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国語教育と小説

●国語教育は文学を教えるものなの?

 学校で国語教育を行う場合、国語教育と言いながら、実際に教えているのは「文学」である。国語は文学だけに留まるものではなく、もっと遥かに広い領域を有するのであるが、なぜだか国語教育では文学を中心に教えて行くことになるのである。

 このため国語教育に関して誤解する人たちが出て来て、曰く「国語教育は生徒たちを小説家に育てるためのものである」という誤解を持ってしまうのである。小説家を育てる教育というのは、学校の国語教育とはまるで違うものだが、こういう誤解が出て来るということは、それだけ学校の国語教育が文学に重点を置き過ぎているのだ。

 国民に高い国語能力を持たせるためには文学を教えて行くしかない。これはどのような国家でも同じ結論に達する筈だ。国民に高い国語能力を持たすためには、語彙を大量に持たせ、文法をしっかりと教えていかなければならないのだが、こういうことは文学を教えていけば自然と出来てしまうのである。

 勿論、国語教育にだって問題点はある。それは文学の中でも小説に比重を置き過ぎてしまい、詩歌や随筆に対して充分な配慮がなされていなことだ。生徒たちは小説ばかり読まされるからこそ、国語教育が嫌になってしまうのであって、その点に関しては改善が必要である。

 しかし国語教育に何かしらの問題点があっても、やはり文学を中心に国語教育を行って行くことにはなんら変わりはないのだ。幼い内から文学に親しまないと、国語の成績はどうやっても上がらないのだ。文学作品を読むことは何も学校で教わらなくても、自分で出来るのであって、自宅で読書をする習慣を持つことは国語能力を高めて行くためには大事な習慣なのである。

●小説は共通項だからこそ国語教育で使用される

 国語教育で小説を中心に教えて行くのは、それなりの理由が存在する。それは「小説は人間社会の様々な場面を描く散文体」であるために、「小説は生活の共通項と言えるから」なのである。これほど広い範囲をカバーできる物は他にないのだ。

 学術書では扱う分野が非常に限定されてしまう。学問は物事を細分化していくことで発達してきたから、幾ら高度な学問だからといって、それを国語教育で教えても使い物にならないのだ。政治学の本は政治のことしか出て来ないし、経済学の本は経済学のことしか出て来ないし、自然科学の本は自然科学のことしか出て来ないのだ。

 新聞や雑誌は生活を扱ったものだから、新聞や雑誌を国語教育の教材に用いてもいいのではないかという意見もあるが、新聞は所詮「情報の垂れ流し」なのであり、雑誌は1週間なり1ヵ月なりの情報を集約させたものだから、小説ほど価値があるものではないのだ。

 小説で扱っているものは、恋愛とか友情。結婚とか家族のことなので、非常に耐久性を持つものなのである。人間が生きていれば誰もが経験することなのであって、それを若い内に読んでおけば、何かしらの利益を得るものなのである。

 国語教育では随筆をもっと教えていけばいいと思うのだが、随筆は人生経験や知恵がないと充分に堪能できない物なのである。このため小中高生のように人生経験や知恵が不足している者たちには余り向いていないのだ。随筆の良さが解るのは、40歳を過ぎてからなのであって、この点、小説は20歳以下でもその良さを理解することができるのである。

●名作は大量の小説の中で最高峰の出来なのである

 国語の教科書に載る小説は必ずしも名作であるとは限らない。教科書は教科書出版社の編集の考え方が如実に反映するものなのであって、バカな教科書出版社だと文学愛好者たちすら知らない作家の作品を平気で出してきたりするからだ。

 はっきりと言ってしまうが、無名の作家は文章が下手糞である。読むに値しないものなのである。作家には「文才」が必要なのであって、文才のある作家は必ず文章が巧い。文章が巧いだけでなく物語構成も巧いのであって、だから名作を書いて行くことができるのである。

 名作は大量の小説の中で最高峰の出来なのである。だから若い時はありとあらゆる小説を読むのではなく、名作に拘って読んで行くようにすることだ。日本文学史に名を残すような名作を読み続けていけば、学校で大した勉強をしなくても、国語の成績は良くなってしまうものなのである。

 小説には大きく分けてたった2種類の小説しかなく、「本物の小説」と「偽物の小説」しかないのだ。本物の小説はそれが世に出された時も面白かったし、時間が経過してもその面白さは失われないのだ。しかし偽物の小説はそれが世に出された時点で詰まらなかったし、たとえ一時的に人気を博しても、時間が経過してしまえばその面白さが消滅してしまうのである。

 文学は民主主義の産物ではない。文学は「本物の文学」を追求するごく僅かな人たちによってリードされ、保持されてきたものなのである。それゆえ若い時から本物の文学に触れていないと、文学を幾ら勉強したとしても、文学のことが解らなくなってしまうのである。

●文学史をきちんと勉強する

 国語の成績を上げて行くためには、小説ばかり読むのではなく、日本文学史を勉強することも必要である。日本文学史が解っていれば、質の高い小説を探し出すことができ、その反面、粗悪な小説を退けることができるので、読書の生産性が急激に上昇していくのだ。

 文学はどこの国でも「詩歌から小説へ」という流れがある。これは日本文学でも同じで、日本文学は「和歌」から始まったのである。だから『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の三大和歌集は絶対に読んでしまうことだ。和歌は17文字という制約があるので、平安時代が終わる頃にはもう和歌は出尽くしていたのである。

 神話や歴史は語り部たちが口頭で伝承してきたのだが、律令制度が整うと朝廷が神話や歴史を整備していかなければならなくなった。そこで生まれたのが『古事記』と『日本書紀』である。しかし日本の律令制度は中国と違って君主専制を認めなかったので、それで摂関政治が始まり、武家による政治へと変化しってしまった。日本史を理解するためには正史よりも、『栄華物語』『平家物語』『太平記』『日本外史』を読んだ方が解り易い。

 和歌が過剰になると、和歌では物足りなくなった人たちが出て来て、それで和歌から「日記文学」が生まれ、そして「随筆」が生まれた。随筆の三大古典は『枕草子』『方丈記』『徒然草』なので、簡単に読めてしまうと思う。しかし随筆を理解するには人生経験や知恵が必要なのであって、随筆の本当の面白さを理解するのは40歳を過ぎてからなのである。

 和歌の過剰は日記文学の他に物語文学を生み、その後、「小説」が生まれた。平安時代の小説に関して『源氏物語』が抜きん出ているので、『源氏物語』を読んで行くしかない。『源氏物語』で気をつけるべきことは、『源氏物語』は紫式部が一人で書いたのではないということだ。『源氏物語』には最低でも3人の作者がいるのであって、紫式部はその内の1人にすぎないのだ。

 明治維新後、近代的な小説が誕生して来るのであるが、夏名漱石と森鴎外には文豪という評価を与えられている。この2人を文豪だと思っているのは日本人だけであって、国際基準では夏目漱石も森鴎外も文豪の条件を満たさない。それほど日本の文学は遅れを取ってしまったのだ。

 ではなんで日本国内だけで夏目漱石と森鴎外に高い評価が与えられるのかといえば、夏目漱石は「クールな書き方」を、森鴎外は「合理的な書き方」を打ち出してきたからなのである。この2つの書き方は日本人が大いに好むものなので、現代に於いて活躍する作家たちで一流の作家たちはこれらの書き方のどちらかに属してしまうのである。

●文学の強い国家は政治や経済でも強い国家である

 文学には「文弱」という言葉があるように、文学を遣り過ぎてしまうと、人間は弱くなってしまう。事実、作家たちの中で強靭な肉体を持った作家というのはいない。しかし文学が文弱を発生させるからといって、文学を取り除いていいわけがないのだ。

 「文学の強い国家は国民の国語能力が高い」ということなのである。国民の国語能力が高いのだから、政治や経済も強くなるし、科学だって発展していくことになるのである。逆に文学の弱い国家では、国民の国語能力が低くなってしまい、それで政治も経済も科学も衰退して行ってしまうのである。

 国民の中には政治が巧く行かないこを嘆く者たちがいるものだ。経済が不況になれば騒ぎ出す者たちがいるものだ。彼等は碌でもない政治を行う政治家を罵倒するし、政府に景気回復策を出して欲しいと願う。しかし待って欲しい。政治や経済が振るわないのは、何も誰かのせいなのではなく、国民の国語能力が低いからなのである。自分の頭で物を考えず、常に他人に対して責任追及をやっているからこそ、政治も経済もどうにもならなくなってしまうのである。

 政治や経済を巧く行かせるためには、国民1人1人が小説でも読んで、国語能力を高めて行くことこそが必要なのである。イギリスにはシェイクスピアがいた。だからイギリスは強かったのだ。フランスにはスタンダールやユゴーがいた。だからフランスは強かったのだ。ロシアにはトルストイやドストエフスキーがいた。だからロシアは強かったのだ。

 日本には世界に通用する文豪がいるのか自問自答して欲しい。日本の読者たちは名作を読みこなす読解力があるのか自問自答して欲しい。日本に世界に対して誇るべき作家や名作がなければ、政治家や経営者たちがどんなに頑張っても、その成果は高が知れているのである。

 日本のように島国で、狭い領土しか持たない国家は、国民の知的レベルを上げることで国家の独立を保つしかないのである。日本国民の知的レベルが下がれば、途端に国家の安全保障は危機的になり、最終的には敵国に侵略されてしまうものなのである。

 学校に於ける国語教育を充実させていくと共に、学校や大学を卒業してからも、自分で文学作品を買って読むことが必要なのである。そういう行為は国家の独立に関係ないと思ってしまうのだが、実は「大あり」なのである。国語能力の高い国民は国際情勢がどのようになろうとも、国家の独立を保てるものなのである。

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