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「信仰の腐敗」と「文学の創造」

●宗教文学と世俗文学は違う

 文学には大きく分けて、「宗教文学」と「世俗文学」の2つが存在する。宗教文学はその宗教を信奉する信者たちがその宗教心の発露として書く物であり、文学を否定しない教団なら、どこの教団でも誕生して来る。これに対して世俗文学はそういう宗教性がない物であり、宗教に関係なく、文字さえあれば、どこの国でも発生してくる。

 近代文学は世俗文学なのだが、それまでの世俗文学と一体何が違うのかといえば、「世俗文学なのに低俗ではない」ということなのである。どこの国でも世俗文学といえば低俗な物だった。これは西ヨーロッパの事情もなんら変わらない。しかし宗教改革を経て民度が向上してくると、世俗文学でも質の高い物を産み出せるようになったのである。

 近代日本で世俗文学が如何にレベルが低いのかを知っていたのは、夏目漱石であり、菊池寛だった。だから夏目漱石は近代的な世俗文学に耐えられるような世俗文学を書いた訳だし、菊池寛は小説を書いただけでなく、文学雑誌を作ったり、文学賞を作って、とにかく日本の世俗文学のレベルを上げていくということをやった。

 しかし問題なのは、日本の近代文学は自前の物ではなく、飽くまでも西洋、正確に言うと西欧であり、イギリス文学、フランス文学、ドイツ文学、その例外としてロシア文学の影響を受けて成立したのであって、大半の日本人はキリスト教なくして近代日本文学を産み出すことの大変さを知っているのに、日本のキリスト教徒たちはそういう苦悩を全く理解せず、近代文学は西欧で生まれたのだから、キリスト教の産物だろうと勘違いしていることなのである。

 西欧が産み出した近代文学は確かにキリスト教の宗教改革後に生まれた物だが、その文学の内容はキリスト教を否定していると言っていい。プロテスタンティズムは信仰義認説を取るのだが、聖書を読んで行く内に、信仰に疑いを持ち始め、それで無神論者に成り、その者たちが文学の世界に乗り出して行ったのである。

●信仰が腐敗していない

 日本は戦国時代にキリスト教が伝来したが、キリシタン大名が神社仏閣を破壊し、日本人を奴隷として売り飛ばしたので、それで江戸幕府はキリスト教弾圧に乗り出し、キリスト教を禁止してしまった。隠れキリシタンたちもいたのだが、その者たちはキリスト教的要素を取り入れているが、実際はキリスト教徒ではなく、日本的な神仏習合の徒たちであった。

 明治維新後にキリスト教が解禁されてキリスト教徒に成る者たちが出て来たのだが、日本のキリスト教は未だ信仰が新鮮であり、キリスト教の教義に対して疑問を持つ者たちが出て来ていない。所謂、「信仰の腐敗」が起こっていないのだ。

 信仰という物は常にその新鮮さを保てる訳ではなく、何百年と信仰し続ければ、信仰している人たちが疲れ切ってしまい、それで信仰の腐敗という現象が発生する。この信仰の腐敗が教会からの脱会者を産み出し、その者たちの中から近代文学を作る輩が出て来るのである。

 キリスト教では教義上同性愛を禁止しているので、同性愛者数の増大を以て「信仰の腐敗」の目安となる。新約聖書を読めば同性愛を禁止していることが一目瞭然なので、それなのに同性愛を容認するというのは、キリスト教徒たちの信仰が最早まともな物ではなくなっているということなのである。

 日本ではキリスト教徒でありながら同性愛者という者は少ないし、カトリックなら聖職者、プロテスタントなら長老や牧師で同性愛者に成っている者はいないと言っていい。ということは信仰の腐敗が起こっていないということであり。これでは近代文学を理解できる者も作り出せる者も出て来ないということなのである。

 信仰の腐敗は必ず教会の腐敗になっていく。形式的には宗教儀式をやっているかもしれないが、その説教は世俗のお話なのであって、こういうことをやっていれば信者数が減少していくのは当然のことなのである。そのくせそれに反比例するかのように近代文学は大繁盛して来る。これは嘗て西欧で起こったことだし、現在ではアメリカ合衆国で起こっているなのである。

●日本の小説家たちに仏教徒が多い理由

 日本の文学界では、圧倒的に仏教徒である小説家が多い。本人が自分は仏教徒として自覚している者もいれば、本人には自覚がないのだが、その本人の思考はどう考えても仏教という場合もある。なぜこんなにも仏教徒が多いのかといえば、それは日本の仏教徒たちの信仰が腐敗しているからである。

 日本の仏教は国際的に見て異常な状態になっており、仏教徒を名乗っているのに既に仏教戒律を守っていない。仏教徒の最低条件は「三帰五戒」を守ることにあるので、これをしていないとなれば、国際的には仏教徒だとは認められないのだ。

 神は永遠かもしれないが、宗教の寿命は500年程度である。500年もその宗教が存続すれば、その宗教が腐敗してしまい、当初の姿とはまるで違った物になってしまうことになる。日本は平安時代末期から鎌倉時代にかけて鎌倉仏教が起こってきたから、もう既に500年以上経過しているから、仏教をどう信仰しようが、その信仰が腐敗するのは当然なのである。

 大乗仏教では「色即是空」「空即是色」の教えがあるので、小説家が小説を書くのは実に遣り易い。かといって信仰が腐敗しているために、仏教を肯定するような宗教文学にならず、きちんと世俗文学を書き上げることができる。仏教はキリスト教とは違った形で世俗文学を産み出すことができるのである。

 キリスト教では、世俗文学といっても、どうしても愛の発露に成らざるを得ない。しかし仏教では愛の発露以外にも様々なジャンルに手を出して行くことが可能なのであって、根本的な所から仏教徒はキリスト教徒たちに対して優位に立っているのである。

●日本のキリスト教徒たちはキリスト教徒である小説家を称賛するけど

 日本のキリスト教徒は人口の内、1%から2%しかない。数に於いては微々たるものだから、本来なら小説家を産み出すことができない。しかしキリスト教の小説家が存在しているのであって、「これは一体どういうことか?」となってしまう。

 日本のキリスト教系宗教団体は信者数こそ少ないが、歴史的に教育に力を入れ、学校や大学を多数創設してきた。このため文学のできる人材を産み出すことが可能になっている。かといって信仰の腐敗が起こっていない以上、書ける物は宗教文学程度で、近代的な世俗文学を書くことができないのである。

 もう1つ付け加えておくと、出版業界にはキリスト教人脈という物があって、この人脈を使うと、キリスト教徒でない者は排除されてしまい、キリスト教徒の者が意図的に排出されることになる。これが文学賞になると露骨になる。キリスト教徒の小説家が何かしらの文学賞を受賞したのなら、「インチキをやったな」と思った方がいい。

 日本のキリスト教徒たちはキリスト教の小説家を称賛するけど、これは宗教的には実に宜しくないのだ。日本のキリスト教徒である小説家は近代的な世俗文学を書けないし、宗教文学しか書けない。しかし宗教文学を書けるほど、日本のキリスト教は成熟している訳ではないのだ。

 宗教文学を書けば書くほど、肝腎の信者たちの信仰が弱まっていってしまい、それで教団が弱体化し、信者数が減少してしまうということになる。こういうことが起こってしまうからこそ、プロテスタンティズムはカルヴァン派に代表されるように、文学という物を思いっきり否定し、信仰生活にどっぷりと浸からせるものなのであり、文学が信仰にとって危険というのは教団自体が承知していることなのである。

 近代文学はその文学否定を経て生まれたのであり、だからといって文学否定をやっていない状態で小説を書くというのは、どうやったとしてもまともな文学作品を作り上げることができないのである。信仰も本物になっていない、小説も本物になっていない、となれば、共倒れになってしまうことになり、日本のキリスト教としては大損害ということになる。

●問題なのはキリスト教繋がりで翻訳の仕事が回って来ること

 キリスト教の信者たちはただでさえ数が少ないのだが、小説家になればもっと少なくなる。しかも翻訳家になればもっと少なくなる筈である。ところが翻訳家もキリスト教徒たちの割合は信者数の比率に反比例して高い割合になってくる。

 キリスト教徒としての繋がりがあり、キリスト教徒の人に翻訳の仕事が回って来るので、それでこんなへんてこな現象が起こっているのである。これは決して良いことではない、寧ろ悪いことである。というのは、翻訳というのは高度な技術を要するので、ただ単にその外国語ができれば良いという訳ではなく、大学で翻訳のことを本格的に学ばないと巧くできないのである。

 俺が日本語に翻訳された外国の本を読んでつくづく思うのは、翻訳が下手糞な翻訳家は必ずといっていいほど、翻訳の際に原題の題名を変えてしまうのである。特にこれは英語で書かれた本を翻訳する際に顕著なので、そういう翻訳では読者たちが誤解してしまい、その本の評価を見誤ることになってしまうのだ。

 翻訳家はキリスト教国で出版された本を翻訳したのだから、その作者はキリスト教を肯定していると思って翻訳しているのだろうが、実はその作者がキリスト教を否定しているという場合が多々ある。しかしそれを公然と言う場合もあれば、それを隠蔽している場合もあるので、余程ちゃんとした読解力がないとそれを理解することができないのだ。

 特にその作者が同性愛者なら、その作者はキリスト教を明確に否定していると考えてほぼ間違いない。キリスト教は同性愛に対して否定的であり、過去に同性愛をやったというだけで死刑にしたり、精神病院に送り込んで幽閉してしまったという歴史を持つので、同性愛者にしてみればキリスト教を否定しない限り自分の安全を保つことができないのだ。

●西洋の近代文学を仏教で見てしまうことの危険性

 こういうことがあるから、日本語に翻訳された外国語の本を読む時は非常に注意が必要である。その翻訳家がなんの宗教を奉じているのか敏感に感じ取ることができないと、思いっきり誤読してしまうことになる。プロフィールに宗教のことは出ていないので、己の読解力で以て、それを見破って行くしかない。

 日本の場合、宗教人口の比率で行けば、神仏習合をやっている者が多くなる筈であり、そしてまたその者が翻訳した本はそんなに悪質な翻訳がなされている訳ではない。明らかに翻訳家の信仰が翻訳の邪魔をしているのであり、神仏習合のように信仰を強調しないと、冷静に成って翻訳できるものなのである。

 かといってそれが最善という訳ではない。神仏習合の者が外国の本を翻訳した場合、仏教の教えに基づいて見てしまうことになる。仏教は煩悩からの解脱を説くがゆえに、近代文学のように恋愛小説が主流になってしまえば、そんなに恋愛に執着することは煩悩以外の何物でもないのであって、そこから解脱しなければどうにもならないと思ってしまうのだ。

 確かにそれはそうなんだけど、そうなると近代文学を何も理解できなくなってしまうことになる。キリスト教では教義上、愛を説いたのだが、その愛が世俗化して、恋愛へと向かっているのである。専門用語を使えば「アガペー」から「エロス」へと転換したのだが、そのエロスは古代ギリシャのような物ではなく、キリスト教によって、正確に言えばプロテスタンティズムで変質した物なのであって、より精神性の高い物となっているのである。

 しかしこういう恋愛の仕方は人間の本来の姿から余りにも逸脱している。そんなに相手の事が好きなら、結婚へと昇華させていくべきなのであって、恋愛に留めておくべきではないのだ。恋愛を称賛する者は跡を絶たないのだが、どんなに激しい恋愛をしたとしても、結婚して子供を産み育てて行く者たちには叶わないのである。

 キリスト教徒でない者だからこそ、近代文学が内在している異常さを理解することができる。近代文学は異常な物なのであって、発展し尽くしてしまえば、いずれは崩壊していくことになる。こういう運命を背負っているのだから、今現在、キリスト教国が発展しているからといってキリスト教に改宗してしまうような人たちに近代文学を正確に理解して行くことは絶対に不可能だと言っていいのだ。

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