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2014年2月

なぜタマティーのブログは北海道で微妙な立場にあるのか?

●中途半端な位置

 タマティーのブログは北海道では微妙な立場にあると言っていい。北海道は上位に食い込んで来る訳でも、下位に下がったりもしないのだ。大体、北海道の順位は真ん中で、そこら辺を行ったり来たりして、非常に中途半端な位置にあるのだ。

 しかし北海道の面積は大きいので、北海道の順位が変動すると画面でも色が変わって、こっちがドキドキしてしまうのである。しかも地図的には右斜めに存在するので、画面を見る時はまず最初に北海道を見る羽目になってしまうのである。

 俺は北海道を旅行したことがある。北海道出身の女性とも付き合ったことがある。だったらもっと北海道からのアクセス数が増えてもいいものだが、なぜだか増えないのだ。このブログのトップ3はタマティー自身、現地に行ったことがある場所なので、そうなるとなんで北海道のアクセス数が増えないのかということになる。

 因みに我が家で食うジャガイモは北海道産の物である。鮭にしても北海道産の物である。昆布にしても北海道産の物である。タマティーは北海道に対してかなりのお金を落としているのだが、それなのに北海道民はボサ~ッとしているのである。

 最下位の新潟県のアクセス数を増やすのは難しい。新潟県民は白米中毒に罹っているので、白米中毒を脱しない限り、このブログの良さが解らないからだ。だが北海道のアクセス数を増やすのは難しいことではない。なんで道産子たちが中途半端な位置にいるのか、その理由が解れば、打つ手は必ずあるものなのである。

●北海道の特徴

 俺は北海道に行ったことがあるので、北海道のことはかなり知っているつもりである。ただ北海道の特徴を調べるには調べたが、なんせ現地で情報収集したわけではないので、その情報の信用度は50%程度である。そのことを踏まえてこの情報を読んで欲しい。

①北海道では「新巻鮭」が通貨として使用されている。

 驚きの事実であるかもしれないが、レートは荒巻鮭1本で千円である。だからお店で千円の商品を買う際には、新巻鮭1本を渡せばいい。因みにお釣りは「イクラ」で支払われる。当然のことだがイクラはお財布に入れると潰れて汁が垂れてしまうので、だから新巻鮭を使った時は、「お釣りは要らないよ」と格好よく言わないとダメなのである。

②道産子は「北海道はでっかいどう~」と一度は言ったことがある。

 人間は子供の頃ではバカなものだが、これは北海道でもなんら変わらない。ただ北海道は人口密度が少ないゆえに、バカがヒートアップする。中学生になると、「俺のチンチンはでっかいど~」と最早駄洒落ではないものを使用することになる。尤も道産子はそんなバカなことを言ったことを大人になった後で恥じている。

③道産子の小中高生たちは冬場、鼻水を垂らしながら登校してくる。

 北海道の冬は痺れるほどに寒いものだが、このために小中高生たちは誰でもあっても鼻水を垂らしまくる。どんな美少女であっても、鼻水は垂れているのだ。但し小便を垂らしながら登校してくると、股間が凍結するので、非常に危険なことになる。このため小便を漏らしながら登校する小中高生は1人もいない。

④道産子の小中高生たちは冬場、登校するとすぐさま教室のスト-ブの回りに直行する。

 北海道の女性たちが結構「ババ臭い」のはこれを高校卒業までやっていたからなのである。余りの寒さのために、ストーブで体を温めない限り授業どころではないのだが、その間、友達同士で下らぬお喋りをしまくることになるのだ。だったら外套をもっと厚くして、体を冷えないようにすればいいのだが、なぜだかそういうことをしないのである。

⑤冬の北海道では他県の者が山で遭難し死亡する。

 道産子にとっては迷惑この上ない。道産子は冬山が非常に危険だということを知っている。冬の北海道は平地ですら寒いのだから、そんな時期に冬山に行こうなどとは決して思わないのだ。北海道の冬山は本州の冬山とはレベルが違うのである。

⑥北海道では毎年1回以上、道産子がクマに襲われる事件が発生する。

 道産子は、「山は舐めていないが、クマは舐めている」ということなのである。こういう事件が発生しないためにも、猟師たちを使って定期的に大規模な狩りを行わせればいいのだが、北海道庁はなぜだかそれをやらないのである。北海道庁の庁舎内にはクマが出ないからといって、その感覚を北海道全土に押しつけているのだろうか?

⑦函館は夜になれば百万ドルの夜景だが、昼間は廃墟に近い都市である。

 函館の街の寂れ具合は、旅行者としてはショックである。一応、観光都市なのだから、もっとちゃんと整備して欲しい。雪が大量に降る北海道では都市はかなり傷むものなのである。公共事業をちゃんとやらないと観光都市を維持できなくなってしまうのである。

⑧北海道には梅雨がなく、夏は短く、冬は長い。

 北海道以外の場所では、梅雨に泣かされ、猛暑に苦しめられるので、北海道はまさに「勉強し放題」の土地である。俺は梅雨になるとどうしても減速するし、夏の間は頭がそんなに働かない。だから北海道の気候は羨ましくて仕様がない。北海道こそ日本の学問の中心地にすべきであって、東京を学問の中心地にしてはならないのだ。

⑨北海道の食糧自給率は100%を超えているので、北海道では基本的に食いっぱくれない。

 食糧自給率が100%に達すると、生活レベルでは非常に豊かになる。この豊かさは北海道を旅行した者にとっては感動的なのである。日本の食糧自給率が低下していったのは、政府が農家を保護し、補助金を投入しまくったからなのである。このため農家は経営の合理化というのをやらなくなってしまったのである。それで食糧自給率が急降下して行ったのである。

⑩北海道には「ゴキブリ」と「乞食」と「裸族」はいない。

 この三者とも寒さには非常に弱い。人類は温暖な地で発生したのだが、温暖な地ではなかなか進化しなかったのである。人類に文明を起こせるだけの進化が起こったのは、今から1万2千年前に地球大変動が起こり、地球が寒冷化してからのことなのである。

●北海道の県民性

 北海道の県民性は、「物静かで大人しい」「解放的である」「遊びとなるかなりのお金を使う」ということである。北海道は雪国ではあっても、雪国らしい性格が余りない。開拓地ということが北海道の県民性を形作っていると言っても過言ではない。

①物静かで大人しい。

 道産子が物静かで大人しいのは、「植物油」が不足しているからである。和食は植物油が少ないという欠点があるのだが、その和食を北海道に持って行くと非常に危険なことになる。寒さのために体力を必要とするのに、植物油がないために体力が低下してしまうからだ。

 北海道では「オリーブ油」が絶対に欠かせない。オリーブ油を大量に摂取すれば、冬を乗り切る体力を得られることができるし、健康的な脂肪が体の表面につくので、冬でも余り寒さを感じなくなるのだ。しかもそれだけでなく性格が明るく積極的になり、物静かで大人しくなどしていなくなるのだ。

②開拓地ゆえに非常に解放的である。

 北海道は開拓地ゆえに、道産子の先祖たちは開拓民なのであって、全員余所者たちであったのである。そのため非常に解放的であって、差別が少ないのだ。北海道では女性と雖も重労働に従事させられるので、それで北海道出身者にフェミニストが少ないのである。フェミニストたちを黙らせたければ、強制労働に従事させればいいということなのである。

③娯楽が少ないため、遊びとなるとかなりの金額を使って来る。

 北海道では娯楽が少ない。そのくせ道産子たちは結構お金を持っているのだ。このため遊びとなるとかなりの金額を使ってl来るのだ。北海道のお祭りでは屋台が大繁盛してしまうのだが、これはそういう事情があるからなのである。尤も普段そんなに無駄遣いしていないので、道産子はかなりの貯金を持っているのだ。

●北海道の女性たちの基本的性格

 北海道の女性たちの基本的性格は北海道の男性たちの基本的性格とは違う。北海道の県民性は北海道の男性たちの性格というより、開拓地特有の性格と言った方がいい。となると北海道の女性たちも開拓地特有の性格を持ってしまうことになるのだ。

①夢見ることが少ない現実主義者

 北海道の女性たちはあんまり夢を見ない。北海道は夢を見ていられるような環境ではないのだ。このため北海道の女性たちは現実主義者となる。現実主義こそ、開拓地で生きてきた実績に裏付けられたイデオロギーであるので、そう簡単に現実主義を捨てはしないのである。

 北海道の女性たちは離婚率が全国三位以内にランクインするほど離婚を平気でする。「この男性は経済力があるから結婚してもいい」とすぐに結婚するが、男性に経済力がなくなればすぐに離婚してしまうほど非常にドライである。このため北海道はバイツチ子持ちの宝庫だと言われている。

②明るくて芯が強い

 明るくて芯が強いということは、まあ「自然体」ということであろうか? 「自然体」を唱えて無理して自然体を気取るのではなく、北海道は普通でも自然体でいられるからこそ、自然体でいるのである。だから明るくて芯が強い女性たちが非常に多くなるのだ。

 自然体ということは、「のんびり」「大らか」「大雑把」ということでもある。北海道の女性が他県に行ってその地の男性と結婚すると、滅多なことでは離婚しないのはこの性格によるものである。しかし北海道にいると誰もがのんびりし、大らかで、大雑把なので、気を付けていないと結婚生活それ自体が崩壊してしまうのである。

③ハキハキと物を言う。

 北海道は開拓民の集まりなので、ハキハキと物を言う習慣がしっかりと根付いている。ハキハキ言わないと相手に伝わらないし、腹芸などは時間の無駄であると考えるのだ。このため北海道の女性たちは普通なら控える所でも平気で言ってしまうのである。

 離婚率の高さはこの辺りの物も影響してくる。というのは、女性がハキハキと物を言う以上、男性はそれに対処できる言語能力を持っていないと、すぐに喧嘩になってしまうからだ。離婚しなくても、夫婦間暴力の発生率は結構高いと思う。文化が低いので、言葉遣いが粗野でありすぎるのだ。

④北海道の女性たちは子供の頃から水を飲んだことがなく、牛乳ばかり飲んで育った。

 北海道には牛乳なら幾らでもある。まずはそのことを理解しないと、北海道の女性たちを理解することはできない。北海道の女性たちは骨太だし、背も結構高いのである。牛乳には睡眠薬と同様の効果があるために、子供の頃の睡眠時間は長くなり、そのため健康に育って来るのである。

 尤も牛乳は人間が飲む飲み物の中で最も体を冷やすので、大人になっても牛乳を飲んでいると体が冷え切り、精神が狂ってしまうことになるのだ。大人になったらヨーグルトやチーズに切り替えるべきであって、そういうことをしていない女性は近づかない方がいいのだ。

⑤北海道の女性たちの巨乳率は全国最高である。

 北海道では巨乳であることが当たり前である。子供の頃から牛乳を飲みまくってきたために、乳房も巨大化するというわけなのである。ただ、その巨乳は自然な巨乳というより、牛乳を飲ましたことで人為的に大きくさせたために、多少バランスが崩れている。

 北海道の男性たちが北海道の女性たちに対して勘違いしてしまうのは、巨乳が当たり前の物だと思い、感謝の念が足らんということなのである。このため巨乳を巧く活かしたセックスを展開しないと、北海道の女性たちはセックスで満足できなくなってしまうのである。

⑥北海道の女性たちは太るとなぜだか牛の体型と体が似て来る。

 牛乳を飲みまくってきた以上、太れば牛の体型に似て来るのは当然の結果である。北海道の女性たちの離婚率の高さは、女性たちが勝手にやったように思えてしまうのだが、実は北海道の男性たちが女性たちを捨てたということでもあるのだ。

 男性は無意識レベルでウェストの引き締まった女性を好む。ウェストが細いということは、妊娠可能ということを示しており、そういう女性の裸を見ると興奮してしまうのである。しかし自宅にいる妻が脇腹に贅肉をたっぷりと付けていると、夫は妻に対して興奮しなくなり、その内、セックスレスになり、そして離婚ということになるのだ。

⑦北海道の女性たちはトウモロシを見るとなぜだか飛びついて来る。

 北海道の女性たちは子供の頃から「オヤツ」といえば、「トウモロコシ」である。このため北海道の女性たちにトウモロコシを見せると、なぜだか飛びついて行くのだ。本州のデートではトウモロコシなど食わないが、北海道の女性とデートするならトウモロコシは絶対に欠かせない。

 因みにトウモロコシには頭を悪くする物質が入っているので、沢山食べるとバカになる。アメリカ人がポップコーンを食べるように大量のトウモロコシを食べていると、どうやったとしても知能は下がって行き、動物並みになってしまう。だから幾らトウモロコシが好きだからといって大量に食べさせてはならないのだ。

⑧北海道の女性はすぐさまセックスをする傾向が高い。

 娯楽が少ないということは、こういう所にも出て来る。人間は文化レベルが高くなればなるほど、すぐさまセックスをするということはしなくなる。言葉を駆使して互いの意見を知り合い、やっとのことでセックスをするようになる。だからいざセックスをしても満足の行くセックスができるようになるのだ。

 北海道の女性たちがすぐにやらしてくれるからといって、その誘いに応じてしまうものは考えものだ。そういうセックスではいいセックスができないのである。寧ろ相手の女性がセックスをしたがっても、敢えて焦らすということが必要になってくるのである。デートの回数を重ねた上でセックスすれば、満足の行くセックスができるようになるものなのである。

⑨北海道の女性は体力があるゆえに、力で圧倒するセックスに弱い。

 北海道の女性には肉弾戦を展開するに限る。北海道の女性は体力があるのである。それなのにテクニックに走るセックスをやっては、相手に嫌われるのが落ちなのである。相手の女性を思う存分動かして、体をヘトヘトにさせるからこそ、相手の女性はセックスに満足してくれるのである。

 勘違いしてはならないのは、力で圧倒するセックスをする余りに、早漏で終わってしまうということだ。これは良く有り得る話なのであって、男性の方が一方的に体力を使えば、男性の方が早々と行ってしまうのは当たり前のことなのである。相手の女性を動かして行くというのが必要なんどえある。

⑩北海道の女性はセックスの後に優しくされるとメロメロになる。

 北海道の女性は女性であっても重労働を強いられるがために、常に男の優しさを求めているのだ。このためセックスをした後に優しくされると、もうイチコロなのである。だからセックスをし終わった後に、早々と寝るのは厳禁であるのだ。

 逆に言えば、こういう優しさを示してメロメロにさせない限り、他のことではメロメロにならないということなのである。東京では女性に高価な物をプレゼントして女性の気を引こうとするが、北海道では違うのである。物に頼らず、心で接しないと、どうにもならないのである。

●道産子パワー

 タマティーにとって北海道の女性たちはなんの違和感もない。ただトウモロコシに飛びついて来るのは困るが、それ以外は別になんの問題もない。ただこのブログのトップ3に比べれば、北海道は余りにも文化レベルが低いのである。そのため文化レベルの高いこのブログへのヒット数がイマイチになってしまうのである。

 このブログでは「生活の合理化」を教えている。気紛れで非合理的な生活をやめて、生活を合理化して行くからこそ、収入がどのようなものであっても豊かに暮らせるようになるのだ。しかし北海道の女性たちのように「道産子パワー」があると生活に多少問題があってもやってのけてしまうのである。しかも離婚率が高いので、バイツチ子持ちになれば、仕事に追われてしまい、生活などそっちのけになってしまうのである。

 北海道では合理主義に欠けているのだから、本来なら合理主義に反応するものなのである。なぜなら合理主義がない以上、そこに合理主義を入れれば、巨大なエネルギーを生み出すことができるからなのである。もしも北海道に合理主義が根付けば、食糧自給率100%以上を活かして、より豊かになっていく筈なのである。

 道産子パワーは日本国内では特殊な物である。北海道が開拓地だからこそ、道産子たちは道産子パワーを発揮して開拓して行ったのである。俺のブログも何かパワーで押し切れる物を用意しないと、北海道の女性たちの心に響かないということなのだ。。

 こういう事は難しい。下手をすると、北海道の女性たちは「量で圧倒すればいいではないか?」と思ってしまうからだ。そうではないのだ。質を上げることが大事なのであって、質を上げさえすれば、自分が使用する量は少なくて済むものなのである。

 徳島県は四国の一角を占め、鳥取県は中国地方で最も人口の少ない県であるという自己規定があり、秋田県は東北地方の中心地なのにそれを宮城県に取られてしまっているという状況がある。それに対して北海道にはそいう制約がないのであって、「でかけりゃいいだろう~」という間違った思い込みがあるのだ。

 北海道はロシアと国境を接している以上、いつなんどき戦争になるか解らない。そのような危険地帯にいるなら、無駄なエネルギーを使っている余裕はないのだ。道産子たちの意識が東京だけに向けられているようでは危険なのだ。道産子たちの矛先は常にロシアに向けるべきであって、平和な内に北海道を豊かな土地に変えていかなければならないのである。

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『うちの3姉妹』増刊号 ~結婚はロールプレイングゲーム?~

●シリーズ化とダイジェスト版

 面白い本というのはシリーズ化される可能性がある。読者たちが「この本の続きを読みたい!」と言い出してくれば、出版社だって作者に次の作品を書かせ、そしてシリーズ化して行くことになる。尤も読者たちにその需要がないのに出版社が金儲け目当てでシリーズ化してしまうと、大抵が糞詰まらない物となる。

 シリーズ化されている本は基本的に面白いと考えていいのだが、シリーズが続くと、「このシリーズの内容ってなんだっけ?」という疑問が生じて来てしまうのだ。そこで登場してくるのが「ダイジェスト版」なのである。ダイジェスト版を出しているシリーズは本当に面白い物なのである。

 松本ぷりっつさんの『うちの3姉妹』は第一巻からして面白いのだが、その面白さが第16巻まで続いたから本当に凄い。なんでこんなことができたのかというと、ブログで記事を公開し、その中から面白い物を選んで編集したからなのである。

 『うちの3姉妹』は面白いのだから、ダイジェスト版が出るだろうと思っていたらやはり出た。それが、

『うちの3姉妹増刊号 思い出おっぺけぺ』(主婦の友社)

である。しかし今回の主役は「3姉妹」ではなく、「松本ぷりっつ本人」なのである。考えてみれば、松本ぷりっつ本人こそ『うちの3姉妹』の影の主役であるのだ。

 うちの3姉妹増刊号思い出おっぺけぺ[松本ぷりっつ]

 この『うちの3姉妹増刊号 思い出おっぺけぺ』は『うちの3姉妹』の中で最高傑作である。『うちの3姉妹』全てを読み終えてこの本を読んでしまうと、本当に『うちの3姉妹』の面白さが解って来る。自分の人生をちゃんと楽しんでいる母親だからこそ、その娘たちだって楽しく生きているのである。

 「どんな状況下でも笑いを見つければ人生面白い」

ということなのである。

●トキメキよりチームワーク

 この本の中で最も素晴らしい所は、

「私たちの結婚」

と言う結婚のエピソードを書いた記事である。結婚をロールプレイングゲームに譬えているのだが、最初これを読んだ時、「なんじゃこりゃ?」と思ってしまったが、その内容たるや絶品である。

 恋愛をすれば胸が高鳴るようなトキメキを経験するものだ。最初の頃は何もかもが新鮮でドキドキ、ハラハラしてしまうものである。しかしトキメキは最初だけなのであって、時間が経過すればするほどトキメキは消えて行く。結婚して安定してしまえば、トキメキなんて不要なのである。

 その代わり、

「一緒に過ごす楽しさ」

「相手への思いやり」

「相手を尊敬する気持ち」

という物の方が必要になり、これらがあれば結婚は巧く行くのである。結婚し続けるのであるならば、

「トキメキではなく、チームワークの方が大事」

ということになる。トキメキがどうのこう言っている時点で、その人には経験値が貯まっていないということなのである。

 これを読んでつくづく思ったのは、この世の中には恋愛ばかり称賛して、恋愛の初期に起こるトキメキばかりを追い求めようとする人たちがいるということなのである。厄介なことに女性作家たちの中にはそれを恋愛小説として書いて来るし、女性漫画家なら恋愛漫画として描いて来るのである。

 そうなるとそれを読んだ女性たちは、トキメキこそ大事と思い込むようになってしまい、それで恋愛を結婚へと昇華できず、たとえ結婚したとしてもその結婚を巧く行うことができず、離婚という結果に終わってしまう。なんとも無責任な話である。

●女性は赤ちゃんを生み育てないと絶対に成熟してこない

 松本ぷりっつ本人は幼稚園の先生をやっていたので、結婚する前から子供を扱うことに慣れていたのだが、それでも自分が赤ちゃんを産んでみると、その育児が大変であるということ気付く。

「<保育>と<育児>は全然違うんだ!」

これが解ったからこそ、『うちの3姉妹』は育児をしている母親たちに非常に強力な説得力を持つのである。

 出産は大変である。妊婦は出産後に産褥熱で死ぬ可能性がある以上、出産はまさに命懸けである。そして赤ちゃんを産んでしまえば、常に育児をし続けなければならないのであって、大変なことは幾らでも起こって来る。母親たちの中にはその大変なことばかり取り上げる人たちがいるのだが、

「大変なことがあるからこそ感動は大きい」

ということを完全に忘れているのだ。

 出産は大変であるかもしれない。しかし大変だからこそ感動は大きいのであって、その感動を味わったのなら、「もう1回味わってみたい!」と思うものだ。育児なんかは日々それはもう大変かもしれない。だが子供たちはその大変さを全て吹き飛ばすくらいに感動なことを与えてくれるのである。

 母親であるなら、3人赤ちゃんを産んでやっと1人前になれるものなのである。3人も赤ちゃんを産んだということは、その母親が出産や育児で感動したからこそ3人も赤ちゃんを産んだのである。子供の数が1人や2人ではまだまだなのである。

 大変な事を拒絶しているようでは「未熟者」というしかない。自分にとって大変なことをやらないと、実力がつかないし、それに感動を味わうことができない。自分が成熟していくためには、地道に大変なことをやり続けていって、感動を味わって行くしかないのである。

●人生の宝箱、人生の落とし穴、そして感謝

 人間の人生は「人生の宝箱」を見つける旅なのである。人生の宝箱を見つけるためには旅に出なければならず、旅に出ない人はどうやったとしても見つけることができない。旅に出た人だけが旅の途中で人生の宝箱を見つけ、自分の人生を豊かにして行くのである。

 人生は人生の宝箱がある反面、「人生の落とし穴」もあるのであって、そこをどう乗り切るかが大事なのである。松本ぷりっつさんの場合、中学生の時は暴力教師から暴力を振るわれ、短大時代には学費を稼ぐためにバイト三昧をしたり、幼稚園の先生自体には園児たちによって翻弄されたりと、それなりの苦労はちゃんと経験しているのである。

 そういうメリハリのある人生を歩んできたからこそ、結婚でき、子供たちが生まれ、一人で生きていては絶対に味わえない感動を味わうことができたのである。子供たちは出生時からどんどん成長していくから、その幸せは時間と共に大きくなっていくのである。

 こんなに楽しい人生を送っていれば、当然に「感謝」できるようになる。今となっては自分に暴力を振るった教師にも感謝できるようになるのである。尤も生徒に暴力を振るうのは教師として失格なのだが、ああいう嫌なことがあったからこそ、松本ぷりっつさんは子供たちに暴力を振るわない母親になったとも言える。

 松本ぷりっつさんは「子供の面白さ」に気付いたからこそ、『うちの3姉妹』を書いたのである。児童虐待とかを持ち出して来る人がいるものだが、そういう人は子供の面白さに気付けていない人なのである。どんな人にも人生は限られた時間しかないのだから、面白いをことを見つけ出してそれを楽しまないと、時間はアッという間に過ぎ去り、人生は苦しみだらけで終わってしまうものなのである。

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なぜ赤ちゃんは眠りまくるのか?

●寝まくりの赤ちゃん

 人間の赤ちゃんはとにかく眠りまくる。赤ちゃんの場合、起きている時間よりも睡眠時間の方が多くなる。

生後1ヵ月 20時間から22時間

生後3ヵ月 17時間から19時間

生後6ヵ月でも15時間以上

よくぞこんなにも眠ってくれると思うが、他の動物の赤ちゃんがこんなにも寝ないのに、なんで人間だけがこんなに寝るのかという不思議が存在する。

 その理由は、

「人間の赤ちゃんは脳が未熟な状態で産まれて来るから」

ということなのである。人間は進化の完成体ではなく、進化の過程にあるのである。だから赤ちゃんを成熟させた状態で産むことができない。赤ちゃんが未熟な状態で産んでしまい、育児をすることで成熟させていくのである。

 赤ちゃんは睡眠によって脳にエネルギーを集中させるのである。このため睡眠時に脳が発達するのである。赤ちゃんにとってみれば起きていれば起きているほど、その活動のためにエネルギーが奪われてしまい、肝腎の脳を発達させることができなくなってしまうのだ。

 だから育児に於いては母親の役割が非常に重要になる。母親が赤ちゃんの世話をするからこそ、赤ちゃんは安心して眠ることができるのである。もしも赤ちゃんを母親から切り離した場合、赤ちゃんは安心することができないので、それで脳に甚大な悪影響を与えてしまい、本来なら発達できるまでの領域に達しなくなってしまうのである。

 人類の中には時折異常な考えを持つ人たちが出て来て、家族制度を解体すれば、人間はより自由になれると言い出す連中が出て来る。ジャン・ジャック・ルソーやカール・マルクス、そして現代ではフェミニストたちだ。しかし家族制度を解体した所で人間の自由は拡大せず、それどころか一切の自由が消滅するという取り返しのつかない大失敗をやらかしてしまうことになるのだ。

●寝る子は良く育つ

 昔から「寝る子は良く育つ」と言われてきたが、これは本当である。人間の赤ちゃんは睡眠時に脳を発達させる以上、赤ちゃんは寝てくれた方がいいのである。母親が育児に於いてやっていることは、言わば赤ちゃんを如何に良く眠らせるかであるのだ。

①散歩

 赤ちゃんのようにミ未熟な脳の持ち主にとっては、家の外は非常に刺激的なのである。太陽の光、風の音、木々の音、水の流れる音、草花の香り、鳥の囀り、それが全てが赤ちゃんの脳を刺激させるのである。そして外界の刺激は脳を疲労させ、赤ちゃんはその疲労のために熟睡してしまうのである。

 赤ちゃんにしてみれば、自然環境豊かな場所で育つ方が良い。都会のように人工的な場所では、赤ちゃんの脳にとってはそれほど良くなく、寧ろ悪影響の方が多い。都市を建設する際には、建物を密集させるのではなく、自然豊かな都市を作っていかないと、社会は低能な人間たちで溢れ返ってしまうことになるのだ。

②子守唄に絵本の読み聞かせ

 母親の子守唄も赤ちゃんの脳には刺激的なのである。母親の歌声で脳が疲労し、熟睡してくれるのである。子守唄がかなり低い声で歌われるのは、胎内で聞いた母親の声に近くなるからなのである。このため低い声の子守唄は赤ちゃんを安心させ、眠りへと誘うのである。

 絵本は聴覚に視覚が加わり、より脳を刺激させることになる。絵本になると物語が出て来るので、それで赤ちゃんの脳はその物語を理解しようと必死になるのだ。その物語は「起承転結」の物でなければならず、これができていないと絵本としては失格なのである。だから絵本ならなんでもいいということではなく、良く吟味してから使わなければならないのである。

③おんぶに抱っこ

 赤ちゃんをおんぶ紐で括りつけるのは、赤ちゃんに母親の声を聞かせ、母親の行動でより多くの物を見、そして母親の体と接触することで体に刺激を与えるのである。当然にこれは脳に最大量の刺激が行きまくり、それで赤ちゃんは眠ってしまうのである。

 ベビーダンスはこのメカニズムを使っただけのことで、ゆっくりとしたダンスは胎内にいる時と同じ揺れを引き起こすので、それで母親がベビーダンスをすれば、赤ちゃんは爆睡してしまうのである。これに慣れてしまえば、家事をしながらでも赤ちゃんを寝かすことができるようになるものなのである。

 子供がかなり大きくなっても、おんぶや抱っこを強請るのは、おんぶや抱っこをされるのが気持ち良くて、自分が赤ちゃんの時には爆睡してしまったからなのである。このため子供がおんぶや抱っこを要求してきた時に、母親としては面倒臭いものであっても、それに応じることは、子供の精神に非常に良い影響を与え、その後の子育てが随分と楽にしてくれるのである。

●早寝早起きを習慣づけることの大切さ

 乳児の段階では早寝早起きを習慣づけるのは難しいのだが、卒乳してしまえば、早寝早起きを習慣づけるのは非常に簡単である。自分が起きてこなければ飯にありつけることはできないので、それで起きる羽目になる。起きれば疲労するから、夜になれば眠たくなり、寝てしまうのである。

 子供たちにはどんなに遅くなっても、午後9時までには寝かせてしまうことだ。午後9時に寝てしまえば、翌日の午前6時に起床したとしても、丸丸9時間は睡眠を確保できるのである。子供によっては9時間睡眠でも足りない子が出て来るので、早寝しておけば、朝寝坊したとしても、充分な睡眠時間を確保できるということなのである。

 現代の生活は電化されているので、夜になっても照明が赤々とついているものだ。このため子供たちは夜になっても眠らないのだ。だから早寝早起きを習慣づけるのは母親の仕事なのであって、夜になれば子供たちを寝かしつけ、夜更かしなどしないようにしなければならないのだ。

 そうやって子供たちが寝てくれれば、親たちも早くに眠ることができるので、それで自分たちも健康でいられるようになるのだ。独身の人が意外と簡単に病気に罹って早死にしてしまうのは、子供がいないために平気で夜更かしをしてしまうからなのである。

 16歳までは睡眠時間は最低でも9時間を確保しておいた方がいい。16歳以降は多少睡眠時間を減らしてもいいが、16歳までは睡眠時間を多く持っていた方がいいのだ。睡眠時間を削ってまで何かをするというのは、子供の内は絶対にやってはならないのである。

●子供の夜更かしや徹夜は脳に有害

 子供の脳は成長過程にある以上、子供の夜更かしや徹夜は厳禁なのである。夜更かしや徹夜は脳に有害なのである。子供が夜更かしや徹夜をやっていれば、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまい、その後、どうやったとしても、その損害を補うことはできなくなってしまうのだ。

 就寝前のテレビは非常に危険で、就寝前にテレビを見てしまうと、脳が覚醒してしまい、眠ることができなくなってしまうのだ。これはパソコンの画面も同じで、就寝前にパソコンなどやらせてはならないのだ。布団の中で携帯電話やスマホをやったりするのもダメなのである。

 夜更かしや徹夜が脳に悪いからといって闇雲の禁止しても子供たちは従わない。だから子供たちにはきちんと説明して、「早寝早起きすれば頭が良くなる」ということを教え、本人が納得すれば、後は本人が自発的にやってくれるようになるのだ。

 もしも子供が夜になっても寝ないというのなら、何かスポーツでもやらせて、日中の間に体をヘトヘトにさせることだ。そうすれば夜になれば自然と眠たくなるので、それで早寝をしてしまうようになるのである。逆に言えば夜寝ない子は、体力が有り余っているということなのである。

 生きていれば解ることだが、中学生や高校生の頃には成績が良かったのに、いざ社会に出てみると大した功績を打ち立てることができない者たちが続出してくる。そういう人たちは子供の頃に睡眠時間を充分に確保しなかったからこそ、大人になってその代償を支払っているのである。

 どの人間も未熟児の状態で産まれて来る以上、後はその育て方なのである。育て方の違いで、人間の能力は大いに変わり、その大きな違いが人生の明暗を分けてしまうのである。 人生に成功したいのなら、睡眠時間を充分に確保する生活を送るべきなのである。

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ノーミスの悲劇

●当たったのは第三位だけ

 ソチ五輪の女子フィギュアでロシアに金メダルが取れて本当に良かった。ロシア政府は女子フィギュアの振興に大金を投入していたので、これでもしも日本の選手が金メダルを取ってしまったら、大変なことになっていたと思う。これで「ロシアは女子フィギュアでは金メダルを取れない」というジンクスが消えたので、女子フィギュアはより発展していくことだろう。

 しかし俺の事前予想は大いに外れてしまった。事前予想では、キム・ヨナを抜いた上で、

第一位 ユリア・リプニツカヤ

第二位 浅田真央

第三位 アシュリー・ワーグナーかカロリーナ・コストナー

とした。

 ところが結果は、

金メダル アデリナ・ソトニコワ

銀メダル キム・ヨナ

銅メダル カロリーナ・コストナー

になってしまった。予想的中率はたったの「25%」。しかもカロリーナ・コストナーは予備として配備していたので、余り自慢できない。ただロシアの選手が金メダルを取るということは当たっていた。

 俺としてはショートではユリア・リプニツカヤの演技が一番良かった。転倒してしまったけど、手の込んだプログラムだったので、断然に光っていた。フリーではカロリーナ・コストナーのボレロが一番良かった。彼女は体が大きいから、ボレロをやると迫力があった。

 浅田真央のフリーの演技は日本中、そして世界中に感動を与えたが、俺としては敢闘賞といった所である。全てのジャンプをプログラムに入れるという女子フィギュアの歴史で初の出来事だったのだが、なんせ選曲が悪すぎる。ラフマニノフでは暗過ぎるのだ。

 俺としてはそれよりも、浅田真央がもうメダルことなど忘れて、無欲になって演技をやってくれたことの方を評価したい。最初からそれをやれば良かったのである。ショートでは金メダルのことが念頭にあったからこそ、試合では転倒してしまったのである。

●ノーミスという考え自体が間違っている

①ノーミスは絶対に有り得ない

 浅田真央の一体何が悪かったのかといえば、「ノーミス」という考え方なのである。フィギュアスケートではノーミスの演技など絶対に有り得ない。たとえショートでそれをやれば、次のフリーでミスを大量にやらかしてしまうのである。「80対20の法則」はフィギュアスケートでも例外なく作動しているのである。

 やるべきは「ミスを想定した練習」なのである。例えば3回転ジャンプが危険なら、多少乱れてもいいから転倒せずに着地するとか、2回転ジャンプに切り替えてしまい、その後に加点できる物を用意するとか、そういうことが必要なのである。

②筋肉量の少なさ

 浅田真央がショートに於いてトリプルアクセルジャンプで転倒してしまったのは、筋肉量が少ないからなのである。伊藤みどりがトリプルアクセルジャンプを飛べたのは、足にしっかりと筋肉がついていたからなのである。太腿の筋肉量を増やす筋肉トレーニングをしておけば、ああいうミスはしなかったのである。

 筋肉量を多くしてしまうと、見た目が物凄く悪くなる。伊藤みどりはそれで批判されたのである。しかし3回転ジャンプを跳ぶことが当たり前になってしまった今では、見た目が悪くなったとしても太腿を太くし、ジャンプで転倒しないようにしなければならないのだ。

③天中殺

 今年の浅田真央は天中殺である。天中殺である以上、自分が欲しい物は絶対に得られない。だから今回の五輪で金メダルを取りに行こうとしたことそれ自体が間違っていたのである。天中殺の時は無欲に徹する。フリーでは無欲に徹したからこそ、あれほど感動的な演技ができたのである。

 ただ、メダルを取ることができなかったといっても、浅田真央はメダルを取れなかったことで、運を使い切らなくて良かった。ここで運を使い切ってしまえば、その後の人生が不幸が続くことになるものなのである。運というものは絶対に使い切ってはならないのである。

●日本女子フィギュアの新機軸

 浅田真央が引退することで、日本の女子フィギャアは黄金時代を終えた。今後、日本の女子フィギュアはすべきことは「新機軸」を打ち出し、新たなる女子フィギャアを創造して行くことなのである。今と同じようなことをやっていては絶対にダメなのである。

①基本をしっかりと身に着ける

 まずは基本をしっかりと身に着けることだ。基本は10歳までに出来上がると考えるべきなのである。だから自由にやらせて学ばせていくのではなく、或る程度滑れるようになったら、猛特訓を施して、全ての技を正確にこなせるようにしていかなければならないのである。

 女子フィギャアのレベルが上がって来ている以上、試合に於いてジャンプで転倒しただけメダルを逃すようになっているのだ。ジャンプで転倒するというのは体調がどうのこうのより、基本をしっかりと学んでこなかったということなのである。

 キャンドルスピンに関して言っておくと、この技はいずれ標準技となる。というのは、これをやるだけで3回転ジャンプをしたと同じ得点を得ることができるからだ。現在、これをやれるのはユリア・リプニツカヤだけであるが、サーシャ・コーエンもこれと似たようなスピンをしていた。やればできるものなのである。

②筋肉量を増やす

 筋肉量を増やすことは日本の女子フィギャアにとって最優先されるべき課題である。なぜなら日本の女子フィギュアの選手たちはなぜだかみんな足が細いのだ。そのためにジャンプでミスをやらかしまくっているのだ。筋肉量が多くないと何度の高いジャンプを飛ぶことができず、それどころか転倒してしまうものなのである。

 しかし筋肉量を安易に増やしてしまうと、身長の伸びが止まってしまうというリスクがあるのだ。無闇に筋肉トレーニングをしなければならないというものではないのだ。これにはスポーツ科学が絶対に必要で、どうすれば身長の伸びを妨害せず、女子フィギュアに必要な筋肉を付けさせていくべきかちゃんと科学しなければならないのである。

③表現力の問題

 表現力の問題は日本の女子フイギュアが絶対に克服しなければならない問題である。表現力の問題は日本人選手が最も不得手とする所なのである。日本人は目が細いために、自分の感情がなかなか伝わらないのである。この点、白人女性たちは目が大きいので、非常に有利に立っているのだ。

 だから目の大きな女の子がいたら、その者をスカウトして女子フィギュアをやらせればいいのである。実に単純な方法かもしれないが、目の大きな女性は表現力が豊かなので、それで高い評価を貰えることができるようになるものなのである。

④フィギュアスケートのテレビ中継を改善する

 今回の五輪では報道の過熱が浅田真央を窮地に追い込んだといっても過言ではない。女子フィギュアは全国民が注目するので盛んに報道することは解るが、かといって報道が過熱してしまえば、女子フィギュアの選手だって行動が大いに制限されてしまい、それでメダルを逃すということになってしまうのである。

 それとフィギュアスケートのテレビ中継にアイドルを使うはもうやめた方がいい それよりも元女子フィギュアの選手に技の解説をちゃんとやって貰いたい。そういうことをしないと、フィギュアスケートのファンたちのレベルが上がらなくなってしまうからだ。自国の選手を贔屓してもいいが、外国の選手で素晴らしい演技をやったのなら、それをきちんと評価するくらいのレベルの高さを持つべきなのである。

 フィギュアスケートのテレビ中継で、フィジテレビのアナウンサーは実況になっていない。このテレビ局は本当に酷いテレビ局で、フジテレビでフィギュアスケートのテレビ中継があると俺は見たくないほどなのである。あんな実況をやっているようでは、日本のフィギュアスケートのレベルはどんどんj低下していくだけなのである。

⑤キットカットを食うのは絶対にやめた方がいい。

 日本のフィギュアスケートの選手たちは縁起担ぎで「キットカット」を食うのだが、これは絶対にやめた方がいい。キットカットを食ってもパワーが出て来ないのだ。それどころか白砂糖が大量に含まれているので、ミスの原因になttり、骨折やヘルニアの原因にも成りうるのだ、

 フィギュアスケートは体力をかなり使う以上、肉や魚をしっかりと食べるようにすべきなのである。寒さ対策のためには植物油が必要で、オリーブ油なども多目にも摂取しておいた方がいい。そういう食事をしていると、キットカットのようなお菓子を食いたいとは思わなくなるものなのである。

●キム・ヨナの犯した罪

 日本国民はキム・ヨナが犯した罪を絶対に忘れてはならない。それは、

「それってフィギュアスケートじゃないじゃん」

ということなのである。キム・ヨナのプログラムは技術的に最高点が出るように仕組んでいるだけで、そこに何かの芸術作品が存在するのではないのだ。だからなんの感動もない。それなのに最高点が出るために、前回の五輪では金メダルを取り、今回の五輪では金メダルを取ってしまったのである。

 この「フィギュアもどきの物」が厄介なことに国際審判団の研修用ビデオに使用されてしまったのである。このためキム・ヨナのフィギュアもどきに高得点が出るだけでなく、他の女子選手であっても、このフィギュアもどきをやると高得点が出てしまうようにしてしまったのである。

 だから今回の五輪でアデリナ・ソトニコワは「キム・ヨナ」スタイルを採用して、得点が高くなるようなプログラムを作り、それで金メダルを取ったのである。最終グループの演技を見れば解ることだが、フィギュアスケートをちゃんとやっていたのは、カロリーナ・コストナーだけである。キム・ヨナの成功で、女子フィギュアは大いに歪んでしまったのである。

 キム・ヨナは確かに金メダリストだが、言動の節々で実に傲慢な所があり、女子フィギュアの選手らしかぬ言動なのである。しかも顔に黒い靄がかかったような顔つきをしている。これは「邪気」なのであろう。アデリナ・ソトニコワもキム・ヨナほどではないが、やはり顔に黒い靄が出ていた。

 日本の女子フィギュアがすべきことは、「正統なフィギィアスケート」を遣り続けることなのである。いずれ「キム・ヨナ」スタイルのフィギュアもどきには批判が続出し、元のフィギャアスケートに戻る筈である。フィギュアスケートは氷の上で芸術作品を作るからこそ楽しいのであって、ただ単に高い技術を見せればいいというものではないのだ。

●次の冬季五輪ではユリア・リプニツカヤが優勝候補

 ユリア・リプニツカヤはいずれ金メダルを取ることになるであろう。年齢的に言って次の五輪もその次の五輪にも出られる。後2回も出場すれば、金メダルを取ることができることであろう。15歳という年齢を甘く見てはならない。女性は10代後半で急成長してくる以上、この選手は今よりももっと腕を上げてくることになるのだ。

 かといって、現在のユリア・リプニツカヤには問題が山積みである。まず、コーチがベタベタし過ぎなのである。そのお蔭で、ユリア・リプニツカヤは試合中いつも冴えない顔をしていた。幾ら彼女が小さいからといって、彼女を子供扱いせず、彼女の人格をちゃんと尊重して欲しいものだ。

 今回の五輪で、ユリア・リプニツカヤはショートもフリーも転倒したが、それは太腿が細いからだ。今シーズンは転倒しなかったのに、なんで五輪の時だけ転倒してしまったのかといえば、それは五輪特有の緊張感が彼女の体を堅くさせたのである。こういう時に筋肉量が多ければ、転倒しなかった筈なのである。

 だから今後、ユリア・リプニツカヤの太腿がどうなるかで、五輪の金メダルの行方は変わって来る。足が細いままなら、他の国々にも金メダルを取るチャンスはあるということだ。尤も金メダルを取るためには、彼女のキャンドルスピンにどう対抗して行くかが問題になる。

 そこで俺もユリア・リプニツカヤに対抗してキャンドルスピンをマスターしてみようと思った。全裸になって足を上げて、お股全開にして、そして回転。回った! 回った! 俺だってやればできるんだ!

 だが、当然の如く転倒。

 ドテッ!

「チンチンスピン」になってしまった~。

 因みに評価は「レベル1」。減点1点。

 う~ん、フィギュアスケートの奥は深い。

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『この世界の片隅に』 ~戦争のことを伝えることの難しさ~

●戦争の記憶は風化してくれないと、正しいことが伝わらない

 俺は様々な本を読んで来た中で、本の中にはその著者が嘘を言っているわけではないだが、その本の内容をそのまま信用できない物があるということを発見してしまった。その代表例が戦争体験に関する本で、

「戦争を経験した者は戦争を冷静に見ることができない」

というのが俺の結論なのである。

 毎年、八月になると、大東亜戦争の敗戦を記念して、戦争の悲惨さを殊更に強調する本が出版されることになるのだが、マスコミはそれを煽り、「戦争の記憶を風化させてはならない」と言う。しかし戦争の記憶は風化してくれないと、正しいことが伝わらないのだ。

 我が家では父親が戦争を体験した年代であったので、子供の頃から良く戦争の話をしてくれたものだが、父親は食料不足でとにかくお腹を空かせていたらしい。食べる物といえば日々雑炊くらなもので、米の飯をしっかりと食ったことなどなかったというのだ。

 学校に行けば歴史の授業で、戦時下や占領中の食料の欠乏をこれでもかいうくらいに教えられる。買い出し列車が満員で、車両の上にまで乗客が乗っている写真を見せられれば、当時の人たちは食料を手に入れることが困難だったんだな~と信じてしまう。

 ところが或る時、母方の祖母と戦争のことを話していた時、母方の祖母は、

「戦時中も占領中も食料で困ったことは一度もなかった」

とはっきりと言ってきたのである。主婦として家事を取り仕切った者の意見なのだから、これは事実なのであろう。母方の実家は農家であり、母方の祖父は近衛兵だった。

 そこで調べてみると、当時には「国家総動員法」という悪法があって、統制経済を実施してしまったからこそ、国民の生活は極端に貧しくなってしまったのである。商品は生産されているのに、政府が配給をやったために、国民にその商品が届かなかったのである。

 それで都市に住む人たちには食料不足が起こり、俺の父親みたいな人たちが大量発生したということなのである。

●戦時下の生活を描くことの難しさ

 今回紹介する本はこの本!

 こうの史代著『この世界の片隅に」(双葉社)

  この世界の片隅に(前)

  この世界の片隅に(後)

 今まで漫画を紹介してこなかったが、今回特例として漫画を取り上げる。漫画は読み易い物ではあっても、その内容が希薄であるために、どんなにいい漫画であったとしても評価することができないのだ。しかしこうの史代の『この世界の片隅に』は漫画でしか描けないような当時の生活が出ているので、書籍ではないがそれなりに評価した方がいいと考えたのである。

 物語は「すず」という主人公が呉市に住む男性の所に嫁ぎ、戦時下を逞しく生き、アメリカ軍の空襲に遭って右手を失いつつも、どうにか生き延び、敗戦後、原爆投下で廃墟と化した街の中で孤児を見つけ、それを養子にするというお話である。

 恐らく主人公は著者本人であろう。主人公は絵を描くのが好きで、普段の生活ではボサ~ッとしているのだが、俺は「こういう女性は戦時中にはいないだろう!」と突っ込みをいれたくなるほであった。ただそういう非現実的な主人公だからこそ、当時の生活が新鮮に伝わってくるのである。

 俺が最も気になったのは、「食料」のことである。嫁ぎ先では夫や舅が軍関係の仕事に勤めているという設定なのだが、それでも食料不足の深刻さがまるで伝わってこないのだ。畑を持っているが田圃を持っていない以上、配給のお米では絶対に遣り繰りできないのであって、お米は闇市場で調達するしかないのである。それがないのだから、リアリズムに欠けるのである。

 それでも著者はこの漫画を描くために相当に調べたようで、当時の生活をかなり忠実に再現している。戦時中は政府が戦争を遂行するために様々な統制をして行ったので、それを次から次へと描いていかなければならないのだ。こういうことは文章で表現するよりも絵にしてしまった方が理解し易いのだ。

 戦時中は呉市が狙われた。呉市には海軍基地があり、しかも軍需工場もあったので、アメリカ軍は執拗に空爆を繰り返したのである。空襲は1回で終わるものではなく、何度も何度も襲ってくるので、空襲で人が死傷するだけでなく、生活自体が滅茶苦茶になってしまうものなのである。

 その一方、戦時中、広島市は平和だった。広島市には空襲がなかったからこそ、広島市に疎開した人たちがかなりいたのである。空襲を受ける呉市と、平和な広島市と配置することで、この物語には「陰陽」が出て、物語が一方的に展開して行く話とはまるで違う物になるのである。

●広島市は原爆が投下されるまで平和だったが・・・

 しかし、あの日の天候が命運を変えた。昭和20年8月6日、アメリカ軍は当初、小倉市に原爆を投下する予定だったのだが、その日の小倉市では曇だったので、それで広島市に原爆投下場所を変え、それで広島市に原爆が投下されたのである。

 原爆投下の惨劇を生々しく描いてしまうと、どうしても説教臭い所が出て来てしまう。その漫画に幾らリアリズムを出したとしても、その作者は「反核」の信念に凝り固まっているので、その真意を読者たちが見破ってしまうのである。だから敢えて原爆投下の惨状を描かない方が、説教臭い所がなくなるのである。

 呉市の場合、原爆で壊滅した広島市に救助に出たために、「二次被曝」という事態を引き起こしてしまった。原爆の被害者は広島市民だけなのではなく、広島市民を助けに行った人たちも二次被曝という形で被害を受けたのである。「原爆=広島」と短絡的に考えてしまうと、大間違いを引き起こしてしまうのである。

 物語の前半は、戦争中ではあっても平和な日常が続くので、後半から空襲のシーン、そして原爆投下後の惨劇ということになるので、物語が巧く盛り上がって行くのである。当然に戦争が終われば、この漫画も終わりということになる。

 庶民は戦時下であってもしぶとく生きて行くしかない。それは戦争が終わってもなんら変わらないのだ。戦争に関しては、「戦争と平和」という視点で書く方法もあるが、「庶民の視点」で書いた方が戦争の実態を巧く伝えて行くことができるのである。

●この人は絶対に被爆者でも被爆者2世でもない

 俺はこの漫画を読んで、

「この人は絶対に被爆者でも被爆者2世でもない」

と直感した。プロフィールを見ると広島県広島市出身なので、被爆者だったり被爆者2世だったりする可能性もあるのだが、絵や言葉に憎しみがないのだ。仄々としている。そこで調べてみるとやはりただ単に広島市出身なだけであって、被爆者でも被爆者2世でもなかったのである。

 そうなると気になるのは、漫画の中で自分の夫は海軍で働いているというのに、軍隊をバカにしたようなシーンが何度か出て来ることなのである。当時、軍隊で働いていた人は帝国陸海軍への思いが激しいし、その家族だってそれは同じなのである。

 恐らく広島市の学校で余りにも酷い平和教育を受けてしまったのだろう。広島市で行われている平和教育というのは本当に絶句させられる。広島の惨劇を教えることで、子供たちに社会主義を洗脳し、将来、社会主義者にするためのものなのである。これを裏から指導しているのが日本共産党であることからもそれが解る。

 広島は「安芸門徒」と言われ、浄土真宗が非常に強い地域なのである。浄土真宗の信者たちの中には社会主義者たちが大量にいる。そして浄土真宗と社会主義が融合すると、とんでもない教育が生まれて来てしまうのである。このため広島市で学校教育を受けてしまうと、どうしても歪んでしまうのである。

 因みに同じ被曝都市の長崎市には広島市のような異常な教育は見られない。長崎市にはキリスト教徒たちが多いので、原爆のことを余りにも追及し過ぎると、原爆投下を行ったのは同じキリスト教徒であるアメリカ人であるということになってしまい、非常に拙いことになってしまうのである。

●こうの史代の宗教は?

 家は浄土真宗を宗旨としているのであろう。漫画には浄土真宗の信者しか知り得ない情報が出ている。しかし浄土真宗の信者たちのように嘘出鱈目が連発していないのだ。こうの史代は原爆のことに対して真摯に向かい合っているのである。俺には、

「原爆の惨劇のことを正しく伝えたい」

という彼女の思いがヒシヒシと伝わってくるのだ。

 こうの史代から神道の臭いがプンプンとするのだが、調べてみると彼女は『ぼおるぺん古事記』なる漫画を描いているのである。ヤッパリである。神道の影響を受けない限り、こういうことはしないのだ。かといって本物の神道家ではない。神道家として真心を発見してしまえば、浄土真宗を棄教して来るものなのである。

 結婚はどうなのか? 

 主人公は結婚しているというのに、ラストでも精神的には少女のままである。結婚による精神的な変革がない。それに結婚早々に子供ができないということを苦にしたり、孤児を養子に迎えるというラストシーンが気になる。著者本人は結婚していないか、結婚していたとしても子供がいないのじゃないか? 少なくとも「母親の臭い」がしない。

 小説であれ、漫画であれ、女性が作者の場合、自分自身が結婚して赤ちゃんを産み育てていないと、結婚のシーンや育児のシーンをきちんと書けないのである。女性が本物の作品を作りたいと思うのなら、とっとと結婚して子供を産み育てるべきなのである。

 こうの史代が広島市出身だからといって、余りにも原爆に拘ることは如何なものかと思ってしまう。多分、こうの史代が得意とするのは、他の作品の『長い道』みたいな平凡な日常を描いた漫画なのである。原爆を持ち出せば、どうしても重たい漫画を描かなければならず、こうの史代としては非常に危険なのである。

●参考文献が余りにも酷すぎる

 『この世界の片隅に』の巻末に、

「間違っていたのなら教えて下さい。今のうちに」

と書かれてあるので、俺が間違っている箇所を指摘してあげよう。それは、

「こうの史代さん、参考文献が余りにも酷すぎる!」

ということなのである。

 『この世界の片隅に』には参考文献が列挙されているのだが、実は彼女自身、ここの挙げていない参考文献を使っている。それが解るのが他の作品の『夕凪の街 桜の国』であり、この作品に列挙されているのは、「朝日新聞社」「岩波書店」「三一書房」と全部「社会主義に洗脳された会社」なのである。これに「大月書店」が加われば、「この漫画はプロレタリア漫画である」ということになってしまうぐらいなのである。

 しかも『はだしのゲン』を参考文献に使うのは絶対に拙いだろう。『この世界の片隅に』でも明らかに『はだしのゲン』を見た上で描いたシーンが出て来るので、これはもう『はだしのゲン』をそのままパクったなということがすぐに解ってしまうのである。

 漫画家が作品を作るために他人の漫画を読むことはあっても、それを参考文献に挙げることは絶対に許されてはならない。しかも『はだしのゲン』は作者が社会主義者であり、社会主義革命を引き起こすためにこの漫画を描いたのである。内容に余りにも問題が有り過ぎたために、連載が打ち切られたほどの作品なのである。

 こうの史代が本物の神道家なら、こういうインチキ極まりない作品を拒絶することであろう。しかしやはり浄土真宗の信者ゆえにこういうインチキを見破ることができないのである。著者の宗教心は想像以上に作品に影響を齎して来るものなのである。

●原爆の惨劇ことを書くことの難しさ

 俺は『この世界の片隅に』を読んでつくづく思ったのは、

「原爆の惨劇のことを書くことの難しさ」

である。どんな作品を書いたとしても、被爆者たちは「それは違う!」と反論してくるものなのである。被爆者たちは被曝したことで自分の人生を大いに狂わされてしまったので、作品を冷静になって読むことができないのである。

 きつい意見ではあるかもしれないが、被爆者たちが全員死んでくれないと、原爆の惨劇のことを正しく書くことができないのである。『はだしのゲン』が出版された時はまだ相当多くの被爆者たちが生きていたが、『この世界の片隅に』が出版された時は被爆者たちが高齢ゆえにかなり減少していたのである。

 それに原爆のことを書こうとすれば、どうしてもアメリカ合衆国の戦争犯罪に触れなければならない。そうなると現在、日本はアメリカ合衆国と同盟している以上、下手に戦争犯罪を追及できないのである。だからアメリカ合衆国が滅亡した後になって初めてちゃんとした正確な事実が出て来ることになるのである。

 ここに広島の惨劇を語ることの難しさがあるのだ。

 嘗て中国でも秦王朝滅亡後に起こった「楚漢興亡戦」を経験していた者たちが生きている時には「楚漢興亡戦」のことを正しく書くことができなかったのである。その戦いに参加した者たちが全員死んだ後に、司馬遷が『史記』を書き、楚漢興亡戦に於いて何が行われたかを書き綴ることができたのである。

「時間が物事を解決してくれる」

という考えを戦争に対して持つしかないのである。戦争の記憶が風化した後に、歴史が書き綴られるのである。戦争というものはそういうものなのである。

 『この世界の片隅に』を名作だと評価することはできない。せいぜい努力賞を与えるくらいである。読んでみれば問題の箇所は多々見つけてしまう。しかし問題はあったとしても『はだしのゲン』とは比べ物にならないくらいマシな作品であるということは言える。こうの史代は少なくとも、自分の作品を通じて読者たちに社会主義を洗脳しようという気は全くないのである。

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なぜ夫は妻の手料理を「美味しい!」と言ってくれないのか?

●無言の食事

 人間は美味しい料理を食べれば喜ぶし、不味い料理を食べれば喜ばない。人間は食事に対しては意外と単純なのである。だから女性は結婚したのなら、とにかく料理の腕を上げようと必死になる。なぜなら美味しい料理を出せば、夫は喜んでくれるからだ。

 「80対20の法則」を使えば、結婚後、美味しい料理を作れる既婚女性は20%~30%しかいないことになる。この数値は結婚して「本当に幸せになれた」と思う既婚女性たちの数値とピタリと一致しているのだ。となると、既婚女性たちの70%~80%は美味しい料理を作れないために、結婚しても幸せになれないということになってしまう。

 妻が不味い料理を作ってきたのなら、夫は絶対に褒めない。当たり前のことだ。そんなに不味い料理を毎回食わされれば、会話なんてあるわけがないのだ。だから不味い料理が続くと「無言の食事」になってしまい、そうやって夫婦が会話しないと、夫婦の愛情だって冷めて行ってしまうのである。

 厄介なことは、夫婦仲が悪化した原因は妻が作った不味い料理にこそあるのに。なぜだか妻はそのことを反省せず、夫の欠点をあれこれ言いまくるのである。その指摘はどれも尤もかもしれない。しかしその指摘を聞いた所でどうにもならないのだ。

 妻が美味しい料理を作れば、その夫婦が抱える問題は全て解決できてしまうのである。何も高級料亭に出て来るような料理を作れと言っているのではない。普通の家庭料理であっても、美味しいと思えるくらいのレベルの料理は作れと言っているのである。

●家庭料理は独占である!

 まず家庭料理というものは「独占」であるということが解っていなければならない。妻が家庭料理を独占し、それによって夫や子供たちに食事を食わして行くのである。だから美味しい料理を出すことは勿論のこと、健康のことにまで気遣って料理を作らなければならないのである。

 家庭料理は独占であるということが解っていないと、外食で食えるような料理を平気で出してしまうのだ。それではダメなのである。例えば外で食う中華料理は普通の中国人たちが食べる中華料理よりも塩や油を多めに使って作っている。そうすれば美味しく感じられるからだ。しかしそんな料理を食っていれば、腎臓や肝臓が傷んでしまい、病気になってしまうのである。

 家庭料理は家庭料理でしかない。その家庭料理を食べれば夫も子供たちも健康になるからこそ出すのである。だから家庭料理は手の込んだ料理ではない。食材というものは料理人が弄れば弄るほど、栄養が破壊されて行くからだ。手間の少ない方が栄養が余り破壊されないので、それで健康になることができるのである。

 妻が家庭料理を独占していれば、夫や子供たちは文句を言わずに食べて貰うことができる。夫も子供たちも料理を作ってくれるのは1人しかいないから、余程のことがない限り文句を言ってこないのだ。だから妻の家庭料理に文句が出て来るようであるなら、その家庭料理は相当に不味いと思った方がいいのだ。

 独占は「慢心」を産む可能性がある。例えば学食や社員食堂は家庭料理と同じく独占である。では学食や社員食堂の料理はどうかというと、それほど美味しくないのだ。慢心を抑えるためにも宗教心は絶対に欠かせない。台所に荒神様を祀ったりして、台所を聖なる空間とすることで、自分の心を聖化し、聖なる料理を作るようにすべきなのである。

●とにかく工夫する

 自分の知っている料理だけを作り続ければ、いずれはネタが尽きてしまうものなのである。それに自分が知っている料理というのは、往々にして自分が好きな料理なのであって、夫や子供たちが好きな料理であるとは限らないのだ。

 だから夫や子供たちに「何が好きなのか?」を訊くべきなのである。訊かないと好き嫌いは解らないのだ。

 人間の好き嫌いは体にとって必要な行為である。子供たちは苦い物が苦手である。苦い物は疲労物質を除去するので、そんなに疲労していない子供たちには不要だからだ。夫は炭水化物よりもオカズを大量に食おうとする。大人になってしまえば、もうそんなに炭水化物は要らず、それよりも蛋白質や脂肪を欲するようになるのだ。

 そこで「工夫」という物が必要になってくる。

 手っとり早い方法としては「料理番組」を見て、料理を工夫する。お金に余裕があるなら「料理教室」に行って料理を基本から勉強する。そういうことが大事なのである。料理の基本が出来ていないからこそ、自分の好きな料理だけを押しつけてしまい、それで反発を買ってしまうのである。

 少し上達してきたのなら、料理本を買って、より突っ込んで勉強することだ。料理本を何冊か持っていれば、大概の注文をこなすことができるものなのである。逆に言えば料理本がなければ、自分が作れる料理は限られてしまうということだ。

 料理は自分が作れる品数を多くしていかないと、絶対に巧くならない。だから「レシピ集」をせっせと作り、自分が作れる料理を増やして行くのである。レシピ集は100枚を超えた時点で圧倒的な威力を発揮し始める。最初は大変だろうが、勇気を出してやってしまえば、いずれ100枚に達するものなのである。

●食材と道具、それに台所

 美味しい料理を作るためには、なんと言っても「食材」に拘るべきなのである。粗悪な食材を使って美味しい料理など作れないのだ。食材はできるだけ新鮮な食材を購入し、逆に加工食品はできる限り使わないようにする。食材は加工すればするほど栄養価が落ちて行くのである。

 主婦の意外な落とし穴が「調味料」だ。調味料でダメな物を使ってしまうと、折角いい食材を使って作ったのに美味しくなくなってしまうのだ。市販の調味料には食品添加物が大量に含まれているので、食品添加物が入っていない物を探して買うようにすることだ。

 美味しい料理を作る料理人は絶対にいい道具を使っている。主婦であってもそうすべきなのであって、道具に拘るべきなのである。特に包丁は徹底的に拘るべきなのであって、料理ごとに幾つかのいい包丁を揃えておくと、料理の出来がまるで違った物になるのだ。

 エプロンなんかも料理の際には着けた方がいい。面倒ではあっても、エプロンを付けると心身が引き締まり、美味しい料理を作れるようになるのだ。エプロンは何も汚れないようにするためだけではないので、もっと大きな意味を持つ道具であるのだ。

 こういうことをしてくると、自然ともっと大きくて使い易い台所を欲しがるようになる。当たり前のことだが台所が大きくなれば、それだけ多彩な料理を作ることができるものなのである。そういう台所を絵に描いておけば、いざ家を建てた時に、本当にその台所を実現することができてしまうのである。

●参加型の料理

 妻が毎日料理を作っているのなら、如何なる妻だって疲れてしまうものだ。そこで時には参加型の料理をやってしまえばいいのだ。参加型の料理というのは、自分が食材を用意するだけで、後の調理はその料理を食べる人たち善人にやって貰うようにするのだ。

 例えば「鍋料理」「手巻き寿司」「焼肉」「バーベキュー」といったものだ。これらの物はそれを食べたければ自ら調理せざるを得ないので、自然と美味しいと感じてしまうのである。参加型の料理は確実に完食に持ち込むことができるので、後片付けが非常に楽チンとなるのだ。

 参加型の料理をもっと発展させると、食材そのものを取りに行くようにすればいい。人間の体は狩猟採集用にできているのであって、外で食べ物を取って来ると、自分の本能を満たすことができ、その食材で料理を作ると非常に美味しく感じることができてしまうのである。

 釣りやハンティング、みかん狩りやぶどう狩り、筍狩りやイチゴ狩り、なんでもいいのである。家族でワイワイガヤガヤしながら食材を調達してくるからこそ、それを使った料理が非常に美味しくなるのである。家の中で食事を食べいるだけでは、こういう感動を味わえないのだ。

 お金持ちの男性たちには或る共通項がある。それは趣味で料理をするということなのである。料理は脳をフル稼働させて作るものなので、自分が料理すると仕事でのストレスが一気に吹き飛んでしまうのである。ここで大事なのは、夫が自発的にやることであって、妻が夫に料理を頼むことではないということだ。

●断食

 こうやって日々美味しい料理を食べていれば、自然と「食事過剰」になってしまう。食事過剰になれば血液汚染を引き起こしてしまうので、それで病気になってしまうのである。家族の健康を保つためには、美味しい料理を作ると同時に、それとは正反対の「断食」も必要になってくるのだ。

 少なくとも月に1回は断食をしたらいい。この断食でお勧めなのは日中断食であって、朝食と夕食を食べていいが、その間、一切の飲食物を断つという断食である。この断食をやると内臓を休ませることができるので、血液汚染を一気に解消して行くことができるのである。

 また豪華な食事を食べた翌日には断食をして、内臓を休ませておくことだ。豪華な食事はどうしても内臓を疲労させてしまう。それなのにその翌日を食事を取っていたら、内臓はより疲労してしまい、それが病気の原因になってしまうのである。

 家族の誰かが病気になった場合、断食を使ってその病気を治すようにしていくことだ。食事を食えば食べ物の消化吸収にエネルギーを奪われる以上、病気の時は何も食わずに寝ているのが一番効果的なのである。病気だからと言って精が付く物を食べさせていたら、病気が余計に悪化するだけなのである。

 断食が有難いのは、ただ単に家族全員を健康にさせるだけでなく、食費が浮き、それによって家計が大いにに潤うことになるのである。「お金がない」と愚痴を零すのなら、断食をやって貯金額を増やして行くことだ。断食を繰り返していけば、自然とお金持ちになって行くものなのである。

●外食を巧く利用する

 妻にとって自分の手料理を夫が毎日食べてくれるほど危険なことはない。妻だって時には料理を失敗する可能性だってあるのであり、毎日料理を食べていれば、夫はその失敗に気付き、文句を言って来るようになるのだ。だから妻は外食を巧く利用して、夫が常に家で食事できないようにさせるべきなのである。

 夫が仕事で外食するのは大いに結構なことなのである。仕事で外食するなら基本的に美味しい料理を食べることになるので、その間、妻は休むことができるのである。夫のいない時は手抜き料理で充分なのであって、そうやってリラックスすべきなのである。

 夫に残業があった時は外で食べて貰うようにすることだ。大体、午後9時以降の食事は体に悪いのだ。残業があるなら、外で簡単に済まして貰えばいいのだ。妻としては子供たちと夕食が終わったのに、また夫のために料理を作らなければならないのは面倒なことなのである。

 親戚の集まりで飯を食うのも外食の一種である。親戚の集まりでは女性たちが一緒になって料理を作るので、自分の料理を巧く隠すことができるのである。このため親戚の集まりをちゃんとやっている既婚女性は夫からの苦情が少なくなるという傾向にあるのだ。

 冠婚葬祭も外食で済ますことが多いので、冠婚葬祭にはちゃんと出席しておくことだ。妻としてはここでも息抜きができるものなのである。但し不必要な冠婚葬祭には参加しないことだ。冠婚葬祭には出席すればお金がかかる以上、無意味な物には出席しない方がいいのだ。

●愛は料理から始まる

 愛は料理から始まる。もしも妻が夫や子供たちのことを愛しているのなら料理を作るものだ。逆に言えば料理のない所で決して愛は生まれて来ない。妻が料理を苦手とし、お惣菜を買ってきたり、インスタント食品で済ませたり、外食を多用しているようなら、その妻は人を愛する資格がないのだ。

 だから妻が仕事をやり始めてしまうと、料理のことに対して充分な配慮をしておかないと、家の中から愛が消えてしまい、お金はあるのに離婚ということになってしまうのである。夫の場合、ただ単に稼いでくればいいのだが、妻の場合はお金を稼ぐだけでなく、自宅で料理をちゃんとこなさなければならないのである。

 それゆえ妻が折角料理を作ったのに無言の食事になってしまうのは非常に危険なことなのである。夫や子供たちに届くような愛のレベルの料理を自分は作っていないということなのだ。逆に言えば夫や子供たちから料理に関して苦情が出て来るのは、まだまだ救いがあるということなのである。

 料理が美味しいと会話が弾むものなのである。だから妻たる者、美味しい料理を作らなければならないのである。食事中の会話量が減ったとか、無言になってしまったとかは、その料理が暗に「不味い」ということを意味しているのである。

 パーティーとかでは、「話題がない時は料理を褒めよ」という諺がある。料理は話題を産むものなのである。料理を出す時はなんの紹介もなしに出してはならないのである。「この料理はね~、何それの食材を使って~」とか言えば、自然と会話が弾むものなのである。

 結局、愛とは積み重ねなのである。日々、愛を積み重ねて行くからこそ、愛は巨大な物に成長していくのである。それゆえ日々美味しい料理を作らなければならないのだ。しかしそれは楽しくとも勤続疲労が溜まるものだから、時には手抜きも必要になってくるということなのである。

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ソチ五輪の女子フィギュアではロシアのユリア・リプニツカヤに金メダルを取らしてあげよう!

●五輪の女子フィギュアで優勝の連チャンはない

 フィギュアスケートの面白さは「新陳代謝の速さ」にある。フィギュアスケートの選手は20代後半で引退するものだし、しかも五輪で金メダルを取れば引退という事実上のルールがある。だからどんどん若い選手たちが入り込んで行くことができ、それがフィギュアスケートを活性化させるのである。

 ところがバンクーバー五輪で韓国のキム・ヨナは金メダルを取ったというのに引退せず、現役を続行するという選択肢を取ってしまった。キム・ヨナはフィギュアスケート界の事実上のルールに反しているし、彼女の実力は最早プロレベルなのであって、もうアマチュアでやるべきではないのだ。

 韓国は日本でフィギュアスケートに人気が出て来ると、それを潰そうという形でキムヨナを養成しし、投入してきたのである。韓国は反日で凝り固まっているからこそ、フィギュアスケートは金メダルを取った選手が引退してくれるからこそ面白くなるということが全然解らないのである。

 五輪の女子フィギュアで優勝の連チャンというものはない。これはあってはならないものだ。しかし今回のソチ五輪でキム・ヨナが参加している以上、キムヨナがどこに入って来るかなのである。彼女は実力的にはプロレベルだから、アマチュアレベルの選手たちに対しては非常に脅威であるのだ。

 そこでまずはキム・ヨナ抜きで、今回の女子フィギュアの順位を予想してみたい。キム・ヨナを抜かした順位こそ、ソチ五輪での本当に順位になるからである。尤もこの予想はキム・ヨナがどこに入って来るかで変わるので、そこの所を理解した上で予想を見て欲しい。

●恐らく優勝は「ユリア・リプニツカヤ」

 日本では多くの人たちが「浅田真央に金メダルを取って欲しい!」と思っているのだが、浅田真央が金メダルを取る可能性は殆どない。恐らく優勝はロシアの「ユリア・リプニツカヤ」であろう。今シーズンはユリア・リプニツカヤの方が成績は良いのである。

 日本では余り知られていないことだが、ロシアはフギュアスケートの種目で女子フィギュアだけ金メダルを取っていないのだ。他の種目は全部金メダルを取ったことがあるというのにである。だから女子フィギュアで金メダルを取るのは「ロシアの悲願」なのである。

 しかも冬季五輪がロシアで開かれるのはロシアで初なのであって。ロシアの悲願は更にヒートアップしているのである。日本では日本が参加しなかったモスクワ五輪のインパクト激しいために、「ロシアは冬季五輪をやったことがあったんじゃなかったっけ?」と思ってしまうが、実はそうではないのである。

 だからソチ五輪ではロシアに金メダルを譲ってあげた方がいいのである。というか日本人であっても、このロシアの悲願を支援してあげるべきなのである。ロシアの女子選手が金メダルを取ってくれればフィギュアスケートが断然に面白くなるし、ロシアのフィギュアスケートが活性化してくれることで、日本だっていい刺激になるのである。

 またユリア・リプニツカヤはその年齢の若さからいって、たとえ今回のソチ五輪で金メダルを取れなくても、次回の五輪で金メダルを取ることができることであろうということなのである。だったら彼女の母国で冬季五輪をやっている以上、そこで取らしてあげるべきなのである。

●浅田真央は無欲になるなら「銀メダル」

 浅田真央は恐らく銀メダルであろう。このこと4年前にも予測しておいたのだが、浅田真央のやっていることは冬季五輪で金メダルを取れるものではないのだ。確かに浅田真央のフィギュアは素晴らしい。しかし彼女の考え方に致命的な問題があるのである。

 それは「ノーミス」に拘っていることなのである。

 フィギュアスケートはノーミスで滑れたら、確かにそれは素晴らしい演技となる。だが実際にはそんなことを起こり得ないのであって、実際の試合では必ず何かしらのミスをするものなのである。寧ろミスを想定して、そのミスを巧くリカバーすることを考えるべきなのである。

 もしもショートをノーミスで滑った場合、次のフリーではミスを連発することになる。そういうものなのである。この世には「80対20の法則」があるのだから、100%の演技というものは絶対にないのだ。冬季五輪という大舞台で、出力を80%に抑えるからこそ、金メダルを取ることができるのである。荒川静香はトリノ五輪でそれをやったからこそ、金メダルを取れたのである。

 しかも浅田真央は現在「天中殺」なのである。天中殺ではミスをしまくることになる。天中殺の時期はとにかく無欲に徹することであって、無欲で挑むなら銀メダルを確実に取れるのである。逆に欲を出してしまうと、順位は確実に低下していくのである。

 厄介なことに、荒川静香は天中殺の時に金メダルを取っているということなのである。だから浅田真央ももしかしてということになるのである。こうなると欲を出しているのはこっちの方なので、浅田真央が無欲になって演技をした時、一体何が起こるか解らないのだ。

●三位は「アシュリー・ワーグナー」

 銅メダルは恐らくアメリカ合衆国の「アシュリー・ワーグナー」であろう。俺はこの選手がデビュー当時から注目していて、いずれは冬季五輪でメダリストになるであろうと見ていた。スケートの技術をしっかりと身に付けているので、後は演技次第ということなのである。

 アシュリー・ワーグナーは今シーズン、実に安定した滑りを見せているのである。これも強味である。冬季五輪ではギャンブルを仕掛けない方がいい。誰もが実力以上の物を見せようとして来るので、それでミスをやらかしてしまうのである。そういう中で安定した滑りをやると、自然と順位が上昇してしまうのである。

 ただイタリアの「カロリーナ・コストナー」も捨てがたい。彼女は運がいいために、メダルを取り易い選手だからだ。彼女は既に引退を視野に入れており、ソチ五輪を引退の場として臨んできたら、メダルを獲得して来るかもしれない。尤も、彼女の顔は鹿に似ているので、俺には鹿にしか見えないので、いつも彼女が演技をしている時は笑ってしまうのである。

 キム・ヨナに金メダルはないと仮定した場合、キム・ヨナは二位か三位に入って来ることが有り得る。そうなると、二位になれば浅田真央が銅メダルになり、アシュリー・ワーグナーもカロリーナ・コストナーもメダルを取れなくなる。三位になってもそれは変わらないのだ。

 だからキム・ヨナがいると面白くなくなってしまうのだ。金メダルを取ったのだから引退してくれればいいものを、反日感情があるために冬季五輪に出て来るからこそ、もしも彼女がメダルを取ってしまえば、他の選手たちが泣きを見てしまうのである。

●実力があるなら上位に食い込み優位に立つことの大切さを理解せよ

 日本のフィギュアスケートは既に高い実力を持っているのである。実力があるなら上位に食い込み続け、優位に立つことの大切さを理解すべきなのである。必ずしも金メダルを必要性はないのだ。最低でも8位入賞ということをしておけば、必ず次に繋がる試合ができるものなのである。

 女子フィギュアのように歴史のある競技では、五輪に於いて、

金メダル 「運が良かった」

銀メダル 「運が悪かった」

銅メダル 「実力があった」

ということなのである。

 冬季五輪では実力のある選手が銅メダルを取るものなのであって、金メダルは運が必要だし、銀メダルはたまたま運がなかったということなのである。だから金メダルを取り過ぎることは非常に危険で、金メダルを取り過ぎる余りに運を使いきってしまい、その後、長らくメダルに恵まれなくなってしまったりするのだ。

 他の国々よりも優位に立ちたいのなら、銅メダルを増やして行くようなことをすべきなのである。銅メダルの多い国こそ、その国はスポーツが盛んで強いということなのである。だから金メダルにばかり注目している国はまだまだスポーツの基盤が脆弱であるということなのである。

 今回の女子フィギュアの結果がどうなるにせよ、浅田真央はこれで引退である。「荒川静香」「安藤美姫」「浅田真央」といったスター選手がいなくなる以上、日本の女子フィギュアの黄金時代はこれで終わりなのである。日本の女子フィギュアは新たに「新機軸」を打ち出して来ない限り、次の黄金時代はやってこないのである。

 それにしてもソチ五輪の中継は時差の関係上、深夜に行われるので、健康には非常に悪い。それに中継を見れば見たで、翌日は眠くて仕様がない。俺としてはメダルがどうのこうのよりも、今の自分が出来る最高の演技を見させて欲しい。その方が女子フィギュアは断然に面白くなるのだ。

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結婚前後の守護霊の変動

●結婚前後に守護霊は交代する

 守護霊というのは常に一定ではない。守護霊は人間の成長と共に変わることも有り得る。女性であるなら12歳辺りに守護霊が交代し、19歳辺りにももう一度守護霊が交代する。だから中学生や高校生の時に飛躍していく少女がいれば、逆に不良に走って堕落して行ってしまう少女も出て来るのである。

 結婚に於いても守護霊は交代する。これは「結婚前後」と言っておいた方がいい。結婚が決まる始める辺りに守護霊が交代することもあるし、それこそ結婚式当日に守護霊が交代することもあるし、結婚後に一緒に生活するようになってから守護霊が交代することも有り得る。

 女性の場合、守護霊が変わると、顔が変わる。明らかに今までとは違う顔をするようになり、「守護霊が変わったな」ということが解るようになるのである。逆に言えば結婚によって顔が変わらない女性は守護霊が交代していないので、無理矢理に結婚したとしても、その結婚はいずれ破綻することになるのだ。

 気を付けるべきは、男性は結婚によって守護霊の交代はないということなのである。だから女性は自立した男性を結婚相手に選ばないと、結婚しても自分の守護霊が代わってくれないために、その結婚を維持することができなくなってしまうのである。

 守護霊が交代する時、必ずその女性自体に「お知らせ」をして来る。その典型例が「この出会いは運命の出会いである」と解らせることなのである。それ以外では自分が勤めていた仕事を辞めることになってしまったり、自分が大事にしていた物が壊れてしまったり、自分の身内が死ぬことによって結婚に迫られたりとか、そういう現象が起こるのである。

●「祝言」と「墓参り」と「初参り」

 守護霊の交代を巧く行かせる宗教儀式が「祝言」なのである。祝言は原則として夜に行われる。神道では「浄闇」といって、昼ではなく、夜の方を浄化されていると考え、花嫁に「死と再生」の儀式を施すことで、未婚女性から既婚女性へと変化させるのである。

 神道には「結婚式」という物が長らくなかった。神前結婚式は近代になってから始まったのであって、祝言は「披露宴」に形を変えて生き残っている。日本人であるなら結婚式よりも披露宴の方が大事なのである。披露宴をちゃんとやっておかないと守護霊が巧く根付いてくれないのである。

 結婚後は絶対に新郎新婦は「墓参り」に行くべきである。結婚したことをご先祖に報告し、自分の妻が自分たちの一族に入ったことを明確にすべきなのである。ハネムーンには行ったけど、墓参りに行っていないというのでは、その結婚を本当に維持できるのか怪しくなってくるのだ。

 そして赤ちゃんが生まれたら、神社に「初参り」をすることになる。この初参りでは妻が赤ちゃんを抱くのではなく、夫の母親が赤ちゃんを抱いて参拝することになる。古代の母系家族の名残りがこういう所に残されているのである。妻が赤ちゃんを抱いて参拝していいのは、夫の母親が死んだ場合だけなのである。

 こういう宗教儀式をやれば、新しい守護霊はしっかりと根付くことになる。逆に言えば宗教儀式をやらないと、新しい守護霊は根付かず、下手をすると去ってしまうことも有り得るということなのである。新しい守護霊が去ってしまうと、往々にして碌でもない浮遊霊が取りついたりするので、結婚後に結婚生活が修羅場と化すことになるのだ。

●結婚前後の変化を受け入れる

 女性は結婚によって守護霊が交代するのだから、結婚前後に変化が起こって来る。その変化を素直に受け入れるべきであって、抵抗したりしてはならないのだ。抵抗し続けると新しい守護霊が去ってしまい、当然にその結婚はオジャンになってしまうのである。

 まずは「化粧」が変化する。自分が今までのような化粧をしても、「なんか似合わないな~」と思ってしまうのである。大方はスッピンを好むようになるし、化粧をしたとしても薄化粧になるものだ。結婚しても厚化粧というのは絶対にないので、厚化粧をするようなことは決してしないことだ。

 次に「服装」が変化する。女性の場合、服装の変化は大きく出て来る。大概の既婚女性たちは結婚と同時に服装の好みがガラリと変わるものだが、独身時代に着ていた服がなぜだか着たくなくなってしまうのである。このため結婚後に多少衣服代が嵩むことになるのだが、これは必要な出費として考えておいた方がいい。

 そして「引越し」である。結婚では嫁入りしてきたのだから、夫の実家に住んでしまえばいいのである。しかし新しい守護霊は新居を求めたがるので、それで結婚後に引越しということになるのである。統計によると夫婦たちはマイホームを欲しいと思った3年後にはもうマイホームを手に入れているのである。

 但し誰もが引越しをするというわけではない。夫の実家が広く、新妻の入り込める余地があるなら、引越しは妻だけで、夫婦が新たに新居を購入するということはない。こういう場合、嫁と姑の戦いを発生する可能性があるので、とにかく姑と揉めるようなことはしないことだ。

●旧姓は使うべきではない

 結婚後は旧姓を使うべきではない。新しい守護霊は今までの守護霊とは違うので、同じ名前で呼ばれたくないと思っているのである。旧姓を使うことは結婚による変化を拒むということなのであって、そうなると新しい守護霊はなんにも支援してくれなくなってしまうのである。

 不思議なことに、運命の出会いで結婚すると、改姓によって名前が変更になっても、そんなに悪い名前にならない。元の名前が良すぎる場合、改姓によって多少運気が落ちても、その名前はそれほど悪くはないのだ。もしも改姓後の名前に問題があっても、それは改名という手段を用いればいいのである。

 男女は結婚してしまえば「陰陽バランスの法則」が作動するようになるので、妻の名前が悪くても、夫の名前の力でなんとかしてくれるものなのである。確かに結婚による改姓は妻にとってかなり面倒臭いものである。しかしそれなりのメリットは存在するものなのである。

 だから夫婦別姓をやってしまうと厄介なことになる。妻の方の守護霊が支援してくれないために、夫の運気が妻のためにかなり使われてしまい、それで夫婦がバランスを崩してしまい、結局、離婚ということになってしまうのである。夫婦別姓をやるくらいなら、結婚なんてしない方がいいのである。

 芸能人の場合、結婚しても前の名前を使うことがあるが、これは「芸名」というものなのであって、私生活はちゃんと改姓しているのである。往々にして芸能人の結婚離婚は普通の人たちにとって参考にならないものだが、それは芸名というものを使っているからなのである。

●祈りを捧げること

 守護霊の霊力を巧く使っていくためには、守護霊に「祈り」を捧げることが必要である。祈りはいつでもできるのだが、祈りを効果的に使うためには祈りの仕方をきちんと習得しておくことだ。本来は自分ができることなのに、それを守護霊に祈っても、守護霊は動いてくれないものなのである。

 まず祈りは「朝」と「就寝前」に行うと最も効果が強くなる。理性の力が最も弱い時に祈りは強力な威力を発揮するのだ。逆に言えば、日中のように理性の力が強くなっている時には祈りを行ってもそんなに効果はないということなのである。

 祈りの言葉は物凄くシンプルで、

「私の守護霊様。夫婦共々良い結果が出るように導いて下さい」

と言えばいい。別に声を出さなくてもいい。心の中で言うだけでも充分なのである。祈りの際に大事なことは、「私の守護霊様」とはっきり守護霊の名前を明示することであり、「導いて下さい」という頼み込むことなのである。名前を上げなかったり、「守護霊が何かをする」ではダメなのである。

 夫婦ゆえに妻は夫の守護霊をも動かすことができるので、

「夫の守護霊様、夫婦共々良い結果が出るように導いて下さい」

と妻が言えば、夫の守護霊は動くことも有り得るのである。どこの夫婦でもそうだが、夫の方は守護霊とかには余り興味がないものだ。それよりも自分の力でやってしまおうとする。それだけ男性は女性よりも力があるのだが、それゆえ妻は夫に代わって守護霊を動かしてあげるべきなのである。

 この祈りを捧げていると本当に守護霊が良い結果が出るように導いてくれる。たとえ不幸な出来事があっても最悪の事態は免れることができるのである。こういうことは科学的には証明できないものだから、科学に惑わされることなく、密かに遣り続けるべきなのである。

●神様に全てを任せてしまうこと

 守護霊はそこれこそ自分が憑依した人間を守護することが仕事なのであるが、時たま、守護霊が悪戯をすることも有り得る。「魔が刺した」というのがそれで、守護霊が守護の仕事をしなかったり、人間をからかって悪事をさせたりしてしまうのである。

 こういうことを防ぐためには、なんといっても神様への崇敬が必要なのである。神様を崇め敬い、神様に全てを任せてしまうと、神様が守護霊を巧く押さえつけてくれるのである。守護霊と雖も神様には逆らえないから、守護霊が悪戯をするということがなくなるのだ。

 だから自宅に「神棚」は欠かせないのだ。神棚があれば自然と神様を崇敬するようになるので、守護霊が悪戯をするということがなくなるのだ。しかも神様の聖なる力と、守護霊の霊力がミックスすることにより、より大きな運気が生まれ、それで自分たちは夫婦は成功に次ぐ成功を経験してしまうのである。

 不思議なことに神様に全てを託してしまうと、自分たち夫婦にとって必要な物は全部外からやってくるようになるのだ。道具が揃っている以上、後はその道具を手に持って仕事をしていけばいいのである。そして仕事をやっていけば、紆余曲折があったとしても、最終的にはちゃんと遣り遂げてしまうようになるのである。

 結婚したとしても、「世のため」「人のため」「お国のため」に役立つことを決して忘れないようにすることだ。守護霊だって神様だって、その夫婦がこの世に於いて役立つことをやっていれば、支援してくれるものなのである。夫婦が結婚生活だけに閉じ籠ってしまえば、どんなに幸福な家庭を築き上げたとしても、最後にはぶっ壊れてしまうものなのである。

 守護霊は基本的に目には見えないものだから、「そんなもの、信じられるか!?」と否定することもできる。しかしそうやって否定してしまえば、守護霊の霊力を使えず、自分の力だけでやっていくことになるのである。そういうやり方では成功は難しいものなのである。人間が必死になって努力しつつも、不思議なものを認めるからこそ、成功していくことができるようになるのである。

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このたび、うちの行かず後家の姉が結婚することになりまして・・・・・・。

●結婚ドタキャン後、デブになった

 うちの行かず後家の姉が結婚ドタキャンを食らったのだが、その原因はとにかく「喫煙」にあると俺は指摘しておいた、喫煙するために口臭も体臭も臭く、そのくせアヤツは腋臭でもあるので、この3つの悪臭がセットになると毒ガスレベルの危険な物になってしまうからだ。

 そこで姉は『禁煙セラピー』という本を読んで、禁煙にチャレンジしたらしい。一応、俺もその本を読んでみたのだが、大したことはない本だったので、「大丈夫かな~?」と思っていたけど、見事禁煙に成功してしまった。姉の知能指数ではああいう幼稚な本の方が良かったということなのである。

 しかし禁煙に成功すると、物の見事に太ってしまった。まさに「デブ」! しかもマツコデラックス並みの病的なデブだから嫌になってしまう。デブになってしまったために、今までの服は全部着られなくなり、下着から何まで全部デブ仕様の物に変えることになってしまった。

 デブになるとお金がかかるもんだね~。

 しかし禁煙で悪臭が全部消えたのである。「口臭」も「体臭」も「腋臭」も、全部消えてしまったのである。あの防毒マスクを必要とした毒ガスレベルの悪臭が全くなくなってしまったのである。これは実に凄いことで、これならデブであっても、別に不快感を与えないのだ。

 しかも家事を積極的に手伝うようになった。これは以前なら絶対に有り得ないことなのである。喫煙している時はまず家事を手伝わなかった。だから姉が実家に帰って来るのを俺は嫌がっていたのである。それなのに禁煙してからは家事を手伝うのだから、だったら実家に帰って来てもいいよということになった。

●ツイッターで知り合った

 そんなうちの姉に彼氏が出来やがった。あんなデブ、どこの男が好むのかと思ったら、ツイッターで知り合ったというのだ。ツイッターなら、自分の姿を見せなくてもいいから、相手をまんまと騙すことができるというわけだ。本当にデブであっても、事前に「私、デブだよ」と言っておけば、ハードルが一気に下がるから、いざ会ってみれば好印象となるのである。

 しかも俺が「デブ!」「デブ!」と簡単に言っているけど、デブである以上、巨乳になっているのである。まあ、普通の巨乳と違うのは、乳房だけでなく、全部のパーツがでかくなっているということなのである。通常、デブには巨乳という言葉は使わない。なんで使わないかは、一緒に見れば良く解ることなのである。

 俺はツイッターをやらない。ツイッターだと、文章が短すぎるために、自分の言いたいことをちゃんと伝えることができないからだ。このためツイッターをやっていると、定期的にイジメが発生しているみたいである。うちの姉はそういうことが起こると、イジメをやめさせるよう動くのである。

 こうなると、性格的には非常に良い印象を与えてしまう。

  うちの姉はツイッターで今の彼氏と話すようになり、その内、仲良くなってしまい、それで「オフ会」を開くことになったらしい。オフ会といっても二人で会ったみたいなので、事実上のデートである。相手の男性はバツイチで、うちの姉は結婚ドタキャンを食らったから、互いに意気投合してしまい、それで交際するようになったらしい。

 実を言うと、うちの姉に彼氏が出来たと聞いた時、「そんなバカ?」と思ってしまった。見た目は単なるデブである。しかも行かず後家である。この地上には他の女性たちが沢山いるんだから、わざわざ女性としては最低ランクにあるような女性に手を出すなって!

  しかし二人の交際は順調に進み、

「この度、結婚することになりまして~、私の家族に彼氏を紹介したい」

と、うちの姉が切り出して来やがった。

●顔見せ

 それで食事会をすることになったのだけれども、事実上、うちの姉の結婚はこれで決まることになる。父親が亡くなっている以上、母親はこの行かず後家の娘をさっさと追い出したいので、その彼氏に余程深刻な問題でもなければ、この結婚を許可することに決まっているからだ。

 俺としても行かず後家の姉が結婚することに反対はしない。よくぞこういうどうでもいい女を貰ってくれると思う。行かず後家の姉がいると、何かと不便で、余所の人から姉のことを聞かれると、本当に困ってしまうのである。その質問を食らうと会話が止まってしまうのである。

 唯一、問題があるとすれば、その彼氏は俺よりも年下で、となると結婚すれば「年下の義兄」ということなのである。年齢は下なのに、俺の姉と結婚したために、「義兄さん」と呼ばなければならなくなるのである。これだけは実に嫌である。

 若い時は年齢差をとやかく言うのは嫌だったけど、年を取って来ると、自分より年下の人間が自分よりも上位の地位に就くことが物凄く嫌になってしまった。年齢差は人生経験値の差でもあるので、基本的に自分よりも年下の人間が人生経験や知恵に於いて優位に立てるということはないものなのである。

 しかも食事会が予定されているのに「大雪」である。雪の中に食事会に行くのは嫌である。大体、こんな寒い時期に顔見せをやろうとするなって! 春になってからやればいいものを、やはり二人は熱愛中ゆえに、結婚することを急いでいるのであろう。

●今回の教訓:「行かず後家のデブでも、結婚相手はこの地球上に存在している」

 晩婚の姉を持ってつくづく思ったのは、「女性は出来る限り早くに結婚した方がいい」ということなのである。女性の体は19歳で成長のピークに達するのだから、社会がどのように変わったとしても、この時期に結婚するのが最善なのである。次善としては26歳から33歳の「結婚適齢期による結婚」であろう。

 婚期が遅れれば遅れるほど、女性の立場は不利になっていくのである。特に40歳を過ぎてしまうと、結婚したとしても不妊症の危険度を高めてしまうし、ダウン症などの身体障害を持った子を産む確率の急激に上がって行ってしまうのである。

 女性にとって仕事はいつでもできるのであって、しかし結婚はいつでもできるものではないのだ。これこそ男女の違いなのであって、女性たちが男性たちの真似をして社会進出しまくり仕事をすることに生き甲斐を見出してしまったのなら、最後に悲惨な目に遭うのは女性たちの方なのである。

 ただうちの姉は仕事のために結婚を拒絶するほど愚かな女性ではなく、デブになったとしても、なんとか彼氏を見つけ、物の見事に結婚へと持っていったのである。「行かず後家のデブでも、この地球上には結婚相手が存在している」ということか?

 う~ん、これでいいのか~。

 うちの姉がもっと早くに結婚してくれれば、父親に花嫁姿を見せることができた筈なのに。そういうことをしなかったというのは実に親不幸なものなのである。うちの姉はそういうことが解っていないのだ。自分がこの世に生まれた以上、「命のリレー」はちゃんとしなければならないのである。それができなければ、何をやっても無意味なのである。

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そんなアホな? 京都の女はホンマに凄いんどす。

●京都を好きになる人、嫌いになる人

 俺は全国各地を旅してつくづく思ったのは、「やはり日本の中で京都が一番素晴らしい」ということである。なんせ千年以上に亘って日本の首都であったので、何もかもが洗練されているのである。このような都市は他にはないのだ。現在、東京は日本の首都であっても、まだまだ洗練されておらず、粗野な所が多過ぎるのだ。

 京都に行ってすぐに感じるのは、「京都の女はやけに美人である」ということである。嘗て首都だったために、全国各地から美人が吸い寄せられたのであり、その子孫たちが京都にいるわけだから、京都の女は美人になる確率が高いのである。しかも京都は美観に拘っているので、その背景があると余計に綺麗に見えるのである。

 とは言っても、京都には疑問が多々存在し、「京都の街にこんなにも多くの神社仏閣が存在して、果たして京都の経済は成り立つのか?」ということなのである。勿論、これらの神社仏閣が観光客を引き寄せるのだが、だからといって京都の経済は大丈夫なのかと思ってしまうのである。

 京都に対する疑問というのは非常に多いので、我が家でもこの話題になると、長々と話し合うことになる。それだけ誰もが普段から疑問に思っているのである。俺は「京都大好き派」、姉は「京都大嫌い派」なので、京都の人たちが知らない所で、京都について激しい論争が行われていたのである。

 その激しい論争の結果、

「京都を好きになるか否かではなく、京都の女たちを好きになるか否かなのである」

ということに落ち着いた。京都の女たちを好きになれた人は京都のことが大好きになってしまうし、京都の女たちを嫌いになってしまった人は京都のことが大嫌いになってしまうのだ。

 そう。京都の女たちは明らかに「常識を超えた存在」であるのだ。

●あなたの知らない京都の女たちの世界

①l京都の女は建前と本音ときちんと使い分け、他の追随を絶対に許さない。

 もしも「建前と本音の使い分けワールドカップ」があったら、京都の女たちは圧勝することだろう。それだけ京都の女は建前と本音の使い分けが巧い。嘗て首都であったために、今日の政治権力者が明日には転落することはしょっちゅうだったのである。そういう場所では本音をバンバン言うことなど許されないのだ。

 このため京都の女の言葉は本当に信用できないということになる。確かにそれはそうなのだが、それは人間関係の距離とか濃度で異なるものなのである。姉は京都の女とそれほど深い付き合いをしたことがなかったために、建前だけを見せつけられ、それで嫌になってしまったということなのである。

②京都の女はどうでもいいことでも「おおきに~」と言って誤魔化す。

 他県出身の者としては、京都の女が言う「おおきに~」という言葉の意味が良く解らない。京都の女は多分「有難う」という意味で使っているのだろうが、それにしてもその言葉を使い過ぎている。なんでも「おおきに~」と言えばいいってもんじゃない。

 語源的には「おおきに有難う」であって、その略語なのである。だから本来は「大変有難う」ということなのである。非常に強い感謝の言葉なのに、実際は本来の使い方で使っていないのだ。ただ、相手が「有難う」と言っている以上、そこで人間関係が揉めるということは有り得ない。

③京都の女は悪口は大好きで、悪質なイジメはもっと大好き。

 京都の女は建前と本音を使い分けるので、普段では絶対に本音を言わない。そのため一旦悪口を言い出すと、限度を超えた凄まじいことになってしまうのである。もしも他県の女性が京都の女の言う悪口を聞いたのなら、確実に絶句してしまうことになる。

 悪口がそんなにも凄いということは、イジメなるともっと凄いことになる。悪質なイジメを平気でやる。しかし自殺されると困るので、相手が死なないように苛める。イジメによる自殺者が異様に少ないのは、京都府の特徴でもあるのだ。ただそれは京都府にイジメがないではなく、しっかりと悪質なイジメが存在しているということであるのだ。

④京都の女は大阪の男性を下品でお下劣だと思っている。

 他県の者は京都を大阪と一緒に「関西」ということでひと括りにしてしまうものだが、それは完全に間違っているのだ。関西には大きく分けて、「京都」と「大阪」と「奈良」があるので、この三都市が勢力均衡を取ることで存在しているのである。

 京都の女の前で大阪のことを褒めるのは絶対にタブーである。京都の女は大阪の男たちを完全に見下している。大阪の男性たちは下品でお下劣だから、相手にしないのである。東寝屋川市までは大阪圏であるので、地図帳を開いて、関西地方の地図を頭に叩き込んでおくことだ。

⑤京都の女は琵琶湖を京都の物だと思っている。

 嘗て京都の発展に限界があったのは、水不足があったからなのである。それを近代になって、琵琶湖から水を引き、それで水不足を解消して、京都の街は発展して行ったのである。それだけ有難いものなのだが、京都の女たちは琵琶湖を京都の物だと思い、滋賀県民を琵琶湖の管理人程度の存在だと考えている。

 京都の女が滋賀県の男性と交際することはまず有り得ない。結婚すれば即座に都落ちとなるからだ。京都の女たちが滋賀県民に対して要求するのは、「琵琶湖を汚さんといて」ぐらいなものなのであって、それ以上何かを要求することはない。

⑥京都の女は未だに奈良県に対して対抗意識を持っている。

 京都府の潜在的なライバルは常に奈良県である。京都の前は奈良に首都があったのである。京都は奈良を奈良盆地に閉じ込めるような形になっているからこそ京都が有利になっているだけの話なのであって、奈良が本気になれば形成が逆転しかねないのだ。

 そのため、まず京都の女は奈良県には行かない。京都の女が奈良県に用事が行く時は、「奈良に下向する」という言葉を使う。そして京都の女は奈良県に行っても事あるごとに京都と奈良を比較して、些細な優越感に浸るのである。

⑦京都の女は丹波と丹後が京都府の中に入っていることをすっかりと忘れている。

 京都の女というのは、「京都市に生まれ育った女性」のことを言う。京都府に生まれ育ったからといって、京都の女を名乗ることは絶対に許されない。丹波は丹後は京都府に編入されているが、その地に住む者たちが勘違いしないように常に警戒しているのである。

 京都府はヘンテコな形である。京都と言いながら、丹波と丹後を抱えているのだから、これがかなりの負担になっているのである。そのため嘗て京都府は日本共産党に乗っ取られ、その悪政のために京都府は転落し、大阪府に完全に追い抜かれたてしまったのである。京都の女たちにしてみれば、非常に嫌な思い出があるのだ。

⑧京都の女は舞妓さんに惹かれる観光客をバカな連中だと思っている。

 舞妓さんは売春婦ではないにしても、貧しい家の娘に芸事を習わせて、多少は豊かな生活を体験させてあげようというものなのである。これは「富の循環」を引き起こすためには必要なものなのであって、これがなければお金持ちだけが豊かになり、貧乏人は益々貧しくなっていってしまうのだ。

 しかしこれは京都の女たちから見れば必要だと理解しつつも、残酷なシステムだという思いもある。だからお金も支払わずに舞妓さんたちの写真を取る観光客をバカだと思ってしまうのだ。そんなに舞妓さんのことが好きなら、舞妓さんをお座敷に呼べばいいのである。それが礼儀ってもんなのである。

⑨京都の女は少ない食事なのに「ぎょうさんお上がり」と言って勧める。

 京都の人たちの普段の食事は意外に質素なものである。それよりも着物にお金をかける。それなのになぜだから食事の際に「ぎょうさんお上がり」と言うのである。「ぎょうさん」と言われても、そんなに大量のオカズはないのである。他県の者としては、「どうなっているんだ?」と思ってしまうのだ。

 京都の食事は異様に美味い。美味いということは、そんなに数多く出すわけではないということなのである。バイキング料理のように、品数が多くなれば、それだけ味が落ちるというものなのである。だから京都の料理の場合、他に言葉を考えればいいのに、なぜだかそれをしないのである。

⑩京都の女は大阪の料理を食べて「美味い!」と思ったことは、人生の中で一度もない。

 京都の食事を食べて育った者なら、大阪の食事は人間の食う物ではないと思っている。大阪人が平気でやる、「ご飯とタコ焼き」のセットは双方とも炭水化物ゆえに、栄養バランスが滅茶苦茶になっているのだ。こんな物は野蛮人の食い物にしかすぎないのだ。

 「食い倒れの街<大阪>」というキャッチコピーは、大阪のすぐ近くに京都がある以上、絶対に使うべきではないものなのである。大体、大阪の街で食い倒れている人を見たことがない。大食いをしている時点で、大阪の食事は大したことないと言っているようなものなのである。

●京都の女の非常識極まりないセックス

 京都の女は普段からこの有様なのだから、京都の女がセックスした時は最早完全に非常識のレベルに達する。他県の女性では絶対にやらないことを、京都の女は平然として行い、しかもそれを延々と遣り続けるのである。京都の女の非常識極まりないセックスを知ると、京都の女がどのような者なのかがはっきりと解るようになる。

①京都の女はセックスをした時に、必ず「あきまへん」という京都弁を使う。

 服を脱がそうとしても、「あきまへん」

 ブラジャーを外そうとしても、「あきまへん」

 パンティーを脱がせようとしても、「あきまへん」

 「どないせいっちゅうねん!(怒」  お前、<あlきまへん>の使い過ぎだろが!」

 大体、「あきまへん」の意味が良く解らない。「あきまへん」は「それはいけません」ということなのだろうが、男女が合意した上でセックスしている以上、なんで拒否するのか意味不明である。なんで素直にセックスに応じようとしないのか? そうやって拒絶されと、男性の方はヤル気を失ってしまうものなのである。

②京都の女はセックスをした時に、「そこはあかん」という京都弁を使う。

 乳首を舐めると、「そこはあかん」

 クリトリスを舐めると、「そこはあかん」

 ペニスをヴァギナに挿入すると、「そこはあかん」

 「どないせっちゅうねん!(怒)  お前、<そこはあかん>の使い過ぎだろうが!」

 「あかん」「あかん」と言われても、他県の者としては「あかん」という言葉に慣れていないから、

「あかん?」→「阿寒湖?」→「マリモ?」

と連想ゲームをやってしまい、頭の中でマリモが多数転がるということになってしまうのである。転がるマリモを見て、誰が興奮するっていうのか?

③京都の女はセックスをし終えた時、「もう、いけず~」という京都弁を使う。

 京都の女は「あ~、もう行く~ッ」と言った後に、

 「行った~」と喘ぎ声を出し、

 そして恥じらいながら真顔になり、「もう、いけず~」。

 「どないせっちゅうねん!(怒) オルガズムに行ったのはお前だろ? 大体、俺、お前のことを苛めてないし~」

 なんでオズガズムに達した後に。「もう、いけず~」という言葉を使うのかが良く解らない。京都の女は自分がオルガスムに行ってしまったことを、苛められたと思っているのである。なんでそう思うのかが全く理解できないのだが、そういう精神構造なのである。

●京都の女には「京マゾ」を使え

 京都の女には「京マゾ」を使うしかない。「京マゾ」とは、京都の女を恋愛に於いて徹底的にいたぶり、いい意味で滅茶苦茶にしてあげ、自分自身を解放させてあげることを言う。マゾの一種なのだが、普通のマゾではない。普通のマゾが肉体的なものであるなら、京マゾは精神的なものなのである。

 京都の女は子供の頃からかなり高いストレスを受けて育ってきたので、それ打ち壊す何かをぶつけられると大いに満足してしまうのである。恋愛に於いて「精神的にいたぶる」ことが必要なのであって、セックスの際には「いたぶりながらオルガズムに行かせる」ことが必要なのである。

 勘違いしてはならないのは、「SMプレイは京都の女たちにとって非常にダサい物でしかない」ということだ。SMプレイは自分が子供の際に親から暴力を振るわれない限り、それを楽しいものだと思えないのだ。京都の女は親から暴力を受けて育ったわけではないのだ。

 だから昔から「京女に東男」という諺が伝えられてきたのである。京都の女を満足させるのは、京都の男だとちょっと難しい。ぶち壊せる力を持っていないし、セックスに対してもそんなにガメついわけではないのだ。関東の男性なら力強いがゆえに京都の女に京マゾを強いることができ、それで結婚は滅茶苦茶ハッピーということになるのだ。

 しかしこう考えて来ると、

「果たして、京都の女に女同士の友情は成立するのか?」

という疑問が残るのである。

 う~ん、これは非常に難しい。京都の女は建前と本音を使い分け、仲良くしても影で悪口を言い、陰湿なイジメをして来るのである。このため男性と女性とでは、京都の女たちに対する評価が変わってしまうのである。それが結果的に京都への評価が分かれてしまうことになってしまうのである。

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う~ん、重厚な『世界宗教大図鑑』

●百科事典の功罪

 俺は物を書く際に、国語辞典や漢和辞典などを頻繁に使用するが、百科事典の類は使用していない。実際に物を書いていれば、言語辞典は必要であっても、百科事典の方は必要でないのだ。それなのになぜだか百科事典の方に高い評価が与えられているのである。

 なんでこんなヘンテコなことが起こるのかといえば、出版社は百科事典を出して初めて一流の出版社と看做されるからなのである。出版社はただ単に雑誌や書籍を出し、ベストセラーを出しても、そのままでは一流の出版社とは看做されないのだ。だからどこの出版社も大きくなると百科事典を出版して来るのである。

 百科事典には高い評価が与えられるが、実際に使ってみれば質の低い物であるということが解る。その最大の理由は「共著」だからだ。共著の本は常に質が低いのだ。百科事典となると実に様々な人たちが参加してくるので、誰がどうやったとしても質が上がらなくなってしまうのである。

 しかし世の中にはこの巧く行かない百科事典を巧く作っている国家があるのだ。それがフランスなのである。フランスはブルボン王朝の頃に百科事典派という勢力が出て来たので、百科事典を作ることに歴史と伝統があるし、百科事典をどう作れば出来の良い物が出来上がるのかということに関して、知識と技術を持っているのである。

 質の高い百科事典を作るためには、とにかく執筆者の数を絞ることだ。執筆者自体が一流の学者であり、その少ない学者たちによって百科事典の各部分を分担して作らせれば、どうにかして出来の良い百科事典が出来上がっていくのである。

 百科事典ではフランスの物が一番良いと解っていると、百科事典で失敗しなくて済むようになるのだ。

 今回紹介する本はこの本!

『ラスース 世界宗教大図鑑』(原書房)

アンリ・タンク編

蔵持不三也訳

  ラルース世界宗教大図鑑[アンリ・タンク]

 この本の定価は1万8千円とかなり高価だけど、この本はそれを遥かに上回る価値がある。

●世界の大半は一神教で占められている

 この『世界宗教大図鑑』の半分は一神教のことが占められており、前半はその一神教の各宗教の説明に充てられている。世界の大半は一神教で占められているのだ。この事実をしっかりと受け止めなければならない。「一神教と多神教」という言い方をしてしまうが、その関係は対等なものではなく、一神教徒たちの方が圧倒的に多いのである。

 一神教はユダヤ教によって発明されたものではない。古代エジプトのイクナートンの宗教改革によって生み出されたものである。この宗教改革が失敗に終わり、その後、ユダヤ教徒たちがこれ引き継いでエジプトを脱出して、イスラエルの地にやってきたのである。

 ユダヤ教は決して過去の宗教ではない、今でもちゃんと生き続けているのである。なぜなら律法が存在するためにユダヤ教徒たちの生活をきちんと規定しているからなのである。ユダヤ教徒たちは律法を守ることでユダヤ教を守り、そして自由でいられるのだ。

 このユダヤ教に対して反抗したのがイエスであり、イエスに続いてパウロが出たことで、「律法から信仰へ」という変革が起こったのである。信仰は人間の心の問題なので、それでユダヤ教徒たちを超えて他の民族にも広がっていったのである。

 キリスト教はその勢力順に言えば、「カトリック」「正教会」「プロテスタンティズム」の順番である。キリスト教は新しい宗派ほど宣教が活発なのであるが、実は古い宗派ほど大量の信者を持っており、その組織も強固になっているのである。

 キリスト教の後に出て来たのがイスラム教で、キリスト教が抱えていた教義上の矛盾を悉く解消してしまった超優れた宗教なのである。一神教はイスラム教によって完成したといっていい。中世まではイスラム教こそ最も繁栄していた宗教なのである。

 ではなんでイスラム教が近代になって転落して行ったのかといえば、それはキリスト教系の教団のような優れた教団組織を持たなかったからなのである。イスラム教徒個々人はキリスト教徒に比べれば遥かに敬虔なのだが、だからといって組織戦になると非常に弱いのである。

●仏教は宗教に非ず

 一神教の歴史を辿った後に、仏教のことを論ずるとなると、「仏教は果たして宗教なのか?」という疑問を持たざるを得ない。一神教ではどの宗教も1つの神を奉じているのに、一神教の各宗教は互いに喧嘩をし、それだけでなく、同じ宗教の中でも宗派対立が存在しているのである。それだけ神と人間の関係を巡って、延々と闘争しまくっているのである。

 結論から言ってしまうと、

「仏教は宗教ではない」

ということになる。

 宗教というのは「神に基づく生活規範」である以上、仏教のように釈迦の哲学だけでけでは宗教たりえないのである。だた仏教には戒律が存在していて、それで多少は生活に対して規制をかけることができるので、宗教もどきとして存在しているのである。 

 仏教は哲学なんだということが解ると、釈迦の教えは非常に合理的だということが解る。釈迦の合理的な教えを理解せず、仏像を拝んだりするからこそ、この仏教の凄さが解らないのである。偶像崇拝はどこでも堕落を引き起こすものだが、このことは仏教でも例外ではないのだ。

 日本の仏教が他の国の仏教と決定的に違うのは、仏教戒律を順守していないということなのである。それどころか浄土真宗の親鸞が出ることによって、戒律破壊が教義として成立してしまい、よりによってこの浄土真宗こそ日本で仏教の最大の宗派になっているということなのである。

 日本国内では親鸞の教えはいとも正しいように教えられているのだが、国際基準からしてみれば、親鸞の教えこそ仏教の異端中の異端なのである。仏教というのは飽くまでも釈迦の教えを中心とするものなのであって、釈迦が定めた戒律を否定してはならないのである。

●儒教と道教

 儒教や道教は中国生まれの宗教ではあるが、一神教の基準から見ると、どうも弱い。宗教は政府に対抗しうる教義を持たないと、宗教として一人前になることができないのだ。その点、儒教は政府にベッタリであり、道教は政府の秩序を仙人たちの秩序にしてしまって、話にならないのだ。

 宗教を突き詰めた場合、「神か政府か?」という問題が必ず出て来る。キリスト教では、「政教分離」を唱えて、神を優先させた。だから民族や国家の枠組みを超えて世界中に広まっていったのである。逆に言えば、この問題に辿り着いて来ない宗教は未熟であるのだ。

 中国はアジア的停滞の代表格なのだが、なぜこんなことになってしまったのかというと、政府が国民を収奪したからなのである。政府は国家権力という絶対権力を持っているがゆえに、国民を収奪しようと思えば幾らでもできるのである。しかしそんなことをやってしまえば国民が貧乏になってしまうのである。

 国家権力に対抗するためには宗教というものが絶対に欠かせないのだ。但しその宗教は儒教や道教のように政府に迎合する宗教ではなく、政府に対抗しうる教義を持った宗教でなければならない。政府に対抗する宗教がなかったことこそが、中国を停滞させてしまったのである。

 日本では儒教も道教も宗教としてカウントされることはなかった。日本は神仏習合をやってきたので、運良く儒教や道教が入り込む余地がなかったのだが、それでも江戸時代には儒教を御用学問にしてしまい、そのために江戸幕府は国民に重税を課し、貧乏にさせてしまった。

 確かに儒教や道教は教義的に優れた物が沢山ある。道徳や処世術では学ぶべき所が多い。しかし儒教も道教も政府に対抗する教義を持たなかったために、もしも儒教や道教を採用してしまうと、とんでもないことになってしまうのである。

●神仏習合という宗教混淆

 日本は神仏習合の国であっても、仏教の方が圧倒的に強い。明治維新の際に廃仏毀釈を行っても、仏教は物の見事に再生してきたのである。神道はこの仏教の前に、教義を作るということができず、それどころか無教義を標榜して生き残ってきたのである。

 宗教の歴史は、要は教義を巡る争いなのであって、同じ宗教内でも争いがあるし、宗教が違ってしまえば更に激しい争いになるのだ。だったら教義をなくしてしまい、祭祀を中心にして宗教を組み立てていけば、争いは起こらなくなるのである。

 しかしこの奇跡のような離れ業は、キリスト教世界で育ってしまったフランス人学者たちには到底理解できないのだ。どうしてもキリスト教の視点から宗教を見てしまうのである。日本は宗教的に非常に特別なことをやっているので、やはり日本人がそのことを解明していかなければならないのである。 

 尤も神仏習合が今後も維持できるかは不明である。日本の仏教の僧侶たちは仏教戒律を守っていないのであって、現在のように国際化していけば、日本の仏教の異常さが目立ってしまい、日本の仏教は支持者たちを失っていくことは火を見るよりも明らかだからだ。

 オウム真理教の事件は何も偶然に起こったことなのではなく、日本の仏教界が腐敗してしまっているからこそ、若者たちが本物の仏教を追い求める形で起こってきたものなのである。僧侶の結婚が当たり前のように行われている現状では、いずれ再び本物の仏教を追い求める新興宗教団体が出て来てしまうのである。

●新興宗教の問題

 既成宗教はこの世界を埋め尽くしているのだが、当然に既成宗教に対して反発が出て来る。この反発を利用して新興宗教が誕生して来るわけだが、新興宗教には或る特徴があって、「新興宗教の大半はキリスト教圏内から出て来ている」ということだ。

 現在、キリスト教は世界最大の宗教になっているのだが、そうやってキリスト教が世界中に広まっているのに、キリスト教に満たされない人たちが出て来てしまうのである。キリスト教は教義上、女性差別を平然と行うのだが、それをそのままやれば女性信者たちの反発を買ってしまい、かといって妥協すれば今度は一転して真面目な信者たちから反発を買ってしまうのである。

 忘れてはならないのは、キリスト教圏から出て来た新興宗教では、その信者たちは既成のキリスト教系宗教団体に属しており、言わば「保険」を掛けているということなのである。新興宗教がキリスト教を排除して成立しているわけではないのである。

 この点こそ、日本の宗教事情と異なる。日本の新興宗教は既成宗教を排除する傾向が非常に強いのである。なんでこんなことになっているのかといえば、日本は明治維新で廃仏毀釈をやったのであり、神道と仏教は別々の道を歩むことを強いられてしまったからなのである。

 当然に宗教市場は競争が激化しており、新興宗教は日々切磋琢磨しているのである。既成宗教の方がそのことを良く理解していないからボサ~としているのだが、日本は長らく神仏習合でやってきたのに、それが徐々に崩れ始めているということに気付いていないと、後でとんでない目に遭ってしまうことになるのだ。

●大局的に見ることの大切さ

 宗教を理解していくためには、大局的に見ることが非常に大事なのである。宗教を局地だけで見ていては、一見正しく見ているようで、実は正しく見ていないのだ。その宗教が世界に於いてどのようになっているかが解っていないと、その宗教を正しく理解できないのだ。

 例えば、日本ではキリスト教はカトリックとプロテスタントだけど、世界的にはカトリックが断トツの巨大勢力なのである。この『世界宗教大図鑑』もカトリックが強いフランスで出版されたことを忘れてはならない。世界の宗教を論ずる本が出版されても、この事実をちゃんと理解していないと、確実に間違った方向に行ってしまうのである。

 プロテスタント諸国が発展していったのは、以前ならキリスト教の信者たちが教会に献金していたのに、プロテスタンティズムの登場で教会を質素にすることで、その浮いた資金が経済活動に流れたからなのである。その反面、教会は大きく後退してしまったので、だからプロテスタント諸国では精神を病む人たちが大量発生しているのである。

 日本はキリスト教国ではないが、西ヨーロッパで起こった宗教改革と同様なことが廃仏毀釈で起こったのである。江戸時代までは日本国民の富は仏教寺院に流れていたのであって、だから仏教寺院は豪華な宗教施設を作ることができた。それを明治維新でぶち壊したのであって、それで日本国民の富が経済活動に流れ出し、そして経済発展が可能になったのである。

 しかしそれはプロテスタント諸国と同様に宗教を後退させたために精神を病む人たちを大量に作ってしまったのである。この問題に対して医者たちが手出ししているのだが、悉く失敗している。やはりこういうことは宗教家が扱う問題なのであって、人々に正しい宗教心を取り戻す活動をしていかないと、精神を病む人たちはなくならないのだ。

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一流と二流との違い

●一流の人はそんなに凄い人ではない

 世間の人々は一流の人と聞くと、「名家の生まれで、一流大学を卒業して、イケメンで品行方正」と思ってしまう。女性なら「美人で誰からも好かれて」と思ってしまう。しかしそんなの妄想でしかないのだ。どの職業であっても、一流の人の8割以上は成り上がりなのである。それに学歴というのは往々にして関係ない。ルックスに関しては尚更である。

 一流の人はそんなに凄い人ではないのだ。多くの場合、一流の人たちが稼ぎ出す収入に幻惑されてしまっているだけのことなのである。収入のことを除外してしまえば、一流の人は巨人でも筋肉隆々でも頭脳明晰でもないことが解るものなのである。見た目に関しては普通の人たちとなんら変わらないのだ。

 では一体何が変わっているのかといえば、

≪「物の考え方」「行動のやり方」「仕事の仕方」が違う≫

のである。ここが違うからこそ、一流の人たちは一流になってしまうのである。逆に言えばここがダメだからこそ、二流の人たちはいつまで経っても二流になってしまうのである。

 そこで今回紹介するのはこの本!

『一流の人に学ぶ自分の磨き方』(かんき出版)

ステーヴ・シーボルト著

弓場隆訳

 一流の人に学ぶ自分の磨き方

 この本は自己啓発書では初歩レベルの本なのだが、アメリカ合衆国でベストセラーになり、日本でも異様に売れている本でもあるのだ。特に日本では瞬発的なベストセラーではなく、息の長いロングセラーになっており、一流の人間になりたいと思う者はこの本を購入して勉強しているのである。自分の精神レベルが上がってしまえば、「こんなの当たり前だ!」と思ってしまうが、精神レベルが低ければそうは思わないのだ。

 この本は冒頭に「一流の人と二流の人の差は紙一重だ」という言葉が掲げられているが、この言葉を忘れてしまうと、一流の人になるためには何か凄いことをしなければならないと思ってしまう。それは間違いなのであって、「自分への期待を高め、成功に邁進することは誰にでもできる」と著者は言っているのである。

●決定的な違い

 一流の人と二流の人の決定的な違いは何か言えば、

≪二流の人は「できない」と思い込み、一流の人は「できる」と思い込む≫

ことにあると言っていい。なんで一方は「できない」と考え、もう一方は「できる」と考えてしまうのかは、それは「信念」が違うからなのである。往々にして信念は親からの刷り込みによって形成されるものだが、一流の人はその出来上がった信念を自分の力で変えてしまうのである。

 だから一流の人は一流の信念を持つことになるのである。ということは、名家出身だとか、一流大学卒とかは、一切関係なくなるということなのである。言わば一流の人は自力で這い上がってきたのであり、二流の人は自力を発揮せず、何か頼ろうとしているから、自分を変えることができないのである。

 一流の人は信念があるがゆえに「最高の自信」を持っている。逆に二流の人は自信がないが、どうでもいい無意味な自信を持っている。自分を信じるというのはできそうでできないものなのである。自分に信念が無い限り、自信を持つことはできないものなのである。

 最高の自信があるからこそ、一流の人たちは周囲の人たちに影響を与え、世界を変える力を持つことになる。お金があるから何かしらの力を持つのではないのだ。最高の自信があれば如何なる状況下であっても動き出すことができ、それによって自分にとって望ましい状態を作り上げてしまうようになるのだ。

 二流の人はそういうことをしないので、だから二流の人は自分を被害者だと看做してしまう。しかし被害者でいる限り、状況は何も変わらないのだ。方や一流の人は選択する力を持ち、自分がすべき仕事に集中して、自分にとって不要な仕事などやらないのだ。当然に一流の人はその選択の力によって自分の人生を慎重に構築して行ってしまうのである。

●簡単に豊かになる方法

 一流の人たちはお金をコントロールしているが、二流の人たちはお金にコントロールされている。毎朝働きたいからと起きているのならお金をコントロールできるが、毎朝働かなければならないと起きているのならお金にコントロールされてしまうことになる。

 現実世界では人間たちの貧富の格差は誰がどうやっても埋めることができない。現在、世界で最も裕福な国と言われているアメリカ合衆国ですら、国民の90%以上は貧乏なままであり、10%以下の富裕層たちがアメリカ合衆国の国富の90%以上を押さえているのが現状なのである。

 お金が有る無いは「結果」であり、その原因は「考え方」にある。

 二流の人は時間をお金に交換してしまう。だから自分が持っている時間の範囲内だけでしかお金を得ることができない。それなのに自分が欲しい物は常に増えて行くから、実際の生活は貧しいものになってしまうのである。経済学的にはこの考えを労働価値説というのだが、労働価値説に立脚している限り絶対に裕福にはなれないのだ。

 一流の人はアイデアをお金に交換する。この世は問題に満ち溢れており、その問題を解決することができれば、幾らでもお金を稼ぐことができるのである。アイデア価値説こそ実際の経済を動かしているのに、経済学の教科書には1つも載っていないのである。

 今から150年前、カール・マルクスは資本主義経済の矛盾点を指摘し、労働者階級が立ち上がって資本主義経済を打倒し、社会主義革命を引き起こして、社会主義経済に移行すれば労働者たちは豊かな生活を送れると主張したが、実際の社会主義国ではそんなことは1つも起こらなかった。

 なぜなら労働者たちは社会主義革命が起こっても相変わらず「貧困を引き寄せる考え方」を持ち続けたのであって、この考えを放棄してくれない限り、絶対に豊かになることはできないのだ。お金持ちたちは「裕福さを引き寄せる考え方」を持っているからこそ、豊かになったのであって、資本主義経済がどうのこうのというのは全く関係ないのだ。

●徳目の違い

 自分の信念が確立してしまえば、その「信念」から「勇気」「努力」「情熱」「成長」「規律」「学習」「感謝」「謙虚」「正義」「忍耐」「寛容」という徳目が派生して来る。これらの徳目は言われてみれば全部当たり前のことであって、信念のある人なら実行可能な物なのである。

 アメリカ合衆国の思想史を知っている人なら、このスティーヴ・シーボルトが主張していることは、ベンジャミン・フランクリンの12徳目のパクリであり、その現代バージョンだということが解る。だから別に真新しいことを言っているのではなく、フランクリンの12徳目を知っていればこの本を楽しく読むことができてしまうのである。

 世の中には高尚な理想というものがあり、その主張が余りにも素晴らしいために魅了されてしまう人たちが出て来る。しかしそういう理想は現実化してなんぼのものなのであって、実際にその理想を実行しようとしてみてダメであるならその理想自体ダメだということなのである。

 社会主義がまさにそれで、社会主義に洗脳された人たちにはなんの道徳もないのであって、それでは社会主義革命がなされても、絶対に理想的な社会を作り出すことはできないのだ。アメリカ合衆国で社会主義革命が発生しなかったのは、ベンジャミン・フランクリンの12徳目が今も生きているからなのである。

 道徳というのはお金をよりも遥かに重要な物である。

 お金は失ったとしてもいずれ取り戻すことができるが、道徳という物は一旦失ってしまうと、もう二度と取り戻すことができない。だから家庭での教育が大事であり、それでいながら親だって間違いを犯すこともあるのだから、自分で道徳を学んでいくことも大事なのである。

●微差が大差を産む

 学校教育制度が整ってしまった現代では、誰もが社会に出る前に学校に行くことになるから、「みんなと同じであればいいや」と思ってしまう。しかしその考え方は非常に危険なのであって、みんなと同じでいるということは、大方、将来、確実に貧乏になろうと言っているようなものなのである。

 スティーヴ・シーボルトは6歳の頃からテニスに於いて英才教育を受け、7歳から18歳までの間、全米チャンピオンになることを目指して、全米を転戦していたのである。その後、プロのテニスプレイヤーに転向して、世界のトップ10入りを目指していたのである。

 彼は結局、世界のトップ10に入ることができなかったが、それでも10代や20代の時期に全力でテニスに取り組んでいたことは無駄にならなかったのだ。彼は挫折の中で「精神力の欠如」に気付き、その後、一流の人の研究を行い、経営コンサルタントになり、能力開発の第一人者として活躍しているのである。

 小中学生なら誰でもあっても大した差はないのである。しかし絶対に平等ではないのだ。当初はほんの僅かな差でも時間が経過すると大きな差になってしまうのである。だから結果が出た時にはもう全てが手遅れになってしまい、その結果を覆すことは誰にもできなくなってしまうのである。

 二流の人たちはこの世には無数にいるものだから、自分が二流の人なら激しい競争に晒されることになるのだ。だが自分が一流の人になってしまえば、競争相手は殆どいなくなり、自分が自由自在にこの世界を変えて行くことができるのである。

 それなのに大概の人たちは「一流と二流の違い」が解らない。だからチャンスなのである。この本を読めば一流と二流の違いが解ってしまうのだから、後は実行あるのみである。競争相手なんか誰1人いない。自分が努力すれば確実に報われ、巨万の富を掴み取ることができるようになるのである。

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「脱原発」を選挙の争点にする勿れ。

●原発をどうするかは国政レベルで決めることである!

 今回の東京都知事選は東京オリンピック開催決定を受けての選挙なので、次の都知事は誰がなったとしても、東京オリンピックの準備に全力を投入しなければならない。それと東京大震災が東日本大震災後10年以内に起こることが解っているので、その対策にも充分なエネルギーを注いでおかなければならないのだ。

 それなのに細川護熙元首相なる人物が立候補してきて「脱原発」を唱え始めたのである。もうこの時点で勘違いをしているのだが、彼の出現は、政界引退後静かにしていた小泉純一郎元首相が突如「脱原発」を唱え始め、その推薦を受けた上での立候補だったからかなり厄介な出来事なのである。 

 小泉純一郎は首相の際に「郵便局の民営化」という大きな手柄を立てたのだが、政界引退後、フリーメーソン団に入会したという情報が流れた。とするなら、今回の政治ごっこはフリーメーソン団の指示によるものだろうと見ていいだろう。

 日本の場合、電力の供給は国家レベルで計画がなされている。原発をどうするかは国政レベルで決めることなのである。幾ら東京都が脱原発をやっても、原発を廃棄することなどできない。東京都にそんな権限はないのである。東京都にできないことを都知事選で争点にするのだから、これほどピント外れなこともないのだ。

 なぜ細川護熙のような政治家としての能力のなかった人物が都知事選に立候補してきたかといえば、自由民主党と公明党が推した舛添要一には人望がないからである。彼は今回の都知事選で「福祉の充実」を唱えているので、都知事として何をすべきかが解っていなのだ。彼が都知事になったとしても大したことができない。だからそこに付け込まれたのである。

●福島第一原発が発電していた電力は東京に送られ消費されていた

 福島第一原発の事故は決して東京都民と無縁な物ではない。福島第一原発が発電した電気は東北地方で消費されていたのではなく、関東地方に送られ、そこで消費されていたのである。東京都は関東地方の中でも最も多くの電力を大量消費している以上、今回の原発事故でなんの責任もないとは言いきれないのだ。

 だったら最初から東京都に原発を作れば良かったのである。「地産地消」という言葉があるが、東京都で必要な電気は東京都内で作るべきであって、わざわざ福島県に原発を作るべきではなかったのである。原発というのは確かに効率のいい発電ができるが、事故を起こせばとんでもない事態になるので、それなら原発はよそうということになった筈なのである。

 石原慎太郎都知事も猪瀬直樹都知事も原発事故を受けて、自動販売機の数を制限しようとしたり、東京都内に火力発電所を作ろうとしたが、あれこそが正しい政策であるのだ。彼等は脱原発を唱えたのではない。東京都が必要な電力は東京都内で確保するという当たり前のことをやったのである。

 こういう意見を言うと「石原慎太郎都知事も猪瀬直樹都知事も事実上は脱原発をやったのではないか?」という反論が出て来る。脱原発を唱えた時点で空理空論なのである。脱原発をやった場合、原発が供給していた電力を一体どうするのかということが全くなされていないのである。

 国政レベルに於いては、原発というものはまだまだ必要であるのだ。原子力産業は巨万の富を生み出すものだし、原発で使用されるウランはいざという時には核兵器に転用が可能なのである。日本のように、ロシアや中国や北朝鮮といった核兵器の保有国に取り囲まれた国家に於いては、原子力産業も核兵器も必要だということなのである。

●脱原発をして儲かるのは誰か?

 もしも東京都が脱原発を行った場合、一体誰が儲かるのかということになる。脱原発をやった場合、石油や天然ガスを外国から多く輸入しなければならない以上、当然に産油国であるアメリカ合衆国が一番大儲けできるということになる。

 しかも現在のアメリカ合衆国で「シェール革命」が起こっており、石油の生産量が大幅に増加しているのである。その石油はアメリカ合衆国国内だけでは消費できず、外国に輸出することになる。当然に経済力では世界第三位の日本に石油を輸出しようと考えるようになる。

 このことを裏付けるかの如くに、今、アメリカの有力紙などでは反日報道のラッシュが行われているのである。日本が脱原発を行ってくれれば、石油を日本に大量に輸出できるのであって、アメリカ合衆国のロックフェラー財閥は巨万の富を手にすることができるのである。アメリカの有力紙の殆ど全てがロックフェラー財閥の配下にあることを考えれば、今回の脱原発騒動はロックフェラー財閥の指示で行われていると見るべきであろう。

 細川護熙が都知事になった場合、東京都は脱原発を強行するから、そうなると東京電力は電気料金を上げるということになる。原発よりも火力発電所の方がコストはかかるものなのである。だから脱原発では、東京都民は電気料金の値上げというデメリットしかないのである。

 それだけではなく、東京電力の電気料金の値上げは、神奈川県、千葉県、埼玉県、群馬県、栃木県、茨城県にも一斉値上げとなり、東京都知事選に対して選挙権を持っていないのに、東京都の政策変更の影響を受けて損害を発生させてしまうのである。

●選挙で争わなくても、新型のエネルギーが出来れば自然と脱原発ができる

 原発は危険な物である。しかし日本が独立を保つためには持っておいた方がいい代物なのだ。もしも日本が脱原発をやっても、日本の近隣諸国は全部原発を持っているのである。これほど怖いことはないのだ。日本が原発を持ち、原発の技術を持っているからこそ、日本は近隣諸国に対抗することができているのである。

 しかし原発は未来永劫に亘って使うべき物ではないということも解っている。原発を超える新型のエネルギーシステムが開発されれば、自然と原発は廃棄され、その新型エネルギーシステムによって電力が供給されることになるのである。

 要は科学者の働き如何なのである。

 都知事選に立候補しているドクター中松はこのことを充分に解っており、だから無闇に脱原発を唱えず、新型のエネルギーシステムに移行すべきだと主張しているのである。尤も彼は飽くまでも天才的な発明家なのであって政治家ではないゆえに都知事選で勝つことはないだろうが、それでも傾聴に値する意見を言っているのである。

 政治の力を使って脱原発を強行しなくても、新型のエネルギーシステムが開発されれば自然と原発を廃棄して行くようになると解っていれば、脱原発を選挙の争点にせず、それどころか脱原発を主張する者たちの背後には脱原発で大儲けする連中がいるということを見破ることができるのである。

 新型のエネルギーシステムの登場は更なる経済発展を引き起こすと同時に、その巨大なエネルギーは必ず核兵器を上回る強力な兵器を生み出すということを知っておかなければならない。この兵器は世界の多くの国々を焼き尽くす以上、日本はこの兵器を開発し装備して、しっかりと独立を守らなければならないのである。

●バカ殿は引っ込んでろ!

 細川護熙はもう76歳である、任期満了時には80歳である。こんな人物が東京都知事になってしまえば、東京都は老害を発生させてしまうことになる。政治家であるなら70歳辺りから引退し始め、80歳になっても政治家をやっているような人物を存在させてはならないのである。

 しかも細川護熙は首相でいた時、首相としてちゃんとした仕事をできなかった人物なのである。そのような人物が東京都知事になっても、ちゃんとした仕事をできるわけがないのだ。政治の世界に於いて実績というものは非常に大事なことなのである。実績のない人物が出て来ても、政界は混乱するだけなのである。

 細川護熙の本籍地は未だに「熊本県熊本市」なのである。彼は東京で生まれ育ったかもしれないが、未だに心は東京都民ではないのだ。飽くまでも熊本県民で有り続けているのだ。だから今回の都知事選で無責任な態度を取ることができるのである。

 細川護熙の祖父は近衛文麿なのであるが、近衛文麿は筋金入りの社会主義者として支那事変を引き起こし、国家総力戦体制を築き上げ、日米関係を修復不能まで悪化させ、日本を大東亜戦争へと追いやった人物なのである。「亡国の宰相」近衛文麿の血を引いた者は如何なる者であっても政界から排除しなければならない。

 東京都のように人口が多くなってしまうと、無党派層の動きで選挙結果が大いに変わってしまうものだ。無党派層というのは政治に対して詳しくない人々のことを言うのである。だから脱原発の背後でロックフェラー財閥が陰謀を企んでいることは何も知らないのだ。

 それゆえ無党派層が間違った判断をしてしまえば、東京都民は大損をすることになるのである。

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なぜタマティーのブログは新潟県の女性たちに人気がないのか?

●不動のワースト「新潟県」!

 niftyのアクセス解析がリニューアルして、全国の都道府県のランキングというものが解るようになったのだが、その順位は常に変動している。第一位の徳島県と第二位の鳥取県は不動であるが、第三位の秋田県だって怪しいものなのだ。それなのに、最下位を見ると或る県がビクと動かず、常にそこに存在し続けているのである。

 このタマティーのブログで、アクセス数が最も少ないのは、なんと「新潟県」なのである。「新潟県は不動のワースト」で有り続けているのである。その地位は全く変動なしである。タマティーがこれだけ記事を書きまくっているというのに、なんの反応もしてこないのである。

 タマティーは新潟県に行ったことがない。徳島県にしても、鳥取県にしても、秋田県にしても、タマティーは行ったことがある。だから当地ではヒットしているのかもしれない。これは選挙と同じで、現地に行かないとアクセス数が増えないのかもしれない。

 よりによってこの新潟県はこのブログの最古参のファンである「深大寺ゆきねこ」さんの出身地なのである。このブログの凄さを早い段階に於いて認めてくれた人が新潟県出身だというのに、その出身地である新潟県は俺のことを認めようとしないのだ。

 なんでタマティーのブログが新潟県でヒットしないのか、その理由が解れば、このブログの弱点を巧く克服して行くことができるようになる。トップ3はタマティーと共通する何かを持っていたからこそ、その土地でヒットすることができたのである。とするなら、新潟県はタマティーが持っていない物を持っているがゆえにヒットしないということなのである。

●新潟県の特徴

 俺は新潟県に行ったことがないので、新潟県のことは全く知らない。今回、新潟県の情報を調べたが、俺自身が現地に行って調査したわけではないので、その情報の信用度は異様に低い。そのことを踏まえて、この情報を読んで欲しい。

①新潟県の学校では川中島の戦いで上杉軍が勝ったと嘘を教えている

 川中島の戦いは武田軍の勝利に終わった。戦争では領地を獲得することが勝利の絶対条件なので、武田軍が川中島を獲得した以上、武田軍の勝利なのである。しかし新潟県の学校では上杉軍が武田軍に勝ったと嘘を教えているのだ。

②新潟県民は富山県を新潟県の属領だと思っている

 嘗て上杉謙信が越後の国を統治していた頃、上杉軍は富中の国を征服したので、それで新潟県民は富山県を新潟県の属領だと思い込んでいるのである。富山県は浄土真宗が非常に強い県なので、新潟県の方はそういう狂信さを持っていないのだ。

③新潟県民は「信濃川は日本一長い川」というどうでもいい自慢をする。

 信濃川という名称は新潟県だけで、長野県になると千曲川という名称になる。ここでも川中島の戦いは続いているのである。もしも長野県で信濃川に汚染物質が流されれば、新潟県が被害を受けるということになるのだ。新潟県は長野県を警戒し続けるべきであって、絶対に油断してはならないのである。

④新潟県は雪国なのに、時折、雪下ろしで人が死ぬ。

  新潟県は雪国である。雪国である以上、冬期の期間中、何度も雪下ろしをする。それなのに新潟県では雪下ろしで人が死ぬ事故が相次ぐことになるのだ。他県では有り得ないような無様な姿なのだが、それだけ雪の積もる量が半端ではないということなのである。

⑤埼玉市民は「埼玉」という漢字を書けないが、新潟県民は全員「新潟」という漢字をちゃんと書ける。

  埼玉市では愚民化教育が行われ、埼玉市民は学校で「埼玉」という漢字を教えられることがない。そのため平仮名で「さいたま」としか書けないのである。しかし新潟県ではそういうバカげた教育をやっていないので、「新潟」という漢字をちゃんと書けるのである。このため新潟県からは優秀な人材が多数出て来ることになるのだ。

⑥新潟県民は「山形県に人は住んでいない」と思っている。

 新潟県民は山形県のことなど眼中にはない。山形県に人は住んでいないと思っている。それなのに新潟県は東北地方に属する県だと思われているので、それで大いに名誉に傷が付いてしまうのである。これは幕末の時に奥羽越列藩同盟に参加してしまったからなのであって、あのバカげた決断が現在に至るまで不名誉の源泉となっているのだ。

⑦佐渡金山は既に閉山しているのに、佐渡に観光客を呼び込んでボッタクリ商法を展開している。

 これぞ「新手の鉱脈」である。人間は黄金に目がないので、佐渡に金山があると知ると一度は行ってみたくなるのだ。しかしそれで儲かるのは佐渡の人たちなのであって、佐渡は未だに意外と豊かななのである。寒風吹きつける佐渡の風景に騙されてはならないのだ。経済がなけば人はどこにも住めないものなのである。

⑧新潟県ではセルジオ越後は指名手配犯である。

 罪状:「いつまで経っても日本語を巧く話せない」。俺はその昔、セルジオ越後と聞いて、新潟県にあるリゾートホテルの名ではないかと思っていたぐらいである。名前自体は非常にいい名前をしている。それなのに未だに日本語が下手糞というのは如何なものか? サッカーの技術を云々言うより、自分の日本語をどうにかして欲しい。

⑨新潟県は「道の駅」発祥の地である。

 これは本当に知られていない事実である。新潟県はそれだけ車社会が発達しているということなのである。「道の駅」という名称は実に素晴らしい。英語なら「サービスステーション」になってしまうが、英語だとピンと来ないが、日本語だとしっくりと行くのだ。この言語センスは絶賛されていい。

⑩新潟県は神社の数が日本一である。

 神武天皇は日本建国と同時に、家臣を越の国に派遣して征服してしまった。しかも奈良県や京都府は仏教が伝来すると仏教勢力が強くなるが、新潟県の方では神道も仏教も巧く共存する形で発展してきた。それだけ新潟県には経済が発達しているということなのである。

●新潟県民の県民性

 新潟県の県民性は「勤勉」「堅実」「見栄っ張り」の三つである。新潟県は雪国ゆえに、勤勉だとか堅実というものが絶対に必要になってくる。こういうものがないとここで生きて行くことはできないからだ。しかし見栄っ張りという一面もあって、それによって巧く精神を弛緩させているのである。

①とにかく勤勉で、コツコツと努力をする

 新潟県民はとにかく勤勉とコトコツと努力をしまくる。雪国で生きるためにはせっせと働かなければならないということなのだが、それが経済に向けられると、経済を発展させていく原動力となるのだ。このため新潟県は非常に強力な経済を持っており、他県で地方経済が衰退しているというのに、ビクともしないのである。

 新潟県民は江戸時代から盛んに江戸に進出し、越後屋という大成功を収めた豪商を生み出したりした。遊び好きの江戸っ子たちに対して、新潟県民が努力しまくれば、新潟県民が豊かになって行くことは当たり前のことなのである。これは現代でも同じで、新潟県出身者が東京に来ると、他県の者たちよりも成功を収め易いのだ。

②保守的で金銭には堅実

 新潟県民はとにかく保守的である。新潟県のような場所で革新的なことをやるのは非常に危険なことなのである。下手に物事を変えない。だからその物事がしっかりと根付き、多少の問題はあったとしても、巧くやって行くことができるのである。

 堅実というのは雪国の特徴である。地道に貯金していかないと、冬を乗り切ることができないのである。新潟県民の貯蓄率というのは非常に高い。このため新潟県民の貯金が経済発展に使用され、益々新潟県は豊かになっていくのである。

③遊びは下手だが、見栄っ張りな一面がある。

 新潟県民は遊ぶのが下手である。だから、お酒をチビリチビリ飲むということを平気でやる。しかし見栄っ張りな一面があって、そのために大金を使ってしまうのである。新潟県の経済力の豊かさがこういうことを可能にさせてしまうのである。

 新潟県民の県民性はなんとなく秋田県民の県民性に似ている。大和朝廷が日本全国を統一していく中で、新潟県にいた連中が山形県に行き、そして秋田県まで行ったのである。新潟県の料理と秋田県の料理はなんとなく似ているのである。やはりご先祖は同じ連中だということになる。

●新潟県の女性の基本的性格

 新潟県の女性たちの基本的性格は、新潟県の男性たちの基本的性格とは違う。新潟県の男性たちは性格的に暗い部類に属する。これでは新潟県が陰鬱になってしまうので、それで新潟県の女性たちは明るく振る舞うのである。逆に言えば、新潟県の女性たちは男性たちが暗いゆえに、女らしさを思う存分発揮できるということなのである。

①色白で背が高く、体格が非常に良い

 新潟県の女性たちは色白であるが、この色白は富山県や長野県の女性たちにはない。山形県や秋田県の女性たちの色白と同じ色白であるのだ。恐らく天孫族の血統を深く受け継いでいるので、それでこういう特殊な白さになるのであろう。

 新潟県の女性たちは意外と背が高い。これも富山県や新潟県の女性たちとは違う。雪国ゆえにミネラル分の豊富な水があり、その水で育った食べ物を食べているのだから、雪国なら皆身長が高くなってもいいものだが、そうはならないのである。やはり遺伝子が違うのであろう。

 新潟県の女性たちは体格が非常に良い。均整の取れた体になっているのである。この手の女性たちは山形県にも秋田県にも見られるので、やはり遺伝子的に違うのであろう。また雪国で育つことが、常に足腰を鍛えることになるので、それで更に体格の良さに磨きがかかるのである。

②明るく控え目でいながら、芯は強い

 新潟県の女性たちはやけに明るい。自宅では男性たちが暗いので、女性たちが明るくすることでバランスを保つのである。こういう明るさゆえに、必ず控え目という物が存在する。大阪府の女性たちのように出しゃばるということは絶対にしないのである。

 新潟県の女性たちは芯が強い。当たり前のことだが、子供の頃から雪国を生きてきたので、ちょっとやそっとのことでは絶対にくたばらない。その芯の強さが頑固であると捉えられないのは、性格の明るさや控え目さが効いているのである。

③外見は常に女性らしく、見えない所でお洒落をする。

 新潟県の女性たちの外見は常に女性らしくする。冬には銀世界になってしまう以上、女性たちが女性らしいお洒落をしなければ、味気ない生活になってしまうのである。だから身嗜みの良さでも他の追随を許さない。それだけ子供の頃から躾けられているということなのである。

 新潟県の女性たちは下着にダサい物を着けない。体格がいいから、自然とダサい下着を着けなくなる。ブラジャーだって、乳房がそれなりの大きさなら、ちゃんとした物を着けるものなのである。乳房もお尻もいい形をしているということなのである。

④新潟県の女性はフレンドリーで会話が巧い。

 新潟県は昔から経済が発達していたので、新潟県の女性たちはフレンドリーだし、会話が巧い;雪国になると、どうしても人々は排他的になり、会話も下手糞になるものだが、新潟県の経済の高さがそういうことを拒んできたのである。

⑤行動力やバイタリティーがあり、時には男性たちを引っ張ることもある。

  新潟県の女性たちには行動力やバイタリティーがある。新潟県の女性たちは何もしないで閑を潰すということなど有り得ない。男たちが外に出て働く以上、家事や育児に追われ、時には人手が足りないからといって仕事に駆り出されるのである。そういう所で育って来た以上、実に良く動くのである。

⑥包容力があり、想像以上に世話好き

 新潟県の女性たちには包容力がある。 何かミスをしたとしても笑って許してくれる。雪国では余りにも厳し過ぎる生き方は求められない。もしもそんなことをしてしまえば、相手は恨みを溜め込んでしまい、殺人を起こして来るかもしれないからだ。

 相手と問題を起こさないためには世話を焼くことが必要なのであって、だから新潟県の女性たちは世話好きなのである。世話をしても世話をしてやったなどとは思わない。世話はして当たり前のものだからだ。この世話好きこそが、人間関係のトラブルを減少させているのである。

⑦餅肌ゆえに抱き甲斐がある。

 新潟県の女性たちは餅肌ゆえに、非常に抱き甲斐がある。これは美味しいお米をしっかりと食っているからそうなる。秋田県は美人の産地であるが、やはりここも米所であるのだ。お米は女性の肌を美しくする効果を持つのである。

 冬になれば雪に閉ざされるので、家の中でやることいえばセックスしかない。このため新潟県の女性たちは幾らセックスしても飽きないような体になっているのである。痩身の女性は確かに外見上は美しく見えるかもしれないが、抱き甲斐など全くないのであって。だから新潟県にはそういう体型の女性がいないのである。

⑧新潟県の女性は結婚するとまず離婚しない

 日本一離婚率が低いのは新潟県である。新潟県の女性は結婚するとまず離婚しない。女性としては非常に優秀なので、家事や育児を切り盛りをするのが得意だし、夫が遊んでいても、それを食わすだけの経済力があるのである。

 尤も雪国では独身だと一人前の扱いをしてくれない。雪国で生きて行くためには何かと会合があるので、その会合に出席するためには結婚していることが条件になるのである。独身を貫くのはその人の勝手だが、新潟県でそれをやれば未熟者ということになるのだ。

●原因は「白米中毒」

 タマティーとしては理想的な女性たちが新潟県にはいるということなのである。俺はこういう女性たちのために彼女達が必要とする真っ当な記事を書いているのだが、なぜだか新潟県の女性たちに限って食い着いて来ないのだ。ということは、そこには何か深刻な問題が存在していると見なければならない。

 原因は「白米中毒」である。それしかない!

 新潟県は日本三大米所なのであるが、新潟県民はコシヒカリをやたらと自慢するのだ。しかも食事ではご飯を必ずお代わりする。だからお米の消費量は全国で断トツの第一位である。コシヒカリを玄米で食ってくれれば良いものを、白米にして食べてしまうのである。白米の方が美味しいからなのだろうが、こうなると玄米を食べているタマティーとは合わなくなってしまうのだ。

 新潟県民は普段からお米を大量に食っているというのに、オヤツには必ずお煎餅を食うのである。お煎餅の原材料はお米だから、ここでもお米を食っていることになるのだ。新潟県がお茶が単品で出て来ることは絶対にない。必ずお煎餅付きである。

 新潟県民は「お酒は必ず日本酒」と決めている。日本酒の消費量は全国第一位である。どんだけ日本酒を飲んでいるんだと思ってしまいたくなるが、雪国で生きて行くためには、やはりお酒が欠かせないのだ。因みにビールは体を冷やしてしまうので、雪国では不向きであるのだ。

 新潟県の味噌は「米味噌」である。ここでも米が使われているのだ。方やタマティーの家は「麦味噌」である。日々、麦味噌で味噌汁を飲んでいる者と、米味噌で味噌汁を飲んでいる者とでは、考えることが違ってくるようになるのは当たり前のことなのである。

 新潟県は雪国ではあるが、冷害対策のために蕎麦や麦を作らねばならないほどではない。実を言うとそこまで寒くないのだ。日本で冷害を受けるのは北海道や東北地方であって、新潟県は冷害を受けたりはしないのである。そのため蕎麦や麦を作って冷害に備えるということをしないのである。

●新潟県は自殺者や鬱病患者が非常に多い

 タマティーのブログは玄米を食べている者なら実に良く解り易くなっている。玄米は白米よりビタミンやミネラルが豊富だから、脳の機能が飛躍的に向上することになるのである。白米は美味しいかもしれないが澱粉の塊なので、それを食った所で脳の機能は向上せず、それどころか低下してしまうのである。

 新潟県民の白米中毒は新潟県の自殺者の数が必ず全国トップ3に入ることで既にその弊害が出ているのである。白米を食べ過ぎてしまうと、脳の機能が動かなくなるので、それで人は自殺しようと思ってしまうのである。白米を食べず玄米を食べていたら、絶対に自殺しようなどと思わないのである。

 自殺者数より恐ろしいのは、新潟県の鬱病患者の数は全国第一位であるということなのである。白米中毒に罹っていれば、鬱病になるのは当たり前なのであって、それは薬を幾ら飲んでも治らないのだ。白米をやめて玄米にすれば3ヵ月以内には治ってしまうものなのである。  

 白米中毒だと、このブログを読むのはしんどいと思う。まず最後まで読めないし、読んだ所で理解できないのだ。新潟県民がコシヒカリを自慢するのは結構なことだが、新潟県民自体、コシヒカリを食べすぎたために既に弊害が出て、死者も大量に出まくっているのである。

 タマティーのブログの思わぬ弱点が「白米中毒に罹っている人には好かれない」ということなのである。底上げすることは確かに大事なこともしれないが、まずは玄米を食べている人たちを相手にしよう。そして蕎麦や麦を食べている人たちを相手にしよう。

 そういう人たちに向けて記事を書き、他では知ることのない情報を知らせてしまえば、自然と質の高い生活ができるようになるので、それで新潟県と差が付くようになるのだ。新潟県の方も自分たちの地位が下がれば、「これは何かおかしいぞ」と気付くようになり、その時にやって白米中毒は危険であるという認識が広まり、白米中毒を脱して行くことになるのである。

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節分会にてタマティーの反省会

●超マイナー流行語大賞の失敗

 節分会にてタマティーは「タマティーの反省会」をしなければならなくなったしまった。というのは第4回超マイナー流行語大賞が三ヵ月前から準備していたのに、それほどヒットしなかったからだ。その理由は解っている。理由が解っているからこそつらいのだ。

「ウンコネタに走ったのが拙かった~」

 シモネタならまだ許容範囲であっても、ウンコネタになるとシビアになってしまうことを俺は知らなさすぎた。誰もが毎日ウンコをしているというのに、そのウンコをネタに笑わせようとすると、どこかにストッパーがかかってしまうのである。

 散々ウンコネタを考えたせいか、今年の初夢ではウンコをお漏らしする夢を見てしまったのである。俺としてはそのウンコのお漏らしを「運が良くなる」と肯定的に解釈したのだが、さすがにそのウンコのお漏らしを2回もしてしまったので、「これは何かあるぞ」と思ってしまうのである。

 そこでだ。

 タマティーは新年気持ちを改めて、ここのブログにやって来る人たちに「お持て成し」をしなければならないと考えた。今の内にお持て成しをしておけば、超マイナー流行語大賞でしくじっても、初夢でウンコをお漏らししたとしても、なんとか盛り返すことができるからだ。

 滝川クリトリスなら「あそこでお持て成し」をすることだろう。しかしタマティーはやはり「笑いでお持て成し」をすることになる。性格の違いがそうさせた。それではタマティーが考えた「お持て成し10連発」をどうぞ。今回もブラックユーモアが入りまくっているので要注意。

●お持て成し10連発

①消費税増税でお持て成し

 これこそ一番やって欲しくないお持て成し。安倍晋三首相は通貨供給量を増やすという英断をやったのに、それを打ち消してしまうかのような消費税増税をやってしまったのである。こういう人だからこそ子供ができなかったのだろうけど、幾ら「美しい国日本」を作りたいからといって、増税しちゃお仕舞いよ。

②偽装表示でお持て成し

 このお持て成しを食らった時は本当に洒落にならない。お金を出しているのは消費者の側なのに、業者はこれが嘘だと解った上で平然とやっていたのである。ちょっと騙すために嘘をついたのではなく、嘘をつき続けていたのである。一流レストランや一流ホテルですらやっていたのだから驚きである。

③汚染水でお持て成し

 東京電力が原発事故以降やり続けているお持て成しである。福島第一原発はメルトダウンを引き起こし、炉心が既にコンクリートに達しているのだが、そのことをきちんと報道せず、隠してしまうからこそ、この危機的状況を国民が解らないのである。

 「絶対安全は絶対に危険」。今回の原発事故でこれこそが教訓になってしまった。原発は人工物である以上、事故を起こす可能性は必ずあるのであって、事故が起こった時の想定をしておけば良かったものを、「絶対安全」を繰り返して、この無様な結果を産んでしまったのである。

④天安門爆破でお持て成し

 日本政府が尖閣諸島を所有するようになってから、中国は日本の領海への侵略を続けているのだが、そうやって攻撃に出ている内に、なんと北京の天安門で爆弾テロが発生してしまった。中国は独立を保ちたければ、日本と争ってはならないのであって、それなのに日本と争うとこういうことが起こってしまうのである。

 現在の中国は中国共産党の独裁体制なのであって、いずれは革命が発生して打倒されてしまうものなのである。中国に革命が発生する時、必ず天安門が爆破され、毛沢東の肖像画が破壊されることになる。天安門にいつまでも毛沢東の肖像画が飾られていると思ってはならないのだ。

⑤噛みまくりでお持て成し

 平成25年度の紅白歌合戦は面白かった~。司会者の綾瀬はるかは噛みまくり、見ている方がハラハラドキドキしてしまった。そのくせ自分が歌う番になると舞台の上で泣き出してしまった。我が家でもそのシーンを見てみんな号泣! どうなっちゃんたんだ~?

 紅白歌合戦はかなり手の込んだ企画だから、司会者が完璧にこなすとなんか詰まらないし、かといって司会者が視聴者に媚びて何かダラダラ言うのも面白くない。司会者がいい意味で何かが抜けていないと、紅白歌合戦の魅力を引き出せないのだ。

⑥ふなっしーがお持て成し

 紅白歌合戦では「ふなっしー」が登場したのだが、そのふなっしーは登場と同時にくまもんを押し倒しやがった。俺はこのシーンで大爆笑してしまった。その後、新年一発目の『笑点)ではふなっしーと林家たい平のコンビが面白く、これも滅茶苦茶笑えた。

 ここでふなっしーが登場!

「去年は大活躍したのに、未だに船橋市の公認キャラに認定されないっしーッ! 果汁プシューッ!」

 まあね、そういうことをやっているからこそ、船橋市の公認キャラに認定されないんだ。ふなっしーは非公認キャラで行くべきなのであって、船橋市から公認されようなどと思ってはならないのだ。

⑦壇蜜がお持て成し

 ところがである。家族は壇蜜の方を評価しやがった。確かに色気のある壇蜜の解答は面白かったが、それなら「ももいろクローバーZ」の百田夏菜子の解答の方が良かった。しかし百田夏菜子は19歳なので、33歳の壇蜜と比較すると、どうしても適わないのだ。

 俺は去年、壇蜜の運命鑑定を行い、彼女は男性たちだけに人気があるのではなく、女性たちにも人気があると判定を下したのだが、やはり壇蜜は意外と人気者なのである。壇蜜は今年も大いに活躍してくることだろう。壇蜜のあの受け答えは評価に値するのだ。

⑧オッパイでお持て成し

 世間でこれほどお持て成しが流行している以上、家庭でもお持て成しを流行させなければならない。例えば、夫が帰宅して来る際に、妻がランジェリー姿になって現れ、三つ指を付いてお辞儀をし、

「あなたお帰りなさいませ。今宵はオッパイでお持て成し」

な~んて言えば、もう大興奮である。

 こういうお持て成しがあれば、仕事の疲労は完全に吹き飛ぶ。逆に言えばオッパイがあるのにオッパイでお持て成しをしないからこそ、過労死が発生してしまうのである。過労死を防止するためにも、オッパイでお持て成しは必要なのである。

⑨チンチンでお持て成し

 妻がオッパイでお持て成しをする以上、夫だって何かしらお持て成しをしなければならない。夫は男性ゆえにオッパイがないのだが、その代わり股間にチンチンが付いているのだ。だったらこのチンチンを使ってお持て成しをすればいいのである。

 気を付けるべきは、チンチンでお持て成しをする場合、それが妻にとってはお持て成しになっていないことだ。妻が喜ぶような形でお持て成しをし、快感を与えまくり、オルガズムに行かせまくればいいのだ。「チンチンは自分のために使うな。妻のために使うべきである」という教訓は絶対に忘れない方がいい。

⑩ウンチでお持て成し

 こうやって夫婦が互いにお持て成しをしていると。赤ちゃんだってお持て成しをしてくる。赤ちゃんのお持て成しは「ウンチ」である。母親たちは赤ちゃんがウンチをすれば、「またウンチ~ッ!」とか不満を持ってしまうものだが、そうではなく「赤ちゃんがウンチでお持て成しをしてくれたんだ~」と思えば、オムツの交換は苦痛にならなくなるのだ。

 但し本当にお持て成しをするのは母親の方だから、このお持て成しは参加型のお持て成しであるのだ。気を付けるべきは、赤ちゃんのオムツを交換して時に、赤ちゃんが小便をしたりすることがあるということだ。これもまた赤ちゃんのお持て成しであるのだ。

●やっぱりウンコネタに走ってしまった~

 ダメだ。やっぱりウンコネタに走ってしまった~。去年も今年もウンコまみれってのは如何なものか? 

 今年はタマティーの小説を出す以上、

「タマティーの小説でお持て成し」

こうならないとね。

 タマティーは日々せっせと小説を書きまくっている。作家デビュー前までに四百字詰め原稿用紙で1万枚書くつもりである。そんぐらい書けば、作家として充分にやっていけると思う。逆に言えば、それだけ書かないと、お金を出して買って貰えるほどの小説にはならないってことなんだ。

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なぜ兄弟姉妹は喧嘩をするのか?

●兄弟姉妹だからこそ喧嘩をする

 母親にしてみれば、自分が産んだ子供たちはみんな仲良くして欲しいと思う。なぜなら自分が妊娠し出産したために、どんな子供でもあっても愛おしいからだ。しかし子供たちがそういう母親の親心を解るなんてことは有り得ないのだ。子供たちが集まれば喧嘩が始まることになるのだ。

 哺乳動物はどの動物もみんな仲良くして成長するなんてことをしない。どの動物も「喧嘩による成長」ということをやってくるのである。子供同士で喧嘩をし合い、それで自分の能力を向上させていくのである。だから大きくなって親元から離れた時、それなりの実力を持っているから、親なしでも生きて行くことができるようになるのである。

 しかしこの現実は母親にとっては心が痛い。母親は子供たちよりも遥かに高い精神レベルにいるから、喧嘩せずとも全員が利益を得る方法を知っているのである。母親は子供たちにもそうして欲しいと思うが、精神レベルの低い子供たちはそんなことせず、利己的に振るまって自分だけが利益を得ようとし、それで喧嘩になるのだ。

 母親が育児をする際に、この兄弟喧嘩による精神的負担を解消するためには、「陰陽バランスの法則」を知っておくといい。子供たちは皆平等ではなく、生まれた順に「陰陽」があり、それを踏まえて育児をすると、兄弟喧嘩を最小限に抑えることができるのだ。

 まず第一子が「陽」である。第二子が「陰」。第三子が「陽」。こうやって子供たちには生まれた順番に陰陽が付き、それによって子供たちの性格が或る程度決定してくるのである。だから第一子がやっていることを第二子に押しつけてはならないし、第一子は第一子、第二子は第二子と、それぞれの性格を認めてあげなければならないのだ。

 人間には男女という性別の違いがあるから、その上で「陰陽バランスの法則」をより具体的に述べていかなければならないことになる。

●兄と弟

 兄と弟の場合、この兄弟喧嘩は壮絶なものとなる。第一子長男は自分が生まれた瞬間から母親から思いっきり愛されることになる。なんせ母親としては初めての赤ちゃんであり、しかも家督を相続する男の子であるので、その愛情の注ぎ方は尋常ではないのだ。

 第一子長男は自分の母親が自分のことを最優先してくれるのは当たり前のことだと思って成長してくる。そこに第二子次男が生まれて来るのである。母親は次男が赤ちゃんゆえに、次男に愛情を注ぎ始めるのだが、そうなると長男としては面白くないのだ。

 次男が一人歩きできるようになると、長男と次男は喧嘩の日々を送るようになってしまうのである。この兄弟喧嘩は長男と次男だけに原因があるのではないのだ。母親にも原因があるのであって、母親が次男を産んだ後、長男にも愛情を注ぎ、出来ることなら他の人に長男の世話を任せておけば、こんなことにはならなかったのである。

 男の子にはスポーツをやらせろ。そんなに激しいスポーツは要らないが、スポーツをやらせることで、有り余ったエネルギーが兄弟喧嘩の方に行かないようにしてしまえばいいのだ。自分に体力がついてくると、男の子は余り喧嘩をしなくなるものなのである。

 母親はそれと同時に、兄と弟とでは性格がまるで違うということを理解しておかなければならない。兄は長男ゆえに責任感が強い。弟は兄と違って孤独癖があるのである。だから次男に向かって「お兄ちゃんを見習いなさい」というのは禁句なのであって、逆に長男に向かって「あなた、お兄ちゃんなんでしょ」というのは禁句なのだ。

 母親がこの禁句を言ってしまうと、長男も次男も大爆発を起こして来るのである。

●姉と妹

 姉と妹は普段仲がいいのに、些細なことで喧嘩をし始める。姉は妹が1歳辺りになるまで、自分のオママゴトの道具として妹を使って来たという経歴がある。そのため姉は妹に対して、常に自分の思い通りに動いて欲しいという意識を持っているのだ。

 それに対して妹の方は、自分が母親から愛されるだけでなく、姉から愛されるので、自分が母親と喧嘩しても姉が庇ってくれるし、自分が姉と喧嘩しても母親が庇ってくれると、双方に保険をかけながら育って来る。このため自分にとって不利益なことが発生すると、母親だろうが姉だろうが喧嘩してくることになるのだ。

 母親にとって娘たちの喧嘩が悩ましいのは、二人とも女の子のゆえ、言語能力が達者で、口喧嘩を延々と遣り続けて来るのである。女の子は口喧嘩をすることで言語能力を発達させているともいえるので、口喧嘩をやっているのなら、放置しておいていいのだ。

 女の子には女らしさを味わうことのできる芸事をさせることだ。自宅では女らしくできないからこそ、喧嘩をすることでその不満を発散させているとも言えるのである。女の子は自分が女として生まれたことの幸せに気付くと、そう滅多なことでは喧嘩をしなくなるのだ。

 女同士だからといって、母親が無理に仲良くさせようとすると、非常にねちっこい喧嘩をしてくるので要注意なのである。姉には姉なりの言い分がある。妹には妹なりの言い分がある。その双方の意見を聞くのが母親の役目なのに、喧嘩を嫌うために無理矢理に仲良くさせようとしても、姉妹は絶対に母親の言うことを聞かなくなってしまうのだ。

●兄と妹

 兄と妹の組み合わせは意外と仲が良い。世間では「一姫二太郎」と言われるが、これは母親の立場に立って育児がし易いことだけなのであって、本当は先に息子を生み、次に娘を産んだ方が、兄と妹は余り喧嘩をしないので、育児がし易くなるのだ。

 母親は息子と娘を平等に愛することはない。息子の方にベタ惚れになってしまうのである。男子は自分が成長するために母親から母性愛を大量に必要とするので、いつまでも母親に甘えて来るのだ。これは妹が生まれて来ても余り変わらないのだ。このため兄は結構ズボラである。

 妹の方が自分が母親に育てられながらも、母親の関心が兄の方に行っているので、自分が必要とする母性愛を貰うことができれば、後は自分で自由に動いてしまうのだ。このため妹の方が兄よりも遥かにしっかりとしているのだ。第二子長女は機転の利く女性として育って来る。

 兄と妹のバランスが崩れるのは、下にもう1人子供が出来た時である。母親はどうしても末っ子の世話に追われてしまう。そうなると兄と妹が仲良くやってくれればいいのだが、もしも母親が長男と長女に対して母性愛の注ぎ方が不足してしまうと、長男はダメ人間になり、長女の方は手の付けられないほど厄介な人物になってしまうのである。

 だから子供が3人できると、絶対に父親の手が必要となってくるのだ。子供が1人や2人なら女手1つでも育てることができる。しかし子供が3人になってしまうと、もう絶対に母親だけで育児をすることはできないのである。母親が第一子を産んでから、第三子が生まれるまでの間に、夫婦の愛の形をしっかりと形成していないと、長男と長女から手痛い反撃を受けることになってしまうのである。

●姉と弟

 姉と弟の組み合わせは、母親が育て方を間違ってしまうと大変なことになる。まず姉は第一子ゆえに母親から大量の愛情が注がれることになる。なんせ母親は初めての赤ちゃんなので、なんでも至れり尽くせりであるのだ。そこに弟が生まれて来ると、母親は初めての男の子ゆえに今度はこっちの方にメロメロになってしまうのである。

 姉にしては弟に母親を奪われたと思ってしまい、弟に激しい嫉妬をするようになるのだ。弟の方は自分こそが家督相続権者であるので、姉如きがなんで俺よりも高い地位にいるのかと思ってしまうようになるのだ。こうなると何かの切っ掛けで大喧嘩になってしまい、収拾が着かなくなってしまうのである。

 厄介なのは、父親というものは長女を可愛がってしまうことだ。母親が息子を可愛がるように、父親も異性である娘を可愛がっただけのことなのだが、これが弟にして見れば気に食わないのである。これではこの家の跡取りとしての自分の面子が丸潰れになってしまうからだ。

 第一子長女に続いて、第二子長男を産んだ場合、祖父母の力を借りるようにすることだ。まずは長女を祖父母に預けて、長女が下手に嫉妬しないようにさせるのである。その間、長男は母親にべったりなので、母親から母性愛を大量に貰える機会をきちんと確保しておくべきなのである。

 姉の方が先に生まれ、しかも女性ゆえに成長スピードが速い。だから長女への教育を最優先し、長女を早目にこの家から追い出してしまうべきなのである。父親がいつまでも長女を手元に置いておくと、息子の方はそれを許さず、親子間で激しいバトルが繰り広げられ、大概、父親が死ぬことになるのだ。

●じゃあ、母親はどうすればいいのか?

 母親が我が子たちの喧嘩に悩むのは、「四の結界」の中で起こっているということを絶対に忘れてはならない。「四の結界」はエネルギーが内側に向かってしまうので、どうしても家庭内で起こることに心を悩ませてしまうものなのである。

 じゃあ、母親はどうすればいいのかというと、子供たちに「公平」に接することだ。子供の喧嘩は双方にそれなりの言い分があり、親の立場から見ればそれは下らないことであっても、子供たちにしてみれば大ごとなのである。それなのに母親が子供たちの言い分を無視してしまっては、余計に喧嘩が悪化していってしまうのである。

 それと同時に「秩序」を重んじることだ。父系家族では、父親が頂点に君臨しており、その次に母親がいて家庭内の実権を全て握り、その下に第一子、第二子と続くのである。子供たちは生まれた順番で秩序を付けるべきであり、その秩序を如何なることがあっても崩さないことだ。

 自分たち家族だけで自己完結してしまわないことも必要なことだ。時には夫の実家に遊びに行ったり、妻の実家に遊びに行ったりすればいいのだ。子供たちは両親の双方の祖父母たちに会うことで、世の中には様々な人たちがいることを知り、自然と喧嘩する回数が減少していくようになるのだ。

 そしれトドメはなんといっても、子供を3人以上産むことだ。「四の結界」を突破するために、それしかないのだ。「四の結界」はいずれ「死の結界」へと変わっていくので、そうなれば今度は誰かが死ぬことになるのである。誰かが死なないと「死の結界」が崩れないから、「死の結界」の中にいる人たちは平気で誰かを殺してしまうようになるのだ。

 大体、子供たちが3人もいれば、母親の方は我が子たちの喧嘩にそれほど気にならなくなるものなのである。その喧嘩は成長過程に於いて必要なものだと解ったからこそ、その喧嘩が子供の喧嘩のレベルである内は放置しておくものなのである。そうやって子供たちは母親の庇護によってスクスクと成長していくのである。

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勝手にテレビ東京の女子アナ「狩野恵里」をモヤモヤ運命鑑定しちゃいました。

●タマティーが最も注目する女子アナ「狩野恵里」

 俺が今年最も注目する女子アナは、東京テレビの女子アナ「狩野恵里」である。彼女は去年から『モヤモヤさまぁ~ず2』に出演しているのだが、俺は彼女が出演するようになってから、この番組を毎回見るようになった。以前はたま~にしか見ていなかった。

 ただこの番組はうちの家族には非常に不評で、

「下らない」

「詰まらない」

「何が面白いのか全く解らない」

と散々に貶されているのだ。その酷評は解らなくもない。無駄なシーンがやたらと多いし、笑いを取れるシーンはもっと笑いを取ればいいのにそれをやらないのだ。

 そうはいっても日曜の午後7時から8時の間に他のチャンネルでは面白い番組をやっていないので、だったらこれの方がいいのである。我が家ではこれを見終わった後、午後8時からはNHKの大河ドラマとなるのだ。大河ドラマでは笑えないので、その前に笑ってリラックスするのである。

 狩野恵里は1986年10月26日生まれで、東京都青梅市出身である。最終学歴は国際基督教大学教養学部卒である。2009年4月1日にテレビ東京に入社し、2013年4月から『モヤモヤさまぁ~ず2』に出演するようになった。女子アナとしては順調な出世である。

 とはいってもこの狩野恵里、番組内では余りの出来の悪さに三村まさかずから叱られること度々で、三村まさかずが本気になって怒り、狩野恵里がシュンとなってしまうシーンがかなり高い頻度で放送されている。女子アナを教育するにはお笑い芸人の方がいいのかもしれない。

 狩野恵里の趣味は多彩で、「ピアノ」「英語」「新体操」、それに「献血」というものもある。「献血で血を抜かれるのが堪らない」という奇妙な性癖がある女性である。お酒をかなり飲む。テレビ東京に入社した時には冴えない顔をしていたが、『モヤモヤさまぁ~ず2』に出演するようになるといい顔つきになった。

●「エリ」って一体なんなの?

 日本人女性には「エリ」とか「エリコ」という名を持つ女性は多いが、そもそも「エリ」って一体なんなのということになる。「エリ」や「エリコ」には様々な女性たちがいても、その語源となっているのはたった1つの言葉なのである。だからそれが解ってしまえば、その人たちの性格が非常に良く解ることになるのである。

「エリ」とは「選り」のことなのである。

 赤ちゃんが雲の上に居た時、赤ちゃんがその母親を空から見ていて、「このお母さんにしよう!」と選んで生まれて来たからこそ、母親はそれに感動して我が子に「エリ」と名付けたのである。大概はこれを意識してやっているのではなく、無意識の内にやっているのだ。

 このため「エリ」という名を持つ女性は、「自分の選択を間違えない」という最大の特徴がある。出生前に自分の母親を選ぶことを間違っていないのだから、出生後に自分が何かを選択しても、それを間違えないのだ。勿論、生きていれば選択に間違うこともある。しかしそういう時でもそれをリカバーしてしまう運の良さを持っているのだ。

 狩野恵里の場合、その自分の選択を間違えないということは、テレビ東京の女子アナになったことでも示されているし、数ある女子アナたちの中から彼女だけが抜擢されて、『モヤモヤさまぁ~ず2』に出演できたのも引きの強さが出たのである。

 番組内で三村まさかずが狩野恵里に無理難題を吹っ掛けても、狩野恵里は積極的に行動して、それを巧く遣り遂げてしまい、三村まさかずが、「狩野、それなんだよ!」と逆に怒ってしまうシーンが度々あるのだが、これも狩野恵里の引きの強さの現れなのである。

●狩野恵里の字相

 狩野恵里の名前を運命鑑定してみると、吉凶の双方を持つ名前となる。狩野恵里という名前は、名自体は抜群にいいのだが、苗字がダメなのである。狩野という苗字は絵画の分野で狩野派が出て来てしまったためにいい苗字のように思われているのだが、実はそうではないのだ。

「狩」とは、「獣」ということ意味する。

「野」とは、「広くて伸びやかな平地」ということを意味する。

 だから狩野というのは「獣がいる平野」という意味であり、苗字としては非常に悪い苗字であるのだ。狩野という苗字自体は平安時代の「加納」を語源とする。加納とは本免田に付された荘田のことであり、つまり先祖は「荘官職」ということになる。

 「カノウ」という音の苗字は「加納」「嘉納」「叶」「叶野」「鹿野」「加濃」「加能」という漢字を使うのなら別に問題はないのだが、「狩野」となると途端に問題が発生してしまうのである。殺人事件を犯すような犯罪者には時折、「狩野」という苗字を持つ者がいるが、これが「やはりそうか~」なのである。

 なんで狩野派が出世してきたのかといえば、狩野派は動物画や風景画を得意とした一派であるからだ。苗字に獣や平地の意味を持っているために、こういう絵なら巧く書けるのである。しかし狩野派は人物を描くと下手糞になるものだが、それは苗字に人間を意味するものがないからなのである。

 狩野恵里は動物並みの運動神経を持っているが、これはやはり苗字が狩野だからであろう。特に彼女は平地になると本領を発揮してくるが、獣が平野を疾走することを考えれば、それは当然のことなのである。狩野恵里は本来、悪い意味を持つ苗字を、スポーツをすることでいい方向に使っているだけなのである。

「恵」とは「一途な心を傾ける」ということを意味する。

「里」とは「土地神を祀った祠がある集落」ということを意味する。

 「恵里」という名は非常に良い名である。女子アナとして一途な心を傾けながら、土地神を祀った祠がある集落を歩き回ることで、人々の応援を受けることができるのである。だからお散歩番組の『モヤモヤさまぁ~ず2』は彼女にとって最高の番組であるのだ。

 ここで思い出すのが「矢口真里」である。矢口真里も名に「里」という字を持つ以上、本来なら全国各地を歩き巡れば良かったのである。それなのに合コンばかり繰り返して、セックス三昧の日々を送ってしまったからこそ、芸能界から引退ということになってしまったのである。

●天中殺を巧く活かしてブレイク

 狩野恵里は2013年に天中殺に突入している。この年に『モヤモヤさまぁ~ず2』に出演したのである。天中殺の場合、それまでとは違った仕事をすることでいい毒消しができるのである。事実、狩野恵里はこの番組の仕事をする中で本当に顔が変わってしまった。

 そして今年2014年は天中殺のド真ん中である。自分が外界から支援を受けることはなく、自分が今まで蓄積してきた物を吐き出していかなければならないのである。ここで巧く出し切ると、通常ではありえないほどの大ブレイクをすることになるのである。

 来年の2015年は天中殺を抜けるので、来年は『モヤモヤさまぁ~ず2』を引退した方がいい。だから如何に今年で弾けるかなのである。「狩野恵里」と「さまぁ~ず」の相性は非常に良いので、行ける所まで行ってしまった方がいいのである。

 気になる点は、狩野恵里の「口角が下がっている」ということなのである。狩野恵里の笑顔の裏には不平不満が沢山あるということなのである。なんか女版「林修」を見ているくらいに口角が下がっているので、あれでは美しさが台無しになってしまうのである。

 口角を上げると運気が良くなる。天中殺は本来悪い事ばかりが起こるものなのである。それを良くするためには多少なりとも自分の運気を上げる努力をしておいた方がいいのだ。運気が上昇していけば、天中殺と雖もそんなに悪い事は起こらないものなのである。

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