妊娠

緊急告知:不妊症のカテゴリーを卒業します。(ついでに妊娠のカテゴリーも)

heart01heart01heart01heart01タマティーからのお知らせheart01heart01heart01heart01

●カテゴリーを変更します

 長らく「不妊治療」「妊娠」「育児」のカテゴリーで、この『幸せ色の出産ラブストーリー』を公開してきたのですが、今回を持ちまして「不妊治療」のカテゴリーと「妊娠」のカテゴリーを卒業します。最終章は不妊症の女性たちや現在妊娠している女性たちが見るべき内容ではないからです。

 このフブログはそもそも不妊症の女性たちのために作られたものです。最初は不妊症の女性たちのために『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の原因とその治療法を教えてのですが、その後、不妊症を克服した女性たが出て来たために、妊娠や出産や育児のことを教えるために『幸せ色の出産ラブストーリー』を展開しました。

 現在、不妊症で悩んでいる女性でも、不妊治療で頭の中を一杯にしてしまうよりも、妊娠や出産や育児のことを知ることで、脳をクールダウンさせた方が、不妊治療の成功率が上がるのではないかと思ったからです。不妊治療を真面目に受けてしまうと、心の余裕がなくなってしまい、成功する筈の不妊治療も成功しなくなってしまうからです。

 途中で不妊症ではない普通の女性たちも参加してきたために、不妊症の女性のために書いていることが薄れてしまった感じがあるのですが、タマティーは首尾一貫して不妊症の女性たちのために書き続けてきました。でも、もうそろそろ卒業した方がいいのではないかと思うようになりました。

 不妊症の治療は、どうしても病院での治療に頼ってくる女性たちが多いし、不妊症を克服させるためには、ブログで情報を公開するよりも、実際に不妊症の夫婦たちに会って話した方が不妊症を克服できるのが早いというのが解ったからです。ブログで不妊症の女性たちを気遣うよりも、そのエネルギーを直接に不妊症の夫婦たちに向けた方が効果が高くなるからです。

●不妊症の女性たちへ

 俺が長らく不妊症の女性たちを治療してきて、これだけは伝えたいことがあります。

・不妊症で悩んだり、不妊治療で失敗をしたことは絶対に無駄ではないということです。

・治療で失敗している内に、知らず知らずに内に実力がついているもの。

・自分の誤った考え方を変えた時、未来の赤ちゃんはやってくる。

 不妊症の女性たちは、今までの人生は順調に進んできた筈です、小中高大学と、それから就職、そして結婚と、今まで大した挫折もなく生きてきたと思います。それなのに結婚して大事な時に不妊症に罹ってしまうというのは、人生で初めての挫折といっていいものかもしれません。

 人間は順境な時ばかり生きていることはできません。人生のどこかで逆境の時を生きていかなければならないんです。その逆境の時期は自分が最も苦しい時期なのですが、その中で自分のマイナスの部分が剥がれ落ちて、今まで以上に飛躍的に成長していくことができるようになるんです。

 実際の不妊治療は失敗の連続です。たとえ不妊治療で失敗したとしても、すぐさま自分を立て直すことです。そりゃあ、失敗すれば落ち込んでしまうのは当たり前です。しかし、失敗していく中で知らず知らずの内に実力がついてしまい、不妊症を克服できるだけの力を持つことができるようになるんです。

 赤ちゃんは精子と卵子が融合したから生まれてくるのではありません。赤ちゃんは霊的な世界から、未来のお父さんやお母さんの姿を見ていて、赤ちゃんを育てられる準備が整い次第、雲の上から降りて来て、あなたのお腹に入り込んでくるんです。今はまだ母親の準備が整っていないだけなんです。だから、焦らないで、一つ一つクリアしていくことです。

 不妊症の女性たちは間違った考え方を持っています。どうしても不妊症の原因を精子や卵子の問題に持っていこうとしてしまうんです。現実には、どの男女も精子や卵子をきちんと輩出しているんです。では、どうして妊娠できないかというと、それは食生活や運動や睡眠や排便や性生活が余りにもひどすぎるからです。そして夫婦の愛の形が未だに出来上がっていないからなんです。間違った考え方を捨てた時、未来の赤ちゃんはやってくるものなんです。

 不妊症を克服し、赤ちゃんに恵まれた女性たちのすべてが、出産後に夫に感謝するようになります。ということは、それまでは夫に感謝していなかったということなんです。恋愛も長く続いてしまうと、「愛してる」という言葉を使わなくなるように、結婚も長く続いてしまうと、「感謝しています」という言葉を使わなくなってしまいます。自分の夫の欠点を指摘するのではなく、些細なことで夫婦喧嘩をしてしまうのではなく、夫を敬って、感謝するようになれれば、不妊症を克服できるようになるんです。

●現在妊娠中の女性たちへ

 現在、妊娠中の女性たちには、妊娠中なのに妊娠のカテゴリーを終了することは、「そんな殺生な」と思うかもしれないが、今まで『幸せ色の出産ラブストーリー』を見て来ていれば、出産は巧く行きます。もう充分に「出産力」は見についている筈です。後は実践あるのみです。

 ただ、妊娠は最後の最後まで解らないものなので、妊婦の方々にこれだけは守っておいた方がいいということを伝えておきます。

・妊娠中は妊娠中毒症には気をつけろ。

・出産予定日には惑わされないように。

・出産は普通のことをやっていれば絶対に安産になる。

 妊娠中はとにかく自分がスポーツ選手になった気分で、体を動かして体を鍛えていくことです。妊婦に最低限の運動量がありさえすれば、妊娠中に妊娠中毒症になることなんて絶対にないんです。妊娠中毒症とは要は運動不足なんです。塩分がどうのこうのに騙されないことです。最低でも1日1時間程度のウォーキングなら、どんな状況でもできる筈です。

 出産予定日は飽くまでも医者の都合なのであって、出産予定日は出産の目安として使い、決して出産予定日に惑わされないことです。早産をしないためには、マグネシウムをしっかり取っておくことです。妊娠前に飲酒の習慣のあった女性にはマグネシウムが不足しているので、マグネシウムをきちんと補給しておくことです。マグネシウムは「イチジク」「アーモンド」「ナッツ」「バナナ」などに含まれています。出産予定日が遅れても、なんら心配することはありません。逆に健康な赤ちゃんが生まれるものなんです。

 妊娠中に普通のことをやっていれば、絶対に安産になるものです。食事に気を使い、運動をし、睡眠をしっかりと取り、排便をちゃんとしておく。体が冷えないように厚着をして、風呂やサウナで体を温めておくことです。妊娠して自分のことだけで精一杯になるのではなく、夫のことにも気を使って、夫婦の会話を絶やさないことです。いざという時には夫が一番役に立つんです。中には例外があるかもしれないけど、大抵の夫たちは妻にとって最大の味方なんです。

 出産の時は、健康な赤ちゃんを産めるように全力を尽くすことです。女性にとっては、出産は人生最大のスペクタルになるんです。その上で、妊婦生活を思いっきり楽しむことです。妊婦生活は妊娠中にしかできません。自分が妊婦であることを楽しまないなんて絶対に損です。妊婦生活を楽しんでいるからこそ、出産も楽しめてしまうものなんです。

●タマティーはなぜ不妊症治療に関わったのか?

 そもそもなぜタマティーが不妊症治療に関わったかといえば、癌治療をやっている時に、不妊症の夫婦に治療の依頼を受けたからなんです。その当時は癌治療のことで頭が一杯だったのですが、癌の研究をしていたので、不妊症の原因にもなんとなく想像がつきました。要は、「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃えば、ありとあらゆる内臓疾患を発症してくるのであって、不妊症もその一つなんです。

 大方の不妊症の女性たちは、「冷え症」です。「36.5℃」という平均体温がないのです。これは「水分過剰」と「食事過剰」と「血液汚染」の三つが揃うと、女性は必ずこの症状を呈してきます。だからこそ、通常の形では妊娠することができなくなるんです。排卵誘発剤を使うと副作用で高熱を発するのですが、これが巧く持って行くと、そのまま妊娠へと持ち込むことができます。病院での不妊治療が失敗し易いのは、高熱を維持することをしないからです。これに対して、漢方医たちは排卵を強制的に行わせることなく、水分過剰を解消させる漢方薬と、体温を上げる漢方薬を与えることで、不妊症を克服させています。こちらの方が不妊症を克服するには、適切な処置なんです。

 その後、タマティーはニフティーでブログを遣り始めた時に、たまたまこの不妊症のカテゴリーに立ち寄ってしまい、そこで不妊症の女性たちのブブログを見て、その悲惨な現状に大いに心を痛めてしまったんです。病院の医者たちが不妊症の女性たちにきちんと説明をしていないからこそ、不妊症の女性たちは不安で一杯になり、悩まなくてもいい悩みを抱え込んでいたんです。それで俺はせっせと『不妊症バトルロワイヤル』を展開して、不妊症の女性たちに不妊症を克服させる情報を提供し続けたんです。

 実を言いますと、タマティーの母親は結婚してから7年間もの間、子供ができませんでした。ただそれは不妊症が原因ではなく、貧乏が原因でした。タマティーの両親は結婚当初、物凄い貧乏で妊娠どころではなく、四畳半一間のアパートに住んでいたんです。大人二人が寝てしまうと、もう空きのスペースなんてどこにもなかったそうです。当然に赤ちゃんの置ける場所など、どこにもなく、妊娠することができなかったんです。

 そこで両親は夫婦共働きで必死に働いて、お金を地道に貯めて込んで、結婚後6年目にして一戸建ての住宅を横浜に建てたんです。時代が高度経済成長期とはいえ、30代で一戸建ての住宅を建てたなんて凄いもんです。そこで、やっと赤ちゃんを置ける場所が確保され、両親は妊娠へと向かうことになります。

 現在、日本国民の多くは、この手の独立自尊の気概を持つことなく、自分の生活が苦しければ、すぐに政府や地方自治体に頼ろうとしています。独立している夫婦なら、政府から子育て支援などを貰うべきではないんです。政府や地方自治体に頼るからこそ、いつまでも貧乏から抜け出せないのであって、政府や地方自治体に頼ることを拒否し、夫婦双方が自助努力に目覚めれば、貧乏は駆逐されていくんです。

 タマティーの両親は若くして一戸建てを建てたことは、その後の人生で大いに貴重な経験となった筈です。その後、アパートやマンションを建設したり、株式投資をしたりして、資産家の道を順調に歩んで行ったからです。宝籤を買って一攫千金を夢見るより、若い時は我武者羅に働いてしまった方が、お金持ちになれるというものなんです。

 でも、さすがに結婚して6年間も赤ちゃんを産んでいなかったから、タマティーの母親は不妊症の女性たちと同じような精神状況に追い込まれてしまったそうです。他の夫婦の赤ちゃんを見ては悲しくなり、赤ちゃんを抱かせて貰えば、手が震えてちゃんと抱けなかったというのです。

 しかし、夫婦で一戸建てを建てたいう自信が、妊娠を可能にさせてしまいます。タマティーの母親もさすがに自分の体に何か問題があるのではないかと思ったらしく、当時、親戚が千葉大学の医学部で教授をしていたので、不妊治療の話を聞きに行ったらしいんです。だが、その教授は「不妊治療はホルモン剤を使うので、母親にも赤ちゃんにも健康に悪いから受けない方がいい。まだ若いんだから、生活を変えることで妊娠へと導いていった方が、健康的に赤ちゃんが生まれるよ」と教えてくれたそうです。

 そこで、母親はまず父親の禁煙を実行したそうです。当時、タマティーの父親はヘビースモーカーで、1日に1箱以上のタバコを吸っていたそうです。それをタマティーの母親は強制的に禁煙を実施して、禁煙を成功させたんです。それから、毎日、お風呂に入って体を温めたそうです。アパート暮らしでは、お風呂がなく、銭湯だったので、毎日入浴するというわけにはいかなかったんです。そして料理を工夫し、栄養バランスが整うようにしたんです。そういうことをしていたら、一年後には妊娠し出産することができたんです。

 もしも、タマティーの母親が赤ちゃんができないという理由で、病院で不妊治療を受けていれば俺は生まれていなかった筈です。たとえ赤ちゃんが生まれてきたとしても、違う赤ちゃんが生まれて来た筈。だから、不妊症の女性たちが、自分たちの生活を改善することなく、安易に病院で治療を受けてしまうことには、物凄い疑問を持ってしまうんです。もしかしたら、本来は生まれて来る赤ちゃんが生まれて来ないで、違う赤ちゃんが生まれて来てしまったのではないかと思ってしまうんです。

●赤ちゃんに執着するより、結婚に謙虚になること

 俺が不妊症の女性たちを見て来て、つくづく思うことがあります。それは「未だ生まれて来ていない赤ちゃんに、それほどまでに執着しなさんな」ということです。不妊症のために赤ちゃんが欲しいのは解るけど、赤ちゃんに執着してしまえば、赤ちゃんだって生まれにくいって。

 執着は発展を止めてしまうものです。人間には蟠りがあると、人間には不幸が襲いかかってくるものなんです。不妊症を克服するためには、夫婦として色々なことをやっていく必要性があるんです。例えば、夫婦の仲を正常なものにするとか、栄養バランスの整った食事を作れるようになるとか、家計簿をつけて夫婦のお金の流れをしっかりと把握するとかです。そういうことをやって、夫婦としての体裁が整うことの方が先決なんです。 

 結婚を自分の物だと考えるからこそ不幸になるんです。自分の夫を自分の物だと思うからこそ悲劇が襲いかかって来るんです。そうではなく、自分の人生を神様に預けてしまうことです。そうすると「無限の自由」が生まれてくるようになるんです。神様に命じられて、この結婚を管理運営していくという態度になると、いかなる結婚も幸福になることができます。

 不妊症の女性たちに足らないのは、そういう「謙虚さ」なんです。結婚に対して謙虚になっていないから、未来に生まれて来る筈の赤ちゃんがやってこないんです。赤ちゃんが「ママ、今のままでは妊娠できませんよ~」といっているようなもんです。医者の力を使ってどうにかするよりも、まずは自分自身を変えてしまうことです。

 執着から離れると、本当の楽しさが見えてくるものなんです。たとえ自分が不妊症であっても、今の自分をありのままで楽しんでしまうこと。結婚していても、今の生活を自然体で楽しんでしまうこと。そんなに肩肘を張らなくても、この世は生きていけるものなんです。頑張らなくても、人生を楽しむことはできるんです。

●最終章は育児をしている母親限定

 最終章は赤ちゃんを産み育てなければ絶対に解らないことなので、不妊症の女性たちや妊娠中の女性たちは排除します。赤ちゃんを産んでもいない女性たちが知るべきことではないんです。今までは妊娠や出産や育児のことを教えて来たけど、もうこれ以上の知識は不要で、後は不妊症を克服するなり、妊婦生活に集中するなりした方がいいんです。

 これから話すことは、育児をしている母親たちに起こる「とっても不思議なお話」なんです。育児を真面目にやっていると、母親が本物の母親になるために、とっても不思議なことが起こるんです。そのとっても不思議なことが起こらない限り、いくら子供がいたとしても、本物の母親になることはできないんです。

 言わば、本物の母親になるために通過儀礼が、母親たちを待ち構えているんです。女性という者は、結婚して自分の人生が変わったし、赤ちゃんを産んで自分の人生が変わったし、育児をすることで自分の人生が変わっていくんです。自分の人生が変わることで、巨大なエネルギーを発生させていくんです。

 結婚というのは、幸せを貰う立場から、幸せを与えていく立場に、自分の人生を転換することです。他人からエネルギーを奪う生き方から、他人にエネルギーを与えていく生き方に変えると、人生は劇的に好転して、幸福の連続の人生になります。自分の幸福な人生を決定づける転機が、或る日突然に起こってくるわけです。

 『幸せ色の出産ラブストーリー』は今まではすべての母親たちが解る内容であったけど、最終章だけは選ばれた母親たちだけにしか解らない内容になっています。選ばれた母親たちは「そうか! そういことだったのか!」と感嘆する内容になっています。しかし、選ばれなかった母親たちにとっては珍紛漢紛です。これだけはその不思議な体験をして貰わないと、全く解らないことなんです。いくら文章を読んだ所で、その文章を理解できたとしても、本当の所は解らないことでしょう。とにかく実際に不思議な体験をしてみることです。

●不妊症の女性たちに感謝

 この不妊症のカテゴリーを卒業するに当たって、今までこのブログを見て下さった不妊症の女性たちにお礼を言いたい。このブログは長らく不妊症の女性のために書き続けたものなんです。中にはドギツイ記事の回もあったけど、それは俺があなたたちに不妊症を克服してほしいからこそ、敢えて書いたまでで、俺が言いたかったことは、「不妊症は必ず克服できる病気だ」ということです。自分の何かが間違っているからこそ、不妊症を発症しているだけなんです。だから、それを改めてしまえば、簡単に治ってしまうんです。決して精子や卵子の問題ではないんです。

 未来に生まれて来る赤ちゃんは、あなたに母親としての準備が整い次第、あなたのお腹の中に潜り込んで来るんです。赤ちゃんはそれができるまでは雲の上で待っているんですよ。そのことを絶対に忘れないで下さい。

 このフブログを見て不妊症を克服できた人も、これから不妊症を克服しようとしている人も、2年間に亘り、このブログを見続けて頂いて、本当に有難うございました。タマティーは心から感謝しております。このカテゴリーを卒業しても、タマティーはこの国から不妊症を絶滅すべく、日々努力しております。決して不妊症の女性たちは一人ではないんです。目に見えぬ所で、タマティーを始め、色んな人々があなたたちを応援しているんです。

 不妊治療をやっていて、心がつらくなった時は、『不妊症バトルロワイヤル』を思い出して下さい。タマティーも悪戦苦闘しながら戦い抜いたので、その勇姿を見れば、あなたの心も奮起する筈です。大事なことは、いくら失敗してもいいから、悪戦苦闘しながら、不妊症を克服していく強さを持つということです。

 いくら不妊症といえども、自分が立ち上がって戦わないと、勝てる戦いにも勝てなくなります。不妊症は絶対に克服できる病気なので、自分が本当に赤ちゃんが欲しいと思えば、絶対に赤ちゃんがやってくるものです。あなたにはそれが絶対にできます。言い訳をいう暇があるのなら、せっせと自分の生活を改善していくことです。一つ一つ改善していけば、いつの間にかに妊娠しているものなんです。赤ちゃんを妊娠することは、決して難しい事ではありませんよ。

 何事もやればできる!

 heart01heart01 happy01 happy01 happy01 happy01 happy01 happy01 happy01 happy01 heart01heart01

| | コメント (10) | トラックバック (8)

三つ子の魂、百まで

●三歳までに人格の基礎が形成される

 人間の脳は、3歳児の時点で脳の80%が形成されるので、当然にこの時期までに子供の人格の基礎が形成されるわけである。3歳児の時点で出て来た性格は、その後の人生でそう簡単には変わらないものなのである。外向的な子供は、成長してもやっぱり外向的な性格だし、内向的な子供は、成長してもやっぱり内向的な性格のである。勿論、青春時代に何かしら道を踏み外してしまうこともあるが、それでも3歳児までがその人の人格形成にとって最も大事な時期なのである。

 昔の人たちはこれを「三つ子の魂、百まで」と言い伝えてきたのである。昔の人たちが何度も育児をしてみて、辿り着いた結論がこれであったのだ。昔と今とでは年齢の数え方が違うので、現在で言うなら、2歳児の時点で、その子の人格が決定してしまうと見たのである。離乳食の始まる前の親の育て方が、子供の人格に決定的な影響を与えてしまうと考えたのである。

 ところが、現在の医者たちは昔の言い伝えて来たこの教えを迷信だと決めつけ、3歳児神話を否定することに躍起になっている。特に仕事のために育児の時間を充分に取れない女医たちは、この3歳児神話を否定することを母親たちに教えているだけでなく、自らも実践して育児をせずに、保育園に我が子を預けながら仕事をしてしまっているのだ。

 勿論、食事さえ与えておけば、子供は肉体的には成長する。問題はそれではきちんと精神的に成長させることができないということなのである。子供が精神的にきちんと成長していくためには、両親の育児の仕方が大いに影響を持っており、それなくしては子供は健全な人格を作り上げていくことができないのだ。

 医者たちが3歳児神話を否定するなら、母親たちは3歳児以下の子供たちに構わなくても健全に育つ筈ではあるが、現実問題としては少年犯罪は多発しているし、学校ではイジメや自殺が絶えたことはないのだ。ということは医者の3歳児神話の否定という考え方が間違っているということなのである。医者たちが育児の現場で出鱈目な学説を展開してしまえば、そういう育児を受けて育ってきた子供たちの悪魔のツケを、学校や警察が処理しなければならないのである。

●母性愛は子供を甘えさせ、守り、見守ることこそが基本

 子供の人格形成に最も重要な役割を果たすのが、母親である。母親が母性愛を子供に与え続けるからこそ、子供は健全に人格を形成していくことができるのである。子供はとにかく母親からの母性愛を必要としている。母性愛は絶対肯定の愛であるがゆえに、母性愛を充分に貰えねば、自分の存在を肯定することができないからだ。

 それゆえ、母親は子供に充分に甘えさせることだ。子供はこの世がどういう状況になろうとも、母親のことが一番大好きなのである。だから、子供は母親に甘えたがるのである。子供が抱っこを要求することは、子供がただ単に抱っこをしてほしいだけでなく、母性愛の発露として抱っこして欲しいということなのである。子供が抱っこを要求しているのに、「歩けるでしょ」と突き放してしまったら、子供は自分の存在を否定されたと思ってしまうのである。

 母親は子供を充分に守ってあげることだ。子供は自分が弱い存在であるということを知っており、そのため母親の影に隠れようとする。人見知りが激しいのは、母親以外の人間は基本的に危険だと看做しているからなのである。だから、人見知りをしているのに、無理矢理に他人に挨拶などしなくてもいいのである。それよりも抱き締めながら、「大丈夫だよ」と励ましの声をかけてあげるべきなのである。

 子供は母親から充分に母性愛を貰うと、母親から離れて動くようになるので、その際はいつまでも手元に置いておくのではなく、子供を手放して、見守るようにすればいいのだ。子供は自分は母親から見守られていると解っていれば、自分が今まで知らない世界に突き進んでいき、自分の世界を広げていくようになるのである。

 母親が育児をしていて、最大の難関は、「構うべきことは構え」ということであり、かといって「子供に構い過ぎるな」というバランスを巧く取ることなのである。母親が子供に構わなければ子供の人格がおかしくなってしまうし、母親が子供に構い過ぎれば子供の人格は駄目になってしまうのである。これだけは育児の現場で経験値を積みながら、自分なりの結論を出していくしかないのだ。

●母親も一生懸命なら子供も一生懸命

 新米ママなら、初めての育児なのだから、一生懸命になっているものだ。しかし、その努力は空回りしている部分もあって、何度も失敗をしでかしてしまうものだ。時には育児で涙を流し、時には自己嫌悪に落ち込んだり、時には「自分は母親として失格だ!」と思うからこそ、いつの間にかに母親としてきちんと成長していくのである。

 新米ママは育児を一生懸命にやっているからこそ、育児には思い出がたくさんあるのである。育児の仕方を試行錯誤しながら掴み取っていくからこそ、育児の仕方が朧げながら解ってくるのであって、育児に於いて悪戦苦闘することは絶対に必要不可欠なことなのである。

 子供の方も未熟な母親から育てて貰うことに一生懸命になっており、子供はその未熟な母親といえども、未熟な形で育てて貰うことで、子供は一生懸命になって成長していくのである。子供は何も完璧な母親を望んでいるわけではないのである。未熟でもいいから、子供に向き合って育児をする母親を求めているのである。

 育児をするのに、育児書や医者に頼ってしまうと、なかなか育児が巧く行かなくなってしまう理由はここにこそあるのだ。育児で最も大事なのが、母親がちゃんと子供に向かい合っているのかということだからだ。それなのに母親が自分の子供にではなく、育児書に向かい合ってしまったり、医者に向かい合ってしまったら、そのアドバイスがいかに優れたものであっても、実際の育児の現場では絶対に巧くいかないのだ。育児の仕方というのは、母親の存在抜きに存在しえないものであって、まずは母親の気持ちなのである。

 育児に悪戦苦闘していれば、いつの間にかに育児の仕方は身についていくものなのである。子供が成長していき、母親がそれほど手間をかけなくてもよくなり始めた時でも、母親が自分の子供に向かい合っていれば、育児は順調に行くものなのである。自分の子供が言葉を初めて喋ってくれた時は嬉しくても、その後に子供が下らないことを喋ってくると途端に不機嫌になってしまうものだ。それでも子供に向き合って、子供の話して来ることを聞くからこそ、子供は段々レベルの高い話をしてくるようになるのである。

●夫婦仲が良ければ育児は巧くいく

 家族の中で愛がきちんと流れていくためには、夫婦仲を良くしていくことは絶対に必要なことである。夫が妻を愛し、妻が自分は夫に愛されていると感じているからこそ、我が子に充分な母性愛を与えようとしてくるのである。母親が自分の夫と仲が悪く、自分の子供だけを愛しても、正常な母性愛は出て来ないものなのである。

 愛は家族の中で循環しているものなのだ。愛は家族の中を循環することによって愛が増大していくのだ。妻は夫から愛されることが嬉しければ、子供をきちんと愛そうとするし、子供もきちんと愛が貰えればスクスクと成長していくのだ。夫はそういう妻や子の姿を見ると、益々仕事に一生懸命になって、収入を増やしていこうとするのだ。

 いくら育児をしているからといって、育児だけをしていてはならないのだ。夫婦関係にも充分に気を配って、夫婦仲を良好なものにしていかねばならないのである。夫婦仲が良ければ、育児は巧く行くのだ。夫婦喧嘩をしあっているのに、育児が巧く行くということは有り得ないのだ。

 新米ママなら育児が未熟だから、夫に育児を手伝ってほしいと言ってしまうものだ。しかし、夫に育児を手伝わせてしまうと、肝腎な仕事が疎かになってしまい、仕事が巧く行かなくなってしまうのだ。そうなれば夫は妻に対してきつく当たって来るようになり、そして夫婦喧嘩が始まってしまうのである。妻が自分に良かれと思ったことが、夫婦仲を破壊してしまうことになってしまったのである。

 夫は育児に直接参加していなくても、生活費を稼いで来ることで最大の貢献をしているものなのである。まずはそこを認め、夫を褒めてあげることなのである。夫も妻から認められ褒められていれば、余力がある時は自然と育児を手伝ってくれるようになるものなのだ。

 子供は父親と母親が喧嘩している家庭では健全に育つことができない。母親から母性愛を貰ったり、父親から父性愛を貰ったりするどころではないからだ。育児がどうこのうと言う前にまずは夫婦が仲直りして、夫婦仲をきちんとしておくことである。そういう夫婦のもとでは、子供は自然と健全に成長していくものなのである。

●胎内記憶の告白

 子供が3歳児になって行われる最大の行為が、「胎内記憶の告白」であろう。胎内記憶は、2歳だと巧く言えず、4歳だと消えてしまうのだ。明らかに3歳児は他の年齢の子供とは違うのである。3歳児でなければ、話してくれないものだって、この世にはするのだ。

 胎内記憶はすべての3歳児が話して来るわけではない。出産時に母親の体から胎内記憶を消すホルモンが分泌されてしまうために、大方の赤ちゃんは胎内記憶を失ってしまうのだ。3歳になっても胎内記憶を持っている子供は、せいぜい半分くらいで、しかも、胎内記憶をすべて覚えているわけではなく、記憶の断片を繋ぎ合わして、話してくるのだ。そのため、母親から見ると、胎内記憶に多少の食い違いが出て来るのだ。

 我が子から胎内記憶を告白されると、殆どの母親たちは感動して感涙を流すという。赤ちゃんは決して白紙状態で産まれてきたのではなく、妊娠中に人格の基礎を形成しており、ということは子供の最も大事な部分が、実は母親のお腹の中で作られたということであるからだ。

 昔から妊婦は感情を爆発させることがないよう、自宅で平穏な日々を過ごすべきとされてきたし、『幸せ色の出産ラブストーリー』でも妊娠中は夫婦仲を良くするよう最大の注意を払ってきた。なぜなら、妊娠中に平穏で最低限の幸せが確保される生活を営んでいれば、お腹の赤ちゃんは脳を巧く形成しえて、出生後に健全な人格を形成することになるからである。

 胎内記憶の告白は、ただ子宮内という目に見えぬ生活のことを知ることができるのではなく、子供の人格形成に、実は母親こそが最も深く関わっているということが解って来るのである。だから、母親たちが自分の子供から胎内記憶の告白を受けると感動してしまうのである。自分の子供にただ肉体的な要素だけが遺伝していくのではなく、母親が持っている精神的要素までが継承されていくからである。

●三歳以前の記憶の消去

 3歳児になれば、その子の人格もほぼ形成され、喋ることも充分にできて、人間関係を構築していくこともできる。しかし、そのまま成長していけばいいのに、4歳か5歳までの間にそれまでの乳幼児期の記憶が消去されてしまうのである。だから誰も乳幼児の記憶がないわけである。

 なぜ、脳がこのような措置を取るのか、正確な所は解らない。ただ、乳幼児期の不要な記憶を消去することで、新たな人生を切り開こうとすることだけは確かなようである。乳幼児期の記憶をいつまでも持っていては、新たな情報が入って来なくなってしまうので、乳幼児期の記憶を消去することで、新たな記憶が入って来るように仕向けるのである。

 但し、これには例外もいる。記憶の消去のかかり具合が弱く、乳幼児期の記憶を大人になっても持ち続けてしまうのだ。作家の三島由紀夫なんかはその代表例で、「自分は出生直後の光景を見たことがある」と小説に書いたのだが、この文章は作家や文芸評論家から嘘をついていると散々に酷評されてしまったのだ。三島由紀夫を決して嘘をついているのはなく、記憶の消去が弱かったために、出生直後の記憶を持ち続けることができたのである。通常の人々では記憶の消去がなされてしまったために、出生直後の記憶なんて持ち合わせていないのだ。これは記憶の消去がどのように起こったかの違いでしかないのだ。

 現在の人間の教育システムでは、4歳児と5歳児向けには幼稚園を完備している。これは子供の脳の成長からいうと非常に適した教育の遣り方で、この時期から教育を施すからこそ、子供の脳はグングンと成長していくことができるようになるのである。3歳以前は親元で過ごしていればいいのだ。保育園というのは飽くまでも親の都合のために子供を預ける施設であって、子供の脳の成長からいえば、優れた施設ではないのだ。

 子供の脳が充分に成長していないのに、早期教育を施すことは非常に危険なのである。その反面、子供の脳が充分に成長したのに、教育を施さないことも非常に危険なのである。幼稚園はただ単に子供を預かる場所なのではなく、「遊びながら学ばせていく」ということをしておけば、その後の教育が非常に楽に成り、子供は高い知能を形成していくことが可能になるのである。

●人が成長することは嬉しくて、悲しくて、そして楽しいもの

 我が子が成長していくことは嬉しいものなのである。この嬉しさは他の物では代えようがない物なのである。赤ちゃんが成長していく喜びというのは、女性が経験できる喜びの中で最高レベルのものであって、この喜びがあるからこそ、女性は精神レベルを高くしていくことができるようになるのである。この喜びは女性が結婚せずに、仕事だけをしていては、絶対に得られない喜びなのである。

 それと共に、我が子が成長していくことは悲しさを伴うものなのである。母親であるなら、我が子に対して成長を願うと同時に、「いつまでも赤ちゃんでいてほしい」「いつまでも幼児でいてほしい」でいてほしいと思ってしまうものだ。それは育児をちゃんとこなして、幸せな日々を送っているからこそ、時間が止まってほしいと願ってしまうのである。

 そして、だからこそ我が子が成長していくことは楽しいのである。育児は一期一会だ。その一瞬一瞬はもう二度と帰ってこないのだ。 今、育児をしている時に全力を尽くす。自分が育児に全力を尽くしているからこそ、育児は楽しいのである。注意を散漫にして、育児に全力を尽くさなかったら、育児の本当の楽しさなど決して解らないものなのである。

 人間は人間が作りし物に騙されてしまう。自分の経験をそっちのけにして、演劇や映画やドラマや小説や漫画に虜にされてしまうのだ。いくらフィクションの中で遊んでも、現実の世界の方が圧倒的に面白いものなのである。育児をしていれば、色々な経験をすることだろう。育児は楽しいことばかりではない。喜怒哀楽を伴うものだ。しかし、そうやって育児をしながら、悪戦苦闘するからこそ、育児の本当の楽しさが解ってくるのだ。

 育児とはうのは、母親の心を変えて行ってしまうものだ。母親は子供を産み育てることで、人が生きていく喜び、悲しみ、そして楽しさを知るのだ。時には怒ったりもするし、落ち込んだりもする。そうやって育児をしていくからこそ、人の命の大切さを知るのである。こういう命の大切さは、実際に自分が経験してみないと解らないものなのである。いくら命の大切さを教えても、妊娠も出産も育児もしたことのない女性たちに解らせるのは無理というものなのである。たとえ「命の大切さを理解しました」と言っても、それは偽善の塊にしかすぎないのだ。

●人間は3歳までに親孝行を果たしているもの

 人間の子供は3歳児が最も可愛くなる時期である。子供が男の子なら、有り得ないような可愛さを発揮してきて、母親はメロメロになってしまうことだろう。この可愛さは他の人間には決して持たざるものだからだ。子供が3歳までは如何なる乳幼児も母親の独占物なのである。

 それゆえ、人間は3歳までに親孝行を果たしているものだ。だから、その後の人生で、我が子に親孝行を強いてはならないのだ。いくら自分が育児で大変な思いをしたとはいえ、それ以上の物を我が子はくれた筈なのである。育児に見返りなど求めてはならなのだ。育児は見返りを要求しないからこそ、育児たりえるのである。

 自分の子供に求めていい親孝行は、大人になったら結婚して子孫を絶やさぬようにすることなのである。自分が育児の楽しい思いをしたのなら、我が子にもそれを味わって、子孫を繁栄させていくべきなのである。子孫の多い家族というのは、それだけ育児の楽しい想いが継承さている家族なのである。

 子供は母親が育児で楽しんでくれないと、大人になっても結婚しないし、結婚したとしても子供を産まないという異常な行動を取ってくるものだ。いくら勉強やスポーツや仕事で頑張ったとしても、育児を超えるような楽しさはないものなのである。子供を産まなかった女性たちには、心の中にまともな愛がなく、どこか寂しげで、常に誰かに対して憎しみを抱いているものなのである。自分の母親が育児で楽しんでくれなかったツケが、こういう形で現れてきてしまうのである。

 人間の人生の中で、育児をしている3年間というのは、決して長い歳月ではないのだ。実際に育児をやってみれば、あっという間に過ぎ去ってしまう歳月でしかない。その歳月ですら楽しめないのであるなら、他のいかなることをやっても楽しむことができないことだろう。

 子供にとってはその3年間で人格の基本が形成されてしまう最も大事な時期のである。子供はその人格の基礎を元にして成長していくのである。3歳児の時に現れて来た性格は、その後の人生でそれほど変わらないものなのである。そういった意味で育児に於ける母親の役割は最重要であるのだ。こういうことはいくら政府が育児支援に乗り出しても、取って代わることができないものなのである。母親が性根を据えて、育児に向き合って、育児を楽しむしかないのである。女の人生が一本道なら、母親の人生だって一本道なのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

卒乳の時期

●卒乳と断乳

 乳幼児は一体いつ母乳と縁が切れるかというのは、「この時期です」と明確に定められないものなのである。母乳育児をすれば、子供は正式な食事が始まっても、長らく母乳を飲み続けるだろうし、母親としても母乳を与えることが子供との深い関係を築いてしまうものなので、そう簡単には母乳を与えることをやめることはできないのである。

 母乳育児で乳幼児を育てた場合、「卒乳」が理想的な形となる。卒乳とは子供の方が自然に母乳を卒業するこという。これに対してミルクで育てた場合、「断乳」が通常の形式になる。断乳とは母親が意図的に母乳を与えるのをやめてしまうことをいう。卒乳になれば時期は遅くなるし、断乳をするなら時期は早くなるのだ。

 母乳育児の場合、卒乳の時期は人それぞれなのである。「子供は母乳を飲むのをやめたくなったら、自然と卒乳する」という説明できない。2歳までは正式な食事を与えても、それ以降も授乳をし続けるのが一般的だろう。2歳代で卒乳する子もいれば、3歳代で卒乳する子もいる。

 幼稚園児になると母乳を飲むのをやめるという子供は多い。さすがに幼稚園児になれば、友達との情報交換が進むので、他の園児がやっていなければ、恥ずかしがって母乳を飲むのをやめてしまう。でも、幼稚園児でも母乳を飲んでいても構わない。幼稚園児が母親の乳房をしゃぶっている姿は、ミルクで赤ちゃんを育てて来た人には驚きの光景だが、別にそれがどういう問題を引き起こすのでもないのだ。どんなに遅い子供でも、小学生になれば自然と卒乳していくのだ。

 ミルク育児の場合は、出生後、早い段階でミルクに切り替えるので、断乳という方法を取るしかない。ミルク育児なら卒乳という選択肢は発生しないのである。それゆえ、子供がいつになったら母乳を飲むのをやめてくれるかという問題は、母乳で育てた母親のみに発生するのである。

●母親の都合で断乳しない

 折角、母乳で育てたのに、母親の都合で断乳しないことだ。多くの場合は医者から言われたからなのであるが、医者は母乳育児とミルク育児とではまるで育児の仕方が異なってしまうということが解っていないのだ。母乳育児を選択したのなら、母乳を与えていることに関して、医者のアドバイスを拒否することだ。

 医者たちが勧める断乳とは、オッパイに絵を描いたり、唐辛子を塗ったり、絆創膏を貼ったりと、滑稽極まりない幼稚な行為なのである。この手の断乳は、赤ちゃんは母親から拒絶されたと思うようになり、その後の育児に悪影響が出て来るものなのである。赤ちゃんの方がまだ母乳を飲みたいと言っているのに、無理矢理に断乳などすべきではないのだ。

 母乳育児の場合、2歳を過ぎて、離乳食が終わって正式な食事は始まれば、免疫学的にも栄養学的にはもう母乳は必要ないのである。では、なぜ母親が母乳を与えているかといえば、それは母性愛の発露からなのである。子供がオッパイを吸ってくれることで、自分の母性愛が刺激され、母性愛を与えてしまうのである。だから、本来は必要ないのに、いつまでも母乳を与え続けてしまうのである。

 卒乳の主導権を握っているのは、飽くまでも子供の方なのである。子供がオッパイを飲まなくても、母親からの母性愛をきちんと感じられるようになったら、子供は自然とオッパイを卒業していくのである。母親が主導権を握れるのは断乳の方であって、卒乳では握ってはならないのである。自然の流れに身を任しておけばいいのである。

 医者たちは母乳をいつまでも与えていると虫歯になるというが、母乳を飲んで虫歯になった子供などいない。それは歯磨き不足で虫歯が起こるのであって、母乳を与えることで起こるものではないのだ。母乳にはカルシウムが含まれているので、子供が母乳を飲めば、歯が健康になり、虫歯など1本もなくなるのである。寧ろ、母親の方が食事の際にカルシウムを摂取して、カルシウム不足にならないように心掛けることなのである。絶対に卒乳の振りをして断乳をしてはならないのである。

●授乳は最高の乳癌予防

 早すぎる断乳は乳癌を生むことになる。乳癌は乳管が詰まって癌が発生してくるのだが、折角、赤ちゃんを産んだのに、早くに断乳してしまえば、乳管を余り使っていないことになってしまい、そこが癌化して乳癌になってしまうのだ。人間の各器官は使わなければ劣化していくのであって、乳房も授乳で使わなければ、表面的には形は崩れていないだろうが、内部ではしっかりと劣化が始まり、そこは癌細胞の格好の棲家になってしまうのだ。

 授乳は最高の乳癌予防であるといっても過言ではないのだ。乳癌検査を受けるより、3人以上の赤ちゃんを産んで、母乳で育てれば、絶対に乳癌になどならないのだ。女性として生まれたのに、赤ちゃんを産まなかったとか、たとえ赤ちゃんを産んでもミルク育児をしてしまったら、その代償は自分が乳癌になることで支払うことになるのである。

 母乳をきちんと出していない女性が、乳製品を始めとする動物性脂肪を大量に摂取してしまうと、乳癌になる危険性が飛躍的に増大する。日本では近代化以前は牛乳を飲まなかったので、乳癌の発症率が非常に低かったのである。犬や猫、人肉すら食べて来た中国人たちは、あれだけ食に貪欲なのに、なぜか牛乳を飲んで来なかったのである。牛乳というのは、危険な食品であると解っていたからこそ、中華料理では乳製品を使用して来なかったのであ。

 乳癌の発症時期は40歳以降となってくるのだが、これは加齢による女性ホルモンの分泌量の低下で乳房に変化が生じたからなのである。女性は40歳代の或る時期から急激に女性ホルモンの分泌量が低下していくので、ただでさえ更年期障害に陥ってしまう。この女性ホルモンの分泌量の低下が乳房にも影響をもたらして、乳房の中に癌細胞を発生させてしまうのである。

 女性ホルモンは体を冷やす副作用を有しているので、赤ちゃんを産まずに母性ホルモンを出さなかった人は、慢性的な低体温になってしまっているので、癌細胞が増殖し易い環境を与えてしまっているのだ。癌細胞と言うのは、女性が平均体温である「36.5℃」であったら、増殖できないのである。体温が平均体温を下回るからこそ、癌細胞は増殖できるのである。

●母と子の絆

 子供のいる母親が、いつまでも母乳を与えるというのは、子供に母性愛を与えるためにも、自分が乳癌にならないためにも、必要なことなのである。更に親子の関係とは他人がとやかく言えないものであって、母親が子供に母乳を与えることによって、母親と子供との間に深い絆が結ばれ強まっていくのである。

 母乳育児を選択した母親が、卒乳の時期に悩むのは当然のことであって、母と子の絆が目に見えて存在してしまうからこそ、そう簡単には卒乳できないのである。こういうことは他人から何を言われても気にしないことだ。他人の意見を聞き入れた所で、その他人は自分に取って代わることなどできないのだ。飽くまでも我が子が自分の母乳を必要としているから、子供が大きくなっても与えていけばいいのである。

 卒乳は子供の方から自然と起こるものだ。母と子の絆がしっかりと結ばれて、子供の心の中が母性愛で満たされれば、子供は或る日突然に母乳から卒業していくものなのだ。卒乳する時は、子供の方も「これが最後だ」と解っており、男の子なら「これが最後だからね!」と勇ましく言ってから母乳を飲んで、それが最後の授乳になるのだ。女の子なら、もっと可愛らしく言って、母乳から卒業していくことだろう。

 自然な形で母乳から卒業させれば、その後の親子の関係も順調に成長していくことだろう。子供の方は自分は母親から拒絶されることなく、充分に受け入れられて育ったということは、その後の人生に於いて大きな自信となって、外に向かって成長していくことになるからだ。母親と子供が得体の知れないトラブルを抱えてしまうのは、実はそのトラブルの発生原因よりも、乳幼児に時に断乳を受けてしまい、母親から拒絶されたと思ってしまっているからなのである。断乳は子供の心の成長に非常に悪い影響を与えてしまうのである。

 赤ちゃんに初めて母乳を与える時は、自然と始まっていくものだ。初産なら出産後48時間経つと、乳房が膨らみ、初乳が出て来るのである。だったら、母乳育児が終わる時も自然の流れに身を任せて、母乳育児を終わらしていけばいいのだ。自然の流れに身を任しておけば、自然の内に終わるのである。それを理性の力を使って人為的に終わらそうとするからこそ、凄まじい問題が家庭内で発生してしまうようになるのだ。折角、母乳育児で育てて来たのだから、最後まで楽しい気持ちのままで終わらせてあげれば、大きくなった我が子に世界で最高の素晴らしいプレゼントとなるのだ。

| | コメント (7) | トラックバック (3)

オムツ取り合戦と寝小便合戦

●「オムツからの卒業」

 「オムツからの卒業」は、もっと前に書いておくべきだったのだが、かなり遅れてから出すことにした。というのは、「オムツからの卒業」で最も苦戦するのは、紙オムツで育った赤ちゃんたちであり、オムツからの卒業が異様に遅れてしまうのだ。布オムツを使って赤ちゃんを育てれば、オムツからの卒業に苦戦することはないからだ。

 基本的にオムツは離乳食を開始する2歳前までに取れるものである。赤ちゃんは母乳を飲んで育っている時は、ウンチは臭くないのだが、離乳食を食べ始めると途端にウンチが臭くなり始めるからだ。しかも、二足歩行を開始すれば、オムツがあれば邪魔になるので、赤ちゃんの方も二足歩行ができればオムツを脱ぎたがるのだ。布オムツで育てたのなら、どんなに遅くても2歳前までに取れるものだし、多くは1歳代のどこかでオムツを卒業してしまうものである。オムツは自然としなくなるものなのだ。

 しかし、紙オムうで育った赤ちゃんはそうはいかないのだ。オムツからの卒業が、大幅に遅れてしまい、2歳代になってもオムツをしているものだし、下手をすれば3歳代になってもオムツをしているものなのだ。布オムツと紙オムツとではどうしてこれほどまでに差が開いてしまったのかというと、それはオムツの構造自体が違うからである。布オムツだと小便をするたびにその小便で膀胱に刺激が行き、赤ちゃんは常に泣かざるをえなくなるからだ。だが、紙オムツだと赤ちゃんが小便しても紙オムツが小便を吸収してしまい、そのために赤ちゃんは小便のたびに泣くことがなくなるので、どうしても膀胱の発達が遅れてしまうのだ。

 オムツが取れるのが、2倍にも3倍にもなってしまうというのは、育児をしている上で非常に大きい。布オムツは面倒臭いものでも、赤ちゃんのオムツが1歳代で卒業してパンツになってくれれば、赤ちゃんのシモの世話がなくなり、育児が途端に楽になるからだ。しかし、紙オムツは当初は楽チンなものであっても、いつまでもオムツの時期が続き、しかもそれだけ余計にお金がかさんでしまうのだ。

 オムツというのは、本来、二足歩行をすることには対応ができていない。オムツは寝たきりになっている者が使うものであって、赤ちゃんといえども二足歩行が始まれば、オムツは邪魔になるのは当然のことなのだ。それなのに2歳代や3歳代までオムツをしていれば、足や骨盤が曲がってしまうのは当然で、子供の頃には症状が出て来ないが、成長するにつれて、「椎間板ヘルニア」や「股関節痛」や「O脚」になったりするのだ。「ガニ股」もオムツからの卒業が遅かったためになってしまったものなのである。

オムツ取り合戦に参加するな

 ウンチをしっかりと便所でできるようになるまで、オムツは必要である。便所でウンチができないのに、絶対にオムツを取ってはならない。母親と子供の間で壮絶なバトルが展開されてしまうからだ。多くの新米ママは、他のママさんたちがオムツからの卒業を試みていることを知って、我が子の現状を無視して、オムツ取り合戦に参加してしまうのだ。

 布オムツで育て、母乳で育てているなら、排便の時期は母乳を飲ませた後だと解っているので、二足歩行が充分にできるようになったら、オマルを買って来て、母乳をあげた後にオマルに乗せて、ウンチをさせればいいのである。しかし、それでオムツが卒業できるのではなく、オシッコはまだまだなので、オシッコもオマルでできるようになったら、オムツは卒業である。

 俺は赤ちゃんがオムツから卒業するのは、このようなものだと思っていた。ところが紙オムツで育て、離乳食が早いとそうはいかないのである。離乳食を早くから食べさせると、ウンチの時間がランダムになってしまうので、排便の時間が正確に掴めないのである。だから、新米ママが赤ちゃんをオマルに乗っけて延々と待つということをしなければならなくなるのである。

 「トイレトレーニング」なるものが必要になるのは、紙オムツで育ててしまった赤ちゃんだけである。ウンチがままならないわけだから、その次のオシッコも巧くいかないものだ。オムツを穿いている時に、小便すれば膀胱を刺激するということをしなかったから、尿意を感じたら、少し待つということができないのだ。小便をしたくなれば、垂れ流しである。

 我が子を紙オムツで育ててしまった場合、オムツ取り合戦には絶対に参加しないことだ。紙オムツならオムツからの卒業が遅れて当然だからだ。トイレトレーニングを延々と行って、ウンチがオマルでできるように仕向けていくことだ。但し、オマルでウンチができたからといって、オムツを卒業させてはならない。オシッコはまだまだなので、パンツにした所ですぐにお漏らしをしてまうのだ。余所の赤ちゃんのことは気にせず、マイペースでやっていくことだ、

●昼のパンツと夜のノーパン

 オムツを卒業して、パンツにすると、四六時中、パンツでいていいわけではない。起きている時はパンツを穿いて、夜はノーパンでいいのである。パンツは母親たちが思っている以上に腰を締め付けてしまうので、睡眠中に骨盤が成長していかなくなるし、血液やリンパ液の流れをも悪くしてしまうのだ。大体、パンツを穿きながら寝かされている子供と言うのは、腰回りが非常に小さくなっているものだ。

 夜はノーパンで寝かせると、骨盤は充分に成長できるし、血液やリンパ液の流れもよくなるので、歩いている際に転倒しにくくなるし、風邪などの病気もひきにくくなるのだ。子供にパンツをつけさせた上で寝かしつけている母親は、自分のパンツをつけて寝ている筈なので、自分もパンツを外してノーパンで寝てしまうことだ。ノーパンで寝ると血流が良くなるので、睡眠中に老廃物や毒素が回収され易くなるので、便秘が解消されるし、お肌は艶艶になるし、体はスリムになっていくのだ。

 夜はノーパンだからといって、昼もノーパンではいけない。昼のパンツは動き易い物にして、小便をし易い物にすべきなのだ。オシャレなどは二の次なのである。子供はパンツの穿き心地が悪いと、すぐに脱いでしまうので、そういう時は無理に穿かせるのではなく、これは穿きにくいパンツなんだなと思うことだ。

 子供は成長が早いので、いつまでも小さいサイズのパンツを穿いておかないことだ。小さいパンツだと骨の成長に悪影響を与えてしまい、骨盤が充分に発達しなくなってしまうのだ。特に女の子の場合、腰には子宮や卵巣があるので、これらの大事な器官が正常に発達してくれなくなってしまうのだ。子供用のパンツは安い物なので、僅かなお金をケチらないことだ。

 女の子の場合、スカートを穿くとパンツを剥き出しにしてしまうので、お尻が冷えてしまうのだ。そのため子供ながらにして便秘をしてくるという事態になってしまうのだ。温かい日にスカートを穿かせるのは構わないが、寒くなってきたらズボンを着用させ、お尻を冷やさないようにすることだ。これをするだけでも便秘は一気に解消されていくのである。

●子供は寝小便をするもの

 子供がオムツを卒業し、パンツになってからするものといえば、寝小便である。これには散々手古摺ってしまうものである。そういうい時は「「子供は寝小便をするもの」と割り切ってしまうことだ。子供の方もこれは意図的に行ったわけではないので、子供が寝小便をしたら、別に叱ることなく、きちんと処理してあげればいいのだ。

 ただ、寝小便対策はしておきた方がいい。まずは、日中に体を動かして汗を流させ、就寝前に水分を補給させないことだ。寝小便は体内に余分な水分があるからこそ、してしまうのであって、体内に余分な水分がなければしないものなのだ。特に就寝直前に水分補給をさせないと、寝小便をしてくる確率は減るものなのである。

 次に体を温めさせることだ。寝小便する子供は体が冷えている傾向にあるので、食事で温かい物を取らせるとか、風呂に入って体を温めるとか、温かいパジャマを着させて寝かせると、寝小便の回数は減るものである。夏は意外と体を冷やしてしまうので、クーラーなどは余りつけずに暮らした方がいいのだ。夏といえどもあ風呂に入らせて、体を温めることだ。

 子供も大きくなってくれば、夜に小便の合図をするようになるので、そういう時は子供にきちんと付き合うことだ。母親としても眠たいから、「自分で勝手に行け!」と言いたくなるのは解るが、子供は暗闇が怖いので、便所に行けないのだ。それで寝小便をしてしまうのである。

 寝小便を頻繁に起こすようであるなら、「銀杏」を食べさせることだ。銀杏は夜尿症を防止するので、子供の寝小便には特に効果があるのだ。銀杏はそのまま食べるのではなく、「茶碗蒸し」にしてたべさせればいい。但し、子供にとっては銀杏は中毒症状を起こす危険性があるので、一日5粒以上を絶対に食べさせないことだ。子供なら銀杏は1個で充分なのだ。

 子供が寝小便をしなくなれば、親の手から離れていくものだ。子供は寝小便をしなくなれば、親から自立し始めていく。それまでが自分の子供が自分の子供らしくいられる期間なのである。それゆえ、寝小便しても激しく叱るようなことはせず、温かい母性愛で包み込んであげることだ。そうすれば、子供が思春期を迎えても、親に得体の反抗をしてこなくなるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

子供には熱中するまでテレビゲームをさせない ~恐怖のゲーム脳~

●ゲーム脳の恐怖

 子供向けのゲームソフトは、それを販売している日々企業が努力を行っているために、いかなる子供がやったとしても、面白くなるようにできている。勿論、子供も遊びでやる紛にはテレビゲームをやっても構わない。寧ろ、テレビゲームをすることで、脳が刺激され、脳を成長させていくことができることだろう。

 しかし、子供がテレビゲームに熱中し、毎日何時間もテレビゲームをやるようであるなら、それは非常に危険なことなのだ。脳の成長をもたらすどころか、脳を「ゲーム脳」にしてしまい、脳の成長を止めてしまうからだ。ゲーム脳になってしまうと、脳の前頭前野が弱体化し、創造力がなくなってしまうのだ。

 更に人間の脳がゲーム脳になってしまうと、現実への適応力を欠いてしまい、テレビゲームにしか対応できなくなり、現実の生活でのトラブルを爆発的に増加させてしまうのだ。子供の脳がゲーム脳になった所で、子供にとっていいことなど一つもない。せいぜい凶悪犯罪者の予備軍になってしまい、もっと大きくなれば凶悪犯罪を犯すような少年少女になってしまうことだろう。

 母親としては、子供がテレビゲームをやっていると静かにしてくれるので、遂々テレビゲームを与えてしまいがちだ。しかし、子供がテレビゲームをそこそこやるというストッパーを持ち合わせていないのだ。テレビゲームを遣り始めれば、とことんやってしまい、テレビゲーム中毒になってしまうのだ。

 子供の脳は未だ成長期にあるので、子供の脳がゲーム脳になってしまえば、その悪影響は甚大なものになってしまうのだ。どんなにテレビゲームを巧く使いこなしても、それ以外の分野では何もできなくなってしまうのだ。子供は人間関係の仕方を学ばねばならないし、自然との付き合い方を学ばねばならないし、子供らしい頭の使い方や体の動かし方をやらなければならないのだ。これらできなければ、その子供が異常化していくのは当然のことなのだ。

●キレる子供のメカニズム

 子供は一見いつも遊んでいるように見えて、実は本能を鍛えている。子供は食事で満腹になれば、それ以上の物は絶対に食わない。子供は眠たくなればどこでも寝てしまう。子供は便意を催すと、全力をかけて排泄しようとする。これらすべてのことが本能を鍛えるために重要なことなのだ。これらのことは子供が体を動かしているからこそできるのである。子供にとっては体を動かしながら遊ぶことこそ、子供の本当の仕事なのである。

 しかし、ゲーム脳になってしまうと、子供が遊びながら体を動かそうしなくなってしまうのである。だから、本能が弱くなり、感情的になるのだ。確かに子供は時たま感情的になるが、その感情は高が知れたものである。ゲーム脳を持つ子供が感情的になると、もう手のつけられないように感情の爆発を行ってくるのである。

 それに、人間は創造的なことをしていないと、理性が衰えてしまい。物事を論理的に考えるということができなくなるのだ。ゲーム脳は、要はゲームに対する条件反射で鍛えられたものであり、何か物事を深く考えているわけではないのだ。そのために理性が衰えてしまい、普通の子供なら理解できるものであっても、理解できなくなってしまうのだ。

 テレビゲームばかりしていると、行動を起こしていないから、意志が弱くなるのだ。いかなる物事というのは、それをやってみれば失敗の連続だ。何度も失敗して、何度も師試行錯誤を繰り返すからこそ、物事を成功させることができうのである。ゲーム脳になってしまうと、自分が行動を起こしていないのに、頭の中だけで処理してしまおうという性癖が身についてしまうので、何も成功することができなくなるのだ。現実というのは、テレビゲームのように行かないものなのである。

 ゲーム脳を持ってしまうと、感情が乏しく、口数が少なく、物忘れが激しくなる。明らかに脳が委縮してしまっているのだ。こういう子供は自己中心的にしか動けないから、すぐに人間関係でトラブルを引き起こしてしまい、それで感情を爆発させて、キレてしまうのだ。テレビゲームはやってみれば確かに面白い。しかし子供の脳がゲーム脳になるまでやらしてしまえば、本能が衰え、感情や理性や意志が弱体化し、テレビゲームしかできない子供になってしまうのだ。

●ゲーム以外で熱中できるものをやらせる

 テレビゲームほど日本人に悪影響を与えた物は他にない。一番解り易いのが、オリンピックでのメダルの獲得数である。日本でテレビゲームが普及し出すと、それに比例するかの如くに、メダル獲得数は現象の一途を辿ったのだ。このメダルの現象を、「日本人は白人よりも体力が少ない」という人種学的な説明をする人たちがいるものだが、ところが、韓国にしても中国にしても、人種的には日本民族と同じなのに、オリンピックでは善戦して、かなりのメダル数を獲得しているのである。明らかに日本国内で異常なことが子供たちに起こったからこそ、日本のメダル獲得数が激減していったんである。

 その異常なことはテレビゲームの普及以外にないのだ。子供が成長期なのにテレビゲームに熱中しているからこそ、脳や体を鍛えることができず、世界で全く通用しない子供になってしまったのだ。この成長期は二度と帰って来ないので、この時期に脳や体を成長することができなければ、どうやったとしても取り返しのつかないことになってしまうのだ。

 子供がテレビゲームに熱中するよりも、テレビゲーム以外で子供が熱中できるものをやらせることだ。子供は物覚えが早いので、熱中してやらせれば、途端に上達してしまうものなのだ。子供に芸事をさせてしまい、テレビゲームをしている暇をなくしてしまうのだ。そうすれば自宅にテレビゲームがあったとしても、テレビゲームを遊び程度しかやらなくなるものなのだ。

 子供が成長期なのに、テレビの前に齧りついていたら、健康に悪いに決まっているのだ。背骨は猫背になり、筋力を衰え、近眼になっていくことだろう。勉強をやって近眼になったのならまだ同情の余地があるが、テレビゲームをやりすぎて近眼になったら、そいつは余程の馬鹿である。

 子供にはとにかく体を動かさせることなのだ。体を動かしていれば、子供の体は健康に成って、成長していくのだ。子供に芸事を教えることがなぜいいかといえば、子供は芸事を覚えていくに当たって、どうしても体を動かさざるを得なくなってしまい、それが自然と健康に繋がり、成長へと繋がっていくからなのだ。

●19歳までは脳の成長期であることを忘れるな

 この世には大人にとって良くても、子供にとっては悪い物がたくさんある。例えば、「ポルノ」なんかいい例で、大人がポルノを見て性欲を刺激することは良くても、それを子供がやってまったら、途端に悪影響が出て来るのは当然のことだ。子供はまだ判断力が低いために、それを正しく使うということができないのだ。

 女の子なら成長期に化粧品を使いすぎてしまえば、人体に悪影響が出て来るのは当然のことなのだ。肌が成長を繰り返している時に、化粧品を使えば、ホクロやシミになってしまうのは当然のことなのである。素肌を晒しても充分に生きていけるのだから、それで生きていけばいいのである。

 母親は子供といつも一緒にいるために、子供に大人と同じことをやらしてもいいのではないかという錯覚に陥ってしまう。しかし、人間は19歳までは脳の成長期であることを忘れてはならないのだ。子供がテレビゲーム中毒になるかは、その子の親の責任であるのだ。子供には経済力がない以上、その子にテレビゲームを買い与えたのは、その子の親であるからだ。

 子供の心身を健全に育てたいのなら、子供を外で遊ばせることだ。子供は遊んでいる内に、脳も体も勝手に鍛えてしまうのである。子供をより健全に育てたいのなら、幼い内に芸事を習わしてしまうことだ。そうすればその芸事が身につくだけでなく、この世を生きて行く上での人間関係をしっかり学べることができるのである。

 結局、人間は外に撃って出て行かない限り、成長が止まってしまい、その内に心の闇に覆われてしまうようになるのだ。少年による凶悪犯罪が起こるたびに、精神科医たちがその少年の心の闇をなんたらかんたらと言ってくるのだが、その少年の心に心の闇を作ってしまったのは、その子にテレビゲームを与えてしまったその子の親であるのだ。

 子供がテレビゲームに熱中しているのは、異常なことなのだ。成長期には体を動かす遊びをしていくべきなのである。体を動かしていれば、心身ともに健全に成長して行くのである。子供がテレビゲームに熱中させるくらいなら、芸事を教え込んで体を動かさせるべきなのである。そうすれば、その子の脳を正常な形で成長させることができるようになるのである。

| | コメント (5) | トラックバック (2)

いつの世も子供はアホだと決まっている ~育児を巡る加点主義と減点主義の戦い~

●無知だからこそ知る喜びがある

 嘗て、ジョン・ロックは「人間は白紙状態で生まれてくる」という説を唱え、すべての知識は経験から得られるとして、経験論に基づく哲学を作り上げた。しかし、赤ちゃんの生態が解ってくると、ジョン・ロックの学説は誤りということが明らかになった。赤ちゃんは生まれながらにして泣くこともできるし、オッパイを見つければ吸いつこうとする。そして赤ちゃんには生得観念なんてないと思われていたが、赤ちゃんは明らかに胎内記憶を持っており、ただそれを言葉で喋れるだけ発達していないということに過ぎないのだ。

 しかも、赤ちゃんは自分が「神の世界」から生まれてきたことを知っており、赤ちゃんの肉体は精子と卵子の融合によって出来たものであっても、赤ちゃんの霊的な部分については神によって作り出されたということを知っているのだ。神とか、霊魂とか、宗教とかは、人間が生まれながらにして持っているものなのである。

 ところが、人間は理性の力が強まってしまうと、人間が持つ本能レベルの能力や、生得観念や、宗教の力を否定しようとしてしまう。理性というごく小さな能力だけで世界を認識し、行動しようとしてしまう。これこそが大人と子供の最大の矛盾点であって、子供はまだまだ本能のままで生きており、理性の力だけに頼って生きているわけではないのだ。

 知識という面に於いては、子供は本当に何も知らないものだ。いつの世も子供はアホだと決まっているのだ。無知だからこそ、知る喜びがあるのである。だから、理性が徐々に発達する時期に、子供はなんでも知ろうとする。この貪欲に知識を吸収しようとし出すと、子供は恐怖の「クエスチョンモンスター」に変身してしまうのだ。

 我が子がクエスチョンモンスターに変身すると、とにかくなんでも質問してくる。このなんでも質問して来られると、親は散々に手を焼いてしまうのだ。質問自体が非常識な質問だからだ。例えば、子供から「風ってどうして吹くの?」と質問されたら、どう答えればいいのだろう? こんなことを質問してくる人は自分の身の周りにはいないものだ。「お前は古代ギリシャのソフィストか!?」と突っ込みを入れたくなるくらいだ。

 これを真面目に答えようとすると、「地球は自転しているから、基本的に風は東から西へと吹くんだ。そして太陽の日照時間は四季では異なり、夏は日照時間が長いから気温が高くなって南風が吹くようになり、冬は日照時間が短いために気温が低くなって北風が吹くんだ。風は動けば山や川や谷にぶつかるから、それによって風向きを変動し、しかも家やビルなどの人工物でも変動するから、かなりランダムな形で動くんだ。」という答えが模範解答になる。

 だが、子供がその解答を聞くと更なる疑問が湧いてきて、「どうして地球は自転するの?」と訊いてきたりする。「風はどこにいった? いきなりガリレオレベルに行くな!」と言いたくなるのだが、クエスチョンモンスターになってしまった子供には無意味な反撃である。このエンドレスで続く質問攻撃に、いかに博識の親といえどもヘトヘトになってしまうのである。

●近くにいると欠点しか見えなくなる

 この点、古代人は神様を使って簡単に説明したことだろう。「どうして風が吹くの?」と訊かれれば、「それは神様が風を引き起こしているからだよ」と答えればいいのだ。子供にとってはそれで満足なのだ。時代が下ると、神様だけでは足りなくなって、妖怪をも生み出して、子供の得体に知れない質問に答えたのだ。そうなると、妖怪といえどもも、決して馬鹿にできないのだ。

 要は、子供がクエスチョンモンスターになった時、科学的に答えてもいいし、宗教的に答えてもいいのだ。しかし、子供への受け答えを知っていないと、この手の質問にはうんざりしてしまうものだ。しかも、子供はクエスチョンモンスターになって知識を溜め込んでいくと、今度は恐怖の「謎々モンスター」に変身してくる。子供が考える謎々って本当に下らないものだ。「知識は力なり」と言われるが、子供は知識を持つと悪用し出すものなのだ。

 子供がこの世の疑問点を持ったり、謎々をしてくるのは、脳が成長した証なのではあるが、親の方としては単純には喜べないものなのだ。近すぎると欠点ばかり目についてしまうものなのだ。だから、子供が質問攻撃をしてきたり、謎々攻撃をしてくると、それを否定的に受け取ってしまい、子供の成長を否定するような行動を取ってしまうのだ。

 子供の質問攻撃にうんざりしている母親たちは、夫婦仲も相当に危険になっていると見ておいた方がいい。夫と近くにいすぎるために欠点しか見えなくなっており、夫の言動をも否定しているからだ。夫は夫で、仕事で頭の中を一杯にしているので、妻がネガティブモードになっていることなどお構いなしになっており、夫婦として危険な状態に差し掛かりつつあるのだ。

 近くにいればすべてのことを見通せると思ったら大間違いなのである。例えば日本の知識人の中には、日本に長く住んでいるのに、日本の悪口を言ってくる人たちがいる。かと思えば、海外に短期間留学した程度で日本の悪口を言ってくる人たちもいるのだ。ところが、現実の日本国は、政治的にも安定しているし、経済力はまだまだ豊かだし、治安だっていいのだ。日本に来る外国人が称賛するのは、「和食の美味しさ」であり、「都市の清潔さ」であり、「国民の礼儀作法の美しさ」なのである。日本の悪口を言う知識人たちは、日本の近くにいすぎるからこそ、日本の良さが解らなくなってしまったにすぎないのだ。

●欠点を指摘するより、長所探し

 子供の質問攻撃や謎々攻撃を受けてうんざりしている母親たちは、まずは子供から離れてみることだ。できれば、難病奇病を抱えた子供たちの姿を見て、我が子が健康に育ってくれていることに感謝すべきなのだ。自分が冷静になった上で、我が子を見れば、我が子の長所がきちんと見えてくるのだ。

 母親がネガティブモードになってしまうと、子供の欠点を克服しようと躍起になってしまうものだ。しかし、いくら欠点を指摘しても、子供は決して良くならないのだ。欠点を指摘するのではなく、長所を探し、その長所を伸展させてしまうと、その嫌な欠点を克服することができてしまうのである。

 子供の好きなことを、その子の得意分野にしてしまえばいいのだ。親が子供を褒められるものを人為的に作り出せばいいのだ。芸事なんてのも、習えば得意分野になるから、子供の頃から習い事をさせると、子供の欠点が気にならなくなってしまうのだ。長所を伸ばしていないからこそ、短所が気になって仕様がなくなってしまうのだ。

 育児に悩む母親たちの愚痴というのは、ひっくり返してみると、実は子供にとっては長所だったということもある。例えば、「うちの子はお喋りで~」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は饒舌である」ということなのだ。「うちの子はいつまでも遊んでいる」とかいう母親がいても、冷静に考えてみれば、「その子供は体力があり運動神経がいい」ということなのだ。「うちの子は遊んだ後の後片づけをしない」とかいう母親がいても、冷静に考えれてみれば、「その子供はきちんと遊んだ証拠であり、病気ではない」ということなのだ。

 物の見方を変えるだけで、実はその子供の長所が見えてくるものなのだ。健康に育ってきている以上、その子供自体に問題があるのではなく、その母親自体に問題があるのだ。ネガティブモードで子供を見ているから、ネガティブなことしか見えてこないのだ。まずはネガティブモードを捨てて、ポジティブモードにしてしまうことだ。そうすれば、ポッジティブなことしか見えてこなくなるのだ。

●最低基準と加点主義

 子供の脳を巧く成長させるためには、母親自体が「最低基準」と「加点主義」というものを持たねばならない。子供の成長に応じて、これだけはやってほしいという最低基準を設け、その上で子供の行為に対して加点していくのである。例えば、ご飯を食べる時は、「頂きます」と言い、食べ終わったら、「御馳走様でした」と言うように教える。その上で、嫌いな食べ物を食べたら、大袈裟なほどに褒めるのである。そうやって育児をしていくと、子供は脳を健全な形で高く成長させていくことができるのである。

 これに対して危険なのは、母親自体が「最高基準」と「減点主義」を持ってしまうことである。子供の成長を無視して、最高レベルのものを要求し、それができなければ減点していくのである。例えば、自分がピアノをひけないのに子供に無理矢理にピアノを教え、しかも子供がコンクールで優勝しないと、執拗に怒りまくるのである。こういう母親のもとで育つと、子供は委縮してしまい、「自分は駄目な子なんだ」ということを心に刻み込んでしまい、事実、その通りになってしまうのである。

 子供が可愛いのは、無知だからである。母親から見れば馬鹿な子供ほど可愛いのだ。なぜなら、馬鹿な子供ほど急激に成長する可能性があるからである。人間は他人が成長している姿を見ると心から喜んでしまう性向を持っているのだ。だから、自分の子供にそんな最高基準など要求せずに、もっと基準を落として、どんどん加点していけばいいのだ。加点していけば、子供の方も勢いづいて、グングンと成長していくことができるようになるのである。

 育児をしていく上で、子供には最低限のことは守らせろ。最低基準は誰でも守れるものだからだ。それができないと、いかなる子供であったとしても叱らざるを得ないのだ。しかし、子供に最高基準など要求しなくていいのだ。子供はそんなに高い能力を持っていないのである。それよりも最低基準を守ったなら、どんどん褒めていけばいいのだ。

 加点主義に立脚すると、我が子の人生は上り調子になる。減点主義に立脚すると、我が子の人生は下り坂になってしまうものだ。子供が質問攻撃をしてくるようになると、母親が加点主義に立つのか、減点主義に立つのか明確になってくるものだ。自分が子供のことを叱りつけているようであるならば、減点主義になっていると思った方がいい。子供が間違ったことをしたのなら、叱るべきことは叱るべきだが、それよりも子供のいい所を探して褒めまくることだ。その方が子供の脳は成長していくことができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

育児に非常に役立つ「爺力婆力の偉大なる力」

●お爺ちゃん、お婆ちゃんは、人生の経験者

 自分たち夫婦には、夫の両親と妻の両親がいるのだから、この連中を育児に於いて巧く使ってしまうことだ。子供の脳の成長にとって「お爺ちゃん」「お婆ちゃん」は非常に大事な役割を果たすのである。自分たち夫婦はいくら収入が高くても、未だ人生を経験している身である。しかし、お爺ちゃんお婆ちゃんは人生の経験者として自分たちを先行しているのである。

 現在進行形で物事を話すのと、過去形で物事を話すのとでは、全然違う話になってしまうのだ。育児に追われてしまうと、自分の子供に「あれをしなさい!」「これをしなさい!」と命令口調になってしまうものだが、育児を終えた人なら、「何々をしたいんだよね」「何々が欲しいの?」と子供の意見を尊重した話し方になるのだ。

 育児に真面目になりすぎている母親にとってみれば、祖母の遣り方は子供に対して甘い物に見えてしまうし、育児を経験した祖母にしてみれば、母親の遣り方は強権的で見ていられないのだ。この矛盾は解消せずに巧く利用していった方がいい。というのは、これは育児をしている者と育児をし終わった者との違いでしかないからだ。

 子供にしてみれば、自分の両親だけに育てられれば、「親とはこういうものだ」という短絡的な回路しかできあがらないが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいれば、親とは別にもう一つの違う考え方に接することができるのだ。これによって脳が急激に成長して、様々な発想が可能になってくるのである。

 自分がお腹を痛めて産んだ場合、自分の遣り方だけで育ててしまいたいという考えに陥ってしまがちだが、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるなら、巧く利用して育児に貢献させよう。自分たちだけの力では足りないものでも、「爺力婆力」(ジリキバリキ)を使ってしまえば、育児に於けるパワーは充分な物となって、育児が楽しいものになり、子供たちも成長していくことができるのである。

●親では話しきれない話をしてくれる

 育児をしている夫婦というのは若い者たちだから、どうしても同じ話を繰り返すということをしたくない。しかし、子供には何度も同じことを言わないと、脳に記憶されないのだ。そのため、母親が普通の大人のように、1回いえば解ってくれるだろうと思っていると、子供は何も解っていないので、母親が子供に怒りをぶつけてしまうことになるのだ。

 それに比べて、お婆ちゃんというのは、歳を取ったせいか、同じ話を飽きずにしてくれるのだ。これが子供の脳の成長にとって非常に大きな成果をもたらしてくれるのである。同じ話を何度もしてくれれさえすれば、いかに聞かん気の子供でも素直に聞いてくれるようになるのだ。要は手のつけらない子供というのは、この何度も同じ話をして、脳に記憶の回路を作ることができなかったからこそ、母親に対して拒否反応を示しているだけなのである。

 子供のいる父親は、今まさに働き盛りに突入して、妻子を養うために、一生懸命に働かなくてはならない。そのため子供との会話というのが、どうしても二の次になってしまうのだ。仕事で全力を使っているために、子供ときちんと会話をするということができないのだ。どうしても子供と他愛のない話をして終わりになってしまうのだ。

 その点、お爺ちゃんというのは、現役だとしても終わりが近づいているし、退職したのなら気楽に暮らしているものだ。そのために、子供にとっては基本的に似たような立場にあって、巧く会話することが可能になるのだ。子供にとって父親とお爺ちゃんの違いはなんといっても、語彙の豊富さである。生きて来た期間が長いために豊富な語彙を蓄積しており、それを口移しで覚えていくことが可能になるのだ。

 いくら両親が真面目に育児に取り組んでも、話しきれない話というのは出て来るものなのである。実際に育児をしている自分たちではなく、育児から離れた現場から意見を言ってくれる人々というのは貴重な存在なのである。子供の方にとっても、両親だけではなく、お爺ちゃんやお婆ちゃんがいるからこそ、ストレスを分散できて、気楽に生きて行くことが可能になるのだ。

●爺力婆力の有効利用

 自分たち夫婦の親が社会的に問題のある人とか、駆け落ちして結婚した場合などを除いてl、子供にとって祖父母がいるなら、それらを積極的に有効利用をしていくべきだ。嫁姑の争いという不毛な戦いを避けることだ。姑には子供を使って仲良くしていくことだ。きついこと言われても、子供のためだと思って辛抱することだ。

 爺力婆力の有効利用としては、育児を具体的に手伝って貰うことだ。自分たち夫婦が忙しい時には、祖父母に子供を預けて、自分たちの仕事に全力を投入してしまうことだ。祖父母はその間に子供と戯れて遊んで楽しめるし、自分たちも仕事を終えてしまうことができるのである。まさに一石二鳥なのである。

 もう一つは、子供を祖父母の家に行かせて、お泊りさせてしまうことだ。子供にとってはいい経験になるし、祖父母も楽しい思い出になることであろう。夫婦にとっても、子供のいない夫婦水入らずの日を人為的に作り出すことによって、夫婦愛を高めていくことができるのである。育児をしていると、会話のすべてが子供の話題になってしまい、夫婦で夫婦のことを話し合うことをしていないのだ。だから、たまには子供の話題は抜きにして、夫婦だけの会話を楽しめばいいのだ。

 親子3人だけで行楽に行くのもいいが、祖父母を連れていくのもいい。行楽の費用を祖父母が負担してくれる可能性が出て来るからだ。それと荷物などを持って貰えるので、行楽を充分に楽しめることができるようになるのである。子供がいれば海外旅行のような大掛かりな旅行をしなくても、近場に出かけることでも楽しめることができるものなのだ。

 子供にとっては、大人というのは、父親母親だけでなく、違う人たちもいて、その人間関係の遣り取りを学べる絶好の機会を与えてくれるのだ。この世は決して自分の思い通りに動いてはくれない。かといって自分の意見が全く無視されるということもない。人間関係を巧く使っていけば、自分の思いは適っていくのである。その訓練をする機会が多ければ多いほど、人間関係のテクニックが向上していくのだ。

●愛は親が育むもの、優しさは祖父母が育むもの

 子供は両親だけで育てられた子と、祖父母も加わって育てられた子では、知能の面に於いては祖父母も加わって育てられた子の方が高くなる。両親以外の大人たちに接したことによって、両親によって作られた脳の回路とは別に、祖父母によって作られた脳の回路が出来上がることによって、しかもそれが相乗効果を起こして、高い知能を持つことができるようになったのだ。

 両親だけに育てられた子供というのは、大抵、気性が激しい子供になってしまう。親が自分を思い通りに動かして来たために、自分の世の中を思い通りに動かそうとしてしまい、それが実現されないからこそ感情的に怒るようになってしまうのだ。即ち生きて行くために人間関係が下手だということであり、その後の人生で様々なトラブルを発生させていくことになるのだ。

 両親だけでなく、祖父母にも育てられた子供というのは、大抵が温和な子供に育ってしまう。両親だけでなく、祖父母の行動をも見ているので、この世は自分の思い通りに動くことはないが、人間関係を巧く使っていけば、自分のしたいことはできるようになるというのが解っているのである。即ち人間関係が上手なので、トラブルを未然に防止して、人間関係を円滑に進めていくことができるのである。

 愛は人に優しくすることもあるが、愛は必ずしも優しさにならないということなのだ。愛は親が育むものであり、優しさは祖父母が育むものなのだ。両親にとっては、子供の成長のことを考えて、愛を注ぎつつも、厳しいこともしなければならないからだ。母親が母親として落ち着くまで、子供に優しくできないものなのである。お婆ちゃんが孫に優しいのは、母親として成熟しているし、何よりも育児を終えてしまったからなのである。

 最近、若い女性に「好きな男性のタイプは?」と訊くと、「優しい男性が好き」と答えてくるものだが、それだけ人に優しくされることなく育ってきてしまったから、男性に優しさを求めるという頓珍漢な態度を取ってしまうのだ。女性であるなら男性には強さを求めるのが当然の姿なのである。祖父母から優しく接して貰えたのなら、男性に優しさなど求めて来ないものなのである。子供の頃に祖父母に優しくされてこなかったからこそ、男性に優しさを求めてしまい、その結果、男性に優しくされないと、すぐさま破局してしまうのである。

 子供というのは、親がいればきちんと育ってくるものである。しかし、親だけでは何かが不足してくるものなのである。その足りないものは他の人に補って貰うしかないのだ。祖父母が生きている内に、孫を連れて行って親孝行をしておくことだ。そういうことが祖父母を喜ばすことになるだけでなく、我が子の成長にも素晴らしい貢献を果たしてくれるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

寝る子は良く育つ ~子供の脳は睡眠中に成長する~

●子供は長い睡眠を必要とする

 寝る子は良く育つ。頭のいい子供は良く寝るものである。充分な睡眠を取らないと、脳を成長させることがないからだ。人間の脳は睡眠中に成長していくので、子供の頃から大人になるまで、充分な睡眠を取っておかないと、脳を高いレベルまでに成長させることができないのだ。頭がいいから寝ているのではなく、寝ているからこそ頭が良くなっていくのである。

 人間の睡眠は人間にとって非常に重要な役割を果たす。まず「体の修復」という作業だ。人間は1日間活動すれば、それだけ体の各所が傷むので、それを睡眠中に修復するのだ。特に血液は睡眠中に生産されるので、睡眠時間が短すぎれば、途端に血液に異常が出て来て、難病を引き起こしてしまう。子供は自分の体の疲労には敏感で、疲れてしまうとすぐに寝てしまうので、子供が眠たくなった時は寝かしてしまうことだ。

 次に「体の成長」である。人間の体は睡眠中に成長ホルモンが分泌され、それによって成長していくことができる。睡眠時間が長ければ身長が高くなるし、睡眠時間が短かければ身長が低くなる。それほど睡眠時間の長短は人間の成長に甚大なる影響を引き起こしてくるのだ。脳も睡眠中に脳細胞が増えていくので、子供を寝かさないと、充分な知能を持つことができないのだ。

 第三に「脳の情報整理」である。人間の脳は睡眠中に不要な情報を捨ててしまい、必要な情報だけを集めようとする。だからこそ、昨日の晩飯ですら覚えていないことになってしまうのだ。それは必要のない情報だからだ。しかし、何か記憶に残るような情報なら、いつまでも覚えていることになる。これを毎日繰り返すからこそ、必要な情報だけを脳内に残していくことにより、高い知能を生み出すことが可能になるのだ。

 電灯が普及して以来、夜更かしをすることが可能になってしまった。ところが人間の体は夜更かしをするようには出来ていないのだ。特に子供の体は成長期にあるので、子供の頃に充分な睡眠を取らないと、ちゃんと成長できないというツケを支払うことになるのだ。子供がいるなら、子供を早くに寝かしつけてしまうことだ。子供に夜更かしなど絶対にさせないことだ。子供は充分な睡眠時間を取っていれば、高い知能を持った健康な体になることができるのである。

●最低必要睡眠時間は9時間、平均睡眠時間は10時間30分

 子供にとって最低必要睡眠時間は9時間である。子供には最低でも9時間の睡眠を必要とし、それ以上の睡眠時間も必要とするのだ。人間の睡眠時間は90分サイクルなので、9時間を超えると、次は10時間30分となる。子供の平均的睡眠時間は10時間30分である。それゆえ、9時間睡眠なら、午後9時に寝かしつけて、起床は午前6時となるし、10時間30分睡眠なら、午後9時に寝かしつけると、起床は午前7時30分となる。

 子供は最低でも9時間睡眠を必要とするので、この時間を下回ってしまうと、病気をし出して来る。子供に病気をさせないためにも、長い睡眠時間を確保してあげることだ。子供は単純なもので、ベッドに入れて、照明を消してしまえば、基本的に寝るものなのだ。巧く睡眠を誘導するテクニックを母親が身につけると、早くに寝てくれるようになるのだ。

 人間の睡眠時間のサイクルは90分なので、このサイクルを無視して、子供を起こすのには無理がある。子供は心地よく目覚めることができれば、早寝をするようになるので、下手な起こし方だけは絶対にしないことだ。目覚めの悪い起こされ方をしてしまうと、寝付きが非常に悪くなるのだ。

 睡眠時間が10時間30分になってしまうと、起床時間が非常に遅くなってしまうので、遂々焦ってしまい、睡眠サイクルを無視して起こそうとしてしまうのだ。最善の起床の仕方は、子供が自発的に起きて来るように仕向けることであって、睡眠サイクルから見て、起床時間だなと思ったら、カーテンを開けるなりして、太陽光の力で起こしてしまうことだ。母親が寝ている子供の体を揺さぶるのは最終手段だと思うことだ。子供の頃から母親に体を揺さぶられない限り起きれないこ子供は、中学生や高校生になったら、遅刻の常習犯になってしまうのだ。心地よく目覚めるという習慣を持っていないから、どうしても起床すること自体が苦手になってしまうのだ。

 子供は長い睡眠時間を取っている上に、更に「昼寝」もするので、1日の大半を睡眠ですごしていることになるのだ。とにかく昼食を食べ終わったら、昼寝をさせてしまうことだ。昼食後は丁度その日の午前中の疲れが出て来るので、昼寝をすることでその疲労を除去してしまうのである。そのため昼寝をする子供は病気に罹りにくくなるのだ。

 但し、子供の中には昼寝が苦手という子供もいるので、そういう子供を無理に寝かしつける必要性はない。そういう子供は夜間の睡眠が深いために、昼食後になっても体の疲労が出て来ないのだ。昼寝をしたくないのであるならば、無理に昼寝をさせないで、遊ばしておけばいいのだ。

●短眠族には気をつけろ

 この世にはいつの時代で短い睡眠を自慢する人たちが出て来る。この手の短眠族には気をつけておいた方がいい。人間は大人になっても基本的に7時間30分の睡眠を必要とするので、この睡眠時間を下回ってしまうと、自分の寿命を削りながら短眠を実現させているということになるのだ。

 短眠のツケは自分が働き盛りの時に如実に現れて来て、高い能力を発揮できないし、いつも精神的に不安定で、人間関係にトラブルを抱えてしまうのだ。人間は睡眠によって情報を整理するので、短眠族になってしまうと、知能を高くすることができないのだ。下らないことばかり覚えているということになってしまうのだ。

 短眠族は芸能人に多い。そのため芸能人は深い思索をすることができず、軽薄なお喋りが達者なだけに過ぎないのだ。芸能人の人気に騙されて、芸能人を凄い人物だと思ってはならない。テレビの視聴時間の長い子供ほど短眠傾向にあるものだが、矢張り芸能人を見て育つと短眠が感染してしまうのだ。、

 父親や母親が短眠族だと、子供にも短眠を押しつけてしまうので、絶対にそれだけはやめておいた方がいい。子供は脳も体も成長の真っ最中であって、この時期を逃してしまうと、取り返しのつかないことになってしまうからだ。両親が短眠族だと身長は低くなるし、頭は悪いし、中には目の下に隈を作っている子供もいるのだ。

 親の方は自分が子供の頃は長い睡眠をしていたという事実を忘れてしまっているのだ。大人になってから短眠族になれたとしても、子供の頃はそうではなかったのだ。子供は長い睡眠時間を取らない限り、健康的に成長していくことができないのである。親と子供の睡眠時間が違って当たり前なのだ。この事実を絶対に間違えないことだ。

●質の良い睡眠を得るために

 子供に質のいい睡眠を取らせるなら、日中に遊ばして、体を適度に疲れさせておくことだ。また、頭を使うゲームなどをやらせて、脳も適度に疲れさせておくことだ。子供は日中に活動していれば、夜になれば自然と寝てくれるのである。子供がなかなか寝付かないのであるならば、それは運動量が不足しているだけなのだ。

 牛乳には質のいい睡眠をもたらす物質が入っているので、夕食時に「ヨーグルト」や「チーズ」を出すとか、夕食後に「ホットミルク」を飲ますなりして、牛乳や乳製品をしっかりと取っておくことだ。これをやると深い睡眠を取ることが可能になるので、子供の寝付きも良くなるし、目覚めも良くなるのだ。

 子供は寝像が悪いので、パジャマに関しては特に気をつけることだ。意外と運動性能のいいパジャマにすべきだし、お腹が出ないようなパジャマにするべきだ。寝汗をかくので、普段着では絶対に寝かせないことだ。使用したパジャマは翌朝には脱いで、洗濯することだ。パジャマを洗濯もせずに連チャンで使用しないことだ。パジャマは1着だけではなく、何着か持っておくことだ。

 子供はベッドに連れて行ってもすぐさま寝ることがないので、リラックスした気分で、子供の話を聞いてあげることだ。子供は母親に自分の話を聞いて貰えると、安心するのだ。そして、絵本を読んで話を聞かせれば、子供は眠りについてしまうのだ。この辺りのテクニックは、毎晩、練習して腕を磨くことだ。

 子供が寝たら、それからは母親にとっての自由時間だ。子供に邪魔されず、自分のために何かをすればいい。それとも、子供と一緒に寝てしまい、早起きしてしまうのもいい。要は子供を早く寝かしつけてしまえば、自分の自由時間が確保されるということなのだ。「育児が大変で~」という母親たちは、この辺りの時間の使い方が非常に下手なのである。子供の寝かしつけは、毎晩ある作業なので、何度も工夫して上達させていくことだ。そうすれば、育児など簡単になっていまい、育児が楽しくなるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

天井の高い家は大物を産む

●日本人の身長と日本の家屋

 子供の知能の発達と自宅の天井の高さには深い関係がある。天井が高ければ知能が高く、天井が低ければ知能が低くなってしまう。天井の高い家は大物を産み易いし、天井の低い家は小物を産み易い。育児をする時は、自宅の天井の高さには充分に注意を払っておくことだ。

 そもそも日本の住宅と言うのは、床に座って生活することを想定しているために、天井が低すぎるのだ。しかも、現代の日本人の身長は、日本の歴史の中で最も高い身長になっているので、当然に日本古来の住宅に合わなくなってしまっているのだ。現代の日本人の身長に合わせた住宅を作っていかねばならないのである。

 現在の日本人の生活スタイルは室町時代に出来上がったものだ。室町幕府は意外と礼儀作法にうるさかった時代で、しかも室町時代には征夷大将軍になった足利義政が天才的芸術性を発揮して、「書院造り」という洗練された家屋を作ってしまったのだ。金閣寺は金持ちの悪趣味にすぎないが、銀閣寺はその洗練された美的感覚を散りばめた凄い作りになっているのだ。その室町時代の生活スタイルが、応仁の乱と共に全国各地に飛び火して、現在までに続いているのだ。

 しかし、室町時代は日本人の身長が最も低くなった時代である。気温が下がり続けたために農作物の収穫量が少なく、そのために身長が低くなり、しかも内戦を連発させたので、身長の高い人物たちが先に死んでいってしまったのだ。そのため、甲冑も鎌倉時代に比べて小さくなっているし、家屋も鎌倉時代の物より小さくなってしまったのだ。

 現在、借家住まいで親子3人でいるなら、いくらでも住居を変えることができるので、住宅を変える際は、天井の高い家というのを基準として加えることだ。身長が高くなり、しかも机と椅子の生活をしているために、天井の低い家ではまともな生活ができなくなってしまうからだ。父親が頭を下げて暮らさざるをえない家では、我が子が大きくなってきた時に、我が子も父親と同じように頭を下げて、身を縮めながら生活をせざるをえなくなってしまうのだ。そうなれば姿勢は悪くなるし、近眼にもなってしまう筈だ。

●思考は酸素量に比例する

 思考は酸素量に比例する。酸素量が多ければ多いほど、いい思考ができるというものなのだ。酸素量が少なければ、碌な思考しかできなくなってしまうのだ。自宅の酸素量は、天井の高い家ほど多く、天井の低い家ほど少ない。こんなこと既に解りきったことだ。そのことが人間の思考にまで影響を及ぼしてくるのである。

 人混みの多い都会ではアイデアが生まれにくいが、森林に囲まれた別荘では斬新なアイデアが生まれ易い。これも酸素量によって人間のアイデアに変動をもたらした結果なのだ。いくら都会が便利だからといって、いつも酸素量の少ない都会だけに暮らしていては思考が衰えてしまうのだ。たまには自然の中に入っていって、新鮮な空気を吸いまくって、体をリフレッシュさせることだ。

 因みに、俺はこの『幸せ色の出産ラブストーリー』を天井の高い場所で構想を練っている。仕事場になっているビルで、主に2階で書いているのだが、2階のフロアは3階の部分が吹き抜けになっているので、非常に天井が高くなっているのだ。1階でも机があるので、そこで構想を練ってもいいものなのだが、1階ではなんとなく構想を練る気がせず、資料置き場になってしまっているのだ。天井の高い2階だと、いくらでもアイデアが浮かんできて、ネタが尽きることがないのだ。

 天井の高い家は常に解放感がある。小さなことには拘らなくなり、重要なことだけに着目していくことができるようになるのだ。そのため、小さな家に住んでいると、母親は我が子の些細なことまで指摘してしまい、子供を委縮させてしまうのだ。しかし、大きな家に住んでいると、母親の方が些細なことを指摘しなくなり、しかも子供の方が重要なことしかやらなくなるので、母親が怒る回数が激減するのである。 

 特に冬は寒さのために窓を締め切ってしまい、その上に暖房器具によって酸素が奪われてしまうので、親子3人が自宅に居る時は思考力を低下させ、イライラしないように気をつけることだ。些細なことで我が子を怒鳴りつけてしまったり、夫婦喧嘩に発展してしまったりするからだ。冬は寒くても、きちんと換気をして、酸素量が少なくならないようにすることだ。

●空白のスペースがあるということ

 天井が高い言えば、居住面積も多い筈だ。そうなれば自宅の中に空白スペースがあるものである。この空白のスペースがあるということが、子供の知能の発達にいい影響を与えるのだ。自宅に空白のスペースがあれば、子供はその空白のスペースを埋めようとしてくるのだ。例えば、自宅が広ければ、いくらでもオモチャを置けるが、自宅が狭ければ、新しいモチャなど買えなくなってしまうのだ。

 自宅に空白があるからこそ、そこを埋めたくなる。だから、空白スペースは子供の想像力を掻き立てるのだ。新築の家で育つと想像力の逞しい子供に育つものだ。驚異的な知能指数の高い子供は、大抵が新築の家で育った子供たちである。なぜなら、自宅が古ければ家財道具で一杯になっているので、想像力を鍛える場がなくなってしまうのだ。せいぜい伝統的な生活を受け入れることしかできなくなるのだ。それに対して新築の家なら家財道具が少ないから、子供にとってはいくらでも想像力を鍛えることができるのである。それが知能指数の高さとなって現れてくるのだ。

 しかし新築の家が何もかも素晴らしいというのではない。新築の家を資金の問題で小さな家にしてしまい、それを家財道具で満杯にしてしまうと、子供が精神的におかしくなるのだ。子供は新築の家なのに想像力を鍛えることができないし、かといって伝統的生活を受け入れることもできないので、思考が異常な方向に行ってしまうのである。

 新築の家を建てる時は、資金を最優先して考えないことだ。多くの夫婦がこの遣り方をするからこそ、碌でもない住宅しか作ることができないのである。資金のことは一旦忘れて、自分たち家族がどのような家に住めば幸せに暮らしていけるかを考えることだ。その夢の実現のためにお金が要るのであって、そういう夢を思い描くことができれば、資金はついてくるものなのだ。

 新築の家は満杯にはしてしまわないことだ。どこかに空白のスペースを作っておくことだ。どうしても空白のスペースがない時は屋根を高くして、屋根裏部屋を設けて、そこを空白のスペースにしておけばいいのだ。物事というのは、完成すると同時に崩壊が始まるのだ。自宅のどこかを欠けさせて、未完成の家にしておくことだ。この配慮こそが家族に幸せをもたらすのだ。

●気付いてみれば、都会は小物ばかり、田舎は大物ばかり

 現在、マスコミは「貧富の格差」を煽っているが、貧富の格差よりも恐ろしいのが、「天井の格差」なのだ。現在の日本はデフレ経済なので、物価は下がり続けているので、いくら低所得者でも贅沢をしなければ暮らしていけるのだ。低所得者なのに、1日3食の食事を取ったり、新聞を定期購読したり、働きもせずにテレビを見ているからこそ、いつまでも貧乏なのである。食事は1日2食にし、新聞を読むのをやめ、テレビを見ている時間を労働する時間に充てたら、貧困は克服されていくものなのだ。

 しかし、天井の格差は貧富の格差を超越して、襲ってくるものなのである。都市部では地価が高いために、しかも建築基準法や様々な規制があるために、大きな家をきちんと作っていくという発想ができずらくなってしまったのだ。ワンルームマンションなどは絶対に禁止すべきであるし、家族用のマンションならクローゼットや納戸などない住宅は絶対に禁止すべきなのだ。いくら高額所得者でも、粗悪なマンションンに住んでる人たちは多々いるものなのである。

 貧富の格差はいつの時代でもあるのだから、その格差を無謀にも解消しようとするのではなく、お金持ちたちが立派な家屋に住んで、優雅な暮らしをすべきなのである。金持ちたちがそのような生活をしていれば、お金が世の中を巡るようになって、貧乏人たちにもお金が巡ってくるものなのである。しかも、貧乏人たちにとっては、自分が豊かになった時に、どのような生活をすればいいかが解るようになるので、勤労意欲が湧いてくるというものなのだ。

 都会にはお金が豊富にあるのだから、住宅も大きな物にすればいいのに、国会議員や学者やマスコミたちが貧富の格差を是正しようと躍起になっているために、お金があるのに狭い住宅に住んでいるのだ。だから都市部で育ってくる人間はみな小物ばかりなってしまっているのだ。大志を抱かずに、堕落的な快楽に溺れて、退廃の極みに達しているのだ。

 それに比べて、田舎では貧富の格差に気兼ねすることなく、住宅を大きくすることができるので、大物が生まれて来易いのだ。特に北海道のように寒さの関係上、どうしても住宅を大きくしなければならない地域では、当然に大物が生まれて来易いのだ。このまま行けば、北海道から救国の英雄が生まれて来て、いずれ日本は北海道出身者たちによって歴史を大きく変革させられることであろう。

 嘗て日本史には住宅の変動こそ、時代の変革に繋がったということがあった。戦国時代は近畿が政治的にも経済的にも優位に立っていたのに、近畿圏外の尾張から織田信長が起こって来て、時代を変革させられている。尾張では戦争が続いたために、古い住宅が破壊されてしまい、新しい大きな住宅を作ることができたから、大物たちが続々と出現してきたのだ。

 明治維新では古い江戸の街並みの中に、西ヨーロッパ風の建物を建設していくことで、江戸時代では見られなかったような優秀な人材を生み出していくことが可能になったのだ。これが近代日本の発展を支えたのである。江戸幕府は庶民向けに都市政策をすることがなかったが、これだけ人口が密集して住むなら、政府による都市政策は絶対に必要なのである。

 だからこそ、「都市部は住宅を大きくし、天井を高くすべし」なのだ。小さな住宅や天井の低い家は取り壊していき、大きな住宅や天井の高い家を作っていくべきなのだ。日本の首都である東京にしても、その街並みは余りにも汚すぎる。今では世界一美しい首都であるといわれるパリも、その昔は非常に汚い街並みで、それをフランス帝国皇帝ナポレオン3世の政権の時に現在のように美しい街並みに作り変えているのだ。美しい都市を作るためには、強力な政権が必要だということだ。生活は個人レベルで解決できるものでも、都市政策は個人レベルではどうしようもないのだ。我々は「日本の首都を世界一美しい首都にする!」という目標を持った、強力な政治指導者を選び出し、その者に都市計画を実行させるべきなのである。そうすれば、日本の首都は世界一美しい首都になることができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

食事の習慣と運動の習慣で子供の脳を発達させよ

●栄養バランスが整うと礼儀作法も整う

 子供に与える栄養バランスが整うと、脳がきちんと成長できるようになるので、精神が安定化してくる。精神が安定化してくれば、育児は非常に楽しいものになってしまう。しかし、子供に与える栄養バランスを欠き、脳がきちんと成長できないと、精神が不安定化してくる。精神が不安定になれば、育児は苦しみだらけになってしまう。幼児であるならば、母親が与える食事で大いに変動してくるので、とにかく栄養バランスの整った食事を出すことだ。

 子供に栄養バランスが足りているのか否かが一発で解る基準がある。それは食事の際の礼儀作法がきちんとできているか否かだ。子供は親の食べている姿を見よう見真似で真似ていくので、栄養バランスが悪い場合、両親自体が礼儀作法を守らない食事をしているので、子供がすぐに悪い礼儀作法を真似てくるのだ。食事の際に子供の礼儀作法が悪い場合、子供だけが悪いのではなく、その親も相当に悪いのである。

 我が子にきちんとした礼儀作法を守らせたいのなら、栄養バランスの取れた食事を作って、食事の際に礼儀作法を守ることは、この食べ物を作ってくれた人や、この料理を作ってくれたお母さんに感謝を捧げることなのだということを教え込むことだ。「感謝をしないと食べられないんだよ」と教え込んでしまえば、子供は真面目になって礼儀作法を守るものなのだ。

 食事はただ礼儀作法を守って料理を食べればいいのではなく、会話をして情報交換をきちんとしておくことだ。会話は母親が話そうとしない限り、子供は話して来ないものだ。日常の些細なことを訊いたりして、話を引き出して、話を盛り上げていくことだ。子供は頓珍漢な返答をしてきたとしても、それを切っ掛けに笑いを取ってしまえばいいのだ。そうすると会話が弾み、子供も食べ物に好き嫌いなく食べることができるようになるのである。

 食事の際の会話を楽しいものにするためにも、料理を食べる時は音を立てて食べないことだ。食事で音を立てて食べると、どうしても会話が盛り上がらなくなってしまうのだ。しかも、音を立てて食べると、食べ物と一緒に空気が入ってしまうので、消化吸収にとって非常に悪いのだ。日本人には胃に関する病気が多いのだが、これは音を立てて食べる習慣があるからなのである。

●良く噛む習慣こそ脳を鍛える

 食べ物を口に入れた際は、一旦箸を置いて、一口三十回以上噛ませることだ。良く噛む習慣こそ、脳を鍛えることになるからだ。幼児は母乳を飲む習慣がまだ完全に抜けきっていないので、食べ物を噛まずに飲み込む習慣を取ってしまうのだ。そのため、母親が人為的に咀嚼の習慣を覚え込まさないと、どうしても食べ物を噛まずに飲んでしまうのだ。

 子供の好きな食べ物は、「カレーライス」や「ハンバーグ」のように別に大して噛まなくても、飲み込めてしまう料理なのだ。子供が好きだからといって、柔らかい料理ばかりを出していたら、咀嚼する習慣を身につけてくれなくなるのだ。子供のためにも、敢えて咀嚼せねば食べられない料理を出すことだ。

 白米や白パンは固くないので、子供はどうしても噛まずに飲み込んでしまうのだ。白米ではなく玄米、白パンではなく黒パンを勧めるのは、何も栄養価がいいだけでなく、咀嚼しなければ食べられないからなのだ。無精白穀物であるなら、咀嚼しない限り食べることはできないのだ。

 充分に咀嚼できるためにも、食事の時間を長めに設定しておくことだ。食事の時間が短いからこそ、子供は充分に咀嚼をせずに飲み込んでしまうので、食事の時間を長めに確保しておけば、咀嚼してくれるようになるのだ。とはいっても、日中は慌ただしいので、朝食や昼食は量を少な目にして、後は就寝しかないという夕食を豪華にすれば、子供は咀嚼してくれるようになるのである。

 食事で固い食べ物を出すと同時に、食事以外の時にガムを噛ませることだ。ガムを噛むことによって咀嚼していれば、自然と顎は鍛えられ、脳に大量の血液が流れ込み、脳を発達させることができるのである。ガムは勿論シュガーレスタイプの物で、絶対にガムを飲む込まないようにさせ、噛み終わったガムは銀紙に包んで捨てる習慣をつけさせることだ。子供の脳の成長期にガムを噛ませることは、脳の発達のために甚大な効果をもたらしてくれるのである。

●運動の習慣

 子供は栄養バランスが整い、礼儀作法を守って食事をし、良く噛んで食べるようになると、きちんと運動をするようになる。子供がはしゃぎ回るのは、要は体が軽いからこそできるのであって、子供の頃はとにかく運動しまくるものなのである。その大切な時期に、外で遊ばず、自宅で遊ぶような子供であるなら、それは栄養バランスが非常に悪いということなのである。子供はとにかく外に連れ出して遊ばせることだ。遊んでいれば自然と体の各機関が鍛えられ、充分な体力を持つことができるようになるのである。

 脳の発達ばかり注目するのではなく、「体力が脳力を作り出す」という視点を持つことだ。体力がありさえすれば、自然と脳は成長していくことができるのである。子供の体力を鍛えずに、脳だけをいじくっても、それは不自然な成長しかしてこないものなのである。脳の成長と体の成長はセットなのだということを決して忘れるべきではないのだ。

 子供を外で遊ばせておけば、日が暮れる頃にはお腹をすかせてくるので、それから夕食を作れば、子供は好き嫌いを言うことなく、出された物をちゃんと食べてくれるようになるのだ。子供が食べ物の好き嫌いを言うようであるなら、ただ単に運動不足なのだと思った方がいい。空腹になれば、嫌いな食べ物でも食べざるをえず、結局、その嫌いな食べ物を克服してしまうのである。

 子供は2歳や3歳の時点で急激に脳を成長させてくるので、この期間に体がヘトヘトになるまで体を動かしてあげると、脳はよりレベルの高い成長を遂げることができるようになるのである。子供と一緒に外出して、帰りには子供は疲れて寝てしまうというのは、親として理想の外出なのである。

 子供がいると、子供を連れてハイキングに行きたくなるものであるが、これは親の方が無意識レベルで子供を鍛えたいと思っているから、どうしてもハイキングに行きたくなってしまうのだ。そういう時は、子供を連れてハイキングに行ってしまうことだ。ハイキングに行けば、子供は日常生活での運動量を遥に超えて、体力を充分に発達させることができるのである。

●「タダの大人に終わる神童」と「後世に名を残す神童」

 人間の脳力というものは大抵がスタートダッシュで決まってしまう。才気煥発な人は、子供の頃から才気煥発な子供だったのである。勿論、例外もあっても、子供の時は馬鹿でも、大人になれば突然に脳力を発揮してくる人もいるし、逆に子供の時は神童でも、大人になればタダの人に終わってしまう人も出て来る。

 19歳までは脳の成長期に当たるので、いくら幼児の段階で頭が良くても、小学生の頃にきちんとした基礎教育を受けねばならないし、中学生や高校生の頃は不良の道に走らず、自分で努力して勉強する習慣を身につけないと、高い知能を持つことはできないのである。

 だから、子供の頃に馬鹿でも、中学生や高校生になって一念発起して、自分で勉強する習慣を身につければ、高い知能を持つことができるのである。逆に子供の頃は神童でも、小学校の基礎教育の仕方が悪かったり、中学生や高校生の頃に遊び呆けてしまえば、タダの大人になってしまうのは当然のことなのである。

 子供の知能のために、親が出来ることというのは、本当に基礎的なことだけなのである。子供に栄養バランスの整った食事を出し、食事の際は礼儀作法を守らせ、会話をきちんとさせ、咀嚼の習慣を持たせ、思いっきり運動させることなのである。こうしておけば、母親として最低限の役割は果たした筈なのである。後は学校や本人に任すしかないのである。

 母親が食事と運動を軽視すると、子供の頃は神童であったとしても、大人になればタダの大人になってしまうのだ。栄養バランスが崩れていたり、礼儀作法が悪かったり、会話を充分にすることなく、良く噛まずに食べたり、運動をしないような人だと、年齢が上がるごとに馬鹿になっていくのだ。

 これらのことは、大人になっても非常に重要なことなのだ。栄養バランスが崩れてしまえば、大した能力など発揮できないのである。礼儀作法を守らなければ、会話が弾まないので、情報不足に陥ってしまう。良く噛まずに食べていれば、脳が鍛えられないので、思考が硬直化していくのだ。そして仕事いうのは、最終的には体力勝負になるので、運動不足になってしまえば、仕事で敗北することが確実になっていくのだ。

 我が子を健全に育てたいのなら、まずは親の方が健全な生活を営んでおくことだ。正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていない親に、まともな育児ができるわけがないのだ。親が正しい食事の習慣や運動の習慣を持っていれば、子供は自然とその習慣を受け入れてしまい、高い知能と強靭な体力を持つことができるようになるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

子供の知能を高くする「賢脳食」

●脳は脂肪でできている

 我が子を頭のいい人間の育て上げたいのなら、ただ単に漠然と願っていては実現しない。我が子に賢脳食を食べさせることによって、我が子の脳を賢いものに仕向けてはいかねばならないのだ。人間の脳は19歳まで脳そのものが成長していくので、幼い時から賢脳食を食べさせていたら、その子は賢い脳を持てるというのは当然のことなのだ。

 まず、脳は脂肪で出来ているというこを知っておこう。女性は肥満を気にする余りに、脂肪を目の仇にしてしまうのだが、脂肪を極端に減らす食事は脳に非常に悪い食事になってしまうのだ。しかも、脂肪は炭水化物よりも高エネルギーを発してくるので、この脂肪を食べないと、どうしてもパワーが出て来なくなってしまうのだ。毎日の食事で適量の脂肪を摂取していくことが、脳そのものの容積量を増やすことになるのだ。

 脂肪は「植物性脂肪」と「動物性脂肪」の2つがある。大まかに言ってしまうと、植物性脂肪は安全で、動物性脂肪は少量なら対応できるが、大量に食べてしまうと危険な脂肪である。脳の容積量を増やしたいのなら、せっせと植物性脂肪を摂取していくことだ。植物性脂肪は「クルミ」「アーモンド」「ナッツ」「落花生」「アボガド」「豆類」「植物油」などに多く含まれている。特に豆類は高品質の植物性脂肪なので毎日に食事に必ず出すようにすることだ。木の実類は常に自宅に確保しておいて、食後にポリポリと食べさせればいい。

 植物油は「オリーブオイル」がお勧めである。オリーブオイルは木の実を絞って出来た油なので、植物油の中で最も品質がいいのだ。オリーブオイルを多目に使う食習慣を確立しておけば、脳にとって非常にいいのだ。古代ギリシャ人たちはオリーブオイルを大量に食べることで文明を起こしたことを決して忘れるべきではない。その他の油は「ゴマ油」「菜種油」「紅花油」などがお勧めである。油の中で「サラダ油」は絶対に使用しないことだ。この油は危険な油なので、血管をボロボロにしてしまうのだ。

 動物性脂肪は「魚の脂」「玉子」「肉の脂肪」「牛乳」「乳製品」などである。動物性脂肪の中でも、魚の脂は最も安全なので、魚を大量に食べさせて行くことだ。玉子も子供の時分から食べさせておくと、頭がいい子供になる。肉の脂肪は野菜をきちんと取っているなら、それほど心配するものではない。但し、霜降り肉のように人為的に脂肪を多くしてある肉は危険なのである。肉の中にビタミンが極端に少なくなっているので、この肉を食べ続けていると、若くして動脈硬化が起こりかねないのだ。

 牛乳はカルシウムが多いだけでなく、牛乳の中にある脂肪が腸内での進行を遅くしてくれるために、牛乳の栄養分の多くを吸収させてくれるのである。だから、牛乳を飲むと身長が高くなるのである。牛乳をそのまま飲ますより、より進行速度が遅くなる「ヨーグルト」にした方がよりいいのだ。それ以外にも「バター」や「チーズ」を食べると、脳の容積量を増やすことができる。

●脳のエネルギーは炭水化物

 脳のエネルギーになるのは炭水化物である。炭水化物も無精白穀物が最も優れたエネルギーになる。無精白穀物に含まれるビタミンやミネラルが、炭水化物を消化吸収する際に体に異常を起こさずに脳に送られることになり、しかも長時間に亘って血糖値が高く持続するので、脳が安定的にエネルギーを確保し続けることができるのである。炭水化物を脳に送るためには、ビタミンB1が必要となるので、無精白穀物とビタミンB1をセットにした食事を取ればいいのだ。

 お勧めは「押麦入り玄米食」と「味噌汁」のコンビである。押麦と玄米を半々の割合でいれると、最も栄養バランスが整うので、玄米だけを食べるより栄養価が高くなるのだ。そこに味噌汁を持って来れば、完璧な食事となるのだ。味噌汁は大きなお椀に入れて、多目に飲ますことだ。その方がビタミンB1を確保できるので、脳が高度に機能し続けることができるようになるのである。

 パンを食べるなら、「黒パン」と「チーズ」のコンビがお勧めである。白パンは精白穀物を使っているから危険なだけでなく、脱脂粉乳を使っているので、より危険なのである。脱脂粉乳は基本的に家畜の餌なので、人間が食べるべきものではないのだ。日本では長らく牛乳を飲む習慣がなかったために、酪農の常識を完全否定する野蛮なことをやってしまうのだ。黒パンを作っているようなパン屋は本格的なパン屋なので、その店で安全性の確保されたパンを購入することだ。

 麺類は米食やパン食ほどに拘らなくてもいいが、できれば「黒パスタ」「玄うどん」「玄蕎麦」を食べるようにすることだ。オリーブオイルをしっかりと絡めた黒パスタを食べると、頭の回転はまるで違ったものになって来るものなのだ。麺類の中でも最も頭を良くするのは、「お蕎麦」なのであって、お蕎麦は定期的に食べておいた方がいい。但し、お蕎麦の料理はビタミンB1が不足しているので、お蕎麦と共に豆料理を出してビタミンB1を補っておくことだ。

 お菓子を作る際は、「黒砂糖」や「蜂蜜」や「メイフルシロップ」を使うことだ。これらの甘味料を使っていれば、子供の脳も健全に成長していくことができるのである。白砂糖こそ子供の脳を破壊する危険な甘味料なので、絶対に避けることだ。子供の頃から安全なお菓子を食べていれば、危険な甘味料を使ったお菓子を食べても何か不自然に感ずるようになって、余り食べなくなるものなのである。

●頭の回転を良くするレシチンとグルタミン

 子供の頭の回転を良くしたいのなら、「レシチン」を食べさせることだ。レシチンは脂肪で脳細胞や神経細胞を増加させる重要な役割を果たす。レシチンをしっかりと食べておくと、記憶力が増大するので、子供特有の物忘れの激しさもなくなってしまうのだ。レシチンは「大豆」や「玉子」や「ゴマ」に含まれているので、毎日の食事に出すようにしておくことだ。

 因みに、関東勢が関西勢を圧倒することができるようになったのは、納豆を大量に食べ続けたからなのである。昔は農家では納豆を作ったものだし、都市部でも納豆屋が納豆を売りに歩いていたのだ。いかに関東の人たちが納豆を食べたかが解る。納豆は発酵させてあるので、レシチンの吸収がよりよくなるので、非常に頭が良くなるのである。

 「グルタミン」も脳の燃料になり、脳の疲労物質を取り除く重要な役割を足すことになる。グルタミンは蛋白質で、知能を高くする機能をも兼ね備える優れた蛋白質なのだ。グルタミンは小麦に多く含まれているので、小麦を多く食べると、自然に頭が良くなる。お米にはグルタミンが少ないので、お米を食べている人が、小麦を食べている人と争っても、知能の面で絶対に負けてしまう。古代四大文明はすべて小麦を食べて民族によってつ作られたという歴史的事実を決して忘れるべきではない。

 グルタミンは小麦の他に、「お麩」「海藻」「大豆」「ゴマ」「アーモンド」「落花生」に含まれている。ワカメの味噌汁にお麩を入れれば、最強のグルタミンスープの出来上がりだ。ご飯を食べる時は、擦りゴマをかけて食べるようにすれば、知能を高くすることができる。アーモンドや落花生はオヤツの時に出してたべさせればいい。

 解り易く言うなら、植物性脂肪や植物性蛋白質の方に、実は頭を良くする栄養が含まれいるということだ。動物性脂肪や動物性蛋白質は、高エネルギーを発してくるために頭が良くなったような錯覚に囚われてしまうが、ただ単に高エネルギーによって脳の活動を活発化させただけであって、知能が高くなったわけではないのだ。知能を高くしたいのなら、せっせと植物性脂肪や植物性蛋白質を摂取していくことだ。

●定期的に夕食を適度に栄養過剰にすること

 個別的な栄養学的知識とは別に、食事パターンを巧く使って、子供の知能を高めてしまうことだ。朝食や昼食を大量に食べさせても、日中の活動でその殆どのエネルギーが消費されてしまうものだが、夕食は食べてしまえば後は寝るだけなので、その食べた物がそのまま体の修復や成長に使用されるのだ。

 それゆえ、定期的に夕食を適度に栄養過剰にすることだ。飽くまでも定期的に適度の栄養過剰にするのであって、本格的に栄養過剰にしてはならない。要は朝食や昼食は少なくても構わないが、夕食だけを多目に摂取しておけば、体に無理をすることなく、知能を高めさせることができるのである。

 時たま、夕食だけは「高炭水化物」「高脂肪」「高蛋白質」にしてしまえばいいのだ。それだけ栄養過剰になっているので、野菜を多目に摂取してビタミンも過剰にしておくことだ。こうすると、過剰な栄養が体の修復のために使われるエネルギーを上回って、体の成長のために使用されるのだ。

 子供は食事を食べ終えても食休みをなかなかしてくれないので、夕食を大量に食べさせることで、食休みをしてくれるように仕向けるのだ。食後に15分以上は休んで貰わないと、胃や腸に血液が充分に送られず、消化がきちんとなされないのだ。食休みをしっかりと取っておけば、消化がきちんとなされ、より高いレベルで吸収がされるようになり、体は高い栄養素を持つことができるようになるのである。

 我が子に頭が良くなってくれることを願っているのに、自宅ではジャンクフードを食べさせ、白砂糖を使ったお菓子を食べさせていては、子供は知能を高くすることができないのだ。母親が我が子に最大限できることは、安全な食事を与えるということなのである。安全な食事を食べていれさえすれば、知能を高めていくことができるのである。できれば賢脳食を与えれば、驚異的に高い知能を持つことができるようになるのである。我が子の高い知能は母親の母性愛なくして決して生まれて来ないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

我が子の頭を良くさせたいのなら、空腹を味合わせよ ~空腹は知能を発達させる~

●満腹は頭を悪くする

 自分の子供を賢い人間に育てたければ、空腹を覚えさせることだ。人間は空腹になれば頭が良くなる。空腹になれば、脳に血液が集中するので、脳細胞が活発化するのだ。人類の歴史は飢饉が当たり前であったので、空腹になると血が騒ぎ、脳を進化させようとし出すのだ。

 逆に我が子を頭の悪い人間に育てたければ、満腹を覚えさせることだ。人間は満腹になれば頭が悪くなる。満腹になれば、脳に血液が行かなくなるので、脳の機能が衰えてしまうのだ。人類の歴史は飽食に慣れていないので、満腹になってしまうと、脳が退化していってしまうのだ。

 子供を育てていれば、すぐに食べ物を欲しがるのだが、それに付き合って食事やオヤツを出していては、子供は馬鹿になっていくだけなのだ。育児をしているなら、美味しい料理を作る努力をしつつも、人為的に空腹を作り出す努力もしなければならないのだ。子供に空腹を味あわせた上で、美味しい料理を出すようにするのだ。

 子供に空腹を覚えさせると、免疫力も高くなって病気をしにくくなる。白血球は血糖値が低下した時に最も効率良く働くようになるので、空腹によって血糖値を下げれば、免疫力が高くなって、いつも健康体で居られるのだ。裕福な家庭になってしまうと、遂々子供に飽食をさせてしまうので、いつも免疫力が低い状態になってしまい、それで病気に罹りまくり、難病奇病の餌食になってしまうのだ。

 子供の頃に病気で寝ていなければならないとすると、それだけ活動できないのだから、新たな情報を仕入れることができなくなる。一方、健康な子供はその間、動き回っているのだから、知能が高くなっていくのは当然のことなのだ。子供が罹る特有の病気に罹ることは致し方ないけど、それ以外の病気にはなるべく罹らせないようにすることは、母親の母性愛の大切な役割であろう。

●運動をさせてお腹をすかせる

 まず、朝起きたら、いきなり朝食を与えないことだ。「朝起きたら排便」ということを習慣づけることだ。朝の排便をしない限り、絶対に朝食を与えないことだ。何も食べず、排便に集中させれば、ウンチは必ず出るものなのである。起床後には、水でも飲まして、ウンチが出るように仕向けてあげることだ。

 次に、朝に運動をさせることだ。子供は睡眠中に、体の修復と体の成長を終え、エネルギーを使いきっている状態なのだ。しかし、肝臓にはグリコーゲンが大量に蓄えられており、そのグリコーゲンを放出することによって、活動することができるのである。このグリコーゲンを放出させると、脳に良質のエネルギーが行き届いて、脳の機能を活発化させることができるのである。

 朝に運動をさせず、いきなり朝食を食べる習慣を持ち続けてしまうと、肝臓はグリコーゲンを放出する機会を失ってしまい、肝臓が衰えてしまうのだ。肝臓を鍛えないからこそ、脳が発達しなくなり、能力が伸びなくなるのだ。朝は肝臓がグリコ-ゲンを放出する絶好の機会なので、子供を外に連れて行って走らせるなり、家の中でラジオ体操でもしてしまうことだ。この程度の運動で肝臓はグリコーゲンを放出してくれるのだ。

 肝臓が朝に次いでグリコーゲンを放出し易いのは、午後の時間帯である。昼食後、お昼寝をすると、体温が最も高くなるので、エネルギーを大量消費し易くなるのだ。その間に子供を外で思いっきり遊ばせておくと、昼食で得たエネルギーを使いきってしまい、肝臓がグリコーゲンを放出し始めるのである。

 「子供は風の子」と言われるが、子供を外で遊ばせておくと、子供は自然と体を鍛えることになり、健康そのものになってしまうのだ。しかも、外で遊ばせておけば、オヤツなど欲しがらないし、遊び終わったら完全にお腹をすかせた状態になるので、血液が脳に集中して、知能を高めてくれるようになるのだ。

●腹八分目を心掛ける

 子供は睡眠時間が長いために、その日の食事では夕食に重点を置くという方法を取るのが最善である。夕食で大量に食べさせても、睡眠中に消化吸収してくれるので、内臓に負担がかからなくなるのだ。子供はなかなか食休みををしてくれないので、朝食や昼食を大量に食べさせてしまうと、食休みせずに動くので、内臓には非常に負担になってしまうのだ。

 子供に好き嫌いを言わせず、きちんと食べて貰うようにする秘訣は、「出す料理を少しだけ少な目にする」ということなのだ。毎回、料理を作っていれば、子供が食べる量と言うのは大体解ってくるのだから、少しだけ料理を少なくして、意図的に満腹にさせないようにするのだ。要は腹八分目を心掛けるようにすることだ。

 食事は早く食べてしまうのではなく、時間をかけてゆっくりと食事をすることだ。食事のスピードが遅ければ、それだけ噛む回数が増えるので、顎を鍛えることによって、脳への血流を増やすことができるのである。一口30回以上咀嚼させるように義務付け、食べ物がドロドロになるまで噛ませることだ。

 例えば、たまには肉料理とかでも、「スジ肉」のように硬い肉も出して、そう簡単には飲み込めない料理を出すようにすることだ。子供の場合、この手の何度も噛まねばならぬ料理が出て来ると、大人以上に噛まねばならなくなるので、咀嚼の習慣がしっかりと身につくのだ。子供の言いなりになって、ハンバーグなどを出していると、子供は咀嚼の習慣が身につかなくなってしまうので、なるべく硬い食べ物を出すようにすることだ。

 料理で白砂糖を浸かったり、白砂糖が入っているお菓子を食べさせていると、すぐさま血糖値を上がってしまうので、食事のスピードも上がってしまうようになるのだ。それゆえ、料理で砂糖を使う時は、黒砂糖にするとか蜂蜜を使うようにし、白砂糖が入っているお菓子は出さないようにすることだ。この白砂糖を禁止した食生活を実現すると、子供は高い知能を持てるようになるのだ。

●休日には人為的に空腹状態を作り出せ

 休日は人為的に空腹状態を作り出せる絶好の機会だといっていい。休日になったら、子供を連れて普段では行かない場所へ外出してしまえば、子供は大量のエネルギーを使わねばならず、夕方になれば完全に空腹状態になってしまうのだ。見知らぬ土地に行けば、それだけ脳は活発に活動しなくてはならなくなるので、エネルギーを大量に消費してしまうのである。

 休日にはハイキングがお勧めだ。家族でハイキングに出かければ、いい運動にもなるし、新鮮な空気を吸えるし、日頃の疲労も吹き飛んでしまうのだ。子供はハイキングに出かけても、大人のようにただハイキングコースを歩くのではなく、あっちゃこっちゃに顔を突っ込んで、動き回っているものだ。当然にこんなことをしていれば、ハイキングが終わる頃には、お腹がペコペコになってしまう。空腹になったら夕食を食べればいいのだ。

 できることなら、キャンプしてしまうことだ。キャンプをすると、子供は水を汲んだり、料理を手伝ったりと、いつもなら母親がしてくれて当たり前と思っていることを自分から積極的に手伝おうとし出すのだ。夕食の前にこれだけ動けば空腹になって、当然に夕食を美味しく食べられるものだ。

 子供に料理が出て来て当たり前だとは思わせないことだ。如何なる食事といえども、親たちが稼いで来なければ、ありつけないものなのである。だから、いつも自宅で食べたり、レストランで食べるのではなく、自然の中に入り込んで、文明以前の生活を再現してしまうことだ。子供といえども、自分が本来持っている狩猟者としての血が騒ぎ、食べ物は取って来なければ、ありつけないということが解るようになるのだ。

 母親として子供に一体何を食べさせれば頭が良くなるかを考えることは確かに大事なことだ。しかし、それ以上に大事なことは、子供に空腹を味わせることなのだ。空腹になれば脳に血液が集中して頭が良くなるものなのである。しかも、空腹になればどんな料理でも美味しく食べてくれるものなのである。子供が食べ物の好き嫌いを言っていることは、空腹を味あわせていないからなのである。どんなに気性の激しい子供でも空腹になってしまえば、嫌いな物でも食べてくれるものなのだ。

 現代は飽食の時代だ。だから、時代に流されて、子供を飽食にさせておけば、確実に我が子は馬鹿になっていくものだ。子供に早期教育をさせたり、お受験をさせたりしても、結局、そのような教育を受けても、優秀な人材が育ってこないのは、子供に空腹を味あわせていないからなのだ。「教育の前に食事であり、食事の前に空腹」なのだ。そのことを絶対に忘れてはならないのだ。これさえしっかりと守っていれば、我が子は将来、優秀な人間になっていくことだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人が精神的に自立するということ

●経済的自立と精神的自立

 育児をしていみれば解ることだが、赤ちゃんというものは、親に従属するものだ。そうでもしなければ赤ちゃんは生きては行けないからだ。人間は進化の過程で相当無理をして進化してきたので、脳を大きくして高い知能を持つことはできたのだけれども、その反面、どんな健康な赤ちゃんでも未熟児状態で生まれるということになってしまったのだ。

 しかも、脳の成長が80%に達するのは3歳辺りで、その後も成長は続き、19歳辺りでほぼ完成する。そのため、他の動物たちのように生まれてからすぐに立ち上がって行動したり、数年で群れから離れて自立するというわけにはいかないのだ。家族の中で両親に従属して、長期間に亘って養育され続けねばならないのだ。

 そのため、中には大きくなっても自立ができない人々が出て来ることになる。人間は働きさえすれば、経済的自立を得ることはできる。だが、経済的自立を得たからといって、精神的自立も得られるのではないのだ。精神的自立は精神的に親への従属を解かない限り、絶対に精神的に自立ができないのだ。

 フェミニズムのイデオロギーは凶暴で、どの先進国もフェミニストたちの悪逆非道に悩まされているものだが、フェミニストたちの最大の功績は、実は、「女性たちは経済的に自立できても、精神的には自立できない」ことを指摘した点なのである。もしもフェミニズムを唱えることによって、「女性の自立」ができるのなら、もうとっくにすべての女性たちは自立を果たしている筈だ。しかし、何十年とフェミニストたちが「女性の自立」を唱え続けたのに、フェミニストたちは精神的に自立できなかったのである。女性の自立という問題は、フェミニズムというイデオロギーでは決して解決できないものなのである。

 人間は一足飛びに成長することはできない。親への従属を経て、親から離れて自立していき、そして結婚することによって独立していく。そういう成長過程をきちんと行わない限り、誰であったとしても、親から自立することはできないし、独立していくことができない。大事なことは、親に従属している時はきちんと従属し、親から離れて行く時は、親から離れることによって自立していくことなのである。間違っても親に従属すべき時に自立を強いてはならないし、自立していく時に親に頼ってはならないのだ。

 もう一つは、人間は環境に左右されるということだ。人間は自立していく際に絶対に無視できないのは、「家族」と「学校」の存在である。家族の中で充分に愛や厳しさや夢を貰っていれば、来るべき時が来れば、自立していけるものだ。人間が自立していく時は中学や高校に通っている時期と重なるので、学校が生徒たちの自立を損なうようなことをしなければ、男女共に自立していくことが可能になるのだ。

●自立の性差

 男の子と女の子では自立にも性差がある。男の子は上位自我が貧弱なために、冒険旅行でその上位自我を自分の力で破壊してくことができる。しかし、女の子は上位自我がしっかりと出来上がっているために、男の子ように冒険旅行に出たとしても上位自我を破壊することはできず、女の子同士で友情を育み、そして自分の上位自我を破壊できる男性を見つけて、恋愛をしていく中で上位自我を破壊していくのである。そうやって男女双方、上位自我が破壊されれば、精神的に自立することができるのである。

 そのため、男の子と女の子は育て方が違うのだ。男の子は充分すぎるほどに愛してから、時が来れば突き放すしかないのだ。男の子は女の子よりも甘えん坊なものだが、これは男の子は母親からたっぷりと愛を貰わねば、成長できないからなのである。男の子は母親から充分すぎるほどの愛を貰えば、時が来れば母親から離れ、冒険旅行に出かけていくのである。昔から「可愛い子には旅をさせよ」というが、いくら我が子とはいえ、いつまでも手元に置いておいたら、男の子は鬱屈してしまい、自立できなくなってしまうのだ。

 女の子は適度に愛しながら、結婚まで守り通す態度を貫かねばならない。女の子は母親だけでなく、父親からもたっぷりと愛を貰い、祖父や祖母にも愛を貰おうとする。上位自我がしっかりと入っているので、大人相手であっても会話が成立するので、両親が娘のことを適度に愛する態度を貫くと、きちんと成長していくものなのである。そして自立していく時期を迎えた時、娘が親に反抗しつつも、親は娘を信用し支援している態度を貫き、いかなることがあっても娘を守るという態度を貫いておれば、娘は自立していくことが可能になるのだ。

 肝腎の両親が精神的自立を果たしていないと、平等イデオロギーに取りつかれてしまい、男の子も女の子も平等に育てようとしてしまうことになる。そうなると、男の子は充分な愛が貰えず、女の子の方も自分を取り巻く人々から適度な愛が貰えないので、男の子は冒険旅行に行かなくなるし、女の子は友情や恋愛で失敗の連続になってしまう。そのために精神的自立が不可能になってしまうのだ。

 赤ちゃんを産んで育ててみれば、男の子と女の子は全く違う成長の仕方をするということは解る筈だ。しかし、平等イデオロギーに取りつかれてしまうと、その現実が全く見えなくなってしまうのだ。間違っているのは現実の方であって、平等イデオロギーは如何なることがあっても正しいと思い込んでしまうのだ。こういう両親から育児を受ければ、当然にその子供は愛が決定的に不足してしまうことになるのだ。

●両親と片親

 子供は両親から愛されて育つ以上、家族には両親がいることが理想であり、正常な状態なのだ。両親がちゃんとした結婚生活を営んでいれば、夫婦の間に夫婦愛が巡ることになるので、有り余った愛が子供たちに流れ込んでくるのだ。育児をする際は、夫婦が愛し合っていることが前提なので、育児ばかりに集中しないで、夫婦仲もきちんと保つ努力をすべきなのである。

 ふた親が揃っているというのに、夫婦の仲が悪ければ、子供たちに愛は巡ってくることはない。両親は常に夫婦喧嘩をしているし、殴り合っている所を見ていれば、愛を貰うどころではないし、子供たちは「大人たちは信用できない!」と思い込んでしまうのだ。こうなってしまうと、子供の心の中には愛が決定的に不足してしまうので、自立すべき時期が来ても、そう簡単には自立できなくなってしまうのである。こういう育ち方をした子供が大きくなって結婚しても、親と全く同じような光景を繰り返してしまうのである。

 親の離婚や死別というのは、子供たちの甚大なる影響を与えてしまう。母親がなく男親のもとで育てられると、男親によって精神作用が刺激されるので、精神レベルが急激に上がるが、家族の中での潤いというのがなくなってしまう。男親のもとで育つと、女性はすぐさま結婚してしまう。精神レベルが上がってしまったために、自分にとっての理想の男性を見つけ易いのだ。男親のもとで育った男性は、自分がかなり潤いのない生活をしてきたために、自分の生活に潤いをもたらしてくれる女性を見つけ出さないと、自分自身がかなり偏った人間になってしまうのだ。

 父親がなく女親のもとで育てられると、女親によって物質作用が刺激されるので、経済的には豊かな生活を送ることができるが、精神的には低レベルな見方しかできなくなってしまう。女親のもとで育つと、女性はビジネスを展開し易い。物質レベルが上がってしまったために、自分の天職を見つけ易いのだ。そのために結婚が遅れたり、失敗してしまったりする。結婚を大事にするという考え方に辿りついていないので、どうしても結婚を犠牲にしてしまで働こうとしてしまうのだ。女親のもとで育った男性は、男として一本筋が通っていないが、女性相手の仕事では天性の才能を発揮して成功することが可能になってくる。芸能界を見ても、母子家庭で育った子が人気タレントに成り易いのだ。

 片親のもとで育つと、どうしてもバランスを崩し易い。そのため、青春時代に男の子なら冒険旅行に行こうとしなくなるし、自分の上位自我を破壊するだけの力を持てなくなってしまう。女の子はきちんと友情を作り上げたり、恋愛をきちんと行うということができなくなってしまう。青春時代に失敗が続くのなら、相手が間違っていると思い込むのではなく、自分が間違っていると思うことだ。片親のもとで育てば、どうしても自分の心は歪むものなのである。

●児童養護施設育ち

 では、両親も片親もおらず、親から捨てられてしまった子供はどうなるのであろうか? 当然に愛の不足で苦しむことになる。愛といっても、子供が欲しい愛は、母性愛であり、父性愛である。いくら他人から愛を貰っても、母性愛や父性愛でない限り、子供は満足できないものなのである。

 キリスト教は孤児院作りに積極的になったために、かなりの数の孤児院を設立したのだは、この孤児院上がりの子供たちに不気味な変化が起こってしまったのだ。それは孤児院を出ても精神的な自立ができなかったのである。孤児院は主に女子修道会が運営したために、独身女性のシスターが親代わりになったので、孤児たちの間で決定的な母性愛の不足が起こってしまい、大人になっても精神的な自立ができなくなってしまったのである。

 これに対して、政府や地方自治体によって運営された児童養護施設ではこういう現象は起こる確率が激減した。施設で働く職員に既婚者たちがいたので、母性愛や父性愛を貰えることができたのである。児童養護施設は所詮、官僚の組織なので、かなりドライなのであるが、そのために施設で育った孤児たちは逆に自立し易いのだ。

 児童養護施設を出た孤児たちが経験するのが、とにかく自分が生活することで精一杯になってしまい、自分が精神的に自立していく作業を等閑してしまうことなのだ。しかも、児童養護施設で愛を貰ったとはいえ、充分な量とは言えないものなので、どうしてもパワー不足が目立ってしまうのだ。

 このため、いつまでも自分が「孤児」だとか「施設上がり」だとか言っていると、精神的に自立できなくなってしまい、普通なら得られるであろう幸せを得られなくなったり、たとえ幸せがやってきても自らの手で壊してしまうのだ。こうならないためにも、弱い自分と戦って精神的に自立していくべきだし、愛が不足している以上、周囲の人々の関係を切ってしまわないことだ。親戚が一人もいなければ、人為的に人間関係を築いていくしかないのである。

●異常なる結婚

 経済的自立というのは、目に見えるものだ。しかし、精神的自立は目に見えないものだ。経済的自立は裕福になっていくのだから、それはそれで素晴らしいことではあるが、精神的自立は裕福になるということとは関係ないので、それをしなくても生きて行くことはできる。

 だが、精神的自立をしなかったというツケは必ず至る箇所で出て来る。例えば、精神的自立をしていない人たちは、訊いてもいないのに、「俺のお袋がよ~」「私の父の仕事は~」とか言い出して、会話を白けさせてしまう。自分の人生なのに、自分が主人公になっておらず、親が主人公になっているので、幾ら会話をしても高いレベルの会話ができないのだ。これを繰り返されると、友人たちは徐々に避け始め、自分の友人たちが低レベルな人たちだけになってしまうのだ。

 精神的自立ができなくても、結婚適齢期を迎えれば、結婚をすることはできる。しかし、その結婚は「正常なる結婚」を営むことができず、「異常なる結婚」になってしまうのだ。結婚しましたというから祝福しにいったのに、どうも話がおかしいと思ったら、「事実婚」だというのだ。事実婚とは、要は「同棲」のことなんであって、「そんなもののために結婚式を挙げるな!」と言いたくなる。

 結婚したのに、夫婦別姓を唱えるのも、明らかに精神的自立がなされていない証拠だ。結婚した女性にとっては、改姓の手続きは面倒臭いだろうが、苗字が変わるというのは、自分の運命に大きな変動をもたらしてくれるので、それによって新たな人生が開けていくものなのだ。苗字を変えないというのは、その本人がどのような理由を持とうが、自分の両親から精神的に自立できないということの現れなのだ。それが解っていないのだ。

 結婚すれば、次は妊娠出産育児とドミノ倒しのように進んでいく。しかし、精神的自立がなされていないと、「不妊症」を患ってしまい、躓いてしまうのだ。実を言うと、肉体的理由で本当に不妊症になっているのはごく僅かなのだ。大半は夫婦仲が巧く行っていないだけなのだ。夫婦双方が精神的自立を果たしていないから、夫が妻の心の壁を打ち破って、妻の心の中から「無限の愛」を溢れ出させるということができないのだ。

 たとえ赤ちゃんを産んだとしても、育児放棄をしたり、児童虐待をしたり、とにかく自分より弱い者へ残虐な行為を仕出かして、そこに邪悪な悦びを見出すのだ。両親が精神的自立をしていないならば、その家族の中ではまともな愛が流れないから、子供は家出をしていくかない。家出をするような子供というのは、まともな愛を貰ったことがないから、非常に寂しい顔をしているものなのである。

●神の奴隷として生きる

 人間は精神的自立を果たしていなければ、不幸の連続になってしまう。精神的自立を果たしていなくても、その弊害を防止して、不幸が起こらなくさせようとしたのが、「キリスト教」である。「偽りの上位自我」を、「イエス」に置き換えてしまうのだ。言わば、親に従属していた人生を、イエスに従属させることに変えて、違う人生を歩ませてしまうのだ。

 キリスト教ではこれを「神の僕」というが、「僕」とは奴隷のことで、だから「神の奴隷」として生きるのだ。人類の歴史では奴隷制度が廃止されていったものだが、未だにキリスト教の中ではしっかりと奴隷制度が残っているのである。しかし、大人になっても親に従属している人が、そのままで人生を歩めば不幸の連続になってしまうので、神の奴隷として「物」になってしまえば、精神的自立がなされていないことは関係なくなってしまうのだ。

 確かにキリスト教を正しく信仰しさえすれば、それはそれで素晴らしい人生を送ることができるのである。自分が精神的自立を果たしていなくても、神の奴隷として「愛と奉仕」に生きればそれは素晴らしい人生になるものである。精神的自立を果たしているからといって、他人に愛を与えず、他人に奉仕をしなければ、それは精神的自立を果たしていないキリスト教徒たちよりも劣るのである。

 だが、キリスト教徒たちは信仰によって精神的自立ができていないことを隠してしまうために、双方で争ったら悲惨なことになってしまうのだ。キリスト教徒が神学論争をした場合、大抵が論争が戦争に発展してしまい、虐殺が行われている。キリスト教は「アガペー」を掲げるが、実際にやっていることは正反対の「大量虐殺」をやっているのである。

 キリスト教の歴史は、いくら信仰で誤魔化したとしても、その本人がきちんと精神的自立を果たしていなければ、まともな愛を出せないということを証明したようなものなのだ。人間はいくら敬虔に信仰したとしても、まともな愛は出て来ないのだ。まともな愛を出したいのであるならば、自分の青春時代の中できっちりと精神的自立を果たさなくてはならないのである。

●煩悩からの解脱

 仏教では信仰ではなく、「解脱」することで、精神的従属から逃れようとする。確かに釈迦が言うように、解脱してしまえば、精神的に自立できなかった自分は消滅してしまうのである。解脱というのは、決して難しいものではないのだ。解脱というのは、この世で生きている自分を消滅させてしまうことなのだ。こうすれば、確かに精神的に自立をしていない自分も消えてなくなってしまい、仏陀として生きて行くことができるのである。

 釈迦は人類史上の中で有り得ない世界を切り開いたのだが、その後の仏教徒たちは仏教を信仰しながら、釈迦が一体何を言っているのかが解らず、解脱することができないようになってしまった。釈迦を信ずる余りにこの世に執着が湧いてしまい、自分を消滅させることができなくなってしまったのだ。

 我々日本人が知っている仏教というのは、出家して僧侶になっても解脱しないという堕落した仏教なのである。なぜ、この仏教を歪めたものが生き続けたかというと、精神的自立を果たしていない者たちをいつまでも修行させることによって、人畜無害なものにさせようとしたからなのである。

 そして戒律を守って修行している僧侶たちを全国各地に送り、その住民たちの精神的な悩み事を聞いてあげるのである。そうすれば、住民たちは政治に対して不穏な動きをしなkなるし、精神的におかしくなった者たちの犯罪も抑えることができるのである。だから、日本全国各地に仏教寺院が点在しているのである。

 ところが、親鸞が出て来て、釈迦如来への信仰よりも阿弥陀如来への信仰を優先させてしまったのだ。仏教の戒律を守らず、僧侶が結婚して子供を産んでしまうと、その僧侶の家族の生活を信者たちが支えなければならなくなるので、信徒たちは非常に貧しくなってしまうのだ。僧侶自体は生産を何もしていないので、僧侶や僧侶の家族が多ければ、それは直接に信者たちの負担となって現れてくるのだ。浄土真宗が出て来たことで、我々日本人が仏教の本当に姿が見えなくなってしまったのである。浄土真宗ではいくら親鸞を崇めたとしても、親鸞は解脱していないのである。解脱していない僧侶の教えを、釈迦の教えより優先させてはならないのだ。

●神の予定と独立自尊

 結局、イエスも釈迦も所詮は人間だということだ。イエスを救世主に仕立て上げたり、釈迦を仏像にして崇めるからこそ、彼等が人間として生きた軌跡が解らなくなり、一体何を言いたかったのかが解らなくなってしまうのだ。彼等は精神的に自立できない人たちに、精神的に自立しなくても生きていける方法を説いたにすぎないのだ。キリスト教の教えが絶対でもなく、仏教の教えが絶対でもないのだ。

 人間は自立すれば、それ以前の自分を否定してしまうことになるのだ。それは非常に恐ろしいことなのである。いくら親に反抗しているとはいえ、子供の頃は親といるのが楽しかった筈だ。その家族の思い出が消えていくのだ。青春時代はすべての物が輝いて見え、青春の熱気に突き動かされるように生きた筈だ。その青春時代が消えて行くのだ。精神的に自立を目前にすると、我々は自立していない自分が消えてしまうことに、恐れおののいてしまう。施設育ちなら、もっと悲惨で、親への記憶がないから、施設での思い出が消えてしまい、自分が育った場所がなくなってしまうのである。

 青春時代は様々な喜びや悲しみが溢れ返るものだ。しかし、青春時代が終わりに差し掛かり始めた時には、もう青春時代の喜びでは喜べなくなるし、青春時代の悲しみでは悲しめなくなるのである。いつまでも同じ場所には居られないという焦燥感の方が自分を突き動かしてしまうのである。青春時代はいつの日にかは終わるものだ。「生涯青春」などと馬鹿げた人生を送ることなどできないのだ。

 若者が精神的に自立していくということは、青春時代に作り上げた自分の考えを捨てて、神の摂理に自分の人生を合わせるということなのだ。自分の幼稚な考えを捨てた時に、神に指し示された一本の道がはっきりと見えて来て、その道を全速力で駆けて行くことができるようになるのである。青春時代になぜ悩み迷うかといえば、自分のやるべきことがみつからないからなのだ。

 人間は精神的に自立できなければ、平等な社会を作ろうとし出すものだ。自分が精神的に従属状態にあるからこそ、精神的自立を果たしていかなくてもいい社会を作ろうとし出すのだ。社会主義やフェミニズムに走るのは、10代や20代である。還暦を過ぎてしまえば、平等イデオロギーに走ることはないことだろう。社会的弱者に慈善を施すことと、平等社会を作ろうとすることは、全くの別物なのである。社会を変えるよりは、まずは自分を変えるべきなのである。

 何もかも自然に育てていけばいいのではないのだ。中には自立できずに親になってしまう人たちもいるのだ。そういった親たちは精神的に独立していないから、まともに家族を運営をしていくことができず、すぐに政府に頼ろうとするのだ。もしも政府が救いの手を差し伸べなければ、政府の悪口を散々に言ってくるものなのである。まともな愛が出せないから、無制限に憎しみをぶつけることしかできないのだ。

 男と女は憎しみ合うものではないのだ。お金持ちと貧乏人は憎しみ合うものではないのだ。共に愛し合い、手を携えて生きて行かねばならないのである。しかし、まともな成長過程を経ないと、まともな愛が出て来ないから、他人に憎しみをぶつけることしかできなくなってしまうのだ。

 だから、宗教は必要なのである。精神的自立を果たしていない人たちは、政治に手を出すべきではなく、精神的自立を果たしていなくても、宗教の力を借りて生きていくしかないのである。政府がどのような政策を実行した所で、精神的自立を果たしていない人たちを満足させることはできないし、増してや精神的自立を果たすようにさせることもできないのだ。

 人間たちがどのような成長過程を経るにせよ、精神的自立を完成できる人は、神によって予定されているのである。神に選ばれた人たちは、自分が両親のいる家庭に育とうが、片親の家の育とうが、児童養護施設の中で育とうが、精神的自立を成し遂げ、精神的独立を果たすことができるのである。しかし、神に選ばれなければ、淫祀邪教や平等イデオロギーに洗脳されてしまうだけなのである。神に選ばれた人たちは、決して精神的自立を果たしていない人たちに警戒を怠ってはならず、ありとあらゆる場面で主導権を握って、彼等が暴虐な行いをしないように管理し続けなければならないのである。

 自分が産んだ子が、将来、ちゃんと精神的自立や経済的自立を果たしてくれるかは解らないものだ。ただ、親としては、その子に充分な愛を与え、何が正しいかを教え、夢を持つことの大切さを教えていくしかないのだ。今はまだ可愛い子供も、青春時代が来れば飛び立つ日がやってくるのである。だから、親ができることは、自立することをせかすのではなく、親に従属すべき時にきちんと従属させておくことなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

下位自我の幻想狂想曲

●悪いと解っているのに犯罪が止まらない

 下位自我は上位自我より遥に厄介なものなのである。上位自我は男の子なら父親だし、女の子なら母親によって形成される。しかし下位自我は「親に甘えている自分」によって形成されたものだからだ。下位自我は青春時代が終わるまで存在し続けるのだから、自分で制御しておかないととんでもないことになる。

 中学生になって不良に走る連中というのは、必ずと言っていいほど、この下位自我を制御しきれなかったからなのである。不良というのは幼稚さの現れにすぎないのだ。勿論、若者の爆発的なエネルギーを吸収できない学校側にも問題があるが、青春時代の初期という最も大事な時に不良に走ってしまうのは、自分の人生に於いて非常なマイナスになってしまうのだ。

 大人になって麻薬に手を出す連中も下位自我の暴走を食い止めることができなかったからなのだ。理性的には麻薬に手を出すことは悪いことであり、麻薬中毒は恐ろしいものであるということは解っているのに、麻薬に手を出して、麻薬中毒になってしまうのだ。麻薬犯罪が見つかり、警察沙汰になって事態の重大性に気付いた時、大抵が「俺は馬鹿だった」というものだが、この馬鹿を平気でやってしまうのだ。

 結婚したら一家の家長として責任を持って行動しなければならない。しかし、中には幼稚な夫たちがいて、いつまでも子供っぽいことをして、妻を散々に困らせる夫もいるものだ。結婚して幼稚な亭主は救いようがないのだ。責任感というものがないために、責任感を伴う地位を与えられても、一体何をすればいいのか解らなくなってしまうのだ。

 下位自我の恐ろしさは、それが甘えて愛を貰ったり、探究心の発露になるのに、その一方で悪いと思っているのに犯罪が止められないのだ。母親なら叱って許してくれるものでも、大人になれば叱って済まされることなどなくなってくるのだ。今まで自分が築き上げた地位や財産や信用のすべてを失ってしまうこともありうるのだ。

●真面目人間の落とし穴

 下位自我が暴走していくのは、何も不良たちだけとは限らない。真面目人間も下位自我を制御しておかないと、暴走してしまうことになる。理数系の人たちは真面目人間が多いものだが、余りにも真面目すぎるために、冷静に考えれば、明らかに嘘というものまで信じ切ってしまうのだ。

 科学は精密な学問体系を作り出しているのだが、それをそのまま現実にも当て嵌まると思ってしまうのだ。だから、科学を使って宗教を否定したり、逆に霊魂の存在を証明しようとしたりするのだ。彼らには「人間は科学のようには動いてくれない」という大事なことが解っていないのだ。科学など所詮は人間が作りし物なのである。

 余りにも真面目になりすぎて、それが科学的発見に繋がればいいが、そうでないと、どこかでその探究心が歪んでしまい、邪教の餌食になってしまうのだ。オウム真理教は理数系の大学生たちをターゲットにして勧誘していったが、真面目であればあるほど、邪教の嘘を見破ることができなくなってしまうのだ。人間は小さな嘘には気付けても、大きな嘘には騙されてしまうからだ

 夫婦の中には、夫が高学歴で高収入で、真面目な紳士だったのに、突然にその真面目な夫が犯罪に手を染めてしまう事件が発生してくる。自分が真面目に働いているのに、その組織が自分の働きを正当に評価してくれないと、裏切られたと思って、横領や背任を平気でやってしまうのだ。

 嘗て幕末の尊王攘夷の志士である橋本佐内は、若者たちに向かって「稚戯を捨て去れ」と言って、若者たちの立志を促したものだが、男性というのは若い時はかなり幼稚なのである。その幼稚さを捨て去って、要は下位自我を暴走させないように、勉学やスポーツや仕事に精進しないと、立派な大人にはなれないのである。たとえ真面目に生きて来ても、その幼稚さを捨て去っていないと、どこかで破綻してしまうものなのである。

●下位自我は上位自我の影

 下位自我の破壊はそんなに難しいことではないのだ。下位自我上位自我の影であるがゆえに、上位自我が破壊されると、下位自我も消滅してしまうのだ。男性が冒険旅行に行って上位自我を破壊してしまうと、下位自我も同時に消滅するので、男性としての不自然さがなくなると同時に、幼稚さも消えてしまうのだ。

 暴走族あがりの人たちが、暴走族を卒業し、心から改心すると、悪さをしない男性に生まれ変わってしまうものだ。嘗ては暴走族だった癖に、良き夫にして、優しい父親になってしまうのだ。下位自我がなくなってしまえば、自分の妻に幼稚な行動を取らなくなってくるのだ。ちゃんと家長として責任感ある行動が取れるようになるのである。

 結婚すれば、妻が夫に甘えたり、夫が妻に甘えたりして、愛を貰い合う行為は、いつまでも必要である。しかし、それが余りにも幼稚になっていると、それは下位自我が破壊されていない証拠になってしまうのだ。その幼稚さは最初は家庭内で現れてくるかもしれないが、時間が経てば職場に出て来てしまい、その幼稚さのために大失敗をやらかしてしまうことになるのだ。

 育児や子育てで大事なのは、「甘えは必要だけど、甘やかしは必要ではない」ということなのである。子供が親に甘えることができなければ、父性愛や母性愛を貰うことはできない。だからといって、甘やかして育ててしまえば、我儘な人間に成長してしまい、下位自我の暴走で苦しむことになってしまうのだ。裕福な家庭になると、必ずといっていいほど、甘やかされて育った人たちが出て来るものだが、だからこそ、大人になっても大人に成りきれなくなってしまうのだ。

 人間には生まれながらにして向上心が備わっているものだ。赤ちゃんなら最初は動けないのに、寝返りを打てるようになり、ハイハイができるようになり、一人歩きができるようになっていく。その成長に最高の喜びを感じるように出来ているのだ。だからこそ、青春時代が始まれば、下位自我を制御して幼稚なことを捨て去って、学問やスポーツに精進して、向上していけねばならぬのだ。そのようなことをしていれば、来るべき時が来れば、自然と下位自我が破壊されてしまうのだ。

●良心が悪用される時

 人間は下位自我が破壊されないと、想像を絶する悪事を仕出かしてくるものである。最初は小さな犯罪だったのに、悪事が暴走していき、その内、凶悪犯罪を仕出かしてしまういのだ。ところが、自分が精神的に自立を果たしていないと、この凶悪犯罪者たちの肩を持つようなことを仕出かしてくるのだ。自分が精神的に自立していないから、凶悪犯罪者を処罰して、治安維持をもたらすという責任感を果たせなくなってしまうのだ。

 彼等は自分は良心的だと思っているが、この世には想像を絶する悪人がいるということが解らないのだ。「死刑廃止論」も「裁判員制度」も、この手の馬鹿たちが主張してきたものなのだ。しかし、この手の幼稚な意見は常に凶悪犯罪者たちに悪用されてしまうものなのだ。

 嘗て、死刑廃止論が最も高まった時に、オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こしたのである。裁判員制度も今は新しい制度だと浮かれているかもしれないが、裁判員制度が定着した時に、恐ろしいテロ事件が起こる可能性があるのだ。人間の良心というものは、どうやったとしても凶悪犯罪者たちの心には届かないものなのである。

 自分が上位自我を破壊して、精神的に自立を完成させないと、自分がこれは良心であると思っても、正しい考えにも正しい行為にもならないのだ。良心は常に悪用されるものなのである。なぜなら、精神的に自立を果たしていないから、相手を見切ることができず、決して相手のためになる行動を取ることができないのだ。飽くまでも自分が良心的な行為をしたろいうことに酔いしれているだけなのである。

 結婚している夫婦が「これは正しい!」と思って決断しても、そうはならないということもあるということなのだ。自分が正しいと思っても、実際にやってみれば間違っていることなどいくらでもあるのだ。家族を運営していくのに良心など当てに成らないのだ。、では、一体どうすればいい?

●「良心」ではなく「正心」

 精神的に自立して、精神的独立状態になることで、「正しい心」を持つようにすることなのである。「良心」ではなく、「正心」こそ、家族を巧く運営していくことができるようになるのである。自分が良いと思うから正しいのではなく、自分が正しい道を歩くからこそ正しいのである。絶対にこのことを間違ってはいけないのだ。

 これを『大学』では、「格物致知正心誠意」と説明した。「格物」とは、文武両道に励むことをいい、「致知」とはそれによって思いを巡らすことをいう。そうやって正しい心に辿りつくことができ、その正しい心であるからこそ、人間は誠意を発することができる。このような人間になってこそ、初めて身を修めたといえるのである。

 「心は一身の主宰」である。かといって、自分が勝手に正しいと思うのはなく、文武両道に励み、その精進をしながら自分なりに考えるからこそ、正しい心を持つことができるのである。これが大人になって仕事をするなら、現地に行って情報を収集するなり、本を読むなりして情報を集めて、その情報を元に自分が考え、そして正しい考えをすることができるということなのである。

 例えば、育児をしているなら、自分が正しいと思うことをいきなりするのではなく、育児経験者たちから育児の仕方を聞くなり、育児書で調べるなりして、育児の情報を集め、その情報を元に自分で考えて、正しい育児の仕方に辿りつくのである。しかもいきなり成功するわけないから、何度も試行錯誤しながら、やっと正しい育児の仕方に辿りつくことができるのである

 ここに「哲学の不思議」というものが現れて来る。「格物致知」とは哲学的に言えば経験論に立脚し、経験論を突き詰めれば唯物論になる筈なのである。しかし、経験論を出発点にしているにも拘わらず、唯心論になってしまうのである。心がすべでを生み出していくという考えに辿りついてしまうのだ。

 一方、「良心」とは哲学的に言えば合理論に立脚し、その合理論を突き詰めれば唯心論になる筈なのである。ところが、合理論を出発点にしているにも拘わらず、唯物論になってしまうのである。だから 何か新しい物を生み出せることができなくなり、環境に支配されてしまうのだ。

 唯物論は誰がどうやろうとも憎しみしか生まれない。なぜなら、自分が自分の人生の主人公になっておらず、環境の支配下にあるので、自分で豊かになっていこうという気概を持たずに、裕福な人たちから物を奪い取って、貧しい人たちに分配しようという考えを持ってしまうからだ。キリスト教徒だって、社会主義者だって、フェミニストだって、良心的な心情から発している。しかし、現実はその良心的な人たちほど残虐なことをやってきた歴史であるのだ。

 良心では我が身を以て全世界に立ち向かっていく愛と勇気がないのだ。ただ、この世の誰かに憎しみをぶつけることしかできないのだ。偽りの上位自我を破壊していないということは、こういう所に歪んだ物として出て来るのである。正心は試行錯誤の連続なのだ。「これで正しいのかな?」と自問自答しながら進んでいくしかないのだ。その歩みは良心的な人たちから見れば遅いように見える。しかし、その歩み方こそ、結果として正しい成果を生み出せることができるのである。こういうことは育児をしていれば当然に解ることのである。母親が悩みながら育児をしている時、実は最も成長していて、結果的に正しい育児の仕方に辿りついてしまうものなのである。自分が自分勝手に正しいとは思わず、試行錯誤を繰り返したからこそ、正しい育児に辿りつけたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子供のイタズラは探究心の現れ

●下位自我と甘え

 女の子を育てていると、母親の前では普通の態度を取っているのに、父親が帰ってくるなり、突然に父親に甘える行動を取るものだが、これは下位自我が発達したからこそできるものなのだ。赤ちゃんの頃は父親が帰って来ても、特別な対応などしなかったものだが、成長するにつれて、父親に甘えるという行動が取れるようになるのだ。

 上位自我が出来ると、下位自我も出来上がる。女の子の場合、上位自我がしっかりと出来上がってしまうので、下位自我もしっかりと出来上がってしまう。そして上位自我や下位自我の使い方をオママゴトなどで練習しているから、実際の生活でも下位自我の使い方が巧いのだ。

 これに対して男の子は上位自我のでき方が悪いし、下位自我のでき方も悪い。そのため、父親が帰って来たから態度を変えて甘えるというのは、相当年齢が上がらないとできないものなのである。昔から、「一姫二太郎」と言われるが、女の子の方が育て易く、男の子の方が育てにくいのだ。だから、男の子を育てる場合、大きくなったら上下関係をしっかりと教え込まないと、手につけられない反抗をしてくるのである。

 人間は群生動物なので、決して平等な関係を築こうとはしない。必ず組織を作ろうとする。組織を作ることで協業と分業を行って、個人レベルでは決してできない生産力を手にしようとするのだ。この組織というのは、誰がどう作ろうとも、上下関係を伴うものなのである。家族の場合、子供が両親に服従しない限り、食べ物にありつけないし、父性愛や母性愛といった物も貰えなくなってしまうのだ。

 子供が親に甘えるというのは、非常に重要な行為で、子供がこの行為をし出すと、精神的にも肉体的にも健全に成長していく。女の子は2歳か3歳辺りに父親とベッタリになる時期を迎え、男の子は幼稚園児になっても母親とベッタリする時期を迎えることになる。この甘えを充分にさせておけば、下位自我は満足し、大きくなってから下位自我の暴走に悩まされることがなくなるのだ。

●甘えるから愛が貰える

 父性愛や母性愛は対等な愛ではなく、上から下へと流れていくので、親子が上下関係にならない限り貰うことができない。だからこそ、子供たちは知能が発達してきて、親と対等の会話ができるようになったのに、親に甘える行動を取って、父性愛や母性愛を貰おうとするのである。甘えるというのは、一見、幼稚なものに見えても、知能が高くないとできないものなのだ。

 日本では親が子に添い寝をする習慣があるので、子供が親に甘えることがし易く、父性愛や母性愛を蓄積し易いのだ。添い寝というのは、何も夜泣きに対応するのが便利だから行っているものなのではないのである。子供の精神的な成長のためにも必要な行為なのである。

 これに対して白人というのは添い寝をする習慣がない。赤ちゃんの頃から個室を与えて育ててしまうために、子供になっても親に甘える行為ができないし、やったとしても巧くないのだ。そのため、幼児期に決定的な父性愛や母性愛の不足に陥ってしまい、そのために青春時代に有り得ないような反抗をしてくるようになる。白人たちはキリスト教を熱心に信仰して、「天にまします我が父よ」と言ったり、「マリア信仰」をしたりするのは、この添い寝の習慣がないことによる甘えの不足が原因であるのだ。父性愛や母性愛がきちんと蓄積していれば、キリスト教など信仰することはないのだ。

 女の子がグレる確率が低く、犯罪の発生率も低いのは、幼児期に於ける下位自我の扱いが巧く、両親から父性愛や母性愛を貰うのが巧いからなのである。女の子の方も、両親から父性愛や母性愛をきちんと貰っていれば、間違った道を歩む必要性がなくなり、女の一本道を突き進んでいくことができるようになるのである。

 一方、男の子とはいうと、下位自我の使い方が巧くないので、母親がしっかりと母性愛を与えて、男の子を肯定していかないと、男の子は暴れまくるし、青春時代が始まればグレてしまうのだ。男性の偉人たちというのは、その殆どが母親から愛されて育って来た人たちであって、子供の頃から母性愛を貰い続けたからこそ、間違った道を歩むことなく、自分の才能を開花させる道を歩めたのである。

●子供のイタズラは成長している証拠

 男の子は下位自我の使い方が下手であるがゆえに、母親にイタズラすることで、母親の関心を惹こうとする。イタズラは甘えのサインなのであって、男の子がイタズラをしたからとって真面目に怒っていると、男の子が更にひどいイタズラをしてくるのである。こういう場合は、「こういうことしちゃ駄目でしょ」と叱りつつ、じゃれあっていればいいのである。それで男の子の方は母親から母性愛を貰えたと思うのである。

 イタズラにはもう一つ大事な側面がある。それはイタズラは探究心の発露だということだ。男の子にとっては、人間関係よりも、物体に興味があるので、物を使って探究することで、その物が一体なんなのか確かめていくのである。この探究心の発露がイタズラとなって現れてくるのである。

 男の子は探究心の発露としてのイタズラが出来ないと、知能を高く発達させることができない。それゆえ、この手のイタズラに関しては、多目に見てやらしておけばいいのである。子供のイタズラなのだから、所詮、他愛もないイタズラなのである。気長に付き合うことだ。

 しかし、すべてのイタズラが許されるわけではない。中にはやってはいけないイタズラだって存在する。人に危害が及ぶようなイタズラだ。こういう時はしっかりと叱って、制裁を加えておくことだ。男の子の場合、肉体的に痛い目に遭わないと決して悪事をやめようとしないので、お尻をペンペンして叱っておけばいいのだ。

 女の子もイタズラをしてこないことはない。しかし、男の子ほど盛んにイタズラをしてこないものだ。男の子と女の子の育て方は違うのだということを、早い段階で悟ってしまった方がいい。女の子ならこういうことをしないからといって、男の子にもそれを適用していたら、男の子は鬱屈してしまい、大きくなってから悪事をすることで、子供の頃にできなかったイタズラをしてくるのだ

●子供のイタズラは親がいくら叱っても続くもの

 真面目な母親であると、子供のイタズラにうんざりさせられるものだ。子供のイタズラは母親がいくら叱っても続くものだからだ。イタズラをし始めた頃に、巧く対処して、母性愛をきちんとあげていたら、子供のイタズラは悪化しないものだが、巧く対処できないと、母性愛が貰えないために、子供のイタズラは悪化していってしまうのだ。

 子供のイタズラが余りにもひどいなら、子供部屋を与えてイタズラし放題にさせることだ。こうするとイタズラがいくらでもできるので、外で行うイタズラが減少するのだ。日本が世界に誇るドクター中松は、子供の頃に母親から研究部屋を与えられることによって、様々な実験を行うことができ、それができたからこそ、大きくなってから発明家として活躍することができたのである。

 イタズラ封じには、子供が好奇心を持っていることをやらせることだ。自然科学に興味があるなら、その関連書物を買って与えたり、博物館に連れて行ってみたり、学者に合わせたりして教えを乞うことをしてみることだ。今までイタズラに向けていたエネルギーが学問に向けられ、大いに学力が向上していくことになるのだ。

 頭が弱いけど、体力がある子供にはスポーツをやらせることだ。スポーツで体力を使いきってしまえば、イタズラをするだけのエネルギーがなくなってしまうものだ。しかもスポーツをやることで体が丈夫になるし、礼儀作法も学ぶことができるので、母親は子供を健全に育てることができるのである。

 子供が親に甘えてきたり、イタズラをしてくるのは、成長している証拠なのだ。子供は理屈を捏ねて来ないから、間違った行動は取ってこないものだ。子供が甘えて来ているのに、甘えを否定したり、子供がイタズラをして来ているのに、イタズラを否定していると、子供は健全に成長していくことができないのだ。人間は脳を発達させて進化して来た以上、子供の甘えにもイタズラにも付き合っていくことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

児童虐待の連鎖

●虐待は幼児から始まる

 女の子は男の子よりも自分が愛されていることに敏感なので、父親や母親からちゃんと愛されれば、青春時代が始まるまでに愛を蓄積してしまい、その愛の蓄積があるからこそ、女性同士できちんとした友情を育むことができ、たった一人の運命の男性を見つけて恋愛をし、結婚していくことができる。その過程を経てしまうと、上位自我が破壊され、きちんと精神的自立を果たしていくことができるのである。

 女性はしっかりと上位自我が形成されてしまうために、上位自我が破壊されないと、結婚してから自分の悪事を止めることがでず、悪事を暴走させてしまう悲惨な事態になってしまう。その典型例が「児童虐待」である。如何なる母親であっても、生まれた直後から児童虐待をするわけではない。自分が産んだ赤ちゃんを育てて行く中で、自分の蓄積していた愛が枯渇してしまうと、児童虐待が始まるのだ。

 児童虐待は幼児に成る頃から始まるものだ。丁度、言葉を喋り出した頃から、児童虐待が始まるのだ。これは父親が幼児が喋ることによって、自分の偽りの上位自我が刺激されt怒り出したように、母親も幼児が喋ることによって、自分の偽りの上位自我が刺激されて児童虐待が始まるのだ。

 児童虐待というのは、余程の鬼母でもない限り、児童虐待をやっている母親が「これではいけない!」と思いつつも、我が子に暴力を振るってしまうのである。偽りの上位自我といえども良心の源泉なので、児童虐待が悪いことだと認識しているのだ。だが、どうやっても児童虐待が止まらないのだ。

 なんせ自分自身が自分の母親から暴力を振るわれながら育って来たために、我が子に暴力を振るうのは当然であり、そうやって子供は育つものだと思い込んでいるのだ。しかし、実際にそれをやってしまうと、良心の呵責に悩まされてしまい、幼児の体は傷だらけ、自分の心も傷だらけになってしまい、地獄の日々が展開していくのである。

●躾が虐待に変わっていく時

 児童虐待が本格化するのは、幼児に「躾」を教え始めた辺りからなのである。躾と称して、幼児に躾を教える振りをして、児童虐待を働くのである。「なんで躾を教えることが児童虐待に繋がるの?」という疑問を持つ方は、児童虐待の悲惨な現実を知らないからこそ、そういうことが言えるのであって、躾を教えるというのは、親の方が精神的に独立していないとできないものなのである。

 解り易い例をあげるなら、学校で校則を教える振りをして、生徒たちに暴力を振るう暴力教師がいるものだが、これも教師本人が精神的に独立していないために、校則を教えることが暴力を振るうことに変わってしまうのだ。精神的に従属状態にある人たちは言っていることと遣っていることが一致しないものなのである。

 実を言ってしまうと、幼児に躾はまだ必要ないのだ。躾とは身にこなしの美しさであって、幼児はまだ身をこなすことさえできていないのだ。躾が必要となるのは小学生1年生辺りからであり、身のこなしは普通はこうだけれども、このようにやれば美しく見えるよというものなのだ。そこには暴力など入る余地がないのだ。

 ところが母親の方が精神的に従属状態にあると、躾と称する虐待が展開されるのである。この母親の言っている躾とは、「母親の言いなりになりなさい」と言っているようなものであって、母親の意にそぐわない行動を取ろうものなら虐待が始まるのだ。だから、子供にとっては一体どれが「躾の基準」なのか解らないので、戦々恐々としながら生きて行かざるをえなくなってしまうのだ。

 児童虐待を働く母親たちは、自分もそうやって自分の母親から躾と称する虐待を受けてきたので、我が子が自分の意にそぐわない行動を取ってくると、暴力を振るってしまうのだ。暴力を振るっている母親自身が「これはイケナイことだ」と思いつつも、暴力が止まらないのである。

●蘇る記憶

 児童虐待が発覚した時、子供の虐待の傷跡は悲惨なために、その母親の蛮行だけ批判されてしまうものだが、その母親も精神的に悲惨な日々を送ってきたのである。自分が虐待されて育ったからこそ、我が子にも虐待してしまう。この「児童虐待の連鎖」に自分が吸い込まれてしまっただけなのである。

 親から子へ遺産が相続されるように、育児の仕方も親から子へと相続されていく。遺産は主に男系相続を展開していくが、この育児の仕方は母系相続を展開していく。母親から娘へと受け継がれていくのだ。そのため、良い育児の仕方も相続してくることもあるが、児童虐待のように悪い育児の仕方も相続してくることもあるのだ。

 児童虐待を受けて育って来た女性は、まさかこの世に愛に満ちた育児の仕方があるとは、夢にも想像できないから、どうしても我が子に暴力を振るってしまうのである。しかも、夫は仕事で外に出かけてしまうために、児童虐待は夫にも発覚することがない。夫が児童虐待に気付くのは、相当遅くなってからなのである。

 精神的に従属状態にある女性は、育児を開始すると、自分の過去の記憶が蘇ってくるものだ。自分が母親から愛されて育たたなかったために、我が子を抱いても母性愛が少ししか出て来ないのだ。それが順調に育ち、我が子が喋り始めると、自分の悲惨な過去に自分が乗っ取られてしまい、児童虐待の連鎖に吸い込まれてしまうのだ。

 母親に僅かな母性愛さえなければ、乳児に育児放棄をするということもある。この場合、乳児は死んでしまう危険性が非常に大きいのだ。乳児はまだ自分で一人歩きできないので、児童虐待の連鎖に吸い込まれている母親にとっては、格好の餌食なのである。乳児は免疫力の関係上、死に易いものだが、乳児が死亡した場合は、必ず検死を行うべきなのである。そうしないと児童虐待による殺人を食い止めることができないのだ。

●妻が生まれ変わる

 児童虐待は児童虐待を行っている母親の方が、「これは悪いことだ」と心の中では認識している点で、夫が怒り狂う時とは違うのである。妻の方が夫よりも自分の不自然さを敏感に感じるのである。自分が精神的に自立をしていなくても、さすがに結婚して育児をしていれば、自分の心の中に自分ではない誰かがいるということに気づいているものなのである。しかし、それを自分の手で取り除くことはできないのだ。

 児童虐待がより悲惨になるのは、その妻の夫が児童虐待に気付かないし、気付いたとしても止めるだけの力を持ち合わしていないのだ。妻が妻なら、夫も夫なのである。妻が精神的に自立していないとするなら、夫も精神的に自立をしていないということなのである。夫に妻の児童虐待が発覚しても、家庭内で止めることができないのだ。

 児童虐待は悲惨な事件であるために、児童の命を守るために、政府や地方自治体が介入してくるのだが、これは大方失敗してしまうものだ。さすがに一時的に児童虐待を止めることはできても、その夫妻の精神的従属状態をどうにかすることができないのだ。そのためいくら児童虐待を止めたとしても、また再発してしまうことになってしまうのである。この仕事は政府や地方自治体が手を出すべき仕事ではないのだ。

 この児童虐待を止めさせ、妻を生まれ変わることをすることができるのは、「宗教の力」によってのみなのである。宗教団体では児童虐待をやっている母親を諭し、まともな育児ができる母親に生まれ変わらせることができるのでものなのである。独身女性ではこの心の闇を解きほぐせない。子持ちの既婚女性で、自分も育児を経験したからこそ、児童虐待をやっている母親の心の闇を解きほぐすことができるのである。

 いくら児童虐待の連鎖に吸い込まれようとも、そこから抜け出せる方法も存在しているのである。そうやって児童虐待の連鎖から抜け出した時、徐々に偽りの上位自我は破壊されていき、精神的に独立できるようになるのである。児童虐待を放棄する時は、本当に感動的なものだ。母親が自分の子供に対して心から謝り、号泣するのである。いくら法律の力で児童虐待を止めても、児童虐待は止まることはないのである。母親が心から自分を改めない限り、児童虐待は止まらないのだ。

 児童虐待を阻止しているか、していないかが、宗教団体の正邪を判別する基準と見ていい。仏教系の宗教団体では鬼子母神を祀っている教団が多々あるものだ。日本では中国は違い食人の風習がないのに鬼子母神を祀ったということは、これは児童虐待をしてしまった母親たちが昔から結構いて、それゆえに自分が犯した罪に懺悔して、信仰してきたものなのである。我が子を育てるために、我が子に暴力を振るってしまったからこそ、鬼子母神を祀り罪滅ぼしを行ったに違いないのであろう。

 人間は自分が生まれ育って来たものがすべてではないのだ。その後、自分が誤れる方向に突き進んでしまったとしても、その誤れる方向を修正できる凄い力を持っているものなのだ。ただ、その人生の方向修正を自分の力ではできないのだ。それが精神的に従属している人の悲劇の引き金になってしまうのだ。自分の子供がいるなら、どんな時でも精神的に独立していることである。精神的に独立していれば、自分が間違った方法に突き進んだ場合、自分の力で方向を修正することができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

子供が喋り始めると、どうして夫は怒り出すのか?

●偽りの上位自我が揺れ動く

 上位自我は、子供の頃には良心の源泉になるし、若い時は青春の飛翔の原動力になってくれる。しかし、その上位自我を大人になれば破壊して、親から精神的に自立していかねばんらなぬのだ。もしも上位自我を破壊しなければ、その上位自我は偽りの上位自我となり、自分が通常では考えられないような異常な行動を取ってしまうことになるのだ。

 その最たるものが、幼児が喋り出すようになってから、なぜか些細なことで怒り出してしまうのだ。自分が怒ることになった理由は些細なことなのである。だが、自分の子供が喋ることによって、自分の偽りの上位非我を刺激してしまうのだ。要は自分が未だに精神的自立をしていないことを暴露されてしまうのだ。

 殆どの場合、夫がこのように怒り出したら、妻は夫がなんで怒っているのかさっぱり見当がつかない。このため、夫の怒りの爆発で子供が泣き出してしまい、妻は自分の子供を守る手前、「子供の前なんだから静かにしてよ」「いい加減にしてよ」と諭すように言ってしまい、それが更に夫の怒りに火を注ぎ、夫の怒りは妻への暴力へと転化してしまうことになるのだ。

 もしも妻の方が精神的自立を成し終えていたのなら、夫が怒り出した姿を見て、これは子供の言動が夫の偽りの上位自我を刺激しているのだなと解るものだが、こういう夫を持つ妻は夫と同じく精神的自立を果たしていないので、夫の異常な行動の原因を見破ることができないのだ。

 こうなると夫の怒りは益々激しくなり、夫婦間暴力も激しくなってしまう。挙句の果てには、妻はDVシェルターに逃げ出してしまうことになる。このDVシェルターにはこの夫婦問題を解決してくれる人々がいるのではなく、フェミニズムに汚染された女性たちが待ち構えているので、夫婦仲を再建するどころか、人為的に離婚へと突き進まされることになるのだ。

●妻の愛情を貰うことを子供と争う

 子供が喋り出してから、怒り出し、暴力を振るうようになった夫でも、それ以前は優しく、怒ることなく、育児に協力してくれた夫だったのである。それなのに或る日突然変わり始めたのであり、すぐさま離婚というわけにはいかないのだ。妻にとっては未練タラタラなのである。

 夫が精神的自立を果たしていないと、妻が育児をする姿は、夫に幼稚化をもたらしてしまい、妻の愛情を貰うことを子供と争おうとする。こういう場合、妻は育児で大変になっていても、矢張り夫の幼稚化に対応しておくべきなのである。夫は自分の母親から充分な母性愛を貰えなかったために、妻にその不足分を求めているのである。

 しかし、育児で忙しいと、この夫の甘えを振り切ってしまい、夫に母性愛を与えようとしなくなってしまうのだ。これが繰り返されると、夫は妻から拒絶されたと思い、怒りを爆発させ始め、母性愛をくれなかったからこそ、妻に暴力を振るってくるのである。母性愛は絶対肯定の間から、相手を絶対否定する凶暴な行動に駆り立ててしまうのである。

 赤ちゃんを産めば母性愛が出て来るのだから、夫が幼稚化したら、赤ちゃんにだけでなく、夫にも母性愛を与えておけばいいのである。夫は常に逞しい男とは限らないのである。妻から絶対的に肯定して貰えないと、外で戦うことができないのだ。自分が育児に専念するためにも、夫が妻に甘えてきたら、甘えさせてあげればいいのだ。

 結婚というものは、子供が1人目と2人目の時が、経済的に最も苦しくなる。このため夫は仕事に精進して稼ぎを増やさねばならぬのだが、そうなると今までのように遊ぶことなどできず、職場と自宅を往復するだけの日々を送るようになってしまうのだ。妻が育児で大変になっているように、夫も仕事で大変なことになっているのだ。かといって、夫は妻に仕事の愚痴など言ってこないものだ。妻は育児の愚痴を言ってくるというのに。妻は自宅にいるために、夫の大変な姿を見ていないだけであって、夫が妻に甘えてくるというのは、余程疲れきっているからなのである。

●キレる夫に平謝りの妻

 夫が怒り出すとか、夫婦喧嘩なら、それは家庭内の問題だが、これが激しくなると近所迷惑な事態に発展してしまうのだ。俺が昔住んでいた横浜には、日頃は腕のいい鮨職人なのだが、酒が入ると酒乱になってしまい、その怒鳴り声が近所中に鳴り響いてしまい、非常にうるさいのだ。しかも時間は真夜中である。睡眠妨害の何物でもないのだ。このため、翌日にはその鮨職人に妻が近所中に平謝りして、詫びを入れに来たのだった。

 精神的自立を果たしていないと、何かに対して中毒症状を引き起こすことで、自分の精神のバランスを保とうとする。代表例がお酒であり、タバコもそうだし、麻薬にも手を出してしまうことになる。タバコを1日に1箱以上を吸っていたら、それはタバコが好きというわけではなく、精神的自立を果たしていないことこそが、そういう異常な行動に駆り立ててしまうのである。

 アルコール中毒やニコチン中毒や麻薬中毒は、お酒やタバコや麻薬に中毒性があるから中毒症状に陥ったわけではないのである。そうであるならそれらの物に手を出した人は、すべて中毒症状に陥った筈だ。そうなのではなく、自分が精神的自立を果たしていないからこそ、自分の弱い心にそれらの物に付け込まれてしまい、それで中毒症状に陥ってしまったのである。

 医者が中毒症状に陥った人を治療する時、病気を医学的に限定してしまうために、中毒症状を引き起こした物と縁を切り、体をクリーンにするという方法を取ってしまう。だが、それではたとえ中毒症状から抜け出せたとしても、また再び中毒症状を引き起こした物に手を出してしまうのだ。精神的自立を果たしていないからこそ、何度でもそこを付け込まれてしまうのである。

 夫が中毒症状に陥ってしまうと、夫婦仲もひどいものとなってしまう。夫婦がいくら話し合っても、まともな形で会話が成立しないのだ。しかも、夫が中毒症状に陥っていると、夫が無駄遣いをしてしまうために、家計は火の車になってしまうのだ。精神的にも経済的にも追い詰められているのに、妻にとっては夫の異常な行動の理由が解らないのだ。

●夫が生まれ変わる時

 この手の問題は政府や地方自治体では解決できないのだ。国家権力は家族に介入すべきではないのだ。国家権力は国防や治安維持や公共事業といった民間ではできないことをやるべきであって、民間が解決できるものは、民間に任しておくべきなのだ。政府がいくらDVシェルターを作ったとしても、それは税金の無駄遣いでしかないのだ。

 こういう場合、夫婦の異常事態を解決してくれるのは、宗教団体と相場が決まっているのだ。この手の問題は宗教団体にとってはお茶の子さいさいのものでしかないのだ。神の絶対性を主張して、人間を相対化させてしまえば、問題を起こしている自分を絶対化することができず、徐々に自分を冷静に見れるようになり、問題解決の糸口を掴めるようになるのだ。

 夫婦が拗れてしまった場合、第三者の存在がどうしても必要なのである。夫がトラブルの原因である場合、子持ちの既婚男性から諭されれば、夫も自分自身に非があると認めてくるものなのである。独身男性では駄目だし、結婚していても子供がいない男性ても駄目だ。互いに結婚し子供がいるからこそ、結婚で成功している男性から諭されれば、自分を変えていくことができるのである。

 神の存在を否定してしまえば、自分が強い人間だと思い込むし、賢く、間違いを起こさないと思ってしまう。しかし、実際の人間は予想以上に弱い人間だし、愚かで、何度も間違いを起こすものなのである。この世は弱かろうが、愚かだろうが、間違いを起こそうが生きていけるものなのである。しかし、神の存在を否定し、自分自身を絶対化するからこそ、様々なトラブルを引き起こし、この世で生存できなくさせてしまっているのである。

 結婚前に精神的自立を果たしていなくても、第三者の手助けを借りながら自分を変えていき、結婚してから精神的自立を果たし、精神的に独立していくことができるのである。それは冒険旅行の時とは違い、上位自我が一気に崩れ去ることはない。徐々に一つずつ上位自我を破壊していき、気付いてみたら子供に対しては立派な父親、妻に対しては優しき夫に成長しているものなのである。こういうことはDVシェルターに行ってしまっては、絶対に辿りつかないゴールなのである。国家権力ではなく、宗教の力を使うからこそ、できることなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (8)

子供の嘘は現実と空想の区別がつかないだけ

●子供の心の中で出来上がる上位自我

 赤ちゃんを産み育て、その赤ちゃんが初めて「ママ」や「パパ」と言った時は感動ものだが、子供がちゃんと喋られるようになってから、有り得ないような話を聞かされるのも、それと匹敵するくらいの感動なのだ。男親なら、仕事で疲れて帰宅した時、娘から「今日ね、妖精さんを見たの」という奇想天外の話を聞かされれば、仕事という現実と、妖精さんという空想の話には余りにもギャップが有り過ぎて、爆笑してしまうのだ。

 「それでその妖精さんと何をしたの」と話を聞くと、娘はきちんと話をして、物語が出来上がっているのである。これが息子だとこうはいかない。もしも「今日ね、怪獣を見たの」と言ってきても、「それでどうなった?」と尋ねると、いきなり「終わり」。この辺りが女の子と男の子の性差が如実に現れて来ることなのである。

 人間の子供は一人で育つわけではない。母親と密着しながら育てられるために、人格の成長に甚大な影響をもたらすことになる。自分の人格だけが育つのではなく、自分の心の中にもう一つの人格を発生させることになる。これが「上位自我」であり、子供に上位自我ができるからこそ、「オママゴト」や「お人形さんゴッコ」という複雑な遊びができるのである。上位自我が出来始めると、擬人化を行うことができ、この手の妄想が始まるのである。

 上位自我は言わば、子供にとっての「良心」の役割を果たす。自分が何をすれば正しいかを自動的に律してくれるのだ。子供の心の中にきちんと上位自我が形成されれば、それほど母親の手を焼くことのない子供になってくれるものなのである。女の子の方が育て易いと言われるが、女の子は母親と同性であるために、母親の人格が入り易く、健全な形で上位自我が形成され易いのだ。男の子の場合は、父親が仕事でいないために、父親の人格が入りにくく、あやふやな形でしか上位自我が形成されないのだ。

 上位自我は良心を作り出すだけでなく、「嘘」をも作り出す。上位自我ができたことで、現実にどっぷりと浸かっているわけではないので、現実から離れた空想を生み出すことができるのである。これが可愛い形で現れれば妖精さんなどが出て来る「妄想ワールド」が展開されるし、これが憎たらしい形で現れれば「嘘」という形で現れて来るのだ。

●してはいけない嘘

 育児をしていく時に、今まで「自分の天使ちゃん」だと思っていた自分の子供が、途端に嘘をつき始めることには、母親ならビックリするものなのである。赤ちゃんの時には嘘をつかなかったのに、言葉が喋れるようになってから、途端に嘘をつき始めるからだ。相手は子供ゆえに、嘘が発覚する事件は些細なものなのだが、嘘をつかれたために激怒してしまい、子供が泣きわめいているのに、叱り続けてしまうのである。

 子供がそれだけ成長したということなのであるが、母親の方はそうは受け止められないのだ。今まで嘘をついてこない人から嘘を聞かれれば、自分はこの子から裏切られたと思ってしまうのだ。子供は母親を裏切ったわけではなく、健全に成長したからこそ、嘘をつjける能力を持ったのだが、母親は決してそのようには受け取らないのである。

 勿論、子供が嘘をついたのなら、親として叱らねばならない。しかし、自分が感情的になって怒りを爆発させてはならないのだ。そうなれば、子供の精神的な成長を歪めてしまい、子供は母親を心の中で拒絶するようになってしまい、その後の成長で子供の方が怒りを爆発させてくるのである。

 だからこそ、子供を一人産み育てるのではなく、子供を多く産み育ていく必要性があるのだ。子供が嘘をつく頃には第二子を妊娠していれば、子供の嘘といえどもそれほど激怒することなく、冷静に対処できるようになるのだ。子供の方も母親が妊娠していれば、それほど悪どい嘘をつかないものなのである。

 子供が嘘をついた時に、絶対に叱らねばならないのは、「親に対して嘘をつくこと」に対してなのである。母親がすべての嘘を取り締まるのではなく、自分を産み育ててくれた母親、正確にいうと父親もなのであるが、親に対して嘘をついた場合は、それを見つけ次第、しっかりと叱っておけばいいのである。そうすれば、「親に対する嘘はいけなんだな」ということが心に刻まれ、嘘をつくことに対して制限を与えることになるのである。

●していい嘘

 「子供は純真だ」なんて思わない方がいい、それは大人たちが作り上げた妄想なのである。子供は嘘をついてくるものなのである。嘘をつくことによって上位自我を使う術を覚えていくのである。子供がオママゴトや怪獣ゴッコで空想を遊ぶことによって上位自我を使う術を覚えていくように、嘘を使うことで上位自我を使う術を覚えていくのである。

 この世には「してはいけない嘘」もあるが、「していい嘘」もあるのだ。この「していい嘘」とは「空想」なのでる。子供なりの空想の産物としての嘘は思う存分に使っていいのである。この空想こそが、後に想像力として成長していき、高い創造能力として発揮できるようになるのである。現実にどっぷりと浸かっていては、想像力も創造能力も生まれて来ないのだ。

 空想というのは、親が手出しをしないからこそ、自由に空想を展開していくことができるのである。すべての場面に於いて子供に手を出すのではなく、子供を空想の中で遊ばせておけばいいのである。過干渉になってしまう母親に弄られたり、子供に早くから仕事をさせてしまうと、子供は空想の世界で遊ぶことができないので、どうしても歪んだ大人に成長してしまうのである。芸能人でも子役あがりの芸能人は矢張り何か人格的に異常なものを持っているものなのだ。

 子供というのは、大きな場所で育ててはならないのだ。小さな場所で育てなければならないのだ。大きな場所で育ててしまえば、その子供が人間関係を処理するだけに終始してしまい、自分だけの時間を持って、自分の空想を楽しむことができなくなってしまうのだ。自分と接する大人たちが少なければ、人間関係の処理は短時間で終わり、後は空想の世界で楽しむ時間に充てることができるのである。

 子供が嘘をつき、空想で遊んでくれれば、その内、子供なりに親に隠したい独自の世界を作り出し、そこを安全地帯にして新たな成長を開始していくのだ。幼児であるならば、砂場とか空き地とか親の目の届く所で安全地帯を作るものだが、小学生にもなれば小学生だけで秘密基地を作って、親の目の届かない所で安全地帯を作っていくのである。だからこそ、健全な成長を果たしていくことができるのである。

●知的正直と馬鹿正直

 正直というのは道徳で最重要徳目であるが、この世は正直な人たちだけがいるわけではないのだ。いくら自分が正直に徹しても、相手が嘘をついてくれば太刀打ちの仕様がないのだ。嘘に対抗するためには、こちら側も嘘をつくべきだし、嘘をついて相手を迎撃することも必要なのである。

 「正直は美徳、嘘は必要悪」なのである。自分の子供には正直をしっかりと教えていかねばならない。その一方で、嘘のつき方もいずれ教えて行かなくてはならないのである。子供に言葉を教える努力をする必要はないものだが、正直と嘘を教える必要性は絶対にあるのだ

 いくら正直が倫理的に正しいこととはいえ、正直だけを教えていては、子供は「馬鹿正直」になってしまい、自分が不利になることでもベラベラと喋ってしまい、大損害を被ってしまうのである。この世で生きて行くためには、必要な嘘もあるのだ。この世で生きて行くためには正直も嘘も両方が必要なのである。

 嘗て孔子は弟子が「父親の罪を告発した息子こそ正直者である」と言ってきたのに対して、「そんな人は正直者とは言わない。父親が罪を犯しても隠すのが、本当の正直者である。」と言ったことがあった。人間は罪を犯した所で、すべての罪を告発すべきではないのである。誰だって罪を犯すことだってあるのだから。しかも、よりによって自分の父親が犯した罪を告発することなどないのだ。これこそ馬鹿正直であろう。大事なことは、自分が生きて行きくために、正しい正直の使い方と正しい嘘の使い方を習得していくことなのである。

 正直というは、「馬鹿正直」ではなく、「知的正直」であるのだ。知的正直とは、「自分自身に嘘をつかない」ということと、「インチキな観念には騙されない」ということなのだ。インチキな観念に振り回されて、自分の正直を悪用されてはならないのだ。この知的正直を持った者こそが、巧くこの世を生きていけるようになるのだ。物事を誤魔化すような子供は失敗する人生を歩むし、嘘を巧く使えない子供は失敗する人生を歩むものだ。逆に、物事を誤魔化さない子供は成功する人生を歩むし、嘘を巧く使える子供は成功する人生を歩むものなのである。

●上位自我のその後

 子供は自分の心の中に上位自我があることによって、自分が自分以上の存在になれる。なんせ男の子なら父親が入っているわけだし、女の子なら母親が入っているのである。子供は子供らしいことをして育ってくるのではなく、親の物真似をして育ってくるのである。だからこそ、自分の能力を大いに高めることができるのである。

 育児では母親が主に担当するために、女の子の方により強い上位自我が形成されてしまう。そのため、「オママゴト」や「お人形さんゴッコ」も非常に面白い物語を展開しながら遊ぶのが巧いのだ。その内、想像力は更に進んで、女の子の魔女や妖精や天使など、空想の世界を作り出していくのだ。それゆえ女の子のアニメなら魔女物が非常にヒットし易いのだ。自分の上位自我を大いに刺激してくれるからだ。

 これに対して男の子は仕事で父親がいなために、女の子に比べれば、貧弱な上位自我しか形成されない。そのため、男の子が「オママゴト」や「お人形さんゴッコ」などで遊ばないものだ。それができるだけの能力がないのだ。もしも女の子に付き合ってその遊びをしたとしても、女の子同士の遊びに比べれば、非常に程度の低い物語しか作れないのだ。

 男の子なら主にオモチャの「怪獣」や「ミニカー」や「電車」を使って遊ぶものだ。その遊びに物語などありはしない。ただ単に動かし、攻撃を加える程度だ。これが長じてくると、男の子はテレビで戦隊物やロボットアニメに夢中になってしまう。男の子の貧弱な上位自我を大いに刺激してくれるからだ。戦隊物もロボットアニメも、顔が無表情というのは、貧弱な上位自我に対応しているのだ。

 男の子も女の子も成長してくると、自分の親が他人から批判されるとカンカンに怒り出すものだ。たとえ自分の親がどのような人物であれ、他人から批判されれば、烈火の如く怒り出すのだ。親への批判は親への批判に留まらず、自分の上位自我に対する批判にもなってしまうからだ。これは子供が親に反抗したとしても、小学生まで続くものなのである。だからこそ、この時期は決して自立の時期ではなく、従属の時期なのである。

●上位自我が破壊される時

 上位自我は青春時代には決定的な役割を果たすことになる。青春時代とは自立していくための修行時代でもあるのだが、上位自我がきちんと入っていれば、この修行をちゃんとこなして実力を高めていくことができるのである。中学生や高校生の頃に勉強やスポーツに熱中できなければ、実力が高まっていくことができないのだ。

 実力が付き次第、男の子なら「冒険旅行」に出かけ、自分の実力を試す試練を迎える。自分が学んだ物が本当に正しい物なのか実践で試すのである。未知なる世界で見知らぬ人たちと戦うことによって、自分を鍛え、実力を高めていくのである。この推進力を果たすのが上位自我であり、そして上位自我は冒険旅行の中で破壊されていくのである。なぜなら、自分の本当の敵は、自分に不自然をもたらしている上位自我であるからだ。冒険旅行は上位自我に促されて出かけるのに、その冒険旅行の中で上位自我を破壊していくのである。

 だからこそ、男の子は「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」などのアニメに熱中してしまうのだ。両方のアニメも主人公が乗るロボットを父親が作ったという設定である。このロボットは上位自我という暗喩なのだ。そして主人公はそのロボットを使って敵と戦い、戦いに勝利していくのである。最後にはそのロボットを捨てて、新たな人生を歩むのである。これはまさに男の子が経験する冒険旅行なのであり、だからこそ男の子たちはこれらのアニメを見ると興奮し熱狂してしまうのである。

 女の子の場合は、男の子のように冒険旅行をせず、女性同士で友情を育み、親友を作り、そしてたった一人の異性を捕まえて恋愛をし、上位自我を破壊していくのである。女の子の成長過程にはすべてが愛が絡んでくることになる。女性同士できちんとした友情を作り出せないと、健全に成長していかないのだ。だからこそ、女性同士での付き合いではレズビアンは締め出されてしまう。女同士の友情というものを破壊してしまうからだ。

 女の子は数多くの友達を持ち、その中で親友が出来てしまうと、その親友とべったりの時期を迎える。女の子にとってはその親友と深い友情を築くことによって、世間での様々な情報を集め、共感能力を高めていく。男の子は冒険旅行に行くために、自分とは違うタイプの男性を親友にするものだが、女の子の親友というのは、似た者同士で親友を形成していくのである。似た者同士でなければ、共感能力を高めることができないからだ。

 女の子は親友との友情が深まると、不思議と運命の男性が現れてきて、初恋をするようになる。その初恋の中で男性から愛を受け、自分の愛を出して行く過程の中で、上位自我を破壊していくのである。女の子の場合は、初恋の男性と失敗しても、その後、別の男性を探して恋愛をし、上位自我を破壊していくのである。女性は上位自我が破壊されれば、独身で居続けることはせず、結婚して新たな家族を形成していくのである。

●人間が作り出した架空人物

 男性も女性も上位自我を破壊されなければ、異常極まりない言動を取ってきてしまうのでる。上位自我は青春時代の中で破壊されるように仕組まれているのであり、その破壊が起きなければ、上位自我は自分自身を浸食し、不幸の人生を歩ませることになってしまうのだ。なぜなら、上位自我がある限り、その人は不自然な行動しか取れないからだ。

 男性だったら、まともな仕事ができないし、職を転々としてしまい定職に就かなくなってしまう。冒険旅行の中で愛情や知恵や勇気を試していないから、一つの仕事を取り行えるだけの力を持っていないのだ。だからこそ、男性は仕事で成功することに躍起になり、仕事で成功できたことを自慢しようとするのだ。

 女性だったら、まともな恋愛ができず、男性を取っかえ引っかえしてしまい、堕落してセックスに溺れてしまうのだ。女性は十代の頃に、女の子同士できちんとした友情を育んでいないと、男性を見る目を養うことができないのだ。女の子同士で共感しあっていないから、自分が共感できる男性を見つけられないのだ。敢えて自分と相性の悪い男性を見つけてきてはセックスをして捨てられてしまうのだ。

 モテない男性に限ってアイドルに夢中になるし、モテない女性に限ってイケメンに夢中になってしまうものだ。まともな恋愛をしていないから、現実離れした人間にしか興味を示さなくなってしまうのだ。或るアニメオタクの男性が、「僕はアニメキャラの女性にしか興味を持てないんですけど」と言っていたが、こうなってしまうと現実世界で生身の人間と恋愛することはできなくなってしまうことだろう。

 こうなってくると、世界に存在する架空人物たちを調査してみると、これが上位自我を破壊できなかった人たちの産物だというのが解る筈だ。アイルランドやイギリスでは「妖精」がいると言われるが、妖精を見たと言っているのは、友人の少ない孤独な女性たちなのである。上位自我をきちんと破壊できなかったために、妄想の産物としての妖精が産み出されてくるのだ。勿論、この孤独な女性たちの中では妖精は元気よく動きまわっているのだ。

 妖怪なども所詮は人間の妄想の産物なのだ。水木しげるに妖怪を教えた 「のんのん婆」は、貧しい生活を強いられた祈祷師であったのだ。のんのん婆はその悲惨な生活から脱がれたいために、些細な現象にこじつけて、妖怪を作り出し、その妄想を楽しむことによって、悲惨な生活を乗り切ったのである。

 現代に良く出て来る「宇宙人を見た」という話も、所詮は上位自我を破壊できなかった人たちの妄想の産物なのだ。この宇宙人と遭遇した話は、なぜかその遭遇話は殆ど同じである。まず最初に宇宙人は数人出て来て拉致され、円盤の中に連れて行かれるのである。そこで、拉致された他の地球人を見、その円盤の中で治療か検査か何かを行われるのである。折角、宇宙人に会い、円盤の中に入ったのだから、何か物的証拠でも持って帰ってくれば、まだその話に信憑性がつくものを、なぜか宇宙人を見たという人たちは何も物的証拠を持ち帰って来ないのである。

 精神医学的には、円盤の話は「全体性の回復」として捉えられている。その人に協調性がなく、集団から疎外されてしまうと、宇宙人を見たとか、円盤を見たとか、この手の妄想を見てしまうのである。正確に言うと、宇宙人とは自分を疎外している人々であり、円盤は自分を疎外した集団だということになる。

 この妄想がひどくなると、「自分は宇宙人である」と言い出すようになる。民主党の党首「鳩山由紀夫」は「僕は宇宙人」だと言っていたが、彼の人生を振り返っても、どこにも冒険旅行の話は出て来ないのだ。上位自我が破壊されていない人の行動は支離滅裂なのだ。「友愛」を唱えながら、友人の妻に手を出し、略奪婚をしてしまうのだ。これが奴の言う「友愛」なのだ。国民が精神的に独立していれば、この手の男の正体を見破り、彼を排除できるのだが、国民が精神的に自立すらしていないと、この手の男にまんまと騙され、選挙で彼を首相として選出してしまうのだ。国民が選挙で政治家を選ぶなら、その選挙権者が精神的に自立していることを要件にしなければ、衆愚政治にしかならないものなのだ。

●キリスト教の誕生の秘密

 上位自我が破壊されないと、人間は有り得ないような妄想を言い出すということが解ってくると、キリスト教の誕生の秘密も簡単に解ってくるのである。キリスト教は殺されたイエスは復活して蘇ったと主張してくるのだが、これは非常に疑いのある復活なのだ。なんせ最初に復活を見たのは、売春婦であった「マグダラのマリア」だからだ。

 その後、マグダラのマリアに復活を告げられて、「十一の使徒たち」がイエスを見た言い出したからだ。明らかにこの復活劇は異常なのだ。生前、イエスと深い関係にあった人たちだけが復活を見たと言い出したのであり、それ以外の人たちは復活を見ていないのだ。墓場の番兵はなぜか眠りこけているし、40日間に亘ってイエスは復活したと福音書は記しているのに、他にイエスを見たという人は、「マグダラのマリア」と「十一の使徒たち」意外、誰もいないのだ。

 もう解っていると思うが、これは上位自我が見せた妄想なのである。個人が自分だけで見たのではなく、十数名の人たちが同じような妄想を見た「共同幻想」であったのだ。人間は上位自我が破壊されていないと、この手の妄想を見てしまうのである。自分が上位自我を破壊し、精神的に独立してしまえば、キリスト教など信じることはないだろう。しかし、自分が青春時代の中で上位自我を破壊せず、精神的に自立していないと、キリスト教に心を鷲掴みにされてしまうのだ。

 キリスト教の教義など冷静に見れば、出鱈目以外の何物でもないのである。例えば、キリスト教では「原罪」を主張してくるが、なんでアダムが犯した罪を現代の人々が償わねばならないのだ。原罪とは、宗教世界に於ける究極的な冤罪であろう。神は一つであると言いながら、「父と子と聖霊」は一体であるという 「三位一体説」など、唯一絶対神に違反する教義なのである。イエスの母であるマリアが処女懐胎したというのも、これは事実ではなく、ギリシャ語で「若い乙女」が誤訳されて処女になってしまったのである。こんなことは文献を少し調べてみれば解ることなのである。

 自分が理性的態度を貫いてしまえば、キリスト教の教義がおかしいと言い出す筈なのである。しかし、いくら理性的態度を貫いても、精神的な自立が終わっていなければ、キリスト教に洗脳されてしまうのである。キリスト教こそ絶対に正しいと思い込んでしまうのだ。上位自我を破壊できなければ、その上位自我によって誤った世界が見えて来てしまうのである。

 子供が妄想を言ったり、嘘を言ったりするのは、可愛いものだ。しかし、それを大人がしてしまえば、信用を失墜し、「人でなし」となっていくのである。それなのに宗教を持ち出して、正当化してはならないのだ。我々は子供の頃に力を与えてくれた上位自我を、いつの日にか破壊していかねばならないのである。親から貰った上位自我を破壊できた時、我々は一人前の大人になれるのである。

| | コメント (4) | トラックバック (5)

子供には徹底的に記憶をさせろ

●子供の脳は繰り返すことで成長していく

 育児をしていると、子供がいつも同じ絵本を持って来て、母親に読むことを頼むということに出くわす。母親としては、「その本は昨日読んだじゃん」と思っても、子供は飽きもせずに、同じ本を読んで貰おうとするのだ。こういう時は、母親は嫌がることなく、子供の要請には応じた方がいい。というのは、この子供の行為こそに、脳の発展が隠されているからだ。

 人間の脳というのは、何度も何度も同じことを繰り返すことで、記憶の回路を作り、それによって複雑な思考を展開していくのだ。子供は丁度、脳が成長する時期に当たっており、だからこそ母親に同じことを繰り返して貰うことによって、記憶の回路を作ろうとしているのだ。記憶の回路ができることこそが、知能が高いということなのである。

 母親がなぜ同じ絵本を読むことを嫌がるかといえば、大人は既に記憶の回路が出来上がっているために、本を一読すれば大体の内容を把握することができる。増してや絵本のような物は一読すれば内容をすべて覚えることができてしまうので、新しい発見など何もなく、なんの喜びもないからだ。だからこそ、我が子といえども、同じ絵本を読むことをせがまれると、嫌だという反応を示してしまうのである。

 では、もしも絵本のない国があるとするなら、子供は一体どうなるかといえば、子供はそれほど知能を高くすることができない。子供は幼児という大事な時期に、母親から絵本を読んで貰うことで、知能を高くすることができなくなってしまうからだ。勿論、子供も自分で文字が読めるようになれば、何も母親に依頼せず、自分で読むようになるが、文字が読めなかった頃の空白というのは、脳の成長から見て、意外と大きな差となって現れてくるのである。

 脳の成長が終わるまでは、頭がいいということは記憶の得意さと比例するのだ。いかに母親が子供の記憶の回路を作って上げるかで、その後の学校や大学への進学ルートが全く別のものになってしまうのである。子供は記憶が達者なのだから、とにかく記憶させてしまうことだ。詰め込み教育否定論者の意見を絶対に耳を貸さないことだ。19歳以下の人間に対しては、詰め込み教育こそが最高の教育法なのである。若い時に記憶をしてこなかった人で、優秀な人間になった人など一人もないのだ!

●絵本を繰り返し読む

 子供が同じ本を読んで貰うことをせがむ以上、絵本選びは慎重にした方がいい。ママ友に聞くなり、実母や祖母に聞いてみるといい。もしも実家に絵本が残されていたのなら、自分で探し出して読んでみることだ。絵本の出費は惜しまないことだ。身銭を切るのが、いい絵本に巡り合える一番の近道なのだ。

 絵本の好みは、男の子と女の子では好みが違うということだ。男の子は冒険物や戦争物が大好きで、女の子は結婚物や魔法物が大好きなのだ。絵本を読み聞かせて、子供が好きそうであるなら、その手の絵本を何度も読み聞かせてあげることだ。子供たちは所詮、一読した所で、話の内容なんて解っちゃいないのだ。事実、読み聞かせている途中で眠ってしまうのだ。

 母親になった以上、これだけは知っておいた方がいいのは、絵本作家は非常に特殊な人たちだということだ。普通の作家のように大人向けに作品を作るのではなく、子供向けに作品を作ってくるために、どうしても感性を子供レベルまで落としてこなければならないからだ。そのため、下手をすると、その作家自体が精神的に自立しておらず、その作品の内容や文章がどうも変だなということが有り得るのだ。だからこそ、粗悪な絵本も多く存在しており、それゆえに子供に絵本が必要としなくなれば、絵本は捨てられてしまうのである。

 こういった点からも、絵本は現代の絵本だけでなく、古典的作品を買っておくということを絶対にしておいた方がいい。絵本にも古典があるのだ。絵本で古典に入る作品は、数多の母親たちが自分の子供に読み聞かせて、母親の方がこれはいい絵本だという結論に落ち着き、子供の方もこの絵本は非常に面白いという結論に辿りついた絵本であるということなのだ。

 男の子向けなら『桃太郎』だし、女の子向けなら『シンデレラ』だろう。これらの絵本を何度読み聞かせても、子供たちは喜ぶものだ。いい絵本とは物語の展開が巧く、文章のリズムがいい物なのである。このことを判定するためには、何度も音読してしまうことだ。同じ絵本を何度も読んでいれば、母親の方がこれは名作だというのが解ってくるものなのである。ただ単にダラダラと読んでいると、この判別がつかず、子供に粗悪な絵本を読み聞かせてしまうことになるのだ。

●経典を繰り返し読み聞かせる

 絵本のように子供に読み聞かせるものではないが、結果的に経典を読み聞かせてしまうことも、子供にとっては記憶の回路を作ることを可能にする。この分野では仏教が抜きん出ており、両親が仏教徒の場合、子供は仏教経典に早くから慣れ親しむ機会を得ることができるのである。神道にもキリスト教にも、一般の信徒が音読して読経をする習慣がないために、仏教が圧倒的に優位に立つのである。

 日本人が好んだ仏教経典は2つしかない。それは『法華経』と『般若心経』である。仏教はインド生まれなので、仏教の原典はサンスクリット語で書かれているのだが、これを直接に日本語に訳してしまうと経典の内容が解ることができても、名文であるとは言い難いのだ。法華経も般若心経も、中国の文章レベルが最も高くなった時代に中国語に翻訳されたために、非常に格調の高い文章になっているのだ。このため、未だにサンスクリット語から翻訳された物が好まれず、中国語から翻訳された物が好まれているのだ。この翻訳の仕方の弊害としては経典を正確に理解することができないという難点も出て来るが、かといって解り易い経典にしてしまったら、経典の有難味がなくなってしまうのだ。ここいらは宗教的に言って難しいものだ。

 神道家であるなら、『祝詞』を音読してしまうことだ。祝詞は古代日本人が作り上げた文章なので、この祝詞のリズムが解ってくると、日本語で書かれた文章の良し悪しが解ってしまうようになるからだ。神道には『古事記』を読経する習慣はないものだが、古事記は語り部が話した内容を記録したものなので、古事記を音読してみると。非常に語り易い文章になっているのが解る筈だ。

 儒教の経典なら、『大学』『論語』を読み聞かせておくことだ。文字の解らない子供には珍紛漢紛であっても、その文章のリズムが解っていると、文字が読めるようになってから、読書の理解度が高まるし、大量の書物が読めるようになるのだ。江戸時代や明治期の日本人が英雄豪傑が湧出したのは、儒教の蓄積があったからなのである。

 宗教の経典はどの宗教であったとしても、その内容が素晴らしいものであるし、名文であり、リズムのいい文章でなのである。日本は長らく神仏習合で来たので、仏教徒といえども神道の古典を読まねばならないし、神道家といえども仏典を読まねばならないのだ。それに儒教も経典にも手を出しておくべきなのである。これが出来ていると、バランスの取れた子供が成長してくることになるのだ。

●言葉遊びで脳を鍛える

 言葉遊びというのも、子供の脳を鍛えることになる。子供に語呂のいい文章を教えて、同じ言葉を覚えさせるのだ。暇な時にこれをやると、いい刺激になるのだ。例えば、「にゃんにゃんゴロリン、わんわんわん」など日本語的には意味不明な文章なのだが、これを子供に教えると、結構喜ぶのだ。育児の巧い母親というのは、これが非常に巧いのだ。確かにこの手の母親たちが作る出鱈目文章は言い易いし覚え易いのだ。

 今から大学進学のことや偏差値のことを考えるのではなく、とにかく遊びながら脳を鍛えていくということをしていけばいいのだ。子供は遊びを通して学んでいくのであって、教育によって学んでいくのではないのだ。教育が必要になるのはずっと後のことなのである。今はまだ遊びながら学んでいく時期なのである。

 こういう観点からすると、子供にとってテレビは非常に有害なのだ。母親との遊びがないから、人間関係を構築した上で学ぶというのが欠落してしまうのだ。しかも、テレビには繰り返しがないために、非常に程度の低い内容になってしまい、だからこそ、テレビを見させると馬鹿になるといわれるのだ。

 子供の脳はまだまだ未熟で成長していく真っ盛りなのである。しぶとく子供に何度も何度も同じことを繰り返していくことだ。同じ絵本を読み聞かせ、同じ経典を読み聞かせ、同じ文章を読み聞かせていくべきなのだ。頭のいい大人なら、なんでそんな同じことを繰り返すのかと馬鹿にしてしまうものだが、同じことを繰り返すからこそ、子供は脳を発達させることができるのである。

 因みに、就寝直前は記憶され易いので、子供を布団に寝かして、子供が寝付くまで絵本を読み聞かせるというのは、脳の成長から見ても非常に有効なのだ。大方の子供は絵本を読み終える前に寝てしまうものだが、母親が飽きもせず、毎晩同じ行為を繰り返していると、子供は高い知能を持つことができるようになるのである。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

人間の脳の80%は3歳までに作られる

●2歳代は急激に使う言葉が増える

 人間の脳の80%は3歳までに作られる。その後は、脳の成長は緩やかになって、満12歳までに殆どができあがり、それ以降の19歳まではごく僅かしか成長しない。従って、脳の成長で重要な期間は3歳までであって、だからこそ、昔の人たちは、「三つ子の魂、百まで」と言い現わしたのである。だが、この三つ子は数え年の三つ子だから、正確に言うと満2歳までということになるのである。

 満2際になると急激に使う言葉が増える。理由は出生から今まで多くの言葉を聞いて蓄積したし、自分でも喃語から単語へと移行し、更に二語文を使い続けたので、自分の言いたいことを表現できるように成り始めたのだ。それと母乳が終わり、離乳食になり、そして正式な食事になったので、脳へ行く栄養が今までとは比較にならない量になったから、脳が高度な情報処理に耐えられるようになったのだ。

 正式な食事が始まると、子供への手間がかなり減ってくるので、この時期に会話をするなり、絵本を読ますなり、色々な所へ連れていって好奇心を掻き立てると、脳が充分に刺激され、高い知能を持つことができるようになるのだ。この時期を見逃してしまうと、他の時期では脳を成長させることはできないのだ。

 現在、日本では学歴社会となっているために、頭の良し悪しは学歴で決まってしまうことになっているが、実は頭の良し悪しは学歴で計れるほど単純なものではないのだ。人間の知能は成長の早い人もいるし、遅い人もいるし、学校の勉強が向いている人もいるし、学校の勉強が向いていない人もいるのだ。学歴で計れる知能はごく僅かな部分でしかないのだ。

 人間の頭の良し悪しは3歳までにいかに脳を刺激して、成長させるかで決まってしまうものであって、後は自分の努力でどうにでもなるというものなのだ。母親が子供の脳を充分に成長させてくれるなら、その子供のその後の人生は、いかに結果を生み出せる努力をし続けるかで、頭の良し悪しは決まるし、幸福質量も決まってくるのだ。要は「努力即幸福」という考え方を身につけることができれば、その後の人生でいくらでも脳を成長させていくことができるのである。

●二語文、三語文、そして文章化

 赤ちゃんは「泣く」という行為から、「喃語」へと移行していく。その喃語を使い続けていくと、「単語」を使えるようになるのだ。そして単語の語彙を増やしていくと、二語文を話すようになり、三語文を話すようになっていくのだ。三語文は文章として成立しているから、それ以降は文章化して自分の言いたいことが言えるようになるのだ。

 解り易く説明すると、

「ウンチ」

「ママ、ウンチ」

「ママ、ウンチが終わった」

となり、三語文になると、文章としてほぼ成立しているのが解るであろう。乳幼児を良く観察している母親なら、乳幼児というものは単語の時期が非常に長く、二語文の期間もかなり長いが、三語文になると急速に言葉が喋られるようになることに気付く筈だ。それだけ三語文というのは、脳を成長させ、語彙を急激に増やしていくのである。

 自分の子供が三語文を話してくれれば、会話がきちんと成立するから、とにかく子供と会話しまくることだ。子供にとって母親の話を聞くだけで語彙を増やせるし、母親に自分の言いたいことを言わなければならなくなるので、自分の頭の中で文章を組み立てていかねばならなくなり、その結果、人の話を聞くこともできるし、人に意見を言うこともできるようになるのだ。

 良く、育児書とかでは子供の反抗期ということに着目しているが、子供の反抗で手を焼いているのは、子供と会話をしない母親たちであるのだ。母子が充分に会話をしていれば、たとえ子供が反抗したとしても、子供は自分が反抗している理由をちゃんと言えるものだし、それほど反抗が悪化するものではないのだ。自分の子供の脳が急成長して行く時に、子供をそっちのけにして、テレビを見たり、電話をしたりしているからこそ、子供は脳を充分に成長させることができず、得体の知れない反抗をしてくるだけなのである。

 子供との会話など、肩肘を張らなくても、些細なことを話していけばいいのである。特に子供の方に何か言いたいことがあるなら、それを封じてしまわないで、ちゃんと話を聞くことだ。良くある危険な光景は、母親が子供の腹話術師になってしまい、子供の意見を代弁してしまうことなのである。「何々ちゃんは、何々が好きなのよね~」と母親が強制的に言ってしまうので、子供は自分の意見を発言する機会を失ってしまうのだ。こうなると子供は自分の中に閉じ籠ってしまい、ちゃんとした会話をすることができなくなってしまうのだ。

●言語能力には性差と個人差がある

 言語能力はすべての子供に対して平等に発達するということはない。不平等極まりない発達の仕方をするのだ。まず男女の性差というのが、明確に現れて来る。喋るのが達者なのは女の子の方で、一方の男の子は言語能力の発達が非常に遅いものだ。男女平等に取りつかれてしまうと、成長の遅い男の子を馬鹿扱いしたり、成長の早い女の子を「うるさい!」と怒鳴りつけてしまうことになるので、その後の成長で凄まじい反抗を食らってしまうことになるのだ。

 言語能力の発達の性差は、性ホルモンの影響によるものであって、女性ホルモンの影響を受ける女の子は喋るのが上達し、様々な情報交換をするように仕向けられ、男性ホルモンの影響を受ける男の子は喋ることが余り得意ではなく、電車だとか自動車などのように動く物に興味を示し、狩猟者としての道を歩むべく仕向けられていくのだ。

 もう一つは、個人差が必ず存在するということだ。これはその子供の育った環境によって大きく左右されてしまう。例えば、親子3人で育った子供と、親子3人に祖父母がいる家庭で育った子供では、言語能力が高く発達するのは、圧倒的に5人家族で育った方である。子供は両親だけでなく、祖父母からも話を聞けるので、言語能力を高くしていくことができるのである。

 子供の中には、言語能力の成長が非常に遅い子供のいるので、決してその子供を否定しないことだ。個人差は必ず出て来るのであって、余所の子供が達者に喋っているからといって、我が子も達者に喋るわけではないのだ。その子なりの成長速度というものがあるのだ。

 こういう場合、母親が語りかけることが大事なのだ。子供は喋らなくても、聞いているだけでも、脳は記憶しているのだ。そして子供が何か言いたいことがある時は、時間をかけてゆっくりと聞いてあげることだ。母親がせっかちになってしまうと、子供は自分の意見を言わなくなってしまい、喋ろうとしなくなるのだ。「うちの子は喋るのが下手で~」という前に、まずは子供の喋る機会を確保してあげることだ。

●幼児の頭の良し悪しは語彙の数である

 新米ママにとって自分の子供の言語能力の成長を見るのは、非常に楽しいものだ。なんせ自分が産んだ赤ちゃんが、最初は泣きわめくことしかしなかったのに、喃語を喋り、単語を喋り、二語文を喋り、三語文を喋り、そして文章を喋るようになるからだ。人間の言語の発展を間近で見てしまったからだ。

 語学というのは、要は「単語」と「文法」なのである。これさえできれば、言語は成立するのである。そしてただ単に単語や文法を学べばいいというのではなく、生活に密着し自分に必要性があれば、いくらでも言語能力を発達させていくことができるのである。その言語能力の発達は苦しいものではなく、楽しいものなのである。

 良く「日本人は中学高校で6年間も英語を学んでいるのに、どうして英語が喋れないんだ?」という質問を目にするが、これは愚問なのである。学校では単語も文法も習ったのであり、それでも英語が喋れないというのは、日本では英語を使わなくても生活していくことができるからである。英語が生活に密着してしないし、英語を使う必要性もないのだ。大体、こういう愚問をしてくる人は、高校を卒業してから、英語を学び続ける努力をしなかったのだ。

 俺は中学高校生の頃は国文学専攻の文学少年であったので、外国語には落ち零れてしまい、外国語には散々苦労させられたが、それでも英語の単語を覚えたし、英語の文法も習得した。英語の試験の結果はひどい点数であったが、それでも高校を卒業して、英語に触れる機会がある時は、その文章が読めてしまうのである。勿論、知らない英単語が出て来てしまえば、正確な翻訳はできないが、知っている英単語の範囲内なら、文章が理解できてしまうのである。

 なんで英語で落ち零れた人間にこんな不思議な現象が起こったのかといえば、これこそが「文法」の威力なのである。文法さえ解っていれば、その文章の意味は大体解り、後は知らない単語が解明できれば、文章をちゃんと理解できるのである。即ち、外国語ができないと騒いでいる人たちは、若い時に学校で単語と文法をしっかりと学んでいないからこそ、大人になってそのツクが回ってきたのである。単語と文法が解りさえすれば、後は実践あるのみで、その外国語を使っている国を訪問して滞在してしまえばいいのだ。そうすればその外国語を使わざるをえない必要性に迫られるので、否が応でも喋られるようになるのものなだ。

 幼児の頭の良し悪しは語彙の数なのである。自分の思いをどれだけ豊富な語彙を使って文章化できるか否かなのである。母国語なら文法というものは自然と身につくから、子供が文法上の言い間違いをしたら、それを指摘して、「こういう時はこう言うんだよ」と教えてあげればいいのだ。

 子供に言葉を教えるためにも、母親の方も「会話する習慣」「読書をする習慣」「文章を書く習慣」をしっかりと持っておいた方がいい。母親自身に語彙が少なかったり、まともな文章を喋ることができなければ、子供の言語能力の発達だって頭打ちになってしまうのである。テレビを長時間見て過ごしているようでは、自分の言語能力は落ちて行く一方なのである。自分自身の言語能力を高めるためにも、他人と会話し、読書をし、文章を書いていくことだ。母親の言語能力が高くなってくれれば、子供の言語能力も高くなるものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

子供は外に出して体を鍛えよ

●正式な食事が始まれば、正式な運動も始まる

 離乳食が終わり、正式な食事が食べられるようになれば、運動量も増えて来るということだ。正式な食事を食べているのに、幼児を外で遊ばせなければ、幼児はそのエネルギーを巧く使いこなせることができないのだ。幼児は体が小さいために、いつまでも乳児の気分でいると、とんでもない病気を引き起こしてくることもあるのだ。

 人間は体を動かせば、エネルギーを使い果たしてくれるので、空腹になる。空腹になると、お腹が鳴って「モリチン」という内臓を掃除してくれるホルモンを出し、内臓がそれによって掃除されるのだ。だから、空腹を感じる回数が多い人ほど、内臓が丈夫になるという不思議な現象が起こるのだ。

 幼児の成長を願って、幼児に大量の食事を与え、オヤツも大量に食べさせているのに、幼児を外で遊ばさせず、家の中でウロチョロしていたら、その幼児は肉体上の病気を負うことになるし、精神上の病気を負うことにもなってしまうのだ。空腹を感じず、内臓が掃除されないから、内臓が疲労しきってしまい、正常なパワーを発揮できなくなってしまうのだ。

 子供の健康的な成長を願うのなら、とにかく幼児を外に出して遊ばさせて、空腹にさせてしまうことだ。幼児が「お腹すいた」と言ってから、食事を作り出せばいいのだ。空腹になっていない幼児に食事を与える必要性はないのだ。お腹がすいてないにも拘わらず、食事を与えても、なかなか食べようとしないし、食べ物をオモチャのようにして遊ぶだけなのだ。お腹がすいていれば、ガツガツと食うものなのである。

 特に気をつけるべきは、母親の年齢が上がってしまい、体力が衰え始めた時に、育児をしなければならない時だ。幼児が外で遊び回っているのに、母親がそれについて行こうとしても、「ハァハァ」と息切れをして付いていけなくなり、その内に外で遊ぶのを控えるようになってしまうのだ。こういう場合は、母親自身が多少は断食をして体重を落とし、その一方で軽ジョギングや筋肉トレーニングをするとかして、体力をつけていくことだ。育児は最後には体力勝負になるということを決して忘れないことだ。

●肉体の成長

 幼児は正式な食事を以て肉体の成長を加速させていくことになる。乳児は満2歳までは免疫力をつけさせるために、肉体上の成長が遅いものなのだが、満2歳を過ぎると、自分で抗体を作り出せるようになるので、免疫力の問題がなくなって、肉体の成長に全力を投入できるようになるのだ。

 この時期からは肉体の成長を行うために、大量のカルシウムと大量の蛋白質が必要になってくる。この時期にカルシウムと蛋白質をしっかりと与えておき、外で遊ばせていると、幼児は骨太で体格のいい幼児になり、将来、長身で筋肉隆々たる大人になることができる。

 ところが、日本では長らく仏教戒律の影響を受け続けてきたために、カルシウムや蛋白質の取り方が巧くないのだ。日本の土壌は火山灰質なので、そのままにしていたら、充分なカルシウムが摂取できないのだ。だからこそ、日本の農民は農業を始める際は、外国の農業とは違って、土壌改良から着手せねばならないのである。それほどカルシウム分が少ない土壌なのである。

 和食には動物の骨からダシを取るという習慣がないのだ。中華料理が美味しいのは、「タン」と呼ばれる鶏を丸ごと使ってダシを取っているからなのである。そのため、味噌汁のダシを鰹節や煮干しで取るのもいいが、たまにはトリガラを使ってダシを取ることもやった方がいい。トリガラだけだと臭うので、ニンニクと生姜と長ネギを一緒に入れて煮込むことだ。このダシを溜め込んでおいて料理のたびに使えば、トリガラ風味の味噌汁の出来上がりだし、鍋物にも使えば鍋物が一層美味しくなる。

 日本人のカルシウム不足を解消させたのは、牛乳なのであるが、日本人は長らく牛乳を飲む習慣がなかったために、乳性蛋白質を分解できる酵素を持っていない人たちがおおいのだ。そのため、牛乳をそのまま飲ませるのではなく、ヨーグルトにして食べるしかないのだ。ヨーグルトは人間の食べ物の中で最長の滞留時間を誇るので、長らく小腸や大腸に滞留して、最高の確率でカルシウムを吸収させることができるのである。

 蛋白質といえば、「肉」という短絡的な発想をしてしまいがちだが、蛋白質はまずは植物性蛋白質を取り、次に魚を食べ、その上で肉を食べて行かないと、途端に体に異常が出て来てしまうのだ。自分の子供にしっかりとした筋肉をつけさせたいのなら、まずは木の実や豆類や落花生を大量に食べさせることだ。そして魚を食べさせ、それから肉なのだ。肉も筋肉や脂肪の場所だけを食べさせるのではなく、内臓を食べさせることだ。動物の肉は内臓にこそ、大量の栄養素が詰まっているのである。

 幼児の骨や筋肉を鍛えたいのなら、ジャンプさせたり、走らせたりすることだ。骨や筋肉に刺激を与えれば、幼児は自然と骨と筋肉を鍛えることができ、スクスクと成長していくことができるようになるのである。幼児を遊ばせると、自然とこのジャンプと走るというのを組み入れて来る遊びをし出すものだ。幼児の体の方が何をすれば健康になるかが解っているのだ。

●脳の成長

 肉体の成長があってこそ、脳の成長があるというものなのである。幼児の肉体を成長させずに、脳の成長を人為的に成長させようとすると、幼児は途端にバランスを崩してしまい、異常な行動を仕出かすというものだ。自分の子供が頭のいい子供になって欲しいということは解るが、知能だけを高めても、異常な子供ができるだけなのだ。

 幼児が最も知能を発達させることができるのは、実は親との会話なのである。親と会話をするからこそ、幼児の脳は刺激され、語彙が増えていくことになり、知能を高めていくことができるのである。それゆえ自分の子供の知能を上げたいのであるならば、まずは親子の会話量を増やしていくことだ。話し合えば話し合うほど、知能が高まっていくのだ。

 もう一つは、自分時間を大切にしてあげるということだ。絵本を読んだり、積み木をしたり、お人形さんごっこをしたりと、自分一人でできる遊びを充分にやらしておくと、物事を深く考察することができる子供に成長していくのだ。幼児に自分時間を与えずに育ててしまうと、非常に薄っぺらい子供になってしまうのである。

 そして脳の成長を決定づけるものは、外で遊ぶ回数が多かったか否かなのである。自宅の中にいればどうやっても情報が制限されてしまうので、外に連れ出して、大量の情報に晒させないと、脳が充分に発達してくれないのだ。幼児は外で遊べば遊ぶほど脳が刺激され、高い知能を持つ子供へと成長していくことができるのである。

 幼児を可愛過ぎる余りに、自分の子供に早期教育を受けさせる必要性なんてどこにもないのだ。いくら早期教育をやったとしても、それは幼児にとって健全な脳の成長ではないのだ。幼児の脳も少しは早期教育に対応することができるが、しかしそれは幼児にとって必要なものではないのだ。幼児の知能を高めたいのであるならば、とにかく遊ばせることだ。

●子供は遊びが仕事

 大人になってしまえば、仕事がメインになってしまうので、子供にとっての遊びの重要性が解らなくなってしまうのだ。遊ばすことが健全な成長に繋がるのである。外に出て遊ばせず自宅に籠りっきりになったり、親子で会話することもせずに早期教育をした所で、幼児は高い知能を獲得することはできないのである。

 新米ママなら自分が幼児の時のことなど忘れてしまっているのだから、幼児の遊びを一緒になって楽しんでしまうことだ。幼児というのは、とんでもない遊びをして、母親を笑わしてくれるものなのである。母親が自宅でニコニコしていれば、幼児はなんの不安を抱えることもなく、自由に遊ぶことができるので、幼児は知能を高めていくことができるのである。

 我が子に早期教育をしたがる母親というものは、それほど高い知能を持っていない母親たちなのだ。自分が若い時に何かしらの功績を打ち立てることができたのなら、我が子に早期教育をしようという発想は持つことがないものだ。子供の頃に塾通いをして偏差値の高い学校に進学してきたからこそ、自分の子供に早期から教育を施せば、高い知能を持てるだろうと思ってしまうのだ。

 しかし、幼児の成長は、幼児を充分に遊ばせ、空腹にさせ、美味しい料理を食べさせる。その上で親子の会話をし、一人遊びをさせておけば、自然と知能を高めていくことができるのである。無理をすることなく、自然に育てていくからこそ、幼児は肉体も脳も健全に成長することができるのである。

 自分の子供は思っているように、頭のいい子でも、体力のある子でもないのである。まだまだ馬鹿でアホで、弱弱しい体しか持っていないのだ。だからこそ、知能を高めていくことができるし、肉体も鍛えていくことができるのである。自分の子供を健全に成長させたたかったら、とにかく子供を外で遊ばせることだ。遊んでいれば、自然と成長していくことができるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

自閉症児の育て方

●自閉症の原因

 精神未成熟症候群の話が出たので、ついでに自閉症児のことも述べておく。自閉症とは先天的な病気で、生まれつきの脳の障害を持っているために、人間関係の構築が困難になってしまう病気だ。健康な赤ちゃんとして産まれた筈なのに、赤ちゃんは早い段階で親と目を合わせないとか、他人との接触を嫌い、自分の世界に閉じ籠ってしまう傾向を見せて来るのだ。

 自閉症児は国籍や民族を問うことなく発生してくる。どの国にも自閉症児は存在しているということである。しかし、自閉症児は、男の子に発症する確率が非常に高く、80%近くの自閉症児が男の子である。これは受精当時から何かしらの問題があった可能性があるということなのである。

 人間の病気は脳に及んでしまうと、その病気の研究や治療法の開発が非常に遅れてしまうものになる。幾ら治療のためとはいえば、頭をかっ割いて調べるわけにはいかないからだ。そのため医者の方が自閉症のことを的確に把握することができないし、患者の家族もそれに振り回されることになってしまうのだ。

 自閉症児は言語の発達が遅れてしまい、人間関係を限定しようとし、自分の能力も満遍なく発達するのではなく、限定されたことにしか興味を示さず、活動が非常に偏ってくるのだ。このため、通常の生活ができない自閉症児が出て来る一方で、突出した才能を持つ自閉症児が出て来ることにもなる。

 自閉症の原因は「脳の障害」だから、問題は脳の障害を引き起こした誘因を突き止めてしまえばいいのであって、それが何かが解れば、自閉症の研究が大いに進むことになる。自閉症の誘因は一つで起こることもあるし、複数の誘因が重なって起こることもあることであろう。

●自閉症の誘因

①劣化した精子

 自閉症児の場合、そもそもが劣化した精子のために、この病気を発生した可能性が高いのだ。男性の精子はいつも健康的な精子を出せるということはなく、性交時のタイミングを間違えてしまうと、精子は劣化した状態で卵子と結合してしまい、それが胎児へと成長していく過程で何かしらの問題を発生させたのではないかということだ。

 自閉症児は国籍や民族を問うことなく満遍なく発症してくるといわれるが、実はユダヤ民族だけが自閉症児の発症率が非常に低いのだ。これはユダヤ民族の遺伝子がそうさせるのではなく、タルムードで定められた性交の仕方が、精子を劣化しない状態で卵子と結合させることが可能になるのだ。そのために自閉症児の発生率が下がるのである。

 男性は女性が排卵するまで、或る程度は禁欲せねばならず、精子を溜め込むことによって、数を多くして、より優秀な精子が届くように仕向ける必要性があるのだ。しかも、女性が排卵してから射精するのではなく、排卵する前に女性が性欲を持った時に射精しないと、健康な精子を卵子のもとにまで送り届けられないのだ。

②水銀

 昔から自閉症児を治療してきた現場の医者たちが指摘していたのは、「水銀」が何かしらの問題を発生させているのではないかということだった。母親が妊娠中に水銀を含んだ食べ物を食べてしまったために、その水銀によって脳に何かしらの異常が発生したのではないかというのだ。

 現在では規制されているが、昔はインフルエンザなどの予防接種に水銀が使用されていたために、女性は妊娠前にその予防接種を受けて、その水銀が体内に残留してしまい、それによって自閉症児が生まれてしまったのではないかということだ。また、農薬にも水銀が使用されていたことがあるので、この農薬をきちんと除去しない限り、体内に水銀が残留してしまうことになるのだ。

 動物はその体が大きくなればなるほど、水銀を濃縮していくことになる。そのため、妊婦が妊娠中にマグロやクジラなどの大型の魚を食べると、その魚に含まれる水銀が限界量を超えてしまい、胎児の成長に何かしらの影響を与えてくるのである。魚は健康にはいいといっても、妊娠中は沿岸で取れる魚に限定すべきなのである。

 家畜の中では牛が最も多くの水銀を持つので、牛肉を常食とすると危険なことになってしまう。しかもアメリカ人のように、牛肉のステーキを食べた後に、アイスクリームを食べ、その翌朝には珈琲を飲むという食生活は非常に危険なものになってしまうのだ。牛肉によって体内が酸化して、タダでさえ血流が悪くなっているのに、アイスクリームで内臓を冷やし、しかもアイスクリームに含まれる白砂糖は赤血球を溶かしてしまうのだ。更に翌朝、珈琲によってビタミンやミネラルを破壊してしまえば、体内は決定的にビタミンやミネラルが不足してしまい、自閉症児が生まれ易くなってしまうのだ。だからこそ、アメリカ合衆国では自閉症の発症率が異常に高いのである。

③何かしらの重金属

 粉ミルクは牛乳から作られるので、微量ではあるが多少は水銀が入っている。これ自体はさほど問題にならないのだが、問題は粉ミルクの精製の過程で出る重金属が粉ミルクに入ってしまうことだ。粉ミルクは工場で作るために、その機械が摩耗して、多少は重金属が混入してしまうのである。これは機械を使っている以上、ゼロにすることはできないのだ。自閉症児が何かしらの重金属を含んだ粉ミルクを飲んでいれば、自閉症の症状が悪化してしまうのだ。

④植物性脂肪不足

 人間の脳は脂肪からできているために、妊娠中に脂肪の摂取が不足してしまうと、胎児は脳を正常に発達できないという危険性が生じてしまう。妊娠中は植物性脂肪をしっかりと摂取し、木の実や豆類や植物油をしっかりと取っていかねばならないのだ。それと共に、肉食を控えて、体内が酸化しないようにし、自分が摂取して植物性脂肪がちゃんと胎児の成長のために使用されるよう仕向けなければならないのだ。

⑤葉酸不足

 遺伝子の分裂には葉酸が必要不可欠なので、葉酸が不足してしまうと、細胞分裂ができない状態になってしまうのだ。そのため妊娠中はせっせと野菜を大量に食べていくべきであって、常に葉酸が不足しないように仕向けなければならないのだ。葉酸はお酒によって破壊されてしまうために、妊娠中は原則として飲酒が禁止されるのである。

⑥睡眠不足

 胎児は母親が睡眠中の時に成長することができるので、母親が早寝早起きを心掛け、充分な睡眠時間を確保してくれないと、健康的な成長ができなくなってしまうのだ。特に午後10時から午前2時の間には大量の成長ホルモンが分泌されるので、午後10時までに就寝していないと、自閉症が起こる確率が高まってしまうのだ。

●自閉症児への対処法

 自閉症は精子レベルで起こった問題に対しては、もう何も対処することができないが、それ以外の誘因で起こったことに関しては、自分の子供が自閉症児であると解った時点でも、何かしらの対処法を施すことで、多少は自閉症の症状を和らげることができるのである。

①大腸を奇麗にする

 人間は大腸から水分を汲み上げるので、脳に何かしらの問題があっても、大腸が奇麗であるならば、その問題を解消できるのである。自閉症児に浣腸して腸内洗浄をさせると、自閉症に効果があったということが医者たちから伝えられているのだが、自閉症を治療している医者たちはなぜかこの情報を握り潰してしまっている。浣腸が自閉症に効果ありという情報を頭から否定しているのだろう。

 腸内洗浄をして貰える医者の所にいって、自閉症児の大腸を奇麗にしてしまうことだ。それと共に、普段の生活で朝食を抜いて排便に集中させ、朝に大量の水を飲まして、排便排尿を大量にさせまくることだ。朝に排便が出ない時は、浣腸をさせて、強制的に排便させてしまうことだ。

②玄米食+発酵食品

 玄米は有毒物質を除去する能力が非常に優れている。特に水銀や重金属などは、玄米を常に食べていれば、体外に排出されていくものなのである。玄米食だけだと飽きるので、「玄米食」と「発芽玄米食」を交互に食べさせて行くことだ。味噌汁もたっぷりと飲まして、炭水化物とビタミンB1のコンビで脳にエネルギーを届けてあげることだ。

 発酵食品は腸内環境を整えるので、毎食、発酵食品を出してあげることだ。糠漬けや納豆などを毎回食べさせていけば、排便量も増えるし、大腸が奇麗になって、安全な水分が脳に行ってくれることになるのだ。発酵食品の量は普通の人たちよりも多目に出して、翌朝の排便の具合を見ながら調整していくことだ。

 それと同時に、腸を汚す「肉」「卵」「乳製品」を徹底的に除去していくことだ。これらを控えると、腸内環境は劇的に奇麗なものになるのだ。蛋白質の不足は豆類を食べることで補うことだ。特に粉ミルクで自閉症の症状を深めた子供には効果が甚大となるのだ。それだけ粉ミルクは大腸を汚してしまうということなのだ。

③亜鉛の摂取

 亜鉛は水銀を排出する威力を持つ。亜鉛は「ゴマ」「高野豆腐」「海苔」「アーモンド」「抹茶」「銀杏」に多く含まれるので、これらをコンスタントに摂取していくことだ。特にゴマは「スリゴマ」にして、ご飯の上にかけて食べることだ。ゴマは知能を高くさせるので、言語機能が向上することであろう。

④ドクダミ茶

 自閉症児に飲み物を飲ませるなら、ドクダミ茶を飲ましてあげることだ。ドクダミ茶は解毒作用があるので、体内に蓄積された水銀や重金属を輩出してくれることになるのだ。ドクダミ茶なんか効くわけがないと言う前に、とにかくドクダミ茶を飲んでみることだ。自閉症の症状が改善していく筈である。

⑤オシャブリで口呼吸を防ぐ

 自閉症児は口呼吸をしているために、常に酸素不足なっているのだ。そのためオシャブリをさせることで口呼吸を防ぎ、鼻呼吸に変えてあげるのだ。鼻呼吸に切り替えると、酸素量が増えるために、体の各細胞に酸素が送り届けられ、活性化し、体内の老廃物や毒素を除去しようとし出すのだ。口腔科のある病院にいけば、大きくなった子供向けのオシャブリを得ることができる。

●自閉症児を身体障害者扱いしないこと

 自閉症児を抱えてしまうと、母親のショックは非常に激しいものがあるのだ。「なんで私の子が自閉症なの!?」と叫んで、泣き崩れてしまうのだ。そのつらい気持ちは解るが、泣いて過ごしていても、なんの解決にもならないのだ。まずは自分の子供が自閉症児であるという現実を受け止め、それに対処していくことだ。

 まず自閉症児を抱えた母親に解って欲しいのは、「自閉症児は脳に問題があるのであって、体に問題があるのではない」ということだ。それゆえ自閉症児を身体障害者扱いをしないことだ。この決断をするだけで、自閉症児を巡る環境が劇的に変化するのだ。人間関係を構築するのが下手なのであるならば、「別にそれでいいじゃん!」と決め込んでしまえば、自閉症という病気はなんの苦痛も発生させなくなるのだ。

 自閉症という症状ばかりに着目するのではなく、自閉症児が持つ「自己生活能力」と「特殊能力」に着目してあげるべきなのである。自閉症児を抱える母親たちにとっては、たとえ自閉症児であっても、自分のことは自分でやってほしいということであろう。個人的な身の回りの世話まで母親がやらなければならないとすると、体力的にギブアップしてしまうからだ。とにかく、自分の身の回りのことは自分でできるように躾けていくことだ。それさえ出来れば、自閉症児であっても、そんなに苦痛にはならないのだ。

 それと同時に、自閉症児は特殊能力を持つ傾向にあるということを評価してあげることだ。数字を記憶したり、音楽に熱中したり、絵を描くことに夢中になったりと、自閉症児はサヴァン症候群という症状を出してくるのだ。我が子を否定的に見るのではなく、その才能を肯定的に見てあげて、何か特別な能力を引き延ばしてあげることだ。

 そしていくら自閉症児を抱えていても、これだけは絶対に忘れないでほしい。それは、

 「この世には、アホな人間はいても、無駄ない命を持った人間は一人もいない!」

 ということだ。自閉症児は何かしらの役割があるからこそ、この世に生まれてきたのであって、その命を否定したり、消し去ったりしないことだ。他の子供たちとは違った子供でも、自分の子供であることには変わりないのだ。平等イデオロギーに取りつかれては、自分の子供を不幸にすることしかできないのだ。自分の子供は他人の子供たちといくら変わっていても別にいいのだ。大事なことは、自分の子供を有りのままに肯定してあげられるか否かなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

精神未成熟症候群

●精神未成熟症候群とは何か?

 離乳食病で最も悲惨なのが、小児癌や小児白血病と思いきや、それを上回る悲惨な病気がある。それが「精神未成熟症候群」である。「そんな病名は知らない」というのは当たり前で、これは俺が命名したものなのである。自分の子供がこの病気を持とうものなら、現在の医者たちはこの病気を把握していないので、病院を盥回しにされるだけとなってしまうのだ。

 精神未成熟症候群とは、体は一人前の体になっているのに、脳が全く成熟していないのだ。脳に異常があるといっても先天的になったのではなく、後天的に、しかも粉ミルクと離乳食のために脳を発達させることができず、木偶の坊のような人間になってしまったのである。

 口をポカ~ンと開け、明らかに頭が悪い行動を取ってくるのである。だが、見た瞬間にこれは先天的な身体障害者ではないというのが解るのだ。というのは、体自体は立派な体を持っており、先天的な身体障害者のような貧弱な肉体を持っていないからだ。明らかに充分な栄養を取って育ってきた体をしているのだ。

 粉ミルクを使った育児をしても、こういう病気は絶対に発生しない。粉ミルクといえども、そこまで危険な代物ではいからだ。では、その母親は何をしたかといえば、赤ちゃんにたくさんのミルクを飲んで欲しいと思って、哺乳瓶の入り口を人為的に大きくしてしまい、その哺乳瓶を使い続けたことでこうなってしまったのだ。

 赤ちゃんは大量のミルクがあれば成長するとは限らないのだ。赤ちゃんは必要以上の母乳を決して飲まないように、必要以上のミルクなど必要ないのだ。それなのに人為的に大量のミルクを飲ましてしまうと、それを消化吸収するのに大量のエネルギーを奪われてしまい、逆に成長のためにエネルギーを回せなくなってしまうという異常事態が発生してしまうのだ。

 勿論、栄養は大量にあるのだから、体はどうにか大きくなっていくことだろう。しかし、体が大きくなっていくのに、脳が全く成長しなくなってしまうのだ。脳というのは余分の栄養があったから発達するものではなく、適度に空腹を感じて、内臓に食べ物がなくなって、血液が大量に脳に行ってくれるからこそ、脳は成長を遂げることができるのである。満腹ばかりでは馬鹿になるだけなのである。

●精神未成熟症候群の原因

 精神未成熟症候群の原因は、なんと言ってもその母親が「哺乳瓶の吸い口を人為的に大きくしたこと」に起因する。哺乳瓶の吸い口を大きくし、大量にミルクを飲ませたことで、内臓がそれに追いつかなかったということである。それと「吸啜力不足による頭蓋骨と脳の成長不良」という現象が起こったのだ。

 ミルク育児をしてしまうと、母乳育児に比べて、30分の1しか吸啜力を使わない。そのためミルクで育った赤ちゃんはどれも顎が小さくなり、頭蓋骨を発達させることができなくなるのだ。ミルクで育つと小顔にはなるが、小顔の人間で知能の高い人はいないものだ。小さな頭蓋骨が邪魔をして、脳を大きくすることができなかったのだ。

 それ以上に哺乳瓶の入り口を大きくしたことで、顎が発達せず、頭蓋骨を大きくすることができず、そのために脳が発達できなかったのだ。精神未成熟症候群に罹っている人は、体の割に頭の大きさが非常にアンバランスなのである。これは赤ちゃんの時に非常に弱い吸啜力を使っていなkったから、その後の成長でどうしても頭を大きくすることができなかったのである。

 粉ミルクといえども、最低限の安全性を確保した上で販売がなされている。しかし、想定以上のミルクを赤ちゃんに与えてしまえば、内臓が消化吸収に追いつかず、ミルクの何かしらのホルモンが脳を直撃することだってありえるのだ。一体なんのホルモンが直撃したかは不明だが、明らかに何かしらのホルモンの直撃を受けなければ、人間として最低限の知能すら発達できなかったという事態にはならなかっただろう。

 更に大量のミルクを与えたことで、大腸が決定的に汚染されてしまい、大腸の汚染による体内水分の悪化という現象が起こって、その汚い水分を回すことで、脳に異常が出て来てしまったのである。精神未成熟症候群に罹っている人の小便や大便が非常に臭いというのも、この腸内環境の悪化のためなのである。

 このような状態で、生後5ヵ月から早すぎる離乳食を開始したために、赤ちゃんは食べ物を食べる習慣を持つことができず、食べ物を飲む習慣になってしまい、更に脳にダメージを与えてしまったのだろう。咀嚼するというのは、非常に大事で、これをするからこそ、顎の筋肉を鍛え、脳に血液を送ることができ、脳を発達させることができるのである。食事の際に咀嚼をしなければ、脳を発達させる機会を失ってしまうことになるのだ。

●精神未成熟症候群の治療法

 我が子が精神未成熟症候群に罹っても、いくら病院に行っても医者でも治せないだろう。哺乳瓶の入り口をいじくるなんて、想像もつかないからだ。医者が治せない以上、母親がその子を連れて病院を転々としている姿は哀れなものだが、医者としても最早どうすることもできないのだ。しかし、このまま放置しておくのは余計に悲惨なので、俺なりにこういうことをすれば効果があるのではないかなという治療法を挙げておく。

①宿便排出断食+腸内洗浄

 とにかく粉ミルクのために相当に腸内環境が悪化しているので、まずは宿便排出断食を行って、宿便を出してしまうことだ。宿便さえ出してくれれば、腸内環境も正常化し始めるからだ。それと宿便を出した後も、定期的に腸内洗浄を行い、腸内が汚くならないようにしておくことだ。そうすれば脳に奇麗な水分を送ることが可能になるのだ。

②オシャブリをさせて口呼吸を防ぐ

 精神未成熟症候群に罹った患者は、顎が発達していないために、常に口を閉じているということができない。そのために、いつも口呼吸をしてしまい、脳に充分な酸素が行かないということになってしまうのだ。そこで病院の口腔科に行ってオシャブリをつけて貰い、口呼吸を封じてしまうのだ。鼻呼吸になれば、脳に充分な酸素が生き渡るようになるのだ。

③活性水素水による体内水分の総入れ替え

 今まで腸内環境が最悪なまでに悪化し続けたということは、体内の水分が非常に汚いということなのだ。そのために脳が正常に機能しなくなってしまったのである。そこで活性水素水を飲むことによって、体内水分の総入れ替えを行うのだ。毎日3ℓ程度の活性水素水を飲まし続ければ、3ヵ月には水分が完全に入れ替わる筈だ。そうなれば、脳に対して常に奇麗な水分が供給され続け、脳が正常化していくのだ。

④玄米食+発酵食品+木の実

 食べ物を噛んで食べる習慣がないので、とにかく噛んで食べさせる習慣を身につけさせることだ。毎食、玄米食にして、一口あたり100回以上は噛ませることだ。噛めば噛むほど、脳が発達するので、病状も徐々に沈静化していく筈である。それと共に発酵食品を食べさせて、腸内環境を整えることだ。精神未成熟症候群の子供を抱えた母親は、糠漬けなどの発酵食品を出したことがないのだ。それに木の実を食べさせることだ。木の実は植物性脂肪が大量に含まれているので、食べ続けていれば、脳が成長していくことになるのだ。

⑤脳を鍛える

 水や酸素や栄養が脳に行き渡っても、脳を使わなければ、脳は発達しないものだ。出来る限り、手や足を使って遊び、脳を刺激していくことだ。手足を使えば使うほど、脳が発達していくので、手足を使っている内にきちんとした言葉を喋り出すものなのだ。言葉さえ喋ってくれれば、後は会話で知能を上げていくことができるようになるのである。

●母親が犯した罪は自分の子供が償うこともある

 精神未成熟症候群の子供を抱えた母親たちが良く言うのは、「子供のために良かれと思ってやったのに」というのだが、世の中には母親といえども、やってはならないことがあるものなのである。母親がいくら健康な赤ちゃんを願っても、禁じ手を使って育児をすれば、その悲劇は赤ちゃんに訪れてくるものなのであr。

 現在は余りにも個人主義的になってしまい、自分勝手に気儘に生きる人々が多過ぎるのだ。人間は個人が一人で生きていけるようにはできていないのだ。母親が犯した罪は母親自身が背負うのではなく、何も悪いことをしていない自分の子供が償わなければならないことだってあるのだ。

 精神未成熟症候群は、母親自身が引き起こしてしまった悲劇である。この罪の意識を持ってくれない限り、この病気を治して行くことは絶対に不可能なのだ。精神的に自立しきっていないから、自己責任を取ろうとせず、どこか人任せにしてしまい、この病気を最悪なまでに悪化してしまうのである。

 一方、哺乳瓶を製造販売する企業も、哺乳瓶の入り口をいじくる母親が出て来ないように、注意書きを書き入れておくと同時に、精神未成熟症候群という病気があるということを伝えていくべきなのである。この世には想像を絶する馬鹿がいるものなのである。企業内で「これは常識!」などといっていると、馬鹿な母親が自分で精神未成熟症候群を引き起こしたのに、それを棚に上げて、企業に製造物責任を問うてくる母親たちが出て来るかもしれないのだ。

 育児では多少の失敗は付き物である。しかし致命的な失敗は絶対にしないことだ。それゆえ、自分の母親に育児の仕方を聞いたり、育児をしている母親同士で情報を交換することを決して怠らないことだ。情報収集を無視して、子供のために良かれと思ったことをしても、それが悲惨な出来事を引き起こしてしまうこともあるのだ。世の中には取り返しのつかない悲劇というものも存在しているのである。

| | コメント (4) | トラックバック (6)

母親の邪念が難病を作り出す

●難病奇病の子供がいる家族には共通項がある

 難病奇病の子供を抱える家族には、或る共通がある。それは母子がべったりとなっていることなのである。難病奇病の風景を見た時、その子供の難病奇病より、その母親の異常な態度の方こそが目立つのである。病院のベッドにへばりついた「看護ロボット」ではないかと思うくらいに、母親がその子供に付きっきりとなっているのである。

 病気の子供を看護しているのだから、母親の献身的な態度は当たり前はないかと思う人もいるが、これは最早、看護の域を超えているのである。本当に看護をしているのであるならば、看護を受けたその子供は自分の病気が徐々に治っていく筈だ。しかし、実際にはその子供の病気は益々悪化し、結果的にはその子供は病死してしまうである。

 しかも、この母親は常にシャシャリ出て来るので、誰と会話しても自分の意見を言ってくるし、まずは相手の意見を聞こうということが全くないのだ。これだから夫婦関係も巧く行っておらず、常に夫を蔑ろにしているのだ。この家族は母子の関係だけが異常に目立ち、夫は存在感が非常に薄いのだ。

 難病奇病を治す時、その難病奇病を治せばいいというものではないのだ。その難病奇病だけでなく、その家族の関係をきちんと正しいものに修正してあげないと、幾ら物理的に正しい治療法を施しても、その病気が一向に回復しないということもあるのだ。だから、病気の治療には医者だけが必要なのではなく、宗教家も必要なのである。宗教家がその家族を精神的に治すことがなければ、病気など治らないものなのだ。医療と宗教というのはセットなのである。

 ところが、難病奇病を治療している医者という者は、宗教家を寄せ付けないものだ。なぜなら、難病奇病というのは格好の研究材料であって、宗教家が患者の家族たちの精神を治してしまい、奇蹟を起こされたら、堪ったものではないからだ。その難病奇病を治して研究論文でも発表できれば、その分野での第一人者となることができるのに、宗教家が奇蹟を起こしてしまえば、単なる平凡な医者のままでしかないからだ。

●渇愛の発生原因

 では、一体、難病奇病の子供を抱える家族には、どのような異常事態が起こっているのだろうか? それはその母親や父親が「渇愛」を出しているということだ。渇愛というのは、正常な愛ではなく、その愛を貰えば貰うほど、心が乾いてしまい、その渇愛を貰った方が不幸になってしまうのだ。

 家族の愛は、夫を起点とし、妻に流れ、そして子供たちに辿りついていくものなのである。そのため、妻が夫を蔑ろにして、自分がご主人様になってしまうと、途端に家族の中で愛は流れなくなってしまい、その妻は愛と思って渇愛を出してしまい、自分の子供たちを不幸にしてしまうのだ。

 愛は家族の中を巡るものだ。もしも子供たちにまともな愛が流れてこなければ、その子供たちは自分が病気になることで、その異常を両親に知らせてくるのだ。母親が夫を敬わない、夫を愛さないでいると、その母親は夫から父性愛が入ってこないので、まともな母性愛が出せなくなるのだ。母性愛というのは、「絶対肯定の愛」であるから、もしも子供たちに母性愛が不足してしまえば、絶対否定の状態、即ち「死」の病態へと突き進んでしまうのだ。

 父性愛というのは「絶対価値の愛」である。妻はこの父性愛を夫から貰うからこそ、自分がやっている育児が絶対に価値あるものだと思うことができ、自分の育児を価値あるものにしていくのだ。夫から父性愛を貰わない限り、妻は正常な母性愛を出し続けていくことは不可能なのである。それゆえ、育児をしていても、夫婦は仲良くしておくべきであって、夫が妻よりも上になって妻を甘えさせて父性愛を出したり、夫が妻よりも下になって妻に甘えたりして母性愛を貰い、そうやって自分たち夫婦の父性愛と母性愛の不足を補い、多くの愛を出せるように仕向けているのである。

 この世には人間が平等ということは絶対に有り得ないのだ。結婚すれば、夫婦は対等であるが、上下関係をしっかりと築いているものなのだ。表面的には夫を家督権者と認めて「一家の主」とし、実質的には妻が実権を握って家族を運営していくのである。表面的には「男尊女卑」であり、実質的には「女尊男卑」である。ところが、平等イデオロギーに取りつかれて、「男尊女卑は怪しからん!」と唱えてしまうと、途端に家族はまともな秩序を構成できなくなり、家族は機能不全に陥ってしまい、その母親は渇愛を出しまくって、自分の子供のを難病奇病の餌食にしてしまうのである。

●人間の従属と自立と独立

 人間は男女ともに、結婚する前までに精神的な自立を終えていなければ、まともな結婚にならないし、まともな夫婦にならないし、まともな家族にならないのだ。人間の家族というものは、結婚届けを出し、出産して赤ちゃんができてしまえば、家族が出来上がるというものではないのだ。その夫婦が精神的に独立していなければ、家族を独立させることはできないのである。

 人間の成長過程は、主に「従属時代」「自立時代」「独立時代」の三つを経て、一人前の大人になっていく。従属時代は両親を始めとして、みんなら愛され、正しいことは一体何かを教えて貰う時代だ。この従属時代で最も大切なのは、母親の母性愛であって、子供は母性愛をたくさん貰えば、その愛を溜め込んでいくことができ、自分を肯定できるようになるのだ。一方、父親の父性愛も必要であって、父親から父性愛を貰うことで、この世に何があろうとも大切な物は何かを学んでいくのだ。

 自立時代は、自分の感性と理性と意志と行動力を使って、自分自身を修行させていく時代である。大体、中学生頃から自立が始まり、この辺りから両親とは一緒に暮らしていても、精神的に離れていく。両親から離れることによって、自分を自立させていこうとするのである。男の子たちは冒険旅行をすることで自立していき、女の子たちは同性同士で友情を深め、たった一人の異性と恋愛をすることで自立していく。自立時代では男女の自立の仕方は、全く別なのである。

 独立時代は、結婚して一人前として認められることで、愛と知恵と勇気を使って、世のため、人のため、お国のために貢献しいく時代である。幸せを貰う立場に立つのではなく、幸せを与えて行く立場に変わることで、多くの人々を幸せにしていくのである。だから、精神的に独立できた男女が独身ていることは有り得ないし、結婚しても子供がいないということは有り得ないし、自分たち夫婦が産んだ子供が難病奇病に罹るということもないのだ。幾ら結婚したとしても、その夫婦が精神的に独立していなければ、明確にその異常が現れてくるものなのである。

 我々が出せる愛は、成長過程ごとに異なっている。従属時代では「渇愛」、自立時代では「出愛」、独立時代では「創愛」である。結婚してからは渇愛は問題になるけど、従属時代なら渇愛は問題にならない。子供は両親から愛を貰いまくることで成長していくからだ。自立時代では今まで貰った愛を出していくのである。これが出愛である。しかし、出愛は自分が蓄積した愛しか出せないので、それ以上の愛を出そうとすると、途端に渇愛を出してしまい、これがために自立時代は様々なトラブルを発生させるのである。

 創愛は自分の精神的自立を完成させた時から出て来る。大方は運命の人と出会うことで、大恋愛をして、今までの自分を捨てて、新たな自分を生み出していった時に創愛が出て来るものなのである。自分の心の壁がバキバキと音を立てて崩れ落ち、自分の心の中から無制限に愛が溢れ始めるのである。

●母親が変われば、子供の病気は治る

 言ってしまえば、難病奇病を抱える夫婦というのは、その夫婦の精神的自立を終えていないのである。結婚しているのに従属状態にあるために、渇愛を出してしまい、折角、自分がお腹を痛めて産んだ子を病魔の餌食にさせてしまっているのである。それゆえ、その夫婦が性根を変えて、精神的に独立して貰わねば、この難病奇病を治せないのである。

 じゃあ、その夫婦が再び恋愛をして精神的に独立できるのかといえば、そうではないのだ。その夫婦は心がこんがらがっており、もう恋愛をした所で、その心の歪みを取り除くことができないのだ。精神的に独立できない妻というものは、夫が何をしたとしても夫の行動を否定してくるし、精神的に独立していない夫というものは、自分の妻の心の歪みを正せるだけの力を持っていないのだ。

 だからこそ、夫婦以外の第三者が必要なのである。自分たち夫婦よりも精神レベルの高い人と出会って、自分たち夫婦の生き方の誤りを正して貰い、自分たち夫婦の心の壁をブチ壊して、創愛が出て来るようにして貰わねばならないのだ。人との出会いがなければ、この夫婦は精神的に独立できないのである。渇愛が止まらないのである。

 こういう場合、夫にではなく、妻に重点をかけねばならない。その妻が渇愛を出し続けている限り、子供の難病奇病は決して治らないからだ。不思議なことに、母親が心を入れ替えると、母親の邪念は打ち砕かれてしまい、子供の病気は呆気なく消えてしまうのだ。ということは、その難病奇病というのは、母親の歪んだ心が作り出した病だったのである。

 現代の人々は宗教に対して否定的だし、病気は医者が治せばいいのであって、宗教家は出て来るなと思っているものだ。しかし、この世にある病気で、医者が治せない病気があるという事実を知っておいた方がいい。その医者が最もがっくりきてしまうのは、自分が治せない病気を宗教家が治してしまった時なのである。

 宗教団体も既成宗教化し出すと、奇蹟を起こそうとしなくなるが、新興宗教団体では難病奇病を治すのは得意技なのである。要は宗教の力を使って、その夫婦を精神的に独立させてしまえば、その夫婦は渇愛を出さなくなるから、難病奇病は治ってしまうのである。この遣り方を習得した新興宗教団体は信者を多く獲得して発展していくし、それをせず、壺や印鑑を売りつけて、「これを買えば病気は治る!」といっている新興宗教団体は、遅かれ早かれ、様々なトラブルを起こして、消滅していくだけなのである。「新興宗教といえばカルト教団!」という短絡的な知識しか持たないからこそ、難病奇病の餌食になってしまうのである。

 難病奇病の子供を抱える夫婦は、まさか自分たち夫婦にその病気の原因があるとは思いもつかないものだ。しかし、結婚する前にきちんと精神的自立を終えていなければ、その悪魔のツケは自分の子供が犠牲になることで、支払われるものなのである。医者がお手上げの難病奇病なら、ベッドの横にへばりついていないで、自分自身を変えていくことである。自分が変わらなければ、自分が産んだ子供を助けることはできないのである。

| | コメント (6) | トラックバック (4)

子供が難病になったら、断食をさせて治す ~小児癌と小児白血病の治し方~

●離乳食病が作り出す難病奇病

 人間の哺乳動物なのだから、生後2年以前に母乳以外の物を与えてしまえば、その乳児の体になんらかの異常が出て来て、病気になってしまうのは当然のことなのだ。乳児の内臓は母乳を消化吸収するようにできており、他の食べ物が入ってきてしまえば、予想外の事態に陥ってしまうのだ。

 人間の体は多少の無理が効くようにもできているので、母乳ではなくミルクを与えても、多少は対応できるし、生後2年以前に離乳食を与えても、多少はそれを処理する能力を持っているものだ。しかし、その無理が限度を超えてしまうと、死の病に取りつかれてしまうことになるのだ。

 離乳食病が作り出す病気で、難病奇病の最たる物が、「小児癌」であり、「小児白血病」である。これらの病気は、出生当時は健康に生まれたのに、その後の育児の仕方が悪かったからこそ、罹らなくてもいい病気に罹ってしまったのである。小児癌も小児白血病も、一人歩きをし出す前には発症してこない。一人歩きという、「2G」の重力を受け始めた途端に、発症してくるのである。体内に異常な抗原抗体反応が出て来てしまうために、血液がそれに耐えられなくなってしまったのだ。

 小児癌や小児白血病を発症した場合、母親は我が子を連れて病院に駆け込んでしまうものだが、現在の医療では小児癌にはお手上げ状態だし、小児白血病の完治率は非常に低いものとなっている。医者たちはどうしても抗癌剤を使って治療を開始してくるために、乳幼児の体力を最大限に奪ってしまい、癌や白血病によってではなく、医者が使った抗癌剤によって死に至らしめてしまうのだ。

 しかも、入院してしまえば、病院食で牛乳や小麦が出されてしまうので、そのために異常な抗原抗体反応が止まらなくなってしまい、益々病状が悪化していくことになるのだ。食べ物こそが、小児癌や小児白血病といった難病奇病を作り出しているということを、医者たちは全く解っていないのだ。

●「小児癌の原因」「小児白血病の原因」

 小児癌も小児白血病も、原因が解らなければ、本格的な治療を開始してはならないのだ。小児癌はその子供の体内で「癌遺伝子の発動」という事態が起こったからこそ小児癌が発症したのであり、小児白血病はその子供の体内で「白血病遺伝子の発動」という事態が起こったからこそ小児白血病が発症したのである。

 小児癌も小児白血病も遺伝子レベルの問題で発症してきているのだから、小児癌や小児白血病の症状に囚われて、馬鹿の一つ覚えの如くに抗癌剤を使用をすべきではないのだ。その癌遺伝子の発動や白血病遺伝子の発動を止めない限り、病状は益々進行していってしまうのである。

 では、なぜ癌遺伝子や白血病遺伝子が発動したのか? 小児癌を患う子供も、小児白血病を患う子供も、健康な体で産まれてきた筈である。出生後の育児のどこかで大失敗をやらかしてしまったったのだ。癌治療は白血病治療では、その病気の原因ではなく、その病気の誘因こそが大事で、そこが解れば小児癌や小児白血病を治していくことが可能になるのである。

①水道水の使用

 妊婦が妊娠中に水道水を飲んでいると、その水道水に含まれた塩素がビタミンを破壊してしまうので、胎児は決定的なビタミン不足に陥ってしまう。しかも、出生後にも水道水を使って作ったミルクを飲まされると、乳児の体内の腸内細菌が破壊されてしまい、これによって癌遺伝子や白血病遺伝子にスイッチが入ってしまうのである。

②電磁波被曝

 妊娠中にテレビやパソコンなどによって電磁波の被曝を受け続けていると、その赤ちゃんは後に癌遺伝子や白血病遺伝子にスイッチが入ってしまう。気をつけるべきは離乳食を作る際に電子レンジを使ってしまうと、その離乳食が電磁波によって死んだ食べ物になってしまい、しかも電磁波を大量に帯びた離乳食になっているので、その離乳食を食べ続けると、癌遺伝子や白血病遺伝子にスイッチが入ってしまうのである。

③喫煙者の存在

 タバコは最強の発癌性物質なので、妊婦や母親が吸うのは言語道断であるが、夫が吸っているだけでも非常に危険となる。副流煙の方がタバコの煙の量は多いものだし、しかもフィルター抜きでタバコの煙を吸ってしまうので、その煙が胎児や乳児を直撃してしまうのである。乳児がミルクを飲んでいる時、離乳食を食べている時に、側でタバコを吸っている人がいれば、その乳児がタバコの煙も一緒に食ってしまっているのだ。

④粉ミルクによる腸の汚れ

 粉ミルクを飲んで育ってしまうと、そのミルクがそのまま腸の壁を通り抜けてしまい、抗体を作ってしまい、それが異常なる抗原抗体反応を引き起こしてしまうのである。もう一つはミルクによって腸が汚れてしまい、そのために奇麗な水分を全身に供給することができなくなり、小児癌や小児白血病を発症してしまうのだ。特に脳は最も奇麗な水分を必要とするので、小児癌は大抵が脳腫瘍という形で現れてくるのだ。

⑤早すぎる離乳食

 生後2年を過ぎないと、人間の赤ちゃんは母乳以外の食べ物を食べることができないので、早くに離乳食を開始してしまうと、様々なアレルギー症状が出始めることになる。しかも人間は生き続ける以上、食事をし続けざるをえないので、そのアレルギー反応が止まらなくなってしまい、小児癌や小児白血病を発症してきてしまうのだ。幼児期の食事こそが難病を作り出しているのだ。

●難病を治したければ、宿便排出断食

 小児癌も小児白血病も抗癌剤では治らない。その患者の異常なる抗原抗体反応を止めない限り、死ぬまで死の病に苦しまされ続けるのだ。それゆえ、まずはその異常なる抗原抗体反応を止めることが必要なのである。そのためには宿便排出断食しかないのだ。宿便を出してしまえば、腸内はクリーンになり、異常なる抗原抗体反応は停止するのである

 断食は母子ともに行うことだ。いくら小児癌や小児白血病とはいえ、自分だけが断食を強いられ、母親が飯を食っていたら、その子供は隠れて飯を食い出すものなのだ。母親と子供が一緒にやるからこそ、その真剣さが伝わって、子供も真剣に宿便排出断食をしようと仕出すのだ。

 宿便排出断食では、何も食べることなく、午前中に水を飲んで排便を促していくのだ。水を大量に飲むと塩分が不足するので、天日塩は少々舐めてもいい。とにかく排便を優先させ、ウンコをしまくるのだ。ただ、そうはいっても育ち盛りゆえにお腹がすくので、その際は寒天を食べさせればいい。これなら子供も騒がなくなるのだ。

 宿便は子供の宿便の出る方が早く、最短で3日で出て来る。宿便は通常のウンコとは違い、黒いタール状のウンコで、洗面器一杯ぐらいの量が出て来るのだ。何も食べていないのに、なんでこんな大量にウンコが出て来るのか、殆どの人たちが驚くものだ。これがお腹の中に入っていたからこそ、小児癌も小児白血病も発症してきたのである。

 宿便は1回で終わることがなく、その後、何度も出て来る。必ず宿便を出した翌日まで断食を続けることだ。母親の方は宿便が出るのが遅く、最長で20日かかることもある。ただ、自分の子供が宿便を出してしまうと、それに釣られて自分も宿便を出してしまうことがあるので、とにかくその場の勢いを巧く利用することだ。病気の治療をしているのは、自分の子供なのだから、自分は宿便を出さなくていいと思ってはならない。これは自分が実際に体験してみないと、解らないことなのだ。

●宿便後の食事に気をつけろ

 宿便が出たら、大抵の難病奇病は治せる。いかなる治療を施そうとも、宿便こそが最大の障壁となって現れてくるからだ。それゆえ宿便を取り除いてしまえば、小児癌も小児白血病も治っていくのだ。その後は食事を使って、巧く体力を回復させ、自分の体を健康な体に作り変えてしけばいい。

 その前に、まず知っておくべきことは、「血液は葉緑素と鉄分の組み合わせでできている」ということだ。葉緑素の分子配列とそこに鉄分の原子を組み合わせると、理論上、血液が出来上がってしまうということだ。だから、野菜と鉄分を大量に取れば、大量の血液を作ることができ、小児癌も小児白血病も完治させることができるということだ。

 小児癌も小児白血病もそれが完治するまで、朝食抜きで1日2食制にすることだ。朝は排泄の時間帯なので、水を大量に飲んで排便をしまくることだ。最低でも1日2回の排便をし、できればそれ以上の排便をすることだ。午前中は体を動かして、体温を上昇させ、血流を良くしまくることだ。

 食事は「押麦入り玄米食」と「味噌汁」を基本とし、それに「野菜料理」を大量に出していけばいい。糠漬けや納豆などの発酵食品や、木の実や豆を使った料理は必ず出すようにすることだ。動物性蛋白質と動物性脂肪は原則として禁止し、週に1回だけ、魚料理を食べてればいい。離乳食病を引き起こしている牛乳は当然に禁止である。

 古代ギリシャの名医ヒポクラテスは言う。「食べ物で治せない病気はない。もしも食べ物で治せないのなら、医者でも治せない」と。母親の立場にある者が、我が子を小児癌や小児白血病に追いやっているのなら、それはその母親が作った料理に問題があったということなのである。我が子を食べ物で死の病に罹らせたのなら、食べ物で我が子の死の病も治せるということでもあるのだ。いくら小児癌や小児白血病になったとはいえ、これらの病気を完治できない医者に頼らないことだ。医者は幼い患者が死んでも、悲しまないし涙を流さないものだ。我が子が死ねば、一番悲しみ、一番涙を流すのは、母親であるということを絶対に忘れないことだ。我が子の命は、どんなことがあっても母親が自分の手で守るべきなのである。

| | コメント (5) | トラックバック (8)

子供には白砂糖を食べさせるな

●オヤツは1日2回まで

 幼児に正式な食事が始まった後に、1日3回の食事を取っているにも拘わらず、オヤツを要求し出してくるのだ。人間の血糖値は、食事をした後には急上昇するが、その2時間後には下がって行き、蛋白質や脂肪の消化吸収を開始してくるのだが、まさにこの変わり目にお腹がすいてしまい、オヤツを要求し出してくるのだ。幼児の反応は本当に正確な反応を示しているといっていい。

 成長期の終わった大人がオヤツを食べると確実に太ってしまう。オヤツによって再び血糖値が上昇するので、蛋白質や脂肪の消化吸収が後回しにされてしまうからだ。自分がいつまでも美しい体でいたいのなら、まずはオヤツを抜いて、食事は食事の時だけで済ましてしまう生活を心掛けるべきなのだ。

 しかし、幼児にオヤツを与えても決して太らず、それどころか体がオヤツを消化吸収してしまい、成長に寄与することになるのだ。だからこそ、幼児は成オヤツを欲しがってくるのだ。もしも幼児にオヤツを与えるなら、1日2回と限定した方がいい。午前10時と、午後3時の2回だけにしておくのだ。それ以外でダラダラとオヤツを食べさせしてしまえば、それは幼児としても多過ぎなのだ。

 オヤツを与える時は、必ず母親と一緒に食べることを定めておくことだ。オヤツの時間に話をしてしまい、情報を収集していくのだ。幼児に一人でオヤツを食べさせてしまうと、幼児は無制限にオヤツを食べてしまい、そうなると今度は食事になっても血糖値が下がらないので、食事を余り食べなくなってしまうのだ。

 新米ママにとっては、この幼児と一緒にオヤツを食べる習慣こそ、自分を肥満にさせる最大の原因であると知っておいた方がいい。大抵の母親は、このオヤツを食べ始めることで太ってしまうのだ。だから、オヤツは幼児にとっても美味しく食べられ、自分が食べても太らないようなオヤツを作るようにしていくことだ。

●木の実がベスト

 幼児にとって健康に寄与し、母親が食べても太らないオヤツは、「木の実」である。木の実は血糖値をそれほど上げないくせに、歯ごたえが充分なので、オヤツを食べた満足感が出て来るのだ。しかも、木の実の栄養成分は非常に優れているので、木の実をオヤツに食べされば、成長にも寄与することになるのだ。

 母親にとって木の実は、いくら食べても太らないという最大の利点がある。これは木の実が栄養豊富なのに、血糖値を上げないからであって、蛋白質や脂肪の消化吸収を妨げないからなのだ。しかも植物性脂肪が充分に含まれているために、お肌に潤いが生じてくるのだ。

 和食では木の実を殆ど食べていない。縄文時代では木の実をちゃんと食べていたのに、弥生時代が始まると木の実を食べなくなってしまったのだ。稲作を遣り過ぎてしまったために、穀物中心の食事へと変わっていってしまったのだ。このため、和食だけを食べていると、決定的な木の実不足になってしまうので、意図的に木の実を食べるようにしていくことだ。

 木の実はスーパーなどで買うと非常に高価になってしまうので、問屋に行くなり、専門店に行くなりして、木の実を大量に買い込んでおくことだ。木の実は長期保存が効くので、親子でオヤツのたびにポリポリと食べておくことだ。また、たまには木の実を使ったお菓子を作ってみて、変化をに富ますようにしていくことだ。

 幼児に木の実をたべさせると、とにかく食べ物を噛む習慣が身につくのだ。それほど通常の食事は柔らかい物ばかりで、顎を鍛えているわけではないのだ。幼児の頃から木の実を食べさせておくと、しっかりとした顎ができあがるので、虫歯にならないし、頭蓋骨も発達して、脳が大きくなり、知能も高くなるのだ。幼児向けのオヤツで木の実以上に優れたオヤツはないといっていいくらいなのだ。

●白砂糖を使ったお菓子を食べさせるな

 いくら木の実がオヤツとして素晴らしいからといって、いつも木の実ばかりを出していくわけにはいかない。そのうち幼児の方が飽きてしまい、木の実を有難がって食べなくなってしまうからだ。それゆえ、たまには小麦を使ったお菓子を作って出せばいいのだ。あくまでもたまにである。

 小麦を使ったお菓子は血糖値をあげてしまうので、大量に食べさせたら、蛋白質や脂肪の消化吸収に遅れが生じてしまうのだ。それゆえ、小麦でお菓子を作る際は、少な目に作り、絶対に白砂糖を使わないことだ。白砂糖は血糖値を上げ過ぎてしまい、幼児に異常行動を取らせてしまうことになるのだ。

 自分の子供を頭のいい子に育て上げたいのであるならば、子供に白砂糖を絶対に与えないことだ。白砂糖は人間が作り出した食品の中で、最も純度が高い純粋物だからだ。白砂糖は糖分の塊ゆえにすぐさまエネルギーに変わってくれるという利点を持つが、そのために体内のビタミンやミネラルを大量に奪ってしまい、そのためにビタミンやミネラルが決定的に不足してしまうことになり、脳の機能が衰えてしまうのだ。白砂糖を食べると、確実に馬鹿になると思っておいた方がいい。白砂糖を食べ続けると、非常に感情が激しくなり、キレ易くなり、そして頭の中が真っ白になってしまい、勉強どころではなくなってしまうのだ。

 昭和憲法体制下の幼児や小学生や中高生の異常行動は、その殆どが白砂糖を食べていることに起因しているといっていいのだ。白砂糖を食べ続けていれば、誰であろうとも感情を制御できなくなってしまい、すぐにキレるようになり、いくらでも犯罪を犯してしまうようになるのだ。麻薬が人間にとって悪い物であるように、白砂糖も人間にとって悪い物であるのだ。

 お菓子を作る時は、必ず「黒砂糖」や「蜂蜜や「メイフルシロップ」を使うようにすることだ。これらの甘味料には糖分だけでなく、ビタミンやミネラルがちゃんと含まれているがゆえに、健康を害さないし、知能を高くさせていくことができるのである。しかも味がまろやかになるので、白砂糖を使ったお菓子のように、ただ甘いだけということにはならなくなるのだ。

●たまにはオヤツ抜きも必要

 いつも幼児の要望に対してオヤツを出していれば、幼児は忍耐力の弱い子供に育ってしまう。幼児の忍耐力を鍛えるためにも、たまにはオヤツ抜きが必要であって、オヤツを抜かすことで空腹を覚えさせるのだ。幼児といえども空腹になれば、その空腹を耐えなければならなくなるので、忍耐力が付き始めるのである。

 豊かな国の人たちになぜ忍耐力が失われてしまうかというと、それは食事過剰になっているからなのだ。食事過剰になってしまえば、体は四六時中、消化吸収に追われることになってしまい、内臓が勤続疲労を起こしてしまい、常に疲れきった状態になってしまうのだ。その中でも副腎が衰えてしまうと、副腎皮質ホルモンが分泌されなくなり、ストレスに対抗していくことができなくなってしまうのだ。

 幼児といえども、1日3度の食事を食べ、1日2回のオヤツを食べ続けてしまえば、副腎が衰えてしまい、忍耐力のない子供になってしまうのだ。何をやらして集中力が続かないし、中途半端に物事を放り投げ、何に対しても諦めモードになってしまうのだ。母親がオヤツを与え過ぎてしまったばっかりに、子供らしくない子供に育っていってしまうのである。

 また、幼児にオヤツを無制限に認めておくと、好き嫌いの激しい子供になるのだ。これはオヤツによって血糖値が下がらないためであるのと、副腎の機能低下によって嫌いな物でも食べるという忍耐力が失われてしまったからなのだ。子供の好き嫌いをなくすためにも、たまにはオヤツ抜きで幼児の副腎を鍛えておくことだ。

 自宅にいればオヤツを要求されるので、親子でハイキングにでも行って、歩き続けてしまえばいいのだ。運動していればお腹がすかなくなり、しかも肝臓からグルコーゲンが放出され、更には脂肪が燃焼し始めるので、そのエネルギーで充分に活動できるのである。こうなると幼児もオヤツを請求することなく、副腎を鍛えることができるのである。これだけ運動すれば、夕食時にはお腹がペコペコになるので、好き嫌いをすることなくなんでも食べてくれるようになるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

なんで幼児は飲み物を欲しがるのか?

●飲み物を欲しがる幼児たち

 離乳食が始まり、正式な食事へと移っていくと、幼児は矢鱈に飲み物を欲しがり出すのだ。自分専用のコップを持って、母親に飲み物を要求してくるのだ。幼児が飲み物を欲しがることを当たり前と思ってはならない。母親の方はもう過剰な水分を必要としなくなっている年齢であって、逆に幼児は過剰な水分を必要としている年齢であるのだ。

 人間の70%は水分でできているために、幼児のように日々成長している者にとっては、大量の水分が必要となる。過剰な水分を取ったとしても、それを肉体の成長に回せるし、体内の循環もいいために汗や尿として排出できるのだ。これは成長期が終わる19歳まで続くのであって、人間の子供はかなり多くの水分を飲み続けることで大きくなっていくのだ。

 ところが、成長期が終わってしまえば、もう大量の水分を必要としなくなる。それなのに、今までの大量の水分を摂取してきたために、その習慣が止まらなくなってしまい、体には不必要なのに大量の水分を飲み続けてしまうのだ。清涼飲料水やミネラルウォーターやお酒をガブ飲みし出すのである。これがために水分過剰となって、体が冷えてしまい、その冷えた体を温めるために大量の食事を食べてしまい、徐々に太り出し、病気の温床になっていくのである。

 女性なら20代後半でもう贅肉が付き始めるし、男性なら30代後半を過ぎれば贅肉が付き始める。この男女差は、女性の方が早くに成長期が始まることと、男性の方が筋肉量が多いために、その筋肉によって過剰な水分を吸収してくれるからなのだ。男女共に肥満になってしまえば、体の機能が低下してしまうために、様々な病気をするようになってしまうのだ。

 どんなに太っている女性でも、食事以外での飲水を禁止してしまうと、大抵が体重を落としてくる。肥満というと、脂肪を目の仇にしてしまうのだが、実は体内の過剰な水分を減らしさえすれば、簡単に体重を落とすことができるのである。それほど、過剰な水分というものは、体を重たくさせてしまうのである。

●水を飲ませるな

 母親の方はもう過剰な水分を必要としなくなっているために、幼児が水分を要求し出すの驚いてしまうが、かといって、幼児の要求するままに適当に水分を与えてはならないのだ。特に、「水」そのものを与えて飲ませないことだ。水を与えてしまうと、幼児の体は機能を低下させてしまうことになるのだ。

 人間は本来「果実食動物」なので、水が飲めない生き物なのだ。だから、幼児に水を与えてしまうと、途端に動きの悪い幼児になってしまうのだ。水は朝の排便を促す時だけに使用すべきであって、それ以外では要らないのだ。この原則としての「水そのものを飲ませてはならない」ということを知っているだけで、自分の子供を有り得ないような健康な子供に育て上げることが可能になってくるのだ。

 幼児に水を飲ませてしまうと、体内でナトリウムが薄くなってしまい、その影響を受けて、神経や筋肉の機能が低下し、疲労し易いようになってしまうのだ。この悲惨な状況を脱すために、小便をして体内の過剰な水分を排出するまで待たねばならず、小便をして体がナトリウムバランスを回復すると、正常な動きをするようになる。だが、水を飲むことになれてしまうと、体が冷えてしまうので、どうしての頭も体も正常に動かなくなってしまうのだ。

 いつも水を欲しがっている幼児が無闇に病気をしているのなら、まずは水の摂取そのものをやめることだ。幼児はまだ身長が低いので、水を取ってあげるのは、母親がやっていることだからだ。母親さえ、水の危険性について解っていれば、水によってナトリウムバランスを崩すことながなくなるので、病気をしなくなるのだ。

 今まで水を与え過ぎてしまい、自分の子供の動きがどうも鈍いと言うなら、運動をさせるなり、風呂で汗をかかせるなりして、過剰な水分をなくさせてしまうことだ。過剰な水分をなくさせさえすれば、自分の子供は有り得ないような利発な子供になり、健康そのものになっていくのだ。

●果物や野菜を大量に食べさせよ

 幼児に水そのものを与えないとするなら、では一体何を飲ましたらいいのかといえば、それは「果物」であり、「野菜」である。果物や野菜の中に含まれている酵素水分こそ、成長している幼児には必要な水分であって、これが大量にあれば、順調に成長していくことがかのうになるからだ。

 朝食時や昼食時にフルーツジュースや野菜ジュースを作って飲ましてしまえば、幼児はその後、余り水分を欲しがらなくなるのだ。要は食事の際にきちんと酵素水分を摂取していないからこそ、食事以外の時に水分を要求してくるのである。まずは食事の際にきちんと酵素水分を与えていくことだ。

 野菜嫌いで困っているなら、野菜ジュースを巧い具合に作ってしまうことだ。こうすると幼児は野菜嫌いであったとしても、きちんと野菜を飲んでくれるようになるのだ。野菜嫌いの幼児はビタミンが不足しているので、そのままにしておくと病気し易くなるし、最悪の場合は白血病になってしまうので、絶対に放置しておかないことだ。

 幼児も運動をして汗を大量にかけば、水分補給が必要となる。その時は、「蜂蜜レモン水」や「蜂蜜カボス水」を作ってあげればいいのだ。蜂蜜レモン水は、水にレモン汁を入れて、そこに蜂蜜を落として掻き回せば出来上がりだ。蜂蜜カボス水は、水にカボス汁を入れて、そこに蜂蜜を落として掻き回せば出来上がりだ。レモン汁やカボス汁が疲労物質を除去してくれるし、蜂蜜の糖分で低下した血糖値を元に戻してくれるのだ。

 幼児は体内の循環がいいために、酵素水分をきちんと取らしていくと、お肌がピカピカになってくる。体の全細胞に充分な酸素と栄養が補給されているために、病気にならないし、超健康体になってくれるのだ。たとえ、病気に罹っても、その病気からの回復が他の子たちよりも早くなり、病気を悪化させずに済むようになるのである。

●健康にいい飲み物

 果物や野菜以外で、健康にいい飲み物には、「味噌汁」がある。味噌汁は味噌は発酵食品なので、ビタミンやミネラルを効率よく消化吸収していくことができるのである。食事の際に味噌汁を出す時は、大きなお椀についで、多目に出しておくことだ。食事の際に味噌汁を大量に飲ましておけば、食事外でそれほど頻繁に水分を欲しがらなくなるのだ。

 牛乳を出すなら、「ヨーグルト」を出した方がいい。幼児の中には乳性蛋白を分解できない子供もいるので、ヨーグルトにしてその乳性蛋白を分解しておけば、下痢をしなくて済むようになるのだ。牛乳は人間が飲む飲み物の中で最も体を冷やすので、幼児に牛乳を飲まし続けていると、忍耐力がなくなってしまい、非常にキレ易い子供になってしまうのだ。自宅でヨーグルトを作り、それを常温で出せば、そういう牛乳の悪影響がなくなるのである。しかも、ヨーグルトは腸での滞留時間が長いために、最も多くのカルシウムを吸収することができるようになり、自分の子供の身長を高くすることが可能になるのだ。

 もしも、食事以外で飲み物を要求されたのなら、「カフェインの入っていないお茶」を出せばいい。例えば「麦茶」「鳩麦茶」などを出せばいい。麦茶は暑い夏には持って来いのお茶で、麦茶を飲むことで迅速に水分補給が可能になるのだ。麦茶はパックの物を買ってくるのではなく、焦がした麦を買ってくるべきであって、朝の内に麦茶を作ってしまい、それを日中に飲めばいいのだ。

 鳩麦茶は別名「イボコロリ」。自分の子供にイボが出来たら、鳩麦茶を飲まし続ければいい。子供は本当にイボが出来易いので、子供にイボができたら、すぐさま鳩麦茶を飲ましてイボを取ってしまうことだ。鳩麦茶はお肌のトラブルを解消してくれるので、お肌のトラブルに見舞われたら、鳩麦茶を飲ませばいい。女の子の場合、ソバカスができた時には鳩麦茶を飲ませば、ソバカスを除去していくことができる。

 カフェイン入りのお茶は、カフェインがビタミンやミネラルを奪ってしまうので、成長していく幼児には不適格なのだ。夫婦でカフェイン入りのお茶を飲んでいても、絶対に自分の子供にはカフェイン入りのお茶を飲まさせないことだ。子供の頃から珈琲を飲んでいたら、身長は低くなるし、病気し易くなるし、精神的に異常な子供になってしまうのだ。

 幼児に飲み物を与える時は、飲み物は冷やさないことだ。常温で飲み物を出しておけば、お腹を冷やさなくなるので、風邪をひく確率が激減するのである。幼児が風邪をひいてくれなければ、他の病気に罹る率も下がるので、育児が非常に楽になるのだ。幼児に水分補給させる時は、過剰な水分や冷たい水分というものが、病気と密接な関係にあるということを絶対に忘れないことだ。

| | コメント (9) | トラックバック (3)

離乳食のメニューは記録しておく

●食事を記録しておくと、料理が楽になる

 新米ママがブクブクと太り出すのは、離乳食を開始してからと見ていい。幼児が母乳を飲まなくなったので、体重が減らなくなるのだ。しかも、幼児の離乳食を食べる姿に釣られて、自分もかなりの量の食事を食べてしまうようになるからだ。その上、第二子を妊娠しようものなら、妊娠によってお腹が大きくなってしまい、自分が太り始めているということすら解らなくなってしまう。この一連の罠に嵌るからこそ、多くの既婚女性は太って行ってしまうのである。

 赤ちゃんを産むことによって、自分が母親らし体形になることは必要性があっても、肥満になる必要性などどこにもない。肥満になれば、食事の量も増えるし、洋服代が高くなるし、動きが鈍くなって行動範囲が狭まってしまう。肥満になっても碌なことがないのだ。母親になったからこそ、少しは筋肉がついたとしても、引き締まった体でいることだ。

 体を引き締めるためには、運動することも大事であるが、とにかく食事を管理していくことだ。肥満を防止したければ、毎日の食事を記録していけばいい。この簡単なことをするだけで、人間は肥満にはならなくなる。人間はただ単に食事をしていると、大量に食べてしまうが、食事を記録しながら食べると、適正な量しか食べなくなるし、かなり多目に食べてもそれほど太らなくなるのだ。記録するということで頭を使っているので、常に余分なエネルギーが頭に回り、そのために贅肉がつかなくなるのだ。

 母親が食事を記録してくれるということは、幼児にとっても嬉しいことになる。離乳食がワンパターンにならなくなるのだ。初期の離乳食は離乳食のために離乳食を作るものだが、離乳食に慣れてくれば、夫婦の食事の余り物で離乳食を作ることになる。このため、離乳食はワンパターン化していき、幼児の方も食事をすることにだれてきてしまうのだ。

 そこを新米ママが離乳食のメニューを記録していくと、離乳食に何を出したか一目瞭然となり、離乳食にバリエーションを持たせようとし出すのだ。離乳食というものは、不思議なもので、メニューを記録していくと、離乳食を作る際にネタに困らなくなり、しかも作ってみると、幼児の方もきちんと食べてくれるようになるのだ。

●幼児の好き嫌いが明確に解るようになる

 離乳食のメニューをつけてしまうと、幼児の好き嫌いが明確になるのだ。幼児も人の子だから、好き嫌いがあり、或る物に関してはきちんと食べてくれるのに、或る物に関してはなかなか食べてくれなかったりする。この情報は物凄く貴重なのに、記録しなければ、育児に追われてしまい、その生活の中で忘却していってしまうのだ。

 幼児が好きな物を出していけば、きちんと食べてくれるのだから、まずはこの好きな食べ物を多くしていくべきなのである。そして嫌いな食べ物には何かしかしらの改善策を施して、食べさせるように仕向けていけばいいのだ。幼児が嫌いだと言っているのに、前のと同じような料理の仕方で出せば、食事の際に悪戦苦闘するのは当然なのだ。

 食事のメニューを記録していくという習慣は、離乳食が終わり、正式な食事は始まると、食事と病気との因果関係が明白になるのだ。幼児は満2歳を過ぎると、病気しにくくなるものだが、それでも幼児は病気をする。幼児が病気になるのは、食事で余りにもビタミンやミネラルが不足した時なのである。

 例えば、「カレーライス」。カレーは煮込んで作るために、野菜を多目に入れても、ビタミンが破壊され易くなってしまう。そのためカレーライスは幼児にとって好物なのに、風邪をひきだす幼児も出てくるのだ。だから、カレーライスを出す時は、カレーライスを単品で出すのではなく、ドレッシングをかけたサラダを必ず出すようにすることだ。

 もしも幼児が病気をしたのなら、病気の対応に追われるのではなく、料理のメニューを読み返してみて、病気を引き起こした料理を見つけ出すようにすることだ。栄養バランスの悪い食事を出し続けていると、幼児はすぐに病気をしてくるものなのである。我が子が病気をしたのなら、自分の作っている料理に改善を施すことは絶対に必要なことなのだ。

●新米ママ自体が肥満にならなくなる

 幼児の離乳食が始まり、そして正式な食事に移行していくと、毎日料理を作らざるを得なくなるので、料理を作っている新米ママの方が、勤続疲労を起こしてしまい、料理をだらけた形で作ってきてしまうのだ。そのため、栄養バランスは滅茶苦茶で、それだけ偏ったs料理を食べていれば、幼児の心もおかしくなってしまい、母親の手を焼かす子供に成長していってしまうのだ。

 料理は漠然と作ること勿れ。頭を使って楽しみながら作るべきなのである。そのためにこそ料理のメニューが必要なんであって、そのメニューを見てしまえば、今日はあれを作ろうというのが、不思議に浮かんでくるものなのだ。料理というものは、料理のメニューがなければ、場当たり的にやってしまうものなのである。

 脳は体の全エネルギーの20%もの量を消費するので、料理といえども、頭を使いながら料理をすると、料理をしている最中にかなりのエネルギーを消費してくれるのである。頭を使わずに、食事の時間が来たからという理由で料理を作っていると、それほど脳はエネルギーを消費してくれないので、どうしても太ってしまうのである。

 新米ママは我が子が料理を食べてくれるだけで嬉しいので、遂々自分の体のことを忘れてしまうものなのだ。妻がぶくぶくと太っていっても、夫は何も指摘しないものなのだ。敢えて夫婦喧嘩の原因になるような発言をする夫などこの世にはいないものだ。そのため、誰の指摘を受けることなく、贅肉が徐々に付き始めるのである。

 料理のメニューを記録する習慣があれば、テレビの料理番組を見ていて、気に行った料理があれば、すぐにメモすることができるのだ。そのメモを見て、新たな料理に挑戦すれば、料理が巧くなっていくものなのである。しかし、料理のメニューをつける習慣のない母親は、幾ら料理番組で料理が紹介されても、それを見ているだけで終わってしまうのである。だから、いつまで経っても料理の腕が上がらないのだ。

●二人目以降の離乳食が自然体で行えるようになる

 第一子の際に、離乳食のメニューを記録しておくと、第二子目以降の離乳食のメニューに困らなくなるのだ。離乳食に情熱を燃やすのは、第一子の時だけと見ていいのだ。第二子はドタバタの中で離乳食を与えねばならないし、第三子に至ってはいつの間にかに離乳食を食べているものなのだ。

 第一子の離乳食で悪戦苦闘したのなら、第二子以降の離乳食はスムーズに行くものなのである。既に上の子が正式な食事を食べているので、下の子も離乳食をすんなりと食べてくれるようになるのだ。それゆえ、第一子の際に離乳食をきちん習得しておかないと、第二子以降の離乳食は滅茶苦茶になってしまうものなのである。

 そうやって第三子まで来ると、離乳食は簡単なものになってしまい、母親がささっと離乳食を手早く作ってしまうのである。離乳食がどうたらこうだらと言ってくるのは、大抵が子供が1人か2人しかいない母親たちだ。恐らく離乳食の回数が少なかったために、離乳食をきちんと習得できなかったのであろう。

 この世には新米ママ向けに離乳食専用の料理本とかが出版されてているのだ。「こんな本、売れるのかな?」と思っていても、この料理本を買っていく新米ママがいるものなのだ。非常に驚きの光景である。矢張り、最初の子供なら不安になってしまうのだろう。だが、その離乳食専用の料理本を見てみると、結構、出鱈目なことが書かれているものなのである。幾らでも改善の余地はあるのだ。

 商才のある母親なら、自分が記録していた料理のメニューを基に、離乳食専用の料理本を作ってしまえばいいのだ。離乳食のことなんて、学者が書く本よりも、実際に育児をしてきた母親たちの方が良く知っているものなのである。育児をする時は、漠然と育児をしていくきではないのだ。記録しながら育児をしていくことだ。その記録した物が、後にビジネスチャンスを生み出し、巨万の富に変わっていくかもしれないのだ。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

幼児の最大の試練:「ウンチの大移動」

●乳児のウンチは食後、幼児のウンチは朝

 ありとあらゆる動物は食べ物を変えることで進化してきた。このことは人間といえども例外ではない。人間も食べ物を変えれば、進化せざるをえなくなってくる。乳児は母親の母乳を食べ物にしていたのに、幼児になると離乳食を食べさせられ、通常の食事を食べるようになっていく。幼児には最大級の進化の試練を受けることになるのである。我々大人ですら、このような過酷な試練を受けたことはないのである。

 何がどう進化していくのか? それは母乳から離乳食への移行に伴って、内臓を進化せさざるをえなくなるということなのである。通常、離乳食を食べさせると、幼児のウンチは臭くなるものだ。母乳を与えていた時はウンチは臭くないのに、離乳食を食べさせた途端に、ウンチが臭くなり始めるのだ。これは内臓がまだ充分な消化吸収機能を持っていないために、胃腸内で異常発酵が起こってしまい、どうしてもウンチが臭くなってしまうのである。まだ充分に消化吸収しきれていないといいことは、ウンチが流動形ではなく、固形物になるということなのである。乳児に離乳食を食べさせると、途端にウンチがウンチらしいウンチになるのである。

 もう一つは離乳食、そして通常の食事に移行することによって、高エネルギーを得たことによる知能の発達と行動範囲の拡大が起こるのである。玄米と大豆のコンビを食べると知能が高くなるし、小麦とヨーグルトのコンビを食べても知能が高くなる。通常の食事の開始は、幼児の脳の発達の時期にピタリと重なってしまうために、この時期に良質の穀物を食べさせておくと、高い知能を持った人間を作ることができるのである。それと母乳では比較にならないほどの高エネルギーを得ているのだから、行動範囲が広がって、より活動的な人間に育てていくことが可能になるのである。

 第三の変化は排泄時間の大移動である。通常、乳児は母乳を飲み終えた後にウンチをする。これはどの動物でも同じ現象を取る。しかし、幼児に離乳食を与え、正式な食事に変えていくと、幼児は朝の時間帯に排泄するようになり、食事をしたらウンチをするということがなくなっていくのだ。

 ここで「あっそうか!」と気付いた新米ママは頭がいい女性である。少なくとも昼以降排泄しなくなり、そのため睡眠中も排泄しないので、食べ物を内臓の中に仕舞っておくことが可能になるのである。そのためより多くの栄養を吸収できるので、人間の知能は他の動物とは比較にならないぐらいに高いし、行動量も他の動物とは比較にならない多くなるのである。

●朝は排泄の時間

 普通、どの動物も、餌を取った場所と、排泄をする場所は、同じ場所か、近接した場所である。ところが、人間の排泄の時間が朝であるということは、人間は食べ物を取った場所では排泄をしないということなのである。これには我々人類の進化の歴史が我々の体の中に刻まれているからなのである。

 太古の昔、男女が平等に共同して労働をするということはなかった。その集落の男性たちは男性たちだけで集まり、男性たちだけで狩猟に出かけ 女性たちは女性たちだけで集まり、女性たちだけで採集に出かけた。これが狩猟採集経済なのである。人間の平等性なんてどこにもないし、原始共産制というものなどどこにもないのだ。

 男性の狩猟も女性の採集も大抵は午前中で終わった。男性の狩猟は成功することは稀で、失敗することの方が多かった。それに対して女性は木の実や野草や芋を掘り出してくるので、その収穫の時期であるならば、失敗することがなかった。当時は1日2食で、昼食に女性たちが取ってきた物を食べ、夕食に男性たちが取ってきた物を食べた。

 食べ物の量は平等に分配されるのではなく、集落のリーダーが最も多く食べ、その次に狩猟に出かけた男性たち、そして採集に出かけた女性たち、残りを子供たちが食べ、病人には大した量の食事が行き渡らなかった。このため食料不足になると、病人は切り捨てられ、子供たちもバタバタ死んでいくことになった。この習慣は今でもアフリカの原住民たちは持っており、だからこそ飢饉になると凄まじい量の餓死者を出してしまうのである。飢饉で病人や子供たちが死んでいっても、大人の男性たちは食べ物を多く食べてしまうのだ。これが飢饉に対する人口調整なのである。そうやって人間の数が増えないように制御してきたのである。

 通常の狩猟採集経済であるならば、食事をした途端に排泄をする筈である。それなのに食事をしても排泄をしないというのは、その狩猟採集経済が定住しながら狩猟や採集をしていたのではなく、住居を移動し続けながら狩猟や採集をしていたということなのである。人間の体自体を長距離移動が可能な体に変えることで、より多くの獲物を求めることができ、だからこそ人類は全世界に広まっていくことができたのである。

 幼児はこの人類の進化の歴史が体に出て来て、朝に排泄時間を大移動させてくるのである。この排泄時間の大移動を軽視してはならない。幼児が朝のうちにウンチをするというのは、大変なことであり、ウンチには大変苦労するのである。幼児が朝のうちにウンチをしてしまえば、健康な子供に育っていくし、幼児が朝のうちにウンチができなければ、その幼児は老廃物や毒素を溜め込むことによって病気がちな子供になってしまうのである。

 だからこそ、母親の排便も大事なのである。母親が朝の時間帯にきちんとウンコをしていれば、幼児も母親の行動を見習って、ウンチをしようとするのだ。しかし、母親が便秘気味だと幼児は母親の行動を真似することができず、幼児も排泄が乱れてしまったり、便秘になってしまったりするのだ。

●離乳食は昼食からスタートすべき

 幼児の排泄時間が朝に大移動しているというのなら、排泄しようとしている朝の時間帯に食事などすべきではないのだ。食事は排泄を阻害してしまうので、幼児に朝食を食べさせれば、幼児は朝の時間帯に排泄をするチャンスを失ってしまうのだ。排泄が乱れている幼児に限って、朝食を食べているものなのである。

 殆どの新米ママたちは離乳食をいきなり朝食から始めてしまうものだが、離乳食というのは昼食からスタートすべきなのである。幼児には午前10時以前には食事を与えないことだ。とにかく幼児には朝のウンチをしてもらい、そのウンチを見届けた後に母乳でも与えていけばいいのだ。離乳食はお腹がすいた昼時でいいのであり、昼食に離乳食を出せば、幼児は好き嫌いを言うことなく、食べてくれるようになるのだ。

 離乳食といっても、幼児はいきなり慣れるわけではないので、当分の間は離乳食は昼食だけでいいのだ。他は母乳を与えていけばいいのだ。こうすれば幼児としても1日1回しか離乳食を与えられないので、離乳食を食べることによる内臓の変化を、時間をかけて行えることができ、胃腸内の異常発酵を起こさずに、内臓の変化を行えることができるようになるのである。

 昼食の場合だと、平日は母子二人の食事になってしまうので、まずは母親から食事をしていくべきなのである。幼児は涎を垂らしながら母親の食事の風景を見ることで、食欲を湧かして、母親が食べ終わった後に、離乳食を出されると、勢いよく食べ始めるのである。離乳食を食べさせるのが面倒だからと言って、先に幼児に離乳食を食べさせてしまうと、幼児は離乳食を食べないものなのである。

 離乳食の時期になると、離乳食のことばかりに頭が一杯になってしまうものだが、幼児のウンチの変化をきちんと見ておくことなのである。朝に何も食べずにウンチをしてくれたら、その幼児は健康に育っているのである。そうしたら離乳食の量や回数を増やしていけばいいのであって、朝にきちんとウンチができなければ、離乳食に変化をもたらしてはならないのである。

●離乳食は1日2食が基本

 幼児は朝に排泄をするというのが慣れていないために、離乳食は1日2食が基本なのである。朝の時間に離乳食を与える必要性はないのだ。幼児には朝に朝食を食べるよりも、朝の排泄をきちんと行って貰う方が先なのである。離乳食の期間中は、昼食と夕食で充分なのである。

 1日に3度の食事を与えるのではなく、1日2食にして、その離乳食を徐々に充実させていけばいいのだ。どのように充実したかが解るかは、朝にウンチをすることと、そのウンチが臭くないということなのである。昨日の離乳食がどうだったかは、翌朝のウンチを見れば解るものなのである。

 離乳食で足らないものは、母乳で補えばいいのだ。離乳食の期間は、絶対に離乳食と母乳は並行して存在するのであって、幼児が離乳食以外の時間でお腹がすけば、母乳を与えればいいのである。母乳さえ与えておけば、離乳食がどうであっても、栄養的にはなんの問題もないのである。

 幼児が離乳食を卒業できるのでは、離乳食をきちんと食べられるだけではなく、朝の排泄がきちんとでき、そのウンチが悪臭を放たないことを見届けてから、正式な食事へ移行させていけばいいのである。新米ママが急いで離乳食を卒業させてしまうと、朝にきちんとウンチができなくなってしまうし、幼児なのに既にウンチが悪臭を放っているのである。こうなれば幼児は病気をし出すし、母親に有り得ないような悪態をついてくるのである。

 離乳食の時期は、今まで母乳育児をしてきた新米ママにとって最大の試練の場所であるのだが、幼児の方も最大の試練を迎えているのである。朝になって、きちんとウンチができるということは、睡眠中に消化吸収を終えて、排泄することによって体内の老廃物や毒素を出すということなのである。それができれば、体内は高エネルギーを獲得し、体はクリーンになるので、知能を高くすることができるし、行動範囲も広がっていくことになるのである。自分が産んだ赤ちゃんを、元気一杯の幼児に育てるのは、新米ママが離乳食の時期を巧く乗り切っていくかにかかっているのである。

| | コメント (8) | トラックバック (8)

食事のスピードが速い子、遅い子

●良く噛んで食べることの大切さ

 新米ママが幼児に離乳食を食べさせ始めた時、驚くのは幼児の食事の遅さであろう。とにかく動作が鈍いし、手間がかかるのだ。そのためイライラしてしまい、早く食べさせようとしてしまうのだ。しかし、これは非常に危険なことだといっていいのだ。これこそが離乳食の落とし穴なのである。

 人間は噛むことで、顔の筋肉を発達させることになるので、母親が離乳食を急かして食べさせてしまうと、顔の筋肉が発達しなくなってしまい、無表情の子供へと成長してしまうのだ。要は、食事を噛んで食べる習慣がないために、いつも食事を飲んでいる状態になってしまい、胃腸に物凄い負担をかけながら生きていることになってしまうのだ。しかも、顔に表情がないために、何に対しても感動せず、消極的な人間になってしまうのだ。

 食べ物を噛むというのは非常に大事で、噛めば噛むほど脳への血流が多くなるので、それだけ脳を発達させることができ、知能を高くすることができるのである。離乳食の段階から、良く噛んで食べる習慣をつけさせると、その幼児は正式な食事が始まっても良く噛んで食べるようになるのだ。そのため脳が発達して知能を高くすることができるのである。こういう子供は顔のバランスが非常に巧く取れており、オデコが非常に大きくなって、いかにも頭の良さそうな子供へと成長してくるのである。

 自分の子供が良く噛んで食べる習慣を身につけさせるためには、両親が良く噛んで食べている所を見せないと、幼児は真似してくれないのだ。幼児に良く噛むように教えておきながら、夫婦で食べ物をきちんと噛んでいなければ、幼児はいずれ噛まずに飲む込むようになってしまうことだろう。まずは自分たちから良く噛んで食べることだ。

 食事を良く噛んで食べさせると、食事の時間はかかるが、その効果は絶大で、幼児が病気しにくくなるし、顔の表情も豊かになって会話し易くなるし、知能も高くなってくるのだ。それゆえ、食事の時間には余裕を持ってあたり、絶対に急かさないことだ。新米ママが食事を急かさなければ、幼児は食事をゆっくりと食べてくれるのである。

●速い子の長所と短所

 食事のスピードは人それぞれであるということである。個性差がモロに出て来るので、自分の子供の食事のスピードがどのようなものなのか、早い段階で掴んでしまうことだ。食事スピードが速い子はいつも速いし、食事スピードが遅い子はどうしたとしても遅いのだ。子供は決して平等なスピードでは食べてくれないのだ。

 食事の速い子は食事がテキパキと進むのだ。母親としては食事の手間がかからないので非常に有難いのだ。離乳食の段階で食事のスピードが速ければ、正式な食事が始まればもっと速くなるのだ。勢いよく食べてくれるその姿は、母親としては食事の作り甲斐があるので、遂々可愛がってしまう傾向にあるのだ。

 しかし、その反面、その幼児は食べ物を良く噛んでいないのだ。食べ物を飲み込んでいる確率が高く、噛んだとしてもそれほど噛まずに飲み込んでしまうのだ。こうなると、顎が巧く発達していかないので、虫歯に罹ったり、踏ん張りのきかない子供に成長してしまうのだ。

 しかも、良く噛まないことで、脳への血流が悪くなるから、知能がなかなか発達しないのだ。食事の速い子供は大抵が馬鹿である。こういう子供は頭を使うと、小手先の悪知恵しか思いつかないものなので、親に対して散々悪さをするようになってしまうのだ。集中力に欠けるために物事に対して本格的に取り込むことができず、いつも中途半端になってしまい、物事に挫折する確率が多くなってしまうのだ。

 うちの子は食事のスピードが速いなと思ったら、とにかくその幼児に運動をさせることだ。体力が有り余っているから、食事で体力を使おうとするのであって、その体力を外で使ってしまい、ヘトヘトにさせてしまえば、食事の際は意外と大人しく食べるようになり、食事のスピードも落ち着くようになるのだ。

●遅い子の長所と短所

 幼児に食事を与えると、10人に2人ぐらいは、異様な遅さで食事を食べる幼児が出て来る。この遅さは離乳食の段階から現れ始めるので、新米ママとしては非常にイライラしてしまうのだ。普通の幼児の倍以上の時間がかかってしまうために、その後の時間が押された格好になり、忙しくなってしまう事態になってしまうのだ。

 しかし、こういう幼児は良く噛んで食べるために、食べ物が粉々に壊されて、しかも唾液がきちん絡まるので、消化吸収し易くなり、病気に罹りにくくなるのだ。そのため、充分な体力があるために、行動がエネルギッシュになり、何に対しても真剣に取り組むようになり、物事の上達が早くなるのあ。

 更に食べ物を良く噛んで食べているために、脳への血流が多くなり、知能が発達してくるのだ。このため、言語能力が発達して大人顔負けのことを言い出したり、絵を描く才能が他の子たちよりも高かったり、歌を歌わせるとビックリするくらいに上手に歌うようになるのだ。

 こういう子供は若い頃から頭角を現し易いので、そのつもりで育てていくことだ。食事のスピードが遅い分、出世のスピードが速いのである。自分の子供が何かに特別な興味を示し出したなら、その興味に付き合ってあげることだ。そういう集中力を発揮できる場所を与えることが、後の人生で大きな影響を与えることができるのである。

 但し、新米ママの方としては、食事の余りの遅さには閉口してしまうものだ。みんなの食事が終わっているのに、まだ食べている。自宅ですらそうなのだから、幼稚園や小学校に行くと、みんなが昼食を食べ終えているというのに、ポツンと一人で食べているのだ。これはその子の生まれ持った特徴であるので、絶対に矯正したりしないことだ。食事のスピードが遅いことこそが、その子の個性なのである。

●幼児を画一的には見ない

 食事のスピードは速くて困ることはあるが、遅くて困ることはないのだ。新米ママの方としては、大急ぎで食事を作ったために、自分の子供にも大急ぎで食べさせてしまおうとしてしまうのだ。そうなれば、子供は親に釣られて大急ぎで食事を食べてしまい、顎を発達させることも、知能を高くすることもできなくなってしまうのだ。

 食事をする際は、ゆっくりと食べ、余りにも子供を忙しくさないことだ。幼児に食事を食べさせる時は時間がかかるものなのだから、食事の時間を多目に確保しておくことだ。幼児が食べ物を良く噛んで食べるようになってくれれば、健康になってくれて病気に罹る回数が少なくなり、知能も高くしていくことが可能になるのである。

 離乳食が始まると、他の子供はどうしているんだろうと、気になってしまうものだが、幼児を画一的に見ないことだ。画一的に見たとしても、なんの解決にもならないのだ。食事のスピードは人それぞれなので、速くすべきことは食事のスピードではなく、自分の子供の食事スピードを早くに掴んでしまうことなのである。

 今まで母乳を与えていた時は、それほど時間がかからなかったのに、離乳食を与えると、離乳食を作るのにも時間がかかるし、離乳食を与えるのも時間がかかるし、離乳食の後片付けにも時間がかかってしまう。だからこそ、家事をテキパキとこなすようにしていくべきであって、肝腎の離乳食の時間を急がせて短縮すべきではないのだ。 

 食事の時間を削っても、結局はテレビを見て時間を潰してしまうのだから、それならテレビを視る時間を減らして、食事の時間をたっぷりと確保してあげればいいのだ。食事の時間がたっぷりとあれば、幼児は自分のペースで食事をすることができるようになるのである。それが結局は健康に寄与し、知能を高くすることができるのである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

幼児に食べ物の好き嫌いがあるのは当たり前

●なぜ食べ物の好き嫌いが出て来るのか?

 育児をしていく上で、絶対に忘れてはならないということは、自然界では食べ物を与えてくれる人が一番偉いということだ。だからこそ、乳児や幼児は母乳や離乳食や食事をくれる母親に従うし、その食費を稼いでくる父親に従うのだ。それゆえ、与えられた食事には文句を言わせないことこそ、親の権威を確立させることができ、その権威によって正常な育児をすることができるのである。

 母乳を与えている段階では全くなかったのに、離乳食を与えていくと、幼児というのは、好き嫌いを示し始める。離乳食の段階では好きな食べ物は早く食べるが、嫌いな食べ物になると食べなかったり、わざと遅く食べて母親の手を困らせるのだ。これを放置しておくと、正式な食事になると、有り得ないような好き嫌いを言い出してくるのだ。

 実を言ってしまうと、幼児の好き嫌いは或る程度までは、正しい反応を示しているのである。人間は自分が欲しくない食べ物は食べないという本能的に持っている。例えば、幼児の嫌いな食べ物ナンバーワンである「ピーマン」は、ピーマンの持つ苦味成分が疲労物質を除去する役割を果たすので、疲労物質を溜め込んでいない幼児には殆ど必要のない食材なのである。だからこそ、幼児たちがピーマンを嫌うのである。

 もう一つは母親が偏食を与え続けてしまったということである。離乳食自体が偏食なので、離乳食の後期には栄養バランスを整えていって、栄養が偏らないようにしておかないと、偏食のまま正式な食事へと突入してしまうのだ。それゆえ、離乳食を作る際は、精白穀物を絶対に使用しないことだ。精白穀物を食べさせていると、どうしてもビタミンやミネラルが決定的に不足しすぎてしまうので、偏食をし出すのである。

 トドメが育児の仕方が間違っているということである。母親が適切な愛情を与えなかったり、家庭内の秩序を教え込まなかったりすると、幼児は強烈な好き嫌いを発揮し始める。家庭内の愛の流れは、父親に発して、母親を経て、幼児に辿りつくので、夫婦間でどんなことがあっても最終的には仲直りすべきだし、幼児にはお父さんが一番偉いのだということを教え込んでおくことだ。間違っても、幼児の前で父親の悪口を言ってはならないのだ。こうすると、幼児は家庭内の秩序を受け入れ、両親の愛が流れ込んでくるので、食べ物で好き嫌いをしなくなるのである。

●好き嫌いを言うのは成長した証

 離乳食で好き嫌いを言われるのは困りものだが、好き嫌いを全くしないというのも、それはそれで問題なのだ。離乳食は幼児にとって、未知との遭遇の連続であって、中には自分がどうしても嫌いな物も出て来るし、自分が大好物な物も出て来るのだ。それはそれで成長した証なのだ

 但し、好き嫌いをそのままにしてはいけない。好き嫌いを放置しておくと、幼児中心の家庭に変わっていってしまうので、幼児の好き嫌いを認めてはならないのだ。幼児の好き嫌いを粉砕することで、親の権威を確立するのである。これをやらないと、母親は幼児の我儘に振り回されてしまうようになるのだ。

 嫌いな物を食べ終わるまで、絶対に食事を終わらせないことだ。幼児にへばりついて、問答無用で食べさせるのだ。母親というのは、何も食堂のオバチャンではないのである。自分の子供の健康を思って食事を出しているのであって、それは幼児がどのように思ったとしても、食べて貰わねばならない物なのである。

 母親が離乳食の段階で、幼児の好き嫌いを認めないと、正式な食事を開始した後は、余り好き嫌いを言わなくなるものなのだ。離乳食でズッコケていると、正式な食事が始まった時に、散々に手を焼くことになるので、離乳食の段階で好き嫌いの芽を摘み取っておくことだ。

 その反面、幼児の好きな料理や嫌いな料理を覚えておき、定期的に好きな料理を出していけばいいし、嫌いな料理も少しは改善した方がいいのだ。どうやって嫌いな物を改善すればいいかは、ママ友たちに聞いてみればいい。みんな悪戦苦闘しているので、いいアイデアを持っていることもあるのだ。少しヒントを与えるなら、幼児は食べ物の臭いに敏感なので、その臭いを巧く消し去ってしまうと、嫌いな物でも食べてくれるようになるのだ。

●空腹を味合わしてから食事をさせるようにする

 幼児の好き嫌いを克服していくために、まずは幼児を空腹にしてしまうことなのである。人間は誰しも空腹になれば、どんな物でも美味しく感じることができ、何も残さず食べるようになるのである。満腹の状態ではいかに美味しい料理を与えても、不満を言い出し、食べ残すようになってしまうのだ。

 そのため、離乳食を作ることに追われてしまうのではなく、食事の前に幼児を空腹にさせるという作業を怠ってはならないのだ。食事の前に外に出かけて、遊んでしまい、お腹がすいた頃を見計らって帰宅し、それから料理を作って出せばいいのだ。こうすればお腹がすいているために、好き嫌いを言うことなく、なんでも食べてしまうのだ。

 空腹になると、最も先に炭水化物が欲しくなるので、炭水化物中心の食事を食べさせていくと、その他のオカズもきちんと食べてくれるようになるのだ。離乳食で張り切ってしまうと、オカズの量を増やしてしまう傾向にあるので、離乳食は炭水化物中心の食事であるということを決して忘れないようにすることだ。

 幼児は食後、すぐさま動き出してしまうので、食事が終わったら、必ず食休みをして、胃腸に血液を集中させてあげることだ。こうすると食べ物の消化吸収が早くなるので、次の食事までにはきちんと空腹になるのだ。最低でも15分程度は、居間でゴロゴロとしていれば、充分な食休みになるのだ。

 食休みをさせないと、次の食事の時間になっても、まだ消化吸収が終わらず、お腹がすいていないということになってしまうので、いくら美味しい料理を出しても、食べ残してしまうようになるのだ。この手の好き嫌いは、食休みをさせなかったことが原因なので、今後、きちんと食休みを取らせるようにすることだ。

●家族の中で食べるようにする

 幼児の好き嫌いをなくすためには、とにかく家族の中で食べるようにさせることだ。幼児は両親の食事の姿を見て、食欲が湧いてしまい、それで釣られて食べてしまうのだ。この「釣られ食い」こそ、幼児の好き嫌いをなくしてしまう最大の対策なのである。その食材の栄養がどうのこうのではなく、食事をするのが楽しいということを覚えさせてしまうことだ。

 それうえ、離乳食の初期は、両親が先に食事をし、楽しい会話をしてから、その後に離乳食を与えるというスタンスを決して崩さないことだ。幼児は両親の風景を見ているだけで食事は楽しいものだなということが脳内にインプットされるので、その後に離乳食を与えると、大急ぎで食べ始めてしまうのだ。

 これは離乳食を終えて、正式な食事をするようになった時、食事を食べさせすればいいのではなく、食事の際は会話をして、楽しみながら食べるという習慣を教え込ましてしまうことになるのだ。食事をしても楽しくないからこそ、得体の知れない好き嫌いを言い出してくるのである。

 新米ママだと離乳食を作ることに肩が張り過ぎてしまい、夫婦で楽しく会話をするということを忘れてしまいがちだ。しかし、そんなことをやっていると、幼児が凄まじい好き嫌いを言い出し、離乳食の段階でズッコケてしまうことになるのだ。自分の子供が余りにも激しい好き嫌いをしてくるなら、自分たち夫婦に何かしらの問題があると思った方がいい。家庭内できちんと愛が流れていないのである。

 人間は本来「果実食動物」のくせに、進化の過程で雑食になっていったので、なんでも食べて行かねばならないのである。好き嫌いを言っているようでは、非常に偏った人間になってしまうものなのである。自分の子供をまともな人間に育てあげたいのであるならば、食べ物で好き嫌いを言わせないことだ。食べられるだけ有難いということを教え込み、食べ物に対して感謝の気持ちを持たせることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

幼児の食事は炭水化物中心である。

●炭水化物を多くすれば、幼児は好き嫌いなく食べることができる

 離乳食というと、炭水化物中心の食事になってしまう。「栄養的にこれでいいのかな?」と思っても、実はそれで構わないのだ。幼児は炭水化物を多く必要とし、炭水化物の多い離乳食だからこそ、好き嫌いなく食べることができるのである。幼児が余りにも好き嫌いを言うようであるならば、炭水化物の量が少なすぎるのだ。

 人間の体は食事をしたら、まず先に炭水化物を消化し、炭水化物の消化が終わったら、脂肪や蛋白質の消化に移ってしまう。そのため、幼児に脂肪や蛋白質の多い食事を取らしてしまうと、エネルギーが余りにも多すぎることになり、しかもなかなかお腹がすかないようになってしまうのだ。それだからこそ、まだ空腹になっていないにも拘わらず食事を出されてしまうと、好き嫌いを言うことで食べるのを遅らせようとし出すのである。

 離乳食は必ず炭水化物を6割を下回らないようにしておけば、幼児は好き嫌いを言うこともなく、ちゃんと離乳食を食べてくれるようになるのだ。幼児は必要であるなら、嘗て乳児の時に空腹になれば乳房にしゃぶりついたのと同じように、空腹になれば離乳食に食らいつくようになるのだ。それゆえ、離乳食をただ単に食べればいいというのではなく、幼児の態度や表情というのをきちんと見ておくようにすることだ。幼児が離乳食を食べている時に、テレビを見ていたり、台所の方に行っていては、大事な情報を掴み損ねてしまうからだ。

 新米ママが30歳を過ぎている場合、自分の炭水化物の摂取量が減ってきてしまうために、自分の子供にもそれを適用してしまう危険性があるので要注意だ。人間は離乳食の開始から、19歳で成長期が終わるまでは、体だけでなく、脳も成長していくので、炭水化物中心の食事にした方が、健康になるものなのである。しかし、この炭水化物の肉体的成長が終わってしまえば、それほど必要としなくなるのだ。そのため、炭水化物の摂取量を減らしていくことになるのだ。だからといって、今まさに離乳食を迎えた幼児が、炭水化物を減らしていいわけがないのだ。

 幼児は行動量が多くなってくるので、大量の炭水化物を必要とするのだ。特に女の子の場合、お喋りが更に炭水化物を消費してくるので、女の子といえども、かなりの炭水化物を摂取するようになるのだ。体も脳も炭水化物を必要としている真っ最中なので、離乳食は炭水化物中心で行くべきなのだ。

●果物をしっかりと食べさせる

 離乳食を炭水化物中心にした場合、多くの新米ママたちが考えるのは、「お粥」なのであるが、白米のお粥ではビタミンやミネラルが決定的に不足してしまうことになる。白米のお粥を幼児に食べさせ続けると、風邪をひき易くなるし、近視になったり、他の幼児をイジメるようになるし、積極的に行動せず、知能が低く、手のかかる幼児へと間違った方向に成長して行ってしまうので、絶対に食べさせないことだ。

 お粥にするなら、玄米と押麦で作るようにすることだ。この玄米と押麦のコンビだと、ビタミンとミネラルが足りるようになるし、しかも、押麦に含まれるグルテンが免疫力を活性化して、病気になりにくい幼児にしてくれるのだ。更に、グルテンは知能を高める効果があるので、離乳食の段階から押麦を食べさせていれば、知能の高い子供へと成長していくことになるのだ。

 離乳食は何もお粥だけではないので、「果物」をきちんと食べさせるようにしておくことだ。果物のは酵素水分が大量に含まれているので、果物を食べさせると、幼児は殆ど病気しなくなるのだ。乳児の頃から病気で悩まされていたというのなら、離乳食の開始以降は果物を食べさせることで、病気と無縁の幼児に育てあげてしまうことだ。

 但し、どの果物も体を冷やす効果を持っているので、日が暮れたら果物を食べさせないことだ。日が暮れてから幼児に果物を食べさせてしまうと、お腹が冷えてしまい、それを切っ掛けに病気になってしまうからだ。果物は気温の温かい日中に食べさせることである。そうすれば、果物が害が殆どなくなるのだ。

 人間は本来「果実食動物」なので、幼児の段階からしっかりと果物を食べさせておかないと、味覚が異常になってしまうのだ。果物を食べない幼児ほど、味付けが濃い物が欲しくなり、微妙な味の変化が解らなKなってしまうのだ。人間の味覚は12歳までに決定してしまうので、幼児の段階から果物をきちんと食べさせておくことだ。そうすれば健康的な味付けを好むようになり、病気しにくくなるのだ。味付けの濃い料理を食べ続けていれば、遅かれ早かれ病気になっていくものなのである。

●栄養バランスは年齢によって異なる

 人間の体の姿は赤ちゃんの時から基本的には変わっていないので、乳児が幼児になっても、食事は大人と一緒で構わなだろうと思ってしまいがちだ。しかし、実はそうではなく、栄養バランスは年齢によって異なるのだ。年齢によって必要とする物が違ってくるのである。

 幼児は行動量も多いいし、心身共に成長しているので、炭水化物が多目に必要となる。そのために、その成長を補うために、蛋白質の必要量はなんと大人の2倍になるのだ。幼児の体が小さいから蛋白質の摂取量の多さに気付かないが、離乳食が終わり、通常の食事になっていくと、幼児は肉が非常に大好きで、大量に食べまくるものなのである。これは幼児としては非常に正しい行動を取っているのである。それだけ体が蛋白質を要求しているのだ。

 離乳食の段階では肉を出すべきではないので、植物性蛋白質を使っていくしかない。「豆類」「木の実」といった物を砕いて食べ易いようにしておくことだ。植物性蛋白質を多目に食べさせると、幼児の体にしっかりとした筋肉が付き始めるようになるのだ。そのしっかとした体格があるからこそ、脳に充分な血液を送ることができるようになり、知能を高めていくことができるようになるのである。

 体がそれだけ成長しているということは、大量のカルシウムを必要とするということなので、カルシウムの摂取量を徐々に増やしていくことだ。離乳食の前期はお粥に「海苔」を入れて、カルシウムを摂取させていけばいい。離乳食の後期にはヨーグルトを食べさせていけばいい。ヨーグルトは腸内で最も滞留時間が長くなるので、最も多くのカルシウムを摂取することが可能になるのだ。

 離乳食を食べさせ始めてから、風邪をひくようになったら、それは明らかに野菜不足である。人間の体は大量のビタミンを必要としているので、野菜がどうしても必要なのである。そのため離乳食の段階で野菜を徐々に使っていき、野菜嫌いの子供にさせないようにすることだ。野菜を美味しいと思うのは、歳を取ってからの話であって、幼児の段階では母親に食べさせて貰わなければ、食べなくなってしまうものなのだ。

●楽しみながら食事をしてしまう

 幼児にきちんとした離乳食を作ればいいと考えるのではなく、幼児が離乳食を美味しく食べて貰えるという環境も大事なのだ。料理そのものは所詮「2割」程度であり、残りの「8割」は環境が決めてしまうものなのだ。食事中にテレビをつけていたり、無言で食事をしているのなら、いかに美味しい料理を作っても、台無しになってしまうものなのである。

 幼児に離乳食を与える時は、家族で一緒に食事をすることだ。ワイワイガヤガヤと賑やかに食事をしていれば、幼児もそれに釣られて離乳食を食べてしまうものなのである。夫婦が食事をしながら会話していると、幼児はその会話の内容が解らなくても、この場は楽しい場所なんだなということだけが理解できるものなのだ。

 幼児は食べ物を零すことに関しては常習犯なので、テーブルの上には食器以外の物を置かないことだ。調味料は幼児から最も離れた所に置くのがベストである。幼児が食べ物を零しても、決して怒らないことだ。零して当たり前、汚して当たり前なのだ。いきなり礼儀正しい食事ができるわけがないのだ。幼児は時間をかけてゆっくりと食事の仕方を学んでいくのである。

 幼児が余りにも好き嫌いをいうということは、その食事の風景になんらかの問題があるということなのである。両親の食事の仕方に問題があるからこそ、幼児は好き嫌いを発しているということもあるのだ。そういう時は、改めるべき所を探し出し、改善してしまうことだ。但し、ただ単に我儘を言っている場合もあるので、その時は問答無用で離乳食を食べて貰うことだ。

 新米ママが自分の子供に離乳食を食べさせる時には、自分が幼児の頃になんの離乳食を食べさせて貰ったかなど忘れているものだ。そのため、自分の子供に対して必要以上の力を出してしまい、無理矢理に離乳食を食べさせようとしてしまうのだ。離乳食で困った時は、育児本を読むよりも、自分の実家に帰って、自分の母親に離乳食をどのように食べさせたか聞いてみることだ。自分の母親から離乳食のことを教えて貰うと、離乳食の作り方や食べさせ方が急激に巧くなっていくものなのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

最初の離乳食は赤い果物

●赤い果物を食べさせれば、離乳食で失敗することはない

 離乳食というと、母親がせっせと「薄いお粥」を作ってと、殆どの母親たちが思いこんでいる。しかし、幼児にその離乳食を食べさしても、なかなか食べてくれないという現象に出くわしてしまう。それもその筈、お米を使った離乳食は、最初の離乳食には相応しくないものだからだ。

 人類は本来「果実食動物」だったのだから、離乳食は果実を使ったものにすべきなのである。その離乳食であるなら、幼児は難なく食べてしまうのである。果実の中でも使うべき果物は「赤い果物」である。なぜ、赤い果物を使うのかといえば、自然界に入っていけば、幼児が目にする果物は、赤い物ほど目が行き易いからだ。

 赤い果物といえば、「リンゴ」「イチゴ」「アンズ」といった物だ。これを摩り下ろすなり、押し潰すなりして、幼児が食べ易いようにしてあげるのだ。こうやって離乳食を開始していけば、離乳食に失敗することはない。幼児にとって最も自然な形で離乳食を作って貰えたからだ。幼児にとって最も消化吸収し易い離乳食であるのだ。

 穀物は人間が人為的に品種改良していったために、大人では難なく食べることができても、幼児では難しいのである。一体何が難しいかといえば、穀物は良く噛んで唾液を絡ませない限り、きちんと消化吸収してくれないからだ。この良く噛むという動作こそ、今まで母乳を飲んできた幼児にとっては難しいのである。離乳食を繰り返しながら学んでいかねばならぬ動作なのだ。

 それに対して果物を離乳食に使ってしまえば、良く噛まなくても消化吸収されてしまうので、なんの問題も起こらないのだ。しかも、果物は体内に入ると、胃を通過して、すぐさま十二指腸に行くので、幼児といえども、いきなり消化吸収を開始することができるのである。更に果物は離乳食病を起こす危険性が全くないので、この点でも初期の離乳食に相応しい物であるのだ。 

●お粥は上澄みだけ

 穀物を使った離乳食は、果物による離乳食が慣れてから後なのである。食べ物を良く噛んで食べることができるようになってから作ればいいのだ。離乳食を使って遊んでしまうとか、離乳食を全然食べない頃には、まだ穀物を使った離乳食を与えなくていいのである。幼児にはまだ穀物を食べる態勢が整っていないのだ。

 幼児が離乳食を良く噛んで食べるようになったら、穀物を使った離乳食を出していけばいい。穀物は人間が人為的に改良し過ぎてしまったから、精白穀物を使うのは非常に危険である。例えば、白米の場合だと、白米自体が澱粉の塊なので、これを消化するのに物凄いエネルギーを要してしまうのだ。

 お粥は玄米と押麦を半々の割合で入れ、それで作っていけばいい。味付けは天日塩だけで充分である。お粥は上澄みだけを使用することだ。上澄みであるなら、植物性蛋白質がないので、離乳食が発症しないからなのである。これは日本民族の先祖伝来の知恵なので、絶対に守った方がいい。残り半分は母親が食事の際に食べてしまえばいいのだ。

 お粥の上澄みだけといえども、良く噛んで食べるように仕向けていき、体になんの問題も起こらないようであるなら、徐々にお粥を濃くしていけばいいのだ。この徐々に濃くしていくのは、可能な限りゆっくりとするべきであって、絶対に早くしてしまわないことだ。穀物を食べるのに徐々になれさせていかないと、離乳食病の餌食になってしまうのだ。

 幼児は離乳食を噛まずに飲み込んでしまう傾向があるので、必ず良く噛むように指導していくことだ。母親が離乳食を食べて、良く噛んでいる仕草を見せて、次に幼児に離乳食を与えていくのだ。こうすれば幼児は離乳食を良く噛んで食べるようになっていくのだ。この食習慣はいきなりできるものではないので、気長にゆっくりと教え込んでいくことである。

●母乳と離乳食の併用

 離乳食と言うことは正式な食事ではないので、幼児が食事をするのは、夫婦が食事をし終えてからということになるのだ。離乳食も食事だからといって、同じテーブルについてしまうと、幼児は自分こそがご主人様であると勘違いしてしまい、離乳食で散々に困らせることになるのだ。

 自然界では食事の順番というものは明確に決まっており、群れの中で一番強い者から食べていくのである。それゆえ家庭内では父親が最初に食べて、次に母親が食べて、幼児はその後なのである。この食事の順番を守らせると、幼児はその後に得体の知れない反抗期をしなくなるのだ。家庭内での序列が動物的感覚で解っているから、無意味な反抗をしなくて済むのだ。

 両親が食事をしている風景を散々見せられた後なので、離乳食を与えると、きちんと食べてくれるようになるのだ。幼児の頭の中が食事モードになっているために、離乳食を与えれば、すぐさま食べることができるのである。母親としても、幼児が離乳食をきちんと食べてくれると、離乳食の苦労が激減するので、非常に有難いのだ。

 離乳食は、いきなり離乳食というわけにはいかない。当分の間は母乳との併用である。理由は離乳食そのものが栄養バランスのいいものではいからだ。それと幼児の内臓が離乳食をきちんと消化吸収するようにはできておらず、母乳を与え続けることで、幼児の体に栄養不足が起こらないようにするのだ。

 離乳食の時期になったら、いきなり離乳食にしなければならないと思い込んでいる新米ママたちも多いのだが、初期の離乳食は1日1回でいいのであり、他は母乳で済ませてしまえばいいのだ。離乳食を開始してから当分の間は、離乳食の訓練に充てることだ。時間をかけて、幼児に離乳食を教え込んでいけばいいのだ。

●ベビーフードは絶対に食べさせるな

 新米ママは離乳食を不安だらけの中で行ってしまうために、遂々市販されているベビーフードに手を出してしまう。幼児にはベビーフードを絶対に食べさせてはならない。なぜなら、ベビーフードは食品添加物が大量に入っており、着実にビタミンやミネラルを奪ってしまい、幼児の内臓を疲労させてしまうからだ。食品添加物は幼児の体ではきちんと処理しきれないのだ。

 ベビーフードの恐ろしさは、これを幼児に食べさせると、食べてしまうということなのである。恐らく味付けを試行錯誤して、幼児が最も好みそうな味付けにしてあるので、幼児はベビーフードを差し出されれば、食べてしまうのだ。しかし、その代償は非常に高くつく。幼児は成長過程にあるために、ベビーフードを食べると病気がちになってしまうし、何よりも脳が破壊されてしまい、高い知能を持てなくなるのだ。

 折角、健康的な赤ちゃんを産んだのに、ベビーウードを食べさせたばっかりに、幼児の知能が遅れてしまい、すぐキレる幼児に変身してしまうのだ。幼児に得体の知れない病名をつけてしまって、「うちの子は病気なんだ!」と思いこむのではなく、とにかくベビーフードなんかを食べさせないことだ。自分が幼児の時に食べなかった物は、絶対に自分の子供にも食べさせないことだ。

 ベビーフードには様々な栄養素が入っていて、一見、それが健康的に見えてしまうのだが、離乳食は栄養バランスが整っていなくてもいいのだ。あくまでも離乳させ、正式な食事をさせるために行っているのであって、まともな離乳食ほど栄養バランスが取れていないのである。足りない栄養は母乳で補っておけばいいのである。

 離乳食では手古摺った経験を持つ母親たちが非常に多いのだが、これは離乳食の開始時期が余りにも早すぎることと、正しい離乳食を与えていないこと、更に食事の順番を守らせないことにあるのだ。幼児はどんなに可愛くても、まだまだ文明人ではいなのだ。自然界の動物として扱うべきなのである。この非情な遣り方こそが、実は幼児をきちんと育てることになるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

第十二章 離乳食の成功と離乳食病の予防

●離乳食の開始は満二歳から

 人類は「哺乳動物」である。それゆえ、人間の赤ちゃんは母親の母乳しか飲めない。これが自然界の掟である。この自然界の掟に逆らえば、己の生存を脅かされるほどの報復を受けてしまうのである。赤ちゃんを産んで育児をしているのなら、赤ちゃんの食べ物は母乳しかないということを絶対に忘れないことだ。

 赤ちゃんは母乳を飲むことで、母乳に含まれる抗体を全身に張り巡らせるのである。この抗体を張り巡らせることが終わるのは生後6ヵ月辺りである。この時期こそ赤ちゃんが赤ちゃんらしくなる時期なのである。赤ちゃんが死亡してしまうのは、生後直後から生後6ヵ月に集中する。これは抗体を全身に張り巡らし終わっていないからなのである。

 その後は、母乳の抗体を取り入れつつ、生きて行かねばならないのだ。赤ちゃんが抗体を自分で作り出せるようになるのは、生後2歳を過ぎてからであり、この時期こそが哺乳の終了時期なのである。赤ちゃんは生後2歳を過ぎた或る時期から途端に病気をしなくなる時期を迎えるのだが、この時期こそが赤ちゃんが自分で抗体を作り出し始めた証拠であって、この時期から離乳食を開始していいのだ。

 赤ちゃんにとって母乳は単なる食べ物ではないのである。抗体という絶対に必要な物が含まれている飲み物でもあるのだ。そのため、ミルクで育ててしまうと、いくら栄養価を母乳に近づけたとしても、肝腎な抗体がないために、ミルクで育った赤ちゃんたちは病気のオンパレードになってしまうのである。

 母乳育児をした場合、離乳食の開始は満2歳からなのである。赤ちゃんが抗体を自分で作り出せるようになったら、赤ちゃんはなんの問題もなく離乳食を食べることができるようになるのである。それまでは赤ちゃんどんなに大きくなろうが、母乳だけで育てていかねばならないのである。

●医学では定めることのできない離乳食の時期

 折角、母乳育児をしているのに、医者の勧めに従って、生後5ヵ月から離乳食を与えていては、母乳育児をした意味がなくなってしまう。なぜ医者たちが生後5ヵ月から離乳食を与えるよう勧めるのかといえば、それはミルク育児だと初期の栄養価は母乳よりも高いのであるが、生後5ヵ月を過ぎると、ミルクでは栄養が不足してしまうからなのである。それもその筈で、牛の赤ちゃんは早くに乳離れするために、人間の赤ちゃんに適したように作られていないのだ。

 このため、医者の勧めに従って、生後5ヵ月の赤ちゃんに離乳食を開始しようものなら大変なことになる。赤ちゃんはまだ歯が生え揃っていないために、離乳食をきちんと噛むことができないのだ。赤ちゃんの歯が生え始めるのは生後8カ月辺りであり、歯がきちんと生え揃うのは満2歳までには生え揃うのである。赤ちゃんの歯を見ても、生後5ヵ月は明らかに離乳食の開始時期には不適格であり、やはり歯が生え揃う満2歳になってからなのだ。

 離乳食の開始時期は、医者たちが勝手に定めることなどできない。なぜなら、離乳食を食べることは病気ではないからだ。それは健康の証だからだ。医者は病気を治療するにはプロであっても、健康を維持することについてはド素人なのである。どうすれば健康になれるかということを、医者に聞いていては、必ず病気をしてしまう方向へと誘導されてしまうようになるのだ。これが医者の職業としての宿痾なのである。

 離乳食の開始時期を決めるのは、医学の担当ではないのだ。それは宗教の担当なのだ。民族の生存を確保するために、宗教は最も適した離乳食の開始時期を散々模索して、この時期を過ぎてからなら安全だと言う結論に達したのだ。医学は数年程度の研究を土台にしているが、宗教は数千年生き続けて来たことを土台にしているのだ。圧倒的に宗教の方が勝るのである。

 医者がどうのこうの言おうと、既に宗教は離乳食の開始時期を探り当てている。ヒンズー教は、離乳食は生後6ヵ月以降と定めた。生後6ヵ月以前には如何なる理由があっても離乳食を与えてはならないとした。これは赤ちゃんの抗体を考えるなら、非常に正しい結論であって、生後6ヵ月以降に離乳食を開始するなら、深刻な離乳食病を回避することができるのである。

 神道では、生後10ヵ月を過ぎてからと定めた。母親の母乳も生後10ヵ月を過ぎてしまうと、栄養が不足してしまうのだ。そのために、母乳以外の離乳食で補うという発想が生まれてきたのだ。人間の赤ちゃんは生後10ヵ月から満2歳までは、体格を作るのではなく、体質を作る作業をしているのだ。神道の場合、離乳食といっても、いきなり本格的な離乳食を食べさせたのではなく、母乳と並行して、お粥の上汁だけを食べさせるということをしたのだ。これだと赤ちゃんにアレルギー反応が起こりにくくなるのだ。

 ユダヤ教は、生後24ヵ月を過ぎてからと定めた。ユダヤ教はトーラー(モーセ五書)ではなく、タルムードでこの離乳食の開始時期を定めている。ひっくり返せば、タルムードを編纂した時には、ユダヤ教徒たちは早い段階で離乳食を与えてしまい、様々なアレルギー問題で苦しんでいたということなのだ。

 どの宗教が最も優れた見解を持っているかといえば、それはユダヤ教である。しかし、ヒンズー教は赤ちゃんが抗体を張り巡らし終わる時期からであり、神道は母乳の栄養が不足する時期からであり、それぞれ大事な点を着目した上でのことなのである。付け加えていうと、ヒンズー教徒も神道家たちも離乳食にするには比較的安全なお米を主食にしているので、離乳食の開始時期を早めることが可能になったのである。離乳食に不向きな小麦を主食にしていたら、こうはいかなかった筈である。

●満2歳以前の離乳食は無駄に終わる

 離乳食は満2歳以降からなのである。満2歳以降なら、赤ちゃんの歯も生え揃っており、赤ちゃんは離乳食をきちんと食べてくれるようになるのである。満2歳以前に離乳食を与えても、赤ちゃんは歯が生え揃っていないために、巧く食べることができず、食べ物をオモチャにしてしまうだけなのである。

 医者の勧めに従って離乳食を生後5ヵ月からにしてしまうと、赤ちゃんは離乳食を食べないし、散々に汚してしまい、後片付けが大変なものになってしまうのだ。それもその筈で、赤ちゃんは離乳食を食べる必要性がないからなのだ。離乳食が必要でない時期に離乳食を与えても、赤ちゃんはまともに食べてくれないのだ。しかも、歯が生えていないために、噛み合わせが悪くなってしまい、赤ちゃんの顎が曲がってしまい、それによって歯並びが悪くなり、背骨が変形して、様々な病気を発症してしまうようになるのだ。だからこそ、離乳食の開始時期が早いと赤ちゃんたちは様々な病気を仕出すのである。

 満2歳を過ぎれば、歯が生え揃っているために、きちんと離乳食を食べることができるので、顎が曲がることもなく、歯並びは良くなり、背骨も曲がることもなくなるのだ。母乳はそのまま飲んでも消化吸収してくれるが、離乳食はそれを噛んで唾液を絡ませなければ、消化吸収しにくくなってしまうのである。きちんと噛むことができるというのは、食事をする上で非常に重要なのである。

 満2歳までは離乳食を食べさせないために、赤ちゃんは親の食事の風景をじっと見て、涎を垂らすことがある。これはいかに可愛い赤ちゃんでも、動物そのものの仕草を取るので、良く覚えておいた方がいい。これは生後6ヵ月以降にこういう仕草を取り始めるので、これで親子の上下関係を築いてしまうのだ。食事は親だけが食べられるのであって、赤ちゃんは駄目だとされれば、赤ちゃんは自然と親に服従し出すようになるのだ。

 離乳食の早い赤ちゃんほど、その後、親に対して凄まじい反抗をしてくるのであるが、これは赤ちゃんの時に食事で上下関係を教え込ませなかったからなのである。いかなる赤ちゃんでも食事で格差をつけられれば、親に絶対服従するものなのである。これがあるからこそ、赤ちゃんの凄まじい反抗が起こらなくなり、親の言うことをちゃんと聞く赤ちゃんに育っていくのである。

●離乳食病の防止

 満2歳以前の赤ちゃんに離乳食を与えてしまうと、離乳食病という病気に罹ってしまう。赤ちゃんの内臓はまだ離乳食を消化吸収するようには発達していなので、離乳食を食べてしまうと、その食べ物の抗体がダイレクトに体の中に入ってしまうことになり、その抗体を持ち続けることになってしまうのである。

 これが「離乳食病」であり、この抗体があるために、その後に同じ食材を食べてしまうと、異常な抗原抗体反応を起こしてしまい、病気を発症してしまうのである。代表例がアトピー性皮膚炎であり、食物アレルギーであり、小児癌や小児白血病である。これは成人しても持ち続けてしまうので、女性の場合でなら、子宮癌や乳癌を発症するし、不妊症だってこの離乳食病が引き金となって起こることがある。

 離乳食病を起こし易いのは、「ミルク」「小麦」「大豆」である。どれも食物性蛋白質が豊富に入っている食品であって、これを満2歳以前に食べてしまうと、深刻な離乳食病になってしまい、アトピー性皮膚炎やアレルギー症状で赤ちゃんが苦しんでしまうことになるのだ。離乳食を食べてはならない時期に離乳食を食べてしまうと、悲惨なことにしかならないのである。

 神道では生後10ヵ月以降なら離乳食は許されるとしたが、離乳食といっても本格的な離乳食ではなく、玄米のお粥の上汁を飲ませたのであって、これだと離乳食病に罹りにくいのである。お米は小麦よりも蛋白質が少ないのだ。要は「蛋白質」こそが最も離乳食病を引き起こし易いのだ。

 離乳食病にならなければ、病気の大半が激減するといっていい。赤ちゃんの際に離乳食病を患ってしまえば、それは取り返しのつかないことになってしまうからだ。人間は哺乳動物であることを忘れれば、いつでも自然界の報復に遭ってしまうものなのである。赤ちゃんを健康に育てていきたいのであるならば、満2歳までは母乳を与え続けていくことである。医者が何を言おうとも、絶対に耳を貸さないことだ。赤ちゃんが病気になって、最も儲かるのは医者であることを決して忘れてはならない。赤ちゃんが病気になって、最も苦しむのは、赤ちゃんなのである。そして、その苦しみを与えたのは、自然界の掟を破って離乳食を与えてしまったあなたなのである。

| | コメント (2) | トラックバック (7)

夫の仕事関係の人々との付き合い

●夫の出世に拘わる妻の存在

 男は結婚すると、頭角を現し始めて来る。妻の財産運の影響を受けて、お金に困ることがなくなり、自分の能力を仕事に集中することができるからだ。しかも、赤ちゃんが生まれると、赤ちゃんの新鮮な気の影響を受けて、仕事でも成功し始めることになるのだ。妻が育児に専念している時、夫は妻の知らない所で、男としての正念場を迎えているのである。

 夫に出世に妻の存在は想像以上に拘わっていると思っておいた方がいい。独身男性ならば、その男性に突出した能力があるなら別だが、大概、出世できないものだ。結婚していないために、男としての重みがなく、重要な役職を任せることができないのだ。独身男性が活躍できるのは、芸能界や、学問の世界や、芸術の世界と言った特別な世界だけだと思っておいた方がいい。政治の世界にしろ、経済の世界にしろ、既婚男性でなければ、大きな仕事をすることはできないものなのだ。

 妻にとっては赤ちゃんがいるために、育児に忙しい毎日を送っているが、妻の評価というものは、夫の評価を左右するものなのだ。良家の出身だとか、美人であるということは、結婚のスタートが有利なだけにすぎないのだ。発揮すべきは内助の功であって、夫の出世を妻が後ろから支えて行けば、夫は能力を発揮していくことができ、出世していくことが可能になるのだ。

 妻が内助の功を発揮しないと、妻は単なる「浪費妻」になるだけなのだ。夫が出世していくためには、それなりの投資が必要だ。ビジネス関連の本を読まねばならないし、男同士の付き合いでお酒を飲まねばならないし、色々なセミナーに出て見聞を広めていかねばならぬのだ。その必要な投資をケチり、妻が自分のために使っていたら、夫の出世など見込めないものなのだ。

 殆どの夫婦は億万長者ではないのだ。年収は少ないものなのだ。しかもその上に赤ちゃんがいて、出費がかさむ時期を迎えているのだ。こういう時は、家計をしっかりと管理して、夫が出世できるように資金を集中していくべきなのだ。いくら家計が苦しいからといって、夫が月に数千円の小遣いしかなければ、その男性は出世などできないものなのだ。いくら金欠とはいえ、夫の財布にお金を絶やさぬように配慮するのが、優れた妻のやることなのだ。

●相手は予想以上に奥さんのことを見ているもの

 結婚したら、夫婦で出かけることがあるだろうが、そこで出会った人たちというのは、予想以上に奥さんのことを見ているものだ。その奥さんの品定めをしているといっても過言ではないのだ。1回しか会ったことがないのに、その1回の出会いを延々と覚えているものなのだ。

 なぜなら、男性が結婚している場合、その奥さんが優秀な女性であるなら、必ず出世してくるからだ。才色兼備のような妻を持っている男性が、いつまでの貧困でいるわけがないのだ。その妻の運気や援助を受けて、猛スピードで出世し始め、能力を最大限に発揮し始めるものなのである。

 この世には科学の力では証明できない「あげまん」という女性たちが存在している。「あげまん」の女性を妻にしていると、その男性の運気が非常に良くなり、あれよあれよと出世していってしまい、莫大な財産を得ることができるものなのだ。「どうしてあの男が出世してくるんだ?」と思うような男性には、必ず「あげまん」がいるものなのだ。

 これに対して、「妻に成り切れていない女性」「精神的自立が出来ていない女性」「さげまんの女性」などを妻にしていれば、その夫にいかに高い能力があっても、出世していくことはできない。万が一、無理矢理に出世しても、至る所でトラブルが続出し始め、破滅していくことになるのだ。

 それゆえ、個人主義に走り過ぎてしまうと、夫婦の相性を無視してしまい、相手の力量を正確に見切ることができなくなってしまうのだ。人間は結婚すれば、その配偶者の運気の影響を受ける以上、夫婦を一緒にして見、その能力を見極めるということが非常に大事な作業になってくるのだ。

●化粧と服装には気をつけろ

 他人とはいつどこで出会うのか解らないので、お出掛けする時だけちゃんとした格好をするのではなく、日頃からきちんとした格好をしておくことだ。そのためにはなんといっても早寝早起きをして、規則正しい生活のリズムを作っておくことだ。早起きしてさえいれば、それほどその既婚女性の容姿は衰えないものなのである。朝早く起きれば、朝から活発な行動をすることができるので、血行が良くなり、体温を上昇させることができるので、新陳代謝が活発になるのだ。しかも、早起きしていれば自然と早寝をすることになるので、熟睡が可能に成り、睡眠中に体が修復され、美しくなっていくものなのだ。

 それから、とにかく体を鍛えることだ。赤ちゃんがいると、どうしても赤ちゃんのペースになってしまうので、運動量が少なくなってしまうのだ。そのため、育児に熱中していると、気付いてみたら、オバサン体形になっていたということになってしまうのだ。体がなまっていれば、何を着ても似合わないものなのだ。特に40歳を過ぎたら、「中年太り」には絶対に気をつけるべきだし、50歳を過ぎたら「老年痩せ」に気をつけるべきだ。骨と皮ばかりになってしまえば、もう手の打ちようがなくなってしまうのだ。

 育児をしている最中は、化粧もしないし、服装にも拘らないので、夫婦で出かける際は、化粧と服装には充分に気をつけた方がいい。日頃、スッピンでいると、肌が活性化してくるので、化粧がきちんと乗らなくなってしまうのだ。服装も自分が育児をしている間に流行が過ぎ去ってしまい、自分が思いっきりめかしこんだというのに、時代遅れの服装を着ているということもあるのだ。

 赤ちゃんを産んだのなら、化粧や服装を変えていくことだ。まず化粧はもうそれほど厚くすべきではないのだ。既婚女性が醜くなってしまうのは、化粧が濃すぎるからなのである。化粧の量を控え目にして、醜くならない程度で充分なのだ。既婚女性が化粧で気をつけるべき所は、化粧品自体の安全性であって、安全性が確保されていないような化粧品は絶対に使うべきではないのだ。有害な化粧品のために肌がやられてしまい、どんどん醜くなっていってしまうのだ。

 服装は流行があるので、既婚女性向けのファッション誌には必ず目を通しておくことだ。ファション誌は情報がテンコ盛りなので、これほどお買い得な雑誌は他にないのだ。それとブティックを訪れて、ディスプレイを見ておくことだ。これはファッションセンスを磨くには意外と効力を発揮するので、食料品を買い物した時に、ついでにブティックを見て回る習慣をつけておくべきだろう。

 赤ちゃんができた以降は、長袖長ズボンの格好を原則とすることだ。ちょっとオシャレ度を高めたいのなら、ロングスカートにすればいい。とにかく生足や生腕を出さないことだ。年齢的に言って、一度、体を冷やしてしまうと体がいつまでも冷えてしまい、本格的な冷え症で悩まされることになってしからだ。それに日焼けした場合、もう若い頃と違って、日焼けが落ちにくくなっているし、シミやシワが出来易い年齢になっているのだ。

 化粧と服装こそ、その女性の力量が解るもの最重要な物だ。育児に熱中する余り、化粧と服装だけは怠らないようにしておいた方がいい。他人の化粧や服装を品評したりして、「この化粧の仕方はまずいな」「この化粧の仕方だと奇麗に見えるな」「この服装はダサイな」「この服装はオシャレだな」とか常に自分のファッションセンスを磨いておいた方がいい。

●夫婦で食事のマナーを学ぶ

 結婚したのなら、夫婦で是非やっておいた方が、出世に大きく貢献できることがある。それは夫婦で食事のマナーを学ぶことだ。夫婦はそれぞれ違う家庭で育ってきたために、食事のマナーが微妙に違っているのだ。そのためその食事のマナーを巡って、些細な夫婦喧嘩が起ってしまうのだ。しかも、食事のマナーが悪ければ、夫が仕事で食事をした時に、そのマナーの悪さのために出世コースから排除されてしまうこともあるのだ。有力者であればあるほど、食事のマナーで人間を見極めようとするものなのだ。

 食事のマナーを教えてくれる教室は、探せばあるので、夫婦で受けてみることだ。まずは、和食での食事のマナーを学ぶのだ。日本人として和食を食べ慣れていても、食事のマナーがちゃんとできているとは限らないのだ。日本人でありながら、知らない食事のマナーもあるものなのだ。

 次に洋食での食事のマナーだ。どんなに洋食が好きな人であっても、洋食での食事のマナーはなっていないものだ。洋食といっても、各国で食事のマナーが異なるので、主にフランス料理とイタリア料理の食事のマナーを学んでおけばいい。洋食ではこの2つの料理が最高峰なので、ここでの料理で阻喪をしなければ、後は簡単だからだ。

 食事のマナーは外食した時だけ守るのではなく、自宅でも可能な限り、食事のマナーを守ることだ。妻が折角丹精込めて料理を作ったのに、無礼な仕方でその料理を食べられたら、無性に腹が立つものなのだ。それが積み重なってくると、些細なことで夫婦喧嘩が発生してしまうのである。

 食事のマナーをきちんと守っておくと、「この人はいいとこの出の人なんだな」と思わせることが可能になるのだ。そうなると、それだけで他人から信用されてしまい、様々なビジネスチャンスを貰うことができるようになるのである。食事のマナーを学んだ時は、「なんて堅苦しいんだろう!」と思ってしまうが、食事のマナーを守るということは、他人に対して敬意を現わしているということなのだ。そのため、食事のマナーを守っていると、相手は自分が敬われていると思ってしまい、今後、大切にしてくれるようになるのだ。

●パ-ティーは顔見世興行

 日本でも欧米の影響を受けて夫婦同伴で出席しなければならないパーティーが増えてきたが、この夫婦同伴のパーティーほど日本で似合わぬものはない。まず、日本では社交界というものが成立していないから、社交界デビューをしたことがない人たちが、無理矢理にパーティーに出席しているようのものだからだ。こういう仕事は嘗てはホステスが受け持ったものだが、これが最近では妻の仕事になりつつあるのだ。

 夫の仕事関係でパーティーに出席した場合、そのパーティーは決して対等なものではなく、男同士の序列の上に成り立っているものであり、そこで交わされる会話もその序列を前提としてものになるのだ。一体、夫の職場の人間関係がどのようなものか、日頃から夫から話を聞いていないと、阻喪どころの話ではなくなってしまうのだ。

 結婚する前に合コンに参加した経験のある女性なら、合コンの乗りでは絶対に行くな。当たり前のことだが、これは人間関係の交流を差し障りなく進めていくとともに、或る種の情報収集が重大な仕事になるからだ。あの人はこうで、この人はこうでと、顔を情報を確認していかないと、まるで話にならないのだ。

 日本でのパーティーは顔見世興行のようなものなのだ。その上、余程頭のいい女性でないと、この仕事が務まらないのだ。日本では一目見ただけで相手の器量を見極める習慣があるので、欧米からパーティーを持ち込んでも、欧米風のパーティーにはならず、奥さんの器量を見極める舞台になってしまうのだ。奥さんの器量が良ければ。夫は出世していくし、奥さんの器量が悪ければ、夫は出世が困難になってしまうのだ。

 パーティーには必ず大物がいるものだから、一刻も早くその人物を特定し、挨拶をし、会話をしておくことだ。パーティーだからといって、誰構うことなく会話をするのではなく、重要な人物は一体誰かを特定しながら話して行くことだ。それが解っていれば、パーティーでの立ち振る舞いがきちんとできることであろう。

●自宅に来る客は特に仲のいい客なのだ

 赤ちゃんがいるのに、夫が自宅に部下を呼んでくることがある。こういう時は嫌な顔をせず、ちゃんと対応してあげよう。日本では身分の高い人が、自分より身分の低い人の家を訪れるということは、原則としてない。自宅に客人が来るというのは、夫が出世しつつある証拠なのだ。男は出世すれば、部下を連れて来るものなのだ。

 だが、戦後の日本では住宅環境が悪く、自宅が狭いために、自宅に部下を呼ぶというのは、余程のことなのである。通常は外食で済ますものなのである。それを自宅に招いたということは、その部下たちと仲を良くしておきたいからなのだ。外でいくら付き合っていても、なかなか仲が深まらないものなのだ。自宅に招待すると、一気に仲が深まるものなのだ。

 事前に話をきいているなら、豪勢な料理を作って、振る舞えばいいのだ。もしも、いきなり部下たちを連れて来るなら、急いで料理を作って、振る舞うことだ。いざという時に料理が作れるよう、常に或る程度の量の食材は残しておくことだ。妻が余りにもケチケチに徹してしまうと、逆にそれは夫の出世の妨げとなり、それほど給料が増えなくなってしまうのだ。

 料理を差し出す時とは、自分がその部下たちの母親になったつもりで話をしてみることだ。こうすると話をし易くなるし、部下たちも安心して楽しむことができるようになるのである。恐らく、夫と部下たちは会話で盛り上がっている最中なので、絶対に水を差すような話をしないことだ。ここいらには気を使っておいた方がいい。

 犬でも飯を与えてくれた恩を忘れないものだが、人間でも自宅で御馳走してくれた人に恩義を感じるものだ。もしも、自宅で御馳走になったのに、その人を裏切るようなことがあるなら、その人は人非人なので、大した能力を発揮することはできないであろう。夫も将来、この部下たちを使って大きな仕事をしたいと思っているので、きちんと対応してあげるべきだろう。

●妻同士で仲良くなれ

 夫の仕事関係で人間関係を展開していく場合、自分が働いてはいないので、どうしても余所余所しい付き合いになってしまう。もしも人間関係が深くなる付き合いをしたいのなら、妻同士で仲良くなってしまうことだ。夫の仕事関係を通じて、どこかの夫人と知り合って、仲良くしてしまうのだ。

 双方が既婚女性ということで、話が弾むものなのだ。しかも、自分では知りえなかった情報まで得ることができ、より多彩な人間関係を展開していくことが可能になるのだ。妻同士で仲良くなると、夫たちの仲も非常に良くなるものだ。戦国時代、頭角を現わしてくる前に豊臣秀吉と前田利家は隣同士だったのだが、そのお陰でその婦人たちの「お寧」と「お松」が仲良くなり、そのために夫たち双方が猛スピードで出世していったのだ。

 人間は個人だけの付き合いでは、なかなか信用できないものだ。夫婦ぐるみで付き合うからこそ、信用できるというものなのだ。妻同士が仲良くなるというのは、より信用するためであり、裏切り防止のためでもあるのだ。そのため、その夫が信用ならない人とは絶対に付き合うことはしないことだ。夫が信用するに値しないような人物の妻は、それ以上に信用できないものなのだ。

 夫の出世を早めたいのなら、夫の上司に当たる人の奥さんと仲良くなってしまうことだ。妻同士で仲良くなってしまえば、上司の方もなにかと夫を目にかけ、重要な仕事を与えてくれるようになるのだ。仲良くなる切っ掛けを掴めば、定期的に電話をするなり、お茶を飲んだりしたり、挨拶に伺ったりしていけば、自然と仲良くなっていくものなのだ。

 妻同士での遣り取りは可能な限り、夫に話しておくことだ。夫にとっても、そういう情報は有難いものなのだ。他人がどのような家族を形成しているかが解ると、人間関係もスムーズに展開していくものなのだ。情報が多ければ多いほど、夫は仕事で活躍できるようになるのである。

●夫の出世は妻次第

 夫婦は一蓮托生なのだ。夫が出世していけば、その妻も出世の恩恵に預かれるのだ。その逆に夫が出世できなければ、その妻も出世の恩恵に預かることができず、いつまで経っても貧乏になってしまうのだ。裏を返せば、妻が良けりゃ、夫も良く、妻が駄目なりゃ、夫の駄目でもあるのだ。

 「夫の出世は妻次第」だと覚悟を決めることだ。妻の方が、いかに巧く人間関係を処理していくかで、夫の出世は大体決まってしまうものなのだ。出世し来る既婚男性の裏には、必ず優れた妻がいるものなのだ。その妻がバックアップし続けたからこそ、出世していくことができたのである。

 若い時に、精神的自立をするのが遅かったために、男性を見れば「雄」と見てセックスの対象としか思えない女性や、男性を見れば敵対して喧嘩を吹っ掛けるような女性であったのなら、そのままでは夫の仕事に問題が生じて来るもので、余程気をつけた方がいい。若い時に、順調に自立していき、男性とちゃんとして友情を作ることができた女性は、結婚後の人間関係を展開していくのが遣り易い筈だ。

 男性は男性ホルモンの影響を受けて、突出した才能を持ち易いものだ。しかし、その才能があっても、必ずしも出世に結びつくとは限らないのだ。才能を開花させていくためには、人間関係をきちんと処理していかねばならないのだ。この点、女性は女性ホルモンの影響を受けて、人間関係の処理の仕方が巧いものなのだ。

 妻が人間関係を巧く処理していけば、夫は自分の才能を思う存分発揮して、出世し出してくるものなのである。いくら育児をしているからといって、赤ちゃんのことばかり見ていると、夫の出世が不可能になっているということもあるのである。赤ちゃんだけでなく、夫のことにもちゃんと気を配ってあげることだ。妻の些細な努力で、夫は猛スピードで出世していくことが可能になるものなのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (8)

妊婦フレンドがいればママ友作りは怖くない

●妊娠中に妊婦フレンドを作るべし

 結婚すれば自分の付き合う友達は変わっていく。出産すれば自分の付き合う友達は変わっていく。実は結婚によって大きく変わるのが「友人関係」なのだ。結婚に至るまでは二人の世界で突き進んでもいいけど、結婚すれば結婚後の友人関係をきちんと築く必要性がある。独身時代の「のほほんとした性格」でいると、結婚生活は悲惨なものになるし、離婚へと引き摺りこまれてしまうのだ。自分の付き合う友達で、自分の結婚生活が左右されることもあるということは覚えておこう。

 多くの既婚女性たちは、結婚がドタバタとしているし、その後の妊娠や出産や育児も時間に追われるような忙しい形で行ってしまうために、気づいてみると、友達がいなかったということになってしまうのだ。そのため、育児がひと段落してから友達作りを開始するのだが、これが悲しいまでに巧くいかないのだ。新米ママ同士であっても、いきなり仲良くなれるわけがないのだ。

 友達作りは育児がひと段落してから行うのではなく、妊娠中から作っておくことだ。妊娠中に助産院などに行けば、他にも妊婦がいるのだから、そこで挨拶を交わして、会話をするようにすればいいのだ。そうすれば、自然と仲良くなって、妊婦フレンドとして成長してくるのだ。

 但し、この妊娠の段階では、話の共通項は「妊娠」のみである。妊娠のことしか話題にならないので、まずはそこでの話を卒なくこなしていくことだ。多少は妊娠のことを勉強をしておかないと、頭の悪い女性と思われて仲良くしてくれなくなってしまうのだ。母親学級などには必ず行くようにし、妊婦フレンドとの仲を良くしていくことだ。母親学級は母親になることを教えられるよりも、実は友達作りの方が大事な役割を果たしてくれているのだ。

 仲のいい友達ができたら、お茶をするなり、電話番号を聞き出すなりして、仲を深めていくことだ。間違っても助産院で挨拶する程度とか、仲がいいのに電話番号も知らないということにはしないことだ。これは致命的なミスといっていいのだ。妊婦フレンドがいれば、妊婦生活で様々な情報交換に役立つし、妊婦生活で多少問題があっても解決に役立ってくれるからだ。

 妊娠中に妊婦フレンドを作っておけば、出産後にもその妊婦フレンドとの仲を繋げておくことである。妊婦フレンドがいれば、ママ友を作り易くなるからだ。妊娠生活を孤独に過ごしてしまえば、出産後にいきなりママ友を作ろうとしても、人間関係をどのようにやっていたかすら忘れてしまうものなのだ。自分がどのような状況になろうとも、人間関係は維持しておくべきなのである。

●ママ友の作り方

 育児が始まると、最初の頃は育児に追われっぱなしの生活になってしまうものだ。こういう体験は新米ママにとって絶対に必要な時期なのである。問題はこの時期に余りにも適応し過ぎてしまい、気づいたら自分の周りに友達が一人もいなかったということがありえるのだ。いや、殆どの新米ママたちが経験することなのである。

 そこで慌てて友達作りを開始しようとし出すのだが、これが悉く失敗してしまう。なぜなら、友達作りは人為的に行うのではなく、自然発生的に作られてくるものだからだ。学校でも大学でも職場でも、人為的に友達を作ったような女性はいない筈だ。気づいてみれば友達ができていたというのが本当の所であろう。

 いくらママ友がいないからといって、無闇に育児をしている母親たちに声をかけるというのは非常に問題のある行為である。こういうことをやっても友達ができるわけがないのだ。赤ちゃんがいる以上、育児をメインに据えるべきであって、友達作りに精を出し過ぎるべきではないのだ。

 ママ友の作りの方があるというのなら、意図的にママ友を作ろうとしないことだ。友達は自然発生的にできると解っていれば、ママ友ができなくても、それはそれでいいと割り切ってしまうことだ。ママ友がいなくても、赤ちゃんがいるのだから、育児をして楽しんでいればいいのだ。

 かといって、何かの切っ掛けにママ友ができたのなら、絶対にその機会を見逃さないことだ。その機会を切り捨てているようであるなら、いくらママ友ができる機会が来ても、すべて切り捨ててしまうことを遣り出してしまうからだ。ママ友ができる時は一斉にできはじめるので、その流れに巧く乗ってしまうことだ。

●ママ友ができないから、孤独を楽しむこと

 生まれ育った場所で結婚したのなら、ママ友作りにはそう悩むことはないであろう。自分の周りには昔から友達がいるので、その友達の中にも結婚し出産し始める友達が出て来るので、昔どおりに仲良くしていけばいいのだ。問題となるのは、故郷を出て、異郷で結婚した場合なのである。この場合、結婚当初には友達が全くいないものなのである。

 結婚してから新築の家を建てた場合、周囲には友達は一人もいないのだ。夫の仕事が転勤を多くする仕事だと、転勤のたびに新たに友達作りをしていかなければならないという環境に置かれてしまうのだ。結婚は環境を大いに変えるのだから、友達がいなくなる状況が出て来るのは当たり前なのだ。そういう時は、まずは孤独に耐えることなのである。

 既婚女性に最低限の忍耐力がないと、結婚して幸せな家庭を築いたというのに、エホバの証人のような危険な新興宗教に洗脳されてしまったり、フェミニズム運動に参加して日本の社会を解体させようとし出してしまうのだ。淫祀邪教に走る既婚女性も、フェミニズムに走る既婚女性も、孤独に耐えるだけの忍耐力がなく、まともな友達がいないということでは共通しているのだ。だからこそ、誰かに洗脳されてしまうのである。

 ママ友がいなくても、それはそれでいいのだ。ママ友ができないなら、孤独を楽しむことだ。友達がいないから、自由時間はたっぷりとあるのだ。晴れた日は、親子で遊びに出かければいいのだ。余所の母親たちがグループを作っていても気にしないことだ。新米ママと赤ちゃんとで遊べば、自然と楽しくなっていくものなのだ。

 いくらママ友がいないからといって、自宅の中にいては息が詰まってしまうものだ。赤ちゃんを連れて遊びに行ける公園をいくつか確保しておくことだ。毎日同じ公園に行っていると飽きてしまうので、最低でも3つ以上の公園は確保しておくことだ。そうすれば気分が落ち込まず、ママ友がいなくても気にならないものになるのだ。

●なぜ公園デビューが恐ろしいものとなるのか?

 「公園デビュー」という言葉は、育児雑誌が作ったものだが、これほど育児の現実から離れた言葉もないのだ。新米ママが赤ちゃんを公園に連れて来て、他の母親たちの仲間入りができるということは、その新米ママも異常だし、仲間入りさせた母親たちの方も異常だろう。

 人間には仲間意識というものがあるので、仲間でない者に対しては激しく排除してしまうのだ。そうでなければ、仲間を形成することができないのだ。余所者をすぐさま入れてしまうような集団であれば、それは正常な仲間意識が形成されていないということなのである。正常な仲間意識があれば、赤ちゃんを連れた新米ママといえども、排除するのは当然のことなのだ。

 公園デビューという言葉を信じて、新米ママが母親たちの集団に声をかけて、仲間入りを試みた女性は多くいる筈だ。しかし、現実は無視されるのがオチなのだ。その集団は血も涙もない非情な人々ではないのだ。あなたも立場を入れ替えて、母親たちの集団の側に立ってみればいいのだ。或る日突然に見知らぬ女性が赤ちゃんを連れて話しかけてくるのだ。これほど恐ろしいものはないのだ。そういう見知らぬ女性をすぐさま自分たちの集団に入れるわけがないのだ。自分の赤ちゃんを守るためにも、見知らぬ女性を排除するというのは、当然の措置であるのだ。

 育児をしている母親たちが公園でたむろしている場合、最少単位が2人か3人である。大きくなっても、絶対に10人以上にはならない。母親の集団は一見、空席があるのではないかと思ってしまうのだが、実は余程のことがない限り空席はないのだ。大概が満席なのだ。仲のいい母親同士でつるんでいるために、集団内での人間関係がほぼ確定しているのだ。そのため、もしも余所者を入れた場合、その集団が分裂してしまう危険性も出て来てしまうのだ。だからこそ、暗黙の了解事項として、他の新米ママが来ても、新しく受け入れたりはしないものなのだ。

 既存の集団に入ろうとするのではなく、気の合うママ友を作り、そのママ友を軸に集団を形成していけばいいのだ。そしてその集団も或る程度の大きさに成れば、それ以上、大きくしないものなのだ。ママ友の集団というのは、限界があるものなのだ。小さな集団からこそ、仲間意識も強いし、余り変化のない育児の日々を楽しく過ごせるのである。

●ママ友を整理する日がやってくる

 ママ友が出来始めたら、どんどん増やしていけばいい。育児に関することで話し合うべきことはたくさんあるからだ。新米ママ同士なら育児の不安を解消することができるし、先輩ママなら育児の仕方を教えて貰うことができるものなのだ。どの母親たちも同じような育児をやっているわけではなく、どの母親たちも微妙に違う育児をしているものなのである。そういう違いを知っておくということは、自分の頭を柔軟にするためにも、絶対に欠かせないのだ。

 しかし、ママ友を増やしていくと、ママ友を整理する日がやってくるのだ。人間の友達作りには必ずこの過程を経ないと、よりレベルの高い友達作りができなくなってしまうのだ。ママ友を増やしていくと、中には「どうしても相性の悪い人」というのが出て来るのだ。その女性といると、なんか調子が狂い、不幸な出来事ばかりが続いてしまうのだ。相性の悪い女性は、問答無用で避けていくしかないのだ。

 それから「まともな育児の仕方を学ぼうとしない人」というのも整理せざるをえなくなってしまう。既婚女性は母親になれば、育児の仕方を必死になって学び始めるものだ。赤ちゃんの抱き方ひとつを取ってみても、母親にならなければ解らないことばかりなのだ。それなのに育児の仕方を学ぼうとせず、適当にやっている新米ママなら、その女性を排除せざるを得ないのだ。

 更に、自分と経済的格差が激し過ぎる人とも仲が続かなくなってしまう。母親同士というのは、大体似たような所得同士の者たちで仲良くなっていくものだ。「ちょっとお茶しよう」といって普通の喫茶店に行くのではなく、目ん玉が飛び出てしまうような金額の高級レストランに行くようであるなら、通常の母親たちはその人を避けてしまうことだろう。

 デフレ経済になれば、所得が低くてもそれほど生活が苦しくなるものではない。物価が下がっていっているために、少ない所得でも充分に生活できるからだ。しかし、自分たち夫婦が所得が少ないのに、億万長者の既婚女性とは付き合うことができないのだ。会話の至る所で金銭感覚の違いが出て来るので、話が盛り上がっていかないのだ。貧富の格差を解消しようと試みるのではなく、自分の生活レベルに合った既婚女性たちと仲良くなることだ。

●近所づきあいこそ、育児をしていく上で大事

 ママ友がいると、近所付き合いがスムーズに行くものだ。近所付き合いは決して軽視してはならない。近所付き合いは育児をしていく上で非常に大事なのだ。育児をしていて困った場合、役に立つのはご近所の人であるからだ。「遠くのママ友より、近くのママ友」といことは絶対に忘れない方がいい。

 近所付き合いは、都会と地方とでは異なるし、一戸建てとマンションとでは異なるものだ。地方であり、一戸建てであれば、近所付き合いは濃厚なものとなろう。都会であり、マンション暮らしであれば、近所付き合いは希薄なものとなってしまうものだ。育児で悲鳴を上げて来るのは、大抵が都会でマンションに住む母親たちだ。近所付き合いをきちんとしていないから、育児という現場で困り果ててしまうのである。

 自分が子供の頃は一戸建てに住み、結婚してからマンションに住む人は、その習慣の違いに注意した方がいい。一戸建てなら隣人と常に挨拶し、食事の余り物を分け与えたりするのは当然なのに、マンション暮らしならそういことをしないからだ。人間関係がドライといえばドライだし、そういことをしない分、自分の時間を大量に持つことができるのだ。その反面、隣人が殺人鬼だということもあるのだ。都会で殺人事件が多いのは、人間関係が希薄だからである。

 自分が子供の頃はマンションに住み、結婚してから一戸建てに住む人は、その都会的な習慣を絶対に改めた方がいい。一戸建てに住む人と、マンションに住む人とでは、物の考え方も、生活レベルも全然違うからだ。一戸建てに住むような人は、近所付き合いを大切にするので、必ず近所付き合いに応じておくことだ。これが育児の際には非常に役に立つのだ。一戸建てに住んでいるのに、近所付き合いをしないということは、いずれその家から立ち退くことにならざるをえなくなるのだ。一戸建てに住むということは、近所付き合いをきちんとするということでもあるのだ。

 同じ住宅街に住んでいれば、それほど経済的格差は生じないものだ。だからこそ、近所付き合いで付き合い人々は仲良くし易いのだ。ゴミ捨ての日や、近所で催し物がある時は、可能な限り出るようにしよう。そこでご近所の人と会って、ペチャクチャと喋っていれば、自然と仲良くなるというものなのだ。

●人間は住む場所で人間関係が決まってしまう

 日本はすべての地域が平等に作られているのではない。日本の各地は不平等であって、様々に違う様相を見せ、貧富の格差も激しいものなのだ。昭和憲法体制下では国会を国の最高機関と規定するがゆえに、国会のある場所が最も税金を集めてしまい、豊かになってしまうのだ。それゆえ東京都こそが日本の中で最も豊かな都道府県なのだ。東京が昔から日本で最も豊かであったとは思ってはならない。戦前は大阪府が最も豊かな都道府県であり、東京の経済力は大阪の経済力の3分の1しかなかったのだ。

 その反面、北海道や沖縄県といった辺境地帯では、経済力が乏しく、未だに国の開拓の対象であって、多額の税金が投入されるのだが、そのために北海道庁も沖縄県庁も腐敗してしまい、汚職は当たり前にようになり、統治能力が非常に弱くなってしまっているのだ。北海道や沖縄の自然の美しさに惑わされて、その土地の政治家や官僚たちが腐りきっていることを無視してはならないのだ。

 それから太平洋ベルト地帯では台風が毎年やってくるものだ。それゆえ、この地域に住むなら川沿いに住むべきではないのだ。河川が氾濫した場合、「床下浸水」「床上浸水」が起こるし、下手をすれば住んでいる家が流されてしまうからだ。洪水が起こってからでは遅すぎるのだ。住宅を選ぶ際には、洪水のことを充分に考えてから選ぶことだ。

 それから日本は地震多発地帯なので、地盤の緩い所に住む際は充分に気をつけることだ。現代の地図と昔の地図を見比べて、自分が住んでいる土地が埋立地でないか調査することだ。埋め立て地であるなら、地盤が緩いので、地震が起こった場合に、最大級の被害が出て来るものなのだ。可能な限り、地盤が固い場所に住むべきだし、耐震設計をきちんと施した住居に住むことだ。

 日本全国はどこでも不平等に出来ているのだから、「裕福な地域」と「貧しい地域」があるのは当たり前のことなのだ。経済力が許す限り、裕福な地域に住むことだ。裕福な地域であるなら、民度も高いので、育児が非常にし易いのだ。家族が引っ越す時は、適当に決めるべきではないのだ。人間は住む場所で人間関係が決まってしまうものなのだ。

●新興宗教での母親同士の結びつき

 明治維新以降、日本は近代化に突入し、国民たちの多くが移動を繰り返していった。江戸時代のように一箇所に定住することで終わってしまう人生ではなくなったのだ。しかし、この国民の移動が起これば、当然に人間関係が希薄になってしまい、人心が殺伐としてしまい、人間として最低限の倫理すら崩壊してしまうものだ。

 その危険性を食い止めたのが、実は新興宗教なのだ。明治維新以降、新興宗教は雨後の筍の如くに大量発生して、世の中の急激な変動から溢れた者たちを吸収していったのだ。日本の知識人たちの多くは社会主義に洗脳されているので、宗教を否定的に扱い、「日本人は無宗教」と言う現実離れをした言動を吐くものだが、彼等の目にはこれほど数多くある新興宗教団体が目に入らないのだ。

 既成宗教と新興宗教には決定的な違いがある。それは既成宗教では最早「消えた信仰」になっていまっているが、新興宗教には「燃えるような信仰」があるということだ。勿論、その異常な信仰はその宗教と関係のない人々から見れば奇異に映るかも知れないが、燃えるような信仰があるために、信者同士が強烈な結束を作り出して行くのだ。

 新興宗教団体がなぜ成長するかといえば、それは母親同士の結びつきがえ得られるからなのである。既成宗教ではこの母親同士の結びつきが得られないのだ。あくまでも聖職者と信者の関係になってしまうのだ。見知らぬ人であっても、「私はどこそこの信者ですよ」といって、すぐさま仲良くできるのは、横の繋がりを大事にする新興宗教団体ならでは現象なのだ。

 新興宗教団体のすべてがいいというわけではない。中にはカルト教団があって、信者に対して洗脳を施す教団もあることだろう。そういう教団に入ってしまえば、御利益をがあるどころか、お金のすべてを奪われてしまい、家庭までは崩壊してしまうことになるであろう。カルト教団とそうでない教団を見分ける重要なポイントが、横の結びつきを認めないか、認めるかの違いにあると見ていい。

 新興宗教は常に否定的に見られてしまうが、それではなぜ新興宗教が勢力を強めることができるかとえば、それは国民の要求に応えているからなのだ。これに対して既成宗教は既得権益に胡坐をかいているだけなのだ。既成宗教の中でも、最早死んでしまった宗教を見極めたければ、参拝するのに参拝料を取る教団があれば、その宗教は最早死んでしまった宗教であるのだ。生きている宗教なら、参拝料など決して取らないものなのだ。

 日本では新興宗教団体の競争が激しいために、キリスト教の教団は勢力を伸ばせずにいる。日本のプロテスタントでは日曜学校は最早事実上崩壊してしまっているほど、信者が激減しているのだ。母親同士の結びつきを得られるということでは、キリスト教の教団は失格なのだ。どのキリスト教の教団も女性が重要な役職に抜擢されていることがないことでも、その失態は明らかになるのだ。

 新興宗教団体が勢力を伸ばしていくためには、母親同士の結びつきを得させるだけでなく、教団が母親たちの支援をできるか否かが、教団の成功の分かれ道となるのだ。育児に支援金を与えたり、保育園を整備したり、家政婦を派遣できるようにしていかなければならないのだ。これには莫大な資金がかかるために、勇気を以てこの分野に大量の資金を投入できれば、その教団は勢力を拡大していくことになるであろう。

●人間関係限界理論と人間関係変動理論

 人間は無制限に友達を作っていくことはできない。人間には人間関係を展開することに限界があるのだ。人間関係限界理論によれば、人間は親友を作るのには限界があり、一生の中でせいぜい「3人」というのが平均的な値なのだ。普通の人であるなら、高校生の時に1人、大学生の時に1人、社会人になってから1人なのだ。

 出産して幸せな人生を送るためには、育児をしながら、もう1人親友を作っていくことなのだ。勿論、出産する以前からいる親友がそのまま親友になってくれれば有難い。しかし、現実は出産してから新たな親友を作るということをしていかなければならないのだ。育児で幸せを実感できる既婚女性は、育児をしている最中に親友を作ることができ、それによって育児の苦しみが激減してしまい、育児が楽しくなっていったのだ。

 これに対して、育児で苦しみしか実感できない既婚女性は育児をしながら親友を作ることができず、そのために育児の苦しみが激増してしまい、育児に悦びを見出せなくなってしまったのだ。だが、これには人間関係限界理論から言えば当然の出来事なのである。もしも女性が大学に進学し、社会人となって働けば、親友を作る機会をすべて使い切ってしまい、最早、親友を作る機会が残っていないのだ。人間は自分の人生の中で親友を作り切ってしまうと、もうそれ以上、親友を作ろうとはしなくなってしまうのだ。

 親友を作ることに越したことはないが、もしも親友を作ることができなかったら、人間関係変動理論を適用して、友達を変えていくことをしていけばいいのだ。人間は友達を変えて行かないと成長できないので、育児で出会える様々な出会いを利用して、友達を多く作ることで、自分を成長させていけばいいのだ。

 ママ友作りの理想形は、出産してから親友を作り、友達を変えることによって成長していくことなのだ。いくら親友と仲がいいからといって、友達を多くしていかないと、人間はなかなか成長できないものだ。かといって、友達を多くしていっても、親友がいなければ寂しいものだ。みんな友達と考えるよりは、人間は限られた人としか友達になることができないと思って、友達を大切に扱っていくことだ。

●赤ちゃんを産むと人間関係が広がり、そして深くなる

 赤ちゃんを産むと、人間関係は広がっていくものだ。そして深くなっていくものだ。赤ちゃんがいるだけで、友達が増えていくのだ。見知らぬ既婚女性となら、共通の趣味がなくても、育児の会話ができてしまい、すぐさま仲良くなることができてしまうものなのだ。赤ちゃんを産み育てた既婚女性の話が奥深いのは、この人間関係の広がりがあるからなのだ。

 これに比べて、独身女性というのはいくら活躍しても、人間の底の浅さをなくすことはできないのだ。女性としなければならない「妊娠」「出産」「育児」をしてないと、どうしても精神レベルが上がらず、人間として奥深さが出て来ないのだ。いくら結婚をせず、仕事をしていても、或る年齢を過ぎてしまうと、同じような友人たちに固定されてしまい、いつも通りの日々を送るようになってしまうのだ。結婚せず、赤ちゃんを産まないと、新たな人間関係は展開していかないのだ。

 男性には妊娠や出産ということができないために、友達作りはビジネス中心のものになってしまう。だからといって、女性が男性の真似をして、ビジネス中心の友達作りをしていけば、寂しい人生になってしまうのは当然のことなのだ。女性だからこそ、妊娠や出産や育児を通じて、友達を作っていくからこそ、幸せな人生になっていくものなのだ。

 友達はいきなりできるものではないのだ。結婚し、引っ越しをして、新天地に住もうものなら、友達など全くいないものだ。しかし、そういう時は焦って友達を作るのではなく、孤独に耐えることだ。未来の友情を温めるためには、孤独の時期が必要なのである。孤独にきちんと耐えることができる人だからこそ、その後、友達が出来始めるのである。

 ママ友作りは適当に進めていくのではなく、できることなら親友を作っていくことだ。親友が居れば、深い人間関係を築いていくことが可能になるのだ。そしてできるだけ友達を増やしていけばいいのだ。去年よりも今年、今年よりも来年に、友達が増えていれば、あなたは成長したことになるのだ。逆に友達が増えていなかったり、減っていたりすれば、あなたは成長していなかったことになるのだ。育児を楽しいものにしたければ、せっせと友達を増やしていくことだ。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

年賀状や書中見舞いに赤ちゃんの写真を載せない

●その夫婦にとっては出産がビッグイベント

 初めての赤ちゃんが生まれた夫婦にとっては、その出産と育児はビッグイベントなのだ。夫婦として初めての体験であるがゆえに、その体験は強烈なものとなり、夫婦の絆を強くするものだ。だからといって、自分たちの経験のインパクトをすべての人々が共有するわけではないのだ。

 赤ちゃんが生まれてしまうと、夫婦の中には年賀状や暑中見舞いに赤ちゃんの写真をデカデカと載せる夫婦たちが出て来る。この手紙を貰った人は「一体誰のものだろう?」と不思議がり、差出人の名前を見て、初めて差出人を理解することになる。これほど年賀状や暑中見舞いとして相応しくないものは他にないであろう。

 その夫婦にとっては生まれたての赤ちゃんは可愛いが、しかし実際の生まれたての赤ちゃんはそれほど可愛いものではないのだ。人間の赤ちゃんは未熟児状態で産まれてくるので、生まれたては人間の赤ちゃんとは思えないグロテスクな顔になっているものなのだ。赤ちゃんが可愛くなるのは、生後6ヵ月辺りからなのである。首が据わり、多少は筋肉がつかないと、客観的に赤ちゃんは可愛くないのだ。

 「年賀状や暑中見舞いは夫婦の好みで出しても構わないでしょ」と言いたくなるだろうが、この手の年賀状や暑中見舞いを出す夫婦は、年賀状や暑中見舞いを貰った人のことを考えてはいないのだ。年賀状はあくまでもその年1年間仲良くして貰うために出すものだし、暑中見舞いは猛暑でも元気に過ごして貰うために出すものだ。何も自分たち夫婦の出産報告ではないのだ。

 俺は年賀状や暑中見舞いに赤ちゃんの写真を載せて来るような既婚男性には大した能力がないと思っている。年賀状にしても、暑中見舞いにしても、僅か50円という格安の値段で人間関係を維持できる優れた道具なのだ。これを巧く利用して、人間関係を維持し発展させ、ビジネスチャンスに繋げるというのが、出来る男の遣り方だからだ。そのことが解らなければ、いくら仕事で努力した所で、大した能力を発揮することはできないのだ。

●赤ちゃんの写真は身内だけにする

 昔は年賀状や暑中見舞いは手書きでしなければならなかったために、非常に手間のかかるものであったが、現在ではパソコンで大量に印刷できてしまうものなのだ。それゆえ、すべての年賀状や暑中見舞いを1つの形式で印刷するのではなく、これは「ビジネス用」、これは「友達用」、これは「身内用」と、せめて3種類くらいに分けることだ。

 このうち、身内には赤ちゃんの写真を使ってもいい。親戚たちに赤ちゃんができたことを報告するのは、親族としての義務だからだ。親戚たちにとっては新たな仲間が加わったと思うことだろう。だから、赤ちゃんの写真を使うことにはちゃんとした意味があるし、その写真を使えば有効なのだ。

 これに対してビジネス用は、あくまでもビジネスを展開していく上で、仲良くして頂くものだ。それゆえ、赤ちゃんの写真など使わずに、相手のことを気遣い、「今後とも宜しくお願い致します」ということが伝わる内容であればいいのだ。ビジネスをしている以上、年賀状は来て当然と思う所があるが、暑中見舞いは来てくれると嬉しいものだ。特に中高年になると、夏の暑さが辛くなってくるので、そういう時に若い人から暑中見舞いが来ると嬉しくなるものなのだ。暑中見舞いを貰った相手は、今後、差出人を大切に扱ってくれることになるのだ。

 年賀状や暑中見舞いで友達向けのものは、或る程度整理した方がいい。結婚すると、以前からの友達づきあいが減ってしまい、妊娠や出産や育児を通じて新たな友達が出来始めるからだ。親友でもない限り、昔の友達は減っていくものなのだ。やはり自分たち夫婦に赤ちゃんができた以上、赤ちゃんのいる夫婦たちと仲良くなっていくのは当然のことなのだ。

 「友達用」は一律にしてしまうのではなく、使い分けた方がいいだろう。特に親友に送る年賀状や暑中見舞いを他の友達と同列の物にすべきではないだろう。赤ちゃんのいる友達には、赤ちゃんの写真を使って、互いの赤ちゃんの成長を祝福しあうべきだろう。しかし、夫の男友達には赤ちゃんの写真など必要ないだろう。男同士での連絡の仕方というものがあるからだ。

●年賀状や暑中見舞いはビジネスチャンスのために使用しろ

 結婚をしているなら、これだけは覚えておいた方がいいのは、年賀状や暑中見舞いは単なる挨拶ではないのだ。年賀状や暑中見舞いはビジネスチャンスに繋がる大事な道具なのだ。単なる挨拶なら、書かない方が増しなのだ。相手にインパクトがあるような物にすることだ。

 男性は美的センスが鋭い人を除けば、こういうことに関しては苦手なのだ。それゆえ、ここは妻の出番なのだ。妻が前以て計画し、目立つ葉書に仕上げてしまうことだ。女性脳をフル稼働させて、いかにも美しく、そしてインパクトのある葉書を作ってしまえばいいのだ。色は単色にするな。カラフルにさせよ。できることなら、光らせよ。人間は光る物にインパクトを感じるようにできているのだ。

 年賀状や暑中見舞いで記憶に残るものは、その既婚男性の奥さんが書いたものばかりだ。男性が結婚すると出世し出すのは、こういう作業を妻が担当してくれるからなのだ。仕事で疲れきっている以上、年賀状や暑中見舞い作りに充分なエネルギーを回せないものなのだ。仕事をしていない妻がやってくれるからこそ、仕事が忙しいのに、年賀状や暑中見舞いが充実してくるのである。

 年賀状や暑中見舞いは差出人は投函してしまったら、奇麗さっぱりと忘れてしまっているものだが、それを貰った人は意外と覚えているものだ。特に年齢が上がれば上がるほど、礼儀作法をチェックするようになり、きちんとした年賀状や暑中見舞いが届くと、「この男はやるな」という評価を下して、その後、仕事で抜擢しようとするのだ。

 年賀状や暑中見舞いは書くのが面倒臭いがゆえに、書いている時は面倒だなと思うものである。しかし、送らねばならぬ年賀状や暑中見舞いがあるうちが花なのである。人間は仕事を引退してしまえば、急激に年賀状や暑中見舞いが減ってしまうものなのである。だから、書くのを苦痛に感じても、せっせと取り組んで、人間関係を豊かにしていくことだ。

●男子たるもの家庭のエネルギーを注ぎ過ぎるな

 政府が男女共同で育児に取り組むことを強制し、男女双方に育児休暇を認め、その法律を施行したのだが、実際には、既婚男性で育児休暇を取ったのは1%にも満たないのだ。これに対して既婚女性で育児休暇を取ったのは9割以上に及ぶのだ。これこそが国民の解答なのである。

 結婚は決して男女平等では動かないのである。結婚は男女不平等が当たり前で、育児は既婚女性を中心になって行われるのである。既婚男性は育児にとやかく手を出すのではなく、仕事に精を出して、生活費を稼ぐことにエネルギーを集中させるのである。間違っているのは男女平等に取りつかれた政府の方であって、男女不平等を実行している国民の方ではないのだ。

 男子たる者、家庭にエネルギーを注ぎ過ぎてはならないのである。人間のエネルギーには限りがあるのだから、家庭にエネルギーを注ぎ過ぎれば、仕事に充分なエネルギーを回せなくなり、仕事で手柄を立てることができなくなってしまうのである。そうなれば「あいつは使えない男だ」というレッテルが貼られ、出世などできなくなってしまい、給料があがらなくなってしまうのだ。

 結婚しているなら、妻に任せられることは任してしまえばいいのだ。妻は家事も育児も得意なものなのである。妻に家事や育児を任せれば、自然と妻の能力が高まり、妻が妻として成長してくるのだ。夫が家庭内にいちいち手を出していたら、妻の能力が高まらなくなり、妻が妻としての責任を果たそうとしなくなってしまうのだ。

 その代わり、妻が何かを依頼してきたなら、可能な限りやってしまうことだ。その頼まれた作業は、妻ならできる作業なのである。しかし、妻がやっているのに、家庭内でゴロゴロされると、無性に腹が立つだけなのだ。こういう場合は、素直に応じておくと、妻が怒らなくて済み、それをきっかけに夫婦仲が深まるものなのだ。

 年賀状や暑中見舞いはその夫婦が一体どのような状況にあるかが、明白に解ってしまうものなのだ。赤ちゃんの写真を載せてくるような既婚男性は、妻の管理がまだまだなのである。妻を管理することができないような既婚男性に大きな仕事など任せられないものなのだ。妻としては出産の喜びが非常に大きいから、それをすべての人々にも味わって貰いたいと思っているのだが、そういう行為が夫の出世を台無しにしているのだ。夫を出世させたければ、三歩下がり、夫を立てることである。夫が仕事で活躍してくれるからこそ、自分は出産の喜びを味わえたし、育児の喜びも味わえたと思えれば、まともな年賀状や暑中見舞いを作り、送ってくるものなのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

出産祝い金を貰ったら、必ず礼状を書く

●有難い出産祝い金

 育児で苦労するのは、出産時に一時的にお金がかかるからなのである。その急激な出費が家計を狂わしてしまい、その後、ズルズルと家計を火の車にしてしまい、経済状況が最悪な状態で育児をしなければならなくなるからだ。だからこそ、出産前から家計簿をつけて、家計を管理するすることが大事になってくるのである。家計簿さえつけれいれば、事前に出産費用を積み立てることができるので、出産や育児でお金に困らなくなり、出産後の家計を安定化させることができるからだ。

 家計簿の重要性は金持ちだろうが、貧乏人だろうが、全く変わることはない。金持ちでも家計簿をつけなければ、家計は火の車になるし、貧乏人なのに家計簿をつけなければ、一家離散が確実なものになってくるのだ。冷静に考えれば、出産費用も育児費用もそんなにかかるものはないのだ。しかし、一度にその金額を纏めて請求されれば、大金に見えてしまうだけのことなのだ。だからこそ、赤ちゃんが生まれる前からコツコツと貯金していけば、その金額はすぐに貯まってしまうものなのだ。

 現実は家計簿をつけない既婚女性が大半だから、出産時に貰える「出産祝い金」こそが急激な出費を乗り切るために重要なお金となってくるのだ。女性が生きている中で貰うお金で、自分が働いて稼いだお金以外で、これほど嬉しいお金は他にないであろう。女性にとって出産は命懸けの行為であって、その後に出産を祝ってお金が貰えるというのは、本当に有難いのだ。

 その夫婦に親戚や友人が多いと、この出産祝い金を合計すると、簡単に出産費用を上回ってしまうのだ。これで家計が狂ってしまうことがなくなるのだ。親戚や友人が少ない夫婦でも、出産祝い金が出産費用ほどにはならなくても、出産費用を出費することにそれほど苦痛にはならなくなるものだ。

 赤ちゃんを産んだのなら、赤ちゃんを連れて顔見世興行に行くことだ。親戚や友人たちの所を回って、出産祝い金を貰ってくるのだ。こういうガメついことをやっておかないと、折角貰えるお金が貰えなくなってしまうものなのだ。そして出産祝い金を出してくれた親戚や友人たちは、今後の人生で大切にした方がいい。こういう時にきちんとお金を払う人こそ、いざという時に大切にしなければならない人たちだからだ。

●礼状を書く習慣

 出産祝い金を貰ったら、そのままにしておいてはならない。出産祝い金を貰ったら、必ず礼状を書いて、感謝の意を現わしておくことだ。感謝の言葉を口に出しても無駄だ。感謝の言葉は必ず文章で残すことだ。言葉は消えてしまうものなのだ。文章だから残っていくのである。出産祝い金を出した方にとっては、祝い金を出した後日に、礼状がくれば嬉しいものなのだ。

 礼状を書くのを面倒臭いと思うな。出産祝い金に対するものだけでなく、今後、結婚していれば、礼状を書く機会は何度もあるので、筆マメになることだ。夫の仕事関係で、実際に礼状を書くのは妻の仕事なのだ。その妻が筆マメになってくれると、夫は妻を安心して使えるようになり、仕事の負担が軽減するのだ。それゆえ、妻と一緒に居る時は妻を大切にしようと仕出すし、仕事で疲労し尽くして帰ってくるということがなくなるのだ。

 礼状を書く時は絶対にテレビを消すことだ。礼状を書くと、その書いた人の念力が礼状に入り込むために、真剣になって書くとその念力が強くなり、その礼状を貰った人は感動するようになるのだ。テレビを見ながら雑念だらけで礼状を書くと、その雑念が礼状に入り込むために、その礼状を貰った人にうざがられるだけになってしまうのだ。

 礼状を書くのを溜め込んでしまえば、礼状を書く時間が長くなってしまう。そのため、礼状は出産祝い金を貰ったその日にしてしまうようにし、すぐさま投函 してしまうことだ。そうすれば礼状を書くことが面倒臭いことにならないし、出産祝い金を出した方もすぐさま礼状が貰えるので、その感謝の意を覚えて貰えるようになるのだ。

 すぐに礼状を書くためにも、自宅には常に「官製はがき」「便箋」「封筒」「切手」を用意しておくことだ。自宅にそれらがあればすぐに書けるものなのだ。いざ書こうと思っても、自宅に葉書や便箋がなければ、書く意欲は減少してしまい、そのうち書く機会を失ってしまうものなのだ。

 いくら携帯電話のメールやパソコンのメールがあったとしても、それで感謝の意を伝えないことだ。こういう時代だからこそ、敢えて葉書や封筒で届くということに意味があるのだ。通常の連絡はメールでしても構わないが、大事な用件であるなら、葉書や封筒で行うべきなのだ。

●出産ラッシュの時に備えよ

 出産祝い金を貰うということは、こちら側も誰かが出産すれば出産祝い金を出さねばならないということだ。まずは自分たち夫婦に出産祝い金をくれた人たちをリストアップしておき、その人たちには必ず出産祝い金を渡すことだ。こちら側が出産祝い金を貰ったのに、その相手に出産祝い金を出さなかったから、これほど無礼なものはないのだ。自分たち夫婦はうっかり忘れていても、出産祝い金を貰わなかった夫婦はいつまでも根深く覚えているものなのだ。

 現実問題として、出産祝い金をどの人に出せばいう線引きは非常に困るものなのである。親戚でも日頃から会っている親戚には出せるが、滅多なことでは会わない親戚に出していいものか悩むものなのだ。遠縁の親戚でも実は有力者だったり、その親戚がこちら側と仲良くしたいのに仕事の関係で会えないだけということもあるからだ。友人でも親しい友人なら快く出せるが、もう殆ど会っていない友人だとか、仕事上の上辺の付き合いだとか、どこで線引きすればいいのか非常に難しいものなのだ。

 こういう時は自分本位で考えるのではなく、相手の立場になって考えることだ。相手が自分から出産祝い金を貰ったら本当に嬉しいのかを考えればいいのだ。余り嬉しいのではないなら、切り捨ててしまうことだ。相手が嬉しいのであるなら、思いっ切って渡してしまうことだ。ここいらの線引きは常識の範囲内でやることだ。絶対に闇雲に出すべきではないし、かといって切り捨てすぎるのも問題だ。あくまでも自分たち夫婦の人間関係が今度巧く行くように配慮すればいいのだ。

 20代や30代では誰もが出産の時期を迎える。そのため、給料をすべて生活費で使ってしまうのではなく、家計は必ず繰越金を残しておくことだ。その繰越金の中から、出産祝い金を出すようにすることだ。こうすれば生活費を圧迫させずに、出産祝い金を出せることができるのだ。

 友人の間で出産ラッシュになると、出産祝い金が飛ぶように出て行くものだ。こういう時はお互い様と思って快く出してしくことだ。出産で一時的に家計が苦しくなるのは、どの夫婦も同じなのだ。その際にきちんと出産祝い金を寄越しておかないと、いくら仲良くして、どこかで敬遠されてしまうことになってしまうのだ。

 サラリーマンだと出産祝い金は必要経費に成らないが、自営業者だと出産祝い金を必要経費で落とせるのだ。これは自営業者の仕事の有難味なのだ。自営業者は必要経費で落とせるために、出産祝い金をポ~ンと心地よく出していくものだ。そのために人脈が増え、その人脈を辿っていくと、ビジネスチャンスが見つかり、出産祝い金とは比較にならないほどの大金を得ることができるのだ。

 俺が夫婦でプライベート会社を設立することを勧めるのは、この必要経費を使えるためなのだ。その夫婦の出産祝い金を会社の必要経費で落とせば、生活費を圧迫しなくて済むし、それどころか出産祝い金を出したことでビジネスチャンスを掴むことができるからだ。そうなれば自分たち夫婦があっという間に億万長者になっていくものなのである。

●この世は持ちつ持たれつ

 政府に社会保障の充実を要求し、出産費用や育児費用をすべて賄って貰うというのは、非常に危険な発想だ。政府がそういことに手を出してくれば、税金が非常に重くなるし、政治家や官僚がその仕事の中で汚職をし始めるからだ。政府が本来やるべきではない仕事に手を出すと、必ず政治家と官僚の汚職が始まるものなのである。

 政治家に社会保障の充実を訴えるような既婚女性たちは、人間関係が希薄なのだ。結婚すれば人間関係が広がっていくので、出産すれば出産祝い金が大量に届くものなのである。それが起こらないということは、その既婚女性がちゃんとした友人を持っていないということなのだ。

 政府に不平不満をぶつけることで、人為的に仲間を作っているにすぎないのだ。こういう人たちは精神的に自立していないし、まともな友情も持ち合わせていないものだ。赤ちゃんがいる新米ママがいくら政治のことを言っても無駄なのである。それよりも政府に頼らず、自分たち夫婦の力で赤ちゃんを育てていくことだ。そういう独立心の強い親から育てられれば、赤ちゃんはスクスクと健康に育っていくものなのだ。

 この世は持ちつ持たれつなのだ。お金が必要になったら、お金は持っている奴が出せばいいのだ。そういう人間関係を日頃からきちんお築いておくことだ。政府が社会保障を充実させればさせるほど、国民一人一人が人間関係を大事にしなくなり、いざという時に困窮してしまい、何もできなくなってしまうのだ。

 いかなる世の中にあっても、優れた人物というのは、独立自尊を確立し、自助努力と相互扶助を惜しまないものだ。そういう人物が多ければ多いほど、その国民は富み、強く、世界史の担い手になっていくものだ。逆に社会保障が整備されている国家ほど、国民の多くが精神的な自立すら果たしておらず、自助努力をせずに不平不満を垂れ、相互扶助をすることなく、自己中心的で卑劣な生き方をするものなのだ。自分たち夫婦が出産しても出産祝い金が貰えなかったら、それは世の中や政府が悪いのではなく、自分たち夫婦が希薄な人間関係しか築いてこなかったということなのである。日頃からちゃんとした人たちとちゃんと友情を築き上げ、自分たち夫婦が出産したら出産祝い金を貰えるような仲を作り上げておくことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

氏族で氏族会を作る

●年に1度は親戚との付き合いを必ずしておく

 子供の頃から親戚づきあいをしていくと、その子供はグレないという。確かにその通りで、思春期になって手のつけられないようなグレ方をするのは、決まって親戚づきあいをしないか、少ないかの家庭で育った人たちであった。子供の頃や青春時代に一番知りたくなるのは、「自分の血のルーツ」であって、この自分の血のルーツを確認できないと、人間は有り得ないくらいに凶暴になってしまうのだ。

 更にいうなら、親戚同士では「長幼の序」がしっかりと形成されているために、自分が反抗期に入って両親に反抗し出したとしても、親戚たちにまで反抗することはないので、反抗期を迎えても、意外と大人しい反抗になってしまい、そのうち反抗が消え、その青春の有り余るエネルギーを自分の夢に投入しすることができるようになるのだ。

 ところが、この世には親戚巡りを嫌がり、自分の世界に閉じ籠ってしまう人たちもいるものだ。そういう人たちは、「近代的自我の確立」とか、「個性の尊重」とか、「個と集団の対立」などと訳の解らないことを言い出してくるのだ。どんなに難しい学術用語を使ったとしても、要は子供の頃に親戚巡りをしてこなかったために、精神的な自立を成し遂げることができず、その不満を社会にぶつけているだけなのだ。だが、社会にいくら不満をぶつけても、精神的な自立は絶対にできないのだ。

 親戚巡りはやってみると面倒臭いものなのである。手ぶらで訪問するわけにはいかないから、何か手土産を持っていかねばならないし、親戚との会話などテンポが遅いし、丁々発止とはいかないものなのである。親戚同士が集まると、低俗ではないが、下らない話をするものだ。それでも自分の子供たちを連れて親戚巡りをしていると、子供たちはそれを楽しんでいるし、子供を種に話が盛り上がり、親戚同士の仲も更に良くなっていくのである。

 友人は確かに大切だ。しかし、土壇場になった時、友人は意外と役に立たないものだ。もしも将来、自分たち家族に何か重大な問題が発生した時に、役に立つのは親戚たちなのだ。勿論、日頃から親戚同士の付き合いをきちんとこなしておかないと、役立ってはくれないだろうが、「血は友情よりも濃い」ものなのである。親戚は役に立たないようで、非常時には役に立つのだ。

 農村や漁村に住んでいれば、親戚との付き合いの重要性は解ることだろう。しかし、都会に住んでいると、親戚との付き合いをしなくても、別に困ることはないのだ。それゆえ、いざという時に、親戚の力を借りることができないし、自分の子供が有り得ないようなグレ方をしてくるのだ。都会で未成年者の凶悪犯罪が発生してくるのは、その犯罪を犯した少年の両親が親戚づきあいをしてこなかったからなのである。

●氏族会の必要性

 都会に住めば、農村のように自然発生的に親戚づきあいができるとは思わない方がいい。親戚同士の距離が離れているのだから、人為的に交流を持ち続けないと、呆気なく壊れてしまうからだ。そして一度でも親戚同士の関係が破壊されてしまうと、それを復活させるのは非常に困難なことになるのだ。

 そのためにも、「氏族会」を作って、氏族を束ねておくことだ。氏族会の目的は、まず氏族内での定期的交流の確保である。氏族会があれば、個別に親戚巡りをするのではなく、一度に全員を集めてしまえばいいのだ。そうすれば、億劫な人でも参加させることが可能になり、それを切っ掛けに親戚同士の仲が深まっていくのだ。

 氏族会はその他にも、「氏族の名簿作り」や「墓地の共有」や「家系図の確保」といった個人の力では困難な仕事をやって貰うと、氏族内の人々は非常に便利になるのである。例えば、今度引っ越すことになったのだが、新天地で遠い親戚がいれば、その人からその土地の情報を貰え、仕事で成功し易くなるのだ。墓地にしても、バラバラに存在していたら墓参りも面倒になってしまうが、集中して墓地を作ってしまえば、一度にすべての墓に参ることができるのあ。家系図にしても、自分たち家族の直系の家系図は作れても、傍系の家系図など書き切れるものではないのだ。自分で調べて家系図を作ると、とんでもない労力と時間を費やしてしまうのだ。それが氏族会にきちんと家系図が存在していれば、その労力と時間を節約でき、他のことに痞えるのだ。

 氏族会は小さければ、「法人格なき社団」として活動していればいい。氏族会で代表者を選んで、その人の名義で財産を所有していればいいのだ。しかし、氏族会も大きくなってくると、何かと不便が生じてくるので、その時は、「財団法人」にするなり、「社団法人」にするなりして、法人格を取得してしまうことだ。法人格を持っておけば、税制面での優遇措置を得ることができるし、財産上のトラブルが激減するのだ。

 氏族会は成人した氏族全員に投票権を持たせることだ。代表者を選ぶのは、世襲ではなく、代表者として適した能力のある人物を選挙で選ぶことだ。代表者にしろ、理事たちにしろ、それらはすべて男性を選ぶことだ。氏族会で女性が代表者になったり、理事になったりすると、氏族内がごちゃごちゃになってしまい、崩壊してしまうのだ。氏族はあくまでも男系相続で成り立っているので、基本的には余所者である女性が氏族会を動かしてしまうと、男性たちが氏族会で活躍しなくなってしまい、そのうち脱落していってしまうのだ。

 女性には監査役の仕事を与えて、会計を監査させればいいのだ。氏族会内部で揉めることがあるとしたら、それは必ず不正な金の流れを伴うので、このような事態が起きないように、女性に監視させればいいのだ。氏族会での重要な話し合いには絶対に口を挟まないことだ。自分の不注意な発言のために、夫もろとも氏族会から追放されてしまうことだってあるのだ。

●氏族会に或る程度の資金を持たせる

 氏族会の資金は、基本的には氏族会のメンバーから会費を徴収していくしかない。もしも氏族会のメンバーに裕福な人がいれば、その資産を割いても貰い、氏族会の資産として組み入れてしまうことだ。こうすれば財政的に安定化することができ、資産を運用して資産を増やしていけばいいのだ。

 氏族会の資金は氏族会の運営に使われるととも、「冠婚葬祭での資金援助」にも使用される。出産は一時的に費用がかさむために、そういう時に氏族会から出産祝い金を貰えば、金銭的な苦労がなくなるものなのだ。それ以外にも子供の進学祝いなどにも、少しでもいいからお金が貰えれば、家計を苦しくさせなくて済むのだ。

 氏族会での資金は可能な限り備蓄しておくことだ。その貯まったお金を「緊急時での資金援助」として使えばいいのだ。災害に罹災した場合、氏族会から資金援助を受ければ、早くに災害から立ち直ることができ、仕事を再開することが可能になるのだ。お金がないばっかりに、避難所暮らしをいつまでも続けていたら、労働力の無駄でしかないのだ。そんなことをしていたら、益々貧しくなっていくだけなのだ。災害時には政府や地方自治体は応急処置を施してくれるが、それ以上のことはやってくれないものなのだ。政府や地方自治体に甘えるのではなく、平時から氏族会を作って、災害に備えておくべきなのだ。

 もしも氏族内で起業する者が出て来たのなら、起業資金を無利子で貸してあげることだ。会社というのは、起業する時に、最もお金がかかるものなのだ。どの起業家も最初の資本金で苦労するものなのだ。それゆえ、起業家に資金を無利子で貸してあげて、ビジネスチャンスを掴ませてあげるのだ。そしてその起業家が事業を成功したのなら、利益を折半することだ。そうすれば氏族会としても、ただ単に金を貸すよりも、高い利益を得られるし、起業家の方も利息の支払いで苦しむことがなくなるのだ。

 氏族会で問題が起こるとするなら、必ずお金の問題なので、お金のことに関しては、絶対にクリアにしておくことだ。予算や決算、繰越金はいくらで、資産はどのくらいあり、そして会計検査報告書をきちんと正確に公開していくことだ。決して裏金を作ったりしないことだ。裏金を作り出したら、会計が滅茶苦茶になってしまうからだ。氏族会のお金で不正を働いた者には、必ず多額の罰金を科して、二度と起こらぬようにしておくことだ。

●氏族内でのビジネスチャンス

 氏族会というのは、ただ単に親戚同士の集まりではないのだ。氏族会の内部で交わされる何気ない会話が巨万の富をもたらすことだってあるのだ。或る人にとってはこれをやれば儲かるんだけど、今は仕事で忙しい場合、氏族会の他のメンバーに勧めれば、その者がビジネスチャンスを掴んで、大成功するということだってあるのだ。

 氏族会の凄さは、氏族の中で一人が成功し始めると、続々と成功し始めるということなのである。自分では無理だろうと思っていても、親戚たちが成功し始めてしまえば、「俺にもできるんじゃないかな」と思うようになって、自分の限界を突破していくことになるのだ。人間は群生動物なので、こういうことが起こってしまうのである。自分一人で努力しても、成功しないことの方が多いのだ。

 氏族会はビジネスを進めていく上で、貴重な知恵をくれるものなのだ。例えば、毎年、台風の季節になると、台風が来ているというのに、農家の人が田圃を身に行って、鉄砲水に流されてしまうという事故が起こるものだ。これは都会に住んでいる人には解りにくい出来事だろうが、稲は台風で倒れてしまうと、収穫が出来なくなるから、農家の人は危険を冒してまで田圃の様子を見に行くのである。

 しかし、我が母親の実家の農家はこの手の死者を出したことがない。というのは、水稲栽培一本にするのではなく、必ず陸稲栽培もして、台風で田圃が全滅しても、陸稲で収穫を確保しているのだ。農業をしたことがなければ、水稲も陸稲も同じだろうと思ってしまうのだが、水稲というのはなんと陸稲の30倍もお米が収穫できてしまうのだ。だから、どの農家も陸稲をやめて、水稲栽培一本にしてしまうのだ。だからこそ、台風の時に稲の全滅を恐れて田圃を見に行き、死んでしまうことになるのだ。

 これは農業以外のビジネスをやる時に、非常に参考になるのだ。どのビジネスマンも最も高い収益を生ずる仕事を優先的にしていくものだが、ビジネスをするなら、たとえ収益が低くても、それが絶対に安全であるなら、それを切り捨てないで、ビジネスの保険として仕事をやっていくべきなのである。そうすれば、いくら不況が来ようとも、常に仕事に有り続け、恒常的に確実に収益を上げ続けることができるのである。

 自分が働きまくってゼロから積み上げていくよりも、氏族会で他の親戚たちに知恵を貰って、高いレベルからスタートした方が成功し易いのだ。氏族会さえあれば、その氏族から続々と優秀な人材が出て来るものなのである。馬鹿の一つ覚えの如くに、余りにも個人を尊重し過ぎないことだ。どの国家も氏族がなければ成立しないのである。個人の力を過信するよりも、氏族の力を認めて、それを正しく使っていくことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

本家の資産確保と分家の資産形成

●平等に相続するということは、タワケの悪行である

 飛鳥時代、奈良時代、平安時代を通して、関東地方は開拓のラッシュに沸いていた。古代には関東地方に蝦夷たちによって王国らしきものが作られたが、大和朝廷は関東に何度も軍隊を送り込んで、攻め滅ぼしてしまっている。そのために関東地方の経済レベルが下がってしまい、そこに出雲親族を移民させたり、高句麗や百済や新羅から渡来してきた帰化人を投入し開拓に従事させた。これが関東地方を活性化させたことは間違いなく、経済力を着々と拡充していき、後に鎌倉幕府の成立を見ることになる。

 鎌倉幕府は要は開拓民によって作られた政府であったために、武士たちの相続システムを子孫に均等に分け与えるということにした。開拓地であるために土地がたくさんあったので、子孫に均等に分け与えても、なんの問題もなかったのだ。しかし、人口が増え始めてくると、農地を均等に分けてしまうと、農業経営そのものが巧く行かなくなってしまい、武士たちは途端に窮乏してしまったのだ。鎌倉幕府は元寇を防いだ後、国力を消耗して滅亡してしまったが、だが、元寇がなくなても、鎌倉幕府の相続システムが、最早、時代に適合しないものになっており、そのために遅かれ早かれ崩壊したに違いないのだ。

 室町時代や戦国時代は、日本は戦争で荒れに荒れまくった時代なのだが、要は武士たちの生活を巧く成り立たせる相続システムを形成し得なかったからなのである。自分の相続を認めてほしいから、征夷大将軍についたり、鎌倉公方についたり、守護大名や戦国大名についたりしているのである。それが常に戦争という形で現れてきたにすぎないのだ。

 徳川家康はさすがに戦国時代で辛酸を舐めたために、江戸幕府が成立すると、相続は長子相続に限定して、武士たちの相続争いを防いでしまった。相続の仕方こそ武士たちの争いの原因だったから、この法令が制定されると、立ち所に戦争がなくなってしまったのだ。だからこそ、江戸時代は非常に平和で、経済的にも豊かに成り、華麗な文化も花開いたのである。

 ところが、この民族の偉大な教訓を捨てて、国際連合の占領中にどさくさに紛れて均等相続を復活させ、民法を改正してしまった奴がいるのだ。それが民法学者「我妻栄」である。この男は「隠れ共産党員」で、日本国に社会主義革命をもたらすために、日本国民の家族が破壊されるように民法を改正したのだ。戦時国際法では占領中にその国の憲法や法律を改正することは違反なので、この民法改正は国際法に違反したものなのである。

 「均等相続」や「遺留分」はすべて我妻栄の発案によるものである。この相続法のために日本では常に相続で混乱になっているのだ。当たり前のことだが、この均等相続をやってしまえば、必ず問題が発生し、遺族同士で争わなければならなくなるからだ。しかも、それに累進課税を内蔵する相続税によって莫大な税金がかかってくるために、日本国民は先進国の中でも非常に貧しい国民になってしまったのだ。日本国民が貧しいのは、民法と相続税のお蔭なのだ。

 普通、先進国に成れば、相続による大金持ちや小金持ちが続出してくることになる。彼等は成り上がってくるために労力を使うことがないから、若いうちからそのお金を利用してビジネスを展開することができるので、非常に優れた商品やサービスを作り出すことができるのだ。しかも、子供の頃から豊かな暮らしをしているので、消費者の立場に回っても、優れた商品やサービスを購入しようとし、それが経済の質を向上させていくことになるのだ。

 西ヨーロッパに行くと、街並みも奇麗だし、民度も高いことに驚かされるが、これは相続によって大金持ちや小金持ちがたくさんいるからなのである。一方、アメリカ合衆国は日本と同様に相続税が高いので、相続による大金持ちや小金持ちが出現しにくいのである。だからこそ、街並みは汚いし、民度も低いのだ。相続法や相続税は想像以上に国民の命運を左右するものなのである。

 昭和憲法体制下では民法には殆ど改正らしい改正を施していない。しかし商法は問題が起こるたびに改正され続けたので、会社は非常に豊かになったのである。「戦前は自営業者が豊かになり、戦後は会社が豊かになった」と言われるのは、このためなのだ。法律というものは、問題があれば改正していくべきであって、何十年と何も改正せずにいると、そのツケは国民の貧困化として現れてくるのだ。

●家督相続者の相続の仕方

 赤ちゃんを産んだのなら、将来の相続に関してルールを作っておくことは大事だ。今の日本の民法に従って相続してしまうと、子供同士で争いが起こることは必死だからだ。相続のルールは自分たち夫婦が作り、それを文書化しておくことである。知恵ある相続の仕方はたった一つだけしかないのだ。家督相続者にのみ相続させるという遣り方だ。

 農業をやっているなら、絶対に農地を分割しないことだ。農業は農地を分割されてしまったら、農業経営など成り立たないものなのだ。会社を経営しているなら、絶対に株式を分割しないことだ。会社は株主の意向が反映されなければ、従業員たちに経営を乗っ取られるのが必然の流れだからだ。

 いくらたくさん赤ちゃんを産んでも、その子供たちの中から家督相続者を決めて、その家督相続者に遺産を集中させることだ。家督相続者は長幼の序は問わない。家督相続者として適した能力のある者に家督を継がせることだ。いかなることがあっても、自分たち夫婦の遺産の半分は家督相続者に相続させるべきなのである。そうでなければ、家督相続者は家督相続者として兄弟姉妹たちに振る舞うことができなくなるからだ。

 家督相続権者以外には、相続権を放棄させ、お金で処理することだ。要は生前贈与という形を取るのだ。その際、相続は家督相続者に主だった遺産を相続させることに同意させ、文書化し著名捺印させることだ。これは家族全員が集まって、その中で行わせるのだ。こうすれば自分たち夫妻が死んだ後に、相続争いが起こることはないのだ。

 子供を産んだ以上、その子供たちのために相続の仕方を定めておくことは、親の義務なのである。相続というのは原則的に「一子相伝」だ。家督相続者のみが自分たち夫婦の遺産を継承し、そして墓を建ててくれ、墓参りをしてくれるものなのである。纏まった遺産を渡さないで、自分たちの死後のことを面倒見てくれといわれても、誰もしないものなのである。

●分家の相続の仕方

 相続というものは、家督相続者が本家を守り、それ以外の者たちは外に出ていくということなのである。そうやって他の人たちを追い払うからこそ、その者たちは違う場所で活躍することができ、一族は繁栄していくことになるのである。これはその立場に立たされれば、誰もがその非情さに涙する過酷ね試練なのである。しかし、この過酷な試練を乗り越えなければ、一人前の男や女になれないのである。

 自分の息子が分家として出ていくことが決まった際は、分家に分家を起こすための資産を分け与えることだ。どの分家も当初、経済的に苦しくなってしまうのは、最低限の資産がないからなのである。jこの資産が形成されるまで分家は貧乏なものなのだ。だから、分家になる自分の息子が結婚した時に、生前贈与という形で多少の資産を与えて、分家の財政が巧く行き易いようにしてあげればいいのだ。

 自分の娘は嫁として他家に嫁いでいくので、その際には「結婚持参金」を持たして嫁がせることだ。花嫁というのは、無一文で嫁いでくれば、立場が非常に悪いものなのである。花嫁は結婚持参金を持って嫁いでくれば、その結婚持参金を資産運用に回して、その配当が収入としてカウントできれば、夫婦がピンチになった時に、そのお金を使うことができ、夫婦の窮状を救うことができるのである。こういうことを妻がやってしまえば、夫は絶対に妻を蔑ろにしないものなのである。

 分家になった息子や、他家に嫁いでいった娘には、生前に既に相続分を与えているので、絶対に相続に参加させないことだ。この原則が貫かれれば、相続で揉めることはないのだ。後は家督相続者が相続税をどのようにして払うかであり、そのための資金を事前に用意しておくことだ。

 特に相続のする際、女性を絶対に相続に参加させるな。女性が絡んでしまうと、普通なら纏まる話でも過去の問題を持ち出してきて、纏まらなくなってしまうからだ。いくら自分の娘が可愛いからといって、この排除措置を取れないと、まともな形で相続することができず、相続権者全員が親の不甲斐なさを嘆き、恨みに思うようになるのだ。

●骨肉の争いでお金が絡むと悲惨な結果になる

 人間同士の争いで、骨肉の争いほど悲惨になるものはないのだ。血を分けた者同士ということで、甘えがあるために、通常なら治められる争いでも、血の雨が降るまで争ってしまうのだ。しかもそれにお金が加わってくれば、どうやっても悲惨な結果にしかならないのだ。いかなる理由があっても、骨肉の争いは避けよ。遺産ごときで兄弟喧嘩をさせないことだ。大事なのは、遺産ではないのだ。兄弟姉妹同士の結束なのである。

 親の遺産を相続するということは、親の仕事を継承するということなのだ。相続しないのなら、職業選択の自由があって、自由に自分が好きな仕事を選べばいいのだ。分家にそういう強みがあるのだから、遺産を欲しがるべきではないのだ。遺産を継承すれば、自分がその仕事は好きではないのに、その仕事をしなければならないということなのだ。

 そして家督相続権者は、自分の父親が死んだら、自分の母親の面倒を最後まで見なければならないのだ。遺産を貰っている以上、その介護を行うのは当然の義務なのだ。こういうことが定められていれば、介護保険など要らなくなるし、老人ホームも要らなくなるのだ。そうなれば介護保険に奪われていた資金が他の産業に投入できることになるし、老人ホームに奪われた人材を他の産業に投入することができ、経済を発展させることができるようになるのだ。特に介護保険がなくなれば、政治家や官僚の汚職もなくなり、余分な公務員を雇わなくても済むようになり、国民の税負担は非常に軽くなるのだ。

 戦前の日本が大躍進を遂げたのも、それは日本国民に適した相続システムを持ち、常に分家を外に追いやることで、発展させていったからなのである。戦後の日本は確かに荒廃した国土を復興させたが、愚かな民法や相続税があるために、国内では常に内ゲバ状態で、国力を消耗しまくっているのだ。

 日本が将来、絶対に行うべきことは、「相続法の改正」であり、「相続税の廃止」である。相続は家督相続が原則なのであって、それさえ復活させれば、現在日本が抱えている問題の大半は消滅してしまうことになるのである。なぜ多くの夫婦が子供を1人や2人しか産まないかといえば、遺産相続の争いが怖いからなのである。家督相続によって、分家は出て行くのが宿命と解れば、いくらたくさん子供を産んでも、子供たちは分家して外に飛び出していくことになるのだ。

 相続税の廃止は絶対にやらなければならないことである。相続によって大金持ちや小金持ちが大量にできれば、街並みは美しくなり、民度は上がっていくものなのである。戦前の日本が貧しくとも街並みは奇麗で、低学歴だというのに民度が高かったのは、相続税がなかったからなのである。相続税を廃止すれば、国庫にお金が行かなくなるのだから、政治家や官僚たちも税金の無駄遣いをしなくなるものなのだ。選挙のたびにいくら「税金の無駄遣いをやめろ!」と公約したとしても、相続税がある限り、政治家や官僚は税金の無駄遣いをしてしまうものなのである。増しては増税をしたり、新たな税を作り出せば、政治家や官僚たちは益々税金の無駄遣いを繰り返すものなのである。

 夫婦はいくら赤ちゃんが可愛いからといって、可愛がっているだけでは駄目なのだ。その赤ちゃんに相続させるだけの資産を形成していくべきだし、その後も赤ちゃんをたくさん産んで、分家として外に出し、嫁として他家に嫁がせることによって、自分たちの家族を繁栄させていかなければならないのだ。そうやって自分の子供たちの未来が解っていれば、働き甲斐もあるし、資産も急激に増えていくものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

家運は盛衰を繰り返す

●家運の興隆と衰滅

 人間は決して単独で生きているわけではない。家系の流れの中を生きているのだ。人間の命は繁栄するようにできている。男性が出す精子も、女性が出す卵子も、常に必要以上の量が出ており、もしもそれをすべて生かしてしまえば、無数の赤ちゃんたちが生まれて来ることだろう。

 勿論、どの夫婦にも経済力の限界があるから、育てられる子供は限られてくる。しかし、その家族が興隆期にあれば、1人や2人しか産まないということは絶対にないであろう。必ず3人以上産むし、そうやって親の数よりも子供の数を増やしていけば、その家族は自然に繁栄していくことになるからだ。

 だが、すべての家族が繁栄し続けるわけではない。人間は豊かに成り過ぎてしまうと、人間は繁殖しなくなる傾向にあるのだ。過剰な栄養は人間の体を妊娠に不向きな体に変えてしまい、豊かすぎた生活は頭の中に邪念を蔓延らせ、出産や育児を拒否してしまうことになるのだ。人間は豊かになることを望んでも、豊かに成り過ぎて堕落してしまうことは絶対に避けるべきなのである。

 この世の中には、子供に恵まれなかったり、男の子が生まれても病弱で夭折してしまったり、女の子しか生まれず、しかもその女の子が終生独身を貫いてしまい、絶家になる家族もいるのだ。そうやって滅んでくれる家族があるからこそ、新しい家族が生まれてきて、勢力を伸ばすことができるのである。

 結婚したのなら、赤ちゃんが産まれたのなら、まずは家系図を作って、自分たちの家族の流れを調べてみることだ。「勃興期」「隆盛期」「爛熟期」「衰滅期」のどれかにあると解れば、それなりの生き方が解ってくるからだ。自分の生き方を貫いてしまうのではなく、家系の流れに即した生き方をすれば、まず間違いなく優れた人生を送れるようにできているのだ。

●3代周期

 本家を相続しなければ、多くの夫婦は分家として、新たな家族を形成していくことになる。分家では自分の夫が初代の当主に当たるので、財運が非常に強いものとなるのだ。神様は初代の当主にはお金に不自由しないように定めてあるのだ。そのため、通常の男性よりもお金の出入りが激しいために、妻が家計簿をつけてお金の管理をしないと、所得はあるのに資産が溜まらないことになってしまうのだ。初代は莫大な資産を持たなくてもいいが、そこそこの資産を持たないと、2代目、3代目が苦しくなってしまうのだ。

 家系には「3代周期」というのがあって、3代に亘って繁栄が続くものなのだ。これは日本に限らず、どの民族も三代目に亘って繁栄し、しかも3代目が最も繁栄している。ところが、日本の場合、仏教を取り入れているために、過度に欲望を制限してしまったり、お金を不浄と看做すことがあるので、3代目にパワーが不足してしまい、3代目が家を滅ぼすことをやってのける危険性があるのだ。それゆえ、「売家と唐様で書く三代目」と昔から戒めてきたのだ。

 3代目が家族を滅ぼしてしまわないように、初代の妻はとにかく収入の20%を貯金に回してしまうことだ。収入の20%を貯金に回せば、早い時期に相当な資産ができるものだし、生活費を圧迫しなくて済むからだ。初代は質素倹約に心がけるべきであって、派手な生活を決して営まないことだ。

 それと共に、自分たちは勃興期に当たっているので、子供たちの教育は文武両道に徹するべきなのである。勃興期にある家族の子供たちは文学や芸術に対しては高い能力を発揮しえず、現実的な仕事に於いて高い能力を発揮してくるのだ。そのため、優秀な学校や優秀な大学を目指して勉強させれば進学してくれることになるし、スポーツが得意ならそのスポーツをやらせれば全国レベル世界レベルの能力を持てるようになるのだ。

 初代では新たな墓地が必要となるので、せっせと稼いで、なるべく大きな墓地を買うことだ。墓地が大きければ、それだけ子孫が多くの資産を持てることができるようになるのだ。但し、墓地を購入しても、生前に墓を立ててはならない。生前墓は絶家にさせてしまう危険な遣り方なのである。

●300年周期

 家系は家系だけが存続しているわけではない。様々な家系が集まって秩序を形成してくるのだ。それが歴史の大きな流れとなっているのだ。どの国家も「300年周期」で支配階級が交代するようにできており、いくら優れた国家を作った家族たちでも、300年経つと支配階級の家族たちが一斉に没落し始めるようになっているのだ。日本では平安時代の後に武士たちが勃興してきて、公家の支配を打ち砕いてしまったし、江戸時代の後に明治維新が起きて近代化に突入していったのだ。

 支配階級の交代はその国民の性格が如実に現れてくるものだ。日本だと前の支配階級の人々を皆殺しにせず、優秀な人材は残して巧く変動を乗り切っている。中国だと前の支配階級を皆殺しにして、新たな家族たちが新たに支配階級に作ることで、その国家の刷新を図っている。

 社会主義のイデオロギーに囚われて、ブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争が起こり、プロレタリアートが勝利すると思っていても、この手の貧富の格差による階級闘争で支配階級が転覆されたことはない。どんな貧乏人でも支配階級に入ってしまえば裕福になるのは当然であって、その人たちが国内の労働者のことを気にかけることなど全くないのだ。

 階級の交代は家系が引き起こす大きな歴史の流れであって、300年という時期が来れば自然と起こるものなのである。ロシア帝国のロマノフ王朝は丁度、階級の交代の時期に差し掛かっていたからこそ、レーニン率いるボルシェビキに倒されてしまっただけなのである。革命が起こってしまえば、ソ連共産党は国内のプロレタリアートを支配し、搾取し、虐殺することで、新しい政治秩序を作り出さねばならなかったのである。

 現在では、アメリカ合衆国が丁度、階級の交代の時期を迎えており、今までWASPに代表される裕福な白人たちが支配階級にいたのだが、これらの人々が没落して、黒人を始めとする有色人種に取って代わられることであろう。アメリカ合衆国は多民族国家ゆえに、その階級の交代は相当に悲惨なものになる筈である。

●家族のサバイバル術

 将来、世の中がどのように変動していこうとも、これだけは覚えておいた方がいいのは、「或る程度の資産を絶対に持っておくことだ」ということだ。資産がなければ、政治変動を生き残れないからだ。政治変動があるということは、ビジネスチャンスも多数発生してくるということであり、そのチャンスを金欠のために見逃してしまったら、新たな政治体制の下では貧乏になってしまうものなのだ。

 もう一つは「知識」や「知恵」を持つことだ。お金を奪われることがあっても、脳の中までは奪われないものだ。それゆえ、子供の頃からきちんとした教育を受け、様々な知識と豊富な知恵を持っていれば、激しい政治変動の中でも生き残れるのだ。漠然と学校教育に適応して、学校の成績が良かったなどと浮かれていると、政治変動が起これば、今まで受けていた教育内容など白紙に戻されてしまうものなのだ。特に現在、日本の学校でやっている「反戦教育」「平和教育」などは、政治変動が起これば確実に廃止される教育であろう。

 そして「健康」で在り続けることだ。その人の健康は家族の中で作られるものであって、健康情報を多く集めて、家族の中で病気が発生しないように心掛けることだ。政治変動によって階級の交代が起こっているというのに、病気で床に伏せていたら、支配階級に入るチャンスを見逃してしまうことになるからだ。そうなってしまえば、その家族の子孫は300年に亘って支配階級に入れないことになってしまうのだ。

 政治変動は激変を引き起こすものだ。そのような状況で行き残っていくためには、「宗教」や「慈善」というものが、最重要になってくる。政治変動は今までの政治体制のイデオロギーを破壊してしまうために、既存の価値観が悉く破壊されてしまうからだ。そのような激変の中で宗教によって自己規定ができていれば、その激変でも自己を見失うことがなく、頭角を現わしていくことができるのである。

 いかなる政治体制も滅ぶべくして滅ぶものだが、そういう時代では社会的弱者が最も悲惨な状態に陥ってしまう。だから、自分が稼いだお金をすべて自分のために消費するのではなく、社会的弱者に慈善を施して、彼等の窮状を救ってあげるのだ。昭和憲法下の日本では慈善は政府や地方自治体がやるべきものだという主張が強いために、常に政治家や経営者たちに不信の目が向けられてしまうのだ。慈善は政府や地方自治体の仕事ではないのだ。お金を稼ぐことができる人たちの聖なる義務なのである。

 この世が何も変わらないとは決して思うこと勿れ。世の中は変わっていくようにできているのだ。今まで正しいと思っていた考え方もいきなり否定されてしまうことがあるし、今まで美しいと思っていた国土も荒廃することがあるし、今まで豊かと思っていた人々も極貧に陥ることもあるのだ。大事なことは現状に適応しても、現状に適応し過ぎないことだ。常に政治変動に備えて、余力を蓄えていくことだ。どんなに激しい政治変動がやってきても、自分たちの子孫が生き残ってくれれば、それは非常に素晴らしいことなのである。自分の人生は自分だけのものだと思い上がっていると、政治変動の際には最も悲惨な目に遭い、落命してしまうのである。

| | コメント (4) | トラックバック (3)

赤ちゃんが生まれると、身代わりの死が発生する

●赤ちゃんが生まれれば、死ぬ者も出て来る

 赤ちゃんが生まれれば、それは非常に嬉しいことである。しかし、その裏側では「身代わりの死」が発生してくるのだ。赤ちゃんが生まれれば死ぬ者も出て来るのだ。この世ではすべての者が生きられることはない。新しい生命が生まれれば、それに押し出されるような形で死者も出て来るのだ。

 赤ちゃんが生まれたら、祖父や祖母が死んでしまう。父や母が死んでしまう。下手をすると、夫婦のどちらかが死んでしまう。これこそが人間という生命の非情な掟なのだ。新しい生命の身代わりとして、まだ死なないだろうと思っていた人たちの命を奪ってしまうのだ。そうやって人間の生命を刷新していくのである。

 殆どの動物は産卵を終えると死んでいくものだ。産卵には最大のエネルギーを使うために、未来に子孫を残すだけで命が尽きてしまうのである。しかし、動物も進化を重ねていくと、産卵や出産をしても死ななくなり、その子孫が無事に成長するまで見届けられるようになった。人間はその中でも出産や育児を終えても、長らく生きながらえる動物として進化してきた。普通なら生殖能力のなくなった動物は死んでしまうものだが、その者たちを生きながらえさせることで、人間集団の中で教育という作業を分担させ、知能を高めさせることに成功したのだ。

 それゆえ、その夫婦が生殖能力を発揮して、まさに出産や育児を展開している時に、生殖能力を終えた父母や祖父母が育児を支援し、教育を施す姿勢を示さない限り、彼らの存在理由は消えてしまい、寿命が尽きてしまうのだ。赤ちゃんが可愛いから、オモチャのように可愛がっていると、突然に死の病が襲いかかってきて、脳疾患や心臓疾患や癌で死んでしまうことになるのだ。

 育児を開始すれば、お金が必要となってくるものだ。しかし、新米ママは育児で働きに出て行かれないのだから、こういう時は、夫の祖父母や両親が育児のためにお金や食料を渡したりするものである。育児の手伝いを頼まれれば、出来る限り応じるべきなのである。それなのに国民年金を貰うことで馬鹿になってしまったのか、お金や食料も渡さず、育児の手伝いを頼んでいるのに、遊び呆け、グルメに狂い、旅行にでも行ってしまうのである。そんなことをしていると、天罰のような形で命を奪われてしまうのだ。

●いかなる家族にも定員がある

 いかなる家族にも定員というものがあるのだ。一つの家には大量に住むことができないものなのだ。昔、大家族と称して、一つ屋根の下に多くの人々が住んだものだが、そういう家では病気が絶えなかったという事実を忘れている。大家族になってしまうと、大抵、一人や二人の病人がいたし、寝たきりの老人たちもいたのだ。ただ、大家族で人手がたくさんあったために、現在ほど、病気も介護も問題にならなかったのだ。

 昔は大家族で、今は核家族というが、昔でも核家族の方が主流なのだ。大家族はそもそも家屋そのものが大きくないと形成することはできないし、そしてなんといっても家族としての機動力が損なわれてしまうので、家族が多くなれば多くなると、何かと不便になってしまうものなのだ。だからこそ、昔も今も人は核家族を好むし、核家族はいつの世でも多いのだ。

 家族が繁栄していくためには、とにかく子供の数を増やして、その子供が成長次第、分家をしていくことなのだ。家族が一つに密集して住むのではなく、分家を作り、外に追いやり、その分家が余所の土地で活躍するからこそ、その一族は繁栄していくことができるのである。

 もう一つは、娘を嫁がせていくことだ。娘を嫁に出すことで、他家を繁栄させるのだ。他家を繁栄させれば、その見返りとして、自分たちの一族も繁栄し易くなるし、家族の定員を減らし、空きを作ることで、新たな生命を誕生させることができるのである。自分の娘にきちんとした花嫁教育を施しておけば、自分の息子たちに嫁いでくる女性たちもきちんと花嫁教育が施されているようになるのだ。

 だから、自分の息子たちをいつまでも手元に置いておいて、分家をさせなかったり、たとえ分家をさせても、その分家が経済的に困らないように、結婚する際に多少の資産を与えないと、分家は巧く家計を運営できないものだ。また、自分の娘たちをいつまでも手元に置いておいて、嫁に出さなかったり、たとえ嫁に出しても結婚持参金を与えないと、娘は嫁ぎ先で発言権が弱くなってしまい、夫の稼ぎが悪いと、家計は火の車になってしまうものなのだ

 そうなってしまうと、赤ちゃんが生まれにくいし、たとえ生まれても数が少なくなってしまうものなのだ。しかも、赤ちゃんが病気になったり、死んでしまうようになるのだ。赤ちゃんは免疫力の関係で生後6ヵ月以内には病死してしまう危険性があるが、それを過ぎればそう簡単には死なないものだ。もしも、赤ちゃんが余りにも病気をし過ぎたり、病死するようであるなら、自分たちの一族を見渡してみることだ。愚かな生き方をしている奴が必ず見つかるものなのだ。

●葬式のあげる回数が多いほど、長続きする

 赤ちゃんが生まれることによって、身代わりの死が発生することは悲しいことだ。しかし、それは人間の宿命たるものなのだ。すべての人を生かそうとすれば、すべての人が死んでしまう結果になるのだ。誰かが死んでくれるからこそ、新たに生まれて来る者のスペースができて、新たな命が誕生してくるものなのだ。

 死者が出ることは、その家系が長続きするために必要なのである。葬式をあげる回数が多いほど、その家族は長続きするものだ。それゆえ、死者が出た場合は、きちんとした葬式をあげて、立派な墓を建て、毎年墓参りをして死者の霊を弔うことだ。そういう家族であるなら、たとえ自分が死んでもきちんと慰霊をしてくれることが解っているので、今ある命を大切にしようとし、その能力を最大限に発揮するようになるのである。

 きちんとした葬式をあげずに、「お別れ会」を開いたり、「珍奇な墓」を建てたり、散骨してしまったり、墓参りにも行かないようであるなら、そういう家族には思わぬ不幸が何度も襲いかかってきて、滅亡に追いやられてしまうのである。世の中には必ず臍曲がりな連中が出て来るものだから、絶対にそのような連中の意見を聞かないことだ。葬式も、墓も、墓参りも、古臭い形式の方が安全であるのだ。

 人間は死ぬことが一番恐ろしいものだ。だが、病気のまま生きながらえても仕様がないのだ。寝たきりのままで生きながらえても仕様がないのだ。目指すべきは、「不老長寿」であって、健康なままで長生きをすることなのである。それゆえ、自分が歳を取ってきたら、日頃から健康に気を使い、病気にならないようにし、寝たきりにならないようにすることだ。

 その健康な姿で、子孫が繁栄していくことを手助けすればいいのだ。自分が健康でなければ、孫や曾孫たちを必要以上に可愛がってしまい、我儘な子供に育ててしまうのだ。心身が矍鑠としていなければ、子供たちに教えるべきことを教えられなくなってしまうものなのだ。

●本当の老害は赤ちゃん殺しである

 昨今は「生涯現役」ということがいわれているが、いくら年老いても、年金生活に入らず、労働をし続けることこそが、自分の健康を維持するために最も必要なことなのである。今まで働き続けたのに、定年退職で仕事をしなくなってしまうと、仕事をしないということで異常なストレスを感じてしまい、病気になってしまい、死んでしまうことになるのだ。だから、退職後はのんびり過ごすという愚かな発想をせずに、後輩たちを手助けできるような仕事を探し出して、その能力を発揮すべきなのである。

 かといって、定年退職をせずに、そのまま仕事を続けてしまうと、「生涯現役の弊害」が発生してきてしまうものだ。まずは「人材が育たない」ということだ。人間は重要な役職を与えられてこそ、その能力を高めることができるので、老人がいつまでも重要な役職に居座り続けたら、能力を高める機会を完全に失ってしまうことになるのだ。70歳を過ぎてもトップに君臨していたり、杖をつかねば歩けないのに、それでもいつまでも重要な役職にしがみついていたら、その組織は最早まともに機能していないことだろう。また、組織に「名誉会長」という意味不明の役職が増設されたら、その組織は完全に老害で腐敗しきっている組織になっていることだろう。

 生涯現役の第二の弊害は、「若者たちが鬱屈してしまう」ということだ。老人が組織を動かせば、発想は古臭いし、行動は鈍くなってしまうのだ。そうなると血気盛んな若者ほど、能力を発揮する機会を失ってしまい、鬱屈してしまうようになるのだ。若者たちが酒に飲んだくれ、賭博にのめり込み、淫乱に耽っているようであれば、それはその若者だけが悪いのではなく、若者たちの能力を発揮する機会を奪ってしまった老人たちも悪いのだ。

 生涯現役の第三の弊害は、「若者たちの教育不足」ということである。嘗て活躍した人が引退後に教育者の立場に回ってくれるからこそ、若者たちは素晴らしい教育を受けられることになり、その能力を高めていくことができるのだ。功労者による教育は、単なる教員による教育の千倍にも勝る教育効果があるものなのだ。それなのに、功労者が生涯現役に拘るばっかりに、教育者になってくれないので、若者たちは素晴らしい教育を受ける機会を失ってしまい、基礎能力を高めることができなくなってしまうのだ。

 そして本当の老害というものは、実は「赤ちゃん殺し」なのである。老人たちが高給の仕事を独占してしまい、しかも国民年金や厚生年金でお金を貰ってしまえば、肝腎の若者たちが貧乏になってしまい、赤ちゃんを産み育てるだけのお金がなくなってしまうのだ。現在、日本は少子化が問題になっているものだが、これは昭和憲法体制では老人ばかりを優遇してきたために、若者たちが結婚して子供を作れるだけの経済力を失ってしまったからなのだ。

 このような馬鹿げた政策を続けていれば、いずれ老人と若者の間で深刻な階級闘争が始まってしまうことだろう。この手の国内の内ゲバは悲惨な戦いになるものなのである。老人たちも「最近の若者は怪しからん」と言っていると、若者たちが武器を取って、殺されまくる日がやってきてしまうものなのである。そうならないためにも、重要な役職を若者たちに譲り、自分の能力を生かして仕事をしつつ、教育者としての役割をきちんと果たしていくことだ。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

厄年に生まれた赤ちゃんの扱い方

●厄年には何かが起こる

 赤ちゃんはいつ生まれても健康に育つとは限らない。出生時に於ける両親の運気に大いに影響を受けてしまうのだ。人間の運勢を知る上で絶対に知っておいた方がいいのが、「厄年」の存在である。厄年には何かが起こり、多くは災厄が訪れて来るからだ。このい厄年の時期に赤ちゃんを産めば、当然に赤ちゃんは災いをもたらしてくることになる。

女性の厄年 

  17歳 18歳 19歳

  31歳 32歳 33歳

  35歳 36歳 37歳

男性の厄年

  23歳 24歳 25歳

  40歳 41歳 42歳

  58歳 59歳 60歳

 厄年が満更「迷信」だと思えないのは、女性の場合、厄年の時期と女性ホルモンの変動がピタリと一致しているからだ。女性ホルモンの分泌は19歳という成長期のピークに第一次のピークを迎え、その後、33歳の成熟期のピークで第二次のピークを迎えるのだ。33歳以降は女性ホルモンが高濃度で分泌され続けるために、30代後半をいかに充実してすごすかで、後の人生はほぼ決定してしまうことであろう。

 男性の場合、厄年は男性の人生の転機と完璧にまで連動している。23歳から25歳は大学を卒業して就職した頃であり、この時期が人生の最初の転機であろう。40歳から42歳は最早「青春時代」が終わり、人生に迷うことなく突き進み始める時期である。そして58歳から60歳は自分の仕事の集大成をする時期であり、この時期に後世に残せるような仕事ができなければ、今までの仕事はすべて無駄になってしまうことであろう。

 日本の厄年の概念は、陰陽道が広めて、それが世俗化していったものなので、日本人であるなら誰でも思い当たる節があるものであろう。この厄年という考え方は、言わば日本人の経験則のようなものであって、この厄年の時期になんらかの転機が訪れたからこそ、多くの日本人はこの厄年という考え方を支持してきたのであろう。明治維新以後、啓蒙運動が起こり、迷信を打破しようと努めてきたが、この厄年だけは打破されなかったほど、厄年に対する日本人の支持は高いのだ。

 因みに、中国の厄年は「7歳ごと」であって、「7歳」「14歳」「21歳」「28歳」「35歳」「42歳」「49歳」「56歳」「63歳」「70歳」「77歳」「84歳」となっていく。中国の厄年を使って自分の人生を振り返ってみると、これもまた当たっていることもあるのだ。要は、人間は同じことを7年以上続けられないということであって、7年ごとにどこかに歪みが出て来てしまうものなのだ。会社経営者に言わせると、経営者として本気で仕事を取り組んでいられるのは、せいぜい5年か6年であって、それ以上だと無理だというのである。7年以上、同じ仕事をし続けてしまうと、頭の中に邪念が蔓延り始めてしまうのである。

●厄年の厄除けの仕方

 女性の場合、高校生の時や高校を卒業してから出産してしまうと、厄年にぶつかってしまうことになる。更に女性が30代で赤ちゃんを産もうものなら、60%の確率で厄年にぶつかってしまうことになるのだ。確かにこれらの時期に赤ちゃんを産んでしまうと、災いが訪れ易い時期なのである。高校を卒業してすぐに赤ちゃんを産んでも、その女性は社会のことを何も知らずに産んでしまうことになるし、30代で赤ちゃんを産んだのなら、人生の中で最も成熟しきっている時期だからこそ、一心不乱に育児や家事に取り組まないと、とんでもない方向に人生が行ってしまい、自分の人生を台無しにしてしまうことになるのだ。

 民間に伝わる厄年の厄除けの仕方は、赤ちゃんを生後1ヵ月以内に、赤飯と共に外に捨てるのだ。その赤ちゃんを血縁関係のない友人に拾って貰う。そして、その友人に「厄よ消えよ」と自分の年齢の数だけ唱えて貰い、赤ちゃんを返して貰うのだ。その後、その友人に高価な贈り物をするというのだ。

 しかし、俺はこの風習を実際に見たことがない。恐らく陰陽道の勢力が強かった関西地方での風習ではなかろうかと思う。この風習で思い出すのが、豊臣秀吉が豊臣秀頼をこのようにして厄除けして育てたことだ。但し、豊臣秀頼は豊臣秀吉の子供ではなく、大野治長の子供なので、天罰という形で豊臣家は滅亡してしまっている。

 現在の厄除けの仕方は、専ら神社での厄除けが中心である。神様の見えざる力を使って厄除けをしているのである。もしも赤ちゃんを厄年の時期に産んでしまったら、神社に行って厄除けして貰うべきであり、こういう費用を決してケチらないことだ。赤ちゃんという大事なものを授かった以上、お金を放出して、その厄除けをすれば、厄年の魔力を大いに引き下げることができるからだ。

 赤ちゃんを育てていれば、昨日までは健康だったのに、突如、急変してしまい重病に陥ってしまうことだってあるのだ。例えば心臓疾患を抱えた赤ちゃんなんてのも、心臓疾患を発症するまで元気な赤ちゃんだったのである。それが突然発症し始め、心臓移植が必要なほど悪化してしまい、そして病死してしまうのだ。しかも、不思議なことに、そういう赤ちゃんの母親たちは、30代で厄年の時期にピタリと該当しているのだ。厄年なのになんにも厄除けをしないと、自分が一番大切だと思っているものを失ってしまうことになるのだ。

●厄年には無理をしない

 厄年は言わば自分の人生の変わり目の時期なのだ。女性だったら、大学や短大に進学してしまう女性たちと、高卒で結婚して赤ちゃんを産んだ女性たちとなら、その後の人生が大いに変わってしまうことだろう。高卒で赤ちゃんを産んだなら、体力は充分あるので、育児ノイローゼに罹ることはないし、家事をすることにも適応できることだろう。

 女性が30代になったら、40歳になる前のこの時期までに結婚して赤ちゃんを産んでおかないと、自分が不妊症でなくても高齢不妊になってしまい妊娠が困難になってくるし、育児も体力的に厳しくなってくることだろう。だが、40歳を過ぎても、結婚もせず出産もしていなかったら、その後の人生は「お一人様」の人生がほぼ確定し、女性としての本当の喜びを味わうことなく、寂しい人生を過ごしてしまうことになってしまうのだ。

 女性が厄年になったら、とにかく無理をしないことだ。厄年では無理をすると事故が起こるものなのだ。厄年は病気をし易い時期でもあるので、疲れたのなら、無理をしないで、体を休ませることだ。赤ちゃんがいる身にとっては、赤ちゃんに事故が訪れないようにすべきだし、病気にならないよう充分に配慮しておくことだ。

 自分が厄年に当たっている時、自分の夫が身代わりとなって、災厄に遭う時がある。そういう時は、自分の災厄の身代わりになってくれたことに充分過ぎるほど感謝して、ねぎらっておくことだ。そういうことをせず、「なんてドジなの!」と罵倒していると、今度は自分の身に災厄が降り注いでくることになるのだ。

 厄年で無理をせずに平穏無事に過ごす生き方もいいが、厄年に災厄を起こして、厄を祓うという生き方も悪いものではないのだ。厄年の時に災厄として厄を出しておけば、厄年を過ぎた頃に幸運が舞い込んでくるものなのだ。人生の中でマイナスがあれば、プラスを作り出して、それを埋めようとするものなのである。

●人生の変わり目を見逃すな

 厄年は恐れられているものだが、使いようによっては人生の飛躍の時期にも成りうるのだ。厄年は「役年」といって、その年に大役を任せられることで、それまでの人生とは違う人生を歩んでしまうことになるのだ。女性にとっては赤ちゃんが生まれたことで大役を仰せつかったわけであり、それまでの人生を一変させる出来事になったわけである。

 夫なら厄年の時期に転職してしまい、今までとは違う職業で活躍してしまうこともあるのだ。そういう時は「生活費をどうすんのよ!?」としみったれた発言をするのではなく、夫を応援してあげることだ。夫の方としても、今の仕事を続けても、これ以上の成長を望めないからこそ、転職したのであり、その大事な決断にケチをつけるべきではないのだ。但し、転職癖のある男性の場合は別である。そういう男性は一つの仕事すらまともに行えない男性だからだ。

 厄年を調べていくと、日本人が本当に信仰してきたのは、実は「陰陽道」であるということが解ってくる。よく宗教学者たちが「日本人は無宗教である」という現実離れした発言をし、それを他の知識人も真に受け取ってオウム返しをするものだが、この無宗教と疑われるのには理由があるのだ。

 信仰を調査するアンケートで「あなたはどの宗教を信仰していますか?」と尋ねられるのだが、神道も仏教も信仰がその宗教の帰属条件ではないのだ。神道の場合は、「崇敬」であって、「神を崇め敬うこと」であり、具体的には「自宅に神棚がある」「神社に参拝したことがある」とか、「困った時の神頼みをしたりすることがある」というものなのだ。仏教の場合は、「帰依」であって、仏教の教えが素晴らしいからこそ、仏教の教えを奉じ、実践しているということなのである。

 だから、神仏習合を長らくやってきた日本民族に対して、信仰を問うても、「私には信仰があります」という人々はいないのだ。だから、この質問に答えられるのは、せいぜいキリスト教徒ぐらいなもので、実はこの信仰を問う質問は、「あなたはキリスト教徒ですか?」と問うているのと変わらないのだ。だからこそ、日本人の信仰度が異常に低いのである。

 だからといって、日本人は無宗教ではないのだ。ちゃんと神道と仏教が日本民族の主流の宗教として存在しているし、神社仏閣は日本全国至る所に存在しているのだ。しかも、どの神社仏閣もいつも参拝客で賑わっているものだ。それなのに学者たちが「日本人は無宗教である」と言い出したら、これこそ余りにも現実離れした話であろう。

 では、日本人が全く信仰してこなかったといえば、そうではないのだ。陰陽道こそ日本人にとって信仰の対象であったのだ。なぜこれほどまでに陰陽道が支持されてきたかといえば、俺は「日常生活に於いて神秘体験」ができたからなのだと思っている。或る特定の宗教を信仰するためには、何かしらの神秘体験が必要だ。例えば、キリスト教なら、医学を用いずに奇蹟で難病を治して貰うことだ。仏教なら煩悩から解脱し、何事にも迷うことのない人生を歩むということだ。だが、キリスト教徒で神父や牧師から奇蹟によって難病を治して貰った信者はいないものだし、仏教徒で解脱でき煩悩を消滅させた信者などいないものだ。

 ところが、陰陽道であるなら、そういう非日常的な神秘体験ではなく、日常生活での神秘体験はできるのである。例えば、厄年に災厄に遭遇すれば、「やっぱり厄年は本当だったんだ!」と叫ぶことができるのである。キリスト教では「ハルマゲドンがやってくる」といいながら、2千年も経った今でもやってこないが、陰陽道でなら厄年がやってくるといえば、確実に厄年がやってくるのである。

 だからこそ、神道は陰陽道を取り入れ、神社で厄除けをやったからこそ繁盛しているのだ。仏教も陰陽道を取り入れ、厄除けをしたからこそ、今日まで生きながらえてきたのである。一方、キリスト教は陰陽道を否定し陰陽道を取り入れないからこそ、広まっていかないし、棄教する者たちも跡を絶たないのだ。滅多に起こらない奇蹟にすがるよりも、確実に起こる厄年の災厄を防いだ方が、余程、充実した人生を過ごせるというものである。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

前世を記憶する子供たち

●輪廻転生が引き起こすもの 

 人間の魂は輪廻転生していく。我々は前世で犯したカルマを清算するために、この世に生を受けたのであって、自分の命が有り続ける限り、そのカルマを清算し終わらなければならないのだ。ただ、一体、自分が前世に於いて何をやったのかが解らないゆえに、多くの人々は無意識のうちに善行をしなければならないと思い、それほど前世のことに拘らずとも、前世のカルマを清算しようとするのだ。

 しかし、この世には「前世の記憶」を持った子供たちが存在するのだ。なぜ或る種の子供たちだけに前世の記憶が存在するのが不明だが、とにかく前世の記憶を持つことで、その前世のカルマの清算を早くに終えようとしているのだ。こういう場合、その子供の話をちゃんと聞いて、一体、その子は前世で何者で何を行ったかを理解するべきだろう。

 輪廻転生は解らないことばかりだ。だが、輪廻転生に関する統計を集めていくと面白いことが解る。例えば人間の魂は3百年から5百年周期で輪廻転生してきているということだ。現在の日本人の魂の前世は西ヨーロッパに居た魂が多く、西ヨーロッパの人々の魂にも前世は日本にいた魂が多いのだ。日本人の魂の前世はそれ以外に中東やインドや中国やモンゴルなどが多いが、前世が黒人だったとか、オーストラリア人だとかアメリカ人だとかはいないのだ。この辺りも輪廻転生の謎である。

 輪廻転生はすべての宗教が認めているかといえばそうではなく、キリスト教は輪廻転生を認めていない。キリスト教では人間は神が土から作ったものとされるので、輪廻転生など有り得ないのだ。そのためキリスト教徒が輪廻転生を認め出すと、キリスト教を棄教したり、教会に出席しなくなったりするのだ。

 仏教では輪廻転生を認めるが、釈迦は輪廻転生からの解脱を説いたのである。解脱というのは、輪廻転生から逸脱するということであり、それゆえ解脱してしまえば、もう再び輪廻転生することはない。だから、釈迦の魂は輪廻転生しないのだ。たまに日本の仏教系の新興宗教団体が、釈迦の生まれ変わりを主張したり、釈迦の霊が乗り移ったということを主張するのだが、釈迦の霊魂は消滅してしまっている以上、最早そういうことは起こらないのだ。それどころか、その宗教家が仏教のことを全然解っていない証拠になってしまうのだ。

●3歳までに前世のことを語り出す

 前世の記憶を持っている子供は、3歳までに前世のことを語り出す。0歳や1歳だと言語能力が発達していないので、前世の記憶を持っていても巧く喋れないのだ。しかし4歳か5歳の時に幼児は記憶の消去という現象が起きるので、その際に前世の記憶も消されてしまう危険性があるのだ。

 それゆえ、胎児教育をして赤ちゃんの知能を高めておくと、赤ちゃんは早い段階で前世のことを喋り出すことができるのだ。乳幼児の場合、「現実」と「前世の記憶」の区別がつかないので、ごちゃ混ぜに喋ったり、断片的にしか喋ってくれなかったりするのだ。しかし、知能が高ければ、前世のことを現実とは区別して話せるようになるし、前世の記憶を纏めて話せるようになるのだ。

 日本の産婦人科医たちは3歳児神話を躍起になって否定しているが、前世の記憶が3歳までに出て来るというのは、3歳児神話の証明なのである。やはり3歳までは乳幼児は明らかに違うのである。人間界に生まれてきたとはいえ、神の領域にも片足を突っ込んだ状態なのだ。

 自分の子供が前世の記憶を持っているのなら、それを嘘の話だとして否定してしまわないで、ちゃんと聞いてあげることだ。子供は嘘を言っているわけではないのだ。輪廻転生で大事なのは、前世の記憶を蘇らせ、それを喋ることだけでも、カルマ落としになるということなのである。その子供にとっては、自分の親に前世の記憶を話すことは、立派なカルマ落としなのである。だから、母親が子供の話を一蹴してしまうと、子供はカルマを清算することができなくなり、そのうち前世のカルマのために苦しまなければならなくなるのである。

 すべての乳幼児が巧く前世の記憶を喋れるわけではないのだ。もしも乳幼児に余りにも異常な行動があるなら、それは前世の記憶が取らせているものなのである。現世で女の子であっても、前世が男の子であれば、かなり凶暴な振る舞いをしてくるし、現世で男の子であっても、前世で女の子であれば、余り外で遊びたがらないものなのだ。

●12歳まで前世の記憶を保持し続ける

 子供はいつまでも前世の記憶を持ち続けるのではないのだ。12歳まで前世の記憶を保持し続け、その後、急激に前世の記憶を忘れていってしまうのだ。人間は青春時代に突入すると、子供の頃の記憶を忘れてしまうが、それと共に前世の記憶も消去されてしまうのだ。

 青春は「第二の誕生」と言われるが、青春時代に突入してしまえば、最早、前世がどうのこうのというのは関係なくなり、自らの力で自分の人生を切り開いていかねばならないのだ。それゆえ、前世の記憶を子供が喋ってくれた場合、カルマ落としは12歳までにやっておかねばならないのだ。

 とするなら、子供が前世の記憶を喋るということは、カルマ落としを親に手伝ってほしいということであるのだ。カルマ落としはその子供のためにもなるが、その親が子供のカルマ落としを手伝うことで、自分のカルマ落としもできるのである。だからこそ、自分の子供に前世の記憶があるといっている家庭では、不幸が襲いかかる率が極端に低いのである。

 子供というのは、親に従属するものである。しかし、この世には子供に自立を強要して、早くから自立させ、「子育て」ではなく「子育ち」を主張してくる愚かな知識人が存在するものだ。子供のカルマ落としを見ても、子供は自分の力ではカルマ落としが出来ないからこそ、親に頼んでカルマ落としを手伝って貰っているのだ。子供は自分の力でカルマ落としができないのである。

 子供の時代に充分に親に従属しておかないと、青春時代に突入しても自立できなくなるのだ。前世の記憶が自立を阻んでしまうからだ。より正確に言うなら、前世で犯したカルマがその子の自立を阻み、良からぬ方向へと人生を歩ませてしまい、更にカルマを重ねてしまう人生を送ってしまうのだ。

●カルマ落としと功徳の蓄積

 自分の子供が青春時代になって余りにも異常な行動を取るなら、前世療法を受けせ、前世での記憶を蘇らせることをした方がいい。子供の頃に親に前世の記憶を喋ろうとしたのに、母親がそれを無視してしまい、その子供がカルマ落としをする機会を失ってしまったということもあるからだ。

 それと共に、子供の両親も一緒に前世療法を受けてしまうことだ。子供の前世を受け入れてあげられなかったということは、その親にもなんらかの問題があるからだ。その問題は前世のことが絡んでいるものなのだ。自分の前世が解れば、自分の子供と本当に理解し合うこともできることだろう。

 カルマ落としをするなら、若いうちにしておくべきなのである。若い時に不幸が訪れた人は、その不幸自体は不幸だけれども、カルマを落とすことができたということでは、ラッキーなのだ。後は現世で功徳を積んで来世に於いていい形で輪廻転生したり、より多くの功徳を積めば天上界に行くことができ、子孫の繁栄を見守る役割を果たすことができるようになるのだ。

 前世のことに触れると、前世のことばかりが気になってしまうものだ。しかし、大事なのは、前世ではなく現世なのだ。現世で一体自分が何をするかで、前世のカルマを落とすことができるし、現世で功徳を積むことができるからだ。それゆえ、余り前世に囚われすぎないことだ。前世の記憶はあくまでも、カルマ落としのためであるのだ。

 この世には霊魂の存在を否定したり、無神論や無宗教を主張したりする人たちがいるものだ。そういう人たちは、死後、地獄行きが決定しているのであって、決して相手にしないことだ。どういう理屈を捏ねようが、霊魂は存在するし、神によって霊魂は輪廻転生させられているのだ。いくら無宗教を唱えても、人間の人生は宗教に操られているものなのである。それゆえ、神の前で謙虚になって、霊魂の旅を楽しんでおくことだ。楽しめば楽しむほど、神の祝福を受けるというものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

生まれて初めての誕生日

●赤ちゃんは出生当時1歳かゼロ歳か?

 赤ちゃんが出生時点で、「ゼロ歳」と考えるか、「1歳」と考えるかは、赤ちゃんへの認識について天と地ほどの差が出て来る結果になってしまう。出生直後の赤ちゃんをゼロ歳と看做すのは、ジョン・ロックの考えに基づいて、「人は白紙の状態で生まれる」という考えを赤ちゃんに当て嵌めたにすぎないからだ。しかし、赤ちゃんは白紙では生まれてこないし、胎児教育を巧く施せば、出生時点から高い知能を与えることができるのだ。

 出生時点では赤ちゃんは1歳と考えるのが現実に即した考え方なのだ。正確には10月10日になるが、2ヵ月程度の月日はおまけということだ。このような数え方に関する議論は、一般の人々は「どうでもいいじゃん」と思ってしまいがちだが、人間の命の関する重要な問題なのだ。

 例えば、堕胎はゼロ歳説に立脚すれば罪を問われないが、1歳説に立てば殺人罪に問われることになる。現在ではゼロ歳説に立つがゆえに、堕胎は野放し状態になってしまうのだ。胎児教育もゼロ歳説に立てば妊娠中に何もすることはないが、1歳説に立てば妊娠中に胎児教育をすることで赤ちゃんの知能を高めることができるのだ。

 母親の立場に立てば、赤ちゃんは出生時に1歳と考えるのが、納得がいく正当な考え方であろ。なんせ胎動を何度も繰り返して、赤ちゃんの命を母親に感じさせ続けてきたからだ。母親にとっては赤ちゃんとの付き合いは、出産した時点で10月10日以上経過しているのだ。

 そうやって、生まれた赤ちゃんを1年間育てれば、母親の赤ちゃんに対する愛情は益々強いものになる。なんせ生後1年ではやっと一人歩きができるようになった状態だ。ハイハイをしている時期では赤ちゃんにつきっきりになってしまうが、一人歩きできるようになれば、赤ちゃんも自分独自のことをし始めるようになるのだ。

●誕生日祝い

 生後1年の誕生日祝いは、夫婦にとって感慨深いものであろう。育児に対する苦労がすべて吹き飛んで、赤ちゃんの誕生日を祝うことができるのだ。1年前はあれほど小さな赤ちゃんが、こんなに大きく成長したのである。人間は成長する人に対して、最大の喜びを感じてしまうものなのだ。

 この最初の誕生日祝いは、身分によって色々な習慣を持っている。例えば、武家の赤ちゃんであるなら、赤ちゃんに刀に触らせ、商人の赤ちゃんなら、赤ちゃんに算盤に触らせ、農民の赤ちゃんなら、農機具に触らせるのだ。現在ではこのような習慣は殆ど失われて、ケーキを作って祝う程度のものだが、だからこそ、育児や子育てで揉めてしまうのであろう。

 せめて夫の職業に関する物を赤ちゃんに触らせて、赤ちゃんもお父さんの跡を継げるようにさせることだ。これは赤ちゃんが男の子であろうが女の子であろうが関係ない。乳幼児や児童というのは、父親に対する尊敬は絶対的なものなのであって、「お前も父のようになれ」と指し示せば、人生の進路に間違うことがなくなるのだ。

 誕生日だからといって、ケーキを食べ、誕生日プレゼントを貰うというのは、余りにも幼稚な考え方なのだ。赤ちゃんは生後1年経っても、まだ哺乳の時期なのでケーキを食べることはできないし、誕生日プレゼントを貰っても大して喜びはしないものだろう。しかし、赤ちゃんに将来の進路を指し示すことをしておけば、赤ちゃんのその通りに生きていくものだし、たとえ親の思うように生きなくても、その子なりに素晴らしい人生を歩んでいくのだ。

 人間は生まれた環境で大いに変わっていくものなのだ。例えば、自宅に書物がたくさんあるようであるならば、自然と書物に親しむので、その子は学問の世界で活躍し易くなるのだ。父親がスポーツをしているなら、その子は幼い時からスポーツに親しむので、その子はスポーツの世界で活躍しやすくなるのだ。これらと同じように、父親が政治家なら、幼い時から政治に関心があり、政治家を志そうとするし、父親が軍人なら、幼い時から軍事に関心があり、軍人を志そうとするし、父親が会社経営者なら、幼い時から経営に関心があり、経営者を志そうとするものなのだ。赤ちゃんは決して平等ではないのだ。色々な家庭環境があるからこそ、多種多様な赤ちゃんが育ってくるのである。

●赤ちゃんの誕生日祝いは、両親のためでもある

 赤ちゃんの最初の誕生日祝いは、赤ちゃんのためだけにあるのではない。その赤ちゃんの両親のためでもあるのだ。この1年間、最初の育児で悪戦苦闘した筈であり、その苦労が赤ちゃんの無事な成長によって報われるのだ。赤ちゃんの誕生日祝いを利用して、自分たち夫妻の働きをねぎらってあげることだ。

 できれば、こういう時は夫が妻に何かプレゼントでもするのが一番効果的なのだ。この日に些細な物をプレゼントしても、妻は狂喜乱舞するくらいに喜んでくれる筈だ。自分にとっては想定外の驚きのプレゼントなので、夫の自分への思いやりを最大限に感じてしまうものなのだ。

 新米ママにとっては、この1年間は早く流れた筈だ。人は人生に充実していると、月日は早く流れるものなのだ。人間はダラダラ過ごしていると、月日はゆっくりと流れてしまい、そのくせ何も充実していないものなのだ。赤ちゃんの誕生日が来るのが早いな思った新米ママほど、育児に真剣になって取り組んだ既婚女性なのである。

 それゆえ、赤ちゃんの誕生日祝いはまずは、親子3人で、他人を交えずに、自宅で密かに行うべきだろう。親子3人になれば、話すことはたくさん出て来るからだ。その話はこういう機会でしか話せない話なのだ。育児に携わっていない他人がいても、話が噛み合わなくなってしまうのだ。

 もしも、夫の両親や妻の両親が赤ちゃんの誕生日を祝いたいというなら、後日、日を改めて、別の誕生日祝いをすればいいのだ。こういう時は、料理を豪勢に振る舞って、それぞれの両親に「誕生日祝い金」や「誕生日プレゼント」を高額にさせるように仕向ければいいのだ。こういう悪どい知恵は人生で生きて行く上で必要不可欠なのである。

●赤ちゃんの脳に成長の喜びの回路を作ってしまうこと

 赤ちゃんにとっても、自分の誕生日を祝ってくれるということは嬉しいものだ。赤ちゃんの脳に、自分が健康的に育っていくことは、両親を喜ばせることになるという記憶を定着させてしまうことだ。赤ちゃんの脳に成長の喜びの回路を作ってしまうと、赤ちゃんに対した労力を投入せずとも、赤ちゃんは無事に育ってくれるようになるのだ。

 赤ちゃんが育つことは、両親にとっても嬉しいし、両親に喜ばれることは、赤ちゃんにとっても喜びと思わせるように育てていくのだ。赤ちゃんに育児と称して、赤ちゃんの世話ばかりしていて、赤ちゃんの脳に成長の喜びの回路を作らなければ、赤ちゃんは両親から世話をされるのが当たり前となってしまい、その後、親の言うことを聞かない子供に成長してしまい、いずれ不良少年や不良少女になっていくことだろう。

 自分の脳の中に成長の喜びの回路がないために、自分が成長することは両親にとっても嬉しいのだという考えを持つことができず、親子の相互関係を巧く構築していくことができないのだ。だからこそ、親に養育されているのに、なんの感謝もせず、親を手古摺らせる人生をア歩んでしまうのだ。

 それゆえ、赤ちゃんの誕生日を祝う時は、赤ちゃんがビックリするくらいにインパクトのある誕生日祝いにしてしまうのだ。赤ちゃんの脳がまだ柔らかい時に、赤ちゃんの脳に成長の喜びの回路を作ってしまい、赤ちゃんに親が喜ぶような行動を取るように仕向けるのだ。そうすれば、赤ちゃんは親の喜ぶようなことをし始め、放っておいても健康的にスクスクと成長していくことになるのだ。

 育児に疲労しきってしまい、赤ちゃんが自分の言うことをきいてくれないと嘆く新米ママは多くいるものだ。それは赤ちゃんの体の世話をしても、赤ちゃんの脳を育てていくということをしてこなかったからなのである。人間は体を進化させて生き残ってきたのではなく、脳を進化させて生き残ってきたという事実を忘れてしまっているのだ。

 いくら自分がお腹を痛めて産んだ赤ちゃんとはいえ、赤ちゃんは親の言う通りには動いてはくれないのだ。しかし、親が思うように育ってくれることはできるのだ。その際の重要なポイントこそが、脳に成長の喜びの回路を作ってしまうことなのだ。この回路を自分たち夫婦が作ってしまえば、赤ちゃんは健康的に成長していき、親が思ったように育ってくれることになるのだ。そういう子は、大きくなれば、きちんと親孝行をする立派な人間になるものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

赤ちゃんを連れて墓参り

●御先祖の霊的守護を受ける墓参り

 赤ちゃんができた夫婦が、幸せな人生を送るか、不幸な人生を送るかの、大きな分岐点は、墓参りするかしないかにあるといっていい。赤ちゃんを産んだなら、まずは墓に参って御先祖に報告し、御先祖の霊的守護を受ければ、その家族は不幸から守られるし、いくらでも幸せを生み出していくことができるであろう。

 しかし、墓参りをしなければ、自分たちがどんなに努力をしても僅かな幸せしか生み出せないし、招かなくていい不幸を呼び寄せてしまうことであろう。御先祖の霊的守護は目に見えざるものだ。それゆえ、物欲の激しい人や、科学史上主義者や、異常な新興宗教を信仰してしまう人は、必ずといっていいほど墓参りをしないものだ。そのため、自分は正しい考えを持ち、正しい行動を取っているというのに、様々な不幸を招いてしまうのだ。

 赤ちゃんを産み、その赤ちゃんを無事に育てたいのなら、とにかく墓参りに行くことだ。墓参りに行くことは問答無用なのである。「どうして墓参りに行かなくてはならないの?」と得体の疑問を呈しているようであったら、その愚かな疑問の代償として、不幸が襲いかかってくるものなのだ。

 赤ちゃんは自分たち夫婦がいたからこそ生まれたのであり、自分たち夫婦は先祖があって生まれたのだ。だから、まずは御先祖に子孫ができたましたと報告するのは、当然の義務だといっていいのだ。このことに関して、絶対に疑問を呈するべきではないのである。墓参りに疑問を呈しているようであるならば、その人は大いに人生観が狂っているといっていいのだ。

 大概、既婚女性の方は墓参りに積極的である。しかし、既婚男性で大学教育を受けてしまい科学至上主義者になったり、異常な新興宗教に入ってしまうと、立ち所に墓参りを否定し出すものだ。こういう時は旦那を説得して首に縄をつけてでも墓参りをするか、どうしようもない時は放置して母子二人で墓参りをしてしまうことだ。遅かれ早かれ、その夫に不幸が訪れて来るだろうから、その時に「あなたが墓参りをしないから、こういう不幸が訪れてくるのよ」と非難して、心を改めさせて、墓参りに行かせることだ。

●墓参りの作法

 墓参りに行って、礼礼儀作法を守らず、ただ参っても墓参りの意味がない。墓参りにはきちんとした礼儀作法があるので、きちんと墓参りの礼儀作法を守って墓参りをすることだ。そうすれば御先祖の霊的守護をちゃんと得ることができ、その後の人生の至る場所で御先祖が自分たち家族を守ってくれるのだ。

 墓地に参ったら、墓所の前で一礼してから墓所に入り、お墓を掃除することだ。お墓を掃除する道具は自宅から持ってくることだ。墓所のゴミを拾い、草を抜いて、墓所の中を奇麗にすることだ。そして墓石に水をかけ、スポンジで磨いて、その後、タオルで空拭きするのだ。

 花は「白い菊の花」を備え、ロウソクに火をつけ、お線香にも火をつける。墓参りの際の花は絶対に白い菊の花にすべきであって、カラフルな色の花を供えないことだ。花はあくまでも死んだ御先祖のためであって、生きている自分たちの物ではないのだ。ロウソクはあの世に光明をもたらす重要なアイテムで、これがあるからこそ、御先祖たちは自分たちの方に振り向いてくれるのである。お線香は死者の悪臭を掃うためのものだ。

 墓参りの準備が整ったら、家長である夫から御先祖に挨拶をすることだ。次に妻という順になる。赤ちゃんは自我ないので挨拶は不要である。しかし3歳を過ぎたら、幼児といえども御先祖の挨拶が必要で、母親に続いて、第一子、第二子、第三子の順番で挨拶していくのだ。

 墓所には供え物を絶対に置かないことだ。置いたとしても、カラスや野良犬の餌になるだけなのだ。供え物をするなら、自宅の御霊舎でいいのだ。墓参りをしたら直行で家に帰ることだ。墓参りをする日は可能な限り、他に予定を入れずに、御先祖に墓参りに専念していることをアピールすることだ。そうすれば、より強い霊的守護が得られるものなのだ。

●お墓から離れている場合は無理をしないこと

 すべての夫婦に自宅の近辺に墓地があるわけではない。中には田舎から出て来た夫婦もいるし、海外に移住した夫婦もいることだろう。そういう時は無理に墓参りに行くのではなく、一族の中から墓守の役を立て、御先祖の墓地を守って貰うことだ。大概が家督相続者になるので、その者に相続で優先的な権利を持つことは当然になる。墓守の役をして貰ったのに、相続で平等の取り分を主張することは絶対にやめた方がいい。恐ろしいまでの不幸を招き寄せるだけだ。

 自宅からお墓が余りにも離れている場合は、無理をせずに墓参りをすることだ。墓参りに行くだけで、時間が大量に食われてしまうし、お金も相当な金額がかかるからだ。但し、そうはいっても赤ちゃんの生後3年以内には必ず行くことだ。この3年以内に墓参りに行かないと、その赤ちゃんは御先祖の霊的守護を得られにくくなってしまうのだ。

 墓地から離れて移住してくるということは、分家であるということなので、そういう時は、自宅に御霊舎をちゃんと備えて、墓参りの代わりとすることだ。墓所が一族の者にきちんと守られているのであるならば、それでも相当な効果が出て来るものなのである。分家は分家の宿命として、初代に関しては財運がいいので、結構なお金が入ってくるものなのだ。そういうお金を遊びに使ってしまわないで、御霊舎を立てたり、墓参りのために積立て金として回しておくことだ。

 男性が海外に移住し、現地の外国人女性と結婚した場合、その外国人女性は墓参りの重要が解っていない場合が多々あるので、そういう時は妻への教育を兼ねて、帰国して墓参りをしておくことだ。妻に墓参りの作法を教えない限り、墓参りなどできないものなのだ。こういう場合の墓参りは、将来、自分の墓を外国に立てることを想定し、少しは墓の立て方を学んでおくことだ。そうすれば自分が死んだとしても、子供たちはテキパキと墓を立ててくれることであろう。

 分家は子孫を繁栄させるために、御先祖が外に出してのであって、子供をなるべく多く産むことだ。分家の子供たちが出世し易いのは、御先祖が守っているからなのである。分家なのに不妊症になったり、子供が1人や2人しかいないとなったら、それはそれで非常に問題なので、逆に先祖がその夫婦に災いを起こして、異常を知らせるのだ。そういう時は、すぐさま墓参りをして、先祖に対して無礼を詫びることだ。

●先祖の話が豊かな人間を作り出す

 墓参りに行くと親戚に会って、先祖の話で盛り上がるものだ。あの先祖はどうした、この先祖はこうしたなどと、他愛もない話が延々と続くものなのだ。この手の先祖の話は、慣れてしまうと、「またその話かよ」と思ってしまいがちだが、こういう先祖の話をするからこそ、自分たちの家族のルーツが解り、様々な人間模様も解ってくるのだ。

 繁栄している家族に限って、この手の先祖の話を大切にしているものだ。人間はどのような生き方をすれば成功できるのか、どのような選択をしてしまうと失敗してしまうのか、先祖たちは身を以て教えてくれているからだ。先祖の話を聞いておけば、自分たちは最少限の努力で成功できるようになるのだ。

 家系の流れというものは、非常に面白いものだ。例えば、政治家を一度でも出してしまうと、次から次へと政治家を出してくるのだ。ビジネスで一度成功すると、その子孫の多くは経営者になっていくものなのだ。学者を一度でも輩出してしまうと、様々な分野で学者が出て来るものなのだ。そういうことが解っていると、自分のやるべき仕事がなんとなく解ってくるし、現在のマスコミが煽っている「政治家の世襲批判」はそもそもが間違った議論と言いうのが解るものなのだ。

 憲法で「職業選択の自由」が保障されているからといって、自分がいかなる職業につけるわけではないのである。自分ができる仕事は限られているものなのだ。仕事を転々と変える人々は、自分がやらなければならない仕事が解っていないから、転職を繰り返してしまうのだ。そういうのは一時的に給料を得ることができたとしても、長い人生から見れば非常に損失の大きい生き方をしているのである。

 墓参りは決して自分たち夫婦のためだけのものではない。その赤ちゃんのためのものでもあるのだ。赤ちゃんが大きくなっていった時、墓参りを何度も繰り返していれば、その子は学校や大学を選ぶにしても、仕事を選ぶにしても、間違いのない選択をする確率が非常に高くなるのである。そういうことを自分の子供にしてあげるためにも、きちんと礼儀作法を守って墓参りをすることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

第十一章 赤ちゃんが生み出す人間関係の広がり

初参りは家族揃って

●初参り

 赤ちゃんを無事に産み、生後30日を過ぎたら、初参りに行って、赤ちゃんが無事に生まれたことを神様に報告しておこう。地方によって初参りの日が異なるので、地方の習慣に従っておくことだ。大体、男の子は33日後で、女の子は32日後というのが、初参りの参拝日である。

 初参りは家族揃っていくことだ。夫婦と赤ちゃんの3人は絶対に必要である。それに大概、夫の両親が加わるので、夫の両親には参拝に遅れることがないように注意を促しておくことだ。参拝は午前中にしなければならない。これは昔からの決まり事なのだが、最近では守られにくくなっているので、注意が必要だ。午前中の気は澄んでいるために、初参りという赤ちゃんを連れての参拝は、午前中でなければならないのだ。

 神社に行ったら、まずは鳥居の前で1礼1拍手しなければならない。神様にこれから参拝に参りますということを伝えるためだ。参道を上っていく時は、参道の真ん中を決して歩いてはならない。参道の真ん中は神様の道だからだ。参道を歩く時は、母親が赤ちゃんを抱いて、それを中心にして進むことだ。

 本格的な初参りの際は、神殿に上がって、神職者の指示通りに従って儀式を行っていけばいい。本格的な初参りの際は、料金をしっかりと確かめておくことだ。場所によっては、料金を提示せず、参拝者のお気持ちでというのがあるのだが、これが一番困る料金設定であって、そういう時は友達などに事前に相場を聞いておき、その金額を渡すことだ。余りにも安い値段を渡してしまうと、後から「なんだあの連中は!」と後ろ指を指されてしまうので、非常に恐ろしいのだ。だったら、料金をきちんと表示しておいてと言いたくなるのだ。

 神殿に上がらず、略式で参拝を済ます場合は、神前で2礼2拍手1礼をすることだ。ここで大事なのは、2度目の拍手が終わった後に、両手を両膝に置き、腰が直角になるまで頭を下げて、礼をすることだ。参拝風景を見ていると、まず殆どの人々がこれをやっていないので、注意が必要だ。これでは参拝したことにならなくなってしまうのだ。だからこそ、神様のご加護を得られないのだ。宗教を軽視する現代の風潮のツケがこういう所に出て来るのである。母親は赤ちゃんを抱いているので、母親が2礼2拍手1礼をする時は、赤ちゃんを夫に持って貰い、妻は2礼2拍手1礼を行えばいい。、

●産土神に赤ちゃんを守って貰う

 初参りをするというのは、その土地の産土神に赤ちゃんを守って貰うということである。日本人はどの土地を開拓するにしろ、まずは産土神を定めて、その神様を祀り、それを中心にして集落が発達してきたという歴史を持つ。そのため、この産土神を無視してしまうと、神様からのご加護を得ることができなくなり、とんでもない災難に遭ってしまうのだ。

 初参りで問題になるのは、自分が神道とは異なる宗教を信仰している場合であり、そうなってしまうと、宗教上の理由で初参りには行かなくなる。特にキリスト教徒は初参りを絶対にしないので、これがために赤ちゃんを難病奇病にさせてしまう確率を高めてしまうのだ。自分たちの神を裏切った代償は非常に高くつくのである。

 日本で仏教が広まったのは、あくまでも仏教の僧侶たちが神仏習合を行って、神道を蔑ろにしなかったからであり、だからこそ、仏教を広めることができたのだ。だが、キリスト教徒はキリスト教を絶対視してくるために、神道を蔑ろにするために、日本全国どこでもトラブルを起こしてくるのだ。

 初参りは産土神に赤ちゃんを守って貰うというだけでなく、村落共同体への参加という意味合いも含まれているので、初参りをしないということは、「自分たちが住んでいる地域の仲間には入りません」と言っているようなものなのだ。こうなると、キリスト教徒同士で閉鎖的空間を築いてしまい、益々孤立してしまうことになるのだ。

 宗教というのは、経典の中にいくら凄いことが書かれていても、経典だけが大事なのではないのだ。宗教史も大事なのである。我々の御先祖たちが積み重ねた宗教行為が、現代の我々に宗教的遺産となって、我々に宗教的な利益をもたらしてくれるのだ。その宗教的遺産を自分の信仰を理由に破壊してしまわないことだ。そうなれば、自分がゼロから遣り始めなければならなくなり、当然に自分の赤ちゃんも宗教的利益を得られなくなってしまうのだ。

●絵馬に感謝の意を述べておく

 初参りは安産祈願へのお礼参りも兼ねているので、安産をすることができたことに対して感謝の意を述べておくことだ。安産の感謝は絵馬を購入して、自分の思いを絵馬に書き綴っていけばいい。できれば、夫も絵馬を購入して、妻が安産で赤ちゃんを産んでくれたことい対して、感謝の意を現わしておくことだ。

 妊娠中に安産祈願をしたのに、きちんとお礼参りをしないと、その後の育児で神様の報復に遭うことになる。自分の赤ちゃんが聞いたこともないような病気を発症してきた場合、お礼参りをしなかったことにあると思った方がいい。そういう時はすぐさまお礼参りに行って、お礼参りをしなかったことを神様に詫びることだ。そうすればその難病奇病も治ってしまうのだ。

 安産祈願をした時は、白い腹帯を巻いたものだが、お礼参りをする時は赤ちゃんに白い産着を着せてお参りをさせるのだ。こうすることで、母親の安産と、赤ちゃんの健康なる成長が繋がるのだ。現代ではカラフルな産着もあるので、こういう時に派手な産着では行かないことだ。

 絵馬は誰にも見られないようにするものではなくて、他人にも見られるものだ。現在、妊娠中の既婚女性たちがやってきて、その安産の成功を見て、勇気を貰うということもあるのだ。それゆえ、自分の安産は決して自分だけに留まるものではなく、安産は広がっていくのだということを決して忘れないことだ。

 妊娠中に安産で産むために、自分が様々な努力をしたけれど、絶対に「自分が頑張ったからこそ安産で産むことができた」などと言わないことだ。そういう態度でいれば、周囲の支援を今後受けれらなくなってしまうからだ、たとえ安産で産めたとしても、「みんなの助けがあればこそ、安産で産めた」と言って、謙虚にしていることだ。そうすれば今後とも周囲の人々の支援を受けることができるであろう。

●夫の両親へのご報告

 初参りは決して神様への報告だけではないのだ。集落への仲間入りを表明するだけのものでもないのだ。実際は、夫の両親に対して、赤ちゃんを産めたことを報告する儀式であるのだ。初参りの主人公は、その夫婦と赤ちゃんではあるけれど、影の主人公は夫の両親なのである。

 自分たち夫婦が結婚したからこそ赤ちゃんができたのではなく、夫に両親がいたからこそ、夫は生まれ育ち、自分と結婚することができ、そして自分が妊娠し出産することができたのである。だからこそ、自分が安産で赤ちゃんを産めたのなら、夫への両親に対して感謝の意を現わしておかねばならないのである。

 両親を自宅に招いて、手料理を振る舞うとか、レストランに行って、御馳走したりすることだ。その際、感謝の意を文章にしたため、それを夫の両親の前で読み上げると、夫の両親は涙を流して感動してくれるし、今後の嫁姑の関係が非常に良好になるのだ。夫の両親も初参りで適度に疲れ、更に料理を食べて胃に血液が集中しているのだから、些細なことでも感動してくれるものなのだ。普通の状態で感謝の意を現わしてもなんの感動もないものだが、こういう場所で感謝の意を述べると、感動の極みになるのだ。

 自由を余りにも重要視しすぎてしまうと、儀式を軽んじ、そのうちなんの儀式もしなくなってしまうものだ。儀式とは「美しき偽善」なのである。昔の人々は本当に安産で産まれたことを感謝して、「有難や。有難や」と言いながら、初参りに及んだ筈だ。しかし、それが儀式化されてしまえば、そんなに安産に感動しなくても、儀式だからということで初参りをしているにすぎないのだ。だが、実際に初参りに行ってみると、やはり感動するものだし、その儀式を巧く使いこなせば、より感動させることができるのだ。自由ばかりを唱えていては、いずれ何に対しても感動することができなくなってしまうものなのだ。自由の名のもとに、人間を感動させる儀式をすべて破壊してしまうからだ。

 我々は昔から伝えられてきた儀式を守り続けるべきなのである。どんなに古臭いといわれようが、その儀式を守り続けていけば、既婚女性たちは安産に成り易いし、健康な赤ちゃんを産むことができるようになるし、安産で産めたことへの感謝を他人に伝えられ易くなるからだ。優れた儀式はこの世がどんなに変動したとしても、後世に伝えていかねばならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結婚して「愛の泉」からたくさんの愛を溢れ出させるために

●結婚したのに、「愛の泉」を塞ぐこと勿れ

 恋愛と結婚の決定的な差は愛の出力の差であろう。結婚すれば、恋愛していた頃とは比較にならないくらいに、愛が大量に出て来るのだ。未婚女性が恋愛し、好きな男性のために料理を作るというのは、1日でもう充分だろう。いくら好きな男性のためとはいえ、1週間も料理を作り続けては飽きてしまうものなのだ。結婚すれば、料理を毎日作らざるをえないわけだから、恋愛とは比較にならないくらいに、結婚での愛の出力は大きいのだ。

 しかし、結婚している当事者たちは自分たちが大きな愛を出していることに気づかないものだ。いくら大きな愛とはいえ、いつも出し続けてしまえば、それは当たり前のものになってしまい、独身時代ではごく僅かな愛しか出していたということを、完全に忘れてしまっているのだ。

 だからこそ、未熟な夫婦は夫婦喧嘩をしゅっちゅうやりまくるのだ。どんなに激しい夫婦喧嘩をしたとしても、夫婦喧嘩の原因は、殆どが些細なことなのである。それを冷静に見れば、わざわざ夫婦喧嘩をしなくてもいいのに、愛が多く出ているがために、感情的になってしまい、大きな夫婦喧嘩へと悪化してしまうのだ。

 結婚というものは、夫婦をそれぞれ生成発展させようとするものだ。それゆえ結婚しているからといって、愛さえ出していればいいわけではないのだ。愛とともに、「厳しさ」も必要なのである。厳しさとは、自分の考えていることが本当に正しいのか、自分がやっていることが本当に正しいのか、常に冷静になって自己審査し続けることなのである。この厳しさをきちんと持っていれば、いくら大きな愛を出していたとしても、感情的になって夫婦喧嘩にはならないものなのだ。

 結婚したのに、「愛の泉」を塞ぐこと勿れ。夫婦が無理をしなくても、自然と「愛の泉」から愛が流れ出て来るのに、些細なことで感情的になって、「愛の泉」を塞いではならないのだ。結婚というものは、愛さえあればすべて巧く行くというような幼稚な考えは早々に捨て去るべきなのだ。結婚したからこそ、愛以外のものが必要となってくるのである。

 愛というのは、人間の感情の産物だから、人間を感情的にさせ易い。だからこそ、相手が自分の思い通りにならないことに怒りを覚えてしまい、忍耐力のない人であるならば、その怒りが爆発してしまうのだ。夫婦でどんなことがあっても、相手の身になって考えると、悩みの8割は消滅するものなのだ。愛を出しさえすればそれでいいと思うのではなく、相手を思いやり、夫婦双方の立場から問題を解決できるように仕向けていくべきなのだ。

●嘘でもいいから、自分の夫は世界で最高の男と思え

 人間は見たこともない人に無限の憧れを抱いてしまうという危険な性癖を持っている。例えば、仏教徒なら2千5百年前に死んだゴータマ・シッダルータを崇め、その人物が一体どうなのかも知らないのに、手を合わせるは、頭を下げるは、供え物を捧げたりする。キリスト教徒なら、2千年前に死んだナザレのイエスを崇め、その人物が一体どうなのかも知らないのに、イエスが死から復活したことを信じ、祈りを捧げ、献金をするのだ。

 しかし、この仏教徒の既婚女性が自宅に帰れば、生きている夫を見下し、罵倒し、喧嘩を吹っ掛けるのだ。キリスト教徒の既婚女性も自宅に帰れば、生きている夫を信じることなく、愛に代えて憎しみをぶつけ、献金するどころから夫の財布からお金をふんだくろうとするのだ。

 人間は死んだ者を生きている者よりも上位に置いてはならないのだ。自分が見たこともない人を、自分が見たことのある人よりも優先させてはならないのだ。手を合わせ、頭を下げ、供え物をしたいのであるならば、まずは自分の夫にすべきであり、たとえ夫が死んだとしても夫を崇め、生きている夫の無事を祈り、夫の財布にお金が少なくて困らないは慮をすべきなのだ。

 嘘でもいいから、自分の夫は世界で最高の夫だと思うことだ。現実はそうでなくても構わないのだ。あくまでも妻が勝手に定めた基準で、世界最高の夫に認定してしまうのだ。自分の夫を世界で最高の男性だと思うと、自分の夫は本当に世界で最高の男性になっていくものなのだ。自分の夫はゴータマ・シッダルータよりも素晴らしいし、ナザレのイエスよりお愛を捧げねばならぬ貴重な男性なのである。

 自分の夫を単なる男だと思うと、そのような男にしかならないものなのだ。自分がこの世で唯一の夫の応援団長になってあげることだ。そうすれば夫が現在どんなに悲惨な境遇にいたとしても、立身出世を果たし、巨万の富をもたらしてくれることになるのだ。自分が愛を捧げるべきは、数千年前に死んだ男たちにではないのだ。今生きている自分の夫へなのである。

●夫婦愛は循環する

 夫婦愛というものは、決して一方通行ではないのだ。夫婦愛は循環する。これこそ、夫婦愛が持つ最大の特徴なのである。夫婦愛を一度発してしまうと、夫婦の中をグルグルと巡ってしまう。そうやって循環することで、夫婦愛は循環すれば循環するほど、愛が大きくなっていく。これが「愛の泉」の正体なのだ。

 夫婦の間に、一度、愛が流れ出してしまうと、その愛は夫婦の間を加速度を伴って回転し続けてしまう。これが「夫婦愛の加速度原理」なのである。自分が出した愛が小さな愛であったとしても、その愛は何倍も何十倍も膨らんで巨大化していく。結婚していると、愛は膨らめば、有り得ないくらいに膨らんでいくものなのだ。未婚時代にはどんなに恋愛で盛り上がっても、赤ちゃんができたりしない筈だ。住宅を所有したりしない筈だ。夫婦の資産として、数千万円、数億円、数十億円の資産を持てたりしてしまうのは、夫婦愛が加速度原理によって高速で循環しているからなのだ。

 だが、この夫婦愛の循環を使い間違えると、悲惨なことになってしまう。結婚していると、愛は萎めば、有り得ないくらいに萎んでいくからだ。妻が夫の仕事のできの悪さを愚痴ったり、給料の少なさを罵倒したり、家事や育児を手伝わないことを不平不満に思っていると、夫婦の間で愛は消えてしまい、憎しみが循環してしまい、しかもその憎しみは加速度原理によって急速に憎しみが巨大化してしまうのだ。

 だからこそ、夫婦喧嘩で暴力が発生すると、その暴力は激しいものになるし、殺人事件にだって発展してしまう。たとえ離婚を決断したとしても、奇麗さっぱりに別れることをせず、少しでも相手からお金をふんだくり、離婚後も激しい憎しみを抱いてしまうのだ。そういう夫婦は相手がどんなに悪い人物であるかを罵倒し続けるものだが、結婚した当初は愛を以て始めたのに、愛を憎しみに変えてしまい、その憎しみを循環させてしまったからこそ、離婚という結果に終わっただけなのである。

 結婚すれば夫婦は最も近い距離に居るものなのだ。しかも夫婦愛は循環していくから、その愛を決して憎しみに変えてはならないのだ。憎しみを持ってしまえば、最初はその憎しみが小さな物であったとしても、自然と憎しみが巨大化してしまい、自分では手に負えないものになってしまうのだ。

 仏教を信仰しているのに、夫婦喧嘩をいてしまい、離婚してしまう夫婦は跡を絶たないものだ。キリスト教を信仰しているのに、夫婦喧嘩をしてしまい、離婚してしまう夫婦はいくらでもいるものだ。なぜなら、自分の夫よりも、数千年前に死んだ男を優位に置いてしまい、しかも、その死んだ男に捧げる愛よりも大きな愛を自分の夫に捧げないからだ。これでは誰がやったとしても結婚は巧く行くことはないであろう。

●愛の喜びは性の悦びに繋がる

 夫婦の性行為は、単なる性行為なのではなく、夫婦愛の表現であるのだ。愛の喜びは必ず性の悦びに変わるものだ。結婚しているなら、夫婦は性生活を定期的に営むことになるから、性行為をするたびに、夫婦愛は膨らんでいき、大きなものに成長していくのだ。

 だから、夫は性愛術が巧くなって、せっせと妻に性の悦びを与えていくことだ。妻に性の悦びがあれば、妻の愛の喜びは更に大きくなるものなのだ。そうすればベッドの上ではあんなに優しかった妻が、ベッド以外の場所でも優しくしてくれるものなのである。そのような状態になれば、家庭内でのストレスが激減し、夫は全力を以て仕事に取り組めることができるようになり、自分の能力を最大限に発揮していくことができるようになるのだ。

 性欲に囚われている人であるならば、夫婦の性行為は性行為の中だけで完結してしまうと思ってしまう。だからこそ、夫婦の性行為を堕落させて、いかにも嫌らしい性行為におとしめてしまうのだ。そうなれば、妻は淫乱になるだけで、夫婦の通常の生活までが破壊されていってしまうのだ。

 性愛術をきちんと施し、妻に正しい性の悦びを与えれば、その性の悦びの中で治まりきるものではなく、その性の悦びが愛の喜びに変わって、自分たちの夫婦の夫婦愛をより大きくしていくことができ、それによって夫婦双方が高い能力を発揮して、夫婦に幸せと良高さをもたらすのだ。

 夫婦愛は夫婦の中を循環している以上、夫婦の性行為だって、それによって夫婦愛が循環しているのだ。結婚して月日が経っているというのに、夫の性愛術が未熟だったり、妻が恥じらってばかりいて、様々なプレイに挑戦しないというのであるならば、夫婦の性生活は向上していかなし、夫婦の性行為による夫婦愛の発生もイマイチになってしまうのである。そうならないためにも、夫は性愛術を上達させ、妻は勇気を出して様々なプレイにチャレンジしてみることだ。そういうベッドでの冒険が、夫婦愛を大きくさせ、結婚生活にも巨大な幸運をもたらすことになるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

あなたの性生活は、実は他人が決めている

●性行為の相手を固定することこそ、性愛術の基本

 性生活というものは、自分ではなく、実は他人が決めている。だから、自己中的な人では絶対に素晴らしい性生活を送ることができない。自分がどんなことをしたとしても、それには限界があるからだ。自己中的に生きず、自分と他人との関係を良好に保つ者だけが、相手の性生活を豊かにすることができ、自分の性生活を豊かにすることができるということだ。

 例えば、「ダメンズウォーカー」と称して、ダメ男ばかり付き合い、しかも過去の男たちを馬鹿にしているような女性には、永遠に性の悦びを得ることができないのだ。性行為がどうのこうのではなく、男女関係を良好に保つという、自立した女性としての最低限のマナーを守っていないからだ。

 逆に貧乏人の夫婦であったとしても、夫婦仲が良ければ、表面的には貧しくて不幸に見えたとしても、実は豊かな性生活を送っており、いずれそのセックスエネルギーが現実世界に転化してきて、その夫婦を経済的にも豊かにさせることができるのである。豊かな性生活が豊かな夫婦愛を作り出すこともあるが、良好な夫婦関係がなければ、まともな性生活を営めるわけがないのだ。

 性の世界は秘められた世界であるがゆえに、様々な人たちが出鱈目なことを言ってしまいがちだ。しかも、雑誌や書籍に出てくれば、衝撃的なものとして受け止められがちだ。そのためそれが本当に正しいことを言っているのか、判断つきにくい物であるのだ。だが、はっきりとこの基準さえ持っていれば、性愛術の良し悪しがつくという基準がある。

 それは「性行為の相手を固定すれば、性愛術が上達する」ということが解っている人なら、性愛術に関して最低限のラインはクリアしていることであろう。性愛術というものは、相手を固定すれば、自然と巧くなっていくものなのだ。自分の性愛術がいくら巧いからといって、相手を取っかえ引っかえしていれば、性愛術のレベルは低下してしまうものなのだ。

●男性の性愛術を上達させる秘訣

 そもそも性愛術は男性が備えなければならないものだ。性愛術を考え出したのも男性だし、性愛術を真剣に学んでいる者たちも殆ど男性たちだ。しかし、若い男性には性欲が強過ぎるために、どうしても性愛術を的確に習得していくことが困難になってしまうのだ。自分の性欲が邪魔をして、性愛術の基本すらまともに習得できないものなのだ。

 それゆえ、男性の性愛術が巧く成り始めるのは、性欲が衰え始める30歳を過ぎてからだ。10代や20代では下手に性愛術を巧くさせようと考えるのではなく、いかに射精しまくるかを考えてしまった方が、男として健康的であるのだ。若い時にきちんと射精しまくっておかないと、30歳を過ぎてから、性愛術を上達させられないものなのだ。

 性愛術が巧く成り出す時期は、男性にとって自立を完成させた時期や結婚する時期にピタリと一致し、精神的に自立し、結婚することで、性愛術が飛躍的に巧くなっていくのだ。男性の性愛術を上達させる秘訣とは、何か秘密めいた物ではなく、実は結婚して自分が本当に好きな女性とやりまくることにこそあるのだ。

 時たま、性愛術を教える学校という、いかにもいかがわしい学校ができたりして、話題をさらうものだが、この手の学校はすぐさま潰れてしまうものだ。こんな学校には碌でもない男性たちしか寄ってこないし、教える連中も碌でなしだからだ。明らかに金儲けのためだけの学校だから、まともなことを教えられるわけがないのだ。

 もしも男性が性愛術を巧くなりたいのであるならば、自分が本当に好きな女性と結婚してしまうのが、最も手っ取り早いのだ。ただ結婚すればいいのではなく、自分が結婚する前に、ちゃんと定職を持ち、経済的に自立して、様々な試練に耐えて精神的にも自立しておかねばならない。自分の妻をどんなことがあっても守り切れる力を持っていなければ、結婚だけでなく、性愛術を上達させるパワーに欠けてしまうからだ。

●女性が性生活で満足する秘訣

 女性が性生活で満足する秘訣は、自分が本当に好きな男性と結婚して、夫婦仲を良好に保つことだ。勿論、男性同様に、女性も結婚前に仕事をして経済的に自立し、親のお金で生活することがないようにし、様々な試練を経て精神的に自立しておかねばならないのだ。たとえ結婚したとしても、精神的な自立を終えていないばっかりに、夫を見下し、夫婦喧嘩を吹っ掛けているようであるなら、夫婦の性生活で満足いくものを得られるわけがないのだ。

 女性脳は男性脳とは違って、性行為だけを切り離して考えることはできない。女性脳はあくまでも性愛を恋愛や結婚の過程の中にあるものとして考えてしまうのだ。そのため、女性に性愛だけを与えてしまうと、女性脳が暴走して、その女性をまとな女性にさせなくしてしまうのだ。

 しかも、女性の性欲中枢と食欲中枢は隣接した所にあるので、食事を正しくしておかないと、正しい性生活を得ることができなくなってしまうのだ。偏食をし、間食をし、便秘がちであるなた、男性がどんなに努力したとしても、正しい性生活を得ることはできないのだ。女性が正しい性生活を得たいのなら、まずは栄養バランスの取れた食事をし、間食をやめて、朝の排便をしっかりと行っておくことなのだ。

 既婚女性は出産してしまうと、赤ちゃんのことを中心に考えてしまうので、育児をしている時期であったとしても、夫への配慮をきちんとしておくというすることをしないと、性生活がなくなってしまうという危険性があるのだ。赤ちゃんがいるからといって、育児だけをしていればいいというのではないだ。育児も家事もこなし、夫との関係に気を配らねばならぬのだ。こういうことは女性脳が最も能力を発揮し易いので、育児期間中というのは、女性が最も充実した日々を過ごせる期間であるのだ。

 既婚女性が性生活で満足するためには、性生活を向上させることをする前に、まずは家事や育児をきちんとこなし、夫婦関係を良好に保っておくことなのである。そうしておけば、自然に夫婦の性生活も向上していくことになるのだ。既婚女性が家事や育児をそっちのけにし、性愛を追及しても、まともな性愛を得ることはできないし、その代償は非常に高くつくのだ。

●既婚女性が性生活で求めるもの

 夫婦には様々な夫婦があるがゆえに、夫婦の性の悩みも様々なものがあるものだ。しかし、夫婦が健全な結婚生活を営んでいれば、自然と豊かな性生活を得られるものなのだ。それゆえ、性愛のことをとやかく言う前に、まずは自分たちの結婚生活をきちんと整えていくことだ。

 夫婦で性の悩みを持ってしまう夫婦は、性生活以前に様々な問題を抱えているものだ。例えば、朝起きて来たというのに、「おはよう」という挨拶を交わさない。朝飯前のひと仕事をせずテレビをダラダラと見ている。朝の排便をしない。掃除をきちんとしていない。洗濯機にカビが生えているために、洗濯物が臭い。料理が余りにも栄養バランスを欠き、しかも不味過ぎる。未だに赤ちゃんの夜泣きをきちんと処理できない。夫が仕事で忙しいのに、妻は夫に育児の手助けを要求して、夫婦喧嘩になる。これでは夫婦の性生どころではないのだ。

 結婚している以上、夫は自分がやるべきことをきちんとやる。妻も自分がやるべきことをきちんとやる。決して夫婦は平等ではないのだ。夫婦が同じことをやっていたら、その夫婦は確実に破綻してしまうのだ。夫婦が平等を否定し、夫婦がそれぞれ異なることをするからこそ、夫婦は様々なことをすることができ、結婚のエネルギーを拡充させていくことができるのである。

 どんなに性愛に貪欲な既婚女性であったとしても、性愛の場で求めてくるものは、意外とシンプルなものなのだ。まずは「自分をきちんと愛してくれるということ」だ。性愛術が巧い下手ではなく、自分をきちんと愛してくれるかどうかなのだ。これは性愛術が巧い男性が、テクニックに走り過ぎてしまい、遂々忘れがちな大事なことなのだ。

 次に「性愛術で愛を表現してほしいということ」だ。性愛術が下手でも、真摯な愛が伝わってくればそれでいいのだ。第三に「ちゃんとオルガズムに行かせて欲しいということ」だ。性愛術が下手な男性だと、このちゃんとオルガズムに行かせることができないゆえに、妻は性的欲求不満を抱えているのだ。だからこそ、性愛術を練習して、妻をきちんとオルガズムに行かせるようにしなくてはならないのだ。

 そして妻は「夫婦愛を支えるための経済力も欲しい」ということだ。この点は非常にシビアに見ているものだ。 というか経済力がありさえすれば、妻は多少の性的欲求不満があったとしても、それを問題視してこないのだ。夫婦が貧乏だからこそ、性的欲求不満を爆発させてきてしまうのだ。

 性愛術が巧くなるのも、豊かな性生活を営むためにも、結婚は絶対に欠かせないものだ。しかし、性愛術だけが巧くればいいというものではないのだ。豊かな性生活を送ればいいというものではないのだ。夫は仕事をしてお金を稼ぎ、妻は家事や育児をきちんとこなして、家族生活そのものを豊かにしていかねばならぬのだ。その豊かな家族生活の中に、素晴らしい性愛術も、豊かな生活も存在しているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

出産したからこそ、夫とのメイクラブが必要となる

●育児に専念すると性欲を忘れてしまう

 女性は出産すると性欲が減少するものなのだが、夫婦の性生活を怠ってはならない。夫の求めにはできる限り応じた方がいい。というのは、新米ママが出産後に育児に専念してしまうと、性欲そのものを忘れてしまう危険性があるからだ。初めての赤ちゃんを育てることは楽しいものだが、かといって赤ちゃんに執着し過ぎてしまうと、夫婦の関係すら危険になってくるのだ。

 新米ママの中には、余りにも赤ちゃんを待望し過ぎたために、異常なまでに母親モードになってしまい、妻としての役割を果たすことになんの魅力も感じなくなってしまう女性がいるものだ。既婚女性が出産後に離婚が続出するのは、これが原因で起こる離婚もかなりあるのだ。母親に成り切りすぎるのも、問題なのである。

 人間が生きていくには、「程々」が大事であって、母親としての役割も果たし、妻としての役割も果たし、というバランスが必要なのだ。母親だけの仕事をやっていればいいというのはでないのだ。妻としての仕事をもこなし、夫を立てることをしていかないと、後で取り返しのつかない損害を被ってしまうのである。

 新米ママの場合、初めての赤ちゃんを出産すると、少しは太り始める。これは第二子以降の出産の準備のためであり、脂肪をつけることで体温を上げようとするのだ。そのため、そのまま放置しておくと、ブクブクと太っていってしまうことになり、典型的なオバサン体形になってしまうのだ。それゆえ、育児をしているからこそ、夫婦の性生活で汗を流すことが必要となってくるのだ。

 夫婦の性生活の運動量を決して軽んじてはならない。メイクラブをきちんと行って貰えれば、かなり痩せるほどの運動になるのである。しかも性行為は夜に行われるので、脂肪が最も燃焼し易いのだ。だから、性行為をきちんと行えば、必要な脂肪はついても、無駄な脂肪は落ち、贅肉が奇麗に消滅していくのである。

●女性ホルモンは33歳でピーク

 女性にとって忘れてはならないのは、女性ホルモンのピークは33歳であるということだ。それ以降は少し減少して、高濃度で分泌され続け、40歳後半で急激に減少していくことになる。女性は33歳を過ぎれば、それ以降は老化していく一方になってしまうのである。老化防止のためには、いかに巧く女性ホルモンを分泌させ続けるかが、非常に大事な作業になってくるのだ。

 33歳を過ぎた既婚女性が、美しくいるためには、夫婦関係を良好にし、夫婦の性生活を定期的に営むことが大事になる。女性ホルモンは自分を美しくしようとするので、自分の夫から褒められたり、可愛がられたりしないと、よりいっそう美しくなれないのだ。歳を取っても美しくいたいのであるなら、夫婦喧嘩は絶対にやめた方がいい。夫婦喧嘩をすればするほど、顔にシワやシミができはじめ、徐々に醜くなっていくのだ。

 夫婦の性生活も女性ホルモンの観点から見れば、それを定期的に行えば、自分を美しくしてくれる大事な行為なのである。もしも既婚女性が性行為をしなければ、老けていく一方になのである。女性は性行為をするからこそ、歳を取って奇麗で居続けることができるのである。

 そしてたまには夫婦二人だけでデートをするのもいい。赤ちゃんがいるとどうしても赤ちゃんペースになってしまうので、赤ちゃんを両親に預けて、数時間だけデートをしてしまうのだ。昔のように時間無制限でデートするよりも、時間制限があるデートの方が盛り上がるものなのだ。濃密な時間こそ夫婦愛の証なのである。

 既婚女性が女性ホルモンの分泌量を低下させないためにも、日頃から手をつないだり、ハグをしたり、キスをしたりするということは、非常に大事な行為なのである。こういうことを日頃からしているからこそ、夫婦仲も良くなり、夫婦の意思疎通が簡単に図られ、女性ホルモンが健全に働いて、自分を美しくしてくれるのである。

●夫とのメイクラブによって奇麗になる

 女性は恋をすれば美しくなるというのは、それは若い時に話でしかないのだ。どんなに美しい女性といえども、結婚適齢期に突入すれば、結婚することでしか美しくなれないものなのだ。結婚していない女優がどんなに美しく見えても、それは遠くから見ているからこそ美しく見えるだけであって、間近で見てしまうと、しっかりと老化の跡が出て来ているものなのである。

 叶恭子だって自分の美貌を自慢して、不特定多数の男性と淫乱三昧に耽っていたら、いつの間にかマントヒヒみたいな顔つきになってしまったのだ。恋愛や性愛は自分が特定した異性と真剣になってやらないと、充分に効果が発揮されないのである。恋愛や性愛を悪用した結果は、必ず自分の顔に出て来るものなのである。

 女性は33歳をすぎたら、自分の顔に責任を持った方がいい。33歳以降の顔は、明らかに自分の生き様によって作られた顔だからだ。夫婦喧嘩をするたびに、自分の顔に深いシワが刻まれ、シミが出て来てしまうものなのである。夫婦でしょぼい性行為しかしていないと、体から張りや艶が失われ、徐々にブクブクと太り出すものなのである。

 結婚したのなら、「夫婦関係を良好に保つことで美しくなる」「夫とのメイクラブで美しくなる」と思い込んでいた方がいい。夫婦関係を良好に保っていれば、顔は常に明るく笑顔になってくるものなのだ。定期的に夫婦でメイクラブをしていれば、体は引き締まり、美しくなっていくものなのである。

 既婚女性がエステサロンに行ったり、化粧品に拘ったり、高級ブランド品を購入して、美しくなる努力をしたとしても、それほど美しくならないものなのだ。そういった物は、夫婦関係が良好で、夫婦の性生活をきちんと行っている人がやれば、更に一層美しくなるという代物なのである。常日頃、夫婦喧嘩をし、夫婦の性生活がなくなってしまった既婚女性が、いくらエステサロンに行っても、化粧品を厚く塗りつけても、高級ブランド品を身に纏っても、美しくなれないものなのである。寧ろ逆に醜くなってしまうものなのである。

●妻が性的に満足していることこそ、夫婦円満の本当の秘訣

 既婚女性の視点から見た場合、遂々性生活の重要性を忘れてしまいがちだ。既婚女性にとっては、家事をこなさねばならなし、育児をしなければならないし、夫との付き合いもこなさねばならないからだ。既婚女性にとっては、夫婦の性生活の持つ重要性は低いものなのである。だからこそ、性生活の持っている威力を忘れてしまうのだ。

 結論から言ってしまうと、妻が性的に不満な状態では、その夫婦がどんなに努力をしたとしても、夫婦喧嘩が発生してしまうものなのである。ベッドの上で、夫が自分にきちんとメイクラブをしてくれないという性的不満が、夫婦の日常生活で爆発してしまい、無意味な夫婦喧嘩を繰り返してしまうのだ。

 妻が性的に満足の状態だと、夫婦喧嘩は起きにくいのだ。たとえ起こったとしても、些細な夫婦喧嘩で終わってしまい、すぐさま解決される程度のものでしかないのだ。夫婦円満の秘訣をとやかくいうけれど、妻が性的に満足している状態こそ、夫婦円満の本当の秘訣なのである。

 キリスト教のように既婚女性に対して必要以上の貞節を要求し、夫婦の性行為は生殖目的のためだけだとしてしまうと、妻はどんなに努力をしたとしても、性的に満足を得ることができなくなってしまうので、夫婦喧嘩が起るし、僅かなことなのに夫婦関係そのものが破壊されてしまうことになるのだ。こういう女性に限って、「自分はちゃんと信仰しているのに!」と愚痴を垂れてしまうのだが、自分が間違った宗教を信仰してしまえば、必ず自分の生活に災いが及んでくるものなのである。正しい宗教を信仰していれば、自分の結婚生活は幸福に満ちたものになるものなのである。

 人間には性欲が必ずあるものだ。人間が生きている以上、その性欲を消し去ることはできない。大事なことは、その性欲を暴走させることではなくて、ちゃんと自己統御して、その性欲を正しく使っていくことなのだ。結婚すれば、夫にこんなに激しい性欲があると気付くものだし、妻だってそれなりの性欲だってあることに気付くものなのだ。夫婦双方がその性欲を無視してはならないのだ。既婚男性であるならば、妻にメイクラブをせっせとして、性的満足をきちんと与えていくべきなのである。既婚女性であるならば、夫がメイクラブをしたくなるような美しい体を作り、性的満足をきちんと頂くことなのである。それを地道に行っていれば、その夫婦はどんなことがあっても乗り切れるものなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (10)

出産によって変わる「性の記憶」

●優れた性愛術は、自立を終えた人間にしか持つことはできない

 人間の性愛は、性欲だけの産物ではない。増してやペニスやヴァギナだけの産物でもないのだ。人間の性愛をどうするかは、「脳の記憶の産物」であるのだ。だから、フロイトの学説に取りつかれて、リピドーがなんたらかんたら、近親相姦がなんたらかんたらといっていては、とんでもない間違いを起こしてしまうのだ。また、性教育を熱心に勧めてくる連中のように、ぺニスやヴァギナのことしか考えていない人々の意見を真に受けていたら、その人の性生活は悲惨なものになってしまうことだろう。

 子供を育ててみれば解るが、子供というのは性には無頓着だ。しかしそれでも男女の性差が現れてきて、女の子なら遊びで「おママごと」をやりながら母親の真似をし出すし、男の子なら父親の後をくっついて父親の真似をすることで成長していこうとする。子供同士の喧嘩で壮絶な喧嘩になるのは、自分の親を馬鹿にされた場合であって、そういう場合は子供はいかなることがあっても敵対する子供に徹底した攻撃を加えてくるのだ。

 そして性愛に関して生まれて初めて自らが意識せざるをえなくなるのは、女の子なら「初潮」を迎えた時であり、初潮が来たことを両親から祝って貰うということが、両親からの自立への始まりとなるのだ。男の子の場合、精通を迎えても、両親から祝われることはなく、勝手に両親のもとから自らが離れていくことで、自力で自立していかねばならぬのだ。

 子供は自立をし始めると、大抵は同性同士でつるむ。女の子は女の子同士で、男の子は男の子同士でつるむ。その仲間内では異性を入れるのは厳禁で、友達との友情を深めていくことに専念することになる。この友達の中から、親友を作り出し、その親友と仲良くなることで、友情を最も深めていくことになる。この親友との友情が完成すると、初めて「初恋のチケット」が貰え、初恋相手の異性が現れてくることになる。だから初恋ができるのは、高校生か大学生の頃でしかない。小学生や中学生の時期に初恋ができるわけがないのだ。増してや幼稚園児の時など絶対にできるわけがないのだ。

 人間の性愛は初恋時での性愛の経験が、最も大きな影響を与えてくる。性愛というのは、こういうものだという記憶が作り出されてしまうのだ。ただ、悲しいのは、多くの人々は、事前に性の知識をいくら持っていても、経験値が全く伴わないので、大方は初恋時での性愛が巧くいかないものなのだ。それでも、せめて女性にオルガズムを行かせたとか、男性からオルガズムに行かせて貰ったという経験ができたなら、その後の人生で性愛術が劇的に巧くなっていくことができるのである。

●出産は出産前の人生を洗い流してしまう

 夫婦といっても、初恋がそのまま結婚へと発展していったら別ではあるが、結婚するまで複数の異性とつきあった経験の持ち主同士なのだ。今までの恋愛が結局は巧くいかず、今の結婚相手こそが恋愛から結婚へと臨界点を突破させた相手なのである。だからこそ、独身時代に終止符を打ち、結婚することができたのである。

 だからといって、その結婚相手が性に関する記憶がマッサラだと思ってはならない。性愛の経験を何度も重ねてきた以上、性愛に関する嫌な思い出も、性愛に関する良い思い出もたくさん持っているものなのだ。そういう記憶が自分たちの夫婦の性生活の中に噴き出してきてしまうのである。

 だからこそ、結婚したら、多少は性愛術に関心を持って、過去の性愛の記憶を吹き飛ばせるくらいの性愛術を施さないと、配偶者は過去の性愛の記憶に囚われて、夫婦の性生活を満喫することができないのだ。特に男性は独身時代のような自分が一方的に射精するような性行為をやめて、妻にオルガズムを行かせる性行為へと切り替えるべきなのである。そうしなければ、妻は過去の性愛の記憶を捨てきれないのだ。

 結婚生活で特に大事なのは、出産は出産前の人生を洗い流してしまうということだ。女性は初めての赤ちゃんを出産すると、それまでに交際のあった男性たちは、自分を妊娠させ出産させるまでに至らなかった未熟な男たちと本能レベルで考え、出産前の性愛の記憶は奇麗さっぱりに洗い流してしまうのだ。男性は妊娠することも出産することもないがために、初恋の女性のことをうだうだと思い出したりするのだ。これは男女の性差で決定的なことなので、この性差を絶対に無視しないことだ。

 言わば、初めての出産後の妻は、性愛に関しては真っ白な状態であって、その夫の性愛術の腕次第で、いくらでも自由に性愛の記憶を作り出すことができるのだ。だからこそ、出産以後の夫婦の性生活がその後の夫婦の性生活を決定するのだ。妻が夫との性生活を楽しいと思うか否かは、出産後の性生活で決まってしまうのだ。

●夫婦の性生活に問題があるなら、自分たちで工夫しろ

 出産後の夫婦の性生活でなんらかのトラブルがあるなら、夫は自分の性愛術になんらかの問題があるとみていいのだ。妻は出産後、「精神的なヴァージン」になっている状態であって、しかし肉体的には処女ではないし、性愛の経験値もしっかりとあるのだ。それゆえ、妻に対して優しく接して、愛撫を駆使し、性交ではオルガズムに行かせまくらねばならぬのだ。こういったことをしなければ、夫婦の性生活でトラブルが生じてくるのは、当然のことなのだ。

 こういう場合、まずは「性愛術の基本を習得しろ」ということだ。性愛術の基本というのは決して難しいものではない。ただ、自分の性欲に惑わされて、自分のために使おうとするからこそ、いくら学んでも性愛術の基本が身に付かないのである。自分の性欲を制御し、妻に性の悦びを与えたいという気持ちがあるなら、簡単に習得できてしまうものなのだ。

 性愛術の基本を習得した所で、それはあくまでも基本にしかすぎない。それを実践の場でちゃんと使いこなせるためには、何度も試行錯誤をしていかねばならぬのだ。妻の性感帯はどこで、妻はこういう愛撫が好きだとか、妻はこの体位でなら確実に行くとか、様々なプレイを試していけばいいのだ。

 その上で自分たちの性生活を創意工夫することだ。妻が真面目な女性なら、下手に小細工を使わずに、ストレートな性愛術を使い続けることだ。妻が芸術好きの女性なら、演劇的要素を取り入れ、まるで演劇をしながら性行為をするようにすればいい。妻がスポーツ好きの女性なら、夫婦の性生活をスポーツにしてしまい、スポーツ競技のようにしてしまえばいいのだ。

 性愛術は普遍的なものかもしれないが、夫婦の性生活は個別的なものだ。その夫婦の個性というものが、如実に出て来るものなのである。他の夫婦がどのような性生活を送っていようと、自分たち夫婦が楽しいと思える性生活を作り出し、それを夫婦二人だけで楽しんでしまうのが、一番正しい選択なのだ。

●夫婦で性行為をするのが楽しいと記憶させてしまう

 男性は性愛術が巧くなってしまうと、どんな女性でも性の悦びを与えることができると錯覚してしまうものだ。しかし、実際にそのようなことをやっていると、とんでもない痛い目に遭ってしまうものなのだ。なぜなら、性愛は記憶の産物であって、その女性に性愛の楽しい記憶が少なければ、その女性に性の悦びを与えることはできないからだ。

 人間の脳は30日間で作り変えることができるのだ。だから、夫は妻に対して30日間連続して、日頃の夫婦関係を良好にし、夫婦の性生活を楽しいと記憶させてしまえば、妻はその後、多少のことがあっても、夫と性行為をすることは楽しいと思い込んでしまうのだ。妻の脳にそういう回路ができてしまえば、妻は夫以外の男性は性行為を楽しめなくなってしまうのだ。

 また、人間の肉体の方は、3ヶ月間で作り変えることができるので、夫婦の性生活を3ヶ月間、手抜きをせず、きちんとした性愛術を駆使していけば、妻の体は夫の性愛術に反応するような体に変化してくれるのだ。3ヶ月間というのは、実際にやってみると、異常に長い月日なのだが、これをしっかりやるからこそ、妻の体が劇的に変わっていくことができるのである。

 妻は出産すると赤ちゃんを育てることに意識が集中してしまうものだ。そのため夫婦の性生活をそれほど重要視してこない。しかし、妻が何も言わないからといって、妻が無関心でいるとは限らないのだ。出産後に出鱈目な性行為ばかりしていると、或る日突然に妻の性的欲求不満が爆発して、手のつけられない事態になってしまうのだ。

 「結婚すれば、いつでもセックスができる」なんて、とんでもない間違いをしていると、その代償は離婚という形で現れてきてしまうのだ。結婚したからこそ、妻が出産したからこそ、夫婦の性生活は慎重にやらざるをえないのである。夫が真面目に夫婦の性生活に取り組み、きちんと性の悦びを妻に与えていけば、妻は必ずきちんと評価してくれるものなのだ。夫婦の性生活で妻が何も言ってこなくても、地道に性愛術を駆使していくことだ。その努力は必ずや報われることになるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

霊障による二人目不妊とその霊的解決法

●先祖のカルマ

 通常の二人目不妊は、妻が育児に熱中する余りに二人目の赤ちゃんが生まれにくくなっている状況を作り出してしまっているものだ。その状況を巧く取り除いてあげれば、すんなりと二人目不妊を克服でき、妊娠できるものだ。しかし、すべての二人目不妊が巧く解決できるとは限らない。中には霊障が引き起こしている二人目不妊もあるからだ。

 「一人っ子が女の子」「出産後、矢鱈と体調が悪い」「出産後、家族に不幸が続く」、この三つが重なったら、出産後に霊障が起こり、そのために二人目不妊が発生してしまっているのである。霊障といっても、赤の他人の霊が引き起こしているものではなく、先祖の霊が引き起こしているものだ。しかも、先祖といっても、今から100年以内の先祖の霊だ。

 先祖が生前中に何かしらの罪を犯してしまい、それのために霊界で苦しんでいる場合、その先祖のカルマを子孫に清算して貰おうとする先祖がいるのだ。そのため、先祖のカルマをきちんと清算してあげないと、先祖は子孫を守るどころか悪さをしてき、子孫を絶家に向かわせようとするのだ。

 宗教団体の中には「信仰」を矢鱈に強調し、「信仰すれば救われる」とか「信仰すれば幸せになれる」という教義を持つ教団もいるが、この手の霊障に関しては信仰は全くの無力である。「ちゃんと信仰しているのに、どうして不幸になるんですか?」という質問を受けたりするが、この世には信仰ではどうにもならないことがあるし、実はその方が多いのだ。霊障もその一つなのだ。

 霊障といっても先祖なので、すぐさま殺したりはしない。警告を何度も発することで、子孫にカルマを落としてほしいだけなのだ。しかし、警告を無視し続けると、まずは妻の体を蝕んで病気にさせてしまい、命を奪ってしまうのだ。次に当主である夫を病死させたり、事故死させたりする。たった一人の女の子には難病奇病に罹らせて、散々困らせながら殺してしまうのだ。

●生霊による霊障

 霊障による二人目不妊で、先祖の霊以外で考えられるのは、夫婦双方の水子の霊だ。特に妻の方が結婚以前に堕胎をしたことがあるとか、夫が結婚以前に他の女性に堕胎を強要したことがあると、水子の霊は霊障を引き起こし易い。最も、水子の霊は二人目不妊以前に、夫の仕事が巧くいかないとか、仕事でトラブルを発生させるということで現れて来るので、非常に解り易いのだ。

 水子の霊とはよくいったもので、自宅の水周りで不自然な現象を引き起こしてくるのだ。例えば、台所で料理をしていたら、包丁で何度も怪我をしてしまうとか、風呂場で転んで大怪我をするとか、夜中に尋常ならざる寝汗をかくとかするのだ。水に関して異常なことがありすぎるなら、水子の霊を疑った方がいい。鎮魂してほしいと訴えているのだ。

 先祖の霊や水子の霊よりも遥に強力で恐ろしいのが、「生霊」だ。妻は自分が結婚することで、恨みを買っていないか調べてみた方がいい。自分が他の男と付き合っているのに、その男性を捨てて夫と結婚してしまったとか、夫が二股をかけていて、その女性を捨てることで結婚したとしたのなら、その捨てられた人々は恨みに思い、生霊になって二人目不妊を引き起こしてくるのだ。

 夫の場合、夫の仕事で夫を恨みに思う人はいないか、交友関係で恨みに思う人はいなか、夫が浮気をしていて、相手の女性が妻を恨んでいるのではないか、調べてみた方がいい。こういう場合、夫の生き方に問題があって、巧く人間関係を処理すればいいものを、敢えて他人の恨みを買ってしまう生き方をしているのだ。それが巡りに巡って、妻を二人目不妊にさせてしまっているのだ。

 生霊に関しては、とにかく生き方を変えることだ。自分たち夫婦の生き方こそが、問題を引き起こしているのだ。自分たち夫婦が精神レベルを上げさえすれば、この手の恨みが起こりにくくなるし、たとえ恨まれてもビクともしなくなるのだ。生霊に悩まされる夫婦は、自分たちの夫婦関係すら巧くいっていないというのが殆どだ。まずは目の前にいる配偶者と喧嘩を引き起こさないようにし、相手を受け入れてあげることだ。

●先祖祭祀と願かけ

 霊の問題に関しては信仰は全くの無力だ。いくら信仰したとしても、悪霊が治まってはくれないからだ、信仰を矢鱈に強調する教団に入っている人は、悪霊に悩まされても、教団は何もやってくれないものだ。それならこの機を利用して、その教団を脱会することだ。この手の問題すらを解決できないようであるならば、程度の低い教団であることは間違いないからだ。

 霊障を治めるためには、まずは「墓参り」をきちんと行うことだ。先祖のカルマによって二人目不妊になっているなら、墓参りこそ最も効果があるからだ。墓地に行ったら、掃除をし、ロウソクをつけてあげることだ。ロウソクは霊界にいる人々にとっては、光となって現れ、子孫を守るように促してくれるからだ。

 墓参りをした際には、絶対にお供え物を墓前に置かないことだ。お供え物を置いたとしても、どうせカラスや野良犬や野良猫に食われてしまうだけなので、墓が荒らされてしまうのだ。だから、先祖がそういうことはやめてほしいということで、霊障を引き起こすということもあるのだ。

 自宅には御霊舎を設けて、毎日、先祖の霊を弔っておくことだ。御霊舎には「水」「塩」「花」は必需品なので、絶対に絶やさないようにすることだ。御霊舎の前にはお供え物を置いて、「常に我が家は繁栄しています」と先祖に思い込ませることだ。食事をする際は、ご飯を最初に捧げ、それから自分たち家族が食べるようにすることだ。こういうことをしていれば、先祖の霊は悪さをしてこなくなるのだ。

 その上で二人目の赤ちゃんができるように「願かけ」を行うのだ。願かけは百日間連続して神社に参拝し続けるのだ。この百日間というのが非常に大事で、この期間には何があっても参拝し続けるのだ。1日でも休んでしまうと、効果がなくなってしまうほどに恐ろしいのだ。願かけは百日間かかるために、台風の季節に重なる時は行わないことだ。気候が穏やかな期間を選んで、願かけを行うのだ。

 願かけの場合、まずは水で体を清めてからいくことだ。どんなに冷たくても、温水は絶対に使わないことだ。冷水を頭から被り、徹底して清めてしまうのだ。その清められた体で神社に参拝し、二人目の赤ちゃんができることを願うのだ。これを百日間休むことなく続けるのだ。

 願が適ったら、必ずお礼参りをし、それなりのお金を納めることだ。願かけで心願成就してもお礼参りをしないと、その後、自分が願っても成功しなくなってしまうものなのだ。大事なことは、神様に対して誠意を見せることだ。自分は本当に二人目の赤ちゃんがほしいということを体できちんと現わすことだ。

●陰徳を積む

 先祖のカルマが出てきたり、水子の霊が出てきたり、生霊の霊障を受けるということは、その夫婦に陰徳が足りないからでもあるのだ。夫は仕事で頑張っているのに、給料も少なく、トラブルも多いとなれば、それはその夫に陰徳がないということなのだ。妻が二人目不妊でエンドレスで苦しんでしまうということは、それはその妻に陰徳がないということなのだ。

 陰徳とは、人の見えない所で徳を積むことだ。夫が仕事で手柄をあげました、妻が家事や育児をきちんとこなしましたというのは、陽徳である。この陽徳は目に見えるものなので、こればかり追い求めてしまうものだ。しかし、この陽徳だけでは、徳は本物にはならないのだ。陰徳があってこそ、徳は本物になるのだ。

 陰徳を積むためには、「慈善活動」をすることだ。この場合の慈善活動とは、難民を救済したり、募金をしたりするということではない。妊婦や新米ママたちの手伝いをするということだ。自分が妊娠や出産や育児で経験した技術や知恵を彼女たちに無償であげるのだ。言わば、妻の方がいらなくなった物を大量に溜め込んでいるために、新たな物が入ってこないのだ。だから、他人に無償で与えることで、無償で新たな物が入ってくるようになるのだ。

 これ以外にも自分の要らなくなったものを無償であげるということも有効だ。余りにも多くの物を持ち過ぎているために、二人目の赤ちゃんが生まれて来る余地がないのだ。育児をしていればお互い様となるので、こういう時に無償であげておくと、今度、自分が必要な物がある時に、それがすぐさま見つかり、購入できるものなのだ。こういう偶然も陰徳を積んでおかないと、なかなか起こらないものなのである。

 霊障によって二人目不妊が発生しても、それは恐ろしいことではないのだ。霊たちが自分たち夫婦の誤りを気付かせてくれたということであるのだ。悪さをしていた霊たちも、自分たち夫婦がきちんと祀ってあげれば、今度は一転して自分たち夫婦を守り、恩恵を与えてくれるものなのだ。自分一人の力で生きていると傲慢にならず、謙虚になって、先祖の霊的守護を受けながら、幸せに満ちた人生を送ることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

二人目不妊を治す最強の作戦:「早朝のメイクラブ」

●仕事の疲労で、夫婦の性生活にエネルギーを回せない

 二人目不妊を発症する頃は、既婚男性の方は30代や40代になっている頃だろうが、この時期こそは仕事で最も疲れる時期なのだ。二人目不妊で苦しむ既婚女性の夫が、「疲れた」というようになったら、それは冗談ではなく、本当に疲れているのである。男子たる者、30歳を過ぎれば、体力が徐々に低下してきて、本当に疲れるものなのだ。

 日本のどの組織でも、30代や40代が最も仕事の負担がかかる年代だ。20代ではまだ若すぎるし、50代や60代では指導者の部署に就くものだ。そうなると、30代や40代という時期こそ、重要な仕事が多く回され、働きまくらねばならぬ時期なのである。ここで働きまくらねば、出世などできなくなってしまうのだ。

 日本のどの組織も「年功序列」でできている。年功序列をいくら批判しても、新聞社にしろ、テレビ局にしろ、出版社にしろ、すべてが年功序列の組織形態を採用しているのだ。実力主義一本で組織を形成している組織など、どこにもないのだ。創業当時は実力主義でいくベンチャー企業でも、事業が軌道に乗れば、徐々に年功序列を形成していき、そして年功序列の組織を作り上げていくものなのだ。

 年功序列は決して悪い組織形態ではないのだ。多くの人々が必要だからこそ、採用しなければならない組織形態なのだ。もしも実力主義で組織を形成しても、30歳以降という、体力が落ち始め、しかも結婚や出産や育児で出費がかさむのに、実力がないという理由だけで給料が低ければ、結婚もできないし、赤ちゃんだって産み育てることができないのだ。組織に忠誠を尽くす以上、そこでちゃんと結婚でき、子供を持てるようにすることは、組織として最低限の義務なのである。

 二人目不妊の治療がズルズルと長引いてしまうのは、妻の方は赤ちゃんが欲しいのに、夫の方は仕事で疲れきっているという一言に尽きるのだ。夫は仕事の疲労で、夫婦の性生活に充分なエネルギーを回せないのだ。二人目の赤ちゃんを欲しがる余りに、夫の疲労を考慮しないというのは、余りも夫婦愛に欠けた行動であるのだ。まずは夫の疲労を取り除いてあげることだ。それがまず先決なのである。

●食事のパターンを変更すれば、疲労しにくくなる

 夫に疲労が蓄積している場合、大方は食事の取り方に問題がある。男性は若い時は1日3食でも構わないが、30歳をすぎれば、1日3食では多過ぎるのだ。自分が必要以上に食事を摂取しているので、内臓が疲労してしまい、それが原因で肉体疲労や頭脳疲労が起こっているのだ。

 抜くべきは朝食か昼食である。特に朝の排便が終わっていないにも拘わらず、朝食を食べるべきではないのだ。ウンコがでないということは、排泄が終わっていないということであり、その時期に朝食を食べてしまえば、消化吸収にエネルギーを取られて、排泄ができなくなってしまうのだ。朝のウンコがでない場合は、朝食抜きで出勤したとしても構わないのだ。

 もしも、朝の排便が終わり、朝食を取ったのなら、昼食は抜くべきなのだ。朝食をしっかりと食べれば、夕食の間まで充分に持つし、しかも昼食の時間がなければそのぶん仕事の時間に充てることがでk、生産性が上がるものなのだ。昼食さえ食べなければ、「忙しい」「忙しい」と口にしなくなるものなのだ。それだけ充分に労働時間を確保できるということなのだ。

 1日2食を朝食抜きにするか、昼食抜きにするかは、その本人の趣向と仕事内容で決まってしまうが、とにかく1日2食にして、内臓の負担を軽減させてあげることだ。しかも1食抜いたことで食費が浮くし、更に食事の時間を仕事に充てることができるので、同僚よりもお金は溜まるし、仕事だって捗るのだ。そうすれば出世していくのは、間違いないのだ。

 妻の方も、夕食だけを本格的に作ればいいわけで、料理の苦労が激減するのだ。1日3度の食事のメニューを考えねばならぬというのは、結構な負担になるものなのだ。その負担が二人目の赤ちゃんを欲しいと願いながらも、これ以上の家事や育児の負担は御免だと無意識レベルで考えてしまい、二人目の赤ちゃんがなかなか授からない結果になっているのだ。

 夕食時には、必ず「酢の物」や「梅干し」や「糠漬け」といった、疲労物質を除去できる料理を出すことだ。肉や魚を出しても構わないが、年齢的にそろそろ野菜が美味しいと感じる年齢に差し掛かっているのだ。それゆえ、なるべく野菜料理を多く出して、体が欲することに応えてあげることだ。

●早朝にメイクラブをやれば、エネルギーは満タンで行える

 食事パターンの変更で夫の疲労を取り除いてあげれば、夫といえども、夫婦の性生活にエネルギーを回せるようになるのであろう。その際、夜に性生活を営むのではなく、朝に性生活を営んでしまうことだ。性行為は何も夜にやらなければならないという決まりはない。朝にやったっていいのだ。

 早朝にメイクラブをやれば、誰でもエネルギーは満タンの状態で取り組めるのだ。平日に仕事で疲れて帰ってきて、それから性行為をしましょうでは、夫は性行為どころではないのだ。疲れきっていて、もう眠りたいのだ。そこで平日に性行為をやるのではなく、夫に仕事がない休日に性行為をやってしまうのだ。そうすれば疲労なしで性行為を行えることができるのだ。

 早朝メイクラブは、妻の排卵期と重なった休日に行うことだ。そのためにも生理の周期をきちんと自分でチェックして、的確に最も妊娠し易い日に行うようにすることだ。早朝メイククラブの準備は早朝メイクラブを行う前日から始まっているのだ。前日には子供を夫の親か、妻の親に預けてしまい、宿泊させることだ。子供がいるとどうしても気が散るので、自宅にいさせないことだ。

 そして夫婦共々、朝食を食べないことだ。水やお茶を大量に飲んで、排泄を徹底して行うことだ。体内に老廃物や毒素があるからこそ、健康的な精子や健康的な卵子が出て来ないのであって、排泄をさせまくれば、妊娠し易い精子や卵子が出て来るものなのだ。排便は1日3回行うようにすることだ。午前中までは排泄の時間帯なので、正午までにとにかく排便をしまくることだ。

 昼食は炭水化物中心の食事とする。穀物は通常の2倍以上の量を食べることだ。果物も通常の2倍以上の量を食べることだ。炭水化物を大量に食べることで、脳にエネルギーを送りまくり、脳が明日の性行為に耐えられるようにしてあげるのだ。性行為中にトラブルを起こすような男女は、しっかりと炭水化物を取っていないから、性行為の最中に集中力が切れてしまい、それでトラブルが発生してしまうのだ。

 夕食は蛋白質や脂肪を中心にすることだ。炭水化物は極力少な目にすることだ。人間の内臓は、食事を食べると、最初は炭水化物を消化し、血糖値が落ちると蛋白質や脂肪を消化していくので、炭水化物を減らすことで、蛋白質と脂肪の消化を優先的に行わせ、内臓の負担を軽くしてあげるのだ。肉や魚がメインとなる食事になると思うが、その際に野菜をしっかりと取って栄養バランスにもしっかりと配慮しておくことだ。

●早朝メイクラブ当日

 さて、早朝メイクラブ当日は、起床後、朝の排泄が終わり、朝のシャワーで体を洗い流したら、すぐさま早朝メイクラブを開始することだ。二人目不妊で悩む夫婦の場合、夫のペニスがイマイチで、性行為の最中に硬くならないとか、インポ気味であるとか、様々な問題を抱えているものだが、朝立ちできちんと勃起している朝なら、そういうペニスの問題は発生しない筈だ。

 いつもは疲れている夫といえども、今日は仕事がないのだから、自分のエネルギーを性行為にぶつけてみることだ。妻の体を愛撫しまくって、オルガズムに行かせることだ。朝であるならば、妻の体も美しくなっている状態なので、愛撫のし甲斐があるというものなのだ。出会った頃を思い出して、愛撫をしまくって、その興奮を再現することだ。

 妊娠させるためには、オルガズムは絶対に必要となる。女性の体はオルガズムに行くことで、子宮が大いに動き、子宮口を開いて、精子を中に入れて妊娠させようとするからだ。それゆえ、愛撫や性交で何度もオルガズムに行かせた後で、射精すればいいのだ。こうすれば、最も高い確率で妊娠させることが可能になるのだ。

 早朝メイクラブは、朝食抜きで昼まで行うことだ。正味「6時間」もの間、徹底して遣り続ければ、夫婦双方満足した性行為ができるし、精子も子宮の中に大量に入っている筈だ。そうなれば二人目不妊を克服し、妊娠することは間違いなしだろう。夜に性行為をやった場合では、これだけの時間をかけられないものなのだ。

 早朝メイクラブをやった日は、夫は精力を使いきっているので、休ませてあげることだ。この日には決して遠出をしないことだ。早朝メクラブで体力を使いきった以上、少し昼寝をするというのは当然の現象であるのだ。いつもは仕事ばかりに追われているのだから、たまにはメイクラブのために費やす日があってもいいのだ。

 早朝メイクラブは、二人目不妊を克服する最強の作戦といっていいだろう。夫婦の性生活は夜に行わなければならないと思い込んでいる夫婦には、大逆転の発想なのだ。考えてみれば、1日の疲労が最も溜まっている夜間に性行為を行えば、妊娠の確率は下がるものなのである。体力のある若い時はそれでも妊娠できるけど、自分たちの体力が落ちてきたら、そうは簡単には妊娠できなくなってしまうのだ。自分たちの体力が落ちて来たのなら、それに合わした夫婦の性生活を営めばいいのだ。そうすればいくつになっても妊娠することが可能になるのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (5)

二人目不妊は深刻化する前に治す

●不妊症ではない二人目不妊

 俺が子供の頃、どの家の子供たちも2歳か3歳の間隔で兄弟姉妹がいたことを俺は不思議がった。どうしてこういう間隔があくのかという謎は、大きくなってから恋愛ホルモンの存在が解ってからだ。恋愛ホルモンは女性に妊娠と出産をもたらすが、その効果が約3年間しかないので、第一子の赤ちゃんを産み育てて、満1歳か満2歳に成る頃には、次の赤ちゃんが欲しくなり、母親は新たなる命を宿そうとし出すのだ。

 それゆえ、第二子を欲しがっているのに、その欲望を止めてしまい、余りにも長い期間放置しておくと、二人目の赤ちゃんを宿しにくくなってしまうのだ。「二人目不妊」という事態に陥ってしまうのだ。しかし、二人目不妊というのは、正確な表現ではない。この表現だとその母親が不妊症に陥っていると捉えられてしまうからだ。既に1人の赤ちゃんがいる以上、その母親は不妊症ではないのだ。不妊症というのは、その夫婦がどうやっても自力では妊娠しない病気なのだ。

 二人目不妊というのは、二人目を妊娠することが困難になっているだけなのだ。いわば妊娠できる能力を持っているのに、二人目を妊娠するタイミングを逃してしまっただけなのだ。二人目不妊は「二人目妊娠困難症」というべきであって、不妊症とは明確に区別させられなけれなばならないのだ。

 二人目不妊は深刻になる前に治しておいた方がいいだろう。深刻化すると、ずるずると長引いてしまい、結局、他の赤ちゃんを孕むことができず、一人っ子になってしまうからだ。不思議なことに、「3人目不妊」「4人目不妊」ということは聞かないものだ。2人目の赤ちゃんを産んでしまうと、子宮は立派に成長して、それ以降の赤ちゃんをバンバン産めるようになるのだ

 最初の赤ちゃんが満3歳を過ぎても自分が妊娠しなかったら、そろそろ焦り出した方がいい。その子が小学生になっても自分が妊娠しないなら、本格的に二人目妊娠困難症に突入していると思った方がいい。自分の年齢のことを考えても、早目に手を打って、二番目の赤ちゃんを孕んでしまうことだ。

●母親になったというストレスが二人目不妊を引き起こす

 二人目不妊になるような母親たちには、或る一つの特徴がある。それは「母子密着」という現象だ。最初の子供に対して、母親が余りにも干渉してしまい、いつも母と子が密着しているのだ。これは二人目不妊を解決して欲しいという母親たちの特筆すべき異常な行動なのだ。

 新米ママにとっては、最初の赤ちゃんは非常に嬉しいものだ。最初の育児は非常に楽しいものだ。しかし、赤ちゃんを育てていけば、赤ちゃんも自分一人の世界を欲しがり始め、母親のもとで徐々に自分でできる行動を取り始めるものだ。しかし、二人目不妊を引き起こす母親はどんなことに対しても子供に干渉してしまい、子供の自主性を奪ってしまい、子供が母親なくしては何もできない状態にしてしまっているのだ。

 二人目妊娠困難症の最大の原因は、母親になったというストレスによって自分の自律神経が狂ってしまったことにあるのだ。「自分はいい母親にならなければならない!」という強迫観念が、自分に対してストレスを与え過ぎてしまい、自律神経が交感神経にシフトしすぎてしまい、日々緊張状態にあって、子供に対しては過干渉を繰り返すようになってしまうのだ。このような緊張状態では第二子を妊娠するということは、非常に難しくなってしまうのだ。

 こういう育児をしていると、夫は妻の育児の仕方を褒めないものだ。妻としては自分の育児を夫に褒めて貰いたいものだが、夫の方は無意識のうちに育児の異常を感じてしまい、妻の育児を褒めないのだ。自分が一生懸命に育児をしているのに、夫から何も褒められず、ねぎらいの言葉もかけられなかったら、自分の育児は多少は異常なことをやっているのだなと思った方がいい。こういう自覚がなければ、自律神経の回復などできないからだ。

 自律神経の回復をもたらすために、余りにも母子密着をしないようにし、子供をいじくりすぎないようにすることだ。子供ができることに関しては子供に任せ、子供がいいことをしたのなら、ちゃんと褒めてあげることだ。そして子供にも家事を分担させ、正しい家事の仕方を教え、それをきちんとできたら、お小遣いを与えることだ。こういうことを繰り返していけば、子供は自主性を持ち始めて、母親の目が行き届かない場所でも、きちんとした行動が取れるようになるのだ。

 二人目不妊を治すためには、二人目不妊に余りにも拘りすぎるのではなく、まずは自分と子供との関係を見直すことだ。子供が自分にストレスを与えているのではない。自分がいい母親になろうとし過ぎていることが、自分に思わぬ多大なストレスを与えてしまい、自律神経を異常にさせてしまっているのだ。その自律神経の異常が、二人目の妊娠を困難にしているのだ。

●背骨を治す

 自律神経が異常になっている人は、必ずといっていいほど、背骨が曲がっている。自律神経が異常になったから背骨が曲がったのか、背骨が曲がったから自律神経が異常になったのか解らないけど、二人目不妊の女性は必ずといっていいほど背骨が曲がっている。

 なぜ、背骨が曲がったかというと、それは「赤ちゃんの抱き方」に問題があったのだ。家の中に居る時は、赤ちゃんの抱き方は自由で構わないが、外出する際は赤ちゃんをおんぶ紐で括り、背中に背負うというようにしなければならないのだ。このように背負えば赤ちゃんの体重が苦痛に成らず、しかも背骨が曲がることがないからだ。

 しかし、おんぶ紐を使わず、赤ちゃんを腕に乗せたり、お腹の上に抱いたりすると、それが長時間に及ぶと、女性の体ではそれを支えきれず、背骨が曲がってしまうのだ。こういう抱き方は父親がよくやるものだが、これは男性の場合、筋肉量が多いので、こういう無理な体勢で抱いても、背骨が曲がらないのだ。しかし、筋肉量の少ない女性だと、こういう無理な体勢が長時間続くと背骨が曲がってしまうのだ。

 二人目不妊の女性に直立させると、直立がきちんとできず、お腹を突き出したような立ち方をするのだ。こういう体形は明らかに背骨が曲がっており、そのために自律神経が狂ってしまっているのだ。しかも、この体形では子宮後屈に成り易く、夫がいくら射精しても精子が卵子に届きにくくなってしまうのだ。

 この曲がった背骨を治すためには、立った状態で、腰を折り曲げ、手を地面につけ、今度は逆に上半身を起こし、上半身を反らす体操を繰り返すことだ。これをやると背骨が逆方向に曲がり、曲がった背骨が治り始めるのだ。これを1日10回以上行うようにし、毎日行うことだ。できれば朝の早い段階でこの体操をしてしまうと、1日中、背骨が正しい形になることができ、正しい姿勢で生活することができるのだ。

 子宮後屈を治すためには、妻が寝っ転がり、足を体育座りの要領で抱き抱えて、その両足の上に夫に乗って貰うのだ。苦しくなってきたら、夫にどいて貰い、両足を伸ばすのだ。そして再び足を抱き抱えて、その上に夫に乗って貰うのだ。これを3回繰り返せばいい。これは毎日行う必要性はないが、夫婦で性生活がある夜は、これをやって子宮後屈を治し、妊娠し易いようにさせるのだ。

●オリーブオイルマッサージ

 背骨の曲がりを治したら、オリーブオイルで体をマッサージし、自律神経を整えるようにすればいい。二人目不妊になっている女性は、体が常に緊張状態にあるので、オリーブオイルマッサージをして貰うことで、その緊張状態を解きほぐして、自律神経を交感神経にも副交感神経にもシフトできるようにしてあげることだ。

 オリーブオイルマッサージは、ヴァージンオリーブオイルを使うことだ。オリーブオイルは肌が吸収してしまうので、安全性が確保されているものを使うことだ。そのオリーブオイルを手に取り、全身に塗っていけばいいのだ。塗って貰う役割は夫がやるのだが、その際はゆっくりとやって貰うことだ。男性の場合だと、スピードを速くしてしまい、緊張状態を解きほぐすことができなくなってしまうのだ。ゆっくりとしたスピードで行えば、緊張状態は解きほぐしていくことができるのである。

 オリーブオイルマッサージが終わった後は、石鹸でオリーブオイルを洗い流しても構わないが、肌を乾かして、そのままでも構わないのだ。翌朝には肌がピカピカになっていることだろう。それだけ自分の肌は脂分が不足していたということだ。外からオリーブオイルを染み込ませると、細胞は活性化し、妊娠し易い体を作ってくれるようになるのだ。

 自分が夫からオリーブオイルマッサージをしてくれたのなら、自分も夫に対してオリーブオイルマッサージをしてあげよう。夫の体にオリーブオイルマッサージをする要領は、自分にやってくれたものと変わらないが、しかし、夫にはペニスがついているので、夫のペニスにもマッサージしてあげることだ。ペニスに対して優しくマッサージし、陰嚢を引き延ばすことだ。こういうことをすると、精液の量が増え、妊娠する確率が飛躍的に高まるのだ。

 夫婦双方がオリーブオイルマッサージで気持ち良くなり、その気になってしまったら、そのままでメイクラブに突入してしまっても構わない。オリーブオイルで体が滑り易くなっているので、普段とは違う感覚のメイクラブヲすることができ、性感も物凄く高まるのだ。このプレイだと、当然に妊娠する確率が高まり、二人目不妊を克服することが可能になってくるのだ。

●子供を置いてメイクラブに専念する

 二人目不妊で悩む既婚女性の場合、とにかく自宅で夫婦の性行為を営んでしまうと、生活の延長線上になってしまい、どうしても性行為に集中できないという事態になってしまう。そのため、心身が妊娠モードにならず、性行為をしているのに、日常生活の些細なことを考えてしまって、性行為に夢中になれないのだ。

 こういう場合は、子供を夫の両親に預け、夫婦揃ってホテルにでも行って宿泊してしまうことだ。その日1日は、生活のことを忘れて、正装をしてレストランで食事をし、ホテルで優雅に過ごしてしまうのだ。子供のことを話すことはタブーと決めて、夫婦が非日常の世界でゆっくりとした時間を過ごすことだ。

 日常生活から離れてしまえば、メイクラブに専念できる筈だ。最初の赤ちゃんを妊娠できたのは偶然だと思い、新たに妊娠させるために「メイクラブの仕方を変える」ことだ。夫が妻に奉仕するようにし、妻をオルガズムに何度も行かせてあげることだ。オルガズムに行く回数が多いと、子宮口が開き、精液が入り易くなるので、妻がオルガズムに行けば行くほど、妊娠する確率は高まるのだ。

 そのためには、愛撫の時間を増やすことだ。愛撫には最低でも1時間以上かけ、ペニスを挿入する前に愛撫で何度も行かしてあげることだ。女性の体は愛撫で3回以上行かしてあげると、性交時にオルガズムに行き易くなるので、愛撫に時間をたっぷりとかければ、それだけ性交がし易くなるのだ。

 性交時には夫の射精に重点を置くのではなく、妻のオルガズムの回数を増やすことに重点を置けばいい。愛撫で体を温めた以上、性交時での妻の体は動き易くなっており、易々とオルガズムに行かせることができるからだ。夫は最後の最後で射精すればいいのだ。そうすれば、たった1回の射精で最も妊娠し易い射精をすることができるのだ。

 そして、射精したら終わりではなく、後戯をきちんと行うことだ。男性は射精すれば終わりなのだが、女性はそうではなく、性交が終わっても後戯を行って余韻を残すと、愛を感じる動物なのだ。面倒臭いだろうけど、これをやるかやらないかで、妻の性行為に関する印象がまるで違ったものになるので、要注意だ。

●断食して宿便を出してしまう

 妻が出産後に肥満になってしまい、それで二人目不妊になっているなら、断食して宿便を排出してしまうのがいい。妻の体は「胃腸内の異常発酵」を起こしており、いくら妊娠させようとしても、老廃物と毒素で巧く胎児が育ってくれないのだ。だから、断食をして宿便を出してしまえば、胃腸内の異常発酵は止まり、妊娠を妨害しなくなるのだ。

 宿便排出断食は多少の危険を伴うので、断食道場で断食をすることをお勧めする。断食の指導者がいれば、断食がし易いし、断食の際のトラブルも防いでくれるからだ。宿便を出すための断食は、断食中に一切の食事を立ち、水と塩だけを摂取して、とにかく排便排尿を繰り返していくことだ。塩分を取るのは、腎臓の機能を低下させないためである。

 断食をすると、何も食べていないのに、よくぞまあこんなにウンコが出ると感心するくらいにウンコが出て来る。そして或る日突然にお腹が痛くなり、便意を催して便所に駆け込むと、大量の真っ黒なウンコが出て来る。これが宿便である。これが自分の体内にあったからこそ、二人目の赤ちゃんを妊娠するのが困難になっていたのだ。この宿便こそ、自分の体内にあった最後の老廃物と毒素なのである。

 宿便は1回で出し切れるものではなく、何度か出て来るので、それ以降も断食を続けることだ。真っ黒なウンコが出なくなれば、断食を終了させ、補食を食べるようにすることだ。、補食とは薄いお粥に薄い味噌汁であり、それを段々濃くしていくのだ。補食の日数は断食を始めてから終わりまでの期間を要するので、この期間を絶対に守ることだ。断食で死亡事故が起きるのは、必ずといっていいほど補食の期間なのだ。補食の期間に大量に食事を取ってしまうと、内臓がビックリしてしまい、腸捻転を引き起こして死亡してしまうのだ。

 宿便排出断食を軽い物にしたいのなら、水と塩分の他に、リンゴ人参ジュースだけを飲んでいいという断食もある。リンゴ人参ジュースは人間が生きて行くために必要な栄養素がすべて含まれているので、これを断食の期間中、食事代わりにして飲めばいいのだ。但し、1日に飲んでいい回数は1日2回までである。この断食の仕方であるならば、それほど苦労することなく、宿便が出て来る筈である。

●1日2食制に切り替える

 宿便を排出したからといって、その後に大量に食事を食べて太ってしまったら、元も子もない。宿便を出してスリムな体になったのなら、「1日2食制」に切り替えてしまうことだ。朝食を抜きにして、昼食と夕食だけを食べるようにするのだ。これをやると内臓が食べ物の消化吸収に追われることがなくなるので、体内のエネルギーを妊娠に振り向けることが可能になるのだ。

 朝食を食べなくても、別に問題は生じないのだ。人間は夕食時に食べた物をエネルギーにして動くことができるし、それがなくなれば肝臓からグリコーゲンを放出して、それをエネルギーにすることができるし、それすらも使い切ったら脂肪からエネルギーを出して活動することができるのだ。

 朝は食事を食べるより、排泄に重点を置き、とにかく排便排尿をしまくることだ。お腹がすいたのなら、水を飲んで空腹を誤魔化して、排便排尿をし易くさせてあげることだ。朝食を食べなければ、午前中に3回のウンコは確実に出て来る筈だ。朝食を食べてしまえば、1日1回のウンコしか出ないだろうが、朝食を抜けば1日3回のウンコが出るのだ。1日3回もウンコが出れば、太ることはないし、内臓も老廃物と毒素を大量に出し切ることができるのである。

 もしも、どうしても朝食を食べたいというなら、リンゴ人参ジュースを飲めばいい。リンゴ人参ジュースは胃への負担がゼロであって、すぐさま十二指腸に行ってくれて、すぐさま消化吸収を開始してくれるのだ。リンゴ人参ジュースを飲めば空腹ではなくなるし、その糖分が脳に送られ、脳も機能を低下することはなくなるのだ。

 二人目不妊を克服したいのなら、昼食時には果物をたくさん食べて、昼食と夕食の療法では生野菜を大量に食べることだ。妊娠するためには、酵素水分が必要となるのだが、二人目不妊を引き起こす女性はこの酵素水分が不足しているのだ。酵素水分は果物や野菜の中に含まれているので、これを摂取してしまえばいいのだ。酵素水分が大量にあると、非常に元気になるし、お肌は艶艶になるし、非常に美しくなっていくのだ。

●不妊症を治すお茶

 二人目不妊を克服するためにお勧めのお茶は、「アマチャズル茶」と「イカリソウ茶」と「ローズヒップティー」である。これらのお茶を飲んでいけば、確実に二人目不妊を克服することができることだろう。二人目不妊を克服したいのなら、緑茶や紅茶を飲んでも構わないが、珈琲のようにビタミンを奪い、体を冷やしてしまう物は決して飲まないことだ。

 アマチャズル茶の効能は、「ストレス解消」である。二人目不妊に場合、二人目を妊娠できないことでかなりのストレスを溜め込んでいるものだし、夫婦関係のことや、子供のことで、とかくイライラしがちなのだ。そこでアマチャズル茶を飲んで、ストレスを解消し、リラックスさせるのだ。

 イカリソウ茶の効能は、「精力増進」「不妊解消」である。夫婦で性行為をする日は、夫婦揃って必ず飲むようにすることだ。特に夫の方が仕事などで疲れきっている場合、妊娠させようとするどころではなくなってしまうからだ。とにかく自分の夫に精力をつけさせてあげることだ。そして自分の方も不妊解消を目的としてイカリソウ茶を飲んで、妊娠し易い体にしておけばいいのだ。そして夫婦で性行為をすれば、妊娠することができるのである。

 ローズヒップティーには大量のビタミンCが含まれ、胎児の成長を促進させるのだ。女性は年齢を重ねるごとに、自分の老化を防ぐためビタミンCを消費してしまうので、体内のビタミンCが不足してしまえば、胎児を成長させるだけのビタミンCが不足してしまい、そのために二人目不妊という事態に陥ってしまうのである。

 また、このビタミンCは鉄分の補給に一役買うので、生理の重い女性にとっては、生理の負担を軽減させることになる。生理が重いというのは、それだけ体内で鉄分が不足しているということであり、正常な血液が作られにくくなっているのだ。生理が重ければ、当然に胎児に向ける血液が不足してしまい、妊娠どころの話ではなくなってしまうのだ。

 アマチャズル茶とイカリソウ茶は薬草茶なので、必ず「土瓶」を煮出すことだ。ステンレス製の物を使うと効果が減少してしまうので、土瓶を使うという決まり事は必ず守ることだ。ローズヒップティーは薬草茶ではないので、鉄瓶でも大丈夫である。鉄瓶でお湯を沸かした方が、鉄分も補給できるので、一石二鳥なのである。

 二人目不妊は決して難しい治療を要するものではない。最初の赤ちゃんを産んだ実績がある以上、妊娠する能力はあるのだ。それが出産後のなんらかの事情によって二人目を妊娠することが困難になっているだけなのだ。二人目不妊の治療をちんたらとやっていると、あっという間に時間が過ぎ去ってしまい、年齢的に妊娠することが困難になってきてしまうので、そうなる前に素早く治療を進めていき、二人目を妊娠してしまうことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (7)

性愛術とポルノの関係

●宗教がなければ、性愛術は発達しない

 性愛術というのは、個人個人がいくら巧くさせたとしても、それほど発達することはない。性愛術の発展に必要なのは、実は「宗教」なのである。性愛術が発達した国家は、「日本」「中国」「インド」なのであるが、インドではバラモン教の「愛欲」という教えが性愛術を発達させたし、中国では道教の「房中術」が性愛術を発達させたのだ。日本では神道の夫婦和合という教えが性愛術の発達を促したのだ。

 時は戦国時代、戦争に行く武士たちは、自分が安全に帰ってこられるように、神社の絵馬に女性の裸婦像を描いて、それを身につけて戦場に臨んだといわれる。女性の裸婦の力によって我が身を守ろうとしたのである。古代の性器崇拝が違う形で復活してきたのである。戦国時代が終わり天下泰平の世の中になると、この絵馬が「浮世絵」や「春画」として発達していったのである。

 江戸時代は日本の歴史の中で最も性愛術が発達したと言われる時代で、この時代に「江戸性愛術四十八手」が生まれている。これは今も使われている性愛術なので、いかに先祖たちの大きな遺産かが解る。性愛術が発達するためには、「エロ本」というのが必要で、これがなければどうやっても発達してこないのだ。春画という、いかにもエロチックに描いた絵がなければ、体位ひとつを取っても、それを分析しようがないのだ。

 よく、江戸性愛術四十八手は実践的ではないという声が聞かれる。それは当たり前だ。江戸性愛術四十八手は、男女が行えるであろう体位を考えうる限り考え出したものであって、それを実践で使うかどうかは大事ではないのだ。相撲の決め技だって、毎回出る決め技もあれば、何十年に一度しか出ない決め技があるのだ。大事なことは、その滅多に出ない技の存在を知り、それに名称を与えているかどうかなのかなのだ。

 性愛術はキリスト教のように頭ごなしに性愛を否定してくる宗教では絶対に発達することがない。どんなにスケベな信者たちでも、どこかで心理的なブレーキが働いてしまい、性愛術の臨界点を突破できないのだ。その宗教が性愛を肯定し、しかも堕落的な性愛を避け、「性愛倫理」というものを付与することができ、性愛を正しい方向へと導くことができるなら、その信者たちの性愛術は発達していくことができるのだ。それはその信者たちの夫婦生活にも劇的な影響を与えて、夫婦の性生活は充分に満足することがででき、子孫を繁栄していくことができるようになるのである。

●まともなエロ本と若者たちの健全な成長

 性愛術を発達させていくためには、宗教の他に、エロ本の存在が必要なのである。その国でエロ本を健全に発達させることができれば、その国の民に性愛術の発展という利益を享受させることができるのだ。逆に性愛を肯定する宗教があっても、エロ本文化が育たなければ、性愛術は発達することはないのだ。

 男性にとっては、エロ本との最初の出会いが肝腎である。青少年になった早い時期に、ちゃんとしたエロ本を見ておけば、逆に健全な若者に成長していくものなのである。青少年の頭の中に女性の体は美しい物という記憶が残ってしまえば、成長してから女性に美しい体を求めるようになり、実際に女性と交際してしまえば、その女性を大切に扱おうとし出すのだ。

 エロ本だからといって、早い時期から、男女のエロチックな絡みを見たり、アナルセックスを見たり、同性愛プレイを見てしまえば、その男性は異常な方向へと成長していくのは当たり前だ。エロ本にも自分の成長に合わした物を見て行かないと、自分の精神がおかしくなってしまうのだ。30歳をすぎた男性が見て刺激的なものであっても、青少年には有害だということは有り得るのだ。

 俺の場合、父親の仕事の関係で、アメリカからノーカットのエロ本を購入することができ、それを中学1年生の時に見ている。白人女性のヌードを集めたエロ本で、陰部は丸出しで、男女の絡みは全くないものだ。そのお蔭で俺はエロ本に関しては余り異常な関心を持たず、健全な青少年として成長することができた。性に関心のある早い時期に、女性の体をきちんと見ておくことが、逆にその青少年を健全に育ててしまうのである。

 しかし、俺の友人たちはそうではなかった。日本では猥褻規制があるために、エロ本が過激になる傾向があったのだ。普通の中高生なら、最初はビキニ姿から始まり、次はランジェリー姿、そしてヌード、更に性交シーン、挙句の果てにはレイプシーンへと行ってしまうのである。俺にはなんでレイプシーンを見て喜ぶのか理解できなかったが、猥褻規制のかかったエロ本を見ていると、どうしても性欲が異常になり、歪んだものになってしまうのである。

●回春としての効果

 エロ本は若い時にはオナニー用のものであって、若者の過剰な精力を発散するものであるが、30歳を過ぎれば回春用なのである。たまにはエロ本を見て、性的な刺激を受けておかないと、どうしても性欲は衰えていってしまい、そのうちにセックスレスやインポになってしまうものなのである。

 男性は30歳を過ぎると、アルギニンの分泌が止まってしまうので、それ以降はアルギニンを含んだ食品を摂取するとともに、エロ本でも見て脳に刺激を与えていかないと、性行為の際に充分に勃起を維持することができなくなってしまうのだ。多くの真面目な男性は「大人になったのに、まだエロ本を読んでいるのかよ!」と吐き捨ててしまうものだが、そういうことをいっていると、自分の性生活が消滅してしまうことになるのだ。

 男性が結婚していようものなら、自分の妻からエロ本のことをとやかく言われてしまうものだ。曰く「私の体が魅力的ではないの?」とか「私達の性生活に何か不満でもあるの?」とか言い出すのだ。しかし、いかに満足行く性生活を送っていても、エロ本で頭を鍛えておかないと、男性は性欲が衰えていってしまうのだ。

 性愛術はエロ本を見なくても、或る程度までは上達することができる。性愛術は実践で学ぶのが一番効果的なのだ。しかし、エロ本を見ていなければ、性愛術の情報が不足してしまうし、自分の脳に刺激を与えることができなくなってしまうのだ。性愛術の巧い男性に限って、質の高いエロ本をかなりの数を持っているものなのである。

 男性の場合、働き盛りになってしまえば、仕事中心の生活になってしまい、エロ本など読んでいる暇などなくなってしまうものだ。そのため、徐々に性欲に関する脳が衰えてしまい、気づいた時には自分の妻になんの性的魅力も感じなくなってしまい、性生活も消滅してしまうものなのである。

●ポルノを禁止すれば、凶悪犯罪が跋扈する

 日本では猥褻規制があるために、エロ本というのはまともに評価されることはない。そのため、エロ本を通常の本屋では買えないような条例を制定して、青少年からエロ本を遠ざけるのに必死に成っている。しかし、青少年からエロ本を遠ざけても、青少年たちは健全に成長することはない。寧ろ事実は逆で、若い時にエロ本を見て精力を発散していないから、ちょっとしたことでキレてしまい、凶悪犯罪を平気で起こしてしまうのである。青少年保護条例がある自治体ほど、凶悪犯罪の発生率が高いものなのだ。

 人間には性欲が存在している以上、一律にエロ本を始めとするポルノを禁止するというのは、非常に危険な行為なのである。ポルノを禁止すれば、凶悪犯罪が跳梁跋扈してしまうものなのである。かといって、ポルノを野放し状態にしてしまえば、ポルノを見たくない人々にも見させることになってしまい、それはそれで問題なのだ。

 ポルノは見たい人には確実に手に入れることができるようにし、ポルノを見たくない人には見ないようにすることをしなければならないのだ。また、ポルノの健全な発達を促すためにも、猥褻規制を解除してしまうことだ。ポルノが過激化するのは、猥褻規制があるからであって、ポルノの製作者たちは法律に逆らうことで自分たちの鬱屈した感情を爆発させているだけなのである。

 猥褻規制を解除したとしても、犯罪を誘発するようなポルノや倫理的に余りにも反するポルノは必ず制限しなければならない。例えば「児童ポルノ」や「暴力プレイ」や「獣姦」などだ。SMプレイといえども野放図に許されるのではなく、危険なプレイに関しては、監視対象にすべきなのである。

 その上で、ポルノ関係者の権利と義務を定めることだ。法律によって肯定的に扱われてこなかったために、ポルノ業界というのは、法律の整備が最も遅れているのだ。きちんとした権利義務を定めておかないと、ポルノ関係者たちは碌でもないポルノしか作ってこなくなるものなのだ。

 ポルノに関する法律や条例は、一部の政治家たちや一部の学者たちが論議を進めていってしまい、その人たちの意見だけが通ってしまうものだ。そのために現実離れした法律や条例が制定されてしまうものだ。性の悦びを知らない真面目人間たちに、ポルノを語る資格はないのだ。人間には誰でも性欲がある以上、ポルノに関する法律や条例は、国民投票や住民投票にかけるべきなのである。そうすれば現実に即して法律や条例が制定されるものなのである。

 既婚女性にとっては、ポルノは関係ないと思ってしまう、しかし、健全なポルノがあるからこそ、自分の夫の性愛術が上達し、セックスレスにもインポにもならないでいてくれるのである。余りにも真面目になりすぎてしまい、ポルノ禁止する方に回ってしまえば、自分の性生活も消滅してしまうことになるのである。その代償は非常に高くつくのである。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

「結婚に於ける性愛」と「売春に於ける性愛」

●結婚に於ける性愛

 どの動物も性愛は生殖のためだけに行われる。性愛は本来「生殖のためにこそある」ものだかrだ。しかし脳を大きくしていった霊長類は、性愛を生殖だけには使わない。快楽のためにも使うし、集団での人間関係を維持するためにも使用する。脳が大きくなった分、性愛を生殖以外のために使うということができるようになったのである。

 霊長類よりも進化し、動物の中で最も高い知能を持った人類は、性愛を「生殖」を主目的に、「快楽」「人間関係の維持」という目的のためにも使用する。そして、それを結婚内に於いていかんなく使用して、夫婦がただ単に子作りのために性行為を行うのではなく、快楽のためにも、人間関係の維持のためにも使用し、そのどれか一つでも欠けてしまえば、途端に結婚は危機に陥ってしまうのだ。

 ところが、人類はこの性欲を自分で制御して、性愛が持つ力を最大限に発揮して行こうという正しい方向を取らずに、性愛を否定する宗教を生み出してしまったのだ。それが「仏教」である。仏教の教祖の釈迦は、結婚をしてラーフラという子供を産んだのだが、ノイローゼが高じてしまい、妻子を捨てて出家をするようになってしまう。その釈迦が生み出した教義には、「結婚の否定」「性愛の否定」 「生殖の否定」を含んでいるから、当然に性愛によって快楽をもたらすとか、性愛によって人間関係を維持するということもなくなってしまったのだ。

 では、結婚や性愛を否定した仏教がその後どうなったかといえば、仏教寺院は男色の巣窟となってしまったのだ。浄土真宗に至っては釈迦が定めた戒律を否定し、平然と結婚する僧侶が出て来てしまったのだ。いかに仏教の教義といえども、性愛は否定できないということなのだろう。人間は結婚や生殖を否定してしまうと、自然な形の性愛が失われてしまい、異常極まる性愛を生み出してしまうものなのだろう。

 人間はそもそも性愛が備わっているのだから、結婚を通して、性愛術を最大限に発揮して、生殖を行い、快楽を与え、夫婦という人間関係を維持できるように精進すればいいものを、性愛を否定してくる宗教に惹かれ、信仰してしまうのだ。その宗教を唱えてくる僧侶たちは、信者たちには性愛を否定しながら、裏では男色に耽っているというのに。

●売春に於ける性愛

 人類は文明を誕生させると、結婚以外での性愛をも生み出していくことになる。それが「売春に於ける性愛」だ。文明誕生によって経済力が飛躍的に高まったために、売春を行えるだけの経済力や、娼婦を養えるだけの経済力を持つことができたのである。売春の始まりは、宗教によってもたらされたのであり、それは当初「神殿売春」という形を取った。

 神殿売春とは、女性聖職者に信者たちと有料で性行為を行わせ、その料金を神殿の維持費とするとともに、赤ちゃんができてしまった場合、その赤ちゃんを教団のものとして育て、忠実な聖職者に育て上げることにしたのだ。この神殿売春は日本の宗教史にはなかったので、いまいちピンとこないが、ユダヤ教典を読んでみると、ユダヤ教というのは、この神殿売春を行う宗教と盛んに闘争していたことが解る。後にユダヤ教を打ち破ってキリスト教を打ち立てることになるイエスは、マグダラのマリアという売春婦を連れて布教することになるのだが、こういう所業がいかにユダヤ教の宗教指導者たちから反感を買ったかは、ユダヤ教の歴史を知らないと全く解らないのだ。イエスは磔刑にされて当然の行為をしているのである。

 因みに、日本では神道に神殿売春がなかったために、売春は中国大陸から輸入されたというのが、学会の通説となっている。しかし、山の民であるサンカが山を下りて、定住民となった時、娼婦として生計を立てた者もいるだろうし、平安時代の文献には「傀儡子」として登場してくるので、この辺りが本格的な娼婦の登場なのだろう。

 売春に於ける性愛が、結婚における性愛と異なるのは、「遊戯としての性愛」「金儲けとしての性愛」の2つの機能を持つということである。性愛術が快楽としての機能を果たす場合、その快楽を与えるのは男性の側であって、男性は女性に肉体的快楽を与えるのを精神的な喜びとするのである。しかし、売春では立場が逆転して、娼婦が男性客に快楽を与えて、遊ぶのである。売春が誕生し、娼婦が持続的に存在し続けると、様々な性愛遊戯が生まれてきて、それが性愛術の発展に一役買うのだ。

 勿論、売春は無料ではなく有料で行われるので、貧しい家の出の娼婦たちにお金が行き渡ることになり、しかも彼女たちは金離れが非常にいいので、娼婦が存在する地域ではお金が猛スピードで循環し始め、多くの人々が豊かになっていくのである。特にファッション関係では娼婦たちがお金を使うことによって、奇抜なファッションが生み出されてくるのである。

●結婚こそ最古の男女関係、売春は最古の商売

 ところが、売春は人工的に作り出した宗教によって非難の的と成り易い。人工宗教は、人間の矛盾点をありのままに認めようとせず、人工的に作り出した戒律や教義によって人間を改造していこうとするものだから、娼婦たちのようにお金さえ貰えば性行為をしてしまうというような女性たちの存在を許すことができないのだ。

 日本では近代になってキリスト教が伝来してくると、キリスト教徒たちは廃娼運動を展開して、遊郭を破壊し、娼婦たちに職業の変更を迫った。そのため、最終的には売春禁止法まで制定されてしまい、江戸時代から続いてきた遊郭はすべて潰れてしまったのだ。そしてキリスト教の教会は莫大な収益を上げて、遊郭以上の立派な宗教施設を作ることができたのである。

 それで売春が消滅したといえば、決してそうではない。売春は形を変えて存続しているし、フーゾク嬢たちは売春が禁止されているけど、非合法で売春をやるし、女子高校生たちの援助交際も売春と変わらないだろう。売春を禁止し、娼婦を消滅させても、売春が人類最古の商売である以上、売春は絶対に消滅しないのだ。

 売春が禁止されてしまうと、今度は結婚制度まで破壊され始めるのである。日本ではフェミニズムが猛威を振るっているのだが、このフェミニズムの卸問屋が実はキリスト教なのである。道理でフェミニズムの猛威が治まらないわけである。フェミニストたちは、専業主婦を奴隷と看做し、女性が結婚することや妊娠することや育児をすることを犯罪と看做し、必死になって結婚制度を破壊し続けているのである。所得税の配偶者控除を廃止したのも、フェミニストたちの圧力によるものなのである。

 結婚こそ人類最古の人間関係である以上、結婚制度を廃止することはできないのである。しかも、結婚制度は既婚者たちによってだけ守られているのではなく、その結婚制度の外郭に売春制度を存在せしめ、娼婦たちによって結婚制度が破壊されないようにしていたのである。売春が禁止されれば、いずれ結婚制度も破壊されてしまうようになるのだ。結婚と売春はいくら廃止しようとしても、廃止できるものではないのだ。なぜなら、それらは文明の産物だからだ。これらを廃止しようとする宗教やイデオロギーは絶対に認めてはならないのだ。彼等の教説を放置すれば、文明そのものが破壊されてしまう危険性があるからだ。

●世間知らずの潔癖症女性たちの危険性

 世の中は奇麗事だけでは巧く行くことはない。既婚女性にとって娼婦は忌むべき存在ではあるが、かといってこの世には売春を行う欲望が存在しており、それによって利益を得る男女が存在しているものなのである。娼婦たちの活躍が巡りに巡って、結婚制度を守り、既婚女性たちに利益を与えているものとは思いもつかないものだ。

 キリスト教は教祖が売春婦を連れて歩いたという歴史的事実があるがゆえに、売春を目の仇にして破壊しようと試みてしまう。しかし、そういう奇麗事だけで進めてしまうと、自分が思っていたのとは、正反対の結果をもたらしてしまうものなのだ。オーストリア=ハンガリー帝国では、マリア・テレジアの時代に売春禁止令が出され、それによって表面的には売春が消滅したが、実は裏では「闇売春」が盛んになり、性病も蔓延してしまうようになったのだ。これ以降、オーストリア=ハンガリー帝国は国力を低下していき、結局、第一次世界大戦で滅亡してしまったのである。売春を禁止すると、国家が滅亡してしまうのだ

 現在、日本ではフェミニストたちの主導によって、「DVシェルター」やら「女性センター」やらが税金によって設立しているのだが、いくらこんなものを作ったとしても、夫婦の問題は良くならないし、離婚件数が増加していくだけなのだ。これらの施設はフェミニストたちが結婚制度を破壊するために作ったのであり、結婚を改善するために作ったのではないのだ。

 結婚というのは、女性だからといって誰もができるものではないのだ。精神的自立を終えていないと、結婚してから結婚を巧く運営していくことはできないのだ。結婚での問題を解消させたいのであるならば、まずは既婚女性を精神的に自立させ、利己的に生きる生き方を改めさせるしかないのである。

 女性といえども、すぐさま自立できるものではないのだ。大学に進学してしまい、社会に出る機会が遅れれば遅れるほど、精神的に自立できる時期は遅くなってしまうものだ。だから、大学を卒業しても就職せず、大学院に進学し、そして学者の道を歩んでしまう女性たちは、当然に精神的に自立できるチャンスを失ってしまい、フェミニズムに洗脳されてしまうようになるのだ。そういう女性たちが女性学講座を開き、女子大生たちに男性への憎悪を教え込んでいるのだ。そういう教育を受けてしまえば、益々精神的に自立できなくなるし、結婚することも不可能になってしまうことだろう。

 世間知らずの潔癖症女性たちは非常に危険なのである。結婚には様々な問題があるかもしれない。売春には様々な問題があるかもしない。しかしそれらは文明の存続のためには絶対に必要なものなのである。既婚女性のいない文明は必ず崩壊するし、娼婦のいない文明も必ず崩壊するのだ。

 結婚制度に様々な問題が発生してくるのは、それは結婚というものが生きているからこそなのである。売春制度に様々な問題が発生してくるのは、それは売春というものが生きているからこそなのである。結婚制度も売春制度も死んでしまえば、問題など発生しなくなるものだ。ネガティブな面ばかり見て、それらを廃止してしまうのは本末転倒なのである。問題が発生しているということは、それらによって利益も発生しているということなのである。そしてその利益が莫大だからこそ、いつの世にも結婚と売春が存在し続けているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

夫婦の性生活のマンネリ化を超えるために

●結婚すれば、性生活のマンネリ化は必ずやってくる

 結婚して、いくら夫婦の性生活を楽しんでても、性生活のマンネリ化は必ずやってくる。夫婦の性生活にとって、倦怠期というのは最大の試練であると見ていいのだ。この倦怠期を乗り越えれば、夫婦の性生活は格段にレベルアップするし、倦怠期を乗り越えなければ、夫婦の性生活はガタガタになり、破滅していってしまう。

 夫婦の性生活は、結婚当初はエキサイティングで非常に楽しかった筈だ。性の相性がピタリと合ったからこそ結婚したわけだし、妻を妊娠させるほどまでに、性行為は盛んに行われたわけなのである。しかし、妻が妊娠し、出産し、育児をし始め、妻の関心が夫から赤ちゃんへと移動してしまい、妻が性欲を落とし始めると、徐々にではあるが、夫婦の性生活に危機が訪れ始めるのだ。

 夫が妻をどうにか性行為に誘っても、妻は余り乗り気ではないし、夫も昔と変わらない手順で性行為を行ってしまう。このちょっとしたズレが月日を重ねるごとに大きくなっていってしまい、夫婦の性生活のレベルアップを図ることができず、夫婦の性生活は夫婦双方がマンネリであることを認めざるを得なくなってしまうのだ。これこそが倦怠期に入ってしまった証なのだ。

 かといって、すべての夫婦が倦怠期を経験するわけではないのだ。月当たりの性行為の回数の多い夫婦ほど、倦怠期に陥り易いのだ。性行為の最大の恐ろしさは、秘められているからこそ無限の魅力を放ってくるものなのであり、その秘められた魅力が失われてしまえば、食傷現象を起こしてしまい、夫婦双方が性行為に飽きてしまうことになるのだ。このタブーを犯してしまった夫婦ほど、倦怠期に陥ってしまい、しかも深刻な問題へと悪化させ易いのだ。

 新婚の夫婦が将来の倦怠期突入を防止するために、月当たりの性行為の回数を制限して、性行為以外で夫婦が楽しめるものを用意しておくことだ。夫婦で会話を楽しむとか、夫婦共通の趣味を持つとか、何かしらの慈善活動に夫婦揃って参加するなどして、性行為に余りにも重点を置き過ぎないことだ。結婚当初からこのようにしておけば、倦怠期に陥りにくいし、たとえ陥ったとしても軽い事態で済むようになるのだ。

●夫に性愛術の勉強をさせる

 もしも倦怠期に突入してしまったら、「夫は性愛術の開発に投資しろ」というアドバイスしか思いつない。結婚以来、正確にいうと結婚前の交際以来、夫婦が続けてきた性愛術が劣化してしまっているのである。折角の夫婦の性生活なのに、いつも似たような性愛術を使っているからこそ、妻の方が性の悦びを感じられなくなってしまったのである、妻が性行為のたびにきちんと性の悦びを感じているなら、倦怠期などに陥るわけがないのだ。

 それゆえ、まずは性愛術の開発に投資をして、自分の性愛術のレベルをアップさせていくことだ。お勧めは取り敢えず「エロ本」を買ってみて熟読することだ。結婚以来、エロ本を買ったことがないだろうが、エロ本の中で展開されているエロチシズムこそ、今の夫に欠けたものなのだ。性行為が当たり前にできるがゆえに、エロスに満ちながら性行為をするという感情を忘れてしまったのだ。

 その上で「性愛術書」を買って熟読することだ。性愛術書は最低でも3冊買った方がいい。3冊の性愛術書を見比べれば、性愛術の基本テクニックが明確に解ってくるからだ。但し、気をつけた方がいいのは、性愛術書を書いてくるような人物は、ひと癖もふた癖もあり、実践では使えないような技を紹介してきたり、異常な性愛を好んだりするので、その点は差し引いて考えるべきだろう。

 そして、性愛術の巧い男性が書いた「実践録」を買って読むことだ。性愛術の教え方が非常に難しいのは、いくら真面目に教えても、性愛術は実践の中から掴み取っていかねばならないからだ。そのため、性術書をいくら読んで駄目だし、セックスの教習所に行っても、決して上達しないのだ。それゆえ「性道」を極めた人物の実践録を読んで、実際の性行為でどのようにすればいいかを学んでしまうことだ。性愛術を学ぶ中では、この実践録が最も役に立つ。

 性愛術の向上には直接関係ないが、「ヌードアート」に触れておくことも大事だ。女性の裸に対して性欲ばかり感じているのではなく、美しさを感じることも大事なのだ。女性のヌードを美しく取った写真とか、一流の画家が描いた女性の裸婦画などを見て、自分の芸術センスを磨いておくことだ。女性はこういうことに敏感なので、「私の夫は私の裸を見て、美しさを感じ取ってくれている」ということが解ると、嬉しくなり、性行為に一生懸命になろうとするものなのだ。

 性愛術を向上させていく上で、絶対にやめた方がいいのは、「アダルトビデオ」を見て、自分の性愛術を向上させようとすることだ。アダルトビデオはあくまでも独身男性のオナニー用に作られたものであり、既婚男性が見るべきものではないのだ。アダルトビデオの中には、性愛術を解説したビデオもあるが、こういうのをいくら見ても性愛術が向上することは絶対にない。アダルトビデオを見ても、自分で考えることをしないからだ。エロ本なら注意を引くページがあるなら、立ち止まって熟読するものだが、そういうことが性愛術の向上に繋がるのだ。これがエロ本とアダルトビデオの決定的な違いなのだ。

 また、AV男優は想像以上にセックスが下手だということも忘れてはならない。AV男優は仕事でセックスの回数が非常に多くなるのだが、アダルトビデオの監督がAV男優に求めているのは、遅漏であり、監督の指示通りに動くことだけなのだ。それゆえ、AV男優は自分の頭を働かして、女性に最大限の性の悦びを与えるということを全くしてこなかたtのだ。こういうことは歳月を重ねるごとに大きな差となって現れてくるものなのである。

 性愛術の発達した国は、「日本」「中国」「インド」といった国々である、これらの国々で出版された性愛術書はかなり役に立つ。これに対してヨーロッパやアメリカではキリスト教の影響を受けて、性愛術が発達しなかったので、性愛術書のレベルは非常に低いのだ。そのため、欧米かぶれになってしまうと、自分の性愛術のレベルが低いという高い代償を支払う羽目になってしまうのだ。

●妻が環境を変える

 妻が倦怠期を脱出するためにやるべきことは、「夫婦の性生活の環境を変える」ことだ。男性は性愛術の向上には熱心かもしれないが、その性愛術を実施する環境に関しては無頓着なのだ。それゆえ、性生活をいつも夫に任せっぱなしにするのではなく、自らも動いて、夫婦の性生活がレベルアップできるように環境を変えてしまうのだ。

 まずは、寝室に花を活けたり、ムードのいい音楽を流したり、照明に凝ってみたりすることだ。こういうことは女性である妻の方が能力を如何なく発揮することができるものなのである。余りにも殺風景な寝室では、盛り上がる筈の性生活も盛り上がらなくなってしまうのだ。

 性的な魅力が増すようなセクシーなランジェリーを見につけることも必要だ。出産後、妻は体形が変わってきているので、この手のランジェリーが似合うようになってきているのだ。こういうセクシーランジェリーを選ぶ場合は、自分でも「これはありえねぇ~」というくらいのセクシーなランジェリーを勇気を出して買ってしまうことだ。そのランジェリーを見につけると、夫が興奮することは間違いないのだ。

 性行為もいきなり性行為を始めてしまうのではなく、「コスプレ」を展開してしまうことだ。セーラー服やナース服でも身につけ、妻でない別の人格に変身してしむのだ。そうやって性行為にストーリーを作り、その物語の中で性行為を営めばいいのだ。夫婦の性生活を楽しむためには、夫婦双方に或る種の妄想力が必要なのだ。

 妻は性行為が終わったら、無言で寝てしまうのではなく、ちゃんと感想を言っておくことだ。妻が感想を言ってくれない限り、夫としては改善しようがないからだ。夫の方も射精後なので、ガードが非常に低くなっており、こういう時に妻から何か言われれば素直に聞くものなのである。

●性愛術師のアドバイスを受ける

 自分たち夫婦がどうやっても性生活のレベルが上がらないというのなら、夫婦揃って性愛術師のアドバイスを受けてしまえばいい。この世には性愛術が巧いがゆえに、性愛術を教えてくれる人物がいるものなのだ。勿論、そのドバイスは有料だし、自宅ではなくホテルで教えて貰えば、そのホテル代はその夫婦が持たなければならない。

 性愛術師を探すのは困難を極めるだろうが、真剣になって探せば見つかるものなのだ。性技アドバイザーと名乗っていたりもする。但し、性愛術師は30歳以上の男性であることが絶対条件だ。30歳未満の男性で性愛術が巧いということはありえないのだ。また時またフーゾク嬢あがりの女性がこういう仕事をしているが、依頼するのは絶対にやめた方がいい。フーゾク嬢は男性をオルガズムに行かせることは巧いだけであって、女性をオルガズムに行かせるのが巧いわけではないのだ。

 夫婦揃って教えを受ける時は、必ず夫婦双方が同意しておくことだ。どちらかの配偶者が嫌がっているのに、無理矢理に受けさせたとしても、性愛術が向上するわけがないからだ。性愛術師にはただ単に夫婦にアドバイスをする人と、夫婦に本番を伴って教えてくる人がいる。夫婦にアドバイスするだけだと、夫婦が本番をやりながら、性愛術師がその脇でアドバイスをするというものだ。本番の方は、性愛術師が妻とやりながら、手取り足とり教えていくというものだ。その夫婦が好きな教わり方を選べばいい。

 性愛術師に依頼して、妻の性感を開発して貰うという手もある。性愛術師に妻を抱かせて、夫では行わないような愛撫をして貰い、妻の性感を開発するのだ。体位にしても夫がやらないような体位で行かして貰えれば、妻の方も新たなオルガズムにビックリする筈である、夫にとって妻が他の男性に抱かれているという背徳と、妻にとって夫以外の男性に抱かれるという悪徳によって、通常では味わえないような性的興奮を得てしまうのだ。

 夫婦の倦怠期を突破するために夫婦が自力でいくべきだが、どうしても夫婦の力だけでは突破できないのであるならば、性愛術師の指導を受けるというのが、最も短時間でクリアすることができ、非常に効果的なのである。夫婦双方がいくらやっていても、どうしても似たり寄ったりの技しか使わないので、「まさかこういう愛撫があるのか!?」「まさかこういう体位があるのか!?」という衝撃によって倦怠期を吹き飛ばしてしまうことができるのである。

●マンネリを突き抜ければ性愛術の王道が見えて来る

 夫婦の性生活がマンネリ化してしまうことは、決して悪いことではないのだ。夫の性愛術が余りにも下手で、妻の体に女としての性的魅力がなければ、結婚に至らなかっただろうし、結婚後すぐさま離婚していたことだろう。夫婦の性生活がマンネリ化するこということは、夫婦の性生活が長年の風雪に耐えうるだけの力を持っていたということなのである。

 いくら夫婦の性生活を向上させたいからといって、余りにもアクロバチックな技を使ったり、大人のオモチャを多用するようであっては、向上することはできないのだ。それは新たな性的刺激を求めただけで、肝腎の性愛術そのものはなんのレベルアップを図っていないものなのだ。

 性愛術はレベルが上がれば上がるほど、技そのものは非常にシンプルなものだ。そのくせ、性行為の至る場所でインパクトを与えることができ、確実にオルガズムに導いていくのだ。しかも、「愛撫」「性交」「後戯」に完璧なまでのバランスが整っているのだ。小手先の技に走らず、王道を歩んだからこそ、性愛術は格段に巧くなっていくものなのだ。マンネリというのは、その一歩手前まできているということなのだ。そのマンネリを突き抜ければ、性愛術の王道がはっきりと見えてくるものなのである。

 性の世界は、一旦間違った方向に進んでしまうと、性愛術を小手先の技に走ってしまったり、異常な性的興奮に走ってしまったり、性行為をやった異性の数を数える方向に行ってしまうものなのだ。そういうものは一時的には楽しくても、飽きるもの早いし、代償も高くつくものなのだ。そうなると、その堕落状態から抜け出すのは非常に難しくなってしまうのだ。

 男性の場合、女性よりも性欲が強いために、射精することに重点を置いてしまうし、自分の性欲を暴走させてしまうようになってしまうのだ。性愛術が巧くなるということは、自分の性欲を制御し、射精を最後の瞬間で行うようにし、女性に徹底的に奉仕して、女性に性の悦びを最大限に与えるようになるということなのである。そういう精神変革が起こらないと、いつの日にか自分の性生活は行き詰まってしまうものなのである。

 倦怠期と言うのは、決して悪いものではないのだ。夫婦が倦怠期に突入した場合、その夫婦に「今までと同じことをやっていては駄目だよ」と警告を発しているのである。こういう警告を受けなければ、夫婦の性生活をなかなか変えられないものなのだ。だからこそ、倦怠期に突入したら、強情な感情を捨てて、謙虚になって性愛術のレベルアップを図っていけばいいのだ。そうすれな、夫婦はより良い性生活を営めることができるようになるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

夫婦がアンバランス過ぎることの悲劇

●アンバランスこそバランス

 人間は自分と正反対の物を求めるからこそ、安定していくことができる。男は女を求め、女は男を求める。そうやってバランスを生み出していくのだ。男女の関係というのは、アンバランスこそがバランスなのである。それゆえ、この世の夫婦を見渡してみると、異常な光景が目に付く。身長の高い男性の妻は身長の低い女性だったり、肥満の女性には痩せ形の夫がいたり、美女に限って醜男と結婚しており、イケメンに限ってブスな女と結婚している。

 しかし、夫婦がアンバランスすぎれば、その夫婦は逆にバランスを失い、アンバランスすぎるために結婚に悲劇をもたらしてしまうのだ。そういう夫婦というものは、本人たちがいかに結婚で盛り上がっていても、第三者の目から見れば、この結婚は絶対に破綻するというのがずぐに解ってしまうものなのだ。

 例えば現実にあった話で、筋肉隆々たる妻で、女にしておくには勿体ないくらいの体格のいい女性と、貧相な体の夫で いかにも頼りなさそうな男性とが夫婦であったのだが、一見すればどう考えても不釣り合いな夫婦であったのだ。妻の方としてみれば、そういう気弱な男性と結婚すれば、その夫は絶対に浮気をしないと思ったのだろうが、その二人が夫婦の性生活を営まねばならぬと考えれば、これは絶対に長く続かないということくらい解るものなのだ。

 これは結婚の当初から結婚相手を間違っていたのだ。性欲の強い妻と性欲の弱い夫では、夫婦の性生活が破綻し、妻の方に欲求不満が募ってしまい、妻が異常行動を取ってくるというのは火を見るよりも明らかだったのだ。実際、この夫婦は、夫がミュージシャンでかなりの稼ぎはあったのに、妻の方が虚言癖が甚だしく周囲の信用を失い、観劇狂いになり、消費者金融から多額の借金をし、自己破算してしまったのだ。そのため、夫の信用も失墜し、音楽家としての才能はあったのに、仕事ができない状態にまで追い込まれてしまったのだ。

 結婚する際、その相手が運命の出会いによって出会えた相手なら、結婚はトントン拍子でいくものだ。しかし、自分の運命の相手が解らず、自分の意志だけで結婚相手を見つけて、結婚を進めていこうとすると、いかにも不釣り合いの相手と付き合ってしまい、恋愛で盛り上がって状態で、そのまま結婚してしまうのだ。だが、こういう無理な結婚は、結婚すれば、いずれボロが出始め、収拾が不可能になってしまうのだ。

●セレブ妻の原因不明の病

 自由恋愛といっても、平凡な家庭の出身の人たちなら、それこそ自由に恋愛することができ、その中なら運命の相手と結婚できるものだ。しかし、名門の家庭に生まれてしまうと、いくら自由恋愛といっても、交際できる人たちが限られてきてしまうのだ。自分の家が名家である以上、結婚相手も名家でなければならないのだ。名家というのは、名家同士で結婚することで、生き残りを図ってくるものなのである。

 名家同士であるならば、生活習慣はほぼ同じなので、結婚後、生活上の些細なトラブルなど起こりにくいものだ。その夫婦がお似合いのカップルであり、夫婦の話し合いの場を設けているなら、平凡な夫婦以上に巧くいくものなのだ。しかし、名家のお坊ちゃんやお嬢様たちは、苦労知らずで育ってきたから、相手の力量を見切ることなどできないものだ。そのため、結婚相手の本性を見破ることなく、勢いで結婚してしまうと、結婚後にボロが出始めるのだ。

 例えば、夫が高学歴で、頭が非常に良く、仕事も良くでき、いかにも紳士なのではあるが、性のことに関しては興味が非常に薄く、交際中でも性行為の数が少なく、妻が出産してしまうと、それ以降、セックスをしなくなってしまう男性がいるものだ。夫は妻が出産後、最早、性行為を一切しなくなってしまうのだ。これは「セックスレス」という問題ではなく、夫は妻に赤ちゃんを産ませた以上、夫としての役目を終えたと思っているのだ。こういう夫は、今後、永遠にセックスをしない筈である。

 問題なのは、こういう夫に限って、いかにも「美人すぎる美女」を目取ってしまっている場合なのである。まるで絵を描いたような美人で、肌が色白でスタイルが抜群で、着ている服はすべて高級ブランド品で、着こなしが非常に巧いのだ。高級車を乗り回し、運転が矢鱈に巧い。喋らせれば頭の良さが一発で解るような知的な喋りをして、周囲となんのトラブルを起こすこともない。それなのに、年齢的にまさに女盛りを迎えて、オッパイが膨らみ、性的な魅力を思う存分に放っているのだ。

 妻の方にしてみれば、出産後に性生活が何もないのだから、性的欲求不満は高まる一方である。夫にいくら要求しても仕事を理由に拒否されてしまい、悶々とした日々が延々と続いてしまうのだ。周囲の人々には「セレブ妻」とか言われ、身分的には夫が事業をしているために「社長夫人」であって、豪邸や高級マンションに住み、お金には何不自由しない生活を送っていても、心のなかはグチャグチャになってしまっているのである。そのうち、体調不良になってしまい、日常生活では家事や育児の最低限のことはできるが、それ以外ではベッドで寝たきり状態になってしまうのだ。

 自分は病気ではないかと思って病院に行っても、原因不明の病気だから病院をタライ回しされ、挙句の果てには精神病院に行ったりもするようになってしまうのだ。中には悪徳の医者もいて、病名が解っていないのに、薬を処方して、その薬を服用したために、今度はその薬の副作用で苦しんでしまうことになるのだ。要は性欲不満による原因不明の病を発症しているだけで、そんなものは薬で治るわけがないのだ。

●性的欲求不満では異常行動を取ってしまう

 性的欲求が満たされていれば正常な行動を取れる女性であったとしても、性的欲求不満が長引いてしまえば、異常行動を取ってきてしまうのだ。ホストクラブに嵌って数千万円を貢いでしまったり、出会い系サイトで男漁りをして、刑事事件に巻き込まれたり、性悪の男性と付き合って、麻薬を使うことを教え込まれたり、その性行為をビデオに取られて裏ビデオとして出回ってしまったりすることもあるのだ。名家出身者であるがゆえに、ワルに対する免疫力がないから、悪人たちの格好の餌食になってしまうのだ。

 妻の異常行動はそのうち夫の仕事にも支障を来たし始めることになるのだ。自分の預金通帳から多額のお金が引き出されていたり、刑事事件のために警察が自宅に来たり、あの裏ビデオに出ている女性はあそこの奥さんではないかと噂され始め、最早、仕事どころではなくなってしまうのだ。

 夫の方にしてみれば、妻がなんで異常行動を取っているか全く解らないものだし、また、その問題に対する解決能力も落ち合わせていないのだ。では、離婚してしまえばいいのではないかと思うのだが、名家同士の結婚ゆえに、そう簡単に離婚することはできないのだ。離婚すれば、現在抱えている問題以上に問題が発生してしまうのだ。

 こういう場合、自分たちの結婚を破壊しないためにも、妻に性愛術の巧い男性をあてがい、その性的欲求不満を処理して貰うというのは、自分たちの結婚生活を維持するためにも必要不可欠な行為なのである。夫の方としては、その方面に関しては全く無力であり、妻の方としても、性的欲求不満を解消できれば、異常行動を取ることがなくなり、結婚生活を正常に営むことができるからだ。

 自分に妻と性行為をする意思がないばっかりに、妻が自宅で寝たきりになっていたり、病院をタライ回しにされたり、性悪の男性と淫乱な行為を重ね、自分の仕事にまで悪影響が及んでくるより、ちゃんとした男性を愛人としてあてがい、妻の健康を取り戻し、正常な人間関係を作れるようにするというのは、夫としての義務なのである。

●夫公認の愛人をあてがう

 妻の愛人は誰でもいいというわけではない。最低条件として、「30歳以上で性愛術の巧い男性」であるということである。男性は30歳以前では性愛術の巧い男性はいないものだし、自分が射精することにしか関心がないものなのだ。妻を任せる以上、身元はしっかりと確かめておくべきであろう。できれば既婚男性がいい。双方の結婚を破壊しないようにさせるのだ。

 交際は月に1度程度の交際で、セックスだけの関係にするのではなく、きちんとした人間関係を構築した上で、性行為に及ぶようにさせればいい。性行為をする際は、妻を充分に満足させると同時に、避妊を絶対にすることだ。妻の方は愛人をあてがって貰っている以上、愛人に夫の悪口を絶対に言わないことだ。

 こういう交際の場合、デートは妻主導のもとで行われるものだし、デート代は妻の方が支払うものなのである。こういう最低限のマナーを守らないと、交際は長く続かないのだ。性行為というのは、不特定多数の相手とやりまくるよりも、特定の相手と長く遣り続けないと、本格的な性的満足は得られないものなのだ。

 いくら妻に愛人がいたとしても、性的欲求不満さえ解消されれば、日常生活では「良き妻」「良き母」として振る舞えるのである。妻に愛人がいるということは不倫に思えるかもしれないが、決してそうとは言い切れないのだ。妻に愛人が必要な夫婦も存在しているのだ。妻の不倫はなぜ悪いのか? それは夫公認ではないからである。影でこそこそとやるということは、自分がこの行為は倫理的ではないと思っているからなのである。

 夫公認の愛人であるならば、セックスだけの関係になることがなく、自宅に呼んでみたり、相手の自宅に行ってみたりして、家族ぐるみの付き合いができるものなのだ。そうやって結婚を維持している夫婦もいるのである。こういう夫婦もその夫婦なりに幸せな結婚を実現しているのだ。

 夫婦には色々な愛の形があるものなのだ。一つの価値基準だけを押しつけても巧く行かないものなのだ。妻の不倫はすべてOKというのもおかしいし、妻は性行為をしなくても、それに耐えねばならないというのもおかしいいのだ。自分たち夫婦が自分たちなりに幸せになれる夫婦の愛の形を模索していき、その愛の形を見つけ出したら、それを実現して幸せをもたらしていけばいいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (9)

一夫一婦制と一夫多妻制の両立

●結婚は2種類の結婚があるからこそ、結婚は自己規定できる

 結婚制度というのは、1つの結婚システムだけでは存続することができない。結婚は2種類の結婚があるからこそ、双方の結婚システムを維持することができ、結婚を自己規定できるのだ。結婚制度には、一夫一婦制の結婚と一夫多妻制の結婚という相反する物がどうしても必要になってくるのだ。

 歴史的に見れば、一夫一婦制の結婚は庶民階級の結婚の仕方である。これに対して、一夫多妻制の結婚は王族階級や貴族階級の人々のための結婚の仕方である。庶民であるなら、自分の好きな異性と結婚すればいい。しかし、王侯貴族になってしまうと、お家存続のためや、一族繁栄のために、政略結婚をしていかなければならなくなるからだ。そのため、一人の女性とだけ結婚をするのではなく、複数の女性と結婚することによって、血統を維持し、子孫を絶やさぬようにし、一族を繁栄させていかなけらばならないのだ。

 それゆえ、すべての男女が一夫一婦制の結婚をしなければならないのはおかしいし、逆にすべての男女に一夫多妻制の結婚を認めるのもおかしいのだ。結婚は自分たちがどの階級に属するかで決まってくるものなのだ。キリスト教のように一夫一婦制の結婚だけを認め、それ以外の結婚を排除してしまえば、結婚そのものが崩壊してしまうのだ。神の前では永遠の愛を誓い合った夫婦なのに、結婚が平然と夫婦双方が愛人を持ってしまったり、子供がいようが平気で離婚してしまうようになるのだ。間違っているのは、一夫多妻制の方ではなく、キリスト教の方なのである。

 平等イデオロギーに取りつかれてしまえば、一夫多妻制の結婚では既婚女性たちは悲しみに満ち溢れていたというとんでもない誤解をしてしまうものだが、実際の一夫多妻制の結婚では正室と側室は仲がいいものであり、笑い声が絶えないものなのである。なんせ家庭内に女性脳を持った人間たちがいるのだから、女性同士でペチャクチャとお喋りをしまくり、一夫一婦制の結婚をした既婚女性が抱えこむような不満を抱かないものなのである。

 一夫一婦制の結婚をしている人たちは、一夫多妻制の結婚を見て、自分たちの結婚はこのようなものであると自己規定できるし、一夫多妻制の結婚をしている人たちは、一夫一婦制の結婚を見て、自分たちの結婚はこのようなものであると自己規定することができるのである。そうやって結婚制度を維持してきたのである。

●裕福になれば、一夫多妻制に移行するのは自然の流れ

 昨今は、「勝ち組」と「負け組」の峻別に拘る傾向にあるが、女性にとって本当の勝ち組とは結婚するだけでなく、夫の所得が高額所得になり、夫に愛人ができることなのである。これだけは覚えていた方がいいかもしれない。本当に裕福な男性というものは、妻以外に必ず愛人を持つものなのである。

 女性は肉体作用が働くので「財運」を持っている。そのため男性が裕福になろうとするなら、まずは結婚するものであり、結婚して或る程度豊かになったら、愛人を持って更に豊かになろうとするもののなのである。億万長者になっていくためには、一人の女性の財運だけでは力不足なのである。もしも、愛人を持たずに妻だけを愛したとしても、その妻は財運を使いきってしまい、予想外の不幸が襲いかかってきたり、病気になったり、事故に遭って死んでしまったりするのだ。

 一方、既婚女性の方も、夫の所得が増えることは有難いことだし、家事や育児がひと段落ついた所で、また夫の世話をしなければならないというのは苦痛なものなのだ。自分が主婦業以外のことをするためにも、夫に愛人を作って貰い、夫の世話は愛人に任してしまった方が都合がいいのだ。

 愛人になった若い女性の方も、裕福な既婚男性と付き合うことによって、自分の精神レベルを引き上げて貰うことができ、しかも、その既婚男性の紹介によってビジネスチャンスを貰うことができ、通常の若い女性では絶対にありつけないような仕事を得ることができ、高額所得を得ることができるようになるのである。

 裕福な既婚男性が愛人を作るということは、その妻にとっても、その愛人にとっても、双方の利害関係が一致して、三者全員が莫大な利益を得ることができる関係なのだ。夫に愛人ができたら、妻と愛人で壮絶な戦いが勃発すると考えるのは、昼のメロドラマの見過ぎである。不倫が問題になるのは、裕福でない既婚男性が浮気をした場合であり、こういう場合は妻が夫の浮気を容認していないからなのだ。妻が許していないのに、夫が愛人を作るからこそ、大喧嘩が始まるのである。

 裕福な既婚女性であるなら、妻と愛人は喧嘩などしないものなのだ。妻にとっては、夫が若くて美しい女性を愛人することは嬉しいものなのだ。愛人になった時に大事なことは、まずは既婚男性の妻に挨拶に行くことであり、誕生日などには宝石やら貴金属類をプレゼントすることなのである。「私はあなたを敬い、決して妻の座を狙ったりはしません」と意思表示をすることなのである。こういう礼儀作法をきちんと踏んでいれば、愛人という地位であっても、ちゃんと既婚男性の妻から守られるものなのである。

 裕福になれば、一夫多妻制に移行するのは自然の流れなのだ。支配階級の条件というのは、事実上、一夫多妻制の結婚を営んでいるといことなのである。そうしなければ、既婚男性に支配階級の人間としてのパワーが足りなくなってしまうのである。また、支配階級に属する既婚女性たちも、夫に愛人ができたとことで自由時間が生まれ、その自由時間を使って文化活動や宗教活動に従事し、世の中をより豊かなものにさせていくのである。

●一夫一婦制の結婚だけだと、自立していない人たちから攻撃を食らってしまう

 もしも、自分たち夫婦が裕福になって、夫に愛人ができたのなら、それは嬉しい出来事なのである。夫は愛人を作ることによって、財運を高め、より豊かになっていこうとするからだ。それゆえ、夫に愛人ができた場合、夫をなじるのではなく、逆に夫を褒めてあげることなのである。その反面、愛人に挨拶に来させて、結婚を要求しないように、早い段階で釘を刺しておくことなのだ。愚かな既婚男性というのは、愛人にのぼせあがって、糟糠の妻を捨ててしまうものだし、愚かな愛人は、既婚男性の愛にのぼせあがって、離婚を要求し始めるものなのである。

 勿論、妻の方が夫に愛人を持ってほしくないという時は、夫に愛人と別れるように勧告し、今後を浮気をさせないようにするべきなのである。自分たち夫婦がこれ以上裕福にならず、平凡な庶民として生きて行くというのも、夫婦の選択の一つなのだ。間違っても、夫に愛人ができたことに逆上し、離婚にまで悪化させないことだ。夫も今以上裕福になろうとした結果が愛人を作ったということであり、妻が裕福になることに反対するなら、愛人など作りはしないものなのである。

 結婚というのは、精神的自立を終えてからでないと、巧く結婚生活を運営していくことはできないものだ。結婚することによって、夫婦双方が自分たちの両親から独立して、新たな家族を築かねばならないからだ。それゆえ、結婚したというのに、精神的自立ができていなければ、夫に愛人ができたことぐらいで、大騒ぎしてしまうものなのだ。大方の夫婦であるならば、浮気の1つや2つは経験することなのである。そして、その際に夫婦がどのような選択するかで、その後の夫婦の命運が決まってしまうものなのだ。

 こういうことは、結婚していない人たちからは非常に解りにくいものだ。それゆえ、一夫一婦制の結婚だけだと、未だに精神的に自立していない人々から攻撃を食らってしまうものなのだ。図書館に行って夫婦問題のコーナーに行けば解るが、夫婦問題について学者たちが書いた物は、大半が離婚についての物なのだ。大学教授という精神的に自立がしにく職業だと、どうしても結婚を正しく理解し、巧く運営していくことができないのだ。

 また、同性愛者たちも盛んに結婚制度の破壊を企んでいる。同性愛者たちは自分たちが同性愛者の結婚を認めてくれと主張しているのに、異性愛者たちの家族制度の解体を企んでいるのだ。いかに同性愛者たちが精神的に自立できない人々なのかが解る。自分が精神的に自立してしまえば、最早、同性愛者ではいらなくなるものなのである。

●繁殖力の弱い支配階級は国家を滅ぼす

 国民をすべて平等化してしまえば、その国家は滅亡していくことだろう。その国家の指導を行う支配階級が存在しないから、国民がいくら政治に対して議論を行い選挙を行ったとしても、まともな政治論議にならないし、まともな政治家を選び出すことはできないからだ。嘗て、古代ギリシャは民主主義を実現し、市民が直接に政治参加を行い、政治を議論し、政治家を選出したのに、結局、滅亡していったという歴史的事実を決して忘れるべきではないのだ。国家が滅亡してしまえば、国民は大量虐殺を食らい、財産を悉く奪われて、塗炭の苦しみを味合わなければならなくなるのである。

 国民が幸福に暮らしていくためには、国家内部に強力で健全なる支配階級を作り出し、その支配階級を国民が支持し、彼らにその政治能力を発揮させるように仕向けなければならないのである。政治指導者たちを庶民と同じ目線で見るべきではないのだ。階級によって持つべき倫理が異なるのだ。政治指導者の本来の役割は、「国防」であり、「治安維持」であり、「公共投資」なのだ。政治指導者たちがこの三大職務をきちんと果たしていれば、その国家は平和になるし、繁栄していくことができるのである。

 支配階級として優れた能力を持つ人々は、繁殖力も高いものだ。結婚すれば妻に多数の子供たちを産ませるものだし、更には愛人を作ってより多くの子供たちを産ませるものなのだ。支配階級の人々の繁殖力が高いということは、その国家は繁栄していくということである。多産のお蔭で人材は豊富になり、ありとあらゆる分野に人材を送り出していくことができるからだ。その結果、一夫一婦制の結婚をいている庶民の人たちにも莫大な利益を得ることができるようになるのである。

 政治家は誰がなってもいい職業ではないのだ。政治家は支配階級としての訓練を受け、「国防」「治安維持」「公共事業」について学び、実際にそれらの現場で働いて経験を積んだ人たちでなければならないのだ。その上で、政治家の生活上の条件は「結婚していること」「子供が複数いること」「愛人がいて、その愛人に子供を産ませていること」なのである。それだけ性欲が強くなければ、国家を運営することなどできないのだ。

 国家が衰退し滅亡して行く時は、国民が支配階級に属さない人々を政治家に選んでしまい、政府の活動に従事したこともないのに、演説が達者なだけで、政府の要職に就任させてしまうのである。しかも、その政治家が独身であったり、結婚していても子供がいなかったり、離婚していたりするのだ。、自分の家庭すら治められない人が、国民を治められるわけがないのだ。

 国民が今現在の繁栄を維持し続けたいのなら、国内に支配階級をきちんと作り、その支配階級の人々が正常に政治活動ができるようにしてあげる配慮をすることなのだ。支配階級に属する人々も、支配階級として相応しくない者たちを排除していくことを決して怠ってはならないのだ。特に40歳を過ぎても独身でいるとか、結婚したのに子供ができない人や、離婚したような人は、支配階級の人間として認めるべきではないのだ。そのような人物たちは支配階級の人間として相応しくないのだ。

 政治家は庶民とは違う政治倫理で動いているものなのである。それゆえ、政治家に庶民の結婚倫理を要求してはならないのだ。一夫一婦制の結婚を選んだ人たちなら、愛人を作ることは悪いことであっても、支配階級に属するなら、それは正しいことなのだ。そうやって、違う結婚倫理を持った人々を存在させるからこそ、国家は発展し、国民はより豊かになっていくのである。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

セックスレスはエンドレスで続く危険性がある

●セックスレスの夫婦が犯す「結婚上の最大の過ち」

 性行為には「生殖」という最大の目的と、性の「快楽」という副産物以外に、「人間関係の維持」という作用もある。性行為が人間関係の維持という役割を果たしてくれるからこそ、学校や大学といった狭い空間でカップルが誕生し易いし、会社に行けば社内恋愛やら上司との不倫まで存在するのだ。その一方で、人間関係の希薄な場所では性行為が発生しにくいし、なんの人間関係のない場所では、絶対に性行為が発生しない。

 性行為を論じる場合、夫婦というのは、ただ生殖のためや、快楽のためだけに性行為を行っているのではなく、夫婦という人間関係を維持するためにも性行為を行っているという視点が必要なのである。夫婦で様々なことがあったとしても、夜になって夫婦が性生活を営んでしまえば、一気に夫婦の関係は修復されてしまうのだ。赤の他人だったら、簡単に壊れてしまう人間関係でも、夫婦であるならそう簡単には壊れないのだ。

 ロックバンド「GLAY」のリーダーのTAKUROは、「バンドはライブを遣り続けないと、空中分解してしまう」と言ったことがあった。多くのロックバンドは売れてしまうと、労力を多く必要とするライブをやらなくなり、金に成る作詞作曲に重点を移すのだが、それだからこそバンド内部で喧嘩が発生して、解散してしまうのだ。

 夫婦もロックバンドと全く同じで、性行為をし続けないと空中分解してしまうのだ。夫婦だからこそ、性行為なくても愛が維持できると思うのではなく、夫婦だからこそ性行為をし続けなければ、夫婦愛を高めることはできないし、夫婦関係を維持することができないと考えるべきなのだ。

 セックスレスがなぜ深刻な問題になるかといえば、セックスレスになってしまえば、夫婦の性生活が消えるだけでなく、夫婦の人間関係も消えてしまうからなのである。もうそうなってしまえば、夫が浮気をしようが、妻が不倫しようが、離婚してしまおうが、関係なくなってしまうのだ。セックスレスに陥ってしまう夫婦は、性行為が人間関係を維持する役割を果たすということを余りにも重大視していなかったのだ。これは結婚上の最大の過ちだといっていいのだ。

●最初からセックス中心の関係なら、結婚後セックスレスになる

 現在ではお見合い結婚よりも、恋愛結婚の方が圧倒的に主流だ。それなのに恋愛結婚を通り越してしまい、セックス結婚に堕落してしまっている夫婦がかなり存在しているのだ。恋愛結婚であるならば、知り合ってから会話を交わすようになり、その内に仲良くなってからデートに誘い、気が合うなら交際を申し込み、その後もデートを何度も繰り返しながら、キスをし、ハグをし、性行為に及ぶというのが自然の流れだ。大体、多くのカップルは交際を開始してから、性行為をするまでは、3ヶ月間もの月日を必要とするのだ。恋愛というのは、思っている以上に、かなり時間を要するものなのである。

 それなのに、馬鹿な男女は、交際直後にすぐさま性行為に及んでしまい、恋愛と称してセックスを遣りまくっているのだ。このセックス交際を続けて、男女双方の感情が盛り上がって結婚してしまったり、交際中に妊娠が発覚して「できちゃった結婚」をしてしまえば、これは「セックス結婚」というべきものであって、セックス中心の結婚になってしまうのである。

 セックス結婚といえども、セックスをし続け、子供を多く産んでしまい、妻を家事や育児で奮闘させれば、それはそれで仲のいい夫婦関係を作り出すことができることであろう。しかし、結婚前からセックス中心の交際を続けていれば、結婚後にはセックスに飽きてしまい、セックスレスに陥ってしまうことだってあるのだ。

 恋愛なき結婚の悲劇は、セックス以外でも男女が楽しめることがあることを知らないのだ。例えば、喫茶店に一人で行けば、静かにお茶を飲むことしかできない。だが、恋愛中のカップルが行けば、いくらでも話のネタは尽きない。しかし、自分が好きでもない他の異性を連れていっても、それほど盛り上がることはない。恋愛している相手だからこそ、話が盛り上がるのだ。

 結婚すれば夫婦で買い物に行くのが楽しかったり、ハイキングに行くのが楽しかったり、引っ越しを考えるのが楽しかったり、結婚にはいくらでも夫婦が楽しめるものがあるものなのだ。それなのにセックスに取りつかれてしまえば、同じことをやったとしても、全然楽しめくなってしまうのだ。だからこそ、夫婦間のセックスも段々楽しくなくなっていき、そのうちセックスレスになってしまうのだ。

●「夫のストレスと過労」と「妻の不精」

 大方の夫婦は、夫婦で性行為をするのは夫が要求する場合が大半なので、夫に何かしらの異常があった時、夫婦で性行為が行われなくなってしまう。夫のセックスレスの最大の原因は、「自律神経の異常」である。自律神経が狂うと、性欲に異常が生じてしまい、セックスレスになってしまうのだ。

 特に頭脳労働に従事している既婚男性は注意が必要であって、仕事中に余りにも頭を使い過ぎているので、自律神経が異常に成り易いのだ。大学教授や教師やコンピューター関係など、体を殆ど使わない仕事は要注意なのである。仕事が終わったら、積極的にスポーツをして体を動かさないと、セックスレスになってしまうのだ。

 夫婦の性生活の回数が減り始めたら、性行為を要求するのではなく、スポーツをさせて汗を流させるようにした方がいい。そうやって自律神経の異常を回復させていくのだ。休日に家でゴロゴロさせるのではなく、休日だからこそ夫婦で出かけて、体を動かして汗を流すようにするのだ。

 妻の方として注意しなければならないのは、家事や育児に追われる余りに、夫婦でセックスするのが面倒臭くなってしまうのだ。こういう既婚女性はやや太り気味の女性に多く、筋肉量が余りにも少ないのだ。肥満の女性は太っていても、意外と筋肉量があるので、セックスをするのが面倒臭いということにはなりにくいのだ。セックスレスで悩む既婚女性になぜかデブはいないし、やや肥満気味の女性たちがやけに多いのだ。

 妻の方は今日は乗り気ではないから、夫から求められても「イヤ!」と言っていると、それが積み重なってしまうと、夫は妻から拒絶されたと思い、妻の体を求めなくなってしまうのだ。夫に「イヤ!」という言葉を連発し続けたために、夫の脳の回路には自分が妻の体を求めても、妻は必ず拒絶するという回路が出来上がってしまったのだ。

 こいいう妻は、性行為は夫婦の人間関係を維持するためにも行われているのだ、ということを無視し過ぎたのである。こういう形でセックスレスになってしまった場合、夫は浮気をして、愛人が既にいるものだ。愛人の方も静かにしておらず、略奪婚を狙っているので、妻が怒りに任せて不倫をしてしまえば、夫は待ってましたといわんばかりに、離婚を切り出してくる筈だ。後は、夫のペースで離婚協議が進んでしまうものなのだ。

●最低でも月に1度は行うというルールを決める

 セックスレスはセックスをしないことだけが問題ではないのだ。その背後には夫婦が様々な問題を抱えているものなのだ。だから、セックスレスを解決しようとしても、そう簡単には解決できないのだ。夫婦双方が謝るべきことは謝り、歩み寄るべき所は歩み寄っていかねばならないのだ。

 セックスレスは一度セックスレスの状態になってしまうと、エンドレスで続く危険性があるのだ。夫婦がセックスレスにならないためにも、セックスレスになる前に、夫婦の性生活上の最低限のルールを決めておくことだ。「夫婦にいかなることがあっても、月に1度は性生活を行う」という最低限のルールを定めておくことだ。

 意外なことかもしれないが、夫婦で数は少ないがコンスタントに性行為をしている夫婦は、セックスレスに陥らないものなのだ。結婚しているからといって、余りにも頻繁に遣り過ぎてしまうと、歳月の経過と共に、夫は妻への魅力が、妻は夫への魅力が失せてしまい、些細な出来事のためにセックスレスに陥ってしまうのである。

 もしも、夫が夫婦で性行為を拒否しているのなら、夫の母親に密告してしまうことだ。夫は自分の母親からセックスレスのことをとやかく言われてしまえば、赤面ものだからだ。もしも、妻が夫婦での性行為を拒否しているのなら、夫婦の会話中に敢えて妻の知らない女性の名前を出し、その女性と仲が良くなっていることを伝えて、意図的に嫉妬させることだ。セックス不精になっている妻といえども、夫に女の影がチラつくなら、黙ってはいないからだ。

 夫婦だから、性行為をしなくても、愛し合えるなどと、間違った考え方をすべきではないのだ。夫だって、妻だって、性欲が存在するものなのだ。その性欲を或る程度満足させていくべきなのである。セックスレスで性的欲求不満が溜まりに溜まった時、人間は余りにも異常な行動しか取れなくなってしまうものなのだ。だからこそ、そういうことが起きないように、夫婦でコンスタントに性生活を営んでおくべきなのである。

| | コメント (3) | トラックバック (4)

夫がインポになった時 ~若年性インポ~

●インポの原因は自律神経の異常

 女性であるなら、高校生や大学生の頃に、恋愛をするためにダイエットを経験したことはないだろうか? 男性と付き合うためにダイエットをして、男性の注意を引こうとする。女性にとっては何の違和感を抱かないものであっても、男性にとっては「なんで恋愛をするためにダイエットをするの?」という疑問を抱いてしまうのだ。

 これは女性の脳の中で、性欲中枢と食欲中枢が隣接しているからだ。そのため女性が恋愛をしようとすると、食欲中枢を抑えて、性欲中枢を発達させようとする。このため、男性と付き合うためにダイエットをしたり、恋愛中は男性の前では少食になったりするのだ。因みに、結婚後、もう恋愛で苦労しなくていいかといって大食いをして食欲中枢を満たしてしまうと、性欲中枢が衰えてしまい、夫婦の性生活が巧く行かなくなってしまうのだ。

 一方、男性の場合、性欲中枢と食欲中枢は分離しているので、自分の性欲が食欲に左右されることはない。しかし、男性の性欲は自律神経と深い関係にあり、自律神経が狂ってしまうと、性欲が乱れてしまうのだ。男性は女性を守ろうという本能があるので、多少のストレスや過労があったとしても、妻のためであるならば、無理してでも働こうとするのだ。このため、女性がびっくりするような生産力を発揮するのだが、しかし、そのため過度のストレスや過労を受け続けてしまい、自律神経を異常にさせてしまうのだ。その自律神経が異常になった時に発症してくるのが、「インポ」である。

 普通、インポと聞くと、中高年の男性がなるものだと思うものだが、若者でも自律神経が異常になってしまえば「若年性インポ」を発症してきてしまう。これが急増したのは、「男女雇用機会均等法」が制定されてからだ。男女雇用機会均等法と聞くと、雇用の機会が男女に平等に保障されたと勘違いしてしまうが、実はこの法律は総合職に対して、その能力がない女性であったとしても、女性の進出を積極的に促そうという悪法なのだ。

 男女雇用機会均等法が制定される前でも、優秀な女性であるならば、総合職に抜擢されたし、それ以外にも優秀で美人であるなら、秘書という形で抜擢され、その能力を最大限に発揮できたものなのだ。男女雇用機会均等法は、総合職としての能力がなくても、女性であるならば法律の力を出世できるということなのだ。

 このため、男女雇用機会均等法の制約を多く受けざるをえない大企業ほど生産性を激減させたし、企業の内部では「出世競争の激化」「セクハラテロ」「過度の残業」に見舞われて、極度のストレスと過労を受けてしまう最悪の職場に変化してしまったのだ。このため、既婚男性という妻子を養わねばならない男性は、多大なストレスと過労を受けたとしても、給料を上げて貰うために無理して働き、そのために「偏食」や「運動不足」や「睡眠不足」に陥ってしまい、それで自律神経を狂わし、インポになってしまったのだ。

 自分の夫が肉体労働ではなく、頭脳労働に就き、しかも総合職であり、出世競争の真っ只中にあるなら、夫がインポになる可能性は非常に高まっていると思った方がいい。夫が仕事で疲れて帰ってきたなら、家事や育児のことでゴタゴタ言わず、とにかく休ませてあげることを優先させてあげるべきだろう。そういう配慮を妻がしないと、夫はインポになってしまい、夫婦の性生活に重大な危機が訪れてきてしまうのだ。

●廃用性衰退

 最初の赤ちゃんが生まれた頃には、夫の仕事は忙しくなるものだ。そのため、夫婦の性生活の回数が激減してしまい、気づいてみたら、数ヵ月以上も性生活を営んでいないということも有り得るのだ。しかし、ペニスは使わないと急速に衰えるもので、「廃用性衰退」という現象が起こってしまい、そのためにインポになってしまうのだ。

 男性のペニスは筋肉でできているのではなく、「海綿体」というものでできているので、常に血液を送って勃起させないと、この海綿体という組織は衰えてしまうのだ。しかも、一度、衰えた海綿体を元に戻すには、大変な時間を費やさざるをえなくなってしまうのだ。男性の場合、とにかく毎日勃起し続けることが非常に大事になってくるのだ。

 若い男性が気をつけるべきことは「きついGパン」と「ブリーフ」の組み合わせだ。Gパンはズボンの中でも最も重たいズボンなので、ただでさえペニスに負担をかけてしまうズボンなのだ。それをサイズがきついものにしてしまうと、最大レベルでペニスを直撃してしまうのだ。しかも、プリーフという見た目にはいいかもしれいが、陰部に熱を籠らせてしまう下着をつけてしまうと、急速にペニスは機能を衰えさせてしまうのだ。そしてインポになるのだ。

 自分が結婚したら、Gパンとブリーフからは卒業することだ。Gパンよりも軽くてゆったりとしたズボンを穿き、トランクスやボクサーパンツを穿いて陰部の風通しを良くしてあげることだ。解り易くいえば、ズボンを穿いていても勃起できるようなズボンを穿くべきであって、実際にズボンを穿いていて勃起した場合、躊躇なく勃起してしまうことだ。そうすればインポから脱出できるのだ。

 廃用性衰退のインポを治すためには、まず「1日3回以上は勃起すること」だ。男性は朝立ちで朝に1回勃起するので、それ以外の時間帯でもう2回以上は勃起することだ。お勧めは、自分が好きなエロ本を買ってきて、それを定期的に眺めて勃起することだ。エロ本こそインポ治療に最高の成果を発揮するアイテムなのである。

 それを30日間繰り返すことだ。海綿体の機能が復活するのに、それだけの日数を必要とするし、それ以上に脳の回路を作り直して、勃起させるようにするのだ。インポを発症してしまった場合、脳がインポを記憶してしまい、大事な時にインポになってしまうのだ。そのため脳の回路を作り直し、自分はインポではないと覚えこませれば、大事な時に勃起できるようになるのだ。

●アダルトビデオの危険性

 「オナニーは健康にいいから、どんどんしないさい」と医者たちは言うのだが、このアドバイスを得て若い時にオナニーをしすぎてしまうと、結婚してからインポになってしまう男性が続出しているのだ。オナニーは決して健康にいいわけがない。女性とセックスできない男性が、仕方なくするものであって、たとえしたとしても、オナニーを遣り過ぎてはならないのだ。特にアダルトビデオを見てオナニーする男性は毎日オナニーをするという、とんでもない回数をしているものなのだ。

 オナペットを「エロ本」にするか、「アダルトビデオ」にするかでは、その後の影響は物凄く違ったものになるのだ。エロ本には文章が入っているので、多少は頭を使って性的想像を楽しむということもできるのだが、アダルトビデオだと頭を使わずに、ただオナニーができるだけなので、性的想像力が消滅してしまうのだ。アダルトビデオに矢鱈と詳しい男性に限って、性愛術は下手だし、女性を喜ばせようとする意欲が全くないのだ。

 要はアダルトビデオの見過ぎで、脳が委縮してしまい、性的想像力がなくなってしまい、そのためにインポになってしまったのだ。結婚してからも、アダルトビデオを見てオナニーをしているような男性であるならば、要注意である。若い時にはなんの悪影響も出て来ないが、歳を取ると非常に高い確率でインポになってしまうのだ。アダルトビデオは独身男性のオナニー用に作られているのであって、結婚して妻がいるなら、もうアダルトビデオはいらないのだ。

 アダルトビデオの見過ぎでインポになった場合、とにかくアダルトビデオを捨てることだ。こういう男性は捨てない限り、また見てしまうからだ。アダルトビデオの代わりに、エロ本やエロ小説を買って来て、じっくりと読むことだ。自分の年齢が高くなってからエロ本を読むと、意外と笑えるページもあるし、学べるものもあるのだ。エロ小説は自分の性的想像力を鍛えるには持って来いのものなのだ。

 セックスというと、ペニスを使ってだけするものだと思ってしまいがちだ。しかし、ペニスだけでなく、頭を使うからこそ、セックスを面白くすることができ、そういうことを繰り返していると、女性に性の悦びを与えることができるメイクラブへと発展させていくことができるのだ。アダルトビデオを見てオナニーするというのは、あくまでも自分のためなのだ。そうではなく、そこから卒業して、妻に性の悦びを与えるという高い地位に辿りつかないと、インポという形で自分が苦しめられてしまうことになるのだ。

●夫の心の傷

 インポは薬では治らない。バイアグラはあくまでも一時的に効果のある薬でしかない。インポは脳が引き起こしている病気であって、脳を正常に戻してしまえば、時間はかかるが、簡単に治ってしまうものなのだ。インポだからといって、ペニスばかりに注目していては、インポは治らなくなってしまうのだ。

 大方のインポの既婚男性は、「自律神経の異常」「廃用性衰退」「アダルトビデオの見過ぎ」が原因で発症してくるが、中にはいくらインポを治療しても治らない既婚男性がいるものだ。そういう既婚男性は、自分の母親が原因でインポになっていると見て間違いない。自分が子供の頃に母親から受けたなんらかのことが、結婚してからインポという形で現れてきてしまうのだ。

 例えば、母親が性欲を否定するような宗教を信仰して、実際の夫婦の性生活も生殖のためにだけ行い、それ以外は一切せず、子供たちにも性欲を抑圧するような家庭で育ってきてしまうと、その子供は大人になってから、どうしても異常な行動を取ってしまいがちだ。通常の家族なら、親子で性の話をするものだが、こういう家族は親子で性の話はタブーなのだ。

 もしも、夫が「学校での性教育の実施」を唱えているような人物であるならば、そういう家庭で育ってきた見て構わない。少しでも性のことに詳しい男性であるのならば、学校の教師から性のことをとやかく教わろうとしないものだ。そういうものは、自分の力で知らなければならないものだからだ。要は、大人になっても、まだ両親から精神的に自立できていないのだ。

 これ以外にも、両親から性的虐待を受けたり、両親が離婚してしまったり、親の再婚相手とトラブルを生じさてしまうと、その心の傷が自分が結婚してから噴き出してきてしまうのだ。要は結婚そのものになんらかの不信感を抱いているからこそ、妻が赤ちゃんを出産し、母親らしくなっていくと、その姿に恐怖してしまい、インポになってしまうのだ。

●夫婦で乗り越える

 夫がインポになったら、夫を否定しないことだ。男にとってインポになるというのは、それだけでも最大級のストレスであり、それを妻からなじられたら、更にストレスを受けてしまい、インポをより悪化させてしまうことになるのだ。まずは夫婦で話し合うことだ。夫婦で話していくうちに、原因がなんとなく解ってくるものだ。但し、夫が子供の頃に受けた心の傷に関してはなかなか話そうとしないので、そういう時はセックスカウンセラーを訪ねて、話を聞いて貰うことだ。決して精神病院には行かないことだ。精神病院ではインポを治せないし、逆に薬浸けで精神をおかしくしてしまうのだ。

 インポであるなら性生活ができないとは、短絡的に思い込まなことだ。インポでも充分に性行為はできるのだ。性交に重点をおくのではなく、愛撫に重点を置き、愛撫でオルガズムに行かせることだ。性交を一切禁じて、愛撫のみの性行為にしてしまうと、逆に性欲が高まり、夫の性愛術が急激に上達していくというものなのだ。

 性交する場合、実はインポでも挿入可能なのだ。ペニスをヴァギナにちょこんと入れておくだけでいいのだ。正常位なら夫は自分の恥骨を妻のクリトリスに当て、そこを擦りつけて動かせば、妻をオルガズムに行かせることができる。騎乗位なら妻は夫の恥骨に自分のクリトリスを押しつけて、そして動かせば、それで充分にオルガズムに行くことができる。

 もしも、夫が妻に対して精神的な抑圧を感じてしまい、それで妻に対してだけインポになっているのなら、お金を持たしてソープランドにでも行かしてみることだ。夫は妻以外の女性の裸を見ることで勃起を克服できるかもしれないし、ソープ嬢ならインポという問題は簡単に解決できる能力を持っているものなのだ。ソープ嬢の手にかかれば、いかに深刻なインポで悩んでいる男性でもちゃんと勃起をし、1晩に3回も射精することができるものなのだ。

 男性は勃起をしなければ、男としての用を果たさないものなのだ。女性には勃起という現象がないために、インポで苦しむ男性をいたわってあげるということができないものだ。夫がインポになった時こそ、実は妻の愛が本物なのかどうかが試されているのだ。夫がインポになったら優しくいたわり、そしてインポを克服させてあげたなら、それは日本一の素晴らしい妻であり、そういう妻だからこそ夫は妻を大切にするのである。インポは夫婦で乗り越えることができるし、乗り越えたなら、より夫婦の愛は大きくなり強くなるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (8)

出産後、性欲が湧かない

●出産時の記憶と産後の体調回復の悪さ

 女性は出産すると、性欲が激減してしまう。自分の心がどうのこうのではなく、女性の体が育児を最優先してくるので、性行為に及ぶのは控えるという制動装置が働いてしまい、出産後暫くは、性生活を復活したいとは思わなくなるのだ。それよりも、赤ちゃんを育てることに夢中になってしまうのだ。

 殆どの夫婦の場合、妻が育児に取り組み、疲れているのに、夫が性行為をヤル気満々で、仕方なく夫の要望に答えるというのが実態であろう。夫の方は臨月辺りから性行為をしていないので、精液が溜まりに溜まった状態であるのだ。実をいうと、こういう形で性生活を再開させるのが、一番健康にいいのだ。というのは、既婚女性は育児に専念しすぎてしまうと、当分の間は性行為をやりたくなくなってしまうので、そのまま放置しておくと、逆に老化が進んでしまったりするので、自分がしたくなくても、夫に求められて仕方なく行うという形で性生活を再開するのが、ベストな方法であるのだ。

 しかし、新米ママの中には性欲が全く湧かないという女性もいるものなのだ。「性行為をしたくない」と、「性欲が全くない」というのは、全く別物であるのだ。こういう新米ママは実際には少ないのだが、確実に毎年出て来るので、本人だけがこの問題を抱え込んでしまうと、本人だけでなく、家族にとっても深刻な問題になってしまうのだ。夫の方は妻から性行為を拒絶され、その夫婦は確実にセックスレスになっていくだろうし、赤ちゃんの方も成長していくにつれ、母親の異常さに気付き、育児で大揉めに揉めてしまうからだ。

 性欲がなくなってしまう最大の原因は、「出産時の記憶の悪さ」と「出産後の体調回復の悪さ」であろう。自分が楽しい出産を期待していたのに、出産時の体験が余りにもひどいものになってしまうと、心の奥底で「もう2度と出産したくない!」と思ってしまうものなのだ。これは病院で出産した新米ママたちに見られる現象なのだ。余りにも非人間的な遣り方で出産させられたので、出産に関して拒絶反応が出て来てしまったのだ。

 もう一つは、出産後に体を休ませて、出産時の疲労を取り除かないで、体を動かし過ぎたり、逆に出産後に寝てばかりいて、体を動かしていないと、出産後の体調回復が悪化してしまい、性欲を消滅させる原因になる。出産後、新米ママの骨盤はゆっくりと小さくなっていくのだが、その際に骨盤が巧く小さくなってくれず、腰の骨がズレてしまうと、性欲が起こらなくなってしまうのだ。腰辺りの背骨に歪みが生じてしまい、性欲が起きないという現象が出て来てしまうのだ。

 出産時の記憶が余りにひどかった場合は、夫は出産前後の病院の対応を調べて、病院の対応の悪さを裁判で訴えるとかして、妻に対して誠意を見せることをしておいた方がいい。日本の裁判は裁判期間が長いし、判決も病院側に有利に働くことが多いので、望むべき判決を得られないが、妻の方にとってみれば、夫は自分を守ってくれて、しかも自分のためにこんなに尽くしてくれると思ってくれるものなのだ。そうやって、次回は助産院で出産するような配慮をするとかして、妻の心を癒していってあげることだ。

 背骨のズレに関しては、整体師の所に行って、背骨を治して貰えばいい。背骨が治ったら、性欲は復活し出すものなのだ。但し、背骨が曲がるということは、それだけ背筋に筋肉が少ないということなので、筋肉トレーニングをして、背筋に筋肉をつけて、今後、背骨が曲がらないような配慮をしておくべきだろう。

●性生活をできる体を作っていない

 性欲はないのではないが、性欲が余りにも激しく減少してしまうことがある。これは性生活をできる体を作っていないのだ。新米ママは出産によって授乳をせざるをえない日々が続くので、体の栄養分がかなり取られてしまい、余程、食事に気をつけていないと、自分の体内で栄養素が不足してしまうのだ。

 特にカルシウムは最も失われがちなので、新米ママがカルシウムを不足させてしまうと、神経と筋肉が正常に作動しなくなり、性欲が激しく減少してしまい、夫婦の性生活を再開させたとしても、全然乗り気ではなくなってしまうのだ。これに関しては地道にカルシウムを摂取していくことを忘れないことだ。

 人間は運動量の多い人ほど健全な性欲が高まってくるものだ。それなのに育児を理由に体を動かしていないと、性欲が激減してしまうのだ。これは単なる運動不足なので、運動をさせさえすれば、自然と性欲が復活してくる。赤ちゃんと散歩をする際に、少し長めにあるとか、筋肉トレーニングに励んだりして、筋肉をつけていくことだ。

 多くの新米ママたちが性行為に応じても、性行為に乗り気ではないのは、赤ちゃんの夜泣きに悩まされて、慢性的な睡眠不足にあるからなのである。人間の体は睡眠中に体を修復するので、最低でも6時間、通常は7時間30分程度の纏まった睡眠時間を必要とするのだ。そのため、赤ちゃんの夜泣きに悩まされる前に、早寝の習慣を身につけ、赤ちゃんの夜泣きまでに3時間、赤ちゃんの夜泣きを止めてから3時間という、睡眠時間を2つに分ける方法を早目に習得してしまうことだ。こうすれば睡眠不足に陥らず、性欲も正常に復活してくるのだ。

 新米ママが気をつけておくべきことは、便秘解消である。出産後は体が変化していく時期なので、体は奇麗な水分を必要としているのだ。それなのに便秘になってしまい、奇麗な水分を供給できなくなってしまうと、性欲が湧いてこなくなってしまうのだ。性行為よりも、ウンコがしたい方に意識が集中してしまうのだ。そのため、出産後に便秘にならないように気をつけるべきだし、便秘になったら浣腸でもしてウンコを吐き出させてしまうことだ。そうすれば性欲は復活してくるのだ。

●夫婦関係上の問題

 新米ママの中には、性欲は多少はあっても、「夫とはやりたくない」という感情に駆られてしまう女性がいるものだ。これは性欲がどうのこうのよりも、夫婦関係上に問題があるのである。出産前後に夫婦の間でなんらかのトラブルが発生してしまい、それがベッドにまで持ち込まされてしまったのであろう。

 まずは、夫婦で話し合うべきことを話し合うことだ。妻が怒っていても、夫は妻がなんで怒っているのか解らない場合も多々あるものなのだ。まずは話し合わない限り、問題は解決されないのだ。話し合う時は感情的にならず、なぜ自分が怒っているのかを、理路整然と話していくことだ。

 夫にとってみれば、妻から言われて初めて気づくということもあるのだ。自分が出産前後にやった何気ない言動が、実は妻を大いに傷つけていたということに初めて気づくものなのだ。だからこそ、夫婦できちんと話し合いをすることなのである。夫婦だから「以心伝心」だと間違った思い込みを決してしないことだ。

 それと共も、「夫は万能ではない」ということを悟ることだ。夫も父親になることは初めての体験なのだ。だから、夫がいきなりすべてのことを巧くこなせるわけがないのだ。夫も失敗を何度も繰り返しながら、父親に成長していくのであって、妻が赤ちゃんを出産したからと言って、いきなり完璧な父親になれるわけがないのだ。

 また、妻が夫への怒りを顕わにするようであるならば、妻は母親として殆ど成長していないことだろう。母親になってしまえば、学ぶべきことはたくさんあるので、夫に最大レベルの関心が行くわけがないのだ。自分も母親として手抜きをしまくっているからこそ、夫に不平不満を抱いてしまうのだ。

●悲しみのフラッシュバック

 新米ママに性欲が湧かなくても、時間が経てば、性欲は回復してくるものだ。妻に性欲がないのに無理矢理に性生活を復活させるのではなく、夫が巧く妻を優しく包み込んで、性生活を再開させるように仕向けていけばいいのだ。妻にとってはこういう夫の優しさが嬉しいので、性欲が徐々に復活してくるのだ。

 しかし、中には性生活がどうしても再開できないという新米ママがいるものだ。そういう新米ママは、その新米ママに「悲しみのフラッシュバック」に襲われてしまっているからなのだ。自分が母親になって赤ちゃんを育てることで、自分の幼少期の記憶が蘇ってきてしまうのだ。

 自分の母親から児童虐待を受けていたとか、父親から暴力を振るわれたとか、子供にとって存在自体を否定されないかねないことを受けてしまうと、その人の心の心の傷として深く刻み込まれ、それが自分が育児を開始した時に蘇ってきてしまい、自分の心を硬直させてしまうのだ。

 こういう新米ママは精神病ではない。精神病特有の異常な行動は見られないからだ。もしも精神病患者であるならば、脳に傷ができているので、必ず異常な行動を取ってくるからだ。脳の傷があるのではなく、脳の記憶が問題を引き起こしているのである。虐待されていた人が、虐待する側に回った時、過去の記憶が蘇ってきて、「もう、これ以上、赤ちゃんはいない!」と間違った指令を受けてしまい、夫との性行為を拒否してしまうのだ。

 夫が妻の過去の出来事を真剣に受け止められるような人物であるなら、夫に話してみることだ。自分が誰にも話していなかったことを誰かに話すだけで、心の記憶は猛威を振わなくなってしまうのだ。もしも、夫がそういう人物でないなら、然るべき人物に相談を持ちかけてみることだ。但し、絶対に精神病院には行かないことだ。精神科医ではこの「悲しみのフラッシュバック」を治せないからだ。

 自分が児童虐待を受けてしまった場合、その過去の記憶に潰されるようであるなら、その問題は永遠に解決できず、未だに自分の精神が両親に従属してしまっているということなのだ。その悲しみの体験があったからこそ、「自分はちゃんとした母親になってやる!」と思えるようになった時、自分は両親から精神的に自立していき、悲しみの記憶も消え去っていくのだ。

 人間の偉大なる力は、悲しみの出来事があったとしても、それを乗り越えていくことができるということなのだ。過去の悲惨な記憶を風化させようとしない努力は、逆に自分を徹底的に不幸に追いやっていくものでしかないのだ。ありとあらゆる記憶は風化して貰わねば非常に困るものなのだ。過去の記憶を乗り越えていくことができれば、その記憶は風化して、自分によりよい教訓を与えてくれるものなのだ。そういう母親は悲しみの記憶がない母親たちよりも、深い愛情を出せる立派な母親になれるものなのである。悲しみの記憶が風化したからこそ、自分は立派な母親になれるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (10)

本当の所の夫婦の性生活の実態

●夫婦の性生活の調査は信用できない

 夫婦の性生活の実態が一体どのようなものかを研究する際、肝腎の夫婦の性生活の統計が信用できないという事実に直面する。普通の問題の統計であるなら、その統計をほぼ正確に作り出すことはできても、夫婦の性生活となると、まともな統計が取れないからだ。もしも、或る日突然に「あなたの性生活はどうなっていますか?」と聞かれても、俺はまともには答えないことだろう。「さぁ、どうかな?」と巧く誤魔化してしまうことだろう。

 キンゼー調書の発表以来、幾度も性生活の調査がなされてきたが、性生活という秘密の行為に関しては、人間は正直にまともなことを言わないという最大の危険性を除去できないのだ。それなのに、そのインチキな統計をもとに性生活の実態を研究したとしても、まともな研究成果を生み出すことはできないのだ。これは学者たちが発表している夫婦問題の学術論文を見ても、出鱈目ぶりがいかんなく露呈してしまっているのだ。

 性生活の調査は性に問題を抱えている人々が異常な関心を示すものだ。例えば、セックスレスを調査しようとした場合、セックスレスの夫婦であるなら、それに対して異常な関心を示してしまい、統計上では通常では有り得ない数値になってしまうものだ。しかし、そのセックスレスになった人に直接話を聞くと、セックスレスとはいっても、実際は1週間以上ご無沙汰なだけという、実はセックスレスではなかったという事実が解ってきてしまうものなのだ。

 性に問題を抱えている人々の中でも、同性愛者は性に対して異常な執着を示してくるものだ。日本では同性愛者だからといって、差別されることはないし、同性愛者と暮らしても、何不自由することはない。しかし、同性愛者が現実を無視して、「同性愛者は差別されている!」と規定して、しかも、大学や学校に入り込んでくるし、フェミニストたちと結託してくるのだ。このため同性愛者が性の問題に口を出してきたら、まともな研究にならないし、嘘と偽りに満ち満ちた物しか作り出せなくなってしまうのだ。そのくせ、同性愛者の学者たちは矢鱈と本を書きまくり、その悪影響が生徒や学生たちに及び、それを読んで育った生徒や学生たちが、これまた性に関して嘘と偽りに満ちたことを言い出すのだ。

 それゆえ、性生活の調査はまずは同性愛者の関与を取り除き、その統計が本当に正しいものなのかをまずは確かめることから始めなければならないのだ。解り易く言えば、すべての夫婦の統計を取るのではなく、普通の夫婦に限定して統計を取り、その統計が本当に正しいものなのか、夫婦別々に話を聞き、それを確かめる作業をしなければらないのだ。そうでなければ、研究の土台となる「まともな統計」が取れないのだ。

●統計からみた性生活の実態

 統計それ自体に制限を加え、厳密に統計を取っていくと、実は夫婦の性生活といううものは、面白い数値を示してくる。夫婦の性生活はその夫婦が自由に行っていたとしても、実は群生動物であるという制約下のもとでのこ行動でしかないという事実が暴露され始めるのだ。

 毎日      数% 

 週3回以上  20%

 週1回以上  20%

 月2回以上  20%

 月1回     20%

 セックスレス 10数%

 夫婦の性生活の統計を取ってみると、大体、このようなものになってくるのだ。毎日、やっている夫婦もいるものなのだ。統計を見れば解るように、週3回から月1回という回数に満遍なく数値が広がっている。大体、殆どの夫婦はこの辺りの回数をこなしているということなのである。

 セックスレスが問題になるが、セックスレスというのは、10数%という高い数値で存在しているのだ。セックスレスというのは、基本的に1ヵ月以上、夫婦の性生活がないということであって、セックスレスの夫婦でも、本当にセックスれになってしまった夫婦だけでなく、夫の仕事の関係でセックスができない夫婦もいるし、妻が病気のためにセックスできない夫婦もいるのだ。本当に夫婦の性生活が消滅している夫婦もいれば、夫婦がその気になればたまには性行為を行う夫婦もいるということだ。セックスレスといえども、ひと括りにはできないのだ。

 週3回以上と 週1回以上は、その後に変動して、数を減らす傾向にある。夫婦双方に体力の衰えもあるし、妻の方にとってはその気にならないということもある。月に2回以上というのが、夫婦にとっては最善の回数であって、このペースを行っている夫婦は、歳を取ってもこのペースを乱さないのだ。夫婦の性生活というのは、いかにコンスタントに行うということが、最高の秘訣なのであろう。

 夫婦の性生活は群生動物としての制約を受けるが、その夫婦の体質や体力や性癖が決めてしまうということだ。それゆえ、「夫婦の平均的な性生活は存在しない」ということなのだ。この結果こそ夫婦の性生活の統計から得られる貴重な結果なのだ。平均的な夫婦の性生活は存在しないが、いくつかのパターンが存在しているというだけのだ。

 結婚していれば、夫婦の性生活を遣る続けるというのは長丁場になってしまうので、回数の多い夫婦は性生活を減らしてしまう危険性があるし、逆に回数の少ない夫婦は意外とコンスタントに行い続けるのだ。夫婦の性生活は回数が多ければ幸せなものというものではないのだ。いかに夫婦が自分たちに無理なく性生活を営み続けるかに大事なポイントが隠されているのだ。

●性行為の時間

 夫婦の性生活の統計を公表すると、必ず夫婦の性生活の回数が問題視されてしまうのだが、性生活の回数は問題視するほどの問題は出て来ないものだ。夫婦の性生活の統計で、明らかにこれは問題だなと思えるものは、「夫婦の性行為の時間」なのである。多くの夫婦は余りにも性行為に時間を費やしていないのだ。

 なんと「50%以上の夫婦が30分以内で終わっている」のだ。しかも、「90%以上の夫婦が1時間以内で終わっている」のだ。女性の場合、愛撫に時間をかけて貰わないと、性感を高めることができないので、性行為が30分以内という時間であれば、まともな愛撫は行われていないということだろう。性行為の回数うよりも、性行為にかける時間が少ないことこそが、妻の性行為に関する不満の最大の原因なのである。

 中には夫が早漏という問題も抱えている夫婦もいるので、そうなってしまえば、性行為もすぐに終わってしまうことだろう。こういう夫婦ではいくら夫婦の性生活の回数を増やしても、根本的な解決になることはない。早漏を治すことも必要だし、それ以上に愛撫に時間をかけて、妻の性感が高まるような努力をもすべきなのである。

 夫婦といえども、1時間以上、性行為に時間をかけている夫婦が10%には満たない数値ではあるが、きちんと存在しているのだ。性愛術の巧さは性行為にかける時間に比例するものだ。こういう夫婦は、夫の方が性愛術が発達し、妻の方も性感帯が開発されているので、夫婦双方、夫婦の性生活に満足していた。実を言うと、これだけの時間をかけて性行為を行うと、性の不満を抱えている夫婦は皆無になってしまうのだ。

 性愛術の未熟な人たちが性行為について考えてしまうと、どうしても回数を多くするということで解決策を講じようとしてくるのだが、妻の立場に立てば、下手な性行為しかできないのに、回数を多くしても無駄な時間を取れられて嫌なのである。女性の体は男性のようにそれほど性欲が強いわけではないので、夫婦で性行為をやる時は、奥深い性感を感じ、オルガズムに何度も行きたいのだ。それをやってくれさえすれば、当分の間は性行為をしなくても満足し続けられるものなのである。

●結婚前よりも性行為が楽しくなった

 夫婦の性生活の話をすると、どうしても夫婦が性生活で不満を抱いているということを最優先で問題として取り上げてくるのだが、統計を取ってみると、50%以上の夫婦が結婚前よりも性行為が楽しくなったと答えているのだ。夫婦の問題を取り扱う学者や、婦人雑誌がいかに間違った事実に立脚しているかが解るというものだ。

 人間の性行為には、「生殖」という最も大事な目的と、「性の快楽」と「人間関係の維持」という副産物が存在しているのだ。夫婦の性生活は「性の快楽」に重点を置いたものではなく、「生殖による子孫の繁栄」と、夫婦という「人間関係の維持」に重点を置いたものなのだ。

 それゆえ、その夫婦に赤ちゃんができれば、生殖という最大の目的を果たしたがために、夫婦で性生活を営むことが非常に楽しくなるのだ。これだけは妊娠と出産と育児という経験を実際に経験した人たちでないと解らないものなのだ。結婚前は、性行為は性の快楽のためのものであったが、結婚すれば性行為の本来の目的が解ってくるものなのである。

 もう一つは夫婦という人間関係の維持なのである。性行為は夫婦の仲を確認するために行われているのであって、頻繁に相手を変えているような性行為を営んでいる人たちには、この大事な作業が解っていないのだ。人間関係は深まれば深まるほど、より多くの愛を生み出していくことになるのだ。そのため、結婚によって夫婦の性行為の回数を重ねていけば、より多くの愛が出て来るものなのである。

 ただ、夫婦は長い付き合いになるので、足りない物も出て来る。「トキメキ」などはその最たるものであろう。実際の夫婦の性生活の現場では、「愛の言葉」や「きわどい愛撫」や「新しい体位」や「余韻の残る後戯」も、夫婦が意識的に取り入れようとしなければ、欠けた物になってしまうことだどう。

 だが、本当に足りない物は、「夫婦が腹を割って性生活について話し合うこと」なのである。意外なことかもしれないが、多くの夫婦はいつも性生活を営んでいるがゆえに、改めて性生活について話し合うことをしていないのだ。だからこそ、いつも通りの性生活をこなすようになってしまうのだ。それゆえ、たまには夫婦で性生活のことについて、真面目に話し合ってみれば、その夫婦の性生活を改善させることができるのである。

●幸せな夫婦はトキメキではなく、ラブラブを維持している

 人間にとって青春時代に行った恋愛の記憶が余りにも強烈なものだから、結婚しても「トキメキ」を求めようとしてしまう。確かに恋をすれば、トキメキを感じまくるのであるが、トキメキというものは、恋愛の当初に出て来るものでしかないのだ。それなのに結婚して、トキメキを求めても、それは無理な注文なのだ。

 幸せな夫婦は、トキメキではなく、ラブラブを維持しているのだ。新婚当初、トキメキを感じていても、そのトキメキが収まれば、夫婦のラブラブが出て来るものなのである。その夫婦のラブラブをいかに巧く維持していくかで、その後の結婚生活の行方が大概決まってしまうのものなのである。

 では、どうすれば夫婦のラブラブを維持することができるのだろうか? それは「なんでもないことを幸せに思う」ことだ。夫婦の幸せというものは、その大半が当たり前の物だ。その幸せに感謝することができないと、夫婦がより大きな幸せを獲得することができなくなってしまうのだ。夫が給料を稼いできてくれたら、妻は「ありがとう」って感謝する。妻が家事や育児をやっていてくれたら、夫は「ありがとう」って感謝する。この当たり前すぎることをやっているからこそ、夫婦のラブラブが維持され、より大きくなっていくのである。

 そして、夫婦の性生活の現場では、「夫は性愛術の基本がしっかりとできていること」「妻にきちんとオルガズムに行かせていること」「性行為終了後、妻は夫に感想を述べ、改善点を見つけ出し、改善していること」、これら三つのことをやれば、夫婦の性生活でも夫婦のラブラブを維持し、高めていくことができるのだ。

 夫婦の性生活は何も性生活だけが活躍の場ではないのだ。夫婦といえども、日頃からきちんと挨拶をする。事あるごとにハグをし、キスをする。夫婦の会話を短くてもいいから毎日する。こういうことをやっておけば、性愛術が下手な夫でも、妻は夫に抱かれれば、満足してしまうものなのだ。そこいらが、夫婦以外の人には理解しがたいことなのである。

 どんなに仲のいい友人でも、夫婦の性生活のことに関しては、余り話題にしないものだ。たとえ話題になったとしても、話の勢いで嘘を言っている場合も多々あるものだ。そのため、学者が書いた「夫婦の性生活の本」や、婦人雑誌での「夫婦の性生活特集」には、興味深々となって読んでしまうものだ。しかし、そういう本や雑誌は、まともな統計に基づいたものではないのだ。普通の既婚女性ですら、仲のいい友達とこの手の話をすることができないのに、大学の学者や雑誌の編集部のスタッフたちが突っ込めるわけがないのだ。

 夫婦の性生活の実態とは、50%以上の夫婦が結婚前よりも性行為が楽しくなったということなのである。夫婦の性生活で問題視する点があったとしても、その大事なことを忘れてはならないのだ。そうでなければ、結婚してから赤ちゃんが生まれるわけがないのだ。赤ちゃんが生まれたということ自体、実はその夫婦は性生活を楽しんでいるということなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

「重症の便秘」と「性格不一致による離婚」の関係

●便秘は女性を悪魔に変える

 夫婦の性生活を素晴らしいものにしたいのなら、便秘をしないことである。便秘ほど性生活の敵となるものはないのだ。便秘になるということは、体内に老廃物と毒素が溜まった状態にあるといことである。そのために、股間が非常に臭くなるのだ。悪臭といっていいほどの臭さを放ってしまうようになるのだ。その股間を夫が性行為の際に愛撫しなければならないとすれば、これは地獄の沙汰なのである。そのうち、夫が愛撫を嫌がり、愛撫なしで挿入し始めるようになってしまうのだ。

 便秘をしているということは、運動性能を極端に落としてしまうので、性行為の際でも体の動きが非常に悪くなり、性感度も激減してしまうのだ。常にテンポの遅い動きと、ブレーキがかかったような性感を感じて、いくら夫がサービスしても、性行為に対して不満足に終わってしまうのだ。

 便秘は性生活を破壊するだけではない。夫婦の日常生活まで破壊してしまうのだ。便秘になれば、頭痛になってしまうものだ。これは便秘によって奇麗な水分を供給できないために、脳が痛みを発して、警告を発しているのだ。頭痛になれば、「肩こり」も起こってくる。便秘性の肩こりはどう揉みほぐしても治ることはない。老廃物と毒素のために内臓が下に引っ張られてしまい、肩が凝っているからだ。

 便秘は精神にまで影響を及ぼし、「倦怠感」や「イライラ」が募り、何事にもやる気はないし、怒りっぽくなるのだ。日常からこうなのだから、些細なことで夫婦喧嘩をし始めるのだ。実際に夫婦喧嘩の原因となったものは些細なものなのだ。しかし、便秘で精神に異常が生じ始めている女性にとっては、原因はどうであれ、怒りを爆発させることで、便秘の不満を解消しているだけなのだ。

 便秘は女性を悪魔に変えるといっていいのだ。特に便秘になって、赤ら顔になっている女性は要注意である。便秘が溜まりに溜まっているために、顔が赤くなっているのであり、そういう女性は股間が異様に臭いのだ。因みに、民族的にノルマン系の女性たちは赤ら顔の女性たちが多いが、ノルマン系の女性たちは股間が非常に臭いし、体臭も物凄く臭い。食事の量と回数の割には、排便の回数が非常に少ないために、顔がピンク色になってしまっているのだ。ノルマン民族はノルマン民族の大移動でヨーロッパ各地に移住していったので、ノルマン系の遺伝子を持っている人たちはかなりいるのだ。白人でピンク色の肌をした女性は股間が非常に臭いのだ。

●一種の性格異変

 便秘も初期は単なる糞詰まりでしかないのだ。しかし便秘が長引いてしまうと、体調が悪化し始め、更に一種の性格異変が起こるのだ。どんなに日頃は善良な女性であったとしても、便秘を長期間患っていれば、性格が変わってしまい、凶暴になってしまうのだ。しかも、この性格異変を自分でも止められないのだ。

 男性は女性よりも筋肉量が多いために、滅多なことでは便秘をしないものなのだが、それゆえ便秘をしない夫にとってみれば、自分の妻が便秘で性格異変が起こっているなど想像すらできない事態なのだ。そのため妻が凶暴に成り始めれば、それは妻がそのままの状態で凶暴になったと思ってしまうのだ。

 妻が凶暴になっている以上、夫婦の性生活など期待できるわけがないのだ。遅かれ早かれ、「性の不一致」が出て来てしまうものなのだ。妻も夫も性行為をする前から怒りをかかえている状態なので、最悪の性行為しかできないものなのだ。性行為に絶対に必要な「愛のムード」が全くないからだ。

 夫婦の性生活が破綻してしまえば、いずれ夫婦の日常の生活まで破綻してくる、便秘を患っている女性が、家事や育児をまともにやる筈がないからだ。そうして、離婚に発展してしまうのだ。理由は「性格の不一致」。しかし、性格の不一致は妻の便秘がもたらしたものなのだ。便秘による性格異変が性格不一致の離婚に発展してしまうのだ。

 恋愛結婚で結婚したのなら、その男性は「運命の相手」なのだ。手相に結婚線が他に出ていれば、離婚しても運命の出会いがあるかもしれないが、殆どの女性たちは運命の出会いを壊してしまうと、次に新たな運命の出会いなど期待できないものだ。運命の相手と離婚してしまった「悪魔のツケ」をその後の人生で支払う羽目になり、坂道を転がり落ちるように、災難の連続の人生になってしまうのだ。

●何はともあれ、便秘を解消しよう

 妻が便秘になっていても、夫は何も言わないものだ。自分自身が便秘になったことがないので、その便秘が良く解っていないのだ。しかし、その夫が「股間が臭い」とか、「お前が便所を使った後は非常に臭い」と言い出したら、要注意である。夫が妻を愛しているのなら、多少の悪臭は我慢するものだからだ。夫が悪臭のことをとやかく言いだすということは、余程異様な悪臭を発しているということなのだ。

 夫にそんなことを言われたら、何はともあれ、便秘を解消しよう。便秘を解消するために、夕食時に発酵食品を大量に食べることだ。糠漬けなら、キュウリやナスを2本ぐらい食べてしまうことだ。納豆なら3パックまるごと食べてしまうことだ。ヨーグルトであるなら、500gほど食べてしまうことだ。

 そして、朝になったら早起きして、浄水を1ℓほど飲んでしまうことだ。更に500mlの天日塩湯を飲んで内臓を刺激し、排便を促してしまうことだ。そうやれば排便が出る筈だ。それでも出ない場合は、天日塩を舐めながら、更に浄水を1ℓ飲んで、お腹をポンポコと叩いて、お腹を時計回りにグルグルと回していくことだ。そうすればウンコがどっさりと出ることだろう。

 便秘になるような女性はそもそもが運動不足なので、とにかく運動することだ。軽ジョギングを30分ほど走って汗を流すことだ。走っている最中の振動が適度にお腹を刺激させ、内臓の機能を活発にさせるのだ。その上で、腹筋や背筋を鍛えることだ。1日100回を毎日行うことだ。1ヵ月を過ぎれば、排便も順調になるし、腹筋と背筋にしっかりと筋肉がついて、ウェストが引き締まり、美しく見えるようになるのだ。

 夜になったら、お風呂に入ることで、内臓を温めて、消化吸収の手助けをしてあげることだ。夜に体を温めておけば、内臓は活動し易くなり、朝になれば排便を準備万端で待っていてくれることになるのだ。そうすれば、起床後、適度に体を動かせば、便意が起こり、ウンコがどっさりと出て来るものなのだ。

●3回連続の浣腸

 便秘をしているのなら、朝食を絶対に取らないことだ。朝の排便が終わらない限り、食事は一切取らないとルールを決めてしまうことだ。このルールを守るだけで便秘と無縁の人生を送ることができるのだ。朝は排泄の時間帯なので、排泄が終わってもいないのに、食事を取ってしまえば、内臓はその食事の消化吸収に追われてしまい、排泄の作業を後回しにしてしまい、それが便秘へと繋がってい