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紫式部は出家したのか?

●出家願望と出家遁世は違う

 紫式部が出家願望を持っていたことは、『源氏物語』からも『紫式部日記』からも解る。では紫式部が実際に出家遁世したかどうかになると、それを示す証拠は何1つ残されていない。それで紫式部が出家したのか否かが議論になる。

 結論から言うと、

「紫式部は出家していない」

ということになる。

 まず紫式部は出家している閑がなかった。宮廷女官の仕事を長くやってしまったので、それで出家する機会を逃してしまったのである。中宮彰子にしてみれば、紫式部は最も有名な女性知識人なので、その彼女の出家を許す訳がないのである。

 もう1つの理由は、紫式部は浄土信仰に走っており、自分が浄土に往生できる決心ができなかったということなのである。源信の登場によって浄土教は流行し始めるのだが、世俗のことに執着してしまう紫式部はどうしてもその執着を断ち切ることができなかったのである。

 現在でもそうだが、出家というものはかなり覚悟のいることなのである。中途半端な気持ちで出家することはない。出家する覚悟を決めたからこそ出家するのであって、『源氏物語』で浮舟が出家したからといって、紫式部本人が出家したとは限らないのである。

 もしも紫式部が出家していたのなら、寺院での出家生活のことを詳しく知ることができた筈なのであって、それなのに『源氏物語』では寺院での出家生活のことが詳しく書かれていない。どう読んだとしても寺院を外から見ている人が書いた程度のことしか書いていないのである。

●実は出家がブームだった!

 紫式部の出家願望は何も個人的なものではない。実を言うと。紫式部が生きていた時代は出家がブームだったのである。だから多くの人たちが出家したいと言い出し、その中で出家する者たちが続出していたのである。この時代背景が解らないと、紫式部の出家願望を個人レベルの物として捉えてしまうという大失敗をしてしまうのである。

 円融天皇の御世に藤原氏による政界独占は完了し、そのことに対して藤原氏以外の貴族たちは激しい不満を持つようになった。それが花山天皇の御世で爆発して、天皇自身が積極的に政治を行うことで藤原氏の権力増大に牽制を加えた。しかしその花山天皇が藤原氏の陰謀と謀略によって譲位してしまい、それが藤原氏以外の貴族たちを大いに失望させてしまったのである。

 それで一条天皇の御世になると出家する貴族たちが大量発生し始めたのである。出家しなかった貴族たちも政治に対する関心を失い、それで在家の身でありながら出家に憧れたり、歌道に精進したりと、これが一条天皇の御世に於ける文化向上の要因の1つとなったのである。

 しかも藤原道長によって摂関政治が完成してしまうと、今度は藤原道長自体が出家願望を持つようになり、本当に出家してしまうのである。藤原道長は政権獲得のために一条天皇を暗殺し、その子供たちをも殺して行くことになるのだが、その罪の重さが彼を苦しめていたのである。

 紫式部も中宮彰子の宮廷女官になることで、藤原氏による摂関政治の完成を目指す勢力に入っていた。中宮彰子は藤原定子を排除することで中宮の座を得たのだが、それは中宮彰子にとっても、彼女の宮廷女官たちにしても、罪の意識を感じさせていたのである。

●なぜ紫式部は出家願望を持つようになったのか?

①死の影

 紫式部がどうしてそこまで激しく出家願望を持つようになったのかといえば、それは死の影に怯えながら生きて来たからである。母親が死に、姉が死に、兄が死に、そして夫が疫病で死んで行った。紫式部がこの世を「憂き世」と思っても仕様がない現実がそこにはあったのである。

 身内の者が余り死んでいない人が『源氏物語』の研究をやってしまうと、紫式部の考えがまるで解らなくなってしまう。光源氏がなぜ死んだ母親のことを思慕するのかも、マザコン程度の解釈しかしてこないのである。これでは紫式部の心に肉薄することはできないのである。

②宮廷女官

 宮廷女官は貴族の女性たちにとって花形の仕事なのであるが、この職業は苦悩を少なからず発生させた。というのは、宮廷女官は自分が仕えた皇族や后妃に対して忠誠を誓わねばならず、自分たちの皇族や后妃が出世していけばいいのだが、そうではない場合は皇族や后妃もろとも全滅ということになってしまうのである。

 それに宮廷女官は女性しかなることができないので、それで女同士の嫉妬や、女性同士で足の引っ張り合いをするということが起こってしまうのである。紫式部は平安時代の女性には珍しく同性の友達に短歌を贈ったりしているのだが、これもこういうことをしないと宮廷女官をやっていくことができなかった証であるとも言えるのである。

③性格的な理由

 紫式部が根暗な性格だったということも出家願望を強くする要因の1つとなった。紫式部は読書が好きで、琴を弾くのも好きだった。みんなでわいわいがやがやするより、1人で何かをすることを好んだ女性なのである。こういうことを突き詰めていけば、出家して、静かな人生を1人で送りたいと思うのは当然のことなのである。

 紫式部は仕事が忙しかったからかもしれないが、再婚を拒絶していたということも出家願望を強めた。紫式部のような根暗な女性は、根明の男性に惹かれるものである。事実、藤原宣孝はこの手の男性で、女性たちには持てていたのである。しかし紫式部はそれに嫉妬してしまい、どうも夫婦の仲は余り良くなかったみたいなのである。

④母系家族制から父系家族制への移行

 日本では弥生時代から平安時代にかけて母系家族制から父系家族制へと変わって行くのだが、摂関政治が始まると、父系家族制的要素が非常に強まるということになった。これによって今まで牧歌的な生き方をしていた女性たちが、「自分とは何か?」「女性はどう生きるべきか?」を模索し始めたのである。

 紫式部の生きていた時代に、『蜻蛉日記』『枕草子』『和泉式部日記』など続々と名作が出て来るのはそのためで、女性たちは結婚制度の変化に対して悩み始めていたのである。紫式部もその内の1人なのであって、母子家庭を営んでいた紫式部にしてみれば、父系家族制への移行は反対であったのである。

●もしも紫式部が出家したのなら証拠が残っている筈

 紫式部の出家願望が必然性を持っていたのだが、では紫式部が本当に出家したのかといえばそうではない。もしも紫式部が出家したのなら出家した証拠が残っているのだが、それが全くないのである。仏教寺院にしてみれば紫式部を出家したことは絶好の宣伝材料になるので、それをしないというのは絶対に有り得ないのである。

 この当時、清少納言も和泉式部も出家願望を持ち、出家はしなかったものの、寺の前で庵を作って住んだという伝承が残っている。清少納言や和泉式部ですらそういう扱いを受けるのである。紫式部が出家したのなら、必ず伝承を残す筈なのである。

 紫式部が出家願望を持っていたのは事実であろう。しかし中宮彰子に長らく仕えたので出家する閑がなかった。紫式部は『源氏物語』を執筆するにも、自分の娘を育てて行くにも、働かなければならなかったのであって、それらのことを放棄してまで出家するということは有り得ないのである。

 この世には「出家したい」「出家したい」と言いながら、結局、出家しないという人がいるものだ。紫式部もその内の1人だったということになる。ということは、「紫式部は出家する決心が付かなかった」。出家する決心がつかなかったからこそ、出家しなかったである。

 ではなぜ出家する決心がつかなかったのかといえば、紫式部は作家であることに執着していたし、宮廷女官であることに執着していたのである。しかもこれらの物を全部捨てて、自分が浄土に往生できるのか、そのことに於いて確信が持てなかったのである。

●法然と親鸞が引き起こした宗教革命

 紫式部が生きた時代は、仏教界でも変化が起こっていた時期であった。平安時代は天台宗こそが仏教界の頂点に立っていたのだが、天台宗の内部で、「天台宗の教義では悟りを開くことができないのではないか?」という疑問が起こり始めたのである。天台宗では悟りを開けないからこそ浄土教に走ったのが「源信」であり、これ以降、浄土教は徐々に流行し始めるのである。

 しかし源信は飽くまでも天台宗の教義に則って『往生要集』を書いたのであって、浄土教が根本にあったのではないのである。『往生要集』は浄土教系の経典からの寄せ集めになっているのだが、これが源信の不安の現れなのであって、源信ですら自分が本当に浄土に行けるのか確信を持てなかったのである。

 浄土教の環境が大きく変わったのが末法思想の流行である。末法思想によって釈迦の教えが消滅すると考えたからこそ、阿弥陀如来の教えがクローズアップされてきたのである。この変化に巧く乗じたのが法然であり、親鸞であったのである。

 法然は専修念仏を唱え、専ら阿弥陀如来の誓いを信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、死後、平等に往生できると説いた。仏教は「帰依」するものなのだが、浄土教では「信仰」が根本に置かれるようになったのである。親鸞はこの教義を更に徹底させ、絶対他力を唱え、阿弥陀如来が救済してくれたからこそ、その感謝のために念仏を唱えると説いたのである。これによって自力救済の道は消滅し、ひたすら信仰し、ひたすら念仏を唱えることになるのである。

 法然と親鸞は宗教革命を起こしたのであって、浄土教は確かに仏教から生まれたかもしれないが、浄土教というのは仏教とはまるで違う物なのである。信仰によって自分は浄土に往生できると確信を持てたからこそ、救われない人々を惹きつけ、浄土宗にしても浄土真宗にしても教団が大発展して行くことになるのである。

 もしも紫式部が出家したというのなら、紫式部は法然や親鸞たちが辿り着いた宗教的境地に既に辿り着いていたということになる。そんなことは絶対に有り得ない。浄土教が成熟するまでには長い時間を要したのであり、それをすっ飛ばして紫式部が辿り着くということは絶対に有り得ないのである。

●宗教が解らないからこそ妄説が罷り通る

 増田繁夫は『評伝 紫式部』の中で、「紫式部は出家していない」と学術的に論証した。これは当然なのであって、『源氏物語』を見ても、『紫式部日記』を見ても、また日本の仏教史を見ても、紫式部は出家願望を持っていても、出家することはないということが解るものなのである。

 それなのに、瀬戸内寂聴は「紫式部は出家したからこそ宇治十帖を書いた」と妄説を唱え、彼女が『源氏物語』の現代語訳を出したために、この間違った学説を信じる女性たちが大量に出現してきてしまったのである。よくもまあ、こんな嘘をつけるかと思うが、彼女は天台宗の尼僧でもあるから、非常に厄介なのである。

 天台宗の尼僧だからといって、仏教のことを正しく理解しているとは限らない。仏教自体、様々な宗派があり、天台宗はその内の一派に過ぎないのである。しかも浄土教は仏教から生まれてきたが、仏教とは根本から考え方が違うので、天台宗の尼僧だからこそ、浄土教のことがまるで解らないのである。

 紫式部は法華経至上主義から浄土信仰への過渡期に生きた。当時の仏教が揺れ動いていたように、紫式部の心だって揺れ動いていたのである。そして浄土教は現代でも存在しているので、我々の方がなかなか歴史の事実が解りにくいということになってしまうのである。

 浄土教は仏教が産み出したかもしれないが、阿弥陀如来の教えを中心に据えている時点で、最早、仏教ではなくなっているのだ。だから法然だって親鸞だって浄土教に辿り着くまで散々悩み、信仰を持てば宗教弾圧を受け、流刑の目に遭ってしまったのである。この宗教革命が起こる前に、宮廷女官の紫式部が出家したと考えるのは絶対に無理があるのである。

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