●学歴社会と学歴差別
日本は近代化の過程で学校教育制度を整えていき、そのために学歴社会が生み出されてしまった。高学歴の者たちは高収入で、低学歴の者たちは低収入になる。政界に至っては、中卒や高卒の者で政治家に成るのはほぼ不可能に成り、大卒か大学院卒の者たちでしか政治家に成る事は出来なくなっている。
福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」といったが、門閥より学閥の方が遥かに恐ろしい。門閥なら生まれが違うという事で諦めが着く。しかし学閥となると、どこの大学を出たかで、終生、特権を得続けるので、他の大学を出ても、その大学の偏差値が低ければ、相手にされない。高卒や中卒の者たちは問題外となる。
だから社会には学歴差別に根深い不満があり、新興宗教団体はそれを背景に登場してくる。新興宗教団体の教祖や教団創設者は大概「低学歴」であり、大卒の者は稀だ。創価学会は初代会長の牧口常三郎が尋常師範学校卒、二代目会長の戸田城聖が中央大学経済学部卒、三代目の池田大作が大世学院夜間学部卒と、低学歴者たちを三連発で出している。《因みに言っておくが、戸田城聖が通った頃の中央大学は私立なので大した大学ではなかった。今もあんまり変わらないが)
尤もこれでは教団のレベルが上がらないので、教団のレベルを上げて行くためには、学歴社会の頂点に居る東大卒の者たちを入れていかなければならない。創価学会では池田大作が会長職に就任する前から、東大生たちへの工作を開始しており、東大卒の者たちを教団の専従者として雇い入れている。
東大には毎年3千名ほどの者たちが入学してくるのだが、その内、宗教に興味を持つ者たちは90名から150名程度と見ていいだろう。宗教の興味を持っても、半分以上は既成宗教の方に興味が行くので、新興宗教に興味が行く者たちの数は非常に少ない。それを他の教団たちと争って取らなければならないのであって、その争いに勝利できれば、教団は突如として化学変化を起こす事に成る。
●『創価学会入門』
俺はかなり前に牧口常三郎の『創価教育学体系』を読んだ事があったのだが、この本は全く関心しなかった。牧口常三郎は真善美を否定し、人生の目的は価値の創造にあるとして、真善美の代わりに利善美を唱えた。学問というのは真実の探求をやっているのであって、それなのに教育者である人物がそれを放棄するというのはどうも納得がいかなかったのである。
ところが、この度、創価学会の事を調べて行く内に、『創価学会入門』という書物を見つけてしまった。この本は創価学会教学部が編纂した物で、昭和45年に聖教新聞社の方から出ている。聖教新聞社というのは株式会社ではなく、飽くまでも創価学会のいち機関であり、教団の方が創価学会の教学を示すために出した物という事に成る。
往々にして「本は編著になると、質が下がる」という傾向がある。学校の教科書は全て編著なので、それを思い出せば解る事だろう。執筆している学者たちはバラバラだし、自分に割り当てられた事にしか関心がないので、1つの作品として整合性が全く取れていないのだ。だから教科書を読んでも解らない生徒たちが出て来てしまうのである。
『創価学会入門』も編著なのだが、この本が作られた時期は、まさに池田大作が東大卒の者たちを教団に雇い入れ続けた時期であり、この本も東大卒の者たちが混じって書いている。それゆえ、新興宗教団体が出す本の中では格段に質が高いし、創価教育学の事もよく解るし、創価学会の法華信仰の部分もよく解るようになっている。
創価学会の本では池田大作の『人間革命』がベストセラーになっているのだが、この本はゴーストライターが居て、池田大作自身は書いていない。しかも信者たちは、この『人間革命』を買う事はするのだが、読みもせずに本棚に死蔵しているらしい。そういう本だと幾ら読んでも創価学会の事は解らないだろう。
●創価教育学
創価学会は日蓮宗系の新興宗教団体であり、正確には日蓮正宗の信者組織だった。過去形に成っているのは、日蓮正宗が創価学会を破門したからであって、日蓮正宗の方から「この団体は日蓮正宗とは関係のない団体である」と言われたのだ。じゃあ、「創価学会は何か?」といえば、飽くまでも中核になっているのは「創価教育学」であり、法華信仰の方は従の存在でしかない。
創価教育学は真実の探求を諦めるという、とんでもない所からスタートする。戦前の日本の哲学界はカント学派が主流で、哲学を志す学生たちはカントの『純粋理性批判』を必読の書とした。しかしカントはイギリス系のドイツ人で、ドイツ語が余り巧くなく、『純粋理性批判』はドイツ人ですら難解の書とされている。しかも日本語訳が巧くなく、それで哲学をやる学生たちが自殺する事件が度々発生した。
だから牧口常三郎は真実の探求を諦め、「人生の目的は価値創造にある」として、「真善美」ではなく、「利善美」を説いた。なんとも滅茶苦茶な学説ではあるが、自殺が社会問題になっていた事を理解しないと、なんでこういう学説が出て来たのかは解らないだろう。真実の探求をしていけば、頭の中がこんがらがって自殺する事はあるが、価値創造していくのなら、常に行動し続けなければならないので、自殺する事はなくなる。
創価学会の会員たちは、新しい価値を創造している限りは、善であり、美を実現してくる。これは創価教育学の素晴らしい部分である。創価教育学はイギリスの功利主義、アメリカのプラグマティズムの流れを汲むが、それらの主義と違うのは、ただ単に利益を追求しているのではなく、善も美も追求しているのである。
しかし創価教育学には裏の顔もあり、自分の利益を守るためには「悪」も「醜」も行う。善や美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値を創造し、利益が出ている時だけであり、それ以外は悪も醜もやっていい。創価教育学を作った牧口常三郎はまさかそんな事になるとは思ってもいなかったであろうが、創価教育学は「利善美」「利悪醜」の2つの顔が存在するのである。
●創価教育学が強い分野
創価教育学が強い分野はなんといっても「教育」の分野であり、牧口常三郎自身、小学校の教師だったので、学校で教師になっている人たちは良く理解できる理論になっている。それと学校に入学してくる「バカな人たち」であり、つまり生徒たちにも創価教育学は受ける事だろう。事実、創価学会は教育者たちとバカな人たちの双方を信者として取り込んでいる。
創価学会には芸能人の信者たちが多いのだが、芸能界では毎年、新しい価値を創造していかなければならないので、それで芸能人たちには打って付けの理論となる。スポーツ選手たちも毎年成果を出す事を求められるので、それでスポーツ界に於いても創価教育学は強い。
創価学会は公明党を作り、政界へと進出していったが、政治家も新しい価値の創造を強いられる仕事だから、当然に創価教育学が使える分野である。官庁にも創価学会の信者たちが進出していっているが、軍事や行政では正しい事をしなければならないと同時に、多少あくどい事をしなければならないので、それで創価教育学は使えてしまう。
創価学会と日本共産党は犬猿の仲なのだが、創価学会は必ず「筋金入りの反共」となる。なぜなら共産主義は新しい価値の創造をせず、ただ単に資本主義経済の成果を分配しようとするので、そういう事では絶対に相容れない。それに共産党員たちは善だとか美とかには無関心なので、その点でも生理的に受け付けないのだ。
創価教育学は教育者が作った理論なのに、学問は弱いという事になってしまう。真実の探求はしないので、それで学者になって研究しても、まともな研究成果が出て来ない。但し、仏教関係では法華信仰に関わって来るので、この分野だけはまともな研究成果を出してくるかもしれない。佐藤優のように創価学会に協力する知識人たちは居るだろうが、創価学会の信者で何かしら凄い研究をやってのけた学者というのは余り居ない。
●創価教育学批判
創価教育学は人間が作りし哲学なので、完璧な物ではない。必ず欠点が存在するのであって、創価教育学を批判する事によって、その欠点を明らかにしなければ成らない。
①「真実の探求を絶対にしない」
創価教育学は最初の段階で、真実の探求を諦めているので、創価教育学を受け入れてしまうと、真実の探求を絶対にしなくなる。要は必要とあらば幾らも嘘をついて来る事に成る。しかし新しい価値を創造する限りに於いては、それなりに正しい行動をしてくるので、それに惑わされてしまうと、とんでもない事になってしまう。
例えば、創価学会はなんで池田大作が病気で死に体になっている事を報道しないのか? 彼が名誉会長である以上、彼の病状は逐一報告すべきであろう。一説には、かなり前に脳腫瘍で苦しみながら死んだらしいとの情報がある。もしも生きていたとしても、脳腫瘍である以上、植物人間状態になっている筈だ。
それと池田大作は在日朝鮮人2世「成太作」であって、国籍こそ日本国籍を持っているのだが、親は朝鮮半島からやってきた人である。在日朝鮮人2世である事が悪いのではなく、「なんでそれほど重要な情報を信者たちに伝えないのか?」という事なのだ。創価学会は韓国に進出している以上、名誉会長が在日朝鮮人なら、より多くの韓国人たちに受け入れられるに違いない。
②「小利のために大利を失う」
創価教育学では、新しい価値創造は、利善美に適うからこそ、評価される事に成る。尤も利善美の中で最も重要なのは「利」である。しかし利益追求ばかりやっていれば、小利ばかり追いかけてしまい、それで大利を失ってしまう事に成る。創価学会の信者たちには、貧乏人たちが多いのだが、小利ばかり追いかけているからこそ、貧乏になってしまうのである。
③「利益を守るために悪や醜をやっていいのか?」
創価教育学では悪事を成す事が許されている。利善美が要求されるのは、飽くまでも新しい価値創造の時だけなのであって、後は悪事をやってもいい。職業柄、悪事をする必要性のある職業、即ち「政治家」「公務員」とかに、創価学会の信者たちが入り込んでくる事に成る。利益を守るための悪事は必要といえば必要かもしれないが、使い方を誤れば、創価学会への非難が凄まじい物と成る事であろう。
神道からすれば、創価教育学には真心がないという事に成り、穢れた事を平然とやるので、忌み嫌われる事に成る。仏教からすれば、利に囚われている以上、煩悩まみれであるのだが、しかし新しい価値を創造して利益を得てしまえば、一時的に煩悩が消えるので、仏教と無縁の物ではないのだ。仏法が中心になっているのではなく、創価教育学が中心になっているからこそ、仏教ではないといえば、そう言えるだろう。
キリスト教からすれば、創価教育学には愛がないという事に成る。仏教では愛は否定的な物なので、創価教育学を作り上げた牧口常三郎が、日蓮正宗へと傾斜していったのは当然といえば当然である。創価学会の信者たちに結婚しない男女が多かったり、結婚しても夫婦仲が最悪だったり、離婚する者たちが出て来るのは、創価教育学と日蓮正宗を組み合わせれば、致し方ないであろう。
●牧口常三郎は日本を代表する哲学者である
近代日本は「西田幾多郎」という哲学者を産んだが、牧口常三郎は彼を遥かに凌駕する哲学者であり、牧口常三郎こそ日本を代表する哲学者だと言っていい。西田幾多郎の哲学はフッサールの哲学の影響を受けた物で、それなりに高い評価を与える事が出来る。しかし一般大衆への影響度を考慮してしまうと、牧口常三郎の方が断然に凄い事になっているのである。
資本主義が発達してくると、人々は封建時代とは全く違う合理的な経済活動に巻き込まれる事になるので、どうしても功利的になっていく。イギリスでは功利主義が生まれ、アメリカではプラグマティズムが生まれた。日本では創価教育学が生まれたのだ。歴史の大きな流れに沿っているからこそ、創価教育学は一般大衆の支持を得たのである。
一見、利益追求を行っている功利主義やプラグマティズムや創価教育学は非常に強い。しかしこれらのイデオロギーは利益を得てしまったがために、その重みのために沈んでいく事に成るのだ。事実、イギリスは覇権国家から転落した。アメリカ合衆国も今や覇権の終焉の時期を迎え、足掻きに足掻きまくっている。
日本も経済発展が止まり、デブレが長々と続けば、幾ら創価教育学であっても、利益の減少を発生させてしまい、それで創価学会の信者数は頭打ちになってしまった。それどころか信者数は減少している。創価教育学には体制を作り変えるという発想がないので、それで人間革命は出来ても、社会革命を引き起こすという事ができないのだ。
日本人の知識人たちは哲学に弱い。高校生の時に哲学をきちんと学んで行いないので、創価教育学の凄さと限界点が全然解っていない。創価学会の信者たちは創価教育学を持っている以上、それで哲学のない連中が幾ら批判してきても、創価学会はビクともしなかったのである。
●創価学会への解決策
創価学会を非難している人たちは、創価学会のやった事に対して非難をぶつけているだけであって、創価教育学を正しく理解していない。まずは創価教育学を理解する。創価学会では、創価教育学が主で、法華信仰が従である。だから創価学会が他の日蓮宗系新興宗教団体とは全然違うのであり、法華信仰ばかり見ていてはダメなのだ。
創価学会への解決策としては、宗教法人格を取消し、教育団体に戻す事が最善であり、これ以外に解決策はない。実践倫理宏正会は社会福祉法人であって、実践倫理を普及させる活動をやっているが、きちんと組織として成立している。創価学会の信者たちの中で法華信仰をしたい信者たちは日蓮正宗の法華講に戻ればいい。
創価学会の事が正しく理解されなかった背景には、「日本の出版業界はデータ不正を行っている」という事情が存在する。戦後の出版業界では、池田大作の『人間革命』が最大のベストセラーなのだ。幸福の科学の大川隆法はなんと1000作品以上の本を出していて、ベストセラーになった作品も多々ある。宗教書がベストセラーになるのは、先進国では当然であり、日本だけが例外という訳がないのだ。出版業界が公然とデータ不正をやっているからこそ、世間の人たちの創価学会への理解度が余りにも低いのである。
誰がなんと言おうが、「戦前は教派神道の時代、戦後は日蓮宗系新興宗教団体の時代」なのであって、戦前は天理教の「中山みき」、大本教の「出口王仁三郎」という宗教的巨人が出て来たし、戦後は創価学会の「牧口常三郎」「戸田城聖」「池田大作」という宗教的巨人が出来たのだ。会長に三代続けてスター級の人物を出せば、大発展するのは当然であろう。
中山みきは、浄土宗や修験道や吉田神道の流れを汲みながら、天理教を生み出していった。だからヒットしたのである。牧口常三郎はドイツ観念論を批判し、プラグマティズム流れを汲みながら、創価教育学を作り、そこに日蓮正宗の法華信仰を組み入れた。それゆえ大ブレイクしたのである。
天理教が中山みき一個人の考えではないように、創価教育学も牧口常三郎一個人の考えではない。やはり、日本の歴史に於いて出るべくして出て来た哲学であり、そう簡単に消える事はないのだ。もしも創価教育学が消滅する時は、創価教育学を上回るような偉大な哲学が日本に誕生した時だけであろう。
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