

●麺に目覚めよう!

 カップラーメンやインスタントラーメンに慣れてしまった人たちは、麺に対して余りにも無知すぎるのである。実を言うと、ラーメンというのは麺の中で最低ランクに位置する粗悪な麺であるのだ。粗悪だからこそ、あれこそ味付けを工夫し、具を盛り付けたりするのである。

 麺の中では「蕎麦」こそが最高ランクに位置する物なのである。蕎麦は完全栄養食品なので、これだけを食べれば事足りるのである。せいぜい薬味としてネギを付け加えればいいのである。だからまずは蕎麦を食うべきなのである。蕎麦には脳の動きを高める効果があるので、蕎麦を食っていると知能が高くなるのである。

 次に「うどん」「素麺」「冷麦」である。麦で作った麺はお湯で茹でると栄養分がかなり溶け出してしまうという欠点がある。そのためうどんにしろ、素麺にしろ、冷麦にしろ、それを単体で食うということはしないのである。必ずオカズ付きになるのだ。

 ラーメンは麺の中で最も粗悪な麺なのである。ラーメンで使用される麦は良い麦ではない。レベルの低い麦なのである。そのため濃いスープを作って、麺自体の味を誤魔化すということをやってしまうのである。こんな物を毎日食べていれば肝臓や腎臓を痛めてしまうのは当たり前のことなのである。大体、ラーメン屋の店長も、50歳を過ぎると凄まじい老化現象に見舞われているのである。

 カップラーメンやインスタントラーメンに慣れた人が行き成り蕎麦を食べろというのは難しい。味覚が狂っているために、蕎麦を食べても美味しいとは思わなくなってしまうのだ。そこで「乾麺」を食べるようにし、まずはうどんや素麺や冷麦を食べて、慣らしていけばいいのである。

●そんなに忙しいのなら断食をせよ

 カップラーメンを忙しい時に食べていた人は、そういう食べ方それ自体を改めた方がいい。というのは、カップラーメンを食べてもパワーが出て来ないからだ。ただお腹が満腹になったような錯覚を起こしているだけなのである。

 人間の心身というのは空腹の時の方が効率良く動くものなのである。胃腸の内部に食べ物がなくなれば、今度は脂肪を溶かして燃焼させるのである。そのエネルギー量はなんと食事で得られるものより3倍もあるのである。だから忙しいのなら断食をして仕事をし続ければいいのである。

 しかしどうしても空腹が耐えられないのなら、「フルーツ断食」をすればいいのだ。正規の食事は食わず、フルーツだけをムシャムシャと食べるのである。そうやってしまえば、空腹を満たすことができ、しかもフルーツはすぐさま消化吸収されるから、強力なパワーが出て来るのである。

 女性であるなら間食代わりに「ドライフルーツ」を食べることをお勧めする。女性は口が達者なために糖分を多く必要とするのである。このため糖分が切れてしまうと、途端に落ち込んだりしてしまうからだ。干しブドウには鉄分が多く含まれているので、生理で失われた血液を巧く補完させえてあげることができるのである。貧血で悩まされているのなら、定期的に干しブドウを食うべきなのである。

 健康を維持するためには、いい仕事をするためには、幸せな結婚生活を気づくためには、カップラーメンは要らないのだ。カップラーメンを自宅から追放する。カップラーメンは絶対に買わない。それだけで健康になれるし、お金だって貯まるし、健康な赤ちゃんだって生まれてくるのである。

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え~ん!(泣) 講談社との交渉失敗!

●処女作と児童文学

 現在、処女作の最終チェックに入っているのであるが、原稿を何度も推敲した筈なのに、いざ印刷してみると些細な間違いがあることが解り、その度に印刷し直している日々である。この最終チェックが終わるまで結構時間がかかりそうなのである。

 しかし児童文学用に作った作品は既に完成し、印刷も済んでいるのである。そこでこの作品を処女作よりも先に世に送り出そうとしたのである。こっちの方は表紙とか挿絵とかに時間がかかるので、早くに出版社と交渉したいのである。

 まず俺が真っ先に選んだ出版社は、「講談社」!

 そもそもこの児童文学作品は講談社から出すことを予定して作った物なのである。講談社は面白くて為になる本を出す出版社なのだが、この児童文学作品もまた面白くて為になる作品なのである。この作品が岩波書店から出されることは絶対にないのだ。

 講談社への手紙は父親の死後10日後に書いて、その翌日に出した。これが悪かったかもしれない。俺自身、父親の死で動揺しており、文章が余り巧くなかったし、住所も書き間違えてしまった可能性もあるのだ。

 去年の年末にこの手紙を出してしまったために、年内に連絡が来ないのは想定していたが、年が明けても連絡が来なかったのである。もしや講談社に手紙が届いていないのではないかと、疑心暗鬼に陥ってしまったのである。

●電話する所を間違えた

 そこで講談社に電話をしようとしたのが、講談社児童局の電話番号が解らない。インターネットで調べてみると、講談社には「講談社児童文学新人賞」なるものがあって、その係りの電話番号が出ていたのである。

 仕方なく、その「講談社児童局 講談社児童文学新人賞係」に電話したのである。

 電話に出た人は女性。しかも声がいい。その対応は非常に丁寧である。それなのに俺が、

「昨年の12月にお手紙を出したのですけれども・・・・・・」

と伝えたら、

「そういう手紙は届いていません」

とのこと。

 この最初の遣り取りで動揺してしまい、その後、話が巧く展開していかないのである。

 相手は持ち込み原稿だと思っているので、これを拒否しようとしているし、俺はこれが持ち込み原稿と言われればそうかもしれないけど、講談社用に作った物なのでという意見をぶつけるので、話が全く噛み合わない。

 相手はとにかく原稿を出したいのなら、講談社児童文学新人賞の方に出してくれの一点張り。しかし俺が作った児童文学作品は講談社児童文学新人賞の応募条件に合わないので、この文学賞には出しようがないのだ。

 5分ほど交渉を繰り返したけど埒が明かず。俺自身、「講談社児童局長」に繋がる電話番号が解らないからこそ、講談社児童局児童文学新人賞係に電話したのだが。話している内に「電話する場所を間違えた」と思うようになり、「お手数をかけて済みませんでした」と切ることになってしまった。

●講談社から出したかったのに・・・・・・

 簡単に言ってしまえば、俺は不覚にも講談社から門前払いを受けてしまったのである。

 出版社ならどこでも良いというわけではないのである。この児童文学作品は面白くて為になる本である以上、そういう本を出版している講談社こそ最も相応しいのである。講談社以外の出版社ではどうやっても次善の策でしかないのだ。

 もう1つの理由はこの児童文学作品を俺の注文通りに編集してくれれば、恐らく本年度の最大のベストセラーになることが間違いないからだ。何も俺は自惚れているわけではないのだ。読者家として100万冊以上の本を読んできた男が、自分の作品を読んで感動してしまっているくらいなのである。

 この児童文学作品は当たればでかいのだ。仮に定価を1500円として、100万部売れた場合、その売上げ金額は「15億円」なのである。しかもこの児童文学作品がアニメ化された場合、更に半端ではない売上げを記録してくるのだ。

 こういう作品を他の出版社に渡したくはないのだ。

 しっかりとした本を出し続けている講談社だからこそ、この作品を与えたいのだ。

 しかも去年行なわれた第53回講談社児童文学新人賞は該当作品なしという決定を下したのである。ということは1作品ぐらい出せる資金はあるのであって、俺は丁度いいタイミングだと思っていたのである。

 ところが原稿を見て貰う以前に門前払いなので。どう仕様もないのだ。この児童文学作品は新人賞とかのレベルではないのである。文学性は非常に高いくせに、多くの子供たちが楽しめるようになっているのだ。

●かくなる上は

 講談社には俺の処女作の方を出して貰うことになっているので、児童文学作品を無理強いして、関係を悪化させたくはないのである。仕方ないので、講談社以外の出版社を探すことにする。とはいっても、講談社に準ずることができる出版社など非常に限られているのだ。

 俺が選んだ出版社は以下の3社である。

福音館書店

ポプラ社

偕成社

 福音館書店は角野栄子著『魔女の宅急便』を出した所である。俺は角野栄子さんのことが好きなので、この出版社でも良いのである。ポプラ社は可もない不可もない児童文学作品を出す出版社である。偕成社は上橋菜穂子の『守り人シリーズ』を出した所である。

 これらの出版社は棚から牡丹餅方式で絶好のチャンスが巡ってきたということなのである。問題はこれらの出版社がこの絶好のチャンスを活かしきることができるかなのである。俺は講談社の社員たちよりも劣る人材でこの大博打を打つ羽目になってしまったのである。

 俺自身、今は処女作の最終チェックを最優先にしているので、余りエネルギーを割けないのである。取り敢えず、処女作の最終チェックを終わらせることを急ぐようにする。児童文学作品は表紙や挿絵に口を出さなければならないし、その販売方法にも俺は俺なりの考えがあるのだ。俺の意見を忠実に実行してくれれば、ベストセラーになることはほぼ確実なのである。

 児童文学作品の方を先に出そうと思っていたのだが、思わぬ失敗で少し遅れることになってしまった。とはいっても必ず年内に出版されるので、乞うご期待! 実際にこの児童文学作品を読んでみれば、俺がなんでここまで拘っているのかが解ると思う。とにかく思い白いんだって! 笑いあり、涙ありだもん!

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死後断捨離

●遺族たちの死後断捨離

 父親が死んでから葬式でドタバタしていたが、遺族たちに取っては葬式が終わっても何かしらの用事があるものなのである。

 まず俺は処女作をこの世に送り出すべく、原稿を印刷して、最終チェックに入った。原稿を印刷してみると、些細な間違いがあることを発見してしまい、その都度、印刷し直しているのである。まさに目を皿のようにしてチェックしないと、完成度の高い作品を作ることはできないのだ。

 処女作は原稿総数が多いので遅れているが、児童文学用に作った作品はもう最終チェックも済んでいるのである。現在、出版社と交渉中であり、契約が成立すれば、こっちの方が早く出版されるかもしれない。

 この仕事と平行して存在するのが、「死後断捨離」である。父親の遺品を全部整理するのである。これは或る意味、遺産相続より大変なのである。遺族にとってみれば、父親の大事な品々は基本的にゴミなのである。

 なんでゴミになるのか? これは実際に自分の親の死に遭遇してみれば良く解る。親が老齢になるまで生き続けたということは、それだけ多くの品々を所有したということなのである。そういう品々を遺族だからといって全部相続できるものではないのだ。

 このため葬式が終わって以降、「出版への準備」と「死後断捨離」のために休むことなく毎日せっせと働いている有様である。しかもこの間にも弔問客が来たりするので、その対応をしながらの作業となり、大忙しになってしまうのである。

●衣服と靴は全捨て

 母親は当初、父親の衣服を俺に相続させようとしていた。しかし俺と父親では体型が違うのである。幾らいい紳士服だって、父親の物を俺が着れないのである。衣服は基本的に「全捨て」なのである。それ以外にやりようがないのだ。

 父親の紳士服は特注品が殆どである。横浜にある紳士服の仕立て屋に注文させて作らせた物なのである。紳士服に於いて「特注品は一生物になる」と言われるがまさにその通りになったのである。しっかりと作ってあるから死ぬまで使えたのである。

 母親としては父親の妻であった以上、この紳士服が如何に高価であったかを知っている。しかし着れないものは着れないのだ。たとえこれを古着屋に持っていっても、大して金額で売れないのである。特注品ゆえの悲しさであろう。

 下着も全捨てである。下着の場合、全部を捨てるしか方法がないのだ。我が家では下着などは使い終われば雑巾にしたりするのだが、父親が死んで大量の下着が出たので、とてもではないが雑巾で処理しきれなくなったのである。

 靴も全捨てである。靴はサイズが合わなければ履けないのだ。どんなにいい革靴でも捨てるしかないのだ。靴はそれこそゴミ袋一袋分出たが、どんなに勿体無いと思っても、最早使わない靴を置いておく方が勿体無いのだ。

●書類と書籍も全捨て

 うちの父親は「書類魔」で、書類ならなんでも溜め込んでいたのだが、この大量の書類、父親が死んでしまえば全部ゴミである。実を言うとこの書類を捨てる作業が大変なのである。なんせ部屋に大量にあった書類なのである。それを部屋から運び出し、紐で括って、ゴミ置き場に捨てるのである。腰を痛める危険性が出て来るのである。

 父親は会社の経理に関して持続的に利益が出る方法を発見したので、俺は父親に「それを本に纏めて出してみればどうか?」と常々言っていたのである。しかし父親はそれをしなかったのである。そして父親が死んでしまえば、経理に関する書類は全部ゴミになってしまうのである。

 書籍も基本的に全捨てなのである。普通なら父親が読んで面白いと思った本を貰えば嬉しいものだ。しかし今は父親が亡くなったのである。そんなことをやっている閑はないのだ。捨てていくに限るのである。

 但し、書籍の場合は処分していく過程で、「良い物だけは貰ってしまう」という特典がつく。しかも残りの本を古本屋に持っていけば、少しはきちんとしたお金に変わるのである。これは非常に有難いことなのである。

 知識という物は紙に書き残さないと残らないものだが、より正確にいうなら、本にして残さないと残らないのである。その本も価値がなければ売られる羽目になるのである。価値のある本を作ることの大切は幾ら強調してもしすぎることはないのだ。

●ゴルフ道具は捨てるのにも困る

 父親の遺品でゴルフ道具があったのであるが、これは高価な値段で売れるのではないかと思っていた。なんせ100万円以上もする道具を持ってのである。それを大事に大事に仕舞っていたのである。遺族にとってみれば、「これは高値で売れるぞ」と思うのは当然のことなのだ。

 しかしこのゴルフ道具、売り物にもならないのだ。どこに行っても受け取りを拒否されるのである。その理由はゴルフ道具に技術革新が起こり、父親が持っていた物は最早時代遅れになってしまっていたのである。

 100万円以上出して買ったゴルフ道具も今となってはゴミなのである。だがこのゴミは捨てるのにも困るのだ。ゴルフ道具をまともに出そうものなら、お金がかかってしまうのである。かといってこっちにとってはゴミだから、「そんなんでお金を取るな」と言いたくなるのだ。

 ゴルフはお金持ちがやるような優雅なスポーツに見えて、実はこの程度の物なのである。ゴルフというのは実にバカらしい。大金を出してゴミを買っているようなものなのだ。そしてそのゴミを出すのにもお金が取られてしまうのである。

 スポーツは所詮「遊び」なのだ。お金がかかりすぎてはならないのである。況してや道具が高価になってしまえば、そのスポーツ自体が怪しいと思っておいた方がいい。これには反論する人たちもいるだろうが、自分が実際に死んでみれば、恐ろしい事実が解ることになるのだ。

●必要な物しか持ってはならない

 死後断捨離は重労働である。しかし実に楽しい。うちの父親のゴミ部屋が綺麗さっぱりになっていくのである。不要な物を捨てるのは楽しいことなのである。まさに「人生がトキメク片付けの魔法」なのである。

 死後断捨離をやってつくづく思うのは、「人間は必要な物しか持ってはならない」ということなのである。常にシンプルを心がけ、無駄な物を削ぎ落としていく努力をしていないと、いざ自分が死んだ時にゴミだらけの人生であったということが暴露されてしまうのである。

 人間は不要な物を溜め込むからこそ不運になったり、病気になったり、死んでしまったりするのである。何かを掴んでいても、それを掴んでいていいのは必要な時だけであって、不要になれば手放すべきなのである。

 手放せば、自分が欲しい物はすぐさまやってくるものなのである。手放さないからこそ、新たな物を手にすることができないのである。人間は全部の物を所有することはできないのだ。自分に必要な物しか持てないようになっているのである。

 人間にとって究極的な生き方というのは、禅寺で禅僧たちがやっているような無一物の生活なのである。あそこまで行くと極端ではあるが、ああやって無駄な物を削ぎ落としていかないと、人生というものは発展していかないものなのである。

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仏教の隠された歴史

●騙され続けた仏教史

 日本は欽明天皇の御世に仏教が伝来している。日本人は1500年もの間、仏教に帰依し続けたわけである。しかし日本人が仏教のことをきちんと理解しているとは言い難い。なぜなら日本が受け入れたのは仏教の中でも「大乗仏教」であって、仏教の全部ではないからだ。

 大乗仏教は釈迦の教えとは一切関係ない。より明言してしまえば、大乗仏教は仏教ではない。仏教史の中で間違った思想が入り込み、それによって仏教が歪んでしまったのである。この考え方を「大乗非仏説」という。

 仏教とは釈迦の教えを基本とする宗教である。

 仏教で何か問題があるなら、釈迦の教えに立ち返るべきであろう。これをやらないからこそ、仏教は嘘だらけになるのだ。釈迦は人間には煩悩があると指摘し、その煩悩からの解脱を説いたのである。

 だから仏教に帰依したのなら、適正な教育を受ければ、如何なる信者であったとしても解脱できるようにしなければならない。もしも仏教教団が信者たちを解脱させないのなら、それは「宗教的詐欺」というべきものであって、信者たちから徴収した資金を全額返還すべきなのである。

 ところが実際の仏教教団ではそんなことなどしない。信者たちは放置されたままだし、僧侶は煩悩まみれである。仏教教団の中で誰一人釈迦の教えを理解するものはない。これほどバカげたものはないのだ。

 この仏教の隠された歴史を暴露した本が、副島隆彦著『隠された歴史』(PHP研究所)である。この本は仏教をきちんと研究した本ではないが、問題提起するには優れている本であろう。日本の仏教では、僧侶や学者たちが仏教に関して嘘をついてくる以上、素人による仏教研究が欠かせないのだ。

 隠された歴史

●宗教革命であった大乗仏教の誕生

 仏教はゴータマ・シッダルタが解脱した瞬間から始まる。バラモン教では人間は輪廻転生すると考えられており、釈迦は解脱することによって、輪廻転生することがなくなり、「永遠の死」を実現できると説いたのである。

 その当時の釈迦の教えが解る教典は、

 中村元訳『ブッタのことば(スッタニパータ)』(岩波書店)

 中村元訳『ブッタの真理のことば・感興のことば(ダンマパーダ)』(岩波書店) ※所謂『法句経』のこと。

 釈迦の教えが解るのは、このたった二冊の経典しかないということである。残りの仏教経典は全部、後になってから捏造したものなのである。

 仏教はバラモン教の異端の宗派として始まったのであり、原始仏教の段階では細々としたものであった。しかし仏教教団の組織が整い、小乗仏教が成立すると、仏教はバラモン教に対して対抗できる宗教へと発展していったのである。

 ところが仏教教団内部でも小乗仏教への批判が起こってくる。組織化されればされるほど、解脱が遠のいていくからだ。釈迦は仏教寺院の中で解脱したのははく、川の畔で解脱した。そういう原点回帰運動が大乗仏教を生み出したのである。

 大乗仏教は今までの仏教史の中で決定的に違う所がある。それは「民族宗教からの解放」を偶然にも達成してしまったということなのである。今までの仏教はインド人の内部に留まっていたのに、僧侶たちは新天地を求めて異民族に対しても布教するようになっていった。

 大乗仏教の誕生は「宗教革命」であった。それまでの宗教は全部「民族宗教」なのであって、必ず民族の内部に留まるのである。異民族に対して布教するという考えを絶対に持たない。それゆえ大乗仏教が誕生すると、僧侶たちは全世界に向けて布教しまくり、仏教の勢力は爆発的な勢いで広がっていったのである。

●キリスト教の創設とキリスト教のインターセプト

 大乗仏教の勢力はイスラエルの地にまで及び、ユダヤ教徒たちからエッセネ派と呼ばれる宗教団体を作り出した。この宗教団体は出家した僧侶たちと、それを支える一般信者たちからなるのであって、これぞまさしく大乗仏教の典型例なのである。ユダヤ教は家族を重んじるので、出家という概念は絶対に生み出せないのだ。

 このエッセネ派からイエスは出て来たのであり、ということは、イエスは仏教徒だった。イエスの言葉は『新約聖書』に載っているが、これをキリスト教の教えだと見るから解らなくなるのであって、仏教を理解した上で、イエスの言葉を読めば、「コイツは仏教徒だ!」ということが解るものなのである。

 ローマカトリック教会はイエスが仏教徒であったという事実を執拗なまでに消し去ろうとした。そうしないとキリスト教の独立を果たすことができないからだ。イエスの遺物である「聖骸布」も厳重な管理下にある。仏教を知っている者なら、聖骸布は僧侶が纏う「袈裟」以外の何物でもないということが解るものなのである。

 キリスト教はローマ帝国から宗教弾圧を受けたために、逆に大発展を遂げてしまうという「歴史の逆説」が起こった。ローマカトリック教会はキリスト教をローマ帝国の国教にするに当たって、異端となる宗派に対して宗教弾圧をし、パウロ主義に基づいてキリスト教を再編成していったのである。

 では、純粋なキリスト教はどこに行ったのかといえば、ローマ帝国を脱出して、メソポミアへ行き、そしてインドへと到達した。なんでこんな現象が起こったのかいえば、イエスが生きていたからなのであり、イエスは布教のためにインドまで行ったからなのである。

 この宗派は「トマス派」と呼ばれることになる。仏教もキリスト教も根は一緒なのである。このためトマス派は仏教と融合し、仏教の形を借りながら宗教活動をするようになった。この大乗仏教に於けるキリスト教のインターセプトが起こった後に、龍樹が出て来るのである。

 西暦150年に、第四回仏典結集が行なわれるのだが、これ以降、大乗仏教に於いて大乗仏教理論が構築されていく事に成る。龍樹は西暦150年から250年まで生きたとされるのだが、この龍樹が『中論』『大智度論』を書き、大乗仏教理論の中核思想を作り上げていくのである。

●大乗仏教のアンチョコ

 問題は「この龍樹なる人物は一体何者なのか?」ということに成る。龍樹は生粋の仏教徒ではない。バラモン教徒出身の僧侶なのである。確かに彼の複雑な思想展開はバラモン教徒でなければ絶対に出来ないものなのだ。

 では彼はなんで既存の小乗仏教とは異なる複雑な教義を作ったのか? それは仏教にキリスト教が流入し、その再統合を求められたからではないか? そう考えると、この時期に難解な教典が出て来た理由の説明がつくのである。

 「じゃあ、そんな証拠はあるのか!?」と詰問されてしまうが、実はある! 大乗仏教の仏教教団は『新約聖書』をアンチョコにしていた。日本の浄土真宗には『世尊布施論』を宝物として保管している。これはアリウス派の漢訳『聖書』なのである。

 大乗仏教は仏教が純粋な形で発展してきた結果、生まれたものではないのだ。仏教教団内部の事情で僧侶たちが外に飛び出してしまったと同時に、バラモン教やキリスト教が流入し、仏教を大いに歪めてしまったのである。

 大乗仏教は釈迦の教えの根本である「煩悩からの解脱」が消えてしまっているのだ。「宗教によって人々を救済する」ということを教えの根本にしてしまったのである。これは明らかに換骨奪胎であって、これでは仏教が仏教でなくなってしまうのである。

●『法華経』の正体

 大乗仏教に於いて『法華経』が最高教典である。日本が受け入れた仏教jはこれであり、日本に於いても『法華経』は仏教の最高教典である。それなのに、このことをきちんと理解できていない者たちが多すぎるのだ。これが判っていないと大乗仏教も日本の仏教も理解できないということになってしまうのである。

 『法華経』では、一切の衆生は菩薩になる可能性を秘めているとし、仏教信者たちを菩薩行に駆り立てるのではあるが、原始仏教や小乗仏教が持っていた「煩悩からの解脱」が完全になくなっている。

 仏教というのは、煩悩から解脱し、仏に成るための思想なのである。

 だからそれが可能にならないのなら、それは仏教ではないのだ。自分がどんなに信仰をやっても菩薩止まりであるなら、それは無意味という事に成ってしまう。『法華経』は大乗仏教の最高教典であったとしても、仏教の教義を完全に歪めたものなのである。

 『法華経』は仏教に於いて教義に関する教典ではない。寧ろ「布教のために作られた教典」なのであって、『法華経』に取り付かれてしまえば、自動的に布教していくようになっているのである。だから『法華経』を教典にする仏教教団は盛んに布教してくるのである。

 『法華経』がキリスト教の影響下で作られたということは充分に仮設として立たせることができる。大乗仏教は盛んに布教する宗派なのであって、そこに大乗仏教によって生み出され、大乗仏教以上に宣教に盛んな宗教が入り込めば、『法華経』のような教典が生まれるのである。

●弥勒菩薩はイエス本人?

 大乗仏教に於いてキリスト教の影響があるとはっきりと解るのは「弥勒菩薩」の存在である。弥勒菩薩は兜率天に居て、仏滅後五十六億七千万年に弥勒菩薩は地上に降りてきて、人々を救済するというのだ。

 どこかで聞いたような話である。

 恐らくこれは「イエスの再臨」を元ネタにして作ったに違いない。原始仏教でも小乗仏教でもこういう考え方はないからだ。仏教は基本的に自力救済なのであって、誰かに救済される思想ではない。弥勒菩薩の思想は他力救済である以上、余所から入り込んだものだと見るべきなのである。

 弥勒菩薩本人は釈迦が生きていた時に実在していた人物である。サンスクリット語では「マイトレーヤ」という名前を持つ者である。これは『阿含経』に記載されているので、実在したと看做していいのだ。問題はこの弥勒菩薩が後世に於いて大いに捏造されたことなのである。

 弥勒菩薩の存在を変えてしまったのは、『弥勒三部経』の出現である。『弥勒菩薩上生兜率天経』『弥勒下生経』『弥勒大成仏経』が『弥勒三部経』である。これが作られてから弥勒信仰が広まっていった。

 弥勒信仰はインドではなく、中国で発達したことを忘れてはならない。中国にはキリスト教のネストリオス派(景教)が到達しており、中国に於けるキリスト教が衰退化すると同時に、弥勒信仰が起こってきているのである。

●阿弥陀如来はマグダラのマリア?

 大乗仏教の弥勒信仰をより推し進めたのが阿弥陀如来である。阿弥陀如来は菩薩ではなく如来になっていることに注目したい。階級が上なのである。法華信仰や弥勒信仰では飽き足らなかった人たちが阿弥陀信仰をし始めたと考えるべきなのである。

 問題は「この阿弥陀如来は一体誰?」ということなのである。

 阿弥陀如来なる人物は、釈迦が生きていた時代には存在していない。後世に於いて捏造された人物なのである。阿弥陀はサンスクリット語で「アミターパ」と言い、「無限の光を持つ者」という意味である。だから個人名ではない。何かを象徴した名前なのである。

 ズバリ言おう。阿弥陀如来はイランの神様である。ゾロアスター教の主神「アフラ・マズダー」の子に「「アルムタート」がいるのだが、この神様こそ、阿弥陀如来の正体なのである。「アミターバ」と「アルムタート」は言語学的に非常に近い言葉だからだ。アルムタートは「不死」という意味で、だからこそ人々は阿弥陀如来の力を借りて往生を願うのである。

 問題は「阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩の三点セットで祀られる」ということであろう。しかし観音菩薩と勢至菩薩の仏像は殆ど同じなのである。ということは、この両者は元々同一人物であった可能性が高い。観音菩薩の正体は仏教学で既に解っている。「アフラ・マズダー」の長女の「アナーヒター」であるのだ。 

 とするなら、大乗仏教にゾロアスター教が流入したということになる。

 しかし問題はそう簡単にはいかない。阿弥陀如来と観音菩薩は何か違う理由があって、こういう形になったと考えるべきなのである。恐らく、阿弥陀如来はイエスであり、観音菩薩はマグダラのマリアであるのだ。

 近代以降、浄土真宗の教義とキリスト教の教義の類似性が指摘されていたが、浄土教それ自体、キリスト教から生まれたから教義が似てくるのは当然のことなのである。浄土真宗はキリスト教のパクリだと解れば、全ての謎はとけていくのだ。

●禅宗というアンチテーゼ

 大乗仏教は冷静に考えれば非常にバカらしい宗派である。新たな如来や菩薩が生まれる度に、釈迦が説いた教えから離れていく事になる。かといって大乗仏教を信仰する人々は衆生を救済しようと真剣になっているから、その勢いが止まらないのである。

 しかし大乗仏教はその内部から、大乗仏教それ自体を否定する宗派が現れてきた。それが「禅宗」である。禅宗は衆生を救済することは無理だと諦めたとんでもない宗派であった。だから僧侶が修行に励み、自分だけが救済されようという考えを持つのである。

 考えてみれば、臨済宗も曹洞宗も慈善活動をやらない。葬式の費用も一番高い。観光で有名な仏教寺院を訪れようものなら高額の拝観料を取られる。信者たちを教化することに重点を置いていない。或る意味、とんでもない宗派なのである。

 だが、禅宗は「大人の思想」なのである。僧侶たちがどんなことをしても、衆生を救済することなんて出来ない。だったら僧侶である自分たちだけが必死になって修行に励んだ方が、仏教は発展していくものだと考えるのである。

 事実、禅宗の仏教寺院は日本全国どこでもある。それだけの大量の仏教寺院を建て、経営できるだけの経済基盤があるということなのである。禅宗が強いと経済が発展する事に成る。しかも禅宗が強い地域は必ず文化が発展する。僧侶たちの存在が衆生の文化レベルを引き上げてしまうのである。

●「救済を求める欲望」と「救済を求めない思想」

 釈迦個人は自分の教えが世界中に広まることなど想像していなかったであろう。しかし世間の人々の救済を求める欲望が仏教を大いに発展させてしまった。その過程で仏教自体が捻じ曲がってしまったのである。

 その一方で、僧侶たちは衆生が救済されない事実を目の当たりにし、衆生を救済しないという禅宗を生み出した。禅宗は人間が持つエゴイズムの慣れの果てなのであって、そうやってドライになって世間を見ることも大事なのである。

 仏教史を調べていくと、衆生が求めた救済はなかったというしかない。特に大乗仏教になるとこれがより強化されてしまった。大乗仏教の信者たちは衆生を救済しようと躍起になっているが、まさに「歴史の逆説」が起こってしまったのである。

 仏教的な救済を受けたいのなら、釈迦が説いた教えに帰るべきなのである。煩悩から解脱してしまえば、仏教的な救済を受けることが可能になる。法華信仰に耽ったり、弥勒信仰を信じたり、阿弥陀信仰をやるのは、どれも個々としては立派かもしれない。しかしそういう信仰を幾らやっても救済を受けることはないのである。

 人間はどんなに時代が変わっても救済を求めてくる。それを教団が如何にシステム化していくかが問題なのである。もしも教団がそれを整備しないと、自力救済を殊更に強調する人たちが出てきてしまう。こうなってしまうと、「自力だけでの救済は果たして可能か?」という新たな問題が発生してきてしまうのである。

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