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2015年12月

「縁起観」と「こりゃあ、縁起がいい」の話

●縁起観

 仏教には「縁起観」という物があって、如何なる物事にも原因があり、由縁を通じて結果が出て、その結果によって何かしらの影響が出て来ると考える。これが「因縁果報」であり、仏教の縁起観が解っていれば、この世の全ては必然性を持って動いており、そこにはなんの偶然性もないという事を理解する事が出来る事であろう。

 この縁起観は一見、非の打ちどころのない完璧な理論であるように思える。しかしこの演技観には致命的な問題点が存在する。それは、

「人間は出発段階でゴールまでの事を全て見通せない」

という事だ。どんな計画を立てたとしても、この世は様々な因果関係が存在する以上、自分の計画を推進しても、色々な出来事が起こってしまい、計画通りに進む事はない。

 それだけでなく、たとえ計画を実現できたとしても、計画が予定しているのはゴールまでの事だから、ゴール以降の事を始めから解っているという事は絶対に有り得ないのだ。スタート時点の情報は限られているのであって、如何なる者であってもそんな遠くの事まで見通せる訳がないのである。

 釈迦の考えた縁起観は飽くまでも理性の産物であり、それではそれを受けて庶民たちはどう考えたとかいえば、感性を重視して、

「こりゃあ、縁起がいい」

という事で、未来を視通そうとした。自分が計画した物の全てが当たるという事はない。しかし何か新たな事を始めようとした時に、縁起のいい事が起これば、

「これは行ける」

と考え、そして勇気を持って実行に移していくのである。

 縁起観の危険性は、自分の頭の中で幾ら考えた所で、実際にやってみれば新たな情報が大量に寄せられる事に成り、それで自分の当初の計画を修正していかなければ成らなく成るという事だ。自分が動けば新たな情報が得られるのであって、だったら何も行動せずに考えているのではなく、「とにかく動け!」という事に成る。

●直感が足りない!

 文明の中で暮らしていれば、どうしても理性を重視してしまい、理性に頼った生き方をしてしまう。しかしそういう生き方は感性を衰えさせる事に成り、それで直感が足りないという事になってしまうのだ。直感がないからこそ、自分が何かをやろうとした時、

「これは行ける!」

と思えなく成り、恐らく失敗してしまうであろうことを平気でやってしまうのである。

 自分の直感が弱っているのだから、占い師に占いを頼み、それで自分が何をすべきか決めても別に構わない。科学が発達したからといって占いを躍起になって否定してしまうと、占いを使う事が出来なくなってしまうので、それで世の中がどうにもおかしく成ってしまい、最終的には崩壊して仕舞う事になってしまうのである。

 特に結婚する時のように、この結婚によってどう変化していくのかを自分の力ではどうしても見通せないような物は、占い師に頼んで占いをやって貰うのが一番良いのだ。初婚なら男女とも結婚は未経験である。それなのに自分たちの判断で最高レベルの物を行き成り出せる訳がないのだ。

 会社経営者たちの中にも占いを利用している人たちは結構いる。経営の決断はどうしても迷うのであって、そういう時は占い師に相談する事で、より正しい決断ができるようにするのだ。占いと聞くとすぐ信じる信じないの話になってしまうが、お金持ちたちは占いを利用しているのであって、そこが貧乏人たちとは違う所なのである。

 男性よりも女性の方が直感は優れている。だから結婚すべきなのであり、男性は妻の力を巧く使いながら、仕事を進めていけばいいのだ。女性の方は理性に関して男性よりも劣るから、結婚する事で夫の理性を巧く使い、それで幸せな家庭を築いていけばいい。男女ともに独身で居続けてしまう事は欠けた能力で生きて行く事に成り、それではどうにも巧く行かなくなってしまうのである。

●だから努力すべし

 自分が何かやろうとして、縁起のいい事が起こったのなら、それをどんどん押し進めていくべきであろう。しかし「縁起が良くても失敗する事もある」し、「縁起が悪くても成功する事もある」という事を知っておくべきだ。縁起のいい事は有利な条件に成っただけの事であって、だからと言って最後まで巧く行くとは限らない。

 世の中には何か新しい事を始めようとした時に不吉な事が起こり、それなのにそれを無視してやろうとすると、本当に破滅してしまったりする。神様が「それをやるな」と教えてくれているのだから、敢えてそれをやるという事などすべきではないのだ。「そんなの迷信だ」などと言っていると、後で酷い目に遭うのは自分なのである。

 かといって、縁起の悪い事が起こった筈なのに、巧く行ってしまったという事も有り得る。そういうのは単なる思い違いなのであって、自分の直感が鈍っていたために、縁起の悪い現象でもない事を、縁起の悪い現象だと思ってしまったにすぎないのである。この手の判断は難しいからこそ、自分の直感を衰えさせないと同時に、やけに勘のいい者を側に置いておくべきなのだ。

 物事は終わって見なければどうなるかは解らない。だから計画を実行に移したのなら最後まで努力すべきであって、途中で何があったとしても辞めては成らないのだ。最後までやり続ければ必ず成功するのであって、成功するためには「忍耐力」こそが必要なのであり、それさえあれば万難を排して成功する事が出来てしまうのである。

 縁起観は或る程度までなら正しい物であるが、縁起観のために因果関係をあれこれ考え、結局、動く事が出来なくなってしまっている人たちも大量に生み出してしまっているという弊害もある。因縁果報の事を考えて行ってしまうと、最終的には唯物論に至ってしまう事に成る。そうなれば自分の取り巻く環境が悪いから、それで自分は不幸なんだと思うようになってしまう。縁起観にはそういう危険性もあるという事を忘れては成らないのだ。

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冬至の日には愛を込めたカボチャ料理を!

●冬至っていつ?
 
 ここ数日間、どうも調子が良くなくて、家でウダウダとしていたのだが、考えてみれば冬至が近づいてきている事に気づいた。今年の冬至は12月22日なので、道理で体の調子が良く無い訳である。冬至では日が最も短く成るので、それで体に何かしらの変化が出て来ても別に不思議ではない。
 
 面白い事に、冬至だからといって、日の出が最も遅く、日の入りが最も早い訳ではない。日の出が最も早くなるのは、来年の1月2日から1月13日までで、6時51分が日の出の時間である、日の入りが最も遅くなるのは、11月29日から12月13日までであり、16時28分が日の入りの時間となる。
 
 考えてみれば、12月13日が過ぎてから、どうも体がいつも通りではなかった。全力を出し切れないというか、何をするにしても、体がセーブしてしまい、なかなか本領発揮とはいかなかった。そして冬至の3日前から、体の調子が良くないようになってしまった。この変化は冬至が引き起こしている物だと解ると、納得が行った。
 
●冬至での風習
 
 冬至にはカボチャ料理を食べるという習慣があるのだが、これは理に適っている。まずはビタミンの補給であろう。カボチャ料理でビタミンを補給できれば、風邪をひかくなる。もう1つの理由は運気を強めるための物であり、カボチャ料理を食べる事で、落ちた運勢を強めるのである。
 
 冬至に柚子湯に入るのもこれと同じ事で、まずは柚子湯で血行を良くし、体を温めるのが理由であろう。もう1つの理由は柚子自体が禊になり、しかも禊をして綺麗になった体を守るという物である。この柚子湯に入るからこそ、冬至から春分までの寒い期間を無事に過ごせるのである。
 
 太陽暦なら本来、冬至の日を年始とすべきであろう。しかし様々な理由があって、元日が9日ほどずれてしまっている。冬至に小豆粥を食べるのはメジャーではないが、地方によっては食べられている。冬至のカボチャ料理を食べたり、柚子湯に入るのがメジャーなのだから、是非とも小豆粥を食べるのも普及させたいものだ。
 
●なぜ年末年始に事故や病気が起こるのか?
 
 世の中には減速をするという事を知らない人たちが大勢いる。しかも昔から伝えられてきた風習をバカにして、何もしない人たちが大勢いる。しかしそういう事をやっていると天罰が下ってしまうのであって、年末年始に事故に遭ったり、 病気を発症して、呆気なく死んでしまったりする。
 
 年末は忙しい物である。だが幾ら忙しいからといって減速せず仕事を進めてしまうのは非常に危険なのであって、そうやって猛スピードで突っ込んでしまうからこそ、事故や病気を引き起こしてしまう事に成るのだ。やはり昔から伝えられてきた事にはそれなりの敬意を払った方がいい。
 
 死ぬのは勝手だが、年末年始にお通夜や告別式をやられるのは、そこに参列する者からしてみれば堪った物ではない。こっちだって忙しいのに、敢えてそんな時期に死ぬ事はないのだ。葬儀会社によると、年末年始での葬式では参列者の数がめっきり減るという。当たり前だ。みんな忙しいのだから、自分が死ぬ時は敢えてその期間を避けるというようにすべききなのである。

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小さい物で満足できない者は、大きな物でも満足できない

●貰い物にケチをつけるな

 俺が今までの人生の中で「こういう事をやってしまう人は必ず不幸になる」という物が1つだけある。それは、

「貰い物にケチを付ける」

という事であり、これをやっている人は確実に不幸になっている。なんでこの癖が不幸を決定的な物にしてしまうのか、それにはちゃんとした理由が存在している。

 貰い物にケチを付ける場合、その貰い物がどういう物であるかは別に問題ではない。ここで問われているのは、貰った人の「幸せの基準」が高く、しかも「欠点のない物を要求している」事なのである。この幸福感は非常に危険であり、その人が何をやっても幸福を得られる事がなくなってしまう。

 だから幸せになtりたいのなら、「幸せの基準」を思いっきり引き下げる。例えば飢饉に陥ったのなら、パン1つ貰っても大喜びするものだ。そういう気持ちを忘れないようにする。幸せの基準が高くなってしまえば、最高のレストランに連れて行って食事をさせたとしても文句を言って来る事であろう。

 それとこの世に存在する物は全て欠点だらけなのだから、貰い物には完璧を要求しない。どんなに親切な人であっても、完璧な物をプレゼントしてこない。貰い物に欠点があるのは当たり前なのであって、その欠点を咎めるような事をしてはならない。もしも完璧な事を要求するなら、自分で作ってみろ。自分だって出来ないのだから、誰だって出来ないものなのである。

 確実に不幸になってしまう人たちは、間違った幸福感を持ったがゆえにそうなっているのだが、その本人だけにその責任があるのではない。不幸な人は自分の親からそういう育てられ方をしてしまった。親が子に期待する余りに、幸せの基準を高くしてしまい、自分がミスすれば引っ叩かれた。だから常日頃、不満を垂れている人は子供の頃から不満だったのであって、それで「不満だらけの人生」を送ってしまう事になるのだ。

●物質的な満足と精神的な満足

 人間の幸福には大きく分けて「物質的な満足」と「精神的な満足」の2種類がある。物質的な満足は貧しい時に求める物であって、生活が豊かになってくると、段々と精神的な満足を欲しがるようになる。気を付けるべきは、

「物質的に満足できない者が精神的な事に満足することはできない」

という事だ。

 自分が何かを獲得しても、その大小は余り関係なく、自分が満足しているか否かが非常に重要な事に成って来る。だから小さな物を獲得しても、それはそれで満足する。そういう事をやるからこそ、大きな物を獲得した時に満足する事が出来るのである。もしも小さな物に満足できないと、大きな物でも満足する事は出来なくなってしまう事に成ってしまう。

 精神的な満足は物質的な満足よりも高尚な物だが、精神的な満足は物質的な満足があってこそ成り立つ物であり、精神的な満足だけで存在する事は出来ない。この事を解っていないと、精神的な満足を追求する余りに、物質的な満足を軽視してしまい、それでどうやっても精神的な満足を得られないという事に成ってしまう。

 夢を大きく持てば、その成果を大きく成る事に成るのだが、だったら自分の目標に集中しなければ成らない。どんな夢であっても、自分が目標に向かって突き進んでいれば、それをやっている時がもう幸福状態なのであって、目標を達成してしまえば、更に幸福感に包まれる事に成る。

 しかし夢を持ったはいいが、自分の目標に集中して来ないなら、今やっている努力が苦痛になり、そういう事では目標を達成する事が出来ない。目標を達成する事が出来なければ、なんで自分はダメなんだと落ち込んでしまい、更に不幸に成って行く事に成る。夢はなんでもいいのではなく、その夢が自分にとって本当に必要なのかを確かめるという事も必要なのである。

●他人と比較しない

 幸福と不幸を考えるに当たって、「他人と比較しない」という事を徹底させなければ成らない。幸福かどうかは自分が判断するのであって、他人は関係ないからだ。もしも他人と比較して幸福を感じるようなら、その幸福は非常に脆い物であって、すぐに壊れてしまう事に成ってしまう。

 人間には「嫉妬」という厄介な感情があるから、充分に注意しておいた方がいい。嫉妬深い人は何をやっても嫉妬してくるので、それでは常に不幸になってしまうのは当然の事なのである。幸せになりたければ、出来る限り嫉妬しないという事を戒めなければ成らない。嫉妬する暇があるなら、何か自分のしたい事をやった方がいいのである。

 他人と比較している限り満足できないのは当たり前であって、他人と比較して幸福を感じるという事を絶対にやめるようにすべきであろう。人間が集まればどうしても競争してしまうので、それで比較する事をやってしまうのだが、それは競争に勝利するために必要であって、幸福のために必要ではないのである。

 他人がどうのこうのよりも、「自分が本当にしたことは何か?」という方が大事な事なのであって、自分が本当にしたい事があるならそれに集中すべきであって、他の事に囚われるべきではない。結局、幸福に成れない人たちは自分が本当にしたい事を見つけられない人たちであると言っても過言ではないのだ。 

 もしも自分が何かをやっているのに、他人の言動が気に成るなら、それは自分が全力を投入していないという事である。全力を投入して1つの事に打ち込めば、もう他人の言動など一切気に成らなく成る。自分がすべき事に他人は関係ない。自分が本気になってやるか否かが大事なのである。

●常にトップスピ-ドで走るな

 どんな幸福を得たとしても、その幸福は長く続く事などない。始まりがあるなら、必ず終りがあるのであって、幸福はいずれ終焉する事に成る。だから今ある幸福を楽しむ。どんなに小さい幸福でも楽しむからこそ、次の幸福へと行けるのである。今ある幸福すら楽しめなければ、次の幸福に行く事は出来ず、それで不幸に落ちて行ってしまう事に成るのだ。

 幸福は楽しい物だが、そうやって楽しめば不要な物が出て来る事に成る。その不要な物は必ず捨てる。そうすると新たに必要な物を獲得する事が出来、それで幸福がパワーアップする事に成る。幸福は変化していくからこそ得られるのであって、変化しない者には得られない物なのである。

 幸福を永続的に得続けたいのなら、常にトップスピードで走る事はしない方がいい。確かにトップスピードで走れば、幸福度は一時的増大する。しかしそういう事をやってしまうと、それ以上スピードを上げる事が出来ないために、更に幸福を得る事が出来なくなってしまうのだ。だから減速しない人は不幸に成ってしまうのである。

 常に平時であり続ける事はない。非常事態が発生する事も有り得るのであって、非常事態のために力を蓄えておく事は、幸福を永続させるためには絶対に必要な事なのである。減速して走っていれば、トップスピードで走っている人に追い抜かれ、大差を付けられるが、時間が経過すれば、トップスピードで走っている者が自然と脱落し、ゆっくりと走っている筈なのに、自分が追い抜いていってしまう事に成るのだ。

 かといって、人間には寿命という物があるから、余りにも遅く走っていては、自分のすべき仕事を成し遂げる事が出来なくなってしまう。だから自分のペースに合ったスピードで走るべきなのであって、その「力加減」という物が大事に成って来る。幸福を永続させたいのなら、加速する事もでき、減速する事も出来る状態で走るというのは、想像以上に重要な事なのである、

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渡部陽一さんの講演を聞きに行ってきました。

●講演というより演劇
 
 先日、渡部陽一さんの講演を聞きに行ってきました。渡部陽一さんは本当にテレビのまんま。あの独特の喋りで、俺は一発で魅了されてしまった。彼は子供たちにも大人たちにも解って貰うように、かなり講演内容を解り易い物にしたのだが、こういうことをやってしまうと、講演というよりは演劇と言った方がいいかもしれない。
 
 喋りは子供の頃から独特だったが、外国で英語をきちんと話そうとしてゆっくり喋ったら通じたので、それで日本語を話す時もああいう喋り方にしているらしい。しかし普段の生活ではかなり早く喋るみたいで、講演の最中に素の部分が出てしまうと、なぜだか微笑ましくなってしまった。
 
 俺は子供たちもも大人たちにも解るような講演を好まない。こういう講演は往々にしてレベルが低いので、大人たちにとっては不満が残る物に成ってしまうからだ。しかし渡部陽一さんは難しい事を解り易く言っているのであって、大人たちにも充分楽しめる物にしていた。その点は非常に凄い。
 
 テレビに出ている人というのは、実物とまるで懸け離れた人たちが多い。テレビの力で高下駄を履かされているだけであって、実際は大した人物ではないのだ。だが渡部陽一さんは違う。これは本物の人間であり、テレビに出ている時と実際の渡部陽一さんに違いは全くない。
 
 講演自体は好評だったのだが、講演時間が予定よりも10分程オーバーしてしまった。そのため最後の辺りで帰る人たちが出て来たのだが、これは実に失礼な事である。別に10分程度遅れる事ぐらいいいではないかと思うのだが、精神レベルの低い人たちは平気でこういう事をやってしまうのであろう。
 
●なぜ戦場カメラマンになったのか?
 
 渡部陽一さんは静岡県の出身で、早稲田大学への入学を希望していたが適わず、二浪して明治学院大学に入学した。余り頭は良くないのであろう。しかし俺は人生経験の中から、早稲田大学に入学できず、他の大学に行った人で、その後、大成した人たちを何人も知っている。他の大学ではこういう事が起こらないので、この世の不思議の1つであろう。
 
 大学2年生の時、大学の講義でピグミー族の事を知り、ピグミー族を見たくてコンゴへ行ったのだが、当時、コンゴは内戦をしており、少年兵に襲撃され、全ての荷物を奪われたらしい。講演では違う事を言っていたのだが、後で調べてみると、コンゴで悲惨な目に遭ったらしいというのが解った。
 
 それで戦争のありのままの姿を伝えるべく、戦場カメラマンになったというのである。年齢は22歳の時だから、男性の人生ではこの時期にこういう激変が起こる事が有り得る。厄年のかなり手前なのだが、厄年に入る前に大きく変化すると、一気に伸し上がって行く事が出来るように成るのだ。
 
 戦場カメラマンは戦争の事を報道するために、平和主義者たちに利用されてしまう危険性を持っている。しかし彼は平和主義者ではない。彼が主張しているのは、
「相手の事を1つでも理解する事」
という事であり、戦争というのは相手を全く理解していないからこそ、起こると考えているのである。
 
 平和主義というのは絶対に平和を齎さない。戦争の悲惨さばかり強調して、どうすれば戦争の原因を除去していけばいいのかを全く考えないからだ。だから平和主義運動が活発になればなるほど、逆に戦争が起こり、戦争のために更に平和に暮らしている人たちが犠牲になってしまう。
 
 現在、イスラム国と欧米諸国が戦争をやっているのだが、どちらも相手のことを理解しようとしない。理解しないからこそ戦争に訴えるのだが、それで物事が解決する事は絶対にない。こういう戦争は泥沼化する事が必至だから、戦争が長引けば長引くほど、欧米諸国の国力は失われていってしまう事に成り、余計に世界が不安定になっていってしまうのである。
 
●戦場で出会った子供たち
 
 俺が渡部陽一さんの講演を聞いて凄いと思ったのは、戦争の原因には政治や宗教など原因もあるかもしれないが、
「本当の原因は《石油》である」
とズバリ指摘した事である。池上彰などはニュースキャスター上がりなので、戦争の原因を他の事に求めてしまうのだが、戦場カメラマンの渡部陽一はそういう甘い考えを否定するのだ。
 
 解り易い例が朝鮮半島であり、北朝鮮という最も危険な国家がありながら、戦争は長らく起こっていない。その理由は簡単で、朝鮮半島には大きな油田が存在しないからだ。中東で戦争が頻発するのは、この地には大きな油田が大量にあるからであり、その利権を目指して欧米諸国が盛んに手を出すから戦争が頻発してしまうのである。
 
 戦争の原因は石油なのだが、その戦争で最大の被害を受けるのは子供たちであり、渡部陽一さんはその子供たちの姿を写真に写す事で、戦争の本当の姿を伝えようとしている。戦争報道では軍隊の姿を映す事も必要である。しかしその軍隊が戦争をやれば、どうなるのかも映す事が必要なのである。
 
 どこの戦場に行こうとも、子供たちを守るのはやっぱり「家族」であるという事を渡部陽一さんは指摘していた。「家族の解体」を主張している社会主義者やフェミニストたちはよくこの事を聞いておけ。もしも家族がいなければ、子供たちは本当に悲惨になってしまうのであって、後は死ぬしかなくなってしまうのである。
 
 国家の違いや、人種や民族の違い、宗教の違いを殊更に強調する人たちがいるのだが、どこの国であっても家族があるのであって、その事を無視して如何なる議論も成り立つ事はない。最も大事なのは家族なのであって、他の物はそれを守るために存在しているだけの事であり、それなのに家族以外の物を最高の地位に置いては成らないのだ。
 
●質疑応答
 
 講演の最後に質疑応答の時間があったのだが、そこで或る既婚女性が、
「私は前にも渡部さんの写真を見た事があるのですが、今日の写真は前の写真とかなり変わっていました。それはなぜですか?」
と質問してきた。すると渡部陽一さんは、
「写真が変わったのは、自分が結婚し、子供が生まれたからです」
と答えた。
 
 俺はこのやりとりを聞いて、
(こわ~い)
と思ってしまった。さすが女性である。女性の直感だけは甘く見てはならない。
 
 続いて、学校の教師をやっているという男性が、
「最近、日本の若者たちに元気がなく、海外に行かなく成ったのですが、この事に関して渡部さんはどう思いますか?」
と質問した。
 
 俺はこの質問を聞いてすぐに、
(あ、この人は朝日新聞を愛読しているな)
と思った。朝日新聞の読者たちは新聞の記事を鵜呑みにする傾向が非常に高く、自分で確かめるという事をしない。だから自分が調べた上で何か物を言うのではなく、新聞記事をそのまま引用するという事をやってしまう。
 
 渡部陽一さんの回答は、
「日本の若者たちも外国の若者たちもみんな同じです。日本は非常に恵まれている国だから、日本の若者たちは有望です」
という物であった。本当の真っ当な意見である。日本の若者たちに元気がないように見えるのも、海外に行く事がなくなったように見えるのも、長期に亘るデフレ不況が原因であって、その状況下であっても若者たちは必死に成って生きているのだ。
 
 講演の出来は非常に良い物であったのだが、講演の最後で男女の性差を思いっきり知らされてしまった。日本は様々な問題を抱えているけど、特に学校に於ける問題は酷く、バカな教師たちが大量にいるからこそ、学校の教師たちは次から次へと問題を引き起こして来るのである。
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自我のリストラ

●女の子だからこそ、女の子らしくさせる

 男の子と女の子では成長スピードがまるで違う。男の子はゆっくりなのに対して、女の子の成長は速い。成長が速い分、大人に成ってから老化のスピードも速くなるのだが、とにかく早くに成長して早くに老化していくというのが、女性のパターンなのである。このため男女で育て方を変えていかないと、後でとんでもない目に遭ってしまう。

 女の子だから大人しいというのは完全に間違った考えである。女の子は非常に活発であり、何もそれはお転婆の子だけには限らない。女の子は病気でもない限り、みんなよく喋るし、よく動く。これは脳の発達の仕方が違うからそうなる。女性は右脳も左脳も巧く使えるので、それで活発な事が出来てしまうのである。

 しかしこれはやりすぎると自我が増大してしまい、それで自分をきちんと統御する事の出来ない子に育ってしまう。女の子を育ててみれば解る事だが、お喋りすぎて家の手伝いを何もしないとか、行動しているのはいいだけれども何も考えていなかったりする。女の子は放置しておいてはダメなのである。

 親だからこそ、バカな事をしている娘に向かって、

「女の子らしくしなさい!」

「女なんだから身の程を知れ!」

とか、時には思いっきり叱ってあげないとならないのだ。こうする事によって肥大化した自我が巧く削減され、自分の身の丈に合った物となるのだ。

 これを学術的には「自我のリストラ」という。

 自我のリストラは娘にとって絶対に必要な物だが、親としてはこれをやるのが非常につらい。なんせ自分が世界で一番可愛いと思っている娘を叱り飛ばすのだから、叱られている娘以上に、親の心は痛むのだ。だが、これをやっておかないと、娘の初潮の祝いで御赤飯を炊いたら、

「パパ、最低~」

「ママ、最悪~」

なんて言われかねないのである。初潮を迎えたというのに、まだまだ子供になってしまい、こういう娘では将来禄でもない人間になるのがほぼ確定したといっていいのだ。

●結婚に於ける自我のリストラ

 自我のリストラで気を付けべきは、学校の教師たちは自我のリストラを生徒たちに行わせる事が出来ないという事だ。もしも学校の教師たちが生徒たちに自我のリストラを強いれば、教育自体に支障が出て来てしまう。だからよく説教する教師ほど、教育が下手糞という事になってしまうのである。

 思春期は荒れ狂う時期なので、女の子といえども荒れる事になる。荒れるからこそ成長していけるのであって、親としてはその荒れ方が変な方向に行かないように注意すればいいのであって、荒れる事無く静かにしている事の方を危険視しなければならない。初潮までに自我のリストラをきちんと行っていけば、大体巧く荒れてくれるので、それで自立していってくれる。

 女性が自立の最終段階で行うのは「結婚」であり、結婚する事によって人生で最大規模となる自我のリストラを行う事になる。女性は結婚すれば人生が変わるし、妊娠出産すれば更に変わるし、育児をしていく中で変わっていく。結婚している以上、夫から何か言われる事によって自我のリストラを起こるし、嫁姑の葛藤の中で成長していく事になる。

  この世で生きて行く中で最も大事な事は、

「何があっても自分の意思を貫く」

と同時に、

「何もかも自分の思い通りにしては成らない」

という事なのである。自分の意見が何も通らないのはまさに生き地獄だが、それ以上に自分の意見が全て通ってしまった時は非常に危険なのであって、そのような事ではいずれ確実に破滅がやってくる事になる。

 もしも女性が結婚しないなら結婚による自我のリストラができなくなってしまう。自我は増大していき、常に自意識過剰で、それでいて大した事を成し遂げる事もない。これでは家畜以下であって、幾ら生きてもなんの意味もない。女性が自立するためには結婚は絶対に必要なのであって、結婚なしに自立する事は絶対に出来ないのだ。

●悔い改めよ、されど・・・

 キリスト教系宗教団体が宣教や伝道に於いて、

「悔い改めよ」

と盛んに言って来るのは、悔い改めてくれれば自我のリストラになるから、それで教団は信者たちを思うがままに動かす事が出来るように成るからだ。神道系の宗教団体でも、仏教系の宗教団体でも、信者になれば自我のリストラを引き起こす事に成るのだが、それでもそれを前面に押し出す事はない。

 「悔い改めよ」と言われて、本当に悔い改めてしまう人は、想像以上に傲慢な人なのであって、たとえ信者になっても違う形で傲慢が維持される可能性が非常に高い。例えばキリスト教の場合、信仰熱心になりすぎ、キリスト教に反する物は一切受け付けなかったりする。こういう信仰では不幸が起こってしまうのは当然であろう。

 それと充分に注意しないと、「悔い改めよ」と言っている人自身が自我を増大させてしまうという事だ。実際、「悔い改めよ」と言っている宗教家に限って、「この人は本当に宗教家なのか?」と疑ってしまう例は非常に多い。親が娘を叱り飛ばすのは非常に心苦しいように、宗教家だって悔い改めを他人に強いるのなら、心が苦しく成って当然なのであり、それが起こらないとなれば、人格的に欠陥があると言っていい。

 神道なら潔斎を行い、それによって自我のリストラを行っていく。仏教なら修行を行い、それによって自我のリストラを図っていく。確かに教団が指導するかもしれないが、自我のリストラを引き起こすのは自分自身なのであって、他人にどうこう言われてするものではないのだ。

 しかし勘違いしてはならないのは、自我のリストラを自分の力だけで出来るのではないという事である。人間は自分の力だけでは自我のリストラが出来ないからこそ、宗教団体という物を必要としているのだ。その点を勘違いして、自分の力だけで出来るとか、教団が何をやってもいいと思ってしまうと、とんでもない問題を引き起こしてしまうのである。

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毎年恒例! 第6回タマティーの超マイナー流行語大賞!

●今年の流行語大賞

 今年の流行語大賞は、

「爆買い」

「トリプルスリー」

なのだそうで、爆買いは順当だが、トリプルスリーは全然知らなかった。野球自体がマイナーなスポーツに転落しているのに、野球用語に流行語大賞を贈るのは無理があるだろう。審査員たちの時代遅れぶりを象徴していると言っていい。

 俺としては、今年の流行語大賞を、

「五郎丸ポーズ」

にして欲しかった。五郎丸ポーズこそ全国的に流行したし、そのフィーバーぶりは今も続いている。ラグビーは野球よりもマイナーなスポーツなのだが、それでも国際試合で何か功績を打ち立てたからこそ、こういう流行現象が起こったのである。

 因みに、「五郎丸」とは福岡県にある地名で、五郎丸家は由緒正しき家柄であり、だから五郎丸歩は結構まともな紳士であるのだ。それにしてもこの五郎丸という苗字のインパクトは凄い。俺も大学生の時に五郎丸という苗字を持った女性と出会った事があるが、その苗字が強烈に記憶に残った事を今でも覚えている。

●超マイナー流行語大賞トップ10

 それでは今年の超マイナー流行語大賞を発表します!

第10位「福山ロス疑惑」

 福山ロス疑惑とは、福山雅治のファンでもないに福山雅治の結婚にショックして、恰も福山ロスの一員であるかのように見せかけている行かず後家どもの疑惑の事を言う。だからとっとと結婚しろというんだ。女性は結婚して一人前なのであって、結婚しないならいつまでも半人前のままなのである。

第9位「観光不毛地帯」

 観光不毛地帯とは「茨城県」の事であり、風光明媚な土地なのに、観光に関しては全国ワーストの都道府県である。茨城県は本当に観光の目玉となる物がない。だったら観光する所がない事を売りにすべきなのであって、そういう開き直りがあると逆に茨城県に観光客がやってくるようになるだろう。

第8位「あそこがロケット」

 あそこがロケットとはあそこがロケットになる事である。『下町ロケット』の好調を受け、吉川晃司の股間がロケット基地と化した物でありl

 「うちのバルブシステムが~」

とか言いつつ、発射する事に成る。

第7位「あすなろ揉み」

 あすなろ揉みとは、あすなろ抱きをした上で、オッパイ揉み揉みをしてしまう事を言う。あすなろ揉みではオッパイを優しく揉んであげないと、女性の方が巧く感じてくれない、オッパイを無暗に弄りまくると、女性の方が「あすなろ抱き返し」即ち「一本背負い:が出来てしまうので、要注意である。

第6位「壇マナ戦争」

 壇マナ戦争とは、壇蜜と橋本ナマミの戦争の事をいい、今年最もホットな戦争の1つとなった。チョイブス枠の壇蜜に、厚化粧枠の橋本マナミが戦っているので、この戦いはなかなか決着が着かない。主演ドラマを獲得し、そのドラマをヒットさせると、一気に勝敗が着いてしまう事に成る。

第5位「かぶりつき婚」

 かぶりつき婚とは、男性が女性にかぶりついて結婚する事をいう。男性たる者、猛獣であるべきであって、女性に対して容赦してはならない。「セクハラだ!」となんと言われようとも、女性にアタックし続けるからこそ、女性の方が根負けし、結婚できるというものなのである。結婚とは、所詮、男女の闘争なのであって、甘い幻想を抱くべきではないのだ。

第4位「メルヘンオヤオヤ」

 メルヘンオヤオヤとは我が子にメルヘンネームを付ける親たちの事を言う。運命鑑定する者としてこれだけは言っておくが、「読めない名前は付けるな!」。「皇帝」と書いて「シーザー」と読む。そんな読みできるか! バカも休み休みにしろ。メルヘンネームは本当に危険なので、絶対にやめて欲しい物である。いずれは殺人事件が多発する事に成ると思う。

第3位「安心して下さい。脱いでますから」

 安心できね~。全裸になって、せめてパンツを穿いているのではないかと見せかけ、本当は全裸であったというものである。これをセックスの際にやると、大爆笑物なので、男性なら是非ともやるべきであろう。

第2位「雑なんだよ、雑!」

 これは「さまぁ~ず」の大竹一樹の言葉である。雑な奴には「雑」と言ってやる事こそ、本当に正しいやり方という事に成る。狩野恵里が大竹一樹だけには一目を置くのは、雑な性格だからといって許してあげないからなのである。

第1位「拝みシャンプー」

 拝みシャンプーとは、狩野恵里が洗髪する際に、頭上でシャンプーを泡立ててから、洗うという物である。これは本当に衝撃的だった。こういう洗い方をすると、礼拝をしながら洗髪している事になるので、それで神のご加護を得る事が出来てしまうのである。狩野恵里が病気や事故を起こさず仕事が出来ているのは、この拝みシャンプーの力だと言っていい。

Portrait.Of.Pirates ワンピース STRONG EDITION トニートニー・チョッパーVer.2

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