書籍・雑誌

ケント・ギルバートに対して勝手に運命鑑定!

●歴史の逆説
 世の中というのは一直線では進まない。「歴史の逆説」が起り、常識では考えられないような事が起ったりする。特に宗教は歴史の逆説を引き起し易いので、要注意なのだ。アメリカ合衆国ではモルモン教に歴史の逆説が起っており、モルモン教徒の数は既に800万人を超え、他の教団たちが減少傾向にあるのに、モルモン教だけは増加傾向にある。
 
 かといって、モルモン教の教義は全く理解できない。キリスト教の宗派なんだろうけど、教義は完全にキリスト教の物から逸脱している。キリスト教徒たちの間では、「異端」という筝で定着している。しかしモルモン教徒こそ、アメリカ人らしいアメリカ人であり、普通のキリスト教徒たちよりもキリスト教徒らしいのはどうしてなのであろう。

 
●英語の名前と日本語の名前
 日本で最も有名なモルモン教徒のアメリカ人は「ケント・ギルバート」である。英語名では、
Kent Sidney Gilbert」
で、地格が9画なので父親とは縁が薄く、外国に出ると大吉となる。ケントとはイングランドに居た部族の名で、アメリカ人で「ケント」とくれば、実に「男らしい男性」で、道理に合わぬ事は絶対に言わない。但し、男らしさが欠けると、ちょっとおかしな事を言いまくるようになってしまう。総格は32画なので、「影の立役者」となり、人々に強い影響力を発揮してくる。財運は多く持ち、一時期、家族を犠牲にしてまで働くと、その後は豊かな生活を送る事ができる。
 
 日本語名では、
「ケント・ギルバート」
となり、地格は7画なので、性格は個性的であり、芸能界には似合っている。人格は7画なので、行動力があり、合理的な意見を言う。総格は21画なので、会社経営者向きとなる。英語名もいいのだが、日本語名はそれ以上にいい。だから日本に定住して仕事をしているのであろう。
 
 英語名と日本語名では相性が良い。幾ら日本語名が良くても、相性が良くないと、どうもおかしな事になってしまう。中には大凶の物のあるので、そういう人は早くに帰国しないと、日本で犯罪を起す事になってしまうのだ。外国人が日本語を覚えても、日本に定住する人とそうでない人に分かれてしまうのは、それが原因なのである。
 
●モルモン教の語学教育
 モルモン教では、2年間の宣教が義務付けられているのだが、外国に派遣する場合、集中的に外国語を教えてしまい、片言ができるようになれば、もう現地に派遣してしまう。その状態で生活していけば、帰国する頃にはもうその外国語を話せるようになってしまうのだ。ここまで凄い語学教育は他になく、モルモン教の最大の強みはこれであると言っていい。
 
 このため、モルモン教徒たちは国際的なビジネスで成功し易い。しかもCIAやFBIはその語学力のために優先的に雇用している。いずれ必ずモルモン教徒の男性がアメリカ合衆国の大統領に成るであろう。これだけ信者たちの質が高いのに、大統領を出さない訳がないのだ。
 
 ケント・ギルバートにしても、アメリカ人である以上、歴史に対して偏見を持っている筈なのだが、モルモン教徒ゆえにその偏った見方から離れ、正しく物事を見る事が出来ている。だから正論を言えるのである。まさに傾聴に値する意見を言っているので、彼の本で面白そうな物があるなら、読んでみるといいだろう。
 

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オーサ・イェークストロムに対して勝手に運命鑑定

●北欧女子
 学術書ばかり読んでいると頭が固くなってしまうので、俺は平行しながら軽めの本を読むようにしている。今回、気晴らしで読んでいたのだが、超面白かった。それが、
 
オーサイェークストロムの「北欧女子シリーズ」。
 
学術書をそっちのけで読んでしまったぐらい楽しめた。
 
 日本に滞在する外国人が書いた物は下らない物が多い。理由は簡単で、日本の事をよく知らないからだ。日本に生まれ育った俺ですら、日本に関して解らない事が多々あるのに、それなのに滞在10年も経っていない奴がとやかく言うな。文句があるなら、とっと帰れ。せめて「厚切りジェイソン」みたいに、ジョークを飛ばすとかして来い。
 

 北欧女子シリーズでは、2巻の出来が一番良いと思う 1巻と2巻の出版間隔が短く、しかも締切ギリギリで出したらしい。そういう緊張感があると、作品の出来は良く成るのだ。たっぷりと時間を与えれば、いい物が出来るとは限らない。寧ろ考え過ぎたり、手を出し過ぎてダメにしてしまう物なのだ。
 
 俺としては、「オールカラーにして欲しかった」。というのは、オーサの色使いが物凄くいいので、「なんでオールカラーにしないんだ」って事なのである。印刷代が嵩んでいいからオールカラーにしておけば、このレベルの出来なら、ベストセラーになってもおかしくない。続けて出していけば、ロングセラーにもなるだろう。
 
 作者は外国人なので、誤字脱字や文法の間違いをしてくるから、それを編集者が直すのはいい。しかし編集者が作品内容にまで手を出してしまうと、オーサの良さが減少してしまうのだ。内容に関しては、下手でもいいから、オーサのありのままを見たかった気がする。オーサ自身も、無闇に手を出されぬよう、ちゃんとした日本語を使えるようにした方がいい。
 
●スウェーデン語での名前と日本語での名前
 オーサ・イェークストロムはスウェーデン人なので、名前は、
 
「Åsa Ekström」
 
と書く。「A」の上に小さな「〇」がある。これで「オー」。「sa」は「サ」で、合せて「オーサ」となる。エクストロームと思いきや、イェークストロム。英語に似ているけど、発音が全然違うので、実に厄介。
 
 地格は7画なので、性格は個性的。事実、スウェーデンでは典型的な「オタク」。人格は6画なので、結構のろま。総格は25画なので、生まれ故郷から離れる運命にある。スウェーデンを出て、日本に来たのが開運と成った。もしもスウェーデンに居続けたのなら、本当に普通の女性として終わった事だろう。
 
 日本語ではカタカナで「オーサ・イェークストロム」と書く。地格は7画で、性格は個性的。人格は5画なので、シェアハウスに住むくらい、人々と接するのが好きになる。総格は24画 なので、漫画家には適している。新しい物を創作していきたいという意欲がメラメラと湧き上がってくるのである。
 
 ちなみに、「オーサ」はスウェーデン語ではそれなりの意味があるだろうが、日本語では、
「王佐」
という言葉があり、この単語は「王を補佐する」「王を補佐する人」という物凄くいい意味になる。他には、
「往査」
という単語もあり、これは「公認会計士などの監査人が、遠くの事業所に出張して監査を行う事」を言う。
 
●性格はスウェーデンでも日本でも同じ
 オーサはスウェーデン語でも日本語でも画数が同じなので、性格は同じという事に成る。だから彼女の書いた漫画は面白い。彼女はスウェーデンでも日本でもそのまんまだから、彼女の言っている事が伝わってくるのだ。尤もスウェーデンに居た時は超ダサい。本人曰く「全然イケてない」。その女性が日本に来たら美人に成った。
 
 スウェーデン語の名前だと、総格が25画だから、これで漫画家としてやっていくのは難しい。これに対して日本語の名前だと総格が24画に成るので、これなら漫画家としてやっていける。漫画の激戦区である日本で漫画家としてデビューしてしまえば、たとえトップを取らなくても、祖国で自分の漫画本を出せば、それなりに売れる。となれば、漫画家として充分収入を得る事が出来てしまう。
 
 外国移住では事実上画数での「改名」が起るので、この改名には気を付けた方がいいかもしれない。同じ画数なら性格は同じだけど、外国語では画数が変わるので、それによって自分の性格が変わってしまう。その変わった性格に自分自身が付いていければいいが、付いていけないと、帰国せざるを得ないであろう。
 
 また画数が違う場合、祖国での名前と移住先の名前とで相性があるので、それも問題になる。相性が良ければいいのだが、相性が悪いと何をやってもチグハグしてしまう。そういう時は通称で対応すべきであり、通称を巧く使う事で、どうにかやっていけるようにした方がいい。
 
 折角、日本に憧れ、日本に来て、ちゃんと日本語が出来るように成り、日本で就職して仕事が出来るようになったのに、名前の画数が悪かったり、祖国での名前と日本での名前の相性が悪いとなれば、どうにも巧く行かないので、それで日本を去ってしまう事に成る。外国人だからこそ、日本で仕事をする際には、運命鑑定を受けた方がいいのだ。

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釈迦が流した愛の涙 続編

●「不倫の禁止」「女性出家者たちの誕生」「友情の強調」
 釈迦は出家前に、男女の愛で散々悩んだ。だから釈迦が唱えた教えは、男女の愛で懊悩した者ならではの物に成っている。
 
①「不倫の禁止」
 原始仏教経典で最も特徴的なのは、「不倫の禁止」を盛んに唱えている事である。釈迦自身が人妻に手を出し、自分の妻を寝取られたので、不倫の禁止を徹底的に唱えた。バラモン教では不倫の禁止など唱えなかったので、仏教の教えは当時のインド人たちにとって非常に新鮮だった筈である。
 
 但し、原始仏教教団では、男性僧侶たちは信者たちの所に托鉢して食料を調達してくるので、必ず人妻と接する事に成る。それで男性僧侶が人妻に手を出すという事件は多発してしまったらしい。不倫の禁止を唱えている教団だからといって、本当に不倫をしない訳ではないのだ。
 
②「女性出家者たちの誕生」
 釈迦はマハーパジャーパティーの要求を聞き入れ、彼女を出家させているのだが、女性出家者たちが居たという事は、原始仏教教団の特徴であった。バラモン教には女性の宗教家たちは居ないのであって、インドでは仏教の登場によって、初めて女性宗教家たちが誕生したのである。
 
 アクレサンダー大王がインドを侵略すると、仏教教団を見て心底驚いた。「女性たちが哲学をしている」というのは古代ギリシャ人たちにしてみれば、最大級の衝撃だったのである。これが後に、インドに残ったギリシャ人たちを仏教に改宗させ、大乗仏教を生み出していく事に成る。尤も釈迦族では女性たちが大量出家してしまったので、釈迦族は滅亡という最悪の事態に遭遇してしまう事に成った。
 
③「友情の強調」
 釈迦は家族愛に恵まれなかったので、家族の情愛を断ち切って、「マイトリー」即ち「友情」を強調した。釈迦は男性僧侶たちと一緒に居る事を好み、女性僧侶たちや女性信者たちを出来るだけ避けた。彼は男色家ではない。女性たちの感情的な言動が、釈迦の心を乱すので、それで遠ざけたのである。
 
 友情を強調した事は、当時のインドでは画期的だった。友情という物は存在していたが、その友情を家族愛よりも遥かに価値の高い物であると教えたのは、釈迦が初めてであったのである。しかし友情の強調は釈迦の甘さであった。人間には友情に反応するホルモンがないので、幾ら友情を強調しても、纏まりを欠くのだ。事実、僧侶たちは三宝帰依によって結束したのであり、友情で結束したのではなかった。
 
●慈愛を産んだのはマハーパジャーパティー
 マハーパジャーパティーは初の尼僧になっただけではなく、女性としては初の阿羅漢にもなっている。釈迦が優遇してそうなった事は想像が着くが、それでも阿羅漢になったという事は、やはり彼女の出来が良かったからなのであろう。マハーパジャーパティーにしてみれば、釈迦の苦悩が解ったからこそ、釈迦の説いている教えなど簡単に理解する事ができた。
 
 釈迦自身は友情を強調して失敗していたのだが、マハーパジャーパティーは尼僧たちに慕われ、尼僧たちの中で第一人者になっていた。尼僧たちはバラモン階級やクシャトリア階級の出身者や、庶民や奴隷、そして売春婦たちなども居た。それらの者たちから等しく愛されていたのである。
 
 釈迦は平等を唱えたのだが、男性僧侶たちは出身カーストで分かれていた。バラモンたちは舎利弗と目連を、クシャトリアは提婆達多を、庶民たちはヤサをリーダーで固まっていた。意外な事かもしれないが、男性僧侶たちの間では、奴隷出身の出家者たちは殆どいなかった。
 
 釈迦とマハーパジャーパティーの違いは、男女の違いと言ってしまえばそれまでなのだが、マハーパジャーパティーは3人の男子を産み育てたので、母性愛を以て尼僧たちに接したのであろう。だから尼僧たちは彼女の事を慕った、釈迦自身は、妻子を捨てて出家してしまった人物なので、そういう愛情を出せなかったのであろう。
 
 釈迦は友情だけでなく、生きとし生ける者への愛を唱えているのだが、この愛はマハーパジャーパティーの影響を受けての事だと見ていい。この愛が小乗仏教では「カルナー」即ち「憐み」になり、大乗仏教では「マハーカルナー」になり、中国語訳では「大悲」と成った。大悲をより解り易い言葉に変えるなら、「慈愛」であろう。この慈愛はマハーパジャーパティーこそが産んだ物なのである。
 
●提婆達多の分派
 釈迦の晩年には、原始仏教教団に提婆達多の分派という最悪の事件が発生する。この事件は、長らく提婆達多だけが悪いように言われてきたが、原始仏教教団が出身カーストを解消できなかった以上、これは原始仏教教団の後継者争いと見るべきであって、そう見た時に、この事件の真相が解って来る事に成る。
 
 原始仏教教団では舎利弗が第二位、目連が第三位であり、この2人によって教団経営がなされていた。釈迦は旅をする事を好んだので、雨安吾の時には教団中央に居るのだが、後の季節は旅行に出かけてしまう。そういう事では、教団経営は舎利弗と目連によって行われるのは当然であろう。この2人は教団経営をしているがために、現実的に成って、釈迦の定めた戒律を多少緩やかな物にしていった。
 
 これに反発したのが提婆達多であり、釈迦の理想を実現すべく、戒律重視路線を取るよう迫った。舎利弗と目連は釈迦よりも年上であり、提婆達多は釈迦よりも10歳以上若いので、これは事実上「後継者争い」であった。釈迦は提婆達多が異母弟なので、自分の後継者として考え、提婆達多の主張する意見に乗った。
 
 バラモン階級出身の男性僧侶たちは反発したのは勿論の事、庶民階級出身の男性僧侶たちまでもが反発した。だから釈迦は妥協し、戒律重視路線を廃棄した。これに怒った提婆達多は、クシャトリア階級出身の男性僧侶たちを引き連れて分派してしまった。その後、釈迦は舎利弗をも粛清した。舎利弗を事実上教団から追放し、故郷に戻らせ、そこで舎利弗は病死したのである。
 
 この事件は、マハーパジャーパティーをも窮地に陥れ、提婆達多が彼女の息子とするなら、ただでは済まされなかったであろう。彼女は釈迦が粛清したのか、自ら決めたのか解らないが、教団を去り、釈迦の死の三カ月前に死去した。やはり最後まで「結ばれぬ仲」だったのである。
 
 
●なぜ釈迦は阿難を連れて最後の旅に出たのか?
 80歳になった釈迦は最後の旅に出るのだが、この旅でまさか自分が死ぬとは思っていなかったらしい。事実、釈迦は教団代表の後継者を決めずして、この旅に出ている。旅を好む釈迦はいつも通りに旅をしたのだが、この旅で食中毒に罹り、下痢を繰り返し、遂には死んでしまった。
 
 最期の旅では釈迦は阿難を連れて行ったのだが、やはり阿難は彼の実の息子だったからこそ、手元に置いておいたのであろう。尤も阿難は大した僧侶ではなく、釈迦は阿羅漢にはしていない。阿難は秘書が務まる程度の能力しかなかった。ただ、釈迦の側にいつもいたので、それで「多聞第一」と呼ばれた。釈迦の教えを大量に聞いたからといって、理解している訳ではない。
 
 釈迦の死後、魔訶迦葉(マハーカッサパ)は仏典結集を行うのだが、阿難が阿羅漢になっていなかったので、この会議への参加を認めなかった。そこで急遽、修行をして、阿羅漢の境地にまで達したという。実に怪しい達し方であり、恐らく阿羅漢のレベルには達していなかった。しかしそれでは余りにも可哀想なので、教団の長老たちは阿羅漢にして、会議への参加を認めたのであろう。
 
 仏教の経典では「如是我聞」で始まる物が多いのだが、この「我」とは阿難の事である。釈迦の教えは飽くまでも阿難のフィルターを通して残っているので、釈迦の本当の教えは一体どうなのか、経典を鵜呑みしていると解らない。阿難は大まかな事なら記憶していたらしいのだが、細かい点は覚えておらず、それで教団の長老たちから非難を浴びせられたりした。
 
 釈迦は遺言で、「戒律が現実にそぐわないのなら、戒律を多少変更してもいい」と言い残した。阿難はこれを会議で伝えた。だからやはり釈迦の晩年、戒律を巡って後継者争いが起ったのであり、提婆達多だけを悪者にしてしまうと、歴史的事実が全く解らなくなってしまうのだ。
 
 
●「マハー」が付く、2人の僧侶
 釈迦が死ぬまでに、舎利弗と目連は死に、提婆達多は分派したので、魔訶迦葉は漁夫の利を得る形で、教団内で第二位にまで上り詰めた。有難い事に、釈迦の側近である阿難は阿羅漢になっていなかったので、こう成ると、原始仏教教団の後継者は魔訶迦葉しかいないという事に成る。
 
 魔訶迦葉は仏典結集を行い、経典を編纂し、戒律を整備した。人間の教えという物は、その人が生きている時は存在し続けるのだが、その人が死んでしまうと、あっという間になくなってしまう。そういう物だからこそ、死後にすぐさま経典を編纂してくれないと、如何に釈迦と雖も後世にその教えは残らなかった事であろう。
 
 彼は教団内で「頭陀第一」と呼ばれ、「清貧」に徹した。清貧であればこそ、戒律の問題を棚上げにし、とにかく僧侶たちは清貧に生きる事を手本として示した。だから戒律重視派からも、現実重視派からも支持を得る事ができた。二代目は教団を固める事が役割なので、下手に改革を行えば、教団を潰しかねないのだ。
 
 仏教を仏教に仕立てあげたのは「魔訶迦葉」であると言っていい。釈迦の教えは確かに素晴らしいのだが、教団組織を作り上げるという事をしなかったので、それでは宗教団体として成功しないのだ。仏教学者たちの中で、魔訶迦葉の事を悪く言う奴は、仏教の事を何も理解していないといっていい。
 
 原始仏教教団で「マハー」が付く僧侶はもう1人いる。それがマハーパジャーパティーである。彼女が居ればこそ、釈迦は愛に苦しみ、家族愛を乗り越えて、友情、そして慈愛を生み出していった。しかもマハーパジャーパティーは出家して尼僧となり、尼僧たちをしっかりと纏め上げ、その後、女性たちが出家して、尼僧になれる道をしっかりと切り開いた。
 
 宗教という物は、1人の天才的な宗教家だけで作られる物ではない。他に重要な協力者がいてこそ、新しい宗教は作り上げられる物なのである。原始仏教教団の僧侶たちは釈迦を教祖とし、魔訶迦葉とマハーパジャーパティーの2人が重要な僧侶であったというのは当然の評価であった。仏教原理主義という非常に偏った思想を持ってしまえば、釈迦ばっかり評価してしまい、魔訶迦葉もマハーパジャーパティーも全く評価されない事であろう。
 
 ちなみに、阿難には「マハー」が付いていない。という事は、原始仏教教団に於いて、重要な結果を残したのではないという事なのである。彼は原始仏教教団に於いて三代目の教団代表になるのだが、それでもマハーが付かないのだから、やはり釈迦が阿羅漢にしなかったのには、それなりの理由があったのである。
 
 
●ドロドロの愛憎劇を恥とせず
 釈迦はドロドロの愛憎劇を経験したからこそ、新たな愛を生み出す事が出来た。家族愛や氏族愛を突破し、友情や慈愛を生み出していくためには、悲惨な家庭に於いて育った人じゃないと出来ない。普通の家庭で育った人なら、家族愛や氏族愛しか説かないであろう。家族愛や氏族愛を超える愛を説くという事は、悲惨な家庭で育った事なのである。
 
 ところが仏教は小乗仏教になると、生身の釈迦を忘れ、「釈迦の神格化」が始まる。マハーパジャーパティーは養母として釈迦を立派に育て上げた。ヤショダラーは12年間も不妊症で悩んでいたのに、突如として妊娠しても、ラーフラは釈迦の子になってしまう。釈迦の晩年、釈迦は後継者を作る事に失敗したのに、提婆達多だけが悪いという事になってしまった。
 
 両親は立派、養母も立派、妻も立派、そんな事は現実にはありえないのだ。釈迦が教祖である以上、教団内で何か問題が発生すれば、それは釈迦が悪いに決まっているのであって、分派が発生したという事は、教団内に分派をやってしまうほどの深刻な問題があったという事なのである。
 
 不思議な事に、人工宗教の教祖たちは、全員が全員、普通の家庭に育っていない。モーゼもマホメットも捨て子。イエスは父無し子であり、母親のマリアは売春婦で、恐らく本当の父親はガリア人のローマ兵なのであろう。そういう連中だからこそ、家族を氏族の枠組みを超えて、新たな宗教を作り出していったのである。
 
 フェミニストに対して「お前の心の中に問題がある」といえば、必ず反発してくる事だろう。幾ら社会を幾ら変えても、自分は変わらない。自分が変わらない限り、世界は変わらないのだ。釈迦は苦しみに苦しみ抜いた上で、自分を変える事ができた。誰もが幸せな家族で育つ訳ないから、仏教というのは2500年経っても、未だに存続し続けているのである。
 

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音読みの謎

●「呉音」「漢音」「唐音」
 音読みとは日本語に於ける漢字の字音の読み方である。日本語には日本独特の発音法があるので、中国人が発音しても、それをそっくりそのまま真似る事ができなかった。どうしても日本風の発音になってしまう。日本人が漢字を大量輸入したのは三回あって、「古墳時代」「奈良時代と平安時代」「鎌倉時代」の3つである。
 
 古墳時代に行われた音読みを「呉音」という。主に三国時代の「呉」から学んだからこそ、こういう言われ方をする。但し、呉だけでなく、その後の「西晋」「東晋」「宋」「斉」「梁」からも受け入れた。大和朝廷にしてみれば、外交交渉をするためにどうしても必要だったからこそ、漢字の大量輸入が起ったのである。
 
 奈良時代と平安時代に行われた音読みを「漢音」という。主に「隋王朝」や「唐王朝」の時の発音なのだから、「隋音」とか「唐音」といえばいい物を、漢王朝の時の発音ではないかと勘違いされてしまう漢音になっている。古代日本人は華北の人たちを「漢」(から)と呼び、華南の人たち「呉」(くれ)と呼んだので、それで漢音になってしまったのだ。
 
 鎌倉時代に行われた音読みを「唐音」という。これは本当に誤解を招く。主に「宋王朝」の時の発音なので、だったら「宋音」にすべきなのである。しかし唐王朝が崩壊する過程で、どうも日本に大量の亡命者たちが来たみたいで、その者たちは唐王朝の時の発音を行なっていたので、それで唐音になってしまった。
 
 例えば「京」という漢字は、呉音では「キョウ」、漢音では「ケイ」、唐音では「キン」であり、「平安京」(ヘイアンキョウ)では呉音を、「京阪」(ケイハン)では漢音を、「北京」(ペキン)では唐音で処理している。同じ漢字を使うのだから、発音を統一すればいい物をなぜだが3つも発音が存在しているのだ。
 
●抵抗したのは誰か?
 古代日本では壬申の乱が起り、これによって律令制度を本格的に確立していく事になる。この時期に漢音を一気に普及するので、この時に呉音を廃棄すべきだったのである。実際に朝廷は平安京遷都の直前に「漢音を持って正しい音読みとする」という勅令を出している。しかし抵抗した者たちが居たからこそ、呉音が生き残ってしまったのである。
 
 じゃ、一体誰が抵抗したのかといえば、まずは「僧侶」たちであり、仏教関係の用語には呉音が大量に残っている。例えば「成仏」(ジョウブツ)は呉音の発音であり、漢音なら「セイブツ」となる。但し「仏」は呉音だと「ブチ」なので、呉音で正確に言えば「ジョウブチ」で、「ジョウブツ」は多少なりとも妥協した結果という事ができる。
 
 第二の抵抗勢力は「医者」たちであって、医療関係にも呉音が大量に残っている。例えば「静脈」(ジョウミャク)は呉音の発音であり、漢音なら「セイバク」となる。「脈」は漢音だと「バク」なので、「心臓がバクバクする」という事で、多少存在している程度である。朝廷は医療には介入できなかったみたいで、医療関係には呉音がしっかりと残ってしまった。
 
 第三の抵抗勢力は「官僚」たち自身であり、法律関係にも呉音が残っている。平安京自体が呉音を用いている以上、官僚たちは天皇から勅令が下っても、そう簡単に漢音に移行する事ができなかった。尤も漢音を普及させる役目を負うのは官僚たちなので、官僚たちが呉音を残してしまえば、確実に残る事になる。
 
 中国は専制君主制を取るので、始皇帝の例を見ても解るように、発音を統一しようとすれば、本当に統一してしまう。それだけ政治権力が圧倒的に強大であるのだ。しかし日本は専制君主制を取らないので、どうしても朝廷の力が弱く、政治権力の及ばない箇所が出て来てしまうのである。
 
●慣用音
 
 呉音や漢音や唐音には或る一定の法則が存在するのだが、厄介なのが「慣用音」であり、慣用音は中国語に基づく事無く、日本人が発音し易いように発音してしまった物だから、訳が解らなく成る。それなのにその発音が使い勝手からいいからこそ、日本人はなんの疑問に感じないのである。
 
 慣用音の代表例が「茶」であろう。茶は慣用音で「チャ」と発音する事になっている。しかし呉音では「タ」、漢音では「ダ」、唐音では「サ」なので、漢字本来の発音とは一切関係ない。一体いつどこで誰が「チャ」と言い始めたのかというと、恐らく平安時代後期に医者たちの業界用語であったろうと推測される。
 
  臨済宗によって抹茶が普及する前、茶は薬であった。漢音で「ダ」と言ってしまうと、何を言っているのか解らないので、それで「チャ」にしたのではないか? 臨済宗は茶を「サ」と唐音で読んでいたので、禅僧たちが「チャ」という言葉を広めていない事はたしかなのである。
 
「茶道」は「チャドウ」か「サドウ」か非常に問題であり、これは茶道の命運を左右しかない問題だと言っていい。最近の流れとしては、「サドウ」から「チャドウ」へという流れになっており、茶人たちまでが「茶道」を「チャドウ」と言い始めている。しかし茶道を「チャドウ」というのはダメなのである。
 
 姓名判断的に「茶道」を「サドウ」と読むとお洒落で華やかという事を意味するが、「チャドウ」だと大胆だけど孤独という事になってしまい、「サドウ」の方が茶道の実態とピタリと一致しているが、「チャドウ」だと全然合っていない。大体、「喫茶店」は「キッサテン」であり、だから人々は行くのである。「喫茶店」が 「キッチャテン」では誰も行かないだろう。
 
 では、なぜ「茶道」が「チャドウ」と言われるようになったのかといえば、それだけ茶道が国民に普及したからであり、普及したからこそ、茶人たちですら日本語として言い易い物にしたいのである。尤も「茶道」が「チャドウ」になってしまうと、お洒落ではなくなるし、華やかな物でもなくなってしまう。
 
●元寇が日本を変えた
 元寇以降、日本は中国から漢字を大量輸入していない。元寇の際、鎌倉幕府は兵力的には圧倒的に不利だったのに、神風が吹く事でモンゴル軍を殲滅する事が出来た。これによって戦後、「神国思想」が生まれて来る。だから中国から漢字をもう大量輸入する事がなくなってしまうのである。
 
 尤も中国で発明された品物は元寇以後も入ってきている。例えば「行灯」「卓袱台」「麻雀」とかである。これらの漢字に共通する事は、当時の中国人たちが使っていたであろう発音に比較的近い発音を日本人がしているという事であり、呉音や漢音や唐音のようの法則性のある物とは根本的な所から違っている。
 
 モンゴル軍の中国侵略で中国文化のレベルが下がり、それと同時に日本は南北朝の動乱を迎えて、幕府が統治能力をなくし、それがために商業が活発になったので、だから日本と中国の間にそんなに差がない事になってしまった。寧ろ江戸時代になると、日本の学問の方が進み、朱子学で停滞しした中国の学問を追い抜いてしまうのである。
 
 近代以降、日本は西洋の文物を大量輸入したので、英語やドイツ語を日本語に翻訳していく作業に追われた。これによって今度は日本が中国に漢字を大量輸出するようになったのである。「哲学」「恋愛」「鉄道」とかいう単語は日本人が作った物であり、これは中国でも通用するレベルにあったからこそ、そのまま使用される事になった。
 
 戦後、学生運動や労働運動が活発になったが、しかし全く巧く行かなかった。失敗した最大の理由はこの手の運動をやった人たちが中国の「簡化字」を輸入したからであると言っていい。例えば「闘争」を「斗争」と書いたりして、できるだけ画数を少なくしようとした。これの一体何が間違いなのかといえば、日本はもう中国から漢字を大量輸入しなくなったのに、時代錯誤的に相変わらず中国から漢字を大量輸入してしまった事なのである。
 
●日本では革命が起っていない
 中国では革命が起ると、前の王朝の文化は全て否定される。全否定されるからこそ、漢字の発音も変わってしまうのである。中国人たちは「中国四千年」と言うが、実際の中国は中華人民共和国から建国してからの日数でしかない。想像以上に浅い国家なのであり、中国人たちの誇大表現に騙されては成らないのだ。
 
 日本に革命があったのか否かは時折問題になるが、天皇制が古代より続いている以上、日本には革命などなかった。確かに明治維新や敗戦によって価値観の変動はあった。しかしそれは革命ではないのであって、もしも革命が発生していたのなら、日本だって漢字の発音の仕方はがらりと変わってしまった筈なのである。
 
 日本には革命が起っていない以上、日本人がすべき事は日本文化の継承と発展であり、その積み重ねこそが大事という事になってくる。だから国語を教える事は日本史を教える事でもある。日本史が解ると、国語の理解度も高まって行く事に成るのだ。音読みはその代表格だと言っていい。
 
 音読みに対して一言言っておくと、
「音読みは飽くまでも日本人同士で取り決めた約束事であり、絶対に正しい物ではない」
という事である。漢字の正しい読み方は中国人たちのやっている物なのであって、その漢字を輸入し、日本人が発音し易いようにしただけに過ぎない。
 
 例えば「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているのだが、「ミウゾウユウ」と発音するのは決して間違っている訳ではない。「有」は呉音では「ユ」であり、漢音では「ユウ」である。だから漢音で発音すれば「ミゾウユウ」の方が正しい。しかし「未曽有」は仏教用語であり、僧侶たちは「有」を「ウ」と読んだからこそ、「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているに過ぎないのだ。
 
※参考文献
円満字二郎著『漢和辞典に訊け!』(筑摩書房』
円満字二郎著『大人のための漢字力養成講座』(ベストセラーズ)
(この円満字二郎は凄い人かも。出版社で漢和辞典の編集をしたので、漢字の問題を実に解り易く説明してくれる)
 
 

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BABYMETALに対して勝手に運命鑑定

●BABYMETALはプロデュース勝ち
 
 BABYMETALはプロデュース勝ちであり、小林啓がプロデュースした段階で、勝利は確定したといっていい。「ヘビメタとダンスの融合」って今までなかったのであり、ヘビメタだけだとどうしてもダサいのに、そこにダンスを加えると、とってもお洒落な物になるから、これなら行ける事になる。
 
 BABYMETALの最大の凄さは「楽曲の素晴らしさ」であり、メロディーラインの出来がいいので、非常に歌い易い。しかしそれに反比例する形で歌詞がアホらしい。歌詞の問題点を改善すれば、名曲を生み出せる可能性は非常に高い。中元すず香の歌唱力は抜群にいいので、彼女の歌声なら大ヒットを飛ばせる事もできる事であろう。
 
 BABYMETALは歌とダンスのバランスも実にいい。歌とダンスを一緒にやってしまうと、どうしても歌唱力が落ちてしまう。だからメインヴォーカルにはまず歌を中心にさせ、ダンスは必要最低限でいいのだ。他に2人いるのだから、その者たちはダンスをメインにし、歌は補助的な物にすると、巧くバランスが取れるのである。
 
 BABYMETALは総画が「27画」なので、常に新しい事をし続けなければならない。やっている事が新しいので全ての人たちに受ける事はないが、クリエイティブな人たちには熱狂的な人気を得る事ができる。27画だと海外に縁があるので、それで欧米でもヒットしているのである。
 
 俺はBABYMETALに「ふなっしー」の臭いを感じてしまった。ふなっしーもまた、プロデュースの段階で勝利していたのであり、それであの大ブレイクが起ったのだ。BABYMETALとふなっしーの最大の違いは、お笑いのセンスの有無なので、笑いで伸し上がっていく事はできない。飽くまでも音楽で勝負しなければならない。
 
●メンバーたちの関係
 
 BABYMETALのメンバーは、
「中元すず香」
「水野由結」
「菊池最愛」
の3人である。BABYMETALの事を調べていくと、この3人の組み合わせがこれまた凄い。
 
 まず中元すず香なのであるが、「すず香」の音相は「巫女」の事で、巫女の中でも巫女鈴を持って巫女舞をする巫女の事を言う。脳科学者の中野信子はBABYMETALを「突如舞い降りた謎の巫女たち」と評したのだが、これは実に正しい。メインヴォーカルが巫女だからこそ、巫女たちが歌い踊っている事に成るのである。
 
 次に水野由結なのであるが、「由結」の音相は「結い」の事で、本来は母親と娘の結びつきを意味するのだが、この者がバンドに入れば、バンドとファンたちを結びつける事になる。だから中元すず香がメインに見えて、実は水野由結こそがバンド存続には最も重要な役割という事に成るのだ。
 
 第三に菊池最愛なのであるが、「最愛」と書いて「モアイ」と読む。「モアイ」という言葉は「モアイ像」から来たために日本語的にはない物なのだが、音相的には「藻」と「愛」という事に成り、「表面的ではあるが、広くに行き渡る愛」という意味を持つ事に成る。下手をすると「ヤリマン」になってしまうが、バンドのメンバーであるならファンたちに愛を施して行く人物になるのだ。
 
 だからこの3人を総合させると、
 
「巫女が人々を結び付け、表面的ではあるが広く行き渡る愛を施す」
 
という意味になり、バンドとしては理想的とも言える者たちを揃えた事に成る。確かに中元すず香の歌は巧いのだが、一人ではそれほどの力を発揮しえない。水野由結と菊池最愛の2人の力を得る事によって、とんでもない力を発揮する事が出来るようになるのである。
 
 
●三位一体の結界
 
 3人でグループを作ると、「三位一体の結界」が張られる事に成る。三位一体の結界が張られると、3人の内、2人は忙しく、1人はボケ役をこなし、それによってバランスを取る。初めての出産をすれば解るだろうが、赤ちゃんはすやすや眠り、母親は家事に育児に忙しく、父親は仕事が猛烈に忙しくなる。
 
 TMネットワークは木根尚登がボケ役で、別に小室哲哉と宇都宮隆の2人でやればいいのに、木根尚登が加わる事によって三位一体の結界を張り、それでブレイクしていった。アルフィーなら坂崎幸之助がボケ役で、高見沢俊彦と桜井賢の2人でやればいいのに、坂崎幸之助が加わる事によって三位一体の結界が張られ、長々と活動し続ける事が出来ているのだ。
 
 小林啓はパフュームを見てBABYMETALの構想を考えていったのだが、パフュームは全員がボケ役なのであって、これに対してBABYMETALの方は誰もボケる事ができず、必ず何かしらの仕事が存在している。これは三位一体の結界からすれば異常な状態で、こんな状態が長く続く事はないのだ。
 
 BABYMETALは全員が走り続けなければ成らず、いずれ誰かが「疲れたからやめる」と言い出す事になるであろう。いつまで走り続ける事なんて誰にもできないのだ。BABYMETALは2010年結成で、2012年に初シングルを出しているので、もうそろそろバンド存続の問題が出て来る。
 
 中元すず香は現在「天中殺」であり、2年後には菊池最愛が「天中殺」に突入する。天中殺の時機は蓄積した疲労が思いっきり出て来てしまうので、疲労を理由に辞めてしまう事だって有り得る。何かテコ入れ策を行なえばブレイクしていく可能性が大ありだが、何もしなければ解散という事になってしまう事だろう。
 
 
●テコ入れ策
 
 テコ入れ策には、
「後2人投入して5人編成にする」
か、
「後3人投入して6人編成にする」
しかない。
後1人投入して4人編成にしてしまうと、「四の結界」が張られる事になるので、BABYMETALとしては非常に危険な事になってしまうのだ。
 
 5人編成にすると、メインヴォーカルを2人にし、3人がダンスする事になる。これだと中元すず香本人が休めるので、喉を傷める事がなくなるし、ダンス担当の者たちも適度に休む事ができ、疲労のために倒れる者が出なくなるのだ。「 BABYMETALのやっている事は負担が多すぎるんだ」という事が解っていないと、結局、誰かが潰れてしまうのである。
 
 6人編成にすると、「表ベビメタ」「裏ベビメタ」と2つのチームを作る事ができ、表現の領域が一気に広がる。現在のBABYMETALには悪の要素が全くない。だから今のままだと「歌が巧いね」「可愛い子だね」だけで終わってしまうのである。それゆえ、そこにちょいとあくどい3人の女の子たちを加えると、実に面白い事に成るのだ。
 
 世の中には誰かの真似をして、全く違う物を作り上げてしまう人たちがいる。例えばローリングストーンズを真似てエアロスミスを作ったわけだし、キッスを真似てエックスを作ったわけである。BABYMETALはパフュ-ムを真似して作ったのだが、小林啓自身がその「パフュームの呪縛」から脱出しないと、もうどうにもならないのだ。
 俺がBABYMETALに対して運命鑑定をしてつくづく思ったのは、
「小林啓って人は凄い人だな」
という事であり、やはり凄い人の頭脳の中から生まれた物だからこそ、BABYMETALは凄いユニットであり続けているのである。
 
 但し、後もう少しなのだ。
 
 音楽を突き詰めていくと、その先には「神秘のヴェールに閉ざされている場所」を見つけてしまう物だが、大概の人たちはそれ以上進まず、その手前で諦めてしまう。だから大した音楽を生み出す事は出来ない。しかしごく限られた者たちだけが神秘のヴェールを突き抜けて、新たな世界を生み出していく。それゆえその者たちによってのみ、音楽は発展していくのである。
 
 

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いとしのミスドデブ

●カフェオレが無料で
 最近、秋の長雨が続き、それなのに用事であちこち出かけなければならず、そのせいか本が溜まってしまった。そこで休日を利用して溜った本を一気に読もうとして読んでいた所、電話がかかってきて、
「サービス券でカフェオレが無料で飲めるからミスタードーナッツに来なさいよ」
と、とある女性作家からお誘いを受けてしまった。
 
「雨、降っているし~」
と俺は断ったのだが、
「いつも本ばかり読んでいないで、たまには外に出て来なさい」
と無理矢理に行く羽目になり、それで急いで支度を整え、ミスドに行った。
 
 サービス券があるので、カフェオレを無料で飲めるのだが、このカフェオレ、ドーナツに合して作られて物で、普通のカフェオレより遥かに薄い。ガムシロップを入れると、どうにか美味く飲める。通の人はミルクを入れるのだが、ミルクを入れたとしても、そんなに美味しくはならない。
 
 このカフェオレ、お代わりも出来るので、2杯も飲んでしまった。マグカップに入っているので、1杯でも充分なのだが、タダという事でお代わりを強制される羽目に。カフェオレはあんまり甘くないので、それでドーナツを2個買う事になった。カフェオレがタダであっても、充分商売が成り立つ訳である。
 
 実を言うと、ミスドに行くのは中学生以来であり、数十年経ってもミスドのドーナッツは相変わらず美味しい。ドーナツ専門でやっているので、ドーナツとしては断トツであろう。尤も客は殆どが女性客で、男性客は俺ともう1人しかいなかった。女性たちには確実に受ける味なのであろう。
 
 
●ミスドデブの特徴
 ミスドの店内を見回してすぐに気付く事は、女性客に於いてデブの比率が異様に高いという事であろう。ドーナッツは糖分と過熱した油なので、栄養的にはマックのハンバーガーよりも偏っている。オヤツとして食べる分にはいいのだが、これを食事として食えば、確実に太る事に成る。
 
 俺はミスドの店内にいるデブたちを、
      「ミスドデブ」
と命名した。
 
 このミスドデブの特徴を5つほどあげてみよう。
 
①ドーナツがとっても大好き
 ドーナツを異様なまでに好きにならないと、あそこまで太る事はできないであろう。というか、ミスドのドーナッツは飽きが来ないように作られているという事なのである。
 
②3サイズが同じ
 ミスドデブは通常のデブであるムーミン型デブではなく、3サイズが同じ数値なるという特殊なデブなので、外観は巨乳と出尻が目立つ。但し、脇腹に巨大なベーコンを巻き付けているからこそ、「あれ、変だな?」と思われる事に成る。
 
③意外とお洒落
 ミスドデブは意外とお洒落。3サイズが同じ数値になると、自分に合った服がなかなか売っていないので、それで必死に探す事になり、それがお洒落度を上げる。単なるデブだと、大きいサイズの服を買ってしまう事に成るので、それでお洒落にはならないのだ。
 但し、喫煙するミスドデブは逆にお洒落ではない。喫煙して酸欠になるので、お店を探し回るだけの体力がないのであろう。
 
④トイレが近いが、用を足すのは速い
 ミスドデブはトイレが近い。なんせ飲み物はお代わり自由なので、沢山飲めば、その分、出るであろう。しかし用を足すのは速いのだ。便所で長居しないので、他の客たちが小便で困るという事はない。
 
⑤ミスドに長居する
 ミスドデブはミスドに長居する。客の回転率の事を考えると良い物ではないのだが、長居できるからこそ何度も来る事に成り、それで経営が巧く成り立つ。マックだと長居すると追い出されてしまうので、だからマックは経営危機に陥ったが、ミスドは経営危機には陥らないのである。
 
 
●なぜデブは否定的扱いを受けるのか?
 デブは全員「巨乳」である。巨乳なのだから、本来なら高い評価を与えられていい。ファッションモデルようなスタイルであっても、脱げば「貧乳」なのだから、戦いをオッパイに限定すれば、デブは必ず勝てるのだ。それなのになぜだかデブは否定的な扱いを受けてしまう。デブたちは或る事をしないからこそ、自ら評価を激減させてしまっているのである。
 
 第一の理由は、
「デブはお洒落じゃないから」
という事であり、食欲が勝ってしまい、ファッションの事を考えなくなってしまうと、デブはお洒落ではなくなってしまう。デブはデブなりお洒落ができるのに、それをしないからこそ、デブである事を非難されてしまうのだ。非難されるとダイエットしようかなという事になるのだが、それは勘違いなのであり、足りない物はお洒落であり、お洒落をしさえすれば評価は高くなっていく。
 
 第二の理由は、
「デブは愛嬌がないから」
という事であり、デブが自分の肥満を卑下してしまえば、愛嬌がなくなるのは当然であろう。デブという事は脂肪が多いので、脂肪からより多くの女性ホルモンが分泌される事に成る。だから痩せている女性たちよりも愛嬌がある筈なのであり、それなのに自分が意図的に愛嬌を潰してしまえば、愛嬌がなくなってしまうのは当たり前であろう。
 
 タレントの柳原加奈子は身長153センチの体重74キロのデブタレなのだが、お洒落だし、愛嬌もあるので、だからタレントとして成功している。因みに彼女の好きな食べ物は、「フライドチキン」「スパゲッティ」「カルボナーラ」「ポテトチップス」「アイスクリーム」であり、どれも食べ過ぎると確実に太る物ばかりである。
 
 ミスドデブたちは御洒落だし愛嬌もあるので、デブであっても否定的な扱いを受ける事はない。尤も自分が自分の体形をどう活かすかなのであり、デブである事を卑下してしまうと、普通のデブたちが味わう悲惨な境遇を味わう事に成る。
 
 
●「デブになるぞ~」
 ミスドのCMでは、
 
「いいことあるぞ~、ミスタードーナッツ」
 
というのがキャッチコピーなのだが、しかしその裏は、
 
「デブになるぞ~、ミスタードーナッツ」
 
なのであり、確かにいい事はあるのだが、ドーナツを食い過ぎればデブになってしまう超危険なお店なのだ。
 
 近年、ぽっちゃり系のファッションがはやったが、ミスドデブはぽっちゃりではない。デブはデブなのであって、その点を絶対に勘違いしてはならない。大体、ドーナツを10個も食っていれば、デブにならない方がおかしいであろう。ミスドは「ドーナツを10個以上食べると太ります」と警告を発しておいた方がいい。
 
 ドーナツは所詮オヤツにしかならない物だと思うのだが、店内にはドーナツで食事している人たちが結構いた。俺はミスドでオヤツした後に、帰宅してカツ丼を食べたのだが、こういう事をしないと太ってしまう事であろう。どう考えてもドーナツでは充分な栄養を取れないので、ドーナツで食事する事はくれぐれも気を付けた方がいい。
 
 
 

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女人禁制「オスカルの楽しみ方」

●女性なのに感情移入できる
 
 女性が漫画を読む際、主人公の感情移入する事はし易い。女性たちが感情移入できる漫画であるなら、その作品はヒットする事であろう。しかし男性の場合、主人公に感情移入するのが難しい。況してや少女漫画となれば、主人公は女性なのだから、殆ど絶望的となってしまう。
 
 しかし『ベルサイユのばら』は主役のオスカルが女性なのに男性として生きているので、それで感情移入する事が出来てしまうのだ。女性たちには解らないかもしれないけど、男装している時のオスカルは確かに男性として生きているのであって、ただ単に女性が男装している訳ではないのである。
 
 しかしオスカルは女性である以上、男装していても、突如、女性に戻る時がある。だが、その時は女性として全くの無防備なので、そうなると男性の俺としては、
「可愛い~ッ!」
という事になってしまう。男性として生きてきたのに、女性として女子力を充分に持っている事は絶対に有り得ない。池田理代子はこの点、本当に巧い。
 
 俺ははっきりと言ってしまうと、オスカルの生き方には絶対に共感できない。近衛連隊長になった以上、最後まで王家を守るべきであって、それなのに革命側に付くなど言語道断だと言っていい。池田理代子も当初の計画ではオスカルが投獄されたマリーアントワネットを助け出す物なのだったが、様々の事情で物語が徐々に変化していき、最終的にはああいう結末になってしまったに過ぎない。
 
 近衛兵たちは王家を最後まで守る役目を負うので、元近衛連隊長とはいえ、近衛連隊にいた者が裏切るようでは、君主制は崩壊していくしかないだろう。『三国志演義』がなぜ男性たちに根づよい人気を持っているのかといえば、関羽や張飛や趙雲や諸葛亮孔明が決して劉備を裏切らなかったからである。
 
●ベッドの上でのオスカル
 
 オスカルは絶対に「処女」であるから、アンドレとのセックスシーンではあんな綺麗に行くわけがない。セックスに関する情報を全く仕入れてこなかったのだから、オスカルはベッドの上で「マグロ」になってしまい、何もする事が出来ない。それどころか処女膜を破れれば、その痛さに嘆く事であろう。
 
 漫画には出て来ないのだが、アンドレのキャラ設定では、彼は売春宿に行って既に女性とセックスを経験済みという事なので、セックスに関して何も知らないわけではないのだ。しかしアンドレが買春したとなると、女性の読者たちの印象が物凄く悪くなってしまうので、それでその情報は漫画には出さなかったのである。
 
 仮にアンドレが童貞ではなかったにしても、オスカルを相手にセックスするのは至難の業だろう。というのは、アンドレはオスカルよりも体力的に劣っているので、そんな女性を相手にセックスするのは本当に大変なのである。況してや娼婦しか相手にした事がないなら、余計にと言っていい。
 
 オスカルは運動神経がいいので、教えればどうにか使える。尤も男女のセックスに興味を持てばの話である。そういう事よりも仕事に興味を持ってしまえば、性生活は悲惨なままであろう。この手の女の場合、セックスする前に仕事よりも大切な事がある事を教える方が最優先なのであって、セックスはそれをしてからなのである。
 
 女性が仕事をする場合、恋愛して恋力を発生させて、その恋力を仕事に投入して成功して行くやり方もあるが、恋愛禁制によって恋愛をしないで突っ込んで行った方が成功確率を高くする事が出来る。女性のアイドルに恋愛禁制を要求するのはそのためなのだが、このやり方には欠点があって、恋愛をしなければならなくなった時に、仕事よりも恋愛に重点を置いてくれないと、仕事も恋愛も失敗する事になってしまうという事だ。
 
●結婚後のオスカル
 
 オスカルとアンドレは死の影が漂う中で結ばれる事に成るので、結婚後の事は全く想像できない。物語はオスカルとアンドレが結ばれると、死に向かって突進していく事に成るので、結婚の事は除外せざるを得ないのだが、それでも結婚後のオスカルは一体どうなるのか想像してみてもいい。
 
 オスカルは男として育てられてきたので、家事や育児が全くできない女性である。しかも貴族の令嬢ゆえに、自宅には女中たちがいるので、たとえ赤ちゃんを出産しても、自分で育てなくてもいいようになっている。だからこの問題の核心は、
「オスカルは結婚によって変わるか否か?」
にある。
 
 フランス革命が勃発し、オスカル自身、啓蒙思想に目覚めてしまっている以上、オスカルは出産しても仕事をする事になるであろう。アンドレにはオスカルを不自然な状態から解放させてあげる力を持っていない以上、幾らアンドレと結ばれたとしても、オスカルは絶対に生き方を変える事はないであろう。
 
 尤もオスカルは女性である以上、出産して赤ちゃんの事が可愛くなり、育児に専念する事も有り得る。「結婚には全然興味ない」「赤ちゃんなんて大嫌い」といっていた独身女性が、結婚後、結婚生活を大事にし、育児に専念する事になってしまう事があるが、そういう現象は起こる女性には起こるのである。
 
 オスカルは「六女」なので、別に結婚しようがしまいが、赤ちゃんを産もうが産むまいが、どうでもいい女性なので、オスカルの自由にすればいい。しかしその余りにも大きすぎる自由が、結局、自分の実力では自由をきちんと制御しきれないので、それで破滅に向かって突進して行ってしまうのである。
 
●なぜアランは「あんな女、やめておけ」というのか?
 
 原作のアランとアニメでのアランは全く別人格なのであるが、アニメ版のアランは、
「あんな女、やめておけ」
とアンドレに忠告させている。アニメ版は監督が男性なので、これは監督の意見だと判断していいだろう。
 
 仕事が出来過ぎてしまう女性は、妻や母親としては全く不適格である。オスカルには女子力が決定的に不足しているのであって、オスカルとアンドレは性別が違っても、結局、男同士の交際になってしまうのだ。男気あふれるアランにしてみれば、オスカルの事を自分の仲間であるアンドレには勧める事が出来ないのである。
 
 意外な事かもしれないが、アニメ版のアランには女性たちのファンが結構多い。原作のアランは反骨精神旺盛なので、女性たちは絶対に好きに成れないのだが、アニメ版だとアランのセリフはまさにその通りなので、女性たちはアランに男を感じてしまい、それで好きになってしまうのである。
 
 原作者の池田理代子はアニメ版の『ベルサイユのばら』を「目が疲れる」という理由で最後まで見ていないと発言している。しかしこの発言は本当に正しいのだろうか? というのは、『栄光のナポレオン』ではアランが大活躍する事になるので、アニメ版を見た上で漫画を描いていかないと、ああいう作りにはならないからだ。
 
 女性は結婚する事によって母親から自立していく事になる以上、女性であるなら絶対に結婚すべきである。女性として生まれたのに、結婚を否定して仕事を選んでしまえば、どう生きたとしても、絶対に自立できないのだ。オスカルは結婚適齢期が終わった時に死んでいるので、その点は物凄く評価する事が出来るのである。
 
 

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池田理代子の歴史漫画

●近代以前の国家では、専制君主制の国家こそ先進的であった
 
 近代以前の国家では専制君主制の国家こそ先進的であった。専制君主制はなかなか成立しない。君主が専制君主になるためには、有力貴族たちを全て粛清しなければならないので、国内で血みどろの内戦を経ないと君主は自分の所に権力を集中させる事が出来ない。
 
 しかし一旦専制君主制が誕生してしまうと、国内には政敵が皆無となるので、それで君主は積極的に戦争をしていく事が出来、だから専制君主制国家は大発展する事が出来るように成る。西ヨーロッパでは、スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オーストリア、ロシア、ドイツと、続々と専制君主制国家が誕生し、国外に植民地を持つ事によって大繁栄を遂げた。
 
 日本では天皇が専制君主制ではなかったので、国民は専制君主制の国家というのがどうしても解っていない。日本は近代以前では全く振るわなかったが、近代化に成功したために欧米列強と争う羽目になってしまったが、アメリカ合衆国を除けば、全て専制君主制を経て今の政体があるので、専制君主制が解っていないと、まともな外交1つできない事になってしまうのだ。
 
 専制君主制の国家では「王位継承」という欠点があり、如何に名君に恵まれたとしても、名君が連続して出て来る事はなく、大概が凡庸か愚鈍な者が次の君主になってしまう。そうなれば国内では政争が発生し、国外では拡張した領土を維持する事が出来なくなってしまう。しかも国民は君主に服従するだけだから、政治に対してなんにも責任を持たず、それで政体が末期になると、国民は革命側に走ってしまうのである。
 
 専制君主制の国家は近代化の過程で、革命が起こる事によって専制君主制その物が消えた。現在、専制君主制の国家というのは1つも存在しない。近代以前では先進的と思えた専制君主制は、近代以降だと淘汰されるべき物と成ってしまった。かといって近代化された国家も名宰相を持続的に出していかないと、専制君主制同様に淘汰されてしまう事だってあり得るのだ。
 
●『ベルサイユのばら』
 
 漫画家の池田理代子は不思議にも専制君主制の時代の歴史漫画を描きまくっている。「少女漫画で歴史物はタブーである」と言われていたのに、敢えて『ベルサイユのばら』で大勝負を賭けた。これが大ヒットしたからこそ、池田理代子の名声は決定的な物となった。これ以降、他の女性漫画家たちも歴史漫画を描くようになるので、池田理代子の功績は大いに評価されていい。
 
 革命はそう簡単に起こる物ではない。革命が起こってしまう最大の原因は君主の方にあるのであって、特に碌でもない女性を妻に迎えてしまうと、王妃によって国政が乱され、それに反発する形で貴族や庶民たちが武装蜂起し、君主が弑逆されてしまう事に成る。ルイ16世は善良な人物であったかもしれないが、それでも妻のマリーアントワネットが余りにも酷すぎたのである。
 
 王妃である以上、全ての人たちに対して公平に接しなければ成らない。しかしマリーアントワネットがやったのは、ポリニャック伯爵夫人やフェルゼンといったごく一部の者たちを寵愛する事であって、これが貴族たちの怒りを買う事になってしまった。王妃が浪費をしようが不倫をしようが別にそれは構わない。だが王妃と貴族との関係を断ち切ってはならないのである。
 
『ベルサイユのばら』はオスカルが主人公なので、どうしてもオスカルの方に目が行ってしまうのだが、このオスカルはフェルゼンに対して、絶望的な片思いをする事に成る。思春期では自分がどんなに愛したとしても、どうする事も出来ないという事を経験する物だが、それが解った人たちはオスカルの事を正しく理解する事が出来る事であろう。
 
『ベルサイユのばら』で一言注意しておくと、作者の池田理代子は生活の全てを犠牲にしてこの漫画を描いたのであって、そのために赤ちゃんを産む事は不可能になっただけでなく、結婚もダメになってしまった。だからこの作品には「病的な部分」が或る程度は入っているので、それで女性読者たちは結婚したら読まなくなってしまうのである。
 
●『栄光のナポレオン』
 
『栄光のナポレオン』は『ベルサイユのばら』の続編と見るべき作品であり、『ベルサイユのばら』は本来ナポレオン戦争まで書く筈だったのに、作者の体力が限界に達してしまったためにアントワネットの処刑で一応終りにした。フランス革命は革命発生後、政争を繰り返し、大量の犠牲者たちを出して行き、人材が枯渇した時にナポレオンが政権を掌握し、皇帝になっていく。
 
 ナポレオンの人生で最大の汚点がジョセフィーヌと結婚してしまった事であり、彼女が子供を産まなかったからこそ、ナポレオンは後継者の事で苦しみ、帝政を安定させる事ができなった。しかしナポレオンはジョセフィーヌと結婚すると運勢が上昇し始め、彼女と離婚すると没落して行くのだから、人間の運命という物は不思議である。
 
 ジョセフィーヌはナポレオンと結婚した後に子供ができなかったので、これは結婚したが子供のいない池田理代子じゃないと描けない。ジョセフィーヌが非常に魅力的なキャラになっているので、ナポレオンだけではなく、ジョセフィーヌの事も堪能しながら読むと、この作品を非常に良く理解する事が出来るように成る。
 
 ナポレオンはクーデターをやったり、帝政を実現したりと、一見、専制君主のように見えてしまうのだが、しかしその権力は確固たる物ではなく、有力な政治家たちの支持を取り付け、敵対する政治家たちを排除する事で成り立っていたに過ぎない。学校の世界史の授業みたいな習い方をすると、歴史も政治も戦争も何も解らなくなってしまうので、歴史漫画を読む方が歴史や政治や戦争を学ぶ事に役立つ。
 
 池田理代子は『栄光のナポレオン』を執筆中に、音楽大学に受験する事になったので、それで途中から手抜きをしてしまったのが実に惜しい。手抜きをしなければ、『ベルサイユのばら』に続いて高い評価を受けた事であろう。『栄光のナポレオン』を読み終わったのなら、参考文献を読み漁って補完するという作業をやった方がいいかもしれない。
 
●『天の涯まで』
 
『天の涯まで』はポーランドの英雄ユーゼフ・ポニャトフスキの物語なのだが、ポーランドの歴史を描くのは非常に難しい。これは出版社の要請で描く羽目に成った物で、作者が最初からその気で書いた物ではない。しかし『栄光のナポレオン』に関係してくる物なので、書かなければ成らない必要性があったとも言える。
 
 ポーランド王国は君主制国家であっても「貴族共和制」を取り、貴族たちが議員となるポーランド議会によって国王を選挙するという選挙王制を取っていた。このために専制君主制に移行する事ができなかった。しかも議員たちには「自由拒否権」が認められており、自分の権益を犯す法案を悉く廃案にする事が出来た。
 
 このようなバカげた政体であったために、ロシアとプロシャとオーストリアによって分割されれてしまい、ポーランド王国は滅亡してしまった。「改革できない政治というのは政治をしていない事と同じ」であり、諸外国は専制君主制によって改革に次ぐ改革をやっているのだから、それで国力に圧倒的な差がついてしまうのである。
 
 ポーランドの事で特筆すべきは、ヨーロッパの中で最も「美女率」が高いという事であり、マリア・ヴァレフスカがその美貌を利用してナポレオンに近づき、一時的にではあるが「ワルシャワ大公国」として復活させる事が出来た。戦争や外交だけで国家の独立を維持できるのではなく、閨房も国家の独立には役立つのである。
 
 ポーランドの場合、政体に致命的な問題がある以上、革命を起こして政体を変革させない限り、どうにもならない。確かにユーゼフ・ポニャトフスキは英雄であるかもしれないが、その英雄と雖も政体を変革させなければ、腐った政体のために押し潰されて死んでいくしかない。
 
『天の涯まで』でのユーゼフ・ポニャトフスキはかなり脚色されており、実際の彼は軍人というべき人物で、軍人としては有能だったが、政治家としては全くの無能な人物なので、『天の涯まで』を史実だと思い込んでしまうと非常に危険である。大国に囲まれた小国は「巧妙な外交」をしないと生き残れないのであって、下手に戦争をすれば国家を滅亡に追いやってしまう物なのである、
 
●『女帝エカテリーナ』
 
『女帝エカテリーナ』はロシア帝国の女帝エカテリーナを描いた作品であり、『ベルサイユのばら』以降、最も出来の高い作品。しかしこの作品が大ヒットしなかったのは、池田理代子が結婚はしたが、子供がいなかったので、それでエカテリーナがまるで独身女性のように振る舞うからである。

 専制君主制では君主に権力が集中し、それに伴って富も女も集まって来るのだが、という事は女性が君主になれば、富も男も集中してくる事に成る。ロシア帝国ではこのバカげた事が本当に起こった。なぜ女帝による専制君主制が非難されるのかといえば、男性の皇帝は子孫を増やすために側室を設けて行くのだが、女帝はそうではなく、ただ単に性的な快楽のためにやっているからである。

 帝国という物はなぜだか女帝になると大発展し、領土が一気に拡張する。しかしその後、急速に没落してしまう事に成る。ロシア帝国では女帝エカテリーナで大繁栄を遂げるのだが、彼女が崩御すると、彼女を上回る皇帝が誰1人として出ず、最終的にはロシア革命で滅亡してしまった。
 
 女帝エカテリーナは池田理代子の作品の中で最も魅力的なキャラであり、『ベルサイユのばら』のキャラ以外では、読者たちの人気1位を獲得している。『女帝エカテリーナ』を読めば強い女になれる事間違いなしであり、女社長になるならこの漫画を読んだ方がいいかもしれない。
 
 但し、猛毒率高し。女帝エカテリーナがやった事を、現実世界で本当にやれば、非難集中になってしまうのは当然であり、猛毒を緩和しながら使わないと、自分が破滅させられてしまう事に成ってしまう。未成年者の女性は読むべきではない。大人になってから読んだ方がいい。

●『聖徳太子』
 
『聖徳太子』は聖徳太子を描いた作品である。日本では専制君主制がなかったので、それで専制君主ではないが、改革を目指す皇太子を抜擢して、それで政治を行っていく事の難しさを描いた。天皇と豪族たちによる政治から、一気に律令政治へ行ける訳がなく、その過程には様々な問題があり、それを1つ1つクリアして行かなければ成らない。
 
 この作品の聖徳太子は池田理代子本人であると思って読んだ方がいいかもしれない。どう見たとしても女性であり男性ではない。池田理代子は自分が聖徳太子であったのなら、どう考え、どう行動したかを描いたのであって、それを踏まえて読んでいくべきであって、聖徳太子の絵が旧1万円札の絵とは違うからといって笑っているようでは読む資格はない。
 
 国家という物は古ければ古くなるほど、「血統」という物が物凄く重視される事に成る。だから古代では、政治家は必ず名門の出でなければ成らず、名門以外の出あるなら政治に関与する事は出来ない。それと政治家は名門の娘と結婚する事によって、よりパワーアップしていかなければ成らない。
 
 それゆえフェミニストたちのように社会を見て「男社会」と見てしまうようでは、歴史も政治も何も解らない事になってしまう。女性たちは結婚する事によって政治に大きく関与してくるからだ。池田理代子は嘗てフェミニズム的な意見を言っていたが、『聖徳太子』を描くようになると、もうフェミニズム的な意見など一切言わなくなってしまった。それは歴史や政治をきちんと勉強したからであろう。
 
 歴史というのは唯物論で証明できる物ではない。歴史を実際に動かしているのは「人間の欲望」であり、「理想」であり、「陰謀と謀略」であり、経済力というのはそのための道具に過ぎない。唯物論のよって書かれた歴史学の書物を読むより、池田理代子の漫画を読む方が歴史の事を理解する事に役立つ。
 
●次回作は?
 
 池田理代子の歴史漫画で次回作は何かといえば、予想できる物は限られてくる。彼女が得意とするのは専制君主が居た頃の時代であり、しかもそれはヨーロッパが舞台なのだから、漫画の題材に出来る専制君主はそう多くいるものではない。老齢になって中国やインドの専制君主に手出しする事はない筈だ。
 
 まずは、
 
『デジレ・クラリー』 
 
であろう。デジレ・クラリーはナポレオンの初恋の女性で、しかしナポレオンはジョセフィーヌに出会ってしまい、彼女に夢中に成ってしまったので、それでデジレとは破局してしまった。ところが彼女がベルナドットと結婚し、その彼が事もあろう事かスウェーデン国王になってしまい、それで彼女は王妃になってしまった。但し、デジレ・クラリーは、運は良くても、平凡な女性なので、池田理代子が彼女を取る可能性は低い。
 
 となると、
 
『アレクサンドル1世』
 
という事も有り得る。アレクサンドル1世はロシア帝国の皇帝で、ナポレオンのロシア遠征で彼を打ち破った。アレクサンドル1世は美男子であるので、池田理代子の好みに合うかもしれない。彼の性格は複雑怪奇と言われているので、恐らくAB型であろう。AB型の池田理代子なら書けるかもしれない。
 
『ベルサイユのばら』関連でいけば、
 
『マリア・テレジア』
 
という選択肢も有り得る。彼女はオーストリア帝国の女帝で、マリーアントワネットの母親である。彼女が生涯に於いてなんと「16人」も子供を産んでいるので、子なしの池田理代子では描きにくいかもしれない。とはいっても、『マリア・テレジア』を書いてくれると、マリーアントワネットがどうして生まれてきて、嫁がされたのかが良く解るように成るであろう。
 
 日本版だと、
 
『持統天皇』
 
になるのが濃厚とみていい。『聖徳太子』を描いたのなら、次は『持統天皇」というのが予測できる。天武天皇は壬申の乱によって皇位を簒奪しているので、持統天皇は天智天皇の血統が絶えないように努力し続けた。そのためには手段を選んでいないのであって、奈良時代が非常に血なまぐさくなったのはこのためである。
 
 池田理代子の歴史漫画は超お勧め。読めば歴史が好きに成るのは間違いなしと言っていい。
 

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新シリーズ『タマティー天使の運命学研究所』開始!

●原稿提出後発病
 
 去年、小説を書き上げた後に疲労困憊してしまい、その時に風邪をひき、寝込んでしまった。しかも縒りによって風邪の菌がお腹の中に入ってしまい、それで下痢になり、一種間ほど「うどん」だけを食べて過ごした。そこまでして書き上げた物が当選すれば良かったのだが、結果はなんと、
「またもや落選」!
 
 これで「9戦9敗」。第一次選考すら突破しないので、ガクンと落ち込んでしまった。今回の作品は新人賞を取れると自信があったのだが、どうも出版社との相性が悪いのかもしれない。どんなにいい作品を出しても、出版社の好みと違ってしまえば、第一次選考すら突破するのが難しいのである。
 
 第10戦目は思う所あって、今まで一度も出していない出版社に変える事にする。というのは、これまで連戦連敗をしまくってきたので、一体どこの出版社が新しい小説に新人賞を与えているのかよく解るようになった。俺が今まで出してきた出版社たちはどちらかといえば古臭い小説に新人賞を出してきた。だから俺は落選しまくったという事になる。
 
 新しい小説は新しい文体を生み出さない限り絶対に作り出せない。俺はこのブログでせっせと記事を書いてきたので、文体が新しいのだ。しかし新しい文体で書いた小説に新人賞を与えている出版社は日本の数多くの出版社があっても、実はたった1社しかない。他の出版社たちは文体が全然新しくないのだ。
 
 だが、新しい文体を認めている出版社が出している小説を俺は買って読んだ事が無い。なんで買わないかというと、それは俺と好みが違うからだ。それゆえ俺は今までその出版社には出さなかった。それなのにその出版社に出すとなれば、これはギャンブルに成らざるを得ない。
 
●ブログの変化
 
 俺が小説の制作に集中していたために、このブログにも変化が生じてしまった。俺が小説を書きながら記事を書いているというのに、主力は小説の方に投入しているために、アクセス数が半減してしまった。しかもその最大の切っ掛けとなってしまったのは、俺が池田理代子の漫画に嵌ってしまった事だ。
 
 ま、確かに池田理代子の漫画は既婚女性たちには不要な物であろう。事実、妊娠出産育児には全く関係ない。つくづく池田理代子が赤ちゃんを産み育てていれば良かったと思った。しかし俺には小説の作成に於いて大いに参考に成るので、この辺りのギャップがこのブログにとんでもない変化を引き起こしてしまった。
 
 俺はブログの記事を書き、その上でコメント欄で運命鑑定をやっていたりするのだが、この運命鑑定の数が最近やけに増加してきた。余りにも数が多いので、時には運命鑑定を失敗し損ねたりしてしまったりと、運命鑑定の質も低下しつつあるのだ。ちょっと過剰労働になっているのが実情である。
 
 コメントの返事にしても、仕事が終わってからにすると、どうも集中力が切れているのか、いい返事をする事が出来なかったりする。それで翌朝に返事を出す事になるのだが、それはそれでいい返事を書く事が出来るのだが、かといって返事が多いと、他の作業に支障が出て来てしまうのだ。
 
 だからこのままでは「このブログは拙い」という事に成ってしまった。ピントがずれてしまい、ヒットしていないのに、負担だけが増えていくので、ブログを維持するために多大な労力を投入しているのに、成果が全然上がっていないのである。小説を制作した事がこんなとんでもない事態を引き起こしてしまった
 そこでこのブログを思い切って再編成する。受けているのは運命学関連の物なので、ブログのタイトルを
「タマティー天使の運命学研究所」
とし、その対象を成人女性たちに限定する。男性の読者たちには他の物を用意するので、このブログは成人女性専用にする事で負担を軽減する事にした。
 
●再編成
 
 ブログの再編成では、まず「運命学に特化」する事にする。運命学関連の記事を出来るだけ多く出すようにする。それ以外にも個人的に面白いと思った記事を出していく。かといって、既に書き終わってしまった物もあるので、暫くの間は運命学に特化した記事は出て来ない。
 
 次に「運命鑑定を記事として載せる」。今まで運命鑑定はコメント欄でやっていたのだが、運命鑑定を記事欄に載せる事で、記事を書く回数を少なくし、その代り、記事の質を高めるようにする。このため、運命鑑定を依頼した人は記事欄に堂々と載せられるので、それを覚悟の上で依頼してきてほしい。
 
 第三に「個人的なネタ」は依然と同様に出す。タマティーの個人的なネタは結構ファンが多い。かといって内容が強烈なので、それでドン引きしてしまう人たちも出てしまうのだが、そういう犠牲を払っても出す価値はあるであろう。運命学をやる余りに、無味乾燥なブログにはしたくない。
 
 コメントへの返事に関しては、「名無し」とか「通りすがり」とかいう者に対して返事をしないどころか公開もしない。このブログの記事が嫌なら見るなと俺は言いたい。ブロフは沢山あるのだから、自分が好きなブログを選んでみればいいのであって、見たくもないブログは見なければいいのである。
 
 運命鑑定の依頼には試練が必要なのだが、試練を受けたのなら必ずやり、その結果がどのような物であっても、きちんと報告して欲しい。たとえ試練に失敗したとしても、温情で合格にする事も有り得る。俺だって試練を出した以上、待っているのであって、なんにも返事をしてこない事の迷惑を考えて欲しい。
 
 
●乞うご期待
 
 小説の作成は長編小説なら、企画に1ヵ月、執筆に2ヵ月、冷却に1ヵ月、推敲に1ヵ月かかるので、本気で長編小説を書こうと思えば5ヵ月間はかかってしまう。だから俺は1年に1作品でいいと思っている。1年の内に何作品も書こうとすれば、質が落ちてしまうし、似たような物を書いてしまう事だろう。
 
 それと小説の制作はあくまでも「趣味」とする事にした。今まで様々な小説を読んで来たのだが、小説は小説家が書くべき物ではあるけれど、しかし俺が本当に面白いと思った小説は、それを書いた小説家は1年に1作品しか書いていない。それでは収入が不安定だから、他の職業をする事で生計を維持しているのだ。
 
 俺は現在、小説を書いていないのだが、その代り仏教に関する本を書いている。この本は400字詰原稿用紙で1000枚以上に成る予定なので、今年、最も力を入れている作品だと言える。この本を読めば、釈迦が一体何を悟ったかが解る事であろう。仏教では出鱈目な学説が出回っているので、俺はそれを一掃したい。
 
 それと今は企画段階だが、運命学の本も書こうと思っている。意外な事かもしれないが、運命学を本格的に研究して書かれた本というのは無い。或る特定の占いを深く研究した物はあるのに、運命学として学問を確立した物はないのである。だからこの手の本を書く必要性があるのだ。
 
 昭和憲法体制では「宗教」とか「占い」とかは否定的な扱いを受けてしまっている。だから「無宗教」を唱える人や、「占いなんて信じるの?」と平気で言ったりする人たちが出て来る。しかし結婚するば解るだろうが、不思議としか言いようのない出会いによって結ばれたりするのだから、宗教や占いというのは絶対に必要であり、そういう物があれば人生を成功させる事が出来るが、そういう物がなければ想像を絶する苦しみを味わう事になってしまうのである。
 

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『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定

●原作がいい場合、原作に忠実に成った方がいい
 
 上橋菜穂子の『精霊の守り人』がNHKでドラマ化され、なんと『大河ファンタジー』として放送される事になった。このドラマが成功すれば、土曜日の午後9時枠は『大河ファンタジー』として大河ドラマに準じた扱いを受けるようになるかもしれない。NHKは大河ドラマと朝の連続テレビ小説以外、いいドラマがないので、もう1つドラマの枠が欲しい所だ。
 
 現在、大河ドラマでは『真田丸』を放送中なのだが、俺は毎回、ドラマを見ている最中になぜだか寝てしまう。視聴率的には善戦しているのだが、ネットで調べてみると、長澤まさみの演技が物凄く不評で、それで見るのをやめる人たちが続出しているという。主役は堺雅人なのだから、彼の魅力を食ってしまう女優を入れてしまったのが間違いなのである。
 
 『精霊の守り人』では綾瀬はるかが主役のバルサ役をやっているのだが、原作ではごっつい女になっているから、ミスキャストといえばミスキャストだと言っていい。しかし綾瀬はるかはこの役のために1日200回も腕立て伏せをして体を鍛えているので、そういう努力があればこそ長澤まさみみたいな不評を買う事がないのである。
 
 但し、この大河ファンタジーで気に成る点が1つあり、それは、
「原作に忠実になっていない」
という事だ。原作がいい場合、原作に忠実に成った方が良く、下手に弄ってしまうと失敗する可能性が高くなってしまう。脚本家が内容をてんこ盛りにしてしまうと、逆に面白味が減少してしまう事に成る。
 
 監督の方は質の高いドラマになるように撮影しているので、だからこそ脚本家のやっている事が異様に目立ってしまう。脚本家が書きたい事を100%書いてしまうのではなく、敢えて30%マイナスにすると、視聴者たちとしては非常に見易いドラマになる物なのである。視聴者たちに空想を許す余地を与えるからこそ、視聴者たちは自分で空想し、より楽しむ事が出来るように成るのだ。
 
             NHK放送90年大河ファンタジー「精霊の守り人」SEASON1完全ドラマガイド
●帝とチャグム王子
 
 大河ファンタジーのヒットを支援するために、『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定をする。まずは原作の『精霊の守り人』を読んで欲しい。物語は原作に描かれている通りに進む事に成るのだが、登場人物たちに運命鑑定をしてみると、この物語の思わぬ真実が浮かび上がってきて、それでこの小説を十二分に楽しむ事が出来るように成るのだ
 物語では帝がチャグムを暗殺しようとするのであるが、運命鑑定をしてみると、
「帝とチャグムの相性は良い」
という結果が出た。チャグムは、
「実行力があっても孤独であり、それでいながら粘り強く行って事が出来る」
という少年である。だヵら王子としての能力を充分に持っており、帝から暗殺を仕掛けられるような人物ではない。
 
 問題があるとするなら、帝と二ノ妃の夫婦関係であり、この夫婦は、
「表面的には相性がいいのだが、しかし幾ら話し合っても理解する事は出来ない」
という間柄になっている。だから二ノ妃はチャグムを産んでいながらも、帝と仲が良いとは全く書かれていない。これはこれでいいのであって、帝と二ノ妃の仲がいいと、どうも変という事に成る。
 
 二ノ妃は母性愛の豊かな女性なのだが、チャグムの名は母親との縁が薄いために、それでバルサが登場してくる事に成る。バルサも母性愛の豊かな女性なので、それでバルサはチャグムの母親代わりの存在に成って行くのである。チャグムはバルサから母性愛を貰う事で、男として成長して行く事に成るのだ。
 
 バルサはチャグムを男として愛しているのではない。結婚していないくせに、母親としてチャグムを愛している。これは実に変な事なのだが、バルサにはジグロという、自分の父親代わりに成った男性がいたので、それでバルサはチャグムに母性愛を注ぐ事が出来たのである。
 
●バルサとジグロの関係
 
『精霊の守り人』ではバルサとチャグムの関係をメインに動いていくのだが、実はバルサとジグロとの関係の方が重要であり、これこそが本体という事に成って来る。なんでバルサは死んだジグロに執着しているのかといえば、この2人は相性がいいと同時に、バルサは自分がやらなければならない事をしなかったがゆえに、ジグロを死に追いやってしまったからだ。
 
 ジグロという名は、
「なんでも自分の思い通りにする男」
なのであって、それでバルサはジグロに散々振り回される事に成ってしまった。ジグロがバルサを育てたからこそ、バルサは女用心棒に成る事が出来たのだが、しかしそのために女としてまともに生きる事が出来なく成ったしまったのである。
 
 ジグロの名はその一方で、
「母性愛を刺激する男性」
なのであって、バルサはジグロに接すれば接するほど、母性愛が刺激されてしまったのである。しかしバルサはジグロに母性愛を注ぐ事は出来なかった。だからジグロは死んでしまったのである。
 
 バルサのジグロへの思いは非常に複雑であり、この問題は第二巻の『闇の守り人』で展開される事に成るのだが、とにかく愛憎にまみれ、素直に愛する事が出来なかったゆえに、ジグロを死に追いやってしまったのであり、それがバルサにとって深刻な心の傷になっているのだ。
 
 バルサが腕のいい女用心棒という評価を得ながらも、結構、負傷しまくるのはそのためであり、結局、自分の心の中に複雑な物を抱えているからこそ、巧く戦う事が出来ない。もしもバルサがジグロほどの人物と出会ったのなら、恋愛によって解消していく事が出来るのだが、そういう人物とは滅多に出会える物ではないからこそ、苦しまなければならなくなってしまうのである。
 
 
●バルサとタンダの関係
 
 タンダという名は、
「努力家であり、実行力を充分に持っている男性」
という事に成る。タンダはバルサの相手には丁度いい相手であって、バルサに何かあればすぐに手助けしてくれる事になる。
 
 しかしその一方で、タンダの名は、
「母性愛の豊かな女性が好き」
という名なので、それでタンダはバルサの事を女としてよりも、母親代わりの女性として見てしまう事に成る。2人の関係がなかなか進まないのはそのためであり、たとえ付き合ったとしても、まともな恋愛になる事はないのだ。
 
 タンダはバルサの心が複雑な事を或る程度は知っている。しかしバルサの不自然さを解放してあげるだけの力を持たない。バルサは結局、自分1人の力で心の闇と戦う事に成るのだが、それで自分の不自然さが完全に解消された訳ではない。だが守り人シリーズの最後では、バルサとタンダが結ばれる事に成るのだが、これではハッピーエンドには成らないのだ。
 
 なんでこんな事になってしまったのかといえば、作者の上橋菜穂子本人がまともな恋愛をしていなかったからであり、恋愛を小説に書くためには、作者自身が恋愛をしない限り絶対に描けないから、それでタンダでは役不足というのに、幼馴染みという事で無理矢理くっ付けてしまったのである。
 
 池田理代子の『ベルサイユのばら』も主人公のオスカルは幼馴染みのアンドレと結ばれてしまう事に成るのだが、池田理代子本人が一目惚れをしたのは、なんと「57歳」の時であったという。それまでに結婚は2度もしているのだが、実は恋愛をせずに結婚してしまっただけの事であり、自分が恋愛をしていなかったからこそ、漫画の中に恋愛をちゃんと描く事は出来なかったのだ。
 
 上橋菜穂子の小説は問題点が多々ありつつも、合格点を貰える出来に成っている。しかしそれで良いという訳ではない。如何なる小説であっても、主人公が様々な事を経験しながら、最終的には幼馴染みと結ばれてしまうような物語は、作者本人がまともな恋愛を一度たりともした事がないと判断した方がいい。
 
 バルサのような女性が様々な経験をして成長していけば、最早、幼馴染みの男性と結婚するという訳には行かないものなのである。
 

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