●やっと書き終わりました
今年、仏教の教義を研究した本を書き始めたのだが、やっと書き終える事が出来た。四百字詰め原稿用紙で千枚に成り、その内容もレベルは非常に高い。仏教は釈迦が教祖なので、釈迦が一体何を悟り、考えて行ったのが最も大事だから、それを探っていくと、このような長大な物になってしまったのである。
はっきりと言ってしまえば、現代の仏教は原始仏教から遠く懸け離れており、釈迦の真意は全く伝わっていない。この現象は大乗仏教に於いて甚だしく、大乗仏教は仏教教義史に於いて評価を与えられるだけの事であって、釈迦が唱えた教えとは全然違う事を教えているという事では背教をやっているというしかない。
俺が仏教の研究をしていくに当たって、様々な仏教書を読んで行ったのだが、その中で、
「コイツだけは絶対に許せない」
という人物が1人いた。それは、
「ひろさちや」
であり、この人は仏教の事を全然解っていないのに、大量の仏教書を書きまくって、世間の人たちを惑わしているのだ。
幾ら仏教徒であっても、宗派が違ってしまえば仏教に対する考え方は違ってしまう。しかしそうは言っても、同じ仏教徒、正確に言えば大乗仏教を奉じているから、考えが違っても、
「この人は釈迦の真意を理解していないけど、大乗仏教の人なんだな」
という事が解る。これは既成仏教でも新興仏教でも変わらないので、仏教徒であるなら共通項を持っているのだ。
しかし、ひろさちやだけは違う。俺はコイツの書いた書物を読むと、むかっ腹が立ってくる。他の仏教徒たちの書いた書物にはそういう現象は起こらないので、それで、
「ひろさちやは絶対に仏教徒ではない」
と直感で解った。仏教には四諦八正道があるから、仏教徒は必ず自分の心から「怒り」という物が消えて行く。それなのにひろさちやの心の中には「激しい怒り」が存在しているのである。
●釈迦は念仏しろなどと教えてはいない
ひろさちやは浄土宗の信者なのだが、浄土宗というのはインド生まれの宗派ではなく、実は中国生まれの宗派であり、釈迦の教えからは完全に懸け離れ、釈迦の教えはもはや何も存在していない。浄土宗の母体となった阿弥陀信仰は、「アフガニスタン」で生まれた物であって、これは「仏教の仮面を被ったゾロアスター教」に過ぎないのだ。
浄土宗では「自力か他力か?」という選択を強いるのだが、仏教は「自力本願」であり、絶対に「他力本願」ではない。釈迦はバラモン教のブラフマン信仰を否定し、自分の心を主とする宗教を切り開いていったのであり、仏教のどこをどう解釈しても、絶対に他力本願という考えは出て来ないのである。
俺は最初、ひろさちやの異常さの原因が「念仏」にあるのではないかと疑った。釈迦は三宝帰依や禅定を説いたとしても、念仏しろとは言っていないからだ。「念仏義認説」は必ず「自己義認説」に成るのであって、それでひろさちやは自分の主張は絶対に正しいと言い張っているのではないかと思った。
「念仏すれば救われる」というのは、浄土宗内部だけで言っている事であり、仏教的には全くのナンセンスな教えである。そんな教えは正当な教えとは決して認められない。 釈迦は「念仏しろ」などとは教えていないのであって、まずはその歴史的事実が解れば、浄土宗の教義は全て成り立たない事が解る事であろう。
仏教は解脱して仏陀になる教えなのであって、解脱できなかったら、どんな教義でもダメなのであり、もしも浄土宗の教義が正しいいうのなら、法然が開宗してから現代に至るまで、浄土宗内で解脱できた人を上げて欲しい。誰も解脱していないのだから、浄土宗の教義は完全に間違っているという事なのである。
●祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」を奪ってはならない
俺はなかなかひろさちやの正体を見破る事が出来なかった。要は、ひろさちやは「小賢しい才子」なのであって、あれこれ言っているくせに、人間として大事な物が何もないという人物なのである。しかし彼の本を読み進めていく内、彼は「お婆ちゃん子」であるという事が解り、これこそが彼の性格を思いっきり歪めてしまったのではないかと思うようになった。
男の子は母親の事が大好きである。男の子は女の子よりも免疫力が弱りので、母親の庇護がないと無事に育たない。だから母親の事を好きに成る事で、自分を安全に育てて貰うのである。しかし男の子には祖母もいるのだから、祖母が母親を押し退けて育ててしまえば、男の子は母親の事が好きという事が奪われてしまう。その結果、頭のおかしい男性に育って行ってしまうのである。
俺はこのブログで、姑が孫を可愛がり、それを嫌がる母親たちから質問を受けたりするのだが、今までどちらかといえば姑の方に味方し、母親たちには敢えて嫁姑の争いを起こさない方がいいと言ってきた。しかしひろさちやのような人物を見ると、普通の母親たちの意見こそが正しいのであって、如何なる事があっても祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」という事を奪っては成らないのだ。
「どんなに悪い母親であっても、母親は母親として価値があるが、どんなに良い祖母であっても、祖母は孫を甘やかせば非常に有害である」
しかもその有害はその孫が死ぬまで続くから、まさに「三つ子の魂、百まで」の諺が該当する事に成る。母親だからこそ、我が子を絶対に祖母に奪われては成らないのであり、もしも祖母が息子を奪う行動に出て来たら、断固として戦わなければ成らないのだ。
なんでこんなにもお婆ちゃん子が有害なのかといえば、祖母は孫息子の言う事ならなんでも聞いてしまうので、それでその孫息子は自分の意見はなんでも通ると思い込んでしまうようになるから、そのような育ち方をすれば、「自分の意見は絶対に正しい」というようになってしまうのは当然であって、それで平気で嘘をつくような人物に育ってしまうのである。
●ひろさちやの本は有害
インターネットで調べてみたら、
「ひろさちやの本は仏教を勉強するにあたって非常に有害」
という意見が多数出ていた。そりゃそうであろう。彼は仏教の事など何も解っていないのであって、それなのに大量の仏教書を出しているから、しかもそれは殆ど入門書レベルの物だから、仏教に関心のある人は彼の本を買ってしまう事に成る、しかし読んでみたら、
「なんじゃこりゃ?」
という代物でしかないのだ。
となると、ひろさちやの本を出している出版社は、
「仏教の事を全然解っていない」
という事になってしまい、ひろさちや個人の問題より、こちらの問題の方が遥かに深刻であろう。確かに俺が「この仏教書はいい本だな」という感想を持った本は、メジャーな出版社では全く出ていなかった。マイナーな出版社ばかりであった。
日本の仏教界は1つの宗派が圧倒的に強いというようにはなっていない。カトリック諸国なら、ローマカトリック教会が宗教界を独占しているので、それでローマカトリック教会が真贋を選別し、異端者や背教者たちは排除されていく事に成る。このやり方には問題があるが、しかしそれによってカトリシズムがきちんと守られるように成るので、それでひろさちやみたいに、キリスト教の事を全然解っていないのに、キリスト教の本を書きまくるという人物は出て着ないのである。
もしもどのかの宗派に属する僧侶なら、仏教を専門にやっているのだから、ひろさちやの異常さに気付いて、論争を挑んで論破していくべきであろう。ひろさちや所詮「在家の信者」なのだから、仏教のプロが戦いを挑めば、確実に勝利できるに違いない。それなのにそれをしないというのは、仏教界全体のレベルを引き下げてしまう事になってしまうのである。
ひろさちやは、日本人の事を「エコノミックアニマル」と罵り、
「少欲のすすめ」
「捨てちゃえ捨てちゃえ」
「こだわりを捨てる」
とか主張しているのに、彼はなんと単行本だけで300冊以上も出している。これほど強欲で、何も捨てず、拘りを持ち続けている人を俺は他に知らない。典型的な「倒錯話法」であり、精神的には全く自立していないというしかないのだ。
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