教育

小学校教師の欠点 国語編

●小学校の教師たちは文系
 小学校の教師たちは基本的に文系であり、文系だからこそ、小学校の教師として使える。人文こそ学問の基礎に成っている物なので、小学校教育では文系の人たちの方が適している。自然科学は中学校からやっても充分に間に合うのであって、まずは人文で基礎を固めた方がいいのだ。
「人文」とは「文献に対する解釈学」の事である。歴史的に価値のある文献を研究する事によって人間の本性を研究していく。具体的に言えば「一般教養」であり、知識人として知っていなければ成らない事は知っていないといけない。一般教養があればこそ、専攻しても、偏った研究には成らないのである。
 
 この人文をより自分を高める事に使う事を「自己修養」と言う。日本は江戸時代に儒学によってこれを行った。だからすぐさま近代化できたのである。中国や朝鮮は儒学ではなく儒教であり、科挙に合格するために勉強していたからこそ、この自己修養が全くなかった。それで近代化に遅れてしまったのだ。
 
 現在の大学では、一般教養を教えはするが、自己修養はやっていない。社会主義の流行によって自己修養は完全に破壊されてしまった。これは外国でも同じで、せいぜいイギリスのオックスフォード大学で細々と行われているにすぎない。だから禄でもない学生たちが大量に発生してしまうのである。
 
 ちなみに「人文科学」という物はない。人文は科学ではない。人文では実験して実証をしていく事はできないからだ。それゆえもしも「人文科学」という言葉を使っている者が居るなら、「この者は人文を全然理解していない」と即断した方がいい。一般教養もなければ、自己修養もできていない、「大学を出たバカ」にすぎないのだ。
 
●大和言葉と漢語
 大学できちんと人文を教えていないので、小学校の教師たちが行う国語教育には重大な欠点が存在する。日本人なのに国語を理解していないので、そんな者が教師になって生徒たちに教えるのだから、幾ら教えたとしても生徒たちは理解できる訳がない。「国語は良く解んない」という生徒たちが結構居る物だが、それは正しい意見であるのだ。
 
 まず日本語の文法は縄文人が使用していた物であり、そこに匈奴系のウラル=アルタイ語の文法が後から付け加えられた。単語は呉人たちの言葉が訛った物であり、それが大和言葉に成った。漢字の大量輸入が始まると、漢字をそのまま使用し、日本語化して日本人の間だけで通用するようにした。
 
 例えば「三輪大社」の「三輪」とは、
「廟」→「みゃおう」→「みわ」
と変化していった物である。だから神社は基本的に霊廟であるという事が解る。仏教のお寺は「菩提寺」として入ってきたので、それで神仏習合が可能になったのである。ちなみに「お寺」はパーリ語で「長老」を「テーラー」と言ったので、それで「てら」に成った。仏教公伝以前に、日本の仏教は直接「カシミール」から伝来したからこそ、そうなったのである。
 
 日本語を正しく使いこなすためには、古語や現代語の勉強は絶対に欠かせない。古語辞典や国語辞典を読んで、大和言葉を覚えていくしかないのだ。それに漢字の勉強も欠かせないのであって、漢和辞典を読んで、漢語を覚えて行くしかない。漢字の発音には「呉音」「漢音」「唐音」があるので、この違いが解ると、漢字の理解度が格段に上がる事に成る。
 
 小学校の国語の授業では、そんなに難しい事は教えないので、とにかく「古語辞典」「国語辞典」「漢和辞典」を壊れるまで読んだ方がいい。勿論、授業の準備も必要だが、それは別に大した事はないであろう。そんな事よりも、教師自身が正しい日本語を使いこなせるようにならないと、国語の授業は巧く出来ないのである。
 
 
●国文法
 昭和憲法体制下では、占領軍の意向によって、国文法の授業が廃止されたままであり、未だに復活していない。だから小学校の教師と雖も、国文法の授業を受けていないのだ。国文法はせめて1年間はみっちりと習わないと物に成らない。日本人だから国文法を日々使用しているのだが、だからといって、学術的な事を解っている訳ではないのだ。
 
 国文法は、
「名詞文」
「形容詞文」
「動詞文」
という3つ文型からなる。なんでこんな事になってしまったのかといえば、縄文人が使用していた文法をそのまま使用しているからである。縄文人は日本列島で発生したのであり、「日本人はどこから来たか?」という愚問を発している限り、国文法を理解する事は決してない。
 
 これだと動詞文は単純な物に成ってしまうので、日本人は漢籍を読む事で、文章力を鍛えてきた。だから中国古典を読まなければならないのだ。中国古典は中国人たちにとって古典なだけではなく、日本人にとっても古典であり、日本人だからといって、日本の古典ばかり読めばいいという訳ではない。
 
 日本語では動詞が文章の後ろの方に来るので、日本語では「考えながら喋る」事が出来る。それだけ脳と言葉が近いのだ。しかし英語は動詞が文章の前の方に来るので、英語では「喋る前に内容を決めないと喋れない」。それで英語を母国語とする人たちは、必ず喋る前に間を置くのである。
 
 日本語は優れた言語なのだが、国文法が解っていないと、人の話を聞いていない人たちが出て来る。喋りながら考える事が出来るという事は、聞きながら考える事が出来てしまうので、それで人の話を聞いていないのである。もしも、
「そんな話、聞いてないよ~」
と言われたのなら、
「あなたは私が言った事を全然聞いていなかったんですね」
とやり返すしかないのだ。
 
●論理構成
 一般教養では「論理学」を学ばなければならないのが、この事を理解していない人たちが圧倒的である。大学では、一応、論理学の講座があるのだが、大概の学生たちは受けない。たとえ受けたとしても、全然面白くないから、頭の中には入ってこない。そういう事では、論理的に喋る事は出来なくなってしまうのだ。
 
 実際に使用される論理学では、論理という論法であり、
「結論先行」
「三段論法」
「四段論法」
程度であり、少なくともこれらは知っておいて欲しい。
 
 結論先行は自然科学の論文ではこれが用いられる。ビジネスでもこれを使用するのが殆どであろう。あれこれ理由を言われても、「結論は一体なんなんだい?」と聞き返される事に成ってしまうのが落ちだ。三段論法は「序破急」、四段論法は「起承転結」で論理を構成する。
 
 女性教師の場合、女性なので、長々と話した後で、
「実は~」
と最後の最後で、最も重要な話をし出す事がある。こんな事を学校でされれば、さっぱり訳が解らなくなってしまう。女性は女性脳がそういう話し方をするから、「これをやってはいけない」と規制をかけておかないと、ついついやってしまう事になるのだ。
 
 男性が教師の場合、男性ゆえに、最初から決めつけてかかる癖がある。
「アイツはダメだ」
と一度でも断定してしまうと、決して覆らない。だから男性教師だと、体罰を平気でやってくる。人間関係に於ける男性の脳という物は、女性脳に比べて異常なまでに単純なので、その危険性を認識していないと、平気で体罰をやりまくってしまう事に成るのだ。
 
 それと日本では仏教の影響が非常に強いので、自分の意見を全く言わない人たちが居る。散々話を聞いたのに、その人は意見は1つも存在しないのだ。自分の意見を言わない人は、絶対に無責任な態度を取る。イジメで生徒が自殺しても、なんで担任が全く責任を問われないのは、仏教の影響だと見ていい。
「無我は無責任を産む」
という事を、親であるならば、絶対に忘れない事だ。

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ゆうこさんの妹さんへの運命鑑定

ゆうこさん、それでは妹さんの運命鑑定行きますね!happy01
 
●付き合って間もないですがもうすでに彼氏の自宅に入り浸るような感じで、結婚も考えているようです。
妹は前から26歳くらいまでには結婚したいと言っていたのですが、この彼と結婚できるのでしょうか?
 
名前の相性はいいので、これなら仲は良く成る事でしょう。
結婚しようと思えばできます。
但し、今じゃないですね。妹さんが結婚するのは、28歳でしょう。それがベストで、後は運気が低下していきます。
 
●結婚した場合どんな夫婦になるのか、また子供も欲しいようなので子宝についても教えて頂きたいです。
 
成功するまで、多少時間のかかる夫婦になります。彼氏はスタートダッシュ型なので、それを巧く活かせないのが残念ですね。
子供には恵まれます。彼氏の方は子供にエネルギーを注ぐタイプなので。
 
●タマティーからのアドバイス
 
多分、この2人は結婚しないでしょう。恋の勢いで行ってしまえば、結婚するかもしれないけど、妹さんの年齢を考えると、結婚はもう少し先ですよ。
妹さんの名前から判断すると、独身時代に何か大きな事をやり、その後、結婚して幸せな家庭を築きます。だから独身時代に何もせずに結婚するってのは、お勧めできないし、本人もしないでしょうね。
もしも結婚してしまえば、やり残した事があるので、それで早々と離婚という事はありえます。尤もそういう事があっても、すぐに再婚する事でしょう。
 
 

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創価教育学の凄さと限界点

●学歴社会と学歴差別
 日本は近代化の過程で学校教育制度を整えていき、そのために学歴社会が生み出されてしまった。高学歴の者たちは高収入で、低学歴の者たちは低収入になる。政界に至っては、中卒や高卒の者で政治家に成るのはほぼ不可能に成り、大卒か大学院卒の者たちでしか政治家に成る事は出来なくなっている。
 
 福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」といったが、門閥より学閥の方が遥かに恐ろしい。門閥なら生まれが違うという事で諦めが着く。しかし学閥となると、どこの大学を出たかで、終生、特権を得続けるので、他の大学を出ても、その大学の偏差値が低ければ、相手にされない。高卒や中卒の者たちは問題外となる。
 
 だから社会には学歴差別に根深い不満があり、新興宗教団体はそれを背景に登場してくる。新興宗教団体の教祖や教団創設者は大概「低学歴」であり、大卒の者は稀だ。創価学会は初代会長の牧口常三郎が尋常師範学校卒、二代目会長の戸田城聖が中央大学経済学部卒、三代目の池田大作が大世学院夜間学部卒と、低学歴者たちを三連発で出している。《因みに言っておくが、戸田城聖が通った頃の中央大学は私立なので大した大学ではなかった。今もあんまり変わらないが)
 
 尤もこれでは教団のレベルが上がらないので、教団のレベルを上げて行くためには、学歴社会の頂点に居る東大卒の者たちを入れていかなければならない。創価学会では池田大作が会長職に就任する前から、東大生たちへの工作を開始しており、東大卒の者たちを教団の専従者として雇い入れている。
 
 東大には毎年3千名ほどの者たちが入学してくるのだが、その内、宗教に興味を持つ者たちは90名から150名程度と見ていいだろう。宗教の興味を持っても、半分以上は既成宗教の方に興味が行くので、新興宗教に興味が行く者たちの数は非常に少ない。それを他の教団たちと争って取らなければならないのであって、その争いに勝利できれば、教団は突如として化学変化を起こす事に成る。
 
 
●『創価学会入門』
 俺はかなり前に牧口常三郎の『創価教育学体系』を読んだ事があったのだが、この本は全く関心しなかった。牧口常三郎は真善美を否定し、人生の目的は価値の創造にあるとして、真善美の代わりに利善美を唱えた。学問というのは真実の探求をやっているのであって、それなのに教育者である人物がそれを放棄するというのはどうも納得がいかなかったのである。
 
 ところが、この度、創価学会の事を調べて行く内に、『創価学会入門』という書物を見つけてしまった。この本は創価学会教学部が編纂した物で、昭和45年に聖教新聞社の方から出ている。聖教新聞社というのは株式会社ではなく、飽くまでも創価学会のいち機関であり、教団の方が創価学会の教学を示すために出した物という事に成る。
 
 往々にして「本は編著になると、質が下がる」という傾向がある。学校の教科書は全て編著なので、それを思い出せば解る事だろう。執筆している学者たちはバラバラだし、自分に割り当てられた事にしか関心がないので、1つの作品として整合性が全く取れていないのだ。だから教科書を読んでも解らない生徒たちが出て来てしまうのである。
 
 『創価学会入門』も編著なのだが、この本が作られた時期は、まさに池田大作が東大卒の者たちを教団に雇い入れ続けた時期であり、この本も東大卒の者たちが混じって書いている。それゆえ、新興宗教団体が出す本の中では格段に質が高いし、創価教育学の事もよく解るし、創価学会の法華信仰の部分もよく解るようになっている。
 
 創価学会の本では池田大作の『人間革命』がベストセラーになっているのだが、この本はゴーストライターが居て、池田大作自身は書いていない。しかも信者たちは、この『人間革命』を買う事はするのだが、読みもせずに本棚に死蔵しているらしい。そういう本だと幾ら読んでも創価学会の事は解らないだろう。
 
●創価教育学
 創価学会は日蓮宗系の新興宗教団体であり、正確には日蓮正宗の信者組織だった。過去形に成っているのは、日蓮正宗が創価学会を破門したからであって、日蓮正宗の方から「この団体は日蓮正宗とは関係のない団体である」と言われたのだ。じゃあ、「創価学会は何か?」といえば、飽くまでも中核になっているのは「創価教育学」であり、法華信仰の方は従の存在でしかない。
 
 創価教育学は真実の探求を諦めるという、とんでもない所からスタートする。戦前の日本の哲学界はカント学派が主流で、哲学を志す学生たちはカントの『純粋理性批判』を必読の書とした。しかしカントはイギリス系のドイツ人で、ドイツ語が余り巧くなく、『純粋理性批判』はドイツ人ですら難解の書とされている。しかも日本語訳が巧くなく、それで哲学をやる学生たちが自殺する事件が度々発生した。
 
 だから牧口常三郎は真実の探求を諦め、「人生の目的は価値創造にある」として、「真善美」ではなく、「利善美」を説いた。なんとも滅茶苦茶な学説ではあるが、自殺が社会問題になっていた事を理解しないと、なんでこういう学説が出て来たのかは解らないだろう。真実の探求をしていけば、頭の中がこんがらがって自殺する事はあるが、価値創造していくのなら、常に行動し続けなければならないので、自殺する事はなくなる。
 
 創価学会の会員たちは、新しい価値を創造している限りは、善であり、美を実現してくる。これは創価教育学の素晴らしい部分である。創価教育学はイギリスの功利主義、アメリカのプラグマティズムの流れを汲むが、それらの主義と違うのは、ただ単に利益を追求しているのではなく、善も美も追求しているのである。
 
 しかし創価教育学には裏の顔もあり、自分の利益を守るためには「悪」も「醜」も行う。善や美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値を創造し、利益が出ている時だけであり、それ以外は悪も醜もやっていい。創価教育学を作った牧口常三郎はまさかそんな事になるとは思ってもいなかったであろうが、創価教育学は「利善美」「利悪醜」の2つの顔が存在するのである。
 
 
●創価教育学が強い分野
 創価教育学が強い分野はなんといっても「教育」の分野であり、牧口常三郎自身、小学校の教師だったので、学校で教師になっている人たちは良く理解できる理論になっている。それと学校に入学してくる「バカな人たち」であり、つまり生徒たちにも創価教育学は受ける事だろう。事実、創価学会は教育者たちとバカな人たちの双方を信者として取り込んでいる。
 
 創価学会には芸能人の信者たちが多いのだが、芸能界では毎年、新しい価値を創造していかなければならないので、それで芸能人たちには打って付けの理論となる。スポーツ選手たちも毎年成果を出す事を求められるので、それでスポーツ界に於いても創価教育学は強い。
 
 創価学会は公明党を作り、政界へと進出していったが、政治家も新しい価値の創造を強いられる仕事だから、当然に創価教育学が使える分野である。官庁にも創価学会の信者たちが進出していっているが、軍事や行政では正しい事をしなければならないと同時に、多少あくどい事をしなければならないので、それで創価教育学は使えてしまう。
 
 創価学会と日本共産党は犬猿の仲なのだが、創価学会は必ず「筋金入りの反共」となる。なぜなら共産主義は新しい価値の創造をせず、ただ単に資本主義経済の成果を分配しようとするので、そういう事では絶対に相容れない。それに共産党員たちは善だとか美とかには無関心なので、その点でも生理的に受け付けないのだ。
 
 創価教育学は教育者が作った理論なのに、学問は弱いという事になってしまう。真実の探求はしないので、それで学者になって研究しても、まともな研究成果が出て来ない。但し、仏教関係では法華信仰に関わって来るので、この分野だけはまともな研究成果を出してくるかもしれない。佐藤優のように創価学会に協力する知識人たちは居るだろうが、創価学会の信者で何かしら凄い研究をやってのけた学者というのは余り居ない。
 
●創価教育学批判
 創価教育学は人間が作りし哲学なので、完璧な物ではない。必ず欠点が存在するのであって、創価教育学を批判する事によって、その欠点を明らかにしなければ成らない。
 
①「真実の探求を絶対にしない」
 創価教育学は最初の段階で、真実の探求を諦めているので、創価教育学を受け入れてしまうと、真実の探求を絶対にしなくなる。要は必要とあらば幾らも嘘をついて来る事に成る。しかし新しい価値を創造する限りに於いては、それなりに正しい行動をしてくるので、それに惑わされてしまうと、とんでもない事になってしまう。
 
 例えば、創価学会はなんで池田大作が病気で死に体になっている事を報道しないのか? 彼が名誉会長である以上、彼の病状は逐一報告すべきであろう。一説には、かなり前に脳腫瘍で苦しみながら死んだらしいとの情報がある。もしも生きていたとしても、脳腫瘍である以上、植物人間状態になっている筈だ。
 
 それと池田大作は在日朝鮮人2世「成太作」であって、国籍こそ日本国籍を持っているのだが、親は朝鮮半島からやってきた人である。在日朝鮮人2世である事が悪いのではなく、「なんでそれほど重要な情報を信者たちに伝えないのか?」という事なのだ。創価学会は韓国に進出している以上、名誉会長が在日朝鮮人なら、より多くの韓国人たちに受け入れられるに違いない。
 
②「小利のために大利を失う」
 創価教育学では、新しい価値創造は、利善美に適うからこそ、評価される事に成る。尤も利善美の中で最も重要なのは「利」である。しかし利益追求ばかりやっていれば、小利ばかり追いかけてしまい、それで大利を失ってしまう事に成る。創価学会の信者たちには、貧乏人たちが多いのだが、小利ばかり追いかけているからこそ、貧乏になってしまうのである。
 
③「利益を守るために悪や醜をやっていいのか?」
 創価教育学では悪事を成す事が許されている。利善美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値創造の時だけなのであって、後は悪事をやってもいい。職業柄、悪事をする必要性のある職業、即ち「政治家」「公務員」とかに、創価学会の信者たちが入り込んでくる事に成る。利益を守るための悪事は必要といえば必要かもしれないが、使い方を誤れば、創価学会への非難が凄まじい物と成る事であろう。
 
 神道からすれば、創価教育学には真心がないという事に成り、穢れた事を平然とやるので、忌み嫌われる事に成る。仏教からすれば、利に囚われている以上、煩悩まみれであるのだが、しかし新しい価値を創造して利益を得てしまえば、一時的に煩悩が消えるので、仏教と無縁の物ではないのだ。仏法が中心になっているのではなく、創価教育学が中心になっているからこそ、仏教ではないといえば、そう言えるだろう。
 
 キリスト教からすれば、創価教育学には愛がないという事に成る。仏教では愛は否定的な物なので、創価教育学を作り上げた牧口常三郎が、日蓮正宗へと傾斜していったのは当然といえば当然である。創価学会の信者たちに結婚しない男女が多かったり、結婚しても夫婦仲が最悪だったり、離婚する者たちが出て来るのは、創価教育学と日蓮正宗を組み合わせれば、致し方ないであろう。
 
 
●牧口常三郎は日本を代表する哲学者である
 近代日本は「西田幾多郎」という哲学者を産んだが、牧口常三郎は彼を遥かに凌駕する哲学者であり、牧口常三郎こそ日本を代表する哲学者だと言っていい。西田幾多郎の哲学はフッサールの哲学の影響を受けた物で、それなりに高い評価を与える事が出来る。しかし一般大衆への影響度を考慮してしまうと、牧口常三郎の方が断然に凄い事になっているのである。
 
 資本主義が発達してくると、人々は封建時代とは全く違う合理的な経済活動に巻き込まれる事になるので、どうしても功利的になっていく。イギリスでは功利主義が生まれ、アメリカではプラグマティズムが生まれた。日本では創価教育学が生まれたのだ。歴史の大きな流れに沿っているからこそ、創価教育学は一般大衆の支持を得たのである。
 
 一見、利益追求を行っている功利主義やプラグマティズムや創価教育学は非常に強い。しかしこれらのイデオロギーは利益を得てしまったがために、その重みのために沈んでいく事に成るのだ。事実、イギリスは覇権国家から転落した。アメリカ合衆国も今や覇権の終焉の時期を迎え、足掻きに足掻きまくっている。
 
 日本も経済発展が止まり、デブレが長々と続けば、幾ら創価教育学であっても、利益の減少を発生させてしまい、それで創価学会の信者数は頭打ちになってしまった。それどころか信者数は減少している。創価教育学には体制を作り変えるという発想がないので、それで人間革命は出来ても、社会革命を引き起こすという事ができないのだ。
 
 日本人の知識人たちは哲学に弱い。高校生の時に哲学をきちんと学んで行いないので、創価教育学の凄さと限界点が全然解っていない。創価学会の信者たちは創価教育学を持っている以上、それで哲学のない連中が幾ら批判してきても、創価学会はビクともしなかったのである。
 
 
●創価学会への解決策
 創価学会を非難している人たちは、創価学会のやった事に対して非難をぶつけているだけであって、創価教育学を正しく理解していない。まずは創価教育学を理解する。創価学会では、創価教育学が主で、法華信仰が従である。だから創価学会が他の日蓮宗系新興宗教団体とは全然違うのであり、法華信仰ばかり見ていてはダメなのだ。
 
 創価学会への解決策としては、宗教法人格を取消し、教育団体に戻す事が最善であり、これ以外に解決策はない。実践倫理宏正会は社会福祉法人であって、実践倫理を普及させる活動をやっているが、きちんと組織として成立している。創価学会の信者たちの中で法華信仰をしたい信者たちは日蓮正宗の法華講に戻ればいい。
 
 創価学会の事が正しく理解されなかった背景には、「日本の出版業界はデータ不正を行っている」という事情が存在する。戦後の出版業界では、池田大作の『人間革命』が最大のベストセラーなのだ。幸福の科学の大川隆法はなんと1000作品以上の本を出していて、ベストセラーになった作品も多々ある。宗教書がベストセラーになるのは、先進国では当然であり、日本だけが例外という訳がないのだ。出版業界が公然とデータ不正をやっているからこそ、世間の人たちの創価学会への理解度が余りにも低いのである。
 
 誰がなんと言おうが、「戦前は教派神道の時代、戦後は日蓮宗系新興宗教団体の時代」なのであって、戦前は天理教の「中山みき」、大本教の「出口王仁三郎」という宗教的巨人が出て来たし、戦後は創価学会の「牧口常三郎」「戸田城聖」「池田大作」という宗教的巨人が出来たのだ。会長に三代続けてスター級の人物を出せば、大発展するのは当然であろう。
 
 中山みきは、浄土宗や修験道や吉田神道の流れを汲みながら、天理教を生み出していった。だからヒットしたのである。牧口常三郎はドイツ観念論を批判し、プラグマティズム流れを汲みながら、創価教育学を作り、そこに日蓮正宗の法華信仰を組み入れた。それゆえ大ブレイクしたのである。
 
 天理教が中山みき一個人の考えではないように、創価教育学も牧口常三郎一個人の考えではない。やはり、日本の歴史に於いて出るべくして出て来た哲学であり、そう簡単に消える事はないのだ。もしも創価教育学が消滅する時は、創価教育学を上回るような偉大な哲学が日本に誕生した時だけであろう。
 
 

 
 

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エリザベス女王死去の大問題

●エリザベス女王の寿命は既に尽きている
 去年の段階で、「エリザベス女王の命運は既に尽きており、死ぬ可能性がある」と俺は予言しておいた。これはごく一部の人たちに伝えただけであり、このブログでは公開しなかった。すぐに死ぬ兆候は見られなかったし、エリザべス女王の死去より、パククネにとんでもない災厄が起る方がより強力に予言できたからだ。
 
 事実、パククネは大統領を辞職しない物の、大統領として権限を行使しないという事になってしまった。今年の大予言はなんといっても、ドナルド・トランプの事がメインなので、それでエリザベス女王の事はまたも公開しなかった。しかしエリザベス女王は年末にひどい風邪を引いたらしく、いよいよ寿命が尽きる来たと判断していい。
 
 エリザベス女王は1952年に即位しているので、2017年の段階でなんと「在位65年」である。どう考えても長すぎる。日本の昭和天皇の時もそうであったが、君主の在位が60年以上に及んでしまうと、どうしても次の君主の治世は停滞し衰退してしまう事に成る。日本は失われた20年を経験したのであって、イギリスも日本と全く同じような事になるであろう。
 
 立憲君主制国家の場合、君主は20年で交代するのがベストだと思う。どんなに長くても30年が限度であろう。如何なる政府も10年以上、同じ路線を取る事は出来ない。10年ごとに政策を変更していかないと、政府は維持できないのだ。政策をどうするかは首相が決める事なのだが、それでも2回か3回変更すればもう充分であり、君主は最大在位30年で譲位した方がいいのである。
 
 エリザベス女王は現在「90歳」であり、なんで今まで譲位してこなかったという事に成る。幾らなんでも90歳のお婆ちゃんが居れば、下の者たちは全員腐ってしまう事であろう。自分が健康で居られ、心身とも女王としての仕事ができるのは80歳が限度であり、80歳になる前までに譲位しておくべきだったのだ。
 
●皇太子殿下は訪英できるのか?
 日本にとって、エリザベス女王の死去は他人事ではない。もしもエリザベス女王が死去した場合、皇室の慣習法上、天皇陛下は訪英して葬儀に参加する事ができないので、その代り皇太子殿下を派遣する事に成る。「その皇太子殿下が本当に訪英できるのか?」という事なのである。
 
 ヨーロッパでは夫婦は一緒に行動するので、皇太子殿下が訪英するという事は、妻の雅子妃を連れて行くという事を意味する。だからこれは「雅子妃の問題」でもあるのだ。雅子妃は精神病を患っているので、病気のために訪英できないとなれば、皇太子殿下は大恥をかく事に成る。
 
 エリザベス女王の葬儀に雅子妃が参加しないと成れば、そのような問題のある妻が居る皇太子殿下を天皇に即位させる訳にはいかないというようになってくる事であろう。既に天皇陛下が退位の意向を示されているので、こんな大事な時期に妻の問題でケチが付けば、皇太子殿下の立場は非常に危うくなる。
 
 安倍首相は秋篠宮殿下を皇太子に相当する待遇を得させようという法律を国会に出すつもりでいる。という事は、皇太子殿下が天皇になっても、その在位は一時的な物であり、皇統は秋篠宮殿下の方に行くという事に成る。訪英は天皇即位のための「最大の試金石」になってしまうのであって、皇太子殿下は余程覚悟しないと、足を掬われてしまい事に成るであろう。
 
 本来であるならば、こんなに問題のある妻は捨ててしまった方がいい。今からでも若い女性を貰えば、その女性は男子を産む事に成るであろう。そうなれば、皇位継承の問題は何もなくなる。天皇家ではまずは男子を産まないと話にならないのであって、男子のいない皇太子というのは、どう立ち回ってもダメなのである。
 
 
●チャールズ王太子は国王たりえるか?
 エリザベス女王の死去が大問題を引き起こすのは、当のイギリスでも同じであり、チャールズ王太子が国王になってしまうからこそ、これは本当に大問題になってしまう。なぜならチャールズ王太子は家系からの食み出し者なのであって、もしもチャールズ王太子が国王になってしまうと、イギリス王室を潰してしまう事に成るかもしれいないのだ。
 
 チャールズ王太子には前の妻であるダイアナ妃が産んだ王子たちが居るので、国王になる条件は充分に満たしている。現在の妻ももうお婆さんではあるが、カミラ王太子妃が居るから、なんの問題もない。問題なのはチャールズ王太子本人であって、自分の運命星が王位継承者ではいからこそ、チャールズ王太子の即位を危険視しなければならないのだ。
  
 イギリスは現在、スコットランドの独立問題を抱えている。もしもチャールズが国王になってしまえば、本当にスコットランドが独立するとも限らない。ブリテン島を纏める事ができなければ、幾らイギリスと雖も国力は一気に低下してしまう事であろう。スコットランドが独立する事はないと思っている人が殆どだろうが、国王に国王にはなっていない者が就けば、何かの問題を切っ掛けに独立してしまうかもしれないのだ。
 
 チャールズ王太子とカミラ妃の運命星は、チャールズ王太子には精神的な苦悩を、カミラ妃には肉体的な病気を引き起こしてしまう関係にある。なんでこの2人が結びついてしまったのかというと、カミラ妃が大恋愛をする事によって自分の運命を大きく変える事ができるからで、それでチャールズ王太子と大恋愛をする事によって結ばれてしまったのである。
 
 しかも今年2017年に即位してしまえば、今年はチャールズ王太子にとっていい運気ではないので、それで早々と7年後辺りで死亡してしまうか、長生きできたとしても問題だらけの治世になってしまう。どう占ってみても、いい結果は何1つないのだ。やはりここでも、エリザベス女王の在位期間が長すぎた悪影響が出て来てしまっているのである。
 
 
●ウィンザー朝の呪われた王位
 現在のイギリス王室はドイツからやってきて、「ハーノーヴァー朝」と名乗った。この王朝名だとドイツを想像させてしまうので、1917年に「ウインザー朝」と王朝名を変えた。しかしこのウインザー朝と名乗るようになってから、イギリスは落ち目になっていき、殆どの植民地を手放す事になってしまった。
 
 ウインザー朝ではその王位は呪われており、国王が交代すると、戦争が起っている。しかもその戦争はイギリスの国益を大いに損ねているのだ。ジョージ5世(在位1910年~1936年〉の時には即位後に第一次世界大戦が起っている。ジョージ6世(在位1936年~1952年〉の時には即位後に第二次世界大戦が起っている。そしてエリザベス女王の時には即位後にスエズ動乱が起っているのだ。
 
 となると、チャールズ王太子が即位すれば、イギリスはどこかの国と戦争になり、その戦争でイギリスは敗北してしまう事に成る。イスラム教過激派からテロ攻撃を受けている以上、現時点で戦争が起る場所は中東という事になろう。既に中東では戦争が起っている以上、こんな所に手を突っ込めば、戦争に負けてしまうのは当然の事、イギリスの独立すら危うく成ってしまうに違いない。
 
 チャールズ王太子はハーノーヴァー朝としては12代目の国王、ウインザー朝の国王としては5代目の国王である。徳川将軍家は15代続いたが、12代目の家慶以降、3代続いたが、どの将軍たちもまともな政権を築けなかった。また5代目の綱吉の時は、武断政治から文治政治への転換という大きな作業をやってのけたからこそ、その後、江戸幕府を長持ちさせる事が出来た。
 
 尤も天皇家の方も他人事で済まされる問題ではない。明治以降の天皇としいぇは、皇太子殿下は5代目の天皇である、5代目の君主は「武断政治から文治政治への転換」を図らなければならないのであって、戦争するなど以ての他なのだ。しかし日本を取り巻く環境は平和を維持するのは難しくなってきており、日本もイギリスとは違う形で大変なのである。
 

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音読みの謎

●「呉音」「漢音」「唐音」
 音読みとは日本語に於ける漢字の字音の読み方である。日本語には日本独特の発音法があるので、中国人が発音しても、それをそっくりそのまま真似る事ができなかった。どうしても日本風の発音になってしまう。日本人が漢字を大量輸入したのは三回あって、「古墳時代」「奈良時代と平安時代」「鎌倉時代」の3つである。
 
 古墳時代に行われた音読みを「呉音」という。主に三国時代の「呉」から学んだからこそ、こういう言われ方をする。但し、呉だけでなく、その後の「西晋」「東晋」「宋」「斉」「梁」からも受け入れた。大和朝廷にしてみれば、外交交渉をするためにどうしても必要だったからこそ、漢字の大量輸入が起ったのである。
 
 奈良時代と平安時代に行われた音読みを「漢音」という。主に「隋王朝」や「唐王朝」の時の発音なのだから、「隋音」とか「唐音」といえばいい物を、漢王朝の時の発音ではないかと勘違いされてしまう漢音になっている。古代日本人は華北の人たちを「漢」(から)と呼び、華南の人たち「呉」(くれ)と呼んだので、それで漢音になってしまったのだ。
 
 鎌倉時代に行われた音読みを「唐音」という。これは本当に誤解を招く。主に「宋王朝」の時の発音なので、だったら「宋音」にすべきなのである。しかし唐王朝が崩壊する過程で、どうも日本に大量の亡命者たちが来たみたいで、その者たちは唐王朝の時の発音を行なっていたので、それで唐音になってしまった。
 
 例えば「京」という漢字は、呉音では「キョウ」、漢音では「ケイ」、唐音では「キン」であり、「平安京」(ヘイアンキョウ)では呉音を、「京阪」(ケイハン)では漢音を、「北京」(ペキン)では唐音で処理している。同じ漢字を使うのだから、発音を統一すればいい物をなぜだが3つも発音が存在しているのだ。
 
●抵抗したのは誰か?
 古代日本では壬申の乱が起り、これによって律令制度を本格的に確立していく事になる。この時期に漢音を一気に普及するので、この時に呉音を廃棄すべきだったのである。実際に朝廷は平安京遷都の直前に「漢音を持って正しい音読みとする」という勅令を出している。しかし抵抗した者たちが居たからこそ、呉音が生き残ってしまったのである。
 
 じゃ、一体誰が抵抗したのかといえば、まずは「僧侶」たちであり、仏教関係の用語には呉音が大量に残っている。例えば「成仏」(ジョウブツ)は呉音の発音であり、漢音なら「セイブツ」となる。但し「仏」は呉音だと「ブチ」なので、呉音で正確に言えば「ジョウブチ」で、「ジョウブツ」は多少なりとも妥協した結果という事ができる。
 
 第二の抵抗勢力は「医者」たちであって、医療関係にも呉音が大量に残っている。例えば「静脈」(ジョウミャク)は呉音の発音であり、漢音なら「セイバク」となる。「脈」は漢音だと「バク」なので、「心臓がバクバクする」という事で、多少存在している程度である。朝廷は医療には介入できなかったみたいで、医療関係には呉音がしっかりと残ってしまった。
 
 第三の抵抗勢力は「官僚」たち自身であり、法律関係にも呉音が残っている。平安京自体が呉音を用いている以上、官僚たちは天皇から勅令が下っても、そう簡単に漢音に移行する事ができなかった。尤も漢音を普及させる役目を負うのは官僚たちなので、官僚たちが呉音を残してしまえば、確実に残る事になる。
 
 中国は専制君主制を取るので、始皇帝の例を見ても解るように、発音を統一しようとすれば、本当に統一してしまう。それだけ政治権力が圧倒的に強大であるのだ。しかし日本は専制君主制を取らないので、どうしても朝廷の力が弱く、政治権力の及ばない箇所が出て来てしまうのである。
 
●慣用音
 
 呉音や漢音や唐音には或る一定の法則が存在するのだが、厄介なのが「慣用音」であり、慣用音は中国語に基づく事無く、日本人が発音し易いように発音してしまった物だから、訳が解らなく成る。それなのにその発音が使い勝手からいいからこそ、日本人はなんの疑問に感じないのである。
 
 慣用音の代表例が「茶」であろう。茶は慣用音で「チャ」と発音する事になっている。しかし呉音では「タ」、漢音では「ダ」、唐音では「サ」なので、漢字本来の発音とは一切関係ない。一体いつどこで誰が「チャ」と言い始めたのかというと、恐らく平安時代後期に医者たちの業界用語であったろうと推測される。
 
  臨済宗によって抹茶が普及する前、茶は薬であった。漢音で「ダ」と言ってしまうと、何を言っているのか解らないので、それで「チャ」にしたのではないか? 臨済宗は茶を「サ」と唐音で読んでいたので、禅僧たちが「チャ」という言葉を広めていない事はたしかなのである。
 
「茶道」は「チャドウ」か「サドウ」か非常に問題であり、これは茶道の命運を左右しかない問題だと言っていい。最近の流れとしては、「サドウ」から「チャドウ」へという流れになっており、茶人たちまでが「茶道」を「チャドウ」と言い始めている。しかし茶道を「チャドウ」というのはダメなのである。
 
 姓名判断的に「茶道」を「サドウ」と読むとお洒落で華やかという事を意味するが、「チャドウ」だと大胆だけど孤独という事になってしまい、「サドウ」の方が茶道の実態とピタリと一致しているが、「チャドウ」だと全然合っていない。大体、「喫茶店」は「キッサテン」であり、だから人々は行くのである。「喫茶店」が 「キッチャテン」では誰も行かないだろう。
 
 では、なぜ「茶道」が「チャドウ」と言われるようになったのかといえば、それだけ茶道が国民に普及したからであり、普及したからこそ、茶人たちですら日本語として言い易い物にしたいのである。尤も「茶道」が「チャドウ」になってしまうと、お洒落ではなくなるし、華やかな物でもなくなってしまう。
 
●元寇が日本を変えた
 元寇以降、日本は中国から漢字を大量輸入していない。元寇の際、鎌倉幕府は兵力的には圧倒的に不利だったのに、神風が吹く事でモンゴル軍を殲滅する事が出来た。これによって戦後、「神国思想」が生まれて来る。だから中国から漢字をもう大量輸入する事がなくなってしまうのである。
 
 尤も中国で発明された品物は元寇以後も入ってきている。例えば「行灯」「卓袱台」「麻雀」とかである。これらの漢字に共通する事は、当時の中国人たちが使っていたであろう発音に比較的近い発音を日本人がしているという事であり、呉音や漢音や唐音のようの法則性のある物とは根本的な所から違っている。
 
 モンゴル軍の中国侵略で中国文化のレベルが下がり、それと同時に日本は南北朝の動乱を迎えて、幕府が統治能力をなくし、それがために商業が活発になったので、だから日本と中国の間にそんなに差がない事になってしまった。寧ろ江戸時代になると、日本の学問の方が進み、朱子学で停滞しした中国の学問を追い抜いてしまうのである。
 
 近代以降、日本は西洋の文物を大量輸入したので、英語やドイツ語を日本語に翻訳していく作業に追われた。これによって今度は日本が中国に漢字を大量輸出するようになったのである。「哲学」「恋愛」「鉄道」とかいう単語は日本人が作った物であり、これは中国でも通用するレベルにあったからこそ、そのまま使用される事になった。
 
 戦後、学生運動や労働運動が活発になったが、しかし全く巧く行かなかった。失敗した最大の理由はこの手の運動をやった人たちが中国の「簡化字」を輸入したからであると言っていい。例えば「闘争」を「斗争」と書いたりして、できるだけ画数を少なくしようとした。これの一体何が間違いなのかといえば、日本はもう中国から漢字を大量輸入しなくなったのに、時代錯誤的に相変わらず中国から漢字を大量輸入してしまった事なのである。
 
●日本では革命が起っていない
 中国では革命が起ると、前の王朝の文化は全て否定される。全否定されるからこそ、漢字の発音も変わってしまうのである。中国人たちは「中国四千年」と言うが、実際の中国は中華人民共和国から建国してからの日数でしかない。想像以上に浅い国家なのであり、中国人たちの誇大表現に騙されては成らないのだ。
 
 日本に革命があったのか否かは時折問題になるが、天皇制が古代より続いている以上、日本には革命などなかった。確かに明治維新や敗戦によって価値観の変動はあった。しかしそれは革命ではないのであって、もしも革命が発生していたのなら、日本だって漢字の発音の仕方はがらりと変わってしまった筈なのである。
 
 日本には革命が起っていない以上、日本人がすべき事は日本文化の継承と発展であり、その積み重ねこそが大事という事になってくる。だから国語を教える事は日本史を教える事でもある。日本史が解ると、国語の理解度も高まって行く事に成るのだ。音読みはその代表格だと言っていい。
 
 音読みに対して一言言っておくと、
「音読みは飽くまでも日本人同士で取り決めた約束事であり、絶対に正しい物ではない」
という事である。漢字の正しい読み方は中国人たちのやっている物なのであって、その漢字を輸入し、日本人が発音し易いようにしただけに過ぎない。
 
 例えば「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているのだが、「ミウゾウユウ」と発音するのは決して間違っている訳ではない。「有」は呉音では「ユ」であり、漢音では「ユウ」である。だから漢音で発音すれば「ミゾウユウ」の方が正しい。しかし「未曽有」は仏教用語であり、僧侶たちは「有」を「ウ」と読んだからこそ、「未曽有」は「ミゾウウ」と発音しているに過ぎないのだ。
 
※参考文献
円満字二郎著『漢和辞典に訊け!』(筑摩書房』
円満字二郎著『大人のための漢字力養成講座』(ベストセラーズ)
(この円満字二郎は凄い人かも。出版社で漢和辞典の編集をしたので、漢字の問題を実に解り易く説明してくれる)
 
 

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BABYMETALに対して勝手に運命鑑定

●BABYMETALはプロデュース勝ち
 
 BABYMETALはプロデュース勝ちであり、小林啓がプロデュースした段階で、勝利は確定したといっていい。「ヘビメタとダンスの融合」って今までなかったのであり、ヘビメタだけだとどうしてもダサいのに、そこにダンスを加えると、とってもお洒落な物になるから、これなら行ける事になる。
 
 BABYMETALの最大の凄さは「楽曲の素晴らしさ」であり、メロディーラインの出来がいいので、非常に歌い易い。しかしそれに反比例する形で歌詞がアホらしい。歌詞の問題点を改善すれば、名曲を生み出せる可能性は非常に高い。中元すず香の歌唱力は抜群にいいので、彼女の歌声なら大ヒットを飛ばせる事もできる事であろう。
 
 BABYMETALは歌とダンスのバランスも実にいい。歌とダンスを一緒にやってしまうと、どうしても歌唱力が落ちてしまう。だからメインヴォーカルにはまず歌を中心にさせ、ダンスは必要最低限でいいのだ。他に2人いるのだから、その者たちはダンスをメインにし、歌は補助的な物にすると、巧くバランスが取れるのである。
 
 BABYMETALは総画が「27画」なので、常に新しい事をし続けなければならない。やっている事が新しいので全ての人たちに受ける事はないが、クリエイティブな人たちには熱狂的な人気を得る事ができる。27画だと海外に縁があるので、それで欧米でもヒットしているのである。
 
 俺はBABYMETALに「ふなっしー」の臭いを感じてしまった。ふなっしーもまた、プロデュースの段階で勝利していたのであり、それであの大ブレイクが起ったのだ。BABYMETALとふなっしーの最大の違いは、お笑いのセンスの有無なので、笑いで伸し上がっていく事はできない。飽くまでも音楽で勝負しなければならない。
 
●メンバーたちの関係
 
 BABYMETALのメンバーは、
「中元すず香」
「水野由結」
「菊池最愛」
の3人である。BABYMETALの事を調べていくと、この3人の組み合わせがこれまた凄い。
 
 まず中元すず香なのであるが、「すず香」の音相は「巫女」の事で、巫女の中でも巫女鈴を持って巫女舞をする巫女の事を言う。脳科学者の中野信子はBABYMETALを「突如舞い降りた謎の巫女たち」と評したのだが、これは実に正しい。メインヴォーカルが巫女だからこそ、巫女たちが歌い踊っている事に成るのである。
 
 次に水野由結なのであるが、「由結」の音相は「結い」の事で、本来は母親と娘の結びつきを意味するのだが、この者がバンドに入れば、バンドとファンたちを結びつける事になる。だから中元すず香がメインに見えて、実は水野由結こそがバンド存続には最も重要な役割という事に成るのだ。
 
 第三に菊池最愛なのであるが、「最愛」と書いて「モアイ」と読む。「モアイ」という言葉は「モアイ像」から来たために日本語的にはない物なのだが、音相的には「藻」と「愛」という事に成り、「表面的ではあるが、広くに行き渡る愛」という意味を持つ事に成る。下手をすると「ヤリマン」になってしまうが、バンドのメンバーであるならファンたちに愛を施して行く人物になるのだ。
 
 だからこの3人を総合させると、
 
「巫女が人々を結び付け、表面的ではあるが広く行き渡る愛を施す」
 
という意味になり、バンドとしては理想的とも言える者たちを揃えた事に成る。確かに中元すず香の歌は巧いのだが、一人ではそれほどの力を発揮しえない。水野由結と菊池最愛の2人の力を得る事によって、とんでもない力を発揮する事が出来るようになるのである。
 
 
●三位一体の結界
 
 3人でグループを作ると、「三位一体の結界」が張られる事に成る。三位一体の結界が張られると、3人の内、2人は忙しく、1人はボケ役をこなし、それによってバランスを取る。初めての出産をすれば解るだろうが、赤ちゃんはすやすや眠り、母親は家事に育児に忙しく、父親は仕事が猛烈に忙しくなる。
 
 TMネットワークは木根尚登がボケ役で、別に小室哲哉と宇都宮隆の2人でやればいいのに、木根尚登が加わる事によって三位一体の結界を張り、それでブレイクしていった。アルフィーなら坂崎幸之助がボケ役で、高見沢俊彦と桜井賢の2人でやればいいのに、坂崎幸之助が加わる事によって三位一体の結界が張られ、長々と活動し続ける事が出来ているのだ。
 
 小林啓はパフュームを見てBABYMETALの構想を考えていったのだが、パフュームは全員がボケ役なのであって、これに対してBABYMETALの方は誰もボケる事ができず、必ず何かしらの仕事が存在している。これは三位一体の結界からすれば異常な状態で、こんな状態が長く続く事はないのだ。
 
 BABYMETALは全員が走り続けなければ成らず、いずれ誰かが「疲れたからやめる」と言い出す事になるであろう。いつまで走り続ける事なんて誰にもできないのだ。BABYMETALは2010年結成で、2012年に初シングルを出しているので、もうそろそろバンド存続の問題が出て来る。
 
 中元すず香は現在「天中殺」であり、2年後には菊池最愛が「天中殺」に突入する。天中殺の時機は蓄積した疲労が思いっきり出て来てしまうので、疲労を理由に辞めてしまう事だって有り得る。何かテコ入れ策を行なえばブレイクしていく可能性が大ありだが、何もしなければ解散という事になってしまう事だろう。
 
 
●テコ入れ策
 
 テコ入れ策には、
「後2人投入して5人編成にする」
か、
「後3人投入して6人編成にする」
しかない。
後1人投入して4人編成にしてしまうと、「四の結界」が張られる事になるので、BABYMETALとしては非常に危険な事になってしまうのだ。
 
 5人編成にすると、メインヴォーカルを2人にし、3人がダンスする事になる。これだと中元すず香本人が休めるので、喉を傷める事がなくなるし、ダンス担当の者たちも適度に休む事ができ、疲労のために倒れる者が出なくなるのだ。「 BABYMETALのやっている事は負担が多すぎるんだ」という事が解っていないと、結局、誰かが潰れてしまうのである。
 
 6人編成にすると、「表ベビメタ」「裏ベビメタ」と2つのチームを作る事ができ、表現の領域が一気に広がる。現在のBABYMETALには悪の要素が全くない。だから今のままだと「歌が巧いね」「可愛い子だね」だけで終わってしまうのである。それゆえ、そこにちょいとあくどい3人の女の子たちを加えると、実に面白い事に成るのだ。
 
 世の中には誰かの真似をして、全く違う物を作り上げてしまう人たちがいる。例えばローリングストーンズを真似てエアロスミスを作ったわけだし、キッスを真似てエックスを作ったわけである。BABYMETALはパフュ-ムを真似して作ったのだが、小林啓自身がその「パフュームの呪縛」から脱出しないと、もうどうにもならないのだ。
 俺がBABYMETALに対して運命鑑定をしてつくづく思ったのは、
「小林啓って人は凄い人だな」
という事であり、やはり凄い人の頭脳の中から生まれた物だからこそ、BABYMETALは凄いユニットであり続けているのである。
 
 但し、後もう少しなのだ。
 
 音楽を突き詰めていくと、その先には「神秘のヴェールに閉ざされている場所」を見つけてしまう物だが、大概の人たちはそれ以上進まず、その手前で諦めてしまう。だから大した音楽を生み出す事は出来ない。しかしごく限られた者たちだけが神秘のヴェールを突き抜けて、新たな世界を生み出していく。それゆえその者たちによってのみ、音楽は発展していくのである。
 
 

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仏教を研究して解った事 その3

●唱題はなんの役にも立たない
 俺は子供の頃から「日蓮贔屓」で、日蓮宗には期待していたのだが。仏教を研究して解った事は、「唱題」は仏教に於いてなんの役にも立たないという事である。唱題は、
「南無妙法蓮華経」
と唱える事なのだが、原始仏教の段階では、この唱題という物が存在しない。唱題は飽くまでも大乗仏教が起ってきたから出来た物に過ぎない。
 
 仏教で帰依しなければならないのは「三宝」であり、三宝とは「釈迦」「法」「サンガ」の3つを指す。だから法華経がどんなに素晴らしい経典であっても、それに帰依しているようではアウトなのである。今まで唱題が念仏ほど問題に成らなかったのは、法華経は釈迦を奉っているし、法もサンガも尊重しているので、それで唱題した所で、必ずしも仏教の教義に違反するという訳ではないからだ。
 
 それなのに、俺が仏教を研究していく過程で、日蓮宗の僧侶や信者たちが書いた物で、一流の書物は1つもなかった。なんでこんな現象が起こってしまったのかといえば、日蓮宗では法華経を最高経典と過信する余りに、釈迦の教えが一体なんであるかを研究していこうとする意欲が全くないからである。
 
 如何なる宗教にも「教義」と「教義史」という物がある。仏教のように人工宗教の場合、教義に於いて最も重要なのは、「釈迦の教えはなんであるか?」なのであって、それが解らなければどうにもならない。しかし釈迦の教えだけが仏教の教えではなく、釈迦の死後、仏教の教義は発展していくのであって、それを研究していく事もまた大事な研究なのである。
 
 古代日本に伝来したきたのは飽くまでも大乗仏教なのであって、原始仏教ではない。しかも日本の仏教は鎌倉時代に鎌倉仏教が出て来て、「一行選択」という事を行って、念仏とか坐禅とか唱題とかに特化してしまった。だからどの宗派も大乗仏教の中でもほんの少しの事をしか理解していないし、況してや原始仏教の事など全然理解していないのである。
 
●日蓮宗の最大の問題点
 浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀如来を信仰しているので、仏教を研究しても必ず嘘ついてくるという特徴がある。もしも仏教の教義をきちんと理解したのなら、どうしても棄教しなければならなくなるから、それが出来ないというのなら、嘘をつく事で自分の宗教心を誤魔化す事に成る。
 
 だから浄土宗や浄土真宗の人たちが書いた書物は注意して読まなければ成らないのだが、しかし日蓮宗の人たちが書いた書物は独特の乗りがあって、途中で読むのを放棄したくなるほどの酷い。俺はなんでこんな書き方をするのか長らく解らなかったのだが、日蓮宗には「三証」という物があって、これこそが読むに堪えないほどの書物にしてしまう最大の原因であるというのが解った。
 
 三証とは「文証」「理証」「現証」の事で、文証とはその主張が仏教的に正しいかどうか経典や論文によって証明する事を言い、理証とはその主張が理論によって仏教的に正しい事を証明する事を言い、現証とはその主張が現実世界に於いて仏教的に正しい事を証明する事を言う。
 
 一見、ご尤もな論法だと思うのが、日蓮宗では三証の内、現証を最も重視するので、それで研究がおかしな方向に突き進んでしまう事に成る。学問の研究では現実を捨象する物なのであって、現実的に正しいか否かを基準にしていれば、研究それ自体ができなく成ってしまうのは当然の事なのである。
 
 三証を学問でやれば、必ず捻じ曲がった結論しか出て来ない。この事に例外は一切ない。解り易い例を挙げれば、福沢諭吉が実学の尊重を唱え、それで慶應義塾大学を作ったのだが、この大学からはまともな学術書も学術論文も一切出て来ない。なぜなら学問には実学と虚学があり、虚学こそが主であり、実学は虚学があれば自然と出て来る物だからである。
 
●大乗仏教は仏教ルネッサンス
 原始仏教は飽くまでも僧侶たちの宗教であり、小乗仏教になって僧侶たちと信者たちの宗教になり、そして大乗仏教によって菩薩たちの宗教へと発展していった。大乗仏教では僧侶と信者との身分格差が解消され、全員「菩薩」であるという事で平等な物に成った。菩薩とは「解脱が約束されている求道者」の事であり、修行に取り組んで行けば、必ず解脱できると考えたのである。
 
 しかし大乗仏教は小乗仏教を完全否定したのではなく、小乗仏教的要素を大量に取り入れる事で、新しい宗教運動としての体裁を整えた。だから大乗仏教は教義的には僧侶という出家者たちが存在しない筈なのに僧侶たちが存在してしまい、それで身分格差を完全に解消するという事が出来なく成ってしまったのである。
 
 原始仏教に於いて、釈迦は出家修行者たちである沙門たちを自分の教団に入会させ、釈迦を教祖を仰がせつつも、僧侶たちはみな平等であるとした。この平等こそ原始仏教を急速に拡大させた要因であったが、とはいっても、その繁栄は釈迦の死後100年で終わってしまい、小乗仏教に成ると身分差別が激しい物に成ってしまった。
 
 大乗仏教はそういう小乗仏教に対して反対して登場してきたのであって、仏教徒たちの平等を再確認する事で、新たなエネルギーを仏教に吹き込んだのである。確かに小乗仏教は原始仏教の教義や戒律を伝えている。だが肝腎な物が抜け落ちているのであって、それゆえ大乗仏教は小乗仏教に異を唱えたのである。
 
 大乗仏教は「仏教ルネッサンス」なのであって、この事が解っていないと、大乗仏教を正しく理解していく事は出来ない。もしも大乗仏教の主張を貫徹しようとするなら、僧侶たちは廃止されるべきなのである。実を言うとこれをやったのが仏教系新興宗教団体であり、「在家仏教」を唱えて、既成仏教を否定したのだ。
 
●なぜ在家仏教は成功するのか?
 在家仏教の殆どが日蓮宗系であるというのは決して偶然ではない。日蓮宗には三証があるので、在家仏教の方は現証を重んじて布教していけば、自然と大量の改宗者たちを獲得する事が出来てしまう。三証は飽くまでも布教で使える物であって、日蓮宗のように既に布教に重点を置かなく成れば、おかしな研究しかしない事に成ってしまい、それで信者たちを喪失して行ってしまうのである。
 
 教団に僧侶たちがいないのなら、その分、人件費を安くする事が出来、信者たちは少ない経済的負担で宗教活動を行っていく事が出来る。日蓮宗でも明治維新以降は、浄土真宗の悪影響を受けて、僧侶たちは出家したと言いながら結婚して妻子を持って居るので、信者たちは僧侶とその妻子の生活費を負担しなければ成らない。だったら脱会して、在家仏教の教団に入会した方が良いという事に成る。
 
 しかし三証は学問の研究にとって有害に成るので、それで在家仏教の教団はどこも大学を作っていない。唯一の例外が創価学会であり、創価学会は創価大学を作る事によって、学問研究を行える道を開いた。尤も創価学会自体、三証の教義を捨てていないので、創価大学の教授たちが「三証は学問研究にとって有害である」と気づかない限り、優れた研究を
行う事は出来ないであろう。
 
 釈迦は出家する事で、世俗の生活を捨ててしまったので、それで仏教の教義を作り出して行く事が出来た。学問でも学者たちが自分の生活の事を捨象するからこそ、まともな研究成果を生み出して行く事が出来るのである。実を言うと、僧侶たちのやっている事と、学者たちのやっている事には共通項があるのであって、だから学者たちの内、仏教徒である者たちの比率は高いのだ。
 
 だが日本の仏教は原始仏教からも大乗仏教からも遠く懸け離れてしまった物であるので、学問研究の邪魔になる教義を切り捨てていかないと、どうしても自分の信仰のためにまともな研究が出来なくなってしまうのである。日本の学問が振るわない原因は、釈迦の教えを解っていないのに、仏教を信仰している事にあると言っていい。
 

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仏教を研究して解った事 その2

●釈迦が教えた修行法
 
 釈迦が原始仏教教団を立ち上げて、教団の経営を軌道に乗せる事が出来たのは、釈迦が「四諦八正道」を唱えたからに他ならない。これがあればこそ沙門たちを改宗させて僧侶にしていく事が出来た。教団内では如何なる修行をやっていたのかといえば、
 
「釈迦の説法を聞く」
「布薩に出て反省する」
「坐禅を組んで瞑想する」
 
という事をやっていた。
 
 だから仏教徒である以上、説法を聞き、布薩に出て、坐禅を組むという事をしないと、仏教を修行した事にはならない。自ら「仏教徒である」と名乗っても、本当にその者が仏教が解っているかいなかは、これらの事をしたかしないかで決まる。当然、こういう事が出来るのは僧侶たちだから、俺は僧侶たちが書いた仏教書を主に読み、仏教学者たちが書いた本は飽くまでも仏教を学術的に研究した物としか扱わなかった。
 
 釈迦の説法は『スッタニパータ』や『ダマンパダ』を読めば解るから、後世できた仏教経典を読むのではなく、原始仏教の経典を読むべきであろう。仏教を理解していくに当たって、阿弥陀信仰とか法華信仰というのは実に邪魔なのであって、この手の信仰を否定しないと、釈迦が一体何を言ったのか解らない。
 
 原始仏教教団では、布薩は新月と満月の時にやったので、新月と満月の時は仕事をやめて、反省会をしなければならない事になる。但し日本の仏教は戒律を否定する事になってしまったので、この反省会は戒律に違反したかを問う物ではなく、自分の内面的な事を問う物になってしまう。
 
 坐禅は個人で出来る物だから、時間があれば坐禅をすべきであろう。原始仏教教団の坐禅はかなり自由な物で、坐禅が厳格に成ったのは中国で禅宗が起ってからなのであって、あんな堅苦しい坐禅はしなくていい。原始仏典を読んでいると、坐禅は瞑想に重点が置かれているのであって、坐禅それ自体には重点が置かれていない事が解る。
 
 
 
●禅宗の問題点
 
 日本の仏教の宗派で坐禅をしているのは禅宗系の臨済宗や曹洞宗であり、だから俺はこの宗派の僧侶たちに高い評価を与えた。普通の人たちから見ればこの両宗派は同じようだと思ってしまうが、臨済宗の僧侶たちは上品なのに対して、曹洞宗の僧侶たちには当たり外れが大きく、当たりの僧侶たちは本当に出来が良く、ハズレの僧侶たちは本当の糞坊主としかいいようがないほど酷い。
 
 禅宗での坐禅の最大の問題点は、坐禅の最中に「警策」を使う事である。警策を使用されると、瞑想が中断されてしまうので、それでより出来のいい瞑想が出来なくなってしまうのだ。臨済宗の僧侶たちにしても、曹洞宗の僧侶たちにしても、彼らの本を読んでみると、もっと先に行けばいいのに、なぜだかどの僧侶たちも途中で挫折してしまっているのである。
 
 俺が「ネルケ無方」というドイツ出身の僧侶を高く評価するのは、彼は瞑想が中断していないので、それで非常に出来のいい坐禅ができるからだ。彼は兵庫県新温泉町にある安泰寺で住職をしているのだが、警策をやれるほど人が多い訳でないので、それで警策を使用していないらしい。だから中断される事なく瞑想をする事が出来るのであり、これが格段に出来のいい結果を生み出しているのである。
 
 瞑想は高い集中力を長時間に亘って持続しなければならないのだが、これを可能にするためには白米を食べるのは絶対にダメであり、必ず玄米にしなければ成らない。実際にやってみれば解る事だが、白米ではこの長期的な瞑想は持たない。玄米を食べるからこそ出来るのである。
 
 事実、釈迦も出家前は白米を食べていたらしいが、出家後は玄米を食うようになった。それゆえ玄米なのであり、白米を食べて仏教を理解しようというのは無理が有り過ぎるのだ。俺は玄米を食べているので、著者が玄米を食べているのか白米を食べているのか大体解る。白米を食べて仏教の事を本当に理解した人は皆無であり、白米を食べている限り、仏教を理解する事は出来ないであろう。
 
 
●居眠り坐禅
 
 俺は本気で坐禅をやっていた訳ではないのだが、「居眠り坐禅」という物ならやった。居眠り坐禅というのは、俺は本を読み始めると眠たくなってしまうので、座ったまま腕を組んで、少し考え事をして、最終的には居眠りしてしまう物である。居眠りと坐禅を掛け合わしたような物であって、これをやるとなぜだか頭がリフレッシュし、仏教の事が実によく解るようになった。
 
 釈迦は短眠族だったらしく、夜遅くまで修行し、朝早く起きて修行していた。但し、食事が終わると眠たくなったらしく、それで昼寝は許した。この昼寝はバラモン教にはなかった物で、バラモンたちは仏教の僧侶たちが昼寝している事を大いに批判している。しかし昼寝こそ、仏教がバラモン教に大きく差を付けた物であった。
 
 俺には昼寝の習慣がないので、基本的に昼寝はしないのだが、最近、出張が多く、出張先であんまり寝られないので、それで出張から帰って来ると、昼すぎ辺りにどうしても居眠りをしてしまうようになってしまった。俺はこの居眠りを悪い物だと思っていたのだが、仏教の研究をしている時はこの居眠りこそが巧く機能してくれた。
 
 居眠り坐禅の凄さは、何か考え事をしながら居眠りをしてしまうと、居眠りが終わると脳がリフレッシュして、その解答を与えるだけでなく、釈迦の言っている事が実によく解るようになったという恩恵を与えてくれた。昼寝をしないと釈迦の言っている事が解らない。坐禅をしないと仏教の教えが解らない。だったら昼寝と坐禅を一緒にしてしまえばいいのである。
 
 釈迦の言っている事が解って来ると、仏教書の真贋をきちんと着けられるようになった。仏教書の著者たちが昼寝と坐禅をしていなければ、どう仏教を勉強したとしても、釈迦の言っている事は絶対に解りっこないのだ。仏教は勉強すれば理解できる物ではないのであって、やはり実践が伴わないと絶対に解らないのである。
 
 
●幾ら「仏教が好き!}と言われても
 
 仏教徒たちの中には「仏教が好き!}という事で本を書いて来る人たちがいるのだが、幾ら「仏教が好き」と言われても、釈迦の説法を聞き、布薩に出て反省し、坐禅を組んで瞑想しないと、絶対に仏教の事を理解できない。往々にしてこの手の発言をする人たちは仏教系の宗教団体に所属していないのだが、それだからこそ仏教の事を理解できないのである。
 
 キリスト教は信仰義認説を取るので、極論を言ってしまえば、信仰しさえすれば良く、善行は要らない。しかし仏教はそうではないのであって、三宝帰依すれば仏教徒として認められるが、解脱すべく努力し続けるからこそ仏教徒たりえるのである。どんなに仏教徒を名乗っても、煩悩まみれでは仕様がないのだ。
 
 仏教とは「自分自身と真剣に向き合う哲学」であると言った方がいいかもしれない。仏教を宗教だと捉えるからこそおかしな方向に行ってしまうのであって、仏教は自分の心を主とする事を教えるのだから、哲学とした方がいいのだ。仏教で問うているのは、解脱できたか否かなのであって、解脱していないのなら、仏教の事をあれこれ本を書くのはやめるべきであろう。
 
 解脱していないのなら、せめて坐禅を組んで瞑想して欲しい。幾ら煩悩があったとしても、坐禅をして瞑想すれば、或る程度は落ち着く。その状態で生きて行けばいいのであって、それすらしないと成れば、一体なんなんだという事に成る。はっきりと言ってしまうと、「仏教が好き!}と言っている事自体、仏教的には執着なのであって、仏教徒としては問題があるという事なのである。
 
 普段の生活はせわしない物だ。だからといって流されるままに生きてはならない。1日の中で、数分でもいいから心を落ち着ける時間を持つべきなのである。そういう事が出来れば、ちょっとした事で激怒したりはしない事であろう。だから坐禅なくして仏教を理解しようというのは無理が有り過ぎるのであり、結局、仏教の事を何も理解できなく成ってしまうのだ。 
 

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仏教を研究して解った事

●やっと書き終わりました
 
 今年、仏教の教義を研究した本を書き始めたのだが、やっと書き終える事が出来た。四百字詰め原稿用紙で千枚に成り、その内容もレベルは非常に高い。仏教は釈迦が教祖なので、釈迦が一体何を悟り、考えて行ったのが最も大事だから、それを探っていくと、このような長大な物になってしまったのである。
 
 はっきりと言ってしまえば、現代の仏教は原始仏教から遠く懸け離れており、釈迦の真意は全く伝わっていない。この現象は大乗仏教に於いて甚だしく、大乗仏教は仏教教義史に於いて評価を与えられるだけの事であって、釈迦が唱えた教えとは全然違う事を教えているという事では背教をやっているというしかない。
 
 俺が仏教の研究をしていくに当たって、様々な仏教書を読んで行ったのだが、その中で、
「コイツだけは絶対に許せない」
という人物が1人いた。それは、
「ひろさちや」
であり、この人は仏教の事を全然解っていないのに、大量の仏教書を書きまくって、世間の人たちを惑わしているのだ。
 
 幾ら仏教徒であっても、宗派が違ってしまえば仏教に対する考え方は違ってしまう。しかしそうは言っても、同じ仏教徒、正確に言えば大乗仏教を奉じているから、考えが違っても、
「この人は釈迦の真意を理解していないけど、大乗仏教の人なんだな」
という事が解る。これは既成仏教でも新興仏教でも変わらないので、仏教徒であるなら共通項を持っているのだ。
 
 しかし、ひろさちやだけは違う。俺はコイツの書いた書物を読むと、むかっ腹が立ってくる。他の仏教徒たちの書いた書物にはそういう現象は起こらないので、それで、
「ひろさちやは絶対に仏教徒ではない」
と直感で解った。仏教には四諦八正道があるから、仏教徒は必ず自分の心から「怒り」という物が消えて行く。それなのにひろさちやの心の中には「激しい怒り」が存在しているのである。
 
 
●釈迦は念仏しろなどと教えてはいない
 
 ひろさちやは浄土宗の信者なのだが、浄土宗というのはインド生まれの宗派ではなく、実は中国生まれの宗派であり、釈迦の教えからは完全に懸け離れ、釈迦の教えはもはや何も存在していない。浄土宗の母体となった阿弥陀信仰は、「アフガニスタン」で生まれた物であって、これは「仏教の仮面を被ったゾロアスター教」に過ぎないのだ。
 
 浄土宗では「自力か他力か?」という選択を強いるのだが、仏教は「自力本願」であり、絶対に「他力本願」ではない。釈迦はバラモン教のブラフマン信仰を否定し、自分の心を主とする宗教を切り開いていったのであり、仏教のどこをどう解釈しても、絶対に他力本願という考えは出て来ないのである。
 
 俺は最初、ひろさちやの異常さの原因が「念仏」にあるのではないかと疑った。釈迦は三宝帰依や禅定を説いたとしても、念仏しろとは言っていないからだ。「念仏義認説」は必ず「自己義認説」に成るのであって、それでひろさちやは自分の主張は絶対に正しいと言い張っているのではないかと思った。
 
「念仏すれば救われる」というのは、浄土宗内部だけで言っている事であり、仏教的には全くのナンセンスな教えである。そんな教えは正当な教えとは決して認められない。 釈迦は「念仏しろ」などとは教えていないのであって、まずはその歴史的事実が解れば、浄土宗の教義は全て成り立たない事が解る事であろう。
 
 仏教は解脱して仏陀になる教えなのであって、解脱できなかったら、どんな教義でもダメなのであり、もしも浄土宗の教義が正しいいうのなら、法然が開宗してから現代に至るまで、浄土宗内で解脱できた人を上げて欲しい。誰も解脱していないのだから、浄土宗の教義は完全に間違っているという事なのである。
 
 
●祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」を奪ってはならない
 
 俺はなかなかひろさちやの正体を見破る事が出来なかった。要は、ひろさちやは「小賢しい才子」なのであって、あれこれ言っているくせに、人間として大事な物が何もないという人物なのである。しかし彼の本を読み進めていく内、彼は「お婆ちゃん子」であるという事が解り、これこそが彼の性格を思いっきり歪めてしまったのではないかと思うようになった。
 
 男の子は母親の事が大好きである。男の子は女の子よりも免疫力が弱りので、母親の庇護がないと無事に育たない。だから母親の事を好きに成る事で、自分を安全に育てて貰うのである。しかし男の子には祖母もいるのだから、祖母が母親を押し退けて育ててしまえば、男の子は母親の事が好きという事が奪われてしまう。その結果、頭のおかしい男性に育って行ってしまうのである。
 
 俺はこのブログで、姑が孫を可愛がり、それを嫌がる母親たちから質問を受けたりするのだが、今までどちらかといえば姑の方に味方し、母親たちには敢えて嫁姑の争いを起こさない方がいいと言ってきた。しかしひろさちやのような人物を見ると、普通の母親たちの意見こそが正しいのであって、如何なる事があっても祖母は孫息子から「お母さんの事が好き」という事を奪っては成らないのだ。
 
「どんなに悪い母親であっても、母親は母親として価値があるが、どんなに良い祖母であっても、祖母は孫を甘やかせば非常に有害である」
しかもその有害はその孫が死ぬまで続くから、まさに「三つ子の魂、百まで」の諺が該当する事に成る。母親だからこそ、我が子を絶対に祖母に奪われては成らないのであり、もしも祖母が息子を奪う行動に出て来たら、断固として戦わなければ成らないのだ。
 
 なんでこんなにもお婆ちゃん子が有害なのかといえば、祖母は孫息子の言う事ならなんでも聞いてしまうので、それでその孫息子は自分の意見はなんでも通ると思い込んでしまうようになるから、そのような育ち方をすれば、「自分の意見は絶対に正しい」というようになってしまうのは当然であって、それで平気で嘘をつくような人物に育ってしまうのである。
 
 
●ひろさちやの本は有害
 
 インターネットで調べてみたら、
「ひろさちやの本は仏教を勉強するにあたって非常に有害」
という意見が多数出ていた。そりゃそうであろう。彼は仏教の事など何も解っていないのであって、それなのに大量の仏教書を出しているから、しかもそれは殆ど入門書レベルの物だから、仏教に関心のある人は彼の本を買ってしまう事に成る、しかし読んでみたら、
「なんじゃこりゃ?」
という代物でしかないのだ。
 
 となると、ひろさちやの本を出している出版社は、
「仏教の事を全然解っていない」
という事になってしまい、ひろさちや個人の問題より、こちらの問題の方が遥かに深刻であろう。確かに俺が「この仏教書はいい本だな」という感想を持った本は、メジャーな出版社では全く出ていなかった。マイナーな出版社ばかりであった。
 
 日本の仏教界は1つの宗派が圧倒的に強いというようにはなっていない。カトリック諸国なら、ローマカトリック教会が宗教界を独占しているので、それでローマカトリック教会が真贋を選別し、異端者や背教者たちは排除されていく事に成る。このやり方には問題があるが、しかしそれによってカトリシズムがきちんと守られるように成るので、それでひろさちやみたいに、キリスト教の事を全然解っていないのに、キリスト教の本を書きまくるという人物は出て着ないのである。
 
 もしもどのかの宗派に属する僧侶なら、仏教を専門にやっているのだから、ひろさちやの異常さに気付いて、論争を挑んで論破していくべきであろう。ひろさちや所詮「在家の信者」なのだから、仏教のプロが戦いを挑めば、確実に勝利できるに違いない。それなのにそれをしないというのは、仏教界全体のレベルを引き下げてしまう事になってしまうのである。
 
 ひろさちやは、日本人の事を「エコノミックアニマル」と罵り、
「少欲のすすめ」
「捨てちゃえ捨てちゃえ」
「こだわりを捨てる」
とか主張しているのに、彼はなんと単行本だけで300冊以上も出している。これほど強欲で、何も捨てず、拘りを持ち続けている人を俺は他に知らない。典型的な「倒錯話法」であり、精神的には全く自立していないというしかないのだ。
 

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「女の子の育て方」と「男の子の育て方」

●男の子と女の子じゃ育て方が違う
 
 子供を産めば解る事だが、男の子と女の子では育て方が違う。男女の性差を踏まえて育児や子育てをすれば巧く行くが、男女の性差を無視して育てれば育児や子育ては確実に失敗する事に成る。昔なら子供の数が多かったので、兄弟姉妹のいる家庭で育つ事が出来たから問題はなかったが、少子化になると兄弟姉妹のいない家庭で育ってくる人たちが出て来てしまうので、それで男女の性差が解らない事になってしまう。
 
 そこで今回紹介する本はこれらの本!
 
高濱正伸著『お母さんのための「女の子」の育て方」(実務教育出版)
     お母さんのための「女の子」の育て方
 
高濱正伸著『お母さんのための「男の子」の育て方」(実務教育出版)
 お母さんのための「男の子」の育て方
 
 これらの本は無条件で合格とする物ではなく、問題点は多々ある。しかし基本的な所は間違っていないので、自分が兄弟姉妹のいない家庭で育ったのなら、まずはこれらの本を読んで、男女の違いを理解して欲しい。子供は男女共々小さいが、中身は男女では全然違うのであって、そこを理解する事が重要なのである。
 
 高濱正伸は東京大学の大学院修士課程を修了し、その後、「花まる学習会」という学習教室を開き成功した人物。ジャン・ジャック・ルソーのように育児や子育てを全くせずに、空理空論の『エミール』を書いたのとは違い、実際に子供たちを教えて書いたのだから、彼の本は実践的な内容に成っている。
 
●女の子は小さな母親
 
 女の子は「小さな母親」であり、両親から沢山の愛情を貰う事で、将来、母親になるための準備をしている。女の子が可愛いく成ろうとするのも、綺麗にしようとするのにも、良い子に成ろうとするのも、全部、愛情を貰うためであり、親としてはどんどん愛情を与えていけばいい。
 育児や子育てでは、女性同士の協力が必要だから、それで女の子は友達と仲良くし、長々とお喋りをし、手紙のやり取りをやったりなんかする。女の子は言語能力が発達しているので、しっかりとした人間関係を形成するまで時間がかかるのであって、時間をかけないとちゃんとした友情を持つ事は出来ないのだ。
 
 育児や子育てでは安全が第一だから、幾ら女性であっても、自分たちの仲間ではないと判断すれば、徹底的に除外する事に成る。それで女の子同士でイジメが発生する事に成るのだ。母親としては、
「みんなと仲良くするのではなく、仲のいい子と仲良くしなさい」
と教えるしかない。女の子同士のイジメは基本的に言葉の暴力を使って来るので、イジメがなかなか発覚しないのだが、イジメを食らった方は深刻なダメージを受ける事になってしまう。
 
 
●男の子はハンター
 
 男の子はハンターであり、小さなハンターではなく、既にハンターとして思考し、行動してくる。男の子が昆虫に興味を示すのは、男の子の心身がそうなっているからであって、母親としては昆虫が嫌いであったとしても、それに付き合っていくしかない。何かを捕まえるためには、泥だらけになるし、傷だらけになるのだが、それは男の子が成長にしていくためには必要な事であり、それをしないと男の子として成長できなくなってしまうのだ。
 
 実を言うと、男の子は女の子よりも体が弱い。免疫力に無理があって、乳幼児の時は病気に罹り易い。しかし小学生になると健康になっていく。この時期は体を鍛える事が大切なのであって、どんどんスポーツをさせるべきだし、どこか遠出をして歩かせまくった方がいい。
 
 男の子は女の子のように万遍なく出来るのではなく、何か1つの分野に特化したく、その分野の事に詳しくなると、男として自信を持つように成る。だから学校の成績など気にしなくていい。それよりも自分の興味のある事に集中すべきであり、そこで専門家になってしまうと、学校の勉強も出来るようになってくるのだ。
 
●男の子は母親だけじゃ育てられません
 
 女の子は母親が1人でも育てる事ができるかもしれないが、男の子は母親だけで育てる事は出来ない。どうしても父親の役割が必要に成って来るのであり、これなくして男の子は立派に育つ事はない。高濱正伸の本がおかしいのはこの点であり、母親たちのために子育ての本を書くのはいいが、母親たちに「お父さんの役割こそ大事」という事を教えておかないと、子育ての本としては問題が有り過ぎるのだ。
 
 父親と息子は二人っきりになって「男同士の会話」という物をしなければ成らない。母親だとあれこれ言ってしまう物だが、父親は1つの事を延べて来るので、それで息子の頭にスーッと入って来るのである。だから父親が仕事で忙しすぎたり、折角、家にいるのに家事をやらされるようでは、この大事な役割が果たせないのだ。
 
 もう1つすべき事は、家族が一緒になって行動する事であって、どこか旅行に行ったり、キャンプしたりする事で、父親が頂点になって、母親や子供たちが動くようにする事で、男の子は家族の中で一体何をすればいいのかを学んで行く。それで男の子が出来ると、旅行したり、キャンプをしたりしたくなるのである。
 
 
●男女平等が大嘘なんです
 
 
 学校では男女平等と教えられるが、男女平等が大嘘なのであって、まずはその洗脳から解除されなければならない。男の子と女の子を育ててみて、「男女は平等よ」と思うのなら、頭がおかしいとしか言いようがない。現実では男の子と女の子は全く違った行動を取っているのに、洗脳されてしまったがために、その現実が全く見えないのだ。
 
 男女は不平等でいい。その代り男女は公平に扱うようにしなければ成らない。例えば家事の手伝いは男の子も女の子もやらせる。しかし男の子の方ばかりに負担が重たくなれば、男の子は耐える事が出来なく成るし、逆に女の子の方ばかりに負担が重たくなれば、女の子は耐える事が出来なく成ってしまう。
 
 子供たちが親から自立して行くためには、
「まずは親に従属する事」
が必要なのであって、親が男女平等と思っていれば、子供たちはそれが出来なく成り、それで自立していく事が出来なくなってしまう。
  世の中には「男女平等」を唱えている人たちがいるかもしれないが、その人たちは自立できなかっただけの事であり、だからこそ男女平等を唱えているのである。
 
 

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