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2013年3月

シェイクスピアの恋

●年上の女性と結婚したシェイクスピア

 作家の基本的な能力というものは、ちゃんとした友情を作ったことがあるか、ちゃんとした恋愛や結婚をしたことがあるかで決まってしまう。素晴らしい友情をしたり、トキメクような恋愛をしたり、幸せな結婚をした者なら、いざ作品を制作しても、ちゃんとした物を書いて来るからだ。友人を平気で裏切り、淫乱になることを恋愛だと勘違いし、夫婦喧嘩や離婚したりしていれば、いざ作品を制作しても、碌でもない物しか作れないものなのである。

 ウィリアム・シェイクスピアもちゃんとした結婚をしている。彼は18歳の時に8歳も年上の女性、アン・ハザウェイと結婚しているのだ。この結婚は出来ちゃった結婚で、結婚式の半年後には長女スザナが生まれている。ということは結婚当初、妊娠四ヵ月で、妊娠が発覚したからこそ責任を取って結婚ということになったのである。

 この8歳年上というのが実にいい。典型的な「姉さん女房」である。男性の場合、女性よりも成長が遅いので、年上の女性と結婚することで、自分の精神レベルを上げて貰うと、その後の人生の展開が非常に楽になるのだ。結果的にこの結婚は大成功になる。

 結婚の四年後には長男のハムネットと次女のジュディスの双子を産んでいる。これで子供の数は3人である。子供の数が3人になって家族の構成員が5人になると吸引力が働くようになるものだが、このシェイクスピアも吸引力が働いて、まるで違う人生を歩んでしまうことになるのである。

 シェイクスピアは或る地方紳士の猟園に忍び込んで鹿を盗むという事件をやらかしてしまう。なんで鹿を盗むような事件を起こしたのか、その理由は良く解らないのだが、とにかくこの事件のために故郷のストラッドフォードにはいられなくなり、それでロンドンに出奔することになるのである。

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●シェイクスピアを変えた男色

 ロンドンに出たシェイクスピアは劇場主の所有する馬の世話をする仕事に就いて生活費を得ていたが、この仕事をやっていく過程で劇場主にその才能を見出され、なんと俳優としてデビューしてしまうのである。人生、どこにチャンスが転がっているか解らないものだ。

 問題はなんでシェイクスピアが俳優に抜擢されたかなのである。

 これを理解するためには、現代のイギリスの演劇事情と、彼がいた時代のイギリスの演劇事情がまるで違ったいたということをしらなければならない。当時の演劇は男性たちだけで構成され、女人禁制の場所だったのである。日本人ならこういう話を聞いてピンと来る筈だ。

 そう、「歌舞伎」である。

 シェイクスピアは俳優と見出されたといっても、年齢からいって女形として抜擢された筈だ。シェイクスピアの肖像画が残っているが、ハゲ頭であったとしても、その顔つきは実に優しい顔で、この顔で女装すれば女形として充分に通用するからだ。

 そして男性たちしかいない劇団では必ず「男色」というものが付き物なのだ。

 シェイクスピアは俳優として地位を確立した頃、『ヴィナスとアドニス』という物語詩を発表している。献辞にはサウサンプトン伯ヘンリー・ロツリ―という19歳の若くての美貌の青年に贈ると書かれているのだ。この人物はエリザベス女王のお気に入りの貴公子でもある。シェイクスピアはこの後に『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』『十二夜』などの作品を書き出しているのだ。

 もう1つ大きな男色の相手が、『ソネット集』に出て来るW・H氏である。W・H氏は若くて美貌があり、教養のある青年である。これには古来より論争があって、一体誰だが決着を見ない。『ソネット集」は1609年に出版されているので、少なくとも10年前に詩を書き出していなければならない。そうするとW・H氏が一体誰だか解るのである。

 1699年当時

 ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート 19歳

 サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー 26歳

 ウィリアム・ハットクリフ 31歳

 もうお解りだろう。ウィリアム・ハーバートしかいないのだ。この男色関係は非常に重要なのである。この男色の後に、シェイクスピアは作風をがらりと変え、1600年に『ジュリアス・シーザー』を書き、四大悲劇『ハムレット』『マクベス」『オセロ』『リア王』を書き、それに『アンソニーとクレオパトラ』を書くからだ。

●宿屋の女将さんとの恋

 男色関係は最終的に破綻したことだろう。『ソネット集』にはW・H氏の関係の後に、Dark Ladyという「黒い女」を意味する女性が出て来るからだ。この黒い女は黒人ということではなく、黒髪の女性ということである。黒人に対してBlackは使っても、Darkは使わないのだ。

 この黒い女はどうも利発な女性で、身分は高くないが、財産がある既婚女性のようなのである。要は不倫であり、両者とも結婚しているからこそ、ダブル不倫で盛り上がってしまったのである。ではこの黒い女は一体誰かということになるのだ。

 それはオックスフォードで酒場兼宿屋を開いてたジェイン・ダィナントという女性がモロに該当するのである。シェイクスピアは帰郷する際に必ずここに立ち寄ったので、この酒場兼宿屋を利用している間に親密になり、それで恋愛関係になってしまったのであろう。

 しかもこの女性の次男ウィリアム・ダィナントが「自分はシャイクスピアの庶子である」と言っているのだ。本人がである。彼は1606年生まれなので、シェイクスピアは42歳の時の子供である。時期的にピタリと一致する。まさに『ソネット集』の順番通りに展開していったわけだ。

 シャイクスピアは1607年からロマンス劇という物を書くようになる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』を書く。これらの作品はこれまた作風がまるで違うのだ。ジェインとの恋愛があればこそ、ロマンチックな演劇を作りたくなったのであろう。

●シェイクスピアはエリザベスⅠ世の隠し子?

 シェイクスピアには昔からフランシス・ベーコンではないかという疑惑が持たれてている。シェイクスピアは町のグラマースクール、つまり小学校しか出ていないので、まさかそんな低学歴の人物があれだけの傑作群を作れるわけがないということなのである。

 このフランシス・ベーコンはエリザベスⅠ世の隠し子ではないかと言われているのだ。フランシス・ベーコンの父親はニコラス・ベーコンで、エリザベスⅠ世女王の国璽尚書を務めたことがある人物なのである。となるとシェイクスピアはエリザベスⅠ世女王の息子ということになるのだ。

 事実、シェイクスピアはエリザベスⅠ世女王の治世に於いて活躍しているのであって、次のジェイムスⅠ世になると活躍をやめてしまうのである。

 フランシス・ベーコン説は生年月日が違うということでまず否定される。シェイクスピアは1564年4月26日に幼児洗礼を受けていることが記録されており、ベーコンは1561年1月22日に生まれているのだ。記録が残っている以上、この両者は別人であろう。

 しかし謎はある。

 シェイクスピアは俳優であったとしても、「なぜに貴族の子弟と男色の関係を結ぶことができたのか?」ということなのである。普通、貴族の子弟は貴族の子弟同士で男色の関係を結ぶのであって、わざわざ詩を書くまでのような男色の関係になるということは有り得るのだろうか?

 もう一つはシェイクスピアが創作をやめた1613年に、フランシス・ベーコンは司法長官に就任しているのである。この時期から彼は政治家として本格的に活躍し始め、1616年に枢密顧問官、1617年に国璽尚書、1618年に大法官に就任するのである。「これは一体なんなのか?」ということなのである。

 シェイクスピアを研究する学者たちはこの別人説を一蹴する。「シェイクスピアは大学に行かなかったからこそ、既存の学問に囚われず、生き生きとした作品を作り上げることができたのである」という理由を上げている。まさにそうであろう。

 作家というものは貴賎貧富を問うことなく、どこからでも出て来る。その一方で学者は裕福な家庭に育った者がなるものである。実家が豊かであればこそ、大学に進学でき、学問をすることができるものなのである。そういう人物は往々にして「なんで低学歴の者が傑作を書くのだ?」という疑問を持ってしまうのである。

 イギリスであっても、学歴差別はしっかりと存在しているということなのである。

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児童文学はなぜ解らない?

●児童文学を理解していない人たち

 『大人のための児童文学講座』という本があり、多くの書評でも高い評価を受けていた。<ひこ田中>という作者が児童文学作家で、梅光学院大学教授ということで、さぞかし立派な本だと思って俺は手に取った。しかしその本を読んで唖然としてしまった。この作者は児童文学を全く理解していないのだ。

大人のための児童文学講座

 ひこ田中著『大人のための児童文学講座』(徳間書店)

 題名を『大人のための児童文学講座』ではなく、『児童文学を理解できない作家が書いた児童文学講座』と題名を変えた方が良いとお勧めしたいくらいだ。

 まず冒頭にこの作者は

「児童文学は子供のために書かれた文学です」

と定義して来る。この時点で既に根本的な間違いをしているのである。児童文学は子供のためには書かれていない。もしも子供のために書くとするなら、子供の学力に応じた物にしなければならないのだが、どの児童文学もそんなこと想定していないのだ。

 児童文学は文学の中でも特殊な買われ方をする。子供には経済力が全くないから、児童文学を買う場合、そのお金を出すのは常にその親なのである。だから親が納得しない限り、児童文学作品は買われないということになってしまうのだ。このシビアな現実が曖昧になってしまうのは、図書館という無料で本を借りられる組織があるからなのである。

「児童文学は子供が主人公になっている小説である!」

 一応、こう定義することができる。勿論、児童文学の中には動物が主人公になっている物があるが、その動物は基本的に<子供>としての性格を持つ動物である。姿形が動物をしているだけで、実態は子供なのである。児童文学作品は子供が主人公になっているからこそ、子供はその小説にのめり込むことができるのである。

 児童文学にはもう1つ重要な条件がる。

 それは

「児童文学は子供だけでなく大人が読んでも面白いように作られていなければならない」

ということなのである。

 如何なる親であっても、子供に本を買い与える以上、教育の一環として与えるからだ。子供にとって有害となるような児童文学は絶対に買ってくれないのだ。児童文学作家がこの条件を無視した場合、自分の作品が買われないというという手痛い竹箆返しを食らうことになるのだ。

●誤読に次ぐ誤読

 児童文学作家だからといって正しい読解力があるとは限らない。自分で児童文学作品を作れても、他の作者が作った児童文学作品を正しく理解することはできないものなのである。特に児童文学作品は良書と悪書が極端に分かれているので、児童文学作品を平等に見てしてしまうと、その選別ができないのである。

 児童文学の中には一癖も二癖もある作品が存在する。その筆頭が『若草物語』である。『若草物語』は作者のルイザ・メイ・オルコットが自分の姉に恋をし、それを文学作品に纏め上げた本なのである。言わば近親相姦にして女子同性愛の作品なのである。

 『若草物語』は女性同士の会話に騙されてしまうものである。事実、<ひこ田中>もこれに騙され、姉妹たちは「小さな婦人」へと成長して行くものだと思い込んでしまう。しかし「小さな婦人」というのは誤訳であり、正確には「小さな女性」である。この家族は父親の影が薄いために、全ての娘たちが自立できないのである。

 女子小学生の読解力では絶対に『若草物語』を読み解くことはできない。大体、同性愛者が書く文学作品は巧妙に同性愛が隠されているので、大人の読解力にしても読み解くことができないのである。「この作者は何が言いたいのか解らない」というのが、まあ、正常な読解力を持つ女子小学生の感想だと思う。

 <ひこ田中>は『赤毛のアン』に対して誤読をしまくっている。『赤毛のアン』の魅力をアンの想像力にあるとしているのである。アンはお喋りな女の子なのである。孤児という悲惨な境遇ゆえに、お喋りをしまくることでしか、他人と人間関係を構築できないのである。事実、アンが人間関係を構築して行くに従って、お喋りは引っ込み始め、明らかに必要なことしか言わない大人の女性へと成長していくのである。

 驚かされるのは、<ひこ田中>は「ギルバートをマッチョな男」と位置づけるのである。えッ!? ギルバートってそうだったっけ!? とこっちが驚いてしまったぐらいだ。ギルバートは優等生である。子供の頃はアンにちょっかいを出すけど、成長していくにつれてアンを女性として扱うようになる優しい男なのである。

 『赤毛のアン』には女の子が成長過程で辿るべきものが描かれているからこそ、女の子たちには圧倒的な人気があるのである。アン・シャーリーはダイアナと「永遠の友情」を作り、ギルバートと初恋をする所までは漕ぎ付けるのである。実際に生きていればそうなるのである。友情をきちんとクリアしないと、恋愛をすることはできないのだ。

 『赤毛のアン』は児童文学作品としては良書であるが、アンは結局、自立することを拒否してしまうのである。アンはマリラから離れようとしないのである。これに作者の恋愛事情が絡む。作者は牧師と恋愛し、その男性と結婚するが、夫が精神病を発症してしまうという不幸な結婚になってしまうのである。だから『赤毛のアン』が面白いのは1巻だけであり、それ以降は全然面白くないのだ。

●成長期と駄菓子

 児童文学というのは、普通の人たちが思っている以上に悪書が多い。子供たちの読解力は低レベルであるために、子供たち自身が良書と悪書の選別ができないからである。だから児童文学を読む時は親による統制が必要なのである。

 子供たちは成長しているのだから、栄養価の高い食事だけを食べてくれるとは限らない。成長しているからこそ、駄菓子が欲しくなるのである。これと同じで子供たちを放置しておくと、平気で悪書を読み始めるようになるのだ。子供たちが漫画に読み耽るのもこれと同じ現象なのである。

 ところが、子供たちを自然の中で遊ばせると、子供たちは駄菓子など食いたくなくなるのだ。オヤツを食べたいのなら自然の中にある果物を取って食べるのである。そしてそれだけ体を動かせば、当然にお腹が空くから、食事の際にご飯をガツガツと食うのである。

 都会は自然とは違う。それゆえ子供たちは自然の中で遊ぶようには体を動かせないのだ。都会では歪んだものが出来上がってしまうのだ。だから子供には何かお稽古事をさせるのである。お稽古事をさせて、自分のエネルギーを発散すれば、自然と児童文学の中でも良書だけを読むようになるのだ。

 子供なのに児童文学作品を読めるということは、その子供は裕福な家に生まれ育ったといえる。食料がきちんと確保され、文字を知っており、本を買うだけのお金があり、読書をする時間がある。しかしそういう子供は豊かであるがゆえに、平気で悪書に手を出してしまう危険性もあるのである。

●日本の児童文学が世界に通用しないわけ

 日本の児童文学は輸入超過である。基本的にアメリカ合衆国や西ヨーロッパ諸国の児童文学作品を輸入しまくっており、自国で作られる児童文学作品の出来は悪いものだ。その理由は簡単で、日本の児童文学作品は大人が見ても耐えられるように作っていないからなのである。子供のために児童文学作品を作るということは、結局、子供騙しになってしまうものなのである。

 しかし日本の漫画やアニメは世界に通用する。その理由は簡単で、日本の漫画やアニメは大人が見ても耐えられるように作ってあるからだ。これをやったのは「手塚治虫」であり、「水木しげる」なのである。この両者が子供騙しと思われていた漫画を大人が読んで耐えられるように作り変えたからこそ、日本の漫画のレベルは一気に高まり、次いでアニメもレベルがアップしたのである。

 日本は外国から児童文学作品を輸入しているが、かといって外国の児童文学作品の出来がいいとは限らない。例えばアメリカ合衆国の児童文学は『若草物語』の悪影響のために悪書揃いなのである。『若草物語』をきちんと読み解けない人たちが新たなる児童文学作品を作るからこそ、出来のいい作品を作ることができないのだ。

 これに対してイギリスは違う。イギリスには児童文学をきちんと読む大人たちがいるのである。『ハリー・ポッタ-』の時でも、イギリスの子供たちがこれを買っていたのではなく、大人たちもこれを買っていたのである。これがイギリスの強さなのである。だからこそイギリスからヒットしてくる児童文学作品は出来がいいのである。

 児童文学は子供たちが読むものだと垣根を張ってはならないのである。児童文学だからこそ、大人たちも読まなければならない。大体、子供を産み育てて行く中で、子供に本を買い与える時に親がその本を読んでしまえばいいのである。そうしたら親子でその本について話し合いができるというものなのである。

 日本の漫画やアニメが世界で通用している以上、日本の児童文学作品も世界で通用する日が必ずやってくる。しかしそのためには天才的な児童文学作家が必要だし、児童文学作品をきちんと読んでくれる大人たちが必要なのである。子供たちだけが児童文学作品を読んでいるようでは、どうやっても子供騙しにしかならないのだ。そんな児童文学作品は決して世界に通用することなどないのだ。

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後家さんの役割

●男女の寿命の差

 人間は男女平等には出来ていない。寿命に於いて決定的な差があるのだ。その差はどの国でも「7歳」という数字が出て来る。不思議と思われるかもしれないが、実はこの7歳という時間は「生理」の期間と一緒なのである。女性の生涯に於ける生理の日数を合計すると7年という時間が出て来るのである。

 ということは、男性も長生きしたければ献血すればいいということになる。男性ゆえに生理がない以上、献血をすることで寿命を延ばすことが可能になるのだ。病気になれば遮血して、無駄な血液を体外に排出することで病気を治すという手もあるのだ。

 どの哺乳動物もメスというのは育児が終われば死ぬように出来ている。しかし人間だけが育児を終了しても死なないのだ。人間の赤ちゃんは他の哺乳動物とは違って、赤ちゃんが未熟児の状態で産まれて来る。そのため母親が育児にかかりっきりにならなければならないと同時に、お婆ちゃんが育児に参加することで育児の負担を軽減させるのである。

 だからお婆ちゃんが養老院に行ってしまうというのは、人間の本来の生き方から背いているということなのである。老齢の女性はとにかく育児に参加することなのである。お婆ちゃんが育児に参加するからこそ、嫁にかかる育児の負担が軽くなり、他の家事をこなすことができるのである。

 そしてこれは嫁姑の戦いという問題を引き起こす原因にもなる。嫁と姑では人生の経験値が余りにも違いすぎるために、どうしても嫁と姑は喧嘩してしまうのである。嫁と姑が喧嘩しないようにするためには、とにかく子供を多く産んで行くことだ。子供が多くなれば、嫁の方だって誰かの手助けを必要とするようになり、嫁姑の戦いなどやっていられなくなるのだ。

●後家は夫の兄弟と再婚する

 女性が男性よりも長生きするということは、同い年の男女が結婚した場合、確実に男性の方が早く死に、女性の方が7年間は長生きするということだ。普通は男性の年齢の方が女性の年齢よりも上だから、当然にその期間はそれ以上の長さになるのだ。

 どの民族も未亡人問題は常に抱え込むことになるのだ。どの民族も平和に暮らしているわけではない。天変地異や疫病に遭ったり、戦争をしたりするのである。男性の死亡率は必ず女性の死亡率よりも上回り、それによって大量の未亡人が発生してしまうことになるのだ。

 ウラル=アルタイ語系の諸民族では未亡人が発生した場合、夫の兄弟と再婚することでその収拾を図ったりした。経済力が低い状態では、女性が一人で生きて行くことには無理があり、夫の兄弟たちの誰かが面倒を見ることで生存を可能にさせたのである。

 ところが中国人たちはこれを嫌った。中国は徹底した男尊女卑の国で、女性というのは男性の所有物程度の認識しかないのである。だから女性が結婚しても、夫の苗字を与えないし、いつまで経っても余所者で有り続けるのである。兄弟の妻を、その兄弟が死んだからといって面倒を見るという発想そのものがないのである。

 日本民族は古代から中国からの移民を受け入れつつも、ウラル=アルタイ語族の方にしっかりと位置している。現代でも、兄弟の誰かが死に、未亡人が発生した場合、その兄弟たちの誰かと通じてしまったという話は良くあるものなのである。そういうことをすることに倫理的嫌悪感はまるでないのである。

●夜這いの指南役

 日本も経済力がついてくると、未亡人と雖も再婚しなくて済むようになった。未亡人が再婚した場合、どうしても子供たちの問題を抱えてしまうので、出来ることなら結婚せず、子供たちが成長して巣立った後に結婚した方がいいのである。

 しかし未亡人が出来る仕事というのは非常に限られて来る。昔の日本の農村では、「筆下ろしは後家の仕事」として、未亡人専用の仕事を確保していたのである。未亡人は当然にセックスをしないので、性的には欲求不満ではある。一方、童貞たちは若い女性とセックスするより、ベテランの女性とセックスをした方が余程ちゃんとしたセックスが出来るのである。

 夜這いというのはどうも自分が勝手気儘には出来なかったみたいなのである。まず未亡人から筆下しを受け、その際にきちんとした礼儀作法や、セックスの遣り方を教えられてから、やっとのことで他の女性に対して夜這いを仕掛けることができたのである。

 性教育に関しては、学校で行うような教育をやられると非常に有害なのである。性教育はベッドの上でやるしかできないものなのであって、実践的な性教育であればこそ、何をやっていいのか、何をやってはいけないのかが解るものなのである。学校で性教育を充実させればさせるほど、凶悪な性犯罪事件が起こるのは、当然といえば当然なのである。

 日本では長らく未亡人が性の指南役を務めてきたために、ポルノ小説やアダルトビデオでも「未亡人物」は常にヒットするジャンルになっている。未亡人によってセックスの面白さを教えて貰うというのが、民族の遺伝子にしっかりと刻み込まれているのである。

●10代の男子は40歳以上の熟女と付き合うべし

 男性の性欲が最も高まる時期は10代である。それに対して女性の性欲が最も高まる時期はなんと40代なのである。時期がまるっきりずれているのである。このためもしも10代の男性が同い年の女性と付き合えば、当然にセックスの方は巧くいかなくなってしまうのだ。

 性欲の激しさが一致しているのは、10代の男性と40代の女性であるのだ。だったら10代の男性は40代の女性と付き合えばいいのである。相手が熟女であるなら、セックスのことなら幾らでも教えて貰うことができるものなのである。大体、10代の男性がどうやっとしてもセックスは巧くならないものだ。自分の性欲の方が勝ってしまうので、性愛術が高まっていかないのである。

 物事というのは、格差のある方がエネルギーを産むものである。若い肉体と爛熟した肉体、精神レベルの低さと精神レベルの高さ、人生経験値の少なさと人生経験値の豊富さ、どれをとっても格差がありまくりであり、だからこそ、付き合えば付き合うほどエネルギーを発して来るようになるのだ。

 男性が10代の時に熟女と付き合っておけば、性欲の方は充分に処理されるので、後は然るべき若い女性を見つけた時、その女性と恋に落ちて行けばいいのである。熟女の性的な役割はそれで御仕舞なのであって。後はその若い男性の恋愛が巧く行くように支援してあげればいいのである。

 若い男性でありながら、「熟女が好き!}などとほざいている男性はマザコンに決まっているものだ。そうではなく冷静になって熟女が持つ能力に気付けば、その能力を活かしさせすれば、ちゃんとしたセックスも、素晴らしい恋愛もできるということなのである。

 人間というのは、往々にして性欲のためにセックスも恋愛も台無しにしてしまうということを決して忘れるべきではないのだ。

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恋の発明品

●ブラジャーは本当に必要か?

 俺は中学高校と私立の男子校で育ったために、同い年の女の子たちと殆ど接することなく育ってしまった。このため若い女性たちが常識としているものを素直に受け入れることができないのだ。

「なんでそれは必要なの?」

と思ってしまうのである。

 その手の疑問の中でも最たるものが「ブラジャー」である。

 女性の体は19歳まで成長し続けるので、ブラジャーは不要ではないかと思ってしまうのである。体はどんどん成長しているのだから、ノーブラで過ごした方がオッパイの形は綺麗になる筈である。ブラジャーが必要になるのは、成長が終わった20歳以降の女性たちなのである。

 ブラジャー自体も、これをつけていて、本当に良いのか疑問に思ってしまう。素材は化学繊維であり、どうやっても皮膚には良くないものだ。ブラジャーのホックに金具が使われていようものなら、そこから微量な電気を発してしまい、それで乳癌になったりしてしまうのである。

 そこで俺は新しいブラジャーを考え出したのである。

 それは

「ハンドブラジャー」

である。

 ハンドブラジャーの素材は「手」である。だから如何なるオッパイにも常にフィットするのである。しかも手ゆえに心地いい弾力性があるのだ。それでいて保温性に優れているのだ。手だからこそ「人肌」の温かさがあり、これによってオッパイは温められることになるのである。

 俺はこのブラジャーを大学生の時に開発し、俺の彼女を使って実験してみた。俺が彼女の後ろに回り、上半身を裸にし、ハンドブラジャーを装着するのである。するとどうであろう。今までのブラジャーにない最高のブラジャーであることが実感できたのである。

●ハンドブラジャーは指が動く

 このハンドブラジャーには普通のブラジャーにはない機能がついているのである。それは、

「指が動く」

ということなのである。

 基本的に乳首は人差し指と親指の間に挟まれることになる。これによって乳首に対する圧迫感がないのである。普通のブラジャーはどうやっても乳首を圧迫させてしまうので、それで女性は調子を狂わしてしまうのである。ハンドブラジャーの場合、乳首が露出することになるので、女性たちは常に調子が良くなるのである。

 ハンドブラジャーによって調子の良くなった女性を更に調子良くさせることができる。それは親指によって乳首を弄りまくり、乳首に快感を与えるのである。この親指の高速運動を食らうと、如何なる女性でも感じまくってしまい、日常の喋りとは違う言葉を発して来るようになるのだ。

 例えば、

「あ~ん、もう感じるーーッ!」

「濡れちゃうじゃないの!」

「やりたくなっちゃうじゃないの!」

 如何に上品な女性であっても、乳首を弄られるとダメらしいのである。俺は彼女の体を使って試してみたが、どうも陰部が濡れまくりの状態になるのである。これは俺にとって誤算だった。まさかハンドブラジャーにそういう副作用があるとは思わなかったからだ。

 しかしこれは実験なので、人体に危険性がない以上、まだまだ続けなければならない。そこで更に親指を動かし続けると、彼女の呼吸は荒くなり、声も途絶え気味になり、体温は上昇して、体を微妙に震わせるようになったのである。そして

「もう行くーーッ!」

と彼女が発すると、体がブルブルっと震え、体がガクンと落ちた。

 俺はこの発言と行動を疑問に思い、

「どこに?」

と訊いてしまった。

「決まっているじゃないの!」

「だからどこに?」

「あ~、もうこんなの初めてよ!」

「何が初めてなの?」

「あ~、もううるさい!」

 彼女はスカートとパンティーを脱いで全裸になり、なんと俺を押し倒してきたのである。俺の服を脱がしながら愛撫をしまくり、なんと俺のペニスを自分のヴァギナに挿入してしまったのである。ハンドブラジャーの副作用はこういう所にもあったのである。

●思わぬプレゼント

 ハンドブラジャーには様々な副作用があれども、とにかく実験は成功した。ハンドブラジャーは通常のブラジャーではないことだけははっきりとした。ハンドブラジャーは女性たちを夢見心地状態にさせるのである。女性たちはハンドブラジャーを使用するとどこかに行ってしまうのである。俺は男性ゆえにその場所がどこかなのか解らないのだ。それが悔しい。

 ハンドブラジャーの実験が成功した以上、俺は自宅に帰ってお祝いをしたかった。シャンパンでも飲んで、自分を祝福したかったのである。出来ることなら何かプレゼントが欲しかったのである。すると俺の目の前にプレゼントが落ちていたのである。

 なぜだか偶然にも部屋の中に「濡れたパンティー」が落ちていたのである。

 一体誰が落としたのか解らないが、「こういう不思議なこともあるんもんだ」と思って、俺はその濡れたパンティーを拾うとした。ところが俺はそのプレゼントを取る直前に俺の彼女が百人一首のカルタクィーンの如く猛スピードでパンティーをゲットしてしまったのである。

 勿論、俺は反論した。

「それは俺が発見したんだ!」

「ここは私の家よ」

「そのパンティーを見せてみろよ」

「嫌よ」

「なぜだかそのパンティー、濡れていたぞ」

「女の子のパンティーは汚れるものなの!」

 俺は彼女と噛み合わない会話を延々としてしまった。プレゼントを取り上げられるだけでも悲惨なのに、「女の子のパンティーはなぜか汚れる」という事実まで知ってしまったのである。俺はショックだった。男である俺はパンツを穿いても汚れないからだ。

 俺は悶々として帰途につくしかなかった。まさか女の子のパンティーがそんなにバッチイ物だとは知らなかったのだ。「世の女性たちはなんでこれを改善しないんだろう?」と何度も思い続けた。だったら俺が新しいパンティーでも開発して、パンティーが汚れないようにすればいいと思ったのである。

●発明は新たなる発明を産む

 俺は自宅に帰ってから、三日三晩考え抜いた。そこで新たなるパンティーが閃いたのである。

 それは

「ハンドパンティー」

である。

 ハンドパンティーの素材は「手」であるがゆえに、常にフィットするのだ。どんなお尻の持ち主でもこのハンドパンティーはフィットする。しかも手ゆえに弾力性があり、穿いていて心地いいのだ。更には手ゆえに保温性があり、冷え症になるということはなくなるのだ。

 既にお気付きかもしれないが、このハンドパンティーにはパンティーとしての機能を果たしていない。女性のお尻は大きいために、両手をパンティー代わりにするのは不可能なのだ。これは思わぬ誤算だった。しかし優れた発明品である以上、何か使い道があるのではないかと俺は思ったのである。

 そこで俺は再度彼女の家に行き、このハンドパンティーを試してみたのである。俺が彼女の背後に回り、下半身を裸にして、ハンドパンティーを装着させたのである。するとどうであろう。まさに「ここに手を置きなさい」と言われているかのように、ベストポジションを手にしたのである。

 このハンドパンティーには普通のパンティーにはない機能がついているのである。それは、

「指が動く」

ということなのである。

 しかもよりによって、全ての指が陰部に集中してしまうのである。俺が指を動かし始めると、濡れた秘部にすぐさま到達してしまった。指先が濡れているので自由自在に動かしていると、何か小さな突起物に当たってしまったのである。そこに指が触れると彼女は

「イヤン! も~気持ち良すぎる~ッ!」

と訳の解らないことを言うのである。

 俺はこの小さな突起物がなんだか解らないので、とにかく指を動かしまくった。すると彼女の呼吸は荒くなり、声も途絶え気味になり、体温は上昇して、体を微妙に震わせるようになったのである。そして

「あ~ん、もう行くーーッ!!}

と大声を発して、体を大いに震わせ、そして体がガクンと落ちたのである。

 俺はこの不思議な現象を前にして、思わず彼女に訊いてしまった。

「どこに?」

 しかし彼女は俺の質問に答えなかった。

 それどころか彼女は上半身の服を脱いで全裸になり、なんと俺を押し倒してきたのである。俺の服を脱がしながら愛撫をしまくり、なんと俺のペニスを自分のヴァギナに挿入してしまったのである。ハンドパンティーの副作用はこういう所にもあったのである。

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「近代日本文学の誕生」と「男色家たちの活躍」

●元男色家たちが作った新感覚派

 近代日本文学史を表面上辿ってみても意味がない。近代日本文学史は坪内逍遥が『小説神髄』を発表することで始まり、二葉亭四迷が言文一致運動を起こし、幸田露伴と尾崎紅葉の紅露時代を迎え、その後、夏目漱石という文豪を生みだし、日本の近代的な小説が確立された。

 これはどの文学者であってもなんの意義をも唱えることのない近代日本文学の歴史である。

 しかし実際の近代日本文学は「新感覚派」によって始まる。新感覚派こそ近代的な日本文学を作り出し、しかも芥川賞や直木賞を設けることによって、それを大いに発展させ、近代日本文学の主流の地位を占めているからだ。新感覚派以前の文学こそ前近代的な文学であると断言しても過言ではないのだ。

 新感覚派は菊池寛が創刊した『文藝春秋』に集まって来た作家たちによって生み出された文学運動なのであるが、その中心人物である「菊池寛」「川端康成」「横光利一」は≪元男色家≫という経歴を持つのだ。全員が全員、旧制高校の時に男色をやっていたのであり、或る時期になってその男色を捨てたのである。

 言わば、新感覚派は元男色家たちが作ったと言っていいのだ。

 男色は同性愛的行為であっても、男色家はゲイではない。男色家とゲイは違うのである。男色家は男同士で政治や文学や芸術を語り合う仲で友情を育み、その延長線上でセックスが行われるのである。ゲイの男性たちはセックスがメインで、男なら見境なくセックスしまくるのとは異なるのだ。

 男色家は大人になれば必ず結婚する。ゲイのように異性に興味がないのではない。興味は大ありなのである。かといってバイセクシャルではないのだ。男色は男色、普通の男女間の恋愛は恋愛ときちんと分けているのである。ゲイの男性がゲイ一本槍で、結婚しないのとは大違いなのだ。

●芥川賞の文学レベル

 俺は中学高校と私立の男子校に行ったので、この男色家たちが何を言っているのかは良く解る。男子校だと女性が排除されるので、男同士で突っ込んだ話し合いが幾らでもできるのである。通常は低俗な会話なのだが、話し相手が男性ゆえに、友情をきちんと育んでいけば、政治や文学や芸術の話を幾らでもすることができるのである。

 もしもこれに男同士のセックスがくっつけば、「男色が一丁出来上がり!」っていういうことになるのだ。要は古代ギリシャの「プラトニックラブ」である。男性が女性と恋愛していては、「知的な会話」ができないのである。優秀な頭脳を持った男性が同じく優秀な頭脳を持った男性を愛するからこそ、知的な会話をすることができ、それを愛を深めながら高度なものに展開していくことができるのである。

 菊池寛は通俗小説を書く作家であったが、文藝春秋社を起こしてからは、会社の経営の方が忙しくなってしまう。そこで川端康成を手下に使い、彼に小説を書かせると同時に、芥川賞の選考委員もやらせて、文壇の文学レベルを上げて行ったのである。双方、元男色家同士であるので、この辺りのことは阿吽の呼吸で巧く行ったのである。

 芥川賞は芥川龍之介の名を冠しているが、実際には川端康成の文学レベルが要求されるのである。ここに到達すればほぼ間違いなく芥川賞を獲得することができるのである。純文学系の新人作家なら、とにかく川端康成の小説を読むべきであり、彼の作品の凄さが解らなければならないのだ。

 しかし芥川賞は純文学系の作品に与えられる文学賞ゆえに、私小説を以て純文学とする勢力を取り込まなくならなくなり、そのため新感覚派の文学賞としての芥川賞は石原慎太郎の『太陽の季節』が頂点であり、それ以降は「志賀直哉賞」と言っていいような文学賞に落ちぶれてしまったのである。

●なぜ芥川賞を貰えなかったか?

 芥川賞の歴史では、実力もあり人気もある作家なのに芥川賞を取れなかったという作家たちが大量にいる。その筆頭は「太宰治:である。太宰治は芥川賞が欲しくて、或る選考委員に手紙を書き送ったくらいなのである。そうまでしてやっても、彼は芥川賞を取ることができなかったのだ。

 これは「文学史の謎」と言われているものだが、なんの不思議もないのだ。「男色の視点」から見れば、簡単に解明できるのである。太宰治には男色経験がないのである。また男色家たちが作った文学空間を解ろうともしなかったのである。これでは芥川賞を取ることなどできないのだ。

 戦後は村上春樹である。村上春樹も芥川賞を取っていないのだ。文芸ジャーナリストたちの間では、「日本文学振興会の痛恨のミス」だと言われている。何をバカなことを言う。村上春樹もまた男色家たちが作った文学空間を湧か解ろうとしなかったのである。

 太宰治も村上春樹も女性には「甘ったるい言葉」を言っていることでは共通している。男色家はそういうことをしないのだ。若い時に男色をしてきた男性は必ずと言っていいほどに、いざ自分が女性と交際する時はレベルの高い女性を選ぶのである。当然にその恋愛は洗練されたものになるので、そういう甘い言葉で女性を弄ぶという幼稚さがなくなるのである。

 たとえ男色家でなくても、中高生の時に男同士でレベルの高い話し合いができた男性は、しっかりとした友情を育んでいるわけだから、いざ自分が女性と恋愛しても、今度は女性とちゃんとした恋愛を育もうとするのである。友情と恋愛は繋がっているのであり、友情に失敗した人は必ず恋愛にも失敗するのである。

●吉屋信子が犯した罪

 近代日本文学は元男色家たちによって作られたのだから、女性作家たちの方はどうなのかというと、菊池寛が通俗作家として活躍していた頃、吉屋信子という作家が通俗作家として活躍していたのである。この吉屋信子はレズビアンであって、結婚しなかった女性だ。

 当時の日本人女性で吉屋信子を知らなかった女性は一人もいないくらいに吉屋信子は有名であったのだが、彼女が死んでしまうと、彼女の作品は何一つ残らなくなってしまったのである。その理由は簡単である。彼女の文学作品のレベルが余りにも低すぎるからなのである。

 レズビアンゆえに、女同士の会話は書けても、男女の会話がまるで書けていないのだ。

 俺が処女小説を書いていた時、男女の会話を書くというのは、頭が割れるほど痛かったのである。男性の身でありながら、女性の喋りを書くというのは、それほどまでに脳に激しい負担を強いるのである。女性だって同じ現象が起こる筈である。

 考えてみれば、男女の会話をきちんと書けている作家は全員が全員、結婚しているのである。結婚していれば、普段の生活の中で男女の会話がなされるので、いざ小説を書いても簡単に書けるのである。レズビアンの作家は「百合文学」の作品は書けても、それ以外の作品は書けないものなのである。

 元男色家たちが新感覚派を起こしたように、女性だって若い時に女同士で知的な会話を行い、その延長線上でセックスをし、大人になって同生愛を捨て、異性愛に走って結婚すれば、女性作家として大成するというのは、理論的には導き出される。

 ただこれは理論的であって、実際には女性作家で大成するためには「結婚」と「出産」が大事であるのだ。女性は結婚しない限り自立できないし、赤ちゃんを出産してしまえば自動的には母親になるので、母性愛を出して行くことが可能になるのだ。それに結婚や妊娠出産育児を経験すれば、幾らでも小説のネタを考え出すことは可能になるのである。

●排除と寛容

 文化というものは男性が女性を排除した時に新たなる文化運動が始まるのである。既存の文化を脱して、新たなる文化を築き上げようとする時、女性たちの存在は邪魔なのである。女性たちが加わってくれば、「結婚だ」「妊娠だ」「出産だ」「育児だ」となってしまい、とてもではないが、新たなる文化を生み出すエネルギーを持てないのである。

 大体、日本でも仏教が伝来し、男性たちが出家して、結婚を否定する生活をしたからこそ、仏教は日本の文化を大いに発展させてきたのである。これはキリスト教も同じで、修道院に於いて修道士たちが結婚を否定する生活を営み、「祈り且つ働け」を実践していったからこそ、西ヨーロッパの文化は発展し続けてきたのである。

 男性たちだけで徒党を組み、女性たちを排除することは一見「強烈な性差別」に思えるかもしれない。事実、仏教もキリスト教も女性を劣った存在と看做してきたのである。ところが歴史には「歴史の逆説」というものが発生する。そういう差別的な集団だからこそ、仏教は「女人成仏」を唱えたり、キリスト教は「一夫一婦制の理想的な家庭像」を築き上げてきたのである。

 排除はいずれ寛容を産むのである。

 新感覚派は元男色家の作家たちが生み出したものだし、芥川賞も直木賞も元男色家の菊池寛が作ったものだし、これらの文学賞の選考委員たちも長らく男性たちであった。しかしこれらの文学賞は女性の作家たちにも門戸を開き、積極的に芥川賞や直木賞を授賞させ、選考委員にまで迎え入れたのである。

 男色家は同性愛的行為をするからといって、ゲイではないのだ。ゲイの人たちは女性たちを排除しっ放しで、ゲイの人たちだけで閉鎖的な集団を作る危険性を常に持っているのだ。男性作家の中にもゲイの男性はいることだろう。しかしこういう人物が新たな文化を作るということはまずないのだ。これは女性作家たちも同じで、レズビアンの作家がいても、新たなる文化を生み出すことはないのだ。

 勘違いしてはならないのは、異性愛と同性愛が対等に並ぶことはないということだ。世の中の圧倒的大多数の人々は常に異性愛者たちなのである。だからといって全員が異性愛者ではないのだ。男性たちは基本的に女好きなのに、女嫌いである男色家や。女性そのものを拒絶するゲイの男性が出て来るのである。こういう連中が時として、文化に対して思わぬ影響を与えて来るのである。

 歴史というものは表面をなぞっていては絶対に理解できないものなのである。

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『恋する文豪』 ~名作の読み方~

●名作だからこそ、解説書が欲しい

 小説を読む時は行き成り読んではならない。粗筋を読んでから読むようにすべきなのである。というのは、人間の脳は何も知らない状態で小説を読んでも、それをすぐさま理解できないようになっているのだ。小説を手当たり次第読むというのは、文学に対して無知な人間がやることなのである。

 通常、人が小説を読む時、作家の情報を仕入れてから読むものだ。顔がどうとか、生年月日はどうとか、最終学歴はどうとか、そういうことを踏まえて読むからこそ、その小説を読んでもすぐに理解できるのである。

 出来ることなら粗筋を読んでから読むと、より深く理解することができる。粗筋が頭の中に入っていれば、小説を読む際に巧くナビの役割を果たしてくれるので、読書スピードが上がるのである。その小説に解説が付いているのなら、尚いいのだ。

 しかし小説も名作と称される物に関しては、その小説とは別個に解説書を買い揃え、きちんと読めるようにすべきなのである。なぜなら名作は様々な人々が読んできて、「これは本当に面白い!」と思ったからこそ、生き残ってきたのである。

 そういう作品だからこそ、自分にちゃんとした読解力がないときちんと読めないのである。

 名作というのは一般大衆のために存在するのではないのだ。読書階級に属する人々のために存在しているのである。読書の習慣を持ち、普段から本を沢山読んでいないと、名作を理解することはできないのだ。

●読解力は年齢によって異なる

 今回紹介するのはこの本!

 柴門ふみ著『恋する文豪』(角川書店)

   恋する文豪

   

 中学校や高校では国語の授業に於いて名作を読まされるものだ。これは正しい教育の仕方なのである。生徒たちの読解力が低いからといって。彼らのレベルに合わした小説を出すのではなく、かなりレベルの高い小説を読ますからこそ、生徒たちの読解力は飛躍的に上昇することになるのである。

 ただこの遣り方だと、深刻な欠点が存在してしまう。それは生徒たちが名作を誤読してしまうということだ。読解力が低いためにその小説を正しく読むことができないのだ。これは致し方ないことなのである。若い時には理解できない小説もあるということを知っておくことだ。

 例えば夏目漱石の『こころ』なんかは、高校生の必読書にして、大人になっても愛読書にしている人が多いのに、完全に誤読しているのだ。「先生」と「K」と「お嬢さん」の三角関係の話だと思い込んでいる人が殆どなのだ。しかし違うのである。これは「心理小説」と言うべきものであって、メインとなっているのは先生の心なのである。だから題名が『こころ』なのである。

 読解力をレベルアップしていくためには、本を沢山読むことと、とにかく多くの人生経験を積んでいくことだ。人生経験が足りないからこそ、どうしても読解力が足りなくなってしまうのである。何事も自分が経験してみないと解らないものなのである。

 名作であればこそ、自分が「もう青春は終わった」と思った時期に、もう一度読み返しい欲しいのだ。そうすれば、その名作が自分の等身大の物と思えるようになり、その良し悪しが解るようになるのだ。名作を名作と崇めている限り、名作をきちんと理解することはできないのである。

●優れた名作

 名作は全部が名作なのではない。名作の中でも優れや名作が存在する。それは「文章表現が優れていること」「物語構成が優れていること」が絶対条件なのである。この両方を兼ね備えれば、完璧であるのだ。

 近代日本文学史の中で文章表現が断トツに優れているのは「川端康成」である。彼は新感覚派の第一人者であったので、こえが菊池寛率いる文藝春秋社の後押しを受け、日本の文学の主流となるのである。

 しかし川端康成には致命的な欠点が存在していて、それは物語構成が巧くないということなのである。事実、彼の代表作『雪国』では国民の誰もが冒頭の部分を暗誦できるのに、その後の展開を余り知らないのだ。

 これに対して三島由紀夫は文章表現も物語構成も巧いのである。彼の遺作となった『豊穣の海』は近代日本文学史の中で最高傑作といっていいのだ。恐らく、凄すぎて多くの人たちが理解できていないだけのことなのである。

 だが三島由紀夫にも致命的な欠点があって、要は彼の「美至上主義」こそが問題なのである。芸術至上主義ではなく美至上主義である。年を取れば解ることだが、美しい物はいずれ朽ち果てていくものなのである。美は希少価値を持つからこそ、それに高い価値が与えられるだけのことであって、それを絶対視してはならないのだ。

●ダメな名作

 名作の中でもダメな名作は、男女の性差を踏まえていないのである。「男の視点」からその名作を読めばおかしいし、「女の視点」からみればこれまたおかしいのである。代表例としては太宰治や村上春樹だ。

 太宰治の『斜陽』は「男の視点」から見れば主人公の男性に対して「コイツは男じゃないよ!」と思ってしまうのである。そのくせ女性たちに受けるような文言を大量に入れ込んでいるので、そのために女性たちにヒットしてしまうのである。

 村上春樹の『ノルウェイの森』になると、これがエスカレートし、冷静に考えれば、「この作者、バカじゃないのか!?」と思ってしまうくらいにアホなことを言っているのだ。例えば『ノルウェイの森』にはこんな会話が出て来る。

「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。

「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

 バカじゃないの!? こんなアホな会話をしているカップルがいるなら、俺は機関銃を乱射して、すぐさま掃討する。もしも俺が女で彼氏からこんなことを言われたのなら、すぐさま馬乗りになって殴り殺す。ところがこの世にはバカな女どもが多いからこそ、こういう小説を読んで感動してしまうのである。

 男性にはバカな妄想をしてしまうということがあるのだ。歯が浮くような会話をするより、ぶっ飛んだ行動をした方が良いのだ。その点、谷崎潤一郎の『痴人の愛』は評価できる。ナオミのような「女王様気取りのバカ女」に自分が振り回されるというのは、それはそれで面白いからだ。

 この逆パターンが宇野千代の『おはん』であり、。加納屋のような「優柔不断のダメダメ男」が女性は大好きなのである。そういう男性は男の子がそのまま大きくなったようなものであり、母性本能が思い切り刺激されてしまうのであろう。

●人気があるからといって名作とは限らない

 名作の中には発表当時爆発的な人気を得た物があるのに、その後、人気が消えてしまい、文学者たちからも評価されないという作品がある。人気があるからといって名作とは限らないのだ。逆に言えばそういう作品こそ病的な問題を抱え込んでいるのである。

 その際たるものが「キリスト教」だ。

 菊池寛の『真珠夫人』は当時大人気だったのに、通俗小説としてしか評価受けず、今では完全に見捨てられた小説だ。なんでそうなってしまったかというと、処女崇拝があるからなのである。処女というのは恋愛経験値がゼロの女性である。そういう女性がドロドロの恋愛ドラマに出て来ること自体がおかしいのだ。

 次に慶応義塾大学卒である。

 慶応卒の人たちはそもそも裕福な家庭の出が多いので、どうしても小説に於いてリアリズムを欠いてしまうのだ。石坂洋次郎の『青い山脈』なんてのは、時代が過ぎ去ってしまうと、とてもではないが読めない代物になってしまうのである。

 トドメが「同性愛」である。

 恋愛小説なのに、同性愛を隠し、男女の恋愛を展開させる小説はどう読んでも面白くない。福永武彦の『草の花』なんてのは、男女の恋愛を偽装しながら、主人公の男性が男性に恋心を抱き、女性には友情を展開するというバカげた内容になっているのだ。

 小説を読む時、人気があるからといって読まないことだ。自分が冷静になってその小説を読めば、「これは下らない小説だ」って理解することができるものなのである。世の中には悪質な小説だって存在しているのである。

 それにしても柴門ふみさんは相変わらず絵が下手だな~。漫画家なのに~。

  

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スーパーとデパートとアウトレット

●スーパーは少額を使う顧客を相手にするもの

 現在、デフレ不況が進行中で、その中で消費構造も徐々に変化していっている。しかも日本政府はこの不況下に男女共同参画社会の実現を目指すという悪政を展開中である。男女の所得を上げるのではなく、男女の所得を平等にすることを目指しているために、日本人の年間所得金額は上がるどころか下がってしまい、この悪政を始めてから、なんと年間で50万円以上も所得が下がってしまったのである。

 当然に国民は消費に関してシビアにならざるを得ない。なんせ所得は減っているのだ。このデフレ不況と悪政の中で着実に体力をつけてきたのが「スーパー」である。常に安売りを展開しまくり、競争相手となる小売店を叩き潰していったのである。

 スーパーの基本は「八百屋」である。野菜は新鮮さが売りなので、スーパーでも野菜を豊富に取り揃え、それを売り切ることが大事なのである。八百屋では「大根一本買うお客を大事にしろ」と言われるが、これはスーパーでも変わらないのだ。

 どこのスーパーでも野菜と果物がメインになっている。野菜と果物をまず買って貰い、その後に他の商品をも買って貰うという遣り方なのである。だからスーパーが新鮮で美味しくて安い野菜や果物を用意できないと、そのスーパーは潰れることになるのだ。

 スーパーでは野菜や果物のコーナーの後に魚のコーナーに行くようになっている。これは法則に基づいたもので、魚を買うお客様というのはスーパーの使用頻度が高くなるので、だからこそ肉よりも魚を買って貰うようにしているのだ。だから魚のコーナーが充実しているかどうかはスーパーの経営を決定的にさせる非常に重要なものなのである。

 肉を買うお客様たちの中には大量に肉を買う傾向を持つ人たちがいるのだ。そのため魚を買う顧客が多いと、肉は安売りされる可能性があるのだ。魚で充分に利益が出ているので、肉を大量に仕入れて倉庫に保存しておき、それを一斉に売り払うということをすることが可能になるのだ。

 スーパーでは来客の回数頻度を上げることこそ大事なのである。お客様は一気に大量には買ってくれないのだ。だから定期的に特売をやったり、リサイクルにも積極的に取り組むのである。これはそれ自体が重要なのではなく、来客の回数頻度を上げるためにやっているのである。

 スーパーの店員にオバサンが多くなるとスーパーは潰れる可能性が出て来る。オバサンに限ってサービスが雑になるからなのである。スーパーのお客様というのは財布の紐が堅いのだ。平気で1000円以下の買い物をしてくるのだ。それなのにオバサンが店員だとこの手のお客様をバカにしてしまい、それでお客様を逃してしまうことになるのだ。

●デパートは大口の顧客を相手にするもの

 デパートというのはスーパーとは違う。デパートがメインとするお客様というのは、「お金持ち」たちであるのだ。決して貧乏人たちではないのだ。このことを知らない人たちが多過ぎるのだ。だから「デパートには欲しい物が売っていない!」と言い出してしまうのである。

 デパートの中心的部署は「外商部」である。外商部がその地域のお金持ちたちを顧客にしてしまい、商品を提供して行くのである。「80対20の法則」を使うと、外商部の売り上げが全体に売り上げの80%の効果を発揮することになるのである。

 デパートのおお店それ自体で売っているのは、飽くまでもイメージを上げるための物でしかないのだ。デパートに来客して商品を買っても、「80対20の法則」から言うと、全体の売り上げの20%しか効果がないのである。本当に恐ろしい事実なのである。

 だから外商が弱くなるとデパートは潰れる。事実、デフレ不況で閉店したデパートは全部後発のデパートたちであって、デパートでも老舗と言われているものは全く潰れていないのである。デパートはお金持ちたちのためにあるものなのであるということが解っていないと、デパートが閉鎖する報道を見て、「デパートはもう終わりだ」と思い込んでしまうのである。

 デフレでは貧富の格差が激しくなるから、デパートの中には好調のデパートも多数存在するのである。だからお金持ちたちをしっかりと掴んだデパートは絶対に潰れないのだ。それどころか「デパ地下」のようにデパートから新たなビジネスが生まれて来ている始末なのである。

●アウトレットは若い顧客を相手にするもの

 アウトレットは基本的にブランド品の流れ物を扱うお店である、デフレ不況下では最も勢力を拡大したジャンルである。逆に言えばそれだけブランド品が売れなくなったということなのである。正規の高級ブランド店の方が店を撤退させているくらいなのである。

 アウトレットを使用するお客様というのは、統計上、意外とお金を使うということが解っている。だからアウトレットのお店はサービスが充実している。お客様が来客すれば必ず結構な金額を落として行くので、来客してくれればそれで商売繁盛なのである。

 アウトレットは若い顧客を相手にするものだ。年配のお客様は正規のブランドショップで商品を購入するからだ。だからアウトレットからお洒落さがなくなるとアウトレットは潰れることになるのだ。逆に言えば正規の高級ブランド店よりもお洒落なのである。

 椅子がないとか、便所が汚いとか、子供の遊ぶスペースがないとかいうのは、アウトレットでは致命的なことなのである。馬鹿なアウトレットは駐車場の確保ばかりに気を取られて、大事な所に資金を充分に投入しないのである。アウトレットのお店がなんで郊外にあるのか全然解っていないのである。

 ブランド品の流れだからこそ、ブランド品が流れて来なくなれば終わりだ。だからアウトレットではお店がしょっちゅう交代している。そうやって新陳代謝を繰り返すからこそ、アウトレットの商品やサービスが充実して来るので、益々顧客数が増えるのである。

●デフレ下では複数のルートを持つようになるもの

 ショッピングセンターというのはスーパーの変形で、スーパーで全ての商品を売ってしまうのではなく、沢山の小売店を集めて様々な商品を売るのである。これに対してショッピングモールはデパートの変形で、デパート本体で売っている物を沢山の小売店を集めて売るのである。

 デフレ下では複数のルートを持つようになるのは当たり前のことなのである。デフレによって商品の値段は下がっているのである。より多く下げた所に買いにいくのは自然の流れなのである。当然に複数のルートを作り、より安く手に入れようとするのだ。

 デフレの場合、マスコミは頓珍漢な報道をしてくるものだ。重要な情報はマスコミに集まらないからなのである。それよりも情報はゲリラ的に流れて来るので、そういう情報を集めて行かないと、経済の実態を掴むことができなくなってしまうのである。

 経済がどのように変化しようとも、お金を沢山使うのは若者たちであり、子育て中の夫婦である。子供が巣立ってしまうと、夫婦はとたんにケチになり、余りお金を使わなくなるものなのである。だから経済を活性化しようとするなら、結婚を奨励して、結婚して豊かになるような税制を設ければいいのである。

 男女共同参画社会がなぜ間違っているのかといえば、結婚とか育児とか全然考えていかないのである。男女が結婚もせずに社会に参画してきても、社会は機能しないのだ。政府が自分のやっている政策は経済をより不況にさせているということに気付かない限り、国民の貧困はより強化されていくことになるのだ。

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母親が10代の子供を育てるということ

●「人間の成長」と「10代の反抗期」

 育児で悩む母親たちは多いものだが、子供が乳幼児の段階でしっかりと「育児の仕方」を身につけておかないと、子供が10歳を過ぎた辺りからとんでもないことになってしまう。子供は10歳までなら母親の言うことを聞くものなのであって、母親自身が母親として学ぶべき所はきちんと学んでおいた方がいいのである。

 戦前は10歳まで尋常小学校に行き、それ以降の年齢になると上級の学校に進学した。この教育システムの方が子供の成長に合っているのだ。しかし戦後の教育システムはなぜだか子供を12歳まで小学校にいさせてしまう。だからこそ小学生たちが学校で問題を起こすようになってしまうのである。

 人間は19歳で肉体の成長のピークを迎える。その内の前半は親が育てるべき時期であり、後半は親以外の者たちが育てなければならないのである。人間は群生動物なのであって、家族だけで完結する動物ではないのである。だから、家族を否定する思想は論外だが、家族だけに頼る思想も間違っているのである。

 子供は10歳までなら母親の言うことを良く聞くが、11歳辺りから母親の言うことを聞かなくなる。そして中学生にでもなれば母親に反抗するようになる。これは成長が正常な形で行われているということなのである。寧ろ反抗しない子供の方がおかしいのだ。

 それゆえ母親が我が子に何か教えたいことがあるなら、10歳までの内に教え込んでしまうことだ。10歳までなら素直に聞くからだ。そして子供の反抗期が始まれば、子供を突き離し、親の力で子供の生き方を変えるというような間違った考えを持つことはやめることだ。反抗期が始まれば、母親に出来ることはもう大してないのである。

●「甘え」と「自立」は延々と繰り返す

 今回紹介する本はこの本!

 明橋大二著『10代からの子育てハッピーアドバイス』(1万年堂出版)

 10代からの子育てハッピーアドバイス

 この作者の本は実に良いのだが、結論から言うとこの本は少し問題点がある。この本を鵜呑みにするのではなく、この本を読みながら自分で考えながら読んで欲しい。10代の子供たちをきちんと育てるのは心療内科の医師のアドバイスだけで出来るものではないのだ。

 子供は10歳までは「従属期」であり、親に従属して甘えまくる。甘えることで母性愛や父性愛を大量に貰い、様々な知識や技術を親から獲得していくのである。10歳以下の子供は決して自立しない。また、自立させてはならないものなのである。

 母親が充分に愛情を持って育てていけば、いずれ子供は「自分でやる!」と言い出し、まずは服を着ることを自分で遣り出し、家事を手伝ったりするようになるのだ。この「自分でやる!」というのは自立ではない。「自治」である。自分で出来ることは子供と雖も自分でやりたくなるものなのである。

 子供が自立を開始するのは10歳を過ぎてからである。自立し始めるのは男女平等ではなく、絶対に女の子の方が早い。男の子の方は遅いものだ。自立できる子供というのは、自分が10歳までにきちんと親に甘えることができた子だけなのである。

 「親に甘えるからこそ自立できるのである!」

 この因果関係を絶対に忘れてはならないのだ。

 20歳を過ぎて「女性の自立」を叫ぶ女性たちは、自分が幼い段階に於いて自分の母親から自立することを強要され続けてきたのである。だから20歳を過ぎても母親から自立できず、よりによって社会に対して自立を叫ぶようになるのだ。

 20歳を過ぎて「恋愛中毒」になったり、やたらと「愛」を叫ぶ女性たちは、自分が子供の頃に親から充分に愛されなかったのである。だから自分が大人になったのに自分の心の中では愛が不足しているゆえに愛に執着するようになるのだ。

●自己評価の低さは精神を狂わすもの

 母親が子供を育てる時、どうすれば子供をちゃんと愛することができるのか悩んでしまうものだ。それもその筈、愛というのは「好き」という感情がない限り、絶対に出て来ないからだ。だから我が子に向かって「お母さんは好きだよ」という言葉を連発しておいた方がいい。「好き」と言えれば、自然と母性愛は出て来るものだからだ。

 しかも子供の方も成長してくれば、「ママは僕のこと好き」「ママは私のこと好き」とか、母親の愛情を確認する作業をやってくるので、その際は「好きだよ」と言えばいいのである。こうすると母子の間で愛が巧く循環し、愛の質量が自然と増大していくのである。

 しかしこれが親子間で出来ていないと、子供は自己評価を低くしてしまい、「自分は価値のない人間ではないか?」と思い込んでしまうのである。この自己評価の低さはいずれ精神病となって出て来るものなのである。10代の子たちの精神病がなかなか治らないのは、その原因が親子関係にあるからなのである。

 親子間の愛の循環を巧く行うためには、なんといっても「快食」「快眠」「快便」を心掛けることだ。母親なのに母親らしいことをしない女性はジャンクフードを食っているからこそ、そうなるのである。就寝時間も出来る限り早くすることだ。夜更かししていると脳が疲労してしまうものなのである。便秘をすれば脳に汚い水分が行き、それで脳が機能しなくなってしまうのである。

 子供の自己評価を高めて行くためには、「家系図」を見せるのが効果的である。人間は誰しも自分のルーツを知りたいのであって、家系図を作って、「この人は何をやった」と教えていけば、自分だって立派な人間になろうと決意してくるものなのである。

 トドメは「宗教心」である。親が自宅で宗教書を読んでいたり、神社仏閣などに参拝していれば、子供だってそれを真似してくるようになるのだ。宗教心があれば自分の心がブレないものだし、神社仏閣に行くことが家族のいいガス抜きになり、どうでもいいような不満を抱かなくなるのだ。宗教がおかしくなるのは「信仰気違い」になることなのであって、信仰を殊更に要求する宗教は絶対に信用しないことだ。

●イジメはなぜ深刻な問題になるのか?

 親子関係が健全になっていれば学校に於いてイジメなど発生したりはしない。しかし親子関係が巧く行っていない親子は必ずいるのであって、だからこそ学校でイジメが発生して来るのである。学校でイジメをなくそうなどと間違ったことを妄想してはならない。学校でイジメが起こるのは必然であるのだ。

 イジメっ子というのは必ず真剣になってイジメを行っている。遊びでイジメなど行っていないのだ。自分が自分の親からちゃんと愛情を貰えることが出来なかったために、それが怒りとなって爆発し、イジメられっ子を執拗にイジメまくるのである。

「イジメは必ずエスカレートする!」

 だから学校の教師がイジメを放置すれば、イジメられっ子は自殺するまでに追いやられるし、時に殺人事件だって起こったりする。イジメというのは本来、刑事事件で処理すべきものであって、学校の教師では解決できない問題なのである。警察官たちが学校に介入しないと解決できないのである。

 小学校の場合、担任が教室に常駐すればいい。担任が職員室に行ってしまうからこそイジメを見逃してしまうのである。よく「イジメを把握できなかった」と言い訳をするものだが、それが学校の教師たちが普段から間違ったことをやっているからなのである。

 中学校や高校の場合、担任制を採用するのではなく、担任団を作るべきなのである。中学生や高校生みたいに複雑な年頃では、1人の担任が全ての生徒たちを把握するのは不可能なのである。そこで担任団にしてしまえば、様々な教師たちによって生徒たちの意見を組み取ることができ、それによってイジメが起こらなくなるのだ。

●登校拒否は健全な反応

 子供が登校拒否を起こした場合、それは病気なのではなく、健全な反応なのである。まず親子関係が拙い状態にあり、学校でも担任や生徒たちの間でもトラブルを抱えているのである。このまま学校に行き続ければどうにかなってしまうからこそ、登校拒否をするのである。

 我が子を登校拒否にしてしまう母親というのは、大抵が子供に対して干渉が多過ぎるのだ。母親がいつも「ああして欲しい」「こうして欲しい」と言っているからこそ、子供の方がヤル気をなくしてしまうのである。いつまでも我が子を子供扱いしているからこそ、子供がダメになってしまうのである。

 登校拒否が出て来るような学校というのは、学校が学校として機能していないということなのである。登校拒否というのはイジメよりも深刻な問題なのであって。学校がきちんと教育サービスを提供できていないからこそ、折角、学校に入学したのに、学校に来なくなってしまう生徒たちが出て来るのである。

 大体、新設して間もない学校に登校拒否の生徒など絶対に出て来ない。登校拒否が出て来る学校は設立してから何十年と経っている学校であって、学校自体がリストラをして、組織の機能を高めていないので、教育能力が思いっきり低下し、それを不満に思う生徒たちが登校を拒否してくるのである。

 登校拒否が出て来ると、大抵その次は「学級崩壊」が出て来る。そしてその学校そのものが潰れてしまっている。組織というものは必ず劣化していくものなのであって、定期的にリストラを実施して組織を再編成しないと、組織が組織として機能しなくなってしまうのである。

●学校を信用してはならない

 我が子をちゃんと育てたいのなら、「学校不信」に徹することだ。学校など一切信用しない。一見、ネガティブな意見に見えるが、学校を信用しないからこそ、逆にちゃんとした教育をやっている学校が見えてくるのである。そして我が子をその学校に行かせればいいのである。

 学校の教師たちは10代の若者たちへの対応を教えられていない。日本は占領中に師範学校を潰されてしまったために、要は教育に関して素人の人が教壇の上に立っているのである。敗戦の後遺症は未だに続いているのであって、そのことを絶対に忘れてはならないのだ。

 そもそも我が子の教育を学校に任してしまうことこそが問題なのである。小学生までの教育なら、母親でもできることなのである。だったら自宅で我が子を相手に教育すればいいのである。夕食後、子供たちを居間に集めて勉強させ、質問があれば答えればいいのである。

 しかし中学や高校になってくるとさすがに母親では教えられなくなる。だからj経済的に豊かな親なら我が子を私立学校に通わせるのである。私立学校といってもそんなにいいものではないのだが、公立学校よりはマシであることだけは事実である。

 我が子を私立学校に通わせるだけの経済力がなければ、出来るだけ偏差値の高い公立学校に行かせようとするものだ。当たり前のことだが、公立学校で偏差値の低い学校はもう学校としては成立していないほど悲惨なことになっているのである。タダほど恐ろしいものはないのだ。

●お稽古事や学習塾の大切さ

 大人になってから、「この人は礼儀正しい人だな」と思われる人には或る共通項がある。それはその人が子供の頃に何かしらのお稽古事をやっていたということなのである。お稽古事をする際、礼儀作法をしっかりと叩き込まれて、その上でお稽古事を受けていたのである。

 ということは、学校で礼儀作法は教えていないということなのである。何かを学ぶ場合、礼儀作法というものは非常に重要なのである。その礼儀作法を学んでしまえば、後に教えられる内容は簡単に理解できてしまうものなのである。大体、学校でも挨拶ができなくなると、もう教育どころではなくなってしまうものだ。

 若い時は沢山の教師から何かを習うよりも、一人の師匠について物を教えて貰った方がいい。師匠につくと何事も上達が速いのである。ピアノなんかはその典型例で、小学生の時は一人の師匠につくものだ。そうすると小学校を卒業する頃には難しい曲でも平気で弾けてしまうものなのである。それ以降なら様々な教師についても良いのである。

 母親であるなら、学校で学問を教えてくれるだろうと間違った考えを持ってはならない。学校は様々なことに手を出しているので、学問を教えるのが物凄く下手になっているのだ。だからお金を出して学習塾に通わせる親たちが多いのである。

 学習塾は学問を教えることに特化しているので、学習塾の授業は学校の授業よりも解り易いのである。なんで学習塾に行くと成績が上がるのかといえば、学習塾の講師の能力が非常に高いからなのである。何事も特化すれば非常に高い技術を持つことができるものなのである。

●若衆宿を復活すべし

 10代というのは厄介な時期なのである。親から離れて自立していく時期だから、本来なら親元で育てるべきではないのである。中高生の時期は親元から引き離し、寮生活をさせてしまえば、自然と自立でき、親に反抗するエネルギーを学問やスポーツに投入でき、高い能力を持つことができるようになるのだ。

 イギリスが強かったのも、エリートの子弟たちには学校に行くことだけを求めたのではなく、学生寮で生活させることをも求めたからこそ、そこで若者たちが切磋琢磨し、優秀な人材へと成長していったのである。寮生活こそ若者を鍛えるものなのである。

 日本でも昔は「若衆宿」というのが、そこに若者たちが集い、若者たちを巧く成長させていたのである。10代の若者は親が育てるものではないのだ。若者同士が集まって、勝手に成長していくものなのである。親や教師たちが若者を改造できると思っている限り、教育問題は延々と続くものなのである。

 10代の若者が10代の内に絶対に学んでおかなければならないことは「友情」である。自分と同い年の子と仲良くなり、その者と友情を育んで行く。友情があればこそ、自分がおかしな方向に走らず、自分がやりたい仕事に就くことができるようになるのだ。

 10代の若者を学校だけで育てようとしている限り、若者たちは高い能力を持つことはできないのである。寧ろダメになっていくものなのである。学校の教師たちが教育問題に幾ら取り組んでも解決できなかった理由はまさにここにこそあるのだ。学校以外での居場所こそ、10代の若者たちには必要なのである。

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素人と玄人

●人材の育成にはどうやっても10年はかかる

 如何なる職業に於いても人材の育成には10年かかるものである。これは人間の脳がそうなっているからなのであって、どのような方法を用いたとしてもこれを縮めることなどできない。人材の育成を論ずるなら、これを前提に教育システムを組み立てないと、まともな人材を確保することが不可能になってしまうのだ。

 会社なら入社後三年間は雑用係になる。新入社員に雑用をこなさせることで能力を育てて行くのである。それが出来た後に徐々に価値ある仕事を与え始め、入社後10年も経ってからやっとその会社の超重要なプロジェクトが任されたりするのである。給料も入社10年後から急上昇を描くようになっている。

 より高度な技能を要する分野では、これをやる以前に2年間の教育と訓練を施すことになる。医者でも弁護士でも、1年間は徹底して教育を受け、もう1年間は実地で訓練を受けることになる。これをやるからこそ専門分野でまともな仕事をすることができるようになるのである。

 これは人材育成の常識である。実際にどんな職業であったとしても、このような教育システムを築いて行くしかない。そうしないと機能しなくなってしまうからだ。しかしこの世にはこれをやっていない職業がある。それが「政治家」「ジャーナリスト」「教師」である。

 これらの三つの職業は高度な技能を要する職業である。だから2年間の教育と訓練を受け、更に10年間働いて、やっと一人前になれる職業なのである。それなのにこのことをやっていないのだ。だからこれらの職業に就く者たちはいつも問題を起こしまくっているのである。

●如何なる職業も玄人たちによって動かされるものである

 政治家というのは「世襲」が基本である。政治家の仕事は非常に特殊な仕事なのであって、自分の父親が政治家でない者はそう簡単にこなせる仕事ではないのだ。国民を統治していくためには結婚によって複雑な閨閥を形成し、長年培ってきた人脈を利用して、様々な人たちとパイプを確保しておかなければならないのだ。大学を優秀な成績で卒業したからといって成れる職業ではないのだ。

 これに対してジャーナリストは世襲が存在しない。大体、父親がジャーナリストで、その子もジャーナリストであるという事例は非常に少ない。ジャーナリストたちは国民に対して正しい情報を報道していかなければならないが、それなのに様々な情報が飛び交うものだから、どうしても報道が歪んでしまうのだ。高度な専門的技能を身につけない限り、ジャーナリストの仕事は務まらないものなのである。

 教師に関しては、戦前、師範学校があったためにきちんと人材育成がなされていた。しかし連合軍の占領中に師範学校が解体されてしまったために、だからこそ学校では教育問題が山積みになっているのである。学校で殺人事件が起こったり、自殺者が出て来るのは、教壇の上に立っている者が本格的な教師ではないからなのである。

 政治家にしてもジャーナリストにしても教師にしても免許制にして然るべきものなのである。或る一定の能力を身につけた者たちだけに免許を与えて、免許を与えた後も能力が不足していると判断したのなら免許を取り上げるようにすればいいのである。「数を減少させれば質は向上する」ものだから、そうやって質を高めておけば、如何なる問題が発生しても対応できるものなのである。

 この世には単なるバカではなく、「大学を出たバカ」が存在する。「大学を出たバカ」たちは「如何なる職業も玄人たちによって動かされている」という冷厳なる事実を認めないのである。自分になまじ知識があるために、他人の些細なミスには気付いていも、他人の実力には気付けないのである。

●民主主義は誰がどうやっても危険

 政治家にしても、ジャーナリストにしても、教師にしても、民主主義を信仰していることでは一致している。逆に言えばその職業の玄人ではない人たちほど民主主義に洗脳され易いということなのである。民主主義をやっているからこそ、自分の職業に於いてまともな能力を持たずとも仕事が出来るのである。

 考えてみれば、民主主義が蔓延してから政治も報道も教育も堕落し続けているのである。タレントが国会議員になったり、ジャーナリストなのに現場に行かずテレビ局で延々とお喋りをしたり、教師なのにイジメを放置したり体罰で自殺に追いやったりするのである。

 国民はこれらの職業に問題が発生すれば、その問題の解決に躍起になってしまうものだ。しかしそれをやっても、また新たな問題が発生してしまうのである。これらの職業は人材育成がなっていないのであって、まずは人材育成のシステムを構築することの方が重要なのである。

 民主主義は誰がどうやっても危険なのである。国民の支持を理由に素人たちが参入して来る可能性を大いに与えてしまうからだ。政治であろうが報道であろうが教育であろうが、プロがやった方が巧くのに、民主主義に洗脳されてしまうと、そのことが解らなくなってしまうのである。

 国民の中で「民主主義は絶対に正しい!」と思う者がいるなら、自分が務めている会社でその民主主義とやらをやってみればいい。絶対に出来ない筈だ。そしてももしも本当に民主主義を導入すれば、その会社は確実に倒産してしまうことだろう。あなたは会社を倒産させるような政治イデオロギーを絶対に正しいものだと思い込んでいるのである。

●国民国家は民主主義を拒絶するものである

 国民国家は民主主義を拒絶するものなのである。「そんなバカな!?」と思う人は自分が洗脳されているだけのことなのである。国家というのは近代以前、王族と貴族たちによって動かされてきたのであり、それが近代になって庶民たちが政治に参入してきただけにすぎないのだ。

 だから国民国家は君主制と貴族制と庶民制の三つの制度を採用し、決して1つの階級が突出しないようにしなければならないのである。「絶対王政が否定されると同時に、民主主義だって否定されなければならない」のである。絶対王政は如何なる君主がやっても暴政になると同じように、民主主義だって如何なる国民がやっても暴政になるものなのである。

 日本で言うのなら、国民が天皇を尊崇すると同時に、天皇に政治権力を持たせないように努力し続けなければならないのである。連合軍によって廃止された貴族制を復活させて、国民に貴族主義的精神が注入されるようにしなければならないのである。その上で庶民たち自身が政治に関して教育と訓練を受け、政治に参入していかなければならないのである。

 日本国民は定期的に選挙権を行使するが、「国民の意見がちっとも政治に反映さえない」と不満を抱くものだ。当たり前だ。民主主義に洗脳されているからなのである。国民の要望だけを要求すれば、「80対20の法則」によってその効果はゼロになってしまうものなのである。

 国家の中に天皇や貴族や庶民といった者たちがいれば、三者が三者めいめいに自分の要望を言って来るので、誰かの意見だけが通らないと同時に、それぞれの意見が修正された形で叶って行くものなのである。一刻も早く「全てを望む者は全てを失うもの」ということに気付くべきなのである。

 政治であろうが、報道であろうが、教育であろうが、普通の人たちであるなら、専門家に任すしかないものである。この世は協業と分業で成り立っている以上、専門家に任した方が生産性は高くなるものなのである。そしてもしもやらしてみてダメなら、その者を罷免すればいいだけのことなのである。民主主義に騙されなければ、自然と解決策は見えて来るものなのである。

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文学のもう1つの側面「悪口文学」

悪口は言ってはならないからこそ

 人間は悪口を言ってはならない。本当に一切悪口を言わないというのではなく、「悪口を言ってはならない」という倫理徳目を持つべきなのである。そういう倫理徳目を持っていれば、悪口を最小限に抑えることができるので、人間関係がスムーズに行くのである。

 ということは、人間は悪口を言いたくなる欲望を持っているということなのである。この欲望を無視してはならない。どこかでこの欲望を巧く吐き出しておかないと、自分の精神が病的になってしまうのである。だから悪口というのは表には出せないが、裏でどうにかして処理するという類のものなのである。

 文学も悪口を巧く処理するものとして使われてきたものなのである。文学を高尚な物だと思い込んではならない。文学はそんな高尚な物ではないのだ。所詮は人間の欲望の産物なのである。古典として残って行く文学作品は必ず悪口を言っているのである。

 例えば藤原道綱の母が書いた『蜻蛉日記』なんてのは夫への不満をぶち明けている物である。「そこまで言うかッ!?」ということを連発しまくっているのである。人間は千年経っても大して変わっていないのである。夫婦関係が巧く行っていない場合、悪口を言って発散するしかないのである。

 紫式部の『紫式部日記』なんてのも、なぜだか紫式部が清少納言の悪口を言ったことだけが取り上げられる。清少納言は藤原定子に、紫式部は藤原彰子に仕えたために、両者はライバル同士にあるのである。女同士の戦いゆえに陰湿になっていくので、外部の者たちは見ていて楽しいのである。

 夏目漱石の『坊ちゃん』では松山市のことをボロクソに言っている。東京から来た主人公にしてみれば、松山市の文化レベルは低く見えてしまうのであって、そこで松山市の悪口を言いたい放題で言っているのである。それがなぜだか受けてしまうのである。

●人間関係の不満は「文学的な悪口」で処理する

 人間は悪趣味を持つという厄介な動物である。例えば或る夫婦が如何に愛し合っているのかという「おのろけ話」を聞くより、夫婦関係の不満を言ってくれる方が楽しいのである。他人が不幸であることによって、自分が優位に立ち、幸福に感じられるからだ。

 人間が激しく持つ不満というのは、大抵が家族とか友人とか仕事関係である。だから作家が家族での不満を打ち明ければ、まずはヒットするのである。次に友人への不満を打ち明ければ更にヒットするのである。トドメは仕事の不満を打ち明けると滅茶苦茶ヒットするのである。

 出来のいい作家というのは、大抵「奥さんの出来もいい」のだ。妻が家庭を切り盛りしてくれるからこそ、作家は自分の仕事に集中できるわけである。だからといって自分の妻を褒め、それを外で公言するようなことなどしてはならないのだ。妻の些細なミスを見つけ出し、それで笑いを取るくらいの工夫が必要なのである。

 作家は作家同士で友人になるわけだから、他の有名な作家と友人になってセレブな交際をしているなんて書こうものなら、その作家の作家生命は一瞬にして終わるのである。そうではなく、有名な作家と仲良くなって、これまた些細なミスを見つけ出し、それを面白可笑しく書けば、読者たちは大喜びするものなのである。

 作家が仕事の出来は出版社の編集者によって左右される。ヒット作が出た時は腕のいい編集者がいたってことである。しかしヒット作ばかり出すのではない。失敗作だって出すことはある。そういう時、編集者のことをボロクソに言うべきなのである。そうすると読者たちは大爆笑して、その作家の作品を買おうとするようになるのだ。

●作家同士の喧嘩

 作家であるなら文学的な悪口を使って自分のライバルを叩き潰すべきなのである。自分にとって危険な作家は潰すに限るのだ。文壇に於いて活躍できる作家の量は限られているのだ。そんなに多く作家たちを必要としないのである。だから作家同士が喧嘩して、作家の数を減少させていけば、自然と生き残った作家たちは非常に楽になるのである。

 数を減らせば質が向上するという現象が起こるものなのである。逆に言えば数を増やせば質が低下してしまうのである。作家たちの数を無闇に増やせば文学のレベルは上がっていかないのである。そこで作家同士の喧嘩が必要なのである。

 通常、作家同士の喧嘩は下剋上である。若手の作家たちが最早ヒット作を出せなくなった老作家たちを殺して行くからこそ、若手の作家たちが活躍できるようになり、それで「新しい小説」が文学界の中で誕生することになるのである。

 作家が同じ世代の作家と喧嘩してしまうと、結局先細りになってしまう。同い年の作家たちというのは、わざわざ喧嘩しなくても、自然と減少していくものなのである。同じ時期に作家デビューしたのに、或る作家は売れ、他の作家は売れないという現象が起こり、自然と作家の数は減って行くものなのである。

 だから怪気炎を吹いている若い作家は要注意なのである。そういう作家は老作家たちを殺せるだけの実力をもう持っているからだ。それゆえ老作家たちはその手の若い作家を潰しにかかるのである。そうなればその若い作家は執拗な反抗をするようになり、それで喧嘩がヒートアップしていくのである。

●文化の伝搬

 文学的悪口も人間ではなく地域を相手にすると大掛かりなものになる。どこかの地方の悪口を言うために、わざわざ1つの小説を拵えなければならなくなるからだ。ということは、その作家は感情的になって悪口を言っているのではなく、理性的になって悪口を言っているということなのである。

 地方の悪口を言っている文学作品が売れてしまうというのは、実に変な現象である。普通、自分の住んでいる所の悪口を言われたのなら怒るものなのである。それなのになぜ文学作品で悪口を言われたのなら、それが許されてしまうのか?

 これには地方が抱える深刻な問題に起因するものなのである。

 地方はそのまま放置しておいても、文化は発展しない。経済力に限界があるために、既存の文化を延々と繰り返して行くことになるだけなのである。しかしそこに地元の悪口を言ってくれる文学作品が登場すると、地元は悪口を言われることで凹み、それによって文化が発展してくる可能性が出て来るのである。

 このため文学作品で悪口を言われると、その地方は必ず発展しているのである。その代表例が松山市であろう。夏目漱石が『坊ちゃん』で松山市の意悪口を言ってくれたお蔭で松山市は文化的に発展し、殊もあろうことか『坊ちゃん』ネタで様々な商品を作り、販売し、それで大儲けしているのである。

 よくテレビ番組で地方の良い所だけを紹介したりする番組があるものだが、そういう番組が放送されても、なかなか観光客は来ないものなのである。それよりも地元の人たちは「ここはダメだ」と思っている所を敢えて放送すると観光客はやってくるようになるのだ。

 「地方を賛美しても地方に観光客は来ない」ということが解っている地方自治体だけが、逆に観光産業を発展させていくことができるようになるものなのである。

●文学的悪口を言わない作家は一流ではない

 作家なら文学的悪口を言うべきなのである。普通の人たちは悪口を言うことを禁止されているからこそ、作家に悪口を言ってくれることを期待して来るのである。普段では言えない悪口でも、文学でなら許されるのだ。その悪口も感情的な悪口ではなく、文学的悪口に昇華させなければならないのだ。

 文学的悪口を言わない作家は一流ではない。一流の作家は必ず文学的悪口を言って来るものなのである。自分がベストセラーを連発したのなら、それは妻の支援があってこそなのだが、妻への悪口をいい、自分に世間の人々の嫉妬が集中しないようにしなければならないのだ。ベストセラー作家が愛妻家を称し、妻を賛美していれば、いずれ世間の人々の嫉妬は自分に集中してくることになるのだ。

 作家の仕事をしていれば、自分にとって気にくわない作家が出て来るものなのである。そういう作家に対しては文学的悪口を駆使して、死に至らしめるべきなのである。そういうことが一般の読者たちにしてみれば面白いのである。作家が作家たちと仲良くしていれば、この手の楽しみが消えてしまい、それで読者たちは本を買わなくなるようになるのだ。

 かといって悪口ばかり言っている作家は一流ではない。大抵、二流だし、より正確に言うなら、三流だろう。何も無制限に悪口を言うことが許されているのではないのだ。飽くまでも文学的悪口だけが許されているのである。作家がお酒を飲んで愚痴悪口を言っているようでは、作家として失格なのである。

 文学には或る程度の毒が必要なのである。このことは作家自身が解っていなければならないし、編集者だって解っていなければならないのだ。作家がまともな作品を書き上げても、そこに毒が入っていない物は売れないのである。編集者が原稿を編集し、毒を抜いてしまえば、そんな物、売れないのである。

 毒舌を吐く作家は大抵が生き残っている。勿論、毒舌を吐かず、品行方正な作家も生き残っている。しかし毒舌を言っている作家の方が売れているものなのである。確かに毒がありすぎるのは困る。かといって無毒では余計に困るのである。或る程度の毒が文学作品を引き立てるものなのである。

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若い時はファッションモデルに学べ!

●スタートダッシュが出来る仕事

 女性の人生に大器晩成はない。女性の人生はスタートダッシュである。女性は男性よりも早く成長し、男性よりも早く老化していくのである。寿命こそ女性は男性よりも長いが、だからといって女性が男性のような生き方をしていては、どうにも巧く行かなくなってしまうのである。

 女性としてこの世に生を受けたのなら、スタートダッシュを心掛け、結婚するまでの間に一気に伸し上がり、然るべき男性と巡り会って結婚してしまえば、その後の人生は楽チンなのである。女性の運命は結婚で決定する以上、結婚を考えずに人生設計を立ててはならないのだ。

 とは言っても、この世の中にはスタートダッシュできる職業というものは少ない。大概の職業は10年間の修行を必要とするものだ。だから女性たちは歌手やタレントやファッションモデルに憧れるのである。この手の職業は才能が問われる職業であって、長い期間の修行を必要とするものではないからだ。

 この中でもファッションモデルは大いに手本にしていい。ファッションモデルの所には「美」に関する情報が集中してくるので、自然と美しくなることができるのである。女性というのは服装さえきちんと着こなしていれば、そんなに酷い目に遭うことはないものなのである。

 ファッションモデルの中でも美人であるファッションモデルから学んだ方がいい。美人は子供の頃から両親から愛されたし、周囲の人たちからも愛されて育ったので、性格が捻くれていないのだ。だからその人の話を聞いてみると、結構ちゃんとしたことを言っているものなのである。

●道端ジェシカが出来るまで

今回紹介する本はこの本!

道端ジェシカ著『幸せのある場所』(小学館)

  幸せのある場所

  

 この本は10代や20代の女性が読むなら、物凄く良い本である。道端ジェシカの文章は巧いし、内容も濃い。彼女は26歳なのに精神レベルが高い。ファッションモデルという忙しい仕事をやっているのに、きちんと自分一人で考える時間を持っているので、その意見はどれも傾聴に値するのだ。

 道端ジェシカには四人兄弟がいて、兄、姉、ジェシカ、妹という順番になる。次女というのは大抵「美人」である。なぜだか長女よりも綺麗なのだ。因みに長女が美人の場合、なぜだかパワフルな女性になり、次女の方は容姿がイマイチで性格も消極的である。

 この本に出て来るジェシカの母親がまたいい。母親の子育ての巧さが光っているのだ。育児経験者が読むと、「これは合格!」と判定をくだしてしまうのである。やはり子供を四人も産むような母親は子育てが巧いものなのである。だからその子供たちは健全に育って来るのである。

 道端ジェシカはその美貌を買われて、13歳からファッションモデルの仕事をしている。ということはこの本を書いた時はもう13年間もファッションモデルの仕事をしているので、ファッションモデルとしても一人前ということになる。仕事に関する考え方も実に納得してしまうのである。

 ファッションモデルは華やかな仕事なので、遊びまくろうとすれば幾らでも出来るものである。しかし道端ジェシカは自分だけの時間をきちんと確保し、映画や音楽や読書といったものをきちんとこなしているのである。だからエネルギー切れにならないのである。

●「競争」と「自分らしさ」

 道端ジェシカの生き方で物凄く感心できるのが、「彼女は競争をしていない」ということなのである。競争しないからこそ着実に実力をつけてしまい、他の追随を許さないのである。競争して実力が向上することもあるが、かといってその遣り方が万能ではないのだ。マイペースで行った方がいい場合もあるものなのである。

 競争をしないと「楽」になるものなのである。競争すれば競争することでエネルギーを使ってしまうものなので、自分が本当にしたいことに充分なエネルギーを注げなくなるものなのである。だから「自分らしさ」がいとも簡単に実現できてしまうのである。

 ところが親というものは我が子の成長を願う余りに、子供に競争を強いてしまうのである。自宅では「早くしなさい!」を連発し、学校に行けば「勉強を頑張りなさい!」と叱咤激励するのである。そうやられれば子供は或る程度まで応えるものである。しかし或る日突然に爆発してしまい、もうどうにもならなくなってしまうのである。

 大人になっても競争心が抜けない女性は必ずと言っていいほど、フェミニズムに洗脳されてしまう。フェミニズムはこの世の男性たちを全て敵とするので、恐らく永遠に競争状態が維持されることになるのである。当然に自分らしく生きることはできなくなるのだ。

 時折、フェミニストたちが「日本では自分らしく生きることができない!」と騒ぎ立てるものであるが、それは日本が間違っているのではなく、お前たちの生き方が間違っているのである。競争して自分が強くなれば幸せになれるだろうと間違った思い込みをしているからこそ、どうやっても幸せになれず、窮屈な生き方をする羽目になるのである。

●「努力」と「転機」

 自分らしく生きていれば、「自分はどのような状況にあっても≪幸せ≫なんだ!」ってことに気付けるものなのである。自分が常に幸せだからこそ自分がしたい仕事に取り組み、それを成功させて行くことができるのである。成功したら幸せになるのではないのだ。幸せだからこそ成功してしまうのである。

 自分が幸せだと思っている人は何をやらしても努力を惜しまないものだ。努力をしまくるからこそ、いい仕事が出来てしまい、いい仕事をしてくるからこそ、更にレベルの高い仕事がやってくるのである。何かの仕事をしている以上、努力をするのは当たり前なのである。遊んでしまうからこそ、必要な努力をする時間がなくなってしまう。

 そうやっていい仕事をしている人には必ず「転機」が訪れて来る。神様が「お前は次の精神ステージに行きなさい!」と命じて、今までよりもレベルの高い所に行けるのである。俺の直感としては、こんな本を書くようであるなら、いずれファッションモデルは辞めるだろうなと思うのである。

 唯一気になる点としては、「道端ジェシカはちゃんとした恋愛をしているのか?」ということなのである。これだけ仕事が忙しければ恋愛をしている閑などないのである。たとえ誰かと付き合ったとしても、所詮、相手は道端ジェシカの美貌だけしか見ず、その心まで見て、きちんと愛そうとはしないものなのである。

 また道端ジェシカが慈善活動に熱心なことはいいことだけど、「難民支援」などという、政治が絡んで来ることにファッションモデルが手を出すことは如何なものかと思ってしまう。大体、藤原紀香だってこれに手を出して、運命がおかしくなっていったのである。俺は難民支援に手を出す女性は、恋愛に於いて難民状態だと思ってしまうのだが。これって道端ジェシカの場合、図星じゃないのかな?

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