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2016年3月

『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定

●原作がいい場合、原作に忠実に成った方がいい
 
 上橋菜穂子の『精霊の守り人』がNHKでドラマ化され、なんと『大河ファンタジー』として放送される事になった。このドラマが成功すれば、土曜日の午後9時枠は『大河ファンタジー』として大河ドラマに準じた扱いを受けるようになるかもしれない。NHKは大河ドラマと朝の連続テレビ小説以外、いいドラマがないので、もう1つドラマの枠が欲しい所だ。
 
 現在、大河ドラマでは『真田丸』を放送中なのだが、俺は毎回、ドラマを見ている最中になぜだか寝てしまう。視聴率的には善戦しているのだが、ネットで調べてみると、長澤まさみの演技が物凄く不評で、それで見るのをやめる人たちが続出しているという。主役は堺雅人なのだから、彼の魅力を食ってしまう女優を入れてしまったのが間違いなのである。
 
 『精霊の守り人』では綾瀬はるかが主役のバルサ役をやっているのだが、原作ではごっつい女になっているから、ミスキャストといえばミスキャストだと言っていい。しかし綾瀬はるかはこの役のために1日200回も腕立て伏せをして体を鍛えているので、そういう努力があればこそ長澤まさみみたいな不評を買う事がないのである。
 
 但し、この大河ファンタジーで気に成る点が1つあり、それは、
「原作に忠実になっていない」
という事だ。原作がいい場合、原作に忠実に成った方が良く、下手に弄ってしまうと失敗する可能性が高くなってしまう。脚本家が内容をてんこ盛りにしてしまうと、逆に面白味が減少してしまう事に成る。
 
 監督の方は質の高いドラマになるように撮影しているので、だからこそ脚本家のやっている事が異様に目立ってしまう。脚本家が書きたい事を100%書いてしまうのではなく、敢えて30%マイナスにすると、視聴者たちとしては非常に見易いドラマになる物なのである。視聴者たちに空想を許す余地を与えるからこそ、視聴者たちは自分で空想し、より楽しむ事が出来るように成るのだ。
 
             NHK放送90年大河ファンタジー「精霊の守り人」SEASON1完全ドラマガイド
●帝とチャグム王子
 
 大河ファンタジーのヒットを支援するために、『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定をする。まずは原作の『精霊の守り人』を読んで欲しい。物語は原作に描かれている通りに進む事に成るのだが、登場人物たちに運命鑑定をしてみると、この物語の思わぬ真実が浮かび上がってきて、それでこの小説を十二分に楽しむ事が出来るように成るのだ
 物語では帝がチャグムを暗殺しようとするのであるが、運命鑑定をしてみると、
「帝とチャグムの相性は良い」
という結果が出た。チャグムは、
「実行力があっても孤独であり、それでいながら粘り強く行って事が出来る」
という少年である。だヵら王子としての能力を充分に持っており、帝から暗殺を仕掛けられるような人物ではない。
 
 問題があるとするなら、帝と二ノ妃の夫婦関係であり、この夫婦は、
「表面的には相性がいいのだが、しかし幾ら話し合っても理解する事は出来ない」
という間柄になっている。だから二ノ妃はチャグムを産んでいながらも、帝と仲が良いとは全く書かれていない。これはこれでいいのであって、帝と二ノ妃の仲がいいと、どうも変という事に成る。
 
 二ノ妃は母性愛の豊かな女性なのだが、チャグムの名は母親との縁が薄いために、それでバルサが登場してくる事に成る。バルサも母性愛の豊かな女性なので、それでバルサはチャグムの母親代わりの存在に成って行くのである。チャグムはバルサから母性愛を貰う事で、男として成長して行く事に成るのだ。
 
 バルサはチャグムを男として愛しているのではない。結婚していないくせに、母親としてチャグムを愛している。これは実に変な事なのだが、バルサにはジグロという、自分の父親代わりに成った男性がいたので、それでバルサはチャグムに母性愛を注ぐ事が出来たのである。
 
●バルサとジグロの関係
 
『精霊の守り人』ではバルサとチャグムの関係をメインに動いていくのだが、実はバルサとジグロとの関係の方が重要であり、これこそが本体という事に成って来る。なんでバルサは死んだジグロに執着しているのかといえば、この2人は相性がいいと同時に、バルサは自分がやらなければならない事をしなかったがゆえに、ジグロを死に追いやってしまったからだ。
 
 ジグロという名は、
「なんでも自分の思い通りにする男」
なのであって、それでバルサはジグロに散々振り回される事に成ってしまった。ジグロがバルサを育てたからこそ、バルサは女用心棒に成る事が出来たのだが、しかしそのために女としてまともに生きる事が出来なく成ったしまったのである。
 
 ジグロの名はその一方で、
「母性愛を刺激する男性」
なのであって、バルサはジグロに接すれば接するほど、母性愛が刺激されてしまったのである。しかしバルサはジグロに母性愛を注ぐ事は出来なかった。だからジグロは死んでしまったのである。
 
 バルサのジグロへの思いは非常に複雑であり、この問題は第二巻の『闇の守り人』で展開される事に成るのだが、とにかく愛憎にまみれ、素直に愛する事が出来なかったゆえに、ジグロを死に追いやってしまったのであり、それがバルサにとって深刻な心の傷になっているのだ。
 
 バルサが腕のいい女用心棒という評価を得ながらも、結構、負傷しまくるのはそのためであり、結局、自分の心の中に複雑な物を抱えているからこそ、巧く戦う事が出来ない。もしもバルサがジグロほどの人物と出会ったのなら、恋愛によって解消していく事が出来るのだが、そういう人物とは滅多に出会える物ではないからこそ、苦しまなければならなくなってしまうのである。
 
 
●バルサとタンダの関係
 
 タンダという名は、
「努力家であり、実行力を充分に持っている男性」
という事に成る。タンダはバルサの相手には丁度いい相手であって、バルサに何かあればすぐに手助けしてくれる事になる。
 
 しかしその一方で、タンダの名は、
「母性愛の豊かな女性が好き」
という名なので、それでタンダはバルサの事を女としてよりも、母親代わりの女性として見てしまう事に成る。2人の関係がなかなか進まないのはそのためであり、たとえ付き合ったとしても、まともな恋愛になる事はないのだ。
 
 タンダはバルサの心が複雑な事を或る程度は知っている。しかしバルサの不自然さを解放してあげるだけの力を持たない。バルサは結局、自分1人の力で心の闇と戦う事に成るのだが、それで自分の不自然さが完全に解消された訳ではない。だが守り人シリーズの最後では、バルサとタンダが結ばれる事に成るのだが、これではハッピーエンドには成らないのだ。
 
 なんでこんな事になってしまったのかといえば、作者の上橋菜穂子本人がまともな恋愛をしていなかったからであり、恋愛を小説に書くためには、作者自身が恋愛をしない限り絶対に描けないから、それでタンダでは役不足というのに、幼馴染みという事で無理矢理くっ付けてしまったのである。
 
 池田理代子の『ベルサイユのばら』も主人公のオスカルは幼馴染みのアンドレと結ばれてしまう事に成るのだが、池田理代子本人が一目惚れをしたのは、なんと「57歳」の時であったという。それまでに結婚は2度もしているのだが、実は恋愛をせずに結婚してしまっただけの事であり、自分が恋愛をしていなかったからこそ、漫画の中に恋愛をちゃんと描く事は出来なかったのだ。
 
 上橋菜穂子の小説は問題点が多々ありつつも、合格点を貰える出来に成っている。しかしそれで良いという訳ではない。如何なる小説であっても、主人公が様々な事を経験しながら、最終的には幼馴染みと結ばれてしまうような物語は、作者本人がまともな恋愛を一度たりともした事がないと判断した方がいい。
 
 バルサのような女性が様々な経験をして成長していけば、最早、幼馴染みの男性と結婚するという訳には行かないものなのである。
 

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我が家での「少女漫画黄金時代」

●チャンネルの主導権
 
 池田理代子の『ベルサイユのばら』によって少女漫画黄金時代は幕を開けるのだが、この漫画が連載されていた時期は、俺はまだ赤ちゃんなので、全くの無関係。姉も年齢的に少し早すぎたので、アニメで『ベルサイユのばら』を見た程度。しかし『キャンディ・キャンディ』になると、姉はまさにドンピシャで当たり、思いっきり嵌ってしまった。
 
 子供の頃の写真を見ると、姉は実に変な格好をしているのだが、これはキャンディ・キャンデイの服装を真似て母親に作らし、それを着ていたからである。当然の愛読書は『キャンディキャンディ』で、雑誌は『キャンディ・キャンディ・』が連載されていた『なかよし』(講談社)ということになる。
 
 子供たちでテレビを見る時、姉は第一子の特権を利用して、姉がチャンネルの主導権を独占。見るのはいつも少女漫画のアニメ。このため俺は『機動戦士ガンダム』はかなり遅れて見てしまい、ガンプラのブームが正にピークに成ってからガンプラを買う羽目になってしまった。
 
 姉以上に恐ろしいのが父親で、父親がいる時はプロ野球中継を見る事に成るから、これが実に嫌であった。というのは、アニメは1回ごとに話がかなり進むので、1回飛ばされると、話がよく解らなくなってしまうからだ。それで野球は或る時期から嫌いになってしまって、それが今でも続いている。
 
 
●引っ越し
 
 この姉に変化が起こったのは、姉が中学生の時に我が家が引越しをした時である。この引越しによって姉には1室が与えられたのだが、それでそなりに整理整頓する事になったし、女の子らしく部屋を彩った。するとどうであろう。姉の本棚から講談社の雑誌や本が消えてしまったのである。
 
 その代わり出て来たのが白泉社の『花とゆめ』であり、中学高校とこの『花とゆめ』が愛読誌となった。なんで『花とゆめ』が選ばれたのかというと、『なかよし』よりも遥かにセンスが良かったからだ。特に白泉社から出される単行本の表紙はセンスが実に良く、一目見ただけで「これは白泉社の物である」というのが解った。
 
 今から考えてみると、姉は集英社が出していた『週刊マーガレット』には全く嵌らなかったという事に成る。今回、俺が『ベルサイユのばら』に嵌ったので、当時の『週刊マーガレット』を探し出して読んだ所、ダサい事、ダサい事、『花とゆめ』に馴れてしまった俺としては、とてもではないが、読むに堪えなかった。
 
 姉は集英社の物を完全にパスしたのではなく、中学生からは集英社のコバルト文庫を大量に買い込んで読むようになった。集英社が出している少女漫画はダメだけど、少女小説ならいいという事であり、少女漫画を大量に読んでいたくせに、なんで集英社が出していた物を好まなかったのか、実に不思議である。
 
●物語重視の集英社、キャラ重視の講談社
 
 少女漫画黄金時代では、池田理代子の『ベルサイユのばら』(集英社)がトップに君臨し、そのほかに山本錫美香の『エースをねらえ』(集英社)、水木杏子の『キャンディ・キャンディ』(講談社)、美内すずえの『ガラスの仮面』(白泉社)が続く。『ガラスの仮面』は『花とゆめ』に連載されていたので、それで『花とゆめ』を愛読していた訳である。
 
 少女漫画黄金時代は集英社と講談社の争いなのであって、そこに後から白泉社が入ってきたに過ぎない。白泉社は集英社の傘下にあるので、この戦いは集英社の方が圧倒的に有利である。社風の違いが漫画の違いを生み出し、漫画の違いが読者たちを分けていった。
 
 俺が思うのに、
「集英社の方は物語重視なんだろうな」
という事であり、
「講談社の方はキャラ重視なんだろうな」
という事である。『キャンディ・キャンディ』を見ても、内容がイマイチよく解らなかったが、『ベルサイユのばら』や『エースをねらえ』では男の俺が見ても、内容が実に良く解った。
 
 白泉社は集英社で培った物を更に発展させたから、それで姉は講談社の方から白泉社の方に切り替えたという訳なのだろう。物語重視ではそれに耐えうるキャラを作らないと、ダメに成ってしまうから、集英社の方では大ヒットする少女漫画がある分、詰まらないな~と思ってしまう少女漫画も多々ある事に成る。『ガラスの仮面』が未だに続いているのは、物語もいいし、キャラたちもいいからであろう。
 
 
●集英社は講談社を殲滅できなかった
 
 小学館は『小学1年生』などの少年向け雑誌を出す事で、講談社の 『少年講談』を廃刊に追い込んでいった。集英社も『週刊マーガレット』が大ブレイクしていた時に、講談社の『少女フレンド』をすぐさま廃刊に追い込む事は出来なかった。『少女フレンド』は競争に耐え抜き、1996年になってやっと廃刊した。講談社の方にはまだまだ『なかよし』があるので、集英社は講談社を殲滅する事が出来なかったという事に成る。
 
 俺は今回、『ベルサイユのばら』に嵌った事で、なんで殲滅する事が出来なかったのか、その理由が解ってしまった。それは、
「集英社の編集部が余りにも乱雑である」
という事なのである。集英社の編集部は、まるで出版社の編集部の絵に描いたように、机の上に大量の書類が山のようになって積み上げられている。こういう編集部が作る雑誌だと、どうしてもパワー不足に陥ってしまうのである。
 
 我が家では部屋の中を汚くしていると、母親が掃除をしにくるので、それで出来るだけ整理整頓を心がけるようになった。こういう家だと、汚い所で作られた雑誌というのは、どうも合わないのである。白泉社の編集部がどうかは知らないのだが、恐らく集英社の編集部よりはマシなのであろう。
 
 因みにうちの姉が集英社のコバルト文庫に嵌っていた時、姉は家事手伝いを一切しなかrた。このため家事手伝いは全て俺がやる羽目になった。集英社の出している出版物には何かおかしな部分があると見た方がいい。集英社の社員たちの独身率は他の出版社に比べて相当に高いのではないかと思う。
 
 集英社が少女漫画の分野で講談社を殲滅出来なかった事は、デフレ不況になると。少女漫画の戦国時代というか、全体を牽引できるだけの実力を持った女性漫画家がいなくなり、小粒の女性漫画家たちが活躍して、そこそこの成功で満足するようにしなってしまった。やはり勢力地図を塗り替える時は思いっきりやるべきであって、攻めあぐねてしまうような事をしてはならないのである。
 

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『ベルサイユのばら』メイキングストーリー 

●武家の娘と大量のお稽古事
 
 池田理代子は昭和22年に大阪府大阪市で先祖代々武家の家系に生まれた。武家の娘じゃないと、貴族の生活は解らないのであって、これが漫画家になった時に大いに活かされる事に成った。本当の庶民出身者だと、貴族の事をあれこれ描いていくと、必ずどこかでとんでもないミスを描いてしまうものなのである。
 
 母親は職業軍人の娘であり、これで身分的に釣り合う事に成る。明治維新で四民平等を行ったが、士族は敗戦後の民法改正まで存在し続けていたのであって、士族であるなら士族同士か、士族に準じた家の者でないと結婚は釣り合わなかった。池田理代子の両親は夫婦仲が良かったみたいなので、結婚は釣り合っていたのであろう。
 
 池田理代子は子供の頃、非常にドン臭い子供であったらしい。何をやってもとろいので、父親は鉄拳制裁で鍛え上げようとした。その代り、子煩悩であり、平日にはどんなに仕事が忙しくても夕方には帰宅し、休日になれば家族一緒でお出かけをした。尤も血液型がAB型の池田理代子はこれを喜びながらも、嫌になってしまったらしい。
 
 母親は池田理代子の事を今でいう「発達障害」ではないかと、本気で思ったらしい。このため娘にはお稽古事をやらせまくり、「お琴」「ピアノ」「書道」「声楽」「茶道「絵画」「算盤」「華道」「英語」「漢文」「謡曲」と尋常ではない量のお稽古事をさせまくった。このお稽古事が漫画家になった時に物凄く活きた。
 
 小学生の頃の池田理代子は他の子供たちから頭1つ飛び抜けるほど身長が高かった。それだけでなく、成績は優秀で、学校から度々表彰された。このため両親の愛情は池田理代子に集中し、他の弟や妹たちは後回しにされたらしい。事実、子供たちの中で大出世したのは池田理代子だけだから、能力は突出していたのであろう。
 
●引っ越しで一人の時間が出来る
 
 小学校卒業と同時に、父親の仕事の事情で千葉県柏市に引っ越す事に成った。引越しによってそれまでの友達と離れてしまい、それで1人になる時間が大量に出来た。小学校からそのまま中学校に上がってしまうと、友達と群れ続けてしまうので、それで1人の時間を持てなくなってしまうのである。
 
 中学では池田理代子にとって最大のショッキングな事件があった。それは入学当日、教室で他の生徒から声をかけられ、彼女は普通に関西弁で答えてしまったのだが、その直後、周囲の生徒たちがドッと笑ってしまったという事件が起こった。ドン臭い池田理代子は死ぬほど恥ずかしくなり、これ以降、「二度と他人には笑われたくない」と誓ったという。
 
 この日から池田理代子は勉強熱心になった。良い成績を取らない限り、バカ扱いされてしまうからだ。事実、成績はトップクラスであった。それまで彼女にはコンプレックスがあったのだが、それが勉強熱心になる事によって、どうにか抜け出す事が出来た。人間は子供の頃に何かしらのコンプレックスを抱えるものだが、それを中学生の段階で乗り越えていかないと、「第二の誕生」は起こらないのである。
 
 池田理代子は成績が良かったために、国語教師から注目を受けた。この国語教師は授業中に自分が作詞した詩を朗読して生徒たちに聞かせるような変わった人物であったが、宿題として生徒たちにも創作物を出すよう命じた。この宿題で最も出来が良かったのは池田理代子で、国語教師がお褒めの言葉を授かると、「創作の喜び」に目覚めてしまったのである。
 
 漫画に目覚めたのも中学生の時期で、漫画をせっせと描くように成り始めた。彼女が幸運だったのは、少女漫画の黎明期であった事であり、言っちゃ悪いが当時の少女漫画のレベルは現在と比べて相当に低かった。だから女子中学生でも頑張ればやれるのではないかと思えたのである。
 
 池田理代子は長身の美少女といった感じで、中学生の頃は女の子たちから非常にモテた。尤も本人は男性の方が好きで、中学3年生の時には生徒会長の男子生徒に初恋をしている。尤もこれは片思いで、実際に交際した訳ではない。高校生の時は男性の教師に熱烈な敬慕の念を抱いたりした。彼女は高校を卒業するまでに恋愛をした事がないのであって、この事は特筆すべき物であろう。
 
●大学生の時、学費が打ち切られて漫画家に
 
 池田理代子は東京教育大学の哲学科に進学したのだが、当時、学園紛争が吹き荒れていたので、授業どころではなかった。学園紛争をやっている学生たちが親から食べさせて貰っているのに、自分の理想を追求する事に矛盾を感じるようになってしまい、それで彼女は自活の道を選ぶ事に成る。
 
 父親は学費を1年間しか面倒みないと条件を出していたので、池田理代子は漫画で生計を立てる事に決めた。作品を作って集英社に持っていったが、
「とても話になりませんね」
と断られた。続いて講談社に行ったが、そこでも断れた。しかし、
「まだとても使い物にならないけど、筋は良さそうだから」
という事で若木書房を紹介して貰った。
 
 昭和42年に若木書房から『由紀夫くん』という作品で漫画家デビューした。若木書房には或る編集者がいて、漫画の初歩的な技術を教えながらも、
「でも要は技術じゃなんです。あなたが描きたい事をのびのびと描けばいいです。それが一番大事な事です」
と教えられ、それで出来上がったのがこの作品である。
 
 若木書房でのギャラは最低限の生活を維持できる程度の低い物であった。しかし池田理代子はアルバイト感覚で漫画の仕事をやっていたので、生涯に亘ってこの仕事をやっていこうとは思っていなかった。それが良かったのかもしれない。2年後に、当時、少女漫画では一流と看做されていた『マーガレット』(集英社)の編集部から「凄い漫画家がいる」と注目さえ、そして抜擢されたのである。
 
 集英社では文学崩れの人たちが多く、「少女漫画は今でこそレベルが低いが、優秀な漫画家たちを抜擢して、一流の作品を作って行こう」という意欲に燃えていた。池田理代子の担当になった編集者もそういう人物であって、彼は彼女の発言を1つ1つ理解して、良き協力者になっていった。
 
 この男性こそ、池田理代子の最初の夫である。
 
●既に既婚者だった
 
 池田理代子は昭和45年、集英社のその編集者と初めての結婚をする事に成る。彼女は美人だし、頭もいいのだから、編集者が彼女にゾッコンに成ってしまうのは別に不思議な事ではない。尤もこれはまともな恋愛や結婚というより、仕事上で発生した同志愛で愛し合
い、結婚してしまったと考える方が無難であろう。
 
 残念な事に、この結婚は天中殺の時期に結婚しており、もしも普通に結婚して専業主婦にでもなっていたら、すぐさま離婚していたかもしれない。しかし漫画家ゆえ漫画制作を中心に生活がなされていたので、それですぐさま離婚という事にはならなかった。この結婚で勢いづいたのか、2年後の昭和47年に『ベルサイユのばら』が『マーガレット』で連載が開始され、連載直後から人気が爆発したのである。
 
 天中殺で新たに事を起こすべきではないとされているのだが、天中殺で新しい事をやっても、自分を巧く殺しさえすれば、大出世を果たしていく事が出来るように成る。池田理代子は『ベルサイユのばら』の制作に、生活の全てを犠牲にして制作していていったので、それで異常なまでの大ブームを巻き起こしたのである。
 
 池田理代子曰く、
 
「人には《天の時》と《星の瞬間》がある」
 
のであって、1人の人間の中にある1つの才能が、偶然にも素晴らしい対象に出会って、それを作品にする事が出来たという偶然、そしてその作品を受け入れる時代に巡り合わせた偶然、この2つの偶然があるからこそ、奇跡が起きたのである。
 
『ベルサイユのばら』は少女漫画なのだが、少女漫画だけの範疇には収まらない。この漫画の中には作者が結婚していないと絶対に書けないシーンが多々あるので、それで少女たちだけでなく、大人の女性たちも熱狂したのである。少女漫画だからといって、本当に少女たちだけに向けて描いていれば、絶対にこんな現象は起きないのだ。
 
●週刊誌
 
『ベルサイユのばら』は週刊誌である『マーガレット』に連載されたのだが、週刊誌で1年間走り続けるのは無理は無理であろう。事実、オスカルが近衛連隊長を辞めた辺りから、話がおかしくなり、話が雑になっていっている。仕事が忙しいために食事はお茶漬けだけだとか、睡眠時間が短くなってしまったので、熟慮するだけの時間を確保できなかったのであろう。
 
 企画段階では、オスカルは投獄されたアントワネットを救出する筈だったのだが、だったらオルカルは近衛連隊長を辞めては成らず、最後まで近衛連隊長で居続けなければ成らなかった。オスカルが最後まで忠誠を尽くせば、この作品は物凄く高い評価を得られた筈なのである。
 
 現在の少女漫画雑誌は隔週誌か月刊誌しかないのだが、漫画家が持続的に仕事をしていくためには、こうするしかない。しかしこの当時、そういう事が解らず週刊誌で少女漫画雑誌を出していたので、制作サイドがガタガタになろうが、週刊誌特有の勢いを生み出してしまい、それが週刊誌をやめた後の少女漫画にはないのである。
 
『ベルサイユのばら』の大ヒットで収入は激増したのだが、なんせ仕事が忙しいためにお金を使う閑がない。しかし仕事ばかりしているとストレスが溜まって来るので、それでたまにスタッフたちを連れて東京に出て散財をしたらしい。時には1度に200万円も使ってしまった事もあるという。
 
 池田理代子は体力的に恵まれていたから良かった物の、この当時の女性漫画家たちの中には「これでは体が持たないので、漫画家を辞めさせて下さい」と申し出て、本当に漫画家を辞めてしまった人たちがいた。池田理代子は少女漫画黄金時代の光の部分に居たが、影の部分もあったという事を絶対に忘れてはならないのだ。
 
 
●資料が悪すぎる
 
『ベルサイユのばら』は資料を充分に収集してから連載を開始した物ではない。連載当初の段階では大した資料を持っていなかった。ツヴァイクの『マリーアントワネット』を資料の基礎としている程度である。この資料不足も物語展開がおかしく成って行ってしまった原因の1つになってしまった。
 
 参考文献を調べてみると、資料の悪さがすぐに解り、社会主義者たちが書いた物もあるだけでなく、中には無政府主義者が書いた物も使用している。これでは話がおかしく成るのは当然であろう。社会主義者たちはロベスピエールを賞賛するので、それで池田理代子はそのままロベスピエールを善玉として登場させている。
 
 フランス革命はジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』がなければ起こらなかったが、このルソーが書いた書物は殆どの人たちが誤読する事に成る。ルソーは「狂気の天才」なのであって、通常の読解力では彼が一体何を言っているのかさっぱり解らない。日本では『社会契約論』といえば「民主主義のバイブル」と評価が定着しているのだが、その評価は完全に間違っている。
 
 ルソーが言いたかったのは、民主主義を利用して、「立法者による独裁政治」を行う事なのであって、だから『社会契約論』を愛読書にしていたロベスピエールは独裁政治を展開するのである。ナポレオンもクーデターで政権を奪取ると、皇帝として独裁政治を展開して行った。これは偶然そうなったのではなく、『社会契約論』を正しく理解すれば、必ずそうなるのである。
 
「人間は平等を唱えれば必ず悪魔になる」
人間が平等になる事は今まで一度もなかったし、今度もなる事はない。人間は不平等に生まれついているのであって、だから公平に扱っていくしかない。もしも誰かが平等を唱えてきたら警戒すべきであって、早目に殲滅しておいた方がいい。なぜなら平等を唱えている者が権力を取ってしまえば、必ず大量虐殺を展開してくるからである。
 
●実は20巻だった
 
『ベルサイユのばら』は単行本で善10巻なのだが、計画では20巻になる予定だった。だから出来上がった『ベルサイユのばら』は半分の長さでしかない。内容を吟味しても、オスカルは死んではならない人物なのであって、アントワネットやフェルゼンは死んでもいいが、オスカルだけは生き残らなければならないのである。
 
 オスカルほどの人物であるなら、バスティーユ襲撃で死ななければ、ナポレオンと一緒にフランス革命を戦っていくという事になった筈であろう。アントワネットの死後、オスカルは忠誠の対象をナポレオンに切り替え、しかもナポレオンの愛人にでもなれば実に面白い話になった筈である。
 
『ベルサイユのばら』が半分の長さで終わったために、その後、池田理代子は『栄光のナポレオン』を作る事に成る。だから『栄光のナポレオンは』は『ベルサイユのばら』の続編と見るべきであって、『ベルサイユのばら』だけで止めてはならないのだ。現実の政治は理想が純粋な形で実現されるほど甘くはなく、様々な人たちの欲望が鬩ぎ合いながら、歴史を形成していくのである。
 
『ベルサイユのばら』が持つ少女漫画の路線は、その後、『オルフェウスの窓』に受け継がれる事に成る。この『オルフェウスの窓』は『ベルサイユのばら』以上に嵌ってしまう。『ベルサイユのばら』の嵌り度が「100%」なら、『オルフェウスの窓』の嵌り度は「300%」である。尤も最早この漫画も少女漫画ではなく、大人の女性が読む漫画になっている。
 
 飽くまでも『ベルサイユのばら』はインフレ時代の産物であり、質が高まって行くデフレ時代に対応している物ではない。空前絶後の大ブームを巻き起こしたのに、今では評価が低くなってしまうのは当然であろう。だからこそデフレの時代に『ベルサイユのばら』を超える作品を出していかなければならないのである。

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人徳と対人関係

●徳の効果は相手によって変わる
 
「徳」は個人がどう生きていくのかの問題なのだから、他人は関係ない。周囲の人たちの徳の状況がどのような物であっても、自分が徳を積んでいくようにしなければ成らない。しかし徳の効果は相手によって変わる。自分が良かれと思ってやった事でも、相手にとっては悪い事になってしまったという事は有り得る。
 
 哲学者たちは徳に関してあれこれ論じて来たが、なぜだか徳の効果について論及した者はいない。なぜなら哲学者は思索するのが大好きだから、相手の事など全く考えていないからだ。だから哲学者の言っている事を正しいと思って実践してしまうと、正しい事をやっている筈なのに行き詰まってしまい、それで最終的には自殺する事になってしまう。
 
 これに対して宗教家たちは徳に関して論じ、その上で徳の効果にも論じている。なぜ宗教家たちがそういう事をするのかと言えば、宗教家たちは信者たちに教義を説かなければ成らず、信者たちに徳行を実践させる事で徳を積ませようとするからだ。それゆえ宗教的に正しい事をやっても行き詰まる事はなく、少なくとも自殺する事はなくなる。
 
 人間という動物は人間界の中で生きている事を絶対に忘れてはならない。例えば周囲の人たちが堕落し腐敗しているのに、自分だけが善行を行えば、「この偽善者め!」と罵られ、周囲の人たちがみんな善行に励んでいれば、自分が善行をやっても、「そんなの当然だよ!」となんの評価もされない。
 
 こうなっているからこそ、自分が徳を積むに当たって、周囲の人たちの評価を基準にして行っては成らず、必ず自分が自分の基準で自分の徳を判断して行かなければならない。しかし徳の効果は相手の意見も聞かなければならず、それで徳の評価は変動を受ける事になってしまうのである。
 
 
●立場の互換性
 
 人徳と対人関係の問題に関しては、儒教の「孔子」とキリスト教の「イエス」が全く正反対の事を要っている。
 孔子は、
「自分のして欲しくない事は相手に施す事勿れ」
と言い、イエスは、
「自分のして欲しい事を相手に施しなさい」
と言った。
 
 この考え方の違いは、両者の生まれと育ちが違うから生じた。孔子は両親が野合して生まれたので、要は「私生児」という事に成る。それで自分が私生児である事を子供の頃から言われ続けてきたので、「自分のして欲しくない事は相手に施す勿れ」と主張したのである。
 
 これに対してイエスも私生児だった事では同じだが、イエスの母親は売春婦であったらしく、本当の父親が一体誰だか解らなかった。恐らく父親はユダヤ人ではなく、ガリア人であったろう。イエスのような連中が集まってクムラン宗団を作り、自分のして欲しい事を相手にもする事で、心の傷を癒していったのである。
 
 しかしながら、この2つの主張は或る程度までなら通用するが、或る段階になってしまうと通用しなくなってしまう。もしも自分のして欲しくない事が、相手にとって違う場合、もしも自分のして欲しい事が、相手にとって嫌な場合、一体どうすればいいのかという事に成る。自己中心で物を考えているからこそ、必ずしも正しい結果にはならないのだ。
 
 では一体どうすればいいのかといえば、それは、
「立場の互換性」
を持てばいいのである。要は、
「相手の立場に立って考えてみる」
という事なのであって、自分の立場で物を考え、その上で他人の立場に立って物を考えるからこそ、最善の結果を得る事が出来るように成るのだ。
 
 利己的になって自分の利益ばかり追求していれば、その内、相手は関係を断ってくる事であろう。まずは相手に利益を与える。それによって自分も利益を得られるようにする。だから両者は関係を維持し続ける事が出来るのであって、関係を維持している限り常に利益を得続ける事が出来てしまうのである。
 
●功徳循環
 
 功徳は自分の力によって発生する物だが、功徳は自分のためだけにあるのではなく、相手のためにもある。これが、
「功徳循環」
なのであって、功徳は循環する事で双方に利益を齎し、循環しまくる事で功徳を増大させていく。
 
 功徳には利己か利他かの問題があり、利己的に振る舞う事は非難され、利他的な行為は賞賛される。しかし全く利己的な要素なしに利他的な行為だけをやっている人は絶対にいない。純粋な利他は理論上では存在しても、現実世界では絶対に有り得ない物なのである。
 
 最初は利己的であっても、やっている内に利他的に成って来る。最初は利他的であっても、やっている内に利己的な物を充分に満たしてしまう。これが利己と利他の本当の姿である。だから利己か利他かで言い争うより、功徳循環の存在に気づく方が重要なのであり、大事な事は功徳を循環させる事なのである。
 
 功徳循環は通常なら普通通りの回転をして行く事に成るのだが、或る日突然に何かが起こると「加速度原理」が働き、功徳を大量発生させる事に成る。ビジネスなら、就職したとか転職したとか起業したとか、私生活でなら結婚したとか、出産したとかである。だから普通の人生を歩んではならない。「何か変化を起こすような人生」を送らなればならないのである。
 
 世の中には「平凡な人生を送りたい」と望む人たちは結構多い。そういう人たちは自分なりに正しい事をやっているのだが、それなのに功徳は大して得ていない。功徳循環の存在に気づかず、加速度原理を使用しなければ、自分が必要とする功徳すら得られなくなってしまうのは当然の事なのである、
 
●「核となる人間関係」の重要性
 
 功徳循環を巧く存在させ、巧く機能させていくためには、
「核となる人間関係を作る事」
が重要になってくる。功徳循環は核となる人間関係があれば壊れる事がなくなり、それで功徳を大量に生み出していく事が出来るようになる。
 
 だから若い時には親友と友情を育み、恋人と恋愛する事が必要なのである。いい年になれば結婚してしまい、配偶者と絶対に離婚しないようにする。結婚していれば幾らでも徳を生み出していく事が出来るようになる。結婚しなければ徳を作り出す事には必ず限界にぶち当たる事になってしまう。
 
 こういった横の関係の他に、師弟関係のように上下関係も必要である。師匠と弟子できちんとした師弟関係が出来上がれば、そこでも功徳循環が起こるので、徳は大量生産されるし、たとえ自分が間違った生き方をしようしても、すぐに修正してくれるので、失敗する確率を劇的に引き下げてくれるようになるのだ。
 
 全ての人たちと仲良く成る必要性はない。人間には「人間関係理論」という物があって、自分が関係を持てる人たちには常に限界がある。人間は如何なる者であっても、最大で150名程度の人たちとしか関係を築く事は出来ない。それ以上になってしまうと、人間関係は非常に希薄なり、なんの役にも立たなくなってしまうのだ。
 
 だから自分がどんなに正しい事をやっても、付き合う人たちが多くなってしまえば、自分がパンクしてしまう事に成る。それゆえ孔子は「仁」の教えを人々に説きながらも72人の弟子しか持てなかったし、イエスは「愛」の教えを人々に説きながらも12人の弟子しか持てず、しかもその内の1人は自分を裏切って、それで死刑になって殺されてしまったのである。

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徳について

●徳とは何か?
 
「徳」とは「まっすぐな心で人生を歩む事」を言う。
  人間はまっすぐな心で人生を歩むからこそ、自分が発展していき、目標や目的を達成しえて、それで利益を獲得していく事が出来る。自分が利益を得ているのだから、徳化は周囲に及んで行き、それを有徳者がいれば徳を持った者たちが続出してくる事に成る。
 
 徳は人間がこの世で必要不可欠な物なのに、なんで徳の事があれこれ論じられるのかといえば、多くの人々たちに徳がなく、心は捻くれ、まともに人生を歩んでいないからである。自分の人生を発展させなければ成らないのに停滞していれば、腐敗し堕落していくのは当然であり、なんの利益も得られないどころか損出だけが大きくなっていく。
 
 徳には「先天的」な物と「後天的」な物とがある。先天的な物は前世で徳を積んだからこそ生まれながらにして得られる物であり、徳があるからこそ健康に生まれ、順調に育ってくる事に成る。逆に前世で罪を犯した人は不幸な生まれ方をし、徳がないために普通の人なら追わなくていい不幸を背負ってしまったりする。
 
 後天的な物は「親の育て方」や「学校や大学での教育」、そして「本人の自助努力」で得られる物である。人間の人格は6歳までの育て方で決まってしまうから、親の役割というのは想像以上に重要であり、人間は親なくして健全な人格を持つ事など出来ない。孤児院で育ってしまうと、自分がこの世に生きている事に不安を覚えてしまうが、それは母性愛や父性愛がない状態で育ってしまったからなのである。
 
 学力という物は学校や大学がないとなかなか伸びていかないから、それで学校や大学での教育も必要に成って来る。しかし教員たちに教員としての教育がなさfれていないと、教員によって生徒たちが殺されてしまったりするから注意が必要である。学校や大学は飽くまでも家族のやっている事を補完する機能しかないのであって、家族を蔑ろにするような事をやってしまいうと、学校や大学で生徒や学生たちが殺される事に成る。
 
●善徳と悪徳
 
 最終学歴を終えてしまえば、後は本人の自助努力次第という事に成るのだが、徳には「善徳」と「悪徳」があり、自分が正しい事をやれば善徳を得られるが、自分が間違った事をやってしまえば悪徳を得てしまう。善徳を獲得する事を功徳を積む事になるが、悪徳を獲得してしまえば、自分の持っている徳が急速に減少していく事に成る。
 
 人間には「自由意志」があるのであって、善悪を選択するのは常に自分なのであり、善悪のどちらかを選択した事によって如何なる結果が発生したとしても、それは自分が負うべきものなのである。だから責任感のある人物は善を選択し易いが、他人に責任をなすりつけようとしている人は悪を選択し易い。
 
 なぜ洗脳が非難されるのかといえば、洗脳は人間の自由意志を奪ってしまうがために、洗脳された状態では善悪の判断が完全におかしく成ってしまうからだ。それで社会主義やフェミニズムや無政府主義に洗脳されてしまうと、自分は正しいと思って判断したのに、完全に間違った事をやってしまうのである。
 
 人間の本性に関して、性善説と性悪説の争いがあるが、性善説は間違いであり、性悪説こそ正しい。人間は生まれながらにして天使ではない。人間を放置しておけば誰でも悪しき事をやってしまう。人間が性悪な動物だからこそ「宗教」があり、「道徳」があり、「法令」という物があるのだ。
 
 悪い事は子供の内にやりまくっておいた方がいい。子供の時なら悪事を働いても親に怒られるだけで済むからだ。しかし大人になったらもう悪事から手を引いて、良い事を出来るだけ多くやって行かなければ成らない。子供の頃に悪事をやっていないと、大人になって悪事をやってしまい、それで身の破滅に成ってしまうのである。
 
 
●陽徳と陰徳
 
 善徳とには「陽徳」と「陰徳」とに分ける事が出来る。陽徳というのは、仕事や結婚とかで成功して得られる物である。陰徳という物は先祖祭祀とか宗教活動とか慈善活動とか、自分のためではなく誰かのために何かをする事によって得られる物である。陽徳と陰徳の両方が必要なのであって、どちから1つあればいいという物ではない。
 
 確かに仕事で成功する事は大切な事である。しかし仕事ばかりやっていては心身がおかしく成ってしまう事であろう。結婚で成功する事は大切な事である。だが家庭の中に閉じ籠っては非常に危険な事に成ってしまう事であろう。陽徳は陰徳があればこそ得られる物だから、陰徳の存在を無視しては成らないのだ。
 
 如何なる人間も先祖がいればこそこの世に生まれる事が出来たのであって、だったら先祖祭祀をきちんとすべきであろう。この現実世界は神が動かしているのだから、だったら宗教活動に励んだ方がいい。この世に困っている人は必ずいるのだから、慈善活動をする事で慈善を施していく事が必要に成って来る。
 
 陽徳と陰徳はバランスが大切なのであり、多くの人たちは8割方陽徳に注ぎ、残りに2割を陰徳の方に注ぐ事に成る。しかし神に選ばれてしまった人は陰徳の方に7割か8割方のエネルギーを注ぎ、陽徳には2割か3割程度しか注がなくなってしまう。不思議な事に半々というのはないのであって、必ずアンバランスになるのだ。
 
 陰徳を積めば必ず朗報ありというが、陽徳を積めば必ずお知らせという物がある。陽徳にし陰徳にしろ徳を積んでいる事には変わりないのであって、それで不幸を事前に察知できるし、不幸を幸福に変えて行く事が出来るように成る。しかし徳を積んでいないと、なんのお知らせも得る事が出来ず、それで突如としてとんでもない不幸に見舞われる事に成るのだ。
 
●無心による徳
 
 徳を積む場合、自分に意志があって行うのだが、徳の中には「無心による徳」という物も存在するから、「有心による徳」だけでは無心による徳を得る事が出来ない。自分に意志があるという事は自分になんらかの欲がある。しかしその欲こそが自分の心を不自由にしてしまい、それでいい結果を出せないという事に成ってしまう。
 
 人間の欲望には「無心」になりたいという特殊な欲望があるという事を知っておくべきであろう。人間は自我があるからこそ自分の欲する利益を得て行く事が出来るのだが、しかしその自我こそが自分の限界を作り出してしまうから、それで無心に成る事でその限界を突破していくのである。
 
 この世には道徳的にな立派な事ばかりしているのに、なぜだか人々から敬遠されてしまう人がいたりする。ビジネスで成功して億万長者になったのに人々から嫌われてしまう人がいたりする。結婚して幸せな家庭を築き上げたのに全く評価されない人がいたりする。これら人たちは全て「有心による徳」はあっても「無心による徳」がないから、それで幾ら徳を積んでも「これはおかしいぞ」と思ってしまうのである。
 
 だから人間は1人で生きては成らない。必ず結婚して赤ちゃんを産み、子供たちを育てて行く事で無心による徳に触れなければならないのだ。乳幼児は無心で遊ぶから、それを見る事で自分の自我のために雁字搦めになってしまった自分を解放していかなければ成らないのである。
 
 無心になれるもう1つの方法は「宗教」であり、宗教活動に打ち込む事で無心になり、それで自分をより高い精神レベルへと持っていく事が出来るように成る。尤も無心になるためには、過酷な修学修行が必要なのだが、宗教の中には「中道」を唱える事で、過酷な事をしない宗教もあるので、そういう宗教では無心になるのは不可能になってしまうから注意しなければならないのだ。

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AB型の性格が解ると、『ベルサイユのばら』は実によく解る。

●AB型は二重人格
 
『ベルサイユのばら』の原作者「池田理代子」の血液型はAB型なのだが、この血液型がどのような人格を作り出すのかを解っていないと、『ベルサイユのばら』は何度読んでも理解する事は出来ない。AB型の人は「二重人格」なのであって、他の血液型の人たちのように人格は1つではないのだ。
 
 家族内にAB型の人がいれば、AB型の人間という者は一体どういう者であるか大体察しが着くのだが、AB型の人は少数派ゆえに必ずも家族の中にいるとは限らない。というか、割合的には非常に少ない。だからAB型の人がどのような人格になるかをまるで解っていないのである。
 
『ベルサイユのばら』に感動したからといって、池田理代子本人に会ったら、彼女の矛盾だらけの会話に卒倒すると思う。それどころか彼女が状況に合して自分の態度を変えていくので、その豹変ぶりを見てしまったら、本当に信用できなくなると思う。彼女に何か悪気があってそういう事をしているのではなく、血液型がAB型であるために、そういう事を平気でやってしまうのである。
 
 池田理代子は一時期、少女漫画の世界から完全に追放されてしまったという経歴があり、彼女と一緒に仕事をした人たちが「もう池田理代子は嫌いだ」と思ったからこそ、そういう事になってしまったのだ。そのお蔭で中央公論社に拾われて『婦人公論』とかで漫画を連載する事が出来たのだが、それでも彼女の人格に異常な部分があるという事を絶対に忘れてはならない。
 
『ベルサイユのばら』に嵌ってしまう理由も、『ベルサイユのばら』を飽きてしまうのも、全て理由は同じであり、AB型の血液こそが池田理代子の作品に嵌らせると同時に、飽きさせてしまうという事を仕出かして来る。池田理代子の作品は「作品だけを見るのではなく、作者本人を見よ」という事をすると、彼女の作品の良さも悪さも全て解る事に成る。
 
●登場人物たちの構図
 
『ベルサイユのばら』の登場人物たちの血液型は明記されていないのだが、原作者の池田理代子は主だった登場人物たちには「A型」か「B型」かに分けている。端役では「O型」の人物であろう者が見受けられるが、不思議な事に「AB型」の登場人物というのはいない。四つある血液型の内、半分はしっかりと描かれているのだから、それで読者たちは魅了されてしまう事に成るのである。
 
 A型      B型
 オスカル   アントワネット 
 アンドレ   フェルゼン 
 ロザリー   ジャンヌ
 
 池田理代子はA型を「善玉」、B型を「悪玉」として使用しており、善悪の対象が明確になるがゆえに、実に読み易い作りになっている。フェルゼンはオスカルが片思いする相手ゆえに、何か善玉のように描かれているのだが、しかしフェルゼンはアントワネットと恋仲になる事によって、アントワネットを死に追いやっていくのだから、とんでもない悪党になっているのだ。
 
 通常、A型の人とB型の人は血液型が違っても理解し合えない事はない。それなのに池田理代子はA型のキャラとB型のキャラはお互いに理解し合う事が出来ないという事で描いている。なんでこんな事になったのかというと、彼女の父親がB型で、母親がB型なので、両親の夫婦仲を見る事でそう思い込んでしまったのであろう。
 
 それ以上に恐ろしいのは、A型のオスカルは同じくA型のアンドレやロザリーとも理解し合えていないという事である。これは通常、絶対に有り得ない。A型同士なら血液型が同じ故に他の血液型よりも理解し合える。但し、喧嘩した時には本当に徹底的に喧嘩してしまう事に成る。
 
 アントワネットを浪費と享楽に追い込んでしまったポリニャック伯爵夫人は肖像画で見る限り典型的な「B型」だと推定できるのだが、漫画の中では「O型」の女性として描かれている。O型の女性はA型ともB型とも巧く付き合えるので、オスカルと揉めるというのは納得が行かない。だからポリニャック伯爵夫人が出て来ると、オスカルの生き方が変に成ってしまい、それで最終的には近衛連隊隊長を辞める事になってしまう。
 
 
●読者たちの血液別理解度
 
『ベルサイユのばら』は読者たちの血液型によって、その理解度は異なる。
 
①O型の女性
 O型の女性は心が広いために、『ベルサイユのばら』で様々な登場人物たちが出て来る事自体楽しくなってしまう。O型とA型は相性がいいので、それでO型の女性たちにはA型のオスカルにゾッコンに成る者たちが大量に出て来る。O型はB型とも相性がいいので、それでB型のキャラたちの言動を的確に理解して行く事が出来る。
 
 しかしO型の女性たちは最も騙され易い。AB型の女性にとって、O型の女性は単なるカモであり、O型の登場人物を良く書く事は絶対にない。O型の女性たちの中には「『ベルサイユのばら』は嫌い」「宝塚も嫌い」という人たちが多いのだが、それは池田理代子の血液型がAB型だからであり、AB型の女性を信用できないからこそ、そうなってしまう。
 
②A型の女性
 A型の女性たちは几帳面であるがゆえに、同じくA型のキャラらちの言動を最もよく理解する事が出来る。A型のオスカルは好きにはなるが、ゾッコンになったりはしない。どんなに好きになっても、心のどこかでは冷静になって見ている。オスカルの性格は飽くまでもAB型の原作者が考えた物であって、A型本来の物ではないからだ。
 
 A型の女性たちはB型のキャラたちには全く同感できない。B型のキャラたちをA型の女性たちから見れば、「ただ単に我儘ではないか?」と思ってしまうのであり、「こういう事をやってはならない」事でしか過ぎないのだ。とはいっても、B型の人ならそういう事をする事も有り得るのであって、そこがリアルな部分に成っているのである。
 
 
③B型の女性
 B型の女性たちは活動的だから、『ベルサイユのばら』の物語の展開が速い事に魅了されてしまう。B型のキャラたちが悪役で描かれているにも拘らず、そんな事お構いなしに作品を楽しんでくる。A型のキャラを好きになっても、その性格をよく理解できないのはB型の女性たちの特徴である。
 
 池田理代子の作品には、少女が男性に恋をする前に同性である女性を好きに成ってしまうというパターンがあるのだが、『ベルサイユのばら』でも女性が女性を好きに成るシーンは出て来る。しかしレズの関係に成ったりする事はない。それなのに実際にレズったりするのはB型の女性たちである。『ベルサイユのばら』が誤解されてしまうのは、B型の女性たちの思慮のなさにあるといっても過言ではない。
 
④AB型の女性
 AB型の女性たちは自分と同じAB型の女性が『ベルサイユのばら』を描いてくれたので、それでこの作品を非常によく理解する事が出来る。この作品はAB型の女性が見れば、まるで違った物に映る事であろう。AB型の女性が見たA型とB型のキャラが出ているので、本当の血液型とは違うのである。
 
 だが恐ろしい事に、AB型の女性たちは『ベルサイユのばら』を最も速く飽きてしまう事に成る。AB型の女性としては、A型の女性が描いた作品の方が好きであり、B型の女性とは一緒に遊ぶ方が好きである。こういう事を防ぐためには作品の中にAB型のキャラを出せば良かったのだが、そういう登場人物がいないために、飽きてしまうと急速に飽きてしまうのである。
 
●AB型の女性は小説家や漫画家に向いている
 
 俺が池田理代子の作品を読んでつくづく思ったのは、
 
「AB型の女性は小説家や漫画家に向いている」
 
という事であり、AB型の女性はキャラの性格をはっきりと描いてくるので、それで読者としては実に読み易いようになっているのだ。
 
 しかも大量のキャラを登場させても、巧く使い分ける事が出来るのは実に素晴らしい。他の血液型の女性だと、キャラが多く成って来ると、その使い分けが下手糞になってくる。自分が得意とするキャラは巧いのだが、そうでないキャラになってしまうと、途端にダメになってしまうのである。
 
 池田理代子の作品で致命的な欠点を指摘するとすれば、
 
「《深淵なる苦悩》がない」
 
という事であろう。確かに主人公が苦悩しているシーンはある。しかしその苦悩は実に浅いのであって、それでは苦悩が深まっていかないのだ。AB型の女性はどんな状況にも対応できてしまうので、所詮は無理な注文であるといっていい。
 
 池田理代子の作品は結婚すると読まなくなってしまう傾向が非常に強い。なぜ読まれなくなってしまうのかといえば、深淵なる苦悩がないからであろう。恋愛結婚であるなら、結婚するまでの過程に様々な事を経験していく。恐らく人生の中で最も多くの事を考えなければならないのであって、その経験をしてしまうと、独身の頃には楽しめた作品が楽しめなくなってしまうのである。
 
『ベルサイユのばら』には親子二代でファンになっているケースがあるだが、母親の方はもう読まなく成っている事であろう。かといって娘に禁止するような代物ではなく、寧ろ読んでおいた方がいいと勧める物である。
「所詮は少女漫画」
と思うか、
「自分は年を取ったんだな~」
と思うかは、本人の判断次第であろう。
 

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池田理代子の「出生の秘密」

●「なんだ、女か~」
 池田理代子の性格や人生を知るためには、彼女の「出生の秘密」を知らなければ話にならない。その出生の秘密こそが、彼女の性格や人生を決定づけてしまったのである。池田理代子がこの世に生まれた時、父親は一応祝ってくれたのだが、その後、趣味の釣りに行き、釣りから帰って来ると、寝ている赤ちゃんを見て、
「なんだ、女か~」
と言ったという。
 これは父親として言ってはいけない一言であろう。娘というのは父親がどんなに愛情をかけて育てても、結局は嫁いでしまうので、父親には父親なりの悲しさがある。その代り、決してお金で買う事のできない楽しい思い出を与えてくれるのだから、それで良しとすべきなのだが、父親が若いとなかなかそれが出来ない。
 出生時の出来事を赤ちゃんが覚えている訳がないから、このエピソードを言ったのは、母親であろう。母親としては初産の記憶が強烈なもmp
だから、出産時のエピソードをあれこれ語り、
「お父さんは失礼しちゃうわよね~」
と冗談のつもりで娘に語ったのであろう。しかしこれは母親として言ってはいけない冗談なので、この冗談を聞けば、娘の心には傷がつけられ、その傷は想像以上に深い物となってしまうのである。
 池田理代子の出来事を今のママさん連中に話すと、
「私だったら、そうしちゃうわね~」
と例外は何1つなく、全員が同意見だった。池田理代子の母親は子供を4人も産んでいるので、母親としては一人前だった筈である。しかし母親というのは、多分、誰もが同じような事をやってしまうのである。
 親子だからなんでも言い合えるが、かといって本当になんでも言っていいのではない。親子だからこそ言ってはならない事がある。育児は愛情さえあればいいという訳ではない。「賢さ」も必要なのであって、知恵なしで育児をしてしまえば、親としては子供を立派に育てあげたのに、それなのに我が子の心はグジャグジャになってしまうのである。
●第一子長女には期待するがために
 池田理代子は子供の頃、発達が遅れていたらしい。何をするにしても動作が遅く、しかも不器用だから何かをやれば必ずヘマをやらかす。両親は、
「この子、バカなんじゃないか?」
と思ったほどで、それでこの長女には新たな対策を必要とするようになった。
 母親がやったのはお稽古事をやらせまくる事で、「お琴」「書道」「声楽」「茶道」「絵画」「算盤」「華道」「英語」「漢文」「謡曲」などと、よくぞこんなにやらせたなと感心してしまうほどにやらせた。母親は娘に、
「女性でも学問や技術を身に着け、自活できるようにしなければならない」
と言ったらしいが、このお稽古事の多さはそれだけでは説明が着かない。 
 父親がやったのは「スパルタ教育」であり、長女がミスをすれば鉄拳を行い、時には鼻血が出るほどであったという。スパルタ教育が成功した例はない。必ず失敗している。成長の遅れを暴力で取り戻すのは不可能であり、暴力を使えば使うほど、暴力を振るわれた方は憎しみを蓄積していく事に成る。
 池田理代子の両親がなんでこんな子育てをしたのかといえば、やはり第一子長女には期待していたからであろう。期待しているのに発達が遅れているのなら、親としては必死に成らざるを得ない。必死になった事で巧く行った物もあるが、巧く行かなかった物もある。しかしこれだけははっきりと言える。
「この両親は長女には充分な愛情を注いだのであろう」と。
●「女性を対等に扱って欲しい」と言うけれど
 俺が「池田理代子はフェミニストではない」と判断するのは、彼女は、
「女性を対等に扱って欲しい」
と主張しているからだ。フェミニストなら「対等」などとは言わず、必ず「男女平等」を唱えて来る 
「女性を対等に扱って欲しい」
と言っている女性に対して、幾ら対等に接してあげても、絶対に満足しない。しかも池田理代子のように『ベルサイユのばら』で大ヒットを飛ばした漫画家だと、女性たちですら対等に接するのは難しくなる。「池田先生」と呼ぶしかないであろう。
 この手の発言をする女性たちには必ず「親子関係」に問題がある。娘という者は幼児の段階で父親と疑似結婚という物をする。父親に甘えまくって、
「将来、パパと結婚する~」
と言い出してくる。これに成功すると、親子という上下関係があるのだが、父親と娘は対等になって話す事が出来るようになる。
 しかし池田理代子の父親はスパルタ教育をやってしまったために、長女に疑似結婚の機会を与える事が出来なかったのであろう。このため父親と対等になる事ができなく成ってしまい、それを大人になってから世間の人たちに対等になる事を求めて来てしまう。だが、その欲求不満の原因は心の中にあるから、誰も彼女の心を満たす事は出来ないのである。
 池田理代子には、
「完璧な父親なんて者はいないんだよ」
と言ってあげるしかない。彼女が理想主義的で、恋愛を高らかに歌い上げ、完璧な男性を求めてくるのは、要は自分の父親によって満たされなかった事を、理想として語っているに過ぎないのだ。
●許す事の大切さ
 俺は池田理代子の書いた本を読みながら、
「この人の本心は一体なんであろうか?」
と勘繰りながら読んだ。本に書かれた事を素直に受け取る事は出来ず、彼女の本心を見破らないと、読んだ方が絶対に誤解する事に成る。こんな読み方をしたのは人生で初めてである。
 池田理代子にとって父親は、
「許し難い奴」
なのだそうで、未だに父親への憎悪があると解った時、彼女の謎は全て解けた。フェミニストになってしまうほど両親から愛情を貰っていない訳ではない、しかし育て方にかなり問題があったために、父親を憎んでしまったのである。
「心の奥底にある恨み」
という物は非常に解りにくい。池田理代子は美人だし、機知に富む会話も出来るし、なんといっても『ベルサイユのばら』を大ヒットさせたという偉大な功績がある。大体、お金持ちであり、財産は十二分にある。だから人々は池田理代子の本当の姿が見えなくなってしまうのだ。
「許してあげなよ。自分を産んでくれたんだから」
と俺からはそう言ってあげる事しか出来ない。大体、漫画家として大活躍できる能力を与えたのは、父親が娘のお稽古事にお金を出したからであろう。だったらまずは感謝しないと。
父親を憎んでいるからこそ、子供に恵まれなかったのであり、父親を憎んでしまったばっかりに、人生の中で大事な物を手に入れる事が出来なかったのである。
 池田理代子は結婚を3度もしているから、精神的に自立している事を願う。3度目の結婚以降、フェミニズム的な発言は殆どしなくなっている。AB型の女性は状況に合わせて態度をいとも簡単に変えて行く事が出来るのだが、自分の生き様ってのは誤魔化す事は出来ない。騙される者は騙されるけど、見抜く者は必ず見抜いてしまうものだから、自分の心を見つめる事の重要性は幾ら強調してもしすぎる事はないのだ。

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ここがヘンだよ、オスカル!

●女の友人を作らない
 
『ベルサイユのばら』の中で、オスカルは一番魅力的な存在なのだが、オスカルほど変な女はいない。女性として生まれながら、跡取りの問題で父親から男として育てられ、近衛士官になっているのが変なのではなく、人間が成長していくに当たって当然にすべき事をしていないから、実に変なのである。
 
 オスカルはなぜだか友人という者を作らない。オスカルの人間関係の基本は「上下関係」であり、「対等」に接する事ができない。アンドレは幼馴染ゆえに親しく接しているが、それでも伯爵令嬢と馬丁の関係がある事を前提に付き合っているにすぎない。唯一、最初から対等に接触したのはフェルゼンなのだが、彼は外国人であり、しかも伯爵という事で、実はオスカルと階級位が同じなのだ。それでフェルゼンだけは特別扱いなのである。
 
 フェルゼンは友人としてオスカルと付き合っているのだが、所詮、オスカルは女性ゆえに、どうしてもフェルゼンに対して友情以上の物を持ってしまい、それで関係が崩れしまう。アンドレもオスカルの事を女性だと意識するようになってから、友情以上の物を持ってしまい、それで関係が崩れてしまった。だからオスカルは男性たちと友情を築けなかったということになる。
 
 オスカルは男性たちとだけでなく、女性たちとも対等に接しない。アントワネットはオスカルの事が好きになり、自分のサロンに来るように誘うのだが、オスカルはその誘いを断ってしまう。このため後に、オスカルはアントワネットの心の内を理解する事が出来なくなり、それで近衛連隊隊長を辞める羽目になってしまう。
 
 女性は思春期に「親女」を作り、「永遠の友情」を獲得していく。永遠の友情があればこそ、その後、突如として恋愛可能な男性と巡り合い、恋をする事になる。『ベルサイユのばら』の中で、オスカルの親友になれる女性はマリーアントワネットしかいないので、オスカルがアントワネットと親友に成れなかった事は、オスカルの恋愛を不可能にさせてしまったのである。
 
●幼馴染とのセックスは身の破滅を引き起こす
 
 オスカルに女の友人が出来なかったのは、自分が父親から男として育てられたからかもしれないが、そうであったとしても、親友を持たない以上、恋愛は不可能であり、だったら恋愛などせずに仕事だけをして生きて行けばいい。物語の中で一時期、この決意をするのだが、結局はアンドレの思いに押し切られ、人生で最初で最後のセックスをしてしまう。
 
 幼馴染とのセックスは身の破滅を齎す事に成る。なぜなら「自分は何も成長していませんでした」ということになってしまうからだ。もしも幼馴染と何かしらの縁があれば、10代の時にセックスをしている筈である。そういう事がないなら、もう縁は何もないのであって、後は切り捨てて行けばいいだけの事なのである。
 
 女性の読者たちであるなら、オスカルとアンドレが結ばれるシーンは涙なくして読めないだろう。しかし男性の読者たちは「こんな物は恋愛でもなんでもない!」と見抜いてしまう事だろう。なぜならアンドレにはオスカルを不自然な生き方から解放してあげる力を持っていないからだ。
 
 男の子も女の子も、幼い時にはそんなに差はない。しかし大きくなればなるほど、差がはっきりと出て来る。どんなに幼馴染であっても、女の子たちの中には美人になり、卓越した能力を持って出世していく奴が出て来る。もうそういう女性には手出しなど出来ないのであって、幼馴染だからといって何かをしようなどというのは無理が有り過ぎるのだ。
 
 もしもアンドレが真剣にオスカルの事を愛しているのなら、オスカルの成長のために我が身を引くべきなのである。事実、ジェローデルは身を引く事で愛の証を示している。アンドレはオスカルとセックスした後に、オスカルの事を全て理解していた筈なのに、実は理解していなかった事に気づく。その直後に射殺されてしまうのだが、幼馴染だからといって、オスカルの事を全て理解していると考える事自体が万死に値する罪なのである。
 
●近衛士官なのに裏切る
 
 オスカルは近衛士官だから、国王と王妃を命に替えても守り通さなければならない立場にある。それなのにオスカルは近衛連隊隊長を辞めて、フランス衛兵隊隊長になり、フランス革命が発生すると、革命側に付くというとんでもない裏切りをやらかしている。オスカルのこの行為が如何に重大な罪であるかは、近衛軍という物がどういう軍隊であるのかを知らなければならない。
 
 フランス王国の軍隊には、
 
「近衛軍」
「陸軍」
「海軍」
「民兵隊」
 
の4種類が存在する。民兵隊は郷土防衛を、陸軍と海軍は国家の防衛を、近衛軍は国王の身辺警護を行う。陸軍と海軍は武装集団なので、クーデターを引き起こして来る可能性が常に有り得る。だから国王は近衛軍を持って陸軍と海軍がクーデターを引き起こせないようにするのである。
 
 国王は近衛軍の将兵が裏切らないように、近衛軍の将兵は良家の出身者たちで固め、採用すれば手厚い身分保障を与えている。オスカルは貴族だからこそ近衛士官になれた訳だし、オスカルがお金に困った事がないのも俸給が高いからなのである。それなのに裏切るのだから、本当にとんでもない事をしてくれたという事に成る。
 
 因みに、史実のバスティーユ襲撃では、守備隊の圧勝に終わっており、群衆の方に98名もの死者が出た。守備隊の死者はたった1名である。しかし守備隊の中に革命側に通じる者がいて、それで開門し、群衆たちが占拠したに過ぎない。フランス衛兵隊が裏切ったという事はない。
 
 古代ローマ帝国が内戦に次ぐ内戦に成ってしまったのは、近衛軍が裏切ったに他ならない。近衛軍が裏切れば、如何に専制君主であっても、弑逆されてしまうものなのである。フランス王国ではバスティーユ襲撃以降、政府が武力鎮圧に踏み切ったのであり、それで革命側が猛反撃を加えて、国王や王妃が処刑されるという最悪の事態になってしまったのだ。
 
●フリーメーソンでないのに自由思想に被れる
 
 物語ではオスカルが自由思想に被れて、それで革命側に走る事に成るのだが、これも実におかしな事であり、これは作者の池田理代子の完全なる錯誤が原因である。彼女はフランス革命を引き起こした自由思想は「サロン」で生まれたと考えていたのだが、確かにサロンで自由思想は活発に交わされたが、自由思想はフリーメーソン団が生み出した物であり、その事を理解できないと、フランス革命を何も理解する事は出来なくなってしまう。
 
 封建社会は縦の繋がりで成り立っているので、横の繋がりを生み出すためにフリーメーソン団が生まれた。フリーメーソン団はイギリスで生まれたのだが、フランスもイギリスと同じく封建社会であったので、それで急速にフリーメーソンたちが増えていった。フリーメーソン団には男性しか加入できないので、オスカルは女性であるために、フリーメーソン団には入会できない。
 
 貴族が庶民に接したからといって自由思想を持つ事はない。フリーメーソン団に入ったからこそ、自由思想を持つ事になる。イギリスはアメリカ独立戦争でフランスに負けたために、フリーメーソン団を通じて革命側に資金を提供し、それでフランス革命を引き起こした。フランスのフリーメーソンたちはまんまとイギリスに利用されただけの事であって、自由思想があればフランス革命が起こるというものではないのだ。
 
 因みに歴史上のフェルゼンはフリーメーソンであり、肖像画には堂々とフリーメーソンの勲章を付けて描かれている。オスカルはフェルゼンを通じて自由思想を知ったというようにした方が、より説得力のある物語になった事であろう。日本ではフランス革命の研究家たちがフランス革命を賛美するだけで、実際に何が起こったかを学術的に解明しないので、それで池田理代子のような錯誤者が出てしまったのである。
 
 フランス革命の際、貴族でありながら革命側に走ってしまった者たちがいた事は事実であるが、オスカルのように正義漢であるなら、最後まで国王や王妃に忠誠を尽くす筈だろう。 オスカルが革命側に走ってしまった事で、オスカルは自己矛盾に陥り、それで呆気なく死んでしまったのである。

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『ベルサイユのばら』を外国語に翻訳してみると

●『LADY OSCAR』は誤訳
 
『ベルサイユのばら』を他国に先駆けて翻訳したのはイタリアで、イタリア語の『ベルサイユのばら』が出版されると、一大ブームを巻き起こしたという。芸術性の高い国民なので、日本で質の高い少女漫画が売れると、敏感に反応してくる。イタリア料理で日本でヒットするのも、国民レベルがかなり似通っているからだと思う。
 
 しかし翻訳に際して、題名を変えた。イタリア語では、
 
『LADY OSCAR]
 
としたのだが、これを再度日本語に翻訳すると、
『オスカル嬢』
となる。これは誤訳であり、原題の題名を変更するのは、翻訳した翻訳家がその作品の事を何も解っていない証拠である。
 
 だがこの誤訳は許される誤訳であり、なぜなら翻訳者がこの題名にしたのはアニメ版の『ベルサイユのばら』を見て翻訳したから、アニメ版ではオスカルを中心に描いている以上、『オスカル嬢』としても許される。誤訳は全てダメなのではなく、許される誤訳もあるのであって、そういう物であるなら誤訳ではあるが、それでもいいのである。
 
●バラは何輪?
 
 フランスはイタリアでのヒットを受けて翻訳を開始したのだが、その際、題名を、
 
『La Rose de Versailles』
 
にした。『ベルサイユのばら』をそのまま直訳したのだが、ここで問題となるのは、
「バラは何輪?」
という事なのである。
 
 日本語は単数形と複数形の区別が明確ではない。例えば、
「花が咲いた」
と書けば、その花は1輪ではなく、多数咲いているのであって、
「花々が咲いた」
とすると、それは複数形にする必要性があったからであり、必要性がないから、本当は複数なのに、それを省略するという事をやる。
 
 アニメ版は絶対に1輪であり、そうでなければオープニングにオスカルしか出て来ない事に関して説明がつかない。漫画の方は3輪であり、オスカルとアントワネットとフェルゼンという事に成る。漫画はそうしか読めないのだが、原作者の池田理代子は違う考えを持っていた。
 
 まず『ベルサイユのばら』という名は、この作品を作ろうと思った時に霊感で得られた物であり、別にバラは何輪あろうが別に構わない物であった。だから池田理代子は主人公を3人にし、他の主要な女性たちも花を持たせる事で、この物語を膨らましていった。それでデュ・バリー夫人やロザリーやジャンヌが準主役級の活躍をする事が出来たのである。
 
 だから単数形にしようが複数形にしようが、どちらも許される。
「ROSE」と来れば「オスカル」の事で、
「ROSES」と来ればベルサイユ宮殿の王侯貴族たち」と考えればいい。因みに、アメリカ版は、
 
『The Roses of Versailles』
 
であり、ヨーロッパでのヒットを受けて、原作を読んだ上で、正確な訳にした。
 
●『女強人 奥斯卡』?
 
 中国語では、香港がイギリス領だった時代に、
 
『女強人 奥斯卡』
 
という題名で出し、大ヒットした。この題名を再度日本語訳すると、
『女強人オスカル』
となり、全く別の漫画ではないかと思ってしまう。香港の人たちにはオスカルは「女強人」と映ったのであろう。「
 
 香港でも大ヒットを受けて、中国でも翻訳され、北京官話では、
 
『凡爾賽玫瑰』
 
という題名になった。多分、『凡爾賽玫瑰』で『ベルサイユのばら』なのだろう。「凡爾賽」が「ベルサイユ」の事で「玫瑰」が「バラ」の事だと推定できる。
「玫瑰」が解らないので、調べてみた所、
「玫瑰」は「マイカイ」と読み、
「玫瑰」とは「バラ科の落葉低木」
の事で、これはアニメ版のオープニングの際に、オルカルがバラの幹に絡まれる所からそう翻訳したのであろう。
 
 中国語というのは外国人の名前や外国の地名を正確に訳さないというのが実に良く解る。漢字は世界で一番出来のいい文字なのだが、それだけ出来がいい分、融通が利かず、それで正確に訳する事には全く使えないのである。ここいら辺りが中国文明の限界点なのである。
 
 翻訳のセンスとしては『凡爾賽玫瑰』より『女強人 奥斯卡』の方が断然にいい。香港が中国に併合されてから香港は没落していったが、その理由はこういう事も1つの要因なのであり、中国共産党の支配下に入ってしまうと、どうしてもセンスがガタ落ちに成ってしまうから、それで経済も文化もどんどんダメになっていくのだ。
 
 因みに俺だったら、
『奥斯卡娘々』
と中国語で訳したいね。『奥斯卡娘々』は「オスカルニャンニャン」と発音し、「オスカルお嬢様」という意味。道教には「天仙娘々」という女神様がいるので、中国でオスカルが愛されれば、「オスカル霊廟」も出来てしまったりするかも。
 
●作品解釈と解釈作品は違う
 
 外国語での翻訳を調べてみると、要は、
「アニメ版を見て翻訳したか?」
それとも、
「原作を見て翻訳をしたか?」
に二分する事が出来る。たとえ言語が変わっても、その作品に対する解釈は1つであり、他の解釈など出来ない。作品解釈は必ず1つである。でなければ国語の試験など出来ない。
 
 国語の勉強がよく出来なかった人たちは、
「作品の解釈は人それぞれあっていい」
と言い出して来るのだが、そんな事は絶対に有り得ないのだ。作者は或る特定の考えを持ってその作品を作り上げた以上、誰が読んだとしても解釈は1つなのである。作品に対する感想は人それぞれあっていい。しかし感想が多々あるからといって、解釈も多々あるとは思っては成らない。
 
「作品解釈」と「解釈作品」は全くの別物である。作品解釈はその作品を解釈した物であり、解釈作品とは原作を元に新たな作品を作る事であり、原作とは新しい作品は微妙に違って来る。『ベルサイユのばら』の場合、原作では週刊誌の連載が全82回であり、アニメ版では全40回しかなく、それで原作では主人公が3人なのに、アニメ版では主人公は1人になっているのである。
 
 日本国内だと誰もが同じ日本語を使っているので、あれこれ批判する事が出来てしまうが、外国人に見せれば、やはり作品解釈は皆同じなのであり、日本国内だけで異常な意見が出回る事を絶対に防がなければ成らない。この問題は日本の学校に於いてまともな国語教育が行われていないからこそ起こる問題なのであって、昭和憲法体制のために異常な状況下にいるという事を決して忘れては成らないのだ。
 

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『ベルサイユのばら』に対して勝手に運命鑑定!

●オスカルとアンドレの仲は?
 
 漫画『ベルサイユのばら』の登場人物たちに対して運命鑑定を行うと、漫画上での物語の展開とは別の本当の姿が見えて来る。物語ではオスカルはアンドレと結ばれ、その後、両者とも死んでしまう。まさに「愛と死」が描かれているので、これを読めば誰もが感動してしまう。
 
 しかし、オスカルとアンドレに対して運命鑑定をしてみると、
 
オスカル 9画
アンドレ 9画
 
なので、両者は絶対に結ばれない関係になってしまう。この2人は所詮「仲のいい友達」なのであって、それ以上に発展する事はない。事実、池田理代子はアンドレを当初「脇役」として登場させたのであって、最後にオスカルと結ばれるなんて事は全く考えていなかった。
 
 オスカルとアンドレは幾ら話しても理解できない間柄であり、貴族令嬢と馬丁という関係だからこそ関係を維持しているに過ぎない。アンドレはオスカルの心の内を知らないし、オスカルもまたアンドレの心の内を知らない。ただアンドレの燃え上がる愛の炎をためにそれに応じてしまったに過ぎない。
 
●アントワネットとフェルゼンの仲は?
 
 アントワネットとフェルゼンは物語上では恋愛関係になるのだが、この両者を運命鑑定してみると、
 
アントワネット 17画
フェルゼン 12画
 
なので、「恋の魂」が宿る関係にある。しかし近づけば離れ、離れれば近づく事に成ってしまうので、それで物語ではまさにその通りの展開がなされる。
 
 池田理代子が「マリーアントワネット」と言わず、「アントワネット」と言っている事に注目すべきである。マリーアントワネットだと「22画」になってしまうので、これでは恋の魂が宿らず、ただ単に友人関係になってしまう。「アントワネット」と言うようにしたからこそ、フェルゼンと恋仲に成る事が出来たのである。
 
 フェルゼンも本来なら「ハンス」というべきであろう。ハンスだと恋愛に真摯にならず、真剣に1人の女性に対して恋をしなくなってしまう。実際のフェルゼンは愛人が何人かいて、アントワネットはその内の1人にすぎなかった。「マリー」と「ハンス」になると、愛人関係を構築できてしまう事に成る。
 
 マリーアントワネットの産んだ子が、本当にルイ16世の子か実に怪しい。ルイ16世とアントワネットの相性はいいだが。それでもアントワネットはフェルゼンと恋仲に成ってしまい、彼の子を産んでしまったからこそ、王族たちからもアントワネット排斥の動きが出て来たとも言える。
 
 
●実はオスカルがフェルゼンに片思いする物語!
 
『ベルサイユのばら』を普通に読んでしまうと、オスカルとアンドレ、フェルゼンとアントワネットの恋愛がパラレルに進む物だと思ってしまう。しかし運命鑑定をすると、フェルゼンとアントワネットの間に恋の魂が宿り、オスカルはフェルゼンに幾ら片思いをしても、拒絶されてしまう物語という事に成る。
 
 オスカルとフェルゼンは相性的には合う。それだけでなく、フェルゼンこそオスカルの無理な生き方を指摘できた唯一の人であり、他の登場人物たちは誰1人としてオスカルの不自然な生き方を否定していない。アンドレはオスカルのその不自然な生き方を愛しているだけなのであって、これではオスカルと恋愛関係になる事はない。
 
 フェルゼンはアントワネットと恋愛中である以上、オスカルと恋仲に成る事は絶対にない。しかしフェルゼンはオスカルの女心に火を点けてしまったのであり、オスカルはもう前の自分に戻る事など決して出来ない。オスカルは女性の姿に成って舞踏会にいき、フェルゼンの事を忘れようとするのだが、だがそんな事をやってももうダメなのである。
 
 ところが、フェルゼンにも落ち度がある。最初、オスカルの事を女性だと見抜けなかった。それだけでなくオスカルが女性の姿になってもそれを見抜けなかった。これに対してアンドレはオスカルを最初から女性だと見抜いていた。但し、オスカルを不自然さから解放してあげるほどの力強さを持っていない。
 
 
●オスカルはアンドレに愛された瞬間、死に向かって突進するしかなかった
 
 フェルゼンもアンドレも男として力不足のために攻めあぐねてしまうのだが、そこで登場してくるのが「ジェローデル」と「アラン」である。ジェローデルは「19画」なので、これまた恋の魂が宿る関係にはない。しかし彼は言葉巧みにオスカルに攻め入り、最終的には愛の証として我が身を引く。
 
 アランは「6画」なので、これでは恋の魂は絶対に宿らない。アランがオスカルの事を好きになるのは無理が有り過ぎる。そのために池田理代子はエピソードを設けているのだが、男の俺から言わせて貰うと、アランのような反骨精神が旺盛な男性は、オスカルのような女隊長を徹底的にバカにし、強姦する事ぐらいしかしない。
 
 ジェローデルとアランは脇役なのだが、この2人がいればこそ、フェルゼンとアンドレに足りなかった物が補われ、それでオスカルはアンドレと結ばれる事に成る。オスカルは女性でありながら父親に男として育てられ、父親の支配から脱する事ができなかった。近衛士官であったにも関わらず革命側に付くという愚かな事をやってしまっている。
 
 アンドレはオスカルの不自然な生き方を愛してしまうからこそ、オスカルは死に向かって突進し、如何なる理由があっても必ず死ななければ成らなくなってしまった。池田理代子は偶然にオスカルを死に追いやったのではなく、論理的に考えて、確信犯で死に追いやったので、それで『ベルサイユのばら』は劇的なフィナーレを迎えるのである。
 
●なぜこういう作りになったか?
 
 少女漫画の基本は「三角関係」であり、女性2人が同じ男性を好きなってしまい、そこで激しく女の争いを演じる。こういう話は現実世界では有り得る話だからこそ、若い女性たちは少女漫画に夢中になってしまうのである。『ベルサイユのばら』も「オスカル」「アントワネット」「フェルゼン」の3者によって三角関係が構築されているのであって、少女漫画の基本を忠実に踏んでいるのだ。
 
 それなのに、『ベルサイユのばら』は3人とも全員が死んでしまう。これでは元も子もないのであって、この終わり方はおかしいのだ。史実ではフランス革命の発生によってアントワネットは刑死され、フェルゼンはナポレオン戦争後に民衆によって撲殺されるので、恋愛から排除されたオスカルは生きねばならない。
 
 少なくとも、
「アントワネットが処刑される以上、オスカルは生きねばならない」
のであって、オスカルが死んでしまえば、じゃあ、なんのために恋愛から排除されたのかという事に成る。アントワネットの死後、フェルゼンが暫く生きるのだから、フェルゼンの事を好きなオスカルはその間、交際する事だってできるのである。
 
 しかもオスカルは不自然なまま生き、不自然のまま死んでいく。
「オスカルが成長するためには、必ずアンドレを失わなければならない」
のであって、なんでオスカルは死んでいくアンドレを愛さなければ成らないのかという事に成る。
 
 これらの疑問を解消するためには、
「池田理代子本人が恋愛経験していなかった」
と結論づけるしかない。池田理代子は高校生の時の特定のボーイフレンドがいて、『ベルサイユのばら』を描き始める直前に最初の夫と結婚しているのだが、この2人の男性とは交際や結婚をしただけであって、恋愛をしていなかった。「恋に恋した」のであって、それでこんなおかしな作りになってしまったのである。
 
●じゃあ、どうすれば良かったのか?
 
 オスカルがフェルゼンとアントワネットの恋愛によって排除される以上、「別の男」を登場させるしかない。その男性はオスカルの不自然さを破壊する力を持つ者でなければならず、その条件を満たせる男性は非常に限られてくる。じゃあ、その男性は一体誰かといえば、それは、
「ロベスピエール」
である。
 
 ロベスピエールは「17画」なので、オスカルと恋愛関係になれる間柄になっている。しかしオスカルもロベスピエールも正義漢なので、これでは恋愛関係になる事は出来ない。但しオスカルがロベスピエールに弱い理由は、この両者は相性がいいからなのであって、それで近衛士官のオスカルが弁護士のロベスピエールの批判に動揺してしまうのである。
 
 もう1人の男性が、
「ナポレオン」
であり、ナポレオンは『ベルサイユのばら』で一度だけ登場する。ナポレオンは「13画」なので、恋愛関係になる事はないが、セックスの相性はいいので、愛人関係にならなりえる。オスカルはアンドレを愛さなければ、ナポレオンの愛人となるl事で生き続けた筈である。
 
 事実、『ベルサイユのばら』は本来「20巻」なのであって、フランス革命からナポレオン戦争の事まで書く予定だったのであり、それが作者の体力の限界で10巻に終わったに過ぎない。『ベルサイユのばら』の結末は本来予定していた物ではないという事だけは知っておいた方がいい。
 
 オスカルが死んでは成らない存在だったからこそ、『ベルサイユのばら』の連載が終わると、そのファンたちが宝塚歌劇団で『ベルばら』を上演してくれるように願ったのであり、それでオスカルは宝塚歌劇団で生き続けているのである。『ベルばら』のロングヒットは決して偶然ではないのだ。
 
 但し宝塚のファンたちは、
「オスカルは父親から不自然な生き方を強いられ、不自然な生き方のまま死んでいった」
という事を絶対に忘れるべきではない。オスカルに夢中に成ってしまう余り、オスカルに対して無批判であるなら、自分だって自立できなくなってしまうのは当然の事なのである。

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