学問・資格

文学フリマ東京39に出ます。

●文学フリマデビュー!

12月1日、文学フリマ東京39に出店します。

文学フリマデビュー。

今回は、出店者数と来場者数が1万5千人に達すると思う。

会場は東京ビックサイトだけど、とんでもない熱気に成る。

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●お品書き

出す作品は、

『童話の中のアスカ』

『紅のファーストラブ』

『露伴の最後』

『悲劇の恋愛女流歌人江口章子の誓い』第1巻『ひたすら北原白秋に恋して』

『めるる銀行』

です。

自分で搬入するので、130部。

売れ残るのは絶対に避けたい。

もっと多くしたいけど、現実を考えると、この数値に成った。

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●文学フリマの注意点

文学フリマに行くなら、千円札や百円玉を多く持っていく事。商品を沢山買うなら1万円札を使用していいけど、1品しか買わないのに、1万円札の使用は厳禁。

事前にWebカタログチェックする事。情報収集した上で行くと、非常に効果的。

掘り出し物があればすぐに買う事。後回しにすると、売り切れてしまうから。

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片岡信和を占ってみました。

片岡信和の運命データ

 地格 17画 吉凶相半

 人格 17画 吉凶相半

 総格 30画 大凶

 

●俳優から気象予報士へ

片岡信和は22歳の時に俳優としてデビュー。

戦隊物で活躍。

34歳の時に気象予報士試験に合格。

以降、俳優から気象予報士として仕事をするようになった。

現在は『羽鳥慎一モーニングショー』で、お天気キャスターを務めている。

 

●画

画数は地格が17画。

芸能人がこの画数を使えばトラブル続出である。

しかも人格も17画。

危険度は倍増している。

俳優からお天気キャスターに転職したのは非常にいい決断である。

17画はどうしても攻撃的になってしまう。

俳優が攻撃的になっていれば、いずれとんでもないスキャンダルが発生する事だろう。

お天気キャスターなら、天気予報で攻撃的になれるから、他の事に関しては穏やかにいられる。

 

●字相

字相は、「信」も「和」も吉字である。

信」とは、「自分の発言に嘘があれば、処罰されても構わないと誓う人」の事を言う。

だから名前に信が入っていれば、その者の発言は信用できる。

和」とは、「人の声と声とが調和する」というのが字源である。

声が物凄くいいのは、名に和が入っているから。

「信和」とは、本当の事を言い、人の信用を得、人々を和ましていくという事になる。

 

●音相

恐らく本名は、「のぶかず」と読むのであろう。

「のぶかず」とは、のんびりと育つ長男という意味になる。

「信和」を「しんわ」と読むのは、芸名としてであろう。

地格が17画なので、「のぶかず」では合わない。

「のぶかず」だと、どうしてものんびりとしてしまう。

ところが「信和」を「しんわ」と読むと、地格と会うようになる。

別に改名したわけではない。

字画の変動がないなら、違和感は全然なく、今までどおりにやれる。

それでいて、自分が本来持っている能力を巧く発揮していく事が出来るようになる。

 

●異常気象では天気予報が当たらなくなる

昨今、異常気象が当たり前になってしまったので、天気予報が当たらなくなっている。

よく、「石原良純の天気予報は当たらない」

と言われるが、彼がお天気キャスターの仕事をし始めたあたりから、異常気象が起こり始めている。

気象予報士試験で、さんざん受験勉強したのだろうが、教えられた事に間違いがあったという事だ。

異常気象では、今までの通説は通用しない。

そうなれば、

「自分の説を主張する事が大事」

なのである。

片岡信和は自分の意見をちゃんと言う。

だから高評価を得られるのである。

 

●クセツヨの強み

片岡信和はかなりクセツヨの人物らしい。

食事は1日1回だという。

その人物がヨガをして、体内の老廃物や毒素を出す。

オーラが物凄く綺麗になっている。

男性タレントたちの中では、断トツであるといっていい。

実は潔癖症で、帰宅後、着ていた服を全部脱ぎ、シャワーを浴びるという。

体がクリーンになっているので、そういう事をしなければならなくなるのであろう。

クセツヨの人物が、番組でMCを務めるのは無理。

自分を巧く活かしてくれる芸人かアナウンサーと出会う事が出来れば、大ブレイクする。

 

●天気解説の特番が欲しい

運命星は「孤高の星」なので、帯番組より特番の方がいい。

天気解説の特番をやれば、面白い事になるであろう。

3ヵ月に1回ぐらいのペースで、徹底的に質の高い作品を作れば、必ず評価される。

天気予報に強いのは、NHKかテレ朝。

他のテレビ局では無理。

池上彰のニュース解説特番なんてのは、いろんなテレビ局でやれば飽きる。

あれでもやれているんだから、天気解説特番でもいける筈だ。

現代の異常気象の話をしつつ、歴史上の異常気象の話もする。

そうすれば、いい番組を作れる事だろう。

 

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影山優佳を占ってみました。

影山優佳の運命データ

 地格 25画 吉

 人格 20画 大凶

 総格 43画 吉

 

●今年は当たり年になる

影山優佳は日向坂46の元メンバー。

正確に言うと、まだメンバーで、今年の7月に卒業する。

最終学歴は筑波大学附属高等学校。という事は、そもそも頭のいい子である。

コロナ禍の中、資格を6つも取る。

歯科助手。心理カウンセラー。薬学検定1級。世界遺産検定2級。不動産知識検定。ニュース時事能力検定2級。

勉強し捲ったせいか、人相が物凄く良くなっている。

コロナ禍前の顔は大した事ないのに、今の顔は物凄く綺麗になった。

ホームステイは誰もが経験した以上、その間、どれだけ勉強したかで、その後の運命が大きく分かれる事になる。

今年は運気が物凄くいい。そんな時に、日向坂46を卒業できたのは、超ラッキーである。

 

●そもそも影山って何?

「影山」という苗字は、珍しい苗字ではない。

しかし、「そもそも影山って何?」という事になる。

影山とは西山の事である。

日本民族は九州で誕生し、東へ東へと進んでいった。

だから、東山が先で、西山が後になる。

東側が開拓され尽くされ、その後、反転して、西側を開発していく。

西山さんが増えると、影山さんが出て来る。

影山とは日没に方向にある山の事で、影のある山という意味ではない。

面白い事に、影山さんは東を意味する物とは相性が悪い。

だから欅坂46の時は巧くやれたのに、グループ名が日向坂46になると、卒業する羽目になってしまったのである。

東山紀之とか、東国原英夫とか、東出昌大とかには、決して近づかない方がいい。

 

●字画

地格は25画なので、生まれ故郷を出ると開運する。

東京都出身ゆえ、生まれ故郷を出ていない。

いずれ何かしらの問題が発生する事だろう。

人格が20画なので、30歳までには結婚した方がいい。

結婚後、絶対に影山優佳では活動してはならない。

人格が20画だと、今まで築き上げた物を全て失う羽目になる。

 

●字相

「優」は吉凶の分かれる漢字である。

字源は「仮面を付けて舞踏をする俳優」で、そこから、「優しい」「優れている」「ぐずぐずしている」という意味が出て来た。

巧く使うと、優しい女性になれる。

しかし悪く使うと、まさに二重人格になってしまい、全く信用されない事になってしまう。

「佳」は吉字で、字源は「心身ともに均整が取れて美しい人」である。

バランスが大事で、バランスを巧く取っていると、自分の能力を遺憾なく発揮できる。

佳子内親王はバランスを崩しているからこそ、折角、いい名前なのに、問題が大量発生してしまうのである。

 

●音相

音相は「ゆうか」で、「ゆう」は「結ぶ」で、「か」は付け字と捉える。

自分1人が突出するのではなく、他人と結びついたり、他人を結び付けたりすると、巧く行く。

日向坂46を卒業してしまえば、自分1人で仕事をしていく事になるが、如何に他のタレントと結びつくかで、生き残れるか、消えていくが決まってしまう。

バラエティ番組に出るなら、実力のある男性のお笑い芸人と仲良くなっておく事は必要である。

 

●どこを攻めるのか?

影山優佳は多才な女性なのだが、何か1つ得意分野を持っておかないと、埋もれてしまう事になる。

まず歌手はやめた方がいい。

アイドルグループにいたという事は、歌唱力は大した事ないという事なのである。

女優」をやるには、美貌の点でかなり問題あり。

声はいいので、「声優」の方がお勧めである。

クイズが得意らしいので、とりあえずクイズ番組で攻めた方がいい。

正解率は高いが、機転の効いた事を言っていない。その点は今後の課題。

趣味はスポーツ観戦なので、スポーツ番組に出るのもいいだろう。

次のサッカーワールドカップに標準を合わせておく。

三苫薫や田中碧がいる以上、日本は絶対に大活躍する。

個人的には料理が得意らしい。

料理番組に出て、料理の腕を磨くのもいい。

恐らく、今年も紅白歌合戦に出られると思う。

今年は当たり年である以上、どんどん攻めていった方がいい。

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すずらんさん、初産記念運命鑑定スペシャル!

すずらんさん、それでは運命鑑定行きますね!

①息子の事

息子さんは物凄いパワーの持ち主です。

何か後世に遺るような事をやるでしょう。

音楽家にするのではなく、音楽を嗜む程度にするといい。息子さんは音楽からパワーを貰う子です。

育て方は、

「ルールを守らせる」

「知恵のある事を言う」

「何があっても、信用し続ける」。

学問でも、ビジネスでも、芸能でも、なんでもいいのですが、自分がパイオニアになる職業を選ぶと、能力を最大限発揮できます。

②夫の事

結婚して6年目の子供ですからね。

いい加減に子供つくって、落ち着けという事に成るのですが、夫が育児をやっている時は、すずらんさんは他の事をする。

そうやって、夫婦別々のポジションを取らないと、夫婦双方が疲労しきってしまいます。

言っておきますが、育児に於いて、夫は役に立たない物です。

旦那さんは仕事で変化が出て来るので、巧く流されると、いい結果が出て来ます。

下手に自己主張しない方がいい。

③チャレンジすべきか?

チャレンジすべきでしょう。

しかし、今後2年間は育児に専念した方がいい。

3年後ぐらいに第二子、その2年後にもう1人ですか否かって所ですかね。

④第二子女の子を授かる方法

まずは第一子をちゃんと育てあげないと。

出産後、多少は太った方がいい。

そうすると、母性ホルモンがより多く分泌されます

⑤すずらんさんの出来る事

米の飯はしっかり食べた方がいい。

食事に関しては問題ありです。

旦那さんが好む料理は何かを解った上で、その料理を美味しく作る。

厄介な事に、美味しい物には煩い男性です。

⑤旦那さんが長生きするためには?

放っておいても、旦那さんは長生きします。

余り心配しないように。

オカズは豊富に作るといいです。

⑥自宅はどうする?

当分、一軒家はなしです。

旦那さんの運勢に変化が生じているので、流され捲った方がいい。

一軒家は第二子が出来てから、考えるといいでしょう。

必要があると、本当にあっという間に建ってしまいます。

 

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せもたれさんへの運命鑑定2

せもたれさん、それでは運命鑑定行きますね!
 
●この子達はどんな事が向いているでしょうか?
長男と次男の習い事は何が良いでしょうか?
今は長男と次男は野球をやっています。
 
野球でいいでしょう。2人ともスタートダッシュで人生が決まって来るので、早くに出世できる物にした方がいい。
 
 
●長女は、タマティーさんが外に出した方が良いとアドバイスいただき。県外の短大に行き一人暮らしをしています。とても楽しそうにしているので本当に良かったと思っております。お陰様で自立できそうです。これからどんな仕事が向いているでしょうか?結婚は早いでしょうか?
 
他人に可愛がられる仕事が向いてますね。
美人なら、ファッションモデルとか、グラビアアイドルとかもあり。
結婚は早いでしょうね。総格が悪いので、結婚しないとマジで拙いです。
 
●長女が自立出来たら仕事を辞めても良いでしょうか? それとも私には向いているから続けた方が良いでしょうか?私は何が向いているでしょうか?
 
仕事はそのままにした方がいいですね。
人々が沢山居る職場の方が、せもたれさんには向いています。
辞める時は自然と辞めていく物なので、無理に辞めない事です。

 

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小学校教師の欠点 国語編

●小学校の教師たちは文系
 小学校の教師たちは基本的に文系であり、文系だからこそ、小学校の教師として使える。人文こそ学問の基礎に成っている物なので、小学校教育では文系の人たちの方が適している。自然科学は中学校からやっても充分に間に合うのであって、まずは人文で基礎を固めた方がいいのだ。
「人文」とは「文献に対する解釈学」の事である。歴史的に価値のある文献を研究する事によって人間の本性を研究していく。具体的に言えば「一般教養」であり、知識人として知っていなければ成らない事は知っていないといけない。一般教養があればこそ、専攻しても、偏った研究には成らないのである。
 
 この人文をより自分を高める事に使う事を「自己修養」と言う。日本は江戸時代に儒学によってこれを行った。だからすぐさま近代化できたのである。中国や朝鮮は儒学ではなく儒教であり、科挙に合格するために勉強していたからこそ、この自己修養が全くなかった。それで近代化に遅れてしまったのだ。
 
 現在の大学では、一般教養を教えはするが、自己修養はやっていない。社会主義の流行によって自己修養は完全に破壊されてしまった。これは外国でも同じで、せいぜいイギリスのオックスフォード大学で細々と行われているにすぎない。だから禄でもない学生たちが大量に発生してしまうのである。
 
 ちなみに「人文科学」という物はない。人文は科学ではない。人文では実験して実証をしていく事はできないからだ。それゆえもしも「人文科学」という言葉を使っている者が居るなら、「この者は人文を全然理解していない」と即断した方がいい。一般教養もなければ、自己修養もできていない、「大学を出たバカ」にすぎないのだ。
 
●大和言葉と漢語
 大学できちんと人文を教えていないので、小学校の教師たちが行う国語教育には重大な欠点が存在する。日本人なのに国語を理解していないので、そんな者が教師になって生徒たちに教えるのだから、幾ら教えたとしても生徒たちは理解できる訳がない。「国語は良く解んない」という生徒たちが結構居る物だが、それは正しい意見であるのだ。
 
 まず日本語の文法は縄文人が使用していた物であり、そこに匈奴系のウラル=アルタイ語の文法が後から付け加えられた。単語は呉人たちの言葉が訛った物であり、それが大和言葉に成った。漢字の大量輸入が始まると、漢字をそのまま使用し、日本語化して日本人の間だけで通用するようにした。
 
 例えば「三輪大社」の「三輪」とは、
「廟」→「みゃおう」→「みわ」
と変化していった物である。だから神社は基本的に霊廟であるという事が解る。仏教のお寺は「菩提寺」として入ってきたので、それで神仏習合が可能になったのである。ちなみに「お寺」はパーリ語で「長老」を「テーラー」と言ったので、それで「てら」に成った。仏教公伝以前に、日本の仏教は直接「カシミール」から伝来したからこそ、そうなったのである。
 
 日本語を正しく使いこなすためには、古語や現代語の勉強は絶対に欠かせない。古語辞典や国語辞典を読んで、大和言葉を覚えていくしかないのだ。それに漢字の勉強も欠かせないのであって、漢和辞典を読んで、漢語を覚えて行くしかない。漢字の発音には「呉音」「漢音」「唐音」があるので、この違いが解ると、漢字の理解度が格段に上がる事に成る。
 
 小学校の国語の授業では、そんなに難しい事は教えないので、とにかく「古語辞典」「国語辞典」「漢和辞典」を壊れるまで読んだ方がいい。勿論、授業の準備も必要だが、それは別に大した事はないであろう。そんな事よりも、教師自身が正しい日本語を使いこなせるようにならないと、国語の授業は巧く出来ないのである。
 
 
●国文法
 昭和憲法体制下では、占領軍の意向によって、国文法の授業が廃止されたままであり、未だに復活していない。だから小学校の教師と雖も、国文法の授業を受けていないのだ。国文法はせめて1年間はみっちりと習わないと物に成らない。日本人だから国文法を日々使用しているのだが、だからといって、学術的な事を解っている訳ではないのだ。
 
 国文法は、
「名詞文」
「形容詞文」
「動詞文」
という3つ文型からなる。なんでこんな事になってしまったのかといえば、縄文人が使用していた文法をそのまま使用しているからである。縄文人は日本列島で発生したのであり、「日本人はどこから来たか?」という愚問を発している限り、国文法を理解する事は決してない。
 
 これだと動詞文は単純な物に成ってしまうので、日本人は漢籍を読む事で、文章力を鍛えてきた。だから中国古典を読まなければならないのだ。中国古典は中国人たちにとって古典なだけではなく、日本人にとっても古典であり、日本人だからといって、日本の古典ばかり読めばいいという訳ではない。
 
 日本語では動詞が文章の後ろの方に来るので、日本語では「考えながら喋る」事が出来る。それだけ脳と言葉が近いのだ。しかし英語は動詞が文章の前の方に来るので、英語では「喋る前に内容を決めないと喋れない」。それで英語を母国語とする人たちは、必ず喋る前に間を置くのである。
 
 日本語は優れた言語なのだが、国文法が解っていないと、人の話を聞いていない人たちが出て来る。喋りながら考える事が出来るという事は、聞きながら考える事が出来てしまうので、それで人の話を聞いていないのである。もしも、
「そんな話、聞いてないよ~」
と言われたのなら、
「あなたは私が言った事を全然聞いていなかったんですね」
とやり返すしかないのだ。
 
●論理構成
 一般教養では「論理学」を学ばなければならないのが、この事を理解していない人たちが圧倒的である。大学では、一応、論理学の講座があるのだが、大概の学生たちは受けない。たとえ受けたとしても、全然面白くないから、頭の中には入ってこない。そういう事では、論理的に喋る事は出来なくなってしまうのだ。
 
 実際に使用される論理学では、論理という論法であり、
「結論先行」
「三段論法」
「四段論法」
程度であり、少なくともこれらは知っておいて欲しい。
 
 結論先行は自然科学の論文ではこれが用いられる。ビジネスでもこれを使用するのが殆どであろう。あれこれ理由を言われても、「結論は一体なんなんだい?」と聞き返される事に成ってしまうのが落ちだ。三段論法は「序破急」、四段論法は「起承転結」で論理を構成する。
 
 女性教師の場合、女性なので、長々と話した後で、
「実は~」
と最後の最後で、最も重要な話をし出す事がある。こんな事を学校でされれば、さっぱり訳が解らなくなってしまう。女性は女性脳がそういう話し方をするから、「これをやってはいけない」と規制をかけておかないと、ついついやってしまう事になるのだ。
 
 男性が教師の場合、男性ゆえに、最初から決めつけてかかる癖がある。
「アイツはダメだ」
と一度でも断定してしまうと、決して覆らない。だから男性教師だと、体罰を平気でやってくる。人間関係に於ける男性の脳という物は、女性脳に比べて異常なまでに単純なので、その危険性を認識していないと、平気で体罰をやりまくってしまう事に成るのだ。
 
 それと日本では仏教の影響が非常に強いので、自分の意見を全く言わない人たちが居る。散々話を聞いたのに、その人は意見は1つも存在しないのだ。自分の意見を言わない人は、絶対に無責任な態度を取る。イジメで生徒が自殺しても、なんで担任が全く責任を問われないのは、仏教の影響だと見ていい。
「無我は無責任を産む」
という事を、親であるならば、絶対に忘れない事だ。

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音読みの謎

●「呉音」「漢音」「唐音」
 音読みとは日本語に於ける漢字の字音の読み方である。日本語には日本独特の発音法があるので、中国人が発音しても、それをそっくりそのまま真似る事ができなかった。どうしても日本風の発音になってしまう。日本人が漢字を大量輸入したのは三回あって、「古墳時代」「奈良時代と平安時代」「鎌倉時代」の3つである。
 
 古墳時代に行われた音読みを「呉音」という。主に三国時代の「呉」から学んだからこそ、こういう言われ方をする。但し、呉だけでなく、その後の「西晋」「東晋」「宋」「斉」「梁」からも受け入れた。大和朝廷にしてみれば、外交交渉をするためにどうしても必要だったからこそ、漢字の大量輸入が起ったのである。
 
 奈良時代と平安時代に行われた音読みを「漢音」という。主に「隋王朝」や「唐王朝」の時の発音なのだから、「隋音」とか「唐音」といえばいい物を、漢王朝の時の発音ではないかと勘違いされてしまう漢音になっている。古代日本人は華北の人たちを「漢」(から)と呼び、華南の人たち「呉」(くれ)と呼んだので、それで漢音になってしまったのだ。
 
 鎌倉時代に行われた音読みを「唐音」という。これは本当に誤解を招く。主に「宋王朝」の時の発音なので、だったら「宋音」にすべきなのである。しかし唐王朝が崩壊する過程で、どうも日本に大量の亡命者たちが来たみたいで、その者たちは唐王朝の時の発音を行なっていたので、それで唐音になってしまった。
 
 例えば「京」という漢字は、呉音では「キョウ」、漢音では「ケイ」、唐音では「キン」であり、「平安京」(ヘイアンキョウ)では呉音を、「京阪」(ケイハン)では漢音を、「北京」(ペキン)では唐音で処理している。同じ漢字を使うのだから、発音を統一すればいい物をなぜだが3つも発音が存在しているのだ。
 
●抵抗したのは誰か?
 古代日本では壬申の乱が起り、これによって律令制度を本格的に確立していく事になる。この時期に漢音を一気に普及するので、この時に呉音を廃棄すべきだったのである。実際に朝廷は平安京遷都の直前に「漢音を持って正しい音読みとする」という勅令を出している。しかし抵抗した者たちが居たからこそ、呉音が生き残ってしまったのである。
 
 じゃ、一体誰が抵抗したのかといえば、まずは「僧侶」たちであり、仏教関係の用語には呉音が大量に残っている。例えば「成仏」(ジョウブツ)は呉音の発音であり、漢音なら「セイブツ」となる。但し「仏」は呉音だと「ブチ」なので、呉音で正確に言えば「ジョウブチ」で、「ジョウブツ」は多少なりとも妥協した結果という事ができる。
 
 第二の抵抗勢力は「医者」たちであって、医療関係にも呉音が大量に残っている。例えば「静脈」(ジョウミャク)は呉音の発音であり、漢音なら「セイバク」となる。「脈」は漢音だと「バク」なので、「心臓がバクバクする」という事で、多少存在している程度である。朝廷は医療には介入できなかったみたいで、医療関係には呉音がしっかりと残ってしまった。
 
 第三の抵抗勢力は「官僚」たち自身であり、法律関係にも呉音が残っている。平安京自体が呉音を用いている以上、官僚たちは天皇から勅令が下っても、そう簡単に漢音に移行する事ができなかった。尤も漢音を普及させる役目を負うのは官僚たちなので、官僚たちが呉音を残してしまえば、確実に残る事になる。
 
 中国は専制君主制を取るので、始皇帝の例を見ても解るように、発音を統一しようとすれば、本当に統一してしまう。それだけ政治権力が圧倒的に強大であるのだ。しかし日本は専制君主制を取らないので、どうしても朝廷の力が弱く、政治権力の及ばない箇所が出て来てしまうのである。
 
●慣用音
 
 呉音や漢音や唐音には或る一定の法則が存在するのだが、厄介なのが「慣用音」であり、慣用音は中国語に基づく事無く、日本人が発音し易いように発音してしまった物だから、訳が解らなく成る。それなのにその発音が使い勝手からいいからこそ、日本人はなんの疑問に感じないのである。
 
 慣用音の代表例が「茶」であろう。茶は慣用音で「チャ」と発音する事になっている。しかし呉音では「タ」、漢音では「ダ」、唐音では「サ」なので、漢字本来の発音とは一切関係ない。一体いつどこで誰が「チャ」と言い始めたのかというと、恐らく平安時代後期に医者たちの業界用語であったろうと推測される。
 
  臨済宗によって抹茶が普及する前、茶は薬であった。漢音で「ダ」と言ってしまうと、何を言っているのか解らないので、それで「チャ」にしたのではないか? 臨済宗は茶を「サ」と唐音で読んでいたので、禅僧たちが「チャ」という言葉を広めていない事はたしかなのである。
 
「茶道」は「チャドウ」か「サドウ」か非常に問題であり、これは茶道の命運を左右しかない問題だと言っていい。最近の流れとしては、「サドウ」から「チャドウ」へという流れになっており、茶人たちまでが「茶道」を「チャドウ」と言い始めている。しかし茶道を「チャドウ」というのはダメなのである。
 
 姓名判断的に「茶道」を「サドウ」と読むとお洒落で華やかという事を意味するが、「チャドウ」だと大胆だけど孤独という事になってしまい、「サドウ」の方が茶道の実態とピタリと一致しているが、「チャドウ」だと全然合っていない。大体、「喫茶店」は「キッサテン」であり、だから人々は行くのである。「喫茶店」が 「キッチャテン」では誰も行かないだろう。
 
 では、なぜ「茶道」が「チャドウ」と言われるようになったのかといえば、それだけ茶道が国民に普及したからであり、普及したからこそ、茶人たちですら日本語として言い易い物にしたいのである。尤も「茶道」が「チャドウ」になってしまうと、お洒落ではなくなるし、華やかな物でもなくなってしまう。
 
●元寇が日本を変えた
 元寇以降、日本は中国から漢字を大量輸入していない。元寇の際、鎌倉幕府は兵力的には圧倒的に不利だったのに、神風が吹く事でモンゴル軍を殲滅する事が出来た。これによって戦後、「神国思想」が生まれて来る。だから中国から漢字をもう大量輸入する事がなくなってしまうのである。
 
 尤も中国で発明された品物は元寇以後も入ってきている。例えば「行灯」「卓袱台」「麻雀」とかである。これらの漢字に共通する事は、当時の中国人たちが使っていたであろう発音に比較的近い発音を日本人がしているという事であり、呉音や漢音や唐音のようの法則性のある物とは根本的な所から違っている。
 
 モンゴル軍の中国侵略で中国文化のレベルが下がり、それと同時に日本は南北朝の動乱を迎えて、幕府が統治能力をなくし、それがために商業が活発になったので、だから日本と中国の間にそんなに差がない事になってしまった。寧ろ江戸時代になると、日本の学問の方が進み、朱子学で停滞しした中国の学問を追い抜いてしまうのである。
 
 近代以降、日本は西洋の文物を大量輸入したので、英語やドイツ語を日本語に翻訳していく作業に追われた。これによって今度は日本が中国に漢字を大量輸出するようになったのである。「哲学」「恋愛」「鉄道」とかいう単語は日本人が作った物であり、これは中国でも通用するレベルにあったからこそ、そのまま使用される事になった。
 
 戦後、学生運動や労働運動が活発になったが、しかし全く巧く行かなかった。失敗した最大の理由はこの手の運動をやった人たちが中国の「簡化字」を輸入したからであると言っていい。例えば「闘争」を「斗争」と書いたりして、できるだけ画数を少なくしようとした。これの一体何が間違いなのかといえば、日本はもう中国から漢字を大量輸入しなくなったのに、時代錯誤的に相変わらず中国から漢字を大量輸入してしまった事なのである。
 
●日本では革命が起っていない
 中国では革命が起ると、前の王朝の文化は全て否定される。全否定されるからこそ、漢字の発音も変わってしまうのである。中国人たちは「中国四千年」と言うが、実際の中国は中華人民共和国から建国してからの日数でしかない。想像以上に浅い国家なのであり、中国人たちの誇大表現に騙されては成らないのだ。
 
 日本に革命があったのか否かは時折問題になるが、天皇制が古代より続いている以上、日本には革命などなかった。確かに明治維新や敗戦によって価値観の変動はあった。しかしそれは革命ではないのであって、もしも革命が発生していたのなら、日本だって漢字の発音の仕方はがらりと変わってしまった筈なのである。
 
 日本には革命が起っていない以上、日本人がすべき事は日本文化の継承と発展であり、その積み重ねこそが大事という事になってくる。だから国語を教える事は日本史を教える事でもある。日本史が解ると、国語の理解度も高まって行く事に成るのだ。音読みはその代表格だと言っていい。
 
 音読みに対して一言言っておくと、
「音読みは飽くまでも日本人同士で取り決めた約束事であり、絶対に正しい物ではない」
という事である。漢字の正しい読み方は中国人たちのやっている物なのであって、その漢字を輸入し、日本人が発音し易いようにしただけに過ぎない。
 
 例えば「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているのだが、「ミウゾウユウ」と発音するのは決して間違っている訳ではない。「有」は呉音では「ユ」であり、漢音では「ユウ」である。だから漢音で発音すれば「ミゾウユウ」の方が正しい。しかし「未曽有」は仏教用語であり、僧侶たちは「有」を「ウ」と読んだからこそ、「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているに過ぎないのだ。
 
※参考文献
円満字二郎著『漢和辞典に訊け!』(筑摩書房』
円満字二郎著『大人のための漢字力養成講座』(ベストセラーズ)
(この円満字二郎は凄い人かも。出版社で漢和辞典の編集をしたので、漢字の問題を実に解り易く説明してくれる)
 
 

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仏教を研究して解った事 その3

●唱題はなんの役にも立たない
 俺は子供の頃から「日蓮贔屓」で、日蓮宗には期待していたのだが。仏教を研究して解った事は、「唱題」は仏教に於いてなんの役にも立たないという事である。唱題は、
「南無妙法蓮華経」
と唱える事なのだが、原始仏教の段階では、この唱題という物が存在しない。唱題は飽くまでも大乗仏教が起ってきたから出来た物に過ぎない。
 
 仏教で帰依しなければならないのは「三宝」であり、三宝とは「釈迦」「法」「サンガ」の3つを指す。だから法華経がどんなに素晴らしい経典であっても、それに帰依しているようではアウトなのである。今まで唱題が念仏ほど問題に成らなかったのは、法華経は釈迦を奉っているし、法もサンガも尊重しているので、それで唱題した所で、必ずしも仏教の教義に違反するという訳ではないからだ。
 
 それなのに、俺が仏教を研究していく過程で、日蓮宗の僧侶や信者たちが書いた物で、一流の書物は1つもなかった。なんでこんな現象が起こってしまったのかといえば、日蓮宗では法華経を最高経典と過信する余りに、釈迦の教えが一体なんであるかを研究していこうとする意欲が全くないからである。
 
 如何なる宗教にも「教義」と「教義史」という物がある。仏教のように人工宗教の場合、教義に於いて最も重要なのは、「釈迦の教えはなんであるか?」なのであって、それが解らなければどうにもならない。しかし釈迦の教えだけが仏教の教えではなく、釈迦の死後、仏教の教義は発展していくのであって、それを研究していく事もまた大事な研究なのである。
 
 古代日本に伝来したきたのは飽くまでも大乗仏教なのであって、原始仏教ではない。しかも日本の仏教は鎌倉時代に鎌倉仏教が出て来て、「一行選択」という事を行って、念仏とか坐禅とか唱題とかに特化してしまった。だからどの宗派も大乗仏教の中でもほんの少しの事をしか理解していないし、況してや原始仏教の事など全然理解していないのである。
 
●日蓮宗の最大の問題点
 浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀如来を信仰しているので、仏教を研究しても必ず嘘ついてくるという特徴がある。もしも仏教の教義をきちんと理解したのなら、どうしても棄教しなければならなくなるから、それが出来ないというのなら、嘘をつく事で自分の宗教心を誤魔化す事に成る。
 
 だから浄土宗や浄土真宗の人たちが書いた書物は注意して読まなければ成らないのだが、しかし日蓮宗の人たちが書いた書物は独特の乗りがあって、途中で読むのを放棄したくなるほどの酷い。俺はなんでこんな書き方をするのか長らく解らなかったのだが、日蓮宗には「三証」という物があって、これこそが読むに堪えないほどの書物にしてしまう最大の原因であるというのが解った。
 
 三証とは「文証」「理証」「現証」の事で、文証とはその主張が仏教的に正しいかどうか経典や論文によって証明する事を言い、理証とはその主張が理論によって仏教的に正しい事を証明する事を言い、現証とはその主張が現実世界に於いて仏教的に正しい事を証明する事を言う。
 
 一見、ご尤もな論法だと思うのが、日蓮宗では三証の内、現証を最も重視するので、それで研究がおかしな方向に突き進んでしまう事に成る。学問の研究では現実を捨象する物なのであって、現実的に正しいか否かを基準にしていれば、研究それ自体ができなく成ってしまうのは当然の事なのである。
 
 三証を学問でやれば、必ず捻じ曲がった結論しか出て来ない。この事に例外は一切ない。解り易い例を挙げれば、福沢諭吉が実学の尊重を唱え、それで慶應義塾大学を作ったのだが、この大学からはまともな学術書も学術論文も一切出て来ない。なぜなら学問には実学と虚学があり、虚学こそが主であり、実学は虚学があれば自然と出て来る物だからである。
 
●大乗仏教は仏教ルネッサンス
 原始仏教は飽くまでも僧侶たちの宗教であり、小乗仏教になって僧侶たちと信者たちの宗教になり、そして大乗仏教によって菩薩たちの宗教へと発展していった。大乗仏教では僧侶と信者との身分格差が解消され、全員「菩薩」であるという事で平等な物に成った。菩薩とは「解脱が約束されている求道者」の事であり、修行に取り組んで行けば、必ず解脱できると考えたのである。
 
 しかし大乗仏教は小乗仏教を完全否定したのではなく、小乗仏教的要素を大量に取り入れる事で、新しい宗教運動としての体裁を整えた。だから大乗仏教は教義的には僧侶という出家者たちが存在しない筈なのに僧侶たちが存在してしまい、それで身分格差を完全に解消するという事が出来なく成ってしまったのである。
 
 原始仏教に於いて、釈迦は出家修行者たちである沙門たちを自分の教団に入会させ、釈迦を教祖を仰がせつつも、僧侶たちはみな平等であるとした。この平等こそ原始仏教を急速に拡大させた要因であったが、とはいっても、その繁栄は釈迦の死後100年で終わってしまい、小乗仏教に成ると身分差別が激しい物に成ってしまった。
 
 大乗仏教はそういう小乗仏教に対して反対して登場してきたのであって、仏教徒たちの平等を再確認する事で、新たなエネルギーを仏教に吹き込んだのである。確かに小乗仏教は原始仏教の教義や戒律を伝えている。だが肝腎な物が抜け落ちているのであって、それゆえ大乗仏教は小乗仏教に異を唱えたのである。
 
 大乗仏教は「仏教ルネッサンス」なのであって、この事が解っていないと、大乗仏教を正しく理解していく事は出来ない。もしも大乗仏教の主張を貫徹しようとするなら、僧侶たちは廃止されるべきなのである。実を言うとこれをやったのが仏教系新興宗教団体であり、「在家仏教」を唱えて、既成仏教を否定したのだ。
 
●なぜ在家仏教は成功するのか?
 在家仏教の殆どが日蓮宗系であるというのは決して偶然ではない。日蓮宗には三証があるので、在家仏教の方は現証を重んじて布教していけば、自然と大量の改宗者たちを獲得する事が出来てしまう。三証は飽くまでも布教で使える物であって、日蓮宗のように既に布教に重点を置かなく成れば、おかしな研究しかしない事に成ってしまい、それで信者たちを喪失して行ってしまうのである。
 
 教団に僧侶たちがいないのなら、その分、人件費を安くする事が出来、信者たちは少ない経済的負担で宗教活動を行っていく事が出来る。日蓮宗でも明治維新以降は、浄土真宗の悪影響を受けて、僧侶たちは出家したと言いながら結婚して妻子を持って居るので、信者たちは僧侶とその妻子の生活費を負担しなければ成らない。だったら脱会して、在家仏教の教団に入会した方が良いという事に成る。
 
 しかし三証は学問の研究にとって有害に成るので、それで在家仏教の教団はどこも大学を作っていない。唯一の例外が創価学会であり、創価学会は創価大学を作る事によって、学問研究を行える道を開いた。尤も創価学会自体、三証の教義を捨てていないので、創価大学の教授たちが「三証は学問研究にとって有害である」と気づかない限り、優れた研究を
行う事は出来ないであろう。
 
 釈迦は出家する事で、世俗の生活を捨ててしまったので、それで仏教の教義を作り出して行く事が出来た。学問でも学者たちが自分の生活の事を捨象するからこそ、まともな研究成果を生み出して行く事が出来るのである。実を言うと、僧侶たちのやっている事と、学者たちのやっている事には共通項があるのであって、だから学者たちの内、仏教徒である者たちの比率は高いのだ。
 
 だが日本の仏教は原始仏教からも大乗仏教からも遠く懸け離れてしまった物であるので、学問研究の邪魔になる教義を切り捨てていかないと、どうしても自分の信仰のためにまともな研究が出来なくなってしまうのである。日本の学問が振るわない原因は、釈迦の教えを解っていないのに、仏教を信仰している事にあると言っていい。
 

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仏教を研究して解った事 その2

●釈迦が教えた修行法
 
 釈迦が原始仏教教団を立ち上げて、教団の経営を軌道に乗せる事が出来たのは、釈迦が「四諦八正道」を唱えたからに他ならない。これがあればこそ沙門たちを改宗させて僧侶にしていく事が出来た。教団内では如何なる修行をやっていたのかといえば、
 
「釈迦の説法を聞く」
「布薩に出て反省する」
「坐禅を組んで瞑想する」
 
という事をやっていた。
 
 だから仏教徒である以上、説法を聞き、布薩に出て、坐禅を組むという事をしないと、仏教を修行した事にはならない。自ら「仏教徒である」と名乗っても、本当にその者が仏教が解っているかいなかは、これらの事をしたかしないかで決まる。当然、こういう事が出来るのは僧侶たちだから、俺は僧侶たちが書いた仏教書を主に読み、仏教学者たちが書いた本は飽くまでも仏教を学術的に研究した物としか扱わなかった。
 
 釈迦の説法は『スッタニパータ』や『ダマンパダ』を読めば解るから、後世できた仏教経典を読むのではなく、原始仏教の経典を読むべきであろう。仏教を理解していくに当たって、阿弥陀信仰とか法華信仰というのは実に邪魔なのであって、この手の信仰を否定しないと、釈迦が一体何を言ったのか解らない。
 
 原始仏教教団では、布薩は新月と満月の時にやったので、新月と満月の時は仕事をやめて、反省会をしなければならない事になる。但し日本の仏教は戒律を否定する事になってしまったので、この反省会は戒律に違反したかを問う物ではなく、自分の内面的な事を問う物になってしまう。
 
 坐禅は個人で出来る物だから、時間があれば坐禅をすべきであろう。原始仏教教団の坐禅はかなり自由な物で、坐禅が厳格に成ったのは中国で禅宗が起ってからなのであって、あんな堅苦しい坐禅はしなくていい。原始仏典を読んでいると、坐禅は瞑想に重点が置かれているのであって、坐禅それ自体には重点が置かれていない事が解る。
 
 
 
●禅宗の問題点
 
 日本の仏教の宗派で坐禅をしているのは禅宗系の臨済宗や曹洞宗であり、だから俺はこの宗派の僧侶たちに高い評価を与えた。普通の人たちから見ればこの両宗派は同じようだと思ってしまうが、臨済宗の僧侶たちは上品なのに対して、曹洞宗の僧侶たちには当たり外れが大きく、当たりの僧侶たちは本当に出来が良く、ハズレの僧侶たちは本当の糞坊主としかいいようがないほど酷い。
 
 禅宗での坐禅の最大の問題点は、坐禅の最中に「警策」を使う事である。警策を使用されると、瞑想が中断されてしまうので、それでより出来のいい瞑想が出来なくなってしまうのだ。臨済宗の僧侶たちにしても、曹洞宗の僧侶たちにしても、彼らの本を読んでみると、もっと先に行けばいいのに、なぜだかどの僧侶たちも途中で挫折してしまっているのである。
 
 俺が「ネルケ無方」というドイツ出身の僧侶を高く評価するのは、彼は瞑想が中断していないので、それで非常に出来のいい坐禅ができるからだ。彼は兵庫県新温泉町にある安泰寺で住職をしているのだが、警策をやれるほど人が多い訳でないので、それで警策を使用していないらしい。だから中断される事なく瞑想をする事が出来るのであり、これが格段に出来のいい結果を生み出しているのである。
 
 瞑想は高い集中力を長時間に亘って持続しなければならないのだが、これを可能にするためには白米を食べるのは絶対にダメであり、必ず玄米にしなければ成らない。実際にやってみれば解る事だが、白米ではこの長期的な瞑想は持たない。玄米を食べるからこそ出来るのである。
 
 事実、釈迦も出家前は白米を食べていたらしいが、出家後は玄米を食うようになった。それゆえ玄米なのであり、白米を食べて仏教を理解しようというのは無理が有り過ぎるのだ。俺は玄米を食べているので、著者が玄米を食べているのか白米を食べているのか大体解る。白米を食べて仏教の事を本当に理解した人は皆無であり、白米を食べている限り、仏教を理解する事は出来ないであろう。
 
 
●居眠り坐禅
 
 俺は本気で坐禅をやっていた訳ではないのだが、「居眠り坐禅」という物ならやった。居眠り坐禅というのは、俺は本を読み始めると眠たくなってしまうので、座ったまま腕を組んで、少し考え事をして、最終的には居眠りしてしまう物である。居眠りと坐禅を掛け合わしたような物であって、これをやるとなぜだか頭がリフレッシュし、仏教の事が実によく解るようになった。
 
 釈迦は短眠族だったらしく、夜遅くまで修行し、朝早く起きて修行していた。但し、食事が終わると眠たくなったらしく、それで昼寝は許した。この昼寝はバラモン教にはなかった物で、バラモンたちは仏教の僧侶たちが昼寝している事を大いに批判している。しかし昼寝こそ、仏教がバラモン教に大きく差を付けた物であった。
 
 俺には昼寝の習慣がないので、基本的に昼寝はしないのだが、最近、出張が多く、出張先であんまり寝られないので、それで出張から帰って来ると、昼すぎ辺りにどうしても居眠りをしてしまうようになってしまった。俺はこの居眠りを悪い物だと思っていたのだが、仏教の研究をしている時はこの居眠りこそが巧く機能してくれた。
 
 居眠り坐禅の凄さは、何か考え事をしながら居眠りをしてしまうと、居眠りが終わると脳がリフレッシュして、その解答を与えるだけでなく、釈迦の言っている事が実によく解るようになったという恩恵を与えてくれた。昼寝をしないと釈迦の言っている事が解らない。坐禅をしないと仏教の教えが解らない。だったら昼寝と坐禅を一緒にしてしまえばいいのである。
 
 釈迦の言っている事が解って来ると、仏教書の真贋をきちんと着けられるようになった。仏教書の著者たちが昼寝と坐禅をしていなければ、どう仏教を勉強したとしても、釈迦の言っている事は絶対に解りっこないのだ。仏教は勉強すれば理解できる物ではないのであって、やはり実践が伴わないと絶対に解らないのである。
 
 
●幾ら「仏教が好き!}と言われても
 
 仏教徒たちの中には「仏教が好き!}という事で本を書いて来る人たちがいるのだが、幾ら「仏教が好き」と言われても、釈迦の説法を聞き、布薩に出て反省し、坐禅を組んで瞑想しないと、絶対に仏教の事を理解できない。往々にしてこの手の発言をする人たちは仏教系の宗教団体に所属していないのだが、それだからこそ仏教の事を理解できないのである。
 
 キリスト教は信仰義認説を取るので、極論を言ってしまえば、信仰しさえすれば良く、善行は要らない。しかし仏教はそうではないのであって、三宝帰依すれば仏教徒として認められるが、解脱すべく努力し続けるからこそ仏教徒たりえるのである。どんなに仏教徒を名乗っても、煩悩まみれでは仕様がないのだ。
 
 仏教とは「自分自身と真剣に向き合う哲学」であると言った方がいいかもしれない。仏教を宗教だと捉えるからこそおかしな方向に行ってしまうのであって、仏教は自分の心を主とする事を教えるのだから、哲学とした方がいいのだ。仏教で問うているのは、解脱できたか否かなのであって、解脱していないのなら、仏教の事をあれこれ本を書くのはやめるべきであろう。
 
 解脱していないのなら、せめて坐禅を組んで瞑想して欲しい。幾ら煩悩があったとしても、坐禅をして瞑想すれば、或る程度は落ち着く。その状態で生きて行けばいいのであって、それすらしないと成れば、一体なんなんだという事に成る。はっきりと言ってしまうと、「仏教が好き!}と言っている事自体、仏教的には執着なのであって、仏教徒としては問題があるという事なのである。
 
 普段の生活はせわしない物だ。だからといって流されるままに生きてはならない。1日の中で、数分でもいいから心を落ち着ける時間を持つべきなのである。そういう事が出来れば、ちょっとした事で激怒したりはしない事であろう。だから坐禅なくして仏教を理解しようというのは無理が有り過ぎるのであり、結局、仏教の事を何も理解できなく成ってしまうのだ。 
 

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仏教を研究して解った事

●やっと書き終わりました
 
 今年、仏教の教義を研究した本を書き始めたのだが、やっと書き終える事が出来た。四百字詰め原稿用紙で千枚に成り、その内容もレベルは非常に高い。仏教は釈迦が教祖なので、釈迦が一体何を悟り、考えて行ったのが最も大事だから、それを探っていくと、このような長大な物になってしまったのである。
 
 はっきりと言ってしまえば、現代の仏教は原始仏教から遠く懸け離れており、釈迦の真意は全く伝わっていない。この現象は大乗仏教に於いて甚だしく、大乗仏教は仏教教義史に於いて評価を与えられるだけの事であって、釈迦が唱えた教えとは全然違う事を教えているという事では背教をやっているというしかない。
 
 俺が仏教の研究をしていくに当たって、様々な仏教書を読んで行ったのだが、その中で、
「コイツだけは絶対に許せない」
という人物が1人いた。それは、
「ひろさちや」
であり、この人は仏教の事を全然解っていないのに、大量の仏教書を書きまくって、世間の人たちを惑わしているのだ。
 
 幾ら仏教徒であっても、宗派が違ってしまえば仏教に対する考え方は違ってしまう。しかしそうは言っても、同じ仏教徒、正確に言えば大乗仏教を奉じているから、考えが違っても、
「この人は釈迦の真意を理解していないけど、大乗仏教の人なんだな」
という事が解る。これは既成仏教でも新興仏教でも変わらないので、仏教徒であるなら共通項を持っているのだ。
 
 しかし、ひろさちやだけは違う。俺はコイツの書いた書物を読むと、むかっ腹が立ってくる。他の仏教徒たちの書いた書物にはそういう現象は起こらないので、それで、
「ひろさちやは絶対に仏教徒ではない」
と直感で解った。仏教には四諦八正道があるから、仏教徒は必ず自分の心から「怒り」という物が消えて行く。それなのにひろさちやの心の中には「激しい怒り」が存在しているのである。
 
 
●釈迦は念仏しろなどと教えてはいない
 
 ひろさちやは浄土宗の信者なのだが、浄土宗というのはインド生まれの宗派ではなく、実は中国生まれの宗派であり、釈迦の教えからは完全に懸け離れ、釈迦の教えはもはや何も存在していない。浄土宗の母体となった阿弥陀信仰は、「アフガニスタン」で生まれた物であって、これは「仏教の仮面を被ったゾロアスター教」に過ぎないのだ。
 
 浄土宗では「自力か他力か?」という選択を強いるのだが、仏教は「自力本願」であり、絶対に「他力本願」ではない。釈迦はバラモン教のブラフマン信仰を否定し、自分の心を主とする宗教を切り開いていったのであり、仏教のどこをどう解釈しても、絶対に他力本願という考えは出て来ないのである。
 
 俺は最初、ひろさちやの異常さの原因が「念仏」にあるのではないかと疑った。釈迦は三宝帰依や禅定を説いたとしても、念仏しろとは言っていないからだ。「念仏義認説」は必ず「自己義認説」に成るのであって、それでひろさちやは自分の主張は絶対に正しいと言い張っているのではないかと思った。
 
「念仏すれば救われる」というのは、浄土宗内部だけで言っている事であり、仏教的には全くのナンセンスな教えである。そんな教えは正当な教えとは決して認められない。 釈迦は「念仏しろ」などとは教えていないのであって、まずはその歴史的事実が解れば、浄土宗の教義は全て成り立たない事が解る事であろう。
 
 仏教は解脱して仏陀になる教えなのであって、解脱できなかったら、どんな教義でもダメなのであり、もしも浄土宗の教義が正しいいうのなら、法然が開宗してから現代に至るまで、浄土宗内で解脱できた人を上げて欲しい。誰も解脱していないのだから、浄土宗の教義は完全に間違っているという事なのである。
 
 
●祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」を奪ってはならない
 
 俺はなかなかひろさちやの正体を見破る事が出来なかった。要は、ひろさちやは「小賢しい才子」なのであって、あれこれ言っているくせに、人間として大事な物が何もないという人物なのである。しかし彼の本を読み進めていく内、彼は「お婆ちゃん子」であるという事が解り、これこそが彼の性格を思いっきり歪めてしまったのではないかと思うようになった。
 
 男の子は母親の事が大好きである。男の子は女の子よりも免疫力が弱りので、母親の庇護がないと無事に育たない。だから母親の事を好きに成る事で、自分を安全に育てて貰うのである。しかし男の子には祖母もいるのだから、祖母が母親を押し退けて育ててしまえば、男の子は母親の事が好きという事が奪われてしまう。その結果、頭のおかしい男性に育って行ってしまうのである。
 
 俺はこのブログで、姑が孫を可愛がり、それを嫌がる母親たちから質問を受けたりするのだが、今までどちらかといえば姑の方に味方し、母親たちには敢えて嫁姑の争いを起こさない方がいいと言ってきた。しかしひろさちやのような人物を見ると、普通の母親たちの意見こそが正しいのであって、如何なる事があっても祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」という事を奪っては成らないのだ。
 
「どんなに悪い母親であっても、母親は母親として価値があるが、どんなに良い祖母であっても、祖母は孫を甘やかせば非常に有害である」
しかもその有害はその孫が死ぬまで続くから、まさに「三つ子の魂、百まで」の諺が該当する事に成る。母親だからこそ、我が子を絶対に祖母に奪われては成らないのであり、もしも祖母が息子を奪う行動に出て来たら、断固として戦わなければ成らないのだ。
 
 なんでこんなにもお婆ちゃん子が有害なのかといえば、祖母は孫息子の言う事ならなんでも聞いてしまうので、それでその孫息子は自分の意見はなんでも通ると思い込んでしまうようになるから、そのような育ち方をすれば、「自分の意見は絶対に正しい」というようになってしまうのは当然であって、それで平気で嘘をつくような人物に育ってしまうのである。
 
 
●ひろさちやの本は有害
 
 インターネットで調べてみたら、
「ひろさちやの本は仏教を勉強するにあたって非常に有害」
という意見が多数出ていた。そりゃそうであろう。彼は仏教の事など何も解っていないのであって、それなのに大量の仏教書を出しているから、しかもそれは殆ど入門書レベルの物だから、仏教に関心のある人は彼の本を買ってしまう事に成る、しかし読んでみたら、
「なんじゃこりゃ?」
という代物でしかないのだ。
 
 となると、ひろさちやの本を出している出版社は、
「仏教の事を全然解っていない」
という事になってしまい、ひろさちや個人の問題より、こちらの問題の方が遥かに深刻であろう。確かに俺が「この仏教書はいい本だな」という感想を持った本は、メジャーな出版社では全く出ていなかった。マイナーな出版社ばかりであった。
 
 日本の仏教界は1つの宗派が圧倒的に強いというようにはなっていない。カトリック諸国なら、ローマカトリック教会が宗教界を独占しているので、それでローマカトリック教会が真贋を選別し、異端者や背教者たちは排除されていく事に成る。このやり方には問題があるが、しかしそれによってカトリシズムがきちんと守られるように成るので、それでひろさちやみたいに、キリスト教の事を全然解っていないのに、キリスト教の本を書きまくるという人物は出て着ないのである。
 
 もしもどのかの宗派に属する僧侶なら、仏教を専門にやっているのだから、ひろさちやの異常さに気付いて、論争を挑んで論破していくべきであろう。ひろさちや所詮「在家の信者」なのだから、仏教のプロが戦いを挑めば、確実に勝利できるに違いない。それなのにそれをしないというのは、仏教界全体のレベルを引き下げてしまう事になってしまうのである。
 
 ひろさちやは、日本人の事を「エコノミックアニマル」と罵り、
「少欲のすすめ」
「捨てちゃえ捨てちゃえ」
「こだわりを捨てる」
とか主張しているのに、彼はなんと単行本だけで300冊以上も出している。これほど強欲で、何も捨てず、拘りを持ち続けている人を俺は他に知らない。典型的な「倒錯話法」であり、精神的には全く自立していないというしかないのだ。
 

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