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釈迦が流した愛の涙 続編

●「不倫の禁止」「女性出家者たちの誕生」「友情の強調」
 釈迦は出家前に、男女の愛で散々悩んだ。だから釈迦が唱えた教えは、男女の愛で懊悩した者ならではの物に成っている。
 
①「不倫の禁止」
 原始仏教経典で最も特徴的なのは、「不倫の禁止」を盛んに唱えている事である。釈迦自身が人妻に手を出し、自分の妻を寝取られたので、不倫の禁止を徹底的に唱えた。バラモン教では不倫の禁止など唱えなかったので、仏教の教えは当時のインド人たちにとって非常に新鮮だった筈である。
 
 但し、原始仏教教団では、男性僧侶たちは信者たちの所に托鉢して食料を調達してくるので、必ず人妻と接する事に成る。それで男性僧侶が人妻に手を出すという事件は多発してしまったらしい。不倫の禁止を唱えている教団だからといって、本当に不倫をしない訳ではないのだ。
 
②「女性出家者たちの誕生」
 釈迦はマハーパジャーパティーの要求を聞き入れ、彼女を出家させているのだが、女性出家者たちが居たという事は、原始仏教教団の特徴であった。バラモン教には女性の宗教家たちは居ないのであって、インドでは仏教の登場によって、初めて女性宗教家たちが誕生したのである。
 
 アクレサンダー大王がインドを侵略すると、仏教教団を見て心底驚いた。「女性たちが哲学をしている」というのは古代ギリシャ人たちにしてみれば、最大級の衝撃だったのである。これが後に、インドに残ったギリシャ人たちを仏教に改宗させ、大乗仏教を生み出していく事に成る。尤も釈迦族では女性たちが大量出家してしまったので、釈迦族は滅亡という最悪の事態に遭遇してしまう事に成った。
 
③「友情の強調」
 釈迦は家族愛に恵まれなかったので、家族の情愛を断ち切って、「マイトリー」即ち「友情」を強調した。釈迦は男性僧侶たちと一緒に居る事を好み、女性僧侶たちや女性信者たちを出来るだけ避けた。彼は男色家ではない。女性たちの感情的な言動が、釈迦の心を乱すので、それで遠ざけたのである。
 
 友情を強調した事は、当時のインドでは画期的だった。友情という物は存在していたが、その友情を家族愛よりも遥かに価値の高い物であると教えたのは、釈迦が初めてであったのである。しかし友情の強調は釈迦の甘さであった。人間には友情に反応するホルモンがないので、幾ら友情を強調しても、纏まりを欠くのだ。事実、僧侶たちは三宝帰依によって結束したのであり、友情で結束したのではなかった。
 
●慈愛を産んだのはマハーパジャーパティー
 マハーパジャーパティーは初の尼僧になっただけではなく、女性としては初の阿羅漢にもなっている。釈迦が優遇してそうなった事は想像が着くが、それでも阿羅漢になったという事は、やはり彼女の出来が良かったからなのであろう。マハーパジャーパティーにしてみれば、釈迦の苦悩が解ったからこそ、釈迦の説いている教えなど簡単に理解する事ができた。
 
 釈迦自身は友情を強調して失敗していたのだが、マハーパジャーパティーは尼僧たちに慕われ、尼僧たちの中で第一人者になっていた。尼僧たちはバラモン階級やクシャトリア階級の出身者や、庶民や奴隷、そして売春婦たちなども居た。それらの者たちから等しく愛されていたのである。
 
 釈迦は平等を唱えたのだが、男性僧侶たちは出身カーストで分かれていた。バラモンたちは舎利弗と目連を、クシャトリアは提婆達多を、庶民たちはヤサをリーダーで固まっていた。意外な事かもしれないが、男性僧侶たちの間では、奴隷出身の出家者たちは殆どいなかった。
 
 釈迦とマハーパジャーパティーの違いは、男女の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、マハーパジャーパティーは3人の男子を産み育てたので、母性愛を以て尼僧たちに接したのであろう。だから尼僧たちは彼女の事を慕った、釈迦自身は、妻子を捨てて出家してしまった人物なので、そういう愛情を出せなかったのであろう。
 
 釈迦は友情だけでなく、生きとし生ける者への愛を唱えているのだが、この愛はマハーパジャーパティーの影響を受けての事だと見ていい。この愛が小乗仏教では「カルナー」即ち「憐み」になり、大乗仏教では「マハーカルナー」になり、中国語訳では「大悲」と成った。大悲をより解り易い言葉に変えるなら、「慈愛」であろう。この慈愛はマハーパジャーパティーこそが産んだ物なのである。
 
●提婆達多の分派
 釈迦の晩年には、原始仏教教団に提婆達多の分派という最悪の事件が発生する。この事件は、長らく提婆達多だけが悪いように言われてきたが、原始仏教教団が出身カーストを解消できなかった以上、これは原始仏教教団の後継者争いと見るべきであって、そう見た時に、この事件の真相が解って来る事に成る。
 
 原始仏教教団では舎利弗が第二位、目連が第三位であり、この2人によって教団経営がなされていた。釈迦は旅をする事を好んだので、雨安吾の時には教団中央に居るのだが、後の季節は旅行に出かけてしまう。そういう事では、教団経営は舎利弗と目連によって行われるのは当然であろう。この2人は教団経営をしているがために、現実的に成って、釈迦の定めた戒律を多少緩やかな物にしていった。
 
 これに反発したのが提婆達多であり、釈迦の理想を実現すべく、戒律重視路線を取るよう迫った。舎利弗と目連は釈迦よりも年上であり、提婆達多は釈迦よりも10歳以上若いので、これは事実上「後継者争い」であった。釈迦は提婆達多が異母弟なので、自分の後継者として考え、提婆達多の主張する意見に乗った。
 
 バラモン階級出身の男性僧侶たちは反発したのは勿論の事、庶民階級出身の男性僧侶たちまでもが反発した。だから釈迦は妥協し、戒律重視路線を廃棄した。これに怒った提婆達多は、クシャトリア階級出身の男性僧侶たちを引き連れて分派してしまった。その後、釈迦は舎利弗をも粛清した。舎利弗を事実上教団から追放し、故郷に戻らせ、そこで舎利弗は病死したのである。
 
 この事件は、マハーパジャーパティーをも窮地に陥れ、提婆達多が彼女の息子とするなら、ただでは済まされなかったであろう。彼女は釈迦が粛清したのか、自ら決めたのか解らないが、教団を去り、釈迦の死の三カ月前に死去した。やはり最後まで「結ばれぬ仲」だったのである。
 
 
●なぜ釈迦は阿難を連れて最後の旅に出たのか?
 80歳になった釈迦は最後の旅に出るのだが、この旅でまさか自分が死ぬとは思っていなかったらしい。事実、釈迦は教団代表の後継者を決めずして、この旅に出ている。旅を好む釈迦はいつも通りに旅をしたのだが、この旅で食中毒に罹り、下痢を繰り返し、遂には死んでしまった。
 
 最期の旅では釈迦は阿難を連れて行ったのだが、やはり阿難は彼の実の息子だったからこそ、手元に置いておいたのであろう。尤も阿難は大した僧侶ではなく、釈迦は阿羅漢にはしていない。阿難は秘書が務まる程度の能力しかなかった。ただ、釈迦の側にいつもいたので、それで「多聞第一」と呼ばれた。釈迦の教えを大量に聞いたからといって、理解している訳ではない。
 
 釈迦の死後、魔訶迦葉(マハーカッサパ)は仏典結集を行うのだが、阿難が阿羅漢になっていなかったので、この会議への参加を認めなかった。そこで急遽、修行をして、阿羅漢の境地にまで達したという。実に怪しい達し方であり、恐らく阿羅漢のレベルには達していなかった。しかしそれでは余りにも可哀想なので、教団の長老たちは阿羅漢にして、会議への参加を認めたのであろう。
 
 仏教の経典では「如是我聞」で始まる物が多いのだが、この「我」とは阿難の事である。釈迦の教えは飽くまでも阿難のフィルターを通して残っているので、釈迦の本当の教えは一体どうなのか、経典を鵜呑みしていると解らない。阿難は大まかな事なら記憶していたらしいのだが、細かい点は覚えておらず、それで教団の長老たちから非難を浴びせられたりした。
 
 釈迦は遺言で、「戒律が現実にそぐわないのなら、戒律を多少変更してもいい」と言い残した。阿難はこれを会議で伝えた。だからやはり釈迦の晩年、戒律を巡って後継者争いが起ったのであり、提婆達多だけを悪者にしてしまうと、歴史的事実が全く解らなくなってしまうのだ。
 
 
●「マハー」が付く、2人の僧侶
 釈迦が死ぬまでに、舎利弗と目連は死に、提婆達多は分派したので、魔訶迦葉は漁夫の利を得る形で、教団内で第二位にまで上り詰めた。有難い事に、釈迦の側近である阿難は阿羅漢になっていなかったので、こう成ると、原始仏教教団の後継者は魔訶迦葉しかいないという事に成る。
 
 魔訶迦葉は仏典結集を行い、経典を編纂し、戒律を整備した。人間の教えという物は、その人が生きている時は存在し続けるのだが、その人が死んでしまうと、あっという間になくなってしまう。そういう物だからこそ、死後にすぐさま経典を編纂してくれないと、如何に釈迦と雖も後世にその教えは残らなかった事であろう。
 
 彼は教団内で「頭陀第一」と呼ばれ、「清貧」に徹した。清貧であればこそ、戒律の問題を棚上げにし、とにかく僧侶たちは清貧に生きる事を手本として示した。だから戒律重視派からも、現実重視派からも支持を得る事ができた。二代目は教団を固める事が役割なので、下手に改革を行えば、教団を潰しかねないのだ。
 
 仏教を仏教に仕立てあげたのは「魔訶迦葉」であると言っていい。釈迦の教えは確かに素晴らしいのだが、教団組織を作り上げるという事をしなかったので、それでは宗教団体として成功しないのだ。仏教学者たちの中で、魔訶迦葉の事を悪く言う奴は、仏教の事を何も理解していないといっていい。
 
 原始仏教教団で「マハー」が付く僧侶はもう1人いる。それがマハーパジャーパティーである。彼女が居ればこそ、釈迦は愛に苦しみ、家族愛を乗り越えて、友情、そして慈愛を生み出していった。しかもマハーパジャーパティーは出家して尼僧となり、尼僧たちをしっかりと纏め上げ、その後、女性たちが出家して、尼僧になれる道をしっかりと切り開いた。
 
 宗教という物は、1人の天才的な宗教家だけで作られる物ではない。他に重要な協力者がいてこそ、新しい宗教は作り上げられる物なのである。原始仏教教団の僧侶たちは釈迦を教祖とし、魔訶迦葉とマハーパジャーパティーの2人が重要な僧侶であったというのは当然の評価であった。仏教原理主義という非常に偏った思想を持ってしまえば、釈迦ばっかり評価してしまい、魔訶迦葉もマハーパジャーパティーも全く評価されない事であろう。
 
 ちなみに、阿難には「マハー」が付いていない。という事は、原始仏教教団に於いて、重要な結果を残したのではないという事なのである。彼は原始仏教教団に於いて三代目の教団代表になるのだが、それでもマハーが付かないのだから、やはり釈迦が阿羅漢にしなかったのには、それなりの理由があったのである。
 
 
●ドロドロの愛憎劇を恥とせず
 釈迦はドロドロの愛憎劇を経験したからこそ、新たな愛を生み出す事が出来た。家族愛や氏族愛を突破し、友情や慈愛を生み出していくためには、悲惨な家庭に於いて育った人じゃないと出来ない。普通の家庭で育った人なら、家族愛や氏族愛しか説かないであろう。家族愛や氏族愛を超える愛を説くという事は、悲惨な家庭で育った事なのである。
 
 ところが仏教は小乗仏教になると、生身の釈迦を忘れ、「釈迦の神格化」が始まる。マハーパジャーパティーは養母として釈迦を立派に育て上げた。ヤショダラーは12年間も不妊症で悩んでいたのに、突如として妊娠しても、ラーフラは釈迦の子になってしまう。釈迦の晩年、釈迦は後継者を作る事に失敗したのに、提婆達多だけが悪いという事になってしまった。
 
 両親は立派、養母も立派、妻も立派、そんな事は現実にはありえないのだ。釈迦が教祖である以上、教団内で何か問題が発生すれば、それは釈迦が悪いに決まっているのであって、分派が発生したという事は、教団内に分派をやってしまうほどの深刻な問題があったという事なのである。
 
 不思議な事に、人工宗教の教祖たちは、全員が全員、普通の家庭に育っていない。モーゼもマホメットも捨て子。イエスは父無し子であり、母親のマリアは売春婦で、恐らく本当の父親はガリア人のローマ兵なのであろう。そういう連中だからこそ、家族を氏族の枠組みを超えて、新たな宗教を作り出していったのである。
 
 フェミニストに対して「お前の心の中に問題がある」といえば、必ず反発してくる事だろう。幾ら社会を幾ら変えても、自分は変わらない。自分が変わらない限り、世界は変わらないのだ。釈迦は苦しみに苦しみ抜いた上で、自分を変える事ができた。誰もが幸せな家族で育つ訳ないから、仏教というのは2500年経っても、未だに存続し続けているのである。
 

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コメント

タマティー様
いつもためになるお話を有難うございます。
釈迦とマハーパジャーパティーの愛を感じます。
釈迦は、愛を知ったから素晴らしい哲学が出来上がった様に思います。
マハーパジャーパティーが出家し彼を追いかけた。夫婦以上の強い繋がりに感じました。
二人で教団を作り上げる愛。
主人に愛される妻でいれる様努力したいと思いました。

投稿: せもたれ | 2017年6月12日 (月) 21時57分

タマティー様
こんにちは、にこと申します。
こちらのブログを見つけて大変に強烈に興味を持ち読ませていただいております。仏教のお話しも大変勉強になります。私も色々と悩みがあり鑑定を熱望しているのですがお願いできますでしょうか…?

投稿: にこ | 2017年6月13日 (火) 17時16分

にこさん、運命鑑定を受けるためには、試練が必要なのですが、現在の試練は、

「本当にシャレにならない体験談を、面白可笑しく告白しなさい」

です。

できるかな~?

投稿: タマティー | 2017年6月14日 (水) 05時34分

タマティー様
お返事ありがとうございます!
試練ですね!
私の住んでいるところは田舎で中学校に通うためには山を1つ自転車で越えなくてはなりませんでした。
ある日、通学中幼馴染と自転車お菓子を食べながら笑、2列走行しておりました。するといきなり私達の前にでっかい熊が飛び出して来ました!
その山道は今だに熊がよく出没する所でして…
私達はびっくりした拍子にお互いの自転車が接触し、ガラガラドッシャーンと派手に転んでしまいお菓子をぶちまけ私達も道路に投げ出されパンツ丸見えで、でも目の前の熊に恐怖できゃー!とかうわー!とか大声を出していたら熊がお菓子を持って逃げて行きました…
熊からしたら私達の方が怖かったのかもしれません…笑
恐怖の通学路でした…笑
いかがでしょうか…?

投稿: にこ | 2017年6月14日 (水) 13時15分

にこさん、熊が出る通学路って・・・。

確かにシャレにならない体験談ですな。

ひと山こえるって、雨の日とか、日が暮れた場合、一体どうしたの?

取り敢えず合格です。

家族全員の名前と生年月日、結婚した年月日、それと占って欲しい事を書いて送って下さい。

投稿: タマティー | 2017年6月14日 (水) 17時57分

にこさん、軽トラック? バス?
そうならざるをえないよな~。

旦那さんの名前は、本当の名はどれ?
苗字は足すみたいだけど、となると、息子さんの名前には足さないの?
ちょいと、名前で説明して下さい。

投稿: タマティー | 2017年6月15日 (木) 05時14分

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