書籍・雑誌

音読みの謎

●「呉音」「漢音」「唐音」
 音読みとは日本語に於ける漢字の字音の読み方である。日本語には日本独特の発音法があるので、中国人が発音しても、それをそっくりそのまま真似る事ができなかった。どうしても日本風の発音になってしまう。日本人が漢字を大量輸入したのは三回あって、「古墳時代」「奈良時代と平安時代」「鎌倉時代」の3つである。
 
 古墳時代に行われた音読みを「呉音」という。主に三国時代の「呉」から学んだからこそ、こういう言われ方をする。但し、呉だけでなく、その後の「西晋」「東晋」「宋」「斉」「梁」からも受け入れた。大和朝廷にしてみれば、外交交渉をするためにどうしても必要だったからこそ、漢字の大量輸入が起ったのである。
 
 奈良時代と平安時代に行われた音読みを「漢音」という。主に「隋王朝」や「唐王朝」の時の発音なのだから、「隋音」とか「唐音」といえばいい物を、漢王朝の時の発音ではないかと勘違いされてしまう漢音になっている。古代日本人は華北の人たちを「漢」(から)と呼び、華南の人たち「呉」(くれ)と呼んだので、それで漢音になってしまったのだ。
 
 鎌倉時代に行われた音読みを「唐音」という。これは本当に誤解を招く。主に「宋王朝」の時の発音なので、だったら「宋音」にすべきなのである。しかし唐王朝が崩壊する過程で、どうも日本に大量の亡命者たちが来たみたいで、その者たちは唐王朝の時の発音を行なっていたので、それで唐音になってしまった。
 
 例えば「京」という漢字は、呉音では「キョウ」、漢音では「ケイ」、唐音では「キン」であり、「平安京」(ヘイアンキョウ)では呉音を、「京阪」(ケイハン)では漢音を、「北京」(ペキン)では唐音で処理している。同じ漢字を使うのだから、発音を統一すればいい物をなぜだが3つも発音が存在しているのだ。
 
●抵抗したのは誰か?
 古代日本では壬申の乱が起り、これによって律令制度を本格的に確立していく事になる。この時期に漢音を一気に普及するので、この時に呉音を廃棄すべきだったのである。実際に朝廷は平安京遷都の直前に「漢音を持って正しい音読みとする」という勅令を出している。しかし抵抗した者たちが居たからこそ、呉音が生き残ってしまったのである。
 
 じゃ、一体誰が抵抗したのかといえば、まずは「僧侶」たちであり、仏教関係の用語には呉音が大量に残っている。例えば「成仏」(ジョウブツ)は呉音の発音であり、漢音なら「セイブツ」となる。但し「仏」は呉音だと「ブチ」なので、呉音で正確に言えば「ジョウブチ」で、「ジョウブツ」は多少なりとも妥協した結果という事ができる。
 
 第二の抵抗勢力は「医者」たちであって、医療関係にも呉音が大量に残っている。例えば「静脈」(ジョウミャク)は呉音の発音であり、漢音なら「セイバク」となる。「脈」は漢音だと「バク」なので、「心臓がバクバクする」という事で、多少存在している程度である。朝廷は医療には介入できなかったみたいで、医療関係には呉音がしっかりと残ってしまった。
 
 第三の抵抗勢力は「官僚」たち自身であり、法律関係にも呉音が残っている。平安京自体が呉音を用いている以上、官僚たちは天皇から勅令が下っても、そう簡単に漢音に移行する事ができなかった。尤も漢音を普及させる役目を負うのは官僚たちなので、官僚たちが呉音を残してしまえば、確実に残る事になる。
 
 中国は専制君主制を取るので、始皇帝の例を見ても解るように、発音を統一しようとすれば、本当に統一してしまう。それだけ政治権力が圧倒的に強大であるのだ。しかし日本は専制君主制を取らないので、どうしても朝廷の力が弱く、政治権力の及ばない箇所が出て来てしまうのである。
 
●慣用音
 
 呉音や漢音や唐音には或る一定の法則が存在するのだが、厄介なのが「慣用音」であり、慣用音は中国語に基づく事無く、日本人が発音し易いように発音してしまった物だから、訳が解らなく成る。それなのにその発音が使い勝手からいいからこそ、日本人はなんの疑問に感じないのである。
 
 慣用音の代表例が「茶」であろう。茶は慣用音で「チャ」と発音する事になっている。しかし呉音では「タ」、漢音では「ダ」、唐音では「サ」なので、漢字本来の発音とは一切関係ない。一体いつどこで誰が「チャ」と言い始めたのかというと、恐らく平安時代後期に医者たちの業界用語であったろうと推測される。
 
  臨済宗によって抹茶が普及する前、茶は薬であった。漢音で「ダ」と言ってしまうと、何を言っているのか解らないので、それで「チャ」にしたのではないか? 臨済宗は茶を「サ」と唐音で読んでいたので、禅僧たちが「チャ」という言葉を広めていない事はたしかなのである。
 
「茶道」は「チャドウ」か「サドウ」か非常に問題であり、これは茶道の命運を左右しかない問題だと言っていい。最近の流れとしては、「サドウ」から「チャドウ」へという流れになっており、茶人たちまでが「茶道」を「チャドウ」と言い始めている。しかし茶道を「チャドウ」というのはダメなのである。
 
 姓名判断的に「茶道」を「サドウ」と読むとお洒落で華やかという事を意味するが、「チャドウ」だと大胆だけど孤独という事になってしまい、「サドウ」の方が茶道の実態とピタリと一致しているが、「チャドウ」だと全然合っていない。大体、「喫茶店」は「キッサテン」であり、だから人々は行くのである。「喫茶店」が 「キッチャテン」では誰も行かないだろう。
 
 では、なぜ「茶道」が「チャドウ」と言われるようになったのかといえば、それだけ茶道が国民に普及したからであり、普及したからこそ、茶人たちですら日本語として言い易い物にしたいのである。尤も「茶道」が「チャドウ」になってしまうと、お洒落ではなくなるし、華やかな物でもなくなってしまう。
 
●元寇が日本を変えた
 元寇以降、日本は中国から漢字を大量輸入していない。元寇の際、鎌倉幕府は兵力的には圧倒的に不利だったのに、神風が吹く事でモンゴル軍を殲滅する事が出来た。これによって戦後、「神国思想」が生まれて来る。だから中国から漢字をもう大量輸入する事がなくなってしまうのである。
 
 尤も中国で発明された品物は元寇以後も入ってきている。例えば「行灯」「卓袱台」「麻雀」とかである。これらの漢字に共通する事は、当時の中国人たちが使っていたであろう発音に比較的近い発音を日本人がしているという事であり、呉音や漢音や唐音のようの法則性のある物とは根本的な所から違っている。
 
 モンゴル軍の中国侵略で中国文化のレベルが下がり、それと同時に日本は南北朝の動乱を迎えて、幕府が統治能力をなくし、それがために商業が活発になったので、だから日本と中国の間にそんなに差がない事になってしまった。寧ろ江戸時代になると、日本の学問の方が進み、朱子学で停滞しした中国の学問を追い抜いてしまうのである。
 
 近代以降、日本は西洋の文物を大量輸入したので、英語やドイツ語を日本語に翻訳していく作業に追われた。これによって今度は日本が中国に漢字を大量輸出するようになったのである。「哲学」「恋愛」「鉄道」とかいう単語は日本人が作った物であり、これは中国でも通用するレベルにあったからこそ、そのまま使用される事になった。
 
 戦後、学生運動や労働運動が活発になったが、しかし全く巧く行かなかった。失敗した最大の理由はこの手の運動をやった人たちが中国の「簡化字」を輸入したからであると言っていい。例えば「闘争」を「斗争」と書いたりして、できるだけ画数を少なくしようとした。これの一体何が間違いなのかといえば、日本はもう中国から漢字を大量輸入しなくなったのに、時代錯誤的に相変わらず中国から漢字を大量輸入してしまった事なのである。
 
●日本では革命が起っていない
 中国では革命が起ると、前の王朝の文化は全て否定される。全否定されるからこそ、漢字の発音も変わってしまうのである。中国人たちは「中国四千年」と言うが、実際の中国は中華人民共和国から建国してからの日数でしかない。想像以上に浅い国家なのであり、中国人たちの誇大表現に騙されては成らないのだ。
 
 日本に革命があったのか否かは時折問題になるが、天皇制が古代より続いている以上、日本には革命などなかった。確かに明治維新や敗戦によって価値観の変動はあった。しかしそれは革命ではないのであって、もしも革命が発生していたのなら、日本だって漢字の発音の仕方はがらりと変わってしまった筈なのである。
 
 日本には革命が起っていない以上、日本人がすべき事は日本文化の継承と発展であり、その積み重ねこそが大事という事になってくる。だから国語を教える事は日本史を教える事でもある。日本史が解ると、国語の理解度も高まって行く事に成るのだ。音読みはその代表格だと言っていい。
 
 音読みに対して一言言っておくと、
「音読みは飽くまでも日本人同士で取り決めた約束事であり、絶対に正しい物ではない」
という事である。漢字の正しい読み方は中国人たちのやっている物なのであって、その漢字を輸入し、日本人が発音し易いようにしただけに過ぎない。
 
 例えば「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているのだが、「ミウゾウユウ」と発音するのは決して間違っている訳ではない。「有」は呉音では「ユ」であり、漢音では「ユウ」である。だから漢音で発音すれば「ミゾウユウ」の方が正しい。しかし「未曽有」は仏教用語であり、僧侶たちは「有」を「ウ」と読んだからこそ、「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているに過ぎないのだ。
 
※参考文献
円満字二郎著『漢和辞典に訊け!』(筑摩書房』
円満字二郎著『大人のための漢字力養成講座』(ベストセラーズ)
(この円満字二郎は凄い人かも。出版社で漢和辞典の編集をしたので、漢字の問題を実に解り易く説明してくれる)
 
 

| | コメント (11) | トラックバック (0)

BABYMETALに対して勝手に運命鑑定

●BABYMETALはプロデュース勝ち
 
 BABYMETALはプロデュース勝ちであり、小林啓がプロデュースした段階で、勝利は確定したといっていい。「ヘビメタとダンスの融合」って今までなかったのであり、ヘビメタだけだとどうしてもダサいのに、そこにダンスを加えると、とってもお洒落な物になるから、これなら行ける事になる。
 
 BABYMETALの最大の凄さは「楽曲の素晴らしさ」であり、メロディーラインの出来がいいので、非常に歌い易い。しかしそれに反比例する形で歌詞がアホらしい。歌詞の問題点を改善すれば、名曲を生み出せる可能性は非常に高い。中元すず香の歌唱力は抜群にいいので、彼女の歌声なら大ヒットを飛ばせる事もできる事であろう。
 
 BABYMETALは歌とダンスのバランスも実にいい。歌とダンスを一緒にやってしまうと、どうしても歌唱力が落ちてしまう。だからメインヴォーカルにはまず歌を中心にさせ、ダンスは必要最低限でいいのだ。他に2人いるのだから、その者たちはダンスをメインにし、歌は補助的な物にすると、巧くバランスが取れるのである。
 
 BABYMETALは総画が「27画」なので、常に新しい事をし続けなければならない。やっている事が新しいので全ての人たちに受ける事はないが、クリエイティブな人たちには熱狂的な人気を得る事ができる。27画だと海外に縁があるので、それで欧米でもヒットしているのである。
 
 俺はBABYMETALに「ふなっしー」の臭いを感じてしまった。ふなっしーもまた、プロデュースの段階で勝利していたのであり、それであの大ブレイクが起ったのだ。BABYMETALとふなっしーの最大の違いは、お笑いのセンスの有無なので、笑いで伸し上がっていく事はできない。飽くまでも音楽で勝負しなければならない。
 
●メンバーたちの関係
 
 BABYMETALのメンバーは、
「中元すず香」
「水野由結」
「菊池最愛」
の3人である。BABYMETALの事を調べていくと、この3人の組み合わせがこれまた凄い。
 
 まず中元すず香なのであるが、「すず香」の音相は「巫女」の事で、巫女の中でも巫女鈴を持って巫女舞をする巫女の事を言う。脳科学者の中野信子はBABYMETALを「突如舞い降りた謎の巫女たち」と評したのだが、これは実に正しい。メインヴォーカルが巫女だからこそ、巫女たちが歌い踊っている事に成るのである。
 
 次に水野由結なのであるが、「由結」の音相は「結い」の事で、本来は母親と娘の結びつきを意味するのだが、この者がバンドに入れば、バンドとファンたちを結びつける事になる。だから中元すず香がメインに見えて、実は水野由結こそがバンド存続には最も重要な役割という事に成るのだ。
 
 第三に菊池最愛なのであるが、「最愛」と書いて「モアイ」と読む。「モアイ」という言葉は「モアイ像」から来たために日本語的にはない物なのだが、音相的には「藻」と「愛」という事に成り、「表面的ではあるが、広くに行き渡る愛」という意味を持つ事に成る。下手をすると「ヤリマン」になってしまうが、バンドのメンバーであるならファンたちに愛を施して行く人物になるのだ。
 
 だからこの3人を総合させると、
 
「巫女が人々を結び付け、表面的ではあるが広く行き渡る愛を施す」
 
という意味になり、バンドとしては理想的とも言える者たちを揃えた事に成る。確かに中元すず香の歌は巧いのだが、一人ではそれほどの力を発揮しえない。水野由結と菊池最愛の2人の力を得る事によって、とんでもない力を発揮する事が出来るようになるのである。
 
 
●三位一体の結界
 
 3人でグループを作ると、「三位一体の結界」が張られる事に成る。三位一体の結界が張られると、3人の内、2人は忙しく、1人はボケ役をこなし、それによってバランスを取る。初めての出産をすれば解るだろうが、赤ちゃんはすやすや眠り、母親は家事に育児に忙しく、父親は仕事が猛烈に忙しくなる。
 
 TMネットワークは木根尚登がボケ役で、別に小室哲哉と宇都宮隆の2人でやればいいのに、木根尚登が加わる事によって三位一体の結界を張り、それでブレイクしていった。アルフィーなら坂崎幸之助がボケ役で、高見沢俊彦と桜井賢の2人でやればいいのに、坂崎幸之助が加わる事によって三位一体の結界が張られ、長々と活動し続ける事が出来ているのだ。
 
 小林啓はパフュームを見てBABYMETALの構想を考えていったのだが、パフュームは全員がボケ役なのであって、これに対してBABYMETALの方は誰もボケる事ができず、必ず何かしらの仕事が存在している。これは三位一体の結界からすれば異常な状態で、こんな状態が長く続く事はないのだ。
 
 BABYMETALは全員が走り続けなければ成らず、いずれ誰かが「疲れたからやめる」と言い出す事になるであろう。いつまで走り続ける事なんて誰にもできないのだ。BABYMETALは2010年結成で、2012年に初シングルを出しているので、もうそろそろバンド存続の問題が出て来る。
 
 中元すず香は現在「天中殺」であり、2年後には菊池最愛が「天中殺」に突入する。天中殺の時機は蓄積した疲労が思いっきり出て来てしまうので、疲労を理由に辞めてしまう事だって有り得る。何かテコ入れ策を行なえばブレイクしていく可能性が大ありだが、何もしなければ解散という事になってしまう事だろう。
 
 
●テコ入れ策
 
 テコ入れ策には、
「後2人投入して5人編成にする」
か、
「後3人投入して6人編成にする」
しかない。
後1人投入して4人編成にしてしまうと、「四の結界」が張られる事になるので、BABYMETALとしては非常に危険な事になってしまうのだ。
 
 5人編成にすると、メインヴォーカルを2人にし、3人がダンスする事になる。これだと中元すず香本人が休めるので、喉を傷める事がなくなるし、ダンス担当の者たちも適度に休む事ができ、疲労のために倒れる者が出なくなるのだ。「 BABYMETALのやっている事は負担が多すぎるんだ」という事が解っていないと、結局、誰かが潰れてしまうのである。
 
 6人編成にすると、「表ベビメタ」「裏ベビメタ」と2つのチームを作る事ができ、表現の領域が一気に広がる。現在のBABYMETALには悪の要素が全くない。だから今のままだと「歌が巧いね」「可愛い子だね」だけで終わってしまうのである。それゆえ、そこにちょいとあくどい3人の女の子たちを加えると、実に面白い事に成るのだ。
 
 世の中には誰かの真似をして、全く違う物を作り上げてしまう人たちがいる。例えばローリングストーンズを真似てエアロスミスを作ったわけだし、キッスを真似てエックスを作ったわけである。BABYMETALはパフュ-ムを真似して作ったのだが、小林啓自身がその「パフュームの呪縛」から脱出しないと、もうどうにもならないのだ。
 俺がBABYMETALに対して運命鑑定をしてつくづく思ったのは、
「小林啓って人は凄い人だな」
という事であり、やはり凄い人の頭脳の中から生まれた物だからこそ、BABYMETALは凄いユニットであり続けているのである。
 
 但し、後もう少しなのだ。
 
 音楽を突き詰めていくと、その先には「神秘のヴェールに閉ざされている場所」を見つけてしまう物だが、大概の人たちはそれ以上進まず、その手前で諦めてしまう。だから大した音楽を生み出す事は出来ない。しかしごく限られた者たちだけが神秘のヴェールを突き抜けて、新たな世界を生み出していく。それゆえその者たちによってのみ、音楽は発展していくのである。
 
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

いとしのミスドデブ

●カフェオレが無料で
 最近、秋の長雨が続き、それなのに用事であちこち出かけなければならず、そのせいか本が溜まってしまった。そこで休日を利用して溜った本を一気に読もうとして読んでいた所、電話がかかってきて、
「サービス券でカフェオレが無料で飲めるからミスタードーナッツに来なさいよ」
と、とある女性作家からお誘いを受けてしまった。
 
「雨、降っているし~」
と俺は断ったのだが、
「いつも本ばかり読んでいないで、たまには外に出て来なさい」
と無理矢理に行く羽目になり、それで急いで支度を整え、ミスドに行った。
 
 サービス券があるので、カフェオレを無料で飲めるのだが、このカフェオレ、ドーナツに合して作られて物で、普通のカフェオレより遥かに薄い。ガムシロップを入れると、どうにか美味く飲める。通の人はミルクを入れるのだが、ミルクを入れたとしても、そんなに美味しくはならない。
 
 このカフェオレ、お代わりも出来るので、2杯も飲んでしまった。マグカップに入っているので、1杯でも充分なのだが、タダという事でお代わりを強制される羽目に。カフェオレはあんまり甘くないので、それでドーナツを2個買う事になった。カフェオレがタダであっても、充分商売が成り立つ訳である。
 
 実を言うと、ミスドに行くのは中学生以来であり、数十年経ってもミスドのドーナッツは相変わらず美味しい。ドーナツ専門でやっているので、ドーナツとしては断トツであろう。尤も客は殆どが女性客で、男性客は俺ともう1人しかいなかった。女性たちには確実に受ける味なのであろう。
 
 
●ミスドデブの特徴
 ミスドの店内を見回してすぐに気付く事は、女性客に於いてデブの比率が異様に高いという事であろう。ドーナッツは糖分と過熱した油なので、栄養的にはマックのハンバーガーよりも偏っている。オヤツとして食べる分にはいいのだが、これを食事として食えば、確実に太る事に成る。
 
 俺はミスドの店内にいるデブたちを、
      「ミスドデブ」
と命名した。
 
 このミスドデブの特徴を5つほどあげてみよう。
 
①ドーナツがとっても大好き
 ドーナツを異様なまでに好きにならないと、あそこまで太る事はできないであろう。というか、ミスドのドーナッツは飽きが来ないように作られているという事なのである。
 
②3サイズが同じ
 ミスドデブは通常のデブであるムーミン型デブではなく、3サイズが同じ数値なるという特殊なデブなので、外観は巨乳と出尻が目立つ。但し、脇腹に巨大なベーコンを巻き付けているからこそ、「あれ、変だな?」と思われる事に成る。
 
③意外とお洒落
 ミスドデブは意外とお洒落。3サイズが同じ数値になると、自分に合った服がなかなか売っていないので、それで必死に探す事になり、それがお洒落度を上げる。単なるデブだと、大きいサイズの服を買ってしまう事に成るので、それでお洒落にはならないのだ。
 但し、喫煙するミスドデブは逆にお洒落ではない。喫煙して酸欠になるので、お店を探し回るだけの体力がないのであろう。
 
④トイレが近いが、用を足すのは速い
 ミスドデブはトイレが近い。なんせ飲み物はお代わり自由なので、沢山飲めば、その分、出るであろう。しかし用を足すのは速いのだ。便所で長居しないので、他の客たちが小便で困るという事はない。
 
⑤ミスドに長居する
 ミスドデブはミスドに長居する。客の回転率の事を考えると良い物ではないのだが、長居できるからこそ何度も来る事に成り、それで経営が巧く成り立つ。マックだと長居すると追い出されてしまうので、だからマックは経営危機に陥ったが、ミスドは経営危機には陥らないのである。
 
 
●なぜデブは否定的扱いを受けるのか?
 デブは全員「巨乳」である。巨乳なのだから、本来なら高い評価を与えられていい。ファッションモデルようなスタイルであっても、脱げば「貧乳」なのだから、戦いをオッパイに限定すれば、デブは必ず勝てるのだ。それなのになぜだかデブは否定的な扱いを受けてしまう。デブたちは或る事をしないからこそ、自ら評価を激減させてしまっているのである。
 
 第一の理由は、
「デブはお洒落じゃないから」
という事であり、食欲が勝ってしまい、ファッションの事を考えなくなってしまうと、デブはお洒落ではなくなってしまう。デブはデブなりお洒落ができるのに、それをしないからこそ、デブである事を非難されてしまうのだ。非難されるとダイエットしようかなという事になるのだが、それは勘違いなのであり、足りない物はお洒落であり、お洒落をしさえすれば評価は高くなっていく。
 
 第二の理由は、
「デブは愛嬌がないから」
という事であり、デブが自分の肥満を卑下してしまえば、愛嬌がなくなるのは当然であろう。デブという事は脂肪が多いので、脂肪からより多くの女性ホルモンが分泌される事に成る。だから痩せている女性たちよりも愛嬌がある筈なのであり、それなのに自分が意図的に愛嬌を潰してしまえば、愛嬌がなくなってしまうのは当たり前であろう。
 
 タレントの柳原加奈子は身長153センチの体重74キロのデブタレなのだが、お洒落だし、愛嬌もあるので、だからタレントとして成功している。因みに彼女の好きな食べ物は、「フライドチキン」「スパゲッティ」「カルボナーラ」「ポテトチップス」「アイスクリーム」であり、どれも食べ過ぎると確実に太る物ばかりである。
 
 ミスドデブたちは御洒落だし愛嬌もあるので、デブであっても否定的な扱いを受ける事はない。尤も自分が自分の体形をどう活かすかなのであり、デブである事を卑下してしまうと、普通のデブたちが味わう悲惨な境遇を味わう事に成る。
 
 
●「デブになるぞ~」
 ミスドのCMでは、
 
「いいことあるぞ~、ミスタードーナッツ」
 
というのがキャッチコピーなのだが、しかしその裏は、
 
「デブになるぞ~、ミスタードーナッツ」
 
なのであり、確かにいい事はあるのだが、ドーナツを食い過ぎればデブになってしまう超危険なお店なのだ。
 
 近年、ぽっちゃり系のファッションがはやったが、ミスドデブはぽっちゃりではない。デブはデブなのであって、その点を絶対に勘違いしてはならない。大体、ドーナツを10個も食っていれば、デブにならない方がおかしいであろう。ミスドは「ドーナツを10個以上食べると太ります」と警告を発しておいた方がいい。
 
 ドーナツは所詮オヤツにしかならない物だと思うのだが、店内にはドーナツで食事している人たちが結構いた。俺はミスドでオヤツした後に、帰宅してカツ丼を食べたのだが、こういう事をしないと太ってしまう事であろう。どう考えてもドーナツでは充分な栄養を取れないので、ドーナツで食事する事はくれぐれも気を付けた方がいい。
 
 
 

| | コメント (21) | トラックバック (0)

女人禁制「オスカルの楽しみ方」

●女性なのに感情移入できる
 
 女性が漫画を読む際、主人公の感情移入する事はし易い。女性たちが感情移入できる漫画であるなら、その作品はヒットする事であろう。しかし男性の場合、主人公に感情移入するのが難しい。況してや少女漫画となれば、主人公は女性なのだから、殆ど絶望的となってしまう。
 
 しかし『ベルサイユのばら』は主役のオスカルが女性なのに男性として生きているので、それで感情移入する事が出来てしまうのだ。女性たちには解らないかもしれないけど、男装している時のオスカルは確かに男性として生きているのであって、ただ単に女性が男装している訳ではないのである。
 
 しかしオスカルは女性である以上、男装していても、突如、女性に戻る時がある。だが、その時は女性として全くの無防備なので、そうなると男性の俺としては、
「可愛い~ッ!」
という事になってしまう。男性として生きてきたのに、女性として女子力を充分に持っている事は絶対に有り得ない。池田理代子はこの点、本当に巧い。
 
 俺ははっきりと言ってしまうと、オスカルの生き方には絶対に共感できない。近衛連隊長になった以上、最後まで王家を守るべきであって、それなのに革命側に付くなど言語道断だと言っていい。池田理代子も当初の計画ではオスカルが投獄されたマリーアントワネットを助け出す物なのだったが、様々の事情で物語が徐々に変化していき、最終的にはああいう結末になってしまったに過ぎない。
 
 近衛兵たちは王家を最後まで守る役目を負うので、元近衛連隊長とはいえ、近衛連隊にいた者が裏切るようでは、君主制は崩壊していくしかないだろう。『三国志演義』がなぜ男性たちに根づよい人気を持っているのかといえば、関羽や張飛や趙雲や諸葛亮孔明が決して劉備を裏切らなかったからである。
 
●ベッドの上でのオスカル
 
 オスカルは絶対に「処女」であるから、アンドレとのセックスシーンではあんな綺麗に行くわけがない。セックスに関する情報を全く仕入れてこなかったのだから、オスカルはベッドの上で「マグロ」になってしまい、何もする事が出来ない。それどころか処女膜を破れれば、その痛さに嘆く事であろう。
 
 漫画には出て来ないのだが、アンドレのキャラ設定では、彼は売春宿に行って既に女性とセックスを経験済みという事なので、セックスに関して何も知らないわけではないのだ。しかしアンドレが買春したとなると、女性の読者たちの印象が物凄く悪くなってしまうので、それでその情報は漫画には出さなかったのである。
 
 仮にアンドレが童貞ではなかったにしても、オスカルを相手にセックスするのは至難の業だろう。というのは、アンドレはオスカルよりも体力的に劣っているので、そんな女性を相手にセックスするのは本当に大変なのである。況してや娼婦しか相手にした事がないなら、余計にと言っていい。
 
 オスカルは運動神経がいいので、教えればどうにか使える。尤も男女のセックスに興味を持てばの話である。そういう事よりも仕事に興味を持ってしまえば、性生活は悲惨なままであろう。この手の女の場合、セックスする前に仕事よりも大切な事がある事を教える方が最優先なのであって、セックスはそれをしてからなのである。
 
 女性が仕事をする場合、恋愛して恋力を発生させて、その恋力を仕事に投入して成功して行くやり方もあるが、恋愛禁制によって恋愛をしないで突っ込んで行った方が成功確率を高くする事が出来る。女性のアイドルに恋愛禁制を要求するのはそのためなのだが、このやり方には欠点があって、恋愛をしなければならなくなった時に、仕事よりも恋愛に重点を置いてくれないと、仕事も恋愛も失敗する事になってしまうという事だ。
 
●結婚後のオスカル
 
 オスカルとアンドレは死の影が漂う中で結ばれる事に成るので、結婚後の事は全く想像できない。物語はオスカルとアンドレが結ばれると、死に向かって突進していく事に成るので、結婚の事は除外せざるを得ないのだが、それでも結婚後のオスカルは一体どうなるのか想像してみてもいい。
 
 オスカルは男として育てられてきたので、家事や育児が全くできない女性である。しかも貴族の令嬢ゆえに、自宅には女中たちがいるので、たとえ赤ちゃんを出産しても、自分で育てなくてもいいようになっている。だからこの問題の核心は、
「オスカルは結婚によって変わるか否か?」
にある。
 
 フランス革命が勃発し、オスカル自身、啓蒙思想に目覚めてしまっている以上、オスカルは出産しても仕事をする事になるであろう。アンドレにはオスカルを不自然な状態から解放させてあげる力を持っていない以上、幾らアンドレと結ばれたとしても、オスカルは絶対に生き方を変える事はないであろう。
 
 尤もオスカルは女性である以上、出産して赤ちゃんの事が可愛くなり、育児に専念する事も有り得る。「結婚には全然興味ない」「赤ちゃんなんて大嫌い」といっていた独身女性が、結婚後、結婚生活を大事にし、育児に専念する事になってしまう事があるが、そういう現象は起こる女性には起こるのである。
 
 オスカルは「六女」なので、別に結婚しようがしまいが、赤ちゃんを産もうが産むまいが、どうでもいい女性なので、オスカルの自由にすればいい。しかしその余りにも大きすぎる自由が、結局、自分の実力では自由をきちんと制御しきれないので、それで破滅に向かって突進して行ってしまうのである。
 
●なぜアランは「あんな女、やめておけ」というのか?
 
 原作のアランとアニメでのアランは全く別人格なのであるが、アニメ版のアランは、
「あんな女、やめておけ」
とアンドレに忠告させている。アニメ版は監督が男性なので、これは監督の意見だと判断していいだろう。
 
 仕事が出来過ぎてしまう女性は、妻や母親としては全く不適格である。オスカルには女子力が決定的に不足しているのであって、オスカルとアンドレは性別が違っても、結局、男同士の交際になってしまうのだ。男気あふれるアランにしてみれば、オスカルの事を自分の仲間であるアンドレには勧める事が出来ないのである。
 
 意外な事かもしれないが、アニメ版のアランには女性たちのファンが結構多い。原作のアランは反骨精神旺盛なので、女性たちは絶対に好きに成れないのだが、アニメ版だとアランのセリフはまさにその通りなので、女性たちはアランに男を感じてしまい、それで好きになってしまうのである。
 
 原作者の池田理代子はアニメ版の『ベルサイユのばら』を「目が疲れる」という理由で最後まで見ていないと発言している。しかしこの発言は本当に正しいのだろうか? というのは、『栄光のナポレオン』ではアランが大活躍する事になるので、アニメ版を見た上で漫画を描いていかないと、ああいう作りにはならないからだ。
 
 女性は結婚する事によって母親から自立していく事になる以上、女性であるなら絶対に結婚すべきである。女性として生まれたのに、結婚を否定して仕事を選んでしまえば、どう生きたとしても、絶対に自立できないのだ。オスカルは結婚適齢期が終わった時に死んでいるので、その点は物凄く評価する事が出来るのである。
 
 

| | コメント (3) | トラックバック (1)

池田理代子の歴史漫画

●近代以前の国家では、専制君主制の国家こそ先進的であった
 
 近代以前の国家では専制君主制の国家こそ先進的であった。専制君主制はなかなか成立しない。君主が専制君主になるためには、有力貴族たちを全て粛清しなければならないので、国内で血みどろの内戦を経ないと君主は自分の所に権力を集中させる事が出来ない。
 
 しかし一旦専制君主制が誕生してしまうと、国内には政敵が皆無となるので、それで君主は積極的に戦争をしていく事が出来、だから専制君主制国家は大発展する事が出来るように成る。西ヨーロッパでは、スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、オーストリア、ロシア、ドイツと、続々と専制君主制国家が誕生し、国外に植民地を持つ事によって大繁栄を遂げた。
 
 日本では天皇が専制君主制ではなかったので、国民は専制君主制の国家というのがどうしても解っていない。日本は近代以前では全く振るわなかったが、近代化に成功したために欧米列強と争う羽目になってしまったが、アメリカ合衆国を除けば、全て専制君主制を経て今の政体があるので、専制君主制が解っていないと、まともな外交1つできない事になってしまうのだ。
 
 専制君主制の国家では「王位継承」という欠点があり、如何に名君に恵まれたとしても、名君が連続して出て来る事はなく、大概が凡庸か愚鈍な者が次の君主になってしまう。そうなれば国内では政争が発生し、国外では拡張した領土を維持する事が出来なくなってしまう。しかも国民は君主に服従するだけだから、政治に対してなんにも責任を持たず、それで政体が末期になると、国民は革命側に走ってしまうのである。
 
 専制君主制の国家は近代化の過程で、革命が起こる事によって専制君主制その物が消えた。現在、専制君主制の国家というのは1つも存在しない。近代以前では先進的と思えた専制君主制は、近代以降だと淘汰されるべき物と成ってしまった。かといって近代化された国家も名宰相を持続的に出していかないと、専制君主制同様に淘汰されてしまう事だってあり得るのだ。
 
●『ベルサイユのばら』
 
 漫画家の池田理代子は不思議にも専制君主制の時代の歴史漫画を描きまくっている。「少女漫画で歴史物はタブーである」と言われていたのに、敢えて『ベルサイユのばら』で大勝負を賭けた。これが大ヒットしたからこそ、池田理代子の名声は決定的な物となった。これ以降、他の女性漫画家たちも歴史漫画を描くようになるので、池田理代子の功績は大いに評価されていい。
 
 革命はそう簡単に起こる物ではない。革命が起こってしまう最大の原因は君主の方にあるのであって、特に碌でもない女性を妻に迎えてしまうと、王妃によって国政が乱され、それに反発する形で貴族や庶民たちが武装蜂起し、君主が弑逆されてしまう事に成る。ルイ16世は善良な人物であったかもしれないが、それでも妻のマリーアントワネットが余りにも酷すぎたのである。
 
 王妃である以上、全ての人たちに対して公平に接しなければ成らない。しかしマリーアントワネットがやったのは、ポリニャック伯爵夫人やフェルゼンといったごく一部の者たちを寵愛する事であって、これが貴族たちの怒りを買う事になってしまった。王妃が浪費をしようが不倫をしようが別にそれは構わない。だが王妃と貴族との関係を断ち切ってはならないのである。
 
『ベルサイユのばら』はオスカルが主人公なので、どうしてもオスカルの方に目が行ってしまうのだが、このオスカルはフェルゼンに対して、絶望的な片思いをする事に成る。思春期では自分がどんなに愛したとしても、どうする事も出来ないという事を経験する物だが、それが解った人たちはオスカルの事を正しく理解する事が出来る事であろう。
 
『ベルサイユのばら』で一言注意しておくと、作者の池田理代子は生活の全てを犠牲にしてこの漫画を描いたのであって、そのために赤ちゃんを産む事は不可能になっただけでなく、結婚もダメになってしまった。だからこの作品には「病的な部分」が或る程度は入っているので、それで女性読者たちは結婚したら読まなくなってしまうのである。
 
●『栄光のナポレオン』
 
『栄光のナポレオン』は『ベルサイユのばら』の続編と見るべき作品であり、『ベルサイユのばら』は本来ナポレオン戦争まで書く筈だったのに、作者の体力が限界に達してしまったためにアントワネットの処刑で一応終りにした。フランス革命は革命発生後、政争を繰り返し、大量の犠牲者たちを出して行き、人材が枯渇した時にナポレオンが政権を掌握し、皇帝になっていく。
 
 ナポレオンの人生で最大の汚点がジョセフィーヌと結婚してしまった事であり、彼女が子供を産まなかったからこそ、ナポレオンは後継者の事で苦しみ、帝政を安定させる事ができなった。しかしナポレオンはジョセフィーヌと結婚すると運勢が上昇し始め、彼女と離婚すると没落して行くのだから、人間の運命という物は不思議である。
 
 ジョセフィーヌはナポレオンと結婚した後に子供ができなかったので、これは結婚したが子供のいない池田理代子じゃないと描けない。ジョセフィーヌが非常に魅力的なキャラになっているので、ナポレオンだけではなく、ジョセフィーヌの事も堪能しながら読むと、この作品を非常に良く理解する事が出来るように成る。
 
 ナポレオンはクーデターをやったり、帝政を実現したりと、一見、専制君主のように見えてしまうのだが、しかしその権力は確固たる物ではなく、有力な政治家たちの支持を取り付け、敵対する政治家たちを排除する事で成り立っていたに過ぎない。学校の世界史の授業みたいな習い方をすると、歴史も政治も戦争も何も解らなくなってしまうので、歴史漫画を読む方が歴史や政治や戦争を学ぶ事に役立つ。
 
 池田理代子は『栄光のナポレオン』を執筆中に、音楽大学に受験する事になったので、それで途中から手抜きをしてしまったのが実に惜しい。手抜きをしなければ、『ベルサイユのばら』に続いて高い評価を受けた事であろう。『栄光のナポレオン』を読み終わったのなら、参考文献を読み漁って補完するという作業をやった方がいいかもしれない。
 
●『天の涯まで』
 
『天の涯まで』はポーランドの英雄ユーゼフ・ポニャトフスキの物語なのだが、ポーランドの歴史を描くのは非常に難しい。これは出版社の要請で描く羽目に成った物で、作者が最初からその気で書いた物ではない。しかし『栄光のナポレオン』に関係してくる物なので、書かなければ成らない必要性があったとも言える。
 
 ポーランド王国は君主制国家であっても「貴族共和制」を取り、貴族たちが議員となるポーランド議会によって国王を選挙するという選挙王制を取っていた。このために専制君主制に移行する事ができなかった。しかも議員たちには「自由拒否権」が認められており、自分の権益を犯す法案を悉く廃案にする事が出来た。
 
 このようなバカげた政体であったために、ロシアとプロシャとオーストリアによって分割されれてしまい、ポーランド王国は滅亡してしまった。「改革できない政治というのは政治をしていない事と同じ」であり、諸外国は専制君主制によって改革に次ぐ改革をやっているのだから、それで国力に圧倒的な差がついてしまうのである。
 
 ポーランドの事で特筆すべきは、ヨーロッパの中で最も「美女率」が高いという事であり、マリア・ヴァレフスカがその美貌を利用してナポレオンに近づき、一時的にではあるが「ワルシャワ大公国」として復活させる事が出来た。戦争や外交だけで国家の独立を維持できるのではなく、閨房も国家の独立には役立つのである。
 
 ポーランドの場合、政体に致命的な問題がある以上、革命を起こして政体を変革させない限り、どうにもならない。確かにユーゼフ・ポニャトフスキは英雄であるかもしれないが、その英雄と雖も政体を変革させなければ、腐った政体のために押し潰されて死んでいくしかない。
 
『天の涯まで』でのユーゼフ・ポニャトフスキはかなり脚色されており、実際の彼は軍人というべき人物で、軍人としては有能だったが、政治家としては全くの無能な人物なので、『天の涯まで』を史実だと思い込んでしまうと非常に危険である。大国に囲まれた小国は「巧妙な外交」をしないと生き残れないのであって、下手に戦争をすれば国家を滅亡に追いやってしまう物なのである、
 
●『女帝エカテリーナ』
 
『女帝エカテリーナ』はロシア帝国の女帝エカテリーナを描いた作品であり、『ベルサイユのばら』以降、最も出来の高い作品。しかしこの作品が大ヒットしなかったのは、池田理代子が結婚はしたが、子供がいなかったので、それでエカテリーナがまるで独身女性のように振る舞うからである。

 専制君主制では君主に権力が集中し、それに伴って富も女も集まって来るのだが、という事は女性が君主になれば、富も男も集中してくる事に成る。ロシア帝国ではこのバカげた事が本当に起こった。なぜ女帝による専制君主制が非難されるのかといえば、男性の皇帝は子孫を増やすために側室を設けて行くのだが、女帝はそうではなく、ただ単に性的な快楽のためにやっているからである。

 帝国という物はなぜだか女帝になると大発展し、領土が一気に拡張する。しかしその後、急速に没落してしまう事に成る。ロシア帝国では女帝エカテリーナで大繁栄を遂げるのだが、彼女が崩御すると、彼女を上回る皇帝が誰1人として出ず、最終的にはロシア革命で滅亡してしまった。
 
 女帝エカテリーナは池田理代子の作品の中で最も魅力的なキャラであり、『ベルサイユのばら』のキャラ以外では、読者たちの人気1位を獲得している。『女帝エカテリーナ』を読めば強い女になれる事間違いなしであり、女社長になるならこの漫画を読んだ方がいいかもしれない。
 
 但し、猛毒率高し。女帝エカテリーナがやった事を、現実世界で本当にやれば、非難集中になってしまうのは当然であり、猛毒を緩和しながら使わないと、自分が破滅させられてしまう事に成ってしまう。未成年者の女性は読むべきではない。大人になってから読んだ方がいい。

●『聖徳太子』
 
『聖徳太子』は聖徳太子を描いた作品である。日本では専制君主制がなかったので、それで専制君主ではないが、改革を目指す皇太子を抜擢して、それで政治を行っていく事の難しさを描いた。天皇と豪族たちによる政治から、一気に律令政治へ行ける訳がなく、その過程には様々な問題があり、それを1つ1つクリアして行かなければ成らない。
 
 この作品の聖徳太子は池田理代子本人であると思って読んだ方がいいかもしれない。どう見たとしても女性であり男性ではない。池田理代子は自分が聖徳太子であったのなら、どう考え、どう行動したかを描いたのであって、それを踏まえて読んでいくべきであって、聖徳太子の絵が旧1万円札の絵とは違うからといって笑っているようでは読む資格はない。
 
 国家という物は古ければ古くなるほど、「血統」という物が物凄く重視される事に成る。だから古代では、政治家は必ず名門の出でなければ成らず、名門以外の出あるなら政治に関与する事は出来ない。それと政治家は名門の娘と結婚する事によって、よりパワーアップしていかなければ成らない。
 
 それゆえフェミニストたちのように社会を見て「男社会」と見てしまうようでは、歴史も政治も何も解らない事になってしまう。女性たちは結婚する事によって政治に大きく関与してくるからだ。池田理代子は嘗てフェミニズム的な意見を言っていたが、『聖徳太子』を描くようになると、もうフェミニズム的な意見など一切言わなくなってしまった。それは歴史や政治をきちんと勉強したからであろう。
 
 歴史というのは唯物論で証明できる物ではない。歴史を実際に動かしているのは「人間の欲望」であり、「理想」であり、「陰謀と謀略」であり、経済力というのはそのための道具に過ぎない。唯物論のよって書かれた歴史学の書物を読むより、池田理代子の漫画を読む方が歴史の事を理解する事に役立つ。
 
●次回作は?
 
 池田理代子の歴史漫画で次回作は何かといえば、予想できる物は限られてくる。彼女が得意とするのは専制君主が居た頃の時代であり、しかもそれはヨーロッパが舞台なのだから、漫画の題材に出来る専制君主はそう多くいるものではない。老齢になって中国やインドの専制君主に手出しする事はない筈だ。
 
 まずは、
 
『デジレ・クラリー』 
 
であろう。デジレ・クラリーはナポレオンの初恋の女性で、しかしナポレオンはジョセフィーヌに出会ってしまい、彼女に夢中に成ってしまったので、それでデジレとは破局してしまった。ところが彼女がベルナドットと結婚し、その彼が事もあろう事かスウェーデン国王になってしまい、それで彼女は王妃になってしまった。但し、デジレ・クラリーは、運は良くても、平凡な女性なので、池田理代子が彼女を取る可能性は低い。
 
 となると、
 
『アレクサンドル1世』
 
という事も有り得る。アレクサンドル1世はロシア帝国の皇帝で、ナポレオンのロシア遠征で彼を打ち破った。アレクサンドル1世は美男子であるので、池田理代子の好みに合うかもしれない。彼の性格は複雑怪奇と言われているので、恐らくAB型であろう。AB型の池田理代子なら書けるかもしれない。
 
『ベルサイユのばら』関連でいけば、
 
『マリア・テレジア』
 
という選択肢も有り得る。彼女はオーストリア帝国の女帝で、マリーアントワネットの母親である。彼女が生涯に於いてなんと「16人」も子供を産んでいるので、子なしの池田理代子では描きにくいかもしれない。とはいっても、『マリア・テレジア』を書いてくれると、マリーアントワネットがどうして生まれてきて、嫁がされたのかが良く解るように成るであろう。
 
 日本版だと、
 
『持統天皇』
 
になるのが濃厚とみていい。『聖徳太子』を描いたのなら、次は『持統天皇」というのが予測できる。天武天皇は壬申の乱によって皇位を簒奪しているので、持統天皇は天智天皇の血統が絶えないように努力し続けた。そのためには手段を選んでいないのであって、奈良時代が非常に血なまぐさくなったのはこのためである。
 
 池田理代子の歴史漫画は超お勧め。読めば歴史が好きに成るのは間違いなしと言っていい。
 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

新シリーズ『タマティー天使の運命学研究所』開始!

●原稿提出後発病
 
 去年、小説を書き上げた後に疲労困憊してしまい、その時に風邪をひき、寝込んでしまった。しかも縒りによって風邪の菌がお腹の中に入ってしまい、それで下痢になり、一種間ほど「うどん」だけを食べて過ごした。そこまでして書き上げた物が当選すれば良かったのだが、結果はなんと、
「またもや落選」!
 
 これで「9戦9敗」。第一次選考すら突破しないので、ガクンと落ち込んでしまった。今回の作品は新人賞を取れると自信があったのだが、どうも出版社との相性が悪いのかもしれない。どんなにいい作品を出しても、出版社の好みと違ってしまえば、第一次選考すら突破するのが難しいのである。
 
 第10戦目は思う所あって、今まで一度も出していない出版社に変える事にする。というのは、これまで連戦連敗をしまくってきたので、一体どこの出版社が新しい小説に新人賞を与えているのかよく解るようになった。俺が今まで出してきた出版社たちはどちらかといえば古臭い小説に新人賞を出してきた。だから俺は落選しまくったという事になる。
 
 新しい小説は新しい文体を生み出さない限り絶対に作り出せない。俺はこのブログでせっせと記事を書いてきたので、文体が新しいのだ。しかし新しい文体で書いた小説に新人賞を与えている出版社は日本の数多くの出版社があっても、実はたった1社しかない。他の出版社たちは文体が全然新しくないのだ。
 
 だが、新しい文体を認めている出版社が出している小説を俺は買って読んだ事が無い。なんで買わないかというと、それは俺と好みが違うからだ。それゆえ俺は今までその出版社には出さなかった。それなのにその出版社に出すとなれば、これはギャンブルに成らざるを得ない。
 
●ブログの変化
 
 俺が小説の制作に集中していたために、このブログにも変化が生じてしまった。俺が小説を書きながら記事を書いているというのに、主力は小説の方に投入しているために、アクセス数が半減してしまった。しかもその最大の切っ掛けとなってしまったのは、俺が池田理代子の漫画に嵌ってしまった事だ。
 
 ま、確かに池田理代子の漫画は既婚女性たちには不要な物であろう。事実、妊娠出産育児には全く関係ない。つくづく池田理代子が赤ちゃんを産み育てていれば良かったと思った。しかし俺には小説の作成に於いて大いに参考に成るので、この辺りのギャップがこのブログにとんでもない変化を引き起こしてしまった。
 
 俺はブログの記事を書き、その上でコメント欄で運命鑑定をやっていたりするのだが、この運命鑑定の数が最近やけに増加してきた。余りにも数が多いので、時には運命鑑定を失敗し損ねたりしてしまったりと、運命鑑定の質も低下しつつあるのだ。ちょっと過剰労働になっているのが実情である。
 
 コメントの返事にしても、仕事が終わってからにすると、どうも集中力が切れているのか、いい返事をする事が出来なかったりする。それで翌朝に返事を出す事になるのだが、それはそれでいい返事を書く事が出来るのだが、かといって返事が多いと、他の作業に支障が出て来てしまうのだ。
 
 だからこのままでは「このブログは拙い」という事に成ってしまった。ピントがずれてしまい、ヒットしていないのに、負担だけが増えていくので、ブログを維持するために多大な労力を投入しているのに、成果が全然上がっていないのである。小説を制作した事がこんなとんでもない事態を引き起こしてしまった
 そこでこのブログを思い切って再編成する。受けているのは運命学関連の物なので、ブログのタイトルを
「タマティー天使の運命学研究所」
とし、その対象を成人女性たちに限定する。男性の読者たちには他の物を用意するので、このブログは成人女性専用にする事で負担を軽減する事にした。
 
●再編成
 
 ブログの再編成では、まず「運命学に特化」する事にする。運命学関連の記事を出来るだけ多く出すようにする。それ以外にも個人的に面白いと思った記事を出していく。かといって、既に書き終わってしまった物もあるので、暫くの間は運命学に特化した記事は出て来ない。
 
 次に「運命鑑定を記事として載せる」。今まで運命鑑定はコメント欄でやっていたのだが、運命鑑定を記事欄に載せる事で、記事を書く回数を少なくし、その代り、記事の質を高めるようにする。このため、運命鑑定を依頼した人は記事欄に堂々と載せられるので、それを覚悟の上で依頼してきてほしい。
 
 第三に「個人的なネタ」は依然と同様に出す。タマティーの個人的なネタは結構ファンが多い。かといって内容が強烈なので、それでドン引きしてしまう人たちも出てしまうのだが、そういう犠牲を払っても出す価値はあるであろう。運命学をやる余りに、無味乾燥なブログにはしたくない。
 
 コメントへの返事に関しては、「名無し」とか「通りすがり」とかいう者に対して返事をしないどころか公開もしない。このブログの記事が嫌なら見るなと俺は言いたい。ブロフは沢山あるのだから、自分が好きなブログを選んでみればいいのであって、見たくもないブログは見なければいいのである。
 
 運命鑑定の依頼には試練が必要なのだが、試練を受けたのなら必ずやり、その結果がどのような物であっても、きちんと報告して欲しい。たとえ試練に失敗したとしても、温情で合格にする事も有り得る。俺だって試練を出した以上、待っているのであって、なんにも返事をしてこない事の迷惑を考えて欲しい。
 
 
●乞うご期待
 
 小説の作成は長編小説なら、企画に1ヵ月、執筆に2ヵ月、冷却に1ヵ月、推敲に1ヵ月かかるので、本気で長編小説を書こうと思えば5ヵ月間はかかってしまう。だから俺は1年に1作品でいいと思っている。1年の内に何作品も書こうとすれば、質が落ちてしまうし、似たような物を書いてしまう事だろう。
 
 それと小説の制作はあくまでも「趣味」とする事にした。今まで様々な小説を読んで来たのだが、小説は小説家が書くべき物ではあるけれど、しかし俺が本当に面白いと思った小説は、それを書いた小説家は1年に1作品しか書いていない。それでは収入が不安定だから、他の職業をする事で生計を維持しているのだ。
 
 俺は現在、小説を書いていないのだが、その代り仏教に関する本を書いている。この本は400字詰原稿用紙で1000枚以上に成る予定なので、今年、最も力を入れている作品だと言える。この本を読めば、釈迦が一体何を悟ったかが解る事であろう。仏教では出鱈目な学説が出回っているので、俺はそれを一掃したい。
 
 それと今は企画段階だが、運命学の本も書こうと思っている。意外な事かもしれないが、運命学を本格的に研究して書かれた本というのは無い。或る特定の占いを深く研究した物はあるのに、運命学として学問を確立した物はないのである。だからこの手の本を書く必要性があるのだ。
 
 昭和憲法体制では「宗教」とか「占い」とかは否定的な扱いを受けてしまっている。だから「無宗教」を唱える人や、「占いなんて信じるの?」と平気で言ったりする人たちが出て来る。しかし結婚するば解るだろうが、不思議としか言いようのない出会いによって結ばれたりするのだから、宗教や占いというのは絶対に必要であり、そういう物があれば人生を成功させる事が出来るが、そういう物がなければ想像を絶する苦しみを味わう事になってしまうのである。
 

| | コメント (31) | トラックバック (0)

『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定

●原作がいい場合、原作に忠実に成った方がいい
 
 上橋菜穂子の『精霊の守り人』がNHKでドラマ化され、なんと『大河ファンタジー』として放送される事になった。このドラマが成功すれば、土曜日の午後9時枠は『大河ファンタジー』として大河ドラマに準じた扱いを受けるようになるかもしれない。NHKは大河ドラマと朝の連続テレビ小説以外、いいドラマがないので、もう1つドラマの枠が欲しい所だ。
 
 現在、大河ドラマでは『真田丸』を放送中なのだが、俺は毎回、ドラマを見ている最中になぜだか寝てしまう。視聴率的には善戦しているのだが、ネットで調べてみると、長澤まさみの演技が物凄く不評で、それで見るのをやめる人たちが続出しているという。主役は堺雅人なのだから、彼の魅力を食ってしまう女優を入れてしまったのが間違いなのである。
 
 『精霊の守り人』では綾瀬はるかが主役のバルサ役をやっているのだが、原作ではごっつい女になっているから、ミスキャストといえばミスキャストだと言っていい。しかし綾瀬はるかはこの役のために1日200回も腕立て伏せをして体を鍛えているので、そういう努力があればこそ長澤まさみみたいな不評を買う事がないのである。
 
 但し、この大河ファンタジーで気に成る点が1つあり、それは、
「原作に忠実になっていない」
という事だ。原作がいい場合、原作に忠実に成った方が良く、下手に弄ってしまうと失敗する可能性が高くなってしまう。脚本家が内容をてんこ盛りにしてしまうと、逆に面白味が減少してしまう事に成る。
 
 監督の方は質の高いドラマになるように撮影しているので、だからこそ脚本家のやっている事が異様に目立ってしまう。脚本家が書きたい事を100%書いてしまうのではなく、敢えて30%マイナスにすると、視聴者たちとしては非常に見易いドラマになる物なのである。視聴者たちに空想を許す余地を与えるからこそ、視聴者たちは自分で空想し、より楽しむ事が出来るように成るのだ。
 
             NHK放送90年大河ファンタジー「精霊の守り人」SEASON1完全ドラマガイド
●帝とチャグム王子
 
 大河ファンタジーのヒットを支援するために、『精霊の守り人』に対して勝手に運命鑑定をする。まずは原作の『精霊の守り人』を読んで欲しい。物語は原作に描かれている通りに進む事に成るのだが、登場人物たちに運命鑑定をしてみると、この物語の思わぬ真実が浮かび上がってきて、それでこの小説を十二分に楽しむ事が出来るように成るのだ
 物語では帝がチャグムを暗殺しようとするのであるが、運命鑑定をしてみると、
「帝とチャグムの相性は良い」
という結果が出た。チャグムは、
「実行力があっても孤独であり、それでいながら粘り強く行って事が出来る」
という少年である。だヵら王子としての能力を充分に持っており、帝から暗殺を仕掛けられるような人物ではない。
 
 問題があるとするなら、帝と二ノ妃の夫婦関係であり、この夫婦は、
「表面的には相性がいいのだが、しかし幾ら話し合っても理解する事は出来ない」
という間柄になっている。だから二ノ妃はチャグムを産んでいながらも、帝と仲が良いとは全く書かれていない。これはこれでいいのであって、帝と二ノ妃の仲がいいと、どうも変という事に成る。
 
 二ノ妃は母性愛の豊かな女性なのだが、チャグムの名は母親との縁が薄いために、それでバルサが登場してくる事に成る。バルサも母性愛の豊かな女性なので、それでバルサはチャグムの母親代わりの存在に成って行くのである。チャグムはバルサから母性愛を貰う事で、男として成長して行く事に成るのだ。
 
 バルサはチャグムを男として愛しているのではない。結婚していないくせに、母親としてチャグムを愛している。これは実に変な事なのだが、バルサにはジグロという、自分の父親代わりに成った男性がいたので、それでバルサはチャグムに母性愛を注ぐ事が出来たのである。
 
●バルサとジグロの関係
 
『精霊の守り人』ではバルサとチャグムの関係をメインに動いていくのだが、実はバルサとジグロとの関係の方が重要であり、これこそが本体という事に成って来る。なんでバルサは死んだジグロに執着しているのかといえば、この2人は相性がいいと同時に、バルサは自分がやらなければならない事をしなかったがゆえに、ジグロを死に追いやってしまったからだ。
 
 ジグロという名は、
「なんでも自分の思い通りにする男」
なのであって、それでバルサはジグロに散々振り回される事に成ってしまった。ジグロがバルサを育てたからこそ、バルサは女用心棒に成る事が出来たのだが、しかしそのために女としてまともに生きる事が出来なく成ったしまったのである。
 
 ジグロの名はその一方で、
「母性愛を刺激する男性」
なのであって、バルサはジグロに接すれば接するほど、母性愛が刺激されてしまったのである。しかしバルサはジグロに母性愛を注ぐ事は出来なかった。だからジグロは死んでしまったのである。
 
 バルサのジグロへの思いは非常に複雑であり、この問題は第二巻の『闇の守り人』で展開される事に成るのだが、とにかく愛憎にまみれ、素直に愛する事が出来なかったゆえに、ジグロを死に追いやってしまったのであり、それがバルサにとって深刻な心の傷になっているのだ。
 
 バルサが腕のいい女用心棒という評価を得ながらも、結構、負傷しまくるのはそのためであり、結局、自分の心の中に複雑な物を抱えているからこそ、巧く戦う事が出来ない。もしもバルサがジグロほどの人物と出会ったのなら、恋愛によって解消していく事が出来るのだが、そういう人物とは滅多に出会える物ではないからこそ、苦しまなければならなくなってしまうのである。
 
 
●バルサとタンダの関係
 
 タンダという名は、
「努力家であり、実行力を充分に持っている男性」
という事に成る。タンダはバルサの相手には丁度いい相手であって、バルサに何かあればすぐに手助けしてくれる事になる。
 
 しかしその一方で、タンダの名は、
「母性愛の豊かな女性が好き」
という名なので、それでタンダはバルサの事を女としてよりも、母親代わりの女性として見てしまう事に成る。2人の関係がなかなか進まないのはそのためであり、たとえ付き合ったとしても、まともな恋愛になる事はないのだ。
 
 タンダはバルサの心が複雑な事を或る程度は知っている。しかしバルサの不自然さを解放してあげるだけの力を持たない。バルサは結局、自分1人の力で心の闇と戦う事に成るのだが、それで自分の不自然さが完全に解消された訳ではない。だが守り人シリーズの最後では、バルサとタンダが結ばれる事に成るのだが、これではハッピーエンドには成らないのだ。
 
 なんでこんな事になってしまったのかといえば、作者の上橋菜穂子本人がまともな恋愛をしていなかったからであり、恋愛を小説に書くためには、作者自身が恋愛をしない限り絶対に描けないから、それでタンダでは役不足というのに、幼馴染みという事で無理矢理くっ付けてしまったのである。
 
 池田理代子の『ベルサイユのばら』も主人公のオスカルは幼馴染みのアンドレと結ばれてしまう事に成るのだが、池田理代子本人が一目惚れをしたのは、なんと「57歳」の時であったという。それまでに結婚は2度もしているのだが、実は恋愛をせずに結婚してしまっただけの事であり、自分が恋愛をしていなかったからこそ、漫画の中に恋愛をちゃんと描く事は出来なかったのだ。
 
 上橋菜穂子の小説は問題点が多々ありつつも、合格点を貰える出来に成っている。しかしそれで良いという訳ではない。如何なる小説であっても、主人公が様々な事を経験しながら、最終的には幼馴染みと結ばれてしまうような物語は、作者本人がまともな恋愛を一度たりともした事がないと判断した方がいい。
 
 バルサのような女性が様々な経験をして成長していけば、最早、幼馴染みの男性と結婚するという訳には行かないものなのである。
 

| | コメント (7) | トラックバック (0)

我が家での「少女漫画黄金時代」

●チャンネルの主導権
 
 池田理代子の『ベルサイユのばら』によって少女漫画黄金時代は幕を開けるのだが、この漫画が連載されていた時期は、俺はまだ赤ちゃんなので、全くの無関係。姉も年齢的に少し早すぎたので、アニメで『ベルサイユのばら』を見た程度。しかし『キャンディ・キャンディ』になると、姉はまさにドンピシャで当たり、思いっきり嵌ってしまった。
 
 子供の頃の写真を見ると、姉は実に変な格好をしているのだが、これはキャンディ・キャンデイの服装を真似て母親に作らし、それを着ていたからである。当然の愛読書は『キャンディキャンディ』で、雑誌は『キャンディ・キャンディ・』が連載されていた『なかよし』(講談社)ということになる。
 
 子供たちでテレビを見る時、姉は第一子の特権を利用して、姉がチャンネルの主導権を独占。見るのはいつも少女漫画のアニメ。このため俺は『機動戦士ガンダム』はかなり遅れて見てしまい、ガンプラのブームが正にピークに成ってからガンプラを買う羽目になってしまった。
 
 姉以上に恐ろしいのが父親で、父親がいる時はプロ野球中継を見る事に成るから、これが実に嫌であった。というのは、アニメは1回ごとに話がかなり進むので、1回飛ばされると、話がよく解らなくなってしまうからだ。それで野球は或る時期から嫌いになってしまって、それが今でも続いている。
 
 
●引っ越し
 
 この姉に変化が起こったのは、姉が中学生の時に我が家が引越しをした時である。この引越しによって姉には1室が与えられたのだが、それでそなりに整理整頓する事になったし、女の子らしく部屋を彩った。するとどうであろう。姉の本棚から講談社の雑誌や本が消えてしまったのである。
 
 その代わり出て来たのが白泉社の『花とゆめ』であり、中学高校とこの『花とゆめ』が愛読誌となった。なんで『花とゆめ』が選ばれたのかというと、『なかよし』よりも遥かにセンスが良かったからだ。特に白泉社から出される単行本の表紙はセンスが実に良く、一目見ただけで「これは白泉社の物である」というのが解った。
 
 今から考えてみると、姉は集英社が出していた『週刊マーガレット』には全く嵌らなかったという事に成る。今回、俺が『ベルサイユのばら』に嵌ったので、当時の『週刊マーガレット』を探し出して読んだ所、ダサい事、ダサい事、『花とゆめ』に馴れてしまった俺としては、とてもではないが、読むに堪えなかった。
 
 姉は集英社の物を完全にパスしたのではなく、中学生からは集英社のコバルト文庫を大量に買い込んで読むようになった。集英社が出している少女漫画はダメだけど、少女小説ならいいという事であり、少女漫画を大量に読んでいたくせに、なんで集英社が出していた物を好まなかったのか、実に不思議である。
 
●物語重視の集英社、キャラ重視の講談社
 
 少女漫画黄金時代では、池田理代子の『ベルサイユのばら』(集英社)がトップに君臨し、そのほかに山本錫美香の『エースをねらえ』(集英社)、水木杏子の『キャンディ・キャンディ』(講談社)、美内すずえの『ガラスの仮面』(白泉社)が続く。『ガラスの仮面』は『花とゆめ』に連載されていたので、それで『花とゆめ』を愛読していた訳である。
 
 少女漫画黄金時代は集英社と講談社の争いなのであって、そこに後から白泉社が入ってきたに過ぎない。白泉社は集英社の傘下にあるので、この戦いは集英社の方が圧倒的に有利である。社風の違いが漫画の違いを生み出し、漫画の違いが読者たちを分けていった。
 
 俺が思うのに、
「集英社の方は物語重視なんだろうな」
という事であり、
「講談社の方はキャラ重視なんだろうな」
という事である。『キャンディ・キャンディ』を見ても、内容がイマイチよく解らなかったが、『ベルサイユのばら』や『エースをねらえ』では男の俺が見ても、内容が実に良く解った。
 
 白泉社は集英社で培った物を更に発展させたから、それで姉は講談社の方から白泉社の方に切り替えたという訳なのだろう。物語重視ではそれに耐えうるキャラを作らないと、ダメに成ってしまうから、集英社の方では大ヒットする少女漫画がある分、詰まらないな~と思ってしまう少女漫画も多々ある事に成る。『ガラスの仮面』が未だに続いているのは、物語もいいし、キャラたちもいいからであろう。
 
 
●集英社は講談社を殲滅できなかった
 
 小学館は『小学1年生』などの少年向け雑誌を出す事で、講談社の 『少年講談』を廃刊に追い込んでいった。集英社も『週刊マーガレット』が大ブレイクしていた時に、講談社の『少女フレンド』をすぐさま廃刊に追い込む事は出来なかった。『少女フレンド』は競争に耐え抜き、1996年になってやっと廃刊した。講談社の方にはまだまだ『なかよし』があるので、集英社は講談社を殲滅する事が出来なかったという事に成る。
 
 俺は今回、『ベルサイユのばら』に嵌った事で、なんで殲滅する事が出来なかったのか、その理由が解ってしまった。それは、
「集英社の編集部が余りにも乱雑である」
という事なのである。集英社の編集部は、まるで出版社の編集部の絵に描いたように、机の上に大量の書類が山のようになって積み上げられている。こういう編集部が作る雑誌だと、どうしてもパワー不足に陥ってしまうのである。
 
 我が家では部屋の中を汚くしていると、母親が掃除をしにくるので、それで出来るだけ整理整頓を心がけるようになった。こういう家だと、汚い所で作られた雑誌というのは、どうも合わないのである。白泉社の編集部がどうかは知らないのだが、恐らく集英社の編集部よりはマシなのであろう。
 
 因みにうちの姉が集英社のコバルト文庫に嵌っていた時、姉は家事手伝いを一切しなかrた。このため家事手伝いは全て俺がやる羽目になった。集英社の出している出版物には何かおかしな部分があると見た方がいい。集英社の社員たちの独身率は他の出版社に比べて相当に高いのではないかと思う。
 
 集英社が少女漫画の分野で講談社を殲滅出来なかった事は、デフレ不況になると。少女漫画の戦国時代というか、全体を牽引できるだけの実力を持った女性漫画家がいなくなり、小粒の女性漫画家たちが活躍して、そこそこの成功で満足するようにしなってしまった。やはり勢力地図を塗り替える時は思いっきりやるべきであって、攻めあぐねてしまうような事をしてはならないのである。
 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

『ベルサイユのばら』メイキングストーリー 

●武家の娘と大量のお稽古事
 
 池田理代子は昭和22年に大阪府大阪市で先祖代々武家の家系に生まれた。武家の娘じゃないと、貴族の生活は解らないのであって、これが漫画家になった時に大いに活かされる事に成った。本当の庶民出身者だと、貴族の事をあれこれ描いていくと、必ずどこかでとんでもないミスを描いてしまうものなのである。
 
 母親は職業軍人の娘であり、これで身分的に釣り合う事に成る。明治維新で四民平等を行ったが、士族は敗戦後の民法改正まで存在し続けていたのであって、士族であるなら士族同士か、士族に準じた家の者でないと結婚は釣り合わなかった。池田理代子の両親は夫婦仲が良かったみたいなので、結婚は釣り合っていたのであろう。
 
 池田理代子は子供の頃、非常にドン臭い子供であったらしい。何をやってもとろいので、父親は鉄拳制裁で鍛え上げようとした。その代り、子煩悩であり、平日にはどんなに仕事が忙しくても夕方には帰宅し、休日になれば家族一緒でお出かけをした。尤も血液型がAB型の池田理代子はこれを喜びながらも、嫌になってしまったらしい。
 
 母親は池田理代子の事を今でいう「発達障害」ではないかと、本気で思ったらしい。このため娘にはお稽古事をやらせまくり、「お琴」「ピアノ」「書道」「声楽」「茶道「絵画」「算盤」「華道」「英語」「漢文」「謡曲」と尋常ではない量のお稽古事をさせまくった。このお稽古事が漫画家になった時に物凄く活きた。
 
 小学生の頃の池田理代子は他の子供たちから頭1つ飛び抜けるほど身長が高かった。それだけでなく、成績は優秀で、学校から度々表彰された。このため両親の愛情は池田理代子に集中し、他の弟や妹たちは後回しにされたらしい。事実、子供たちの中で大出世したのは池田理代子だけだから、能力は突出していたのであろう。
 
●引っ越しで一人の時間が出来る
 
 小学校卒業と同時に、父親の仕事の事情で千葉県柏市に引っ越す事に成った。引越しによってそれまでの友達と離れてしまい、それで1人になる時間が大量に出来た。小学校からそのまま中学校に上がってしまうと、友達と群れ続けてしまうので、それで1人の時間を持てなくなってしまうのである。
 
 中学では池田理代子にとって最大のショッキングな事件があった。それは入学当日、教室で他の生徒から声をかけられ、彼女は普通に関西弁で答えてしまったのだが、その直後、周囲の生徒たちがドッと笑ってしまったという事件が起こった。ドン臭い池田理代子は死ぬほど恥ずかしくなり、これ以降、「二度と他人には笑われたくない」と誓ったという。
 
 この日から池田理代子は勉強熱心になった。良い成績を取らない限り、バカ扱いされてしまうからだ。事実、成績はトップクラスであった。それまで彼女にはコンプレックスがあったのだが、それが勉強熱心になる事によって、どうにか抜け出す事が出来た。人間は子供の頃に何かしらのコンプレックスを抱えるものだが、それを中学生の段階で乗り越えていかないと、「第二の誕生」は起こらないのである。
 
 池田理代子は成績が良かったために、国語教師から注目を受けた。この国語教師は授業中に自分が作詞した詩を朗読して生徒たちに聞かせるような変わった人物であったが、宿題として生徒たちにも創作物を出すよう命じた。この宿題で最も出来が良かったのは池田理代子で、国語教師がお褒めの言葉を授かると、「創作の喜び」に目覚めてしまったのである。
 
 漫画に目覚めたのも中学生の時期で、漫画をせっせと描くように成り始めた。彼女が幸運だったのは、少女漫画の黎明期であった事であり、言っちゃ悪いが当時の少女漫画のレベルは現在と比べて相当に低かった。だから女子中学生でも頑張ればやれるのではないかと思えたのである。
 
 池田理代子は長身の美少女といった感じで、中学生の頃は女の子たちから非常にモテた。尤も本人は男性の方が好きで、中学3年生の時には生徒会長の男子生徒に初恋をしている。尤もこれは片思いで、実際に交際した訳ではない。高校生の時は男性の教師に熱烈な敬慕の念を抱いたりした。彼女は高校を卒業するまでに恋愛をした事がないのであって、この事は特筆すべき物であろう。
 
●大学生の時、学費が打ち切られて漫画家に
 
 池田理代子は東京教育大学の哲学科に進学したのだが、当時、学園紛争が吹き荒れていたので、授業どころではなかった。学園紛争をやっている学生たちが親から食べさせて貰っているのに、自分の理想を追求する事に矛盾を感じるようになってしまい、それで彼女は自活の道を選ぶ事に成る。
 
 父親は学費を1年間しか面倒みないと条件を出していたので、池田理代子は漫画で生計を立てる事に決めた。作品を作って集英社に持っていったが、
「とても話になりませんね」
と断られた。続いて講談社に行ったが、そこでも断れた。しかし、
「まだとても使い物にならないけど、筋は良さそうだから」
という事で若木書房を紹介して貰った。
 
 昭和42年に若木書房から『由紀夫くん』という作品で漫画家デビューした。若木書房には或る編集者がいて、漫画の初歩的な技術を教えながらも、
「でも要は技術じゃなんです。あなたが描きたい事をのびのびと描けばいいです。それが一番大事な事です」
と教えられ、それで出来上がったのがこの作品である。
 
 若木書房でのギャラは最低限の生活を維持できる程度の低い物であった。しかし池田理代子はアルバイト感覚で漫画の仕事をやっていたので、生涯に亘ってこの仕事をやっていこうとは思っていなかった。それが良かったのかもしれない。2年後に、当時、少女漫画では一流と看做されていた『マーガレット』(集英社)の編集部から「凄い漫画家がいる」と注目さえ、そして抜擢されたのである。
 
 集英社では文学崩れの人たちが多く、「少女漫画は今でこそレベルが低いが、優秀な漫画家たちを抜擢して、一流の作品を作って行こう」という意欲に燃えていた。池田理代子の担当になった編集者もそういう人物であって、彼は彼女の発言を1つ1つ理解して、良き協力者になっていった。
 
 この男性こそ、池田理代子の最初の夫である。
 
●既に既婚者だった
 
 池田理代子は昭和45年、集英社のその編集者と初めての結婚をする事に成る。彼女は美人だし、頭もいいのだから、編集者が彼女にゾッコンに成ってしまうのは別に不思議な事ではない。尤もこれはまともな恋愛や結婚というより、仕事上で発生した同志愛で愛し合
い、結婚してしまったと考える方が無難であろう。
 
 残念な事に、この結婚は天中殺の時期に結婚しており、もしも普通に結婚して専業主婦にでもなっていたら、すぐさま離婚していたかもしれない。しかし漫画家ゆえ漫画制作を中心に生活がなされていたので、それですぐさま離婚という事にはならなかった。この結婚で勢いづいたのか、2年後の昭和47年に『ベルサイユのばら』が『マーガレット』で連載が開始され、連載直後から人気が爆発したのである。
 
 天中殺で新たに事を起こすべきではないとされているのだが、天中殺で新しい事をやっても、自分を巧く殺しさえすれば、大出世を果たしていく事が出来るように成る。池田理代子は『ベルサイユのばら』の制作に、生活の全てを犠牲にして制作していていったので、それで異常なまでの大ブームを巻き起こしたのである。
 
 池田理代子曰く、
 
「人には《天の時》と《星の瞬間》がある」
 
のであって、1人の人間の中にある1つの才能が、偶然にも素晴らしい対象に出会って、それを作品にする事が出来たという偶然、そしてその作品を受け入れる時代に巡り合わせた偶然、この2つの偶然があるからこそ、奇跡が起きたのである。
 
『ベルサイユのばら』は少女漫画なのだが、少女漫画だけの範疇には収まらない。この漫画の中には作者が結婚していないと絶対に書けないシーンが多々あるので、それで少女たちだけでなく、大人の女性たちも熱狂したのである。少女漫画だからといって、本当に少女たちだけに向けて描いていれば、絶対にこんな現象は起きないのだ。
 
●週刊誌
 
『ベルサイユのばら』は週刊誌である『マーガレット』に連載されたのだが、週刊誌で1年間走り続けるのは無理は無理であろう。事実、オスカルが近衛連隊長を辞めた辺りから、話がおかしくなり、話が雑になっていっている。仕事が忙しいために食事はお茶漬けだけだとか、睡眠時間が短くなってしまったので、熟慮するだけの時間を確保できなかったのであろう。
 
 企画段階では、オスカルは投獄されたアントワネットを救出する筈だったのだが、だったらオルカルは近衛連隊長を辞めては成らず、最後まで近衛連隊長で居続けなければ成らなかった。オスカルが最後まで忠誠を尽くせば、この作品は物凄く高い評価を得られた筈なのである。
 
 現在の少女漫画雑誌は隔週誌か月刊誌しかないのだが、漫画家が持続的に仕事をしていくためには、こうするしかない。しかしこの当時、そういう事が解らず週刊誌で少女漫画雑誌を出していたので、制作サイドがガタガタになろうが、週刊誌特有の勢いを生み出してしまい、それが週刊誌をやめた後の少女漫画にはないのである。
 
『ベルサイユのばら』の大ヒットで収入は激増したのだが、なんせ仕事が忙しいためにお金を使う閑がない。しかし仕事ばかりしているとストレスが溜まって来るので、それでたまにスタッフたちを連れて東京に出て散財をしたらしい。時には1度に200万円も使ってしまった事もあるという。
 
 池田理代子は体力的に恵まれていたから良かった物の、この当時の女性漫画家たちの中には「これでは体が持たないので、漫画家を辞めさせて下さい」と申し出て、本当に漫画家を辞めてしまった人たちがいた。池田理代子は少女漫画黄金時代の光の部分に居たが、影の部分もあったという事を絶対に忘れてはならないのだ。
 
 
●資料が悪すぎる
 
『ベルサイユのばら』は資料を充分に収集してから連載を開始した物ではない。連載当初の段階では大した資料を持っていなかった。ツヴァイクの『マリーアントワネット』を資料の基礎としている程度である。この資料不足も物語展開がおかしく成って行ってしまった原因の1つになってしまった。
 
 参考文献を調べてみると、資料の悪さがすぐに解り、社会主義者たちが書いた物もあるだけでなく、中には無政府主義者が書いた物も使用している。これでは話がおかしく成るのは当然であろう。社会主義者たちはロベスピエールを賞賛するので、それで池田理代子はそのままロベスピエールを善玉として登場させている。
 
 フランス革命はジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』がなければ起こらなかったが、このルソーが書いた書物は殆どの人たちが誤読する事に成る。ルソーは「狂気の天才」なのであって、通常の読解力では彼が一体何を言っているのかさっぱり解らない。日本では『社会契約論』といえば「民主主義のバイブル」と評価が定着しているのだが、その評価は完全に間違っている。
 
 ルソーが言いたかったのは、民主主義を利用して、「立法者による独裁政治」を行う事なのであって、だから『社会契約論』を愛読書にしていたロベスピエールは独裁政治を展開するのである。ナポレオンもクーデターで政権を奪取ると、皇帝として独裁政治を展開して行った。これは偶然そうなったのではなく、『社会契約論』を正しく理解すれば、必ずそうなるのである。
 
「人間は平等を唱えれば必ず悪魔になる」
人間が平等になる事は今まで一度もなかったし、今度もなる事はない。人間は不平等に生まれついているのであって、だから公平に扱っていくしかない。もしも誰かが平等を唱えてきたら警戒すべきであって、早目に殲滅しておいた方がいい。なぜなら平等を唱えている者が権力を取ってしまえば、必ず大量虐殺を展開してくるからである。
 
●実は20巻だった
 
『ベルサイユのばら』は単行本で善10巻なのだが、計画では20巻になる予定だった。だから出来上がった『ベルサイユのばら』は半分の長さでしかない。内容を吟味しても、オスカルは死んではならない人物なのであって、アントワネットやフェルゼンは死んでもいいが、オスカルだけは生き残らなければならないのである。
 
 オスカルほどの人物であるなら、バスティーユ襲撃で死ななければ、ナポレオンと一緒にフランス革命を戦っていくという事になった筈であろう。アントワネットの死後、オスカルは忠誠の対象をナポレオンに切り替え、しかもナポレオンの愛人にでもなれば実に面白い話になった筈である。
 
『ベルサイユのばら』が半分の長さで終わったために、その後、池田理代子は『栄光のナポレオン』を作る事に成る。だから『栄光のナポレオンは』は『ベルサイユのばら』の続編と見るべきであって、『ベルサイユのばら』だけで止めてはならないのだ。現実の政治は理想が純粋な形で実現されるほど甘くはなく、様々な人たちの欲望が鬩ぎ合いながら、歴史を形成していくのである。
 
『ベルサイユのばら』が持つ少女漫画の路線は、その後、『オルフェウスの窓』に受け継がれる事に成る。この『オルフェウスの窓』は『ベルサイユのばら』以上に嵌ってしまう。『ベルサイユのばら』の嵌り度が「100%」なら、『オルフェウスの窓』の嵌り度は「300%」である。尤も最早この漫画も少女漫画ではなく、大人の女性が読む漫画になっている。
 
 飽くまでも『ベルサイユのばら』はインフレ時代の産物であり、質が高まって行くデフレ時代に対応している物ではない。空前絶後の大ブームを巻き起こしたのに、今では評価が低くなってしまうのは当然であろう。だからこそデフレの時代に『ベルサイユのばら』を超える作品を出していかなければならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人徳と対人関係

●徳の効果は相手によって変わる
 
「徳」は個人がどう生きていくのかの問題なのだから、他人は関係ない。周囲の人たちの徳の状況がどのような物であっても、自分が徳を積んでいくようにしなければ成らない。しかし徳の効果は相手によって変わる。自分が良かれと思ってやった事でも、相手にとっては悪い事になってしまったという事は有り得る。
 
 哲学者たちは徳に関してあれこれ論じて来たが、なぜだか徳の効果について論及した者はいない。なぜなら哲学者は思索するのが大好きだから、相手の事など全く考えていないからだ。だから哲学者の言っている事を正しいと思って実践してしまうと、正しい事をやっている筈なのに行き詰まってしまい、それで最終的には自殺する事になってしまう。
 
 これに対して宗教家たちは徳に関して論じ、その上で徳の効果にも論じている。なぜ宗教家たちがそういう事をするのかと言えば、宗教家たちは信者たちに教義を説かなければ成らず、信者たちに徳行を実践させる事で徳を積ませようとするからだ。それゆえ宗教的に正しい事をやっても行き詰まる事はなく、少なくとも自殺する事はなくなる。
 
 人間という動物は人間界の中で生きている事を絶対に忘れてはならない。例えば周囲の人たちが堕落し腐敗しているのに、自分だけが善行を行えば、「この偽善者め!」と罵られ、周囲の人たちがみんな善行に励んでいれば、自分が善行をやっても、「そんなの当然だよ!」となんの評価もされない。
 
 こうなっているからこそ、自分が徳を積むに当たって、周囲の人たちの評価を基準にして行っては成らず、必ず自分が自分の基準で自分の徳を判断して行かなければならない。しかし徳の効果は相手の意見も聞かなければならず、それで徳の評価は変動を受ける事になってしまうのである。
 
 
●立場の互換性
 
 人徳と対人関係の問題に関しては、儒教の「孔子」とキリスト教の「イエス」が全く正反対の事を要っている。
 孔子は、
「自分のして欲しくない事は相手に施す事勿れ」
と言い、イエスは、
「自分のして欲しい事を相手に施しなさい」
と言った。
 
 この考え方の違いは、両者の生まれと育ちが違うから生じた。孔子は両親が野合して生まれたので、要は「私生児」という事に成る。それで自分が私生児である事を子供の頃から言われ続けてきたので、「自分のして欲しくない事は相手に施す勿れ」と主張したのである。
 
 これに対してイエスも私生児だった事では同じだが、イエスの母親は売春婦であったらしく、本当の父親が一体誰だか解らなかった。恐らく父親はユダヤ人ではなく、ガリア人であったろう。イエスのような連中が集まってクムラン宗団を作り、自分のして欲しい事を相手にもする事で、心の傷を癒していったのである。
 
 しかしながら、この2つの主張は或る程度までなら通用するが、或る段階になってしまうと通用しなくなってしまう。もしも自分のして欲しくない事が、相手にとって違う場合、もしも自分のして欲しい事が、相手にとって嫌な場合、一体どうすればいいのかという事に成る。自己中心で物を考えているからこそ、必ずしも正しい結果にはならないのだ。
 
 では一体どうすればいいのかといえば、それは、
「立場の互換性」
を持てばいいのである。要は、
「相手の立場に立って考えてみる」
という事なのであって、自分の立場で物を考え、その上で他人の立場に立って物を考えるからこそ、最善の結果を得る事が出来るように成るのだ。
 
 利己的になって自分の利益ばかり追求していれば、その内、相手は関係を断ってくる事であろう。まずは相手に利益を与える。それによって自分も利益を得られるようにする。だから両者は関係を維持し続ける事が出来るのであって、関係を維持している限り常に利益を得続ける事が出来てしまうのである。
 
●功徳循環
 
 功徳は自分の力によって発生する物だが、功徳は自分のためだけにあるのではなく、相手のためにもある。これが、
「功徳循環」
なのであって、功徳は循環する事で双方に利益を齎し、循環しまくる事で功徳を増大させていく。
 
 功徳には利己か利他かの問題があり、利己的に振る舞う事は非難され、利他的な行為は賞賛される。しかし全く利己的な要素なしに利他的な行為だけをやっている人は絶対にいない。純粋な利他は理論上では存在しても、現実世界では絶対に有り得ない物なのである。
 
 最初は利己的であっても、やっている内に利他的に成って来る。最初は利他的であっても、やっている内に利己的な物を充分に満たしてしまう。これが利己と利他の本当の姿である。だから利己か利他かで言い争うより、功徳循環の存在に気づく方が重要なのであり、大事な事は功徳を循環させる事なのである。
 
 功徳循環は通常なら普通通りの回転をして行く事に成るのだが、或る日突然に何かが起こると「加速度原理」が働き、功徳を大量発生させる事に成る。ビジネスなら、就職したとか転職したとか起業したとか、私生活でなら結婚したとか、出産したとかである。だから普通の人生を歩んではならない。「何か変化を起こすような人生」を送らなればならないのである。
 
 世の中には「平凡な人生を送りたい」と望む人たちは結構多い。そういう人たちは自分なりに正しい事をやっているのだが、それなのに功徳は大して得ていない。功徳循環の存在に気づかず、加速度原理を使用しなければ、自分が必要とする功徳すら得られなくなってしまうのは当然の事なのである、
 
●「核となる人間関係」の重要性
 
 功徳循環を巧く存在させ、巧く機能させていくためには、
「核となる人間関係を作る事」
が重要になってくる。功徳循環は核となる人間関係があれば壊れる事がなくなり、それで功徳を大量に生み出していく事が出来るようになる。
 
 だから若い時には親友と友情を育み、恋人と恋愛する事が必要なのである。いい年になれば結婚してしまい、配偶者と絶対に離婚しないようにする。結婚していれば幾らでも徳を生み出していく事が出来るようになる。結婚しなければ徳を作り出す事には必ず限界にぶち当たる事になってしまう。
 
 こういった横の関係の他に、師弟関係のように上下関係も必要である。師匠と弟子できちんとした師弟関係が出来上がれば、そこでも功徳循環が起こるので、徳は大量生産されるし、たとえ自分が間違った生き方をしようしても、すぐに修正してくれるので、失敗する確率を劇的に引き下げてくれるようになるのだ。
 
 全ての人たちと仲良く成る必要性はない。人間には「人間関係理論」という物があって、自分が関係を持てる人たちには常に限界がある。人間は如何なる者であっても、最大で150名程度の人たちとしか関係を築く事は出来ない。それ以上になってしまうと、人間関係は非常に希薄なり、なんの役にも立たなくなってしまうのだ。
 
 だから自分がどんなに正しい事をやっても、付き合う人たちが多くなってしまえば、自分がパンクしてしまう事に成る。それゆえ孔子は「仁」の教えを人々に説きながらも72人の弟子しか持てなかったし、イエスは「愛」の教えを人々に説きながらも12人の弟子しか持てず、しかもその内の1人は自分を裏切って、それで死刑になって殺されてしまったのである。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧