信仰から良心へ ~近代になってから登場した悪魔の使徒たち~
●「信仰義認説」と「信仰の自由」
宗教は何かを信仰するものだとは思ってはならない。宗教の中に信仰という要素はあっても、それは宗教の絶対条件ではない。宗教の絶対条件は「教団」「教義」「儀礼」の三つの要素である。信仰に重点を置いてしまったら、宗教は個人レベルの物になってしまい。宗教たりえなくなってしまうのだ。
信仰を殊更に要求するようになったのはキリスト教からである。ローマカトリック教会は「信仰義成説」という教義を打ち立てて、信者たちに信仰を持たせ、それを教団が儀礼の中で「義」とし、「あなたは義人である」としたのである。
しかし宗教改革が起こると、プロテスタントたちは『聖書』の解釈を巡って対立し、信仰義成説ではなく、「信仰義認説」を打ち立てた。人間は堕落しきっており、自分の善行では義人になることはできないのであって、神の恩寵によってのみ義であると認められるとしたのである。
信仰義成説と信仰義認説は日本語では一字違いなのだが、この戦いは西ヨーロッパを二分するほどの大きな戦いになってしまった。宗教戦争が勃発したし、戦争にならなくてもフランスなどでは執拗にプロテスタントたちを迫害していったのである。
ところがカトリック側がどんなに優勢に見えたとしても、プロテスタントたちは信仰を放棄しない。信仰義成説では教団に主体があるが、信仰義認説は個人に主体があるので、プロテスタントたちは教団が破壊されても、個人レベルで信仰し続けてしまったのである。
これが最終的にはフランス革命に繋がり、フランス革命で人権宣言が出されると、「信仰の自由」が認められることになった。フランスはこれで宗教対立を克服したのだが、これはこれで宗教に関して深刻な問題を生み出してしまったのである。
●「良心の絶対性」と「人間の万能観」
それは「信仰の相対化」という問題である。信仰は自分が絶対に正しいと思うからこそ何かを信じるのであって、「信仰の自由」が認められてしまったのなら、その絶対性は崩れてしまい、信仰というものは心の問題でしかなくなってしまうのだ。
「信仰の自由」というのは逆にカトリックにとってもプロテスタントにとっても非常に危険なものなのである。
というのは、一旦「信仰の自由」を認めてしまうと、確かにカトリックとプロテスタントの対立を克服できるが、何を信仰しても心の問題でしかならなくなってしまう以上、逆にキリスト教の絶対優位性が崩れてしまうのである。「信仰の自由」を認めたフランス革命でキリスト教破壊が行われたのはこのためであるのだ。
「信仰の自由」は神の支配を強化することにはならないのだ。神の支配を脱することになってしまうのである。そして神の支配を脱した人たちは何に絶対を求めるのかといえば、それは自分の「良心」であるのだ。「良心の絶対性」に基づいてこの世を計ろうとするのだ。
当然にこの状態では神を畏れることはない。良心が絶対になってしまった人間にとって神は全知全能になることなど決してないからだ。だからこそ良心を持つ人たちは自分が万能だと思い込むようになるのだ。この人間の万能観なくしてフランス革命のバカ騒ぎは理解できないし、その後のナポレオンによる侵略戦争も理解できないのだ。
●良心というものは存在しない
そもそも人間に良心というものは存在しない。幾ら自分が良いと思っても、それが正しいことにはならないのだ。学校での試験を思い出せばいい。「1+1=2」なのに、自分が「1+1=3」だと思っても、試験では「×」になってしまうものだ。その生徒が如何に教師に食い下がり、「先生、1+1=3ですよ」と反論しても、ダメなものはダメなのである。
では人間は何を持たなければならないのかといえば「正心」である。これこそ儒教が正しく指摘したものなのである。人間というのはそんなに賢い動物ではないのだから、教育を受け、思いを巡らせ、それによって正心誠意になることができるのである。
仏教でも「八正道」というものを唱えるが、言っていることはほぼ同じで、人間というのは放置しておけば煩悩まみれになるのであって、だからこそ「正しく見」「正しく思い」「正しい言葉を使い」「正しい行為をし」「正しい生活をし』(正しい努力をし」「正しい心の落ち着きを持ち」「正しい精神統一を図るべき」なのである。
人間というのは放置しておけば悪しき存在にしかならないのであって、自分が信仰を持ったとしても絶対に良い状態になることはないのだ。神の支配を受け入れ謙虚になり、一体何が正しいのか模索し続け、そして正しいと思えたのなら勇気を出して実行していく。そういうことを繰り返して行くしかないのである。
人類は正心ではなく良心を持つ者たちを警戒しなければならないのだ。なぜならその良心を持つ者たちは神の支配を受け入れず、神を畏れてはいないからだ。当然に神の聖慮に適う行動を取ることがなく、この世界を破壊することしかしてこないのだ。
●なぜ社会主義者もフェミニストたちも良心的なのか?
良心というものは最終的に宗教を脱して行く。良心を持つ者は既に神の救済から拒絶されているから、放置しておけばキリスト教を捨てて、何か邪悪なイデオロギーを信奉し始めるようになるのだ。それが「社会主義」であり、「フェミニズム」であるのだ。
社会主義者というのは往々にして良心的である。真摯に労働問題に取り組み、その解決を図ろうとしている。フェミニストというのも往々にして良心的である。真摯に女性問題に取り組み、その解決を図ろうとしている。しかし彼等や彼女たちの取り組みは、結果的にまともな解決にならない。良心に基づく行為というのは必ず最悪の事態というべき悲劇を齎すのである。
既に社会主義たちの悪事は証明されている。社会主義者たちは労働問題の解決のために社会主義革命を引き起こし、そして国民に対して大量虐殺を働き、自分の意に反する者たちを強制収容所に収容し、そこで拷問を行い、重労働を科して行ったのである。
国民に対して数百万とか数千万とかの単位で虐殺してくるのは、歴史上、社会主義国家だけである。もしも将来、フェミニズム革命が起こったのなら、社会主義革命を上回るほどの大量の犠牲者たちが出て来ることになるのだ。貧富の格差は資産を没収してしまえば解消できるが、男女の性差は遺伝子レベルの問題だから、大量虐殺なくしてフェミニズム革命を実現できることは決してないのだ。
地獄への道は善意の石で舗装されている。地獄は「地獄に来ると悲惨ですよ」なんて表示などしないものなのだ。地獄は「革命を起こせば<地上の楽園>が実現できますよ」と誘惑してくるものなのである。良心的な人たちは良心的だからこそ危険なのである。地獄が持つそういう誘惑を見破ることができないのだ。
●「神の支配」と「謙虚さ」
人間は不完全な生き物である。完成していないし、幾ら時間が経過しても決して完成することはない。それは人間が進化の過程にあり、成長し続けて行くことが宿命として定められているからだ。人間の完成を目指す宗教が出て来たのなら、その宗教は「邪教」と断定していいし、人間の完成を目指すイデオロギーが出て来たのなら、そのイデオロギーは「邪悪なイデオロギー」と断定していいのだ。
人間がこの世で生きて行くためには、とにかく神の支配を受け入れなければならないのだ。神を崇敬すれば謙虚にならざるを得ないのだ。神の絶対性の前に人間は無力な存在であると自覚せざるを得ないのである。そうやって自分が無価値になるからこそ、人間は成長していくことができ、価値ある物を大量に生み出して行くことになるのだ。
キリスト教の登場によって、人類は信仰の素晴らしさを知っている。信仰があればこそ迫害を受けても耐えることができたし、信仰があればこそキリスト教を世界中に広めていくことができたのである。しかし信仰は宗教に於いて絶対条件ではないのだ。このことを絶対に忘れてはならないのだ。
釈迦は合理的な教えしか信仰してはならないと説いた。当たり前である。合理的な教えだからこそ自分は納得でき、それによって信仰し始めるのである。ところがキリスト教は非合理的なことを信仰させてしまったからこそ、時間の経過と共に怪しくなってくるのだ。信仰義認説は常に「自己義認説」に転化する可能性を持っているものなのだ。そして自己義認説に立つからこそ、相手は全部間違っているということになり、挙句の果てには大量虐殺が可能になるのである。
自分の考えというのは長い教育を経ないとまともなものにならない。その考えも何度も失敗しながら、やっと正しい状態に持って行くことができるものなのである。自分の考えはそういう悪戦苦闘と試行錯誤の上にやっと持てるものなのである。自分の考えというものは正しいことを持つことができるかもしれないが、常に間違う可能性もあるのである。
人間は成功と失敗を繰り返しながら生きて行くしかない。勝ちっ放しというのはないし、負けっ放しというものもないのだ。成功と失敗を何度も繰り返すことで人間は成長していくのである。そういう生き方は常に謙虚にならざるを得ないのである。間違っても良心を持つ生き方などにはならないのだ。
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