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「近代日本文学の誕生」と「男色家たちの活躍」

●元男色家たちが作った新感覚派

 近代日本文学史を表面上辿ってみても意味がない。近代日本文学史は坪内逍遥が『小説神髄』を発表することで始まり、二葉亭四迷が言文一致運動を起こし、幸田露伴と尾崎紅葉の紅露時代を迎え、その後、夏目漱石という文豪を生みだし、日本の近代的な小説が確立された。

 これはどの文学者であってもなんの意義をも唱えることのない近代日本文学の歴史である。

 しかし実際の近代日本文学は「新感覚派」によって始まる。新感覚派こそ近代的な日本文学を作り出し、しかも芥川賞や直木賞を設けることによって、それを大いに発展させ、近代日本文学の主流の地位を占めているからだ。新感覚派以前の文学こそ前近代的な文学であると断言しても過言ではないのだ。

 新感覚派は菊池寛が創刊した『文藝春秋』に集まって来た作家たちによって生み出された文学運動なのであるが、その中心人物である「菊池寛」「川端康成」「横光利一」は≪元男色家≫という経歴を持つのだ。全員が全員、旧制高校の時に男色をやっていたのであり、或る時期になってその男色を捨てたのである。

 言わば、新感覚派は元男色家たちが作ったと言っていいのだ。

 男色は同性愛的行為であっても、男色家はゲイではない。男色家とゲイは違うのである。男色家は男同士で政治や文学や芸術を語り合う仲で友情を育み、その延長線上でセックスが行われるのである。ゲイの男性たちはセックスがメインで、男なら見境なくセックスしまくるのとは異なるのだ。

 男色家は大人になれば必ず結婚する。ゲイのように異性に興味がないのではない。興味は大ありなのである。かといってバイセクシャルではないのだ。男色は男色、普通の男女間の恋愛は恋愛ときちんと分けているのである。ゲイの男性がゲイ一本槍で、結婚しないのとは大違いなのだ。

●芥川賞の文学レベル

 俺は中学高校と私立の男子校に行ったので、この男色家たちが何を言っているのかは良く解る。男子校だと女性が排除されるので、男同士で突っ込んだ話し合いが幾らでもできるのである。通常は低俗な会話なのだが、話し相手が男性ゆえに、友情をきちんと育んでいけば、政治や文学や芸術の話を幾らでもすることができるのである。

 もしもこれに男同士のセックスがくっつけば、「男色が一丁出来上がり!」っていういうことになるのだ。要は古代ギリシャの「プラトニックラブ」である。男性が女性と恋愛していては、「知的な会話」ができないのである。優秀な頭脳を持った男性が同じく優秀な頭脳を持った男性を愛するからこそ、知的な会話をすることができ、それを愛を深めながら高度なものに展開していくことができるのである。

 菊池寛は通俗小説を書く作家であったが、文藝春秋社を起こしてからは、会社の経営の方が忙しくなってしまう。そこで川端康成を手下に使い、彼に小説を書かせると同時に、芥川賞の選考委員もやらせて、文壇の文学レベルを上げて行ったのである。双方、元男色家同士であるので、この辺りのことは阿吽の呼吸で巧く行ったのである。

 芥川賞は芥川龍之介の名を冠しているが、実際には川端康成の文学レベルが要求されるのである。ここに到達すればほぼ間違いなく芥川賞を獲得することができるのである。純文学系の新人作家なら、とにかく川端康成の小説を読むべきであり、彼の作品の凄さが解らなければならないのだ。

 しかし芥川賞は純文学系の作品に与えられる文学賞ゆえに、私小説を以て純文学とする勢力を取り込まなくならなくなり、そのため新感覚派の文学賞としての芥川賞は石原慎太郎の『太陽の季節』が頂点であり、それ以降は「志賀直哉賞」と言っていいような文学賞に落ちぶれてしまったのである。

●なぜ芥川賞を貰えなかったか?

 芥川賞の歴史では、実力もあり人気もある作家なのに芥川賞を取れなかったという作家たちが大量にいる。その筆頭は「太宰治:である。太宰治は芥川賞が欲しくて、或る選考委員に手紙を書き送ったくらいなのである。そうまでしてやっても、彼は芥川賞を取ることができなかったのだ。

 これは「文学史の謎」と言われているものだが、なんの不思議もないのだ。「男色の視点」から見れば、簡単に解明できるのである。太宰治には男色経験がないのである。また男色家たちが作った文学空間を解ろうともしなかったのである。これでは芥川賞を取ることなどできないのだ。

 戦後は村上春樹である。村上春樹も芥川賞を取っていないのだ。文芸ジャーナリストたちの間では、「日本文学振興会の痛恨のミス」だと言われている。何をバカなことを言う。村上春樹もまた男色家たちが作った文学空間を湧か解ろうとしなかったのである。

 太宰治も村上春樹も女性には「甘ったるい言葉」を言っていることでは共通している。男色家はそういうことをしないのだ。若い時に男色をしてきた男性は必ずと言っていいほどに、いざ自分が女性と交際する時はレベルの高い女性を選ぶのである。当然にその恋愛は洗練されたものになるので、そういう甘い言葉で女性を弄ぶという幼稚さがなくなるのである。

 たとえ男色家でなくても、中高生の時に男同士でレベルの高い話し合いができた男性は、しっかりとした友情を育んでいるわけだから、いざ自分が女性と恋愛しても、今度は女性とちゃんとした恋愛を育もうとするのである。友情と恋愛は繋がっているのであり、友情に失敗した人は必ず恋愛にも失敗するのである。

●吉屋信子が犯した罪

 近代日本文学は元男色家たちによって作られたのだから、女性作家たちの方はどうなのかというと、菊池寛が通俗作家として活躍していた頃、吉屋信子という作家が通俗作家として活躍していたのである。この吉屋信子はレズビアンであって、結婚しなかった女性だ。

 当時の日本人女性で吉屋信子を知らなかった女性は一人もいないくらいに吉屋信子は有名であったのだが、彼女が死んでしまうと、彼女の作品は何一つ残らなくなってしまったのである。その理由は簡単である。彼女の文学作品のレベルが余りにも低すぎるからなのである。

 レズビアンゆえに、女同士の会話は書けても、男女の会話がまるで書けていないのだ。

 俺が処女小説を書いていた時、男女の会話を書くというのは、頭が割れるほど痛かったのである。男性の身でありながら、女性の喋りを書くというのは、それほどまでに脳に激しい負担を強いるのである。女性だって同じ現象が起こる筈である。

 考えてみれば、男女の会話をきちんと書けている作家は全員が全員、結婚しているのである。結婚していれば、普段の生活の中で男女の会話がなされるので、いざ小説を書いても簡単に書けるのである。レズビアンの作家は「百合文学」の作品は書けても、それ以外の作品は書けないものなのである。

 元男色家たちが新感覚派を起こしたように、女性だって若い時に女同士で知的な会話を行い、その延長線上でセックスをし、大人になって同生愛を捨て、異性愛に走って結婚すれば、女性作家として大成するというのは、理論的には導き出される。

 ただこれは理論的であって、実際には女性作家で大成するためには「結婚」と「出産」が大事であるのだ。女性は結婚しない限り自立できないし、赤ちゃんを出産してしまえば自動的には母親になるので、母性愛を出して行くことが可能になるのだ。それに結婚や妊娠出産育児を経験すれば、幾らでも小説のネタを考え出すことは可能になるのである。

●排除と寛容

 文化というものは男性が女性を排除した時に新たなる文化運動が始まるのである。既存の文化を脱して、新たなる文化を築き上げようとする時、女性たちの存在は邪魔なのである。女性たちが加わってくれば、「結婚だ」「妊娠だ」「出産だ」「育児だ」となってしまい、とてもではないが、新たなる文化を生み出すエネルギーを持てないのである。

 大体、日本でも仏教が伝来し、男性たちが出家して、結婚を否定する生活をしたからこそ、仏教は日本の文化を大いに発展させてきたのである。これはキリスト教も同じで、修道院に於いて修道士たちが結婚を否定する生活を営み、「祈り且つ働け」を実践していったからこそ、西ヨーロッパの文化は発展し続けてきたのである。

 男性たちだけで徒党を組み、女性たちを排除することは一見「強烈な性差別」に思えるかもしれない。事実、仏教もキリスト教も女性を劣った存在と看做してきたのである。ところが歴史には「歴史の逆説」というものが発生する。そういう差別的な集団だからこそ、仏教は「女人成仏」を唱えたり、キリスト教は「一夫一婦制の理想的な家庭像」を築き上げてきたのである。

 排除はいずれ寛容を産むのである。

 新感覚派は元男色家の作家たちが生み出したものだし、芥川賞も直木賞も元男色家の菊池寛が作ったものだし、これらの文学賞の選考委員たちも長らく男性たちであった。しかしこれらの文学賞は女性の作家たちにも門戸を開き、積極的に芥川賞や直木賞を授賞させ、選考委員にまで迎え入れたのである。

 男色家は同性愛的行為をするからといって、ゲイではないのだ。ゲイの人たちは女性たちを排除しっ放しで、ゲイの人たちだけで閉鎖的な集団を作る危険性を常に持っているのだ。男性作家の中にもゲイの男性はいることだろう。しかしこういう人物が新たな文化を作るということはまずないのだ。これは女性作家たちも同じで、レズビアンの作家がいても、新たなる文化を生み出すことはないのだ。

 勘違いしてはならないのは、異性愛と同性愛が対等に並ぶことはないということだ。世の中の圧倒的大多数の人々は常に異性愛者たちなのである。だからといって全員が異性愛者ではないのだ。男性たちは基本的に女好きなのに、女嫌いである男色家や。女性そのものを拒絶するゲイの男性が出て来るのである。こういう連中が時として、文化に対して思わぬ影響を与えて来るのである。

 歴史というものは表面をなぞっていては絶対に理解できないものなのである。

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