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2013年12月

蕎麦と江戸文学

●東京の「うどん」は不味い

 地方の人、特に西日本の人たちが東京に来て、

「東京のうどんは不味い」

と言われると、どうも激しい不快感を感じてしまう。折角、地方から東京に上京してきたのだから、東京のいい所を見つけ出せばいいのに、敢えて東京の悪い所を見つけ出し、事もあろうことかそれを平然と口に出すのである。

 はっきりと言わして貰うが、東京は「蕎麦」こそがメインなので、「うどん」という代物は近代以前なら病人が食う食事だったのである。西日本ではうどんを正規の食事として食っていたかもしれないが、東京では治療用の食事なのであって、東京のうどんを食った所で旨いわけがないのだ。

 事実、俺が子供の頃、父親と東京で食事をした時、うどんを食ったことは絶対になかった。東京で旨いのは蕎麦と解っているからこそ、蕎麦の名店を探し出して行ったものなのである。確かに東京の蕎麦店は充実していて、ハズレは殆どないと思う。

 ところが大学生の時、香川県に行き、讃岐うどんなる物を食べたのだが、この讃岐うどんというのは本当に美味しいかった。東京のうどんはただ単に小麦粉を練った程度で、それを醤油味の強いスープに漬けているだけなのだが、讃岐うどんはうどんが本当にうどんになっているし、スープのダシが効いていて、しょっぱくないのだ。

 俺はその時、咄嗟に、

「讃岐うどんを東京に持っていけば絶対に売れる」

と思った。そうしたらそれから十年後ぐらいになってからではあるが、香川県の讃岐うどんの業者が東京に進出し、続々と店舗を出店して行った。これは成功して当たり前であろうと思う。そもそも東京のうどんは不味いのだから、本格的なうどんが参入してくれば勝負にならないのだ。

●江戸文学の豊饒さは蕎麦が作った

 蕎麦を食うと、頭の回転が良くなる。普通の量を食っていては余り感じないものだが、蕎麦を二人前食べると、脳が凄まじく活発に活動していることを実感できると思う。こんな優れた食事を江戸っ子の人たちは食べていたのだから、当然にレベルの高い文化を作り上げていったのである。

 江戸文学の最高傑作は滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』なのであるが、これは作者本人が蕎麦を食い、読者たちも蕎麦を食っていたからこそ可能になった文学作品であろうと思う。この本は98巻108冊からなる長編小説なのであって、こんな長大な作品をうどんを食っていては作ることができないのだ。

 俺が高校生の頃、上田秋成の『雨月物語』を読んだのだが、どうもイマイチ評価を与えることができなかった。江戸文学はこういう物だろうと思っていたので、『雨月物語』のレベルの低さはどうも納得できなかった。調べてみると、上田秋成は大阪出身で、大阪で『雨月物語』を出したというのである。やっぱりである。蕎麦を食った人が作ったものではなかったのだ。

 『雨月物語』のために江戸文学に対して不満が残ってしまい、高校3年生の時には柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』を読んでいたりした。『偐紫田舎源氏』なんて高校生では絶対に読まないし、大人になったって読みはしないものだ。あんな物を大学受験の最中に読んでいたからこそ、成績が上がることはなかった。

 江戸文学は主に蕎麦を食う人たちによって作られた以上、江戸文学を理解したければ、蕎麦を食った上で江戸文学作品を読めばいいのだ。蕎麦を食べずに読んだとしても、なかなか理解できないと思う。普段の食事が白米とか白パンとかでは、江戸文学作品を読んでも理解できないのは当然のことなのである。

●動物性蛋白質の不足

 蕎麦は完全栄養食品である。蕎麦だけを食っても充分に栄養が足りてしまう超優れ物なのである。蕎麦に多少の野菜をつけるだけで、料理としては完成してしまっているのである。だから江戸っ子たちは蕎麦とテンプラをオツマミにしながら日本酒をチビチビやるということをやったのである。

 しかし蕎麦食には欠点も存在する。それは動物性蛋白質の不足である。一応、おつゆに鰹ダシをしっかりと取ることで動物性蛋白質の不足を補っているのだが、それで不足を解消することはできない。蕎麦を出してしまうと、肉料理が出て来なくなるというのは致命的な問題なのである。

 蕎麦は本来、朝や昼に食べるべきものであって、夜に食うべきものではないのだ。夜に蕎麦を出してしまうと、肉料理が出て来なくなるので、動物性蛋白質を摂取できなくなってしまうのである。そのくせ江戸には「夜鳴き蕎麦」というのがあって、江戸っ子たちは夜に蕎麦を食うのを好んでしまったのである。

 肉食の少なさは当然に筋肉量の低下に繋がり、それは「冒険敢為の精神」の不足を生み出してしまう。江戸っ子たちが江戸での生活を謳歌してしまい、江戸から外に出ていかなかったのは、肉食が余りにも少なかったからなのである。

 肉食が少なかったからこそ、幕末には巧く変動を乗り切ることができなくなり、それで薩摩藩や長州藩によって幕府が倒されてしまったのである。薩摩藩にしても長州藩にしても、鶏肉を盛んに好んで食べていたのであり、それによって冒険敢為の精神を育み、江戸幕府に対して戦いを挑んできたのである。

●江戸文学の破壊者:「夏目漱石」

 江戸文学は平安文学と同じくらいに豊かなものなのであったので、明治維新以降、その江戸文学をどう継承しながら近代的な文学を作り出して行くのが最大の課題となった。その時、最も問題になったのは、事もあろうことか滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』であった。

 『南総里見八犬伝』が出版されてから、日本の文学は振るわなくなってしまった。これを凌駕できる物を生み出せなかったからだ。それなのに誰もが滝沢馬琴の影響下にあり、滝沢馬琴の影響を脱して近代的な文学を作り出せなかったのである。

 どうにか滝沢馬琴の影響から抜け出すことができたのは、幸田露伴と尾崎紅葉の二人であった。尤も幸田露伴は作家デビューしてから暫くの間は滝沢馬琴の影響下にあり、井原西鶴の功績を再評価することで、どうにかして滝沢馬琴の影響から脱することができたのである。近代になってから、「井原西鶴ルネッサンス」というものが起こったということを知らないと、近代日本文学の動きは全く解らなくなってしまうのだ。

 尾崎紅葉に至っては、『金色夜叉』という大ベストセラー作品を出したにも拘わらず、なぜだか文学者たちの間では評価が低い。それどころか近年、掘啓子という女性によって、『金色夜叉』はバーサ・クレイの『女より弱きもの』を種本にして書かれたという、頓珍漢な批判すらされる始末なのである。

 『金色夜叉』の種本は『源氏物語』である。それ以外に絶対にない。『金色夜叉』は『源氏物語』の持てない男バージョンなのであって、だから大ヒットしていたのである。江戸時代後期に『偐紫田舎源氏』が大ヒットしていたことを絶対に忘れてはならないのだ。当時の人たちは『源氏物語』を教養として持っていたのであって、その上で『金色夜叉」を読んで楽しんでいたのである。

 近代日本文学にとって不幸だったのは、幸田露伴と尾崎紅葉の後に夏目漱石が出て来てしまったことなのである。尾崎紅葉も幸田露伴も江戸文学を継承していたのに、夏目漱石はそういうことをしなかった。イギリス文学の中でも退屈なビクトリア朝の文学に基づいて作品を発表して行ったから、近代日本文学は異常に暗い物になったしまったのである。

 夏目漱石は病気だらけの人で、肺結核にトラホーム、神経衰弱に痔、糖尿病に胃潰瘍と、まともな人物ではないのだ。案の定、食生活は滅茶苦茶で、病弱であるにも拘わらず中華料理のような脂っこい料理を好み、そのくせ大の甘党でアイスクリームやジャムを食べまくっていたのである。

 夏目漱石が蕎麦を好んだということは記録されていない。蕎麦を食っていない以上、江戸文学の面白さは解らなかったのである。夏目漱石によって江戸文学は破壊されてしまい、現在に至るまで江戸文学には低い評価が与えられてしまっているのである。なんとも嘆かわしいことである。

 だからせめて大晦日には江戸文学を偲んで年越し蕎麦を食べるようにしよう!

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「先生」よりも「師匠」

●知識と知恵の違い

 学校で優秀な成績を収めたからといって、その者がその後の人生で成功できるとは限らない。学校での成績が優秀だったことは自分が優位に立てる条件ではあっても、成績が優秀だからといって、自分の人生を成功させる条件になるものではないのだ。

 なぜなら学校の先生は「知識」しか教えてくれないからだ。学校で教えられる知識は確かに大切ではある。学んでおいた方がいい。しかし知識をどんなに集めても、自分の人生を成功させることはできない。自分の人生を成功させるためには知識ではなく「知恵」が必要なのである。

 悲しいことに、学校の先生たちは知識を豊富に持っていても、知恵を持っていない。学校から外に出て仕事をしたことがないために、或る意味、世間知らずの人たちなのだ。だから時折、学校の中で異常なことをやってしまい、犯罪が発生して、やっとその異常さを世間の人たちが知る所となるのだ。

 学校の先生たちに知恵を求めてはならない。学校の先生たちは知恵を持っていないのであって、生徒たちが幾ら強請った所で決して出て来ないのだ。学校は知識を教える所なのであって、知恵を教える所ではないのだ。知恵が欲しければ他に当たればいいだけのことなのである。

 では知恵を持っているのは誰かといえば、それは「師匠」と呼ばれる人たちである。自分にとっての師匠は自分の力で探し出さなければならない。自分がどのような道に進んだとしても、必ず師匠になるような人物は存在しているのであって、その師匠に弟子入りして、師匠から知恵を教えて貰えばいいのだ。

●師匠は成功するまで手助けしてくれる

 自分に師匠が出来ると、自分の人生の成功率は一気に急上昇する。というのは師匠は自分が成功するまで手助けしてくれるからだ。自分1人で戦うのではなく、自分が師匠の力を借りながら戦うことになるので、2倍のエネルギーを発することができるようになるのだ。

 成功していくためには、膨大な知識と技術を習得していかなければならない。この習得には時間がかかるものなのであって、学校の先生のように一方的に教えるのではなく、師匠からマンツーマンで教えて貰った方が確実に習得でき、この方が非常に効率的になるのである。

 知識や技術には、その背後に必ず原理原則というものが存在する。その原理原則を見つけ出す際に役立つのが知恵なのであって、知恵を教えてくれないと、その原理原則を見つけ出すことができないものなのである。原理原則が解らないからこそ、表面上の知識や技術だけを追い求めてしまうのである。

 如何なる者であっても成功するためには恐ろしい量の失敗を犯すことになるものだ。失敗をしまくるからこそ、最終的に成功することになるのだが、失敗をしてしまった人物はそういうことが解らないから落ち込んでしまうのである。だからそういう時に師匠からアドバイスを貰い、自分の士気を高めて行くのである。

 師匠のいない者は簡単に挫折して行くことになる。少し我慢して踏んばればいいものを、余りのストレスで放棄してしまうのである。それゆえ競争する相手は多いように見えて、実は少ないのだ。相手が勝手に脱落していくので、本当に競争しなければならない相手はごく僅かしかいないのである。

●師匠は成功した後にブレないようにしてくれる

 物事というのは成功したら終わりではない。そこがゴールなのではなく、その後も成功し続けなければならないのだ。そうしないとその成功を維持することができず、元の木阿弥になってしまうのである。自分の成功を維持し続けるためにも師匠という者が必要なのである。

 成功者に陥りがちなのが、「ブレてしまう」ということだ。自分が自分の仕事に専業でやっていればいいものを、あちこち様々な仕事に手を出してしまい、それで肝腎の本業が疎かになってしまうのである。もしもこの時、師匠から「お前の本業は何か?」と言われば、ブレが一瞬にして静まってしまうのである。

 もう1つは成功者が富と名声を手にしたがゆえに、仕様もない誘惑に負けてしまうことだ。良くありがちなのが、女であったり、お酒であったり、賭博であったり、麻薬とかだ。お金がない時にはこんなものには手を出さなかったのに、大量のお金を手にしてしまったばっかり、そういう誘惑に負けてしまうのである。

 自分が成功したからこそ、自分に敢えて諫言してくれる人物を持っておくべきなのである。部下たちは自分に諫言などしない。どの部下であっても基本的に命令を受けて実行する人物なのであって、諫言という高度なことができる者たちではないのだ。

 師匠抜きで成功するのは至難の業なのであるが、師匠抜きで成功を維持するのはそれ以上に至難の業なのである。師匠を持っていれば簡単に教えてくれるものなのに、師匠を持たねばそれに関する情報が全くないから、無知なまま突っ込んで行ってしまうのである。

●学校でダメ人間になるな

 学校教育というのは必要な物なのであるが、学校で教育を受けたために、学校の教師から「ダメ人間」のレッテルを貼られてしまった人たちは実に多い。不良に走ってしまったり、不良にならなくても「俺ってバカだからさ~」と口癖を言ってしまい、学校を卒業してからダメ人間としての人生を歩んでしまうのである。

 自分の人生を成功させるためには、頭の良し悪しは余り関係ない。頭の良い人が成功するなら、東大卒の人たちは全員成功している筈だ。しかし現実はそうなっていない。ということは、人生を成功させるためには、頭の良し悪し以外の物が重要になってくるということなのである。

 自分の人生を成功させるために最も必要な物はなんといっても「自分の夢を明確にすること」だ。自分が一体どこを目指しているのかが解れば、後は自然に走り出して行くものなのである。往々にして学校でどうでもいいことを詰め込まれてしまうと、自分の夢がなんであるのか解らなくなってしまうのだ。

 自分が夢を持てば成功するとは限らない。その夢を実現させるために必要なのが「人生経験」と「知恵」なのだ。若者は何事に関しても経験値が足りなすぎるのだ。だからとにかく行動を起こし、失敗しまくる。失敗しまくるからこそ、どうすれば成功できるのかが見えてくるのだ。

 それと成功するためには膨大な知識と技術を学んでいかなければならないのだが、その背後にある知恵の存在に気付かないと、知識や技術が本当に身につかないのである。知識や技術は「頭でっかち」や「専門バカ」を生み出すことも有り得るのだ。

 師匠というのは、人生経験にしても知恵にしても自分にとって先達であるのだ。だから自分が悪戦苦闘しながら学んでいくより、師匠を持って、師匠の人生経験や知恵を引用させて貰った方が、より速く確実に成功していくことができるようになるのである。

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ビジネスで成功するための最大の秘訣

●起業家の本は絶対に読むべし

 ビジネスをやっているのなら、絶対に起業家が書いた本を買って読んでおいた方がいい。起業家の本は本当に価値があるのだ。読めば自分のビジネスで役立つし、私生活をどうするかでも役立つし、実際に自分が会社を作る時にも役立つのだ。

 会社を作ってみないと、ビジネスのことは良く解らないものである。経済学者が幾ら経済のことを説明しても、経済のことは良く解らない。経済学者がビジネスをやったことがないし、それにそもそも裕福ではないからだ。経済学の本は世の中に利益を与えたことなど殆どないが、世の中に損害を与えた事例の方が遥かに多い。

 会社員が本を書いても、それほど価値はないのだ。というのは、会社員はその会社の全ての役職を経験したのではなく、ごく一部の役職をしか経験していないからだ。このため会社を大局的から見て物を考えるということができないのだ。飽くまでも会社員としての心構えや技術を学ぶ程度のことしかできないのだ。

 会社の社長といっても、自分の父親が社長であったために、それを引き継いで就任したり、サラリーマン社長とかでは、そういった者たちが書いた本はそれほど価値がない。その会社で一番偉いのは創業者なのであって、それ以降に就任した社長たちというのは創業者の遺産で食っている連中なのである。

 やはり起業家なのだ。起業家だからこそビジネスの真髄をズバリ言い当てることができるのである。ビジネス書では技術的な本が多いのだが、確かにその手の本は仕事ですぐに役立つものなのではあるが、ビジネス書では起業家の書いた本を筆頭に置くようにすることだ。起業家の考え方が解れば、ビジネスは巧く行くものなのである。

●起業の五つの秘訣

今回紹介する本はこの本!

『ライク・ア・ヴァージン』(日経BP社)

 リチャード・ブランソン著

 土方奈美訳

    ライク・ア・ヴァージンビジネススクールでは教えてくれない成功哲学

 リチャード・ブランソンはヴァージングループの創業者である。リチャードは貧家の出ではない。祖父は高等法院の裁判官で枢密院顧問官であり、父親は法務弁護士であり、母親は元スチュワーデスである。17歳の時にパブリックスクールを中退し、それ以降、起業家としての人生を歩み始める。彼が成功したのは彼の努力もあるが、資産家と結婚した叔母が経済支援をし続けてくれたこともその要因である。

 リチャードは貧乏から身を起こした起業家ではないが、良家のお坊ちゃんだからこそ泥臭い部分がなく、その考えは非常にスマートである。俺は彼の本を読んで彼の意見に全て納得できたくらいである。リチャードは起業には五つの秘訣があると指摘する。

①楽しくなければやるな

 これは本当にその通りで、起業する場合、それが楽しいからこそやるのである。お金が儲かるとか不純な動機で遣り始めてしまうと、起業なんて成功しないものなのである。自分が起業を計画して、「このビジネスは面白くないな」と思ったのなら、起業を取りやめた方がいいのだ。

②革新的であれ

 起業する際、革新的な何かを打ち出さない限り、成功することはできない。他の会社と同じ事をやるのではなく、他と違う何かを見つけ出し、それを徹底的に伸ばして行かなければならないのだ。既存のビジネスは既存の会社に任すべきであって、敢えて起業家が手を出すべきではないのだ。

③愛社精神が奇跡を呼ぶ

 国家にとって愛国心が必要なように、会社には愛社精神が必要なのである。社員たちが愛社精神を持てば奇跡が起こるものなのである。社長が社員たちを見下したり、社員たちが会社の悪口を言うことを許してはならないのだ。ベンチャー企業では規模が巨大化するまで家族的でいられるので、徹底的に家族的に接して、愛社精神を養って行くべきなのである。

④経営とは話を聞くこと

 起業家はあれこれ命令を下さざるを得ない。しかし起業家が会社の全てを把握することは不可能なのである。だから社員たちから話を聞いて、会社を経営していくようにしなければならないのだ。リチャードの話には非常に説得力があるのだが、それは彼が良く他人の話を聞いているからに他ならないのだ。

⑤身近な存在であれ

 起業家の中にはゴルフや夜遊びに夢中になったり、マスコミに出まくって人気を取ろうとする者がいるのだが、そういうことは起業家として不要だし、会社の経営に於いては非常に危険なことなのである。起業家は社員たちやお客様たちと接するのが仕事なのであって、身近な存在で居続けなければならないのだ。

●起業時の最大の不安

 起業時の最大の不安は「起業するだけの勇気がない」ということなのである。リチャードみたいにパブリックスクールを中退した者ならその勇気があるのだが、下手に高校や大学を卒業した者だとその勇気がないのである。だからいつまで経っても起業しないのだ。

 起業するか悩んでいる時、起業できない理由をあれこれと思いついてしまうものだが、起業を諦めてしまう理由は幾らでも考えつくものなのである。しかしその理由を以て起業をやめたからといって、なんの変化も起こらないのだ。「起業はやったもん勝ち」であって、とにかく勇気を出してやってしまった方がいいのだ。

 但し気をつけるべきは、起業した際の事業を確実に成功させなければならないということだ。起業したのに、その事業が巧く行かなかったら、新しい事業の殆どは成功していないのだ。だから行き成り大きな事業に手を出すのではなく、まずは小さな事業に手を出して、経験値を積んでから大きな事業に手を出すようにすべきなのである。

 起業して失敗したとしても別に構わない。「素晴らしい教訓は大抵失敗から生まれる」ものだから、その失敗が貴重な教訓となるのだ。起業家たちの中には一発で成功させてしまう者もいれば、何度も倒産させてやっとのことで成功する者もいるのである。

 リチャードは言う。「勇敢な者でも永遠に生き続けることはない。しかし臆病者は生きることすら叶わない」と。臆病になってしまうと、安全のように見えて、実はいずれジリ貧になってしまい、破滅していくものなのである。若い時は勇者になるべきなのであって、勇気を出して起業してしまった方が良いのである。

●会社の財産は人材だけである!

 会社は資本金がなければ成り立たないのだが、リチャードは「会社の財産は人材だけである」と主張する。「優れた人材は事業に大切というだけではない。人材は事業そのものだ」と、人材と事業の因果関係が普通の会社では逆になっていることを指摘するのである。

 起業家は独裁で会社経営をしていくので、社員たちは命令を実行すればいいと思ってしまう。こうなると社員たちは表面上服従するが、内面ではどう考えているか解らないのだ。そのため社内の不満が溜まりに溜まって、或る日突然に大爆発を起こしてしまい、社長が解任されてしまったりするのだ。

 会社を大きく発展させていくためには権限の委譲が絶対に欠かせないのだが、起業家が社内で人材を育成していないと、権限を委譲できるだけの人材が社内にはいなくなってしまうのである。このためいつまで経っても起業家が全権を握り続け、会社を大きくして行くことができないのである。

 ではどうやって人材を育てて行くかというと、それは社員を「社内起業家」として育てて行くのである。社員が新しい事業を提案し、その新規事業が巧く行ったら分社化してしまい、それでヴァージングループは勢力を拡大していったのである。

 俺はリチャードの意見を聞いた時、松下幸之助の「物作りの前に人作り」という言葉を思い出した。社内起業家ではリクルートのことを思い出した。成功する会社というのは、やっていることは大体似たようなものなのであって、どうすれば人材を育てることができるのか考え、それを実行しているのである。

●社員が会社を辞める理由

 会社が人材を確保するためには、とにかく社員たちを辞めさせないようにすることだ。人材の育成には時間がかかるものなのである。社員たちが何かあればすぐに辞めてしまうような会社では人材育成ができないのは当たり前のことなのである。

 リチャードは「人が会社を辞める主な原因は自分の意見を聞いて貰えないこと」だと喝破する。お金だけが理由であることは少ない。自分が何かしらの意見を持っているのに、それを会社が聞き入れてくれないからこそ、怒りを爆発させて辞めてしまうのである。

 だからリチャードは社員たちの意見を聞くのである。これは何も彼の人柄がいいということではないのだ。ヴァージングループでは発展していく過程に於いて、かなりの社員たちが辞めていったのであり、リチャードはそれを克服するために社員の話を聞くことの重要性に気付いたからこそ、こういうことをやっているのだ。

 組織はどうしても「上意下達」にならざるを得ない。このためトップは「部下たちは自分の命令を忠実に実行すればいい」と勘違いしてしまう。確かに命令は忠実に実行されなければならない。しかし部下たちがその命令を受けて何を思っているかは、部下たちから直接に話を聞かないと解らないのだ。

 上意下達の危険性が解っていないと、社員たちは簡単に辞めていってしまうし、それどころか残った者たちは社長に激しい恨みを抱いて、いずれクーデターを起こしてくるものなのである。時折発生する会社のお家騒動は、社長が社員たちの意見を聞いてこなかったことにこそ、その原因があるのだ。

●常にノートを持ち歩く

 会社経営とは改善の連続である。改善をすればするほど会社の経営は良くなっていく。社長が改善を怠っていると、問題は累積し始め、会社としてはその社長を解任し、新たな社長による変革によって事態を乗り切らなければならなくなってしまうのだ。 

 リチャードは会社を日々改善していくために、常にノートを持ち歩き、何か気になったことはすぐに書き留めて行くという習慣を持っているのだ。このノートは特殊なノートではなく、文房具店で売っている在り来たりの物である。このノートを溜め込めば溜め込むほど、ヴァージングループは改善がなされて行くのである。

 社長たちの中にはメモを取る習慣を持たない人たちが非常に多い。そういう面倒臭いことを嫌ってしまうのだ。しかしそのツケが会社経営の停滞であり、社長が改善をしていないからこそ、部下たちが一生懸命に仕事をしても、会社の業績が良くならないのだ。

 ノートを持ち歩き、常にメモをしていると、自分のやるべきことが明確になるものなのである。情報を聞き流していては解らないものであっても、自分がせっせとメモを取っていけば、今、自分は何を重要視しているのかが、非常に良く解るようになるのだ。

 社長が会社のトップとして最大の権限が与えられている以上、どうでもいい仕事をやろうと思えば、幾らでもできるものなのである。しかしそんなことをやっていては会社の経営は絶対に巧く行かないのだ。何が重要で何が不要かが解った上で会社を経営するからこそ、会社の業績を上げて行くことができるようになるのである。

●最高の秘訣

 リチャードはお金が欲しいからということで会社を経営しているのではない。

「みんなが楽しい時間を過ごして貰う方法を見つけたい」

ということで会社を経営しているのである。会社はそのための道具なのであって、この道具を使ってどうお客様を楽しませてあげとうかと日々考えているのである。

 会社経営に於いて利益の追求は絶対に会社の目的にはならない。これは会社を経営すればすぐに解ることになのに、学校や大学で「会社は利潤追求を目的とする」と言う間違ったことを教えられてしまうからこそ、その間違った考えのまま会社経営を続けてしまうのである。

 会社はお客様たちを楽しませることができれば、幾らでも利益が発生してくるものなのである。利益は結果として獲得できるものであって、その利益を目指して何かをやった訳ではないのだ。だからこの会社経営の真実に気付いた者はどのような職種であったとしても、会社経営を成功させてしまうのである。

 人間の脳は人生を楽しめばより高い能力を発揮できるようになっている。それなのに全ての人たちは学校で苦しむことを教えられてしまうのだ。学校の教師たちは勉強と称して生徒たちを苦しませ、スポーツと称して生徒たちを苦しませるのだ。このためこの世で生きるためには苦しまなければならないと洗脳された人たちが大量に出て来てしまうのである。

 日本の学校がダメで、外国の学校が良いなどということは有り得ない。学校というものはどうしてもそういうことをしてしまうのだ。リチャードがイギリスのパブリックスクールの中退者であることを絶対に忘れてはならない。学校で洗脳されなかったからこそ、起業家になり、ヴァージングループというイギリスを代表する起業グループを作ってしまったのである。

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s日本人の宗教意識 ~原恩意識と原罪意識~

●日本人の宗教意識と各宗教の宗教教義は違う

 日本の宗教を説明する時、各宗教の宗教家たちが唱えた宗教教義を紹介することになるのだが、だからといって日本人の宗教意識がそうなっているとは限らない、普通の人たちはそんな難解な宗教教義など解らないのであって、幾ら宗教教義を説明した所で日本人の宗教意識を解明したことにはならないのだ。

 日本人の宗教意識は意外とシンプルな物なのである。だから何千年と生き続けて来たのであり、単純な物ゆえに偉大な宗教家が出て来ても、そう簡単には変わらないのだ。逆に各宗教の宗教教義は複雑すぎて、この単純な物に対応できていないのだ。

 日本人の宗教意識の基本となっているのは、「原恩意識」というものである。神道では「人間は神の子」なのであって、生まれた時から既に「永遠の命」を持つことになる。その恩義は絶対なものなのであって、「神恩」に感謝して行き続けなければならないのだ。

 この原恩意識があればこそ、それを保障する形で宗教団体が存続できるのであり、保障の度合いを強めるためには、何も1つの教団でなくてもいい。だからこそ日本は神仏習合をやってきたのであり、神道と仏教の2つの宗教を奉じることで、神恩を守ろうとしたのである。仏教は神恩に対応して「仏恩」なる言葉を作ったからこそ、日本への土着化に成功したのである。

 日本は神仏習合の国であるということが解っていないと、「日本の宗教」のことは全然解らなくなる。それと同時に、日本人の原恩意識を解っていないと、「日本人の宗教意識」を全く理解できていないことになる。宗教のことを研究する人たちはどうしてもどこかの宗教団体に属し、1つの宗教を奉じているものだが、それでは日本の宗教も日本人の宗教意識も解らなくなってしまうのである。

●原恩意識の三大効果

 原恩意識には三大効果というものがある。神恩は神様から貰えばそれで良いのではないのだ。神恩を貰った人間は神恩に対応する何かをしなければならないからこそ、神の聖慮に応えることができるのである。神恩は制止的なものではなく、機動的なものなのである。

①オカゲ

 まず神恩を貰ったことに感謝しなければならない。神様は全ての人たちに神恩を与えたのではなく、わざわざ神様があなたを選んで神恩を与えて以上、神様への感謝をして、その感動を現わさなければならないのである。神様に感謝するからこそ、更に神様から聖なるエネルギーを注がれることになるのである。

 感謝は神様だけに留まることはない。自分を生み育ててくれた「両親」にも感謝しなければならないのであって、自分が両親から生み育てられた以上、自分もいずれは結婚して子供を生んでいかなければならないのだ。神様から選ばれたのなら、世俗に於いて非婚という選択肢はないのだ。

 日本人が当たり前の如くに使う「お蔭様」という言葉は、原恩意識から来るものなのである。この「お蔭様」を外国語に訳すことができない。無理矢理訳そうとすれば非常に困難になってしまう。なぜなら、お蔭様は日常語に見えて、実は宗教用語だからだ。

②ケガレ

 神恩は常にエネルギーが満杯というわけではない。自分が穢れてしまったり、罪を犯せば、エネルギーが不足して行ってしまうのである。だから穢れたのなら穢れを祓い、罪を犯したのならその罪を償わなければならないのだ。穢れや罪が起こるのは必然であって、自分がどうやっても無垢無罪のままでいることはできないのだ。

 日本人の宗教意識はどう考えても「性悪説」に立脚するものである。人間は神の子なんだから性善説になってしまうと勘違いしてしまう人も出て来るのだが、人間が穢れや罪を負うのは予定されている以上、性善説ではなく性悪説に立脚するのである。自分の本性が悪いものだから、宗教を使って矯正していくしかないのである。

 日本人にとって絶対に許すことができないのは、穢れを祓い、罪を償ったのにそれで過去の穢れや罪を問うのは絶対に許されないことなのである。日本が韓国や中国と外交で揉めてしまうのは、韓国や中国は常に過去のことを持ち出して来ることなのであって、これは日本人の逆鱗に触れてしまうのである。日韓友好とか日中友好というのは土台無理なのであって、軍事力を増強して、制裁措置を確実に加えることができるようにしておくべきなのである。

③タタリ

 日本人は神の子である以上、他人から祟られるのが非常に恐ろしいことになる。なんせ相手は永遠の命を持っているので、死んでも死なないのだ。怨霊となって祟って来るのである。祟りを鎮めてくれる宗教があれば、それを使って来るのである。だから神仏習合というものが成立したのである。

 祟りは怨霊だけがするものではない。英霊だって祟ることも有り得るのである。英霊に対して祭祀をきちんと行わないと、英霊は祟るのである。例えば社会党政権でも民主党政権でも首相は靖国神社に参拝しなかったが、それで何が起こったかというと、阪神淡路大震災であり東日本大震災であるのだ。

 注意すべきは、怨霊や英霊になるのは日本人だけであって、外国人はならないということなのである。外国人は神の子でない以上、日本人を恨むことがあっても、それは祟りとかにはならないのである。日本人が外国人となかなか巧くやれないのは、日本人同士で接する感覚で、外国人と接してしまうからなのである。

●神道の産物ではあるが、仏教の助けを借りた

 日本人の宗教意識は「神道の産物」以外の何物でもない。神道の教義が解っていれば、日本人の宗教意識は簡単に理解できる。しかし日本は神仏習合の国なのであって、ではなんで日本人は神道だけを選択せず、仏教を取り入れることになったかということになる。

 仏教に関しては誤解がある。日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の御世ではなく、もっと早くに伝来してきたということなのである。当時の中国の仏教は道教と融合した状態になっており、日本には卓越した呪術を持つ仙人として単発でやってきたのである。

 その後、百済から道教が抜け落ちた仏教として正式な物が伝来してきたのだが、その際、ただ単に仏教がやってきたのではなく、軍事学や天文学や建築学や食品栄養学など様々な学問を付随させながらやってきたのである。当時の仏教は出家者たちがただ単に仏教を学んでいるのではなく、仏教に基づいて様々な学問を展開していたのである。

 古代の神道には宗教家個人が単独で布教に行くことはなかったし、神道に基づいて様々な学問を発展させることもなかった。だから朝廷は仏教が伝来すると、これを取り入れて国家を発展させる一方で、律令制度に神社を組み込むことで社会の安寧を図ったのである。

 現代でこそ仏教は戒律1つ守ることができないほど完全に堕落しきっているが、古代の仏教はそうではなかった。仏教は日本の土着するために努力し続けたのであり、日本人がケガレやタタリを恐れるので、加持祈祷をしたり、供養をしたりして、日本人に取り行っていったのである。

 日本の仏教は純粋な仏教ではない。本来の仏教とは懸け離れたものである。特に「仏教の呪術化」は甚だしいのであって、日本の仏教は呪術を駆使するからこそ、日本人に受け入れられてきたのである。このことを解っていないと、日本の僧侶が自分は仏教徒だからといって純粋な仏教を持ち出して来てしまえば、信者たちが離れて行ってしまうことになるのである。

●日本人は原罪を拒絶する

 日本は神仏習合の国で、宗教混淆をやっている。別に神道や仏教だけでなく、他に役立つ宗教があるなら取り入れるという柔軟な姿勢を持っているのだ。しかしこの非常に有難い宗教環境に於いて、キリスト教は苦戦し、信者数を人口の1%しか獲得できていない。

 このことはキリスト教の各教団で真剣に研究され話し合われているのだが、日本人の宗教意識が解ればこの謎を簡単に解明できる。日本人には原恩意識というものがあって、この原恩意識はキリスト教の「原罪意識」を絶対に拒絶するということなのである。

 日本人は生きていれば、穢れを受け、罪を犯す存在ではあっても、生まれながらにして原罪というものはない。原罪というものを教えられればそれは頭では理解することができる。だからといってそれを心の奥底にまで受け入れることは決してできないのである。

 厄介なことは、日本のキリスト教徒たちが原罪というものをしっかりと受け入れていないのだ。日本のキリスト教徒の話を聞くと、誰かの紹介でキリスト教の洗礼を受けたということを平気で言うので、西ヨーロッパのキリスト教徒たちのように自分の救われざる罪を感じて改宗したのではないということなのである。

 つまり日本のキリスト教徒はキリスト教徒として本物ではないのだ。日本のキリスト教徒たちは日本人の宗教意識の延長線上でキリスト教に改宗したのであって、こうなってしまうとキリスト教がキリスト教でなくなってしまうのである。だからこそ日本からアウグスティヌスやルターやカルバンのようなキリスト教世界を震撼させる神学者が1人も出て来ないのである。

 日本人は原罪を拒絶する以上、日本のキリスト教徒たちはこのキリスト教の原罪と真正面から戦うこともできるのである。そもそも原罪というのは、イエスが唱えたものではなく、パウロが唱えたものなのであって、律法の遵守は個人の責任でなされるものなのに、アダムとイブが犯した罪を人々になすりつけているのである。

 言わば、原罪は「人類史上最大の冤罪」なのであって、キリスト教のイエス主義とパウロ主義の違いに着目し、パウロはイエスの教えを捻じ曲げた人物であると指摘すれば、そこから宗教改革が発生することになるものなのである。そういう研究をせず、『聖書』の記述を鵜呑みにしているからこそ、イエスの教えがまるで解らなくなってしまうのである。

●既成宗教による廃棄と新興宗教による新規参入

 日本人の宗教意識からすれば、穢れたり、罪を犯したり、祟りを鎮められない宗教は価値がないものなのである。日本の仏教の僧侶たちは戒律を遵守しないために、僧侶として穢れているし、真面目に仏教だけに頼ってしまうと、日本の仏教には呪術的要素が大量にあるために、祟りの問題を取り上げないくなるのだ。

 そこで登場して来るのが新興宗教なのであって、新興宗教は日本の仏教が廃棄した物を請け負い、それで繁盛しているのである。新興宗教は教義による拘束が殆どないので、穢れを祓ったり、祟りを鎮めたりするのは、簡単に出来てしまうものなのである。

 当然にこのような状況は仏教側にとって好ましくない、それで仏教から僧侶を除去して、「在家仏教」という形で仏教を再生しようとする動きが出て来るのである。仏教系の新興宗教団体は殆どこれで、僧侶が戒律を遵守しない以上、僧侶それ自体を教団から除去してしまったのである。

 だから宗教というものを理解するのに既成宗教だけを見ていてはダメなのである。それは非常に危険な物の見方なのである。新興宗教は滅茶苦茶なことをやっているように見えて、実は日本人の宗教意識に最も沿った形で宗教活動をやっているのである。

 確かに既成宗教は立派な教義を持っている。しかしその教義が立派になればなるほど、日本人の宗教意識から遠ざかって行くことも有り得るのである。そもそも宗教を個人レベルで考えるなら、「釈迦がこう言った」「イエスがこう言った」というのは全く関係ないものなのである。

 大事なことは、その宗教で自分が救済され、その宗教が実生活で本当に役立つのか否かなのである。個人レベルではそういうドライな物の見方をするのであって、その要求を満たした教団だけが繁盛し、それができない教団は衰退していくしかないのだ。

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教養と知識

●教養って何?

 近代以前は学問に志す人なんか稀であった。数少ない人たちが向学心に基づいて勉強したのだから、学問によって自分自身の人格を陶冶したことは言うまでもない。だから江戸時代には学者として名を残した人は、人格的にも立派であったのである。

 江戸時代までなら、「教養」という言葉は、「学問によって高められた品位」ということを意味したのである。日本の学問は儒教から派生していったことを絶対に忘れてはならない。「国学」も「蘭学」も儒教の影響を受けて誕生してきた学問なのであって、儒教以外の学問をすることで人徳を高めていったのである。

 しかし、近代化以降、学問は変化してしまった。日本は欧米列強に追いつこうとしたために、学問によって人格を陶冶していくという遠回りをしなくなってしまった。学問によって即物的な物を求めてしまったのである。学問が持つ或る部分だけに惹かれてしまったのである。

 日本は運の悪いことに、明治維新という大事な時期に福沢諭吉という軽薄な学者が出してしまった。このバカ学者は『学問のすすめ』を書き、これをベストセラーにしてしまったのである。しかも彼は慶応義塾大学を作り、学生たちを育てたものだから、「学問の歪み」が決定的なものになってしまったのである。

 だから近代以降、教養という言葉は、「先進国の知識人として最低限持つべき知識」程度に成り下がってしまったのである。このため知識があれば他人を見下し、知識があってもその奥にある何かを究明しようとはしなくなってしまった。それゆえ「傲慢で薄っぺらい知識人たち」が大量発生してしまったのである。

●知識過剰による専門バカ

 知識があれば立派なのかといえば決してそうではない。というか絶対にそうではない。知識を大量に持ってしまったためにダメになってしまった人々を我々は大学の構内に於いて確実に見ることができる。よりによってダメになった人物は大学教授を名乗っているのだから厄介なのである。

 大学教授こそ、福沢諭吉によって擦り替えられた教養の犠牲者なのである。学者は自分の専攻分野で働くためには大量の知識を持たなければならない。しかし人間は大量の知識を持ってしまうと、脳味噌が爛れてしまう危険性を常に持っているのだ。人間の脳にはそういう危険性があるのだから、充分に配慮しながら研究をしていかなければならないのに、教養の本来の意味が解っていないと、なんの配慮もしなくなってしまうのだ。

 世間の人たちは学者であっても、人格に問題のある人物を「専門バカ」と罵っている。世間の人たちは学者ほど知識を持っていないが、知識過剰になってしまうと専門バカになってしまい、なんの役にも立たないどころか、使えば有害になることを充分に理解しているのである。

 知識というものは使い方を誤れば非常に危険なことになってしまうのである。どんな学問の知識であっても、それを悪用すれば殺人を引き起こし、その殺人を正当化するために使用できてしまうものなのである。学問にはそういう危険性があるからこそ、知識の追求ばかりしていては非常に危険なのである。

 近代国家は大量の知識を使用することになるから、専門バカでも仕事はあるのだ。しかしその代償は激しく、大学から「本物の学問」が消え、学者たちは「徳なき名誉」「知恵なき理性」「幸福なき快楽」だけを持つ存在に堕落していくのである。学問は大学の外で消滅したのではなく、大学の中で消滅したのである。

●大学教授に高徳を求めてはならない

 大学教授に高徳を求めてはならない。大学教授が高徳を持つことは有り得ないのだ。学生たちは大学教授たちの中に人格的に優れた人物がいるだろうなどと間違った考えを抱いてはならない。大学教授たちの中に人格的に優れた人物はいないのだ。

 学問というのは人格的に優れた人物から教わった方が早くに上達するし、早くに一人前になることができる。しかし近代以降の大学はそういうようにはなっていないのであって、知識過剰のために碌でもない人物が大学教授になっている場合が殆どなのである。

 大学に進学したのなら、大学はそういうものだと割り切るべきであって、せっせと勉強していけばいいのだ。学生が向学心を持ち、地道に知識を吸収していけば、いずれ大学l教授の真贋が自分でも解って来るから、後は優れた学術論文を作って、バカな学者たちを追い抜いていけばいいだけのことなのである。

 若い時は体力があるのだから、大学教授の講義を受けて勉強するだけでなく、大学の図書館に籠って勉強することは勿論のこと、本屋で本を買い漁ったり、大学の外に出て様々な人たちと会うことが必要なのである。学生の時に動き回れば動き回るほど、その後の人生で大いに役立つことになるのだ。

 どんな学問であっても10年間勉強し続ければ必ずトップレベルに立つことができる。最初に接した時は高度に見えた学問でも、勉強しまくればそんなに難しいことはないのだ。大事なことは勉強し続けることであって、やめることなく継続し続けていれば、トップレベルに躍り出てしまうものなのである。

●大学教育への解毒剤

 学生だからといって、大学の勉強ばかりしていてはならない。知識を過剰に摂取してしまえば、脳が爛れることも有り得るのであって、自分だって勉強のし過ぎて、教壇の上に立っている人物と同じように「徳のない人物」になってしまうかもしれないのだ。

 大学で勉強しながら、自分の人格を陶冶するために「宗教書」や「自己啓発書」を読むことは絶対に必要なことなのである。これらの書物だけが大学教育の解毒剤になりうるのであって、逆に言えばこれらの書物を読まなければ知識過剰のために人徳が猛スピードで消滅して行くことになるのだ。

 宗教書は「宗教家」が書くものだし、自己啓発書は「成功者」が書くものだ。学者が書いてこないということでは共通項があるのだ。大学から道徳が消滅してしまった近代に於いては、こういう形で道徳を学んでいくしかないのだ。大学の勉強だけをしていればいいというのではないのだ。

 恐ろしいことに、一流の大学であればあるほど、そこの大学教授たちは宗教書や自己啓発書をバカにしてくるのだ。大学では宗教書も自己啓発書も禁書扱いなのである。専門バカになっている大学教授は宗教書や自己啓発書の価値が全く解らないのだ。

 だから学生が宗教書や自己啓発書を読んでいることが大学教授にバレれば、非常に危険なことになってしまう。宗教書や自己啓発書を読む時は大学教授に知られないように読むべきなのであって、大学教授の知らない所で自分の人格を陶冶していかなければならないのである。

●人生経験と知恵

 知識が豊富だからといって、幸せになるとは限らない。それどころか知らなくていい知識を知ってしまったがために不幸になることもあるのだ。確かに自分の知らない知識を知ることは楽しい。しかしそういう楽しさは所詮「ニュース」と変わらないようなレベルなのであって、いずれ詰まらなくなってしまうものなのである。

 大学教授たちがいつも顰めっ面をしているのは、自分の人生を本当に楽しんでいないからなのである。過剰な知識のためにどうでもいいことを考え、それなのに考えた所で何かしらの発見をしなければ、その思考は全て無駄になってしまうのである。

 人間は知識を持とうが持つまいが、「人生経験」と「知恵」を持たねばならないのである。人間としてすべき人生経験はきちんとしておく。知識に振り回されず、その奥にある知恵という物を見つけて行く。そういうことがこの世で生きるためには必要なのである。

 幸福という物は偶然に起こることも有り得るが、人生を楽しみたいのなら幸福を必然的に引き起こして行くことが必要なのである。そのためには「知的幸福」という考えを持つべきであって、頭を良く使って、偽物の幸福に騙されることなく、本物の幸福を追求していくべきなのである。

 見せかけの名誉を追い求めるのではなく、人がどう評価しようが地道に徳を積み、理性を使って知識から知恵を見抜き、人生を楽しみながら本物の幸福を実現していくのである。知的幸福という考えを持っている者だからこそ、この世に於いて人類が本当に必要とする物を生み出して行くことができるのである。

 知的幸福を突き詰めていけば、最終的には「至福の境地」に辿り着いてしまう。至福とは人間が幸福を作ったのではなく、神が幸福を作ったと解った瞬間に発生するこの上もない幸せのことを言う。結局、至福の境地に辿り着いた人は必ず後世に残るような偉業を成し遂げるから、その幸福は末永く続くことになるのである。

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なぜタマティーのブログは徳島県で人気があるのか?

●niftyのアクセス解析がリニューアル

 今回、niftyのアクセス解析がリニューアルしたのだが、今までのアクセス解析に慣れ親しんできた俺としては、「なんでリニューアルするんだよ。余計な機能が付いて面倒じゃないか!?」という感想を持ってしまった。保守的になってできるだけ変えず、不足の部分を付け足していけばいいものを、そういう配慮が欠けているのである。

 しかし今回のリニューアルで、良かった物も存在する。それは「都道府県別のデータが一発で解るようになった」ということなのである。この機能は実に便利で、これを見れば俺のブログがどこの地域で受けているのか、瞬時に解るようになったのだ。

 タマティーのブログが最も受けている県は、なんと

「徳島県」!

俺は現在、千葉県に住んでいるのだが、地元の千葉県よりも遥か遠い徳島県で俺のブログは受けているのである。徳島県は常にトップなので、明らかに俺の意見は徳島県民が好むものになっているのだ。

 因みに俺のブログが最も受けていない県は「長野県」なのだが、この理由は俺には良く解る。俺のブログでは時折、凄まじいブラックユーモアが登場するのだが、長野県民は冗談1つ言わない県民なので、俺のブラックユーモアを理解して貰えないのである。

 そこで、俺のブログがなんで徳島県で受けているのかを調べてみた。調べてみると実に興味深いことが出来て来た。俺のブログは徳島県で確実に受ける要素を持っており、だから必然的に徳島県で受けてしまうのである。俺自身は徳島県の人たちに受けるようにやっていなかったのだが、俺の何かが徳島県の人たちの魂に触れてしまったのである。

●タマティーは「うどん」大好き

 タマティーは「うどん」が大好きである。毎週1回は必ずうどんを食べている。徳島県民もうどんが大好きであろうが、うどんが大好きだからこそ、思考パターンが似て来るのである。うどんにはグルテンが大量に入っているので、脳の疲労を除去でき、高い知能を持つことができるのである。

 だからお米ばかり食べている人が俺のブログを読んでも、その難しさに辟易としてしまい、寄り付かなくなってしまうのだ。俺は白米というものを殆ど食べない。お米を食う時は、玄米プラス押麦なので、お米を食う時ですら麦が入っているのである。

 うどんを食べると言っても、うどんを毎日食う香川県民とは違う。香川県民は本当に毎日うどんを食う奇妙な人たちなのであって、大晦日にも「年越しうどん」と称してうどんを食っているのである。毎日うどんを食っているのだから、年越しうどんなんて必要ないじゃないかと思ってしまうのだが、「うどん中毒」に罹るとこの当たり前のことすら解らなくなってしまうのだ。

 ただ、香川県でも俺のブログは受けている。やはりうどんを食う人たちとは相通ずるものがあるのである。しかし俺はお酒を殆ど飲まない。このため飲酒量の多い高知県では俺のブログは受けていない。お酒を飲む人とは相通ずるものがないのだ。

 残念なのは、俺は「みかん」も大好きで、みかんを大量に食うのだが、愛媛県では俺のブログがヒットしていないのだ。それもその筈、現在、みかんの生産量で日本一は和歌山県なのであって、愛媛県ではないのだ。そこで調べてみると、やはり和歌山県で俺のブログがヒットしていたのだ。みかん好きの人たちとは心を通わせることができるのである。

●歴史的な繋がり:「阿波」と「安房」

 実を言うと、千葉県と徳島県には歴史的に深い繋がりがある。神武天皇の御世に勅命を受けて忌部氏が安房の国を征服し、そこから徐々に房総半島を支配して行き、そして関東全域を支配したということがあるのである。だから徳島県の旧国名の「阿波」と、千葉県の南部の旧国名である「安房」は、発音が同じで、ただ漢字が違うだけなのである。

 阿波の国と安房の国は今から二千年前に別れたから、かなり文化が違っているのだが、それでも共通する文化というものがある。それは「お祭り」であり、徳島県の阿波踊りと、千葉県の館山のお祭りは、その賑やかさではまるで同じなのだ。

 我が家では「お雑煮」に共通する文化を見出すことができる。我が家のお雑煮は関東のお雑煮と関西のお雑煮とのミックスした物なのだが、この雑煮は関東の雑煮でもないし、関西の雑煮でもないのだ。しかしベースは関西の雑煮になっており、それを関東で変化させたものなのである。

 我が家の雑煮はお餅を四角く切る。関西ではお餅は丸いので、これは関東風だ。しかし雑煮に「八つ頭」を使うので、これは関西風なのである。醤油味が効いているので関東風の味付けになっているが、関東の雑煮が鶏肉とコカブで味を取るのを考えれば、かなり変わった雑煮なのだ。

 極めつけは振りかけに「海苔」と「鰹節」をたっぷりとかけるのだ。これは千葉県でも由緒ある家じゃないとやらない。かなり薄れてしまった食習慣なのだ。徳島県でどうなっているのか解らないが、嘗ては徳島県もこれと同じ食習慣だった筈だ。

 というのは、これは「海の民」の食習慣だったらしく、現在でも「隠岐の島」ではこれと全く同じ物が食べられているのだ。徳島県は平安時代に真言宗が流入してかなり変わってしまうのだが、それでも海の民が作った国である以上、千葉県や隠岐の島に残っていて、徳島県に残っていないということは絶対にないのだ。

●徳島県民の県民気質

①男性:「商人気質」

 徳島県民の県民気質は、男性の場合、「商人気質」だと言われている。これは徳島県が日本建国当初から開発されていたということと、地理的に大阪に近かったので、それで徳島県の男性たちは大阪を介して積極的に商売を行わなければならなかったのである。

 タマティーも商人気質を持っている。俺のブログを読めば解るだろうが、生活の合理化をしなければ、絶対に豊かになれないということを延々と述べているのである。生活を合理化するからこそ、生活費を最小限に抑えることができるし、仕事に充分な労力と時間を回せるので、それでビジネスで成功する確率を高めることができるのである。

②女性:「明るくて気が強くて働き者」

 徳島県の女性は明るくて気が強く働き者だと言われている。これは徳島県の気候や食事がそうさせるのであろう。雪国のように冬の間は雪に閉ざされるようでは働き者であっても性格は暗くなるし、常夏の沖縄では性格が明るくても、暑さのためにそんなに働き者にはなれないのである。

 タマティーは明るくて気が強くて働き者の女性は大好きである。そもそも初恋の女性はこの条件にピタリと当て嵌っている。但しなぜだか沖縄県出身の女性で、冬になると厚着をして、ブルブルと震えていたのを思い出す。沖縄県出身ゆえに東京の寒さですらきつかったのであろう。

③「男女共にしっかりと貯金する」

 徳島県民は男女ともにしっかりと貯金する傾向にある。喩話で、高知県の人間が1万円を拾ったら、そのお金を全部酒代に注ぎ込んでしまうのだが、徳島県の人間が1万円を拾ったら、そのお金を全部貯金してしまうと言われる。これは本当にそうで、四国に行っていみると、高知県の人は本当に酒好きで、徳島県の人は本当に貯金好きなのである。

 タマティーは貯金の勧めを何度となく言っている。貯金を無理なく行うためには「天引き貯金」がお勧めであって、収入の2割を貯金してしまえば、確実に貯金していくことができるのである。だから貯金の習慣がある人が俺のブログを読めば納得できるが、借金をしてでも生活している人が俺のブログを見ても理解することはできないだろう。

●徳島県民の欠点:「へらこい」

 徳島県民にも欠点というものがある。それは「へらこい」ということなのである。「へらこい」とは徳島県の方言で「ずるをしても得をすれば勝ち」ということなのである。商人気質ゆえに「お金にせこい」ことはまだいいのだが、それが行き過ぎてしまうと、へらこくなるのだ。

 因みにタマティーはへらこくない。「法の支配」を重んじるし、ビジネス上の取引は飽くまでも「公正取引」ではなければならないと考えている。商人が利潤追求をしてしまうものだが、それなりの「商業倫理」を持っていないと、経済を健全な形で発展させることができなくなってしまうのだ。

 へらいこい性格こそ、徳島県民から有名人がなかなか出て来ない理由なのだと思う。「柴門ふみ」「瀬戸内寂聴」「坂東英二」。これら全員徳島県出身であり、見ても解るように碌な奴がいないのだ。人間には個性があるために人それぞれの違いの方に着目してしまうのだが、「へらこい」をキーワードにすればこの連中、全員が全員共通しているのである。

 柴門ふみは漫画家のくせにして絵が余りにも下手糞である。漫画家として絵を上達する気が更々ないのだ。瀬戸内寂聴は尼僧のくせいして未だに煩悩まみれである。これでは出家した意味がない。坂東英二は脱税で芸能界を追放されたのだが、復帰するために記者会見を開き、育毛代を必要経費に回したからと弁明していたが、これこそへらこさの典型例であるのだ。

 首相経験者では「三木武夫」がいるのだが、これも実にへらこい。首相になるためには手段を選ばない人物だったし、ロッキード事件で失脚したのに、その後、政治浄化を唱えて、自民党内で余計な派閥抗争を展開したのである。今の国会議員は民選で選ばれる以上、政治資金は必要なのであって、それを認めないのだから、選挙というものがまるで解っていないのである。

 現在の徳島県知事は「飯泉嘉門」というのだが、この人物は徳島県出身者ではない。大阪府池田市出身である。この知事がへらこいのではなく、徳島県民がへらこい性格ゆえに、同郷の者を知事に選ぶことができず、余所者を知事に選んでしまったのである。こういうことをされると、俺は徳島県民の政治的センスを疑ってしまう。

 タマティーの意見は徳島県民の県民資質に合っていても、タマティーの意見はへらこくないので、それで徳島県の人たちには受けているのだろうと思う。もしもタマティーがへらこい性格の場合、余りにも自分たちと似過ぎて逆に嫌になってしまうことだろう。徳島県民のへらこさは本当に悪い結果しか出さないと思うので、この性格にはくれぐれも注意した方がいい。

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国語教育と小説

●国語教育は文学を教えるものなの?

 学校で国語教育を行う場合、国語教育と言いながら、実際に教えているのは「文学」である。国語は文学だけに留まるものではなく、もっと遥かに広い領域を有するのであるが、なぜだか国語教育では文学を中心に教えて行くことになるのである。

 このため国語教育に関して誤解する人たちが出て来て、曰く「国語教育は生徒たちを小説家に育てるためのものである」という誤解を持ってしまうのである。小説家を育てる教育というのは、学校の国語教育とはまるで違うものだが、こういう誤解が出て来るということは、それだけ学校の国語教育が文学に重点を置き過ぎているのだ。

 国民に高い国語能力を持たせるためには文学を教えて行くしかない。これはどのような国家でも同じ結論に達する筈だ。国民に高い国語能力を持たすためには、語彙を大量に持たせ、文法をしっかりと教えていかなければならないのだが、こういうことは文学を教えていけば自然と出来てしまうのである。

 勿論、国語教育にだって問題点はある。それは文学の中でも小説に比重を置き過ぎてしまい、詩歌や随筆に対して充分な配慮がなされていなことだ。生徒たちは小説ばかり読まされるからこそ、国語教育が嫌になってしまうのであって、その点に関しては改善が必要である。

 しかし国語教育に何かしらの問題点があっても、やはり文学を中心に国語教育を行って行くことにはなんら変わりはないのだ。幼い内から文学に親しまないと、国語の成績はどうやっても上がらないのだ。文学作品を読むことは何も学校で教わらなくても、自分で出来るのであって、自宅で読書をする習慣を持つことは国語能力を高めて行くためには大事な習慣なのである。

●小説は共通項だからこそ国語教育で使用される

 国語教育で小説を中心に教えて行くのは、それなりの理由が存在する。それは「小説は人間社会の様々な場面を描く散文体」であるために、「小説は生活の共通項と言えるから」なのである。これほど広い範囲をカバーできる物は他にないのだ。

 学術書では扱う分野が非常に限定されてしまう。学問は物事を細分化していくことで発達してきたから、幾ら高度な学問だからといって、それを国語教育で教えても使い物にならないのだ。政治学の本は政治のことしか出て来ないし、経済学の本は経済学のことしか出て来ないし、自然科学の本は自然科学のことしか出て来ないのだ。

 新聞や雑誌は生活を扱ったものだから、新聞や雑誌を国語教育の教材に用いてもいいのではないかという意見もあるが、新聞は所詮「情報の垂れ流し」なのであり、雑誌は1週間なり1ヵ月なりの情報を集約させたものだから、小説ほど価値があるものではないのだ。

 小説で扱っているものは、恋愛とか友情。結婚とか家族のことなので、非常に耐久性を持つものなのである。人間が生きていれば誰もが経験することなのであって、それを若い内に読んでおけば、何かしらの利益を得るものなのである。

 国語教育では随筆をもっと教えていけばいいと思うのだが、随筆は人生経験や知恵がないと充分に堪能できない物なのである。このため小中高生のように人生経験や知恵が不足している者たちには余り向いていないのだ。随筆の良さが解るのは、40歳を過ぎてからなのであって、この点、小説は20歳以下でもその良さを理解することができるのである。

●名作は大量の小説の中で最高峰の出来なのである

 国語の教科書に載る小説は必ずしも名作であるとは限らない。教科書は教科書出版社の編集の考え方が如実に反映するものなのであって、バカな教科書出版社だと文学愛好者たちすら知らない作家の作品を平気で出してきたりするからだ。

 はっきりと言ってしまうが、無名の作家は文章が下手糞である。読むに値しないものなのである。作家には「文才」が必要なのであって、文才のある作家は必ず文章が巧い。文章が巧いだけでなく物語構成も巧いのであって、だから名作を書いて行くことができるのである。

 名作は大量の小説の中で最高峰の出来なのである。だから若い時はありとあらゆる小説を読むのではなく、名作に拘って読んで行くようにすることだ。日本文学史に名を残すような名作を読み続けていけば、学校で大した勉強をしなくても、国語の成績は良くなってしまうものなのである。

 小説には大きく分けてたった2種類の小説しかなく、「本物の小説」と「偽物の小説」しかないのだ。本物の小説はそれが世に出された時も面白かったし、時間が経過してもその面白さは失われないのだ。しかし偽物の小説はそれが世に出された時点で詰まらなかったし、たとえ一時的に人気を博しても、時間が経過してしまえばその面白さが消滅してしまうのである。

 文学は民主主義の産物ではない。文学は「本物の文学」を追求するごく僅かな人たちによってリードされ、保持されてきたものなのである。それゆえ若い時から本物の文学に触れていないと、文学を幾ら勉強したとしても、文学のことが解らなくなってしまうのである。

●文学史をきちんと勉強する

 国語の成績を上げて行くためには、小説ばかり読むのではなく、日本文学史を勉強することも必要である。日本文学史が解っていれば、質の高い小説を探し出すことができ、その反面、粗悪な小説を退けることができるので、読書の生産性が急激に上昇していくのだ。

 文学はどこの国でも「詩歌から小説へ」という流れがある。これは日本文学でも同じで、日本文学は「和歌」から始まったのである。だから『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の三大和歌集は絶対に読んでしまうことだ。和歌は17文字という制約があるので、平安時代が終わる頃にはもう和歌は出尽くしていたのである。

 神話や歴史は語り部たちが口頭で伝承してきたのだが、律令制度が整うと朝廷が神話や歴史を整備していかなければならなくなった。そこで生まれたのが『古事記』と『日本書紀』である。しかし日本の律令制度は中国と違って君主専制を認めなかったので、それで摂関政治が始まり、武家による政治へと変化しってしまった。日本史を理解するためには正史よりも、『栄華物語』『平家物語』『太平記』『日本外史』を読んだ方が解り易い。

 和歌が過剰になると、和歌では物足りなくなった人たちが出て来て、それで和歌から「日記文学」が生まれ、そして「随筆」が生まれた。随筆の三大古典は『枕草子』『方丈記』『徒然草』なので、簡単に読めてしまうと思う。しかし随筆を理解するには人生経験や知恵が必要なのであって、随筆の本当の面白さを理解するのは40歳を過ぎてからなのである。

 和歌の過剰は日記文学の他に物語文学を生み、その後、「小説」が生まれた。平安時代の小説に関して『源氏物語』が抜きん出ているので、『源氏物語』を読んで行くしかない。『源氏物語』で気をつけるべきことは、『源氏物語』は紫式部が一人で書いたのではないということだ。『源氏物語』には最低でも3人の作者がいるのであって、紫式部はその内の1人にすぎないのだ。

 明治維新後、近代的な小説が誕生して来るのであるが、夏名漱石と森鴎外には文豪という評価を与えられている。この2人を文豪だと思っているのは日本人だけであって、国際基準では夏目漱石も森鴎外も文豪の条件を満たさない。それほど日本の文学は遅れを取ってしまったのだ。

 ではなんで日本国内だけで夏目漱石と森鴎外に高い評価が与えられるのかといえば、夏目漱石は「クールな書き方」を、森鴎外は「合理的な書き方」を打ち出してきたからなのである。この2つの書き方は日本人が大いに好むものなので、現代に於いて活躍する作家たちで一流の作家たちはこれらの書き方のどちらかに属してしまうのである。

●文学の強い国家は政治や経済でも強い国家である

 文学には「文弱」という言葉があるように、文学を遣り過ぎてしまうと、人間は弱くなってしまう。事実、作家たちの中で強靭な肉体を持った作家というのはいない。しかし文学が文弱を発生させるからといって、文学を取り除いていいわけがないのだ。

 「文学の強い国家は国民の国語能力が高い」ということなのである。国民の国語能力が高いのだから、政治や経済も強くなるし、科学だって発展していくことになるのである。逆に文学の弱い国家では、国民の国語能力が低くなってしまい、それで政治も経済も科学も衰退して行ってしまうのである。

 国民の中には政治が巧く行かないこを嘆く者たちがいるものだ。経済が不況になれば騒ぎ出す者たちがいるものだ。彼等は碌でもない政治を行う政治家を罵倒するし、政府に景気回復策を出して欲しいと願う。しかし待って欲しい。政治や経済が振るわないのは、何も誰かのせいなのではなく、国民の国語能力が低いからなのである。自分の頭で物を考えず、常に他人に対して責任追及をやっているからこそ、政治も経済もどうにもならなくなってしまうのである。

 政治や経済を巧く行かせるためには、国民1人1人が小説でも読んで、国語能力を高めて行くことこそが必要なのである。イギリスにはシェイクスピアがいた。だからイギリスは強かったのだ。フランスにはスタンダールやユゴーがいた。だからフランスは強かったのだ。ロシアにはトルストイやドストエフスキーがいた。だからロシアは強かったのだ。

 日本には世界に通用する文豪がいるのか自問自答して欲しい。日本の読者たちは名作を読みこなす読解力があるのか自問自答して欲しい。日本に世界に対して誇るべき作家や名作がなければ、政治家や経営者たちがどんなに頑張っても、その成果は高が知れているのである。

 日本のように島国で、狭い領土しか持たない国家は、国民の知的レベルを上げることで国家の独立を保つしかないのである。日本国民の知的レベルが下がれば、途端に国家の安全保障は危機的になり、最終的には敵国に侵略されてしまうものなのである。

 学校に於ける国語教育を充実させていくと共に、学校や大学を卒業してからも、自分で文学作品を買って読むことが必要なのである。そういう行為は国家の独立に関係ないと思ってしまうのだが、実は「大あり」なのである。国語能力の高い国民は国際情勢がどのようになろうとも、国家の独立を保てるものなのである。

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「あつこ」はなんで厚かましいのか?

●「あつこ」は仕事ができる女

 ビジネスを成功させたいのなら、男女平等を実現するより、男女を公平に扱いつつ、男女の性差を巧く利用しながらやった方がビジネスは遥かに成功し易くなる。仕事をしていれば、「ここは男性が前に出た方がいいな」とか、「ここは女性が前に出た方がいいな」とかいうことに出くわすものなのである。

 しかし女性たちの中にはそういう男女の枠を超えて活躍して来る女性がいるものだ。それが「あつこ」という名前を持った女性である。「あつこ」は普通の女性たちよりも遥かに仕事が出来るし、男性との協調関係も実に良く巧くこなすのである。

 運命学から「あつこ」と言う名前を分析すると、「明朗で大らか、それでいながら男性並みの踏ん張りが効き、締める所はきっちりと締める」という性格の持ち主なのである。こういう性格であるなら仕事が出来るのは当たり前だし、男性たちと巧くやっていくのも当然のことなのである。

 「あつこ」は性格上、それほど頭の良い女性ではない。しかし仕事を与えれば必ず遣り遂げて来るので、他の女性たちよりも優遇して仕事をさせるべきなのである。「あつこ」を他の女性たちと平等に扱っていては、「あつこ」の能力を使えないために仕事の上では非常にロスをしてしまうのである。

 大抵、「あつこ」は仲のいい友人がいるので、その友人をサポート役に回してしまえばいいのだ。「あつこ」を見た場合、どうしてもちょっとした欠点を見つけ出してしまうものだ。しかしそういう欠点は誰にでもあるのであって、だったらそれをカバーできる人材を宛がえばいいのである。

●「あつこ」は時として大胆不敵な行動を取る

 「あつこ」は地道な努力を繰り返すくせに、時として大胆不敵な行動を取る。このため仕事が緊迫した状態になると、「あつこ」を使っていればなんとかなってしまい、他の仕事も一斉に巧く行くようになってしまうのである。だから「あつこ」という名の女性がいたら、必ず置いておくべきなのである。

 女性をビジネスで使った場合、平時の仕事は卒なくこなすくせに、非常事態になってしまうと大して実力を発揮してこないのだ。ビジネスの勝機が見えていないために、本来ならここで大儲けできる筈なのに、それを思いっきり見逃してしまうのである。

 ビジネスに於いて日々の仕事は確かに大事なことである。日々の仕事で手抜きをしているような人物に優れた人物はいない。しかしビジネスをやっていれば、「ここぞ」という時期が必ずあるのであって、それを絶対に逃してはならないのだ。

 「あつこ」の凄さは、女性同士で競争させると良く解る。時として大胆不敵な行動を取って来るので、ぶっちぎりで勝利して来るのである。だから、どこの職業でも「あつこ」という女性がいるのである。対女性に於いては圧倒的な強さを示すのである。

 「あつこ」という名の女性を秘書として使うのは良くない。そういう仕事をやらしても出来ないことはないが、彼女が持っている能力はそういう能力だけではないのだ。この部署は大事だから誰かに任せなければならないと思ったのなら、「あつこ」に任せてしまえばいいのだ。

●「あつこ」は男性の協力者を得易い

 「あつこ」は他の女性たちに比べて男性の協力者を得易いという特徴がある。「あつこ」はただ単に仕事をやっているのではなく、頑張るべき所はきちんと頑張っているので、それを見た男性たちが評価し、協力するようになってしまうのである。

 しかも「あつこ」自身、男性たちに対して常に協調姿勢を持っているので、男性たちが敵意を感じて反撃して来ないのである。女性がフェミニズムに洗脳されて男性たちに敵意を剥き出しにして来ると、男性たちはその敵意を敏感に感じ取り、その女性がどういうことをしたとしても叩き潰してしまうのである。

 考えてみれば、「あつこ」と言う名を持つ女性でフェミニズムに洗脳されている人は非常に少ない。というかいないと言っていい。「あつこ」は性格的にgフェミニズムを拒絶し、それよりも男性たちと仲良くやりたいのである。何も社会を改造して男女共同参画社会を作るより、今の自分のままであっても、男性たちと仲良くやっていけるのである。

 男性がビジネスを成功させていく時、どうしても女性の協力者が必要なものだが、それと同じように女性がビジネスで成功させていく時、どうしても男性の協力者が必要なのである。自分がどんなに努力をしても、自分1人の力ではビジネスを成功させることはできないものなのである。

 必死になって彼氏を作ろうとするのはそれはそれで結構なことなのだが、そういうことだけをやっていてはダメなのである。男友達を多く作って行くことこそが必要なのである。多くの女性たちは男性を性の対象としてしか見ていないから、なかなか男友達を作ることができず、それが仕事の成果に於いて如実に表れて来るのである。

●「あつこ」の欠点:「厚かましい」

 「あつこ」は万能ではない。「あつこ」にだって欠点はある。その最たる物が「厚かましい」ということなのである。性格が明るく、男性たちにも人気があることはそれは素晴らしいこともしれないが、裏を返してみれば、人の気持ちを汲むことなく明るいだけで、多くの女性たちが男性たちの関係で苦しんでいるのに、一人だけ巧く行ってしまうのである。

 女性たちからしてみれば、「なんて厚かましい女なの!}ということになる。このことは男性たちからしてみても同じことで、女性なのだから三歩引いて男を建てればいいので、自分は仕事ができるからといって前に出て来てしまうのである。男性たちにしても、「あの女は厚かましい!」ということになるのだ。

 だから「あつこ」は自分が厚かましい人間だとは思われないように振る舞わねばならないのだ。女性たちには特に気をつけなければならない。同性ゆえに激しい嫉妬をしてくるからだ。自分だけが突出するのではなく、自分と仲のいい女性と一緒に仕事をして、それで自分だけが目立つようにならないようにすればいいのだ。

 男性たちには男性たちの秩序には踏み込まないことだ。男性たちは集まれば自然と序列ができるものだ。その序列は序列として尊重すべきなのであって、女性である自分は男性であるなら誰とでも公平に接すればいいのである。トップにいる男性とだけ仲良くするとか、イケメンだけと仲良くしていると、男性たちから猛反発を食らってしまうことになるのだ。

 「あつこ」は仕事が出来てしまう以上、宗教活動や慈善活動にも力を入れるというのは、自分が厚かましく思われないための最大の工夫であるのだ。宗教活動や慈善活動を熱心にやっていれば、仕事ができるからといって、無闇に反感を買わなくて済むようになるのだ。

●仕事場では勇ましく、プライベートでは女らしく

 「あつこ」は女性であってもビジネスで成功するのは当たり前なのである。自分が仕事をやって成功できないのなら、自分の生き方を根本から見直した方がいい。自分の性格と違う生き方をしているからこそ、ビジネスが巧く行かないのである。

 最大の問題はビジネスが成功してしまうことにあるのだ。ビジネスというものは一旦成功し出すと次から次へと仕事が舞い込んで来る。そうなると結婚する時期を逃してしまい、結婚できなくなってしまうのだ。それだけ仕事が忙しいために友人たちが去って行ってしまい、仕事関係の友人しかいなくなってしまうのである。

 「あつこ」はビジネスを一生懸命に頑張るだけでなく、プライベートにも充分力を入れるべきなのである。長期休暇も思いっきり取ってしまい、ビジネスのことを忘れて心身を休ませるべきなのである。そういうギャップを作っておかないと、自分の精神バランスを崩してしまうし、過労のために倒れたりしてしまうのである。

 ビジネスが巧くっているのに、なぜだかトラブルが続出し始めたのなら要注意だ。仕事の遣り過ぎで、自分の運気に歪みが生じているのである。仕事ばかりして、帰ったら寝るだけでは、女性としては余りにも寂し過ぎるのである。私生活をそれなりに充実させておかないと、どうにもならなくなってしまうのだ。

 仕事場では勇ましく、しかしプライベートでは女らしくするからこそ、自分の運気がスムーズに流れて、不幸なことが起こらなくなるのだ。人間の人生で勝ちっ放しというのは絶対に有り得ない。幾ら仕事ができるからといって、仕事をしまくり、全部成功させなくてもいいのである。

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完璧を期すよりも、合格点を目指せ

●完璧な仕事は誰がやってもできない

 勉強をする時でも、仕事をする時でも、完璧主義に走る者が必ず出て来る。勉強とか仕事とかは成果を出せばいいものなのに、完璧にこなすことに走ってしまい、無駄なことを延々とやりまくることになるのだ。勉強に於いても仕事に於いても完璧主義は敵なのである。

 完璧な勉強とか完璧な仕事は、誰がやってもできない。人間の脳がそうなっているからだ。人間の脳がそうなっているのに、無理矢理にやっても絶対に完璧な物を作り上げることはできないのだ。完璧主義に走ると、結局、勉強も仕事もダメになってしまうものだが、それは当然のことなのである。

 「80対20の法則」によれば、如何なる勉強も仕事もその完成度は80%が最大値なのであって、それ以上に上げることはできないのだ。人間はどんなに勉強してもどこかに解らないことがある。人間はどんなに仕事をしてもどこかに自分が出来切れない所がある。そういうことは次にチャレンジすればいいのであって、今やることではないのだ。

 しかし恐ろしいことに、学校での成績が良かった人ほど完璧主義に走る傾向がある。学校で出される問題は全て答えがあり、完璧にやることができるのではないかと錯覚してしまうのである。だからこそ学校では成績が良かったのに、いざ世の中に出してみると全く使い物にならない人物たちが大量に出て来るのである。

 学校教育で文武両道が唱えられるのは、人間は勉強だけをやっていると碌でもない人間を作り出してしまう危険性があるからだ。尤もスポーツだけをやらしても碌でもない人間を作り出してしまう。そこで学問と武道の双方をやることで人間の精神や肉体がおかしくならないように配慮するのである。

●目指すべきは「合格点」

 勉強でも仕事でも合格点を出せばいい。合格点とは「50点以上」なのであって、勉強も仕事も半分以上理解したり、半分以上やってしまうことが大事なのである。満点を出すという考えを持つのではなく、「平均点以上出すという発想」を持つようにすることだ。

 なぜ平均点以上なら良いのかというのなら、その程度の勉強や仕事でなら次に行けるからだ。平均点以下だと次に行けず、もう一度やり直さなければならない。勉強も仕事もどんどんこなしていけばいいのであって、勉強量や仕事量が足りないと問題が出て来るものなのである。

 逆に言えば平均点以下ではダメということなのである。学校の勉強でどう勉強しても平均点以上に行けないのなら、勉強を頑張るよりはスポーツを頑張るようにすればいい。仕事で平均点以上に行けないのなら、転職を考えた方がいい。その仕事に向いていないのだ。

 物凄くきつい事実なのかもしれないが、如何なる学校も生徒たちの半数を切り捨てることをやっているのである。生徒たちの半数はバカなのである。優秀な生徒たちは生徒たちの半分しかいないのであって、その者たちによって学校はリードされていくのである。

 会社でもそうで、会社員の半分以下は使い物にならない連中なのである。使い物になるのは半数しかいないのだ。だから仕事をするなら平均点以上を出して使い物になる方に入り込むべきなのである。自分が使い物になっていないと解ったのなら、とっととその会社を辞めてしまい、他の会社を探すべきなのである。

●仕事を出した後に追加していけばいい

 完成度が50%の仕事は「本当にそれでいいの?」と思ってしまうものだが、仕事を出した後に追加していけばいいのである。仕事が半分出来た時に、「こんなんでいいでしょうか?」と仕事の依頼者に訊けば、仕事の依頼者は自分の要望を何かしら言って来るので、今度はその注文に応ればいいのだ。

 追加によって仕事の出来が断然に良くなるのである。このことは「80対20の法則」を使えば巧く説明できる。仕事を一発でこなそうとする人は自分がどんなに努力した所で効果は0%になってしまうのだ。ところが仕事を二回に分けて行おうとするものは、効果が190%に達してしまうのである。

 世の中は実に不思議なもので、この追加注文を殆どの人たちがやろうとしないのだ。誰も彼もが一発で注文をこなそうとしてしまうのである。このため追加注文の重要性に気付いた者は「圧勝」と言う形で勝利することができてしまうのである。

 別に仕事というのは全力でやる必要性はないのだ。自分がどんなに全力でやった所で、自分が望む成果を出せないのだ。成果は相手の要望を訊いてから決まるのであって、相手が追加注文を出して来たら、後は猛スピードでこなしていけばいいのである。

 いい仕事とはとにかく依頼者との連絡を絶やさないようにすることなのである。依頼者は簡単な仕事なら1回で終えようとするが、そうでない物は追加注文して来るものなのである。だから何度も連絡して、その追加注文を訊いていけばいいのだ。面倒臭いかもしれないが、そういう事をするからこそ、仕事をきちんとやり遂げることができるのである。

●時間が見えているか?

 成果を上げるために、勉強の仕方や仕事の仕方を整えて行くことは実に大事なことだ。しかしそうやって整えていっても、ただ単に効率の良いことだけを求めてしまい、本当に自分が望む成果を出せるようになったかというと、それは大いに疑問なのだ。

 多くの人々は「効率」だけを要求し、「時間」という物が見えてないのだ。勉強や仕事は効率を良すぎると、新たな手を打てなくなるという弊害が出て来る。逆に勉強や仕事の効率が悪い人に限って新たな手を打ち易いという現象が出て来るのだ。

 勉強や仕事で大事なことは効率を高めることではなく、生産性を上げて行くことなのである。自分がやっている勉強や仕事に対して高い生産性があればこそ、次から次へと勉強や仕事をこなして行くことができるのである。生産性を高めるためには、なんといっても時間という軸が見えてなければならないのだ。

 どんなに大きな仕事であっても、それを一発で処理するのは無理があるが、それを小分けにしてしまえば処理が可能なのである。ピラミッドを1日で建てろと言われても無理だが、ピラミッドを10年かけて作れと言われれば作ることが可能になるのだ。

 人類が文明を作り出したのも、文明を発展させていったのも、全てはこれなのである。何度も何度も勉強や仕事をし続けて来たからこそ、文明は誕生し、発展し続けてきたのである。人間は学校で教育を受けてしまうと、完璧主義に走る傾向があるので、それで学校教育が充実すればするほど、完璧主義者が大量発生して来ることになるのだ。

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眠らない乳幼児を眠らせる魔法の絵本:『ネムネムのじかん』

●新米ママの悩み:「なんでうちの子は寝てくれないの

 新米ママなら誰でも抱える悩みは、「なんでうちの子は寝てくれない」ということであろう。乳児の段階なら、まだ「日中に起きて夜になったら寝る」という人間として当たり前の活動ができないので、夜になってもなかなか寝てくれないという事態が発生することになる。

 新米ママが自分の子供の寝ないことにストレスを抱えてしまうと、そのストレスを子供の方は敏感に感じ取り、余計に寝なくなってしまうのである。こうなると子供が寝るまで新米ママも付き会わざるを得なくなり、凄まじいまでの延長戦を演じ合うことになるのである。

 育児中はとにかく「規則正しい生活」を心掛けるようにすることだ。育児をしていたとしても、日が明けたら起きて、テキパキと活動すべきなのである。そして夜になったら早寝するようにして、夜泣きで起こされたとしても、睡眠不足に陥らないようにしなければならないのだ。

 もう1つは育児中に「運動不足」には陥らないようにすべきであって、育児をしながら体を動かすことだ。家事をやるのは勿論のこと、日中は子供を連れて散歩に出掛けたり、公園で子供を遊ばせたりするのだ。そうやって体を動かしていれば、母子ともに適度に疲労して、夜になれば睡魔が襲ってくることになるのだ。

 気を付けるべきは、室内の照明であって、蛍光灯で白い光を出していたり、テレビを長時間見ているようであるなら、子供はその光に反応してしまい、なかなか寝ない子になってしまうのである。照明を暖かい色に変えたり、テレビの視聴時間を少なくする工夫をすれば、子供が寝ないという事態は起きにくくなるものなのである。

●題名の翻訳の出来が良ければ内容の翻訳も良い

 今回紹介する本は、眠らない乳幼児を持つ母親たちに贈る本である。

『ネムネムのじかん』(BL出版)

 文:メグ&キャサリン・パイバス

 絵:ペトラ・ブラウン

 訳:石津ちひろ

 ネムネムのじかん[メグ・パイバス]

 原題は『IT'S SNOREY TIME』であり、「SNOREY」とは「イビキの」という意味であり、これは擬音形容詞なので日本語に巧く訳す場合は「ガーガー」とか「スースー」だろう。「寝息」と訳してもいい。だから直訳なら、『イビキの時間』『ガーガーの時間』『スースーの時間』『寝息の時間』といった具合になる。

 これを子供向けに解り易くすれば『ネムネムのじかん』となる。翻訳者の石津ひちろは英語の意味をちゃんと理解した上での翻訳をやっているのであり、この日本語の題名は合格である。英語の本を翻訳する場合、英語ができればいいというのではなく、母国語である日本語もきちんとできないと、ちゃんとした訳語が出て来ないのだ。

 石津ひちろは翻訳者として出来がいいと思って彼女の経歴を調べたら、彼女はフランスに3年間留学していたというのだ。ということはフランス語も多少はできるということである。イギリス人は英語だけを喋るのではなく、学校でフランス語を習うので、フランス語も出来ないと、英語の文章を正しく理解できないものなのである。

 英語だけができる日本の翻訳者たちはこの当たり前のことが解っていないので、平気で誤訳をしたり、安易に意訳を行って必ずしも正しいとは言えない翻訳をしたりする。英語を勉強するだけでなく、フランス語も勉強してもっと語学力を上げて欲しいものだ。

 俺は様々な翻訳書を読んできてつくづく思うのは、題名の翻訳に失敗している本にいい本はないということだ。逆に言えば題名の翻訳が巧く行っている場合は、その本はいい本である可能性が非常に高いということなのである。これは翻訳書を買う時に是非とも参考として欲しい。出来の悪い翻訳書は読書をしても効果がないものなのである。

●起承転結が絶妙

 ネムネム一家はパパもママも子供たちもみんな寝ているというのに、「クリクリ」だけが眠たくないために眠らず、家の外に出てしまう。クリクリはヨチヨチ歩きなのに好奇心いっぱいで、もうこの時点で読者の心を鷲掴みにしてしまう。物語を早い段階で起承転結の起承を終わらせてしまい、転結に入ってしまうのである。

 クリクリはコウモリの真似をして木の枝にぶら下がるが下に落ちてしまう。地面にはハリネズミがいて、クリクリは今度もまたハリネズミの真似をして転がっていくのだが、池に落ちてしまう。池ではヒキガエルの背中に乗ってしまい、ヒキガエルは上にジャンプしてしまい、クリクリはそのジャンプの際に背中から落ちてしまう。

 物語の流れが物凄く巧く。絵本を上から下へ、下から上へと視点移動させ、紙面を思う存分使っているのだ。しかもまずは上から下で、次に下へ下へと行かせ、そしてジャンプで上へと行かせるのだから、これなら子供たちは大喜びである。子供の目の動きが解っていないと、こんなにも巧く書けないのだ。

 絵本は絶対に横書きが良い。横書きだからこそ目が自然と動いてくれるようになるのだ。縦書きだと目の動きが不自然であり、しかもどうしても教訓めいたことを言ってしまいがちなのだ。常に上から下へと目が動くので、上から目線になってしまうのである。

 ヒキカエルの背中から落ちたクリクリを母親がキャッチするのだが、これは物理的には絶対に有り得ない。子供が外でどんなに遊んだとしても、母親の胸の元に帰って来るということなのだろう。しかしそのくせまだクリクリは眠たくならない。

 そこで母親はクリクリに『秘密の絵本』を読み聞かせ、それで寝かしつけてしまう。この『秘密の絵本』がこれまたいい演出をしている。しかも母親がクリクリを見る目が、イギリス人の母親たちが我が子をいとおしく見る目とそっくりであり、この目の優しさをちゃんと見て欲しい。日本人の母親だと我が子を見る時は笑顔になってしまうので、表情が少し違うのだ。

 眠りの最大の秘密は「母性愛」ということなのである。眠たくないクリクリも母親が母性愛を込めて絵本を読んであげると、眠たくないと言いながら寝てしまうのである。非常に感動的な結末であり、読み終わった後に感動が暫く続くことになる。

●動物たちだけの物語

 俺はこの『ネムネムのじかん』を読んでつくづく思ったのだが、「動物たちだけの物語は社会が安定していないとなかなかいいのが出て来ない」ということなのである。この手の絵本を書く時は、作者は自分が動物になりきっているのであり、そういう空想を許して貰うだけの社会がそこには存在していないと、動物たちだけの児童文学作品は決して出て来ないのだ。

 イギリスは立憲君主制の国だし、階級制度が整っている。このため人々は安定した社会で暮らすことができ、動物たちだけが出て来る児童文学作品が生まれて来る余地が出て来るのである。『ピーター・ラビット』はイギリスから出て来たのは決して偶然ではないのだ。

 アメリカ合衆国なら共和制だし、社会が常に流動的になっているので、『ミッキーマウス』にしろ、『スヌーピー』にしろ、動物が主人公になれるが、その物語は動物たちだけで形成されるのではなく、どうしても人間たちが出て来てしまうのである。空想を突き詰めるだけの力がないのだ。

 『ムーミン』はフィンランド生まれなのであるが、ムーミンは動物ではなく妖精であるが、それでもやはり妖精たちだけで構成されるのでなく、人間たちが出て来てしまうのである。『ムーミン』はフィンランドがナチスドイツの側に着いた中で産まれた政治的な漫画であるのだが、そういう背景を考慮したとしても、やはり空想を突き詰めることができないのだ。

 動物たちだけの物語は本当にその動物に話が出て来るのではない。そのキャラクターたちは擬人化されており、作者が健全な人間関係を営んでいない限り、良い作品を作れないものなのである。『ネムネムのじかん』なら母親がちゃんと育児をしていないと、こんな物を作り上げることは絶対にできないのだ。

●眠りの必須アイテム

 『ネムネムのじかん』を頻繁に使っていたのなら、この絵本の効果はなくなる。この絵本は眠りの必須アイテムなのであって、子供が寝ない時にこの絵本を読んで寝かしつければいいのである。子供だって毎日同じ時間に寝てくれるわけではないのだ。

 気をつけるべきは、母親がこの絵本を読む際、子供が寝る前に母親が寝てしまうことだ。これは実際に有り得る話だから、洒落にならない。母親が先に寝てしまうと、子供は「この話の続きはどうなるの?」と喚き出し、余計に眠らなくなってしまうのだ。

 『ネムネムのじかん』はメグとキャサリンという母と娘が作った絵本であることを決して忘れてはならない。これは母性愛なくして読めない絵本なのであって、それを理解した上で母性愛をきちんと込めながら読むようにすることだ。そうすればこの絵本の暖かさが伝わって来て、何度読んでも楽しくなってしまうのである。

 良い絵本というのは子供が読んでも母親が読んでも楽しめるように出来ている。逆に言えばダメな絵本は子供たちだけを対象にしてしまい、子供騙しの絵本を作ってしまうのである。絵本は基本的に母親が読む以上、母親が読めないような本は絶対に作ってはならないのである。

 絵本は絵本の基本である起承転結ですら出来てない絵本が非常に多いので、『ネムネムのじかん』のように起承転結がしっかりと出来ているだけでなく、その起承転結が絶妙な絵本は滅多にないものだから、是非ともこの『ネムネムのじかん』を買って、大事に読み続けるようにして欲しい。子供の脳の成長のことを考えると、脳の臨界期までは出来る限り良い絵本を読まし続けた方が良いのである。

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頼まれた仕事はすぐさま必ずやる

●その仕事ができるからこそ頼まれる 

 人間、この世に生きていれば様々な仕事を頼まれることになるのだが、その仕事は自分ができるからこそ頼まれるのである。自分が出来もしない仕事は決して頼まれない。だから自分が仕事を頼まれた以上、必ずやらねばならないのだ。

 仕事をするのはどんな仕事であっても面倒臭いといえば面倒臭い。だからといって頼まれた仕事を拒絶していては、いつまで経っても自分が成長していかない。自分を成長させるためには、とにかく頼まれた仕事をやりきるしかないのである。

 仕事というのはいつなんどき頼まれるか解らないから、今、自分のやっている仕事を効率良くこなし、いつでも仕事の依頼を受ける余地を残しておくことだ。普段から生産性の低い仕事の仕方をしていると、他人から仕事を頼まれないし、頼まれたとしても処理できなくなってしまうのだ。

 仕事の99%以上は毎日同じ仕事の繰り返しなのである。だから誰からも仕事を頼まれることがなければ、いつまで経っても同じ仕事をしてしまい、全く収入が増えていかなくなってしまうのだ。収入を増やすためには、他人から仕事を請け負うことが絶対に必要なのである。

 自分が既に仕事をやっているのに、更に他人から仕事を頼まれれば、誰だって多少はきついものなのだ。しかしそういうきつさがあるからこそ、今までにできなかった仕事をやることができ、それによって収入を増やして行くことができるのである。

●仕事が来たのならすぐさまやってしまう

 他人から仕事を頼まれたのなら、その仕事をすぐさまやってしまうことだ。このすぐさまやってしまうことが大事なのであって、すぐさまやってしまうからこそ、最も出来が良くなるのである。人間の脳はその仕事の依頼を受けた時点で、高速で脳が回転し始め、最善の答えをすぐさま導き出してしまうのである。

 人間の脳がそうなっているからこそ、頼まれた仕事をすぐさまやってしまうと、最も出来が良くなってしまうのだ。勿論、自分だって自分の仕事をやっている以上、充分な時間を確保できない。だったら、少しでもいいから頼まれた仕事に着手しておくべきであって、そうやって仕事に着手してしまえば、「80対20の法則」によって、残りの仕事は非常に簡単になってしまうのである。

 頼まれた仕事は後回しにしないことだ。というのは、その仕事を待たしていると、他の仕事がやってくるから、仕事がどんどん溜まって行くことになるのだ。自分が誰かから仕事を頼まれた以上、他の人も仕事を頼んで来る可能性があることを絶対に忘れてはならないのだ。

 こういうことがあるからjこそ、机の上に書類を山積みにしているビジネスマンとか、口癖ように「後でやるから」という主婦は絶対に頂けない。この手の人たちは頼まれた仕事をしないものだし、やったとしても不充分な出来で寄越して来るからだ。

 机の上は綺麗にしておくべきであって、必要な物以外は置かないようにすることだ。口癖にはより気をつけるべきであって、依頼された仕事を遅らせてしまうような発言はすべきではないのだ。自分を絶対視するのではなく、常に自己審査を持つべきであって、自分のやっていることが正しいのか間違っているのか自分で考える習慣を持つようにしなければならないのだ。

●依頼を受けた仕事は必ずやりきる

 仕事を頼まれた以上、その仕事を必ず遣り遂げるようにしなければならない。仕事を頼まれたのに、その仕事を遣り切らず放置しておいては、ただ自分の信用を失ってしまう結果になってしまうだけなのである。仕事は時間無制限で頼んだのではなく、出来る限り早くという条件で頼んだのである。

 どんな仕事でもやればできるのだ。自分がやれない仕事なんて頼まれることはないのだから、とにかく仕事に着手して仕事を進めて行くことだ。そうやって仕事を進めていけば、その仕事を終わらせるアイデアが自然と見つかるものなのであって、遣り続けてさえいれば、遣り遂げることができてしまうものなのである。

 大きな仕事を頼まれた時は、その仕事が完成するまで時間がかかるのだから、途中で中間報告にし行くべきなのである。仕事が或る程度出来たのなら、依頼者に訊きに行けば、その依頼者は自分がして欲しいことを言ってくるので、それを踏まえて仕事をしてしまえばいいのだ。

 気をつけるべきは、急に頼まれたからといって、やっつけ仕事にしてしまわないことだ。依頼者は仕事ができるからこそ頼んだのであって、それなのにその仕事で手抜きをしまくって、未完成品を引き渡したのなら、依頼者は失望するし、それだけでなくその話がすぐさま出回ってしまい、自分の信用を落とすことになるのだ。

 仕事を引き受ければ、誰がどうやったとしても或る程度の時間はかかるものなのである。だったら自分の時間をその仕事のために捧げて、文句を言うことなく、焦ることもなく、コツコツとやっていき、完成した物を引き渡すようにしなければならないのだ。

●小さな仕事をするからこそ、大きな仕事ができる

 この世には詰まらない仕事はない。どんな仕事であってもそれなりの価値を持つものなのである。無料の仕事だろうが、時給の安い仕事だろうが、何かしらの価値があるからこそ存在し、何か理由があるからこそ、そういう仕事が自分の所に回って来るのである。

 仕事を頼まれた時、金銭の有無とか金銭の多寡に拘わらず、とにかくその仕事を引き受けやってしまうことだ。そういうことをやっていれば、当初は無料だったり廉価であるかもしれないが、徐々に仕事が増えると同時に給料も良くなっていき、気付いた頃には自分が成功者になり、たっぷりとした財産を蓄えていることになるのだ。

 小さな仕事をするからこそ大きな仕事ができるのであって、小さな仕事をすらできないのなら、誰だって大きな仕事を回して来ないものなのである。若い時は行き成り大きな仕事をしたいと思ってしまうものだが、実績のない者に大きな仕事を回すようなお人好しはこの世にはいないものなのである。

 小さな仕事をしている時、誰も見ていなくても、神様が自分を見ていると思って真面目にこなしていくべきなのである。神様はちゃんと見ているのであって、そうやって小さな仕事をきちんとやった者には大きな仕事を与え、最終的には充分過ぎるほどの財産を与えてくれるものなのである。

 何事も信用の積み重ねなのである。小さな仕事をやっている時は、自分はまだまだ信用されていないということなのだ。だから自分の信用を作るためには小さな仕事をコツコツとこなし、着実に自分の信用度を高めていかなければならないのである。それなのにお金に拘っているようでは、どこの職種に就いたとしても絶対に大成しないのである。

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自分のリミッターを外すことの大切さ

●小中高生の時には自叙伝や伝記を読んでおく

 成功の最大の秘訣は「リミッターを外す事」にある。人間には恒常性というものがあるので自分の可能性を自分で狭めてしまうのである。このためそういう制限された可能性の中で生きていれば、自分が持っている本来の力を発揮することができなくなり、成功とは程遠い人生を送ってしまう羽目になるのだ。

 学校では教師たちから「君たちには無限の可能性がある」と教えられるものだが、これほど間違ったことはない。学校に行くということは、学校で教えられたことしか考えられなくなるということなのである。大体、人間に無限の可能性があるなら、なんで教師たちが学校で教師の仕事をやっているのかということなのである。

 はっきりと言ってしまえば、自分の周囲に優れた人は自分の両親以外にいないものだ。自分の両親は自分をこの世に生んでくれたこと、それ自体が大手柄なのであって、その大手柄は如何に時間が経過したとしても失われてない。逆に言えば、自分の両親以外、周囲に居る人たちは優秀な人間ではないということだ。

 学校に大した人物など1人もいないのに、学校生活に追われてしまえば、学校に適応してしまい。自分の持つ可能性がよい狭まってしまうのである。ということは自分自身が大した人物ではなくなってしまうのだ。学校を中退した人物に、後世、意外と立身出世してしまう人物が出て来るのは、学校に適応しなかったからなのである。

 勿論、学校に行くことにはそれなりの利益があるから、学校を辞めることはできない。そこで「自叙伝」や「伝記」を読んで偉大なる人物に触れて、自分のリミッターを外す努力をすべきなのである。自叙伝を書いたり、伝記になるような人物は自分の周囲にはいないからこそ、そういう人物に本を通じて知っておくと、自然とリミッターが外れて、自分の可能性が広がって行くのである。

●若い時に優れた人物と出会っておく

 学校や大学に行っている限り、自分を驚愕させるような凄い人物に会うことはないのだ。もしも自分が遥かに優れた人物に会いたいのなら、自分で行動して会うようにすべきなのである。自分が優れた人物に会うことでリミッターを外せば、その後、自分の人生が激しく変化して行くことになるのだ。

 百万冊の本を読むより、1人の偉人に会ってしまった方が効果は高いものなのである。本に書かれていることは、偉大なる人物のほんの一部分なのであって、偉大なる人物に会ってしまえば、本に書かれていない様々な情報を得ることができ、それが後に大いに役立つことになるのだ。

 私立のエリート校では必ず卒業生たちの内、成功した人物を学校に呼び寄せ、生徒たちに講演させたりしている。生徒たちにしてみれば、普段、大人という者は学校の教師たちレベルの人たちだろうと思っているので、いざ成功者と会ってしまうと、簡単にリミッターが外れてしまうのである。

 公立学校ではこういうことをしないからこそ、生徒たちのリミッターが外れず、公立学校で散々に勉強させておきながら、学校を卒業しても成功することができなくなってしまうのである。公立学校の教師たちは所詮「公務員」であるので、彼等にとってみれば成功するということは公務員になることなので、世間の基準からは最初からずれてしまっているのである。

 卒業生たちの中には成功者が出て来るからこそ、生徒たちに惨い事をやってはならないのだ。幾ら成功者だって、自分がその学校の生徒だった頃に教師から暴力を振るわれたのなら、どんなに大金を積まれたとしても、母校に戻って来て講演したりするわけがないのだ。エリート校が成功者を大量に排出するのは、何もそこの学校の教育内容が素晴らしかっただけではなく、教師たちが生徒たちに暴力を振るえないような制動装置が存在しているからなのである。

●ダメダメばかり言うな

 若者が勉強ばかりして、自分のリミッターを外す努力をしていないと、何をやらしても「ダメダメ」ばかり言ってしまうようになるのだ。反抗期だから親にダメ出しをするのは仕方ないにしても、友達に対しても些細な欠点を挙げて「あいつはダメだ」と言いまくり、学校の教師や大学の教授に対しても「あいつはバカだ」と言ってしまうのである。

 まあ、自分の周囲の人物たちにダメダメ言っていればいいのだが、頭のいい連中は社会に対してダメ出しをして来るのだ。曰く「政治家は自分のことしか考えていない」。曰く「企業が金儲けするのは怪しからん」。曰く「家父長制が怪しからん」等々。

 若い時は自分が夢を持てば大躍進して行ける時期でもあるのだが、それと同時に自分に夢がないとダメなことを正当化してしまう厄介な時期でもあるのだ。自分の能力の使い方を間違えると、自分のエネルギーを無意味なことに費やしてしまい、結果的に自分にとって悪い事しか起こらなくなってしまうのである。

 人間は性善説に立脚する限り不幸が続き、決して終わることはない。自分は良い人であり、他人も良い人と間違った考えを持っているからこそ、自分は傲慢になり、相手が自分の意に適わない行動を取れば、途端に怒り出すのだ。世の中が間違っているのではなく、自分の考えこそが間違っているのである。

 人間の本性は悪なのであって、自分だって悪さをするし、他人だって悪さをするのだ。性悪説は一見「悪そうな考え方」なのであるが、これは「大人のドライな物の見方」なのであって、自分の本性が悪だと考えるからこそ、正しいことをしようと思うようになるし、他人の本性が悪だと思うからこそ、その悪人を退けたり、逆に自分の利益になるように巧い形で接触しようと試みたりするようになるのだ。

●自分が会いたいと思っていれば必ず会える

 性悪説に立脚すれば解るだろうが、自分の周りには大した人物などいないものなのだ。しかしそうやってネガティブに物事を見ていると、どうしても「この人物は凄い」という人物が出て来るのである。その人物こそ、自分のリミッターを外せる相手なのであって、勇気を出してその人物に会ってみればいいのだ。

 こういう時、自己中心的に物事を考えてしまい、「自分のような者に相手は会ってくれるだろうか?」と悩んでしまうものだ。しかしそんなことは関係ないのだ。「自分に会いたいという意思があるかどうか?」が重要なのであって、自分が会いたいと思っていれば、必ず会えるものなのである。

 不思議なことに、自分がこの人に会いたいと決断すると、偶然にも向こう側から情報が飛び込んできて、あれよあれよと展開して行ってしまい、本当に会うことができてしまうのである。人間にはそういう不思議な力が存在しているのであって、その不思議な力を利用して会うべきなのである。

 自分がその相手に会うと、確実に自分のリミッターが外れる。リミッターが外れると、自分の眠っていた能力が発動して、今までの自分では出来なかったことが簡単に出来てしまうようになるのだ。そうなれば自分の運命が好転してきて、停滞しきっていた人生から脱出することができるのである。

 どんな偉人伝を読んでみても、単独で成功した人というのはいない。必ずどこかに自分の人生を変えた出会いを果たしており、そこから成功物語が始まったのである。確かに自分で努力をすることは重要である。しかし努力した上に人との出会いがないと、リミッターが外れないために、どうにもならなくなってしまうのである。

●人物の真贋が解るようになる

 如何なる者であったとしても、自分のリミッターを外す努力をしていないと、「人物の真贋」というものが全く解らなくなってしまうのである。だから本当は碌でもない人物なのに、自分はそのことを理解せず、恰も価値があるのだと思って崇めてしまうのである。

 偶像崇拝が危険なのは、教団が何かしらの偶像を祭壇に置いてしまうと、信者たちはそれを崇めてしまい、自分のリミッターを外す努力を全くしなくなってしまうからなのである。それゆえ偶像崇拝がある宗教では必ず堕落が起こり、悪徳が蔓延り、邪悪なことを平気でするようになるのだ。

 アイドルも偶像崇拝となんら変わらない。如何なるアイドルであっても、大した人物ではないのだ。それなのにアイドルだからこそ人気が出て来てしまい、それに人々が痺れているだけなのである。子供ならアイドルに嵌ったとしても別に構わない。だが大人になりたいのなら、そういうアイドルを捨て去っていくべきなのである。

 「人物の真贋」が解ってしまうと、この世に生きて行くのが本当に楽になる、紛い物はどうやったとしても紛い物なのであって、本物にはならないのだ。本物の価値が解っていれば、紛い物を除去できるので、自然と本物に囲まれた人生を送ることができるようになるのだ。そういう人生は自分の人生に何が起ころうとも幸せで豊かなものなのである。

 逆に言えば「人物の真贋」が解っていないと、紛い物に騙されてしまうものなのである。偽物に大金を払い、碌でもない人物に取り囲まれていては、その人がどんなに莫大な資産を持っていても、あっという間に不幸になっていくのは当然のことなのである。若い時にリミッターを外さなかったツケは必ずいつかどこかで支払う羽目になるのだ。

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毎年恒例! [第四回超マイナー流行語大賞]

●流行語大賞は史上最多の四個

 平成25年度の流行語大賞は史上最多の四個であり、流行語としては大豊作であった。今年はお笑い芸人が発した言葉が流行語にならなかった。ということはちゃんとした流行語がはやらない時に、それを穴埋めする形でお笑い芸人が作った言葉が流行語になってしまうのだろう。

 今年の流行語大賞は4つ!

予備校講師<林修>の「今でしょ!」

NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」

TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」

東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」

 本当に今年はこの4つの流行語を何度も聞いた。しかも俺も使った。今回はマジで流行語に相応しい流行語大賞である。この4つの中で敢えて1つを選ぶとしたら、「倍返し」か「お・も・て・な・し」であろう。どっちがトップを取っても、受賞がより大きく話題になったことだろう。

 因みに「ギャルの流行語大賞」はどうなったかというと、

 第1位 バイブス

 第2位 激おこぷんぷん丸

 第3位 BIG LOVE

というのだ。

 「バイブス」なんて実生活で聞いたことね~。この言葉をはやらせたのは「今井華」というギャル系のファッションモデルなのだが、なんか違和感がありすぎたので彼女のことを調べてみたら、今井華は埼玉県秩父郡長瀞町出身ということが解った。秩父か~。

 俺は「激おこぷんぷん丸」がギャルの流行語大賞に来ると思っていた。というのは、これを使っていたギャルたちが結構いたからだ。しかも言葉のセンスがいい。怒っているんだけど、それで後で大問題になってしまうような言葉の使い方ではないからだ。

 これらの流行語大賞を踏まえた上で、「超マイナー流行語大賞」を楽しんでほしい。この超マイナー流行語は世間の人たちに全く知られていない流行語なので、このブログを見て、初めて知ることになるであろう。今年は超マイナー流行語大賞も豊作でした。

●超マイナー流行語大賞ベスト10!

第10位 「不倫自爆」

 今年一番悲惨な目にあったタレントは「矢口真里」なのだが、不倫現場を夫に見つかり、それだけでなくその不倫が切っ掛けでタレントを辞めてしまったのだ。まさに「不倫自爆」である。矢口真里がもっと巧く立ち回ればこんなことにならなかったのに、芸能界に於ける危機管理を全く知らなかったからこそ、引退へと追いやられてしまったのである。

 堅気の人では不倫なんてとんでもないことであっても、芸能人ならその不倫を逆手に取って、自分の人気を増大させることもであるのである。例えば「情事アイドル」として再デビューすれば、ジョージ・マイケルだってビックリするほどの活躍を見せるかもしれないのだ。他にも「モーニング娘。」の「ラブレボリューション」に対抗して、矢口真里ソロによる「不倫レボリューション」という歌でも歌えば、これがヒットしたかもしれないのだ。

第9位 「激おこフルチン丸!」

 自分にとって何かヤバイことが起こった場合、それを乗り切る方法を用意しておくべきなのである。それが「激おこフルチン丸」である。これは自分の立場が危うくなった時、「激おこフルチン丸」とか言って、フルチンになってチンチンを左右に振りまくれば、激怒している相手だって大爆笑するものなのである。

 尤も女性の場合、チンチンがないので、「激おこノーパン丸」にしかならない。女性は股間に振る物が付いていないので、こういう時、実に不便である。これだけただ単にストりップになってしまう。どうにか「激おこオッパイ丸」がある程度である。

 因みに、この「激おこフルチン丸」の応用バージョン「なんでもフルチン丸」である。何かある度にフルチンになって、チンチンを振りまくるのである。これでは単なる露出狂だ。

第8位 「ブラックタレント」

 芸能界には表面上は何もないように思えても、矢口真里みたいに裏に回ればとんでもないことをやっている「ブラックタレント」はいるものなのである。息子の不祥事で「朝ズバッ」を辞める羽目になった「みのもんた」なんかは典型的なブラックタレントで、TBSは今回の騒動で彼のセクハラ事件を揉み消してしまったのである。

 「みのもんた」のセクハラのためにTBSを辞めた女子アナウンサーたちは結構いたらしいのだが、TBSは調査委員会を設けて、この問題を処理することはなかった。「またTBSかよ~」と言いたくなってしまうが、TBSはすぐに揉み消す社風があるために、後で大問題を発生させてしまうのである。

 平成26年に大惨事に見舞われるであろうブラックタレントは、ズバリ「加護亜依」と「石橋貴明」であろうと思う。加護亜依は既に黒い噂が出ているので、もう芸能界を引退してしまった方がいい。石橋貴明は「とんねるず」の冠番組が打ち切られることが噂されている。もうこの番組への梃入れは無理だろう。そして番組が終わる前後に石橋貴明の不祥事が噴出しまくることになるだろいと思う。

第7位 「あそこでオ・モ・テ・ナ・シ」

 第7位は芸能界ネタから離れて、エロエロ流行語がランクイン。やはりエロは強い。「あそこでオ・モ・テ・ナ・シ」とは使い場所が限られている。それは男女のデートの際で使用するものなのである。この流行語が出てくれば、そのデートは大成功である。

 例えば使用例はこんな感じ。

 男女がレストランで食事をし、レストランから表に出て来る。既に辺りは真っ暗で、いいムードになっている。

男「これからどこに行こうか?」

女「私、これからホテルに行きたいわ」

男「ホテル? いいの?」

女「あそこでオ・モ・テ・ナ・シ」

 これでこのデートはフィーバー開始である。俺には「滝川クリステル」が「滝川クリトリス」に見える。「ホテルでなんのお持て成しをするか?」なんて野暮なことを訊いてはならない。多分、彼女は全身を使ってお持て成しをしてくれることであろう。

第6位 「いつ脱ぐの? 今でしょ」

 男女がセックスをするためにホテルに入ると、女性の服を脱がすのは男性の役目である。しかしこれは面倒臭いといえば面倒臭い。子供じゃあるまいし、自分の服は自分で脱げと言いたくなる。そこでこの第6位にランクインした流行語が使われるのである。

 ホテルに入ったら、すぐさま男性が、

「いつ脱ぐの? 今でしょ」

と言ってしまえば、女性は自ら服を脱ぎ出すのだ。女性が全裸になったら、暫くその全裸を堪能していればいいのだ。女性はこういうことをされると思いっきり恥ずかしくなってしまい、逆に性欲に火がついてしまうものなのである。女性が全裸で抱きついてきて、行き成りキスしてきたら、もうヤル気マンマンということなのである。

第5位 「キスされたら舐め返す。ペロペロ返しだ!」

 男性がキスをした後に愛撫に移行するのだが、この移行の仕方がイマイチ巧くない。キスと愛撫の境界線がないからだ。だったら、キスと愛撫の境界線を自分で引いてしまえばいいのだ。そうすればキスから愛撫への移行がスムーズに行くようになるのだ。

 キスをし終わった後、決め台詞として、

「キスされたら舐め返す。ペロペロ返しだ!」

と叫んだ上で、愛撫に突入するのである。こうしておけば、男性の方がキスから愛撫への転換が巧く行くし、女性の方もこの決め台詞に大爆笑してしまい、心地よく愛撫を受けることができるのである。ペロペロは乳首とクリトリスに集中すべきであって、愛撫によってオルガズムに行かせなければならないのだ。

第4位 目覚ましチンチン

 男女がセックスすると当然に激しい疲労を覚えることになる。そのため夜が熟睡となる。しかし朝起きても、男性の方は朝立ちしているものなのであって、その勃起したチンチンをどうにかしたいものだ。有難いことに自分の横には股間に穴の空いている人が寝ているので、そこに挿入ということになる。

 これが「目覚ましチンチン」である。どんな寝ぼ助の女性であっても、一発で目が覚める超優れ物なのだ。しかもこういうことをされると、朝からメロメロになってしまい、一日中ラブラブでいられるのだ。ただ、挿入した時、女性は、

「なんで朝からそんなことをするのよ~。昨日散々やったじゃない」

と反論を受ける可能性があるので、目覚ましチンチンをやる時は礼儀正しく、挿入した直後に、

「おっはようございます! 今日も一日頑張りましょう!」

と元気良く挨拶をしよう。

第3位 目覚ましマンコ

 女性としては毎回目覚ましチンチンを受けるのは気持ちいいことかもしれないが、自分だっていつかは攻めに転じたいと思うことがある。そういう時に使用されるのが「目覚ましマンコ」だ。目覚ましマンコとは寝ている男性の顔に跨り、男性を起こして、

「私のクリトリスをお舐め!」

と朝っぱらから愛撫を要求する行為なのである。

 ちょっとSMチックで、プチ女王様気分になることができる。目覚ましマンコは上半身が立った状態でオルガズムに行く羽目になるので、多少時間がかかる。しかも男性の顔は愛液でビチョビチョになってしまう。そして行けば行ったで、その後は騎乗位にもつれ込み、更にオルガズムに行くことになるのだ。

第2位 目覚ましウンコ

 セックスをすると便通が良くなる。このため朝になると男女とも便意を催すことになる。そして便所に行ってウンコをすることになる。これが「目覚ましウンコ」である。しかしホテルの部屋には便器が1つしかないのだ。こうなるともしも同時に便意を催した時にデッドヒートが繰り広げられることになるのだ。

 この戦いで明暗を分けるのは、早く起きることなのである。例えば男性の方が早く起きた場合、当然に最初に便所に行くのであって、そうなるとその後に起きた女性の方は、便所に行っても使用中なので、

「早く出ててよ~。漏れちゃう!」

ということになる。ウンコというのは強制されても早く出るものなのではないのだが、自分の彼女から要請されると、早くに出そうとしなければならず、それなのにどうもウンコの切れが悪くなり、時間がかかってしまうのだ。

第1位 「ぶひぶひぶひ~ッ!」

 そして今年の栄えある「超マイナー流行語大賞」は、

「ぶひぶひぶひ~ッ!」

に決まりました。

 この音、実は俺のオナラの音です。「ぷ~」とならずに、「ぶひぶひぶひ~ッ!}という凄まじい音を出すから嫌になってしまう。人には聞かせれられないのだが、俺がオナラをする時にはなぜだか人がいるのだ。

 しかし気を付けるべきは、このオナラの音が凄いからといってオナラを出し過ぎると。

「ブリッ」

と変な音をしてしまうことなのである。ズボンの上から自分のお尻を触ってみると、肛門辺りに異様な物体が出つつあるのである。間違いなくこれは「ウンコ」である。俺は大急ぎでガニ股になってトイレに直行した。

 ところがそこになんとあの滝川クリトリスが俺の行く手を遮り、何を言うかと思ったら、

「トイレでお・も・て・な・し」

なんて言いやがる。

「そんなもんせんでいい! ウンコが漏れる! 早くそこどけ!」

 俺は滝川クリトリスを蹴り飛ばしで、便所に駆け込んだ。

「うんこブリブリブリ~ッ!」

と思いっきりウンコを出しまくってしまった。

「あ~、すっきりした」

 第四回超マイナー流行語大賞は「ぶひぶひぶひ~ッ!」かもしれないが、その背後には「うんこブリブリブリ~ッ!」という隠れた超マイナー流行語も存在していたのである。超マイナー流行語大賞は実に奥が深い。

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ベストセラーの世界史

●要約能力 

 イギリス人曰く、「イギリス人には要約する能力が卓越している」とのことなのだが、読書家の俺としてはこの意見に思わず納得してしまう。というのは、イギリス人が書いた本は本当に要約されていて非常に読み易いのだ。英語を母国語とする人たちはカナダやオーストラリアやアメリカ合衆国もあるのだが、これらの人々には要約能力がないのである。

 これに対してフランス人には要約する能力が全く欠けていると言っていい。フランス人が書いた本を読むと、様々な情報を盛り込んであるので、「この本は重要な部分は一体どこなの!?」とこっちが訊きたくなってしまうのだ。フランスはヨーロッパの中心に位置するために、どうしても情報が集まり過ぎてしまい、本を執筆する際にもついついその癖が出てしまうのである。

 イギリスは絶対にヨーロッパの中心地ではない。島国としてヨーロッパ大陸と離れており、それでヨーロッパの情勢を冷静に見ることができたのである。だからいざ本を書く際にも不要な情報を全部削ぎ落して、必要なことしか書かない習慣が身に付いてしまったのである。

 片やフランス人はそういう必要性はないのであって、情報を大量に盛り込み、肉厚の本を作ってしまうのだ。フランスはヨーロッパ大陸の国家として、様々な情報を持たない限り生き残ることができないので、要約すればいいというものではないのだ。大事なことはどういう事態が発生しても、それに対応できる考え方を用意しておくことなのであって、そうしないと生き残ることができないのだ。

 島国である日本としては、どうしてもイギリス人の書いた本ばかりを優遇してしまう。地理的環境が同じなので、日本人だって要約能力が卓越しているのだ。しかし日本人だからこそフランス人の書いた本を読むべきなのである。そうやって要約された本ばかりに慣れてしまうと、不測の事態に対応できなくなってしまうからだ。

●ベストセラーの法則

 今回紹介する本はこの本!

 フレデリック・ルヴィロウ著『ベストセラーの世界史』(太田出版)

 ベストセラーの世界史[フレデリック・ルヴィロワ]

 ベストセラーには「ベストセラーの法則」がある。ベストセラーは物理的現象なのだから、それに対して科学的な法則が存在することは当たり前なのだ。ベストセラーを出すには「運」が必要だが、それは飽くまでもベストセラーの法則を使った上での話なのである。

①ベストセラーは瞬発的現象である

 まず「ベストセラーは瞬発的現象である」ということなのである。ベストセラーは出版市場が成立しないと出て来ない。或る一定の読者人口が存在するようになると、人々は1つの作品に熱狂するようになるのだ。ベストセラーは「理性」よりも「感情」に重きを置くものなのであって、読者たちの感情に訴える何かがないとベストセラーは発生しないのだ。

②ベストセラーは駄作が多い

 次に「ベストセラーは駄作が多い」ということである。ベストセラーは読者たちがその本を吟味した上で購入するのではなく、感情に駆られて購入することになるので、当然に駄作が多いということになる。販売部数が増えるということは、内容をスカスカにした方が良いということなのである。

③ベストセラーをロングセラーに変えていかなければならない

 第三に「ベストセラーをロングセラーに変えていかなければならない」ということなのである。ベストセラーをロングセラーに変えることのできなかった本は「屑本」である。しかしベストセラーをロングセラーに変えることができた本は良書である可能性が高いということなのである。このためベストセラーが発生した場合、玉石混交となり、それが良書なのか悪書なのかはすぐさま判定できないのだ。

 ベストセラーの法則が解ると、ベストセラーが出るということは、その国の出版市場が発展しているということであり、ロングセラーが出るということは、その国の文化レベルが高いということなのである。だからベストセラーを目指しつつも、ベストセラーばかりを狙ってはならないのだ。如何に末永く売れ続けるような本を作るかが大事になってくるのだ。

●ベストセラーの作り方

①良い原稿

 ベストセラーを出すためにはなんといっても「良い原稿を手に入れること」である。良い原稿がなければ売れないからだ。このために出版社は新人賞を設けて優れた作品を募集したり、既存の作家たちを抱え込んで売れるであろう作品を作って貰っているのである。

 しかしベストセラーになるような良い原稿は出版社から拒絶される可能性が高いということなのである。事実、作者が出版社から拒絶されまくり、やっとのことで無名の出版社がその原稿をゲットし、その後、ベストセラーになったという例が非常に多いのだ。

②辣腕の編集者

 ベストセラーを出すためには、良い原稿を手に入れるだけではなく、「辣腕の編集者」が必要なのである。しかし愚かな編集者に限って、折角手に入れた作者の原稿を弄り回すことに躍起になってしまうのだ。良い原稿は既に手に入っているのである。やるべきことは原稿を弄り回すことではないのだ。

 編集者がすべき仕事は「巧妙な宣伝」を行うことなのである。巧妙な宣伝とは「ターゲット宣伝」である。国民の中でも読書人口というのは常に限られている。その人たちに向けて宣伝すべきなのであって、無闇に宣伝すべきではないのだ。テレビCMで本の宣伝をしても、絶対にベストセラーは起こらないのだ。テレビ好きの人たちは本を余り読まないからだ。

③読書の習慣がある読者たち

 ベストセラーの陰の主役といっていいものが読者たちの存在である。ただ単に読者たちではなく、「読書の習慣」がある読者たちなのである。読書の習慣があればこそ、良い作品が出て来た時にその良さを理解し飛びつくのであって、だから読書の習慣がないと良い作品がベストセラーにならず、愚劣としかいいようのない本がベストセラーになってしまうのである。

 ベストセラーは普段買わない人たちが本を買うと起こるものだと、出版社の人たちは勘違いしている傾向が多い。ターゲット宣伝がまるで解っていないために、こういう勘違いをしてしまうのである。ベストセラーが発生した場合、読者たちの中核を占めているのは、常に読書の習慣がある読者たちなのであって、その者たちを引き入れない限り、絶対にベストセラーは起こらないのだ。

●出版市場への外的要因

 ベストセラーを出すためには、編集者の活躍が欠かせないのだが、かとって出版業界では編集者たちの中で「俺がいたからこそベストセラーを出せたんだ!」と勘違いするバカたちを生み出してしまう。ベストセラーは協業と分業があればこそ可能になったのであって、たった1人の活躍で起こる現象ではないのだ。

 世界で今まで売れた本のベストセラーランキングを見ると驚愕の事実が判明する。

第一位 『聖書』 60億部

第二位 『毛沢東語録』 10億部

第三位 『コーラン』 8億部

 なんてことはない、出版社とか、編集者とか、作家の活躍なんて全く関係なく、宗教や政治に関する本が圧倒的に売れているのである。だから宗教団体や政党が所有する出版社は別として、通常の出版社は宗教や政治に対して或る一定の距離を置いて冷静になっていないと、宗教や政治に対して全く歯が立たなくなってしまうのだ。

 出版社が教科書を出すことは充分に気を付けることだ。教科書は学校で使用されるために、売れるといえば売れてしまうのである。だからといってその教科書が良いとは限らないのだ。教科書は頻繁に改訂するので、今までロングセラーになった教科書というのはないのだ。とするなら、ベストセラーの法則の第二法則が作動してしまうのである。

 映画やテレビもベストセラーを引き起こす外的要因となる。原作を映画化したりドラマ化したり、芸能人がテレビで本を紹介したりすれば、その本はベストセラーになり易い。しかし映画やドラマは一過性の物だから、余程質の高い作品を作らないと、ロングセラーに持って行くことができないのだ。

 文学賞もベストセラーの外的要因とはその通りである。しかし文学賞それ自体は受賞作品の売り上げにはそれほど貢献しない。文学賞受賞作品がベストセラーになるのは、なんといってもマスコミに於いて大々的に報道されることが必要であって、それによって普段余り読書をしない人たちがその受賞作品を読むようになるのだ。

●新しいパラダイムの啓示

 ベストセラー作品は必ずしも良い物だとは限らない。ベストセラー作品の中には紛い物も含まれているものなのである。ベストセラーが起こっている時はその本に対して熱狂的になっても、そのブームが過ぎ去ってしまえば、ゴミとして捨てられる本だって多々有り得るのだ。

 ではなぜ世間の人々がベストセラーに注目するのかといえば、「ベストセラーはパラダイムシフトを引き起こしてくれる可能性があるからだ」ということなのである。我々は如何なる状況下に於いても、或る一定の枠組みの中で生きている。そしてその枠組みの中からはその範囲内の作品しか出て来ない。

 ところがベストセラー作品によってパラダイムシフトが起こると、既存の枠組みは破壊され、新たな生き方が提示されることになるのだ。人々がその新たな生き方を行うようになると、今までとは比べ物にならないほど豊かに幸せな人生を送れるようになるのだ。

 冷静に見て、先進国では定期的にベストセラー作品が誕生しているのだが、そのベストセラー現象が起これば起こるほど、その国の人々は豊かになっていっているのである。先進国の国民は本を買えるほどの可処分所得があるが、その余分なお金があるからこそ本を買い、それがたまにベストセラー現象を引き起こし、今までの利益の少ない生き方を否定することができるのである。

 ということは、人々が余りにもケチになりすぎて本を買わなくなり、ベストセラー作品が出て来なくなってしまえば、国民がどう働いたとして既存の枠組みが壊れないので、余計に貧乏になっていってしまうのである。ベストセラー作品の中には駄作も大量にあるのだが、そうだからといってベストセラー作品を毛嫌いしてはならないのだ。パラダイムシフトが起こせるのはベストセラー作品しかないのである。

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