育児

兄弟姉妹で競争させて、タフな子供に育てろ

●子供の成長に於ける競争の重要性

 子供というのは、悠長に育つものではないのだ。競争して切磋琢磨しながら成長して来るのである。子供が3人以上いれば、子供同士で喧嘩するのは日常茶飯事であって、これが朝から晩まで続いてしまう。しかし、この競争をやっていくと、自然にどの子供も強くなってしまい、ちょっとのことではへこたれない強い子供に成長してしまうのだ。

 子供の成長に於いて競争は非常に重要である。子供は競争するからこそ、猛スピードで成長して行くことができるのである。子供の脳も体も成長過程にあるので、競争させ、勢いよく行わせると、時間を短縮した形で覚えることができるようになるのである。この世の物事とはチンタラとやっていては逆に覚えにくいものなのである。或る程度の速度は絶対に必要なのである。

 子供が幼稚園に行くと競争が始まるし、小学校に行けば競争が始まる。だから、子供がその年齢に達したら、幼稚園に行くなり、小学校に行かせないと、どうしても知能も体力も向上してこないのだ。幼稚園児や小学生に競争をさせないで教育をさせたとしても、大して高い能力を発揮することはできないのである。

 平等イデオロギーに囚われてしまうと、競争そのものが「悪」になってしまう。競争というのは、誰がどうやろうとも勝敗がついてしまい、序列を生じさせるものだからだ。だから、小学校などではテストの成績を公表しないし、運動会でも優勝者に賞品を与えるようなことはしなくなってしまった。その結果が学級崩壊であり、子供たちの知力も体力も低下してしまうという事態になってしまったのだ。

 日本全国、どこに行っても、学習塾やスポーツクラブは盛んである。なぜこれらの組織が繁盛しているかといえば、小学校で競争原理が失われてしまったからこそ、学習塾やスポーツクラブでそれを補完する形で競争が行われ、子供たちが競争をすることによって健全な成長をしていくことが可能になっているのである。

●喧嘩で上の子が勝つのは当たり前

 母親にとっては我が子たちが兄弟喧嘩をして来るということは、悩みの種かもしれない。だが、子供たちが健全に成長していくためには、喧嘩は必要な行為なのである。兄弟喧嘩が起こると、大抵は年齢が上の子供が勝つ。子供の体力は年齢によって決定的なので、先に生まれている子供が大体勝ってしまうのである。

 では、負けた子供はどうなるかというと、下の子は負けても真似ることで成長して行くのだ。負けることで、言葉遣いを工夫して行くし、どうやって殴れば効果的か、どうやって蹴ればダメージが大きくなるのかということを工夫して来るのだ。喧嘩で負ければ駄目なのではないのだ。喧嘩に勝つことも大事ではあるが、負けることの大切さというのも、これまた存在しているのである。子供は勝てば成長できるが、子供は負けても成長できるのである。

 一人っ子は大抵が喧嘩の仕方を知らないものだ。兄弟喧嘩をしたことがないから、自分が正しいことをやっていればそれでいいだろうと錯覚をしてしまう。しかし、この世で生きて行けば、いくら自分が正しいことをしたとしても、悲惨な目に遭うのはいくらでもあることなのだ。兄弟姉妹が複数いれば、いくら自分が正しいことをしたとしても、自分に何かしらの危害が及んで来て、それを撥ね退けて行かないと、生きては行けないのである。

 母親が喧嘩ばかりしている子供たちにすべきことは、喧嘩を止めることではないのだ。或る程度は喧嘩をさせて、子供たちを鍛えさせることなのだ。母親が兄弟喧嘩をさせないでいると、どの子供も積極性を欠いてしまう。いつも母親の顔色を伺っているので、母親のいない所では、何もできない子供になってしまうのである。

 兄弟喧嘩が余りにも激しいなら、子供のエネルギーが有り余っている状態なので、子供に何か習い事をさせてしまえばいいのだ。そうすれば、その有り余ったエネルギーを習い事で消費してくれるので、自宅に居る時は大人しくなるものなのである。大事なことは、公正に競争できる場を提供してあげることなのである。

●習い事はゲーム感覚にすれば遊びながら楽しめる

 子供の成長過程には、この時期であるなら急激に成長することができるという時期が存在する。子供も基本的な身体能力は幼稚園児から小学4年生ぐらいまでの時期にその大半が決まってしまうものなのだ。それゆえ、この時期に子供が外で遊ぶ機会を多くしておかないと、その後の人生でどうやっても体力が向上せず、病気がちの人生を送ってしまうことになるのだ。

 小学4年生辺りを過ぎると、子供から幼稚さが抜け始め、知能が急激に向上して来る時期がある。この時期に子供の知的欲求を満たしてあげないと、その後の人生で勉強は面白いということが体験できなくなってしまうのだ。勉強というのは何も学校の勉強だけではない。子供が自発的にできる勉強である。

 習い事はゲーム感覚にうれば遊びながら覚えることができてしまうのだ。幼稚園でやっているような形で、その後の勉強やスポーツを教えていけばいいのだ。競争を罪悪視する人々は、学校の教師たちが習い事をゲーム感覚にするというサービス向上をしてこなかったために、何か競争は悲惨な結果をもたらしてしまうと思い込んでいるにすぎないのだ。

 子供に自転車に乗るのを教える時、ゲーム感覚でやってしまうと簡単に覚えて来るものだ。子供に漢字をゲーム感覚で教えて行くと、子供は目を輝やかせながら、簡単に覚えて行ってしまうものだ。そういうゲーム感覚でできるものを、至る所に配置していけばいいのだ。

 もしも子供が体育の授業で何かできないものがあることで悩んでいるなら、「これは授業ではなく、ゲームなんだよ」と教えてあげて、発想の転換を強いてしまうことだ。もしも子供が学校の勉強で落ち零れてしまうような時は、「これは勉強ではなく、ゲームなんだよ」と教えてあげて、発想の転換を強いてしまうことだ。そうすれば、子供が苦手と思ったことが逆に簡単に思えて来てしまい、その分野で猛スピードで成長していくことができるようになるのである。

●親子間の価値観のギャップに気をつけろ

 子育てをしていく際に気をつけるべきことは、親子間の価値観のギャップに気をつけろということだ。大抵の母親たちはその成長過程の中で、「競争の原理」から「慈愛の原理」への転換を図ってしまったのである。若い頃は自分のために誰かに打ち勝とうという生き方をしていたが、結婚する前後に於いてその競争原理を捨て、誰かのために役に立ちたいという慈愛原理に立脚してしまったのである。慈愛の原理に立たねば、育児や子育てができる訳がないのだ。

 だからといって、母親が慈愛の原理に立つ余りに、子供たちの競争の原理を否定してはならないのだ。子供たちは今まさに競争が必要な時期を迎えているのである。競争するからこそ、猛スピードで成長していくことが可能になるのである。子供の時期に競争をしなければ、子供の成長が遅れてしまうのは当然のことなのである。

 母親がすべきことは、我が子たちを公正な競争ができる場所に投じてあげることなのである。なぜ、世の母親たちが高い授業料を払ってまで学習塾に通わせるのかといえば、学習塾でなら我が子が勉強すれば必ずその努力が報われるからである。現在の学校のように生徒たちを平等にすることに重点が置かれてしまえば、学校の中で向上心のある生徒たちはいくら努力をしても馬鹿を見るだけだからだ。だったら、学校で勉強させずに、学習塾で勉強させた方がいいということになってしまうのだ。

 オリンピックで活躍するようなスポーツ選手は学校で育って来た訳ではないのだ。大抵がスポーツクラブに所属して、そこで若い時から鍛えてきたのである。学校の運動会のように競技で成績をつけて序列を作ることが憚れる場所では、いくらスポーツが好きな子供でも能力を発揮することなどできないのだ。スポーツクラブのように、試合では非情な形で成績が出て来る場所でこそ、子供たちは高い能力を発揮することができるようになるのである。

 子供が競争すれば、負ける事だって有り得る。そういう時は競争自体を否定するのではなく、「悔しかったら勝ちなさい」と諭せばいいのだ。それがまともな母親にすべきことなのである。我が子が競争で負けることが悔しいからといって、我が子に競争をさせなければ、碌でもない人間に育って来るのは当然のことなのだ。

 子育てをしている時は子供は競争が大好きなのだということを決して忘れないでおこう。母親が子供たちに競争をさせないでいると、子供たちはテレビゲームをすることでその競争への欲望を解消して、エネルギーを浪費してしまうのだ。そんなにエネルギーが有り余っているのなら、どこか有意義な習い事でそのエネルギーを使って、子供の成長は図って行くべきなのである。

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子供が複数いれば差別してしまうのは当たり前

●母性愛は一番下の子に最大の愛情を施そうとしてしまう

 自分に子供が複数いれば、自分が施す愛に格差が生じて来るのは致し方ないことである。母性愛の性質として、一番下の子供に最大の愛情を注いでしまうようにできているからだ。しかも、赤ちゃんは母性愛を刺激する体臭を放って来るので、この体臭を嗅ぐだけで母親はうっとりとしてしまい、赤ちゃんに最大の愛情を注いでしまうようになるのだ。

 また、どの母親の第一子を育てる時は苦労したものだから、最初の子供は母親にとってどうしても一番印象深くなってしまうのだ。そのため、一番上の子供に対しては、手加減を余りせずに接してしまい、これが巧く行けば責任感の強い子供に育ち、悪く行ってしまうと母親では手のつけられない暴れ放題の子供になってしまうのだ。

 第二子というのは、上の兄や姉の姿を見て育って来るので、いい意味でそれが防波堤となり、母親が余り叱らなくても気楽に成長して来るのだ。そのため母親として叱っていない分、第二子が何を考えているのか解りにくいし、第二子は第二子の方でマイペースを貫いて、母親のテンポには従おうとはしないのだ。こうなると、母親としてはちゃんとした愛情を注ぎたくても、巧い形で注げなくなってしまうのだ。

 子供が同時に生まれて来ていない以上、子供に対する愛情に格差はあることは当然のことなのに、それをそのまま他の母親たちに言ってしまうと、「子供には平等に愛を施すのが当たり前でしょ!」と言い返されてしまうのだ。かといって、こういうことを言い返して来る母親たちが巧い育児を行っていると思ってはならない。育児が巧く行っていないからこそ、平等イデオロギーに囚われてしまうのだ。

 母性愛は子供の年齢が下がれば下がるほそ、子供が弱ければ弱いほど、強く愛を発して来るために、平等イデオロギーに取りつかれ易いのだ。実際は平等ではなく、最も年齢が低く体力の弱い子供に最も強く愛を注いでいるだけにすぎないのだが、母性愛というものはそういう性質を持っていると解った上で母性愛を注いでいないと、平等イデオロギーに取りつかれてしまうのだ。時たま、結婚して子供がいるのに、フェミニズム運動に参加して来る母親たちがいるものだが、これはフェミニストたちに母性愛の性質を悪用された形でフェミニズム運動に取り込まれてしまったのだ。もうこうなると、家庭崩壊は必至では、育児そっちのけでフェミニズム運動に従事して来るので、子供たちはグレるし、夫婦喧嘩は絶えることがなくなってしまい、その内、離婚してしまうことになるのだ。

●親子の相性に気をつけろ

 親子というのは個人的に相性があるものだ。まず、母親は女の子よりも男の子の方が好きである。好きどころか、大好きである。というのは、男の子は女の子よりも大量の母性愛を必要とするために、女の子よりも甘えん坊だし、その甘え方が巧いのだ。しかも、男の子は3歳辺りに有り得ないほどの可愛らしさを発揮して来るので、母親はこの可愛らしさにメロメロになってしまうのだ。

 では、女の子に対してはどうなるかというと、母親が長女だと長女を愛し、母親が次女だと次女を愛してしまう傾向にあるのだ。人間は生まれた順番でかなり似たような性格を持ってしまい、女性同士の場合だと性格が似ている方が仲が良くなってしまうのだ。そのため母親が長女なら、我が子の中で長女と仲良くなってしまい、母親が次女なら我が子の中で次女と仲良くなってしまうのだ。

 女の子の場合、男の子を育てる時よりも、遥かに会話量が多くなってしむので、その相性は如実に現れて来ると思っておいた方がいい。この子とは話が盛り上がるのに、あの子とは話がなかなか盛り上がらないというのは、どうしても避けることのできない現象なのだ。そういう場合、話が盛り上がらない子に対しても、会話をするように心掛け、会話をしないことによる問題の発生を避けるべきなのである。

 また、自分が天中殺の時に産んでしまった子供は、小学生ぐらいまでならなんとも問題が起こらないが、中学生辺りから問題が発生して来るようになるので、全寮制の学校に行かせるとかして、早くに親子の距離をきちんと取ってしまうことだ。我が子であったとしても、自分にとって運気の悪い子供は自分の運気を確実に損ねて来るのである。

 逆に運勢上、自分と相性のいい子供とはその子供が大人になっても仲がいいので、その子供を手放さないようになってしまうのだ。子供は外に出して何かしらの経験を積まさせないと強くならないので、一旦は外に出して子供に鍛える機会を与えるべきなのである。その子供がきちんと経験すべきことをしておけば、立派な大人に成長して来るので、親子で仲が良くなりたければ、その子が結婚してからでも充分できることなのだ。

●子供が母性愛で揉めるのは「子供の嫉妬」が原因である

 子供が複数いれば、愛情の注ぎ方に格差が出て来るのは当たり前のことだと早くに悟ってしまうことだ。他の母親たちがなんといおうとも、どんなに優れた母親であっても、子供に対して平等に接することはできないし、平等に愛を注げないのだ。例えば、第一子はもう長年に亘って育てて来たのだから、愛情の量が減って来るのは当たり前のことだし、生まれたての赤ちゃんは育てている期間が短いために、愛情の量を多くするのは当たり前のことなのだ。この当たり前すぎる事実を、平等イデオロギーによって打ち消してしまわないことだ。

 実際問題として、母親の母性愛の格差で問題が生じるのは、いつも一番下の子供に強く愛情を注いでしまうために、一番上の子が嫉妬して来ることなのである。こういう場合、一番上の子にもきちんと母性愛を注いでいるのに、一番上の子に生じた「嫉妬」という感情が問題を発生させてしまっているのである。一番上の子にしても、一番下の子に対して、母親が世話を焼かねばならないというのは解っているが、それを自分の目の前であからさまにやられると、「いつも一番下の子ばっかし」という嫉妬の感情が芽生えて来るのだ。

 他の子供たちが嫉妬してきている場合、自分の行動を改めて、上の子も下の子も平等に接するというのでは、まともな解決策にはならないのだ。嫉妬という感情は、自分だけにもっと強い愛情が欲しいということなので、平等に接した所で解決にならないのだ。子供の嫉妬を解消させるためには、僅かな時間でもいいから、その嫉妬を生じている子供と充実した時間を過ごすことなのである。例えば、一日15分間でもいいから、母親とその子の二人だけになって話をするとか、遊んだりすればいいのだ。休日に母親とその子だけでお出かけして、子供に母親を独占できる時間を与えたりすればいいのだ。

 それと同時に母親にも或る自制が必要で、自分の子供を余り比較し過ぎrなということだ。上の子が下の子をイジメてくるような場合は、母親が余所の子供と自分の子供を比較して、自分の子供の成長スピードを巧く掴めなかったからなのである。子供には子供なりのペースがあるので、自分のペースを母親に乱されてしまうと、幾ら母親から愛情を注がれても、拒絶してしまうようになってしまうのだ。まずは我が子を良く見てあげることなのである。

 一番上の子供は、「いつも一番下の子ばっかし」と騒ぎたてて来るような場合は、子供は母親に平等になることを要求しているのではないのだ。母親の行動に多少の問題があるから、それを変えて欲しいという、子供なりのサインなのだ。いや子供からの「警告」だと言ってもいいのだ。育児に追われる余りに、我が子に対して真心を以て接するということをしなくなってしまったのである。

●でも、「み~んな大好き!」という姿勢を忘れないこと

 家族というのは、原始的な集団なのである。そのため原始的な秩序構成を必要として来るのである。子供の中で第一子は一番偉く、第二子は二番目に偉く、第三子は三番目に偉いのだ。この家族内の序列を絶対に崩さないことだ。子供の順番は年齢順で決まるのである。そしてこの序列は生涯変わらない不変なものなのである。

 どの母親も一番上の子供には厳しく当たってしまうものだ。下の子供たちに比べれば充分に成長しているために、事あるごとに責任を押し付けてしまうのだ。一番上の子供も家族内の序列が守られている限り、母親の過酷な要求にはきちんと耐えて来るのである。一番上の子供が母親の要求に耐えられなくなるのは、第一子が一番偉いという秩序を破壊してしまうからなのである。

 どの母親も一番下の子供を甘やかしてしまうものだ。一番下の子供といえども優しくし過ぎてはならないのだ。どんなに可愛くても、間違ったことをしたらきちんと叱ることだ。一番下の子が失敗をやらかしたのに、母親が可愛さの余りに対して叱らないからこそ、上の子たちが騒ぎ始めるのである。

 子供が多くいれば、漠然と平等に母性愛を注げばいいというのではなく、母性愛の出し方や使い方にも工夫を施さねばならないということだ。必要な差別をきちんと認めると同時に、どの子にもその子なりに応じて接してあげるのである。これが「公平」なのである。解り易くいうなら、「我が子はどの子も違うけど、み~んな大好き!」という姿勢を絶対に忘れないことなのだ。平等ではなく公平に接してあげるからこそ、すべての子供たちに過不足なく母性愛が行き渡るようになるのである。

 母親としても未熟ならば、我が子たちに対して平等に接してしまうものなのだ。平等に我が子たちを愛そうとすれば、育児はどこか歪んでしまい、いずれ大爆発を起こして来るものなのである。子供たちの心の中にきちんと母性愛が行き届いていなかったのである。心の仲は空っぽなのに、母親が平等に接して来たために、その心の異常さが解らなくなってしまったのである。

 母性愛は子供たちに対して格差が生じて来てしまうが、それをあからさまにやらないことなのだ。どんなに温和な子供であっても、母親が子供たちの中で一人だけ可愛がれば、嫉妬の感情に火をつけてしまうのは当然のことなのだ。我が子も嫉妬の感情をきちんと持てるくらいに成長して来たということなのである。その成長をネガティブな方向に使ってしまわないことだ。嫉妬の感情を巧く回避すれば、その子は母親の育児の仕方に対してきちんと理解してくれるようになり、育児や家事を手伝うなり、自分一人でも遊べるような子供に成長して来るのである。

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本物の父親になるための試練

●まずは背中で子供たちを導け

 妻が不思議な体験をすることによって「本物の母親」になれたのなら、夫も同じように不思議な体験をすることによって「本物の父親」になれるのかというと、夫は妻よりも遥かに遅れて、そういう体験をすることによって本物の父親になっていく。夫が本物の父親になるのは、妻よりも遥かに遅いのだ。ただ、妻が本物の母親になってくれれば、夫も本物の父親になることができる。

 なぜ、夫婦でこんなにも格差が生じてしまうのかというと、それは育児に費やした時間が、夫と妻では全然違うからだ。妻は育児に専念している以上、毎日四六時中子供と接していたわけであるが、夫はその間、仕事に出かけており、自宅にいる時にしか子供に接することができなかったのだ。そのため、父親らしくなるのも遅いし、本物の父親になるのも遅いのだ。

 夫がやるべきことは、妻のように育児に専念するのではなく、まずは仕事をして養育費を稼ぎ出すことなのである。仕事が順調に行っていれば、自然と父親になっていくものなのである。稼ぎが悪いのに、育児に手を出しているようであるなら、それは妻の負担を軽減するものであっても、いずれ夫婦で深刻な事態に陥ってしまい、下手をすれば離婚になってしまう危険性だってあるのだ。

 夫が子供にすべきことは、妻のように育児で手を出すことなのではなく、子供たちを背中で導くことなのである。夫が仕事に精を出していれば、子供たちはその姿を見て自然と真似をし出すものなのである。父親の真似をするのは、男の子も女の子も同じだ。子供であるなら、父親の靴を穿いたり、父親の仕草を真似したり、父親の仕事の手伝いをし出すものなのだ。

 父親が真面目に働いている限り、育児でそうトラブルが発生することはないのである。大事なことは、自分の仕事が子供たちに話してもいいような内容の仕事であることだ。子供たちに話せないような後ろめたい仕事をしていると、子供たちは敏感に察知して、得体の知れないグレ方をしてくるものなのである。

●子供に或る程度までレールを敷くのは当たり前のこと

 子供は或る時期、うるさいくらいに父親に纏わりつく時期がある。まず、女の子の場合、上位自我がしっかりと入って来ると、「将来、パパのお嫁さんになる!」と言い出す時期が来るので、こういう時期には娘とは疑似結婚をきちんと行っておくことだ。娘と遊んだり、お風呂に一緒に入った入り、一緒のベッドで寝たりして、娘の結婚願望をしっかりと満たしてあげることだ。これをきちんとしておけば、娘の心の中に父性愛が蓄積され、父親に対して素直に服従するようになるのだ。娘には、「お父さんは常にお前のことを守っている」という姿勢を見せ続けることだ。

 娘に対して息子の成長は遅いものだ。息子はいつも母親とべったりなので、自分で自分のことをし出すのが遅いのだ。それでも成長して来ると、父親の所にやってくることになる。そういう時は息子と男同士の会話をしたり、男同士で遊んだりすることだ。男の子は女の子よりも遥かに頭が悪いので、少し遊んだり話をするだけで満足してしまうのだ。男の子の場合、父性愛の蓄積は女の子よりもスピードが速いものなのだ。

 父親が子供にすべき最も重要なことは、子供に或る程度までレールを敷いてしまうことだ。教育費を出すのは、基本的に父親なのである。子供がどう育つかということに対しては父親の意見を通すべきなのである。小学校や中学校や高校や大学がどのようになっているかは、子供よりも父親の方が良く知っているものなのである。だったら、子供に任せないで、父親が決定してしまった方がいいのだ。

 例えば、自分が農業をやっているのに、通常の大学に行かせることはないのだ。もしも大学に行かせるなら、農業を専門とする大学にすべきなのである。自分が商売をやっているなら、早い段階で商売を教え込んでしまうことだ。間違っても商売をさせるために、大学の経済学部に行かせることはないのだ。子供をピアニストやヴァイオリニストにしたいのなら、子供が自発的に仕出すまで待つべきではないのだ。3歳辺りから教え込んでしまうべきなのである。

 子供がどう進むかは、父親が決めてしまうべきなのだ。何もかも子供の自由に任せてはならないのだ。その後、その路線が子供にあっているなら、そのまま進めればいいし、その子供が嫌というなら変更させてあげればいいのだ。そのようにすれば、息子が男になって行く時に迷わずに済むし、娘が女になって行く時に迷わずに済むのだ。

●突然に父親を本物の父親にしてくれる男性が現れて来る

 父親に不思議な経験が起こるのは、子供が小学生になった頃なのである。或る日突然に子育ての仕方の間違いを指摘してくる男性が現れて来るのだ。飽くまでも子育ての仕方の間違いであって、育児の仕方の間違いを指摘されるわけではないのだ。父親が本物の父親になってくるのは、子育ての時期なのである。

 多くの父親は子育てに失敗してしまうのは、子育ての計画を何も持っていないからなのである。そういう父親は傍から見れば丸っきり幼稚で、精神レベルが非常に低いものなのだ。だから、子供たちが大きくなってきているのに、父親が成長していないもんだから、子供たちが迷走し始め、おかしな方向に進んで行ってしまうのである。

 子供を健全に育てたいのなら、子供の教育を学校にすべて任せてはならないということなのである。休日に自宅で子供に教えるべきことを教え込んでおくことだ。宗教書や歴史書を読み聞かせて、父親と子供たちが議論を交わすことで、子供たちの精神的な成長を促すべきなのである。自宅で商売をしているなら、その仕事を手伝わせるべきなのである。そして、お稽古事や塾や予備校が必要なら行かせるべきなのである。

 妻に3人以上の子供を産ませ、自分がきちんと仕事で働いているなら、そういう男性と巡り合う確率は非常に高くなるのだ。夫の場合、妻と違って、仕事関係で人との出会いが多いので、その出会い通じて、自分の子育ての仕方の間違いを指摘してくれる人が現れて来て、それを境に本物の父親になっていくのだ。

 夫が本物の父親に変わる時、急激に変わって行くものだ。その間違いは早くに修正しなければならないものなので、悩んでいる暇などはないのだ。子供は中学生になれば親に反抗し出してくるので、その時期では遅すぎるのだ。時間は限られているのだ。だからこそ、素早く変わって行くのだ。

●父親は組織の中に入らない限り、本物の父親にはなれない

 人間は群生動物であるが、その中でも男性は基本的に「組織的動物」だ。狩猟をするために組織を組まざるを得ない以上、現在、狩猟をしなくなっても、組織を組みたがるのだ。これに対して女性は狩猟をせず、採集や家事や育児を営んで来たので、せいぜいネットワークのような軽い付き合いで人間関係を形成して行くのである。

 だから、夫が「男には男の付き合いってもんがあるんだよ」と言って、何かと小遣いを要求してくる際に、妻がケチってしまうと、夫は男の付き合いができなくなり、組織に入ることができなくなってしまうのだ。組織に入ることをせず、一匹狼のような生き方をしてしまうと、夫は本物の父親になるための出会いがなくなってしまうのだ。男という動物は、個人主義では本物の父親になれないのだ。

 男性には女人禁制の男性だけの組織というものがどうしても必要なのだ。これがなければ男は男になれないし、父親になれないし、本物の父親になることもできないのだ。男女平等によって男女は平等だと思っていると、男が男でなくなってしまうのだ。女性から見ればなよなよした男性で、見た瞬間に気持ち悪いと思ってしまうような男性になってしまうのだ。男性をこういう男性にしてしまったのは、女性たちが男女平等を叫んだからなのである。

 もしも夫が本物の父親になってくれなければ、子供たちは歪んだ形で育って行くことだろう。息子だったらグレてしまうし、シンナーや麻薬に手を出して来ることだろう。娘なら異性関係が異常になってしまい、いつも男女交際が短期間しか続かず、下手をすれば売春をし出すことになってしまうのだ。子供たちは父親に思い残してあることがあるからこそ、間違った道を進んでしまい、父親ではない男性からそれを埋めて貰おうとしているのだ。

 自分の父親が立派な父親なら、子供たちは道を間違うことなく成長して行き、男女とも早くから仕事で頭角を現わして来ることになるし、時期が来れば結婚し、たくさんの子供を産むようになるのだ。自分の子供たちが自分と同じように3人以上産めば、自分は父親としては最低限の義務を果たせたのだなと思った方がいい。子供が大きくなって、結婚もせず、結婚したとしても子供が出来ず、産んだとしても1人や2人なら、自分は父親として最低限の義務を果たせなかったのだなと思った方がいい。自分がどのような子育てをしたかの結果は、子供が大きくなってから、きちんと現れて来るものなのである。子育てをしている時は、心を引き締めて育てて行くべきなのである。

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本物の母親になるための試練

●子供を3人産むと不思議な現象が起こる

 子供を3人以上産むと、不思議な現象が起こる。その最たるものが、「自分を本物の母親にしてくれる人との出会い」が起こることである。育児をしている母親は、その人と出会うことによって、心の壁が破壊され、本物の母親になることができる。育児というのは、母親が子供を育てないと始まらないが、でも家庭内では完結しないのだ。育児を育児たらしめるものは、実は外からやってくるのである。

 なぜ3人目以上にならないと、その人に出会えないかというと、一人目や二人目ではその人に出会ったとしても、何を言っているのか解らないのだ。自分自身が母親として充分に成長していないし、しかも育児に力が入り過ぎているので、他人の意見を謙虚に聞く余裕がないのだ。、

 子供を3人産めば必ずしも出会えるということはではない。子供を3人以上産むのは、その人と出会えるための必要条件であって、それだけの条件を満たせば出会えるというものではない。子供を3人以上産んでも、自分が母親として充分に成長していないと出会えないし、子供が病気でもして病院に入院していたら、それどころの騒ぎではないだろう。

 我々は何かをやっていると、それを一生懸命になって努力をすればいいと思ってしまう。確かに努力というのは大事だ。しかし努力だけでは或る程度までしか成長できないんであって、自分が自分を変えてしまうような大きな変革は他人と出会うことでしか行い得ないのだ。育児であるなら、家庭内での作業を充実させて行くことは絶対に必要であるが、かといって家庭から出て、人との出会いを大切にしなければならないのだ。

 母親にこの不思議な現象が起きれば、本物の母親になることができる。育児の仕方がきちんと解っているし、母性愛は大量に出て来るし、子供たちは健全に成長して行き、立身出世を果たすようになる。しかし、母親にこの不思議な現象が起きなければ、いつまでも未熟な母親のままだ。育児の仕方がまるで解っていないし、まともな母性愛が出て来ないし、子供たちは健全に成長せず、歪んで育ってしまい、その後の人生の中でその歪みが出て来てしまい、不幸を招き寄せてしまうのだ。

●ベテランの母親による指導

 では、育児をしている母親を本物の母親にしてくれる人とは一体どういうひとであろうか? それはその人自体も母親で子供が3人以上いる母親だ。自分が子供を3人以上産み育てたからこそ、育児のなんたるかが解り、その人自体も本物の母親に出会うことによって、本物の母親になることができたのだ。

 育児というのは、最後の最後で「ベテランの母親による指導」というのが大事なのだ。確かに最初の赤ちゃんを産んだ時には、ベテランの母親によって育児の仕方を教えて貰うことも確かに大事だ。しかし、育児の基本というのは育児をしていれば自然と解って来るので、そういうのはあれば有難いだけのものなのだ。だが、自分が育児の仕方を習得してしまうと、その最後の最後でベテランの母親から何か指導してくれないと、最後の難関を突破することができないのだ。

 育児というのは、それをどんなに正しくやろうとも、その母親によって歪んでしまうものなのだ。例えば、専業主婦はいつも子供を弄っているものだ。子供に母性愛を注ぐのではなく、いつも子供のことを心配してしまっているのだ。仕事をしている母親は自分の仕事を優先させる余りに、子供ときちんと向き合わないものだ。そのため、子供が無表情で、愛想も礼儀もないものだ。

 その育児の歪みをビシッと指摘し、育児をちゃんとして育児に治してくれるのだ。それがどういう展開になるかはその母親とベテランの母親の関係によって変動して行くが、とにかく「あなたなの育児は正しくとも、異常だよ」と指摘して貰い、自分の育児を正常なものに戻さなくてはならないのだ。

 育児の歪みというのは、育児をやっている本人には自分では気づかないものなのだ。誰かに指摘して貰わねば、どうしても解らないものなのだ。丁度、料理人が日々料理する余りに段々と味付けが濃くなってしまい、その味付けの濃さを自分の力では修正できなくなってしまうのと同じように、その異常さを誰かに止めて貰わねばならないのだ。

●本物の母親になるとどうなるのか?

 人間は決して一人で生きているのではない。人間はそもそも群生動物なので、自分で家族を形成して行く一方で、他の家族たちと交わり、情報を交換しながら生きて行かざるをえないのである。それゆえ育児だけをしていればいいのではないのだ。育児をきちんとしつつも、家族の外からやってくる情報をきちんと掴まねばならないのである。

 育児の仕方というのは、所詮は「技術」である。その技術が解れば育児を順調に進めて行くことができる。しかし、その技術は技術であるがゆえに、その技術の使い手である母親の心次第で悪用することも可能なのだ。大抵の母親たちは育児にスピードを求めてしまい、子供を急かすように育てて行ってしまうのだ。なんでも「早くしなさい」「急ぎなさい」「お母さんはもう行くわよ」と何かに追われるように忙しい日々を送ってしまうのだ。そのくせ、それだけ時間が余った筈なのに、その余った時間を育児に再投資せず、育児の手抜きをする方向に使ってしまうのだ。

 だからこそ、この異常な育児を破壊して貰わねばならないのだ。育児には確かに子供を育てて行くという「技術」は必要ではあるが、それだけでは駄目なのだ。育児には母親が心から子供を慈しむという「真心」が必要だし、子供をきちんと育てて行くために手抜きすることなく「手間暇」をかけなければならないし、そして何より「時間」をたっぷりとかけてゆっくりと育てて行かねばならないのだ。 

 育児には秘訣などないのである。いや、育児に秘訣など求めてはならないのである。自分が充分に母親として成長できれば、育児の仕方など充分に行えるものなのである。でも、悲しいかな、どの母親も最初は新米ママで技術的な所から入って行ってしまうのである。そのため、肝腎の母親としての真心が失われてしまい、子供は手間暇や時間をたっぷりとかけないと育たないということを忘れてしまうのだ。これは未熟な母親ならどうしてもこの間違った方向に進んでしまうのである。

 自分が子供を3人以上産み、ベテランの母親の指導を受けるからこそ、育児のなんたるかがちゃんと解って来るのである。この不思議な現象が起こると、母親の心の中で何かが変わり、本物の母親になることができ、それ以降、育児や子育てで間違うことが殆どなくなるのだ。

●母親としての安心立命

 この不思議な現象だけは、育児をしている母親が自分で経験して貰わねば、それが一体どういうものなのか決して解らないのだ。この世には経験しなければ解らないなど幾らでもあるものなのだ。育児書や育児雑誌に頼り過ぎる育児がなぜ間違っているのかは、これで解る筈だ。育児の知識を優先させてしまい、育児に於ける経験を大事にしないからなのだ。いくら経験する前に教えても、経験して貰わないと絶対に解らないものが、育児には存在しているのである。

 母親が本物の母親になってくれると、いい意味で子供に対して心が囚われなくなる。逆に言えば、それまでは子供に心が囚われていたために、いつも子供のことが心配で、自分の持てる力のすべてを発揮することができなかったのだ。子供に心を囚われなくなったからこそ、自分の心が自由になって、ちゃんとした育児ができるようになるのである。

 言わばこれが母親としての安心立命なのである。自分のやっている育児が、神の聖慮に適うレベルのものができるようになったので、心が落ちつて朗らかになり、迷いが吹っ切れて、自分の心の中から無限のエネルギーが噴き出して来るものなのである。だから、本物の母親になれた母親は非常に元気で行動力に溢れているのである。

 この世にはいつの時代でも知ったかぶりする人はいるものだ。子供を1人や2人しか産んでいないのに、育児のなんたるかを述べて来る母親たちは跡を絶たない。その段階では誰がどうやっても母親として未熟なままなのだ。自分が本物の母親になっていないのだから、育児が大変になるのは当たり前のことなのだ。

 女性は赤ちゃんを産んでしまえば、母親になることはできる。しかし、その段階では育児の初心者なのである。育児の初心者でも育児ができないことはないのだ。やればできるものなのだ。かといって、自分が本物の母親になれる訳がないのだ。自分が本物の母親になるためには、様々な試練を経験していかねばならないのである。

 先進国では女性が子供を産む数が減少して行くから、子供を産んだとしても、本物の母親になれる母親が少なくなってしまう。そのため育児で様々なトラブルを抱え、育った子供たちも大人になれば様々な問題を引き起こして来るものだ。自分がちゃんと成長していないから、「男が悪い」「社会が悪い」「政治が悪い」と、とにかく自分を棚に上げて、誰かを批判しまくり、改造することに躍起になってしまうものだ。しかし、そういう批判や改造をいくらしても、自分の不幸を解決することはできないのだ。

 自分が母親になったら、子供を1人や2人で打ち止めにするのではなく、せっせと3人以上の子供を産み育てて行くことだ。そういうことをしていれば、自然と不思議な現象が起こって来て、自分を本物の母親にしてくれるものなのだ。本物の母親になるということは、本物の母性愛がしっかりと出るようになれることであり、自分の子供たちをしっかりと肯定してあげることができ、だからこそ、その子供たちは健全に成長して行くことができるようになるのである。

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「子供優先という生き方」と「母親としての能力」

●自分中心じゃないからこそ、能力は伸びていくもの

 子供が一人や二人なら、まだ自分の時間は多少は確保できる。しかし、子供が3人以上いれば、自分の時間など殆どなくなる。子供はいつも母親の周りを付き纏い、母親も子供優先ですべてのことを進めて行かざるを得ないこの自分中心という考えがなくなった時に、母親としての能力は急激に伸びて行くのである。

 これこそが三人目以降の出産がそれ以前の出産とは異なることなのだ。三人目を出産した時には自分を下げるしかないのだ。自分を下げるからこそ、3人以上の子供がいても、育児が簡単に出来てしまうのである。不幸を呼び寄せる最大の原因である「我執」が奇麗さっぱりと消えてなくなってしまうのである。

 母親に我執が残っていると、出産しても1人目や2人目で打ち止めにしてしまうがちだ。3人以上産めば自分は完全に育児に追われてしまうから、決してそれ以上子供を作ろうとしなくなるのだ。だから、我執が残ってしまい、それが不幸を呼び寄せてしまうのだ。その不幸を母親自身が背負うならまだいい。その不幸が子供たちに及ぶことだってあるのだ。

 家族というのは、夫が仕事に出かけている時は、母親中心に回って行くものである。かといって、母親がその地位を乱用して、自分勝手に動かしてはならないものなのである。母親が自分中心ではなく、子供優先という考えをしっかりと持ち、それを実行してくれるからこそ、家族は母親を中心に回り始め、子供たちも健康に成長して行くことができるのである。

 そのためには我執を取り除き、自分が謙虚になって、育児を進めていくしかないのだ。自分の利益のために動くのではなく、子供たちの利益に動くからこそ、子供たちは莫大な利益を手にすることができ、成長に次ぐ成長を重ねて行くのである。こういう生き方をするからこそ、母親は母親としての能力を最大限にまであげてしまい、知らず知らずの内に莫大な利益を手にしてしまうのである。

●自分が育児に全力を投入している以上、夫優先は当たり前

 子供が3人以上いれば育児に追われてしまうのは当然のことなのである。自分が育児に追われている以上、夫がいる時は夫優先になるのが当たり前のことになるのである。夫も妻が夫優先になってくれれば、妻を大切に扱うようにし、妻と仲良くしていく筈である。こうなれば夫婦喧嘩は消滅してしまうのである。

 大抵の夫たちは仕事で全力を使い切っている。それゆえ、帰宅してから妻に喧嘩を吹っ掛けようなどという気は更々ないのだ。しかし、自宅に育児に全力を使い切っておらず、体力が有り余っている妻がいるなら、妻から些細なことを指摘され、それを引き金に夫婦喧嘩が勃発するものなのである。

 夫婦間暴力が社会問題化したり、地方自治体がDVシェルターを作る前に、まずは妻の方も育児に全力を投入して、夫が帰宅して来たら、喧嘩を吹っ掛けるだけの余裕がない状態まで育児をしてみるべきなのである。育児でヘトヘトになるまで疲れ切っていたら、夫に喧嘩を吹っ掛けようなどとは思わなくなるものなのである。

 妻が夫を優先させる生き方は、何か封建的だと思われて、常に批判の対象になっている。しかし、子供を3人以上産めば妻は夫優先にならざるを得ないのである。それ以外に取りようがないのである。子供を1人や2人しか産まないからこそ、昔のような結婚の仕方を取らずに、自分勝手に結婚を運営しようとしているだけなのだ。ただ、どんなに自分勝手に結婚を運営しようとしても、子供が1人や2人なら家族はまだまだ未熟なままなのである。未熟だからこそ、どのように運営しても、問題が発生して来てしまうものなのである。

 昔の日本は、現在の日本より遥かに貧しかった。それでもどの夫婦も3人以上の子供を産み育てていたのである。大抵の夫婦には5人の子供たちがいるのは当然のことだったのだ。だからこそ、妻として成長し、母親として成長することができたのだ。子供が5人いれば、子供を優先するのは当たり前だし、夫を優先するのは当たり前なのだ。夫唱婦随と言われれば、そんなの当たり前なのである。そうやって生きたからこそ、その家族は有り得ないほどのエネルギーを発し始め、発展して行くことができたのである。

●自己中心的な生き方では能力は伸びない

 子供が1人や2人しかいなければ、その家族に問題が続出するのは当たり前のことなのである。母親に自己中心的な生き方が残っているので、それが家族の中で至る所に出始め、夫や子供たちを圧迫し始めるからなのである。母親が家族を運営していくために必要な愛を発してこないから、家族の中で愛が巧K循環せず、夫も子供たちも愛の不足ゆえに、トラブルを引き起こしてしまうのだ。

 結婚適齢期を過ぎても結婚しない女性たちが、能力を伸ばせないのも同じ理由だ。自己中心的に生きてしまうと、それは若い時には良くても、或る年齢を超えた頃からはその生き方では全然能力を伸ばすことができなくなり、いつも同じような日程を繰り返す日々になってしまうのだ。

 既婚女性が幼馴染みの友達と話していると、既婚女性の友達となら会話が弾むのに、独身女性の友達となら会話が陳腐なものになってしまうことがあるものだ。結婚すれば、妻として母親としてやらねばならぬことがたくさんあるから、別に仕事をしていなくても、自然と能力を伸ばして行くことができるのである。ところが、結婚せずに働いても、職場で行う作業は限られたものだから、大して能力が伸びて来ないのである。その差が如実に現れて来てしまうのである。

 若い時は自己中心的に生きたとしても構わないのである。自己中心的にならなければ、自分の能力を伸ばすことはできないからだ。しかし、それは飽くまでも若い時であって、結婚適齢期を過ぎた頃にはもうその自己中心的な生き方を捨て、他人優先の生き方をしていくべきなのである。他人を優先させるからこそ自分の能力は飛躍的に伸びるようになるのである。

 要は「競争の原理」から「慈愛の原理」に生き方を変えたということなのだ。この生き方の変更は或る日突然にいきなり起こって来るのではないのである。徐々に変化を起こして来るものなのである。女性は結婚することで変わり、初めての赤ちゃんを産むことで変わり、子供を3人以上作ることで変わっていくのだ。気付いてみれば、慈愛の原理に基づいて生きており、他人に慈愛を注ぐことができるような母親に成長してしまったのである。

●気付いてみれば、実力はついていた

 母親力など育児に追われていれば自然とついてしまうものなのである。育児や家事はテリトリーが広いので、それを一々教えても、巧く教えられる訳がないのだ。問題がある箇所ならそれを治すために教えることはできても、育児や家事のすべてを教えることなどできないものなのだ。とにかく結婚をしてやってみることなのである。子供を3人以上産んで育ててしまうことなのである。気付いてみれば母親としての実力がついていた。実力というのはそういうものなのである。

 世の中には自分のペースで学んでいくからこそ、きちんとした形で学べると勘違いしている人たちが大勢いるものなのだ。実力というのは、滅私奉公のような状態になってこそ、最大レベルで実力が付き始めるのである。学校のカリキュラムにしても、学校の授業でチンタラ受けるより、塾や予備校で内容の濃い講習を受けてしまった方が、実力はついてしまうものなのである。

 男性なら軍隊に入って軍事訓練を受ければ、いかに軟弱な男性でも短期間で男らしい男に変わってしまうものなのである。軍隊に入れば自己中的な生き方など木っ端微塵に砕けてしまうから、軍事訓練に追われる日々に中で実力があっという間についてしまうものなのである。

 女性なら結婚して育児に追われれば、自己中心的な生き方が破壊されてしまい、いつの間にかに母親としての実力がついてしまうのである。だから、子供は1人や2人では駄目なのである。子供を3人以上産んで、育児に追われることで、自分を立派な母親として成長していかなければならないのである。

 日本は半世紀以上に亘って平和が続いているために、経済は豊かになり、文化が爛熟してしまっているのだ。そのため、本来なら正しいものが否定され、どうやっても無理なものが正しいと思うような間違った考えをする人々が多数現れてくるようになってしまったのだ。「男女平等に基づいて結婚を行おう」などと、実際にやってみれば絶対に不可能なことを言い出すのだ。結婚を実際にやってみれば、夫を家長として立て、妻が家庭内の実権を握ってしまうことで落ち着くものだし、機能するものなのである。これ以外の遣り方ではどうやっても巧く行かないものなのである

 男らしい男が消えれば、女らしい女も消えてしまうものだ、逆に女らしい女が消えてしまえば、男らしい男も消えてしまうものなのだ。男性が男らしい男になっていくためには、軍隊のような過酷な試練を受ける場所が必要なのである、女性が女らしい女になっていくためには、結婚して育児という過酷な試練を受けることが必要なのである。そうしなければ、男は男になれないし、女は女になれないのだ。

 母親として成長して来ると、「宗教の大切さ」がはっきりと解って来るものだ。宗教は「神の絶対性と人間の相対性」を求めて来るので、神をきちんと崇敬できれば、自分自身を相対化することができ、いくらでも成長して行くことができるのである。自分が成長したければ、自己中心的にならないことである。自分を絶対化してはならないのだ。常に神様を戴いて、謙虚になって生きて行くべきなのである。そういう生き方こそ、自分を無限に発展させていくことができる生き方なのである。、

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子供が3人できると、夫は育児を手伝いだす

●3人目の子供で夫に変化が

 子供が2人目できれば、夫は変わり出すのだから、3人目の赤ちゃんが生まれた時には、夫に劇的な変化を起こり始める。それは夫が自発的に育児に手伝い出すということなのだ。これは第一子や第二子の時に、妻がいくら頼んでも夫は手伝ってくれない場合だと、妻は感激して涙を流すくらい感激するものなのだ。

 子供が一人や二人程度なら、育児は妻に任しておいても構わないのである。ところが、子供が3人以上になってしまうと、妻一人の力では処理しきれないのである。だから、夫が育児に対して積極的に手伝い出すのだ。逆に言えば、子供が一人や二人なら、育児に対する夫の手伝いは必要ないのだ。夫は妻が頼んだ事に対してだけ、手伝ってくれればいいのである。

 夫が育児の手伝いをし出すというのは、妻に劇的な変化を引き起こしてしまう。それは結婚以来、初めて夫を惚れ直すということが起こり、妻の夫への評価が一気に高まり、夫婦仲が決定的に良くなっていくのだ。この「結婚後の惚れ直し」をしないからこそ、結婚していてゴタゴタが発生するのである。結婚というのは、結婚式を挙げた時をピークにしてはならないのだ。それ以降にやるべきことがたくさんあるのだ。

 男女間に性差があるように、夫婦間にも男女の性差が存在するのだ。その性差は妻の方が先に成長していき、夫は妻よりも後から成長してくるというものなのである。夫の成長は遅いものなのである。だから、妻は自分が先に「妻として」「母親として」成長して行くと同時に、夫の成長をゆっくりと待ってあげる「大らかさ」が必要なのだ。間違っても夫を改造しようとしたりしてはならないのだ。いかに妻に優しい夫といえども、子供が3人以上生まれない限り、それほど高い成長をしてくるものではないのだ。 

 夫を変えるのはなく、まずは自分を変えて行くべきなのである。結婚すれば、妻としてやるべきことはたくさんある筈だ。育児をしていれば、母親としてやるべきことはたくさんある筈だ。そのたくさんあるものをやらずに、夫の言動が気に食わないからといって、夫を弄るべきではないのである。他人の言動をとやかく言えるほど、自分自身が妻として母親として成長しているわけではないのだ。まずは自分が先に成長して行くべきなのである。

●妻は夫に感謝を

 さすがに子供が3人以上できる夫婦は夫婦仲がいいものだから、妻は夫の変化に対して感謝することができるようになるのだ。この感謝というものが非常に大事で、結婚すれば夫婦が互いに感謝をしなくなってしまうものなのだ。給料を稼いで来るのも当たり前にだと思うようになってしまい、夫が家事や育児を手伝うことも当たり前と思うようになってしまうのだ。不況下で職があるだけでも有難いというのに、夫が仕事で疲れて帰ってきてやっているというのに、それらが全く見えなくなってしまうのだ。

 だから、些細な理由を切っ掛けに、夫婦喧嘩が発生して来てしまうのだ。夫婦喧嘩が頻繁に起こるようなら、夫婦仲が悪い以前に、結婚しているのに相手に感謝していないと思った方がいいのだ。夫婦喧嘩に繋がるような些細なことを見つけ出すのではなく、配偶者の顔に笑顔が浮かぶような些細なことを見つけ出すべきなのである。

 それと同時に、「有難う」という言葉を日常的に使うようにしておくことだ。相手が何かしてくれたら、すぐさま「有難う」って言うようにするのだ。これをすると、夫婦間がスムーズに行き始めるのだ。妻が夫に「有難う」って日頃から言っていれば、夫も自然と妻に「有難う」って言い出すようになるのだ。

 子供がいる家庭では、夫婦が夫婦喧嘩をした場合、その夫婦が怒りまくるだけでなく、子供たちは親の喧嘩に釣られて、「釣られ泣き」という現象を起こして来て、とにかくうるさいのだ。家族全員で怒ったり喚いてたりすれば、ご近所にとっては大迷惑なのである。だからこそ、夫婦喧嘩を極力抑え、夫婦で揉め事が起こるようなものに関しては、事前に話し合う習慣を持っておくことだ。

 結婚というのは、夫は家長であるけれども、妻が家庭内の実権をすべて握っているからこそ、巧く行くものなのである。それゆえ、夫にありとあらゆるものを期待してしまうのではなく、内助の功を発揮して、影ながら夫の役に立てることをしていくべきなのである。夫の仕事が忙しくなってくれば、いかに優秀な夫といえども、何か手落ちの部分は出て来るものなのである。そこを妻がナイスフォローしてあげればいいのだ。そうすると、夫の仕事は順調に行き出し、給料も上がり、家計も潤って来るのだ。

●母子二人の濃厚な時間の必要性

 政府は男女平等に取りつかれてしまっているので、すべての夫婦に「夫が育児をしなければ、父親とは認めない」という恐ろしい政策を展開中である。この不況の最中、夫たちは職場で重労働に従事し、給料が上がらないし、中には下がっている人もいるのに、減税など一切せずに、夫婦の在り方にまで口を挟んで来るのである。

 世の夫たちが、育児の手伝いをしないのには、ちゃんとした理由が存在するのだ。それは最初の赤ちゃんが生まれた時は、妻が赤ちゃんと濃厚な時間を過ごしてくれない限り、妻は母親として成長することができないからだ。だから一人目の赤ちゃんの時には夫の手伝いは不要なのである。妻に育児の時間を充分に与えてあげなければならないのだ。

 夫はその間、仕事に精進して、生活費と養育費を稼いで来るべきなのである。夫といえども、血も涙もない冷酷な人間なのではなく、夫の手助けが育児に於いて本当に必要ならば、ちゃんと手を出してくるのだ。それは3人目の赤ちゃんが生まれた時からなのである。3人目の赤ちゃんが生まれれば、もう妻一人の力では限界になってしまうからだ。

 政府は夫婦の育児の仕方に口を出すべきではなく、減税をすればいいのである。大体、育児をしている夫婦というのは若い夫婦なのだから、年齢的に言ってそれほど高額所得になる人々ではないのである。そういう夫婦には「所得税は10%」で充分なのである。それ以外にも配偶者控除や子供の数に応じて所得控除を認めてあげればいいのだ。政府が大きくなればなるほど、その国家公務員たちの給料は国民の負担になるわけだし、国家公務員たちも数が多くなれば悪政と汚職を働いて来るものなのである。

 税金を安くし、国家公務員の数が少なければ、夫婦はちゃんと子供を産み育てて行くことができるようになるのだ。税金をたっぷりと取りながら、子供手当てを与えて重税を誤魔化すというのは、善政とは言えないのだ。社会福祉によって悪政を隠蔽しているにすぎないのだ。重税がある限り、如何なる政権も悪政なのである。重税がある限り、政府がどのようなことをしたとしても、悪政にしかならないのだ。

●家族が団結し始めた証拠 

 3人目の赤ちゃんを産んだ時は、夫が上の子供2人の面倒を見ながら、妻が出産するのである。今度は家族の中で出産するのではなく、家族が団結した中で出産するようになるのだ。3人目の赤ちゃんが生まれ次第、夫も子供たちも赤ちゃんの世話をしてくれるようになるのだ。これこそが家族が団結し始めた証拠なのだ。

 子供が1人や2人ではこういう家族の変化が見られないのだ。夫は大した働きをしないし、子供は子供のままで何もしないのだ。3人目の赤ちゃんが生まれたことで、夫も子供たちも一体自分が何をするべきかが解り始めるのである。それほど家族にとって人間の数というのは大事なのである。家族も家族の構成員の数が少なければ、本格的に機能してこないのである。

 家族の構成員が増えれば、協業と分業が成り立つので、家事も育児も簡単になっていくものなのである。夫も子供たちも少し手伝ってくれれば、その作業が少ないものであっても、みんなが力を出し合うので、結果的に大きな成果を生み出してしまうのである。「家事が大変だ」「育児が大変だ」という前に、まずは地道に出産していって、子供の数を増やしていくことなのである。子供の数が3人を超えた時点で、家事も育児も一気に楽になっていくのだ。

 家族以外でも5人いう数が最も団結し易い数なのである。どんな組織でも5人集まれば、その5人が団結しあい、驚くべき行動力を発揮してくるものだ。3人や4人では数が少なすぎるのだ。5人になった時点で、それ以前の組織とはまるで別物に変化してしまうものなのである。

 子供を1人や2人しか産んでいなければ、それでも母親にはなれるけど、だが、母親としてはまだまだ未熟なのだ。子供を3人以上産むことによる「家族の劇的な変化」を経験していないのだ。母親が母親として成熟していくためには、問答無用で赤ちゃんを3人以上産むべきなのである。赤ちゃんを3人以上産んでしまえば、家族に劇的な変化が起こり、自分が母親として成熟し始めてしまうのである。

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子供が二人できると変わること

●二人目の出産で解ること

 二人目を出産するということは、一体何が以前と変わるのかというと、最初の赤ちゃんは夫婦の間で産まれたのに対して、二人目以降の赤ちゃんは家族の中で産まれるということになのである.。この家族というのが想像以上に大きく、最初の出産の時のような気負いがなくなり、出産時には「お母さんは出産に行って来るからね」程度の感じで、気分を落ち着かせることができるのである。

 二人目の出産の際は、最初の子供の世話を夫が見るために、夫なくして出産することができないのだ。夫の有難味をこういう時に感じることができ、赤ちゃんを産む前から夫に感謝することができるようになるのである。最初の赤ちゃんの時は出産し終えた後に、こういう素晴らしい赤ちゃんを産ませてくれたことに夫に感謝できたが、第二子以降は出産する前から夫に感謝することができるようになるのだ。それだけ自分の精神ベレルが上がったということなのである。

 二人目の赤ちゃんが生まれた後、この赤ちゃんを育児するだけでなく、上の子の世話もしなければならなくなるので、育児が大変になる筈である。しかし、実際に育児をやってしまうと育児は大変ではなく育児が苦痛ではなくなるのだ。育児というのは、子供が二人以上いれば、育児の苦労は苦労ではなくなってしまう不思議な現象を起こしてしまうのだ。

 最初の育児の時は、育児のことが何も解っていなかったから、育児で苦労してしまったが、二人目以降の育児は、育児の仕方を既に知っているので、後はそれを繰り返し、修正する箇所を修正し、未知なるものがあればそれを解明していけばいいのだ。それだけ母親としての力が確実についてきたのだ。

 子供にとっても、複数の子供がいる方が育ち易いのだ。上の子は下の子がいるために、必要以上に母親に甘えなくなり、自分のことを自分でし出すようになるのだ。下の子は上の子がいるために、上の子のことを見習いながら成長して行くのだ。そのために子供同士で相乗効果を起こして、一人っ子より強い子供へと成長して行くことができるのである。

●赤ちゃんを育てながら、子供を育てるということ

 赤ちゃんを育てることに全力を投入することがなければ、上の子もきちんと育てて行くことができるのである。母親が余りにも赤ちゃんばかりに付きっきりになっていると、上の子供は途端にグレ始め、母親に悪態をついたり、赤ちゃんをイジメたりするのだ。こういう場合は、上の子供を叱るだけでなく、自分も反省した方がいいのだ。

 赤ちゃんを育てるということは、母親が感情的になっていなければ、簡単なことなのである。なぜなら赤ちゃんは1日の殆どを寝て過ごしているので、赤ちゃんが寝ている時は、上の子供の世話をしておければいいのだ。大事なことはそういう時に、いかに上の子供に真剣に向き合っていられるかであって、上の子供も母親は自分のことをきちんと大切にしてくれると解れば、そう変な行動は取ったりしてこないのだ。

 育児で気をつけるべきは、赤ちゃんの夜泣きであって、この夜泣きのために母親は体力的に苦しくなってしまい、精神状態が異常になってしまうのだ。赤ちゃんの夜泣きで苦しまないために、午後10時までには寝てしまい、赤ちゃんの夜泣きが起こる前までに3時間程度の深い睡眠を取って体の疲労をなくしておくことだ。人間は睡眠時間を3時間取れば充分に生きていけるので、この3時間を確実に確保していくことだ。間違っても夜更かしをしないことだ。

 上の子供も母親の育児が大変だと解っているので、母親が育児をしている時には母親の近くに近寄って来るものだ。こういう時は、育児の仕方を教えてあげておくことだ。オムツの交換など子供できる作業なので、自分が忙しい時には子供に手伝って貰えばいいのだ。いくら赤ちゃんが大事だからと思ってすべてを自分でやってしまわないことだ。

 二人目ができると酸素の消費量も多くなるので、換気には充分に気をつけておくことだ。余りにも換気が悪いとすぐに上の子や赤ちゃんが病気になってしまうのだ。また、冬のように寒い季節はいくら外が寒いからといって、自宅の中に籠りっきりにならないことだ。日中は外に出て遊ぶなり、買い物に子供たちを付き合わせて、外気を吸って来ることだ。こうすれば、子供たちの病気は激減していくものなのである。

●夫の愛がなければ家族は機能しない

 子供が2人いるということは、母親は一人になれる時間など無いと思った方がいい。上の子や赤ちゃんが常に付いて来るからだ。どうしても自分が一人になりたい時は、夫に預けるしかないのだ。例えば、子供の入浴などは夫に任せて、子供たちが入浴している時に、自分はリラックスすればいいのだ。こういう息抜きも時には必要なのである。

 夫も最初の赤ちゃんの時は育児を全くしなくても、2人目の赤ちゃんができれば、頼めば何かと育児を手伝ってくれるようになるのだ。勿論、頼めばである。一人目の赤ちゃんの時は手助けを頼んでもやってくれないことが多かったが、二人目の赤ちゃんとなると、手助けを頼めば手伝ってくれるようになるのだ。

 夫も父親として成長しつづあるので、父性本能が目覚め、父性愛が多目に出て来るようになったのだ。母親が赤ちゃんの世話をしている時に、上の子と遊んだりしてくれたりして、妻の育児を巧い具合で補完してくれるのだ。父性愛は絶対価値の愛なので、価値ある対象にか注がれない愛なのだ。だから、子供が大きくならないと、父性愛がなかなか出て来ないのである。

 夫の心の中から父性愛が出て来るようになると、その家族は価値ある行動を多く取れるように成り始めるのである。今まで下らないことに手を出していたのなら、それから手を引いてしまい、育児という価値ある行為にエネルギーを注ぎ始めるのだ。子供が一人しかいない父親はまだまだ幼稚だが、子供が二人できると父親から幼稚さが消え始めるのだ。

 夫が父性愛を出してくれると、家族の中でその父性愛が循環し始め、妻も子供たちも価値あることができるようになるのだ。夫の父性愛がなければ、家族は正常な形で機能しない。妻は夫がきちんと父性愛を出してくれるように、夫を立てて、夫を敬わなければならないのだ。夫を蔑ろにしていると、夫は一向に成長してこなくなるので、父性愛を出すことができず、そうなると子供たちが大荒れに荒れるようになってしまうのだ。

●育児も二度目なら簡単になっていく

 育児は子供の数が多くなるほど簡単になっていく。最初の赤ちゃんは夫婦が育てたが、二人目以降の赤ちゃんは家族が育てて行くのである。夫婦二人であるならば、夫婦双方にかかる負担も大きなものになってしまうが、家族で育てていけば、協業と分業が巧く成立するので、夫婦双方の負担が軽くなってしまうのだ。

 世の母親たちは「育児は大変だ」と言う。一人しか赤ちゃんを産まないからこそ、育児が大変なままに終わってしまうのである。育児というのは子供の数が多くなるほど簡単になっていくということ知らないから、育児が大変なままなのである。母親の方も二人目の赤ちゃんが欲しいと思うほどには、母親として成長してこなかったのだ。

 最初の育児は大変であることは確かであるけれども、それ以上に育児では楽しいことがあるのだ。その楽しさを見つけられないほどに低レベルな人間なら、子供は一人で打ち止めになってしまうものなのだ。最初の育児で苦しみよりも楽しさが上回れば、「次行ってみよう!」と思うのは当然のことなのだ。母親というのはみんな平等ではないのだ。子供の数が多い母親の方が偉いに決まっているのだ。

 子供が一人っ子でも家族であることに変わりないが、非常に未熟な家族になってしまうのである。子供が一人であるなら、その家族はその子供を中心に動いてしまう筈だ。こいうい家庭で育ってしまえば、子供は我儘になるのは決まっているものだ。子供の数が2人以上になれば、その家族は父親を中心に動き、父親が仕事で出かけている時は母親を中心に動くものなのである。こういう家族こそ、当たり前の家族なのである。

 現在、日本の家族が様々な問題を抱えてしまっている。それは日本に貧富の格差があるとか、男女平等が実現されていないとか、政府が子育て支援をしていないからではないのだ。子供の数が少なすぎるからこそ、家族は問題を抱えてしまっているのである。子供の数が極端に少なくなれば、家族はまともな形で機能しなくなるのは当たり前のことなのだ。

 幸せな家族を築きたいのなら、決して子供を一人で打ち止めにしてしまわないことだ。子供を可能な限り産んで行くことだ。育児が楽しかったのなら、2人以上の赤ちゃんを産んで行くものなのである。自分が母親として充分に成長できたなと思えた時に、自然とそれ以上は産まなくなるものなのだ。自分が母親として成長していくためにも、たくさんの赤ちゃんを産んで育てていくことだ。

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2人目の育児に手古摺らないための胎児教育

●胎児教育の必要性

 3人目の赤ちゃんを妊娠したのなら、胎児教育を施す決断は絶対にしておいた方がいい。一人の子供を育てながら、更に赤ちゃんを育てるためには、胎児教育は絶対に必要なのだ。母親にとっては、2人目の赤ちゃんはなるべく手間がかからないようにして貰いたいのであって、そのためには胎児教育によって赤ちゃんの知能を上げておかねばならないのだ。

 第一子はもう動きまくる年齢に差し掛かっているので、第二子を育てる時は第一子を育てた時のようには行かないのだ。第一子を育てた際にかけた時間の半分の時間で済ますように仕向けなければならないのだ。今回は赤ちゃんだけを育てていればいいのではないのだ。既にいる子供を育てながら、もう一人の赤ちゃんを育てなくてはならないのだ。

 胎児教育を施して、我が子を天才にさせようとする胎児教育は絶対に失敗する。胎児教育はそのように使われるべきものではないからだ。胎児教育は母親が子供に高い知能を授けるが、それは育児をし易くするためであって、天才を作り出すのもではないのだ。胎児教育は赤ちゃんに高い知能を与えることが解っているが、それを天才を作るということに悪用するからこそ、正当に評価されないのである。育児をしている母親にとっては、我が子が天才になろうがなるまいが、健康に育ってさえすれれば、それでいいのである。

 胎児教育を施すと一体何が起こるかといえば、通常の赤ちゃんとは違って、早くに喋り出すのだ。母親にとってはこれこそが欲しいものであって、赤ちゃんが早くに言語を喋ってくれると、意思疎通が成立し、育児を巡るトラブルが激減するのだ。胎児教育が巧く行くと、夜泣きの回数が激減するし、オムツの卒業も早くなるのだ。

 胎児教育の効果というのは、要は育児で手古摺ることがなくなるということなのである。胎児教育の本来の効果がそれだということが解れば、胎児教育を悪用することなく、純粋に育児のために使用することができるようになるのだ。母親にとっては、赤ちゃんが早くに喋るようになり、夜泣きを減少してくれれば、育児の負担は非常に軽くなり、第一子への育児もきちんとこなすことができるようになるのである。

●脳が常時刺激されるようにする

①楽しい歌を歌い、音楽を常に流す

 胎児教育は自分が妊娠したなと解った時から開始することだ。まず胎児教育は、「楽しい歌を歌い、音楽を常に流す」ことだ。自宅にいる時は、常に音楽を流しておいて、常にお腹の赤ちゃんに刺激が行くようにすることだ。音楽が流されると、お腹の赤ちゃんはその音楽を聞こうとし、知能を発達させてしまうのである。流す音楽はクラッシクのように無理なく聞ける音楽の方がいい。現代音楽でも構わないが、余りにも悲しい歌や、低俗な歌は避けた方がいい。

 歌を歌うのも効果的だ。既にいる子供に向かって歌を歌ってあげればいいのだ。母親が歌を歌うと、声の神童は直撃するような形で胎児にまで届いて来るので、胎児にとっては最大級の刺激を受けてしまい、知能を高くせざるを得なくなってしまうのだ。歌は無理して歌うのではなく、気分が良くなったら歌えばいいのだ。

②いつも話しかけてあげ、絵本を読んであげる

 胎児に向かっていつも話しかけ、絵本を読んであげることだ。朝起きた時は、「お腹の中の赤ちゃんお早う!」と言って起き出して、その後一日、とにかくお腹の赤ちゃんに何かと話しかけていくことだ。これをやられるとお腹の赤ちゃんは母親の話を聞かざるを得ず、知能を発達させてしまうのだ。

 散歩に出かけた時とかは、外界のことを話してあげることだ。「今日は風が気持ちいいよ」「街路樹が紅葉しているよ」「お花が咲いて奇麗だよ」とお腹の赤ちゃんに情景を説明してあげるのだ。こうするとお腹の赤ちゃんは外界のことを想像せざるを得なくなり、その光景を見ていないのに脳に浮かんでしまうのだ。これをやると、知能が飛躍的に高くなるのだ。

 子供に絵本を読む回数を増やすことだ。絵本を読むことで、お腹の赤ちゃんに刺激を与えるのだ。母親が絵本を読むと、お腹に直接振動が行くので、お腹の赤ちゃんの脳は刺激され続け、知能を高くせざるを得なくなるのだ。絵本を読むということは、歌を歌うと同じことで、ただ歌よりは物語構成がしっかりしているので、読解力がついてしまうのだ。

③運動をして筋肉をつける

 胎児教育をしている時でも、通常の妊婦生活と同じように、運動の重要性は変わらない。第二子を妊娠している時に気をつけるべきことは、第一子を育てて行く過程で、筋力が相当に衰えてしまっているということなのである。育児というのはいくら大変であtっても、そんなに筋肉を使っている訳ではないのだ。

 そのため、妊娠中の運動量はきちんと確保しておいた方がいい。ウォーキングをする、軽ジョギングをする、サイクリングをするということを必ずしておくことだ。ただ、現在でも育児をしている以上、筋肉トレーニングなどは、子供が寝てからにし、メニューをコンパクトに纏めて、素早く行ってしまい、時間を無駄にしないようにすることだ。

 母親がスポーツをするということは、血行が良くなるので、胎児にとって新鮮な血液が供給されることによって、成長に必要な栄養と水と酸素を手にすることができるようになるのだ。そうすればお腹の赤ちゃんは体を充分に成長させることができ、健康な赤ちゃんとして産れてくるようになるのだ。安産にさせるためにも、妊娠中の運動は決して怠らないことだ。

●初歩的な学問を教えてあげる

 より高い知能を与えたいのなら、初歩的な学問を教えてあげることだ。まずは、お腹の赤ちゃんに向かって、文字を教えてあげることだ。「平仮名」「片仮名」を教え、小学生が習うような「漢字」を教えてあげればいい。子供がいる時は、子供に教える振りをして、お腹の赤ちゃんにも教えてあげることだ。

 国語の次は算数だ。小学生レベルの算数を教えてあげるのだ。先に公式を教えてしまい、それに従って問題を解いて行くのだ。小学生レベルの算数が幼稚過ぎて嫌であるなら、数学の公式集を買って来て、それに基づいて教えて行けばいいのだ。子供は数学ができることと、知能の高さは正比例してくるので、算数には少し時間をかけて教えておくことだ。

 理科に関しては小学生レベルのものは教えない方がいい。小学生の理科は自然科学に興味を持って貰うためのものなので、それほどレベルが高くないのだ。それよりも高校の時に使っていた「物理」「化学」「生物」の参考書を引っ張り出して来て、それを音読してあげることだ。

 社会に関しても同じで、高校の時に使っていた参考書を使うことだ。社会に関しては日本史だけで充分だ。但し、現在の歴史学は神話や崇神天皇以前の天皇の存在を否定しているので、その部分に関しては『古事記』を直接に読んでしまい、補完しておくことだ。日本史の教科書は政府の教科書検定が入ってしまい、間違った記述が多いために、胎児教育に使うのに適していない。もしも、日本史を通読できる面白い歴史書があれば、それを音読して日本史を教えてしまうことだ。

 道徳教育に関しては儒教の経典を使ってしまうことだ。『論語』を読むのもいいし、『大学』を読むのもいい。道徳というのは小難しいものではなく、要は神の摂理の下で、人間が文明人としての最低限の生き方を学び、自分の心を自分の主人公にして、溌剌と生きていくことなのだ。キリスト教やイスラム教のように、ゴッドやアッラーを信じてしまうと、自分というものを確立できなくなってしまうのだ。神の摂理と自分の心は繋がっているのであって、自分の心を純粋にした時、神の摂理のなんたるかが解って来るのであって、その時に自分の心から無限のエネルギーが湧いてくるのである。宗教というのは神中心に話を展開して行くのであるが、道徳というのは人間を中心にして話を展開して行くものなのである。

●胎児教育によって高い知能を有するようになる

 第二子以降の赤ちゃんを育てる際に、大変になってしまうのは、実は第二子が赤ちゃんでいる時だけなのである。第三子を育てる時は、上の子たちは自分のことは自分でやってくれているようになるので、もうそれほど手間がかからないのだ。第二子の赤ちゃんの時だけが大変な時期になるだけなのである。だからこそ、胎児教育が必要になってくるのだ。とにかく子供が複数いる以上、早目に喋れるようになって欲しいのだ。そうすれば育児は一気に楽なものになっていくのだ。

 第二子以降は既にお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるので、知能の発達が早いということを知っておこう。上の子が下の子と遊んでいる内に、下の子は自然と知能を発達させ、喋るのが上の子よりも早くなってしまうものなのだ。しかも、胎児教育を受けていた訳だから、当然に高い知能を持ってしまうようになるのだ。

 子供の数が多いほど、その子供たちの知能は高くなり、後世に名を残すような業績をする人物の出現が多くなるものだ。昔、日本では夫婦が5人以上の子供を作ることは当たり前だったが、その時代こそ歴史的発見をした学者たちを続出させたのである、ところが、現代のように夫婦が作る子供が1人だとか、2人だとかでは、子供同士で喋り合う機会が少ないので、どうしても知能が高くならないのだ。日本はアメリカ合衆国に次いで、大学に学術研究の費用を投入しているのだが、大学が全く振るわず、学者たちは碌な研究成果しかを出して来ないのだ。

 母親に既に子供がいて、その状況で妊娠してしまえば、胎児にとっては自然と胎児教育を受けてしまうようなものなのである。母親が子供と遊んでくれれば、胎児は刺激を受けて、脳を成長させることができるようになるのだ。しかも、生まれてくれば、既にいる子供と遊ばざるをえないので、自然と成長が早くなり、知能が高くなっていくのだ。

 我が子が優秀な人間になって欲しいと願うなら、早期教育を施すよりは、子供をたくさん産んで行くことなのだ。子供がたくさんいれば、自然と胎児教育は行われ、子供同士で切磋琢磨して、自然と高い知能を持ってしまうようになるのだ。子供同士で競争していれば、自然と競争力がつき、社会に出ても自然と勝ててしまうものなのだ。

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赤ちゃん返りを楽しんじゃおう

●母親が妊娠すると、子供は赤ちゃん返りをする

 母親が妊娠してしまうと、子供は赤ちゃん返りをしてくる。赤ちゃん返りというのは、赤ちゃんのように甘えて来ることである。赤ちゃん返りは年齢が低ければ低いほど強烈で、本当に赤ちゃんのような行動を取ってしまう。年齢が高くなってしまうと、イタズラをしたり、駄々を捏ねたり、言うことを聞かなくなってしまう。

 第二子を妊娠した場合、子供は妊娠中からでも赤ちゃん返りをして来ると思っておいた方がいい。赤ちゃん返りの始まりは、子供が赤ちゃんの存在に気付いた時からであり、霊感によって赤ちゃんの存在に気付いたような場合は、確実に赤ちゃん返りをして来ると思っておいた方がいい。

 なぜ、赤ちゃん返りが起こるのかというと、母親の関心事が子供にではなく、お腹の赤ちゃんに行ってしまうからだ。子供は母親の精神状態の変化に敏感に察知して、すぐさま反応を示して来るのだ。今まで母親の関心が自分に向けられていたのに、それが自分に向って来ないから、赤ちゃんのように振る舞うことで、母親の関心を引こうとしているのである。

 赤ちゃん返りは悪いものではない。その子供に何か精神的な異常がある訳ではないのだ。大人同士であるなら、相手に関心がなくなれば、距離を置くことで、巧く人間関係を保てるが、子供の場合、母親と距離を置くなんていうことができる訳がなく、赤ちゃん返りをすることによって母親の気を引き続けるのである。

 寧ろ、赤ちゃん返りをする子供の方が正常で、子供の人格が順調に成長しているということだ。母親が妊娠いたのに、赤ちゃん返りをしてこない子供は、母親が育児に手を抜き、無関心に育ててしまったからなのである。その方が子供の成長にとっては危険なのである。母親がきちんと育児をしていれば、子供はきちんと赤ちゃん返りをして来るのだ。

●赤ちゃん返りは迷惑なものではない

 自分の子供が赤ちゃん返りをしてくると、迷惑だと感じてしまう母親たちがいるものだ。こういう母親たちは大抵が体力がなく、心が狭く、母性愛の出も少ない既婚女性たちだ。母親の方に肉体面や精神面で問題があるからこそ、我が子の赤ちゃん返りを認めてあげ、受け止めてあげることができないのだ。

 赤ちゃん返りはオマケのようなものだ。今まできちんと育児をして来た御褒美だと思った方がいい。赤ちゃんの時は母親の方が初めてであるので育児の仕方が解らず、赤ちゃんの方も首が坐っていないし、すぐに病気をしてくるのだが、赤ちゃん返りで赤ちゃんのようになって来ると、子供が赤ちゃんではないから、安心して楽しむことができるようになるのだ。

 これが本当の「赤ちゃんプレイ」なので、子供が赤ちゃん返りしてきたら、思いっきり赤ちゃん返りをさせて、赤ちゃんプレイを楽しんでしまおう。こういう楽しみはそう簡単にあるものではないのだ。体も大きくなっているので、母親が遊ぶには丁度いい具合なのだ。母親にとっては妊娠中にいい運動になると思っておいた方がいい。

 我が子の赤ちゃん返りをしっかりと受け止められるようであるなら、母親は母親として成長しているということなのだ。我が子が最大級に甘えて来ても、きちんとそれを受け止められるようなら、もう母親として充分に行動できるということなのだ。それだけ自分のレベルが上がり、自分の心の中から母性愛が溢れているというおのなのだ。

 赤ちゃん返りは第二子が生まれると、更にヒートアップしてきて、母親が赤ちゃんの面倒を見ることを何かと妨害して来るものである。本当の赤ちゃんがいるすぐ側で、大きな体を持った子供が赤ちゃんのように振る舞って来るのだから、世話が焼けるだろうが、逆に2人の赤ちゃんができたと思って楽しんでしまうことだ。

●赤ちゃん返りで甘えさせることの大切さ

 もしも、子供が赤ちゃん返りをして来ているのに、赤ちゃん返りをさせておかないと一体どうなるであろうか? 子供は母親から見捨てられたと思い、大変なショックを受けてしまい、それが心の傷になってしまい、その後の育児で手古摺ることになるのだ。子供の人格が明らかに異常になってしあうのだ。

 母親の言うことを全く聞かない子供になってしまったり、癇癪持ちになったり、下の子供たちをイジメる子になってしまうのだ。そういう子供が思春期を迎えれば、グレるし、家庭内暴力を振るうし、家出はするし、自殺してしまったりするのだ。子供の頃に母親から傷つけられた心の傷は、自分ではどうすることもできず、その悲しみが暴走していってしまうことになるのだ。

 母親に甘えることができなかったというのは、自分の存在が否定され、子供にとっては自信を失ったままになってしまうのだ。だから、親の言うことを聞かなくなったり、癇癪を爆発させたり、イジメをしたりして、自分の存在を肯定させようとするのだ。他人とトラブルを起こして自分の存在を維持しているならまだいいが、それができなくなれば、自殺することで、自分の存在を消し去ってしまうという危険極まりない方法を選んでしまうのだ。

 子供が赤ちゃん返りして来ているのに、母親が子供の赤ちゃん返りを拒否してしまった場合、その場は巧く遣り過ごせるかもしれないが、その行為の代償は高くつくと思った方がいい。母親が子供に対して意図的に心の傷をつけてしまったからだ。大人ですら心の傷を癒すのが大変なのに、子供ならその心の傷の痛さの余りに暴走して行くことは必定なのだ。

 母親にとって赤ちゃん返りは決して大変なものではない。ついさっきまで赤ちゃんを育てていたのだから、それを再現してしまえばいいのだ。丁度、子供に手がかからなくなった頃に赤ちゃん返りが起こるために、その比較対象で赤ちゃん返りが大変だと思っているだけで、別に赤ちゃん返りの世話は重労働ではないのだ。

●二人目の赤ちゃんができることは子供にとっては不安なこと

 子供にとっては、母親に赤ちゃんができるということは不安なことなのだ。今までは母親は自分の独占物だったのに、母親が独占物にならなくなるのだ。今まで最大級の関心を持って来た母親は、或る日突然にお腹の赤ちゃんを大切にし出せば、子供にとって不安になるのは当然のことなのだ。しかも、実際に赤ちゃんが生まれてしまえば、母親は赤ちゃんの世話に追われてしまうから、子供のことなど構っている暇がなくなるのだ。

 だから、子供は赤ちゃん返りをすることで、母親の気を引こうとするのである。これは行動自体は異常な行動かもしれないが、正常な精神活動であるのだ。こういうことをしなければ、子供の精神はおかしくなってしまうだけだからだ。子供は決して直線ルートを育って行く訳ではないのだ。人間が健全に成長していくためには、後退することも必要なのである。

 赤ちゃん返りは永遠に続くものではないのだ。子供に充分に赤ちゃん返りをさせれば、或る日突然に卒業して行くものなのである。それがいつかは解らない。ただ、赤ちゃんが生まれることによる変化を、子供が母親から母性愛をしっかりと貰い、それが心の中で充分に蓄積されれば、赤ちゃん返りをやめて、子供らしい子供に成って行くのだ。

 この感動的なシーンに、もう一つ注意事項を付け加えておこう。赤ちゃん返りは何も子供だけがするのではなく、夫も赤ちゃん返りをしてくるのだ。夫の方はさすがにバブバブしてこないが、妻に対して矢鱈と甘えて来るようになるのだ。子供の赤ちゃん返りに対応することですら大変なのに、夫の赤ちゃん返りが加われば、更に大変なものになってしまうのだ。

 でも、夫の赤ちゃん返りをきちんと受け止めてあげることだ。夫も第二子ができたことに不安なのである。妻は育児ばかりにしか関心がないために、夫である自分には大した関心を寄せて来ないのだ。そのくせ、第二子ができることで、更にお金が必要となってきて、一生懸命に働き、出産費用を稼いで来なければならなくなるからだ。

 いくら第二子ができたからといって、お腹の中の胎児や、生まれて来た赤ちゃんばかりに気を取られていないで、きちんと夫にも関心を向けて、夫にサービスをしておくことだ。妻が夫の不安をきちんと受け止めてあげないと、夫は妻以外の女性によってその不安を解消させて貰うことになるからだ。その方が高くつくものなのである

 我が子であろうが、夫であろうが、赤ちゃん返りをしてくるなら、それを楽しんでしまうことだ。相手が赤ちゃんのように振る舞って来るなら、いいじゃれあいっこになるからだ。しかも、お腹の中の赤ちゃんにとってもいい影響になり、脳の成長を促し易くなるのだ。赤ちゃんが生まれて来て、子供が赤ちゃん返りをしてくれれば、赤ちゃんへの育児が大変だとは思わなくなってしまうのだ。それだけ母親としての力がついたということなのだ。子供の赤ちゃん返りは、育児は大変であると思っていた昔の自分から大いに飛躍させてくれたことになるのだ。

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子供は霊能力で母親の妊娠に気付いてしまうもの

●子供の霊能力と母親の妊娠

 大概の動物には発情期というものがあり、いつも受精が可能なのではない。受精することができるのは一年の内で限られた期間でしかないのだ。しかし、人間にはこの発情期がなく、女性の体は初潮から閉経まで、理論上は常に妊娠可能なのである。勿論、子供のいる母親だっていつでも妊娠可能なのである。

 だが、妊娠したとしtもすぐには体の変化が出て来ないので、妊娠したことに気づけないのだ。生理が止まったとか、妊娠検査キットを使って調べるとかして、やっと自分が妊娠できたということが解るものなのである。しかも、自分が妊娠したことを他人に言わなければ、自分のお腹が膨らんで来るまで、他人は気付きはしないものなのだ。

 しかし、妊娠に気付く者がいる。それが自分の子供だ。子供は医学上の知識がないのに、己の霊能力を使って、母親が妊娠したことが解ってしまうのだ。いつもそんなに甘えて来ないのに、突如、異様に甘えてくるとか、母親と一緒にいることを執拗に望んだりするとか、急に夜泣きが激しくなるとかである。

 更にレベルがアップすると、「お母さんの所に天使さんが来たんだよ~」とか突然に言い出すのだ。年齢が上がった子供になると、「お母さんのお腹の中に赤ちゃんがいるよ」と急に言い出したりするのだ。子供の発言は明らかに妊娠を指摘しているのだ。これを聞くと、母親は自分の子供を子供扱いしていたので、本当にビックリしてしまうのだ。

 実を言ってしまうと、母親と子供はいつも一緒にいるので、子供は母親の微妙な変化に気づいてしまうものだ。妊娠することで、母親に生理がなくなれば、毎月、月経血として外に排出していた血が外に出ないのだから、肌に微妙な変化が出て来るのだ。生理不順の時、月経血が出て行かないために肌荒れが起こるその逆バージョンだと思えばいい。なんとなく母親の体が変だなというのは子供ながらに気付いてしまうのだ。だが、問題はそれを体感だけで解ったということではなく、霊能力で解ったということなのである。

●理性の力が弱いと、霊能力は発動し易い

 霊能力というと、マスコミが低俗な形で煽ってしまったために、浮遊霊や呪縛霊といった低級霊を探り当てる程度の力だと多くの人々は思い込んでしまっている。実を言うと、霊能力というのは、自分の幸福を作り出し、守り通し、更に作り出して行くもので、それが感性や理性や意志の力ではない、不思議な力を言うのだ。

 この霊能力は理性の力が強まり過ぎると消えてしまうものなのだ。俗に言う霊能力者たちはその殆どが大卒ではない。中卒だとか高卒程度の学歴しか持っていないのだ。理性の力が強まると、科学の力を信じ過ぎてしまうので、霊能力を否定して来るようになってしまうのだ。

 宗教もその国で科学が発達して来なければ、霊能力がどうのこうの言っているのに、科学が発達し始めると科学の力で霊能力を抑えこんでしまい、「宗教の合理化」という現象が起こってくる。「ユダヤ教」は律法主義者たちが台頭してくると、預言がどうのこうのと言わなくなり、「プロテスタンティズム」はカトリックを否定する形で登場して来たために、カトリックでは悪魔祓い師がいたのに、プロテスタントではそういうことをする人がいなくなってしまったのだ。

 だが、科学の力や宗教の力で霊能力を否定しても、人間は生まれながらにして霊能力を持っているものだ。特に子供の場合、理性の力が発達していないので、霊能力が発動し易いのだ。大人であったら、理性の力が発達しているので、そう簡単には霊能力が発動しないし、たとえ霊的な現象を見たとしても、それを既存の知識で否定してしまうのだ。だから、目の前に起こっているのに、目に見えて来ないのだ。

 神道の祭祀で「お稚児さん」を定めて、子供を特別扱いするのは、神道の方で矢張り子供には霊能力があると解っていたからなのだろう。勿論、現在では霊能力を使うためにお稚児さんを使っている訳ではないが、昔でなら子供の霊能力を何かしらに使ったのであろう。それが現在にまで祭祀という形で残っているのだ。

●子供の変化を否定しないこと

 子供が霊能力を使って妊娠を指摘して来た場合、子供の意見を否定してしまわないことだ。子供の意見を肯定してあげることだ。特に子供の指摘の仕方が、直接、妊娠を指摘するものではなく、幼稚化することで妊娠を知らせて来た場合、その幼稚化をきちんと受け止めてあげることだ。子供にとっては、赤ちゃんができれば、お母さんがその赤ちゃんを優先して、自分の相手をしてくれなくなることが不安なのだ。

 子供が直接妊娠を指摘して来たら、それで驚いて子供の霊能力の威力に恐怖してしまおう。そういう驚きというのは非常に大切なのだ。子供の霊能力に驚いてあげれば、子供の方もこの能力は特殊な能力だというのが解るので、妊娠を指摘する以外でも発揮することが可能になるからだ。

 母親の中には大卒の女性たちも多くなっているので、そういう女性たちは子供の霊能力を否定してしまいがちだ。自分は理性の力が強まり過ぎてしまい、霊能力がなくなってしまったために、子供が霊能力を発揮して来ると、それを躍起になって否定してしまうのだ。しかし、母親が子供に対して、そういう態度を取ってしまうと、子供は子供なりに凄く傷ついてしまい、その後、子供は霊能力で何かを察知したのに、それを母親には何も言わなくなってしまうのだ。

 自分も妊娠することで体に変化が出て来ている以上、子供の変化をも肯定してあげることだ。別に子供の霊能力があるからといって悪い訳ではないのである。理性の力では理解不能なものも、この世には存在しているということなのだ。子供に霊能力があれば、事前に危険を察知することができるので、子供が大怪我をしなくて済むようになるのだ。

 子供がはっきりと妊娠を指摘して来たのなら、「そうだよ。お母さんは妊娠しているんだよ」と教えてあげることだ。妊娠を指摘されたのに、妊娠を隠すことだけは絶対にやめた方がいい。子供は母親に嘘をつかれたと思ってしまうからだ。それよりも、この家族に新たな仲間が増えることを教えて、祝福してしまった方がいいのだ。その方が今後の展開を良好にすることができるようになるのである。

●この世の中は不思議がいっぱい存在する

 育児をしていて、つくづく思うのは、子供は母親の想定外のことをいくらでも仕出かして来るということなのである。母親は自分の子供を産み育てて来たために、子供のことはなんでも知っていると思っているが、自分の子供とはいえ、母親の知らない能力を持っていることも有り得るのだ。

 子供は幼稚なんだから、幼稚なことしかしないとは決して思わないことだ。理性の力が発達していない分、それ以外の能力、特に霊能力が発動し易いのだ。霊能力というのは、決して幼稚な能力ではないのだ。目に見えざる物が解ってしまうからこそ、事前にその変化を察知してしまい、早目に対策を取ることができるようになるのだ。

 妊娠したのなら、妊娠10週目までは胎児が安定せず、流産の危険性もあるのだ。だからこそ、子供の方が母親に妊娠を知らせて、流産しないように仕向けているのだ。子供の方も拙い言葉で、母親の身を案じているのである。もしも流産してしまえば、母親は悲しんでしまうのだから。

 現在の宗教は教義を中心に展開しているので、理性的に宗教を捉えようとしているので、霊能力を否定する方向にある。そのため、霊能力を欲しがる人々の要求に既存の教団が応えられず、自称霊能力者や占い師たちが跳梁跋扈し、挙句の果てには、スピリチャルと称して、それを商売へと結びつけてしまっている。

 霊能力は目に見えざる力なので、本来はその能力があるか否かを鑑定することが不可能なものなのだ。そういう霊能力に頼るよりも、自分の感性や理性や意志を用いて、自分の力で自分の未来を切り開いていくべきなのである。自分の人生が自分の力ではどうにもならなくなった時に、霊能力者に頼るならまだ理解できるが、収入もしっかりとある状態で霊能力者に頼るべきではないのだ。自分が霊能力を失ったのは、もう自分にとって不要だからこそなくなったので、もしも霊能力が必要であるなら、復活してくるものなのである。

 育児をしていると、いくらでも不思議なことが起こって来る。母親は子供の身を守るために、理性の力だけでは処理できない時に、母親の霊能力も復活して来ることもあるのだ。大学や大学院を卒業したからといって、余りにも理性の力に頼っていると、子供の霊能力にも気付けないし、自分の霊能力にも気付けないのだ。育児では自分が当たり前だと思っていることばかりが起こるのではないのだ。自分の想像を遥かに超える出来事がいくらでも起こって来るのだ。

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赤ちゃんを最低でも3人作る

●最初の育児が楽しければ、もう1回というのは当たり前

 この世は「3」という秘密の数字が隠されている。例えば、学校教育は、「小学校」「中学校」「高等学校」の三つを経て終了する。大学教育は、大学の「学士課程」と、大学院の「修士課程」と「博士課程」を経て終了する。勉強の仕方も、授業を受けるだけでなく、予習と復習をしなさいと教えられる。

 育児も、第一子を産み育てたのなら、それで終わりではなく、更に子供を産んで、第二子、第三子と産み育てて、一人前になれるのだ。最初の育児では自分が新米ママであるがために、解らないことが多過ぎるのだ。だから、二回目にチャレンジし、三回目になってやっと育児のなんたるかが解るというものなのだ。

 そもそも、最初の育児が楽しければ、「もう1回!」というのは当たり前のことなのだ。この楽しさをもう一度味わいたいというのは、人間として当然の現象なのである。第一子で打ち止めになってしまうのは、最初の育児が面白くなかったと、行動で表現しているようなものであって、自分の精神レベルは上がらないし、自分の子供にどこか精神的な歪みが出て来てしまうものなのだ。

 離乳食が終われば、育児に手間がかからなくなるのだから、その辺りから子作りを再開するというのが、通常のパターンだろう。第一子と第二子の間が余りにも離れてしまうと、母親の方が体力的に育児がしんどくなってしまうので、どの母親たちもそれほど間隔をあけないものなのだ。

 「夫の収入が少なくて」とかいう経済的な心配はしないことだ。赤ちゃんは子宝といって、生まれれば、どこからともなくお金が湧いてくるものなのだ。その夫婦が贅沢をしなければ、育児の費用などいくらでも賄えるものなのである。赤ちゃんよりもお金に心を奪われているようであるなら、母親としては失格なのである。

●子供が多ければ育児が楽になる

 育児というのは、子供の数が多い方が楽になるのだ。育児が大変なのは、最初の子供を産み育てている時だけなのである。なんせ自分自身が新米ママゆえに育児の仕方が解っていないのだ。誰であったとしても、試行錯誤しながら、育児の仕方を学び取って行かねばならないのだ。

 子供を3人も産めば育児の仕方がしっかりと解るから、育児自体が楽になるのだ。3人目を産んだ頃には、育児の仕方が解っているので、育児が楽で仕様がなくなるのだ。それだけ第一子の時は育児の仕方を全然解っていなかったのだ。育児というのは、育児の仕方さえ解ってしまえば、後は育児を気軽に楽しめるようになるのだ。

 子供が一人だと家事の手伝いをさせるのは至難の業だが、子供が3人以上いれば子供たちは自然と家事の手伝いをし出すのもなのだ。母親の大変な姿を見ているために、自然と親孝行の感情が湧いてきて、家事を手伝い、母親を楽にさせてあげようとするのだ。だから、子供が増えると家事が楽に成り始め、母親は様々な作業をすることができるようになるのだ。

 親子が5人家族を形成すると、突然に家族にエネルギーが湧いてくるものだ。人や物やお金を吸引し始め、家族が資産家の道へと歩み始めるのだ。子供が一人か二人しかいないと、いくら資産を溜め込んでも、どこかで大損害を被ってしまい、なかなか資産が溜まっていかないのだ。子供の数が少ないと家族に活気が出て来ないので、どうしてもそれが資産形成に反映して来るのだ。億万長者になりたければ、まずは3人以上の子供を産み育てていくべきなのである。

 何事も経験値というのは大事だ。一回育児をした所で、母親としての力がつくわけがないのである。一回しか育児をしていなければ、母親になれたとしても、まだまだ未熟者なのだ。育児の経験が少ないから、どうしても母親としての力がついてこないのだ。家庭内でゴタゴダを起こすよりも、自分が経験値を積んで、母親として力をつけてしまった方が、家族にどんなことが襲いかかってきても、家族を巧く運営してけるようになるのだ。

●一人っ子の方が寧ろ大変

 子供を一人で打ち止めにしてしまう母親には或る共通点がある。それは母親と子供がべったりと密着しているのだ。母親が子供のことにあれやこれやと口出しして来るので、子供はなかなか自分のことを自分でやらないし、いつまでも母親に頼って来てしまうのだ。そうなると。母親と子供が密着してしまうので、父親がその中に入って来れなくなってしまうのだ。だから、2人目の赤ちゃんが生まれて来ないのだ。

 育児というのは、一人っ子の方が寧ろ大変なのだ。育児の失敗を修正することなく、子供を育て上げてしまうからだ。母親が子供に対して強圧的な態度で臨んでも、我が子がそれを受け入れてしまえば、育児をしている時は、大した問題を生ずることなく育ってしまうものだ。しかし、その代償は高く、子供が成長して思春期になる頃には、得体の知れない反抗をして来るものなのだ。

 一人っ子の場合、子供が一人しかいないために、兄弟姉妹が仲良くすることや、兄弟喧嘩をして喧嘩の勝ち方や負け方を経験しないために、人間関係を形成するのが下手で、我儘な子に育ってしまう。どこの世界でも自己中心的な人は一人っ子が多いものだ。個人プレーが要求される仕事に就ければいいが、集団行動を要求される仕事に就けば、自分の能力を殆ど発揮できない人生で終わってしまうのだ。

 子供が一人しかいないということは、家族が繁栄していかないということだ。家族は本家が相続するから維持できるものと、分家を生み出すからこそ家族は拡大していくことができるのである。もしも女の子しかいないのであるなら、婿取りをしなければ絶家になってしまう。そこで家家系が絶えてしまうのだから、先祖に対して非常に罪深いことを仕出かしてしまうことになるのだ。

 親子3人になると、妙に安定してしまうので、いつまでもその安定を維持し続けないことだ。勇気を出して変化を起こすことだ。ママ友とかに赤ちゃんができたのなら、お祝いにかけつけて、赤ちゃんを抱かして貰い、自分の母性本能に火をつけてしまうことだ。他人の赤ちゃんに触れれば、自分ももう一人赤ちゃんが欲しいと思うようになるのは、母親として当然のことなのだ。

●何事も3度経験して、一人前

 第一子をいくら巧く育てたとしても、育児の仕方はまだまだ解っていないものなのだ。育児をしないから育児の仕方を知らないのではなく、育児をしたからこそ、育児の仕方で解らないことが出て来てしまったのである。その疑問は第二子以降で明らかにさせていけばいいのだ。

 最初の赤ちゃんは所詮、自分は初心者なのだ。その初心者が完璧な育児をすることなどできないものなのだ。3人産み育てて、やっと母親として一人前になれるのだ。子供を3人以上育てていけば、どんな母親であったとしても、育児のなんたるかが解るようになるものなのだ。子供を一人育てた程度で、育児のすべてを知ったような気にならないことだ。育児はそんな浅いものではないのだ。育児は奥深いものなのである

 何事も3度経験して一人前なのだ。育児も例外はないのだ。育児も全く同じなのだ。第一子、第二子、第三子を産み育てて、やっとまともな育児をすることができるものなのである。第一子の時に間違った育児をしたとしても、他の赤ちゃんを育てて行く中で、自然と育児に修正が効き、第一子はまともに育って行くのだ。

 少子化というのは、母親たちが子供を一人や二人で止めてしまったからこそ、その母親のもとで育って来た子供たちが大人になった時、その歪みが出て来てしまい、結婚しなかったり、結婚したとしても子供を作らなかったりしてしまうからこそ、子供の数が減少して行ってしまったのである。

 自分が母親として未熟者というのは、自分の代だけで終わるものではないのだ。我が子はその代償をどこかで支払わなければならなくなる日がやってくるものなのだ。自分が一人前の母親になるためには、3人以上の子供が必要なのである。自分の家族が子孫繁栄して行くためには、3人以上の子供が必要なのである。折角、一人目の子供をここまで大きくしたのなら、次の子供にチャレンジしていく勇気を持って、更に子供を産み育てていくことだ。

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笑撃ヒートアップ:「タマティーのイカサマ健康法」 ~育児をしている母親に有効なイカサマ健康法~

●イカサマ健康法

 いつもは妊娠や出産や育児の情報を伝えているのだが、今回はちょっと嗜好を変えて、タマティーの個人的なネタを話してみたい。タマティーは健康に気を使い、風邪一つひくことのない健康な体を維持しているのだが、ここ1ヵ月ほど仕事が忙しくて、朝のウォーキングを除けば、大した健康法を実施できなくなってしまった。

 特に筋肉トレーニングはここ1ヵ月ほど全くしていないということになってしまったのだ。自宅の近くに公園があって、そこに筋肉トレーニングの施設があるので、いつもはそこで筋肉トレーニングをやって汗を流しているのだ。だが、仕事に忙しくなってしまうと、それができないのだ。

 そこでどういう症状が出て来たかというと、体が重し、体が疲れるようになった。体重は増えてはないのだが、筋肉量が減ったのかなというのは、なんとなく解るようになった。そして睡眠が浅くなってしまい、就寝したら3時間後には目が覚めてしまい、その後、布団の中で考え事をしていて、再び浅い眠りにつくようになtってしまった。この睡眠パターンが一番きつく、この睡眠だと前日の疲れが取れないし、朝起きても体が重たいのだ。運動をしていないからこそ、こういう浅い眠りになってしまうのだ。

 とはいっても、仕事が忙しいので、時間がなく運動ができないのだ。そこで、「このままではいかん」と思い、「イカサマ健康法」を実施することにした。イカサマ健康法とは、正統の健康法ではないのだが、イカサマを使うことで、正統な健康法と同じような成果を出す健康法なのだ。勿論、俺だって時間があれば正統な健康法を使いたい。しかし、時間がないからこそ、イカサマ健康法の出番なのだ。

 これから述べるのはタマティーがやってみて、実際に効果があったものばかりだ。こういうイカサマ健康法をやってみて、つくづく思ったのは、育児に追われている母親たちには是非とも必要な健康法だということだ。育児をしていると、子供が寝てくれない限り、自分の自由時間はないので、余り時間のかかる健康法を実施できないのだ。母親たちに必要な健康法は短時間ででき、尚且つ、効果の大きい健康法でなければならないのだ。

●簡易筋肉トレーニング

 まずは「簡易筋肉トレーニング」だ。通常の筋肉トレーニングだとなんだかんだといって1時間以上の時間を費やすのだが、この簡易筋肉トレーニングは短時間で終えてしまう筋肉トレーニングだ。短い時間でも巧く筋肉トレーニングをすれば、長い時間かけて行う通常の筋肉トレーニングと同じような効果が得られるのだ。

 最初に時間帯に拘ることだ。筋肉トレーニングは夕食後に行った方が効果が高いので、夕食後、食休みをしてから、筋肉トレーニングをするのだ。時間がない時は、就寝直前でも構わない。夕食後から就寝までの間なら、どの時間にやったとしても、きちんと効果が出て来る。

 筋肉トレーニング量は体が疲れない程度でいいということだ。夜は体が疲れているので、更に筋肉トレーニングで疲労するようなことはできないのだ。体が疲れる手前でやめてしまうことだ。その代わり、筋肉トレーニングをやる時は、集中して行うことだ。集中して筋肉トレーニングをした方が短時間で終えることができるからだ。

 メニューは「スクワット」「腹筋の折り曲げ」「背筋反らし」「腕立て伏せ」などである。それぞれ最低でも100回以上はやることだ。スピードを上げてメニューをこなしていけば、10分程度で終わってしまう。例えばスクワットを終えたら、少し休んでから腕立て伏せに行くという遣り方で、流れるようにメニューをこなしていくことだ。

 この簡易筋肉トレーニングの効果は絶大で、最初やった時などは翌日筋肉痛になったくらいに筋肉が鍛えれていたのだ。3日もやると、自分はボディービルダーになったのではないかと思ったくらいに筋肉がムキムキになってしまった。しかも、体は引き締り、体重は落ちたのだ。体が重いだの、体が疲れたのなどは、一発で吹き飛んでしまったのだ。

●1日1回汗をかく

 タマティーが昔からやっている健康法に、「1日1回汗をかく」というのがある。人間は汗をかかないと、体が水分過剰になってしまい、その水分過剰になると体が冷えるので、食事過剰になって体を温めようとし、そのtめに体重が増えて行ってしまうからだ。それゆえ1日1回きちんと汗をかくことで、その水分過剰を解消させるのだ。

 いつも何かしらの運動をやって発汗していたのだが、仕事が忙しくなってしまうと、運動ができないので、汗をかけないのだ。そこで、運動をしていなくても、日常の生活で汗をかいたのなら、別に運動などせずそれでいいとし、日常の生活で汗をかいていない時だけ、何か特別な対策を講じればいい思うようになったのだ。

 夏は気温が高いので、自然と汗が出るものだ。そこで夏場はクーラーなどつけずに、猛暑や酷暑をそのまま受け止めて、汗を流すのだ。夏以外の季節でも、仕事で汗をかいた場合はそれで良しとするのだ。だから、「秋」「冬」「春」の内、仕事で汗をかかない場合だけ、何か対策を講じて汗をかくようにすればいいのだ。

 タマティーがこういう時にやるのは「44℃の風呂に入り、汗をかく」ということだ。タマティーはいつもは温めのお湯に入るのだが、汗をかいていない時だけ、非常に熱いお湯に入ることにしているのだ。このお風呂に入ると、5分以内に汗をかきだし、10分でびしょびしょになるので、汗をかいたら、湯船から上がり、冷水シャワーを浴びて、汗を洗い落せばいいのだ。

 これをやるとどうなったかというと、体重が落ちるし、体が軽くなったのだ。余分な水分が体の中にないために、そういう現象が起きるのだ。それから、体臭がなくなのだ。男性は男性特有の男臭さがあるものだが、1日1回汗をかくようにしておくと、体臭は臭わなくなるものなのだ。後、お肌の張りがいいのだ。余分な水分がないと、お肌もきちんと張りが出て来るのだ。

 既婚女性なら夫とメイクラブというのも、充分に汗がかける行為なのだ。女性はオルガズムに達すると、セックシュフラッシュという現象が起き、それで汗をかくのだ。結婚しているなら、絶対に夫とのメイクラブを軽んじないことだ。セックスレスになるというのは、自分が美しくなれる機会を破壊しているようなものなのだ。

 タマティーの場合、最低でも7回以上はオルガズムに行かせるようにしているので、女性の体は汗でびしょびしょになってしまう。それゆえ、メイクラブが終わり次第、シャワーを一緒に浴びるようにしているのだ。だから、映画やドラマでメイクラブが終わり、そのまま寝てしまうというシーンはどう考えても納得が行かないのだ。汗をかいて、そのまま寝たら、風邪をひくだろうと思ってしまうのだ。

●良質の脂肪をつける

 タマティーは横浜市生まれのヘビメタ育ちなのだが、横浜市の冬は雪が降らない癖に異様に寒いのだ。冬になるとシベリア寒気団が南下して来て、新潟県で大雪を降らせた後、湿度の低い寒気団として関東に流れ込んで来るのだ。そのために関東地方には空っ風が吹き、雪が降らないのに、異様に寒くなってしまうのだ。

 この湿度が低い寒気団こそが、風邪の原因であり、毎年、冬になるとインフルエンザが大流行するのだ。それ以外にも冬になると、「脳卒中」や「脳梗塞」や「心筋梗塞」などを発症して死ぬ人たちが跡を絶たないのだ。我が家でも冬になると、タマティー以外、家族の者たち全員が風邪になるということもあったのだ。それなのに、なぜタマティーが風邪に罹らなかったといえば、タマティーはこの湿度の低い寒気団の対策をいていたからだ。そtれは緑茶に梅干しを落として、それを箸でグチョグチョにしてから飲むのだ。この梅干し入りの緑茶自体も風邪に効果があるのだが、この箸でゴチョグチョにしている時に、お茶の湯気を嗅いでいる時に、その湿気で鼻が湿度の低い空気に耐えうるようになるのだ。このお蔭で昔から風邪をひかずにいたのだ。

 それともう一つ、良質の脂肪をつけることを心掛けていたのだ。脂肪は体に備わった防寒着のようなもので、脂肪が或る程度あれば、寒さに耐えられるからだ。タマティーは中学生の頃からスポーツに打ち込んでいたが、それでも脂肪を落としてアスリート体型になろうという気は一切なかった。あそこまで脂肪を落としてしまうと、乾いた寒さが厳しい横浜市では病気になってしまうからだ。

 よくダイエット本などでは、脂肪を目の仇にして、脂肪を落とすことに躍起になっているのだが、タマティーはこれに対して反対の意見を持っている。というのは、昔、或る患者さんの静脈瘤を治すために、脂肪を落とすお茶を飲ませたのだが、ついでに自分も飲んでみたのだ。そうするとそのお茶の効果で脂肪は確かに落ちたのだが、脂肪がなくなってしまったので、冬の寒さに堪えてしまい、風邪をこじらして肺炎になってしまったのだ。この肺炎は自分は死ぬんではないかと思ったくらいに重症化してしまったので、肺炎が治り次第、今後絶対に脂肪を落とし過ぎるダイエットだけはしないようにし、また他人にも勧めないようにした。

 脂肪には悪い脂肪もあるので、良質の脂肪をつけていくことを心掛けることだ。タマティーは昔から植物性脂肪を食べるよう心掛けていた。子供の時から好きだったのは「クルミ」で、クルミを定期的にポリポリと食べていた。それから「落花生」や「アーモンド」や「ナッツ」も食べていた。今では朝にリンゴ人参ジュースを飲む時は、たっぷりとオリーブオイルを入れて飲んでいる。

 動物性脂肪は、危険と思われているのだが、野菜をしっかりと取っているなら、それほど危険ではないのだ。野菜が少ないからこそ、動物性脂肪が危険になってしまうのだ。動物性脂肪を食べる時は野菜をたっぷりと使うことだ。魚は動物性脂肪を持っているが、大半の魚では体にいい脂肪がなかなかつかない。タマティーの経験則では、鮭だけが体にいい脂肪がつくので、鮭が出回る冬には、「鮭鍋」というのが我が家での定番なのだ。それから鶏のトリカワを使って、野菜炒めを作り、食べていた。

 悪質な脂肪は、オヤツを食べてつく脂肪だ。人間の体は食べ物を食べ終わると消化吸収が始まるのだが、炭水化物の消化吸収が終わると、脂肪と蛋白質の消化吸収が始まるのだ。炭水化物の消化吸収が終わる血糖値が下がるので、どうしてもお腹がすいた感じになってしまうのだ。午前十時頃や、三時のオヤツや、夜食などは、この時間帯にピタリと合っているのだ。このオヤツや夜食を食べてしまうと、その炭水化物がそのまま脂肪になってしまうのだ。

 俺は未成年者の時は別だったが、成人以降は、オヤツや夜食を食べないようにしている。だからこそ、悪質な脂肪がつかないのだ。体に脂肪があっても、それは良質な脂肪なので、病気を引き起こさないし、体もスリムに見えるのだ。育児をいている場合、子供に釣られてオヤツを食べてしまうので、母親たちは肥満になって行ってしまうのだ。オヤツを食べる時は、木の実を食べるようにしておくことだ。木の実であるなら、悪質な脂肪にはならないのだ。

 イカサマ健康法は、育児で時間がなくなってしまっている母親たちには、是非とも必要な健康法だ。これら三つをやることで、充分に体重は落ちるし、スリムになることができるのだ。出産後、或る程度まで太るのは仕方ないのだが、太り過ぎて雌豚状態にまでならないことだ。イカサマ健康法を使ってしまえば、必ずスリムになり美しくなれるのだ。

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子供は子供なりに悩むからこそ成長していく

●既知と未知

 子供はいつも好奇心が旺盛で、何をやらしてもニコニコして楽しんでいる。それに対して、母親は子供の行動にいつも不安で、心配しがちで、育児を楽しむ余裕がない。なぜ、こんなことが起こるかといえば、子供は未知なるものが多く、自分が知らないことを知る喜びに溢れているのだが、母親は既知なるものが多く、自分が知っている範囲内で子供の行動を予測してしまうために、子供の無茶な行動が不安で不安で堪らないのだ。

 大人は自転車の乗り方を既に知っているので、自転車に乗っていて転倒することなどない。しかし、子供は三輪車という安定した乗り物ですら、乗っているうちに転倒して、大泣きしてくるのだ。自転車に乗ろうものなら補助輪がついているのに、なぜか転倒してしまい、補助輪なしの自転車に乗れば、フラフラと危険きわまりない乗り方をしてくるのだ。だが、そうやって自転車の乗り方を習得していくのである。

 育児をしていて、親は知っているけど、子供は知らないといのは、いくらでもある。親は知っているからこそ、子供の危険な行動に不安になってしまい、子供は知らないからこそ、何度でも挑戦して、それを知ろうとして行くのだ。子供は自分が行動することによって、初めてこれがいいことなのか、これが悪いことなのか、試行錯誤しながら確かめていくのである。

 それだから、母親も子供も同じ時間が流れているのに、母親はいつも不安で心配だらけで、子供はいつも楽しく笑い声に満ち溢れているのだ。母親は既知なるものにしか手を出していないから、大して成長していないが、子供は未知なるものに手を出しまくっているので、大いに成長してしまうのである。

 育児を楽しいものにしたいのなら、「自分は育児のことはなんでも知っている」と思いあがらないことだ。育児をしていれば自分が知らないこともたくさんあるのだから、その未知なるものを知る喜びを獲得して行くことだ。母親自身が未知なるものに挑戦していると、子供に対して不安で心配だらけになるということがなくなり、育児が楽しいものになってしまうものなのだ。

●子供の試行錯誤

 なまじ知識を大量に持ってしまうと、人間は経験不足に陥ってしまうものだ。自分の知識量に行動量が追いつかなくなってしまい、至る所で問題が発生し始めるのだ。大方の母親たちは、自分の考えを絶対に正しいと思い込んでしまい、子供の行動の方こそ間違っていると思い込んでしまうものだ。

 ところが、子供というのは、何も知らないから、自分の知識量を遥に上回る行動量を持っているのだ。自分が経験することによって、知識を積み重ねて行くから、子供は何度失敗しながらも、結局は正しいことができるようになってしまうのである。物事というのはやってみなければ解らないものだ。実際に実践してみれば、既存の知識など吹き飛んでしまうものなのである。

 子供の脳は、この試行錯誤が行われるたびに、活発に活動して、これは正しいことだというjことに辿りついた時に、最高レベルで活性化することになるのだ。たとえ失敗したとしても、これは悪いことなんんだということが解り、それなりに脳が活性化していくのだ。母親にとってみれば、危なっかしい行動の連続でも、それをするからこそ子供は脳を飛躍的に成長させていくことができるのである。

 だからこそ、子供を外で遊ばせろと言われるのだ。子供を外で遊ばせておけば、自然と試行錯誤をしまくり、何度失敗を繰り返しても、結局は成功に辿りついてしまうのだ。家の中ばかりにいるような子供は、一見、大人しそうだが、未知なるものに挑戦していないから脳が活性化しておらず、凡庸以下の非常に低い知能しか持てなくなってしまうのだ。

 子供というものは、乳幼児の頃は母親がなんでも世話をしなければならなかったが、子供も成長してくれば親から離れて遊び出すものなのだ。その遊びは単なる遊びではなく、子供にとっては今まで親に育てられることで能力が高まり、自分で行動できる範囲内で行動し始めるのだ。そうやって自分で自分の脳を成長させていき、高い能力を作り上げていくのだ。

●知行合一

 大人になれば、自分が知っていることと、自分の行いを一致させることができる。例えば、今日は肉料理を作ろうかなと思ったら、肉料理を作ることができる。間違っても肉料理を作ろうかなと思って、精進料理が出て来ることはない。これは大人であるなら、「知行合一」ができるからこそ、自分の考えと自分の行動に不一致がないのだ。

 しかし、子供はそうではない。自分の考えと自分の行動の一致ができないのだ。自分の知識量も少ないし、行動量も少ないから、知行合一を行えるだけの能力が備わっていないのだ。それを子供は何度も失敗しながら、試行錯誤をしながら、能力を高めて行き、知行合一ができるようになるのだ。

 例えば、子供は「忘れ物」というものを大量に生み出して行く。「これは自分の物なのだから忘れるなよ」と教えたのに、なぜか忘れてしまうのだ。どこかに連れて行くと、必ず何かを落として帰って来る。これは幼稚園児でも変わらないし、小学生になっても忘れ物をしてくるのだ。そうやって子供は何度も失敗することで、これはいけないことなんだと解るようになり、いずれ忘れ物をしなうなるのだ。

 それなのに母親が先回りしてしまい、どこかに出かける時は「忘れ物をしちゃ駄目よ」と執拗にいい、母親が子供に代わって準備をしてしまっては、子供の能力は高まっていかないのだ。まずは子供にやらしてみる。自分の持ち物がなんなのかを確認させるのだ。そうやって出かけて、そこで忘れ物をしてしまっては、その時やっと自分が忘れ物をしたことに気付き、大いに反省するようになるのだ。そういうことを何度も繰り返して、忘れ物をしなくなるようになるのだ。

 母親にとってはそんなの出来て当たり前だ。しかし、子供にとってはそれが出来ないのだ。忘れ物をしないという低レベルな能力も子供にとっては何度も失敗し、試行錯誤を重ねないとできないものなのだ。だから育児をする時は、母親の方がもっとおおらかな気持ちになって、ゆっくりと育てて行く必要性があるのだ。そういう母親のもとでは、子供は自由活発に動き回ることができ、高い能力を身につけて行くことが可能になるのだ。

●試行錯誤をしないと間違った考えを持ってしまう

 子供は子供なりに悩むからこそ成長して行くのだ。自分が行動を起こして、何度も失敗をしまくり、試行錯誤を繰り返していかないと、正常な能力を持てなくなってしまうのだ。野山に入って、一度たりとも昆虫と戯れたことのない子供に、いくら生物学の知識を教えたとしても、その子供はまとまな形で生物学を学ぶことなどできないことだろう。子供にとっては野山に入って行って、何度も失敗しながら昆虫を取り、昆虫を手に取ってみて、自分で飼ってみて、初めてまともな知識を獲得して行くのである。

 もしも、子供に一回も昆虫採集をさせなかったら、子供は長じてから生物学に興味を持つことはないし、自然の大切さも解らないし、「生命の尊厳」などということすら解らなくなってしまうことだろう。いくら大人たちが環境問題を抱えているからといって、子供に環境保護を教え込むのは非常に危険なのだ。子供にとっては自然の中で遊ぶ時期なのに、それをやらせないで、大人の活動に無理矢理参加させているにすぎないのだ。

 子供が自然の中に入って行けば残酷ことしかしでかさないものだ。蝶を捕まえては握り潰してしまい、蛙を捕まえては引きちぎってしまい、カブトムシを飼ってみては餓死させたりと、そうやって生物の持つ命の脆さを知り、だからこそ命は大切なのであって、「生命の尊厳」が解るようになるのだ。それを子供にさせないで、人権教育を振りかざして、子供に「個人の尊厳」を教えたとしても、子供は何も解っていないから、いずれ人権カタログに「人を殺す自由」」を載っけてくるのは必定なことなのだ。人権教育の盛んな地域ほど、凶悪犯罪が発生して来るのは、このためなのだ。

 子供にとって失敗することは悪いことではないのだ。試行錯誤することは悪いことではないのだ。それは子供にとって当たり前のことなのである。そうやって子供は成長して行くのである。その過程を経ないと、子供は脳を発達させることができないし、頭でっかちになってしまい、何も行動できないのに、間違った考えを持ってしまうようになるのだ。

 この世には自分の考えと違う現実だって存在するのだ。自分が行動することによって、その正否を確かめて行くしかないのである。自分がやってみて駄目だったら、それは駄目なことであり、自分がやってみて正しいものなら、それは正しいことなのだ。子供の頃に子供なりの悩みを経験しておかないと、大人になってから自分が言っている事と自分が遣っている事が違ってしまし、そういう幼稚で未熟で無責任な人々はいるものなのである。

 選挙で散々派手な公約をして政権を獲得したのに、実際に政権に就いてみるとその公約がそもそも不可能な物であることが解ったり、高級ブランドを掲げながら、品質偽装を行い粗悪な商品を売りつけたり、世界平和を主張しているのに、最も戦闘的な平和運動を展開したりと、冷静に見れば知行合一が全くできていない人々は多数存在しているものなのだ。子供の頃に失敗や試行錯誤を充分にしていないから、大人になってから、こういう歪んだ人間になってしまうのである。

 我が子を真っ当な大人に育て上げたいのなら、子供に充分過ぎるほど遊ばせる時間を与えてあげることだ。子供はその遊びの中で失敗をし、試行錯誤をしながら、能力を高めていくのである。知識を詰め込んで頭でっかちにするのではなく、行動量を増やして行くことで、間違った考えに騙されない強い子供に育てて行くことである。

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子供は母親と会話をすればするほど、知能が高くなって行く

●会話と脳の関係

 子供の脳の成長にとって、「母親との会話」は必要不可欠だと言っていい。子供は母親と会話することで、脳を成長させていくことができるようになるからだ。脳の中でも脳の司令塔である前頭葉が刺激され、活発に活動して来るのだ。子供の頃に前頭葉をきちんと成長させておくと、自分のことは自分でできるようになるので、思春期になって親から自立していくことが可能になるのだ。

 子供の頃にこの前頭葉をしっかりと成長させておかないと、自分のことは自分でできなくなってしまい、すぐさま他人に頼って依存してしまい、親から自立できないし、誰かに従属するような人生を歩んでしまうのだ。人間が自立していくためには、子供の頃は親にきちんと従属して、親子の会話をしっかりとしておく必要性があるのだ。

 脳の発達には遺伝的な格差もあるのだが、母親が子供と毎日会話しておくと、子供のオデコは前に突き出たような形になる。母親との会話で日々脳が刺激され続けたので、脳が順調に成長して行ったのだ。幼稚園児の段階でオデコの出っ張りがあるようであるなら、その子供は学校での教育がちゃんとしたものであるなら、高い知能を発揮することが可能になるのだ。

 子供の頃に母親が子供に話しかけず、携帯電話やテレビの方に夢中になっていると、子供は会話によって脳を刺激することがなかったので、脳を充分に成長させることができなくなってしまうのだ。こういう家庭環境で育った子供は、大抵、オデコの広がりが狭いし、尽き出ていないのだ。教育を受けさせても、飲み込みが悪いし、いつも視点がネガティブな方向に向いてしまうのだ。

 どうして母親との会話がこれほどまでに子供の脳を成長させるかといえば、それは子供にとって母親の声というのは生まれる前から聞いていた声だからだ。そのため、その母親の声を聞かされると、脳が否が応でも反応してしまい、フル稼働して、その声を聞き取ろうとするのだ。母親の顔というのも同じで、子供にとっては生まれた時から見て来た顔なので、母親の顔を見た瞬間に脳がフル稼働してしまい、その顔の表情を汲み取ろうとしてしまうのだ。

●子供の会話の中心は母親

 子供の会話というのは、決して子供が中心になって進めていくのではないのだ。子供の会話は母親が中心である。母親が子供に話しかけることによって、子供の会話というのは複雑に展開して行くからだ。子供の脳の発達はそんなに難しいものではなく、母親が子供に話しかけている生活をしているなら、自然と会話は成立し、子供の脳は発達して行くことが可能になるのだ。

 嘘だと思うなら、母親のいない父子家庭の子供と父親のいない母子家庭を見比べてみればいいのだ。母子家庭で育った子供は言語能力が非常に発達するが、父子家庭で育った子供は言語能力がイマイチである。学者の世界では、一流の学者はすべて両親の揃った家庭から育って来た人々である。自宅に両親がいたからこそ、常に会話が絶えるこちがなかったので、子供の脳は刺激され続けたのである。

 子供との会話で重要視した方がいい時間帯は、「就寝前」と「起床直後」と「食事中」だ。就寝前と起床直後は理性の力が衰えているので、母親の言葉がすんなり子供の脳の中に入ってしまい、母親の言うことが子供の脳の中で駆け巡ることになるのだ。それゆえ、就寝前には「お前は頭のいい子なんだよ」「お前は優しい子なんだよ」「お前は立派な大人になるんだよ」と言っておくと、実際にその通りになってしまうのだ。子供は寝起きがわるいので、すぐさま起きられないものだが、この時は母親が言葉を巧く使って目覚めさせると、子供はその日一日を楽しく過ごすことができるようになるのだ。例えば、「今日はいい天気だよ」とか、「今日は何何があって、今日一日は面白い日になるわよ」とか言って起こすと、子供はその通りに過ごしてしまうようになるのだ。

 食事中は子供は料理を食べることに集中しているために、母親の言うことがすんなりと入り易いのだ。そのため、食事中は絶対にテレビを消して食べるようにし、会話が盛り上がるようにすることだ。夕食などは時間をかけて食べるようにし、親として子供に伝えなければならない話とか、子供が今日したことを話させればいいのだ。そうすれば、脳は刺激されまくってしまい、しかも食事によって新たなエネルギーを得ることができるので、そのエネルギーをそのまま脳の成長に回すことができるのである。

 子供は両親の会話もちゃっかりと聞いているので、自宅では夫婦の会話を良好にしておくことだ。間違っても子供の前で夫婦喧嘩をしないことだ。夫は仕事で疲れて帰って来るので、帰宅後、いきなり妻の方が喋りまくらないことだ。まずは夫の活躍を労ってあげることだ。せめて夫が今日あったことを話した上で、妻が今日あったことを話すようにすることだ。こうすれば夫婦の会話は良好になり、夫婦喧嘩になることがなくなってしまうのだ。

●子供同士の会話

 子供にとっては、両親以外にも自宅に話してくれる人がいるなら、脳を発達させる機会を得ることになる。祖父や祖母が自宅にいるなら、子供にとっては格好の話し相手になり、脳を成長させることができるようになるのだ。大抵、祖父母が自宅にいる子供は古い言葉を多く知っているものだ。そのため、自分の言いたい事を表現する能力が高くなり、他人とトラブルを起こす回数が激減していくのだ。喧嘩っ早い子供というのは、大抵が両親と子供たちだけの環境で育って来た子供たちだ。

 「子供に親戚巡りをさせると、子供はグレない」といわれるが、それも親戚巡りをすることで、脳を充分に発達させることができたからなのである。いくら両親がいても、それだけでは会話数が少なくなってしまうのだ。親戚の家に行けば、子供は脳をフル稼働させて、その環境に適応して行かなければならなくなるので、親戚巡りをしていると自然に脳が成長していくのだ。

 その上で子供同士の会話が成立してくるのである。子供も幼児であるなら、まとも会話ができないから、すぐに喧嘩を始めてしまう。幼児の喧嘩の原因は、その殆どがオモチャを巡る争いだ。それが幼児の言語能力が発達するにつれて、喧嘩を回避することができるようになり、会話をすることで子供同士が仲良くなっていくのだ。

 幼稚園児にでもなれば、友達の好き嫌いをはっきり言い出すようになり、小学生になれば仲のいい同性の子供たちとグループを形成するようになるのだ。これら一連の人間関係が子供の脳にとって高い成長をもたらすのは当然のことなのだ。幼稚園では「みんな仲良くしましょうね」と保母さんから言われるものが、かといって本当にみんなと仲良くしていると、逆に言えば自分が本当に好きな子と仲良くできなかったということなのである。

 小学校では教師たちが男女平等を実現するために躍起になっているものだが、かといって本当に男女平等にしてしまっては、子供たちは仲のいい同性の子供たちとグループを形成することができず、脳の成長に悪影響が出て来ることは必至であって、人格に歪みが出て来るのは当然に予想されることなのだ。

●親への甘えと複雑な会話

 子供にとって他人の会話をするというのは、結構、脳に負担がかかり、そのため外でしっかりと会話をする子供であればあるほど、自宅では母親に甘えてくるものなのである。そういう時は母親は子供とじゃれあいながら、親子で話し合っていればいいのだ。こういう甘えがあるからこそ、子供は外で様々な会話をしていくことが可能になるのだ。

 自宅では母親に甘えるのも、女の子なら小学四年生辺りになれば卒業していくし、男の子なら中学生になれば卒業していくのだ。その時期こそが子供の自立の始まりである。子供の頃に母親に充分に甘えることができたからこそ、子供は親から自立していくことが可能になるのである。

 子供が甘えて来るなら、徹底的に甘えさせてあげればいいのだ。子供は母親に甘えることができるからこそ、複雑な会話ができるようになるのだ。親への甘えというのは、子供の複雑な会話にとって必要不可欠で、親に甘えることができなければ、どうしても物事を表面的に見てしまい、その本質を掴むことができなくなってしまうのだ。

 考えてみれば、後世に名を残す偉人たちは、すべて母親との会話をしっかりとしてきた人たちであるのだ。豊臣秀吉は大人になっても母親べったりであったし、野口英世も大人になっても母親に感謝の念を持ち続けていた。経済学の開祖であるアダム・スミスは母子家庭で育ち、『国富論』は母親と一緒に暮らしながら書かれたものなのだ。エジソンは聞かん気な子供で小学校から追い出されてしまったが、母親は我が子のことをしっかりと受け止め、自宅で母親がエジソンを教育したのである。

 漫画家の最高の巨匠である手塚治虫も、母親と仲が良く、子供の頃から絵を描く機会を母親から与えられ、大学生の時に漫画家になるか医者になるか迷った時に、母親にどちらの道を選ぶべきか相談しているのだ。その時、母親は「あなたが好きな道を選びなさい」と言って、手塚治虫に漫画家の道を選ばせたのだった。もしもあの時、母親が医者を勧めるようであるなら、漫画家としての手塚治虫はありえなかったし、それ以前に子供の頃から絵を描く機会を与えられなければ、漫画を描くことすらできなかったのだ。

 最近はお笑いブームが続いているので、他人と何か話をする時、笑いを取らねば面白くない会話と思われてしまっている。しかし、人間はそれほど笑いのある会話を必要としないものだ。親子の会話なんて、その殆どが他愛のないものだ。だが、その親子にとって必要な話だからこそ、話し合っているのである。勿論、自分の心がネガティブモードになってしまい、暗い話をするようなことは避けるべきではあるのが、爆笑を取るような会話もまた必要ないのだ。家族の中で親子が楽しいと思える会話をするべきなのである。

 子供の基本的な知能は、子供自身の成長と、母親との会話によって、作り出されていく。学校での教育はそれを土台にして成立しているに過ぎないのだ。子供の脳の成長の大事な部分に、教師が入り込める余地はないのだ。教師は母親が作った知能を利用して教育を施しているにすぎないのである。

 学校や塾だと言い出す前に、家庭の中で親子がしっかりと会話しておくべきなのである。親子がしっかりと会話をしていれば、子供は自然と脳を成長させて行くことができるようになるのだ。子供はいつまでも母親に話しかけてくるのではないのだ。中学生にもなれば、母親よりも学校での友達の方が大事に成って来るのは当たり前のことなのだ。だから、子供が子供である時に、親子でしっかりと会話をしておくべきなのである。親子ならいくらでも話し合うことがあるものなのである。そういう会話の積み重ねが、子供に高い知能を授けることになるのである。

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子供への「良い叱り方」と「良い褒め方」

●育児は性悪説に立脚すれば、子供の現実が見えて来る

 育児書というのは、その殆どが性善説の立場から書かれている。子供は本来「善」なる生き物なのであって、子供が悪に走るのは育て方が間違っていたからという論理を展開して来る。この性善説に立脚した育児の仕方を実践してしまうと、育児の至る所でトラブルが発生しまくり、母親の精神は異常と化してしまうことになる。なぜなら、子供は平然と悪事を仕出かしてくるからである。

 出産をしてみれば、確かに我が子は世界で一番可愛いものである。だが、それが善なる生き物かといえば決してそうではない。育児をしていれば、子供は悪事をしまくるからだ。悪事をしまくることこそ、子供の現実なのであって、母親が性悪説に立脚すると、子供のありのままの姿が見えて来て、まともな育児をすることができるようになるのだ。

 まず、「子供は相手の事などお構いなし」である。子供は親に依存しなければ生きていけないのに、親のことすらお構いなしなのである。親の言ったことを守らないのは日常茶飯事なのだ。我儘し放題で生活して、母親を散々困らす日々を飽きることなく繰り返して来るのだ。

 次に、「子供はルールを守らない」のである。早寝早起きというのは、大人にとっては当たり前のルールであるが、子供はこれすら守れない。朝になってもなかなか起きて来ないし、母親が起こしてもすぐさま起きることはないのだ。夜は夜でなかなか寝てくれないし、母親が寝かしつけても、今度は真夜中に起き出して来ることもあるのだ。

 第三に、「子供の悪事には悪意のない悪事も存在している」ということである。子供も親のもとで自治の領域を拡大して行くものだが、この自治ということを乱用しがちなのである。例えばオモチャで遊ぶのはいい。しかし、オモチャで遊び終わったら、後片付けをしなければならないのに、オモチャを放ったらかして、どこかに行ってしまうのである。子供にとってはオモチャで遊び終わったので、次の場所へと移って行ったのだが、このオモチャが散乱した光景を見れば、いかなる母親も怒りだしてしまうのは当然のことなのだ。ただ、いくら怒っても、子供には悪意がないのだ。

●良い叱り方

 子供の実態というのは、悪事を平然としまくる生き物だということなのである。性善説など嘘の塊であって、性悪説こそ真実の塊なのである。どんなに我が子が可愛くても、我が子は親に対して悪事を働いて来るのだから、その悪事の対処法、即ち、子供が悪い事をしたら、正しい叱り方で子供の悪事を粉砕していかなければならないのだ。

①叱る時は感情的にならずに、腰を下ろして相手の目線に合わせる

 まず、子供が悪事を仕出かした時、絶対に感情的にならないことだ。子供の悪事は悪意のない悪事なのだ。母親の感情を構うことはないし、ルールだって守らない。それが当たり前なのだ。だから、子供の悪事に対して感情的にならない。寧ろ、親の方が冷静になって、腰をおろして、子供の目を見て、子供の目線に合わせてから、「これはいけないことなんだよ」と諭せばいいのだ。

 こうすれば必要以上に叱らないことになり、子供は母親の言いつけをきちんと守ろうとするのだ。叱り方で失敗するのは、母親が感情的になってしまい、子供を叱るのではなく、子供に対して怒りをぶつけるようになってしまうからだ。これでは子供は母親に恐怖を感じてしまい、いくら怒られても、今度は暴力で仕返して来るようになるのだ。

②いけないことを指摘して、その解決策を与える

 子供の悪事を叱る時は、一体何が悪い事なのかを指摘し、その解決法を与えてあげることだ。子供の悪事というのは悪意がないものが殆どなのだから、子供にとっては一体何が悪いことなのか解らないのだ。だから、一体何が悪かったのかを教えてあげ、その解決法まで教えてあげるのだ。例えば、オモチャを放ったらかしにしていたのなら、「オモチャを放ったらかしにしていたら、このオモチャで誰かが転んでしまい、大怪我をすることだってあるの。だから、オモチャで遊び終わったら、ちゃんとオモチャ箱に片付けようね。」と言えばいいのだ。これなら子供にとっても一体何が悪くて、その解決法がきちんと解るようになるのだ。

 叱る時は、絶対に子供の人格を否定しないことだ。子供が悪事を仕出かしたからといって、その子供の人格に何か問題がある訳ではないのだ。「だから、お前は駄目なんだよ!」「お前は馬鹿だねぇ~」「お前は人間失格だ!」とか絶対に言ってはならないのだ。これは母親が若かったり、精神レベルが低いと、平然と言ってしまう傾向にあるので、絶対にやらないことだ。こんなことを言われれば子供は自分の人格を否定されたと思って、母親に対して憎しみ念を持ち続け、それが思春期になる頃に、親に暴力を伴う反抗を行うことで、清算しようとするからだ。

③叱った後までネチネチと引き摺らない

 叱り終わった後は、その悪事をネチネチと引き摺らないことだ。女性は自分の身の回りに起こったことに関しては異常なまでの記憶力を発揮して来るので、子供の悪事に関してはいつまでも覚えているものなのだ。そのため、子供が大きくなっても、「お前は昔、こういう悪さをしたんだよ」と遂々言ってしまうのだ。しかし、子供の方はそんな昔のことは奇麗さっぱりと忘れているので、昔のことを持ち出して来られると、自分が悪さをしていないのに、悪い事をしたと思ってしまうようになるのだ。これが積み重なって行くと、或る日突然に感情を爆発させて、母親の手では収拾がつかなくなってしまう事態に陥ってしまうのだ。

 「罪を憎んで人を憎まず」というのは、大人に対してであろうが、子供に対してであろうが、適用されるものなのである。自分の悪事をきちんと償ったのに、昔の悪事のことを持ち出されては、「では一体どうしろというんだ?」と言いたくなってしまうからだ。一度罪を犯したからといって、永遠に罪人にされては堪ったものではないのだ。そんなことをすれば、罪を償った者が、昔の罪を指摘して来る人を殺すことでしか解決することしかできなくなってしまうのだ。「罪が更なる罪を呼ぶ」ようなことにさせてならないのだ。

●良い褒め方

 性悪説に立脚してしまうと、常に子供は悪を仕出かすものと思っているので、逆に子供が何かいいことをした場合、褒め易くなってしまうのだ。性善説に立脚してしまうと、子供は常に良い事をすると思っているので、子供が何かいいことをしたとしても褒めることがなくなってしまい、逆に何か悪い事をした場合、その悪事が余計に目立つために、烈火のごとくに怒り出してしまうことになるのだ。一見、性善説より性悪説の方が悪い考え方だと思うのに、育児の現場では大逆転が起こってしまうようになるのだ。性悪説の方が子供は褒められ易くなり、のびのびと成長して行くことが可能になるのだ。

①褒める時は感情的になって、子供より高い視線を維持する

 まず子供を褒める時は、感情的になって、褒めまくることだ。しかも、褒める時は、子供より高い視線を維持しながら褒めることだ。人間は頭を上の方に向けると、素直になって、褒められたことをなんら否定することなく受け入れてしまうようになるからだ。立っている時は母親の方が身長が高いのでなんら問題は起きないが、座っている時は背筋を伸ばして、子供より高い視線をキープすることだ。よく子供の目線に合わせようと、身を屈ませる母親がいるものだが、こういう母親から褒められてしまうと、子供にとってはちっとも嬉しくなく、それ以降、何かいいことをしようとしなくなってしまうのだ。不良少年を輩出して来る母親は、大抵がこの手の褒め方をしているのだ。

 褒める時は叱る時とは逆であって、必要以上に褒めることだ。子供を放置していたら、子供は悪事を平然と展開して来るので、母親が子供がいいことをした場合、きちんと褒めてあげないと、子供は悪事ばかり仕出かすようになってしまうのだ。自分が些細な良い事をしたとしても、母親が必要以上に褒めてくれれば、子供の脳の中でこういうことをすれば母親は喜ぶという回路が設定されて、子供は今後いいことをするようになっていくのだ。

②凄い部分を指摘して、それを過剰に褒める

 子供の悪事には悪意がないように、子供の善事には善意がないのだ。解り易く言えば、母親から見れば良い事をやったと思えても、子供にとって偶然であり気紛れの行為でしかないのだ。だから、子供を褒める時は、一体どこが良い所なのかを指摘して、それを過剰に褒めてしまうことだ。そうすれば子供の方にとっても、一体何が良かったのかがきちんと解るようになるのだ。

 子供が良い事をした場合、その良い事を褒めるだけでなく、人格まで称賛してしまうことだ。子供が悪事を働いた場合は、その悪事だけを叱り、人格を否定しないことが求められるが、子供が善事を働いた場合は、その善事だけを褒めるのではなく、人格まで称賛してしまうのだ。「お前は凄い!」「お前は立派だ!」と褒められれば、子供は自分自身を肯定することができ、自信と勇気を持つことができるようになるのだ。

③褒めたことを後々まで覚えておく

 子供が善事を働いた場合、後々まで覚えておくことだ。子供は今日やったことは、翌日には忘れているものだ。これは子供は成長するために、様々なことを記憶していかねばならないために、睡眠中に一旦、記憶を消去してしまい、無意識の世界に記憶を貯蔵してしまうのだ。そのため、子供は朝になれば、意識上の記憶は白紙になってしまい、いくら昨日いいことをやったとしても、全然覚えていないのだ。

 だから、母親は子供が善事を働いた場合、ネチネチといつまでも覚えておき、事あるごとに「お前は昔、こういう良い事をやったんだよ」と言い続けるのだ。そうすると子供の脳の中に、「自分は良い事をする能力があるのであって、今後は良い事をするようにしよう」という気になり、子供の向上心に火がつき、子供は自然と良い事を遣り始めるようになるのだ。

●母親の言葉が子供の前進と後退を決めてしまう

 育児を巡る考えでは、性善説に立脚するか、性悪説に立脚するかで、全く違う考えになってしまうし、全く違う結果が出て来るのだ。実際に育児をやってみれば、性悪説に立脚してしまった方が、圧倒的に素晴らしい育児ができるものなのである。子供は悪事を仕出かしてくるのが当たり前と思っていれば、子供の悪事に平然と対処できるし、子供が善事を働いたら、きちんと褒めてあげることが可能になるのだ。

 これに対して性善説だと、子供は善事を働くのが当たり前だと思っているから、子供が善事を働いても褒めないし、子供が悪事を働いたら、凄まじい怒りをぶつけてしまうようになるのだ。実際に育児をやってみれば、育児では性善説は成り立たないといのは解ることなのに、母親が我が子を可愛いと思う感情が強すぎる余りに、性善説に魅了されてしまうのだ。だからこそ、育児が苦しみだからけになり、児童虐待が平然と行われるようになってしまうのだ。

 子供は親に対して従属しているのである。従属しているということは、その子供は自立して行動することができないということなのである。それゆえ、子供はまともな形で善事を行うことも、悪事を行うこともできないのだ。勝手気儘に我儘し放題なのだ。悪事に対しても悪意はないし、善事に対しても善事はないのだ。

 だからこそ、母親は子供が悪いことをしたら叱り、良いことをしたら褒めるのである。叱ることは怒ることではないのだ。また、褒めることは子供に成績をつけることではないのだ。子供のやることなすことをいい方向に導くために、時には叱り、時には褒めるのである。子供を巧く叱り、巧く褒めたいのであるなら、性悪説に立脚して、子供は悪事をなすのが当たり前だと思ってしまえばいいのだ。そうすれば子供が悪事を働いてもきちんと叱ることができるし、子供が善事を働いたらきちんと褒めることができるのだ。

 では、なぜ性善説に立脚した育児書が出回ってくるかといえば、それは出鱈目な育児の仕方を書いた著者たちが、ジャン・ジャック・ルソーの『エミール』に洗脳されてしまったからなのである。ルソーは子供を自然に育てれば勝手に育つだろうと思って、我が子5人をすべて育児放棄して孤児にさせてしまったのだ。『エミール』というのは、ルソーが「親が育児放棄すれば子供はまともな人間に育つであろう」という妄想を小説化にしたものにすぎないのだ。この本は飽くまでもルソーが作り出したフィクションであって、現実の育児とは一切関係ないのである。だが、ルソーの魔術的な文章力のために、精神レベルの低い人たちはこの本に物の見事に洗脳されてしまうのだ。

 よく、医者や教育者や童話作家たちが「子供は天使である」「子供は純真である」とか言い出すものであるが、これらはすべてルソーの『エミール』に洗脳されてしまったからこそ、こういうことが平気で言えるのである。凶悪な少年犯罪が発生した時、その罪を犯した不良少年を罰することなく、少年法を楯に庇ってしまうのも、性善説に洗脳されてしまったからなのである。育児に於いて性善説に立脚するのは、育児をまともにしたことがないから、そういう間違った考え方を持ってしまうのである。

 性善説に立脚して育児をしようものなら、子供はまともに育たないし、母親にとっては育児が苦しみだらけになるだけなのである。子供は悪い事は悪いと叱ってくれる母親がいるからこそ、良い事は良いと褒めてくれる母親がいるからこそ、もともに成長して来るのである。子供が子供の時に、親元から切り離されて自然状態で育ってしまえば、まともに成長する訳がないのである。子供の性が善なら、孤児の中でも、浮浪者生活を送って孤児が最もまともに育つ筈である。しかし、実際には浮浪孤児の中から聖人君子が出現した例は皆無である。寧ろ、盗みや殺しを平然と行う凶悪犯罪者に育ってしまうものなのである。

 育児というのは、一直線で進めていくものではないのだ。紆余曲折を経て育って行くものなのだ。その際に最も影響を与えてしまうのは、母親の言葉なのだ。母親の言葉こそ、子供の前進と後退を決めてしまうのだ。子供が悪い事をしたのなら、叱って後退させ、子供が良い事をしたのなら、褒めて前進させていかねばならないのだ。子供は親元で養育されている以上、母親の指図に従うのは当然のことなのである。しかし、それは永遠に続くものではないのだ。子供が成長して自立して行けば、その善悪の判断を自分でこなすようになり、母親の関与は不要になって行くのだ。それがきちんとできるまでは、母親に叱られたり、褒められたりしながら育っていくしかないのである。

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母親の日常語は子供に甚大な影響を与えるもの

●日常語は毎日使うものだから子供に影響が出て来るのは当たり前

 子供は親の言葉遣いの真似をして育って来る。特に母親の言葉遣いの影響は大きく、子供は毎日母親と接する以上、母親が使う言葉によって子供に影響が出て来るのは当たり前なのだ。子供は母親の言葉によって行動を制約されるし、いずれ子供は母親の言葉遣いを真似してくるのだ。

 我々は生活していく上で、無意識の内に使ってしまう「日常語」と、意識的に使う「作業語」がある。日常語は誰であっても生活するために無意識の内に使い、自分の生活を潤滑に進めて行こうとするものだ。これに対して作業語は何か特定の作業をするために、意識してその言葉を選んで使うものであって、自分の作業を迅速に進めて行くものだ。

 作業語は意識して使っているのだから、その言葉を選ぶことができる。しかし、日常語は無意識の内に使っているので、その日常語の使い方に注意しているないと、思うわぬ悪影響が出て来てしまうことになるのだ。日常語は子供が成長し、家を出るまで日々使用され続けるので、大体その日常語の良し悪しでどのような子供ができるか察しがつくものなのである。

 まず、自分の子供をまともに育て上げたいのなら、基本的な日常語は必ず使うようにすることだ。「有難う」「嬉しい」「楽しい」は育児で頻繁に使用される日常語だ。子供が何かいいことを母親にしてくれたのなら、すぐさま「有難う」って言うことだ。子供と一緒に遊ぶい時は、「お母さんは嬉しいよ」「お母さんは楽しいよ」と言うことだ。通常、大人同士では「嬉しい」「楽しい」はそう頻繁に出て来ない。余程楽しいことがなければ、「楽しいよ」とは言わないものだが、育児をしている時は多少楽しければ、「嬉しい」「楽しい」という言葉を使って、子供にお母さんがどのような心理状態にあるのかを教えてあげるようにすることだ。

 それから日常生活を進めて行く上で、朝起きたら「お早う」と言い、夜寝る時はお休み」と言う。こうやって一日の始まりと終わりを明確にするのだ。そうすれば日中が活動的に行動でき、夜間に熟睡することができるようになるのだ。食事をする時は「頂きます」と言い、食べ終わったら「御馳走様でした」と言う。食事は食料を神様が与えてくれたものであり、それをお父さんの労働と、お母さんの調理で食卓に出て来るのだから、それに感謝の意を示すのは当然のことなのである。これができない子供には食事を与えるべきではないのだ。子供が飯を食えるというのは、どれだけ有難いことなのか、恩義背がましく教え込むことだ。

 子供に何かを命じた時は、子供に「ハイッ!」と元気よく返事をさせることだ。子供が「ハ~イ」じゃ間延びしてダラしなくなってしまうし、「ハイハイ」では面倒臭がっているような感じになってしまう。これは母親が子供に言われた時とか、夫に言われた時に、無意識の内に使っている言葉を子供は真似をして来るので、気をつけておくことだ。子供が「ハイッ!」と返事をしてこない時は、自分もそうしているからこそ、子供は同じ行動を取って来るのである。

●言うべきではない日常語

 育児をしていて、使うべきではない日常語がある。禁止すべきほどに強い制限を伴うものではないが、母親が遂々使ってしまい、子供に悪影響が出て来てしまう日常語だ。母親の心がネガティブモードになった時に、自分は意識していないのに、自然と出て来てしまうマイナスの言葉なのだ。

「駄目ね」

「馬鹿じゃないの」

「仕様がないわね」

「イライラする」

「嫌いよ」

「苦しい」

「疲れた」

 これらの言葉を使用されると、子供は母親から自分の人格を全否定されたようになってしまうのだ。「お母さんは自分と一緒にいて、全然楽しくないから、そういう言葉を使って来るんだ。」と子供は思い込んでしまうようになるのだ。大人の人間なら、こういうネガティブな言葉を使われても、巧く対処できるが、子供はまだまだその対処法を身につけていないものなのだ。

 こういうナガティブな言葉を頻繁に使用する母親は、母親という子供より上の立場にいるのではなく、子供と平等な立場にいるのだ。だからこそ、子供を大人同然の扱いをしてしまい、子供のやることなすことすべてにイチャモンをつけてくるのだ。母親が精神的に母親になっていないのだ。

 育児も長らく続いてしまえば、育児というのは母親が主導権を握ることで、母親の思うように動かされていくという事実を忘れてしまいがちだ。子供がどう駄々を捏ねようと、最終的には母親の思うような結果に落ち着いてしまうのだ。夜中に子供が起きて騒いでいても、母親が「寝なさい!」と言ったら、紆余曲折を経て、結局は子供は寝かされてしまうものなのである。

 ところが、子供がいるのに、育児の主導権を放棄して、母親の立場から降りてしまえば、いくらでも子供にネガティブな言葉をぶつけられる筈だ。子供のやっているということは、大人の基準から見れば腹立たしいことばかりだからだ。だからこそ、育児から楽しむが一切消滅してしまい、育児が苦しみだらけになってしまうのだ。育児が苦しみだらけだからこそ、ネガティブな言葉を平然として使ってしまうようになるのだ。

●使うと元気が出る言葉

 育児をしている時は、母親としての立場を絶対に維持することだ。育児の主導権を絶対に放棄してはならないのだ。母親の立場を維持し、育児の主導権を握り続ければ、育児で多少嫌なことがあったとしても、育児で最大の利益を得ることができるようになるのだ。母親は母親である限り、育児が楽しくなって来るものだし、常に利益を得続けることができるのである。

 育児を楽しんでいれば自然と出て来てしまう日常語がある。この日常語を使うと、子供は喜ぶし、元気になるし、成長していくし、それを使った母親も嬉しくなり、元気になり、成長していくことができるようになるのだ。大事なことはその言葉を意図的に使うのではなく、自然に出て来るようにすることなのだ。

「頑張っているね」

「凄いね」

「良くやったね」

 子供は何をするにも一生懸命にやってくるものだ。力の加減というものを知らないから、自分の持てる力をすべて出し切ってしまうのだ。だから、子供が何かをやっているなら、「頑張っているね」と労いの言葉をかけてあげればいいのだ。そうすれば子供は更に力を発揮しようとし出して、自分がやりたいことを実現していくのである。

 それから、子供が何か手柄を立てたら、「凄いね」「良くやったね」と褒めてしまうことだ。子供の立てる手柄というのは、大人の基準では大したことではないのだ。しかし、子供にとってみれば、大きな成長であるのだ。例えば、今まで食器の後片付けができなかったのに、食後、食器を集めて、台所にまで持って来てくれたら、それは子供にとっては凄いことなのだ。だから、些細なことでも、それが手柄なら「凄いね」「良くやったね」と褒めてあげるべきなのだ。

 ポジティブな言葉が凄いのは、子供が自分の行為を母親が肯定してくれたことで、その後の行為も積極的に行おうとし出すのだ。例えば、食器を台所に持って行くことを褒めてあげたら、翌日は母親の洗濯の作業を手伝ったりし始めるのだ。母親がイチイチ命令しなくても、子供は自発的に母親に貢献するようなことをし始めるようになるのだ。

●母親の言葉遣いは子供の行動になって現れて来る

 日常語は無意識の内に使ってしまうので、母親が意識している訳ではないのに、遂々口に出てしまうのだ。その日常語が子供にいい意味でも悪い意味でも影響を与えてしまい、母親の言葉遣いは子供の行動となって現れて来るようになるのだ。だから、自分の子供が余りにも異常な行動を取って来るようであるなら、子供を精神病院送りにしてしまうのではなく、自分の言葉遣いを審査してみることだ。

 育児をしている時に、子供に対して使ってしまう言葉を審査して、母親としての判断力を養うことだ。母親にとってはどうってことない言葉でも、子供にとっては非常にきつい言葉ってものがあるのだ。逆に大人同士では滅多に使わない言葉でも、その言葉を母親が使ってくれたら子供は嬉しい言葉というものも存在するのだ。

 しかし、こういうことはなかなか気づけないものだ。夫が出勤してしまえば、母と子供だけになってしまうので、母親のネガティブモードが暴走した時に、それを止めてくれる人がいないために、最悪な事態に発展するまで暴走してしまうのだ。だからこそ、自宅ばっかりにいないで、家から出てママ友たちと会って話をしたりすることだ。ママ友たちと情報交換をしていれば、修正することができるのである。

 これに方言が加わると余計に慎重にならねばならないのだ。例えば、タマティーの母親は千葉県出身なのだが、千葉でも田舎の方に行くと、相手を指す言葉で「てめぇ」という言葉がある。「手前」が変化した方言で、これは共通語で「あなた」という意味なのであって、別に悪気がある言葉ではないのだが、これを共通語が使われている場所で使ってしまうと、喧嘩を吹っ掛ける言葉になってしまうのだ。だから、タマティーの母親は兄弟や親戚や幼馴染の間では使うけれども、他の場所では絶対に使わないようにしたのだ。勿論、俺にすら使ったことがない。俺は子供の時になんでそういう使い分けをするんだと疑問に思っていたのだが、思春期になる頃にはもうちゃんと母親なりの理由は解るようになったのだ。

 子供が異常な行動を取ったり、夫と夫婦喧嘩してしまうようであるなら、それは子供がどうのこうの、夫がどうのこうのではなく、自分が知らず知らずの内に基本的な日常語を使わなかったり、ネガティブな日常語を使ったりしていて、相手に不満が蓄積してしまい、それが爆発して来たということも有り得るのだ。

 育児を楽しいものしたいのなら、結婚生活を楽しいものにしたいのなら、基本的な日常語を確実に使い、ポジティブな日常語を使っていくことだ。それと共にネガティブな日常語を避けることだ。そうすれば、子供も夫も元気になるのだ。赤の他人の言葉なら大したことはないが、母親の言葉だからこそ大したことがあるのだ。

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子供との会話の仕方 ~子供との会話にもルールが存在する~

●親子の矛盾

 人間は高い知能を持っているので、人間関係の構築の仕方も複雑を極めている。言語能力を駆使して、互いの信頼を深めると同時に、トラブルを未然に防ぐということを行うのである。ところが、大人になってしまえば、大人同士での遣り取りが当たり前となってしまうので、赤ちゃんを出産し、その赤ちゃんが成長して来て、言葉を喋り、母親とコミュニケーションを取るようになった時、問題が発生して来てしまうのだ。親子の会話というのは、大人同士の会話のようには行かないのである。

 赤ちゃんのいる母親が、赤ちゃんに難しい言葉で語りかけるのではなく、赤ちゃん言葉で話しかけるというのは、非常に大事なことなのである。母親が大人の視点で物を話しているのではなく、赤ちゃんの視点に立って話をしようとしているからなのである。赤ちゃんは長らくカツゼツのいい話し方ができないので、母親から赤ちゃん言葉で話しかけられるからこそ、赤ちゃんにも喋り易い言葉で喋られるようになるのだ。

 だが、親子の矛盾が激化してしまうのは、それだからこそなのである。母親は自分が我が子に言葉を教えたと思っているので、自分が教えた通りに喋ってくれるだろうと、遂々期待してしまうのだ。しかも、母親は赤ちゃんの時から我が子の世話をして来たので、母親は我が子のことをいつまでも赤ちゃん扱いしてしまうのだ。それでも、子供は成長していくので、子供の成長に母親の精神的な成長が追いつかなくなってしまうのだ。

 親子の会話で揉めるのは、子供が片言で喋っている時ではないのだ。子供の言語能力が発達して、子供がちゃんとした文章を喋れるようになった時に、母親と子供は会話で揉め始めるのである。親子双方で会話がきちんとできている筈なのに、母親が怒りまくり、子供が泣きわめく結果になってしまうのだ。

 子供が病気になったら、それを治してくれる医者は存在するが、親子の会話がトラブルを起こした時に、その異常な会話の仕方を治してくれる人はいないものなのだ。親子の会話というのは、その親子特有なものであって、まさかそんなところまで赤の他人が首を突っ込むことはできないのだ。しかし、親子の会話がトラブっているのに、それを放置しておけば、子供の成長に障害が出て来て、性格的に歪んだ子供になっていくのは当然のことなのだ。、

●まずは子供の話を聞く

 親子の会話は毎日存在するものである。それなのにいつも母親が怒る結果になり、子供が泣きわめくようになってしまう会話をしているのなら、それは親子の会話の仕方が根本的に間違っていると思った方がいい。間違った会話の仕方の責任は、飽くまでも母親の方にあるのであって、子供の方にあるのではないのだ。母親が子供に対してやってはならないことをやっているのである。

 母親はまずは子供の話を聞くことだ。親子の会話が揉めてしまう母親たちは、必ずと言っていいほど、子供の話を聞いていない。子供が何か言って来ても、頭ごなしに否定してしまうのである。子供のことをいつまでも赤ちゃん扱いしているために、まさか我が子から何か要求されるとは思ってもいないのだ。子供はいい子にしているのが当たり前と思い込んでいるのだ。そうではないのだ。子供が喋られるようになったということは、母親に何かを要求して来るのは当然のことなのである。

 子供が母親に要求するものは、些細な物なのだ。「オヤツが欲しい」「オモチャ買って」「ママ、遊んで」と、子供ならではの要求なのだ。どんなに捻くれた子供でも、「カネをくれ!」とは要求して来ないものなのだ。最初から否定してかかるのではなく、まずは子供の要求を聞いてあげることだ。

 子供が自分に何かを要求して来た時は、子供が言っているフレーズを繰り返して、子供に話が理解されたと思い込ませることだ。例えば、子供が「オヤツ欲しい」と言って来たのなら、「○○ちゃんはオヤツが欲しいのね」と言えばいいのだ。こうすると、子供は母親に自分の話を聞いて貰えたということで、ひとまずは満足するのである。

 これは子供に対して独特の会話の仕方なので、この会話の仕方をきちんと覚えて、実生活で実践していくことだ。大人同士の会話なら、わざわざ相手の要求を繰り返す必要性はない。相手が言って来たら、すぐさまそれに応じた回答をすればいいのだ。しかし、子供が相手だとそうは行かないのである。子供は喋られるようにはなったけど、それほど高い言語能力を持っているわけではないのだ。一つずつ会話を押さえていくしかないのだ。

●会話とは取引

 子供から何かを要求されたら、それを鵜呑みにしてはならないのだ。子供が「オヤツが欲しい」と言って来て、すぐさまオヤツを出してしまうようなら、それは会話が成立していないのだ。それは子供から命令を受けたということであり、子供の方はこの遣り方に味を占めてしまうと、母親は自分の思い通りに動くと思ってしまい、母親が自分の思い通りに動かないと、有り得ないような反抗を仕出かして来るようになってしまうのだ。

 会話というのは、話し合うことで人間関係を深めて行くことなのである。子供から何かを要求されたら、そこで話し合うことが必要なのである。例えば、「子供が「オヤツが欲しい」と言って来たら、「○○ちゃんはオヤツが欲しいのね。でもさっき食事をしたじゃない」と切り返せばいいのだ。そしたら子供が何か言って来るのだから、それに応じて会話をしていけばいいのだ。

 話し合いの結果、オヤツを出すのもいいし、オヤツを出さなくてもいいし、オヤツは出すが少な目に出すのでもいいし、オヤツ作りを一緒にやろうでもいいのだ。親子の会話で何か一つの決まった答えがあるのではなく、親子が会話をすることで、様々な結論を出して行くことが大事ななのだ。

 会話というのは、取引なのだ。どちらか一方が損をするのではなく、双方に利益がもたらされるように、取引していくのである。勿論、母親は大人で、我が子は子供なので、その会話はシビアな会話になるのではなく、「甘えのある会話」になるのだ。子供の要求を可能な限り汲んであげようとする会話になってしまうのである。

 子供の要求を一切拒否するようであるなら、それは「甘えのない会話」だ。かといって、子供の要求をすべて飲んでしまうようであるなら、それは「甘やかしすぎる会話」だ。子供の要求が理不尽なら拒否すべきであり、子供の要求に道理に適っていれば受け入れてあげるべきなのである。この丁度いい「甘えのある会話」がどのようなものであるかは、実生活で試行錯誤しながら、見つけ出していけばいいのだ。

●会話をしておけば、トラブルは未然に防げる

 人間は群生動物であって、家族のはその最小単位として存在している。人々が集まって暮らしていれば、人間同士の間でトラブルが発生するのは当然のことなのである。そのトラブルを人間たちは話し合うことで解決して来たのである。話し合いで解決できなければ、実力行使に出ざるを得ないのである。

 子供が大きくなって暴力を振るうようになってしまったら、それは親子で話し合うことをして来なかったからこそ、子供は暴力を振るうことでしか、問題を解決できなくなってしまったのである。子供の時から、親子がしっかりと会話をしていれば、たとえ自分の欲しい物があっても、それを暴力的に実現していくのではなく、話し合うことで実現していけばいいということをすることが可能になるのだ。

 人間同士で抱える大方の問題は話し合いで解決することができるのである。相手が話しかけて来ているのに、相手を無視したり、「絶対反対」などと言うから相手は怒り心頭に達してしまい、暴力を振るわざるをえないのであるのである。暴力は悪いことではあっても、暴力を振るわれた側にも落ち度があるかこそ、暴力を振るわれてしまうのである。

 母親と子供は毎日会話をしている筈なのである。それなのにいつも親子で喧嘩になったり、子供が癇癪を爆発させるようなら、会話の仕方が間違っているのである。いくら自分が母親だからといって、自分の意見のすべてが通る訳ではないのである。たまには子供の言い分も聞いて、子供の要求を実現してあげなければならないのである。かといって、子供の要求をすべて飲んではならないのだ。甘えさせてもいいが、甘やかしてはならないのだ。

 家庭の仲では母親が一番強い権力を持っているのだから、子供の要求をすべて封じるのは簡単にできることなのだ。しかし、その代償は高くつくのだ。子供が「オヤツが欲しい」と言っているのに、すべてを拒否してしまったら、子供はどこかの店で盗みをしてでも奪って来ざるをえないのだ。子供が「オモチャが欲しい」と言っているのに、すべてを拒絶してしまったら、子供はどこかの店から万引きをして来ざるをえないのだ。子供が犯罪を犯してしまった場合、その子供は悪いことしたのだから確かに悪いのだが、そういう犯罪を引き起こすまでに追い詰めてしまった母親にも責任があるのだ。

 子供をいつまでも赤ちゃん扱いしないことだ。子供は成長して行くのだ。子供にとって母親のとの会話は、他の人々と会話をする際の基本になっているのだ。母親とまともに会話できなければ、他の人々とまともに会話することなどできないのだ。どんなに忙しくても子供と会話をする時間をきちんと持つことだ。子供と会話をしても、それほど長い時間がかかる訳ではないのだ、人生について奥深い話をする訳でもないのだ。大人から見れば些細な会話なのだ。でも、子供にとってはその些細な会話こそ、母親との関係を深めていく大事な会話なのだ。

heart01heart01heart01heart01heart01 タマティーからのお知らせ heart01heart01heart01heart01

 本日から「子育て」のカテゴリーにエントリーします。

 「子育て」のカテゴリーにエントリーしている皆さん、宜しくお願い致します。happy01

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自分の娘を美人にさせる「デブ子理論」

●娘との距離の取り方

 女の子の頭の中にしっかりと上位自我が入って来ると、女の子は母親と対等な関係を築こうとする。その癖、まだまだ子供だから、親に甘えてくるのだ。この二つの矛盾したものを満たしてあげないと、女の子を育てるのが難しくなってしまうのだ。女の子を育てる時は、対等関係をメインにしつつ、上下関係を備えておくというようにしなければならない。

 女の子を育てるのは、男の子を育てるのより育て易いとよく言われる。女の子の場合、上位自我がしっかりと形成されることや、言語能力が発達して来るために人間関係の構築がスムーズに行くとか、性ホルモン上に於いて無理がかかって来ないので病気をしにくいなどなど、女の子を育てるのに、男の子を育てるほどには手間がかからないのだ。

 母親が女の子を育てるので、失敗してしまうのは、女の子が対等な態度を取って来るがために、本当に対等に扱ってしまい、挙句の果てには友達感覚の親子関係という倒錯した親子関係を形成してしまうことなのである。こういう場合、母親の方が精神的自立を果たしていないので、母親が女の子の世話をするのではなく、女の子の方が母親の世話をするという形になってしまうのだ。親子は飽くまでも親子であって、絶対に友達ではないのだ。友達とどんなに仲良くなっても親子にはなれないのだ。

 女の子が対等な人間関係を要求して来るのは、自分の頭の中に「母親」という上位自我がしっかりと形成されてしまったからであり。だからこそ、母親に対して対等な態度を取って来るのである。そして他の女の子たちと友達になることができれば、同じく上位自我を形成しあっている者同士だからこそ、対等な立場を形成して行くのである。男の子のグループならリーダー役の人が誕生して来るのに、女の子のグループではリーダー役の人が誕生して来ないのである。

 女の子の上位自我は、女の子に「メルヘン」をもたらして来る。現実では有り得ない女の子らしさを求めて来るのだ。女の子を健全に育てたければ、この女の子のメルヘン願望を巧く満たしてあげることだ。子供の頃にメルヘン願望を満たして貰えば、女の子はそう間違った道を歩むことはなくなるのだ。

●デブな女の子ほど、大きくなると美人になる可能性が高

 女の子がどうしてメルヘン願望を持つかといえば、それは自分を女の子らしくしてくれて、可愛らしくしてくれるからなのである。そうやって自分が可愛くなれば、他人から愛される確率が高くなるからなのだ。女の子が成長していくためには、周囲の人々から愛されることがどうしても必要なのである。他人から愛されるためには、美貌が必要ということが解っているからこそ、更に可愛らしくなろうとするのだ。

  女の子はすべてが可愛いわけではないのだ。子供の頃から美少女というのは、ごく僅かだ。女の子が美少女に成れるのは、「遺伝」的要素が強いし、「女性ホルモン」のかかり具合によっても、変化するものだ。元から美少女であれば、周囲の人々から愛される確率が高いので、メルヘン願望が出て来ても、それほど重症な事態には至らないのだ。問題はそれ以外の連中なのである。

 普通の女の子なら、魔法の類が大好きである。科学がこれほど発達した現代に於いても、啓蒙思想の及ばぬ人々はいるものなのである。女の子にとって魔法というのは非常に大事なことだ。魔法によって自分が不可能と思えたものを可能にさせてくれるからだ。大人になっても魔法の存在を信じたり、魔女に成りたいという女性はそれはそれで問題であろうが、女の子の時には魔法の存在を信じて、空想の世界の中で遊ぶということも大事なのだ。そうでなければ、女の子らしくなって、可愛くなることができないのだ。

 女の子が子供の頃に病気して、病院に長期入院を強いられると、一気にトーンを落としてしまうのは、病気という現実の前に、女の子が信じていた魔法が全く使えなくなるからだ。こういう場合、ただ単に治療に専念するよりも、女の子に可愛らしくなれるために、髪の毛を整えたり、洋服を買ってあげたり、いかにも女の子が好きそうな小物を買ってあげるということは、絶対に必要な行為なのだ。女の子というのは、たとえ病気になっても、女の子らしくいたいものなのである。

 もしも、我が娘が余り可愛くないなと思うなら、飯を大量に食わして、デブな女の子にしてしまうことだ。デブな女の子ほど、大きくなると美人になる確率が高くなるからだ。太っていることによって、骨格が充分に成長することができるのである。女性の美しさというのは、胸回りの大きさが決定的要素をもたらすのである。更に骨盤が大きくなることで、将来、初潮が始まると、子宮や卵巣が健全に発達して、女性らしい体つきになるのである。

●女の子は高校生になれば痩せていくもの

 女の子を太らしておくと、食事を大量に食べざるを得なくなるので、母親は食事を作り続ける限り、娘をきちんと従属させることができるようになるのだ。世間では肥満は目の仇にされているが、家庭の中ではデブな女の子ほど、家事の手伝いをきちんとするいい子供に成長して来るのだ。

 女の子をデブにするのは、意外と簡単である。まず三度の食事を食べていても、そうは太らないということを知っておこう。太るためにはオヤツを出してあげればいいのだ。ホットケーキに牛乳のように、炭水化物と脂肪の組み合わせたオヤツを出し続けると、子供は着実に太っていくことになる。食事の際は夕食に蛋白質を多目に出していけばいい。蛋白質を取る際は野菜を多目に出しておけば、太ったとしても健康的に太ることができるのである。

 但し、太らせるといっても、運動ができなくなるまで太らすべきではないのだ。体がきちんと動くレベルの肥満であるなら、逆に筋肉がしっかりとつくし、皮下脂肪のために寒さに強くなって、風邪をひきにくくなるのだ。肥満はすべてが悪いのではなく、健康的な肥満というのも存在するのである。

 子供の頃に太っていても、その子が女子高校生になれば、女性ホルモンが大量に分泌されるようになるので、その女性ホルモンの副作用で女子高校生は自然と痩せていくのである。女子高校生の時にダイエットをするなんて以ての外で、女子高校生であるなら自然と体重は落ちていくものなのである。オヤツで甘いお菓子を食うからこそ、痩せられないのである。

 今までデブであった女の子にとっては、まさに「醜いアヒルの子」のようなお話みたいなもので、自分が痩せることによって、突然に美人になってしまうのだ。しかも、今までデブだったお蔭で、骨格の形が普通の美人たちよりも整っているので、より美人に成り易いのだ。これが「デブ子理論」なのである。デブな女の子ほど、大人になると美人になるのだ。

●痩せている美少女の危険性

 子供の時に美少女だったから、大人になっても美人になる子は確かに存在する。しかし、すべての美少女たちが大人になれば美人になるとは限らないものだ。骨格の出来が貧弱なために、大人になってしまうと、貧相な顔つきや貧相な体つきになってしまうこともあり、そのために美人になれない人たちも出て来るのだ。

 こういう場合、多くは悲惨な結果を生むものだ。自分は子供の時は美少女だったために、どうしても、その気持ちが抜けきらないのだ。美少女でなら誰もがチヤホヤしてくれたのに、現在の自分では誰からも相手にされないために、無理をしてでも他人の気を引こうとしてしまうのだ。この手の遣り方は、大方は裏目に出てしまい、自分を窮地に追いやってしまうものだ。

 現在では痩せている女性を美人とする価値基準が成立してしまっているために、子供にも痩せていることを遂々要求してしまいがちだ。しかし、子供が健康なら太っているものなのである。痩せているということは、女性ホルモンが既に効き始めているのか、それとも食事が足りないかの二つに一つなのである。多くは食事が足りない方だから、どうしても大人になれば体力が不足してしまい、それに応じて脳も充分に成長しきれないものなのである。

、女性の人生は美貌と幸福が手を携えてやってくるものだ。絶世の美女である必要性はないが、最低限の美貌は必要なのである。美しさがひと欠片もないのに、自分がいくら学問や芸術やスポーツやビジネスで努力したとしても、幸福は遣って来ないものだ。女性の場合、幸せな人生を送るためには、男性のようにただ単に仕事で成功すればいいのではなく、周囲の人々から愛されることがどうしても必要なのである。たとえ事業で成功したとしても、周囲の人々から嫌われているような女性では、本当の幸福を掴むことはできないものなのである。

 自分が女の子を産んだ以上、娘に子供の頃は女の子らしく、可愛らしくさせてあげることは絶対に必要なのである。そして自分の娘を将来、美しくさせていく努力もまた必要なことなのである。そのためには、自分の娘が一体どれほどの可愛らしさがあるか冷静に分析しておくことだ。美少女ならそのままでもいいが、そうでなければ太らせるという配慮が必要なのだ。勿論、子供には肥満が病気を引き起こさない限り、ダイエットなどさせないことだ。

●デブな女の子をそのままデブにするな

 デブ子理論を使って、子供をデブにした場合、デブな女の子をそのままデブにしてはならない。意外なことかもしれないが、デブな女性ほど自分がデブだとは思ってはいないのだ。自分の娘が女子高校生になってデブであった場合、はっきりと「お前はデブなんだよ」と言ってあげることだ。こんなことを言えば、娘はショックするし、親子喧嘩も発生するだろうが、そのまま放置しておけば、デブ人生を驀進するだけになってしまうのだ。

 デブが問題なのは健康に悪いということだけではない。デブな女性ほど自分に自信が持てないのだ。女性はたとえ自分がデブであっても、美しくありたいと願うものなのだ。その美しさを実現できない場合、自分に自信が持てず、常に弱気になってしまうか、他人に対して強圧的になってしまうのだ。デブというのは、空腹を知らない。とにかく暇さえあれば、口に食べ物を入れて、ムシャムシャと動かしているものだ。そんなに食事を食べれば、食費にお金がかかりすぎるし、食事のしすぎで頭が巧く動かなくなってしまうのだ。エンゲル係数が高く、知能指数が低ければ、その後の人生は想像がつくものである。

 人間は肥満になると自己執着が強くなり、他人に対して傲慢になるものだ。細木数子にしても、タカノユリにしても、自己執着が強く、他人に傲慢で、どうしてそこまで人々から憎まれるのかと思うくらいに人々から憎まれている。自分を謙虚にして、他人に愛を施すというのが、女性は肥満になってしまうと出来なくなってしまうのだ。

 デブにとっての最大の欠点は自分の体のサイズに合う服が売っていないということなのだ。既成品は或る程度のサイズまでしかないものであって、それを上回るデブになってしまえば、自分が着れる服が売っていなくなってしまうのだ。デブな女性がダイエットを決断するのは、この服の問題にぶつかった時に、ダイエットをしなければと思うようになるのだ。

 女性がダイエットをして体重を落とすのは簡単だ。まずはオヤツを食わないことだ。そして朝の排便をしっかりとした上で、3度の食事を栄養バランスを整えた上で食べていけばいいのだ。それに運動をして、筋肉をつけ、汗を流すことだ。これらをやった上で、ドクダミ茶や蓮の葉茶などのように、体内の老廃物や毒素や脂肪を除去するお茶を飲んでいけば、自然と痩せていくのだ。

 今までデブだった女性は、痩せたとしても、骨格の出来がいいために、洋服が似合うようになり、より美しくなっていくことができるようになるのである。顔がそれほど美しくなくても、骨格が良く、姿勢を正していれば、美しく見えるものなのである。自分が美しくなれば、それまでの人生とは全く別の人生が開けてくることだろう。

 男の子の場合、子供の頃は甘えん坊なので手間がかかるが、思春期にもなれば母親から離れて行く。しかし、女の子の場合、子供の頃は対等に接して来るので、それほど手間がかからないものだ。だが、自分の娘を子供の時は女の子らしい可愛らしくさせてあげることは大事だし、女子高校生辺りで美人に仕立てあげていくということも必要なことなのだ。自分の娘が母親の元を離れていくのはそれからなのである。

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優秀な男の子を育てたいのなら、「お前は将来、立派な男になる」と暗示をかけよ。

●男の子は甘えん坊

 3歳になった男の子というのは、この世では有り得ないくらいに可愛い生き物である。大抵の母親たちは、この男の子の可愛らしさにメロメロになってしまう。男の子も母親にべったりとしてしまい、世界最強の甘えん坊として母親に甘えまくるのだ。男の子も男の子の方で母親のことが世界で一番大好きなのである。

 子供というのは、早い段階で既に性差が明確になっているのだ。女の子なら3歳にもなれば、母親と距離を置き始めるし、母親だけでなく父親ともきちんとした人間関係を形成しようとする。しかし、男の子の方は未だに母親にべったり状態で、人間関係が母親中心に回っているのだ。男の子は自分が成長していくために、母親からの強い愛情を必要としているということなのだ。母親の出す母性愛は絶対肯定の愛だから、母性愛をたくさん貰って自分の存在を肯定していかないと、自分という命をこの世に存在せしめることができないのだ。

 もしも母親が男女平等に取りつかれてしまい、男の子も女の子も平等に育てようとしたら、男の子は絶対に健全に育つことはないであろう。母親の愛情が足りなければ、すぐに病気をし出し、親子関係が散々に揉めてしまう。長じて思春期を迎えれば、凄まじい反抗をし出かし、母親に対して憎しみをぶつけてくることだろう。子供の時にきちんと母親から母性愛を貰えなかった恨みというのは、相当に激しいもので、それはそう簡単に治まるものではないのだ。

 なんで男の子と女の子はこうも違うかといえば、それは性ホルモンの違いなのである。女の子は同じ性を持つ母親から生まれて来るので、性ホルモンの基本が女性ホルモンであることに変わりはない。しかし、男の子は女性ホルモンを持つ母親の胎内で育ち、その後、男性ホルモンを分泌して来るので、体に相当なストレスがかかっているものなのである。

 それゆえ、大人になれば強靭な肉体を持つ男性とはまるで正反対で、男性というのは子供の頃は病弱で貧弱で弱虫なのである。男の子は男性ホルモンによって常に体を変え続けられているので、どうしても体が丈夫ではないのだ。自分の体が丈夫になるまでは、男の子は母親の保護を強く求めて来るのである。

●男の子は母親の暗示に最も弱い

 男の子の成長は、母親こそが鍵なのである。母親が甘えて来る男の子にたっぷりと愛情を与えてあげれば、男の子は健全に育っていくのである。男の子はいつまでも母親に甘えているのではないのだ。体が丈夫に成り次第、男の子は母親から離れて行くのだ。それまでは母親はたっぷりと愛情を与えなければならないのだ。

 だからこそ、母親と男の子の結び付きは強烈な物だ。母親が男の子に母性愛をたっぷりと与えている限り、男の子は母親の言うことはなんでも聞くのだ。この関係を絶対に悪用してはならない。この関係を将来に向けて、いい結果が出るように使っていかねばならないのだ。

 そのために、「母親の暗示」という物を使えばいいのだ。母親の暗示というのは、常に自分の息子に、「お前は将来、立派な男になる」と言い続けるのだ。男の子がどのような状態であっても、その言葉を言い続けると、男の子は将来、そのような人物へと成長してしまうのだ。自分が幼児期に「自分は母親から期待されている」と刷り込まれてしまうと、男の子はそれに応えようと、獅子奮迅の働きをするようになるのである。

 男性というのは、母親の母性愛があれば、人生に後退がなくなり、立身出世していくのだ。子供の頃に母親から母性愛をきちんと貰い、母親に期待をかけられると、紆余曲折を経たとしても、立身出世していくのだ。だからこそ、男性は自分が成功すると、母親に感謝をするようになるのだ。これは女性にはない光景なのである。

 この自分の息子に母性愛を注ぎ、我が息子の立身出世を願う母親たちがたくさんいたことこそ、近代日本の発展の原動力であったのである。明治維新直後は、貧乏国家で、いつ植民地に転落しかねない状況で、近代化を成し遂げ、日清戦争で清国を破り、日露戦争でロシア帝国を破ることができたのは、日本の母親たちに息子の立身出世を必死になって願う習慣があったからこそなのである。

●外で遊ばせ、夕食に大飯を食わせよ

 男の子はとにかく外で遊ばせることだ。外で遊ぶと、体が自然と鍛えられるからだ。家の中にいては、男の子は怠けて行くものなのだ。体を鍛えていないから、すぐに病気に罹るという悪循環を引き起こしてくるのだ。男の子は病弱なのだから、外で遊ばせて、体を鍛えていくしかないのだ。

 男の子は人間関係を巧く行うという能力がまだまだ弱いので、母親の目が行き届かない所で遊ばせておくと、すぐさま喧嘩を仕出かして来るものだ。それゆえ、母親は男の子が遊んでいる姿を巧く監視しながら、喧嘩が起り次第、それを止めねばならないのだ。男の子が正常な人間関係を構築していくためには、母親の力が必要不可欠なのである。母親から「友達とは喧嘩しちゃ駄目」と教えられるからこそ、友達と喧嘩しなくなるのである。女の子のように放っておいて、友達と仲良くするわけではないのだ。

 日中にそれだけ遊ばせれば、当然に相当お腹がすくので、その時は夕食を大量に食べさせることだ。夕食を大量に食べてしまうと、そのエネルギーは活動によって消費されないので、脳や体を成長さるのに向けられ、成長するのが早くなるのだ。夕食時は栄養バランスを考え、脳や体にいい食事を作ってあげることだ。

 男の子がいくら外で遊んでも、母親がまともな料理を作ってくれないと、どうしても体が健康にならないものなのである。男の子がいつも病気がちなら、その病気よりも、食事の悪さを気にした方がいいのだ。男の子は女の子と違い、脳も体も大きく成長していくので、食事が不足すれば、立ち所に悪影響が及んで来るものなのである。

 男の子が病気をしなくなったら、自分が作る料理は栄養バランスが整っていると思った方がいい。男の子は食事が足りてさえいれば、健康になって、外に遊びに行くものなのだ。母親がいくら育児に忙しいとはいっても、料理に関しては絶対に手抜きをしないことだ。母性愛の現れが料理なのだから、料理が狂ってしまうと、子供まで狂って行ってしまうのだ。

●男の子には興味のあるスポーツをやらせよ

 もしも、自宅が農家や漁師のように第一次産業に従事しているなら、子供にも早くから手伝わしてしまうことだ。男の子は「父親のようになりたい!」という願望が強烈なので、父親がやっていることを手伝わしてしまうのだ。男の子は子供なので、なんの戦力にもなりはしないが、遊び感覚で手伝って貰うのだ。そうすれば男の子は精神的に満足し、しかも体を鍛えていくことができるのである。

 父親が第一次産業に従事していないのなら、休日などには子供を連れて、ハイキングやキャンプにでも出掛けることだ。都会の中で生温い生活をしているのではなく、自然の中で厳しく生きるからこそ、逞しく成長していくものなのである。自然の中に連れていけば、軟弱な子供でも自然に接することで、自分を逞しく変えていくものなのである。

 幼稚園児や小学生になって、男の子が何かしらのスポーツに興味を示したのなら、その興味あるスポーツをやらせてしまうことだ。男の子が興味を持つスポーツは、他の男の子も興味を持つスポーツなので、その男の子の集団の中に入ることで、男の子は人間関係の作り方を学んでいくのだ。

 我が子に将来、一流大学に進学して欲しいからといって、子供の頃から勉強させても、男の子はそれほど高い知能を持つことができないのだ。男の子は体を動かさない限り、脳を大きくしていくことができないのだ。我が子を優秀な人間に育てたいのなら、まずは体を鍛えるためにスポーツをやらせることだ。

 男の子を育てて行く上で、これだけは忘れない方がいいというのは、「男の子は学校だけでは、健全に成長していくことができない」ということなのである。男の子は女の子を排除して、男の子同士で切磋琢磨するからこそ、能力を大いに伸ばしていくことができるのである。そのため、男女共学になっている学校では、この要件を満たすことができないのだ。

 野球のリトルリーグとか少年サッカークラブに男の子が入ると、その男の子はいかにも男の子らしく成長し、礼儀正しいし、能力も高くなってしまうものだ。何も野球やサッカーがいいというのではなく、女人禁制で男の子だけの組織に入るからこそ、男の子は男らしくなっていくのである。

●息子に何があっても母親なら守る姿勢を示せ

 男の子は子供の頃に母親からたっぷりと母性愛を貰うことができれば、母親から徐々に離れて行くものだ。その癖、母親に何か危険が迫ってくると、子供ながらにして母親を守ろうとする姿勢を示して来るのだ。もう明らかに男らしさが出て来て、立派に成長し始めているのである。

 だからこそ、母親の方もこれに応えねばならないのである。いつ如何なる時も、息子に何があっても、母親なら息子を守るという姿勢を示しておくことだ。男の子は自分が母親に守られているという安心感があれば、男の子は爆発的なエネルギーを発してくるのである。男の子は急激に成長して行くものなのである。

 だからこそ、男の子は母親に感謝をするようになるのだ。男の子は思春期には母親に反抗することはあっても、成長が終わり、一人前の男性になると、母親に感謝をきちんと示して来るのだ。家を一軒プレゼントしたとか、海外旅行に連れて行ったという話は、すべて男性から母親に向けられたものなのである。

 嘗て、武田鉄矢が『母に捧げるバラード』が大ヒットしたので、その後『父に捧げるバラード』を作ったのだが、この曲は全然ヒットしなかったという。当たり前なのである。如何なる男性も母親に感謝をすることはあっても、父親にはなかなか感謝をしないものなのである。それだけ自分が成長していく過程で、母親の功績が大きかったからなのである。

 母親が精神的に独立していないと、男女平等に取りつかれてしまうものだ。男女平等に基づいて男の子を育てても、男の子はまともに成長して来ないのだ。思春期になって凄まじい反抗を母親にしてくるものだし、大人になっても立派な男性には育ってくれないのだ。男の子と女の子では明らかに性差が存在していて、違うルートを辿らない限り、まともに成長することができないのである。

 自分の息子を立派に育てあげたいのであるなら、男女平等になど引っかからず、たっぷりと母性愛を与えていくことだ。男の子が甘えてくるなら、思いっきり甘えさせていくことだ。その上で、「お前は将来、立派な男になる」と暗示をかけていけばいいのだ。男の子はそれさえ母親からして貰えれば、その通りに成長していくことになるのだ。

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最終章 一人前の母親になるために

子供にとって親に甘えることはとっても大事

●「甘え」こそ育児の基本

 育児の基本中の基本は、子供に「甘え」を与えるということである。赤ちゃんは何かしてほしいことがあると、「泣く」という動作をして、母親はこれに対して赤ちゃんを抱っこして、泣くのをやめさせようとする。この過程を何度なく経て育って来たからこそ、子供は何か問題があれば、母親に甘えることによって乗り切ろうとする。だから、母親は子供が自立するまでは、子供に甘えを与え続けねばならないのである。

 例えば、一人歩きがきちんとできる筈なのに、いきなり抱っこを要求してくるのだが、こういう時にはその抱っこが物理的には必要ないけれども、子供を抱っこしてあげねばならないのだ。父親が仕事から帰ってきたら、子供は父親の周りに纏わりつくものだが、そういう時には子供を邪険にしないで、子供とじゃれあうなり、子供を膝の上に座らせることをしてあげなかればならないのだ。

 いかに育児の場面場面で、子供に甘えを与えていくかが、育児の成功の要因となるのだ。子供は母親に甘えることができると、自分の存在を肯定することができるようになる。母性愛は絶対肯定の愛だから、自分の存在を絶対的に肯定できるようになるのだ。子供は父親に甘えることができると、自分は価値ある人間と思えるようになるのだ。父性愛は絶対価値の間から、自分の存在を絶対的に価値あるものだと思えるようになるのだ。

 子供は親に甘えることができるからこそ、健全に成長することができる。子供が親に甘えることができなければ、子供の心の中は心の闇に覆われ、両親といえども手のつけられない凶暴な子供へと成長していくことだろう。子供の心を健全に成長させたければ、子供が甘えを欲しがるなら、それを与えてあげればいいのだ。それさえできれば、子供は健全に育っていくのである。

 子供が親に甘える場合、早い段階で男女の性差が現れる。男の子は女の子に対して、非常に甘えん坊だ。いつも母親に頼ってばっかりである。しかも、男の子は女の子に比べて言語能力が劣るので、男の子の話を聞く時は、ゆっくりと話を聞いてあげることだ。それゆえ、男の子を生んだのなら、男の子は小学校を卒業するまで甘えさせることだ。男の子は子供の頃に母親に対して充分に甘えることができれば、立派な男性に育っていくことができるのである。

 女の子は成長が早いので、早くから言葉を喋られるようになれば、母親とは対等の立場を要求してくる。そのくせ、何か問題があると母親に泣きついてくるのだ。この対等と従属を巧く使い分けて来るので、親子の距離をきちんと保ちながら、育てていくことだ。女の子は父親に対しては、従属をしながら、対等な会話をして、父性愛を獲得していこうとするので、それゆえ、母親は子供の前では絶対に父親の悪口を言わないことだ。女の子が自分の父親と正常な関係を結べなかった場合、その後の人生で、男性と正常な関係を作ることができず、まともな恋愛をすることも、まともな結婚をすることも不可能になってしまうのだ。

●従属状態とうはどういう状態なのか?

 人間の赤ちゃんは未熟児状態で産まれて来るので、親に従属しなければ生きていないことを生まれながらに知っている。しかも、子供の成長も12歳までは体も脳も充分に成長しきっていないので、親に従属していかなければならないのだ。更に人間の成長が終わるのは19歳なので、その時期まで親に従属しつつも、親から自立していくという、葛藤の時期を過ごさねばならないのである。

 従属状態にあるということは、親に「依存」することである。食料を始めとする一切を、親に依存して、生活するのである。だから、母親が母乳を与えることが必要だし、ご飯を作ることも必要なのだ。子供の目から見て、自分は一体誰に依存しなければならないかが簡単に解るからだ。母親は常に父親を立て、我が家が生活できるのは、父親の働きがあってこそなのだということを、子供に教え続けなければならないのだ。そうすれば、子供は父親にも依存して、得体の知れない反抗をしなくなるのだ。

 従属状態で親に依存できれば、次に親のいいつけを「順守」しようとする。まずは母親の言ったことを素直に受け入れ、自分の行動をそれに合わせようとするのだ。更に、家族内にはルールがあるので、そのルールに従って生きて行こうとするのだ。順守の中で最も大事なのは、父親の権威であって、家族内のルールというのは、父親の権威があるから、子供は守ってくるのであって、母親が父親の権威を否定していると、子供はルールを守らなくなってしまうのだ。

 従属状態で、依存と順守ができれば、子供は「自治」をし出そうとするのだ。親に言われなくても、自分のことは自分でし出すのだ。例えば、最初は服を母親に着させて貰っていたのに、成長してくると、「自分でやる!」と言い出して、母親の手を借りなくても、自分で服を着ようとするのだ。自治の領域が増えていけば、母親にとって育児の手間がかからなくなるので、後は子供に任しておけばいいのだ。

 従属状態にあるというのは、「依存」「順守」「自治」が三点セットで存在しているということなのである。親に依存だけしている子供などいないものだし、依存も順守もせずに自治だけしている子供も存在しないのだ。親に依存し、家族内のルールを順守するからこそ、子供は自治をしていくことができるのである。

 従属の問題で解り易い例をあげるなら、現在、国政で揉めている「八ッ場ダム」問題である。地方自治体というのは、財政的に中央政府に依存し、憲法や法律を順守するからこそ、地方を自治することができるのである。八ッ場ダムも以前は散々揉めに揉めたけれども、最終的には政府の意向を受け入れ、ダム建設に着手したのである。それを民主党が選挙で勝ち、それをマニフェストに載せてあったからという理由で、ダム工事を中止されれば、地方自治体はカンカンに怒るのは当然なのだ。これは民主主義の横暴であって、こんなことが行われれば、地方自治体は自治などできないし、法の支配も否定されてしまうのだ。

●成長すれば反抗してくるもの

 八ッ場ダム問題のような問題が、家庭内で起これば悲惨な結果になることは明らかだ。いつも大人しい子供でも、親が権限を乱用してくれば、カンカンになって怒り出して来るからだ。例えば、子供は食事を親に依存しているのだから、食事の量が少なければ、ギャーギャー喚いてくるのものだ。家族内のルールだからといって、余りにも親に有利で、子供だけが不利なら、家庭内のルールを守らなくなってしまうものなのだ。いくら親といえども、子供が自治している分野に顔を突っ込んでくれば、子供は得体に知れない反抗を企ててくるものなのである。

 成長すれば親に反抗してくるものである。反抗自体は成長の証だからだ。しかし、子供の従属状態を踏み躙るようなことをしていると、子供は得体の知れない反抗をしてくるものなのである。親と子供は決して平等な存在なのではなく、飽くまでも子供は親に従属しているということを決して忘れないことだ。

 親にとっては、赤ちゃんの頃の記憶が鮮明なために、いつまでも子供を赤ちゃん扱いしようとしてしまう。しかし、そのような親の思いとは裏腹に、子供は着実に依存と順守と自治の領域を広げていこうとするのである。赤ちゃんの頃のように母親がなんでもしなければならないのではなく、徐々に子供にできることを与えていき、自分がやるべきことを控えていかねばならないのだ。

 母親は子供の料理は母親が作らねばならず、毎日料理を作っているがゆえに、その栄養管理は母親にすべて任されているということを遂々忘れがちだ。子供は親の言いつけや家庭内のルールをきちんと守ってくるものだが、親は自分が言ったことや、家庭内のルールを忘れているものだ。子供は成長すば自治の領域を増やしていくものだが、母親は子供をいつまでも幼稚だと思い込んで、子供の自治を踏み躙ってしまうものだ。

 子供は自分の従属状態が踏み躙られたり、従属状態の領域を拡大していこうとする時、親に反抗してくるものだ。子供が反抗した際に、いかにその反抗を修めるかが、親としての力の見せどころなのである。子供の反抗を放置してはならないし、子供の言い分をすべて聞いてもならないのだ。子供の反抗を粉砕しつつ、子供の言い分も聞いて、親自身の行動も改めていかねばならないのだ。

●誤った育児の仕方に惑わされるな

 育児というのは、子供に甘えを与えながら、子供の従属状態の領域を増やしていく作業なのだ。親が子供に充分な甘えを与えておけば、子供は成長していけば、自分で従属状態を広げて行くのだ。時に見せる反抗も、親と子供のバランスが崩れたからこそ、反抗することによって、取り戻そうとしているのである。

 だからこそ、甘えを与えてもいいが、子供を甘やかしてはならないし、逆に子供に甘えさせないということも駄目なのだ。例えば、子供が「オモチャが欲しい!」と言って来たからといって、すべてのオモチャを買い与えてはならないのだ。逆に子供が「オモチャを買って欲しい!」と言っているのに、全くオモチャを買い与えないというのも駄目なのだ。巧い甘えさせ方を自分で試行錯誤しながら取っていけばいいのである。

 甘えというのは、育児では絶対に必要である。甘えなくして、育児などできるわけがないのだ。普通の親なら、誰でも子供が甘えてきたら、甘えさせてあげるものだ。しかし、親が未だに精神的に独立していないと、その甘えを暴走させたり、否定したりしてしまうのである。育児は親の精神レベルが如実に現れて来るものなのである。

 育児をする際、くれぐれも間違った育児の仕方に惑わされてはならない。例えば、「子供に甘えさせるのは駄目」という学説は、絶対に危険な学説である。「抱っこばかりしていると、抱き癖がつく」というのも同じだ。これらはすべてアメリカ合衆国からやってきた育児の仕方なので、絶対に耳を貸さないことだ。この遣り方はもうアメリカ合衆国では破綻してしまった学説なのだ。育児をしてみれば解ることだが、赤ちゃんにしろ、子供にしろ、親に甘えてくるものなのである。それを否定してしまえば、子供が異常な形で成長していくというのは、解るものなのである。

 「子供は自立する」という説も間違った育児の仕方である。子供は絶対に自立をしない。子供がするのは自治であって、自立など絶対にしない。子供は成長した暁には、親から自立していくが、それまでは親に従属しっぱなしなのである。自立した子供を育てようとする親は、親本人が自立していないために、子供に自立を強いて来るのである。

 「反抗は親の力不足」という説も間違った考え方である。子供が反抗してくるのは、親が子供の従属状態を踏み躙った時や、自分が成長した時に、従属状態の領域を広げるためである。子供の反抗は親の力が試される時であっても、反抗の発生自体は親の力不足によるものではないのだ。

 自分が子供の頃に、親に充分に甘えさせて貰えば、その後の成長と試練を経て、子供は独立した大人になっていくものである。育児の仕方を教える者が精神的に独立していなければ、いくらでも間違った育児の仕方を唱えて来るものである。そういう間違った意見を拒絶する態度を取りつつ、自分の判断で正しい育児の仕方を習得していくことだ。大事なことは、自分の子供が健全に成長してくれることであって、それ以外のことは必要ないのだ。

 育児をやっていれば、育児の仕方が大体解ってくるものだ。そうしたら、間違った育児の仕方を唱えている学者や医者たちの姿がはっきりと見えてくるものだ。「あっ、この人は精神的に自立していないんだな」と解れば、自分はもう充分に母親としての力が備わっている母親になっているのである。育児のことで、とやかく言われたとしても、「甘えのない育児は絶対に存在しません」とはっきり言ってやればいいのだ。なんせ未だに我が子は母親に甘えている最中なのである。それが正しい答えなのだ。

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緊急告知:不妊症のカテゴリーを卒業します。(ついでに妊娠のカテゴリーも)

heart01heart01heart01heart01タマティーからのお知らせheart01heart01heart01heart01

●カテゴリーを変更します

 長らく「不妊治療」「妊娠」「育児」のカテゴリーで、この『幸せ色の出産ラブストーリー』を公開してきたのですが、今回を持ちまして「不妊治療」のカテゴリーと「妊娠」のカテゴリーを卒業します。最終章は不妊症の女性たちや現在妊娠している女性たちが見るべき内容ではないからです。

 このフブログはそもそも不妊症の女性たちのために作られたものです。最初は不妊症の女性たちのために『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の原因とその治療法を教えてのですが、その後、不妊症を克服した女性たが出て来たために、妊娠や出産や育児のことを教えるために『幸せ色の出産ラブストーリー』を展開しました。

 現在、不妊症で悩んでいる女性でも、不妊治療で頭の中を一杯にしてしまうよりも、妊娠や出産や育児のことを知ることで、脳をクールダウンさせた方が、不妊治療の成功率が上がるのではないかと思ったからです。不妊治療を真面目に受けてしまうと、心の余裕がなくなってしまい、成功する筈の不妊治療も成功しなくなってしまうからです。

 途中で不妊症ではない普通の女性たちも参加してきたために、不妊症の女性のために書いていることが薄れてしまった感じがあるのですが、タマティーは首尾一貫して不妊症の女性たちのために書き続けてきました。でも、もうそろそろ卒業した方がいいのではないかと思うようになりました。

 不妊症の治療は、どうしても病院での治療に頼ってくる女性たちが多いし、不妊症を克服させるためには、ブログで情報を公開するよりも、実際に不妊症の夫婦たちに会って話した方が不妊症を克服できるのが早いというのが解ったからです。ブログで不妊症の女性たちを気遣うよりも、そのエネルギーを直接に不妊症の夫婦たちに向けた方が効果が高くなるからです。

●不妊症の女性たちへ

 俺が長らく不妊症の女性たちを治療してきて、これだけは伝えたいことがあります。

・不妊症で悩んだり、不妊治療で失敗をしたことは絶対に無駄ではないということです。

・治療で失敗している内に、知らず知らずに内に実力がついているもの。

・自分の誤った考え方を変えた時、未来の赤ちゃんはやってくる。

 不妊症の女性たちは、今までの人生は順調に進んできた筈です、小中高大学と、それから就職、そして結婚と、今まで大した挫折もなく生きてきたと思います。それなのに結婚して大事な時に不妊症に罹ってしまうというのは、人生で初めての挫折といっていいものかもしれません。

 人間は順境な時ばかり生きていることはできません。人生のどこかで逆境の時を生きていかなければならないんです。その逆境の時期は自分が最も苦しい時期なのですが、その中で自分のマイナスの部分が剥がれ落ちて、今まで以上に飛躍的に成長していくことができるようになるんです。

 実際の不妊治療は失敗の連続です。たとえ不妊治療で失敗したとしても、すぐさま自分を立て直すことです。そりゃあ、失敗すれば落ち込んでしまうのは当たり前です。しかし、失敗していく中で知らず知らずの内に実力がついてしまい、不妊症を克服できるだけの力を持つことができるようになるんです。

 赤ちゃんは精子と卵子が融合したから生まれてくるのではありません。赤ちゃんは霊的な世界から、未来のお父さんやお母さんの姿を見ていて、赤ちゃんを育てられる準備が整い次第、雲の上から降りて来て、あなたのお腹に入り込んでくるんです。今はまだ母親の準備が整っていないだけなんです。だから、焦らないで、一つ一つクリアしていくことです。

 不妊症の女性たちは間違った考え方を持っています。どうしても不妊症の原因を精子や卵子の問題に持っていこうとしてしまうんです。現実には、どの男女も精子や卵子をきちんと輩出しているんです。では、どうして妊娠できないかというと、それは食生活や運動や睡眠や排便や性生活が余りにもひどすぎるからです。そして夫婦の愛の形が未だに出来上がっていないからなんです。間違った考え方を捨てた時、未来の赤ちゃんはやってくるものなんです。

 不妊症を克服し、赤ちゃんに恵まれた女性たちのすべてが、出産後に夫に感謝するようになります。ということは、それまでは夫に感謝していなかったということなんです。恋愛も長く続いてしまうと、「愛してる」という言葉を使わなくなるように、結婚も長く続いてしまうと、「感謝しています」という言葉を使わなくなってしまいます。自分の夫の欠点を指摘するのではなく、些細なことで夫婦喧嘩をしてしまうのではなく、夫を敬って、感謝するようになれれば、不妊症を克服できるようになるんです。

●現在妊娠中の女性たちへ

 現在、妊娠中の女性たちには、妊娠中なのに妊娠のカテゴリーを終了することは、「そんな殺生な」と思うかもしれないが、今まで『幸せ色の出産ラブストーリー』を見て来ていれば、出産は巧く行きます。もう充分に「出産力」は見についている筈です。後は実践あるのみです。

 ただ、妊娠は最後の最後まで解らないものなので、妊婦の方々にこれだけは守っておいた方がいいということを伝えておきます。

・妊娠中は妊娠中毒症には気をつけろ。

・出産予定日には惑わされないように。

・出産は普通のことをやっていれば絶対に安産になる。

 妊娠中はとにかく自分がスポーツ選手になった気分で、体を動かして体を鍛えていくことです。妊婦に最低限の運動量がありさえすれば、妊娠中に妊娠中毒症になることなんて絶対にないんです。妊娠中毒症とは要は運動不足なんです。塩分がどうのこうのに騙されないことです。最低でも1日1時間程度のウォーキングなら、どんな状況でもできる筈です。

 出産予定日は飽くまでも医者の都合なのであって、出産予定日は出産の目安として使い、決して出産予定日に惑わされないことです。早産をしないためには、マグネシウムをしっかり取っておくことです。妊娠前に飲酒の習慣のあった女性にはマグネシウムが不足しているので、マグネシウムをきちんと補給しておくことです。マグネシウムは「イチジク」「アーモンド」「ナッツ」「バナナ」などに含まれています。出産予定日が遅れても、なんら心配することはありません。逆に健康な赤ちゃんが生まれるものなんです。

 妊娠中に普通のことをやっていれば、絶対に安産になるものです。食事に気を使い、運動をし、睡眠をしっかりと取り、排便をちゃんとしておく。体が冷えないように厚着をして、風呂やサウナで体を温めておくことです。妊娠して自分のことだけで精一杯になるのではなく、夫のことにも気を使って、夫婦の会話を絶やさないことです。いざという時には夫が一番役に立つんです。中には例外があるかもしれないけど、大抵の夫たちは妻にとって最大の味方なんです。

 出産の時は、健康な赤ちゃんを産めるように全力を尽くすことです。女性にとっては、出産は人生最大のスペクタルになるんです。その上で、妊婦生活を思いっきり楽しむことです。妊婦生活は妊娠中にしかできません。自分が妊婦であることを楽しまないなんて絶対に損です。妊婦生活を楽しんでいるからこそ、出産も楽しめてしまうものなんです。

●タマティーはなぜ不妊症治療に関わったのか?

 そもそもなぜタマティーが不妊症治療に関わったかといえば、癌治療をやっている時に、不妊症の夫婦に治療の依頼を受けたからなんです。その当時は癌治療のことで頭が一杯だったのですが、癌の研究をしていたので、不妊症の原因にもなんとなく想像がつきました。要は、「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃えば、ありとあらゆる内臓疾患を発症してくるのであって、不妊症もその一つなんです。

 大方の不妊症の女性たちは、「冷え症」です。「36.5℃」という平均体温がないのです。これは「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃うと、女性は必ずこの症状を呈してきます。だからこそ、通常の形では妊娠することができなくなるんです。排卵誘発剤を使うと副作用で高熱を発するのですが、これが巧く持って行くと、そのまま妊娠へと持ち込むことができます。病院での不妊治療が失敗し易いのは、高熱を維持することをしないからです。これに対して、漢方医たちは排卵を強制的に行わせることなく、水分過剰を解消させる漢方薬と、体温を上げる漢方薬を与えることで、不妊症を克服させています。こちらの方が不妊症を克服するには、適切な処置なんです。

 その後、タマティーはニフティーでブログを遣り始めた時に、たまたまこの不妊症のカテゴリーに立ち寄ってしまい、そこで不妊症の女性たちのブブログを見て、その悲惨な現状に大いに心を痛めてしまったんです。病院の医者たちが不妊症の女性たちにきちんと説明をしていないからこそ、不妊症の女性たちは不安で一杯になり、悩まなくてもいい悩みを抱え込んでいたんです。それで俺はせっせと『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の女性たちに不妊症を克服させる情報を提供し続けたんです。

 実を言いますと、タマティーの母親は結婚してから7年間もの間、子供ができませんでした。ただそれは不妊症が原因ではなく、貧乏が原因でした。タマティーの両親は結婚当初、物凄い貧乏で妊娠どころではなく、四畳半一間のアパートに住んでいたんです。大人二人が寝てしまうと、もう空きのスペースなんてどこにもなかったそうです。当然に赤ちゃんの置ける場所など、どこにもなく、妊娠することができなかったんです。

 そこで両親は夫婦共働きで必死に働いて、お金を地道に貯めて込んで、結婚後6年目にして一戸建ての住宅を横浜に建てたんです。時代が高度経済成長期とはいえ、30代で一戸建ての住宅を建てたなんて凄いもんです。そこで、やっと赤ちゃんを置ける場所が確保され、両親は妊娠へと向かうことになります。

 現在、日本国民の多くは、この手の独立自尊の気概を持つことなく、自分の生活が苦しければ、すぐに政府や地方自治体に頼ろうとしています。独立している夫婦なら、政府から子育て支援などを貰うべきではないんです。政府や地方自治体に頼るからこそ、いつまでも貧乏から抜け出せないのであって、政府や地方自治体に頼ることを拒否し、夫婦双方が自助努力に目覚めれば、貧乏は駆逐されていくんです。

 タマティーの両親は若くして一戸建てを建てたことは、その後の人生で大いに貴重な経験となった筈です。その後、アパートやマンションを建設したり、株式投資をしたりして、資産家の道を順調に歩んで行ったからです。宝籤を買って一攫千金を夢見るより、若い時は我武者羅に働いてしまった方が、お金持ちになれるというものなんです。

 でも、さすがに結婚して6年間も赤ちゃんを産んでいなかったから、タマティーの母親は不妊症の女性たちと同じような精神状況に追い込まれてしまったそうです。他の夫婦の赤ちゃんを見ては悲しくなり、赤ちゃんを抱かせて貰えば、手が震えてちゃんと抱けなかったというのです。

 しかし、夫婦で一戸建てを建てたいう自信が、妊娠を可能にさせてしまいます。タマティーの母親もさすがに自分の体に何か問題があるのではないかと思ったらしく、当時、親戚が千葉大学の医学部で教授をしていたので、不妊治療の話を聞きに行ったらしいんです。だが、その教授は「不妊治療はホルモン剤を使うので、母親にも赤ちゃんにも健康に悪いから受けない方がいい。まだ若いんだから、生活を変えることで妊娠へと導いていった方が、健康的に赤ちゃんが生まれるよ」と教えてくれたそうです。

 そこで、母親はまず父親の禁煙を実行したそうです。当時、タマティーの父親はヘビースモーカーで、1日に1箱以上のタバコを吸っていたそうです。それをタマティーの母親は強制的に禁煙を実施して、禁煙を成功させたんです。それから、毎日、お風呂に入って体を温めたそうです。アパート暮らしでは、お風呂がなく、銭湯だったので、毎日入浴するというわけにはいかなかったんです。そして料理を工夫し、栄養バランスが整うようにしたんです。そういうことをしていたら、一年後には妊娠し出産することができたんです。

 もしも、タマティーの母親が赤ちゃんができないという理由で、病院で不妊治療を受けていれば俺は生まれていなかった筈です。たとえ赤ちゃんが生まれてきたとしても、違う赤ちゃんが生まれて来た筈。だから、不妊症の女性たちが、自分たちの生活を改善することなく、安易に病院で治療を受けてしまうことには、物凄い疑問を持ってしまうんです。もしかしたら、本来は生まれて来る赤ちゃんが生まれて来ないで、違う赤ちゃんが生まれて来てしまったのではないかと思ってしまうんです。

●赤ちゃんに執着するより、結婚に謙虚になること

 俺が不妊症の女性たちを見て来て、つくづく思うことがあります。それは「未だ生まれて来ていない赤ちゃんに、それほどまでに執着しなさんな」ということです。不妊症のために赤ちゃんが欲しいのは解るけど、赤ちゃんに執着してしまえば、赤ちゃんだって生まれにくいって。

 執着は発展を止めてしまうものです。人間には蟠りがあると、人間には不幸が襲いかかってくるものなんです。不妊症を克服するためには、夫婦として色々なことをやっていく必要性があるんです。例えば、夫婦の仲を正常なものにするとか、栄養バランスの整った食事を作れるようになるとか、家計簿をつけて夫婦のお金の流れをしっかりと把握するとかです。そういうことをやって、夫婦としての体裁が整うことの方が先決なんです。 

 結婚を自分の物だと考えるからこそ不幸になるんです。自分の夫を自分の物だと思うからこそ悲劇が襲いかかって来るんです。そうではなく、自分の人生を神様に預けてしまうことです。そうすると「無限の自由」が生まれてくるようになるんです。神様に命じられて、この結婚を管理運営していくという態度になると、いかなる結婚も幸福になることができます。

 不妊症の女性たちに足らないのは、そういう「謙虚さ」なんです。結婚に対して謙虚になっていないから、未来に生まれて来る筈の赤ちゃんがやってこないんです。赤ちゃんが「ママ、今のままでは妊娠できませんよ~」といっているようなもんです。医者の力を使ってどうにかするよりも、まずは自分自身を変えてしまうことです。

 執着から離れると、本当の楽しさが見えてくるものなんです。たとえ自分が不妊症であっても、今の自分をありのままで楽しんでしまうこと。結婚していても、今の生活を自然体で楽しんでしまうこと。そんなに肩肘を張らなくても、この世は生きていけるものなんです。頑張らなくても、人生を楽しむことはできるんです。

●最終章は育児をしている母親限定

 最終章は赤ちゃんを産み育てなければ絶対に解らないことなので、不妊症の女性たちや妊娠中の女性たちは排除します。赤ちゃんを産んでもいない女性たちが知るべきことではないんです。今までは妊娠や出産や育児のことを教えて来たけど、もうこれ以上の知識は不要で、後は不妊症を克服するなり、妊婦生活に集中するなりした方がいいんです。

 これから話すことは、育児をしている母親たちに起こる「とっても不思議なお話」なんです。育児を真面目にやっていると、母親が本物の母親になるために、とっても不思議なことが起こるんです。そのとっても不思議なことが起こらない限り、いくら子供がいたとしても、本物の母親になることはできないんです。

 言わば、本物の母親になるために通過儀礼が、母親たちを待ち構えているんです。女性という者は、結婚して自分の人生が変わったし、赤ちゃんを産んで自分の人生が変わったし、育児をすることで自分の人生が変わっていくんです。自分の人生が変わることで、巨大なエネルギーを発生させていくんです。

 結婚というのは、幸せを貰う立場から、幸せを与えていく立場に、自分の人生を転換することです。他人からエネルギーを奪う生き方から、他人にエネルギーを与えていく生き方に変えると、人生は劇的に好転して、幸福の連続の人生になります。自分の幸福な人生を決定づける転機が、或る日突然に起こってくるわけです。

 『幸せ色の出産ラブストーリー』は今まではすべての母親たちが解る内容であったけど、最終章だけは選ばれた母親たちだけにしか解らない内容になっています。選ばれた母親たちは「そうか! そういことだったのか!」と感嘆する内容になっています。しかし、選ばれなかった母親たちにとっては珍紛漢紛です。これだけはその不思議な体験をして貰わないと、全く解らないことなんです。いくら文章を読んだ所で、その文章を理解できたとしても、本当の所は解らないことでしょう。とにかく実際に不思議な体験をしてみることです。

●不妊症の女性たちに感謝

 この不妊症のカテゴリーを卒業するに当たって、今までこのブログを見て下さった不妊症の女性たちにお礼を言いたい。このブログは長らく不妊症の女性のために書き続けたものなんです。中にはドギツイ記事の回もあったけど、それは俺があなたたちに不妊症を克服してほしいからこそ、敢えて書いたまでで、俺が言いたかったことは、「不妊症は必ず克服できる病気だ」ということです。自分の何かが間違っているからこそ、不妊症を発症しているだけなんです。だから、それを改めてしまえば、簡単に治ってしまうんです。決して精子や卵子の問題ではないんです。

 未来に生まれて来る赤ちゃんは、あなたに母親としての準備が整い次第、あなたのお腹の中に潜り込んで来るんです。赤ちゃんはそれができるまでは雲の上で待っているんですよ。そのことを絶対に忘れないで下さい。

 このフブログを見て不妊症を克服できた人も、これから不妊症を克服しようとしている人も、2年間に亘り、このブログを見続けて頂いて、本当に有難うございました。タマティーは心から感謝しております。このカテゴリーを卒業しても、タマティーはこの国から不妊症を絶滅すべく、日々努力しております。決して不妊症の女性たちは一人ではないんです。目に見えぬ所で、タマティーを始め、色んな人々があなたたちを応援しているんです。

 不妊治療をやっていて、心がつらくなった時は、『不妊症バトルロワイヤル』を思い出して下さい。タマティーも悪戦苦闘しながら戦い抜いたので、その勇姿を見れば、あなたの心も奮起する筈です。大事なことは、いくら失敗してもいいから、悪戦苦闘しながら、不妊症を克服していく強さを持つということです。

 いくら不妊症といえども、自分が立ち上がって戦わないと、勝てる戦いにも勝てなくなります。不妊症は絶対に克服できる病気なので、自分が本当に赤ちゃんが欲しいと思えば、絶対に赤ちゃんがやってくるものです。あなたにはそれが絶対にできます。言い訳をいう暇があるのなら、せっせと自分の生活を改善していくことです。一つ一つ改善していけば、いつの間にかに妊娠しているものなんです。赤ちゃんを妊娠することは、決して難しい事ではありませんよ。

 何事もやればできる!

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三つ子の魂、百まで

●三歳までに人格の基礎が形成される

 人間の脳は、3歳児の時点で脳の80%が形成されるので、当然にこの時期までに子供の人格の基礎が形成されるわけである。3歳児の時点で出て来た性格は、その後の人生でそう簡単には変わらないものなのである。外向的な子供は、成長してもやっぱり外向的な性格だし、内向的な子供は、成長してもやっぱり内向的な性格のである。勿論、青春時代に何かしら道を踏み外してしまうこともあるが、それでも3歳児までがその人の人格形成にとって最も大事な時期なのである。

 昔の人たちはこれを「三つ子の魂、百まで」と言い伝えてきたのである。昔の人たちが何度も育児をしてみて、辿り着いた結論がこれであったのだ。昔と今とでは年齢の数え方が違うので、現在で言うなら、2歳児の時点で、その子の人格が決定してしまうと見たのである。離乳食の始まる前の親の育て方が、子供の人格に決定的な影響を与えてしまうと考えたのである。

 ところが、現在の医者たちは昔の言い伝えて来たこの教えを迷信だと決めつけ、3歳児神話を否定することに躍起になっている。特に仕事のために育児の時間を充分に取れない女医たちは、この3歳児神話を否定することを母親たちに教えているだけでなく、自らも実践して育児をせずに、保育園に我が子を預けながら仕事をしてしまっているのだ。

 勿論、食事さえ与えておけば、子供は肉体的には成長する。問題はそれではきちんと精神的に成長させることができないということなのである。子供が精神的にきちんと成長していくためには、両親の育児の仕方が大いに影響を持っており、それなくしては子供は健全な人格を作り上げていくことができないのだ。

 医者たちが3歳児神話を否定するなら、母親たちは3歳児以下の子供たちに構わなくても健全に育つ筈ではあるが、現実問題としては少年犯罪は多発しているし、学校ではイジメや自殺が絶えたことはないのだ。ということは医者の3歳児神話の否定という考え方が間違っているということなのである。医者たちが育児の現場で出鱈目な学説を展開してしまえば、そういう育児を受けて育ってきた子供たちの悪魔のツケを、学校や警察が処理しなければならないのである。

●母性愛は子供を甘えさせ、守り、見守ることこそが基本

 子供の人格形成に最も重要な役割を果たすのが、母親である。母親が母性愛を子供に与え続けるからこそ、子供は健全に人格を形成していくことができるのである。子供はとにかく母親からの母性愛を必要としている。母性愛は絶対肯定の愛であるがゆえに、母性愛を充分に貰えねば、自分の存在を肯定することができないからだ。

 それゆえ、母親は子供に充分に甘えさせることだ。子供はこの世がどういう状況になろうとも、母親のことが一番大好きなのである。だから、子供は母親に甘えたがるのである。子供が抱っこを要求することは、子供がただ単に抱っこをしてほしいだけでなく、母性愛の発露として抱っこして欲しいということなのである。子供が抱っこを要求しているのに、「歩けるでしょ」と突き放してしまったら、子供は自分の存在を否定されたと思ってしまうのである。

 母親は子供を充分に守ってあげることだ。子供は自分が弱い存在であるということを知っており、そのため母親の影に隠れようとする。人見知りが激しいのは、母親以外の人間は基本的に危険だと看做しているからなのである。だから、人見知りをしているのに、無理矢理に他人に挨拶などしなくてもいいのである。それよりも抱き締めながら、「大丈夫だよ」と励ましの声をかけてあげるべきなのである。

 子供は母親から充分に母性愛を貰うと、母親から離れて動くようになるので、その際はいつまでも手元に置いておくのではなく、子供を手放して、見守るようにすればいいのだ。子供は自分は母親から見守られていると解っていれば、自分が今まで知らない世界に突き進んでいき、自分の世界を広げていくようになるのである。

 母親が育児をしていて、最大の難関は、「構うべきことは構え」ということであり、かといって「子供に構い過ぎるな」というバランスを巧く取ることなのである。母親が子供に構わなければ子供の人格がおかしくなってしまうし、母親が子供に構い過ぎれば子供の人格は駄目になってしまうのである。これだけは育児の現場で経験値を積みながら、自分なりの結論を出していくしかないのだ。

●母親も一生懸命なら子供も一生懸命

 新米ママなら、初めての育児なのだから、一生懸命になっているものだ。しかし、その努力は空回りしている部分もあって、何度も失敗をしでかしてしまうものだ。時には育児で涙を流し、時には自己嫌悪に落ち込んだり、時には「自分は母親として失格だ!」と思うからこそ、いつの間にかに母親としてきちんと成長していくのである。

 新米ママは育児を一生懸命にやっているからこそ、育児には思い出がたくさんあるのである。育児の仕方を試行錯誤しながら掴み取っていくからこそ、育児の仕方が朧げながら解ってくるのであって、育児に於いて悪戦苦闘することは絶対に必要不可欠なことなのである。

 子供の方も未熟な母親から育てて貰うことに一生懸命になっており、子供はその未熟な母親といえども、未熟な形で育てて貰うことで、子供は一生懸命になって成長していくのである。子供は何も完璧な母親を望んでいるわけではないのである。未熟でもいいから、子供に向き合って育児をする母親を求めているのである。

 育児をするのに、育児書や医者に頼ってしまうと、なかなか育児が巧く行かなくなってしまう理由はここにこそあるのだ。育児で最も大事なのが、母親がちゃんと子供に向かい合っているのかということだからだ。それなのに母親が自分の子供にではなく、育児書に向かい合ってしまったり、医者に向かい合ってしまったら、そのアドバイスがいかに優れたものであっても、実際の育児の現場では絶対に巧くいかないのだ。育児の仕方というのは、母親の存在抜きに存在しえないものであって、まずは母親の気持ちなのである。

 育児に悪戦苦闘していれば、いつの間にかに育児の仕方は身についていくものなのである。子供が成長していき、母親がそれほど手間をかけなくてもよくなり始めた時でも、母親が自分の子供に向かい合っていれば、育児は順調に行くものなのである。自分の子供が言葉を初めて喋ってくれた時は嬉しくても、その後に子供が下らないことを喋ってくると途端に不機嫌になってしまうものだ。それでも子供に向き合って、子供の話して来ることを聞くからこそ、子供は段々レベルの高い話をしてくるようになるのである。

●夫婦仲が良ければ育児は巧くいく

 家族の中で愛がきちんと流れていくためには、夫婦仲を良くしていくことは絶対に必要なことである。夫が妻を愛し、妻が自分は夫に愛されていると感じているからこそ、我が子に充分な母性愛を与えようとしてくるのである。母親が自分の夫と仲が悪く、自分の子供だけを愛しても、正常な母性愛は出て来ないものなのである。

 愛は家族の中で循環しているものなのだ。愛は家族の中を循環することによって愛が増大していくのだ。妻は夫から愛されることが嬉しければ、子供をきちんと愛そうとするし、子供もきちんと愛が貰えればスクスクと成長していくのだ。夫はそういう妻や子の姿を見ると、益々仕事に一生懸命になって、収入を増やしていこうとするのだ。

 いくら育児をしているからといって、育児だけをしていてはならないのだ。夫婦関係にも充分に気を配って、夫婦仲を良好なものにしていかねばならないのである。夫婦仲が良ければ、育児は巧く行くのだ。夫婦喧嘩をしあっているのに、育児が巧く行くということは有り得ないのだ。

 新米ママなら育児が未熟だから、夫に育児を手伝ってほしいと言ってしまうものだ。しかし、夫に育児を手伝わせてしまうと、肝腎な仕事が疎かになってしまい、仕事が巧く行かなくなってしまうのだ。そうなれば夫は妻に対してきつく当たって来るようになり、そして夫婦喧嘩が始まってしまうのである。妻が自分に良かれと思ったことが、夫婦仲を破壊してしまうことになってしまったのである。

 夫は育児に直接参加していなくても、生活費を稼いで来ることで最大の貢献をしているものなのである。まずはそこを認め、夫を褒めてあげることなのである。夫も妻から認められ褒められていれば、余力がある時は自然と育児を手伝ってくれるようになるものなのだ。

 子供は父親と母親が喧嘩している家庭では健全に育つことができない。母親から母性愛を貰ったり、父親から父性愛を貰ったりするどころではないからだ。育児がどうこのうと言う前にまずは夫婦が仲直りして、夫婦仲をきちんとしておくことである。そういう夫婦のもとでは、子供は自然と健全に成長していくものなのである。

●胎内記憶の告白

 子供が3歳児になって行われる最大の行為が、「胎内記憶の告白」であろう。胎内記憶は、2歳だと巧く言えず、4歳だと消えてしまうのだ。明らかに3歳児は他の年齢の子供とは違うのである。3歳児でなければ、話してくれないものだって、この世にはするのだ。

 胎内記憶はすべての3歳児が話して来るわけではない。出産時に母親の体から胎内記憶を消すホルモンが分泌されてしまうために、大方の赤ちゃんは胎内記憶を失ってしまうのだ。3歳になっても胎内記憶を持っている子供は、せいぜい半分くらいで、しかも、胎内記憶をすべて覚えているわけではなく、記憶の断片を繋ぎ合わして、話してくるのだ。そのため、母親から見ると、胎内記憶に多少の食い違いが出て来るのだ。

 我が子から胎内記憶を告白されると、殆どの母親たちは感動して感涙を流すという。赤ちゃんは決して白紙状態で産まれてきたのではなく、妊娠中に人格の基礎を形成しており、ということは子供の最も大事な部分が、実は母親のお腹の中で作られたということであるからだ。

 昔から妊婦は感情を爆発させることがないよう、自宅で平穏な日々を過ごすべきとされてきたし、『幸せ色の出産ラブストーリー』でも妊娠中は夫婦仲を良くするよう最大の注意を払ってきた。なぜなら、妊娠中に平穏で最低限の幸せが確保される生活を営んでいれば、お腹の赤ちゃんは脳を巧く形成しえて、出生後に健全な人格を形成することになるからである。

 胎内記憶の告白は、ただ子宮内という目に見えぬ生活のことを知ることができるのではなく、子供の人格形成に、実は母親こそが最も深く関わっているということが解って来るのである。だから、母親たちが自分の子供から胎内記憶の告白を受けると感動してしまうのである。自分の子供にただ肉体的な要素だけが遺伝していくのではなく、母親が持っている精神的要素までが継承されていくからである。

●三歳以前の記憶の消去

 3歳児になれば、その子の人格もほぼ形成され、喋ることも充分にできて、人間関係を構築していくこともできる。しかし、そのまま成長していけばいいのに、4歳か5歳までの間にそれまでの乳幼児期の記憶が消去されてしまうのである。だから誰も乳幼児の記憶がないわけである。

 なぜ、脳がこのような措置を取るのか、正確な所は解らない。ただ、乳幼児期の不要な記憶を消去することで、新たな人生を切り開こうとすることだけは確かなようである。乳幼児期の記憶をいつまでも持っていては、新たな情報が入って来なくなってしまうので、乳幼児期の記憶を消去することで、新たな記憶が入って来るように仕向けるのである。

 但し、これには例外もいる。記憶の消去のかかり具合が弱く、乳幼児期の記憶を大人になっても持ち続けてしまうのだ。作家の三島由紀夫なんかはその代表例で、「自分は出生直後の光景を見たことがある」と小説に書いたのだが、この文章は作家や文芸評論家から嘘をついていると散々に酷評されてしまったのだ。三島由紀夫を決して嘘をついているのはなく、記憶の消去が弱かったために、出生直後の記憶を持ち続けることができたのである。通常の人々では記憶の消去がなされてしまったために、出生直後の記憶なんて持ち合わせていないのだ。これは記憶の消去がどのように起こったかの違いでしかないのだ。

 現在の人間の教育システムでは、4歳児と5歳児向けには幼稚園を完備している。これは子供の脳の成長からいうと非常に適した教育の遣り方で、この時期から教育を施すからこそ、子供の脳はグングンと成長していくことができるようになるのである。3歳以前は親元で過ごしていればいいのだ。保育園というのは飽くまでも親の都合のために子供を預ける施設であって、子供の脳の成長からいえば、優れた施設ではないのだ。

 子供の脳が充分に成長していないのに、早期教育を施すことは非常に危険なのである。その反面、子供の脳が充分に成長したのに、教育を施さないことも非常に危険なのである。幼稚園はただ単に子供を預かる場所なのではなく、「遊びながら学ばせていく」ということをしておけば、その後の教育が非常に楽に成り、子供は高い知能を形成していくことが可能になるのである。

●人が成長することは嬉しくて、悲しくて、そして楽しいもの

 我が子が成長していくことは嬉しいものなのである。この嬉しさは他の物では代えようがない物なのである。赤ちゃんが成長していく喜びというのは、女性が経験できる喜びの中で最高レベルのものであって、この喜びがあるからこそ、女性は精神レベルを高くしていくことができるようになるのである。この喜びは女性が結婚せずに、仕事だけをしていては、絶対に得られない喜びなのである。

 それと共に、我が子が成長していくことは悲しさを伴うものなのである。母親であるなら、我が子に対して成長を願うと同時に、「いつまでも赤ちゃんでいてほしい」「いつまでも幼児でいてほしい」でいてほしいと思ってしまうものだ。それは育児をちゃんとこなして、幸せな日々を送っているからこそ、時間が止まってほしいと願ってしまうのである。

 そして、だからこそ我が子が成長していくことは楽しいのである。育児は一期一会だ。その一瞬一瞬はもう二度と帰ってこないのだ。 今、育児をしている時に全力を尽くす。自分が育児に全力を尽くしているからこそ、育児は楽しいのである。注意を散漫にして、育児に全力を尽くさなかったら、育児の本当の楽しさなど決して解らないものなのである。

 人間は人間が作りし物に騙されてしまう。自分の経験をそっちのけにして、演劇や映画やドラマや小説や漫画に虜にされてしまうのだ。いくらフィクションの中で遊んでも、現実の世界の方が圧倒的に面白いものなのである。育児をしていれば、色々な経験をすることだろう。育児は楽しいことばかりではない。喜怒哀楽を伴うものだ。しかし、そうやって育児をしながら、悪戦苦闘するからこそ、育児の本当の楽しさが解ってくるのだ。

 育児とはうのは、母親の心を変えて行ってしまうものだ。母親は子供を産み育てることで、人が生きていく喜び、悲しみ、そして楽しさを知るのだ。時には怒ったりもするし、落ち込んだりもする。そうやって育児をしていくからこそ、人の命の大切さを知るのである。こういう命の大切さは、実際に自分が経験してみないと解らないものなのである。いくら命の大切さを教えても、妊娠も出産も育児もしたことのない女性たちに解らせるのは無理というものなのである。たとえ「命の大切さを理解しました」と言っても、それは偽善の塊にしかすぎないのだ。

●人間は3歳までに親孝行を果たしているもの

 人間の子供は3歳児が最も可愛くなる時期である。子供が男の子なら、有り得ないような可愛さを発揮してきて、母親はメロメロになってしまうことだろう。この可愛さは他の人間には決して持たざるものだからだ。子供が3歳までは如何なる乳幼児も母親の独占物なのである。

 それゆえ、人間は3歳までに親孝行を果たしているものだ。だから、その後の人生で、我が子に親孝行を強いてはならないのだ。いくら自分が育児で大変な思いをしたとはいえ、それ以上の物を我が子はくれた筈なのである。育児に見返りなど求めてはならなのだ。育児は見返りを要求しないからこそ、育児たりえるのである。

 自分の子供に求めていい親孝行は、大人になったら結婚して子孫を絶やさぬようにすることなのである。自分が育児の楽しい思いをしたのなら、我が子にもそれを味わって、子孫を繁栄させていくべきなのである。子孫の多い家族というのは、それだけ育児の楽しい想いが継承さている家族なのである。

 子供は母親が育児で楽しんでくれないと、大人になっても結婚しないし、結婚したとしても子供を産まないという異常な行動を取ってくるものだ。いくら勉強やスポーツや仕事で頑張ったとしても、育児を超えるような楽しさはないものなのである。子供を産まなかった女性たちには、心の中にまともな愛がなく、どこか寂しげで、常に誰かに対して憎しみを抱いているものなのである。自分の母親が育児で楽しんでくれなかったツケが、こういう形で現れてきてしまうのである。

 人間の人生の中で、育児をしている3年間というのは、決して長い歳月ではないのだ。実際に育児をやってみれば、あっという間に過ぎ去ってしまう歳月でしかない。その歳月ですら楽しめないのであるなら、他のいかなることをやっても楽しむことができないことだろう。

 子供にとってはその3年間で人格の基本が形成されてしまう最も大事な時期のである。子供はその人格の基礎を元にして成長していくのである。3歳児の時に現れて来た性格は、その後の人生でそれほど変わらないものなのである。そういった意味で育児に於ける母親の役割は最重要であるのだ。こういうことはいくら政府が育児支援に乗り出しても、取って代わることができないものなのである。母親が性根を据えて、育児に向き合って、育児を楽しむしかないのである。女の人生が一本道なら、母親の人生だって一本道なのである。

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卒乳の時期

●卒乳と断乳

 乳幼児は一体いつ母乳と縁が切れるかというのは、「この時期です」と明確に定められないものなのである。母乳育児をすれば、子供は正式な食事が始まっても、長らく母乳を飲み続けるだろうし、母親としても母乳を与えることが子供との深い関係を築いてしまうものなので、そう簡単には母乳を与えることをやめることはできないのである。

 母乳育児で乳幼児を育てた場合、「卒乳」が理想的な形となる。卒乳とは子供の方が自然に母乳を卒業するこという。これに対してミルクで育てた場合、「断乳」が通常の形式になる。断乳とは母親が意図的に母乳を与えるのをやめてしまうことをいう。卒乳になれば時期は遅くなるし、断乳をするなら時期は早くなるのだ。

 母乳育児の場合、卒乳の時期は人それぞれなのである。「子供は母乳を飲むのをやめたくなったら、自然と卒乳する」という説明できない。2歳までは正式な食事を与えても、それ以降も授乳をし続けるのが一般的だろう。2歳代で卒乳する子もいれば、3歳代で卒乳する子もいる。

 幼稚園児になると母乳を飲むのをやめるという子供は多い。さすがに幼稚園児になれば、友達との情報交換が進むので、他の園児がやっていなければ、恥ずかしがって母乳を飲むのをやめてしまう。でも、幼稚園児でも母乳を飲んでいても構わない。幼稚園児が母親の乳房をしゃぶっている姿は、ミルクで赤ちゃんを育てて来た人には驚きの光景だが、別にそれがどういう問題を引き起こすのでもないのだ。どんなに遅い子供でも、小学生になれば自然と卒乳していくのだ。

 ミルク育児の場合は、出生後、早い段階でミルクに切り替えるので、断乳という方法を取るしかない。ミルク育児なら卒乳という選択肢は発生しないのである。それゆえ、子供がいつになったら母乳を飲むのをやめてくれるかという問題は、母乳で育てた母親のみに発生するのである。

●母親の都合で断乳しない

 折角、母乳で育てたのに、母親の都合で断乳しないことだ。多くの場合は医者から言われたからなのであるが、医者は母乳育児とミルク育児とではまるで育児の仕方が異なってしまうということが解っていないのだ。母乳育児を選択したのなら、母乳を与えていることに関して、医者のアドバイスを拒否することだ。

 医者たちが勧める断乳とは、オッパイに絵を描いたり、唐辛子を塗ったり、絆創膏を貼ったりと、滑稽極まりない幼稚な行為なのである。この手の断乳は、赤ちゃんは母親から拒絶されたと思うようになり、その後の育児に悪影響が出て来るものなのである。赤ちゃんの方がまだ母乳を飲みたいと言っているのに、無理矢理に断乳などすべきではないのだ。

 母乳育児の場合、2歳を過ぎて、離乳食が終わって正式な食事は始まれば、免疫学的にも栄養学的にはもう母乳は必要ないのである。では、なぜ母親が母乳を与えているかといえば、それは母性愛の発露からなのである。子供がオッパイを吸ってくれることで、自分の母性愛が刺激され、母性愛を与えてしまうのである。だから、本来は必要ないのに、いつまでも母乳を与え続けてしまうのである。

 卒乳の主導権を握っているのは、飽くまでも子供の方なのである。子供がオッパイを飲まなくても、母親からの母性愛をきちんと感じられるようになったら、子供は自然とオッパイを卒業していくのである。母親が主導権を握れるのは断乳の方であって、卒乳では握ってはならないのである。自然の流れに身を任しておけばいいのである。

 医者たちは母乳をいつまでも与えていると虫歯になるというが、母乳を飲んで虫歯になった子供などいない。それは歯磨き不足で虫歯が起こるのであって、母乳を与えることで起こるものではないのだ。母乳にはカルシウムが含まれているので、子供が母乳を飲めば、歯が健康になり、虫歯など1本もなくなるのである。寧ろ、母親の方が食事の際にカルシウムを摂取して、カルシウム不足にならないように心掛けることなのである。絶対に卒乳の振りをして断乳をしてはならないのである。

●授乳は最高の乳癌予防

 早すぎる断乳は乳癌を生むことになる。乳癌は乳管が詰まって癌が発生してくるのだが、折角、赤ちゃんを産んだのに、早くに断乳してしまえば、乳管を余り使っていないことになってしまい、そこが癌化して乳癌になってしまうのだ。人間の各器官は使わなければ劣化していくのであって、乳房も授乳で使わなければ、表面的には形は崩れていないだろうが、内部ではしっかりと劣化が始まり、そこは癌細胞の格好の棲家になってしまうのだ。

 授乳は最高の乳癌予防であるといっても過言ではないのだ。乳癌検査を受けるより、3人以上の赤ちゃんを産んで、母乳で育てれば、絶対に乳癌になどならないのだ。女性として生まれたのに、赤ちゃんを産まなかったとか、たとえ赤ちゃんを産んでもミルク育児をしてしまったら、その代償は自分が乳癌になることで支払うことになるのである。

 母乳をきちんと出していない女性が、乳製品を始めとする動物性脂肪を大量に摂取してしまうと、乳癌になる危険性が飛躍的に増大する。日本では近代化以前は牛乳を飲まなかったので、乳癌の発症率が非常に低かったのである。犬や猫、人肉すら食べて来た中国人たちは、あれだけ食に貪欲なのに、なぜか牛乳を飲んで来なかったのである。牛乳というのは、危険な食品であると解っていたからこそ、中華料理では乳製品を使用して来なかったのであ。

 乳癌の発症時期は40歳以降となってくるのだが、これは加齢による女性ホルモンの分泌量の低下で乳房に変化が生じたからなのである。女性は40歳代の或る時期から急激に女性ホルモンの分泌量が低下していくので、ただでさえ更年期障害に陥ってしまう。この女性ホルモンの分泌量の低下が乳房にも影響をもたらして、乳房の中に癌細胞を発生させてしまうのである。

 女性ホルモンは体を冷やす副作用を有しているので、赤ちゃんを産まずに母性ホルモンを出さなかった人は、慢性的な低体温になってしまっているので、癌細胞が増殖し易い環境を与えてしまっているのだ。癌細胞と言うのは、女性が平均体温である「36.5℃」であったら、増殖できないのである。体温が平均体温を下回るからこそ、癌細胞は増殖できるのである。

●母と子の絆

 子供のいる母親が、いつまでも母乳を与えるというのは、子供に母性愛を与えるためにも、自分が乳癌にならないためにも、必要なことなのである。更に親子の関係とは他人がとやかく言えないものであって、母親が子供に母乳を与えることによって、母親と子供との間に深い絆が結ばれ強まっていくのである。

 母乳育児を選択した母親が、卒乳の時期に悩むのは当然のことであって、母と子の絆が目に見えて存在してしまうからこそ、そう簡単には卒乳できないのである。こういうことは他人から何を言われても気にしないことだ。他人の意見を聞き入れた所で、その他人は自分に取って代わることなどできないのだ。飽くまでも我が子が自分の母乳を必要としているから、子供が大きくなっても与えていけばいいのである。

 卒乳は子供の方から自然と起こるものだ。母と子の絆がしっかりと結ばれて、子供の心の中が母性愛で満たされれば、子供は或る日突然に母乳から卒業していくものなのだ。卒乳する時は、子供の方も「これが最後だ」と解っており、男の子なら「これが最後だからね!」と勇ましく言ってから母乳を飲んで、それが最後の授乳になるのだ。女の子なら、もっと可愛らしく言って、母乳から卒業していくことだろう。

 自然な形で母乳から卒業させれば、その後の親子の関係も順調に成長していくことだろう。子供の方は自分は母親から拒絶されることなく、充分に受け入れられて育ったということは、その後の人生に於いて大きな自信となって、外に向かって成長していくことになるからだ。母親と子供が得体の知れないトラブルを抱えてしまうのは、実はそのトラブルの発生原因よりも、乳幼児に時に断乳を受けてしまい、母親から拒絶されたと思ってしまっているからなのである。断乳は子供の心の成長に非常に悪い影響を与えてしまうのである。

 赤ちゃんに初めて母乳を与える時は、自然と始まっていくものだ。初産なら出産後48時間経つと、乳房が膨らみ、初乳が出て来るのである。だったら、母乳育児が終わる時も自然の流れに身を任せて、母乳育児を終わらしていけばいいのだ。自然の流れに身を任しておけば、自然の内に終わるのである。それを理性の力を使って人為的に終わらそうとするからこそ、凄まじい問題が家庭内で発生してしまうようになるのだ。折角、母乳育児で育てて来たのだから、最後まで楽しい気持ちのままで終わらせてあげれば、大きくなった我が子に世界で最高の素晴らしいプレゼントとなるのだ。

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オムツ取り合戦と寝小便合戦

●「オムツからの卒業」

 「オムツからの卒業」は、もっと前に書いておくべきだったのだが、かなり遅れてから出すことにした。というのは、「オムツからの卒業」で最も苦戦するのは、紙オムツで育った赤ちゃんたちであり、オムツからの卒業が異様に遅れてしまうのだ。布オムツを使って赤ちゃんを育てれば、オムツからの卒業に苦戦することはないからだ。

 基本的にオムツは離乳食を開始する2歳前までに取れるものである。赤ちゃんは母乳を飲んで育っている時は、ウンチは臭くないのだが、離乳食を食べ始めると途端にウンチが臭くなり始めるからだ。しかも、二足歩行を開始すれば、オムツがあれば邪魔になるので、赤ちゃんの方も二足歩行ができればオムツを脱ぎたがるのだ。布オムツで育てたのなら、どんなに遅くても2歳前までに取れるものだし、多くは1歳代のどこかでオムツを卒業してしまうものである。オムツは自然としなくなるものなのだ。

 しかし、紙オムうで育った赤ちゃんはそうはいかないのだ。オムツからの卒業が、大幅に遅れてしまい、2歳代になってもオムツをしているものだし、下手をすれば3歳代になってもオムツをしているものなのだ。布オムツと紙オムツとではどうしてこれほどまでに差が開いてしまったのかというと、それはオムツの構造自体が違うからである。布オムツだと小便をするたびにその小便で膀胱に刺激が行き、赤ちゃんは常に泣かざるをえなくなるからだ。だが、紙オムツだと赤ちゃんが小便しても紙オムツが小便を吸収してしまい、そのために赤ちゃんは小便のたびに泣くことがなくなるので、どうしても膀胱の発達が遅れてしまうのだ。

 オムツが取れるのが、2倍にも3倍にもなってしまうというのは、育児をしている上で非常に大きい。布オムツは面倒臭いものでも、赤ちゃんのオムツが1歳代で卒業してパンツになってくれれば、赤ちゃんのシモの世話がなくなり、育児が途端に楽になるからだ。しかし、紙オムツは当初は楽チンなものであっても、いつまでもオムツの時期が続き、しかもそれだけ余計にお金がかさんでしまうのだ。

 オムツというのは、本来、二足歩行をすることには対応ができていない。オムツは寝たきりになっている者が使うものであって、赤ちゃんといえども二足歩行が始まれば、オムツは邪魔になるのは当然のことなのだ。それなのに2歳代や3歳代までオムツをしていれば、足や骨盤が曲がってしまうのは当然で、子供の頃には症状が出て来ないが、成長するにつれて、「椎間板ヘルニア」や「股関節痛」や「O脚」になったりするのだ。「ガニ股」もオムツからの卒業が遅かったためになってしまったものなのである。

オムツ取り合戦に参加するな

 ウンチをしっかりと便所でできるようになるまで、オムツは必要である。便所でウンチができないのに、絶対にオムツを取ってはならない。母親と子供の間で壮絶なバトルが展開されてしまうからだ。多くの新米ママは、他のママさんたちがオムツからの卒業を試みていることを知って、我が子の現状を無視して、オムツ取り合戦に参加してしまうのだ。

 布オムツで育て、母乳で育てているなら、排便の時期は母乳を飲ませた後だと解っているので、二足歩行が充分にできるようになったら、オマルを買って来て、母乳をあげた後にオマルに乗せて、ウンチをさせればいいのである。しかし、それでオムツが卒業できるのではなく、オシッコはまだまだなので、オシッコもオマルでできるようになったら、オムツは卒業である。

 俺は赤ちゃんがオムツから卒業するのは、このようなものだと思っていた。ところが紙オムツで育て、離乳食が早いとそうはいかないのである。離乳食を早くから食べさせると、ウンチの時間がランダムになってしまうので、排便の時間が正確に掴めないのである。だから、新米ママが赤ちゃんをオマルに乗っけて延々と待つということをしなければならなくなるのである。

 「トイレトレーニング」なるものが必要になるのは、紙オムツで育ててしまった赤ちゃんだけである。ウンチがままならないわけだから、その次のオシッコも巧くいかないものだ。オムツを穿いている時に、小便すれば膀胱を刺激するということをしなかったから、尿意を感じたら、少し待つということができないのだ。小便をしたくなれば、垂れ流しである。

 我が子を紙オムツで育ててしまった場合、オムツ取り合戦には絶対に参加しないことだ。紙オムツならオムツからの卒業が遅れて当然だからだ。トイレトレーニングを延々と行って、ウンチがオマルでできるように仕向けていくことだ。但し、オマルでウンチができたからといって、オムツを卒業させてはならない。オシッコはまだまだなので、パンツにした所ですぐにお漏らしをしてまうのだ。余所の赤ちゃんのことは気にせず、マイペースでやっていくことだ、

●昼のパンツと夜のノーパン

 オムツを卒業して、パンツにすると、四六時中、パンツでいていいわけではない。起きている時はパンツを穿いて、夜はノーパンでいいのである。パンツは母親たちが思っている以上に腰を締め付けてしまうので、睡眠中に骨盤が成長していかなくなるし、血液やリンパ液の流れをも悪くしてしまうのだ。大体、パンツを穿きながら寝かされている子供と言うのは、腰回りが非常に小さくなっているものだ。

 夜はノーパンで寝かせると、骨盤は充分に成長できるし、血液やリンパ液の流れもよくなるので、歩いている際に転倒しにくくなるし、風邪などの病気もひきにくくなるのだ。子供にパンツをつけさせた上で寝かしつけている母親は、自分のパンツをつけて寝ている筈なので、自分もパンツを外してノーパンで寝てしまうことだ。ノーパンで寝ると血流が良くなるので、睡眠中に老廃物や毒素が回収され易くなるので、便秘が解消されるし、お肌は艶艶になるし、体はスリムになっていくのだ。

 夜はノーパンだからといって、昼もノーパンではいけない。昼のパンツは動き易い物にして、小便をし易い物にすべきなのだ。オシャレなどは二の次なのである。子供はパンツの穿き心地が悪いと、すぐに脱いでしまうので、そういう時は無理に穿かせるのではなく、これは穿きにくいパンツなんだなと思うことだ。

 子供は成長が早いので、いつまでも小さいサイズのパンツを穿いておかないことだ。小さいパンツだと骨の成長に悪影響を与えてしまい、骨盤が充分に発達しなくなってしまうのだ。特に女の子の場合、腰には子宮や卵巣があるので、これらの大事な器官が正常に発達してくれなくなってしまうのだ。子供用のパンツは安い物なので、僅かなお金をケチらないことだ。

 女の子の場合、スカートを穿くとパンツを剥き出しにしてしまうので、お尻が冷えてしまうのだ。そのため子供ながらにして便秘をしてくるという事態になってしまうのだ。温かい日にスカートを穿かせるのは構わないが、寒くなってきたらズボンを着用させ、お尻を冷やさないようにすることだ。これをするだけでも便秘は一気に解消されていくのである。

●子供は寝小便をするもの

 子供がオムツを卒業し、パンツになってからするものといえば、寝小便である。これには散々手古摺ってしまうものである。そういうい時は「「子供は寝小便をするもの」と割り切ってしまうことだ。子供の方もこれは意図的に行ったわけではないので、子供が寝小便をしたら、別に叱ることなく、きちんと処理してあげればいいのだ。

 ただ、寝小便対策はしておきた方がいい。まずは、日中に体を動かして汗を流させ、就寝前に水分を補給させないことだ。寝小便は体内に余分な水分があるからこそ、してしまうのであって、体内に余分な水分がなければしないものなのだ。特に就寝直前に水分補給をさせないと、寝小便をしてくる確率は減るものなのである。

 次に体を温めさせることだ。寝小便する子供は体が冷えている傾向にあるので、食事で温かい物を取らせるとか、風呂に入って体を温めるとか、温かいパジャマを着させて寝かせると、寝小便の回数は減るものである。夏は意外と体を冷やしてしまうので、クーラーなどは余りつけずに暮らした方がいいのだ。夏といえどもあ風呂に入らせて、体を温めることだ。

 子供も大きくなってくれば、夜に小便の合図をするようになるので、そういう時は子供にきちんと付き合うことだ。母親としても眠たいから、「自分で勝手に行け!」と言いたくなるのは解るが、子供は暗闇が怖いので、便所に行けないのだ。それで寝小便をしてしまうのである。

 寝小便を頻繁に起こすようであるなら、「銀杏」を食べさせることだ。銀杏は夜尿症を防止するので、子供の寝小便には特に効果があるのだ。銀杏はそのまま食べるのではなく、「茶碗蒸し」にしてたべさせればいい。但し、子供にとっては銀杏は中毒症状を起こす危険性があるので、一日5粒以上を絶対に食べさせないことだ。子供なら銀杏は1個で充分なのだ。

 子供が寝小便をしなくなれば、親の手から離れていくものだ。子供は寝小便をしなくなれば、親から自立し始めていく。それまでが自分の子供が自分の子供らしくいられる期間なのである。それゆえ、寝小便しても激しく叱るようなことはせず、温かい母性愛で包み込んであげることだ。そうすれば、子供が思春期を迎えても、親に得体の反抗をしてこなくなるのだ。

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子供には熱中するまでテレビゲームをさせない ~恐怖のゲーム脳~

●ゲーム脳の恐怖

 子供向けのゲームソフトは、それを販売している日々企業が努力を行っているために、いかなる子供がやったとしても、面白くなるようにできている。勿論、子供も遊びでやる紛にはテレビゲームをやっても構わない。寧ろ、テレビゲームをすることで、脳が刺激され、脳を成長させていくことができることだろう。

 しかし、子供がテレビゲームに熱中し、毎日何時間もテレビゲームをやるようであるなら、それは非常に危険なことなのだ。脳の成長をもたらすどころか、脳を「ゲーム脳」にしてしまい、脳の成長を止めてしまうからだ。ゲーム脳になってしまうと、脳の前頭前野が弱体化し、創造力がなくなってしまうのだ。

 更に人間の脳がゲーム脳になってしまうと、現実への適応力を欠いてしまい、テレビゲームにしか対応できなくなり、現実の生活でのトラブルを爆発的に増加させてしまうのだ。子供の脳がゲーム脳になった所で、子供にとっていいことなど一つもない。せいぜい凶悪犯罪者の予備軍になってしまい、もっと大きくなれば凶悪犯罪を犯すような少年少女になってしまうことだろう。

 母親としては、子供がテレビゲームをやっていると静かにしてくれるので、遂々テレビゲームを与えてしまいがちだ。しかし、子供がテレビゲームをそこそこやるというストッパーを持ち合わせていないのだ。テレビゲームを遣り始めれば、とことんやってしまい、テレビゲーム中毒になってしまうのだ。

 子供の脳は未だ成長期にあるので、子供の脳がゲーム脳になってしまえば、その悪影響は甚大なものになってしまうのだ。どんなにテレビゲームを巧く使いこなしても、それ以外の分野では何もできなくなってしまうのだ。子供は人間関係の仕方を学ばねばならないし、自然との付き合い方を学ばねばならないし、子供らしい頭の使い方や体の動かし方をやらなければならないのだ。これらできなければ、その子供が異常化していくのは当然のことなのだ。

●キレる子供のメカニズム

 子供は一見いつも遊んでいるように見えて、実は本能を鍛えている。子供は食事で満腹になれば、それ以上の物は絶対に食わない。子供は眠たくなればどこでも寝てしまう。子供は便意を催すと、全力をかけて排泄しようとする。これらすべてのことが本能を鍛えるために重要なことなのだ。これらのことは子供が体を動かしているからこそできるのである。子供にとっては体を動かしながら遊ぶことこそ、子供の本当の仕事なのである。

 しかし、ゲーム脳になってしまうと、子供が遊びながら体を動かそうしなくなってしまうのである。だから、本能が弱くなり、感情的になるのだ。確かに子供は時たま感情的になるが、その感情は高が知れたものである。ゲーム脳を持つ子供が感情的になると、もう手のつけられないように感情の爆発を行ってくるのである。

 それに、人間は創造的なことをしていないと、理性が衰えてしまい。物事を論理的に考えるということができなくなるのだ。ゲーム脳は、要はゲームに対する条件反射で鍛えられたものであり、何か物事を深く考えているわけではないのだ。そのために理性が衰えてしまい、普通の子供なら理解できるものであっても、理解できなくなってしまうのだ。

 テレビゲームばかりしていると、行動を起こしていないから、意志が弱くなるのだ。いかなる物事というのは、それをやってみれば失敗の連続だ。何度も失敗して、何度も師試行錯誤を繰り返すからこそ、物事を成功させることができうのである。ゲーム脳になってしまうと、自分が行動を起こしていないのに、頭の中だけで処理してしまおうという性癖が身についてしまうので、何も成功することができなくなるのだ。現実というのは、テレビゲームのように行かないものなのである。

 ゲーム脳を持ってしまうと、感情が乏しく、口数が少なく、物忘れが激しくなる。明らかに脳が委縮してしまっているのだ。こういう子供は自己中心的にしか動けないから、すぐに人間関係でトラブルを引き起こしてしまい、それで感情を爆発させて、キレてしまうのだ。テレビゲームはやってみれば確かに面白い。しかし子供の脳がゲーム脳になるまでやらしてしまえば、本能が衰え、感情や理性や意志が弱体化し、テレビゲームしかできない子供になってしまうのだ。

●ゲーム以外で熱中できるものをやらせる

 テレビゲームほど日本人に悪影響を与えた物は他にない。一番解り易いのが、オリンピックでのメダルの獲得数である。日本でテレビゲームが普及し出すと、それに比例するかの如くに、メダル獲得数は現象の一途を辿ったのだ。このメダルの現象を、「日本人は白人よりも体力が少ない」という人種学的な説明をする人たちがいるものだが、ところが、韓国にしても中国にしても、人種的には日本民族と同じなのに、オリンピックでは善戦して、かなりのメダル数を獲得しているのである。明らかに日本国内で異常なことが子供たちに起こったからこそ、日本のメダル獲得数が激減していったんである。

 その異常なことはテレビゲームの普及以外にないのだ。子供が成長期なのにテレビゲームに熱中しているからこそ、脳や体を鍛えることができず、世界で全く通用しない子供になってしまったのだ。この成長期は二度と帰って来ないので、この時期に脳や体を成長することができなければ、どうやったとしても取り返しのつかないことになってしまうのだ。

 子供がテレビゲームに熱中するよりも、テレビゲーム以外で子供が熱中できるものをやらせることだ。子供は物覚えが早いので、熱中してやらせれば、途端に上達してしまうものなのだ。子供に芸事をさせてしまい、テレビゲームをしている暇をなくしてしまうのだ。そうすれば自宅にテレビゲームがあったとしても、テレビゲームを遊び程度しかやらなくなるものなのだ。

 子供が成長期なのに、テレビの前に齧りついていたら、健康に悪いに決まっているのだ。背骨は猫背になり、筋力を衰え、近眼になっていくことだろう。勉強をやって近眼になったのならまだ同情の余地があるが、テレビゲームをやりすぎて近眼になったら、そいつは余程の馬鹿である。

 子供にはとにかく体を動かさせることなのだ。体を動かしていれば、子供の体は健康に成って、成長していくのだ。子供に芸事を教えることがなぜいいかといえば、子供は芸事を覚えていくに当たって、どうしても体を動かさざるを得なくなってしまい、それが自然と健康に繋がり、成長へと繋がっていくからなのだ。

●19歳までは脳の成長期であることを忘れるな

 この世には大人にとって良くても、子供にとっては悪い物がたくさんある。例えば、「ポルノ」なんかいい例で、大人がポルノを見て性欲を刺激することは良くても、それを子供がやってまったら、途端に悪影響が出て来るのは当然のことだ。子供はまだ判断力が低いために、それを正しく使うということができないのだ。

 女の子なら成長期に化粧品を使いすぎてしまえば、人体に悪影響が出て来るのは当然のことなのだ。肌が成長を繰り返している時に、化粧品を使えば、ホクロやシミになってしまうのは当然のことなのである。素肌を晒しても充分に生きていけるのだから、それで生きていけばいいのである。

 母親は子供といつも一緒にいるために、子供に大人と同じことをやらしてもいいのではないかという錯覚に陥ってしまう。しかし、人間は19歳までは脳の成長期であることを忘れてはならないのだ。子供がテレビゲーム中毒になるかは、その子の親の責任であるのだ。子供には経済力がない以上、その子にテレビゲームを買い与えたのは、その子の親であるからだ。

 子供の心身を健全に育てたいのなら、子供を外で遊ばせることだ。子供は遊んでいる内に、脳も体も勝手に鍛えてしまうのである。子供をより健全に育てたいのなら、幼い内に芸事を習わしてしまうことだ。そうすればその芸事が身につくだけでなく、この世を生きて行く上での人間関係をしっかり学べることができるのである。

 結局、人間は外に撃って出て行かない限り、成長が止まってしまい、その内に心の闇に覆われてしまうようになるのだ。少年による凶悪犯罪が起こるたびに、精神科医たちがその少年の心の闇をなんたらかんたらと言ってくるのだが、その少年の心に心の闇を作ってしまったのは、その子にテレビゲームを与えてしまったその子の親であるのだ。

 子供がテレビゲームに熱中しているのは、異常なことなのだ。成長期には体を動かす遊びをしていくべきなのである。体を動かしていれば、心身ともに健全に成長して行くのである。子供がテレビゲームに熱中させるくらいなら、芸事を教え込んで体を動かさせるべきなのである。そうすれば、その子の脳を正常な形で成長させることができるようになるのである。

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いつの世も子供はアホだと決まっている ~育児を巡る加点主義と減点主義の戦い~

●無知だからこそ知る喜びがある

 嘗て、ジョン・ロックは「人間は白紙状態で生まれてくる」という説を唱え、すべての知識は経験から得られるとして、経験論に基づく哲学を作り上げた。しかし、赤ちゃんの生態が解ってくると、ジョン・ロックの学説は誤りということが明らかになった。赤ちゃんは生まれながらにして泣くこともできるし、オッパイを見つければ吸いつこうとする。そして赤ちゃんには生得観念なんてないと思われていたが、赤ちゃんは明らかに胎内記憶を持っており、ただそれを言葉で喋れるだけ発達していないということに過ぎないのだ。

 しかも、赤ちゃんは自分が「神の世界」から生まれてきたことを知っており、赤ちゃんの肉体は精子と卵子の融合によって出来たものであっても、赤ちゃんの霊的な部分については神によって作り出されたということを知っているのだ。神とか、霊魂とか、宗教とかは、人間が生まれながらにして持っているものなのである。

 ところが、人間は理性の力が強まってしまうと、人間が持つ本能レベルの能力や、生得観念や、宗教の力を否定しようとしてしまう。理性というごく小さな能力だけで世界を認識し、行動しようとしてしまう。これこそが大人と子供の最大の矛盾点であって、子供はまだまだ本能のままで生きており、理性の力だけに頼って生きているわけではないのだ。

 知識という面に於いては、子供は本当に何も知らないものだ。いつの世も子供はアホだと決まっているのだ。無知だからこそ、知る喜びがあるのである。だから、理性が徐々に発達する時期に、子供はなんでも知ろうとする。この貪欲に知識を吸収しようとし出すと、子供は恐怖の「クエスチョンモンスター」に変身してしまうのだ。

 我が子がクエスチョンモンスターに変身すると、とにかくなんでも質問してくる。このなんでも質問して来られると、親は散々に手を焼いてしまうのだ。質問自体が非常識な質問だからだ。例えば、子供から「風ってどうして吹くの?」と質問されたら、どう答えればいいのだろう? こんなことを質問してくる人は自分の身の周りにはいないものだ。「お前は古代ギリシャのソフィストか!?」と突っ込みを入れたくなるくらいだ。

 これを真面目に答えようとすると、「地球は自転しているから、基本的に風は東から西へと吹くんだ。そして太陽の日照時間は四季では異なり、夏は日照時間が長いから気温が高くなって南風が吹くようになり、冬は日照時間が短いために気温が低くなって北風が吹くんだ。風は動けば山や川や谷にぶつかるから、それによって風向きを変動し、しかも家やビルなどの人工物でも変動するから、かなりランダムな形で動くんだ。」という答えが模範解答になる。

 だが、子供がその解答を聞くと更なる疑問が湧いてきて、「どうして地球は自転するの?」と訊いてきたりする。「風はどこにいった? いきなりガリレオレベルに行くな!」と言いたくなるのだが、クエスチョンモンスターになってしまった子供には無意味な反撃である。このエンドレスで続く質問攻撃に、いかに博識の親といえどもヘトヘトになってしまうのである。

●近くにいると欠点しか見えなくなる

 この点、古代人は神様を使って簡単に説明したことだろう。「どうして風が吹くの?」と訊かれれば、「それは神様が風を引き起こしているからだよ」と答えればいいのだ。子供にとってはそれで満足なのだ。時代が下ると、神様だけでは足りなくなって、妖怪をも生み出して、子供の得体に知れない質問に答えたのだ。そうなると、妖怪といえどもも、決して馬鹿にできないのだ。

 要は、子供がクエスチョンモンスターになった時、科学的に答えてもいいし、宗教的に答えてもいいのだ。しかし、子供への受け答えを知っていないと、この手の質問にはうんざりしてしまうものだ。しかも、子供はクエスチョンモンスターになって知識を溜め込んでいくと、今度は恐怖の「謎々モンスター」に変身してくる。子供が考える謎々って本当に下らないものだ。「知識は力なり」と言われるが、子供は知識を持つと悪用し出すものなのだ。

 子供がこの世の疑問点を持ったり、謎々をしてくるのは、脳が成長した証なのではあるが、親の方としては単純には喜べないものなのだ。近すぎると欠点ばかり目についてしまうものなのだ。だから、子供が質問攻撃をしてきたり、謎々攻撃をしてくると、それを否定的に受け取ってしまい、子供の成長を否定するような行動を取ってしまうのだ。

 子供の質問攻撃にうんざりしている母親たちは、夫婦仲も相当に危険になっていると見ておいた方がいい。夫と近くにいすぎるために欠点しか見えなくなっており、夫の言動をも否定しているからだ。夫は夫で、仕事で頭の中を一杯にしているので、妻がネガティブモードになっていることなどお構いなしになっており、夫婦として危険な状態に差し掛かりつつあるのだ。

 近くにいればすべてのことを見通せると思ったら大間違いなのである。例えば日本の知識人の中には、日本に長く住んでいるのに、日本の悪口を言ってくる人たちがいる。かと思えば、海外に短期間留学した程度で日本の悪口を言ってくる人たちもいるのだ。ところが、現実の日本国は、政治的にも安定しているし、経済力はまだまだ豊かだし、治安だっていいのだ。日本に来る外国人が称賛するのは、「和食の美味しさ」であり、「都市の清潔さ」であり、「国民の礼儀作法の美しさ」なのである。日本の悪口を言う知識人たちは、日本の近くにいすぎるからこそ、日本の良さが解らなくなってしまったにすぎないのだ。

●欠点を指摘するより、長所探し

 子供の質問攻撃や謎々攻撃を受けてうんざりしている母親たちは、まずは子供から離れてみることだ。できれば、難病奇病を抱えた子供たちの姿を見て、我が子が健康に育ってくれていることに感謝すべきなのだ。自分が冷静になった上で、我が子を見れば、我が子の長所がきちんと見えてくるのだ。

 母親がネガティブモードになってしまうと、子供の欠点を克服しようと躍起になってしまうものだ。しかし、いくら欠点を指摘しても、子供は決して良くならないのだ。欠点を指摘するのではなく、長所を探し、その長所を伸展させてしまうと、その嫌な欠点を克服することができてしまうのである。

 子供の好きなことを、その子の得意分野にしてしまえばいいのだ。親が子供を褒められるものを人為的に作り出せばいいのだ。芸事なんてのも、習えば得意分野になるから、子供の頃から習い事をさせると、子供の欠点が気にならなくなってしまうのだ。長所を伸ばしていないからこそ、短所が気になって仕様がなくなってしまうのだ。

 育児に悩む母親たちの愚痴というのは、ひっくり返してみると、実は子供にとっては長所だったということもある。例えば、「うちの子はお喋りで~」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は饒舌である」ということなのだ。「うちの子はいつまでも遊んでいる」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は体力があり運動神経がいい」ということなのだ。「うちの子は遊んだ後の後片づけをしない」とかいう母親がいても、冷静に考えれてみれば、「その子供はきちんと遊んだ証拠であり、病気ではない」ということなのだ。

 物の見方を変えるだけで、実はその子供の長所が見えてくるものなのだ。健康に育ってきている以上、その子供自体に問題があるのではなく、その母親自体に問題があるのだ。ネガティブモードで子供を見ているから、ネガティブなことしか見えてこないのだ。まずはネガティブモードを捨てて、ポジティブモードにしてしまうことだ。そうすれば、ポッジティブなことしか見えてこなくなるのだ。

●最低基準と加点主義

 子供の脳を巧く成長させるためには、母親自体が「最低基準」と「加点主義」というものを持たねばならない。子供の成長に応じて、これだけはやってほしいという最低基準を設け、その上で子供の行為に対して加点していくのである。例えば、ご飯を食べる時は、「頂きます」と言い、食べ終わったら、「御馳走様でした」と言うように教える。その上で、嫌いな食べ物を食べたら、大袈裟なほどに褒めるのである。そうやって育児をしていくと、子供は脳を健全な形で高く成長させていくことができるのである。

 これに対して危険なのは、母親自体が「最高基準」と「減点主義」を持ってしまうことである。子供の成長を無視して、最高レベルのものを要求し、それができなければ減点していくのである。例えば、自分がピアノをひけないのに子供に無理矢理にピアノを教え、しかも子供がコンクールで優勝しないと、執拗に怒りまくるのである。こういう母親のもとで育つと、子供は委縮してしまい、「自分は駄目な子なんだ」ということを心に刻み込んでしまい、事実、その通りになってしまうのである。

 子供が可愛いのは、無知だからである。母親から見れば馬鹿な子供ほど可愛いのだ。なぜなら、馬鹿な子供ほど急激に成長する可能性があるからである。人間は他人が成長している姿を見ると心から喜んでしまう性向を持っているのだ。だから、自分の子供にそんな最高基準など要求せずに、もっと基準を落として、どんどん加点していけばいいのだ。加点していけば、子供の方も勢いづいて、グングンと成長していくことができるようになるのである。

 育児をしていく上で、子供には最低限のことは守らせろ。最低基準は誰でも守れるものだからだ。それができないと、いかなる子供であったとしても叱らざるを得ないのだ。しかし、子供に最高基準など要求しなくていいのだ。子供はそんなに高い能力を持っていないのである。それよりも最低基準を守ったなら、どんどん褒めていけばいいのだ。

 加点主義に立脚すると、我が子の人生は上り調子になる。減点主義に立脚すると、我が子の人生は下り坂になってしまうものだ。子供が質問攻撃をしてくるようになると、母親が加点主義に立つのか、減点主義に立つのか明確になってくるものだ。自分が子供のことを叱りつけているようであるならば、減点主義になっていると思った方がいい。子供が間違ったことをしたのなら、叱るべきことは叱るべきだが、それよりも子供のいい所を探して褒めまくることだ。その方が子供の脳は成長していくことができるのである。

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育児に非常に役立つ「爺力婆力の偉大なる力」

●お爺ちゃん、お婆ちゃんは、人生の経験者

 自分たち夫婦には、夫の両親と妻の両親がいるのだから、この連中を育児に於いて巧く使ってしまうことだ。子供の脳の成長にとって「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」は非常に大事な役割を果たすのである。自分たち夫婦はいくら収入が高くても、未だ人生を経験している身である。しかし、お爺ちゃんお婆ちゃんは人生の経験者として自分たちを先行しているのである。

 現在進行形で物事を話すのと、過去形で物事を話すのとでは、全然違う話になってしまうのだ。育児に追われてしまうと、自分の子供に「あれをしなさい!」「これをしなさい!」と命令口調になってしまうものだが、育児を終えた人なら、「何々をしたいんだよね」「何々が欲しいの?」と子供の意見を尊重した話し方になるのだ。

 育児に真面目になりすぎている母親にとってみれば、祖母の遣り方は子供に対して甘い物に見えてしまうし、育児を経験した祖母にしてみれば、母親の遣り方は強権的で見ていられないのだ。この矛盾は解消せずに巧く利用していった方がいい。というのは、これは育児をしている者と育児をし終わった者との違いでしかないからだ。

 子供にしてみれば、自分の両親だけに育てられれば、「親とはこういうものだ」という短絡的な回路しかできあがらないが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいれば、親とは別にもう一つの違う考え方に接することができるのだ。これによって脳が急激に成長して、様々な発想が可能になってくるのである。

 自分がお腹を痛めて産んだ場合、自分の遣り方だけで育ててしまいたいという考えに陥ってしまがちだが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるなら、巧く利用して育児に貢献させよう。自分たちだけの力では足りないものでも、「爺力婆力」(ジリキバリキ)を使ってしまえば、育児に於けるパワーは充分な物となって、育児が楽しいものになり、子供たちも成長していくことができるのである。

●親では話しきれない話をしてくれる

 育児をしている夫婦というのは若い者たちだから、どうしても同じ話を繰り返すということをしたくない。しかし、子供には何度も同じことを言わないと、脳に記憶されないのだ。そのため、母親が普通の大人のように、1回いえば解ってくれるだろうと思っていると、子供は何も解っていないので、母親が子供に怒りをぶつけてしまうことになるのだ。

 それに比べて、お婆ちゃんというのは、歳を取ったせいか、同じ話を飽きずにしてくれるのだ。これが子供の脳の成長にとって非常に大きな成果をもたらしてくれるのである。同じ話を何度もしてくれれさえすれば、いかに聞かん気の子供でも素直に聞いてくれるようになるのだ。要は手のつけらない子供というのは、この何度も同じ話をして、脳に記憶の回路を作ることができなかったからこそ、母親に対して拒否反応を示しているだけなのである。

 子供のいる父親は、今まさに働き盛りに突入して、妻子を養うために、一生懸命に働かなくてはならない。そのため子供との会話というのが、どうしても二の次になってしまうのだ。仕事で全力を使っているために、子供ときちんと会話をするということができないのだ。どうしても子供と他愛のない話をして終わりになってしまうのだ。

 その点、お爺ちゃんというのは、現役だとしても終わりが近づいているし、退職したのなら気楽に暮らしているものだ。そのために、子供にとっては基本的に似たような立場にあって、巧く会話することが可能になるのだ。子供にとって父親とお爺ちゃんの違いはなんといっても、語彙の豊富さである。生きて来た期間が長いために豊富な語彙を蓄積しており、それを口移しで覚えていくことが可能になるのだ。

 いくら両親が真面目に育児に取り組んでも、話しきれない話というのは出て来るものなのである。実際に育児をしている自分たちではなく、育児から離れた現場から意見を言ってくれる人々というのは貴重な存在なのである。子供の方にとっても、両親だけではなく、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるからこそ、ストレスを分散できて、気楽に生きて行くことが可能になるのだ。

●爺力婆力の有効利用

 自分たち夫婦の親が社会的に問題のある人とか、駆け落ちして結婚した場合などを除いてl、子供にとって祖父母がいるなら、それらを積極的に有効利用をしていくべきだ。嫁姑の争いという不毛な戦いを避けることだ。姑には子供を使って仲良くしていくことだ。きついこと言われても、子供のためだと思って辛抱することだ。

 爺力婆力の有効利用としては、育児を具体的に手伝って貰うことだ。自分たち夫婦が忙しい時には、祖父母に子供を預けて、自分たちの仕事に全力を投入してしまうことだ。祖父母はその間に子供と戯れて遊んで楽しめるし、自分たちも仕事を終えてしまうことができるのである。まさに一石二鳥なのである。

 もう一つは、子供を祖父母の家に行かせて、お泊りさせてしまうことだ。子供にとってはいい経験になるし、祖父母も楽しい思い出になることであろう。夫婦にとっても、子供のいない夫婦水入らずの日を人為的に作り出すことによって、夫婦愛を高めていくことができるのである。育児をしていると、会話のすべてが子供の話題になってしまい、夫婦で夫婦のことを話し合うことをしていないのだ。だから、たまには子供の話題は抜きにして、夫婦だけの会話を楽しめばいいのだ。

 親子3人だけで行楽に行くのもいいが、祖父母を連れていくのもいい。行楽の費用を祖父母が負担してくれる可能性が出て来るからだ。それと荷物などを持って貰えるので、行楽を充分に楽しめることができるようになるのである。子供がいれば海外旅行のような大掛かりな旅行をしなくても、近場に出かけることでも楽しめることができるものなのだ。

 子供にとっては、大人というのは、父親母親だけでなく、違う人たちもいて、その人間関係の遣り取りを学べる絶好の機会を与えてくれるのだ。この世は決して自分の思い通りに動いてはくれない。かといって自分の意見が全く無視されるということもない。人間関係を巧く使っていけば、自分の思いは適っていくのである。その訓練をする機会が多ければ多いほど、人間関係のテクニックが向上していくのだ。

●愛は親が育むもの、優しさは祖父母が育むもの

 子供は両親だけで育てられた子と、祖父母も加わって育てられた子では、知能の面に於いては祖父母も加わって育てられた子の方が高くなる。両親以外の大人たちに接したことによって、両親によって作られた脳の回路とは別に、祖父母によって作られた脳の回路が出来上がることによって、しかもそれが相乗効果を起こして、高い知能を持つことができるようになったのだ。

 両親だけに育てられた子供というのは、大抵、気性が激しい子供になってしまう。親が自分を思い通りに動かして来たために、自分の世の中を思い通りに動かそうとしてしまい、それが実現されないからこそ感情的に怒るようになってしまうのだ。即ち生きて行くために人間関係が下手だということであり、その後の人生で様々なトラブルを発生させていくことになるのだ。

 両親だけでなく、祖父母にも育てられた子供というのは、大抵が温和な子供に育ってしまう。両親だけでなく、祖父母の行動をも見ているので、この世は自分の思い通りに動くことはないが、人間関係を巧く使っていけば、自分のしたいことはできるようになるというのが解っているのである。即ち人間関係が上手なので、トラブルを未然に防止して、人間関係を円滑に進めていくことができるのである。

 愛は人に優しくすることもあるが、愛は必ずしも優しさにならないということなのだ。愛は親が育むものであり、優しさは祖父母が育むものなのだ。両親にとっては、子供の成長のことを考えて、愛を注ぎつつも、厳しいこともしなければならないからだ。母親が母親として落ち着くまで、子供に優しくできないものなのである。お婆ちゃんが孫に優しいのは、母親として成熟しているし、何よりも育児を終えてしまったからなのである。

 最近、若い女性に「好きな男性のタイプは?」と訊くと、「優しい男性が好き」と答えてくるものだが、それだけ人に優しくされることなく育ってきてしまったから、男性に優しさを求めるという頓珍漢な態度を取ってしまうのだ。女性であるなら男性には強さを求めるのが当然の姿なのである。祖父母から優しく接して貰えたのなら、男性に優しさなど求めて来ないものなのである。子供の頃に祖父母に優しくされてこなかったからこそ、男性に優しさを求めてしまい、その結果、男性に優しくされないと、すぐさま破局してしまうのである。

 子供というのは、親がいればきちんと育ってくるものである。しかし、親だけでは何かが不足してくるものなのである。その足りないものは他の人に補って貰うしかないのだ。祖父母が生きている内に、孫を連れて行って親孝行をしておくことだ。そういうことが祖父母を喜ばすことになるだけでなく、我が子の成長にも素晴らしい貢献を果たしてくれるのである。

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寝る子は良く育つ ~子供の脳は睡眠中に成長する~

●子供は長い睡眠を必要とする

 寝る子は良く育つ。頭のいい子供は良く寝るものである。充分な睡眠を取らないと、脳を成長させることがないからだ。人間の脳は睡眠中に成長していくので、子供の頃から大人になるまで、充分な睡眠を取っておかないと、脳を高いレベルまでに成長させることができないのだ。頭がいいから寝ているのではなく、寝ているからこそ頭が良くなっていくのである。

 人間の睡眠は人間にとって非常に重要な役割を果たす。まず「体の修復」という作業だ。人間は1日間活動すれば、それだけ体の各所が傷むので、それを睡眠中に修復するのだ。特に血液は睡眠中に生産されるので、睡眠時間が短すぎれば、途端に血液に異常が出て来て、難病を引き起こしてしまう。子供は自分の体の疲労には敏感で、疲れてしまうとすぐに寝てしまうので、子供が眠たくなった時は寝かしてしまうことだ。

 次に「体の成長」である。人間の体は睡眠中に成長ホルモンが分泌され、それによって成長していくことができる。睡眠時間が長ければ身長が高くなるし、睡眠時間が短かければ身長が低くなる。それほど睡眠時間の長短は人間の成長に甚大なる影響を引き起こしてくるのだ。脳も睡眠中に脳細胞が増えていくので、子供を寝かさないと、充分な知能を持つことができないのだ。

 第三に「脳の情報整理」である。人間の脳は睡眠中に不要な情報を捨ててしまい、必要な情報だけを集めようとする。だからこそ、昨日の晩飯ですら覚えていないことになってしまうのだ。それは必要のない情報だからだ。しかし、何か記憶に残るような情報なら、いつまでも覚えていることになる。これを毎日繰り返すからこそ、必要な情報だけを脳内に残していくことにより、高い知能を生み出すことが可能になるのだ。

 電灯が普及して以来、夜更かしをすることが可能になってしまった。ところが人間の体は夜更かしをするようには出来ていないのだ。特に子供の体は成長期にあるので、子供の頃に充分な睡眠を取らないと、ちゃんと成長できないというツケを支払うことになるのだ。子供がいるなら、子供を早くに寝かしつけてしまうことだ。子供に夜更かしなど絶対にさせないことだ。子供は充分な睡眠時間を取っていれば、高い知能を持った健康な体になることができるのである。

●最低必要睡眠時間は9時間、平均睡眠時間は10時間30分

 子供にとって最低必要睡眠時間は9時間である。子供には最低でも9時間の睡眠を必要とし、それ以上の睡眠時間も必要とするのだ。人間の睡眠時間は90分サイクルなので、9時間を超えると、次は10時間30分となる。子供の平均的睡眠時間は10時間30分である。それゆえ、9時間睡眠なら、午後9時に寝かしつけて、起床は午前6時となるし、10時間30分睡眠なら、午後9時に寝かしつけると、起床は午前7時30分となる。

 子供は最低でも9時間睡眠を必要とするので、この時間を下回ってしまうと、病気をし出して来る。子供に病気をさせないためにも、長い睡眠時間を確保してあげることだ。子供は単純なもので、ベッドに入れて、照明を消してしまえば、基本的に寝るものなのだ。巧く睡眠を誘導するテクニックを母親が身につけると、早くに寝てくれるようになるのだ。

 人間の睡眠時間のサイクルは90分なので、このサイクルを無視して、子供を起こすのには無理がある。子供は心地よく目覚めることができれば、早寝をするようになるので、下手な起こし方だけは絶対にしないことだ。目覚めの悪い起こされ方をしてしまうと、寝付きが非常に悪くなるのだ。

 睡眠時間が10時間30分になってしまうと、起床時間が非常に遅くなってしまうので、遂々焦ってしまい、睡眠サイクルを無視して起こそうとしてしまうのだ。最善の起床の仕方は、子供が自発的に起きて来るように仕向けることであって、睡眠サイクルから見て、起床時間だなと思ったら、カーテンを開けるなりして、太陽光の力で起こしてしまうことだ。母親が寝ている子供の体を揺さぶるのは最終手段だと思うことだ。子供の頃から母親に体を揺さぶられない限り起きれないこ子供は、中学生や高校生になったら、遅刻の常習犯になってしまうのだ。心地よく目覚めるという習慣を持っていないから、どうしても起床すること自体が苦手になってしまうのだ。

 子供は長い睡眠時間を取っている上に、更に「昼寝」もするので、1日の大半を睡眠ですごしていることになるのだ。とにかく昼食を食べ終わったら、昼寝をさせてしまうことだ。昼食後は丁度その日の午前中の疲れが出て来るので、昼寝をすることでその疲労を除去してしまうのである。そのため昼寝をする子供は病気に罹りにくくなるのだ。

 但し、子供の中には昼寝が苦手という子供もいるので、そういう子供を無理に寝かしつける必要性はない。そういう子供は夜間の睡眠が深いために、昼食後になっても体の疲労が出て来ないのだ。昼寝をしたくないのであるならば、無理に昼寝をさせないで、遊ばしておけばいいのだ。

●短眠族には気をつけろ

 この世にはいつの時代で短い睡眠を自慢する人たちが出て来る。この手の短眠族には気をつけておいた方がいい。人間は大人になっても基本的に7時間30分の睡眠を必要とするので、この睡眠時間を下回ってしまうと、自分の寿命を削りながら短眠を実現させているということになるのだ。

 短眠のツケは自分が働き盛りの時に如実に現れて来て、高い能力を発揮できないし、いつも精神的に不安定で、人間関係にトラブルを抱えてしまうのだ。人間は睡眠によって情報を整理するので、短眠族になってしまうと、知能を高くすることができないのだ。下らないことばかり覚えているということになってしまうのだ。

 短眠族は芸能人に多い。そのため芸能人は深い思索をすることができず、軽薄なお喋りが達者なだけに過ぎないのだ。芸能人の人気に騙されて、芸能人を凄い人物だと思ってはならない。テレビの視聴時間の長い子供ほど短眠傾向にあるものだが、矢張り芸能人を見て育つと短眠が感染してしまうのだ。、

 父親や母親が短眠族だと、子供にも短眠を押しつけてしまうので、絶対にそれだけはやめておいた方がいい。子供は脳も体も成長の真っ最中であって、この時期を逃してしまうと、取り返しのつかないことになってしまうからだ。両親が短眠族だと身長は低くなるし、頭は悪いし、中には目の下に隈を作っている子供もいるのだ。

 親の方は自分が子供の頃は長い睡眠をしていたという事実を忘れてしまっているのだ。大人になってから短眠族になれたとしても、子供の頃はそうではなかったのだ。子供は長い睡眠時間を取らない限り、健康的に成長していくことができないのである。親と子供の睡眠時間が違って当たり前なのだ。この事実を絶対に間違えないことだ。

●質の良い睡眠を得るために

 子供に質のいい睡眠を取らせるなら、日中に遊ばして、体を適度に疲れさせておくことだ。また、頭を使うゲームなどをやらせて、脳も適度に疲れさせておくことだ。子供は日中に活動していれば、夜になれば自然と寝てくれるのである。子供がなかなか寝付かないのであるならば、それは運動量が不足しているだけなのだ。

 牛乳には質のいい睡眠をもたらす物質が入っているので、夕食時に「ヨーグルト」や「チーズ」を出すとか、夕食後に「ホットミルク」を飲ますなりして、牛乳や乳製品をしっかりと取っておくことだ。これをやると深い睡眠を取ることが可能になるので、子供の寝付きも良くなるし、目覚めも良くなるのだ。

 子供は寝像が悪いので、パジャマに関しては特に気をつけることだ。意外と運動性能のいいパジャマにすべきだし、お腹が出ないようなパジャマにするべきだ。寝汗をかくので、普段着では絶対に寝かせないことだ。使用したパジャマは翌朝には脱いで、洗濯することだ。パジャマを洗濯もせずに連チャンで使用しないことだ。パジャマは1着だけではなく、何着か持っておくことだ。

 子供はベッドに連れて行ってもすぐさま寝ることがないので、リラックスした気分で、子供の話を聞いてあげることだ。子供は母親に自分の話を聞いて貰えると、安心するのだ。そして、絵本を読んで話を聞かせれば、子供は眠りについてしまうのだ。この辺りのテクニックは、毎晩、練習して腕を磨くことだ。

 子供が寝たら、それからは母親にとっての自由時間だ。子供に邪魔されず、自分のために何かをすればいい。それとも、子供と一緒に寝てしまい、早起きしてしまうのもいい。要は子供を早く寝かしつけてしまえば、自分の自由時間が確保されるということなのだ。「育児が大変で~」という母親たちは、この辺りの時間の使い方が非常に下手なのである。子供の寝かしつけは、毎晩ある作業なので、何度も工夫して上達させていくことだ。そうすれば、育児など簡単になっていまい、育児が楽しくなるのだ。

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天井の高い家は大物を産む

●日本人の身長と日本の家屋

 子供の知能の発達と自宅の天井の高さには深い関係がある。天井が高ければ知能が高く、天井が低ければ知能が低くなってしまう。天井の高い家は大物を産み易いし、天井の低い家は小物を産み易い。育児をする時は、自宅の天井の高さには充分に注意を払っておくことだ。

 そもそも日本の住宅と言うのは、床に座って生活することを想定しているために、天井が低すぎるのだ。しかも、現代の日本人の身長は、日本の歴史の中で最も高い身長になっているので、当然に日本古来の住宅に合わなくなってしまっているのだ。現代の日本人の身長に合わせた住宅を作っていかねばならないのである。

 現在の日本人の生活スタイルは室町時代に出来上がったものだ。室町幕府は意外と礼儀作法にうるさかった時代で、しかも室町時代には征夷大将軍になった足利義政が天才的芸術性を発揮して、「書院造り」という洗練された家屋を作ってしまったのだ。金閣寺は金持ちの悪趣味にすぎないが、銀閣寺はその洗練された美的感覚を散りばめた凄い作りになっているのだ。その室町時代の生活スタイルが、応仁の乱と共に全国各地に飛び火して、現在までに続いているのだ。

 しかし、室町時代は日本人の身長が最も低くなった時代である。気温が下がり続けたために農作物の収穫量が少なく、そのために身長が低くなり、しかも内戦を連発させたので、身長の高い人物たちが先に死んでいってしまったのだ。そのため、甲冑も鎌倉時代に比べて小さくなっているし、家屋も鎌倉時代の物より小さくなってしまったのだ。

 現在、借家住まいで親子3人でいるなら、いくらでも住居を変えることができるので、住宅を変える際は、天井の高い家というのを基準として加えることだ。身長が高くなり、しかも机と椅子の生活をしているために、天井の低い家ではまともな生活ができなくなってしまうからだ。父親が頭を下げて暮らさざるをえない家では、我が子が大きくなってきた時に、我が子も父親と同じように頭を下げて、身を縮めながら生活をせざるをえなくなってしまうのだ。そうなれば姿勢は悪くなるし、近眼にもなってしまう筈だ。

●思考は酸素量に比例する

 思考は酸素量に比例する。酸素量が多ければ多いほど、いい思考ができるというものなのだ。酸素量が少なければ、碌な思考しかできなくなってしまうのだ。自宅の酸素量は、天井の高い家ほど多く、天井の低い家ほど少ない。こんなこと既に解りきったことだ。そのことが人間の思考にまで影響を及ぼしてくるのである。

 人混みの多い都会ではアイデアが生まれにくいが、森林に囲まれた別荘では斬新なアイデアが生まれ易い。これも酸素量によって人間のアイデアに変動をもたらした結果なのだ。いくら都会が便利だからといって、いつも酸素量の少ない都会だけに暮らしていては思考が衰えてしまうのだ。たまには自然の中に入っていって、新鮮な空気を吸いまくって、体をリフレッシュさせることだ。

 因みに、俺はこの『幸せ色の出産ラブストーリー』を天井の高い場所で構想を練っている。仕事場になっているビルで、主に2階で書いているのだが、2階のフロアは3階の部分が吹き抜けになっているので、非常に天井が高くなっているのだ。1階でも机があるので、そこで構想を練ってもいいものなのだが、1階ではなんとなく構想を練る気がせず、資料置き場になってしまっているのだ。天井の高い2階だと、いくらでもアイデアが浮かんできて、ネタが尽きることがないのだ。

 天井の高い家は常に解放感がある。小さなことには拘らなくなり、重要なことだけに着目していくことができるようになるのだ。そのため、小さな家に住んでいると、母親は我が子の些細なことまで指摘してしまい、子供を委縮させてしまうのだ。しかし、大きな家に住んでいると、母親の方が些細なことを指摘しなくなり、しかも子供の方が重要なことしかやらなくなるので、母親が怒る回数が激減するのである。 

 特に冬は寒さのために窓を締め切ってしまい、その上に暖房器具によって酸素が奪われてしまうので、親子3人が自宅に居る時は思考力を低下させ、イライラしないように気をつけることだ。些細なことで我が子を怒鳴りつけてしまったり、夫婦喧嘩に発展してしまったりするからだ。冬は寒くても、きちんと換気をして、酸素量が少なくならないようにすることだ。

●空白のスペースがあるということ

 天井が高い言えば、居住面積も多い筈だ。そうなれば自宅の中に空白スペースがあるものである。この空白のスペースがあるということが、子供の知能の発達にいい影響を与えるのだ。自宅に空白のスペースがあれば、子供はその空白のスペースを埋めようとしてくるのだ。例えば、自宅が広ければ、いくらでもオモチャを置けるが、自宅が狭ければ、新しいモチャなど買えなくなってしまうのだ。

 自宅に空白があるからこそ、そこを埋めたくなる。だから、空白スペースは子供の想像力を掻き立てるのだ。新築の家で育つと想像力の逞しい子供に育つものだ。驚異的な知能指数の高い子供は、大抵が新築の家で育った子供たちである。なぜなら、自宅が古ければ家財道具で一杯になっているので、想像力を鍛える場がなくなってしまうのだ。せいぜい伝統的な生活を受け入れることしかできなくなるのだ。それに対して新築の家なら家財道具が少ないから、子供にとってはいくらでも想像力を鍛えることができるのである。それが知能指数の高さとなって現れてくるのだ。

 しかし新築の家が何もかも素晴らしいというのではない。新築の家を資金の問題で小さな家にしてしまい、それを家財道具で満杯にしてしまうと、子供が精神的におかしくなるのだ。子供は新築の家なのに想像力を鍛えることができないし、かといって伝統的生活を受け入れることもできないので、思考が異常な方向に行ってしまうのである。

 新築の家を建てる時は、資金を最優先して考えないことだ。多くの夫婦がこの遣り方をするからこそ、碌でもない住宅しか作ることができないのである。資金のことは一旦忘れて、自分たち家族がどのような家に住めば幸せに暮らしていけるかを考えることだ。その夢の実現のためにお金が要るのであって、そういう夢を思い描くことができれば、資金はついてくるものなのだ。

 新築の家は満杯にはしてしまわないことだ。どこかに空白のスペースを作っておくことだ。どうしても空白のスペースがない時は屋根を高くして、屋根裏部屋を設けて、そこを空白のスペースにしておけばいいのだ。物事というのは、完成すると同時に崩壊が始まるのだ。自宅のどこかを欠けさせて、未完成の家にしておくことだ。この配慮こそが家族に幸せをもたらすのだ。

●気付いてみれば、都会は小物ばかり、田舎は大物ばかり

 現在、マスコミは「貧富の格差」を煽っているが、貧富の格差よりも恐ろしいのが、「天井の格差」なのだ。現在の日本はデフレ経済なので、物価は下がり続けているので、いくら低所得者でも贅沢をしなければ暮らしていけるのだ。低所得者なのに、1日3食の食事を取ったり、新聞を定期購読したり、働きもせずにテレビを見ているからこそ、いつまでも貧乏なのである。食事は1日2食にし、新聞を読むのをやめ、テレビを見ている時間を労働する時間に充てたら、貧困は克服されていくものなのだ。

 しかし、天井の格差は貧富の格差を超越して、襲ってくるものなのである。都市部では地価が高いために、しかも建築基準法や様々な規制があるために、大きな家をきちんと作っていくという発想ができずらくなってしまったのだ。ワンルームマンションなどは絶対に禁止すべきであるし、家族用のマンションならクローゼットや納戸などない住宅は絶対に禁止すべきなのだ。いくら高額所得者でも、粗悪なマンションンに住んでる人たちは多々いるものなのである。

 貧富の格差はいつの時代でもあるのだから、その格差を無謀にも解消しようとするのではなく、お金持ちたちが立派な家屋に住んで、優雅な暮らしをすべきなのである。金持ちたちがそのような生活をしていれば、お金が世の中を巡るようになって、貧乏人たちにもお金が巡ってくるものなのである。しかも、貧乏人たちにとっては、自分が豊かになった時に、どのような生活をすればいいかが解るようになるので、勤労意欲が湧いてくるというものなのだ。

 都会にはお金が豊富にあるのだから、住宅も大きな物にすればいいのに、国会議員や学者やマスコミたちが貧富の格差を是正しようと躍起になっているために、お金があるのに狭い住宅に住んでいるのだ。だから都市部で育ってくる人間はみな小物ばかりなってしまっているのだ。大志を抱かずに、堕落的な快楽に溺れて、退廃の極みに達しているのだ。

 それに比べて、田舎では貧富の格差に気兼ねすることなく、住宅を大きくすることができるので、大物が生まれて来易いのだ。特に北海道のように寒さの関係上、どうしても住宅を大きくしなければならない地域では、当然に大物が生まれて来易いのだ。このまま行けば、北海道から救国の英雄が生まれて来て、いずれ日本は北海道出身者たちによって歴史を大きく変革させられることであろう。

 嘗て日本史には住宅の変動こそ、時代の変革に繋がったということがあった。戦国時代は近畿が政治的にも経済的にも優位に立っていたのに、近畿圏外の尾張から織田信長が起こって来て、時代を変革させられている。尾張では戦争が続いたために、古い住宅が破壊されてしまい、新しい大きな住宅を作ることができたから、大物たちが続々と出現してきたのだ。

 明治維新では古い江戸の街並みの中に、西ヨーロッパ風の建物を建設していくことで、江戸時代では見られなかったような優秀な人材を生み出していくことが可能になったのだ。これが近代日本の発展を支えたのである。江戸幕府は庶民向けに都市政策をすることがなかったが、これだけ人口が密集して住むなら、政府による都市政策は絶対に必要なのである。

 だからこそ、「都市部は住宅を大きくし、天井を高くすべし」なのだ。小さな住宅や天井の低い家は取り壊していき、大きな住宅や天井の高い家を作っていくべきなのだ。日本の首都である東京にしても、その街並みは余りにも汚すぎる。今では世界一美しい首都であるといわれるパリも、その昔は非常に汚い街並みで、それをフランス帝国皇帝ナポレオン3世の政権の時に現在のように美しい街並みに作り変えているのだ。美しい都市を作るためには、強力な政権が必要だということだ。生活は個人レベルで解決できるものでも、都市政策は個人レベルではどうしようもないのだ。我々は「日本の首都を世界一美しい首都にする!」という目標を持った、強力な政治指導者を選び出し、その者に都市計画を実行させるべきなのである。そうすれば、日本の首都は世界一美しい首都になることができるのである。

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食事の習慣と運動の習慣で子供の脳を発達させよ

●栄養バランスが整うと礼儀作法も整う

 子供に与える栄養バランスが整うと、脳がきちんと成長できるようになるので、精神が安定化してくる。精神が安定化してくれば、育児は非常に楽しいものになってしまう。しかし、子供に与える栄養バランスを欠き、脳がきちんと成長できないと、精神が不安定化してくる。精神が不安定になれば、育児は苦しみだらけになってしまう。幼児であるならば、母親が与える食事で大いに変動してくるので、とにかく栄養バランスの整った食事を出すことだ。

 子供に栄養バランスが足りているのか否かが一発で解る基準がある。それは食事の際の礼儀作法がきちんとできているか否かだ。子供は親の食べている姿を見よう見真似で真似ていくので、栄養バランスが悪い場合、両親自体が礼儀作法を守らない食事をしているので、子供がすぐに悪い礼儀作法を真似てくるのだ。食事の際に子供の礼儀作法が悪い場合、子供だけが悪いのではなく、その親も相当に悪いのである。

 我が子にきちんとした礼儀作法を守らせたいのなら、栄養バランスの取れた食事を作って、食事の際に礼儀作法を守ることは、この食べ物を作ってくれた人や、この料理を作ってくれたお母さんに感謝を捧げることなのだということを教え込むことだ。「感謝をしないと食べられないんだよ」と教え込んでしまえば、子供は真面目になって礼儀作法を守るものなのだ。

 食事はただ礼儀作法を守って料理を食べればいいのではなく、会話をして情報交換をきちんとしておくことだ。会話は母親が話そうとしない限り、子供は話して来ないものだ。日常の些細なことを訊いたりして、話を引き出して、話を盛り上げていくことだ。子供は頓珍漢な返答をしてきたとしても、それを切っ掛けに笑いを取ってしまえばいいのだ。そうすると会話が弾み、子供も食べ物に好き嫌いなく食べることができるようになるのである。

 食事の際の会話を楽しいものにするためにも、料理を食べる時は音を立てて食べないことだ。食事で音を立てて食べると、どうしても会話が盛り上がらなくなってしまうのだ。しかも、音を立てて食べると、食べ物と一緒に空気が入ってしまうので、消化吸収にとって非常に悪いのだ。日本人には胃に関する病気が多いのだが、これは音を立てて食べる習慣があるからなのである。

●良く噛む習慣こそ脳を鍛える

 食べ物を口に入れた際は、一旦箸を置いて、一口三十回以上噛ませることだ。良く噛む習慣こそ、脳を鍛えることになるからだ。幼児は母乳を飲む習慣がまだ完全に抜けきっていないので、食べ物を噛まずに飲み込む習慣を取ってしまうのだ。そのため、母親が人為的に咀嚼の習慣を覚え込まさないと、どうしても食べ物を噛まずに飲んでしまうのだ。

 子供の好きな食べ物は、「カレーライス」や「ハンバーグ」のように別に大して噛まなくても、飲み込めてしまう料理なのだ。子供が好きだからといって、柔らかい料理ばかりを出していたら、咀嚼する習慣を身につけてくれなくなるのだ。子供のためにも、敢えて咀嚼せねば食べられない料理を出すことだ。

 白米や白パンは固くないので、子供はどうしても噛まずに飲み込んでしまうのだ。白米ではなく玄米、白パンではなく黒パンを勧めるのは、何も栄養価がいいだけでなく、咀嚼しなければ食べられないからなのだ。無精白穀物であるなら、咀嚼しない限り食べることはできないのだ。

 充分に咀嚼できるためにも、食事の時間を長めに設定しておくことだ。食事の時間が短いからこそ、子供は充分に咀嚼をせずに飲み込んでしまうので、食事の時間を長めに確保しておけば、咀嚼してくれるようになるのだ。とはいっても、日中は慌ただしいので、朝食や昼食は量を少な目にして、後は就寝しかないという夕食を豪華にすれば、子供は咀嚼してくれるようになるのである。

 食事で固い食べ物を出すと同時に、食事以外の時にガムを噛ませることだ。ガムを噛むことによって咀嚼していれば、自然と顎は鍛えられ、脳に大量の血液が流れ込み、脳を発達させることができるのである。ガムは勿論シュガーレスタイプの物で、絶対にガムを飲む込まないようにさせ、噛み終わったガムは銀紙に包んで捨てる習慣をつけさせることだ。子供の脳の成長期にガムを噛ませることは、脳の発達のために甚大な効果をもたらしてくれるのである。

●運動の習慣

 子供は栄養バランスが整い、礼儀作法を守って食事をし、良く噛んで食べるようになると、きちんと運動をするようになる。子供がはしゃぎ回るのは、要は体が軽いからこそできるのであって、子供の頃はとにかく運動しまくるものなのである。その大切な時期に、外で遊ばず、自宅で遊ぶような子供であるなら、それは栄養バランスが非常に悪いということなのである。子供はとにかく外に連れ出して遊ばせることだ。遊んでいれば自然と体の各機関が鍛えられ、充分な体力を持つことができるようになるのである。

 脳の発達ばかり注目するのではなく、「体力が脳力を作り出す」という視点を持つことだ。体力がありさえすれば、自然と脳は成長していくことができるのである。子供の体力を鍛えずに、脳だけをいじくっても、それは不自然な成長しかしてこないものなのである。脳の成長と体の成長はセットなのだということを決して忘れるべきではないのだ。

 子供を外で遊ばせておけば、日が暮れる頃にはお腹をすかせてくるので、それから夕食を作れば、子供は好き嫌いを言うことなく、出された物をちゃんと食べてくれるようになるのだ。子供が食べ物の好き嫌いを言うようであるなら、ただ単に運動不足なのだと思った方がいい。空腹になれば、嫌いな食べ物でも食べざるをえず、結局、その嫌いな食べ物を克服してしまうのである。

 子供は2歳や3歳の時点で急激に脳を成長させてくるので、この期間に体がヘトヘトになるまで体を動かしてあげると、脳はよりレベルの高い成長を遂げることができるようになるのである。子供と一緒に外出して、帰りには子供は疲れて寝てしまうというのは、親として理想の外出なのである。

 子供がいると、子供を連れてハイキングに行きたくなるものであるが、これは親の方が無意識レベルで子供を鍛えたいと思っているから、どうしてもハイキングに行きたくなってしまうのだ。そういう時は、子供を連れてハイキングに行ってしまうことだ。ハイキングに行けば、子供は日常生活での運動量を遥に超えて、体力を充分に発達させることができるのである。

●「タダの大人に終わる神童」と「後世に名を残す神童」

 人間の脳力というものは大抵がスタートダッシュで決まってしまう。才気煥発な人は、子供の頃から才気煥発な子供だったのである。勿論、例外もあっても、子供の時は馬鹿でも、大人になれば突然に脳力を発揮してくる人もいるし、逆に子供の時は神童でも、大人になればタダの人に終わってしまう人も出て来る。

 19歳までは脳の成長期に当たるので、いくら幼児の段階で頭が良くても、小学生の頃にきちんとした基礎教育を受けねばならないし、中学生や高校生の頃は不良の道に走らず、自分で努力して勉強する習慣を身につけないと、高い知能を持つことはできないのである。

 だから、子供の頃に馬鹿でも、中学生や高校生になって一念発起して、自分で勉強する習慣を身につければ、高い知能を持つことができるのである。逆に子供の頃は神童でも、小学校の基礎教育の仕方が悪かったり、中学生や高校生の頃に遊び呆けてしまえば、タダの大人になってしまうのは当然のことなのである。

 子供の知能のために、親が出来ることというのは、本当に基礎的なことだけなのである。子供に栄養バランスの整った食事を出し、食事の際は礼儀作法を守らせ、会話をきちんとさせ、咀嚼の習慣を持たせ、思いっきり運動させることなのである。こうしておけば、母親として最低限の役割は果たした筈なのである。後は学校や本人に任すしかないのである。

 母親が食事と運動を軽視すると、子供の頃は神童であったとしても、大人になればタダの大人になってしまうのだ。栄養バランスが崩れていたり、礼儀作法が悪かったり、会話を充分にすることなく、良く噛まずに食べたり、運動をしないような人だと、年齢が上がるごとに馬鹿になっていくのだ。

 これらのことは、大人になっても非常に重要なことなのだ。栄養バランスが崩れてしまえば、大した能力など発揮できないのである。礼儀作法を守らなければ、会話が弾まないので、情報不足に陥ってしまう。良く噛まずに食べていれば、脳が鍛えられないので、思考が硬直化していくのだ。そして仕事いうのは、最終的には体力勝負になるので、運動不足になってしまえば、仕事で敗北することが確実になっていくのだ。

 我が子を健全に育てたいのなら、まずは親の方が健全な生活を営んでおくことだ。正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていない親に、まともな育児ができるわけがないのだ。親が正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていれば、子供は自然とその習慣を受け入れてしまい、高い知能と強靭な体力を持つことができるようになるのである。

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子供の知能を高くする「賢脳食」

●脳は脂肪でできている

 我が子を頭のいい人間の育て上げたいのなら、ただ単に漠然と願っていては実現しない。我が子に賢脳食を食べさせることによって、我が子の脳を賢いものに仕向けてはいかねばならないのだ。人間の脳は19歳まで脳そのものが成長していくので、幼い時から賢脳食を食べさせていたら、その子は賢い脳を持てるというのは当然のことなのだ。

 まず、脳は脂肪で出来ているというこを知っておこう。女性は肥満を気にする余りに、脂肪を目の仇にしてしまうのだが、脂肪を極端に減らす食事は脳に非常に悪い食事になってしまうのだ。しかも、脂肪は炭水化物よりも高エネルギーを発してくるので、この脂肪を食べないと、どうしてもパワーが出て来なくなってしまうのだ。毎日の食事で適量の脂肪を摂取していくことが、脳そのものの容積量を増やすことになるのだ。

 脂肪は「植物性脂肪」と「動物性脂肪」の2つがある。大まかに言ってしまうと、植物性脂肪は安全で、動物性脂肪は少量なら対応できるが、大量に食べてしまうと危険な脂肪である。脳の容積量を増やしたいのなら、せっせと植物性脂肪を摂取していくことだ。植物性脂肪は「クルミ」「アーモンド」「ナッツ」「落花生」「アボガド」「豆類」「植物油」などに多く含まれている。特に豆類は高品質の植物性脂肪なので毎日に食事に必ず出すようにすることだ。木の実類は常に自宅に確保しておいて、食後にポリポリと食べさせればいい。

 植物油は「オリーブオイル」がお勧めである。オリーブオイルは木の実を絞って出来た油なので、植物油の中で最も品質がいいのだ。オリーブオイルを多目に使う食習慣を確立しておけば、脳にとって非常にいいのだ。古代ギリシャ人たちはオリーブオイルを大量に食べることで文明を起こしたことを決して忘れるべきではない。その他の油は「ゴマ油」「菜種油」「紅花油」などがお勧めである。油の中で「サラダ油」は絶対に使用しないことだ。この油は危険な油なので、血管をボロボロにしてしまうのだ。

 動物性脂肪は「魚の脂」「玉子」「肉の脂肪」「牛乳」「乳製品」などである。動物性脂肪の中でも、魚の脂は最も安全なので、魚を大量に食べさせて行くことだ。玉子も子供の時分から食べさせておくと、頭がいい子供になる。肉の脂肪は野菜をきちんと取っているなら、それほど心配するものではない。但し、霜降り肉のように人為的に脂肪を多くしてある肉は危険なのである。肉の中にビタミンが極端に少なくなっているので、この肉を食べ続けていると、若くして動脈硬化が起こりかねないのだ。

 牛乳はカルシウムが多いだけでなく、牛乳の中にある脂肪が腸内での進行を遅くしてくれるために、牛乳の栄養分の多くを吸収させてくれるのである。だから、牛乳を飲むと身長が高くなるのである。牛乳をそのまま飲ますより、より進行速度が遅くなる「ヨーグルト」にした方がよりいいのだ。それ以外にも「バター」や「チーズ」を食べると、脳の容積量を増やすことができる。

●脳のエネルギーは炭水化物

 脳のエネルギーになるのは炭水化物である。炭水化物も無精白穀物が最も優れたエネルギーになる。無精白穀物に含まれるビタミンやミネラルが、炭水化物を消化吸収する際に体に異常を起こさずに脳に送られることになり、しかも長時間に亘って血糖値が高く持続するので、脳が安定的にエネルギーを確保し続けることができるのである。炭水化物を脳に送るためには、ビタミンB1が必要となるので、無精白穀物とビタミンB1をセットにした食事を取ればいいのだ。

 お勧めは「押麦入り玄米食」と「味噌汁」のコンビである。押麦と玄米を半々の割合でいれると、最も栄養バランスが整うので、玄米だけを食べるより栄養価が高くなるのだ。そこに味噌汁を持って来れば、完璧な食事となるのだ。味噌汁は大きなお椀に入れて、多目に飲ますことだ。その方がビタミンB1を確保できるので、脳が高度に機能し続けることができるようになるのである。

 パンを食べるなら、「黒パン」と「チーズ」のコンビがお勧めである。白パンは精白穀物を使っているから危険なだけでなく、脱脂粉乳を使っているので、より危険なのである。脱脂粉乳は基本的に家畜の餌なので、人間が食べるべきものではないのだ。日本では長らく牛乳を飲む習慣がなかったために、酪農の常識を完全否定する野蛮なことをやってしまうのだ。黒パンを作っているようなパン屋は本格的なパン屋なので、その店で安全性の確保されたパンを購入することだ。

 麺類は米食やパン食ほどに拘らなくてもいいが、できれば「黒パスタ」「玄うどん」「玄蕎麦」を食べるようにすることだ。オリーブオイルをしっかりと絡めた黒パスタを食べると、頭の回転はまるで違ったものになって来るものなのだ。麺類の中でも最も頭を良くするのは、「お蕎麦」なのであって、お蕎麦は定期的に食べておいた方がいい。但し、お蕎麦の料理はビタミンB1が不足しているので、お蕎麦と共に豆料理を出してビタミンB1を補っておくことだ。

 お菓子を作る際は、「黒砂糖」や「蜂蜜」や「メイフルシロップ」を使うことだ。これらの甘味料を使っていれば、子供の脳も健全に成長していくことができるのである。白砂糖こそ子供の脳を破壊する危険な甘味料なので、絶対に避けることだ。子供の頃から安全なお菓子を食べていれば、危険な甘味料を使ったお菓子を食べても何か不自然に感ずるようになって、余り食べなくなるものなのである。

●頭の回転を良くするレシチンとグルタミン

 子供の頭の回転を良くしたいのなら、「レシチン」を食べさせることだ。レシチンは脂肪で脳細胞や神経細胞を増加させる重要な役割を果たす。レシチンをしっかりと食べておくと、記憶力が増大するので、子供特有の物忘れの激しさもなくなってしまうのだ。レシチンは「大豆」や「玉子」や「ゴマ」に含まれているので、毎日の食事に出すようにしておくことだ。

 因みに、関東勢が関西勢を圧倒することができるようになったのは、納豆を大量に食べ続けたからなのである。昔は農家では納豆を作ったものだし、都市部でも納豆屋が納豆を売りに歩いていたのだ。いかに関東の人たちが納豆を食べたかが解る。納豆は発酵させてあるので、レシチンの吸収がよりよくなるので、非常に頭が良くなるのである。

 「グルタミン」も脳の燃料になり、脳の疲労物質を取り除く重要な役割を足すことになる。グルタミンは蛋白質で、知能を高くする機能をも兼ね備える優れた蛋白質なのだ。グルタミンは小麦に多く含まれているので、小麦を多く食べると、自然に頭が良くなる。お米にはグルタミンが少ないので、お米を食べている人が、小麦を食べている人と争っても、知能の面で絶対に負けてしまう。古代四大文明はすべて小麦を食べて民族によってつ作られたという歴史的事実を決して忘れるべきではない。

 グルタミンは小麦の他に、「お麩」「海藻」「大豆」「ゴマ」「アーモンド」「落花生」に含まれている。ワカメの味噌汁にお麩を入れれば、最強のグルタミンスープの出来上がりだ。ご飯を食べる時は、擦りゴマをかけて食べるようにすれば、知能を高くすることができる。アーモンドや落花生はオヤツの時に出してたべさせればいい。

 解り易く言うなら、植物性脂肪や植物性蛋白質の方に、実は頭を良くする栄養が含まれいるということだ。動物性脂肪や動物性蛋白質は、高エネルギーを発してくるために頭が良くなったような錯覚に囚われてしまうが、ただ単に高エネルギーによって脳の活動を活発化させただけであって、知能が高くなったわけではないのだ。知能を高くしたいのなら、せっせと植物性脂肪や植物性蛋白質を摂取していくことだ。

●定期的に夕食を適度に栄養過剰にすること

 個別的な栄養学的知識とは別に、食事パターンを巧く使って、子供の知能を高めてしまうことだ。朝食や昼食を大量に食べさせても、日中の活動でその殆どのエネルギーが消費されてしまうものだが、夕食は食べてしまえば後は寝るだけなので、その食べた物がそのまま体の修復や成長に使用されるのだ。

 それゆえ、定期的に夕食を適度に栄養過剰にすることだ。飽くまでも定期的に適度の栄養過剰にするのであって、本格的に栄養過剰にしてはならない。要は朝食や昼食は少なくても構わないが、夕食だけを多目に摂取しておけば、体に無理をすることなく、知能を高めさせることができるのである。

 時たま、夕食だけは「高炭水化物」「高脂肪」「高蛋白質」にしてしまえばいいのだ。それだけ栄養過剰になっているので、野菜を多目に摂取してビタミンも過剰にしておくことだ。こうすると、過剰な栄養が体の修復のために使われるエネルギーを上回って、体の成長のために使用されるのだ。

 子供は食事を食べ終えても食休みをなかなかしてくれないので、夕食を大量に食べさせることで、食休みをしてくれるように仕向けるのだ。食後に15分以上は休んで貰わないと、胃や腸に血液が充分に送られず、消化がきちんとなされないのだ。食休みをしっかりと取っておけば、消化がきちんとなされ、より高いレベルで吸収がされるようになり、体は高い栄養素を持つことができるようになるのである。

 我が子に頭が良くなってくれることを願っているのに、自宅ではジャンクフードを食べさせ、白砂糖を使ったお菓子を食べさせていては、子供は知能を高くすることができないの