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『源氏物語』の後に出て来た凄い作品

●『源氏物語』の呪縛

 平安時代の文学は『源氏物語』で最高到達点に達し、平安時代が終わると女性作家が書く文学作品が消滅してしまう。鎌倉時代以降、日本は父系家族制へと移行したために、女性は家長の妻として重要な地位と権限が与えられるようになり、文学を作っている閑がなくなってしまったのである。

 『源氏物語』では母系家族制から父系家族制への移行で女性たちが戸惑い悩むのであるが、その不安が現実的な物になり、女性たちは変わらなければならなくなった。北条政子の登場はまさにそれを象徴する出来事なのであって、夫が死んだ場合、妻は亡き夫に変わって武士たちを率いねばならず、となれば政治や戦争に対して詳しくならなければならないということなのである。

 武家の時代は封建制度を採用するのだが、この封建制度は平和を産み出しはするが、戦争をも産み出す。領地を獲得した武士たちはそこで繁殖していくから、当然にいずれは人口が飽和状態になる。それで新たな食い扶持を得るために戦争を引き起こして来るのである。

 こうなってくると、女性たちに求められるのは、とにかく子供を大量に生むことなのであって、男子は戦争に備え、女子は政略結婚の道具として戦争を回避する道具として使用していく。もうこうなってしまうと、『源氏物語』で展開されるようなお話では女性たちになんの説得力もなくなってしまったのである。

 女性作家たちが出て来ないということが、当時の女性たちは不幸だったということはできない。当時の女性たちは文学作品を必要としないほど、リアルな世界の中で生きていたということなのである。平安時代とは比較にならないほどの地位の向上が、女性たちの文学離れを引き起こしたのである。

●井原西鶴著『好色一代男』

 江戸時代では儒教の力を借りて父系家族制が理論的に強化されるのだが、その時期に『源氏物語』をひっくり返す文学作品が登場した。それが井原西鶴の『好色一代男」である。『源氏物語』の主題は「密通」なのであが、『好色一代男』の主題は「好色」である。

 光源氏は母親をなくしたために、自分の母親に愛されなかったというコンプレックスが様々な女性たちに手を出すということになるのだが、世之介は生まれつきスケベで、それで様々な女性たちに手を出すということになる。このバカらしさがこの小説の魅力であると言っていい。

 因みに、世之介は女性ばかりに手を出したのではなく、男性にも手を出した。世之介は男色家だったのであって、この点が『源氏物語』とは決定的に違う。平安時代も末期になると男色が流行し始めるのだが、『好色一代男』は男色の流行以後でないと絶対に出て来ない作品なのである。

 世之介が生涯にやった人数は、女性が3742人で、男性が725人である。要はよく男性たちにありがちなやった数に走ったのであって、このため『好色一代男』には恋愛らしい話は1つも出て来ない。まさに好色を貫いたのであって、女性読者たちの共感を得られることは絶対にない。

 光源氏もセックスをやりまくっているのだが、世之介ほどここまでセックスをやりまくった主人公は存在しない。文学というのは、架空の物語世界だからこそ、現実世界では許されないことでも許されてしまうのであって、『源氏物語』が密通を描き、『好色一代男』では好色を描いただけのことなのである。

 『源氏物語』を読んで、「平安時代の貴族たちはこういう生活をしていたんだな~」と思うことはバカのやることであって、『好色一代男』を読んで、「江戸時代の男女はこういう生活をしていたんだな~」と思うこともバカのやることなのである。『好色一代男』は官能小説であると同時に、各遊郭の宣伝本と考えた方がいい。真面目に受け取ると、本当にバカを見ることになってしまう。

●尾崎紅葉著『金色夜叉』

 日本は明治維新によって近代化が始まると、欧米の影響を受けて更に父系家族制が強化された。夫婦同姓が法制化されたのは明治になってからなのであって、これによって父系家族制は新たな段階に突入した。女性の地位と権利がより強化されたということになのである。

 夫婦別姓だと、女性は所詮「借り腹」なのであって、子供を産むことができないのなら嫁ぎ先を去らねばならなかった。しかし夫婦同姓だと、女性は嫁いでしまえばその家族の一員になるのであって、妻として強力な権限を持つようになったのである。となれば、女性たちがより良い男性を求めて結婚しようとするようになる。

 そうなると男性たちは持てる男性と持てない男性と明確に分かれてしまうのである。

 この結婚制度の変動期に尾崎紅葉は『金色夜叉』を書いた。『金色夜叉』は『好色一代男』以上に『源氏物語』を意識して書いた。尾崎紅葉はどこをどう意識したのかというと、光源氏のように持てる男性を主人公にしたのではなく、間貫一のように持てない男を主人公にしたのである。

 日本文学は『源氏物語』の圧倒的影響力を受けているので、主人公は皆持てるのである。しかしこれは盲点なのであって、それをひっくり返せば持てない主人公を産み出すことができるのであって、だから『金色夜叉』は革命的な文学作品なのである。

 ところが悲しいことに、この『金色夜叉』は文学者たちに理解して貰えない作品であるのだ。尾崎紅葉が早死にしてしまったり、『金色夜叉』が未完成だったりといった理由があるのだが、俺に言わせれば、「文学者たち自身が女性に持てないために、この小説は生々しくて読めないのだ」ということなのである。

●古典をどうパクるか?

 古典を読み、それを研究して行くことは確かに大事なことである。しかし人間は古典に押し潰される危険性を持っていることを絶対に忘れてはならない。紫式部の『源氏物語』は日本文学史に於いて最高の古典なのであるが、それと同時にこの『源氏物語』は『源氏物語』バカを大量に産み出していることもまた事実なのである。

 古典を乗り越えて行くためには「パクリ」という物をやらねばならない。パクるからこそ分解されていくのであって、パクることによって新たな文学作品を産み出すと共に、その古典に対して新たな評価だって見えて来るということなのである。

 パクれないということはその古典をちゃんと理解していないということだ。例えば日本の少女漫画ではなぜだか主人公の女性は男性たちから持てている。『源氏物語』の光源氏が女性たちから持てていたことの裏返しを少女漫画ではやっているのである。

 しかし実際の少女たちは男性たちから持てないことを嘆いているものなのである。だったら男性たちから持てない少女の話でも少女漫画にすればいい物をそういうことができないのである。尾崎紅葉はその男性バージョンをやったのである。だから名作を作り上げることができたのである。

 作家にしてみれば、自分の作品を作りたいという気持ちがはやってしまうものだ。だがそれでは独り善がりの貧弱な作品しか作れない。作家だからこそ古典を愛読して、その上でより素晴らしい作品を作り上げていかなければならないのである。

 そういった意味で文学というのは「創造の産物」であると同時に、「相続の産物」であるということなのである。

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