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2014年11月

ニンニクの醤油漬けを作って気付いたこと

●只今、ニンニクの醤油漬けを作っております

 第二子不妊で悩むまゆごろさんにニンニクの醤油漬けを作るよう勧めたので、ついでに自分もニンニクの醤油漬けを作ってみることにした。ニンニクの醤油漬けはスーパーでも売っているのだが、危険な食品添加物が多々入っているので、それなら自分で作ろうと常々思っていたのである。そのため丁度いいタイミングでニンニクの醤油漬けを作ることができた。

 ニンニクの醤油漬けを作るのは至って簡単で、ニンニクを大量に買ってきて、その皮を剥き、それをビンに入れて、そこに醤油を注ぎ込めば完成である。超簡単なので、やればできる物である。しかし面倒臭がってやる奴が出て来なくなるからこそ、危険なニンニクの醤油漬けが市場に出回ることになる。

 ニンニクの醤油漬け作りで面倒な作業はニンニクの皮を剥く作業である。これにはコツがあって、ニンニクの底を巧く剥がすと、皮が簡単に取れることになる。しかしニンニクの底を包丁で切ってしまうと、皮を剥くのが実に厄介なことになる。

 ニンニクの醤油漬けでは醤油の品質には拘った方がいい。丸大豆で作られた物を使用すべきであって、脱脂された大豆で作られた物を使用してはならない。味は醤油で決まるのであって、醤油がダメなら、ニンニクの醤油漬けだって美味しくならない。

 ニンニクの醤油漬け作りをやると、とにかく一心不乱になって行えるから良い。作業に集中させざるを得ないので、雑念は全て吹き飛び、アルファ波が大量に出て来ることになる。ニンニクの書湯漬けの効能以前に、この作業をやるだけでも充分な効果を得られる。

●朝からニンニクの臭いが~

 ニンニクの醤油漬けは作ってから1ヵ月経たないと食べることができない。そのため毎日、ニンニクの醤油漬けのビンを見、ニンニクの浸透具合を見るのが楽しくて仕様がない。徐々にしか浸透しないので、そのゆっくりとした進み具合を見るのが実に楽しいのだ。

 しかしニンニクの醤油漬けは朝からニンニクの臭いが微かにプワ~ンと臭って来ることになる。ニンニクの醤油漬けを台所の食器棚に置いているのだが、食器棚の扉を閉めているというのに、ニンニクの臭いが僅かであるが臭って来るのだ。

 俺がニンニクの醤油漬けを作ったので、この臭いにはなんの不満もないのだが、家族は不満を持って来ることになる。曰く、

「台所がニンニク臭~い」

と、朝から騒ぎ立てやがる。といってもニンニクの醤油漬けを食わす訳にもいかないので、

「この程度の臭いで文句を言うな」

と俺は反論し、不平不満を抑え込むことになる。

 ニンニクの醤油漬け作り自体は簡単なのだが、それを完成させるまでには長い道のりがある。確かに臭いと言えば臭いが、どの食べ物にだってそれなりに臭いがあるんだから、ニンニクの臭いだけを敢えて騒ぎ立てるなと言いたい。この手の不満にはとにかくニンニクを食わしてしまうことに限るのだが、しかしまだニンニクの醤油漬けは完成していないのだ。

 台所にニンニクの臭いがするようになってから変わったことといえば、新人賞に出す原稿の推敲がやっと終わったということである。今回の推敲は全ての原稿用紙に赤ペンが入ったほど推敲を丹念にやった。そのためなかなか終わらず、ずるずると長引いてしまったのである。

●魔除けには臭い物が利く?

 ニンニクの臭いがしてつくづく思ったのは、

「これだけ臭いのなら魔除けにも効くよな~」

ということであった。ドラキュラがニンニクを嫌うのは、邪悪な者はこの手の臭さが嫌だからなのである。逆に言えば、余り臭いをしない場所にこそ、魔は入り込むということだ。

 丁度、テレビで伊勢の方にある島を紹介していたのだが、その島ではイワシの頭を玄関先に吊るしておくということをやっていた。これは「イワシの頭も信心から」という諺の語源になった物だが、これは迷信だと否定することができず、魔除けという観点からすれば実に理に適ったことなのだ。

 臭いといっても単なる悪臭ではない。「発酵臭」という物こそ、魔除けには効くということになる。なぜ発酵臭が良いのかといえば、発酵してくれることで他の菌が寄りつかず、それで健康にいられるのである。発酵臭がなければ、悪い菌が侵入した場合をそれを防げないのだ。

 考えてみると、不妊症が発生するのは、都会に住み、しかもマンションとかに住んでいる人が圧倒的に多い。マンションこそ、意図的に発酵臭を発生させないと、臭いのない部屋になってしまい、そうなると悪い菌が侵入して来て、体が正常に機能しなくなってしまうのである。

 中国人とかインド人とかは食生活のために生活臭がきついものなのだが、そのせいか、不妊症に罹る率は低く、繁殖し続けている。和食はそんなに臭くないので、糠漬けなどを浸けるとかしないと、腐敗臭がきつくならない。発酵臭のない家は一見お洒落に見えるかもしれないが、そういう家は危険な家だと言っていいtのだ。

●台所を聖化することの大切さ

 新婚の夫婦が思わず忘れてしまうのは、「台所を聖化する」ということだ。結婚によって新居に引っ越したはいいが、台所に対して何もせず、無闇に料理を作ってしまうと、もしも台所が魔に犯されてしまったら、その汚染された食事を夫婦で食うことになる。それで思わぬ悲劇が発生してしまうのである。

 台所を聖化するためには「荒神様」を祀り、毎朝、水とお茶を上げるようにすることだ。毎朝これをやると、台所が魔に犯されることがなくなるので、それで台所を聖なる状態にすることができるのである。そこで作った料理というのは、当然にその夫婦にとって健康を齎すことになる。

 ところでこの荒神様って一体なんの神様だと長らく疑問に思っていたのだが、通常はこれを仏教系の神様だということになっている。ところが実はそうではなく。これは「スサノヲ」の事だったのである。日本民族の始祖神を台所で祀っていたということなのである。

 スサノヲは「火の神」の機能をも果たしているので、それで火を扱う台所ではスサノヲがいるということになる。京都の祇園祭でも解るように、スサノヲは疫病退散の効能があるので、それで台所のように悪い菌が入って来るかもしれない場所では、スサノヲの力を使って守るのである。

 荒神様はこれを祀ると早くに効果が出て来ると言われている。しかしこれを祭祀を疎かにするとすぐに祟るとも言われている。昔は「荒神様の祟りで家畜が死ぬ」と言われた。となれば、都会のように家畜がいない場所では、不妊症とかが起こってもおかしくはないのだ。

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スコットランド人はおかしな小説を書く

●イギリスであってもスコットランドはまるで違う

 イギリスは連合国家なので、本当にイギリスらしい所はイングランドだけであって、ウェールズもスコットランドも北アイルランドも、イギリスらしさという物が大いに減少する。特にスコットランドはキリスト教のカルヴァン派が国教になってしまったために、イギリス国教会を国教にしているイングランドとはまるで違うのだ。

 イギリス国教会はプロテスタンティズムに属するといっても、ルター派ほど狂信的にならず、カルヴァン派と違って教団組織をカトリック教会から引き継ぎ、それをイギリスに相応しいように変えてしまった。イギリス国教会はキリスト教の宗派の中でも「中庸の道」を歩いている所に特徴があるのだ。

 カルヴァンは聖書中心主義を強力に唱えたので、カルヴァン派が独占した地域では、必ず既存の文化が完全破壊されてしまうことになる。如何なる文化も聖書に起因して発生した訳でないから、それで既存の文化を容赦なく破壊してしまうのである。

 宗教改革の歴史で絶対に忘れてならないのは、カルヴァン派が支配した所から資本主義が発生したといっても、それまでの間は、カルヴァン派は常に劣勢に立たされていたのであって、カトリックの方が常に優勢であったということなのである。

 スコットランドも嘗ては独立国だったのに、それがイングランドに侵略されて併合されてしまったのは、カルヴァン派が支配したために文化が消滅してしまい、それで国内がスカスカになってしまったからなのであって、スコットランド人たちがカルヴァン派に改宗しなければ、独立を保てたかもしれないのだ。

●シャーロック・ホームズ

 このため、イギリスは近代文学発祥の地でありながら、スコットランド人が書く小説というのは、どうも近代文学として認めることが難しい。しかしスコットランドはイギリスに併合されてしまったので、スコットランド人たちはイギリス国籍を持っているから、イギリスの小説として出回ることになる。だからといって、それが近代文学であるとは限らないのだ。

 スコットランドの文学で、最も有名なのは、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』(1891)であろう。シャーロック・ホームズなる探偵が、警察官たちが解決不可能な事件を解決していってしまうという物語である。世界初の推理小説はアメリカ人のエドガー・アラン・ポーの書いた『モルグ街の殺人』(1841)と言われているのだが、推理小説が誕生してから50年も経ったというのに、何か変なのである。

 スコットランドはコナン・ドイルが出るまで文化レベルは低かった。それなのに突如としてコナン・ドイルが出て来た。何かおかしいと思って調べてみたら、なんてことはない。コナン・ドイルはカトリックの信者なのであって、北アイルランドからの流れ者だったのである。道理で小説を書けるわけだ。

 コナン・ドイルの『シャーロックホームズ』がそれまでの推理小説と一体何が違うのかといえば、探偵と警察官は対等な立場ではなく、探偵は最初から警察官たちよりも立場が上で、能力の面に於いても卓越している。そんなことは現実に有り得ないのであって、推理小説はこれ以降、おかしな方向に突っ走って行くことになる。

 例えば日本の東野圭吾もシャーロック・ホームズを巧くパクって、『ガリレオシリーズ』で天才物理学者を登場させ、警察官が事件を解決する前に事件を解決してしまう。それだけ高い能力があるなら、科学者として科学的発見のためにその能力を使えばいいのに、そういうことをしないのである。

●ロバート・ルイス・スティーブンスン

 生粋のスコットランド人で有名な作家になったのは、ウォルター・スコット(1771~1832)なのだが、スコットランドでは絶大な人気を得ていても、日本では知らない人たちの方が多い。理由としてはウォルター・スコットの文章が旧式であり、1868年に明治維新をやった日本では「古臭い」と思われてしまうのである。

 その点、生粋のスコットランド人の作家としては、ロバート・ルイス・スティーブンスンの方が有名であろう。彼の主著である『宝島』は1883年発行であり、『ジキル博士とハイド氏』は1886年発行なので、丁度、日本の近代化に重なり、それで日本人に受けるのである。

 スティーブンスンの作品を好きになった日本の作家には夏目漱石や中島敦といった錚々たる作家たちが並ぶ。彼等は国語や漢文だけでなく、英語もできたので、教養のある日本人にしてみれば「スティーブンスンの作品は普通の英語の作品とは違う」と評価したのである。

 スティーブンスンはカルヴァン派の信者の息子として生まれ育ったのだが、大きくなると父親と衝突してしまい、それで教会から離れていってしまった。カルヴァン派のように信仰義認説を取っていると、教会から離脱することは無神論者になってしまう。それで彼はキリスト教を否定するような作品をバンバンと書いていったのである。

 しかもスティーブンスンは小説の書き方が違った。1章をたった1日で書き上げてしまい、それを最後まで続けるという遣り方を取った。これは何を意味するかというと、彼は安息日である日曜日に教会に行かなかったのであり、それで日本のように安息日としての日曜日が定着していない国では、非常に読み易い作品になってくるのである。

 キリスト教の作家は6日執筆して、1日休むというペースで仕事をするのだが、人間の脳は21日周期で動いているので、せめて10日は連続して執筆してくれないと、まともな物が出来上がらなくなってしまう。肉体労働をしているのなら1週間7日制は多少効果があるだろうが、頭脳労働となると1週間7日制ほど有害な物はないのだ。

●イギリス人らしからぬ小説

 スコットランドには他にも有名な作家がいるのではないかと思って探してみたが、やはりいなかった。カルヴァン派は文学という物を死滅させてしまうのであって、キリスト教的にはカルヴァン派の教えは正しい物なのかもしれないが、他の分野ではそのために様々な弊害が出て来てしまうのである。

 イングランドではイギリス国教会が国教となり、それで国内に自由が生まれ、近代文学が誕生してきた。ロシアのロシア正教会が国教になったので、イングランドと同様に近代文学が出て来た。しかしスコットランドはカルヴァン派が国教になったというのに、近代的な文学作品が出て来ることはなかったのである。

 確かにコナン・ドイルはスコットランド出身者であっても、彼はカトリックの信者なのであり、ロバート・ルイス・スティーブンスンはカルヴァン派の信者の息子として生まれたが、彼は無神論者になった。カルヴァン派が文学を産み出して行くということはなかったのである。

 しかもコナン・ドイルもロバート・ルイス・スティーブンスンも、おかしな小説を書いている。これはイギリス人らしからぬ小説なのである。このことはイギリス人には解らなくても、外国人の目から見ると大いに解る。文化レベルが高い地域から生まれてきた物ではないがために、幾らベストセラーになっても「これはおかしいぞ」と思ってしまうのである。

 宗教と文学は分離して然るべき物だが、だからといって宗教に関して無知になってはならない。宗教の中には文学を産み出す宗教もあれば、文学を消滅させてしまう宗教もある。そういうことがあるからこそ、宗教と文学の関係をどう構築していくのかを考えることは非常に大切なことなのである。

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オカラカレー

●カレーライスの食べ過ぎ

 頭脳労働をしていると、発作的にカレーライスを食べたくなる。カレーライスを食べると脳の疲労が除去されるので、それでどうも頭が疲れたなと思った時はカレーライスを食べたくなるのだ。これはこれで脳にいい筈なのだが、問題が1つある。

 それは「食事をカレーライスにした場合、そもそもが大盛りで食べてしまい、しかも食べ終わればお代りをしてしまう」ということなのである。多分、通常の2杯分以上のお米を食べていることになる。尤も我が家では白米ではなく、玄米と押麦なので、それほど害はないのだが、ただ炭水化物の摂取量が多いことは確かである。

 しかしカレーライスを1杯だけにしてしまうと、なんか物足りない。体が更なるカレーライスを欲しているので、もう1杯食べたいのである。それではたまにカレーライスを食べるのではなく、カレーライスの回数を増やせばいいのだが、そうなるといつもカレーライスになってしまうので、そうなると食事が面白くなくなってしまうのだ。

 カレーライスの本場インドとともなると、ほぼ毎日がカレーライスなのだが、なぜそうなってしまうのか解るような気がする。生きていれば脳は疲労するのだから、カレーライスを食べたくなる。そこで毎日がカレーライスというようになってしまうのである。

 俺自身、カレーライスは好きといっても、やはり日本人だからそんなに回数を多くしたくはないのだ。食事の基本は和食なのであって、今の季節ならサンマを食べたいし、もう少し寒くなればブリ大根だって食いたくなる。だからカレーライスを食べたい時は一度にドカンと食ってしまい、それで当分の間、カレーライスはお休みというようにしたいのだ。

●そこでオカラカレー

 そこで思いついたのが「オカラカレ-」である。カレーはそのまま。ライスの部分がオカラに代わっただけ。オカラは炭水化物ではないので、幾ら食おうが血糖値が上がることはない。これなら大盛りで食おうが、幾らお代りをしても構わないということになる。

 問題は「オカラをどう料理するか?」ということなのである。オカラをそのまま食べても食べられないことないが、美味しくはない。カレーが水分を含んでいる以上、オカラをしっかりと炒めて水分を飛ばさないと、美味しいとは感じないのだ。

 オカラに味を付けたいというのなら、ニンニクを細かく刻んで、それと一緒にオカラを炒めるようにすればいい。ニンニク味が付くと食べ易いし、それにニンニクが食欲を増進させるので、それで美味しく食べることができるようになるのである。

 ヘルシーにしたいのなら、玉葱を細かく刻んで、それと一緒にオカラを炒めるようにすればいい。オカラの味は非常に単調なので、そこに玉葱が加わると、味が格段に増すことになる。カレーにも玉葱は使われているので、これが相乗効果を齎すことになるのだ。

 オカラカレーにした場合、カレーにはカレールウがあるのだから無難にできる。しかしオカラは調理次第で幾らでも変わるから、オカラをどう調理していくのかを考えないと美味い物はできなくなる。カレーライスの感覚でオカラカレーを作ると失敗する可能性は高いと思っておいた方がいい。

●排便に凄まじい効果が!

 オカラカレーの効果は凄まじく、まさにウンコが出まくりである。俺は夏の終わりに不眠症が悪化し、しかも秋になって不覚にも風邪をひいてしまい、どうも体の調子がイマイチだった。しかしオカラカレーを食った後に、ウンコがどっさりと出たので、それで体が快調になってしまった。

 しかもオカラカレーは炭水化物の食べ過ぎを抑えるので、体の疲労が発生しなくなった。炭水化物はすぐにエネルギーに変わるのだが、そうやって速効性のある物ばかり食べていると、どうしても体が疲労してしまうのである。オカラは植物性淡白質がメインだから、それで蛋白質をエネルギーに使えるので、体が楽になったのである。

 尤も朝食とか昼食のように炭水化物を必要とする食事にはオカラカレーは不向きである。朝食や昼食は普通のカレーライスを食べた方がいい。オカラカレーが向いているのはなんといっても夕食なのであって、夕食時に炭水化物を現象させると、非常に強力な効果が出て来るのだ。

 女性の場合、もしも便秘で悩んでいるのなら、このオカラカレーは有効である。女性は女性ホルモンの影響を受けて便秘になり易いので、オカラカレーのように大腸を多い刺激する物を食べると、便秘が解消され、ウンコがどっさりと出ることになる。

 女性が体重を気にして穀物の量を減らすダイエットをするのは絶対にお勧めできない。その穀物の摂取量の少なさが便秘を引き起こしているといっても過言ではないのだ。尤も穀物の摂取量を増やしてしまうと太ってしまうから、だから朝食にはしっかりと穀物を摂取し、夕食にはオカラカレーという組み合わせをすればいいのである。

●だったら大豆カレーも?

 オカラカレーが良いというのなら、「豆腐カレー」だって良いことになる。しかし豆腐とカレーを組み合わせると、お酒のお摘みになってしまい、まともな食事にはならない。尤もこれはこれで美味しいので、好きな人はこれを食べればいい。

 オカラカレーを上回る物があるとするなら、それは「大豆カレー」であろう。オカラは豆腐を作る際のカスなので、豆腐のために栄養分がかなり取られてしまっている。だったら大豆を食べればいいのであって、大豆カレーというのは栄養学的には理想的な食べ物なのである。

 但し大豆をどう煮込むかが問題になってくる。和食で出される大豆煮はこれをオカズとして食べるために、かなり柔らかくなっている。これでは歯応えがないので、それで大豆カレーを作る際には大豆の硬さをどう確保するかがポイントに成って来る。

 我が家では大豆を煮る時、1晩、水に浸けてから煮るのだが、この遣り方だとダメである。水に浸けていいのは最大で4時間くらいで、硬さを求めるなら3時間以内にした方がいい。この程度だけ水に浸けてから煮ると、大豆はそれなりの硬さを持つことになる。

 それと大豆にはカリウムが大量に含まれれ居るので、大豆カレーにする場合、塩分を少し強めにしておいた方がいい。カリウムは塩を排出させてしまうので、塩分の少ない大豆カレーだと体内の塩分濃度が落ちてしまい、それで体に異常が出て来ることになる。

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渡辺和子さんって、厳しい人だね

●読書感想の違い

 修道女の渡辺和子がテレビに出ていたのをうちの母親が見、どうも彼女のことが気になったらしく、それで、

「渡辺和子さんの本はないの?」

と訊かれたので、それで渡辺和子のベストセラーになった本『置かれた場所で咲きなさい』を貸してあげた。

 しかし一向に返って来ず、うちの母親はなんとあの本を1週間かけて読みやがった。俺なら10分程度で読み終わる本を、よくもそこまで長々と読むことができるものだ。うちの母親は読書に慣れていないし、しかも老眼のため読書スピードが恐ろしいまでに遅い。

 まあ、そこまで時間をかけて読んだのなら、さぞかし熟読したのだと俺は思い、

「どうだった、あの本?」

と訊いてみた。俺はあの本を読んで、他の自己啓発書から美辞麗句をパクり、それを彼女なりに解釈して書いた物であると解っていたので、うちの母親の読解力を試してみたのである。

 ところが母親の回答は意外な物であり、

「渡辺和子さんって、厳しい人だね」

と答えてきた。俺はその答えを聞いて、

「え~ッ!」

と驚いてしまった。なぜなら渡辺和子が厳しい人だなんて全く考えてもいなかったからだ。事実、修道女になっている彼女の姿を見れば、実に優しそうな顔をしているのであって、その彼女から厳しさを見つけ出すのは至難の業だった。

 俺は母親に、

「なんでそう思う?」

と質問したのだが、母親の答えは実に曖昧で、

「なんとなく」

としか答えなかった。俺よりもうちの母親の方が渡辺和子の年齢に遥かに近いので、それで人生経験の豊富さからそれを見破ったのであろう。

●無条件の愛の裏にある激しい憎悪

 俺が「渡辺和子は厳しい人である」と解ったのは、彼女の『面倒だから、しよう』(幻冬舎)を読んだ時であった。この本の中に、

<「汝の敵を愛する」ことの意味>

という節がある。彼女は修道女になってから、「2・26事件で自分の父親を暗殺した将兵たちのことを怨んでいますか?」とよく訊かれたのだが、その質問には、

「いいえ。あの方たちにはあの方たちなりの大義名分があったので、怨んでいません」

と答えていた。ところが修道女になってから20年も経った頃、テレビ局の番組収録で、2・26事件で自分の父親を殺した兵士と再開してしまったのである。

 テレビ局の人は気を利かして珈琲を彼女に与えたのだが、彼女はショックの余りその珈琲が飲めず、

「自分は、本当は心から許していないかもしれない」

と思い、キリスト教の教えである「汝の敵を愛せよ」を頭では理解しても、実行することは難しいことを知ったという。

 俺はこの話を読んで、渡辺和子は口では無条件の愛を言ってくるかもしれないが、心の中では激しい憎悪があり、幾ら愛を唱えたとしてもその憎悪はなくならないと見抜いた。うちの母親はなんとなくそのことが解ったからこそ、渡辺和子を厳しい人だと思ったのであろう。

 自分の父親が殺されたのに、恨みを抱かなければ人間ではない。刑法さえなければ、敵討に走るべきであろう。しかしそういうことをせず、なんの縁があったかは知らないがキリスト教に改宗し、しかも修道院に入って修道女になったのなら、愛によって憎悪を消し去るということをすべきであろう。

 それなのにそれができないというのであるなら、渡辺和子には「我執」があり、我が身を本気で神に捧げていないということなのである。

●渡辺和子は昔「鬼」であり、今でも「鬼」

 渡辺和子は若い時には友達から「和子さんは鬼みたい」と言われたという。子供の頃から競争心が強く、負けず嫌いで、他人を思いやることがなかった。そのためにキリスト教に改宗し、修道院に入って修道女になったのだが、それでも自分の本性を変えることなどできない。

 俺に言わせてみれば、「渡辺和子は修道女になっても鬼」なのである。「昔も鬼で、今も鬼」。こう考えると彼女が一体何をやっているのか実に良く解ることになる。女性だとか、修道女だとか、そういう囚われがあるからこそ、彼女の本性が見えないのである。

 渡辺和子の人生を見ると、敢えて厳しい道を歩んできたということが実に良く解る。政府がキリスト教に統制を加えていた戦時中にキリスト教に改宗し、普通の信者で生きていればいい物を、戦後になって修道院入りして修道女になる。

 修道女になれば普通の修道女として生きて行けばいいのに、人生の教訓となるような美辞麗句を掻き集めて自分に重荷を背負わしていく。しかしそういう生き方は疲れるから、それでキリスト教の信仰で肩の荷を下ろし、疲労を回復させたのならまた厳しい道を歩むのである。

 ローマカトリック教会の指導が悪いのか、サミュールノートルダム修道会の指導が悪いのか、そういう内情のことは解らないのだが、渡辺和子が宗教に於いて真っ先にやらなければならないことは、その鬼ような生き方を捨て去ることなのである。

●修道院の役割

 そうは言っても、渡辺和子が修道院に入ったのは実に正解だった。彼女の性格からするなら、修道院のような甘い宗教組織ではなく、仏教の臨済宗や曹洞宗のように厳しい修行がある宗教組織に入ってしまった方が良かったかもしれない。しかしこういう物は「法縁」のなす物だから、修道院に縁があったのなら入ってしまうべきなのである。

 もしも渡辺和子が修道女にならなかったのなら、彼女は心の中に憎悪を持って生き続けたことであろう。憎しみは必ず周囲の人たちを気付け、不幸にしていくし、そして何より彼女本人が自らの憎しみのために傷つき、不幸になっていってしまうのである。

 渡辺和子は2・26事件の最大の被害者である。だからといって憎悪を持って世俗の中で生きられたら、社会は堪ったものではないのだ。この世で生きていれば憎しみを抱いてしまうことがある。だから宗教の力を使って、その憎しみを消滅させたり、消滅できないならそれを心の奥深くに閉じ込めておかなければならないのである。

 政治という物は必ず勝者と敗者を生む。勝者は権力を獲得し、敗者は殺される。しかしそうやって政争のために殺し合いをするのは余りにも不利益だから、それで日本では仏教を受け入れ、政治的敗北者たちを出家させて僧侶にした。それと同じことを西洋ではキリスト教を使ってやっていたのである。

 修道院は人畜無害の組織に思えて、実は国家にとって非常に必要とする宗教組織なのである。日本では親鸞の登場によって戒律破りが行われ、縒りによって明治維新後に他の宗派まで浄土真宗に倣って戒律を無視するようになってしまった。だからローマカトリック教会の修道会が、嘗て仏教の教団がやっていたことを代わりをやっているのである。

 勘違いしてはならないのは、キリスト教が素晴らしい宗教だからそういうことができるというのではない。キリスト教は教義に於いて致命的な欠陥が存在する。突き詰めて考えると教義が崩壊してしまうほど、脆弱な宗教なのである。しかしそれでも修道会が存在することで、国家がそれを必要としてきたのである。

 キリスト教であっても、プロテスタントには修道会がないのだが、修道会のないプロテスタントでは、よりによって牧師が憎悪を持って信者たちに説教をしてくることになる。憎悪を巧く処理する機能を持っていないので、愛を唱えながら憎しみを叫ぶということになってしまうのである。

●面倒臭いからこそ、やりたくない

 渡辺和子の言っていることは、飽くまでも修道女の意見なのであって、世俗の中で生きる人たちの意見ではない。彼女は自分の心の奥底にある憎悪が爆発してしまわないように、自分に厳しいことを言って、それで抑え込んでいるのである。

 大体、『面倒だから、しよう』という本の題名にしても、確かに面倒臭くてもやらなければならないことはあるが、しかし人間であるなら面倒臭いことはしたくないものなのである。「面倒だからやろう」と言われても、殆どの人たちは面倒臭いことが大嫌いで、便利な物を求めたがる。人間とはそういう生き物なのである。

 「置かれた場所で咲きなさい」と言われても、花は土があるからこそ根付き、咲くことができるのであって、コンクリートの上では咲くことができない。花は咲く条件がないと咲けないのであって、花が咲くということは条件が或る程度揃ったからこそできることなのである。

 若い人たちにはこういうことが解らないかもしれない。俺だって解らなかった。しかしうちの母親は解ってしまった。確かに彼女の言っていることは正論である。しかしそれを本当に実行しようとすれば、余程、自分に厳しくしないとできないのである。

 事実、渡辺和子自身、50歳の時には「鬱病」、60代の時には「膠原病」、その副作用による「骨粗鬆症」と三度の「圧迫骨折」をしている。修道女はセックスをしないので、更年期に差しかかるとどうしてもこの手の女性特有の病気に罹ってしまうのだが、それにしても、俺に言わせれば「神様がもっと楽に生きなよ」と言っているにしか思えないのである。

●「随筆集」というよりは「雑文集」

 渡辺和子の本は随筆集ではない。雑文集と言った所である。自分が徹底的に考え抜いて何かを言っているのではなく、修道女として仕事をしながら書いたので、それで心にグイッと来る物がないのである。本来なら、こういう物は出版せず、ノートとして存在させておくべき物だろう。

 しかしこういう物は時と場合によっては必要になってくる。なぜなら世間の人々は繁栄の中で「厳しさ」という物を完全に忘れ去ってくるからだ。便利なことばかり追求し、自ら苦労して何かを成し遂げることをしない。そうなってしまえば世間の人たちに「喝」を入れるためにも、修道女の言葉が必要とされてくるのである。

 キリスト教的に言えば、「地の塩」「世の光」ということになるのだろうが、彼女はまさにキリスト教徒として、イエスの教えを立派に果たしていると言っていい。キリスト教徒たちの中には「地の塩」「世の光」という言葉を好む者たちがいるのだが、そういう人に限ってイエスの教えを頭で捉えてしまい、行動に移さないのである。

 但し言っておくが、日本ではこういうことは、本来なら仏教の僧侶たちが担っていた役割なのであって、キリスト教の修道女の出る出番などなかった。それなのに仏教の僧侶たちが戒律を守らずに堕落的な生活を送っているからこそ、世間の人々は仏教の僧侶の言葉に耳を傾けず、修道女の言葉に耳を傾けているのである。

 どこの世界でも成らず者はいるものだ。折角、法縁があって仏門に入り出家したのだから、きちんと戒律を守って僧侶の仕事をすればいいものを、親鸞が戒律破りをやったとか、他の僧侶たちが戒律を遵守していないとかいう理由で、戒律を守らず、肉食妻帯をしてしまうのである。これでは僧侶として失格なのであって、こういうことをやればやるほど、僧侶の地位が下がって行くのである。 

 渡辺和子は心の奥底で自分の憎しみを捨て去っていない。修道女になって修道生活を長らく送って来たのにそれができなかった。彼女の年齢が現在80歳を超えているのだから、もう憎しみを捨て去ることはしないだろう。しかしそれでも凡俗の百万人の僧侶たちよりも遥かにマシな生き方をしているのである。

  面倒だから、しよう[渡辺和子]

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子育てに於ける「生き金」と「死に金」

●子供を育て上げるまでにお金は幾らかかる?

 この世には愚問という物は多々あるものなのだが、

「子供を育て上げるまでにお金は幾らかかるのか?」

というのは、子供を育てている親たちにしてみれば究極の愚問である。といういのは、「そんな計算をして一体なんになる?」ということだからだ。

 この計算が如何にバカげた計算なのかといえば、もしもその合計金額を提示された場合、その余りの金額の多さに驚いてしまい、

「だったら子供を産むのをやめよう」

ということになってしまうからだ。こういう行動を本当に取る人たちがいるから、実に困ったものである。この愚問は人口削減計画ということでも考えない限り、絶対に思いつかない愚問なのである。

 この養育費を食費に置き換えて考えてみればいい。人間が一生に消費する食費を合計してみれば、誰もがその金額の巨大さに驚いてしまう。だからといって、

「お金がかかるから、食事するのをよそう」

というバカな人間はいない。人間は食べなければ死んでしまうからだ。

 子供を産み育てるのだって、それと同じことで、もしも子供を産み育てなければ、それによって子孫が絶えてしまうのである。養育費を浮かせれば、一時的に豊かな暮らしをすることができるかもしれないが、それはたった一代限りのことであって、その人が死ねばそれで終わりなのである。これほどバカげたことは他にないといっていい。

 結婚したのなら、「子供を産み育てるのにはそれなりのお金がかかるのは当然であって、それを惜しんではない」という覚悟を決めておくことだ。子供を産み育てて破産した奴など、この世には1人もいない。どんなに子沢山であっても、みんななんとかやっていっているのであり、養育費が必要となれば、必死になって働き、結局、その養育費を獲得してしまうものなのである。

●お稽古事

 子供は5歳から6歳の間に「脳の臨界期」を迎えるので、子供にお稽古事を習わせるのなら、どんなに遅くとも6歳までに始めなければならない。通常は3歳で開始ということになっている。この時期を逃してしまうと、脳が発達しないので、そのお稽古事が上達しないのである。

 母親であるなら「夢見る母親」になってしまうのも別に悪いことではない。自分ができたことや、自分ができなかったことを、我が子にやって貰いたい。それは我が子だからこそ、そういうことを要求するのであって、他人の子であるならそんなことをしないのである。

 子供の頃からお稽古事をやった子たちには共通項があって、それは「礼儀正しくなる」ということだ。お稽古の際に、親以外の大人に接し、しかも礼儀に始まり礼儀に終わるという形で物を教えられるので、それで自然と礼儀正しくなるのである。

 礼儀が全くできていない子供という者は多々いるものだが、それは家の外に追い出して、他の大人達に接するということをしなかったらに過ぎない。礼儀を必要とする場所に行けば、必ず礼儀正しくをするものなのであって、礼儀の悪さを親がネチネチと言っても、どうにもならないものなのである。

 お稽古事は損か得かという議論があるのだが、どう考えても得である。その子供は学校教育以外にも教育を受けられる機会を得たので、それで普通の子供たちよりも高い能力を持てるようになるのだ。特に音楽関係のお稽古事は物凄くお金がかかるものだが、それでも楽器を演奏できたり、歌が巧くなれば、その才能で以て他人から抜きん出ることができるようになるのである。

●学費

 公立学校に行けばそれほど学費はかからないものだが、私立学校に行けば学費がかかることになる。親としては我が子を公立学校に行かせるのか、私立学校に行かせるのか、非常に重要な問題になってくる。これは大学進学のことも絡んで来るので、それも視野に入れて考えなければならない。

 日本で最も強烈な差別は「学歴差別」である。大卒か高卒かで差別的に扱われてしまうし、どこの大学を出たかでも差別されてしまう。学歴差別に比べれば、「貧富の格差」とか「男女の性差」などは大した格差ではないのだ。その人の人格だとか実績とかで判断してくれるのではなく、自分が社会に出る前にどこで学んだかで判断されてしまうので、これほど恐ろしい差別はない。

 これだけ覚えていて欲しいのは、学問をするにはそれなりのお金がかかるということだ。お金がなければ勉強したくてもできない。これは事実なのであって、親だからこそ、我が子がお金のことで学問を放棄するようなことがないようにしなければならない。

 勉強とお金の関係を如実に表しているのが、現在、東京大学の進学する子弟の両親たちは高額所得者たちが大半を占めているということだ。国立大学の学費は私立大学の学費より安い物なのだが、それでも国立大学に入学するためにはそれなりの大金を支払わなければならないということなのである。

 これが慶応大学になると、お金持ちたち親たちでその殆どが占められてしまうことになる。慶応大学は学費が突出して高額なのだが、そうやって学費が高いからこそ、貧家出身者の若者を門前払いにすることができるのである。福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」なんて言葉を鵜呑みにしていると、とんでもない間違いを起こすことになる。

 日本の大学は未だに官尊民卑なのであって、私立大学の雄と言われている早稲田大学であっても、国公立大学から比べると大したレベルではない。このことは大学を選ぶ際には絶対に忘れないようにすることだ。学問をしたいと思って私立大学に行っても、宗教系の大学は別として、まともな学問をすることすらできないのである。

●子供の方から言い出してきた場合

 お稽古事だとか、学校や大学のことは、親は想定の範囲内だが、子供から言い出して物にお金を出すとなれば、それを想定していなかったので躊躇してしまうことになる。子供の発言によりけりだが、こういう場合でもやはりお金を出した方がいいと言える。

 というのは、子供が言ってくる物は、別に高い出費ではないからだ。子供の夢といっても、歌手になりたいとか、女優になりたいとか、スポーツ選手になりたいとか、要はテレビで見て、活躍している人に憧れて、自分もそうなりたいと思っているだけなのである。

 尤も最近の子供の夢はデフレ不況の影響を受けて非常に現実的で、憧れの職業のトップはパティシエになのだから可愛いものだ。それなら料理学校の学費と、お店を出せるだけの資金を用意してあげれば、その夢は確実に適ってしまうのである。

 子供が自分の夢を言い出して来た時、親は働き盛りの時期になっているので、だったら「やってみな」とでも言って、子供の背中を押してあげればいいのだ。お金はあるんだし、子供にお金が必要になれば、もっと働いてお金を得ればいいだけのことなのである。

 愚かな親に限って、お金のことで子供の夢を破壊してしまうものだ。極貧でお金がないなら、その拒絶も理解することができるのだが、お金があるのに拒絶するのだから、どう言い訳をしたとしてもその行為を正当化することはできない。

●お金が愛情になりうることもある

 お金は決して愛情ではないが、お金が愛情になりうることもある。子供は親が出して来るお金で愛情を計ろうとするのであって、子供がお金を必要としている時はやはりお金を出してあげるべきなのである。その出費を合計しても、決して高い金額ではないのだ。

 気を付けるべきは、裕福な家庭ほど、この傾向が強いということだ。裕福だと、両親にはお金があるということだから、子供は親にお金を出させることで愛情を計ろうとするのだ。この時にケチtってしまうと、子供はグレてしまい、今度はそちらの方で大金を出す羽目になってしまうのだ。

 親としては、

「充分に愛情を注いで育てて来たのに~」

と言ってしまうものだが、子供を育てるためには愛情だけでは不十分で、お金も必要なのである。親が出さなければならないお金を出さないからこそ、子供は親の意に反した行動ばかり取って来るのである。

 どんなに高額な支出であっても、結果的に無駄な支出になることはない。なぜなら子供は親の愛情を計るべくその金額を要求したのであって、親が自分にお金を出してくれたのなら、大きくなれば親孝行をすることで返すことになるからだ。

 折角、この世では親子になったというのに、親子が断絶してしまうことになったりする者たちは幾らでもいるものだ。子供を育てていくためには愛情だけが必要なのではなく、お金も必要なんだという当たり前のことが解っていないから、血が繋がっているというのに別れ別れになる人生を歩んでしまうのである。

●年老いてから遺産相続をしても、使い道がない

 子供たちのためにお金がかかるというのに、両親はケチに徹してお金を貯め込むことだってできる。働き盛りであれば収入は高くなっているので、支出を抑えれば確実に資産が増えて行くことになる。そうやって老後のために充分な資産を確保しておくことは必要といえば必要だ。

 しかし両親が死んだ場合、子供たちがその遺産を相続しても、本人たちも年を取っているので、もうお金の使い道がない。定年退職をしていたのなら、遺産相続でお金を得たとしても、旅行をする程度が関の山であり、大した効果はないと言っていい。

 しかも両親が莫大な資産を遺して死んだ場合、恐らく子供たち同士が遺産相続で揉める事になる。たとえ仲良く分配したとしても、今度は相続した本人が必要以上の資産を持っているために、その者が死ねば今度は孫たちが遺産相続で揉めてしまうのである。

 これは決して子供たちに遺産を遺すなと言っているのではない。遺産を遺すのは親としての義務である。しかしそれ以上に親がしなければならないのは、子供たちに高い能力を持たせてあげるべきことであって、そのためには教育費を惜しんではならないのだ。

 子供たちに充分な能力があれば、如何に巨万の富を相続したとしても、巧く使ってくれることであろう。だが子供たちに大した能力がなければ、その巨万の富のために不幸になってしまうものなのである。親だからこそ、富と無知が結びつくことによる悲劇を発生させてはならないのである。

●子供は成功することもありえるし、失敗することもありえる

 子供に対してどんなに大金をかけたとしても、必ずしも成功するとは限らない。失敗することも有り得る。色々な事を学ばせたのに、何1つ物にすることができなかったというバカな子だっているものなのである。人間の能力を育てる以上、これは仕方のないことなのであって、結果を素直に受け入れることだ。

 お稽古事で失敗しがちなのが、様々なお稽古事をやらせてしまい、子供の方が何か1つに集中してやることができなかったという場合だ。親としてはあれもこれもやって欲しいと思ってやったのだが、そういう欲張りが子供をダメにしてしまったのである。

 学校や大学で失敗しがちなのが、親が子供に学校や大学に対して過剰適応させてしまい、自分が本当にしたいことをさせなかった場合だ。この手の子供は典型的な「博学無知」であって、様々なことを知っているのだが、「これぞ」という物が何1つないために、どうやっても出世できないのである。

 子供が言い出したことに応じてお金を出したのなら、そのお金を子供にあげたと思って期待しないようにすることだ。子供が言い出してきたことは失敗する確率が高いので、期待するだけ損なのである。親が期待し過ぎてしまうと、子供はそれがプレッシャーになり、余計にできなくなってしまうのである。

 親が子供をどう育てようが、その子供が大きくなって結婚し、子供を産んでくれたのなら大成功と思えばいい。それは両親が幸せな結婚をしたから、自分も幸せな結婚をしたのである。子供の立身出世はどうなるか解らないが、それでも子供が結婚しないというのなら、それは大失敗だと思った方がいい。

 子供を育てる過程で、子供に与えなければならない愛情やお金をどこかでケチってしまったということなのである。

 だから愛情もお金も必要があれば、勇気を出して使った方がいいのである。

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なぜ水森かおりの曲は売れるのか?

●水森かおりが売れる理由って一体何?

 水森かおり症候群が出たついでに、水森かおり本人のことを述べておく、水森かおりは。それほど美人ではないし、歌もそれほど巧くないのに、なぜだか売れている。平成7年に歌手デビューし、平成15年に『鳥取砂丘』が大ヒットし、平成15年からなんと11年連続で紅白歌合戦に出場し続けたのである。

 凄いとはいえば凄い。演歌不況が長期間に亘って続いているのに。適度に下積みをし、きちんと大ヒットを飛ばし、第一線で活躍し続けているのだ。演歌不況の最大の原因は歌手たちの新陳代謝のなさにあるといっていから、こうやって若い歌手が出て来ることは実に素晴らしいことなのである。

 水森かおりはスタイルがいいために身長が高く見えるが、実は身長が「153cm」しかない。実際に会ってみればチビとしか見えない。歌手は身長が高いよりも、身長が低い方がいい。身長が高くなると高音が出せなくなるので、身長が低いということは歌手として向いているということなのである。

 酷い点としては、常にドレスを着て、肩を剥き出しにしているので、その姿を冬の時期に見せられれば、見ている方が冷え冷えとしてしまう。歌っている本人はそれ以上に体を冷やしてしまうので、あの服装だけはなんとかして欲しいものだ。

 水森かおりがなんでそんなに売れるのか、普通に見ていては解らない。水森かおり程度の人材なら、幾らでもいるのであって、それなのに彼女だけが売れるのである。そこで水森かおりに対して、勝手に運命鑑定をやってみた。すると驚くべき事実が解ったのである。

  水森かおりシングルコレクション2(仮)[水森かおり]

●とにかく本名が良い

 水森かおりの本名は、

「大出弓紀子」

というのだが、この本名がとにかく良い名前なのであって、芸名のことを云々言う前にまずこれを褒めなければならない。本名がいいからこそ芸名を持てば更に良くなるのであって、本名が悪いから芸名を持って運勢をどうにかしようとしたのではないのだ。

 苗字の「大出」は、古代日本に於いて名門の苗字であって、正式には「大井出」という。「井氏の部族長にして、その偉大なる者」という意味である。「井氏」というのは氏族の中で名門中の名門で、神社の神職者にも「井上」「井下」「井川」とか、「井氏出身者」を表している苗字が多い。

 尤も現在はその末裔だから、もう平凡な一族になってしまっているだろうが、それでも過去に多くの先祖たちが徳を積んだので、それでその徳を使って歌手としてデビューし、大ヒットを飛ばすことができるのである。井氏出身者たちは全国各地に散らばっているので、苗字を見ただけ自然と反応してしまうものなのである。

 名の「弓紀子」も、実にいい名である。「ユキ」というのは、「神聖なる女神の御神木」という意味で、女性の名前としては非常に良い物であり、この名を持っている女性たちの中で成功者は大量にいる。「神懸かり」を行うことができるので、それで普通の女性たちにはできないことができてしまうのである。

 それに名自体が歌手人生を暗示ている。「弓」は「ヒットを飛ばす」ということであり、「紀」は「糸筋を分ける」という意味で、「ヒットの記録を作り続ける」ということになる。親は「ユキコ」に合うように漢字を選んだかもしれないが、良い漢字を選んだので、それで運勢が非常に良いのである。

●芸名の字画

 水森かおりという芸名は所属事務所の長良プロダクションが付けたのだろうが、これが実にいい名前なのである。恐らく社長か会長が命名したか、占い師を雇って選んだ物であろう。この芸名は普通の人が作れる名前ではなく、運命学のことを解っている者か、命名センスが非常に良い者か、そのどちらかでないと、こんないい芸名は思いつかないと言っていい。

 水森かおりの地格は「9画」なので、ヒット曲を飛ばし、一般大衆の人気を獲得することができる。尤もヒット曲を出し続けなければならないという条件が付くのだが、水森かおり自身、ヒット曲を出し続けているから、この画数に見合う実力があるということなのである。

 水森かおりの人格は「15画」なので、とにかく相手のことを考えて行動し、自己主張をなかなかしてこない。そのくせ寂しがり屋で、常に誰かがいないと困るタイプであり、それが余計に人々を惹き付けてしまうことになる。本名の人格は「8画」なので、本人としてはかなり個性の強い人物なのだが、それが芸名で巧く抑えられているのである。

 水森かおりの総画は「25画」で、これまた一般大衆受けすることになり、これで人気が不動ということになる。25画は結婚よりも仕事を選んだ方がいいので、水森かおりは41歳になるというのに未だ独身である。ただ気を付けるべきは、25画にはスキャンダルが付き物なので、運気が落ち込んだ時にスキャンダルに見舞われることになる。

 本名でも芸名でも、ファッションセンスが良くなるような物は何1つ出ていない。それでドレスを着て歌うということをやってしまうのだろうが、その点のセンスがないなら、自分の好みに合うスタイリストでも付けた方がいいのだ。芸名は一般大衆受けするようになっているので、だったらもっと庶民臭い格好をした方がいいということになる。

●音相

 水森かおりの音相は、

「表面上は非常に女性らしさがあるが、しかし中身は男性並みの粘り強さがある」

というものであり、男女双方の性格が存在していることになる。芸能界は特殊な世界なので、男女双方の性格を持った人の方が売れ易いという特徴がある。

 大出弓紀子としては非常に女性らしい性格なのだが、水森かおりとしては意外と合理的に物を考えてくる。だから水森かおりが何が言うと、男性も女性も「そうだよね」と納得してしまい、敢えて反論してこない。男性はその合理的な物の考え方に納得し、女性はその発言の奥にある女性らしさに反応するので、批判のしようがないのだ。

 芸名から判断するのに、彼女は口が達者な筈である。現時点ではこの長所が活かされていないのだが、それはやはり肩剥き出しのドレスを着て歌うことに拘っているからであろう。水森かおりはまだ一皮剥けていないがために、彼女の本当の実力という物を発揮できていない。

 俺がお勧めしたいのは、自叙伝を書くということだ。自叙伝を書いてしまえば、自分は今までどういう生き方をしてきたのかが解り、それで自分の考えを纏めていくことができるようになるのだ。こういうことをしないと頭の中はゴチャゴチャなので、それで自分の意見を明確に言うことができないのである。

 音相も或る特定の人たちから受けるよりも、一般大衆受けした方がいいということになっている。だから演歌だけ歌っているのではなく、演歌を聞かない人たちにも水森かおりを知って貰うようにした方が、より人気が出て来るし、その人気が持続することになる。

●字義

 水森かおりの字義になると、より深いことが解って来るようになる。「水森」とは「水の森」のことで、「海」を意味するのだが、海は海でも、「マングローブの海」とか「海藻が漂う海」とか、そういうことを意味する。だから様々な人たちを相手にした方がいいということになる。

 「水森」の本当の意味は「水盛り」のことで、水盛りとは建設の際の道具で、水平を計る機械である。ということは、自分がお高く止まるのではなく、庶民たちと同じ地位に立って歌う。そういうことをするからこそ、人気が出て来るのである。ここでも肩剥き出しのドレスはダメということが出て来る。

 「水森」のもう1つの意味は「水守り」であって、「井戸の番人」ということである。それゆえ意外と孤独で、デュエット曲とかは不向き。しかし水が滾滾と湧き出て来るので、それでヒット曲を連発して来るということになる。お金には絶対に不自由しない人である。

 芸名に「水」が入っているので、「水商売」には深い関係があり、水商売をやっている人たちから支持を受け易い。水森かおりの曲を流すと店が繁盛するというジンクスも生まれたりすることがあるかもしれない。但し「水」ゆえに体が冷えてしまい、それで健康を害するということもありえる。

 「水森」を「水森」でも「水盛り」でも「水守り」で意味を取っても、「かおり」という名があるために、その意味を更に強めるということが発生して来る。確かに自分の芸名は良い名なのだが、それが非常に強いということを解っていないと、芸名と違う生き方をしてしまうと、とんでもない事態が発生してしまうのである。

●売れるための戦略

 水森かおりは本名も芸名も物凄く良いのだが、これにフィットした戦略を持っているということも注目すべきことである。まず「歌がそこそこ美味い」というのは、彼女の運勢をより活かす方向に作用することになる。もしも歌が巧すぎると、一般大衆と距離が出来てしまい、それで売れなくなってしまうのである。

 現在のようにカラオケが充実していると、歌手の歌が巧すぎるというのは問題があり過ぎるのだ。カラオケのことを考えると、歌を余りにも難しくし過ぎることは絶対に良くない。それよりも普通の人たちでも簡単に歌える歌の方がいいのである。

 次に「ご当地ソング」を売って行くという遣り方も、彼女の運勢にピタリと合っている。ご当地ソングを歌えば、その地方の人たちと接点を持てるし、しかも東京とその地方の格差を埋めることができる。これは彼女が東京都出身だからできることであって、他の道府県出身者ではダメなのである。

 水森かおりが歌うご当地ソングは、はっきりと言ってしまえば、どの歌も大した意味がない。それでいいのである。大事なことは日本の中で埋もれてしまうその地方が、水森かおりの歌でクローズアップされることなのであって、それをしてくれれば、その地方の人たちは充分満足できるのである。

 水森かおりは非常に運勢が良いというしかないのだが、問題が何もない訳ではない。例えば肩剥き出しのドレスは自分の運命とは合っていないし、スキャンダルが何も出て来ないというのも危険である。それにもしも今年の紅白歌合戦に出場すれば12年連続で出場となるので、ここいらでひと息つかないと、本人に勤続疲労が発生してしまうのだ。

 水森かおりが芸名に於いて男性的要素を持っているとするなら、男性の厄年が適用される可能性があり、40歳41歳42歳のいずれかで災厄に見舞われる可能性がある。現在、彼女は41歳だから本厄ということになる。さてどうなるか? この災厄を巧く乗り切ってしまうと、人気は本当に決定的な物となり、終生、演歌歌手として生きて行くことができるようになるであろう。

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水森かおり症候群

●肩丸出しの女性

 新米ママはまだ育児に慣れていないから、第三者が見れば「どひゃ~!」と驚いてしまうようなことを平気でやる。例えば俺が経験した実例では、猛暑が続く或る日、日比谷線に乗ったのだが、その際、肩丸出しの姿の新米ママが赤ちゃんを抱っこして乗ってきたので、ズッコケるくらいに驚いてしまった。

 確かに外は暑い。しかし電車の中は冷房が効いているのであって、その格好では寒い筈なのである。男性の俺ですらTシャツ姿であり、肩を丸出しになんかしていないというのにである。「幾ら若いからといって、その姿はないだろう~」と思ってしまった。

 格好は自分が好き勝手にやっていいものだが、しかしその新米ママはどう見てても不健康そうな新米ママであり、目の下には隈があり、なんか痩せているし、疲労感がたっぷりと滲み出ていた。やはり母親になったのだから、母親らしい姿をしておくというのは無難なものなのである。

 尤も場所は東京だから、もしかしたらこれが新たなファッションになって、全国に普及していくことも有り得る。だが幸い、このファッションは全国的に普及しなかった。本当に良かったというしかなく、こんなファッションがはやれば、健康を害する新米ママたちが続出することであろう。

 ツボの観点からというと、体の中で絶対に露出しない方がいいのは、「肩」と「お腹」であり、出来れば「脹脛」も露出させない方がいい。この3箇所を服をで覆っておけば、自然と体温が上昇していくので、それで体を冷やすことがなくなるのである。

  厄介なことは、「肩丸出しファッション」とか「お腹丸出しファッション」が時折流行することなのである。例えば女性がGパンを穿いて、上はブラジャーだけなら、その女性が非常に魅力的に見えるのは当たり前だ。だからといってその姿が健康に良いという訳ではない。

●水森かおり症候群とは?

 もしも新米ママが肩丸出しの格好をしているのなら、「水森かおり症候群」に罹っていると見ていい。水森かおり症候群とは、年がら年中、必要性もないのに両肩を剥き出しにしてしまう病気である。真冬でも肩を丸出しにしてしまうと、水森かおり症候群は余程重症だと判断すべきである。

 水森かおりはいつも仕事をする時は肩丸出しの服装なのだが、彼女自身、どう見ても健康ではなさそうなのである。目の下には睡眠不足の跡が見られる。因みに水森かおりは東京都出身である。「やっぱり!」と言いたくなる。もしかすると、肩丸出しのファッションは東京の土着的なファッションかもしれない。

 こういうことを考えると、大阪のオバチャンたちが好むヒョウ柄のファッションも、大阪の土着的なファッションかもしれない。そもそも大阪府にはヒョウなど生息していないのに、なんでそのヒョウの柄を好むのかといえば、ヒョウの力を借りて、安物に飛びかかろうとしているのかもしれない。

 水森かおり症候群と似ているのが、「遠山の金さん症候群」である。遠山の金さん症候群とは、必要がある時に片方の肩を剥き出しにしてしまう病気である。因みに、現代の健康ランドに於いて遠山の金さんが片方の肩を剥き出しにしてしまうと、その途端にスタッフに取り囲まれ、「刺青の方は退出お願い致します」と言われ、追い出されてしまうことになる。

 肩を露出することは犯罪ではないが、下半身を露出することは犯罪である。露出狂の人たちも或る意味「病気」なのであって、「下半身に関する水森かおり症候群」とかでも病名を付けて、治療に当たった方がいいと思う。この犯罪は別に大した法益を犯さないものだし、刑罰を科した所で改心する訳でもないのだ。

 「水森かおり症候群」なる病名があれば、もしも新米ママが肩を丸出しにしていた場合、

「最近、風邪が流行っていると思ったら、今度は水森かおり症候群が流行り出したのね」

と嫌味たっぷりに指摘することができ、こんな屈辱的な指摘を受ければ、直ちに改めるようになるのだ。

●厚着をすると、疲労の取れ方が全然違う

 着物を見れば解ると思うが、日本人の服装というのは、本来体全体を覆うようになっている。服から出ているのは顔と手くらいなものなのであって、後は全て覆われるのである。こうしておけば寒い冬を凌げるし、気温に関係なく動き回ることができるのである。

 それなのに近代以降、肌を露出することが流行に成り始めたが、これが体にとって悪い影響を与えてしまうことは当然のことだと言っていい。見た目は良いかもしれないが、肌を露出するためにそれ以上の損害を支払う羽目になるのだ。

 季節に関わりなく厚着をすると、疲労の取れ方が全然違う。体温が高ければそれだけ血行が良いのであって、そうなると老廃物や毒素を巧く回収することができ、それで体が疲労しなくなるのである。特に育児の際は夜泣きで睡眠が妨害されるので、服装が疲労しない物なら、それだけでも有難いのである。

 夏は暑いかもしれないが、夏でも肌を露出させないということは、非常に重要なことなのであって、寧ろ長袖長ズボンでいた方が暑くならないのだ。肌を露出させてしまうと、確かに涼しいかもしれないが、そのために皮膚の温度が下がってしまい、少し暑くなっただけでも暑く感じてしまい、それでどんどん体を冷やそうとして行ってしまうのである。

 結婚して気を付けるべきことは、夫は男性であるために、自宅では肌を露出してリラックスしようとしてくることだ。しかし夫が肌を露出しても、妻はそれに連れられないようにしないと、男女では筋肉量が違うために、夫の方はなんともなくとも、妻は体調を崩してしまうということがあるので、夫婦だからといって同じ行動を取ってはならない。

●お風呂とサウナで体を温めるべし

 育児で疲労が溜まったのなら、銭湯にでも行って体を温めることだ。特に赤ちゃんが重たくなって来ると肩が凝ってしまうので、それは肩揉みをして治るのではなく、体を温めることで治るものなのである。入浴して体温を上げるからこそ、体内の老廃物や毒素を回収でき、それで疲労が吹き飛んでしまうのである。

 お勧めはなんと言ってもサウナである。新米ママのように、育児に対して真面目になっている時は、赤ちゃんに付きっきりのためにそんなに動いてはいないのだ。このため体は典型的な水分過剰の状態にあり、その水分過剰を解消しないと、疲労がなかなか取れないのである。

 お風呂とサウナで体を温め、汗を流してしまうと、まるで生まれ変わったかのように体が溌剌としてくる。赤ちゃんがいる以上、そんなに長く離れることはできないのだが、それでも僅か数時間の出来事で、今までの疲労を一気に吹き飛ばすことができ、新鮮な気持ちで育児に励めるようになるのだ。

 育児中は疲労しないように、体を温める食べ物を食べるようにすることだ。肉や魚、そして特に「根菜類」をしっかりと食べるようにする。「ニンニク」「ショウガ」「タマネギ」「ゴボウ」「サトイモ」「ヤマイモ」「ジャガイモ」「サツマイモ」などをしっかりと食べていると、育児をしていても疲労することはない。

 体温を高くし、根菜類を大量に食べていれば、毎日どっさりとウンコが出るのであって、それこそ体内の老廃物や毒素が排出されたということなのである。赤ちゃんは毎日ウンチをしているというのに、母親が便秘になっているようでは非常に拙い。母親だからこそ日々の快便は絶対に欠かせないのである。

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そうよ、私はガニ股の女~

●ガニ股の思い出

 俺が小学6年生の時、クラスの女子の中に、異様に可愛い女の子がいた、身長は一番低く、色白で、目が大きく、髪の毛が少し茶色かかっていた。恐らく未熟児で生まれたのではないかと思っているのだが、とにかく体が華奢で、まるでバンビみたいな女だった。

 名前は「ミナ」と言ったのだが、そのミナの友人の女の子と俺は仲良く、自然とミナとも仲良くなっていった。「好き」という感情はあったし、ミナの方も俺のことが好きだった。しかし互いに小学6年生なので、好きだからといって一体何をしていいのか解らず、ラブレターを書くわけでもなく、デートをするわけでもなかった。

 ただ、唯一気になったのが、ミナが「ガニ股」だったことだ。チビで華奢な可愛い女の子がガニ股で歩くのだから、これほど滑稽なことはない。俺はよくそのガニ股歩きをからかい、ミナはそれを指摘されると意図的に内股で歩くので、大爆笑したりした。

 俺は中学高校と私立の男子校に行ってしまったので、この6年間、女っ気はまるでなく、初恋をしたのは大学生になってからだ。その初恋の女性は華奢な体の持ち主ではなく、「骨太」の女性だった。なんせ沖縄県出身なので、カルシウムが豊かな土壌で育ってので、骨が太いのである。

 この初恋の女性から言われたことで最大級のショックだったのは、或る日、デートの最中に、

「もう、そのガニ股はやめなさいよ~」

と言われてしまったことなのである。「因果は巡る」とはまさにこのことで、ガニ股を指摘していた俺が、一転してガニ股を指摘されることになってしまった。大学生の時はGパンを穿いていたのだが、Gパンの生地が金玉に当たるので、それで大学生になってからガニ股歩きになってしまったのである。

●人間は「歩く動物」ではなく、「走る動物」

 なぜガニ股が悪いのかといえば、人間はガニ股で歩くようにはなっていないからだ。乳児が一人歩きをするようになった時は、必ず内股歩きで歩き出すことになる。足の筋肉がまだ充分に発達していないと、そうやってでしか歩けないのだ。

 しかしその歩き方では非常に歩きにくいので、その内に足の筋肉が発達してくると、自然と爪先の方向が前を向くようになる。子供の足を正しく育てたいのなら、とにかく子供を歩かせることだ。そして走らせることだ。走れば爪先を前にするしかなく、内股やガニ股などのやらなくなるのである。

 では、なんでガニ股をするのかといえば、足の筋肉量が不足しているために、それでガニ股になってしまう。ガニ股だと、踵だけに重点を置いて歩くことになるので、足の裏全体を使って歩いてはいない。足の指で地面を蹴るということができてないのである。

 ミナが女の子くせしてガニ股だったのは、未熟児として生まれ、体が華奢だったからだ。ガニ股で歩いてしまうほど、筋肉量が足りていないのであって、こういう場合は歩かせたり走らせることで筋肉量を増やしていけば、自然とガニ股は解消されることになる。

 俺が大学生の時にガニ股になってしまったのは、要は「躾」の問題である。Gパンを穿いたがためにガニ股になったというのなら、Gパンをやめて他のズボンを穿けば良かったのである。男性の場合、股間にチンチンと金玉があるので、それを考慮して作られていないズボンを穿いてしまうと、普段、ガニ股をしない人でもガニ股で歩くようになってしまうものなのである。

●整体師に言わせると

 整体師に言わせると、

「ガニ股は体内のエネルギーが放出してしまう歩き方」

なのだそうで、ガニ股で歩くのは絶対にやめた方がいいのだ。しかし男性は若い時にはエネルギーが有り余っているので、若い男性なら多少は許されるということになる。とはいっても、ガニ股で歩くのは非常に悪い印象を与えてしまうので、人様がいる前では男性であってもやめた方がいい。

 女性がガニ股をやった場合、体内のエネルギーが出て行くので、痩せすぎてしまうことになる。これには思い当たる節があって、俺が大人になってから見たガニ股女たちは、全て痩せすぎており、どう見ても健康ではなかった。中にはいい年こいて「ニキビ面」で、体内に老廃物と毒素が溜まっていることを己の顔で表していた女もいたくらいだ。

 女性がガニ股で歩くと、非常に柄が悪く見えてしまう。それだけでなく、そうやって柄の悪いことを普段からやっていると、自分の考え方が非常に間違った物になってしまうことになる。「どうしてそう捻くれたことを考えるんだ!」と反論しても、ガニ股女はどうしてもそうなってしまうのであろう。

 大人になってからガニ股で歩くのは躾の問題であって、そういうことをやればマナーに反するから、自然と排除されてしまうことになる。マナーはルールではないが、マナーを守れない人は他人を尊重しない人だから、自分が他人から尊重されなくなってしまうのは当然のことなのである。

 ガニ股歩きを治すのは、自分が意識して正しい歩き方をしていれば必ずできるものである。ガニ股に慣れてしまうと、正しい歩き方自体難しいことになってしまうのだが、足の裏を万遍なく使って歩くからこそ、血流も良くなり、体内の老廃物と毒素が体外に排出され、それでまともな思考をすることができるようになるのである。

●出産後のガニ股

 ガニ股には「出産後のガニ股」と言う物もあるから、経産婦は注意が必要である。出産時に骨盤がずれてしまい、それで以前にはガニ股歩きなどしなかったのに、出産後にガニ股で歩くようになってしまうのである。育児ではエネルギーを必要とするので、しかもガニ股のためにエネルギーが流出してしまうのために、過食が始まることになる。

 しかし運動はそれほどしていないのだから、既婚女性の場合、ガニ股歩きは「肥満の原因」になってしまうことになる。女性は出産後、多少は太るのだが、ガニ股女性は食欲旺盛なために、贅肉がしっかりと付いてしまい、独身時代の美貌は完全に消え去ってしまうのである。

 母親がガニ股歩きをしている場合、息子や娘たちは注意をしてこない。ガニ股歩きが悪いことだとは解っていないので、それで何も言わないのだ。夫の方も余程妻のことが好きなら別だが、大概の夫たちは妻がガニ股で歩いても注意をしてこない。

 こうなってくると、確実にデブデブになってしまい、それで何かしらのダイエット情報があればそれに飛びつくことになる。だがどういうダイエットをやってもなかなか肥満は解消されない。それは余計に食っているからなのだが、良く食べるくせに動かなければ、それは当然に肥満になるものなのである。

 出産時に骨盤がずれてしまったのなら、まずは整体師の所に行って治して貰うことだ。但し整体師にはピンからキリまでいるので、その情報収集はしっかりと行った方がいい。それと普段の生活でガニ股歩きをやめて、正しい歩き方で綺麗に歩くようにすることだ。たったそれだけのことで激しい食欲が収まり、体もスリムな物になっていくものなのである。

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ココ・シャネルの秘密

●ブスに限ってシャネルを着る

 俺は仕事をする際になんでも着ていいと思うのだが、それでも身分相応の服装をすべきだと思っている。社長がボロを纏っているようでは、その社長の信用が疑われるし、その会社に対して良い評判が立つことはない。地位が上がれば、服装には気を使い、せめて不評を買わないようにしなければならない。

 男性の場合、この点、紳士服を着るので、特注品にしてしまえばこの問題を片づけることができる。特注品の紳士服だと、仕立てがいいので、そのファッションがどういうものであっても、すぐにその良さが解るのである。既製品だとどう着ようが着せられているので、それで見た目が悪くなってしまうのである。

 困るのは女性が社長になった時だと思う。若く美しく見せるために、若い女性たちが着ているような服装をしてしまうと、「なんだあれは?」と思われてしまう。となると高級ブランドの服を着ることになるのだが、ところが高級ブランドの服に限って、突出してお洒落な服というものないのである。

 俺がビジネスをしていく中で気付いたのは、「ブスに限ってシャネルを着る」ということだ。そもそもシャネルの服はお洒落ではない。その女社長が美人であるなら、そんな服は着ないのだが、それなのにブスな女社長に限ってシャネルを着るのである。

 俺は自分が気に入った女性には必ずその服を褒めることにしている。美人は「綺麗ですね」という言葉に慣れているものだし、ブスに容姿のことを言おう物なら必ず反撃されてしまう。だから服装を褒めることは無難だなので、その後、会話が弾むということになる。

 そういうことをやっている俺がつくづく思うのは、「俺が女性だったら、シャネルの服は絶対に着ない」ということだ。シャネルの商品で評価すべき物はまず香水であり、次にジュエリー程度だと思う。シャネルのことは良く知らないのだが、男性としてシャネルの商品を使用しない者としては、前々からそういう感想を持っていた。

●残酷な幼少時代

 シャネル社の創業者はココ・シャネルなのだが、彼女は伝説的な女性ゆえに様々な所で語られている。伝記も多数出版されているのだが、決定版という物がなかった。しかし今回、シャネルの伝記で決定版といえる物を手に入れたので、それを紹介しておく。 

リサ・チェイニー著『シャネル、革命の秘密』(ディスカバー21)

  シャネル革命の秘密[リサ・チェイニー]

 ココ・シャネルの人生は最初から不幸だった。シャネルの父親はペテン師であり、放浪癖があった。このため妻子を置いてどこかに行ってしまい、母親は貧困の中で子供たちを育てるしかなかった。無理を重ね過ぎたのか、母親はなんと31歳の若さでしんでしまう。

 父親は妻が死んだために、11歳のシャネルを捨てて、修道院に預けた。旅立とうとする父親にシャネルは、

「ここから私を連れ出して! 私を連れてって!」

と泣き叫んだが、父親は娘の頼みを聞かず、そのまま旅立ってしまった。

 シャネルの人生で絶対に忘れてはならないのは、自分の父親から全く愛されなかったことだ。貧乏は悲惨なものだが、それでも両親が自分のことをきちんと愛してくれれば、貧乏は苦痛ではない。それどころか貧乏ゆえに家族が団結しているので、思っている以上に楽しいものだ。

 しかしシャネルは貧乏であり、しかも愛がなかった。そのシャネルは縒りによって愛を唱える宗教であるキリスト教の修道院で6年ほど中で過ごし、彼女自身に言わせると、

「家も愛もなく、父も母もなく、悲惨だった」

ということになってしまった。

 「シャネルのファッションセンスの原点は修道院にあり」といっても過言ではない。修道女として生きていても、全く愛を貰うことができず、そのくせ修道女の服装をしていることで、沸々と自分の服を着たいという欲望が出て来たのである。

●シャネルは高級娼婦だった

 シャネルは修道院を出ると、仕事をすることになるのだが、どうもこの辺りのことが不明になっている。というのは、要はこの時期、「シャネルは高級娼婦だった」ということなのであり、シャネルの名誉を重んじて、そういうことを正確に記述してこないのである。

 高級娼婦は普通の娼婦たちとは違う。売春がメインで娼婦になっているのではなく、誰かの愛人になることをメインにして娼婦の仕事をやっている。シャネルが幸運だったのは、二人の優れた男性に巡り会えたことであり、彼等の愛人になることで、運命が開けて行くのである。

 まず1人目はエティエンヌ・バルサンであり、彼が文学に詳しかったために、シャネルは読書をして文学に詳しくなっていった。それだけでなく彼が乗馬をするために、シャネルも乗馬を嗜むようになり、それで健康な肉体を手にすることができたのである。彼はシャネルに帽子屋を持たせ、これがシャネルのファッション界への出発点となる。

 但し、この男性との交際中、シャネルは妊娠してしまい、彼の要請によって堕胎手術を行った。しかしこの堕胎手術が悪かったらしく、これ以降、シャネルは子供を産めない体になってしまった。このことはシャネルにとって終生の負い目となる。

 2人目の男性はイギリス人男性のアーサー・カペルであり、彼はポロの選手だった。アーサー・カペルとの恋は最初戯れとして始まったのだが、その後、双方が本気になってしまい、結婚寸前にまで進んでしまった。しかしアーサーは結婚直前に他の女性と結婚してしまい、そして結婚後に交通事故で死んでしまった。

 アーサー・カペルこそ、シャネルをシャネルたらしめた男性なのであって、シャネルはこの男性から新しい時代のエレンガンスを学んだ。それだけでなく、彼は父親代わりであり、兄の代わりでもあった。孤児になってしまったシャネルにとっては、なくてはならない存在だったのである。

 シャネルがアーサー・カペルと付き合っていた頃、ファッション界に進出し、第一次世界大戦に於いて大儲けすることになる。時代はドレスよりも、仕事ができる服を求めるようになり、シャネルのような新人デザイナーが一躍ブレイクすることができたのである。ファッションの革命を起こすのは、普通のデザイナーより、高級娼婦の方がいい。高級娼婦は仕事で新しいファッションを常に必要とするから、だったら自分で作った方がいいということになる。

●仕事に生きた女

 シャネルは高級娼婦として愛人をやっていたのだが、愛人だけで収まるタチではなかった。シャネルは思春期を修道女として生きてきたために、何も労働せず、愛人として生きるのは苦痛だったようである。普通の女性なら愛人に収まってしまうのに、シャネルが盛んに働きまくったのは、修道院で教え込まれたことがしっかりと生きてしまったのであろう。

 シャネルは仕事に生きた女といっていいのだが、シャネル以前のフランスはファッションセンスが実にダサかったのであり、それに対して革命を引き起こすことでスターダムへと伸し上がって行った。シャネルは自分が仕事をしている以上、仕事をし易い服を作って行ったのであり、それが女性の社会進出が起こり始めると、売れに売れたのである。

 シャネルは帽子からファッションへ、そして香水へと仕事を広げて行くのだが、香水こそシャネルのセンスと能力とが思う存分に開花したものであった。シャネルはただ単に香水を作ったのではなく、服装の道具として香水を用意したのであり、それがヒットしたのである。

 シャネルが香水を売り始めた頃が彼女の人生の絶頂期であり、これ以降、運勢は下降しまくることになる。その最大の理由は、シャネルがlこの頃から同性愛に走ってしまったことなのである。同性愛に走ってからのシャネルは運勢が下降しっ放しであった。

 シャネルはアーサー・カペルとの破局と、そして彼の交通事故死が余程ショックだったのだが、これ以降、恋愛らしい恋愛を1つもしていない。恋愛よりもセックスを求めてしまったのであり、自分の愛する男性が死ぬ運命にあるとなれば、セックスの相手は女性と成らざるを得ないということになる。

●シャネルに対して勝手に運命鑑定

 シャネルの人生を一言で言ってしまえば、「男性の愛人になっている時は幸運続きで、同性愛に走ってからは不幸続きだった」ということである。そこでシャネルに対して勝手に運命鑑定をやってみようと思う。運命鑑定をしてしまえば、なんでこんなことになってしまったのか、その理由が解るからだ。

Gabrielle Bonheur Chanel  (ガブリエル・ボヌール・シャネル)

 地格は17画であり、彼女は個性的な女性であり、父親を追い求める運命にあるというのが解る。17画だと愛人になってもおかしくない。結婚して落ち着いた生活をすることができないので、結婚など望まず、愛人として生きて行った方が良かったのである。

 シャネルの愛称は「ココ」なのだが、

Coco Chanel (ココ・シャネル)

にしてしまうと、地格は4画なので、この画数だと同性愛の傾向が出て来る。4画は結婚運が非常に薄く、恋愛もまともな物をすることができない。ただ単にセックスをずるずるとやってしまい、それによって運気を衰退させていってしまうのである。

 シャネルの顔で特徴的なのは、「愛人ホクロ」があることであり、本来は本名の方の運勢が出ていたのである。愛人になる以上、同性愛には不向きなのであって、同性愛をやってしまうと、ダメになっていってしまう。要は愛称が自分の本来の生き方を破壊してしまったということなのである。

 シャネルはアーサー・カペルと付き合っていた頃は非常にいい顔をしているのだが、同性愛に走り始めるとなんとも締りのない顔になった。愛人なら愛人として生きて行けばいいのであって、それ以上の物を求めてはならないのである。

 因みに、うちの親戚にシャネルの顔に良く似た女性がいる。彼女は妻子ある男性と付き合い、結婚することなく長らく付き合っていたが、その後、その男性と結婚することができた。子供の頃からしっかりと「愛人ホクロ」があったから、最初からそういう運命であったのであろう。

●翻訳に問題がありすぎる

 原著はお洒落な本であり、実に素晴らしい本である。今までにない情報を集めて、シャネルの実像がはっきりと解るようになった。著者は「リサ・チェイニー」というのだが、イギリス人で「リサ」という名前の女性は基本的にお洒落な女性である。日本人でも「リサ」の名を持つ女性はお洒落な人が多い。まずはそのお洒落な女性が書いたということを理解して貰いたい。

 しかし日本語版になると、翻訳が余りにも酷過ぎる。毎度のことながら、題名が誤訳である。日本語版では、

『シャネル、革命の秘密』

なのだが、原題は、

『CHANEL AN INTIMATE LIFE』

であり、直訳すれば、 

『シャネルの詳細な人生』

となる。読めば解ることだが、原題通りにシャネルの詳細な人生が綴られているのである。確かにシャネルの革命の秘密も書かれているのだが、それがメインになっているのではない。

 悪質なのは、翻訳者の中野香織が原著から日本に関係のない物を削除してしまい、それでシャネルの詳細な人生が解らなくなってしまっているという事なのである。題名の変更には翻訳者のこういう悪質な意図があったことを忘れてはならない。

 この本がまともな翻訳をしていないということは、作者のプロフィールも、翻訳者のプロフィールもないことでも解る。この本をきちんと翻訳しようと思えば、英語とフランス語の両方ができないと翻訳できないのだ。となれば、外国語大学の出身者でないと無理ってことなのである。

 それと、本の大きさはハードカバーなのに、本の形がハードカバーではないので、実に読みにくい。シャネルの伝記なのだから、もう少し制作費にお金をかけても良かったのではないか? この1冊さえあれば、シャネルの人生は解るのであって、永久保存できるような本にするべきなのである。

 巻末を見て気になったのが、出版社のディスカバー21のマーケティンググループの人数が多過ぎ。これだけ大きければ、組織として機能しなくなるのは当然のことなのである。なんと「51人」である。人数が多くなればなるほど責任は曖昧な物になり、それで粗悪品を作ってしまうのである。

●シャネルの格言

 リサ・チェイニーはイギリス人なので、シェイクスピアに倣って「シャネルの格言」という物を本の中の至る所に配置してある。これが実に小気味いいのであって、俺が気に入った物を抜き出してみた。 

「きめ細かい布地はそれだけで美しいが、ドレスが贅沢であればあるほど貧弱になる」

 ドレス破壊による新ファッションの創造は、シャネルがこういう考えを持っていればこそできたことなのである。今でもいい生地を使っているというのに、その服を贅沢にしてしまい、逆にその素材の良さを活かせないということをやるデザイナーは幾らでもいるものである。

「みんなは貧しさとシンプルさを混同しているのよ」

 美しくなればなるほどシンプルになる。逆に言えば、醜くなればなるほど複雑になっていく。貧乏で着る服が余りない場合、シンプルにしてしまえばそれでも充分に綺麗に見えるものなのであって、貧乏な時にそういう訓練をしておかないと、豊かになった時、自分の服装をシンプルな物にしようとしてもなんか貧乏臭くなってしまうのである。

「奇抜であることは流行遅れ」

 奇抜な物は所詮「奇抜な物」にしかすぎない。これは生きていれば解ることなのだが、若い時はなかなかこのことが解らない。だから奇抜な物を作り、そして自滅して行ってしまうのである。流行と言う物は、冷やかに見ておいた方が無難というものなのである。

「服を作る上での独創性が仮装や装飾に走り、舞台衣装になってしまっているという間違いを犯してしまう」

 現在のファッションショーを見ればまさにその通り。自分の作った服が舞台衣装になっていれば、それは独創した訳ではないということなのである。独創は閃きから生まれるものだから、少し現場を離れて、頭を冷却化した方がいいのである。

「ゲイの男性デザイナーたちはモデルの体を使ってデザインしているのではなく、頭の中でデザインしている」

 ファッション業界ではゲイ率高し。このためゲイの作ったファッションが罷り通ることになるのだが、ゲイは所詮「男性」だから、頭の中で考えてしまうことになる。大事なことは女性が着て美しくなる服を作ることなのに、それができないのである。といっても、シャネルはレズに走っているので、同性愛者同士のいがみ合いの発言だと思っておいた方がいい。

「ファッションの真の目的は、私達の外見を再定義することではなく、自分が何者かであることを語ることである」

 「服装ではなく、あなたは一体何者なのか?」ということなのである。女性の場合、結婚によって服装が大きく変わるし、それに次いで仕事によっても服装が変わる。女性なのに普通の服装をしていれば、普通の人生しか送れなくなるのは当然のことなのである。

「女性を美しく見せるのは、長続きし、見てそれと解るスタイルであり、それこそが最高のファッションの基本である」

 「美しさを持続させる」ということは、シャネルが老いを感じ始めてから、メインテーマになった。シャネルは男性と交際しなくなると、途端に老けこんでしまった。それを補うためにファッションをどうにかしなければならなかったのである。

「私は私なりにファッションを正直にした」

 シャネルのファッションを理解するためには、この言葉が一番である、シャネルの服はシャネルにしか合わない。だから他の女性たちがシャネルの服を着ても、そんなに綺麗にはならない。シャネルの商品はファッションではなく、香水やジュエリーが良いのは、これらの商品は彼女専用に作られてはいないからなのである。

「プライドを高く持てば、傷つくこともある」

 それではなんでシャネルのファッションがブスな女社長たちを惹きつけるのかといえば、それはシャネルはプライドの高い女性だったからなのである。プライドの高い女性が作ったからこそ、プライドの高い女性たちを惹き付けるのである。本当に困った人たちである。そういうことをせずに、謙虚になった方がいいというのに。

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たかみんさんのお勧めに従って「 BUMP OF CHICKEN」を聞いてみました。

●サマフェスの魅力

 俺は暑い夏が大嫌いで、夏の間はとにかく汗を流すことに心掛け、できる限り何か特別なことをしたくない。「サマフェス」なんて物は今までの人生の中で一度も行ったことがなかった。しかし今年、サマフェスには行かなくても、サマフェスを収録した映像を見る機会があり、それでサマフェスの面白さを知ることになった。

 サマフェスははっきりと言ってしまえば、非常にお得である。なんせ様々なアーティストが勢揃いするので、自分の好きなアーティストの演奏を見られるだけでなく、他のアーティストの演奏をも見られることができるだからだ。俺は「Super Fly」が好きなので注目したが、あの女は相変わらずあの化粧の乗らない顔で歌っていた。

 サマフェスでは自分にとって嫌いなアーティストも出て来る。今回のサマフェスでは、或る眼鏡をかけたデブの男性が俺の最も嫌うアーティストだった。そのアーティストはまず見た目がダサい。歌もそれほど巧くない。ただキーボードの演奏だけは手慣れていた。

 奴が歌っていた歌の内容が特に気に食わなかった。曲自体はまあ許せる範囲内なのだが、歌詞の内容は「街には流行りの歌が流れているけど、自分のヘッドフォンの中には昔の歌が流れている」という物で、どうでもいい内容だった。「そんな歌、歌うな!」と思ってしまったのだが、

「♪僕のヘッドフォンには~」

というサビの部分に惹かれてしまい、本当にダサい男性なんだけど、なぜだかその歌に聞き入ってしまった。

 音楽は自分の好き嫌いで決めていいのであって、当たり前のことだが自分の好きな曲だけ聞いていればいいのである。しかしそうやって自分の好きな曲ばかり追い求めて行くと、非常に狭い世界を作り上げてしまい、窒息死してしまうものなのである。

●勝手にベストスリー

 この夏にこんなことがあったために、たかみんさんから「BUMP OF CHICKEN」を勧められた時、取り敢えず聞いてみようかなと思った。以前の俺なら聞かなかったのだけれども、「BUMP OF CHICKEN」は名前しか知らなかったので、この際、歌を聞いてみて、それでこのバンドに対して評価を下してみようとしたのである。

 そこで俺はたかみんさんに

「BUMP OF CHICKENでお勧めの曲は何かある?」

と訊いたのだが、たかみんさんは即答せず、後日、遅ればせながら回答してきやがった。「好きなのにそういうことするか~」と思ったのだが、「BUMP OF CHICKEN」の曲は本当は「これぞ!」という曲がないのだ。だから「BUMP OF CHICKEN」のファンでもお勧め曲には迷ってしまうのである。

 そこで俺が「BUMP OF CHICKEN」の曲を聞いて、勝手にベストスリーという物を作った。

  ユグドラシル

第一位 『ギルド』

 先入観とは恐ろしい物で、最初、この曲を聞いた時、ワーキングプアのことでも歌っているのではないかと思ってしまった。しかし再度聞いてみると人生について歌った曲なので、これで俺の「BUMP OF CHICKEN」への評価は決定的になった。これが本当に一番良い曲である。

 第二位 『天体観測』

 「BUMP OF CHICKEN」の曲の中で、こういう曲ならヒットするという曲での代表例。「BUMP OF CHICKEN」の曲はサビがサビになっていない曲が多いので、なかなかヒット曲を産み出せない。因みにこの曲のサビは「GOING UNDER GROUND」の『トワイアル』に似ているような気がする。

 第三位 『グロリアスレボリューション』

 この曲は楽曲も歌詞も良いのだが、サビがサビになっていないために、大損をこきまくっている。例えばサビの部分をもっと高いキーにし、

「♪涙で濡れたグロリアスレボリューション」

なんて変えて歌うとヒット曲間違いのない曲になったと思う。

「BUMP OF CHICKEN」を勝手に運命鑑定しちゃいました

 「BUMP OF CHICKEN」を運命鑑定してみると、実に面白いことが判明した。

BUMP OF CHICKEN 29画

 29画なので、クールで知謀に優れ、若者たちの支持を受け易い。「BUMP OF CHICKEN」の曲で情熱的な曲がないのはこのためなのであって、そのクールさこそが最大の売りなのである。29画である以上、もっと売れてもいい筈なのだが、それにはそれなりの理由がある。

 「BUMP OF CHICKEN」は4人編成のバンドなので、「死の結界」が張られて、エネルギーは内側に向かうことになる。こういう場合、リーダーが強力なリーダーシップを発揮すれば、「死の結界」が張られていても前進していくことができる。

 しかし「BUMP OF CHICKEN」は平等を建前としており、リーダーを立てないということにしている。これでは「死の結界」が本当に強力に作動してしまうので、作詞作曲で昇華していかないと、人気を獲得していくことができなくなってしまう。

 とはいっても、事実上のリーダーは「藤原基央」である。この人物の地格は15画なので、生まれ故郷から離れる運命にある。事実、秋田県で産まれ、すぐに千葉県に引っ越してきた。もしもこの人物がリーダーになってしまうと、バンドとの相性の関係で、バンドのエネルギーを吸い取ってしまうということになってしまう。それでリーダー不在ということにして、自分がバンドのエネルギーを奪い取らないようにしているのである。

 「BUMP OF CHICKEN」の曲はサビがサビになっていないだが、これはリーダー不在のために、バンドのメンバー同士で巧く化学反応が起こらないからといっていい。メンバーが平等なら、プロデューサーをリーダーにでもしてしまえばいいのだが、そういうことをしないとなかなかヒット曲を作り出すことができない。

●根暗男の魅力

 俺が「BUMP OF CHICKEN」の曲を聞いてつくづく思ったのは、「藤原基央は根暗な男性なんだろうな~」ということである。 根暗だからこそ、物事を奥深く考えているのであって、そういうことをやっているからこそ、普通のアーティストにはできない曲を作って来るのである。

 現在、日本ではお笑い芸人がテレビに出まくりで、笑いを取ればいいだろうと多くの人たちが思っている。しかし笑いというのは人間が持つ物のほんの一部分なのであって、それを殊更に強調していけば、文化が薄っぺらい物になっていくのは当然のことなのである。

 「最近のテレビは詰まらない」

と多くの人たちが言うのだが、それはテレビ番組でお笑い芸人ばかり出しているからなのである。お笑い芸人を抜いて、笑い抜きで面白い番組を作って視聴率を取りにいけばいいものを、流行に騙されてそういうことをしないからこそ、どの局も似たような番組を作り、それで視聴率の低迷に悩んでいるのである。

 こういう時にこそ、根暗な男性が作った曲というのは、実に魅力的な歌に映るようになる。みんなが低俗なことで笑っている時に、真剣に考えた曲を出されれば、みんなは沈黙することになる。なぜなら自分の愚劣さ、軽薄さ、無一物の様を、たった1つの曲で暴露されてしまったからだ。

 大体、この世に於いて男として魅力のある男性は全て性格的に暗い男である。物事を深く考えれば、そうならざるを得ないのであって、そういう男性の魅力を理解しないのであるなら、それは男性のなんたるかを知らないといっていいのである。

●千葉県は実は豊かな地域

「人間とはなんぞや?」

ということを考えるのは、豊かで文化レベルの高い地域に生まれ育った人だからこそできることなのであって、藤原基央が秋田県で産まれ、千葉県で育ったというのは決して偶然な事ではない。この特殊な生い立ちが彼を彼たらしめたのである。

 秋田県は東北地方で最も文化レベルが高い県と言っていい。しかも古代日本の関東では千葉県が最も豊かなのであって、千葉県というのは今でも豊かであり、しかも文化レベルも高いのである。千葉県は東京都の隣接しているために、それらのことを余り理解されないのだが、藤原基央みたいな人物は余所の所からは出て来ていないことを知るべきなのである。

 人間はこの世で生きて行くために、飯を食わなければならないし、その生活の糧を得るために労働しなければならない。生きていれば恋愛をし、結婚をし、子供を産み、育てて行く。しかし人間はそれだけではない。それ以上のことをすることができるからこそ人間たりえるのである。

 歌はラブソングが多いのだが、そういう歌ばかり歌っているのなら、その人物はその程度の人なのである。テレビ番組ではグルメを紹介する物が多いのだが、そういう物ばかり見ているのなら、その人はその程度の人なのである。学術用語で言うと、「形而下学」の範囲にいるということであり、「形而上学」の所まで上昇してきていないのである。

 日本のロックシーンに「BUMP OF CHICKEN」みたいなバンドがあるということは、日本がまだまだ豊かで、日本人の民度が高いという証拠だといっていい。尤もGDPでは既に日本は中国に追い抜かれているので、根源を考えるようなバンドが出て来なくなれば、日本は相当にヤバイということになってしまうのである。

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不覚にも風邪をひいてしまいました(涙)

●今回の風邪の原因

 不覚にも風邪をひいてしまった。只今、新人賞に出す原稿を推敲中であり、推敲がやっとのことで終わり、後は印刷するという時に風邪をひいてしまい、一時作業を中止することになってしまった。今回の風邪は今までに経験したことのない酷い物で、とにかく療養を最優先するしかなかった。

 この悪質極まりない風邪の原因は、土曜日に外出先で咳き込む男子高校生に会ってしまったことにある。最初、その男子高校生を嫌だと思い、すぐに帰れば良かったのに、用事があったために暫く滞在したのだが、それが悪い結果になってしまった。

 その翌日の日曜日にはサイクリングに出かけ、3時間漕ぎっ放しだったので、思いっきり疲労してしまった。この時の疲労は尋常な物ではなく、夕食を食べる時に食べ疲れてしまったほどであった。この時、風邪は潜伏していたのであり、もう体がおかしかったのだ。

 そして月曜日の夕食にアメリカ産のマスタードを食べたことが引金になった。これを食べて暫くしてから、どうも体の調子がおかしくなり、喉が苦しくなってしまった。寝れば治るかなと思って寝たら、睡眠中に症状は悪化し、翌日には明らかに風邪の症状となって現れてしまった。

 ニュースで「今年の風邪は咳き込むことが長引く風邪がはやっている」と報道していたのだが、その風邪こそ、まさにあの男子高校生が罹っていたものだ。しかし俺の身に発症した風邪は流行している風邪ではなく、まるで別物の風邪だったのである。

●今回の風邪は本当に恐ろしかった

 今回の風邪は本当に恐ろしかった。まず喉チンコ辺りが乾いてしまった。乾いているがゆえに唾液で塗らそうとするのだが、そうなると喉チンコ周辺が痛むのである。仕方ないので白湯を飲んで乾燥させないようにするのだが、睡眠時にはこれができないので、夜中に目が覚めたらすぐさま起きて、台所に行って白湯を飲むということを繰り返した。

 俺はすぐに「これはモンサント社製の食品の仕業だ」と解った。こんなヘンテコな症状が出るのは、作物に遺伝子操作をしない限り絶対に起こらない筈だからだ。道理でマクドナルドのハンバーガーを食っている奴に風邪をひく人たちが多い訳だ。

 風邪をひけば、本来なら発熱するものだが、この風邪は発熱が殆どないのだ。だから余計に危険なのである。発熱が起こらないということは、白血球の活動が抑えられているということなのであって、なかなか治らないのである。体温を上げようとお風呂に入ったのだが、それ以降、どうにか回復が起こるようになった。

 喉チンコの乾きが取れると、痰が出まくった。その次に鼻水が出まくった。しかしその後、悪寒が走り、余りの寒さにクシャミが出まくってしまった。喉チンコ周辺の痛みは徐々にしか引かず、すぐに治るということはなかった。どうも喉チンコ辺りになんらかの菌かウィルスが入ってしまったらしい。

 この病状で病院に行けば医者から何をされるか解ったものではないので、とにかく病院には行かなかった。風邪薬も飲まなかった。風邪なんだけど、普通の風邪ではないから、風邪薬で治せるとは到底思えなかった。治療に使ったのは「玉子酒」くらいなもので、とにかく症状が収まるのを待つしかなかった。

●風邪は寝ていれば治る

 火曜日に変調を来たし、喉チンコの乾きで苦しみ、水曜日はどうにも体がダメなので、この日は休みを取って午後に寝た。とはいっても普段から昼寝の習慣がないために、全然眠れず、ただ2時間ほど横になっていただけであった。木曜日は雨であったために、気圧が下がり、これが思いっきり体に堪えてしまった。

 金曜日にはどうにか回復し始め、それでどうにか遠出することができた。しかしまだ治ってはおらず、それなのに土曜日と日曜日は出張だったので、咳き込みながら仕事をする羽目になった。日曜日の夜になるともう殆ど治ってきたので、それで腎臓の機能を強化させる漢方薬を飲んだ。

 この漢方薬は非常に良く効き、月曜日の朝になると明らかに体に気力体力が戻ってきた。まだ完治とは行かないのだが、これならもう大丈夫である。生活するのになんの支障も来たさない。結局、治るまでに1週間以上かかってしまったのだ。

 今回の病気は非常に特殊な病気だったが、所詮は風邪なので、とにかく寝て治すことにした。病気という物は寝れば治るものなのである。できれば断食をやりたかったのだが、やれたのは日中断食ぐらいで、他の断食はできなかった。どうしても家族がいると家庭で断食をやるのは難しくなってしまう。

 最後の段階では漢方薬を飲んだが、これは風邪薬ではなく、腎臓の機能を上げる物であり、病気が治りかけた状態の時に使用すると、実にこれが良く効いた。漢方薬と雖も病気になったらすぐに使用することはお勧めできない。まずは寝るべきなのであって、寝ても治らなかったら、薬を服用するようにすべきなのである。

●免疫力の刷新

 免疫力の刷新は年に1回起こるのだが、今年のは今までの人生の中で最悪の物だった。この風邪を回避しようと思えば幾らでもできた筈なのに、免疫力の刷新が起こる時期に、自ら思いっきり突っ込んでしまい、風邪が治るためになんと1週間もかかってしまった。

 この間、原稿を印刷する作業は全て中断してしまった。締切日はまだ先だったから良かったが、もしも締切日が迫っていた時にこんな病気を発症してしまったのなら、大変なことになっていた筈だ。新人賞を獲得するためには、とにかく病気で寝込むことだけは避けたいものだ。

 免疫力の刷新ほど知られていない物はない。免疫力は常に一定ではなく、年に1ヵ月ぐらい急激に低下することがある。そういう変動を起こすことで、古い免疫力から新しい免疫力に切り替え、それで病気に罹らないようにさせるのである。

 病気それ自体は悲惨な物だったが、病気が治るとお肌は艶々であり、以前持っていた疲労感という物が全て吹き飛んでしまった。免疫力が刷新されたので、それで体にこういう良い現象が出て来たのである。だから免疫力の刷新は絶対にあった方がいいのである。

 遺伝子組み換え食品を食べていれば、今までにはない病気が幾らでも出て来ることになる。アメリカ合衆国はこれをTPPによって推し進めようとしているのであって、くれぐれもアメリカ産の食品には気を付けることだ。安くて美味いからといって、それが人体にとって安全であるとは限らないのだ。

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近代文学とはなんぞや?

●近代文学はそれ以前の文学とは決定的に異なる

 マルティン・ルターによって始まった宗教改革は腐敗したキリスト教を正す運動であっただけでなく、聖書至上主義に走り、聖書以外の全ての物を否定するというとんでもない文化革命であった。プロテスタント化した国々ではそれまで持っていた文化が全て消滅してしまった。

 不思議なことと聞こえるかもしれないが、ローマカトリック教会はキリスト教を宣教していくに当たって現地の宗教を破壊し、文化も破壊したが、キリスト教化してしまえば、現地の破壊された文化を収集し。保存するということをやった。このため宗教改革が始まっても、暫くの間は文化的には常にカトリックの方が優勢だった。

 プロテスタンティズムでも改革派となると文学を読むことをも禁止した。「小説を読む閑があるなら聖書を読め」ということになった。こうなると、聖書だけが正しく、他の全ての物は間違っているということになる。改革派は呪術の完全否定を引き起こし、徹底したリアリズムを持つことになる。

 このリアリズムが外界に向いている間は、経済や科学を発展させていく原動力となる。しかしこのリアリズムがキリスト教の方に向かってしまうと、キリスト教は処女懐胎だの死者復活だの、荒唐無稽な話が多々あるために、キリスト教を否定することになってしまうのである。

 勘違いしてはならないのは、キリスト教を無闇に否定したのではない。キリスト教を信仰していたからこそ、その信仰を否定するという逆説的現象が発生したということなのである。この特異現象に深く関与したのがフリーメーソン団であり、その秘密結社に加入した者たちが自分たちの思想を表現するために新たな文学を作り出したのである。

 近代文学は絶対に宗教文学ではない。それどころかキリスト教を否定する物がしっかりと組み込まれている。普通の読解力ではこれを理解できないので、それでキリスト教否定と解らず、単なる文学作品として読んでしまう連中が大量に出て来てしまうのである。

●なぜイギリスで近代文学が誕生したのか?

 宗教改革の結果、近代文学を産み出すという現象が最初に起こったのはイギリスであった。イギリスは国教制を取り、ルター派ほど狂信的にならず、カルヴァン派ほど厳格にならず、ローマカトリック教会がやっていたことを巧く継承したために、宗教改革の成果がしっかりと国民に及んでいった。

 日本は神仏習合の国家であるために、国教という物を樹立したことがなかった。このため国教制がどのような物なのかということを理解できた人は殆どいない。国教を採用してしまうと、確かにその宗教が全国的に普及するのだが、本気でその宗教を信仰するのは国民の内、20%から30%程度であって、他の人たちは信仰を失ってしまうのである。

 尤も信仰を失っても、国教会が持つ宗教儀式だけは人生儀礼として使用して来るので、それで何か咎められることはなくなる。そのため国教を採用した国家では国内に自由があるようになってしまい、それで文化が急速に発達してくることになる。

 しかしシェイクスピアは男色家だっために、同性愛を否定するキリスト教に対してはどうしても反対せざるをえなかった。イギリスでは長らく男色家であることがばれると仕事できなくなるので、男色家であることを隠して仕事をしなければならなかった。それでもピューリターン革命が起こると彼は引退し、一切の活動していない。ピューリタンたちは同性愛を躍起になって否定したので、最早、劇作家として活躍できる余地はなかったのである。

 近代文学はシェイクスピアこそが出発点だと考えられている。シェイクスピアの作品で特徴的なのは、キリスト教を賛美するような物は何1つ書いていないということである。しかも熟読していくと、キリスト教を否定している物が多々見受けられるのである。こういう物はそれ以前にはないのである。

●写実主義とロマン主義

 フランスは元々文学の盛んな国ではあったが、文学が充実していたがゆえにシェイクスピアの作品の翻訳が死後200年後になってから行われるという異常事態を招いてしまった。このためフランスでは近代文学のなんたるかを知らず、異常な発展を遂げてしまったのである。

 それが「写実主義」であり、物事を客観的に写実するのが本当の文学だと主張してきた。この写実主義に関与した作家の殆どがフリーメーソンであり、フランスのフリーメーソンはイギリスのそれとは違い、明らかに無神論を取り、科学を必要以上に尊重した。だから写実主義を産んだといっていい。

 ドイツは近代化に遅れれたために、近代が持つ合理主義を採用しつつも、それに反発するという態度が見られた。そこでロマン主義という文学運動が起こり、個人の自我や能力を殊更に強調する文学作品を作っていった。ドイツはルター派が強いために、どうしてもこの手の唯我独尊的な主張が出て来るのである。

 ドイツからアメリカ合衆国へ大量のドイツ人が移住したために、このロマン主義はアメリカ合衆国で世俗化した形で花開いた。超人的な能力を持った英雄が主人公が様々な困難を解決していき、最終的にはハッピーエンドになる。そんなことは現実的には有り得ないのだが、合理主義が強くなればなるほど、それに反発する形でロマン主義が出て来るのである。

 近代文学は写実主義とロマン主義の融合だと言われる。しかしそれはヨーロッパ大陸、しかも主にフランスとドイツで起こったことであって、必ずしも正しい考え方ではない。ただ、宗教改革がヨーロッパ各国では違った動きを見せたために、結果的に文学に於いても違いが出て来てしまったのである。

●ロシア文学こそ世界最高峰の文学

 写実主義とロマン主義の双方の影響を受けたのがロシア文学である。ロシアでは宗教改革がなかったために、

「中世文学の殲滅」→「近代文学の創造」

という動きが全く見られなかった。ロシアは後進国だったので、ロシア正教は文学を破壊する必要性が全くなかったのである。

 ロシア帝国は専制君主制を行いつつも、帝政ロシアの大繁栄を遂げ、世界最大の領土を誇るまでになった。それだけ繁栄すれば当然に文学の需要が出て来るのであって、それでロシア文学は黄金時代を迎えることになった。しかも遅れていたがために、イギリスやフランスやドイツの文学的成果を巧く頂戴して、より発展した文学作品を作り上げたのである。

 ロシアの上流階級はフランス語を日常語として使用していたのでフランスの影響が非常に強いのだが、トルストイだけがシェイクスピアの影響を受けた。但し否定的に解釈したのだが、それでもトルストイはこれによって普及の名作『戦争と平和』を書き上げている。

 ロシア帝国はイギリスと同じく国教制を採用したのだが、イギリスと同様に強固な信仰を持つ信者たちが出て来る一方で、信仰を喪失してしまう人たちが出て来た。ただ、ロシア帝国がイギリスと違うのは、政治体制が専制君主制だったことであり、それが知識人たちに深刻な苦悩を与えてしまったのである。

 ドストエフスキーは飽くまでもロシア正教を支持し、ロシアの知識人たちが社会主義思想に被れて暴力革命に憧れることを批判した。しかしロシア国内の階級分裂は深刻な状態であり、最早、ロシア正教の力でなんとかなるものではなかった。そのためにロシア革命が発生してしまうのだが、ソ連共産党は文学を徹底的に破壊したために、ソ連に於いては文学が完全消滅してしまった。

 とはいっても、ロシア文学の価値が変わる訳ではなく、トルストイとドストエフスキーの小説が近代文学としては最高峰にあるという評価は定説と言っていいだろう。ロシアは遅れて近代化したことが文学に於いて実にいい結果を産み出したのである。

●日本の場合「近代化していくことの苦悩」

 日本が近代化するのはロシアより遅れた。江戸時代は230年の長きに亘って平和を実現でき、人々は豊かな生活を営んだが、その代償は非常に高くついた。江戸時代の後半は堕落の時代であった。滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が出ると、それを超える作品を作ろうとする者たちが1人も現れなかったのである。

 しかも日本は近代化していくに当たって、「日本語の口語化」という大問題に直面し、この試行錯誤が行われた。共通語は江戸の武士たちが使っていた言葉に長州藩で使用されていた言葉を加味することで、新たな日本語を創造していった。

 「なぜ夏目漱石が文豪なのか?」といえば、それは夏目漱石の小説以降から今でも読めるような小説になったからなのである。尤も夏目漱石は大した物語を作れなかったから、それで森鴎外をも文豪にすることでバランスを取った。

 気を付けなければならないのは、夏目漱石や森鴎外を文豪だと言っているのは日本人だけであって、国際的基準から見れば夏名漱石も森鴎外も文豪ではないということなのである。ではなんで日本人たちがこの2人を文豪扱いにしているのかといえば、それは、

「近代化していくことの苦悩」

を彼等の小説の中に見ているからなのである。

 日本は王政復古という形で近代化して行ったために、宗教に関しては神道を取りつつ、科学や技術に関しては西洋の物を取り入れるという態度を取った。近代化を簡単に進めようとすれば、キリスト教を受け入れてしまえばいいのだが、そうすると日本らしさと言う物が完全消滅してしまう。

 戦後は松本清張と司馬遼太郎が国民作家となったが、2人ともキリスト教徒ではなかったということに共通項がある。キリスト教抜きでどう近代化し、どうやってその繁栄を維持していくのか? このことが解っていないと、日本ではまともな小説すら書けない状態になっているのである。

●文学の宗教化

 近代文学に於いては或る1つの特徴がある。それは「国教のある国では必ず文豪を産み出しており、その文豪の作品は現在でも名作の評価が与えられている」ということだ。なぜイギリスでシェイクスピア、ロシアではドストエフスキーとトルストイを産んだのかといえば、国教が存在していたからなのである。

 国教のなかった国では、フランスだろうがドイツだろうがアメリカ合衆国だろうが、そして日本だろうが、イギリスやロシアが産んだような文豪など1人も誕生しなかったし、その国では文豪の評価が与えられていても、国際的基準では別に大した作品を書いていないのである。

 国教があれば、その宗教が国民の間に広く浸透すると同時に、国民の大半がその宗教への信仰をなくしてしまう。それによって国内には自由が生まれ、そこで文学が創造され始めると、「文学の宗教化」という現象が起こり、人々はまるで宗教書を読むように小説を読み始めるのである。

 国教がない国ではこの文学の宗教化が起こらない。無理矢理に起こそうとすれば宗教文学を作るしかないのだが、しかしそういう物を作っても、文学の宗教化は起こらないのだ。これではどうしても文学は娯楽になってしまい、いずれは世俗化して、低レベルな物になってしまうのである。

 日本には国教がないが、かといってキリスト教を受け入れていないという特殊な状況にある。日本の文学シーンがフランスやドイツやアメリカ合衆国のそれとは異なる展開になることは当然のことなのである。面白いことをやろうと思えば、幾らでもできる絶好のポジションにいるといっていい。

 だから日本の文学にはもっと期待していいのであって、取り敢えずは夏目漱石や森鴎外を文豪だと思っていることをやめて、近代文学を大局的に見るようにしなければならない。国際的基準から文豪ではない作家を文豪だと思っている限り、近代文学とは一体なんであるか解らなくなってしまうものなのである。

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