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エレン・ケイの『恋愛と結婚』 ~結婚否定の恋愛論~ その2

●なぜキリスト教は全世界に広まったか?

 エレン・ケイはルター派が国教であるキリスト教国に生まれ育ったために、キリスト教のことを批判しまくっているのだが、彼女の意見を鵜呑みにすることはできない。キリスト教はヨーロッパ大陸に於いて千数百年以上に亘って独占状態にあったのであり。しかも大航海時代以降、キリスト教は全世界に広まって行ったのである。

 キリスト教の成功は様々な要因があるだろうが、最も女性たちを惹きつけたのは、実は女性たちに「従順」を説いたことなのである。女性たちに従順を強いたからこそ、キリスト教は他の宗教よりも優位に立つことができたのである。嘘かと思うが、これは本当のことなのである。

 神仏習合に慣れた日本人が聖書を読むと、パウロの主張にはビックリさせられるものだ。

「ここまで女性をいたぶるのか!?」と思ってしまうのだ。

 キリスト教の救世主とされるイエスはマグダラのマリアを引き連れて宣教するような男性であったが、ユダヤ教のラビであったパウロは女性嫌いなのであって、女性たちに対して徹底的に差別的な発言を言いまくっているのである。しかもそれが事もあろうことか、新約聖書に採用され、聖典として君臨することになったのである。

 古代宗教というのはどの宗教も大抵は「巫女」がいるのだから、女性たちに従順を説くなどということはできない。古代宗教に於いては男性の宗教家たちよりも女性の宗教家たちの方が形式的には上位にあるのだ。だから一般の男性たちはもしも女性に巫女的な要素があるなら、その能力を持った女性を尊重せざるを得なかったのである。

 ところがキリスト教に先行するユダヤ教では、ユダヤ民族の悲惨な歴史の中から、巫女というものが当初から欠落してしまった。男性の宗教家たちによる宗教へと変形してしまったのである。キリスト教はそれを受けて出て来たのだから、キリスト教の宣教師たちが女性たちに従順を説くのは至極当然なのである。

●国教は宗教を消滅させる

 この従順はキリスト教でもローマカトリック教会やロシア正教では未だに説かれ続けているものだ。このためカトリックやロシア人たちは結婚して家庭を形成すれば、それこそ平安な結婚生活を実現できる。しかしプロテスタントとなると状況が違ってきて、現在では結婚式の際に新婦に従順を誓わせることを削除してしまっているのである。

 なんでこんなことになってしまったのかといえば、女性たちに従順を説いていいのは、世俗の男性たちではなく、飽くまでも男性の宗教家たちであるということなのである。しかしプロテスタンティズムでは宗教家の存在を認めないので、こうなると女性たちに従順を強いることが消滅していってしまうのである。

 だからこそプロテスタンティズムの盛んな国に於いてフェミニズムが登場してくるのである。プロテスタントの女性たちは今まで従順であればこそ、幸せな結婚生活を送っていたのに、それがプロテスタンティズムの論理によって従順を持てなくなったからこそ、結婚よりも恋愛を尊び、たとえ結婚しても確実に不幸になってしまうということになってしまったのである。

 しかもスウェーデン王国はルター派が国教だったために、国教によって全国民にルター派の教義が浸透したと同時に、その反面、時間の経過と共にルター派の教義を全面的に否定する人たちが現れて、宗教そのものが消滅してしまうのである。

 日本では何かの宗教が国教になったことがなかったために、この国教というのがイマイチきちんと理解できないのだ。日本は神仏習合を採用し、神道と仏教による連合で宗教心を形成してきたために、まさか国教が宗教それ自体を破壊してしまうということが解っていないのである。

●神仏習合プラス儒教

 日本はキリスト教国でないにも拘わらず近代化に成功し、未だに先進国の一角を占めている。内村鑑三が「日本の最大の失敗はキリスト教抜きで近代化したことである」とほざいても、日本のキリスト教徒は1%程度だし、日本人の殆どがキリスト教よりも神仏習合を採用しているのは明白なのである。

 神道では崇敬者たちに「神への崇敬」を絶対条件とする。神を崇敬してさえいれば人間は謙虚になれるものなのであって、謙虚になるからこそ神の聖慮に適う生き方を見つけることができるのである。仏教では信者たちに「仏法への帰依」を説くのであって、三法印を旗印に菩薩行に挺身するのであり、だから行動的禁欲が身につくというわけなのである。

 神道では巫女がいるし、仏教では女人成仏を認めるので、これでは女性たちに従順を説くことはできない。そこで採用されたのが儒教であり、儒教では「修己治人」を教義とするがゆえに、『女大学』では「三従の教え」を説き、幼い時は父親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従うとしたのである。

 この『女大学』ほど誤解された書物はない。

 まず『女大学』は江戸時代の中期の享和2年(1716)に刊行されたものであり。江戸時代を通じて読まれたものではないということなのである。もう1つは『女大学』は江戸幕府が武断政治から文治政治へと転換し、平和の繁栄の中で武家の女性たちが堕落してきたからこそ出された本だということなのである。

 儒教というものは女性たちに教育しないのである。本当に男尊女卑なのであって、教育を受けるのは男性たちだけなのである。ところが神仏習合の日本ではそれが解らず、女性たちにも教育するようになってしまったのである。これが後に日本が中国や韓国とはまるで違う道を歩くことになる決定的要因だったのである。

 『女大学』はフェミニストたちが徹底的な批判を受けているが、現在に於いて冷静になってこの本を読んでみれば、まさに「どうすれば女性は幸せな結婚生活を実現できるか?」、そのノウハウが書かれているのである。結局、宗教が違ったとしても、女性は従順になるからこそ、実は家庭内の権力を掌握することができ、それによって家族は安定し、幸福を生み出して行くことが可能になるのである。

●父系家族と結婚倫理

 民族が文明化するというのは、その民族が母系家族制度を捨てて、父系家族制度を採用するということなのである。母系家族は母親を中心に大所帯を築いてしまうので、分家とか教育を重視してこないのである。このため母系家族ではなかなか文化が発達してこないのである。

 しかし父系家族は父親が家長になるがゆえに、息子たちの内、一人だけが家督相続をするのであり、それ以外の息子たちは分家にして外に出さなければならず、当然に教育を重視させざるを得ないのである。父系家族は明らかに拡大再生産を内臓しているのであって。だからこそ女性たちだって父系家族の中に入れば、自分の居場所を見つけ出すことができ、自分の能力を大いに発揮することができるのである。

 それと母系家族と父系家族とでは、結婚倫理の有無に於いて全く異なるのである。母系家族では母親が子供たちを生み育てるだけなので、大した結婚倫理は持たない。しかし父系家族だと、夫には妻子を守る聖なる義務が課せられ、妻には夫に従順にり、子供たちを生み育てていく聖なる義務が課せられるのである。この結婚倫理があればこそ、夫婦は自然と自分のやるべきことをやるようになるのだ。

 ところが結婚倫理というのは誰もが持てるものではないのだ。宗教家の誰かが「この結婚倫理は大事だぞ」と認識し、その後、長期間に亘って宗教家たちによって説き続けなければ、絶対にその夫婦に定着してこないのである。結婚倫理を当たり前と思っていると、夫婦というものは些細な経済的苦境で平気でその結婚倫理を放棄してしまうものだし、夫婦喧嘩程度の揉め事でも結婚倫理を放棄してしまうという現象が続出してしまうのである。

 プロテスタントの人たちにしてみれば、プロテスタンティズムによって結婚の価値が再確認されたと理解する。ルターが修道士をやめて、女性と結婚したというのは、そのこと自体、非常にインパクトを持っていたのであり、プロテスタンティズム的な理想的な結婚が普及していったのである。しかしプロテスタンティズムには結婚倫理を破壊する論理が隠されていたのであって、だからこそプロテスタンティズムには最初から結婚に対して時限爆弾がセットされていたのである。

●恋愛は浅し、結婚は深し

 エレン・ケイは結婚をしなかったから、結婚のことがイマイチ良く解っていないのである。恋愛結婚では全ての恋愛が結婚へと昇華させることができるのではなく、それこそ「運命の出会い」がない限り、幸せな結婚をすることができないのである。自分がどんなに激しい恋愛をしたとしても、その相手が運命の相手でないと、不幸の結婚になってしまうものなのである。

 しかも恋愛結婚では恋愛の延長線上に結婚があるが、結婚すれば恋愛が「夫婦愛」に変わるものなのである。そしてこの夫婦愛というのは恋愛よりも遥かに大きく強いものなのである。生活を共にし、子供たちを生み育てて行く中で、しっかりとした夫婦愛が育まれ、その夫婦愛は恋愛に比べれば比較にならないほどの素晴らしい強力な愛なのである。

 更に結婚は「法の支配」を受け入れ、結婚法による結婚という枠組みがあるからこそ、結婚に於いて法的な秩序が形成され、夫婦が多少の問題を起こしたとしても、そう簡単に別れないのである。恋愛には法の支配がないのだから、言わば無法状態であり、自分が少しでも気に食わないのなら、簡単に別れることができてしまうのである。

 エレン・ケイは恋愛を称賛するが、恋愛というのはそれほど素晴らしいものではないのだ。恋愛で盛り上がっている時はいいかもしれないが、恋愛には必ず終わりがあるのであって、そうやって恋愛を破局にしてしまえば、その恋愛に投入したエネルギーが全部無駄になってしまったということなのである。

 結婚が恋愛よりも勝るのは、特定の相手に全エネルギーを投入していくことができるからなのである。そういう結婚では必ず夫婦が成長していくから。低レベルの問題で悩むことがなるのである。結婚記念日を祝ったり、初参りや七五三や元服をやったりすることは、「儀式による聖化」を生み出すのであり、そういう聖化があればこそ、自分たちの成長を自分の目で確認することができるのである。

 「恋愛は浅し、結婚は深し」なのだ。このことは結婚しないと解らないし、たとえ結婚したとしてもその結婚を成功させないと解らないのだ。結婚は完璧なものではない。いつの世だって、結婚で泣きを見る人々はいるのである。だからといって結婚制度を破壊していいものではないのだ。人類はどのように発展していっても、結婚制度に変わる新しい制度を持てることなど絶対にないのだ。

 我々にできることは先祖たちから継承した結婚制度を大事に大事に保守していくことだけなのである。

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コメント

ぴぃこさん、早く自宅に帰りましょう。

妹さんとは相性的に合わないんッだって!

それにしてもぴぃこさんの母親は甘いな~。
こういうのを「甘やかし」って言うんだよ。
子供を育てる時は、年齢の秩序を絶対に崩してはならないんです。
これだと姉の立場を台無しにして、妹を庇っていることになりますからね。

いずれ弟さんに子供ができるので、そうなれば妹さんも考えを変えて来ることでしょう。
それまでは出来る限り近づかないことです。

投稿: タマティー | 2013年5月17日 (金) 07時02分

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