文化・芸術

平成30年度のタマティーのお年玉プレゼント

●平成30年度のお年玉プレゼント

 平成30年度のタマティーのお年玉プレゼントは、なんと、

「白物」!

 戌年は白い色がラッキーカラーに成るので、白い物ならなんでもいい。今年の究極のラッキーアイテムは、

「白い犬」

という事になっている。

 正月三箇日、高速道路のパーキングエリアで、白いシェパードを連れて歩くご婦人を見てしまった。この手の犬を飼うのもラッキーなのだが、見るのもラッキーなのだ。犬種では、「サモエド」と「クーバース」が白い毛でフサフサとした物になっているので、今年はこれらの犬が買いであろう。

 白色は、神道では神聖なる色であり、仏教では黒色となる。上座部仏教では違う色を尊ぶのだが、日本に伝来した仏教は中国を経ているので、そうなったのである。神社神道では正式な祭服は白色であり、他に色を使う事もあるが、正式な祭祀では必ず白色の物を用いているのだ。

 ちなみに、天理教ではなぜだか「黒色」を祭服に用いている。これは中山みきが居た時に、教団内で吉田神道と修験道と浄土宗の勢力が競争し合い、最終的には教義の形成では吉田神道を取ったのだが、信者たちの多くは浄土宗系の儀式を取った。天理教は戦前「教派神道」だが、戦後は「諸教」に行ってしまった。祭服に黒色を用いて、教派神道には留まれないであろう。

●「白色の食器」「白色の服」「白色のシーツ」

 生活関連では、「白色の食器」がお勧めである。食器の中に欠けている物があるなら、とっとと捨ててしまった方がいい。白色の食器は高くないので、買い替えるには今年がベストなのだ。但し、白色の食器があると、全てを白色の食器で統一したく成ってしまうので、やりすぎは禁物である。

「白色の服」もお勧めで、下着は白色の物を使えばいい。下着の寿命はせいぜい3年だと思っておいた方がいい。長らく使用し続けてしまいと、生地が薄く成ってしまうので、それで保温効果が落ちる。下着の場合、まだ着れても、多少草臥れてきたら、捨てるに限るのだ。

「白色のシーツ」もお勧めで、今年はこれが魔除けになる。体重が軽いとシーツはそんなに傷まない物だが、体重が重いとシーツは傷む。夫婦で同じベッドに寝ても、夫の側だけ傷むはそのためなのだ。妻が男女の性差を理解していないと、穴の空いたシーツを使い続けてしまう事に成るのだ。

●真珠

 女性であるなら、今年は「真珠のネックレス」を付けるべきであろう。考えてみると、真珠のネックレスを好んで付けるのは、かなり大金持ちの女性たちが圧倒的に多い。真珠は直積に財運を刺激するのではないが、聖化する力を持っているので、それで精神レベルが上がって行く。だから莫大な資産を維持できるのである。

 真珠はそんなに高価な物ではないのだが、なかなか真珠に手を出せないなら、イミテーションの物を使い、自分で自分を騙し、収入を増やしていくという事をやっていい。収入が増えれば、今度は本物の真珠を購入するようにすれば、なんの問題もない。他の宝石とは違い、真珠は白色が大事な要素だから、イミテーションでも充分に効果を発揮するのだ。

 日本では宝石が殆ど取れないのだが、パールミキモトが真珠の養殖に成功してから、真珠を国内で調達する事が可能になった。経済大国の日本で真珠だけが取れるようになったのは絶対に偶然ではない。それなりの理由があるからこそ出来た事なのであり、真珠は大事にし、地道に購入していくべきなのである。

 

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平成30年度のタマティーの大予言

明けましておめでとうございます!happy01
本年も宜しくお願い致しまッスル!
それでは毎年恒例の、「タマティーの大予言」からスタート。
 
●戊戌の意味
 平成30年度は「戊戌」の年である。
 
「戊」は「斧が付いた矛」が語源であり、「十干の第五位」を示す。五行では「土」を意味するので、そこから「茂る」という意味が派生してきた。戊の年は戦争に成り易い年である。「戊辰戦争」はまさに戊の年に起った。戦争にならなくても、軍事力を用いての外交が展開され、一触即発で戦争という事に成りかねないのだ。
 
「戌」は「人が矛を持って守る」が語源であり、「十二支の十一番目」を示す。特に「国境警備兵」を意味するので、そこから「守る」「守り」「屯ろ」といった意味が派生してきた。基本的には防御を固めた方がいいのだが、国民の方が好戦的であり、政府がどう国民を統制していくかが大事に成って来る。
 
 だから戊戌の年は、政府は軍事力を増強し、手堅い外交を行っていかなければ成らないが、国民は政府が安全保障をしっかりとしていないと、戦争する事を要求し始めるという年なのである。キナ臭い年ではあるが、政府が政権運営を間違えなければ、確実に乗り切っていく事が出来る。こういう年に政権交代はすべきではない。敵は外国なのであって、国内は一致団結しなければならない。
 
 
●戊戌の年に起った出来事
①昭和33年(1958) 
 昭和33年には「中国国旗汚辱事件」が起こっている。これによって日中貿易全面停止となり、中国から商品を輸入できなくなってしまった。それで日本国内で商品を生産するようになり、日本の経済が発展していく事になる。
 
②明治31年(1898)
 明治31年には隈板内閣が誕生し、最初の政党政治を実現した。尤も大隈重信首相は大した事をやらずに辞職してしまった。長期間に亘って野党をやり、やっとの事で政権を取っても、なんの実績も残せず総辞職というのは、これ以降の日本政治で毎回繰り返される事に成る。
 
 幸徳秋水らが社会主義研究会を発足させたのもこの年である。日本は百年以上に亘って、社会主義の事で苦しむ事に成る。社会主義が世間知らずの学生たちを魅了するイデオロギーだという事を解っていないと、社会主義を殲滅していく事はできないのだ。すべき事は思想戦であり、思想戦に勝利するからこそ、社会主義を克服できるのである。
 
③天保9年(1838)
 天保9年には徳川斉昭が内憂外患の意見書を幕府に提出した。長州藩では村田清風を起用し、藩政改革を行っている。この時、幕府が改革を実施していれば、その後の倒幕は避けられた事であろう。長州藩は改革を実施したからこそ、幕末になって倒幕を主導できたのである。
 
 中山みきが天理教を創始したのはこの年で、政治体制が完全に行き詰まっていたので、それで新興宗教に走る人たちが大量に出て来たのだ。江戸時代には微々たる存在であったかもしれないが、明治になると一気に教団勢力を拡大できた。早くに急成長しなかったからこそ、それが出来たのである。
 
④安永7年(1778)
 安永7年には、ロシア船が蝦夷地に来航し、貿易を要求している。幕府は素直に貿易を実施すべきであった。ロシアとの通商を拒否したために、幕末にアメリカ合衆国と不平等条約を締結する事になってしまう。日本とロシアは揉めっ放しなので、日露両国が仲良く成る事はないであろう。
 
 本居宣長が『古事記伝』上巻を書き上げたのはこの年である。『古事記』は読めない書物であった。それを本居宣長が江戸時代の人たちにも解るように翻訳し、解釈を付けた。これによって日本の神代や古代の事が解るようになり、仏教を克服していく契機となる。
 
●政治
 戊戌の年では、政治は外交で揉める。日本はアメリカ合衆国との同盟を強化し、中国や北朝鮮や韓国に対して、外交で攻勢をかけるべきであろう。北朝鮮の金正恩は政権発足以降、最も強く出て来るのが予想される。トランプ大統領はヤル気満々でも、アメリカ軍の上層部は及び腰であり、日本が踏ん張らないと、本当に北朝鮮は戦争を仕掛けて来る事であろう。
 
 日本の安全保障の事を全然理解していない野党たちには、出番はない。もしも国民が愚かにも、自民党を引き摺り下ろし、野党を政権に付けてしまえば、日本の国益は激しく損害を受ける事に成る。外交で揉める年である以上、与党自民党に如何なる問題があっても、続投して貰うしかないのだ。
 
●経済
 経済は好調である。アベノミクスの成功によって、日本経済は発展していく事になる。デフレ経済になっているので、庶民の方には好況だという実感がないのだが、高額所得者たちの方には大量のお金が流れている。もう少し時間が経てば、低所得者たちにもお金が流れて来る事だろう。
 
 但し、増税が景気を減速させるので、出来る限り増税はすべきではない。いずれ消費税は10%に成るであろうが、だったら所得税は10%に引き下げるべきなのである。デフレ経済では減税こそ正解なのであって、増税すればするほど、景気は悪化する事に成る。増税を目指す政策を打ち出せば、選挙で負けるのは当然の事なのである。
 
●社会
 後に大発展する新興宗教が誕生するかもしれない。天理教が誕生した時、当時の人々はまさかあんなに大発展するとは思わなかった事であろう。新興宗教というのは、いい時期に生まれてしまえば、大躍進してくるので、世間の人たちの想像を遥かに超える事をやらかしてしまうのである。
 
 学問でも、後に重大な影響を及ぼす研究が始まる。今まで見捨てられていた分野だとか、新規の分野だとに手を付けてしまえば、思わぬ学術的発見をしてしまい、それで後世に於いて甚大な影響を引き起す事に成るのだ。逆に言えば、既存の分野を研究しても、そんなにいい事はないという事なのである。
 
●文化
 文化では、質の高い書籍が売れるようになる。出版不況が長く続いているのだが、それは読者たちのレベルが向上しているのに、出版社たちの方が相変わらず低レベルの書籍ばかり出しているからである。デフレ経済では国民の質が向上するのであって、インフレ経済で育った編集者たちが去らないと、なかなか質の高い書籍は出て来ないのだ。
 
 芸能界では結婚ラッシュとなるであろう。戌年は女性が妊娠したがる年なので、女優や女性歌手たちは続々と結婚し、妊娠出産していく事になるのだ。最大級のビッグカップルは「岡村隆史」と「ブルゾンちえみ」である。今年、結婚する可能性は大となっている。
 
 逆に独身を貫いている芸能人たちには悲劇が襲う事になる。例えば今田耕司とかは気を付けた方がいい。氷川きよしとかも、スキャンダル続きとなり、人気は急降下になってしまう。今年はどうやっても最悪の事しか起こらない年なのである。
 
●個人レベル
 個人レベルではなんといっても「妊娠出産」であろう。戌年生まれの人は、体力がタフな人たちが多い。戌年なのに、妊娠出産しないというのは、やめた方がいい。こういう年に、水天宮とかに行けば、効果は絶大であろう。仕事に重点を置いてしまうのは絶対に良くない。

 

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角野栄子さんに会ってきました!

●いきなりの招待状
 知り合いの女性作家は様々なイベント情報を集めて、せっせと応募葉書を送ったりしているのだが、そのくせ、仕事が忙しいので、締切日が近くなると、折角当選したのに、そのイベントには行けなく成ってしまったりする。そういう時に、俺の方にその招待状が回って来るから、実に迷惑なのである。
 
 今回もまた、嫌々ながら招待状を受け取ったら、なんと角野栄子の講演会であり、それを見た瞬間に、「今回は行く!」と決めてしまった。とはいっても、こちらもその日には用事があり、角野栄子の講演会に行った後、すぐさま引き返して、全く正反対の方に行かなければならない。まさに東奔西走。
 
 当日、講演会に行ってみると、角野栄子の肌が白い事、白い事。「白肌は七難隠す」というが、82歳のお婆ちゃんだというのに、実に綺麗なのだ。しかも服装がお洒落。肌が白いので、赤系の服が良く似合う。更には眼鏡を着けているので、目の周りの皺が全然目立たない。眼鏡の思わぬ使い方を発見してしまった。
 
 
●講演内容
 講演内容は、
「突如、アイデアが続々と出て来る」
「家事や育児をしながらの小説制作」
「図書館が充実しすぎると、作家はやっていけない」
の3つと見ていいだろう。
 
 結論は、
「想像力があるからこそ、創造できる」
でいいと思う。
 講演内容はもっと大量にあるのだが、ま、要はそんな物である。喋りが巧いので、脱線話も面白い。江戸っ子で、落語が好きだから、笑いは随所にあった。
 
 小説家だからといって、必ず想像力がある訳ではない。二流の小説家たちは物語を人工的に組み立てて来る。ミステリー小説はその代表例であろう。しかし一流の小説家たちは神憑り的に成って、物語を作って行く。本当に或る日突然にアイデアが湧いてきて、それを作品として仕上げて行くのである。
 
●『スパゲッティが食べたいよう』
 角野栄子は絵本を大量に出しているのだが、絵本関係では『スパゲッティが食べたいよう』(ポプラ社)が一番であろう。要は、アイデア勝負でやっており、もっとプロットで工夫すべきなのだが、それをしないと、こうなってしまう。尤も子供相手なので、下手に捻った話にしてしまうと、子供たちは付いてきてくれないから、話は単純の方がいい。
 
 絵本である以上、とにかく音読してみる事であり、音読すると、どの絵本の出来がいいのかが実によく解るようになる。いい絵本は喋り易いし、内容がどんどん入って来る。これに対して出来の悪い絵本は喋りにくいし、内容がイマイチよく解らない。短い話なので、作者の能力が問われるのだ。
 
 
●改めて『魔女の宅急便』
『魔女の宅急便』(福音館書店)は全六巻で、27年かけて完結した。しかしスピンオフに3巻分、予定されている。既に特別編として『キキに出会った人びと』、特別編その2として『キキとジジ』が出ている。となると、特別編その3はキキがどうやって魔女になる事を決意したのかが語られる事であろう。

「グーチョキパン店の命名の謎は?」
「キキとジジの出会いは?」
はスピンオフした物を読めば解る。
 
●トンネルの森1945
『トンネルの森1945』(角川書店)は、角野栄子が疎開した際の話を元にして作られた物である。こういう物は「小説」ではなく、「脚色実話」と呼ぶべき物で、事実ではないが、事実をそのまま書くより、多少演出した方が解り易いからこそ、このような事をやる。作品では、主人公は継母と疎開した事になっているのだが、実際には父親と姉が東京に残り、角野栄子は弟と、それに継母とその子たち(弟と妹)と疎開している。
 
 戦時下の話は嘘が多い。政府は戦争の情報を正確に伝えなかった。だから国民は戦争に対してまともな態勢を取る事が出来ず、逆に大損害を出してしまったのだ。本当に物資が不足し出すのは、昭和19年後半からである。配給がある以上、そう簡単に物資が不足する事ないのだ。だから角野栄子は嘘をついていない。
 
 この本を読むと、千葉は本当に田舎だったというのが解る。一人称が「俺」というのは蝦夷の血の濃い地域であり、東北地方となんら変わらない。

●実を言いますと

 角野栄子にはロシア人の血が四分の一入っている。父親がロシア人と日本人とのハーフ。ネットでは「角野栄子はハーフ」という情報が流れているが、それは完全に間違い。結構、ネットにはガセネタが流れているので注意すべし。

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甘口と辛口の謎

●女子アナのグルメリポート
 最近、食べ物を紹介する番組が異様に多いのだが、女子アナのグルメリポートには大いに不満がある。何を食べても、
「甘~い」
とかしか言わない。肛門に爆竹を突っ込んで、火をつけてやろうかと思ってしまうほど、「もっと他に言い方があるだろう」と反論したくなってしまうのだ。
 
 これがお肉になると、今度は、
「柔らか~い」
と間抜けな面して述べて来るのだ。動いている牛に噛みついてみろ。肉という物は本来硬い物なのだ。近くに牛が居ないなら、体型が牛に似ている上沼恵美子のお尻に噛みついて、食い千切ってみろ。
 
 女子アナのグルメリポートは、
「甘い」「柔らかい」「美味しい」
の3語で足りる。語彙が余りにも少ないのであって、そういうグルメリポートならするな。他の者にやらせろ。
 
 
●女性たちにとっての究極料理
 女性たちは「甘い物」「柔らかい物」が好きというのなら、女性たちにとっての究極料理とは、
「子牛の肉の生クリームかけ」
じゃないだろうか。甘いし、柔らかいし、美味しいのだから、これなら女性たちは大満足してくれるであろう。
 
 名付けて、
「お肉と雪の女王」。
普段は子牛の肉を使用しているのだが、たまに「May.J」のお肉が入っていたらアタリ。
「♪な~にも~、怖く~な~い」
と歌いながら食べましょう!
 
●太古の昔、料理を作るのは女の仕事だった
 狩猟採集経済では料理を作るのは女の仕事だったのであり、男性たちは料理など決して作らなかった。これはどこの地域でも同じである。ところが文明が誕生するとそうではなく成り始めた。穀物を生産し始めた部族は母系家族になり、相変わらず女性たちが料理を作っていたのだが、牧畜を開始した部族は父系家族になり、戦争で奴隷を獲得すると、その者たちに料理を作らせるようになった。
 
 文明化とは、母系家族から父系家族に移行する事なのだが、その移行の過程で、男性たちが女性たちの仕事であった料理を奪い取っていった。女性たちは甘い料理を好む以上、そういう料理ばかり作っていたのだが、男性たちは甘い料理以外の料理も好むので、それで料理のバリエーションが一気に増えたのである。
 
 
●甘口と辛口の違い
 料理には甘口と辛口があるのだが、甘口の料理は女性たちが好む物で、糖分が多い以上、これは必要な味であろうが、辛口は男性たちが好む物で、恐らく「疲労の除去」のために必要だったからこそ、加えていったのではないであろうか。
 
 甘口と辛口があると、味の領域は思いっきり広がる事になる。甘口の料理だけではどうしても単調になる。しかし辛口の料理があれば、様々な味の料理を作り出す事が可能になってくるのだ。
 
 結婚して、妻が一生懸命に料理を作っているのに、夫が何も褒めないのは、味が単調だからであり、味に対してもっと工夫した方がいい。ニンニクとか、ショウガとか、ネギとかを使うと、男性たちの好む味となる。これらの物は中華料理では必ず使用している食材だ。
 
●例外 
 但し、これには例外がある。「お菓子」に関しては甘い物のままでいい。お菓子には甘さを求めているのであって、辛さなど求めていないからだ。たまに「ワサビのソフトクリーム」なんて物が出て来たりするが、ああいうのはやはり男性が考え出した物であろう。
 
 それと「お酒」である。日本酒では、巫女が日本酒を作っていたという伝承が残ってるので、多分、甘酒がその名残りであるに違いない。ワインはキリスト教によって父系家族への移行が完全になされてしまったので、ワインの本来の味が失われている。女性がブドウ園のオーナーになると、そこで作ったワインは本当に美味しい。フルーティーな味になるのだ。これがワイン本来の味なのであろう。

   

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ケント・ギルバートに対して勝手に運命鑑定!

●歴史の逆説
 世の中というのは一直線では進まない。「歴史の逆説」が起り、常識では考えられないような事が起ったりする。特に宗教は歴史の逆説を引き起し易いので、要注意なのだ。アメリカ合衆国ではモルモン教に歴史の逆説が起っており、モルモン教徒の数は既に800万人を超え、他の教団たちが減少傾向にあるのに、モルモン教だけは増加傾向にある。
 
 かといって、モルモン教の教義は全く理解できない。キリスト教の宗派なんだろうけど、教義は完全にキリスト教の物から逸脱している。キリスト教徒たちの間では、「異端」という筝で定着している。しかしモルモン教徒こそ、アメリカ人らしいアメリカ人であり、普通のキリスト教徒たちよりもキリスト教徒らしいのはどうしてなのであろう。

 
●英語の名前と日本語の名前
 日本で最も有名なモルモン教徒のアメリカ人は「ケント・ギルバート」である。英語名では、
Kent Sidney Gilbert」
で、地格が9画なので父親とは縁が薄く、外国に出ると大吉となる。ケントとはイングランドに居た部族の名で、アメリカ人で「ケント」とくれば、実に「男らしい男性」で、道理に合わぬ事は絶対に言わない。但し、男らしさが欠けると、ちょっとおかしな事を言いまくるようになってしまう。総格は32画なので、「影の立役者」となり、人々に強い影響力を発揮してくる。財運は多く持ち、一時期、家族を犠牲にしてまで働くと、その後は豊かな生活を送る事ができる。
 
 日本語名では、
「ケント・ギルバート」
となり、地格は7画なので、性格は個性的であり、芸能界には似合っている。人格は7画なので、行動力があり、合理的な意見を言う。総格は21画なので、会社経営者向きとなる。英語名もいいのだが、日本語名はそれ以上にいい。だから日本に定住して仕事をしているのであろう。
 
 英語名と日本語名では相性が良い。幾ら日本語名が良くても、相性が良くないと、どうもおかしな事になってしまう。中には大凶の物のあるので、そういう人は早くに帰国しないと、日本で犯罪を起す事になってしまうのだ。外国人が日本語を覚えても、日本に定住する人とそうでない人に分かれてしまうのは、それが原因なのである。
 
●モルモン教の語学教育
 モルモン教では、2年間の宣教が義務付けられているのだが、外国に派遣する場合、集中的に外国語を教えてしまい、片言ができるようになれば、もう現地に派遣してしまう。その状態で生活していけば、帰国する頃にはもうその外国語を話せるようになってしまうのだ。ここまで凄い語学教育は他になく、モルモン教の最大の強みはこれであると言っていい。
 
 このため、モルモン教徒たちは国際的なビジネスで成功し易い。しかもCIAやFBIはその語学力のために優先的に雇用している。いずれ必ずモルモン教徒の男性がアメリカ合衆国の大統領に成るであろう。これだけ信者たちの質が高いのに、大統領を出さない訳がないのだ。
 
 ケント・ギルバートにしても、アメリカ人である以上、歴史に対して偏見を持っている筈なのだが、モルモン教徒ゆえにその偏った見方から離れ、正しく物事を見る事が出来ている。だから正論を言えるのである。まさに傾聴に値する意見を言っているので、彼の本で面白そうな物があるなら、読んでみるといいだろう。
 

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オーサ・イェークストロムに対して勝手に運命鑑定

●北欧女子
 学術書ばかり読んでいると頭が固くなってしまうので、俺は平行しながら軽めの本を読むようにしている。今回、気晴らしで読んでいたのだが、超面白かった。それが、
 
オーサイェークストロムの「北欧女子シリーズ」。
 
学術書をそっちのけで読んでしまったぐらい楽しめた。
 
 日本に滞在する外国人が書いた物は下らない物が多い。理由は簡単で、日本の事をよく知らないからだ。日本に生まれ育った俺ですら、日本に関して解らない事が多々あるのに、それなのに滞在10年も経っていない奴がとやかく言うな。文句があるなら、とっと帰れ。せめて「厚切りジェイソン」みたいに、ジョークを飛ばすとかして来い。
 

 北欧女子シリーズでは、2巻の出来が一番良いと思う 1巻と2巻の出版間隔が短く、しかも締切ギリギリで出したらしい。そういう緊張感があると、作品の出来は良く成るのだ。たっぷりと時間を与えれば、いい物が出来るとは限らない。寧ろ考え過ぎたり、手を出し過ぎてダメにしてしまう物なのだ。
 
 俺としては、「オールカラーにして欲しかった」。というのは、オーサの色使いが物凄くいいので、「なんでオールカラーにしないんだ」って事なのである。印刷代が嵩んでいいからオールカラーにしておけば、このレベルの出来なら、ベストセラーになってもおかしくない。続けて出していけば、ロングセラーにもなるだろう。
 
 作者は外国人なので、誤字脱字や文法の間違いをしてくるから、それを編集者が直すのはいい。しかし編集者が作品内容にまで手を出してしまうと、オーサの良さが減少してしまうのだ。内容に関しては、下手でもいいから、オーサのありのままを見たかった気がする。オーサ自身も、無闇に手を出されぬよう、ちゃんとした日本語を使えるようにした方がいい。
 
●スウェーデン語での名前と日本語での名前
 オーサ・イェークストロムはスウェーデン人なので、名前は、
 
「Åsa Ekström」
 
と書く。「A」の上に小さな「〇」がある。これで「オー」。「sa」は「サ」で、合せて「オーサ」となる。エクストロームと思いきや、イェークストロム。英語に似ているけど、発音が全然違うので、実に厄介。
 
 地格は7画なので、性格は個性的。事実、スウェーデンでは典型的な「オタク」。人格は6画なので、結構のろま。総格は25画なので、生まれ故郷から離れる運命にある。スウェーデンを出て、日本に来たのが開運と成った。もしもスウェーデンに居続けたのなら、本当に普通の女性として終わった事だろう。
 
 日本語ではカタカナで「オーサ・イェークストロム」と書く。地格は7画で、性格は個性的。人格は5画なので、シェアハウスに住むくらい、人々と接するのが好きになる。総格は24画 なので、漫画家には適している。新しい物を創作していきたいという意欲がメラメラと湧き上がってくるのである。
 
 ちなみに、「オーサ」はスウェーデン語ではそれなりの意味があるだろうが、日本語では、
「王佐」
という言葉があり、この単語は「王を補佐する」「王を補佐する人」という物凄くいい意味になる。他には、
「往査」
という単語もあり、これは「公認会計士などの監査人が、遠くの事業所に出張して監査を行う事」を言う。
 
●性格はスウェーデンでも日本でも同じ
 オーサはスウェーデン語でも日本語でも画数が同じなので、性格は同じという事に成る。だから彼女の書いた漫画は面白い。彼女はスウェーデンでも日本でもそのまんまだから、彼女の言っている事が伝わってくるのだ。尤もスウェーデンに居た時は超ダサい。本人曰く「全然イケてない」。その女性が日本に来たら美人に成った。
 
 スウェーデン語の名前だと、総格が25画だから、これで漫画家としてやっていくのは難しい。これに対して日本語の名前だと総格が24画に成るので、これなら漫画家としてやっていける。漫画の激戦区である日本で漫画家としてデビューしてしまえば、たとえトップを取らなくても、祖国で自分の漫画本を出せば、それなりに売れる。となれば、漫画家として充分収入を得る事が出来てしまう。
 
 外国移住では事実上画数での「改名」が起るので、この改名には気を付けた方がいいかもしれない。同じ画数なら性格は同じだけど、外国語では画数が変わるので、それによって自分の性格が変わってしまう。その変わった性格に自分自身が付いていければいいが、付いていけないと、帰国せざるを得ないであろう。
 
 また画数が違う場合、祖国での名前と移住先の名前とで相性があるので、それも問題になる。相性が良ければいいのだが、相性が悪いと何をやってもチグハグしてしまう。そういう時は通称で対応すべきであり、通称を巧く使う事で、どうにかやっていけるようにした方がいい。
 
 折角、日本に憧れ、日本に来て、ちゃんと日本語が出来るように成り、日本で就職して仕事が出来るようになったのに、名前の画数が悪かったり、祖国での名前と日本での名前の相性が悪いとなれば、どうにも巧く行かないので、それで日本を去ってしまう事に成る。外国人だからこそ、日本で仕事をする際には、運命鑑定を受けた方がいいのだ。

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釈迦が流した愛の涙 続編

●「不倫の禁止」「女性出家者たちの誕生」「友情の強調」
 釈迦は出家前に、男女の愛で散々悩んだ。だから釈迦が唱えた教えは、男女の愛で懊悩した者ならではの物に成っている。
 
①「不倫の禁止」
 原始仏教経典で最も特徴的なのは、「不倫の禁止」を盛んに唱えている事である。釈迦自身が人妻に手を出し、自分の妻を寝取られたので、不倫の禁止を徹底的に唱えた。バラモン教では不倫の禁止など唱えなかったので、仏教の教えは当時のインド人たちにとって非常に新鮮だった筈である。
 
 但し、原始仏教教団では、男性僧侶たちは信者たちの所に托鉢して食料を調達してくるので、必ず人妻と接する事に成る。それで男性僧侶が人妻に手を出すという事件は多発してしまったらしい。不倫の禁止を唱えている教団だからといって、本当に不倫をしない訳ではないのだ。
 
②「女性出家者たちの誕生」
 釈迦はマハーパジャーパティーの要求を聞き入れ、彼女を出家させているのだが、女性出家者たちが居たという事は、原始仏教教団の特徴であった。バラモン教には女性の宗教家たちは居ないのであって、インドでは仏教の登場によって、初めて女性宗教家たちが誕生したのである。
 
 アクレサンダー大王がインドを侵略すると、仏教教団を見て心底驚いた。「女性たちが哲学をしている」というのは古代ギリシャ人たちにしてみれば、最大級の衝撃だったのである。これが後に、インドに残ったギリシャ人たちを仏教に改宗させ、大乗仏教を生み出していく事に成る。尤も釈迦族では女性たちが大量出家してしまったので、釈迦族は滅亡という最悪の事態に遭遇してしまう事に成った。
 
③「友情の強調」
 釈迦は家族愛に恵まれなかったので、家族の情愛を断ち切って、「マイトリー」即ち「友情」を強調した。釈迦は男性僧侶たちと一緒に居る事を好み、女性僧侶たちや女性信者たちを出来るだけ避けた。彼は男色家ではない。女性たちの感情的な言動が、釈迦の心を乱すので、それで遠ざけたのである。
 
 友情を強調した事は、当時のインドでは画期的だった。友情という物は存在していたが、その友情を家族愛よりも遥かに価値の高い物であると教えたのは、釈迦が初めてであったのである。しかし友情の強調は釈迦の甘さであった。人間には友情に反応するホルモンがないので、幾ら友情を強調しても、纏まりを欠くのだ。事実、僧侶たちは三宝帰依によって結束したのであり、友情で結束したのではなかった。
 
●慈愛を産んだのはマハーパジャーパティー
 マハーパジャーパティーは初の尼僧になっただけではなく、女性としては初の阿羅漢にもなっている。釈迦が優遇してそうなった事は想像が着くが、それでも阿羅漢になったという事は、やはり彼女の出来が良かったからなのであろう。マハーパジャーパティーにしてみれば、釈迦の苦悩が解ったからこそ、釈迦の説いている教えなど簡単に理解する事ができた。
 
 釈迦自身は友情を強調して失敗していたのだが、マハーパジャーパティーは尼僧たちに慕われ、尼僧たちの中で第一人者になっていた。尼僧たちはバラモン階級やクシャトリア階級の出身者や、庶民や奴隷、そして売春婦たちなども居た。それらの者たちから等しく愛されていたのである。
 
 釈迦は平等を唱えたのだが、男性僧侶たちは出身カーストで分かれていた。バラモンたちは舎利弗と目連を、クシャトリアは提婆達多を、庶民たちはヤサをリーダーで固まっていた。意外な事かもしれないが、男性僧侶たちの間では、奴隷出身の出家者たちは殆どいなかった。
 
 釈迦とマハーパジャーパティーの違いは、男女の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、マハーパジャーパティーは3人の男子を産み育てたので、母性愛を以て尼僧たちに接したのであろう。だから尼僧たちは彼女の事を慕った、釈迦自身は、妻子を捨てて出家してしまった人物なので、そういう愛情を出せなかったのであろう。
 
 釈迦は友情だけでなく、生きとし生ける者への愛を唱えているのだが、この愛はマハーパジャーパティーの影響を受けての事だと見ていい。この愛が小乗仏教では「カルナー」即ち「憐み」になり、大乗仏教では「マハーカルナー」になり、中国語訳では「大悲」と成った。大悲をより解り易い言葉に変えるなら、「慈愛」であろう。この慈愛はマハーパジャーパティーこそが産んだ物なのである。
 
●提婆達多の分派
 釈迦の晩年には、原始仏教教団に提婆達多の分派という最悪の事件が発生する。この事件は、長らく提婆達多だけが悪いように言われてきたが、原始仏教教団が出身カーストを解消できなかった以上、これは原始仏教教団の後継者争いと見るべきであって、そう見た時に、この事件の真相が解って来る事に成る。
 
 原始仏教教団では舎利弗が第二位、目連が第三位であり、この2人によって教団経営がなされていた。釈迦は旅をする事を好んだので、雨安吾の時には教団中央に居るのだが、後の季節は旅行に出かけてしまう。そういう事では、教団経営は舎利弗と目連によって行われるのは当然であろう。この2人は教団経営をしているがために、現実的に成って、釈迦の定めた戒律を多少緩やかな物にしていった。
 
 これに反発したのが提婆達多であり、釈迦の理想を実現すべく、戒律重視路線を取るよう迫った。舎利弗と目連は釈迦よりも年上であり、提婆達多は釈迦よりも10歳以上若いので、これは事実上「後継者争い」であった。釈迦は提婆達多が異母弟なので、自分の後継者として考え、提婆達多の主張する意見に乗った。
 
 バラモン階級出身の男性僧侶たちは反発したのは勿論の事、庶民階級出身の男性僧侶たちまでもが反発した。だから釈迦は妥協し、戒律重視路線を廃棄した。これに怒った提婆達多は、クシャトリア階級出身の男性僧侶たちを引き連れて分派してしまった。その後、釈迦は舎利弗をも粛清した。舎利弗を事実上教団から追放し、故郷に戻らせ、そこで舎利弗は病死したのである。
 
 この事件は、マハーパジャーパティーをも窮地に陥れ、提婆達多が彼女の息子とするなら、ただでは済まされなかったであろう。彼女は釈迦が粛清したのか、自ら決めたのか解らないが、教団を去り、釈迦の死の三カ月前に死去した。やはり最後まで「結ばれぬ仲」だったのである。
 
 
●なぜ釈迦は阿難を連れて最後の旅に出たのか?
 80歳になった釈迦は最後の旅に出るのだが、この旅でまさか自分が死ぬとは思っていなかったらしい。事実、釈迦は教団代表の後継者を決めずして、この旅に出ている。旅を好む釈迦はいつも通りに旅をしたのだが、この旅で食中毒に罹り、下痢を繰り返し、遂には死んでしまった。
 
 最期の旅では釈迦は阿難を連れて行ったのだが、やはり阿難は彼の実の息子だったからこそ、手元に置いておいたのであろう。尤も阿難は大した僧侶ではなく、釈迦は阿羅漢にはしていない。阿難は秘書が務まる程度の能力しかなかった。ただ、釈迦の側にいつもいたので、それで「多聞第一」と呼ばれた。釈迦の教えを大量に聞いたからといって、理解している訳ではない。
 
 釈迦の死後、魔訶迦葉(マハーカッサパ)は仏典結集を行うのだが、阿難が阿羅漢になっていなかったので、この会議への参加を認めなかった。そこで急遽、修行をして、阿羅漢の境地にまで達したという。実に怪しい達し方であり、恐らく阿羅漢のレベルには達していなかった。しかしそれでは余りにも可哀想なので、教団の長老たちは阿羅漢にして、会議への参加を認めたのであろう。
 
 仏教の経典では「如是我聞」で始まる物が多いのだが、この「我」とは阿難の事である。釈迦の教えは飽くまでも阿難のフィルターを通して残っているので、釈迦の本当の教えは一体どうなのか、経典を鵜呑みしていると解らない。阿難は大まかな事なら記憶していたらしいのだが、細かい点は覚えておらず、それで教団の長老たちから非難を浴びせられたりした。
 
 釈迦は遺言で、「戒律が現実にそぐわないのなら、戒律を多少変更してもいい」と言い残した。阿難はこれを会議で伝えた。だからやはり釈迦の晩年、戒律を巡って後継者争いが起ったのであり、提婆達多だけを悪者にしてしまうと、歴史的事実が全く解らなくなってしまうのだ。
 
 
●「マハー」が付く、2人の僧侶
 釈迦が死ぬまでに、舎利弗と目連は死に、提婆達多は分派したので、魔訶迦葉は漁夫の利を得る形で、教団内で第二位にまで上り詰めた。有難い事に、釈迦の側近である阿難は阿羅漢になっていなかったので、こう成ると、原始仏教教団の後継者は魔訶迦葉しかいないという事に成る。
 
 魔訶迦葉は仏典結集を行い、経典を編纂し、戒律を整備した。人間の教えという物は、その人が生きている時は存在し続けるのだが、その人が死んでしまうと、あっという間になくなってしまう。そういう物だからこそ、死後にすぐさま経典を編纂してくれないと、如何に釈迦と雖も後世にその教えは残らなかった事であろう。
 
 彼は教団内で「頭陀第一」と呼ばれ、「清貧」に徹した。清貧であればこそ、戒律の問題を棚上げにし、とにかく僧侶たちは清貧に生きる事を手本として示した。だから戒律重視派からも、現実重視派からも支持を得る事ができた。二代目は教団を固める事が役割なので、下手に改革を行えば、教団を潰しかねないのだ。
 
 仏教を仏教に仕立てあげたのは「魔訶迦葉」であると言っていい。釈迦の教えは確かに素晴らしいのだが、教団組織を作り上げるという事をしなかったので、それでは宗教団体として成功しないのだ。仏教学者たちの中で、魔訶迦葉の事を悪く言う奴は、仏教の事を何も理解していないといっていい。
 
 原始仏教教団で「マハー」が付く僧侶はもう1人いる。それがマハーパジャーパティーである。彼女が居ればこそ、釈迦は愛に苦しみ、家族愛を乗り越えて、友情、そして慈愛を生み出していった。しかもマハーパジャーパティーは出家して尼僧となり、尼僧たちをしっかりと纏め上げ、その後、女性たちが出家して、尼僧になれる道をしっかりと切り開いた。
 
 宗教という物は、1人の天才的な宗教家だけで作られる物ではない。他に重要な協力者がいてこそ、新しい宗教は作り上げられる物なのである。原始仏教教団の僧侶たちは釈迦を教祖とし、魔訶迦葉とマハーパジャーパティーの2人が重要な僧侶であったというのは当然の評価であった。仏教原理主義という非常に偏った思想を持ってしまえば、釈迦ばっかり評価してしまい、魔訶迦葉もマハーパジャーパティーも全く評価されない事であろう。
 
 ちなみに、阿難には「マハー」が付いていない。という事は、原始仏教教団に於いて、重要な結果を残したのではないという事なのである。彼は原始仏教教団に於いて三代目の教団代表になるのだが、それでもマハーが付かないのだから、やはり釈迦が阿羅漢にしなかったのには、それなりの理由があったのである。
 
 
●ドロドロの愛憎劇を恥とせず
 釈迦はドロドロの愛憎劇を経験したからこそ、新たな愛を生み出す事が出来た。家族愛や氏族愛を突破し、友情や慈愛を生み出していくためには、悲惨な家庭に於いて育った人じゃないと出来ない。普通の家庭で育った人なら、家族愛や氏族愛しか説かないであろう。家族愛や氏族愛を超える愛を説くという事は、悲惨な家庭で育った事なのである。
 
 ところが仏教は小乗仏教になると、生身の釈迦を忘れ、「釈迦の神格化」が始まる。マハーパジャーパティーは養母として釈迦を立派に育て上げた。ヤショダラーは12年間も不妊症で悩んでいたのに、突如として妊娠しても、ラーフラは釈迦の子になってしまう。釈迦の晩年、釈迦は後継者を作る事に失敗したのに、提婆達多だけが悪いという事になってしまった。
 
 両親は立派、養母も立派、妻も立派、そんな事は現実にはありえないのだ。釈迦が教祖である以上、教団内で何か問題が発生すれば、それは釈迦が悪いに決まっているのであって、分派が発生したという事は、教団内に分派をやってしまうほどの深刻な問題があったという事なのである。
 
 不思議な事に、人工宗教の教祖たちは、全員が全員、普通の家庭に育っていない。モーゼもマホメットも捨て子。イエスは父無し子であり、母親のマリアは売春婦で、恐らく本当の父親はガリア人のローマ兵なのであろう。そういう連中だからこそ、家族を氏族の枠組みを超えて、新たな宗教を作り出していったのである。
 
 フェミニストに対して「お前の心の中に問題がある」といえば、必ず反発してくる事だろう。幾ら社会を幾ら変えても、自分は変わらない。自分が変わらない限り、世界は変わらないのだ。釈迦は苦しみに苦しみ抜いた上で、自分を変える事ができた。誰もが幸せな家族で育つ訳ないから、仏教というのは2500年経っても、未だに存続し続けているのである。
 

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紅丸晴美、再デビュー記念企画:「この歌を歌えば、ブレイク間違いなし!」

●タマティーが3押しの演歌歌手「紅晴美」
 現在、タマティーいち押しの歌手はなんといっても「城南海」。城南海の声はもはや国宝級。そんで2押しは「BABY METAL」。ヘビメタとアイドルの融合は秀逸。3押しが誰かというと「紅晴美」。「紅晴美って誰?」と思うかもしれないが、超ブスの演歌歌手で、性別は一応女性である。 
 
 
 写真を見ると、もはや女性演歌歌手というよりは「怪獣」であり、人間の形をなしていない。ブス度は「天童よしみ」を遥かに超えている。ラーメン屋の寸胴鍋としても使用できそうな体、巨大なおむすびのような頭、ルックスに関しては最悪だから、歌が巧かろうが売れる訳がない。それでこの度、所属レコード会社移籍する事になった。
 
 ところが、紅晴美さん本人がタマティーのブログを見、俺が、
「紅晴美という芸名は良くないから、他の芸名に変えた方がいい」
と提案していたのを受け入れ、
「紅丸晴美」(くれないまる はるみ)
としてコロムビアレコードから再デビューする事になってしまったのだ。
 
「紅晴美」
だと、総格が30画になってしまうので、デビューするにはいい物の、ヒット曲を出せるまでは行かない。しかし、
「紅丸晴美」
だと、総格が33画になるので、盛運隆昌で、女性演歌歌手としては強烈な個性で以て、ヒット曲を飛ばしてくる可能性が大となる。
 
 この「紅丸」は戦前に瀬戸内海で使用されていた客船の名前でもあり、なんと「瀬戸内海の女王」と呼ばれていた。実に縁起のいい名前だから、これを用いればまさに「演歌界の女王」になれるかもしれない。演歌には船や海関係の歌が多いので、こうやって縁起を担ぐ事は決してバカに出来ない。巧く行けば、とんでもない力を発揮してくるかもしれないのだ。
 
●ブレイク可能性のある作品
 そこで今回、紅丸晴美として再デビューを記念して、タマティーが「こういう歌を歌えば、ブレイク間違いなし」という作品を考えた。尤も、再デビュー曲はもう決まっているので、それをどうにかする事は出来ないが、今後、紅丸晴美の芸名に合った作品を出して行けば、ヒットする可能性は高くなるのだ。
 
①『マジ惚れ』
 ♪あなたにマジ惚れで、好きだから、好きだから
   どんな愛の言葉でも、足りなくて、足りなくて
    永遠(とわ)のぬくもりに包まれた時
    ここより愛は永遠に~。
 
 『マジ惚れ』はこんな感じの歌。紅丸晴美さんは性格的に愛の歌をストレートに歌った方がいい。本人の自信作であろうと思われる『あんた』もはやりストレートに作っている。超ブスなのに、恋の駆け引きを扱う歌はやめた方がいい。現実的には絶対にありえないからだ。
 
②『恋するオッパイ占い』
 AKB48の名曲『恋するフォーチュンクッキー』をパクリ、『恋するオッパイ占い』を出す。多分、紅丸晴美さんは巨乳、但し、恐らく「垂れパイ」なので、オッパイネタで攻めるのは効果大であろう。ちなみに「オッパイ占い」とは、乳首を舐めて、喘ぎ声が聞こえてくれば「吉」、母乳が出れば大吉という物である。
 
③『銀座路地裏恋物語』
 演歌といえば「銀座」。銀座をネタに歌えばヒットする確率は格段に高くなる。但し、ありきたりに歌うと大ハズレをやってしまうので、『銀座路地裏恋物語』なんていう事にすると、ネタが新鮮なので、誰もやった事がない事が出来る。
 
④『おデブおデブのデブ尽し』
 紅丸晴美さん自身がおデブなので、おデブをネタに歌にすべきであろう。
 
 ♪おデブおデブのデブ尽し
  贅肉を掴めば空を飛べるわ
  おデブおデブのデブ尽し
  二の腕プルルン お尻はブルルン
 
 渡辺直美がおデブを利用してブレイクしているので、それに便乗して、巨体を振わせながら歌えば、インパクとは大である。
 
⑤『小さな事でも誠意を込めて』
 これは自分自身に対する歌。紅丸晴美さんは小さな事を疎かにする傾向があるので、それでヒット曲が出ないのだが、コンサートの度にこの歌をファンにではなく、自分に向けて歌えば、多少は変化する事だろう。「細部に神は宿る」ので、些細な事を疎かにするようでは、人気は出ないのだ。
 
⑥『真夜中の肉弾戦』
 演歌には男女の情愛を歌った物が多いのだが、『真夜中の肉弾戦』はセックスを歌った物である。美人の女性演歌歌手がこんな歌を歌うのは洒落に成らないが、紅丸晴美さんなら許される。人間は「怖い物見たさ」という禄でもない欲望があるので、それを満たしてあげるのである。
 
⑦『不倫の恋は蜜の味』
 最近の芸能界では不倫のために失脚する芸能人たちが多いので、敢えて『不倫の恋は蜜の味』という挑戦的な歌を用意した。この歌は、芸能界で不倫の事件が起こる度にBGMとして使用されるようになるので、それで楽曲の使用料が確実に入って来るのだ。ちなみに、ワイドショーで矢口真里の情報が出て来ると、この曲が自動的に流れて来る。
 
⑧『恋のパワースポット』
 パワースポットブームに便乗し、『恋のパワースポット』なんて歌もいいだろう。「恋のパワ―スポットは一体どこなのか?」とよくよく聞いてみたら、実は「Gスポットだった」という落ちにすると、爆笑間違いなし。
 
⑨『男なら私を抱いてよ』
 この『男なら私を抱いてよ』はコンサート用の歌。紅丸晴美さんがこの歌のサビの部分を歌うと、男性の観客たちが「抱かね~よ!}とやり返す。男性たちにしたくもない女性に迫られる恐怖を味わセる。
 
⑩『流れる涙は恋の跡』
 紅丸晴美さんは離婚を経験しているので、離婚を扱った歌も必要。『流れる涙は恋の跡』なんて綺麗なバラードに仕上げてしまうと、離婚を美化できる。尤も実際の離婚は悲惨な物だから、下手に生生しい物だと拒絶反応が出て来てしまうのだ。
 

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創価教育学の凄さと限界点

●学歴社会と学歴差別
 日本は近代化の過程で学校教育制度を整えていき、そのために学歴社会が生み出されてしまった。高学歴の者たちは高収入で、低学歴の者たちは低収入になる。政界に至っては、中卒や高卒の者で政治家に成るのはほぼ不可能に成り、大卒か大学院卒の者たちでしか政治家に成る事は出来なくなっている。
 
 福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」といったが、門閥より学閥の方が遥かに恐ろしい。門閥なら生まれが違うという事で諦めが着く。しかし学閥となると、どこの大学を出たかで、終生、特権を得続けるので、他の大学を出ても、その大学の偏差値が低ければ、相手にされない。高卒や中卒の者たちは問題外となる。
 
 だから社会には学歴差別に根深い不満があり、新興宗教団体はそれを背景に登場してくる。新興宗教団体の教祖や教団創設者は大概「低学歴」であり、大卒の者は稀だ。創価学会は初代会長の牧口常三郎が尋常師範学校卒、二代目会長の戸田城聖が中央大学経済学部卒、三代目の池田大作が大世学院夜間学部卒と、低学歴者たちを三連発で出している。《因みに言っておくが、戸田城聖が通った頃の中央大学は私立なので大した大学ではなかった。今もあんまり変わらないが)
 
 尤もこれでは教団のレベルが上がらないので、教団のレベルを上げて行くためには、学歴社会の頂点に居る東大卒の者たちを入れていかなければならない。創価学会では池田大作が会長職に就任する前から、東大生たちへの工作を開始しており、東大卒の者たちを教団の専従者として雇い入れている。
 
 東大には毎年3千名ほどの者たちが入学してくるのだが、その内、宗教に興味を持つ者たちは90名から150名程度と見ていいだろう。宗教の興味を持っても、半分以上は既成宗教の方に興味が行くので、新興宗教に興味が行く者たちの数は非常に少ない。それを他の教団たちと争って取らなければならないのであって、その争いに勝利できれば、教団は突如として化学変化を起こす事に成る。
 
 
●『創価学会入門』
 俺はかなり前に牧口常三郎の『創価教育学体系』を読んだ事があったのだが、この本は全く関心しなかった。牧口常三郎は真善美を否定し、人生の目的は価値の創造にあるとして、真善美の代わりに利善美を唱えた。学問というのは真実の探求をやっているのであって、それなのに教育者である人物がそれを放棄するというのはどうも納得がいかなかったのである。
 
 ところが、この度、創価学会の事を調べて行く内に、『創価学会入門』という書物を見つけてしまった。この本は創価学会教学部が編纂した物で、昭和45年に聖教新聞社の方から出ている。聖教新聞社というのは株式会社ではなく、飽くまでも創価学会のいち機関であり、教団の方が創価学会の教学を示すために出した物という事に成る。
 
 往々にして「本は編著になると、質が下がる」という傾向がある。学校の教科書は全て編著なので、それを思い出せば解る事だろう。執筆している学者たちはバラバラだし、自分に割り当てられた事にしか関心がないので、1つの作品として整合性が全く取れていないのだ。だから教科書を読んでも解らない生徒たちが出て来てしまうのである。
 
 『創価学会入門』も編著なのだが、この本が作られた時期は、まさに池田大作が東大卒の者たちを教団に雇い入れ続けた時期であり、この本も東大卒の者たちが混じって書いている。それゆえ、新興宗教団体が出す本の中では格段に質が高いし、創価教育学の事もよく解るし、創価学会の法華信仰の部分もよく解るようになっている。
 
 創価学会の本では池田大作の『人間革命』がベストセラーになっているのだが、この本はゴーストライターが居て、池田大作自身は書いていない。しかも信者たちは、この『人間革命』を買う事はするのだが、読みもせずに本棚に死蔵しているらしい。そういう本だと幾ら読んでも創価学会の事は解らないだろう。
 
●創価教育学
 創価学会は日蓮宗系の新興宗教団体であり、正確には日蓮正宗の信者組織だった。過去形に成っているのは、日蓮正宗が創価学会を破門したからであって、日蓮正宗の方から「この団体は日蓮正宗とは関係のない団体である」と言われたのだ。じゃあ、「創価学会は何か?」といえば、飽くまでも中核になっているのは「創価教育学」であり、法華信仰の方は従の存在でしかない。
 
 創価教育学は真実の探求を諦めるという、とんでもない所からスタートする。戦前の日本の哲学界はカント学派が主流で、哲学を志す学生たちはカントの『純粋理性批判』を必読の書とした。しかしカントはイギリス系のドイツ人で、ドイツ語が余り巧くなく、『純粋理性批判』はドイツ人ですら難解の書とされている。しかも日本語訳が巧くなく、それで哲学をやる学生たちが自殺する事件が度々発生した。
 
 だから牧口常三郎は真実の探求を諦め、「人生の目的は価値創造にある」として、「真善美」ではなく、「利善美」を説いた。なんとも滅茶苦茶な学説ではあるが、自殺が社会問題になっていた事を理解しないと、なんでこういう学説が出て来たのかは解らないだろう。真実の探求をしていけば、頭の中がこんがらがって自殺する事はあるが、価値創造していくのなら、常に行動し続けなければならないので、自殺する事はなくなる。
 
 創価学会の会員たちは、新しい価値を創造している限りは、善であり、美を実現してくる。これは創価教育学の素晴らしい部分である。創価教育学はイギリスの功利主義、アメリカのプラグマティズムの流れを汲むが、それらの主義と違うのは、ただ単に利益を追求しているのではなく、善も美も追求しているのである。
 
 しかし創価教育学には裏の顔もあり、自分の利益を守るためには「悪」も「醜」も行う。善や美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値を創造し、利益が出ている時だけであり、それ以外は悪も醜もやっていい。創価教育学を作った牧口常三郎はまさかそんな事になるとは思ってもいなかったであろうが、創価教育学は「利善美」「利悪醜」の2つの顔が存在するのである。
 
 
●創価教育学が強い分野
 創価教育学が強い分野はなんといっても「教育」の分野であり、牧口常三郎自身、小学校の教師だったので、学校で教師になっている人たちは良く理解できる理論になっている。それと学校に入学してくる「バカな人たち」であり、つまり生徒たちにも創価教育学は受ける事だろう。事実、創価学会は教育者たちとバカな人たちの双方を信者として取り込んでいる。
 
 創価学会には芸能人の信者たちが多いのだが、芸能界では毎年、新しい価値を創造していかなければならないので、それで芸能人たちには打って付けの理論となる。スポーツ選手たちも毎年成果を出す事を求められるので、それでスポーツ界に於いても創価教育学は強い。
 
 創価学会は公明党を作り、政界へと進出していったが、政治家も新しい価値の創造を強いられる仕事だから、当然に創価教育学が使える分野である。官庁にも創価学会の信者たちが進出していっているが、軍事や行政では正しい事をしなければならないと同時に、多少あくどい事をしなければならないので、それで創価教育学は使えてしまう。
 
 創価学会と日本共産党は犬猿の仲なのだが、創価学会は必ず「筋金入りの反共」となる。なぜなら共産主義は新しい価値の創造をせず、ただ単に資本主義経済の成果を分配しようとするので、そういう事では絶対に相容れない。それに共産党員たちは善だとか美とかには無関心なので、その点でも生理的に受け付けないのだ。
 
 創価教育学は教育者が作った理論なのに、学問は弱いという事になってしまう。真実の探求はしないので、それで学者になって研究しても、まともな研究成果が出て来ない。但し、仏教関係では法華信仰に関わって来るので、この分野だけはまともな研究成果を出してくるかもしれない。佐藤優のように創価学会に協力する知識人たちは居るだろうが、創価学会の信者で何かしら凄い研究をやってのけた学者というのは余り居ない。
 
●創価教育学批判
 創価教育学は人間が作りし哲学なので、完璧な物ではない。必ず欠点が存在するのであって、創価教育学を批判する事によって、その欠点を明らかにしなければ成らない。
 
①「真実の探求を絶対にしない」
 創価教育学は最初の段階で、真実の探求を諦めているので、創価教育学を受け入れてしまうと、真実の探求を絶対にしなくなる。要は必要とあらば幾らも嘘をついて来る事に成る。しかし新しい価値を創造する限りに於いては、それなりに正しい行動をしてくるので、それに惑わされてしまうと、とんでもない事になってしまう。
 
 例えば、創価学会はなんで池田大作が病気で死に体になっている事を報道しないのか? 彼が名誉会長である以上、彼の病状は逐一報告すべきであろう。一説には、かなり前に脳腫瘍で苦しみながら死んだらしいとの情報がある。もしも生きていたとしても、脳腫瘍である以上、植物人間状態になっている筈だ。
 
 それと池田大作は在日朝鮮人2世「成太作」であって、国籍こそ日本国籍を持っているのだが、親は朝鮮半島からやってきた人である。在日朝鮮人2世である事が悪いのではなく、「なんでそれほど重要な情報を信者たちに伝えないのか?」という事なのだ。創価学会は韓国に進出している以上、名誉会長が在日朝鮮人なら、より多くの韓国人たちに受け入れられるに違いない。
 
②「小利のために大利を失う」
 創価教育学では、新しい価値創造は、利善美に適うからこそ、評価される事に成る。尤も利善美の中で最も重要なのは「利」である。しかし利益追求ばかりやっていれば、小利ばかり追いかけてしまい、それで大利を失ってしまう事に成る。創価学会の信者たちには、貧乏人たちが多いのだが、小利ばかり追いかけているからこそ、貧乏になってしまうのである。
 
③「利益を守るために悪や醜をやっていいのか?」
 創価教育学では悪事を成す事が許されている。利善美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値創造の時だけなのであって、後は悪事をやってもいい。職業柄、悪事をする必要性のある職業、即ち「政治家」「公務員」とかに、創価学会の信者たちが入り込んでくる事に成る。利益を守るための悪事は必要といえば必要かもしれないが、使い方を誤れば、創価学会への非難が凄まじい物と成る事であろう。
 
 神道からすれば、創価教育学には真心がないという事に成り、穢れた事を平然とやるので、忌み嫌われる事に成る。仏教からすれば、利に囚われている以上、煩悩まみれであるのだが、しかし新しい価値を創造して利益を得てしまえば、一時的に煩悩が消えるので、仏教と無縁の物ではないのだ。仏法が中心になっているのではなく、創価教育学が中心になっているからこそ、仏教ではないといえば、そう言えるだろう。
 
 キリスト教からすれば、創価教育学には愛がないという事に成る。仏教では愛は否定的な物なので、創価教育学を作り上げた牧口常三郎が、日蓮正宗へと傾斜していったのは当然といえば当然である。創価学会の信者たちに結婚しない男女が多かったり、結婚しても夫婦仲が最悪だったり、離婚する者たちが出て来るのは、創価教育学と日蓮正宗を組み合わせれば、致し方ないであろう。
 
 
●牧口常三郎は日本を代表する哲学者である
 近代日本は「西田幾多郎」という哲学者を産んだが、牧口常三郎は彼を遥かに凌駕する哲学者であり、牧口常三郎こそ日本を代表する哲学者だと言っていい。西田幾多郎の哲学はフッサールの哲学の影響を受けた物で、それなりに高い評価を与える事が出来る。しかし一般大衆への影響度を考慮してしまうと、牧口常三郎の方が断然に凄い事になっているのである。
 
 資本主義が発達してくると、人々は封建時代とは全く違う合理的な経済活動に巻き込まれる事になるので、どうしても功利的になっていく。イギリスでは功利主義が生まれ、アメリカではプラグマティズムが生まれた。日本では創価教育学が生まれたのだ。歴史の大きな流れに沿っているからこそ、創価教育学は一般大衆の支持を得たのである。
 
 一見、利益追求を行っている功利主義やプラグマティズムや創価教育学は非常に強い。しかしこれらのイデオロギーは利益を得てしまったがために、その重みのために沈んでいく事に成るのだ。事実、イギリスは覇権国家から転落した。アメリカ合衆国も今や覇権の終焉の時期を迎え、足掻きに足掻きまくっている。
 
 日本も経済発展が止まり、デブレが長々と続けば、幾ら創価教育学であっても、利益の減少を発生させてしまい、それで創価学会の信者数は頭打ちになってしまった。それどころか信者数は減少している。創価教育学には体制を作り変えるという発想がないので、それで人間革命は出来ても、社会革命を引き起こすという事ができないのだ。
 
 日本人の知識人たちは哲学に弱い。高校生の時に哲学をきちんと学んで行いないので、創価教育学の凄さと限界点が全然解っていない。創価学会の信者たちは創価教育学を持っている以上、それで哲学のない連中が幾ら批判してきても、創価学会はビクともしなかったのである。
 
 
●創価学会への解決策
 創価学会を非難している人たちは、創価学会のやった事に対して非難をぶつけているだけであって、創価教育学を正しく理解していない。まずは創価教育学を理解する。創価学会では、創価教育学が主で、法華信仰が従である。だから創価学会が他の日蓮宗系新興宗教団体とは全然違うのであり、法華信仰ばかり見ていてはダメなのだ。
 
 創価学会への解決策としては、宗教法人格を取消し、教育団体に戻す事が最善であり、これ以外に解決策はない。実践倫理宏正会は社会福祉法人であって、実践倫理を普及させる活動をやっているが、きちんと組織として成立している。創価学会の信者たちの中で法華信仰をしたい信者たちは日蓮正宗の法華講に戻ればいい。
 
 創価学会の事が正しく理解されなかった背景には、「日本の出版業界はデータ不正を行っている」という事情が存在する。戦後の出版業界では、池田大作の『人間革命』が最大のベストセラーなのだ。幸福の科学の大川隆法はなんと1000作品以上の本を出していて、ベストセラーになった作品も多々ある。宗教書がベストセラーになるのは、先進国では当然であり、日本だけが例外という訳がないのだ。出版業界が公然とデータ不正をやっているからこそ、世間の人たちの創価学会への理解度が余りにも低いのである。
 
 誰がなんと言おうが、「戦前は教派神道の時代、戦後は日蓮宗系新興宗教団体の時代」なのであって、戦前は天理教の「中山みき」、大本教の「出口王仁三郎」という宗教的巨人が出て来たし、戦後は創価学会の「牧口常三郎」「戸田城聖」「池田大作」という宗教的巨人が出来たのだ。会長に三代続けてスター級の人物を出せば、大発展するのは当然であろう。
 
 中山みきは、浄土宗や修験道や吉田神道の流れを汲みながら、天理教を生み出していった。だからヒットしたのである。牧口常三郎はドイツ観念論を批判し、プラグマティズム流れを汲みながら、創価教育学を作り、そこに日蓮正宗の法華信仰を組み入れた。それゆえ大ブレイクしたのである。
 
 天理教が中山みき一個人の考えではないように、創価教育学も牧口常三郎一個人の考えではない。やはり、日本の歴史に於いて出るべくして出て来た哲学であり、そう簡単に消える事はないのだ。もしも創価教育学が消滅する時は、創価教育学を上回るような偉大な哲学が日本に誕生した時だけであろう。
 
 

 
 

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エリザベス女王死去の大問題

●エリザベス女王の寿命は既に尽きている
 去年の段階で、「エリザベス女王の命運は既に尽きており、死ぬ可能性がある」と俺は予言しておいた。これはごく一部の人たちに伝えただけであり、このブログでは公開しなかった。すぐに死ぬ兆候は見られなかったし、エリザべス女王の死去より、パククネにとんでもない災厄が起る方がより強力に予言できたからだ。
 
 事実、パククネは大統領を辞職しない物の、大統領として権限を行使しないという事になってしまった。今年の大予言はなんといっても、ドナルド・トランプの事がメインなので、それでエリザベス女王の事はまたも公開しなかった。しかしエリザベス女王は年末にひどい風邪を引いたらしく、いよいよ寿命が尽きる来たと判断していい。
 
 エリザベス女王は1952年に即位しているので、2017年の段階でなんと「在位65年」である。どう考えても長すぎる。日本の昭和天皇の時もそうであったが、君主の在位が60年以上に及んでしまうと、どうしても次の君主の治世は停滞し衰退してしまう事に成る。日本は失われた20年を経験したのであって、イギリスも日本と全く同じような事になるであろう。
 
 立憲君主制国家の場合、君主は20年で交代するのがベストだと思う。どんなに長くても30年が限度であろう。如何なる政府も10年以上、同じ路線を取る事は出来ない。10年ごとに政策を変更していかないと、政府は維持できないのだ。政策をどうするかは首相が決める事なのだが、それでも2回か3回変更すればもう充分であり、君主は最大在位30年で譲位した方がいいのである。
 
 エリザベス女王は現在「90歳」であり、なんで今まで譲位してこなかったという事に成る。幾らなんでも90歳のお婆ちゃんが居れば、下の者たちは全員腐ってしまう事であろう。自分が健康で居られ、心身とも女王としての仕事ができるのは80歳が限度であり、80歳になる前までに譲位しておくべきだったのだ。
 
●皇太子殿下は訪英できるのか?
 日本にとって、エリザベス女王の死去は他人事ではない。もしもエリザベス女王が死去した場合、皇室の慣習法上、天皇陛下は訪英して葬儀に参加する事ができないので、その代り皇太子殿下を派遣する事に成る。「その皇太子殿下が本当に訪英できるのか?」という事なのである。
 
 ヨーロッパでは夫婦は一緒に行動するので、皇太子殿下が訪英するという事は、妻の雅子妃を連れて行くという事を意味する。だからこれは「雅子妃の問題」でもあるのだ。雅子妃は精神病を患っているので、病気のために訪英できないとなれば、皇太子殿下は大恥をかく事に成る。
 
 エリザベス女王の葬儀に雅子妃が参加しないと成れば、そのような問題のある妻が居る皇太子殿下を天皇に即位させる訳にはいかないというようになってくる事であろう。既に天皇陛下が退位の意向を示されているので、こんな大事な時期に妻の問題でケチが付けば、皇太子殿下の立場は非常に危うくなる。
 
 安倍首相は秋篠宮殿下を皇太子に相当する待遇を得させようという法律を国会に出すつもりでいる。という事は、皇太子殿下が天皇になっても、その在位は一時的な物であり、皇統は秋篠宮殿下の方に行くという事に成る。訪英は天皇即位のための「最大の試金石」になってしまうのであって、皇太子殿下は余程覚悟しないと、足を掬われてしまい事に成るであろう。
 
 本来であるならば、こんなに問題のある妻は捨ててしまった方がいい。今からでも若い女性を貰えば、その女性は男子を産む事に成るであろう。そうなれば、皇位継承の問題は何もなくなる。天皇家ではまずは男子を産まないと話にならないのであって、男子のいない皇太子というのは、どう立ち回ってもダメなのである。
 
 
●チャールズ王太子は国王たりえるか?
 エリザベス女王の死去が大問題を引き起こすのは、当のイギリスでも同じであり、チャールズ王太子が国王になってしまうからこそ、これは本当に大問題になってしまう。なぜならチャールズ王太子は家系からの食み出し者なのであって、もしもチャールズ王太子が国王になってしまうと、イギリス王室を潰してしまう事に成るかもしれいないのだ。
 
 チャールズ王太子には前の妻であるダイアナ妃が産んだ王子たちが居るので、国王になる条件は充分に満たしている。現在の妻ももうお婆さんではあるが、カミラ王太子妃が居るから、なんの問題もない。問題なのはチャールズ王太子本人であって、自分の運命星が王位継承者ではいからこそ、チャールズ王太子の即位を危険視しなければならないのだ。
  
 イギリスは現在、スコットランドの独立問題を抱えている。もしもチャールズが国王になってしまえば、本当にスコットランドが独立するとも限らない。ブリテン島を纏める事ができなければ、幾らイギリスと雖も国力は一気に低下してしまう事であろう。スコットランドが独立する事はないと思っている人が殆どだろうが、国王に国王にはなっていない者が就けば、何かの問題を切っ掛けに独立してしまうかもしれないのだ。
 
 チャールズ王太子とカミラ妃の運命星は、チャールズ王太子には精神的な苦悩を、カミラ妃には肉体的な病気を引き起こしてしまう関係にある。なんでこの2人が結びついてしまったのかというと、カミラ妃が大恋愛をする事によって自分の運命を大きく変える事ができるからで、それでチャールズ王太子と大恋愛をする事によって結ばれてしまったのである。
 
 しかも今年2017年に即位してしまえば、今年はチャールズ王太子にとっていい運気ではないので、それで早々と7年後辺りで死亡してしまうか、長生きできたとしても問題だらけの治世になってしまう。どう占ってみても、いい結果は何1つないのだ。やはりここでも、エリザベス女王の在位期間が長すぎた悪影響が出て来てしまっているのである。
 
 
●ウィンザー朝の呪われた王位
 現在のイギリス王室はドイツからやってきて、「ハーノーヴァー朝」と名乗った。この王朝名だとドイツを想像させてしまうので、1917年に「ウインザー朝」と王朝名を変えた。しかしこのウインザー朝と名乗るようになってから、イギリスは落ち目になっていき、殆どの植民地を手放す事になってしまった。
 
 ウインザー朝ではその王位は呪われており、国王が交代すると、戦争が起っている。しかもその戦争はイギリスの国益を大いに損ねているのだ。ジョージ5世(在位1910年~1936年〉の時には即位後に第一次世界大戦が起っている。ジョージ6世(在位1936年~1952年〉の時には即位後に第二次世界大戦が起っている。そしてエリザベス女王の時には即位後にスエズ動乱が起っているのだ。
 
 となると、チャールズ王太子が即位すれば、イギリスはどこかの国と戦争になり、その戦争でイギリスは敗北してしまう事に成る。イスラム教過激派からテロ攻撃を受けている以上、現時点で戦争が起る場所は中東という事になろう。既に中東では戦争が起っている以上、こんな所に手を突っ込めば、戦争に負けてしまうのは当然の事、イギリスの独立すら危うく成ってしまうに違いない。
 
 チャールズ王太子はハーノーヴァー朝としては12代目の国王、ウインザー朝の国王としては5代目の国王である。徳川将軍家は15代続いたが、12代目の家慶以降、3代続いたが、どの将軍たちもまともな政権を築けなかった。また5代目の綱吉の時は、武断政治から文治政治への転換という大きな作業をやってのけたからこそ、その後、江戸幕府を長持ちさせる事が出来た。
 
 尤も天皇家の方も他人事で済まされる問題ではない。明治以降の天皇としいぇは、皇太子殿下は5代目の天皇である、5代目の君主は「武断政治から文治政治への転換」を図らなければならないのであって、戦争するなど以ての他なのだ。しかし日本を取り巻く環境は平和を維持するのは難しくなってきており、日本もイギリスとは違う形で大変なのである。
 

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